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兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2017/11/19
家内もお休みなので、紅葉狩りに出かけます。朝のNHKニュースで紅葉ポイントを毎日紹介していて、そのトリだった滋賀県湖東木之本の「鶏足寺」を目指します。1つだけではアレなので、これまた紅葉で有名な湖東三山巡りもします。
5:32「伊丹産業セルフ緑ヶ丘SS」で給油。中央縦貫道を東に走り、吹田ICから名神高速に乗ります。地元が晴れの天気予報だったので天気の心配はしませんでしたが、「関ヶ原付近、チェーン必要」なんて電光掲示を見つけ慌てます。
家内が先月手に入れたタブレットを持ってきたというので、天気予報をチェックしてもらうことにしました。助手席で、「あれ〜」とかやってます。僕が調べてる日本気象協会のウェブサイトを見ているようですが、「PCみたいに行かないよ」だって。桂川PAで休憩を入れ、家内がトイレに行ってる間にチェックすると、近畿地方地図の滋賀県に代表年しか表示されていないから「高島市の天気は調べられないよ」なんて言ってたようです。高島傘マーク・・・長浜傘マーク・・・雨なら走れるので良いですが、傘持ってきてないよ〜。
京都東ICで下車し、湖西道路で北上します。比良山系の山の上部が白くなっています。琵琶湖を隔てて見える湖北や湖東北部は雲に隠れ、雨が降っているようです。高島を過ぎると、きれいな二重虹がかかっています。綺麗だな。家内がタブレットの電源を入れている間に、虹が見える区間を過ぎちゃいました。前を走る車は、スポーツバイクを乗せています。マキノかな?海津大崎かな?いずれも雨そう・・・
R161の海津大崎への分岐にあるコンビニに入りました。朝ごはんを買います。家内はサンドウィッチで、僕は得意の「助六」。ビニール傘も1つ買いました。車に常備している京都で買ったお洒落な傘があります。
食べながら走ります。R161をさらに北上し、R303で東進し、R8で賤ヶ岳と山本山の境の下を抜け、木之本です。木之本IC横を走り、直角に南下し、「石作神社」を左折し、r281で8:05「石道寺」。駐車場にプレハブがあり、200円と書いてあります。家内がお金を用意しますが、「誰も居ないよ」。「紅葉散策協力金200円」と書いてあるので、「駐車場代ではなく、無住の鶏足寺を整備する費用にするのでしょう。帰って来た時でいいよ」。
すぐに「石道寺」があり、見事に色づいています。残念ながら小雨が降っています。
『国指定重文 木造十一面観音立像・像高173cm、木造持国天立像・像高184cm、木造多聞天立像・像高184cm、県指定文化財 木造十一面観音立像・像高102cm
神亀3年(726)延法上人が草創され、その後、延暦23年(804)に伝教大師が十一面観音をまつり再興されたと伝えられています。(後世、天台宗を廃して現在のように真言宗に移行されました)
また、大和興福寺文書によると本寺は己高山五箇寺の一寺で、僧房38宇、衆徒20口、本尊観世音、延法上人開基と記されており、往時は壮大な寺院であったと考えられます。(現在の観音堂は、明治年間に現地点から約1km離れた山間から移築されました)
十一面観音立像は一木造りで、彩色や面相並びに衣文から平安時代中期の作とみられます。持国天立像・多聞天立像は檜材の寄木造りで、面相や衣文から鎌倉時代の作とみられます。 木之本町教育委員会』
重文があるだろう堂内に入りたかったが、事務所はまだ開いておらず帰ってきた時に参ろう。
『井上靖著「星と祭」より、本尊十一面観音菩薩を表現した一説「きれいな観音さまですね」架山は言った。思わず口から出た言葉だった。美人だと思った。観音さまと言うより、美人が1人立っている。
・・・この観音さまは、村の娘さんの姿をお借りになってここに現れていらっしゃるのではないか。素朴で、優しくて、惚れ惚れするような魅力をお持ちになっていらっしゃる。野の匂いがぷんぷんする。
笑いを含んでいるようにも見える口もとから、しもぶくれの頬のあたりへかけては、殊に美しい。ここでは頭に戴いている十一の仏面も王冠といったいかめしいものではなく、まるで大きな花輪でも戴いているように見える。腕輪も、胸飾りも、ふんわりとまとっている天衣も、なんとよく映っていることか。それでいて観音さまとしての尊厳さはいささかも失っていない。しかし近寄り難い尊厳さではない何でも相談にのって下さる大きくて優しい気持ちを持っていらっしゃる。
・・・その顔にも、姿態にも示していらっしゃる。
石道寺の主な仏像 本尊十一面観音菩薩立像・国指定重要文化財・平安中期・ケヤキー木造り・極彩色・高さ173cm 多聞天立像・国指定重要文化財・平安後期・ケヤキー木造り・極彩色・高さ182cm 持国天立像・国指定重要文化財・平安後期・ケヤキー木造り・極彩色・高さ182cm 十一面観音菩薩立像・滋賀県指定文化財・平安後期・ケヤキ一本造り・金箔・高さ101cm』
鶏足寺への案内板が出ています。雨で足元が悪いのと石段なので、泥ハネや滑るので家内はゆっくりです。朱・黄色・緑・・・鮮やかだねえ。写真魔になっちゃいます。両寺院の境界線のような小さな峠(比高10m)にプレハブが立ち、『紅葉散策協力金のお願い ここでチケットをご提示下さい。発見所はこちら。大人(高校生以上)200円。期間:11/15〜11/30』と書かれた看板が立っていた。ここで払おうと思ったけど、誰もいません。
鶏足寺側に下ります。石畳の道があり、両側に小さな茶畑。こちらも鮮やかな秋色です。白い傘を差したジーンズの女性が、紅葉に接近しカメラに夢中です。「なんかいいな」と彼女を写す。
『鶏足寺(旧飯福寺)』。人だかりがしてる場所に行くと、竹囲いされており『落ち葉保存区域』の札が下がっている。緩やかな石段が登っている一部を通せんぼして、紅葉の絨毯にしている。激写スポットで、カメラマンが順番待ちしている。
『飯福寺 奈良時代に行基上人が草創され、一時南部興福寺末寺となった。興福寺官務牒疏には、己高山観音寺の別院としてその名が記されている。
中世の延徳年間(15世紀)には、法印実盛上人により隆盛を誇った。戦国時代には、浅井氏・京極氏から庇護され、浅井三代の祈願所として隆盛を極めた。
江戸時代においても幕府から寺領を与えられ大寺として格式を誇ったが、明治の廃仏毀釈などで寺院の規模が縮小された。その後は村人の努力により現在のように整備され、大切に守られている』
石段を上がっていきます。両側に塔頭跡が点在します。噂に違わず、素晴らしい紅葉を見せてくれました。石道寺に戻る道で、お揃いのジャンパーを着た係員の方とすれ違いました。駐車場に戻るとプレハブが開いており、「先に観に行って来ました」と、200円×2払う事が出来ました。8:30までだったら無料で楽しめそうです。
r281〜R8で「木之本IC」から北陸道に乗ります。南下していると、湖西の空に雲の切れ間が見え晴れているようです。米原JCTに近づくと、湖東の道の先にも晴れ間が見えだしました。滋賀県南部は雨が降っていないようです。
名神高速に入り、彦根IC・多賀SAを過ぎ、「湖東三山PA・スマートIC」から外に出てR307、そして9:39「湖東三山」の1つ「金剛輪寺」。駐車場に素敵なキャンピングカーが停まっていました。
『天台宗・金剛輪寺 松峯山金剛輪寺は、聖武天皇の勅願により天平13年(741)行基が開山した。秘仏の本尊聖観音菩薩は、行基が一刀三礼で彫り進めたところ、木肌から一筋の生血が流れ落ちたという伝説から、「生身の観音様」と呼ばれる。嘉祥年間(848〜851)には、最長の弟子である自覚大師円仁(794〜864)が比叡山延暦寺よりこの地に道場を開き、天台密教の浄刹となった。
国宝の本堂(室町前期)は「大悲閣」と呼ばれ、重要文化財の仏像が多数安置されている。また、三重塔(室町前期)や二天門(室町中期)も重要文化財に指定されている。なかでも近江路随一といわれる明寿院庭園(桃山時代〜江戸末期)は、名勝に指定されており、春の石楠花(しゃくなげ)・夏の紫陽花(あじさい)・秋の紅葉・冬の山茶花(さざんか)など四季折々の華が咲き、詣でる人々の心を和ませる』
拝観料600円×2を払います。こちらも紅葉が見事です。雨が止みました。石段を登っていくと「国宝・本堂・三重塔」で、左に曲がると「名勝庭園」です。山門をくぐり庭園の方へ。
『池泉回遊式庭園 桃山・江戸初期・江戸中期の3つの庭からなり、老松蒼杉の自然を背景として、本尊観音様の御心が優しく一木一草に現れています。春の新緑・石楠花・さつき、夏の水蓮、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の自然の変化に燈籠泉石の配置の妙が映える名園の名を頂いている』
今夏公開された映画「関ヶ原」のロケ地だったようです。『明寿院書院 室町様式』は、昭和の建築物ですが、庭の雰囲気にマッチしており、縁側の緋毛氈にお客さんが座って、名園を観ています。
素敵なお庭は、秋色に染まった木々できっと更に素敵になっていたはずです。庭の裏からも本殿の方に上がれるようで、小径を上がっていくと、石段の道に合流しました。昔は塔頭があったであろう曲輪には、多くの石仏が並び、風車などが彩りを添えています。
「地蔵堂 物故者の追善回向を勤めるお堂」があったので入ってみる。お堂内は戒名位が整然と並び、紅葉の葉がまぶされた境内は静かです。家内の先祖を分骨している永観堂も、こんなだったらいいのにな。
長い階段を登り、大きな草鞋が左右に下がる山門『重要文化財 金剛輪寺二天門 当初楼門であったが後世に上層を失い、腰組ときょう(組物)の残存肘木先に桁を廻し て仮屋根を作ったものである。礎石はすべて自然石を用い、軸部、ときょうとも和様で、それらの形式から見て室町時代の建築と考えられる。柱間は中央間と脇間が2対1の割合で、両脇間に金剛柵を設け、向かって右に増長天、左に持国天を祀る。ときょう間には間斗束を配し、繋紅梁上には板蟇股をのせている。上層を失っているので建立時の様式は不明であるが、下層の状況から見て当時の普遍的な様式をもった楼門であったと思われる。中世の寺観を保存する意味でも重要な遺構である』があった。
それをくぐると、『国宝 金剛輪寺本堂 内陣須弥壇金具に弘安11年(1288)の銘があり、鎌倉時代にめざましく発展した密教寺院の大規模な本堂である。桁行7間・梁間7間、入母屋造で、妻飾りは豕扠首(いのこさす)を組み、内外に長押(なげし)を廻し、正面には蔀戸(しとみど)を入れるなど、全体は伝統的な和様建築であるが、内部の組物の一部に、13世紀に伝来した禅宗様式の拳鼻がついている。
密教本堂の通例によリ内部は外陣と内陣に区画するが、外陣大虹梁を受ける太い列柱と、格子戸・菱欄間の内外陣境結界とで構成される広い礼拝空間、天井を化粧屋眼裏とし荘重な須弥壇を構える。内陣は、ともに流麗な曲線の槍皮葺大屋根に包含され、堂々たる偉容は近江中世本堂の圧巻ということができる。 愛荘町教育委員会』
絵馬500円を授かった。同じ曲輪に『重要文化財 金剛輪寺三重塔 建立記録はなく、南北朝時代の建築と考えられるが、寺に保管の永正17年(1520)在銘の相輪部材は重要な考証資料である。
寺記によれば、天保4年(1833)頃破損が進んだが根本修理は実現せず、最上層を失って昭和年代に至った。昭和20年重要美術品認定され、昭和47年重要文化財に指定。その後解体修理で、建立時には計画され未完成だった初重の縁、二三重の柱間装置なども整備され、昭和53年完全な三重塔が竣工した。二重以上に内法長押(うちのりなげし)を用いず、上方への逓減の手法など西明寺の塔に相似する点も多く、中世塔婆建築の遺構として貴重』
綺麗な姿をした塔でした。周囲を鮮やかに彩る紅葉と相まって、多くの観光客が「美しい」との賛美の声を上げていました。あちこちでカメラが構えられ、邪魔にならないように歩き回り楽しみました。
R307を北上し、11:22「湖東三山」の2つ目「西明寺」。国道の西にバス駐車場があり、乗用車は東に山を上っていく感じですが、ガードマンが静止するようにしているので、上の駐車場が満車だと思い、横の駐車場に入れると、後続車が道を上がり、上から降りてきた車が通過すると、ガードマンが下からの車を上げています。離合の指示だけのようなので、山に上がっていく道に復帰します。
上の駐車場への道が細く離合不能なので、交互通行させているだけでした。駐車場に入れると家内は車の中で待っているとのことで、僕だけ拝観しました。外からでも見事に紅葉した境内の木々が観えます。拝観料600円。『国宝・本堂(鎌倉時代初期、国宝第1号)、国宝・三重塔(鎌倉時代後期)、重要文化財・二天門(室町時代)、重要文化財・本堂内仏像7体、重要文化財・十二天画像他6点、国指定名勝庭園(江戸時代初期)』
『当寺は平安時代の承和元年(834)に三修上人が、仁明天皇の勅願により開創された寺院である。
本堂裏の闘伽池(あかいけ)で三修上人が礼拝されると、池中より霊霞(れいか)が立ち昇り、薬師如来が日光・月光両菩薩、十二神将を随えて現れたといわれている。上人はたいへん感激され、その薬師如来の尊像を立木に彫刻されて西明寺の本尊とされた。
平安・鎌倉・室町の各時代を通じて祈願道場・修行道場として栄え、山内には諸堂17、僧坊300を有する大寺院となり、源頼朝が来寺して戦勝祈願をされたと伝えられている。
戦国時代には織田信長により焼き打ちされたが、幸に国宝第1号指定の本堂、三重塔(国宝)、二天門(重文)が火難を免れ現存している。その焼き打ち後、荒廃した寺を江戸時代延宝年間に天海大僧正・公海大僧正の尽力により、望月越中守友閑が、祈願・修行道場として復興され、その後代々の住職が寺観の保持に尽力されて現在に至っている。 湖東三山 龍應山西明寺』
地図を見ると、バス駐車場があった所にも一般車Pがあり、そこに山門があるとのこと。そこからこの受付まで300m登り、ここから本堂まで80mあります。石段をパスするなだらかな道もあります。
まずは途中にある「本坊」。『蓬莱庭(国指定文化財) 江戸時代延宝元年(1673)望月越中守(有閑)が、当山復興の記念として造った庭園。池の中央は折り鶴を形どった鶴島で左が亀島です。池の水の部分は心字池となって池泉回遊式である。
築山の立石群は本堂に安置している本尊・薬師如来と日光・月光の菩薩及び十二神将などの眷属(けんぞく)を表し、植木の刈り込みは雲を形どって薬師の浄瑠璃浄土を具現化したものである。本庭園は、小堀遠州の作庭を参考にした造園になっており、鎌倉時代の八角石燈籠(石屋弥陀六作)や連珠模様の室町時代を偲ぶ石灯籠がある』
苔生した岩と池の地上を、鮮やかに色づいた葉が上空を包み、とても良い感じです。回遊式のお庭を上がっていくと、地面と木々の根っこを杉苔が覆い、柔らかな地面が美しい。石庭も苔むし、緑の凹凸のある絨毯が敷かれているようだ。苔に包まれ消えていきそうな五輪塔に風情を感じる。
庭からなだらかな迂回路を歩いて石段に合流し、本堂曲輪に上がると、本堂と三重塔が潜んでいた。金剛輪寺の本堂・三重塔に似た感じです。鮮やかな朱や黄に色づいた紅葉が曲輪に配され、とてもバランス良く美しい。
本堂に入って見ます。重文の仏像が見事で、ボランティアの青年が仏像などを解説してくれています。『国宝 西明寺・三重塔 建立鎌倉時代(1249〜88)』は庇が大きめでバランスが良い。金剛輪寺に似ています。
なだらかな迂回路を下り、石段に合流し駐車場へ。ここで小雨が落ちてきました。車に入ると、すぐに止みました。R307に出て南下し、r28〜r229で、12:15「湖東三山」の3つ目「百済寺」。
『百済寺(ひゃくさいじ)・三百坊 近江最古の寺院の1つ。聖徳太子の勅願により、高麗の僧・恵慈が百済の僧・道欣によって供養され、建築は百済の龍雲寺にならった。創建は推古天皇法興元年(590)。
天養元年(平安時代1144)天台宗に改宗し、天台別院となった。その後、この地方に多い天台領の後ろ盾により鎌倉時代から室町時代にかけて最盛期を迎え、堂や僧坊の建立が相次ぎ、一山の僧侶1200人がこの寺域に住み、麓には百済寺の村が栄えた。その間、火災や兵火のための再建を繰り返したが、織田信長の「百済寺焼き討ち」後の再建は困難となった。明応7年(1498)の大火により本堂などの中心部を焼失した。再建のための勧進帳に、七間本堂・五重塔婆・常行堂・太子堂・大聖殿・五大力堂・愛染堂・長徳院・三所神殿・鐘楼・経蔵・桜門・回廊と記されています。東西南北4つの谷には、東谷に薬師堂、南谷に阿弥陀堂・閻魔堂、西谷に曼荼羅堂、北谷に地蔵堂・西大門に日吉十禅社、東大門に八幡白髭社・不動堂、北坂の大行事社、北小谷に岩上社、その他にも多くの坊舎があった。三百坊舎図は、昭和59年度の遺跡部分調査によって、275ヶ所の坊舎堂・墓地跡などを確認した時の分布図である』
拝観料600円×2。ここも映画「関ヶ原」のロケ地だったようです。「ムラサキシキブ」と言う名の草花が咲いていた。「紫の綺麗な実だな」と観ていたら、「ムラサキシキブが綺麗ね」とお客さんが通り過ぎて言ったのでわかった。
庭園の池を巡り本堂の方に上がっていく。湖東三山は、奈良時代創建でお堂の配置や庭園が似ており、連続で巡るとデジャブ感があります。観光バスには「湖東三山巡り」などと書かれているのが多い。加えて「永源寺」を巡る観光バスもあった。
『戦国歴史ロマンの大舞台 聖徳太子が見抜いた「近江の地理的重要性」が、戦国時代に百済寺が3度の戦乱に巻き込まれるという悲しい運命を辿った。湖北から湖東に南下してきた近江源氏・佐々木・六角氏は、防衛のため観音正寺と百済寺を石垣で城塞化し、鯰江城などの出城を築いていく。
信長の百済寺焼き討ちは悲惨を極め、武田信玄の死を知った信長は、六角征伐のため軍を進め、天正元年に百済寺城に入城し、鯰江城の総攻撃を開始する。寺側は織田か六角か苦渋の選択の末、長年の恩義から鯰江城に食料米を送るとともに、婦女子を境内に預かり保護しました。信長は一揆・謀反であると称し、百済寺焼き討ちが断行され半月ほど燃え続けた。
宣教師ルイス・フロイスの書簡に「百済寺と称する大学には、多数の独立した僧院や座敷・庭園・築山を備えた僧坊が立ち並び、まさに地上の楽園が・・・」と惜しまれる様子が記されていた。
信長にとって、百済寺焼き討ちの3つの利点があった。1.六角を近江から追い出せる。2.田畑の没収で米即ち兵力を増強出来る。3.300坊の石垣を抜くことで六角の再起を防げる。
このような状況下で、安土城構想が着想され、300坊の石垣や石仏を安土まで運び出した。湖東文化の一大中心地が壊滅したが、往時の姿は参道の左右に千枚田のように広がる「平らな坊跡地」や、引き抜かれた「石垣の段差跡」、広大な「旧本堂跡地」と「五重塔礎石」、蘇った「千年菩提樹」などから偲ぶ事が出来る。菩提寺城は「山城」最後の形、安土城は「平城」最初の形と言われている』
『喜見望郷庭』と言う場所があり、湖東三山の中で最も標高が高いのか、琵琶湖に向かって眺望が開けていた。
『信長公記 天正元年4/7の章 百済寺伽藍御放火の事 信長公・帰陣。守山に陣取り、百済寺へ出、2〜3日逗留し、鯰江城に佐々木義治が籠るを、攻め衆佐久間右衛門尉・蒲生右衛門大輔・丹羽五郎左衛門尉・柴田修理亮に命じ、四方より取り詰め付城させた。近年、鯰江城、百済寺より持ち続け、一揆と同意たる由聞こえし。4/11百済寺堂塔・伽藍・坊舎・仏閣ことごとく灰燼となる。哀れなる様、目も当てられず。この日は岐阜に至り馬を納める』
『ルイス・フロイス日本史2 信長は播磨国と津國の境にある兵庫の市を焼かせて灰燼にする。同市は寺社から成り立っており、豪壮華麗な諸建築であり、日本で大いに見るべき価値あるものの1つであった。
彼は播磨国・書写山という日本で名高く参詣の多い150位上の堂宇を焼却するよう命じた。
信長は、近江国で書写山以上の寺院を絶滅するよう命じた。それらは篤く敬われており、900年以上あらゆる戦乱を免れ今に至ったものであったから、相当な富が蔵されていた。百済寺と呼ばれていた』
和紙の材料・ミツマタがたくさん植えてあった。「日本の高額紙幣の原料」と紹介されていた。『千年菩提樹 釈迦山百済寺は、聖徳太子の篤き思いにより、山号にお釈迦様の名を頂いた唯一のお寺です。この菩提樹は、「仏陀の聖樹」として崇められ、旧本堂の前庭であるこの地に植えられていたが、天正元年4月7日に、惜しくも信長の焼討ちに会い、幹まで焼損致しました。幸いにも、熱が根にまで及ばなかったために、幹の周囲から再び蘇って今日に至っております。中央の空洞部(直径約80cm)は、焼討ち当時の幹の直径に相当しております。 釈迦山・百済寺住職』
r229に下り、名神高速の下をくぐります。r327で愛知川を渡りR421、13:37「丸亀製麺・八日市店」で昼食「鶏親子丼中盛490円×2=980円」にします。R421を走り、近江鉄道を渡り、R8を渡ったところで道なりにr26になり、東海道新幹線をくぐります。JR東海道線を渡ります。14:39「ラコリーナ近江八幡」。
家内のリクエストで寄った「お菓子屋さん」です。お菓子屋さんとは思えない大駐車場があり、続々と車が吸い込まれて行きます。一度見たら覚えちゃう他にない独創的な、でも温かさを感じるデザインです。
続々とお客さんが入っていくので、家内は「これは無理ね」と腰が引けています。せっかく来たんだから見ていこうと店内に入ると、人人人・・・です。至る所に列が出来ており、商品ケースを見ることさえ難しい。2Fへの階段にも列が出来ており、購買システムがわからない。
目が慣れてくると、システムが見えてきました。バウムクーヘン・三笠など商品ごとにショーケースの島があり、それぞれにお客さんが並んでおり、それを整理し列を明確にするために銀行ATMコーナーのように、ロープが張られています。店舗の裏に抜けると、人工池があり、この店舗をはじめ周囲に、フードコート棟・ギフト棟・カステラ・カフェ棟などが建っている。フードコートから巡ります。ギフト棟は、ルパンのフィアット・シトロエンバス・ベスパスクーター・トライアンフバイクなどレトロ車が置いてあり、見ているだけで楽しい。
池の周りでは、写真を撮ってる人が多い。家内はどんなトイレなのか興味があるようで、「トイレに言ってくるね」。お洒落だけど、建物の外観ほどではありませんでした。何も買いません(買えません)でしたが、帰ろうと思いメイン棟に入ると、列に並んでいる方に商品メニューが書かれたシートを店員さんが渡していました。「1時間ほどお待ちください」とのこと・・・お菓子を買うだけなのに凄いなあ。ここで50人分のお菓子を買って、コーチしている大学ヨット部に寄ろうと思っていたのに・・・
帰路に着きます。名神高速は混みそうなので、琵琶湖大橋〜湖西道路で帰ることにします。r26を走り、15:15「学校法人ヴォーリス学園」がありました。高校野球で甲子園に出てくる近江兄弟社高校のようです。近代建築ですが、ヴォーリス設計を何となく感じる。
r2〜r48〜15:40「兵主神社」。家内に裕福な律令制上国「近江」の神社を見せようと思い寄り道しました。大化の改新後の口分田・条里制の跡がある歴史ある地です。目を引く神門に家内が驚いています。池のある庭園は、平安時代後期以前まで歴史が遡ります。
R477に乗り、野洲川を渡り、琵琶湖大橋有料道路・150円で琵琶湖を渡り、R161〜湖西道路〜名神〜中国道で自宅近所のスーパーでヨーグルトなど食材を購入し、19:04帰宅しました。ああ、楽しかった。

2017/11/11
「カフェの会」に参加します。11:30木津川市のお店なので、朝からバイクで探索しようと計画しましたが、生憎の雨です。7時に雨が止んだので、朝ごはんを食べバイク装束に着替えます。
「里山VTR250」で出発。8:51「セルフ緑ヶ丘SS」で給油。247km/8.53L=29.0km/L。R171〜中央縦貫道を東に走り、近畿道側道のr2を南下します。r143〜r14〜r19で淀川を渡ります。道なりにR170に乗り、R163にチェンジし東進して、生駒山系の北側を東に抜けます。
r7を南下し、10:09生駒市「真弓山・長弓寺」。国宝の本堂があるのを目当てにやってきました。地名も「真弓」で山というより丘という感じですが、古い地名のようです。塔頭が4寺存在し、なかなかの規模だった寺院のようです。
噴水のある池があり、「真言宗・長弓寺・法華院」をまず観に行こう。山門の飾り瓦(菊と葉)に目が行きました。「笹竜胆紋」のようです。ご本尊が「愛染明王」のようで、観に行きましょう。こじんまりしたお庭に「水掛不動」と小さな不動明王がいました。ご本尊も拝めました。
噴水池に戻り、「長弓寺・円生院」へ。こちらも山門に飾り瓦「菊の花と葉」が載っていました。鬼瓦も載っていますが、他の瓦より新しいので、新たに載せたようです。山門を入ってまず目についたのが、「Templish」と筆で書かれた横断幕。
お寺の英語「Temple」と「English」の造語かな?ご住職さんが開いている英語教室だと直感しましたが、帰宅後調べてみると、「ジャガイモ栽培」「凧作り」「鯉のぼり作り」「書道」「茶道」などの自然・学習物から、「餅つき」「流しそうめん」などのレクリエーション物まで、多彩なメニューを学ぶ子供教室のようです。
庭園の杉苔が綺麗で、水やりを欠かさず手入れされているのがわかります。手水場の龍の口からチョロチョロと水が出ていました。『金剛水 水には清浄の徳があり、香には遍照法界の徳があります。心身に本性清浄な香と大悲の金剛水を注げば、垢や穢れを除き浄めます。
ここの流れる水は、長弓寺本堂・十一面観音様の足元に湧く自然水で、お不動様御宝前にて香を加えてお加持した金剛水です。どうぞ金剛水で心と身を清め、お不動様にご参拝下さい』
なで五鈷杵がありました。『お大師様が胸に当てて持っておられる五鈷杵を大きくしたものです。お大師様の身体を見て、手で五鈷杵をなでて、その手をご自身の身体の祈願のところに当てて下さい』
弘法大師・空海が唐に渡り修行し、優秀な成績を収め帰る時、氏から授けられた宝具で、それを取り戻そうと追いかけてきた修行僧達に奪われまいと、「日本の地に帰れ」と天空に向かって投げた。さきっぽの形状により、独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵などがあるが、いずれも「鈷」ですが、「月編」で書かれていました。何が違うのか帰宅後調べたが、よくわかりませんでした。円生院さんには、代々こう伝わっているのでしょう。
護摩に炊かれたのだろう煤けて真っ黒なお不動さんは、怖い顔をして睨んでいました。『護摩とは 仏様の大慈悲からなる智慧の火をもって、衆生(私達)の煩悩や執着などの心身内外の垢を焼き清める真言密教の秘法です。智火の中へ護摩木と共に米・五穀など様々な供物を投入し、不動明王をはじめ諸尊に対し供養し、皆様の祈願成就を祈念いたします。願い事のある方は、お名前・年齢・ご祈願をお書きの上、ロウソク立ての上の箱にお入れ下さい。一定期間、所願祈願を行う特別祈祷もございます』
国宝の「長弓寺・本殿」に上がっていきます。垣根に白い椿の花が咲いています。国宝の本殿は、鎌倉時代1297年建立だそうです。鐘が下がっていたので、志納金を納めてボ〜ン、鐘の音は良い響きです。寺院に合います。
『奈良時代、僧行基の開基。現在は薬師院・宝光院・円生院・法華院の塔頭から成る。本堂は桁行5間・梁間6間・入母屋造檜皮葺。弘安2年(1279)。所蔵品:本尊木造十一面観音立像(重文・平安時代?)・黒漆逗子(重文・鎌倉)など』
屋根の角の反りが良い感じです。境内に守護宮として伊弉諾神社があった。『祭神:素盞嗚命・伊弉諾命・大己貴命(おおなむち) 聖武天皇勅願により長弓寺の守護神として建立され、牛頭天王の宮と称せられたが、神仏分離の明治新政により現社名に変更された』
日本で一番多かった牛頭天王社は、伊邪那岐・須佐之男・大国主の親子3代を主祭神にする事が多く、その殆どが「須佐之男神社」と名を変えたが、ここは伊邪那岐になったのですね。
バイクに戻り、真弓の丘を東に越え、「ならまち大通」に出て、R24を走り、11:17レストラン「Lier・幡」到着。Pに入ると、既知のKさんが1人待っていました。8人集まる日でしたが「あれ、まだ2人?」・・・いえいえ僕が最後でした。11:30開店のお店なので、入口が開いたところで皆さん今入られたようです。
全員、ランチセットを注文しましたが、僕だけメインを「ブリの照り焼き」を選択し、他の方は皆豚を選択なさいました。セットメニュー「ドリンク(珈琲or紅茶)+200円」と「ケーキ&ドリンク(珈琲or紅茶)+500円」があり、僕が「セットメニューのケーキ・ドリンクを」と追加注文したら、皆さんセットを注文されました。古代米とふとわかめの味噌汁が付いていました。
この「カフェの会」は3周年です。第1回目がこのお店で、僕も参加しましたので、2度目のお店です。美味しく食べながら、皆さんと歓談。女性3人と男性5名で、5名ともバイク・ツーリングクラブのメンバーです。僕はソロメインなのでそれほど多く参加していませんが、他の方は毎月顔を合わせています。
2時間で終了。「現地集合・現地解散」の会なので、ここで解散。13:35、歓談の中で出た「大仏鉄道のトンネル」が、Pから見えます。アドレスV135で来られているKさんと観に行くことにしました。この「松谷川隧道」前の謂れ板に、大仏鉄道ハイキングコースの地図があり、JR加茂駅の間にある鉄道史跡を観に行くことにしました。
『迫石は花崗岩で造られ、石の長辺と短辺を交互に組み合わせた積木積み、レンガの積み方はイギリス積みです。黒っぽく見えるレンガは、赤レンガよりも高温で焼き上げる「焼き過ぎレンガ」で、赤レンガと「焼き過ぎレンガ」とが交互に配置されているのが、この隧道の特徴です。隧道の下部には突起があり、その突起に橋を架けて、上は農道、下は農業用水路として使用されていたようです』
どちらに行けば良いのかわかりませでしたが、Kさんに着いていくと、ビンゴ!14:00「赤橋」橋梁。上を走る道路を大仏鉄道の軌道が走っていたようです。
『赤レンガ遺構が多い中、ここだけ「赤橋」と呼ばれているのは、プロポーションの美しさ故でしょう。イギリス積みのレンガ造りの橋台で、最上部に笠石、上部に帯石を花崗岩の切り石で装飾しています。隅石も花崗岩で作られ、積み木積みにより橋の強度を堅固にしています。現在橋台は生活道路を支えており、今の現役です』
次の「梶ヶ谷隧道」は、すぐ横と言っていい位置にありました。ここで地図を持った男性が歩いて来られました。廃線史跡狙いの人と見て声を掛けました。JR加茂駅からJR奈良駅まで、大仏鉄道全線走破しようとしておられる方で、未舗装路もあることを聞きました。
更にKさんについていくと、14:13「鹿背山橋台」。『花崗岩の石積み橋台最上部に枕石を2つ備えています。その堅固な構えや、水路の湿気を受けて艶やかに光る橋台の姿に魅了される人も多く、大仏鉄道遺構の中でも、とりわけ人気の高いスポットです』
ここは「鹿背山橋台」から70m、観音寺小橋台まで650m、JR加茂駅まで3.1kmです。Kさんはここで帰られるということで、僕だけ先に進みます。少し走ると、未舗装路になり、「退却だなあ」と見ているとKさんがやって来ました。「アドレスなら行けるけど、僕は退却します」と告げると、「行ってきます」とKさんは突っ込んで行きました。
僕はr324に出てJR加茂駅に向かっていると、14:23現役の関西線の上を越えました。未舗装の道があったので、野生の勘で徒歩で入っていきました。が、ハズレでした。r324を走り、14:33案内板発見。川沿いの舗装路を入っていくと、14:38「観音寺橋台」。
『現在も利用されている関西本線橋台と並び位置しています。どちらも同時期に造られたもので、100年以上経過した今も現役の関西本線と、わずか9年という短い期間で廃止した大仏鉄道とのコントラストが、大仏鉄道の郷愁を誘うスポットです。
この橋台は、花崗岩の切石積みによる橋台で、最上部に枕石を2つ構えています。大仏鉄道には、土盛りによる築堤が設けられ、鉄路の高低差を和らげています。この橋台は、築堤により分断された田畑を繋ぐ役割を果たしていました』
r44に合流し南下し、そのままr752になり、14:48「長尾阿弥陀如来」が道路脇にありました。『阿弥陀如来坐像 徳治2年(1307)造立 願主:僧行乗 立派な屋根石を持ち、美しい蓮台を持った定印の阿弥陀如来坐像。 加茂町観光協会』
『浄瑠璃寺奥之院不動明王 ここから10分ほどで滝の飛沫を浴びる霊場・奥之院に着く。岩肌に鎌倉時代永仁4年に彫られた磨崖仏があるが、その岩が割れているため、後に山本勝真僧が石像不動明王及び童子をお祀りする。現在も神聖な行場として信仰が絶えない』
浄瑠璃寺から奥之院・不動明王像への散策路の途中にあり、奥之院に行きたかったけど、豪雨で危険な道になっているという注意書きがあり断念しました。
14:53「浄瑠璃寺」。『京都府歴史的自然環境保全地域(浄瑠璃寺地域) 指定地域は、平安時代後期から鎌倉室町時代にかけて、浄土信仰の霊地として栄えた当尾地区の東部及び南部に位置し、歴史的遺産と周囲のすぐれた天然林等とが一体となって、歴史的風土が形成されています。今日「石仏の里」の中心地として多くの人々に親しまれています。
指定地域のうち浄瑠璃寺地域は、本堂や浄土式庭園を取り囲む常緑広葉樹の二次林として、その外側が落葉広葉樹の二次林、植栽林などで覆われています。そのなかで、この常緑広葉樹林は、ツブラジイ(コジイ)やアラカシの巨木がうっそうと茂り、自然の状態がよく保持されており、地域を代表する自然植生としても貴重なものです』
焼き物がたくさん並んだ土産物屋さんがあり、「あまざけ」「ひやしあめ」のお品書きが下がる茶屋さんがありました。御食事&カフェのお店もあり、意外に観光客の方がいました。
『当尾地域は、奈良・興福寺の別所として、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、多数の石仏や寺院が造立されるなど、仏教文化の花開いた地域です。浄瑠璃寺も別所の1つとして平安時代後期に創建され、池を挟んで東西に国宝の三重塔と九体阿弥陀堂が建ち、此岸と彼岸、浄土の世界を現しています。中央の苑池には州浜式が復元された中島などがあり、平安時代後期に建立された本堂は、九体阿弥陀堂建築の現存する唯一の遺例です。庭園は特別名勝及び史跡に指定され、周囲の山々には、優れた植生の自然環境が良く保存されています』
『真言律宗・小田原山・浄瑠璃寺』、小さな山門をくぐる。境内は国宝が2棟ある寺院の割に大きくなく、無駄に広くせず周囲の自然植生に守られるように溶け込んでいる。向かって左側に国宝「三重塔」が建っているが、下部は池の周りの軽く紅葉した木々に遮られ、森の中から突き出ている感じさえする。
右手の国宝「本堂」は、奈良の寺院らしく甘美さから遠く、屋根も高くなく、どっしりと建っている印象を受ける。『浄瑠璃寺(九体寺) 平安時代後期(藤原期)の日本が生み出した浄土式伽藍がただ1つ完全に残されてきた寺。即ち、西方極楽浄土の阿弥陀如来を西に、東方浄瑠璃浄土の薬師如来を東に、中央には宝池を置いて美しい浄土を現出している。
しかも西の阿弥陀如来は、これも現在ただ1つになった九体仏である。特別名勝及び史跡指定の境内には、4件の国宝、8件の重要文化財、25の宝物が昔のまま守り通されている。藤原時代の堂塔・仏像・庭園がまとまって存在するこの浄土式伽藍。
浄瑠璃浄土とは、澄みきった清浄と静寂の世界を言う』
拝観料400円を払って、本堂内に入ってみる。京都三十三間堂のように仏像が並んでいる。堂内は暗く、阿弥陀如来坐像が厳かに鎮座しておられる。金箔の落屑少なくまだ十分残っており、もう少し光が入れば輝く極楽浄土を現すように黄金に光るだろう。堂内観光客は10人ほどいるが、静かに座って手を合わせておられる方、ひそひそ話で感想を口にしているカップル、僕のように目を凝らして食い入るように見ている御仁、静かな時間を思い思いに過ごされており、日本の寺院の典型的風景があった。
ラッキーなことに、秘仏・吉祥天女像が特別公開中でした。吉祥天像の写真でよく使われる日本一有名で美人な吉祥天様です。逗子の扉が開かれ、ふくよかで白いお顔の吉祥天が、秘仏ゆえ色褪せず残っている朱や白の装い鮮やかにお姿を見せておられた。当時の美人の典型なんでしょうが、僕の好みはもう少し細身が・・・京都の何処かのお寺におられた弁財天様が、神仏界の2大美女・吉祥天と弁財天の中で、僕の中でまだトップです。泉涌寺界隈だったと思う。
観光バスも1台停まっていたが、どちらかと言うとお寺好きの方の参拝が多いような印象を受ける。
浄瑠璃寺側から、宝池を隔てて三重塔を見ると、先程よりは遮る木々は減るものの、やはり木々の間から塔が突き出ている感じがして、自然と一体化してナイス。国宝「三重塔」に行ってみよう。心柱を中心に、同じ大きさ様式の大屋根を3つ重ねた構造に見える。オーソドックスな塔です。塔内は見れなかった。
バイクに戻り、r752を進みr47に乗り換え、15:26「岩船寺」。参道脇に『石風呂 寺塔39坊の僧が身を清められた 鎌倉時代』が置かれていた。『当尾京都府歴史的自然環境保全地域(岩船寺地域) 指定地域は、平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、浄土信仰の霊地として栄えた当尾地区の東西両端に位置し、歴史的遺産と周囲の優れた天然林とが一体となって、歴史的風土が形成されている。「石仏の里」の中心地として親しまれている。
指定地域のうち岩船寺地域は、信仰と地域住民の生活に深く係わる中で、白山神社境内の自然性の高いシイ林と岩船寺境内の荘厳な雰囲気を持つヒノキ林を中心として、豊かな自然が育まれてきた』
入山料400円を払い、小さな山門をくぐる。正面に国宝「三重塔」が見える。山門脇に『本日特別公開・三重塔初層開扉 秘宝特別公開』と書かれた看板が掛けられている。
まずは三重塔。浄土寺のそれと比べ、大きさはさほど変わらない感じがするが、重厚感を感じる。何故かな?と写真を見ると、向こうは檜皮葺で、こちらは瓦屋根でした。檜皮葺の方が好きかな?
塔の扉が開いていました。扉の裏、心柱周囲に鮮やかな仏画が描かれている。あまりに鮮やかなので不思議に思い、頂いたパンフレットを見たら、平成になって修復されたそうです。西側と東側の扉が開かれていたので、両方から拝見します。心柱を囲む柱にも彫刻されているようで、中に入れれば・・・と願望が増しました。
横の小径を更に上がると鐘楼があり、一撞きさせて頂きました。『重要文化財 眼病平癒 石室不動明王 鎌倉時代・応長2年(1312)』がありました。石仏が浮彫りされています。横のお堂内には、『厄除 石造 地蔵菩薩 鎌倉時代』の浮彫りされた大きな姿がありました。その横に形の整った大きな五輪塔があり、『重要文化財 五輪塔・石室不動明王・十三重石塔 鎌倉時代』となっていました。
15:48になったので時間切れです。琵琶湖に向かうことにします。ナビをセットすると、到着予定時間17:15。17時に間に合いません。「そんなに時間が掛かるの?」と思いながら、夕方の「R24〜京都市内〜大津」のコースなので、より時間を食いそうで、山道を行くことにしました。
r47を北上し、JR加茂駅前を通過。r44で木津川を渡り、R163を少し東進し、すぐにr5で山越えです。和束町からr62。この道は県道なのに思いの外細い山道でした。R307を渡り、r783に乗り、バイパスを利用し瀬田川を渡り、南郷ICから1区間だけ京滋バイパスに乗り、石山IC下車。
R422〜石山〜r18湖岸道路で大津。ここでポツポツ小雨が落ちてきました。天気予報の嘘つき!R161で17:30ヨット部合宿所。1週間前の全日本インカレ団体戦を最後に引退する4回生から次への代交代式です。
合宿所に入り、バイク装束から持ってきたスラックス・セーター・ユニフォームに着替えます。「すまん、遅れた〜」と宴会している部屋に入ると、「こんにちは〜」「ありがとうございます〜」。
まだ歓談中だったようで、18時になり、僕が指名され「ご苦労様」の挨拶をした。続いて1回生選手代表・女子マネージャー代表から贈る言葉。2回生470屋代表・スナイプ屋代表・女子マネージャー代表から贈る言葉。続いて3回生。そして4回生全員からの言葉。3回生広報・映像担当が作った4回生に贈るビデオで大笑いし、最後に監督から言葉がありました。2回生エール係がエールを切ってクラブ応援歌・部歌をみんなで肩を組み合唱し、集合写真を撮ってお開きとなりました。
監督や4回生は飲み明かすそうです。時計を見ると、22時です。延々5時間もあ〜だこ〜だやっていました。バイク装束に着替え、小雨の止まぬ中バイクに跨り、湖西道路〜名神高速で23時帰宅。楽しい1日になりました。

2017/11/12
家内が神戸と大阪にお出かけです。僕は、台風対策したまま見に行っていない係留艇の様子を見に行くことにしました。8時に家内を駅まで送り、バイク装束に着替え、「招き猫CB400SB」でお出かけです。定番の招き猫に加え、Dr.スランプあられちゃんをリアシートにタンデムさせ、8:58出発。
R171を走り西宮へ。ホームポートにバイクを置き、桟橋を渡って係留艇へ。船は僕が2つ目の台風のために対策したままです。増しロープを外しても良かったのですが、そのままでも問題はないのでそのままにします。ドッグハウスに入り、バッテリーONにして、イグニッション・ボタンを押すと一発始動です。そのまま5分ほど回します。冷却水も通常通り出ており異音もせず、エンジンは快調そう。クルーザーのレース日で、昨夜代交代式で会ったヨット部OBたちを乗せたレース艇が出ていきました。僕もそうでしたが、学生時代に乗った小型レース艇の世界だけでなく、いろんなヨットに乗って今後の生活の楽しみにして欲しい。
コクピットに座り見上げていた六甲山に登りたくなりました。時刻は10:30。「行ってみよう」。バイクに戻り、R43に出てr82で北上し六甲山を登ります。R2を渡り、阪急甲陽園線の苦楽園口付近の踏切を渡り登っていると、「越木岩神社」の案内板が見えてきたので寄り道。枝道に入り下っていくと10:51神社がありました。
『兵庫県指定天然記念物 越木岩神社社叢 この社叢はヒメユズリハが群生する県下でも数少ない暖帯林で、洪積台地上に立地してぃます。ヒメユズリハ・モッコク・クロバイ・ヤマモモなどが林全体を覆い、低木層にはアラカシ・サカキ・ヤブツバキ・カナメモチ、林床にはマンリョウ・ベニシダ・クチナシ・テイカカズラなどが生育しています。一部の樹種に二次林的な様相が見られることから、若干、人の手が加わった部分があるようです』
参道脇に、土俵があった。古い神社なので、神事に使われて来たのかな?七五三参りの季節のようで、お出かけの洋服を着た女の子が、両親に加え祖父母さんも笑顔です。
『摂津国の一大霊場で、天然記念物の森に覆われた霊験あらたかな神社です。創立不詳と言われるほど由緒深く、甑岩を霊岩とし今なお全国的に信仰を集めています。
古代信仰の磐境(いわさか)・磐座祭祀と呼ばれ学術上貴重とされている。千年前の延喜式神名帳に大国主西神社として記録されている。
正保年間(1656年)社殿が再建され、明暦2年(1656)円満寺の教順僧侶が「福神」の総本社西宮神社より蛭子大神を勧進し、蛭子太神宮と称しました。以降数回社殿は修復されましたが、現在見事な片削破風流造の本殿は昭和11年に、拝殿は昭和58年に造営となった』
『霊岩瓶岩(こしきいわ) 本殿背後の甑岩は、周囲50m・高さ10mの大怪岩(花崗岩)です。室町時代の俳諧の祖・山崎宗鑑(1464〜1553年)は即興の句を吟じ、「照日かな蒸すほど暑き甑岩」と詠った(甑の意味は、方形・円形の米などを蒸し炊く器でセイロとも言い、夏の暑さの酷しい事とも言います)霊験あらたかな霊岩であり「安産の神・子授けの神」として太古の昔から崇拝され、甑岩に触れていただくと、「御神徳」や「パワー」を戴けます』
『年末年始の臨時巫女・奉仕者募集 資格:高校3年生以上の男女 平成29年12月中旬〜平成29年1月末頃まで 内容:12/31〜1/3社頭にて御守・御神札などの授与、祈祷受付補助など 1/9〜11十日えびすにて吉兆などの授与、祈祷受付補助など 手当:面接時にご説明させて頂きます』
女の子なら、巫女さんのバイトはやってみたいでしょうね。
『越木岩神社の神々 本殿:蛭子大神(えびす大神) 俗称:北の戎 福の神・えべっさんとして有名な蛭子大神がお祀りされています。もともと漁業の守り神であり、海からの幸をもたらす神の象徴でしたが、いつしか福徳を授ける神、商業の繁栄を祈念する神としても厚く信仰されるようになった。
岩社:甑岩神詞・厳島神社の御分霊 祭神は市寸島比売命で、女性守護・安産・子授けの神様として祀られています。俗に弁財天と称せられ、音楽や芸術の才能を伸ばし、弁知(知恵)の神更には縁結びや、財宝をもたらす金運の美女の代名詞である「幸福の女神」、御神徳の高い神様であることから、子供の成長や芸能の上達を祈る神様としても信仰を集めています。
六甲山社:菊理姫大神 神名の「ククリ」は「括り」の意で、イザナギとイザナミの仲を取り持ったことからの神名と考えられて、「縁結び」の神様として信仰されています。また白山比比め神と同一視されることもあり、六甲山を神体としてみなした原始的な山岳信仰があり、水神や農業守護・延命息災の神様として崇められたとも考えられています。甑岩が古代信仰の磐境・磐座祭祀という最も古い信仰形態とされる自然崇拝の対象とされ、修験者の山岳修行が行われていたことからも、重要な神様として古くからお祭りされています。
境外末社:苦楽園神社・石宝殿 境外に、苦楽園地域の守り神を祀る苦楽園神社。六甲山麓に当社氏子が作った雨乞社の奥宮「石宝殿」がある。
人生のまつり:私たちの暮らしは、いつも神様に見守られています。人生の大事な節目に神社に参拝し、子供の成長や家族が健康であること、家の安全などを祈願し、神様に感謝し家族みんなでお祝いしてきました。越木岩の神様とともに歩む人生のまつりを紹介しましょう。
子授け祈願:昔から子供は神様から「授かる」といい、神様からの恵みと考えられて来ました。子供が授かるように神社に詣で、御神前で祈願します。
腹帯に込める安産の願い・安産祈願:妊娠5ヶ月目の戌(いぬ)の日に神社にお参りし、子宝に恵まれたことを神様に感謝すると共に、安産を祈願し、帯祝いを行います。「帯祝い(着帯の祝い)」とは、胎児の健全な発育を願い、妊婦が白布の腹帯(岩田帯)を締めるお祝いです。戌の日を選ぶのは、犬が多産であることから、これにあやかりたいという願いからです。
神様に初めてのご挨拶・初宮:神様のご加護によって無事出産を終えたことの奉告と、子供の健康と成長そして今後のご加護を願い、初めて赤ちゃんとともに神社に参拝することを「初宮詣(初宮参り)」と言います。地方により多少違いますが、男児が31日目・女児は33日目に行います。初宮詣の時は、赤ちゃんに祝い着(男児は黒紋付、女児は友禅の晴れ着)を着せ、父方のおばあちゃんが抱くのが伝統的です。何日目というのは1つの基準で、この日でなければならないというものではありませんから、まず赤ちゃんの健康を第一に考え、日取りを決めましょう』
社務所には、七五三参りの方数組がいます。男の子も女の子も綺麗な着物を着ています。中学生ぐらいの振り袖姿が美しい女の子に、どうしても目が行きます。妹の付き添いのようですが、せっかく神様の前に出るのだからと縁結びのおすそ分けしてもらうのかな?
僕も、「腹帯」「初宮参り」「七五三」とみなお祝いしてもらって育ちましたが、こういう吉事を家族でお祝いする家の子は落ち着いた大人になります。自分の努力であっても、神様に頭を垂れることで、家族・世間への感謝の気持ちを忘れないように思います。家内・義理妹・長男の嫁・次男の嫁、みなそういう家の子で、息子たち一家もそう育てており、孫達も素晴らしい人生を歩むこと間違い無しです。
ガランガラン・ぱちぱち・・・拝殿には、新旧様々な絵馬が下がっていました。本殿裏の甑岩を観に行きましょう。
『「照る日かな 蒸すほと暑き 甑岩」 俳諧の祖・常鑑(1464〜1553)が当社のご神体の磐座を詠んだ句です。山城国の山崎に往んでいたので山崎宗鑑と名乗り本名を志那範重、室町幕府将軍足利義尚に仕えていました。義尚没後は出家をし尼崎の大物や能勢など諸国を巡り「手をついてもの申し上げるかえるかな」など多くの即興の句を詠んでいます。崇鑑の俳句は一茶や芭蕉など以降の俳人に多大な影響を与えました。晩年は讃岐国の興昌寺に庵を構えて没しました。辞世の句を「宗鑑はいずくへと人問うならばちとようありてあの世へといへ」と詠んでいます』
この謂れ板の横に、マークの付いた大岩が置かれていました。『大坂城築城の残石 右の御影石の前面に刻印があります。東側は池田備中守長幸(岡山県松山城主65000石)が使用した刻印で、大坂城修築工役(元和6年1620〜寛永5年1628)に天守台を始め、本丸や二の丸などの石垣を築いた大名です。
西側は鍋島信濃守勝茂(肥前佐賀城主357000石の大名)の刻印石です。採石地不明と言われていたが、当境内から発見された数個の刻印石により、当地境内・付近一帯が採石地であったことが判明した。
因みに霊石甑岩を大阪築城(1583年)のために切り出そうと豊臣秀吉が石工達に命じて割らせていたところ、岩の間より鶏鳴し真っ白な煙が立ちのぼり、その霊気に石工たちは転げ落ち、甑岩は運び出せなかったと言います』
湧水が小さな流れとなり、小さな池を作っています。しばし絵馬掛けに下がった絵馬に書かれた願い事を見ます。願い事を読みながら、その方のことを想像するのが楽しい。「・・大学合格」「・・資格試験合格」などを見ると、真剣な眼差しで書いている姿が見え、「元気な赤ちゃんが生まれますように」からは、夫婦でお腹を擦りながら幸せの笑顔で書いている夫婦の姿が見えます。中には、美少女アニメのような素敵な絵馬を見ることがあり、読んでいるこちらまで、幸せな気持ちになります。
石鳥居をくぐり、勾配のゆるい石段を上がって行くと、左手に『土社 祭神:大地主大神 我等が立っている大地を祭る。土や地や住居や生成を守護す。地鎮祭の神でもある』があった。
突き当りに『甑岩大神』と扁額が下がった石鳥居があり、祠の後ろに大岩。脇に『六甲山社 祭神:菊理姫大神 武庫山(六甲山)を拝み、東麓第一の社で山の神を鎮め祭る。 良縁成就・夫婦円満・農業守護』
菊理姫大神は、白山に祀られる白山比売神と同一視される神で、先だったイザナミ会いたさに黄泉の国を訪問したイザナギが、変わり果てた姿に驚き、一目散に逃げ帰る時、「見たな〜許さん」と追いかけてきたイザナミに追いつかれる。そこで口論になった時、仲立ちした神です。縁結びの神。
「良縁成就」には思い出があり、家内との結婚式披露宴で、取引先の偉いさんから、祝辞とともに色紙入り時計を頂いた。達筆な文字で、私と家内の名前を散りばめた祝いの言葉が色紙に書かれていました。私の名前2文字を入れて「良縁成就」になっていました。これが気に入り、いつまでも家内との良縁成就の気持ちを忘れないよう、今でも玄関の時計として壁に下がっています。
横に越木岩神社のプラスチック絵馬掛けがあります。「良縁成就・結婚・子孫繁栄」「心広き良き方との縁が成就しますように」「やせて若くて可愛いお母さんになれますように」「たくさんのお客様とのご縁をいただけますように」「2人目が授かりますように」・・・そう言えば、長男夫婦と有馬温泉の子授けの神徳がある神社を訪問した時、2人で長く手を合わえていました。2010年に結婚し、東京在住ゆえ2011年は福島原発の影響を気にして延期していた子作り・・・2012年にここ以外にもあちこちで参っていたのでしょう。2013年に長子を授かり、今や2人の親となっています。
「甑水神神社」がありました。湧水が湧いている所のようです。甑不動明王が睨みを利かせています。水源や滝などに多く立つ不動明王を見ると、清らから水の守り神という感じがします。
『御神水六訓 1水は尊し 水なくば成らず育たず、心ある者その加減を知り、水を大切にせよ。 2水は美し 冷熱に応じて虹と化して、水と変わり水晶となる。 3水は清し 常に味わいて飽きず、汚穢を洗い清める。 4水は強し いかなる障害に屈せず、自ら進みて矢を成し、地を動かす 5水は恐し 人を呑み船を覆し、山野を没して、地表をも変貌す 6水は深し その源、神に発し、大自然の道を示し、波乱曲折の人生を思わしむ』
甑岩を一周しようと東側に進むと、『遥拝所 伊勢神宮・宮中三殿・神宮神社を遥かに礼拝するところ 脇社:天照皇大神宮』があった。
『甑岩 祭神:甑岩大神 岩社祭神:市杵島姫大神 左前方にある高さ10m、周囲40mの花崗岩の岩は、その形状が酒を造るときの甑に似ているので甑岩と名付けられています。古代信仰の磐境・磐座をなし霊岩とされ神が鎖まっていると、古来より言われています。
今を去る約1100年前(延喜年間)には、この岩より煙がたちのぼり、茅沼浦(ちぬのうら・大阪湾)や戸田庄(西宮市戸田町・西宮神社が海岸であった頃)入江のあたりの舟からも見えたと伝承されています。
室町時代の俳諧の祖・山崎宗鑑(1464〜1553年)が句を残しております。照る日かな蒸ほど暑き甑岩
この神の鎮まる霊岩を大坂城築城のために切り出そうと、村人達の制止の懇願にかかわらず、豊臣秀吉が石工達に命じて割らせていたところ、今にも割れんとする岩の間より、鶏鳴し、真白な煙が立ち昇り、その霊気に石工達は、岩諸共転げ落ち倒れ臥し、如何にしても運び出せなかったと伝えられています。境内にある残石は申すまでもありませんが、この甑岩にも池田備中守長幸(松山城主8万5千石)の刻印があり、一部は搬出されたようです。
「安産の神」「殖産興業の神」「諸願成就の神」として崇拝され、修験者が修行した霊験あらたかな岩です。是非一周され御神徳をお受け下さい』
甑岩を一周します。しめ縄が周囲を巡っています。驚いたことに甑岩の一部に、刻印が刻まれています。本当に切り出そうとしたんだ。秀吉の伝説は事実で、事故が起こって祟りを気にしてそれ以上の切り出しを中止したのでしょう。
甑岩の裏に行くと、更に上っていく小径があったので、そちらに進んでみる。
『貴船社 祭神:貴船大神・龍神 水に縁ある諸業守護し給う。炎旱霖雨、豊作、海上安全、当社の奥宮は六甲山石宝殿であり、雨乞の霊験は特にあらたかである』
六甲山石宝殿は、逆瀬川から登る六甲山縦走路、六甲山頂近くにあります。石で造られた祠だったと記憶しています。雨乞い神事の時、ここから山頂まで延々登ったのでしょう。
東に開けた場所がありそうで行くと、イノシシが掘り返した跡がありました。そして、ドドーン。大阪ビル群が見渡せました。振り返ると山葡萄かな?が黒い実を付けています。更に上に上がるとてっぺんは大岩がゴロゴロしています。磐座って感じです。如何にも神が降臨し、天の神への祈りの場となりそうな場所です。甑岩の裏側に降りてきました。甑岩は1枚の巨岩ではなく、巨岩がいくつも集まり、穴太衆が組んだように切れ目がピッタリ合い、遠目では1枚の巨岩に見える岩でした。切り出そうとした名残のノミの跡が残った岩もあります。周囲には、岩を抱いて生えているような樹もあります。
越木岩神社に戻ると、七五三の参拝者が更に増えており華やかです。バイクに戻り出発。見どころ満載のナイスな神社でした。r82に戻り、兵庫県No2の進学校・甲陽学院高校横を走り、北山植物園横を通ります。長男は中学受験で甲陽を第一志望にしましたが、不合格でとても心配しました。合格発表の帰り、勝手にお店に入り、勝手に食べ、勝手に買っていくので、家内は尻拭いでお金を払うだけで、「もう私にはダメ」とヘルプ電話が僕に入り、すぐ帰宅して2Fの長男の部屋の前で見張りました。僕の天体望遠鏡は無残に放り投げられ壊れています。飛び降りるんじゃないかと一睡もできない夜を過ごしました。
奈良2校・兵庫1校・大阪2校受け、東大寺学園と甲陽学院が不合格で他は受かりました。大阪の学校に進学し、今がありますが、大人になってからその時のことを聞きました。「塾で僕より下だった友達が受かり、大丈夫と言われていた僕が落ちた。自分が情けなくなったんだ。お父さんが部屋の前にずっといたのは逆瀬川から登ってくるr16に甲寿橋で合流。盤滝トンネル入口からくねくね道を登ります。宝殿で芦有道路が合流し、越木岩神社の境外末社の「石宝殿」横を通過します。
ここまで登ればもう勾配は緩く、11:54六甲山最高峰直下の一軒茶屋。「六甲全山縦走ハイキング大会・チェックポイント」がありました。大学ヨット部同期が、今年も神戸大ヨット部同期とチャレンジすると言ってた大会の開催日のようです。ここまでも多数のロードバイクを抜きすれ違ったが、ロードバイクが何台も横になり、バイカーが達成感に浸っています。有馬側からと芦屋側から登ってくる魚屋道の休憩ポイントなので、大勢のハイカーでごった返しています。紅葉谷道の一部通行止め案内板が設置されていました。台風で崩れ通行止めになったけど、一部復旧していますが、ロープウェイ有馬温泉駅から、炭屋道合流部まではまだ通行できないようです。
ウロウロしながら休憩し、六甲ガーデンテラスに向かって進みます。ガーデンテラスPが混んでいるようで、四輪がその入口から渋滞しています。バイクは平気なので突っ込みますが、出る車も繋がっており、隙間を縫うことも出来ず断念。仕方なくUターンしてr16に戻り、高山植物園から枝道に入り、12:16「六甲ケーブル山上駅」。駅上の展覧台に上がってみます。大阪湾の絶景が目の下にあります。冬の空気に入れ替わっているので、淡路島・由良〜友ヶ島〜和歌山県・加太までくっきりと見えます。西宮YH沖を見ると、白いセイルの一群がいます。レースをしているようです。一文字防波堤沖を見ると、朝出ていったクルーザーレースの一群がいます。一列になっているので、弱いなりに風が入りレース中のようです。こうして俯瞰すると、神戸空港から加太って近いように見える。
「TENRAN CAFE」を見に行く。営業時間は11:00〜20:30。1000〜1500円のメニューが、拝み黒板に書かれている。「スペースホワイトカフェ」というのがありました。ROKKO MEETS ARTの作品となっているのですが、メニューもカレー・デザート・ソフトドリンク・アルコールとなっており、ちゃんとしたカフェのようです。
駅に降りてきました。六甲山上バスのバス停があり、ケーブルカーで上がってきたお客さんが、次々に乗り込んでいきます。駅の中に入る。昭和7年建築だそうで、重厚感のある建物です。建築強度などの規定が緩かった時代ですが、分からない分柱は太く、オーバースペック感が安心感を呼びます。ケーブルカーを見ると旅気分になります。
r16に出て鈴蘭台側に下ります。R428で北上し、r83を西に走り、13:27「デイリーヤマザキ神戸山田中店」で、ずっしり小倉デニッシュ119円と横綱揚げ108円を購入。13:32「呑吐ダム・つくはら湖」。昼食です。パンを食べ、横綱を1/3ほど食べます。ここは、バイクの溜まり場です。スポーツカーの溜まり場でもあります。GTR・コペン・外車ツーシーターオープンなどがいました。ヤマハXJR1300が2台、カフェレーサー的なクラシックカウルBMW、シートのないトライアルバイクがやってきました。常連さんなのでしょう、おじさん達があちこちで雑談しています。
r83を走り、r38を渡り、r85になり山陽道の手前、14:13「千体地蔵」。『本尊は天平3年12月行基菩薩の作。菩薩は新羅の慧基法師に学びて名声の誉高く、後聖武帝に重要せられ帝のために菩薩戒を授け、行基大菩薩の号を給わりし人。堂前面に佐々木源龍の筆なる扁額かかれり、土俗小さき石地蔵を奉るもの多く、その数1200、もってこの名あり。
昔この地に悪病が流行して多くの人命が失われたので奉祀安全を祈願せしが始まりと伝えられる。其後子安地蔵として遠近より参詣者多く、毎年8月24日の地蔵盆には特に参詣者が多い。註、ここは三木市志染町井上です』
石の上に置かれたり、削られた石に埋め込まれたりした石仏がたくさん置かれている。小さなコンクリートブロックが重ねられて作られた祠があるぐらいで、無造作に小さな石仏が集まっているだけに見えるが、謂われように歴史古いとそれなりのものを感じる。祠で囲われた磨崖仏もある。
山陽道下を抜けると、「伽耶院」の案内板を見つけ寄り道します。枝道に入り、14:21「仁王門」。『内部に安置されている尊像は、行基菩薩作と伝えられる金剛力士像であるが天正年間秀吉の三木城攻めに際して頭部及び脚部を焼失したと伝えられている。建物は大正時代の再建であり、花頭窓のみが前建造物の遺物である』
仁王像の首から上・両手・両足は見事に焼けてなくなっていた。脚部の付け根が何となく黒いように見えるのは光の加減だろうか?胸の立派な膨らみは残り、如何にも強そうです。
少し進むと駐車場があり、横に流れる沢に掛かる木々に紅葉が始まり綺麗です。『断層 柱状節理と呼ばれる神戸層群の特異な露岩であるが、露岩やや右寄りにタテに直線の断層が走り、その左右では岩層が約1m食い違い、更に右側部分は大きく波打っている。かつてこの付近を襲った大地震のあとである。断層がこのようにはっきりと見えるのは珍しい』
確かに断層が見え、何処にでも大きな地震が来るんだなと、改めて日本列島の自然災害の多さを感じた。当たった例がない地震予知などにお金を掛けず、地震からの復興にその資金を回す方が良いように思う。
『伽耶院 飛鳥時代(645年)法道仙人が開基した古寺で、花山法王が大東経を五部奉納されたという由緒もあり、後西上皇から伽耶院の勅号を賜っています。かっては数十の堂宇と130あまりの坊舎をもって栄えていたが、江戸時代以前に2回の火災により焼失し現在の建物はその後再建されたもので、現在でも修験道場としで年1回大護摩があります』
綺麗に石垣が積まれている。石垣の一部が突き出ており何かな?と思ったが、樋でした。雨水が石垣に沿って流れないように、直接下に落ちるようになっていた。新西国26番霊場・勅願寺大谷山伽耶院大谷寺。山門を入ると、ナンテンの赤い実が鮮やかに迎えてくれた。地面に置かれたトタンに沢山の銀杏が干されていた。イチョウの木がありそう。
境内に並べられたお地蔵様は皆、赤い毛糸の帽子を被っていた。お地蔵様には赤が似合います。梵字を刻んだ石像もある。本堂と多宝塔が見える。池があった。『黄金水 12月中旬から2月中旬ごろ、この池の水面が或は虹色に或は金色に輝く。当山の本尊福徳毘沙門天は法道仙人が金色に輝く滝壷から感得されたという言い伝えを持っており、寺ではこれを毘沙門さんの黄金水と呼んでいる。この期間以外はただの濁った水である』
今はただの濁った水です。本堂に入ってみる。毘沙門天が本尊の寺院は、そう多くないと思うが、僕は如来さんよりこちらの方が好きなので、目を凝らして本尊を見るがよく見えないよ。本堂と多宝塔の間に祠があった。
『三坂社(重要文化財) 伝慶長15年(1610) 三間社流(ながれ)造 こけら葺の建築で、当山の鎮守三坂大明神を祀る。正面の虹梁(こうりょう)墓股(かえるまた)組物彫刻及び側面の懸魚(げぎょ)等は江戸初期の様式を示しており、建立は本堂とほぼ同時期と考えられる』
蟇股の彫刻だけ彩色されていた。多宝塔も蟇股だけ彩色されている。『多宝塔(重要文化財) 正保4年(1647) 小倉城主源忠真の寄進によって建立され、弥勒菩薩を安置している。初層は方型・平行垂木。二層は円型・扇垂木、その間に白塗りの亀腹を持ち、蟇股と連子窓はされている。相輪を失っていたが昭和60年復元した』
裏に、丸い石臼が積み重ねられた上に祠が置かれている。『臼稲荷 田に水を溜めるため水の出□に古い石臼を使っていた当地方で、ある干害の年、白衣の老人となった狐が村中の田の石臼を全てとり除き水を均等に配分した。これを恥じた村人が石臼をここに奉納したと伝えられている。社前の紅葉はどうしてか、石臼を抱えている』
よく見ると、小さな祠が2〜3の石臼の上に置かれていたりした。謂れ板に書かれている紅葉は、たしかに石臼を飲み込むように樹勢を伸ばしている。珍しいな。本堂と多宝塔の間にイチョウの木が立っていた。途中で折れちゃったみたいで、幹の太さの割に高さがない。見たところイチョウはこの木だけですが、ここからあれだけ多くの銀杏が取れたとは想像し難い。
本堂の裏に石祠が沢山置かれている。『開山堂(県指定文化財) 明暦2年(1656) 但馬城主京極右近高供の寄進により建立され、開山の法道仙人を祀る。堂内部の壁面には極彩色の飛天を画き、長押天井回り及び須弥壇上の宮殿には何れも入念な彩色文様をほどこし、山内では最も華麗な堂である。明暦2年の墨書を持つ』
謂れ板を読んで中を観たかったが、扉が閉じられていた。残念。その横の境内に護摩炊き場があった。『護摩道場 不動明王の智火で煩悩を焼きつくそうとする儀式が採燈大護摩である。生桧葉を方形に積み上げ読経と共に点火する。毎年体育の日にとり行われ、近畿各地の天台系山伏200余名が参集する。前作法として山伏問答や法弓・剣の作法などが行われる』
その正面石段を上がった所に「行者堂」があった。『行者堂(市指定文化財) 寛永7年(1631) 土佐城主源忠義の寄進により建立され、屋根・軒まわり・縁まわりは後世の修理により改変されているが内部の厨子・脇仏壇等は寛永期のものである。役行者の尊像を安置し、何のかざりもないこもり堂としての性格を保っている』
葬式仏教が多い中、修行仏教者の姿を一般市民が垣間見るのは、修験道の山伏だけのように思う。数度偶然その日に護摩炊きする場を訪問したことがあるが、迫力がありました。天台宗系と真言密教系は、どう違うのか見聞が少なすぎて皆目わからない。
その横の境内最奥部に、子供が好きそうな人形や風車・石仏が木々の周りを囲むように点在している。「水子供養」の場だと直感したが、奥に入って行くと、小さな石仏が小さな卒塔婆を背負っていたりしているので間違い無さそうです。最も奥に、沢山の風車に囲まれた小さな石仏があり、スヌーピーのぬいぐるみを前に祭壇のようになっていた。小さな卒塔婆が3つ並べられており、ひょっとしたら家事で幼い子を一度に皆亡くしたのかもしれないと、深い悲しみを想像した。そんな最奥の空間から境内に戻ると、色づいた紅葉がより鮮やかに見えてきて、こんなに色づいていたのかと、往路の気付きのなさにびっくりした。人は精神的なもので、見えるものが違って来るようです。
バイクに戻り、r85を北へ。15:08「ネスタリゾート神戸」。子供たちがまだチビだった頃、何度も来たことがある「グリーンピア三木」が経営破綻し、経営者が代わり新たに出来た施設。何があるのかよくわからないが、送迎バスなどを見かけたし、県道分岐に職員が立っており、経営的にはそれなりに順調そうに見える。r85がr355に突き当たり右折。r355を東進していると小さな鎮守の森が見えて来たので寄り道。15:18「御酒神社」。蟇股にまだ新しそうな見事な龍の彫刻が見えました。新しい精細な彫刻は、彫師ではなくCADソフト製作なのかもしれない。こんな立体的な精細彫刻が、PCで出来るようになったのだろうか?
大きな蔵があり、神輿や山車が入っていそう。境内角に巨石があり、垣根の一部を成している。かつてはこの巨石を祀っていたのかもしれないな?と勝手に想像した。県道は川に沿って走っているのですが、この川が上流から運んできたとはとても思えない大きさでしたが、角が削れ河川で削られた巨岩にも見える。
r355〜r506〜r17で「六甲北有料道路」と「中国道」をくぐり、r357でR176。それを少し南下し、r327でJR道場へ。武庫川沿いに走り、1年半後に開通予定の新名神高速道路のこの区間の工事進捗状況を見る。
16:02、武庫川沿いから離れ「川下川ダム」に登っていく所にバイクを停める。車両通行禁止杭で行けない舗装路の探索をしてみよう。落ち葉いっぱいの道を歩いていくと、やがてJR福知山線の線路をくぐり、ダムの方に道が曲がります。新名神の橋脚の真下から見上げると、とても高い所を道路が走っている。倒れずこんな道を造る日本の技術は素晴らしい。強度計算されているので、無駄に太くなくスマートでカッコイイ。
ロックフィルダム真下まで行けると思っていたのですが、送水路とダム施設までしか行けませんでした。大雨の後などで貯水量を吐き出している時は、送水路も大変な勢いなんだろう。神戸市水道局の門扉から見える所に鉄蓋で閉じられた横穴トンネルがある。あそこに入っていけば、ロックフィルダム直下まで行けそう。
これ以上無理なのでUターン。何気なく見ていると、すっぽんの死骸が転がっていた。武庫川渓谷を歩きバイクへ。ここは武庫川とダムを水源とする朝霧のメッカなので、高速道路開通後は、濃霧で速度制限が頻発される区間になりそう。上手く行けば雲海の上を走り、朝霧雲海の絶景ポイントになるかもしれない。
「川下川ダム」経由でr33に出て、r325〜長尾山トンネルを抜け、17:07帰宅。ああ、楽しかった。

2017/11/7-8
全日本大学ヨット選手権(インカレ)の3日目夕方にわかった高校大学時代の同級生Yくんのお通夜・告別式です。
11/5(日)夜にインカレ会場福井県高浜町から帰宅し、月曜日午前中にYくん自宅に電話しました。奥様にいろんな話を聞きます。事務的なことは、「供花か供物を出させていただくので、担当の葬儀屋さんを教えてもらうこと」「香典辞退」など。
7月にお腹が痛い・・・腸炎として服薬回復。8月にまたお腹が痛い・・・同じく回復。8月下旬また腹痛・・・検査した所、肝臓に影があるので豊中市民病院への紹介状をもらう。9/5豊中市民病院で精密検査し、肝臓がんと判明。原病巣は空腸ステージ4と判明。手術・放射線療法は出来ないので、抗癌剤治療開始。2週間1クール(2日抗がん剤投与・10日間治療効果を見る)2回目に入る11/4夜に病態急変し、そのまま4時に亡くなったとのこと。
まだご顕在のお母様(学生時代何度も訪問し、食べさせてもらった)のご様子を聞き、ご兄弟やお子様方のことも聞き、奥様へのサポートもあるので大丈夫そうだと確認しました。
葬儀屋さん(お嬢さんの同級生が経営)に電話し、供花のみで1基1.5万円と2万円があるとのことで、卒業後も年1回集まっていた高校ヨット部同期を中心にした仲間6名連名で、1対4万円のを出さしてもらうことにする。
その旨、5人にメールすると、皆からお任せのメールが届きました。届かなくても強制参加ですが・・・。お通夜は、11/7(火)19:00になりました。前日が友引だったのでこの日です。葬儀会館は、箕面市立聖苑というところです。
11/7・18:00に着くよう早めに家を出ました。新しいとても綺麗な会館で、ご葬儀はYくんだけでした。サインして、カメラを持って会場に入り、祭壇を写します。東京在住で来れないやつもいるので、写真だけでも送ってやろう。
親族控室をノックし、奥様・喪主の長男さん・その新婚の奥さん・お嬢さんに、連絡頂いた御礼とお悔やみを伝える。式場に戻ると、職員さんが「お顔を見られますか?」とのことで拝ませてもらった。僕の知るYくんより痩せていたが、綺麗な顔をしていた。
弟さんと妹さんが挨拶に来られました。弟さんはYくんに似ており、歩き方がそっくりです。Yくん同様気さくな方でしたが、用事で離れられました。妹さんは、高校ヨット部同期に引き入れられたYくん同様、ウインドサーフィン仲間に引き入れられたようで、僕以外の連中とは大学時代遊んでいたようです。僕は大学もヨット部に入ったので、Yくんの家で数回会っただけです。あれやこれや、親族の打ち合わせが始まるまでお話しました。
一般席半ばに座っていると、メンバーのSくんとSA君が目の前の席に座りました。「やあやあ」と3人で座りました。通夜式が始まり、お焼香して席に戻る時、別の中学〜大学まで一緒だった仲良しKくんの顔がありました。お互い会釈。式が終わり、「お顔をご覧になる方は・・・」の案内に促され、3人で拝みに行きます。R171沿いのロイヤルホストで「お茶でもしよう」との話になっていたので、Kくんを探すがもう帰っちゃったのか見つけられませんでした。僕を探すものと思っていました。
R171に出て西に走り、ロイヤルホストがありました。電話を掛けたら「ロイヤルホストにいるよ」とのことで入ってみたらいない・・・再度電話すると、何度か待ち合わせたことがある伊丹のロイヤルホストだとわかりました。ここは池田です。
伊丹のお店に移動し、3人であ〜だこ〜だ。2人は珈琲でしたが、僕はフラッペです。久しぶりに会ったので、話が弾みました。

11/8
告別式です。11時からなので9:30に用意をしだし、小雨が降っていたので前日と違い車で出動です。サインして式場に入ります。お通夜より席の数が半分ぐらいになっていました。お通夜の時は、喪主の息子さんが豊中高校の先生なので、生徒さんがわんさか来られていました。
式場内に座っていると、昨日会ったS君がやってきて、「向こうで」ということでロビーの喫茶コーナーでSくん奥様と3人であ〜だこ〜だ。東京からYくんがやって来ました。4人でお喋りしていたら案内があり、式場に入ります。
前日と同じ天台宗の導師さんです。天台宗のお式は初めてで、宗派によって違いますね。式が終わり、お花をYくん棺に入れ、最後のお別れをします。ロビーに出て棺が火葬場の方に移動していくのを見送る。式場と火葬場が同じ施設なので便利です。
4人で、前日僕が間違えたロイヤルホストに入り、昼食を取る。またあ〜だこ〜だ話が弾みました。2年前、僕より6才も若い弟が心筋梗塞で倒れた時も驚いたが、同級生の死に「いよいよ僕の番も近づいてきたな」と感じました。


2017/11/3
コーチしている大学ヨット部の全日本インカレ団体戦です。全国の大学が、このレースを最終目標に練習・レースに励んでいます。多くの大学が予選で破れており、この大会に出場する事自体光栄なことです。
僕の出身大学は、この大会での優勝を毎年目指しており、僕の現役時代を含め12回総合優勝しています。クラス別優勝はその他に何度もありますが、総合優勝から遠ざかっているので、今年は・・・と狙っているでしょう。
僕は母校のコーチ、僕が立ち上げたジュニアヨットクラブのコーチを経て、現在息子の卒業した大学のコーチを、息子が現役だった頃から続け、既に15年です。息子はとっくに卒業しているのに、僕は何が気に入ってもらっているのか、毎年更新され現在に至ります。
かつてはクラス別2度の優勝をあげた強豪校でしたが、予選敗退常連校になっていました。段々と力がついて生きて、ここ数年連続で全日本に駒を進めています。慣れ親しんでいるホームの琵琶湖ではありませんが、地元水域主催開催なので、目標の「総合6位以内」を達成するチャンスです。
1ヶ月間、レース艇をレース開催ポートに入れて練習し、部員にチャンスだと話し、部員も自覚し、僕自身気合を入れてきました。
4時前に目を覚まし、天気予報をチェックし、4:29車で自宅を出発しました。4:42「伊丹産業セルフ川西SS」で給油し、北上を始めたところで「時計を忘れた」のに気づきUターン。自宅に戻り時計をして出発。5:29「ローソン川西萩原1丁目店」で、「LSつな揚げ108円・伊藤園健康麦茶151円・田辺農園バナナパック266円」を買いました。
池田からR477〜r73で「千代川IC」から京都縦貫道に乗りました。綾部JCTで舞鶴道に乗り換えるのをミスって、「舞鶴大江IC」で下車。R175〜R27〜r28〜R27で、合宿所に寄りました。既に選手はハーバーに向かったようです。8:31「高浜和田ヨットハーバーYH着」。
学生時代から慣れ親しんだインカレの雰囲気です。大学の所定バースには、OBのMさんとKさんが来られています。院生のH君・O君もコーチとして来ています。11/2がレース初日でしたが、風がなくノーレースだったようです。軽風は得意な風域なので、途中経過ですがいいところ走っていたようです。
他大学を見回っていると、ジュニア関係の見知った方に会います。母校のバースでは先輩や後輩にも会いました。早稲田や九大の見知った選手に声を掛け激励します。
風が弱いので風待ち後フラッグが揚がり、支援艇がハーバーを離れてゆきます。出場全144艇(24校×3艇×2クラス)にとってスロープが狭いので、予め3つにグループ分けされ、グループごとにアナウンスされスロープに入っていきます。僕らコーチボート乗艇員は、漁港に歩いて行きます。OBのNさんが手配してくれたボートに乗り込みます。支援艇はインフレータブルボート1・ハードモーターボート2という体制です。
沖に出ると、10:26レース艇が支援艇に引っ張られ、レース海面に急いでいます。144艇のヨットが一斉にレース海面を目指す姿は壮観です。僕もかつてこの中の1艇として心高揚させて、学校のフラッグを一番てっぺんに上げるべく戦いました。今更ながら素晴らしい世界に青春のほとばしりを投じた貴重な時間だったなと、思い出が蘇ります。各大学の支援艇・応援艇・部員の父兄を乗せた観覧艇が、レース海面のあちこちに見えます。多くのOB・OG・親に見つめられて、選手たちは幸せ者です。
当方も、スナイプ級の3艇を見つけ曳航してレース海面を目指します。優勝候補の一角・慶応のスナイプ3艇を引っ張ったボートを抜いていきます。正々堂々、ガチンコ勝負しましょう。大阪大学は、24フィートほどのセーリングクルーザーを観覧船にしているようです。レース海面に着くと、優勝候補の一角・母校KGの470級3艇が練習を始めています。学生スポーツは4年間しかないので、僕が先輩から受け継いだ1艇のレース艇を後輩に渡し・・・という感じで、この3艇のうちの1艇は、僕の直系です。頑張ってほしいな。
風が上がらず、長い海上待機が始まりました。12:02レース艇が寄ってきて、お食事タイム。インフレータブル・ボートも寄ってきて、僕のカメラに向かってポーズを取っています。パシャリ。優勝候補・同志社・日大、そして20数年ぶりに両クラス全日本出場してきた東大。470級の優勝候補・日本経済大学・・・僕がナショナルチームの時、親しくしてもらったMさんがコーチとしてコーチボートに乗っています。
法政・優勝候補の早稲田、そして母校KGの40フィートほどのセイリングクルーザーが近づいてきたので目を凝らすと、先輩のKさんがドライブしています。声を掛けると、「あ〜・・君か」と世間話をします。部員と父兄が乗っているようです。甲南大・愛工大、慶応はイカ釣り漁船をチャーターしています。集魚ライトがズラリと並んでいます。同志社もイカ釣り漁船です。同志社は5〜6艇出しているようです。
前日11/2、第1レースがスタートされたが風が落ちて、トップ艇が制限時間内にフィニッシュできずノーレース。この日も風が弱く、軽風で1レースだけ成立しました。15:40にAP・Hフラッグが揚がり、2レース目はスタートせずハーバーに帰着しました。成績は、470級7位・スナイプ級5位・総合5位で順調な滑り出しです。
16:54、部員を乗せYH出発。17:13合宿所着。携帯電話のバッテリーが少なくなっているのに、ケーブルを忘れてしまったので買いに出ます。17:20、「ローソン高浜東三松店」で、「ペガサス・ガラケー・スマホ対応・単3乾電池式充電器・1026円」を買います。17:57、合宿所近くのスーパー「フクヤ」で、「くらしひねり揚100円・バスコ粒いちごパン93円・薄皮レーズンカスタードパン150円」を、おやつと明日昼食用に買います。
同期のD大・Hくんに電話すると、昼頃ハーバーに着いたようで、OB達と宿で宴会を始める所だそうです。第1レース終了時点で、D大がトップに立っています。「明日逆転されるかもしれないので、今日宴会しておかなければ・・・」なんて言ってました。D大が3連覇した後、早稲田が3連覇中です。今年は地元近畿北陸ブロックがレース主催なので、地元の雄・D大が王座奪還に気合を入れています。合宿所でミーティング。明日は大荒れが予想されるので、サバイバルの事を話します。マネージャーが作ってくれた美味しい夕食を食べ、部員を乗せて風呂屋に行きます。20:17宿発〜20:28風呂着。ここは、「いきいき長寿村あみーシャン大飯」という立派な施設で、展望風呂は4Fにあります。300円。原発資金が入っているようで、公共施設が立派です。
21:24風呂発〜21:35合宿所着。クラス別ミーティングや談笑後、車に戻り、最寄りの高浜駅に行き、トイレと歯磨き(歯磨き・歯ブラシ忘れ)を済ませ、車中泊。

2017/11/4
5時に目が覚めました。小雨が降っています。布団を片付け、朝の身支度です。5:24「ファミリーマート高浜国道店」で、アクアフレッシュ歯ブラシ・160円を購入し、駅に行き歯磨き。コンソールボックスに入れていたひげ剃りが切れず、「ファミリーマート高浜国道店」に再度行き、「貝印ベスティEX首振りひげそり・108円」を購入して顔を整えます。
合宿所で朝食を食べ、朝の散歩に出ます。6:49漁港、6:52「高浜城山公園」。
『中世の高浜に生きた戦国武将・逸見昌経は、佐伎治神社の裏山に砕導山城を構えていました。昌経は永禄4年(1561)、若狭国守護・武田氏の内紛に乗じ反乱を起こしましたが、同年6月越前朝倉・武田連合軍との合戦に敗れ砕導山城は落城します。
巻き返しを図る昌経は、永禄8年(1565)高浜湾に突き出た小半島に高浜城を築城します。
高浜城は当時若狭国内の城郭が全て山城であるのに平山城であったことが注目され、また、逸見氏は伝統的に水軍を軍事力の要としており、大飯町域や舞鶴市域に海城が確認されてますが、本高浜城も三方を海に囲まれ海城として機能していたものと思われます。今も天王山では当時の野面積みの石垣や石段・郭などを見ることができます。
高浜城は天正9年(1581)に逸見氏が没落して後も代々城主が代わり、寛永11年(1634)の初代小浜藩主・酒井忠勝の入部まで存続したと伝えられています。
平成12年(2000)10月、城域内での下水道工事中に遺構の一部と思われる石材が出土しました。二の丸と三の丸の境界にあった橋の基礎石である可能性が考えられます。 高浜町教育委員会』
現在は砂州で陸続きになっていますが、4〜500年前は陸地と繋がっていない小島だったのが、地形を見て容易に想像できます。小島が2つ並んでおり、両方共城として使っていたのでしょう。和田漁港を挟んで対岸に、YHの裏山があり、そちらの頂上には神社があります。そちらにも砦が築かれていたのだろうと思います。7:22合宿所に戻り、7:28監督・若手コーチ・部員を乗せて出発し、7:37YH着。午後から荒れる予報ですが、朝はさほどではありません。各大学、艤装に余念がありません。
D大同期・Hくんに電話して「やあやあ」。船に乗るのか聞くと、「カッパを持ってきてないので乗らないとのこと」「アホかお前、カッパ貸したるから乗れよ」と、僕のホームセンターカッパを貸す。僕は、冬用ヨット用カッパを着込む。ブリーフィングして、陸上に出艇フラッグが揚がり、レース艇もコーチボートも出艇します。
漁港のコーチボート係留場に行くと、母校KGの観覧船が停まっています。覗くとK先輩が出てきました。「船に泊まっているのですか?」「いいや、キャンピングカーで」と、目の前の車を指差されました。Kさんが以前から持っておられた車です。部員たちを乗せ、先に出て行かれました。
前日、上マーク担当だった観覧船がより大きな船に代わっています。午後からの荒れる海面を考えると、レスキュー艇になるかもしれないコーチボートの人数が多すぎる感じがして、監督に断って観覧船の方に乗ることにしました。
3回生女子マネージャーSさん・1回生女子マネージャーNさん、部員やOBさんと共に乗ります。9:36レース海面。レースシグナルが揚がり、マニューバリングに入ります。風は5〜6m/sで白波は立っていません。北の海面遠方に明らかな雨雲があり、その下は大雨のようです。海は空が広いので、天気の変化が見えます。あれがこちらにやってくると、荒れそう。天気予報の指す小さな前線はあれのことかな?風向は西なので、そのまま東に流れてくれるとありがたいけど・・・。風の上がらないうちにレースをやりましょう。風の弱い琵琶湖で練習しているので、風が上がっていると不利です。
470級、この日の第1レース(通算第2レース)、ブラックフラッグ下でゼネラルリコール、スタートやり直しです。26艇が早すぎるスタートをしたので、次のレースに出れません。優勝候補の早稲田が1艇引っかかり、優勝争いから脱落。当方も1艇引っかかり残念。
スタートし、第1上マーク。当方2位回航。当方2艇目も上位回航し、良い感じです。スナイプ級は、ブラックフラッグの中ゼネラルリコールで、引っ掛かり次のレースに出れない艇が14艇出ました。当方は1艇も引っかからず有利になりました。
2・3マークを回航し、2回目の上マークに来たところで、懸念していた北の雲がやって来て風が上がりました。全面白波で8m/s・ブロー10m/sの海面に様変わりします。大波を伴って来たので、本部船にAP/Hフラッグ(ノーレース・ハーバーバック)が上がりました。全コーチボート・観覧船は、レスキューボートに代わります。
即座にメインセイルを降ろして、小さなジブセイルのみでハーバーを目指す学校があります。僕がミーティングで話していたサバイバル・テクニックです。数艇ひっくり返っています。沈艇を探していると、コーチボートから「エンジンが止まった」との連絡が入ります。
曳航ロープを準備し、コーチボートに急行しますが、他大学のインフレータブルボートが曳航して風上に上げてくれています。その後、より大きなハードボートに曳航が代わり、当方はその回りを走ります。一番心配になったのが、懸念していた非力な25馬力エンジンを積んだインフレータブルボートです。3回生女子マネージャーがドライブしているはずです。
曳航されたコーチボートに伴走しながら、漁港に戻ります。無事着岸。インフレータブルボートの無事ハーバーバックできたようで、レース艇も6艇とも無傷で帰ったことを確認できホッとしました。
母校KG観覧船が戻ってきたので、もやいを受け取ります。テトラポットで砕けた波が防波堤を越えてきます。漁港内でも波立ち、岸壁に擦れたら船が痛みそう。フェンダーを入れて擦れ防止する。
12:44ハーバーに歩いて戻り、大型テントに入って雨宿り。僕のホームポートの新西宮YHのノースショップが開店していおり覗くと、僕がかつて理事していたジュニアヨットの父兄がある。あ〜だこ〜だ、おしゃべり。レース艇の艇体放棄が3艇、レスキューボートが2艇ひっくり返り、1名行方不明という最悪の情報が入る。船は何とでもなるけど、人命は・・・。
海保のヘリが飛び、YHには消防指揮車がやってきた。救急車もやってきた。全員ライフジャケットを着ているので、行方不明者も発見され拾い上げるが、選手のようにウエットスーツを着ていないので低体温になったとか。レース委員会に2名医者がおり、救急車がサイレンを鳴らし出ていく。
予報より早く前線通過があったようですが、午後は更に海上は荒れるはずだから、もうレースは出来ないだろう。母校KGの艇置き場に行くと監督がおり、様子を聞く。幸い何もなかったようです。ブラックフラッグにも引っかからず、優勝は慶応・D社・KGに絞られたように思う。
僕の母校・KGHヨット部卒の気象予報士がおり、気象会社に勤めているようです。全日本期間中は、逐次彼から現地の予報が入る体制になっているようで、この大荒れも1時間前に通報を受けていたようです。真っ先にメインセイルを降ろしてサバイバル体制を取ったのはKGでした。我が母校ながら、流石です。
ハーバーの防波堤を越えて、砕けた波しぶきがYH内に降ってくる。14:43、部員を乗せYHを後にする。ハーバーを出たところで駅に向かって歩いている3回生女子マネージャーWさんをピックアップする。彼女はインフレータブル・ボートの運転をしていたこの日のヒーローです。「怖かった?泣いてるんじゃないかと思ったよ」と声を掛けると、割合平気だったようです。頼もしくなりました。観覧船ドライブも、3回生マネSさんが適切に動かしていたし。
14:57、合宿所着。風呂に行くメンバーを募り、15:20合宿所出発。海上に出た女子マネを積極的に誘う。温かい風呂で、ゆっくり疲れを取ってもらいたい。15:36前日と同じ風呂着。風呂上がりに、前日は定番のコーヒー牛乳がなかったのでファンタグレープを飲みました。この日は1F食堂に降り、アイス250円を食べましょう。
3回生女子マネ・Sさんが降りてきたので、アイスを奢る。彼女とお喋りしていると、3回生Sくん・4回生Tくんがやってきたので、同じく奢る。16:56風呂発〜17:09合宿所着。17:30からミーティング、そして美味しい夕食。みんな元気そうで、サバイバルな1日を経験し、一回りたくましくなったでしょう。
D社同期Hくんに電話すると、もう大阪に帰っているとのこと。サバイバルの時、彼の乗った観覧船40フィートセイリングボートは全速力でハーバーに戻ったが、ハーバー内に入ってエンジンスストールしてしまったようです。陸上にいた部員たちにサポートされ桟橋に係留後、桟橋で次々に帰ってくるレース艇をサポートしたようです。「おまえがコーチしてるとこのレース艇も1艇助けたぞ」とのこと。「カッパ借りてて良かったわ。あれがなければずぶ濡れで風邪引いてたわ」。彼の経営しているお店に、僕がカッパを取りに行くことにしました。21:09駅に行き、トイレや歯磨きして「おやすみ」。

2017/11/5
レース最終日です。朝4時に目覚めました。昨日からの風がまだ残っています。陸上ですが体感6〜8m/sでしょうか。すぐに車内の寝床を片付け、駅まで朝の散歩&朝のお勤めをします。
5:30に合宿所に戻り、朝食を食べ、車で駅に行き歯磨きをします。1回生が次々にやって来て、6:05の電車に乗り込みYHのある次の若狭和田駅に向かいます。前日朝訪問した「高浜城址」の主だった逸見駿河守昌経が籠もった「砕導山城」が駅の山側に見えます。昨年登ったが、海が一望でき素晴らしい眺望でした。
6:37監督・コーチ・部員を乗せ、6:50YH漁港着。混雑が予想されるので、一般車用Pが漁港に用意されていたのでそちらに入れました。お隣の車からご夫婦が出てこられたので、「駐車場が狭いですね」と声をかけると、「関東に比べれば広いですよ」とのこと。慶応の選手のご父兄でした。聞かなかったけど、ジュニア出身選手の親御さんだったかも?もっと話せば良かった。
歩いてハーバーに入ると、駐車場はガラガラです。これなら「入れるかも?」と思い、車を取りに戻ります。そこでなんと、甲南大学OBで一緒にチームを組んでドラゴンのレースに臨んでいるOさんと会いました。「あれれ〜」、母校の応援に来られたようです。7:24、車をハーバーPに入れました。
7:30、当方大は体操〜ブリーフィング。他校も円陣を組んでいます。母校KGブリーフィングを見に行くと、各クラスチーフから出場選手名を呼ばれ、「はい」とブルーのビブを受け取っています。僕が現役だった頃はビブがありませんでしたが、当時と変わらぬ出艇前の光景です。父兄がその様子を写真に収めています。
7:44、コーチボート・支援艇が出艇して行きます。8:25、選手が出艇して行きます。漁港のコーチボート係留地に向かいます。前日エンジンがストップしてしまったコーチボートは使えず、インフレータブル1&ハードボート1隻体制になりました。右エンジンが始動せず、メンテナンスに来てもらうとバッテリー上がりで、交換してもらいます。
その間、母校KGの観覧セーリングクルーザーの出艇を手伝います。僕とチームを組んでドラゴンのレースに参戦している先輩たちが乗っています。横には、艇体放棄したスナイプ1艇と、ひっくり返ったレスキュー・インフレータブルRIBボートが2艇置かれて、当該部員や担当者が見ています。水上警察?海上保安庁?の方か、現場検証しています。メンテナンスも来て、エンジン復活メンテナンスをしています。
バッテリーが届き左右エンジンが掛かり、桟橋を離れます。波の残る5〜6m/sの風の中、2レース行われました。スナイプ級の1レース目(第2レース)でトップフィニッシュしました。コーチボートは大歓声と拍手で選手を迎えます。
総合的には得意な軽風ではなかったので着順が振るわず、470・11位、スナイプ7位、総合9位で全日程を終えました。漁港に帰ります。帰路家内に電話すると、駅を降りてハーバーに向かって歩いているとのこと。最初のハーバーゲートで待つよう伝えたが、2つ目のゲートまで行ってしまい、ハーバー内で探すことになりました。
12:36家内と合流し、ノースショップで既知とお喋りし、4回生学連部員と一緒にうどんを食べました。大会本部建物が次男の会社のものというのを家内が目ざとく見つけ、それを写真に収めました。
12:41、レース艇やコーチボート運搬のトラックがハーバーに入ってきて、積み込みに選手が忙しい。家内とあちこち歩きます。ジュニアからの既知に会ったので、あ〜だこ〜だ。
14時になりました。抗議が数件出ており、閉会式は16時頃になりそうなので、帰路に着くことにしました。キャプテン・監督・部員に挨拶しバイバイ。
R27で海岸線を東に向かい、14:22「イルマーレ」というイタリアンレストランでケーキセット食べようと入るが、お食事のみでした。舞鶴東ICから舞鶴道に乗り、綾部JCTから京都縦貫道。15:26「京丹波・味夢の里SA」着。ここでケーキと珈琲をフードコートで食べました。亀岡ICで下車し、R423で池田まで南下し、17:43自宅着。楽しいレース三昧の週末でした。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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