Books 2016
Books 兵庫県セーリング連盟ジュニア

2016/12 「通州事件 目撃者の証言」 藤岡信勝編著 自由社 ★
帯に櫻井よしこさんのエールが載っていた。『中国への反撃はここからはじまる! 中国は日本人を残虐な民族として貶める。しかし、本当に残虐なのは彼らである。日本人は今こそ本書を手に取り通州事件についての真実を知るべきだ』
裏帯には、『支那人による、天人ともに許さざる蛮行! 15・6才の娘さんが自宅に隠れていたのを群衆の前に引き出し全裸にした。家から父親が飛び出して来て、娘の上に覆い被さった。保安隊は銃の台座で父親の頭を殴り、脳漿が飛び出した。
十数名の日本人男性を、手の甲に穴をあけて数珠つなぎにした。
銃殺された日本人の遺体に群がって略奪した。等など』
と書かれているが、本文はもっとリアルで酷い。とても本の表に書けなかったのだろう。そんな惨状が書かれている。
amazonの紹介文を書いておく。『1937年7月、通州で、支那人の保安隊と学生による日本人居留民大虐殺があった。 事件の翌日、居留区に入った日本軍は二百数十名の遺体を目にし、絶句した。切断された四肢や頭部、えぐり取られた局部や目、剥がされた頭皮、割かれた妊婦の腹…およそ人倫に外れた、凄惨な暴虐の限りを尽くした痕跡の数々――。 日本では戦後、通州事件は長い間隠蔽され、忘れ去られた出来事となってきた。その「惨殺」がどのように行われたのか、詳細な事実は殆ど知らされてこなかった。犠牲者は亡くなっているし、脱出者は凶行の現場を見ていないからである。 ところが、支那人の男性と結婚し、支那人を装って通州に暮らしていた一人の日本人女性が、群衆に紛れて、蛮行の一部始終を見ていたのである。 学生の青竜刀で斬られた老婆は女性に「かたきをとって」「なんまんだぶ」と、念仏をとなえて息をひきとった。老婆のいまわの念仏が心から離れなかった女性は支那人と離婚して帰国後、ある寺の住職と出会い、五十年間黙してきた体験談をつぶさに語り出した…。 女性の実名を明かしての目撃談は、その場にいた者にしか語れない迫真のリアリティに満ちている。まさに「天網恢々疎にして漏らさず」、支那人の悪逆非道な蛮行が、白日のもとに曝されることになった。女性は真に貴重な歴史の証人になったのである。 本書は、その目撃証言の全文である。
今では虚構であることが明らかになった「南京事件」。南京で日本兵が行ったとされる残虐な暴行殺戮は、実は支那人がやっていた蛮行を日本兵に投影したものであることが、本書を一読されれば得心できると思います。「和をもって貴しとなす」という平和理念がDNAに刻み込まれた日本民族にはおよそ考えられない悪鬼の業です。日本人を残虐な民族としておとしめるため世界にキャンペーンをはる中国に、「通州事件」の真実を突きつけて、いざ、大反撃!』
読んでいて次のページをめくるのに躊躇するほど落ち込んだ。リアルな描写が、今まで読んだ日本の戦闘の本・日本人殺人者の本に書かれている表現を遥かに超えている。たとえ民族が違えど、同じ生きている人間にこのようなことが出来るのだろうかと思うほどです。普通の日本人なら、誰の記憶から消えても自らの記憶には残り続ける行為を、平気でできるものだろうか?どうやらそれが平気でできる民族がいるようだ。そういう本質を知って付き合わなくてはいけないなと思う。

2016/12 「街道をゆく14 南伊予・西土佐の道」 司馬遼太郎 朝日文庫 ★★
毎度おなじみ「街道をゆく」。司馬遼太郎さんが、著書の下調べなどのため現地調査する旅日記です。毎度おなじみの気のおけない旅仲間とともに四国を巡ります。我が家は阪神なので、四国といえば徳島と香川。愛媛・土佐は馴染みが薄い。しかし歴史の濃い場所で風光明媚な場所なので、興味をそそられる場所です。書き出しを引用します。
『県名を選ぶのは、厭味も含め苦心があったらしい。この点愛媛県は幸運だった。「古事記」に、イザナギ・イザナミの夫婦神が国産みをする記述がある。最初に淡路島を生み、次いで四国を生んだ。四国という国については、「身一つにして面四つ有り」とあり、それぞれ男女の人名が命名された。讃岐は男性で飯依比古であり、阿波は女性で、大宜都比売となっている。大宜は大食で、食べものの豊かな土地というイメージらしい。土佐は男性で建依別−雄々しいひと−という名であり、伊予は愛比売で、文字どおりいい女という意味である。
ずいぶん粋な言葉を県名にしたものだと思うが、おそらく松山の教養人が『古事記』を披いて江木に見せ、その判断資料にしたのではないか。「石鉄」式の壮士気分には適わないが、しかし維新に参加した小勢力に平田国学の徒があり、かれらの間で『古事記』が『聖書』のようにあつかわれていた。その聖なる書に拠っているということで、江木が採用し、太政官が許可したのであろう。「いい女」などという行政区の名称は、世界中にないのではないか。
「伊予へ行きましょう」と、須田画伯に電話して日どりを決めたあと、愛媛県地図をながめた。松山という地名は、秀吉のころここに城と城下をつくった加藤嘉明が、正木(松前)の城からいまの松山城の丘に城を移しだのだが、赤松の美しさを見て松山と命名したといわれる。
漱石がここの中学校につとめていたころまでは松の翠が城下町の都市秩序の主張になっていたが、いまの松山市は緑がなくなり、大阪の小型のようになった。
大洲へ行ってみようと思った。そこから宇和島へ出、次いでその東方の高原ともいうべき台上を東へゆき、土佐境いをこえて四万十川の上流に出、西土佐の山々を川ぞいに経て土佐中村まで南下してみたい、と思った。
「伊予といっても、山ばかりです」「冷えますか」と、画伯が電話口でいった。「しかし六月ですから」。暑いさなかの旅になるかもしれません、と言い添えた』
ゆるい感じの旅ですが、訪問する歴史遺産は素晴らしく、地図に「訪問したい場所」としてチェックを入れながら、楽しく読ませていただきました。

2016/11 「海上護衛戦」 大井篤 角川文庫 ★★
海軍で海上護衛総司令部参謀の職にあり、シーレーン(海上交通線)確保の最前線に立っていた著者が、戦後赤裸々に当時の日本軍の動き綴った体験記です。戦闘といえば、どうしても華やかな戦闘シーン・攻城の場面、近代戦では危険を顧みず果敢に突っ込んでいく勇敢な戦闘機などが思い出されるが、その影には優秀な武器・練度の高い戦闘員はもとより、武器を戦場に運ぶロジスティックスこそが勝敗を左右する。戦闘シーンの太平洋戦記はたくさんあるが、地味であるがとても重要であるシーレーン防衛・ロジスティックスの現場担当・総括者として働いた筆者の体験記こそ、後世に残すべき貴重な資料です。初めて読む海上ロジスティックス面から見た先の大戦なので、興味深く読ませてもらった。
日本人は、大和魂・正々堂々・ルールを守るというところに強く生きる「道」を見て、生き方の芯を持つ国民だと思う。対して米軍はそうではなかった。大西洋戦線で、ドイツが戦争法では禁止されている商船攻撃を推進し、アメリカ〜ヨーロッパへの貿易・武器搬入が滞り、ドイツ有利で戦線が広がった。
それに習ったのか、アメリカ海軍も優勢な日本軍の勢いを削ぐため、東南アジアからの資源搬入を止めるべく、潜水艦による無差別商船攻撃を始めた。当初、ヨーロッパ戦線への負担もあり、全面的に太平洋戦線へ艦船を振り向けられなかったマイナス面もあるだろう。
僕自身、ヨットレースを高校生の時から楽しみ、ジュニア協会の理事として数々の全日本選手権・世界選手権最終選考会と関わって来たが、本部船に乗りレース委員長としてレースに関わるのは地方ローカルレースのみで、大きな大会になるとレース会場と折衝し、レース委員長を選び、医療・広報・タイムスケジュールなどの裏方トップをすることが多かった。
つまりロジスティックスがしっかりしていないと、表で選手やレース委員長が踊れず、観客・親御さんも楽しめない。そういうことを身をもって体験しているので、著者が勤務した「海上護衛総司令部」の重要性を知っている。でも華やかな「連合艦隊」メインの組織となっている旧帝国海軍では、どうしても二線級の艦船・引退した戦闘艦船が「海上護衛」に振り向けられ、資源逼迫により生産性は落ち、品質が劣化し、「連合艦隊」の戦闘力を蝕んでいった。そんな本当の敗戦原因を語った一冊です。

2016/11 「戦争輸出国アメリカの大罪」 藤井厳喜 祥伝社新書 ★
帯にも書いてあるが、「南沙諸島・ウクライナ・アラブの春・IS・アルカイダ・イラク戦争・太平洋戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争・・・地上の戦争・紛争の原因は、みんなアメリカが作った!」の通り、CIAなど諜報機関を使って諸外国に親米政権を作ろうと、あるいは反米政権を潰そうとした行動が、潤沢な資金故その勢力が強大化しすぎて、返ってアメリカに敵対する勢力に育って行き、そして戦争や紛争を起こしている。
アメリカは政府というより、巨大資本がその利のためアメリカという国を動かし、その決定に大きく関わり、紛争〜武器〜利益という構図になっていると具体例を上げながら説いている本。

2016/10 「仏さまの履歴書」 市川智康 NaMBOOK・水書房 ★
目次・第1章・ご本家の仏たち 釈迦牟尼仏・阿弥陀如来・薬師如来・毘盧遮那仏・大日如来・多宝如来 第2章・分家の仏たち 聖観世音菩薩・白衣観音・千手千眼観音・馬頭観音・・・ 第3章・ご本家を守る仏たち 不動明王・五大明王・愛染明王・大梵天・・・
全国の寺院を巡っていると、多くの仏様に出会えます。多数の仏様がいるので、それぞれがどういう関係性を持っているのか、僕のような素人にはわかりにくいです。毎度調べても、また忘れてしまいます。そのため、仏様の辞書として近くに置いて、都度見るようにしています。お姿の写真が載っており、実際に見た仏様の写真と見比べながら、その特徴が少しでも頭に入ればと思っています。

2016/10 「国民の終身」 監修:渡部昇一 産経新聞出版 ★★
戦前の「小1〜3年生の修身の教科書」を再現し、読みやすく現代語版も書かれた本です。最後に、「教育勅語」も旧仮名遣いと現代語版で収載されており、戦前の道徳教育が垣間見える秀作本です。
小学生時代に「道徳」という科目を習いました。国語や算数と違い、昔話のようであった印象が残っており、たまに校長先生が教室にやってきて授業をしたりするので、気に入っていた科目でした。月曜日の1時間目という印象があり、全校朝礼の後、週の最初の授業だったように記憶しています。小学校低学年の時だけあったように思うのですが、記憶が定かではありません。
そこで、「ちんおもうに・・・」という言葉が出て、みんなで大笑いしました。「ちん」は天皇のことだとわかりましたが、その他は記憶に残っていません。おとなになり、「ちんおもうに・・・」が戦前の教育勅語だったのだとわかり(授業中にちゃんと先生が教えてくれたのだと思うけど)、全文を読む機会があり、素晴らしい言葉だなと思いました。
日本人の生き方・人の生き方のど真ん中を突いた言葉で、「勅語」や「朕思うに・・・」でわかるように、天皇からのこれから「教育」を受ける、「学び」を受ける児童・生徒に対するものです。
父によると、戦前は全員暗記させられた言葉です。知識や技術は、時代とともにどんどん進み、素晴らしい発明品が生み出されるが、それを使う者が使い方を誤ると、人間に対して大きな損失を招きます。
「教育勅語」は、使う側の人の心を誤らないように、「何のために学ぶか」の哲学です。それに興味を持つと、戦前の「道徳」はどんなものだったのか、「修身」・・・「身を修める」授業に興味が行き、現代文付き教科書を買おうと思いました。

低学年修身教科書は、ひらがなは使われておらず、1年生はほぼカタカナだけで、学年が上がるに連れ、簡単な漢字が混じって行きます。

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序文・・
「修身」は人間としての基礎を教えている。国があり、家があり、自分がある。「修身」という言葉が普及したのは、徳川時代に儒学が普及し、四書(『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』)が各地の藩校などで読まれ、その中でも『大学』の中の教訓を「修身・斉家・治国・平天下ごという言葉に要約したものが、主として武士階級の人々に記憶されるようになったからである。
この『大学』の言葉は支配階級の人たちの心がけの順序として教えられたのであった。天下を治めようとするなら、まず自分の国(領地)をよく治めなさい。自分の国を治めるには、まず自分の家をよく平和に保つように斉えなさい。自分の家を斉えるには、まず自分自身が修養して立派な人格を作らなければなりませんということである。これは朱子学のエッセンスとして受け取られた。
中江藤樹(1808〜48)は11歳の時、初めて『大学』を読み、「天子ョリ庶人ニ 至ルマデ、回一コレミナ修身(身ヲ修ムル)ヲモツテ本トナス」というところに至るや、深く感嘆して涙を流したという。それは徳川家康が亡くなって2、3年後の話である。
当時、庶民心天子も、人間としての基礎になるのは同じこと、つまり修身なのだと感奮したのである。そして彼自身は近江聖人といわれる人物になったのだった。また荻生狙徐(1666〜1728)は少年のころ、南房総に父と共に流落しており、学問の師となる人もいなかったが、たまたま父(将軍綱吉の侍医だったが流罪)の持ち物の中に『大学諺解』があった。
諺解というのは和文の注釈である。彼はこの本1冊を12年間読み続け、そのため後に江戸に戻ってみると、他の漢籍を注釈なしに読めるようになっていたという。こうした逸話が伝えられるほど、『大学』は普及しており、その「経一章」に述べてある修身の大切さを学んだのであった。

諸外国から称讃された教育勅語
明治維新によって藩校はなくなった。明治5(1872)年に「学制」頒布がなされ、その時の指令書(『被仰出書』)の中にも「身ヲ脩メ智ヲ開キ才薦ヲ長スル」ことの重要性が指摘されている。そして修身科で「修身口授」があり、教師が口でよいお話を聞かせることにした。しかし実際には欧米の新知識を与えることに熱心であった。小学校の先生を作るために幕府の昌平膏の跡を師範学校にしたが、その指導者はアメリカ人スコットであった。
その後。明治12(1879)年の「教育令」は自由を重んじ、放任をも認める感じであり、授業を視察された明治天皇が「これでよいのか」と心配されたという話も残っている。それで明治14(1883)の「小学校教則綱領」が出され、修身が各教科の首位に置かれたが、実際には格言や史実についてよい話を聞かせ、作法を教えることであった。
そうしたやり方ではまだ不十分があるということから、憲法発布の翌年の明治23(1890)年に「教育に関する勅語‘いわゆるー教育勅語」が下賜された。この勅語にはここで立ち入ることはしないが、誠に立派なもので、明治天皇側近の儒学者・元田永孚と、近代派の学者的官僚の法制局長官・井上毅が中心となってまとめた。
これ以降、アメリカ占領軍の干渉があるまで、日本の道徳教育問題は全く安定していたのである。欧米は道徳教育は主として教会がやることになっていたが、日本では宗派・学説・洋の東西・時の古今を問わず、万人が認める徳目を学校が教えることにしたのであった。
教育勅語は莫・仏・独・漢の訳本も作られ諸外国に配布されたが、どこからも反対・批判はなく、称讃の反響のみがあった。日本の学校での道徳教育は修身と称され、教育勅語に添ったものとなった。欧米諸国では修身に相当するものは、十九世紀末まで宗教教授であった。宗教と分離した道徳教育は、日本が明治5(1872)年の「学制」頒布以来、欧米諸国に先んじ、フランスが1882年以来、公立小学校で宗教科を廃止したのがこれに次いでいる。
教育勅語下賜の翌年(明治24年)の「小学校教則大綱」には、「修身ハ教育二関スル勅語ノ旨趣二基キ、児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ、人道実践ノ方法ヲ以テ要旨トシ……」(傍点筆者)として教育勅語の徳目を並べてある。
これは戦前の修身教授の大綱を確定したものであって、その後、字句の修正があったものの、昭和20(1945)年11月に連合軍が修身、日本歴史、地理の授業停止と従来の教科書の破棄を指令するまで続いたのである(ちなみにこの連合軍の指令は「ポツダム宣言」違反、国際法無視の命令と考えられる)。
明治33(1900)年の「小学校令施行規則」によれば小学校では一週二時間、中学校では毎週1時間、高等女学校では3生まで毎週2時間、4年生以上1時間となっている。私が小学生のころは毎週2時間だったことになる。修身の時間にはたまに校長先生が来てお話しなさることもあった。中学校の時はもう大戦中であり、「修練」というのがあった。これは修身と勤労奉仕の働きぶりを一緒にしたようなもので、他の全学科に相当する比重が置かれていたようである。
小学校の修身の時間についての記憶はほとんどない。本書に出てくる鈴木今右衛門の話は、自分の家の近所のことだから驚いたことがあったくらいである。当時の小学校の教科書は修身も国語も国史も似たようなものだったという気がする。ただ4年生以上の修身の教科書の冒頭には教育勅語がついていた。

よい話は記憶の底にすり込まれる
今年、私は82歳になるが、この年になって幼少時に「よい話」を聞かせることの重要性に偶然気がづいた。それは古い『キング』という雑誌の付録の小冊子を書庫を片付けながら広げた時のことである。そこには大チェリストのカザルスがパリーに住んでいた貧学生のころ、日記を2週ぐらいまとめてはスペインにいる母に送り続けて、母を安心させたという話が書いてあった。
それを見て私はアッと驚いたのである。私が東京に出たのは昭和24(1949)年で、まだ東京の大部分は焼け野原にバラックで、食糧事情は緊迫していた。寮の夕食では米がなく、サツマイモ三、四本と福神漬だけということもあった。もちろん郷里の親はそれを心配していた。それで私は毎日簡単な日記を、たいてい食事の中身を書いてまとめて送った。
また後にアメリカに客員教授で出かけた時は(当時の条件で家族同伴は許されなかった)東京で子ども3人と留守居をしている家内に簡単な日記を送り続けていた。私はこの「日記を送る」という行為を自分で考え出した名案と思っていた。
そうではなかったのである。小学生のころにカザルスの話を読んでいたのだ。私はカザルスの名も知らず、チェロという楽器を見たこともなければ聞いたこともなく、その名も知らなかったが、この話を読んで、「いい話だな」と思ったらしいのである。それっきり私の潜在意識の底に沈みっぱなしになっていたらしい。
ところが自分が敗戦後間もない東京に出て、郷里の母が心配していると思った時、日記を送ることを思いついたのである。
もちろんその時はカザルスの話は念頭にない。
「ああ、こういうのが子どもに修身のような話を聞かせることの意昧なのか」と私は悟った。子どもはいい話を間いた時には素直に感動する。
子どもは善悪には不思議に敏感なところがあり、テレビの物語でも絵本の物語でも、主人公的な者を指しつつ「これは良い人?・悪い人?」と聞くものである。
子どもの時に読んだ話は、その時に感心してもすぐ忘れる。しかし10年も20年も経ってから、人生のある局面においては、昔読んで、感心して、忘れていたような行動を選択するものなのではないか。
昭和17(1942)年2月のジャワ沖海戦で、イギリスの重巡洋艦エクゼター、駆逐艦エンカウンターが撃沈された時、日本の駆逐艦「雷」は四百名以上のイギリスの軍人を救い上げた。敵潜水艦がいるかもしれない危険な海上で、工藤俊作艦長の行ったすばらしい行為はイギリス軍人たちを感激させた。その様子は恵隆之介『海の武士道』(産経新聞出版)に詳しい。
日本海軍は日露戦争の時、蔚山沖でロシアの軍艦リューリック号を沈めた際、上村彦之丞提督は戦闘を中止して海中の敵兵を助けるという国際的美談を残した。これは日本人の誇りでもあり、佐々木信香作詞・佐藤茂助作曲の『上村将軍』という歌になった。駆逐艦「雷」の艦長だった工藤艦長も若いころにこの歌を歌っていたのではないか。この工藤艦長の行為のおかげもあって、戦後もイギリス海軍には反日感情が薄かったという。

普遍・不変の価値
もう何十年も前の話になるが、小学校の校長先生たちの集まりで講演する機会があった。
その後の茶話会で、ある校長先生がこう言われた。
「非行少年が出た場合、その親が教育勅語や修身を教えられた世代の場合は指導に成果が上がりました。しかし親が教育勅語も知らず、修身も教えられていない世代になると手の施しようがありません」と。
確かに戦前は親を殺したり、先生を撲ったりする少年の話を聞いたことがなかった。教育勅語と結びついた義務教育は、確かにモンスター・ペアレントや、したがってモンスター・チルドレンの発生を予防する力があったのである。
今日には今日にふさわしい道徳教育が行われるべきであるが、教育勅語の徳目は時代や場所を越えて普遍・不変の価値があるし、そこに示された徳目を目指して修身に心がけることは、樫遍・不変の価値があると思う。

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この序文に書かれていることが、「修身」の目的であり価値であるり、人を育て他事例である。
1年生の教科書は、大きな絵に説明文が1行という簡単な散文でしたが、2年生になると説明文が長くなる物語になり、3年生ではその物語が、複雑になる。でも教訓的な言葉で終わるのではなく、事実を書いているだけで、それが良い行為とも悪い行為とも書かれていない。授業でその1つを読んで、それを教材に先生を交えて話し合ったり、同じような例を出し合ったりしたのでしょう。
僕が「道徳」の授業が好きだったので、覚えていないが同じような授業風景がそこにあったからかもしれない。

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教育勅語・大意
教育に関する勅語は、明治23年10月30日、明治天皇が我等臣民のしたがい守るべき道徳の大綱綱をお示しになるために下し賜ったものであります。
勅語を3段に分けますと、その第1段には、まず皇室の御祖先が我が国をお始めになるにあたって、其の規模が誠に広大で且ついつまでも動かないようになされたこと、御祖先はまた御身をお修めになり、臣民をお愛しみになって、万世にわたって御手本をお残しになったことを仰せられ、次に臣民は君に忠義を尽くし親に孝行を尽くすことを心掛け、皆心を一つにして代々忠孝の美風を全うして来たことを仰せられてあります。終に以上のことが我が国体の生粋な立派な所であり、我が国の教育の基づく所もまたここにあることを仰せられてあります。

勅語の第2段には、初に天皇が我等臣民に対して爾臣民と親しくお呼びかけになり、我等が常に守るべき道をお諭しになってあります。
其の御趣旨によると、我等臣民たるものは父けに孝行を尽くし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互いに分を守って睦まじくしなければなりません。また朋友には信義を以て交わり、誰に対しても礼儀を守り、常に我が身を慎んで気ままにせず、しかも博く世間の人に慈愛を及ぼすことが大切です。また学問を修め業務を習って、知識才能を進め、善良有為の人となり、進んでこの智徳を活用して、公共の利益を増進し、世間に有用な業務を興すことが大切です。また常に皇室典範・大日本帝国憲法を重んじ、其の他の法令を守り、もし国に事変が起こったら、勇気を奮い一身をささげて、君国のために尽くさなければなりません。
かようにして天地と共に窮ない皇位の御盛運をお助け申し上げるのが、我等の務めであります。
終には、以上の道をよく実行する者は、忠良な臣民であるばかりでなく、我等の祖先が残した美風を表す者であることをお論しになってあります。

勅語の第3段には、前の第2段にお論しになった道は、明治天皇が新たにお決めになったものではなく、実に皇祖皇宗がお残しになった御教訓であって、皇祖皇宗の御子孫も一般の臣民も共に守るべきものであること、またこの道は古も今も変わりがなく、どこでも行われるものであることを仰せられてあります。
以上は明治天皇のお下しになった教育に関する勅語の大意であります。この勅語にお示しになっている道は、我等臣民の永遠に守るべきものであります。我等は至誠を以て日夜この勅語の御趣意を奉体せねはなりません。

2016/9 「青山繁晴の逆転ガイド・その1・ハワイ真珠湾の巻」 青山繁晴 ワニブックス ★★★
独立総合研究所社長の筆者が、IDC(インディペンデントクラブ)会員を連れてのハワイ真珠湾戦争記念施設を訪問した時のライブを文字に起こした書で、ふんだんに記念館内の写真を載せているので、簡単に行けない人のガイドブックになっている。
青山氏によると、真珠湾観光ブックとして旅行の棚に並べられたりして、あまり売れなかったとのことですが、アメリカ側・米軍側から見た「日米太平洋戦争」の展示を豊富な写真を交えて語っているので、ノンフィクションとしての迫力が迫ってきた。
戦後日本は、米軍統治下の数年間に、再軍備できない・軍事大国を思考しない思想教育が行き届き、近隣諸国からの不当な領土侵略に対して、「戦争=大罪」の思想から「泣き寝入り」を繰り返しつつ、少しずつ日本人としてのアイデンティティを削がれ、領土を失ってきた。
この急先鋒は、団塊世代が学生時代に起こしたムーブメント・全学連崩れ世代です。武闘革命により日本の共産化を狙った「ソ連コミンテルン」の残党が日本共産党として思想面を、同じく戦争終了後各地で蜂起し襲撃略奪をした在日朝鮮人が実行部隊として、加えて法曹会に転じた反日弁護士が国連にも出向いて日本を貶める行動を繰り広げている。
加えて、ギャンブルが合法のアメリカのギャンブル総売上・5億円の4倍もの総売上がある日本のパチンコ業界の8割を牛耳る在日が、在日同胞組織を通じて圧力をかけ税金さえあまり払っていない。その上がりを、反日活動に投入し、構成員の3割を占める在日同胞の生活の場・ヤクザに流れ、そして北朝鮮に渡りミサイルに化けて、日本本土をその射程距離に置かれている。
歪められた反日教育の1つに、「日本は宣戦布告なしに卑怯にも真珠湾を攻めたので、2つの原爆を含めた一般市民を含む大きな報復を受けた。米軍は正義で、日本軍は悪である」思想がある。しかし、真珠湾の展示には、そういう文言はない。太平洋を隔てる東西から、勢力を伸ばし、植民地や傀儡国家を通じて領土拡大・影響力増大競争を演じた日米両国が、第一次世界大戦から没落しつつあった英国から、新興勢力争いを演じていた。それが、ついにハワイで激突したというフェアな考え方で展示されている。
更に太平洋戦争序盤、戦艦主義から航空母艦主義にいち早く転換していた日本海軍の強力さ、圧倒的な運動能力で向かう所敵なしだったゼロ戦の優秀さが展示で語られ、日本人さえ驚く太平洋戦争史がそこにあった。

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これは何を意味しているかというと、アメリカはハワイを守るためにこのような大きな砲台を作って、海からの脅威に備えた。なぜこれを展示しているかというと、こういうものが全く役に立たなかったということを、正直に示しているのです。
日本海軍がやってきた時、船ではなく、船は遥か彼方にいて、そこから航空機でやってきたのです。勝ったから勝ち誇るのではなく、ありのままフェアに後世の人のために展示しようとする姿勢が出ています。

「迫り来る災難」 等身大の日本軍兵士がいる。南京を攻略した時の日本軍の写真が飾ってあり、日本軍の中国進出が戦争の開始につながっていくと書いてある。「中国を侵略した」とは書いてありますが、その理由として軍国主義とは一切記されておらず、日本は資源がなく死活的に必要としていたからと書いてある。中国での市街戦、南京を占領した、その時、アメリカの小さなガンボートを日本軍が沈めてしまったので、日本とアメリカの戦争が近づいたと書いてある。南京大虐殺とかの言葉は一切ない。中国が作った嘘について、完全無視している。中国共産党は、この展示の改装を迫りましたが、アメリカは全部はねつけている。ここはアメリカ陸軍の施設です。
日本兵の持つ機関銃は本物です。いかに先進的なものだったか書かれています。オートマチックで、冷やすのも効率が良かったと書いてあります。

「太平洋戦争が始まりました」 ゼロファイター・ゼロ戦が、丁寧な模型で再現されています。細かいタイプの違いが示されています。「海戦において、日本が行った航空機攻撃は誠に革命的であった」と記されている。「日本は、1941年の戦争の早い段階で、航空戦力の潜在力に気付いていた。したがって非常に強力な空母による艦隊を建設し、最も進化した航空機を作った」。さらに「日本は1940年の英国の戦いから学んで航空機を作り、パイロットの技術を向上させていけば、真珠湾を成功裏に攻撃できると確信した」と書いてあります。
真珠湾の攻撃は卑怯とか、軍国主義とか、帝国主義とかは一切書いてありません。海戦において日本が最も先進的だったということだけが書いてあり、中島・愛知・三菱製のゼロ戦を丁寧に説明し、展示しています。

「トラ!トラ!トラ!」 真珠湾攻撃の時の日本海軍の暗号です。攻撃開始を意味します。「我奇襲に成功せり」と置き換えられていますが、本当の意味は別です。日本軍の攻撃の30分前に宣戦布告し、それに対するアメリカ軍の動きに応じて、2つの作戦が立てられていました。迎撃態勢が出来る前に攻撃する「奇襲」と、迎撃態勢が整ってからの攻撃となる「強襲」です。
前者の場合、魚雷投下の対艦攻撃を優先し、後者は急降下爆撃でアメリカの迎撃力を破壊する攻撃を優先する。攻撃隊長は「奇襲」となったと判断し、搭乗機から空母赤城に「トラ!トラ!トラ!」と打電したのです。
日本海軍が撮った、空母赤城から第一陣が出撃する前の最後のミーティングの写真を展示しています。連合艦隊司令長官・山本五十六海軍大将の写真を、尊敬を込めて展示しています。そして、山本大将自身の言葉「日本は戦術的な成功にも関わらず、アメリカの空母を1隻も沈めることができなかった。更に艦船の大事な修理施設・燃料の保管施設を破壊することができなかったので、やがてそれは日本の破滅につながっていく。第二次攻撃を行わなかったのが大きな失敗だった」が英訳され記されている。

真珠湾展示館の入口に立つパネル 「アジアで紛争が吹き荒れていた。古い世界の秩序が変わりつつあった。2つの新しい力、即ちアメリカ合衆国と日本がそうした世界で勃興し、指導的な役割を果たそうとした。双方は、その国益をさらに追求したが、ともに戦争を避けることを望んだ。しかし、ここ真珠湾で衝突が起きる道に乗ってしまった」

魚雷に木の小さな舵と安定翼が付いているために、着水し海に潜っていくときに潜りすぎず浮くのです。何とシンプルですごい発想でしょう。木の枠だから、着水しスクリューが回りだすと吹っ飛ぶわけです。こうやって真珠湾の浅い水深に刺さることなく、まっすぐ艦艇に向かった。安定翼考案者の海軍中尉の名前が、深い尊敬を込めて書かれています。
どうやって、スパイを使い真珠湾の深さを測ったか書かれています。
「日本はアジアの西洋による植民地支配を終わらせて、ここからアジアの自立を確立しようとし、同時に新しいマーケットを拡げ、資源開発しようとした」と書いてあります。日本の教科書に全く書かれていない真実の祖国の歴史を、日本海軍に将兵を殺された真珠湾のアメリカが、堂々と長年、誰でも来れる現場に掲げ続けているのです。この地図は、インドネシアやインドシナ半島・フィリピンなどにどのような資源があり、そこが全て西洋諸国によって資源ごと握られていたか、客観的に書かれています。
「日本は資源確保のためにアジアに進出し、その進出先はアジアの独立国ではなく、西洋諸国が支配していたところであって、だからこそ戦争になった。西洋諸国が帝国主義でアジアを支配したことを、日本が打ち破ろうとした。そのために衝突になった」と書かれています。

中国国内では中国軍が馬族の兵の首を切り落としている写真を、日本軍が中国の人を殺したと説明をすり替えて展示しています。しかしここ真珠湾ビジターセンター展示館には、そういうことは一切ありません。日本は平穏に南京を占領し、残っていた中国兵を逮捕したという写真です。
ちなみに僕は、中国共産党と日本の自称リベラル派が言う「南京大虐殺」はなかったという立場です。まず南京の出来事は、中国共産党に関係ありません。八路軍(人民解放軍)は、南京にいませんでした。蒋介石の国民党軍がいただけです。イギリス政府の記録によると、国民党軍は、日本軍が近づくとみんな逃げてしまい、イギリス軍は呆れたとあります。日本軍が来ると国民党軍が逃げてしまうのは先の大戦の常態だったそうです。そのため、イギリス軍が日本軍の相手をしなきゃならなかった。国民党軍は、略奪や中国人を奴隷にするなど、自国民衆に酷いことをした。南京から脱出する時、国民党軍はこうした国民党軍の秘密・実態を知っている民衆を惨殺した。それを全て、日本軍のせいにした。
だから毛沢東は、生前南京大虐殺について一度も言及していない。
八路軍は、「略奪しないこと」を軍内に徹底させ、国民党軍の基盤を弱め、八路軍支持を集めていったのです。
世界の現実は、嘘をつく事こそ常識です。うまい嘘ならついたほうがいいと言う価値観が、世界の当たり前です。世界をあるき続けてきた僕の実感は、いくら得であっても、嘘をつくこと自体いけないという固い信念を持っているのは、アメリカと日本だけです。だから、昭和天皇の「アメリカとは戦うな」という秘められたご信念は、正しかったと思う。中国共産党がウソを付くのではなく、長い歴史の中国人の常識です。

太平洋航空博物館 SBDドーントレス急降下爆撃機。ミッドウェイで、この飛行機に負けたと言っても過言ではありません。日本の322機に対し、アメリカは1500機準備していました。ミッドウェイは自分の基地だから燃料も何でもたくさんありますから、日本の機動部隊をおびき寄せました。
一方日本はアウェイですから、空母に戻る以外燃料補給ができません。4日間の戦いで、集中的にドーントレスを飛ばし攻撃しました。アメリカは400機弱が撃墜されますが、日本は10機未満でした。日本側に、300機残っていました。ただ空母・飛龍が火災を起し着艦不能になりました。空母4隻が火災を起こしているから、降りるところがありません。燃料切れで、海上に不時着しました。アメリカは基地が近いから、第7艦隊の潜水艦が全て出て、飛行機から出てきたパイロットを狙い打ちました。有能なパイロットとエンジニア600名を、ここで失いました。その後も日本軍が空中戦を戦っていますが、6隻の空母全てが使えなくなっているので、勝負は決しました。
ミッドウェイの大敗を、海軍は陸軍に知らせなかった。「失敗に学ぶ」か「失敗を隠して顧みない」かの違いです。日本は、主要国の中で唯一、国立の戦争記念館、つまり勝因・敗因分析の中心施設を持っていない。

F104Jの実物が展示されています。先代統合幕僚長は、岩崎さんという方で、F104Jパイロット出身です。F104は、アポロ計画のために作った飛行機で、直進性しか考えていません。それなのに、三菱がライセンス生産しF104Jになると、運動性能が上がり、岩崎パイロットの乗るF104Jが唯一、アメリカの最新鋭F15戦闘機とドッグ・ファイトして、ロックオンしました。その偉業を記念し、岩崎さんのために色を塗り、岩崎を名を入れるそうです。
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以上が、印象に残った部分の引用です。素晴らしい本でした。

2016/9 「街道をゆく16 叡山の諸道」 司馬遼太郎 朝日新聞出版 ★★
天台宗山門派総本山・比叡山延暦寺。天台宗は、他に寺門派総本山・大津三井寺と、盛門派真盛派総本山・坂本西教寺がある。東京のお寺の子で、若い頃比叡山に登り小僧をしていた経歴を持つカメラマンが、伝統ある「法華大会」に出るのを取材しに比叡山界隈を旅する紀行です。
坂本・日吉大社から登る「本坂」、穴太から登り無動寺谷に出る「無動寺坂」、京都側から西塔に登る「松尾坂」、修学院離宮から東塔に登る「雲母(きらら)坂」がある。それらの道に付随する寺社を巡り、謂れが紹介されている。
叡山を拓き、南都(奈良仏教)に対抗する天台宗の一大本拠になる基礎を作ったのは伝教大師・最澄(767〜822)です。最澄は、比叡山の滋賀県側・坂本で生まれ、その地域の3割の住民が渡来系だったので、出自もそうと想像される。半島からの渡来人・「東漢(やまとあらうじ)氏」が、漢字などの学問分野や大陸の先端技術をもって朝廷に奉仕した。大和盆地西丘陵や京都盆地に住んだ中国秦の始皇帝の末裔と称した「秦氏」と同じです。
当時の僧は、官僧で定員が決まっていた。近江の国司(高僧)の私的な弟子になり、官僧の死去により、得度を許されたのが15才であった。僧侶である高等官試験・戎を東大寺戒壇院で受け合格した。
歴代の天台座主の住まいは、坂本の滋賀院門跡である。堅牢な門が石段の上にそびえ、仰ぐものに威圧感を与える。この石垣は、穴太衆の傑作の1つである。道を登ると「慈眼堂」があり、歴代座主の墓所である。慈眼は、信長が一宇も残さず焼いた叡山・坂本の復興に尽力した天海大僧正に贈られた称号で、展開の廟所でもある。
京都左京区一条に、「詩仙堂」という寺院がある。徳川家康の馬廻衆・石川丈山の別荘が前身です。祖父は「長篠の合戦」で討ち死にし、父も勇猛な武者だったので、家康の信頼厚く主君を護る最後の砦である馬廻衆であったが、戦闘参加の機会が少なく、大坂夏の陣で持ち場を離れて敵将の首を2つ取る殊勲を得たが、軍律違反で追放された。徳川政権初期の京都所司代・板倉勝重と交流を持っていたので、徳川政権の間諜とも言われている。
一時、母を養うためとして安芸・浅野家に千石で仕官し、13年間安芸に暮らした。母の死をもって、引き止めにも首を縦に振らず、京都に戻り詩仙堂を開いた。曼殊院の出来る20年も前のことで、曼殊院とも交流し、文人サロンとしても活発であったろう。
叡山は、「三塔十六谷」と言われる。中世の叡山のあり方は、西洋風に言えば総合大学で、三塔(東塔・西塔・横川)が3学部・三大学閥に当たり、谷という学科・小学閥がそれぞれに下がっていた。東塔(北谷・南谷・西谷・東谷・無動寺谷)、西塔(東谷・北谷・南谷・北尾谷・南尾谷)、横川(般若谷・香芳谷・戒心谷・解脱谷・兜率谷・飯室谷)。これらの谷々に、かつて三千坊と呼称された多くの僧坊があった。十六谷の殆どが、琵琶湖と京都盆地を南北に隔てる比叡山の稜線の東側(琵琶湖側)にある。谷に住むと、冬の北西風が谷に入らず暖かい。横川に、元三大師(慈恵大師・良源)が住んだ定心房(現在・元三大師堂・四季講堂)がある。干した大根を米ぬかと塩で漬ける「たくあん」は、江戸初期の禅僧・沢庵が発明したとされるが、品川の東海寺を開基した時、関東で広めたからその名がついたのかもしれない。
当時、江戸は田舎と違い米を食う町であった。田舎では米を作りながら容易に米が食えず、精米していなかった。精米して白米にして食べるのは、三都(江戸・京都・大坂)であり、それまで出なかった脚気という病気が流行り、田舎に帰ると治ると言われていた。
この「たくあん」の発祥は元三大師であるので、当時の叡山は、三都並に白米を食べていたようだ。
「無動寺谷」は、叡山の荒行「千日回峰」行者が庵を結んできた谷で、現在もそうである。千日回峰行は、無動寺谷の荒行といえる。無動は不動と同義語である。この谷に、不動明王を本尊とする無動寺があるのは、不動明王が大日如来に代わって、行者を護るとされてきたからである。無動寺谷は、不動信仰の谷とも言える。不動明王は、釈迦の仏教には存在せず、密教の成立とともに「大日経」に登場する。明王の明は、明呪(みょうしゅ)のことで、呪いの文句という意味で、密教で言えば「真言」のことです。真言は、宇宙の深奥から発せられる宇宙の本質そのものの言葉を言う。呪・神呪・密呪・密言という熟語もある。明王とは、呪術力の最も優れた存在ということ。
仏教の創始者・釈迦は、呪術を嫌い、教説に明呪・真言のたぐいは入れなかった。死後数世紀を経て、真言密教という非仏教の教理が仏教に入った。
釈迦の教説は、仏像を用いなかった。偶像に無縁で、キリストやマホメッドに似ている。俗世の貴賎が人間の本質とは何の関わりもなく、平等を説いた点でも似ている。釈迦入滅後、仏教が伝播した地方の土俗的なものと習合し、仏像が出来、バラモン教とも習合していく。しかし、土俗の呪術そのものを体系化した密教の成立ほど、釈迦の原理の様相を変えたものはない。それでも密教は、バラモン教のようなカースト制を教理に持ち込まず、即身成仏という形ながら、解脱を究極の目的とした点で、仏教と同心円である。
不動明王は、主人・大日如来の命で遠くまで使いに行く少年の姿で、当時密林が多く、密林には猛獣や毒虫が多かったので、両手に剣とロープを持っている。猛獣や毒虫を降す呪文を心得ていたのかもしれず、忿怒の形相も猛獣を脅す為であったのかもしれない。
中国が仏教を受容したおかげで、周辺諸民族に伝播した。南方では釈迦盧遮那仏を祀り、北魏は弥勒、チベットは歓喜仏、満州ツングース族の愛新覚羅(あいしんかぐら)族は文殊菩薩を敬し、その音から部族名に満州という文字を当てた。五大明王の中で、忿怒の相の仏様を敬愛したのは日本だけである。
その理由は分からないが、日本の原始的山岳信仰が密教と結びつき、それにより山岳仏教が古くから盛んだった。「験者」と呼ばれる行者が、平安密教風俗として一般的だった。大和の大峰山、出羽の羽黒山などで修行した者が、正規の僧でないながら、街に降り、貴賎の求めに応じ、密教的な修法や加持をし、病を治したりした。験者は、医者の数ほどいて、彼らを守護する不動明王ゆえ、不動信仰が広まったのであろう。
忿怒の相を仰ぐだけで雷に撃たれる思いがし、威光を感じさせる。不動さんの口上を聞いているだけで、仏罰の恐ろしさとご利益の大きさを感じさせる。
弁財天は、インドの土俗神で、元々河を司る女神である。仏教以前からのインド思想に、万有の根源を梵天とする考えがあり、梵天の妃が弁天である。仏教に引き継がれ、帝釈天などとともに仏教の守護神になった。日本に来て、音楽や財福の徳を持つとされた。
叡山に「公人」と呼ばれる者がいる。武家用語の「下人」は、厩の雑役夫や輿を担ぐ者もこれに入るが、私的な下人ではなく、公であるお上の雑役に従事する者を「公人」と呼ぶ。
室町幕府の場合、「公人・朝夕人」と呼ばれた。江戸時代、「公人」は継承しなかったが、「朝夕人」だけ継承した。八万騎と言われる徳川の旗本の中に、朝夕人という世襲職を持つ家は、「土田氏」一軒しかない。将軍の溲瓶(しゅびん)を持って、背後から付き従うだけで何もしない。将軍が「朝夕人」と呼ぶ。「小便がしたい」という意味である。朝夕人は駆け寄って平伏し、筒状の尿瓶を頭上に差し上げる。
「公人・朝夕人・土田氏由緒書」という本があり、鎌倉将軍の尿もとったと言い、領地が美濃にあった。尾張の織田信長が勃興してくると、家の由緒を述べて信長に仕え、その尿も取った。代々天下人の尿を取る公人である。
「莊子」の達成編に出てくる木鶏(もくけい)の話。ある王が、家来に闘鶏用の鶏を飼わせ、訓練させた。10日目に「鶏は出来上がったか?」と聞くと、「未だし。空威張りで気を頼んでいます」と頭を振る。さらに10日して聞くと、「未だし。相手の声や影にさえ向かっていこうとする気勢を示しています」。更に10日たって聞くと、「なお疾視して気を盛んにす(相手を睨みつけて、大いに気勢を上げている)」。それから10日経ち、「出来上がりました。これを望むに木鶏に似たり」と答えた。
叡山全山焼き討ちは、信長の中で密かに決断され、俄に実施された。実施部隊は、叡山の東麓から駆け上った明智光秀の軍で、その経路は、無動寺谷道です。信長が頭角を現すのは、1560年桶狭間合戦からで、叡山焼き討ちまで11年しかない。無理をして勢力を拡大したので、この時期の大小勢力は、全て信長の敵だった。大坂・本願寺の攻囲に多数の軍勢を取られ、浅井朝倉勢を近江で打ち負かしたといえ、まだ京にまで及ぶ勢力を保っており、叡山も侮りがたい武力を持っていた。「叡山に弓を引けば神仏が祟る」気分が一般にあり、山法師はそれを無上の強みにして暴れまわっていた。浅井朝倉軍の一部が叡山に登り、堂塔を一大要塞としていた。周囲の状況は、信長不利になっており、甲斐の武田信玄が上洛に動き出したのを見て、大和の松永弾正が織田方から寝返り、信貴山に籠もった。
更に悪化した上京に、信長は叡山の中立を打診した。しかし叡山は、イエスともノーとも態度を示さなかった。北近江で活動していた木下藤吉郎軍を転用し、叡山北部に置いた。東部は明智光秀に担当させ、明智軍は無動寺谷を登り、集団虐殺をした。光秀は好んで大虐殺を実行したのではないだろう。几帳面な性格ゆえ、洞窟を含め探索が丹念であった。
それに対し、横川谷を含め北部を担当した木下軍は、職務をいい加減にやった。この方面に逃げたものが助かったと、叡山では伝承されている。2人の人間を考える上で、その性格の違いは深刻な課題を含んでいる。
法華大会の役割に、「方眼」「法橋」という役割が載っている。これは奈良朝の僧位の1つで、平安朝まで使われたが、次第に俗人に与える僧位になった。江戸時代、将軍に接する職として、儒者・医師・絵師などがあり、扱いを特殊にした。彼ら技能者は、本来卑しい者で、殿中で将軍に直接講義したり出来ない身分である。
彼らを「方外」の人として、僧位を与えた。俗世間を離れた人なので、殿中のどんな場所にでも出入りできるとした。官位も、大名や旗本に準ずる位を与えた。よって、江戸時代の医師は、法体をしているのである。

2016/8 「崩壊 朝日新聞」長谷川熙 WAC ★★
著者は、朝日新聞きっての敏腕老記者で、週刊誌AERAで定年退職し、フリーとして活躍されている。「従軍慰安婦」捏造・「虚報」の数々、戦前からの朝日新聞を研究し、吉田清治の虚報・ゾルゲ事件などを検証し、「日本人の文化に人体の一部を食べる習慣はない」等、客観的な解説を交えて説明している。
朝日新聞が個別虚報を生む土壌も書かれ、社内のイデオロギー勢力争いにより拡大飛散していく体質にも言及されている。吉田清治のフィクションを検証なしに社論として取り上げ、他の新聞社が裏取りできないことから真実と思えず与しなかったのに、ただ一社突っ走った朝日新聞。それを武器に反日勢力(弁護士会・左翼・共産党・社会党・・・)が群がって中国・朝鮮に売り込み利益を得、国際機関にまで売り込んでいる。言論の自由は保証されるものの、ウソを広めるのはダメでしょう。
従軍慰安婦問題がウソであったことを公式に認めた朝日新聞であるが、英語版には以前の表現のままで、その後の朝日新聞発のネタは反自民・反保守・親革新リベラル反日のものが目立つ。僕を含め一般読者は急速に朝日新聞から離れ、コアな反日革新読者の機関紙に成り下がって行くように思う。もう潰れないとダメだね。

2016/6 「レインツリーの国」 有川浩 新潮文庫 ★
「図書館戦争」「阪急電車」「県庁おもてなし課」などの小説で有名な売れっ子作家の作品です。映画館に家内とロードショーを観に行った時、予告編でこの小説の映画化作品を見て気に入り、後日観に行きました。主演の西内まりやさんが、とても綺麗で映画の内容とともに気に入っちゃいました。
こうなれば原作を読みたくなるのが人情というもので、文庫化されたので手に取りました。当然内容は映画と少し違います。中途難聴者の主人公「ひとみ」が、自分の障害を気にせず、自分らしくいきいきと文章表現できる場所として、「レインツリーの国」というウェブサイトを開設します。
一方、大阪出身で東京に出て働いている「伸」は、ふと過去に読んだ小説「フェアリーゲーム」のエンディングが気になります。「お互い信じ合い、二人三脚で乗り越えてきた高校生カップル。突然、彼女がこのままではずっと逃げまわる人生になってしまうと悟り、何も言わず相談せず彼の前から去っていく。やがて彼も彼女のことを忘れ、全く別の人生を歩んでいく」。
ハッピーエンドではない終わり方が、気になっていたのです。他の方が、このエンディングにどのような感想を持っているのか知りたくて検索すると、「レインツリーの国」に辿り着きました。
そこに綴られていたのは、真摯にそのエンディングへの感想で、「読んだ少女の時は不消化であったが、年齢を積み重ねた今では、彼女が突然彼の前から消えていく選択がよくわかり、自分がその彼女であっても、同じ選択をするだろう」と書かれていた。
伸は、素晴らしいサイトを見つけ、その感想に出会えた喜びを、サイト運営者に伝えようとする。「はじめまして・・・。でも、彼に何も相談せず突然消えてしまった彼女の行動は、男にとってはショックやわ」と関西弁で。
それに対し、ひとみから思いかけず返信があった。そこから、メールでのキャッチボールが始まり、「会って話そう」と提案する。ひとみからの返信は、あまり乗り気ではない。伸は、「性急過ぎたかな?女性が見ず知らずの男に警戒心を抱くのは当たり前のことだ。配慮が足りなかった。これで、メールのキャッチボール自体が切れてしまうのかも?」と落ち込んだ。
だが事情は少し違った。ひとみも伸同様、会って話してみたい気持ちがあり、波長の合う伸を気に入ってもいた。でも、中途難聴者という障害を持つ身体ゆえの戸惑いがあった。同級生など、ひとみの障害を良く知っている人との間では問題ないが、それ以外の方とこれまで何度、気まずい関係になってしまったか知れない。会社でも、低音はまだ聞こえるが、高音を聞き取る力が不足していることと、相手の口元をまっすぐ見て、読心術も加えて読み取ろうとする仕草が、「女は無視し、男に媚を売る」と見られていた。
しばらくして勇気を出して、伸に障害を隠して会うことにした。「映画は字幕がいい」「食事は静かな所が良い」など、障害を知らない伸は、理解に苦しむひとみのこだわりに戸惑った。エレベーターに乗る時、ひとみが乗った時に、重量オーバーのブザーが鳴った。伸は最後に乗ったひとみが出てくるのを待ち、エレベーター内の乗客は、降りないひとみに不満の声が上がった。
それに気づかないひとみを、たまりかねた伸が引っ張りだす。「別の誰かが降りたらええねん!みたいな態度は酷いんじゃないか」と声を荒げた伸に驚き、ひとみは「ごめんなさい、重量オーバーだったのですね」と深く頭を下げた。その時、長い髪がハラリと下がり、耳の後ろに隠れていた小さな補聴器が見えた。
あっけにとられ、酷いことを言ってしまった自分に怒り、どうしていいかわかず呆然と立ちすくんだ伸。「ごめんなさい」とその場を足早に立ち去るひとみ。ここから、「フェアリーゲーム」の小説とパラレルするような物語が始まる。伸とひとみの関係の行方は・・・。
たいてい、小説の方が深みがあって好きなのですが、今回は、映画の展開の方がいいなと思いました。

2016/6 「環境問題は、なぜウソが。まかり通るのか」 武田邦彦 洋泉社 ★★
出勤前の早朝バイクツーリングを楽しんでいる。「家電リサイクル法」の成立で、役目を終えた家電を販売店に引き取ってもらう時に、消費者がリサイクル料金を払うことになった。一見、有意義なシステムに見えた。この法律で収集した販売店は、リサイクル業者にこれを一定料金を払って引き取ってもらう。リサイクル業者はリサイクルするのだが、現実は山に行って捨てているだけ。
僕に素敵な景色を提供してくれた山道が、ゴミ捨て場と代わり、リサイクル業者を道から締め出すために、せっかく道があるのに入れないくなった。あるいは、不法投棄を防ぐために、無粋なネットが張り巡らされ、景観が台無しになった。地元は、不法投棄パトロールまでしている。
この現実を知り、天下の悪法だなと感じて、リサイクルの現実を知ろうと、武田さんの著書にたどり着いた。
エコや危険など、雰囲気だけで、科学的な裏付けや、数字的な実績を検討せずに、特定の業界や人物に利益が上がるからということで、その特定の業界が、ウソとわかっていながら仕掛け、実績が上がらないままズルズルと続けていることが、世の中に多い。そんな現実を、科学的・数字的アプローチで、著者が白日のもとに出す、目からウロコの書です。
石油危機を経て、「石油を大切に使わなきゃ、いつか枯渇する」という恐怖のシナリオが描かれた。「ペットボトルをリサイクルすれば、石油の無駄遣いを減らせる」と始まったペットボトルリサイクルですが、実際にはリサイクルすればするほど、洗浄・再加工に、新しいペットボトルを作る以上の石油が使われ、むざ使いになっている。
でもリサイクル業者の利権はあり、容易に止められず、「リサクルしている」という消費者心理も働いて、ズルズルと続けられている。
スーパーの袋は、石油から他の石油製品を作った後の残りカスで作られていた。これが出来た時は、捨てられる石油カスが減って良かったのに、「石油の無駄」の標的になり、またただ燃やされるだけになってしまった。
ゴミ分別が始まって久しいが、当初の計画では、家庭で分別してもらい再利用できるものを取り出す計画だったが、取り出してから純粋な物質に戻す過程で、これまた新しく原料を作る以上の手間がかかり、結局エネルギーも無駄が増えるだけで、高価なものになってしまった。
よって、別曜日で収集された分別ゴミの行く先は、同じ焼却炉で、同じく燃やしているだけという有様になっている。一旦始めたゴミ分別を、止められず、無駄なゴミ分別が家庭では相変わらず続けられている。
随分昔に、「ダイオキシンが猛毒なので、焚き火禁止」が、声高に叫ばれたことに疑問を持ったことがある。今まで何世代も数千年間、人類が焚き火をしてきたのに、特に大きな被害が出たことがない。「焚き火の番をしていた人が倒れて亡くなった」など、皆無です。
これも真っ赤なウソだそうです。ベトナム戦争中の米軍から撒かれた枯れ葉剤によって、ベトちゃんドクちゃん双生児が生まれ、社会的問題になったが、双生児はこの地域に昔から一定割合で生まれており、枯れ葉剤散布以降も、特に割合が増えていないそうだ。
これによって、猛毒でもないダイオキシンが犯人になり、焚き火禁止にまでなった。それまで家庭の庭で燃やされていた雑草が、ゴミとして焼却炉行きになり、焼却炉の負担が飛躍的に増えた。
実は、日本の水田に撒かれていたダイオキシンは、ベトナム戦争時の8倍だったそうだ。日本の美味しいお米と、双生児を作るダイオキシンは、大きな矛盾でしかない。ダイオキシンを浴び続けている焼き鳥屋のオジサンは、健康を害したりしていない。
公害で海が汚れ、漁民の生活を圧迫した。その生活の場を作るために出来たのが、「ちり紙交換システム」だった。一定の利益があり、安定した生活が出来たのだが、古紙の価格の乱高下が、製紙会社の経営見通しを安定させなかった。そこで、自治体が市場のニーズに左右されない一定価格で、収集するようになった。これにより、「ちり紙交換」業者は失業してしまい、役人の利権になってしまった。
リサイクルなどの利権を温存・推進する金科玉条は、「地球温暖化」です。「CO2排出量が増えると、地球温暖化する」「温暖化すれば、北極・南極の氷が溶け、海水面が上昇し、海に沈む国が出てくる」。一見まともな理屈に見えるが、CO2よりよっぽど大きく地球の気温に影響するのが、太陽の黒点活動で、現在はゆっくりと気温が下がり、氷河期に向かっている。たった50年の気温変化を見て、温暖化と決めつけているが、1000年スパンでみれば全く違って見えるし、気象学者は数万年・数十万年スパンで見ているので、この理屈のウソは学会の常識です。むしろ温暖化させないと、あと3000年で日本列島は低温下で住めなくなってしまうそうだ。
各種データを載せているので、目からウロコの書でした。

2016/5 「日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず」加瀬英明序、藤井厳喜・稲村公望・茂木弘道著 ★★★
第二次世界大戦中アメリカ大統領だっったルーズベルトの前の大統領はフーバー
だった。そのフーバー大統領の回顧録が、「日米決戦はアメリカ側から仕掛けた」
「ルーズベルト大統領の中枢に入り込んだコミンテルンの影響で日米開戦に進ん
だ」「日本が真珠湾奇襲する以前に、中国に送り込んだアメリカ空軍機で日本を
奇襲爆撃する計画が実行寸前だったが、ヨーロッパ戦線からの要請でB24編隊を
ヨーロッパに動かさざる負えず計画は中止になった」・・・
今やアメリカ戦争博物館でさえ、「卑怯にも真珠湾を奇襲した日本」ではなく、
「太平洋を挟んで対峙していた日米はいずれ先端を開く運命だった」と書かれて
いるほど公然の事実をなっている日米開戦の真実が、フーバー回顧録をベースに
3人の識者が解説している。

2016/5 「過去ある女・プレイバック」 レイモンド・チャンドラー 小鷹信光訳 サンケイ文庫 ★
チャンドラーの最後の小説「プレイバック」のチャンドラー自身が映画化に向けて起こしたシナリオです。
ベティは、アメリカの田舎町の有力者の息子と結婚していた。突然の夫の死の殺人者との疑いを夫の父親にかけられた。陪審員も皆父親の言うことに逆らうことが出来ず、陪審員から「有罪」とされたが、判事がこの結果を覆し、無罪となった過去を持つ。
夫の父親は疑ったままなので、その町に居続けることは出来ず、失意のうちのカナダに流れてきた。列車内で知り合った男・ミッチェルに助けられ、バンクーバーの高級ホテルに部屋を取ったベティですが、その夜ミッチェルの自分への欲望を感じ避けた。
ホテル最上階のペントハウスに住むブランドンも、彼女に惹かれる。ブランドンと時間を潰し、ホテルの外に出て自分の部屋に戻ると、ミッチェルがバルコニーで死体となっていた。問題児・ミッチェルは、ホテルの支払いに事欠き、女癖が悪く、周囲に嫌われている。
アメリカでの過去同様の手口で亡くなっているミッチェルの姿に怖くなり、ホテルから退散しようとするが、あいにくアメリカ行きの飛行機は既になかった。途方に暮れるベティに声を掛けたのがブランドンで、事情を聞きベティの部屋に行き、後始末を任せろと言う。
警察・刑事がやってきて、謎解きが始まるのですが、チャンドラーといえば、トレンチコートにハットを目深に被る刑事・フィリップマーローが登場するのが通り相場なのだが、今回はバンクーバー警察の刑事・キレインが登場する。そして・・・

2016/5 「カエルの楽園」 百田尚樹 新潮社 ★★
平和なアマガエルの国が、凶悪なダルマガエルの大群に襲われました。多くのアマガエルは、ダルマガエルの餌になり死んでいきましたが、そこに住んでいたアマガエルのソクラテスはなんとか生き延び、60匹のアマガエルたちとともに、安住の地を求めて旅立ちました。
隣の国、そしてその隣と、巡る国はどこも安住の地とは程遠く、仲間は次々に犠牲になり、ついにロベルトと2匹のみになりました。そして、とうとう平和で穏やかなこの世の天国の地・ツチガエルの国・ナパージュに辿り着きました。
そこに住むツチガエルたちは、穏やかで親切で、今まで通過してきたどの国より素晴らしい国でした。この平和な秘訣をツチガエルたちに尋ねると、多くのカエルは、「三戒があるから」と答えました。「他のカエルを信じろ。他のカエルと争うな。争うための手段を持つな」が「三戒」です。そして、「謝りソング」を毎日歌っています。
物知りのツチガエル・デイブレイクが、朝夕に集会を開き、三戒の効用を伝え続け、ツチガエルたちは、「三戒も守っている限り平和だ」と信じて疑いません。
しかし、それに懐疑的なツチガエルがいます。ツチガエルにしては身体が大きく、跳躍力のあるカエル・ハンニバル3兄弟です。亡くなった親から「イザというときは国を守れ」と言われており、その覚悟をして毎日トレーニングを続けています。そして大鷲のスチームボートが、高い木のてっぺんに留まり、ナパージュ他周囲の国に目を光らせています。そしてひねくれ者のハンドレッドも、「三戒なんて役に立たない」と懐疑的です。
ロベルトは、三戒の素晴らしさに心酔し、これを生まれた国に持ち帰ろうと思います。ソクラテスは、三戒には少々懐疑的です。
ツチガエルの議会で、スチームボートを国から追い出すことが決まり、去っていきます。その直後、隣の国からウシガエルが、ナパージュに進入するようになりました。ツチガエルたちは怯え、議員は「冷静に、三戒がある限り平和は守られる」と言うだけです。最初は1匹だけだったけど、やがて数が増えました。「不毛の辺境の地だから、ウシガエルがやってきてもいいじゃないか」と、デイブレイクは皆に早まった行動を起こさないように、自制を促します。
やがて、更に内陸にウシガエルがやってくるようになり、ツチガエルは怯えました。そこに、ハンニバル兄弟の末っ子がやってきて、手を広げ「帰れ」と言いました。これでウシガエルは帰って行き、ツチガエルたちは大喜びです。でもこれが議会で大問題になりました。「三戒に抵触したのではないか?ウシガエルを刺激したら、戦争になり皆殺しされる」、この意見が通り、末っ子は捉えられ死刑になりました。
その死骸をウシガエルに見えるように木に吊るしたので、平和になると思ったのですが、事態はさらに深刻になりました。内陸にやってくるウシガエルの数が増え、そこにあったオタマジャクシの池が襲われ、多くの子が食べられてしまいました。ツチガエルは怯え、その地を諦めざる終えません。「我々の地は、まだ沢山ある。ウシガエルと話し合いを持てば、いずれ帰っていくだろう。オタマジャクシ事件は、偶発的なことだ」と、デイブレイクは朝夕の集会で皆を諭します。
ウシガエルの横暴は止みません。ハンニバル兄弟が、ウシガエルの前に立ちはだかり、素晴らしい跳躍力を見せ、それに驚いたウシガエルは帰っていきますが、また議会で大問題になりました。「三戒に違反したんじゃないか?ウシガエルを刺激したことが、オタマジャクシの犠牲を増やした」、それが通り、ハンニバル兄弟は捉えられ、目を潰され、足をもがれた。
議会やデイブレイクの思惑はまた外れ、ウシガエルの侵入は、更に激化します。そして・・・
現在の日本の現状そのままの寓話でした。僕は、「憲法9条改正で、自衛隊を国軍化した方が良い」と思っていますが、まさに現在の日本を取り巻く状況を直視せず、楽観的願望意見を垂れ流すマスコミと、それに踊らされている多くの日本人を示唆しているように読めた。

2016/5 「子供の心に届く 励ましの言葉がけ ペップトーク」 岩崎由純 ★
岩崎さんの本が良かったので、2冊目を手に取りました。1冊目は、ペップトークとの出会い・定義・意義・効用・具体例など、講演で聞いた内容の補強でした。この本は「子供に対しての具体的手法」に絞った内容です。ペップトーク作成のドリルもあり、具体的に言葉をペップトークにつくり上げる作業ができました。
小学校の講演で、先生から「この子達にペップトークをお願いします」と頼まれた時、「この子達のことを何一つ知らず、共有の時間も持っていない僕には、この子達に向けたペップトークは出来ません」と応える場面が出てきます。これこそペップトークの真髄じゃないかと思いました。
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『雨が降って気持ちいいなと思う人と、嫌だなと思う人がいる。人によって同じ事実に対する解釈が違う。
一生懸命頑張って練習してきて、大事な試合が来た。対戦相手は強豪校で勝てるわけないと思っていた所、引き分けた。「強豪校と引き分けて大喜び」の生徒と、「あのミスさえなければ勝てた」と監督は残念がる。
コップの中に半分水が残っているのを、「半分もある」と思うか「半分しかない」と思うか。
ペップトークは、どこの焦点を当てるか、ある部分に目を向けるか、ない部分に目を向けるかということ』
『幕末の武士・吉田松陰は、松下村塾2年の歳月で、日本の歴史を変革する人材を多く育てた。
彼の人材育成法の特徴は、一方的に教えこむことをせず、質問を投げかけ、対話によって門下生自身が自発的に考えるサポートをした。
また個別対応を重視し、彼らの強みや長所を見つけることに長けていた。生まれた場所や親のことを話せと言い、「いいところで生まれた。そんな夫婦の間に生まれた子だから、きっと意味があって生まれたに違いない」と。塾生が何を答えても、全て褒めた。
以下の7項目を塾生の心得とした。
1同上
2得意・好き・得手を聴く
3不得手を聞いて触れるな
4付き合う人は、良い所だけ見よ、至誠で付き合え
5悪口・欠点を指摘するな
6良いと思うことは素早くやり、悪いと思うことはすぐやめる。それが勇気
7何でも「良い」と思う』
『映画に学ぶ素敵な声掛け 「ミラクル」 「コーチ・カーター」』

2016/4 「街道をゆく40・台湾紀行」 司馬遼太郎 朝日新聞出版 ★
街道をゆくシリーズの海外版を初めて読んだ。台湾は中国大陸から「化外の地」として国外とされ、どの国にも属していなかった。1624年、オランダが日本との貿易の中継地点として台湾の一部(南部)を領有した。大陸から奴隷として連れてきた漢人を入植させ開発を試みたが失敗し、東部山岳地帯の首狩りの風習が残っている現地人に苦しめられ、30年余りで放棄している。この間に、大陸からの漢人の入植が南部・西部平野部に5万人もあったそうです。
反清政府軍将軍が台湾に入り、ここを反清の拠点としようとした。オランダ軍を追い払うが、清からの圧力で崩壊し清の領土となった。
明治時代に入り、日清戦争勝利により、中国・清は、利用価値の無い毛外の地・台湾を日本に譲渡した。ここから、日本統治時代が始まる。マラリヤなど疫病が蔓延するこの島に、衛生知識・施設を導入し、日本国民の血税を投入し社会インフラを整え、輸出産業として製糖業を筆頭に産業を起こし、現在の台湾の基礎を作っていった。「公」「公平」「規律」を優先する日本人的考えが入り、日本語教育が始まり、漢文書物にはなかった多くの欧米先進国の技術書などを、日本語を通して読めるようになり、格段に教育水準が上がった。
太平洋戦争敗戦で、台湾に蒋介石軍・中華民国がやってきた。「公」から、中国人の基本的考え「私」の優先されるようになり、要職は全て大陸からの人に独占され、本来非常事態に短期的に宣言される戒厳令が、発令されっぱなしになり、超法規的不当逮捕が横行し、台湾知識人は次々に逮捕連行粛清されていった。台湾人は恐怖の時期を過ごし、蒋介石の死によって息子の蒋経国が総統になり、やがて戒厳令が解除され、民主的なものが許されるようになり、外省人(戦後蒋介石軍とともにやってきた大陸漢人)と本省人(台湾に元々住んでいた漢人)との融和が進み、副総統に抜擢された本省人である李登輝が、蒋経国の死により総統になり、その後普通選挙の制度ができ、民主国家になっていく。
この書は、李登輝政権になってまだ数年の時点で、台湾を旅した筆者の旅行記です。現代の台湾とは違い、民主化への過渡期の台湾の姿を著している。
オランダ入植時代、実現できなかった南部荒れ地を、東寺東洋一の烏山頭ダムを築いて大穀倉地に変貌させた八田興一のことも書かれている。蒋介石政権は、徹底的に日本遺物を破壊していった。地元の大恩人・八田興一像のその対象になると思った村民は、いち早く像を隠し、李登輝政権になって再びダムの辺りに設置した。これでわかるように、台湾人は日本統治時代を懐かしみ感謝している。これが現在の親日の原点のようです。
「万善堂」というお堂がある。行き倒れた旅人を村で弔う習慣で、行き倒れ遺体がなかったら、山に入って探すという。目的を遂げられなかった旅人に、無念の気が遺っており、それを怖れた。この習慣の起源が黄河流域に起こり、中国大陸を統一した「殷」王朝BC1600〜BC1000にあるという。卜占が尊ばれた宗教教団王朝とも言われ、死を怖れている。
これは他の本からの知識ですが、殷(商)は鳥を敬愛しており、日本の神社のシンボル鳥居につながるので、弥生時代に日本列島に渡ってきた大陸系民族を、殷の末裔とする説もある。神社は死を穢として嫌い、水で汚れを祓う禊をして神社境内に入る習慣が今に続いている。
この「台湾紀行」によると、西宮戎の舟渡御の神事は、異国人の水死体が流れ着いたら、それを祀り弔うという風習が起源ではないかと言われていると紹介されています。この神事が毎年行われる港で、学生時代から海に親しんでいたので、興味深く読ませてもらった。
東部山岳地帯は、当時日本一の高山(3952m)だった新高山に代表される前人未到の山岳地帯が、平地人の入植を阻んだ。そこに暮らす山岳民族・高砂族は、険しい自然故、お互いの交流があまりなく、小さな部族に分かれ、各部族間の会話さえままならず、著者が旅した時でさえ、日本語が交流語として重宝されていた。この高砂族には、つい最近まで首狩りの習慣があり、多くの首を狩りした者が勇者として讃えられていた。よって太平洋戦争当時、勇敢な高砂族は敵兵に怖れられた。これは、台湾東部〜薩摩隼人〜土佐〜紀州南部という太平洋黒潮の流れに乗って、勇敢な戦士として伝わったのではないかと、書かれていた。
戦国の世・明治維新を通じ薩摩藩が、日本最強の軍隊だったことに続いている。古代〜平安の世でも、薩摩隼人の反乱は、大和朝廷を慌てさせ、日本各地に薩摩隼人の姿を刻んだ隼人石として鎮守石として遺っている。というより、神武東征自体、薩摩・日向・肥後の地からの畿内遠征です。神話ではヤマトタケルが平定したとなっている熊襲も、薩摩の北の地域なので、薩摩の影響を大きく受けていたように思う。
お寺は今でも「おてら」らしい。「寺」は、中国では「渉外関係の官庁」の建物で、仏像・仏典が伝来した時、専用の建物がなかったので、とりあえずここに置いた。以降仏教の建物を「寺」と呼ぶようになったとか。
実際に台湾を作ったのは、17世紀に対岸の福建省や広東省から渡ってきた漢人で、シンガポールのリー・クワンユー首相がオーストラリア訪問した時の言葉を借りれば、「今の豪州人が英国人だと思っていないように、我々も中国人ではありません、シンガポール人です」と同じように、大陸中国人とは一線を画している。ドイツ人もスウェーデン人もゲルマン民族だが、お互いゲルマン人で同じじゃないかと物を売ったりしないのと同じです。
台湾人、国家を持たない時期の民族の悲哀、そして中国為政者の人民や土地を私物化する姿勢・思想を感じた。黒潮を介した日本列島とのつながりを感じさせ、台湾を身近にさせた書でした。

2016/4 「戦争の日本史12・西国の戦国合戦」 山本浩樹 吉川弘文館 ★
僕の先祖・美作菅家党の盛衰が書かれていたら面白いな・・・との軽い気持ちで手に取った。「西国」だから、もちろん最も知りたい中国地方の戦国だけでなく、四国・九州の戦国も描かれている。
このシリーズの特徴だが、「歴史小説」の虚飾は省かれ、大学の卒論のような大量の資料を読み込み、現地視察した地形を頭に入れて書かれた「事実」に偏重した資料的読み物です。
中国地方の尼子・大内を中心にした争いに始まり、その2つの大国に挟まれた狭間から、毛利元就が台頭していき中国の雄となっていく。中国地方では敵なしにまで成長したが、ここに中央から全国統一にひたすら向かう織田信長がやってくる。その先鋒・羽柴秀吉と毛利軍との戦いは、秀吉に塩を送る感じで、毛利軍が傘下に下っていく。
四国では、畿内をも勢力下に置いた三好氏に対し、長宗我部氏が自力を蓄えながらついに三好氏の本拠地でもあった阿波をも平定し、四国統一を成し遂げて行く。九州は、大友氏・龍造寺氏・島津氏などが、伸長を繰り返しながら、下克上あり、大内氏からの干渉ありで、混沌としていた。やがて島津氏が破竹の北上を開始し、大友氏を九州から追い出すまでに全九州を席巻したが、ここにも中国・四国同様に、織田政権の後釜に座った秀吉が、圧倒的強大な勢力を持って上陸し、ブルドーザーのように島津氏を追い詰めていく。
こうして、西国の戦国合戦に終止符が打たれていく。圧倒的な兵数・近代兵器数という、それ以降の戦争の勝敗を決する物量差がモノを言う時代になった。織田軍・羽柴軍が新戦術を持ち込むまでの、知略で勝敗が決する中世の戦国合戦へのノスタルジーを感じながら読み進めた。

2016/3 「風神の門」 司馬遼太郎 新潮文庫 ★★
好きな真田十勇士の中で、もっとも好きな伊賀忍者・霧隠才蔵の物語です。真田十勇士は小学生の頃読み、辻村寿三郎の人形劇も毎回欠かさず見ていた。甲賀忍者・猿飛佐助を中心に各地各界の異端児集団が、真田幸村の下で活躍する物語ですが、猿飛佐助の統率力も魅力ですが、霧隠才蔵により魅力を感じていました。佐助と互角な個の力に加え、ハンサムで孤独を愛し、必要以上に集団を頼らず、隷属せず、自らの力で切り開いていく強さを感じました。
霧隠才蔵は、郎党を連れ京都八瀬を歩いていた。そこで徳川方の集団に襲われた。これを討ち倒したが、どうやら人違いで襲われたようだ。湯治宿に一夜を求め、蒸し風呂に入ると、そこで思いがけず見目麗しい女性に会った。暗がりの風呂での出来事で相手を特定できなかったが、特徴ある甘美な体臭を覚え、それを手がかりに京の街を探索する。
その途中で、豊臣方の浪人集めをする淀君付きの女、猿飛佐助が率いる甲賀衆、徳川方の隠密集団と遭遇していく。その縁で、徳川・豊臣になんの縁もないが、真田幸村の男気に惹かれ、佐助とともに家康暗殺の旅に出る。徳川方・風魔忍者との死闘が惹きつける。
時代は風雲急を告げ、やがて「大坂冬の陣・夏の陣」の戦国最後の大戦争に、関ヶ原敗軍の将と勝ち組徳川方の雌雄を決する第2ラウンドの時代に巻き込まれていく。
司馬遼太郎の忍者物は、かなり以前に「梟の城」を読みましたが、主人公の伊賀忍者・葛籠重蔵同様、霧隠才蔵もとても魅力的に描かれ、痛快な物語でした。

2016/2 「暴力はどこから来たか 人間性の起源を探る」 山極寿一 NHKブックス ★★
世界で初めて霊長類の研究を始めた京大霊長類研究所トップ(世界霊長類研究会トップ)であり、現京大総長(学長)の著者の書です。
NHK・ETVの番組に出演していた著者の話が面白くて、ニホンザル・チンパンジー・ゴリラの生態を研究する学問なのに、ダイレクトに人の潜在行動に結びついており、現代人のそれの起源になっていることを知り、購入した2冊目の本です。
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『人間はなぜ子どもたちまで、相手を抹殺しようとするような強い敵意を抱くようになったのだろうか。
野生のゴリラの間に入って観察できるようになり、私はゴリラの生活をつぶさに知るようになった。そこで見たのは、ある意味で人間よりも道徳的なゴリラの社会だった。ゴリラは弱いもの、小さいものを決していじめない。けんかがあれば第三者が割って入り、先に攻撃したほうをいさめ、攻撃されたほうをかばう。そして、相手を攻撃しても徹底的に追い詰めたりはしない。ましてや、相手を抹殺しようとするほど激しい敵意を見せることはない。敵意をしめすのは自分か不当に扱われたときであり、自己主張をした結果それが相手に伝わればそれですむのだ。ここには明らかに人間とは違う敵意の表現がある。ムシャムカに襲われたとき、私が凍りつくような恐怖を感じなかったのは、ゴリラが抑制の利いた力をしめす能力をもつことを私が感じ取っていたからだろう。
しかし、人間の祖先はかつてゴリラと同じように他の動物たちと共存し、仲間に対しても殺意を抱くような敵対関係はもっていなかったはずだ。ゴリラやチンパンジーと共通の祖先から進化した人間の社会に、なぜ彼らにはない強い敵意が生まれるようになったのか。霊長類、とりわけ人間に近縁なゴリラやチンパンジーなどの類人狼と人間は、五感の能力も食物の好みもよく似ている。つい数万年前まで人類の祖先も、たいした道具も使わずに彼らと同じような食生活を送っていたはずである。だとすれば、彼らと人間の間にこれほど大きな攻撃性の違いをもたらしたのは何なのだろうか。そもそも霊長類や人間の間に見られる争いはどんな原因で起こり、何かその解決の糸目になるのだろうか。もし、人間が他の霊長類と起源を同じくしながら、違う社会性をもったことが争いを激化さす原因だとすれば、それはいったいどのように生まれ、発達してきたのだろう』
『一定のテリトリーを持ち、そのテリトリーを守りながら単独行動する霊長類は、比較的大きなテリトリーを持つオスのテリトリー内に、小さなんテリトリーで暮らすメスがいる。オスはテリトリー内で暮らすメスを回り繁殖行動する。
しかし、より多くの繁殖行動をしたいオスは、他のオスとのテリトリーの奪い合いが起こる。それを解消するために、テリトリーを狭く守りやすくし雌雄ペアを作って繁殖行動に支障をきたさないようにした。このことにより同じ種内の争いが減り、種としての繁殖は優勢になる』
ペア型の生活は、他の肉食獣からの攻撃に対して防御力が弱い。それを強化しようとハーレム型集団で生活するようになった。ライオンでもゴリラでも、ハーレム型の集団を作る動物は、外部のオスからの挑戦を受ける。外部者のオスが挑戦に勝てば、ハーレムの乳児を全て食い殺す。その子たちは自分の遺伝子ではないのはわかっているからだ。子を失った母親は我が子を殺したオスから離れるのではなく、排卵が起き発情期に入り繁殖本能により受け入れる。新しいオスが性交渉を始め、自らのハーレムテリトリーを維持しようと行動する。そして、次にオスが我が子を特定できないより防御力の大きな集団を作っていく。
『インセスト(近親相姦)を回避する傾向は、人間以外の霊長類にも見られる。母親と息子との間の性交渉が起こらないのは、子育てを通じて心理的きずなができるからと考えられるが、子育てに参加しない父親と娘、兄妹間でも起こらない。哺乳類は雌雄ペア(血縁家族)として繁殖してきた。それをもっと強力な集団にするために、ペアが集まり集団を作るようになった。集団生活を送るようになると、集団内の融和のために性交渉が利用され、インセストを禁止しないと融和が進まないから、インセストが起こらなくなっていった。繁殖期に入ったメスはサインを出し、多くのオスが入れ替わり性交渉をする。このことで性交渉ができないオスが集団から離脱するのを防ぎ、集団の防御力を高めている。メスから生まれた子がどのオスの子かわからないので、集団で守るようになる。親子が特定できるのは母子だけで、集団内に複数の母系家族が混在する。ここにインセントが発生すると、より近い同じ母系家族内性交渉が多発し、手段は瓦解する』
『ニホンザルは、餌を取る時の順番が決まっており、その優劣関係は家系間ではっきりしている。娘は母親のすぐ下の順位に入るので、ある家系に属するメスは全て他の家系のメスより優位か劣位になる。この順位を守ることで、争いを回避している』
『「狩猟生活が、男たちの攻撃性を高めたのではないか?」との問に、肯定的な答えは得られていない。男を人類の進化の中心に捉える考え方もあったが、生活活動の中心は狩猟より、穀物果実の採集のウエイトが高く女たちの仕事である。
男の狩猟行動は、女達へのアピール手段であったとの考えがある。チンパンジーは、集団間で闘争する奇妙な特性を人類と共有している。血縁の近いオス同士が協力し、テリトリーをパトロールし、他のテリトリーに侵入しオスを襲い殺してしまう。これは食物の豊かな土地と、繁殖力のあるメスを手に入れようとするオスの繁殖戦略で、人類と共通する』
このように、個〜ペア〜集団と生活様式を変化させる。集団内での秩序を維持するために、餌を獲得する順位ルールができ、性交渉を集団お防御力強化や他の母系家族との結びつき取引材料とするインセント禁止ルールが出来ていく。
霊長類間での争いに負けた人類は、安全な樹上生活から追い出され、草原地上生活に移行した。そこは肉食獣の楽園で、繁殖すらままならず、多産と出産頻度を高める進化を遂げた。
霊長類は、母親が育児を担うので、1頭の子を産めば、その子が子離れする授乳期が終わらないと、次の繁殖期(発情期・排卵)が起こらない。子が2頭になれば母親のみでは育てられないからです。
人類は肉食獣からの被害が多いので他頻度出産に向かい、これによってオスの育児参加が必要になった。そのことで爆発的に種が繁栄するようになったが、育児協力者のオスを確保するために集団内にペア(一夫一婦制)を共存させることとなった。オスはもともと狩猟をメスに見せつけることで、多くの性交渉機会を得て、自分の遺伝子を残そうとする性なので、ペア(一夫一婦制)に相反する。人類の大いなる実験である。

2016/2 「台湾人と日本精神 日本人よ胸を張りなさい」 蔡焜燦 日本教文社 ★★★
大東亜戦争以前の日本統治時代の台湾に生まれ、日本人として育ち、戦況の悪化で志願し航空整備学校奈良教育隊に入隊し終戦を迎えた著者が、戦後台湾に引き上げ実業界で成功し、縁あって司馬遼太郎の台湾取材旅に同行した。司馬氏の「街道をゆく・台湾紀行」の著書で台湾人の中でも名が売れた。そんな経歴を持つ著者が、自分の目で見、体験した台湾・日本・中国人のナマの姿・考え方を披露している。戦後の自虐史観でアジアに対して顔を上げない日本人に、戦前の堂々とした他民族を平等に扱った誇りを取り戻して欲しいとの願いが込められた書です。

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『「大陸から「中華民国」という国名を背負って泥靴で上陸してきた大陸系の人々が支配階級を作り、時に本島人を殺し、時に陵辱し差別した」という下りは、戦後間もない台湾の実情なのだ。
日本ではあまり知られていないが、台湾は蒋介石とともにこの国にやってきた外省人(中国人)と日本統治以前から台湾に住んでいた本省人(台湾人)との間に、複雑な人種問題を抱えている。ところが司馬先生はこのことをしっかり見抜いていた』

『日本の台湾統治 日清戦争によって清国を撃ち破った日本は、1895年(明治28)4月17日、下関講和条約によって清国より台湾の割譲を受ける。下関講和条約第二条は、「清国政府は日本に遼東半島、台湾、膨湖列島を割譲する」と定め、これをもって台湾の日本領有が決定したのである。
日本政府は、すぐさま統治行政機関として台湾総督府を設置し、海軍大将・樺山資紀を初代台湾総督に任命した。そして旅順にあった北白川官能久親王率いる近衛師団が十隻の輸送船に分乗して台湾接収のためにやってきた。1895年5月の出来事である。
一方、台湾では日本への帰属が決定するや、治安は最悪の状態となり、台湾巡撫(清国の台湾行政長官)の職にあった唐景硲一派が「台湾民主国」の独立宣言をした。が、清国政府は日本軍との再戦を恐れ、海軍部隊は大陸に引き上げていく。「台湾民主国」には海軍兵力を欠いた陸軍部隊35000名を中心とした現地義勇兵およそ10万人の戦力しか残されていなかった。
不穏な動きを察知した近衛師団は、台湾北部の基隆港への直接上陸を避けて台湾北東部の湊底に上陸し、陸路を基隆に向けて進撃した。ここで日本車と台湾民主国軍との間で攻防戦が展開されたが、戦場に駆けつけた黄義徳の率いる部隊などは戦わずして引き揚げてしまうありさまであった。かくして日本軍は基隆港を占領し、棒山資紀初代台湾総督一行の基隆上陸を迎えた。
そんな戦闘の最中、日本車の元ヘー人の使者がやってくる。事顕栄という商人だった。そもそも「台湾民主国」を旗揚げした唐景哀らは、台湾の国土や民衆を守る気などなく、ただ大陸からやってきた中国人達が台湾で築き上げた財を守ろうとしただけのことであった。それを証拠に、基隆陥落の翌日には唐景搭ら「台湾民主国」の高官達は、ドイツ商船に乗り込んでさっさと大陸へ引き揚げている。
残された兵上達は、略奪、殺人などあらん限りの悪事をはたらき、台北はまさに阿鼻叫喚の様相を呈していた。そこで台北城内の土紳らが協議し、日本車の台北への早期入城を願い出て治安回復をはかろうと動きだした。日本車の台北入城は、靖国兵の悪行を止めさせようとした台湾入の手引きによるものだったのである。日本車は靖国兵を掃討し、降伏した兵士連を船で大陸へ送還した後、台北城内で閲兵式を行った。
日本国内では、台湾を植民地とみなすかどうか、また台湾経営をどのように進めてゆくべきかという議論が活発に行われていた。明治維新後の日本にとってはじめての「新領土」台湾の統治を検討するため、内閣に「台湾事務局」を置いて議論が行われた。時の内閣総理大臣・伊藤博文自らが事務局長を務め、そこには、後の首相・原敬なども事務局委員として名を連ねていた。この原敬などは、台湾を植民地として遇すべきではないと主張していたという。
当時の政府の統一見解は、「内地延長主義」であった。この考えは、1910年(明治43)の日韓併合においても継承され、朝鮮を「植民地」としてみるのではなく、「内地の延長」としてみることが主流であったとされる。
もとより「植民地」という言葉は、戦後になって出てきたものだと私は理解している。私が公学校(小学校)時代に習ったことは、台湾は、樺太、朝鮮と同様に日本の領土であり、台湾が植民地であるなどという話を耳にした記憶がない。少なくとも、新しい領土を獲得することになった当時の日本政府が、欧米の植民地経営の特徴であった一方的な搾取を前提としていなかったことだけは事実である。
そもそも日本の台湾領有の背景には、石炭と水の供給地を台湾に求めた海洋戦略があった。当時の軍艦は石炭を燃料としており、日本と南洋を給ぶ中間に軍艦の補給基地を必要としたのである。これは、初代総督となった海軍大将・樺出資紀が陸軍中佐の時代に台湾を視察した際の結論でもあった。陸軍から海軍へ転籍するという一風かわった経歴を持つ樺出資紀は、この頃の欧米諸国の植民地における行状もよく理解しており、列強国の優等生となるためにも最初の植民地である台湾を搾取するのではなく、「統治」すべきだと考えていたのであろう。
さらに日本が台湾を領有したとき、住民は2年間の「国籍選択猶予期間」が与えられ、清国を選ぶ者は自由に台湾を離れることも認められていた。このように、日本の台湾統治は領有当初から住民に対して「良心的」だったといえよう。
台湾総督として樺山資紀の後を継いだのは、後の首相・桂太郎であり、そして陸軍大将・乃木希典と続く。この乃木総督の時代には、その実直かつ清廉潔白な人柄が統治の姿勢にも表れている。
後世の評価では、乃木総督の行政は厳格すぎたという批判もある。しかし、統治する側が襟を正すべきとした姿勢はむしろ立派というべきであり、また統治された台湾入にとっては飲迎すべきであったことはいうまでもない。
その後、児玉源太郎、明石元二郎など、いずれもが明治維新を成し遂げた新生日本の門出に立ち、日本を世界に冠たる国家へと創りあげていった偉人達が台湾総督としてやってきた。日本政府はこうした一流の人材を次々と台湾へ送りこみ、終戦までの50年間に延べ19名の台湾総督がその任に就いた。そして彼らは台湾を近代化するため懸命に取り組んだのである。
台北の鉄筋コンクリート製下水道施設などは、東京市(当時)よりも早く整備され、劣悪な衛生状態を改善することによって伝染病が一掃された。そして、あらゆる身分の人が教育を受けられるよう、貧しい家庭には金を与えてまで就学が奨励された事実を忘れてはならない。
現在、台湾経済がこれほどまでに成長した秘密は、日本統治時代に整備された産業基盤と教育にあるといっても決して過言ではない。同様に、台湾の近代史はこうした日本統治時代を抜きに語ることはできないのである。
もっとも、多少なりとも差別はあった。台湾入と内他人の給与格差などはその一例であり、内地人(日本人)の給与は、「外地手当」が加算されるため標準支給額の6割増しとなっていた。例えば、当時の学校教員の初任給が50円だった頃、内地入には80円が支払われた計算になる。ところが、この外地手当は転勤等で台湾にやってきた内地人に支給されただけでなく、台湾で生まれた内地人(我々からすれば同じ「台湾生まれ」)までもが対象とされていた。
日本はそれ以上のことを台湾のためにやってくれた。我々台湾入の多くは、日本統治時代をそうした客観的な尺度をもって評価しているのである。
1898年、陸軍次官・児玉源太郎が第四代台湾総督として着任。総督の右腕となる「民政長官」として赴任してきたのが医学博士でもある後藤新平たった。満州鉄道初代総裁、逓信大臣、内務大臣兼鉄道院総裁、外務大臣、東京市長など要職を歴任した偉人である。
その後藤新平が台湾総督府民政長官に着任するや、多忙の児玉総督を助け、大規模な土地・人口調査を実施した上で、道路・鉄道・水道・港湾などのインフラ整備をはじめ、台湾の衛生環境と医療の大改善など数々の大事業をやってのけたのだった。
台湾の上下水道はこの時代に整備され、その結果、世界有数の伝染病根源地だった台湾からマラリア、ペストをはじめ、あらゆる伝染病が消えていった。それまで台湾が統治の難しい土地であり続けた理由の一つにこの伝染病の存在が挙げられていたが、医師というバックグラウンドをもった後藤新平の公舎で、長年の大問題に終止符がうたれた。このことは、その後の台湾の発展に大きく寄与することになる。
内地から百名を超える医師を招き入れ、全島各地に配置して近代的衛生教育を徹底させる公医制度をはじめ、病院・予防消毒事業団の設立など次々と衛生改善策を講じていった。
後藤新平は、あくまで「生物学の原理」に従って台湾統治を行うべきであると主張しており、「ヒラメの目を鯛の目に付け替えることはできない」という有名な喩えが残されている。
アヘンを専売制にし、中毒・常習者に限って販売するが、新たに吸引する者は厳罰に処せられた。これにはアヘン患者を自然に減少させるねらいがあった。こうして当初全島人口の68%にものばった中毒・常習者は、1941年(昭和16)までに0.1%にまで激減していったのだ。悪習といえども他民族の習慣を尊重しながら、無理なく時間をかけて撤廃していったその手腕は実に見事であった。
むろん、このような大規模な事業を行うためには莫大な資金が必要であったことはいうまでもない。1898年(明治31)の日本の国家予算が約2億2千万円だったところへ、台湾総督府から台湾開拓・整備予算として全国家予算の1/4以上にあたる6千万円というべらぼうな額が要求されている。
日本のこうした統治政策は、世界にその類例をみない。同じ頃、アジアに植民地を保有していたイギリスやオランダは、植民地を自国の産業発展のための一次産品供給地として位置付け、プランテーション経営や鉱物の採掘のために現地労働力を奴隷のごとく酷使した。そんな彼らにとって、当地の近代化や地元民への医療対策など考えも及ばなかったであろう。それを証拠に、イギリスなどは、アヘンを持ち込んでまで植民地の富を根こそぎ搾取していたことはあまりにも有名である。
内地の国家予算から膨大な金をつぎ込み、台湾を本国と同等水準に引き上げようとした日本と、植民地から搾取のみを行っていた当時の欧米諸国の違いがよくわかる。
1899年(明治32)、児玉・後藤の熱意が、最終的には四千万円の予算を獲得し、この資金を元に台湾の近代化整備が急ピッチで進められていった。幅の広い道路や南北縦貫鉄道(基隆−台北上筒雄)の着工、高雄・基隆の築港など産業基盤が次々と整備され、こうした産業基盤の上に、こんどは製糖業をはじめとする産業が育っていったのである。
5千円札の肖像でお馴染みの新渡戸稲進は、後藤新平の推薦で総督府技師として登台し、サトウキビの品種改良を行うなどして、台湾に製糖業を殖産すべく全力を傾けた。その結果、台湾の砂糖生産量は、1900年(明治33)の3万トンから5年後には2倍の6万トン、戦時中には160万トンを記録するまで成長している。
明治時代に殖産された製糖産業は、戦後も1960年代まで台湾経済を支え続けたことも付記しておく必要があろう。また天然樟脳などは世界の8割を台湾産が占めていたことも日本統治時代の遺産である。こうして統治わずか10年のうちに、台湾はもはや内地からの経済援助を必要としない自給地となったのである。
1999年(平成11年)、今市市社会教育会館で後藤新平・新渡戸稲造の功績を称える国際シンポジウム(事績国際研討会)が開催された。
戦後の台湾史上、日本人を巡るシンポジウムは初めての試みであり、それゆえに内外から注目を集めた。台湾側は、経済界・学術界の要人が顔を揃え、今市市長の臨席をも仰ぐ熱の入れようだった。日本からは、後藤新平の孫・後藤健蔵氏および新渡戸稲造の孫・加藤武子氏を含む45名が参会した。
シンポジウムの□頭、昭和大学の黄昭堂名誉教授が日本の台湾統治の時代背景について、「帝国主義は当時の潮流であり、日本だけが謝る必要などない」と機先を制した。
ところが、それでも日本側代表は、「日本による戦前の台湾統治で、日本は善いこともしたが、悪いこともしたであろう。そのことについて謝罪したい。我々はただお詫びするしかありません」と□にしたのである。
このシンポジウムで総合司会を務めることになった私は、「……ひとつだけ言っておきますが、日本が台湾へ謝罪する必要はありません。それよりも隣の大きな国と戦っている台湾を声援してください」と日本側の謝罪発言をたしなめた。
シンポジウムでは日本側・台湾側からそれぞれ2名が講演を行った。先ず、佐藤金弘・関西外国語大学教授及び内川永一郎・新渡戸基金事務局長が演壇に立ち、続いて台湾側の李永熾・台湾大学教授、および同大学の呉蜜察教授も後藤新平・新渡戸稲造の台湾統治を評価し、熱弁を振るった。
そして、このシンポジウム開催の原動力となった実業家・許文龍氏のスピーチに注目が集まった。
許氏の綿密な歴史検証に基づく客観的な歴史観に会場は水を打ったように静まり返り、その見事な歴史分析に聞き入った。「台湾の今日の経済発展は、日本時代のインフラ整備と教育の賜物です。当時、搾取に専念したオランダやイギリスの植民地と違い、日本のそれは良心的な植民地政策だったのです」
「戦前の日本の台湾統治に対し謝罪する必要などありません。戦後の日本政府は、深い絆を持ちながら世界で一番の親日国家である台湾を見捨てました。謝罪すべきはむしろ戦後の日本の外交姿勢です」と現代日本の歪な歴史観を正したのである。
さらに許氏は、戦前の日本人に感謝の意を表すとともに、日本人が築いた功績によって今日の台湾があることを忘れないでいただきたいと、会場に詰めかけた台湾入に呼びかけた。
そして、このシンポジウムを催しだのは日本人を喜ばせるためではなく、いまや自信を失いかけた日本が、過去台湾のためにどんな業績を残してくれたかということを日本人にわかってもらいたいためであると結んだ。
許文龍氏は、後藤新平の偉業を無視したこれまでの中華民国政府の反日教育に眉をひそめてきた。そこで後世の台湾入に歴史の真実を伝えようと、私費を投じて後藤新平の胸像を造ったのである。
戦後の偏狭的な価値観に蝕まれた日本人にとって衝撃的ともいえる許文龍氏のスピーチを見届けた私は、「日本人よ胸を張りなさい!」と参集した日本人に呼びかけた。参会した日本人の多くが瞼を拭う姿に、私は白日関係の明るい未来を予見した。
そして後藤新平の孫・後藤健蔵氏が登壇し、スピーチを行った。後藤氏は、「金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生こそが上なり」という祖父・後藤新平の座右の銘を抗言し、会場を頷かせた。
後藤新平の台湾統治成功の陰には、新渡戸稲造をはじめ各界の優秀な人材の尽力があったことも見逃してはならない。また、軍部の長でありながら軍部を抑え、後藤が思いきった行政を施行できるよう取り計らった親分・児玉源太郎の度量なしには成し得なかった偉業であることも付記しておく必要があろう。台湾の近代化に尽力した後藤新平は、今でも「台湾近代化の父」と呼ばれ、我々台湾人から惜しみない喝采と敬意をもって評価されている。
高市平野を緑の大地に変えたハ田典一 今では台湾最大の穀倉地として潤う台湾南部の嘉南平野一帯も、日本の台湾統治が始まった頃は一面不毛の地だった。長い雨季には大地が水に浸り、乾季には水不足に悩まされ、穀物栽培にはまったく不向きな土地だった。
では、どうしてこの不毛地帯がそのような変貌を遂げたのだろうか……。日本人技師・八田興一の活躍である。
アメリカをけじめ世界の水利事業に明るいハ田は、洪水と平叙を繰り返すこの嘉南平野を穀倉地帯に変えるには、大規模な潅漑施設を作る必要があると提唱し、高南平野開発計書をまとめ上げた。その計画は、鳥山頭に大規模なダムを造り、平野には長大な水路を張り巡らせるという壮大なプロジェクトであった。
1910年(大正元年)、治水工事は着工された。八田忠三は家族を鳥山頭に呼び寄せ、すべてをダム建設に捧げるつもりでこの一大事業に打ち込んだ。そして10年後、ついに悲願は成就したのである。完成した鳥山頭ダムは、当時東洋一の規模を誇り、大地を網の目のように走る水路は実に1万6千キロメートル(万里の長城の約六倍)にもおよんだ。これを総称して「嘉南大川」と呼ぶ。それはハ田輿一の執念でもあった。
嘉南大川は、一面の荒れ野原を緑の大地へと変えてゆき、台湾最大の穀倉地帯を誕生させたのである。』
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その他、日本統治下の日本人の注いだ偉業、戦時下の台湾人の日本本土同様の国家への忠誠と働きなどが書かれている。
著者が見た戦後やってきた大陸中国人の蛮業、終戦直後日本本土で見た朝鮮人の手のひらを返したような横暴も、生の声として見た目そのままに書かれている。民族としての考え方の日本人と台湾人の近さと、中国人・朝鮮人との大きな隔たりを感じた。
僕のような戦後生まれ日本人が、ぜひ一度読んだら良い書です。何かが変わると思います。

2016/1 「戦争の常識・非常識 戦争をしたがる文民、したくない軍人」 田母神俊雄 ビジネス社 ★
『20年以上軍拡を続けた中国は、今やアメリカに匹敵する実力を身につけつつある?は、全くの誤りで、軍事を知らない素人の誤解に過ぎません。アメリカ10に対し中国は1にも満たないでしょう。それくらいアメリカの実力は圧倒的です。
中国空軍は2000機の戦闘機を有していると言われます。しかし殆どの物が使いものにならない旧式です。使えるとすれば1980年代以降に運用が始まった第4世代400機だけです。それでも自衛隊の300機より多いですが、現代の戦争において戦闘機の能力を決めるのは情報です。空中でどれだけの情報をリアルタイムに捉えるかが何より重要で、それに次ぐのが搭載レーダーの性能や搭載ミサイルの性能です。自衛隊が30年前にやっていたレベルの戦い方を今もやっています』
『アメリカ発の「中国脅威論」は、アメリカが防衛費を確保するためにあえて言っている。実態を反映したものではない。
アメリカが本当に警戒しているのはロシアです。軍事力は中国とは比較にならないほど脅威です。中国が導入しようとしている最新鋭戦闘機スホイ35はロシア製です。戦闘機を輸出しているロシアは、いつでも中国の息の根を止められる立場です。このようにロシアは中国に比べれば圧倒的に強いが、そのロシアでさえ冷戦下の旧ソ連時代、アメリカと戦争して勝てる状態になったことなど一度もありません』
『リムパックに参加している韓国の実力はどうでしょう。北朝鮮との緊張が続き、常に臨戦態勢をとらなければなりません。韓国軍はF15やF16を所有し、スクランブル発進の態勢を整え、それなりの実力を持っています。ただ海軍は、海上自衛隊に比べればまだまだです。
おそらく韓国軍は、北朝鮮との戦いには問題なく勝てるはずです』
『スクランブルのベルが鳴れば瞬時に駆けつけ、5分以内に発進する。これがスクランブルですが、そう簡単にできることではありません。パイロットが24時間体制で待機し、常に完璧に整備しておき、レーダー網による探知・識別・司令システムが確立されていなければなりません。
スクランブル体制は、一朝一夕でできるものではないし、軍事費を増やし最新鋭戦闘機を導入すればできるというものでもありません。10年・20年という歳月が必要です。「日本人の勤勉さが可能にしている」というのも一理あるでしょう。現在日本と同じようなスクランブル体制を持っているのは、韓国とイスラエルぐらいでしょう』
『海上自衛隊の実力を、中国海軍と対比して考えます。海上自衛隊は、米軍が太平洋で海上作戦を遂行する時の対潜水艦部隊として立ち上がりました。
中国海軍は、海上自衛隊の4倍の潜水艦を保有しており、最新鋭艦も含まれます。しかし重要なのは、海上自衛隊が常に中国海軍潜水艦の動きを追いかけているということです。艦船には音紋というものがあり、潜水艦を識別できます。海上自衛隊の情報によれば、中国海軍の潜水艦の中には、動いていな潜水艦が多数あるということ。戦闘機と同じく、数はあっても動かせないということです。
動く艦でも、中国海軍の潜水艦は音が大きい。潜水艦の強みは自艦の存在を隠して、相手に察知されないことで、互いの位置がわかったうえで水上艦船と戦えば、負けるのは潜水艦です。海上自衛隊のスターリングエンジンの潜水艦は静かで、高い秘匿性能を持っています』
『自衛隊の実力は米軍次第です。現代の戦争は、ソフトウエアの性能が物を言います。そのソフトウエアの暗号を作っているのがアメリカだから、アメリカ製の兵器を買っている以上、アメリカの手のひらの上にあるということになります。実際にイギリスが痛い目にあっています。湾岸戦争の時、イギリス軍は巡航ミサイルトマホークを一発も撃つことが出来ませんでした。アメリカがGPSのモードを操作したためです。イギリスがトマホークを撃てば、戦後石油利権を寄越せと言えます。だからアメリカは、イギリスに撃たせませんでした。後にイギリスは、EU独自のGPSシステム・ガリレオを開発しました。
日本のGPSシステムはアメリカのものです。アメリカがそのコードを変えれば、瞬時に使い物にならなくなります。そのため日本のように一方的に武器を輸入している先進国はありません。買えばその分売るというバランスを取らないと、「こちらも兵器の提供をやめる」という対等な関係になりません。「武器輸出三原則」で輸出制限することは、自らの首を絞めているようなものです。武器輸出を解禁することは急務です。自衛隊の強さは、アメリカと対立しない限りという条件付きです』
『中国空軍の最新鋭戦闘機・スホイ27にも疑問符がつきます。スコープ(ディスプレイ)が小さすぎます。現在は地上のレーダーサイトで把握した空中全体の状況が、そこで戦っている戦闘機でも把握できるし、地上のミサイル部隊でも把握できます。
常時それを共有しながら、山の向こう側にいる敵戦闘機をロックオンし、ミサイルを発射します。そんな時代に、「右行け」「左行け」と指示する訓練をしているのが中国空軍です。無線電波に妨害をかければ、一発で無力化出来ます。ディスプレイが小さいと、情報量が限られてしまいます』
『尖閣を中国は攻撃できるのかを考えると、最初の航空優勢を取らなければなりません。自衛隊のプレゼンスを増すためには、飛行場の整備が不可欠です。宮古島と石垣島にある滑走路を、戦闘機が使う3000mに伸ばす必要があります。2ヶ月もあれば出来ます。整備されれば、尖閣まで170kmの位置に3つの飛行場を持つことになります。600km離れた飛行場しか持たない中国に対する優位は、圧倒的になります。
ここに戦闘機を配備し訓練すれば、中国に対し軍事的プレゼンスをアピールできます。空母を所有することも有効です。相手国からすれば、攻撃力を持たない敵軍は、それほど怖くありません。いくら攻撃しても、やり返されることはない。「殴ったら殴り返されるかもしれない」という恐れがあれば、攻撃すること自体思いとどまります。これが抑止です。
この軍事的プレゼンスを怠ったために最悪の結果になってしまった前例が竹島です。韓国が一方的に引いた軍事境界線「李承晩ライン」がありましたが、竹島は我が国の領土なので、自衛隊はなんの制約もされず、竹島上空を飛んでいました。韓国海軍は、海上保安庁と戦っても負けるぐらいの実力でした。
それが突然「竹島には行くな」という指示が出ました。理由は「不測の事態を避けるため」。自衛隊が竹島に近づかなくなり、海上保安庁も後退。以来、韓国の竹島の実効支配が現在も続いています。
国際法は「実績主義」なので、実効支配は実績として認められます。この結果を招いたのが、「不測の事態を起こしてはならない」という考え方です』
田母神さんは、アパグループ主催の第1回『「真の近現代史観」懸賞論文』に応募し、最優秀賞を受賞した。その内容が政府見解と相違するということで、航空幕僚長を更迭された。その論文はどういうものであったのか?以下に載せます。
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日本は侵略国家であったのか 田母神俊雄(防衛省航空幕僚長空将)
 アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。2国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国の日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。
 この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人およびその家族などを暴行、惨殺するようなものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度重なる挑発についに我慢しきれなくなって1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻を屏息し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」という声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。
 1928年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。『マオ(誰も知らなかった毛沢東)』(ユン・チアン、講談社)、『黄文雄の大東亜戦争肯定論』(黄文雄、ワック出版)および『日本よ、「歴史力」を磨け』(楼井よしこ編、文萄春秋)などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937年7月7日の血清橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「虚構橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている(『大東亜解放戦争』岩間弘、創栄出版)。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。
 我が国は満州も刺鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強と言われる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏便な植民地統治をしたのである。満州帝国は、成立当初の1932年1月には3000万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5000万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35年間で1300万人の人口が2500万人と約2倍に増えている(『朝鮮総督府統計年鑑』)。日本続治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。
 我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。その後8番目が1931年の大阪帝国大学、9番目が1939年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪恩端という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後輩には金錫源大佐がいる。日中戦争のとき、中国で大隊長であった。日本兵約1000名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金鶏勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽もいる。李王朝の最後の殿下である李垠殿下も陸軍士官学校の29期の卒業生である。李垠殿下は日本に対する人質のような形で10歳のときに日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお后となられたのが日本の梨本宮方子妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。ちなみに宮内省はお2人のために1930年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀殿下の弟君である溥傑殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。
 これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とはまったく違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2次大戦前から五族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していた通りの世界になっている。
 時間は遡るが、清国は1900年の義和団事件の事後処理を迫られ1901年に我が国を含む11カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600名の兵を置いた(『虚構橋事件の研究』秦郁彦、東京大学出版会)。また1915年には袁世凱政府との4ヵ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求につい’て合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准た。しかし4年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである(『日本史から見た日本人・昭和編』渡部昇一、祥伝社)。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901年から置かれることになった北京の日本軍は、36年後の廬溝橋事件の時でさえ5600名にしかなっていない(『盧溝橋事件の研究』秦郁彦、東京大学出版会)。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中宥和外交こそが我が国の坊本方針であり、それは今も昔も変わらない。
 さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、ついに日米戦争に突入し300万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しのつかない過ちを犯したと言う人がいる。しかしこれもいまでは、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、『月刊正論』平成18年5月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940年から1948年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連はI回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943年から解読作業を開始した。そしてなんと37年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権のなかには300万人のコミンテルンのスパイがいたという。そのなかで昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズペルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズペルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100機からなるフライングタイガーズを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1カ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第一撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることができたのだろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば。一時的にせよ日米戦争を避けることはできたかもしれない。しかし、一時的にに戦争を遊けることができたとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2、第3の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史のなかで支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどありえない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
 さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があのとき大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと100年、200年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を厠げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むこどができるのだ。一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などと言う人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返れば事はそう簡単ではないことがわかる。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圈にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方4島は60年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実効支配が続いている。
 東京裁判はあの戦争の責任をすべて日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63年経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊はできるだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備もできない、集団的自衛権も行使できない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁庄されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。目本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は20年前といまとではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。ただし日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に領りきっているような関係は改善の必要があると思っている。
 自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。いまなお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのはまさに濡れ衣である。
 日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されないかぎりは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘や捏造はまったく必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国のなかでも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。
2016/1 「子どもの心を育てるコミュニケーション術」 岩崎由純 東邦出版 ★★
スポーツ指導者講習会で話を聞き、感銘を受けた筆者の書です。
『鉄拳制裁を加えながら指導するような、古臭くて間違った指導法を続けている人も未だに存在します。「死ぬほど走れ」「負けたら罰がある」といった指導の仕方は、一見それなりの効果を上げるように見えても、子供の心に大きな枷を生み、成長を阻害します。こういう指導をしている大人は、きっと自分たちが子供の時に、同じような指導を受けていたと思われます。ハラスメントの連鎖です。正しい知識と心構えを見につけ、悪しき連鎖を断ち切る努力が必要です。
子供の夢を潰してしまう大人には、大きく分けて3つのパターンが有ります。
・自分が叶えられなかった夢を子供に託し、子供の夢を親が勝手に決めてしまい、子供自身が持った夢を否定してしまう。
・子供の夢の実現に対し理解を示しているように振舞っているが、実は子供が親自身の自己満足や自己顕示欲の道具となり犠牲になっている。
・自分及び配偶者に才能がないから子供にもないと決めつけ、子供の夢を否定してしまう。この3つ。
子供たちが夢を諦めてしまう多くの原因は、親と周りの大人達にあります。子供の頃は誰しも夢を描きますが、やがて「自分には無理」と自己暗示とも言える思い込みで、願いを断ってしまいます。その自己暗示を形成させてしまうのが、「馬鹿なことを言うんじゃありません」「お前には無理」「現実を見ろ」など、親や周りの大人達の声であり、大人の尺度を子供に押し付けた結果です。
スポーツは人を育み、礼節を身につけさせます。社会的動物である人間にとって欠かせないコミュニケーション能力を向上させることでもあります。さらに、チームメイト・ライバル・コーチなど、様々な立場の相手と接することで、他人との関係を考え、現在の教育で軽視されつつある道徳や倫理を学ぶ機会を得られます。
人として大きな成長を望めるスポーツは、子供の成長にとって素晴らしい機会になるのです。

トップアスリートの多くは、肉体的や才能に恵まれているだけでなく、家庭環境に恵まれています。経済的環境ではなく、心の環境です。意外と思われるかもしれませんが、プロスポーツの世界に、子供の頃からスパルタ式に鍛えられた選手は、あまり多くありません。もちろん厳しいトレーニングに耐えて、努力してきた者だけが入れる世界ですが、「巨人の星」の星一徹のような親の存在は、あまり見られません。どちらかと言うと、子供の夢を見守り続ける「応援団」のような両親に育てられた選手が圧倒的に多いのです。
逆に、スポーツに限らず、スパルタ式に鍛えられた子供は、どこかで自分自身の夢ではなく、親の夢に付きあわせれている事に気づき、矛盾を感じたり、その道を極めることから遠ざかってしまう。
子供が夢を見つけ、自分自身の手で夢を叶えられるように育てるためには、「出る杭」を伸ばすことが重要です。まずは子供をあまり拘束せず自由にさせて、本人お才能の「出る杭」を探してあげましょう。

「夢を応援するドリームサポーターになろう」
アメリカの心理学者・ロバートローゼンタール博士は、特定の教師が「この生徒たちは伸びる」と信じて授業を行った場合と、「伸びない」と思って授業を行った場合の理解度や習得率の違いを実験しました。結果、前者の場合は期待通り成績が伸び、後者の場合も悪い期待通りに成績が伸びませんでした。
心理学の世界では、前者のような「指導者が期待を込めて教えるほど、良い結果が現れることをピグマリオン効果」、後者のように「心が伴わない指導は効果が薄れることをゴーレム効果」といいます。口にはせずとも、「夢は叶わない」という親の想いが、子供の夢を壊してしまうのは、こうした効果の一例といえます。

太古の昔から、男性は外に狩りに出かけ、女性は家で家族を守っていました。子供の安全を第一に考える母親にとって、子供が冒険を犯してまで好奇心に従順でいる姿は理解し難い。

一つの事実に対して、解釈は人の数だけあります。右脳はイメージを司り、左脳は論理や計算処理をする機能を持っています。また左右の脳をつなぐ脳梁と呼ばれる部分が、一般的に男性は小さく、女性は大きいため、男脳・女脳と呼びます。
男脳の場合は、同時進行で幾つもの物事を処理するには向いていませんが、どちらか一方の脳をフル回転させるのに適しており、深く考えて仕事をしたり、趣味に没頭できる特徴を持っています。女脳は、脳全体を満遍なく使うことができるので、多人数の会話を同時に楽しんだり、料理しながらテレビを見るなど複数のことを一度にこなす器用さを持ちます。

Jリーグで強化部長をしている方に、「プロになって伸びる選手とそうでない選手の違い」を聞いたところ、「感謝の気持ちを持っているかどうか」とのことでした。感謝や尊敬というものは、他人の行動や気持ちを読み取り、自分自身の立場を把握することで生まれます。感謝の気持ちが持てる人は、コーチからの指導を素直に聴けるので成長します。
私が日夜ケアし、ロサンゼルスオリンピック・男子マラソンで金メダルを取ったカルロス・ロペス選手は、勝利インタビューで「私を支えてくれたすべての人に感謝の気持ちを表したい」と答えました。バロセロナオリンピック・女子マラソン銀メダリストの有森裕子さんも、感謝という気持ちを何度も口にしました。
「わんぱく」「いたずら小僧」「おてんば」「天真爛漫」な子供が成長し、「感謝」「尊敬」の心を持って夢の実現に向かう・・・これなスポーツに限らず、すべての社会における方程式なのではないか。
子供の夢を育むには、子どもとのコミュニケーションが重要です。子供が自分の意見や気持ちを素直に表現するためにも、親が良い手本を示さなければなりません。子供は親を見て育ちます。子供を見れば、親がどんな育て方をしているのかわかります。親はこの鏡であり、子は親を映す鏡なのです。親は周りの大人が力を合わせ、お互いに感謝・尊敬し合える環境を整えましょう。

「傾聴力」
小学生の時のクラスメイトに、家で豆に勉強している風でもないのに、成績の良い子がいます。小学校までであれば、先生の授業に集中していれば好成績は取れるものです。優秀な成績を取る子は、傾聴力が優れているため、先生の一挙手一投足を逃すまいと自然に高い集中力を発揮し、授業が身につきます。
傾聴力の能力を高めることは、コミュニケーションをスムーズにするだけでなく、集中力を高めることにも貢献します。傾聴力は、「読む」「書く」「話す」能力とは違い、学校の授業で学べません。多くの場合、親や周りの大人とのコミュニケーションの中で、育成されていく能力です。あなたの周りに、キチンと話を聴いてくれる人はいますでしょうか。

あなたの子供の脳にある、あなたも子供も気づいていない未知の能力を信じましょう。潜在意識に「できる」をインプットしてあげれば、必ずできるようになるのです。機能より今日の方が、ほんの少し向上していればいいのです。
子供の能力が少しでも前に進んでいれば、慶んであげましょう。あなたの慶びが、子供の潜在能力に反応して、更に目標へと進みます。反対に「私の子供だからダメなんだ」と言っていると、その子は出来ないことを「親のせい」「運が悪い」「環境のせい」など外部に責任を押し付けるようになり、他人依存・他人責任・自己責任回避の人格を育んでしまいます。

「欠点を気にせず、得意分野を伸ばす」
吉田松陰は、伊藤博文・山県有朋・高杉晋作といった幕末に活躍した人材を育成していますが、意外に知られていないのは、29才の若さで処刑されているということです。松下村塾の塾長であったのは2年半。つまり20代の若さで、短期間のうちに指導力を発揮し、幕府に目をつけられるほどの影響力を行使したのです。
・塾生の得手不得手を聴き、不得手には触れない
・付き合う相手の良い所だけ見て、欠点は指摘しない
・なんでも「良い」と思う
の3つの指導法に惹かれる。ネガティブな部分に焦点を当てても、何も生まれないどころか、負の連鎖に陥りやすいことを知っていたのです。超がつくほどのポジティブシンキングの人でした。
一生懸命になれる種は、やはり「好きなこと」です。好きなことをしていれば、少々の困難は、困難とも感じず乗り越えます。まず子供の好きなこと・興味を持ったことに寛容になって下さい。そこで生まれる集中力に水を差さないように気をつけて下さい。小さな一所懸命の繰り返しが、一生懸命に繋がるのです。
子供が一所懸命になって取り組むためには、親のサポートが必要です。そこで間違ってはいけないのは、親が子供の行く末を決定するのではなく、あくまで選択肢を与え、情報を提供するにとどめ、子ども自身が選ぶようにすることです。初めは誤った選択をするかもしれませんが、、何度も経験し、正しい選択ができるように育ちます。親のサポートが必要なくなった時、自分の夢に向かって邁進できる大人へと成長したといえます。
子育てに限らず、人と人とのコミュニケーション全般に渡る洞察が、具体的な方法と実例とともに書かれている書でした。


「何があっても大丈夫」 櫻井よしこ ★
女性ニュースキャスター第一号の方ではないだろうか?好きでよく見ていました。はぎれよく、ご自身の意見も少し入れながらのニュース報道には、好感が持てました。今でこそ、ニュース番組アンカーウーマンが数人おられますが、最初はいろんなところで苦労なさったのだろうと思う。
この本は、櫻井さんの自叙伝です。ベトナムで生まれ、父親の海外での商売、敗戦によ全てを失っての引き上げ。父親は、仕事で東京に出て行き、やがてハワイでレストラン経営。ご自身のことも含めて、かなり波乱万丈の生活をしてこられたが、それが故に個としての強さを身につけられた。
キャスター当時、そして今に続く、櫻井さんの強さを育てた土壌がわかりました。回り道することこそ人生が面白く、得るものが多いということがわかります。苦しい生活をどう感じるかで人生が全く違うものになることを知りました。その時の支えは、お金でも地位でもなく、「何があっても大丈夫」という櫻井さんの母親のいつも発しつづけている言葉にあるのだなあと思いました。
本当に言葉というものは、強い力を持っています。

「人生は最高の宝物」 マーク・フィッシャー ★

「こころのチキンスープ」 ジャック・キャンフィールド ダイヤモンド社 ★★★
このシリーズで多数の本が出ています。このシリーズは、講演家の著者が、全米各地で出会った市井の人のこころ温まるノンフィクションを集めたものです。人は誰でも1つは、そのような体験を持っているものです。あなたにもそして私にも。だからいくらでも本のネタは尽きないと思いますが、1人の貴重な温かい出来事を披露することで、多くの方の心に火を灯し、そして次の体験が出てくるし、そのように人に接するようになります。
随分前に、小さな少年が始めた親切運動が大きなうねりになった映画がありましたが、あれに似ているとも言えます。はっきり言って泣きます。感じる場所は様々でしょうが、誰でも心打つ物語にこの本で出会うでしょう。決して電車で読まないで下さい。私は涙の処理で難儀してしまいました。静かな所で1人でじっくり、感動を噛みしめてください。

「それでもなお人を愛しなさい」 ケント・M・キース 早川書房 ★★★
逆説の十箇条で有名ですが、その内容については、私の好きな言葉のページに載せています。ドロシー・ロー・ノルトさんの言葉は、親が子育てをする指針になりますが、この十箇条は、人との関係の指針でしょうか。
著者は、夏休みのキャンプリーダーをします。その時作って話したことが、キャンプに参加した子達に感動を与えますが、キャンプの目的とは少し違ったようで、惜しまれながらキャンプを去ることになってしまいます。時は経ち、友人からいい言葉があるよ。君にはきっとうまく理解できるはずだと、紹介されたのが、なんとあの時の自分の言葉でした。劇的な過去との出会いを機に、本になったのがこの本です。
ドロシーさんの「子は親の鏡」と同じような運命をたどった、「人生の意味を見つけるための逆説の十箇条」。生き方、人との接し方の根源に迫る本です。

「天才たちの共通項」 小林正観 宝来社 ★★★
この本は、下のドロシーローノルトさんの言葉に出会ってから読んだ本です。この順番が逆になると、また違った印象になったと思いますが、こういう順番であったことは、私にとって幸運でした。
小林正観さんは、本職は旅行作家なのかもしれませんが、素敵な言葉、素敵な人当たりをなさる方です。生き方・人との接し方についての小規模の講演会をよくしておられ、この本の読後、200人ほどの講演会に参加したことがあります。どても感動する内容でした。
私は、長男に生まれ、親からの期待を一身に受けて育てられましたが、関東出身の親の言葉がきついからでしょうか、いつも反発ばかりしていました。「もっと早く一人前になるように」「もっと立派な独り立ちするひとになるように」と、きつい場面に放り込まれました。甘えん坊の私には荷が重く、できない私を叱る親が嫌で嫌で仕方ありませんでした。
保育園で、蛇事件がありました。西宮の保育園に4歳から電車とバスを乗り継いで1人で通いました。保育園の方針で、最終バス停で親子が離れなければなりません。園に向かって歩き出したら、大きな蛇が階段にいて、怖くて泣いてしまいました。母親は、「行きなさい、怖くないから・・・」と下から見ているばかりで、どうしても蛇を避けていけません。そんな時、その様子を階段の上から見ていた女の子が下りてきて、私の手を引っ張ってくれました。それでやっと園に行くことが出来ました。
その事はもう忘れているのかもしれませんが、今でも彼女とは保育園の同窓会で交流があります。私の初恋ですが、素敵な女性になられ、お金持ちの家に嫁ぎ、3人のお子さんを立派に育てられ、ご自身も代表取締役として会社を経営しています。次男と同じ中高の1年下にお子さんが通われ、不思議な縁を感じます。
大学生の時に家内と出会い、「大丈夫よ、何とかなるからさ」という大きな言葉と、いつもニコニコしているところに惹かれ、1ヵ月後には彼女の家にお邪魔しました。彼女の母親は、うちの母親同様学のある方でしたが、一度も親に叱られたことがないと家内が言うほど、怒らなくて温和な方でした。こんな家庭に育った家内なら間違いないと思い、すぐに一生一緒に暮らしていくことにしました。
うちの子達は、家内に叱られたことはないでしょう。私も経験から、叱っても反発されるだけで何も得るものがないと知っていましたので、ほとんど叱ったことがありません。こんな育て方でいいのかと迷いましたが、叱られる辛さを思うと、どうしても子供を叱れませんでした。
「本当にこれでいいのか?」の答え捜しでこの手の本は、どれだけ読んだか分かりません。とうとう、世界中の方に支持されているドロシーさんの言葉に出会い、そして小林正観さんに出会いました。この本は、私の中では、ドロシーさんの言葉の実践編ともいえる位置付けです。叱るのではなくて、子供を信じる温かい言葉で育てられた内外の偉人について書いてあります。いろんな文献を調べたのでしょうが、エジソンから手塚治虫までの、幼年期・少年期の親、特に母親との関係を詳しく書かれています。

「子供が育つ魔法の言葉」 ドロシー・ロー・ノルト PHP文庫 ★★★
あまりに有名なこの言葉「子は親の鏡」、というかこの詩は、2005年皇太子妃さんの病気回復の記者会見で、披露された。皇太子妃さんの、「公務出来ない病」は、外交官の父を持ち、自身も外務省勤務していた延長で、より大きな意義のある仕事が出来ると思っていたが、皇室の仕来たりにスポイルされた結果なってしまったと私は考えている。
皇太子さんが、記者会見で異例とも言える詩の朗読をなさった背景には、この詩にどれだけ皇太子妃が助けられ、勇気をもらったかを伝えたかったのでしょう。多くの制限のある中で、精一杯の反発に見え、皇太子妃を守ろうとしていると感じました。
このドロシーさんの言葉は、随分前に発表されたものですが、子育ての真実、子育ての指標が書かれており、私の子供と接する時のバイブルになっています。この言葉は、ドロシーさんの手から離れ、アメリカ初め、ヨーロッパ、そしてアジアにも広がり、本人の知らない間に一人歩きしました。一人歩きしている自分の言葉に出会って、著書としてきちんとしたものになりました。
皇太子さんや皇太子妃さんは、北欧の国の教科書に載っていたこの詩を、披露なさいました。たとえ1次限でもこの詩に出会う機会を小学生の時に持てる子達は幸せだなあと思いました。それだけ値打ちのあるものです。
その内容のエッセンス部分は、好きな言葉のページに載せています。

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