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2023/10 「流れを変える方法」 廣瀬公一 ダイヤモンド社 ★★
小学校・高校・大学の同級生が著者です。近所に住んで、子供時代は中学受験組として一緒に遊び、一緒に模擬テストに通った仲です。大学卒業後、別々の道に分かれそれぞれの生活をしていたが、近所に住む親御さんと会うと挨拶する仲でした。彼の家が火事で全焼したりして親御さんが九州に移ってからは接点がなくなっていました。それがここ10年、彼が近所の別の家に引っ越してきて、たまに歩いていて出会い、「や〜や〜」って関係が再開しました。
今年の夏前、自転車で走っていた彼を見つけ声を掛けたことで、彼が僕の家にやってきて、大学時代のグリークラブのOB演奏会のチケットとこの本をもらった。いろいろ話し、大学卒業後の彼の人生の流れを聞きました。大手銀行に勤め、人材育成専門家に転職したことを聞き興味を持ちました。彼は母校KGで、アメリカンフットボール部に次ぐ大所帯グリークラブのキャプテンをするほど人望が厚く人を引き寄せる話術の持ち主です。
『明けない夜はない。夜明け前が一番暗いもの。天はその人間に越えられない課題は決して与えないんだよ』。これは、彼が収入が落ち込みもがいている時母親が話してくれた言葉だそうです。この本は、人材育成専門家としてセミナーで伝えていたことを本にしたものです。『まずは、ありのままの自分を認めること』という項目があり、自身のどん底から這い上がった経験で、最初に自らが変えられた第一歩の気持ちの重要さが書かれていた。
『口にするだけで変わる。運を高める9つの言葉。1.ありがとう。2.しあわせ。3.ついている。4.大好き。5.愛している。6.嬉しい。7.楽しい。8.大丈夫。9.素晴らしい。』。これらの言葉は、僕も大好きです。大人になった彼と話し、感じていたのは僕と同じ感性を持っているということ。小学校の時よく喧嘩していた僕が、中学以来喧嘩することがなくなりました。弱い者いじめや僕の越えることが出来ない一線を越えたことに対しては徹底的に反論するけど、他人に対し怒ることがなくなりおおらかに成った。我が子を一度も怒ったことがないので、息子たちと親子喧嘩をしたことがない。親に叱られたことがないという家内と結婚し、夫婦喧嘩の経験もない。何故そうなのか思い返すと、上記の9つの言葉を毎日互いに発することが大きかったように思います。僕は「プラス言葉」と表現し、「マイナス言葉」を口にしないように努めていた。特に「ありがとう」という言葉の威力を感じています。著者も同じく感じているようで、『ありがとうと言われる喜び、言う喜び』という項目が別にありました。
『あなたにとって大切な3人とは?』という項目には、「悲田」「恩田」「敬田」が挙げられていた。「悲田」は、「この人たちの悲しむ顔は見たくない」言い換えれば、「絶対にこの人たちを幸せにしたい」という人。「恩田」は、お世話になった人であり、この人を思い浮かべると感謝の気持ちが湧き上がる人。「敬田」は、尊敬している人でこの人を通じて学びたいと思う人。
『失敗はない、そこにあるのはフィードバックだけだ』の項目には、「未来の希望」や「明日やること」を活動メモに書くことを提唱したが、期限を区切る必要はない。重要なのは、期限までにやることではなく、「出来るまでやり続けられるか」だそうです。「ものごとは、出来るまでやれば出来る」。なるほど、共感しました。
『小さな成功をもっと大きく評価しなさい』の項目には、小さな成功を成し遂げた自分を評価すべきで、周囲の人に言われている「ありがとう」や褒め言葉を、きちんと評価しようと書かれていた。「小さな成功」は確実にあなたの「流れ」を動かし、一歩一歩思い描く幸福な姿へとあなたを近づけている。


2023/9 「悪党の裔(すえ)・下」 北方謙三 中公文庫 ★★
「元弘の乱」を起こした後醍醐天皇が、鎌倉幕府軍に鎮圧され隠岐の島に流され一旦落着しました。楠木正成は畿内で倒幕の兵を挙げ、幕府の大軍を河内に引き付け、後醍醐天皇の息子・護良親王が山の民や悪党などが、寡兵ながら幕府軍を外部から翻弄していました。それらにより圧倒的な軍事力を持つ幕府への畏敬の念が薄れ、情勢が変わってきた。後醍醐天皇が沖から脱出し、物語の主人公・赤松円心一党の反乱軍が京を伺う情勢になってきた。これまでは、寡勢ゆえ本気で危機感を持っていなかった幕府軍が、奥の手&真打ちの源氏の棟梁・足利高氏を派遣してきた。
鎌倉幕府は源氏の棟梁・源頼朝が開いたが、直系が絶え、本姓・平氏である北条氏が実権を持っていた。全国に強力な武家集団を持つ源氏の棟梁である足利高氏は、このまま北条氏の川下にいていいのか、天下に号令するタイミングを計っていた。それらを含め、足利尊氏は軍をゆるりと京に向かって進めていた。ここから、「下」の巻が始まる。
京を手前にした足利高氏の陣に、赤松円心が単身乗り込み、秘密裏の会見し、双方の腹積もりを言外に知り、互いに正面から衝突しないでおく腹積もりを持った。山陰道を伯耆に向かった足利高氏軍と赤松円心軍が衝突したが、円心は足利高氏の目付役として帯同した名越高家軍を破り、名越高家が戦死した。これにより、足利高氏の足かせがなくなり、鎌倉幕府の京都六波羅探題を攻め滅ぼした。鎌倉は、同じ源氏の新田義貞軍が滅ぼし、京都に上ってきた。
後醍醐天皇と足利高氏が袂を分かち、京から落ち九州に逃げていく高氏を摂津と播磨で円心が、新田義貞の大軍を釘付けにした。赤松円心が歴史上最も輝いた時期かもしれない。この時期に、僕の母方の先祖である美作菅家党は赤松に友軍していたから、新田軍に攻められ山城を落とされた。これにより、美作を逃げ出し、北関東の佐野氏を頼り、江戸時代の佐野氏の領地替えまで帰農するまで家老職を続けた。その辺の流れは、美作国史には載っているので期待したが、流石に赤松円心の小説には登場しなかった。好きな太平記の時代なので面白く読めました。同時代を生きた佐々木道誉を読んでみようかな?


2023/8 「その後のツレがうつになりまして。」 細川貂々(てんてん) 幻冬舎文庫  ★
「ツレうつ」2冊目です。前作が想定外の大ヒットになり、続編の出版に至ったそうです。発病してから、回復と悪化を繰り返しながらだんだんと回復してきて、夫婦で講演会に登壇したり出来るようになりました。しかも、元外資系トップ社員ゆえ、「うつ」患者自身の旦那さんが主に喋るまでになっており、義理妹のことを考えると嬉しくなりました。1冊目を読むと、回復しても以前の状態までに戻らないように思っていました。それが、以前とは違うもっと楽な形で少し別の自分に成長しているんだな〜と思えたからです。以前と同じ義理妹に戻るより、もう少し楽な妹に戻るのかも?と、期待が膨らみました。
妹は大学病院の診察を受けていました。最初は薬物療法でしたが、お薬を飲むのに抵抗があるようで、「入院だね」司令を受けてしまい入院することになりました。週1で面会している弟から随時報告が入ります。最初は声に力がない状態だったのですが、声に張りが出てきたとか退院後の話が出たとか、仕事の話も出るようになったそうです。妹は経営者なので、早く復帰して欲しいです。この本に書いてあるように、だんだん回復している感じで嬉しい。薬の量が少し減ったりして、期待が膨らみます。弟の様子は以前と変わってないけど、きっと僕の前だから気丈夫に振る舞っているのかもしれません。めちゃ、心配してるでしょう。


2023/8 「ツレがうつになりまして。」 細川貂々(てんてん) 幻冬舎文庫 ★
家内が腰の手術を受けた同じタイミングで、弟の奥さんが「うつ病」になりました。僕が先に家内の手術のことを弟に話したので、同じタイミングで「実はうちの・・・」と話すのは僕に心配させ過ぎになると思って話せなかったようです。家内の手術が無事終わり、10日間の入院生活から帰ってきたので、心配させてしまった弟にも話しました。
そしたら、「実は・・・」と奥さんの「うつ」のことを話し出しました。それを聞いて、以前と全然変わらない義理妹とお正月に会ったばかりで、4月にはその子の姪と楽しく過ごしたばかりでびっくりしました。僕と弟は6才離れています。更に僕は24才で結婚し、弟は33才で結婚。僕ら夫婦は、結婚翌年に第一子が誕生したけど、弟のとこは3年後?に第一子誕生だったので、うちの子たちとは年齢が離れた姪と甥です。義理妹は、うちの子たちが勉学を卒業し、働きだしてそれなりにバリバリやってるのと、僕ら夫婦が子育てを終えゆったり暮らしているのを羨ましくよく話していました。弟の子たちは、来年4月に学部を卒業します。うちの子たちと違って、すぐ就職するので、妹ももうすぐ肩の荷が下ります。「もうちょっとなのに・・・」と残念に思いました。症状からすると「うつ」の感じだし、精神的な疾患なのは確実です。
家内が手術するのとほぼ同時に、「うつ」を発症したようです。ある日、「ヘリコプター飛んでるでしょう。あれは、私を探しに来ているのよ」と言い出し、「あれ、なんかおかしい」と感じたそうです。人と話すのがキツくなり、仕事が午前中しか出来なくなり、あとは従業員さんにお任せのようになったそうです。その時点で僕に話してくれ、家内との朝のお散歩で氏宮に参る時、家内の手術成功のお礼と共に、義理妹の平癒をお願いするようになりました。
その後、ずっと拒否されていた診察に行くことになり、「うつ病」と診断されました。神頼みだけではいけないと思い、というより今は会えないけど、回復していく途中や一旦回復していずれ会います。その時の対応の勉強もしなきゃとこの本を購入しました。職業柄、ある程度「うつ」のことは知ってるけど、具体的な対応を知ろうと思い、この本を購入しました。漫画なんだけど、著者自身がうつ病患者の奥様で、リアルな「うつ」が表現されているので、すぐにシリーズ3冊買っちゃいました。
漫画で読みやすく、症状を発症した時、会社に行けなくなり会社を辞めて、少し回復し喜んだ時、また症状がぶり返した時・・・いろんな場面の本人と奥様の姿を見れて、「うつ」の方との対応が知れました。


2023/8 「あるスパイの告白」 川谷芳朗 新潮社 ★
ヨット知り合いの著書です。3冊同時に上市した3冊目。1冊目はヨットの波止地紹介で、2冊目は在所周辺の徒歩案内。そして3冊目が、ご自身をスパイと称し、日頃感じていることを吐露するエッセイ。それぞれに特徴があり、楽しく読めました。著者の思想が想像でき、考え方がわかりました。世の中の様々な事象に対する考えが自分の考えと比較でき、そういうのが楽しめました。


2023/7 「悪党の裔(すえ)・上」 北方謙三 中公文庫 ★★
鎌倉幕府から室町幕府へ変化する武士・悪党・皇室の闘争、「太平記」の時代を播磨の悪党・赤松則村円心の視点から描かれた戦国物です。この時代が好きで、「太平記」はじめ、いろんな角度から表現された本を読んできました。家内の出身地・播磨は、陽光暖かく、晴れの日が多く、律令国家制で上国に指定されている豊かな国でとても好きな地です。
その地の悪党で、太平記の変革期に大勝負を掛け、鎌倉幕府の京都六波羅探題を攻めた大立者・赤松円心も好きで、その後播磨他3カ国の守護にまで勢力を広げた赤松氏の諸城、赤松円心本拠地などを巡って来た。昨年、「白旗城」攻城を試みましたが、中世の山城とは思えないあまりの比高に撤退したリベンジとしてこの本を購入しました。上・下2巻の上巻です。
当時、播磨国は天領地であり、一族の当主となり、農業を営みながら、年貢米が収まっている倉を襲ったり、鉱物(水銀)輸送を襲ったりして悪党として富を積んでいた。鎌倉幕府・北条氏の支配に経年劣化が起き、来るべき次の時代への萌芽に備え、富の他に一族郎党の戦闘能力も磨いていた。
かつて、京都の公家の倒幕の企みが露見し、後鳥羽上皇が島流しにあってそこで崩御した。播磨でも悪党の蜂起があったが、圧倒的に優勢な武士により駆逐された。後醍醐天皇は「元弘の乱」で幕府打倒を試みましたが、幕府軍に鎮圧され隠岐の島に流された。
後醍醐天皇が籠もった笠置山に拝謁した河内の悪党・楠木正成は、「赤坂城」で籠もり鎌倉幕府軍を翻弄した。赤坂城が落ちると、千早城に籠城し、それを囲んだ幕府の大軍を引き付け落ちなかった。幕府軍を楠木正成の別働隊が食料輸送を襲ったりして翻弄し厭戦気分に陥らせた。後醍醐天皇の皇子・護良親王の別働隊も幕府軍と戦いながら小競り合いを続けた。
そんな時期に、播磨の悪党・赤松円心が倒幕に立ち上がり、河内・大和方面に注力していた六波羅探題軍の隙を突いて、電光石火に摂津から山城国に入り、京に一撃を与えた。優勢な六波羅探題軍の主力との全面衝突を避け、摂津に退いて布陣した。そこに、隠岐の島を脱出した後醍醐天皇軍が籠もった伯耆・船上山城を攻めるために、幕府軍の一方の主力・源氏足利高氏が派遣されてきた。ここで、上巻が終わった。


2023/6 「日本史の謎は「地形」で解ける」(環境・民族篇) 竹村公太郎 ★★
随分前に、新幹線に乗る時、本を忘れたので新大阪の小さな本屋に立ち寄り見つけた本がありました。それが、竹村公太郎さんの本で、「地形」と「歴史」を結びつける視点が面白く楽しく読ませて頂きました。その後、著者の本を数冊続けて読んだ記憶があります。タモリの「ブラタモリ」に共通する部分があります。僕はディンギーヨットレースを高校大学と楽しみ、今でもヨットレースを楽しんでいます。ヨットレースは風を読む頭脳戦でもあり、風の流れは陸の地形に大きく影響を受けます。山や川など数百年数千年単位で変わらないから、そのレース海域の持っている特徴があります。それと、この著者の考えの基本が共通しているように感じ気に入りました。本屋さんで、再び竹村さんの文庫本を見つけ、久しぶりに読んでみたくなりました。
著者は、東北大学で土木を学び、建設省に入省し、日本各地でダム・河川改良などの実務を仕事として来ました。「なぜ信長は「安土の小島」に壮大な城を築いたか?」「なぜ「日本の稲作文明」は湿地帯を克服出来たか?」「なぜ家康は「街道筋の駿府」を終の棲家に選んだか?」「なぜ世界一の「リサイクル都市」江戸は崩壊したか?」「なぜ日本列島は「生きたりん鉱脈」の宝庫なのか?」・・・、目次を見ただけで興味をそそられます。
文明構造は、上部構造と下部構造で出来ている。下部構造は、地形・気象に立脚し、それがしっかりしていれば上部構造が花開いていく。下部構造が衰退すれば、上部構造も衰退していく。上部・下部構造が一体となった構造を「文明」と呼び、上部構造を「文化」と呼ぶ。塩野七生著「ローマ人の物語・すべての道はローマに通ず」(新潮社)が面白い。ローマ人は徹底的に社会資本を整備した。道・水道などのハードインフラと、医療・教育などのソフトインフラを整え、その下部構造に上に上部構造が花開き、大帝国を築いた。
「川のない地図」・・・コンピューターの発達により、地図に書き込まれる情報が飛躍的に増えた。地形・地質・気象・河川・動植物分布などの自然情報から、鉄道・道路・上下水道・電気・ガス・通信などの情報が、書き込まれていった。それに反し、川の情報までない「高さ」だけの情報から作られた地図が作られた。この川のない地形図を見ると、流れる川が見えてくる。川の流れによって地形が作られたが、「川」を主語にすると現在形になり、「地形」を主語にすると過去形になる。このように、情報を削ると別の面が見えてくる。このような「間引いた情報」こそパワーを持つ。
日本列島は、海面上昇によって誕生した。2万年前、大規模な氷河期(ウイスコンシン氷河)があり、海は凍りユーラシア大陸と地続きになっていました。その頃、モンゴロイドが大陸から渡ってきました。この頃の地球の平均気温は、現在よりたった6℃低かっただけでした。その後温暖化が始まり、日本列島が出来ました。その後、最も温暖化したのは6000年前の縄文海進期でした。その頃の海岸線は、現在貝塚として残っています。現在より30m海面が高かった。関東平野・濃尾平野は海の底でした。この頃の地球の平均気温は現在よりたった2℃高かっただけです。気温の上下と海面上下は何百年・何千年というタイムラグがある。現在の日本列島の温暖化は、周囲の海の水温上昇によるものが大きい。原発からや人の生活による川を通じた温排水の影響が大きい。


2023/4 「銀のスプーン」より 随筆集「スターボーで行け!」9篇 恩田怜著
コーチしてる大学ヨット部OBの方の自費出版。コーチになる前からの知り合いで、コーチ就任後も、いろいろとサポートしていただきました。ご自宅が神戸で、ヨットを西宮で係留しておられたので、そちらでもお世話になりました。そんな縁があって頂きました。
題名にある「スターボー」はヨット用語で、右舷を指す言葉です。ヨットマンにとってはよく使う用語で、使用頻度の高いヨット用語の代名詞。ヨットマンらしいです。
「まえがき」によると、ペンクラブ「銀のスプーン」(共同自主出版)発行30年を超え36集を数えた。それに投稿した原稿をまとめた本のようです。創刊者の三宅啓弘さんとは小学生以来の知り合いだそうで、三宅さんは私の在所の近所にある県立伊丹高校在学中、図書館法発効の記念行事で、「よく本を読んだ」ということで表彰されたそうです。三宅さんが一席、筆者が二席だったそうで、三宅さんの勧めで19集から参加し、29集から編集長、後に発行人を務めたそうです。筆者は、50歳を過ぎ、「昔話をしない、自慢話をしない、説教をしない」という目標を立てたそうです。友人には、「そんなことしたら、ストレスが溜まっておかしくなるぞ」と言われたが、その発散先を「銀のスプーン」に見つけたそうです。そして80代後半に入った今も続けていいるそうです。
僕は、幼児の時から本が読めるようになるまで、母が毎日本を読んでくれました。その結果、本が好きな子になり、今に至るまで読書を欠かしたことがありません。本が好きになったことにより、国語の授業で「それ」を何を指すか?のような問題はイージー問題になり、他の教科でも問題の意味がわからないことはなく、学校での勉強に大きなプラスになりました。小学校時代の得意で好きだったのが「作文」で、夏休みの宿題で、400字詰め原稿用紙で100枚以上の小説を書き、先生に驚かれた事を思い出します。大学時代のテストは論述式になり、文字好きで読解力や記述力の力がある僕には合っており、好成績で卒論でも優秀賞7選に選ばれ、卒業生全員に配られました。
社会人になって、PCを使うようになり、文字好きの趣味としてずっとウェブ日記を書いてきました。それが目に留まり、同人誌への執筆を依頼され、著者のように暫く投稿していた時期もあります。
筆者は、大学生になりヨット部に入部し、先輩から厳しく言われたのが、「スターボーで行け!」だったそうです。「スターボ」は、ヨット競技のルールでオールマイティーな強い位置取りです。そこで競い合った艇がミートした時、自艇の権利を主張する為、「スターボ」と被権利艇に叫びます。非権利艇は「スターボ」艇を避けるための動作を始めます。ヨットはヨーロッパから始まったスポーツで、「正々堂々」「スポーツマンシップ」を最も大切にするスポーツです。そんなことから、著者のヨット部では「スターボ」は「正々堂々やれ」の意味で通っていたそうです。卒業後、大企業に勤め、その後市会議員として活躍されました。近年、データ改ざんしたり、法律で決められたことを手抜きしたりする世相があり、「コンプライアンス」という言葉が薄くなっているように感じるそうです。そんな世相に喝を入れるべく、「スターボーで行け!」を題名にされたそうです。
「瀕死体験」から考えるの項で、立花隆著「臨死体験」を読んでがありました。立花隆さんの「臨死体験」は読んでいませんが、臨死体験の文献や臨死体験者の話を聞き書かれた書だそうです。筆者ご自身の「瀕死体験」と合わせて死を考えておられた。臨死体験とは、事故や病気で意識がなくなった際、意識が体外に離脱し夢のような体験をすることで、空中から自分や周囲を見ることが出来、科学的には考えられないような事が起こる現象です。
僕は子供の頃は身体が弱く、生後4ヶ月に「腸重積症」という致死率が非常に高い病気を患い、即手術を勧められましたが、病院勤めしていた母親は「手術が成功しても体力的にもたない」と医師から僕を力ずくで取り戻した。その医師からは、「人殺し」と叫ばれたそうです。夕方になり、泣きすぎて泣く力も弱くなっていた僕を関西労災病院に連れて行った。診療が終わっていたけど、幸い病院内に残っていた小児科医長先生が緊急に診察して下さり、腸重積(小腸が大腸内に入り込む)が間欠性で常に入っているわけではないので手術なしで治ると診断し、猛烈に泣き出したら高圧浣腸して小腸を大腸から物理的に押出し・・・を数度繰り返し、数日入院して腸重積しなくなったのを見て退院しました。
その後もよく熱を出す子で、小学生の時は1ヶ月に1度は40℃を越す熱を出し学校を休まなければなりませんでした。その度に小児科医師の往診を請わないといけない子でした。熱にうなされ意識が朦朧とした時、何度も意識が離脱し、身体が浮いていく感覚になり、天井の隅から寝ている自分を見ていました。それから窓から意識が外に出て、ぐんぐん空に向かって上がっていきます。それが気持ち良く、至上の快感でした。電信柱より高く、屋根が多数下に見え、太陽に向かって上がって行くけど、やがて高度が下がっていき、手を羽ばたかせても上に上がらなくなり、地面に落ちちゃうというところで終わります。目が覚めると、その記憶が残っており、「また飛びたいな〜」と思っていました。次に熱が上がると、「また飛べる」と意識朦朧の中、楽しみでもありました。
中学生になり、虫垂炎で手術してから熱を出さない子になり、病気もしない大人になりました。そんな自分の臨死体験をベースに読み、楽しみました。


2023/4 「クルーザーに乗って」 川谷芳朗著 株式会社舵社
ヨット知り合いの方が書いた本。一気に3冊の本を出版されました。その第2段です。出版社を見ると、ヨットの老舗雑誌「舵」社だったので驚きました。僕もこの雑誌には頼まれて、「OP全日本」や「OP世界選手権選考レース」のリポートを投稿し掲載されたことがありますが、このようなヨット好き個人の本も出版するんだと・・・。
前作同様、軽口を挿入しながら軽快に読める。ヨットの運用に関する燃料・係留・食事・水・台風対策・レースなどの解説。続いて国内外のヨットハーバー・クルージング旅の係留場所の紹介。ホームポートの新西宮YHにはじまり、西宮市内から大阪湾周辺が紹介されている。淡路島の係留場所も紹介されている。そして和歌山から関東周辺、最後にハワイのハーバーの紹介があった。


2023/4 「高槻の道」 川谷芳朗 弘報印刷株式会社出版センター
ヨット知り合いの方が自費出版された本。昨年、ヨットレースで何度かクルーとして呼んで頂いたオーナーさん。歩くのが好きで、レースの時も朝早く起きて宿泊地の周囲を歩いておられました。JR高槻駅・阪急高槻市駅を中心に、徒歩やバス・電車を使って、東西南北道を歩いてその道の周辺を細かく描写されています。僕はバイクで寺社・古墳・山城などを巡るのが好きなので、見知った道も多数登場しました。長男の通った「高槻中高」も登場していました。


2023/4
「人生の錦秋をめでる」 中西玄礼 白馬社 ★
先年末、家内の実家の菩提寺「長田寺」に、義理母の17回忌法要に伺った時、本堂に置いてあった本です。浄土宗禅林寺派の末寺なので、本山禅林寺第90代法主だった筆者の本がありました。「錦秋」という言葉の美しさに惹かれ手に取りました。パラパラとめくり購入しようと思って住職さんにお願いすると、「どうぞ、お持ち下さい」。無料はアレなので、キチンと定価を受け取ってもらいました。永観堂の法主は、1期4年で筆者は、平成22年68才から2期8年、77才まで永観堂で過ごされました。退官し実家の姫路網干の寺院の住職に戻られました。永観堂法主在籍中、毎月ウェブサイトに掲載された「花信風法話」、年頭の言葉合わせて100回をまとめた「げんれい説法」が出版されました。それを退官記念として「げんれい百話」とし、在任中のラジオ「高齢者放送大学」3回、NHK教育TV「こころの時間」を合わせたのがこの本です。
2ページで1つのお話が終わるので、空いた時間に1〜2話ずつ読み進めました。勉強になったと感じたものを紹介します。
『アメリカインディアンの教え 子どもたちは、こうして生き方を学びます。 批判ばかり受けて育った子は、避難ばかりします。 敵意に満ちた中で育った子は、誰とでも戦います。 冷やかしを受けて育った子は、「はにかみや」になります。 妬みを受けて育った子は、いつも悪いことをしているような気持ちになります。 心が寛大な人の中で育った子は、我慢強くなります。 励ましを受けて育った子は、自信を持ちます。褒められる中で育った子は、いつも感謝することを知ります。 公明正大の中で育った子は、正義心を持ちます。 思いやりの中で育った子は、信仰心を持ちます。 人に認めてもらえる中で育った子は、自分を大事にします。 仲間の愛の中で育った子は、世界に愛を見つけます』
これを読んで、僕の最も好きな「ドロシー・ロー・ノルト子供が育つ魔法の言葉・子は親の鏡」の詞にそっくり。どちらもアメリカインディアンの言葉から出ているので当たり前ですが、また出会えて嬉しくなりました。天皇陛下が皇太子時代、誕生日会見で皇太子妃を気遣ってドロシー・ロー・ノルトの子は親の鏡の詩を披露しました。元外務省職員で期待され天皇家に輿入れしたのですが、精神的病で皇太子妃としての仕事が殆どできず、子も女の子1人でいろいろ批判されました。妻への批判をこの詩で庇う姿に僕は感激してしまいました。すぐにドロシー・ロー・ノルトの詩を購入し、それ以来大好きになりました。次に出会ったのが、孫の初宮参りで氏宮から授かった本。なんとドロシー・ロー・ノルトの本そのものを授かり、より氏宮が好きになりました。
『一休さんの遺言状 「門松は冥土の旅の一里塚 めだたくもあり めでたくもなし」 一休和尚が金持ちの家の法要に招かれました。その前日、その家の門前を通ったので立ち寄ると、みすぼらしい衣姿を見て乞食坊主と思った門番が、「物乞いなら裏へまわれ」と追い返されました。翌日、紫の衣を着て門前に立つと、丁重に奥座敷に案内されました。主人に昨日の一件を話し、紫衣を脱ぎ捨てて、「私には何の価値もござらぬ。紫の衣に価値があるのなら、この衣に読経してもらうがよろしかろう」と言い捨てて帰ってしまった。 一休和尚が大徳寺住職となって数年、遺言状をしたため「この遺言状は私が死んでも、すぐに開封してはならぬ。宗派存亡の危機の一大事が到来した時、開封して読むべし」と言い渡した。その後、存亡の危機が訪れ、宗門重役が鳩首協議するが名案が浮かばなかったので遺言状を開封した。そこに書いてあったのは、「なるようになる。心配するな」でした』
『良寛さんが、玉島(岡山県)の円通寺で修行をしている時、仙桂という仲間が寺にいました。彼は一言もしゃべらず、身なりも構うことなく、座禅もせず、ただ、毎日黙々と畑を耕し、野菜を上手に作って寺に来る人たちに与えているだけの、まったく目立たぬ存在でした。 33才で師匠から印可(悟りを得た証朗書)を受けた良寛さんは、それから3年間の諸国行脚の旅を終えて、故郷の越後に帰ってきます。ある日、庵で勤行の途中、突然、かつての仲間である仙桂の存在に気付きます。「そうだ、彼こそひたすら自分を守り、人の喜びを優先させ、黙々と大地に向かって座禅していたのだ」と悟ったのです。 「当時、我これを見て見ず。これに逢って逢わず。嗚呼、今これを習わんとするも得べからず。仙桂和尚は真の道者」。こんな詩を作って彼を偲んでいます』
『もう34年も前、富山県出身の医者・井村和清さんは骨肉腫のため右足を切断しました。やがて肺に転移して31歳で亡くなります。その時、妻の倫子さんとのあいだにまだ幼い長女の飛鳥ちゃんかいて、倫子さんのお腹の中には小さな命が宿っていました。二人の子供に書き残した遺書が「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」と題して出版されました。その中に、「星の王子さま」の中の次の文章を引用しています。 「人切なものは、いっだって、目には目えたい。人はとかく、目に見えるものだけで判断しよりとする。目に見えているものは、いずれは消えてなくなる。いつまでも或るものは、目に見えないものなのだよ」。井村さんの遺書はその後にこう続けています。「人間は、死ねばそれですべてか無に帰するものではない。目には見えないが、私はいつまでも生きている。おまえたちと一緒に生きている。だから、私に逢いたくなる日かきたら、手を合わせなさい。そして、心で私を見つめてごらん」。そして、最後に、「さようなら、おまえたちがいつまでも幸せでありますように。雪のふる夜に。父より」という言葉で締めくくられています』
『一論の花にも無限の愛を 姫路の北方にある広峰山の山上に、黒田官兵衛ゆかりの広峰神社があります。その参道に小さな石の碑があり、「一輪の花にも無限の愛を」と刻まれています。坂村真民さんの「二度とない人生だから」という詩の冒頭・の言葉です。
1966年。アメリカでこんな実験があるのです。嘘発見器(ポリグラフの第1人者として知られた科学者、クリーブーバクスターが、部屋にあった観葉植物の一種ドラセナの葉に嘘発見器をつないで、その葉っぱをコーヒーカップに入れたけれど、なんの反応もない。それで、葉を焼いてやろうと思い隣の部屋にマッチを取りに行こうとしたとたん、針が劇的な変化を示したのです。焼いていないのに、人間の「悪辣な心」に反応したのですね。何度か実験をしてみると、燃やすふりをしただけでは反応せず、「本気で燃やそうとした」時だけ反応したそうです。
別の実験では「雪の下」という植物の葉っぱを2枚摘んで、片一方の葉には「生き続けるように」と念じて愛情を注ぎ言葉をかけ、もう一方の葉は完全に無視しました。1ヶ月後、一方はまだ生き生きしていたのに、無視した方の葉は完全に枯れたそうです。こうして実験を繰り返した結果、バクスターは「植物は人間のこころが分かる」と結論づけました。「植物にも意識かある。人間以上の知性かある」と言っています。植物には人間の心を敏感にキャッチする、そんな不思議な「こころ」があるのですね。
この話を聞いてから、私もできるだけ我が家の花たちに声を掛けるようにしました。「今日もきれいだよ。よく咲いてくれたね。ありがとう」。あなたもご自身の家の花たちに、こんな声を掛けてみたらいかがでしょうか。まして、家族にこそ、ご近所の方々にこそ、縁のある人々にこそ、愛情のこもったひとことを・・・。花がそう言って囁いています。「二度とない人生だから 一輪の花にも無限の愛を」。それは人への愛情にもつなかっているのです』
『姫路に生まれて姫路に育ち、やがて御着城主の小寺家に仕えて、姫路城主となり豊臣秀吉を補佐して彼を天下人に押し上げ、江戸時代には筑前57万石の大名となった男、軍師・黒田官兵衛孝高。隠居して「如水」と号しました。 「思いおく言の葉なくて ついに逝く 道は迷はで なるにまかせて」辞世の歌を遺して58才で世を去りました。
「水五則」という教えですか、この作者は「如水」という名前の連想から、黒田官兵衛ではないかといわれていました。別の資料によれば、中国の思想家・王陽明ではないか、という説もあります。この内容は黒田官兵衛の生き方そのものといえます。
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり。
一、常に己の進路を求めてやまざるは水なり。
一、障害にあって激しくその勢力を百倍しうるは水なり。
一、自ら潔うして他の汚濁を洗い、清濁併せ容るる量あるは水なり。
一、洋々として大海を満たし、発しては霧となり雨雪と変じ霞と化す。凍ってば
玲龍たる鏡となり、しかもその性を失わざるは水なり』
水五則は仏教に説かれる「六波羅蜜」の教えと相通じるものかあります。六波羅蜜というのは、私たちかいるこの迷いの世界から、悟りの向こう岸に到るための6つの実践方法です。
1、布施・惜しみなく与える
2、持戒・してはならぬことはしない
3、忍辱・耐える、我慢する
4、精進・努力する
5、禅定・心を落ち着かせる
6、智恵・真実を見極める』


2023/2 「自分を信じる力」 福岡堅樹 講談社 ★★
帯に、「できないと決めつけない。自分の可能性を小さくするだけだから。 ラグビーW杯日本代表が医学部に合格!すべては自分を信じることから始まった」。作者のプロフィール「1992年、福岡県出身。5才から玄海ジュニアラグビークラブでラグビーを始める。県立福岡高校時代には第90回全国高等学校ラグビーフットボール大会(花園)に出場。2015年・2019年にラグビーワールドカップ日本代表に選ばれ、2019年時には日本代表から唯一「別格だったマグニフィセント・セブン(豪華な7人)」に選出されて、ベスト8進出に大きく貢献。2021年に順天堂大学医学部に合格し、現役を引退。また同年に埼玉パナソニックワイルドナイツのアンバサダーに就任。コーヒーと猫が好き」。
私は、「二兎を追うもの一兎をも得ず」や「一所懸命」という言葉が好きではありません。この言葉が素晴らしいこととする風潮が日本にあるので、何かで頑張ってる、あるいは目標達成を目指している人は、その他を捨てて当たり前、出来なくても許される風潮がある。私の好きなスポーツの世界では、プロ野球選手が引退したら、一流選手は野球解説として、そうでもない方はサラリーマン・飲食店などで生計を立てる方が殆どで、何だか昔の世界でずっと生きている感じがする。それに対し、米大リーグに日本選手が移籍する時のアメリカ人代理人が元大リーガーの弁護士だったりする。元IOC会長のベルギー人ジャック・ロゲさんは、セイリングで3回オリンピックに出場し、ベルギーオリンピック委員会会長・欧州オリンピック委員会会長を経て、IOC会長を12年間務めた。このロゲさんは、医学博士の整形外科医でもあります。
昔、プロ野球・広島カープの助っ人外国人だったアメリカ人・ホプキンスは、元大リーガーで広島カープで4番を打ちながら医学部に通い、オフシーズンに学業メインに生活していた。成績を出せなかった1年限り助っ人ではなく、セリーグ優勝にも貢献した。練習の合間や移動時に勉強し、広島大学で教授の研究を手伝ったりしている。その後、整形外科医になりセカンドキャリアは医者として過ごした。
人間は、日本人が美徳とされる「一所懸命」ほど能力が低くなく、2つ・3つの分野で一流になれる能力を持っていると思っている。それが、僕の信条である「豚もおだてりゃ空を飛ぶ」にも繋がっている。ボランティアとして偏差値の非常に高い大学ヨット部のコーチをしていますが、20年前にコーチになった時、「僕らのチームには高校ヨット部経験者がいないし・・・」など、成績の振るわなかった時の言い訳をよく聞いた。そのヨット部員だった次男は、小学校からヨット競技をやっていたこともあり、大学でも個人戦で一般を含めトップ10まで上り詰めた。事あるごとに、「人はいろんな能力を持っている。君らは学力で非常な努力をして超一流大学に入学した。ならばスポーツでも出来るだろう」と励まし続け、10年ほどでその言い訳が部員の口から消え、その頃より団体戦でも地区予選を突破し、全日本に出場するようになり、スポーツセレクション入学選手を揃える強豪大学と肩を並べ、昨年は全国3位になった。福岡選手のような全国的に有名な選手が医学部に合格し、このように本になると日本社会の考え方が変わるように思った。
福岡選手の育った環境が書いてあった。最も興味を持ったのが両親・父親の福岡選手への接し方「自分が選んで決めたことに対して、自分で責任を取る」でした。だから、子供に父親の考えを押し付けることはなく、「父さんはこう思うけど、決めるのはお前だから」という子育てだったと書いてあった。
家族は仲が良く家にはいつも歌があったようで、お姉さんと福岡選手は幼い頃からピアノを習い、声楽を学んだお姉さんは劇団四季に入団し、ミュージカル俳優をしていた。
福岡選手も僕同様「この道一筋」「二兎を追うものは一兎をも得ず」に疑問を持っており、複数の道を求めづらい環境があり、結果的に「文武両道」「二兎を追う」アスリートが限られている。それを阻む壁の1つに「指導者側の無理解」があり、両立を望む選手に共に考える指導者が少ない。スポーツ推薦入学は優れたアスリートを育てる意味はあるが、そこに安住しているアスリートがセカンドキャリアを考えなく側面もある。海外に目を転ずれば、文武両道を体現しているアスリートが多い。英国オックスフォード大や米国スタンフォード大は国を代表するアスリートを輩出しており、建築家や医師でセカンドキャリアを過ごしている選手も多い。日本高校ラグビー代表で慶応大ラグビー部で活躍した古田京選手は慶応大医学部を卒業した医師。世界柔道選手権大会優勝した朝比奈沙羅選手も、医学部生です。文武両道の先駆者と書かれていた。
次男のジュニアヨット同期のKawくんは、慶応医学部に合格し、中途退学して東大を受け直し東大医学部を卒業した。在学中と卒業後に2回オリンピックを目指し、残念ながら日本代表になれなかったが文武両道を実現している。
「継続は力なり」とも書かれていた。5才から始めたラグビーをここまで継続出来たが、努力を長年続けることは簡単ではない。何が必要か?まずは「好き」であること。「好き」が、継続の最大の原動力で、自分らしい生き方を見つける契機となる。
「Stay hungry, Stay foolish.」というスティーブ・ジョブスがスタンフォード大卒業祝辞で語ったスピーチの締めくくりの言葉を引用していた。普通は、「ハングリーであれ、愚かであれ」と訳されますが、「常に貪欲であれ、現状に満足するな」と解釈していると書かれていた。


2023/2 「ひと目でわかる日中戦争時代の武士道精神」 水間政憲 ★
水間政憲さんの「ひと目でわかる」シリーズ。数冊目です。写真がメインな本なので、150ページほどですが早く読めます。全8冊シリーズの5冊目です。
日中戦争の始まりから、南京陥落を経て、総司令官・松井石根大将が、終戦後A級戦犯で死刑になるまでのアサヒグラフを中心にした写真が多数載っている。中国各地で日本軍が開放した都市での歓迎ぶりが写真で笑顔で語られている。進駐する日本軍を迎えるあふれるような日の丸を持った市民の笑顔が新鮮だった。近年チャイナが、「南京30万人虐殺」を筆頭に反日教育しているのとは大違いです。非番の日本軍人が日常の市場に出て、笑顔の市民に囲まれた日本軍人の姿が双方笑顔でとても戦争中とは見えない。そんな多くの写真を見ていくと、チャイナは日本のように1つにまとまるのとは違い、多くのいろんな考えが雑多に住んでいる国のように見える。日本軍軍医が、中国傷病兵を治療している写真もあった。
南京陥落後、入城する日本軍を迎える笑顔の市民の写真。陥落後、南京にいれば安心だと、一気に南京市民数が増えた事実。どう考えても、日本軍の30万人虐殺は虚偽のようです。日本軍がシナ全土に群雄割拠した軍閥を撃破し開放した都市からシナ人による維新政府が広がっていった。南京陥落後3ヶ月で南京にも維新政府の旗を持った行列が行進する姿を写した写真があった。蒋介石の中華民国軍・毛沢東の共産党軍の他に、維新政府というのがあったのを知らなかった。どちらかというと満洲国のように、親日本の政府だったようだ。もし日本軍がアメリカと戦争せず日本が敗戦していなければ、シナ大陸の姿は現在と大きく違っていたでしょう。これは新発見でした。戦時中でも、日本の民間病院が種痘をシナ大陸で実施していた写真もあり、これまた新発見でした。日本国民・チャイナ市民の間では、日米太平洋戦争のような日中全面戦争ではなく、事変程度で、日本軍が進むと大戦闘もなく逃げていく蒋介石軍をみて、国家存亡の危機という風には写っていなかったように思う。日本軍開放地内で、小中学生が銃を構えて射撃練習する姿の写真があった。もちろん日本軍の許可の下での軍事教練に見え、何から守ろうとしているのかと素直に想像すると、相手は日本軍ではないようです。きっと中華民国軍や群雄割拠する蛮族相手のようです。
日本軍解放後、武装解除されたシナ兵捕虜が開放される写真もあった。元シナ兵は笑顔でした。当時のシナ兵は、志願兵もいただろうが、中国共産党が村を襲撃し裕福な家族を粛清し、それを村人に分け与え、その代わり新兵を強制加入させていた。シナ軍はそういうのが普通の姿であったろうから、開放されるシナ兵の多くは自らの意思から従軍したのではなさそうだと理解した。そのような中国戦線を指揮していたのが、松井石根大将。そして、家内の父親も将校として中国戦線で従軍していた。
このような写真を多く載せていたアサヒグラフが、戦後、戦前日本軍の蛮行をでっち上げてでも報道する姿とは正反対です。戦前の朝日新聞は、反米の急先鋒で日米開戦を煽っていた。戦後、GHQが進駐し戦犯を次々に逮捕し、学校の先生・報道機関・政治家を次々に公職追放していく姿を見て、報道姿勢を急旋回した。日米開戦直前、ゾルゲ事件で連座した朝日新聞関係者。新ソ連・共産主義者の尾崎秀実はスパイ罪で死刑になり、多数の社員も連座して逮捕された。朝日新聞政治部長だった田中慎二郎が戦後すぐ復帰し、同じく朝日新聞の森恭三と共に左翼スターになった。これら学生時代から左翼活動していた社員が戦後の朝日新聞報道を大きく変えたようです。
最後のページが、聖将・松井石根大将が自宅で家族・愛犬とくつろぐ姿の写真だった。「興亜観音」の写真も横に載っていた。熱海市伊豆山に昭和15年(1940)2月、松井石根大将の発願によって建立されたと書かれている。
『松井石根大将は、「A項目(A級)」戦犯の訴因(平和に対する罪)36項目すべて無罪だったにもかかわらず、「A項目(A級)」戦犯として今上陛下の御誕生日の日に処刑されました。 松井大将は、陸軍大学校を首席で卒業した後、エリートが行く欧米ではなく、自ら愛する中国を希望し、中国に16年間、駐在武官として赴任したのです。終生熱愛してやまない中国との戦いの総司令官に任命されたことは、運命のいたずらです。南京から帰還後の1940年に「死んだら敵も味方もない。一緒にまつろうではないか」と、興亜観音を建立し、その山裾に庵を結び、雨の日も風の日も2kmの山道を登り参拝することと、朝夕の読経を欠かすことはありませんでした。戦犯容疑者として巣鴨プリズンに召喚された以降も、興亜観音に向かって座禅し、処刑される朝まで朝夕の読経を日課にしていたのです。
松井大将は、「平和に対する罪」がすべて無罪を承知の上で、「願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい」との言葉を遺され、諒として刑場の露になられたのです。 合掌』
『あとがき 「ひと目でわかる」シリーズ第3弾は、中国をテーマに考えていましたが、資料の収集と整理に時間を費やし、出版が予定より2ヵ月ほどずれ込んでしまいました。 情報戦に疎い我が国の立場は、近隣諸国に、歴史だけでなく、領土までも強奪されそうな危機的な状況になりつつあります。 この窮状を救う手立てとして企画されたのが本書です。
それは、アジアの民主主義国家の盟主として、失いかけている「武士道精神」を復活させ、厳しさと優しさを民主主義の基本とし、世界に誇れる文化大国へと歩み始めるためにも、連合国総司令部に切り取られた歴史を取り戻すことが喫緊に必要と判断して書き進めました。
本書を出版するにあたって、PHP研究所の山岡勇二氏からは元気の出るお話を、白石泰稔氏にはタイトル等の助言をいただき、また「ひと目でわかる」シリーズの企画から二人三脚で取り組んでいただいた白地利成氏には、今回の企画段階からなにかとお世話になりました。そして、細矢節子氏には叱咤激励され、予定どおりに原稿を進めることができました。皆様方に、あらためて深甚の謝意を表する次第です。 今回、国内歴史認識世論の動向など、様々な情報を教えていただいた佐藤忠士氏並びに菊地宣夫氏には、この場をお借りして感謝を述べさせていただきます。
※最後に、英霊並びに故松井石根大将・故田中正明先生、そして我が国の名誉回復に繋がる貪重な報道写真を撮影された当時の朝日新聞記者の皆様に本書を捧げます。 平成25年5月8日 阿佐ヶ谷にて 水間政憲』


2023/2 「嘉吉の乱」 渡邊大門 ちくま新書 ★
副題「室町幕府を変えた将軍暗殺」で、「人々は義教を恐れたと言われている。義教から睨まれた満祐も同じだった。嘉吉の乱以前、満祐は義教から討伐されるとの噂を耳にして、悩乱状態にあったと言われたほどだ。とはいえ、嘉吉の乱が起こった要因の全てを義教のパーソナリティーに押し付けられわけにはいかないだろう」と、表紙に紹介されている。初めての筆者なので、プロフィールを読んでみた。「歴史学者。1967年神奈川県生まれで、関西学院大学文学部歴史学科日本史学専攻卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程終了。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。文学博士。著書に「流罪の日本史」「明智光秀と本能寺の変」「豊臣五奉行と家康-関ヶ原合戦をめぐる権力闘争」「倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史」「関ヶ原合戦全史1582-1615」など多数」。室町幕府成立の経緯における赤松氏の活躍に始まり、室町時代前期の幕府内の赤
松氏の立ち位置。赤松氏を全国区にの仕上げた赤松円心の活躍を読みながら、母
方の先祖であり赤松円心同様、足利尊氏に味方した美作管家党の動きを頭に浮か
べながら楽しみました。
細川氏・畠山氏などと同様、室町幕府の重要な位置にいて我が家の春を謳歌して
いた赤松氏が、本家が満祐の代になり突然足利義教に背いて勝手に領国・播磨に
戻ってしまった。その背景や、赤松氏庶流への流れ、庶流の本家と幕府との関係
が詳しく書かれていた。物語というより、学術研究を読みやすくした書でした。
嘉吉の乱自体の流れはすでに知っているので、興味深く読みました。播磨は我が地・摂津の隣国で家内の出身地ですので、赤松本家の流れや本城をいくつも山城探索したのである程度知っていましたが、庶流のそれはあまり知らなかったり、赤松という名を冠していない赤松庶流の流れも学べました。
足利義教は、還俗して将軍になった元お坊さんなのに、気性が荒く、足利幕府の成立初期から問題だった幕府自体の戦力不足ゆえ、有力守護の内紛や対立に付け込み戦力を削いできた。それ故、赤松氏のような次の有力守護がターゲットにされつつあった。義教が暗殺してきた手法を真似て、将軍を暗殺してしまった。嘉吉の乱に至る幕府内の暗闘、有力守護の動きなど詳しく書かれており面白かった。歴史学者らしく、創作ではなく歴史資料に基づいて書かれているので、「現実は小説より奇なり」で面白い。
赤松満祐が勝手に領国に帰ってしまったにもかかわらず、有力守護は足利義教の乱行に違和感を感じていたので、多くは満祐に同情的で、義教が除かれたことにホッとしている雰囲気があったようだ。幕府の追討にすぐ呼応せず、本気で赤松氏を討伐する気はなかったように感じる。そんな幕府の体たらくをみて、秩序を守るため天皇から赤松討伐の勅旨が出た。本気で討伐しようとし領国に戻って戦力を整えた播磨の隣国の守護・山名氏は、北から播磨国に侵入した。当初は赤松氏の善戦により思い通りにいかなかったが、天皇勅旨により多くの守護が赤松討伐に動き出し、「嘉吉の乱」は平定され、赤松氏守護の播磨・備前・美作3国が山名氏の領国になった。一部は、赤松本家を討伐する側に回った赤松庶流の領地になった。
これで嘉吉の乱は平定されたが、すぐには新たな守護「山名氏」の領国支配が進まなかった。長く赤松氏を守護に頂いていた領民にとって、赤松氏は地元の雄であり、山名氏とは親しみ方が大違いです。加えて、赤松浪人が各地で蜂起したり、赤松氏再興を期して潜伏したりした。山名氏筆頭に、赤松浪人を追討し続けていた。山名氏の領国運営も地元ではないので厳しく、播磨領民からも赤松氏再興を願っていたようだ。
そんな時代の流れの中に赤松庶流から本家当主になった赤松政則が登場した。赤松浪人に担がれ、旧赤松氏領国3ヶ国を加え、最大の守護に成り上がった山名氏への警戒感から反山名氏に動き出した細川氏などの後ろ盾を得て、南北朝時代を終わりにする決定打「南朝からの三種の神器奪還」作戦を成功させ、赤松氏が復活し、山名氏の退潮も加わり、旧領国守護に復活した。そこまでの歴史的流れを赤松氏のみではなく、幅広く嘉吉の乱前後の多数の守護の動き、その庶流の動きを知ることが出来た。秀作でした。


2023/2 「ひと目でわかる日中戦争時代の武士道精神」 水間政憲 ★
水間政憲さんの「ひと目でわかる」シリーズ。数冊目です。写真がメインな本なので、150ページほどですが早く読めます。全8冊シリーズの5冊目です。
日中戦争の始まりから、南京陥落を経て、総司令官・松井石根大将が、終戦後A級戦犯で死刑になるまでのアサヒグラフを中心にした写真が多数載っている。中国各地で日本軍が開放した都市での歓迎ぶりが写真で笑顔で語られている。進駐する日本軍を迎えるあふれるような日の丸を持った市民の笑顔が新鮮だった。近年チャイナが、「南京30万人虐殺」を筆頭に反日教育しているのとは大違いです。非番の日本軍人が日常の市場に出て、笑顔の市民に囲まれた日本軍人の姿が双方笑顔でとても戦争中とは見えない。そんな多くの写真を見ていくと、チャイナは日本のように1つにまとまるのとは違い、多くのいろんな考えが雑多に住んでいる国のように見える。日本軍軍医が、中国傷病兵を治療している写真もあった。
南京陥落後、入城する日本軍を迎える笑顔の市民の写真。陥落後、南京にいれば安心だと、一気に南京市民数が増えた事実。どう考えても、日本軍の30万人虐殺は虚偽のようです。日本軍がシナ全土に群雄割拠した軍閥を撃破し開放した都市からシナ人による維新政府が広がっていった。南京陥落後3ヶ月で南京にも維新政府の旗を持った行列が行進する姿を写した写真があった。蒋介石の中華民国軍・毛沢東の共産党軍の他に、維新政府というのがあったのを知らなかった。どちらかというと満洲国のように、親日本の政府だったようだ。もし日本軍がアメリカと戦争せず日本が敗戦していなければ、シナ大陸の姿は現在と大きく違っていたでしょう。これは新発見でした。戦時中でも、日本の民間病院が種痘をシナ大陸で実施していた写真もあり、これまた新発見でした。日本国民・チャイナ市民の間では、日米太平洋戦争のような日中全面戦争ではなく、事変程度で、日本軍が進むと大戦闘もなく逃げていく蒋介石軍をみて、国家存亡の危機という風には写っていなかったように思う。日本軍開放地内で、小中学生が銃を構えて射撃練習する姿の写真があった。もちろん日本軍の許可の下での軍事教練に見え、何から守ろうとしているのかと素直に想像すると、相手は日本軍ではないようです。きっと中華民国軍や群雄割拠する蛮族相手のようです。
日本軍解放後、武装解除されたシナ兵捕虜が開放される写真もあった。元シナ兵は笑顔でした。当時のシナ兵は、志願兵もいただろうが、中国共産党が村を襲撃し裕福な家族を粛清し、それを村人に分け与え、その代わり新兵を強制加入させていた。シナ軍はそういうのが普通の姿であったろうから、開放されるシナ兵の多くは自らの意思から従軍したのではなさそうだと理解した。そのような中国戦線を指揮していたのが、松井石根大将。そして、家内の父親も将校として中国戦線で従軍していた。
このような写真を多く載せていたアサヒグラフが、戦後、戦前日本軍の蛮行をでっち上げてでも報道する姿とは正反対です。戦前の朝日新聞は、反米の急先鋒で日米開戦を煽っていた。戦後、GHQが進駐し戦犯を次々に逮捕し、学校の先生・報道機関・政治家を次々に公職追放していく姿を見て、報道姿勢を急旋回した。日米開戦直前、ゾルゲ事件で連座した朝日新聞関係者。新ソ連・共産主義者の尾崎秀実はスパイ罪で死刑になり、多数の社員も連座して逮捕された。朝日新聞政治部長だった田中慎二郎が戦後すぐ復帰し、同じく朝日新聞の森恭三と共に左翼スターになった。これら学生時代から左翼活動していた社員が戦後の朝日新聞報道を大きく変えたようです。
最後のページが、聖将・松井石根大将が自宅で家族・愛犬とくつろぐ姿の写真だった。「興亜観音」の写真も横に載っていた。熱海市伊豆山に昭和15年(1940)2月、松井石根大将の発願によって建立されたと書かれている。
『松井石根大将は、「A項目(A級)」戦犯の訴因(平和に対する罪)36項目すべて無罪だったにもかかわらず、「A項目(A級)」戦犯として今上陛下の御誕生日の日に処刑されました。
松井大将は、陸軍大学校を首席で卒業した後、エリートが行く欧米ではなく、自ら愛する中国を希望し、中国に16年間、駐在武官として赴任したのです。終生熱愛してやまない中国との戦いの総司令官に任命されたことは、運命のいたずらです。南京から帰還後の1940年に「死んだら敵も味方もない。一緒にまつろうではないか」と、興亜観音を建立し、その山裾に庵を結び、雨の日も風の日も2kmの山道を登り参拝することと、朝夕の読経を欠かすことはありませんでした。戦犯容疑者として巣鴨プリズンに召喚された以降も、興亜観音に向かって座禅し、処刑される朝まで朝夕の読経を日課にしていたのです。
松井大将は、「平和に対する罪」がすべて無罪を承知の上で、「願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい」との言葉を遺され、諒として刑場の露になられたのです。 合掌』
『あとがき 「ひと目でわかる」シリーズ第3弾は、中国をテーマに考えていましたが、資料の収集と整理に時間を費やし、出版が予定より2ヵ月ほどずれ込んでしまいました。 情報戦に疎い我が国の立場は、近隣諸国に、歴史だけでなく、領土までも強奪されそうな危機的な状況になりつつあります。 この窮状を救う手立てとして企画されたのが本書です。
それは、アジアの民主主義国家の盟主として、失いかけている「武士道精神」を復活させ、厳しさと優しさを民主主義の基本とし、世界に誇れる文化大国へと歩み始めるためにも、連合国総司令部に切り取られた歴史を取り戻すことが喫緊に必要と判断して書き進めました。
本書を出版するにあたって、PHP研究所の山岡勇二氏からは元気の出るお話を、白石泰稔氏にはタイトル等の助言をいただき、また「ひと目でわかる」シリーズの企画から二人三脚で取り組んでいただいた白地利成氏には、今回の企画段階からなにかとお世話になりました。そして、細矢節子氏には叱咤激励され、予定どおりに原稿を進めることができました。皆様方に、あらためて深甚の謝意を表する次第です。 今回、国内歴史認識世論の動向など、様々な情報を教えていただいた佐藤忠士氏並びに菊地宣夫氏には、この場をお借りして感謝を述べさせていただきます。
※最後に、英霊並びに故松井石根大将・故田中正明先生、そして我が国の名誉回復に繋がる貪重な報道写真を撮影された当時の朝日新聞記者の皆様に本書を捧げます。 平成25年5月8日 阿佐ヶ谷にて 水間政憲』


2023/2 「嘉吉の乱」 渡邊大門 ちくま新書 ★
副題「室町幕府を変えた将軍暗殺」で、「人々は義教を恐れたと言われている。義教から睨まれた満祐も同じだった。嘉吉の乱以前、満祐は義教から討伐されるとの噂を耳にして、悩乱状態にあったと言われたほどだ。とはいえ、嘉吉の乱が起こった要因の全てを義教のパーソナリティーに押し付けられわけにはいかないだろう」と、表紙に紹介されている。初めての筆者なので、プロフィールを読んでみた。「歴史学者。1967年神奈川県生まれで、関西学院大学文学部歴史学科日本史学専攻卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程終了。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。文学博士。著書に「流罪の日本史」「明智光秀と本能寺の変」「豊臣五奉行と家康-関ヶ原合戦をめぐる権力闘争」「倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史」「関ヶ原合戦全史1582-1615」など多数」。
室町幕府成立の経緯における赤松氏の活躍に始まり、室町時代前期の幕府内の赤松氏の立ち位置。赤松氏を全国区にの仕上げた赤松円心の活躍を読みながら、母方の先祖であり赤松円心同様、足利尊氏に味方した美作管家党の動きを頭に浮かべながら楽しみました。
細川氏・畠山氏などと同様、室町幕府の重要な位置にいて我が家の春を謳歌していた赤松氏が、本家が満祐の代になり突然足利義教に背いて勝手に領国・播磨に戻ってしまった。その背景や、赤松氏庶流への流れ、庶流の本家と幕府との関係が詳しく書かれていた。物語というより、学術研究を読みやすくした書でした。
嘉吉の乱自体の流れはすでに知っているので、興味深く読みました。播磨は我が地・摂津の隣国で家内の出身地ですので、赤松本家の流れや本城をいくつも山城探索したのである程度知っていましたが、庶流のそれはあまり知らなかったり、赤松という名を冠していない赤松庶流の流れも学べました。
足利義教は、還俗して将軍になった元お坊さんなのに、気性が荒く、足利幕府の成立初期から問題だった幕府自体の戦力不足ゆえ、有力守護の内紛や対立に付け込み戦力を削いできた。それ故、赤松氏のような次の有力守護がターゲットにされつつあった。義教が暗殺してきた手法を真似て、将軍を暗殺してしまった。嘉吉の乱に至る幕府内の暗闘、有力守護の動きなど詳しく書かれており面白かった。歴史学者らしく、創作ではなく歴史資料に基づいて書かれているので、「現実は小説より奇なり」で面白い。
赤松満祐が勝手に領国に帰ってしまったにもかかわらず、有力守護は足利義教の乱行に違和感を感じていたので、多くは満祐に同情的で、義教が除かれたことにホッとしている雰囲気があったようだ。幕府の追討にすぐ呼応せず、本気で赤松氏を討伐する気はなかったように感じる。そんな幕府の体たらくをみて、秩序を守るため天皇から赤松討伐の勅旨が出た。本気で討伐しようとし領国に戻って戦力を整えた播磨の隣国の守護・山名氏は、北から播磨国に侵入した。当初は赤松氏の善戦により思い通りにいかなかったが、天皇勅旨により多くの守護が赤松討伐に動き出し、「嘉吉の乱」は平定され、赤松氏守護の播磨・備前・美作3国が山名氏の領国になった。一部は、赤松本家を討伐する側に回った赤松庶流の領地になった。
これで嘉吉の乱は平定されたが、すぐには新たな守護「山名氏」の領国支配が進まなかった。長く赤松氏を守護に頂いていた領民にとって、赤松氏は地元の雄であり、山名氏とは親しみ方が大違いです。加えて、赤松浪人が各地で蜂起したり、赤松氏再興を期して潜伏したりした。山名氏筆頭に、赤松浪人を追討し続けていた。山名氏の領国運営も地元ではないので厳しく、播磨領民からも赤松氏再興を願っていたようだ。
そんな時代の流れの中に赤松庶流から本家当主になった赤松政則が登場した。赤松浪人に担がれ、旧赤松氏領国3ヶ国を加え、最大の守護に成り上がった山名氏への警戒感から反山名氏に動き出した細川氏などの後ろ盾を得て、南北朝時代を終わりにする決定打「南朝からの三種の神器奪還」作戦を成功させ、赤松氏が復活し、山名氏の退潮も加わり、旧領国守護に復活した。そこまでの歴史的流れを赤松氏のみではなく、幅広く嘉吉の乱前後の多数の守護の動き、その庶流の動きを知ることが出来た。秀作でした。


2023/1 「最高のコーチは教えない」 吉井理人 ディスカバー携書 ★★
『千葉ロッテマリーンズ・ピッチングコーディネーター。28年ぶりの偉業・完全試合を達成・佐々木朗希選手のコーチによる超一流コーチング。観察する・質問する・視点を変える、ビジネスにも教育にもすぐに使える!
第1章/なぜ、コーチが「教えて」はいけないのか。第2章/コーチングの基本理論。第3章/コーチングを実践する。第4章/最高の結果を出すコーチの9つのルール。コラム/吉井理人が影響を受けた指導者:尾藤公監督・仰木彬監督・野村克也監督・ボビー・バレンタイン監督』
プロフィール『よしいまさと。千葉ロッテマリーンズ・ピッチングコーディネーター。筑波大学大学院人間総合科学研究所体育学博士前期課程終了。1965年生まれ。和歌山県立箕島高等学校卒業。84年、近鉄バファローズに入団し、翌85年に1軍投手デビュー。88年には最優秀救援投手のタイトルを獲得。95年、ヤクルトスワローズに移籍、先発陣の一角として活躍し、チームの日本一に貢献。97年オフにFA権を行使して、メジャーリーグのニューヨーク・メッツに移籍。98年、日本人メジャーリーガーとして史上2人目の完投勝利を達成。99年には、日本人初のポストシーズン開幕投手を担った。2000年はコロラド・ロッキーズ、01年からモントリオール・エクスポズに在籍。03年、オリックス・ブルーウェーブに移籍し、日本球界に復帰。07年、現役引退。08〜12年、北海道日本ハムファイターズの投手コーチに就き、09年と12年にリーグ優勝を果たす。15年、福岡ソフトバンクホークスの投手コーチに就任して日本一に、16年は北海道日本ハムファイターズの投手コーチとして日本一に輝く。19年より千葉ロッテマリーンズ投手コーチを務め、22年より現職。また、14年4月に筑波大学大学院人間総合研究科体育学専攻に入学。16年3月、博士前期課程を終了し、博士(体育学)の学位を取得。現在も研究活動を続ける』
現役引退時、コーチの打診があったが、まだ現役で出来ると考えた吉井さんは反発したが、大リーグ挑戦などの代理人だった団野村さんから、「必要と声が掛かっているぐらいの時が潮時で、それを逃して野球でのセカンドキャリアの道を閉ざしてしまった選手を大勢見てきた」と諭され引退した。それまでの日本人コーチのイメージは、自分の経験談を延々話し持論を押し付けるもので、大リーグに挑戦した時のコーチと大きく違っていた。大リーグのコーチは何も言ってこない。そんな中、1人のコーチが寄ってきて、「何か必要なものはないか?」と聞いてきた。「何故、ピッチングについてアドバイスして来ないのか?」と問うと、『おまえ以上におまえのことを知っているのは、このチームにはいない。だから、おまえのピッチングについて、俺に教えてくれ。そのうえで、どうしていくのがベストの選択かは、話し合いながら決めていこう』と答えた。
プロ野球に入って3年目、1軍で初勝利した日、興奮冷めず寮の食堂で食事している時、2軍監督が入ってきて「今日は全然ダメだ」。それから一方的なダメだしが続き、初めは「2軍監督だし・・・」と聞き流していたが、10分経っても20分経っても終わらず、ついに「なんじゃ、おりゃ〜」。それを聞いた2軍監督は「なんじゃ、その態度は」と殴り始めた。3発ぐらい殴られ、平手だったのが握りこぶしになり10発ぐらい殴られた。「なにするんじゃ、こりゃ〜」と反発した時、周囲が止めたそうです。こういう指導者に自分はなりたくないと、「選手を見る」ことにした。
最初に見本にしたのが箕島高校の尾藤公監督で、スマイル尾藤として全国に知られた監督だったが、練習は厳しく、ピッチャーも野手同様の基本練習はしなければならなかったが、ピッチングについては「ピッチャーに関しては俺はわからん。おまえら勝手にやれ」の方針で、ピッチャーの練習メニューは先輩たちが考え、投球数も管理していた。野手については「とにかく打て」という指導方針で、バッティングを細かく指導することはなかった。練習量さえこなせば、投げる・打つという感覚的な部分は自分で考えるしかなかった。そのおかげで、高校時代から自分で考えるのが当たり前だという感覚をもっていた。初めてコーチをした時、指示を出さないと何も出来ない選手が多いことに気づいたそうです。このコーチングスタイルは、僕のそれと同じです。加えて選手同士・部員同士の自由なコミュニケーションを活発にさせるべく、「叱らない」「怒らない」「笑顔で話す」「マイナス言葉を使わずプラス言葉を使う」を心がけ、クラブを明るい雰囲気にすべく笑顔での声掛けを心がけています。
コーチになってすぐの時、野村監督に「選手を叱る時はどんなケースですか?叱り方がわかりません」と質問したら、いつものようにボソッと「そんなん簡単や。手を抜いた時や。選手のミスを叱っちゃいかん。本気を出さん時、手を抜いた時だけや」と言われたそうです。
メジャーリーグでは、4番バッターがバントしたりしない。4番がバントしたら、4番の役割を放棄したと見做される。4番バッターは長打を期待され、バントは期待されていない。例外は、シーズン終盤の「負けたら終わり」の時期だけ。これは、日本の野球は負けたら終わるトーナメントが多く、アメリカはリーグ戦中心だからかもしれない。自分を犠牲にしてまで1点を取りに行く考えがアメリカ人にはない。必要以上に勝利を優先させる考え方がアメリカにはない。「個々人が自分の才能を発揮した時、チームは強くなる」。
気をつけねばならないことは、選手の話を聞きながらコーチが気づかないうちに「答え」を言ってしまう点。選手の気づきを引き出すため、問いかける。選手に自分の言葉で語らせることを、意識的にならなければならない。
近鉄とオリックスが合併して誕生したオリックス・バファローズの最初の年、仰木彬が監督だった。ピッチャー陣が打ち込まれ勝ちゲームを落としてばかりだった。そんな時、仰木監督がピッチャー陣に招集をかけた。怒鳴られると覚悟していた。ミーティングルームに入ってきた仰木監督は、ピッチャー陣を前にして「うん、こういう時もある。チャレンジやぞ、へこたれるな」、これだけ言うとサッと出ていった。
ファイターズ時代、優勝の目が出てきた時、「お前らのおかげで、俺もコーチとして楽しい日々を過ごさせてもらっている。最後まで頑張って、最高の気分を味わおうぜ」。普段、恥ずかしくて絶対に言わないような言葉をあえて言った。チー態が良くなかったので、このままだと優勝できない。選手たちのためにもならない。だから自分を奮い立たせ、歯の浮くような言葉で語りかけた。
2010年に、インド人と日本人のハーフで、ダルビッシュ2世と期待されたダース・ロマーシュ選手がいた。150kmを超える球を投げ、手足の長さがダルビッシュ以上。日本人の感覚で、重心を落とすよう指導したが、本人は首を傾げ、「何かおかしい」と言う。その後大学院で学んで分かったのだが、日本人と体型が違うので合わなかったようです。気持ち良く投げられなかったのです。とにかくコーチはコミュニケーションが大事です。
サッカーコーチは、コーチ育成のシステムが整っており、必要な資格を取らなければコーチングが出来ない。対して野球にはそれがない。コーチの勉強をしていないコーチが多い。サッカーのコーチは、自分が教えたことを選手ができなければコーチの責任になるが、野球では選手の責任になる。その考え方の違いに愕然とし、野球界の非常識は歴然としている。コーチは人を導く仕事だから、人に考えさせ、出来るようにさせるのが使命。
近鉄時代、お世話になったのが権藤コーチ。先発からストッパーに抜擢したのも権藤コーチ。でも、ピッチングフォームに関しアドバイスを受けたことがない。のけぞる癖があったのにダメだししなかった。ただ、「おまえな、新幹線で椅子のリクライニングを倒したら楽だけど、ピッチングではリクライニングを倒したら駄目だぞ」とだけ言われた。イメージですぐに分かり、コーチになってからアドバイスで使わせてもらっている。「おまえたちはプロだ。能力がありやれば出来る。どうせやるなら、格好良くやろう」と良く言っていた。
権藤さんがアメリカでコーチ修業している時、マイナーリーグで右打ちが出来ない選手がいた。いくらやっても出来ない。アメリカ人コーチに「右打ちを練習して覚えろ。出来るようになったら俺の所に来い」と言われ、毎日ゲージに入って打たされていた。見かねた権藤さんはついコツを教えてしまった。そしたらコーチに「おまえは、あの選手の成長を止めてしまった。あそこで工夫して自分で覚えないと、打てるようになっても意味がない」と言われた。この言葉で権藤コーチは気づき、選手の主体性を大事にするようになった。
コーチング方法は様々で、パーソナリティーがあって当たり前。これだという正解はないし、時代背景も変化するし、人の資質も時代とともに変わっていく。コーチを続ける限り、柔軟でいたいと思う。選手に気持ち良くプレーしてもらい、選手自身が思考・試行・判断・決定出来る能力を育てるのがコーチの大きな目的なのははっきりしている。ベースにあるのは「選手のために」。究極のコーチ像は、コーチングの結果、選手が何でも1人で出来るようになり、傍目から見るとサボっているようにしか見えないコーチだ。
コーチだけはしたくないと思っていた吉井さんが、既にコーチとして9回目のシーズンを終える。いろいろな経験を積み、選手時代にコーチングしてくれたコーチの伝えたかったことがわかるようになった。引退後に役立った知識もあった。メジャー時代にグレッグ・マダックスから言われた『大事なゲームほどパーフェクトを目指すのではなく、グッドくらいでちょうどいい』がある。これは、選手に結果や成長を求めるコーチにも当てはまるのではないか。チームも今シーズンはマジック3までいきながら優勝を逃した。チーム的にもパーフェクトでなかったが、グッドシーズンだった。これからもグッドぐらいの気持ちでいけば、選手が持てる力を発揮し、チームは強くなっていく。コーチ20年目、改めてそう思う。この言葉で締められていた。大学ヨット部のコーチングを20年やってる僕の思想に「そうだよ!」とプラスの言葉をもらうことの出来た書でした。



「何があっても大丈夫」 櫻井よしこ ★
女性ニュースキャスター第一号の方ではないだろうか?好きでよく見ていました。はぎれよく、ご自身の意見も少し入れながらのニュース報道には、好感が持てました。今でこそ、ニュース番組アンカーウーマンが数人おられますが、最初はいろんなところで苦労なさったのだろうと思う。
この本は、櫻井さんの自叙伝です。ベトナムで生まれ、父親の海外での商売、敗戦によ全てを失っての引き上げ。父親は、仕事で東京に出て行き、やがてハワイでレストラン経営。ご自身のことも含めて、かなり波乱万丈の生活をしてこられたが、それが故に個としての強さを身につけられた。
キャスター当時、そして今に続く、櫻井さんの強さを育てた土壌がわかりました。回り道することこそ人生が面白く、得るものが多いということがわかります。苦しい生活をどう感じるかで人生が全く違うものになることを知りました。その時の支えは、お金でも地位でもなく、「何があっても大丈夫」という櫻井さんの母親のいつも発しつづけている言葉にあるのだなあと思いました。
本当に言葉というものは、強い力を持っています。

「人生は最高の宝物」 マーク・フィッシャー ★

「こころのチキンスープ」 ジャック・キャンフィールド ダイヤモンド社 ★★★
このシリーズで多数の本が出ています。このシリーズは、講演家の著者が、全米各地で出会った市井の人のこころ温まるノンフィクションを集めたものです。人は誰でも1つは、そのような体験を持っているものです。あなたにもそして私にも。だからいくらでも本のネタは尽きないと思いますが、1人の貴重な温かい出来事を披露することで、多くの方の心に火を灯し、そして次の体験が出てくるし、そのように人に接するようになります。
随分前に、小さな少年が始めた親切運動が大きなうねりになった映画がありましたが、あれに似ているとも言えます。はっきり言って泣きます。感じる場所は様々でしょうが、誰でも心打つ物語にこの本で出会うでしょう。決して電車で読まないで下さい。私は涙の処理で難儀してしまいました。静かな所で1人でじっくり、感動を噛みしめてください。

「それでもなお人を愛しなさい」 ケント・M・キース 早川書房 ★★★
逆説の十箇条で有名ですが、その内容については、私の好きな言葉のページに載せています。ドロシー・ロー・ノルトさんの言葉は、親が子育てをする指針になりますが、この十箇条は、人との関係の指針でしょうか。
著者は、夏休みのキャンプリーダーをします。その時作って話したことが、キャンプに参加した子達に感動を与えますが、キャンプの目的とは少し違ったようで、惜しまれながらキャンプを去ることになってしまいます。時は経ち、友人からいい言葉があるよ。君にはきっとうまく理解できるはずだと、紹介されたのが、なんとあの時の自分の言葉でした。劇的な過去との出会いを機に、本になったのがこの本です。
ドロシーさんの「子は親の鏡」と同じような運命をたどった、「人生の意味を見つけるための逆説の十箇条」。生き方、人との接し方の根源に迫る本です。

「天才たちの共通項」 小林正観 宝来社 ★★★
この本は、下のドロシーローノルトさんの言葉に出会ってから読んだ本です。この順番が逆になると、また違った印象になったと思いますが、こういう順番であったことは、私にとって幸運でした。
小林正観さんは、本職は旅行作家なのかもしれませんが、素敵な言葉、素敵な人当たりをなさる方です。生き方・人との接し方についての小規模の講演会をよくしておられ、この本の読後、200人ほどの講演会に参加したことがあります。どても感動する内容でした。
私は、長男に生まれ、親からの期待を一身に受けて育てられましたが、関東出身の親の言葉がきついからでしょうか、いつも反発ばかりしていました。「もっと早く一人前になるように」「もっと立派な独り立ちするひとになるように」と、きつい場面に放り込まれました。甘えん坊の私には荷が重く、できない私を叱る親が嫌で嫌で仕方ありませんでした。
保育園で、蛇事件がありました。西宮の保育園に4歳から電車とバスを乗り継いで1人で通いました。保育園の方針で、最終バス停で親子が離れなければなりません。園に向かって歩き出したら、大きな蛇が階段にいて、怖くて泣いてしまいました。母親は、「行きなさい、怖くないから・・・」と下から見ているばかりで、どうしても蛇を避けていけません。そんな時、その様子を階段の上から見ていた女の子が下りてきて、私の手を引っ張ってくれました。それでやっと園に行くことが出来ました。
その事はもう忘れているのかもしれませんが、今でも彼女とは保育園の同窓会で交流があります。私の初恋ですが、素敵な女性になられ、お金持ちの家に嫁ぎ、3人のお子さんを立派に育てられ、ご自身も代表取締役として会社を経営しています。次男と同じ中高の1年下にお子さんが通われ、不思議な縁を感じます。
大学生の時に家内と出会い、「大丈夫よ、何とかなるからさ」という大きな言葉と、いつもニコニコしているところに惹かれ、1ヵ月後には彼女の家にお邪魔しました。彼女の母親は、うちの母親同様学のある方でしたが、一度も親に叱られたことがないと家内が言うほど、怒らなくて温和な方でした。こんな家庭に育った家内なら間違いないと思い、すぐに一生一緒に暮らしていくことにしました。
うちの子達は、家内に叱られたことはないでしょう。私も経験から、叱っても反発されるだけで何も得るものがないと知っていましたので、ほとんど叱ったことがありません。こんな育て方でいいのかと迷いましたが、叱られる辛さを思うと、どうしても子供を叱れませんでした。
「本当にこれでいいのか?」の答え捜しでこの手の本は、どれだけ読んだか分かりません。とうとう、世界中の方に支持されているドロシーさんの言葉に出会い、そして小林正観さんに出会いました。この本は、私の中では、ドロシーさんの言葉の実践編ともいえる位置付けです。叱るのではなくて、子供を信じる温かい言葉で育てられた内外の偉人について書いてあります。いろんな文献を調べたのでしょうが、エジソンから手塚治虫までの、幼年期・少年期の親、特に母親との関係を詳しく書かれています。

「子供が育つ魔法の言葉」 ドロシー・ロー・ノルト PHP文庫 ★★★
あまりに有名なこの言葉「子は親の鏡」、というかこの詩は、2005年皇太子妃さんの病気回復の記者会見で、披露された。皇太子妃さんの、「公務出来ない病」は、外交官の父を持ち、自身も外務省勤務していた延長で、より大きな意義のある仕事が出来ると思っていたが、皇室の仕来たりにスポイルされた結果なってしまったと私は考えている。
皇太子さんが、記者会見で異例とも言える詩の朗読をなさった背景には、この詩にどれだけ皇太子妃が助けられ、勇気をもらったかを伝えたかったのでしょう。多くの制限のある中で、精一杯の反発に見え、皇太子妃を守ろうとしていると感じました。
このドロシーさんの言葉は、随分前に発表されたものですが、子育ての真実、子育ての指標が書かれており、私の子供と接する時のバイブルになっています。この言葉は、ドロシーさんの手から離れ、アメリカ初め、ヨーロッパ、そしてアジアにも広がり、本人の知らない間に一人歩きしました。一人歩きしている自分の言葉に出会って、著書としてきちんとしたものになりました。
皇太子さんや皇太子妃さんは、北欧の国の教科書に載っていたこの詩を、披露なさいました。たとえ1次限でもこの詩に出会う機会を小学生の時に持てる子達は幸せだなあと思いました。それだけ値打ちのあるものです。
その内容のエッセンス部分は、好きな言葉のページに載せています。

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