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2006/12 「海色の午後」 唯川恵 集英社文庫
直木賞作家唯川さんのデビュー作品です。コバルト・ノベルス大賞受賞作です。自分の生い立ちと、それでも慕ってくれる2人の男性の間で揺れる気持ちが書かれています。でも自分の生い立ちから、幸せに向かって抜けきれない女心。これから物語が始まるという感じでお終いになるショートストーリーですが、女性らしい読みやすい文章です。

2006/12 「玄鳥」 藤沢周平 文春文庫 ★
山田洋次監督の映画「武士の一分」を観て、また藤沢周平が読みたくなった。映画で藤沢さんの描く凛々しい人の世界に触れたこともあるが、原作をかなり変更してしまっている映画に、もっと淡々と書かれて、読者に行間を書いてもらうのは藤沢さんの世界だよなと思い、そこに戻りたかったかもしれない。短編集ですが、とてもいい作品がありました。それは「三月の鮠」。
信次郎は、今日も釣りに来ている。城下から二里半、遠くまで来たものだ。藩は足腰の鍛錬になるので釣りを奨励しているが、信次郎はそのために釣りをしているのではない。
釣りに飽き、帰ろうと竿を上げると1匹の鮠が釣れていた。それを逃がし、竿を仕舞う。日中の強い陽射しを受けながら帰り道を歩いていると、腹が減ってきた。いつもは、通り過ぎるだけの村で、昼飯の握りでも食おうと思った。村に入り、奥に進むところあいの社があった。そこで握り飯を口にしながら、いつから自分はこうなってしまったのかを考えた。
そう、あの日から。剣術藩内一を競う展覧試合で、前年の覇者勝之進に完膚なきまでに打ちのめされた。勝之進は随一の腕前を持ち、父親は藩政を仕切っている。しかし暗い噂が絶えず、家中に嫌うものが多い。信次郎の父は、組頭をしており、家老への出世の話も出る。しかしながら、いつも勝之進の父親岩上の反対で実現しない。信次郎は二十歳になったばかりだが、柘植道場の新進気鋭の剣士になっていた。このたびは、信次郎が勝之進を打ち負かすのではないかと、周囲の期待を集めていたが、一撃も加えられず惨めに敗退した。時を移さず、縁談の話も消えた。あの時から、俺の頭には霧がかかり、道場にも行かず、このような生活をするようになった。
「あの」。物思いにふけっていると、目の前に美しい巫女がいた。「もしよろしければ、向こうでお茶など差し上げたい」と別当が言っているのですが」。美しい巫女に気を取られて、すぐに返事は出来なかったが、お茶を頂くことにする。
それから、信次郎には張り合いが戻ってきた。行動は釣り、以前と同じだが、またあの巫女に会えるかもしれないという張り合いが、釣りも早々に社に足を向けさせる。あれから半年、短いが楽しい巫女との会話を何度も持った。この日、社に入ると巫女が庭を掃いていた。信次郎も同じことを始め、数度の会話を持った。「そなたの名はなんと言う?私はとうに名乗ったが、そなたの名はまだ聞いておらん」巫女はちょっと困ったように、ここで呼ばれている名を告げた。
そのとき別当から声をかけられた。別当から奥で、ある話をされた。数年前、岩上派の土屋家全員が惨殺された事件があった。土屋が商人からの賄賂を取っていたことが発覚して、目付けに取り調べられていた最中の事件だった。それを仕掛けたのが岩上で、襲撃のリーダーが勝之進だった。土屋の家は質素で、賄賂には負に落ちないところがあり、賄賂は岩上に流れていたのではないかと内定されていたところの事件だった。
ただそのとき1人生き残った娘がいた。それがあの巫女の葉津様です。ここ数日不穏な動きが近辺にあるので助けて欲しい。というないようだった。
早速、信次郎は家に戻り、葉津を家でかくまうことの赦しを父親から得る。翌朝、勇んで社へと急ぐ。岩上の暗い噂の真相を確かめるためという正義心もあるが、本心は葉津と同じ屋根の下で暮らせることへの期待だった。しかし村に入ると様相は一変していた。社が夜盗に襲撃され、別当と召使が斬り殺されていた。裏のばあさんは家に帰っており無事だったが、葉津は行方知れずになっていた。遅かったのである。もっと迅速に動くべきだった。ばあさんを尋ねたが、葉津の行方は知らないの一点張り。
葉津は、別当が山伏の修行をした深山に逃げ延びたのかもしれないが、見当もつかない。信次郎は、葉津からの知らせを待つことにするが、音沙汰ないまま日は過ぎる。
やがて再び、藩内一を競う剣術大会が迫ってきた。一時帰国している藩主の天覧試合でもある。信次郎は再び道場の代表に選ばれた。稽古をしていない割に、身体はすこぶる軽く動いた。どうやら毎日片道二里半を歩いたのが良かったようだ。再び勝之進との勝負になり、今度は勝利できた。
信次郎が鉢巻を緩め、汗をぬぐっていると、破れた岩上の陣営が騒々しい。この日の朝聞いていた、岩上が藩の禁輸品を商人に裏で流し、私腹を肥やしていた証拠が上がったという話が、向こうに今伝わったようだ。勝之進が白刃を抜き、大目付かその横の父目掛けて疾走し始めた。信次郎もとっさに刀を抜き走っていた。そして2人は一太刀交えた。そしてゆっくりと勝之進が沈んでいった。
翌朝、信次郎は深山に向かっていた。前日、疲労困憊で家に帰ると、社のばあさんが待っていた。葉津からの便りを持っていた。社が襲われる前日葉津は隠れるために深山に入っていた。ばあさんはそれを知っていたが、別当からきつく他言なきよう言いつけられていた。

『道はまた少しきついのぼりになり、粗い石段が現われた。噂ぎながらのぼると、不意に広い境内に出て、そこが宝書院だった。
信次郎が石畳の上に立ちどまって、松や樫の本に囲まれた、簡素な造りながら大きな寺院を眺めていると、横の住居の方から小桶を手にさげた若い巫女が出て釆た。葉津だった。
葉津は本堂の前を通り抜けようとして、信次郎に気づいた。白衣に排の袴がひときわ 清楚に見える。信次郎は、やあと言った。葉津ほ小桶を下に置くと、信次邸に向き直った。その肩にも降って来た落葉があたった。
身じろぎもせず、葉津は信次郎を見ている。その姿は紅葉する大木の中で、春先に見た鮠のように凛々しく見えたが、信次郎が近づくと、その目に盛り上がる涙が見えた』

この短編は、こう結ばれている。う〜ん、藤沢周平はかっこいい。この余韻がたまらない。

2006/12 「天国からはじまる物語」 ガブリエル・ゼヴィン 堀川志野舞訳 理論社
15才の時、交通事故で亡くなった少女リズが天国で暮らす物語です。天国では、毎年1才ずつ若返り、赤ちゃんになったとき、再び地上で生を受けることになっている。
天国には、地上や家族を見る双眼鏡があります。地上に思いが残っているリズは、最初そればかり見て、後ろ向きの生活をしていた。やがて、天国に先に来ていた彼女のお婆ちゃんや、一緒に天国行きの船に乗った友達などとの交流で、天国で職業についたりするようになる。地上では出来なかった恋なども経験し、若返りの中でも前向きに生活するようになっていく。

2006/12 「夏への扉」 ロバート・A・ハイライン ハヤカワ文庫
30年前の作品です。SFの古典です。
1970年の主人公ダンは、ロボット技術者です。彼は画期的な発明をするのではなくて、既存の技術をかき集めて、新しい自動機器を作り上げます。いつまでたっても自動化されず、毎日同じ仕事を繰り返している家庭の主婦の仕事を自動化するお手伝いロボットを組み立て、親友の弁護士フランクと会社を作る。
ダンは、親友と呼ぶべきネコのピートと一緒に暮らしており、フランクの亡くなった奥さんの連れ子リッキーと大の仲良しで、ピートもリッキーを好いていた。リッキーの夢はダンのお嫁さんになることだったが、リッキーはまだ10才でダンとは20才の年の開きがあった。
ダンが製造しフランクが経営する共同会社は軌道に乗り、女中ロボットは売れに売れ財をなした。好事魔多し、フランクとの路線の違いがあり、株主総会に計ることになった。と言っても株主はダンとフランクに超美人の事務員ベルだけだったので、いつもの会話のようなもの。しかもダン51%、フランク49%の持ち株なので、結果は決まっていたはずだった。でもダンがベルに婚約プレゼントした株の裏切りで、フランクが勝利し、ダンは会社を追い出されることになった。
しかもベルとフランクは既に結婚の約束をしていた。どうやら人のいいダンは2人にはめられたようだ。悲観したダンは、保険会社がやっていた冷凍睡眠契約で、今のまま30年間眠り、2000年に目覚めることにした。持ち株を全て銀行に信託し、リッキーが21才になったら彼女に譲渡する契約を交わし、長い冬眠に入る。
2000年に目覚めたダンは、自分の会社が存続し、競争相手の会社は、さらに優れた万能ロボットを作っていた。ダンが1970年に頭に描いていた自動製図ロボットも実用化されていた。
その特許を調べると、特許を持っているのはどうやらダン本人らしいが、自分はそのアイデアを頭に描いていただけで、特許を取った記憶がない。
ダンが作った会社の一技術者に職を得たダンは、未完成のタイムマシンがあり、軍により凍結されていることを知る。2つのロボット会社の優れた商品の根本特許を何故自分が持っているのか?1年後に冷凍睡眠から覚めたリッキーは、何故そうしたのか?見失ったリッキーの行方を探る手がかりを捜しに・・・いろんな疑問の答えを知りたくて、タイムマシンの実験台になって1970年に舞い戻る。
ここから、ダンのピートとリッキーを取り戻し、フランクとベルに対する逆転が始まる。

このSFが書かれたのは、1970年代、30年も昔の作品なのに、色あせず面白い。当時作者が想像したような2000年にはならなかったが、工場でロボットが作っている製品もたくさんある。
SF好きの多くの人が、「夏への扉」を勧める訳が読んでみて分かったような気がする。

2006/12 「真夜中の5分前 sideA・sideB」 本多孝好 新潮社
学生時代に付き合っていた彼女を交通事故で無くした主人公は、自分に悩んでいた。確かに愛していた彼女が亡くなったのに、悲しみという感情が湧いてこない自分の存在に戸惑っていた。やつれて体重は落ち、頬もそげたが、自分の気持ちに大きな喪失感がなかった。ただいなくなっただけ。
休みの日の日課にしているプールで、広告代理店の仕事で担当した口紅をつけている女性を見つけた。綺麗な女性ではあったけど、口紅を見ていた。それが唇に塗られるのを見ていた。もう少し早く目を背けるべきだったが、彼女と視線が合ってしまった。しかも、ほんの少し長く。そこですぐに視線を逸らすのはどうかな・・・声をかけた方がいいのかな・・・なんて考えていた、一瞬のためらいの間に、彼女から会釈があり、声がかかった。それが、かすみとの出会いだった。
かすみには、一卵性双生児の妹ゆかりさんがいた。髪型と口紅の色だけが2人を区別する唯一の手がかりのように、親が時々確認しなければならないほど似ていた。
sideA・sideBの2冊になる長編で、登場人物の心の動きがゆっくり描かれている。あまりにも似すぎている姉妹なるが故、周りに巻き起こるさざ波、そして姉妹自身にも、私は本当はどっち?という戸惑い・・・描き方のタッチがとてもいい。
また次の作品も読んでみようと思わせる作家です。

2006/12 「HOOT」 カール・ハイアセン 理論社 ★
帯に、「全米書店員が選んだ一番お気に入りの本」と書いてあります。ミステリー作家ハイアセンさんのヤングアダルト路線第一弾だそうです。出身地のマイアミヘラルド紙の記者として、ピューリッツァー賞候補に2度ノミネートされたという経歴だって。
グリーンフラッシュという、カリブの島で見られる自然現象から知った『フラッシュ』というヤングアダルト作品が、あまりに痛快だったので、この本を購入しました。『フラッシュ』は、不法賭博の船からの海洋汚染、といってもトイレの汚物をそのまま海に流す行為を、主人公と妹が解決していくという筋立てでした。この『HOOT』は、パンケーキの全米チェーンが進出を予定している敷地に、保護鳥類に指定されているアナホリフクロウが生息する事を知った主人公達中学生が、それを守ろうとする物語ですが、そのやり方が『フラッシュ』同様、ユーモアがあり痛快で、警官や現場監督の登場人物のキャラクターも面白く、笑いながら楽しく読めます。
変に真面目で眉間にしわを寄せた議論になりがちな環境問題を、こういう読ませる本で、子供達に伝えるというのが、アメリカの余裕だなあと唸ってしまう。
この作家のアダルト向け作品も今度読んでみようと思う。

一部抜粋しておきます。
『一時間ほどして、うとうとしかけたところ、部屋のドアをコンコンとたたく音がした。母親がおやすみなさいを言いに来たのだった。披女はロイの手から本を取りあげ、スタンドの明かりを消した。それからベッドに腰掛けて、気分はどうかとたずねた。
「ヘトヘト」ロイは言った。
彼女は毛布を優しく首まで引き上げた。本当は十分すぎるほど暖かかったが、ロイはされるがままになっていた。母親とはそういうものだ。そうせずにはいられないのだ。
「いい子ね。私達がどれほど愛しているか、よく分かってるわよね」
うっ、いよいよきたぞ。ロイはそう思った。
「でもね。今晩あなたが病院でしたことはいただけないわ。その子を救急治療室に入れるために、あなたの名前を使わせてあげるなんて・・・」
「あれは僕の考えなんだ。あの子が言い出したわけじゃないよ」
「親切心からしたのは分かってるの。でもやっぱる嘘は嘘。間違った情報を伝えることはね。これはとても大事なことよ」
「うん、分かってる」
「それにね、父さんもわたしも、あなたがトラブルに巻き込まれるのを見たくない。いくら友達のためでも」
ロイは片肘をついて体を起こした。「あの子はきっと、本当の名前を言うくらいだったら逃げてたよ。僕はそうさせたくなかった。あの子は病気だったんだ。お医者さんに診てもらわなきゃいけなかったんだ」
「それはよくわかるわ。信じてちょうだい」
「熱で気を失いそうだっていうのに、あの人たち、次から次へとくだらない質問をしてたんだ。ぼくのやったことは正しくないかもしれない。
でも、また同じ立場になったら、やっぱり同じことをする。絶対に・・・」
ロイはやんわりと非難されるだろうと覚悟していた。しかし、母親はただ微笑んだだけだった。両手で毛布のしわをのばしながら彼女はいった。
「なにが正しくて、なにがまちがっているのか境界があいまいな場面に立たされることは、これからもあると思うの。そのときには、心と頭が別々の判断を下すかもしれない。でも、いちばんだいじなのは、そのどちらにも耳を傾けて、自分にとってベストだと思う決断をすることよ」
たしかにあのとき自分がしたのは、そんな決断だったとロイは思った。』

親子で意見が違う場合でも、親の意見を子供に押し付けずに、判断基準とともに、自分で決めることの大切さを伝えている・・・アメリカの一般家庭の親子の関係は、現在でもそうなのだろうか?子供の頃見た、アメリカTVドラマの親子の姿が再現されているようで、自分もこうありたいなと思いました。

2006/12 「第三の時効」 横山秀夫 集英社文庫
F県警強行犯シリーズ第一弾だそうで、連載物に続編が執筆されているそうです。いずれ単行本化されるでしょう。
重大事犯を捜査するF県警捜査一課には、3つの班がある。事件が発生すると、順番に担当が班に割り当てられる。各班が検挙率を争って、全体的に優秀な捜査一課になっている。
それらの班のトップの班長は、ほぼ100%の検挙率もあり、捜査一課長も遠慮するほど大きな独立性と権限を保っている。課長や部長も元は班長出身だが、現場は強い。あくの強い3人の班長と個性的な班員の事件解決への道のり、マスコミ対策などで暗に班の捜査に協力する課長、決して協力せず、むしろいがみ合ってさえいる班長の、匂わすような他班への協力・・・もちろん事件に隠されたミステリーの紐解きも・・・横山さんの読ませる筆で、ぐいぐい引き込まれます。

2006/11 「34丁目の奇跡」 ヴァレンタイン・デイヴィス 片岡しのぶ訳 あすなろ書房 ★★★
素晴らしい同名の映画を観たことがあります。この映画に原作があるとは思っていませんでした。さらに驚いたことに、1947年というから、戦後すぐに製作された映画で、その脚本家が封切りと同時に小説化にしたそうです。私の観た映画は、そのリメイク版だったようです。この小説も、戦後すぐに書かれた作品を忠実に再現した英語版を翻訳したものだそうです。この本を見つけた時は、即決で購入しました。
ニューヨーク近郊の老人ホームに、サンタクロースにそっくりな老人が暮らしています。名前をクリス・クリングルと言い、本物のサンタさんと名前まで同じです。
ある日、担当のお医者さんから、もうここにはいられないことを聞かされる。ここのホームは、心身ともに健康な人が入所する施設で、痴呆のあるホームに移ることを奨められる。または精神病院に入院するかです。
クリスは、各種の検査でも心身健康と診断されているのだが、ただ一点、自分をサンタクロースだと信じている妄想癖のあることが、ネックになっている。
施設を出ることにしたクリスは、大通りのクリスマスパレードを見ていた。ニューヨークの2大百貨店の1つが毎年行うパレードです。サンタ役の人のムチの振り方がぎこちなく、クリスはその使い方を教える。でもそのサンタさんはうまく出来なかった。寒さもあるのだろうが、ポケットからアルコールのビンを出して、ちびちびやっているからのようだ。
それを見つけたパレード責任者のドリスは、その場でサンタさんをクビにしてしまう。しかし、サンタさんがいないクリスマスパレードなんて・・・と、横にいたクリスが目に入る。「サンタさんの仕事をしないか?」。雇用書類に書き込まれる名前を見て、?と思うが、パレードの出発時間は迫っている。クリスのサンタさんは、とてもよく似ていると評判で、そのまま百貨店のサンタ役に雇うことにした。
翌日からクリスは、サンタの衣装でサンタの椅子に腰掛け、百貨店で働き出す。子供達がクリスの前に並び、1人1人膝の上に乗せて話を聞き、話をする。クリスは、サンタの事、おもちゃの事をとてもよく知っていた。このメルシー百貨店で売っていなかったり、品切れだったりしたら、それを売ってる他店の場所や値段まで教える。それに気づいたドリスは、自分をサンタクロースだと言う妄想癖のこともあり、クリスを解雇する。でもお客さんの評判はすこぶるよく、社長は大喜び。慌てて呼び戻す。
ドリスは、一度結婚に失敗している。夢物語を信じることをやめ、目に見えるものしか信じず、仕事でのキャリアを積むことと、娘のスーザンの子育てが生き甲斐です。幼いスーザンにも、現実をきちんと教えるので、友達がみんな幼く感じて、1人で遊ぶことが多い子になっている。
ドリスには、弁護士のボーイフレンドのフレッドがいる。彼は、ドリスの現実主義を少しでも変えようとするが、うまく行かない。寝場所のないクリスは、ドリスの向かいに住んでいるフレッドの家に居候するようになり、スーザンに変化の兆しが見え始めた。
自店の私欲から離れた子供のためを思ったクリスのサンタの評判は、うなぎのぼりで、社長がクリスの接客方法を全店舗で推奨するように号令をかける。これにマスコミが飛びつき、2大百貨店同士のお客さんの紹介し合いがきっかけに、ニューヨーク中に広がっていく。
これはお店同士だけではなく、足を踏まれても、笑顔で返すなど、日常のこまごましたいさかいの元が、ことが解く笑顔で解決していく社会現象にまで発展していく。
でもクリスを良しとしない人もいた。メルシー百貨店の警備責任者は、いつかこの痴呆老人は、ひどいことをしでかすと考えていた。そこでクリスを騙して精神病院に入れてしまった。
フレッドがクリスを精神病院から救い出すために立ち上がる。多くの子供達・親達の声援、マスコミの感心を集めた法廷闘争が始まる。

『フレッドはすっと立ち上がる。
「信じる気持ちは常識を超えるはずだ。きみって、常識を捨てられない人なんだ」
「私だけでも常識を捨てなくて良かったわ。常識は役に立つのですから」
「ねえドリス。何を恐れている?何故クリスのような人を信じる気になれない?この世には、目に見えない善いものがいっぱいある。愛とか、喜びとか、幸せとか・・・そういうものをもっと信じようじゃないか」』

『さて、クリスマス当日。朝早く目覚めたスーザンは、こっそり居間に行ってみた。ツリーの下には、かわいいパッケージがいくつも置かれていたが、クリスに頼んでいたものは、なかった。
ドリスが起きてきたとき、スーザンは泣いていた。クリングルさんはやっばりサンタクロースじゃなかった。
ドリスは、娘を抱きしめてやったが、スーザンはその腕をふりほどいた。
「ママが言ってたとおりよ。あたし、よくわかった。サンタクロースなんて、いないんだ」
ドリスは、以前の自分のセリフを開かされた気がして、悲しくなった。
「ママが問違ってたわ。スーザン、クリングルさんを信じなくちゃ」
とはいえ、どうして信じられよう? 百貨店で働く貧しい老人が、クリスマスの願いをかなえてくれるサンタクロースだなんて・・・!
「信じる気持ちは常識を超えるのよ」
それはフレッドの言葉だった。言いつつ、ドリスは、今、その意味を噛みしめた。だが、スーザンにはそんな難しいことはわからない。
「心から信じなかったら、なにも実現しないわ」
ドリスは、つらい経験から、それを学んでいた。万事順調にいっているときに信じるのは簡単だ。けれど、なにがあろうとも信じてこそ、本当に<信じる>と言えるのだろう。
「スーザン、あなたがクリングルさんに書いたあのお手紙のおかげで、ママはとっても勇気が出たの。今度は、ママがあなたに勇気を分けてあげる番みたいね」
スーザンはしばらく考えていた。それから、はっきり言った。
「ママ、わたし信じるわ」』

久々に、★3つの最高得点作品でした。親子の間で現実に起こるニュースは醜い。このようなものを聞くたびに、人を恐れ、世間が信じられなくなっていく。電話を掛けても、変な電話に脅えて自分から名乗らない風潮、親切心での声かけに対して、疑心暗鬼の目で睨まれる。
でも、人が繁栄していくためには隣の人を信じなければ。家族が発展して子孫にそれが伝わっていくためには、いがみ合っても仕方ない。ドリスが最初信じなかったように、このような話は現実味のない夢物語なのかもしれないが、多くの人の心を綺麗にし、初めて会った人への笑顔を作る。
そういう象徴が、サンタクロースなのかもしれない。サンタは何世紀にも渡って、お父さん・お母さんの心から心に伝わっていってる。確かにサンタは現実に存在します。大人から子供まで知ってる、世界一の笑顔を運ぶ有名人です。
今年の小さな甥・姪やその子達へのクリスマス・プレゼントは、別の本を用意してしまったが、来年はこの本がいいかな?

2006/11 「種をまく人」 ポール・フライッシュマン 片岡しのぶ訳 あすなろ書房
アメリカの工業労働者達の住む町の一角に、ほぼゴミ捨て場と化した空き地がある。そこにある日、小さな東洋人の少女がやってきた。打ち捨てられた冷蔵庫の陰の土を掘って何かを埋めた。翌朝、学校に行く前またその少女がやって来て何かをして行った。
それを空き地の横に建つアパートに古くから住んでいる老婆が見ていた。老婆はずっとこの窓から外を眺めて、町の移り変わりを見てきた。移民がブルーカラーとして、このアパートに住み着き、お金をためてやがて出て行く。また次の移民がやってくる。やがて工場が廃れると、犯罪の匂いが強い町へと変わっていく。
「きっと何か、悪い匂いのするものを隠したのね」。警察に通報する前に、冷蔵庫の横に土を掘り返して見ることにした。でも何も出て来ない。ただライマメの種が3つ・・・はっ・・・「私って何てことをしてしまったの」とすぐに、小さな根が出たばかりのライマメを元通りに埋めなおした。
それから、朝少女を見るのが楽しみになった。そして双眼鏡を買った。少女は、雨の日を除いて、毎朝水をやりにやってきた。が、ある日、やっとつけた葉がしおれているのを老婆が見つけた。「今日はどうしちゃったのかしら。このままじゃ大変だわ」。自分の世話をしてくれる下の階に住む住民に電話を掛け、水をやるように言う。
段々人がゴミの空き地に集まってきて、花壇や畑が出来ていく。行政に働きかけて、大型のゴミがなくなる。誰かの畑の上に、どこかの不届き者が捨てていったタイヤなどがあると、みんなで片付けるコミュニティーが出来ていった。
畑の野菜の話題で、隣同士の話が始まり、収穫の交換というより、収穫物のおすそ分けが自然に始まる。体が不自由だったりで畑は耕せないが、そこに集まる人々を見たり、会話を聞いたりするのが、散歩の目的になった人もいる。秋になり、自然発生的にバーベキューが始まった。急いで家に帰り、楽器を持ってくる者もいる。
やがて寒い季節がやってきた。そこに集まる人の姿が段々減っていく。雪に覆われるようになり、誰も来なくなった。散歩に来て、ガッカリする毎日になった。
雪が解け、秋に降った落ち葉が再び姿を現す。そしてある朝、ライマメを持った少女がやってきた。それを見ながら何気なく横に建つアパートを見上げると、そこから少女を見ている人と目が合った。手を振ると、手を振り返してくれた。それも長く長く。

ただ、これだけの事が、淡々と書かれているだけなのですが、妙にページをめくろうとする私がいる。自分が生まれる前に亡くなってしまった元農夫の父親の何かを知るために、少女は学校で習ったライマメを育てはじめるが、何のしがらみも規制もないこういう小さなことから、ご近所の会話が始まり、愛着のある町が生まれていくのかもしれない。
夏の暑い日、開け放たれたアパートに窓からラジオの音楽などが流れている。カミナリがなり、落雷で停電になり、一気に音のない世界になった。でも空き地の畑では、何も変わらず人々が水をやり、会話をし、土を掘っている。
こういう場面が書かれており、生き物には、電気など必要ない・・・そして人も同じように電気ではなく、太陽や水、風や季節が育んでいるというのを暗示している。

2006/11 「ちょっとアホ理論」 出路雅明 現代書林
小説も好きですが、ビジネス書も読みます。でも1度もここでは紹介していませんでした。ここらでちょいと変身して、ビジネス書も載せてみようと思いました。気まぐれです。その輝かしき第一弾は、表紙を見てズッコケ、中身を読んで更にズッコケの書です。でも、世の中これで動いてるねとも思うんです。

京都発祥の古着屋さんチェーンの社長さんの本です。
西田文郎塾の塾生というか事務局長をされているようで、斉藤一人さんの考え方にも共通点があります。まあ、「世の中おもろないとあかんやろ」を会社の基本にしてる人です。ちょっとアホ大歓迎の社長がやってる会社ですが、
『何で蹴られたか分かるか?親や仲間や女性を大切にしないやつは、男として絶対に許せへんのや』
という熱い所が、元落ちこぼれ、元ちょい悪、元かっこつけ男・・・を引きつけて、劇的に変身させるのでしょう。
新庄君を見ていて思うのですが、影でしっかり練習して実力をつけていながら、表面では、ほんまアホやなあと人から思われるヤツには、かなわないです。

2006/11 「ALONE TOGETHER」 本多孝好 双葉社
主人公柳瀬は、半年せずに猛勉強で入学した医学部を退学した。「医者は聖職者」だと講義で言い、そのような行動を取っていた人格者の脳外科教授笠井に、「呪いが入り込む余地は脳にありますか?」という質問をしたが、「私にはわからない」と答えられ、この学部にいる意味を失ったからだ。
柳瀬には、父親がガンだった母親を殺し、自殺してしまったという過去を持つ。それが何だったのか?呪い・恨み・愛情?まだ未消化で残っている。退学後、学校に馴染めない子が通うフリースクールのアルバイトをしながら暮らしている。
たった数度しか授業に出ていない笠井教授から連絡があった。「ある少女を守って欲しい。彼女の母親を私が殺した」。植物人間になった母親を尊厳死させた容疑で起訴されるだろう教授からの頼みだった。
問題を抱えながらフリースクールに子供やその家族、それにこの少女との関わり、自分の両親の問題、それに恋人熊谷との関係も交えながら、家族を、親子を、掘り下げていく小説です。

『「本当に息子さんのためを思うのならば、息子さんはむしろ警察に捕まったほうがいいはずでしょう? なのにあなたは息子さんを庇った。
咄嵯に庇ってしまった。だから、あなたが怯えているのは、息子さんの人生が台無しになることじやない。息子さんが警察に捕まるという事実そのものです。
あなたが怯えているのは、息子さんが警察に捕まったあとの話です。いったい、自分にどんな非難が寄せられるのか。自分の家庭はどうなってしまうのか。それを想像するのが怖いだけです。そこに注いできた自分の時間は無駄だったのか。その先の自分の人生がどんなに惨めなものか。それを確認することに怯えているだけです」
「嘘です」彼女は叫んだ。「私は息子を愛しています」
「押しっけられた常識に振り回されることはありません。母親が子供を愛するものだ。そんなの嘘です。あなたとお子さんは別の人格を持った、別の生き物です。あなたが愛しているのは、あなた自身です。それ以外の何者でも無い。そしてあなたはそれを知っている。そういう自分の感情に気づいて混乱している。そのことを恥じている。けれどそれは恥ずべきことではありません。誰だってそうです。みんなが押しつけられた常識の中で、母性という錯覚を抱かせられている。大方の人はその錯覚の中に一生を暮らせるのでしょう。その錯覚に殉じられる人もいるのかもしれない。けれど、あなたは気づいてしまった。それだけのことです。ただ、それだけのことなんです」』

『「人事の刷新。それに名を借りた、責任の押し付け合い。誰が悪いわけでもない。けれど誰かを悪者にしなければならない。悪者にすべてをかぶらせて、ゼロから始めるしかない。
そのスケープゴートに選ばれたんだ。私に目をかけてくれていた上司がね。一蓮托生、だな。私も辞めざるを得なかった。そう悲壮な気分だったわけじゃない。再就職先などすぐに見つかると思っていた。それだけの自信があった。他の人ならともかく、私なら、と、そう思っていた」
「思い上がりだったよ。仕事は見つからなかった。無理に就こうと思えば、それはできた。が、私はそれでは納得できなかった。人並み以上にやってきた。これからだって人並み以上にやれる。それなもう少しましなものをと思って今の仕事を見送ってしまう。次に見つかる仕事はその仕事よりも見劣りがする。時間が経てば経つほどそのレベルはどんどん下がっていく。それにつれて妻の愛が離れていく。娘の尊敬が薄れていく。わかるんだ。それが。はっきりと。言葉じゃない。態度でもない。それ以上にはっきりとしたものが、肌に突き刺さるように。私は」
「考え過ぎではないですか?」
「違うね。困ったときには助け合う。それが家族だ。それはそうだ。だが父親は別だ。父親は常に家族を見守り、手を差し伸べる存在でなくてはならない。それができなくなった父親はただ蔑まれるだけだ。君も親父になってみればわかる。
今、就ける仕事など、たかが知れている。このマンションもじきに人手に渡る。ローンが払えなくてね。妻は出て行った。残った娘には何も与えられない。私は空っぽだ。君が誰であるのかは知らない。けれど、私といるよりはいいだろう。連れて行ってくれないか? あの子を」
「ずるいんですね。あなたは空っぽです。けれど、それは今に始まったことじゃない。会社を辞めたことで空っぽになったわけでもない。最初からあなたは空っぽだったんです。会社を辞めたことであなたはそれに気づかされた。それだけのことです。
与えられた仕事があり、妻がそこにいてくれて、あなたははじめて父親でいられた。それがなくなった今、あなたは父親ではいられない。だから怖いんですよ。会社に捨てられ、妻に捨てられ、そして今、娘にまで捨てられてしまうことが怖いだけですよ。ミカちゃんに捨てられたら、あなたは本当に何者でもなくなる。それが怖いんです。そうでしょう?
だから僕をそそのかしている。娘は自分を捨てたわけじゃない。自分がそう仕向けたんだ。そう思いたいだけです。
あなたはただの人形です。父親という役割を貼り付けられていただけの、ただの人形です。役割を取り上げられれば、あなたには何もできはしない。そしてそれはあなたの父親も同じだった」
「親父は・・・」違う、と続くはずの男の言葉を僕の声が遮った。
「同じなんですよ。あなたも、あなたの父親も、所詮、与えられた役割をこなしていただけに過ぎない。生きる時代が入れ替われば、あなたはあなたの父親のように上手く父親になれたでしょうし、あなたの父親はあなたと同じように途方に暮れたでしょう。あなたは運が悪かった。それだけですよ」
「同じ。それなら、私はどうすればいいんだ?」
「捨てられなさい。あなたにミカちゃんを捨てる権利はない。あなたには、ただミカちゃんに捨てられる義務があるだけです。そう。あなたの恐れる通り、近い将来、ミカちゃんはあなたを捨てるでしょう。仕方がないです。あなたは空っぽなんだから。ミカちゃんに何もしてあげられないんだから」』

本多さんの小説には、本多さんの考え方が登場人物の台詞として出てくる。良き母親であろうと、良き父親であろうと、見えない網に縛られる必要はない。別人格なのだから、もっと手を離した方がお互いにいい関係になる。人生、うまく行かない原因は運。
中学で、「人はみな神の子で、親は一時養育をしているだけ」という教えを聞き、とても楽になれた。子供とそういう関係でいようと、子供の前に線路を引かなかったら、今いい関係になっている。
時々話を聞いているある大成功者も同じようなことを言ってる。「私が成功したと言われているのは、運が良かったから。同じ能力の人でも、単純に業界が違うだけで、会社が違うだけで、全く違う人生になる。努力の差以上に運が人生を左右する。人にはいろんな役割がある。私はたまたま今の時代でお金持ちになる役割だっただけで、時代が違えば殺人者の役割だったかもしれない。ただそれだけのことです。今を一生懸命生きていれば、自分の役割をまっとう出来ます。成功者と言われることを望んで、そうなれなくても、魂は永遠なのだから、今の生で学んだことを無意識に持って次の生に生まれ変わる時、きっと役に立ち、今望んでいるような人になれるかもしれません」
共通点がありますね。そして、私もこういう考え方にそうだなと思っています。

2006/11 「日暮れ竹河岸」 藤沢周平 文春文庫
短編集より更に短い作者晩年の作品集。物語性のある作品は少なく、物語の始まる序章程度で終わる作品が多い。藤沢周平さんの作品を過去に数編読んで方は、そこからどんな物語が始まるのかを、想像していくのだろう。何処にでも、そしてどの時代にもいるような登場人物ですが、その描き方が、読者を読み継がせる。

2006/11 「天国の本屋 恋火」 松本淳・田中渉 小学館文庫 ★★
天国の本屋シリーズ第3弾です。人は100年で生まれ変わる。それに満たずに亡くなれば、残りを亡くなったままの姿で天国で暮らす。天国には、その他に現世の人も時々やってくる。その人が現世に戻り、死を必要以上に恐れないように。
この世で、ちょっと不遇な生活をしている主人公が、アロハシャツの爺さんに誘われて、天国にある本屋のバイトをする。天国で現世に気持ちを残したままの人に会い、2人とも救われる、という水戸黄門のようなワンパターン。ワンパターンなるが故に結果は想像できるのだけれど、温かい気持ちに溢れています。
このシリーズは、なんでこんなに心に響くのだろう?

商店街の活性化をひねる商店会の若手達。いろんなイベントをするが、なんか今一。そのリーダー香夏子は、子供の時ピアニストでもうこの世にはいない叔母に連れられて見た、商店会主催の花火大会を復活させようとする。この花火大会は、規模は小さいけど、最後の花火を共に見たカップルの恋は成就するという伝説のものだった。
乗り気でない若手を尻目に、昔その花火を見たお年寄り達が、あれが復活するならと、一気に賛同者・協力者が集まる。ただ一つ問題があった。花火を請け負っていた花火工房はOKだったが、伝説の花火を作った花火職人瀧本は、その花火で恋人を失ったショックで、花火職人を辞めていた。
香夏子は瀧本に会いに行くが、そのいきさつを教えられて断られる。恋人だったピアニストの聴力を、花火工房での小さな爆発で失った。聴力を失い音楽の道が閉ざされた恋人は、やがて亡くなった。彼女への償いのために自分も嘱望されていた花火職人を辞める。
でも香夏子は諦めない。

一方、オーケストラをリストラされてピアニストの職を失った健太は、すし屋で自棄酒を飲んでいた。そこにアロハシャツの爺さんが現れ、天国の本屋のバイトをしないかと誘われた。
『人には役割がある。一国を左右する役割を持った人間もいれば、一人の人生を変える役割を持った人間もいる。本来そこには優劣も上下もないのだが、あちらの人間はどうもそれを分かっている者は少ないな。君のリストラピアノだって、もしかしたら誰かの役に立っていたのかもしれない』

天国の本屋は、お客さんの要望に答えて読み聞かせするサービスがある。読み聞かせをする健太の前に、見覚えがあるようなないような、気になる若い女性が現れる。
健太は出張朗読に彼女の家に行く。ピアノがあった。「ピアノを弾くんですか?僕も弾くんです。プロなんです」健太が弾いた後、彼女が弾く。その音を聞いて、自分が恥ずかしくなった。
『「クビになったんです。僕、自分でも教本どおりの弾き方だったらうまいと思うんです。でも分かってるんです。僕のピアノなんか誰の心にも届かないし、僕自身さえ楽しくない。そんなヤツがピアノ弾いたってしょうがないですよ」
「それは、楽譜のために弾いてるからじゃないかしら。うまく言えないんだけど、私はいつも最初のタッチの前に思うの。この曲を誰に聴いてもらいたいかって。それはその場にいる人でもいない人でもいいの。必ず私は誰か一人を思って演奏してた」』

読み聞かせを何度かする間に、彼女の現世への心残りを知る。プロのピアニストで、毎年1曲自作の曲を書いていた。9曲目まで完成し、最後の10曲目が完成すると、組曲になるはずだった。
その1曲目の譜面を見た健太は驚いた。親に言われて嫌々続けていたピアノだったけど、あるコンサートで、あるピアニストの曲を聴いて、感動してしまった。親に嘘を言って会いにいった楽屋で、その若いピアニストは、健太だけのためにもう一度弾いてくれた。それがきっかけでピアノが好きになりピアニストになった。そのときの曲だった。
「僕はあなたを知っています」「あなたに、この組曲を完成させて欲しい」。でも彼女にはもう書けないらしい。「あなたに続きを書いて欲しい」。
彼女の断片的なメロディーのアイデアを聞いて、数日後やっと10曲目を書き上げた。そして彼女の家に行って、ピアノに向かって組曲を最初から弾き始める。後で見ているこの人の為に。

花火大会の当日は晴れ上がった。予想以上の人出で盛況のうちにクライマックスを迎えた。最後は、カップルを恋人にさせる伝説の最後の花火だろうか?違った。花火工房の親方が作った見事な花火だった。
観客は感動を胸に帰り始めた。瀧本は来なかった。香夏子は、ちょっと残念だったが、青年会のみんなに号令を掛けて「さあ、もう少し、綺麗に片付けましょう」。作業に入ろうとすると、何処からかピアノの音が・・・誰も気づいていないみたい?・・・でも聞こえる。耳に優しい素敵な音。かつて叔母に弾いてもらったピアノのあの音色。
誰が弾いているのだろう。誰かから送られてきて、花火大会のとき、河川敷に置くように指示されたグランドピアノには誰もいない。でも聞こえる。お客さんが引いて行くと、会場の河川敷の所々に、カップルがいる。何も会話をせずに、うっとり打ち終わった花火の夜空を見つめている。まるで星空から降って来る旋律を見てるように。あの人たちにもピアノの旋律が聞こえているのだろうか?
花火工房の親方の指差す方に瀧本がいた。手招きされて横に行くと、「君は、最後の花火を打ち上げるのにふさわしい」と点火の火を渡される。それを打ち上げ筒に入れ、耳を塞ぐと・・・派手ではないけど、淡い素敵な和花火が上がった。これが伝説の花火なのね。

健太は、自分が現世に戻っていく感覚の中、最後の10曲目を弾き始めた。香夏子の前から花火の白い煙が通り過ぎると、あのグランドピアノを弾く青年が目に入った。
竹内結子主演で映画化されました。

2006/11 「フラッシュ」 カール・ハイアセン 理論社 ★★
小学校高学年から中学生向けの本だと思います。児童作家が書いたのではなく、一流のミステリー作家?であり喜劇作家が書いたところが面白い。
テーマは、海洋汚染という硬いもので、それを解決すべく、喜劇な父親が奮闘する。それに主人公の少年とその妹が巻き込まれ・・・というか自ら作戦を立てて・・・という感じです。
どんな危機の時でもユーモアを忘れないアメリカ人という、子供の頃の海外ドラマで見ていたアメリカがある。悪党はいるのだけれど、会話が洒落ていてユーモアが利いているせいかどうも憎めない。
20ページぐらいずつで章が変わるので、読み聞かせをするのにもいいのではないでしょうか。

2006/11 「デセプション・ポイント」 ダン・ブラウン 角川文庫 ★
『ダヴィンチ・コード』『天使と悪魔』に続いて、ダンブラウンさんの作品を読みました。
両作品同様、いろんな場所での展開が短かめのセンテンスに区切られて語られ、段々それが結びついて終焉していくという展開です。この作品も、文庫本で上下巻という長い作品ですが、長さを感じさせない展開の面白さがあります。実際、上巻は1週間ほどかかりましたが、下巻はほぼ2日で読んでしまいました。
主人公レイチェルは、現大統領の有力対立候補の娘ですが、NRO(情報機関)に勤め、NROが極秘につかんだ情報をホワイトハウス職員に、簡潔に伝える週報の製作者をしています。
NASAが、北極圏の氷河の下から隕石を発見した。その隕石には宇宙生物の化石が残っていたという、世紀の大発見になった。アポロ計画以降、数々の失敗と大幅な予算オーバーで、存続の窮地に立たされていたNASAにとって、名誉挽回の大チャンス到来です。
レイチェルの父親の上院議員セクストンは、NASAを解体し民間に宇宙を開放し、そのお金を教育費などにまわそうという考え方で、NASAを擁護する現大統領に対して、優位に大統領選を戦っていました。
NASAのこの世紀の大発見は、両陣営にとって不沈を握る大きな影響があります。大統領は、科学的に非の打ち所がないように武装するため、NASA以外の民間の科学者4名と政府職員の信頼が厚いレイチェルを北極の現場に派遣しました。そこで民間5名も、脅威の大発見に驚き、独自の検証でも間違いないという結果を発表しました。ところが、その後、1つの不可解な現象を目にしたレイチェル達は、軍の特殊部隊と思われる兵士から命を狙われる羽目に陥る。
さて、真実は何なのか?明かされるのか?真相の黒幕は誰なのか?
というノンストップ・タイムリミットアクションが展開される。それと共に、『ダヴィンチ・コード』などでお得意の展開が、知的興味をそそられる。登場機関や知的裏付けは、みんな本物で真実なので、空想小説とは違う地に足がついた作品なのがいい。
ホワイトハウス、大統領選挙、NASA(アメリカ航空宇宙局)、NRO(情報機関)、軍事兵器・・・現実の資料を土台にした作品なので、いろんな面から楽しめる作品になっています。
レイチェルがメインだが、父セクストンの個人秘書ガブリエールの2人の女性のダブル主役で物語が展開していく。科学者で海洋ノンフィクション番組制作者でもあるトーランドは、ホワイトハウスにスカウトされ、国民への広報役になるが、レイチェルを助ける知性と勇気のあるヒーローとして描かれ、『ダヴィンチコード』と『天使と悪魔』のラングドンを髣髴させる。

2006/11 「ナゲキバト」 ラリー・バークダル 片岡しのぶ訳 あすなろ書房 ★
9才の少年ハニバルは、両親を交通事故で無くし、祖父ポップに引き取られ、2人で暮らすようになった。祖父の話、自分への接し方、行動からいろんな事を学んでいく。そして最後に祖父の過去の秘密を知り、祖父の宝物の意味を知る。祖父の生き方の根源は、人の素敵な生き方に繋がっている。
ハニバルから見た物語になっているが、多くの学びをもらったような気がする。平易な文章で誰にでも読めるが、漢字にフリガナがふっていないので、親が子供への読み聞かせに最適な一冊ではないかと思った。
祖父と一緒にかつて両親と住んでいた我が家に保険証書を探しに行ったときのことを引用しておきます。

『大人達もやはり善意から、「苦しまないで死んでよかった」「いつかまた、きっと会えるよ」などと言ってくれたが、それもなぐさめにはならなかった。父と母にまた会える。そう信じたかったし、信じようとしてみたが、この世で会えるわけではないのはわかっていた。それに、「死んでよかった」とだれが思えるものか。だまって肩を抱いてくれる人、しつかり抱きしめてくれる人のほうがずっとありがたかったのを、今でも覚えている。
母の宝物は階下にあり、祖父は、証書はここかもしれないよ、と言った。母は几帳面な人で、どんなものもきちんと箱におさめ、その箱に品名を書いたラベルを貼っていた。祖父と私は箱のなかみを調べていった。そのうち、私は、すばらしいものを見つけた。あったことさえ忘れかけていた、あるものを。それは幼稚園のころに描いた絵で、「作品」と記した箱の底の紙ばさみに入っていた。紙ばさみには、「ハニパル。幼稚園」と記されていた。実際、幼稚園児の描いたものだとひと目でわかる、へたな絵ばかりだったから、九つになっていた私は、恥ずかしさで顔が赤くなるような気がした。なんだ、こんなもの、今だったらもっとうまく描けるぞ・・・。
だが、どの絵にも右上の隅に銀紙の星が貼られ、その下に「じょうずにかけました」と書き込まれていた。銀色の星を貼ったのも、褒め言葉を書いたのも、母だ。母は、私の絵を見ると、かならず、「ハニパルはお絵描きがうまいわ。天才よ」と言ってくれた。そんなふうに言ってもらえるかぎり、幼稚園でどんな評価を受けようと気にならなかった。もちろん私は天才などではなかったが、母は心からそう思ってくれていたのだ。
今、あのころよりいくらか賢くなった私はこんなふうに考える。母は、私の描いた幼い絵に、息子が将来どのような人間になるのかを見たのだ、と。息子の中に眠っている可能性が母には見えたのだろう。
幼い子どもには自分の可能性など見えるはずはない。そこで、母は、ただ息子をほめ、息子の行くべき道を明るく照らしてくれたのだ。それはまた、息子が自分を振り返るときの力ともなった。母は、いわば目に見えない糸で私を導いてくれていたのだ。
紙ばさみの絵をどんどんめくっていくと、見おぼえのある絵が出てきた。それはこの家の絵で、初めて描いた水彩画だった。絵の具が乾いてごわごわになったその絵をじっと見ていると、そのときの得意な気持ちがよみがえった。家に持って帰り、「ほら、母さんにあげるよ」と言って渡すと、母は目をまるくして、なにも言えずにただ見ていた。それから、私を抱きしめ、「すばらしいわ!ハニパル、よく描けたわね、母さん、うれしい!」と言い、それから一時間くらいも、おなじ言葉を繰り返していたような気がする。
その絵にもいつものように銀紙の星が貼られ、「とてもうまくかけました」と書きこまれた。母は、夕食のデザートにチョコチップクッキー(パンケーキくらいある大きなやつ)も焼いてくれた。父は、冷蔵庫のドアに貼っておこう、よく見えるところにな、と言い、その絵は一カ月くらいそこに貼られていた。それ以来、冷蔵庫のドアは私の絵を貼っておく特別の場所になった。
その日見つけた家の絵は、星がはがれてなくなっていた。残された星の跡を見ていると、さまざまなことが思い出された。私がなにかをして、それがどんなにへただったとしても、母はかならず、すてきよ、と言った。ほんとうにそう思ってくれていたのだ。そんな母をがっかりさせることなど、できるわけがなかった。
もちろん、私はへまもやった。人間のするおろかなまちがいのうちでも最大級のまちがいをやらかしたこともある。それでも、母は、ハニパルはいい子だと思っていた。そう思われているかぎり、たとえ転んでも立ち上がる力が出た。よし、がんばろう、と思えた。
いい子だと思われているのは、なんとすばらしいことだろう。ときには、心ない人の言葉にしょげてしまうこともあったが、そんなときも家に帰れば話を聞いてくれる母がいた。それに、なんといおうが私にはあの「星」があった。だからこそ、どんなときでもまた元気を取りもどすことができたのだ。
絵を紙ばさみにもどし、箱にしまい、その箱をもとの場所に置いた。』

甥や姪の小さな子に贈るクリスマスプレゼントになりそうです。

2006/11 「心にナイフをしのばせて」 奥野修司 文芸春秋
『手紙』に続いて、この本を読みました。何やら物騒な表題です。『手紙』は、犯罪加害者の家族のフィクションですが、『心にナイフ』は犯罪被害者の家族を中心に、加害者の側も取材したノンフィクションです。対になっているような本ですが、断られても被害者側への加害者側からの謝罪のあるなしが、その後に大きな影響を及ぼすなと感じました。
私も、仕事で万引きや暴力の被害に遭いましたが、事件後に本人やその家族から謝罪があると、心がスッキリします。自分でも変なのですが、暴行に遇った時でも加害者を庇いました。全く知らない人が、いきなり店に入ってきて、店の棚を壊し、傘の先を私に向けて突いてくる被害にあった後でも、刑事さんに「大分お酒が入ってはったし・・・」。「怪我をしたことをここに書けば、相手を人身でもっと重い罪に出来ますよ」と事情聴取で言われても、「まあかすり傷だし・・・」と、相手を庇ってしまいます。
暴行の方は謝罪があったけど、万引きの方は、謝罪があったりなかったり。警察官から、「二度と顔を見せない方がいいと言ってありますので、もう来ないと思います」なんて事後報告を聞く場合もあります。「そうですか、ご苦労様です」と言いながら、何か釈然としないものが残ります。人に迷惑をかけても、警察につかまったら、迷惑をかけた方に謝罪がなくてもいいのか?と思うわけです。謝罪がないとそれがまだ終わっていないようで、なんか気になってしまいます。気になると言うことは、それに捕らわれて、次に進めていないということです。
2冊の本で感じたのは、刑事事件としては、刑に服役したらおしまいということなんでしょうが、人道的にはそれでは済んでいないでしょう、ということです。『手紙』では、加害者の家族というだけで何故世間から冷たい目で見られ、差別をされるのかを恨む弟が、10年以上経って被害者の家族と対面して、もっと苦しんでいる被害者の肉親を知り、お互いにわだかまりを持ったままのこれまでだったと言うことを知る。たとえ家族であっても、加害者本人同様、償いを背負わなければならないことを自覚する。そうすることで、それを見ている世間での次の犯罪を防ぐことになる。
この2冊を読んで、何かなあ・・・と思っていた私の気持ちを、はっきり言葉や文字に表現できるようになった気がします。

2006/11 「手紙」 東野圭吾 文春文庫 ★★
ロングセラーで映画化されたので読んでみることにしました。ミステリー作家だと思っていた東野さんですが、趣は大分違うようです。父を失い母を失い、学校をやめて働き出した兄。食べるために精一杯なのに、学力のある弟直貴を大学にやるために、その学資を得ようとさらに無理を重ね、母と同じように肉体に不都合が起こってくる。でも・・・もっと短絡にお金を得るために、引越しの仕事で知った資産家の家に強盗に入ることを計画し実行する。そして強盗殺人という罪で刑に服することになる。
それによって直貴の生活は一変し、大学を諦めるざる終えなくなる。ほとんどの人は、兄の罪を知ると直貴と距離を置くようになるが、ほんの一部の人はそれでも親しく付き合ってくれる。それに力を得て通信制の大学、そして全日制へと努力する。そして学士を得て会社に就職する。それでも、周りのほとんどは兄の事を知ると距離を置く。職を失い、恋人を失う。「俺の罪じゃないのに」。服役以来毎月届く兄からの手紙には、塀の外には出られないが、塀の外での直貴の辛い脅えた生活とは裏腹に、のんきなことが書いてある。
バイト時代からずっと慕ってくれる由実子と一緒になり娘も生まれる。でも再び周りに兄の事が知られるようになり、娘まで友達を失うことになる。妻と子供を守るために、ついに兄へ絶縁の手紙を書く。大学時代からの友人寺尾、そして就職した会社の社長平野の言葉から、まだそれでも甘えていることを知る。兄から頼まれていた被害者宅へのお詫びの訪問をすることで、知らなかったものが見えてくる。これで直貴も、やっと理不尽な世間を恨む心から開放され、世間の仕打ちは続くだろうが、それをきちんと消化しながら、本当の明日に向かって歩む気持ちがやってくる。

以下は引用です。
『「まさにそれだよ。人にはつながりがある。愛だったり、友情だったりするわけだ。それを無断で断ち切ることなど誰にもしてはならない。だから殺人は絶対にしてはならないのだ。そういう意味では自殺もまた悪なんだ。
自殺とは、自分を殺すことなんだ。たとえ自分がそれでいいと思っても、周りの者もそれを望んでいるとはかぎらない。君のお兄さんはいわば自殺をしたようなものだよ。社会的な死を選んだわけだ。しかしそれによって残された君がどんなに苦しむかを考えなかった。衝動的では済まされない。君が今受けている苦難もひっくるめて、君のお兄さんが犯した罪の刑なんだ」
「差別されて腹を立てるなら兄を憎め、そうおっしゃりたいのですね」
「君が兄さんのことを憎むかどうかは自由だよ。ただ我々のことを憎むのは筋違いだといっているだけだ。もう少し踏み込んだ言い方をすれば、我々は君のことを差別しなきゃならないんだ。自分が罪を犯せば家族をも苦しめることになる。すべての犯罪者にそう思い知らせるためにもね」』

『「君が今までどれほど苦労してきたか、今もまたどんなに悩んでいるか、そうして君が人間的にいかに素晴らしいものを持っているかを、この手紙の主は切々と語っているんだよ。そのうえで、どうか君を助けてやってほしいと頼んでいる。上手い文章ではないが、私は胸を打たれたよ」
「あいつが・・・」直貴は両手を握りしめていた。
「さっき私は第一歩を刻む場所がここだといった。しかし訂正したほうがいいかもしれないな。なぜなら君はすでに一本日の糸は手にしているからだ。少なくともこの手紙の主とは心が繋がっている。あとはそれを二本三本と増やしていけばいいだけのことだ」』

『そうかもしれないな、と思った。自分の現在の苦境は、剛志が犯した罪に対する刑の一部なのだ。犯罪者は自分の家族の社会性をも殺す覚悟を持たねばならない。そのことを示すためにも差別は必要なのだ。未だかつて直貴は、そんな考えに触れたことさえなかった。自分が白い目で見られるのは、周りの人間が未熟なせいだと決めてかかっていた。これは理不尽なことなのだと運命を呪い続けていた。それは甘えだったのかもしれない。差別はなくならない。問題はそこからなのだ。そこからの努力を自分はしてきただろうかと考え、直貴は心の中で首を振った。いつも自分は諦めてきた。諦め、悲劇の主人公を気取っていただけだ。』

『「結婚する時に約束したことを忘れたの?どんなことがあっても、これからはもう逃げないで生きていこうって決めたやないの。近所の人間からシカトされるぐらいのことが何やの。大したことやないわ。少なくとも、直貴君がこれまでに被ってきたことに比べたら何でもない。大丈夫、あたしは耐えられる。耐えてみせる」
「でも、実紀もいるし・・・」
直貴がいうと、さすがに由実子も一旦は目を伏せた。しかしすぐに顔を上げた。
「実紀のことはあたしが守る。あの子には絶対に嫌な思いはさせへん。それともう一つ、あの子にはコンプレックスを持たせたくない。親が逃げ回ってたら、子供まで卑屈になってしまう。そう思わへん」
由実子の真筆な日を直貴ほ見つめていた。彼は微笑んだ。
「そうだな。恥ずかしいところは見せられないな」
「がんばろうよ、お父さん」由実子が彼の背中を軽く叩いた。』

作家というのは、総合力でとても賢い人種だと思っているが、この本を読んで更にそう思った。理科や社会のような調べる力と地道な努力、算数の証明のような分析力と構成力、そしてそれを国語の力を総動員して人に伝わるように表現する。その中に自らの道徳感や物事への考え方を登場人物の口を使って組み入れる。どれが欠けても人にうまく伝わらない。
バイオレンスが好きではないので、私自身、この本の始まりの数ページは辛い気持ちで読み始めましたが、すぐに深く重いテーマにもかかわらず、平易に読み進めます。そして引き込まれていきます。

2006/11 「サンタクロースって、いるんでしょうか?」 中村妙子訳 偕成社
あまりにも有名なニューヨーク・サン新聞の社説に載った少女バージニアの質問に対する答え。
多分世界中の子供たちが突き当たる、かつて子供だった大人たちが突き当たった疑問、それに見事に答えています。
人は、目に見えるものだけに動かされているのだろうか?否。むしろ目に見えないもの、愛・友情・親しみ・想い・親切・優しさ・・・にこそ、人を動かす大きな力が宿っているように思う。

2006/11 「スイートリトルライズ」 江国香織 玄冬舎文庫
結婚して数年、周りには同じ年齢でまだたくさん独身者がいる。どこか自分に似てるところがあり、どこか欠けている部分を自分が補える、そして補われる、そんな関係の聡と瑠璃子夫婦。まだ子供はおらず、このままずっと2人で暮らして生きたいと思っている。それぞれに仕事を持ち充実しているが、夜2人きりになると、瑠璃子は映画を見て、聡は部屋にカギをかけてコンピューターゲームをしている。
お互いに大きな不満はない。相手を束縛するでもなく、かといって毎年年末には温泉旅行もする。でも、なんか物足りない。互いに顔を合わせない昼の時間の事を、毎晩報告する。お互いに隠し事はいけないことのように思っている。
そんな日常の瑠璃子の前に、瑠璃子の作るぬいぐるみのベアのファンだと言う彼女にせがまれて青年が現れた。聡に女性から電話がかかってきた。久しぶりに聞く大学スキー部の後輩の女の子の声。「先輩、久しぶりにOB会に来られませんか?」後で数人の笑い声が聞こえる。「私たちが今度の幹事なんです」。彼女が聡に好意を寄せていたのは感じていたけど・・・。
瑠璃子は彼と会うとき、もっと奔放に振舞える。聡も彼女と会うとき、にぎやかになれる。まるで学生時代に戻ったように。そして自由だと思った。聡と瑠璃子には、お互いに隠し事があるようになった。
夜、聡と瑠璃子の家に戻ると、今までと変わらない日々がある。でも、お互いに言えない秘密を持つようになって、お互いをもっと大切に思うようになった。傷つけることをしながら、傷つけないようにと思うようになった。ここを壊したくなくて、ここを守るために小さな嘘が少しづつ大きくなる。瑠璃子が彼に言った言葉が、心に残ります。
『なぜあなたに嘘をつけないか知ってる?人は守りたいものに嘘をつくの。あるいは守ろうとするものに』
そうかもしれないなと思う。

2006/10 「処女航海」 原健 幻冬社
元サッカーユース日本代表で、日本のアメリカズカップ初挑戦クルーとしてヨットの世界に入った原さんの処女作です。雑誌舵はコラムを持っていたように思ったが、ここまで文章が上手だとは思わなかった。プロの手直しが入ったであろうが、私の経験ではほとんど手直しの入らない舵のコラムも読みやすかったし、日頃から本を読む人なんだなあと想像する。
この本は、ウィットブレッド世界一周レース後に、東京のバーでバーテンをしながら1年かけて書いたそうです。原さんに大きな影響を与えた7人の人を、1コラムずつ書いている。
はじめは客として通っていたそのバーの主人。原さんと一緒にアメリカズカップを戦い、その後原さんと乗っていたレース艇で、四国沖で帰らぬ人になった南波誠。南波さんとは私自身も470全日本などでレースをしたことがあり、髭と笑顔が印象に残っている。サッカー時代の日本ユース監督。大学サッカー部の同期。アメリカズカップ日本艇のスキッパーであったクリス・ディクソン。映画キッチンのサントラなどを担当したジャズピアニスト。そしてこのバーの常連であり、マスターも原さんもファンであった開高健。
それぞれの人との出会いや思い出が、言葉巧みにつづられている。本職の作家ではなくヨット乗りなのに、中々惹きつけられる。もう廃盤になっているキッチンのサントラを探し出して衝動買いしてしまったぐらいだ。二宮隆雄に続く、ヨットレーサーの作家になるかもしれない。文章力はあると思うので、想像力と企画力があればいい小説が書けるかもしれない。体験のベースが異色なので、異次元の作品を生み出すかもしれない。左右に大きく触れる面白い人生を歩んでいるようなので、リリーフランキーの『東京タワー』ように、自分の人生をベースにした小説もいいかもしれない。

2006/10 「静かな木」 藤沢周平 新潮文庫
久しぶりに藤沢作品を読みました。相変わらずの藤沢ワールドですが、この短編集が藤沢さんの遺作になったようで、残念な作家を亡くしました。
時代作家自体が少なく、しかもストーリーがどちらかと言うとゆっくり進み、当時の市井の人や支配者階級であった武士が主人公でも、禄の少ない方が多く、とても親しみがもてます。そして、何と言っても武士階級に流れていた凛とした生き方が、社会規範の中心にあった美しい時代に惹かれる。
この短編集には、姿かたち、そして生き方の美しい女性が登場しないのが、ちょっと残念ですが、まあ次の作品の楽しみにしておこう。まだまだ未読の藤沢周平があるのは、何とも嬉しいことです。

2006/10 「天使の卵」 村山由佳 集英社文庫 ★
直木賞作家村山さんのデビュー作で、どこかの新人賞を取った作品だそうです。
主人公歩太は、絵画を習いたくて美大を受けたが全て落ちてしまった。今浪人中である。たまたま電車に乗り合わせた美しい女性に恋をする。精神をわずらって長期入院している父親をいつものように見舞った彼は、庭に出ている父親に寄り添う女性を目にして立ち止まってしまった。父の横にいたのは、あの美しい女性精神科医の春妃だった。「あら、あなた」満員電車で手に怪我をしていた彼女を、腕と身体で守っていたことに対するお礼だった。それから病院で春妃で話すようになり、彼女が歩太の高校時代からのガールフレンドの夏姫の姉だとわかる。彼女は一度結婚し姓が変わっていた。しかも駆け落ちだったので、妹を除いて実家との縁は切れている。
先に大学生になって、大学のサークルに入り、大学生活を謳歌してしていた夏姫には、自分の気持ちを伝え、別れの言葉を告げる。でも相手が誰なのかだけは、彼女の気持ちを気遣って言えなかった。2人の間には、ほぼ母子家庭の歩太の家庭環境と夏姫のそれとの大きな違い、それに大学生と浪人生という違いもある。でも、夏姫は歩太を諦めきれない。そんな魅力を歩太は持っていた。
夏姫は、春妃の部屋を時々訪れて、姉に相談する。春妃は妹と会うと、「こんなこと続けていたら・・・」と落ち込むが、歩太に惹かれる自分もいる。そしてある日、歩太と春妃がいる部屋を夏姫が訪れる。そして・・・

よくあるメロドラマの設定のようだが、ドロドロした印象をあまり受けない。最後急展開をするが、その後の夏姫がとてもいい。自分が生で知っている歩太や姉を信じて、表面に現れることではなく、自分の目からみた2人を信じている感じがする。続編が出たようで、19才だった2人の10年後が書かれているらしい。続きを読みたくなる作品です。

2006/10 「サウスバウンド」 奥田英朗 角川書店 ★★
精神科医伊良部先生の軽妙で痛快な読み応えのイメージがある奥田さんの作品です。「私の父は元過激派だ」とこの本を紹介されていたので、思想論とか重いのかなあと思って、評判がいいけど、読もうという気には中々なりませんでした。最近文庫本ばかり読んでいたので、もう少し新しい本でも読もうかと手にしました。
両親が元過激派という小学生の少年からの視線で家族や友達が語られています。波乱万丈ですが、ユーモアがちりばめられており、楽しく読めます。

『二郎、前にも言ったが、お父さんを見習うな。お父さんはちょっと極端だからな。けれど卑怯な大人にだけはなるな。立場で生きるような大人にはなるな。これは違うと思ったらとことん戦え。負けてもいいから戦え。人と違ってもいい。孤独を恐れるな。理解者は必ずいる』
『佐々木かおり様。拝啓、元気ですか・・・この島に来て僕はいろんなことを経験しました・・・でも一番大きな経験は、島の人たちと仲良くなれたことです。島の人たちはみんないい人で、困っているとすぐに助けてくれます。困っていなくても世話をやこうとします。ただで食べ物を分けてくれるなんて、東京では考えられないことですが、こっちでは普通です。自分だけ得しようとする人がいないので、みんな親切なんだと思います。・・・人間は欲張りじゃなければ、法律も武器もいらないと思います。これはただの理想かもしれませんが、島の人たちを見ていると、そんな気がします。もし地球上にこの島しかなかったら、戦争は一度も起きていないと思います。』
『父はまた畑を耕しているのだろうか。海で魚を獲っているのだろうか。大きな身体を持つ人間には、そういう生活が似合っている。人類は、お金を持つ時代より、持たなかった時代の方がはるかに長かった。・・・好きにしていいさ・・・。二郎は海に向かってつぶやいた。一緒に暮らすだけが家族じゃない』

印象に残った数箇所を書き出しましたが、都会での生活で忘れがちになっている集団生活をする人の素晴らしい一面を思い起こされます。前半が東京での生活で、後半が西表島での生活。沖縄の島に住みたくなりました。

2006/10 「FINE DAYS」 本多孝好 祥伝社文庫 ★★
4つの短編が収録されています。本多さんの作品を読むのは初めてですが、底辺に流れているメッセージというか考え方に、何か波長が合う感じがします。市川拓司さんの世界に似ている感じがしますが、本多さんは、チラッチラッと自分の考えや生き方のメッセージを登場人物の口を通して表に出している感じがします。役者が、どんな役をしようとも変わらない本人の味が出てしまうように、作家はどんな作品を書こうと、変わらないものが透けて見えます。作家は、いろんな体験や想像を頭の中で組み立てて、言葉で表現する作業ですから、どうしても自分の心がより乗ってしまうのでしょう。

『イエスタデイズ』・・・三男である主人公は、小さな頃からそりが合わない父の元から出て一人暮らしをしている。そこに父から連絡が入る。「おまえに頼みたいことがある」。病院の父はガンで冒され、長く持ってあと3ヶ月らしい。「母さんと知り合う前に付き合っていた女性を捜して欲しい。俺の女神。母さんと結婚した後に知ったのだが、どうやら私との間に子供が出来ていたらしい。その女性とその子が経済的に困っているなら役に立ちたい。幸せならそっとしておいて欲しい」。
父からの最初で最後になるであろう頼みに答えるべく、かつて父とその女性が暮らしていたというアパートを訪ねると、そこには若き日の父とその女性が暮らしていた。そこには、当時絵を画いていた父から手がかりとして預かったスケッチブックがあった。そして、切り詰めた生活をしていたが幸せな2人が、突然の祖父の死で若き父が実家のレストランを引き継ぐという、2人にとって大切な時期だった。
『僕ほ卓株台を叩いて、そう言いたかった。君たちはわかってない、全然、わかってない。今、その道に逸れてしまったら、決して もう元の道には戻れないんだ。君たちが今立っている場所は、それくらい致命的な場所なんだ。それくらいのことか、どうしてわからないんだ?言えるわけがなかった。握った拳を僕は膝の上から動かせなかった。「俺はもう行かなきゃ」彼は言って、立ち上がった。「顔を見に寄っただけなんだ。これから、ちょっと人と会わなきゃいけなくて」「誰?」と彼女が聞いた。「新しく入ってもらおうと思っているコックさん。引き抜きの条件交渉。腕はいいんだけど、結構、がめつい人でさ」「そう。大変ね」「たく、うんざりするよ。腕のいいコックなしでもやっていける手を何か考えるよ」。
彼が行ってしまった今、僕も部屋を出ていくべきなのだろうが、僕はそうしなかった。・・・「うまくいかないと思う」「え?」僕は聞き返した。「私も、うまくいかないと思う」僕に目を向け、彼女はゆっくりと繰り返した。「彼にレストランなんて無理。ううん、もちろん、うまくいくんだったら、それが一番いいんだけど、でも、やっぱり無理だと思う」「それなら、どうして彼を止めないんだ?君の言うことなら、彼だって聞くかもしれないのに」
「彼を好きだから」
彼女はすらりとそう言ってから、自分の言葉に照れたように笑った。「私が好きな彼は、お父様のやり残したことを放り出して、逃げ出してしまえるような人じゃない。だから、止めない」「それか、どんな残酷な結果になっても?」「ええ」彼女はふわりと笑った。「それがどんな結果になったとしても」僕の言った意味は彼女にはもちろん通じていないだろう。けれど、僕はその笑顔に納得した。たぶん、彼は彼女からこの笑顔を奪いたくなくて、この部屋を出ていったのだろう。借金を返すために必死に働き、必死に店を大きくし、ふと見てみれば彼の手は、彼女を抱くには、汚れ過ぎてしまった。
「俺の、そう、女神です。」』

それがどんな結果になっても、それを止めない。こういうのは理屈ではないと思う。経済的な方策やら、係数なり、成功するための理屈はいくらでもあるが、でもそういう無機質なものが、人を成功に導くとは私には思えない。人を動かしているのは、お金でも義務でも理屈でもない。だって人は機械じゃないもの。人は感情で動く、心が身体を動かす。だから好きなものや守りたいものに対しては、数字では計れない力が出て、感情のない心で動いた行動は、数字は絵に画いた餅になる。
「彼が好きだから」の一言に凝縮されている愛情に、グッと来てしまいました。たとえ破れても、私も背負ってあげるというメッセージと、好きな人の感情の行動に反対してもマイナスにしかならないという優しい気持ちを感じる。
親子や夫婦、家族というものは、そういうところで結びついているように思う。「これをしたい」と言うのを、過去の自分の経験からうまく行かないと反対するより、好きにさせて、失敗した後「大丈夫」と言うのが家族のような気がする。一番身近な家族に反対者を抱えるより、いずれ分かる時が来る反対せずに信じてくれた家族の大きな心こそ、世の中で最も大きな財産のような気がする。

『眠りのための温かい場所』・・・『負の感情を向けられれば、誰だって相応の負の感情で対抗しょうとする。怒りには怒りを。悪意には悪意を。それができないとどうなるのだろうか。合理化できる大人ならいい。けれど、合理化できない子供は。抑え込まれた負の感情は、その子供の中で溜まっていってしまうのではないだろうか。天井から漏れた雨を受けるバケツのように。』

とあった。本多さんが、どのような子供時代を送ってきたか知る由もないが、私が感じている親子の断絶や自傷行為、少年犯罪の多くの原因とピタリ一致している。慶応卒で中学受験をしたようなので、私と同じような経験をしたのかもしれない。私はそのときの経験で、息子達の中学受験の時、最も気をつけたのが、この『負の感情』。子供達が日々の試験でうまく行かなかった時、親の負の感情ほど子供を傷つけるものはない。最悪、最も大切な親との心の結びつきまで奪ってしまう。そしてそれは生涯続いてしまう。

2006/10 「夏休み」 中村航 河出文庫
マモルは在宅の仕事をしている。彼と結婚したユキは勤め人。そしてユキのママが主婦という家族形態。そこに、ほぼ同じ時期に結婚したユキの友人舞子さんと、旦那さんの吉田君がやってくる。4人でやる格闘TVゲームに興じた後、外の河原に出て初対面の吉田君と2人で話をする。手をつないでキャッキャとはしゃいでいるユキと舞子さんを見ながら、2人の間には「結婚は同時にしよう」なんて密約があったのではないかと想像する。そこで、吉田君と「離婚する時は一緒に」という密約を交わす。
暑い夏がやってきて、舞子さんから「吉田君が家出した」と連絡を受ける。「10日間ほど家出します。必ず帰ってきますので捜さないで下さい」という書置きをテーブルに残し、着替えと趣味であるカメラ分解の道具を持って。
3人でいろいろ捜したが見つからない。そこで、3人同時に夏休みを取って、吉田君を捜しに温泉地を巡ることになる。マモルは仕事の関係で2日ほど遅れての夏休みになるので、後で合流することになっていたが、その2日の間に吉田君が帰って来る。今度は慌てて吉田君がマモルに連絡してくる。「テーブルに書置きがあった」。
翌日、吉田君と2人で落ち合う草津温泉の宿に向かうが、そこに電報が届いていた。「明日の朝、そちらに行きます」。男2人で、格別の温泉宿の1泊を経験し翌朝、再び電報が届く。「先に吉田家に帰っています」。
吉田家に戻ると置手紙が・・・「マモル家にいます。吉田君の突然の行動には腹が立ちます。でも舞子さんは、吉田君を愛しています。この際、格闘技ゲームの一発勝負で決着をつけましょう。吉田君が勝てば、今回の件はなかったことにします。理由も何も訊きません。負ければ今後絶縁します。ただ舞子さんは弱いので、不肖ユキが吉田君の相手をします。絶対負けません」
2日後の勝負に運命が委ねられた・・・

軽妙な文体だけど、世代の違いを感じました。著者はファミコン世代で、小さな頃からゲームを家庭のTVにコネクトしてバーチャルな遊びをしてきた。私には、バーチャルだとわかっていても、格闘技や戦闘のゲームをしたり見たりすることに抵抗がある。
まして、それで大きな人生の節目の決定をするなんて・・・人生なんて所詮ゲームなのかもしれないが、どうもリアルな世界で決めたい。それに、誰かに電報や書置きで、まるでゲームのように、ここまで何度もあしらわれたくないという気もする。女性にこれをされたら、男のプライドが著しく傷つくと思う。2度されたら、わびを入れてくるまで決して話をしないだろう。心や気持ちの問題を、正面からではなくゲームなどの別のものに委ねて、置き換えて、解決しようとすることが出来ない自分に気づいた。裏工作なしに結果を恐れず正面から行くのは、大人気なかったり、熱過ぎると今の時代には映るのかもしれないが、私にはできそうもない。この小説では、結構深刻な問題も、軽くゲーム感覚でいなす登場人物達の姿が描かれているが、どうもそれだけの懐の深さが私にはないようです。「くそ真面目」な自分を再認識しました。

2006/10 「天国の本屋 うつしいろのゆめ」 松久淳+田中渉 新潮文庫
「天国の本屋」シリーズ第2段。今度は一度も成功したことがない結婚詐欺師のイズミが主人公。今度の獲物とハワイに向け出国する直前の空港ボーディングで、派手なアロハシャツと単パンのあの爺さんに、「この人結婚詐欺師ですよ」と言われてします。もう少しで再び失敗して、腹いせにどなっているイズミを、ハイジャック犯が人質にしようとして、そのナイフがイズミのお腹に・・・。「大丈夫ですか?」「救急車呼んで」と大騒ぎをしているのを、離れた場所から第三者的に見ているイズミ。そこに、あのアロハシャツの爺さんが、「得意の詐欺の技術を生かして、ある爺さんの家政婦になって、その家と土地を売るように説得してほしい。誰かを待っているようで、どうしても売らないと頑固らしい」という仕事の提案をしてくる。その爺さんは、実に嫌味で、今までの家政婦は数日しかもたない。でもイズミにとっては、何故か赦せる。そして何か懐かしささえ感じる。爺さんへの本の朗読などそこでの生活で、小さな頃家を出た父親への複雑な思いが昇華され、理解できなかった複雑な状況も知る。
幸せな気持ちになり、高額報酬がどうでもよくなり、アロハシャツの爺さんに、「家を売らせない方がいい」と逆提案する。そこでイズミ自身も感じている今の状況を、アロハシャツの爺さんから聞く。爺さんの家政婦としての最後の日、爺さんの口から思いがけないことを聞く。爺さんが待っていたのは、イズミだった。イズミへ胸のうちにしまっていた言葉を出し、それによってイズミの心も溶けていく。

2006/10 「キッチン」 吉本ばなな 角川文庫
「吉本ばなな」とは、何ともへんてこな名前です。大阪に小さい頃から暮らす私には、吉本とはお笑いの吉本興業のことで、ばななとはあのバナナ。どう考えてもおふざけとしか思えない。名前がそうなら、作品もそのはず・・・。リリー・フランキーさんの作品を読んで、名前と作品は違うことを知り、一度読んでみようと手にとった作品が、代表作の「キッチン」です。
読み始めてすぐに、言葉を、文字を操るのが上手な作家だなあと感じました。物事にはいろんな表現方法がありますが、それが多彩で、こういう表現もあるかと、唸る箇所がいくつもあります。
例えば、『・・・それでも黄昏の西日に包まれて、この人は細い手で草木に水をやっている。透明な水の流れに、虹の輪ができそうな輝く甘い光の中で・・・』、という表現は、綺麗な絵画のような光景が頭に浮かぶ。
高校時代だったか大学時代、初めてユーミンを聞いて、すがすがしい光景が容易に浮かぶ歌にこの人は違う、そしてすごいと思った時と同じような感じがしました。
『人は状況や外からの力に屈するんじゃない、内から負けがこんでくるんだわ。と心の底から私は思った。この無力感、今、まさに目の前で終わらせたくない何かが終わろうとしているのに、少しもあせったり悲しくなったりできない。どんよりと暗いだけだ。どうか、もっと明るい光や花のあるところでゆっくりと考えさせてほしいと思う。でも、その時はきっともう遅い』、などの表現には、ご自身の繊細な感受性が見える。

この物語は、両親が亡くなり、祖父母に育てられた主人公みかげの視線で描かれている。彼女が大学生のとき、肉親と呼べる最後の祖母まで亡くなってしまい天涯孤独の身になる。そのお葬式からその後のいろいろの時、祖母が通っていた花屋さんのアルバイトの雄一が手伝いに来てくれた。彼は彼女以上に悲しそうだった。
さて、1人には広すぎる家から引っ越そうと思うけど、中々動けない。そんな時、雄一から「うちに来ないか?」という誘いを受ける。祖母がお店のお客さんだっただけで赤の他人の彼が何故・・・あまりに軽く誘われたのでお邪魔すると、元お父さんだったお母さんにも温かく迎えられ、そしてとてもキッチンが気に入る。しばらく居候することになり、人生が再び動き出す。大学を辞め、料理コンサルタントの助手に就職し、やがてアパートを借りて引っ越す。それから半年・・・雄一から「お母さんが亡くなった」と連絡を受ける。葬儀などは既に終わり・・・「連絡しなくちゃと思いながら連絡できなくて・・・」とのこと。すぐに彼の家に行き、彼の話を聞き、得意の料理で心を癒す。雄一も天涯孤独になってしまった。
みかげは雄一と付き合ってるわけではないけれど、どうも気になる。亡くなってしまったお母さんやその店の方達からも、自然に振舞われ、孤独になってしまった自分の心は、とても癒された。今度は雄一が・・・。雄一は旅に出るらしい。良くしてもらった元お母さんのお店の方から連絡を受け、泊まる旅館の事も教えてもらった。みかげと雄一の表面に出ない気持ちを感じているらしい。「今から行きなさい・・・」とアドバイスを受けるが、みかげは料理の取材で先生と旅に出なければならない。
その日の料理は、みかげの不得手のものばかりで、どうもお腹がすく。このままでは眠れそうもないな。「先生、今からちょっと外に食べに行っていいですか」。
入ったお店は、とてもおいしいカツ丼のお店だった。旅に出てからずっと雄一のことが気になっていた。このまま遠くに、手の届かない所に行ってしまいそうな予感がする。もう東京には戻らないのではないだろうか?お店から雄一の泊まっている旅館に電話をかけると、懐かしい声が聞こえてきた。「すごくお腹が減った・・・」「私も・・・」。私だけでこんな美味しいカツ丼を食べてるとは言えなかった。受話器を置き、「おじさん、もう1つカツ丼お願いします。テイクアウトできます?」。

本当は、とても大変な辛い出来事だろうに、淡々と綴られる流れの中で、言葉には出さない人の優しさを感じる。この文章のサラサラ感は、女性の読者を惹き付けるだろう。吉本さんの人気の秘密に触れた感じがしました。

2006/10 「しゃばけ」 畠中恵 新潮文庫
畠中さんの作品は、初めて読みます。この作品はシリーズ化されている1作目です。
江戸の大店の1人息子の一太郎は、とにかく体が弱い。両親は、一太郎に大甘で、菓子もお金も自由で、朝起きる時間も規則なし。おまけに一太郎の事を第一に優先する手代を2人もつけている。典型的な放蕩息子になってもよさそうなのに、身体が弱いこともあって、なんとなく真面目に育っている。
17歳ですでに薬種問屋を任されている一太郎は、才覚はあるらしい。寝込みがちで、年数回は生きるか死ぬかを彷徨うが、1つ大きな才能がある。幽霊とか妖怪とかが見えるし、話も交わせる。
江戸に、特殊な薬を求めて薬種問屋が襲われる連続事件が勃発する。それを一太郎や実は妖怪でもある手代達が解決して行く物語です。
主人公一太郎が、スーパーヒーローではなく、実に弱い存在で、最強だと思っていた妖怪の手代が肝腎なところで役立たずだったり、気楽に読めます。たくさんの妖怪が出てきますが、愛嬌があり、実に人間的で、読み進めるうちに、街灯と言うものがなかった時代の漆黒の闇に、普通に人間と妖怪が同居していたのではないかと感じられる。恐ろしいというより、そういうのもありだなと、1つ大きな世界観を感じる。

2006/9 「出口のない海」 横山秀夫 講談社文庫 ★★
「クラーマーズハイ」から連続で、横山さんの作品を読みました。横山さんの作品は、重いテーマが多く、現実的な見方が展開される。ハッピーエンドという訳ではないが、何か明日への希望というか、こういう生き方もあるなという終わりからが、妙に心に残る。
「クライマーズハイ」を読んでいる時、映画「明日のない海」を観にいきました。横山作品なので、期待していたのですが、ぐっと掘り下げる感じがなく、期待はずれでした。こんな作品を書くわけないだろうと原作を読み始め、映画との大きな差を感じました。原作を超える映像はまずありませんが・・・「ダヴィンチコード」と同じような感じです。
高校野球(当時は中学野球?)の優勝投手並木は、大学野球部の合宿所に暮らす。肩を壊し、往年のストレートはなくなってしまった。でも再起を諦めず、懸命に練習し魔球開発に意欲を燃やす。彼らの溜まり場は、ボレロという喫茶店。かつてスペインに暮らしたことがあるマスターが落ち着いた店を提供している。並木には、両親・妹・弟がいて、妹の友達の美奈子が並木を好いてくれている。合宿所にもボレロにも美奈子を連れてきたことがある。
学生らしい日々は、太平洋戦争で変わっていく。数々のスポーツイベントが中止になり、国からの国威高揚により、続々と戦争に借り出される若者の中で学生を見る世間の風当たりが強くなっていく。野球部での女房役のキャッチャー剛原は野球をする意味を失い、軍人の道を選ぶ。ボレロの常連陸上部の北も海軍に入隊するという。久しぶりに実家に帰った並木は、家族と美奈子と食卓を囲みながら海軍に入ることを告げる。
厳しい訓練の中、感じてはいたが人間魚雷とは聞かされず「一撃必殺の特殊兵器搭乗員募集」に応募する。「回天」の訓練施設には、陸上部の北がいた。田舎の貧しい生活から抜け出すために、オリンピックを目指して上京したのだけれど、東京オリンピックは中止になり、次のロンドンも、英国と戦争状態の日本では参加は無理だろう。自暴自棄になり死ぬことを願ったのだろう。しかし、北は走っていた。つかの間の夜の自由時間に、誰もいない海岸で走っていた。それを見た並木は、野球を魔球を諦めた自分を振り返り、再び魔球完成に挑み出す。
とうとう運命の出撃の時がきた。一足早く軍人になっていた北が隊長で6艇の回天が潜水艦に詰まれて出撃する。3日間の休暇が与えられた。遠く山口から実家に帰る途中ボレロに寄った。マスターはいつもの赤いベストを着てそこにいた。何かを感じたマスターは、いつも壁にかかっている額から下手な舞姫のスケッチを取り出す。裏返すとボレロのレコードジャケットだった。レコードを取り出し、蓄音機の埃を払う。
実家に帰った並木は、父にだけそれとなく今生の別れだということを匂わす。最後の食卓を家族で過ごす。美奈子を呼びに行こうとする妹を止め、家族だけで過ごす。美奈子に会いたいが、明日がない自分を考えると、このままフェードアウトがいい。
翌日基地への帰りの列車に乗った並木は、予期せぬものを見た。美奈子が並木を捜している。雑踏の中の最後の2人の会話・・・制空権・制海権は米軍に落ち、回天の目標は、ソナーやレーダーで追尾する駆逐艦に守られて近づくことさえできない空母や戦艦ではなく、輸送船になっている。北や並木を載せた潜水艦は、駆逐艦の追尾を振り切り目標を捕捉する。しかし、2艇の回天は破損して動けない。「回天戦用意」の艦長の命令に反応して、4名はそれぞれの回天に乗り込む。「目標1隻」艦長の言葉に・・・誰が指名されるのか・・・「1番艇出撃」・・・スクリューが回る轟音が伝わってこない。北艇は故障のようだ。
2番艇も故障。「俺に来い」と並木は願ったが、3番艇が出撃し、見事輸送船を轟沈させた。一旦潜水艦に戻った北は憔悴しきっていた。動かなかった自艇の整備兵を殴ったが収まらない。
再び輸送船捕捉。北が並木の回天を譲ってくれと頼みに来る。しかし並木のみが回天に入っていく。「敵艦4」「4番艇出撃」。ボール・家族の写真、そして美奈子の写真を見える位置に置き、エンジン始動ポンプを押す。しかしエンジンがかからない・・・。「無念」。顔面蒼白で回天から降りてくる並木。自分が自分でない。命を拾った並木を担当の整備兵が迎える。少し笑ったように並木には見えた。「貴様、何がおかしい」思わず手が出てしまった。入隊して初めて手が出てしまった。すぐに正気に戻り、整備兵に謝る。基地に戻った並木は、再び北が走っているのを見る。並木も魔球完成に余念がない。
次の出撃が決まった。北隊長・並木・沖田・・・の名がある。回天搭乗員として一緒に潜水艦に乗り、今回も一緒に出撃する沖田を誘って近くの学校に行く。音楽室を覗くと女性教師がオルガンを弾いている。「レコードを聞かせて欲しいのですが・・・ボレロを聞かせて欲しい」。基地の内容は機密なのだが、近隣の住民は、何となく知っている。女教師は「ボレロのレコードはありません」と申し訳なさそうに答える。「でも女学校にあると思います。待っていてください。必ず待っていてください」と、自転車で駆けて行く。やがて帰ってきた女教師は、「レコードはありませんでした。オルガンではいけませんか?」と手に楽譜を握っている。時々つまりながらも素敵なボレロだった。
出撃前日の朝、最後の訓練に向かう並木達。沖田に「今夜いつもの魔球練習場所に来るように」。北に「今夜いいことを話してやる」。そう、その前日ついに2段階で変化する魔球を完成させていた。でもこれが並木を見た最後になった。その日の海は荒れ、並木は行方不明になってしまった。日没で並木の捜索は打ち切られる。他の北達も、目標から大きくそれ、訓練後、搭乗員全員の前で上官からつるし上げを食らう。「並木は貴重な回天を無くしてしまうし、きさまらの操縦はなんだ。たるんどる」。部屋に戻った沖田は、悔し涙をこぼした。「スクリューを手で回せだと」「あれが本音なんだ。こいつらまた帰ってきやがって。俺達をそう見ているんだ」「命が惜しくて、俺達が回天を壊したとでも思ってやがる」「今度こそ死んでやる。卑怯者呼ばわりされるのは真っ平だ」「もう2度とこんな所に帰って来るもんか。戦果なんてどうでもいい。
スクリューが回らなかったら、自爆して死んでやる」戦争が終わり、沖田は回天の基地が見える光の町の丘の上で農業をはじめた。その秋、回天が浜に浮いた。大型の台風が、海底で身動きが出来なくなっていた並木の回天を浮き上がらせた。変わり果てた並木とボール、鉢巻には沖田への言葉、美奈子の写真の裏には美奈子への言葉があった。
『何も本当の事をしゃべらなくてご免よ。謝りの言葉しか浮かばない。でもあえて言おうと思う。君にお願いがある。しばらく僕の分身になってくれないだろうか。僕の見ることが出来なくなったものを、君に見て欲しい。例えば、今日に夕暮れの美しさを。・・・そして美しいものを見ながら1年が過ぎたら、僕を忘れて欲しい。僕を消し去って欲しい。誰か良い人を見つけて、溢れるような幸せをつかんで欲しい。たったひとつ、それだけが気がかりだから、何度でも言う。幸せになって欲しい。・・・』
ボレロに再び野球部員達が集まってきた。並木のボールが置かれていた。「また野球をやろう」「並木みたいないいヤツを勧誘して野球をやろう」。
70才を過ぎたキャッチャー郷原は、太平洋戦争の映画をぼんやり見ていた。前の席を立ち横を通り過ぎたヤツに見覚えがある。痛い足を引きずって後を追う。「待ってくれ、陸上部の北じゃないか。野球部の郷原だ」「死にそこない同士の体面ってとこか。これからボレロに行く。来るか」「まだあるのか」「ある。場所は変わったがある」そこは60年前と何も変わっていなかった。舞姫のスケッチが額に入っている。赤いベストも覗いた。出てきたのは50年配の男。「マスターの親類か?」「いや、赤の他人だ」。「お久しぶりです。何にいたしましょうか?」「コーヒーを」。
「遅くなってごめんなさい」ドアが開き、セーラー服の少女がカウンターをくぐった。エプロンをかけて顔を出した。「いらっしゃいませ」「あっ・・・」美奈子そっくりだった。「やだぁ。お客さん、お婆ちゃんの知り合い?香織です。そんなに似てますか?」「おじさん。おじいちゃん、今でも並木さんという人にちょっと嫉妬してるんだ」「それだけ、夫婦仲がいいということだよ」「並木さんって、そんなに素敵な人だったんですか?」「ああ、素晴らしいヤツさ。心温かくて誰からも好かれた。それにどんなに辛くても決して夢を捨てない強い男だった」「聞きたい、聞きたい、お婆ちゃんの初恋の人の事を話して」「ああ、いいよ。北、手伝えよ」

2006/9 「クライマーズ・ハイ」 横山秀夫 文春文庫 ★
1985年8月12日、日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落した。その当時、著者は群馬の上毛新聞の現職記者でした。その時地元で経験した様々な思いを著書にぶつけているように思います。
主人公悠木は、新聞社に勤める記者だが、そのチーフになった時、部下の駆け出し記者をプッシュしすぎて自殺に追い込んだ経験がある。チーフという位置は自分に合っていないと、一匹狼の遊軍記者として応援記者をしている。一方会社の「山に登ろう会」に入り、山歩きから登山の世界に入り、そこの中心になっている同僚安西から、崖登りの日本有数の難所衝立岩制覇を誘われる。衝立行きを明日に控えた日、運命の日航機事故が起きる。浅間山荘事故以来の県内大事件に新聞社は、すぐに事故チームを立ち上げ、悠木がその全権チーフに任ぜられる。一方の安西も、その時過労で倒れていた。
事故の描写などは少ししか語っていませんが、この事件を題材に新聞紙面の製作の流れが細かい。記者としての真摯な向かい方、被害者や遺族に配慮した誌面の言葉の選び方、詳報・速報第一の記者部門と印刷や輸送・宅配などのルーチン第一のロジスティック部門の折り合いなどで、新聞社内部で様々な軋轢を生む。
大事故で始まった数日間の新聞社での出来事を縦糸に、過労で倒れてしまった同僚とその家族への思い、過去の自殺させてしまった部下への負い目、さらには仕事を理由に自分の家族、特に息子とうまく行かなくなってしまっていることなどを横糸として、読ませる作品です。
事故から17年後、亡くなった元同僚安西の息子と共に登る、というよりサポートされながら登る衝立岩での描写と、上述の事故当時のことがパラレルして書かれているが、最後2人だけの登山で語られる言葉が、ジンと染みてくる。仕事と家族、かけがえのない友の家族との交流・・・愛や心という目に見えないもので人生は動いており、それから外れた人生の空しさを想像させます。
横山秀夫の作品は、人の業のなせる悲しさなど暗い面を鋭く描写するものが多く、私には重めの作家ですが、この作品は、そういう中では、読後感のすがすがしい作品になっていると思う。秀作です。

2006/9 「四日間の奇蹟」 朝倉卓弥 宝島社文庫 ★
長男の部屋にあった本です。彼は私に倍する読書好きです。中学で既に三国志を数編読了し、歴史好きの面からか司馬遼太郎の作品はほとんど読み終えたような感じ。彼は今春東京に就職し、たくさんの本を処分したのだろうけれど、それでもなお、多くの本が彼の部屋に残されている。そしてとうとうその1冊に手を伸ばしてしまいました。この本の保存状況がとてもいいので、まだ未読で帰宅時に読もうと思っていたものかなあと思ったが、帯を見ていると、どうしても読みたくなりました。「映画化決定」・・・そういえば、こういう題名の映画があったような・・・。
将来を嘱望された青年ピアニスト如月は、師事していた先生の紹介でドイツに渡る。そこで日本人家族が暴漢に襲われる事件に巻き込まれてしまう。とっさに幼い少女を銃弾から庇ったが、大切な左手の薬指を失ってしまう。ピアニストとして致命的な怪我を負い失意のどん底に落ちる。しかも、大使館でもその少女の身内が探し出せないようだ。元々脳に障害を持っていた7才の少女千織と失意のピアニストは、先生夫婦の温かい家庭に世話になりつづけるが、先生の「1歩前に踏み出してもいい時期ではないか」という言葉に、帰国を決める。
大使館の説明どおり、千織の出迎えはなかった。こうして如月と千織の如月の実家での生活が始まった。両親は温かく迎え、幸いというか如月の指にかかっていた保険もあり、生活に困ると言うことはなかった。千織は、十分話せず、十分理解できず、食事さえも綺麗に出来なかった。でも1つ大きな才能を持っていた。1度聞いた音楽を寸分違わず覚えてしまう能力だ。医学的にもこういうことはあるらしい。最初は旋律を口ずさむ程度だったが、ピアノを教えると、楽譜も読めないのに、再現できてしまう。
それで独り立ちさせようと、学校の合間を縫った如月と千織との演奏旅行が始まる。演奏旅行といっても、旅費程度のものを頂くだけで、千織の経験を積ませるのが主な目的で、いろんな所に出かけていく。
そして、病院と言う名はついているが外来がほとんどない脳の研究施設を訪れる。そこに併設されている脳障害で回復の見込みのないホームでの演奏のためです。このとき、千織は15才になったが、身体は小さく、ピアノに向かう時以外は如月の後に隠れて人と接する少女だったが、ホームの世話をする真理子に対しては大丈夫だった。如月は忘れてしまっていたが、真理子は如月と同じ高校の吹奏楽部の1年後輩だった。そして彼女の初恋の相手が如月だった。たった1度新聞に出た如月と少女の記事を見て、真理子がホームに呼んだのだ。その真理子の気持ちを千織は感じたようだ。「パパを好きな人。千織と一緒」。
礼拝堂での演奏が無事終わったが、如月はこの研究施設に興味があった。「脳には外見では異常がないのに、何故千織は、いろんなことが不自由なのか?それが治る何かヒントはないものだろうか?」。千織の素晴らしい演奏が、もう数日間の滞在オファーを生んだ。そのヒントをつかもうと翌日、所長の部屋で話していると、窓の外で飛び立ったヘリコプターが落雷に合い墜落する。そしてその破片が・・・千織を庇った真理子に突き刺さる。
瀕死の重傷の真理子はそのまま集中治療室へ。奇蹟的に助かった千織は意識を失い病室へ。目を覚ました千織は、奇妙な行動を起こす。如月と2人だけになった時、千織の身体の中に真理子がいることを告げられる。3回目の夜まで時間があるらしい。外見を千織として過ごす間、真理子の肉体を心配するホームの入所者、理不尽な終わり方になった真理子の結婚生活の婚家の方々の心配など、本当の気持ちを知った。自身が不幸と思っていたことは、実は自身がそれをきちんと受け止めなかったからだけだった。自身が望む幸せは十分にそこにあった。如月も千織の中の真理子との数日間で、事故以来外さなかった手袋を外すことを教えられた。「その手袋を通して千織ちゃんと手を握ると、彼女に事件の事を思い出させるのよ」。自分の将来を奪った事件を、正面から受け入れ、前を向かせる何かを感じた。
そして最期の夜、2人で礼拝堂に入り、如月への思いを打ち明け、最初で最後のキスをした。すると今度は如月の心が千織の肉体に移り、二度と弾けないと思っていた「月光」を、千織の身体を通して弾けた。「ありがとう。思い残すことはないわ。私は消えてしまうけど、1つだけ千織さんに残しておくわ」。翌朝目を覚ますと、千織は千織に戻っていた。
また元の生活に戻ると思われたが、千織は明らかに変わった。少しづつ言葉が増え、今まで理解できなかった言葉を自分のものにしようと、質問が降り注いできた。それから数ヵ月後、千織の中の真理子を共に体験した看護婦の未来さんから手紙が届いた。「ホームの料理人萩原君と婚約し、結婚式でオルガンを演奏してくれる人を紹介して欲しい」。それに、「私でよければ喜んでやらせていただきます」と返信した。そして翌日、ドイツの先生夫婦の所に飛び立つ。自分とあの時助けた少女の成長ぶりを見せるために。空港のカウンターで手続きをする如月の左手には、もう手袋はなかった。薬指に気づいて言葉を躊躇した係の女性に、「これね、実は昔ピストルで撃たれたんだ。本物のピストル」。

第1回「このミステリーがすごい」大賞に輝いた作品です。ミステリー?というよりファンタジーに近いのかもしれない、心温まる作品でした。人は肉体というものを介して、希望を実現していこうとするのでしょうが、本質は心。肉体に備わった外見や能力に差があれど、それは表面的なこと。その優劣でその人を判断せず、肉体の中にある心と会話し、行動したい。肉体はいずれ老いて滅びます。でも心は続き、次の肉体で、この学習を生かしたい。そういう気持ちにさせる作品でした。
2006/9 「バッテリーX」 あさのあつこ 角川文庫
横手との試合で、おかしくなってしまった巧と豪のバッテリー。巧の速球は更に威力を増し、豪のキャッチングも上達した。豪の心は癒え、巧としっかり距離を置いた大人のバッテリーに成長したようだ。卒業式後の横手との再試合に向けて、高校受験を終えた海音寺が、新田東新チームの練習に合流する。そこで海音寺は巧の球に相対し、パワーアップした剛速球は自分の手におえない存在に育っているのを確認する。再試合に向けて横手の瑞垣と話すうち、次の自主練習で瑞垣を招待することになる。横手の策士瑞垣と横手の全国区スラッガー門脇がやってきた。バッターボックスに立った瑞垣は、巧に打ちごろの球を要求し、新田東チームの弱点を探ろうと打ち分ける。瑞垣の身体がほぐれた頃、巧のベストショットが行く。やはり海音寺同様、ストレートなのにバットにかすりもしない。その事実を真剣に受け止めようとせず、巧に正面から向かってこない瑞垣に、厳しいインコースを攻める。これに怒った瑞垣は巧に詰め寄るが、巧は微動だにしない。2年も下のヤツに遊ばれていると感じた瑞垣は切れてしまう。しかし秋の試合では豪の弱点を突くことで、バッテリーを崩したが、今度はそんな生易しいバッテリーではないことを知る。次の試合では、全国4位の横手の強さを思いしさせてやろうと、全部員をその夜に集めて、練習メニュー等の話し合いに入る。次の試合は、相当激しいものになりそうだ。

2006/8 「楽園」 鈴木光司 新潮文庫 ★★
「リング」「らせん」の著者鈴木さんのデビュー作です。ホラー作品は読めないので敬遠していましたが、いい海洋小説があるよと紹介してもらった『シーズ・ザ・デイ』を読んで、イメージが変わりました。2冊目の本ですが、壮大なロマンを育んだスケールの大きな作品でした。こんなスケールのものが、デビュー作とは鈴木さんの実力は相当高い感じがします。
有史以前の太古の昔、モンゴルでは、弱肉強食の世界でした。一人前の年齢になると、1人で自分の精霊に出会う旅にでます。最初に獲った獲物がその後の人生の精霊になります。幻の赤い鹿を求めて旅立つ主人公。でも何処にいるのか皆目分かりません。一度出会ったことがある者からの情報と、彼に備わっていた絵の才能を活かして首尾よくそれを仕留める。村に帰り、最愛の妻を娶り、子供も授かった。人々に幸運をもたらす赤い鹿の絵を夫婦で描く事で尊敬され、約束された未来が開いているように思えたが、北の部族の襲撃により村は壊滅してしまった。男は皆殺しにあい、女は略奪されるのが当時の世の中。息子を失い、妻を奪われたが、妻のお腹には主人公の子供が宿っていた。北の部族は、妻を連れて、北の回廊から東の新天地に移動していく。一方主人公は、唯一生き残った村のシャーマンの言葉に従って、南から東の世界を目指す。しかし南には回廊がない。あるのは、広大な海。そこで船を作って東に向かうことにする。
時代は下り17世紀。ヨーロッパの大航海時代。南太平洋の小さな島で平和な生活を送っているところに、難破したの貿易船の乗組員3名が流れ着く。勇敢な元軍人・船大工・そして一番若い主人公ジョーンズ。ジョーンズは、島の娘に恋をしてしまう。一夫一婦制でなく、所有という概念もない島。伝説でしかない島の守り神を2人で見に行くと、そこには大きな石に赤い鹿。娘の希望で、娘・ジョーンズ・2人の間の子の肩に鹿の刺青を入れる。船大工は文明社会に帰るためのいかだを作り、ジョーンズはここに残ろうとしている。平和な生活が続くように思えたが、アメリカの略奪船がやってくる。島の戦士は銃にかなわず、男達は殺され、娘達は褐色の奴隷として連れ去られようとしている。ここで元軍人が、船大工とジョーンズに残った村人を守るように言い、村人のこれまでの恩に酬いるために石斧で立ち向かう。奮闘したが多勢に無勢・・・そこに大津波が襲う。船大工とジョーンズ、娘とその子は、高台で建造されていたいかだに乗り、津波に乗じて東を目指す。娘の心から湧き出した願望に導かれるように。
さらに時代は下り現代。インディアンの褐色の肌を持つ主人公レスリーは、クラシック音楽の作曲家。彼の音楽には、一種独特のものが流れている。最新作は『北の回廊』。この曲に魅せられた者が2人いた。1人は、世の中の仕組みを探る宗教家ギルバート。彼は、アリゾナの砂漠で新しく発見された鍾乳洞の地底湖での作曲に誘う。もう1人は、雑誌編集者のフローラ。彼女は人もうらやむ結婚生活を始めたが、離婚という結果になり、さらにひとり息子を事故で失っている。失意のどん底から救い出したのがレスリーの音楽。レスリーの特集を組もうとオファーを出して、その返事を聞くためにレスリーに電話を掛けた。その電話の声だけで、レスリーは待っていた人に巡り合えた感覚を得る。アリゾナ砂漠への同行の快諾を得て鍾乳洞に向かう。
ギルバートに案内されたレスリーは地底湖で作曲に没頭する。作るというより、そこに流れている旋律を音符にするだけの作業。手違いでフローラとは会えなかったが、これを終え彼女の待つホテルに帰り、再びここを訪れる予定だった。その時、小さな地震と共に地面が割れ、更に下の更に大きな地底湖に落ちてしまう。ギルバートを助けて湖岸に辿り着いたようだが、何も見えない。深い傷を負ったようで、段々息が荒くなるギルバートは、レスリーの並外れた聴力を駆使して這い上がるように言う。レスリーは、ギルバートの首に自分の首から外した赤い鹿の描かれた石のペンダントをかけ、水の流れる方向を目指して登り出す。
結局会えなかったフローラは、小さな地震を気にしながらも1夜をホテルで過ごす。そして明け方、自分を呼ぶレスリーの叫びが聞こえたような・・・すぐに大体の位置だけしかわからない鍾乳洞を目指して出発する。鍾乳洞の入口でレスリーの乗っていた車を見つけ、地震で止まってしまった発電機を動かし、ロープなどを持って洞窟に入っていく。行き止まりの地底湖に着いたが、あるのはギルバートとレスリーの荷物と譜面。小さな亀裂を見つけ、ロープの端にくくった防水懐中電灯を垂らしていく。ゴツゴツした斜面を降りていく感触が、中空を降りていく感触に変わる。そこで無常にもロープが出きってしまう。
何度も何度も斜面を登っては地底湖に落ちていたレスリーの前に光が下りてきた。でもそこまで届かない。地底湖の湖面から数メートルの高さで止まっている。その光を浴びて、透明で目のない地底内生物が、自ら淡い光を放ち出す。「どうすればいい?自分の存在さえロープに伝えることが出来ない」。その時、ゴーという音と共に地底湖の津波がやってきた。地底内生物の淡い光が津波を教えてくれている。レスリーは地底湖に落ち、ただ1度のチャンスにかける。運良く津波の盛り上がりによってロープをつかむことができたが、次の波が襲う。次はもっと大きなものだ。それまでにロープの垂れている上の穴に辿り着かなければ・・・。次の大波に乗って、一気に穴の斜面を登る。そしてフローラの待つ上の地底湖まで吹き上げられる。
レスリーは、精霊の宿る赤い鹿のペンダントを失い、フローラは小さな時から肩にあった鹿に見える痣を失う(消える)。しかし2人は、何にも変えがたい大切な人に巡り合えたという心の中から湧き出る喜びを得る。

2006/8 「かもめ食堂」 群ようこ 幻冬社
映画『かもめ食堂』の原作です。封切館が少なく、観てみたかったのですが、その機会がありませんでした。そこで原作を手に取ったのですが、評判の原作を映画にしたのではなくて、映画のための書き下ろしだそうです。
長年の夢「食堂開店」を実現するために、コツコツ働く主人公が、何故かフィンランドで食堂を開店させる。一番のお奨めメニューは、おかか・鮭・梅のおにぎり御三家。フィンランドには受け入れられなくて、全然売れないのですが、明るくいつも奨めている。そこに何となく日本からやってきた中年女性が、2人転がり込んできます。開店当初からの常連さんの日本大好き青年と、少しづつ増えてきた近所のお客さんなどとの、何気ない出来事が綴られていく。
勝ち組・負け組や、負け犬という人を揶揄する言葉は好きではありません。世の中にはいろんな人がいて、だから世の中が成り立っていると思っている。「かもめ食堂」の3人は、どちらかというと負け組かもしれない。でも、機敏に時代に反応しない人がいるから、安らぐ空間があるような・・・小津安二郎の世界でしょうか。

2006/8 「弘海-息子が海に還る朝」 市川拓司 朝日新聞社
息子弘海は、小さな時から体が弱い子だった。少しでも健康になって欲しいと始めたスイミングスクール。4才の1日体験から水を怖がらず、通い出した。でも先生の言うことにあまり興味はなく、水に親しむこと自体が好きなようだった。みんなより大分遅れて選手コースに上がったが、あるとき、両脇の下に引っかき傷のようなものが出来た。傷が少し深く膿んで湿疹のようでもある。様々な病院に診てもらったが原因不明。でも、水泳のタイムは飛躍的に向上し出す。トップスイマーは手に水かきができていくらしいが、どうやら弘海もそのようになってきた。記録の伸びがすばらしく、初めて参加したスイミングスクールが集まる大会で、ビリの持ち記録で臨んだレースで圧勝してしまう。家族は、予想もしないあまりの光景に戸惑いすら感じるが、そこで、他クラブから参加している運命の少女と出会う。
そして・・・というお話です。今回も、やさしい夫婦のやさしい家族の絆がベースにある物語ですが、次のページをめくらずにはいられなくなるような、引き込み力は少し弱かったかなあと思いました。まあ、既読の市川さんの他作品の良さに比べてということです。

2006/8 「Separation」「Voice」 市川拓司 アルファポリス ★★
市川さんのデビュー作『Separation』は、インターネットで発表していた小説『Voice』のもう一つの物語だったようです。Voiceへの反響が大きく続編への期待から、同じ登場人物で微妙にシチュエーションを変えた『きみはぼくの』が同じくネット上に発表されました。これには多くのファンがつき、リンクを貼ったり、ペーパーに印刷して友人に配ったりされたそうです。満を持して出版されたのが、『きみはぼくの』を改題して『Separation』。それにその元となった『Voice』もついています。
『アルファポリス』という会社は初めてで、調べてみると、ネット上の著作物無料発表サイトでした。ここで発表された小説などの出資者を募り、出版化している会社のようです。なるほどと思ってしまいました。作家にも出版社にもリスクがなく、出資者は自分が好きな作品が本になる楽しみがあり、おまけに売上に応じて配当がある。誰も損をしないシステムです。今までは、同人誌や文芸書、新聞などで発表された作品を出版社がリスクを背負って、本にしていたが、そのネット版というところでしょう。発表媒体にお金がかからず、無名作家にとっても自分の作品を世に問うハードルが下がります。
『Separation』は、主人公悟は高校に上がり、陸上クラブには入らず1人で走っている。走るのが好きだけど、どうも集団生活に馴染めないところがある。1年のときからいつも前の席だった裕子の背中を見ながら高校生活を過ごす。裕子は、とても華奢な体型が幸いして新体操部で頭角をあらわす。いつも後の席で、午後の授業をサボっていなくなる悟が気になっている。悟も、いつも前に座っている裕子と知らずに、新体操部のすごくジャンプするヒロインが気になっている。
受験生になる3年生になって、悟のいつもの練習場所であり、裕子と犬のジョンとのいつものお散歩コースである公園で、2人は出会った。どうも集団生活に不慣れな2人は必然的に惹かれていった。やがて2人は東京の女子短大と地元の大学に分かれる。でも大切な相手であることには変わりなく、やがて裕子は妊娠してしまう。破裂寸前のお腹で卒業を迎え、悟の卒業までは悟が子供の面倒を見、その後は裕子が見るという本来の夫婦の姿に戻す人生設計を立てるが、親の猛反対で駆け落ちで家を出てしまう。でもその努力も実らず流産をしてしまう。生活のためのアルバイトが原因だったのか、裕子の体がまだお母さんになる身体ではなかったからか・・・。生活のためにお互いアルバイトをしながらも、次の妊娠に向けて、赤ちゃん用の靴下などを手作りする裕子と悟。
でも病院でも分からない奇妙な退行現象が裕子に起こり出した。体のサイズが小さくなって、今までの成長の時計を逆回しするように、表情も知識も以前に戻っていく。職場にいられなくなった裕子は退職し、ずっとアパートで外界との関係を断っていく。遠くのお店に買い物に行き、人目につかないように帰って来る。悟と2人だけの生活の濃さが増していく。もう裕子は中学生のようになったある日、2人で遠出をして古びた教会で雨宿りをする。そこで出会った牧師さん夫婦の話から、2人の抱えている問題のヒントが分かったような・・・そして裕子の願いだった結婚式が、列席者のないままここで行われる。
奇妙だけど、幸せな2人にやがて別れがやってくる。もう保育園に通う年齢ほどになってしまった裕子は、昼間1人での留守番が辛く、保育園に通うようになる。でもそこでの裕子は、悟のお迎えをただひたすら待つだけ。悟は2人に残された時間は多くないのを悟り、退職してその日までずっと2人でいることを選択する。「幸せだった」という言葉と、2人で廃工場で拾い集めたボルトのビンを残して、消えてしまった。裕子が今まで寝ていた布団には、もう指に出来なくなった結婚指輪が通ったネックレスがある。このネックレスは、最後を感じて、裕子の実家に1日だけ寄った時に、母親からもらったもの。小さな小さな裕子に娘の面影を見つけ、両親は裕子の話をする。結婚に反対したことを十分に悔いている。そして小さな裕子に託したものだ。小さな裕子が裕子であることを感じていたのかも知れない。いやきっと分かったのだろう。再び娘を傷つける悲しみの言葉を飲み込んで、おばあさんから譲ってもらったネックレスを裕子に。
悟は、再び元の会計事務所に勤めはじめ、裕子のものを整理して偶然見つけた日記に記されていた言葉を追っている。
「多分私は生まれ変わろうとしているのだと思う。『妻の中に死んだ娘が舞い戻り』と牧師さんの奥さんは言った。私の中で赤ちゃんが小さな細胞になって、再び生を受ける時を待っている。そして彼女はこんな風にも言った。『妻は娘となった』。やがて私は1つの細胞になって、2つの細胞は一緒になる。そして生まれ変わる時を待つのだろう。悟と結ばれる日を夢見て。そのときは今度こそきちんと子供を生める体で悟の前に立てるはずだ。悟、見つけてね」
かつて住んでいた東京の町、知らずにすれ違っていたかもしれない東京の街、知り合ってからずっと住んでいるこの町。休みの日毎に捜して、気がつけば10年経ってしまった。「裕子、君は何処にいるんだい」。晩夏、いつものように週末、かつて2人が出会った自然公園の小径を走っていた。森の一番深い場所で、木々の枝を透かして、ひとりの少女を見たような気がした。やがて2人が語り合った東屋に辿り着く。いつもならそのまま走り抜けるのに、視野の隅で捉えた何かが足を止めさせた。息を止め、そっと手を伸ばし、つかみ上げた。「チャリン」高く澄んだ音がした。それは1本のボルトが入ったガラス瓶だった。

この『Separation-きみが還る場所』より、その元になった『Voice』の方が好きかもしれない。若返りの時があまりにかわいそうで・・・『Voice』の方がまだ生き生きしているかな・・・でも最後が・・・やっぱり、「チャリン」がいいな。
私は、女性的かもしれないが、家族の返りを期待しない無償の愛情の物語に心が揺さぶられる。家族の最小ユニット夫婦が始まる時の、相手を想う心、いたわる仕草が家族が増えて広がっていけばいいと思う。勝ち負けの結果ではなく、そこを目指そうとする子の努力に拍手を送りたい。他と比べれば小さな努力に見えても、本人にとっては精一杯のがんばりに違いない。そう見えなくても、そう信じて、サポートするのが無償の愛情だと思う。夏の甲子園のスタンドから、どんなに負けていても最後まで声援を送りつづける母親の姿が眩しい。ここまで辿り着けず、地方予選1回戦で敗退した子も、同じだけ努力したはず。同じだけ願ったはず。その過程と結果から、大きなものを学び、次の何かに挑戦していく。みんな本人が、他人のフィルターを通さずに受け止めるもの。それでいいと思う。温かい言葉が交わされる家族・・・素敵です。

2006/8 「I LOVE YOU」 伊坂幸太郎 石田衣良 市川拓司 中田永一 中村航 本多孝好 祥伝社
6人の作家の恋愛短編作品を収録した本です。それぞれいい感じの終わり方で、その後をいろいろ想像させ、読後感がよかったです。最もその後を読みたいなと思ったのは本多さんの。流れの構成力があるのは、伊坂さんと市川さん。読んでいると、自分の10代から結婚するまでの一場面が甦ってきて、「あの時ああだったら」などとちょっと浸る時間が持てました。こういうのがシリーズで出ているようなので、チェックしておこうと思います。

2006/8 「里山暮らし、ときどきスペイン」 中川璃々 太陽出版
リタイヤ後の夫婦の人生を、大好きなスペインで過ごそうかなあと考えている著者。スペインのこと、イタリアのこと、短期留学したイギリスのこと、そして日本での本拠地にした静岡県鶴巻温泉での暮らしについて書かれています。
何でも、素敵だなあ、綺麗だなあ、楽しいなあ、楽しみだなあ・・・という視線で見ているので、読んでいて人生が楽しくなります。

2006/8 「バッテリーW」 あさのあつこ 角川文庫
全国ベスト4の横手中学との本気の練習試合が始まった。学校の正式な許可が得られないので、選手同士の練習という形を取った。巧は、横手の全国屈指の強打者門脇を三球三振に切って取ったが、5番の試合巧者瑞垣の言葉でバッテリーがおかしくなり連打を浴びる。巧は降板し、リリーフが後続を断った。横手は、2点ビハインドでここからというところだったが、横手の監督が駆けつけてきて、そのまま中断になってしまった。
巧はキャッチャー豪の動揺がピッチングに現れ、豪は捕球で精一杯の自分の限界を感じる。監督の戸村は、このバッテリーを秋の試合から外し、横手からズタズタにされた気持ちを整理させようとする。横手は、中途半端でしかも負けている状態で終わってしまった新田東との決着をつけるために、再試合を申し込んでくる。時は受験も終わった春。そこに向かって、それぞれが動き始める。

2006/8 「天国の本屋」 松久淳+田中渉 新潮文庫 ★★
何となく題名に惹かれて買ってしまいました。帯には、「2004年6月5日天国の本屋恋火原作」とか書いてあり、裏帯には「天国の本屋恋火5/11発売」なんてのもありました。いつの本?なんて思いながら、私の手に渡るのを待っていたのかも・・・。本当にそういう本でした。私は自分で言うのもなんだけど、本好きです。そのルーツは、小さな時から母親に毎晩本を読んでもらいながら寝付いたことに行き着くと思うが、小学校の時、近所にあった小さな本屋さんの影響もあると思います。そこは、右手の奥隅にカウンターがあり、いつものおじさんがいつものように本を読みながら店番をしています。問題集などを買いに行くのですが、少年サンデーなどをちょっと立ち読みします。たまにサンデーのお金をもらいますが、大抵は立ち読み。ちょっと長くそれをしてると、おじさんが出てきて「本が汚れる」と小言を言われます。そんな何処にでもいるようなおじさんですが、時々本の読み聞かせをしています。まだ本がしっかりと読めないような小さな子向けの本を読んでいます。狭い店内の通路に小さな椅子を並べ、小さな子がそれを聞いています。そんな事してもらった事はないけれど、そういう光景にたまに出くわすと、何故か懐かしく感じます。母親に本を読んでもらいながら夢の中に落ちていったそれを思い出すのでしょうか?
「もう閉店ですか?」「大丈夫ですよ。なんでしょうか?」「この本を・・・探しているんですけど」「こちらの本ですね。どうぞ」「あら、随分早いんですね。まるで用意してあったみたい」「用意しておいたんです」「え?だって私・・・」「あなたがこの本を買いに来るって、僕にはわかってたんです」「なぜ?しかもこれ、弟が好きだった本なのに」「よろしければ読みましょうか?」「え?」「もうこの店、閉店の時間ですからこの後、この本僕が朗読しますよ」「・・・ええ、じゃあお願いします。読んでください」
この本の主人公さとしは、大学卒業を控えて就職活動中です。でも中々内定が取れません。コンビニの本棚で週間プレイボーイに手を伸ばそうとして、「は〜あ」と大きな溜息をつく。いつの間にか横には、秋も深まっていると言うのに不釣合いな派手なアロハシャツと単パンのおじいさんが立っており、「噂どおり、冴えないヤツだなあ」。気がつくとそこはどうやら天国の本屋らしい。アロハのおじいさんはここの店長らしく、否応なく、そこで短期店長代理のバイトをすることになる。店長は彼女と旅行に行くので、その代理らしい。午前中、レジには、かわいいけど何故か瞳がうすいグリーンで、いつも不機嫌なユイという若い女。午後からは漫才コンビの店員。冴えない生活をしていたさとしには、忙しいけど充実した生活が始まった。人は100才という寿命があるらしい。そこに足らずに命を落としたら、残りを天国で暮らす。そして100才になったら、また地上の世界に生まれる、そういうシステムになっているらしい。
ある日、本の片付けをしていると、小さな女の子が「ねえ、この本読んで」と袖を引く。「あのね、それは出来ないの」。その時、不機嫌なユイが、「本を読んであげるのは、この店のサービスだから」。仕方なく読み出すと、1人1人オーディエンスが増えていく。読み終えるとパチパチパチパチ。なんか昔あったような記憶。とても気持ちがいい。長期入院していたおばあさんの病室で、幼いさとしはよく本を読んでもらっていた。やがておばあさんは本が読めなくなり、代わってさとしが読むようになっていた。そうだあの時の本が『泣いた赤鬼』、この子が持ってきた本だ。毎日数度本を朗読するようになる。大人も聴くようになり、大人向けの本を読むこともある。自分でも上手な朗読とは思えないけど、楽しみに聴いてくれる人がいる。
どうもユイが気になる。いつもふてくされてる感じだけど、すごく気になる。恋ってヤツかもしれない。きれいなうすいグリーンの瞳の事を言うと、何故か思いっきりひっぱたかれた。何故?その答えは店長が教えてくれた。店長は、天国のいろんな仕事もしており、地上との橋渡しもしている。ユイは小さい頃父親を亡くし、母親が遅くまで働きに出ている。年の離れた小さな弟の世話はユイの仕事。食事を作り、本を読んで寝かせる。年頃になったユイに、お付き合いをしてくれる男性が現れた。でも早くに家に帰らないといけないユイから去っていく。弟の世話の方が大事だと分かっているけれど、このまま年老いていくのだろうかと寂しくなる。そんなことを考えながら、赤信号と気づかずに横断歩道に入ってしまった。追いかけてきた弟が、目の前で車にはねられて亡くなってしまった。そのショックで自殺してしまった。きちんと死を迎えていない人が、うすいグリーンの瞳をしているのだそうだ。そういう想いが天国で昇華できたら、自殺直前の自分に還れるらしい。さとしに目標が出来た。精一杯ユイに明るい声を掛け・・・やがてユイの気持ちが和らいでいく。
小さな男の子が袖を引っ張る。「ねえ、この本読んで」「『ナルニア国物語』か、これは長い物語だから、一番気に入ったところを読んであげよう」「うん、最後だけまだ読んでないの」。朗読していると、オーディエンスの中に店長がいた。本が嫌いだと言って今まで一度も朗読を聞いたことがなかったユイが、涙を流しながら聴いている。そう、この男の子が・・・そうこの本が・・・。
ユイの瞳はもううすいグリーンをしていなかった。「そろそろ、あの娘も還る時が来たようだ」店長は言ったが、さとしには喜びでもあり、別れの悲しみでもある。さとしの短期アルバイトも終わろうとしている。ユイはここでの記憶を全て消し去って戻っていく。でも絶対見つけ出してやる。「ユイに君の記憶がなくなるだけじゃない。君もユイのことは分からないだろう」「どうして?俺はここでの記憶を持ったまま帰るんだろう?」「そのとおり。だが、同じ顔をしていても、記憶があるかないかで人は全く違う表情を見せるものなんだよ。人の顔と言うのは、目や鼻の形なんてそれほど重要じゃない。それぞれの過去や経験や感情や性格で表情というものはできる。だから、君が万が一あちらの世界でユイに出会ったとしても、それはここで君が恋したユイとは全く別人と考えていい」「俺はユイがわかる。絶対に」
「店長、俺がいなくなると新しいバイトを探さないとだめですね」「いいや、その必要はないんだ。バイトじゃなくて、ずっといてくれる人が」。さとしの最後の日が来た。多くのオーディエンスが集まってくれている。『泣いた赤鬼』を読んでいると、後で店長が聴いている。その横にはちょっと小柄なやさしそうなおばあさんがいる。店長の彼女ってあの人なんだ・・・見覚えがあった。そう、さとしにこの本を読んでくれた・・・、さとしがこの本を読んであげた・・・。何か言おうとしたら、おばあさんは少し微笑んで、「続きを読んで」という手招きの合図を返してきた。
コンビニの本棚の前。手にとろうとしていた週間プレイボーイをやめ、就職情報誌を手にとった。本屋に勤めることになった。その書店の一番目立つ所に、『ナルニア国物語』を並べる。この本だけは絶対切らさないように・・・絶対目立つ所に・・・。天国の本屋から帰って来て20年、さとしは貯めたお金で本屋をしていた。もちろん本の読み聞かせもしている。「おじちゃん」、見知らぬ女の子がさとしの袖を引いている。「この本、読んで」。手に持っているのは『泣いた赤鬼』。さとしの店にもこの本はあるが、かなり読み込んである。どうやら家から持ってきたようだ。読み聞かせをしながら、懐かしい気持ちになる。・・・「さあ、おしまい」「ありがとう」って、大事そうにその本を抱えて帰って行った。「お嬢ちゃん・・・」「何・・・」「・・・またおいで」。彼女の後姿を見送りながら、さとしの奥さんのさとしを呼ぶ声がする。「なんだよ○○」

とても素敵な物語でした。心が温まる作品でした。私の一番好きな感じ。私自身の記憶の中のあの本屋さんのおじさんが甦ってきました。うちの子達が小さな頃、父親としての私の担当は、2人をお風呂に入れることと、本を読み聞かせながら寝かすこと。たまに私の方が先に寝ちゃうこともありますが、「今日は何読む?」「これ」「これ」って、2人が争って本を選んできます。あの至福の時間を私に与えてくれた家内に感謝です。来世も家内を見つけなくっちゃな。

2006/8 「バッテリーV」 あさのあつこ 角川文庫
不祥事から練習が禁止になる。夏の大会にエントリーすら出来なかった。3年生は不完全燃焼のまま引退になってしまうのか?戸村先生は、鍛えてきたこのチームで試合がしたい。この子達の中学での野球部生活のけじめをつけさせてやりたい。そこで、隣町の強豪チーム横手ニ中との練習試合を校長にお願いする。でも、校長は野球部がまだ信用できないし、今年の全国大会ベスト4の横手ニ中に試合を申し込んでも受けてくれるはずがないのを知っている。
夏休みが終わり2学期から野球部の練習が許可された。戸村先生は、それでもあきらめず、レギュラーチームと1・2年チームの紅白戦をすることにする。巧の完封で下級生チームが勝ったが、野球ができる喜びは、クラブ員全員の共通のものだった。みんなで再び校長に練習試合の申し込みをお願いするが答えは同じ。万事休したかに思えたが、キャプテン海音寺には秘策があった。「校長先生、向こうから試合を申し込まれたら受けてもらえますか」「そりゃまあ」。野球部の全員ミーティングで、海音寺は秘策を披露する。「巧と豪バッテリーで横手ニ中の超中学級スラッガー門脇に挑戦する。そこで三振に取れば、門脇の性格だったらリベンジする機会を得ようとするはずだ」。さて、結果は如何に・・・

2006/8 「バッテリーU」 あさのあつこ 角川文庫
巧と豪は、晴れて中学に入学した。当然野球部にいの一番に入部すると思っていたが、巧が渋っている。何故なら、野球部の練習を見ていて、整然と良く組み立てられた厳しい練習をしているのだけれど、何かが違うなあと感じるから。巧からの提案で豪も、入部を そのタイムリミットまで 1 週間伸ばして、 2 人で自主練習をしている。
その間、学校からの管理や締め付けに、巧は反発を覚える。巧の性格では仕方ないだろう。正門でのチェックで、服装の乱れとのど飴が見つかった。もう一方のポケットも大きく膨らんでいる。中身を見せるように言われた巧は、反発から見せなかった。風紀委員に連れて行かれた職員室で待っていたのは、以前、学校の荒れを強権で元通りにした戸村先生。野球部の顧問でもある。膨らんだポケットの中身が野球のボールである事を知り、強権に動じない巧に興味を持つ。
やがて野球部に入部した巧は、戸村先生にも副キャプテンの展西にも反発する。目をつけられた巧は、展西達のグループに襲われ背中に傷を負う。数日後、今度は巧達のグループの沢口が展西に襲われる。それに気づいた巧達は体育館に急ぎ、リンチ寸前のところで間に合う。しかしただならぬ雰囲気を察して追いかけてきた戸村先生が展西に押され、崩れてきた跳び箱で大怪我をする。野球部は、どうなるのか?
と言う展開だが、事故の後救急車を待っている間の巧と展西との会話が印象に残った。「原田、おまえ野球が好きか?」「好きです。野球部に入るために中学に来たようなものですから」「展西さんは、野球が嫌いだったんですか?」「好きでも嫌いでもねえよ。どうでもよかった。中学なんて高校へのステップに過ぎんのじゃから。野球部でちゃんと活動してたら、内申ぐっとよくなるなんて、先輩から聞いとったからな・・・。別にバスケでもサッカーでもなんでもよかったんじゃ。ほんま、真面目にやってたぜ。やっぱ試合に勝ったら、ちょいとは嬉しいし、負けたら悔しいしな。部活して勉強して委員活動して、塾もあるし、まあ忙しい から嫌になることはあったけど、がまんしてそこそこやったんじゃ。おまえさえ入部せんかったらよかったんだよ。おまえみたいに言い
たいこと言うて、やりたいことやって・・・好き勝手やりやがって、それでいきなり先発だと。ふざけんなよ。何の我慢もせんといて、自分の思い通りのことやって・・・野球が好きだって・・・馬鹿にすんな。ふざけてるよ。おまえも監督もふざけとるんじゃ。どっかおかしいんだよ」
天性の才能に恵まれた者がいる。努力しても努力しても、とうてい追いつけない者もいる。情熱ではなく、打算でそれをやっている者もいる。これは世の中の常。自分の天性に気づいて邁進できる者は幸せだと思う。別の天性に恵まれているのに、それに気づかず、それに触れる機会がなくもがいている者もいる。そういうものもぶつかり合いが、妥協しない巧の性格があることで、鮮やかに浮き彫りにされている作品のように思う。

2006/8 「バッテリーT」 あさのあつこ 角川文庫
この本も随分前から気になっていたのですが、児童文学ということと、5巻まで出ていることから漫画だと思っていて、購入する所まで行っていませんでした。でも「大人が読んでも面白い」とか、漫画の文庫本ってあるんだろうか?何て思って読んでみることにしました。
主人公原田巧は、小学校を卒業したばかりの少年で、両親の転勤で、両親の生まれ故郷広島県の岡山県境の町新田市に引っ越してきます。今はもう母方の祖父しか残っておらず、同居することになりました。巧は、少年野球をやっており、県大会から広島地方予選の優勝を狙うような天才ピッチャーです。生まれながらのピッチャーで孤高な所があり、中学でも野球部に入りストイックにピッチャーを極めようと思っています。新田の少年野球チームのキャッチャー長倉豪は、県予選で敗れてしまいますが、めったに人を褒めない監督に勧められて巧の投球を見たことがあります。それに魅せられてしまって、地方大会までずっと巧の追っかけをしました。
巧が新田に引っ越してくる。豪と巧は、引越し初日に出会います。巧の爺ちゃんは、元高校野球の監督で甲子園に何度も出場したことがあります。さてこれからどうなっていくのか?中学に入学してからは、「バッテリーU」です。
自分の力を信じるあまり、他と協調しようとしない偏屈な性格の巧をカバーするように、豪の広い心があります。それに、病気がちな巧の弟青波の素直さ、さすが元高校野球の名監督爺ちゃんの長いスパンで人を見る目と、上達の真髄は「楽しむこと」という魅力的な考え方、これらが絡み合います。
漫画ではなく、ちゃんとした文庫本でした。主人公がスーパーマンで性格もいい、そして教訓じみた言葉がストレートに出てくる児童文学とはかなり違う語り口です。児童文学の枠を越えている、少年の成長物語という感じです。大人でも十分はまります。これがこの本が受けているところなのでしょう。
文中の心に残った言葉を書いておきます。
爺ちゃんto巧、『野球は、楽しむもんじゃ。それだけじゃ。楽しまんと野球やっとってなんになる。つぶれるだけじゃ。さっきの豪の顔を思い出してみい。じつに楽しそうな顔しとったろうが。青波だってじゃ。わしがグラブを渡した時、ほんまに楽しそうに笑うたぞ。あの子らは、うまくなる』
この言葉の正しさは実感としてあります。次男のヨットも、小学校時代は、練習時間が少なかったと言うのもありますが、いい成績は残せませんでした。でもいつも楽しそうです。ここで結果を言いすぎっちゃってヨットが嫌いになって辞めていく子が如何に多いか。やがて中学になり花が咲き出し、大学生になり、日本の男子トップ10入りにまで成長しました。だから、ヨットを始めたチビッコには、いつも楽しめむように声をかけ、「ヨット面白い?」と聞いて、すぐに「うん面白い」と答えが返って来る子には、うまくなるだろうなあと将来が予想できます。技術を教え込まれやらされているだけでは、早晩進歩は止まります。人は感情が動かしているので、うれしいや面白いという感情が、自発的に技術を吸収し、やがてすごい選手になっていきます。
あさのあつこさんのあとがき、『私は運動能力に恵まれず、他の資質にも乏しく、強靭な意志も屈せざる精神も持たず、ささやかな抵抗と挫折と服従の繰り返しの中で、思春期と呼ばれる時を生きてしまった。押し付けられた少女の定型から抜け出せず、苦しくて堪らなかったのに、抜け出すことが怖くて定型の枠にしがみついていたのだ。いつか飛んでやると飛翔の夢を抱きつつ、自らの翼の力を信じることが出来なかったのだ。
自分を信じ、結果の全てを引き受ける。そういう生き方しか出来ない少年をこの手で、書き切ってみたかった。そういう少年を学校体育という場に放り込んでみたかった。大人やチームメイトや仲間やかけがえのない相手によって変化し生き延びるのではなく、周りと抗いそれを変化させ、押し付けられた定型の枠を食い破って生きる不羈の魂を一つ、書きたかったのだ。十代の体と精神は、奥深く普遍としてその力を宿している。だからこそ発光する。闇の底から光るのだ』

2006/8 「シーズ・ザ・デイ」上下 鈴木光司 新潮文庫 ★
鈴木さんという作家は、ヨット乗りでもあり雑誌舵に連載も持っている。だからよく目にしているが、どうも作品を読む気が起こらなかった。何故かというと、『リング』『らせん』などホラー小説で有名な作家だから。怖いのは苦手です。大昔、パルナス提供の怪獣番組があって、ドアの陰に隠れて、ちょっと見ては怖くてまた隠れるというチビさんでした。小学生になっても、友達の親に連れて行ってもらった『妖怪百物語』という映画が怖くて、最後まで座席に座って観ていることが出来ませんでした。ところが、海洋小説も書いているのを知って、読んでみることにしました。上下巻という大作ですが、何となく次の展開が見えそうで見えない感じで、飽きずに読めました。
主人公船越は、奥さんから離縁されてしまう。つまらない夫婦生活の間、奥さんは勉強して司法試験に合格した。自分で自立できるようになったので、船越はお払い箱になったというわけです。理不尽な感じもしますが、船越は反論もせず同意する。16年前、豪華ヨットを回航中に沈めてしまったという痛手から立ち直れず、ズルズルと夫婦生活を送ってきたから、自分に非があると思えたからです。1人で住むにはマンションは広過ぎるので、これを売却し、しばらくオーナーから譲ってもらったヨットで暮らすことにする。船越は大学ヨット部出身で、最近は岡崎のクルーザーでレースに出ていた。
念願のヨットオーナーになる日、ハーバーに出かけると、そこには岡崎ではなく、真っ黒に日に焼けた魅力的な女性裕子がいた。契約書を交わし用事は済んだのだが、どうも裕子ともっとしゃべっていたい。岡崎とはどういう関係なのか?何故日に焼けているのか?・・・裕子は、スキンダイビング関係の仕事をしているようで、フィジーでもぐったとき、偶然沈船を発見した。その船名を岡崎に話したところ、突然笑い出し、今日の契約に岡崎の代理で行くように言われてきたらしい。そしてその場所を書いた地図を船越は見せられた。そう、その船名は、16年前沈めてしまった船ブルーラグーン3だった。確かに荒天ではあったが、何故沈んでしまったのか腑に落ちなかった。しかも大切な人をそこで亡くしている。ずっとそれを引きずっていたのだ。もう一度そこに行けば・・・もう一度船を見れば・・・人生をリセットできるかもしれない。
岡崎、裕子、当時一緒に船に乗っていた月子、月子が密かに生んだ船越の子陽子、船越が生まれる直前に蒸発してしまった父親、そして船越の知らなかった父親の子・・・複雑に絡み合い、運命としか言いようのない展開になっていく。たくましく成長していく陽子、岡崎、裕子、そして船越に明るい未来が広がっていることを想像させるエピローグは、読後感が中々いいです。

2006/7 「タイヨウのうた」 天川彩/坂東賢治 ソニー・マガジンズ
遺伝子異常で、長く生きられない少女薫は、紫外線が病気の進行を早めるので、昼間寝て日没後外出する生活を送っている。小学校6年の途中まで、特殊フィルムを窓に張った教室に紫外線防護服を着て通っていたが、中学ではそれが認められずそれ以降は学校に通っていない。学校に通っていれば高校1年生になる今の感心は、近くの駅前広場での夜の路上ライブ。父親からもらったギター片手に弾き語るが、固定のファンもいる。雨が降らなければ、いつもの時間にいつもの場所に、ギターケースを開け、キャンドルに火を灯して、胸の前で手を合わせてライブは始まる。アマネカオルになる。
それともう一つ、朝2Fの自室から見えるバス停に来る高校生の男の子。バスに乗り遅れて、その排気ガスを蹴ったり・・・いろんな姿を見て、彼の生活を想像する。ある日、彼女が起き出した夕方、彼はギブスをした腕を吊って、しょんぼり長い時間バス停に座っていた。その光景が目に焼き付いた。どうやら片想いをしているようだ。
薫には、小学校からの親友美咲がいる。そのことを話すと、どうやら彼女と同じ高校に通う子らしい。早速彼女は調べ、彼はサーフィング部の3年で、全日本レベルの腕前を持つ、人気者孝治であることを知る。孝治の父親は東大出の県会議員で、母親はお嬢様学校出身。兄は偏差値の高い大学に通い、妹はお嬢様学校。孝治もこの指折りの進学校に通っているが、夢は従兄弟のようなプロサーファー。サーフィンが続けられるように勉強もしてきたが、夢を追うためには大学には行きたくない。いろいろ将来の事を考えながら、塾を終え駅前広場を横切っていた。歌いながらそれを見かけた薫は、横にいる美咲にギターを預け、孝治を走って追いかける。運動をしていないのでゆっくりしか走れない。孝治に後からぶつかって突き飛ばしてしまう。何が起こったか理解できずに転がっている孝治に向かって、いきなり気持ちを伝えて、また走って帰っていく。
別の日、孝治が模擬テストの最悪の判定の通知を手に、どうしようか考えていると、駅前広場から天使の歌声が聞こえてくる。自然に歌声に足は向き、オーディエンスの輪に入る。ぶつかってきて何か叫んでいた女の子が歌っているとはわからなかった。予定の曲を終え、薫は彼を見つける。アンコールの声に応えて、彼がバス停のベンチにうなだれていた光景を元に作った曲を披露する。気持ちは孝治に向けて歌った。孝治には、その曲が自分に明日の勇気を与えてくれているようで、涙が止まらなかった。それが終わり、集まった観客が、ギターケースの上にあるキャンディーボックスにお金を入れて帰っていく。孝治もそうしようと思ったが、あいにく手持ちは46円しかない。涙を乾くのと、46円しかないお金を入れるのを他の人に見られたくなくて、最後に薫に近づく。「ありがとう、これしかなくて」「こないだは失礼をしました」。
その歌に勇気をもらった孝治は、親に大学に行かないことと、プロサーファーになりたいという夢を打ち明ける。母親はもちろん今までと同じように大反対したが、父は何故か賛成してくれた。先日地元で行われた孝治としての引退試合に、来賓として父親は招待されていた。そこでまだサーフィンにうつつを抜かす息子の名前を見て激怒し、会場入口でサーフィンのボードを落としてしまうほど息子を叩いてしまう。ボードをそのままに走り去った息子を探しに息子の学校に来る。ここは父親にも母校で、懐かしく校舎を回ると、自分の高校生時代が思い出される。サーフィン部の部室に入ると、息子の数々のトロフィーとともに、最後の試合に向けての後輩たちの激励の言葉が並んで書かれているボードを見つける。父親は心変わりをしていた。
美咲も孝治と同じ塾に通っていた。孝治を見つけた美咲は、愛のキューピットになろうと彼に声をかけて、いつものファミレスに誘う。そして理由を言わずに薫を呼び出す。2人を会わせた美咲は帰っていく。
天使の声に勇気をもらった孝治と、片想いの薫は自然に惹かれあう。残された時間をリアルに生きたいと願う薫に孝治は応える。初めてのデート、初めての恋愛、初めてのキス。満月の夜、初めて孝治の運転するバイクに乗り、孝治のサーフィンする姿を見る。薫は、孝治が親から逃げずに正面から体当たりした姿を思い、自分も病気を隠れ蓑にいろんなことから逃げてきたことを悟る。孝治に自分の本当の姿を包み隠さず話す。目の前の薫と、薫の話す内容のギャップが大きく、よく理解できなかった孝治は、ボードを抱えて沖に漕ぎ出す。沖で、自分の心にもう一度問い掛けた。沖から戻った孝治を持参したタオルで拭きながら、熱いミルクティーを差し出す薫。それはごく普通の恋人同士の姿。
もうすぐやってくる薫の16回目の誕生日。その日に薫のCDを製作するために、美咲のボーイフレンドも含めて4人で動き出す。でも薫はもう一つ乗り気でない。駅前路上ライブの観客からは、CDの事をよく言われるが、今の薫は、病気が進行してギターが弾けるほど手に力が入らないのを知っている。それを聞いた孝治は、「歌えないの?」「歌は大丈夫」「なら、ギターを弾いてもらえばいい」「あ、うちの父・・・母さんも・・・」
薫の両親は、昔バンドをしていた。知り合ったきっかけもそう。父親はギターで母親はキーボード。16回目の誕生日の当日、孝治に押された車椅子に座る薫は、CD録音する会場に向かう。建物に入り、暗い通路を進むと、苦心して作曲したギターソロが聞こえてきた。キーボードがギターのサポートをするように後を追う。「あ、パパとママだ」。その瞬間、前を被っていた黒い幕が上がり目の前が明るくなった。目が痛くなるほどの光と割れるような拍手。大勢の視線が薫に向いている。ストリートライブのお客さん、いつもキャンディーボックスに100円を入れてくれる常連さん、ライブの帰りに美咲と寄るファミレスのウェートレスさん・・・いろんな顔が見える。今まで生きてきて、これほどの状況は見たことがない。
美咲が、キャンドルに火を灯して現れ、薫の前にそっと置いた。薫は、胸の前で手を合わせることが出来なくなったので心の中で手を合わせ・・・深く深呼吸して・・・迷うことなく歌い始めた。いのちの限りを・・・祈りの限りを・・・歌声に託して・・・。
薫の声は、路上ライブと同じように、会場の空気を綺麗に洗い清めていくようだった。そしてアマネカオルの歌声は、FMラジオを通して、その日全国に流れていった。

2006/7 「初恋」 中原みすず リトル・モア
私が小中学校の頃だったろうか?この小説の題材になっている三億円事件が起こりました。連日の報道で世の中に大きな衝撃だったのを思い出します。これと浅間山荘事件、それに東大安田行動の攻防。目的や考えは別にして、数を誇る団塊の世代が学生になり、学生が元気だった頃そのパワーが炸裂した時代でした。
主流派の生き方に異を唱え、ヒッピーなどの反主流がかっこいいとされたそのような仲間が実行した事件として書かれている。実行犯が女子高校生だったという切り口で、その実行犯の一人称の台詞や視点から書かれている。事件そのものより、私も何となく感じたあの時代の雰囲気が伝わり、仲間達のその後が少し物悲しく、ちゃかり実を採ってしまう体制派の人々に、リアルさがとても感じる。これはノンフィクションではないかとさえ感じてしまう。
高級車は、乗っている人への暗黙の了解によって検問で目こぼしがあるなど、日本という国が良心のある人の集まりであることを前提に成り立っていた時代だったなと思い返します。今のデジタル的な時代ではなく、アナログでも、毎日時刻が多少ずれる腕時計のようなアナログの時代。より人がゆったりしていた。拝金主義が過度に賞賛され、少しのミスが、一気に全国区で広がり、過剰な糾弾がなされる今と照らし合わせて、憧れさえ感じる。

2006/7 「なかよし小鳩組」 荻原浩 集英社文庫
「オロロ畑でつかまえて」の続編です。再びとぼけたユニバーサル広告社の面々が、そのままのキャラクターで登場する。今度の依頼者は小鳩組というヤクザな組織。笑わせてもらいました。でもその中に、強面のヤクザさんの別の一面があったり、主人公杉山の別れた奥さんとの関係や、今でも慕ってくれる娘早苗の登場があったりで、真面目で誠実に、そして多くを望まずに生きている市井の人々の生活が織り込まれている。
元奥さんの乳がんの手術などで、早苗が杉山の家で数週間暮らすが、文中に時々登場する早苗の言葉がいい。一番印象に残ったのはこれ。「何故別れちゃったの?」との質問に杉山が「父ちゃんにもよく分からないな。ずっと一緒にいるようになったら、別々に暮らしていた頃より、2人とも幸せじゃなくなっちゃんだよ」と答える。それに対し、「幸せは比べるものじゃないわ。不幸は比べることから始まるのよ」と早苗が言う。小学校低学年の早苗には不釣合いな台詞だが、いつもビデオをとって見ている昼メロの主人公の台詞そのままです。ずばりと、幸せな生き方の真髄を突いているようで、うわあと思った。
「明日の記憶」と同じ作者とは思えないが、これ以降出ていないユニバーサル広告社物の続編の出版も密かに期待しています。

2006/7 「NHK知るを楽しむ この人この世界 アフガニスタン・命の水を求めて ある日本人医師の苦闘 中村哲」 日本放送出版協会 ★
日本の小さなNGO「ペシャワール会中村医師」の活動を応援しているが、まさかNHKで2ヶ月の番組に取り上げられるとは思っていなかった。その番組のテキストブックです。細かな私のコメントなんてない方がいいです。読んで欲しい。以下抜粋。

共生の智恵
民族だけでなく、部族構成はさらに複雑である。アフガン社会、特に農村部では地縁と血縁の絆が強い。そして、政治思想や経済動向ではなく、この絆がしばしば政治の動きを決定する。地理的条件に規定されて、各地域の自治・割拠性が著しく、中央との結びつきが薄い。村落共同体では、長老会(ジルカ=伝統的自治組織)を中心に自治が成り立っている。一般に兵農未分化の社会で、全ての農民男子は同時に村を守る兵員であることが多い。アフガン戦争(1979-89)では、初期、ソ連=政府軍との戦闘の主力は、これらの農民そのものであった。この点が外国人に分かりにくい点である。たとえば、外国軍が進駐すると、その協力者が必ず現れ、反対勢力の討伐で同じ戦列に立つ。しかし、しばらくすると外国軍の方が利用されていることが分かってくる。敵味方を越えて地縁・血縁の絆があり、時には互いに内通したり、いつの間にか側近が身内で固められたりで、身動きがつかなくなることが少なくない。
私の知り合いで、外国軍の傭兵となった者が少なからずいる。だが、敵軍の中に身内がいることを知り、わざと的を外して派手な「銃撃戦」を展開、雇い主と従軍ジャーナリストをいたく喜ばせた。そして、ちゃっかり高給とライフルを受け取ると、帰り道に「味方」の外国兵を狙撃して家に戻り、身内の「敵兵」と仲良く団欒しながらその日の「戦果」を語り合った。こんな話は珍しくない。外国軍は、誰が敵か味方か分からなくなり、疑心暗鬼に陥るのが普通である。これは軍隊に限らず、外国援助団体も悩まされるパターンである。偉大な八百長社会というべきで、地縁・血縁を何よりも尊重し、ひしめく割拠対立の海の中を生き延びる術の一つである。
最近、「武力勢力」の討伐に手を焼いた米軍指揮官が、「敵は普段は温和な農民の顔をしているが、機を見て凶暴な攻撃者となる」と述壊している。この観察は正しい。

パシュトゥンの掟
不文律の有名なのが「パシュトゥンの掟」で、代表的なものが、客人接待と復讐法である。復讐法は、「目には目を、歯には歯を」で知られる報復である。中世日本の「仇討ち」に近い。
もっとも、これには抜け道がある。不毛な抗争で村全体が迷惑を被る場合、地域の長老を介して和解が強制されることがある。また、一方が金や羊を敵に渡して和を乞えば、解消することもある。逆に、誰の目にも理不尽な仕打ちの場合、「仇討ち」を賞賛する。例えば有力権力者が弱い者を殺め、やられた側に成人男子がいない場合、母親が我が子を復讐要因として育てる。数年後めでたく本懐を遂げると、人々は「あっぱれ」と賞賛する。ペシャワールの新聞は、「少年による殺人事件」という記事に事欠かない。ほとんどが「仇討ち」で、人々は美談として受け取る。
最近日本で見られるような「家庭内殺人」とは全く異なる。あるアフガニスタンのジャーナリストが日本に来て、「親殺し」のニュースを聞いて大いに驚き、「こんなひどい話は始めてだ。日本の治安は最悪」と述べたという話を聞いたが、同じ「殺人」であっても、アフガニスタンの方が健全な気がしてならない。日本でさえ「赤穂浪士」は美談であるから、まんざら理解できぬことではない。

アフガン難民
1973年、王族のダウード元首相は、クーデターで王制を廃して共和制を敷き、「世界の骨董国」の近代化を図った。78年、ダウード一族が左翼青年将校のクーデターで殺された。急進的な共産政権が誕生、反政府的なイスラム主義者の弾圧などの政策が実行された。これに対して反乱が全国に拡大、政権内部でも党派抗争が激化した。政権が危機的と見たソ連は、79年12月、大部隊を侵攻させた(82年までは10万人以上の兵員が投入されたという)。
ソ連=共産政府は、「封建制の温床=農村共同体そのものを壊滅させ、人民を都市に集中させて管理する」という乱暴な方針を実行、村落ぐるみの徹底的な破壊が行われた。こうして、爆撃で破壊された村落は約5000、アフガン農村の約半数が壊滅したといわれる。これが大量難民の第一波である。
ソ連軍の圧倒的な軍事力は過大評価されていた。抵抗の主力たる地域農民は、旧式のライフルで近代火気に立ち向かい、各地でソ連=政府軍を撃破した。米国の介入は、農民兵の善戦が明らかになってからのことである。「自由の戦士」を支
援すべく、「武器支援法」が可決された(1984年8月)。ペシャワール郊外に軍事訓練施設が置かれ、86年からスティンガーミサイルが登場した。こうして、それまでの自然発生的な住民自身の闘争は、米国の介入により「聖戦のプロ」が出
現した結果、地方抵抗勢力が諸党派に色分けされ、党派の傭兵が取って代わった。
ペシャワールに政治党派の本部が置かれ、CIA・パキスタン軍部の協力で「国際義勇軍」が組織された。アラブ各国から馳せ参じたグループは、後に「アラブ・アフガン」と呼ばれ、「アルカイダ」の前身となる。
地方では諸党派が互いに分裂抗争、伝統的なアフガン農民の秩序が弛んだ。アフガン東部のクナール州では、政府軍が徐々に辺境から後退すると、アラブ系勢力、地方農民・旧領主軍、米国支援に頼る諸党派が乱立し、互いに覇を競った。村落の破壊がさらに進み、残っていた農民達も隣接のパキスタン領に逃れた。同様なことがアフガン各地で起きたものと思われる。「ムジャヘディン(聖戦士)」の正当性を難民達は疑い始めた。

9.11と空爆の間で
私たちは帰ってきます
長老らしき者が立ち上がり、私たちへの感謝を述べた。
「皆さん、世界には2種類の人間がいるだけです。無欲に他人を思う人、そして己の利益を図るのに心がくもった人です。PMSはいずれか、お分かりでしょう。私たちはあなた達日本人と日本を永久に忘れません」
これは既に決別の辞であった。

復興ブーム
復興ブームと合わせるように、2002年春、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が始めた「難民帰還プロジェクト」は、パキスタンにいた200万人の難民を1年間100万人のペースで帰るのだと発表し、米国に擁立されたカルザイ政権は「衣食住を保証する」と約束した。
UNHCRは1年後の2月、「予定を上回って200万中、140万人が帰還した」と発表したが、結末は数字が雄弁である。2005年になってパキスタン政府が「300万人のアフガン難民の存在」を訴えた。即ち、この3年間で多くの帰還難民がUターンしてパキスタンに戻り、さらに100万人が新たに難民化したことを示している(UNHCRは2006年に200万としたが、結局、難民の数はほとんど減らなかった)。
それでも、UNHCRの立案自体はましな方だったと云わねばならない。少なくとも「生活」を視野に入れた計画である。多くのNGOは首都カーブルだけに集中し、学校教育のあり方、男女平等の徹底などを論じ、人々の失笑を買っている事を知らなかった。

旱魃の大地に水を拓く
わがPMS(ペシャワール会医療サービス)では、2002年4月にカーブルの5つの臨時診療所を閉鎖、東部地区農村地帯に全力を集中する方針を固めた。しかし、「復興支援ラッシュ」は大きな打撃を我々に与えた。まず物価高騰である。物がないところに外国諸団体が気前よく大金を落とすから、カネだけがだぶつく。インフレは甚だしいものがあった。250ドルだった家賃が1200ドルに跳ね上がり、外国人が困るならまだしも、基本物価の甚だしい上昇は、ただでさえ貧しかった人々をさらに苦しめた。
次に人材の流出である。特に医師層や技術者は他のNGOや国連組織に高給で引き抜かれ、診療所の維持が危機に瀕した。多くはカーブルで5倍、10倍の給与を保証され、我々の許を去った。PMS病院で重きをなしていた医師たちの少なからぬ者が、JICA(国際協力機構)で10倍以上の給与で雇われるという、笑えぬ話もあった。

PMS奥地診療所の閉鎖
クナール州のダラエピーチ診療所、ヌーリスタンのワマ診療所の2つを失った。
先ず「復興支援」の一環で、医療設備の拡充が図られたのは良いが、カーブルに集中するNGOと新政府との間の取引で事が運ばれたのが問題であった。
ISAF(国際治安支援部隊)と同様、カーブルをほとんど出ないNGOに対して、新政府内部でも批判が上がり、2004年9月の新組閣の直後、外国NGO担当の大臣が約2000団体の活動停止処分を行った。この強硬措置に諸外国や利を得る団体が反応したのか、選ばれたばかりのこの大臣が突然辞任してしまった。

日本の若者達へ
私たちは「金文字」に導かれ、一見きれいな建物が更に確信を深めさせる。だが、その先は・・・となれば、本当は誰も知らないのだ。アフガン情勢に限らず、私たちの世界観や常識が、しばしばフィクションの上に成り立っていることを私は述べてきた。
人為の架空に人は容易に欺かれる。そして、幻の不安の影に脅える。そして、「蓑笠の猟師」や「団子」を野暮ったく思っている。虚構は虚構を呼び、不安は観念で膨らんで現実化する。待てば待つほど、不安と防衛心が私たちを支配する。
悪循環である。

戦争と平和
いま、きな臭い世界情勢、一見勇ましい論調が軍事力行使にまで結びつくような日本の風潮を眺めるにつけ、言葉を失う。平和を願う声もかすれがちである。
しかし、アフガニスタンの実体験において、確信できることがある。武力によってこの身が守られたことはなかった。
1992年、ダラエヌール診療所が襲撃された時、職員達に「死んでも撃ち返すな」と、報復の応酬を引き止めたことで信頼の絆を得、後々まで私たちと事業を守った。
現在私が力を傾ける用水路の建設現場は、外務省によって「危険地帯」に指定されている場所である。しかし、十数名の日本人ワーカーに護衛は要らない。対照的に、用水路に沿って走る道路工事は、外国人技師を守るため、ものものしい武装兵の一団が付いている。その事務所はまるで要塞のようで、人々に威圧感を与える。2年前にトルコ人の会社が工事を請け負ったが、覚えているだけで3件の誘拐事件があり、いずれも死体となって発見された。2005年秋、インド人の会社が入れ替わった直後、同様の事件が発生して技師が殺害された。道路工事建設の依頼者が米軍民生局である。米軍の地上輸送が現在、しばしば攻撃にさらされている。軍事優先であることが住民の目には明らかである。
2005年5月、「米兵がコーランを破ってトイレに捨てた」というニュースが流されたとき、ジャララバードの人々は暴動で反応、死傷者がでた。私たちの「水源対策事務所」と日本人宿舎も、ジャララバードの一角にある。宿舎の隣は歴史のある国際医療団体の事務所がある。このとき、暴徒は国際団体の事務所や宿舎を襲撃、隣の事務所も暴徒が浸入して放火されたが、私たちPMSの事務所も日本人宿舎も指一本触れられませんでした。ジャララバード在住の外国人たちは、緊急の飛行機で一斉にカーブルに脱出、まる1ヶ月仕事が停止した。一方私たちは、1日様子を見ただけで、次の日から現場作業を行った。
このとこは、ぜひ伝えておく必要がある。私たちが地元の人々に何を求められているのかを汲み取り、人々の心情を察し、信頼感を得て行動する限り、武器は無用である。道路工事技師の場合、まるでゴミの山を除くように道路脇の田畑やバザールを潰したりして、権柄ずくの態度が目に余っていた。襲撃された国際医療団体の場合、外国人はほとんど現場に行くことがないばかりか、旱魃であえぐ人々を尻目に、娯楽用プールを作ったり、毎晩ワイン・パーティーをしたりで、反感を買っていたのである。
私たちPMS(ペシャワール会医療サービス)の安全保障は、地域住民との固い信頼の絆である。こちらが本当の友人だと認識されれば、地元住民が守ってくれるのである。もし、武装した護衛をつけ、人々の苦楽と別世界に暮らしていたら、同じ憂き目にあう事だろう。
そして、「信頼」は一朝にして築かれるものではない。利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れるのである。それは、武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる。私たちにとって、平和とは理念ではなく現実の力なのである。
私たちは、いとも簡単に戦争と平和を語りすぎた。武力によって守られるものとは何か、そして本当に守るべきものとは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる。

不易と流行-変わらぬもの、変わるもの
今、周囲を見渡せば、不安を忘れさせる享楽の手段や、大小の「権威ある声」に事欠かない。このことは洋の東西変わらない。一見勇ましい「戦争も辞さず」という国際社会の暴力化も、その1つである。石油の利権を求めて和を損ない、「非民主的で遅れた破錠国家」に目を吊り上げ、「経済不況」を回復すれば幸せが訪れると信ずるのは愚かである。人の幸せは別の次元にある。
人間にとって本当に必要なものは、そう多くはない。少なくとも私は「カネさえあれば幸せになる」という迷信、「武力さえあれば身が守られる」という盲信からは自由である。何が真実で何が不要なのか、何が人として最低限共有できるものなのか、目を凝らして見つめ、健全な感性と自然の関係を回復することである。
戦後60年、自分はその時代の精神的気流の中で生きてきた。しかし、変わらぬものは変わらない。江戸時代も、縄文の昔もそうであったろう。いたずらに時流に流されて大切なものを見失い、進歩という名の呪文に束縛され、生命を粗末にしてはならない。今大人たちが唱える「改革」や「進歩」の実態は、宙に縄をかけてそれをよじ登ろうとする魔術師に似ている。騙されてはいけない。「王様は裸だ」と叫んだ者は、見栄や先入観、利害関係から自由な子供であった。それを次世代に期待する。
これが、22年間の現地活動を通して得た平凡な結論とメッセージである。

2006/7 「恋愛写真」 市川拓司 小学館
この作品は、同名の映画を、市川さんが小説に書き下ろしたものらしい。この小説を読みながら、小津安二郎の映画の世界を思い出した。黒沢明のお金をかけたスペクタクルや鮮やかな色合いの場面もいいが、小津さんの映画は好きだ。劇的な展開はないが、ありふれたごく普通の市井の人の描写に惹かれる。食卓を中心にした淡々とした生活での、小さな喜びを描く世界に何故か安心する。市川さんが書くと、誰でも経験するごくありふれた世界が、上質の物語に生まれ変わる。この映画は観ていないが、映画とはまた違う世界を作り出しているのだろう。
大学の英文科に通う主人公の誠人は、背が高く細見だが、小さな頃から悩まされている皮膚の病気のために毎日軟膏を塗っている。この軟膏が特別な臭いを発するので、「みんなとちょっと距離を置くこと」「風下に位置すること」など、暗黙の取り決めの上で生活している。そんな自分とごく普通に付き合ってくれる仲間がいる。そんな時、ひょんなことでまるで小学生のような少女静流と知り合う。フランス語学科に通う同級生らしいが、遠視用めがねをかけ年中鼻炎の変な子。向こうから一方的に片思いされるが、自分も英文科の仲間の中のみゆきに片思いしている。この年頃の子はみんな持ってるそういうのを、みんなそれぞれ感じながら、学生生活が続いていく。みんな仲間達に気づかいながら、ゆっくりと続いていく・・・
そして・・・(以下は作品からの引用です)

「すごく楽しかったな・・・」
喉が塞がり、囁くような声しか出なかった。
「ほんとに毎日が楽しくて、彼女との暮らしが楽しくて、終わりがあるなんて思いもしないで、彼女を失うなんて、そんなこと・・・」
僕が言葉に詰まると、老婦人はやさしく手の甲に触れ、僕よりもさらに小さな声で囁いた。
「みんなそうよ、みんなそう」
そうやってみんな生きていくのよ。別れはいつだって思いよりも先に来る。それでもみんな微笑みながら言うの。さよなら、またいつか会いましょう。さよなら、またどこかで、って。
僕はぎゅっと口を閉じ、潤んでぼやけた目で彼女を見た。
「思っていれば」と老婦人が言った。
「きっとまた会える、そうでしょ?」
僕は涙を飲み込み、頬に力を込めたまま何度もうなずいた。何度も何度も。
彼女に引かれるようにして、先に進んだ。

『生まれて来てよかった・・・』
みゆきから聞かされた、それが静流の最後の言葉だった。
『他の誰でもなく、この私に生まれたことが嬉しいの』
『誠人と出会えて、最高の恋が出来た。片思いで充分だったのに、思いが通じたなんて、こんな私にでき過ぎの人生だった』
『だから私は・・・あの森のキスの思い出を胸に、微笑みながら静かに去っていくの。ねえ、悲しい顔はしないで。また、いつか、どこかできっと会えるはずだから・・・それまで、少しだけ、さよならね・・・』

2006/7 「「叱らない」しつけ-子どもがグングン成長する親になる本」 親野智可等 PHP研究所
23年間小学校の先生をしてきた著者が、子ども達・親御さん、そして自分自身の体験を通して感じた子育ての本です。この本を読んで全く同感だと思いました。自分自身の子供時代の体験と、親という立場で子ども達と接した体験で、怒ることや叱ることは、まず子供のためにならないし、その成長に寄与するとは思えない。ただ親子の距離が離れるだけで、心に届く言葉にはならない。親は「しつけ」と称するが、怒ることは単に親のストレス解消の手段にしか過ぎない。その矛先を自分の子に向けるというのは、反抗できない弱い立場の者に対するイジメでしかない。同じことを伝えるにも、逆説的な言葉を使ったり、楽しそうに話したり、いろんな方法がある。それを考えて欲しいと思う。
あと褒めることの大切さや、短所に目をつぶる勇気というところにも触れている。ここを読みながら思い出したのは、毎朝の風景です。次男は朝なかなか起きられない。本人もそれを自覚しているらしく、2つも3つも目覚し時計をかけ、その上に母親に起床時間を伝えている。毎朝母親に何度も声を掛けられながら、やっとこ起きるのだが、それで怒られているところを見たことがない。朝起きるのはとても大切なことだけれど、体質的に苦手な人もいる。もし毎朝小言を言われ続けていたら、自分に自信を無くし、他のいい面にまで影響するとおもう。一度も子供を怒ったところを見たことがない家内は実に偉大な母親のように思う。
褒めることの効用を面白い表現を使っていた。ハンカチを広げて、どこかを持って上げてみると、結局全体が持ち上がる。つまりいい所を褒めると全体がよくなる。そこで注意した方がいい所を話すと素直に心に入る。反対に水に浮かべたハンカチのどこかを持って沈めると結局全体が沈んでしまう。出来ない事を叱りすぎていると、全体が出来ない心の方に引っ張られてしまう。とても大切なことです。

2006/7 「カフーを待ちわびて」 原田マハ 宝島社 ★★
作者の原田さんは、フリーのキュレーターという職業の方です。この仕事は、多くの絵画や美術品を観て感性を磨くので、どんな文章を書くのだろうと興味があって購入しました。
沖縄の小さな島に住む明青は、小さなお店をしています。父親が漁で命を落とし、その後明青がまだ小さい頃に母親が家を出て行く。一緒に暮らし育ててくれた祖母も他界。しかも明青は生まれた時から右手が不自由。カフーという名の犬と、裏に住む巫女のお婆と共同生活をしている。そんな島にリゾート開発の話が舞い込む。話を持ってきたのは、幼馴染の俊一。その会社に勤め、いくつものリゾート開発を手がけてきた。ジリ貧な故郷を仕事場を作ることで島を救いたいと思っている。俊一は、リゾート予定地の地権者を連れて、以前開発した遠い本土のリゾートの島を案内する。明青は、その旅行で初めて本土に渡る。その島にある観光地をまわることになる。自殺の名所で有名な崖を見て、自殺者が人生の最期にお参りする神社も回る。そこで明青は何気なく絵馬に、「嫁に来ないか。沖縄県与那喜島、友寄明青」と書いた。それから数週間後、幸という名の差出人から「お嫁にしてください」という短い手紙が届く。
明青は、自分の人生は幸少ないと思っている。その手紙を見て、大きな幸福感に包まれるが、時が過ぎていくと段々それも薄れ、きっとあれは神社で書いた絵馬を見て、誰かが悪戯したのだと思うようになっていった。手紙が届いてから数週間後、突然島にはいないような美人が訪ねてきた。「幸です。これからお世話になります」。それから3人と1匹の奇妙な共同生活が始まった。幸の真意がわからない明青だけど、明るい中に何か深い過去を背負っている感じがして、幸にストレートに聞けない。幸は何にでも興味を示し、お店を手伝い、友人やお客さんにも好かれていく。もちろん明青は幸にどんどん惹かれていくが、友人達には、夏休みのアルバイトということにしている。どこか幸薄い自分にはあまりに幸はもったいなく、夏が過ぎ観光客がいなくなるとともに幸も帰っていくのだろうと思い、過剰な期待を持たないようにしている。
やっと幸の大切さと離してはいけないと思う気持ちになり、結婚しようと決意する。しかし、リゾート開発、おばあの死など、いろんなことが重なり誤解もあり、夏の終わりに幸を明青の方から手放してしまう。でも幸が忘れられない。数週間後、かつて行ったリゾートの島の消印のある手紙が届いた。差出人は幸。そこには、幸の生い立ちから島に来た経過が書いてあった。明青の過去ともリンクした幸の人生。不自由な自分の右手などで、どこか自分は幸せになってはいけないと思っていたけど、自分はどれだけ幸に希望を与え、救ってきたかを知る。最後に、「この夏、あなたのそばで過ごした数週間が私に希望を与えました。あなたにもらった命をもう粗末にしません。お幸せに」とあった。
波止場でカフーのリードを俊一に渡す。見送りの仲間達からの、「カフーは任せろ。何日かかっても絶対幸さんを連れて帰って来いよ」の見送りの言葉を胸に、今度は明青が幸を探しに本土に向かう。
ずっと変わらない島の自然の中で、主人公の人生がゆっくり流れる。そこに現れる素敵な女性。でもお互いに相手の気持ちを気づかい、ゆっくりとしかぎこちない愛は進まない。大きな誤解が2人を裂いてしまうが、それでもなお相手を責めたりせず、気持ちを傷つけないように2人は離れようとする。素敵なラブストーリーでした。第1回日本ラブストーリー大賞受賞作品です。

2006/7 「オシムの言葉」 木村元彦 集英社インターナショナル ★
Jリーグジェフ千葉監督のオシムさんの半生と、その言葉を紹介する本です。Jリーグが始まって、あまり強くなかったジェフですが、オシムさんが監督になられてから力をつけカップ戦で優勝するまでになりました。ヨーロッパのサッカー強国イタリア・ドイツ・フランス・イギリスの影に隠れているが、チェコやユーゴの攻撃サッカーが好きなところがありました。いずれチェコやユーゴがヨーロッパを制する時が来ると思っていたところに、ユーゴ内戦が起きバラバラになってしまいました。名古屋グランパスに在籍していたストイコビッチが試合後下に着ていた戦争反対のTシャツを見せて抗議をしていたのを思い出します。この本で知ったのですが、最後のユーゴスラビアナショナルチーム監督がオシムさんでした。
今年のワールドカップで元ユーゴのセルビアとクロアチアが出場したり、相変わらずサッカーの強い所を見、ユーゴ出身のオシムさんに興味が湧きました。オシムさんの薀蓄のある言葉に惹かれ、収入ではなくやりがいを求めて、レアルなどの高給を蹴ってジェフを選んだオシムさんを知るようになりました。この本を知り、早速買い他の本の合間にのんびり読んでいましたが、日本のA代表監督のオファーが入ったというニュースを聞き、集中して読み始めました。
年間予算がJリーグ一少ないチームなので、活躍した選手が、高額で他チームに引き抜かれます。でもオシムさんは意に介さず、走る攻撃的なサッカーをチームに入れ、見ていて面白いサッカーをします。名古屋がストイコビッチのいた頃輝いていたように、運動量の多い選手がたくさんいるチームは強いし面白いサッカーをする。
コーチングをすることもあるので、野村監督・星野監督・バレンタイン監督・・・と結構この手の本を読みますが、この本はかなりいいです。ユーゴ内戦に巻き込まれ、セルビア軍の包囲されたサラエボの自宅に暮らす妻と、数年間も連絡が十分取れない状態になったり、サッカー以外のいろんなことを知りました。

2006/7 「灰色の北壁」 真保裕一 講談社
映画「ホワイトアウト」で知った作家です。精力的に書いている作家ですが、それほど食指が動く作家ではありませんでした。今年に入り、秀作を映像化しているNHKの土曜ドラマが復活し、「氷壁」に続き、真保さんの「繋がれた明日」が放映されました。これは、若者の強がりの代償として殺人を犯し、服役後出所してきた主人公が、心やさしい保護司や雇い主と、元の仲間や過去を誹謗中傷する人々、それに家族の間で心が揺れ動き、辛い真面目な生活を続ける。やがて過去の自分をしっかり受け止め、前を向いて歩き出すというストーリーで、扱っている題材はとても暗いものですが、秀作でした。
この本は、表題の他2編が収載された山岳短編集です。3編の中で、最後の「雪の慰霊碑」が一番良かった。主人公坂入の一人息子譲が、従兄弟の雅司の影響で、雅司と同じ大学の山岳部に入る。OBになった譲は、下級生の雪山訓練を計画しそれを引率する。雪の残る標高の低い春山であるが、天候が悪化し下級生が滑落する。下級生達を救助し帰路に着いたが、雪崩により全員の命が奪われる。
真実がわかるまで容赦のないマスコミの憶測、それを元にした犠牲者の親からの糾弾にただ頭を下げる主人公、山岳部のOB執行部は、リーダーの技量不足として責任転嫁ともとれる発言をするが、甘んじて受け止める主人公。雅司は、捜索隊の中心で精力的に活動するが、それは従兄弟という立場以上に譲に対する懺悔が含まれている。譲の婚約者多映子は、雅司が軽い気持ちで紹介したのだけれど、実はひそかに以前から多映子に心を寄せていた。譲に対する嫉妬から、譲から訓練の参加を打診された時断っている。もし技量も経験も豊富な自分が嫉妬心とは関係なく共に参加していたなら、犠牲者が出なかったのではないかという懺悔の気持ち。
事故から数年後の春、多映子から雅司に電話が入った。坂入の家の様子がどうもおかしいとの緊急の連絡。多映子も、婚約者の突然の死に気持ちの整理がつかず、その後も時々坂入の家を訪れている。特に命日の頃には必ず。命日が2日後に迫り訪れた坂入家は、軒先にゴミ袋が多数出ている。直感で呼んだ従兄弟の雅司と共に家に入ると、まるでモデルルームのように片付けられている室内、生活臭がしない。坂入は何処に行ったのだろう?坂入は、一人息子の譲を失う数年前に妻を病気で失っている。譲の命日を前に身辺整理をしたのではないか?果たして、ゴミの中から見つけた情報から突き止めた旅行社に問い合わせると、山初心者の坂入は、ここ半年ほど中高年向けの登山ツアーに頻繁に参加している。きっと譲の命日に、彼の最期の地に命をかけて向かったに違いない。都会でも雪が降り出し、天候が悪化する予報が出ている。
旅行社で坂入の参加したツアーの内容を調べている時、参加者の写真に多映子に見覚えのある女性が写っていた。昨年、譲の部屋を整理する時、多映子の前で坂入と親しそうにしていた女性。彼女に電話すると、実はあれは演技で坂入とは特別な関係ではないとのこと。多映子は、ハッとした。譲が亡くなった後も坂入の家に出入りする間に、いつしか坂入に心寄せる自分がいた。それに気づいた坂入が、自分を遠ざけ、新しい人生に向かうように仕向けたのでは・・・譲の最期の地で人生に終止符を打とうとしているのではないか?
雅司は、一旦家に帰り雪山の装備を整え、多映子に運転させて山に向かう。地元警察にも、大学OB山岳会にも連絡を取り、バックアップ体制を組む。でもその準備を待っている時間はない。早朝、心配顔の多映子を残して、坂入の後を追って山に入る。叔父さんを助け出す気持ちと、あの時譲と共に行動しなかった自分への罪滅ぼしの気持ち、そしてまだ持ちつづけている多映子への気持ちを背負って。一方先に山に入っていた坂入も、様々な気持ちを背負って山に入っていた。妻と1人息子を奪われ、孤独な中年から老年を迎える自分は、何を目標に・・・私にはもう誰もいない・・・何か自分が守るべきものがあるのだろうか?山のトレーニングは多少積んだが、52才という年齢と初心者の自分で譲の慰霊の地にたどり着けるのだろうか?息子の婚約者であった多映子の気持ちを知ってしまい、そして多映子に惹かれる自分がいる。譲の命日、そして譲の最期の地で譲の意思を聞こう。ますます強さを増す雪に命を奪われてもかまわない。それも譲の意思だろう。譲の意思に任せよう。
前日に山に入り、若者ならダイレクトに行けるだろうに、さすがに52才の初心者にはきつく、昨夕やっと途中の避難小屋にたどり着いた。最後の夜はあまり眠れず、今朝早く小屋を出てやっと夕方になってここにたどり着いた。雪のない季節に2度、雅司に連れてきてもらったが、雪山とはこれほど大変なものだったのだ。滑落で怪我を負った後輩を助けて、谷底からここまで帰ってきた息子譲を誇りに思う。だがもう体力は残っていない。崩れるように腰を降ろし、雪で小さな慰霊碑を作った。本当は石を積むのだろうが、雪を掘る力など残っているはずもない。ザックを降ろし、仰向けに雪の上に横たわる。
・・・ふと、何かの音が聞こえたようだ。頭を上げ腰を上げ目を凝らすと、見覚えのある青いヤッケが雪にかすむ向こうからこっちにやってくる。あれは雅司だ。これが譲の意思か・・・雅司に自分の正直な気持ちをぶつけてみよう。譲のいるこの地なら正直に話せそうだ。
あれは・・・叔父さんのようだ。「やっと追いついた。どうやら間に合ったようだ」。今なら、ここなら、ずっと言葉に出来なかった気持ちを語れそうだ。叔父さんに自分の正直な気持ちを吐露してみよう。いやぶつけてみよう。
ここでこの作品は終わる。ここから何かが始まるのだろう。2人の次の台詞を聞きたい気もするが、余韻を持った終わり方は上手だなあと思う。海洋小説もたまに読むが、山岳小説に比べると作品も少なく、秀作と感じるものが少ないように思う。何故だろう?それは海より山の方が、より過酷な自然があるからだと思う。容易に孤独と生死の狭間に落ちてしまうからか・・・海よりは圧倒的に美しい景色がそれに深みを加えるからかもしれない。

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