Books 2013
Books 兵庫県セーリング連盟ジュニア

2013/12 「岡山の民話 日本の民話36」 編者:稲田浩二 未来社 ★
僕の先祖・「三穂太郎」の民話を探して見つけました。「三穂太郎」以外、岡山県の民話を、各地方ごとにまとめ、語り手・収集者の名前を明確に60編ほど載っています。資料としての価値も、これからどんどん出てきそうです。

「三穂太郎」
 むかしむかし、吉備の国にとんでもない大男がおりました。あまり大きいので、誰も、頭から足までをそっくり一目で見ることはかなわないのでした。
 霧の中を突き抜けた頭は、那肢山のとんつじ(いただき)よりもっと高く、日本海から吹き寄せた雲の上にのっかっていました。
 またをぴろげて立つと、左の足は柵原町、右の足は勝央町、キンタマのあとが蒔田に残ってしまいました。
 あちらこちらで、見るところによっていろんな名で呼ばれたのも、たぶんそんな大男だったからにちがいありません。奈義では三穂太郎、蒜山原や鏡野では大人(おおしと)さま、備中ではデーデー坊、備前では目崎太郎といったふうに・・・。
 太郎のふるさとは那岐山麓の横仙でした。
 生まれる少し前、吉備の山並と因幡の山並とが、ガッとかちあい、せりあがって、ここに那岐山は、山陽、山陰両道ににらみをきかせ、りょうりょうとそぴえたったのでした。
 ふもとでは、日が落ちると、狼、猪、兎どもがうじゃうじゃし、ごうごうとおがりまわっておりました。那岐の主は、日のさす間は人、星の輝く間はくちなわ(へび)と、きっちり分かれおりました。
 ある年の祭りの宵のことでした。どこからか、すきとあるような美しい娘がふいと、横仙の菩提寺に現われました。ふとそれを、かいま見た領主の有馬は、すっかりその美しさのとりこになってしまいました。娘はやがて妻となり、めでたく男の子を生みました。
 ところが、それからしぱらく後のことでした。その若く美しい妻は、夫の目の前で、那岐山の中腹の滝壷の淵に、身をおどらせてとびこんでしまったのです。やがて、夕暮れの静まりかえった水の上に、青光る大蛇がすうっと姿を現わしたかと思うと、なごりおしげに淵にかき消えてしまいました。
 大蛇にもどった美しい妻は、その後二度と姿を見せることはありませんでした。淵はその後、蛇淵と呼ばれるようになりました。
 その妻が残した男の子こそ、後の三徳太郎なのでした。
 さて、太郎は恐ろしい早さで、まるで若竹のように、ぐいぐい大きくなりました。
 ある日、都へ遊びに行こうとして、ほんの三歩あゆんだら、そこはもう都でした。あまり変がないので、それからはもう、他国へ行くこともなく、ずっと、日本一空の高い吉備の国に住みつくことにしました。
 そのころ、美作の山々は、まだどの山名さっぱりおちつきがなく、ほんの少しの雨風にも、すぐどろどろと動きまわるしまつでした。
 「おーい! 待て待て。」
 太郎は、逃げる山をもっこに拾いあげて、今日はあっちからこっちへ、明日はこっちからあっちへ、のっしのっしと運びまわって、見事な、美作の山や谷を作っていきました。
 ただ太郎は、ちょっぴりあわて者なのでした。
 ある日はーせっかくもっこにのっけて、やっさもっさと運んでいたのはよいが、日が暮れかかったものだからつい一足とびに、山を三つもとびこしてしまいました。そのとたん、もっこの緒が切れ、山はもんどり落ちて、思わぬことに二子山が生まれました。
 またのある日−さすがの太郎も少々しんどくなりました。
 「どっこいしょ。」
 太郎は桝形山に腰をおろし、もっこをほうりだしてしまいました。そのはずみに、一方の山の腰がくだけて女山となり、もう一方が男山となりました。さて、
 「やあれやれ」
と足を思いきりのばして、太あくびをしました。ふんばったたびのあとが、沢田の足形堤で、いつか雪どけ水をたたえて、美しい池が生まれました。
 またの日、太郎は吉井川ぞいに道を急いでいて、ふとつま先が岸に張り出した山にひっかかりました。太郎がちょっと足をふると、山はずるずると川に落ち込み、そのまま川中山王の山になってしまいました。
 またある日は、鏡野でお茶をひいておりました。ひいた粉がみるみる山となって、茶臼山と名づけられました。
 太郎はとりわけ那岐山が好きでした。とんつじに腰かけて、日本海を見、瀬戸内海を見、むすぴを食うのは、すばらしいと何ともいいようのないことでした。
 ある日、いつものようにむすびにパクついていたら、むやっ! 小石が太郎の歯を噛んでしまいました。怒った太郎がその小石を吹き飛ばすと、那岐の中腹にガツンとはまりこみました。
 それからは狼が「昼寝にもってこいだ」と、毎日、きまってその上に横になりました。それでひときり寝たると、きっと立ちあがってほえたものです。人びとぱその岩を浪岩と呼びならわすようになりました。
 後に太郎のからだは、那岐山のふもと一帯に黒々とひろがる黒ぼのの土となった、と言い伝わっています。

 はなし:勝田部奈義町 安藤義郎・高村継夫
 採集:稲田浩二

2013/12 「日本の民話12・中国地方2」 民話の研究会編 世界文化社
「ももたろう」他5篇の民話が絵本形式で書かれています。幼児への読み聞かせに良い本です。

2013/12 「街道をゆく32 阿波紀行・紀ノ川流域」 司馬遼太郎 朝日文庫 ★
阿波堂浦の漁師が、江戸初期、魚釣のテグスを開発した。・・・漁師某が大坂見物に出かけた時、薬問屋の街である道修町で、奇妙なものを見た。中国から輸入する草根木皮が半透明の糸で絡げられている。半透明なので水中でも糸とは見えないはずで、これで一本釣りすれば大いに魚が釣れると思った。・・・目的を話すと、糸だけを輸入してもいいので、瀬戸内海沿岸の浦々を巡って実地に見せ、需要を高めてもらえまいかと要請される。
勝瑞城址・・・細川氏の墓はないが、三好氏の墓があり、三好氏盛時の菩提寺・見性寺という寺がある。・・・「藍畑」という集落があり、蜂須賀家が奨励した藍栽培・藍蔵の洒落た長屋門・国指定重文・田中家住宅がある。
・・・相変わらずの興味深い歴史紀行がふんだんに書かれており、阿波・淡路島・紀州巡りのネタが大いに仕込めました。

2013/12 「日本人は何故、中国人・韓国人とこれほどまで違うのか」 黄文雄 徳間書店 ★
太平洋戦争から70年近く経とうとしているのに、国同士の外交で決着済みの戦後補償をごちゃごちゃ新たに言い出す韓国や中国の姿勢が、どうも腑に落ちません。北朝鮮の戦後補償分もまとめて韓国に支払い済みで、両国間で取り交わした書類もあるのに、当事者である韓国政府トップが証拠が何処にもない従軍慰安婦問題を出してきて日本に請求するなんていうおかしなことになっています。中国や韓国の復興に多大な日本人の税金を使って援助したのを、まるでなかったかのように恩を感じない姿勢が、大人とは思えない駄々っ子の屁理屈に見えて仕方ありません。
同じく被害を被ったであろう台湾筆頭に東南アジアの国々との反応とは大きく違います。僕も日本人として原爆を落とされたことには被害感情がありますが、もう過ぎ去ったことで、戦後復興を助けてくれたアメリカの恩も感じます。あの援助がなければ戦後の急速は復興もなかったと思います。そういうことをないこととして、受けた被害のみ声高にその子孫に対して叫ぶことから、何も前向きなことは生まれないように思います。
いくら受けた教育が違うと言えど、大人になり自分で調べればわかることです。何か別の感情があるのではないかと、本書を手に取りました。著者は、台湾生まれ・台湾国籍で日本の大学を卒業し評論家を生業になさっておられる外部の方です。内容は、日韓併合・太平洋戦争という直近のことだけにとどまらず、有史以来のアジア全体・世界の動きの中で3ヶ国を紐解いておられ、中国・韓国(朝鮮)の日本に対する感情がとてもよくわかりました。
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隋・唐の時代から明の中期に至るまで、つまり16世紀までは「蔑日の時代」で日本は東夷と見なされていた。明の時代最大の外患は「何倭北慮」と言われ、南の倭寇と北の満蒙人が最大の脅威となっていた。
倭寇は日本人・朝鮮人・支那人も一緒になって輸出入の経済活動をしていたが、明の禁輸によって経済的打撃を受け海賊行為に転身した。明が滅んだのは豊臣秀吉の明征服のため朝鮮出兵に対抗する多大な戦費が重くのしかかったためで、その後満蒙連合の清に征服される。
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日本人には理解できない韓国人の感情に「恨(はん)」がある。いつまでも恨みに執着することで、日朝併合で言葉・歴史を奪われた、従軍慰安婦像を立てるなどだが逆恨みである。実際は日朝併合で町は整備され清潔になり、飢餓状態だった朝鮮半島を救い多くの社会資本投資で農業生産が上がり人口が倍増している。
学校整備で文盲率が急激に改善され、ハングルも普及した。日本人に併合された屈辱から、様々な日本人の罪をでっち上げている。中国人も「南京大虐殺」という歴史捏造をしているが、こちらは政治的な理由で、放っておけばバラバラになってしまう国民の心を1つにまとめる手段に使っている。
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韓国の史実としては、たいてい外の民が半島に入ってくると、北方の有力者はすぐに土地を献上し率先して手先になって南を叩き潰すのが常である。豊臣秀吉の朝鮮出兵の時も逃げた王子を捕まえ日本軍に献上している。(北方が攻め下ると日本に救援要請し、日本が攻め入ると中国に救援要請している)
太平洋戦後の朝鮮戦争の時は、中国の救援を受けた北朝鮮軍の南下に、韓国軍は逃げ出し米軍が押し返した。ベトナム戦争では米軍の先頭に立って、ベトコンを叩きまくった。その時のベトナム女性との混血児問題が浮上するが、見て見ぬふりで何も補償していない。
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中国・朝鮮の政権交代は、「易姓革命」がほとんどで、現在も韓国大統領が前大統領の不正を叫び、投獄してしまうのと同じです。前政権関係者の大量が当たり前の革命的交代になる。それに対し日本は、「万世一系」の天皇がおり臣下も世襲で、中国のように何十万・何百万の犠牲者を出して交代するのとは大きく違う。
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中国的思想はどこまでも一元的で、相対的な価値を絶対に認めない。このような差異は日中にとどまらない。島国のイギリスは多元的価値に比較的寛容だが、陸のフランスは一元的な価値を理想とする。植民地経営についても、フランスは同化主義的な政策をとった。
中国も同様で、同化主義の歴史は非常に古い。現在もチベット・ウイグルで続けている。
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上古のアジア文化の精神的基層はシャーマニズムである。中国南西部・朝鮮半島・日本には今でも巫女がおり、台湾にもシャーマンがいる。人と人の関係を解く「儒教」と自然と人の関係を解く「道教」が中国文化圏に広がったが、自然を食いつぶす文化の中国・朝鮮は、森の消失により洪水と日照りによる飢饉にさらされ、限られた資源の取り合いの戦争が拡大再生産した。これにより、儒教優位になり道教は廃れた。中国は30%とも50%とも、砂漠化していると言われている。
一方、森と水に恵まれた日本は、アニミズムの原始神道が育まれた。生への崇拝は想像・生成・成長の殖産興業につながるだけではない。人と人を結びつけ、日本人の寛容性を育てた。また結びの摂理に基づいて、神道が仏教などと習合する原理が生まれてきた。どの一神教にも戒律があり、仏教も道教も例外ではない。神道における戒律は「禊祓(みそぎ・はらい)」ぐらいだろう。豊かな森と清流は穢れを忌み嫌い、清浄を貴ぶ心を育てるとともに、日本文化を育む風土となっている。
清浄を愛する神々を迎えるには、心身を清めるのみでなく、社会環境も清らかでなくてはならない。世界一清潔な国民と国土を育てたのは、まさしくこの禊ぎ祓いの思想である。「水に流す」という発想を中国人も韓国人も理解できないのは、人間と自然との関係が全く異なるからだ。

2013/12 「一向一揆と石山合戦」 神田千里 吉川弘文館
戦国時代、戦う宗教集団として目立った親鸞が拓いた浄土真宗本願寺派・一向宗の「一向一揆」にスポットライトを当てて解説されている戦争の歴史です。力の時代を生き抜くために、時には室町将軍に協力し、時には守護大名と戦いついには守護を追い出し、加賀を「百姓の治めたる国」として自治しました。
信長包囲網の1つの核として石山本願寺に籠城し10年間も戦ったが、歴代法主はむしろ権力闘争から距離を取ろうとしていたということを知った。しかし宗教集団として戦国と距離を保っても、信徒は領国の戦国大名に徒歩兵として動員され雑兵として戦った。そんな複雑な関係から、一向一揆として旗揚げしたようだ。
鎌倉宗教の天台宗などの古刹が武装集団として僧兵を養っているのとは少し違い、あくまで一般農民が主力で、利害関係の一致した信徒・非信徒の地方豪族という武士層と手を結んでの一揆なので、守護を追い出すなどという戦果まで上げたようです。
この時代の仏教寺院に何故このような動員力があったのか疑問でしたが、その答えの一部が披露されていました。大名同士の大戦争だけでなく、隣接する豪族の小競り合いでも、田畑や家を焼かれる農民には心休まる時がありませんでした。集落の長が集落の意見を集約し、金子や戦時物資などの協力を申し出ることで、雑兵からの略奪を免除してもらう札を手に入れたりして生き残りを図っていたが、その拠り所としてより強大な宗教集団に属することもしていたそうだ。
地域や国のトップと太いパイプを持つ教団は、直接トップ同士で話をつけ、信徒の安全を確保できた。故に、強烈な信心があるわけでもないけれど信徒の確認を教団に求め、それで武士階級からの理不尽な要求から逃れており、反対にこの農民や町民の大きな頭数や動員力が、対武士階級へのパワーとなり無視できなくなっていた。最も頻繁に戦場になった京都商人階級が信心した法華宗にも、同じことが言える。日頃の教団から受けている恩恵に報いようとする心が、織田信長などの強力な軍隊に対しても怯むことなく戦った原動力となったようです。
戦国時代末期に一大勢力を誇った一向一揆の舞台裏を、かなりクリアに脳内整理できました。

2013/11 「知っておきたい放射能の基礎知識」 齋藤勝裕 ソフトバンク・クリエイティブ
2011年の地震&津波により、東京電力福島第一発電所の原発がメルトダウンを起こしました。日本の原子力発電所の安全神話が崩れました。地震列島である日本に、一度で半径数十キロの範囲が数十年立ち入ることさえ出来なくなる原発はあまりにリスクが多いと廃絶へ気持ちが傾いたが、原発の基礎知識があまりに不足なので、基礎の勉強をしたくて購入しました。
放射線量:ベクレル・吸収線量:グレイ・線量当量:シーベルトの関係。α波・β波・Γ波・中性子線・陽子の関係。トータル1000ミリシーベルト(1シーベルト)でリンパ球減少・10シーベルトで意識障害・50シーベルトで48時間以内に死亡、レントゲンやMRIなどの医療機器による被曝の影響。放射線を発する放射性物質が地球内部でまさに核分裂活動中で、ラドンなどからの放射線を温泉として利用してきた歴史。
次に、太陽など恒星のエネルギー源である核融合と核分裂の違いや仕組みなど、物質の原子核・中性子・陽子のやりとりから生まれる莫大なエネルギーの生成機序がわかりやすく書かれていた。高速中性子や鈍足中性子を放射性物質の原子核にぶつけることで核分裂・核融合が起こり、副産物として得られる夢のエネルギーの長所・短所の現実が、おぼろげながらわかったように思う。
原子番号周期表の低い1番水素(H)も多い92番ウラン(U)も不安定で、それらのある同位元素は安定した鉄(Fe)の方に、核融合したり核分裂したりして変化するというのも、何となく分かる。
そして、核爆弾の仕組み、原子力発電所の仕組みや種類が書かれ、今までの原発事故の原因と結果、最後に福島原発事故の原因と経過が書かれていました。
平易な言葉とわかりやすい図で、2ページ毎で1センテンス終了という素人に読みやすい形式で解説されており、基礎の基礎の勉強としてとてもわかりやすい1冊でした。

2013/11 「街道をゆく24 近江散歩・奈良散歩」 司馬遼太郎 朝日新聞出版 ★★
読んで行きたくなった場所がまた出来ました。関ヶ原近くの美濃・近江国境・「寝物語」・・・こんな素敵な地名があったのか・・・小さな小さな小川を挟んで隣り合うように家が建ち、隣国の寝物語が聞こえたところから来た地名らしい。近江側20軒が銀本位制で、美濃側5軒が金本位制だったとか。ぐふふ・・・現在は碑が立ってるらしい。江戸時代、柏原宿で栄え、艾といえば伊吹艾と全国区になった「亀屋七兵衛商店」。
去年、「SL北びわこ号」とバイクで並走した時の帰りに偶然見つけた「国友銃砲店」のことも書いてあった。国友村で銃製造が始まったのが、種子島に鉄砲が伝来した翌年というのに驚いた。その年に、堺・紀州雑賀・近江國友で国産銃製造がほぼ同時に始まったそうです。ほぼ同時に伝わった中国では長い歴史のある鋳型に流し込んで作る鋳鉄製であったために一発撃てば破裂し、ポルトガル製のも数発撃てば破裂の危険があったそうですが、鉄を鍛えて作る日本製の錬鉄銃はその心配がなかったそうです。現代の商社が存在したようで、新しもの好きの織田信長への売り込みに成功し大量注文を受注したことで、一気に銃製造商売が軌道に乗り、国友村の大半が銃製造の家になったとか。後に近江八幡などの安価な銃も出回ったそうですが、品質に勝る国友銃の牙城は崩せず、信長・秀吉・家康という天下人の顧客が離れなかったそうです。銃の多寡以上に品質に戦闘の勝敗が左右されたとか。
「奈良の道」では、日本最初の官寺・東大寺のことが詳しく書かれていました。鬼瓦が桃になっているそうです。イザナギが黄泉の国でイザナミのウジの集る姿を見てしまい、追いかけてきたイザナミの手下の悪霊を、桃の実を投げつけて退散させることが記紀に書かれていますが、あれは中国で桃が魔除けとされていたことにつながっているらしい。それで東大寺の鬼瓦にも桃だそうです。仙人が不老長寿の桃を食べて長生きするということなので、地方寺院の屋根に載ってる桃は、その意味だと思っていました。魔除けの意味もあるのですね。
長く大和の守護として君臨した藤原氏の祈祷寺・「興福寺」の僧が、明治維新の廃仏喜捨令で先を争って春日大社宮司への転身に走り、一気に寂れたのに反し、「東大寺」は泰然と奈良時代に聖武天皇が寺を開いた当時から続く「修二会(お水取り)」を、頑なに当時の作法を守って続けたそうです。
奈良のお寺といえば、「現代は東大寺が筆頭格ですが、武家の世になっても他国と違い守護職であった興福寺でしょう」と思っていましたが、ちょっと東大寺を見直しました。筒井氏など大和の戦国武将の多くが興福寺の僧兵上がりと思っていましたが、僧の他に寺の仕事を支える俗の者の生業もいろいろ書かれており、これにも興味が動きました。
東大寺の修二会の所で「堀池家」の方が登場しました。修二会を始めた東大寺建立に関わった「実忠和尚」子飼いの在俗者の子孫で、代々世襲してきた「修二会の会計・庶務係」を今もやっているそうです。このように長く、同じ職業を続けてきた家系は、「天皇家」と出雲大社・国造・「千家家」とこの「堀池家」ぐらいではないかとのことです。
東大寺は、大仏殿以外は修二会の時の「二月堂」、拝観日の「正倉院」ぐらいしか混むことがないように思うので、広い境内を巡ると個人的お宝が発見できるかもしれません。去年家内と訪問した「笠置寺」で「正月堂」の謂れを読んで知った実忠和尚が笠置寺で修二会をし、翌2月に「二月堂」で修二会を行ったということにもつながり、その時断念した「笠置寺・修行場巡り」をやってみたいという気持ちになりました。

2013/10 「断らない人は、なぜか仕事が、うまくいく」 田中和彦 徳間書店 ★
いろんな成功書が世の中に出ています。「目標を明確にする」「期限を切る」「到達度を表に現す」・・・この書もそういう成功書に分類されるだろうが、その極意は実に単純で、「人に頼まれたら、断らないこと」。当然ダブルブッキングや、法令違反の依頼はNGですが、「めんどくさい」「お金にならない」などでせっかくの依頼を断るのは、自分の成長や広がりを止めてしまう実に勿体無い行為だということです。
自分を振り返ると、忙しい時ほど乗ってて頼まれるままいろいろ引き受けてて、むしろ楽しかったことに思い当たりました。僕は学生ヨット部時代に、「艇庫前を通る人には、誰にでも挨拶する」を叩きこまれ、それを続けています。「自宅前を通る人全員に挨拶」「買い物に行ったらレジてありがとうを言う」「家族に朝のおはよう、寝る前のおやすみ」・・・挨拶の言葉は魔法の言葉だと感じています。
息子たちがちびの時、僕はこれを大きな声でするようにしました。GSで給油を終え運転席からお金を払いお釣りを受け取る時、お店でお買い物をする時、帰宅時の「ただいま」も・・・。その結果、GSでは先を争うように「ありがとう」大声合唱が始まり、お店では思いがけないプレゼントを貰ったりしていました。長じて息子たちはリーダーに押され、それが似合うようになり、いずれ会社の代表に押されるでしょう。社長職
これに加え、「断らない生き方」も励行していこうと思います。そう言えばそんな映画があったなと、ジム・キャリー主演「イエスマン・YESは人生のパスワード」を購入しました。1000円。

2013/10 「ラブレター」 岩井俊二 角川文庫 ★★★
「Love Letter」という中山美穂・豊川悦司主演映画のノベルズです。この映画は1995年の映画賞の多くを受賞し、特に韓国で大成功を収め、韓国人観光客の小樽ロケ地巡りのブームが起こったそうです。DVDと同時に購入しました。
山で亡くなった婚約者の三回忌後、元婚約者のお宅で中学時代のアルバムを見て、当時の住所(小樽)に「お元気ですか?私は元気です」と短い手紙を出します。届くはずのない手紙の返事が届いたことから、奇妙な文通が始まります。
元婚約者の親だけれど、もう何の縁もないお母さんと主人公の交流・・・、現在付き合っている元婚約者の友人と主人公の関係・・・、奇妙な偶然で小樽側差出人になった家族の雰囲気・・・、更にそれを取り巻く友人や親族・・・。僕の好きな悪者がいない物語で、怒声を張り上げるシーンなどなく、温かい空気に中で物語は進み、とてもいい気持ちで読み終えることが出来ました。215ページの単行本ですが、物語に引きこまれ2日間で読み終えてしまいました。
物語の終盤に、主人公が婚約者の亡くなった山に向かって、「お元気ですか?私は元気です」と叫ぶシーンが有り、映画でも感動的なシーンでした。主人公が婚約者への想いに一区切りつけるような・・・。そのシーンを見ながら、ゴツゴツの山頂が今春巡った信州から見えた八ヶ岳みたいだなあと調べたら、ビンゴでした。エンディングも素晴らしく、多くの普通の日本人が日常行っているような美しい周りを思いやった行動だなあと感じました。

2013/10 「街道をゆく1 湖西の道、甲州街道、長州路ほか」 司馬遼太郎 朝日新聞出版 ★★★
「街道をゆく」シリーズの第一巻です。「奥出雲の鉄の道」を読んで、先月末にその検証に現地探索をしました。この書の「湖西の道」で高島の安曇川(あどがわ)は「あづみがわ」の変名で、古代安曇族(あづみぞく)が住んだ名残りだとの説に、またワクワクしました。古代中国での日本関係の記述に「倭(日本)には、奴(那・娜)という国がある」というのがあるが、その奴の種族が安曇であることが間違いないらしい。元は北九州に住み、「古事記」に書かれている海人系種族の神が「宇佐」などの九州の大社に発展した。「あづみ」は、「厚海」「渥美」「安積」「熱海」など様々に変形して地名に残り、多くは海岸線で村を作ったそうです。
湖西の北に若狭湾があり、平安時代の満州の古代国家・「渤海」からこの道を経て京に使者が訪れていたようです。若狭湾周辺に「浦島太郎」や「天女」の伝説が多く残っているのは、異風の渤海人を目にした影響だろうとも。この渤海人の言語は、中国語・英語配列のSVOではなく、日本語と同じ配列だそうで、古代民族の共通性を感じるとのこと。
この書を離れるが、武田鉄矢氏の中国の古代王朝・殷(商)の末裔が日本に渡ってきた説の根拠が、殷の神が「鳥」で日本神道のシンボルが「鳥居」であることですが、日本人の遺伝子が朝鮮半島の人々とは違い、中央アジア・モンゴルや中国本土や南中国の人に近いことなども有力な根拠になっている。殷は軍事国家だったようで、殷の軍事技術を持ってくれば、古代日本民族を席巻するのはたやすいことで、記紀の神武東征にも符合する。ふふふ・・・
次の「竹内街道」の所で、外来の神武勢力に駆逐された大和盆地西側の葛城山裾野に住む竹内の部族は、明らかに祈る神が違うとのこと。具体的な葛城山麓の神社名が出されていたので次の探索の目標になりそうです。軍事的に歯が立たないので武内宿禰など政治や神事に部族の将来展望を開いたのだとか・・・
僕の日本史興味の琴線に触れる実に面白い書でした。

2013/9 「こんなに面白い 日本の神話」 鎌田東二監修 三笠書房 ★★★
「古事記」「日本書紀」を通しで読み終えて、今まで細切れでしか読んでいなかった記紀の流れが掴めました。そして改めて、その要所をかい摘んだ解説書を読んでみました。
この書は、今まで読んだ中で最も楽しく読めた解説書でした。記紀を読んだ直後だからかもしれませんが、記紀の相違点が綺麗に整理されており、巻末の「日本神話の聖地と神々」という項で「索引」としての機能が整理されており、とかくややこしく長い馴染みのない名前や似通った神々の名前が五十音順に並べられており、知識の整理と理解に役立ちました。日本神話や寺社訪問時に謂れ板などから得た知識を脳内引き出しに整理するのに役立ちそうで、手元に用意しておく永久保存版になりそうです。
記紀に書かれている日本の神々の自由奔放さや人間臭さに、親しみを感じます。国産みの神のイザナギ・イザナミは、最初に生んだ出来損ないの神にがっかりし流してしまうし、火の神を産んで陰部が火傷して死んでしまうイザナミも面白い。死んでしまったイザナミに会いに黄泉の世界にまで行ったのに、ウジがたかる姿に恐れをなし一心に逃げ帰る。自分の姿を見られてしまったイザナミはイザナギを殺そうと追いかける。このあれやこれやで、人に寿命が出来てしまう。
太陽神のアマテラスは、弟の暴れん坊・スサノオが自分の治める高天原を乗っ取りに来たと怪しんで完全武装で対峙し、姉との賭けに勝ったスサノオは畦を壊したり糞をしたり・・・、ついにアマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。困った神々は力自慢のアメノタジカラヲを配し、アメノウズメは裸になりストリップ踊りで神々が大喜びする声を聞いて顔を出したアマテラスを引っ張り出します。
スサノオは、亡くなった母親のイザナミが恋しくて大人になっても泣いてばかりが、乱暴狼藉のお尋ね者の厄介者を経て、ヤマタノオロチを素晴らしい知恵で退治し美女・クシナダヒメを娶る。
オオクニヌシが平定し治めていた天空の高天原と地下の死者の黄泉の国の間にある葦原中国(日本)に天孫降臨してきたアマテラスの孫・ニニギは、当たり前のように美女・コノハナサクヤヒメを娶りますが、一緒に押し付けられた醜い姉を離縁してしまう。これによりニニギの子孫の寿命は短くなってしまう。神の子孫なのに寿命が人並みの天皇の理由が語られていたり。
その他、人間と見まごう神々が生き生きと語られている。現代よりよっぽど理性より行動優先で、しかもエッチです。一番拍手するのは、オオクニヌシを手伝って国を平定するオホモノヌシが、美女の噂を聞き一目惚れしてしまった。朱塗りの矢に変身し上流から川を流れ、厠に入った美女の陰部を突いて娘を産んだ場面で、この娘が神武天皇の后となる。拍手喝采以外の何物でもないでしょう。
記紀の要所を簡単に解説しているこの書から興味を持ち、記紀を読むというのも面白いかもしれません。何れにしても、日本神話はユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖典・旧約聖書より断然面白いです。一部しか読んだことがありませんが、ギリシャ神話より面白い。

2013/9 「悲しみよこんにちは」 サガン・朝吹登水子訳 新潮文庫
何十年ぶりかで読みました。その時の本を探せなかったので、また買ってしまいました。我が家の積み上げ本の山の中にもう一冊あるはずです。なぜまた読む気になったかというと、「浅香唯さんのセシル」をまた聞き出したからです。この曲を最初聞いた時、その歌詞に感動しました。

『あなたの悲しみ代われるなら 私はこのままそばにいたい
かかとを揃えた二人の影 こんなに背の高さ違うの
映画で見たセシルのように 嘘は言いたくない
(※)人は大人になるたび弱くなるよね
  ふっと自信をなくして迷ってしまう
  だから友達以上の愛を探すの
  今夜私がそれになれればいいのに

頬杖つく手を変えるだけで あなたは何にも話さないね
幼稚ね自分を呼び捨てする いつもの私も大人しい
ふいに気付くあなたの涙 見ないふりをした
  恋は楽しいときより悲しいときに
  そっと始まったほうが長く続くね
  きっと誰でも一人は味方がいるの
  いつも私がそれになれればいいのに
(※)2度繰り返し』

繰り返される(※)の部分に、心を打たれました。最初読んだ時は20代だったのだろうか?結婚していたのだろうか?覚えていませんが、いつも変わらず応援してくれる人が側にいてくれたらいいなと思いました。そして、伴侶や子供に対して、どんな事があっても、世間からどう言われていようが、側で寄り添い応援してあげられる夫・父になろうと思いました。そう、港が早朝でも夜中でも、たとえ嵐の日でも門戸を開いて母港を目指して帰ってくる船を迎えるように。
僕は弱い者いじめがとても嫌いです。小学生の時、自分の実力など考慮せずいじめっ子に突っ込んで行っていました。いつも反対に泣かされていましたが、人望はあったと思います。それとマイナス言葉を口にするのが苦手です。きっと親父のあぐらの上に乗っかって聞いた戦争体験から学んだのだと思う。
この2つのテーマをベースに、僕の人生は刻まれて来たように思う。この歌詞に、それに通じる何かを感じます。最近また時々聞いて、僕のベースにある生き方を呼び起こすようにしています。
この歌詞に登場する「セシル」は、フランスの作家・フランソワーズ・サガンの作品「悲しみよこんにちは」の主人公の少女の名です。歌詞中の『映画で見たセシルのように 嘘は言いたくない』の「うそ」の記憶が消えかけて来たので、新たにするために再読しました。
とても素敵な父と2人でパリに暮らす少女・セシルは、父・娘・父の若い愛人の3人で夏のバカンスに海沿いの町に出かけた。そこに亡くなった母の古い友人がやってきた。彼女は聡明で、セシルが憧れる女性ではあった。そして父は彼女と結婚を決意し、愛人は出て行った。セシルはお似合いの夫婦だと冷静な心で感じながら、本能では反発していた。セシルが勉強にもっと力を入れる時期であること、ひと夏の思い出になりそうなここで知り合ったボーイフレンドとの関係、タバコやお酒・ジョークで笑い飛ばす父の友人達への軽蔑の目・・・、今まで父とセシルを育んできた世界の否定が我慢ならなかった。
軽く懲らしめようとBFと父の元愛人を巻き込み行動を開始する。そしてその結果は・・・。TVで数度見た映画の場面が脳裏に蘇ってきました。

2013/8 「かぶき大名」 海音寺潮五郎 文春文庫 ★★
歴史小説短篇集です。とかく次の時代の為政者の意思や都合に左右されやすい歴史ですが、それに埋まれそうになる別の見方や隠された真実という異説を並立披露させつつ書いていく歴史小説の一ジャンルの当時代第一人者・海音寺潮五郎の著です。これは史伝スタイルを取らず、一般の歴史小説としてのスタイルで書かれている。
表題の「かぶき大名」は、徳川家康の武闘派軍団筆頭に挙げられる水野惣兵衛の嫡男・勝成の生涯が書かれている。頑固一徹の親父と武勇豪傑快活の面では親父以上だが、その他の生活も同じく豪快で堪え性がない故、水野の家を飛び出し羽柴・佐々・加藤・黒田各家を転々とする。武勇なるが故公録で迎えられ、一旦戦闘となれば抜群の働きをするが、日頃のしくじりや我慢の限界を越えると飛び出すの繰り返しです。
戦国の時代より以前の武士は、基本一匹狼なので、こういう者が多かったと色んな本に書かれている。結局、こういう企画外れ者を常に気に掛け、帰参させるのが徳川家康で、その懐の大きさが戦国を統一させたのだと思う。隣国なるが故、散々悩ませられ侵攻された武田家が滅ぶと、織田信長の手前表立って手を出せなかった周辺大名とは別に、優秀な武田家臣団の多くに捨て普請を与え囲っていた家康は、信長が滅ぶとすぐに彼らを徳川家臣団に組み入れた。
水野勝成という人物小説を読みながら、裏で徳川家康の経営の妙味を読んでいるようだった。他に、「阿呆豪傑」曲淵勝左衛門、「戦国兄弟」岡田長門守重隆・義同、「酒と女と槍と」富田蔵人高定、「男一代の記」中馬大蔵の物語などが収録されている。全て武勇一番の豪快な性格の武士で、一流の大名が中間管理職や仲間からはみ出しやすい彼らを上手に家臣団に組み入れて、いざ戦闘という時に無類の働き場を与えているのが描かれている。

2013/7 「日本書紀」 福永武彦訳 ★★
「古事記」に続き、同じ訳者のを読んでみました。日本政府が編纂した日本正史です。「古事記」と重複する箇所が多く、イザナギ・イザナミの始まりの記述は「古事記」の方がより詳しく、より編纂時期に近い「天智天皇」時代の記述は「日本書紀」にしか見られない。ただ本物は大書で一部しか訳されていないので、詳しくは不明です。
古代史記述は、装飾も少なくよりダイレクトで性のタブーも少なく、現代より生き生きと本能の赴くままに自由に生きていた古代人の姿が想像されます。近畿地方近隣の出来事が多く記述され、我が在所から簡単に行ける現代の地名のルーツが書かれていたりして、地形や位置が脳内地図でも認知でき、興味深く読ませて頂きました。と同時に、地名を安易にその地に何の謂れもない新地名に変えてしまう愚を感じました。我が在所も「緑ヶ丘」というどこに地にもあるハイカラな流行り名に我が家が越してくる直前に変更されましたが、古くから続く旧地名「良蓮寺」であれば、想像される地の歴史が全く違います。
後書きである解説によると、奈良時代(710年〜)初期の712年編纂の「古事記」に遅れること8年で「日本書紀」は編纂された。以下6部の官撰史書を六国史というらしい。
1.日本記(日本書紀)・40巻・神代より持統天皇まで)〜697)
2.続日本紀・40巻・文武天皇〜桓武天皇(697〜791)
3.日本後記・40巻(うち10巻現存)・桓武天皇〜淳和天皇(792〜833)
4.続日本後記・20巻・仁明天皇一代(833〜850)
5.日本文徳天皇実録・10巻・文徳天皇一代(850〜858)
6.日本三代実録・50巻・・清和・陽成・光孝天皇三代の記録(858〜887)
これらにも興味を感じるが、読む機会があるかなあ・・・

2013/6 「街道をゆく18 越前の諸道」 司馬遼太郎 ★★
湖西線を走る列車の中から始まります。高島を通過する時、古事記か日本書紀で読んだ「継体天皇」誕生の下りが説明される。大和朝廷直系の血が絶えた時、越前にいた数代前の天皇の血を引く皇子を探し出し、大和朝廷を継がせる下りで、これから始まる越前の旅のプロローグとしました。
この記紀の物語は、一豪族だった大和朝廷が日本列島を統一する歴史ストーリーが書かれていると言われる。戦いの描写もありますが、八百万の神として各地の神を大和朝廷の先祖と結びつけて、和を持って統一国家を作ろうとしたように思えます。この越前から迎える継体天皇も、越前の富裕豪族を大和朝廷に取り込む歴史ストーリーなのではないかというのが、著者の推理です。
北陸が、越前・越中・越後三国に分かれる以前は、越の国として東北を蝦夷と呼んだように異民族国家と見ていた。そこの家屋が飛騨地方の建築様式の影響を受けているとした。「勝山」に入り、かつて白山信仰の中心であった「現白山神社(平泉寺)」を訪ね、氏の調べたかつての平泉寺の中世巨大宗教勢力の盛衰が語られる。続いて、道元の起こした曹洞宗「永平寺」のひたすら禅を組む修行思想・勃興が、三世義介により巨大伽藍・巨大僧兵組織に変質し、それと袂を分かった道元の一番弟子で共に中国で修行を積んだ寂円の開いた「宝慶寺」へと訪問先が進んでいく。ヨーロッパ同様、巨大宗教が政治から庶民生活まで席巻した中世日本の姿が語られる。
「一乗谷」の朝倉要塞の遺跡を巡りながら、斯波氏越前守護代から戦国大名にのし上がった朝倉市の歴史と、雪国故の悲運・悲哀に続きます。
更に行程は、「鯖江」から、越前府中のあった「武生」の町に南下し、輸出産物であった「越前紙」、蕎麦屋の屋号からこれまた重要産業だった「うるし」に話が進む。
日野川という名から連想される火が出雲同様富の象徴である鉄生産に繋がる。「三国湊」を通しての千石船を介した江戸時代の隆盛が、明治時代に入り鉄道輸送時代に入ると一気に衰退していった下りに。
そして最後は、府中・「武生」と越前海岸を隔てる「丹生山地」です。山中の「宮崎」集落に出来た「越前陶芸会館・村」を訪問し、この山中で起こった「古越前」の歴史が尾張国・瀬戸から伝わったのが始まりであったことが著される。平安時代当時の製法を伝える陶工が隣の集落・「平等」にいる。ここは、織田信長の先祖が神官をしていた「織田神社」がある場所でもある。
僕の歴史興味をそそる話題満載の書でした。高速道路利用で3〜4時間の地・越前ですが日帰り圏内なので、近江越前の峠・飛騨越前の峠というバイク山道探索も兼ねて訪問したいものです。いや、訪問するでしょう。

2013/6 「古事記」 福永武彦訳 河出文庫 ★
久しぶりの古事記です。古事記ってものすごく長く、いろんな方が現代語訳を出していますが、それぞれ古事記のエッセンスと思われる部分のみの訳です。だからか、僕の古事記知識も断片的です。今回の古事記は、ベストセラーと言われる福永さん訳のもので、かなり長い部分を訳されているので、それなりに通しで読んだ感がありました。
「古事記」「日本書紀」は、平安時代に書かれた日本最古の物語で、天皇中心の中央集権国家をより固め、拡大していくための芯になる日本の歴史物語です。神代の大昔の創世の物語に始まり、創世の神様が地上に下りて、次々に異部族を従えていきます。一方で、いろんな国の神様を天皇家の神様と結びつけて、「実は先祖は同じです」みたいな創作?を多数用意し、戦闘ではなく和を持って部族を結びつけているなと思われる部分が多々あります。
このシステムに従いそれなりの地位を充てがわれ政権構成員となるか、良しとせず対決の道を探るか踏み絵にして勢力を拡大させていったのではないかな?
科学的にあり得ない空想話として笑い飛ばすか、素直に読んで楽しむかは読者の自由ですが、僕自身は素直に読んでその痕跡(現代人が観光収入を得るためにこしらえた物でも)を辿って楽しむようにしています。昨年の阿蘇ツーリングで、高千穂峡を探索し、天の岩戸と言い伝えられる雰囲気のある場所を楽しみました。読後、また出雲に行ってみたくなりました。

2013/4 「歴史読本 2013年5月号 黒田官兵衛」 新人物往来社 ★★
家内の出身地・播州の英雄で好きな黒田官兵衛の特集だったので読んでみました。
まあ、家内が新聞でこの本の宣伝広告を見つけて教えてくれただけなんですけど。
僕の黒田官兵衛好きは、僕の歴史好きから派生した家内の実家の過去探索からです。家内の父親が生まれ育った加古川市志方の家の敷地が、志方古墳にほど近く、志方城の詰城と思われる天神山古墳や志方八幡神社への峠鞍部に位置している。
裏側からもこの高所に登れ、ここを取られると志方城の致命傷になりかねない地でもあり、信頼出来る勇猛武将に守らせていたに違いない地です。どのような経緯でその地を手に入れたかは不明ですが、志方の有力旧家でもあり、太平洋戦争時に加古川の有力部隊長としてロシア戦線で活躍した父親の血からも、戦国の世の実家のいろんな事が想像できる。
その志方城主の娘が、黒田官兵衛に嫁いでいることを知り、羽柴秀吉の有能軍師として知っていた官兵衛がぐっと身近に感じるようになりました。それ以前はもう一人の軍師・竹中半兵衛の方に惹かれており、官兵衛は生涯側室も持たなかったキリスト教信者としての側面と、我が家のある伊丹で摂津守として国を統治した勇将・荒木村重の信長反旗を思いとどまらせるために単身有岡城に乗り込んだ勇気で一目置いていたに過ぎない。
この歴史読本は、その人物の生涯をざっと流し、そこにいろんな歴史研究家の最新研究や異説を横糸に通すようにまとめられている。人物本人の生い立ちや生涯については、歴史小説を読む方がずっと流れがわかるし、小説なので面白く読める。それを知っている方が、その肉付けとして手に取られるのが良い本だと思う。反対に、この雑誌で興味を持ち、歴史小説を読むのもアリでしょう。
何れにしても、かなり深く詳しく黒田官兵衛のことが書かれている。僕はとても興味深く読みました。2014年の大河ドラマの主人公が黒田官兵衛なので、これからますます官兵衛物が出てきそうです。

2013/4 「プリンシプルのない日本」 白洲次郎 新潮社 ★★
白洲次郎が1951年から約5年間、主に「文藝春秋」を舞台に、精力的に発表した文章を1冊にまとめたものです。著者自身がどういう日本語に訳したらいいのか解らないという表題の「プリンシプル」とはどういう意味なのかと、興味を持ちながら読みました。読み進める後半になって、ようやく分かって来ました。見聞きする白洲次郎さんご自身の生き方こそが、そうだなあと。
文中の3ヶ所ほど引用します。なんとなく、プリンシプルがわかるでしょう。
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公益事業という消費者の態度にも行き過ぎたところがある、一種の慈善事業みたいに思っている。だけどとにかく消費者の行き過ぎた態度を是正する必要があるならば、その前に電気会社が今までのやり方を反省すべきだというのが僕の持論だ。
たとえば、僕は農村に住んでいるけれども、田舎の農繁期の最中のことを例に取る。猫の手も借りたいという時期だ。だから、家にいるのは、非常な年寄りか子供だけである。お金なんか、何処にあるか知ってるような人はみんな田圃に出ている。そこへ電気屋さんがやって来る。そして今誰もいませんなどといおうものなら、すぐにご機嫌を損う危険性がある。しようがないから、子供が田圃に呼びに行く。お父つぁん田圃から上って家に帰る。みんなお金は家の奥に蔵ってあるから、足を洗って、家にあがって、お金を出して払うのである。こんなことは電気会社としてとるべき態度じゃない。僕は新潟で、あそこは百姓の盛んな所だから、各出張所で、大体田植なら田植の時期をよくきいておいて、その忙しい時期には電灯代なんかとりに行かぬがいいといって来た。ところが実際は、そんなことは一向お構いなしに、自分の方の都合だけで、税務署の役人が税金をとりに来るような態度で集金にやって来る。これは、長年一種の独占事業で、インフレ抑制とかなんとかいう国家的の見地から、営業的には犠牲にされた面は、ずいぶんあっても、その反面、独占事業の安易に押れちやって、特に電気とか製鉄とかいう事業は一番ひどいけれど、考え方か温室育ちで、一人前じやないのだ。本当に商売人が算盤を持ってやってるんだというような印象は、少くとも受けない。そこで、一般の消費者大衆の電灯料金の値上反対ということがいつも問題になる所で、一般の消費者階級があんなに反対しないようにしようということの第一歩は、電気会社の経営というものは、これ以上合理化というか、普通の言葉でいえばこれ以上倹約して、無駄の排除ということはできないところまで行っているんだということを、一般の消費者大衆が納得する所まで持っていかなくちやならない。
また納得さす義務があるのだ。
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親譲りの傍若無人
僕はよく傍若無人だと言われるが、僕の死んだおやじに比べれば、傍若無人なんておよそ縁が遠いと思う。死んだ親父は、こういう人だった。
建築道楽で、家ばかり建てていた。道楽はたくさんあって、ほかの、あまり言いたくない道楽もあったが、そして、いつでも建てる家は日本館にきまっている。
僕のおやじは外国育ちの男だ。そこで西洋館は靴を脱がないでもいいから西洋館がいいじゃないかと言ったら、外国じゃ道がとてもきれいだ。だから靴のまま上がった汚くない。だけど日本みたいな、こんな汚い道を歩いて来て、そのまま上られたらたまらない、だから日本館がいいと、言う。ところが、そのおやじは靴履いて畳の上を歩くのだ。そして人が汚いじゃないですかと言うと、俺は別だと言って澄している。これがほんとの傍若無人というものだ。
僕のおやじは、子供のときから外国育ちで、ほんとの意味のお洒落だった。晩年は九州の、大分と熊本との国境に、百姓をして独りで住んでいた。もっとも女中かなんかはいたけれども、東京に来るときは、木綿の刺子の紺の股引をはいて、上にはツイードの洋服を着て、荷物は全部猟に行くときの網に入れて、それで東京に来て平気で歩いている。そういう人だった。死んだという電報が来たので、妹が行ったら、ベッドに独り死んでいて、ベッドの下を見たら、棺桶が入っていた。それはほんとの田舎で、身体が大きいから、出来合いの棺桶ではあとの者が困るだろうというので、前からつくってあったのだ。こういうことも皆傍若無人の現われといえよう。
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現在の発電所の運転のための社員には、全部で子供が七人いるとのこと。電気会社の現場の社員の子供の教育は実に重大な問題である。財政的にゆるす限り、その子供達のために育英寮を作りつつあるがまだまだ足りない。私はこの問題とは非常に真剣に取り組んでいる積もりだ。方々辺鄙な地に駐在することを余儀なくされている人々の子供の教育のことは、会社の経営者としては出来得るだけのことをする義務があると考える。未だ充分なことをするに至らないのはこの義務を怠っていると考えるので、こういう子供達を見る度に鞭打たれる様な気がしてならない。殊に吾々の時代に、この馬鹿な戦争をして元も子も無くしてしまった現在、次の時代に来る人々のためには幾許でもこの負担を軽くして、少しでももっと明るい世の中にして次の時代に引継ぐ義務をも感じる。

2013/3 「街道をゆく7 甲賀と伊賀の道、砂鉄のみちほか」 司馬遼太郎 朝日文庫 ★★★
連続の★3つです。嫡孫誕生記念に手にとった司馬遼太郎「梟の城」が面白かったので、僕の歴史好きにピッタリだけどあえて温存していた「街道をゆく」シリーズを読み進めることにしました。
「梟の城」の舞台・伊賀と甲賀という忍者の里から読み始めようと思います。山に囲まれた内陸国・伊賀に入るには、7つの峠があるそうです。その中の1つが「梟の城」の舞台になった「御斉峠」です。ここは、本能寺の変の時、堺にいた徳川家康が伊賀忍者頭領・服部半蔵に導かれて本拠地・遠州三河に逃げた峠でもあります。
この峠は伊賀・甲賀国境でもあり、こを中心に伊賀を中心に甲賀・紫香楽を巡る旅のエッセイに始まり、大和と日本三大山城のお膝元・壷阪、播磨灘と淡路の旅が続きます。期待していなかったのですが、「砂鉄の道」という伯耆・出雲から美作の砂鉄文化を巡る旅エッセイが、とても興味深かったです。
紀元前に起こった中国の鉄加工の歴史が、朝鮮半島を伝って4世紀の古墳時代前夜に朝鮮鉄職人の出雲への渡来から日本に伝わります。砂鉄から鉄を精製する時、長時間の高温を維持するために多くの火力を要します。当時の火力は木材・炭が原料で、大規模な森林伐採を伴います。早くに鉄文化が発達した中国・朝鮮半島は、そのために荒涼としたハゲ山ばかりの地になり、鉄生産が増大して農機具の進歩につながり・・・という風にならず、文化の足踏み状態になりました。しかし、降水量の多い日本列島は木の生育が早く、鉄増産が容易なために最も未開だった日本がより進歩していくようになりました。この流れが、日本人気質にある道への好奇心につながっているのではないか・・・というものです。
この説になるほどなあと感心してしまいました。そして歴史探索で訪問した各地の神社の謂れ板に書かれている謎の答えを得たような気持ちになりました。長く国の中心であった今の京都・山城国からその北西に位置する丹波の宮に祀られている農耕の神様は、その北西・出雲から移動してきたように謂れ板によく書かれています。
不安定な狩猟生活で生計を立てていた縄文人に続き、定住し安定した食料を確保できる弥生人の時代になります。その次に来るのが、鉄器文化を持ち農機具を石から鉄に変えて飛躍的に農業生産を伸ばす時代です。
司馬遼太郎さんがズバリは指摘していなけど、この著で示唆している鉄文化の流れがまさにそうです。今の時代になっても世界で最も良質な鋼を、出雲の日本海側地域が生産しています。大量生産には不向きですが、ここの生産を続けている日立金属の生産高の半分をアメリカ企業・ジレットが買っているそうです。ジレットといえば、シック筆頭にいろんな髭剃りメーカーがありますが、最も切れ味鋭い製品を作っている企業です。その屋台骨を支えているのがここのようです。侍文化時代、日本の刀生産原料の8割を供給して世界一の切れ味の軽い刀の屋台骨を支えていたのもここです。
これらを総合すると、出雲の対岸にある朝鮮半島・新羅から渡来した人々が、出雲で鉄生産を増大させ、その飛躍的な農業生産増大=人口増大を武器に、弥生人と混血しながら日本列島を席巻していったのではないか。
日本書紀には、スサノオが高天原から新羅に降臨し、すぐに出雲に渡り、そこでヤマタノオロチを退治し、その生贄になろうとしていた奇稲田姫を助けて嫁にすると書かれている。これは、生産力の落ちた朝鮮半島に見切りをつけて、有望な地・日本列島・出雲に渡ってきた人々が、ヤマタノオロチで比喩されているその地の山で活動していた鉄職人集団に酒を飲ませて酔ったところを襲撃し、この地の鉄を手に入れたということではないか。ヤマタノオロチの尻尾から出てきた草薙の剣(天叢雲剣)を手に入れたということは、素晴らしく良質な鉄を手に入れた比喩ではないか。
吉備国に残る桃太郎伝説は、大和朝廷(桃太郎)が吉備国人(青鬼・赤鬼)と戦争になり、それを滅ぼして大和朝廷に組み入れた比喩物語だと思っていますが、そのような戦争もあっただろうが、大半は弥生人と混血しながら、鉄文化を持って日本の中心大和まで進出し、やがて日本列島を席巻していった歴史なのではないか。
戦争ではなく融和で勢力維持・増大を図ろうとした天皇家を中心にした勢力が、飛鳥・奈良時代に、古事記・日本書紀で日本各地の勢力に残る日本列島創世の歴史や先祖史を、出雲から大和に続く鉄の歴史を母体にする天皇家の歴史に組み入れ、物語にしたのではないか。
大和「僕んとこの歴史はこうやねん。ほんであんたんとこは?」「わしんとこはこうやから、あんたんとこが間違うてるで」
大和「いやいやそうやないねん。あんたんとこの始祖さんは、うちらんとこの始祖さんと実は兄弟やねんで、知ってた?」「えっ、ほんまに?」
てな具合に平和的に集合していったのではないかな?この歴史が、基本的に平和主義で、他国の文化も抵抗なく我が文化に取り入れていく日本人気質に脈々と波打っているのではないかな。
この砂鉄の道を読みながら、古事記・日本書紀の世界に流れる大黒柱なる縦筋がクリアに頭に整理されました(ほんとかどうかは想像の世界から永遠に抜けられないけどね)。
司馬さんは、出雲のたたら製鉄の遺跡から伯耆との国境を南下し、美作国に入り瀬戸内海側の鉄の遺産を訪ねています。美作・津山は、吉井川の流れの上流でその河口には福岡・長船という刀剣の一大生産地がある。
美作国は、僕の母方の先祖・三穂太郎から始まる美作菅家党のルーツの地です。著書で紹介された矢筈城址は、次に家族登山で狙っている難攻不落を誇った山城です。さらに美作津山藩は、小早川秀秋死去後森忠政が入封されて5代続いた地です。織田信長に信頼されていた武闘派家臣・森可成は、漢字は違うけど僕と同じ読み名です。その息子達は、本能寺の変で信長と共に散った森蘭丸筆頭に、秀吉方として小牧・長久手の戦いでも散っています。最後に残ったのが六男・忠政。彼も漢字は違うけど、息子と同じ読み名です。400年前の僕ら親子として親近感がある地です。ぐふふ、めちゃ面白かった。

2013/3 「ハツカレ」1〜10巻 桃森ミヨシ 集英社 ★★★
マーガレットで連載されていた漫画のコミック本です。これを原作とした実写版ドラマがTV放送されたことがあったようで、偶然それを見てしまいました。あまりに胸キュンな高校生の初恋ラブストーリーだったので、はまってしまいました。実写版DVDを買うし、このコミックも一気に10巻買ってしまいました。コミックなので一気に読めるから、1日1冊のペースで読みきってしまいました。
物語の舞台は、大阪弁・関西弁の世界だから、京阪神だと思います。主人公の高校1年生のチロはいつものように自宅最寄り駅のホームで学校に行くために電車を待っていました。その時ポンポンと肩を叩かれ、その駅から反対向き電車に乗る男子高1年生・ハシモト君に「付き合ってくれませんか」と告白されてしまいます。小学校から女子校育ちのチロにとって初体験で、実はハシモト君も初めて声を掛けたのでした。
当然、女子高のクラスメイトの仲良し仲間4人の間で盛り上がります。小学校からずっと一緒のチャコを含め、中学から女子高の残り2名も恋愛経験がありません。あ〜だこ〜だ手探りの恋愛ごっこが始まり、お決まりのグループ交際があったりします。
毎朝の「おはよう」で小さな恋を育んでいるチロとハシモト君の前に、幼稚園時代一緒で、チロをウンコ呼ばわりしてしていたイブシ君が登場しました。イブシ君の本心は、チロが気になっていたのです。一時引っ越していましたが、戻ってきたイブシ君はハシモト君と同じクラスになりました。チャコは、本心を隠して無理に粗暴な行動や言葉遣いをするイブシ君が気になります。
ここでドロドロの三角関係・四角関係になるのが韓流ドラマですが、お互いに相手の本心を見抜いているハシモト君とイブシ君、そしてチャコはチロを傷つけないように上手に本心を隠し、物語が進みます。この下りが、正に僕が青春時代に感じた気持ちだったり、自分や友だちの行動だったりして、僕のハートを鷲掴みにします。
ドラマの方も、チロ役の黒川智花さんがとても可愛く、ぐふふな出来栄えでした。映画化されてもいいのになと思うほどです。

2013/2 「ハイタッチ」 山元賢治 日本経済新聞出版社
日本IBM・日本オラクル・アップルジャパンという外資系企業を率いてきた著者が、新卒で仕事の世界に飛び込もうとしている人向けに書いた本。仕事の現場で信頼され伸びる人の特徴に始まり、それに至る心構え。そのために学生時代に身につけておくべきスキル・体力など、多岐にわたる日本の若者への応援歌でもある。
世界のビジネス現場を体験してきた著者だからこそ感じる日本という国の素晴らしさや、日本人の優秀さも書かれている。なかなか就職が決まらず困って、自信を失いがちなまじめに頑張っている若者を笑顔にさせる内容です。
しかし手放しの応援歌ではなく、自分でチャレンジし人生を切り開く者でないとバラ色の将来は開かれていないという現実を示してもおり、昔から変わらない当たり前のことを再確認しているともいえる。

2013/2 「日本はなぜ、世界でいちばん、人気があるのか」 竹田恒泰 PHP新書 ★★
生まれたばかりの初孫に会いに新潟に行くとき、伊丹空港の出発ロビーで買い求めました。何の気なしに売店を冷やかしに寄り、書棚を見た時、バンと目に飛び込んできました。竹田さん?ってどこかで聞いたような名前だなと思いながら、面白そうだったので手に取りました。家内にそのことを話すと、「皇族の人でしょ、よくTVに出てるね」って知ってました。
明治天皇の玄孫の方で、35歳だそうですが、訪問した諸外国で感じた日本への好印象や、いろんな分野の人気度データで日本国の人気に秘密を語っています。
その人気の源泉は、取りも直さず日本人の資質から生まれ、その気質の根源は八百万の神を祀る日本人の習慣から生まれると。八百万の生まれ故郷は、古事記・日本書紀に書かれている神話にあり、まだ文字のなかった神話の時代から日本国の中心に存在し、どんな動乱の時代も倒す対象とされずに脈々と続いてきた天皇という存在を大切に守ってきた日本人にあるのだと。
副題に、「子供に孫に読ませたくなる感動の日本論」となっており、読み終えた今、確かに次世代に読んでほしいなと思いました。副題の「孫」の文字に反応して買いましたが、ナイスな選択でした。

2013/2 「梟の城」 司馬遼太郎 新潮文庫 ★★★
長男の長男、つまり我が家の嫡男誕生を記念して、長男が彼に授けた「遼成」の名の所以・司馬遼太郎を読むことにしました。直木賞を受賞し、本格的に作家デビューするに至った司馬さんの出世作であり代表作です。
元々、海音寺潮五郎からの流れをくむ史伝作家である司馬さんの作風は好きですが、これは史伝というより本格的な歴史小説です。でもそこここに史伝的な資料が織り込まれているので、地図を追いながら楽しく読み進めることが出来ました。
天正の織田信長による伊賀根絶やし戦によって両親・妹を殺された伊賀忍者・葛籠重蔵が、師匠の下柘植次郎左衛門から信長の跡目を継いだ豊臣秀吉暗殺の仕事を請け負うところから始まる。伊賀忍者を抜け体制側の京都所司代・前田玄以麾下の武士になった相弟子・風間五平、師匠、師匠の娘・木さるとの暗闘と友情。
前田玄以が使う甲賀忍者最高の術者・摩利支天洞玄一派と葛籠重蔵麾下の伊賀忍者・黒阿弥一派との闇の中での暗闘。そこに、師匠に秀吉暗殺の仕事を依頼した堺の豪商・今井宗久とその娘・小萩が絡む。
小萩は、信長上洛の折に落とされた近江源氏・佐々木氏嫡流・六角氏の忘れ形見でありながら、六角氏が逃げ込んだ甲賀の里で育てられたので、甲賀くノ一忍者でもある。そして彼女は、秀吉により近い石田三成に雇われ、葛籠重蔵と対立する仕事を請け負っている甲賀忍者の棟梁・・・。
他を信じない忍者特有の疑心暗鬼と、たとえ対立する忍者同士でも、雇い人が変われば今日は敵・明日は味方の関係からくる仲間意識や友情・・・果たして、秀吉暗殺の手はどこまで伸びるのか・・・闇の世界の暗闘で次々に倒れていく影の者の中で、誰が生き残るのか・・・葛籠重蔵と風間五平の友情は・・・暗闘しながら複雑な三角関係も形作る木さる・小萩と重蔵や五平への愛情に行方は・・・
見どころいっぱいの娯楽小説です。

2013/1 「水の城」 風野真知雄 祥伝社文庫 ★★
「のぼうの城」という映画が秀作だというのを知り、映画館に足を運びました。
天下を平らげる寸前の秀吉の小田原北条氏攻めで、唯一落とせなかった北条方の城がある。そしてそれを攻めたのが秀吉の文治派筆頭である石田三成であるというのは知っていました。この功城失敗が、三成の戦下手の評判に繋がり、三成と家康が対峙した関ヶ原の合戦の西軍の三成に対する信頼感の低くさから、惨敗に至った結果にも繋がったと言われている。
そんな忍城攻防戦を、守勢総大将・成田長親の茫洋とした性格を縦筋にコミカルに描いた映画で、とても面白く観させていただいた。
こうなると、もっとこの忍城攻防戦を詳しく知りたくなるもの。そこでこの書を手に入れました。映画ではプラスアルファであった城代の娘・甲斐姫の活躍がもっと描かれており、長親とのロマンは縮小されていた。
しかし攻防戦の流れは同じトーンで描かれています。そして、北条各支城を落とした秀吉友軍が続々と援軍に詰めかけたり、水攻めで生活の場をズタズタにされた領民の素直な心理がより守勢の士気高揚に繋がったことなど、現代人の誰もが普通に予想する流れが普通に描かれ、作者の庶民を見る目に共感を覚えました。
戦国時代という日本史上類を見ない大動乱の時代でも、庶民はしたたかに生き抜き、相次ぐ戦乱や年貢・兵役の強制があったにせよ、しっかり楽しみを見つけて生きていたはずです。
しかめっ面した天下を握る夢に邁進した戦国武将の真剣勝負だけの時代ではなく、こんな時代でも生涯に1度か2度の戦闘しか経験しなかった一地方豪族はたくさんいたはずです。そんなトーンで描かれたこの書に、温かいものを感じました。
最後に書かれていた、小田原城開城によって終わった忍城開城後の守勢の主役たちのその後が、何故か微笑ましく頭に残りました。戦闘中であっても策を弄して敵将と密談して延命を図ろうとする将もいますが、文中の長親の言葉「やるだけやって、後は野となれ山となれ」という一所懸命な生き方に惹かれます。
この小田原攻防戦でも、北条側から寝返った武将でありながら秀吉から切腹を言い渡された者がいる反面、大坂城攻防戦後の真田幸村親族の攻め手側からの大人気リクルート合戦のように敗者でありながらヒーローになっていく。僕は結果ではなく、経過重視の姿勢が好きだ。エピローグの一部を引用します。
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三成は、自分かこうした考えができたのは、やはり今度の戟さが負け戦さだったからだと思った。自分は負け戦さからでも必ず何事かを学ぶ男であり、そういう意味でも今度の城攻めは落城までいかなくてよかった、と思った。
三成は着替えを終えると、慌ただしく城内へ向かった。
このとき三成の耳にはまだ届いてはいなかったのだが、忍城の見事な龍城朧は寄手側でも評判になっていて、忍城の武将を当家にて抱えたいという声が各方面から相次いでいたのである。
とくに徳川家康は、攻め手側にいた家臣からもその話を聞き、強く望み、実際、多くの忍城の武将たちは一族郎党、足軽らとともに徳川家に雇われることになった。
成田家のその後について記すと・・・。
当主成田氏長はいったん蒲生氏郷の元に預けられ、ここで会津若松城の出城である福井城一万石の城主となる。さらにその後、野州烏山三万七千石の城主となった。
龍城戦で城代を務めた成田長親は、烏山城のときまで成田家中にあったが、この頃、こんな出来事があった。
成田氏長が上洛した折り、攻城側にあった浅野長政と雑談になった。その談のうちに、「じつはあのとき、忍城内に内通する者がいたのだ」と言った。
すると氏長は、咄幄にそれは成田長親のことだと思い込み、それを長親に質した。
それが誤解だったことはあとで判明するのだが、疑われた長親はそのまま鳥山を出て、二度と成田家には帰らなかった。
その後、尾州に寓居し、剃髪して、白水斎と号したという。
成田の家中でもっとも波潤に富んだ生涯を送ったのは、なんといっても甲斐姫だろう。
甲斐姫は、氏長が福井城主であった時分にも武勇伝をっくっている。あるとき福井城が浜田兄弟なる者たちに乗っ取られたことがあった。甲斐姫は逆賊らと斬り結び、ついにはその手で兄弟の兄のほうを葬り去ったのである。
さらに、この武勇伝は広く喧伝され、噂を聞いた秀吉が例によって食指を誘われ、甲斐姫を側室として召し上げる。
無論、武勇伝だけでなく、稀なる美貌も気に入ったからにちがいない。
やがて、甲斐姫は同じ側室である淀の方とも親しくなっていく。
秀吉が亡くなると、淀の方に信頼されていた甲斐姫は、秀吉の遺兄秀頼の守役となった。
ここからがまた、いかにも甲斐姫らしい事態となる。
秀頼の守り役だったのがやがて男女のことの指南役となり、二十一も年下だった秀頼の娘を出産するのである。
この甲斐姫の娘は、大坂落城のとき七歳たったが、徳川秀志の娘である千姫の目ききによって命を助けられ、鎌倉東慶寺に預けられる。
のちに、縁切り寺として知られる東慶寺の中興の祖、天秀尼がこの甲斐姫の娘である。
甲斐姫は大坂落城の際、無論、城内にいた。
その大坂城に援軍として入って、圧倒的に不利な状況のなか、あと一歩のところまで徳川家康を追い詰め、心胆を寒からしめたのはいうまでもなく真田幸村である。
甲斐姫と真田幸村。
忍城の戦さから二十五年後に、ふたりは懐かしい再会を果たしていた。
二人の出会いはどんなものだったのか。
その様子を記した書はいまにない・・・

2013/1 「生き方」 稲盛和夫 サンマーク出版 ★★
長男のお嫁さんの勤める会社JALが、国の資金を投入されみごとV字回復しました。
ANAから「平等な競争ではない」とかの批判が出ましたが、そんなの関係なく赤字会社を短期間で大黒字にまで回復し、国からの資金の上に大きなのしを完済したのは素晴らしいです。
その秘密を解き明かそうと、新聞や雑誌・TVが取り上げていますが、それらを見聞き読んで一様に感じたのは、社員の意識改革・コスト意識でした。社員さんが一様にこう述べるところに秘密があるように感じました。そして、社員さんから頻繁に名前の出る会長として外部から乗り込んだ稲盛さんに、その肝があるようです。ということで、この書を手に取りました。
稲盛さんの人生の流れと、会社経営から学び見えてきたことが、シンクロしながら語られます。まず「強く思うこと」、「四六時中思っていると、不意に良いアイデアが閃く」。更に「将来の姿が見えるぐらい計画し、思い描くこと」。一流の冒険家は、「無謀な計画」のままではトライせず、綿密な準備・計画を経て「成功する姿が目に見えてから」トライする。「努力を積み重ねれば、平凡が非凡になる」。など、ここまでは俗にいう成功本でよく語られるエッセンスでした。
ここからが少し違い、本の表題「生き方」に繋がる、きっと稲盛さんが語りたかったとおもわれる部分に入ります。『人の上に立つリーダーこそ才や弁ではなく、明確な哲学を基軸とした「深沈厚重」の人格が求められます。謙虚な気持ち、内省する心。「私」を抑制する克己心、正義を重んじる勇気。あるいは自分を磨き続ける慈悲の心・・・一言で言えば、「人間として正しい生き方」を心がける人でなくてはならないのです。』。小学校の道徳の時間に習った「生き方」の実行が、結局自己実現につながり、会社経営でも同じだと語っています。
以下に、う〜むと感じた部分を引用しておきます。
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『その悟りを開く方法として、お釈迦さまが説いているのが、「六波羅蜜」です。
○ お釈迦さまが説く「六波羅蜜」を心に刻め「六波羅蜜」とは、仏の道において少しでも悟りの境地に近づくために行わなくてはならない菩薩道を記したもの。いわば心を磨き、魂を高めるために不可欠な修行であり、それは次の六つとされています。
1、布施(ふせ)
世のため人のために尽くす利他の心をもつこと。自分の利より相手の利を図り、他人への思いやりをもつことをつねに意識して人生を送る大切さを説くものです。
布施とは一般には、施し(喜捨)をすることの意味に使われていますが、本来は自己犠牲を払ってでも広く人々に対して尽くすことをいい、またそれができなくても、そのようなやさしい心をもつということなのです。
そのような他者への思いやりに満ちた心をもつことによって、人間は心を高めていくことができるのです。
2、持戒(じかい)
人間としてやってはならない悪しき行為を戒め、戒律を守ることの大切さを説くものです。すでに述べたように人間はさまざまな煩悩を抱えた存在です。欲望、愚痴、怒りの三毒からなかなか離れられません。それだけに、そのような煩悩を抑えて、自分の言動を正しくコントロールしていく必要がある。欲張ったり、むさぱったり、人を疑ったり、妬んだり、恨んだり・・・そうした煩悩、欲望を抑制することがそのまま持戒となります。
3、精進(しょうじん)
何事にも一生懸命に取り組むこと。すなわち努力のことをいいます。この努力とは、「だれにも負けない」くらいのものでなくてはならないと私は考えています。
プロローグで紹介した二宮尊徳の例でもわかるとおり、その上うな懸命の精進こそが心を高め、人格を練り卜げることを、古今東西の偉人たちの人生は如実に物詰っています。
4、忍辱(にんにく)
苦難に負けず、耐え忍ぶこと。人間の生は波瀾万丈であり、私たちは生きている間に様々な苦難に遭遇します。しかしそれに押しつぶされることなく、そこから逃げることもなく、耐えてさらに努力を重ねる。それが私たちの心を鍛え、人間性を磨くのです。
5、禅定(ぜんじょう)
騒がしく、せわしない社会の中で、私たちはつねに時間に追われ、物事を深く考える間もなく、先を急ぐ日々を送りがちです。それだけに、せめて一日一回は心を静め、静かに自分を見つめ、精神を集中して、揺れ迷う心を一点に定めることが必要になってきます。
かならずしも座禅を組んだり瞑想をしたりする必要はありません。多忙な中にあっても、いっときの時間を見つけて、心を静めることが犬切です。
6、智慧(ちえ)
以上の、布施、持戒、精進、忍辱、禅定の五つの修養に努めることによって、宇宙の「智慧」、すなわち悟りの境地に達することができるとされています。そのとき天地自然を律している大本の理、宇宙をつかさどる真理、いいかえればお釈迦さまのいわれる智慧へと近づくことができるのです。
○ 日々の労働によって心は磨かれるこの六波羅蜜の六つの収容は、悟りに至る修業の道を説いたものですが、なかでも私たちが暮らしの中でもっとも実践しやすく、また心を高める方途として一番基本的かつ重要な要件は、「精進」・・・努力を惜しまず一生懸命働くことです。
いいかえれば、私たちが自分の人間性を向上させたいと思ったとき、そこにむずかしい修行などは必要ありません。ただ、ふだんの暮らしの中で自分に与えられた役割、あるいは自分が行うべき営為を・・・それが会社の業務であるうと、家事であろうと、勉学であろうと・・・粛々と、倦まず弛まず継続していくこと。
それが、そのまま人格錬磨のための修行となるのです。
すなわち、日々の労働の中にこそ、心を磨き、高め、少しでも悟りに近づく道が存在しているということです。
私は、たとえば宮大工の棟梁のように、一つの職業、一つの分野に自分の一生を定め、その中で長く地道な労働を常々と重ね、おのれの技量と人間を磨いてきた人物に強く魅了されます。その卓越した技量はもちろんのこと、仕事を通じて体得してきた揺るぎない哲学、厚みのある人格、すぐれた洞察力などが、私の心の深いところに呼応してくるのです。』。
『・・・私か得度したときにお世話になった円福寺のご老師が、次のようなたとえ話で説いておられました。
・・・あるお寺で若い修行憎が老師に「あの世には地獄と極楽かおるそうですが、地獄とはどんなところなのですか」と尋ねました。すると老師は次のように答えます。
「たしかにあの世には地獄もあれば、極楽もある。しかし、両者には想像しているほどの違いがあるわけではなく、外見上はまったく同じような場所だ。ただ一つ違っているのは、そこにいる人たちの心なのだ」
老師が語るには、地獄と極楽には同じように大きな釜があり、そこには同じようにおいしそうなうどんがぐつぐつと煮えている。ところが、そのうどんを食べるのが一苦労で、長さが1メートルほどの長い箸を使うしかないのです。
地獄に住んでいる人はみな、われ先にうどんを食べようと、争って箸を釜につっ込んでうどんをつかもうとしますが、あまりに箸が長く、うまく口まで運べません。しまいには他人がつかんだうどんを無理やり奪おうと争い、ケンカになって、うどんは飛び散り、だれ一人として目の前のうどんを口にすることはできない。
おいしそうなうどんを目の前にしながら、だれもが飢えてやせ衰えている。それが地獄の光景だというのです。
それに対して極楽では、同じ条件でもまったく違う光景が繰り広げられています。
だれもが自分の長い箸でうどんをつかむと、釜の向こう側にいる人の口へと運び、「あなたからお先にどうぞ」と食べさせてあげる。そうやってうどんを食べた人も、「ありがとう。次はあなたの番です」と、お返しにうどんを取ってあげます。
ですから極楽では全員がおだやかにうどんを食べることができ、満ち足りた心になれる・・・
同じような世界に住んでいても、あたたかい思いやりの心をもてるかどうかで、そこが極楽にも地獄にもなる。それが、この話がいわんとしていることなのです。
私も、この「利他の心」の必要性を幾度となく社員に対して説いてきました。よい経営を続けていくためには、心の底流に「世のため、人のため」という思いやりの気持ちがなくてはいけない・・・そのことを再三再四強調してきたのです。
○ 他を利するところにビジネスの原点がある弱肉強食のビジネス界で、私がしきりに利他だの愛だの思いやりだのと口にしているので、そんなおめでたいことばかり言って、あの美言の裏に何かあるのではないかという声を聞くこともあります。しかし、私は巧言を弄して何か企図する気など毛頭ない。ただ自分の信ずるところを素直に人に伝え、また自分自身がそれを本気で実践していきたいと念じているだけです。
そもそも歴史を振り返っても、資本主義はキリスト教の社会、なかでも倫理的な教えの厳しいプロテスタント社会から生まれてきたものであることがわかります。
初期の資本主義の担い手は敬虔なプロテスタントだったわけで、マックス・ウェーバーによれば、彼らはキリストが教える隣入愛を貫くために厳しい倫理規範を守り、労働を尊びながら、産業活動で得た利益は社会の発展のために活かすということを、モットーとしていたといいます。
したがって、事業活動においては誰から見ても正しい方法で利益を追求しなくてはならず、また、その最終目的はあくまで社会のために役立てることにありました。
つまり世のため人のためという利他の精神が・・・私益よりも公益を図る心が・・・初期の資本主義の倫理規範となっていたわけです。
自らに向けては、おのれを律する厳しい倫理を、外に向けては、利他という大義を自分たちの義務としていたわけです。その結果、資本主義経済は急速に発展を遂げることが出来たのです。
同様のことを、わが国でも江戸中期の思想家・石田梅岩加主張しています。当時は商業資本主義の勃興期にあたりますが、身分制度の下で商はもっとも下位に置かれ、商行為そのものが何か卑しいものとされる風潮加ありました。
そのなかで梅岩は「商人の売利は士の禄に同じ」と述べ、商人が利を得ることは武士が禄をはむのと同じ正当な行為であり、けっして恥ずべきことではないと、陰でさげすまれることの多かった商人を励ましています。
「利を求むるに道あり」という言葉かおりますが、利潤追求はけっして罪悪ではない。ただし、その方法は人の道に沿ったむのでなくてはならない。どんなことをしても儲かればいいというものではなく、利を得るにも人間として正しい道を踏まなくてはならないと、商いにおける倫理観の大切さを説いています。
「まことの商人は、先も立ち、われも立つことを思うなり」・・・これも梅岩の言葉ですが、要するに、相手にも自分にも利のあるようにするのが商いの極意であり、すなわちそこに「自利利他」の精神が含まれていなくてはならないと述べているわけです。』
『これからの「この国のかたち」をデザインするうえで、大きなキーワードとなるものは、この思いやりの精神とともに、徳をベースにした国づくりでしょう。
以前、国際日本文化研究センターの川勝平太教授が、「富国有徳」ということをいわれたことかありました。
富でなく徳による立国。あるいは豊かな富の力を活かして、徳をもって他人や他国に報いるという国のあり方を提言したのです。武力や経済力でなく、徳をもって他国に「善きこと」をなし、信頼と尊敬を得る。
私もそのような徳を国是のベースに据えるべきだと思うのです。それこそが、自国の利益のみを追求することで、手痛いしっぺ返しを食らってきた日本が他国にさきがけて率先垂範すべきことなのです。
日本がめざすべきは、経済大国でも軍事大国でもなく、こうした徳に基づいた国づくりではないでしょうか。ソロバン勘定に長けた国でもなく、軍事力の誇示に忙しい国でもなく、徳という人間の崇高な精神を国家理念の土台にして世界に接していく。
そういう国家になった時、日本は国際社会からほんとうに必要とされ、尊敬される国となるはずです。また、そういう国を侵略しようとする輩もいないでしょう。そういう意味では、最善の安全保障政策でもあるはずです。』
『私たちに起こるすべての事柄には、かならずそうなった原因があります。それはほかならぬ自分の思いや行いであり、その思念や行為のすべてが因となって果を生んでいく。あなたがいま何かを思い、何かを行えば、それらはすべて原因となって、かならず何らかの結果につながっていきます。また、その結果についての対応が、再び次の事象への原因と化していく。この因果律の無限のサイクルもまた、私たちの人生を支配している摂理なのです。
第1章で「心が呼ばないものは近づいてこない」、すなわち人生は心が思い描いたとおりのものであるということを述べましたが、それもこの因果応報の法則によるものです。
私たちの思ったこと、行ったことが種となって、そのとおりの現実をもたらすからです。
また第3章で、心を磨き、高めることの大切さを強調したのも、この因果律に従えば、高められた善き心というものが、善き人生をもたらす要因となるからにほかなりません。
運命と因果律。その二つの大きな原理がだれの人生をも支配している。運命を縦糸、因果応報の法則を横糸として、私たちの人生という布は織られているわけです。
人生が運命どおりにいかないのは、因果律のもつ力がそこに働くからです。しかし一方で、善行がかならずしもすぐに善果につながらないのは、そこに運命が干渉してくるからなのです。
ここで大事なのは、因果応報の法則のほうが運命よりも若干強いということです。
人生を律するこれら二つの力の間にも力学があって、因果律のもつ力のほうが運命のもつ力をわずかに上回っている。そのため私たちは、もって生まれた運命でさえも・・・因果応報の法則を使うことで・・・変えていくことができるのです。
したがって、善きことを思い、善きことを行うことによって、運命の流れを善き方向に変えることができる。人間は運命に支配される一方で、自らの善思善行によって、運命を変えていける存在でもあるのです。』
『もう一つ。逆説的ですが、いくら修行に努めようが、私たち凡夫はついに悟りに達することはできないだろう。普通の人間が悟達の境地を得ることはしょせん不可能である。このことも私は痛感しました。
得度式のとき、私は導師から、十ほどの戒律を守れるかと聞かれました。戒律を「よく保たんや」と問われ、私か「よく保たん」と答える。それで初めて得度が認められるわけです。そのようにして持戒を強く誓い、お坊さんのはしくれに加えてもらったのですが、にもかかわらず、私はおそらく完全には戒律を守ることができないと思います。
どれほど持戒に努め、精進を重ね、何百時間座禅を組もうと、私はついに悟りに届くことはできない。私のように意志か弱く、煩悩から完全に離れることができない人間は、心を磨くためにいくら善きことを行おうとしても、私欲を完全になくし、つねに利他の思いをもちつづけることはできないでしょう。どれほど持戒に努めても破戒から逃れられない。私を含め、人間とはそれほど愚かで不完全な存在なのです。
しかし、それでいいのだということも私はよく理解しました。そうであろうと努めながら、ついにそうであることはできない。しかしそうであろうと努めること、それ自体が尊いのだということです。
戒めを十全には守れなくても、守ろうとする気持ち。守らなくてはいけないと思う気持ち。守れなかったことを真摯に自省、自戒する気持ち。そうした思いこそが大事であって、そのような心を持って毎日を生きていくことが、悟りに至らないまでも、十分に心を磨くことにつながり、救いにも通じる。そのことを私は、得度や修業によって信じることが出来るようになりました。
神や仏は、あるいは宇宙の意志は、何事かをなした人を愛するのではありません。何事かをなそうと務める人を愛するのです。なそうとしてなせない、おのれの力の至らなさを反省し、また明日から、なそうと倦まず弛まず努める。そういう人こそを救って下さるのです。』


「何があっても大丈夫」 櫻井よしこ ★
女性ニュースキャスター第一号の方ではないだろうか?好きでよく見ていました。はぎれよく、ご自身の意見も少し入れながらのニュース報道には、好感が持てました。今でこそ、ニュース番組アンカーウーマンが数人おられますが、最初はいろんなところで苦労なさったのだろうと思う。
この本は、櫻井さんの自叙伝です。ベトナムで生まれ、父親の海外での商売、敗戦によ全てを失っての引き上げ。父親は、仕事で東京に出て行き、やがてハワイでレストラン経営。ご自身のことも含めて、かなり波乱万丈の生活をしてこられたが、それが故に個としての強さを身につけられた。
キャスター当時、そして今に続く、櫻井さんの強さを育てた土壌がわかりました。回り道することこそ人生が面白く、得るものが多いということがわかります。苦しい生活をどう感じるかで人生が全く違うものになることを知りました。その時の支えは、お金でも地位でもなく、「何があっても大丈夫」という櫻井さんの母親のいつも発しつづけている言葉にあるのだなあと思いました。
本当に言葉というものは、強い力を持っています。

「人生は最高の宝物」 マーク・フィッシャー ★

「こころのチキンスープ」 ジャック・キャンフィールド ダイヤモンド社 ★★★
このシリーズで多数の本が出ています。このシリーズは、講演家の著者が、全米各地で出会った市井の人のこころ温まるノンフィクションを集めたものです。人は誰でも1つは、そのような体験を持っているものです。あなたにもそして私にも。だからいくらでも本のネタは尽きないと思いますが、1人の貴重な温かい出来事を披露することで、多くの方の心に火を灯し、そして次の体験が出てくるし、そのように人に接するようになります。
随分前に、小さな少年が始めた親切運動が大きなうねりになった映画がありましたが、あれに似ているとも言えます。はっきり言って泣きます。感じる場所は様々でしょうが、誰でも心打つ物語にこの本で出会うでしょう。決して電車で読まないで下さい。私は涙の処理で難儀してしまいました。静かな所で1人でじっくり、感動を噛みしめてください。

「それでもなお人を愛しなさい」 ケント・M・キース 早川書房 ★★★
逆説の十箇条で有名ですが、その内容については、私の好きな言葉のページに載せています。ドロシー・ロー・ノルトさんの言葉は、親が子育てをする指針になりますが、この十箇条は、人との関係の指針でしょうか。
著者は、夏休みのキャンプリーダーをします。その時作って話したことが、キャンプに参加した子達に感動を与えますが、キャンプの目的とは少し違ったようで、惜しまれながらキャンプを去ることになってしまいます。時は経ち、友人からいい言葉があるよ。君にはきっとうまく理解できるはずだと、紹介されたのが、なんとあの時の自分の言葉でした。劇的な過去との出会いを機に、本になったのがこの本です。
ドロシーさんの「子は親の鏡」と同じような運命をたどった、「人生の意味を見つけるための逆説の十箇条」。生き方、人との接し方の根源に迫る本です。

「天才たちの共通項」 小林正観 宝来社 ★★★
この本は、下のドロシーローノルトさんの言葉に出会ってから読んだ本です。この順番が逆になると、また違った印象になったと思いますが、こういう順番であったことは、私にとって幸運でした。
小林正観さんは、本職は旅行作家なのかもしれませんが、素敵な言葉、素敵な人当たりをなさる方です。生き方・人との接し方についての小規模の講演会をよくしておられ、この本の読後、200人ほどの講演会に参加したことがあります。どても感動する内容でした。
私は、長男に生まれ、親からの期待を一身に受けて育てられましたが、関東出身の親の言葉がきついからでしょうか、いつも反発ばかりしていました。「もっと早く一人前になるように」「もっと立派な独り立ちするひとになるように」と、きつい場面に放り込まれました。甘えん坊の私には荷が重く、できない私を叱る親が嫌で嫌で仕方ありませんでした。
保育園で、蛇事件がありました。西宮の保育園に4歳から電車とバスを乗り継いで1人で通いました。保育園の方針で、最終バス停で親子が離れなければなりません。園に向かって歩き出したら、大きな蛇が階段にいて、怖くて泣いてしまいました。母親は、「行きなさい、怖くないから・・・」と下から見ているばかりで、どうしても蛇を避けていけません。そんな時、その様子を階段の上から見ていた女の子が下りてきて、私の手を引っ張ってくれました。それでやっと園に行くことが出来ました。
その事はもう忘れているのかもしれませんが、今でも彼女とは保育園の同窓会で交流があります。私の初恋ですが、素敵な女性になられ、お金持ちの家に嫁ぎ、3人のお子さんを立派に育てられ、ご自身も代表取締役として会社を経営しています。次男と同じ中高の1年下にお子さんが通われ、不思議な縁を感じます。
大学生の時に家内と出会い、「大丈夫よ、何とかなるからさ」という大きな言葉と、いつもニコニコしているところに惹かれ、1ヵ月後には彼女の家にお邪魔しました。彼女の母親は、うちの母親同様学のある方でしたが、一度も親に叱られたことがないと家内が言うほど、怒らなくて温和な方でした。こんな家庭に育った家内なら間違いないと思い、すぐに一生一緒に暮らしていくことにしました。
うちの子達は、家内に叱られたことはないでしょう。私も経験から、叱っても反発されるだけで何も得るものがないと知っていましたので、ほとんど叱ったことがありません。こんな育て方でいいのかと迷いましたが、叱られる辛さを思うと、どうしても子供を叱れませんでした。
「本当にこれでいいのか?」の答え捜しでこの手の本は、どれだけ読んだか分かりません。とうとう、世界中の方に支持されているドロシーさんの言葉に出会い、そして小林正観さんに出会いました。この本は、私の中では、ドロシーさんの言葉の実践編ともいえる位置付けです。叱るのではなくて、子供を信じる温かい言葉で育てられた内外の偉人について書いてあります。いろんな文献を調べたのでしょうが、エジソンから手塚治虫までの、幼年期・少年期の親、特に母親との関係を詳しく書かれています。

「子供が育つ魔法の言葉」 ドロシー・ロー・ノルト PHP文庫 ★★★
あまりに有名なこの言葉「子は親の鏡」、というかこの詩は、2005年皇太子妃さんの病気回復の記者会見で、披露された。皇太子妃さんの、「公務出来ない病」は、外交官の父を持ち、自身も外務省勤務していた延長で、より大きな意義のある仕事が出来ると思っていたが、皇室の仕来たりにスポイルされた結果なってしまったと私は考えている。
皇太子さんが、記者会見で異例とも言える詩の朗読をなさった背景には、この詩にどれだけ皇太子妃が助けられ、勇気をもらったかを伝えたかったのでしょう。多くの制限のある中で、精一杯の反発に見え、皇太子妃を守ろうとしていると感じました。
このドロシーさんの言葉は、随分前に発表されたものですが、子育ての真実、子育ての指標が書かれており、私の子供と接する時のバイブルになっています。この言葉は、ドロシーさんの手から離れ、アメリカ初め、ヨーロッパ、そしてアジアにも広がり、本人の知らない間に一人歩きしました。一人歩きしている自分の言葉に出会って、著書としてきちんとしたものになりました。
皇太子さんや皇太子妃さんは、北欧の国の教科書に載っていたこの詩を、披露なさいました。たとえ1次限でもこの詩に出会う機会を小学生の時に持てる子達は幸せだなあと思いました。それだけ値打ちのあるものです。
その内容のエッセンス部分は、好きな言葉のページに載せています。

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