Books 2014
Books 兵庫県セーリング連盟ジュニア

2014/12 「下天を謀る 上・下巻」 安部龍太郎 新潮文庫 ★
戦国武将の中で最も好きなのが上杉謙信。その次が明智光秀・黒田官兵衛、そして武田信玄・竹中半兵衛・長宗我部元親・・・といますが、「この人はどんな人生を送ったのだろう」と戦国の脇役だけど気になるのが、藤堂高虎と筒井順慶です。筒井順慶は、興福寺という寺院が実質守護であった大和国にあって、興福寺の衆徒であり土豪であった。大和国に対する興福寺の影響力、衆徒である国人と興福寺との関係はどうだったのだろう。三好氏の隆盛とともに筆頭家老の松永久秀が大和に進出してきましたが、一貫して対抗したのが筒井順慶です。松永久秀が後ろ盾であった織田信長に背いたことで、信長との繋がりを得て、大和守護になっていく。そして、高野山墓所が、信長のそれに寄り添うようにある。とても興味深い。
そして藤堂高虎。築城の名手として広く世に知られている人物です。東から京を攻める時の重要な位置にある琵琶湖南端の「膳所城」、関ヶ原の戦いを制し徳川の世に移っていく時に、豊臣恩顧の西国大名の畿内への進出を押さえる位置にある「今治城」、東国と畿内を結ぶ要衝・「津城」「伊賀上野城」という徳川方から見た戦略的要衝地を知行し、築城した。
羽柴秀吉が自分の禄の半分という破格の好待遇で竹中半兵衛を迎えたように、半兵衛とは大きく違いさほど実績のない青年時代に、秀吉の弟・秀長に馬廻衆組頭として迎えられた。天下取り成った秀吉の下、大和郡山100万石を知行した豊臣秀長の筆頭家老になるという豊臣恩顧の立志伝中の人ながら、秀長没以降は独立した城持ち大名ながら徳川家康と行動を共にする。外様ながら、譜代大名以上に家康に徴用されるのは何故か・・・気になる武将でした。
全12巻の超大作・「吉川英治・新・平家物語」読書中のお口直しとして、この書を手に取りました。浅井家中として、信長・家康連合軍と戦った姉川決戦で、信長軍を数段打ち破り信長本陣まで迫り、信長も討ち死にを覚悟した時点に、家康軍の遊撃隊が横から攻め掛かり、「姉川決戦」の勝敗が決まった。その時の鮮やかな家康の采配に感動し、秀吉軍将兵として徳川軍と戦った「小牧・長久手の戦い」でも、戦力的不利ながら見事な家康の采配と三河武士の個の力量に魅了される。そういう所から物語が始まる。
豊臣秀長を人生の師として仰ぎ、「領国も領民も天からの授かりもの。人の上に立つ者は、私欲を捨て公平を保ち、領民の幸せのために命を投げ出して尽くさなければならない」という師の言葉を胸に、人生を歩む。秀長亡き後、後継者・秀保を盛りたてる。しかし、秀吉の子・秀頼を後継者にすべく母・淀君と秀吉政権事務方トップの石田三成の陰謀で、次々に対抗馬を粛清していく過程で、秀保も暗殺されてしまう。
大和郡山藩は解体され、高虎は秀吉に抗議すべく高野山に逼塞してします。そこに家康から「命を無駄にするな」との使者がやってきて、家康派として下天に向けて行動するようになる。とても魅力的な秀吉の立志伝ですが、天下統一後の秀吉の行動はガラリと変わり、朝鮮半島進出という信長の夢を追ったことで領民の負担が多くなり、豊臣派の粛清という恐怖政治を行うようになった。
それに反し、家康は猜疑心を抱かず、親派を増やしていった。その一端がこの小説からも読み取れる。藤堂高虎から見た歴史小説なので割り引く必要がありますが、前述のように外様ながら破格に優遇され、重要地を任された高虎の生き様がよく分かる良書でした。

2014/11 「その科学があなたを変える」 リチャード・ワイズマン博士 文藝春秋 ★★
今まで常識とされていた「幸せを感じるから、笑う。怖いと感じるから、逃げる」ではなく、アズイフの法則に従えば、「笑うから、幸せを感じる。逃げるから、怖いと感じる」という逆も成り立つ。という心理学の新しい流れに沿った書です。
最初バカにされ相手にもされなかったこの学説が、数々の実験での実証を経て、むしろ常識になりつつある経過を、それらの実験・結果を紹介しながら説明されていく。僕は気になった箇所や覚えておきたい文章やデータがあるとページを折る癖があるのですが、この書は無数に折ったので、紹介を省きます。
「明石家さんま」というタレントがいます。彼のおしゃべりは面白いけど、それを更に盛り上げるパフォーマンスが上手い。お客さんが笑うより先に、自ら大げさに笑って手に持ってる物で床を叩いたりする。あれを見ると、たとえ面白くなくても、釣られて笑ってしまいます。さんまさんの顔は、笑福亭鶴瓶さんのように最初から笑い顔ではなく、どちらかと言うと二枚目顔です。無表情で面白いことを言っても、鶴瓶さんに勝てるとは思わないけど、三枚目顔に崩すから大きな笑いを誘うのだと思う。
さんまさんは凄いなと思い、僕は暗い言葉・表情を使わないようにして、マイナスな話題でも明るい表現を使い、極力笑顔でいようと心がけている。これは家内や子供たちと接する時に特に注意している。僕の両親は北関東出身で、関西人に比べお笑い面が弱い。関東の方に関西では必ず笑ってもらえる冗談を言っても、「何ふざけれるの?」と顰蹙さえ買うことを何度も体験した。大きな差があります。そんな両親に育てられた僕は、小学生の時、普通に喋ってるのに「何、怒ってるの?」と時々言われた。
これを直そうと、いつも気にかけていた。所帯を持ち家長になってからは、僕のパフォーマンスがそのまま息子たちのしゃべり方に影響するので、特に気をつけた。普通に明るい前向きな大人に育ったので成功だったが、「辛い出来事でも笑顔で喋れば、辛辣な言葉ではなく優しいいたわりのある言葉に置き換わって口から出る」と書かれていて、なるほどそうだよなと納得した。
人間関係で思い悩んでおられる方が読めば、人生が大きく転換するきっかけになるかもしれない。

2014/11 「沖縄を豊かにしたのはアメリカという真実」 惠隆之介 宝島社新書 ★
数年前からTVニュースで紹介されだした沖縄普天間米軍基地の辺野古沖移転反運動・・・我が在所にも陸上自衛隊基地があり、子供時代から非武装を唱える基地反対運動を何度も間近に見てきましたが、地元民は誰も反対していません。何処からやってくるのか大勢のデモ隊がやってきて、正門前でシュプレヒコールを繰り返す。そんな僕には、どうも異常に見える沖縄米軍反対運動の実際をこの目で見ようと、2月に沖縄ツーリングをしました。目的は米軍基地と、本島一周して自然を楽しむこと、そして避寒でした。そこで見た普天間基地は、小高い丘陵地にあり、元は何もなかったらしいが、住宅地などに囲まれていた。伊丹空港より住宅地が迫り、確かに危険だなと思ったけど、基地近くの方にむしろビルなどが立ち、海岸線に下ると低層になる姿を見て、基地需要が大いにあると直感しました。基地近くの土地に需要が多いから高層化した。後出しジャンケンのように、後からやってきたビルや住宅が危険に晒されていると反対理由にしているようにしか見えない。
伊丹空港が、元河川の荒れ地を開発した広大な農地に作ったのに、後からやってきた住宅の住民が伊丹市長を代表に、危険だから空港に出て行けと言い、我が家もそうだけど防音工事など国費の恩恵を受けた。伊丹空港の代わりに関西空港が作られると、伊丹市長は空港存続派に宗旨変えして、大都会隣接空港の利便さを訴えている。要するに「ゴネ得」ってやつです。
普天間基地を見て、それを感じました。辺野古沖の新基地建設予定地も見に行ったが、隣接の米軍基地のフェンスに、反対ビラが10枚ほど貼ってありましたが、海上基地なので最も被害を受けるであろうフェンス横の辺野古漁港の漁船には反対ビラも幟もない。漁協の建物にもない。元々、既存の辺野古米軍基地は地元住民が誘致したという経緯もあり、我が在所同様地元住民は反対していないようです。我が在所同様、外人部隊がやってきて反対運動しているようでした。
そんなこんな流れで、この本を手にしました。本の前半半分は、沖縄の医療について書いてありました。戦前県民寿命が47才だったのを、アメリカ統治27年間を経て日本復帰した時は、87才になりいきなり日本一の長寿県になっていた。マラリアはじめ伝染病のデパートだった沖縄から、いかにマラリアを駆逐したか、医療行為よりお祓い重視だった県民を教育していったかが、書かれている。持続的なものでないと意味が無いので、日本人医療従事者をアメリカ国費を投入し、教育し作り上げていき、アメリカ本土同様のレベルまで上げていったかの歴史が、データや回想録を引用して説明されている。そして日本復帰後、日本政府からの沖縄支援費投入により、昼間から酒を飲んで働かない男が増え、平均寿命は長野県に抜かれ・・・の現在に至る流れも書かれている。
続いて、沖縄の教育・産業・金融改革が書かれている。それらの章でも触れられていましたが、最終章の著者とケビン・メア氏の対談に、僕の感じた沖縄への回答がありました。ケビンさんは、在日期間19年、沖縄総領事や国務省日本部長も歴任した知日派です。
『全国の米軍基地の78%が沖縄にあるといいますが、実際には22.5%しかないんです。米軍専用基地というと78%だけど、在日米軍基地では22.5%。78%の分母には、横須賀・三沢・佐世保・岩国などの巨大基地は入っていない』
『中国の脅威は現実にあります。中国政府は共産主義より独裁政治です。中国は何を狙っているかというと、尖閣だけではなく東シナ海。今まで南シナ海で、中国は挑発や軍事行動を繰り返し、南シナ海が中国に中国のものになるようにしてきた。その行動がいま東シナ海に向いている。今中国は日本とアメリカを試している。どれ位対処する覚悟があるかどうかを。なぜ尖閣諸島を選んでいるかというと、エネルギー問題だと言われますが、それだけじゃない』
『沖縄で私のスタッフが調べたのですが、沖縄にあるほとんどの基地は、民間が所有している。日本政府が借地契約している。契約が更新する時期になると、基地反対の運動が起きるようになる。何故か。土地の所有権を持っている組織が、基地反対派に金を渡している。値上げのためです。政府と交渉する時に、こんなに反対されているから、私の土地を政府が利用できるようにしたら、危ないからといって。だから反対させる。そうして交渉しないとお金がもらえない。そういう光景はよくありますよ。日本政府にも責任がありますよ。お金出しているから』
『そもそも普天間は、日本海軍が昭和17年に買い上げて、基地を作ろうとしている時にアメリカに占領されたんです。だから本当は国有地が90%あるはずなのに、逆転しているんですよ。私有地が91%になっている。地主全員の主張分を入れると、普天間飛行場はあと3つ出来るんですよ』
『難しい問題であれば誰かが反対する。何を決断しても、どちら側の誰かが反対する。それは当たり前です。でも政治家はそういう状態にならないように決断しない、先送りにしたいのです。政治家たちは基本的には落選を怖れているから。私がよくスピーチする時は、落選する覚悟がない人が政治家になるべきではないと発言します。選挙ばかりを考え、県民の利益と国益を考えてないんですよ。でも、本当に何回も同じことを申し上げますが、抽象的な問題じゃないんです。恵先生がおっしゃったように、目の前に中国の武装された公船が県内の島々を包囲しています。ほぼ毎日です。報じられたように、尖聞諸島に中国政府は「これから上陸する」ということを検討している。そうしたら、どうするか?もう決めないと。無視すれば、大変なことになるでしょうね。ただ尖閣諸島を失うだけじゃないんです。
 さらに、私が心配していることは、いまの日米関係と沖縄の問題を中国がどう解釈しているかということです。いま中国は、どのくらい日米同盟が緊密的な強い回盟であるかって解釈しようとしているでしょ。普大間問題は、ただの不動産の問題です、滑走路をこっちにやるかあっちにやるかの問題です。それだけの問題。オスプレイの問題をみると、オスプレイはただの古い飛行機の交替だけの問題ですよね。なのに、こんなに大騒ぎになっている。中国がどう解釈しているか心配になってくるでしょ? もし中国が日米は一緒に対処できないと誤解すれば、題です。
 実際、誤解から戦争が起きている。20世紀と21世紀の歴史をみると、何回も外国がアメリカの反応を判断聞違いしたことがある。そして戦争になっている。日本もパールハーバーで攻撃してもアメリカは反応しないと思ったでしょ。イラクもそうだったでしょ?・ フセインがクウェートに侵入した時も。朝鮮半島で中国も誤解したでしょ? いまアメリカが腐敗して弱くなっているから、国内問題・経済問題があるから、いまやってもアメリカは反応しないと。
 中国には、日本が中国に攻撃されても、アメリカは動かないという誤解があるかもしれない。実際、アメリカはどのように対処するか? アメリカは日本を守りますよ。安全保障条約があるからだけじゃないんです。アメリカは日本と緊密な同盟関係があるし、共通の価値観もたくさんある。民主主義国家であるし、広い経済の関係もあるし、もちろん安全保障条約の責任もある。でも、あくまで、なんでアメリカは日本を応援するかっていうと、それ自体がアメリカの国益だからです。だから別に優しい国ということではなくて、国益だけを冷静に考えると日本を守ることになるんです。20世紀の戦争の教訓をみて、アメリカは前方展開戦略になった。それは、引き揚げると余計戦争が起こる可能性が高くなるという教訓でした。第1次大戦・第2次大戦。だから日米関係を別にしても、前方展開戦略は、基本の基本ですから。それを維持するために、アジアでは日本の基地が必要なんです』
『振興策と言って、沖縄県知事と総理大臣が直接会って、まるで対等のような立場で会談している姿が異常ですよ。でも、彼らは日本政府からお金を取れなくなったら、中国に袖を振るでしょうね。沖縄の県庁の幹部が北京に行くと、パトカーが先導して国賓待遇するらしいですよ。それで頭がおかしくなるんですよ。「自分たちは日本国民じゃなくて琉球国の代表だ」っていう感じで。それでみんな親中になるんですよ。北京に行ったら』
あとがきに、著者のこの書を書くに至る経歴などが書かれていた。
『私は昭和36(1961年、沖縄本島中部の小学校に入学した。入学直後から、授業の度に、「(沖縄県の前身たる)琉球王国の栄華」を強調され、私は過剰なほどに郷土に誇りを持っていた。またこれと同時に廃藩置県を断行した明治政府を恨んでいたのである。
 中学よりは九州の進学校に遊学したが、余りにも誇大な沖縄ナショナリズムをアピールしたため、担任から度々注意を受けていた。
 昭和52年(1977)年四月、防衛大学校4学年に進んだとき、卒業研究に、「医療行政」を選択し、地域研究として沖縄の保健医療を研究した。そこで琉球王国の実態を発見し、救い難いほどの衝撃を受けたのだ。
 戦前の内務省資料に、沖縄における遺伝子異常多発による精神障害や新生児の奇形障害の発生が指摘されており、さらに性病、ハンセン病、結核の多発が指摘されていた。感染症の発症率が全国でも群を抜いていることに茫然としたのである。これは琉球王国の支配体制を如実に物語っていたのだ。
 農民達は原始共産主義体制下、集落単位で耕作地を定期的に交代させられたばかりか、隣集落との交際は一切禁止されていたのだ。当然、近親婚が慣習化し、また男尊女卑思想による性モラルの低下が性病の多発を生じせしめた。
 ところが、廃藩置県以降も集落の掟が一般法より優先され琉球王国の残滓は至るところに残されていたのである。結果、我が国政府による沖縄の近代化策は遅遅として進まなかった。
 これを根本から革新したのが沖縄戦と戦後の米国による統治であったのだ。 私はそこで、県民大衆にこの史実を知らしめるとともに、なんとしても米国の功績と、その期待に応えた沖縄の女性達がいたことを国民に知らせたかった。また沖縄近代化のためにワニタ・ワーターワース女史をはじめ、多くの米国人が半生を捧げたことも歴史に残そうと思ったのである』
沖縄で少年期を送った著者だから感じる教育の歴史歪曲を読んで、朝鮮半島の民族との共通点を見たような気がした。日本人の僕でさえ、やはりゴネ得で得た防音工事にラッキーを感じるが、反対運動の程度が日本人より半島の方の方に近いように感じる。また、ゴネ得を何度も成功体験していくと、さらにエスカレートしていくのは人の常の性でしょう。
沖縄旅行で、山城好き後も騒ぎ多くの城を巡ったが、日本本土のそれては作りが大きく違っていた。この本を読んで、さらに「やはり違うなあ」を感じた。

2014/9 「アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた」 小国綾子著 怪書房 ★★★
日本で少年野球をやってた息子さんを連れて、旦那さんの転勤に合わせ4年間アメリカワシントンDCで暮らした。その著者が、夫とともに全力でサポートした息子さんの少年野球を通した成長記録です。
僕には、強烈に印象に残った映画があります。1977年という僕が大学を卒業する年に観た「ジョーイ」というアメリカンフットボールの作品です。中学〜大学とお世話になった学校の校技がアメリカンフットボールで、中学から体育の授業でプレイしていました。頭脳的プレイが要求されるゲームでとても面白い。大学時代僕はヨット部だったけれど、時々午後の練習を中止してアメリカンフットボール部の試合を、クラブ全員で応援に行くほどでした。
「ジョーイ」は、当時アメリカの大学アメリカンフットボールのスーパースターで、ハイズマントロフィー(全米大学MVP)を獲得したジョンキャパレティの実話に基づく作品です。
僕は、このジョンキャパレティに惹かれて観に行ったのですが、別の部分に大きな感動を覚え、未だにベストムービーです。ジョンがハイズマントロフィーを獲得し、感謝のスピーチを述べます。その最後を、『・・・僕には小児白血病とずっと戦っている弟・ジョーイがいます。・・・僕が戦うのは、フットボールの時だけですが、弟は僕とは比較にならない苦しみを伴う病魔とずっと戦っています。このトロフィーは、ジョーイが受けるべきです』の言葉で括ります。涙が溢れて溢れて、止まりませんでした。
ここに至る家族の物語の映画です。お父さんは田舎町の家具製造会社で働く無口で真面目な目立たない職人で、息子ジョンのフットボールの試合のときだけ、隣の州でも家族全員でそれを応援に行く人でした。ジョンの活躍は、家族の誇りになり、家族の希望の星でもありました。でも年の離れたその弟・ジョーイは、白血病に犯され入退院の繰り返しです。それでも彼に自信をつけさせようと、ジョーイの始めた少年野球のチーム監督を引き受け、一生懸命サポートします。どんなにエラーしようとも、どんなに三振が続いても、お父さんは笑顔でジョーイを迎え、またバッターボックスに送り出します。
このひたむきな姿に目を奪われ、僕もこんな父親になりたいと思いました。あれから30年、2人の息子に恵まれ、孫も1人授かりました。長男は、少年野球〜陸上部〜ライフル射撃部とずっと運動部に所属し、次男も小学生から大学生まで、僕と同じヨット部に在籍しました。いつもあのジョーイの父親を目標に、いつもいつも褒めて褒めておだてまくりました。
この本の題名に目が行き、あのジョーイと父親の姿が頭に浮かび、長男のやってた日本の少年野球との違いや、あの父親の姿がアメリカ人の普通のパパさんの姿なのか確かめたくて、手に取りました。
日本人のお母さんが書かれた本なので、アメリカの少年野球の姿やアメリカの子育ての姿が、日本人的な目にどう映るのかよくわかりました。当然例外はあるのでしょうが、あの父親の姿が一般的なパパさんの姿であり、僕同様我が子を褒めて褒めて自信をつけさせようとする子育てに、共感を覚えました。読了後、この読書感想文を書く前に、僕の御用達書店に2冊ギフトパッケージで注文しました。長男のお嫁さんと、次男の将来のお嫁さんへのプレゼント用です。

『「みなさん、集まってください!」。コーチらしき男性が保護者全員に声をかけた。「この中でピッチャーをやってる子はいますか?」。その場にいた、太郎のチームメートのマイケルのパパが「うちの息子は投げます」と答えた。マイケルは、うちのチーームでは6番手か7番手くらいのピッチャーだ。そのマイケルのパパが手を挙げるなら……と、夫が慌てて「うちの息子も投げます」と答えた。その後はもう、すごかった。ほぼ全員の親が、「うちの子も投げたことがあります」「うちの子も投げます」「うちもこの前の試合で投げました」……すごい。このオールスターチーム、全員ピッチャーじゃん。
まずは選手たちのレベルを確認しようということになり、試合形式の練習が始まった。まずマウンドに立ったのは太郎。まあまあの出来だ。次にマウンドに登ったのは、見知らぬ男の子。投げるのを見て……唖然。ベースまでボールが届いていない。コントロール以前の問題。もしかして、「うちの子、ピッチャーできます」の内実ってこれ?
この国に来ておもしろいなあ、と思うのは、親が躊躇なく子どもを褒めることだ。謙遜なんて絶対にしない。「うちの子はビオラを弾けるのよ」と言うから、「へええ、何年ぐらいやってるんですか?」と聞くと、なんと「2ヶ月前から」なんて答えが平気で返ってくる。それって「弾ける」って言う?
この国の親たちは、「うちの子は、あれも、これも、それからあれだって、やれるのよ」とわが子を周囲にアピールするのが実にうまい。子ども自身もそうだ。学校の掲示板に、小学校3年の生徒が「自分の良い所」を書いた作文が掲示されていた。「僕はかしこいです」「私は数学が得意です」「私はどの教科でも成績がいいです」。これが本当だったら、このクラスは優等生だらけだ。
自己アピールを求められるお国柄もあるのだろう。でも、もう一つの理由は、たとえば野球であれば、下手な子と上手な子が同じ土俵で戦うことがあまりないからではないか。うまい子はどんどん上を目指して行く。その受け皿は無限にある。実力があればどこまでもはしごを上ってゆける。だから、下手な子は上手な子とまじわることがあまりない。上には上がいる」ことを直視しなくて済む。
小学校でも、目本のように、鉄棒の逆上がりや縄跳び、水泳やリコーダーなど、全員が同じレベルまでできるようになることを求められる場面が極端に少ない。だからだろうか。こんなに競争が激しい国で、学力別・実力別クラスが当たり前なのに、なぜか子どもが劣等感を感じる場面が少ない。[できないこと]に直面する場面が少ない。実は、上には上がいくらでもいるのに、誰もが「私、これができるのよ」と自慢しやすい、そんな空気に満ちている。

アメリカのコーチは怒鳴らない?
アメリカに数年駐在し、野球を楽しんだ日本人の家庭の親が、ときどきこういうことを言う。「アメリカの少年野球は日本と全然違う。コーチは怒鳴ったりしないし、子どもをほめるのが上手。のびのびとやらせる。打席にも全員立てるし、野球をもっと楽しもうという雰囲気がある」。』

『フォーカスせよ、アグレッシブであれ
次の日の練習で、トニーコーチは選手全員にいきなり10分以上もの演説をぶった。
「君たちは練習を重ねることで、皆だいぶ上手になってきた。でも僕は今、本気で心配していることが一つある。それは君たちが十分にアグレッシブ(貪欲なくらい積極的)でない、ということだ。
例えば、守備についているとき、君たちのほとんどがこう感じているだろう? 『俺のところに飛んでくるな』って。誰だって失敗するのは怖いさ。特に、最初に失敗する奴にはなりたくない。だけど、本当に君たちが将来野球選手になりたいなら、いつもこう考えなきやいけない。『全部俺のところに飛んで来い。俺が全部さばいてやる』って。
打撃もそうだ。君たちの多くがこう思っているだろう? 『うまくいけばフォアボールで出塁できるかも。相手のエラーで出塁できたらラッキーだ』って。そうじゃない。最初のストライク、それも甘いストライクに、カー杯のスイングができるかどうかが勝負なんだ。最初のストライクを見逃してたんじゃダメだ。相手のエラーなど期待せず、四球なんか期待せず、自分の力でヒットを打つ。そのために、打つことだけに集中する。それが大事なんだ。
投球だってそうだ。郡のリーグ戦には投球制限があるから、1人のピッチャーに毎試合せいぜい35球程度しか投げさせられない。実際、君たちの年齢では35球から40球を超えたら、球威は明らかに落ちるからね。土曜日の試合で35球投げさせたら、僕は日曜日の試合ではその子を使えない。ってことは、わかるか? 君たち全員がピッチャーをできるようにならなきやいけないんだ。すべてのポジションをアグレッシブに守れるようにならなきやいけないんだ。
僕の目には、君たちはただ『野球をやっている』というだけにしか見えない。それ以上のものが感じられないんだ。それじゃ、いくら上手になっても、結局勝てない。打てないし、とんでもない好プレーは生まれない。
いつも『すべてのボールを俺がさばいてやる』と思わなきやいけない。いつも『自分のバットで試合を決めてやる』と思わなきやいけない。いつも『このマウンドは俺のもんだ』と思っていなければ、野球選手になんか絶対になれやしない。
だから僕は今日、君たち全員に宿題を出したい。試合中、自分か集中していられるためにどうしたらいいのか。コーチはあれこれ言うだろう。お父さんやお母さんたちの応援も聞こえるだろう。いろいろな雑音が聞こえる中で、ただ、野球だけにフォーカス(集中)するために、助けになることは自分にとって何なのか、考えて書いてきてくれ。それを明日の試合で提出してくれ。書くのを忘れて来たならば、オバマ大統領みたいに雄弁に、俺の前でとうとうと述べてくれたっていい。
君たちにはきっと、難しい宿題だと思う。でも真剣に考えて、書いてきてくれ」』

『日本の公平、アメリカの公平
翌週土曜日。いよいよ11〜13歳のピッチング・レッスンの目がやってきた。太郎は前夜から[怖いなあ。緊張するなあ]を連発。「天丈夫よ」と励ます私白身、実は他のパパやママたちの反応を案じていた。
「どうして別のクラスに移ったの? あんた、何それ? ずるいじやないの」と言われたらどうしよう、と。
練習施設に到着すると、まだ9〜10歳のレッスンが終わっていなかった。先週、挨拶を交わしたママたちが、私と太郎を見て[へ?]という顔をする。私は勇気を出して、「一つ上の年齢のクラスに変えてもらったの」と報告してみた。すると誰もがニコニコしながら言う。「そりゃ、良かった。あんたんちの息子、上手だから、そのほうが絶対にいいよ」。本気でそう思ってるみたいで、ビックリした。
あらためて、この国のfairness(公平)の概念は、日本と違うなあと痛感する。日本では、同じ教育内容を等しく与えるのが公平。アメリカでは、その子その子の力に応じた教育を保障するのが公平なのだ。
太郎が渡米したばかりの頃、学校では、どんなテストも英和辞典を使って解くことが許された。誰も「ずるい」とは言わなかった。算数のテストで計算機を使わせてもらってる子もいた。子どもたち自身も、そういう「特別扱い」に慣れていた。
私自身、アメリカの社会の仕組みや歴史、人種・民族などについて知りたくて、週に2コマほど近所のコミュニティーカレッジの授業を受けていたが、定期試験のたびに感心した。パソコン受験を許可される生徒、別室受験を許可される生徒、試験時間が延長されている生徒……。たくさんの学生が、それぞれの発達障害などに応じた配慮を受けていた。周囲もそれを当たり前のことと受け止めていた。
そんな光景を見て思ったものだ。これがアメリカの「公平」なのか、と。』

『トニーコーチが説明を始めた。「君は、バッティングケージの中でならいくらでも打てる。マシンのボールはストライクゾーンに来るってわかっているからだ。デッドボールになることもなければ、ボール球も来ない。だから、迷わずバットを振ればいい。でも試合では違う。ピッチャーはとんでもないクソボールを投げてくるかもしれない。ストライクかボールかわからない。だから君は迷う。ボール球かもしれない、と身構えている分、バットを出すのが遅れるんだ。『ボールかな、ストライクかな』と言ったよね。そう思っている限り、defensive batter(守勢に立っ打者)にしかなれないよ。offensive batter(攻勢に出る打者)になりたいなら、『ストライクに決まってる!』と考えなきゃ。それで、実際に来たのがボール球だったら、そこからバットを引けばいいんだ」。
「絶対に打席で考えちゃいけないことが三つある。一つ。ボールをぶつけられたらどうしようと恐れること。二つ。バットに当たらなかったらどうしよう、と怖がること。三つ。バットに当たっても、内野ゴロになったらどうしよう、と結果を心配すること。打席に立ったらこの三つをいかに自分の頭から追い出せるかがカギなんだ。もう君は、そういうことを自分で考えられる歳だと思うよ」』

『日本ならばなあ、と思う。親は子どもの力を信じ、応援していれば良かった。東京で野球チームにいた時、太郎の野球でこんな風に悩んだことなど一度もなかった。でもアメリカでは居場所は無数にある。選ぶことができる。その代わり、どこを選ぶも自己責任。そして小学生スポーツの場合、その責任は親にある。
今、ペイトリオッツで息を吹き返した太郎を見ていると、よくわかる。子どもにとって、周囲から頼られたり、期待されたり、高く評価されたりすることが、いかに太切なのかを。努力しても努力しても報われなかったことが、ちょっとした自信をきっかけに実を結ぶこともあるのだ。ダグの言う通りだ。場所を選ぶことは、こんなにも太切なんだ。
だけど…。ならば私と夫は、親としてやるべきことをやったと言えるのだろうか。大事な決断を子どもに任せ、手をこまねいて、ただ見ていただけではなかったか。
考えこんでいたところに、太郎が笑顔で戻ってきた。興奮気味にまくしたててくる。「あのさ、ハリケーンズのみんなが応援してくれているとき、ネクストバッターサークルの中で、『絶対に俺まで回してくれ。絶対に俺まで回して・・・』とずっと願ってたんだ。そしたらデイブがピッチャーゴロで、あ〜あ、だめかと思ったら、相手ピッチャーがエラーして、ホントに俺に打順が回っちゃったんだもん。びっくりしたよ」。』

その他、いろいろな箇所で、アメリカの子育てに共感できた。我が子がハードな中学受験塾に通いながら、イキイキと勉強に取り組む姿を見て思った。3回連続で毎授業前にある小テストでクラス内ワースト3になると1つレベルが下のクラスに落ちる。3回連続ベスト3になると自動的に上のクラスに上がる。各教科毎にこれが繰り返され、今のその子のベストな授業が受けられるのに、合理的だなと思った。それに慣れてしまうと、下に落ちても気にすることなく、まるでTVゲームののように勉強を楽しんでいる。
中学以降も、能力別クラス分けの学校で学んだので、公立小学校時代のような文句を聞かなくて済んだ。「先生が3回も同じことを教えるので、僕は分かったから外を見てたら叱られた・・・なんで?勝手におしゃべりして邪魔したりしてないのに・・・」。反対にわからなくて、外を見てる子もいるだろう。その子にあった能力別クラスなら、先生もそのクラスのレベルに合ったよりわかりやすい授業ができ楽だろうし、生徒もわかりやすいはずだ。
僕はほぼこのように我が子を育てたつもりだけど、あらためて読んでみると、自分への言葉に思えてきた。僕は、アグレッシブに生きているのか?やる前から、失敗を怖れて、最初の一歩を踏み出せていないんじゃないだろうか?・・・

2014/8 「日本史の謎は地形で解ける・環境民族篇」 竹村公太郎 PHP文庫 ★★★
3部作シリーズの最終。
『100年続いた戦国を治めたのが、信長と秀吉と家康のバトンリレーだった。
最後のランナー家康の役目は、極めて大きかった。何しろ、血なまぐさい戦国犬名たちを鎮めなければならない。モンゴルの諺に「馬に乗って勝つのはやさしい。しかし、馬から降りて治めるのは難しい」がある。日本でも同じだ。戦乱の世から安定した社会に移行するのは至難の業である。
天下を制した家康は、一計をめぐらした。戦国大名たちを「流域」に封じこめたのだ。流域は尾根で囲まれていて、降った雨が集まる土地である。流域に封にられた各大名たちが守ることは、尾根を越えないことであった。尾根を越えず領土の覇権を露わにしなければ、流域内で河川改修を行ない、開墾や干拓を行かい、豊かになることができた。
流域に封じこめられた大名たちは、安心して流域内で権力を確立した。極東の島国で、世界史でも希有な封建制度が誕生した。それは徳川幕藩封建体制と呼ぼれる。しかし、地形から見れば「流域封建体制」と表現できる。
日本を安定させた家康は、将軍職を息子に譲り、江戸から駿府に移った。なぜ家康は人が行き交う東海道筋の無防備と思われる駿府を選んだのか? 家康は流域の地形を利用した治世者であり、やはり流域の地形を徹底的に利用したのだ。
・・・
遠浅は、鉄壁の防御海岸である。戦う船団の最大の敵は、遠浅の海岸である。船は座礁したら動きがとれない。船団で陸を攻めるには、接岸できる岸壁が必要である。もし、そこが砂浜だったら、座礁しない場所で兵隊たちは飛び降りなければならない。
だが1mの水深があれば、飛び降りた兵隊たちとて身動きがとれない。飛び込んだ途端、矢で射抜かれ放題になる。たとえ、浜辺にたどり着いても、濡れ鼠になった兵隊たちは戦うどころではない。
遠浅の砂浜は広く開けており、一見すると頼りない。しかし、陸地に陣を構える者たちにとって、遠浅の砂浜は「鉄の防御壁」だった。その遠浅を利用して防御都市をつくったのが、源頼朝であった。
鎌倉の正面には、由比ヶ浜という遠浅の砂浜が広がっている。鎌倉のすぐれた防御性は、背後の緑の山々でよく語られる。しかし前面の砂浜が、鎌倉を鉄壁の防御都市にしていたのだ。
遠浅の駿府も、海からの攻撃には鉄壁を誇っていた。・・・駿府は鎌倉と似ている!』

『天皇は日本国の象徴である。その天皇の御所は皇居である。この皇居が一風変わっている。なにしろ高い建物がない。
外国人との会議は、よく千代田区の皇居周辺のビルで行なわれる。そのたびに窓から皇居を示し「あそこが皇居だ」と説明する。宮内庁の建物が目に入るがそこは役人たちが勤務する建物で、天皇が生活しているのはもっと高台の森の中に隠れていると説明する。
この説明に対して、外国人たちの反応はない。決まって、会話はそこで終わってしまう。彼らたちはコメントしようがないのだ。彼らの皇居に対する不思議な思いが、手に取るように分かる。
世界中のあらゆる国で、国のシンボルは高くそびえ立っている。国民が敬愛し、崇拝するシンボルが、国民から見やすくそびえているのは当たり前だ。人々はそのシンボルを見て、その国の歴史や英雄たちの偉大さを語り、感じ取っていく。
しかし、日本のシンボルの天皇の住居は、うっそうとした森の中に埋もれて見えない。なんと質素で慎み深い空間なのか。
この皇居の空間は、災害の中から生まれた。日本の災害は日本の象徴である。日本の象徴である天皇の皇居は、日本の象徴の災害から生まれたのだ。
世界の防災関係者は、日本を「災害のショーウィンドウ」と呼んでいる。確かに日本列島には、すべての災害が揃っている。
地震、津波、火山噴火、台風、集中豪雨、洪水、異常高潮、豪雪、雷、竜巻、すべり、山崩れ、冷害、旱魃、飢餓、山火事の自然災害、そして人為による都心火災や大空襲。それだけではない、人類唯一の原子爆弾の被爆という経歴も刻んでいる。日本には存在しない災害はない。
地震だけを見ても凄まじい。日本列島付近で4つのプレートがぶつかり合い、太平洋火山帯が走り抜けている。そのため、国土面積は地球の陸地のO・3%しかないが、地球の大地震の20%と活火山の10%を受け持っている。
過去、日本は地震や津波で多くの人命を失ってきた。近世に入って1000人以上の犠牲者を出した大地震や津波は、18世紀では7回、19世紀では6回、20世紀では9回発生している。
平均すると、約15年おきに1000人以上の命を大地震や津波で奪われてきたことになる。この状況は未来においても変わらない。
間違いなく、日本は世界ナンバーーの災害大国である。

次から次へと大災害が襲ってくる列島で、日本は生き延びてきた。
なぜ日本はこれほど劣悪な災害列島で生き延び、高度な文明を構築できたのか?
日本列島の災害は、地形と気象によって引き起こされた。実は、その日本文明が生き延びた理由も地形と気象であった。
日本列島の地形と気象の特徴を3点挙げる。1点目が、日本列島は南北3000km、沖縄までを含めると3500kmと細長いこと。2点目が、列島中央に脊梁山脈が走っていること。3点目が、季節が1年中変化するモンスーン帯の北端に位置していることである。
日本列島の南北は、ヨーロッパではイタリア・フランスの国境からエジプトのアスワンハイダムまであり、アメリカ大陸ではカナダからメキシコまでの範囲となる。
また、日本列島は脊梁山脈で太平洋側と日本海側に分けられ、まるで外国のように異なった気象を示している。
日本の国土面積は米国のフロリダ州より小さい。しかし、この狭く細長い国土は脊梁山脈により数多くのブロックに分割され、変化する季節に伴って多様な風景を見せつけている。
日本列島の各地方の特徴を「色紙」にして表現すると、色とりどりの華やかパッチワークのようになる。さらにそのパッチワークの色は、時間の経過とともカメレオンのごとく次々と変化していく。
日本文明が生き残ってきた理由は、この地形と気象の多様性にあった。

歴史上いくっもの文明が、環境の激変と自然災害によって滅んでいった。環境の激変と自然災害で滅んだ文明と、生き残った文明の差は何か?
その答えは簡単である。環境の激変や自然災害が長期問、その全域を襲ったか否かである。
全域が長期間にわたって被害を受ければ、文明は滅びる。ところが、日本列島は細長く、地形的に分割され、気象が変化し続けている。そのため、環境の激変と自然災害はある期間、ある地方を襲ったが、日本列島の全域を長期間襲うことはなかった。
山脈と海峡と川によって地形は分断され、季節によって著しく変化する日本列島。国土面積は狭いが、地形と気象の多様性にあふれた日本列島。この日本列島の多様性が文明滅亡から款ってくれた。
文明の存亡は、生物の存亡と似ている。多様性を欠いた生態系は簡単に滅びる。
花園に咲く均質な花群は、たった1つのウイルスで絶滅する。しかし、多様な種にあふれた草木群はさまざまなウイルスに耐えていく。
日本列島は次々と災害に襲われはしたが、地形と気象の多様性のおかげで生き残れたのだ。

日本史上最悪の「振袖火事」
日本の災害を考えるときに貴重な事例がある。江戸時代の1657(明暦3)年に起きた「振袖火事」(明暦の大火)である。
この年の1月18日、本郷の本妙寺から出火した火は、折からの強風に煽られて神田、日本橋、八丁堀、浅草をなめ尽くした。
いったん火は哀えたが、翌19日に再び小石川から出火し、焼け残っていた武家屋敷一帯に火は広がった。火がついに濠を越え、江戸城の本丸、天守閣まで焼きつくしてしまった。
この火災被害は大名屋敷500余、旗本屋敷770余、町屋400町、焼死者数10万7046人という膨大なもので、歴史上最悪の焼失面積、死者数となった。
当時50万人以下の江戸で火災死者数が10万人以上というのは、いかに凄まじい災否だったか分かる。
関東大震災の死者数約6万人、東京大空襲の死者数約10万人と比較しても、史上最大級の災害であった。
この振袖火事で注目すべきなのが、被災後の江戸都市の復興であった。

「100万都市」を生んだ災害復興
振袖火事は史上最大級の災害であったが、それ以上にこの直後の江戸復興事業が狩筆される。
それは単なる復興ではなく、本格的な江戸の都市改造であった。
主要道路の6間(10.9m)から10間(18.2m)への拡張、火除け空き地として上野などで広小路の設置、町屋の耐火屋根の建築規制、芝・浅草の新堀の開削、神田川の拡張、吉原遊郭の浅草への移転、密集した武家屋敷の再配置区画整理などが行なわれた。
移転する武家屋敷の代替地として、隅田川の川向こうが当てられることになった。そのため、隅田川に初めて橋が架橋されることになった。その橋が両国橋で、この架橋が江戸復興事業の頂点となる事業であった。
この両国橋架橋により隅田川左岸は一気に市街地化して、江戸は世界最大の100万人都市となっていった。
この災害復興では、近代都市計画の原則はほとんど取り込まれていた。17世紀としては注目すべき都市改造、インフラ整備であった。このインフラ整備はその後の江戸200年の繁栄と、近代東京の発展に決定的な貢献を果たした。150ページの図2は広重が描いた両国橋である。また、前ページの写真1は明治初期の木造の内国橋である。

実際に指揮したのは誰か?
これはどの都市改造の構想を立案し、資金手当や社会的軋轢を克服して事業の実施を指揮したのは一体誰だったのか?当然、この疑問が湧いてくる。
明暦の火事発生時と江戸復興時の徳川将軍は「家綱」であった。
4代将軍・家綱? あまり印象のない将軍である。
家綱は、家臣たちの意見をそのまま了承した「そうせい将軍」と陰口された将軍で、11歳で即位し明暦火事のときは17歳であった。この家綱を支えた側近がいた。
保科正之という人物であった。

「玉川上水」の保科正之だった!
保科正之は2代将軍・秀忠の庶子だった。つまり、3代将軍・家光の腹違いの弟であり、家康の孫であったのだ。
この保科正之は1643(寛永20)年に会津藩23万有の藩主となり、疑り深い家光将軍に信用された数少ない側近であったといわれている。死の床についたとき家光は、若い跡継ぎ家綱の後見を保科正之に頼んだ。
この保科正之の徳川幕府内での注目すべき逸話が、振袖火事より以前の玉川上水の建設であった。
振袖火事の6年前の1651年、江戸の発展と膨張に伴って水不足が慢性化していた。そのため幕府の作事奉行が、多摩川からの導水計画を提案した。ところが、幕府の大番頭・井伊直孝が異を唱えた。
玉川上水など建設して、その上水に沿って敵が駆け上がり攻めて来たらどうするのかという反対であった。
他の重臣たちが口を閉ざす中、下座にいた保科正之が「井伊様の仰せはごもっともですが、一体いずれの家中が江戸を攻めるというのでしょうか」、さらに「天下は民あってのもの。万民の暮らしを安んずることが大切でしょう」と述べた。
この意見には井伊も反論できず、納得して、玉川上水建設が実施されることとなった、と言われている。

過去の幻と未来への洞察
この逸話を知ると、振袖火事の江戸復興で隅田川に両国橋を架橋した事業が腑に落ちてくる。
徳川家族は100年間の戦国時代を制し天下統一を果たした。しかし、東北には伊達家、上杉家など油断のならない大名が依然として構えていた。
隅田川はその「東北の脅威」に対する「江戸防衛の最終ライン」という、戦術的に極めて重要な意味を持っていた。
徳川幕府にとっては神聖不可侵の隅田川、その隅田川の架橋事業を最後までやり抜くには、確たる判断と固い信念が必要であった。
もう、江戸に攻め込む大名などはいない。過去の幻に怯えてはいけない。あの悲惨な火災を二度と起こさない。さらに、江戸を抜本的に改造して未来の発展に備える。そのためには、どうしても隅田川の架橋というインフラ整備が必要だ、という判断と強い意志である。
現実的な判断力と未来への洞察力と強靫な精神、そして事業を推進しうる権限と権力、それらを兼ね備えた指導者がこの両国橋の架橋を実現したのだ。

天守閣を再建しない「決意」
さらに、この江戸復興で注目すべきことがある。それは、江戸城の天守閣が再建されなかったことである。
人々の目を奪う天守閣は、織田信長の安土城で登場した。それ以降、豊臣秀吉の大坂城の天守閣や江戸城の天守閣は、天下を制した総大将の権力と権威の象徴となった。
その天守閣を再建しないというのだ。
天守閣を復元するためなどに巨額の資金を費やさない。そのような資金があればその資金で広小路を建設し、新堀を開削し、両国橋の架橋を行う。
江戸城の天守閣を再建せず、江戸の街のインフラ整備を優先する。
世界の歴史上、自分の権力の象徴である城の再建をしないで、その資金で一般の庶民が住む街のインフラ整備をした権力者などいただろうか。
その後、21世紀の現在まで江戸城の天守閣は二度と復元されていない。そのせいか、そびえ立つ天守閣がない皇居は、人々に威圧感を与えず、逆に周囲の超高層ビルに遠慮するかのように風景にとけ込み、謙虚さと優しさと親しみの印象を与えている。
江戸城の天守閣を再建せず、江戸の都市インフラの整備を実施した江戸幕府の指導者、それが保科正之であった。』

『沖積平野の河川の両岸には、一見して立派な堤防が延々と続いている。しかし大洪水の際、どこから水が噴き出し、どこで決壊するかは誰にも分からない。
堤防がどこから決壊するか分からないのは、今に始まったことではない。
「決壊」という漢字がそれを示している。堤防の破壊を「欠壊」と書かずに、壊」と書くのには意味がある。
「決」という字だけで、「堤防が崩れる」という意味があるのだ。「央」の一部を削り取られれば「央」となる。漢字辞典を見ると、「央」一字で「かける」という意味を待っている。「央」の一部が削られて「夫」になる。削り取るのは「水」のサンズイだ。だから、「堤防のケッカイ」を「決壊」と書く理由はここにある。
そして「決定」という言葉も堤防に関係している。
どこから切れるかわからない長い堤防。洪水になれば、住民たちは懸命に堤防を守っていく。あるとき、河川の洪水が急に低下する。どこかの堤防が切れたのだ。
自分たちは助かった、万歳をして喜ぶ。どこか分からなかった堤防の決壊場所が決まったのだ。つまり「決定」したのだ。

この堤防の本質を知れば、治水の原則が明らかになる。
治水の原則は、地下に大蛇を抱えた堤防の水圧を少なくすること。つまり、治水の原則は「1mでも10mでも洪水の水位を低くする」ことだ。そして「水圧がかかる堤防の基礎は、深く掘って強化する」ことであった。
洪水の水位を低くし、基礎から水の浸入を防ぐことが「治水の原則」となる。
勝海舟が指摘したように、江戸幕府が治水の原則を守った証拠がある。
次ページの図4は、利根川の堤防の地質断面図である。
この図で「旧堤」とあるのが、江戸幕府が築造した提防である。
この江戸時代の旧堤では、下部はうんと掘り込まれ、堤防が築造されている。堤防築堤の原則「基礎を掘って強化する」は守られている。
ところが明治以降、この江戸の堤防を芯にして、明治、昭和、平成と堤防は嵩上げされている。治水の原則の「1cmでも10cmでも洪水の水位を低くする」ことからは反している。
この図4は、明治以降の「近代治水の誤り」をはっきりと示している。
勝海舟は、この治水の原則に反した明治政府を手厳しく非難しているのだ。

「二段構え」だった江戸の堤防
再び『水川清話』の勝海舟の言葉を紹介する。
「洪水から守るのは、堤防の築造時の注意だけではない。まだ他の仕掛けが必要で、それを利根川の例で説明しよう。
川に近い堤防の内側には田畑を配置し、その田畑の向こうに大きく最も堅甲な第二番目の堤防を築造したのだ。これは、万一、第一番目の堤防が決壊したときでも、2つの堤防の間の田畑で洪水は分散して流れる。だから、第二番目の堤防は、どんなときでも壊れないように丈夫にしたのだ。
江戸幕府は、この2つの堤防に挟まれる田畑は、農民たちからは年貢を取らずにただで耕作させていた。
もし、第一番目の堤防が切れれば、せっかく丹精した作物はメチャクチャにやられるので、洪水のときなどは各村が一生懸命、昼も夜も寝ずに肪いだ。どこか1ヶ所が切れたときには下流の田畑も被害を受ける。そのため、流域の皆が力を合わせて食い止めたものだ。
それをどうだ。明治維新の新政府は、この堤防に挟まれた田畑を測量して、いちいち税金を取ってしまったのだ。
これが勝海舟の明治新政府の「治水」への手厳しい批判である。

「洪水位」を上げてしまった明治政府
勝海舟がいう江戸の治水方式を図で示すと、図5となる。
堤防そのものはあまり高くないが、一番堤の奥にさらに強固な二番堤が控えている。一番堤と二番堤の問は、普段は田畑であるが、いざという大洪水のときはここにも水が流れる。川の流れの幅は広がるので、洪水の水位も低くなり、流れは穏やかになる。
江戸時代、一番堤と二番堤の間の田畑は水に浸かったが、結果として二番堤の向こうの多くの人々と田畑を救った。その公共性から、江戸幕府はこの田畑から年貢を取らなかった。
ところが明治政府は、ここに課税するという挙に出た。新たに課税される地主たちが、二番堤の向こうと「同じ安全の権利」を主張するのは当然だ。
「一番堤を嵩上げして、自分たちの土地に洪水が来ないようにしろ」
「一番堤の洪水があふれた場合、いつまでも土地が浸水しているのは嫌だ。二番堤を撤去しろ」
税金を払った人々の要求は正当だろう。明治政府はやむおえず一番堤で洪水を押し込もうと、一番堤を嵩上げし、二番堤を撤去して行かざるをえなかった。
二番堤は撤去されて、一番堤だけになった。一番堤を高く嵩上げし、いつしか洪水は住宅よりはるかに上を流れ、堤防に当たる力は凄まじく大きくなってしまった。
利根川の支流・小貝川の決壊の様子である。
この図を見れば、明治の治水が江戸の治水に比べて、劣っているのは論ずるまでもない。
明治政府は富国強兵のための税収欲しさに、治水の原則とは逆の、洪水の水位を上げる方向へ突き進んでしまった。

「治水の原則」は未来も変わらない
明治、大正、昭和と目本の人目は急激に増加した。沖積平野の都市へ人口が集中し、国民の資産も集積していった。もう、この沖積平野に水があふれることは許されず、政府は一番堤をさらに嵩上げせざるをえなかった。
21世紀、地球温暖化に伴い気象は狂暴化していく。その未来の治水は、税収欲しさの短期的視野の明治政府の治水の延長であってはならない。
治水の原則は、何百年前も何百年後も変わらない。「1cmでも10cmでも洪水の水位を低くする」ことだ。
そのためには、1本の堤防の中に洪水を押し込めるのではなく、江戸時代のように広いゾーンで洪水を流し、洪水位を下げておくことである。
勝海舟は治水の専門家ではなかったが、「治水の原則」を会得していた。
激動の幕末、江戸を戦火から守り、日本を国民国家へと導いた勝海舟は、第一級の文明評論家であった。』

『日本の平野は「海の底」だった
日本列島は、海面が上昇したおかげで誕生した。
約2万年前、大規模な氷河期があった。ウィスコンシン氷期である。海の水は凍り、海は干上がっていた。そのため当時の日本列島は、ユーラシア大陸と地続きとなっていた。ユーラシア大陸のモンゴロイドが、マンモスを追って日本の地へ移動してきたのも、その頃である。
その後、地球規模の温暖化が始まった。氷が融け出し、海水面が上昇し続けた。
海面の上昇によって、日本はユーラシア大陸から海によって切り離された。
日本は4つの大きな島を中心とする列島となった。この列島に何人かのモンゴロイドが閉じこめられ、彼らが日本人の祖先の縄文人となった。
一番高く海面が上昇したのは、約6000年前のことであった。そのときを「縄文海進」と呼んでいる。その6000年前の縄文海進側には、現在より海面が5〜7m高かった。それは地質調査や貝塚の分布調査などによって確定されている。
日本の歴史が誕生した縄文海進期に、現在ある平野は存在しなかった。
今の日本文明の中心地である石狩、仙台、関東、濃尾、新潟、富山、金沢、福井、大阪、和歌山、徳島、高知、広島、筑後、熊本平野など、平野という平野はすべて海の底であった。
その縄文海進期が終わり、気温が下がりはしめた。それに伴い南極など地球各地で氷河や氷床が形成され、そのため海水面が数m低下して現在に至っている。
当時の国立極地研究所の渡辺興亜教授ら南極観測隊が、南極の氷床をボーリングして氷柱を持ち帰った。渡辺教授らはボーリングコア内の酸素同位体組成を分析し、その分析によって過去30万年間の大気温度を解析した。その数値データの提供を受けて国土交通省の河川局の若手が図化した図2には約30万年前から現在までの気温変動が、1枚の図に表現されている。
2万年前の大氷河明から縄文海進までの気温上昇、そして現在までの気温降下が30万年間のダイナミックな気温変動とともに表現されている。
地球の気温変動を、これほどシンプルに図化した例はないと思っている。

縄文海進期は「2℃高い」だけ
この図2によると、6000年前の縄文海進期の気温は、現在と比べて「平均で2℃」高かったことが分かる。
平均してたったの2℃高いだけであった。
平均で2℃高かっただけで海面は、5〜7mも上昇していた。
今後100年で気温は5〜6℃上昇すると予測されている。気温が上昇し、それによって海水が温められるには、何百年何千年というタイムラグはあるが、気温上昇があれば、海水温上昇と海面上昇はほぽ間違いなく起きる。
未来の地球がこれほど温暖化してしまうと、日本列島はどうなってしまうのか?
海の中に没してしまうのか?』

『未来社会でどんな難関が待ち構えていようが、人類は自動車を決して手放しはしない。その難関の1つが燃料問題であったが、それを克服する切り札が水素燃料だ。
水素燃料供給の基盤を整え、「水素の時代」に円滑に移行していくことが必要だ。
そのため、自動車分野が、新しい水素燃料の基盤を整える時代を切り開いていくことになる。

「水の流れ」はエネルギーそのもの
水素燃料の原材料は「水」である。水は無限にやから降ってくる。
水を電気分解すれば、水素と酸素が得られ、その水素を燃料として燃やす。水素を燃やして排出されるのは水だけであり、究極のクリーンなエネルギーである。
水を分解するための電気は、川の流れのエネルギーを利用した「水力発電」から得られる。
日本の国土面積は、米国のカリフォルニア州より小さい。しかし、その小さい国日本は、全国に満遍なく3万本の川を持つ。日本は、世界で最も川の密度の高い「水国土」だ。次ページの写真2は、立山連峰から望んだ黒部ダムである。
水の流れは、エネルギーそのものである。水の流れの音が聞こえたときには、そこにエネルギーがあることを思い起こせばいい。
大きな川だけでなく小さな川でもミニ水力発電を行ない、その電気で水を分解し水素を取り出し、その水素を貯蔵・供給する施設を整備する。
この基盤整備は採算性のよい都市部だけでなく、全国津々浦々で展開され、国土全体が水素エネルギー社会に変身していく必要がある。
この基盤整備は当面、採算ベースには乗らない。それゆえ「公共」の全面的な支援と実施体制が必要となる。
この水素燃料は、自動車に貢献するだけに留まらない。パソコン、携帯電話だけでなく、未来の電気製品は水素の燃料電池となっていく。
つまり水素燃料システムは、社会生活の全エネルギーを支えていくこととなる。
この基盤整備のための時間は十分ある。今はまだ石油の資源もある。実現可能な技術もあり、それに取り組んでいく人材も、これを進めていく公共マインドも十分存在している。
目前の株主への説明に惑わされ、「本来への準備」という大切な使命を逃してはならない。

「人口減少社会」のプロパガンダ
もうIつの縮小が「人□」である。
日本人が身近に不安を感じているのは、この「人口の減少」である。
過去の医療保険制度、年金制度の破綻を取り繕うためと、新しい介護保険制度を創設するため、旧・厚生省は「少子高齢化」の恐怖のキャンペーンを展問した。
旧・厚生省のこのキャンベーンは、客観的なデータを隠した一方的なプロパガンダであった。
このことを政策研究大学院大学の藤正巌名誉教授、東京大学の古川俊之名誉教授は『ウエルカム・人目減少社会』(文春新書)で明快かつ鋭く指摘した。
この旧・厚生省のプロパガンダの中でとくにひどかったのは、「2025年には、勤労者3人で1人の老人を養わなければならない」という文脈であった。しかし、これはデータを巧妙に操作したものであった。
数十年前の1960年代、WHO(世界保健機関)は「65歳以上は非生産年齢」と定義し、「養われる人々」とした。これはWHOによる勝手な定義であった。
旧・厚生省はそれを世界一の長寿国、日本に当てはめて論を進めた。
現在も将来も、65歳以上の人々は一方的に介護される人々ではない。彼らは自立し、社会に参加していく人々である。
さらに将来、養育すべき子供は減少していく。そのため勤労者にとって扶養すべき老人と子供の負担圧力は、過去と比べて高くならない。いや、健康な高齢者の増加により扶養負担圧力は減っていくと推定できる。
「少子高齢化社会は恐ろしい」キャンペーンに、マスコミはもちろん有識者たちも犯された。ありとあらゆる局面で、少子高齢化がステレオタイプに繰り返され、恐怖心が日本中を覆ってしまった。
「人口減少は本当に恐ろしいのか?」を掘り下げて考える必要がある。

奇跡的な「2000年」の時間軸
一般に人口の推移を論じる際、時間軸はせいぜい前後100年である。
しかし、前後100年の時間は短い。文明を左右する人口問題などでは、データがある限り時間軸を長くする必要がある。
次ページの図1は、筆者が作成した日本の長期人目推移図である。
古い過去のデータは上智大学の鬼頭宏教授の研究成果で、将来の推計人口は人口問題研究所の中位推計値である。
この図で弥生時代から平安、江戸、明治、平成を経て、西暦2100年までの人口推移が一目瞭然となった。

図1 日本の人口の推移
弥生時代・西暦0年80万人〜300年
奈良時代・710年〜750年500万人〜
平安時代・794年〜900年600万人〜
鎌倉室町時代・1192年〜1350年1000万人〜
江戸時代・1603年1200万人〜1750年3100万人〜
明治時代・1868年3200万人〜1912年(大正元年)5500万人〜1925年(昭和元年)6000万人〜1955年8900万人〜2000年1200万人〜2100年6700万人

日本が国のかたちを形成した7世紀以降、日本は他国に侵略されず、また大規模な移民や難民の受け入れもなかった。さらに日本は早くから社会の管理体制が整い、文字文化が発達し、奇跡といえるほど多くの古い記録が残されている国でもある。
2000年の時間軸で人口推移をグラフ化できる国など、世界中を見渡しても日本だけであろう。
その意味でこの図1は、文明を考えていくうえで重要な図となる。

「人口推参」から見た日本史
17世紀初頭、戦に明け暮れた日本は平和な時代を迎える。この江戸時代に各藩は新田開発に力を注いでいった。その結果、米の収穫量が増すとともに、人口は1200万人台から3000万人台へと急増していった。
江戸中期になると、人口は3000万人台で安定する。
これは産児制限の結果である。徹底した中絶や間引きである。幕府や各藩は盛んに中絶や間引きの禁止令を出している。しかし、その命令は貧しい武士階級と農民に対しては効果がなかった。日本人たちは、自分が置かれている環境に合った数だけの子供を育てる、という強い意志を示していた。
この時期、ヨーロッパ列国は、石炭という化石子不ルギーを使用しはしめた。その強力なエネルギーの力で未開の土地を侵略し、資源を収奪する帝国を膨張させていった。
一方、日本はこの時代、開放膨張系の化石エネルギーを知らず、閉鎖循環系の水と木の太陽エネルギーで生きていた。当時の日本列島で、太陽エネルギーのみで生きていける総人口は3000万人台であることを、日本人の1人ひとりが肌で知っていたかのようだ。
1853年、ペリー率いる蒸気船・黒船が江戸湾に入ってきた。日本は初めて石エネルギーと出会った。
それは開放膨張系の文明の幕開けであり、資源のない日本が海外へ進出し、資源を確保していく帝国ゲームに参加することでもあった。
石炭エネルギーにより、工業生産高が飛躍的に増大した。石炭に代わって効率のいい石油が後を引き継いだ。その石油資源をめぐる第2次世界大戦での争奪戦で敗戦した。その後、日本は米国の傘の下で平和を享受し、経済力で世界の資源買上の拡大を図り、化石エネルギー文明を爆発的に膨張させた。
この化石エネルギー文明の膨張に歩調を合わせて、日本の人口は急増していった。しかし、昭和から平成にかけ、地球環境の制約とエネルギー資源の高騰で経済産業の膨張は頭打ちになる。
そして日本の総入口も、2010年ごろをピークに減少していく。100年後の人口は、膨らみすぎた風船がしぼんでいくように、ピーク時の50〜60‰の7000万人前後となっていく。

サーー日本は「特異点」の中にある
この図1の顕著な特徴は、明治からの人目爆発と将来の急減である。
長い人口推移曲線で、この期間はどう見ても異様である。数学的にこのような現象を「特異点」と呼ぶ。そのアナロジーでいえば、現在を挟む前後100年の200年間の日本人口は、日本文明の特異点の中にある。
過去100年間の急増はあまりにも異常である。この膨張した人口がさらに増加し続けるほうがおかしい。
国土面積が似かよった先進諸国と比較しても、今の日本人口はいかに過剰かが分印る。イギリス5700万人、フランス5900万人、ドイツ8200万人、イタリア5800万人、スウェーーデンにいたっては800万人である。
図1を見ていると、明治以降、日本がいかに「人口増加の圧力」に苦しんできたかが、痛いほど見えてくる。
遅れている各分野の社会資本整備、危険な土地利用、劣悪な住宅事情、頻発する公害、破壊された自然環境、これらの原因はすべて、この急激な人口増加にあった。

「人口減少」は福音である
ここで日本から目を転じ、世界を俯瞰してみる。
21世紀は発展途上国を中心とした、地球規模の人口爆発の時代となる。
図2が世界の人口の推計値である。世界の人口膨張はとどまるところがない。日本が過去100年間で経験したことを、地球規模で繰り返そうとしている。
地球のエネルギー資源は滅少し、地球温暖化により気象は狂暴化し、世界各地で食糧不足が発生していく。
これは単なるシュミレーションではない。すでに顕在化しつつある事象で、21世紀中に人類が直面する事態である。
この地球環境の激変の中、日本は人口増加から減少に転じ、人口の過密状態から解放されていく。
地球のパイの大きさは限られていて、環境の激変する21世紀を乗り切る必要条件は「人口の減少」なのである。
その必要条件が、日本では実現化されていく。
人口減少を恐れることはない。
人口減少は悪い知らせではなく、喜ぶべき良い知らせとなる。』

2014/8 「日本死の謎は地形で解ける・文明文化篇」 竹村公太郎 PHP文庫 ★★★
伊丹空港で題名に惹かれ大人買いしてしまった全3作の2作目。
『○地形と気象の説明
その後、現場から離れ、公共事業を説明する任務に携わることとなった。
公共事業を説明するのは難しかった。何しろインフラは社会の下部構造であり、理解されにくい。
芝居に例えるなら、インフラは舞台を支えている土台だ。主役は舞台で演じている役者たちである。その役者たちは、舞台下の土台など見ない。いや、彼らは見る必要もない。彼らは舞台で素晴らしい技で人生を演じていればよいのだ。
 実際の社会でも同じだ。主役は懸命に人生を歩んでいる人々である。土台のインフラは人々を支えている。しかし、その土台のインフラは人々から見えない。人々が見えないものを理解しないのは当然なのだ。見えないインフラを説明しようとするのが、もともと無理なのだ。
それに気がついたときから、私はインフラそのものではなく、インフラが立脚している地形と気象を説明するようになった。
地形と気象を説明するのは簡単だった。何しろ何十年間も地形や気象と格闘していたので、地形と気象は知り尽くしていた。』

『19世紀中頃、世界各地を植民地にした欧米列国が、一斉に日本に押し寄せてきた。鎖国していた日本は欧米列国に囲まれ、植民地化の絶体絶命の危機を迎えた。
その日本は植民地化されず、徳川幕藩体制から国民国家へ見事に変身して、世界最後の帝国国家に滑り込んでいった。この幕末から明治にかけての英雄たちの物語は何度も繰り返し語られ、それら英雄たちは近代日本人の原点にもなっている。
私たちはこの英雄たちの華々しい活躍に目を奪われがちだ。しかし、なぜ日水は植民地にならなかったのか、この理由は決して英雄たちだけの物語ではない。
様々な要因が複合的に絡み合っているはずだ。
長い間、そのようなことを考えていた。あるとき、下関戦争で英国の陸戦隊が長州に上陸して戦っている絵と出会った。17隻の4カ国連合艦隊が長州を襲ったが、結局、長州藩に勝でなかった。その理由がこの絵に描かれていた。
いったいなぜ、欧米列国は強引に日本を征服しなかったか? 圧倒的な巨砲戦艦を持っていたのに、彼らは日本列島を前に何を躊躇していたのか?
地形と気象からの歴央歴史はいつも英雄たちを中心に語られていく。紀元前5世紀、ヘロドトスが「それは彼の物語だ」と言って「歴史」という言葉が生まれた。歴史つまりHistoryは、誰かが誰かを語るHis-Story(彼の物語)である。そのため、どうして歴史は人物たち、特に英雄を中心に語られていく。
しかし、インフラの世界に生きてきた私は、その歴史をインフラという下部構造から見る癖がある。
歴史を芝居にたとえると、歴史の下部構造は舞台と大道具で構成された舞合装置である。歴史で活躍した英雄たちは、その舞台装置の上で演技する俳優たちである。俳優たちの演技を評論する人は多いが、舞台装置を評論する人はいない。インフラに携わってきた私は、下部構造の舞台装置が気になってしまうのだ。
幕末、圧倒的な武力の欧米列国によって、日本は植民地化される絶体絶命の作にあった。なぜ、その日本は植民地化を免れたのか?』

『大正10年の液体塩素による殺菌まで解明できたのは偶然だった。偶然はそれほど続くわけがない。もうこれ以上の謎解きはあきらめていた。
・・・後藤新平だった!・・・
首都圏と大震災に関するシンポジウムに招かれた。首都の震災を議論するには、後藤新平を避けて通れない。
大正12年、関東大震災が首都を襲った。その年、帝都復興院総裁となったのが後藤新平であった。彼は震災後の壮大な東京復興計画を立案し政府に提案したことで有名である。
シンポジウムに備えて後藤新平を調べていたところ、なぜ、後藤新平が帝都復興院総裁に任命されたのかがわかった。彼は大震災の3年前の大正9年、東京市長だった。
大正9年に東京市長だった!
ということは、大正10年に東京市で最初に水道水を塩素殺菌した時乃市長だったのだ。さかのぼって後藤新平の経歴を追っでみた。初めて知ったが、後藤新平は医学博士であった。
後藤新平は「大風呂敷」というあだ名があったように、そのイメージは奔放であった。台湾総督府民政長官や満鉄総裁時代に実行したインフラの整備が有名なため、法科か土木工学出身だと思い込んでいた。
彼は岩手県水沢市の下級藩士の家に生まれ、福島県須賀川医学校を卒業後、内務省衛生局に入っている。そこで彼は自費でドイツに留学している。自費でドイッヘ打った目的は、「コッホ研究所」で細菌の研究をすることであった。
後藤新平はコッホ研究所で医学博士号まで獲得している。彼は当時の日本で北里栄三郎と並ぶ細菌学の権威者であったのだ。
後藤新平の政官界での派手な活躍に目を奪われていたが、彼の人生の立脚点は細菌学であった。
細菌学の博士が東京市長だった。
夢中になって、後藤新平の経歴を追った。さらに驚いたことに、彼は東京市長になる2年前、大正7年に外務大臣に就任していた。大正7年はシベリア出兵があった年である。なんと、披は外務大臣としてシベリアヘ行っていた。シベリア現地でシベリア出兵作戦を指揮していたのだ。
細菌学の専門家・後藤新平は、そのシベリアで「液体塩素」と出会っていた。その2年後、彼は東京市長となった。
東京市長になった後藤新平は、東京市の水道施設を視察した。そこで細菌を大量に含んだ水道水が、市民に向かって送り出されているのを目撃した。それを目撃した後藤新平が「液体塩素で水道水を殺菌すべき」と考えたのは必然であった。
また、後藤新平は陸軍の横やりを抑え、国家機密である液体塩素を民生転用する「権力」も備えていた。
最後の謎が解け、ジグソーパズルの最後のピースがはまった。長い間、胸にひっかかっていた棒がストーンと落ちていった。
「細菌学者」後藤新平は「外務大臣としてシベリアで液体塩素」と出会った。彼は「東京市長」となり、東京水道の現状を目撃した。彼は、陸軍を抑えて軍事機密の液体塩素を民生に転用する「権力」を持っていた。
これらの条件のうち、どの条件が欠けても、大正10年に安全な水道水の誕生はなかった。
この大正10年を境に、日本は世界でもまれな長寿社会へ向けスタートを切った。
文明の大きな転換が、このようにある個人の運命的な人生に依っている。何ともいえない不思議な思いに包まれてしまった。』

『・・・大河川のない港・・・
開港された5港のうち新潟は、もともと日本海側の北前船航路の重要港であた。ところが、その新潟港は信濃川の河口にあったため、土砂堆積で水深が浅く和船には適していたが、外洋を航海する蒸気船には相応しくなかった。そのため新潟港は開港が遅れ、1868(明治元)年にようやく外国船に開港された。しかし、その後も信濃川の運ぶ土砂で港はすぐ浅くなり、大河津分水路や信濃川河口改修の完成を待つまで、土砂に悩まされ続けた。
それに比べ、新たに指定された函館、横浜、神戸、長崎は国際港として極めて有利な地形上の共通点があった。
それは「大きな川がない」ことであった。
大河川がなければ、港は土砂で埋まらない。そのため水深が確保され、外国船が容易に岩壁に接岸できた。開港したこの4港の村はいずれも大きな川がなく、大型船の喫水深が確保できる利点を持っていた。
しかし、地形の優位さと裏腹に、この4港は共通した決定的な弱点を持っていた。
大きな川がないから「水がない」という弱点であった。
この4村はいずれも背後の丘の湧き水に頼っていた寒村であった。大量の水がないため大規模な干拓もできず、多数の人々が集まる商業地に発展することもなかた。
・・・横浜の近代水道・・・
開港された4つの村にとって最も緊急なインフラは水道であった。日本の近代水道が、この4つの都市から始まったのは必然であった。
その端緒を開いたのが横浜であった。
神奈川県は英国陸軍工兵将校ヘンリー・スペンサー・パーマーに水道計画を依頼した。パーマーは44kmも離れた相模川の支川の道志川から横浜の高台の野毛山までの導水計画を作成した。1887年、導水工事が成功し、日本最初の近代水道が生まれた。
パーマーは横浜の英雄となった。
これが横浜市民の誇る近代都市・横浜の華やかな幕開けの物語である。
しかし、この華やかな幕開けの裏に、横浜市民も知らない誕生の物語があった。
横浜水道の誕生以前に、横浜に水を融通した「ニヶ領用水」の物語であった。』日本人は、日本列島の地形的特徴である「雨が多い」「河川が急」「多数の沖積平野」・・・を持つが故、その利用・それがもたらす災害の克服を通して、日本独特の文明文化を持つようになった。これは日本人だから・・・と言うのではなく、この地に住んだ故の必然だと著者は看過し、小気味良く地形から歴史の必然を紐解いていく。実に面白い。

2014/7 「治さなくてよい認知症」 上田諭 日本評論社
大学ヨット部の2年後輩が書いた本です。義理で買ったけど、内容なすばらしかった。81才で他界した母が、その5年前ぐらいから物忘れがひどくなりました。とても勉強が出来高学歴の母だったので、決して自分からそれを言いませんでした。
でも父が亡くなり1人暮らしになってから、我が家の隣の実家を覗くと、テーブルの上や壁にメモがたくさん貼ってあり、とても気にして人様に迷惑をかけないようにしていたのがわかりました。横でサポートしてくれる父がいなくなって、自分なりに工夫していました。まあ、隣には僕らが住み、水道光熱費等は内緒で僕の口座から引き落とすように変更し、郵便や掃除なども家内がサポートしてたから、問題になることはありませんでした。
「電車で隣になった人に姫路まで連れて行かれ監禁されそうになった」とか、「公衆電話がなくなって不便だと言うので、僕が買い与え簡単に僕らや弟に電話が繋がるように設定した携帯電話を、姪にあげた」「僕らが母の印鑑をどこかへやってしまった」「通帳がない・健康保険証がない」・・・いろんな妄想にも笑顔で付き合いました。
朝行くと言ってた法事なのに、1時間後は行かないと言います。約束の時間を忘れることなど当たり前で、なだめすかして僕らが隠れて「面白いな」と笑いながら、面倒を見ました。
何度も同じ話をするのですが、僕らの息子たちが「もう聞いた」とかそれを指摘することなく、何度でも初めて聞いたように応対する姿を見て、なんていい奴らだと再認識させてもらったり、いろいろありました。
アルツハイマー病であると僕も家内も感じましたが、病院を受診させてそれがわかっても大した治療法はなく、残りの人生も短いのだから好きにしていたらいいし、それによる他人様への迷惑は僕らが尻拭いしたらいいと思い、病院に向かうことはしませんでした。子供たちがチビの時と同じ対処です。子供にミスを指摘し、行動を制限するより、気の向くまま行動しいっぱい失敗して自ら学ぶことの大切さを重視して子育てしました。
家内の父親も、最後はトイレでないとこで用足ししたりしていましたが、母親が笑って後始末をしていました。義理姉が近くに住んでいたので僕らが直接関わることはありませんでしたが、こういうことを笑い話として僕らに話せる母親は偉大だなと思いました。
そんなこんなを思い浮かべながら、僕らの対応の仕方はマンザラでもなかったぞと笑顔になりながら読ませてもらいました。医療の現場から見る認知症について書かれていますが、人と人が交わる社会全般に通じる普遍的なことが書かれていると読めました。

『みんな忘れてはいけない大事なことは、認知症の人は基本的に困っていない、ということである。なかには、自ら病的な物忘れに気づいて悩んだり、そのために周囲に迷惑をかけて申し訳ないと自責的になったりしている認知症の人もいるが、それはきわめて少数派である。
多少の物忘れをしても、日常生活や家事などの段取りが悪くなり、あるいは一部できなくなっても、認知能の人白身は、それはそれとしてなんとかやっていることが多い。とくに認知症が気づかれたばかりの初期のころは、多少は周囲の手を煩わすことがあるが、さほど大きな問題になることはない。』

『認知症の人の表情が消える瞬間  病気が隠れているのではないかという不安と心配を抱えて、病院を受診する。程度の差こそあれ病気があることは前提で、それを自覚した上での行動である。・・・認知症の人はその点が全く異なる。自分が不調だから受診したのではない。家族ら周囲に言われて「なんとなく」あるいは「しぶしぶ」または「仕方なく」受診しているのである。・・・診察で、その認知症の人の表情が消える瞬間がある。曇るとか悲しげになるというのではない。凍りつくでもない、まさに消えるように見える。それは、一緒に受診に来た家族や介護者が、本人についての不満や問題点を医師に話すときである。本人の心情を考えて遠慮がちに話す人もいれば、本人などいないかのように露骨に悪口や不平を言い募る人もいる(後述するように、これは制止する必要がある)。』

『「認知症の早期発見、早期治療を」という掛け声がよく聞かれる。製薬会社の宣伝やメディアの啓発記事や番組にも、必ずといっていいほどこの謳い文句が登場する。「あなたに認知症の兆候はありませんか? 早くみつけて早く薬を飲み始めましょう」というわけである。しかし、この謳い文句には大きな落とし穴がある。それは、早期にみつけたら薬で治るかのような誤解を与えていることである。
同じ謳い文句がいまも一番よく用いられる癌について考えてみる。癌は一般的に、発見が早ければ早いほど短期間で良好に治る可能性が高まる。発見が遅れると、悪化や転移が起こり、手遅れにもなりかねない。だから早く治療を始める必要がある。一方、認知症は違う。早くみつけて薬を飲んだら治る、ということはない。
発見が遅くなって回復が手遅れになるということもない。現在のところ、確かな治療法はないからである。認知症を解明し、治療法を見出そうとする研究は進められているが、当面のところ、認知症は「治らない病気」なのである。』

『ただし、早くみつけることにはそれなりの意味がある。しかし、その意義は早期治療につなげることなどではなく、その後に続くべき大事なことは、今述べた「治らない病気」であることを周囲がよく認識すること、である。そのうえで、認知症の人の不安な思い、うまくできなくなった生活の事柄を理解し、「慰め、助け、共にする」ことである。早期発見の最大の意義とは、周囲が「治らなくていいと早期に認識する」ことにほかならない。』

『一方、物忘れやできないことを自ら感じ、指摘されて不安な気持ちや反発を感じている本人には、物忘れで苦手なことがあっても特別なことではないと伝え(詳しくは第3章で触れるが、高齢の認知症の人に病名を告知する意味は無いと私は考えている)今のままでいいのです、困ったときはご家族で助けあって元気に暮らしましょう、と自信をつけてあげたい。具体的には、日中しっかりと起きて、「用(仕事)がある」といえる何かをみつけてあげ、生活に「張り合い」をもてるようにすること、本人ができないことや困ったことがあるときにはそれを援助する手立てを考えることである。ただし、「起きていなさい」「何かしなさい」と本人に言うだけでできる人は、若い人でもなかなかいない。そうではなく、介護保険の利用(第8章参照)などを周囲がお膳立てし、張り合いのある生活を「つくってあげる」ことです。』

『長寿礼賛、なぜ認知症を問題視  前述のように、認知症の予防で確実なものはないが、認知症になりやすいリスクファクター(危険因子)はいくつか言われている。糖尿病や喫煙、高血圧や高脂血症などがそうである。その中で唯一飛び抜けてい決定的なものがある。それは加齢、つまり年をとることである。
厚生労働省研究班の調査では、2012年時点での認知症の人は462万人で高齢者の15%にあたるが、この割合は年齢が上がるほど確実に上昇する(図1を参照)。
85歳以上では4割を超え、90歳以上では6割に達している。これらの年代では、ほぼ2人に1人は認知症である。これはすなわち、長寿になればなるほど認知症になりやすいということを表している。当然といえば当然のことであるが、これほど確かな「リスクファクター」はない。リスクファクターは通常避けることが望ましいが、これはそうはいかない。ここには大きな社会の矛盾がみえる。』

『「指摘しない、議論しない、叱らない」を生活上接する時の鉄則として提案したい(第3章でも述べる)。その上で、「やって」や「こうしなきゃ」と言葉だけで「指導」するのではなく、「慰める、助ける、共にする」を信条としたいのである。』

『松田実氏はこの番組について、「『認知症は治る、予防できる』という趣旨に合う事実だけを一所懸命に取材し、治らずに苦労している例や、あるいは生活習慣病がなくても発病した例などは、見向きもされなかったのであろう」と、マスメディアの記事や番組のつくり方を鋭く批判しているが、まさにそのとおりであろう。
なぜ「治る」「治そう」という視点ばかりで番組をつくろうとするのか。「治らない」ことを認めて、あるべき生活や介護の仕方を考えるような発想がなぜ出てこないのだろうか。
メディア情報は貴重で重要なものも多い。しかしそれだけに、普段信頼できるメディアから発信される一部の誤った認識と情報は、人々を誤った方向に導きかねない。認知症についても、多分にそれが言える。情報はつねに玉石混交であるとわきまえていかなくてはいけない。』

『まず診るべきは「生活」であり、そこに合まれる介護者のかかわりなのである。日中1人でごろごろして昼夜逆転に近い生活をしていれば、頭を使うことが少なくなることで認知機能は廃用性にますます低下してしまう。認知能になった人は、認知機能や実行機能が衰え、必然的に活動が少なくなり、役割や生きがいも失っていく(自らそれを漠然と感じ、不安も増大する)。それらの機能維持を少しでも支える背景として確実なものは、充実した「生活」だけであろう。前章で述べたとおり、活動的な昼夜リズムを保った生活をしていることは、抗認知症薬が効果を発揮する前提でもある。具体的には、早期から介護保険を導入し、デイサーピスやヘルパーを活用し、体を動かす「用事」があり、役割を感じられる生活をつくることである。』

『人は誰でも、子供も若者も中年も老いた人もみな、張り合いを持ってこそ元気に生きられる。ダラダラと生活しているように見える人でも、何かしらの張り合いをもっているものである。そうでなければ、生活は苦痛に満ちたつまらないものになってしまうだろう。張り合いは、自己肯定感や自尊心と表裏一体である。
張り合いがあるから、生きていてよかった、自分はこれいいのだという自己肯定感が生まれ、自己肯定感や自尊心があるから、それを発揮する張り合いの場を求める。ところが認知症の人は、生きるうえで欠かせないこの張り合いや自己肯定感や自尊心をなくそうとしているのである。』

『ただ二認知能の人はたいてい簡単に本心を話してはくれない。人には誰でも、他人に悪く見られたくないという意識、本心を話すと聡をかくことにならないかという警戒心、初対面の人に不満や不平を言うことははしたないことだという規範意識、そういう心の働きがある。不安を感じ始め、何か指摘されるのではとつねに敏感になっている認知能の人は、その傾向がさらに強い。それでも、ちゃんと目を見て向かい合い、耳を傾けることから始めるべきである。信頼関係ができれば、本音を話してくれるようになることも争い。家族から情報を得ようと話を聴くときには、本人に「あなたのことを家族の方にうかがってもいいですか?」と了解を得てから行うことも、本人を尊重する大事な配慮である。
家族からの情報で問題点が明らかになったとき、それを家族サイドに立って指摘するようなことはしてはいけない。もし確認するなら、家族の情報をうのみにしない中立的態度をとり、改めて本人を傷つけない言い方で質問し、確認することである。つねに本人の立場に立ち、心情を受け入れて共感する態度が基本である。』

『家族への介護・対応の指導  本人がいかに物忘れをし、困った存在であるかを、本人の前で平然と語り始める家族にもときに出会う。その場合はすぐに話を制止する(必要なら本人を外して聞く)。認知症の人本人が、生活の中でそのような語りによってどれほど不安や無力感を感じ、いやな思いをしているか、なかなか家族は感じられない。家族の「医師に問題点を治してほしい」という思いはよくわかるが、その前に家族は本人の病について、心情について、本当にはわかっていない、わかろうとしていないようにみえることが多い。診察室での介護者の態度はすなわち、ふだんの家庭での態度といっていい。本人の前で平気で医師に向かって訴えられるということは、ふだん家庭内でも本人に向かって直接言っている可能性がある。
対応と介護の基本は、「慰め、助け、共にする」であり、そこから生まれる本人と接する時の鉄則は、第1章でも述べた「指摘しない、議論しない、怒らない」である。記憶の間違いや生活上のミス、できなくなったことに対して、指摘したり、本人に反論されて「正論」を主張して議論したり、感情的に怒ったりする態度はとってはいけないということである。これは、認知症が「治らない病気」なのだとしっかりと認識できていれげ自然に守れるはずの鉄則である。治らない病気のためにした失敗に対し、それを矯正しようと、あるいはそれにイラついて、「正論」を説いたり感情的になったりしてどうするのであろう。』

『精神的反応としてのBPSD  認知症で生じるBPSDには、不機嫌、イライラ、抑うつなどの比較的較いものから、暴言、妄想(物盗られ妄想、嫉妬妄想)、暴力、徘徊など重度なものまで、さまざまなものがみられる。このBPSDに対する大方の見方に、大きな誤解があるように思われる。それは、認知症という脳器質性の疾患、脳の神経機能障害によってBPSDが生じているという考え方である。これに従うと、認知症と診断されたとたん、本人の不適切な言動や周囲にとって都合の悪い訴えなどはすべて認知症のせいだ、病気のせいだ、とされてしまいがちで、認知症の人の言うことはまともに取り上げられなくなってしまう。
このような見方や態度は、本人の尊厳と存在を軽んじるもので、大きな間違いをはらんでいる。とくに本書で中心に述べているアルツハイマー病の場合、軽度から中等度ならば、脳機能の障害は脳全体からすればごく一部、それも記憶を中心とした部分であって、ものものの見方と考え方、感情や他人への配慮や気遣いにはほとんど影響を及ぼさない。それが明らかに乱れてくるのは、重度になって以降である。大抵の場合、BPSDと呼ばれるものは、脳の神経機能障害から生じているのではないのである。神経機能障害は一部の背景になっているに過ぎない。』

『キットウッドが唱えた「悪性の対人心理」 だます できることをさせない 子ども扱いする おびやかす レッテルを貼る 汚名を着せる 急がせる 本人の主観的現実(思いや希望)を認めない 仲間はずれにする 物扱いする 無視する 無理強いする 放っておく 非難する 中断する からかう 軽蔑する』

『ユマニチュードの実践に学ぶ  一方で、好ましい対応や介護の模索もある。その一つはフランスで考案された「ユマニチュード」という介護手法(介護哲学)である。最近のNHK「クローズアップ現代」(2014年2月5日放送)でも「見つめて 触れて 語りかけて〜認知症ケア。ユマニチュード〃〜」というタイトルで放映されて話題を呼んだ。これは、接し方として、「見下ろすのではなく、視線の高さを合わせて正面から見つめる」「介肋をするときは、心地よく感じる言葉を穏やかな声で語りかけ続ける」「勤かすときは、手首をつかむようなことなどをせず下から支えるように触る」「筋力、骨、呼吸機能を鍛えるために立たせることを努める」といった内容を基本とする介護手法である。
これを初めて聞いたとき私は、どうしてこれが今注目されるべき介護手法なのか、当たり前すぎることではないのか、と驚いた。このような対応は、これまでも看護や介護の領域で、患者の尊厳を守り、回復を進める接し方として、常に言われ続けてきたことであろう。ところが現実には、それが掛け声だけで、貧しい実践しかされていなかったということなのかもしれない。』

『妄想を生む心理的背景を考える  認知症、とくにアルツハイマー病の人に典型的に生じやすい妄想は、物盗られ妄想(盗害妄想とも呼ぶ)と嫉妬妄想である。
BPSDのIつとされるこれらの妄想も、脳器質性の障害からくるという生物学的な見方だけでとらえるのは、筋違いである.生物学的観点からの説明もなされるが、少なくともそれのみで考える見方は浅はかすぎる。環境的・心理学的背景をまずは考える必要がある。
精神科医は「妄想」と問くと、統合失調症や妄想性障害などを直感的に思い浮かべる習慣がある。これらの疾患は脳の病気であるとされるが、正確にいうと、精神医学では「内因性疾患」すなわち脳の病気であるが原因がいまだみつかっていないもの、と考えるので、脳器質性の問題と見るのとは違う。ところが、内因性疾患の治療は、脳器質性疾患同様に身体治療、すなわち薬物療法が主体になる。
ここに、精神科医のもう一つの習慣が頭をもたげる。つまり、妄想と聞くとすぐに薬でなんとかしようという短絡的な発想である。こうなると単なる習慣ではおさまらない。第6章で述べるが、「症状に処方」という安直な悪習と言わざるを得ない。』

『このような妄想を呈する人は、生活が満たされていないことがほとんどである。楽しみや張り合いがない生活、不自由がないようにみえて退屈で何もすることがない日々、自分がしたいことはなかなかできず、家人に指図され、あるいは頼り切っている生活。自分という存在が薄くなり、満足感もなくなっていく。大事なものがなくなると、それしか考えることがなくなってしまう。さらに、もし介護をしてくれる家人が指摘したり注意したりする対応をしていれば、反発が生まれ、「邪魔にされている」という被害者意識が生まれても不思議ではない。それは妄想を生じるに十分な理由となる。』

『ケアの視点から認知症について発信を続ける三好春樹氏(生活とリハビリ研究所)は、「人間関係が閉鎖的で」「介護をしてもらうという一方的な関係が続いている場合」に妄想が出やすいことを指摘している。嫁やヘルパーなど決まった他人に依存することを素直に受け止められず、「迷惑をかけている」という後ろめたさがあり、その心理的負担を解消するために妄想が生まれるとする。このため、「人まかせにせず熱心に介護を続ける介護者ほど『泥棒』と呼ばれることが多く」なるというのである。』

『認知症の人を変えようとせず「いまのあなたでいい」と受け入れて、本人の心情と言動に合わせてかかわることで、結局は介護が安楽なものになることが多い。認知症の診断を、割り切りと覚悟で受け入れ、受容した介護、さらに公的サービスを利用した助力を得た介護をすることで、報われない疲れではなく心地よい疲れが訪れるようにしたい。』

『家族の嘆きに答えて  本人の心情に寄り添う介護、本人の自尊心を尊重する介護をしようと努めていても、家族はつい本人にきつい口調で言ってしまったり、我慢できずに叱責してしまったりすることがある。短時間だけデイサービスで預かる介護施設のスタッフとは違い、長時間、場合によっては終日ずっと一緒にいなければならない環境では、いつも優しく、いつも丁寧にとはいかなくても仕方がない面はある。また、長年一緒に暮らしてきた家族だからこそ、言っても許される厳しい言葉というものもあるのかもしれない。いくらひどい言葉を投げつけても、背後にある肉親の情は変わらないからである。しかし、それが本人にどう受け止められるかをつねに気遣っていなければ、本人の心の傷はいつまでも雍やされない。それはBPSDの火種になってしまう。
介護の悩みが堂々巡りになりやすい家族の訴えに、私は以下のように答えるようにしている。
「薬を飲んでもいつまでも良くならないんです」->いつ良くなるかと思い煩わず、今が普通なんだと思いませんか。「プライドばかり高くて困る(何も出来ないのに)」->プライド(自尊心)は人にとってとても大切なものではないでしょうか。「外面だけよくて、うちではワガママばかりです」->私達も含めて誰もがそうではないでしょうか。「誤りを認めないで、取り繕うことばかり上手で・・・」->間違ってもいいと思ってあげてくれませんか。「探しものばかりして、私を盗んだ犯人にします」->やることがなくて不安ばかりの生活になっていませんか。「私が出かけると、女に会いに行ったとか言って怒るのです」->普段よくお話されていますか。』

『向精神薬が引き起こした「認知症」  夫の介護で疲れが続いた76才の女性は、夫の死後、うつ状態がひどくなり精神科病院に通院し、抗うつ薬や睡眠薬などが増量されていた。ある月から急に話の内容がわからなくなり、家中で放尿するようになり、夜も眠れない状態になった。精神科主治医から「認知症になった。施設へ行きなさい」と言われたが、家族は納得できず、当科を受診した。
HDS-Rは3点と最悪であったが、高齢者に認知機能低下を引き起こしやすい薬剤が多種処方されていて、認知症ではなく、薬剤によって誘発されたせん妄(意識障害)であると考えられ、入院としてその薬剤をすべて中止した。
当初、病棟で暴れていた女性は徐々に落ち着きを取り戻し、もとの上品なたたずまいに戻った。認知機能も正常になった。不調なときのことはまったく記憶になかった。』

『今のあなたでいいのです。少し自信をなくされているかもしれません。少し寂しい気持ちになっておられるかもしれません。自分の周りが変わっていくような不安感に襲われている方もいるでしょう。でも、あなたはこれまでご自分と家族のために、長年仕事を務めてきました。あるいは、主婦として家庭のために家事と子育てを見事にこなしてこられたことでしょう。そのおかげて、夫婦が絆を結びながらお互いに無事に齢を重ねることができたと同時に、お子さんたちも立派に成長されました。そのことで、この社会にも貢献を果たしてきたのです。これはあなたの人生の勲章のようなものです。家族のみなさんは昔のことで忘れているかもしれませんが、これは決して消えません。あなたの能力と努力があったからこそ成し遂げられ石皆万一です。そのことを、何かあっても誇りになさってください。』

『言うまでもないことですが、ご本人は意地悪で出来ないふりをしたり、同じミスを繰り返したりしているわけではありません。出来なくて、まず悩み苦しんでおられるのはご本人です。もう同じミスをして恥をかきたくない、周囲に指摘され注意されたくない、と思っておられるのです。そうではないでしょうか。
ご本人を、そのままでいいと認めてあげてほしいのです。忘れてもいい、できなくていい、という気持ちで接してあげてほしいのです。これまで、仕事や家事に長年働いてくれて、もう十分頑張ってくれた、と思ってあげてくれませんか。認知機能は下がっても、楽しく、生きがいをもって生活していくことを目指してあげてほしいのです。それには、できないことを支え、助け、あるいは一緒にしてあげるという手間がかかります。自分たちの生活を変える必要も出てきます。はじめは大変なことでしょう。しかし、それを当然のこととして、生活の工夫を考えるのです。
相手に少しでもよく変わってほしいと望むなら、まずは自分か変わらなくてはいけません。人と人との関係では、自分か変わることで初めて相手も変わるのではないでしょうか。認知症を発症して以来、ご本人は、記憶能力や物事の遂行能力を少しずつなくしてきたほかに、自分を認め、肯定し、承認してくれる人やその態度をなくしています。それがいかにつらいことか。自分の人生が打ち消され、自尊心まで否定されそうな思いになってもおかしくありません。それを理解してあげてほしいのです。そうすれば、きっとご本人もよい方向に変わります。』

『どうしても本人の気特ちになって介護ができない、本人のことが好きになれない、過去の確執を考えるととても受け入れられない、というご家族もいるかもしれません。認知症の夫と受診されたある女性は、私が診察のなかで、本人の現状をまず肯定し寄り添って介護してあげてほしいと話すと、「無理です。それなら離婚します」と宣言されました。私はそれ以上何も言うことができませんでした(その女性はしかし、その後、認知症の家族会に参加され、介護を続けられました)。同じ心境の方もいるかもしれません。
先に書いたとおり、介護する人がほんの少しでも変わらなければ、認知症を肯定して介護を前向きに行うことはできません。どんな人でも変わることができると、私は信じています。もし万一、少しだけでもどうしても変わることができない人、また変わりたくないような人がいるとしたら、そういう人は介護から離れる選択を考慮してください。でなければ、本人のBPSDをひどくし、本人の名誉を傷つけ、不幸にするばかりだからです。どうしても介護が無理な場合は、施設に介護を任せるという選択があります。
認知症を受容し介護を前向きに頑張っている人にも、「限界」はやってきます。そのとき、介護が悪化したり手薄になったりして、本人が身体的・精神的に傷つくようなことだけは避けなければなりません。その場合も、入院や施設入所の選択を考えればいいのです。
いざとなれば、(在宅)介護をやめていいのです。決して無理に無理を重ねることなく「楽な」介護を目指してください。そのためにも、ぜひ本人の現状を嘆かず肯定してあげてほしいのです。
そして、できることなら、介護の経験が自分の人生にとって大切な貴重な経験であったといえるようになっていただきたいのです。』

2014/7 「日本史の謎は「地形」で解ける」 竹村公太郎 PHP文庫 ★★★
長男夫婦に招待され、孫に会うために夫婦で東京に向かった機会に、大阪空港の売店で目にし、衝動買いした「日本史の謎は地形で解ける」シリーズ3冊の1作目です。
日本史好きで、特に中世の山城探索を続けているので、下調べ時に地形や標高などの中世とあまり変わっていないデータから、当時の徒歩・馬・弓矢での土地取り合戦を想像を想像する。その時使いやすいのが等高線地図で、それを色分けた地図です。そんな地図が表紙にドカンと載っており、「ん?」と釘付けになりました。ペラペラとめくると、僕の興味にドンピシャな項目が並んでおり、大人買いしてしまいました。
筆者は、建設省・国土交通省の元官僚で、日本全土を、あるいは担当都府県地図を睨んで、より永続的な国土保全と経済発展を模索・実行してきたトップです。そんな国土のプロの目から見える日本史が、書籍になっており、人文的な対立ではなく、水・エネルギーという食料確保と交通の要衝という地形から、平安遷都や江戸遷都の必然を語っている。歴史のベースとしての流れとして、非常な説得力で僕の頭の中がクリアに整理されたように思う。
6000年前の縄文時代中期は、現在より気温が高く、平均5mほど海面が高かった。それを大扇状地地形の関東平野に当てはめると、海は関東の奥まで侵入していた。縄文海進である。貝塚の分布で、それを証明できる。家康が秀吉の命令で江戸にやってきた時、半島状に低湿地に突き出た江戸城の他は、雨が降れば関東平野北部から大量の水が流れてきて広大な湿地に変貌するヨシ原が広がる低地で、大雨の度に暴れ川となって洪水を繰り返す利根川の姿だった。家康が、利根川を千葉に東征させた大土木工事により、湿地の水がはけ広大な農地が出現した。これが当寺世界一の人口を抱えた江戸の繁栄を導く源だった。
大和朝廷が奈良盆地に成立した古墳時代・飛鳥時代、聖徳太子が上本町台地上に四天王寺を建立した。大阪湾に沈む夕日を正面に見るように参道・鳥居が配置されている。つまり、上本町台地の西は直接大阪湾に洗われており、その東側も湾が平野近辺まで入り込み、小型船に乗り換え大和川を遡れば、直接奈良盆地に入れます。そんな地の利故、奈良盆地で政権が成立した。
しかし、奈良盆地の人口が増えるにつけ、エネルギー源である木材の伐採が周囲の山を禿山にして、山の保水力が衰え土砂が流出し、大雨〜洪水&渇水の繰り返しにより衛生状態が低下し、疫病流行により遷都せざる負えなくなった。
当時の大量輸送手段は船だったので、淀川を遡り京都盆地に至る。漂着ゴミの種類から朝鮮半島からの海流の流れで丹後・福井の日本海側との交流も、琵琶湖を介することで容易だったこの地が、その後1000年もの間日本の中心になったのはうなずける。
比叡山焼き討ちを行った信長が恐れたのは、中世の権威・朝廷を制するために京都に入るときに必ず通らなければならない比叡山山塊の南の追分峠であった。上には朝廷が京を守る守護として養っている北嶺・比叡山の大兵力がいる。朝廷の権威を凌駕しようとする信長には、比叡山焼き討ちで北嶺勢力からの脅威を取り除くのは必然だった。
日本列島にも平らな土地はあったが、まだ海の下だった。雨によって運ばれ河口や窪地に堆積した小さな沖積平野となっていた。沖積平野は水はけが悪く、雨が降ればぬかるんだ泥の土地になってしまう。連戦連勝で世界を席巻し、人類史上最大の帝国を築いたモンゴル・元帝国が、日本に大船団を派遣し圧倒的兵力で博多湾に上陸した。でも鎌倉幕府軍の執拗なゲリラ戦の抵抗に遭い、そして泥の海岸線に苦しめられ、主兵力の朝鮮兵は暗くなると安全な船に戻って身体を休めなければならなかった。そこに台風が襲いかかり、2度の大兵力での遠征は実らなかった。
東海道五十三次の宿場に、伊勢・三重県の桑名と尾張・愛知県の熱田神宮・宮がある。この間、あるいは宮宿〜四日市宿の間は、唯一の海路になっている。現在は長良川・木曽川の大河川に運ばれ作られた広大な土地が横たわっているが、たった200年前は海路で渡るしかない湿地・荒れ地だった。
その他、矢作川上流の徳川家と、それに隣接しする下流を領し塩田で経済力のあった吉良家との暗闘が、忠臣蔵の主人公・浅野家残党に徳川幕府が加担し、忠君仇討ちの大ストーリーを演出してしまう。そして足利氏末の血筋で朝廷と幕府との間に欠かせなかった目の上のたんこぶ・吉良家をついに幕府が滅ぼしてしまう。
まだまだ面白い歴史ストーリーが、土木・地質の面から紐解かれ、読み飽きない本でした。

2014/7 「脳は楽天的に考える」 ターリ・シャーロット・斉藤隆央訳 柏書房 ★
脳科学者が、人の起こす錯覚や未来予想について研究したものを書いている。
『楽観性は、自己成就的予言・・・思うが故実現する予言・・・となっている。
楽観性がなければ、最初のスペースシャトルは飛ばなかっただろうし、中東に平和を築こうとはされなかったはずだし、再婚率などそもそも存在しそうになく、私たちの祖先は自らの部族を離れて、冒険に乗り出しはせず、人は今もみな洞窟に往み、身を寄せ合って明かりと曖かさがほしいと願っていたかもしれない。
 幸いにも、私たちはそうなってはいない。本書では、人間の心がつく最大級の嘘と言える、楽観性のバイアスを探ろう。このバイアスがどんなときに適応に役立ち、どんなときに害をもたらすのかを調べ、ほどほどに楽観的な錯覚なら幸福を高められるという証拠を提供するのである。そのために、非現実的な楽観性を生み出して私たちの認識や行動を変えさせるような、脳の特定の構造に注目する。
楽観性のバイアスを理解するには、まず脳がなぜ、どうやって現実に対する錯覚を作り出すのかに目を向ける必要かある。』
『予言か原因か・・・
レイカーズを1988年にピストンズとのファイナルで勝利へ導き、翌年は敗北をもたらした要因はいろいろある。とはいっても、レイカーズの監督・ライリーが1987〜88年のシーズンでは優勝を約束し、1988〜89年のシーズンでは約束しなかったことが、最終的に重要な役割を果たしたのではないかと考えたくなる。
ライリーがした連覇の約束は、自己成就的予言−‐‐それ自体の実現をもたらす予言−の典型的な例と言える。予言自体が本当になるようにする予言だ。1978年のファイナルのあとに記者から聞かれた時、パット・ライリーには、翌年も優勝すると思う理由が十分にあったのは間違いない。チームはファイナルに勝ったばかりで、最高のチームと宣言されていたから、翌年の優勝候補として有望だったのだ。それでも、揺るぎない楽観性を示す彼の言葉が、その約束をはるかに実現しやすくするプロセスの引き金を引いた。「優勝の約束は、これまでにパットがした中でも最高のものだった。あれで僕らに心の準備ができたんだ。もっと練習して強くなる。それしか連覇の道はなかった。もう1度勝つんだと考えてそのまま合宿に入ったし、今もそう思っている」レイカーズのパイロン・スコットは1988年にそう言っていた。・・・』
『ローゼンタールとジェイコブソンは、ジェイコブソンの学校から無作為に生徒を選び、教師たちに、この子たちが今大きく知能が発達する段階にあることがわかったと告げた。この情報は「虚構」たったー−―その生徒たちの能力がほかの生徒と違うことを示すデータは存在しなかったのだ。
 それでも、その年の終わり、でっちあげの予言が現実になった。ローゼンタールとジェイコブソンが優秀だとして(無作為に)選び出した生徒たちが、年の初めには同程度のスコアだった生徒たちより、年の終わりのIQテストで高いスコアを出したのだ。一年間の上昇分は、通常期待できる以上に大きかった。マジック・ジョンソンやカリーム・アブドゥル=ジャバーや賢馬ハンスと同じく、この生徒たちも期待されたことをなし遂げたのである。
 結論は明白だった。人間は、かけられた期待の影響を大きく受けるのだ。従業員は、雇い主から期待をかけられれば生産性を上げるし、妻は、夫がそう期待すればもっと愛情深くなるし、親がわが子に才能があると思えば、子は学業やスポーツで好成績を収める可能性が高く、遂にわが子に才能がないと思えば、その子が好成績を収める可能性は低くなる。ティーンエイジャーの飲酒さえ、親の期待の影響があることが明らかになっている。
 生徒の学力向上を実際にもたらしたジェイコブソンの学校の教師たちは、いったい何をしたのだろう? ローゼンタールは、教師たちの行動で、子どもの成績に影響を与えた可能性のあるものをいくつも見出している。教師は、「才能がある」生徒にほかの生徒より長い時間目をかけ、より丁寧にフィードバックを返し、提案中によく答えさせていた。要するに、教師は「特別な」子たちをほかと違うように扱い、その結果、その子たちが実際に特別になったのである。』
その他、世界の行く末を予想する時悲観的に答える人も、自分の将来に対してはそれより明るい予想を立てる。このように人間の脳は作られているようで、そうでなければ現状維持や衰退への道に甘んじ、ついには滅びる。脳が楽天的に考えるように作られている故、進歩してきたのだそうだ。
まさに僕の脳もそのようで、平均より楽天的な脳を持っているように思う。

2014/6 「村上海賊の娘」上・下 和田竜 新潮社 ★★★
2014本屋大賞受賞で話題の本です。著者の前作・「のぼうの城」も面白く、再び戦国の世に埋もれた地方豪族の土着故の生き様を楽しみたくて手に取りました。
それともう一つ、ずっと観たいと願っている「しまなみ海道・大三島の大山祗神社に奉納されている国宝・唯一の女性用胴丸」の縁です。題名を見た瞬間に胴丸の主・鶴姫伝説との関係を連想し、作者もこの胴丸に思いを馳せた一人なんだなと同類を感じたからです。明らかに体力・俊敏性において男性に劣る女性は、戦国という弱肉強食の戦乱の時代は表に出づらい。そんな時代に、多くの配下の男を先導し自ら戦場に赴いた女性は稀有の存在です。当然、その女性の生き様に想像を巡らします。
戦国の大家、中国の覇者・毛利家と天下に号令すべく破竹の勢いで支配地を広げる織田信長という両雄が、初めて矛を交える「木津川沖海戦」が舞台です。1巻500ページの上下2巻という大作で、上巻を読み進める間、このペースでは毛利家大勝の第1次と九鬼水軍の鉄船により織田軍が勝利した第2次の2回の木津川沖海戦が語られるのだろうと思いましたが、結局第1次海戦のみで物語は終わりました。
登場人物のキャラクターがはっきりしており、とても読みやすく、戦闘シーンでは無慈悲に、そして呆気無く兵が討たれていきますが、残忍な海賊という設定なのでそれを感じさせず、大スペクタクルとして痛快活劇にまとめられています。息もつかせず最後まで読者を飽きさせずに大作を書き上げてしまう技量に感心してしまいました。そして巻末の参考資料を見ながら、改めて歴史小説の書き手の下準備の膨大さを感じました。
中央の歴史には埋もれてしまう地方豪族の少ない資料を発掘し、そして読み・理解し、それらを縦横に組み合わせ、空白部分を想像創造し、痛快にそれらを組み合わせて創られた歴史小説です。舞台の泉州という土地柄を考慮し、今の世にも脈々と続く泉州人のだんじり祭に代表される豪快さ、大阪人の笑いの文化を太い横糸に流して、洒落っ気を失わずに本編が綴られます。実に面白いです。
村上水軍の雄・能島村上の村上武吉に景という娘がいました。彼女は女だてらに伝説の鶴姫に憧れ、親兄弟が止めるのも憚らず海賊働きが面白くて仕方がない。配下は景の女とは思えない大胆不敵さと勇猛果敢さに惹かれ、鼓舞されて歓喜する。反面そんな女を娶ろうとする男子はおらず、婚期を逸しようとしてもいる。そんな時、ひょんなことから難波の海には、そういう女を好む者多しとそそのかされ、信長軍と戦っていた石山本願寺軍に加わろうとする門徒を大坂に送ることになる。
そこで出会った眞鍋水軍当主・眞鍋七五三兵衛はじめ多くの泉州侍・海賊に惹かれる。最後は袂を分かち能島に帰ってくる。毛利家から本願寺への兵糧入れを打診された村上3家が協力することになり、勇躍難波の海目指して大船団が渡っていく。毛利家に与する条件が景の輿入れで、毛利家水軍家臣への輿入れが決まった景はおとなしく能島でその時を待ちますが、ついに自らの気持ちを偽ることが出来ず、単身難波の海を目指して発つことを決心する。それに喚起した兵も続く・・・。
毛利家はお家存続のために、織田軍とは事を構えたくない本音のため、淡路島で本願寺沖を封鎖する眞鍋水軍主力と対峙するのみで時間が過ぎていた。そんな時に血気盛んな景がやってくる。そして・・・

2014/4 「ほとけの履歴書(奈良の仏像と日本のこころ)」 籔内佐斗司 NHK出版 ★★
NHK・ETV「趣味Do楽・仏の履歴書」を見て、その番組案内人・薮内さんの本を読みたくなりました。日本には古代からの土着宗教・神道神社とともに、仏教寺院は山のようにあり、現役で一大経済圏を作っています。古くは新興渡来宗教であった仏教を基盤に國造を模索した蘇我氏〜藤原氏の時代から、近世では江戸幕府が全国統治の細分化末端役所に寺院を組み入れたことで、本家インド・本場中国・朝鮮半島で廃れてしまった大乗仏教が、いまだ大勢力として日本に息づいています。明治維新の時、日本古来の天皇中心主義の基盤・神社を復活させようとした新政府の神道・仏教分離令により、廃仏毀釈運動が盛り上がり多くの寺院が破却などされたが、再び隆盛を取り戻し、数世紀を経た仏像の魅力も相まって衰えぬ求心力を持っている。
そんなどこにでも当たり前にある仏教寺院や仏像を何気なく見ていますが、如来>菩薩>明王>天部の序列や、お釈迦様が悟りを拓かれ柔和なお顔になったお姿>修行されておられる王子だった頃のお姿>如来が化身して人々を救うために必至になっている怖い形相のお姿>元々仏教に敵対する宗教の神様が仏教に帰依して仏教の守り神なったお姿、というぐらいの知識でした。
著者の薮内さんは、東京芸大彫刻科出身で卒業後市井の彫刻家として活躍した後、学生時代に関わった仏像修復などの経験に戻り、芸大教授として修復作業や後進の指導に当たられています。
そんな経歴から明らかなように、信仰の対象である仏像の他に、その構造や時代とともに移り変わった造仏方法の変化や材質・流派などに深い造詣を持っておられる。
例えば、『興福寺の「阿修羅像」は、もともとはゾロアスター教の最高神であるアフラマズダでした。それを大乗仏教が六道輪廻思想の中に取り入れて表現したものです。すなわちアフラ→アスラ→阿修羅と転化したものです。この神は善悪という二元論を持った最初の神格だと言われていますが、これから派生した火の神である「ミスラ」という神も篤い信仰を集めました。』というように、仏像の謂れが平易な言葉で深く書かれ、知的好奇心を大満足させてくれます。
『東大寺の不空羅索観音の名の由来は、「大悲の羅索をもって一切衆生を救済し、請願を空しからしめざる(不空)」ところにあるといわれます。羅索は縄で、だれ一人逃がすことなく救済する決意を示しているのです。しかし不空羅索観音はもともとヒンドゥー教の最高神で破壊の神、シヴァ神であり、バラモン救の創造の神、大自在天です。しかも、この観音さま、鹿島神宮から鹿に乗ってこられて、春日御蓋山に降臨されたタケミカヅチノカミの本地仏のすがたでもある。本地仏とは、神仏習合思想から創案された考えで、わが国の神さまを、仏教のほとけさまがわが国に仮に姿を現したものであるとして、神像とともに神宮寺に祀られた神さまの本来の仏像のことです。神直と仏教がひとつになったなんとも強力な観音さまであり、なんとも重層化した世界です。』
仏像製作集団としての流派については、『興福寺を中心とする奈良の僧侶たちは源氏軍に呼応して上洛する体勢を整えていました。そもそも興福寺は大和国の知行(支配権)をめぐって20年来、清盛とは敵対関係にあり、頼朝に先立つ以仁王の平氏討伐計画(この年4月、後白河上皇の第3皇子以仁王が挙兵を計画したが露見、敗死した事件)にも加担していた。そこへ今回の動きとなれば、これを察知した平氏としては討つのが当然でしょう。『平家物語』には、たまたま強風で火が燃え広がったように書いてあるけれども、これは確信犯です。
 さて、全滅に等しい打撃を受けた両寺ですが、復興への動きは早く、翌年6月には興福寺が、次いで8月には東大寺が、それぞれ再興計画を立てています。何といっても東大寺は400年来の国立寺院であり、興福寺は当時最大のセレブである藤原氏の氏寺です。
朝廷と摂関家の面子にかけても立派に復興しなければなりませんでした。 寺の復興とは、要するに伽藍を再建し、そこに安置する仏像を新たにつくることですが、この興福寺・東大寺の再興の際の造仏にことのほか活躍した奈良の仏師たちがいました。今日、「慶派」と呼ばれる仏師の集団。そして、ある時期からその中心に座り、彼らを牽引した仏師こそ、運慶その人です。
 円成寺の「大日如来坐像」をつくった安元2年(1176年)、運慶は20歳代半ばの青年仏師でした。それから4年後、30歳になるころに、運慶は奈良炎上に遭遇します。奈良の仏師の家に生まれ育ち、小さいころから数え切れないほど通ったであろう興福寺・東大寺やおなじみの仏像が燃え上がるのを、彼はどのような気持ちで眺めたのでしょう。おそらく、仲間の仏師たちとともに、煤だらけになりながら焼け落ちた伽藍の片付けをし、仏像の断片を探したことと思います。』
平安時代は慶派とルーツが同じである京都仏師集団が主流でしたが、彼らは平氏のバックを得ていたので、その後の鎌倉時代になると遠ざけられ、奈良地盤の慶派が台頭するようになったそうです。
『 平安時代末から鎌倉時代はじめにかけて活躍した仏師の集団は、のちの「慶派」をふくめ、すべて平安後期(十一世紀)に活躍した大仏師・定朝の流れから出ています。前章でみたように、定朝は、大小あらゆる阿弥陀像の膨大な需要に応えるため、複数の人間が分担して作業できるよう制作工程をシステム化し、大量生産方式を確立した人。古く奈良時代から、仏像は工房(仏師集団)が請け負って制作していたのですが、大量生産を目指す定朝は工房をさらに組織化・大型化させました。なにしろ彼は、等身大の仏像二十七体を、百人以上のスタッフを率いて五十四日間でっくりあげるような人だったのです。京都七条通にあった彼の工房「七条仏所」は、「工場」と呼んだほうがふさわしい広大なものでした。』
のように、以前は1つの木を仏師1人が彫っていくスタイルだったのを、仏像を各パーツに分解し、それぞれに仏師が掘り進め合体するスタイルになり、大量生産が可能になりました。
『一般の阿吽像と左右の並びが逆なのは東大寺の特色です。どちらも像高8.4メートルに近い国内最大の木造彫刻(寄木造り)です。ところが、驚いたことにこの巨像一対は、建仁3年(1203年)7月24日から10月3日までの、わずか69日間でつくられているのです。しかし、この日数は彫刻だけでなく彩色までも含んだものですから、にわかには信じ難い数字です。
 この離れ業を演じてみせたのは、言うまでもなくわが運慶を中心とする慶派一門の面々、総勢20人。じつは彼らは、その7年前の建久7年(1196年)、南都焼き討ちで焼け落ちた大仏殿の再建事業のひとつとして、前年に落慶した新大仏殿に安置する6丈(坐像なのでその半分の3丈、約9メートル)の脇侍「虚空蔵菩薩像」「如意輪観音菩薩像」二体と、4丈(約12メートル)の「四天王像」の計6体を、ほぼ半年で仕上げた経験がありました(残念なことに、これらは16世紀の戦国期に兵火で再度大仏殿が焼亡したため現存しません)。』
驚異的なスピード製作ですね。驚きです。そのような過去の偉人の制作物を目にできる幸せを噛みしめたいものです。この書を読み、奈良のお寺をもう一度こういう知識を得た目で見てみたいという気持ちになりました。


「何があっても大丈夫」 櫻井よしこ ★
女性ニュースキャスター第一号の方ではないだろうか?好きでよく見ていました。はぎれよく、ご自身の意見も少し入れながらのニュース報道には、好感が持てました。今でこそ、ニュース番組アンカーウーマンが数人おられますが、最初はいろんなところで苦労なさったのだろうと思う。
この本は、櫻井さんの自叙伝です。ベトナムで生まれ、父親の海外での商売、敗戦によ全てを失っての引き上げ。父親は、仕事で東京に出て行き、やがてハワイでレストラン経営。ご自身のことも含めて、かなり波乱万丈の生活をしてこられたが、それが故に個としての強さを身につけられた。
キャスター当時、そして今に続く、櫻井さんの強さを育てた土壌がわかりました。回り道することこそ人生が面白く、得るものが多いということがわかります。苦しい生活をどう感じるかで人生が全く違うものになることを知りました。その時の支えは、お金でも地位でもなく、「何があっても大丈夫」という櫻井さんの母親のいつも発しつづけている言葉にあるのだなあと思いました。
本当に言葉というものは、強い力を持っています。

「人生は最高の宝物」 マーク・フィッシャー ★

「こころのチキンスープ」 ジャック・キャンフィールド ダイヤモンド社 ★★★
このシリーズで多数の本が出ています。このシリーズは、講演家の著者が、全米各地で出会った市井の人のこころ温まるノンフィクションを集めたものです。人は誰でも1つは、そのような体験を持っているものです。あなたにもそして私にも。だからいくらでも本のネタは尽きないと思いますが、1人の貴重な温かい出来事を披露することで、多くの方の心に火を灯し、そして次の体験が出てくるし、そのように人に接するようになります。
随分前に、小さな少年が始めた親切運動が大きなうねりになった映画がありましたが、あれに似ているとも言えます。はっきり言って泣きます。感じる場所は様々でしょうが、誰でも心打つ物語にこの本で出会うでしょう。決して電車で読まないで下さい。私は涙の処理で難儀してしまいました。静かな所で1人でじっくり、感動を噛みしめてください。

「それでもなお人を愛しなさい」 ケント・M・キース 早川書房 ★★★
逆説の十箇条で有名ですが、その内容については、私の好きな言葉のページに載せています。ドロシー・ロー・ノルトさんの言葉は、親が子育てをする指針になりますが、この十箇条は、人との関係の指針でしょうか。
著者は、夏休みのキャンプリーダーをします。その時作って話したことが、キャンプに参加した子達に感動を与えますが、キャンプの目的とは少し違ったようで、惜しまれながらキャンプを去ることになってしまいます。時は経ち、友人からいい言葉があるよ。君にはきっとうまく理解できるはずだと、紹介されたのが、なんとあの時の自分の言葉でした。劇的な過去との出会いを機に、本になったのがこの本です。
ドロシーさんの「子は親の鏡」と同じような運命をたどった、「人生の意味を見つけるための逆説の十箇条」。生き方、人との接し方の根源に迫る本です。

「天才たちの共通項」 小林正観 宝来社 ★★★
この本は、下のドロシーローノルトさんの言葉に出会ってから読んだ本です。この順番が逆になると、また違った印象になったと思いますが、こういう順番であったことは、私にとって幸運でした。
小林正観さんは、本職は旅行作家なのかもしれませんが、素敵な言葉、素敵な人当たりをなさる方です。生き方・人との接し方についての小規模の講演会をよくしておられ、この本の読後、200人ほどの講演会に参加したことがあります。どても感動する内容でした。
私は、長男に生まれ、親からの期待を一身に受けて育てられましたが、関東出身の親の言葉がきついからでしょうか、いつも反発ばかりしていました。「もっと早く一人前になるように」「もっと立派な独り立ちするひとになるように」と、きつい場面に放り込まれました。甘えん坊の私には荷が重く、できない私を叱る親が嫌で嫌で仕方ありませんでした。
保育園で、蛇事件がありました。西宮の保育園に4歳から電車とバスを乗り継いで1人で通いました。保育園の方針で、最終バス停で親子が離れなければなりません。園に向かって歩き出したら、大きな蛇が階段にいて、怖くて泣いてしまいました。母親は、「行きなさい、怖くないから・・・」と下から見ているばかりで、どうしても蛇を避けていけません。そんな時、その様子を階段の上から見ていた女の子が下りてきて、私の手を引っ張ってくれました。それでやっと園に行くことが出来ました。
その事はもう忘れているのかもしれませんが、今でも彼女とは保育園の同窓会で交流があります。私の初恋ですが、素敵な女性になられ、お金持ちの家に嫁ぎ、3人のお子さんを立派に育てられ、ご自身も代表取締役として会社を経営しています。次男と同じ中高の1年下にお子さんが通われ、不思議な縁を感じます。
大学生の時に家内と出会い、「大丈夫よ、何とかなるからさ」という大きな言葉と、いつもニコニコしているところに惹かれ、1ヵ月後には彼女の家にお邪魔しました。彼女の母親は、うちの母親同様学のある方でしたが、一度も親に叱られたことがないと家内が言うほど、怒らなくて温和な方でした。こんな家庭に育った家内なら間違いないと思い、すぐに一生一緒に暮らしていくことにしました。
うちの子達は、家内に叱られたことはないでしょう。私も経験から、叱っても反発されるだけで何も得るものがないと知っていましたので、ほとんど叱ったことがありません。こんな育て方でいいのかと迷いましたが、叱られる辛さを思うと、どうしても子供を叱れませんでした。
「本当にこれでいいのか?」の答え捜しでこの手の本は、どれだけ読んだか分かりません。とうとう、世界中の方に支持されているドロシーさんの言葉に出会い、そして小林正観さんに出会いました。この本は、私の中では、ドロシーさんの言葉の実践編ともいえる位置付けです。叱るのではなくて、子供を信じる温かい言葉で育てられた内外の偉人について書いてあります。いろんな文献を調べたのでしょうが、エジソンから手塚治虫までの、幼年期・少年期の親、特に母親との関係を詳しく書かれています。

「子供が育つ魔法の言葉」 ドロシー・ロー・ノルト PHP文庫 ★★★
あまりに有名なこの言葉「子は親の鏡」、というかこの詩は、2005年皇太子妃さんの病気回復の記者会見で、披露された。皇太子妃さんの、「公務出来ない病」は、外交官の父を持ち、自身も外務省勤務していた延長で、より大きな意義のある仕事が出来ると思っていたが、皇室の仕来たりにスポイルされた結果なってしまったと私は考えている。
皇太子さんが、記者会見で異例とも言える詩の朗読をなさった背景には、この詩にどれだけ皇太子妃が助けられ、勇気をもらったかを伝えたかったのでしょう。多くの制限のある中で、精一杯の反発に見え、皇太子妃を守ろうとしていると感じました。
このドロシーさんの言葉は、随分前に発表されたものですが、子育ての真実、子育ての指標が書かれており、私の子供と接する時のバイブルになっています。この言葉は、ドロシーさんの手から離れ、アメリカ初め、ヨーロッパ、そしてアジアにも広がり、本人の知らない間に一人歩きしました。一人歩きしている自分の言葉に出会って、著書としてきちんとしたものになりました。
皇太子さんや皇太子妃さんは、北欧の国の教科書に載っていたこの詩を、披露なさいました。たとえ1次限でもこの詩に出会う機会を小学生の時に持てる子達は幸せだなあと思いました。それだけ値打ちのあるものです。
その内容のエッセンス部分は、好きな言葉のページに載せています。

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