Books 2015
Books 兵庫県セーリング連盟ジュニア

2015/12 「影法師」百田尚樹 講談社文庫 ★★
ふと目に留まった百田尚樹さんの著書。意外にも、百田尚樹さんからは遠いと思っていた「時代小説」だったので、興味を引いた。僕の最も好きな作家・藤沢周平さんを模したものか、江戸時代の架空の藩を舞台にした小説でした。藤沢周平さんほど当時の言葉を使わないし、サムライやご息女の凛とした生き様は軽めになっているが、とても読みやすい。藤沢周平さんのファンなんじゃないかな?と、親近感を持ちました。
もう戦乱の世は遠くなり、武士の世界も腕っ節一つで成り上がれる時代ではなくなった。まして大名家を渡り歩き、現代のプロスポーツ選手のように年俸を飛躍的に上げていくこともできない平和な時代になった。身分制度が確立し、最上位に位置する武士階級でさえ、戦国の世の先祖の功績のまま上士・中士・下士の身分制度が固まっていた。どんなに勉学に励み、如何に剣術が優れようとも、下士は父親の跡を継ぎ家禄を守るのみの世界。
そんな世に、下士の嫡男として生まれた戸倉勘一。幼い時に、父に連れられ妹と共に川に釣りに行った帰り、上士に土下座の礼を取らなかった兄弟を庇い、父が斬られる。お家取り潰しは免れるが、勘一が出仕するまで家禄を半減させられてしまう。この時、父の遺体を丁重に扱ってくれたのが中士・磯貝家だった。ここで後の竹馬の友となる磯貝彦四郎に出会う。
藩校に通う金が家にないので私塾に通い、道場に通う金がないので庭で独学で剣術稽古に励んでいる。私塾の成績が優秀ゆえ、先生に藩校への入学を勧められるが金が無い。非業の死を遂げた父親も頭脳明晰だったので藩校に入ったが、下士からの入学はほぼゼロの世界だから、虐めにあい退学した。その無念を注ぐチャンスであったが・・・。それを母親に打ち明けたら、金を工面され応援される。
案の定虐めにあったが、それに屈せず体当たりで上士の子に反抗し、ついに怖がられいじめられることがなくなった。この時、最初に勘一の筋の通った立派な行動を見て、真っ先に友達になってくれたのが、前述の磯貝彦四郎だった。磯貝の引きで、藩内トップの剣術道場に通うことになる。
彦四郎は、同年代で剣術も学問も飛び抜けていた。後に数年に一度の藩主の前での天覧試合でも優勝した。家督を継げない中士の次男坊ではあったが、いずれ婿入りし大を成すと、将来が嘱望される存在であった。しかし、彦四郎は思いもかけないことで脱藩してしまう。対して勘一は、数度の危機を乗り越え名を挙げ、中士の養子となり、異例の出世を遂げて、代官・側用人・江戸家老を経て、筆頭国家老にまで出世した。
筆頭国家老を拝命し、二十数年ぶりに戻った国元で彦四郎の消息を知ったが、すでに竹馬の友は世を去っていた。あれだけの秀才が何故、思いもかけない事件を起こしたのか?あれだけの剣術の持ち主が、何故上意討ちに失敗し職を解かれたのか?それを探っていくうちに、勘一の今の立場の影に彦四郎がいたことを知る。
藤沢周平の「蝉しぐれ」を髣髴とさせる素晴らしい物語だった。このような物語は何時の時代でもあるだろうが、身分制度他、がんじがらめの日本の歴史史上最も庶民が夢を抱けなかった江戸時代を背景にすることで、時代をしなやかに生き、しかも凛とした品位を持って生きる日本人の姿が際立つ。
蝉しぐれ同様、映画化が望まれる作品でした。

2015/12 「15才の寺子屋 ゴリラは語る」山極寿一 講談社 ★
NHK・ETV「スイッチインタビュー」という番組で、「ゴリラと会話できる」という京都大学総長・山極壽一さんと、探検家・関野吉晴さんとの対談を見ました。これが面白かった。「男と女」のこと、「ゴリラの観察から見えてきた人類」のこと、「人は何故家族を持つのか」「人は何故戦争をするのか」など、当たり前のように思っていたことが、人は類人猿の仲間とかなり違っていることを知った。日本の霊長類研究の最先端を走る京大霊長類研究所、というより世界のトップを走る研究所を引っ張る山際さんの話に引きこまれ、著書を2冊買ってしまいました。
「15才の寺子屋」という表題がつくぐらいだから、中学生向けのゴリラの生態の入門書です。人と同じ霊長類であるニホンザルとゴリラを研究してきた著者が感じた、彼らを鏡として見た人の生態を描いた本でもある。
動物の研究の常套手段は餌付けです。人がカメラや観察装置を用意した場所に餌を撒いて、そこにやってくる動物を研究観察する手段です。でもこれはその対象動物の日頃の生活を見ていることではなく、あくまで餌を食べにやってきた時の生態でしかない。
続いて発信機を取り付けて行動範囲を探る方法もある。でもこれとて、生活範囲がわかるだけで、何故そこに行くのかは、密着取材しないとわからない。そこで「人づけ」という方法が出てくる。これは、対称動物の後を離れすぎず近づきすぎずひたすら追跡する観測方法です。
最初に、屋久島のサルの調査で「人づけ」を経験したそうです。とんでもない獣道を追跡していると、人が作った道を使った観察とは全く違うサルの行動が見えてきた。決して目にすることが出来ない光景に立ち会う。立ち止まったところに野生の木の実が成っている。朝は鳴き声とともに行動が始まり、豊かな森の幸でお腹が満たされた午後はまどろみ、夕日を横目に穏やかな夕方で1日を終える。それは、森との自然との美しい調和を奏でている。そこから見えてきたのは、人の祖先も同じような生活をしていたんだろうなということ。
この調査に自信を得て、アフリカのゴリラの「人づけ」調査を始めた。ある時、オスゴリラ・シリーがこちらに近づいてきた。彼がじっと自分を見つめるので、ニホンザルの習性同様、目を逸らした。サルが目を合わせるのは「威嚇」行動なので、視線をそらすことで「あなたと争いません」という意思表示だからです。彼は自分の視線お先に移動してきてまたじっと見る。また視線を逸らしたら、ポコポコとドラミングして去っていった。ゴリラのドラミングは、「不満がある」という意思表示です。
おかしいなと「視線を合わす」に絞ってゴリラを観察していると、ゴリラはサルと違い視線を合わせ「親愛の情を交わす」ということがわかった。次の機会に視線を合わすと、自分を仲間に入れてくれた。つまり、人が視線を合わして話をするのと同じだった。
いま日本の動物園のゴリラに、繁殖できない問題が起こっています。動物園で育ったゴリラは、子供時代に同性・異性を問わず遊ぶ機会が少なくなり、交尾ができなくなったゴリラが少なくありません。「遊び」の中で、いろんな相手と身体を触れ合い、共感できるようになります。この共感がないと、交尾さえできなくなります。
人の子は「お母さん見て見て、虫がいるよ」と共感を求めます。大人だって、凍てつく冬空に満月を見つけたら、好きな人と一緒に見たいと思います。何故共感を求めるのだろう?人の食事の仕方に答えのヒントが有ります。動物は普通、争いになるので別々に食事を取ります。肉食獣やワシタカ類は、自分では動かせない獲物を一緒に食べますが、決して仲良く食べてはいません。人に近いサルや類人猿は、果物や葉といった小さな食物が主なので、仲間で分け合う必要も一緒に食べる必要もありません。人間だけが、狩ってきた動物や木の実をみんなで分け合い、顔を合わせて食事をします。家族との絆や共感を確かめ合っています。
ゴリラやチンパンジーは、10〜15頭の集団で構成され、人間も信頼し合える集団(共鳴集団)は10〜15人ほどで、サッカーチーム11人・ラグビー15人は理にかなっている。名前と顔が一致するのは150人までで、これは狩猟民の共同体の人数と同じです。ところが言葉などコミュニケーション手段を得たことで、その規模が広がり、却って共感度が薄くなった。電話やメールで繋がる関係は、同じ音を聞く・同じ匂いをかぐ・同じものを食べる・手を繋いで触れ合う、そんな体を通しての共感が失われるので、関係は希薄になる。
ゴリラの赤ん坊は、母親と一緒にいる。1歳半から2歳になると、母離れをさせるために、赤ん坊を連れてシルバーバック(大人のオスは、背中の毛が白くなり、シルバーバックと呼ばれる)の父親のそばにやってきて、子を置いていく。子は父親の背中に乗ったりして遊ぶ。この時父親は、昼寝を妨げられても子の好きなようにさせている。子供が餌を取りに来ると、それを譲る。この寛容さがないと群れの長でいられない。こうやって親離れ・子離れしていきます。完全な母系社会なので、母親に「お前の父親だよ」と紹介されないと父親になれない。こうしてオスは父親になって初めて、一人前と認められる。
チンパンジーやゴリラは、1つの群れの中にオスもメスもおり、いろんな相手と交尾をする乱婚です。でも人間は、集団の中で特定の雄と雌が家庭を持ち家族を作る。これは、人間のみの特殊性です。
人間は、遠い昔森から出てサバンナで暮らすようになり、ライオンやチーターなどの肉食獣の餌食になることが多くなり、多産になった。二足歩行するようになったことで骨盤が小さくなり、頭が未発達で出産するようになった。脳を先に発達させる必要があり、体の成長は他の類人猿より遅れた。これによりこの養育期間が長くなり、それにより育児を手伝う特定の雄が必要になり、家庭を持つようになったと思われる。
雄は上下関係を持ちたがるので、子供の親という責任を持たせることで、平等な関係を築けるようにしたのではないか。女は産む性なので、疑いようなく「自分は親だ」と自覚できます。それを太古から繰り返してきたことで、基本的に上下関係を作らない。家庭を作るということは、女の戦略であったろう。
テナガザルや狐は、一生ツガイのままなので回りに異性がいない。チンパンジーやゴリラは乱婚なので、誰かと同じ相手を好きになっても構わない、でも人間は複数の異性がいる集団の中で暮らしながら、ツガイの関係を求めるので、恋と友情の間で葛藤する。一人の恋人を仲間と共有することが出来ないのはわかっているけど、諦めきれない。
食事をしているゴリラに、別のゴリラが近づき、餌とゴリラを交互に見つめる時がある。これは「餌を譲ってくれ」のサインです。やってきたゴリラが年下や雌だったら、たいてい餌を譲る。でも年上なら無視をするのが一般的だ。サルの場合は、力関係からくる序列で弱いものに譲ることをしない。ゴリラは、勝者も敗者も作らない。もちろんゴリラでも喧嘩になることがありますが、にらみ合いの戦いに入れば、他のゴリラが間に入って仲裁するし、相手を殺すほど叩きのめすことはしない。
狩猟採集生活から始まった人類は、他の集団と競合しても、戦争に至らず場所を移動し譲りあった。やがて作物を育て、動物を飼育する定住生活になり、せっかく育てた作物を横取りされるのが嫌で、人間同士で殺し合いを始めるようになった。殺し合い・戦争は、「所有」から始まった。そして「言葉」の発達で、「あいつは敵だ」などの情報が、1つの集団の枠を超えて共有されることになり、より大規模な戦争になった。そして「アイデンティティー」。自分が特定の集団に属しているという意識が強くなった。最後は「過剰な愛」。家族への愛から始まったものが、村落の共同体を集団で守るようになり、もっと大きな国への愛へと拡大していった。
本来は、ゴリラのドラミングのように、相手を威嚇するだけだったものが、人間は殺し合いにまで発展させた。このように、ゴリラの具体的実例を挙げながら、人間と対比させて説明しているので、とてもわかりやすい。どこかの小学校や中学校に講師として呼ばれることにより、わかりやすい説明をされるようになったのかもしれない。
とても楽しく、そしてゴリラや類人猿の生態が理解できました。しょっちゅうアフリカにフィールドワークに行く筆者が、京大総長になる時、学部や研究室から多くの反対が出たそうだ。でも、TVでの穏やかで楽しそうな話しぶりを見ると、それを差し引いても推挙される人望が容易に想像できた。

2015/12 「街道をゆく8 熊野・古座街道、種子島みちほか」司馬遼太郎 朝日新聞出版 ★
和歌山県の熊野・古座街道を、「若衆組」をテーマに探索する。若衆組とは、日本の島々に太古以来継承されてきた習俗で、日本の農村社会を特徴づけてきた。この風習は朝鮮半島になく、儒教で固められた中国漢族社会にもなく、南方からの移民の証拠ともなっている。
入会資格に家格は関係せず、一定の年齢に達すれば入会する義務と権利がある。ここでは地主の子も小作の子も平等である。若衆組に入ると、自分の家で起居しない。両親から離れ、「若衆宿」という独立した建物に住み、両親より若衆頭の命令が優先される。
よばいも古格なもので、やみくもではなく好きな娘のもとに通う。真面目かどうか若衆頭その他が監督する。人気のある娘の場合は複数の若衆が通うことになるが、寛容だった。妊娠すれば混乱しそうだが、その場合父親の指名権は娘にある。そして若衆には拒否権がない。生まれてきた子が本当の子でない可能性があるが、黙認お思想が村には太古以来続いている。誰の子であれ、村という共同体の子とするのが、母系制この方の思想である。
紀伊田辺・周参見は、熊野海賊の根拠地である。JR紀勢線は、海と迫る山塊の間の狭い海岸線を走り、SLの時代は山火事が頻発した。よって樹齢が浅い森ばかりだ。ここから紀伊半島内陸部に向かう古座川街道に入る。
若衆組には、家柄や村落の上下関係など一切なく平等である。せいぜい年令による上下関係ぐらいである。統制と教育権は若衆頭に委ねられ、その権威は村長さえ凌ぐ。とくに若衆組の公務である祭礼・山火事の消防・難破船の救助などに、庄屋や家長でさえ介入権がない。
この若衆組という習俗は、西日本の農村に多く見られる。例外として薩摩藩にだけ士族社会でも機能していたことが、下級藩士出身の西郷隆盛や大久保利通の勇躍につながった。薩摩藩・士族のそれは、「郷中」と呼ばれ、士族の居住区ごとに少年と青年それぞれに結成された。その自治の中で若者の教育が成され、素読や習字という初等教育も、年長者が年下の者に授けられた。広島藩士だった頼山陽は薩摩独特のこの制度に驚き、当時天下に響いていた薩摩士風の培養の秘密を読み取った。
西郷は若くしてこの郷中頭になり、よほど評判が良かったのか異例の24歳まで頭を続けた。これが当時最強だった薩摩軍を支え、長州藩に比べ西郷と大久保ぐらいしかいなかった革命思想家だったにも関わらず、西郷が薩摩藩を導けた根底である。当時の藩主さえ革命には反対であったが、郷中を抑えるほどの力はなかった。それだけ郷中という若者組織が強力だったということだ。征韓論に敗れ政府を去った西郷を慕い、多くの元薩摩藩士が下野した。維新後に作られた私学校・在校1万人は、郷中の焼き直しに過ぎず、それに担がれた西郷は、自分を立身させた郷中と運命を共にする。
紀州同様、南海道である土佐に、「天保庄屋同盟」という秘密結社があった。在来農村地帯の庄屋の方が、町方の町役より上座だったのが、流通経済の発達により彼らが上座につきたがる傾向が出て来て、それに憤慨して結成された。朱子学の教養を広く身に着けていた彼らは、坂本龍馬語録『本朝の国風は、天子を除くほか、その世の名目なり』同様、天皇以外は平等の思想を根底に持っていた。故に、武士に「斬り捨て御免」されそうになり庄屋に逃げ込んできた者を引き渡さず、公に届け出て私憤による成敗から守るなどを成文で誓っていた。
土佐領主・山内家の上士は、藩主とともに遠州や上方から渡ってきた者で、下士は土着の者であった。土佐藩の武士社会にも「若衆組」に似た組織があり、下士出身の龍馬が立身活躍する素地がそこにあったのかもしれない。
京都祗園八坂神社所蔵の「八坂郷鎮座大神記」という本があり、京都八坂神社は斉明天皇2年(656年)に伊利須使主(いりすのおみ)という韓国から来た人が、新羅国牛頭山の神である須佐男命を八坂に祀ったのがはじめであると書かれている。後年、神仏習合思想が流行り出した時、この縁起に朝鮮の牛頭山という地名が面白いので、この地名とインドの神の牛頭天王をくっつけたのではないかと言われている。
八坂神社の社殿は、藤原基経が876年に自邸を寄付したことに始まる。彼は日本の神である須佐男命より、その本地である牛頭天王を信仰していた。これにより八坂の地が、インドの地名の祗園と呼ばれるようになった。
「豊後・日田街道」・・・日田郷は江戸期において天領であった。天領は大名領より豊かであった上、租税も安かった。同じく天領であった大和平野同様、白壁屋敷が多いことはそれ故である。
川船で鵜漁を観る場面があった。鵜漁はカワウではなく、大型のウミウを使うそうで、ウミウを捕まえる専門漁師が存在するという。鵜は年功序列の世界で、鵜漁師に飼われた順番に序列が決まり、最古参が最も威張っており、新入りが小さくなっている。
「大和丹生川街道」・・・丹生神社・上・下社がある。この辺りは古代丹生(水銀)が採取され、古社である丹生神社が存在する。弘法大師・空海が高野山を発見するのも丹生の神の手引きによるとされている。水銀は、金や銀を精製・濃縮するもっとも原始的で簡単な方法なので、水銀の需要は多かった。
西吉野の民家は、ほとんど山頂にある。山頂の樹木を切り開き、畑や果樹林にしている。深い谷川をはさみ急峻な山が連なる地形なので、谷に陽が当たらない。日当たりのためで、民家は上に登っている。
「種子島みち」・・・天文年間に中国商人船が漂着し、ポルトガル人によって鉄砲が伝わったが、翌年には紀伊雑賀で大量に鉄砲が作られるようになった。何故紀伊に伝わったかは、領主・種子島家に紀州・根来寺の津田監物という人物がそこにいたから。では何故そこにいたか?種子島は中国大陸・朝鮮半島・琉球貿易の拠点として機能しており、対岸の薩摩からの文化伝来というより、直接紀州・大坂・京の都につながっていた。だから鉄砲は、九州・中国地方経由で畿内に伝わらず、監物が持ち帰った紀州・堺から畿内に伝わり、畿内で大量生産された鉄砲を戦闘に大量に使った織田軍が、圧倒的な軍事力で国内を統一していく。薩摩言葉より上方・京ことばに近いそうです。
畿内と直接つながっていた証拠に、「熊野」という地名や「熊野神社」の存在があり、海上交通の神様である「住吉神社」が祀られていることも、海上交通の民であった種子島の特徴を表している。
種子島・西之表市・市長・井本さんは、秀吉の朝鮮侵攻の時に小西行長に捕まり連れてこられた子孫です。「焼物戦争」とも呼ばれており、多くの陶芸職人が連れてこられ、薩摩・肥前・尾張・備前・越前で花開き、それまで漆器だった食器・諸道具から一気に広がった。日本文化に対するインパクトがとても大きかった。この時が日本の焼き物創生期だった。
種子島は、鉄器の島でもあった。砂鉄が取れないので、本土から玉鋼を輸入し、鉄器に加工して琉球に輸出した。それまでの琉球は、鉄がなく木製の耕作道具であったので、鉄器の輸入で生産性が上がり、頑丈な造船につながり、大陸・台湾・薩摩との貿易経済立国につながっていく。
そんな鉄製造・加工基盤のあった種子島に鉄砲が伝わったので、島主・種子島家が製造方法まで詳細に聞き出した。それが後の鉄砲隊国・日本につながっていく。こんな島に鉄砲が伝わる歴史の不思議と書かれていたが、僕は他の土地では見向きもされなかった鉄砲が、この島に漂着した時に花開いたように思う。

2015/12 「僕らの祖国」青山繁晴 扶桑社新書 ★
随分以前に、TVのひな壇コメンテイターとして見たのが、著者を認識した最初のように思います。「まともなことを言う人だなあ」「反対論者に対して厳しく言い過ぎでホットな方だなあ」「意見の底辺に自分の目で見た現実・足で稼ぎ推敲した事実がある」と人物評しました。多くのタレントが上下のひな壇に並び、ニュースなどを討論する番組は、エンターテインメント性が強くて好きではないので、あまり目にしませんでした。
その後、姫路在住の僕の知り合いが市長選に出馬された時、青山さんと中高の同級生と言っていたので、「ああ、あの方なんだ」と再び僕の胸のうちに現れました。その時聞いた校名は姫路・播州の名門男子校・淳心で、その隣にある女子校が家内の母校で、年齢的にも同じ頃に学校に通っていたことを知りました。
更に数年後、播州守護・赤松氏の城・置塩城址を夫婦で登った時に、たまたま本丸曲輪で出会った男性2人組が淳心出身の方で、青山さんと同級生だった。家内が隣の女子高出身であることを披露すると、親しみを持ってくれていろんな話を聞かせてくださいました。
そして、たまたま青山さんメインの番組を見ました。僕のヨット部同期が記者として働いている共同通信出身ということと、硫黄島訪問の話を熱く語っていらっしゃるのを聞いて、この方は本物だと好感を持ちました。そんなこんなで、著書を読もうと思い、手にしたのがこの書です。
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僕は今、近畿大学経済学部で教えている。教えているのは、国際関係論。講義が半年分終わるたびに試験をする。僕の試験は、僕の講義をどれだけ覚えているかを試すのじゃない。自分の頭で考える力を問う。教室でキーワードを1つ下2つ出し、それについて自由に考えを書いてもらう。
一番近い試験で「祖国」をキーワードにした。「祖国という言葉を、これまで聞いたこともないから、どのように考えたらいいかわからない」「私は日本で生まれ育ったから、祖国はきっと日本だろうと思う。でもそれがどういう意味かわからない」という回答が相次いだ。それを200人分読み、この本を書こうと決心した。
最初は、若いお母さんから「子供に本当の日本を教える本が見つかりません」という声が届いたことが胸に響いて、新たな本を書こうかと考え始めていた。
・・・僕も孫が出来、子供たちの時のようにプレゼントは本にしようと絵本を選びながら、日本の近代の歴史が書かれた本がないなと感じました。定番の絵本をプレゼント用に購入しながら、自分で本を読むようになった時に読めるように、古事記・日本書紀の子供向け・幼児向けの本も買いました。明治維新で日本が大発展していくまでの本はありますが、父の世代・僕の成長した昭和の時代の本が少ないと感じました。この若いお母さんと同じ気持ちを持ちました。
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政府は僕らに学校を作ってくれたり、仕事を失った時に失業保険金をくれたりするけれど、政府と祖国は違う。政府はどんどん変わるけど、祖国は変わらない。母なる存在だから。
戦争に負けた後の日本は、政府と祖国の違いがわからなくなった。メキシコの小学生は、毎週月曜日に週間当番の交代をする時、正装して国旗を掲げ国歌を歌いながら校内を練り歩く。これは政府を称えているんじゃない。何時の時代も変わらない祖国を、誰もが共通して愛し続けることを心と体が知るためなのだ。
世界にはおよそ200の国がある。そのうち、祖国・祖国愛という共通土台を持たないのは、日本社会しかない。世界を歩けば歩くほど、それが身体に伝わってくる。
これは日本が戦争に負けたからだと教わってきた。でも戦争に負けた経験を持たない国はない。アメリカだってベトナム戦争で負けた。たった一度敗戦したことは、祖国を愛さない理由にならない。2000年を超える歴史の中で、外国に戦争で負け国土を占領された経験が一度もなかったから、負け方を知らないだけだ。
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北朝鮮拉致被害者が出た理由は、韓国に不法占拠されたままの竹島、それに国際法違反のまま奪われ続けている北方領土、中国が狙っている尖閣列島の新たな火種と共通する。
東日本大震災被災地を巡った状況と、震災直後に安全に停止した原発が、電源を失ったことで冷やせなくなりメルトダウンし、更に水素爆発してしまった人災。その古い原発の抱える根本原因も書かれている。
そして僕が一番読みたかった硫黄島の現実。最後に大東亜戦争の根本原因になったアメリカからつきつけられたハル・ノートで、エネルギーを自給できない日本が追いつめられたことを打開すべき光明について書かれている。それは日本海・太平洋側に広く広がっており、世界有数の資源国・エネルギー自給国になれるメタンハイドレードに現在についてです。奥様・千春博士が開発し、その安価な探査技術で特許を世界各国に特許技術を持っている。その当事者として苦悩する姿を赤裸々に語っておられる。
将来の明るい希望と、祖国愛を蘇らせる良書でした。

2015/11 「街道をゆく12・十津川街道」司馬遼太郎 朝日文庫 ★
街道をゆくシリーズです。関西の秘境・十津川を南北に貫く・R168を走り、明治維新直前に起こった「天誅組の変」を中心に歴史遺産が披露されます。この道は重要国道なのに深い谷を走る関係で、大雨にはとても弱く、年に数度通行止めになる時もあるほどの秘境道です。それ故大自然が魅力的で、深い谷・それを渡る長大な吊橋・高い峰・・・見飽きない魅力を持っている。
富田林市・甲田の旧家・水郡家(にごり)で、天誅組の物語が始まる。天誅組は、京都で政権争いをしていた長州閥の意を得、公家の中山忠光を頂いて倒幕の先駆けと成った変事です。幕末の大庄屋だったこの家の当主は、尊王思想を持っておられ、天誅組のスポンサーになり、ご子息も組に参加された。この家で休息を持ち、翌日千早越えで五条の代官所を襲い狼煙を上げた。孝明天皇の大和行幸の先鋒となるべく挙兵したが、京都中枢部の争いで、長州が薩摩・会津勢力に敗れ、行幸自体も中止になってしまった。京都から長州が駆逐され、後ろ盾を失った天誅組は賊徒の汚名を着せられ、滅んでいく。
五条代官所は、奈良の天領の管理をしており、十津川もその管理下だったそうだ。ただ十津川は、山また山の辺境の地故、米もあまり取れず、年貢も容赦されたずっと見捨てられた地だった。非常に厳しかったと言われる太閤検地でさえ石高が上がらず、アバウトに千石と記録され、江戸時代も同じで、石高が記録することで領地とされただけの土地で、定期の代官所への報告義務はあるもののずっと自治の地だった。
天誅組は、代官所襲撃こそ成功したものの後ろ盾を失ってしまったので孤立し、天蓋の要害を求め十津川入りをした。十津川の語源は、「遠つ川」と想像される。古くは、古事記・日本書紀に現れる神武天皇が八咫烏の導きで熊野から奈良盆地に通った道であるので、それ故の無税と地の者は自尊している。また鎌倉時代初期には、源頼朝の追捕を受けた義経が潜んだ地でもある。鎌倉から室町に時代が移る時は、倒幕に失敗し隠岐に流された後醍醐天皇の息子・大塔宮が、楠木正成はじめ親政派の悪党の支援を受けながら身を隠し、ゲリラ戦を展開した拠点の一つでもある。これによって、「大塔」に地名変更され今に至っている。
この大塔に、天誅組が籠もった「天辻峠」がある。ここで十津川衆を駆り出し、日本三大山城である「高取城」を攻める。しかし貧弱な兵器しか持たず、指揮系統も定まらない烏合の衆である天誅組は破れてしまう。十津川衆は、無税の地であるが、その地位を安堵してもらうべく、中央政権には無償で協力していた。京都警備にも人数を出しており、それが天誅組への参加に繋がったようだ。しかし、京都に詰めていた十津川衆からの「政権交代はしていない」という真実が伝えられると天誅組から離脱し、天誅組は一気に戦力を低下させてします。
平安時代は、公地公民であったが、公家や寺社は荘園という私有地を持つ恩恵を受けており、新規開墾した土着豪族は、公家や寺社に寄進することで、自らの土着基盤である土地を安堵してもらっていた。武力を持った豪族が管理を任されていた荘園を横領するようになり、その土地の安堵を求めた武士勢力が鎌倉幕府を作っていく。しかし開墾は進み、鎌倉幕府から正式な守護地頭に任じられない豪族で力をつけてくるものがおり、それらは「悪党」と呼ばれるようになった。そして独自に縦横に結び、その勢力が後醍醐天皇と結び、楠木正成や赤松円心などが室町幕府の勃興期に大活躍する。
十津川郷士は、税も取ることが出来ない僻地に住みながら、僻地故非主流派の逃げこみ場所になり、一定の存在感を持っていた。役行者が開いた行者堂の聖地でもあり、そんなこんなが詳しく書かれており一気に読んでしまった。

2015/11 「武士道」新渡戸稲造 PHP文庫 ★★
大昔に一度読んだ本の再読です。自宅の何処かにあると思うのですが、新渡戸稲造基金発行の本を読んだらまた読みたくなり、買ってしまいました。有色人種の国で白人国家の植民地にならなかった数少ない国の1つ「日本」が、急速に西洋産業革命を輸入実現し、「眠れる獅子」であった清國を一蹴し勝利を収めた。
そんな未知の国・「日本」の精神構造が、日本人の手によって英文で紹介された本です。いきなりベストセラーになり、アメリカ大統領・セオドア・ルーズベルトが感動し、自ら購入し知り合いに配ったという逸話付きの書です。この書により日本人が好きになり、日露戦争終戦の仲介役を買って出て、日本の大恩人になる。ただ彼の従兄弟であるアメリカ大統領・フランクリン・ルーズベルトが、日米開戦に日本を引きずり込み、大打撃を与えたのもまた事実です。
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「武士道」は、武士階級がその職業・日常生活において守るべき道、「武士の掟」「高き身分の者に伴う義務」のこと。武士に教育された、道徳的原理である。しかし成文法ではなく、口伝で受け継がれたものであり、著名な武士や学者の筆から生まれた格言によって成り立っている。
ヨーロッパ同様に日本でも、封建制の始まりとともに職業的武人階級が台頭し、「侍」と呼ばれた。時が移り、「武家」や「武士」という言葉も生まれ、士農工商の身分制度の頂点に位置し、長年続けられた戦乱の世にあって、最も勇敢で猛々しい、そして冒険的な者の中から選びぬかれ、弱いものは捨てられていった。やがて支配階級の一員として身に付ける名誉と特権が大きくなるに従い、それに伴う責任や義務が重くなり、行動様式について共通の規範が必要になってきた。『勇猛果敢なフェアプレーの精神』という野生で素朴な感覚の中に、豊かな道徳が芽生え、文武の徳の根本になっていった。
武士道の根本は、仏教と神道から授かった。「仏教」は座禅と瞑想であり、あらゆる現象の根底にある原理を求めた。日本古来からある「神道」は、主君に対する忠誠・祖先に対する尊敬・親に対する孝心を、武士道に与えた。神社に詣でるものは、奥殿に掲げられた「鏡」に手を合わせる。鏡だけがあるのは、己の心を映すからで、心が澄んでいればそこに「神」の姿を見る。そして神道の自然崇拝は、心の底から国土を慕わせ、祖先崇拝はそれをたどると皇室を国民全体の祖とする。国土は穀物を収穫し採鉱する単なる土地ではなく、先祖の霊の神聖な住処でもある。それ故、天皇は法治国家の長や、文化国家の保護者であるだけではなく、それ以上の存在となる。つまり地上における天の代表者であり、その人格の中に天の力と慈悲とを融合している。
武士道の道徳的な教義は、孔子の教えが源泉になっている。君臣・親子・夫婦・長幼・朋友の「五倫」は、儒教の書物が中国から輸入される以前から、日本人が認めていたもので、それを確認したに過ぎない。冷静で穏和な孔子の政治道徳の教えは、支配階級のサムライにふさわしいもので、その貴族的・保守的な教訓は、武士階級の要求に著しく適合した。
孔子と孟子の著作は、若者にとって主要な人生の教科書となり、大人にとっては議論の最高権威となった。ただ2つの古典を知っているだけでは高い尊敬を受けることはなかった。その人の品性に現れて初めて真の知識となる。その知性は行動として現れる道徳的行為に従属するものと考えられた。
「義」は、武士の掟の中で、最も厳格な徳目である。卑劣な行為・不正な振る舞いほど忌まわしいものはない。これは決断する力と定義され、「義は自分の身の処し方を道理に従ってためらわずに決断する力である。死すべき時に死に、討つべき時に討つことである」。
「勇」は、義のために行われなければ、徳の中に数えられる価値はない。孔子の論語に『義を見てせざるは、勇なきなり』と説いた。「戦場に飛び込み、討ち死にするはいと容易きことで、身分の卑しい者でも出来る。死ぬべき時に死ぬことこそ真の勇気である」。豪胆・不屈・勇敢・大胆・勇気などは、少年の心に最も浸透しやすい心情として、訓練や鍛錬によって鍛えられた。
少年たちは、月に1・2度の天神様の祭りなどでは、少人数で集まり夜通し輪読した。処刑場・墓場・幽霊屋敷など薄気味悪い場所に出かけることも、楽しい遊びであった。斬首刑が公衆の面前で行われていた時代には、少年たちはその恐ろしい光景を見に行かされ、夜遅くなってから1人でその場所を訪れ、さらし首に証拠の印をつけてくるのを命じられた。この超スパルタ式の「度胸を叩き込む」やり方は、現代の教育者に恐怖と疑問を抱かせるかもしれない。しかし、このような環境で育った者は、戦場にあっても冷静である。破壊的な大惨事の中でも落ち着きを保つ。地震に動揺せず、嵐を笑う事ができる。そういう人こそ、偉大なる人と賞賛される。
上杉謙信は、14年間に渡って武田信玄と戦っていた。だがその信玄の死を聞くや、「敵の中のもっと優れた人物」を亡くしたと慟哭した。信玄が塩の流通を北条氏によって断たれた時、敵である信玄の窮状を知ると自国の海岸から塩を送った。ニーチェが「汝の敵を誇りとすべし、しからば敵の成功はまた汝の成功なり」と述べたのは、まさしくサムライの心情を語ったといえる。これは、「仁」へと繋がる。
「仁」は、王者の徳と言われる。愛・寛容・他者への情愛・哀れみの心は、常に至高の徳として、人間の魂が持つ最も気高きものである。封建君主は、先祖や天に対し高い責任感を抱いていた。つまり君主は領民の父であり、天から領民の保護を預かっている者と思っていた。
「武士の情け」という言葉は、私達の高潔な心情に訴える美しき響きがある。仁は優しく柔和で母のような徳である。義が男性的であるとするならば、仁は女性的な優しさと説得力を持つ。だがサムライは、正義や公正さを持つことなしに、むやみに慈悲に溺れることを戒められた。伊達政宗の言った「義に過ぎれば固くなる。仁に過ぎれば弱くなる」がこれを表している。
熊谷直実は、1184年須磨浦の戦いで、敵の武将に一騎打ちを挑み組み伏せた。こうした戦いの場合、戦いの礼儀として相手の身分が高いか、こちらの力量と同等のものでなければ血を流さない作法であった。見るとまだひげも生えていない若武者であったので手を緩め、この若者を諭し、父親のようにこの場を離れるように告げる。しかし若者・敦盛は、逃げることを拒み、2人の名誉のためにこの場で首を斬るように請う。戦いが終わり、直実は凱旋した。だが彼は名誉や報酬には関心が向かず、武勲や名誉を捨て、頭を丸め僧衣をまとい、余生を念仏行脚に明け暮れる出家者となった。
「誠」・・・武士に二言はない。真実と誠実がなければ、礼は茶番であり芝居である。嘘をついたり、ごまかしたりすることは、卑怯者とされた。武士は支配階級故、商人や農民より厳しく誠を求められた。武士の約束は通常、証文なしに決められ実行された。むしろ証文を書くことは、武士の面子が汚されることであった。「二言」つまり嘘をついたという二枚舌のために、死をもってあがなった壮絶な逸話が日本では多く語られている。本物の武士は、誠を命より高く見ていた。
「寛容と忍耐」。些細な刺激で怒る者は「短気」として笑いものにされ、「ならぬ堪忍、するが堪忍」という諺がある。徳川家康は、「人の一生は重荷を背負うと遠き道を行くが如し。急ぐべからず。堪忍は無事悠久の基。己を責めて人を責めるべからず」との教訓を残した。彼は生涯かけて、自らが説いたものを実証した人であった。松浦静山(平戸藩主)は、織田信長には「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」と詠わせ、豊臣秀吉には「鳴かぬなら鳴かせてみよう時鳥」、そして家康には「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」と詠わせた。
女性教育の基本は、家を治めることに置かれた。かつての日本女性の芸事は、武芸である文学であれ、たいてい家のためのものであった。脳裏にはいつも炉端があった。家の名誉を守り、健全さを保つために働き、命を捧げることも厭わなかった。彼女たちは、幼い時から自らを献身するように教えられたので、独立したものではなく、常に従属的な奉仕の生涯であった。夫の妨げになるのであれば、喜んで自害した。
若き大名・木村重成の妻が自害する前に書いた手紙が残っている。『同じ一樹の陰を求め、同じ一河の流れをくむ、これも多生の縁とのことでございますが、一昨年より夫婦となり、影に沿うように生きてまいりましたことこそ、嬉しく存じます。この度、主家のため、もはや最期のご一戦のお覚悟とのこと、陰ながら嬉しく思っております。唐の項王と申す人は、世にも強き武将なれど、虞美人のために名残を惜しみ、あの勇猛なる木曽義仲殿も松殿の局との別れを惜しんで悲劇を招いた由、聞いております。さればこの世に望みなき我が身にて、せめて御身ご存命のうちに最期の覚悟をいたし、死出の道とやらにてお待ち申し上げております。どうかどうか秀頼公の多年に渡る海よりも深く山よりも高い、御恩をお忘うお頼み申し上げます。妻より』
そんな武士道が、「大和魂」となって武士以外の階級に広まっていった。農民は囲炉裏を囲んで、義経とその忠臣・弁慶や、勇敢な曽我兄弟の物語を飽きることなく繰り返した。都会では番頭や丁稚が、1日の仕事を終え雨戸が閉められると、一部屋に集まり、夜が更けるまで信長や秀吉の話に夢中になった。彼らの店先での苦労から戦場の武勲へと誘われるのだ。幼子は、桃太郎の鬼退治の話を教わった。女の子でさえ、サムライの勇猛なる精神と気高い徳に魅了された。だからサムライは、日本国民全体の「美しき理想の姿」となり、「花は桜木、人は武士」と歌われるようになった。
武士階級は、営利を追求することを禁じられていたため、武士が直接商売の手助けをすることがなかった。だがいかなる人間の活動にも、武士道精神から影響を受けないものはなかった。日本人の知性と道徳は、直接的にも間接的にもサムラが作り上げたものだった。
武士道は、生みの親である武士階級から流れだし、日本人全体の道徳律の基準となった。国民全体の憧れとなり、その精神となった。もちろん大衆は、サムライの道徳的高みまでは到達できなかったが、武士道精神を表す「大和魂」という言葉は、この島国の民族精神を象徴する言葉となった。
本居宣長の「敷島の大和心を人問えば、朝日に匂う山桜花」。「桜」こそ日本古来から日本民族が最も愛した花である。桜はひ弱な栽培植物ではない。自然に生える野生の草木であり、我が国固有のものである。桜花に愛情を感じるのは、洗練された美しさ、そして気品に、日本人の美的感覚が刺激されるからである。桜花は、美しい装いの影にバラのような棘や毒を隠し持っていない。自然の為すがままその生命を捨てる覚悟がある。その色は派手さを誇らず、その淡い匂いは人を飽きさせない。風の吹くままに舞い散り、ほんの一瞬、香りを放ち、消え去っていく。
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本書を読んで、多数の心に響いた箇所を引用した。自分の感じる善悪はどこに源泉があるのか、この書を読んで明確になった。何も知らない子供の時代から、日本人の書いた絵本に馴染みに、父母に諭され、学校教育や友達との会話から、武士道に起因する大和魂を、自然に心に入れたいたようだ。そして、僕の発する言葉は、次世代に武士道・大和魂を伝えていっていたのだ。

2015/11 「セイフヘイブン」ニコラス・スパークス SB文庫 ★
2013年に映画化された小説の文庫本。ラブストーリーの大御所・スパークスさんの小説で、プロローグを読んでいると既読感がありました。舞台がお得意のノースカロライナの海辺の町であるということと、海辺のレストランや裏から海が見えるコテージというシチュエーションがそう感じさせたようです。
そんな片田舎の海辺の町にやってきて、幸運にもレストランのウエイトレスの仕事を得、働き出したケイティ。彼女はとても美しく、同僚やらお店のお客さんから視線を浴びる。それを感じて、同僚のウエイトレスが恋をけしかけるのだが、「もう恋はしない」という感じでそれから距離を置こうとしている。
古びた家賃お安い誰も借りようとしない物置小屋を、綺麗にペンキなどを塗るという約束で借りたケイティは、客からもらったチップを秘密の隠し場所に今日も入れた。いつでもまた逃げられるように、逃避行資金を貯めているのだ。
近所の雑貨屋で、少量ずつ必要な物を購入し、物は極力持たないようにしている。雑貨屋の主人・アレックスは、珍しく歩いて来店するケイティに興味を持つ。美人なのに、どこか影があり、無理に目立たないようにしている。彼女の小包装の要望に答え、新たに仕入れたりして便宜を図っている。
アレックスは、元軍の警察部門に所属し、2年前に妻・カーリーに先立たれ、6才の娘・クリステンと7才の息子・ジョシュを育てている。2人は父親の仕事中は、いつもその目が届く所にいる。いつもレジの後ろにいるクリステンは人懐っこく、ケイティに声をかけ友達になっていた。ある日、レジで清算中に、ケイティはレジ裏から見える恐怖の光景に顔がひきつった。それを見たアレックスは振り返り、釣りをしていた海に落ちたジョシュを間一髪助けることが出来た。
それに感謝し、ワインをケイティにプレゼントした。その晩、ケイティの隣に越してきたジョーとワインを頂き、いろんな話をする。ジョーはこの町出身のカウンセラーで、アレックス一家のカウンセラーでもあったそうで、アレックスの誠実さを褒める。その後、アレックス親子3人で前かごをセットしたりした店の倉庫で眠っていた自転車をプレゼントされる。「歩くよりは便利ですよ」のメッセージとともに。
ひっそり目立たず暮らしたいと思っているケイティは、自分に興味や好意を持ってもらいたくなくて、自転車を返しに行った。でもその自転車の事情を聞いて、乗ることにした。アレックスの優しさに触れ、懐いてくれる子供たちとの新しい生活はとても楽しいものになっていった。アレックスは元職の性で、人の心理を読み取る術に長けている。秘密に怯えるケイティの心を少しずつ和らげ、明るさと笑顔を取り戻させていく。お隣さんの女友達・ジョーも、アレックスとの関係を応援している。自分もアレックスに惹かれ、アレックスも結婚を望んでいる感じだが、絶対に結婚はできない。
ケイティは既婚者だった。北部マサチューセッツ州の都会に住んでいたが、夫である優秀な刑事・ケヴィンは嫉妬心・独占欲が高く、酒を飲んではケイティに暴力を振るう夫だった。今まで2度家出をしたが、発見されて連れ戻され、とても優しい&ちょっとしたことでの暴力が更にエスカレートしていた。
警察に相談しても夫にもみ消され、今回が3度目の逃避行だった。今回は他人の身分証明を持ち、別人として生き直す完璧な逃避行のはずだった。でも優秀な刑事であるケヴィンは、ついにケイティの居場所をつかむ。
町を目指すケヴィン・・・4人で楽しいサーカスの休日を過ごすケイティ・・・。その夜、アレックスはケイティに子供たちを預け、店を手伝ってくれている老婆の娘さんを空港に迎えに出た。そのタイミングで、酔っ払ったケヴィンは、アレックスのお店ごとケイティを焼き殺そうとした。
寝ていたケイティは、夢の中のジョーの声に起こされる。間一髪で子供たちを助けだしたが、外ではケヴィンが待ち構えていた。そこにアレックスが帰ってくる。全てが済み、焼け跡を遠目でアレックスとケイティが見ている。焼け跡では、消防署員が何かを探している。やがて、「これですか?」と耐火金庫を取り出した。アレックスが探索を頼んだものだ。この中には、死の床にあったカーリーが書いた手紙が入っている。アレックスへの手紙には、「幸せになってほしい」と書かれ、「もう一枚の宛名のない手紙は、新しいお相手に渡して欲しい」と結ばれていた。
ケイティは、自分の過去のためにアレックスのお店を焼いてしまったので、もうここにいるべきでないと思っていた。アレックスは「これ(焼け跡)は物だからまた作れる。僕は子供たちも何も失わなかった。そして愛する君と4人で暮らしていきたい。どうするかは、君次第だ」と言ってくれた。そして耐火金庫を開け、ケイティに「宛名のない手紙」を渡す。
ケイティは、その手紙を持って、隣のジョーの家に向かった。でもそこは、人の住んだ気配さえ無い。確かに話をするのは、ケイティの家でばかりだったけど、ジョーがペンキを塗っているのも、ホコリまみれになって片付けていることも見ていたのに・・・。夢の中にいるような気分で自分のコテージに戻った。ポーチのロッキングチェアに座って、自分の頭がどうかしたのかと思いながら、「宛名のない手紙」を読みだした。
『夫が愛する人へ こんな手紙を読むのが変だと思うなら、書くのも変な感じがするということもわかってください。・・・私の名前はもう知ってると思うけどカーリーです。でも友達からはずっとジョーと呼ばれていました・・・。どちらの名前で呼んでもらっても構いません。あなたのことはもう友達と思っています。この手紙を読み終える頃には、あなたもそう感じてくれると思います。・・・』

2015/11 「大東亜戦争を知らない日本人へ」 田母神俊雄 ワニブックス ★
元統合幕僚学校長・航空総隊司令官・航空幕僚長。「大東亜戦争中の日本はいい国だった。当時の日本は侵略国家ではなく、共産主義コミンテルンが暗躍した中国・アメリカの術中にハマってしまった。戦後、欧米白人の植民地化されていたアジア諸国を開放するきっかけになった」との論文で、罷免されたバリバリの職業軍人の著書です。
僕の父は赤紙で従軍し、ボルネオ戦線での辛い経験を子供の頃たくさん聞いています。墓地に目立つ戦死者の墓石には手を合わせ、二度と戦争が起こらなければいいと願っています。でも、他国に侵略される状況になれば、志願してでも日本国を守ろうとも思っています。「話し合いで解決」などという絵空事で、争いごとがお互いの譲歩で解決するなどと信じていません。
祖父は、家系が武家で、江戸時代は大名の家老職だったからか、近衛騎兵隊小隊長として日露戦争に参戦しています。家内の父親の家系も武人で、職業軍人として地元の有名な部隊長として中国戦線で活躍し、戦後は2年間シベリア抑留を経験しています。義父がシベリアから帰ってきた時に、地元新聞に大きく取り上げられ、それを見た義理母の父親は見合いを申し込み結婚しました。
僕には、祖父まで続いた武人の血が流れているようで、喧嘩っ早いところがあります。
今でも時々問題になり、事件になり犠牲者が出ますが、小学校でクラス内での「いじめ」を経験しました。僕がいじめられることはありませんでしたが、クラスメイトがいじめっ子のクラスメイトにいじめられている現場を何度も見ています。そんな時、僕は我慢できず、必ずいじめっ子に「やめろや」と立ち向かいます。喧嘩になることもしばしばで、チビな僕は大抵負ける方でした。でもいじめられていた子はその場助かり、いじめっ子は必ず対抗してくる僕を直接いじめることはしません。少しの勇気が足らず正義の行動が起こせなかったクラスメイトからの信頼を得、先生からも頼りにされ、毎学年学級委員長に選ばれていました。
そんな僕なので、「北朝鮮に拉致された日本人を実力で助けに行かない日本」や、「尖閣諸島沖で領海侵犯した中国漁船が海上保安庁艦船に体当たりした映像を公開しない政府。超法規措置で犯罪者である漁船船長を、賠償金さえ払わさずに無罪放免する政府」に、「アホか、お前ら」と思ってきた。
僕の経験では、いじめっ子は対抗してこなければ、ますます図に乗る。抵抗すれば手を出さなくなり、手を出す相手は必ず抵抗しそうもない弱い者だと決まっている。要するに「弱い者いじめ」であり、「卑怯者」である。
最近の日本政府の「話し合いで・・・」「戦争は絶対しない」の体たらくを見ていると、少しずつ領土を侵食されていく日本の将来の姿が見える。まだ経済がしっかりしているので良いが、これが左前になったら一気に国際的な権利を失っていくでしょう。
中国という卑怯者ならず者国家は、日中戦争の時政府軍なのに便衣服も携行し、日本軍が来ると正規の軍服を脱ぎすて平民になりすまし逃げていくのが常套手段だった。尖閣漁船の乗組員も多くが、中国政府の秘密指令を受けた中国軍人のなりすましだろう。領海侵犯に対し、日本の正規軍である自衛艦が前面に出て、中間ソビエトがするように悪質な艦船を拿捕したり、威嚇射撃あるいは沈めると、もう出てこないはずです。
著者が更迭された俗にいう「田母神論文」を読んだが、至極まっとうなことが書いてあり、特に好戦的でもなんでもない。ただ、「話し合いで・・・」の現政府の金科玉条と違うだけです。日本以外の国では、「当たり前」と思われる論文でした。僕も家族が不当に拉致されたら実力を持って行動するし、我が家の財産に傷つけられたら、無罪放免なんて馬鹿なことはしない。これをやってしまえば、家長としての権威は失墜し、猿の集団ではボスが集団から袋叩きに合い追い出されるだろう。
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私があるTV番組に出た時、「大東亜戦争という言葉を使わないでください」とディレクターから釘を刺された。大東亜戦争という名称は、かつて日本政府が閣議決定したもので、使ってはいけないとはどういうことだと抗議し使ったら、放送時に全て削られていた。いまだに、(GHQの言論統制が利いており)使えないのである。
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2008年、中国の胡錦濤主席が来日した時、「南京事件の真実を検証する会」が公開質問状を中国大使館を通じて送っている。
・毛沢東主席は、生涯たった一度も「南京虐殺」に言及していないのはなぜか?
・中国国民党軍は、南京戦を挟んだ1年間で300回、外国人向け記者会見を行っているが、ただ一度も「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と述べていないのはなぜか?
・国民政府国際問題研究所監修の書によると、南京の人口は日本人占領直前20万人、その後ずっと20万人、占領1ヶ月後25万人と記録されている。この記録から30万人虐殺などありえないのではないか?
・この書に、日本軍の非行と訴えられたものは26件、しかも目撃されたものは1件のみと記録されている。30万人虐殺と両立し得ないのではないか?
・南京虐殺の証拠とされる写真は、その後の科学的研究によって、ただの一点も証明するものが無いと明らかになったことについてはどうか?
胡錦濤は、この質問に一切答えていない。
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侵略どころか、人種平等を広めた日本。朝鮮人も台湾人も日本人であった。陸軍士官学校に入れたし、帝国国会議員にもなれた。大東亜共栄圏構想は、欧米の植民地政策と根本的に違っていた。
朝鮮出身の洪中将は、フィリピン南方軍総司令官であったので、B級戦犯として起訴された。連合軍側から「君は朝鮮人だから助けてやる」と言われたが、「私は帝国陸軍の将軍である。一切の免罪は必要としない」として、死刑が執行された。
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有色人種を動物並みに見ていた白人たち。ビルマ戦線で捕虜になった京大卒の会田さんは、ある日モップを持って隊舎に入っていって驚いた。1人の白人女性が全裸で鏡の前に立っていた。ドアの音に後を振り向いたが、何事もなかったようにそのまま髪をといた。部屋には数人の女声がおり、横になってライフを読んでいる。何の変化も起こらず、会田さんはそのまま床を拭いた。
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日本軍は国際法を順守し、丁重に捕虜を扱った。戦後「日本が悪い国だった」とするために、あらゆる嘘が作られた。アメリカ軍は、捕虜にする前にほとんど殺してしまうので、捕虜が少なかった。そもそも人道的であったなら、東京大空襲などするわけがない。
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東京裁判は、戦勝国による復讐劇にすぎない。これは少し考えればわかることだが、裁判は裁かれる事案が起こった時点で存在した法律によって行われなければならない。戦後に作られた条例で、戦中の罪を問うのは「法は遡れない」の大原則に明らかに違反した「事後法」である。
また東京裁判の節目となる日付に着目すると、A級戦犯が起訴されたのは、1946/4/29当時の皇太子殿下(現天皇陛下)の誕生日です。これは偶然ではなく、「天皇陛下をいつでも捉え死刑に出来る」というアメリカからの脅しである。天皇陛下は、誕生日を迎えるたびにこの裁判のことを思い出す、ひどい仕打ちだ。
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番外編として、「徳川家康 将たるもの、我慢を重ねて勝機をつかむのが肝要」や、「アメリカと秘密交渉すると必ず負ける」の章があった。「これは大事な話だから、関係者を限定して秘密が漏れないようにしましょう」、戦前この秘密交渉に乗ったばかりに、中国からの撤兵要求を含む「ハル・ノート」が突きつけられ、日本は開戦の道しかなくなってしまった。アメリカの陸軍長官ヘンリー・スティムソンは、「如何に日本側から最初の攻撃の火蓋を切らせるような立場に彼らを追い込むかが難しい命題だ」と日記に書いている。日本に最初の一撃を撃たせることで、「戦争に介入しない」と宣言して大統領になったフランクリン・ルーズベルトに口実ができる。
その他、共産主義コミンテルン要員が、中国はもちろんアメリカ中枢にも多数入り込み、ハル・ノートそのものも、彼らの作成物であったということが、現在は白日の元になっていると、具体的事例で示されていた。僕の知らなかった大東亜戦争の真実を知る良い機会になった。世界の腹黒さをしっかり理解し、随時対処していないと再び戦禍に巻き込まれかねない。国際感覚に明るい指導者が望まれる。僕の孫くんに期待したい。

2015/10 「あの日に帰りたい」 ニコラス・スパークス ソフトバンク文庫 ★
久しぶりのニコラス・スパークスです。年1冊のペースで新著を出していた頃、新刊を待ち構えて読んでいましたが、数年間が空いたので文庫本化された未読のラブストーリーが2冊出ていました。すぐに2冊とも購入しました。
意味ありげな第三者目線のプロローグから始まり、本文の始まりからグイグイ物語に引きこまれました。「次はどうなるんだろう?」の興味で、3日で読んじゃいました。
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「それで・・・」ブレンダが期待するように切り出した。「それで・・・?」サラは彼女が何を聞きたいのか正確にわかっていた。また静かになった。「それで・・誰かについて何か知りたいことはない?」ブレンダが催促した。「そうね・・・」サラは考えるような仕草をして、首を振った。「特にないけど」。「そう」ブレンダは落胆を隠さなかった。サラはその巧妙な誘いかけに微笑んだ。「でも、1人だけ少し聞いてみたい人がいるわ」。ブレンダの顔がぱっと明るくなった。「そうこなくっちゃ」早口で続けた。「何を知りたい?」
「考えていたのよ・・・」サラは口をにごし、ブレンダはクリスマスプレゼントの包み紙を開ける子供のような顔になった。「あの・・・」サラは周りを見てから答えた。「あの・・・ボブのことを教えてくれない?」ブレンダは口をポカンとあけた。「ボブって・・・用務員の?」サラは頷いた。「ちょっとかわいいじゃない」「74才よ」ブレンダはまだ驚きから覚めなかった。
「結婚してる?」「もう50年もね。子供が9人いるわ」「まあ、それは残念だわ」サラが言うと、ブレンダは目を丸くした。サラは首を振り、少し上目づかいに、イタズラっぽく見を輝かせてブレンダを見た。「となると残っているのはマイルズ・ライアンしかいないみたいね。彼のことを教えてくれない?」
その言葉が頭に染みこむと、ブレンダは慎重にサラを眺めた。「あなたのことをよく知らなければ、からかわれてると思うところよ」サラはウインクした。「よく知らなくても大丈夫よ。だってそうなんだもの。わたし、人をからかう悪い癖があるの」
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小学校に新しくやってきた教員・サラと、古株のブレンダの会話です。ブレンダの旦那さんはこのノースカロライナの小さな町の保安官で、マイルズは2年前に事故で奥さんを亡くし子育てに追われる副保安官です。そしてマイルズの息子は、サラの生徒。ブレンダ夫婦は、まだ若い2人がお似合いだと思ってる。
洒落た会話です。いつも日本語訳を手掛ける雨宮泰さんの訳が素敵なのか、心がほんわかしちゃいます。
本文を終え、最後の「感謝の言葉」にこう書かれていた。
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これまでの小説同様、素晴らしい妻・キャシーに感謝しなければ怠惰のそしりを受けるだろう。12年、そしてまだ元気いっぱいだ。愛しているよ。
5人の子供たちにも感謝したい。マイルズ、ライアン、ランドン、レクシー、サヴァナ。子供のおかげで家にいられるし、それより何より、面白くて仕方がない。
ラリー・カーシュボームとモーレン・イージェンはずっと素敵に僕の仕事を支えている。2人に感謝を。(追伸:2人共この本で自分の名前を見つけてほしい!)
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作者は、アメリカ南部の東海岸の州・ノースカロライナの田舎町に住み、そこを舞台にした作品を世に出し続けている。フロリダの少し北で気候も温暖な住みやすい地で、全米に愛のある穏やかな風を送り続けている。
僕も家族に感謝している、特に家内にはいくら感謝の言葉を並べても足らないくらい感謝している。僕に素晴らしい子供たちをプレゼントしてくれて、生まれてからずっと僕を楽しませてくれている。とてもよい気持ちにさせる、おすすめの小説です。

2015/10 「新渡戸稲造75話 藤井茂 財・新渡戸基金 ★
明治維新を成功させ、日本が欧米の植民地になるのを防いだ大立者の名は、薩摩・長州閥を中心にたくさん名前が上がるが、その他の藩出身者にも、明治の日本躍進に大きく貢献したバイプレイヤーがたくさんいる。明治維新では、佐幕藩として目の敵にされた会津藩を助けるように、新政府軍と戦った戊辰戦争で敗戦した東北雄藩出身の実務家・後藤新平や新渡戸稲造もそうした人物です。
後藤新平は、医師としてドイツに留学し細菌学を修めた。その知識を生かし、東京市長時代に水道水を塩素殺菌することで、乳児の死亡率を劇的に減らしたり、関東大震災の復興を指揮した。台湾総督府民生長官時代は、新渡戸稲造を招聘し台湾糖業を主力産業にまで育て上げ、その後の台湾経済に多大な貢献をした。満鉄初代総裁やNHK初代総長、台湾経営の人材育成のために建学された拓殖大学学長や国務大臣など歴任された。
後藤新平同様岩手県出身の新渡戸稲造も、超有名な「武士道」の執筆以外に、多くの業績を残している。その偉業を後世に伝えるべく活動している「財・新渡戸稲造基金」を知り、そこに連絡を取り、この書と「続・新渡戸稲造75話」を購入した。
書の題名から、新渡戸さんの残した75の言葉について、その言葉の出た背景やその意味するものを、最も近くにそして正しく理解している基金の理事の方が解説しているのだろうと思っていた。が、生を受けてから鬼界入りするまでの生涯を、75のそれぞれの時代に区切り、「こんな風に考え、そんな風に行動しました」とサラリと書かれている書でした。作者は、ドキュメンタリー作家でも伝記作家でもないので、変にドラマチックに盛り上げたりせず、事実を淡々と書き綴っており、とても共感が持てました。
子供時代は、ガキ大将で暴れん坊だったそうです。しかし「どの1つをとって見ても、英語の単語は耳新しく、未知の世界の生活や活動が目前に広々と開けてきた。兄も私も、国語よりも英語にすっかり魅せられてしまった」と稲造本人の言葉にあるように、子供時代にすでに英語に触れている。
13歳で、東京に住む叔父の養子となり、東京英語学校(後の東京大学)に入学する。そこで生涯の友・佐藤昌介に出会いますが、先に渡道した佐藤の誘いに乗り、もっとレベルの高い札幌農学校に転校する。ここで大いに学び、洗礼を受けクリスチャンになり、その後の欧米留学に続く。
ボン大学留学中、ベルギーのラブレー教授を訪ねた時、「あなたのお国の学校には、宗教教育がないとおっしゃるのですか?宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか?」と驚かれた。これは、妻のメアリーからも同じ疑問の声を聞き、「自分の正邪善悪の概念を形成している道徳は、「武士道」である」と見出した。これが、「武士道」を英語で執筆・アメリカで出版する動機になります。これが、ドイツ語・フランス語にも翻訳され、一読でセオドア・ルーズベルトを感銘させ、日露戦争終結の仲介役を勝手でさせることに繋がる。
この著書は、稲造の体調最悪期に書かれたものです。留学を終え札幌農学校の教授として精力的に活動しすぎて体調を崩し、アメリカで転地療養中の有り余った時間に、宗教教育のない日本の不思議の応える形で書かれました。
後藤新平に引っ張られ、台湾総督府技官になったのは、アメリカ転地療養後、南欧・エジプトを視察した後です。後藤から台湾経済発展の理想論を書いてみよと催促され、「糖業改良意見書」を書き児玉源太郎総督に提出した。それを読んだ児玉は稲造を自室に呼び、即断でその実行を決断する。若い明治の時代の行動力の早さを感じる。
日露戦争までは関係の良かった日米関係は、ポーツマス条約締結後から対峙する関係になった。軍事費の圧力により戦争継続不可能だった日本ですが、日本海海戦の劇的勝利後の和平交渉だったので、戦費をロシアから取れない条件に国民は激怒した。またカリフォルニアでは、日本人移民を排斥する動きで出ていた。この関係を打開すべく、日米交換教授として稲造はアメリカに向かう。
後藤新平が創立した東洋協会植民専門学校(現・拓殖大学)の責任者をしていた時期もある。「原住民の利益を重んじることこそが、植民地政策の中心でなければならない」と考えたが、これは欧米列強より遅れて植民地経営に乗り出したので、その成否を他山の石にできたことも影響している。
東京女子大の初代学長になった後、後藤新平とともに欧州視察に出て、そのまま国際連盟の日本代表になってしまう。人材に困っていた国際連盟日本事務所にひょっこり顔を出すと、以前からの知り合いがそこに責任者としており、「最適な人材がやってきた」とばかりに、国際連盟の事務次長のポストが待っていた。
稲造の国際連盟での業績の最大のものは、「知的協力委員会」の設立だと言われている。この委員会は世界の各界から、知的に優れた人達を集めて作られた。アインシュタインやキュリー夫人など、世界最高の学者で委員会が構成され、稲造はその幹事長(世話役)として活躍した。これは現在のユネスコです。これらの学者が日本訪問した時は、自邸に招いている。
「太平洋問題調査会」理事長に就任した。この会議の席上、日本の松岡洋右外相と支那の徐博士の演説がありました。松岡は日本の立場を淡々と述べたのですが、次に演台に立った徐は、終始松岡に対する皮肉や嫌味の混じった攻撃に終始した
ので、他の国の参加者でさえ聞くに堪えないものとなった。その晩稲造は、徐のところに押しかけ、胸ぐらを小突き回し難結した。温厚寛大な稲造でも、非紳士的な態度や卑怯な行いには怒気を発する正義感を持っている。
「あとがき」で、次の「続・新渡戸稲造75話」について書かれていた。人柄がよく分かる逸話75話が載り、ユーモアに富んだ逸話・笑いたくなるような失策・子供や女性に対する無限の優しさ・あらゆる国の人たちに対するあふれんばかりの慈悲の心などが、いっぱい詰め込まれている。

2015/10 「私を通りすぎた政治家たち」佐々淳行 文藝春秋 ★
東大法学部〜警察庁官僚、東大安田講堂事件・連合赤軍浅間山荘事件で警備幕僚長として危機管理畑を歩む。防衛庁に出向し、昭和天皇大喪の礼警備を最後に官を退く。父親は、九大教授から朝日新聞論説主幹、戦後は参議院議員。祖父は、西南の役で西郷方として奮戦し、熊本済々黌を創設し、国権党の領袖。戦国時代の祖先は、織田信長配下に佐々成政です。
家系故、あるいは創設したグループの関係から、東大時代からずっと大物政治家と交流があった。官僚時代は更に多くの国内外の政治家との交流が増え、半生を振り返って、ご自身の人生ですれ違った政治家を、その方の素質と日本国の国益から見た場合の複数眼で語っている。
政権与党に近い高級官僚という立場から見える政治家個人の人としての資質まで、赤裸々に正直な主観を持って語っているので、とても面白い。「戦後・現代を築いた大物政治家たち」の章では、吉田茂・佐藤栄作・岸信介・中曽根康弘・後藤田正晴・大平正芳・石原慎太郎・小渕恵三・小泉純一郎がステーツマン(私利私欲にとらわれない政治家)として取り上げられ、「国益を損なう政治家たち」の章では、田中角栄・三木武夫・石井一・加藤紘一・河野洋平・小沢一郎・宇野宗佑をポリティシャン(自己利益追求型政治家)や優柔不断・無為無策政治家とこき下ろす。
「憎めない政治家」では、ハマコー・上田耕一郎&不破哲三兄弟・大出俊を上げている。「外国の大物たち」では、賓客も挙げられているが、歴代駐日大使(ライシャワー・マンスフィールド・アマコスト・モンデール・フォーリー・ベーカー・ケネディ)の人柄を評論している。
最後に、「将来を期待したい政治家たち」として、安倍晋三・小泉進次郎・前原誠司・橋下徹などを評論している。
ところどころに、ノーブレス・オブリージュ(高貴さは義務を強制する)という単語が登場する。僕の母校ヨット部には部訓があり、一言で言えばノーブルスタボーネス(品位ある高貴な粘り)ということで、勝てば官軍を戒めている。勝者が敗者への労り、敗者が勝者に対する喝采・・・、いかなる時代であれ、どのような状況であれ、ステイツマンとして自分を律する生き方を、この書は語っているように読めた。

追伸:表紙に「最後の手記」と斜め書きされていてドキリとした。エピローグには、「佐々事務所を閉めた」との記述もあり、この書への感謝の言葉に、我が人生への感謝の言葉が秘められている感じがして、終活をされているのだなと感じた。
入学・進学・資格試験・就職・転職・結婚・2世誕生・・・と、僕の人生も明日への希望、次のステージへのステップアップのイベントを繰り返してきたが、クロージングのセレモニーの年齢に差し掛かってきた。次世代は立派に育ち、バトンタッチも問題ないですが、我が夫婦のリタイヤを元気なうちに成し終えなければと強く思った。

2015/9 「新・平家物語・全16巻」吉川英治 講談社 ★★
過去、一度読んだことがある「平家物語」の吉川英治版です。「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」で有名な冒頭で始まる平家物語は、教科書で一部読んだのが始まりです。冒頭の言葉は暗記させられたように記憶している。
読書好き・歴史好きの僕が、惹かれるのは戦記物です。多数の戦国時代物は、男の子なら誰でも血沸き肉踊ると思いますが、鎌倉時代から室町時代へ変わる時代を描いた「太平記」と、初めて武士政権が成立した平安末期から鎌倉時代に移る「平家物語」にも僕は惹かれます。
この2つの書は面白いのですが、とても長い。「太平記」も長いが、「平家物語」は更に長い。中国の「三国志」はもっと長いけど、あれは登場人物が中国名なので、混乱してわからなくなるから、やはり日本のこの2つの書がいい。
天皇や法皇を警護するため、清涼殿の滝口や、院御所の北面に武士が駐屯していた。貴族である藤原氏を窓口に、地方豪族の師弟が京に上り、交代で勤めた。天皇在所の清涼殿警護の滝口武者から自力をつけていったのが、平将門などの時代で、公地公民制が名目的となり、税金を治めなくても良かったり軽減されていた寺社や貴族に全国の土地が集まり、政治的には貴族の専横がきつく、庶民は苦しい生活を強いられた。船を持つものは、倭寇となって朝鮮半島や中国大陸に出稼ぎしたりするようになり、武力という力を持った武士が、貴族への反乱を起こしたのが、平将門・藤原純友の乱であった。
それは失敗に終わったが、次第に武士の武力を貴族では抑えられなくなり、貴族間の政権奪取を伴う対立に、子飼いの武士を使ったのが「保元の乱」「平治の乱」であった。この2つの乱の主役が、源義朝であり平清盛です。その生い立ちから、この書は始まる。「保元の乱」でともに勝利した両者ですが、再びの戦乱「平治の乱」で袂を分かち、平清盛が勝利し、敗戦した源義朝は本拠地関東に下る途中で、同じ源氏であった同族に裏切られ散った。
武士の2大勢力の一角・源氏が野に下ったので、中央政権は平氏・平清盛が台頭し、対抗馬を失ったために貴族も天皇・法皇も、武士の力を削ぐことが出来なくなり、ついには武士が殿上に上がり、直接天皇や院と会話し、貴族おも動かし、清盛は武士初の太政大臣にまで上り、政治を動かす存在になった。
そして天皇に平氏の娘を嫁がせることで、天皇の外戚の地位を得、中央政権の各種要職を占めるようになっていった。ついに、清盛の義理の弟・平時忠が、「平家に非ずんば人に非ず」という有名な台詞を吐くほどな栄華を誇った。
しかし、冒頭の「盛者必衰の理をあらわす」の言葉通り、平家の専横を良しとしない後白河法皇の反撃が始まり、地に伏した源氏諸氏に檄文が飛び、源義朝の遺児・頼朝が伊豆で旗揚げし、木曽では義朝の弟の嫡子・木曽義仲が呼応した。頼朝は地方平氏勢力に潰されそうになった危機を脱し、鎌倉を本拠地に関東の源氏を糾合し自力を蓄えることに専念した。
一方義仲は、信州から北陸道に出て、倶利伽羅峠の戦いで、平氏の本隊に大勝利し、一気に京に攻め入り、平氏を京から追い出した。喜んだ後白河法皇だけど、田舎者の木曽勢の乱暴に幻滅し、頼朝に檄を飛ばす。
木曽義仲と源頼朝は、同じ源氏でお爺さんが源為義です。為義の嫡男が義朝が次の河内源氏の頭首であったが、父・為義と仲違いして、京を逐電し、本拠地関東に帰ってしまった。才覚により自力をつけてきたので、為義は義朝の逐電により嫡男になった次男・為朝を関東に派遣し、義朝を討とうとした。これを察知した義朝は、為朝を急襲し討ち取ってしまった。嫡男義仲は危うく木曽に逃れ、信州で勢力を蓄えていた。つまり、2人は従兄弟同士なのですが、親の敵なので協力する下地がない。
頼朝は、大将軍に弟・範頼と義経をして、関東武士団をその下に付けて西上した。範頼・義経軍は、木曽軍を凌駕するほどの軍勢ではなかったが、木曽軍の統制が取れておらず、破竹の快進撃した勢いは既になく、内部瓦解に等しい状態で義仲は近江の地に散った。
京の鎮守将軍となった義経の治安維持能力が素晴らしく、同じ源氏でも義経軍の将兵は略奪行為もせず、京に平和が戻るように思われた。しかし、京から西下した平家が、本拠地の西海・九州で勢力を盛り返し、長門国・壇ノ浦、讃岐の国・屋島を本拠地に、かつて清盛が一時都を移した摂津国・大輪田の泊・福原に大兵力を上陸させてきた。
ここで再び、後白河法皇からの勅命を頂き、平家討伐の兵を起こした。正面の西国道から攻めるのは範頼軍、搦手の山陰道を西下し、六甲山を迂回し背後を突くのが義経軍。有名な鵯越の逆落しで一ノ谷に下り、防衛線を突破して、平家軍が大混乱した時に乗じて本隊・範頼軍が正面を突破した。慌てた平家軍は、将兵の数では優勢であったのに、逃げに掛かったので総崩れになり、安徳天皇の御座船を囲んで屋島に退却して行った。
義経軍は、京の警護に戻り、範頼軍が西下して平家軍を追ったが、兵船を持たぬ不利から、度々屋島からの急襲を受け補給線を寸断され苦戦だった。やがて壇ノ浦・九州で膠着状態となり、頼朝は戦線打開を図るために義経軍を派遣することにした。
兵船を持たない義経は、紀州熊野三山別当・湛増などの協力を得て、本拠地・屋島を突く手立てが整った。渡辺党の水軍に乗った義経本隊は、大風に乗り一気に四国に渡り、圧倒的不利な兵力差を物ともせず、油断していた屋島を攻め立てた。慌てた平家軍は、敵の勢力がわからないまま屋島を捨て、軍船に本拠を移した。攻守入れ替わり、平家水軍が陸上の義経軍を攻め立てる様相になってきたが、打ち破るほどの勝利は得られす膠着状態になりつつあるときに、熊野水軍に乗った梶原景時の友軍が駆けつけ、平家軍はやむなく壇ノ浦に退却した。
頼朝から派遣されている軍監である景時は、義経の素早い行動と反りが合わず、一面で反目する。九州に渡り退路を断っていた範頼軍と呼応し、義経軍は兵船を備え、壇ノ浦を襲う。背水の陣で出張った平家軍は、武運つたなくついにここに滅びる。
これで平和が訪れるかと思いきや、猜疑心の強い頼朝は、軍功鮮やかな義経を恐れ、これを取り除こうと動く。義経主従には軍功少なく、兄弟の面会さえ許さなかった。やがて義経追討軍を起こし、京に向かう。これに対し、義経を買っている後白河法皇から頼朝追討勅命が下ったが、再びの戦火に京を焼くのを良しとせず、北陸道をかつて鞍馬山から脱出後の青年時代を過ごした陸奥・藤原氏を頼って落ちていく。
ここまでが、この書の血湧き肉踊る中心部で、歌舞伎で有名な「安宅の関」でのやり取りなども軽めに、義経が平泉に滅びる場面もさっと通り過ぎる。義経を失った奥州藤原氏を弱しと攻め立て滅ぼした頼朝でしたが、子飼いの弟・範頼も陰謀で討ち、裸同然になり、頼朝の死以降は、頼朝の血筋を保護するものがおらず源家も滅び、平家の血筋である北条氏が、鎌倉幕府の執権という立場で実権を握る。
結局、平氏・源氏とも滅んでいく。世の無常を知った熊谷直実他の元将兵が、髪を下ろして行く流れとともに、義経の自爆とも言える新たな戦を避けた隠遁により平和を取り戻した京の街の様子を最後に、物語は締めくくられる。長編故、僕の飽きもあり、途中で他の本への浮気も数多く、読破に結局1年弱を費やしてしまった。でもこれは、一気に読んでしまい楽しみを失うより、長く楽しもうとした故もある。その間、「安宅の関」や「平時忠が流された能登半島珠洲の時忠家」も、大きな感慨を持って訪問できた。激動の40年の戦乱の時代であった。

2015/9 「人は死なない」矢作直樹 バジリコ株式会社 ★
東大医学部救急集中治療部長・矢作さんの著書・3冊目です。実はこの本が、注目されるようになった処女作です。
学生時代の登山で2度滑落事故を起こした。比高1000mを転落したのに、奇跡的に命が助かり、その上歩行可能だった。また雪崩に埋まりながら、生還した。その滑落中に体験した臨死体験や、再び北アルプスの高所山岳走破を目指した時体験した天の声で、神の存在を信じ始めた。
そこから、ご自身が日々体験する現代医療の最先端で、実際に患者さんに起こる奇跡や突然の様態の急激な悪化に、現代科学では解明できていない未知の存在を感じ出す。本場中国の気功師の信じがたい奇跡の技を体験したりして、ますます未知の何かの存在を感じていく。
実体験なさった事実を文字に書き起こしながら、それを信じることを読者に迫らず、「こんなことを体験しました」と事実を積み重ねるスタイルで書いておられる。
僕自身、子供の頃は体が弱く、40℃オーバーの熱に熱にうなされるのが茶飯事だった。高熱になると決まって、体が浮き上がり、部屋の天井の隅から布団に寝ている僕自身を見て、やがて窓から外に出ていき、腕を振ると海中を泳ぐマンタのように簡単に屋根を越え、電信柱を越えて行く。甍の波を眼下に、気持よく空の散歩をしながら、やがて浮遊力が落ちていき、頑張って手を羽ばたいても高度が上がらなくなり、ゆっくり地上に落下していき目が覚める。という体験(夢)を繰り返していたので、なんとなく幽体離脱する感じがわかり、特に怖くもなんともない。熱が上がると、また空を飛ぶ夢が見れるかな?と期待さえした自分がいた。そんな実体験があるので、この本に書かれていることも、すんなり違和感なしに読めてしまった。
僕は実体験から、僕は肉体としての僕とは別物だと感じているので、「死ぬ」ということは今の肉体から離れることだと思っている。いずれまた、次の肉体を持ってこの世に生まれ変わってくるし、過去もそれを繰り返して来たのだと思っている。それは、子供の頃、やたらとあまり知らないし行ったこともないカナダやアラスカの夢を見て、アラスカがソビエトからアメリカになるのを、リアルに見ることから沿う感じる。きっとその時代はカナダに住み、そのことを強烈に魂として感じたのだろう。
次は僕の子孫に生まれたいと希望しているので、少しでも家系として「楽しく育つ」環境を整えようと、子供に声を荒げない子育てをして来たつもりです。本人の嫌を強要せず、「やりたい」をサポートしてきた。
そんな僕の生き方に、「その通り」と回答を与えてくれるような本です。

2015/8 「地団駄は島根で踏め」わぐりたかし 光文社新書 ★
前回楽しく読めた語源ハンター氏のもう一冊です。「ゴリ押し」「あこぎ」「二の舞」など全32の語源を現地で探り触れる旅ノンフィクションです。1つの語源にフォーカスしながら、その土地の人とのふれあいや名物・うまいもんなど、ハプニングも含め自然にユーモラスに書かれており、好感が持てます。
僕が「街道を往く・司馬遼太郎」や、NHK朝ドラ「まれ」のワンシーンを実際に見たくて、バイクツーリングに出るのと似ている。最初の目的は1つなのだけれど、道中の歴史遺産を一筆書きに訪問し、そこで感じたことを書き残すツーリング紀行に似ている。
「縁の下の力持ち」は、大阪の四天王寺さんに語源があった。この寺を建立された聖徳太子さんを顕彰する「精霊会舞楽大法要」の長年完全非公開だった「縁の下の舞」というのがある。縁の下で舞われるから「縁の下の舞」で、大阪の「いろはがるた」に採用され、やがてそれが東下していく過程で、名古屋あたりから「縁の下の力持ち」と変化し、今に伝わるそうだ。
「お払い箱」は、お伊勢さんに語源がある。由緒ある神社には、御師と呼ばれる神社の御札を全国に配る神職がいた。各地の有力者を巡って、神社の御札を配り、見返りに神饌料をいただく。黒田官兵衛の祖父も、備前福岡から姫路の広峰山(牛頭天王信仰総社)に上り、秘伝の目薬を製造し、このルートに載せて全国に売りさばき、莫大な利を得た。これが東播磨の雄・小寺家に仕えながら、最大の軍事力を持ちある程度気ままに行動できた黒田家の財を支えた。
同様に、伊勢神宮の御師によって、全国の有力者に配られた御札の入れ物が「お払い箱」である。翌年また新しいお払い箱入り御札が届くと、炊きあげてもらうために古い御札を御師に返す。すると、手元に古いお払い箱が残る。
「うだつがあがらない」は、徳島県脇町にルーツがある。ここは着物を青く染める藍の全国一の生産地です。日本にやってきた西洋人が驚いたことに、染め物としてとても難しく、あまり西洋になかった鮮やかな青が、日本にあふれていたことがある。この本には書いていなかったけど、ジャパンサッカーチームのユニフォームがブルーが基調であることにルーツを見た気がした。サッカーチームの胸に描かれた3本足のカラスは、神武天皇を紀伊半島南部から吉野に導いた八咫烏であり、熊野三山の守り神である。古きを大切にする日本文化を継承するところが、僕をジャパンサッカーチームに惹きつける。
脇町の藍で巨富を得た家は、防火設備でもある「うだつ」を屋根の上に上げる。「うだつが上がる」とは、大商家を意味し、「うだつがあがらない」とはその反対を意味する。この脇町の「うだつ」は、実際に観に行ったことがあるので、「ふむふむ」という感じで読めた。
「火蓋を切る」は、強大な当時史上最強の武田騎馬軍団を、新兵器の鉄砲で打ち負かした「長篠の戦い」の織田・徳川連合軍にルーツがある。火縄銃は、銃を立てて銃口から火薬を入れる。次に弾丸発射用火薬と弾を入れ、長い棒で奥まで押し詰める。火皿を覆っている安全装置の「火ぶた」を開いて、点火用の火薬を火皿に盛る。安全のため、一旦火ぶたを閉じる。火のついた火縄を火ばさみに挟む。銃を構えて、敵を狙う。「火蓋を切れ」の号令で、安全装置の火ぶたを切る。「放て」の号令で、敵に狙いを定め引き金を引く。引き金を引くと、火縄を挟んだ火ばさみが火皿に落ちて、火薬に点火する。火皿の火が、瞬時に小さな穴を通じて銃身の中の弾丸発射用火薬に引火する。発射用火薬が爆発して、弾丸が発射される。
「地団駄を踏む」は、今でも世界一の鋼を製造している奥出雲の鉄製造工場「たたら」にルーツがあった。この地で鉄を多く生産出来たのは、豊富な砂鉄と製鉄工場に必須の火力の源・木材が豊富だったからです。鉄の最重要部品・玉鋼を製造する過程で、3日間高温を保たなければならない。そのために常に新鮮な空気を送り込む必要がある。その送風装置「ふいご」が地団駄で、左右の足で板を踏んでその下の復路の空気を送り込む。この作業を数分もすれば汗が吹き出し、1時間交代3人制で3日間踏み続けるそうだ。その作業に新人が入ってくると、ベテランさんはその下手くそぶりに、「あ〜まどろっこしい、いらいらするわ。ほんと地団駄を踏むようだ」と表現する。
奥出雲吉田の地に、この「たたら」を観に行ったこともある。この吉田の25代続く田部家当主が、日本一の山持ちと言われている。そちらにも興味があり、そのお宅や蔵群を見た。
今度四天王寺さんを訪問するときは、「縁の下」をじっくり見たいし、お伊勢さんでは「お払い箱」を想像したい。そしてちょっと遠いけど、長篠城と設楽原古戦場も訪問したいという気持ちがムラムラしてきた。

2015/7 「はじめての古事記」竹中淑子・根岸貴子 徳間書店 ★★
古事記・日本書紀は面白い。戦前は教科書で当たり前のように教えられていた日本創世物語・記紀ですが、戦後世代の僕は教科書で触れることはありませんでした。でも「因幡の白兎」「スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治」「天照大神が天の岩戸に隠れた物語」など、断片的にはその物語を読んで知っている。
成人してから読んだ記紀は、ダイジェスト版・現代語版ではあるが、非常に面白く、キリスト教系中学時代に読んだユダヤ教・キリスト教・イスラム教の共通の経典である旧約聖書を、はるかに凌ぐ。記紀の主人公が、今の天皇家につながり、僕自身の先祖にもつながっている。現代に暮らす多くの日本人のルーツを辿って行けば、源・平・清原・橘・藤原・菅原などの天皇家から離れた方々に行き着くだろう。そういう意識で読めば、さらに面白く読める。
嫡孫くんが2才になり、「ちびくろさんぼ」や「きかんしゃやえもん」などの僕自身が読み、息子たちに毎晩読み聞かせした絵本をプレゼントするようになっった。帰省した時に読んであがられるように、自宅にも置いているが、まだ早いのは重々承知で「古事記」の絵本を探しました。
小学校2年生向きの絵本ですが、文字も大きく、内容も古事記のそれに忠実に従った表現をしていました。アメノウズメが天の岩戸に隠れた天照大神の気を惹くために、岩戸の前で裸踊りをして男の神様たちにヤンヤの拍手喝采を浴びる場面もそのままで、変にモディファイされておらず共感が持てました。
神様の名前が覚えにくいですが、日本神話の流れの大筋はつかめます。秀作です。
天地創造からイザナミ・イザナミの国生み、アマテラスからスサノオの大活躍、スサノオの子孫のオオクニヌシからアマテラスの孫ニニギの天孫降臨までが書かれている。これはまだ古事記前半の神話の部分に過ぎません。天孫降臨してからの神武天皇の東征・ヤマトタケルの大活躍・神功皇后の三韓征伐など、ニニギの失敗によって寿命を持って人間になってしまった天皇を中心としたキラキラ・ワクワクする物語がありません。
シリーズ物で出ているだろうと探しましたがありません。子供向けの記紀の物語が非常に少ないのも知りました。地道に次の物語を探してみましょう。

2015/7 「ぷらり日本全国「語源遺産」の旅」わぐりたかし 中公新書ラクレ ★★
放送作家である著者が、「べっぴん」とはどこから来た言葉だ?のように、疑問に思った日本語の語源を探す旅日記です。「タニマチ」「十八番」「トロ」・・・、純粋に語源の起源や発祥を探す学術的な面で読んでも面白いし、言葉の語源を探す目的なんだけど、その周囲の素晴らしい自然や人々の営みに接する旅として読んでも楽しめます。
歴史好きなので、地名に興味を持って「なぜそこがその地名に?」と思って歩き、現地の寺社の謂れ板にそれを見つけると小躍りしたりする僕にピッタリの本でした。
「ヤブ医者」の語源を探しに、兵庫県養父市にやってきた筆者は、「養父市場」という駅名に興味を覚え、但馬牛の集積地であったことを知る。神戸牛や伊勢牛も、元は但馬牛が種牛であったりするのも語っている。こういう本題と離れた雑学的な部分が面白かったりする。
『養父に非常に優秀な医者がおり、それ目当てに京からも患者さんが殺到した。大志を抱いた若者がこの先生に弟子入りし、開業して大成功していく。この養父の医者人気に便乗し、弟子でもなんでもないのに各地に「ヤブ医者」が増殖し、語源とは真逆の「とんでもなく下手な医者」の代名詞に「ヤブ医者」がなってしまった』
なんていうオチまでつく素敵な短編エッセイが、17篇も載っている。あまりに面白かったので、前作の「地団駄は島根で踏め」を買ってしまいました。

2015/6 「愛を積むひと」豊田美加 小学館文庫 ★
同名の映画を家内と観に行き、素敵な映画だったので文字でも楽しみたくて買っちゃいました。普通は原作を読むのですが、原作はアメリカ人が書かれたもので、シチュエーションが大きく違うので、あえて北海道の美瑛を感じたくて、映画のノベライズにしました。
東京の下町で経営していた町工場をたたみ、美瑛のイギリス人のお宅を買い取り、終の棲家にした夫婦の物語です。高校の同級生だった2人は、大学時代に付き合いだし、ワンダーフォーゲル部だった篤史に連れられ、大雪山に登った。そこでプロポーズされました。そんな思い出の山が見える場所に住みたいと良子がねだり、それを叶えたのです。
元々心臓が強くない良子は、主治医の検査で東京に行く。その結果がかなりショックで、高校時代の仲良し・悦子さんとの約束もキャンセルして、北海道に帰ってきてしまった。そのことを篤史に隠して、自分のこれからより、自分がいなくなった後の篤史のそれからが気になり、「一人娘との関係を戻す」「地元の友だちを作る」「生きがいを見つけてもらう」をサポートしだした。
「石塀を作って」と篤史にお願いし、それが縁でアルバイトの子などの知り合いができていく。でももう時間がないと悟り、自分がいなくなった後の篤史へのメッセージを手紙にしたため、いろいろなところに置いていく。そんなストーリーです。
映画ではあまり登場しなかった悦子さんが、ノベライズではキーマンとして登場し、ノベライズで映画とはまた違う深さを味わいました。
映画ではカットされていた、2人が相手を意識するきっかけになったシーンも描かれていました。
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昼休み、中庭で文庫本を読んでる篤史を見かけ、思わず足が止まった。「後悔しても遅いのよ」。いつもだったら知らん顔で通りすぎてしまうのに、そんな悦子の言葉が引っかかっていたのかもしれない。気づいたら、大胆にも側に行って声をかけていた。
「何読んでるの?」。篤史はちょっと驚いた顔をしたが、黙って本の表紙を見せてくれた。夏目漱石の「夢十夜」。今度は良子が目を丸くする番だ。「小林くん、本当の文学少年だったのね。冒険小説かミステリーのたぐいだと思ってた」。
すると篤史は、白い歯を見せて笑った。「いつもはそんなのだよ。今日はたまたま司書の先生に面白い話を聞いたから、図書館で借りてきただけ」。
「面白い話?」「うん漱石が映画の教師をしていた時の話。”I love you”を『私はあなたを愛しています』と訳した生徒に、漱石はなんて言ったと思う?」「さあ」。
「『日本人はそんなことを言わない。月が綺麗ですね、とでもしておきなさい』って言ったんだ」「へぇ〜」
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夏目漱石の有名な話が、こんなところに登場した。そして、漱石のこの言葉がこのノベライズのエピローグにつながっていく。こういう知的なお洒落にキュンと来ちゃいます。
2015/6 「マスカレード・ホテル」東野圭吾 集英社文庫 ★
GWに帰省した長男から、「お父さん、これ読んだ?僕読んじゃったから、読む?」と置いていきました。育児時期の僕の当番は、「お風呂に入れること」と「寝かせること」。本好きなので、子供たちを左右に毎日本読みをして寝かせた。子供たちは僕同様本好きになり、僕同様いつも本を持ち歩いています。電車や飛行機に乗る時は、僕同様本読みの時間のようなので、帰省時にバッグの上によく本を置いています。何を読んでいるのか見るのが楽しみです。
「ダ・ヴィンチBOOK OF THE YEAR2014小説部門第1位」と帯に書かれていた。久しぶりの東野圭吾です。ミステリー作家で、「秘密」「白夜行」「手紙」「容疑者Xの献身」「幻夜」などを読みました。
東野圭吾さんのミステリーは面白いので、読んでいた「新・平家物語13巻・吉川英治」を読み終え、次の14巻をお休みして、ワクワクしながら読み始めました。
都内で奇妙な暗号を残した殺人事件が3件起きました。暗号は2行の数列で、僕はすぐ緯度・経度とわかったのですが、その場所は海上だったりするのでおかしい。1件目の暗号からその殺人の日付を引くと、2件目の殺人現場にピタリ。2件目のは3件目にピタリで、3件目の暗号が示す場所は、老舗ホテルの「マスカレード・ホテル」になった。警視庁は、4件目の殺人事件を防ぐと共に、連続殺人事件の犯人逮捕のために、ホテルに捜査員を潜入させ、捜査することになった。
捜査員・新田は、フロント係に配され、そのホテル側教育係が尚美だった。たとえ捜査員でも、ホテルの質を落とさないように厳しく新田を鍛える尚美。それに反発しながらも、尚美の姿勢に尊敬と親近感を覚える新田。運命の4件目の殺人事件に向かって、カウントダウンが始まる。果たして、本当に殺人事件が起こるのだろうか?犯人に潜入捜査がバレてしまわないか?・・・

2015/5 「運のいい人の法則」リチャード・ワイズマン博士 角川文庫 ★★★
同氏の著書「その科学があなたを変える」が面白かったので、それ以前に出版され、文庫本化されたこの書を購入しました。著者はマジシャン出身で、20代には世界的に活躍する成功者になっていました。マジックというものは、巧みにオーディエンスの心理を誘導し、その虚を突くものが多く、人の心理に関心を持ち、再び学生に戻り、博士号まで取って大学で研究室まで持つようになった学者です。
よく、「俺は運が良く、懸賞によく当たる」「私が運がなく、いつも男に騙されてばかり」など、運の良し悪しを話題にする。「ならば、実験してみよう。運が良くなる法則が明らかにしてみよう」と、新聞やTV番組を使って、大量の被験者を集め宝くじで社会実験をしました。
その結果わかったのは、「よく宝くじに当たる人は、当たった経験のない人より、圧倒的にたくさん宝くじを購入していた」「雑誌の懸賞によく当たる人は、それに応募するのを趣味にしている」・・・など、運の良い・悪いと自認する人と、その当選率に相関関係はなかった。
被験者との待ち合わせ場所の喫茶店のドアの前に現金を落としておいて、それを見つける確率。わざと待ち合わせ時間に遅れて実験者が現れ、待っている間の被験者の行動を見る。・・・多くの実験を重ね、運の良し悪しに関係する部分も見えてきた。
それは、本人の性格や行動・気の持ちように大きく関係するということ。10回に1度当選したことに、「俺は運がいい」と思うか、「1回しか当たらないと、運が悪いと思うか」。運の良い人は、1つの目的に集中しておらず、待ち合わせ場所に向かっている時も、リラックスしているので周囲に気が行くので、落ちている現金を見つけてしまう。
実験者が遅れていることにイライラし、会うことに頭が集中しているので、隣の席に座っている方と会話もしない。でも「運の良い人」は、そんな状態でもリラックスしているので、気楽にお隣さんに声を掛け、意気投合して思わぬチャンスが飛び込んでいく。
ポイント1・・・『運とは、自分は運がいいと信じることだ。/てねしー・ウイリアムズ』
ポイント2・・・『運の良い人は、肩の力を抜いて生きている』。周囲に目配り出来るので、友人が多くなり、チャンスの話を聞く機会が増える。
ポイント3・・・『運の良い人は、新しい経験を喜んで受け入れる』。つまり、同じチャンスに対しても行動が違うので、別の人生になってしまう。
ポイント4・・・『勤勉は、幸運の母である。/ベンジャミン・フランクリン』。運の良い人は、たとえ可能性がわずかでも目標を達成するために努力して、失敗しても諦めない。
ポイント5・・・『運の良い人は、対人関係がうまくいくと思っている』
ポイント6・・・『運の良い人は、不運を幸運に変えることが出来る』。毎日起こる身の回りの出来事は、一見不運に見えても、裏から見れば幸運の場合が多い。幸運の面に気づきそれを引き出せるかどうかで、人生は大きく変わる。『運の良い人は、不運のプラス面を見ている』。
これらの法則を見出し、被験者にそれを教え、そういう行動を取るように実験した。そして多くの被験者に「幸運」の結果を出させたことが書いてありました。読んでいて、楽天的な僕の性格に良さを感じ、そうでなく身内に対しても猜疑心の強かった身近な人の人生を重ねてみた。
楽天的故に、子供の頃から積極的に行動し、故にリーダーに担ぎあげられ多くのことを経験し、社会人になった今、親の僕らがびっくりする活躍をしている息子たちの人生にもピタリと重なった。新たに2冊購入し、息子たちに贈ることにしました。

2015/4 「神道のこころ」葉室頼昭 扶桑社 ★★★
イスラム教原理主義過激組織の自国民粛清報道などに、宗教って一体何なのだろう?と思うようになりました。特に昨年来のイスラミックステイツを名乗る集団に、欧米先進国から多くの若者が加わり、シリア・イラク国内に新たな国ができそうな勢いには驚きました。集団虐殺を伴う武装蜂起独立運動そのままです。
中学から10年間、キリスト教ベースの学校に通い、特に中学では毎日の礼拝・週1の宗教の授業で、その考え方を多少学んだ僕には、その素晴らしさしか感じなかったのに・・・。古くは十字軍の聖地エルサレム奪還遠征に始まり、イスラエル建国以来のアラブ諸国との出口の見えない戦争状態、そして現在と、戦争ばかりしています。
さらに、ヨーロッパのキリスト教諸国の大航海時代に始まった搾取のみの植民地経営の苛酷さは、どういうことなのか?日本は、豊臣秀吉・徳川江戸幕府の強力な武力・キリスト教禁止令や鎖国政策でその刃から逃れ独立を守ったが、明治以降の日本の植民地政策とは大きな違いがあった。つまり、欧米植民地支配は、自分の富のために、植民地から富を搾取することで、日本型は、まず自らの富を植民地に投入し、学校を建て識字率を高め、一緒に豊かになろうです。
この日本的な行動の基となる日本人の考え方のルーツを探ろうと、「日本神道」について学び直すべく、この書を購入しました。
著者は、藤原氏の末裔で、御用達の学習院で学び、長じて大阪大学医学部に進学し、形成外科の医師として大阪で病院をされていた。定年になる年齢まで医業をし、そこから神職の免許を取得し、枚岡神社宮司から春日大社の宮司さんになられた方です。春日大社という神社の世界では最高峰に位置する宮司になるくらいだから、歴代宮司さんの息子さんかな?と思っていたのですが、全くそうではなく、藤原氏の末裔しか宮司になれない藤原氏祈願所故、血の関係から推挙・就任されたようです。
『天照大神、神意を奉戴し、萬世栄光神魂をもって、人類の生命に輝く心の鏡の神殿の永遠なることを知り、宇宙に結ぶ大自然の法則に照らし、生命の言霊を磨き、人類に生命の愛の法憲をもって、崇高なる天性の尊厳に生きよ。八紘一宇の祭政の基柱となせ、血脈の道、皇統連綿たる全人類の生命祭政一致は、天皇を知ろしめすことなりと神示』
上記は、京都府北部にある「元伊勢神社」内の謂れ板に書かれていた一部です。このように、日本神道の世界観は、古事記・日本書紀に描かれる神話の世界(日本の生い立ち)をはるかに凌駕した宇宙にまで達するスケールの大きさがあります。「宇宙」という言葉を、神社の謂れ板に時々見つけられ、これが自然崇拝・八百万の神に助けられ見守られ育まれ生きていく古代人そのままの姿を感じます。『人間が誕生したわけ 35億年前に水の中に生命が出来て、45億年前に地球が出来て、150億年前にビッグバンで大宇宙が出来て、無数の星ができた。更に遡ると「無」に到達してしまう。無には「心」があった。その心には、「人間をこの地球に誕生させようという神の心があった。何かを作る、あるいは成すためには、必ずはじめにそれを作ろう・成そうとする意思が必要です。人間の誕生は偶然ではなく、意思・神の心が必要です。
では何のために、神の心は人間を作ろうとしたのか?永遠に見ることの出来ないものに、自分自身がある。鏡や写真に映る自分は、影を見ているだけです。だから、女の人だったら、「あなた綺麗ね」と言われたら、自分が美しいと知り喜ぶ。つまり、神の真実の世界を表現してくれる生物を作ろうと思われたに違いない。今我々は、自分のことばかりで、宇宙を見ていない。宇宙が素晴らしいということを伝えて、「神様、素晴らしいね」と言ってあげなければならない。神様がその素晴らしさを聞くことで、神の本当のエネルギーが出てくるんです。
ですから、健康になりたかったら、細胞を褒めてやりなさいと言うんです。細胞1つ1つに、「お前はよく働いてくれるね、すごいね、おかげで俺は健康だ、ありがとうと認めてやったら、細胞はエネルギーを出してくれるよと言うんです。』
『インフルエンザウイルスは、インフルエンザを起こすウイルスとは違います。ウイルスは、遺伝子を破壊するのが目的です。そのため地上にいます。生物が死ぬと、身体は腐ってなくなるけど、遺伝子は生物ではないので残る。それを破壊して次の遺伝子を作って、新しい生物に入れなければ生物は生まれてこない。これをするのがウイルスです。病気を起こすためにあるのではない。
それぞれのウイルスによって好む環境が違う。大抵の病気を引き起こすウイルスは、遺伝子の中の不自然な情報を好んで破壊しようとする。だから人間が呼んでいるようなものです。自然な情報なら寄ってこない。
大学病院の皮膚科にいた時、先輩から聞かされた話があります。娼婦と遊びでセックスする。娼婦が梅毒に掛かっていたら、相手の男性に感染する。その男性が病院に治療に来た時、一番感染の危険が高い奥様も呼んで検査する。ところが、感染するはずの奥様の梅毒感染率が非常に低い。当時の医学の七不思議と呼ばれていたのです。
梅毒がセックスによって感染するのは常識だが、必ず感染するとも言えない。言えるのは、遊びでする不自然なセックスでは感染しやすく、夫婦間の自然なセックスで感染することは少ないということです。』
『神社はお寺よりもっと古くからあったわけですが、どういうところに日本人が神社を造ったかということです。直感で神聖な場所とか、霊的な場所を知る能力が非常に高かったということです。
具体的には、神戸の大震災が起こったのは、神戸の地下に断層が通っていて大災害が起きたという。理屈ではそうですが、断層の上は、地中から出る生命の素晴らしい波動・エネルギーが地上に出てきている場所です。神の波動が、地上に出てくる場所です。今でも、断層の上に、多くの神社が建っています。神の天然の波動を受けているから、そこから出る水は、霊水とかご神水だとか呼ばれる最高の水でした。
そのようなところに、俗人の立ち入りや住むのを禁ずる禁足地があったわけです。春日大社はなぜここに造られたのか。奈良の都を治めるために造ったのだれど、もっと単純には、神戸からの断層の末端に当たります。ものすごい波動が、地下から出ているのです。
地震の2日前、春日大社の祭りがありました。宮司の私と神職は、石段のところの椅子に座ってそれを見ていた。寒いから2人の間に火鉢が置かれていた。そしたら、いきなり火鉢がピョンピョン踊りだした。他の神職は、宮司が貧乏ゆすりをしていると思ったけど、私は隣の神職が貧乏ゆすりをしていると思ったんです。不思議なことがあるものだなと思ったら、2日後に大地震が起こりました。それは波動がそこを抜けていたんだと思う。ここには3000の灯籠があるけど、1つも倒れていない。このような神聖な場所を昔の人は直感で知っていた。そこでここを塞がないように、神様を祀った。そして神域にして、そこの自然を残した。』
『古代、大和朝廷が日本を治めたやり方は、世界でも稀な方法だった。外国の王朝は、武力で国を征服し、そこの宗教や文化を全部滅ぼし、自分たちのそれを押し付けた。ところがそういう国は、どんなに大きくなっても必ず滅びた。その土地の文化・伝統・宗教を滅ぼしたものは、武力がどんなに強大になっても、経済力が増しても、滅びてしまうんです。
ところが大和朝廷はそれをやらないで、それぞれの氏族の神様を全部朝廷に持ってきた。だからみんな反抗しないで従ったんです。自分が拝んでいた祖先の氏神様を、全部天皇が祀ってくださる。今宮中に、賢所と皇霊殿と神殿のお社がある。賢所には天照大神の斎鏡、皇霊殿は代々の天皇の御霊、神殿は日本全国の八百万の神様を祀ってある所です。
日本民族は、決して単一民族ではない。いろんな氏族がいたわけです。それぞれが祀っている神様を全部天皇家に収めた。それで決して外国のように滅ぼさなかった。だから天皇家が続いているのです。
神道というのは珍しい。キリスト教だったらキリストだけでしょう。他の神様を祀らない。ところが神社は、神様が全部違う。それで統一されている。神道同志が争った当歴史はない。これが本当のやり方です。だから絶対もとの宗教を滅ぼしてはならない。滅ぼしたら自分も滅んでします。
これは生物が生きていく姿に似ています。植物も虫も細菌も全部生きている。祖先の遺伝子、つまり祖先が持っている伝統を、親から受け継いで子に伝える。伝統を伝えるということが大事です。伝えなくなったら死ぬんです。全てが協調の中に生かされているということを、昔の日本人は知っていた。』
『春日の神様が、最初に御蓋山の頂上にお降りになった。だから御蓋山そのものを拝んでいたわけです。それからお社を造って、お社を拝むようになった。今でも御蓋山は神聖な場所だから入れません。日本の古神道は、最初山を拝んでいた。だから原点は山なんです。
下からのエネルギーがせり上がったのが、山なんです。山には生命力を回復させる神の気が籠っているのです。動物は人間より脳が小さいから、みんな鼻が低くて口が出ている。顔が斜めになっている。人間は脳が進化して大きくなり、それに押され、行き場所がなくなった口腔の骨が飛び出したのが鼻です。
山も同じで、自然のエネルギーが湧き上がる場所だから神様を祀った。人間のシンボルが鼻で、神様のシンボルが山です。神秘的な場所だから、鎮守の森を大切に残した。日本に鎮守の森がなければ、日本の森は半分に減っています。』
『仏教には元々祖先を祀るという発想がない。祖先を祀るというのは、神道の発想なんです。それを仏教が取り入れたわけです。なぜ取り入れたかというと、当初は異国の宗教ですから、なかなか広まらないわけです。
お盆というのは、元々神道の行事です。以来、お寺に神社を造る。神社にお寺を造る。神仏習合で二人三脚で進んできましたが、明治維新の神仏分離でおかしくなりました。
仏教と神道の大きな違いは、神道には修行がないということです。神道は水に入って禊をしますが、座禅を組んだり自分の努力で無我になる修行はしません。神道というのは、神の恵みと祖先の恩で生かされているというのが根本なのです。祖先の祭りでも、仏教の方はお坊さんがお経をあげて供養する。神道は、神様にお願いして、祖先を幸せにしていただこうとする。
神道は水と深い関わりがあります。水によって身体を清めるという考えがあります。神社に参拝する時は、手水をして心身を浄めたり、神職は朝禊をして身を清めお祭りを奉仕します。西洋人のお風呂は、1人ずつ泡を立ててお風呂で垢を落としますが、日本人は体を洗う時は浴槽の外に出ます。入浴というのは、身体を清めるという考え方を持っているのです。
水というものは、常温で液体ですが、100℃まで熱すると気体になる。0℃以下に冷やすと個体になる。山に降った雨が川になって海に流れ、水蒸気になって雲からまた山に落ちてくるという循環をしています。普段は穏やかですけれど、一度怒ると海水は荒波になり全てのものを飲み込み、川は洪水になって全てのものを押し流す。そういうパワーも秘めています。どんな器にも入れても、素直にその形になり、どんな色にも染まる。そういう懐の深さを持っている。
日本の神道・日本人の生活は、これと全く同じです。外国からの文化を受け入れ、真似をする。日本人には節操が無い・個性がないと言うけれど、それらを消化し取り入れて、神道を進化させます。』
『水の力は、罪・穢れを去ることが出来ます。「つみ」は、「包む身」で、身を包んで神様のお姿を隠してしまうもの。「けがれ」は、神様から頂いたエネルギー「気」を枯らしてしまうということ。これらを身に着けていると、病気になったり不幸になったりします。神道の「祓い」は、そういう儀式です。
「祝詞」という言葉のお祓いもあります。日本に遺っている最古の祝詞は、延喜式祝詞で、千何百年の時空を越えて今に残っている。全国の神社で、祝詞を上げています。「かけまくも畏き・・・」と言って、「こういうことをお願いします」と思っている方もいますが、「のりと」は「宣る」で神様が言われるということです。神様の言葉を、神主が伝えるのが祝詞でした。漢字は当て字なので、感じの意味を考え、祝詞の意味を推察することは出来ません。』
『お祭りというのは、神様を喜ばせるというのが本意です。祝詞でいい言葉をあげ、神楽を舞い、歌を歌い、神様を喜ばせる。もちろん80歳のおばあさんが舞っても構いませんが、昔は処女の娘さんが舞った。そうすると神様も初々しくて可愛いなと喜んでくださる。それでお恵みをくださるということです。
日本の神様は、西洋の全てを超越した万能神ではない。人間と同じだから、喜びも悲しみもお怒りにもなる。食事も召し上がるから、神饌をお供えする。神様にお供えした神饌を祭りが終わってから下げて、みんなでいただくと神様のお恵みをいただけるという同食信仰がある。神様にお供えした神饌には、神の波動が移る。神様がお喜びになって召し上がったものだから、最高の波動が移る。それを我々が食べたら、最高の波動がそのまま入ってくる。
その名残りが、結婚式の三三九度の盃です。新郎と新婦が神様のお下がりの同じお酒を飲むことで1つになる。忘年会などの宴会も同じです。みんなで御膳を並べ、同じものを食べる。「同じ釜の飯」と言いますが、あれは神事です。
風呂も西洋人の風呂は、1人入ったら流してしまうが、日本人の風呂は同じのに入ると1つになるという根本的な思想があるからです。だから銭湯で、みんな一緒に入るのです。』
『キリスト教にはバイブルがあり、仏教には経典がある。でも神道にはない。ということは説教ではなく、事実なんです。事実を形に表しているのが、神道です。祭りを通して伝えている。お坊さんは説法をするけど、神主はしない。神職は喋らない。喋らないのが神職です。』
『滅びないために 努力というのを勘違いしている。35億年前の最初の単細胞から人間まで、地球上にはいろんな大自然の変化があった。それを耐え抜いた生物だけが、現在生き残っている。氷河期に、寒さなんかに負けるかと自力で頑張った生物は全部滅んでいる。これは考え違いの努力です。
努力というのはそうではなく、如何に自分の我をなくし自然の変化に順応するかということが、本当の努力です。順応した生物が進化します。寒さに順応する身体に変えた生物が進化していった。学生の頃、ネズミの寒さに対する進化の研究で、中央市場の冷凍室に行きました。牛肉などを冷凍する大きな冷凍室にネズミがいる。普通のネズミと耐えぬいたネズミとどう違うか調べるので、捕りに行きます。ここのネズミは、猫みたいに大きく、厳寒に耐えるから毛がフサフサでした。頑張って寒さに耐えたら死にます。
修行は神道にはない。修行は自分の力で無我になることです。神道はさせて頂く。自力ではなく、神の力ださせて頂く。順応するために、自分の身体を変えるわけです。』
『昔、日本の沿岸には魚を引き寄せる森がたくさんありました。木が茂っていると日光が遮られ、魚の絶好の隠れ場所となる日陰ができる。山に降った雨が森に蓄えられ、一定の水量・水温を保ちながら流れだす。その水に葉っぱの栄養分が溶けこんで河口へと流れ、植物プランクトンが増え、魚が好んで寄り集まってくる。人々は豊かな森を維持することで生活を豊かにし、その魚の臓物を森の肥料にしてきた。これが自然の循環システムを知っていた日本人だからこそ出来る共生の姿です。
河口のプランクトンというのは、地球上の炭酸ガスの1/3を光合成によって分解しています。だから山の木を切ると、炭酸ガスが増える。古来、日本人はそれをやってきた。山の木を切る・ダムを作る・沿岸をコンクリートで固めるでは、魚が寄り付かず、人間の首を絞めることになる。
火星でも土星でも、大気の殆どは炭酸ガスです。地球だけに酸素がある。地球も昔は炭酸ガスに覆われていた。水ができて、貝が誕生した。貝殻は炭酸石灰です。つまり貝殻を作るために、大気中にある炭酸ガスをどんどん吸収した。最初は貝のお陰です。そして炭酸ガスが少なくなったところで、葉緑素を持った藻が出来て、光合成によって酸素を作った。それで空気というものが出来た。
人間お利益になることばかり考えて、ここまで来てしまいました。理屈の西洋的思考を変え、本当の世界というか大宇宙の摂理を見なければなりません。今その時だと思います。』
この書を読んで、キリスト教などの一神教とは次元の違う神道の自然崇拝を学びました。神社は好きでよく寄りますが、また違った目で見れるように思います。日本神道は、やはり宗教というより、自然崇拝のナチュラルな思想だと思いました。それを遺伝子に組み込まれた日本人に生まれた幸運を幸せに思います。

2015/3 「天皇」矢作直樹 扶桑社 ★★
「人は死なない ではどうするのか?」の対談を読んで、僕に似た琴線を持っていると感じた著者に興味を持ち、手にしました。戦後生まれの僕ら世代には、「天皇」は太平洋戦争以前に教育を受けた両親世代と違い「国の象徴」としての意味しか持たないように思います。
でも僕は、少し違った親近感を感じてきました。それは美智子妃殿下の誕生に由来します。美智子妃殿下の実家・正田醤油に、母方の本家から嫁しており、美智子妃殿下のおばあさんだからです。それが家系のトピックで、僕の母方の爺さんは近衛騎馬軍団長として、皇居を守備し、日露戦争にも参戦していたからです。
そんなこんなを子供の頃から、母や母方の親戚から事あるごとに聞かされていたので、もう染み付いています。
僕自身、生徒・学生時代に3度兵庫県代表として国体に臨み、選手の激励に来られた皇太子・皇太子妃に2度お会いし、佐賀国体の時は遠い親戚である美智子妃殿下(現皇后)と短くですが会話をしました。その有名人故・地位故から来るもの以上に、他の人に感じたことのないピュアなものを感じました。
「皇室アルバム」という長寿番組がありますが、たまたま日曜日の朝TVを見ていてこのチャンネルに合うと、いつも最後まで見てしまいます。なんだか特別な存在です。歴史好き故、古事記・日本書紀も読みます。皇室の遠い祖先・イザナギ・イザナミの眠る地も訪問しました。そんな僕が、2011年3月11日の「東日本大震災」の慰霊に訪問なされた天皇皇后両陛下の衝撃的な姿をTVで見ました。被災者に寄り添い、温和な表情で話されている姿はよく見る光景ですが、海に向かって長々と頭を下げておられる姿に衝撃を受けました。
その姿がとても美しかったこともありますが、いつもすぐ近くに付き人さんも少し離れておられ、「あっ、このお二人は海を畏怖され、その怒りを鎮めようとなさっておられる」と感じたからです。震災後、「海が怖くて見れない」や「肉親を奪った海に怒りを表す人」「なぜ・・・」の姿や言葉・恨み節は、毎日のようにTVから流れてきましたが、まっすぐに海に向かい長々と頭を垂れる姿はありませんでした。マラソンやトラック競技フィニッシュ後、ヨット部員が練習後陸に上がって、「ありがとうございました」と頭を垂れるのに似ています。
天皇は現憲法で「国民の象徴」と規定されていますが、イギリス王室はじめ他国の王室と大きく違うところは、元王・Kingではないということです。聖徳太子の時代・天智天皇の時代・後白河や後醍醐の時代など、王政復古して政治の中心であろうとした時代がありますが、それも含め基本的にずっと象徴であり、日本人の拠り所としての存在でした。政治の実権は古くは公家・武家が担い、天皇はそれに許可を与え、権威を持たせる存在でした。故に、Kingたる幕府将軍は命を狙われるが、天皇はそうならない。Kingは高い山に住み、深く広い堀に囲まれた城にすみますが、内裏は平地にあり水堀さえない目隠し程度の低い塀しかありません。
天皇本来の延々と続けて来られた仕事は、「祈り」です。シャーマンとしての神主・巫女の総元締め的仕事が主です。お寺のお坊さんが朝夕のお勤めを見えない所でされているように、神主さんはさらに見えにくいように、天皇の仕事は庶民には見えません。その一端を、海に向かって2人揃って深々と綺麗に頭を下げている姿から見えたように感じました。また、太平洋戦争終結時の「玉音放送」以来初めての「玉音録画放送」が震災後流れました。
日本沈没の危機の時こそ、天皇の出番であり、その存在の大きさを感じます。太平洋戦争降伏時、玉音放送がなければ、降伏派と内地決戦派(陸軍)に国内は二分され、内戦状態になったかもしれません。あの玉音放送で、国内は統一され一枚岩でその後の難局を乗りきれたと思います。あの時代、割合スムーズに降伏・米軍駐留・・・と流れたのは、日頃政治に口を出さない天皇が異例中の異例として意思を示された「玉音」という言葉が全国民の胸に届いていたから、そのバックアップを受けて時の政治家が自信を持って連合国との交渉に迎えたのでしょう。
この衝撃から、更に天皇への感心が高まりました。首相の行動や言葉とは雲泥の差を感じます。そして天皇をずっと慕い戴いて来た日本という国の有り難さを感じます。この本を読んで、あらためて作者と考え方が似ているなと感じました。
よって、共感する部分が多く、僕の知らなかったことが書いてあり、チェックポイントが多くなりました。如何にコピーしておきたいと思います。
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まずは、震災時の玉音放送の全文・・・
「この度の東北地方太平洋沖地震は、マグュチュード9.0という例を見ない規模の巨大地震であり、被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の救は日を追って増加し、犠牲者が何人になるのかも分かりません。
1人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。また、現在、原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ、関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。
現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、多くの人々が、食糧、飲料水、燃料などの不足により、極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより、被災者の状況が少しでも好転し、人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません・。そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。
自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内のさまざまな救援組織に属する人々が、余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。
今回、世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き、その多くに各国国民の気持ちが被災者とともにあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。
海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が、取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。
被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」
 天皇皇后両陛下は一日かけて、このお言葉の文案を誰のアドバイスも受けず、ご自分たちでお考えになられたとのことです。両陛下は、しかるべきルートから情報を入手されたのではなく、ご自身たちの状況判断でご裁断なされたと、あとで伺い、これ以前でも以後でもないその絶妙のタイミングでのお言葉に私は言葉にできない驚きと感動にうたれました。
 米国国務省の外交官だったケビン・メアは自著『決断できない日本』で「災害に際して陛下がテレビに登場し、お言葉が伝えられるのは前例のないことでした。陛下のお言葉ほど、日本が直面している危機の深さをはっきりと知らせてくれるものはなかったのです」と述べています。さらに、「米政府の菅政権に対する不信感は強烈と言ってよいものでした。アメリカ政府は16日、藤崎一郎駐米大使を国務省に呼び、日本政府が総力を挙げて原発事故に対処するよう異例の注文をつけていました」と、この陛下の玉音放送を挺子として日本政府に働きかけたことを明かしています。
 私が、3月17日に再度、宮内庁関係者に連絡を入れたところ、天皇陛下は(国民を置き去りにしてまで)東京を動かれないということを承り、「これで日本は大丈夫だ」と想いました。本当に言葉にはできないほど有り難いことだと感じ入りました。
 同じようなことが、戦時中にもあったと聞きます。戦局がいよいよ深刻化してきた昭和19年7月、軍部が御座所と大本営を長野県松代に移転する意向を、小磯国昭首相を通じて昭和天皇に相談申し上げたところ、陛下は「自分が帝都を離れては、国民に不安感と敗北感をいだかせるおそれがある」と反対されたといいます。さらに昭和20年5月、梅津美治郎参謀総長が松代の「新大本営」工事完成報告とご移動の要請を致したところ、天皇陛下は「私は、国民と一緒にここで苦痛を分けあう」と言われたそうです。
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昭和天皇はマッカーサーとの約束でご自身はその会見内容について口外されることはありませんでした。一方のマッカーサーは、会見の後今後のことを考えて大いに心を痛めました。なぜなら、昭和天皇が「全てのことは私の名のもとになされたのだから、私が全責任を取る。だから、東郷や東條や重光らを罰さずに、私を罰せよ」とおっしゃったからです。このことは、当時、通訳を務めたフォービアン・パワーズ少佐(戦後の混乱期に歌舞伎の存続に大きな貢献をしたことでも知られる)が、後日明かしています。(出雲井晶「昭和天皇」)憲法上ご自身に帰さないはずの責任を、全ての日本国民に成り代わって一身に引き受けられようとした昭和天皇にマッカーサーは大きく心を揺さぶられたのです。
 また、日本側の通訳として天皇陛下のお供をした奥村勝蔵元外務次官は、のちに会見の模様を次のように語っています。
「陛下は(筆者注‥マッカーサーの)机の前まで進圭れ挨拶の後、次の二つのことを述べられて私がその通訳に当った。
 『今回の戦争の責任は全く自分にあるのであるから、自分に対してどのような処置をとられても異存はない。次に戦争の結果現在国民は飢餓に瀕している。このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出るおそれがあるから、米国に是非食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充てて頂ければ仕合せである。』と陛下が仰せられて、大きな風呂敷包を元帥の机の上に差し出された。
それまで姿勢を変えなかった元帥がやおら立上がって陛下の前に進み抱きつかんばかりにして御手を握り、『私は初めて神の如き帝王を見た。』と述べて陛下のお帰りの時は、元帥自ら出口までお見送りの礼をとったのである」(出雲井晶『昭和天皇』)
その後、天皇陛下はしばしばマッカーサーの元を訪れ、世界のさまざまなことについて話し合われました。そしてマッカーサーは「天皇は私が話し合った、どの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけられていた」と述べたのです。
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しかし、時を経るに従い、国民教育に最も大切な、歴史・文化の流れのなかに生きる個人の存在基盤としての国を認識するため、「歴史・伝統の尊重」「愛国心の育成」などが見直されてきているのは周知の事実です。個人的には、さらに日本古来の「敬神崇祖(神を敬い、先祖を崇める)」の生き方、先祖あっての自分であり、子孫のためを考えながら生きる、ということを思い出してほしいと願ってやみません。
昭和天皇は、昭和20年8月9日の御前公議で鈴木貫太郎首相に御恩召を伺われてお言葉を宣われました。
「私の任務は、先祖から受け継いだこの日本という国を子孫に伝えることである。今日となっては、1人でも多くの日本国民に生き残ってもらい、その人たちに将来再び立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。それにこのまま戦争をつづけることは、世界人類にとっても不幸なことである。
もちろん、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰など、それらの者はみな忠誠を尽くした人びとで、それを思うと、実にしのびがたいものがある。しかし、今日は、そのしのびがたきをしのばなければならないときだと考えている。わたしは、明治天皇の三国干渉のときのお心持ちも考え、わたしのことはどうなってもかまわない。たえがたいこと、しのびがたいことではあるが、この戦争をやめる決心をした。」
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GHQに廃止された教育勅語
 明治維新後、新設された文部省は、明治5年5月「学制」を施行しましたが、性急な西洋文明追随のなかで、その狙いは旧来の道徳教育を軽視した、「学問は身を立つるの材木」という西洋文明の模倣を主とした功利主義的なものでした。このような教育の在り方を深く憂慮された明治天皇は、儒教的考えをもとにして明治11年に教学刷新についての示唆を与えられ、明治15年には侍講の儒学者元甲氷学に、のちに「教育勅語」の原点になったといわれる子どもの教訓書「幼学綱要」の編纂を命じられました。欧化主義の世にあって道徳教育の方針確立が急がれたのです。
 明治23年6月、天皇の命により山鯨有朋内閣の芳川顕正文相のもと、法制局長官井上毅と元田永孚が中心となって「教育勅語」の草案を作りました。井上はフランス留学の経験もありリベラルな考えをも持っており、草案が立憲主義に則り、国民の思想や宗教の自由を侵さないように細心の注意を払いました。その結果、政治色・宗教色を排し、権力の押しつけでなく、ご自身がまさに徳を実践されている天皇自らが国民に語りかけるお言葉としての勅語のかたちをとるべきものと考えたそうです。その後、井上・元田の徹底した推敲後、山鯨・芳川の手を経て天皇の要望を承り、万全を期して閣議決定に至り、明治23年10月30日、「教育に関する勅語(教育勅語)」として発布されました。
 その後、文部省は50年余にわたってこの「教育勅語」をわが国の初等から高等教育に至るまで、宗派・学説を問わず万人が認める徳目とし、教育全般の心柱として教育を統制しました。そして学校での道徳教育は「教育勅語」に沿って行われました。このように宗教と切り離された道徳教育は、世界初のものだったようです。
日露戦争に勝利後、日英同盟を結んでいた同盟国英国が文部省に「教育勅語」の講演依頼をしてきました。元東京帝国大学総長で元文部大臣の菊池大麓男爵は、明治40年ロンドン大学で「教育勅語」の連続講演会を25回に渡って行い、翌年ロンドンで開かれた第1回世界道徳教育会議でも政府代表北条詩歌は、「日本の諸学校における徳育」について講演し、いずれも大反響を呼びました。そして、日本の教育勅語と修身教科書は世界中に広がり、今に至るまで文明国の道徳教育の模範になっています(小池松次『教育勅語と修身』)。このように「教育勅語」で謳われている徳目は先進国で共有されたのです。
 ちなみに欧米における道徳教育は、教会による倫理教育が担っていました。したがって、日本人の中にはいとも簡単に「自分は無神論者だ」と言ってしまう人がいますが、国際社会においては神を信じず道徳を一切無視する人でなしとみなされ、嫌われるので注意が必要です。
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正しい教育を行う
 今まで述べてきたGHQの苛烈な占領管理の施策の結果、戦後の教育は日本人として歴史・伝統を尊重し、健全な祖国愛、そして自分の責任で生きていく心を育てることをしてきませんでした。この大切な面の育成に力をいれていくことが喫緊の課題です。
 そのためにはまず、近代の歴史を理解し、天皇陛下により日本が守られてきたことを理解しないといけません。そのうえで、これからの日本を担っていく若い人たちにこれらの事実を教える。そして人間愛と祖国愛をもって生きていけるようにすべきです。さらに、これらの事実を教育の場で実践してこれから将来に向けて国民への浸透を図っていくことが大切です。
 まず教育現場ですぐできることとして、1歴史教育、2道徳教育、3偉人の物語を副読本にする、4文部省唱歌や童謡を歌うがあると思います。これらは皆、一緒に実施することで互いに補完し合います。

 まず、教育現場ですぐできることとして、@歴史教育、A道徳教育、B偉人の物語を副読本にする、C文部省唱歌や童謡を歌うがあると思います。これらは皆、いっしょに実施することで互いに補完し合います。
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 践祚直後から日本が不可避の運命として大戦争に向けて駆りたてられていくのを常に憂慮され懸念を表明されていらっしやった昭和天皇が、敗戦直後に父として子息の皇太子明仁親王にお出しになったお手紙を謹んで拝見させていただきます。
 「手紙をありがたう しっかりした精神をもって 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます
 国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかったけれど 先生とあまりにちがったことをいふことになるので ひかへて居ったことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ
 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである
 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
 明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があったが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知って 退くことを知らなかったからです
 戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなったので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである 穂積大夫は常識の高い人であるから わからない所あったら きいてくれ 寒くなるから 心体を大切に勉強なさい」

2015/2 「人は死なない では、どうするか?」矢作直樹・中健次郎著 マキノ出版 ★
「人は死なない」という目を引くタイトルと、「東大医学部教授と気功の泰斗の対談」という副題に惹かれ、読んでみました。
僕は、非科学的と思われますが、生まれ変わりを信じています。肉体は賞味期限切れで滅びますが、魂はまた別の新しい肉体を得て、再びこの世に生まれ、また最初から人生が始まると思っています。僕は生後4ヶ月で、腸重積症という腸の弱い男の子に多い致死率50%の病気に掛かりました。医学的見識のある母親は、緊急手術を勧める小児科のお医者さんと、僕を引っ張り合いし「人殺し」と罵られながら、僕を抱きかかえ、地域トップの尼崎労災病院にタクシーで飛び込みました。手術は成功しても、生後4ヶ月の体力は持たないと判断したからです。
腸重積症というのは、まだ十分腸が出来上がっていない生後数ヶ月の赤ん坊が発症する病気で、小腸が大腸の中に入ってしまう病気です。その朝、尋常ではない声で泣き叫ぶ僕に母は驚きました。おっぱいを飲ませても飲まず、しばらくすると何事もなかったように笑顔にさえなります。僕の泣き叫びは間欠的で数分泣いたら泣き止むの連続で、しばらく様子を見ていました。
その状態が続き、尋常ではないと思い小児科に連れて行ったら、泣き叫ぶ〜笑顔の連続なので、「しばらく様子を見る」ということになり帰宅しました。午後になってもそれが続き、泣く力が落ちてきたので限界だと思い、別の小児科を受診し、腸重積症と診断されました。24時間で死んでしまう病気なので、緊急手術を勧められました。
強引に僕を医者の手から取り戻した母は、地域最高の病院に駆け込みました。夕方で診療時間は終了していましたが、腸重積症という病名を出して強引に診てもらいました。幸いなことに小児科医長先生が帰宅直前で残っておられ、僕を診てくれました。非常に珍しい病気で、しかも間欠性(普通は入りっぱなしで腸が壊死していきますが、僕は元に戻ることがある)なので、治療に自信を持ったようで、他科のインターンの若手医師も呼び、僕が泣き出すと「今入った」と下腹部を触診し、インターンにも触らせます。泣き止むと「出たぞ」とまた触らせます。
母は自分の息子が実験動物のように扱われているのに気が気でなかったらしいですが、高圧浣腸が用意され、僕が泣き出し腸が入ると、高圧で浣腸し、僕の小腸を大腸から押し出します。幸いすぐに押し出され泣き止みます。それを数度繰り返したら、僕は泣かなくなりました。そのまま入院しましたが、結局それ以上入ることはなく、手術もせずに治ってしまいました。
これが僕の最大の危機でしたが、その後も40℃近くの熱をよく出す子でした。すぐにお腹を壊して下痢する子で、牛乳なんて一切ダメです。小学生なのに母方の祖父が亡くなった慢性腎炎を患い、蛋白尿と血尿でお小水が泡立つし茶色でした。ドクターストップで3年4年の2年間スポーツ禁止で手芸部に入っていました。僕の目標は、1学期に1日も休まず学校に行くことでした。中2で2ヶ月入院という腹膜炎併発の酷い虫垂炎を最後に、病気知らずになるまで、何度高熱で床に臥せっていたかわからないぐらいです。
高熱のベテランなので、体温計がなくても自分の体温がわかります。40℃を超えてくると、頭がぐるぐる回り出し、身体がフワフワします。そして寝ていないのに夢の世界の中にいるようになり、身体が浮いていきます。目を開けたままなのに、天井が近づき、天井に触れぶつかるぐらい上がります。でも手を伸ばしても、天井には触れません。振り返ると、部屋の片隅から寝ている僕を見下ろしています。凄く変なのですが、僕の全身が自分の目で見えるんです。そして毎回浮かんだまま、窓を通り抜けて外に出ます。そして泳ぐように羽ばたくように、身体が上昇し、道や電信柱や家が見下ろせるようになり、とても気持ちが良いです。
でも上昇が止まり、少しずつ下降し始めます。いくら羽ばたいても下がっていき、もうすぐ地面だと残念な気持ちになると意識が遠のきます。本当に寝てしまっていたのかもしれないけど、目が覚めるとまた床に臥せっている僕の体からの景色になります。びっしょり汗をかいており、気分が爽快になり熱が下がっています。これを何度体験したかわかりません。恐怖心もなく、また熱が上がってきたと感じると、また飛びたいと願うことさえありました。
中高生になり、いろんな知識を得てくると、臨死体験の本に手を伸ばすようになりました。臨死体験者がその不思議な体験を綴っている本です。「向こうの世界は、とても明るい世界だった」「誰かに名前を呼ばれ、歩みを止め振り返ると生き返った」・・・などが書かれていましたが、僕のそれとは少し違います。僕は危篤になったわけでもなく、別の部屋では家族が日常を送っている時にそうなるので、僕に異常があったわけでもありません。
僕は「幽体離脱」を体験していたようです。こんな僕には日常の体験から、肉体と魂は別物だというのは、確信を持って言えます。
この本の著者・矢作直樹さんは、ご自身の山での遭難体験や、東大医学部附属病院救急部・集中治療室長として体験する臨死の患者さんの不思議な行動などで、僕と同じく肉体と魂は別だと確信しました。瀕死の患者さんが突然覚醒し、自分が事故に遭った状況を、何事もなかったのごとく冷静に話しだしたり、別の方が憑依して別人格になったりを何度も見てきたそうです。
中さんは、鍼灸師・気功家として中国・インドで、聖者と言われる方と接し、弟子になり、様々な奇跡を見て来られた方です。西洋医学万能・西洋唯物論物理理論万能の方には、単に胡散臭い著書ですが、僕にはすんなり入ってきました。「人は死なない」の前作がとても評判を呼び、この対談書が発刊されたようなので、早速「人は死なない」を御用達書店に注文しました。

2015/2 「四畳半神話大系」森見登美彦 角川文庫 ★
森見氏をダイブレイクさせた「夜は短し歩けよ乙女」の前に書かれたおなじみ腐れ大学生の日常を描く小説です。舞台は、もちろん京都。「夜は短し・・・」と同じ京都市街地北東部が濃く描かれている。
京都は好きで、よく出かけるが、学生の町であり、最先端技術が集積した町でもあるけれども、古都京都が戦災に遭わず遺ったので、伝統ある寺社を含め、多くの文化財と怪しい文化が遺っている。なんとも言えない混沌とした雰囲気が京都の魅力だが、それをほんとにうまく使っている。そして、その表現方法が、一昔前の硬派で知的な言葉を繰り出しているので、読んでいて飽きが来ない。そして、「ああ、あれだな」とふと微笑んでしまう。実に痛快な小説です。
京都大学に入学した主人公が、時計台前で繰り広げられる新入部員獲得にしのぎをけずる4つのサークルの1つを選択する。その選択が、「こうして、こうなり、3回生になった今は・・・」が、1つの章になっている。第2章は、2つ目のサークルを選択していたら・・・、第3章は3つ目のサークルを選択していたら・・・、が第4章まで繰り返される。結果的にいずれも大差なく、各章で「あの時このサークルではなく別のを選んでいれば・・・」と悔いる主人公の思考をあざ笑うように、大差ない。
人は、「あの時・・・」と考えがちであるが、所詮同じ自分が主人公なので、結果あまり変わらない人生を歩むことになるのかも知れない。ならば、「あの時・・・」と悔いることなく、「いずれの選択をしてもどうせ今はこんなもんだ」と過去への思考を停止し、今をそしてこれからの選択に注力すべきだなと、腐れ大学生小説から学んでしまった。


「何があっても大丈夫」 櫻井よしこ ★
女性ニュースキャスター第一号の方ではないだろうか?好きでよく見ていました。はぎれよく、ご自身の意見も少し入れながらのニュース報道には、好感が持てました。今でこそ、ニュース番組アンカーウーマンが数人おられますが、最初はいろんなところで苦労なさったのだろうと思う。
この本は、櫻井さんの自叙伝です。ベトナムで生まれ、父親の海外での商売、敗戦によ全てを失っての引き上げ。父親は、仕事で東京に出て行き、やがてハワイでレストラン経営。ご自身のことも含めて、かなり波乱万丈の生活をしてこられたが、それが故に個としての強さを身につけられた。
キャスター当時、そして今に続く、櫻井さんの強さを育てた土壌がわかりました。回り道することこそ人生が面白く、得るものが多いということがわかります。苦しい生活をどう感じるかで人生が全く違うものになることを知りました。その時の支えは、お金でも地位でもなく、「何があっても大丈夫」という櫻井さんの母親のいつも発しつづけている言葉にあるのだなあと思いました。
本当に言葉というものは、強い力を持っています。

「人生は最高の宝物」 マーク・フィッシャー ★

「こころのチキンスープ」 ジャック・キャンフィールド ダイヤモンド社 ★★★
このシリーズで多数の本が出ています。このシリーズは、講演家の著者が、全米各地で出会った市井の人のこころ温まるノンフィクションを集めたものです。人は誰でも1つは、そのような体験を持っているものです。あなたにもそして私にも。だからいくらでも本のネタは尽きないと思いますが、1人の貴重な温かい出来事を披露することで、多くの方の心に火を灯し、そして次の体験が出てくるし、そのように人に接するようになります。
随分前に、小さな少年が始めた親切運動が大きなうねりになった映画がありましたが、あれに似ているとも言えます。はっきり言って泣きます。感じる場所は様々でしょうが、誰でも心打つ物語にこの本で出会うでしょう。決して電車で読まないで下さい。私は涙の処理で難儀してしまいました。静かな所で1人でじっくり、感動を噛みしめてください。

「それでもなお人を愛しなさい」 ケント・M・キース 早川書房 ★★★
逆説の十箇条で有名ですが、その内容については、私の好きな言葉のページに載せています。ドロシー・ロー・ノルトさんの言葉は、親が子育てをする指針になりますが、この十箇条は、人との関係の指針でしょうか。
著者は、夏休みのキャンプリーダーをします。その時作って話したことが、キャンプに参加した子達に感動を与えますが、キャンプの目的とは少し違ったようで、惜しまれながらキャンプを去ることになってしまいます。時は経ち、友人からいい言葉があるよ。君にはきっとうまく理解できるはずだと、紹介されたのが、なんとあの時の自分の言葉でした。劇的な過去との出会いを機に、本になったのがこの本です。
ドロシーさんの「子は親の鏡」と同じような運命をたどった、「人生の意味を見つけるための逆説の十箇条」。生き方、人との接し方の根源に迫る本です。

「天才たちの共通項」 小林正観 宝来社 ★★★
この本は、下のドロシーローノルトさんの言葉に出会ってから読んだ本です。この順番が逆になると、また違った印象になったと思いますが、こういう順番であったことは、私にとって幸運でした。
小林正観さんは、本職は旅行作家なのかもしれませんが、素敵な言葉、素敵な人当たりをなさる方です。生き方・人との接し方についての小規模の講演会をよくしておられ、この本の読後、200人ほどの講演会に参加したことがあります。どても感動する内容でした。
私は、長男に生まれ、親からの期待を一身に受けて育てられましたが、関東出身の親の言葉がきついからでしょうか、いつも反発ばかりしていました。「もっと早く一人前になるように」「もっと立派な独り立ちするひとになるように」と、きつい場面に放り込まれました。甘えん坊の私には荷が重く、できない私を叱る親が嫌で嫌で仕方ありませんでした。
保育園で、蛇事件がありました。西宮の保育園に4歳から電車とバスを乗り継いで1人で通いました。保育園の方針で、最終バス停で親子が離れなければなりません。園に向かって歩き出したら、大きな蛇が階段にいて、怖くて泣いてしまいました。母親は、「行きなさい、怖くないから・・・」と下から見ているばかりで、どうしても蛇を避けていけません。そんな時、その様子を階段の上から見ていた女の子が下りてきて、私の手を引っ張ってくれました。それでやっと園に行くことが出来ました。
その事はもう忘れているのかもしれませんが、今でも彼女とは保育園の同窓会で交流があります。私の初恋ですが、素敵な女性になられ、お金持ちの家に嫁ぎ、3人のお子さんを立派に育てられ、ご自身も代表取締役として会社を経営しています。次男と同じ中高の1年下にお子さんが通われ、不思議な縁を感じます。
大学生の時に家内と出会い、「大丈夫よ、何とかなるからさ」という大きな言葉と、いつもニコニコしているところに惹かれ、1ヵ月後には彼女の家にお邪魔しました。彼女の母親は、うちの母親同様学のある方でしたが、一度も親に叱られたことがないと家内が言うほど、怒らなくて温和な方でした。こんな家庭に育った家内なら間違いないと思い、すぐに一生一緒に暮らしていくことにしました。
うちの子達は、家内に叱られたことはないでしょう。私も経験から、叱っても反発されるだけで何も得るものがないと知っていましたので、ほとんど叱ったことがありません。こんな育て方でいいのかと迷いましたが、叱られる辛さを思うと、どうしても子供を叱れませんでした。
「本当にこれでいいのか?」の答え捜しでこの手の本は、どれだけ読んだか分かりません。とうとう、世界中の方に支持されているドロシーさんの言葉に出会い、そして小林正観さんに出会いました。この本は、私の中では、ドロシーさんの言葉の実践編ともいえる位置付けです。叱るのではなくて、子供を信じる温かい言葉で育てられた内外の偉人について書いてあります。いろんな文献を調べたのでしょうが、エジソンから手塚治虫までの、幼年期・少年期の親、特に母親との関係を詳しく書かれています。

「子供が育つ魔法の言葉」 ドロシー・ロー・ノルト PHP文庫 ★★★
あまりに有名なこの言葉「子は親の鏡」、というかこの詩は、2005年皇太子妃さんの病気回復の記者会見で、披露された。皇太子妃さんの、「公務出来ない病」は、外交官の父を持ち、自身も外務省勤務していた延長で、より大きな意義のある仕事が出来ると思っていたが、皇室の仕来たりにスポイルされた結果なってしまったと私は考えている。
皇太子さんが、記者会見で異例とも言える詩の朗読をなさった背景には、この詩にどれだけ皇太子妃が助けられ、勇気をもらったかを伝えたかったのでしょう。多くの制限のある中で、精一杯の反発に見え、皇太子妃を守ろうとしていると感じました。
このドロシーさんの言葉は、随分前に発表されたものですが、子育ての真実、子育ての指標が書かれており、私の子供と接する時のバイブルになっています。この言葉は、ドロシーさんの手から離れ、アメリカ初め、ヨーロッパ、そしてアジアにも広がり、本人の知らない間に一人歩きしました。一人歩きしている自分の言葉に出会って、著書としてきちんとしたものになりました。
皇太子さんや皇太子妃さんは、北欧の国の教科書に載っていたこの詩を、披露なさいました。たとえ1次限でもこの詩に出会う機会を小学生の時に持てる子達は幸せだなあと思いました。それだけ値打ちのあるものです。
その内容のエッセンス部分は、好きな言葉のページに載せています。

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