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兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2018/2/18
家内はお出かけで、1人遊びの日です。3週連続のグループツーリングを模索しましたが、10人以上の参加だったので参加を断念。僕はどうも大勢が苦手です。コーチしている大学ヨット部の新艇進水式の日です。13〜15時・琵琶湖艇庫なので、それまでの時間を好きな寺社史跡巡りに使いましょう。宇治から醍醐・山科にかけて探索することにしましょう。
4時ごろ目を覚まし、いつものようにゴソゴソ。バイク用冬プロテクター上下に着替えます。高速道路を使うので、「招き猫CB400SB」を倉庫から出します。Drスランプ・あられちゃん・フィギュアをリアシートにタンデムさせます。8:45「セルフ緑ヶ丘SS」で給油。221km/9.73L=22.7km/L。冬はアイドリングが上がるから、平均燃費より2km/Lほど悪い。R171を東に進みます。猪名川を渡る橋に右翼街宣車が3台連なって出てきました。猪名川沿いの基地から出てきたのでしょう。長淵剛の「永遠のゼロ」主題歌を大音量で流しています。良い曲だな。思わず映画の場面を思い出し、涙が出そうだ。チャイナと北朝鮮・韓国に脅されまくり領土を占拠されそうだったり、占拠中であったり、拉致されたままで情けない。白人の全地球植民地化をたった一国で跳ね返した気概はどこに行ったのか・・・右翼街宣車に同調する気持ちはないが、美しい日本を取り戻したいと思っている。
吹田ICから名神高速に乗り、大山崎JCTから京滋バイパスにチェンジします。「宇治西IC」で下り、R24に乗ります。少し北上し、r245で東進、京阪宇治線を渡り、JR奈良線を渡ってすぐ、r7の乗って北上。六地蔵からr36に入り、9:41「法界寺(日野薬師)」到着。
『東光山と号する真言宗醍醐派の寺で、日野薬師として親しまれている。
平安期の永承6年(1051)日野資業(ひのすけなり)が、この地にあった日野家の山荘を寺に改めた。日野家は藤原氏の流れをくむ貴族で、浄土真宗開祖・親鸞や室町幕府8代将軍・足利義政に嫁ぎ、政務に手腕を発揮した日野富子らを輩出している。
代々一族が堂塔を整え荘厳美麗を極めたが、兵火で焼失し、現在は本堂(重文)と阿弥陀堂(国宝)が遺るのみである。
本堂の薬師堂には、伝教大師作・薬師如来を体内に納めた本尊・薬師如来像と運慶作・脇士日光月光十二神将(重文)が安置されている。この本尊に祈願すると、授乳のご利益があることから、「乳薬師」と呼ばれている。
阿弥陀堂は、平安後期の阿弥陀信仰の高まりと、末法思想の普及に伴い建てられた。定朝用の阿弥陀如来像とともに国宝に指定されている。
毎年1/14に「裸踊り」が催され、踊りに用いられた下帯は妊婦の腹帯として篤い信仰を集めている』
山門をくぐり境内に入ってみる。『日野家一族が私財を投じ建物を整え、荘厳美麗なお寺でしたが、応仁の乱で焼失し、本堂「薬師堂」と「阿弥陀堂」が遺っている。本堂は康正2年(1455)の建物。阿弥陀堂は、永承年間(1046〜1053)に建てられた。浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、承安3年(1173)日野有範の子としてこの地に誕生し、子供のころ阿弥陀堂で祈られた。これら仏像や建物は、日本美術史上大変有名です』
『近世における法界寺の具体的様相は、「都名所図会」から知ることが出来る。
阿弥陀堂と池が対面し、東方に鐘楼、現在の薬師堂の位置に草庵風の建物があり、鐘楼の脇から坂道が東側の集落に通じていることなど、全体の佇まいは現在と大差ない。阿弥陀堂(国宝)は、承久3年の火災後の再建で鎌倉初期。薬師堂(重文)は、もとは伝燈寺(奈良県龍田)の本堂でしたが、明治37年(1904)移築された。
鎌倉初期の阿弥陀堂が現存すること、及び絵図からみて、境内中枢部は創建時から大規模な地形改変を受けずに今日に至っている可能性が高く、京都の寺院史を研究する上で貴重な史跡です』
寺務所で拝観料500円を納める。阿弥陀堂は素敵な落ち着いた屋根を持っており、国宝の佇まいを見せている。阿弥陀堂に入ると、圧倒的な存在感で阿弥陀様が中央に輝いていた。いまだにお顔の大半は金色に輝いており、お身体も肩などが煤け色になっているものの金箔が健在です。天井周囲に天女が舞い、龍と思われる絵画が描かれている。四方を巡り一通り眺めた後、ご住職と思われる方に、「金箔は創建時のままですか?」と質問してみた。
確定ではないもののそのままのようで、煤けているところも、金箔がはがれたというより、埃が覆って見えなくなっているようだと言われた。柱の周囲に絵画が遺っていることも質問したら、柱に直接描いたのではなく、麻布を巻いて、その上から塗装しキャンバスにして、さらにその上に描いたものだそうです。
だから絵がはがれたというより、麻布とともに剥がれ落ちていると、三層になったなったところを懐中電灯で照らして見せてくれた。大変勉強になった。
本堂「薬師堂」を見に行きます。堂内の本尊は秘仏です。安産・授乳・子育てにご利益があるということで、寺務所で授かれる小さな涎掛け絵馬がたくさん下がっていました。これらの望みは家系存続の根本なので、多くの方の願いが溢れています。寺務所で、安産守護600円を授かりました。お守り袋型ではなく、お札型でした。実家の仏壇に供えましょう。
親鸞聖人の使った井戸の案内があったので、歩いて向かいます。お寺の裏側が幼稚園になっています。そこに井戸がありました。幼稚園駐車場脇にあり、日曜日で幼稚園が閉まっているので外から眺めるだけです。「誕生院(本願寺)えな塚・産湯の井戸」と書かれていました。えな塚ということは、親鸞聖人のへその緒が埋められているのでしょう。
そういえば僕のへその緒もいまだ健在です。息子たちのも桐箱に入れられどこかの引き出しにあるはずです。母親とは有り難いものです。この幼稚園の名前は、「誕生院保育園」となっていました。阿弥陀堂内に「檀家が少ないので寄付をお願いします」と書かれていました。歴史のある国宝を持つ寺院だけど、ランニング収入を得るために、境内を利用して保育園を経営されておられるのでしょう。寺院の管理もご住職ご夫婦でやっておられる感じで、小僧さんは見かけませんでした。
その山側に、親鸞聖人誕生地の石碑が立ち、僧坊があった。『日野誕生院 親鸞聖人は日野氏一族である「日野有範(ありのり)」を父に、母は八幡太郎義家の孫娘「吉光女(きっこうにょ)」のもと、承安3年(1173)ここ日野の里に誕生し、幼名「松若丸」と称された。9才の時粟田口(青蓮院)にて得度され、人間の根源的な苦悩から救われる道を阿弥陀如来の本願に見いだされた。
本願寺19代・本如上人は、文化年間(1804〜)日野氏の由緒地を調査し、聖人の父である日野有範公に因み「有範堂」を建立された。21代・明如上人の時代に、飛地境内地として「日野別堂誕生院」と改称された。
境内地西側には、聖人誕生の際使用された「産湯の井戸」と、へその緒を納めた「胞衣塚(えなづか)」がある。
大正12年(1923)、立教開宗700年記念行事として本堂並びに書院の建築が始まり、昭和6年(1931)本堂が完成した。また平成18年(2006)には、親鸞聖人750回大遠忌法要記念事業として、本堂・書院の改修が行われた』
バイクに戻り、r127〜r36に出て北上。醍醐道に入り、10:30「隋心院」。『真言宗善通寺派大本山で、弘法大師の8代目の弟子「仁海(にんかい)僧正」が正暦2年(991)に創建した。
もとの名は「牛皮山(ぎゅうひざん)曼荼羅寺」といい、ある夜、亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見た仁海僧正が、その牛を探し求め世話を尽くしたものの間もなく死んだため、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来する。
その後、5世増俊(ぞうしゅん)が曼荼羅寺の塔頭として隋心院を建立し、7世親厳の時、後堀川天皇より門跡の宣旨を受け、門跡寺院となった。
この辺り小野は、小野一族が栄えた場所であることから、絶世の美女「小野小町」ゆかりの寺としても知られ、境内に小町に寄せられた多くの恋文を埋めた文塚や化粧井戸が残されている。
梅の美しい寺としても有名で、3月の最終日曜日は、小野小町に恋した深草少将の百夜通いの悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」(はねずとは梅花の薄紅色のこと)が披露される』
境内に「名勝・小野梅園」があったが、花はまだです。本堂エリアに入る前に、その塀の外を巡り「文塚・清滝権現」を見に行きます。まずは清滝権現。隋心院の鎮守社でしょう。
本堂エリアの塀の外周を歩いていると、竹林の中に小野小町の侍女の塚があった。周囲に小さな五輪塔がパラパラとあり、ゆかりの人が眠っているようです。文塚も竹林の中にあった。ラブレターが山と埋められているのでしょう。仁海僧正供養塔があった。その後ろに大きな榧の木があった。
女性だけの納骨堂「小町堂」の案内看板がありました。未婚などで子孫のない女性が生前に申し込むのでしょう。「女性だけの・・・」に、「仏になっても男性と縁なく過ごしたい願望があるのかな?」と少し悲しく感じました。生前男性不審になった出来事が・・・なんてね。女性は華なので、男性の中にあってこそ更に華やかに輝けるのに・・・勿体ない。
「化粧井戸」を見に行きます。『この付近は小野小町の屋敷跡で、この井戸は小町が使用したもの』。深井戸ではなく湧水場のようで、周囲を石積みで普請し、石段が数段下り直接桶で汲めるようになっていた。
本堂に戻って東に向かうと、塔頭のバックに醍醐山がそびえ、ナイスな景色でした。塀の中に入ると、絵馬掛けがあり絵馬が下がっています。丸い絵馬に桃色で縁取られた梅花の中に小野小町の姿が描かれ、「花の名は、うつりにけりないたづらに、わが身世にふるながめせしまに」という小野小町の有名な和歌が書かれていました。
『謡曲「通小町」と隋心院 謡曲「通小町」の前段、深草少将が小町の許に百夜通った伝説の舞台がここ隋心院です。
このころ小町は、小町化粧の井戸付近に住んでいた。積る思いを胸に秘め訪ねて来た少将であったが、小町は冷たかった。少将は「あなたの心が解けるまで幾夜でも参ります。今日は第一夜です」と、その標に門前の「榧の木」の実を出した。通い詰めた99夜、その日は雪の夜であった。門前にたどり着いた少将は疲れ切って99個目の「榧の実」を手にしたまま倒れ再起できなかった。
随心院境内には、思い出の「文張地蔵尊」「文塚」があり、道筋に「榧の大木」がある』
拝観料500円を納め、庭園・殿舎エリアへ。すぐに小野小町一色の売店があり、「恋みくじ」や絵葉書、絵馬が並んでいた。孫娘が美しい女性になりますよう小野小町略縁起絵馬700円を授かりました。
小野小町が描かれた屏風がお出迎え。桃の節句に因んだ人形が可愛い。回廊で結ばれた書院を巡ります。撮影禁止のものもありますが、襖絵などが見事です。寺院らしく廊下に鐘や木魚が下がっていたり、駕籠も下がってる。立派な輿や長持も座敷に置かれている。長持は菊の御紋なので門跡寺院として下られた皇族のお荷物の用に供されたのでしょう。
手入れされたお庭が素敵で、見所いっぱいです。小野小町の生涯が描かれた桃色基調の目立つ襖絵が可愛い。
本堂にお参りし、庭を見ると「小町堂」があった。順路に従って歩いていると、最後に資料室のような部屋があった。京都府下の小町伝説・伝承の残る地地図がある。全国には33都府県260ヶ所もあるそうだ。榧の実が展示されている。
バイクに戻り、醍醐道を進みr35。11:30「勧修寺」。「京都市指定・名勝庭園」です。
『勧修寺は真言宗に属する寺院で。昌泰3年(900)に創建されたと伝え、鎌倉時代に後伏見天皇の皇子寛胤法親皇が16世として入寺されてからは門跡寺院となった。江戸時代には徳川家綱・綱吉の帰依を受け、伽藍の整備が進められた。
現在、境内南寄りに氷室池が大きく広がり、その北に書院、宸殿、本堂が並んでいる。書院は、延宝元年(1673)より建てられた後西院御所の旧殿を、貞享3年(1686)に下賜されたものである。平面は門跡の御座の間であった御座所、対面所であった広間を中心に小室や鞘の間、広縁が配され、なかでも御座所の西桜棚は有名である。この建物は院御所の建築遺構として貴重であり、重要文化財に指定されている。
宸殿は、延宝4年造営の明正院御所御対面所を、元禄10年(1697)に下賜されたものである。内部は南端に上段の一の間を配してその北に二の間、三の間を続け、一の間には幅2間の床と1間の棚、そして付書院を備えた書院造の構成になっており、院御所当時の姿を良く伝えている。
本堂は、寛文2年(1662)造営の仮皇居内侍所仮殿の旧材を用いて、同12年に潅頂道場として建築されたものである。宸殿は院御所の建築遺構として貴重であり、また本堂は江戸時代中期における伽藍整備の一連のもので、ともに昭和60年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された』
『真言宗山階派大本山で、平安中期900年に醍醐天皇の母・藤原胤子(いんし)を弔うために、胤子の母の実家である宮道(みやじ)家邸宅を寺に改めたのが始まり。天皇の祖父・藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と名付けられ、醍醐天皇の勅願寺となった。
代々法親王が入寺する門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470)兵火で焼失し、江戸時代に徳川家と皇室の援助により再興された。本堂は、霊元天皇より仮内侍所を、書院(重要文化財)と宸殿は、明正天皇より旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内部に本尊・千手観音像を祀つている。
書院前の庭にある大きな傘を持つ灯籠は、水戸黄門で知られる水戸光圀の寄進と伝えられ、「勧修寺型燈龍」と呼ばれている。その周りには樹齢約700年と伝えられるハイビャクシンが植えられている。
氷室池を中心とした優美な池泉(ちせん)回遊式の庭園は、平安時代の作庭と伝えられ、夏の睡蓮や蓮で有名である』
拝観料400円。宸殿「明正殿」は皇室の建物らしく金がポイントに施され優美です。「軒下の横木(けた)は中央がケヤキで、左右は杉の巨木」「手すりは木を曲げたのではなく、その形に切り出されています」。お見事な造形でした。
『ハイビャクシン ヒノキ科の植物で、樹齢750年。一面一本の樹で京都市の巨木名木の1つです』。樹齢750年というのでさぞ大きな木かと思ったら、背丈2mほどでした。しかし、枝が複雑に折れ曲がり、無数といっていいぐらい絡み合っています。巨木以上に年齢を感じさせる木でした。
『勧修寺型灯籠 水戸黄門様のご寄進で、ユーモラスなスタイルで有名』。確かに見たことない灯籠です。『千年杉 京都庭園中最高の巨木。水鳥が止まると狩野探幽の絵のようです。勧修寺は、京都一水鳥の多い寺と言われている。前方30mのジャングルの中の島は、夕方になると琵琶湖から帰って来る水鳥のお宿です』
庭園の木々は冬枯れして色がありませんが、桜の木が多く春は新緑の緑と桜色で華やいでいるのが想像されます。京都隋一の古池「氷室の池」を周回してみました。「入るのは自由ですがとても危険」と脅す看板がありましたが、どうってことない道でした。アオサギと鴨がおり、蓮や睡蓮の池だとわかる佇まいです。「氷室の池」は、毎年この池に張る氷を宮中に献上し、その厚さにより五穀豊凶を占ったことから来るそうです。現代ではこの地にあるこれほど大きな池が氷ることは考えられず、いつの時代の話かと思いたくなる。
西暦1000年頃の平安時代は、地球がもっとも暑かった時期で、平安時代の絵巻物でも開け放ちた書院で優雅な着物姿でいる貴人が描かれている。北海の氷が解け、北部ヨーロッパが本拠地のバイキングの活動が活発化して、南部ヨーロッパの沿岸を荒らしまわったという歴史があります。対して、江戸時代中期に起こった産業革命の頃が低温期だったらしく、イギリス・テムズ川が凍結しスケートしている絵があるらしい。
錦鯉がおり、池の整備に使うのかシーホッパーが停めてあった。ヨットとしては優秀だが、乗り物としてこんな不安定な船を使うなんて、ヨット乗りでもおられるのだろうか?
13時まで1時間になろうとするので、バイクに戻ります。r35を北上し、名神の下を抜け側道に右折。12:03日本初の高速道路「名神高速」起工の地がありました。京都外環状線で北上し、R1を西進して湖西道路に乗り、「皇子山ランプ」で下車し、JR湖西線「大津京」駅をくぐりR161。
12:28「セブンイレブン大津松山町店」で、「プレミアムフレッシュバナナ213円」を昼食用に購入し、ヨットハーバー着。監督と一緒になりました。バイクを停め、あ〜だこ〜だお喋りしながら、ヘルメットなどを片付けていると、学生が合宿所からやってきました。「いきなりですが、挨拶していただけますか?」「いいよ」。
艇庫前に行くと、部員がみんな揃っており、新艇のマストが立ちセイルをセットしています。艇庫内にはパイプ椅子が並んでいます。若手OB・OGがどんどんやってきます。盛大のようです。キャンプテンに、「久しぶりの進水式で、手順がわからず他校に聞いて準備したんです。どんな進水式をしましたか?」「練習の合間の昼休みに、シャンパン買ってきてシャンパンシャワーしただけだよ。パイプ椅子が並び凄いね。神主さんでも呼んで祝詞あげてもらえば・・・」なんて冗談も入れつつお喋り。
バナナを食べ、女子マネージャーさんたちに、隋心院の小野小町絵馬を見せてあ〜だこ〜だ。13時になったので艇庫内に入ります。琵琶湖に向いた多くのパイプ椅子にOB・OGが座り、僕を含め3人がそれに相対する形で座る。MUさんも来られました。
2回生GEN君の司会で進水式が始まりました。MAS部長の挨拶。現役時代新艇に乗ったそうで、チューニングが大切なことと、OB・OGから多額の寄付を頂いて買えたことに感謝するように言われた。続いてI監督の挨拶。最後に僕の挨拶。前日、西宮沖で別々の2艇のクルーザーに現役部員が乗って遭遇するなんてことは記憶になく、総合力がアップしている証拠である。そして近年の成績向上が寄付が集まった原因でもあり、みんなの頑張り故の新艇導入です。頑張ろうと話した。
全員艇庫から出て、琵琶湖に向かい1回生NAK君が部旗を持ち中央に立ち、IIJ君がエールを切り応援歌を歌います。みんなで新艇を囲み、キャプテンと女子マネージャーボスがシャンペンシャワーです。僕が前日に1回生に聞かれ、「進水式と言えば、シャンペンシャワーでしょ」と伝えたからか、急遽買ってきたそうです。ボスマネさんに「光栄だね」と言うと「はい、良い記念になります」とニコニコでした。キャプテンがシャンペンの栓を抜き、マネージャーがまずバウにシャンペンをシャワーします。続いてキャプテンも。
「2人の初めての共同作業〜」とからかったのに、手も繋いでいないなんて、ちょっと不満です。なに照れてるの、ノリが悪いぞ〜。
続いて初セイリングです。キャプテンと3回生QP君が乗ります。注目される中、出艇して行きます。インフレータブルボートも伴走します。ブローが入りヒールしたと思ったら、キャプテンがドボン。陸上では、「お〜ナイスな演出だ〜」と拍手喝采です。
10分ほどでハーバーバックしてきて、「ナイスな演出、みんな喜んでいたぞ」と声を掛けると、「フットベルトのシート結び目がほどけてしまいました」と頭を掻いていました。「新艇進水式には落水する」という伝統が始まった瞬間を目撃しました。
これで解散です。船を片付け、明日からの練習に備えます。バイクに戻り、出発すると駅に帰るキャプテンや部員たちに、タンデムシートのDrスランプあられちゃんフィギュアを自慢します。可愛いんだよね、これ。
湖西道路〜名神を走り、桂川PAでトイレ休憩し、名神吹田ICで降りて、中央縦貫道を西に走り、道なりにR171。家内から「帰りは遅くなるから、食べてきてね」と言われていたのを思い出し、お好み焼き屋「呑気屋」さんに初めて入りました。Pのどこに停めたらいいのか思案していたら、店長さんが出てきて「いらっしゃいます、ここでいいですよ」と指示頂いた。「えびモダン焼き800円」を頂きました。
店長さんはお喋り好きで、予想通りバイク好きで話が弾みました。店の横のガレージにバイクが数台置いてあるので気になっていたお店です。孫娘の良縁のために、京都の小野小町ゆかりの寺院に行ってきたことなどを話すと、アメリカにいる息子一家の話になりました。お若い頃、ペンシルベニア州に1ヶ月ほど滞在したことがあるそうで、うちが隣のNJ州だから共通点がありました。フィラデルフィアにも行かれたようで、黒人街の怖さでも盛り上がりました。コーヒーもサービスしてもらいました。
帰宅してバイク置き場であれこれやって19時過ぎに玄関を入ると、家内がすでに帰っていました。楽しい1日になりました。

2018/2/17
コーチしてるヨット部の1回生クルージングの日です。1回生は20人もいるので、12人定員のクルーザーに1回で乗れませんでした。12月に1回目をし、今回が2回目です。
9時に「JR西宮」なので、ぐずぐずした後7時から用意開始です。朝食を食べながらTVニュースを見ていると、男子フィギュアスケート・ショートプログラムの結果を伝えていました。前回オリンピック優勝者の羽生さんがトップで、急成長した宇野さんが3位だそうです。武良さんは世界ランキング2位ということで、今日のフリーで逆転し金銀獲得もありそうです。
前回羽生さんは、すい星のごとく力をつけて来て一気に頂点に立ちました。その後3年間常にトップスケーターだったのですが、11月に怪我をして今回がぶっつけ本番の公式戦です。この状況を考えると、アメリカのチェンさんが本命で、急成長中の宇野さんがどこまで接近するかが焦点で、羽生さんは3位が僕の予想でした。
チェンさんが、前回オリンピックの浅田真央同様、ショートプログラムでまさかのど下位に沈んだので、ワンツーフィニッシュが現実になるかもしれません。さてどうなることやら・・・
8時過ぎに家を出て、R171を西に走り、JR西宮駅前に15分ほど前に着きました。N君が先に着いていましたので、「車に入ってな」と伝え、ファミリーマートで昼食のお買い物。8:52アップルデニッシュ115円+ノアール237円+ぼんち揚げ214円=566円。店を出ると、残りの3人が揃っていました。
「全員揃った?」「あと1人です」。「全員で5人だよね」「いえ4人です」「なら揃ってるよ。N君は車の中にいるよ」「え〜そうなんですか」
ヨットハーバーに向かいます。ハーバー前の木々が強風に揺れています。予報通り吹きそうです。出艇申告し、トイレを済ませ、桟橋ゲートをカードで開閉し船に乗ります。
10時前に出艇できました。沖はW・8m/s越えの風が入っています。セイルを上げようと思ったら、10m/sオーバーのブローが入り、機走で海上自衛隊阪神基地を目指します。10:32掃海艇を見学します。機関砲が1門バウに、旭日旗がスターンにはためいています。
8m/sほどに落ちたので、ジェノアセイルのみで帆走しました。六甲アイランドの東を南に進み、そのまま神戸港の方に行こうと思ったけど、六甲アイランドを過ぎるとまた10m/sオーバーのブローが降りてきて、尼崎西宮港内でクルージングすることにしました。
東に下り、神戸大・甲南大の合同練習を見て、続いてジュニアの練習を見ました。同じくジェノアだけで上ってきたクルーザーが手を振っています。手を振り返しましたが、何故かやたらと大げさに手を振って来ます。おかしいなと思い、セイルをフリーにして艇速を落とすと、近づいて来たボート上から「誰が乗っているの?」と声が掛かります。なんと、コーチしてるヨット部の3回生がたくさん乗っていました。11:36写真を撮り、なんだそりゃ〜と思いました。ここに乗ってる1回生は皆先輩が来ていることを知りませんでした。3回生女子マネージャーのお父さんが管理してるクルーザーに乗せてもらっているようです。キャプテンがドライブしていました。こちらは1回生が交代でドライブし、お互いに楽しそうです。
またブローが入ってきたので、メインセイルを上げていないからアビーム以上上れなくなり、セイルを下ろし機走で上っていきました。芦屋YHでの水路に入り、僕らは芦屋YHに入っていきました。もう1艇は新西宮YHへ。
関西一のブルジョアハーバーを見せ、桟橋付き邸宅を見せました。将来彼らが資産家になり、こんな船を持って僕を乗せてくれるといいな。乗っているN君のお父さんは大型モーターボートを持っているそうです。和歌山沖まで走り、カジキフィッシングを楽しんでいるようです。
12:18再び外に出ます。8〜10m/sでセイリングしましたが、15m/sオーバーの風が下りてきて、「こりゃ収まりそうにないわ」と結論を出し、ハーバーバックしました。ハーバー入口からドライビングを交代し、13:30頃桟橋に。後片付けしてセンターハウスへ。
中に入り、用意してきた昼食を食べました。13:59、「一点鐘」で「ブライアン・ウィルスこれさえあれば!ヨットレース1000円」というルールを楽しい絵で文字少なく解説した携帯ノートがあったので買いました。
食後のティータイムとしてカフェに入り、1回生たちとあ〜だこ〜だ。4月の新人勧誘のこと、女子のこと、その他いろいろ。14:47「フリアンディーテ」でケーキセット792円×5=3960。
僕らがハーバーで片付けていると、3回生の乗ったヨットが出ていきました。昼食でも取っていたのかな?いずれ戻ってくると思い待っていましたが来ないので、1回生を通じて連絡すると、ホームポートが新西ではなく甲子園だそうです。ちょうど解散したところだということで、話が出来ず残念でした。今津港に係留しているのかも知れません。フィギュアスケート・フリーの結果が出たようで、羽生・宇野がワンツーだったようです。日の丸が2枚揚がり良かったですね。
15時を過ぎたので店を出て、学生艇庫が並ぶディンギー・ヤードに行くことにしました。来月はここで合同練習します。九州出身者のT君の高校同級生が神戸大にいるそうで「声を掛けてこい」と命令しました。「なかなか帰ってこないな」と思ってたら、筋トレ中で強制的に加わさられたそうです。やっと帰ってきたら大阪大から女子部員が下りてきて、H君に声を掛けて来ます。「あ〜来やがった〜、こうなるかもと思ってた〜」と露骨に嫌がっています。どういう関係か聞くと、姉弟だそうです。姉の命令で、自撮り集合写真を全員で撮りました。きっと実家に写真を送るのでしょう。お母さんが喜ぶね。
ハーバーのトイレを拝借し、解散することにしました。P600円。兄弟でヨット部員とは珍しいねと話すと、「・・先輩は双子の弟が大阪大ヨット部です」と僕の知らなかった情報を教えてくれました。面白いな。P600円。JR西宮で2人、阪急西宮北口で2人下ろし、R171で帰宅しました。家内から、「風が強かったでしょう」と言われました。楽しい1日が終了しました。明日は、ヨット部が新品レース艇の進水式をするということなので、京都方面寺社ツーリングを計画し、進水式に参加しようかな?

2018/2/12
「建国の日」の振り替え休日です。昨日2/11が建国記念日で、戦前は「紀元節」初代・神武天皇が即位した日です。近所の自衛隊基地と自衛隊病院の門に大きな日の丸がはためいていました。
今年入ったツーリングクラブ2回目の参加です。10時に近所のバイクワールド伊丹店に集合なので、45分前まであれやこれややっていました。速攻でコミネ・バイク用冬装束に着替え、「招き猫CB400SB」を倉庫から出します。
近所の坂を下っていると、後ろからアメリカンに乗る女性ライダーがついてきます。r13を渡り、JRを渡り、バイクワールドへの最後の交差点も曲がるので、バイクワールドに入るものと思っていました。何度もお話ししたことのある近所のバイク乗りご夫婦の娘さんだろうと、Pで声を掛けようと思ってたらバイクワールドを通り過ぎちゃったみたいで残念でした。
リーダーTGさんは先に着いていました。前回リーダーさんはPCXだったので、初めてカワサキ・バルカン650を見ます。アメリカンですが、ハーレーのような典型的なアメリカンではありません。大きなGIVIリアボックス・サイドボックスがセットされており、収納力はかなりありそう。
あれやこれや話していると、CBR400RのJBさんもやって来ました。風邪をひきキャンセルかも?とのことでしたが、気合で治されたようです。参加予定の3人が集まったので「出発しようか」の話も出ましたが、ドタ参の方がいるかもしれないので10時ジャストまで待ちます。
10時になったのでPから出ると、黒のPCXの女性が手を振っています。あれれ・・・JR踏切で止まると、先頭のTGさん横まで行かれ何やらお話・・・MAさんでした。ヘルメット+覆面なので顔がわからないよ。r13に出て北上開始し、信号で止まったところでTGさんの横に行き、「前に入ってもらったら?」と提案するが、高速道路入口までお見送りだけということで、一番後ろについて来るようです。高速に乗れるNC750も持っておられるので参加出来たら良かったのに・・・何か用事があるのでしょうね。
r12を北上し、「石道」を右折し、10:24川西IC手前で左に停め、MAさんに集合写真を撮ってもらいました。新名神に乗りました。上り車線を走るのは初めてです。交通量が少なく気持ち良く走れます。高速道路になれば速く行かれてもいいのですが、TGさんもゆっくりの方が好きなようで余裕でついて行けました。
10:43、茨木千提寺PAで休憩。下り線同様トイレがあるのみです。全線開通し、交通量が増えればコンビニなどが誘致されるのかな?JBさんが、「宝塚北SAができるから、しばらくこのままじゃないの?」と言われました。確かにそうかもしれません。スマートICも出来るので、北摂の発展に貢献しそう。でも僕の好きな田舎道北摂の交通量が増えそうで複雑な心境です。
高槻JCTから名神高速に入り、下り線を走ります。中国道との分岐を過ぎ、「吹田SA」で昼食タイムです。僕はハンバーグ定食1000円にしました。僕のCBのリアタイヤがスリップサインの出る直前だと、JBさんが指摘してくれました。僕のバイクのシャカシャカチェーン音がすることも教えていただき、ツーリング後チェーンルブを吹き付けておくと良いとメンテナンス方法も教えてくれました。バイク屋さんは、チェーンルブが多過ぎてタイヤホイールなどを汚すとお客さんから文句言われるから、少なめにするそうです。走った後にルブを吹きかけ、十分拭き取ったら、いい感じでチェーンに染みて馴染むそうです。あ〜だこ〜だ、1時間ぐらい駄弁っていたように思います。
出発し、尼崎ICで下車しました。JBさんは西宮ICから帰宅するそうで、ここでお別れです。r13を北上し、出発地点のバイクワールドに戻ってきました。MAさんがいました。JBさんに教えてもらったタイヤの製造年月を見つける数字を探しました。タイヤの左右どちらかに、カッコで囲まれた数字があります。「・2417・」なら、2017年24週製造だそうです。
お店に上がり、タイヤコーナーで店員さんにタイヤ交換の相談をしました。バイクを見に来てくれて、僕のフロント「・0814」を見て、「2014年2月ですね、溝はまだあるけど4年だから劣化が始まっているからリアと同時に交換したら?」と勧めてくれました。リアタイヤはもうすぐ終了だそうです。
お店に上がり、見積もってもらいました。今履いてる純正のダンロップGPR300は取り寄せなので高くなり、前後一式(工賃・バルブ交換・廃タイヤ含む)で47000円で、店頭に並んでいるダンロップ・ロードスマート2なら33000だそうです。12月に車のタイヤをこの下のオートバックスで交換したばかりで、タイヤ交換が重なります。
今週金曜日の12ヶ月点検で、ホンダさんのメンテナンスさんになんて言われるかな?リアの交換は当然として、フロントの交換が必要なのだろうか?リアだけならホンダで両方なら特化のバイクワールドかな?
バイクも車もずっと純正部品を交換して来ましたが、VTR250のバッテリー交換でホンダさんに勧められたATZ7Sが5年目の今年、「そろそろ弱って来てるね」と言われたぐらい長持ちでした。AZは日本のメーカーで評判も良いですが、純正ユアサバッテリーに比べ、価格が半額前後です。
何故かホンダでまたユアサのみ扱いになりましたが、ディーラーが勧めるぐらいだから性能が良いのでしょう。タイヤも純正以外に初挑戦したくなりました。

2018/2/11
家内もお休みなので、何処に行こうか朝から映画情報見たりしていました。ラブストーリーではないけど、阿部寛の映画が9:40から始まることを知り、8時にそろそろ朝ごはんをと思い階下に降りました。
そしたら家内は既に着替えを終えてお化粧中でした。「どこかに行くの?」「うん、お買い物」、「川西阪急百貨店?」「ううん、ふわふわオムライスがあるお店があるかもしれないから、宝塚阪急に行こうかと思って」、「ふ〜ん、僕もついていったら駄目?邪魔しないから」「いいよ〜」、「駅まで送っていってあげようか?」「ううん、いい。私バスで先に行くから、どこかで待ち合わせしましょ」、「じゃあ、10時阪急宝塚駅の改札口ね」「はい」。
ご飯を食べ終える頃、「行ってきま〜す」と出ていきました。食器を片付け、着替えて玄関で靴を履こうとしたら、「ただいま〜」と家内が帰ってきました。「バス停に・・さん(ご近所さん)がいて、伊丹駅までお喋りするの疲れるから行かない事にした」。苦手な機関銃喋りの方だそうです。家内は仕事では明るく饒舌に喋りますが、聞き上手さんです。女性同士の女子トークが苦手で、どちらかと言うとさっぱりして機関銃喋りの方がほとんどいない男性の間にいて、頷いてるのが楽な人です。
「宝塚に行くのに、阪急伊丹から行くの?阪急川西能勢口駅から行く方が早いよ」「え、そうなの?」「だからバス停が反対方向だよ。だから行こうよ」と、一緒に玄関を出ました。家内はバス停に歩いていき、僕はバイクを倉庫から出します。家内のアドレスV125で行くことにしました。エンジンを掛けバス道に出て宝塚を目指します。信号で停まっていると、前を家内が歩いています。「あれ?歩いて行ったバス停と違う」
信号が青に変わり、家内がいるバス停で止まって、「向こうのバス停から乗るんじゃないの?」「10分待つ間寒いから、1つ歩いたの」「じゃあ、後でね」。
「疲れるから歩くの嫌」なんて言ってる癖に、どうも家内の思考が読めません。超方向音痴の家内は、我が家と宝塚駅・伊丹駅・川西能勢口駅の位置が空間認識出来ていないようで、息子が30才越えるほど同じ家に住んでいるのに、一度も川西経由で宝塚に行ったことがなかったことに驚きました。川西駅横の阪急百貨店にはバスで行ってるのに、その駅から電車に乗ると言う発想がないようです。方向音痴の方の思考かもしれませんが、Aという道の先にBがある、Cという道の先にDがあることは知ってても、BとDを結ぶのが苦手です。家内は目的地に行く方法を1つわかれば、迷ったらいけないので毎回同じ道を通ります。一緒に暮らしていて、おかしくて仕方ありません。苦手なことを笑ったら悪いので、その都度丁寧に教えますが、また驚かされました。
R176に出て、9:24「宝塚駅」。「ふわふわオムライス」のお店を探しましょう。駅前に「宝塚歌劇」の像が立っています。2Fの駅改札口を確認し、1Fに降ります。僕らが結婚式を挙げた時、親戚に泊まってもらった「若水」が見える。歌劇場に向かう「花のみち」、武庫川など周囲を散策し、「宝塚ソリオ1」のお食事のお店をチェックしました。
駅改札に戻る。若い母親&小学生の子の組み合わせが多い気がします。何処に行くのかと親子を追うと、宝塚歌劇場の方に向かう流れと、ソリオ2に入る流れがありました。ソリオ2を見に行くと、暗算と珠算の検定でした。
阪急百貨店前のバレンタインデー・チョコレート特設売場がオープンしたので、そちらを見に行きます。お店は10時オープンなので、扉は開いていませんが、ここは手に取れます。でも店員さんからの売り込みがありません。開店前だからかな〜
改札に戻っていると、家内が改札を出て歩いてきて手を振っています。手を振り返して、「バレンタインデー売場があるよ」と見に行きます。10時になりお店が開きました。その流れで店内に入り、婦人靴や子供用品ファミリアを見ます。長男とこはアメリカなので送料が高そうで贈りにくいですが、次男とこのすみれちゃんに似合いそうな服を見て、あ〜だこ〜だ喜びます。
宝塚阪急も川西同様、小型店舗でした。下の飲食店街に行きます。オムライスのお店がありましたが、開店前でした。仕方なく僕が行きたかったミスタードーナツに入りました。僕はドーナツが好きです。意外にお腹が膨れるし、硬くないのもいいです。
僕はドーナツ3つ(ストロベリーリング129円・ココナッツチョコレート129円・エンゼルフレンチ140円)、家内はモーニングCセット(トッピング・ホットトースト卵マヨ+ブレンドコーヒー)360円=758円を注文します。セルフコーヒー機械がないので、「コーヒーのおかわり出来ますか?」と聞いてみました。他店舗同様、おかわり無料だそうです。
お隣の席女性4人組は、月組とか雪組の練習とか言ってるので、ヅカファンのようです。美味しく食べながら、家内の横顔を見て思わず「美人だねえ」といつものように言っちゃいました。家なら「こればかりは仕方ないのよ」なんて言うのに、流石に無反応でした。でもお隣のヅカファンさんには聞こえちゃったみたいで、視線を感じました。自分たちの話に熱中していたはずなのに・・・。家内も視線を感じたようで、僕に「こらっ」と視線で怒っています。
お墓参りすることになりました。バレンタインデーは父の命日なので手を合わせて来たいそうです。家内が2杯目のコーヒーを飲んでいる時、「じゃあ12時に阪急とJR宝塚駅を結ぶ陸橋下阪急側で待ち合わせね」と決めて先にバイクで帰ることにしました。
R176を東に走り帰宅。バイクを倉庫に片付け、お墓参りセットを持ち、車に乗り換え宝塚に戻ります。伊丹から宝塚に向かうR176が渋滞していたので裏道を走り、一度もR176を利用せず、武庫川沿い〜KG小学校〜宝塚歌劇大劇場前を抜け、12:20待ち合わせ場所到着。家内には電話で20分遅れると言っていたので待たせませんでした。JR宝塚駅が綺麗になっていたと驚いていました。改築されて10年以上経ってると思うから、一度もJR宝塚駅で下車しなかったようです。
車に乗ると、川西経由宝塚ルートが伊丹駅ルートよりずいぶん早いと驚いていました。「もっと早く知っていたら良かった〜」と笑っていますが、まさかこのルートが有るということを知らなかったとは思ってなかったし〜。電車内で、沿線ルート地図を見ているはずなのに、全く関心がないから頭に入らないのですね。不思議だ〜
R176を北に上り、r33で山を駆け上がります。宝塚サーキットでは、カートが走っていました。峠を越え切畑に入ると雪が降ってきました。宝塚では陽が差していたのに、空は雪雲に覆われています。横殴りの雪になってきたが積雪はないので、r319経由でR12に出て、13:15霊園。
下の事務所でお花を買いました。1300円。事務所が去年建て替えられましたが、コンクリートのこだわり建物になってしまいイマイチです。綺麗だとは思えないし、扉が重たく、高齢者の割合が多い霊園施設としてはどうなんだろうと思う。このデザインにGOを出した役員が最低だね。作品じゃなくて、利用者の使い勝手を考えた建物でないと・・・
お墓を掃除し、お線香を上げ、r12〜r13経由で14:30帰宅。お風呂に入り、ヨーグルト食べながらオリンピック中継見てるうちに昼寝モードになりました。そう言えば、家内が車に乗ってきた時、ちょっとお洒落な手提げ袋を持っていました。バレンタインデーチョコだと思います。仕事関係の方もいるだろうけど、僕にも回って来るかな〜。

2018/2/4
先月新たに加入したツーリングクラブの初めてのツーリング日です。茨木のコンビニに集合し、2週間前に行ったばかりの京都・狸谷山不動院〜カフェで昼食〜上賀茂神社で解散と言うコースです。このクラブを立ち上げた方は、原付二種クラブで一緒になった方で、一時そのクラブのリーダーもされていました。
当初このクラブのツーリングに参加していましたが、参加者が増え大盛況となったのはいいのですが、20〜30台というツーリングになり、できれば5台ぐらいが良い僕としては参加しにくくなりました。直近の予定が決まる1週間ぐらい前に参加表明したい僕ですが、すぐ定員満員になり残念を繰り返していました。
そのクラブから派生した高速道路が走れる2つのバイクのクラブにも参加しましたが、同じ状態になったのと、僕には休憩が少なく疲れるようになりました。またクルージング・スピードが速く、怖くて遅れます。遅れて最後尾を一人旅になっても、ナビで次の集合場所では追いつくから良いのですが、遅い僕に気を使ってくれているのに恐縮し、迷惑になるから参加をためらうようになりました。
「交通法規遵守でゆっくりスピード」「追い越しやすり抜けしない」「派手な装飾や大音響を発するNG」「改造車や自作車・整備不良車NG」というクラブ設立趣旨に賛同できるのと、リーダーさんの雰囲気が良いので参加しました。
4時過ぎに目覚め、ごそごそしながら窓の外が明るくなるのを待ちました。最も夜明けの遅いお正月頃よりは早くなったけど、まだ6時を過ぎないと明るくなりませんね。階下に降り、トーストを2枚食べ、バイク装束に着替えました。いつものコミネ・ウインタージャケット&パンツです。バイク用は、真冬でも暖かくツーリングに出れるのでありがたい。
当初、「招き猫CB400SB」で行く予定でしたが、北摂の峠を超えて亀岡まで行くということなので、凍結してたら危ないと思い「通勤リード110」でいくことにしました。
用意して、6:15過ぎに家を出ます。R171を東に進み、茨木市に入りr110を北上します。枝道に入り迷わず、7:52「大織冠神社(将軍塚古墳)」。ここにある安威山山頂が、大織冠・中臣鎌足が葬られた場所です。時代が飛鳥から奈良に変わる頃、定慧上人がここから明日香の西峰・多武峰に改葬しています。現在の多武峰神社で、中臣鎌足と中大兄皇子が成したクーデター「大化の改新」計画を練った場所としても名高い。
まあ、昭和初期に「阿武山古墳」が発見され、現在は最初の埋葬先はここから少し東の阿武山山頂ということになっている。僕は加賀百万石を気付いた前田家同様、美作菅家党の末です。美作菅家党の祖・三穂太郎は、その頭を埋葬した地に建つ「三穂神社」の社伝によると、菅原道真の末で、美作守として京から下り、武装集団を作り長く美作で大きな勢力を誇りました。母は藤原氏から輿入れした女なので、母方の本家から江戸〜明治時代に出た当主は、大織冠の末と呼ばれていました。
ここの訪問は、僕のルーツ訪問でもあります。多武峰神社には参ったので、あと阿武山古墳を訪問すればコンプリートです。
住宅地の道路のどん詰まりに入口がありました。山に向かう石段にかかる鳥居がありそれと分かりましたが、守護や木札を授かれるのか甚だ疑問です。三穂神社のようにセルフで授かればと期待しながら石段を登ります。
登った先にあったのは、いきなり古墳でした。ここは山頂で、社殿らしきものはありません。よって木札は幻になりました。我家の庭に勧請した三穂神社の祠に入れたかったんだけど・・・
『将軍塚 平安中期頃から藤原鎌足公の墓所は「初め摂津・安威にあったが、後に大和多武峰に改装された」との説があり、江戸時代になりこの塚を当てるようになった。そのため鳥居を建て、石碑を造り、石室内に祠を作って崇拝し、毎年10/16には京都・九条家から使者が来て、反物2千匹を持参しお祭りされていた。考古学上は、山頂を利用してつくられた円墳で、南向きの横穴式石室を有するものである。石室は、羨道が玄室の片方によった片袖式で、丸みのある花崗岩を積み上げている。玄室の長さ4.5m・幅1.71m・高さ2.4mで、5枚の天井石が載せられている。
造られた時期は、古墳時代後期(6世紀後半)であるが、早くから開口されたので副葬品については何も分かっていない』
横にトタンの休憩所がある。古墳は木枠扉があり、その前に鉄柵があり入れません。目を凝らして中を見るが、懐中電灯で照らさないと何も見えません。
この古墳を一周する道があるので入ってみると、山頂古墳の西側にもう一つ古墳がありました。
『将軍山古墳 昭和31年3月に、後円部が発掘調査されたが、その後宅地造成のため破壊され、昭和39年4月に再調査された。
この古墳は、もと山丘の頂上を利用した全長107m・後円部径70m・前方部端の幅44mの古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳であった。三段に築かれた封土の周囲を葺石で覆い、円筒埴輪を並べ、後円部中央にはこの付近に産しない結晶片岩を用いて竪穴石室を造っていた。石室には12枚の天井石が載せられ、U字型の粘土棺床が造られていた。
この石室を移築したのが、現在のこの石室である。実際の石材を用い、元通り竪穴式石室に造ってあるので構造を知る上で参考になる。早く盗掘に遭ったので、副葬品は硬玉製勾玉・ガラス製小玉・銅鏃・鉄鏃・鉄剣のみであった』
鉄柵で囲まれて内部には入れないが、外観でどのような構造なのか想像できた。バイクに戻り、r110を北に少し走りと、8:05「新屋神社」の石柱が見えた。ナビを拡大すると寺社が表示されるので、それを頼りにやってきました。県道東に石鳥居があり、参道が西に向かっており、県道は参道を分断している形です。
『新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたま) 日降山の中腹にあり、平安時代・延喜5年(905)醍醐天皇の命により編纂された「延喜式」の神名帳に記されている式内社。「名神大」と記載され、名神を祀る社として知られている。
祭神は天照皇大神・天照国照彦火明命・天津彦火邇邇杵尊。
現在の社殿は、天保12年(1841)改築されたもの。戦国時代、茨木城主・中川清秀の信仰厚く、死後に妻が長男のために祈願を込め社殿を造営したことが棟札に記されている。社宝には清秀の寄付と伝わる刀がある。
参道は旧亀岡街道から老松が茂り、見事な並木参道を経て社殿に至る様子は、式内社の風格をそなえている。なお市内には、このほか西河原・宿久庄にも「新屋坐天照御魂神社」がある』
「これは大きそうだぞ」と期待しながら西に入っていきます。
『摂津国屈指の歴史と社格を有する神社で、10代垂仁天皇の御代、天照御魂大神がこの福井の西の丘山(日降ヶ丘)に降臨され、物部氏の祖・伊香色雄命を勅使として丘山の榊に木綿を掛け、しめ縄を引いて奉賛したのが創祀とされ、2100年の歴史を有する。
14代仲哀天皇の御代、神功皇后が三韓を征するに当たり、新屋の川原にて禊と戦勝祈願され、凱旋後、天照御魂大神の荒魂・幸魂を西の川上と東の川下の辺りに祭祀られた(上河原社・西河原社)。
貞観元年(859)従四位下、天慶3年(940)正四位上の神位を授かり、延喜年中には延喜式内名神大社として四時祭・相嘗祭・臨時祭など数々の国家重要祭事に預かった。
創建時より朝廷との結びつきが強く、26代継体天王の御代、初めて奉幣使が遣わされて以来、90代亀山天皇の御代まで、219回遣わされるなど、神祇官直支配の菅幣大社として永く国家平安・五穀豊熟を祈願してきた。
この間、皇極3年(644)には中富鎌子連(藤原鎌足)が神祇伯に任ぜられ、奉幣使として参詣されるなど、平安時代まで朝野の篤い崇敬が寄せられ社頭大いに隆盛を誇ったが、鎌倉時代に至り、嶋下郡の惣社と定められるも武家による諸規則の制定・強化・社領没収など社頭の衰微が始まり、室町時代末期の大永7年2月(1527)細川家の内紛(大永の乱)の兵火に遭い神殿・神宝・神器悉く灰塵に帰した。
天正12年(1584)中川清秀が社殿を再建し、現在の基礎を構築された。清秀は当社の氏子・中河原の人で、功により茨木城主となった。
明治5年郷社に列す。本殿の外、摂社として出雲社・須賀社2社と6社神社など9社の末社を境内に祀る』
神明式石鳥居をくぐり石段を登っていくと境内。中央に拝殿があり、弁天池がある。池の奥に稲荷神社と道祖大神。「出雲大社遥拝所」もあった。横には「出雲社」。出雲族の影響を感じる。出雲は当たり前ですが、京都北部から亀岡にも出雲族の南下の歴史を語る謂れ板や、想像させる神を祀る神社の割合が多い。大和系・出雲系という大勢力の存在を神話で融合し、聖徳太子の「和を以て貴しとなす」日本民族の精神を感じる。吉備族とは「桃太郎」伝説に伝わる大戦争があったことを想像させるものがあるが、出雲とは大国主命の息子が力自慢で負け諏訪大社に逃げていった神話のみで、せいぜい小競り合いだったことを想像させる。拝殿裏に回ると、本殿前に参るところがあり、ここで今年生まれる予定の4人目の孫の無事の出産を願う。賽銭箱後ろに棚があり、上に「延寿豆」が置いてあった。『延寿豆 必要なだけ袋に入れてお持ち帰り下さい。 社務所』。ありがたくいただく。
本殿の屋根を見上げたら、垂直斬りの千木に、鰹木が5本だった。主祭神・天照大神なので、水平斬り・偶数本を想像していたが、他の祭神が孫2人の男神なのでそちらが勝ったのか?
摂社に「須賀社」もあった。須賀社は牛頭天王・素盞嗚命を祀る祇園信仰の宮です。本殿内部は見れなかったが、ここも先程の「出雲社」も御簾が下がり格調高く感じる。双方が出雲系神を祀るからなのか、本殿内部も見てみたかった。社務所はコンクリート造りの立派な建物で、多くの信仰を集めているのがわかる。南向きに「住吉神社遥拝所」があった。こちらは宗像三神を祀っており、海上交通を司る。「神武天皇遥拝所」もあった。東向きには「太神宮遥拝」と彫られた石碑の立つ天照大神を祀る伊勢神宮遥拝所があった。「歴代皇霊・今上天皇遙拝所」まであった。子孫繁栄を願って、全てに遥拝した。予定外の寄り道だったが、なかなか面白かった。
更に少しr110を北上し、8:27「麒麟山真龍寺」。麒麟の山号は珍しいのはないかな?直接境内すぐ下までバイク出来たが、南に参道が長く下がっており、かつては大きな境内地を誇っていたのかもしれない。上田徳三翁寿像が立っていた。誰かな?地元に貢献された方なのだろう。謂れが書かれていないのでわからない。境内に上がると鐘楼があり、風格のある寺院でしたが、これと言った目を引くものはありませんでした。
ツーリングの集合場所に向かいます。8:41「ローソン茨木南安威1丁目店」。リーダーさんのPCXの他に、CBR400Rが停まっている。リーダーさんと僕だけだったのに、ドタ参の方がいるようです。ローソンからお二人が出て来られました。リーダーToさんとJeさんでした。JeさんのCBRはおニュータイヤだそうで、途中までご一緒するそうです。
Toさんは、朝r46で亀岡まで走り路面状態を確認したそうで、3台でr46を北上します。安威川に沿う道で、道に砂が落ちているのか白いなあと思っていたら採石場がいくつも沿線にありました。r43と合流する地点までは初めての道でした。r733と合流し、最高地点の標高300mを越え、亀岡側に下ります。
r6に乗り換え、9:28「鍬山神社」との分岐を越えた所にあった「サークルK」に入ります。ここでJiさんと合流。Jiさんが買い替えたバイクを初めて見ました。ヤマハの逆輸入車600cc?で南アフリカ・ヤマハ製だそうです。ヤマハは逆輸入車が多いですね。ホイールがブルーで、バーエンドも同色でオシャレです。エンジン音は、4気筒だけどヤマハらしくR1に似た音でした。マフラーの影響もあるのでしょうが、メーカーの音ってありますよね。
JeさんのCBRにまたがらせてもらいました。セパレートハンドルだけどアップにセットされており、ハンドルも近く前傾が僕のCB400SBより少なく楽です。CBR400Rは2気筒です。僕のCB400SBは4気筒なので、やはり2気筒のドコドコ音でした。
r6をさらに北上し、R9に出て一路京都市内へ。老の坂峠を越え道なりに市街地に入り、道なりに五条通。加茂川を渡ってすぐ左折し川端筋を北上。丸太町通を東に走り、白河通を北上し、11:08「狸谷山不動院」へ。
ここのPは斜めってるので、停める場所が限定されますが、ちょうど良い場所が空いていました。Jiさんはトイレが緊急らしく、走って250段の階段を上がっていきました。Jeさんは足を骨折中らしく階段はパスで、ここで離脱されました。
Toさんと写真を撮りながら、フーフー階段を登ります。境内まで上がり、前回ブルーシートが掛かり中で修行中の方がいるのかと思ったら、昨年の台風により倒れた杉が滝の拝殿を直撃し被害を受けたようで、それを隠しているだけでした。その横の階段を上がり振り返って見ると、全損の被害でした。
前回授かろうか迷った「交通安全リング守護・500円」を授かりました。これでロードバイク・モーターサイクル2台のハンドルに下がります。雪が積もっておりますが、護摩行跡が残っています。
本殿にお参りして下ります。バイクに戻り、白川通を北上し、京都国際会館の北を西に走り、12:16「マックさんの家」。お二人はマック850円(ハンバーグ・イカ・ホタテ・チキン)+セットドリンク250円、僕はハンバーグ850円+セットドリンク250円=1100円を注文しました。1月に立ち上がったこのクラブの初ツーリングですが、ToさんもJiさんも別のクラブで一緒なので既知の仲、いろんな話であ〜だこ〜だ。皆さん、「人数が多すぎるのは・・・」が共通で、僕と同じくツーリングへの参加率が落ちていたようです。
京都がホームのJiさんによると、このお店はクルマ好きの方が集まる店だったようで昔から来ていたそうです。入口店内にはレーシングバイクが2台も展示されており、オーナーさんもバイク好きのようです。
Jiさんに自治会の用事が舞い込み、ここで離脱です。2台で上賀茂神社に向かいます。r103を走り、13:56着。バイク置き場がよくわかりませんでしたが、やっとわかり駐輪。
神馬舎にいつものように白馬がいました。朝晩は何処にいるのだろう?京都市内の大学の馬術部に居候しているのかな?神馬だから1頭だけかな?
いつもながら見事な盛砂が目に入ります。玉依姫命を祀る片山御子神社には、相変わらずハート型の絵馬が沢山。謂れ板を読んでいる間にも数人の女性が下げて行かれました。
『延喜式内の古社。延喜式には「片山御子神社」と載っている。賀茂主族の祭祀を握っておられた最高女性で、本宮祭神・別雷神を感得せられた神で、常にお側で仕えておられた。よって現在でも祭礼の折には、まず当社に祭りを行う。
古来第一摂社と崇められている。皇室のご崇敬も篤く、本宮への行幸時は、当社へも奉幣あらせられる。古く当社の後ろに「よるべの水」を湛える瓶が3つあったが、天正年中汚穢の禍を怖れ地下に埋没した』
本殿に参り、「安産守護」と「交通安全ステッカー」を授かった。我が家の仏壇に置くのと、リアボックスに貼りましょう。正面に戻り、カフェに入ります。Toさんは抹茶セット、僕は「ぜんざい」をいただきました。ここでもあ〜だこ〜だ。人数が少ないから、いろいろ深く話せていいです。縁結びの「片山社」で絵馬を下げに来られた女性が同年代だったとか、面白かった。
帰路に着きます。僕はエキスポ・シティーに行くのですが、Toさんは吹田在住で通り道だそうでご一緒しました。北大路通〜西大路通〜R171を走り、茨木まで戻り万博外周道路に入り、エキスポシティーPの所で別れました。
1週間前に家内と来たばかりですが、HOLISTERのお店に入ります。HOLISTERは、世界じゅうを仕事で飛び回っている長男のお嫁さんが、アメリカに行った時気に入って買ってきてくれるアメリカン・カジュアル・ブランドです。アメリカのHOLISTERのお店は、店員さんがイケメン・美人ぞろいだそうです。
先週来た時、偶然見つけて入りました。家内が「これどう思う?アメリカに行った時、お嫁さんがこんなの着てたでしょ」とニット・ワンピースを手にとっています。「買ったら」と言ったのですが、「でもいい」と買わずに帰りました。
バレンタインデーのプレゼントにしようと買いに来ました。日本は、女性から意中の男性にチョコレートを贈り気持ちを伝える行事として定着しましたが、本家ヨーロッパでは男性が女性に花を贈ったり愛を伝える行事です。僕は本家式に、毎年ではありませんが家内にプレゼントします。
日本って、中国から儒教を輸入しても、目上に絶対服従的にそのまま取り入れた朝鮮とは違い、ゆるく取り入れました。仏教だって、修行して悟りを開く本来の姿から離れ、葬式を一手に引き受け定着しました。いいとこ取り、それまでの日本式のものと住み分けするように加工して取り入れます。素晴らしいなと思います。やはり日本古来の自然崇拝・神道が、八百万の神で共存姿勢なので、一神教的思考「我が唯一、他は邪道」とは大きく違うからでしょう。
店員さんに家内のデータ「身長・体重」を伝え、サイズを選んでもらいます。日頃のサイズより1つ小さめが良いようで、XSを選んでくれました。1週間前より2割引きになっておりお得しました。
中央縦貫道〜R171で一気に帰宅しました。バイクを片付け、家内に見つからないように元長男の部屋に隠しました。家内は一度も外出しなかったようです。次の月曜日・建国記念日もグループツーリングに出ようと思うので、次の日曜日は家内と一緒にいなきゃ。

2018/1/28
極寒期。2日連続で雪がちらつき、2日前の朝は薄っすらと雪が積もっていました。家内もお休みですが、「寒いから家から出れない」とのこと。近くなら良いかな?と思い、万博公園に新しく出来た商業施設「ららぽーと」に誘いました。「仕方なく」と渋々外出。家から10分ほどの豊中のモノレールの「柴原駅」までバイクで、そこからモノレールを提案しましたが、10分でもバイクは嫌とのことです。「ららぽーと」のPが激混みとの情報があり、四輪で出かける気にはなりません。11時に「万博公園駅」待ち合わせを決め、家内はバスで出かけていきました。僕は家内のバイク・ヘルメットOGKアバンテの修理です。修理と言っても外れたスクリーンをはめるだけです。何度やってもうまく行かず放っていました。ネットではめ方を調べると、簡単でした。倉庫でバイクのバッテリー充電をセットしたりあれこれやってると、10:25になっちゃいました。
流石に遅れるのはまずいと、通勤リード110にリアボックスをセットし出発しました。R171〜中央環状線を東に進みます。モノレール柴原駅・少路駅を過ぎると信号が少なくなり、千里中央になると、制限速度も60km/hになり、横を走る中国道の車と同じペースになります。エキスポ・シティーの大観覧車が見えて来て、側道に上がりすぐ万博外周道路に出て、10:43P到着。
駐車場に入るところにいたガードマンさんに、「バイク駐車場ありますか?」と聞くとあるとのこと。出発して右にカーブを切ったところで「ガシャン」。リアボックスが落ちてしまいました。後続車がPに曲がったところで止まり、ガードマンさんがボックスを拾ってくれました。僕も慌ててバイクを停め、受取に行きます。「大丈夫ですか?」とガードマンさんに心配され、後続車ドライバーに頭を下げます。また落としちゃった。幸いボックスは大丈夫です。四輪ゲート脇に「バイク用通路」があり、無料でした。
現在時間がわかりませんが、駅の方に向かいます。ららぽーとの東にPがあり、西に駅があるので、ららぽーと内を歩きます。Pは「ららぽーと」より低いようで、エレベーターで3Fに上ったら、ららぽーと1Fでした。
「市立吹田サッカースタジアム」が見えます。ガンバ大阪のホームスタジアムですね。三井不動産開発の「ららぽーと」は、我が家の地元にある三菱地所開発の「ダイヤモンドシティ」より大きそうだと感じました。ショッピングセンターを通り抜けると、大観覧車が見えてきました。その乗り場まで行きます。ガンダム・プラモのお店があるなと通り過ぎたら、オープンエアに巨大ガンダム2機が戦っていました。横に「109 CINEMAS IMAX」があり、その向こうに「ENGLISH VILLAGE」がありました。人工芝の小さな広場があり、周囲に親が座る椅子がある。ちびさん達が集まりそうです。小さな子が喜びそうなトレインなどのムービング遊具があります。
水族館・動物園の「NIFREL」があり、中国道を隔てて、1970年大阪万博のシンボル・太陽の塔が見えてきます。「自然文化園」への門があります。万博公園全体の地図があるので見に行くと、「自然文化園・日本庭園 大人250円・子供70円」「EXPO70パビリオン 大人200円・子供無料」「国立民族学博物館 大人420円・高大学生250円・小中学生無料」「大阪日本民芸館 大人700円・高大学生450円・小中学生100円」、利用時間は10〜17時・定休日は12/27〜1/1(博物館〜1/4)と水曜日と書かれていました。
大阪モノレール「万博記念駅」に登るスロープ入口に時計がありました。11時です。大勢の人が駅から下りてきます。家内の姿を探しながら周囲を見渡すと、モノレールがやってきました。モノレールという乗り物に初めて乗ったのがこのモノレールだったように思う。羽田のモノレールの方が遅かったように思うが、どうだったのだろう。
駅に着いたが家内の姿がない。家を出た時間から考えると遅れるなと思っていたので慌てません。携帯電話の電源を入れると、家内からのメールが入っており、11:20着予定だって。コンビニやポスター、「ららぽーと案内所」でもらってきたパンフレットを見ながら時間を過ごす。ポスターに、スキー場のリフト券と昼食代などに使えるセット券のことが書いてあった。「50才まで」などの年齢上限があります。何故なんだろう?
モノレールが着いたようで、改札口から出てくる方を見たりパンフレットに目を落としたりしていると、家内が手を振りながら笑顔でやってきました。スロープを降りながら、「太陽の塔に入ったことある?」「自然庭園は広いから、孫達が来た時遊べるよ」なんてにわか情報を話しますが、いつもより早足で降りていきます。
動物園水族館「ニフレル」は混んでおらず、通常に日曜日なら並ばずに入れそうです。大人1900円・幼児600円。横のショップに入ると、「あ〜寒かった〜もっと着てくれば良かった〜」とホッとしています。女性の薄着は魅力的だけど、いつも「もっと暖かくしたら」と声を掛けています。僕のコートを貸そうとしたら「かっこ悪いもん」と一蹴されました。
ショップに入ると、入口で等身大ホワイト・タイガーのぬいぐるみが出迎えてくれました。「飼い主募集中14万円」だそうです。このショップの奥に「ニフレル」出口がありました。外部からも入れるニフレルショップのようです。
「ららぽーと」に入ります。「お腹が空いた。ふわふわオムライスが食べたい」というので探しましたが無く、僕の好きな「ミスタードナツ」に入りました。11:55「ミスタードーナツ・ららぽーとEXPOCショップ」ゴールデンフレンチ129円・ストロベリーファッション129円・ゴールデンチョコレート129円・シューショコラダブルショコラ183円=570円。2/1〜3/31まで有効の200円割引券(500円以上利用可)をもらいました。570円買って200円割引になるのは凄いな。
1F〜3Fまで、ウロウロ歩き回りました。ベビー幼児用品店が核の「赤ちゃん本舗」の周りに集中してあり、モンベル周辺にアウトドアショップが並んでいました。ダイヤモンドシティより大きめ店舗が多く、有名ブランドショップが多いように感じました。テナント料が高いのでしょう。薄利多売ショップはなく、利幅の取れるオリジナル製品を持っているショップが多いようです。
1Fに降り、トイレに向かうと「ホリスター」ショップがありました。お嫁さんが妊娠する前まで、仕事でアメリカに行く時、よく買ってきてくれた衣類です。アメリカンカジュアルのお店で、甲子園で初めて国内のお店を見つけ入店しましたが、ここもあのお店同様暗めの照明で演出していました。2点ほど買いたい商品を見つけたのに、買いませんでした。僕がいると買いにくいのかな?思い立ったが吉日なのに・・・
家内を駅まで送り、バイクに戻ります。雪が舞っており家内が寒そう。再び「ららぽーと」に入り、「LOFT」であれこれウインドウショッピングしました。Pに行くと横にブルーのホーネットが停まっており、お兄さんが出発準備中でした。「ホーネット、いい音ですよね。バイクで一番いい音だと思います」なんて声を掛け、僕はカッパを着ながらあ〜だこ〜だおしゃべり。
ホーネットに続きPを出て、中央環状線で一気に帰宅しました。バイクを片付け、風呂に入り、ヨーグルトを食べ、NTV「そこまで言って委員会」を見ながら昼寝していたら家内が帰宅しました。
しばらくして家内と一緒に、四輪でスーパーに行きました。ここでアクシデント発生です。僕がカートを押し買い物をかごに入れ、「忘れ物は」と家内が1万円札とメモを取り出して確認し、更に買い物していると、「あれ、1万円がない」とのこと。深いコートのポケットに入れたはずなのにないとのこと。メモを確認してからの買い物したとこを探しますがありません。
「あ〜」と家内は泣きそうな顔になっています。僕もお金を持ってきているので買い物には支障がありませんが、落としてしまった自分の不甲斐なさにガッカリしています。どうなだめてもだめで、インフォメーションに行きますが、係の方がいません。「商品出ししている男性店員さんに声を掛ければ」と言っても、しょんぼりしたまま「でも、ここに言わないと・・・」。「普通、落ちしものがあったら届けるのに・・・」なんて小声で言っています。「だから、落とし主も届け出るんじゃん。見つけた方は、落とした所を見ない限り、大声で「1万円落とされた方〜」なんて叫ばないでしょう」。
「もう諦める〜」と頭をうなだれ更に落ち込む家内を見て、「あ〜もうめんどくさい」と言ってしまいました。これは家内に対しての「めんどくさい女だ」と言う意味ではなく、「家内の行動を待っている僕に対しての言葉」です。家内は学生時代から親の仕事を手伝っており、仕事ぶりは素晴らしくしっかり者で、テキパキ行動します。我が家に嫁いで来て転職しましたが信頼され、トップを任されています。最終判断・行動を促す立場です。でも僕がいるからか、休日はオフモードだからか、時々ダメダメモードになっちゃう時があります。
「また始まっちゃった〜」、もう待てなくなり僕が行動することにしました。男性の方に歩いて行くが、商品出しを終えた男性は奥へスタスタ・・・。レジのお姉さんに声をかけようと歩いていくと、ちょうどインフォメーションに店員さんが戻って来ました。
「すいません、家内が1万円を落としてしまいました。もし出てきたら連絡いただければありがたいです・・・」と声を掛けました。すると店員さんが、「先程、お客様が届けて下さいました。どんな1万円でしたか?」。家内を振り返るが何も言わないので、「ポストイットのメモ用紙がくっついていて、買い物がメモされています」と答えたら、「ハイ、間違いないようです」とビニール袋に入れられたポストイット付きの1万円札を出されました。
「ありがとうございます。お礼が言いたいのですが・・・」。「良かったね」と家内を見ると、泣いちゃって小さく「ありがとうございました」と言うのがやっとです。僕の名前や電話番号・住所を所定用紙に書き、1万円が戻ってきました。家内はもうレジは無理なので、僕が精算しているとインフォメーションの店員さんが来られ、「こちらが拾われたお客様です」と名前と電話番号が書かれたメモを渡してくれました。そのまま家内に渡します。
買い物袋に商品を入れ、車に乗って帰宅。「お礼の電話できる?」と聞くと首を横に振るだけです。「じゃあ、僕が電話するね。メモ頂戴」。それと家内に謝ります。後を見てなかったけど、泣き出したのは1万円が届けられていたからではなく、僕が「あ〜めんどくさい」と言ったからかもしれないと思ったからです。「怒ってめんどくさいと言ったんじゃなく、自主的行動を後追いしてる僕に我慢できなくなったからだ。僕は・・ちゃん(家内の名前)を怒ってないよ。紛失することは誰でもあるもの。失敗なんて、誰でもすることだもの。そんなことに怒ったりしないよ」と話すと、「うん」と言うだけです。
見つけてくれた方で電話し、お礼を言いました。「見つかって良かったですね。私だって落としたことありますし、気をつけなきゃって思いました。お互い様です。わざわざ電話ありがとうございます」と言われました。とても明るい口調で、恐縮している僕の心を気楽にさせようと、素晴らしい対応だなと思いました。NTVを見ていると、「真相報道バンキシャ」と言う番組が始まり、成人の日にトンズラして大迷惑をかけた「はれのひ」問題をしていました。社長会見はかなり嘘がありそうですが、民間ボランティアの行動も報道していました。
当日迅速に動いた美容院さん、2回成人式をやった公共団体、新成人の周りでは、「僕らの1万円札事件」同様素敵な日本人がたくさん動いたのでしょう。小学生の時、先生に「落とし物があったら交番に届ける」ことを教えてもらい、それ以来何度も10円玉・100円玉に始まり、いろんなものを交番に届けました。こんな日本が大好きです。
ニュースは、悪いことに多くの時間を裂くより、良いことを伝える時間を多めにした方が、日本人は更に自国への誇りを深め、日本人に対する目がさらに優しくなり、もっと暮らしやすい国になるように思います。
家内が泣いてしまった(いや、泣かしてしまった)我が家の大事件でしたが、素敵な副作用があり僕の心はよりハートフルになりました。でも家内のハートはリハビリが必要でしょう。何度もちょっかい出して機嫌を取ろうとしますがなかなかです。寝る前に、「ごめんなさい、もう二度とスーパーに行かないから」なんてことを言い出しました。「そんな極端なことを言わないでよ。誰だってミスするし、助けてもらったこともいっぱいあるじゃん」・・・

2018/1/21
家内は仕事関係の新年会で神戸のホテルに行きます。ツーリングクラブの予定を見るが、予定がない。またソロツーリングすることにしました。地図(ツーリングマップル・TM)を見て「京都八瀬」にある初めての3つの寺社〜久しぶりの京都大原の寺社を巡りましょう。
「まねき猫CB400SB」を倉庫から出し、リアボックスをセットします。去年ボックスを道路に落としたことがあったので、セットをチェックします。ボックスや中身が壊れるのは、自分の不手際ゆえ仕方ありませんが、後続車の事故を誘発したら大変です。
8:52出発、前回ガソリンを満タンにしたようで、燃料表示はフルです。R171〜中央縦貫〜名神と走り、「桂PA」でトイレ休憩します。冬は路面凍結が怖く、春〜秋のように夜明け前から走り出すことはしないこともあり、コミネ冬用プロテクターバイクジャケット・パンツだけで全く寒くありません。名神高速では、10台以上のバイクが追い抜いて行きました。このPAのバイク置き場でも先客が2台います。
走りながら、「狸谷不動院」のことを思い出しました。ツーリングクラブの目的地になったことがあります。名前が面白く、狸との縁を知りたくて参加したかったけど人数が多くて参加しませんでした。京都を題材にした作品が多く、好きな作家の森見登美彦さんが、京都と狸の作品を書いています。それを読んでから、「京都=狸」の構図が僕の頭の中に出来ています。
TMでおおよその場所を調べ、ナビで検索します。TMにはその近くの「赤山禅院」もマークされています。僕はTVや他の情報源から得た気になった歴史史跡・寺社をマーキングしています。「赤山禅院」は、天台宗の荒行「千日回峰行」で巡る修行場としてマーキングした記憶があります。
千日回峰行は、天台宗の荒行ですが、比叡山の谷筋ごとに別れている宗派の1つがやっている行です。浄土宗の法然も浄土真宗の親鸞も、比叡山の天台宗に属する谷筋の1つの宗派から起こり信徒を集め独立して行きました。
現在は葬式仏教と揶揄されるほど、先人修行者が中国に渡り仏教の本場から学んできた中国仏教古来の山岳修行を伴う姿から離れ、日本独特の姿に変貌しています。日本に輸入された頃の古来の姿は、神道と結びついた修験道に残っているように思います。修験道は、天台宗と真言宗から派生していますが、千日回峰行は天台宗系修験道に近いのではないかと想像しています。
昨年、千日回峰行を満願した大阿闍梨さんが住む滋賀県側の寺院を訪問したが、葬式仏教とは大きく違う空気を感じた。滝行施設があり、修験道に近いものを感じた。「赤山禅院」にはどんな空気が流れているのだろう?
名神高速「京都南IC」で下車し、R1を北上、九条通を東進します。東寺に市が立っており、大勢の人が集まっている。骨董品などたくさん集まるので楽しそうで、寄り道しようかと思ったけど、東寺駅方向から遠足の団体さんかと思うほど多くの方が来ているのを見てスルー。
道なりに「東大路通」になり北上、叡山電鉄を渡り、北大路通り(r181)を東進、再び叡山鉄道を渡り、「白川通」を北上します。枝道に入り、宮本武蔵と吉岡道場の決闘の場である「一乗寺下り松」〜「詩仙堂」〜決闘を前に武蔵が必勝を願った「八大神社」前を通過し、勾配が急になり10:16「狸谷不動尊」Pに駐輪。
「予想していたより新しいな」。ここは交通安全祈祷がメインのようです。寺務所で「交通安全ステッカー」を授かりました。見るべき所があまりないとと思ったら、絵地図があり「狸谷山不動院」は更に坂を登った先でした。そちらにもPがあるようですが、勾配のあるPではバイクを停める場所が限られるし、2組歩いて上がっていく方がいたので、ここから歩くことにします。
四輪離合が辛い道を登り、250段の階段が見えてきました。「阪神タイガース」の記念碑や、「優勝記念 阪神タイガース監督・吉田義男」「お百度参拝記念 阪神タイガース・小林繁」と刻まれた石柱が立っています。阪神との関係は何だ?この階段で自主練で足腰を鍛えたのかな?信楽焼の代名詞である狸の置物がたくさん並んでいます。
『大本山・狸谷山不動院 木食行を体得するために高野山に登った木食正禅朋厚(しょうぜんともあつ)〈後に木食養阿(ようあ)上人・貞亨4年(1687)〜宝暦13年(1763)〉は、亨保3年(1718)自らの修行地として樹木鬱蒼とした一乗寺狸谷の地に高さ深さ共に2丈からなる洞窟に入山し、そこに身の丈5尺の石像「狸谷不動明王」を安置する。それ以来狸谷不動明王信仰が始まり、途中廃仏毀釈などで嘆かわしい事態が続いたが、その祈りの法灯を護持継承するため、昭和19年(1944)第一世貫主・亮栄和尚が入山し、自然の地形を最大限に生かした現在の森林伽藍を築き上げ、真言宗修験道大本山狸谷山不動院として再興したのである。現在の懸崖(けんがい)造りの本堂内陣がその洞窟にあたる。
また朋厚法師は他の宗教活動として六墓五三昧(ろくぼござんまい)の念仏行、真如堂阿弥陀如来像建立、五条坂安祥院再興などがあり、東海道の最後の難所である。「日ノ岡峠」改修工事などの社会事業にも携わり、京都に多大なる功績を残している』
階段横にコンクリートお堂があり入ってみます。「白龍弁財天」」がありました。階段に戻ると、「50/250」のプレートが置かれていました。あと200段、頑張ろう。
毘沙門天・福禄寿・大黒天・弁財天・・・七福神像が置かれています。階段中央に「迎え大師」像が立っています。「126/250」。
「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場」がありました。『お砂踏みとは四国八十八ヶ所霊場各札所のお砂を踏むことにより、四国遍路と同じ功徳をいただけるものです』
『供養のこ‘ころ 人間は亡くなった後、たとえ肉体はなくっても生前になした行いは消えることがないとお釈迦さまは説かれています。これが「業」です。この業により行った悪業がもとで地獄・餓鬼・畜生・修羅という悪い世界に落ちてしまいます。ところが「追善供養」によってこの悪業が消滅し、再び人間界に生まれ変わるか、あるいは天人界という良い世界に行くことさえもできると説かれています。
さまざまな人間の悪業が消滅した理想の世界が「彼岸」です。もちろん誰しもが彼岸に到達することを願うのは当然でしょう。亡くなられたご先祖様が、どうか良き世界に生まれ変わり、私達をお守り下さいと願うのもまた、私達の偽らざる真情だと思います。
ではどのようにしたら彼岸の岸に到達することが出来るのでしょうか。それはお釈迦様の説かれたみ教えを忠実に守り、これを日常生活の中で実践することにほかなりません。これが「先祖供養の心」です』
「修行門 四国八十八ヶ所 お砂踏み霊場」と書かれた背の低い門があり、それをくぐると1〜88番まで書かれたプレートを踏んで歩きます。「木食上人参篭の地」と書かれた碑が立っていました。石仏も並んでいた。
更に階段を上がっていくと、清水寺の舞台のような高床を支える柱が見えてきました。上まで上がると、「ウスマサ明王」というお宮がありました。彫刻が見事というよりかなり濃い感じで「衣食住愛の神」とのことです。「ああ〜これは修験道だ」を実感しました。下で見た絵地図で、横の広場が「柴灯護摩道場」と知っていましたが、修験道の雰囲気満載です。
地図で「武蔵の滝」と書かれていた滝は見えず、その滝の下の流れから落ちる場所に滝行場がありました。そことその横にブルーシートで目隠しされています。何人もの観光客が、それに向かって手を合わせている。行をされているのかもしれません。
「水子地蔵尊」から本堂へ。高床の縁側が出ており、木々の間から京都の町が見下ろせます。
裏に鳥居があり、そこから先に道は上がっています。『これより先はハイキングコースです。お寺はありません。 注意:スズメバチを見かけたら、直ちに引き返して下さい』。『奥之院参道』の石柱が立っているのに、「お寺がない」の記述が不思議。
本堂の柱に、『ガン封じ・病気平癒 願かけ』と書かれ、多くの御札が下がっている。階段を下ります。バイクに戻り、「赤山禅院」に向かいます。「一乗寺下り松」を通過し、白川通に出て北上、枝道に入り「修学院離宮」へ。ここは予約しないと見学できないので外観だけと思って来ましたが、ガードマンが数人おりそのまま塀沿いに細道を進み、11:13「赤山禅院」。
車道が山門をくぐっていますが、未舗装なので手前に駐輪し徒歩で山門をくぐります。『天台宗・修験道・総本山管領所』の木札が下がっていました。やはり千日回峰行は修験道総本山に参るようです。密接な関係ですね。「都七福神」の1つのようです。
『平安時代・仁和4年(888)、天台座主・安慧(あんね)が師の慈覚大師円仁(えんにん)の遺命により創建した天台宗の寺院である。
本尊の赤山明神は、慈覚大師が中国の赤山にある泰山府君(たいざんふくん・陰陽道祖神)を勧請したもので、御神体は毘沙門天に似た武将をかたどる神像で、延命富貴の神とされている。後水尾上皇の修学院離宮御幸の際には、上皇より社殿の修築及び赤山大明神の勅額を賜った。
この地は、京都の東北表鬼門に当たることから、方除けの神として人々の崇敬を集めている。また、赤山明神の祭日に当たる5日に当院に参詣しで懸取りに回ると、よく集金がでさるといわれ、商人たちの信仰厚く、「五日払い」といわれる商慣習ができたと伝えられている。
閑静なこの地には、松や楓が多く、秋には紅葉の名所として多くの人々で賑わう』境内の参拝道順が矢印表示されていたので、それに従って僧坊を巡ってみた。拝殿内の逗子の扉は閉じられていたが、趣があり目を引いた。境内に『心友 石坂まさを 自らの心の子と書いて、息子というなら、俺がやり残したことを受け継いでくれ、この一筋の道焦らず急がず、男らしく何かを成し遂げてくれ。風に狂って生きても風の優しさ忘れず、風の旅人のように夢を追ってくれ』の言葉が刻まれた石碑があった。
正念珠をくぐると本殿があったが、それほど大きくはない。阿吽の狛犬がカラーリングも造形も独特で、修験道らしいなと思いました。横に回ると「三十三観音十六羅漢」が並んでいた。苔むした石像が並び良い雰囲気です。
「出世弁財天」堂がありました。女性は皆弁財天、命の源・命のゆりかごです。ここは念入りに感謝しておこう。御朱印授かり所があり、お堂の前に置かれた七福神像を熱心に写真に収めている綺麗な女性がおられた。
「相生社・歓喜天・金神社」の方に誘導された。「夫婦和合之神・歓喜天」、小さめの祠だったけど、これまた子宝の源で最重要です。次いで「縁結之神・相生社」、歓喜天の前に縁結びですね。男女とも、人生の大きな転換期・大きな喜びの時期・新しい家が建つ時です。横には相生社用の絵馬掛けがあり、名字の違う2人の名前が書かれていたり、片方が「良いご縁の方」となっていたりしました。「日本気学発祥地」の碑が立っていた。「御滝籠堂」があった。年代物の手押し消防ポンプがあります。「雲母不動尊」のお堂があった。順路の最後に「還念珠」をくぐりバイクに戻った。
「白川通」に出て北上、「叡山電鉄」を越え、R367に合流。高野川に沿って走ります。11:53「天台宗・蓮華寺」。道路からの間口が狭く目立たない寺院です。ただPは国道に面して車4台分あります。
『当寺院は京都の歴史的景観保護のための運動を続けています。先般、京都市・京都経済界・京都仏教会は一体となって京都の景観保護に努め、文化観光都市京都のさらなる発展の為、努力することを誓いました。
この合意をうけ京都仏教会は、今後北部の旧市街地に高層ビルのないまちづくりを目指すとともに、これからも京都が京都であり続けるために様々な取り祖みを行って参りたいと存じます。ご参拝の皆さまのご理解、ご支援をよろしくお願い申し上げます』
小さな山門をくぐると、右手になだらかな優しい傾斜の檜皮葺屋根を持った鐘楼があった。木桶の井戸舎がある。白壁が半分落ちた土蔵がある。庭は苔むし、交通量の多い国道脇の寺院なのに、とても雰囲気が良く落ち着く。たくさんの石仏が集められ屋根の下に置かれている。書院の縁側を通してお庭が見えている。庫裏書院に入ると、下足場と下駄箱・帳場がある。意外に観光客が多い寺院なのかもしれない。そう言えばこの寺院を知ったのは「京都紅葉名所一覧」だったかもしれない。1000円札を持って入ったが誰もいないので、「拝観料400円」の小銭を置いて入ろうと探していると奥様が出てこられた。「ようお参り頂きました。バイクですか?私も乗りたいと思っていました。気持ち良いでしょう?お庭に出てのお写真は遠慮頂いているので、屋内からお願い致します。スリッパを用意しておりますので、お庭は自由にご見学下さい」と人懐っこくお喋りになる。
『洛北蓮華寺 蓮華寺は、元西八条塩小路附近(今の京都駅附近)にあった浄土教系の古寺で、応仁の乱後荒廃していたのを、寛文2年(1662)加賀前田家の老臣今枝民部近義が祖父今枝重直の菩提の為めに、この地に移し再興したものである。(蓮華寺造営記、帰命山寺記)
再興の際に石川丈山、狩野探幽、木下順庵、黄柴の隠元禅師木庵禅師等当時の著名文化人が協力している。(諸堂の様式碑文、什物等)
尚本堂、鐘楼堂、井戸屋形、庭園は創建のままであり、小規模ではあるがいずれも文人の残した貴重な文化遺産である。 京都市左京区上高野八幡町』
縁側が広くフルオープンになっており、観光客は僕一人なので、そこに座り苔むしたお庭を堪能する。澄んだ水をたたえた池があり、鯉が数匹動かずにいる。スリッパを履いてお庭を散策しよう。
庭の本堂入口は書院から見えないので、敷石を歩いて本堂に入ってみる。中央にかなり高級そうな年季の入った螺旋逗子(らでんずし)があり、扉は閉められたままですが、本尊がおられるのだろう。室町時代と書かれていたが、帰宅後調べると明朝初期の中国製で加賀藩が輸入したものだそうだ。貝の細工が見事で古いながら目を引いた。
左には金色に輝く阿弥陀如来像がおられ、鎌倉時代と書かれていた。細身の仏様でプロポーションが良く、お顔も好ましく、金箔の残り具合は素晴らしいと思い、帰り際に奥様に訊いてみた。40年前に金箔張替修理をしたそうだ。指が欠けていたりしており、修理しようと調べたら、欠けた部位は全て箱に入って残っており、仏師に修繕してもらったそうです。見たところ欠けた部分はなく、指も細く女性ならかなりの美女という感じでした。
12:15、横にならんである「崇道(すどう)神社」。『延喜式内社 伊多太神社』の石柱も立っている。
『奈良末期〜平安初期の皇族「早良親王」を祀る。親王は、光仁天皇・高野新笠(たかのにいがさ)の子で、桓武天皇の実弟。延暦4年に起こった藤原種継暗殺事件の首謀者として逮捕され、乙訓寺に幽閉された後、淡路に流される途中、無実を主張し絶食死した。
その後、桓武天皇近親者の死が続き、都に悪疫が流行したため、早良親王の崇りと噂され、その恕霊を鎮めるために延暦19年に崇道天皇と追号を贈り、墓を現在の八島陵へ改葬した。
他に藤森神社・上御霊神社にも崇道天皇が祀られているが、崇道天皇のみを祭神としているのは、この崇道神社だけである』
『太政官兼刑部大郷・小野毛人朝臣之墓』の石碑も立っている。『天武朝の官僚であった小野毛人は、最初の遣隋使小野妹子の子で、天武6年(677)に没したとされる。
慶長18年(1613)、崇道神社境内の上高野一帯を見渡す山腹の墓から鋳鋼製の墓誌が発見され、この墓が小野毛人を埋葬したものであることが明らかとなった。大正3年(1914)、墓誌は国宝に指定され、現在京都国立博物館に保管されている。
墓は、大正3年に調査され、その結果、板石で作られた石室は長さ約2.5メートル、幅及び高さ共約1メートル、当初は封土が施されていたものとみられる。この墓は、市内に残る奈良時代前期の数少ない遺跡であり、当時の墓制を知るうえでも貴重なものであることから、昭和59年6目1日京都市指定史跡に指定された。』
まだ鳥居前ですが、いろいろ面白そうな物がありそう。石畳の参道がまっすぐ伸び、鳥居が2つまたぐように立っている。参道を歩きながら右手を見ると、寺院がある。
『五味藤九郎之碑 昼なお暗き幽玄の森 崇道神社境内の現存の藤九郎碑は、延宝5年(1676)現在の上高野東山町山麓の巨岩を貫通、高野川の清流を当時の高野村川南台地へ通じる水路を開設し、農業の発展と住民の生活に多大の恩恵を遺す偉大な故人の碑である』
鳥居の扁額には、「崇導神社」と書かれています。境内脇に、山に上がっていく細道があり、そこに「小野毛人朝臣之墓・山上140m」と書かれた石碑が立っています。山道140mということでパス。横に「小野神社」があります。滝禊場がありました。「大峰修行供養塔建立記念」の祠がありました。ここも修験道に関係があるようです。修験道は、日本古来の神道と伝来仏教が習合した修行宗教だからね。明治維新の神仏分離で、日本独特の神仏習合が否定され、修験道に光が当たらなくなりました。残念です。如意輪観世音菩薩を祀る小堂がある。修験道に関係する神社らしく神仏習合色が濃い。
摂社として「伊多太神社」があった。白装束の神主さんが山を見上げている。頭を下げると、「猿が出てるよ」とのことです。野鳥の鳴き声だと思っていたのは、猿の鳴き声だったようです。神主さんの見上げる方を見ると、猿が数匹山の斜面を移動していた。神主さんがパチンコを持っていたので、「威嚇するのですか?」と訊くと「持ってるだけで近寄って来ません」とのこと。いくら話しても、取り決めしても領海侵犯する国には、対話だけではなくパチンコが必要です。お参りしている間、2回ほどパチンコが発射されていた。
摂社に、春日大神・赤山大神・十二所大神・貴布彌大神、日吉辻大神合祀・恵比寿大神、天照大神・豊受大神。出雲高野神社もあった。
横の寺院に入ってみよう。12:35国道からの入口。勢い良く水が流れる広めの側溝を渡る小さな橋からエントリーするようで、国道を走っていても気づかないでしょう。南天の赤が美しい側溝沿いの細道は、左右の住宅に挟まれた細道になり、簡素な小門があった。
『ご参拝の皆様 当寺は檀家のない禅寺です。この静穏な境内環境の末永い維持のため、入山の際の喜捨のご志納を何卒よろしくお願い申し上げます。 臨済宗大徳寺派・栖賢寺小住 謹白』
「入山参拝志納箱」と書かれた竹筒が門柱に括られていたので、その中に500万円をコロンして境内に入る。庫裏書院の庭に面した方は縁側の廻りにガラス戸が囲み、開け放したら気持ち良さそう。境内は静かで、水の流れがあり、小さな池もある。哀れを誘わない程度に手入れされた広いお庭に僕一人。とても良い雰囲気です。重層の形の良いお堂は、崇道神社の参道から見えていました。茶室と思われる建物が佇んでいる。
鐘楼があり、中に入るとお布施箱が置いてあったので10万円をチャリンして、ゴーン。良い響きです。鐘には印を結んだ如来像が・・・素敵な鐘です。観音堂(禅堂)を覗くと、『靴を脱いで堂内で参拝して頂けます』『善男善女の皆さん 猿が侵入しますので、必ず障子を閉めてお帰り下さい。 合掌』と書かれていた。書院から上り廊下がつながっています。
帰り際、猿の声が聞こえたので振り返ると、先程の猿だろう、2頭が境内の山側を歩いていた。僧坊も程よく整いとても雰囲気の良い寺院だったので、帰宅後調べました。こちらも「京都の紅葉」でヒットして寺なので、「京都の紅葉の穴場」のことが書いてあった。謂れは・・・
『栖賢寺は、南北朝時代の康永年間(今から約650年前)、尼崎大物の地に臨済宗大徳寺派の寺院として、大徳寺74世竺堂円瞿(じくどうえんく)禅師によって開山されました。
本能寺の変の後、明智光秀勢の待ち伏せにあった秀吉が、剃髪し僧形になって栖賢寺に身を隠し難を逃れた逸話が『絵本太閤記』に残っています。この逸話がそのまま史実であるかどうかは分かりませんが、秀吉の軍議が栖賢寺で開かれたことや、千利休との関わりはあったようです。その縁からか、天下統一後の秀吉より寺領を寄進されています。
中興開山は、大徳寺総見院において、織田信長の葬儀の導師を勤めた、笑嶺宗きん(しょうれいそうきん)禅師。
近代に入り荒廃していた当山は、実業家で数寄者であった山口玄洞氏の寄進により、臨済宗方広寺派元管長、間宮英宗老師を昭和の中興開山として、昭和7年、京都市左京区上高野の現在地に移転再建されました。山口玄洞氏は多数の寺社仏閣の復興に尽力した人物ですが、寄進するにあたってその寺が、由緒正しい寺である事、悪人でも襟を正すような景勝の聖地にある事などを条件にしたといいます。
現在栖賢寺は、無檀家の禅寺です。
1000坪の境内地の中に庭園、観音堂、鐘楼、鳳凰閣、茶室、本堂などの伽藍を持ちます。しばらくの無住の時代を経て、2016年7月に新住職が安居。真の平安を志す仲間とともに老朽化した境内の維持、復興に向けて、日々坐禅や精神的な修行を中心とした寺院活動に勤めています。』
「絵本太閤記」は読んでいないので、面白い逸話だなと思い更に調べると、『摂津名所図会に「尼崎寺町にあり。禅院十刹のその一なり。秀吉公、山崎合戦の時、勝利ありて、諸侯を饗したまふ所なり。腰掛松 当寺にあり。秀吉公、この松に腰をかけられて、山崎合戦の軍令を定めたまふ古跡なり」とある摂津国の禅院十刹の一つ。』を見つけた。こちらの方が納得できる逸話です。
バイクに戻り、次の目的地を探す。大原の寺社を訪問する予定でしたが、日が短いので16時を過ぎると暗くなるので、現在時12:50を考えると、大原探索時間は1時間しかない。どうしようかな?なんて考えながら、地図見てナビ見てゴソゴソして、西陣界隈を探索し帰ることにする。
イグニッションスイッチをONにしセルを回すがエンジンがかからない。アレレ・・・もう一度セルを回すが弱いよ・・・やばいかも・・・セルを・・・無常にも反応なし。ああ〜やっちまった〜。2012年に新車で買って、2014年に念のためバッテリー交換したが、常に一発点火だったので、その後交換していないよ。2週間前に乗ってるのに・・・
バッテリーブースターも持っていますが、宿泊旅の時しか積まないのでアウト。仕方なくバッテリーチャージしてもらうことにする。JAF・HMG北海道二輪組合・任意保険、いろいろカードを出して「ホンダドリームカード」に決定。チャージしてもエンジン不動なら、最寄りのホンダドリーム店まで無料でレッカーしてくれます。
お姉さんに症状と現在地を伝え待つ。コールバックがあり、手配したので0.5〜1時間ほど待つよう指示される。バッテリー上がりの時、30分ほど放置し再度イグニッションをひねったら掛かることがあるので、ダメ元でそれを試したら、アレレ一発点火。
以前も一度こういう時がありました。あの時も冬の日で、風向がマフラー後方からで、「冷えちゃったのかな?」と素人判断しました。ホンダドリームお姉さんに再び電話し、ヘルプを断りエンジンを家まで切らずに、とっとと退散することにしました。
13:53出発。1時間ロスしちゃった。R367〜白川通〜丸太町通〜東大路通〜九条通〜R1〜名神高速・京都南ICに乗ります。高槻JCTから開通したばかりの新名神高速道路に入ります。広々とした新規格高速道路ではありませんでしたが、川西ICまでしか開通していないので交通量が少なく、バックミラーにはたまにしか後続車が現れません。
快適に走り、14:50「茨木千提寺PA」でトイレ休憩。売店はなかった。「川西IC」で下車し、r12〜r13で15:42帰宅。
帰宅してバイクのバッテリー交換時期を調べました。CB400SBは、新車購入2012/2(YUASA)〜2014/2(YUASA・YTZ10S)。VTR250は、中古購入(走行距離800km)2008/8(YUASA)〜2013/4(ホンダドリームおすすめATZ7S)。リード110は、中古購入(走行距離3000km)2009/11(YUASA)〜2014/7(YUASA・YTZ7L)。アドレスV125は、中古購入2013/3(YUASA)〜2017/3(台湾YUASA・YTX7A)でした。
バイクバッテリー寿命は2年と聞いていたが、ホンダドリームでVTR250バッテリー交換時勧めてもらったAZバッテリーが優秀で、アドレスもYUASAから浮気し「台湾YUASA」にしました。VTR250のAZは5年目になります。CBも次回はAZにしようと思っています。

2018/01/14
家内はお仕事の新年会で、姫路の日航ホテルへ行きます。家内を駅まで送り、帰ってきて「里山VTR250」を出し、バイク用プロテクター・ウインタージャケット・パンツに着替えて、今シーズン初の完全冬装束になり、10:27出発。
10:30「伊丹産業セルフ北村SS」で給油。216km/7.39L=29.2km/L。R171〜中央環状線〜吹田ICから近畿道に乗ります。道路脇の気温計は2℃でしたが、バイク用冬装束なら全く寒くなく快適です。いつものように80km/h巡航で南下し、八尾ICで下車。r5を東進し、11:11「顕証寺」。山門の彫刻が素晴らしい。
『顕証寺と寺内町 古くはこの地を橘島久宝寺といい、親鸞聖人の高弟・信願房法心の建てた慈眼寺があった。文明2年(1470)蓮如上人がこの地で布教し顕証寺(久宝寺御坊)を建てた。周囲に二重の堀と土塀を巡らし、街路は碁盤の目のようになっていた。
このように本願寺門徒衆は戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかる寺内町を作った。この町では御坊が一切の支配権を持ち、久宝寺城主・安井氏がこの権を委された。中世末期・浄土真宗本願寺派などの寺院の境内に発達した集落。真宗西本願寺別院で、連技の格式を持ち、河内十二坊の総支配を勤めた』
鐘楼の彫刻も見事です。浄土真宗の財力を感じます。
11:23「許麻(こま)神社」。境内に「どんと焼き」受付机が出ており、大きな俵型に組まれた藁に縁起物の鏑矢がたくさん刺さっていました。このまま燃やすのでしょう。
『式内社で、もと牛頭天王と称され、渋川六座の一である。この地は古くから巨麻荘といい、河内国諸蕃の大狛連の住地で、その祖神を祀った。境内の手洗い屋形は、昔の宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残。
この寺は聖徳太子の建立で、戦国時代兵火により焼失。その後観音院のみ復興したが、明治初年廃寺となった。本尊十一面観音は今念仏寺にある。神社の西方に、弥生式土器を埋蔵したベントウ山があった』
社名から、古来神事や衣類・漁具・医薬品原料と多用された大麻の栽培地であった名残りを想像しましたが、河内に移り住んだ「大狛連(おおこまむらじ)」という諸蕃(朝鮮半島・中国大陸出身氏族の総称)一族が住んだ地からの名残りのようです。
隣の藤井寺も、出雲を経て渡来した土師氏の本拠地ですし、湖西同様河内も渡来人が多く住んだ地です。土木技術で朝廷に貢献し地盤を築いた土師氏本拠地に古墳群が多いのは、大陸・朝鮮半島からの技術移転と思っていましたら、今読んでいる『日本人のルーツの謎を解く 縄文人は日本人と朝鮮人の祖先だった 長浜浩明著』によると、半島南部(特に百済)に日本特有の墳墓・前方後円墳が多く発掘されていると言うことだった。全て5〜6世紀のもので、日本の古墳時代3〜4世紀より新しく、「むしろ日本の技術が半島に伝播していったと考える方が自然だ」となっていた。
氷河期から暖かくなる過程で、海に囲まれた日本列島の方が大陸より早く暖かくなるから、日本列島の方が朝鮮半島より先に人が住み着いたのは、発掘遺跡の古さからも定説になりつつあります。縄文遺跡からは、世界三大文明より古い出土品が多く出ており、血液型や遺伝子レベルでも現朝鮮人と日本人との民族的違いがはっきりしている。母乳を通じて母子感染し白血病を引き起こす「ALSウイルス」キャリアーは、朝鮮人にはゼロで日本人には2〜30%存在する。しかも縄文人にもほぼ同じ割合で存在する。
「縄文人世界だった日本列島に、稲作文化を持って大量にやってきた弥生人が席巻していった」との過去の定説が覆り、最終狩猟生活だった縄文人が、焼畑農業から水稲栽培に転換し集落を形成していき弥生人になっていったとの説が有力視されているらしい。身長・顎の発達・顔の輪郭は、生活習慣の変化で容易に変化するもので、縄文と弥生を別民族とする根拠にならないそうだ。
自然に考えれば、日本列島から半島に渡った部族もあり、ユーラシア大陸中央部を経てやってきた民族と中国大陸・朝鮮半島で出会ったと考えられる。列島と半島は、現代のように双方向に移動・交流があり影響しあっていたのだろうと、僕もこの本を読んでとうとう宗旨変えしました。
摂社の厳島神社が、噴水の有るしっかりした池に囲まれ、信仰の篤さを感じる。たくさんお絵馬が掛かり、真新しい御神籤も多く結ばれているので、多くの尊崇を受けているようです。境内に大きな社庫があり、立派な山車が蔵されていそう。
r179を南下し、近鉄南大阪線をくぐり、近畿道側道r2を南下し、r12を西進、枝道を南下し11:59「柴籬(しばがき)神社」。『反正天皇柴籬の宮跡』の石柱が立っている。
『仁賢(にんけん)天皇の勅命で創建され、第18代反正(はんぜい)天皇(瑞歯別命みずはわけのみこと)・菅原道真・依羅宿禰(よさみのすくね)を祭神として祀る。この付近は反正天皇の皇居・丹比柴籬宮跡で、記紀によるとその時代は天下泰平・五穀豊穣の平和な時代であったと記されている。
平安時代、清和天皇より幣帛(へいはく)を賜り、南北朝時代の足利直義、戦国時代の河内守護畠山氏も厚く保護した。明治5年(1872)神仏分離により、境内の神宮寺・広場山観念寺は廃寺となり、本尊は上田の観音堂に、釣鐘は願正寺へ。明治40年(1907)に大塚山古墳にあった天満宮(大塚社)を合祀し、手水鉢も当社に移された』
ここも男どもが作業中です。消防ホースを動かしているので、「どんと焼き」準備のため消防団員に総出がかかっているのかもしれません。作業が終わったのか、拝殿前の階段で記念写真に収まっていました。
神宮遙拝所があった。参道脇に摂社があり、歯を強調したお面像がある。『日本で唯一・歯磨き面 本殿に反正天皇を祭神とし、ここ末社に歯神を祀る歯に関する社として、古より多くの方々に崇敬され今日に至っております。本年歯神社御祭礼日5周年を記念してここに歯磨面を建立し、指先で触れて大神様のご加護を頂き、健康の源である歯がいつまでも丈夫でありますようご祈念下さい』
祠脇に、「住吉社(祓いの神・往来(交通)安全の神)」「歯神社(歯の神・「ちちかみばし」伝説の社)」の提灯が下がっていました。確かに歯の神社は初めてです。
拝殿前左右に盛砂(立砂)がある。『この砂山は、古来より当社では伝統的な習わしとして受け継がれ、京都地方でも数社寺があるのみで、全国的に珍しい盛砂です。お清めの砂として、家屋敷の鬼門・裏鬼門に撒く風習が残されている』
拝殿で手を合わせました。いつものように今までの幸せな生活への感謝に加え、今年新たに生まれる孫のお嫁さんの安産と健康を願いました。
拝殿脇に、『お伊勢様と氏神様の御札をお祀りしましょう うれしい知らせがあった時、気分が落ち込んだ時、何かを決意した時。ふと神様に手を合わせたくなることがあります。そんな時、心静かに手を合わせられる場所が身近にあれば、日々の暮らしはもっと穏やかなものになるでしょう。
御神札をまつることで、神さまをより近くにお迎えすることができます。お部屋の中に、自分だけの「祈りの場」がある暮らし、始めてみませんか。
「天の恵み」ーお伊勢さまの御神札ー
伊勢神宮は、三重県伊勢市に鎮座する皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)を中心とする125のお社から成ります。皇大神宮は、「日本人の心のふるさと」と親しまれ、皇室の御祖先の神さまであり、また私たち国民の総氏神さまでもある天照大御神さまをおまつりし、その広大無辺のご神徳は太陽にたとえられ、「火の恵み」と仰がれます.
「地の恵み」ー氏神さ圭の御神札ー
氏神さまは、日本全国津々浦々に地域住民の心のよりどころとしておまつりされ、農村にあっては農業を守護し、漁港にあっては大漁をもたらし、その土地に暮す全ての人々とその生活をお守りくださる最も身近な神さまです。親が我が子を慈しむような、大地が草花を育むようなそのご神徳は、「地の恵み」と称えられます。
「天地の恵み」
この世に生きる全てのものは、天地の恵みによって生かされ、神々の守護によって生活を営んでいます。すなわち、お伊勢さまの「天の恵み」と、氏神さまの「光の恵み」とがあたかも車の両輪のごとくにひとつとなって、より尊い御神威があらわれ、より一層のご加護をいただけるのです。
「新たな年に瑞々しい生命を」
お正月を迎えるにあたり神棚をお掃除し、お伊勢さま・氏神さまの御神札を新しいものに換えて新年の訪れを待つ。これは、より新しいお力、より新しい生命をいただくという意味の行事であり、日本の伝統、先祖伝来の美風です。現在神棚がないご家庭(または事業所)は、この機会に神棚をおまつりになってはいかがでしょうっか。
◆御神札のまつり方
御神札は、南か東に向くようにおまつりしましょう。
神棚のないご家庭では、タンスや本棚の上をきれいにして、そこに雲形(お社)を置くのもよいでしょう。また、壁掛けにもできる小型の雲形もあります。神前にはお米・お塩・お水の他に季節の初物・お土産等も感謝の気持ちをこめてお供えし、拝礼しましょう。 大阪府神社庁』と書かれたポスターが貼ってあった。
「ご自由にお取りください」と、「教育勅語」「授与品図鑑」「神様と動物」「君に命をくれたのは」4種類のパンフレットが置いてあった。僕は教育勅語が好きです。小学生の道徳の時間に、校長先生から教えてもらった。

『たいせつなやくそく 〜『教育勅語』のこころ〜
むかしむかし・・・ 明治天皇はみんなにお話しになりました。
「みなさん、わたしたちのこ先祖さまは、約束をまもり、人にやさしくする心を、ずっと大切にしてきました。
そして、みんなが、みんなのために、手をつなぎ、心をつないで、なかよく暮らしてきました。
それは、わたしたちの、ご先祖さまの、大切にしてきたことが、わたしたちの心の深いところにしみこんでいるからです。
だから、みなさんも、ご先祖さまが大切にしてきたことを学び、守っていってください。
「兄弟はみんななかよく、家族ははげましあいましょう。お友だちとは、助けあいましょう」
「いつも、思いやりの心をもって、みんなにやさしくしましょう。
もしも、間違ったことをしたり、言ったりしたら、すぐに反省して、なかなおりしましょう」
「みなさんは、すすんで勉強して、いろいろなことを、学んでください」
「そして、おとなになったら、世のため人のために、働けるひとになりましょう」
「みんなで決めた約束は、必ず守りましょう。
もしも、みんなが、だれかから、ひどいめに、あいそうになったら、勇気をだして、『それはいけないよ』と、いえるひとになりましょう」
「みなさん、この大切な約束を、まもることができたら、もうりつぱな日本人です。
この約束は、昔も今もかわりはありません。
海のむこうの遠い国でも通用する、りっばな教えなのです」
だから、みなさんも、この大切な約束を、みなさんの将来の子供たちにも、伝えていってください。

おうちの方へ〜
【教育勅語とは】
明治維新以降、急速な欧米化によって日本古来の道徳心が失われつつある状況をご心配された明治天皇が、国民道徳の大本をお示しになられ、徳育によって国民を守り、より良い社会(道義国家)となるよう示されたものが教育勅語です。行き過ぎた個人主義が蔓延する今日、日本の伝統的な道徳教育が見直されれています。これらの教えは人が生きていく上で普遍的なものであり、世界に通用する立派なものです。
【道徳の授業が特別教科へ】
平成27年2月の文部科学省告示により「道徳」か特別な教科として格上げされ、小学校では平成30年度、中学校では平成31年度から、教科書に基づく授業が始まります。グローバル社会の中で我が国の伝統文化を知り、家族・集団の一員としての自覚を持ち、多様な人々と共生していく上で必要な相互尊重のルールやマナーを守り、いじめの防止や生命の尊重、困難に屈しない心や自律心が育まれることが期待されています。
【神社は日本の道徳の発信地】
日本人は太古の昔より、神様がくださる自然の恵みと祖先から繋がる命に感謝と畏敬の念を覚え「生かされている」という謙虚な気持ちで日々を過ごしてきました。また神祭りを中心に神社に人々か集い、様々なことを相談する中で、お互いを尊重し合い、安心して暮らすことのできる地域社会を築いてきたのです。日本の伝統的な道徳心や和の精神はこうして育まれていました。
この冊子は、教育勅語の核となる部分を「子供たちが道徳を心の栄養にしてスクスクと育ってほしい」「若いお父さんやお母さんに日本古来の道徳について知ってもらいたい」という思いから、近畿一府四県の神社に奉仕する青年神職が原文を再編集し作成したものです。どうか皆さま、いつでも、何度でも、子供たちに読み聞かせてあげてください。 鎮守の森・・・神道青年近畿地区連絡協議会』

教育勅語が、子供向けに平易な言葉で書かれています。僕は、戦前の道徳の教科書(国民の終身)を持っています。1〜3年生用と4〜6年生用2冊の教科書に別れ、神代からつい先年の人である方まで、素晴らしい功績を残された方のお話が掲載されている楽しい読み物です。
「こういう悪いことをしたら罰せられます」ではなく、「人知れずこんな素晴らしいことをした人がおり、多くの方がそれに助けられ尊敬されました」という基調で書かれています。
TVニュースの殆どは、「・・が悪いことをした」「・・さんがひどい目にあった、犯人はこいつだ」が基調で、「悪いことをしたらあかんよ」のオンパレードですが、「こんな素晴らしいことをした方がいたよ」が8割を占めるニュースを流す方が世の中良くなるような気がします。
拝殿内は華やかで、鮮やかなお着物が掛けられ、百人一首の御札・過去の神社の写真が飾られ、太鼓や椅子が整然と並べられています。神職が被る烏帽子も用意されています。
子供に「教育勅語」を広めようとしてる姿勢が好きだし、4種もパンフを頂いたこともあり、絵馬800円と交通安全守護(黄色)500円を授かりました。早速「里山VTR250」のハンドルにセット。
バイクに戻り、r12に出て東に走り、R170を北上します。大和川を渡り、R25に乗り、道なりに走っていると大和川に沿うようになりました。R170に乗り少し北上し、枝道に入り、「業平道」を走って12:47「石神社」。境内に見上げるほどの楠の大木がありました。
本殿に参りに行こうとすると、『大阪府指定文化財 知識寺東塔刹柱礎石 石神社 知識寺は奈良・平安時代河内を代表する大寺院で、東大寺大仏造顕の機縁となった大仏を本尊とし、聖武・孝謙帝、藤原頼通などの参詣、法華寺への銅の運上といった動きが知られています。
伽藍は東・西2塔をもつ薬師寺式の配置で、この刹桂礎石は、東塔跡と推定される太平寺2-18-7山本義一氏宅地東南角の土蔵付近から出土したものです。花崗岩製で、この塔心礎の柱穴の直径は122cmあり、この上に建てられていた塔は高さ48.8mの五重塔であったと推定されます。
知識寺の大仏は、高さ18mと伝えられ、この礎石から推定される塔も、そうした巨大仏像を本尊とする大寺院にふさわしい大きさです』
ここの境内にも男どもがたくさん集まって、「どんと」の準備をしています。藁と木が組まれ、側に神札などが置かれ、住民が次々に持って来ます。神殿に上がる長い階段下には、神棚が置かれお神酒・りんご・胡瓜などが並んでいます。お祓いをする時に使う御幣も置かれている。神事があるようです。
階段を上がり参拝します。本殿を見ようと塀を巡って奥に行くと、飛行機の音が聞こえてきました。伊丹空港に着陸するため高度を落としていく旅客機が真上を飛んでいます。我が家から見える飛行機より少し小さい程度で、離陸に比べ着陸機の高度の低さを感じます。
ここでこれなら、豊中市の空港に隣接し着陸航路真下の森友学園の騒音は・・・。あんな土地、値引きしないと売れないよね。一気に高度を稼ぐ我が家の伊丹市側でも、航路真下の住宅土地は歯抜けのように空き地が広がっている。国交省の空港関連会社の名がついた「この土地の相談は・・・に連絡ください」との札が虚しく長年下がっている。国有地なので雑草は綺麗に刈られ、その経費だけでも毎年かなりの支出が必要。森友学園に安値でも売っちゃう方が得なのは長期的に見れば当然わかる。役人が、お荷物を早く売却したくてしょうがなかったのだろうな。売却できなかったから、より多くの税金が使われることになるのだろう。ああ勿体無い。
楠まで降りると、謂れ板が立っていた。『智識寺跡 この付近一帯には、「智識寺」と呼ばれる有名な古代寺院跡があり、地名から太平寺廃寺とも呼ばれています。
奈良時代、聖武天皇や孝謙天皇は、平城宮と難波宮の往来の途中に柏原の地を訪れ、智識寺・山下寺・大里寺・三宅寺・家原寺・鳥坂(とさか)寺の6寺に礼拝、礼仏されました。中でも智識寺には大きな盧遮那仏があり、それを見た聖武天皇は、その立派さに感動し、奈良東大寺の大仏を造るきっかけとなりました。
智識とは、仏教を信仰し、寺や仏像を造ることに協力した人のことであり、智識寺は、これら智識によって建てられた大規模な寺院でした。
智識寺は東西に2塔を配する薬師寺式の伽藍配置であったと推定され、東塔跡の一部が過去に調査されています。出土した瓦から、1300年以上前の飛鳥時代末頃に創建され、室町時代頃に廃絶したようです。
石神社の境内には、東塔に使用されていた塔心礎を始めとする礎石が移されています。  平成7年3月 柏原市教育委員会』
飛鳥と難波の通り道だったのですね。脳内地図を頭に浮かべると、奈良盆地から世界に通じる海に出るには大和川の流れに沿って生駒山系を西に抜け、この地から流れを北に変え大河となる大和川の流れに乗れば難波に着きます。
神社南の展望台に上がってみます。登っていくと、境内で祝詞が始まりました。神職が挨拶し、大勢集まった住民が神妙にしている中、お宮に向かって祝詞を上げ、頭を垂れた住民をお祓いしています。
神社北の山に「柏原ワイン」の大きな看板が見えます。展望台は小さく、水道と椅子があるのみでした。今や少なくなった無料の水飲みと一体になった水道で、懐かしく思います。かつてはどこの公園にも設置されていたのに、自販機に代わっています。イタズラする輩がいるからこうなるのですね。教育勅語の復活を願います。敗戦から70年、もうそろそろ「天皇・神社・教育勅語・道徳・終身・軍隊=侵略戦争・軍国主義」の思想から脱却しても良いのに・・・。
智識寺の姿を実際の写真に重ねたパネルがありました。すぐ真下にあったようです。走ってきた「業平の道」に隣接していたようです。こういうのを見ると楽しくなります。
バイクに戻ります。タンクバッグの地図とナビを見ながら次の目的地を探します。落語「野崎参り」で有名な「野崎観音」にします。細い「業平の道」を走ります。古い町並みで楽しい。「右:観音寺、左:業平道」の交差点で観音寺を選択したが、ミスロードしたようで行き止まりになり、Uターン。
R170に出て北上開始です。並行して広いR170も走っていますが、寺社・史跡があるかも?と思い旧道の方を走ります。でもそれはなく、アーケード市場に突入するようで、結局現道の方に出て北上しました。
13:57「野崎観音慈眼禅院」。有名な寺院だけあって、門前料理旅館が数件ありました。長い石段を上がります。忠魂碑があったので手を合わせる。父は大東亜戦争時従軍し、ボルネオ島キナバル山麓ジャングル内を戦地にします。船に乗り台湾経由でボルネオに渡る間、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、4/5隻が沈みます。「打ち上げ花火なんて足元にも及ばないほど綺麗なと米艦船からの艦砲射撃」を受け、食料がなくやせ細りながらジャングル内を進軍し、最後はインドネシア独立軍に参加するつもりだったが上官の命令で米軍に投降し、運良く内地に帰ってきました。
戦後生活が安定してから、「キナバル会」という戦友の会に参加し、毎年遺骨収集団としてボルネオ島に渡っていました。そんな父も虚しくなりましたが、父は強運により生き残り、僕が生まれ子供が生まれ孫がいます。
太平洋を挟んだ新興国家・日米のつばぜり合いで、石油を止められた日本があの時立たなかったら、当時有色人種でエチオピア・タイ・日本しかなかった独立は保てなかっただろう。今でも西欧列強の植民地として二等国に落ちたままだったかもしれない。プライドを持って日本人として生きている僕や子孫の繁栄は、命を賭けた先人の行動の礎があったればこそです。
観音に上がると、境内に「南條神社」がありました。『祭神:牛頭天王・素盞嗚命 当社は、宝塔神社に対して北の宮さん牛頭さんの呼称で親しまれ、野崎地区の氏神として信仰されている。明治5年野崎宝塔神社に一時合祀されたが、野崎村村社として復活した。
牛頭天王は、仏教における神将として怨霊や病魔を打ち払う。素盞嗚命は、姉の天照大神の岩戸隠れ神話を生ませる程の荒ぶる神であり、病魔を退散させる神威あり。このため平安期以降の神仏習合により、牛頭天王と同一視されるようになった。
京都八坂神社に代表される牛頭天王を祀る神社は古く、当社も南條(野崎)村野鎮守として牛頭天王社と呼ばれていた。石鳥居に「元録」の銘が刻され、17世紀末に社域が整備されたと推定される。本殿前にある一対の木製狛犬(左側の頭に角があり、一角獣と呼ばれる角がある狛犬ほど時代が古いと言われる)は、極彩色が施され現在は剥離しているが、桃山時代の雰囲気を漂わせている。台座の裏側に「延享元年(1744)子年子9月19日天王宮野崎村」とある』
境内からの眺めがよく、東大阪・門真から大阪の摩天楼まで見渡せた。観音堂があった。『西国33所観音堂 1番の那智山から33番の美濃谷汲山まで札所全部の観音様をお祀りしています。真ん中の観音様は、当山本尊十一面観世音菩薩のお姿を刻んだ観音様です。どうぞ中に入ってお参りください』
「飯盛山ハイキングコース」があった。「野崎観音見晴台」の文字もあります。案内板まで登ったが、山頂まで1時間コースのようなので敗退。織田信長が機内に入るまで、機内を掌握していた三好家を興隆させた三好長慶が本拠地を置いた「飯盛山城」が飯盛山山頂一帯にあります。いつか登ろうと思っている中世の山城です。
本堂に参ると、天井に犬の人形が多数下がっていた。犬と野崎観音とどういう謂れで繋がっているのだろう?ここの絵馬は、ご婦人が野崎観音様に祈っている姿でした。なんかいいな。
裏に回ると、「行者神変大菩薩」像があった。ここらも修験道の行者が巡っていたのでしょう。「薬師堂」があった。その奥が墓地。「寄進瓦納所」もあった。
『ご参詣の皆様へ 羅漢堂再建のため勧進寄進のお願い 野崎観音の十六羅漢は江戸時代から「のざきかんのん十六羅漢うちの親父は働かん」と子供の遊び唄にまで唄い親しまれ、観音様と共に信仰をあつめてきました。作者は不詳ですが、羅漢像一体一体の個性的かつ表情豊かな表現力は、ただならぬ力量が伺われます。
先住十九世、尾瀧一峰和尚の代に山崩れに遭い(昭和26年)、羅満堂を流失、土砂に埋もれた尊像を和尚自ら掘り起こし、仮堂に安置、終生かけて羅漢像修復、羅満堂再建を祈願致しておりましたが、平成4年、志半ばにして病のため遷化いたしました。
近年、羅漢像の損傷著しく、これ以上放置すれば修復が不可能になるため、先師の遺志を継ぎ多くの方々のご寄進により、菊池仏教美術研究所で修復作業を進め、お陰様で3年の歳月を経てようやく修復が完成し、平成18年秋、先住忌に開眼法要を行い、仮堂に一時安置いたしました。
羅漢再建にあたり、参詣の皆様にもおすがりし、常々、一峰和尚が申しておりましたように一人でも多くの方のお心とお力をいただき、御懇志を以って羅満堂を蘇らせ和尚の悲願を達成したいと考えております。
今後は、羅満堂の再建に全力を尽くす所存でございますので、なにとぞ皆様のお力をお貸しくださいますよう伏してお願い申し上げます。  平成18年10月吉日 野崎観音慈眼寺二十世住職 田村保信』
寄進瓦は、ここに使われるようです。
浄瑠璃・歌舞伎で有名な「お染久松・新版歌祭文」の物語が和紙に書かれていた。上方の商家の奉公人・久松と、その家の娘・お染の悲恋物語で、最後は心中してしまいます。カラーの絵入りで楽しく読めました。
最後に『哀しい幕引きを迎えました。お染・久松は本堂裏の木陰にひっそりと眠っています』とあったので、見に行きます。綺麗な花が手向けられ、2人の塚が整っていました。
14:35帰路に着きます。バイクまで下り、R170〜r161〜近畿道〜吹田ICから中央縦貫〜R171で、15:33帰宅。片付け、ヨーグルトを遅い昼ごはんにして、風呂に入り体を温め、バイク倉庫でゴソゴソし始める。
家内の帰宅は21時頃とのことで晩御飯も食べておくように言われているが面倒なので、家内からお迎えの電話が入るまでゴソゴソしよう。「19時帰宅・風呂・冷蔵庫から残り物を出して食べる〜20時から「大河ドラマ」〜21時お迎え」の予定で19時に帰宅すると、家に電気が点いていた。家内は新年会に参加せず帰って来たところでした。
「家にいなかったからお迎え電話受けれずに御免」と謝り、作ってくれた温かい夕食を食べ、風呂に入り大河ドラマを見ました。2回目にして主人公・西郷隆盛が大人になっていました。今回の子役はいい感じだったので、もっと見たかったな。ドラマが終わり、寝てしまいました。

2018/01/13
昨日から極寒です。今朝、西を見ると六甲山がクリアに見えており、山頂から和歌山まで一望できるでしょう。
極寒と言えば、アメリカ・NJ州プリンストン(NY南車で1.5時間)に住む長男のお嫁さんからメールで、お正月のアメリカ東海岸の極寒が届きました。プリンストンの寒さは去年以上で、毎日最高気温がマイナスで、最高-10℃・最低-21℃というアラスカ並みの寒さの日もあったそうです。吹雪で、会社もプリスクールも午前中で終わりになり、こうちゃん1才はパパとりょうくん4才が早く帰ってきたので大喜びだったそうです。
9月にアメリカに行った時は、最高11歩歩きだったのに歩きが安定し、「聞けるけど喋れない」から「2語お喋り」出来るようになり、「ニャンニャン、ねんね」「パパ、だっと(抱っこ)」「チキン、おいちい」など、コミュニケーション出来るようになり会話が成立してきたそうです。
りょうくんに赤ちゃんが生まれることを伝えたところ、「次は女の子の赤ちゃんがいいねー!だって男の子ばっかりだもん!!」と女の子推しだったそうです。でも、「一緒にカーズで遊べるのは男の子か」と次も男の子と伝えられ喜んでいたそうです。こうちゃんは何のことやら全く分かっておらず、「ママのお腹に赤ちゃんいるんだよ」と聞いて、服をめくって「ベイビー、ない!」と不思議がっているそうです。日本生まれながら、既にアメリカ生活の方が長くなり、「ベイビー」という所が驚きです。
長男一家は、クリスマス〜ニューイヤーホリデー期間、クリスマスの喧騒が終わった12/29〜1/2まで、フロリダ州オーランドに旅行へ行ったそうです。もっと暖かいと予想していたのですが、最高気温18〜21℃で常夏感は感じられなかったそうです。タクシーの運転手さんも、「こんなに寒いのは珍しい」と言ってたそうです。でも、子供たちは元気いっぱい楽しんでたそうです。
オーランドは、ディズニー遊園地の本拠地です。2日間は会社の先輩家族と合流して、「ディズニーアニマルキングダム」「シーワールド」を楽しんだそうです。アニマルキングダムは、放し飼いの動物がいるサファリパーク・エリアをバスで巡り、アトラクションやエンターテインメントがある施設だそうです。ジュラシック・パーク的な恐竜のいるエリアもあるそうです。シーワールドは、ディズニーシーの巨大版のようです。その後、「ディズニーハリウッドスタジオ」へ家族で行ってたようです。寒かったからか混んでおらず、子連れにはありがたかったそうです。

寒い日でしたが、午後からホームポートに行ってきました。ヨットクラブで「安全講習会」です。今年から法律が変わり、ボートに乗るときにライフジャケット着用が義務化されました。
その詳細の説明会を聞いてきました。高校ヨット部時代から、「海に出る時はライジャケ必着」を旨としているので、僕には関係ありませんが、「ライフジャケット=桜マーク・ライフジャケット」という文言が引っかかっていました。
「桜マーク・ライジャケ」は国土交通省が認可したライジャケです。「浮く」機能はバッチリですが、「色はオレンジ・かさばる・ダサい・なのに金額はする」で、ヨット乗りには人気がありません。釣りなど船に乗る番組でも、ほとんど見ないです。
大学ヨット部でも、「浮く」以外の機能がイマイチなので、これを使ってるヨット部なんて皆無です。「どうすんの?」と思いながら説明を聞いていたら、日本セーリング連盟などに加盟しているクラブや船は、「レース中・練習中」はその対象外で、従来から使っていた世界標準の50N(ニュートン)ライジャケでOKだそうです。
国交省と「お目こぼし」交渉したセーリング連盟のこの日の説明者は、レース当日のみ?レースに向かう前日回航時はいいの?など「いつが練習中に該当するのか?」など細かい所はあえて聞かなかったそうです。アバウトなままにしていた方が「練習中です」とかで言い逃れ出来るから・・・みたいなニュアンスで苦しい説明をしておられました。
乗船中でも、「船内にいれば対象外」「船外でも75cmの高さの囲いなどに囲まれていれば対象外」など、フェリーや遊漁船での運用は今まで通りになるそうです。事故の大半は落水によるもので、過去10年間で500名だそうです。ライフジャケット未着用者は50%死亡しており、着用者は10%死亡だそうです。
僕は高校生の時から、数度落水遭難者の捜索に加わったことがあります。高校国体県予選当日レース中、高校ヨット部の1年先輩の方が社会人になってすぐのレース中、大学ヨット部の20年ほど先輩が外洋レースに向かう途中三重県沖、で落水死亡されています。
高校3年の国体予選レース日前日、社会人ヨット部の方が、「僕らのレース練習に混ぜて欲しい」と言ってこられました。OKして練習した翌日、言ってこられたそのヨット部のキャプテン本人が亡くなりました。
2人乗り小型ディンギーレースは着ないとレース失格なので、ライジャケは着ていましたが、結ぶ紐が「ちょうちょ結び」だったので解けて脱げてしまいました。クルーがヨットが初めての新人女性で、スキッパーが落水してしまい操船できなかったそうです。スキッパーの方も体育会ヨット部出身者でなかったようで、ヨット・海に対する甘さがあったのでしょう。練習参加を受けたのが僕だったので、ショックでした。
最近の国際標準50Nライジャケは、ファスナー&バックル式が殆どで紐で止めるものはありませんが、春4月の大学ヨット部新人勧誘の時は、口が酸っぱくなるほど話し、「着ていれば4日間沈まない」安全規格である旨も話し安心させます。僕が参加する時は必ず沖に出て、新人がライフジャケットをキチンと着ているか確認してからヨットに乗せます。部員もこの重要性は知っているので、皆新人をチェックしています。
近しい方3人の落水死亡を経験しており、子供たちがチビの時は海水浴はもちろん、フェリーに乗る時でも家族全員で着ました。親が着なかったら子供は着ないものね。因みに僕はヨットハーバーに行けば陸上でも着ているので、ジュニアヨットと関わっている時は「ライジャケ・パーソン」で有名でした。ライジャケ着用義務化で、少しでも水の事故が減ればいいなと思います。
出席者は、クルーザー関係9割・ディンギー関係1割というところ。後期試験が始まりそうな時期にも関わらず、学生が2人出席していました。ユニフォームのロゴマークから関大男子と母校KG女子とわかりました。最前列に2人並んで座っており、「熱心だなあ〜」と思うとともに、「付き合ってるのかな?」なんて羨ましくも思いました。若いってことは正義です。
13:30〜16:30までの長丁場なので、途中で10分休憩が入りました。その時女の子だけが席を立ち、男の子はそのままだったので、「付き合ってないようだな残念」なんて思いました。スタイルが良く、とてもかわいい子だったので、それだけで講習に来た甲斐があったというものです。
僕と家内は大学の同学年ですが、学部も違うので、家内は僕のことを全く知りませんでした。僕は美人好きなので、1回生の時から「可愛い子だな」「背筋が伸び歩き姿の美しい人だな」と目をつけ、家内と同じヨット部同期から所属学部の事を知っていました。僕も家内の学部も女の子が少なく、50人の英語クラス中たった3人しかいないので、目立っていました。2回生からマネージャーとして入部してきた同期女の子が家内と英語クラスが同じで、「うちの学部で一番かわいい子を紹介してあげようか」なんて言われたこともあります。その時は、紹介されそうになった子が家内のこととは知らず、断ってしまい勿体なかったです。
そんな家内と、学校以外の1週間の資格試験講習会で同じになりました。「あの子は・・・」と思い、家内が1人でご飯を食べに行ってるのを確認し、「お昼ごはん、一緒に食べませんか?」と声を掛けました。同じ大学であの学部であることを確認し、やっぱり〜。クラスの3人の女の子の1人がヨット部であることを知っており、もう1人が僕の中高の同級生だったことに驚きました。
その子とは花嫁修業のため同じ料理学校に通っており、家内が講習会の帰りその子の家に遊びに行くというので、僕も一緒について行き・・・現在に至ります。
安全講習を聞きながら、最前列の2人を見ながら想像していました。講習会が終わり、ヨット用の2ミリのシートを調達しに、16:37、1F「ノースショップ」で2ミリ990円を買いました。関大ヨット部OBの木下店長と、あれやこれや話していると、KG女子がやってきました。
「最前列で、熱心に講習を受けていたね」「遅かったので、最前列の席に行かされたんですよ〜」。店長から「KGの先輩だよ」と聞き「それは失礼しました、主務をしています」なんて。3人であ〜だこ〜だ。「K大のコーチしてるんだ。春休みに琵琶湖から遠征に行くから、また練習やレースに加えてね」と話したら、「去年と一緒ですね、O大から話が来ると思います」と春のことをお願いし僕は退散しました。コーチしてる大学よりKGの方がレベルが上だから、教えてもらわなきゃ。
通勤リード110に乗り帰路に着きました。阪神高速・湾岸線の下をくぐる交差点で信号待ちしていると、その子がスクーターですり抜けしていったので、僕も追いかけまた声を掛けました。「12月に卒業生クルージングしようと艇庫に電話したら、冬季休暇に入ったようで繋がらなかったから、ウェブサイトのアドレス宛にメールしたんだけど返信がなかったんだ。あのアドレスでいいんだよね」「はい、マネージャーが管理しているのですが・・・確認しておきます、失礼いたしました」。
これでサヨナラをしました。

2018/01/07
昼食後、前日に続き安産祈願しようと家内を中山寺に誘うが、「お化粧してない」とか何やかやでお出かけモードになっていないようです。「どっかに行ってきたら?」と言われ、「招き猫CB400SB」でお出かけすることにする。三田方面寺社巡りしようとツーリングマップルを広げると、石峰寺と赤で書き込まれている。いつ書いたのか、何を見たくて書いたのは不明ですが、ナビをセットし13:30に自宅を出発しました。目的地は、神戸市北区淡河の石峰寺です。
R176or中国道〜山陽道をナビは誘導しますが、面白くないのでおおまかに往路「有馬経由」復路「三田経由」と決めました。R176宝塚付近は混んでいました。バイクの特典で信号ストップすればスイスイと前に出れるはずですが、パトカーがいたので自重しました。原付など数台が平気で前に出ていましたが、ミニパトさんはスルーしていました。
宝塚駅を過ぎると解消し、R176を走り、r51に入り蓬莱峡を抜け有馬温泉コースです。「+10の会」なので、見通しの良い直線でも50km/hを守り、カーブはビビリッターが働いてグーンとスピードダウンするので、四輪を数台従える大名行列を作っちゃいました。
有馬温泉駅からr506へ。有馬温泉駅付近で、優先道路のこちらを見ているのに平気で四輪が出てきて驚きました。ゆっくり走っており、「怪しいな」と野生の勘が働いていたので、少し強めのブレーキで事なきを得ましたが、女性ドライバーは要注意です。最近何かとマスコミからバッシングされている高齢ドライバー以上に僕には怪しい存在です。まあ、愛すべき守るべき存在なので、男が気をつけなくちゃ。r38に乗り西進します。
ナビに導かれるまま枝道に入り、14:31山門着。仁王様が守る山門で、かなり立派です。石峰寺本体への期待が高まる。山門からの直線上に石峰寺が見える。バイクで少し移動し、境内前に14:38駐輪。細い田舎道なのに、アウディやBMWなど外車ばかり下っていく。同好の士の集まりでもあるのかな?
石段左右に鐘楼を構える珍しい配置です。『白雉はくち2年(651)法道仙人開基。孝徳天皇の勅願寺として栄え、中世には1里四方の寺領を持ち、多数の僧兵・学侶を養っていた。大日如来が祀られている本堂東の三重塔は室町時代作で、嵯峨天皇の勅願による。この時代に作られた三重塔では最大級。中堂の薬師堂は、聖武天皇勅願で、僧行基が開眼した薬師仏・十二神将・日光月光菩薩を祭祀し追儺行事が行われた。この2つの建造物は、国の重要文化財』
謂れ板下に竹細工の花生けが置かれ、南天の赤が美しく生けられている。ご住職ご夫婦の人柄を感じる。手水が蓮の花を連想させる造形で、珍しい。お大師様を祀る祠があったので、真言宗のようです。左右に小ぶりだけど綺麗に整った花々が生けられ、センスの良い奥様がおられるようです。
「八十八ヶ所巡拝道」の石柱が立っていたので入ってみる。山中88の仏様を巡ってみた。このような簡易巡礼道は何度も目にしたが、1番から88番まで全て巡ったのは初めてです。石祠におられたり、大岩を削った祠に祀られていたり、距離にして1kmもないので、楽しく巡れた。小さな起伏に富み、大岩が良い雰囲気を醸し出し、順路案内板が整備され迷わずとても良い。阿弥陀如来・釈迦如来・大日如来・将軍地蔵菩薩・千手観世音菩薩・虚空蔵菩薩・十一面観世音菩薩・弥勒菩薩・七仏薬師如来・地蔵菩薩・文殊菩薩・波切不動明王・不動明王・大通智勝仏・・・それぞれの仏様が特徴を持っておられるので、見て回るだけで楽しい。
三重塔の裏に古池がありました。室町時代再建の日本最古の三重塔は趣があります。
『当伽藍は四神(青龍 白虎 朱雀 玄武)に満たされた地にあり、一段下がった丘陵地には十輪院・極楽寺・竹林寺の塔中がございます。往時には回園地に七十余りの坊余を配していた修行道場であって、今も自行に訪れる方々が多数あります。当寺は観光寺院ではなく拝観料も頂いておりません。清掃は僧・行者・檀家・参拝者の方々多くのご奉仕をもって維持されております。ごみ等が出ましたらお持ち帰りください。修行道場ゆえにお足もと等に十分な整備が為されておりませんのでお気を付け下さい。裏山も修行場で危険な所もございます。滑落や落石・落木にご注意ください。今日の佳きご縁に皆様方の心と体と財とが広く満たされますようお祈りいたします。 合掌 岩嶺山・石峯寺』
室町時代からここに建つ本堂内は、暗く良い雰囲気で、立派な彫刻が目につきました。いつの時代奉納されたものやら、武者絵馬が掲げられています。
『本堂・延命地蔵菩薩 当山の御本尊様です。白雉2年(651)インドの僧・法道によって開かれた。旅の途中、この地に立ち寄り、彼の地より法道の徳力を追って来た龍が授けた地蔵菩薩像を受け、この地に聖舎を建てた。この3年前に孝徳天皇の病気平癒の祈願をし、ご回復されたことによる勅願で建てられたとも言われている。3月の最終日曜日に柴燈火護摩があり、各地より多くのお参りがあります。 石本寺執事』
子安地蔵祠に参り、薬師如来堂へ。『奈良時代、悪疫が流行した折に聖武天皇は7体の薬師如来像の制作を命じ、光明皇后は17巻の薬師経を浄写され悪疫消除を祈願して各地域に聖舎を立てて祭司されました。
石峯寺の薬師如来様は、行基菩薩によって聖舎と本尊の開眼が為された。十二神将は、その後に祀られた。 石峯寺』
薬師堂内も、建てられた時期は定かでありませんが、本堂と同じような作りで暗く落ち着いていた。
参拝中、時折聞こえる車の音に目を向けると、ほんと外車特にドイツ車が多い。昨年9月にアメリカ東海岸に行ったが、アメリカよりドイツ車比率は格段に高いうに思う。落ち着いたデザインと、日本車に次いで故障しないドイツ車に質実剛健を感じ好む日本人が多いように思う。
近隣の他の寺社訪問も予定していたが、殊の外「石峰寺」が素敵で時間を食ってしまい、15:22帰路につきます。r38まで下りてきたら、出発時に通り過ぎていった車が感知式信号で止まっています。二輪押しボタンボックスを見るとまだ感知していないので、横を通り抜けボタンを押す。すぐに信号が変わりました。
r38を東進し、R176を少し北上し、r327に乗ります。「JR道場駅」横を通り、武庫川沿いを走ります。新名神のこの区間は、事故により開通が1年半先延ばしになりましたが、下から見上げた外見は完成しています。「川下川ダム」横を走り、r33〜r325〜長尾山トンネルで大阪平野に戻りました。
16:31「セルフ宝塚176」で給油。322km/14.5L=22.2km/L。16:40帰宅。家内はずっと家にいたようです。NHK「ダーウィンが来た」、この日から始まった「大河ドラマ・西郷どん」を見て寝ました。

2018/1/6
神戸界隈の平清盛ゆかりの地巡りの積み残しを巡りました。今まで3回バイクで巡りましたが、浮気心が出て予定外の訪問を入れた結果時間切れ積み残しが続いていました。今回こそコンプリートしましょう。
11:13自宅出発。R171〜山手幹線を西進し、12:00「新神戸駅」近くの「布引交差点」。「神戸布引ロープウェイ」が再度山の方に登っています。特徴的な外観で遠くからでも新神戸駅のランドマークになる「ANAクラウンプラザ神戸ホテル」が見えます。素敵なスッキリした天をつくデザインです。
生田川を隔てて対岸に超高層マンションが建っています。「ジークレフ新神戸タワー」だそうです。高所が怖い僕にはとても住めないが、景色は最高でしょう。十字架を持った高い塔があるキリスト教会もある。生田川公園でトイレを拝借しました。
道なりに「神戸駅」方面に南下し、加納町交差点を右折して中山手通を西進。右折して山の手を上がっていくと、「相楽園」の西塀に沿う道でした。久しぶりなので相楽園に寄り道しようかとの誘惑が頭を過りましたが、誘惑に勝って北に上り、どん詰まりを左折して西進します。
R428を「平野交差点」で横切り、ちょっと迷ったけど「夢野町2交差点」を右折し、12:28「熊野神社」。『平清盛が福原(神戸市)遷都に際し、後白河法皇の崇敬深い紀州熊野権現を皇城鎮護神として東向きに奉鎮した。以来当夢野町住民は産土神として崇敬した。権現とは、仏教渡来以来、崇高かつ御神徳の高い神々の称号。 祭神:伊弉諾尊・伊弉冉命 神徳:事業創設・殖産興業・縁結び・福徳延命 燈籠:仏教伝来とともに、仏前の燃燈供養の具として渡来。神前にみあかしを上げるという自分の真心を献げる具体的表現法。近世は一対で献上されるが、古くは単独で一基奉献されていた 狛(高麗)犬:中国朝鮮より渡来。中国では瑞獣として珍重され、犬というより獅子。魔除けの意味で神社・仏閣の守護に任ずるようになった』
石畳参道脇におみくじが結ばれた笹が立ち賑やかです。社務所には十二支の干支守護が並べられていた。手水は丸い球から流れ出ており珍しい。慰霊殿の神明鳥居の両足にも竹が結ばれている。玉垣の内側に「力石」が置かれている。力自慢の神事でもあるのかな?
摂社の「大神宮社」(祭神:天照座皇大御神)、荒木稲荷大神、金比羅神社(祭神:大物主神)、古殿神社(祭神:額田大中彦命)、牛神社(祭神:豊受姫大神)を巡り、最後に熊野神社に参りました。
南下し、12:48「願成寺」。『天平年間(729年〜749年)、行基が烏原村に観世音を安置し、観音寺と号した。平安後期、衰退していたのを、法然上人の弟子住蓮坊が中興して無量寿仏を安置し、願成寺と称した。住蓮は東大寺の実遍の子で、のち鳥羽上皇の官女、松虫・鈴虫を尼にした、世に有名な承元の法難で法然は土佐へ、親鸞は越後へ配流。住連は安楽と共に近江で斬罪に処せられ、弟子たちが住蓮の首をこの寺内に葬ったといわれている。またその首を鳥がくわえて運んできたので、もと上野といったところを鳥原というようになったとも伝えている』
浄土宗寺院で、「信州善光寺分身如来霊場」の石柱が門前に立っていた。本殿蟇股には立派な龍の彫刻が施されている。木鼻の象の彫刻も立派です。玉眼が入っている。墓地の奥に「平通盛・小宰相局塔・比翼塚」があった。
平家物語で、涙を誘うシーンの主人公です。一の谷合戦で、源義経の奇襲により、多勢であった平家軍は混乱に陥り、平清盛の弟教盛の嫡男・通盛は討ち死にしました。通盛の妻の1人・小宰相は、夫の死を知り屋島へ退却する平家軍の軍船から身を投げてしまった。その乳母であった呉葉は、2人の菩提をこの寺で弔った。呉葉の小さな五輪塔も立っていた。呉葉の兄・住蓮の墓石・五輪塔が、通盛と並んでいた。というより、歴代住職の無縫塔の列に、通盛・小宰相の墓石が並んでいるとの表現の方が適切です。
源氏政権が成立し鎌倉時代に入って、後鳥羽上皇が熊野詣中、次女・松虫と鈴虫が、法然の弟子安楽と住蓮の念仏会に参加し、出家してしまった。上皇は激怒し、安楽・住蓮は死罪になり、法然は四国に、親鸞は越後に流罪とされた。松虫・鈴虫の墓石も呉葉とともに歴代住職墓石の並びに残っており、浄土宗の法禍に連座した者達の集合地になっていた。
通盛は、清盛亡き後、清盛の嫡男・重盛も先に亡くなっているので、清盛の弟・経盛とともに平家中枢を担った教盛の嫡男として、源平合戦の主力の将として働いたが、武運は微笑まなかった。一の谷合戦で通盛はじめ多くの息子を失い教盛は辛かったろう。平家物語では、男の子の地を湧き躍らせる合戦シーン後、落ちてゆく平家が描写される時、涙を誘うシーンです。通盛の墓を観に行きたが、これだけ多くの関係者の墓が並んでいるとは思わなかった。大きな収穫だった。
『墓石調査にご協力下さい 墓地埋葬に関する法律のに基づき、どなたが祀られているか把握しています。お墓にカードを掛けさせておりますので、カード裏面に庫裏玄関横備え付けのマジックで、お墓を主に祀っている方の住所・氏名・連絡先を記入の上、ポストにお入れ下さい』の札が立っている。歴史の古い由緒ある寺院なので、江戸時代以前と思われる形式の立派な墓石の多くに、カードが下がったままです。それなりの申告期間を経て、整理されるような気がする。
12:59、「善光寺」に向かう途中の「会下山公園」で「牧野富太郎植物研究所跡」と書かれた石柱を見つけ緊急停止。『会下山館の石柱 植物分類学者・牧野富太郎(1862〜1957)がこの場所にあった植物研究所での研究活動のために、神戸滞在中宿にしていた「会下会館」の門柱。会下会館は、牧野を支援していた神戸の富豪・池永孟(いけながはじめ1891〜1955)が宿舎として建設したものです。
1995年阪神淡路大震災で被害を受けるまで、会下山町2丁目にありました。地元ゆかりの2人の関係を伝えるため、左側の1本をここ、右側は松本通3丁目の川池公園に設置しました』
『この公園は、牧野富太郎植物研究所跡地を公園として整備したものです。この公園には、牧野氏が命名した植物を中心に植栽しています』
『世界的植物学者・牧野富太郎博士の研究所が、大正7年から昭和16年までこの地にあった。研究所は、南蛮美術収集家として著名な池永孟が提供したものです。日本植物分類学の先駆者である牧野富太郎は、「ヤマトグサ」をはじめ数々の新種を発見し、独学で研究の結果66才で理学博士、90才で文化功労者となり、昭和32年96才で没した』
『正元館 明治44(1911)年、校舎改築に伴って売却されることになった「兵庫尋常高等小学校」の木造瓦茸西洋風2階建講堂が、池長孟氏の父・通氏の尽力によって当所に移築され、大正元年11月10日に落成開館され「正元館」と名付けられ、通氏はその功績によって名誉館長に任命されたが大正3年に亡くなったため、建物その他一切が孟氏にゆずられた。昭和16年に牧野氏に標本や蔵書を返した後、建物は海軍の軍刀を作る「菊水鍛刀会」にゆずられて利用されたが、戦後建物は取り除かれた。
池永孟氏の牧野富太郎植物学者への援助と「池永植物研究所」設立 世界的な植物分類学者・牧野富太郎(1862〜1955)は、研究生活の早い段階から経済的困窮に陥っていた。大正5(1916)年には借金がかさみ折角集めた植物の標本を売却せざるを得なくなった。同年12月18日の大阪朝日新聞に「不遇の学者牧野氏植物標本十万点を売らん」と書かれた。池長氏は牧野氏の境遇に同情し「他人に先鞭をつけられてはならない」とすぐに援助する行動に出た。池長氏が父(池長通)から受けついでいた「正元館」(現牧野公園に在った建物)に植物の標本を引きとり、関西は勿論全国的にも存在しなかった「植物標本陳列所」の設立を企画したが、池長氏の徴兵によって志は残念ながら頓挫した』
「牧野富太郎植物図鑑」は、母から初めてプレゼントされた図鑑でした。まだ小学生の僕は、詳細に書かれた植物の絵を見ながら、「これは何という草かな?」などと調べていました。後世の大きな興味には繋がらなかったけど、南方熊楠などへの興味につながっていった。現在の植物図鑑は多数の写真が載っているが、それが全てフリーハンドのペン書きで、その絵の素晴らしさの方に興味が行き、植物の絵・戦闘機の絵・軍艦の絵など精細画が僕の得意となった。小学生時代は絵が得意で、学校代表として阪神大会にも出展した。あの原点は、牧野富太郎植物図鑑に他ならない。お世話になりました。水仙がたくさん咲いていました。南向き斜面だからでしょう。我が家の水仙は、まだ数本しか咲いていません。
13:15「会下山善光寺」。「聖徳太子堂」がある。墓地に並んだ墓石はそれほど古いものはなさそう。五輪塔を中心に「至誠報国 陸軍大将・荒木貞夫」と彫られた石柱が立っていた。荒木貞夫は、2.26事件などを起こした陸軍青年将校の思想的支柱の方です。大東亜戦争終戦後、A級戦犯終身刑に処されました。神戸にゆかりの方かと調べましたが、接点はなさそうです。
A級戦犯で死刑になった元首相・陸軍大将であった東条英機さんのお子さんが、東京裁判の無効・名誉回復を願って声を上げ、最近東京裁判自体を否定する意見が強くなっている。僕もこの裁判自体は、戦勝国による日本再生を阻むための国際法に反するリンチだと思うが、戦犯として裁かれた方々の名誉回復を求めなくても良いように思う。
日本の軍人は、遠い昔の武士の時代から、勝敗は時の運として、愛する家族・集落・国のために戦い散っていった。将たるもの勝てば利を得るが、負ければ潔く腹を切り敗戦を認め、敗残兵の命を保つことを願った。そして子孫に生き様を見せ、潔い思想を伝えていった。
無念だったろう戦犯に問われ罪を負った方々とて同じで、自らの命は敗戦したこと、多くの将兵を死なせてしまった自責の念から、罪を背負って刑に臨んだように思う。それで良いのではないかと思う。そんな潔さが日本人の心に響くように思う。
戦勝国から大罪人とされたA級戦犯の方でも、日本各地にその人柄を偲び、その人格・行動力を称える碑が立っている。それを見た僕のような後世の者が、何かを感じれば良いと思う。
朱色に塗られた鐘楼が目立っている。鐘の彫刻には天女が舞う姿。横には「十方講」と刻まれた玉垣に囲まれた大きめの不動明王像が立っており、その前には護摩行が行われた跡・・・修験道寺院なのかな?
目指す「平業盛の塚」がありました。『一ノ谷の戦いで、業盛は兄と共に山ノ手の陣を守っていましたが、義経方の多田行綱勢により、味方は大混乱に陥り大敗します。兄や郎党らにはぐれた業盛は、緋縅(ひおどし)の鎧を着て、連銭葦毛(れんぜんあしげ)の馬に乗り、海上の船に向かって逃れる途中、ただ一騎で渚に佇んでいたところに常陸国(茨城県)の住人泥屋(ひじや)四郎吉安・五郎の兄弟が、業盛めがけて突進してきました。
兄の泥屋(土屋)四郎に組みかかられ、馬から落ちて上になり下になりして激しくもみ合ううちに、古井戸に落ちてしまい、上になった業盛が四郎の首を?こうとした時、弟の五郎が現れ兄を討たせまいと業盛の兜のしころにとりついて引き離そうとします。
17才とはいえ、大力の業盛が頭を力一杯ふると、甲の緒が切れ五郎は甲を持ったまま二ひろ(3・6m)も投げ飛ばされてしまいました。しかし五郎はこれにひるまず、すぐに起き上がり業盛の首を取り、兄を井戸から引き上げました。業盛の怪力に人々は感心し、その死を惜しまぬ者はいませんでした』
13:38「長田神社」。神戸三大神社の1つです。あとの2つは「生田神社」「湊川神社」。久々に長田神社に来ました。境内に入り目に飛び込んできたのは、高校生ぐらいの若い女の子3人が私服でコマ回しと皿まわしをやっていたことです。コマを高く放り投げ紐でそれをキャッチする、細く長い竹先で皿をクルクル回すなどお正月のTV番組でよく見る芸です。芸人の卵なのかな?いずれにしても新年らしくお目出度い。
絵馬殿を覗き、本殿に向かい神門を潜ります。左右の神門柱に札が下がっています。「八日 成人の日 祈願祭」「七日 昭和天皇遥拝式」。先の天皇を遥拝する式典があることに驚きました。日本が初めて敗戦し大きな犠牲を払った先の大戦の時の天皇なので、遥拝する方も多いだろう。きっと100年後も1000年後も、歴史に大きな名を残し日本史試験の必須記憶天皇になるだろう。
御神徳は多く、百貨店のように書かれている。今年の僕のお願いは何と言っても4人目の孫の健康とお嫁さんの安産です。「安産腹帯」というのも書かれていました。拝殿で手を合わせ、摂社を巡ります。七福神周りには笹が地面から立ってる。「熊野神社」と同じ「えべっさんバージョン」です。
「楠宮稲荷」は朱がいっぱい。ここの鳥居にも笹が縄でいわえてある。絵馬掛けで書かれた願い事を読むのが面白い。『楠宮稲荷社の神木と赤エイの由来 御神木「楠」は瀬戸内に生息する赤エイが苅藻川を遡り化身したと伝えられ、以来常食であった美味な赤エイを断って願を掛けると願いが適うと信仰されている。古来、病気平癒、心願成就のあらたかな霊験の中でも特に痔病に格別のお蔭があり、広く崇敬されている。御新顛には赤エイの絵馬に性別・千支・年齢を書いてお供えし、お礼詣リにも絵馬を奉納下さい』
まさか「痔疾に効く」が出て来るとは思いませんでした。本殿を巡る感じで回廊があり、絵馬掛けがありました。絵馬は赤エイで、年齢と名前が書かれた絵馬がずらりと掛けられていました。「この方は痔でお悩みだったのか・・・」なんて思っちゃいました。商売繁盛・収穫の神様であるお稲荷さんも、病気治療にまで進出して来たんだ。
長田神社本殿裏の絵馬掛けには、一般的な五角形絵馬と奴凧型の合格絵馬が下がっていました。「天照皇大御神神社」があり、おみくじ掛けには沢山のおみくじが・・・。「月読社」「松尾社」。
14:06「柳原蛭子神社」。『福の神として、古くから崇敬されている蛭子神社(神戸柳原のえべっさん)は、人口150万人の神戸市の中で、歴史と伝統のある兵庫の地に、えびすの杜として鎮座しています。その御鎮座の年代は詳らかではありませんが、社記によりますと、往古、蛭子命天磐櫞船に乗りて淡海島より津国に遷座し、一社が創建されました。
その昔、毎年8月22日には、西宮神社の兵庫までの神幸の渡御が行われました。往路は、海上20kmを兵庫津和田岬まで渡御され、還幸は陸路西宮内町を通って西宮へ還られました。当時の社地は西宮内町にあり、神輿の行在所となっていました。後に現在の柳原の地に遷座し一社として創建され、光格天皇の御代には奉幣御勅使の代参もあり、その御神徳は日増しに高く、福徳守護の神として、御神威年と共に津々浦々に拡がっています。
御祭神:蛭子大神・大物主大神
柳原の歴史 兵庫津が史上に現れたのは、平清盛の大輪田修築の頃と思われます。その兵庫津は、元録地図によると東は湊町から須佐・入江に達し、都賀の堤(兵庫の外郭)で一郭をなしていました。その兵庫の西の端にある柳原の名は、往古この地に柳の大樹があり、その名が由来とされています。また、現在の御本殿裏附近に柳原総門があり、それは、兵庫の棒鼻として兵庫津の西国往還の出入り口、宿場として繁栄しました。そして、天明7年頃(1788)、柳原には72軒の戸数があり、その繁栄は明治維新まで続きました。
現今の神戸の中心地は、三宮界隈に集中していますが、神戸発生の地である兵庫は、明治以後急速に発展し、大正を経て昭和20年頃までは、商工の中心地として大いに繁栄しました』
1/9〜10の年3日で1年間稼ぐと言われる蛭子神社は、本番に備えて電気の配線工事を業者が入ってしていました。社務所には「福笹3000円」と書かれていました。「お神酒拝裁所 神饌初穂料(お志1000円より)」の屋台も準備されており、その前に空の大樽が置いてありました。
道を挟んだ所にある「禅宗福海寺」を訪問。「大黒尊天」と門柱に書かれていた。
『平清盛公遺愛の時雨の松・石碑 平清盛公遺愛の時雨の松は、神戸市兵庫区三川口町にありました。青葉から玉露を垂らし、霊験あらたかであったといいます。同所に在った兵庫最初の庚申堂と共に平清盛公の信仰を受けておりましたが、大東亜戦争の火災で枯れてしまい、残っていた切り株も阪神大震災で無くなってしまいました。現在は石碑のみが福海寺にあります。この石碑は明治35年に福海寺第24世大海元梁禅師が建立され、自ら題字も書かれています』
ここも電気業者が入り、沢山の電球を下げていた。「義高稲荷大明神」が摂社としてあった。義高・・・といえば木曽義仲の息子・義高が思い浮かびます。木曽義仲は、宣旨を受け各地に蜂起した源氏の信州木曽発の将軍で、源頼朝とは従兄弟同士。義仲が北陸経由で京に攻め上り、平家を西国に落とした。
しかし後白河法皇と上手く行かず、頼朝の弟・義経軍に敗戦し、大津に散った。新田義貞の子・義高は京に攻め上る前、頼朝軍と対戦した時、人質として鎌倉に幽閉されていた。でも頼朝と政子の子・大姫と恋仲になり、頼朝の父・義朝が弟である義貞の父・義兼を討ったことから始まった同族間不仲も解消するかと思われたが、再びの死闘で追討され命を落とした。このことで大姫はふさぎ込み、亡くなってしまった。
「なぜ、神戸に義高が・・・」と歴史的興味が膨らみ、帰宅後調べたが、義高との直接の痕跡は見つけられなかった。
『建武3年(1336)、京都合戦に敗れた足利尊氏は、丹波路から播州三草より兵庫に逃亡中、新田義貞軍に追われ、福海寺の前身である「針が崎観音堂」の檀下に身を潜め一命を取り留めた。兵庫を出港し九州に落ち、西国水軍を率いて、観世音菩薩名号の帆を張った軍船で兵庫の地に再上陸、湊川合戦に勝利した。
室町幕府を開いた足利尊氏は、康永3年(1344)一命を取り留めた報恩と、彼我戦没者供養、祝国安民祈願のため、京都正伝寺より在庵圓有禅師を拝請し福海寺を開いた。「福海興国」の文字は、命拾いし兵庫から出港したことが国を興す元になったとの感謝の意。その後福海寺は、嘉吉の乱の兵火で新田義貞陣所跡の二本松(現在の兵庫駅)より現在地に移転した』
 14:27「厳島神社」。『厳島神社(兵庫弁天) 治承4年(1180)、福原遷都の際、平清盛が平家一門の氏神として深く信仰している安芸国・厳島神社をこの地に勧請しました。福原京の周り7つの地に厳島神社を勧請したので、七弁天と呼ばれ、花隈・佐比江(さびえ)・西宮内・夢野・真野・渦輪(うずわ)とこの社となっています。他の弁天社が神社や寺と併祀しているのに対し、ここのみが独立していたため、渦輪にあった弁天社を合祀して存続しています』
大きくはないが風格の有る落ち着いた本殿で、境内に摂社「白萩稲荷大明神・若永稲荷大明神」があった。「淡嶋神社」があり、謂れ板に「淡島様は医薬の祖神で、ご婦人の守り神」とあったので、お嫁さんの無事の出産を願った。
厳島神社は、宗像三神を祀るが、ここは市杵島姫命だけが祭神として謂れ板に記載されていた。『当社は今から約800年前の治承4年(1180)、平清盛公によって建立されました。清盛公はかつて安芸守に任ぜられた時より、厳島明神を深く信仰していましたので、都を京都から福原に移した際に、厳島明神を安芸国より勧請したのです。
当社の縁起によると、清盛公が兵庫の港に築島を築こうとされた時、ある夜の夢に天女が現われ「私は安芸国厳島明神である。この海を暴風雨から守り、汝の志しを能く成就せしめんが為に来たのである。篤く信仰して必ず疑うことなかれ」とお告げになりました。清盛公は深く喜び、兵庫の港の守り神として明神を祀ることにしました。
伝・龍燈の松 かつて本殿の裏に、樹齢千年にも及ぶ老松があり、清盛公が厳島明神をおまつりする所を探していた時、この松の梢に燈火がかかるという奇瑞があったので、当地を社地に定めたと伝えられています。のち文政7年(1824)5月5日、沖から燈火が飛来し、この松にかかり煌々と輝いたので「龍燈の松」と称するようになりました。太さ1.5m・高さ3m程の枯幹が残っていましたが、戦災により焼失しました』
14:39「湊川神社」。地下駐車場前の歩道に駐輪すると、裸像などの像が歩道に並んで設置されていました。境内に入ると、楠木正成の菊水紋が飾られた「楠公会館」がありました。神前結婚式などの披露宴会場などに使われるのでしょう。
ここは神戸三大神社の中のトップなので、まだ拝殿前に長い行列が出来ていました。流石です。神戸第一の安産祈願所なので、守護を授からなくちゃ。ここの訪問が本日のメイン・ディッシュです。「干支お守り」の他に「やなせたかしの十二支お守り」があった。「福寄せ熊手大3000円〜小1000円」「破魔矢1500円〜鏑矢2500円〜俵付鏑矢3000円」、僕は「干支戌絵馬500円」と薄ピンクの「安産守護桐箱入り1500円」を授かった。
我が家の神棚に上げようと思ったが、家内が綺麗な守護だから隣の実家の仏壇の方が汚れないから良いと言うので、仏壇に置くことになった。実家は週一ぐらいで仏壇の掃除とお水換えするぐらいで埃が立たないから良いのだそうだ。神棚なら毎朝晩手を合わせるので良いと思うのに・・・。まあ、隣に家内の両親の遺影が飾ってある小さな仏壇があり、チーンの台に僕の幼児からの守り神・蛍光マリア様も置いてあるから喧嘩するかな?
絵馬掛けで、願い事を見てあれこれ思う。「学問の神様・菊水天満神社」があった。僕の先祖・道真公なのでもちろんお参りする。代名詞の牛の像が参道にあったが、角や尻尾にまで御神籤が結ばれていた。脇にもちろん東向きに遥拝所があった。
奉献の酒樽がずらりと並び、ヒガシマルとマルテンの醤油も並んでいた。また絵馬掛けがあったので拝見。大きな神社なので、絵馬掛けも数ヶ所にあります。『楠木正成公募所(国史跡・嗚呼忠臣楠子の墓)・徳川光圀公銅像』を観に行きます。数度も来ているのに、楠木正成の墓は初めてです。
『徳川光圀公は、元録4年(1691)水戸藩主を辞して西山荘に引退し、大日本史の編纂に着手され、翌年楠木正成公を景仰して「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立し、ご盛徳を天下に顕彰された。湊川神社においてそのご功績を追慕し像の建立を発願し、委員長に小倉正恒氏を戴いて昭和30年7月11日に完成したものです』
時代劇でおなじみの姿ではなく、仙人風のお姿でした。
『史跡・楠木正成公墓碑 延元元年(1336)5月25日御殉節せられた後、150年余経た元録5年(1692)12月21日徳川光圀公によって建立せられた。碑面8文字「嗚呼忠臣楠子之墓」は光圀公筆にして、碑陰に明の遺臣朱舜水の撰文を彫す』
脇門から入ったので、正門の神門の外に出てみました。陸上部の練習なのか早く着いた高校生が10人ほど、謂れ板の前に座っていました。僕が写真に撮ろうとすると「すいません」なんて言っていますが、問題なく写せるので「問題ないよ」と応えた。
『湊川神社 所在地:神戸市中央区多聞通3丁目1番1号 祭神:楠木正成公(大楠公) 配祀:楠木正行卿(小楠公)及び湊川の戦で殉節された楠木正季卿以下御一族16柱並びに菊池武吉卿 摂社:甘南備神社(祭神:大楠公夫人) 境内神社:楠本稲荷神社(祭神:倉稲魂命・猿田彦命・大宮女命) 菊水天満神社(祭神:菅原道具公)
由緒 大楠公は、元弘元年(1331)9月に後醍醐天皇の命に従い挙兵、やがて鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興」に大きな功績をあげられた。しかし、謀反により一時九州へ敗走した足利高氏の大軍を、大楠公はここ湊川で迎撃、激戦の末、延元元年(1336)5月25日、弟・正季卿と「七生報国」を誓って刺交し、殉節を遂げられた。
その後墓所は、豊臣秀吉検地の際、免祖地とされ、江戸時代初期には摂津尼崎藩主・青山幸俊公によって松と梅が植えられ、五輪の供養塔も建てられた。更に元録5年(1692)水戸光圀公(義公)によって、墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立、大楠公が天下に顕彰された。
これにより、大楠公景仰の気運が愈々高まり、やがて維新回天への力強い精神的指導力となった。そうした幕末から維新にかけて、尊崇いてやまない大楠公、その御神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868)4月、明治天皇は神社創祀の御沙汰書を下された。
よって明治5年(1872)5月24日、社名と「湊川神社」とし、初めて別格官幣社に列せられ、同日鎮座祭・翌日楠公祭が斎行され湊川神社が創建された。
御盛徳 大楠公は、智・仁・勇三徳を備える人格者で、聖人とも仰がれた武将であった。大楠公の忠誠と正義とを以て貫かれた精神は、楠氏一族子孫に至るまで受け継がれ、日本史上これほど偉大な影響を後世に及ぼした人はいないと言われるほど、国民に大きな感化を与えた』
境内内参道に「大楠公一代記」と銘打たれた13枚の絵パネルが立っていた。太平記に沿った楠木正成の生涯が描かれていた。
大学1回生の時、付き合っていた同じ学部の同級生美女さんと来たことを思い出しました。夏前に友達のクラスにいた同級同回生一の美人さんに知り合いました。友は同じクラスのもう1人が良いと言い、僕は美人の方。彼に紹介してもらい、僕がWデート学食昼食を誘いました。
僕と彼女は順調に進み、何度も彼女の家に車で送り、初詣に湊川神社に参拝しました。僕のお付き合いした中で最高のプロポーションの持ち主でした。水着姿は悩殺モデルそのものでした。大学の友達から、かなり羨ましがられました。でも目を引く美人さんは敬遠されるのか、僕は打率10割です。
チヤホヤされるも意外に決まった人がおらず、誠実に丁寧にアプローチすると上手くいきます。家内だって、違う学部のマドンナさんで、今でも「可愛かったよな、今どうしてる?」と僕との関係を知ってる家内の学部の同学年の友達から言われます。
綺麗な着物姿で目がくらむほどでした。すれ違う男どもが彼女を吟味する目で見ているので、自慢げに歩きました。美人さんは、ずっとこんな視線に合っているのかと少し気の毒に思いました。でも西洋的なプロポーションの女性は、着物より洋服の方が似合います。白人モデルさんが着物を着ても、細身で首の長い日本人女性に見劣りするのと同じです。
2回生に上がったクリスマスに振られちゃいました。性格も良く気に入っていましたが、僕のヨット部最優先が不満だったようです。ヨットは同学年唯一の高校ヨット部経験者で1回生の時から期待され、秋からクラブの主力だったこともあり思いっきりやり、お陰様で国体やインカレなど当たり前のように出て、大いに楽しみそれなりの成果を出しました。
「私とヨットと・・・」というドラマで定番の言葉が出た時には、ちょっとガッカリでした。「私と仕事と・・・」に共通する言葉で、家族を食わせるため働く時は休みなど関係なく頑張ることが男には必要だと思ってるので、合わなかったと思います。
今は僕も定期的に休んでいますが、次男が中学生になるまでは、完全にワーカーホリックでした。労働基準法・週休・・などどこ吹く風で、仕事で成果が上がるのが面白く、タイムカードなどすると叩き過ぎの証拠が残るので無視していました。最近の西洋式社会風潮は、「労働=苦痛」「労働=食うためのお金稼ぎ」ですが、僕は自己実現だったように思います。
だから最近の「過労死で会社を訴える風潮」に違和感を感じます。社会としてはそれが正義でしょうし、大きな組織では当たり前の事ですが、人の倍働き成果を出せば、自分の好きな時に休みが取れますし、会社に切られることに怯える必要がなく、自分で会社が動くようになります。よって小企業好きです。
家内は自分もフルタイムワーカーなこともあり、こんな僕に理解を示してくれました。いつも自分の仕事をこなした上で、食事・掃除・洗濯・子育てのスーパーウーマンでした。家内の母親もいつも笑顔で仕事を差配していた方で、よく似ています。
僕は月2の休日も少しでも会社に顔を出すワーカーホリックだったけど、夜が弱いこともあり結婚してからは夜7時には帰宅して毎日子供と遊んでいました。風呂と寝かしつけは僕の仕事で、出張出ない限りしっかりこなしました。その代わり、就業後の付き合いはほぼナシでした。盆正月は家族と一緒の時間を大切にしました。
15:14「荒田八幡神社」。『当八幡神社は古くは高田神社といい、後に宝地院境内にあったハ幡社を、神仏混淆を避けて、明治31年(1898)にここへ合祀して、荒田八幡神社とされました。
この近辺の土地は周囲より一段と高く、この高台付近が都の重要な地であったと考えられます。八幡神社の土地は平清盛の弟・池大納言平頼盛の山荘であり、治承4年(1180)6月3日の福原遷都の際には安徳天皇の行在所となり、境内には安徳天皇行在所跡の碑のほか、昭和55年(1980)6月3日に建てられた福原遷都800年記念の碑があります』
『祭神:応神天皇・素盞嗚命・安徳天皇 当八幡社は古くは高田神社といい、荒田村字1町田に鎮座し、熊野権現を祀っていたからその森を権現の森といったが、のちにすぐ西にある宝地院境内にあった八幡社を神仏混淆をさけて、明治31年2月24日兵庫県知事の許可を得て、ここに合祀して荒田八幡神社となった。
この土地は池の大納言・平頼盛(清盛の弟)の山荘であり、治承4年(1180)6月3目の福原遷都のとき安徳天皇の行在所となった。いわゆる今日でいう皇居であり、今の境内に行在所跡の標石が建っている。
この頼盛の別荘については、高倉天皇の「厳島御幸記」に「申の刻に福原に着かせ給う云々、あした(あらた荒田)という頼盛の家にへ笠懸(かさかけ)、やぶさめなど仕うまつらせ、御覧せらる。日暮れ帰らせ給う。」と記しているので広い邸内であったことがわかる。
邸内は一段高く、昭和13年7月の神戸大水害の時にも附近一帯泥海のなかに島のように見えた。こうした日本歴史の一端をにない、又神戸の史跡として重要な役割を果たし、「平家ゆかりの地」として日本国民から崇敬を集めている。ところが昭和20年3月のあの神戸大空襲のため社殿を焼失してしまい仮社殿を再建し40年を経過したが、昭和60年6月、氏子・崇敬者のなみなみならぬ努力により、現在の新社殿の建立をみている。
昭和55年6月8日、神戸にとって歴史的意義のある福原遷都800年を迎え、神戸市及び郷土史家の手によって「福原遷都800年記念碑」が建設された。
又、当神社は厄除の神として知られ古くから兵庫県下一円より厄除大祭(1月18・19・20日)には参詣者で賑わっている』
確かに周囲より少し高く、2F建て建物がなければ、景色は良さそうです。こじんまりした境内・社殿ですが、綺麗に清掃され、寄進の酒樽が並べられており好感が持てました。
本殿を覗くと、小ぶりなお神輿が鎮座していました。境内周囲に真新しい紅白の幕が下り、2週間後の厄除大祭の準備が整っているのかもしれません。
帰路につきました。中山手通〜山手幹線〜R171を経て、16:38自宅着。

2018/1/3
4時前に目を覚ましゴソゴソ。朝食を取り、風呂に入り、7時過ぎに家を出て我が家のお墓参りに行きます。車のフロントガラスに雨が落ちてきます。傘も要らないような雨ですが、AM曇り・PM晴れだったのに。r12を北上し、北田原マス釣場は賑わっていました。
墓地では雨が上がっていました。寒いけど日が差して気持ち良い。墓石を掃除して線香を上げて手を合わせ退散です。我が家の墓地は少し広く9聖地です。少し広いお墓が並ぶ段にあり、墓石が窮屈に並んでおらず気に入っています。まだ両親の名前だけですが、墓誌にもスペースが有り、荷物を置く御影石も置いてあります。孫がこの石を腰掛けのように使います。
r12を南下し大阪平野に戻り、宅急便の集荷・配送センターに、次男のジャケットを持ち込み配送してもらいました。帰宅して、箱根駅伝の復路を見ると、往路優勝は東洋大で、6区で青山学院が逆転し、現在7区の青山の選手が区間歴代新記録含みの快走をしています。2位との差を3分に広げ、解説者によると首位がためしたそうです。
自室に上がりごそごそし、11:30になり家内の要望で食べに出ます。JR中山寺周辺に行き、イタリアンレストランに入りました。僕はパスタセットで、家内はハンバーグセットです。パスタセットには「パンorライス」が付きます。パスタにライスも変だし、パンも変だけどこっちの方がマシだと思いパンにしました。ラーメンをおかずにライスを食べるようなもので、不思議な感じですが、先にバターを塗ったパンを食べ、後でパスタを頂きました。
スポーツデポでスキー板などを物色し、帰宅しTVを付けると、トップ青山学院が最終10区にタスキを渡したところでした。青山学院箱根駅伝4連覇達成おめでとう。箱根駅伝は、泣かせるね。

2018/1/2
次男一家帰省の最終日です。前日は弟一家と過ごしましたが、この日は家内の姉夫婦の家で姉家族と時間をともにします。当初、一番上の姪は長男の中学受験でお休みですが、2番目の姪と甥一家が来る予定でした。でも姪一家が風邪でダウンしてしまい、不参加です。
姉夫婦は加古川の自宅と有馬温泉の温泉付きマンションを売却し、明石のタワーマンションと神戸の高齢者タワーマンションを購入しました。お盆は明石の新しい家に招待され、今回は神戸の家に招待です。
姉夫婦は京都の大学の同級生でクラブで知り合いました。卒業後続いて兄が2つ目の大学に進学し、学生結婚しました。国立なので学費は年間3万円でしたが、長女が生まれ生活費を稼ぐために姉が働き大車輪の活躍でした。家内の実家がいろいろ援助し、同じく学生だった僕らはドライブデートで姉夫婦の住む浜松まで家内の母に頼まれ生活物資を車で運びました。
姉夫婦は今でも友達同士の仲の良さで、休日のトレッキングの他に兄の学会にも夫婦で出かけ、ついでに小旅行を楽しんでいます。そんな家で育った甥と姪は、もちろん夫婦仲が良く、皆楽しそうに子供たちに振り回されながら生活しています。
姉は妹である家内に連絡してくれ、電話での姉妹会話を聞いているととても楽しそうです。子供がちびだった頃は、2家族で海水浴・スキー・梨狩りなどいろいろ遊んだので、僕らも姉夫婦も相手の子を我が子のように親しんできました。だから盆正月など集まりやすい時期になると、声を掛け合い親交を深めるようにしています。いざって時に助け合えるのは、血の濃さであり日頃の親交度合いです。人生の幅が広がるし、楽しい生活が出来るし、いい事ずくめです。兄は東京に出ていったお兄さんが法事にも顔を出さない疎遠になっており、妹である家内を僕らが知り合う前からかわいがってくれています。そんなこんなで、まるで家族の集まりになっています。
11時に神戸の予定なので、その前に氏神様に新年のあいさつをしに行きます。いつものように4時前に目覚めゴソゴソ。7時に階下に降り、TV見ながら朝食。8時になり箱根駅伝のスタートを観ました。8:30に次男一家の朝食を家内に言われるまま運びます。9:17時出発。すみれちゃんは両親と手をつなぎごきげんです。飛行機が飛ぶと、「お〜お〜」と指を指しますが、すぐに親の手を求めています。9:27、すみれちゃんの歩むスピードに付き合ったので10分もかかり氏神様「臂岡天満宮」の到着。ここは菅原道真公が大宰府に流された時、上陸して肘をついて休憩した地だそうです。
『延喜年間(901〜923)創建。通称「いもじの天神」。「いもじ」の地名は、中世に各地を移動し武士や民衆に金物を供給したり、寺の鐘を鋳造したりした職人集団である「鋳物師」に由来する。
祭神は道真公ほか。道真公は、醍醐天皇に左遷され、筑紫に行く道中で北村の「いもじ」に立ち寄り、あられ茶を飲みながら肘を枕に休まれたので、この丘が肘岡と呼ばれるようになった。
後に建立された社を臂岡天満宮と名付けた。道真公の出立に当たって、村の男衆が大きなおむすびをたくさん作って差し出し、道中の無事を祈ったから、現在でも祭りの折にはおむすびを供え、参拝の人々に配って無病息災を祈っている。 伊丹市教育委員会』
知恵の輪くぐりをして、「すみれちゃんが賢い女性に成長しますように」。拝殿で手を合わせながら、すみれちゃんに「覚えてる〜、初宮参りした所だよ〜」とお嫁さんが声を掛けていました。このお嫁さん、とても気持ちが良く、夫婦仲の良い家庭で育った育ちの良さを感じます。我が家はお嫁さんたちに恵まれています。僕が子供の頃、拝殿を新築した時寄付した父の石玉垣を挟んで次男一家に並んでもらい記念写真をパチリ。両親にひ孫の成長を見せます。僕の石玉垣も離れた所にあるのですが、そちらはパスです。次男達は「破魔矢」を授かっていました。
帰宅後、僕は車でGSへ行き、10:01ガソリン補給します。家内に言われ、庭のゆずをはしごに乗って収穫します。埼玉のお嫁さんの実家に帰るので、柚子風呂にでも使ってもらおう。姉夫婦と甥一家にも。各家庭5個ずつです。作業していると、次男達が荷物の用意が出来たようで実家から出てきて車に乗り込んでいます。10時に出発。ネットで渋滞予想を見ていたので、いつものR171〜阪神高速神戸線をパスし、r13で南下し、阪神高速湾岸線「尼崎東海岸IC」から高速道路へ。5号湾岸線を西進し、住吉浜ICで下車し、11:06マンション到着。12月に平清盛縁の地巡りした時立ち寄って2回目です。
マンション到着直前、助手席の家内に姉に電話してもらい、駐車場所の指示を受ける。このマンションは住民の車は2〜5Fの駐車場に置き、来客者は1F玄関前と裏玄関前に駐車するようになっているそうです。
玄関前エントリーに車を入れると、姉と兄がいます。Pを見ると甥一家が車から出てきた所です。新年の挨拶をして、前日妹の姉夫婦からもらったみかんを要らんか?と聞く。少し持って上がることになり、少し減って良かった。1箱なんて僕ら夫婦では食べきれません。
ロビーに入り、外来者は代表者名と人数を記入します。火災など何かあった時に全員お安否を確かめるためだそうです。人数分番号カードをもらい、衣服に付けておくそうです。
1F図書室前を通りエレベーターへ。7Fに部屋がありました。南と西が見える日当たりが良く暖かな部屋でした。姉夫婦は土曜の夜来て、トレッキングなどを楽しみ、日曜夜に明石に帰る生活をしているので、家具は最小限にしているそうです。「僕らの終の住処として買ったんだ」と兄が説明してくれました。有馬温泉をそのつもりにしたんだけど、兄は疲労がたまると腰に来るので、最後は車椅子生活を予想しています。医療面や子供たちが来やすいことを考え、寒い北六甲から買い物など生活しやすく、医療面が整っている高齢者マンションに変更したようです。
各部屋には倒れても手の届く高さに「緊急」と書かれたボタンがあります。その上に「取消」ボタンが有り、掃除中などで誤って押した時でもキャンセルできるようになっています。お風呂にも付いていました。1Fに医療機関があり、交差点を隔てた所にヘリポートを備えた赤十字総合病院があります。
おみかんを食べながら、皆であ〜だこ〜だお喋りし、12時になったので34Fに上がります。レストラン前の生け花は毎週変わるようです。和・洋・麺の3種類のメニューがあり、いずれかを注文するそうです。姉が「和」で、それ以外「洋」を注文しました。僕の注文した本日の「洋」は、牛肉の細切り炒め・葱とワカメのスープ・中華風サラダ・パンorライス・フルーツです。お値段は書いておらずいくらなんだろう。ウィークデイはハードワークをこなし裕福な姉夫婦は、いつも僕らにお金を出させません。姉の実家に学業・開業資金を出してもらった恩を忘れない兄です。このマンションも、男女平均寿命から自分が先に逝った後姉が困らず快適な老後を過ごせるよう買ったようなものです。
素晴らしい景色を愛でながら、みんなでワイワイ。甥の長男は昨年3月生まれで10ヶ月です。一昨年7月生まれで1才のすみれちゃんと同じ学年で、甥のお嫁さんは会えるのを楽しみにしていたそうで、少しお喋り出来、歩き意思疎通出来るすみれちゃんに、半年後の我が子の姿を投影しているようです。ここのマンション敷地は、元神戸製鋼工場があった土地で、震災後売却したそうです。甥のお嫁さんのお父さんは神戸製鋼の超偉いさんなので、「この土地売却の決済をしたんじゃないの?」とお兄さんに聞かれていました。お嫁さんは、当たり前ですが「さあ〜」でした。
12:53、食事を終え最上階にあるカフェに上がりました。レストランもゆったりでしたが、カフェは天井が高く更にゆったりです。グランドピアノがあり、棚にはウイスキーのボトルがゆったり並んでいます。夕方から9時までバーになるそうです。高齢者マンションなので、夜は早く締まります。アルコールを口にしない姉夫婦なので、関係ないけど。13時からカフェタイムです。
更に奥に進むと、大きなガラステーブルのあるシートがあり、西側の大きなガラス窓に向かって4人掛けソファ、南側と北側に1人ソファ、景色を見ながらくつろげる席です。1人ソファを2席追加してもらい大人8人+ベイビー2人座ります。コーヒー・紅茶おかわり自由のセットを注文します。ミニケーキやクロワッサンなど数種類のお菓子と飲み物のセットで800〜1000円で、3種類あります。ここもメニューはこれだけです。スタッフは、お客さんが裕福なリタイヤ高齢者ということで、心遣い豊かに教育されておりナイスです。
床が毛足の長い絨毯なので、すみれちゃんはケーキを食べた後、歩き回っています。1時間ほどゆっくり談笑した後、14:25から6Fの共用スペースを案内してもらいます。カラオケルーム・アトリエ・ビリヤード。ビリヤードは3台あり、1台は練習用で、残り2台がレンタル代で、部屋の前の予約表に名前を書けば予約完了です。食べ物以外は全て管理費充当の無料です。4〜5時の1時間兄が予約しました。囲碁・毎日上映作品が変わる映画を観れるAVルーム・麻雀・多用途クラブルームなど。
14:39部屋に戻りました。次男が、すみれちゃんと甥の子・けんとくん両方を左右の膝の上に乗せごきげんです。甥と次男は1才違いなので、こういうことを遠い昔、僕がした事もありました。
14:52、僕ら夫婦は兄夫婦に5Fフィットネスルーム・プール・大浴場などを案内してもらいました。部屋に戻ると、「すいません」と次男夫婦が謝っています。何かこぼしたのかと思ったら、「ボタンを押すのが好きなすみれちゃんが、緊急通報ボタンを押しちゃった」そうです。慌ててキャンセルボタンを押したそうですが、10秒ほどでスタッフが「どうかしましたか」と訪ねてきてくれたそうです。お兄さんは、「誰かがやると思った〜。ちゃんと駆けつけてくれると分かったから返って良かったよ」と笑っています。
ここで甥一家が帰ることになりました。お嫁さんの実家に、みんなが集まるようで、今度はそちらに行きます。お嫁さんのお父さんが飲む人のようで、大勢集まるからと、前日に頂いたおみかん1箱と、すみれちゃんが当てた清酒一升瓶2本をプレゼントしました。「ほんとにいいんですか?」と言うけど、我が家にあってもみかんは腐らせるだけだし、清酒はそのままになるだけです。ありがたや〜1Fにお茶を飲みに行くことになりました。テーブルと椅子が置いてある広い部屋で、自販機のコーヒー・紅茶などは無料です。クリームやシュガーも置いてあり、コップを置いて好きな飲料のボタンを押すと、30秒ほどでコーヒーなどが出てきます。
この部屋で、16時まであ〜だこ〜だ。僕は1Fパブリックスペースを探検しました。ダンスホールになりそうなピアノの置いてある広い部屋がありました。戻ってくると、すみれちゃんが飽きてしまい、うろうろしています。部屋から外に出て行くので、少し距離を置いてついていきます。部屋を出て20歩ほど歩いたところで振り返り、僕がいることを確かめたら、また前を向いて歩きはじめました。ドアの開いている部屋を覗き、曲がり角を曲がってみて、地図が頭に入ったのか、裏玄関まで来て外に出ようとしました。
流石に外に出ると危ないので、抱っこしてUターンさせます。するとまたスタスタ歩きだし、ちゃんと元の部屋に戻り、ママを見つけるとにっこり笑って早足で突進し、足にまとわりついきました。20分ほどの大冒険です。抱っこも言わず、長い距離を1人で歩けました。安全を確かめたら、自分のしたいことをする意思の強い子のようです。
16時になり、ビリヤード部屋へ。お兄さんにルールを教えてもらいながら、僕とお兄さんで一勝負。学生時代は好きな奴がいて、誘われるままに何度かやってたけど、それ以来です。
ビギナーズラックで勝利しましたが、2・3回戦は負けました。僕がミスってお兄さんの得点になる球を数個ポケットに入れてしまいました。
横の台はキャンセルになったようなので、次男とお嫁さん・家内が遊んでいます。家内とお嫁さんは初ビリヤードのようですが、お嫁さんは筋が良く、いくつもポケットに入れていました。
17時になり部屋に戻り、お暇します。18:29新神戸発の新幹線に乗って東京に帰ります。玄関まで送ってもらい、車に乗りバイバイしR2に出たところで家内の電話が鳴りました。「何か忘れ物?」と思ったらビンゴ!すみれちゃんお気に入りの靴が玄関にあるとのこと。
慌てて戻り、靴を受け取り、2度目の「さようなら」。またR2に出たところで電話がなりました。「また忘れ物か?」と思ったら、「九州で新幹線に遅れが出ている」との姉からの情報でした。R2経由で「新神戸駅」でバイバイ。楽しかった次男一家の帰省もこれで終了です。
マンションから阪神高速神戸線の渋滞が見えていたので、山手バイパスを西宮まで走り、R171経由で帰宅しました。家内は実家の片付けを開始し、僕はチャイルドシートを外し片付け、カメラや車の片付けをしました。僕が終わったので実家に行くと、家内から「見て〜、忘れてる〜」。12/29中高の同窓会に出席するために着ていったジャケットが部屋に掛かっています。
家に持って帰り、次男に連絡し、翌日宅急便で送ることになりました。風呂に入り、20時頃「おやすみ〜」。

2017/1/1
弟の娘・高1が地元・岸和田の神社で巫女さんをするので、みんなで晴れ姿を見に行きます。その後弟一家と昼食をします。半年前のお盆から成長したすみれちゃんを見てもらうのも目的です。
いつも我が家の正月の予定を弟達に知らせています。2家族ともお墓参りを正月するのが恒例なので、できれば予定日を合わせ、昼ごはんを食べたり、実家で楽しい時間を過ごしたりしようという魂胆です。従兄弟同士の交流は、親が作ってあげないとね。
僕は両親とも北関東で、従兄弟や親戚との交流が盆正月の帰省時だけで、法事などで会えなかったから、本家従兄弟以外の北関東に散らばってる従兄弟達となんとなく距離を感じていました。盆正月に会った時、北関東の従兄弟たちの仲の良さが羨ましかった。我が子には、もっと親しくなって欲しくて、弟一家と家内の姉一家との交流を持つようにしていました。
4時前に目を覚ましゴソゴソして、7時に階下に降り、朝食を取りました。家内と「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします」。朝のお勤めをしてTVを付けると、NHKで「2時間で巡る伊勢神宮」と言う正月らしい番組をしていました。
8:30に出発し、コンビニで次男達が朝食を買います。すみれちゃんの用意などで遅れ、朝食が食べられませんでした。次男に義理妹に「出発したよ」と電話してもらいました。「神社の道路を隔てた前にある「マツゲン」と言うスーパーの駐車場に入れるよう」言われました。
R171〜阪神高速空港線〜環状線〜湾岸線「助松IC」下車し、r29〜r40で9:27「夜疑(やぎ)神社」。ナビで案内する最後の道が細くてスルーし、新たに誘導する道から行こうと右折ウインカーを出しながら信号で止まっていると、助手席の家内から「あ、・・さん(弟)だ」と。反対車線に止まっていた先頭車両から弟が降りて「Uターン」と叫んでいます。
Uターンして、走る弟についていくと「スーパー松源」がありました。そこに車を入れ、弟夫婦に新年の挨拶をします。姪が作ったという鈴の付いた腕輪とアンパンマンの柔らかボールをもらいました。アンパンマンボールは電池を入れると、音楽に合わせ踊るそうです。腕輪は手に持って振ると鈴が鳴るもので、すみれちゃんはとても気に入っていました。アンパンマンはちょうどマイブームで、TVでこれが始まると釘付けだそうです。あと「NHKおかあさんといっしょ」にも釘付けになり、これが始まると炊事がはかどるのだそうです。家内と次男から、姪と甥にお年玉を。
歩いて9:46「夜疑神社」へ。我が家の氏神様と同じような規模の神社でした。神札・御守授与所に並んでいる巫女さんに姪の姿を探すがいません。弟が「神楽舞をしているのかも?」と、社殿内入口に行くと、外から神楽舞が見れます。そこに姪がいました。巫女さんは6名で、2名が舞っています。舞が終わり僕らの番です。妹がチケットを渡し、僕らを含めた20名ほどが部屋の席に着きます。ちょうど姪が舞う番で立ち上がります。
神楽舞が始まり、それを終えると私たちに頭を垂れるように言い、御幣で穢れを払ってくれました。姪はいつもニコニコしていますが、ここではすましています。社殿内の神事なので写真もビデオも撮れなかったのが残念です。社殿を出てからそのことを話していると、家内が社殿前に戻り名に手招きしています。すると姪が出てきてくれました。すみれちゃんを抱っこし記念写真。弟夫婦と姪の家族写真も撮ります。巫女さんに抱かれ、すみれちゃんの記念になりました。
御守授け所に入り、一番美人さんの巫女さんから「交通安全ステッカー御守」を授かりました。初穂料は500円です。巫女さんは年齢制限がある未婚女子なので、期間限定でしかなれません。姪は良い記念になりました。
「高校生になったので、ないかバイトをしたい」と言ってたそうで、友達の紹介で巫女さんになりました。舞の練習に神社に通ったそうです。弟によると、自宅前を通る「町内所有だんじり」は、久米寺から夜疑神社がコースらしく、祭りの時や盆正月には寄付しているようです。それで神楽舞チケットをもらってたそうです。姪のお父さんは、町内だんじり保存・運営の責任者をしていました。弟はお嫁さん実家が購入した隣の家を解体新築し住んでいます。実家には姪のお姉さん一家が住んでいます。初めご両親が住んでいましたが、お父さんが亡くなり、近所に住んでいたお姉さん一家が帰ってきて、お母さんは弟一家と住むようになりました。
摂社のお稲荷さんなど境内を見て回ります。拝殿横には「教育勅語」が自由にお取り下さいとなっていたので頂きました。
僕が「久米寺に行きたい」とリクエストし、車に戻り2台で走ります。弟はお嫁さんの運転する軽四です。弟が乗ってる車のトランスミッションが壊れ、修理に40万掛かるということで、車を買い換えるべく物色中だそうです。
r40を走り、10:25弟の家の前。妹の実家は商売をしているので、車5台ほど停められる駐車場を持っています。そこに入れさせてもらいました。弟の家を見上げながら、次男は「僕と一緒だ」と言っています。次男は今月、お嫁さんの実家に引っ越し親御さん夫婦と一緒に暮らします。
お嫁さんは姉妹の姉で兄弟に男の子がいません。妹さんが去年嫁いだので、お嫁さんのお父さんから「一緒に住まないか」と誘われていました。お嫁さんは次男に嫁いだのだから出戻るようで乗り気ではありませんでしたが、お父さんは次男を気に入ってくれています。お父さん自身、お母さんの実家が持つ土地に家を建てて住んでおり、すぐ近所に住むご両親と毎日のように行き来しながら生活してきたので、次男を仲間だと思ったのかもしれません。
増築ではなく、内部改装で2世帯住宅に改装したそうです。次男は建築士なので、内装改装は全て次男が設計したそうです。12月に改装成り、引っ越しを始めたのですが頑張りすぎてお父さんは肩の筋を切ってしまい、春に手術するそうです。芝生や垣根の手入れは次男の仕事になり、僕が使ってる電動草刈機・電動刈払機の便利さを伝授しました。
歩いて「久米田寺」に向かいます。「光明塚古墳」というのがあり、「これ古墳だよね」と聞くと、「これ光明皇后のお墓なんだ」と弟から。光明皇后は奈良時代の「聖武天皇」の后です。東大寺大仏建立など、夫婦で奈良時代の朝廷政治基盤を整えたランドマーク的な天皇皇后です。
「光明皇后はこの地で生まれたそうなんだ」と弟から。光明皇后は、聖武天皇稜の隣に葬られており、奈良のその陵を見に行ったこともありますが、皇后の陵が生まれた地に造られる例も多く、こちらが本物かもしれません。この周辺には古墳が多く、すぐ隣には橘諸兄が埋葬された「貝吹山古墳」があります。光明皇后は橘諸兄の妹で、聖武天皇時代の国政は橘諸兄が仕切っていました。まさにこの兄弟が力を持っていました。
この地は、織田信長が畿内に進出してくる前、四国阿波勢力・三好氏や畠山・六角などの勢力が室町幕府の実権を握るため勢力争いした地でもあり、有名な「久米田の戦い」の古戦場でもあります。
10:30「久米田寺」。現在も塔頭が3院健在のかつての大寺院です。奈良時代、僧行基が造った大阪府内最大の溜池「久米田池」に隣接しています。梵鐘があったので、すみれちゃんは人生初の「鐘撞き」に挑戦です。次男が抱っこして、すみれちゃんに紐をもたせゴーン!何かわからずでいたが、鐘の音が気に入ったのか、すみれちゃんは満面の笑みです。「もう一度」したそうだったので、再びゴーン!次の方が並んだので梵鐘台から降ります。地面に降ろすとクルリと向きを変え、梵鐘の方へ歩いていきます。仕方なく、またゴーン!もっと笑顔に成り笑い声も出します。4度目のゴーン!後ろに並ぶ方はいませんでしたが、エンドレスになりそうで、次男とともに降ります。
まだ撞きたそうでごね始めたのを見て、弟がくじ引きチケットを出して、「ガラガラしに行こう」と誘ってくれました。次は「初めての福引き」に挑戦です。5回ガラガラを回し、ハズレのゴミ袋3つと当たりの一升瓶清酒2本が当たりました。弟夫婦が驚いています。ビギナーズラックとは言え、前日の初おみくじが大吉だったし、「持ってます」。くじ引きの説明を読むと、「寄付1000円で1回」と書いてあり、新年に当たって5000円寄付したようです。
「久米田池」を見に行きます。伊丹の地元にも行基が掘ったかつて周囲4kmあった「昆陽池」と言う大きな溜池があり、困った方を助ける布施院が現在の昆陽寺の前身です。それに匹敵する広さでした。
多宝塔・弘法大師御影堂などがある真言宗の寺院で、お正月らしく参拝客が多く来られていました。テキ屋さんも境内にでており、賑やかです。前日の下鴨神社参道もそうですが、テキ屋が出ていると祭りの雰囲気があり、とても好きです。暴力団との関係などで、テキ屋を締め出す風潮が一部にありますが、総じて寺社の賑わいを落としています。
『行基49院の1つで、天平10年(738)久米田池の維持管理のため建立した「隆池院」に始まる。平安時代後期から鎌倉時代にかけ五摂家の九条家の保護下に入ったものの荒廃し、鎌倉幕府の有力者・安藤蓮聖が東大寺僧から別当職を買い取り復興に乗り出した。西大寺叡尊を導師に招き落成法要が営まれ、真言宗・律宗・華厳宗の寺院として多くの学僧が学び、高僧を輩出した。南北朝時代、足利尊氏・直義兄弟が利生塔を全国で初めて久米田寺に建立し、仏舎利を奉納するなど手厚く保護し、南朝からも保護され繁栄しました。江戸時代以降は真言宗寺院となり現在に至る。星曼荼羅図・仁王経曼荼羅図・安藤蓮聖像・楠家文書・大塔宮令旨・久米田寺文書・北畠覚空書状は国の重要文化財、境内は大阪府の史跡に指定されている』
妹の実家に挨拶に伺う。お姉さんとお兄さんがおられました。すみれちゃんが当てたお酒を渡そうとしましたが飲まないと言うので残念。反対にみかんを1箱頂きました。
r40〜R26で泉佐野に向かいます。〜r247で「JR日根野駅」横を渡り、r248で「日根神社」。ナビで「到着しました」となりましたが、「慈眼院」という寺院が見えるだけです。駐車場がないので家族を降ろし、車を先に進めます。すぐに道の横に鳥居が見え、たくさんの参拝客が歩いています。横の駐車場は満杯で、氏子さんに「先にある農地に止めて」と言われ進みますがわからず、鳥居が見える住宅地へのアプローチ道に停めて皆の帰りを待つことにしました。
次男にその旨電話すると、参拝に長い列が出来ているようで家内が並び、安産御守を3人で授かりに行ってるそうです。長男のお嫁さんが3人目を妊娠し、次男お嫁さんの妹さんが初妊娠し、ともに6月出産です。そんなこんなで、前日は京都永観堂に先祖挨拶に伺い、下鴨神社・河合神社、そしてここ日根神社と安産にご利益のある神社を巡りました。
弟夫婦は、先に昼食するお店に向かいました。12:30安産御守を授かり御参りを済ませ戻ってきたみんなを乗せ、僕らも店に向かいます。予約時間は13:30で、ナビを見ると30分以上早く着くようです。
r248〜r247〜R26〜12:56「がんこ泉大津店」到着。「お屋敷岸和田五風荘」に行きたかったのですが、残念ながら予約できませんでした。弟一家の地元なので、適当なお店を探してもらいましたが、結局「がんこ泉大津店」になりました。
早く着きすぎたので少々待ちましたが、15分ほど前に用意でき個室に通されました。3000円ほどの「新春特別御膳」を注文していました。主役のすみれちゃんを中心にワイワイ話しながら食事を楽しみます。姪は巫女さんバイト中で、京都で下宿している大学2年の甥は、京都で車の免許教習中でこの冬休みは帰ってきません。
食事が終わり、注文したデザートを待つタイミングで家内が精算しに行くと、既に精算済とのことで驚いて帰ってきました。「精算してくれたの?悪いわ〜」「いいえ、結婚してから20年ずっとお兄さんたちの甘えてばかりでしたから、ここは私達の地元ですし・・・」ということで、「ごちそうさま」させて頂きました。
15:30に店を出て解散。弟夫婦に見送られ帰路に着きます。僕らは前日京都で買ったお土産を渡しましたが、おみかん1箱とそのたあれこれ頂きました。すみれちゃんはお年玉と鈴腕輪の他にアンパンマン・ダンシングボールをいただきました。僕らと次男夫婦からお年玉を甥と姪用に言付けたけど、弟夫婦からアメリカにいる長男の子2人にもお年玉を頂きました。ちびさん達は資産家になっていきます。R26〜阪神高速湾岸線に乗り、尼崎末広ICで下車し、r42〜r142で帰宅。
すみれちゃんが車に乗るとすぐ寝ちゃったので、そのままお昼寝タイムにして、18:30近所のうどん屋「のらや」に行きます。座敷で元気いっぱいに復活したすみれちゃんが歩き回り、楽しい夕食時間になりました。ここでも「今回は私達が・・・」とお嫁さんが精算し、また「ごちそうさま」になっちゃいました。帰省中はみな家内か僕が精算しますが、いつも最後の食事だけ奢ってくれます。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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