-ウェブマスター日記 2023/1-2

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2023/2/26
今シーズン初の大学ヨット部コーチング日です。天気予報は、我が在所は晴れ、ハーバーのある琵琶湖は曇りなので、バイクで行く予定でした。いつものように4時頃起き、PCで道中の天気予報もチェックすると、京都はずっと雪で、こりゃバイクはやばいかも?となり、折り畳み自転車&電車で行くことにしました。時計を見ると5時を回っており、朝のおつとめ・着替えなどして自転車で出発。
最寄り駅に着いて自転車を畳み輪行しようと思ったら、折り畳み自転車なのに畳めません。買って数日なので、組み立てましたが折りたたんだことがありませんでした。初めての折りたたみに失敗しました。「キャプテンスタッグ・シングルスピード・16インチ・アルミフレーム10.5kg」という自転車で、輪行用収納袋・ワイヤーロック・折りたたみペダルを追加注文したものです。変速機のないシングルスピードなので、上り坂はきついですが、変速機が無いので少し軽く、壊れにくく安い利点を選択しました。合計で30000円ほどです。
6:08、JR北伊丹駅前自転車置場に置いて、電車に乘りました。数分早ければ1時間半で目的地に着けたのに、次の電車が快速で駅を通過してしまい、乗り継ぎが悪く2時間掛かってしまいました。8:20、セブンイレブン大津松山町店で、「フルーツオーレ500ml98円+マーガリン入りレーズンロール4個118円=233円」購入しハーバーへ。ハーバーでは、Ritsと当方だけ練習していました。
今シーズン初めてみんなに挨拶します。キャプテンなどと話し、艤装を終えた部員や女子マネさんたちとお喋りしながらパンを半分食べました。マネさん達は、部員のお昼ごはん用タッパウエアを集めています。合宿所で昼食を作って、昼に持ってきてくれます。一部の部員は、石垣島合宿に参加しています。1・2月の寒い時期1ヶ月半、温かい南の海でセイリング、羨ましいです。社会人中心の合宿で、大学生の参加は少なく、関東の2大学の学生が1月に3日ほどの参加で、なんだか勿体ない。当方は後期試験後、2月に入って前半組と後半組に分かれて参加し、後半組はまだ石垣島です。前半組に参加した選手に聞くと、中・強風の中、別大学選手と組んだり、僕より少し年上の三船名コーチからのアドバイスを受け自信をつけたようです。
こういうネベルの高い練習やレースに参加すると、まだ潜在している自分の乗っているボートの速さを体験し、自らの目標が自然に高くなります。高いレベルで揉まれると、それが普通になり、学生レベルのレースが少し簡単に見えます。僕も学生時代ナショナルチームに選ばれ、合宿に参加して社会人レーサーの速さを身近に体験し、世界が変わりました。学生のレースでは負けない自信がつきました。僕がこのチームのコーチになった20年前は、対外試合・対外練習を勧めても、「僕らの目標が学生のレースなので」と柔らか頭ではありませんでした。参加するのは次男だけでした。学生ヨットは2人乗りなのでいろんな部員とペアを組んで予選突破し高いレベルのレースに参加しました。ずっと説き続けたた結果か、5年ほどして参加する選手が出てきてクラブ全体のレベルが上がり、10年ほどで全日本インカレに参加できるようになり、ここ5年はインカレ予選突破は当たり前になりました。今では私が何も言わずとも、選手が琵琶湖に留まらず、レベルの高い関東のレースを中心にどんどん出掛けて行きます。国体予選にも参加し、成年男子京都代表の定位置になりつつあります。
AM練習を見て、1回生のレベルが上がっているのを感じました。昨年全国総合3位を獲得した主力であった4回生が卒業しましたが、この時期としては高いレベルでのクラブ内競争があり、11月までまだまだ伸びそうです。4月には新しく1回生が入部して来ますが、今年11月の主力は今いる3学年です。
12:30ハーバーバックでハーバーに戻り、マネさんから配られた昼食です。コロナ禍以前は合宿所に戻って一息つきますが、まだ各自のタッパウエアを受け取って、キャプテンの「今日の献立は?」の一声に続いて、食事を作ってくれたマネさんが献立内容を発表し、「頂きま〜す」。
PM練習の始まりで、470チームにアドバイスして沖に出ました。7艇並んでの帆走練習では、風の入り方も含め、どうしても早い船と遅れた船が出ます。遅い船は速くしようと帆走しながら各種のコントロールを動かし横の船とスピードの違いを検証します。それなのに、前に出た船がセイルを緩め遅い船に合わせてしまうので、検証できません。レベルの高い艇団では、それも良いのですが、1回生もいる艇団なので、速い船と自艇との差を実感しなければなりません。遅い艇に合わせるのではなく、速い船に皆が合ってこないと次の高いレベルに行けません。「全国にはまだまだ早い船に山のようにいる。僕らはチャレンジャーでないと・・・」と話しました。
弱い西風でした。AMは、南西(三井寺)からの風〜北風〜西風〜南西とブローが入りながら中強風の良い風でした。PMも、中強風を交えながら強弱・シフトの多い海面でした。気づいたことをマイクや肉声でアドバイスしながらの帆走で、久しぶりに大声を張り上げたので、翌日の朝は少し声がかれていました。
16時にハーバーバックしました。解装が終わった選手たちが、マネさんの作ってくれたおにぎりを取りに来ます。いつもならこれだけですが、「もやしスープ」がありました。僕はおかわりして2杯頂きました。温かくてとても美味しい。練習中は何度も雪雲がやってきて降られました。北の比良山系は真っ白で、伊吹山・鈴鹿山系も真っ白。みんな、「うわ〜旨い、温まるわ〜」と大好評です。練習始めから既に半月ですが、初めてスープを作ったそうです。マネさんたちも選手に配り終えてから飲んで「美味しいね」とニコニコでした。これからも出てきそうです。ただモヤシだけがコップの中に残るようで、コップを傾けながらコップをポコポコ叩いています。「指があるやろ」と僕は指で残ったモヤシを食べますが、みんな「え〜指ですか〜」と上品です。
最後のミーティングで喋って、帰路に着きました。往路同様、「小説・田中カツ・田中正造の妻と明治の女たち/渡辺順子著」という本を読みました。朝読み始めて、1/3ほど読みました。この本は、母の実家の本家の現在の当主から紹介された本です。今年の正月、家内と両親の実家と本家・関連会社などを巡りました。母の実家は、明治時代の衆議院議員で足尾鉱毒事件を追求し、ついには明治天皇に直訴して議員辞職した田中正造さんの妻カネさんが晩年住んだ家です。カネさんは1849年生まれで、大正2年(1913)に田中正造さんが亡くなった後、1925年76才の時カネさんの妹ムラさんの嫁ぎ先である母の実家に移り、昭和11年(1936)87才で亡くなるまで暮らしました。昭和3年(1928)生まれの母は、8才までカネさんと暮らしました。この小説は、カネさんは子供の頃、田沼の母の実家から50mほどの「一瓶塚稲荷神社」のお祭りに母親とお姉さんと一緒に喜んで走っていく場面から始まりました。正造さんの実家は隣町で、父の実家の近所の住所や、父の1つ上のお兄さんが養子に行った地名などが出てきて、楽しく読めました。あと2/3もあるので、まだまだ楽しめそうです。
最寄り駅に戻り、18:51自転車Pから出して(保管料100円)帰宅しました。NHK「ダーウィンが来た」、風呂、NHK大河ドラマ「どうする家康」を見て1日が終わりました。


2023/02/19
いつものように4時頃起き、ゴソゴソして朝食時間に台所に行き、家内に「おはようございます」と挨拶すると、「おはよう。朝ごはん、パンで良い?」って聞かれたので、「いいよ」。いつもは朝食が出来ているけど、日曜日はお休みの日です。お出かけしない日なら、トーストするので、冷蔵庫から食パンを出そうとしたら、「モーニング、行かない?」と誘われました。「いいよ、行こう」。
9:04、近所のカフェ「MIYABI」さんに行き、「ワッサンバケットレーズン286円+自家製アップルパイ305円+フルーツサンド448円+パリパリもちもちドーナツチョコ214円+ドリップコーヒーホット290円+ココアホット340円=1883円」を楽しみました。土日祝日には、パン食べ放題のモーニングがあるようで、雨なのにお客様で半ば席が埋まっています。外にもテーブル席があり、犬のお散歩中のお客さんがパンを楽しんでいます。
家内と、前日土曜日に我が家LINEに送られてきた次男とこの長女すみれちゃんの幼稚園卒業音楽会のことを話題にあれやこれや。年長さんなので6才ですが、ステージで演奏する園児全員がどこも間違えず、素晴らしい出来でした。すみれちゃんはシロフォンですが、シンバル・大太鼓・鍵盤楽器・・・同じパートを2人ずつで演奏していました。シロフォン5台・10人が、5つの別の演奏をしています。2人がピタリと同じ動きをし連打しているので、隣の子のマネをする余裕がありません。みんな自分のパートを覚え、ピタリと音が1つになって素晴らしい。こんなの何ヶ月練習すれば出来るようになるのだろう・・・驚きです。僕らの時代は当然、息子たちの保育園時代を思い出しても、いい加減な子がいたり、横を見て真似る子がいたり、そういうのが面白い演奏会でした。1世代進んで、今の幼稚園児はこんなに上手になったのか?とびっくり。
家内と話していると話題が尽きません。家内はよく喋る方ではありませんが聞き上手で、仕事の会合でも男性に人気です。さっぱりした性格なので、女性だけの集まりは苦手で、男性の中にいる方が女性の機関銃喋りに圧倒されることなく居心地が良いそうです。中高時代は、ESSや放送部に所属し、定型句は上手に喋り雰囲気を良くします。だから会合の司会進行役によく指名され、楽しそうにやっています。
ユニクロに行ってみました。家内は、仕事中に着るカーディガンを見つけ買いました。今のがくたびれてきたので新調するようです。前開きでボタン留め。ポケットが無いのばかりでお眼鏡に適わず店を出ましたが、その2Fにあるユニクロ系列のGuに入ると、ポケット付きがあって即買いしていました。帰宅してみると、ほぼ同じのが2着もありました。これをローテーションしているんだって。1着はほずれを修理しています。そう言えば、「これ直して」と言われ、直した記憶があります。僕は10年ぐらい前にユニクロで購入した半袖ニットベストが気に入って、春〜夏、夏〜秋季節、長袖Tシャツの上に着ていますが、肩の部分が日焼けして色あせしています。前ファスナーで左右にポケットがあり使い勝手が良いです。ニットなので、柔らかいシルエットになり、ここ数年新調しようと探していますが、見つかっていません。今回もパスしました。ユニクロに、「感動ジャケット」「感動パンツ」というのが売っており、ちょっとした時に使えそう。
隣にある「阪急オアシス」で、ヨーグルトなどを購入しました。冷凍餃子を買ったので、一旦帰宅して冷蔵庫へ。朝からの雨がまだ降っていますが、能勢町のカフェに行ってみることにしました。川西池田からR173で北上し、12:19「cafe soto」。ゆったりした4人がけのテーブルが並び、開放感があり気に入りました。軽食がないそうで、ドリンク&ケーキのカフェでした。雨なのにお客さんがそれなりに入っていました。席がゆったりなのであまり多く入れませんが、屋外席もあるので気候の良い春〜秋は気持ち良さそう。
「ドリンク520円×2+ケーキ×2=2140円」先払いで楽しみました。低い壁を隔てたお隣の席は、3人の3〜40代の女性3人がおられ、女子会で楽しそう。ケーキセットと家内の写真を撮り、家族LINEに流しました。
雨の中、帰宅しました。前週に続き、DVD「10年先も君に恋して」第2・3回/全6回を観ました。NHKドラマ10で放映されたドラマで、大森美香脚本です。2010年放送のこのドラマを観てから、大森美香脚本作品好きで、僕の人生最高のドラマです。因みに人生最高の映画は「ジョーイ」です。僕が「最高だ!」と何度誘っても、1週目だけしか観てくれませんでした。ラブストーリードラマなのですが、タイムトラベルも入ってるので、こういうのが家内は苦手です。風呂に入って、NHK大河ドラマ「どうする家康」を観て1日が終わりました。


2023/2/12
父親の17回忌。法要を市の中心にあるお寺さんで行います。亡くなって17年目なので、僕ら夫婦と弟一家が参集するだけです。仏間から父の写真と位牌を持ってきて準備完了。と言っても、みな家内がやってくれました。なんだかんだ家内にお世話になりっぱなしです。我が家が一人前に世間様の中で存在できているのは、家内のおかげです。
四輪でお寺さんに向かいます。市内に入ると、「白雪まつり」でお寺周辺が大賑わいです。お寺さん前の道路が歩行者天国になっているのか?と入ってみましたが、車も通れました。でもお寺入口前は、利き酒行列で駐車場に入れません。車を置いて交通整理したら入れそうでしたが、難儀だったので別の駐車場に入れることにしました。車を置いて、旧白雪本社横を通ります。大変な人出で先に進むのも大変な賑わいです。コロナ禍前までは毎年この時期に開催されていたお祭りですが、3年ぶりに復活しました。屋台が多数出ていて、利き酒の大行列、そしてお寺さん横の広場がメイン会場で司会者が催しを進行していました。
11時から法事ですが、まだ1時間弱余裕があります。弟のお嫁さんに「白雪まつり」のことを伝えようと電話しますが繋がりませんでした。僕ら夫婦が境内に入り本堂に入ろうとしたが開いていません。「あれれ?」、前もって遺影などを準備しようと思ったのに・・・。母屋の方に向かうと、法主のお母さんが出てこられ、「本日は・・・?」「11時から父の17回忌をお願いしていたのですが・・・」「法主から何も言われていなくて・・・」と慌てています。すぐに母屋に戻り、メモを確認し、「法主は、本堂ではなくて我が家での法要と思っているのではないか・・・」とまたまた大慌て。でもまあ、毎年の法要や、両親の葬儀から回忌など何度もお世話になっている関係なので、「何とかなるだろう」と皆笑っています。
法主さん自身は10時からの法要でお出かけ中でしたが、バイクで戻ってこられました。やはり我が家での法要だと間違っていたようで、我が家に寄ったけど不在だったのでお寺に戻ってきたそうです。法主さんは長男と同じ中高の先輩なので、身近に感じてくれています。半年前のお盆法要では、私がヨットレースで不在だったので、帰省していた長男一家が仕切ってくれました。法主さんの小学校の友人が、僕が教えていた伊丹ジュニアヨットクラブ部員だったので、そっちの方でも身近に感じてくれています。
弟に電話すると、僕と同じ駐車場に車を入れたところのようで、弟夫婦と長女がやってきました。長男くんは京都の下宿から帰ってきていないようです。本堂での法要が無事終わり、車で近所の和風レストラン「さと」で食事をしました。「さと」は、中学高校の同級生が経営しています。
姪のRitちゃんは、M女子大の3回生で、来年学業を終えて就職します。就職活動をしているようです。栄養士になるので、学校給食や社員食堂・大学食堂などに栄養士を派遣する会社に入りそう。引く手あまたの資格なので、就職に困ることは無さそうです。旅行が好きなので、3回生の1年間、休みがあるとあちこち行っていたそうです。高校同級生が北海道大学にいるので、日本最北端の北海道・稚内にも行ったそうです。岡山倉敷、山口下関、九州熊本、城崎・・・。
JRの「サイコロ切符」を教えてもらいました。新幹線・在来線利用往復5000円で3日間目的地を楽しめるそうです。山口などその切符を利用したそうです。4500円でエントリーし、サイコロで目的地が決まり、500円追加して往復切符を手にするそうです。どの列車に乗るかは自分たちで決めるそうです。
そこで解散し、帰宅してDVDドラマを観たりして夜になり、NHK大河ドラマを見て1日が終わりました。
日曜夕方、スマホに電話が入っているのに気づき、慌てて折り返しました。数年前まで乗っていたD級ヨットレースへのお誘いでした。以前所属していたチームがメンバー不足になり、同じくメンバー不足になった別チームと合流し、大学ヨット部コーチとして抜けがちな僕がメンバーから外れました。2つのチームは、出身のKG大学ヨット部の先輩中心のチームで両方に先輩が乗っていました。それ以前に、メンバー不足で解散したK大ヨット部OBチームを吸収していたので、現状はKG・K・日大3つの大学ヨット部OB合同チームでした。舵を握る要のヘルムスマン(KG3つ上のIsa先輩)が今年から創業した会社をリタイヤして山口県に移住されるので、同期のKG先輩も身を引くようでレースメンバーが1人になってしまいました。
そこで僕にお誘いがありました。今年も大学ヨット部コーチは継続中ですが、レースが好きなので勿論OK。加えて、もう一人誰かメンバーいませんか?とのこと。それも引き受けて、明治OBのSugさんを誘いました。息子さんが次男のジュニアヨットクラブと高校ヨット部の後輩です。今年から大学生で、お父さんの後輩になるそうです。詳細をLINEで流し、返答待ちです。翌日、メンバーに加わるとの返事があり、今シーズンの参戦メンバーが揃いました。


2023/2/10
半年に一度のバイク点検日です。「ホンダドリーム」さんに3台の点検を予約していました。生憎の雨です。1台目「通勤リード110」を倉庫から出してかっぱを着てドリームに向かます。12ヶ月点検を2時間、ドリームさんの2Fでココア飲みながら本を読んで過ごしました。「ひと目でわかる日中戦争時代の武士道精神/本間政憲著」をほぼ読み終えました。リード110には特に問題なくありがたや。「12ヶ月点検11000円+エンジンオイル交換(ウルトラE1SL・0.7L1078円+部品1100円+工賃1100円)=14278円。
雨が上がっており、カッパ無しで帰宅しました。お昼ごはんを食べ、倉庫から「里山VTR250」に乗り換えて、銀行に寄ってから再びホンダドリームさんへ。また雨が降ってきて、再びカッパを着て出発。12ヶ月点検なので、点検終了までまた2時間。代車の新型リードに乗って帰宅しました。また仕事が入ったのでそれをこなし、倉庫から3台目の「招き猫CB400SB」に乗り換えてまたまたホンダドリームへ。CB400SBは車検なので暫く預けます。
「VTR250」の点検が終わっていました。「法定12ヶ月点検が工賃14300円+オイル交換(ウルトラG1SL5W-30・1.9L・3135円+ショートパーツ1100円+工賃1100円)+リアブレーキフルード交換(2R・BF・DOT-4・0.2L・411円+工賃2200円)=22246円」。特に悪いところはなく特別な費用は無しでした。
雨は降り続いており、「里山VTR250」に乗って帰宅しました。


2023/1/22 服部天神宮
家内の提案に従い「服部天神宮」に行くことになりました。四輪に家内を乗せ、伊丹空港〜蛍池から、R176で阪急宝塚線沿いに南下します。服部天神駅近くまで来ると、R176に面して鳥居が建っていてすぐに分かりました。
12:29、境内のPに車を入れて参拝します。駅から近い街中の繁華な場所にある大きくないお宮ですが、参拝客が多いです。お正月明けということもあるでしょうが、休日はこのぐらい賑わっていそうです。このお宮は、「足の神様」で有名です。僕ら夫婦がいつまでも自分の足で楽に歩けることを願って。加えて、孫2人がサッカーを始めたので、その上達を願って参りに来ました。境内に入ると、大きな絵馬が置かれていました。
『招壽 大国主神・稲羽之素菟・八上比売 令和伍癸(き)卯(う)歳 服部天神宮・豊中えびす神社』
「くつ供養受付中」と書かれた立て看板が立っていました。
『日本では古来より、長く大切に使われたものには魂が宿ると考えられ、真心と感謝の想いを込めて神社で供養してきました。 愛着をもって使っていたくつに感謝し、こころを整えられるよう、皆さまの想いが込められたものに祈りを捧げ、供養いたします。 社務所にてくつ供養の申込を受付しております。 くつ供養は毎日受付しております。 ご都合が良い日に、くつを段ボールもしくは袋に入れてご持参ください。 初穂料は、段ボールや袋の大きさによって変わります』
お参りし、絵馬を授かり願い事を書いて絵馬掛けに掛けます。他の絵馬を見ると、天神様なので合格祈願を願うもの、足の御病気快癒を願うもの、サッカー上達を願うもの・・・様々な願いが並んでいました。
菅原道真公の像があり、膝の部分を触る方が多いようで、そこが色あせています。多くのわらじが奉納されています。健脚祈願の方もいそう。そういえば、絵馬掛けにマラソンの記録上達を願う「サブ4」や「サブ3」の達成を願う絵馬もありましたね。
五輪塔が三塔並んでいます。謂れが書かれたB5紙が置かれていました。
『服部天神宮と川辺左大臣藤原魚名公の墓
摂津国豊能郡は、もと川辺郡と称し、ここにあった川辺荘は藤原魚名公の別業であったと伝えられ、ここ服部郷は川辺郡機織郷から服部と地名が生まれたといわれています。
川辺左大臣藤原魚名公は藤原鎌足の曽孫にして光仁・桓武両朝に幾多の要職を歴任しましたが、延暦元年事に坐し太宰府に左遷御下向の途次、摂津国川辺荘の別業において病に臥して身を動かすことあたわず「よろしく京師に帰養すべし」と恩勅がありましたが、遂にこの地にて薨ぜられ、服部郷松ヶ市にその骸を葬られました。
それより約百年後の延喜元年、菅原道真公もざん言に逢い太宰権帥に流される途次、足の病に悩まされましたが此の地において村人の案内によって医薬の祖神少彦名命を祀る天神祠に詣でその平癒を祈願されました。そして境内近く路傍の片隅にある五輪塔を御覧になって、これはまさしく先賢魚名公の墳墓であることを知られ「昨日は人の身、今日は吾が身にふりかかるさだめか」と嘆ぜられ懇ろに供養を捧げられました。
かくて菅公は吾が天神祠と魚名公の御神霊の加護によって足の病が全快し、無事筑紫に旅立たれたと伝えられます。
菅公歿後この天神祠に菅公の霊を合祀し堂宇を建立し、吾が服部天神が全国津々浦々にまで聞えて、足の神様としての霊験をいただく善男善女で門前市をなす様になったと申し伝えられています。
魚名公の子孫の正統は四条家で、四条流庖丁道を伝え、この四条家の祖たる魚名公は、日本料理、割烹調理の祖神として料理飲食を業とする方々の崇敬をあつめています。  服部天神宮社務所 豊中市服部元町1丁目2番17号』
下がっている絵馬の説明には、『文化・文政(江戸時代末期)の頃、全国からの参詣者で賑わう服部天神宮案内図』と書かれていました。
帰路、自宅近所まで戻り、大型カフェで僕はハンバーグ、家内はサンドウィッチを食べました。帰宅後、Amazin Primeビデオを楽しみ、NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ておやすみ〜になりました。


2023/1/15
家内は、仕事で神戸方面のホテルへ。10時に駅まで送っていき、一旦帰宅して「通勤リード110」に乗り換えてR171を西へ。係留艇に行こうと思っていましたが、久しぶりに芦屋海洋センターに寄ってみることにしました。「兵庫ジュニアヨットクラブ」は練習しているかな?
ハーバーに着くと、3艇のOP艇が出艇するところでした。小さな子たちばかりで、上位選手は遠征中かな?暫く、ハーバー前で練習しているジュニアたちを見て、ジュニアのお母さんかな?と思われる方に、声を掛けました。「ジュニアのクラブの創設に関わりました」「あ、Umeさんと・・・」「そうです、Umeさんの長男くんとうちの次男が同じ学年でした」。ネームカードを渡し、大学ヨット部のコーチをしていることを話し、大学ヨット部に興味を持ってる子がいたら、体験できる日に招待しますと伝えました。この日来ているメンバーのあれこれを教えてもらいました。この方のお嬢さんは中2ですが、お父さんがオーストラリア人で体格が良くなったので、OPを卒業しレーザーにステップアップしたそうです。JSAFの強化選手に指定され、年間100日も練習しているそうです。沖縄座間味合宿に参加し、ど強風の中練習してきたそうです。
僕が大学4回生の時の青森国体の数ヶ月前、在所の伊丹市の市長さんから市内在住の国体選手が呼ばれ、「ヨットって市内の池では出来ないの?」と聞かれ、「出来ますよ」とジュニアヨットクラブの創設が芽生えました。母校KGヨット部の伊丹市在住OBが数人集まり、伊丹ヨットクラブが出来ました。次男がそのクラブに入部し、同学年の親数人で「やっぱり海で練習しないと駄目だよね」と、レースで上位を狙うフィールドの改善に動き出し、県営の芦屋マリンセンター(ヨットハーバー)内に姉妹クラブ「兵庫ジュニアヨットクラブ」を創設しました。Toyさんという公立学校教員をやってるお父さんがおられたので、各書類の提出がスムーズにいきました。
コーチしている大学入学目指して勉強し、ヨット部に入ってやりたいと思ってる子がお母さんドライブのOPをカートップした車で来ました。中学受験し、大阪の四天王寺に通っているようです。ご両親もその大学出身で、これは有望です。母娘さんと暫く話しました。現在当方ヨット部2回生にいるこのジュニアヨットクラブ出身のRisちゃんを目標にしているようです。
昨年のOP全日本優勝したSouくんがやってきました。中3なので次の二次選考会には年齢的に出場できないので、遊びに来たようです。OPは全日本上位40選手だけが出場できる二次選考会で、世界選手権・ヨーロッパ選手権・アジア選手権などの大陸選手権に派遣する選手を選考します。上位選手は、来月の二次選考会の会場である蒲郡に毎週末遠征しています。船を蒲郡に置きっぱなしにしているようです。Souくんは、次男の母校である大阪の清風中学に通っており、勉強レベルも高いクラブなので、当方を受験するかもしれない。是非・・・。
練習していた子たちがハーバーバックしてきました。コーチをしていたKinさんも戻ってきました。「あれ、・・さん」と声を掛けられ、あれやこれや話しました。理事長Edaさんも来られ、クラブ艇の配艇や夕方からの新年会のことで遠征組以外が集まって来るようです。
14時過ぎ、皆さんに挨拶し、帰路に着きました。18時過ぎに家内を駅まで迎えに行き、NHK大河ドラマ「どうする家康」を見て、おやすみ〜。


2023/1/9
数日前に、Imaさんからクルージングのお誘いがありました。「急だけど、今年初めてのクルージングを、いつもの仲間でします。来ませんか?」。家内に承諾を得て「OK、参加します」。9:30頃、ハーバーに行くことになりました。
倉庫から、「招き猫CB400SB」を出し、R171。中央環状道路にチェンジし、7:50「エネジェット」で給油。280km/11.53L=24.3km/L。7:54「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「ゆずれもんサイダー500ml98円+ぼんち揚199円=320円」購入。吹田ICから名神高速に乘り、桂川PAで休憩。京都東ICで下車し、湖西道路に乗り換えて、和邇ランプで下車し9時過ぎにYH着。
職員さんが「おはようございます」と声を掛けて下さいました。バイク装束から着替えようとウェットバーに入ると、Yasさんが職員さんを話しておられました。小さなハーバーなのでオーナー・利用者と職員が近くアットホームです。着替えていると、「コーヒー如何ですか?」と女性職員さんが持ってこられました。Nodさん・Imaさんが来られて、本日のメンバーは以上だそうです。Nodさんのチョッキの胸が光っています。「電熱チョッキですか?」「そう」、農業する時、必須だそうです。
Imaさんの船に移動し、艤装します。船を降ろしてもらい、ハーバーから離れます。この仲間と同じ「琵琶湖ジュニアヨットクラブ」のメンバーだったお父さんMaeさんが、Imaさんと同じ船を買ったそうで、柳が崎YHに置くそうです。同じ琵琶湖の「長命寺YH」に置いてあった船だそうです。これまた同じメンバーだったセイルメーカーやってるお父さんがこの日行って、レイジージャックをセットするそうです。とりあえず、柳が崎YHを目指します。僕がヘルムスで、南風の軽風でフルセイルにして琵琶湖大橋を目指します。大橋手前でリブレマリーナから出ているセイリングボート「アクタス」を見ると、コーチしている大学ヨット部OBくんが乗っていました。お客さんにセイリングを教えているか、クルーとして乗っているのか・・・。「・・くん」と声を掛けると、驚いていました。
琵琶湖大橋を南に抜けるとブローが次々に入り、15〜20ノットの良い風の中、クローズホールドで数度タックして柳が崎沖に着きました。ジブを2ポイントリーフして最高です。海ではそれなりに波が上がるけど、琵琶湖はクローズドな水面なので小さな波なので波が船の上に上がってくることがありません。皆ヨット乗りなので、誰がヘルムスしても綺麗に走るので気持ちが良いです。
何度かMaeさんに電話するが、準備が完了しないのでセイリングに出る予定が遅れているようです。昼頃、セイルをダウンし、YHのMaeさんの船が係留されている桟橋の後ろに着けました。4人ほどのメンバーで共同所有するそうで、皆さんに挨拶しました。セイルメーカーMurさんが中心になって、レイジージャックをセットしています。作業を見るとまだ数時間完成までかかりそう。船の上で昼食にしました。
1時間ほど休憩し、13時ごろ帰路に着きます。この風向と風速が続けば、一気に帰れそう。快調にジャイブしながら琵琶湖大橋手前まで来ましたが、風が落ちてきて14時過ぎに琵琶湖大橋を北に向かってくぐりました。リブレ前を北に進むと、冷たい北からの軽風が入ってきました。しばらく走って、機走に切り替えハーバーバック。
船を上げて、ハーバーから「お汁粉」が振る舞われました。しっかりしたカッパを着ていたので寒くはなかったですが、この時期の「お汁粉」は最高に美味しい。身体を温めて、船を片付けてウェットバーへ。本日の費用は、ビジターフィーも含め1500円でした。
バイク装束に着替えて帰路に着きます。湖西道路で南下します。往路は渋滞なしでしたが、春〜秋よりマシですが、渋滞が発生していました。「京都東IC」から名神高速に乘り、一気に豊中ICまで走り、R171を経て帰宅しました。


2023/1/4
自宅に戻る日です。りょうくん9才が漢字の書き取りの勉強をダイニングテーブルでしています。自分の勉強部屋でやったのですが、長男が答え合わせをしています。長男が上手に教えています。僕も長男に教えていた時代がありました。自室に戻っていったタイミングで、お嫁さんに「日本の学校では、どの教科が大変?国語?」と聞くと、社会と理科だそうです。イングランドで小学生に入学しました。向こうでは、オール・アウトスタンディングの成績優勝児でしたが、日本人は賢いので帰国後は苦戦すると思っていました。8月に帰国し、9月に入学した横浜の公立小学校は2学期制なので、まだ成績表はもらっていません。お嫁さんによると、日本語がクラスメイトほど細かいニュアンスを感じれないので、日本語で書かれた問題をきちんと理解できない時があるそうです。僕がいつも感じているように、お勉強は国語力が一番大事です。これから克服していくでしょう。
公園に遊びに行き、お昼ごはんを食べてから帰路に着きました。長男一家に最寄り駅まで車で送ってもらいました。羽田空港第1・2ターミナル駅で搭乗手続きをします。ここも機械での手続きですが、タッチパネルなので、伊丹空港のような非接触パネルでないので良い。帰路はANAだから、往路のJALとの違いだからかな?出発時間まで1時間以上あるので、売店をあれこれ覗き、展望デッキから滑走路を眺めたりして時間を潰しました。1時間を切ったので、保安検査場を通ってロビーで待ちます。17:00羽田発でしたが、30分ほど遅れました。朝一なら定刻出発なんだろうけど、夕方以降の利用客の多い羽田空港だとどうしても遅れがちになります。18:10伊丹空港着の予定が20分ほど早く着きました。家内を手荷物受取所に置いて、先にバイクへ。18:47「オリックスパーキングスポット伊丹空港駐輪場・800円」。
「通勤リード110」に乗って自宅に戻り、四輪に乗り替えて空港に戻ります。我が家から10分ほどの距離なので、これは助かります。荷物が出てくる前に空港に着いてしまうかと心配しましたが、電話すると近くで待ってるとのこと。「ハイハイ、見えたから行くね」、すぐに荷物と家内を乗せ帰宅しました。お正月、お疲れ様でした。


2023/1/3
夜中2時頃トイレに起きたら、1Fの照明が点いているのに気づきました。「消し忘れたのかな?」と階下に降りていくと、ソファーで長男がPCとスマホをアレコレしていました。「あ、お父さん」「電気、消し忘れたかな?と思って」。すぐに寝床に戻りました。「仕事なのか?」とも思いましたが、きっとこの日の鎌倉方面日帰り旅のルートや訪問地を練っていたのでしょう。長男はとても賢く、子供の頃でも私の言葉の矛盾に気づいてズバリとそれを指摘する子でした。気になることはすぐに調べ、すぐに質問してくるので、時にはズバッとえぐられるので怖いと感じる人もいます。でも根は優しく、見ていないところであれこれ動く子です。
4時頃起きて階下に降りると、もう長男はいませんでした。ソファーで、PC開きながら本を読みます。お嫁さんが起きてきて、出してもらったお茶を飲みながら、あれこれお喋り。このお嫁さんだから長男をよくコントロール出来ているんだな〜とつくづく思います。家内は時に長男の指摘に怖いと感じるようで、僕や次男の見て見ぬふりをする男性の方が居心地が良いと言います。それぞれの凹凸が噛み合ってカップルが出来ています。
車に乗って鎌倉を目指しますが、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で人気が高そうだから鶴岡八幡宮への初詣をパスしようかと長男から提案がありました。僕はどちらでも良いのでお任せです。鎌倉の手前の「大船駅」前のPに駐車しました。ここから電車です。「ICOCA1000円」入金しました。9:53、JRに乗って「鎌倉駅」へ。10:05、江ノ電に乗り換えて「長谷」駅へ。
北に歩いて、「国宝鎌倉大仏」へ。途中、孫たちはどら焼きを買ってお腹に入れて喜んでいました。『私たちの宗旨 名称:浄土宗 宗祖:法然上人(源空)1133〜1212年 開宗:承安5年(1175) 御本尊:阿弥陀仏(無量寿仏) 称名:南無阿弥陀仏 教え:阿弥陀仏を深く信じて、ひたすら南無阿弥陀仏と称えるだけで、どんなに罪深い人でも必ず救われて明るい毎日を送り、浄土に生まれる事が出来る教えです。 お経:お釈迦様が説かれた無量寿経観無量寿経・阿弥陀経の三部経をよりどころとします。  鎌倉大仏殿高徳院』
家内が皆の拝観料を買って大仏様を拝みます。『国宝鎌倉大仏因由 この大仏像は阿弥陀仏である。源頼朝の寺女であったといわれる稲田野局(いなだのつぼね)が発起し、僧浄光が勧進(資金集め)して造った。零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作ったものではない。初めは木造で暦仁元年(1238)に着工し6年間で完成したが、宝治元年(1347)大風で倒れたので、再び資金を集め、建長4年(1252)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した。原型作者は不明であるが、鋳工として大野五郎右衛門や丹治久友の名が伝えられる。大仏殿は建武元年(1334)と慶応2年(1369)とに大風に倒れ、その都度復興したが、明応7年(1498)の海潮に流失以来は復興せず、露像として知られるに至った。大正12年(1923)の大震災には台座が崩れ、仏像は前に傾いたが倒れなかった。大正14年(1925)台座を補強し仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなされた。昭和35・36年(1960・61)の修理では、前傾してる頭部を支える頸部の力を、強化プラスチックで補強し、大正修理でなされた耐震構造を改め、大地震の際は、台座と仏体が離れる免震構造が施された。この強化プラスチックの利用と台座の免震構造は、日本の文化財としては最初のものである。
総高(台座共)13.35m・青銅仏身高11312m・面長2.35m・眼長1.00m・眉長1.24m・口広0.82m・耳長1.90m・眉間白毫径0.18m・眉間白毫高0.15m・螺髪(頭髪)高0.18m・螺髪(頭髪)径0.24m・螺髪数656・仏体重量121トン(32670貫)』
大きな草鞋がありました。大仏様の履物でしょう。『大仏様の藁草履 常陸太田市松栄町(旧郡戸村)の松栄(まっざか)子供会によって奉納された、長さ1.8m・幅0.9m・重量45kgにも及ぶ藁草履です。 この草履の制作・奉納は、戦後間もない1951年、「大仏様に日本中を行脚し、万民を幸せにしていただきたい」と願う、茨城県久慈郡(現常陸太田市松栄町)の子供達によって始められました。 松栄町会はその事績も後世に伝えつつ、1956年以降、3年に1度巨大な藁草履の制作を試み、当院への寄進を続けておられます。 *藁草履には、お金をはさまないでください』
大仏の中に入ろうとしましたが、コロナ禍で?部拝観中止になっていました。残念。駅の方に戻ります。途中のお土産屋さんなどに寄り道しながら、長谷寺の方に曲がりました。
『長谷寺 宗派:単立(浄土宗) 山号寺号:海光山慈照院長谷寺 建立:天平8年(736) 開山:徳道上人
本尊の十一面観音像は日本最大級の木造の仏像です。 寺伝によると、開山の徳道上人が大和国(奈艮県)初瀬の山中で見つけた樟(くすのき)の巨大な霊木から、2体の観音像が造られました。 1体は大和長谷寺の観音像となり、残る1体が衆生済度の願いが込められ海に流されたといいます。その後、三浦半島の長井浦(現在の初声あたり)に流れ着いた観音像を遷し、建立されたのが長谷寺です。 境内の見晴台からは鎌倉の海が一望でき、また、2000株を超えるアジサイをはじめ、木を楽しめます』
『大学案内板・長谷寺境内 境内にある文学碑を紹介します。
○高山樗牛記念碑 高山樗牛ここに住む/宮本和吉言
裏面「樗牛高山林次郎は1871年(明治4年)山形県鶴岡に生まれその文明批評は識見と情熱をもって一世に聞えた。1959年秋よりこの地に住み1902年12月24日平塚杏雲堂病院に逝く。1959年5月、建碑世話人(後略)」31歳で夭折した樗牛の著作は博文館版『樗牛全集』全7巻に収められている。
○高浜虚子句碑 永き日のわれらが為めの観世音 虚子
俳人、高浜虚子は1874年愛媛県に生まれた。正岡子規に兄事。「ホトトギス」を主宰して花鳥訊詠を提唱した。1959年に鎌倉で死去。代表作に「五百句」「虚子俳話」がある。
○久米正雄胸像
小説家、久米正雄は1891年長野県に生まれた。東大在学中に芥川龍之介・菊池寛らと第3次・第4次「新思潮」を創刊。夏目漱石門下となる。後年は流行作家として活躍。三汀と号して句作もした。1952年に鎌倉で死去。代表作に「破船」「学生時代」がある。像は、昭和29年鎌倉ペンクラブにより建てられた。
○大野万木句碑 観音の慈顔尊し春の雨/万木
裏面「時めく大政治家前衆議院議長国務大臣大野伴吹氏は、一面純情高節の人である。氏が徘句作家の万木であり、慈悲の権化観世音菩薩の信者であり(後略)」。1953年6月8日に建てられた』
家内が全員分の拝観券を購入400円し、中に入ります。次男が江ノ島で行われた「470全日本」に出場した時、家内と一緒に応援に来た時以来です。出艇・着艇時応援して、レース中は僕だけなら海上に出たのですが、家内と一緒だったので長谷寺観光して江ノ島参りしたり「しらす丼」食べたりしました。長男一家は、初めての鎌倉大仏・長谷寺です。本堂まで上がると、穏やかな逗子沖の海が奇麗です。複数のセイリング・クルーザーがメインセイルだけを上げて機帆走しています。日当たりのよい境内に蝋梅が咲いていました。
『久米正雄・胸像 1891年、長野県上田市に生誕。俳人・劇作家、漱石門下の小説家として活躍。鎌倉ペンクラブの初代会長でもある。関東大震災の際、長谷寺にて難を逃れ、戦中には当山復興にも尽力した所縁により、氏の3回忌にペンクラブが建立』
『高山樗牛住居碑 高山樗牛(林次郎1871-1903)は、明治を代表する評論家・思想家。そして文学者であったが、31才にして早世。短いながらも最晩年を長谷寺境内にて過ごした由緒と、その文筆活動を顕彰するため、大仏次郎等当時の文化人が発起人となり、昭和34年に建碑する』
「弁天窟CAVE」の案内板があったので見に行きます。洞窟に入ると、壁に磨崖仏が並んで彫られていました。表に出ると、「和み地蔵」という可愛らしい石仏が手を合わせていました。僕は長男一家より早く出てきたので、家内と腰掛けて待ちました。駅に向かいながら、昼食時間となったのでどこかで食べようと店探しをしました。踏切を海側に渡り、呼び込みされたお店に入りました。僕は「釜揚げしらすうどん」を美味しく頂きました。
江ノ電に乗って江ノ島へ。海岸道路に沿って走るルートになり、上天気に輝く海が車窓から見えます。その向こうに江ノ島が見えます。江ノ島は、1964年東京オリンピックのヨット競技会場。ヨット部だった学生時代から、何度ここに来ただろう。インカレ団体戦・個人戦、ナショナルチーム合宿・・・。次男が小学生でヨットを始めてからも、コーチとして親として、何度も訪問し楽しませてもらいました。
長男一家は江ノ島まで行くというので、海岸の手前で家内とベンチに座って待つことにしました。家内は、マスクを忘れてしまいお嫁さんに1枚貰ったのでコンビニに買いに行っていました。僕は、13:10「セブンイレブン藤沢片瀬海岸1丁目店」で、「森永チョコモナカジャンボ150円」買って糖分補給しました。前を通る観光客のファッションについてあれこれ、寒いのに綺麗な足をしっかり出して歩いている美女。男のために、ありがたい。まさに歩く弁天様です。
長男一家が戻ってきて、一緒に江ノ電江ノ島駅へ。そこを通り過ぎて、「江ノ島モノレール」江ノ島駅乗り場へ。大船駅に乗り入れていたレールにぶら下がるタイプのモノレールです。上空を走るモノレールの特性を活かし、小高い丘が続くアップダウンを縫って走ります。視線が高いので少し遠くまで見渡せて良い。
大船駅に戻り、車に乗り換えて長男宅に戻りました。夕方なので、室内であれこれ遊びました。夕食用にお嫁さんが餃子を作り出しました。我が家は、出来合いの冷凍餃子を利用していますが、お嫁さんが作った具を餃子の皮に包みます。具と皮をダイニングテーブルに持ってくると、ルーカスくん4才が手伝い始めました。上の2人は興味なしですが、3男はタイプが違います。流石、マイ包丁を持っているだけあります。僕も家内も手伝いました。
出来上がったので、カセットガスボンベ式のホットプレートが出てきて、ご飯と共に皆で夕食にしました。ちょうど食べ終わった18:30、りょうくん9才の英会話の時間になりました。イングランドの女性の先生とPCを繋げての会話です。1時間の勉強時間が終わり、歯磨きしておやすみ時間になりました。


2023/1/2
4時に目が覚め、ダイニングキッチンでPC広げて、読書しました。吉井理人著「最高のコーチは教えない」。御用達の地元の本屋さんで見つけた本です。一風変わった特色のある本屋で、僕の思考に沿っているので毎月探索しています。7時前にお嫁さんが起きてきて、お茶を出してくれました。朝のあれこれをしている横で話しかけ、あ〜だこ〜だ話しました。義理の父親の僕に気を使いすぎることがなく堂々といつもの通り行動しているので、気を使わなくて済むから好きです。やがてみんな起きてきて、孫たちは早速遊びだします。次男一家が埼玉川口からやってくる日なので、3人の孫たちは楽しみにしています。
家内と散歩ついでに近所のコンビニに行くことにしました。一番下のルーカスくん4才がついて来ました。僕に耳打ちして、「お祖父ちゃん、おもちゃ買ってくれる?」「いいよ、1個だけね」「じゃあ、ついていく」。8:21、家内が「ファミリーマート荏田西4丁目店」で、「カフェラテM180円」購入。8:23、僕は「苺のショートケーキ2個450円+チョコベビー132円+ポチピンク犬198円=780円」購入。イートインで、家内とショートケーキを食べました。ルーカスくんは、チョコベビーを食べています。「お兄ちゃん達に言ったら取られちゃうよ」「うん」。ポチ袋を買ったのは、やってくる次男の子たちに手紙を書いて入れるそうです。「お祖父ちゃん、僕が言うことを書いてね」だって。
家に戻ると、いきなりお兄ちゃんたちに、「お祖父ちゃんに買ってもらった」とチョコベビーを見せ、分けてあげていました。りょうくんとこうちゃん6才はNETFLIXでイングランドプレミアリーグの試合ダイジェストを見ています。3年ロンドンに住んで、2人共サッカークラブに入っていました。日本と違いサッカーの国なので、チーム名や選手の名前をよく知っています。ちょうどブライトンの試合を見ていました。ワールドカップ日本代表でも活躍した三笘薫がシュートを決めたところで大いに盛り上がっていました。長男が、「三笘はビッグクラブに移籍するね」と予想していました。25才で脂が乗っている旬な選手で、僕が見ても物怖じしないプレースタイルで堂々としており、スピードがあるので相手を抜き去って先にボールを触る一瞬の速さが魅力。一昨年4億円でプレミアリーグ中堅クラブに移籍しましたが、まだまだビッグネームになりそうです。
昼前に忠成一家がやってきてみんな大喜び。待てずに家の前に出る孫たちの見張り役として表に出ました。この機会を捕らえ、「お祖父ちゃんと本気で競争しないか?」と短距離走(電信柱1つ分)を提案すると、二つ返事で「やる!」。ルーカスくんには余裕で勝てるので、こうちゃん4つと勝負しました。「ヨーイドン!」、走る格好が良く、年長クラスでリレーに選ばれるぐらい速いので強敵だと思ったけど勝てました。続いてりょうくん9才(小3)。こっちには負けるかも?と思っていましたが、こちらにも勝利!僕が父に短距離走で勝ったのは、僕が小6の時で、僕が長男に負けたのは中2の時。
次男の赤い車がやってきて、みんな大喜びで迎えます。2台分のPがあるのでそこに入れました。最近の家はP2台分の家が多いですね。家に入り、長男に2人との本気の競争で勝ったことを伝えると、勝つ方法を伝授していました。「お祖父ちゃんに勝つためには、長い距離を競争したらいい。お祖父ちゃん、すぐにバテるから・・・」。余計なことを言います。
長男のお嫁さんがコーヒーやお菓子を用意してくれて、あれやこれや話しました。お婆ちゃんから5人の孫にお年玉が出てきて、私の弟からのお年玉も出てきました。孫たちは、お母さんに渡していました。家内から、次男の子たちにも靴下のお土産が。孫たちは、ダーツで遊んでいます。2つの家は車で1時間ほどなので、2家族での交流が始まりそう。秋には、長男一家が次男の家を訪問していました。私は従兄弟が関西と関東で遠くて寂しかったけど、近くに従兄弟がいて羨ましい。暫くして、皆で近所の公園に行きました。サッカーボール・自転車、おーちゃん3才は長男家の3輪キックスクーターを上手に乗っていました。それを見て、次男が買ってやろうかな〜と言っています。キックスクーターやキックバイクはバランス感覚を養うので、自転車には1日で乗れるようになります。りょうくん・こうちゃん・すみれちゃんは、みんなこれでバランス感覚を磨いたので、自転車には1回で乗れちゃいました。
かくれんぼが始まりましたが、りょうくんが遠くに逃げたので追いかけっこになり、みんな走り回っています。おーちゃんもお姉ちゃんを追いかけていますが、ルーカスくんは志向が違うみたいです。追いかけて行きますが、しばらくすると僕らのところに戻って来ます。朝ゲートボールをしていた野球グラウンドに降りてサッカーボールを蹴っています。長男を中心に楽しそう。もちろん僕も加わってキック!
家に戻り、麺類昼食。うどんとお蕎麦を作ってくれました。家の中でかくれんぼ、外でサッカー。あれやこれやお喋りに花が咲き、あっという間に陽が落ちてきました。夕食食べて、次男一家が帰宅の途に着きました。


2023/1/1
例年なら、お正月は息子たち一家が帰省してワイワイ数日間を過ごします。ところが今年は長男から、「お正月、うちにおいで」と誘われました。「老いては子に従い」、私たち夫婦が横浜の長男宅に寄せてもらい、そこに次男一家もやってきてあ〜だこ〜だすることにしました。
7:30伊丹空港発の飛行機に乗るので、5:30前に家を出ました。四輪で家内とスーツケース2つを運び、空港で降ろしました。すぐに自宅に戻り、「通勤リード110」に乗り換え再び空港へ。6:08「オリックスパーキングスポット伊丹空港駐輪場」に駐輪して北ウイングJALへ。家内と合流し、6:30頃搭乗手続きをします。機械で予約番号と確認番号を入れるシステムになっていました。この機械がコロナ禍対応の最新式で、非接触ボタンでした。この感度が良すぎて、隣のボタンが反応したり、同じ番号がニ度打ちになったりして、それを削除してから再度打たなければならないので、慣れてきたのを含めて3〜4倍の時間がかかりました。隣の機械を操作していた方が文句を言い出し、フロアアテンダントの女性が「すいません」と対応しています。僕の所にも寄ってきたので、「これ反応良すぎて、かえってダメだね」と言うと、「そうなんです」と申し訳無さそうにしていました。TVCMで非接触エレベーターの宣伝をしていますが、こんな感度の良いボタンが付いているのなら反対に使いにくいエレベーターになりそう。もしPCのキーボードボタンが非接触になったらどうしようもなくなりそう。非接触を初めて使って、実感しました。
スーツケースは機内持ち込みサイズでしたが、手荷物と合計すると10kgを超えるので僕のブルーのと家内のピンクの両方預けました。保安検査場に移動し、あれこれチェック。鍵がポケットに入っており、ピー。
JAL104伊丹・B787に乗り、定刻7:30出発。進行方向に向かって右側に乗ったので富士山は見えず、外界に雲が広がり、海面に雲の影が落ちているのを見ながら空を楽しみました。東に向かって右側だったので、窓から日光が差し込み眩しいのでカーテンを探しましたがありません。窓の下のボタンを触ると、徐々に窓ガラスそのものが暗くなり、素晴らし遮光性でした。カーテンではないのでそれなりに外が見えて凄いと思いました。偏光サングラスのようです。どういう仕組になっているのだろう?
8:40羽田着予定でしたが、5分ほど早く着きました。スマホで調べながら栃木県を目指します。羽田空港第1・2ターミナルで、京浜急行でICOCA3000円チャージし、京急で品川に出て、JR上野東京ラインで北千住。東武特急「りょうもう9号」に乗り換えました。座席指定なのでいくらかな?と思いましたが、館林まで1050円でした。
11:36、館林駅着。関東平野は大きく、ここまで北に上がってやっと山。高い山の頂は冠雪しています。正田醤油の本拠地です。母の実家の本家から、明治時代に正田醤油に嫁ぎ、美智子皇太后の祖母になりました。母は父の仕事場だった関西に嫁ぎ、正田醤油が手に入らない環境になり、正田醤油の親戚筋のキッコーマン製品を贔屓にしていました。僕が買い物に行くとき、よく「キッコーマンを買ってきなさい」と言われました。
正田醤油の記念館があったけど、正月で開いていないのでパスし、少し歩いて「トヨタレンタカー館林駅西口店」へ。13時からの予約だったけど、すぐに借りることが出来ました。「トヨタ・ヤリス」初めて乗る車です。免責補償制度付きで6600円です。少し補償をアップグレードし、7150円にしました。3時間をオーバーすれば、日帰りなら同じ料金だそうです。
ハイブリッド車のような音で走り出しました。すぐに慣れることが出来ました。12:08、父の実家。近所にある本家の次男(僕の従兄弟)がやってる動物病院の角を曲がって実家(本家)が見えてきました。子供の頃遊んだ林がそのままで、実家の前の田んぼもそのままです。本家の長男(僕の従兄弟)は弁護士になったので、今は誰がこの田圃を耕しているのだろう?新宅の叔父さん(父の弟)も、もう年だし養子として跡取りになった本家の三男(僕の従兄弟)は、千葉で教員してるし・・・。本家の生け垣・庭内の植木が綺麗に整えられています。僕が子供の頃は茅葺屋根だったけど、現代式の家に建て替えられています。従兄弟の当主は太田市に出て弁護士事務所を開いて、マンションに住んでいるからいないと思っていたけど、日章旗が揚がり洗濯物が出ています。年末年始はこちらにいるのかも?声を掛けると1日潰れてしまうのでパスし、庭の見物だけにしました。「当家第4代・・源吾顕彰之碑」と彫られた大きな石碑が建っていました。これは初めて見ました。江戸から明治にかけての本家の当主です。帰宅後調べたら、Wikiには載っていなかったけど、「コトバンク」には載っていました。父の実家は、邑楽郡邑楽町光善寺の代々名主をしていた近隣では名の通った家です。私の祖父も村長・町長をしていました。従兄弟は、群馬県弁護士会会長と獣医師会会長をしていました。あそこの家に任せておけば良いでしょう・・・という地元では悪いことしないだろうと思われている家です。
母の実家の方に向かいました。12:56、栃木県田沼「一瓶塚稲荷神社(いっぺいづかいなりじんじゃ)」。ここで初詣。一瓶塚稲荷神社500円御守を授かりました。その参道にある実家の場所を見に行きました。実家の当主である従兄弟が足利市に出たので廃屋になってるかと思いきや、昔の下駄屋の家屋が残っていました。裏の土蔵がまだありました。その裏には新しい建物が建っており、従兄弟の子が住んでいるはずです。懐かしいな。子供の頃、裏庭に稲荷祠・土蔵と小さな家が建っていました。母の父(私の祖父)は、母が4才の時腎臓病で亡くなりました。
祖父も祖母の家系も代々武士の家です。祖父の先祖は、平安時代関東八州を切り取り京都朝廷から半独立した平将門を討ち取った俵藤太秀郷から続く佐野家の血を引く田沼家の家老。田沼家は佐野家の傍系として続き、江戸時代、江戸を一望できる本拠・唐沢山城の脅威を除くため、佐野家が転封されてから独立したようです。田沼家は細々と本拠地で続き、分家の一族から田沼意次が出た。
田沼町の中心地は、稲荷神社です。そこへのメインストリートに母の実家があり、明治時代になって、大勢の職人を雇って下駄の製造販売を営んでいました。母が子供の頃は30人ほど職人さんがいたようです。僕が子供の頃はあったが現在はなくなっている小さな家屋には、昨年末に祖母方の本家の現当主に連絡して知ったことですが、田中正造の奥様が晩年暮らしていたようです。
田中正造は関西ではあまり知られていませんが、北関東では現在でも有名人です。明治時代の衆議院議員で、日本で初めての公害として知られる足尾銅山鉱毒事件の被害を世に知らしめ、国を動かして汚染された渡良瀬川流域を回復しようと動いた地元の恩人です。国会で動きましたがどうにもならず、最後は議員辞職し禁忌で死罪だった明治天皇陛下への直訴に及び、即刻逮捕投獄されました。
その田中正造の政治資金のパトロンをしていたのが、祖父方の本家Tad家です。突然、地元の衆議院議員を失って困ったTad家は、仕方なく当主自身が立候補し、1期だけ衆議院議員を勤めました。この家は、菅原道真に続く家で、平安時代道真の子孫が朝廷から美作国(岡山県北部)の守として派遣されました。美作菅家党として武装化して美作国に根を張りましたが、室町時代初期、足利尊氏に味方し、尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し九州に逃走した時、討手の新田義貞軍に赤松円心と共に戦い、城を落とされ親戚を頼って北関東に逃走しました。縁戚関係にあった北関東の雄・佐野氏の家老に収まり、江戸時代まで武家をしていました。佐野家が転封された時、帰農して地元に残り名主として一定の勢力を保ちました。もし徳川家支配が終われば、佐野家を地元に迎える役目です。
次に、そんなTad本家巡りをしました。田沼町内にある「三好記念館」。Tad家がつくった美術館です。本家の新宅の一部に建っていました。陶磁器をメインに展示しているそうです。「管理者:公益財団法人三好園」と書かれていました。明治時代にTad家が創設した公益法人で、現在も奨学金事業を行っています。かつて田中正造衆議院議員の元で足尾銅山鉱毒事件告発のために行動していた黒澤酉蔵青年の学費を支援しました。その後黒澤酉蔵は北海道に渡り、現在の「雪印」を創業しました。この縁もあり、私が子供の頃買い物に行かされると、雪印製品を買うようよく言われました。「営業時間10:00〜16:00 定休日:日 年末年始・臨時休館有 料金100円」。残念ながら年始なので休館中でした。
ここの理事長も兼務しているTad家当主さんに1ヶ月前に聞いたら、上皇上皇后夫妻が田沼訪問した時、案内したそうです。上皇后の実家「館林・正田醤油」訪問もしたのだろうか?Tad家は祖父母の実家なので、いろいろ縁が繋がっているのでしょう。田中正造翁の史跡を訪ねて来られたそうです。三好園奨学金は、衆議院時代の歳費を使わずに積み立て、加えて私財を移転し、衆議院議員時代行動を共にした大隈重信公からも資金を頂いたそうです。
隣町「岩崎町」にあるTad家の主力「三好砿業株式会社」を訪問しました。続いて、「旧三好小学校」(現佐野市郷土資料保存三好館)。木造の趣のある校舎で、こちらもお正月休みで内部には入れませんでしたが、メンテナンスされて素敵に遺されていました。休館隣に現役の立派な「三好小学校」が建っていました。我が在所とは比べられない田舎町の小学校ですが、立派な鉄筋コンクリートの頑丈な建物で、在所に関係なく良い環境で勉強できる日本という国の良さを感じます。続いて、Tad家の旧宅。子供時代に何度か訪問した家です。小川が流れ、長い白い土塀を見て、なんとなく思い出が甦りました。家内にとっては、ここは初めてです。隣に、かつての主力「菱桝造林株式会社」がありました。林業の会社です。続いて、Tad家の菩提寺「西光寺」を訪問。Tad現当主から送ってもらった地図を頼りに墓地内の小道を上がり、先祖に手を合わせて来ました。
続いて、俵藤太秀郷の末「佐野家」の居城「唐沢山城」に向かいます。240mの低山の山頂にあります。麓は60m程なので、比高180m。山歩きでも登れますが、「唐沢神社」があるので、その参拝道が上がっており車で山頂まで上がれます。15:10「唐沢神社」P着。つづら折れの一方通行の細道しかなく、初詣の参拝客が多く渋滞していました。
『史跡「唐沢山城」沿革 唐沢山城は、佐野市の北、高さ240mの山全体をいい、往時の広さ550町歩と云われ、周囲を急崖に囲まれ、眺望は関東平野を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山、秩父・南アルプス・秀麗富士、東に筑波と、誠に自然の要害である。
当社御祭神・秀郷公により1000年前の延長年間築城とされ、公はこの城を中心に、天慶(てんぎょう)の乱を鎮定し大功をたてられ、その功により鎮守府将軍として、関東はもとより奥州方面にまで威勢を張られた。その後700年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として16世紀中頃に現在の形を整えたとされている。関東7名城の1つに数えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残し、代々の変遷の跡も見られ近世初期にまで下る整備の跡も伺われる。
江戸初期、山城禁止令により、佐野市の城山公園の地に城換となって、唐沢山城の歴史が終わるが、明治になり唐沢山神社が建てられると全山境内地となり、県立自然公園にも指定され四季がおりおりの風景の中に、秀郷公以来の歴史が偲ばれる。
(山内の案内図がレストハウスにありますのでご利用下さい。無料)
1日:1日祭 15日:避来矢山霊廟月次祭 25日:月次祭 31日:大祓祭・除夜祭  唐沢山神社』
『くい違い虎口 北の避来矢権現山(ひらいしごんげんやま)と南の天狗岩に挟まれた虎口(出入口)で、城郭主要部への大手口にあたる。石垣を食い違いにして城門を築き、敵軍が直線的に侵入出来ないような工夫がされている』
『武者詰と大井の間の虎口 かっては武者詰があったとされる升形の奥側に築かれた虎口(出入口)で、この内側には城内の重要な水源である大井が位置するほか、さらに東方の本丸方面まで続く大手道への通行を遮断している』
『唐沢山城跡を再発見しよう! 上空からの精密な3次元測量によって出来上がった唐沢山城跡中央部の「地形起伏図」です。これを見ると、拠点としての堅固な城を築くため、山の広範囲にわたって尾根筋を削平し、堀や土塁(土手)などを設けていたことがよくわかります。本丸周辺には、安土桃山時代の貴重な高石垣が今日まで残り、唐沢山城跡のシンボル的存在といえますが、194haにも及ぶ広大な史跡の中には、いたる所に敵からの攻撃を防いだ城造りの跡が残っています。この図には、城跡のおもだったところに説明を加えてありますが、それ以外のところもよく見てみると、曲輪(くるわ)などの平坦面や堀跡、古い道筋などを各所に見つけることができると思います。ぜひ、新たな発見を楽しんでください。 なお、山内は危険な場所があります。貴重な植生にも悪影響を及ぼしますので、参道や遊歩道からはずれないでください』
神社の境内ではありますが、元は山城、石垣が残り、大きな井戸が今でも水を満たしており、曲輪など中世の山城成分いっぱいで、中世の山城好きの僕にはとても楽しい。多くの山城に登ってきましたが、これほど大規模な山城や石垣が遺るのは守護級の本拠地です。播磨の赤松氏の数城よりは大規模で、能登国守護・畠山氏の七尾城跡や、山陰の雄・尼子氏本拠地「月山富田城跡」に匹敵します。流石、平安時代からの北関東の雄「佐野氏」の本城です。この城で、数度の上杉謙信との戦いに負けず、よく戦いました。徳川の世になり、攻略の難しい山城が禁止され、1国1城制を敷かれ、平地立地の平城ばかりになりましたが、どう考えても山城の方が防御能力が高いです。
駐車場から比高20〜30mほどの山頂にある「唐沢山神社」にあがる道にも、空堀が残っていたりいろいろ山城成分が見られ楽しい。
『大手道 くい違い虎口(出入口)から続く神社の参道が、かつての大手道にあたると考えられる。この道筋は、手前の三ツ目堀を過ぎて、奥の二つ目堀の直前で左手へ鋭角に折れて急な坂道となり、二の丸の虎口に至る』
歩きながら気付いたのですが、あちこちに猫がいます。それを可愛がってる?ちょっかい出してる?人もいる。しかも野生の猫だろうに人に慣れており逃げない。「何だこれは?」と頭に「?」を浮かべながら歩いていたら、猫押しの看板があり、猫目当ての観光客も来ていると理解できました。外界の平野を見ながら歩いていると、近くの低山のてっぺんにも山城とすぐわかる中世の遺構が見えます。これだけ大きな由緒ある山城なので、周囲に友軍の城が多数存在したのでしょう。関東平野の東京方面を見ると、霞んでいますがビル群が見えます。子供の頃何度も来ましたが、もっと綺麗に見えていたこともありました。故事のように、江戸の大火が目の当たりに見えたでしょう。
『唐沢山神社 当神社は御祭神藤原秀郷公の流れをくむ佐野氏により戦国時代初期に築城された本丸跡に建てられています。公は「むかで退治」の伝説や「天慶の乱」の鎮定等から武勇に優れていたことが知られています。また、この乱の鎮定の功により鎮守府将軍に任ぜられました。その後700年の間、多少の変遷はありましたが、江戸時代初期に廃城となりました。明治16年(1883)、佐野氏の一族旧臣等が公の遺徳を偲び唐深山神社を建てました』
最後の曲輪にたどり着き、手水舎で清め、石段を上がって主郭へ。『明治16年御鎮座 御祭神贈正二位・藤原秀郷公 元別格官弊社「唐澤山神社」 例祭:春4月25日・秋10月25日』
参拝させて頂きました。帰路は別ルートが推奨されていました。参拝客が多そうです。神社裏の石垣が整っており、廃城になってから400年は経っているので、何度かメンテナンスされているのでしょうが見事でした。
『三の丸跡 本城では大きな曲輪で、かつては賓客の応接間があったとされる。周囲には高く急な切岸が巡り、部分的に石垣も認められる』
『大炊の井 築城のさい厳島大明神に祈請をし、その霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとの事である深さ9m・直径8mあリ、今日まで水が枯れたことがない。  唐滞山神社』
『八大龍王神縁起 唐沢山の御祭神であらせられます藤原秀郷公が、京に架かる瀬田の大橋を渡る時、橋の中央に息も絶え絶えの大蛇が横たわり、都の人々は恐れ慄き只遠巻きに見ているだけでしたが、公は何事もないように大蛇を跨ぎ橋を渡り終えました。それを見ていた従者が此の人こそ真の勇者と公を呼び止め助けを乞いました。大蛇は百足の毒にやられた龍神様の化身でした。ぜひ敵を討って欲しいと公を竜宮城へと招きました。夜になると黒き山が動き多くの松明をかざしてこちらに向かってくるのが見え、よく見ると大きな邪悪な目がらんらんと輝き、竜宮城へと襲いかかって来たのは大百足(おおむかで)の化け物でした。公は弓矢の名手でしたので3本の鏑矢をとり一の矢を番え敵の眉間の中央に的を絞り放ちましたが、矢はカチンと跳ね帰りました。急いで二の矢を撃ちましたが同じように跳ね返されてしまいました。公は最後の三本目の矢を「神よ御照覧あれ」と矢じりにつばきを塗り全く同じ場所を狙い放ったところ、矢は眉間より奥深く射貫きムカデはどうと崩れ落ち息絶えました。これ以降龍神様は公の傍らに仕え数々の瑞象を表し今日に至り唐沢山に鎮座まします。龍神様は家族で行動する処から、家族思いであり、家族愛に溢れ、敬愛と恋人同士の深い愛の成就の神です、また登竜門と言われるように入学・入社はもとより出世をかなえます。
秀郷公の弓矢の名人の誉れから狙った的は外さないことから本命の恋人の心を射たり、将来の夢と希望を当的出来る神様であります。ここ龍神様と秀郷公の鎮座される本殿にお参りされ、二柱の神様のお力を得て素晴らしい日々をお過ごしください』
遠くに富士山が見えています。圧倒的に高い山で、流石富士山!
これで予定をコンプリート。レンタカーを館林店に戻し、横浜の長男宅に向かいます。レンタカーで回っている間、何度か長男やお嫁さんから家族LINEが入りました。長男一家は、年末から新潟のお嫁さん実家に帰省しており、そこを拠点にスキーに行っていたようです。車で行っているので、「16:30に館林で合流しよう」となっています。GS寄っても30分ぐらい余裕があるので、コンビニで店内食することにしました。15:54「ローソン佐野大橋町店」で、「山崎雷苺娘2個526円+たまごサンド262円=788円」購入。家内とあれこれ話しながら小腹を満たしました。ふとスマホをチェックすると、「予定より早く着きそう、16:00に合流」と来ていました。慌てて店を出て館林に向かいます。16:09「出光アポロステーションセルフ佐野赤坂町SS」で給油。2.08L=318円しか入りませんでした。65kmほど走りましたが、65km/2.08L=31.25km/L。ハイブリッド小型車は低燃費です。トヨタレンタ・リース館林西口店に着き、車を返しました。満タン返ししましたが、1Lで30km以上走るのかわからないので、「もしガソリンが満タンになっていなかったら追加請求下さい」と伝えておきました。7150円でした。
トヨタに着いたとお嫁さんに電話したら、「すぐに行きます」とのこと。長男車がやってきてピックアップしてもらいました。後ろに乗っていた孫3人が大喜びで迎えてくれました。ありがたいな。高速道路に乘り、1時間半ほどで横浜の長男宅へ。お年玉はお預けですが、家内が買ったサッカーソックスを3人へ。僕からは、1/17誕生日のりょうくん9才へのプレゼントを渡しました。「ベンジャミン・フランクリンの自伝」です。英語の本なので、りょうくんの年齢で読めるのか難しい言葉が使われているのかわかりませんが、パラパラとめくって、「読めそうかな?」って感想。加えて、子供用ダーツゲームもプレゼントしました。マジックテープで的にくっつくのですが、ピンポンボールの小さいの・プラスチック矢の先にマジックテープ・空気銃で発射するマジックテープの付いた弾、3つの矢で的を狙います。空気銃が人気ですぐに孫たちが遊びだしました。20時頃、おやすみ〜。




逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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