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兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2017/4/23
コーチしてる大学ヨット部の新人勧誘ヨット試乗会最終日です。この日は車が足りているようで、「直接琵琶湖のヨットハーバーに来てください」との連絡がありました。一旦はOKと返事を返したのですが、19時に法事で家内の実家・加古川に行く用事があったので、手伝いをキャンセルさせてもらいました。17時にハーバーをでなければならないので、夕食時の僕のお話は出来ません。それならいいかな・・・と。
1人遊びになる家内と、小野市・加西市・福崎町の寺社巡りをして、実家に行くことにしました。4時前に目を覚まし、ゴソゴソし6:35に車に乗り自宅を出発しました。宝塚ICから中国道に乗り、西に向かって走っていると、「吉川IC出口渋滞」の電光掲示が目に入りました。「ゴルフかなあ?なんで渋滞しているんだろう」と言うと、家内が「新しい遊園地が出来たらしいよ、TV宣伝してるもの」とのこと。キャンプなんだけど、ロッジみたいな建物で、何も持っていかなくてもBBQができたりするところ・・・いろいろ教えてくれました。
この日の帰路、中国道を走っていたらバスに追い越されました。このバスが、家内が教えてくれた遊園地のバスだそうで、「NESTA RESORT KOBE」書いてありました。帰宅後調べたら、経営破綻した「グリーンピア三木」が、経営者が変わりリニューアルオープンした施設で、これから数年かけて新しい施設がオープンしていくようです。でもグリーンピア三木なら、最寄りICは「吉川IC」ではないので、やはりゴルフのお客さんで渋滞しているのかも?
「滝野社IC」で下車し、R175を北上します。西脇市に入り、枝道に折れて7:23「西林寺」。『唐子ツバキで有名な西林寺は、法道仙人が開いた古刹で、本尊・十一面観音立像は藤原中期の作で、手足が4本ある珍しいものです。境内には、高浜虚子はじめ阿波野青敏などの句碑・歌碑が点在しています。春は桜、初夏はあじさい、秋は紅葉と四季折々の美しさを楽しめます』
満開の赤い椿の横を歩くと山門があります。左右に阿吽の仁王像と大わらじが出迎えてくれます。
『今から1300年ほど前、幸徳天皇・白雉2年(651)天竺の法道仙人により開創された真言宗の古刹。本尊・十一面観音菩薩、脇侍・不動明王・毘沙門天で、古来東向観音の霊場として知られ、その後寛文5年(1665)姫路・慶雲寺・中興開山南室和尚により選定された「播磨西国第20番霊場」として知られる。江戸時代は1院13坊あり、寺禄210石を領していた』
八重桜が満開です。無縁墓石が集合された場所があり、その数の多さが歴史を冠させます。掲示されている地図を見ると、裏山に展望所などがあり、ハイキングコースになっているようです。聖天堂に入ると、セルフサービス御神籤がある。鐘楼があったので、一突きしてみる。鐘の音はいいね。
石祠にお地蔵様と観音様2体が収まっています。同じものがたくさん立って道が山を上がっています。これが整備され、ハイキングコースになっているのかもしれません。石灯籠が並ぶ参道をゆるく上っていくと、本堂があります。小さな石像が並ぶ脇道もあります。蟇股や木鼻の彫刻が立体的で手が込んでいます。靴を脱いで本堂に上がると、天井絵が見えてきました。横柱にも彫刻が入り、豪華なお寺であることがわかりました。西脇の財力が見えます。本尊・脇侍は扉が閉ざされ拝めず残念でした。
庚申堂が見えます。庚申信仰の名残は、あちこちで見ますが、メンテナンスされたお堂が残っているのはそれほど多くないように思います。「あじさい羅漢」というのがありました。
『自作の石像羅漢を納めたいと願う人のために作業場を設け、石材・用具などを準備し、初心者には指導し、自由な羅漢像を苑内に奉納して頂いている。羅漢というのは、煩悩を滅するための修行をされている方、お釈迦様の教えを伝える修行者という意味で、その姿は最も人間的であり個性的に表現されている。この寺に納められる羅漢さんを「あじさい羅漢」と称し、老若男女、上手下手にとらわれず、自由奔放に彫刻されることを願い、将来素晴らしい羅漢像群が出現することを願っている。奉納料は1対3万円で、代作する場合は、プラス5000円をお願いしています』
各地にある羅漢像群は、こうして作られていったのでしょうか。天気が良く、山の若葉の緑が映えている。冬の枯葉色の山が、生き返った若い山になったようです。所々に山桜の薄ピンクが見え、アクセントになっています。
R427〜R175を戻り、加古川を渡りr294に入り、家内の友達の実家のお寺の前を通り、8:11「荒神社」。『荒神社のムクノキ 県指定名勝天然記念物 周囲650cm・樹高26m・樹齢650年・枝張り南北16m東西13m 兵庫県下4位の大きさ 全国15位以内』。巨大な幹で目立っていました。横には、「ふれあい館」という建物がありました。味わいのある建物で、神社の横にかつては小学校だったのかな?と想像しました。
R175に戻り、R427に入り、杉谷川沿いにある「西仙寺」に8:30到着。ここも八重桜がきれいでした。サルスベリの木の横を通り山門。ここは仁王像ではなく、阿吽の毘沙門天像が守っていました。山門をくぐると、ゆるく上る参道が森の中に消えています。ゆっくり歩いていくと、「四国へんろみち」という枝道があり、沿道に石祠がたくさん立っていました。八十八ケ寺あるのでしょう。
落ち着いた黄色の装束を羽織った僧侶さんが降りてこられたので、挨拶をする。本堂が現れ、靴を脱いで上がってみると、こちらも蟇股や木鼻の彫刻が見事で、思わずカメラを構えました。お大師様の像があったので、真言宗の寺院のようです。
ブーン、先程のお坊さんがバイクで上って来て、再建中で土台だけになった建物の幕の中に入り、お経を上げておられました。江戸時代と思われる墓石が並んでおり、歴史の古さを感じました。
r146〜r346で南下し、左折してr34で東進し、JR加古川線を渡ります。r17で南下します。「ジャパン滝野店」の店頭に、証明写真ボックスがあったので立ち寄ります。夫婦で秋に、長男一家に会いにアメリカに行こうと思っているので、僕はパスポートの更新、家内は取得します。パスポート用写真を撮ります。
家内がトイレに行っている間に、僕はボックスに入り操作します。初めてのボックス写真なので、説明を読むのに時間がかかりました。出来上がった写真を見たら、見事に囚人Aになってました。800円。続いて家内が入り、操作を教えてあげようとしたら、経験があるようで必要ありませんでした。エクセレントな仕上がりの1000円のを選択していました。お綺麗な女性の証明写真の出来上がりです。僕が「囚人だ〜、歯を見せたらダメと書いてあったから無表情を意識したからかなあ」と嘆いていると、「お父さん、実物の方がずっと良いよ、私は歯を見せずに微笑もうとしたよ。もう1回撮ったら」と、証明写真ボックスアドバイスをくれました。面倒なので、これでいいです。
店内に入り、9:25紀文・切れてる厚焼き玉子116円+横綱あられ170円+パウンドケークフルーツ321円+おにぎり3個198円(手巻きおにぎり明太子2+ツナマヨ1)を購入しました。まだ昼前というより朝が終わったばかりなのに、この日2食目です。r349で南下し、r145にチェンジします。枝道に入って北上し、9:41「奥山寺」。
『白雉(はくし)元年(650)法道仙人が開山した真言宗寺院で、姿の良い多宝塔を持つ。宝永6年(1709)再建されたもので、木造3間瓦葺き、垂木は平行垂木で上重組手は四手先組になっている。棟梁は宇仁郷大工村(加西市大工町)神田作左衛門実清と伝えられている』
西林寺と同じ大陸からやってきた法道仙人の開山でした。急な階段だったので、迂回路を選択して本堂曲輪に上がった。本尊は十一面観音菩薩と書かれており、本堂の破れ襖から覗いたが、扉が閉ざされており拝めなかった。蟇股の彫刻は立派です。経済力の証です。
更に石段を上り、朱色が鮮やかな多宝塔を観に行きます。そこから更に奥に小道が続き、鎮守社がありました。この寺院にも、石祠がたくさんありました。西脇地域の流行りのようです。
r145に戻り西進し、r79〜r24で、10:22「普光寺」。『行者道の案内 鎌倉山は高くて美しく大きな石座(いわくら)を持ち、近郷一円の水源でもあるため、古くから神体山として崇敬され、神話や佐保神社の神社記によれば、鎌倉山から降臨された神であると記されています。鎌倉山に連なる峰々は、明治35年(1902)大峰山に模して行者道が開かれ、東南麓の行者道登り口を起点に、宝来山鎌倉寺(蓬来山普光寺奥の院)を終点とします。従って現在地は、途中の登り口です。行者道に合流して右折すれば起点に戻り、左折すれば終点に達します。まず鉢尾峠(大天井)を経て、「東の覗き」に着けば岩座に役行者像が安置されています。柳峠を横切り鎌倉山頂に着けば、法起菩薩像が安置され、周辺の広場はその昔護摩を焚いて雨乞いした跡です。天候が良ければ、南に広大な播磨平野が一望でき、遠く明石海峡大橋や瀬戸大橋も望めます。東に下り「西の覗き」抹香岩(まっこういわ)に着けば、岩壁に役行者像が刻まれています。やや引き返して下れば、終点の蓬来山鎌倉寺に着きます。寺伝によれば、神亀6年(729)中衛大将藤原房前公の御願により、徳道上人の開山と伝えられている』
山寺なのに駐車場がしっかりしているなと思ったら、行者道ハイキングコースがあるのですね。停まっている車はハイカーの方のようです。寺院の方からリュック背負ってバイクに戻って来られた男性がいたので、「ハイキングの帰りですか?」と聞くと、これからだそうです。僕らでも歩けそうか情報を得ようと思ったが、残念。A4コース地図があるということで、横のボックスから取ってくれた。「お気をつけて」と声をかけて別れました。
灯籠が並ぶ参道を歩くと弁天池がありました。「照一隅小僧」という石像が立っています。灯籠全てに「照一隅」と書かれているので、天台宗寺院のようです。比叡山の東側琵琶湖への玄関・坂本の天台宗・宗務会館に行くと、この文字が目立ちます。
『普光寺沿革 当寺は天台宗・蓬来山普光寺と称し、比叡山を本山とする。白雉2年(651)36代孝徳天皇の勅願寺として法道仙人の開基。播磨六山の1つとして栄え、将軍徳川家光公より寺領50石の朱印を賜った。昭和13年本堂・鐘楼堂など焼失した。昭和15年本山よりご本尊千手観世音菩薩をお迎えし、仮堂を信仰の場としたのでるが、昭和44年寺檀一致協力し再建に着手し、翌年落成した。鉄筋コンクリート製、播磨西国17番霊場である』
鉄筋コンクリート製故、建物に見るべきものはなく、鐘楼も鉄筋コンクリート製だった。『おびんずるさま 賓頭盧尊者という。白髪で長い眉のお顔をした十六羅漢で、長くこの世に住み多くの人々を救った。伽藍の前に安置し、自分の患部と、像のその部分とを交互に撫でると治るという信仰が、民間で行われている』
頭の衰えと足腰の衰えを遅らそうと、撫でました。
r24に出て、r369に乗り継ぎ南下し、中国道をくぐり、側道に乗って西進します。r23に乗り、中国道とパラレルしながら西進し、福崎市内に入って播但道をくぐり、11:21「柳田国男生家」着。家内と池からカッパが出現するのを眺め、天狗が移動するのも見ました。これを見せたかったんですよね。本当はチビちゃんがいる方が面白いんだけどね。
R312に出て市川を渡り、r405〜r406に乗り換え、山に向かいます。11:59「金剛城寺」。推古天皇の時代、高麗の恵灌法師を招いて開山。本尊・十一面観音は一刀彫。焼失十数度を経て、1300余年を経た。嵯峨天皇の御代、弘法大師が留まり、真言宗となった。
こちらの裏山は、特に若葉の燃え立つ若い緑が濃かった。立派な山門で、彫刻も素晴らしい。ここまで播磨の未訪問寺院を見てきたが、上国の播磨故か、都会から離れているにも関わらず、彫刻など経済力を感じさせる造作ばかりだった。仁王像が、ドーンと睨んでいた。
また鐘楼があった。僕ばかり撞いていたので、家内が撞いてみた。いい音です。ここの本堂の蟇股の彫刻は、とびきり立派で素晴らしかった。何度も火災に遭いながらも1300年の歴史を繋いできた誇りを感じます。龍に玉眼が入っています。「丸に二引両紋」でした。播磨の雄・赤松氏の息がかかったからか・・・。いい感じの渡り廊下があり、それをくぐると苔むした石段が登っており、墓地に続いていました。「四国八十八ヶ所霊場」巡り出来るようになっており、それぞれの霊場に同じ前掛けと同じ花が活けられ、揃って綺麗でした。
その奥に鎮守社がありました。播磨は、明治維新時の神仏分離令により沸き起こった廃仏毀釈運動が弱かったのか、神仏習合時代のままの寺社配置の寺院が多いな。弁天池がありました。メガネを掛けた児童石仏が本を読んでいます。隣には、子を抱える石仏があり、和みます。「七種山金剛城寺」と書かれた小型手押し消防車が置いてあり、骨董品の風格です。
r406〜r405で、R312に出る寸前、「ひの一ストア」でいちごを買いました。店頭の看板で、美味しそうないちごを宣伝していたからです。R312〜r23で東進し、中国道をくぐり、北条鉄道を渡ります。r43に入り、12:56「多聞寺」。
小さなお寺なのに、駐車場が充実しています。30台は停められそう。この日は僕1台です。ここは、この日一番訪問したかったメインディッシュです。黒田官兵衛配下の「黒田24騎」の1人で、真田幸村と共に大阪の陣を戦った「大坂城五人衆」でもある後藤又右衛門の菩提寺で位牌を供養しています。
黒田官兵衛と恋仲だった娘が、赤松内部の抗争で死にますが、一説にはその娘との間の子ではないかとさえ言われています。後に黒田家当主となる息子の黒田長政とともに育て、長政の参謀にしようとしたが、反りが合わず、勘兵衛没後に黒田家を離れます。長政が他大名に奉公構を出され、浪人の身となる。起死回生を狙った大坂の陣、冬の陣では徳川軍を撃退したが、堀を埋められた翌年の夏の陣に至り、道明寺の戦いで討ち死にした。
武士らしい生き方をした人で、今でも多くの人に好かれている。戦国末期、信長・秀吉・家康が活躍した時代のバイプレイヤーです。
山門前に、「禁葷酒」と刻まれた大きな石柱が立っている。禅宗のお寺だなあと見ると、曹洞宗となっていた。『大坂夏の陣・河内道明寺の戦いで後藤又兵衛が討ち死にした翌年・元和2年(1616)、又兵衛三男・佐太郎が、父と兄を弔うため、岩本官兵衛から土地の施しを受け、又兵衛の一周忌に合わせて多聞寺を建立した。現在も又兵衛の真牌(位牌)を本堂に奉安している。西隣の大村町には、三男佐太郎の末裔の方が、現在も住んでおられる』
位牌は見られなかったが、写真が載っていた。『法名 西照院殿夏安道蓮大居士 住職いわく、「院殿」は殿様しか着けられない法名。大坂から見て西方向で活躍「西照」し、大坂「夏」の陣「道」明寺の戦いで、「安」らかに眠られたという思いが込められている』
位牌の裏には、『大織冠鎌足公苗裔鎮守府将軍藤原秀郷23代後裔、播磨国住人後藤又兵衛尉基次、元和元年5月6日於河内国道明寺戦死。行年53。孝子太郎正方識之。』と書かれている。
葬式仏教のお寺という構えの何処にでもあるようなお寺ですが、本堂の蟇股の彫刻がなかなかのもので、播磨の寺院は彫刻にお金をかける文化があるのかと思った。本殿には、NHK大河ドラマ「真田丸」のポスターはじめ後藤又兵衛関連のポスターた案内・パンフレットが貼ってありました。裏の墓地も巡ってみましたが、めぼしい掘り出し物はありませんでした。
r43に乗り、また南へ北条鉄道を渡ります。R372に乗り篠山方面へ、今度は北条鉄道を北に渡ります。r23に乗り、JR加古川線を渡り、加古川を渡ります。R175を渡ります。ハナミズキの街路樹に白い花が咲いています。r75にチェンジし、13:41「浄土寺」。
『奈良東大寺を再建した重源(ちょうげん)上人によって、鎌倉時代・建久年間に建てられた。東の丘陵から伸びる尾根先端を、寺院の場所として選んでいます。浄土寺から見れば西が開け、大きな空が広がっています。夕方になると美しい夕日が望め、仏の住む国・西方浄土が実感できるように工夫されている。周囲には水田が広がっていますが、かつては浄土寺を本寺として、それを守るように塔中寺院と呼ばれる寺院が多数存在していた。現在は歓喜院(南寺)・宝持院(北寺)の2院となっていますが、14院あった』
平安末期、何かと強訴してくる南都勢力を抑えるため、平清盛の命で南都攻めが行われ、東大寺の多くの伽藍も灰となりました。それを再建したのが重源上人です。
奈良のお寺のような素朴な屋根様式が見えます。境内に入ると、藤棚が紫になっており、藤が下がっているほどではありませんが、咲いています。
『国宝・浄土寺浄土堂 重源上人が入宋して学んだ「天竺様」建築技法を用い、建久5年(1194)上棟された。天井を張らない化粧屋根裏、太い円柱に差し込まれた肘木、それにかかる虹梁、鼻隠板を打った軒などにその特徴が伺える。東大寺南大門とともに、「天竺様」を伝える貴重な建物で、お堂としては日本唯一のものである』
『国宝・阿弥陀如来・両脇侍立像 三尊とも快慶の作。浄土堂の本尊で、観音・勢至菩薩を両脇侍として立つ丈六の巨大木像である。好天の日には、堂背の蔀戸(しとみど)から射し込む西日が床に落ち、その反射を背景に、西方浄土から雲に乗り、早来迎される阿弥陀三尊のお姿を拝することが出来る。「天竺様」−「大仏様」ともいわれる』
拝観料500円払って、早速本堂内へ。前回、ツーリングマップルに「国宝」とあったので寄った場所ですが、あまりに凄い仏像に度肝を抜かれて、播磨生まれの家内に見せようと思っていました。
この本堂は一度も焼けたことがなく、雨ざらし状態になったことも、何度もリニューアルを受けていますが、鎌倉初期のままの姿を保っています。三尊はまだまだしっかりと金箔が残り、金色の姿を見せています。
前回、「この金箔はいつリニューアルしたものですか?」とお聞きしたのですが、「当時のままです」との答えにたいそう驚きました。800年も金箔が落ちすに残っているなんて信じられず更に聞くと、東大寺の大仏などは煤払いと称して払うから、その度に金箔が落ちてしまい金箔の落ちた渋い姿になっておられるが、ここ浄土寺三尊は一度も煤払いをしていないので、金箔が落ちないんだと説明して頂きました。
奈良のキトラ古墳の内壁に彩色が残っているのと同様、昔の技術者の腕は、現代人のそれを凌駕しているように思えてなりません。
この金色の仏像の背から、床に反射した夕日が射すのだから、「これぞ後光」という姿になられるのかもしれません。一度観たいものです。床に座り、7分間のテープの説明を2度の聞き、大満足でした。
前回リニューアル中だった境内の八幡社が完成しており、じっくり見させてもらった。鐘楼を見て、家内は北側に石段を降りていきます。北の宝持院を見て、家内はそのまま北に歩いていきます。「ははあ、迷子になってるな」と思い、「車こっちだよ」と明後日の方向を指差すと、「あれ、そうなの?」と笑っています。家内の方向音痴は、いつも笑わせてくれます。宝持院は九曜紋でした。
加古川の姉の家に行く予定時間16時にはまだ早く、お寺から見えているカフェ「旬菜きらら」さんで、デザートセット500円×2=1000円で休憩する。デザート3品・ドリンク付きなので、これはかなりリーズナブルです。14:23にお店を出ます。
r23〜R175〜r18で、加古川土手道路を南下します。R250まで南下し、R250を東に進み。15:43義理姉夫婦の家着。次の日曜日に引っ越すので、床は未整理の荷物が置かれ、足のふみ場を考えなければなりません。今度は明石のタワーマンションなので、すべての荷物が入るスペースはなく、1/3にしてくださいと引越し屋さんから言われており、「あれもこれも持って帰れ」と姉妹の「あ〜だこ〜だ」が早速始まりました。
家内の実家は、両親が亡くなり取り壊し、駐車場になっています。結婚した頃は、僕が我が家と加古川の家両方見ることになるのかなあと思っていたのですが、実家が資金提供し義理兄が近くに開業し、住んでくれたので、家内も親のことを姉任せにできて助かりました。
姉の長男が、大工場のある加古川の立地故アトピー性皮膚炎を発症したことがあり、もうここに帰ってくることはなく、野村不動産で売りに出しています。長女が住む明石を終の棲家にするそうです。
子供たちに老後の面倒をかけられないからと、加古川から出る決心をしたのですが、3人の子の家は全て兄が資金を出しており、なんぼ迷惑を掛けても平気だと思うのですが・・・。
車もクラウンと姉の車2台だったのに、プリウスとノートに小型化されており、先を考えた変貌にびっくりしました。長男にあげちゃったのかな?
我が家に持って帰るものを車に積み、取ってくれたお弁当を美味しくいただきました。姉から、月命日に毎月やってくるお寺さんの車が凄いとの話を聞きました。四輪車ですが、免許要らずで乗れ、駐禁にも引っかからない1人乗り自動車とのことです。そんな車はあるのか?と不思議でした。
19時にお寺さんがやってきて、仏壇のお性根抜きの法事をしていただきました。マンションなので、フルサイズの仏壇を置く仏間がないので、マンションサイズの厨子になるそうです。そこで、フルサイズ仏壇を処分します。
法事が終わり、あれこれお寺さんと喋ります。姉夫婦は同じ大学の同級生ですが、お寺さんはそこの後輩です。前から気になっていた浄土宗と浄土真宗の仏壇お違いを聞きました。浄土真宗には位牌がないそうで、過去帳に自分で戒名などを記入し、それを代々伝える方式なので、仏壇内に位牌を置く棚がないそうです。だからスッキリしているのだとか。
父が亡くなったとき、仏壇を購入したのですが、浄土宗と宗派を伝えると、ではこちらからお選びくださいと連れて行かれました。浄土真宗さんのエリアは、仏壇内部が金ピカだったので、金ピカが浄土真宗で、落ち着いたのが浄土宗だと思っていました。ところが、家内の実家は京都永観堂末寺の浄土宗なのに、仏壇内部が金ピカなので、不思議に思っていました。長年の疑問が消えました。
お寺さんが帰る時、問題の車を見せていただきました。やはり四輪の自転車ではありませんでした。「トヨタ・コムス」という電気自動車でした。コンビニが配達に使っている車です。ダッシュボード下にコンセントがあり、家庭用コンセントから充電出来るそうです。職業柄、法事のお宅の横に路上駐車することが多く、車幅が狭いので、駐禁にならない場合が多くなったそうです。
最高速度は60km/hで、1人乗り。原付免許で運転でき、ヘルメット着用義務はありません。高速道路は走れません。左右ドアはなく、ホロを着けておられました。EVなのでエンジン音はなく、タイヤの音だけでスーッと出ていかれました。
帰宅後、いくらするのか調べたら、新車価格はベーシック70万〜80万まで4種ありました。後部の形状のみが違うだけで、キー付きトランクボックスタイプが82万、キー付きデリバリーボックスタイプが79万、デッキタイプが75万、何もないタイプベーシックが69万です。
20:32に出発し、R250〜加古川バイパス〜第二神明道路〜阪神高速7号北神戸線〜中国道で、21:40自宅近所のスーパー着。僕の命の源なのに在庫がなくなった職場用のプレーンヨーグルトを6個買いました。
21:50にスーパーを出発し、21:53自宅着。もらってきた荷物を実家に置き、少し遅くなりましたが風呂に入り床につきました。なんとか22時台に寝ることが出来ました。

2017/4/16
コーチしてる大学ヨット部の新人勧誘の手伝いの日です。大学から琵琶湖の艇庫まで、新入生を運びます。9:30の便の運転手をします。1週間前同様、そろそろ終わる桜を求めて、それまでの時間を京都散策することにしました。桜で有名な京都のスポットで、朝早い時間帯ということで、24Hオープンな神社を中心に計画を練りました。円山公園・平安神宮・上賀茂神社・平野神社は、何度も訪問したことのある場所です。上品蓮台寺・西陣聖天宮・六孫王神社は、訪問したことがありません。
土曜日帰宅すると、家内から「お父さん、明日何時からなの?」。「私も京都に桜観に行きたいなあ、10:30に大阪に行かなきゃならないのだけど、行けるかな?」「もちろん一緒に行こう、電車ルートなどを考えるから任せといて、ありがとうね」「何時に出発?」「起きたら、5時に出発したいけど、無理しないで。用意ができたら行こう」
先週の訪問地と満開の桜のことを話していたので、行きたくなったのでしょう。京都から家内の大阪の目的地を結ぶ京阪電車の時刻表を調べ、桜探索計画を決定し、ポータブルナビに登録したので、寝るのが少し遅れ11時になっちゃいました。当然いつもの4時の目覚めが遅れ、5時に目覚めました。慌てて階下に降りたら、家内はお風呂に入っており、速攻で着替えました。車に荷物を積み込み、5:33に出発しました。
豊中ICから中国道に乗り、名神高速・京都南IC下車。R1を北上し、東寺交差点を曲がらず直進し、6:20「六孫王神社」。六孫王は、清和天皇の第6王子の子で、「源」の姓を賜り、臣籍降下されました貴族武将・源経基で、清和源氏の祖です。
桓武平氏の勢力下だった関東に下り、自らの勢力拡大のため地元豪族と揉め事を起こし、武勇が抜きん出て一大勢力を誇った平将門に包囲された所で、京に逃げ帰り「将門が朝廷に対し謀反を起こした」と吹聴し、「賊軍・将門」の立場を作ります。将門追討軍の将となり、京を出発し関東に向かうが、到着した時には既に俵藤太秀郷によって将門の首は取らてていた。ほぼ同時に瀬戸内海西部を本拠として起こった「藤原純友の乱」にも将として追討軍に参加したが、こちらも小野好古の活躍で勝利して京に凱旋するという強運の持ち主です。
ここに六孫王・経基が祀られていると知り、期待を膨らませての訪問です。ソメイヨシノは終わりかけでしたが、枝垂れ桜が見頃でした。小さな池に朱色の太鼓橋がかかり、池面をソメイヨシノの花びらが覆いいい感じです。薄緑の桜が咲いており、造幣局の今年の花「鬱金(うこん)」だと思ったら、「サトザクラ」となっていました。帰宅後調べたら「サトザクラ」は園芸品種の総称ということなので、品種は「鬱金」で間違いないしょう。
玉垣・神門は、予想外に立派で、こんな神社を見つけられてラッキーでした。真横を新幹線の高架が通り、京都駅に入る新幹線がひっきりなしに通るので、神域を感じることはありませんが、桜の穴場であることには間違いありません。
『清和源氏の祖・六孫王経基を祀っている。この地は経基の邸宅のあった場所で、その子・源満仲が応和年間(961〜963)に社殿を建立した。元禄13年(1700)当社北隣・遍照心院・南谷上人(能筆・作庭家)が幕府に請うて再建し、鎮守とした。これが現在の社殿である。本殿に経基、相殿に天照大神・八幡大神を合祀している。本殿背後の石の基壇は経基の遺骸を納めた場所で、神廟と言われる。境内北の弁天堂内には満仲誕生水がある。古くから京都名水の1つとされている。江戸時代は源氏縁の神社として、武家の信仰が厚かったことは、境内石灯籠に松平吉保など諸大名の寄進者名が見えることで忍ばれる』
木彫りの小型白馬が、神馬舎に収まっていた。
『王は生まれつき気質温厚で好文博学にして武道にも励み、承平天慶の乱にも鎮守府将軍として任地に赴き乱を平定、その功により天皇より源姓を賜り、源朝臣を名乗ることになり、やがて武門の棟梁として名を天下に知られることとなった。経基王は64才で薨去され、遺言に「亡き後も霊魂は龍(神)と化し、この西八条亭の池(境内中央の神龍池)に住みて、子孫の繁栄を祈らん」と申された。御子の源満仲公が応和3年(963)に王の邸宅であったこの地に葬り、その前に社殿を建立したのが当社の始まりである。
鎌倉3代将軍・源実朝が、公暁に暗殺された時、実朝夫人が亡夫の菩提を弔うため出家し、この地に庵を結び、萬祥山大通寺と号し、六孫王神社を鎮守社として明治維新政府の神仏分離令により、また東海道線敷設により、九条大宮南へ移築される迄盛衰をともにした。
特に北条政子(頼朝夫人)が、室町時代は代々将軍家が多くの社領を寄進し、源氏の宗社として保護したが、足利義満の時代に社殿仏閣がほとんど炎上し、応仁の乱により社領を奪われてしまった。江戸時代に入って元禄13年より徳川家・清和源氏嫡流諸侯共に再興に取り掛かり、宝永4年(1707)に竣成し、盛大に祭儀が執行された。元禄14年、東山天皇より権現号・正一位の神階を賜り、名実ともに京都洛南の名社として栄えた。
末社の弁財天像は、弘法大師作と言われ、経基王が子・満仲誕生の折、産湯に使われた井戸の上に祀ったところから誕生水弁財天と呼ばれ、幼児の守護神(井戸の水は安産・健育の産湯として都7名水の1つに数えられていた)として、無病息災の守り神として。霊験あらたかな絵ご祭神である』
源氏の巴紋の入った瓦、絵馬掛けには多くの絵馬、おみくじが枝に下がっています。朝一番ということと観光コースから外れていることで、ゆったりと鑑賞できました。家内はおしゃれのため薄着してきたので寒いと、毛布を羽織っての拝観ですが、写真写りの良い女性がいると華があっていいです。朝、黒い柄ストッキングを履いているのを見て、「綺麗だよね」と思わずスリスリしちゃいました。細くてまっすぐな脚が気に入っています。
堀川通に出て北上します。「西本願寺」横を過ぎ、「二条城」を過ぎ、1ヶ月前家内と「福家堂本舗・京都ロケ地巡り」で来た堀川を過ぎ、左折して枝道を入って6:54「雨宝院・西陣聖天宮」。聖天さんは男女のまぐわいの神様、ちょっとエロチックで、でもとても大事で、いつも不思議な秘めた何かを感じる。
『北向山雨宝院と号する古義真言宗の寺で、「西陣の聖天さん」として親しまれている。本堂に安置する本尊「聖天(大聖歓喜天)像」は、821年弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の御悩平癒を祈願して安置したものとされ、それが当寺の始まりと伝えられる。観音堂に安置する千手観音立像は、重要文化財に指定され、大師堂の本尊は汗をかくほど辛いことでも助けてくれる「阿吽汗かき弘法大師像」として知られている。境内南東には、その水を染物に用いるとよく染まるとして有名な「染殿の井」があり、夏の干ばつ時でも涸れることがない。本堂前の「歓喜桜」は、御室の八重桜と同種のもので、根本から八重の花を咲かせる。その隣にある「時雨の松」は、久邇宮(くにのみや)智彦親王が当院参詣の折、その下でにわか雨をしのがれた』
八重桜と枝垂れ桜が満開で、コンパクトな境内を華やかにしている。
『日本最古とされる大聖歓喜天が祀られる寺 大聖歓喜天は象頭人身の像で、多くは男女2体が抱き合う姿で表され、財宝・夫婦和合を祈る本尊とされる。この寺の歓喜天は単身の像とされていますが、絶対秘仏のため姿を見ることが出来ません。歓喜天は古代インドでガネーシャと呼ばれる粗暴で邪悪な神でしたが、仏教に帰依し、魔障を取り除く神となった。広大な境内を誇りましたが、応仁の乱で荒廃し、のちにその子院・雨宝院のみ再興されました』
本堂は覗き穴で覗けるようになっており、歓喜天の神秘性もあってドキドキしながら覗きます。本尊を見てみたいが、秘仏故当然見えませんでした。歓喜天像は、その刺激性故か多く秘仏で、たまに見ることができると、なるほどねと思います。
『染殿井 染色に適した軟水で、西陣の染色業者達が「染物がよく染まる」と重宝した。本隆寺の「千代の井」、首渡八幡宮の「桜井」、個人宅にある「安居井」、鹿子井とともに「西陣五水」に数えられる。染色には大量の水が必要ですので、狭い区域にこうした井戸が沢山あることも西陣が染物で栄えた理由の1つだったかもしれません。因みに京都御所内にも清和天皇の母君が住まわれた「染殿」にちなむ「染殿井」という同じ名前の井戸があります。飲料には適しませんので、手水としてご利用ください』
ここの手水は、流水ではなく井戸水を直接汲むようになっています。
『千手観音立像 平安時代初期の漆箔観音像 この像は、千手観音にしては腕の数が少なく、実際のところ10本しかありませんが、かつては多くの腕を持っていました。切れ長の目を閉じ、静かに胸の前で合掌して立っています。指先に至るまで、気品あふれる優美な像です』
このお寺は、桜鑑賞の最適日でした。
枝道を西に走り、南下して「今出川通」に出て更に西進すると、先月「福家堂本舗ロケ地巡り」した「上七軒交差点」から「北野天満宮」前を通ると、京福電鉄北野線終点の「北野白梅町駅」が正面に見えます。北野白梅町、なんて素敵な地名なんでしょう。西大路通を北上すると平野神社の裏・西になってしまい、北側を迂回して東側の正面駐車場に来ました。7:14「平野神社」。
僕の中では、京都の桜ナンバーワンスポットです。朱鳥居前ににしだれ桜が下がり、良いじゃないですか。流石にここはこれまでの寺社と違い、桜目当てのcamera小僧が多くいます。枝垂れが満開で、今が旬です。「庭桜」という品種の小ぶりの桜が綺麗に咲いていました。家内が、これ可愛いから庭に植えたら?と言いますが、桜は毛虫が発生し、長男が刺された時、父が怒って切り倒した因縁があります。これは大丈夫なんだろうか?要チェックです。
『沿革 奈良時代末期の延暦元年(782)『続日本紀』に「田村後宮の今木大神に従四位を授ける」とあり、平城京の内に祀られていました。ここは桓武天皇の父・光仁天皇の御所でした。この地には延暦13年(794)平安遷都と同時に御遷座されました。当初境内地は方八町余(1.2km四方)で、京都御所とほほ同じでしたが、時の変遷と共に現在の200m弱四方となりました。
御神階 平安時代になると御祭神は急に位が上がり、貞観6年(864)には今木皇大神が正一位の位を授けられました。その前年貞観5年には久度・古開両大神に正三位、比賣大神は従四位上に叙させられています。
社格と称号 『延喜式』(律令の施行細目、平安時代初期の延喜年間に着手され延長五年(927完成)によれば、全国唯一の「皇太子御親祭」が定められた神社です。同式の「神祇官式・祝詞」には「皇大御神・皇大神」と称され、また「東宿坊式」には「神院」と言う宮中神と同様の扱いを受けております。『文徳天皇実録』仁寿元年(851)には勅使を「平野神宮」に遣わすとあります。全国でも数社に限られる「皇天御神・皇大神」「神宮」。宮中神である「神院」これらの尊称から宮中外の宮中神であったことが窺えます。このようなことから当社は皇城鎮護の神を定めた「二十二社」の五位に列せられました。また明治4年には官幣大社に列格しております。
宮中・平野御竃 『延喜式』の『内膳司式』によれば、天皇の食を饗する御竃には「平野・庭火・忌火」の3竃があり、庭火御竃は平時の食膳、忌火御竃は祭時の食膳を饗し、平野御竃は健康・吉祥を司る御竃であるとされています。これは平野四神の御神徳が一体となり常に宮中と関わりを持ち、天皇をお守りしていた事にほかなりません。
ハ姓の氏神と伝奏家 奈良時代末期から「臣籍降下(皇族が源氏・平氏などの姓を賜り臣下になること)」の制度が定まり、臣籍降下した源氏・平氏はじめ高階・大江・中原・清原・菅原・秋篠各氏氏他天皇外戚の氏神であるとされ、臣籍降下の流れを汲む公武に尊崇されました。当社が宮中外に祀られたのは、この臣籍降下と深く関わっているようです、『源氏物詣』の光源氏は臣籍降下した一族の繁栄を願った平野大神の顕現であるとの説も一理あるようです。江戸期には平氏嫡流の公卿、西利腕家が当社の伝奏家(天皇に取次言上する役)を勤め、現社殿の復興をいたしました。東大鳥居の「平野皇大神」の御神号額は、当代の西測院文昭氏の揮毫です。
異説 中世期、仁徳天皇が平野の神であると言う説が広く信じられていました。これは仁徳天皇が民家に煙が立たないのを御覧になり、免税したと言う逸話を当社の竈神に付加した説です。江戸時代に国学者の伴信友が著作『蕃神考』で、「今木神は百済王なり」にとの説を、根拠となる史料を改宣(自説に都合よく変える)して唱えました。今でもこの説を敷桁した説が時折出されますが、学問上では否定されています。
名所・桜苑 江戸時代には「平野の夜桜」として桜の名所として全国に知られ、特に珍種が多く現在も約50種約400本の桜が植栽されています』
種類が多いので、春は長く桜を楽しめる神社でしょう。枝垂れ桜が満開ですし、「衣笠」という品種も綺麗に咲いています。本殿内から塀玉垣を越えて枝を張る「白雲桜」の真っ白な花が満開で、板塀とのコントラストが素敵です。背が低い「一葉桜」が地面近く満開になっており、八重に咲いて綺麗です。境内の一部は、散った桜の花弁で敷き詰められている感じになっており、地面さえ綺麗です。平野神社を東に出て、紙屋川を渡り、北野天満宮の北縁を東に沿い、そのまま「千本通」に出て左折し、千本通を北上しました。すぐに目指す「上品蓮台寺」に到着、7:38。
駐車場がわからず一周して、仕方なく路上駐車して車を離れると、駐車場が目の前にありラッキー。駐車場が桜舞い散る一面の花びらで素晴らしい。背の低い枝垂れ桜が、鐘楼の前に華を与えています。ここも満開で、花期の短いソメイヨシノだけが見納めになっているのだなと、改めて思いました。よく手入れサラタ枝ぶりの枝垂れが多く、造形美を感じます。優秀な庭師を感じます。井戸の桶が竹で、風情があります。
参拝出来ないお寺ですが、中の覗くと渡り廊下がお庭を渡り、いい雰囲気です。少し歩くと良いアングルが見えてきて、激写激写で、なかなか前に進めません。竹で作られて手水に桜の花びらが重なり、ナイスです。底の浅い側溝が花びらで埋まり、ピンクの道になっています。紅白ツートンのチューリップが綺麗に並んで咲いています。「別名:桜寺」と呼ばれてもいいほど、桜をフューチャーしたようなお寺でした。
千本通を北上すると、佛教大学がありました。正門前交差点を斜め右に進むと、次の交差点名が「紫野泉堂町」という名で、これまた風情がある。道なりに東に進むようになり、堀川通に出て左折し北上。賀茂川を御薗橋で渡り、7:59「上賀茂神社」。駐車料金は、「30分以内100円」で、30分で戻ってくるぞ。家内は「寒いから車で待ってる」だって・・・お洒落は我慢なのだそうです。
開店前ですが、植木市をやってるようです。神馬舎を覗くと、白馬は出勤前のようです。内鳥居前の枝垂れ桜が綺麗に咲き誇っています。
『上賀茂神社と謡曲「賀茂」 秦氏の妻女・玉依日売(たまよりひめ)が、当地の御手洗川で水を汲んでいると、白羽の矢が流れてきた。持ち帰り、軒に挿して置いたところ懐妊し男子を産んだ。その子が3才の時、父は雷と知り、天に昇って別雷(わけいかずち)神となる。この神を杞ったのが当神社で、正式名を賀茂別雷神社という。神社は京都でも最も古い神社の1つ。雷神を祀ることから、厄除けのほか、五穀豊穣の神として農民の信仰を集めた。謡曲「賀茂」は、こうした神社の縁起から創作された曲で、五穀豊穣・国土守護の神徳を讃えた「初能物」である。平安時代初期から400年に渡って、伊勢神宮の斉宮と同様に斎院が置かれ、歴代皇女が奉仕してきたこともある』
玉依姫は、古事記・日本書紀に数人登場します。『「心霊を寄り付かせる娘」と言う意味で、名前というより普通名詞に使う』と、僕のコンパクト神話辞書に書かれている。最も有名なのが、綿津見の娘で、豊玉姫の妹・玉依姫です。葦原中津国(日本列島)に天孫降臨した天照大神の孫ニニギと、絶世の美女木花咲耶姫(このはなさくやひめ)との子・山幸彦物語に登場します。
兄・海幸彦の釣り針を亡くしてしまった山幸彦は、兄に叱られて竜宮城のモデルになる海の底にあるワダツミの御殿にやってきます。歓待され、魚の助けで釣り針を見つけ、好きになった豊玉姫と結婚し、地上に戻ります。
やがて子を産みますが、「絶対に見てはダメよ」と山幸彦に言ったのに、見てしまいました。山幸彦は、豊玉姫が本当の姿・サメになって出産しているのを見て驚いてしまいます(鶴の恩返しのモデル)。
怒った豊玉姫は泣きながら海に帰ってしまい、赤子の世話ができない山幸彦は困ってしまいます。そこに登場するのが、妹の玉依姫で、赤子を立派に育て上げ、やがてその子の妻になり、神武天皇を産みます。神武天皇の母としての玉依姫です。上賀茂神社神話に登場する玉依姫は、「山城風土記」に登場する。でもこの神話は、記紀の大物主命の神話に似ている。葦原中津国にニニギより前に下った素盞嗚命の子孫・大国主命は、兄たちの迫害にめげず葦原中国の王になり、スクナビコナ命(一寸法師のモデル)の助けを借り、地上を開拓していった。
スクナビコナが去り困っていた所に登場するのが大物主命。大和三輪山で、一目惚れした絶世の美女セヤダタラ姫を獲得するために、赤い矢に姿を変え、彼女の家の厠(かわや)の下を流れる清流を流れていきます。厠に座っている美女の真下まで流れ、一気に彼女のホト(陰所)を突いた。彼女がその矢を持って自分の部屋に戻ると、大物主命は姿を戻し彼女と結ばれた。こうして生まれた娘が、成長し神武天皇の后となる。極似ですね。
記紀を読んでいると、出雲族の神・オオクニヌシと、葦原中津国を産み天孫降臨した九州族・神武天皇、大和族・大物主、山城族・賀茂族が、別の神を祀る異族を滅ぼすのではなく、互いの神を互いに祀り、互いの神話を共有することで、平和裏に連合していく。実に日本的な統治に日本民族である自分に誇りさえ感じる。重要文化財「細殿」前の円錐状に盛られた立砂が健在でした。入れないように縄が囲っていますが、これを見る度、全速で立砂に突っ込んで破壊したい衝動に駆られます。男の子なら、分かると思います、この気持ち。
『盛砂とも云い「たつ」とは神様の出現に由来した言葉であり、神代の昔、御祭神・賀茂別雷神が最初に降臨された本殿の北北西2km奥にある円錐形の美しい神山(こうやま)に因んだもので、一種の「かもろぎ(神様が降りられる憑代)である。鬼門・裏鬼門にお砂を撒き清める風習は、この立砂の信仰が起源で、「清めのお砂」の始まりである』
境内にも、見事な枝垂れ桜が満開で、ピンクが綺麗。巫女さんが箒で掃いておられ、朝はこれで始まるなあと気持ちよく感じます。祝詞の声がする奥の方に歩いていきます。『御籍屋(みふだのや・東局)現今は神前結婚式場等に使用、中門、直会殿(なおらいでん・西局)祭典修了後、神職参拝者が直会(ご神酒)を戴く建物、共に寛永5年(1628)造替。
本殿に参拝し、『賀茂別雷神社・第一摂社・片山御子神社 祭神:玉依比賣命 延喜式内古社。賀茂族の祭祀の権を握っていた最高の女性。常に別雷神のお側に仕えておられた。よって現在でも、本宮恒例の祭祀にはまず当神社に祭りを行う。皇室のご崇敬も厚く、本宮への行幸の場合は、当社へも奉幣あらせられることが多い』にも参拝した。
この謂れ板を読み、先にこちらに参るべきだったと後悔した。横の絵馬掛けには、ハート型の絵馬がたくさん下がっていた。玉依姫にあやかろうとする女性の願いが下がっているのだろう。社務所で、僕も買ってしまった。2人の男の子の孫は、自力で道を拓かないと行けないが、女の子の孫には良い縁をお願いしたい。
神域の奥から流れてくる御手洗川は、流量が多い清流で、賀茂氏は水源であるこの地を神域に指定し、長く子孫に生活に必須の清い水を与えようとしたのだろう。この立地を見ると、原始的な神の存在を信じ拝みお願いするモデルを見るようです。
駐車場に戻ります。7:57〜8:16上賀茂神社P100円。朝の寺社桜巡りは、ここでタイムリミットになりました。京阪・出町柳駅目指し、賀茂川側道を下りますが、京阪の最寄り駅から目的地に向かう自信がないという。地図はあるのですが、極度の方向音痴なので、阪急かJRだったら行ったことがあるので安心だという。仕方なく、JR京都駅に向かいます。河原町通を真っ直ぐ南下し、塩小路通で右折してJR京都駅前で家内を下ろしました。塩小路通〜七条〜川端通〜五条通〜東大路通を北上し、八坂神社前を通過。
9:30まで少し時間があるので、八坂神社や円山公園に寄り道しようかと思いましたが、観光客が増えてきたのでパスしました。平安神宮目指し右折し、聖護院前の琵琶湖疏水の流れを覆うソメイヨシノを激写。ここは意外にまだ元気です。もうすぐ船遊びの船が巡る時間です。
8:59、平安神宮前に路駐し、激写タイムです。『平安京遷都の延暦13年(794)より千百年にあたる明治28年(1895)、桓武天皇を祭神として創建された。紀元2600にあたる昭和15年(1940)には、平安京有終の天皇である孝明天皇も合祀された。
社殿は、平安宮の中心施設である朝堂院をおよそ5/8に縮小して復元されている。2層の神門は応天門、中央正面1層入母屋造の拝殿は大極殿、そこから連なる左右の回廊から東に蒼龍楼、西には白虎楼がある。いずれも平安京のものを厳密に考証して復元された国指定重要文化財である。なお、昭和4年に建立された大鳥居及び昭和15年に増築された社殿群は国の登録有形文化財である。
本殿の背後一帯には、約3万平方メートルからなる神苑が広がる。4つの池を中心に、各時代の庭園形式を取り入れた池泉回遊式の近代を代表する広大な日本庭園で、国の名勝に指定されている。
例祭は4/15。平安遷都の日にあたる10/22には、本神宮の祭礼として、京都3大祭の1つである時代祭(京都市無形民俗文化財)が行われ、千年にも及ぶ各時代の歴史風俗絵巻が、錦秋の都大路にくりひろげられる』
『応天門 平安京大内裏の正庁・朝堂院の南面正面で、延暦14年(795)に造営された鴟尾を置く2層碧瓦葺の建物。この門は、平安遷都1100年に当たる明治28年に、往時の様式を復元し、平安神宮の「神門」として建造された』
他の建物も平安時代の様式を模したので、現代のそれとは少し趣が違うが、碧の屋根に朱色の柱、白壁が落ち着いた印象を与えている。大鳥居までの間にある枝垂れ桜の大木が満開で、走って激写しに行った。
東大路通に出て、9:18大学着。集合場所の楠の前を見ると、ヨット部の幟が立ち4回生T君と新入生が1人いるようだ。校内1時間無料なので、いつものようにいつもの場所に車を停め、時計台でトイレを拝借し、楠に向かう。新入生が3人に増えており、定時になったので新入生男の子3人・女の子2人乗せ、9:33大学出発。車酔いに弱いという女の子がいたので、比叡山・山中越ルートではなく、三条〜京都東IC〜西大津バイパスルートで琵琶湖に向かいます。車内で、ヨットのこと・注意事項・試乗会スケジュールなどを話す。
10:09、ヨットハーバー着。他大学も試乗会をしており、ハーバーがいつもより華やかです。艇庫にみんなを案内し、みんなは濡れてもいい服装に着替えに行きます。僕はレスキューボートに荷物を置き、ライフジャケットを着ていつでも出発できるよう整えます。
ここからはいつものように、ハーバーと海上を行き来し、ヨットに乗る前後に、新入生に部員とともにいろんな話をして和ませます。風は最初三井寺からの風(SE南西)でしたが、途中からN・北からも風が入ってきて、両方の風がぶつかり合って一時無風の時もありましたが、最終的には北風になり、良い試乗会になりました。16時にハーバーバックします。新入生参加者は30名ほどでした。
10:06〜16:21YHP300円。合宿所に戻ります。17:30から夕食の「キムチ鍋」です。この日も1週間前同様、司会者2回生G君から最初に指名され、私の挨拶から始まります。飯を前にして待たせるのは恐縮ですが、「大学では学業がメインストリートだけど、何かクラブに所属しておく事で、大学生活が数倍有意義になり、卒業後も続く仲間が得られる」「写真を見せながら、現役・卒業後のいろんなイベントの説明」「他クラブのOBだが、映画封切り中の原作者作家のこと」などを話す。恒例の大盛り上がり1回生自己紹介があり、最後にキャプテン挨拶で修了。大学正門に向かう便として、女の子4人・男の子3人を車に乗せ、20:04合宿所を出発する。車酔いに弱い子がいたので、湖西道路〜R1〜三条〜東大路通コースで、20:28大学到着。みんなを降ろし、「来月も再来月も来年も艇庫で顔を合わそう」と半強制で約束させ解散。
帰路につきます。湖西道路〜京都東ICから名神高速に乗り、20:55「桂PA」着。毎度おなじみ、「びっくりバニラソフト140円」を頬張ります。4月にしては25℃まで気温が上がったので、最後のバニラソフトでした。
21:11、PAを出発し、中国道・豊中IC下車し、21:47自宅着。楽しい1日が終わりました。家内は既に夢の中で、いつもある「おかえり〜」の言葉もありませんでした。後片付けし、風呂に入り、23時ごろ寝ました。

2017/4/9
コーチしている大学ヨット部の新人勧誘月間に入りました。入学式が終わり、新入生は履修申込みをし、自分の居場所を確保する時期です。例年通り、車を出して京都市内の大学から琵琶湖のヨットハーバーまで、送り迎えする算段でいました。ところが、集合時間と場所の連絡が来ない。結局、学生の車で足りるようで、9:30直接ヨットハーバーという連絡がありました。
4時に目が覚めましたが、雨音が聞こえます。車が必要なくなったので、バイクで行く予定でしたので、しばらく様子見です。午後は晴れ予報なので、必ず止むはずです。
結局1時間経過しても雨音が止まず、カッパ着てバイクで行っても良かったのですが、四輪で行くことにしました。5:42出発。中国道・豊中ICで高速に乗り、名神・大山崎IC下車。R171で京都方面に少し走り、r211で阪急長岡京駅に向かう。サントリーの大きな工場がありました。駅前でr10に乗ろうと思ったら間違えてr67に乗ってしまいましたが、r210で長岡天満宮横へ。駐車場に入るのに少し迷いましたが、6:30「長岡天神」着。
主目的地は、「善峯寺」ですが、開門8:30なので時間つぶしです。傘を差しての参拝です。『長岡天満宮の建築物 地元・開田村の氏神である長岡天満宮は、江戸時代に八条宮(後の桂宮)家の祀る神社として社観の整備が進められてきました。明治35年(1902)菅原道真公千年忌を契機に組織された長岡保勝会によって、活発な社殿建築が進められます。昭和16年(1941)平安神宮から本殿・祝詞舎・透塀が移築されました。江戸時代に形作られた境内に、近代の優れた建造物が立ち並ぶ社観は、歴史的な価値や造形上の質において高く評価されます』
『長岡は、菅原道真公がご生前に在原業平とともに、詩歌管弦を楽しまれたゆかり深い地です。大宰府に左遷された時、この地に立ち寄り「我が魂、長くこの地にとどまるべし」と名残惜しまれた。公自作の木像をお祀りしたのが当社の創立です。爾来皇室の崇敬篤く度々のご寄進ご造営を受け、寛永15年(1638)には八条宮智仁親王によって「八条池」が築造された。中堤両側に樹齢百数十年のツツジが多数植えられ、その見事さは我が国随一と言われている』
天神様らしく、筆塚があった。玉垣塀越しに元平安神宮本殿を見上げ、絵馬棚で書かれた願いを読み、奥の稲荷大明神にも参拝した。神事に使う木靴や白紙が巻かれた鋤鍬が、縁側に置かれていた。
『菅原道真公と牛 官公は承和12年(845)丑年生まれです。茸狩りの宴の際、子牛が宴席近くに来て、頭を垂れて公を敬うがごときだったのでたいそう喜び、館に連れて帰り可愛がった。太宰府左遷の際、刺客に襲われました。その時荒れ狂った白牛が掛けてきて、公の命を守った。よく見ると、公が都で愛育した牛でした。太宰府で亡くなった時、遺骸を乗せた車を引いていた牛が途中で動かなくなり、そこを墓所とした。現在の太宰府天満宮は、その地に建てられました。牛が官公の御神使となったのは、これらの事績によります』
境内の数種類の桜を写真に収め、ナビを「善峯寺」にセットし出発しました。40分以内は、駐車料無料でした。r10に出て北上します。途中の案内板を見て、7:00「長法寺」。枝垂れ桜のピンク色が綺麗でした。ここに至る道を覆うようなソメイヨシノも満開でした。
再びr10に出て、7:12「光明寺」。熊谷次郎直実の寺として有名な西山浄土宗の総本山です。『当寺は西山浄土宗の本山で、建久九年(1198)蓮生奉仕(熊谷次郎直実)により創立され、法然上人を開山第1世としている。境内は広く、洛西一の伽藍を誇り、主要な建物は山内に点在して廊でつながれています。応仁、元亀、天正の兵火にあい、江戸時代には享保十九年(1734)の火災により焼失し、大半の建物はそれ以後の建立です。
総門をくぐり、美しい石畳の参道を登ると、正面に壮大な御影堂が、その右奥には阿弥陀堂があります。御影堂は宝暦3年(1753)の再建で、派手な装飾はないが全体的構成の精見性を意匠の主眼としたものです。阿弥陀堂は寛政十年(1799)の建立で、本堂より少し華やかな造りになっています。御影堂の後方にある御廟は明暦2年(1656)の再建で禅宗様を基調とした華麗な造りです。軒下回りの組物には多くの彫刻が施され、廟内の板壁は飛天や雲、蓮の花などが極彩色で描かれています。その前にある拝殿は山内では最も古い承応2年(1653)の建築です。御影堂の左下には、元文元年(1736)の釈迦堂、勅使門があり、庫裏、講堂へと続きます。天保4年(1833)に建立された講堂は、食堂とともに浄土宗寺院でも檀林(仏教の学問所)に関する類例の少ない遺構群であります』
『蓮生法事(熊谷次郎直実)と法然上人 寿永3年(1184)、源平一の谷合戦で、関東一の剛の者と呼ばれた熊谷次郎直実は、義経率いる奇襲部隊に所属し戦に臨んだ。良き敵を求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平敦盛(平清盛の甥・16才)を呼び止め、その首を取る。しかし自分の息子ほどの年齢の若武者を殺めたことで、悔恨の念と世の無常を感じる。建久4年(1193年)、直実は犯した罪を償うために武士を捨て、東山吉水の法然上人を訪ね仏門に入ります(法名:法力房蓮生)。建久9年(1198)、修行を経た蓮生法師は、喧噪の吉水を離れ、静かに念仏を称えられる地を求めて、ここ粟生の地に寺を建立します。そして、法然上人を招いて落慶法要を行い、上人を開山第1世、自らを第2世とし、上人から「念仏三昧院」の寺号を頂きました。これか光明寺発祥です。法然上人は建歴2年(1212年)に亡くなりました。晩年は、奈良や比叡山の古い教団から迫害を受けていたといいます。死後の嘉禄3年(1227)、比粗山の僧徒が、東山大谷の上人の墓を暴き、遺骸を鴨川に流そうと企てます。この企てを知った弟子達は、秘かに移しました。翌安貞2年(1228)、上人の石棺が光明を放ち、栗生の地を照らすという不思議な事が起こったため、遺骸をこの地に移し、火葬にして裏山に御廟を立てました。この時の奇瑞にちなみ、念仏三昧院は四条天皇より「光明寺」の寺額を賜り、以後「光明寺」と呼ばれるようになりました』
「茗荷紋」が下がる山門をくぐると、広い階段が緩やかに登っています。それを覆うように桜が枝を広げ、低い枝は顔に当たります。相変わらず小雨が落ちてきますが、観光客は数人で素敵な風景を見せてくれます。緑のもみじの葉との対比も素敵です。
脇に無縫塔が数基、歴代住職のお墓でしょう。境内のソメイヨシノが満開で、これまた素敵で激写です。朝は良いね。
7:28、「善峯寺」の開門は8:00で、時間つぶしがてら寄り道しましたが、良い時間になりました。r10をまた少し北上します。r208に入り、西山を登ります。
7:38「小塩」バス停のところにいい感じのお寺があり、寄り道します。「腹帯地蔵尊・草分観世音 十輪寺」『十輪寺 小塩山と号する天台宗の寺院。平安時代の六歌人の1人「伊勢物語」でも知られる在原業平が晩年陰棲した。嘉笑3年(850)文徳天皇の后・染殿皇后の安産祈願のため、比叡山の恵亮和尚を開山に招じて創建した。以降勅願所として栄えたが、応仁の乱の兵火により堂宇焼亡し、江戸時代・寛文年間(1661〜73)に公家・藤原定好により再建された。鳳輦形(ほうれんがた)という珍しい屋根をした本堂に、皇后の安産祈願に霊験があった本尊の地蔵菩薩(腹帯地蔵)や、花山天皇が西国巡礼の際背負った十一面観音(禅衣観音)を安置している。本堂の裏山には、業平の墓と伝わる宝篋印塔や、業平が塩を焼いて、その塩にかつての恋人・二条后(藤原高子)への思いを託したと言われる塩釜跡がある』
『業平卿旧跡墳墓』
『なりひらでら十輪寺 1安産・子授・腹帯授与 1恋愛・結婚成就・秘法 1三弦説法・なりひら御膳 1三方普感庭(藤原常稚公作) 王朝の襖絵を復刻』
魅力的な謂れが書かれています。石段を見上げると、緩やかな放物線を描いた独特の屋根を持ったお堂が見えます。境内の枝垂れ桜が満開です。
門に上がると閉ざされており、「拝観の方、御用のある方のみご入山ください。拝観料400円」と書かれています。「なりひら桜 樹齢150〜200年 3方向から違う桜が見られます」。ますます興味をそそられましたが、「只今の時間は拝観していません」により、仕方なく撤退しました。帰宅後調べたら、9〜17時が拝観時間のようです。
車を置いた隣のお宅が花好きのようで、チューリップ・水仙・ムスカリー(グレープヒヤシンス)・白椿が綺麗に咲いています。ムスカリーは紫色の花で、ラベンダーにしては早いなとその時は思いました。でも花の形がどうも違いアセビのように筒状なので、帰宅後調べたらムスカリーという花でした。
7:51「善峯寺」、駐車場代500円。山の中にこんない大きなお寺があったとは・・・駐車場も大きく、そこから見える僧坊も大規模寺院を思わせる。写真を撮りながら山門に着くが、まだ8時前です。「日本一の松」と彫られた石柱が立っている。数分待っていると、作務衣姿の女性がやってきて「おはようございます。よく降りますね」。拝観料は500円でした。
『天台宗に属し、西国33ヶ所22番札所として、本尊・千手観音菩薩をまもる。長元2年(1029)恵心僧都(えしんそうず)の弟子・源算の開基で、白河法皇の時(1073〜86年)諸堂が建立された。その後、高僧、青連院の宮が相次いで入室したので、西山宮門跡と呼ばれた。往時は僧坊50余りに及んだが、応仁の乱で大きな被害を受けた。元禄年間(1688〜1704)徳川綱吉の母・桂昌院の寄進によって諸堂が復興され現在に至る。広大な境内地は、重要文化財の多宝塔をはじめ、多くの堂宇が立ち並び、池泉や四季の花々で彩られており、眺望が優れている。多宝塔の前の「五葉の松」は天然記念物で波に泳ぐ竜のように見えるので、「遊竜の松」と呼ばれる。神経痛・腰痛の祈願所でもある』
まだ梅が満開で、枝垂れ桜が咲き始めている。京都西山の寺院に多い竹を使ったパイプの手水です。「特別寺宝展・無料」の看板に惹かれて行ってみるが、展示館の門が閉まっていた。少し遅く開館するのだろう。
本堂内に上がり、本尊・千手観音さまを拝む。本堂内は撮影禁止です。天台宗のお寺だけど、「南無弘法大師」の像があった。日本一の松は、どれほど大きいのかと見に行くと、高さはなく、枝ぶりが長く長く伸びていた。当然自力で支えることは出来ず、藤棚のような造作の上に載り、緑の松葉をつけていた。
周遊コース(30〜40分)というのがあり、触りだけと思って突っ込んだらまず鐘楼。続いて護摩堂、天然記念物の松がまだ伸びている。他のお堂を見ると、しだれのピンクがアクセントになっていたりして、ナイスな景色です。開山堂に向かうと、下界の絶景が飛び込んできた。開山堂は、絶景に向かって正面があり、贅沢なお堂です。
「善峯白山・桜あじさい苑」が、峰谷を隔てて次の峰に向かっている。ここはパスし、「桂昌院廟」に上がってみる。『桂昌院殿法雲性恩大夫人廟 桂昌院は本庄家にて寛永4年(1627)京に生まれる。度々当山に寄寓する。正保元年徳川家に仕え、3代将軍家光の寵愛を得て5代将軍・綱吉公を生む。故に立身の冥恩に報いんと諸堂を建立し、寺領什器を寄進する。寛永2年・79才にて死去。遺命にて遺髪を当山に納める』。宝篋印塔が立っていた。
満開の垂れも多くあり、激写ポイントに事欠きませんでした。多くの親王が入ったお寺なので、「宮内省」と彫られた石柱が立っている。ここは大満足でした。家内とまた来たいな。
r208を下り、r10を南下します。光明寺前まで戻り、r209・光明寺道を東進します。r67を北に向かい、「向日町競輪場」前を右折しr202。阪急京都線をくぐり、JR東海道線・東海道新幹線をくぐります。
名神高速をくぐり、R1へ左折し、京都南ICから名神高速に乗りました。次の京都東ICで下車し、R161・湖西道路で北に走り「皇子山バイパス」で下車し、9:23ヨットハーバー着。
なんとか9:30に間に合いました。部員に挨拶し、先週・前日土曜日の新人勧誘状況をキャプテンから聞く。予定の9:30に数分遅れ、京都から新入生が部員にエスコートされながらやってきました。
彼らが着替え準備が出来たところで、コーチボート・レスキューに2回生部員G君&2回生マネージャーSさんと乗り込み、新入生を乗せます。ハーバーをでた所でドライビングを体験し、プレジャーボートを介して、ヨットに乗り込みます。
新入生が空になったら、ハーバーバックし、次の組を乗せて沖に出ます。これの繰り返しです。女子マネSさんはドライビング担当で、G君は夕食時の司会者でもあるので、新入生それぞれの特徴を把握するため、僕と一緒にヨットのあれこれ、琵琶湖のあれこれを話します。
ヨット部のヨット試乗会は好評で、体育会の他の部からも「楽しい体験が出来るよ」と勧めてくれるところも多く、いつも定員いっぱいです。でも当日になってドタキャンが必ずあります。タイミングよく、他の体験会が天候不順などでキャンセルされた行き場を失った新入生が、ドタ参で参加してきます。こういうのも何かの縁、1年後ここで新人勧誘していることもあるね。
新人の運搬が途切れたところで、桟橋に着けて待機します。レースボートの修理について部員・キャプテンと話します。女の子には待遇がよく、水に落ちても濡れないドライスーツを着せます。女子プレイヤーは現在1人で金の卵だし、女子マネージャーは1学年最低2人、出来れば4人欲しい。4回生1人・2回生2人の現状を支えているのは3回生4人です。今年しっかり入れておかなければ、4人が抜けた後が苦しくなる。
乗り込む時は、Sさんが運転席、G君がボートの前担当で、僕が後方です。乗り降りは後方からなので、船に慣れない子ばかりだから、手すりのつもりでいつでも持てるように腕を出すようにしている。男の子の半分は、僕の腕を持って乗り降りするが、女の子は僕の手を持ってくれる子が多い。女の子の手は柔らかく至福の一瞬です。
僕はいつも出勤する時、家内としばらく手を繋いで歩く。家内の手も柔らかく、手を繋いでいるのが気持ちいい。手をつなぎながらこの事を家内に話すと、「役得ね」と笑っている。
昼食時は京都からの便が途切れるので、またハーバーバックし、マネージャーが握ってくれているおにぎりを放り込む。10分ほど休憩したら、午後の第1組がやってきて、更衣室で着替えを終えた新入生に、ライフジャケットなどを着せてまた水の上です。
15時に全員を乗せ、2回目試乗希望者が合宿所からやってきて、16時頃試乗会を終了する。4年前から部員が増えたので、今年は余裕がありました。この時期は就活の時期でもあり、就職希望の4回生が抜けている。隊長は3回生ですが、スケジュールの叩き上げは2回生が作り、実働部隊も2回生中心です。車の送迎のこともそうだけど、レスキュー上で僕がガンガン動くこともなくなり楽でした。
ヨットハーバーから合宿所に向かいます。9:23〜16:45・300円。交通量の多いR161を利用することもあり、車移動より徒歩の方が早いことも多い近くに合宿所があります。ハーバーを出る時、新人勧誘に顔を見せなかった3回生N君と会いました。「何処行ってたの?」と聞くと、TOEICのテスト日だったようです。頑張れ、若者!
17時開始予定の夕食・鍋が遅れ気味で、18時前開始になりました。食べる前に僕の挨拶を指名され、大学はホームルームがないので根無し草になることがあるから、クラブに入った方が良いと話しました。
1つのテーブルの鍋を6〜8人で囲み、互い違いに部員が新人の間に座り、大いに話します。しばらくすると、恒例の新人自己紹介です。名前・学部は胸のガムテープに書かれていますが、その他に出身校と所属クラブを発表します。次に2種類のヨットに乗ってもらったので、どちらの船が気に入ったか発表してもらい、ヨットに初めて乗った感想も。服装を野次ったり、仕草を野次ったり、キラキラネームで大受けしたり、毎度大笑いの連続です。いつも一番野次っていたキャプテンが、大人しくしているのが不思議です。威厳を出そうとしているのか?
しばらく歓談し、TVにPCを繋いで今年のプロモーションビデオを流し、司会の年間行事の紹介に従ってその様子を流す。この映像をTOEICに行ってたN君が担当したようで、PCを操作していました。彼はとても明るく、ナイスガイです。
最後のキャプテンの挨拶があり、20時前にお開きです。一気に全員京都に返せないので、第1陣として半分車に乗り、残り半分は鍋を食べながら歓談の続きです。僕も帰路につきます。湖西道路〜名神〜中国道で、21:02自宅着。
家内はすでに寝ていました。風呂に入り、ヨーグルト持って寝室に上がり、22時過ぎに寝てしまいました。

2017/4/2
家内が用事なので、1人遊びです。来週から、3週連続で大学ヨット部の手伝いで、京都・琵琶湖に行くので、家内とのデートはしばらくお預けです。参加してるカフェグループにイベントがあったので、そちらに参加申し込みをしました。京都四条烏丸のカフェに11:30集合です。
電車で行くのが便利ですが、天気予報は晴れなので、それまでの時間を有効に使おうとバイクで行くことにしました。笠取山周辺の中世の山城と目についた寺社巡りが予定倒れになったままです。収集した山城のデータを調べていると、これまたペンディングしたままの「芥川山城」が目につきました。こっちにしましょう。往復1時間なのでまだ時間がありそうで、ツーリングマップルを見ていたら、京都西山の「花の寺」が目につき、近くに書かれている「大原野神社」とセットで訪問することにしました。
4時に目が覚め、すぐにバイク装束に着替えます。身だしなみを整え、5:00に「里山VTR250」を出します。R171をひたすら東に向かって走ります。茨城を過ぎ、高槻手前で左折しr115に乗り北上し、北摂の山を目指します。芥川沿いに出て、5:37山城跡が見えてきました。山城らしからぬなだらかな山容の頂に、山城を想像させる物が見えます。織田信長は上洛するまで、室町幕府の管領・細川家の陪臣ながら、畿内を統治していた三好長慶の居城です。
芥川を渡り、目印の「高槻黄金の里老人ホーム」にセットしたナビに導かれ、住宅街に侵入すると、「三好山(芥川城跡)1.5km」の案内板を見つけました。ゆっくり案内板の見落としをしないよう走りましたが、結局民家行き止まりまで、Uターンして戻る途中5:57、登り口を発見しました。「芥川城の会」の立てた案内板と見取り図がありました。電信柱には「三好山」と書かれたテープが貼られています。
「三好山へ40分」と書かれているので、ダイワのフィッシングスーツを脱ぎ、夏用プロテクター上下も脱ぎます。それらをワイヤーでバイクに結び、6:00いざ行かん。
もちろん未舗装の山道ですが、整備されており歩きやすい。西の里山に朝日が当たり、オレンジ色になっていて綺麗。棚田の脇の道を上がっていくと、熊笹の道になり、6:08「帯仕山」への分岐到着。「三好山へ25分、三好長慶1553年入城」板に書かれています。案内板によるとここまで15分ですが、実際には8分。これは意外に早く着くかな?
その分岐すぐ前に井戸がありました。その横には古い石垣があります。当時のものとは言えませんが、雰囲気が出てきました。6:09「上ノ口・摂津峡」との分岐。ここにも石垣があり、見ようによっては曲輪に見えなくもない平坦地と切岸地形になっています。ここらは竹林で見通しが良いです。
6:11「池・曲輪群」。道を逸れ、曲輪郡に入ります。すぐ、鹿が逃げていく音が聞こえます。畑にも獣避け柵がされていたのでいるのはわかっていましたが、いきなり遭遇です。「キューン」の警戒声も発せられ、鹿が濃いようです。土塁が残り、山城の雰囲気が濃くなってきました。
1つの曲輪は、その後墓地として利用されたようで、自然石を使った墓標が並んでいます。法名が「釈」さんばかりなので、浄土真宗門徒のようです。元禄・寛永・宝永・亨保と刻まれているので、江戸時代に亡くなった方のようです。寛永は江戸初期、1700年は元禄を謳歌しており、その後の宝永年間に富士山が大噴火し、飢饉を経て亨保の大改革で、幕府は贅沢の引き締めを行い経済がますます逼迫していった。
全て2名併記なので夫婦墓石のようです。別の一群は、様式の整った加工石なので、少し時代が下るのだろう。誰もいない山中の熊笹に埋もれた墓石の前にしゃがみ込む僕は、実に怪しいね。切岸を次の曲輪に上がります。
道に戻ると、6:15土橋がありました。「土橋・堀切」と丁寧に説明されていますが、典型的な造作で、堀切もまだ深さがあり、当時は相当深かったのではないかと想像されます。
6:19、まだ下界の展望はありませんが、「史跡・城山城址」と刻まれた石杭が打たれています。「大手道・下り・一番きつい」と書かれた杭も打たれており、ここで大手道を合流するようです。きつい坂が下っていますが、「大手門石垣・40m下る」と書かれた杭も打たれているので、下ってみましょう。
6:21、かなり崩れていますが、石垣が遺っています。一気に450年前にタイムスリップし、守る三好勢に対し、攻め上がってくる織田勢との攻防がここで行われたはずだと、想像の翼を広げます。
最初は、能勢氏が城を築き、細川氏との攻防戦後、三好長慶に攻め落とされその居城になり、没後三好三人衆の支配下になります。信長軍に攻め落とされ、和田惟政の手に落ち、荒木村重軍に敗れ従兄弟の高山右近が入城し、平城の時代になり歴史の表舞台から姿を消します。芥川の渓谷が蛇行する場所にあり、東以外は芥川が天然の要害になります。東側も山岳地として広く、攻め落とされてもいくらでも山中の間道を伝って逃げられます。
分岐に戻り、先を見ると陽が当たっている場所が見え、山頂部が近そう。分岐手前に、この大手道の谷を上から覗き込むように小山があります。バイク置き場から登ってきた道と大手道両方に睨みが利くので曲輪がありそうです。獣避けフェンスで囲まれていますが、帰路攻めてみよう。
6:27、木々が伐採された下界一望の場所に出ます。大阪市街地のビル群が見えます。片や淀川を挟んで、河内と大和を隔てる生駒山系が見えます。素晴らしい眺望です。山城攻めのご褒美ですね。風がなく垂れ下がったままですが、鯉のぼりが竹のポールに揚がっています。
「三好山へ6分」と書かれています。あれだけ寄り道してもバイクからまだ27分、往復の所要時間を書いているようです。「田の丸」にも分岐しているようですが、これはパスしました。
6:30、山頂本丸攻めに成功しました。祠があります。本丸曲輪はかなり広く、相当な勢力が籠もった大きな城と分かります。さすが畿内を収めた三好長慶の居城です。搦手側にも切岸から降りてみます。踏み跡がしっかりしているので、摂津峡を山歩きする方の定番ルートかもしれません。
土塁も遺り、以降残存度の高い中世の山城でした。四方を巡り、帯曲輪などを目視します。「城山城址」の石柱の裏を見ると、「昭和3年」と刻まれています。現在のように、山城を観光の呼び水にしようと地元有志がルート開拓する時代ではないのに、ここに石柱を打つとはびっくりしました。ここに籠もった先祖を誇りに思う子孫の方が自費で打たれたのかもしれません。
久々に中世の巨大山城に巡り会いました。下山しましょう。6:46、大手道脇の曲輪を攻めます。獣避けフェンスを開けると、獣が移動する音が聞こえます。軽快ではないので鹿でないかもと不安が過り、持っていた蜘蛛の巣よけの細い落枝から、太めのものに持ち替えます。こんなとこで倒れても、しばらく発見されなさそう。「キュイーン」、鹿の警戒声が聞こえ、走り去る音が聞こえます。鹿のようなので安心です。鹿はよっぽどでないと戦いを挑んできません。イノシシにはバイクに乗っている時追いかけられた事がありますが、あれはやばいです。熊はこんな山里近くにいないでしょう。北摂の山では、ツキノワグマはほぼ絶滅だし。キチンと締めて、探索開始。明らかな遺構のようなものは発見できませんでした。更に下り、「縦土塁」が見事に遺っています。6:52、井戸まで下ってきました。
ここの石積みは当時のものでしょう。往路では気づかなかった鹿の毛が落ちています。そう言えば鹿が濃いようですが、道中鹿糞を見つけられませんでした。7:03、バイクに戻りました。大満足です。
バイク装束を着ていると、ワンちゃんのお散歩さんが上がってこられ、めちゃくちゃよそ者の僕が吠えられました。お互い話をしたそうでしたが、会釈と「おはようございます」だけになりました。
バイクの乗り、r67・旧西国街道まで下ります。しばらくr67を走り、このまま県道を進もうかと思いましたが、R171に降りて、国道速度で一気に京都を目指します。r67は確か島本町あたりで、一方通行で下りのみになって迂回しないといけないことを思い出しました。「久世橋」まで出て、r201で西山の丘陵地をゆるく登っていきます。
JR「桂川」高架下をくぐり、阪急「洛西口」をくぐり、r67と交差し、「京都縦貫道・大原野IC」手前を左折し、r140に乗ります。ナビにセットした「勝持寺」に従ってr141に乗ります。「勝持寺」「願徳寺」駐車場に着きましたが、門が閉まっています。事前調べて8:30開門で、まだ20分前です。待ってても仕方ないので、24Hオープンな神社「大原野神社」先に訪問しましょう。
8:14、r141と勝持寺との分岐で停車。r141は「淳和天皇陵」のある小塩山で山頂まで続いていますが、通行止めです。ここから300m先で、通行止めのようです。下から小塩山をジグザグに登る道が見えていました。絶景は確実で登ってみたいけどなあ。下から想像していたのとは違い、舗装されていますが、四輪のすれ違いが厳しい細い道です。ここでこれだから、夜景などを見に四輪が上がり事故を起こすのを防ぐ目的での通行止めでしょう。
r140まで下り、「大原野神社」は南ですが、反対に曲がり「森神社」に行ってみます。鎮守の森が見えていますが、目視で選択した道が行き止まりUターン。8:23「森大明神」と彫られた石柱がお宮の前に立っていました。藤棚があり、その季節になると喜ばせてくれそう。こじんまりとしたお宮で、祠程度のものが3基建っています。でも全てにきれいな柄の縁取りがされた御簾が下がっており、「おお〜」と思いました。御簾が下がった奥を目を凝らして覗き込むと・・・期待したのですが、祠が鎮座しており、小さいのに覆屋を持っているのだとわかりました。寂れて汚れ、見る影もないですが、見ようによっては高貴なものを感じるので、謂われ板を探しましたが、設置されていませんでした。
バイクに乗り、r140を南下し、8:33「大原野神社」。道案内板が設置されており、迷わず到着出来ました。トイレ完備の地道の駐車場に入れようとしたら、横の売店のお母さんが出てこられ、「そこはダメ、バイクはこっちへ」と、お店横の椅子の前を指示されました。
売店が2店舗あり、更に奥に向かう道には、先程断念した「勝持寺」と書かれています。ここからも行けそう。案内板には、「大原野神社・徒歩2分、正法寺・徒歩4分、勝持寺・徒歩8分・願徳寺・徒歩8分、第53代淳和天皇御陵・徒歩1時間30分」。ジグザグの道を上がっていく電波塔が並ぶ小塩山山頂に、徒歩1時間半で行けるとはびっくりです。京都盆地を一望できそうです。淳和天皇は、小塩山御陵でしか知らない天皇ですが、50代が794年平安遷都した桓武天皇だから、平安時代初期の天皇なんだと知りました。景色の良い所にお休みになられていますね。
「大原野神社」に参拝しようと、鳥居横の謂れ板を読んでいると、ワンちゃんのお散歩お母さんが来られたので、「おはようございます」と挨拶しました。よそ者は、地元の方に謙虚でなくてはなりません。「どちらに行かれるの?正法寺さんは花の寺さんに対し石の寺と呼ばれており、あまり参らないお寺だけどいいですよ。願徳寺さんも門は閉まってるけど、呼び鈴を押せば参拝でき、国宝の仏像が見れますよ」と耳寄り情報を教えてくれました。「ありがとうございました、寄ってみます」
人には挨拶すべきですね、お得したことが何度もあります。2つ訪問予定でしたが、4つに増えちゃった。まず「正法寺」へ。『真言宗・東寺派。奈良・唐招提寺を創建した鑑真和上の高弟で、754年鑑真和上とともに唐から来朝した血威大徳が、この地で修行したことから始まる。古くは春日禅坊と呼ばれたが、延暦年間(782〜806年)、伝教大師・最澄が智威の威光を世に示すため、大原寺という寺を創建した。応仁の乱で焼失したが、江戸時代初期、恵雲・徴円の両律師により再興され、「西山のお大師さま」として親しまれてきた。元禄年間(1688〜1703年)、徳川5代将軍・綱吉の母・桂昌院の帰依を受け、代々徳川家の祈願所となった。寺宝として、本尊・聖観世音菩薩、三面千手観音菩薩(重文)はじめ、貞和2年(1346)の銘がある地蔵菩薩、鎌倉初期の両界曼荼羅などの仏画、徳川家関係古文書などを蔵する。境内には、全国各地から集められた名石があり、「石の寺」とも呼ばれている。特に東山連峰を望む借景式山水庭園「宝生園」は、庭石が象・獅子・蛙・うさぎ・鳥・亀など動物の形に似ているため、「鳥獣の石庭」として親しまれている』
『石徳五訓 1奇形怪状、無言にしてよく言うものは石なり。2沈着にして、気精永く土中に埋もれて、大地の骨となるものは石なり。3雨に打たれ、風にさらされ、寒熱に耐えて、悠然動ぜざるは石なり。4堅質にして、大廈高楼の基礎たるの任務を果たすものは石なり。5黙々として、山岳・庭園などに趣を添え、人心を和らぐは石なり』
沢を渡ると、朱塗りの多宝塔が見え、「春日不動尊」の建物がある。「不許酒肉五辛入界内」の石柱が立っています。修業の場として重きを成す禅寺の定番ですが、ここは真言宗。「・・・入門内」の方がポピュラーですが、ここは「・・・入界内」。
門を入ります。ピンクの梅が満開です。藤棚もあります。大岩を置いた石庭が綺麗です。この時点で気に入りました。他の樹花も咲いており、とても手入れの行き届いたお寺です。僕が去年初めて女の子の孫が生まれ、記念に庭に植えたアセビも咲いています。我が家はもう終わりかけですが、牡丹も綺麗に咲いています。「大手水鉢」と名付けられた手水があります。竹の産地・京都西山らしく竹のこしらえで、センスが良い。別の門から小ぶりな梅林が見え、その向こうに京都盆地が見下ろせます。
庭の終わりに、僧坊に上がるようになっています。「入っていいのかな、せっかく来たのだから入ってみたいな?仏像も拝みたいし・・・」。庭の手前に参拝受付のような所があったのですが、シャッターが閉まっていました。
靴脱で上がり、靴棚に靴を置きます。矢印右が書院ですが、こちらもシャッターが閉まっています。矢印は左にも向き、「どうぞお入りください」と書かれているので、ガラス戸を開けて入ってみる。ガラス戸に囲まれた縁側があり、その前に別の石庭が広がっている。その向こうの塀は低く、京都盆地を借景しています。標高は低いのですが、素晴らしい眺めです。お庭内も巡れるようになっています。中央に枝垂れ桜が1本あり、満開すると更にお庭は見事になるでしょう。室内の屏風や仏像を見させてもらい、ショーケース内にあった「えんむすびお守り・500円」を手に取った。夫婦和合・夫婦円満・縁結びにご利益があるらしい。青と朱2本の組紐に2つの鈴が下がっている。家内とお揃いで使おう。
お代金を入れる箱がないので、「開いてるかな?」と思い受付に行くとまだ開いていません。横に「ご用件のある方は、このベルを押してください」とあったのでベルを押してみると、返事があり「すぐ開けます」とのこと。ガラガラとシャッターが自動で上がりました。「すいません、早かったですか?」「はい、9時からなんです」。時計を見ると、ちょうど9時でした。「これをお願いします。それと拝観料も」。拝観料は300円でした。たくさん写真を撮ったのに、拝観料が払えなかったら悪いので、お賽銭を100円奮発していました。これだったら10円でよかったな。
「書院も開けますので、良かったらもう一度お参りください」と促され、また建物に上がり、書院の方を拝観させていただきました。素敵な襖絵の部屋があり、座って見ていると、説明が目に入りました。『襖絵「西山讃歌」 創画会で活躍した郷土の日本画家・西井佐代子女史(1947〜2000年)が、病の中自らの余命を見つめつつ精魂込めて描き上げた絶筆です。西山の山並みと、そこに棲息する四季の草花が当書院の計41枚の襖に描かれています。・・・』
室町時代の掛け軸がずらりと下がっています。「水琴窟」と書かれているので、そちらに廊下を進む。本堂の廊下に木魚が下がっていた。禅寺の修行などを知らせる木の板です。何故か魚の形をしたものが多く、葬儀の時、僧侶がポクポク叩く木魚の原型です。屋根の上に鯱が載っていたり、神社の屋根に鰹木が載っていたり、何故魚なんだろう?
下がっている木魚には使用後はなく、2匹の鯉が蓮池に遊ぶ姿が彫られています。本堂内に入ります。畳に座り、「これが重文のご本尊なのかな?」と覗き込んでいると、ご住職が入ってこられました。挨拶を交わしましたが、ちょちょいと用事をして出て行かれました。
本堂脇に水琴窟があり、僕が受付した時入ってこられた女性3人組さんが、竹の筒を通して聞いています。お母さんお横で、竹の筒を耳に当てると、水琴窟の清らかな音色が聞こえてきます。『地中から宇宙へ発するシンフォニー 水琴窟・法寿泉 地下深く奏でられる妙なる音色に耳を傾けてください』「おはようございます」と声を掛けると、「おはようございます。水を掛けていいですか?」と返ってきて、横の柄杓で水をすくい、水琴窟の埋まっている上の小石に掛けます。すぐに水琴窟の音色が弾けます。
北海道から、水琴窟を聞きに来られたそうです。北海道にはなく、娘さんが嫁いだ京都にはあるだろうと調べてもらい、娘さんの家に泊まりながら、娘さんの運転で水琴窟メインに京都を巡っているそうです。父子はスポーツするか飲み歩くぐらいですが、母子は文化的でいいね。
本堂には、ボタン式で録音説明が流れます。タダ聞きというのもあれなので、お賽銭箱に100円チャリン。説明を聞きながら、本尊などを覗き込みます。誰も居ないので、縦横無尽に動いて。五鈷杵が置いてありました。真言宗開祖・空海が、中国修行からの帰り、高僧から成績優勝故頂いた五鈷杵を、その高僧の弟子たちに奪われそうになりました。「日本に飛んでいけ」と空に放り投げた五鈷杵が日本に先に帰り、空海がそれを探し出します。「五鈷杵が落ちていたのはここだ」と日本各地に伝説が残っています。
『五鈷杵の謂れ 金剛石(ダイヤモンド)が物体を打ち砕くことを意味し、仏教では釈尊の説法は全ての邪心・煩悩・悪心を打ち砕くと同時に、人身に迫る諸悪魔をも打ち払う意味です。五鈷杵を静かに撫ぜると、身にまつわる諸々の困縁や押し寄せる諸悪運を防ぐと伝えられます。お大師様が持っておられるのもその為です。是非心に念じながら、撫ぜてご利益をお受けください。 南無大師遍照金剛 合掌』
帰ろうと廊下を歩いていると、先程受付していただいた奥様が花瓶を持って来られたので、「いいものを見せて頂きました」とお礼を言い退散しました。
もう大満足なので、市街地に向かおうかと思いましたが、まだ時間がありそうなので、大原野神社も参拝して行きましょう。9:29、鳥居まで戻り、謂れ板を読みます。
『源氏物語ゆかりの地 大原野神社 桓武天皇は長岡京遷都に際し、藤原氏出身の皇后のため、大和の春日社の分霊を、この地(平安京西郊・小塩山東麓)に勧請したことに始まる。平安時代に入り、文徳天皇が外祖父・藤原冬嗣の念願を受けて神殿を建立、地名に因み「大原野神社」とした。当社は藤原氏の氏宮として、斎王にならい藤原氏の子女を斎女として置いた。藤原氏の皇后や中宮の参詣が多く、紫式部も中宮彰子について参詣しており、父・藤原為時の任国・越前で、冬の日野山を見ながら小塩山を思い出し「ここにかく日野の杉むら埋む雪、小塩の松に今日やまがへる」と詠っている。源氏物語「行幸」では、冷泉帝が大原野行幸を行い、京の人々が見物に訪れるなか、玉鬘や六条院の人々も車を寄せて行幸を見物している。物忘で同行しなかった光源氏は、帝からの歌に応え「小塩山みゆきつもれる松原に、今日ばかりなる跡やなからむ」と寿(ことば)いだ』
鳥居をくぐり、長い参道を歩くと茶屋があった。時間があるのなら一服なのだが・・・。もう1つの謂れ板に書かれていた、奈良春日大社と猿沢の池に因んで掘られたという池もあった。朱色の太鼓橋がいい雰囲気を醸している。ここにも藤棚がある。
『瀬和井(せがい) 清和天皇産湯の清水とも伝えられ、古来歌枕にあがり、数々の和歌に詠まれて名高い。「大原やせがいの水を手にむすび 鳥は鳴くとも遊びてゆかん 大伴家持』
井戸を覗くと、わりあい綺麗な水が満ちていた。井戸というより、湧水が自然に溜まっているのだろう。水面は、直接手水出来る深さです。手水場は、藤原氏の氏神だけあって、鹿が加える巻物から水が流れ出していた。
本殿は、玉垣塀を巡らす立派なもので、朱色が鮮やかです。参拝して玉垣内の神域を覗くと、三社並立のようです。檜皮葺に鮮やかな朱の本殿が並び、目に美しい。謂れ板を読むと、『本殿は、同規模・同形式の4棟の一間社春日造社殿であり、各社殿間は板塀で連結されている』となっている。
絵馬掛けを見に行くと、藤原氏の家紋「下り藤」に鹿が描かれていた。「これは要らんな」と思いながら社務所に足を運ぶと、この絵馬は500円で、1000円のいい感じの絵馬があったので、授かった。鳥居の方に戻って行くと、土俵があった。立入禁止になっているので、工事中のようです。9:44、鳥居を出たところにお店があり、お焼きと草餅を売っていた。甘酒やコーヒーもあります。時間があれば・・・
「勝持寺」まで歩きます。淳和天皇御陵道が左に別れ、石段を上がると仁王門がありました。『勝持寺(花の寺) 小塩山と号する天台宗の古刹で、西行がこの寺で出家したと伝えられ、西行自ら植えた八重桜「西行桜」があることから、「花の寺」として親しまれるようになった。白凰8年(679)、役小角が天武天皇の勅により創建し、延暦10年(791)伝教大師(最澄)が、桓武天皇の勅により再建した。当初「大原寺」と呼ばれていたが、仁寿年間(851〜854)に仏陀上人が文徳天皇の帰依を得て伽藍を建立し、「大原院勝持寺」と改めた。瑠璃光殿には、本尊・薬師如来坐像(重文)の他、弘安8年(1285)慶秀らが造立した銘がある金剛力士立像(重文)など、貴重な文化財を蔵している。境内には多くの桜が植えられ、満開時は寺が桜の中に埋もれているように見える。鐘楼脇の西行桜は、現在3代目である』
平安時代末期の怪僧・西行は、この寺で出家したのですね。青年時代の佐藤義清は、上皇を守る北面の武士で、平清盛とも同輩だった。血統・俵藤太秀郷流れも良く、武勇もある将来有望な若者だったが、美貌の妻女に横恋慕して失恋し、妻子を捨て出家してしまった。各地で草庵と営み、鎌倉では源頼朝とも交流があった。平清盛が武士として初めて昇殿を許され、娘・建礼門院徳子を高倉天皇の中宮に入れ、その最盛期である時も、タメ口で清盛に説教したと言われている。終焉の地である紀州・弘川寺に訪問したことがあり、西行庵も訪問した。弘川寺にも花を愛した西行を師と仰ぐ歌人僧が入り、西行を偲んで桜を植え続けた。コンクリート舗装されたゆるい上り坂を歩く。「勝持寺子院跡の石塁」があったので寄り道。9:53「勝持寺」到着。拝観料400円を収め、境内を見て回るが、全く桜は咲いておらず、期待はずれの観光客が「残念ね、来週は最高かもね」と話していた。
時間がヤバくなってきたので、宝物館はパスし、お隣の「願徳寺」に急ぎます。情報通り門は閉ざされており、「仏様の拝観をご希望の方のみお入りください。仏像拝観400円」と書かれていた。
インターホンを押し「仏像が見たいのですが」と言うと、「どうぞお入りください」とのこと。木戸のノブを回し中に入ります。拝観料を払うと、「先の方がお参り中有ですので、少々お待ちください」と、待合場所を指示される。境内に長椅子があり、そこでダイワフィッシングスーツを脱ぐ。気温は上がり、夏用メッシュプロテクターでOKです。夏と違い、下に着てるけどね。
受付の奥様から声が上がり、宝物殿の中からご住職が出てきます。学生風の若者6〜7人グループも出てきて、僕が1人で入ります。国宝・如意輪観世音菩薩像や、重文・薬師瑠璃光如来像を見ます。観世音菩薩像は、平安前期・1200年前の作ですが、綺麗なお姿です。かやの一木から彫られているということで、後の運慶快慶が隆盛した慶派の分業合体方式ではない時間と根気を掛けた仏像のようです。堪能し外に出ると、雨ざらしの石棺が目につきました。播磨の凝灰岩を使ったもののようで、播磨の石切り場を思い出しました。古代にまで遡る石切り場で、石工産業があった証拠です。播磨の里山は、岩山が多く低山なのに植生の乏しい山が多くあります。
10:20、「大原野神社」のバイク置き場に戻ります。待ち合わせ時間の11:30まで1時間しかありません。ナビに先斗町駐輪場をセットしGO。r141〜r140〜r10、沓掛からR9・山陰道に乗り、京都市街地突入。道なりに「五条通」。「河原町通」に乗り換え北上し、ナビが示す目的地を見ながら、適当な右折可の枝道に突っ込みます。
ちょうど、坂本龍馬が隠れ住んだ「酢屋」前の道だったので、10:53バイクを停め激写タイム。バイクに戻ると、前方の高瀬川の橋の上に警官が立っています。しかも2人も。「何か事件でも・・・ここが通れないと駐輪場に入れないのですが・・・」、ゆっくり近づくと、警官が僕の方に歩いてきます。「さっきバイクを停めたことをとがめられるの?」。「すいません、歩行者専用になっています。ここを右折し、突き当りを左折すると木屋町通に入れますから」
高瀬川を渡る橋が通れず、高瀬川の東に沿う「木屋町通」が歩行者天国になっていました。西に沿う道を南に走ると、高瀬川に高瀬舟が浮かべられ、お客さんが乗っています。日頃見られないのでバイクを止めて激写したいが、警官の目があるのでスルー。突き当りを左折し橋を渡ると、そこから南は通行可でした。
11:01「先斗町駐輪場」にバイクを入れます。去年、木屋町通を歩いた時見つけました。バイク装束を脱ぎ、盗られないようにワイヤーでバイクに結びます。この作業中、横のトイレから大声が聞こえてきました。中国人のお父さんが息子を怒っています。外国まで来て大声出して怒らなくても・・・。
気持ちを落ち着け、11:10高瀬川&高瀬舟を激写。例年なら桜が満開なので、満開の桜の下で舟遊びを楽しむ風情なのでしょうが・・・。元は京都の商運を支えた鴨川から水を引く運河なので、土佐藩はじめ各藩の藩邸が軒を連ねていました。よっていつでも治外法権のと佐藩邸に逃げ込めるから、坂本龍馬はここに潜みました。
でも今は、単なる水の憩いの場で浅いので、平底の高瀬舟と言えど浮かびません。ただ乗るだけかもしれません。西に向かいます。事前に調べたら、待ち合わせのお店まで1kmあるから、所要時間15分です。河原町通を渡り、「蛸薬師通」をひたすら西へ。
お店は、「烏丸通」の一本東の通りとの角です。その交差点まで来たけど、アルファベットの名前のお店がありません。「あれ〜おかしいな」と更に進むがわからない。引き返し、東西の蛸薬師通ではなく、南北の通りに面しているのかと曲がると、11:27「O・MO・YA東洞院」がありました。「本日満席です」のプレートが下がっています。
いつも15分以上前に着いてるので、慌てて店内に入ります。予約名を店員さんに言うと、案内してくれました。フレンチレストランだけど、京都の町家をリニューアルしたお店なので、靴を脱いで下駄箱にしまいます。通されたのは一番奥の部屋で、なんだか蔵の中のような感じです。
そこには皆さんがお揃いで・・・のはずが、予想に反しお初の女性が1人だけです。挨拶し、「あれっ、まだお一人ですか?今までこんなことなかったのに・・・」。掘りごたつのように床が掘られ、長テーブルの部屋です。畳に座るけど足が楽でいいです。
すぐに皆さん来られ、「あんた、僕らが集合してる横をスタスタ先に入っちゃうんだもの・・・」と。遅れたと思って、前しか見ていませんでした。参加者は8名です。
ランチプレートを予約しているようで、メニューを見ても考える必要なく楽でした。自己紹介し、ケーキのような突き出しが運ばれ、あ〜だこ〜だおしゃべりが始まります。アメリカに住んでいる長男が、2年後イギリスに移動するかもしれないので、イギリスに住んだことのある方が3人もいて、いろいろ聞けてラッキーでした。
フレンチレストランということだったけど、ご飯と味噌汁があり、メインディッシュのお魚料理とあれやこれや、店員さんが説明してくれたけど、とんと食に興味が無いので、右から左に抜けていきます。
話が盛り上がり、2時間があっという間に過ぎ去りました。13:30解散です。この集まりは、現地集合・現地解散のカフェ巡り会です。まだ聞きたかったけど、「駅まで一緒に帰りましょう」とか話していらっしゃるので、僕はここでサ・ヨ・ウ・ナ・ラしました。家ごはん好きの僕としては、ご飯があり箸で食べられ楽でした。ナイフとフォークじゃ、食べた感じがしません。
お店を出ると、パンの美味しい匂いがしており、家内のお土産として買いました。帰宅後食べましたが、とても美味しかった。コーヒー風味のパンだったのかな?「蛸薬師通」を今度は東に進みます。和服の母娘がいい感じ。サイクルショップが2軒あったので、店内に入ってみました。カバンのお店、お茶のお店・・・京都らしく洗練されています。
「新京極商店街」に突き当たり、そこが「蛸薬師」さんでした。『正しくは浄瑠璃残永福寺といい、本堂に「蛸薬師」と呼ばれる薬師如来の石像が安置している。昔、この寺が二条室町にあった頃、付近に池があったことから、水上薬師または澤薬師と呼ばれ、これが訛ったと言われている。また、この寺にいた善光という親孝行な僧侶が、戒律に背いて病気の母のため、タコを買って帰る所を町の人に見咎められ箱を開けるように言われた。この時薬師如来に祈ると、タコの足が8巻の妙法蓮華経に変わり難を逃れた。その母も全快し、親孝行の僧侶を守った本尊の霊験として、本尊の薬師如来を蛸薬師と言うようになった説もある。病気平癒祈願に参拝する人々で賑わい、参道は蛸薬師通と呼ばれるようになった』
お参りし、新京極を北に歩きます。Tシャツと被り物のお店がありました。「誠心院」というお寺がありました。『真言宗泉涌寺派の寺で、才色兼備で知られる平安時代の代表的女流歌人・和泉式部を初代住職とする。関白・藤原道長が、娘の藤原彰子に仕えていた和泉式部のために、一庵を与えたのが起こり。当初、御所東側にあったが、鴨川の氾濫で一条小川に移築し、更に天正年間(1573〜1591)豊臣秀吉の命でこの地に移動した。堂内に、本尊阿弥陀如来像、和泉式部・藤原道長像を安置している。境内に、和泉式部の墓と伝わる宝篋印塔及び歌碑が建てられている。またかたわらの梅の木は、式部が生前愛した「軒端の梅」に因んで、後に植えられたものである』
本堂には、工事ブルーシートがかかり、中に入れませんでした。宝篋印塔なども確認しましたが、「なるほどね」程度の感想です。絶世の美女だったらしい大人気恋多き和泉式部は、全国に墓がありますが、元の雇い主が一庵を与えたということは、第一線を退き、悠々自適生活をここで送っていたことが想像され、ここのお墓が最も信憑性が高いのかもしれません。
『新京極 北は三条通から南は四条通に至る500mの通りを「新京極通」といい、平安京の最も東に位置した東京極大路(現在の寺町通)の東側に新しく造られた通りであることに由来する。天正年間(1573〜92)、豊臣秀吉が市中の多くの寺院を寺町通に集めたことに伴い、その境目が縁日の舞台として利用され、周辺は見世物や催し物中心に発展するようになった。明治5年(1872)、このことに注目した京都府惨事・槇村正直は、東京遷都で衰えていた市民の士気を盛り上げるべく、寺院の境内を整理して新たな通りを造った。これが新京極通の誕生です。明治10年(1877)頃、芝居座・浄瑠璃・寄席などの興行や飲食店が並び、明治30年代には、東京浅草・大阪千日前とともに、日本三大盛り場として知られるようになった。上方落語の始祖・安楽庵策伝が住職を務めた誓願寺、和泉式部の寺・誠心院や、西光寺・蛸薬師堂・安養寺・善長寺・錦天満宮・染殿院という由緒ある寺院と1つの神社が通りの歴史を伝えている』
ぶらぶら歩き、14:10高瀬川沿いの彦根藩邸跡に戻った。高瀬川を見ると、2羽の鴨が水浴びしている。繁華街のど真ん中でありながら、清い水が流れ鴨やサギがいつもいるのが、京都の魅力です。下流に目を転ずると、高瀬舟がお客さんを載せ移動していた。高瀬舟に椅子を載せ、そこにお客さんが座っている。船頭が舳先に乗り、竿で川底を探っているが、左右に脇までの長靴を履いたお兄さん人夫が船を持って動かしている。まあ、これが実態だね。水面は膝下程度です。
橋まで来て、激写タイムしています。小さな筏が川底の紐にくくられて、定位置にとどまっている。その上に花が飾られ、風情を出している。高瀬舟乗り場には、次のお客さんがパイプ椅子に座って待っている。無料のようです。ちんどん屋さんがやって来ました。懐かしいな、僕が子供の頃は、日曜日の商店街ではいつも賑やかにちんちんどんどんやってたな。旧高倉小学校前に、「鴨川桜まつり」と書かれた提灯が下がっている。ここがイベント本部のようです。
バイクに戻りました、11:01〜14:27「先斗町バイク駐車場」中大型350円。亀岡周りで帰ることにしました。木屋町通を南下し、四条を西に走り、河原町通を南下し、五条通に乗ります。ここからひたすら西へ。道なりにR9になり、「沓掛」で京都縦貫道に乗ります。
風が強く、ブローで150kgで軽いVTR250が振られるので、75km/hほどで巡航します。亀岡ICで下車し、R372に乗り西進。分岐を「湯の花温泉」方面へ左折し、更に案内板に従って枝道に入り、15:22「神蔵寺」。ツーリングマップルに黒字で書いてあったお寺です。お寺の前で舗装路が切れ、その先に未舗装の広い駐車場がありましたが、舗装路最後の分岐で少し広くなっている所にバイクを停めました。横には大きめの農業用溜池があります。
山門に続く「朱色の橋」手前に、入山料300円を入れるポストが立っていましたが、「入山料は受付へお願いします 只今、小鳥の巣箱になっています」と書かれた紙が貼られていました。
『亀岡の自然100選・神蔵寺』の杭が打たれています。『朝日山神蔵寺(亀岡市稗田野町) 延暦元年(782)、伝教大師最澄が比叡山修行の時、ここに開基した天台宗の行場であった。一条天皇の正暦年間(990〜994)には、仏道伽藍塔頭を造営し隆盛を極めた。治承4年(1180)5月、源頼政が以仁王を奉じ平家に敵対し兵を挙げた際、当寺僧徒はそれに加勢し、大津三井寺と呼応して宇治川に馳せ参じた。しかし頼政は敗れ、当寺は平家に寺領を没収されて荒廃した。嘉禎元年(1235)、達玄の再興により旧観を復し、僧坊26を数え遠近老若男女の篤い信仰を得て数百年経た。天正3年(1573)、明智光秀の兵火により焼失、薬師本尊と両菩薩は岩山に隠し難を逃れた。その後承応2年(1653),浄土宗・願西法師が鐘楼本堂阿弥陀堂を建立復興、延宝元年(1673)亀山藩主・松平忠昭の帰依により妙心寺派の高陰玄厚を招いて中興し、現在の臨済宗となった。収蔵庫に安置されている木造薬師如来は、開基最澄自ら比叡山根本中堂の薬師秘仏と同木で作られたものと言われ、藤原期の優美な尊容で、国の重要文化財に指定されており、脇侍の日光月光両菩薩も同時代の作と鑑定されている。現在は、口丹波佐伯薬師として、西国薬師霊場第43番札所になっている』
禅寺のようです。明智光秀が、織田信長の命を受け、近江坂本から丹波に進出し亀岡に丹波平定の拠点を作った時の兵火に遭ったようです。平家物語の平安時代から清盛の時代を経て、鎌倉幕府成立前夜の時代にも頼政に味方し敗れた歴史を持っていました。三井寺に呼応したとは、大した勢力だったようです。都まで1日の距離なので、北西の位置から僧兵を抱え勢力を張っていたのでしょう。
山門をくぐると、正面に石段が上がっており、その石段を覆うように紅葉の大木が枝を伸ばしている。青葉の季節にまだ早いのか裸でしたが、少し季節が進むと青葉が綺麗そうで、秋の紅葉の時期も良いでしょう。右手に寺務所がありますが、奥さんが先客のご夫婦と歓談中なので、拝観料は後払いにして石段を上がってみます。
本堂前の賽銭箱は、『明智光秀公 駒返しの大桜 大賽銭箱 天正3年、信長の命で明智日向守光秀は、丹波攻めで当寺を焼いた。天正10年夏、「敵は本能寺にあり」と丹波・摂津国境に近い法貴谷(市内曽我部町)に馬を返す光秀の軍勢を見下ろす山桜の幼木があった。伝教大師が当山を開創以来1200年目・平成2年、大木となったこの桜木が伐採されるという因縁により、有志縁者によって奉納されたのが、この結縁の大賽銭箱である。願わくば、天下和平・万民和楽・諸縁吉禅ならんことを』
本尊を安置する薬師堂は、コンクリート造の耐火構造になっていた。鉄扉は開いていたが、格子扉が閉まりあまり良く見えなかったのが残念。梅をはじめ、いろんな樹花が咲き、山里の春を感じました。1本の木なのに紅の花が咲く枝と、白い花をつけている枝を持つ梅の古木があった。枝を根本まで観察すると、地面のところでくっついていた。挿し木でもしたのだろうか?
本堂の縁側に大きな鉢植えが置かれ、綺麗な花をつけた木が植わっていた。剪定中のようで、小型ノコギリと植木鋏が置かれていた。山里での落ち着いたゆったりした僧侶ご夫婦の生活が垣間見えた。本堂横にも小さな手水があり、ここも竹のパイプだった。竹パイプ細工師がいるのだろうか?
境内に、『当山鎮守八幡大菩薩』と彫られた石柱が打たれている祠があった。古墳時代終盤・飛鳥時代直前に伝来した仏教は、日本古来の神道と共存することで日本に根付いた。やがて神仏習合し、日本独特の集合した無数の神様が現れ、現代に日本人の心を形成している。明治維新時の神仏分離令・廃仏毀釈運動で、多くの寺院が荒廃し、神と仏が分離され、神仏習合宗教の「修験道」は行き場を失ったが、神仏習合の面影を遺すものを見つけると、なんだか嬉しくなる。
石段を降り、拝観料を払おうと思ったが、先程の先客ご夫婦と山門の外でおしゃべりしておられる。梅の古木の花などを激写しながら待っていると、「どちらからですか?」と奥様から声を掛けられた。この梅は樹齢450年ほどで、紅葉は400年だそうです。明智光秀の兵火を見ていたかも・・・なんて話をなされ、このお寺の歴史を教えてもらった。
「鳥の巣になっていたので、こちらで良いですか?」と拝観料を出すと、「すみませんね」とおおらかなものです。アセビの大きな木があり、ピンクの花を山のように咲かせていた。ロウバイの黄色も満開、よく手入れされた椿の赤い花もナイスで、落ち着いた気持の良い山寺でした。
15:50、帰路につきます。枝道を下り、「湯の花温泉」前を通過し、R372〜r731でR477に出て、一気に南下し、「一の鳥居」でR173に合流し、池田・川西能勢口からr13で南下し、16:55帰宅。1日で500枚も写真を写しちゃいました。
帰宅すると、家内の方が先に帰宅しており、お互いの今日をあれやこれや話し、お土産のパンを家内に切ってもらい、「美味しいね」とむしゃむしゃ。通勤リード110に乗り換え、日曜大工の小物をコームセンター・コーナンに買いに行きました。
19時から、家内が「天皇のお勉強番組があるの」と、池上彰さん解説番組を一緒に見ました。なんと3時間番組でした。後半1時間は、2人であくびを連発しながら最後まで見ました。

2017/3/26
家内もお休みで、のんびりした休日を過ごしました。うちの車キャラバンワゴンの2座席目の手動スライドウインドーのロックが利かなくなったので、前日日産に電話し、その修理で11時ぐらいに行く予定でした。もう一つ、家内のバイクのバッテリー交換をする予定でした。そして、前日の夜家内と約束した映画8:30上映開始を観に行きます。
いつものように朝4時に目を覚ましゴソゴソし、6時から行動開始しました。まずは家内のバイク「アドレスV125」のバッテリー交換です。台湾YUASAのバッテリーをネット購入しました。昼休みが短くなったので、昼休み中にバイクワールドに行き交換してもらうことが出来なくなったからです。
事前充電までされているものもありますが、あえて濃硫酸別の物を購入しました。シールドバッテリー・YTX7A-BS。前日・土曜日の朝、説明書に従って濃硫酸を注入し、1時間反応させました。その間家内のPCの不要メールなど要らないものを削除する仕事をして、1時間経過後小さなハンマーで、バッテリーの蓋を叩いて閉めました。すぐに充電します。土曜の夜、事前充電が出来ているのを確認し、外しておいておきました。
日曜の朝、交換作業開始です。アドレスV125のバッテリーを外し、新しいのに載せ替えます。作業は15分ほどで終了したので、近所を一回りします。セル一発でエンジンが始動しいい感じです。
朝食をして、8時になったので、アドレスV125にタンデムして映画館に向かいます。バイクに乗る時、家内が「あれ〜足の置き場がないよ。なんか足の置き場が平らだったのが丸棒になってる。お尻も変だよ。乗る所が狭いし・・・」と違和感を訴えます。そりゃそうでしょう、いつも僕のリード110だったのだから、違って当たり前です。違うバイクだよと話すと、「え〜そうなの?」てバイクが変わったことをわかっていませんでした。僕のは赤で、家内のはシルバーだから、一見して色でわかりそうなものなのに・・・。
こんなだから、僕の「里山VTR250・ブルー」と、「招き猫CB400SB・ホワイトツートン」の区別がつかないのも当たり前です。うちの車だって、よく間違えます。小中学校と、ずっと学年トップの成績を重ねてきた才媛なのに、とんでもない方向音痴で、バイクや車の区別がつかないギャップが面白いです。
8:15映画館に着き、「チア・ダン」のチケットを購入し劇場に入ります。予告編で広瀬すずさん主演なので観に行きたいと思っていましたが、ロードショー終盤でやっと観に行けました。福井県の高校リアダンス部が、全米チアダンス選手権で初優勝した実話に基づいた映画です。
中学でいいなと思ってた男の子と同じ高校に進学し、彼のサッカー部の国立競技場での全国高校選手権を応援したいというのが動機で入部しましたが、この年にバトン部から変えたチアダンス部の顧問先生が熱血先生で、先輩が全員退部してしまいました。
指導に反発を覚えながら、部員が激減したり、友情で増やしたりしながら、3年生の時初めて福井県で優勝し、全国大会でも優勝し、全米選手権の出場権を得ます。
そんな体育会系チアダンス部の奮闘を描くものですが、スポ根物とは描き方が違い、コスチュームも可愛いし、広瀬すずさんはじめ出演者も可愛く、楽しく観させていただきました。頑張りが健気で、応援したくなり、感動屋の僕の頬を何度も涙が伝いました。星3つの秀作でした。
最後の全米選手権の予選・決勝場面を見ていて、「スポーツでハイになってる」感じがよく出ていました。嫌々ながらテスト勉強していても、乗ってくると集中し出しハイな気分になり、勉強に1〜2時間脇目も振らずに集中できる時があります。スポーツでも同じで、辛いな〜しんどいな〜もう限界と思いながら、あと少しあと少しと練習を続けていると、グーンと集中してしまい、全く疲れなくなるスポーツハイの状態に突入することがあります。
僕も大学ヨット部時代に何度も体験しました。強風・大波で体は疲れているはずなのに、グーンとレースに集中してしまい、相手艇の動きや考えていることが鮮明に見えだし、意識せずに勝手に体が動き、自艇が恐ろしく速くなる時があります。
一種のトランス状態なんだろうと思うし、「火事場の馬鹿力」もこういう状態なんだろうと想像出来ます。僕の場合、満腹だとダメなので、朝食は取りますが、レースの合間に取る昼食は抜いたり少しにしたりしていました。
レースでトランス状態になると、もう負ける気がしなくなり、フィニッシュしても半トランス状態なので、次のレースでも負け力がしなくなり、スタートを少々失敗しても「どうせトップに立てるわ」とレースを俯瞰的に、上から目線で見れるようになり、やること成すこと当たりばかりで、一旦トップに立つと2位以下との差は離れるばかりになります。
この映画を見ならが、選手達がそんなチアダンス・ハイ状態になったのではないかと想像しちゃいました。練習を山のようにして、ヘトヘトに疲れた状態になったところに更に練習を重ねると、次の手順など頭で考えるんじゃなく、頭とは切り離された状態で身体だけが勝手に動き出し、もう音楽に合わせた自分だけのハイな世界に入り、選手みんながその状態になると、全員の演技が揃います。
可愛い女の子達の映画でしたが、スポーツを感じました。それもあって、涙でボロボロになっちゃいました。家内もとても良かったようです。女子中高生が多いお客さんでしたが、予告編中はざわついていたのに、本編上映が始まると映画に集中しちゃって、エンドロールの時でも誰一人立たず、音もせずスクリーン・ハイになったんじゃないかと思うほど、観客が一体になってる感じが伝わってきました。シーン展開が早めで、くどく説明するような台詞がなく、若者に合わせた作り手の上手さも感じました。朝8:30と夜18:30の2回上映というロードショー終盤ですが、お客さんはそれなりに入っており、次週も続くのではないかと思います。
映画館に、4月上映開始予定映画のポスターが張ってありました。アニメですが森見登美彦原作「夜は短し歩けよ乙女」が映画で登場します。家内と、「実写版だったらもっといいのに・・・」と話しながらも、僕の小説の概念をゴロンと変えた言葉遣いの素晴らしさで大感動した小説の映画化なので、楽しみです。主演の京都の腐れ大学生を星野源が声優します。大学ヨット部新人勧誘時期の4/7上映開始なのが、微妙です。
劇場を出ると、子供が多くなっていました。「ドラえもん」のようです。子供映画は、必ず親も来るので収入が良いです。春休みは、子供映画の多い時期ですね。11時に帰宅し、僕だけ車に乗り換えて市内の日産に向かいました。日産車だけど、今はトヨタに整備・点検・車検をお願いしていますが、今回は久しぶりに日産ディーラーです。親父のスカイラインに始まって、僕のホーミー・キャラバンとずっとこのお店で買っていました。
メンテさんに見てもらうと、簡単に直らないようで、併設工場に車が入って行きましたが、展示されているティアナ・マーチ・ノート・セレナと次々に乗っていると、直って出てきました。15分ぐらいで終了で、無料でした。
12時前に自宅に戻り、お昼ごはんを食べ、カメラや隣の家や我が家の掃除などしました。その後地上波TVも見ましたが、民放は宣伝が多く嫌になり消しちゃいました。これじゃ、若者がTV離れを起こすのも当たり前です。家内とアマゾンプライムで「福岡恋愛白書10」を、PCとTVをHDMIで繋いで観ました。
大相撲中継を見ました。金曜日に日馬富士に負け全勝に土がついた稀勢の里は、その時の怪我で土曜日も負け、2連続優勝が風前の灯になっていました。肩に痛々しくテーピングされていましたが、9連続勝利中の得意様・照ノ富士に対し、本割で土俵際の逆転勝利し2敗同率になり、優勝決定戦でも再び土俵際での逆転勝利で優勝しました。
解説者によると、土曜日の照ノ富士の勝利があまりいただけない勝ち方で、場内を敵に回してのも、稀勢の里逆転勝利に導いたということです。どんな取り組みだったのだろう・・・

2017/3/19
2日間の伊勢の旅に出ます。次男一家から「伊勢神宮にお礼参りしにいかない?」と誘われ、現地合流することになりました。次男一家は新幹線〜近鉄でやって来て、僕らは車で行き伊勢市駅で合流します。10:11近鉄伊勢市駅着予定なので、余裕を持って6時出発にします。
4時に目が覚めゴソゴソし、着替えて5時から活動開始です。荷物を積み込み、チャイルドシートをセットし、5:59出発。中国道・豊中ICから高速道路に入り、名神高速・大山崎JCTから「京滋バイパス」に乗り換えます。
名神草津で合流し、6:48「草津PA」着。ここで「朝カレー」を食べます。7:10、出発し、新名神にチェンジし、亀山JCTで東名阪道に合流し、道なりに伊勢道になります。7:58「安濃SA」に着き休憩します。天気が良く、最高の「お伊勢参り」になりそうです。8:12に出発し、8:53「伊勢道・伊勢西IC」下車。
まだ1時間余裕があるので、r32〜R23で伊勢神宮・内宮近くの「猿田彦神社」に参ります。猿田彦は、天孫降臨した天照大神の孫・ニニギに従い、道案内した神です。奥さんは、アメノウズメで、天照大神が天の岩戸に隠れて暗くなった時、大活躍しました。
困ってしまった神々が集まって考え、アメノウズメは天の岩戸の前でストリップ踊りを披露しました。男神たちは大喜びで拍手喝采し、「おかしいな」と思って岩戸を少し開けて覗いた天照大神の腕を怪力のタヂカラオが掴んで、引っ張り出しました。岩戸が落ちた場所・戸隠に戸隠神社が建てられたなど、古事記の日本神話が続いていきます。
9:07「猿田彦神社」着。目の前に内宮駐車場・1000円がありますが、ここの駐車場は30分無料です。境内に入ると、摂社の「佐瑠女神社」があり、本殿以上に人気があるようで、参拝者が列を作っています。すぐに、佐瑠女はアメノウズメを指すのだなとピンときました。神紋が日本航空のロゴマークと同じだと、家内は喜んでいます。JALはくちばしが右に向いているけど、こちらは右と左があります。佐瑠女やアメノウズメとの関係が気になります。帰宅したら調べてみよう。アメノウズメは、舞踊・芸能の神様で広く信仰されており、この夫婦が「おかめ・ひょっとこ」のモデルだとも言われています。
『佐瑠女神社 祭神・天宇受賣命 天孫「ニニギノミコト」御一行を迎えた猿田彦大神と最初に言葉をかわしたのが御祭神です。天孫一行を日向の高千穂峰に導いた後、本拠地のここに戻られる大神とともに五十鈴川川上においでになり、「さるめ」という姓をいただかれた。また「天照大神」が天の岩戸に籠もられて世の中が暗闇の用になった時、岩戸の前で舞をされて、お出ましを頂く契機をつくられた話はよく知られています。その為「芸能・魂鎮(たましずめ)・縁結び」の祖神として広く信仰を集めています』
手水舎の柱には、芸能関係者と思われる方々のシールやステッカーがたくさん貼られています。本殿に参ると、白無垢と角隠し姿の花嫁さんとご新郎が、境内で撮影されています。僕も家内と母校チャペルで式を挙げたので、学生たちに祝福を受けました。神前であり人前結婚式でもありますね。帰宅後調べたら、「大安」でした。
絵馬掛けを見に行くと、芸能関係の上達を祈願する絵馬が多く掛かっていました。本殿横を新郎新婦が歩いて行かれます。これから結婚式なのかもしれません。9:23に出発し、r23を外宮方面に走り、外宮前を右折し、9:37「伊勢市駅」着。近鉄伊勢市駅とJRの駅は隣接しており、外宮側がJRです。駅を見に行くと、陸橋で両駅がつながれており、JR側で待つ事にしました。
駅から外宮に向かって歩行者天国の参道が続き、さほど距離がないので歩いて行くことにします。外宮駐車場が混んでいたんですよね。見える駐車場は、「1日最大800円」で、「空車あり」と電光掲示されています。家内を駅に残し、徒歩で駐車場を見に行き帰る時、駅前参道入口の鳥居前で、共産党の幟を立てている爺さん婆さんからパンフを手渡されました。「安保法案反対」のプラカードを持ち、我が家の隣町・大阪豊中の森友学園小学校用地に、国有地を低額で払い下げられた問題をマイクで糾弾しています。
国有地の民間への低額払い下げは、公共性のある事業にはつきもので、何処にでもあることなのに・・・そんなことより、北朝鮮に日本人が拉致され続けていることや、ミサイルに狙われている現状を解決すべく話してほしいわ。共産党は、親中国共産党で反日なので嫌いです。運動員の平均年齢が高く、学生運動にパワーがあった団塊の世代以前の方々が主力なので、早く力を失ってほしい。
孫・すみれちゃんを抱いて次男夫婦が改札を出てきました。荷物を車に置き、家内と次男一家は参道を歩いていきます。僕は車を駐車場に置きに行きましたが、なんと僕の前の車で「満車」表示になっちゃいました。
ガッカリし、別の駐車場を探しに移動し、10:45「ファミリーマート伊勢本町店」で、麦茶600ml・100円を購入し、参道を歩きながら次男に電話します。参道の外宮直前のお店で「ご当地ビール」を飲んでるらしい。みんなと合流出来ました。次男から「ビール飲んだから、運転出来ないよ」だって。ご当地ビールを飲む予定を立てていたようです。
外宮前の交差点を渡ります。参拝客で賑わっています。『豊受大神宮(外宮) 祭神:豊受大御神 鎮座:雄略天皇22年 豊受大御神は、お米をはじめ衣食住の恵みをお与えくださる守護神です。約1500年前の雄略天皇の御代に丹波国(京都府北部)から天照大神のお食事を司る未撰津神(みけつかみ)としてお迎え申し上げた。御垣内の御饌殿では、朝夕2度天照大神に神饌を奉るお祭りがご鎮座以来絶えることなく行われています。ご遷宮は、内宮と同じ20年に一度行われ、平成25年10月5日に第62回式年遷宮が行われました』
豊受大御神は、出雲の神様です。古事記神話にあるように、天照大神の弟・素戔嗚尊が先に下り、八岐の大蛇を退治し、その子・大国主命が中心になって繁栄させた葦原中津国を、天照大神の孫・ニニギに手渡した。大和民族と出雲族が協力して繁栄させてきたのが日本国です。
手水を使い、巨木が生い茂る参道を歩きます。ご神木の大杉の多くは、途中で切られ背の高さを加減しています。伸びすぎると、倒木の危険や被害があるからでしょう。
入口の灯籠のみを残し、遷宮地の広い空き地があります。縄が張られ、記念写真を撮っておられる方が多い。そのお隣が現在の正殿で、ここの鳥居内部は撮影禁止でした。千木は水平切りで、鰹木は6本の女神の本殿です。
摂社巡りから僕は脱落し、車の回しに行きます。車を外宮前に回し、次男に電話で場所を伝えます。横はバス停で、内宮に行けるようです。家内とすみれちゃんを抱っこしたお嫁さんがやって来て、トイレで遅れて次男がやって来ました。11:49に、ピックアップしましたが、r32を内宮に向けて走り出すとすぐ、11:51に渋滞突入です。時間に余裕があるので、車内でワイワイおしゃべりしていましたが、徒歩の方が早く、車を抜いていく徒歩の方が増えてきたので、12:37徒歩開始です。外宮と内宮の距離は3kmですが、ここからは残り1km・15分の距離です。
僕はそのまま渋滞に捕まったままでしたが、やがて内宮前R23との交差点まで来ました。そのまま道路を渡り、五十鈴川河川敷駐車場に並ぼうと思ったら、その先にも駐車場があるようで、列が短いのにそちらに並びました。数台動いたところで満車になったようで、係員に別の駐車場に行くよう指示された。内宮参道商店街の「おかげ横丁」の延長線の位置にある駐車場で、参道を楽しみながら参拝できそうで悪くないです。13:04、「伊勢地域観光交通対策協議会・1000円」。
r32の橋で五十鈴川を渡り、13:10「内宮おかげ参道」と書かれたところを横に見て、昨年のG7サミットで各国首脳の車が走ったR23を歩きながら、次男に電話します。「おかげ横丁と交差する「おはらい通り」入口の店でご飯食べている」とのこと。とりあえずおかげ横丁が見えてきたので、ガードマンに現在地を教えてもらい、地図を見せてもらい大まかな位置を頭に入れます。
『おかげ横丁の由来 伊勢は2000年以上に渡って、日本一の神様のお膝元です。この地に住む私たちは、暮らしの全てが神様のおかげと感謝しています。江戸時代、日本人多くが伊勢に押し寄せたことがありました。いわゆる「おかげ参り」です。当時、この町は大変な賑わいで、伊勢の人々は三宮者を温かくもてなしたといいます。そんな町も、世情の移ろいとともに古い習慣が廃れるにつれ、いつしか寂しい町と変わってしまいました。衰退した町を生き返らせたいと願い、赤福当主が構想し、完成させたのが「おかげ横丁」です。平成5年の61回遷宮の年です。以来、多くの方々の賛同と協力を得て新しい伊勢の町として歩んでまいりました』
大混雑の『おかげ横丁を縫いながら、「おはらい町」と交差する赤福本店前を内宮と反対方向に「おはらい町」を歩きます。こちらも大混雑で、やっと商店街が尽きたエンドに、みんなが食べている「武雷庵」がありました。「内宮おかげ参道」と書かれた目の前です、13:37。「なんじゃこりゃ、27分も大回りして、元の場所に戻ってきた」。松阪牛を食べていました。横の屋台前に、牡蠣の殻がうず高く積まれ、牡蠣を食べさせているようです。
再び「おはらい町」に突入です。赤福本店を過ぎ、屋台で揚げ餅ウインナーを買い、お行儀が悪いですが食べながら歩きます。混雑しているので、周りの人の洋服を汚さないよう注意しながら。
14:01、内宮前到着。G7サミットで安倍首相が迎え、各国要人が車から降りた場所です。バイクが、係員の誘導によりたくさん並んで止まっています。楽だね。トイレ休憩します。
『皇大神宮(内宮) 祭神:天照大御神 鎮座:垂仁天皇26年 天照大神は、皇室のご祖神であり、歴代天皇が厚くご崇敬になれれています。約2000年前の崇神天皇の御代に皇居を御出になり、各地を巡られた後、この五十鈴川の辺りにお鎮まりになりました。20年一度神殿をお建て替えする式年遷宮は、1300年余り続けられています』
垂仁天皇は、イエス・キリストと同じ時代を生きた天皇です。鳥居前には、礼服の一団がおり、どうみても結婚式集団で、伊勢神宮での結婚式なんて聞いたことないので、帰宅後調べてみました。やはり結婚式はやっておらず、「結婚の報告と感謝を捧げる」というものだそうです。「猿田彦神社の結婚式を挙げ、神宮前の大鳥居前で記念撮影をする。正装の着替え、伊勢神宮で神楽奉納と記念写真を撮る」というのが一般的だそうです。境内には白無垢やウェディングドレスで入ることは出来ないそうです。
安倍首相がオバマさんと話しながら渡った五十鈴川に掛かる橋を渡り境内に入ります。広い参道を歩き、五十鈴川の手水場で手を清めます。更に参道を歩き、御朱印を授かるために、社務所で僕だけ列に並びます。行列が長く、みんなは先に参ります。
御朱印を授かり追いかけましたが、帰路のみんなとすれ違い、「赤福前で待ち合わせ」にしました。内宮に参り、別宮:荒祭宮に参り、別宮に行くために五十鈴川にかかる橋を渡ったりしながら、大混雑の「おはらい町」に突入。15:15「赤福」前に着き電話すると、途中で抜かしてしまったらしい。お土産を物色しているのだとか。みんなと合流し、五十鈴川を渡り駐車場に戻ります。15:29に出発し、すぐ「伊勢志摩スカイライン」に乗ります。普通車1250円。展望駐車場があったので外に出てみます。伊勢湾を眼下に望み絶景ですが、残念ながら霞んでいます。
15:53、「金剛證寺」着。標高500m・海が近いので比高も同様な登山を要する山寺なのに、意外に立派でした。織田信長に与力し、鋼鉄船を建造して、石山本願寺合戦を信長勝利で終わらせる転機になった毛利・塩飽・村上水軍との大海戦を勝利した九鬼嘉隆の菩提寺です。
阿吽の仁王が守る山門を入ると、太鼓橋が掛かる池のある境内は雰囲気があります。トラと牛の銅像が置かれ、知恵を授かるようです。すみれちゃんが知恵者になるよう願っていました。
16:09に出発し、16:29「朝熊山展望台」着。555mの山頂は吹きっ晒で風が強い。標高555mだそうです。16:34に出発し、ここから鳥羽方面に下ります。スカイラインのエンド・R42と交差するところにある「ドライブイン鳥羽」に、16:46寄り道します。赤福餅を買って、宿で食べる予定でしたが、残念ながら売り切れです。目に入ったあられセット「鳥羽漁師あられいか390円+えび390円+アオサノリ390円=1050円」を購入。
R42でJR&近鉄「鳥羽駅」前を通過。お嫁さんは、妹さんと伊勢旅行した時、駅前のショッピングセンターに入ったのだとか。姉妹だけでの旅行もいいね。男兄弟での観光旅行は、何か怪しい関係を想像してしまうが・・・。僕ら一家は家内の姉一家と、日帰り果物狩りや、スキーやキャンプをしました。次男一家も、来週末結婚式を挙げる妹さん夫婦にお子さんができ、2家族で旅ができるといいな。「鳥羽水族館」がありましたが、すみれちゃんは7ヶ月なのでパス。フェリーターミナルがありました。渥美半島の西端・「伊良湖岬」と結び、伊勢湾の入口を走る航路です。所要時間1時間なので、とても近いです。
鳥羽港の南側の丘陵地にホテルが数棟見えます。宿泊の「鳥羽ビューホテル花真珠」はこの中の1つでした。17:07、着。すぐに玄関から係の方が来られ、名前を言うと予約名簿で確認し、駐車場所に誘導してくれました。玄関のすぐ近くでコーンが立っており、それをどけてどうぞと。荷物を下ろすとロービーまで運んでくれました。施錠しロビーに入ると、お嫁さんがJTBで取ってくれた宿なので、次男夫婦がフロントで手続きをしてくれていました。
すぐに部屋に案内されました。フロントが3Fで僕らの客室は4Fでした。1Fが大浴場で、2Fが宴会場のようです。4Fでエレベータ−を降りると、浴衣を選びます。男性用はサイズのみですが、女性用はフリーサイズでカラーが4色ありました。通された部屋は、エントリー・トイレ・下駄箱クローゼット、そして和室とバルコニーがついています。バルコニーと言ってもその外側に開閉可能なガラス窓があり、バルコニーにお風呂があります。窓を開ければ露天風呂のような感じになります。
この部屋にしたのは、おむつが取れていない我が子のためでしょうが、もう1つ僕に孫と一緒にお風呂に入る体験をプレゼントするためのようです。僕は水着を持ってきました。お嫁さんに写真を撮ってもらおう。すみれちゃんは、知恵が進み「人見知り」出来るようになっていました。お正月は、ニコニコ僕に抱っこされていましたが、この日はしばらくすると泣いてしまいます。家内は女性なので、素直に抱っこされています。
これは、現京大学長・山極先生のETV番組と本で知りました。霊長類研究所の元所長さんで、世界霊長類研究のトップの方です。オスは自分の子孫を残したいので、ゴリラはハーレムを持つオスに戦いを挑み、勝利しオスを追い出したら、ハーレムごと我が物にします。メスは授乳中は妊娠しないので、ハーレムの子供は追いかけて全て殺します。子を殺されたメスは、新たなハーレム主のオスを受け入れ妊娠します。この習性のため、ゴリラは頭数を増やせません。
チンパンジーは、このオスの習性から子供を守るため、子供の父親が特定できないように1頭のオスを中心にするハーレム方式を止め、集団生活フリーセックスに移行し、頭数を増やしました。
人間は、チンパンジーより弱いので、森の餌場を独占できず、サバンナと森の境目を生活圏にします。ここはサバンナの肉食獣の生活圏と重なるので、死亡数が増えてしまい、大量出産でそれを補うことにしました。チンパンジーのように1回1頭、子育て終了し一人前に育ってから次の子を妊娠では追いつかないので、年子や双子で産むこともします。そうなると、母親1頭での子育ては困難になり、いっさい子育てにかかわらなかった父親を、子育てに引きずり込みます。
子育てに関心を持つよう父親が誰かわかるようにして、一夫一婦制を基本にすることで、強いオスのメスの独占傾向を軽減し、多くのオスにメスを得て子を持つチャンスを増やしました。これが、人類の増殖と大発展の原動力になりました。でも脳の最も深い所にある原始脳は、数千万年の類人猿の進化の歴史を記憶しており、赤ちゃんは原始脳の記憶からそれを追体験して最新の現代人に成長していく。
オスを見れば、拒否反応を示すのが自然な姿で、この時期を経ないと普通の現代人になれない。自己防衛本能です。家内は女性なので、僕に対するような拒否反応を示さない。これも正常に成長しているということです。
長男の息子・4才が同じ頃、僕の顔をじっと見つめ、吟味していました。同じ目ですみれちゃんも、駅で3ヶ月ぶりに対面した僕と家内に対し、家内より僕を凝視していたので、人見知りが始まったなとわかりました。1ヶ月に3回は会ってるお母さんに対しても泣くようになり、お母さんはショックだったそうですが、仕方ないですね。オールマイティーは、お嫁さんだけで、毎日会ってる次男だって時々大泣きされるようです。
お嫁さんから、次男の従兄弟への出産祝いを託されました。僕から、定番プレゼントの「岩波こども絵本」シリーズの「小さいおうち」。それと京都の別名・玉の輿神社「今宮神社」の御札と御朱印とお守り。家内から、お洋服など。それとこの旅の旅費を渡そうとしましたが、これは受け取りませんでした。新幹線代に少しプラスしただけだからと・・・
夕食時間になり、豪華な食事が運ばれてきました。僕はお嫁さんと同じ梅酒風味ジュースを頼みました。次男は瓶ビールで、家内はソルティードッグジュースです。アルコール無しの梅酒やソルティードッグなんて初めて知りました。
食事を終え、家内と大浴場に向かいました。家内は方向音痴なので、大浴場の前で待つことにして、風呂上がりのコーヒー牛乳を楽しみました。髪を洗わないと言ってたのに、えらく時間がかかりました。まあいいんだけど・・・
「髪が濡れてしまったので洗ったら、乾かすのに時間がかかって・・・」と出てきました。部屋に戻ると、すみれちゃんはねており、お風呂はお預けかなと思っていたら、良いタイミングで起きてきたので、水着に着替えます。すみれちゃんも裸になり僕が入ってる湯船に浸かりますが、すぐに泣き始めました。次男が彼のニコンD5500で、お嫁さんに僕のソニーNEX・C3で撮ってもらいました。次男は卒業作品が準優勝して賞品として貰ったD40だったのに、すいれちゃんが生まれて買い替えました。
赤ん坊も大浴場に入って良いそうですが、1人で入浴させるのは大変なので、次男が僕と交代でパンツのまま風呂に入り、すみれちゃんを洗いました。自宅にいるときは、フリチンのままウロウロして平気なやつだったのに、結婚して少し常識を身に着けたようです。さっと拭いて、そのまま浴衣を羽織って大浴場に行きました。
新しい肌着を着せてもらいすぐ寝てしまったすみれちゃんを置いて、お嫁さんも大浴場へ。家内とうとうとしていたら、すみれちゃんが目を覚ましました。僕が身体をトントンしましたが泣き止まず、家内に交代です。僕が抱っこしても同じで、家内でも同じでした。
「可哀想だから、次男を呼びに行った方がいい」と家内は言いますが、泣き疲れたら寝るだろうと粘ったけど、体力は十分のようで、背中を弓なりに反りギャン泣きになってしまいました。仕方ないので次男にヘルプしに行こうと部屋を出たら、次男が歩いてきていました。次男が抱っこしても、マシになるものの同じでしたが、すぐお嫁さんが戻ってきて、彼女が抱っこすると泣き止みました。母親最強・・・
樋屋奇応丸を忘れてきたので心配だったようですが、朝までぐっすり寝てくれました。15分は泣いていました。あれだけ泣いても平気で、まだまだ行けそうだったので体力がついてきたなと嬉しくなりました。

2017/3/20
3時に目が覚めました。部屋は快適な温度です。ロビーに降りて、本を読みました。部屋に戻り二度寝したら、5時前に目が覚めました。家内もムクッと起き、「今、何時?」と。もう眠れない感じなので、ロビーに行こうとエントランスにいたけど、家内が出てこないので、1人で降りました。
竹田恒泰著の「古事記」が置いてあり、興味深く読みました。ホテル備え付けの聖書のように半分は英語で書かれており、裏表紙には『Please do not removethis book from your room. 持ち帰りはご遠慮願います。 この書籍は皆様の寄付により、全国の宿泊施設や教育施設などに配布させていただいております。お部屋からの持ち出し、お持ち帰りはご遠慮願います』と印刷されていました。6:30に部屋に戻りました。家内は大浴場で朝風呂を楽しんだそうです。お嫁さんや次男は、昨夜露天風呂の方にも行ってみたそうです。女性用露天風呂は、バラの花がたくさん浮いていたそうです。眼下の海面を漁船や作業船が沖に出て行っています。
朝食は8:30なので、余裕があります。家内とロビーに降り、新聞を読んでいると、次男がすみれちゃんとやってきました。お嫁さんは朝風呂に行ったそうです。お嫁さんが来ると、交代で次男が大浴場に行きます。すみれちゃんは無料宿泊ですが、絵本やおもちゃが部屋に用意されており、特に赤ちゃん用座椅子が便利でした。お風呂は温泉のようで、透明ですが少し粘っていて、お肌がつるつるします。ロビー売店が開いているので、ご近所さんへのお土産を買いました。お嫁さんおすすめの「青さ500円×3=1500円」+試食して美味しかった「帆立ひもうにしぐ870円×2=1740円」+前日品切れで食べられなかった「赤福8個入り760円」=4000円。
8:15、朝食は2Fの宴会場でした。部屋ごとにテーブルが分けられ、バイキング方式です。各自鉄板があり、切り魚を持ってきて焼きます。ご飯と赤だし、香の物などいろいろあり、お腹いっぱいになりました。
部屋に戻り、後片付けして、お嫁さんがフロントでチェックアウトし、僕は車に荷物を積み込み9:37出発。下ってR42に出て、9:45〜11:31「ミキモトパーキング・500円」。「ミキモト真珠島」を訪問します。大人1500円。駐車場を出ると、「船どうですか」と遊覧船の客引きさんがやってきました。業者が2社あるようで、頑張ってます。イルカのショーが見れるようですが、すみれちゃんはわからないからスルー。
真珠島のチケットを買い、海を渡る渡り廊下を歩いて島に渡ります。世界で初めて真珠の養殖に成功した「御木本幸吉記念館」。明治26年(1893)だそうです。うどん屋の倅として生まれ、病弱な父の手伝いをしながら、学問を習います。鳥羽沖にイギリス測量船がやって来たので、青物を売ろうとするが他の業者も無視される。そこで小舟の上で得意の足芸を披露し気に入られ、御用商人になる。鳥羽特産真珠の商いを始めるが、アコヤ貝の乱獲で生産量が落ちる。ここから一念発起し、世界初の真珠の養殖技術を確立する。次に観光立国を目指し、鳥羽を日本初の国立公園してまで持っていく。
10:20から「海女の実演」があるとのことで、それを観客席から見る。3月の寒い海に入るのかと、その装束が気になったが、白い海女装束から目立たないように、白いウェットスーツを着ているようでした。それでも寒そう。腰と紐で結ばれたたらいを浮かべ、さっと潜り、アワビを持って上がってくる。息子たちを連れてきたときは、5〜6人潜っていた記憶があるが、この時期だからか2人の海女さんでした。
「真珠博物館」で、「真珠が出来るまで」や「ネックレスの作り方」など、肉声で聞きました。売店もあり、3400万円のものまで真珠製品が揃っていました。家内がずっとすみれちゃんを抱っこしていたので、パールのクラウンをお嫁さんに被らせて写真撮ったりしていました。
この島の目の前の鳥羽駅・鳥羽市役所を含めた地区が、昔は島だったようで、水軍・九鬼嘉隆の居城があったそうです。戦国時代は、軍船が多数停泊していたのでしょう。
意外に真珠島が面白く長居してしまいました。R42を海岸線に沿って北上し、「二見ヶ浦」へ。11:47〜12:30民宿アサヒ前駐車場・1日500円。真珠島は5m/sほど風が吹いていたのに、こちらは無風で気持ちが良い。二見ヶ浦まで砂浜があり、すみれちゃんを砂浜に座らせて、次男夫婦は交互にカメラマンをやっています。お嫁さんは、良い一眼レフを買ったので、2日間ベビーカメラ講習を受けてきました。うちに送ってくれる写真も、構図がとても良く、センスを感じます。「絞り」がどうのこうのと2人で話しています。
『夫婦岩 沖合700mの海中に鎮まる興玉神石(おきたま)の皇居と見なされており、日の出の遥拝所として古くから知られている。男岩と女岩を結ぶ大注連縄(しめなわ)は、「結界の縄」と称され、大注連縄の向こうを常世神(とこよ)が太平洋の彼方から寄り付く聖なる場所、手前を俗世という隔たりを持ち張られている。この大注連縄は、およそ650年前(文保年間)既に張られており、現在も氏子により張替え神事が年3回、5/5・9/5・12月中旬の土日に行われています。夫婦岩の大きさは、男岩高さ9m・女岩4mで、大注連縄は長さ35m・男岩に16m・女岩に10m巻かれ、その間9mあります。夫婦岩の間からの日の出は、5〜7月頃が見頃です』
小学校のお泊り勉強で初めて見た夫婦岩は、しめ縄が渡り珍しいと思ったけど、最近はいろんなところで、同じような双子岩にしめ縄が張られ、さほど珍しいとは思えなくなっていましたが、久しぶりに見た夫婦岩は、やはり姿形バランスが良いです。記念写真をパチリ。
御朱印帳に、また次男夫婦が御朱印を押してもらっています。大きな貝がある。『オオシャコガイ(沖縄産) 世界最大種で、殻長1.5m・重量230kg・年齢1万年のものがある。これは推定150年』
お茶屋さんで、「塩ソフト」を購入し、次男夫婦に一口、その後僕と家内で交互に食べながら車に戻りました。家内が美味しいと、後半は全て家内の口の中へ。賢島に向かいます。R42を南下し、また鳥羽駅前を通過し、r750〜r128。牡蠣小屋があちこちにあり、車やバイクがたくさん停まっています。パールロードを走り、13:10「鳥羽展望台」。この道はバイクが多く、たくさんのバイクが休憩しています。眼下に綺麗な海岸線が見えるが、霞んでいるのが少し残念です。空気が澄んでいれば、神島・伊良湖岬・渥美半島・御前崎・富士山が見えるそうです。灯台のある安乗崎や大王崎が見える。小学校で見た「喜びも悲しみも幾年月」という灯台守の映画のロケ地が安乗崎灯台です。鳥羽一郎の兄弟酒の歌碑があった。鳥羽一郎と山川豊は兄弟だそうだ。
「志摩スペイン村」への分岐があった。観覧車とか遊園地が見えるかなと思ったが、見えなかった。パールロードが終わり、R260〜R167で賢島に入り、G7サミット会場になった「志摩観光ホテル・ザ・クラシック」に入ってみた。13:51。
外観を見れればと駐車場に停めたら、目の前の芝生に各国首脳が並んで記念撮影したニュースで見た場所があった。カメラ台に次男がカメラをセットする。首脳が立った場所にプレートが入っており、お嫁さんとすみれちゃんが中央の安倍首相の位置、次男がオバマ大統領、家内はその隣、僕はフランス・ミッテラン大統領の位置に立ち、記念写真を撮った。ここでも、芝生にモデルのすみれちゃんを座らせ、2人のカメラマンが撮影している。
ホテル内のロビーラウンジでお茶でもしようかと、芝生が続く裏から入ったら、サミットでワーキングランチをした丸テーブルが置かれた部屋だった。「ザ・クラシック」の名の通り、柱が木で雰囲気の良い広間で、丸テーブルにも首脳が座った席が明示されており、こちらにも座って楽しんだ。まさか、こんなことが出来るなんて思ってなかった。
駐車場に戻ると、うちの車の正面に、真っ赤な「アウディA4・Avant」が停まっていた。これは1つ前のモデルのようですが、次の土曜日に納車されるお嫁さんの車と同じだそうです。リアゲートのある使い勝手の良いモデルにしたようです。次の土曜日は、お嫁さんの妹の結婚式の日で、その帰りにスバルと交換するそうです。家内が伊勢内宮へ歩いている時に、渋滞している最新型を教えてもらったそうで、「かわいくてカッコ良かったよ」と言っています。買った車の色も赤なので、ほぼこれて一緒です。
14:20に出発し、R167で伊勢に向かいます。14:40「道の駅・伊勢志摩」で、伊勢うどんを食べました。15:10出発し、r32に乗り換え「天の岩戸」の案内板があったので入ってみるが、「この先、大型車通行不可」の看板があり、家内からの「止めたほうがいいよ」の言葉に従ってUターンしました。
伊勢に戻りましたが、まだ時間があるので、15:40「猿田彦神社」に寄り道しました。佐瑠女神社は、大賑わいです。派手なハッピを着た男性(役者?)を中心に、女性ばかり20人ほどが囲み、役者?男性からアメノウズメの説明を受けています。男性役者?さんのファンクラブの集いかもしれない。
本殿にお参りすると、中で「結婚の儀」をしていました。御朱印を待っていると、花婿・白無垢綿帽子の花嫁さん先頭に、御一行が出てこられました。次の土曜日に結婚式を挙げるお嫁さんの妹さんも神前結婚式を選択されたようで、若者は日本回帰の傾向が強いですね。御朱印・歴女・パワースポットブームや、保守自民党支持も若者ほど高く、天皇家への関心も佳子内親王がアイドル並の人気になっている。自分の家族・親戚・家系を愛すること、生まれた町や国を愛することから、自分の居場所を見つけ、外に打って出ることが出来る。とても良い傾向です。16:07に出発し、16:12近くの「手こね茶屋」で、次男が食べたかった「手こね寿司」を食べる。賢島周辺の漁師飯だそうです。賢島で食べたかったのですが、殆どのお店が13:30終了で食べられませんでした。
車の中でおっぱいを飲ませ、17:45「伊勢市駅」着。ここで次男一家を降ろし、バイバイです。2日間楽しかった。近鉄で名古屋に出て、新幹線で東京に帰っていきます。ありがとうね。
僕らも帰路につきます。R23を走り、17:56「伊勢西IC」。伊勢自動車道を走り、18:40「安濃SA」で休憩しました。「クランキー・アイス・140円」で糖分補給しましょう。給油もします。
名阪国道が分岐する「伊勢関JCT」を過ぎてから渋滞になりました。「亀山JCT」から新名神に入ると渋滞は解消しており、名古屋方面渋滞だったようです。19:49「土山SA」で休憩。草津JCTで名神に合流し、すぐに「京滋バイパス」に分岐し、「大山崎JCT」で再び名神に合流して、「天王山トンネル」を抜け、吹田から中国道に乗り換え、豊中IC下車し、21:39に帰宅しました。
すぐに荷物を片付け、「赤福餅」を家内と食べ、お風呂に入って寝床に入りました。22時台には寝れたので楽でした。こうやって、少しずつ子どもたちに気遣われるウェートを増して行くのでしょう。これも家族を持ち、子供を育てたからでしょう。家族になってくれ、僕らの子を生んでくれた家内に感謝です。

2017/3/12
家内がお仕事の会合なので、僕はまた一人遊びです。来週の連休は次男一家に誘われてお伊勢さんに行くので、コーチしてる大学ヨット部に行きます。
いつものように朝一番に出発予定でしたが、天気予報で風がなさそうなので、午後から練習に参加することに変更しました。クラブバイト日で部員の1/4がいないし、午前中スナイプ級部員は全員レース計測のために陸勤だそうなので。通勤リード110のリアランプが切れました。数日前の仕事からの帰り、信号機で止まっていると、カブに乗ったポリスマンが横に止まりました。ブレーキを離すと、「テール・ランプが切れているようです。整備不良になりますから、交換しておいてくださいね」と言われてしまいました。すぐに降りて確認すると、確かに切れています。切符は切られずラッキーでした。先月6ヶ月点検してもらったばかりなので、それ以降に切れたようです。2008年に乗り出して、ランプが切れたのは初めてです。
最近、お昼休み外出できなくなったので、修理に行ける日は日曜日しかありません。ホンダドリームに電話したら、11時なら予約が取れるとのことで断念し、夜は19時閉店なので、琵琶湖から帰宅後に向かうのは厳しそう。
「バイクワールド」に電話したら、20時までやってるけど帰宅後即電話して整備の混み具合を確認してから来てほしいとのこと。自分で交換できるかなと思い、純正部品を調べネット検索すると、「モノタロウ」では「10個800円ほど」とのことで、もし自分で出来なくても損失は小さいと思い買っちゃいました。
2日後に届いたので、出勤の朝ごそごそし始めました。リアのネジを外しましたが、引っ張ってもプラスチック外装が外れません。バキっとやっちゃったら大損なので、即諦めました。「困ったなあ」と思っていたら、練習する部員数が少ないという状況がわかり、朝「バイクワールド」に行こうと決め、キャプテンに連絡を入れました。
土曜日になり、ふと「原付き売ってる近所の御用達自転車屋さんでも出来るんじゃないの?」と頭にひらめきました。早速電話をいれると、「1000円でいいよ」とのこと。こちらでお世話になることにしました。
朝、いつものようにまだ暗い5時頃目を覚まし、ゴソゴソして7時頃から階下に降りて活動開始しました。食卓ではなく、TVのある部屋に朝ごはんを運び食べます。カーペットに電気が入り、そこに座椅子が置かれ、雨戸が1枚開いています。家内が僕のためにいつもこうしてくれています。食卓で食べたら、無駄になるのに・・・。
そして前日も土曜もこの日も、中央の雨戸が開けられています。何故かと言うと、先日咲きだした「アセビ」の花が見えるようにです。僕が次男の娘・すみれちゃん誕生記念に去年植えたのに、たくさん蕾がつき、咲き出したんです。金曜の晩に教えてもらったので、土曜日の朝写真を撮りました。この日は横の椿の花に「ヒヨドリ」が来て蜜を吸っています。家内が入ってきたので、「アセビが見えるようにしてくれてありがとうね。優しいよなあ〜」と言うと、「うん、性格だから」と微笑んでいます。御飯作ってくれるだけでもありがたいのに、家内の心遣いには感謝のみです。
食事を終え、着替えを済まし、お化粧している家内の後ろに座り、家内を観察します。長い髪を下ろし、ブラシでといているので、髪を触りに行くと、「危ないよ」と「邪魔っけ」にします。構わず触って、「あ〜きれいな髪だなあ」って。サポートタイプのストッキングを履いているのを見て、「あ〜きれいな足だなあ」って触りに行くと、「ありがとうね」と僕のお触りを無視して作業続行。お化粧も整ったので後ろから抱きしめ、前に回ると、「お化粧落ちるからダメ〜」とチューはダメでした。いつもの年中行事です。
8:50、家内と一緒に家を出ます。「寒む〜い」と言うので、「もっと着ればいいじゃん」と言うと、「おしゃれは我慢なの」と言い返されてしまいました。家内はそのままバス停へ、僕は自転車屋さんに向かいます。「バイバイ、気をつけて」。六甲山がきれいに見え、気持ちの良い朝でした。
自転車屋さんは既にオープンしており、子供の頃の遊び仲間の店主がバイクの整備備をしています。作業に取り掛かってくれました。「スクーターは大きなプラモデルなんだよね」と言いながら、ネジを外し、外装を外そうとしましたが外れません。「これはちょっと骨が折れるかも」と言いながら、ちょいと力を入れるとパコって外れました。「なんだ、ちょいと力を入れるだけでいいんだ」。
手をツッコミ、ゴソゴソしたらランプとコードが出てきました。ランプを替えてブレーキを握るとランプ点灯。10分ほどで作業終了。お代金1000円でした。無駄になってしまったランプ10個をあげようと思ってたのに、持ってくるのを忘れました。後日渡しに来よう。今持ってきたら、「作業料、要らん」と言いそうなので、半分わかって忘れました。我が家に置いておいても、ただ腐るだけだからなあ。
自宅に戻り、「招き猫CB400SB」に乗り換えました。夏用プロテクター上下を着て、下はダイワ釣りスーツを着て、上はヨット用カッパを着込みます。中央環状線〜中国道・豊中IC〜名神に乗り換えました。「桂川PA」でトイレ休憩し、売店を覗くと「いちごチョコ大福・18個入り」が美味しそうだったので、女子マネさんへの差し入れにしようと購入。
バイク置き場に戻ると、ピカピカのハーレーに乗るご夫婦?がいました。「ピカピカですね」と声を掛けると、「磨くのが趣味だから」と。気さくなご主人で、「ハーレーは皆さん綺麗に乗っていらっしゃるので、こちらも負けじと・・・ね」「ハーレー乗りさんは、綺麗好き&オシャレさんが多いですよね。ハーレーが売れるのはわかりますよ」「でも、曲がらない・重いだから、バイクは国産がいいですよ」と笑っています。
「じゃあ、お先に」「お気をつけて」でお別れし、「京都東」で下車し、湖西道路に乗ってハーバー着。計測しているOBと女子マネージャーと言葉を交わし、艇庫前でスナイプ級部員たちと話します。バイク装束を脱いでいると、コーチボートが戻ってきて、「乗りますか?2艇だけ練習しているのですが・・・」と声を掛けられました。僕が着いた連絡が行ったのかもしれません。
練習海面に出て、470級をコーチングし、12時ハーバーバック。1回生女子マネさんドライブでしたが、安心して乗っておれました。レース艇との間合いを詰めさせたり、テールtoノーズで追いかけさせたり、真横で伴走させたりしましたが、いずれも問題なしです。来月は新入生を迎えるので、マネージャー獲得のポイントになります。「船舶免許、取れるよ」と。
大先輩OBさんがやって来られたので、あれこれ話し、お別れしてバイクに乗り合宿所に向かいます。女子マネさん達に差し入れすると、「うわぁ〜美味しそう」と喜んでくれました。お年頃女子は表現がストレートで気持ちがいいね。お昼ごはんはオムライスでした。「美味しい」。温かいご飯が待ってるのはありがたいね。マネさん達に感謝しなきゃ。
バイクでハーバーに戻り、13時に470級が出艇して行きます。14時に艤装を終えスナイプ級が出艇し、午後はこちらのコーチングです。比良山系の頂上に雪が残り、素敵な景色です。次の週の連休に「D社ウィーク」というレースシーズン開幕を告げるレースがあるので、D社OB2艇が出ており、こちらの練習に加わってくれました。当方のセイルが古いこともあり、ボートスピードで置いて行かれます。ビデオを撮らせてもらい、良い練習になりました。
マークを打ち、スタート&ショートレース練習をしました。1回生スキッパーS君ドライブの艇が、スタートで上回生に置いていかれるので、船を止めろ・フルセイル・ジブを先に張るなど、基本的なことをアドバイスしていくと、ぐんぐんスタートが良くなり、最後の3つのスタートはマトモになってきました。16:30ハーバーバック。
帰路、ドライバーの2回生女子マネ・Yさんと話します。この娘は富山県の子なので、「春休みや夏休み、帰ってこない娘を心配されるでしょ」と聞くと、「帰ってこいオーラ」を感じますよ。お正月も帰らなかったし」とのこと。冬休みは京都に残り、アルバイトに精を出したそうです。1回生の時は、ヨット部はオフだし帰ったそうです。この冬1人でアルバイトの日々を過ごし、良い経験になったそうです。成人式には帰ったそうです。晴れ着姿は親に見せないとね。
バイクで合宿所に戻り、いい匂いだ漂ってくる台所に入り、夕食作りに余念のない女子マネ2人に、アレヤコレヤ話しかけ邪魔します。「ここで食事作りをすると、料理が上手になるね」と言うと、「人数が多すぎて、自分で作る時、ついつい調味料の量が多くなってしまい感が狂いますよ」とのこと。なるほど、確かに。栄養士になりプロにでもならない限り、30人や40人分の食事を一度に作る機会はないね。
去年卒業したOB・F君と話します。彼の地元東京にGFさんがいるそうで、小中学校の同級生だそうです。幼馴染との恋かと思いきや、付き合いだしたのは学部卒後だそうです。高校生の時、お互い少し離れた高校に通いだしたのですが、そこでも連絡を取り合い、大学で東京と京都に別れても連絡は続いたそうです。来年就職するので、「2年ぐらい働いたら結婚したらいいんじゃないの、遅らせると逃げられちゃうよ」なんて事を話します。大学で知り合った僕ら夫婦のことを聞かれたので、就職して2年後の24才で結婚したことを教えた。彼女は学部卒で働き出したので、長く放っておくと腐れ縁になっちゃうぞと脅かしておいた。結婚なんて、勢いが大切です。お互いを大切に思える関係ってそう多くないので、「いい娘だな」と思ったらチャンスを確実にものにしておかないと、後悔してしまいます。
4回生が帰ってきたので、彼らも加わり、「クラブに来ると、マネ食にありつけていいよな、日頃は彼女の下宿にでも転がり込んだらいいよ」なんてことを話します。家内の姉夫婦も、学生時代の同級生だった旦那さんが転がり込んできてそのままで、うちの長男もお嫁さんのマンションに転がり込んでそのままです。大半の男にとってネックである食事はとても重要です。
「いちごチョコ大福」のお味を知りたくて、いい匂いが漂ってくる台所に入ります。まだ食べておらず、Yちゃんが開けてくれます。他のマネさんたちも「美味しそう」と覗き込み、みんなで食べました。1日動いた後の甘いものは最高です。18個入っており、女子部員は全員で8人なので、10個余ります。匂いに惹かれ、台所を覗き込む男子部員たちが物欲しそうに見るので、「食べる?」とマネさんが彼らに配給します。
18時にミーティング開始。僕も気付いたことを話し、夕食です。メニューは「パエリア」。ホワイトボードには、部員がメニューをリクエストする場所があり、デザートまでリクエストされています。費用制限があるのですが、意外に何でも実現するそうです。
19時過ぎに帰路につきました。湖西道路〜名神〜中国道で、20時過ぎに帰宅し、家内とお互いの本日を話します。電車待ちの時、お姉さんから電話が入り、甥(あ姉さんの長男)の子の出産のことを話したそうです。予定日より2週間早く、3/10に帝王切開で生まれました。お姉さんは自然分娩で3人子を産んだけど、長女も次女も帝王切開で子を生んだので、帝王切開ばかりです。逆子だったので仕方なかったようです。
僕は出産の知らせを聞いてすぐにお兄さんにお祝いメールし、返事を頂きました。お兄さんがかつて勤めていた病院での出産だったので、すぐに見に行ったそうです。母子ともに問題なく、何よりです。
日曜日にお姉さんだけ面会に行きましたが、帝王切開なのでまだお嫁さんは歩けず、赤ちゃんが授乳時間に連れてこられ、おっぱいをあげるようになってたそうです。男の子だったので、甥が自分の父親の名前から一文字もらって名前をつけたので、お兄さんは大喜びしているそうです。
お姉さんは世話好きで、今までは娘2人の出産だったので、病院・自宅とずっと世話できていたのに、今回は夫の母親なので、しばらくのお世話はお嫁さん実家なのできっと世話したくてウズウズしているでしょう。
楽しい1日でしたが、残念なこともありました。女子プレイヤーが1人退部しました。彼女は、高校生時代を親の転勤に伴ってアメリカで過ごした帰国子女です。女子コンビを組んで練習に・レースに出ていましたが、留学により退部することになりました。来月には最後の学年4回生になるので、そのまま休部し、ヨット部員として卒業し、1年後「追いコン」に出てくればいいと思ったのですが、中途半端を良しとしない性格なようで、残念です。身内の不幸があった時、相談になったこともあったので、実に残念。大学の名を胸に勝利を目指す体育会のクラブではあるが、あくまでも学業の一貫です。それぞれの出来る範囲でクラブを愉しめば良いと思っています。プロスポーツクラブなら、勝利に貢献できなければ去るのが筋でしょうが、そこまで一途にならなくてもう少し肩の力を抜いていいのではないかと思いました。
今までも、1年間海外留学して休部してた子や、学業の海外研修で1ヶ月不在なんて奴もいろいろいました。1回生インターハイ・ヨット競技出場者で、タイに行ってたN君がまたいないので、部員に聞いてみました。1週間前の「追いコン」で彼に会った時、大学の演習林のあるタイに入り、どでかいアナコンダに仰天した話を聞きました。今度はバックパッカーとなって、世界を放浪するそうです。期間はわかりませんが、2回生の前期を休学するのでしょう。
彼は農学部で、土の研究をするそうですが、猿が好きで携帯の待ち受け画面が猿だそうです。霊長類研究所にでも入り、ゴリラやチンパンジーを追いかける学者人生も楽しそうです。ゴキブリの研究をしていた奴がいたり、毎年タイやアフリカに行って土ばかり採集してくる奴がいたり、この学校の生徒はユニークな奴が多いです。
1回生にG君という部員がいます。先月のクルージングに参加できず、じっくり話せなかったので声を掛けました。訓読みだと思ったら音読みで、中国人二世だと聞いていたので興味がありました。
吉林省出身で朝鮮族だそうです。そこで生まれ、5才まで吉林省に住んでいたのですが、両親とともに日本にやって来て、日本人に帰化したそうです。昔、吉林省・朝鮮族の大学生と10年ほど日本語で文通していたことがありました。彼女はとても優秀で、国費留学で日本に来た時、会ったこともあります。「日本人」と全く同じイントネーションで綺麗な日本語を話すのに驚きました。朝鮮語・中国語・英語・日本語を話し、どれだけ出世するのだろうと期待していましたが、何故か文通が届かなくなりました。
彼の一家が日本に帰化した事情を話してくれました。中国の現範図は広大ですが、もともとの漢民族の勢力圏はそれほど大きくはありません。チベット・ウイグル・内モンゴル・満州・吉林は、第2次世界大戦終了までは別の国でした。戦後のどさくさに紛れて武力占領し併合してしまいました。ウイグルやチベットでは、漢民族が政策として移住し、公務員や警察官・給料の良い仕事は漢民族優先になり、先住のチベット人やウイグル人は仕事にあぶれます。先住民の女性は、漢民族男性と結婚し、混血児を生み、次第に民族淘汰されています。
ソ連も、コアな少数民族をバラバラにして故郷を追い、僻地に移住させ、民族淘汰してしまいましたが、同じことを共産党中国もしています。自由主義国なら、移動の自由があるのでそうはなりませんが、共産主義経済なら、計画経済の名を持って計画的に国が国民を移住させることが出来ます。
かつて中国漢民族優勢地域は、最後の帝国・清が満州国地盤の国がそうであったように、周辺地域からの征服された歴史を何度も繰り返しています。その苦渋の歴史から学んだのか、支配地域での他民族を粛清する行動を強め、やがて地上から抹殺しようとします。
これを吉林省も受け始めたそうで、漢民族がどんどん移住してきて、もともとの住民である朝鮮族が駆逐されはじめ、これでは出世は望めないと思い、ご両親は一大決心をして日本移住・日本国籍取得に動いたそうです。彼がまだ5才だった頃のことなので、記憶にないと思いますが、こういう歴史をしっかりと心に刻み生きてきた姿に感銘を受けました。
「堂々としている」と部員から見られている彼は、一家の歴史を両親に教えられ、そのアイデンティティーが自信になっているんだなと感じました。そして、家族の軌跡を僕のようなまだ知り合って日の浅い日本人に、何の躊躇もなく話す姿に、彼の育った周りの日本人が、彼や彼の両親に温かく接してきたのを感じました。僕は日本人として日本に生まれて本当に良かったと思う。
日本は、いまでこそ単一民族国家と言われますが、朝鮮半島や大陸からの移民が多く渡ってきた多民族国家であった歴史も濃く残っています。このヨットハーバーの近在地・琵琶湖の西は渡来人が多く住んだ地で、痕跡がたくさん残っている。去年巡った「百穴古墳」は、朝鮮式のお墓が山中に点在していた。近所の名勝「唐崎」の「唐」は、「韓・から」の音の当て字の地名だそうです。
僕は菅原道真の血を引くらしいが、菅原氏は土師氏の分家です。土師氏は、キリストと同時代を生きた垂仁天皇が、生意気で力持ちの当麻蹶速と対抗させようと、遠く出雲から出雲族の野見宿禰を呼んだところから始まる。野見宿禰は相撲で、当麻蹶速を破って相撲の神様になるとともに、皇后・日葉酢媛命の埋葬時に、殉職の風習を止め埴輪で代用するよう進言し、以降その職を得る。埴輪造りや古墳造成作業職人として出雲族が呼ばれ、大和に住み着きます。この出雲族の祖先は渡来人です。
先進国・中国大陸から、多くの渡来人を呼び、国造りに励みます。中国大陸や朝鮮半島では、新たな皇帝が成立すると、前皇帝派や民族は粛清されるので、都度大量に日本列島に逃れて来ます。日本神道の鳥居文化も、中国の統一国家・殷(商)の共通する鳥文化です。
彼は、帰化1世になるのか2世なのかわかりませんが、これから日本人としてしっかりこの地に根付いていって欲しい。

2017/3/5
家内に午前中用事があり、コーチしてる大学ヨット部は、前日が4回生の追い出しコンパで、朝まで京都の街で遊んでるので練習はなし。1人遊びの日です。所属しているツーリングクラブの2つに、イベントがあるのですが、2つとも既に定員いっぱいで申し込みできませんでした。仕方なく、フリーになっちゃいました。適当にソロツーリングに出かけましょう。
前日、追いコンから帰ってきたのが23時前だったので、24時前寝たから、目を覚ましたのが7時前でした。朝ごはんを食べていると、「8時に駅まで送っていって」との要望がありました。甥(家内の姉の子)に、今月男の子が誕生予定で、その初宮参りのために、来週にでも着物を貸して欲しいと連絡があったそうです。この着物は、長男が生まれた時、家内の母親に買ってもらいました。次男・長男の長男・長男の次男と、男の子が続いたので我が家が管理してるようなものです。気にしなければどうってことない染みが1ヶ所あったようで、洗濯に出す時間がないから、夕方高槻の甥の家に持っていき謝るから連れて行って欲しいとの要望もありました。OK
8時になリ、家内を駅まで送り、その帰りに電気屋さんで蛍光灯を買おうと思ったら、まだ開店前でした。帰宅し、バイク倉庫でごそごそし始めます。「里山VTR250」を先月、12ヶ月点検してもらった際、リアボックスを外したので、それを着けます。GIVIのようなワンタッチボックスなら簡単ですが、バイク便ステイ&バイク便ボックスなので面倒です。
続いて、同じく先月車検した「招き猫CB400SB」の左バックミラーを、ハンドルミラーに付け替えます。オリジナルはカウルバックミラーなのですが、車載カメラに映り込むので付け替えています。
作業していると、以前使っていたネジが行方不明のようで、VTRに乗ってホームセンターに買いに行きます。9:49、ネジ100円。倉庫に戻り、CBコンプリート。
お昼ごはんを「虎亀」さんで食べることだけを決め、「里山VTR250」に乗って北に向かいます。例年なら、2月下旬、ウグイスの囀りが聞こえだしたら早朝ツーリングを再開するのですが、今年はまだ鳴かず延び延びになっていました。長尾山トンネル〜r325〜r33〜r319〜r12で北上します。11:25、いつも気になっていた杉尾新田の「奥猪名健康の郷」に寄り道しました。良心的なお値段のレストランが有り、お風呂が22時までやっており、宿泊は1人820円・ロッジは1棟7000円となっていました。
r12を更に北上し、西峠を越え、r37を西進します。後川下から永沢寺へ林道で上がり、r49に乗り換え今度は南下し、永澤寺峠を越えて、11:53「虎亀」着。お嬢さんが明るく「いらっしゃいませ」。お母さん似て、明るく可愛くモテそうです。お一人様なので、カウンターでピラフセットを注文し、アイスコーヒーを飲んで12:42帰路につきます。おじいさんは、元気になったそうです。良かった良かった・・・
r49を南下し、r37〜r323〜r33〜325〜長尾山トンネル〜阪急山本駅近く。13:31菓匠「菅屋」で、いちご大福4個1040円を購入。帰宅し、バイクを片付けます。携帯電話の電源を入れると、家内からメールが入っており、「今日の高槻行きはナシになった」とのこと。もっと遅くまで遊べるようメールを入れてくれたのに、電源入れてないと意味ないね。帰宅してから見るんだったら、携帯してる意味ないし。
ヨーグルト食べてお風呂に入ろうとセットしたままウトウトしてたら、16時過ぎに家内が帰宅しました。用事中にお姉さんから電話が入り、10分も話しちゃったとか、「来週中に着物送って」から、1ヶ月延期になり急いだ意味なかったとか、じゃあクリーニング出そうかとか、着替えながら話しています。なんだか楽しそう。基本、お姉さんと話した後は楽しそうなんだよね。
冷蔵庫で、僕の買ってきた「いちご大福」を見つけ、「お父さんが何か買ってきそうで、やっぱり買ってこなくて良かった」なんてニコニコしています。1個ずつ食べながら、お話の続きをします。
通勤リード110に乗ってコーナンに行き、2Fのジョーシン電気で蛍光灯とプリンターインクを購入し、16:41、1Fのコーナンで「セーフティースニーカー・1980円」を買います。これは家内が仕事用に買ったものと同じで、色も一緒です。僕は家内のストーカーなので、お揃いにしてみました。帰宅したら、「何これ、いや〜ね〜」なんて笑っています。毎朝、玄関にサイズ違いの同じカラーの靴が並び、お手て繋いで出勤なんて素晴らしいじゃないですか。幼稚園に通園するグループの後ろについて、園児同様お手て繋いで歩くのがマイブームです。
笑点見て、モヤモヤさまーず見ながら夕食を食べ、お風呂に入って女城主直虎見て就寝。楽しい1日でした。

2017/3/4
18:30から京都で、コーチしている大学ヨット部の卒業式、別名:追い出しコンパです。前日に、部員の実行委員・Tくんから、「挨拶をお願いします」と連絡を受け、いつものように気楽にOKしてしまいました。
さて何を話そうか、過去のデジタル日記を繰ってみます。殆どの部員は学部卒業後も大学院に進むのですが、訓示や激励のようなことは、挨拶されるOB諸兄が話されるので、現役部員に密着している僕なりの視点での言葉を送ろう。卒業生が10人もいるので、それぞれに対するエピソードの披露では間延びしてしまいそうです。そうだ、あの日のことを披露しよう。
「近畿北陸ブロック・学生ヨット選手権」、通称「学生全日本団体戦予選」または「インカレ予選」最終日の様子を書いた翌日の日記を推敲します。クラブ関係者にしか披露しないので、個人名を入れてコピーし、出席頂いたOB・OGの方々に渡し、ゆっくり読んでもらおうと思いました。
僕が自分の現役時代を思い出したように、皆さんにも現役時代を思い出してもらい、ヨット部の求心力が高まると、戦績アップに繋がるはずです。夜までかかって推敲を仕上げました。写真も含め、A4・8枚になりました。
追いコン当日の朝、職場に早朝出勤し、50部コピーしホッチキス留めしました。仕事の合間に、ヨット部関係者のみのクローズドに対してのみですが、個人名を入れた文章を配っていいものか確認しようと、監督や部員にメールで文章を添付して承諾を得ようとしました。一部を試し読みしたら、10分にもなってしまいました。この時間のことを伝えました。ダメならボツです。劇的な最終日でしたので、落ち込みあり涙あり笑顔ありの喜怒哀楽を赤裸々に綴っています。一応、女子部員の名前は伏せました。
監督他から、OKの返事が届き、むしろ女子部員名も出してとの要望がありましたが、既にコピー済だったので再制作する時間はありませんでした。
仕事を早めに切り上げ、16:30過ぎに阪急伊丹駅から電車に乗り、阪急四条烏丸駅で、京都市営地下鉄に乗り換え、烏丸丸太町駅に着きました。
ここは、京都御所南西角です。御所に沿って北上するば、ホテルです。歩きだすとすぐ17:49「大丸ヴィラ」がありました。これは、僕の母校と同じヴォーリス設計の建築で、大丸創業家の自宅として建築されました。
お着物レンタルのあ店のショーウインドーに、卒業式シーズンらしく女性の袴マネキンが飾られています。僕らが卒業した頃は、女子大生の袴姿での卒業は珍しかったけど、現在はもっと和風回帰になっており、むしろ袴の方が主流ではないかな?ウェディングも同じで、僕らの頃はキリスト教式ばかりだったのに、和風結婚式が増え、先週は神社で3組も結婚式に出会い、花嫁御寮にも行き会いました。次男なんて、旧薩摩藩邸の結婚式場で、庭園を花嫁御寮しました。
17:52、「菅原院天満宮」。ここは菅原道真公が生まれた家です。産湯を使った井戸があり、社務所で在庫なしになっている絵馬を補充するため、子供絵馬を授かりました。願い事を屋敷祠にぶら下げたり、記念植樹に謂れを書いて下げたり、いろいろに使っています。
17:57、「聖アグネス教会」。レンガ造りの人目を引きつける建築物で、西に隣接する平安女学院の礼拝堂として建築されました。写真を撮っていると、どこかで見かけた僕より年上のOBさんが歩いてこられます。どうやら僕が追い越したようです。「あ〜こんにちは、コーチをしている・・です」「あ〜ご無沙汰しています。ご苦労様です」と。足がお悪いようで、ゆっくり伴走しながら、僕は写真を撮りながらあれこれお話します。
「蛤御門」が見えてきました。ここは幕末1864年、京都の治安維持と御所を警備する薩摩・会津軍と、天皇を誘拐し世論を一気に尊王攘夷に動かそうとした長州が戦った「蛤御門の変」が起きた場所です。ここで敗走した長州軍は、長州に向け西国街道を敗走し、我が家のある伊丹市で猪名川を渡ったところで大勢を立て直し、再び薩摩軍に臨みましたが、こちらでも敗退しました。旧西国街道には、史跡案内が立っています。
会場の「京都平安ホテル」に着きました。ロビーのソファーには既にOBさんたちがおられ、歓談されています。受付に行き名前を書き、会費1万円を渡す。部員たちがスーツに身を包み、テキパキと動いています。女子部員は、琵琶湖で見るよりみんな綺麗になってる。それなりの衣装とお化粧をすると、やはり見違えます。
持参した50部コピーを、受付嬢の女子マネージャーに渡し、OB・OGさんに配るよう依頼する。今年の卒業生が書いた「フルセイル」をもらう。卒業生が多いので、分厚いね。
18:30になり、「ヨット部卒業式」が始まります。ヨット部長さんの開会の辞からですが、都合により監督が代読します。部長さんは大学の教授ですが、ヨット部OBさんでもあります。2020東京オリンピックでは、ジュリーとして関わるのではないでしょうか?OB会長の挨拶・乾杯・歓談後、祝辞としてOB会理事長挨拶があり、次が僕の祝辞でした。そのタイムスケジュールを知らず、突然指名されたようになり、慌てて資料を取りに走りました。女子マネさん達に囲まれてルンルンだったのに・・・。
卒業生におめでとうを言い、全日本予選最終日の日記を読むことを伝え、試し読みで10分も掛かったので、座ってお聞きくださいと言いました。部員たちのライブの格闘を赤裸々に綴っているからか、シーンと静まり返って聞かれています。朗読を終え、近年の部員増に繋がった合宿所リニューアルのことなどを話しました。
「あの日を思い出して、目頭が熱くなりました」とか、泣き虫を披露してしまった部員からも「生涯の思い出です。披露していただきありがとうございました」と声を掛けてくれ、披露して良かったなと思いました。
OB会長さん初め、多くの方から「良かったです」の言葉を頂きました。体育会運動部として、学校の名前・フラッグを背負い、真剣に日本一に向かって突き進んだ共通体験があるから、年齢や年代を越えた共有するものがあるのでしょう。来月結婚するという既卒の部内カップルをからかい、部員たちと話し、楽しい時間を過ごしました。現キャプテンから「贈る言葉」があり、卒業生全員から「御礼の言葉」がありました。記念品贈呈、監督挨拶で一応の締めです。
続いて写真撮影があり、円陣を組んでのエール・応援歌斉唱、肩を組んで琵琶湖周航の歌斉唱で卒業式が終わりました。この後、卒業生たちは現役を連れて一晩中京都を遊び回ります。全て卒業生プロデュースで、費用も卒業生持ちです。今年は、どんな珍事件・珍道中が繰り広げられるのでしょう。
20:56、ホテルを出ました。トコトコ歩いて、往路の逆で23時頃自宅に帰りました。家内はすでに夢の中で、風呂に入ってヨーグルト食べてお休みです。明日の朝は、夜明け前に起きるのは難しそうです。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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