-ウェブマスター日記 2022/11-12

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
感想をいただけるとありがたいです→webmaster

2022/12/29
年末恒例の高校ヨット部同期を中心とした忘年会の日です。ヨット部同期4人に、中学高校大学の同窓生だった数人が毎年お盆・年末の2回集まっています。午後1時、阪急今津線「仁川駅」前集合。車で向かいました。ずっと同期キャプテンSugくんの家で集まっていましたが、彼が数年前に亡くなってから我が家で1回やった後、同期のKatくんの仁川の実家での集まりになっています。彼は横浜在住ですが、毎月帰省し入院中の父親に会い、実家のメンテナンスをしています。僕・Katくん・Yamくん3人のヨット部同期、元高校サッカー部Okaくん・元高校野球部Satくん合計5人が集まりました。Katくんと僕の車2台でKatくんの家へ。丘の上の新興住宅地にあり、何回行っても覚えられない場所にあります。奥さん・お嬢さんとその長女2才が待っていました。お嬢さん親子は、ヨットに乗せてあげたので既知です。5人で話が止まりません。奥さんが用意してくれた料理をアテにアルコールを・・・。僕は飲めないので、ノンアルコール梅酒などを頂きました。
夏にイギリスから帰国し、6年ぶりの国内勤務、横浜在住になった長男の子たちがサッカークラブに入ったことをOkaくんに伝えました。「何処のクラブ?」」、「そこって長男が入ってたクラブだわ。僕もそこでコーチをしていたし・・・。長男の同期の子が数人コーチをしているよ」。いろいろ教えてもらいました。このクラブ出身の元Jリーガーが理事に名を連ねていたり、名門の強豪クラブのようでした。
夜まで話が尽きず、「そろそろ」と皆で退散しました。3人を車に乗せ仁川駅まで送り帰宅しました。Okaくんからの情報を家族LINEに流すと、長男から「あざみ野はこの辺りではだいぶ有名みたいやで。クラブ招待杯の名前がセルジオ杯なのはセルジオ越後がなんか協賛してるからかな」って連絡が来ました。
長男一家は、年末にお嫁さんの実家「新潟」に帰省し、数回スキーに行ったそうです。りょうくん9才はアメリカ在住時に続き2回目、こうちゃん6才は初めてのスキーです。イギリスでの3年間は、スコットランドの北部に行かないとスキーでスキーはしませんでした。
「2人は初めてだったけど、スクールに1日入れたら滑れるようになったわ」だって。滑っているビデオも送ってくれました。ボーゲンですが、緩斜面を長男の指示に従って、左右自由に移動しています。我が子達も正月休みのスキーではスキー学校に入れました。長男は小1で初めてのスキー学校でしたが、3日間ずっとスキー学校で習ったので、パラレルでコブ斜面以外は滑れるようになりました。


2022/12/25
先週に続き、お墓参りをしました。先週は家内の実家のお墓参りで、この日は我が家のお墓参り。我が家は年4回(盆・正月・春秋のお彼岸)のお墓参りを常としてきました。我が家は父の代からの分家なので、息子たちが子供の頃は両親健墓地に墓石があるだけでした。僕は子供の頃、両親の実家の墓参りに親戚・従兄弟たちが集まるのが羨ましくて、墓参りしたい人でした。家内の実家には先祖代々の墓があるので、幼児の息子たちを連れて家族で墓参りを始めました。家内は子供の頃から日常に墓参りがあり、その時期になると「墓参り」の話題が出る家族でした。次男が幼稚園の頃、家内の父親が亡くなり、知ってる人の墓参りが始まりました。次男が大学生の時に家内の母親と僕の父親が同じ年に亡くなりました。そしてその2年後、母が亡くなってしまい、お墓に「親に会いに行く」「親の居場所を掃除しに行く」「親に報告しに行く」お墓参りになりました。
雪で日本海側などで大渋滞発生のニュースが流れているので、ノーマルタイヤの車だから昼前に出発しました。いつものように家内と2人で掃除してお線香あげてお終い。14時頃に帰宅し、ニコラス・スパークス原作映画「パパの遺した物語」を観ました。ラブストーリー好きなので、ニコラス・スパークスが大好きです。何作も読んだし、映画館にも観に行ったし、全作DVDで持っています。
ニコラス・スパークスと言えば、ノースカロライナでの物語が多いけど、この作品はニューヨークが舞台です。長男一家が見学した「ニューヨーク自然史博物館」も出てきて、カーペンターズ「Close to you」がBGMで流れていました。日本の音楽もそうですが、アメリカの音楽も最近はアップテンポが多く、聞いていて何だか落ち着かない。スローテンポのカーペンターズは素敵です。人は成長した頃の音楽に馴染むのでしょう。学生の聞いている音楽はみんな今どきの音楽ですので、世代の違いを感じます。20時過ぎに寝床に入り、穏やかな休日が終わりました。


2022/12/23
長男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。同じ幼稚園に通うルーカスくん4才とこうちゃん6才は21日、4年生のりょうくん9才は24日から冬休みだそうです。長男の仕事終わりを待って、家族でお嫁さんの新潟の実家に帰省するのでしょう。りょうくんは冬休み前最終日に友達を9人家に連れてきて、大騒ぎだったようです。孫たちは友達を作るのが得意で、すぐに友だちが出来ます。特にりょうくんはお喋りが上手で人気があります。アメリカの幼稚園時代もすぐに慣れてしまいました。イギリスの小学生時代は、クラスメイトの喧嘩を仲裁し、校長賞をいきなり受賞し、毎朝登校時に校長先生から名前で呼ばれるようになり、お嫁さん談ですが、女の子の一番人気で登校したらすぐに女の子に囲まれてばかりだったそうです。9月に転校した初めての日本の学校でも人気者になっているようです。将来を楽観させます。
ルーカスくんはお料理にハマっているようで、マイ包丁を買ったそうです。写真を見ると、鉄製ではないようでセラミック製かな?と思いました。子供用包丁で検索してみると、ステンレス製が多く、ステンレスならそれなりに切れそうでむしろ安全なのかもしれません。
僕は、母親が働いていなかった幼稚園時代は包丁を持った記憶がありませんが、母親がフルタイムで仕事に復帰した小学生時代は、夕食のメインシェフを僕がやってたので、毎日包丁を持って料理をしていました。私立中学に通うようになって出来なくなり、週4ぐらいお手伝いさんが料理をやってくれるようになりました。家の掃除なんかもやってくれ、僕と6才年齢が離れている弟の面倒までみてくれました。弟は半分母親代わりだったので、今でもそのお手伝いさんのお墓参りをしています。
こうちゃんのサッカーしている写真もありました。りょうくんとは別のサッカークラブに入っており、横浜市内でも強豪チームです。イギリスにいる時、2人共サッカークラブに入っていましたが、お嫁さん談によると、同学年の子より圧倒的に上手で、飛び級で上の年齢のチームの練習に参加していたようです。日本のチームではどうなんだろう?
その写真はプロの写真のようにこうちゃんにスポットを当てたポスターにでも出来そうな写真です。コピー・無断転載禁止と写真に書かれています。そのサイトを見ると、「スポーツ第一線で活躍するプロカメラマンが各地で開催されるサッカー・野球・マラソンなどのスポーツイベントで撮影し購入できるサイトだそうです。こういう企業が生計を立てているのを知りませんでした。ヨットの世界でも数人いますが、さすが陸上の人気競技、多くの写真家が生計を立てる環境があるのにびっくり。我が子のこんな写真が買えるなら、買っちゃいますね。
クラブのサイトを見に行くと、試合内容を親?コーチ?が書いてくれています。試合結果・得点者など一覧表で見やすく、クラブの財務諸表まで公開しています。歴史が長く、多くの選手が所属するので、法人格を持っていそう。「横浜国際チビッ子サッカー大会」など出場した試合のサイトを見ると、「写真撮影禁止」の文字があったり、選手の肖像権を確保し、写真家企業と上手にタイアップしていそう。
あざみ野FCは横浜でも有名な強いクラブチームで、今回のW杯日本代表の板倉選手・山根選手もこのクラブの出身だそうです。Jリーグ選手も沢山輩出しているそうです。「こうちゃんもこのまま小学生になってもこのクラブについて行ければいいのですが・・・」とお嫁さんは書いていました。
小学生のクラブは、長男が少年野球・次男がヨットをしました。団体スポーツの野球は、中学受験の勉強が忙しくなった6年生では続けられず、中学生以降は陸上・将棋、大学生でライフル競技部とあれこれしました。ジュニアヨットは1人乗りの個人スポーツなので、次男は6年生は春から秋までほぼお休みし、秋の全日本だけ出場しました。でも中学生になると復活し、大学生の最後まで競技ヨットを楽しみました。
サッカーは競技人口が多く、競争も多く、団体スポーツなので長男のように途中で止めることになるかもしれません。でも暁星とかに入ると、勉強もサッカーも楽しめそうです。


2022/12/18
家内もお休みだったので、1日一緒の日です。僕は嬉しいけど、家内の本音はどうなんだろう?まあ、話が弾むので良いでしょう。久しぶりに映画鑑賞しようかな?と思い、PC検索。良いのを見つけ、すぐに家内を誘うとOK。慌てて朝食を取り着替えて、バイクで出発。JR伊丹駅側のダイヤモンドシティー最上階のTOHOシネマズへ。
「9:45、月の満ち欠け」チケットゲット。14時台の次の上映より空いています。すぐに入館時間になり劇場内へ。好きな大泉洋主演の「輪廻転生」の映画でした。僕は、スター・ウォーズやダイ・ハード・007などの洋物スペクタクル映画も好きですが、無類の「ラブストーリー」「ハートウォーミング」映画・ドラマ好きです。「月の満ち欠け」はラブストーリーでありハートウォーミング、とても素敵な作品でした。僕にとって、今年一番の作品で、過去数年でも最高の作品になりました。
映画鑑賞後の恒例のお楽しみ、ミスタードーナツへ。午前中に映画を観に行き、お昼ごはんの代わりにミスタードーナツという流れ。「ミスタードーナツブレンドコーヒー275円+山ぶどうスカッシュ98円+オールドファッション154円+ゴールデンチョコレート165円+チョコファッション165円+エンゼルフレンチ165円=1122円」。席に座り、あれこれ話しながら楽しいドーナツタイム。小さな可愛い女の子を交えた家族、親子3代のグループ。皆さん、笑顔で楽しそう。前回は知らなかったお一人様席もありました。12:21に会計して帰宅。
自宅に戻り、「甲子園ボウル」(大学アメリカンフットボール日本一決定戦)のリアルタイム応援したくて、KGアメリカンフットボール部ツイッターに繋げながらダラダラ。アマゾンプライムで、「名古屋行最終列車」を家内と一緒に観て、「This is us」に「外人の男の人の顔が同じに見えて、時系列に並んでおらずポンポン主人公たちの子供時代や大人になった頃に飛びわかんない」と言われながら・・・。KGvs早稲田の日本一決定戦は、1Q0-0+2Q6-3+3Q7-0+4Q21-14=34-17でKG勝利。関西リーグ最終節KGvsRitsの凡戦とは打って変わって、3Qから点の取り合いで面白いゲームでした。家内が寝てから最後は「鎌倉の13人」最終回で北条義時が亡くなるエンディングまで観ておやすみ。


2022/12/10
中世、鎌倉幕府を倒し室町幕府を立ち上げた時代の大立者「赤松円心」の史跡巡りをテーマにツーリングに出ました。9:11、「出光セルフ宝塚176」で給油。114km/4.62L=24.7km/L。「宝塚IC」から中国道に乗って西進します。9:55「三木SA」、トイレ休憩して売店をうろうろ。自販機で、「CCレモン」を購入し喉を潤しました。更に東進し、播磨JCTで「播磨道」にチェンジし北上。「播磨新宮IC」で下車し、r44〜r28で東進し、11:08「金出地・鞍居神社」。
バイクを止めるととても静か。山は秋色から冬の景色になっており、落葉した山は、山肌まで見えます。僕は中世の山城巡りが好きなので、低山山頂に山城跡があればすぐ見つけられるでしょう。随神門があるお宮で歴史が長そう。随神門の横に銀杏の大木があり、屋根に銀杏の黄色い葉が載っており、黄葉の最盛期は美しかったでしょう。
『環境緑地保全地域・鞍居神社 指定区域:赤穂郡上郡町金出地の一部 指定面積:1.7ha 指定年月日:昭和53年3月22日 シイを中心とした常緑広葉樹林で、コヤスノキ・チトセカズラを生育している。 兵庫県』
『延喜式内・鞍居神社 祭神:帯中津比古命(おびなかつひこのみこと・仲哀天皇)・誉田別尊(ほんだわけのみこと・応神天皇)・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后) 祭日:歳旦祭1/1・新年祭3/18・夏祭7/18・例祭10/18・新嘗祭12/18
由緒:人皇第50代桓武天皇の御代、皇子神野親王の御病気平癒のため、宇佐八幡宮に御祈願ありし時、金出地(かなじ)に紫雲のたなびくこと日久しく、宇佐八幡宮を勧請すべき瑞相の地として、勅命により勧請されたと伝う。天下泰平・五穀豊穣・工商繁栄・安産の守護神として、往古より瑞験(ずいげん)いともあらたかなり。
延喜式巻10神名弐下 播磨国10座(大社7座小社43座) 赤穂郡3座(伊和都比売神社・八保神社・鞍居神社』
『銀杏拾いについて お知らせとお願い 2022.10.4 金出地区神社委員この鞍居神社の境内の「銀杏拾い」について、過去に、他地区の方が商売を兼ねて「銀杏拾い」に来られるケースがありました。 トラブルを防止するために、当鞍居神社を管理する金出地区・神社委員の取り決めで下記の2点を申し合わせています。
・金出地区民は自由に拾って下さい。
・区民以外の方は、2000円/人を奉納する。
ただし、いずれの場合も皮ごと持ち帰り、周辺の整理(清掃を含む)をする。実だけを持ち帰ることはやめてください。
お宮及び境内の掃除は、金出地区老人会の皆様のお世話になっています。 以上』
銀杏の葉が黄色く覆っている地面を見ると、銀杏の実があちこちに落ちていました。実を拾い上げてみると少しネチャっとしており、独特の匂いが少し指に着きました。
『災害に強い森づくり(里山防災林整備)〜県民緑税の活用〜上郡金出地地区平成16年の台風災害を踏まえて、豊かな「緑」を次の世代に引き継いでいくため、県民共通の財産である「緑」の保全・再生を社会全体で支え、県民総参加で取り組む仕組みとして平成18年度から「県民緑税」を導入し、防災面での機能強化を目的とした、「災害に強い森づくり」を進めています。
整備内容 ・森林整備:倒伏すると民家に被害を与える危険木を伐採するとともに、山麓の森林や竹林で間伐を行い、林内の光環境を改善して、林床の植生を回復します。
・簡易防災施設の設置:落石防止のための簡易防護柵、渓流からの土石流を防止する床固工などの簡易な防災施設を設置しています。
令和元年度 兵庫県・上郡町・公益社団法人兵庫みどり公社』
本殿前の拝殿は、絵馬殿を兼用していました。蟇股に龍の素敵な彫刻がありました。絵馬殿に入ると、歴史のありそうな絵馬が多数掲げられていました。これほどの貴重な絵馬が四六時中展覧され、何十年、いや百年以上も盗難されずにいる日本という国が大好きです。これだから、神社巡りは止められない。
バイクに戻り、r28を更に西進し、右折してr449を北上し、11:57「鞍居神社」。こちらの拝殿も絵馬殿兼用で、蟇股の龍の彫刻は更に立派でした。江戸時代のものか?同じ彫刻師の作かも知れません。
『当社は、「鞍居神社という。(通称:野桑のお宮さん)」と呼ばれ、神武天皇をお祀りしている。また、境内社、磐長姫神社(通称:稗田神社)は、磐長姫と天照大神を祀っている。
所在地は、赤穂郡上郡町野桑田953番地の2
由緒:古来伝承によれば、鞍居神社は、「金出地の宮」と「野桑の宮」2ヶ所に有り、それぞれ祀る神様が異なる。 鞍居神社の歴史は古く、平安時代の延喜式神名帳(延喜5年(905)に「鞍居神社」としてその名が登場する「式内社」である。(*現在は、式内神社)鞍居という地名が確認出来る最も古い資料はこの神名帳からといえる。
また、「鞍居神社、金出地の宮」は、帯中津比古命(仲哀天皇)と息長足姫命(神功皇后)と誉田別命(応神天皇)の3神をお祀りしている。 神社管理者・野桑区』
絵馬殿には、大中小様々な絵馬が掲げられていました。
バイクに戻り、r449を北上して山に入っていきましたが、特に気になる建物もなくUターンし、r28まで南下して来ました。右折してr28を西進。千種川を渡る手前で右折し、R373で千種川沿いを北上します。12:32、左折して千種川を渡る細い橋でバイクを止めました。橋を渡り西進すると、智頭急行高架下をくぐりました。ちょうどそこに「苔縄駅」がありました。
12:35「苔縄筆塚」。『上郡町指定文化財(史跡)苔縄筆塚 上郡町苔縄筆塚とは、使い古した筆を祀ったり、学問の師の徳を門人たちが慕って建立された石造物です。江戸時代後半(18世紀後半)以降各地で造られました。 上郡町内には、逆さに立てた筆を唐子風の子供が抱きかかえられる全国的にも珍しいかたちの筆塚が、苔縄筆塚をはじめ、3基残っています。
苔縄の筆塚は、苔縄村の庄屋で歌人、寺子屋の先生でもあった千種惣右衛門朝貫の門弟たちが、没年の翌年の元治2年(1865)に遺徳を慕って建立したものです。 筆塚の筆と唐子の石柱をのせる上下2段の六角台石には、上段に「千種先生」、下段に「門弟建」「世話人・・吉左工門、横山・三良、横山辰吉」「元治2年丑3月日」と刻まれています。  平成3年年3月指定 上郡町教育委員会』
『法雲寺 兵庫県赤穂郡上郡町苔縄 苔縄の地は赤松氏挙兵の地と伝えられ法雲寺はその中心的な存在と考えられています。 赤松氏盛昌の祖、赤松円心則村はこの地を仏教による精神的な拠点とすべく、高僧雪村友梅を招き、金華山法雲昌国禅寺(法雲寺)を建立し、赤松一族の菩提寺としました。 建立当時は赤松氏の勢力も強く、七堂伽藍を配する名刹と讃えられていました。 境内には、県指定文化財で樹齢700年余りのビャクシン杉があります。この樹は禅宗と深く関わりを持つもので円心公お手植えとも伝えられています。 また、円心廟には円心公の木像などが祀られています』
12:39、「法雲寺」に入ると、境内に大銀杏がありました。こちらも残念ながら葉を落としていましたが、地面が黄色に染まって綺麗です。
『赤松家菩提寺「法雲寺」(上郡町苔縄)
この寺は臨済宗相国寺派の禅寺で山号は金華山。建武4年(1337)赤松則村円心が苔縄城の所在する赤松氏の本拠地に新寺を建立し、雪村友梅禅師を開山に招請した。落慶法要には則村も出席して盛大に行われた。「峯相記」には「一国馳集まり諸国群れを成して万人耳目を驚かし」と見える。則村は寺領に高田荘、竹万荘の両荘を施入し、暦応3年(1340)には開山雪村の寿塔として大竜庵を建てるなど、境内には利生塔も建ち、暦応2年11月14日には諸山に列せられ官寺となった。さらに応永23年(1416)には十殺に列せられた。当時は寺勢もあり地方の名刹であった。
1711年、有馬侯が再建、1849年にも再建、昭和58年(1983)には、相国寺本山・地元・赤松氏の協力によって本堂が再建され、禅の道場として一般に開放され、座禅会・読経会・研修会等の宗教活動が盛んに行われている。尚この寺には県の天然記念物に指定された大きなビャクシンがある。円心堂には円心の像が安置されている』
『県指定文化財・法雲寺のビャクシン 昭和52年3月29日指定 所有者・管理者:法雲寺
赤松則村(円心)の建立による法雲寺境内にそびえるこの大樹は、根回り14.3m・樹高33.5m、枝の広がり東西23.5m・南北22mにも及ぶ。地上4m付近で5本の支幹に分かれ、この間の幹は空洞化している。 推定樹齢700〜800年であるが、樹勢はいたって盛んである。 このビャクシンは禅宗と関わり深いもので、赤松円心が法雲寺を創建した時に、自ら植えたものと伝えられている。  平成3年11月 兵庫県教育委員会』
バイクに戻り、少し走って、12:52「須賀神社」。こちらも拝殿が絵馬殿兼用で、蟇股の彫刻が素敵でした。絵馬も多数掲げられており、この地方の定番仕様のようです。
R373で千種川沿いを北上します。赤松円心の居城「白旗山城」のある山頂が高く見えてきます。13:05「白旗城址道標」。『国指定史跡・白幡城址(上郡町赤松・細野・大富・野桑) 白旗城跡は、南北朝時代の武将赤松円心が建武3年(1336)に築城し、新田義貞率いる軍勢の50余日の城攻めに耐えた堅固な山城です。赤松円心はこの功績によって足利尊氏の室町幕府開設を助け、播磨国守護職に任じられました。 以降、嘉吉の乱(1441)で赤松氏が滅びるまで、白旗城は播磨・備前・美作3ヵ国の守護大名赤松氏の本城でした。
現在遺る城跡の一部は、後の戦国時代(16世紀代)の前半頃までに改修されたものと思われ、標高440mの白旗山頂を含む長さ550mに及ぶ尾根上を中心に、本丸・二の丸・三の丸・櫛橋丸・馬場丸・侍屋敷と伝えられる曲輪跡や、土塁・堀切・石積などの防御施設が遺っています。 白旗城址へは、近畿自然歩道を利用して赤松側と野桑の両側から登る事が出来ます。  上郡町・上郡町教育委員会』
13:18「白旗城址登山口」。『落ちない城・白旗城・案内図 白旗城とは、中世、播磨の武将・赤松円心により建武3年(1336)に築城された山城で、足利尊氏を追う新田義貞の6万の軍勢をわずか2000の兵で50日余り防ぎとめた難攻不落の名城です。この働きにより戦力を整えた尊氏は、後に湊川の合戦で楠木正成らに勝利し、室町幕府を誕生させました。
現在地からの距離 トイレ0.4km、細野・野桑分岐1.3km、本丸1.9km・本丸まで約1時間
難攻不落ポイントはこれだ! 落としの岩(ポイント1)建武3年(1336)の白旗城合戦の際に、赤松軍が新田義貞軍に対して城の上から落としたとされる巨石群。白旗城の大半は岩盤上に位置しているため、「武器」となる石材の供給が容易であった。地の利を活かした円心の知恵がうかがえる。
嘆きの肖壁(ポイント2)新田義貞軍の進軍を阻んだといわれる屹血(きつりつ)する巨大な一枚岩。この岩壁を登るのは困難なため、避けて通らねばならず、迂回路に待ち伏せる赤松軍によって新田軍は壊滅的な打撃を受けたという。
白旗山登山上の注意 ・ふもとから白旗山山頂の城跡までは、健康な方で往復約2時間かかります。
・登山口のゲートは各自で開閉してください。鹿等が出ますので閉め忘れにご注意を。
・トイレは、登山口に1か所ありますが、それより先にはありません。
・雨天時や雨上がりは足元が悪くなり、大変危険ですのでご注意ください。ようこそ、上郡町赤松の地へ! ・山道幅が狭い所や石が露出している所がありますのでご注意ください。
・時間に余裕をもって登山し、明るいうちに下山しましょう。
・空き缶やごみ、たばこのポイ捨てをしないなどマナーを守りましょう。
・けが等がないよう、安全確認は自己責任でお願いします。  「落ちない城・白旗城」PRプロジェクト』
『お願い ゲートは、開けた方がその都度閉めて下さい。
・山頂へは徒歩往復で、約2時間かかります。
・ふもと絵馬掛所は、およそ400m先にあります。
・これより先は道が狭く車での侵入は危険です』
『「落ちない城」にあやかり合格祈願を 「落ちない城」にあやかり、難攻不落の白旗城を訪ねて、合格・成功・成就祈願をしませんか! 合格祈願の絵馬は、この奥の「白旗山登山道ふもと」(現在地から400m)に置いています。 絵馬掛所は、白旗山登山道ふもと、及び白旗山の山頂にあります。
〜絵馬の由来〜 絵馬とは、神様に願い事をするために、神社に奉納する絵の描かれた木の板のことを指します。 日本では昔から、馬は神様の乗り物とされ、神聖な動物とされてきました。そして、祭礼や祈願などには、生きた馬を神様に奉納するという習慣がありました。 しかし、馬は高価で奉納するのも大変ですし、奉納された側の神社でも馬の世話をするのは大変なので、生きた馬の代わりに木や上で作った馬の像で代用するようになり、後に木の板に馬の絵を描いて奉納するようになりました。 そして、1600年頃の時代からは、庶民も商売繁盛や健康長寿などの幅広い願い事を書いて奉納するようになり、現在のような馬以外の絵が描かれた絵馬が広く使われるようになりました。 これが絵馬の起源です』
『難攻不落の「落ちない城」白旗城 白旗城は、中世、播磨の武将「赤松円心」により、1336年に築城された山城で、足利尊氏を追う新田義貞の6万の軍勢をわずか2000の兵で50日余り防ぎとめた難攻不落の名城です。この働きにより戦力を整えた尊氏は、後に湊川の合戦で楠木正成らに勝利し、室町幕府を誕生させました。平成8年3月24日に国指定史跡となった白旗城跡は、標高440mの白旗山の山上に位置し、全長470mに及ぶ大規模な梯郭式形状をもち、東西約560m・北約400mの範囲に土塁や堀切などの遺構があり、現在でも築城当時に近い形で残されています』
山頂は440mにあるとのこと、登山口の標高をスマホでチェックすると50mでした。比高390m・・・既に13時を過ぎているので、ゆっくり休憩しながら登るのは厳しいと思い撤退しました。
R373を少し北上し、枝道に逸れ、13:19「赤松居館跡」。『赤松居館跡(上郡町赤松) 赤松居館跡は、東西約105m・南北約55mのほぼ方半町に削平された台地上の字「御屋敷」にあり、赤松円心の館跡と伝えられています。 史料によると、円心の3男・赤松則祐により赤松に守護の館が建てられ、後にその子義則によって修理されています。その子孫の赤松政則も、一時赤松の旧宅に滞在しています。 東側の幼稚園建物(現「赤松の郷血虫文化館」)の建設前に行われた確認調査でも、土師器皿などの中世の遺物が出土していることなどから、この地は赤松氏代々の居館跡と推定されています。  上郡町教育委員会』
斜め上に神社がありました。13:31「五社八幡宮」。こちらも拝殿が絵馬殿兼用で、たくさんの絵馬が下がっておりとても楽しい。小高い丘にあり、玉垣から千種川の流れに沿って出来ている肥沃な農地がよく手入れされて、その背後にある低山との景色が美しい。境内の中央から煙が出ています。周囲の氏子の奥様方が数人境内を掃き掃除されていました。秋の落葉の落ち葉を綺麗にしているようです。
『赤松五社八幡神社改修について この度、以前から老巧して心配していた絵馬堂・拝殿の絵馬が長年の風雨にさらされて雨漏りがし、氏子は心配していました。 そこへ、ふる里赤松から裸一貫で大阪に出られて事業を立ち上げ、一代で築かれた藤本貴昭様(故、貞義・千代子さんの長男)から生まれ育った赤松に、何か恩返しをしたいと申し出がありました。 中でも、子供時代に遊んだ、昔懐かしい鎮守の森である五社八幡神社の老巧化をみて、早速改修させてほしいと申し出がありました。 そこで神社総代はじめ、誰もが改修を考えていた中、又氏子も少なくなってきたこともあり、心配していたところへのご厚意を、早速皆に諮り喜んでお受けしたものであります。
この神社は、歴史的にも播磨一円を治めたり、南北朝時代には、国を左右する働きもした、赤松円心ゆかりの、由緒ある神社でもあり、現在は赤松地区11社の本宮として、春・冬祭りには、各神社総代が全員集まり神官の元、厳粛に神事を執り行い、ふる里の安全祈願をしてもらっています。 その中での事業でもあり、氏子全員が寄贈者藤本貴昭様のふる里赤松への熱い思いに大変感謝するものであります。
○寄贈物 ・絵馬堂・拝殿の屋根葺き替え ・絵馬の額縁補修
○尚、貴重な鬼瓦は、上郡町歴史資料館に保存して頂いております。
令和4年4月吉日 赤松五社八幡神社総代一同 総代代表・塚本敏晴』
13:43「金輪山松雲寺」。屋根付きの駐車場を見ると、日産サニー1000と日産グロリアが並んでいました。ご住職の車でしょう。経年劣化は仕方ないですが、外見はきちんと手入れされています。可動車でしょう。『気をつけよう 自分が怒れば相手も怒る 自分が笑えば相手も笑う』と掲示板に書かれていました。日本人には「そうだな〜」と伝わります。世界の多くの人にも、そのまま伝わるでしょう。でも、人としてではなく、「自分が怒れば相手は静かになる 自分が笑えば相手は舐めてくる」を地で行く国が隣国にあるのを、この書を読みながら頭に浮かびました。小ぶりな鐘楼門がありました。高台にあるので、この鐘の音は盆地全体に届きそうです。
『上郡町指定文化財 カヤ(榧)イチイ科 所在地:上郡町赤松 所有管理者:松雲寺 この木は山地または庭樹として、植栽される常緑の高木で、4月頃開花し、10月頃に結実します。樹齢は、約700年と推定され、樹高は24.8m・目通り直径1.6m・根回り8.3m・枝の広がり東西19m・南北16mの巨木で、西播でも最大級のカヤです。 落雷の跡がありますが、その影響もなく樹勢は良好です。  昭和61年3月指定 上郡町教育委員会』
『当山・中興開山・良順上人400回忌記念碑』
本堂蟇股の彫刻が素敵でした。「鶴に乗った翁」の彫刻で、裏側を見ると「獣顔の魚に乗った翁が片手に本を持っている姿」でした。このような彫刻を初めて目にしました。これだから寺社彫刻観察は止められない。
R373に出て、千種川を北上しました。橋で千種川を東に渡って、14:00「河野原円心駅」。『赤松氏の歴史 上郡町北部の千種川流域は、播磨・備前・美作3ヶ国の守護大名である赤松氏発祥の地とされています。建武3年(1336)、赤松円心が築いた白旗城や赤松氏の菩提寺の法雲寺、赤松三尊像を伝える宝林寺など、赤松氏にまつわる多くの旧跡が遺されています。赤松氏は円心以下、範資(のりすけ)・則祐(そくすけ)・義則(よしのり)・満祐(みつすけ)の5代にわたり、この地を本拠に繁栄しました』
『白旗城跡 白旗城は南北朝時代(14世紀)に赤松円心によって築かれ、新田義貞の軍勢を撃ち破ったことで知られる中世の山城で、国指定史跡となっています。現在残っているものは、戦国時代(16世紀)の初め頃に築かれたとみられ、標高440mの白旗山頂から尾根上に多くの曲輪跡や土塁等が残っています。また、山頂からは、赤松と河野原(こうのはら)集落や千種川等を望むことができます』
高架ホームまで上がりました。途中の踊り場に絵馬掛けがありました。「6万の新田義貞軍に攻められながら、2000の軍勢で50日間不落だった」事実に依り、「落ちない城」受験合格絵馬として絵馬が下がっていました。
再び千種川を東に渡り、左折してR373を北上します。千種川沿いのこの国道は、交通量が少なく、低山が左右に並び景色が綺麗で、とても気持ち良い。対向バイクとのバイクピースもハッピーです。R373は、道なりに「千種川」を渡ると、左側の低山山頂に「中世の山城」を確信させる地形が見えてきました。バックミラーをチェックし、後続車がなかったのでスピードを落とすと、「上月城跡」の道標があり、その指示に従って左折して枝道に入り、14:25「上月城跡」。
室町時代、出雲守護の京極氏は近江の出です。九州やみちのくの遠隔地以外の守護は守護地に下らず、京都に在住し足利将軍をサポートするのが守護の仕事。そこで、近江尼子出身の京極の一族が京極家の出雲守護代をしていた。その親族がの尼子氏を名乗ったのに始まり、「応仁の乱」を経て戦国大名化し、領国を広げて大大名になっていきました。石見銀山を版図に収め、長州周防・長門の守護・大内氏領国に勢力を広げて行きましたが、その武将毛利氏を攻めきれず、反対に本拠地「月山富田城」を攻め落とされてしまいました。その家老「山中鹿之介」が、尼子氏を再興するために京都に隠棲していた尼子親族を旗頭に立て、破竹の勢いで勢力拡大していた織田家の家臣「羽柴秀吉」に士官した。播磨・備前・美作は、大内氏を下剋上し中国地方を席巻した毛利と織田の勢力がぶつかる地でした。上月城は毛利氏の小さな山城ですが、交通の要衝で、織田山陽路攻略大将「羽柴軍団」に落とされ、尼子・山中鹿之介が城主として入りました。そこに、毛利軍の主力「毛利」「吉川」「小早川」が大軍で囲み、落城のピンチに至りました。それに対し、羽柴秀吉が救援に駆けつけましたが、長期のにらみ合いの末、三木城攻略に専念するため退却し、尼子はここに2度目の滅びを迎えました。山中鹿之介は捕らえられ、護送中に斬られてしまいました。歴史的にとても大きな戦闘が行われた地です。
何度もここを城攻めしようと計画しましたが、他の地を巡った結果の時間切れなどで、何度も断念した山城です。この日は、12月に入り、日没が早くなったので、暗くなる前に帰宅しようと帰るつもりでした。ですが、何度も断念した登りたかった山城が目の前にあり、「もういいか」って城攻めすることにしました。
登山口Pに、「佐用町上月歴史資料館」がありました。流石、人気の山城です。バイク装束を脱いで軽装になり登ります。『上月城の沿革と攻防 上月城は、鎌倉時代末期(1300年代)に、上月次郎景盛(宇野播磨守入道山田則景の息)が太平山(樫山)に初めて築いたと伝えられている。 上月氏は景盛・盛忠・義景・影満と続くが、そのいづれかの時、本城と谷を隔てた南の荒神山に移したと思われる。これが現在の上月城跡で、中世山城の様態をよく残している。
赤松氏は、播磨・備前・美作3ヶ国の守護など大きな勢力を持っていたが、嘉吉の乱(1441年)で惣領家が没落することになり、播磨も山名氏の支配する所となる。その後、赤松政則が赤松氏を再興し播磨を回復するが、山名・赤松・尼子などが攻防を繰り返すこととなる。
天正5年(1577)繊田信長は毛利氏攻めの為、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、毛利に与した佐用の福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き15000の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、12月3日遂に上月城は落城、政範は自刃して果てた。秀吉は、城中将士の首を悉くはねた上、見せしめのため、城中の女子子供200人を串刺しと磔にして備前・美作・播磨の国境付近に晒した。
秀吉はこの後、上月城を尼子勝久・山中鹿介に守らしめた。上月城に入った尼子氏は一時、宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は之を上月十郎景貞に守らせたが、再び秀吉軍により落城したとされる。景貞は、敗退中櫛田の山中で自刃したと伝えられる。
再び、尼子勝久・山中鹿介は上月城に入ったが、毛利軍は山陰・山陽の両道より3万の軍勢を以て、天正6年(1578)4月18日、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援のため、高倉山に陣を進めたが、三木城攻略の為、6月26日高倉山より兵を引いた。この為、上月城は孤立し遂に7月5日勝久は毛利氏に降伏し開城自刃した。山中鹿介は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、高梁川の合の渡しで斬殺され、その果敢な生涯を終えた。
この天正年間の攻防が上月合戦と呼ばれるもので、上月城はその後、廃城となり今日に至っている。文政8年(1825)、赤松氏落城の時の守将の末裔・大谷義章が、250回忌を営み慰霊碑を建立したものが山上に残されている。  佐用町観光協会・上月歴史研究会』
『上月城と黒田官兵衛 天正5年(1577)、天下統一を目指す織田信長勢は、西国の勇将毛利氏と対立していた。羽柴秀吉を大将とする織田勢は黒川官兵衛などの尽力もあって、播磨をほぼ手中に治めつつあった。播磨・備前・作州の3国に接する要所を治める上月城主(城主名は赤松政範・[赤松]七条・上月十郎「景貞」など諸説ある)は毛利に与していたため、同年11月、秀吉率いる織田勢の矛先は佐用の地へと向かうことになった。 佐用に攻め入った秀吉は、まず黒田官兵衛・竹中半兵衛らに、上月城主に従う福原則尚(助就とする書もある)が守る福原城(佐用城)への攻撃を命じ、壮絶な戦いの末、福原城は多くの犠牲者を出して落城する。
勢いに乗る織田勢は、次に上月城への攻撃を開始する。後の黒田家の記録「黒田家譜」によると、この戦いでは官兵衛が先陣を務めるが、毛利方の宇喜多直家率いる援軍3000を得た上月側か攻勢、官兵衛の隊も後日、山中鹿介をはじめとする尼子勢の援軍を得て両軍の攻防が続く。以後、3ヶ月に及ぶ寵城戦を迎えるが、城中の謀反者により城主が斬殺されたとも伝えられる。「信長公記」や秀吉自身の文書によると、城内の家臣が降伏を申し出たが、秀吉はこれを許さず、12月3日の総攻撃によりついに上月城は落城する。すべての城兵は斬首、また城内にいた200余人のうち女性は磔(はりつけ)、子どもは串刺しにされ国境に晒されるという凄惨な結末を迎えたと伝えられる。
上月城主の妻は、黒田官兵衛の妻・光(幸圓)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟であった。合戦では、先陣として落城の様子を問近に見た官兵衛の苦悩は想像を絶する。後年、上月城主の妻の墓は九州・福岡に実在することから戦いの合間に縁者により救い出されたものと思われる。
その後、上月城には山陰の名族・尼子勝久・山中鹿介らの尼子勢が入るが翌年4月、3万にも及ぶ毛利の大軍に攻められ城は包囲される。援軍に駆けつけた羽柴秀吉・荒木村重ら1万の織田勢は高倉山に陣を張り、対峙するも付け入ることもできず、時を同じくして反旗を翻(ひるがえ)した別所長治を討つため播州・三木城へと向かうこととなる。織田勢の撤退により、見捨てられた上月城は天正6年7月に落城する。信長と秀吉、西国の覇者毛利氏とにはさまれ、歴史の波に翻弄された上月城は、尼子氏の最期と共に歴史の表舞台に再び現れることはなかった。  平成25年・佐川町観光協会 *本文は伝承を基に作成したものてあり、書物により諸説ごさいます』
14:26、登城口に取り付きました。低山ですが、下部は斜度が強くつづら折れを繰り返し高度を上げて、尾根道に出て中斜面・緩斜面を2度休憩を入れて登ります。今は堆積物で深さが無くなっている堀切を渡り、三の丸曲輪・二の丸曲輪を通って、14:39「山頂本丸跡」。佐用川を隔てた北東の低山の山頂に「仁位山城跡」が見えます。上月山城を巡る織田と毛利の攻防で、重要な山城でした。標高はほぼ同じですが、仁井山城の方が少し高い。上月城を攻めるには、ここに物見を置くと、上月城本丸・二の丸の動きが見えます。上月城を毛利方・赤松氏が占拠していた時は織田方・羽柴秀吉軍が陣を置き、織田方・尼子勢が上月城を占拠している時は毛利方が陣を敷いたのでしょう。援軍に寄せてきた織田方・羽柴軍は、その西の高倉山山頂に陣取りました。
『上月合戦 戦国時代の天正5年(1577)から6年にかけて、この城を舞台に合戦が行われました。このとき上月城は。全国統一をめざし中国地方へ侵攻する織田勢と中国の毛利勢との境に位置し交通と防衛の要地でした。 天正5年11月、時の上月城主、赤松政範は毛利方についていました。織田方の羽柴秀吉の侵攻に対して、上月城とともに抗戦した福原城ははやくに落とされ、備前の宇喜多氏の支援軍も敗退し、上月城は滅ぼされてしまいます。 秀吉軍と宇喜多軍との激しい戦いが行われた場所は「戦」の地名が残されています。この山頂には赤松政範以下の戦死者を供養する250回忌の供養碑がありますが、秀吉は、上月方の女・子供を磔(はりつけ)・串刺しにして国境にさらすなど残酷なことをしたと伝えられます。
秀吉は、上月城に尼子勝久・山中鹿介主従を入れ守らせますが、天正6年4月には、毛利方の小早川・吉川らに包囲されます。支援に向かった秀吉は高倉山に陣をおきますが、信長から撤退を命じられたため。2ヶ月以上の龍城の末、尼子勝久は切腹、山中鹿介は捕らえられ、毛利陣への運行中に殺されてしまいます。 上月城周辺に残る多くの山城跡や史跡は、織田・毛利両軍の一大決戦地であったことを物語っています』
山頂本丸跡に、織田勢に攻め落とされた赤松氏の慰霊碑が立っていました。『赤松蔵人大輔政範君之碑』。下山します。10分で麓でした。こんな小さな低山山城なのに、両軍数万の大軍が対峙した大合戦が繰り広げられました。ここでの織田軍の苦戦により、ここの東に位置する播磨の別所氏が毛利の支援を受け反旗を翻し、羽柴秀吉は織田信長の命で別所氏と対峙するため兵を引きました。秀吉が支援し入場させた尼子氏・山中鹿之助を見殺しにする姿を見て、摂津を支配していた友軍・荒木村重も反旗を翻し、有岡城決戦に至ります。戦国時代、織田信長が天下統一していく過程の大合戦でした。
『皆田和紙・紙すき文化伝承館』があり、窓から覗くと数人の職人さんが作業をされていました。『上月歴史資料館ご案内 施設名称:上月歴史資料館・紙すき文化伝承館 住所:佐用郡佐用町上月373番地 開館日:土曜日・日曜日・祝日 開館時間:午前10時から午後4時 休館日:祝日除く月曜日〜金曜日および年末12/29〜年始1/3 入館料:大人200円・高校生150円・小中学生100円(30人以上の団体の場合は1人50円割引になります) 御成印・御城印帳あります』
14:56、「佐用町上月歴史資料館入館券大人200円」入館しました。ロビーに、仁位山城跡の案内図が貼ってありました。興味深く見ていると、館長さんが出てこられ、いろいろ教えてくれました。山頂に電波塔が立っており、その建設のために舗装路が山頂まで上がっているようです。次回、登ってみよう。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のポスターもありました。ドラマでも脚光を浴びた場所です。
『ようこそ上月歴史資料館へ この資料館は平成17年に、旧上月町民俗資料館が移転することに伴って建てられました。 その際、内容もこれまでの生活道具などの民俗品の展示から、上月地域に特徴的な上月城・皆田和紙・早瀬土人形の3つに絞り展示を行っています。 また、平成23年度には「紙すき文化伝承館」も併設されました。この施設は、和紙作り(皆田和紙)について、説明だけでなく、実際に使われていた道具も展示しております。 小さな資料館ですが、佐用町の歴史・文化について、ご覧になる方への理解の助けになれば幸いです。  佐用町・上月歴史資料館』
『上月合戦と城跡の展示』コーナーがありました。『上月城 〜上月城と上月合戦〜 現在2ケ所の城跡を上月城と呼んでおり、その1つが(太平山)上月城、その南側にある城を(荒神山)上月城といい、現在私たちが上月城と呼ぶのは(荒神山)上月城のことです。 この城は上月氏が築城したと伝えられ、嘉吉の変(1441)で山名氏により、天文年間(16c前半)に尼子氏の播磨進出により落城、永禄年間(16c後半)頃には毛利氏の支配下に組み込まれていたと伝えられますが、この頃までの上月城に関しては資料が少なく、城主や城について詳細なことを知ることはできません。 そして後世に知られるいわゆる「上月合戦」はこの後起こることになります。
この合戦は天下統一のため播磨への進攻を始めた織田信長と、中国地方に勢力を張り、足利義昭を庇護する毛利輝元との衝突のはじまりともいえる戦いであり、このような攻防は上月が播磨・美作・備前の3国の境に位置するという立地的な重要性があったためと考えられます。 天正5年(1577)織田信長は羽柴秀吉などに播磨進攻を命じます。播磨に入った秀吉は各地の武将を味方につけていきますが、毛利方に通じていた上月城主・赤松七条(政範)は従わなかったようです。そのため秀吉は11月佐用郡に入り、27日には福原城を落城させ翌28日に上月城を取り囲みます。そして12月3日城に攻め入り上月城を落城させます。この後秀吉は上月城に尼子勝久、その配下の山中幸盛(鹿介)等を置きます。
さて前線の城を失った毛利氏は直ちに奪回の動きを見せ、翌天正6年(1578)4月18日、吉川・小早川の軍が上月城を取り囲みます。秀吉も救援に向い5月4日高倉山城に陣をおいて毛利軍と対峙しますが、少し前に三木城の別所長治が毛利方へついたため秀吉は両方に軍を向けなけれぱならない状況になっていました。 結局信長は撤退する事を命じ、6月26日秀吉は姫路書写山に退却します。そして孤立無縁となった上月城は7月5日、尼子勝久兄弟等の切腹を条件に開城しました。 なお、この後も織田方と毛利方は中国地方で睨み合いを続けることになりますが、上月城はこれ以後歴史の表舞台に上ることはありませんでした。
協力:財団法人下郷共済会 広島市立中央図書館 市立長浜城歴史博物館 山下晃誉氏 吉川史料館 井上恒雄氏』
『佐用町内と上月城周辺の城館 佐用町内には中世から近世にかけての城館が数多く存在しています。 ここではその一部をご紹介』コーナーへ。
『高倉山城 山脇・櫛田・多賀地区にまたがる高倉山(標高357m)の山頂にある山城です。天正6年の上月合戦では羽柴秀吉らの陣域として知られていますが、それより以前・以降の様子については記録がなく、よく分かっていません』
『高倉・仁位間曲輪群』
『利神(りかん)城 別名「雲突城」とも呼ばれるこの城は、佐用町の中心よりやや北側、現在の平福にある利神山(標高373m)の頂にあります。天正5年の上月合戦の際に上月城・福原城と共に織田氏に敵対し、後に降参した「別所中務と申者之城」は、この利神城ではないかと言われています』
『福原城 別名「佐用城」とも呼ばれるこの城は、佐用盆地の西南、現在の福原の地に位置している標高110mの緩やかな尾根上に築かれた(平)山城です』
『長田山城 佐用町東南部、現在の土井・末広地区にまたがる地にある山城です。城の詳細は不明ですが、「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」では得平三郎頼景の築城とし、「南光町史・中世編」では熊見(米田)城へのつなぎの城との見解をあげ、更に天正年間の上月合戦の際に織田方により改修されたものとしています』
『広山城 三日月地域、広山地区の東にある山、標高206mの尾根にある山城です。この城は、「三日月町史」では城主について小寺河内守頼景としているほか、「赤松氏系図」に小寺頼景の註に小寺河内守・広山城住、また「播磨国古城図」にも三ヶ月・広山五郎景則住とあるとしています』
『大内谷山城 市町境に接する佐用町東部にあり、天神山城の北東1.3kmの地点に位置する山城です』
『天神山城 市町境に近い佐用町東部にある山城です。当地は、南西から北東へ延びる本郷谷のほぼ中間地点にあたり、以前は、これより北東へ大内谷山城のふもとを経て宍粟市山崎町の青木付近に抜けることが出来たと言います』
『比丘尼城 金屋の中士居地区にある城です。地元では、「びくにんじょう」とも呼ばれていたようで、城としての認識はあったと思われます。城についての記録は、知られませんが「日本城郭全集」では、広岡城としており、広岡氏が居城していたものの天正5年(1577)年の織田氏による播磨侵攻により落城したとあります』
『宇根山城は、岡山県境に近い佐用町西部の山間に有り、「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」では、天正6年(1578)、上月城を包囲した毛利氏が、高倉山に陣を張る秀吉の軍勢に備えて吉川元春の大軍を屯営させたとあります』
『仁井山城 上月城に近接しており上月合戦に使用されたとみられます。城についての記録は殆どありませんが、「赤松家備前作城記」には天正5年(1577)の上月合戦の際に安藤信濃守が拠ったとの記述があります』
『早瀬城 早瀬集落にある白山神社境内周辺に位置し、早瀬集落を一望する南向き尾根斜面にあります。南正面には仁井山城跡を望むほか、秀吉が陣を置いた高倉山城跡も遠望出来ます』
『大日山城 佐用町西部、県境に近い大日山地区にある山城で、佐用町の西大畠地区から岡山県の八塔寺方面へ抜けることが出来る道の中間地点にあたります。 この城について「上月町史」では、天正5年(1577)の城主として小林宗左衛門満末の名を挙げていますが詳細は不明です。地元ではジョウヤマと呼ばれ城としての認識はあったようです』
『多賀城 佐用町南部、多賀の地にあり、奥多賀集落の南東山上に位置する山城です。これより南側は赤穂郡上郡町、東側は三日月地域の南大畑に接します。「南光町史・中世編」には、「上畫(じょうが)ノ城」として載せられ、城主は宇野為助の子、宇野七郎助範の名を挙げており、城の詳しい記録はないものの城主の生没年として13世紀代の年代をあてています』
『広岡城 佐川町西部の県境に近い場所に位置する山城で、域の南側ふもとには旧美作道が通り、約3km西進すると県境の杉阪峠に至ります。「佐用郡誌」には、廣岡城址として本郷祐義が居城したと記され、また「赤松家播備作城記Jには、西本郷山城として建武年間に本郷掃部助直頼が城を築き、その後、宇喜多秀家の家臣富山藤内が、居城、慶長5年に落城したとありますが、この城かどうかの確証はありません。また「有馬系図」に本郷掃部助の兄弟として廣岡五郎刑部少輔の名が見え、廣岡の地名に由来すると思われますか詳細は不明です』
『桜山城 佐用町北西部の県境にほど近い桜山集落にある山城です。地元ではムカイヤマノシロ・シロヤマと呼ばれ城として認識されていたようですが、城主や築造の記録はなく詳細については不明です』
『大亀山城 上月地区にあり、上月城の西南山上に位置する山城です。城主をはじめ築城などの記録は知られませんが、天正6年の上月合戦について、「信長公記」には毛利軍が尼子勝久等の寵もる上月城を包囲した際に大亀山に陣を置いたとの記述がみられることから、天正6年の戦いにおいては毛利方の陣城の1つとして機能していたようです』
『日高の築地 上月城の南西にあります。その存在は、古い文献には見ることはできず、造られた時代など詳細は分かりません。比較的近年になって「日本城郭体系」「兵庫県の中世城館と荘園遺跡」などに大成山砦などとして記載され、その存在が知られるようになりました』
『浅瀬山城 「赤松家播備作城記」によると文明年間(1467〜1487)に孝橋新五郎季晴がはじめて築き、天正5年(1577)の羽柴秀吉による上月城攻めの際に落城したとあります。ただしこの資料以外に記録はほとんど無く、詳細は分かりません』
『飯の山城 城主は「赤松家播備作城記」に天正5年の上月合戦には飯塚監物が居城、「佐用郡誌」では間島藤内の居城、「日本城郭大系」には吉屋八郎宗遠、のち建長年間には間島彦太郎景能、その後嘉吉の乱までは太田氏と間島氏が交代で城主、さらに天正6年の上月合戦では間鳥右馬助が居城とあります』
『円光寺砦 円光寺地区の東側、太田八幡神社のある山の山頂にある砦ですが、この砦についての記録はこれまで見つかっておらず、築造を行った者の名前、時代とも詳しいことは不明です』
『櫛田城 「佐用郡誌」には宮山城として記載され、城主は赤松一族の佐用次郎頼景の次男櫛田八郎有景とあります。また「日本城郭体系」では城主を長田城主得平三郎頼景の次男有景とし、その7代目の有兼の時に嘉吉の乱があり山名氏に滅ぼされ、その後、赤松政則による赤松家再興後、寛政6年(1465)に櫛田氏の子孫が再び居城するものの、天正5年(1577)の上月合戦の際、城主櫛田左馬助頼久は柏原城救援時に戦死とあります』
『皆田和紙の展示 室町時代から昭和に至る長い間行われていた佐用の和紙作り』
コーナー。『皆田紙(かいたかみ)〜はじめに〜 紙は古く中国で発明され、記録では後漢の頃(西暦105年頃)蔡倫という人が樹皮や麻・布などを材料として紙を漉(す)いたとあります。日本では西暦610年に高句麗の僧・曇徴(どんちょう)が紙の作り方などを伝えたといわれ、また一説にはそれより以前にも紙作りが行われていたとの伝説もあります。 こうして紙作りは初め仏教文化などを背景にして発展し、平安時代では王朝文化にはぐくまれ、その後は数々の情報が記録として紙に残されるようになって、文化の発展に大きな貢献をすることになります。 そして現在、紙は質を変えながらも我々の生活に最も身近なものの1つとなっています。
〜紙づくりのはじまりとその終わり〜 播磨国は古くから紙を作ってきたところとして知られており、すでに奈良時代の頃から紙に関する記録が見られます。その播磨国において、皆田は室町時代頃から記録にその名を見ることかてきることから、少なくともこの頃には紙づくりが行われていたことが想像されます。 その後、江戸時代にかけては皆田だけでなく広く各村々で紙漉きがおこなわれたことが文献などから明らかとなっています。当時はかなりの量が漉き出されていたと思われ、紙問屋を通して広く流通していたようです。
しかしこのような紙作りも明治になってからは近代産業としての洋紙におされ、和紙生産に従事していた人は次々と養蚕に転業していきました。その結果皆田の紙漉きは明治35年頃に終わりを迎え、そののち西新宿・西大畠などで続けられていた紙漉きも、昭和43年に最後まで行っていた西大畠で終業するにいたって紙作りの歴史は終止符を打ちました。 しかし昭和45年に上月町歴史民俗資料館が建設されるのを契機に、技術を伝承しようと紙漉きの復活がおこなわれ、平成2年からは町公民館で手漉き和紙講習会が開かれるようになっています。  協力:杉原紙研究所・井上恒雄氏』
『〜皆田紙の歴史〜 佐用郡の皆田では古くから紙漉きが行われていました。ただその技術がいつ頃、どこから伝わってきて皆田で紙漉きが行われるようになったかについて詳しいことは明らかではありません。
皆田紙として記録に残っているものとして室町時代・文明7年(1475)の奈良・興福寺の法会に「甲斐田紙」を使用したと「大乗院寺社雑事記」に見えるものが初めてで、そのほか「多門院日記」「蔭涼軒日録」などいくつかの記録に「甲斐田・開田・海田・カヰタ」などの名前で見ることができます。なお、この皆田紙は厚手の紙と書かれており屏風などにも使用されたようです。 このように中世には都である京都にも送られており、同じく播磨産の杉原紙などと共に播磨の特産品のひとつであったのかもしれません。
江戸時代では元禄年間に海田村・西本郷村・蔵垣内村・中山村で漉かれていたようです。弘化年間ころには西新宿村・上秋里村・下秋里村・西大畠村・大日山村・小日山村でも漉かれ、紙問屋もあったとする記録もあるなど、江戸時代の終わりには各地で紙漉きがおこなわれていたことが分かります。 この頃には大阪の紙問屋の商品として厚紙「海田(皆田)紙」は広く流通していたようで、各地の産地には「〜海田」という名前の厚紙があり、「海田」は厚紙の代名詞となっていたと思われます。 また新宮の千本にあった種屋という店の目録には「あつ帳」を「西辺八作州さかへ皆田の出来ル辺之もの」とし、「かいた」紙の産地として皆田・大畑・五明・さくら・新宿の名を挙げています』
『和紙を使用して作ったモノたち ここに展示しているものは、有志の紙漉グループである「皆田和紙保存会」の方々が、資料館で漉いた紙を使って自主的に制作したものです。
和紙は書道など文字を書くために主に使用されますが、昔は屏風やフスマなどの生活用品にも使用されていました。 しかし近年ではその柔らかな風合いが喜ばれることも多く、いろいろな調度品に使われることが多くなってきています。ここでは会の方々が試行錯誤しながら制作したものの一部を展示しています。 ご覧になる方が和紙の持つ柔らかな風合いを感じていただければと思います』
『早瀬土人形(はやせつちにんぎょう)の展示 明治時代、わずかな期間にのみ作られ、そして消えていった人形づくり』
『〜はじめに〜 人形は昔よりいろいろな材料でいろいろな種類のものが作られてきました。現在ではおおむね子供の玩具である人形も、古くは土偶や埴輪など精神世界を示すものや穢を祓うもの、子供の成長を願ったり農業などに関係していたものなど、人々の生活や願い・祈りなどに深く関わってきたものがたくさんあります。 このような人形のうち、ここに展示しているような土人形については特に江戸時代以降、京都伏見人形などを原型として、また原料の入手し易さから日本全国の数百ともいわれる生産地で作られていました。
協力:龍野市歴史文化史料館・姫路市書写の里・美術工芸館』
バイクに戻り、佐用川を渡り、15:17「仁居山城跡登山口」。獣避けフェンスで道路が塞がれていました。『自由に開けて見学してください。 仁井山城跡保存会』『出る時は必ず鍵を掛けて下さい。この先約800m(仁井部落)』。今回は日没まで時間がないのでパスですが、次回は必ず・・・。帰路に着きます。R373を北上し、「佐用IC」から中国道に乘り東進。16:18「加西SA」で、「塩せんべい540円+神戸牛ご飯だれ691円=1231円」購入。「宝塚IC」で下車し、17:35帰宅。


2022/12/3
コーチしている大学ヨット部の今シーズン最終戦です。そして、11/6に4回生が引退し新チームになって3レース目です。倉庫から「里山VTR250」を出して出発。R171〜中央環状道路。7:03「エネジェット中環豊中SS」で給油。177km/6.48L=27.3km/L。7:07「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「サントリー天然水キリッと果実600ml139円+味付け海苔海老マヨネーズ135円+揚げ餅塩198円=509円」購入。吹田ICから名神高速に乗り、京都東ICで下車し、湖西道路で北上し、ヨットハーバー着。
皆に挨拶し、あれやこれやお喋り。天気予報通りの三井寺(南西)からの風ですが弱く、風待ちになりそう。ブリーフィング後、出艇時刻になりましたが風がなく暫く陸上待機。KatくんとHorくんが、サイドボディーに貼られた大学名ステッカーを剥がしています。僕もちょっとお手伝い。風が入ってきたので出艇しますが、ハーバー前で風がなくなり、マークを打って練習しました。レース海面に向かって、北風を受けてD社・京産大が向かっていますが、そちらも風がなくなり、レース委員会のオフィシャル艇も出てきません。風が出る気配がないので、ハーバーバックしました。
駄弁っている者、整備をしている者、みな思い思いに過ごしています。ステッカーが大分剥がせました。Minくんが船を載せて動かすランチャーを直しています。再び三井寺の風が入ってきました。出艇。レース海面に向かいますが、風が弱く、遅れて出艇した当方のS級艇を引っ張ってレース海面へ。
軽風の三井寺の風で、2レース出来ました。振れと強弱が大きく、楽しいレースだったでしょう。社会人も参加していますが、学生ではD社勢の圧勝でした。当方は、現在のエース級スキッパーが、TOEFLのテストで欠席者があり、大きな差を感じました。新4回生は、コロナ禍の2020年入学で、秋に少しヨットに乗れただけで、本格的に練習を始めたのが2021年2月からだったので実質まだ2年、まだまだ伸びしろがあります。新3回生はプレイヤーが7人しかいないので、プレイヤー19人の新2回生の上達が新チームの鍵を握りそうです。
ハーバーバック後、それをブリーフィングで話し、帰路に着きました。家内の姉から、お歳暮の林檎が1ケース届いていました。夫婦2人なので食べ切れそうにありません。ああ〜。お正月休みの飛行機チケットが購入出来ました。いつもなら、息子たち家族がやってくるのですが、今年は長男に誘われ、横浜の長男宅にお邪魔します。そこに次男一家も来て、ワイワイすることになりました。息子たちは横浜と埼玉県川口に住んでいるので、僕ら夫婦が移動する方が交通費が安いし、次男の長男おーちゃんが喘息で入院したばかりなので、その方が安心です。


2022/11/27
船の整備に行きます。「通勤リード110」に乗ってホームポートへ。係留艇に行き、作業開始。両面テープを持ってきましたが、チャートテーブルの上にはもっと良い両面テープが載っていました。「こっち使おう」。天井クロスが落ちているところを剥いで、ゴミ・埃などを丁寧に掃除し、両面テープで修繕しました。続いてオイル点検。オイルが減っていたので紙コップを探しましたがありません。「あ〜買いに行かなきゃ」。船のLINEで、「今日ハーバーに来られるなら、一瞬で良いので船まで」と送っておいたのに応えてHirさんが来られました。ポート側ミジップのシートストッパーを固定するためには2人必要です。Hirさんにデッキ上でプラスドライバーでボルトを頭を固定してもらい、僕は船内に入ってナットを回して固定完了。Hirさんから「スピンハリヤード交換」をお願いされました。
紙コップを買いにハーバー前のコープへ。10:37「コープこうべマリナパーク店」で、「キリンイミューズヨーグルト500ml105円+クラシモアペーパーカップ20P138円+家庭糸300円+セルフ針取り合わせ380円+栗山渚あられ塩100g148円=1175円」購入。船に戻り、オイル補充しました。紙コップで4杯、150ml×4=600ml入りました。オイル漏れするエンジンになってしまったようです。母校KGとコーチしてる大学ヨット部に、シーズンオフ期間の卒業生クルージングと1回生クルージングを提案しています。これで懸念事項がなくなりました。スピンハリヤードを交換すべく、新しいシートと使用中のシートを針と糸で結びますが、ビニールテープがありません。
12:24「コープこうべマリナパーク店」で、「ニチバンビニールテープ黒128円」購入。船に戻りテープで2本のシートを巻いて結び、新しいシートに交換する作業を始めました。シートはすぐにマストを通りましたが、なんと長さが足りませんでした。仕方なく、元のシートに戻しました。Hirさんに電話しましたが、作業中のようで話せなかったので、LINEで伝えました。
これで作業終了。13時を回ったので帰りましょう。陸置き艇バースに行くと、ドラゴンのマスト倒しを終えたHirさんとシートのことを伝えました。「通勤リード110」で一路帰宅。14時前に帰宅できました。
14時からNHK・ETVで母校KGとRitsのアメリカンフットボールリーグDiv1最終戦が中継されます。今年のリーグ戦では、Ritsが関大に負け、KGが全勝で首位、関大・Ritsが5勝1敗で2位。この試合でKGが勝てば関西代表になり、西日本代表校との試合して勝てば「甲子園ボウル」(大学日本一決定戦)です。負ければ、KG・Rits・関大が6勝1敗で3校同率リーグ優勝になり、試合後のくじ引きで関西代表が決まるそうです。アメリカンフットボールは、KGの校技で中学・高等部時代、体育の授業で習いゲームを楽しみました。ルールを知っているので、観戦していても楽しい。
Ritsのキック、KGターンからゲームが始まりました。KGリターナー34伊丹くんがどこまで進むかと思ったが、自陣24ヤードでRitsの強烈なタックルで止まりました。流石Rits。KGオフェンスはこの秋のシーズンはこれまで、3回生QB15鎌田くんと新人QB13星野を両方使って来ました。星野くんはパスも投げれるしランも良いので、僕は星野くんの方が良いと思っていましたが、このRitsとの大一番のスターターに星野くんを使ってくるとは予想外でした。ファーストオフェンスでQBラン多用のランオフェンスで2回ファーストダウンを更新しましたが、パント。このパントがお粗末で、相手のエンドゾーン深くまで蹴れません。例年のKキッカーなら、こんなことなく、辛勝の時はキッキングチームの良さで勝ち抜いた面があったのに・・・。
RitsのオフェンスはKGディフェンスに押し込まれ、ゲインはほぼ0でパント。2回目のKGオフェンスもラン中心でファーストダウン更新0でパント。2度目のRitsオフェンスは、KGディフェンス陣のQBサックが早く、無理な体勢からから投げたパスをKGディフェンスがインターセプトしてターンオーバー。何だかDF優位のゲームのよう。3度目のKGオフェンスは、RB7前島くんがQBポジションに入ったワイルドキャットで、パスとランで7ヤード進み、QB15鎌田くんが出てきました。またランの中央で進まず、4ダウンでパントと思いきやギャンブルで走ろうとしましたがRitsディフェンスに阻まれ失敗。双方ともディフェンスは素晴らしいが、Ritsオフェンスは進まないし、KGオフェンスは攻撃的なパスがなく、凡ゲームに見えてきました。秋シーズンに入り、アメリカNFL(プロサッカーリーグ)を見ている目には、ゲームとしてつまらないぞ。
次のRitsオフェンスで、またもやパスをKGディフェンスがインターセプトしてターンオーバー。敵陣10ヤードまでボールキャリアしたので、間違いなくTD出来るでしょう。KGオフェンスは、ここでもランに固執し、1ダウンで5ヤード以内まで進みますが、2ダウンでファンブルしRitsディフェンスに抑えられてターンオーバー。何じゃそりゃ。走れる1回生QB13なので、RBの中央突破ではなく、オープンに走らせたら簡単にTD取れそうなのに・・・。
自陣4ヤードからのRitsオフェンスは、パスインターセプトされたら即TDにつながるので、ランニング攻撃に的を絞れます。それでもランニングが出だして、初めてのファーストダウン更新。ロングパスが通ったところで1Q終了。
2QもRitsオフェンスが進みますがTDには至らずFG狙うもキックが外れ得点になりませんでした。ファンブル・インターセプトに加え、FGキックが双方とも外れ、とても関西リーグトップチーム同士の最終戦とは思えません。コロナ禍で2年間十分練習できなかった4回生のレベルが下がっているのだろうか?
次のKGオフェンスは、エンジンが掛かってきたのか、RB34伊丹くんがオープンに走ってワンプレイでファーストダウン。いろいろ取り混ぜてオフェンスしなきゃ。パス、QBドローランで連続ファーストダウン更新。こうでなくっちゃ。オフェンスの多彩さがKGの十八番です。フィールド外で応援するKGチアの多さにびっくり、確か4学年で100名を超えているはずです。日本一人数の多いチアチームかも知れません。スタジアムで観る時、僕の目の半分はチアチームを観ています。でもコロナ禍になって、人数制限があったり、大声禁止だったり、大技演技がなかったりでイマイチでした。それでも100人を超えるメンバーをリクルートしたKGチアの魅力は絶大です。
Ritsゴール前までテンポ良くポンポン前進してきたのに、ここから慎重になりすぎて、ランニングで中央をついて少ししか進めません。4ダウンになって至近距離のFGを狙いますが、大きく曲がって失敗。何じゃそりゃ。スナッパーのボールが逸れ、ホルダーが定位置にボールをプレイスしますが、キッカーとのタイミングが合わなかったようです。それでも、例年なら外さないです。次のRitsのオフェンスがパントで終わって、KGオフェンス。オープンに走るランが出て、ロングパスが通り再び、Ritsゴールライン10ヤード。WR1糸川がQBポジションに入ったワイルドキャットで5ヤード以内に迫り、QB13から、フェイントを入れたミドルパスでフリーのWR1へTDパスが通り、やっと点が入りました。このオフェンスは、ラインズマンも含めた全体が右に動き、反応が早いRitsディフェンスも釣られて右に動いたところで、フェイントで一瞬右に動いたWR1が左に動きフリーになりました。これは、ナイスなプレーでした。今までもやっていたのだろうか?KGオフェンスで初めて見たように思います。TFPも決まって、7-0。
得点後のKGキックオフのボールが、直接サイドラインを割ってしまい、5ヤード罰退後サイドキックオフ。KGキックオフで直接サイドラインを割るなんて、あまり見たことないミスです。Rits最後列に位置するRB・リターナー21がキャッチして走られるのをケアしたのでしょうが、直接アウト・オブ・バウンズしてしまうなんて何か精彩に欠けます。次のキックオフは、グラウンダーのキックで明らかにRitsリターナーを怖がっています。
次のRitsオフェンスでは、ランが止められ、QBサックに遭い、4ダウンでファーストダウンまで18ヤード。パントチームが出てきますが、スペシャルプレーが出パンターがパスしますが、距離が短くパスキャッチできずお終い。KGオフェンスは、Rits陣内30ヤードからのオフェンスになり大チャンス。10ヤードほどまで前進したのにTD出来ず、FGを狙うもまた外れました。もう、「下手くそ」と言うしかありません。これ以上にイージーなFGはあるだろうか?これで、2ndクオーター終了・前半終了です。関西リーグ戦最終戦KGvsRitsではあまり見たことがない凡ゲーム確定です。オフェンスが活躍するTD連発の後半戦に期待です。
第3QはKGキックオフで始まりました。またグラウンダーのキックかと予想しましたが、サイドに寄った深いキックで勝負に出ました。ナイスキックでダイレクトでRits21が捕球できずワンバウンドキャッチ。プラスされた時間でKGキッキングチームが、リターナーに迫り走路を限定させて少しのゲインで止めました。
Rits後半戦最初のオフェンス開始。ロングパス、RB21ロングゲインランでハーフラインを越えKG陣へ。KGの十八番をパクったようなRitsワイルドキャットなどで、ゴールライン8ヤードまで進みましたがTD出来ず、4ダウンでFGを狙いましたが、なんとミス。でも、ここでKGラインズにホールディングの反則があり、ゴール前4ヤードでRitsファーストダウン。「こりゃ、ヤバイ」。QB4がランで持ち込んでTD。でもQB4の足が攣ってしまいました。大丈夫かな?失敗続きで自信を失っているキッカーに信頼が持てないのかTFP(トライフォーポイント)を選択せず、交代で出てきたQB10が2ポイントコンバージョンを狙います。トスをQBが落としてKGディフェンス陣にQBサックされ0点。7-6になりました。
RitsキックオフをKGエースRB7藤原くんがダイレクトキャッチし、走り出しスピードに乗ったところでRitsが正面衝突のようなブロック、双方後ろに倒れ「大丈夫か?」って感じになりました。KG7はすぐ起き上がりましたが、Ritsは倒れたまま。担架に乗せられてRitsサイドラインに戻っていきました。大事に至らなければ良いが・・・。
KG後半戦最初のオフェンス。RBのランプレイ2回でロス、QBが13から15鎌田くんに交替してパスと思われたが、QBサックされ更にロスし、試合の流れがRitsへ傾きました。KGパンターはゴールライン内からのパントになり大きなプレッシャー。ハーフラインまでキックするのがやっとで、Ritsのオフェンス。QB11が出てきました。QB4はTDした時足が攣ってから出てきません。ロングパス失敗、QBドローラン4ヤード、ロングパス失敗でパントになり、Ritsへの試合の流れが一旦止まりました。KG自陣9ヤード(TDまで91ヤード)からのオフェンスですが頑張ってもらいましょう。QB15からロングパスが通り、FD更新。でもQBサックでマイナス。ミドルパスが通るもFDに至らずパント。Ritsオフェンスが1回FD更新したが、3Q終了。最後の12分間になりました。
4Q、Ritsオフェンスはパントで終わり、KGオフェンス。このQB鎌田オフェンスが、伝家の宝刀ショベルパスやRB34伊丹くんのロングランが出たりして進み、Ritsゴールライン6ヤードまで進みます。ここからワイルドキャットなどでオフェンスするがTDならずで、FG3点追加、10-6。
終了時間が気になり時間帯に入ってRitsのオフェンス。ロングパス、RB21などのランプレイで進み、最後はTDパスでしたが失敗。勝負の3ダウンでラン攻撃しますがゲイン無し。4ダウンギャンブルに挑み、QB4が再びTDパスを試みますがKGライン93がQBサックで攻撃権がKGに移りました。KGラインでひときわでかい93トゥロターショーン礼くんは、ここまでの大活躍でQBサックを連発してきました。まだ3回生なので来年もKGディフェンス陣の要です。このままKGが勝てば、このゲームのマンオブマッチは93ですね。
KGQB15を使ったオフェンスは、ミドルパスなどで進みますが、TDを狙ったロングパスがインタセプトされてしまい、Rits陣10ヤードからRitsオフェンス。残り時間は2分半です。KGディフェンスの頑張りでRitsオフェンスは進みませんが、4ダウンギャンブルミドルパスが成功しFD更新。猛威のKG93のQBプレッシャーが凄く、QB4のパスが投げられなかったり定まりません。もう時間がないので再度の4ダウンギャンブルしますが、また93のQBサックでファンブル。
残り時間1分からKGオフェンス。もう勝ったね。パスインターセプトで攻撃権を失わないように見え見えのラン攻撃です。ボールを保持したままインフィールドでボールダウンさせていれば、時間が進みゲームオーバーに持ち込めます。QBを出さず、ワイルドキャットでRB7ラン。でも、インフィールドでボールダウンできずサイドラインを割ってしまいタイムストップ。RB7は、KGベンチに向かって「失敗しちゃった」と謝っているように見えました。勝利を確信しているのか、何だか余裕が出てきた感じ。残り53秒。2ダウン、KGRB7ワイルドキャットで、今度はインフィールドでボールダウン。時計が止まらないので、Ritsが後半2回目のタイムアウト、残り45秒。3ダウン、QB15のニーダウン、再びRitsがタイムアウトでタイムを止めます。このQBニーダウンが凄く早く、ラインが持ちこたえるまで1秒でも多くニーダウンを遅らせたら良いのに・・・と思いました。残り40秒なので、ニーダウンすればゲームオーバーです。最後の4ダウンは、QB15がゆっくりニーダウンして時計が流れ、試合終了となりました。
この日は21時から、ワールドカップサッカーの日本vsコスタリカ戦で、見ようと思えば見れましたが眠くて寝てしまいました。


2022/11/26
僕の大学ヨット部コーチングは、11/6の全日本インカレ団体戦最終日を以て、1年間の任期を終了しました。今年の成績は、470級5位・スナイプ級3位・総合3位でした。スポーツセレクション入学者ゼロの大学でよく頑張りました。同様大学では半世紀ぶりの快挙だそうです。閉会式中、数人のOBさんに「おめでとうございます」と言葉を掛けると、「・・さんのおかげです。ありがとう」なんて言葉は返ってきました。式後、みんなでワイワイやってる途中、3回生の新キャプテンから「もう1年コーチをお願いします。正式には後日文章で依頼します」と声を掛けられ、「いいよ」と即答しました。帰宅後家内にまた依頼されたことを話すと、「いいよ、やっといで」と笑っていました。文章での正式な依頼を受け、また1年、20年目か21年目か・・・のコーチングが始まりました。その初日に行ってきました。プレプレという近畿北陸ブロックの団体戦です。
倉庫から、「招き猫CB400SB」を出し、R171〜中央環状道路。6:56「エネジェット中環豊中SS」で給油。312km/12.05L=25.9km/L。7:02「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「サントリー天然水キリッと果実600ml139円+揚げ餅塩198円+味付け海苔辛子明太子165円=542円」購入。吹田ICから名神高速に乗り、桂PAでトイレ休憩し、京都東ICで下車し、湖西道路を北上しハーバー着。
金沢大が来ていなかったけど、富山大が遠征に来ていました。学生たちに挨拶しながら当方の艇庫前。多くのレース艇が並んでいます。当方は、2クラス各11艇エントリーで最大勢力です。新チームのレース日朝のブリーフィング、新キャプテンが堂々としていました。
この最上級生は、入部したのが2020年で、得体の知れないコロナウイルスで新人勧誘もリアルで出来なかった代です。コロナウイルスの脅威は2月から始まりましたが、当初は日常生活の外にいました。しかし、欧米から脅威の声が高まり、日本もその渦に巻き込まれていきました。大学のみならず小中高校も揃って登校禁止になり、この年に入学した大学生も、授業が始まったもののリアルではなく、オンライン授業になってしまいました。地方から入学した学生は、秋まで京都に来ることなく、下宿も開店休業状態でした。リアルヨット試乗会もないまま、ネット勧誘でやっと入部してくれたのに、練習がありません。ヨットハーバーまで休業してしまいました。夏休みに入り、やっと制限付きで解禁されましたが、合宿所の使用禁止、活動人数制限もあり、部員全員で集まる練習も出来ませんでした。ロンドンに住む長男一家の生活が心配で、1日に散歩1回・買い物1回のみ外出許可という生活でした。もちろん、東京オリンピックは延期になっちゃいました。
主力の4回生女子部員が退部したり、女子マネさんにも退部者が出て、危機感が高まりました。このままでは1回生部員がゼロになってしまう、特に一度も練習に参加できていないマネさんは全滅だと思い、一部リアル授業が始まった秋のタイミングを待って、クルーザーセイリングを企画し、家内にも協力してもらい、マネさん達にヨット体験させることが出来ました。そして翌年学年末テストを終えた2月、練習が始まりました。学校は京都府にあるのですが、ホームポートは滋賀県の琵琶湖なので、県境をまたぐ活動が学校側から禁止され、京都府宮津市の日本海側ヨットハーバーまで毎日行き帰りしました。
この練習は毎日よく風が吹き、ほぼ初めてのセイリングを1回生が始めました。1回生マネさんに至っては、ほぼ初めてのボートドライブで、粘り強く運転を教えました。寒くて手袋を貸したり、良く耐えて頑張ってくれました。彼らが2回生になった春、人数制限があるものの、リアル試乗会を伴う新人勧誘が復活し、例年同様の新人がヨット部の門を叩いてくれました。その中に、3人の2回生入部者がいました。これまでも時々2回生から入部する部員はいましたが、複数人の入部者は初めてです。その入部者から、「大学に居場所がない。友達がいない」なんて言葉を聞きました。如何にコロナ禍が学生生活に大きく影響したか・・・。2020年夏には、コロナウイルスの悪影響が大きくなく、前年対比の超過死亡者数もむしろマイナスで、経済活動を復活すべく、「GoToトラベル」が始まりました。その後紆余曲折はあったものの、「新型コロナウイルスはたいしたことない」が定着しました。
そんな思い出深い1回生が最高学年になって、1年後のインカレ本戦に向けて活動を開始しました。練習時間が他学年に比べると1年少ない最高学年です。それでも、みな熱心に練習しており、今年のインカレ本戦にも多く出場しました。「頑張れ、新4回生!」。
意気軒昂にレースに臨みましたが、残念ながら風がありません。昼まで風待ちで陸上待機になってしまいました。11月にD社ヨット部を卒業した4回生が数人、当方のレース艇バースにやって来て、当方部員をあれこれ話しています。僕もそこにお邪魔して、あれやこれや。毎年日本一を争う最強軍団D社部員達から、「・・大は楽しそうで羨ましい」と思っていたそうで、その言葉が聞けて嬉しかったです。
やっと風が入ってきてD旗が掲揚され出艇。沖に出ると、琵琶湖では珍しい南東の風で、レースできるか不安になりました。1レーススタートしましたが、第1上マーク付近で風が落ちてしまい、両クラスともノーレースになってしまいました。ハーバーバックし、ブリーフィングでコメントして帰路に着きました。


2022/11/20
朝から雨が降っています。家内と2人でお出かけです。前から行きたかった「めんたいパーク」に行くことにしました。四輪を出し、家内を乗せて久しぶりのデート。宝塚ICから中国道に乗り、神戸三田ICで下車。丘陵地を拓いた工業団地を進みます。以前家内と見学した「キリンビール神戸工場」の横を通過して、9:55「かねふくめんたいパーク」。雨だし、10時開店なのでお客さんはゼロではないか?と思っていましたが、駐車場には既に10台以上の車が停まっていました。
家内をモデルにして写真を撮って入店。記念写真が撮れるように、いくつもスマホ置き場がありました。家族連れが多く、3世代で来られているのが半分ぐらい。入店すると、「明太子はどの魚の卵?」なんて問題と回答が、いろいろ並んでいました。問題が書かれた解答用紙が置いてあり、全問答えるとくじ引きが出来るようになっていました。レストランと売店のある大きなスペースがあり、別のスペースには、子供向けの遊戯が置いてあり子どもたちが遊んでいました。カーテンをくぐって次の部屋にはいると、スクリーンに海の世界が映され、暫く座って楽しみました。工場の梱包工程がガラス窓を通して見れました。大きさを選別する女性社員さんの手際の良さ・早さに驚き、次の工程で重量計測の誤差の少なさにまた驚きました。
レストラン売店スペースに移動しました。息子たちの家に明太子を送りましょう。辛い辛子明太子とそうでない明太子があり、家族LINEで「どっちが良い?」と質問を投稿しておきました。家内は「めんたい丼800円」、僕は「明太パスタ790円」を注文し、テーブルに座って食べます。スマホでその写真を写して家族LINEに投稿したりしていると、長男のお嫁さんから「辛子明太子」、次男のお嫁さんからは「辛くないの」と回答が届きました。10:18「明太ソフトクリーム360円」を食後のデザートとして、2人で食べました。
次男のお嫁さんから再び家族LINEが入りました。喘息で入院していたおーちゃん2才が退院したそうです。半年ぐらい、ステロイドを使って治療することになったそうです。「去年・今年と子供たちの入院が3回もありましたが、来年は元気に過ごせますように・・・」と願いが書いてありました。コロナ禍により、在宅勤務が増えたのが幸いして、家で仕事しながら子供の世話も出来て良いです。「次の正月は、こちらに帰省するのはパスするように言おうかな〜」なんて家内と話しました。
長男・次男宅、それぞれに明太子を郵送してもらう手続きを終え、明太子工場を後にしました。車に戻り、JR三田駅を通って北摂里山地帯に向かいました。三田駅前を通った時、キリンビール工場行きのバスを見ました。キリン缶ビールの形をしたバスで、ひと目で行き先がわかります。里山の全山紅葉を観ながら帰宅しました。


2022/11/19
次男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。「火曜日からまた喘息で入院していました。明日には退院できそうです。元気はあるので、ベッドの上で過ごす6日間は大変でした」と書かれていました。おーちゃん2才が入院したようです。私達を心配させないよう退院が決まってから報告してきたのでしょう。入院中の写真とビデオも送ってくれました。ベッドでおもちゃで遊ぶ姿やお喋りする姿を見て安心しました。お嫁さんも一緒に部屋で泊まったのでしょう。母親はありがたい。
17時から、コーチしている大学ヨット部の代交代式が、琵琶湖の合宿所であります。例年なら多くのOB・OGも集まるのですが、コロナ禍で2年間Zoom開催でした。今年からリアルで集まるのも解禁されましたが、部員とコーチ限定開催で、OB・OG向けにはZoom配信するそうです。全て、2020年春の卒業部員が取り仕切ります。
そのついでに、行って手を合わせたかった「近鉄西大寺駅前」に行くことにしました。今年7月に安倍晋三元首相が暗殺された場所です。第一次安倍政権の時、「美しい国を作る」というキャッチフレーズに胸が踊りました。僕は神話から続く断トツ世界一長い家系である天皇陛下を中心にまとまる日本が好きで、日章旗が好き、旭日旗と「海行かば」を聞くと涙が流れてくる保守派です。古事記を読み、日本史を深く勉強すればするほど日本が好きになります。日本人の偉人の素晴らしさに驚き、欧米のような格差がない社会を大昔から築いてきた日本人の知恵に感心します。そのエッセンスを追求していくと、権力や武力が劣るのに時代の権力者さえ尊重し続けた権威である天皇の存在にたどり着いてしまう。ほとんどの日本人の先祖を辿っていくと、源平藤橘などの氏族に結びつく。これらの氏族は天皇家・皇族から臣籍降下した元皇族家です。つまりは、日本人の殆どの本家を辿っていくと天皇家に繋がる。こんな世界でも稀有な民族に生まれた僕はラッキーの塊であると思っている。
武士が権力を持った鎌倉・室町・江戸時代を経て、明治維新により再び天皇家を中心にした国になり、教育勅語を中心にした教育が成され、富国強兵を成し欧米列強と肩を並べるほどの国に成長し安定した大正時代を経て、昭和10年ぐらいまで素晴らしい国であったように思います。それが大東亜戦争の敗戦により、戦前のその全てが否定されるような教育に大転換され、テクニックや知識偏重になり、人の生き方が問われなくなった。そんな教育に不満があった僕に、「美しい国」のフレーズが金字塔のように映った。そして、「π=3.14から3」にする知識さえ落とす教育から、教育改革によって一気に授業時間が増え、まともな教育にした。安倍首相の功罪はいろいろあるだろうし、2回の消費税増で光が差した経済再浮上に冷水を浴びせたのにはガッカリした。でも教育改革は、長い目で見て国力を再浮上させます。
そんな安倍元首相が暗殺で命を落とすなんて、まさか現代日本に起こるとは思っていなかった。あの日、僕はすぐに自宅に戻り、門に日章旗を掲げ、安倍さんの回復を願った。しかしそれも虚しく他界され、翌日は日章旗を半旗にして弔慰を現した。
11:18、倉庫から「里山VTR250」を出して出発。R171〜中央環状道路。11:45「エネジェット中環豊中SS」で給油。258km/9.07L=28.4km/L。給油しているとセブンの店員さんがやってきて、「エネオスカード、お持ちですか?」「はい」「お使いのスティックはエネオスカードで支払いされていますか?」「いいえ、別のカード」「エネオスカードでお支払いいただくと、毎回-10円になります」・・・。
給油後、セブンに入り、エネオスカードに紐付けしてもらいました。11:53「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「サントリー天然水キリッと果実600ml139円」購入。「吹田IC」から「近畿道」に乗って南下し、「阪神高速13号東大阪線」〜「第2阪奈道路」で生駒山系を東に抜け大和盆地へ。r1を東に走り、左折してr52を北上。「近鉄橿原線」と並行して走ります。
近鉄奈良線をくぐるところで小さな渋滞に捕まり、左折してr104で、12:52「近鉄大和西大寺駅」前着。安倍元首相が銃撃暗殺された場所に歩いていき黙祷。駅の位置・演説をしていた場所・周囲の建物の位置・容疑者が演説中銃を持って歩いて出てきた場所・・・いろいろな位置関係を頭に入れてバイクに戻りました。
r104を東進し、左折してr52を北上。R163をくぐり、右折してr72を東進。左折して北上し、道なりにr22になり、左折して枝道に入り、13:53「武内神社」。『武内神社 祭神:武内宿禰 例祭:毎月1日 大祭:11月3日 宗教法人としての申請書には「文保元年(1317)巳歳2月18日に建立された」と書かれています。 元正天皇の頃、稲蜂間光延という連(むらじ)がこの地域に城を築き、この近郊を支配した、という伝説があり、光連は養老2年(718)に夢のお告げによって領土が安らかに治まり、五穀が豊かに実るようにと、日頃尊崇する男山八幡宮の様式に習い、武内宿禰を祭ったことに起源すると言われています。その年は大変な豊作で、その喜びを初貢としてお供えをし、村中の家や蔵も米で満ちたという事です。
武内神社には、いろいろな神様が祭ってありますが、祭神である武内宿禰という人は、270才まで長生きしたと言われています。そのことから武内神社は、「長生きの神様」と言われているのです。
武内神社は応仁の乱の兵火に罹(かか)り、天明元年(1468)神殿が炎上したということです。それから20年余りは仮殿で祭られていたのですが、延徳2年(1490)になって、稲八間城主・高橋三河守正という人が、一族とともに旧地に神殿を再建したと伝えられています』
緩い石段を上がって境内へ。『京都府登録文化財・武内神社本殿(江戸時代)昭和58年4月15日登録 武内神社文化財環境保全地区・神社の森一帯・昭和58年4月15日決定・京都府教育委員会 ふるさとの文化財を大切に 財団法人京都府文化財保護基金』
鳥居から拝殿に向かう参道は、白い石が敷かれ美しい。拝殿の屋根が独特です。拝殿には沢山の絵馬や祭りの写真が掲げられていました。拝殿から本殿を見ると、彩色し直したようで、美しい姿を見せてくれていました。自由帳が置いてあったので、書き込みました。
『神拝の作法 お詣りは、二拝(礼)ニ拍手一拝(礼)の順序で致します。先ずニ拝(背中が平らになるまで深く二度頭を下げます)。次に二拍手(胸の高さで両手を合わせ、祈念を込めて清々(すがすが)しく晴々と二度打ち合わせます)。次に一拝(背中が平らになるまで深々と一度頭を下げます)。神拝(お詣)の前后に「只今からお詣りさせて戴きます」「では失礼させて戴きます」という意味の会釈を加えるのは一層丁重な作法です』
『武内神社本殿 京都府登録有形文化財 江戸時代前期 附、棟札16枚 大字北稲八間小字北垣外45 武内神社は北稲八間地区の氏神で、鎌倉時代後期の文保元年(1317)に石清水(幡宮から勧請して祀ったのが起こりと伝えられています。 本殿は一間社流造・檜皮葺で、江戸時代前期の建築と考えられますが、組物・木鼻・蟇股・妻飾など細部の意匠には、鎌倉・室町・桃山時代の伝統的な様式を残しています。平成16年(2004)の壁画修復工事により、調査で発見された舞楽図・力士図・獅子図が極彩色で履元されました。
また、当社には、本殿の建て替えや屋根の葺き替え工事の経緯を記した棟札が多数残されており、そのうち鎌倉時代から江戸時代の棟札16枚が本殿と合わせて文化財登録されています。棟札は、北稲八間の村落組織の変遷が分かる貴重な資料です。 なお、当社の境内一帯は、京都府文化財環境保全地区に定められています。  精華町文化財愛護会・精華町教育委員会』
『奉献水田碑 これは昭和7年1月に建てられたものである。旧稲田村藤田金一郎と西野恵之助の2人は兄弟で、大正6年に南稲にあった田んぼ1段3畝11歩を小学校のために寄付すると約束したが、学校が廃合となり、昭和6年には稲田村数村が併合された。田んぼは旧村にあったが、村長木村猶次郎がこれを武内神社に献じてもらえないかと頼んだところ、2人は快諾、村会も了承した。2人の篤行をここに記し、後世に伝えたい。この文は当時の府立桃山中学校長田中常憲氏が作られ、石清水八幡宮宮司田中俊清氏がタイトルを書かれたものである。
藤田金一郎・西野恵之助は北稲の人で、参道上り口の大きな灯篭を奉納しておられる。 終戦後、この土地は農地改革により、当時小作をしていた南稲の人の所有に変わった』
『八幡宮 当神社の由緒書きには「男山八幡宮の様式に習い武内宿禰を祭ったことに起源する」と書かれています。この八幡宮はいわば武内神社の親神様といえます。 祭神として15代応神天皇が祭られています。一般的には「八幡さま」などと親しまれ、鎮守の森といぇば「八幡さま」といわれるほど全国的にも多いのです。 八幡宮は安産の神、製鉄業の神、機織りの神としてあがめられています。
市杵嶋姫命 七福神の中で唯一の女性、弁財天です。安芸の宮島、厳島神社の祭神でもあります。琵琶をもつ女神像として流布し、芸能者の守護神として信仰を集めています。現世利益の幸福をもたらす神様です。 尚、この弁財天は北稲の南の方(焼山)にあったものを移し祭ったもので、生後1ヶ月の女児のお宮参りには必ず参拝されています』
『蛭子神(ひるこのかみ):伊耶那岐・伊耶那美二神の最初の子。 後世えびす信仰と結びっき、商売繁昌の神となる。(えびすさんの祭神は事代主命とするものもある)
素戔嗚神(建速須佐之男命):天照大神の弟神。悪疫を退散させ、疫病を防いでくれる神として知られている。八岐大蛇退治の神話で有名。住吉神(墨江神):上筒男・中筒男・底筒男の三神の総称。神功皇后の新羅遠征を守護したことから特に海の神様として尊崇されている』
r22に戻り北上し、右折してr71を東進。近鉄京都線の上をまたぎ、右折して木津川土手を少し南下し、14:22「祝園(ほうぞの)神社」。『祝園神社 鎮座地:京都府相楽郡精華町大字祝園小字柞ノ森1番地 御祭神:天児屋根命・武御雷命・経津主命 当神社は、延喜式内社で第48代崇徳天皇の勅命により、疫病平癒・家内安全・農商工業の発展を祈願するため、神護景雲4年1月21日に創祀されたお宮です。
主な神事:1月いごもり祭(無形民族文化財指定) 11月3日例祭 12月御神祭』
『祝園の居籠祭 京都府指定無形民族文化財 祝園神社は、社伝によると、崇神天皇の時代に討伐された武埴安彦(たけはにやすひこ)の亡霊を鎮めるため、奈良時代に春日大明神を勧請したのが始まりとされています。当社は、平安初期の「延喜式」神名帳に記載される式内社です。
「古事記」「日本書紀」によれば、祝園の地名は、武埴安彦(建波迩安王)が討伐された故事に由来するとされています。社伝では、いごもり祭は、毎年1月初申(はつさる。1月に申が3回ある年は中の申)の日から3日間行われます。初日は、「風呂井の儀」が執り行われます。 2日目の「御田(おんだ)の儀」では、夜の暗闇のなか、御霊式を奉じた宮司は、燃え上がる大松明を担ぐ氏子とともに神社を出発し、「幸の森」と称する神田へ向かいます。神田では農作業の所作を行い、五穀豊穣を祈願します。 3日目の「綱曳の儀」では、神社参道で氏子が二手に分かれ、竹と藁で作られた病魔をかたどる綱を引き合います。終わると綱を「いずもり」の地で焼却します。 この祭は、年頭に物忌みに服して神を迎え、豊作などを祈る、新春の民族行事です。  精華町文化財愛護会・精華阿漕育委員会』
こちらも拝殿に絵馬が多く掲げられていました。『祝園神社 鎮座地:精華町大字祝園小字柞ノ森1番地 御祭神:天児屋根命・武御雷命・経津主命
御由緒沿革:人皇第10代崇神天皇の御代、第8代孝元天皇の皇武埴安彦が朝廷に反逆を企て、遂に此の地に於いて討伐されたが(記紀参照)、亡魂柞ノ森に止り人民を悩ませしを、第45代聖武天皇神亀年中にこれを撲滅さんとするも、鬼神の所業なれば人力にては如何ともなり難く、後年第48代称徳天皇の御代神力を以てこれを撲滅せよとの勅命により、直臣・池田六良廣綱・宮城七良朝藤が祝部となり、神護景雲4年1月21日春日の大神を御勧請し創祀された。而して斎戒沐浴・精進祈願に依り(これが今に伝わる「いごもり祭」の始まり)、神力の擁護の基に遂に悪霊撲滅の難行成り、廣綱朝藤の功と相まって、悪病平癒・人民安堵・農家の繁栄・商工業の隆盛を見るに至った。かかる霊験あらたかなる神なれば、貞観元年正月27日に神階位従五位下を授けられ後年延喜式内大社に列せられる。天正4年7月24日には天下泰平の国宜あり。院参の宮人及び武門武将の尊崇深く、社殿の修造に寄進の事がしばしば見受けられ、慶応3年8月には有栖川宮家よりいちじるしき御寄進を賜わり、同宮家の御祈祷所となる。明治6年郷社と定められ祝園村の産土神と決定した旨達せられる。
昭和38年、高松宮殿下より有栖川宮威仁親王殿下50年祭に当たり、同殿下の筆録を御寄進有り』
r71に戻り、木津川を渡り、左折してR24。土手道を北上します。左折してr65で再び木津川を渡り、14:46「開運山寿宝寺」。Pに「和銅4年設定・山木駅旧跡」の石柱が立っていました。横に「奈良街道」と彫られていました。
『寿宝寺 京田辺市三山木塔ノ島20番地 寺の創建は不明であるが、寺伝では文武天皇の慶雲元年(704)創建と伝える。 古くは「山本大寺」と呼ばれ、七堂伽藍を備えていたという。たび重なる木津川の氾濫により移転を繰り返し、京保17年(1732)現在地に移り、明治初めの廃仏毀釈に際しては、近隣の寺々を合併した。 平成9年(1997)に改築を行った。 現在は高野山真言宗に属し、千手観音立像(国の重要文化財)を本尊とする。
この千手観音は等身大の素木造(しらきづくり)で、平安時代後期の像であるが、実際に千の手を持つ。元はここから約1km南西にある式内社の佐牙(さが)神社の神宮寺に祀られていたものである。神宮寺(恵日寺)が明治初めに廃寺となった際、五大明王のなかの降三世(こうざんぜ)明王立像・金剛夜叉明王立像(ともに平安時代後期)などとともにこの寿宝寺に移された。 この他、聖徳太子立像(鎌倉時代・飯岡の蓮華寺から移された)など優れた仏像が多い。 また境内にはめずらしい鶏霊碑があり、かつては毎年4月の酉の日に鶏霊祭が行われていた。  京田辺市教育委員会・京田辺市文化財保護委員会』
本尊「千手観音立像(国の重要文化財)」を、説明して下さいました。古の平安時代からの香りを感じました。元は彩色されていない白木で彫られたそうですが、長年の護摩祈祷による煤(すす)で黒く風格が出ています。口紅の朱色が少し残っていました。夜のお姿の方が良いらしく、近隣の多くのお参りの方が夜来られるそうです。電気を消してお顔の変化を見せて下さりました。暗くなると細い目の彫りが深く見え、伏せ目だったのがこちらを見ておられるように見えました。r65を西進し、近鉄京都線・JR学研都市線をくぐり、右折してr22を北上します。15:10「同志社大学京田辺キャンパス」。キャンパスに入り、「筒城宮伝承地」を訪問しました。
『筒城宮(つつきのみや)伝承地 京田辺市多々羅都谷 越前から迎えられ楠葉(くずは)宮で即位した継体夭皇が、即位後5年から12年(511〜518)弟国(おとくに)宮に移るまでの7年間宮が置かれた所である。 京田辺市郷土史会が、昭和36年(1961)筒城宮跡顕揚会を結成し当時の明治神宮宮司、甘露寺受長氏の筆になる「筒城宮址」石碑を建てた。併せて当時の村田太平会長(1888〜1976)の筒城宮を讃える歌碑も副碑として建っている。 現在、ここの地名が「都谷」であるところから筒城宮の伝承地とされている。筒城宮跡の解明が待たれる。  京田辺市教育委員会・京田辺市文化財保護委員会』
『筒城宮址を顕揚する石碑とその変遷 「日本書紀」によると、継体天皇は河内の樟葉宮に次いで、山背の筒城宮に宮を遷されたという。また、その地は、仁徳天皇の皇后磐之媛の故地とも伝えられている。 しかし、考古学的には、筒城宮址の位置は不明であって、関係の遺跡が木津川ぞいにあったという見解も最近だされている。
一方、「興福寺官務牒疏」に記載のある筒城寺が、現在の普賢寺大御堂を中心とする観音寺であって、筒木大寺や普賢寺跡に関係することが知られている。これによって筒城宮の所在地を筒城寺の近接地に比定する見解が生まれた。1928年に三宅安兵衛の意志によって、浜田青陵博士の書になるという「継体天皇皇居故趾」の碑が、多々羅の三軒屋に建てられたことはよく知られている。 1960年には、地名の都谷にゆかりを求めた地元の有志による筒城宮址顕揚会が「筒城宮址」の碑を現在の同志社国際高校の敷地内に建立した。この建立に合せて、さきの「継体天皇皇居故趾」の碑も隣接地点に移設された。 1986年にこの石碑は、地元の要望もあって同志社大学構内の不動尊遺址碑の脇に再度移設され現在に至っている。  同志社大学』
r22を北上し、右折してR307を東進。木津川を渡り、左折してR24を北上します。左折してr251を西進し、近鉄京都線をくぐり、枝道に入り、15:38「枇杷庄天満宮」。木津川土手脇にありました。
『城陽市指定文化財(建造物)天満宮社本殿(江戸時代初期) 平成元年4月15日指定 この天満宮社は旧枇杷庄村の産土神であり、祭神は天満天神(菅原道真公)である。 現存する棟札によると、本殿は寛永4年(1627)に近村の大工により造営された。近年では昭和35年の木津川の堤防改修で、南の旧址から約30m北に移築され、翌年の第2室戸台風による損壊のため、昭和37年に屋根を鉄板葺に改めるなどの修復が行われた。 本殿は側面を二間とする三間社流造で、三間の向拝をもち、木鼻・蟇股・繋海老虹梁など装飾性もある。近世初期における山城地方の神社建築を知る上で、建築年代の明らかな貴重な遺構の1つである。  城陽市教育委員会』
r251に戻り西進し、右折してr252を北上。R24で北上し、左折してr81で西進。右折してR1に乗り北上し、京都南ICから名神高速に乗りました。京都東ICで下車し、湖西道路経由で、16:34コーチしてる大学ヨット部合宿所着。1Fに入ると、ヨット部を卒業する4回生が集まっています。「上がらないの?」「上で準備しているようで、締め出されているんです」。2Fに上がり、踊り場でバイク装束を脱いで大部屋に入りました。
僕を呼んでくれた今年春学部を卒業した前年度主務Kat女史が、「お越しいただきありがとうございます」。PCとTVディスプレイをコネクトしてガソゴソしています。部員がワイワイしています。17時になり、Katさん司会で「代交代式」が始まりました。開会を指名されたのが、OB1年目のOos元キャプテン。乾杯し難かったのかスピーチの中で僕を指名し、「・・コーチ、乾杯お願いします」。突然振られましたが、「私が乾杯しないと、みんな食べられないよね。じゃあ・・・」って乾杯。
暫く飲食して、4回生の卒業生のスピーチが始まりました。12人いるので時間がかかります。それぞれ、いろんな思いが口から出てきて、ツッコミも入り和気あいあい。ZoomでOB・OGに広くオープンされているので、PCに繋がったTVでテロップが流れています。最後にチャプテンの挨拶で終わり、トイレタイム。続いて送る側の3回生のスピーチ。こちらも12人いるので、楽しく聞かせて頂きました。トイレタイムを挟み、3回生が作った卒業生を送るビデオが流されました。1回生で入部した頃からの写真が満載でした。大笑いの輪が広がりました。TVに流れるテロップがナイスツッコミです。新体制が発表され、コーチ陣の紹介と一言スピーチ。そろそろお開きのようで、僕と監督に「一言」指名されました。
先ず僕が・・・「一言と紹介されましたが、僕の話は長いよ、覚悟してね」、みんな大笑い。よくわかっています。それなりに話して、次の監督へ。監督も、「僕も長いよ、勘弁してね」、また大笑い。監督のスピーチが終わり、降りようとしたら、「監督、そのままそこで」と言われ、今年春の卒業生とその1代前の卒業生から記念品が渡されました。コロナ禍でZoom代交代式になってしまったので、リアル代交代式復活のこの日に渡したかったそうです。ライフジャケット・サングラス等贈られました。
式が終わりガヤガヤのタイミングで、「Kogさん良かったね、凄いやん」と1回生女子部員の肩を叩きました。1週間前の「S級ミックスジュニア選手権」で優勝しました。その1週間前のインカレに出場した主だった選手に、社会人の選手が加わり、オリンピック選手もいました。ミックスなので、男女ペアが出場資格です。インカレでもトップフィニッシュした4回生で一番早いNumさんと組んだKogさんが優勝しました。彼女にとっては初トップフィニッシュですし、初タイトルです。
バイク装束に着替えて帰路に着きました。帰宅したら23時頃になっちゃいました。


2022/11/13
ホームポートで行われるレース日です。北港ヨットクラブとのジョイントレース「スーパージョントカップ」。お盆に開催された「紀伊水道レース」と「阿波踊りレース」に乗ったカウラに呼んでもらいました。今回は、琵琶湖北湖で乗っているImaさんとYasさんと一緒です。カウラのボースンFujさんが若い頃乗っていたチームにImaさんもいました。お盆のレースでFujさんが乗っていた船名を聞き、Imaさんのことを話し、その場で電話し話してもらったことにより関係が復活しました。
いつもなら「通勤リード110」で向かうのですが、雨予報に加えレース後のパーティーがあるので着替えが必要で荷物が多く、四輪で向かいました。7:33、近所の「セブンイレブン」で、「マーガリン入りレーズンロール4個118円+発酵バターのレーズンサンド3個1164円+一口歌舞伎揚100円+いろはす天然水555ml108円+サントリー天然水キリッと果実600ml139円=1759円」購入。
8:01ハーバーP。レース艇の横を通ったが、まだ集合1時間前なのでスルーして係留艇へ。堀江謙一さんのマーメイド号が、まだ桟橋ゲート前に係留されています。今年、エンジンなし24フィートで太平洋横断した冒険ヨットの行き場所が決まっていないようです。桟橋を歩いていると、水がとても綺麗になっていました。夏の海から冬の澄んだ海に変わっているようです。
係留艇のエンジンを掛け、修理予定のシートストッパーの現状をチェックしました。エンジンの冷却水は綺麗な状態で出ており、船底の海洋生物付着もそれほど進んでいない。
レース艇に戻ると、Doiさんがオーニングを外している。「おはようございます」。阿波踊りレースでご一緒した方です。オーナーのKawさんも来ていたようで、「また呼んで頂いてありがとうございます」と挨拶しました。ボースンのFujさんと話していると電話が鳴り、PまでImaさんとYasさんを迎えに行きました。カードキーがないと陸置きバースに入れないので、着いたら電話するように伝えておきました。阿波踊りレースでご一緒したMonさんとヨット初心者のKimさんが来られて全員集合。セイルを乗せセットし、あれやこれややっているとハーバー職員が牽引車に乗って来たので船を降りて牽引してもらいました。
トイレを済まし、下ろしてもらった桟橋から船に乗ってオーナードライブで桟橋を離れました。天気予報は雨ですが、まだ小雨程度です。朝の天気予報では傘マークさえ消えたので期待していましたが、再度天気をチェックすると前日までのしっかりした雨予報が復活していました。沖の一文字堤防を出たところでセイルアップして走りをチェックしました。
予報では、南S〜SW〜Wの風でしたが、10時過ぎ現在でEの風が入っています。風速も弱く本部船はSWの風を予想した位置に漂っています。「風待ちになるな」と近くで漂っていると、しっかりした雨になってきました。あれやこれやお喋りしながらレース開始を待ちます。Monさんに、「お父さんがヨット関係の仕事って言ってたけど、お仕事は?」と聞くと、「135でヨット売ってます」「やっぱり、名字を見てそうじゃないかと思っていました」「家内工業でやってます」。「元135のKobさんって知ってます?」「もちろん、前社長です」「先週末4日間、インカレでKobさんとKG観覧船のドライブをしていました」。
Monさんがヨット初心者のKimさんを楽しませようとステアリングを持たせてドライブさせたりしていましたが、カッパがウインドブレーカー程度なので寒そう。声を掛けて、着ていない軽いモンベルのカッパ上下としっかりしたカッパを着たので脱いだトレーナーとスウェットを渡しました。Monさんがサポートしてカッパだけを着て、それなりに回復したようで、ドッグハウス内に入り雨が当たらないようにしていました。これが悪く船酔いしたようで具合が悪そう。
少し回復したところで5ノットぐらいの風が東Eから入ってきました。Kimさんはスターンの風上側に後ろ向きに座っています。ここは邪魔にならないので良い場所です。10時からの風の動きは、60°〜80°〜120°まで南の風を予想させましたが、60〜80°の5ノットが入ってきました。
この日の僕のポジションはタクティシャン。僕はヘルムスのKawさんの横や後ろに立ってステアリングのアドバイスをします。Yasさんはジブ・ジェネカー、Imaさんはメイン担当です。経験豊富な湾内レースなら、アウターから出て左海面有利ですが、見た目は右海面の風の方が強そうとの会話がありました。スタートはアウターから出ようとしましたが、自分がステアリングを持っていないのと、どれぐらい小回りするのか不安で積極的な指示をヘルムスに出来ませんでした。アウター第2線スタートで、穴を見つけタックしポートタックでフレッシュを受けるレーンを確保しましたが、ゼネラルリコールでした。
スタートラインに戻り、本部船横でタック回りしてスターボードに戻しラインを流します。また第2線スタートになってしまいました。タックして右海面に出てポートを走っていると、100°まで右に振れて前に出たのでタックしてスターボでバウを切っていくつもりでしたが、風は反対に振れだして結局50°まで振れてしまい、何度かタックして小さな右ブレを利用しようとしましたが、大きな振れ戻しがなく、1上はビリから5番手ぐらい。
コースは上下2回のソーセージコース。1下マークは本部船方向から変わっておらず、スターボの競馬レグ。ジェネカーが上がるかどうかの角度で上げずに走りました。先行する大型艇とそれのブランケットで苦しんでいたメルジェス24を抜きますが、メルジェスは速く、ワンサイズ小さいのにトップスピードはこちらより速く抜き返されて1下回航。2上はそのままの位置で、再び競馬レグで長いポートを走って2上回航。フィニッシュはマーク変更されており、ランニングレグです。即ジャイブしてジェネカーをアップしポートレグで伸ばします。トップはカーキークのマート。ハイパフォーマンスレース艇で圧倒的に速い。2位に10分差をつけてトップフィニッシュ。2位はメルジェス32で、修正でトップになりました。4位にもメルジェス32が入りました。当方は後ろから5番目でフィニッシュ。修正でブービーでした。
ジェネカー・ジブをダウンし、エンジンスタート。ヘルムスをオーナーから交代して帰路に着きます。一文字防波堤の西から西宮尼崎港内に入り、ハーバーの芦屋出入口に向かいます。ハーバー前でメインセイルをダウンし、ハーバー内に入りました。そこでオーナーにドライブを交代し、フェンダーや係留ロープを用意します。上架桟橋に着けて片付けます。セイルを巻いて、上架順番待ちの間にセイルを運びました。僕はジェネカーバッグを2つ持ってえっちらこっちら。トイレに行き、バースに戻った艇から荷物を下ろし、オーニングを掛けてお終い。
車に戻って荷物を入れて着替えます。17時から関西ヨットクラブでパーティーです。数分遅れて会場に入りましたが、当方チームのテーブルにはオーナーとMonさんしかいません。ブービーのオーナーが指名され、挨拶していました。すぐに、Imaさんに電話しました。階段で電話してると、Imaさん達がセンターハウス内に入るのが見えました。1Fに降りて、Imaさん達をパーティー会場に案内しました。テーブルでサンドウィッチやお菓子を食べながら、スピーチを聞いたり成績表を見たりしていました。
北港YH所属のアマルフィが指名されました。挨拶した方がアマルフィの席に戻ってから、話をしに行きました。お盆の「紀伊水道レース」「阿波踊りレース」でご一緒したレース艇で、その船に幼稚園の同級生の娘さんの旦那さんが乗っていました。同級生が教えてくれたので、機会があれば挨拶しようと思っていました。「アマルフィさんですか?私は」と言い出したところで「・・さんですか?」と相手から言われてびっくりしました。同級生から食事しながらいろいろ僕の情報を教えてもらったのでしょう。ネームカードを渡して、改めて自己紹介しました。長女さんはお医者さんでお医者さんと結婚したと聞いていたので聞くと、大阪大学に勤めているようです。阪大医学部卒のようです。パーティー後、彼の義理母である同級生の家に行き夕食を共にするそうです。
パラパラとチーム毎に帰っていく中、終わりまで残りしっかり食べました。解散。8:01〜17:49新西宮YH・P800円。R171で帰宅しました。

翌日、長男と次男から誕生日プレゼントが同時に宅急便で届きました。長男のお嫁さんからは、モンベルのニット帽、加えて3人の孫からの「おめでとう」お手紙。3男のルーカスくん4才はまだ字が書けないので絵です。次男のお嫁さんからは、モンベルのベスト、加えて長女すみれちゃん6才からの手紙。すみれちゃんからの手紙は凝っていて、自分で作った封筒に入っていました。宛名に私の名前が書かれ、裏返すとすみれちゃんの名前が書いてあります。中身のお手紙には文章と絵が書かれています。私の似顔絵・我が家・・・イラストも書かれており流石女の子です。早速、ベストとニット帽を着けて写真に収まり、家族LINEに「ありがとう」メッセージを入れました。
家族LINEに長男のお嫁さんからのメッセージが届きました。モンベルのニット帽は、りょうくん8才が私に似合いそうなものはどれかと一生懸命に選んでくれたようです。次男のお嫁さんからも同じモンベルのベストだったとびっくりしたようです。私も、2つもモンベルが届いたのでびっくりしました。
ホームポートでのレースや、帰宅後に家内が買ってきてくれたケーキを食べながら映画を観たことを書いたので、「素敵なお誕生日だったようで・・・」と書いてありました。


2022/11/6
目を覚ますと2時台でした。前日は21時に寝ているので5時間は寝ているのですがあまりに早い。2:51、「セブンイレブン大津松山町店」で、「プレーンヨーグルト400g135円+明治ブルガリアヨーグルト林檎&洋梨135円=291円」購入。Pでヨーグルト朝食。いや夜食かな?二度寝して5時に目を覚まし、布団や寝袋を片付けました。自転車でハーバーに行くと、既に選手や部員が来ていました。忙しくオフィシャルな仕事をしている学連部員が、黙々とマークを運んでいる。まだ時間があるのに、自分のレース艇のマストを触っている。レースの最終日、半分以上のレーサーは4回生だろう。1年間で最大のレースの最終日ということもあるだろうが、それ以上に4年間多くの時間を賭けてきた大学ヨット部の最終日にこみ上げてくる感情に従っているのだろう。落ち着かせているのだろうか?感傷に浸っているのだろうか?・・・そんなことを想像しながらぼんやり見ていると、朝日が琵琶湖の湖面の向こうに上がってきて、東の空がオレンジ色になっている。綺麗だな〜・・・それからウロウロしながら、いろんな構図のオレンジ色を写真に収めていった。湖面には、三井寺の風(南西)が入っており、予想に反してしっかりレースが出来るかもしれない。
レース艇置き場に行き、準備をしているスターターメンバーに声を掛け、横のバースにいるD社から、「おはようございます」と声が掛かった。S級コーチのNisくんだった。彼がジュニア時代から知っているし、同じくジュニアヨットから大学卒業、更に現在もヨットレースをしている兄2人も知っている。お喋りしていたら、朝のブリーフィングの7:05直前になってしまっていた。艇庫前に戻りブリーフィング。「レースの最終日だね。みんな良い顔をしている。気力が充実しているね。このレースの最終日だけど、今日は4回生にとって更に特別な日です。大学ヨット部生活の最終日。4回生の胸に結果という金字塔を持たせて卒業させてあげよう。レースメンバーのスターター、交代出場したサブレースメンバーはよくやっている。最終日だけどリラックスしていこう。成績を残そうと緊張しないように。もし思うような成績が残せなくても、そのレースに自分を指名したのはコーチ。コーチの責任です。楽しくヨットに乗ろう。海上サポートメンバーも陸上サポートメンバーもミスなくこなしてくれて素晴らしい成績で最終日まで来た。最終日もこの3日間同様、各自の仕事をこなそう。最後に、ニコニコしていないとヨット走らないよ。笑顔で楽しくヨットすると走るよ」ということを話しました。
ステッカーを前回渡せなかったマネさん全員に渡し、この日お休みの3回生女子マネMizさん用は、女子マネリーダーToyさんに渡しておきました。レース艇置き場に行き選手に声を掛けてリラックスさせます。自転車で車に戻り、8:34「ファミリーマート大津茶が崎店」で、「天然水きりっと果実150円」購入し、KG部員を待ちます。1回生Morくんと昨日のヒロインFujさんの両親を乗せて、大津港マリーナへ。8:56大津港マリーナP500円。
ここに来られる親御さん数組も乗せ、桟橋から離れます。レース艇は既にレース海面に出ています。朝吹いていた南西の風から南東の軽風に変わっています。でも、本部船は琵琶湖南湖の南東・瀬田の近江大橋近くにおり、上マークを積んだオフィシャルボートを北に出しています。レース委員会は天気予報通り北の風を予想しているようです。上マークボートの位置を目指しましたが、このパターンは11時頃北風が入ってくるヤツなので、本部船に向かいます。選手の親を乗せているので、お子さんの姿を見せてあげたい。やがて軽風も止んで、鏡のような湖面になりました。ここから、長い風待ちになりました。
タイムリミットの12時が近づきます。11:45、北の湖面にもブローが現れず、AP/Aフラッグが上がりレース終了です。総合優勝のWから歓声が上がります。レース艇はコーチボートに引っ張られハーバーバック。残念ながら、こちらも大津港に向かいます。港の手前で藻がスクリューに絡み艇足が落ちてしまいました。Kobさんにドライブを変わり、何度か前後に船を動かし取りながら走りましたが、まだ全部取れていません。
桟橋に駐め、親御さんたちを下ろし、僕は帰着申告をしに行きます。KobさんとMorくんは、桟橋からボートフックでスクリューに絡んだ藻を外します。雄琴マリーナまで船を移動させ返還しなければなりません。僕はFujさん両親と共に車に乗り、2人をピックアップするために雄琴マリーナを目指して、r558を北上します。レース会場ハーバーで親御さんを下ろし、更に北上。途中で、「藻取れたから、今から雄琴に向かうわ」とKobさんから電話が入りました。
「雄琴マリーナ」Pに車を入れ、マリーナでカフェオレを飲んで待ちます。まだまだ時間が掛かりそうなので、ピラフを注文しお昼ごはんを食べ始めました。半分ぐらい食べたところで、船が見えてきて、こりゃヤバイ。「置いといて」とスタッフさんに言って桟橋に急ぎます。Kobさんから電話が入り、「どこに行けばいいか聞いて」とのこと。2本の桟橋は、全て船で塞がっていました。スタッフさんが「直接クレーンに来て」と指示し、Kobさんが慎重に指示通り動かしました。2本のロープで釣り上げるクレーンではなく、船台ごと水の下に沈め、その上に船をいれて、クレーンを動かし船を載せて上げるシステムで、風や波が強い時はなかなか難しそうです。船台ごと船に人を乗せたままバースまで動かしました。2人は落ちないように何処かに捕まっています。降りてきたKobさんは、「初めて船に乗ったまま引っ張られたわ」だって。11/3は、既に桟橋に係留されていたそうです。
2人を乗せてr558を南下します。ハーバーでMorくんを下ろし、大津港でKobさんを下ろして合宿所横に車を置いて、自転車で「びわこ大津館」に向かいました。15:30になっており、「びわこ大津館」の芝生でプライズギブンズ閉会式が開かれます。着いたら丁度始まりました。はじめに成績発表。次にプライズギブンズ。3つのクラス(470・S級・総合)で当方は入賞し、それぞれに部員が前に出て、賞状・トロフィーを頂き、閉会式後メダルも選手分頂きました。入賞した各校が胴上げしたり、記念撮影したり楽しそうです。当方は、船を運ぶ必要がなく、レース後の仕事がないので、時間に余裕があります。最後まで芝生に残ってワイワイやっていました。部員がそれぞれにトロフィー持って数人で固まって写真に収まっています。
途中で、キャプテンから集合の声が掛かり、監督・私が最後の「おめでとう」ブリーフィングして一旦解散。それでもまだまだ続いており、その後合宿所に集まるそうです。若手OB・OGが飲み物・食べ物を用意して4回生の仮卒業式をするのが恒例です。そして数日後、改めて代交代式が行われ、新しいチームが1年後のこの大会を目指して練習に励みます。僕のコーチ業は1年契約なので、これでお終いです。自分自身に「ご苦労様でした」。さあ帰ろうと思ったら、3回生の次のキャプテンがやってきて、「後日正式に書面でお願いしますが、もう1年コーチをお願いしたい」と打診されました。他のOB数人からも、「コーチは・・さんしかいないでしょ。これからもお願いします」と言われました。必要とされるうちが華ですね。40才も年齢が違う若者に混じって休日を過ごせる今の生活は気に入っています。
自転車で車に戻り、湖西道路〜名神高速〜中央環状道路〜R171で19時過ぎに帰宅しました。コーチしてる大学ヨット部の卒業生でもあり、私をこのクラブのコーチに推薦した次男がいるので、家族LINEに途中経過や写真など送っていたので、家内は既に結果を知っています。「ただいま」「おかえり」。いつもの生活に戻りました。


2022/11/5
少し気温が下がったようで、夜中目を覚まし、トレーナーを着て二度寝しました。ドテラを持ってくる予定でしたが忘れてしまいました。4:32「セブンイレブン大津松山町店」で、「プレーンヨーグルト400g135円+明治ブルガリアヨーグルトブルーベリー135円+マーガリン入りレーズンロール4個118円+リングメモ165円+USB-C&USB3.0ケーブル0.9m890円=1582円」購入。2日前買ったケーブルが壊れていたようで使い物にならず再購入しました。車で朝食ヨーグルトを食べ、レース2日目の成績をチェックしました。
5:18、「セブンイレブン大津松山町店」で、「ソフト強靭ケーブルマイクロ1m606円」購入。PC用ケーブルが怪しくなって来たので、車に置いとく用として新調しました。6:16、「セブンイレブン大津松山町店」で、「ひとくち歌舞伎揚100円+ひねり揚100円×2+ダイソー手提げポリ袋M55枚100円=437円」購入。車を合宿所横に置き、自転車でハーバーへ。
やってきた部員に挨拶し、他校の指導者とあれやこれや。ヨットウェブサイトのNamさんがやってきてあれやこれや。昨日の当方の勢いを見て、「S級、またあるんじゃないの?」って、数年前の逆転優勝再びが予想の1つに入っているようです。トップまで40点差の4位なので、1レースでひっくり返る射程距離ではあります。
7:05にブリーフィング。再び、具体的数字を上げて、横文字英語のことを話しました。前日同様、今大会が大学ヨット部最後になる4回生に、「インカレ何位」という胸を張れる金字塔を付けさせ、気持ちよく卒業させてやろうじゃないかと、下級生向けに話しました。
売店に行き、全マネさんに渡すためミニステッカーを買いに行きました。9枚手にして、「これ頂戴、なんぼ?」と聞くと、「サービスしますわ」とのこと。お金を受け取らないので、有り難く頂戴しました。
自転車で車まで戻り、8:41「ファミリーマート大津茶が崎店」で、「天然水きりっと果実150円」購入。Pに明治OBのSugさんがいました。今年のお盆に「紀伊水道レース」と「阿波おどりレース」に一緒に出場しました。明治OBとご家族を乗せて、観覧船のあるところまで走るそうです。
KG1回生Morくんがやってきたので大津港へ。8:55「大津港マリーナP」。事務所でP代500円払いました。Kobさんは既におられ、早く来られた親御さんとお喋りしていました。4家族を船に乗せ桟橋を離れました。
マネさん新企画は、「フラッグ解説」でした。部員がフラッグを広げて持っており写真に写っています。それぞれのフラッグの意味を解説していました。ヨットレースはホーン音響信号でも知らせますが、音速より高速の方が圧倒的に速いので、フラック信号が優先します。ヨットレースのスタートラインは長く、出場艇数×艇長×1.4がスタートラインの長さです。今大会の470級なら、72艇×4.7m×1.4=474m。ほぼ500mのスタートラインです。もっと大きなクルーザーのレースならとんでもない長さ。スタート本部船のある右側マークボートから500m先まで音が伝わるために、500m/340m=1.47秒。2秒違えば有利不利が大きすぎます。この日は、2クラスとも軽風で2レース出来ました。レースが成立した2レースは共に北風でしたが、レース中風が落ちたり、風向が大きく振れたりしてノーレースになることもあり、2つしか出来ませんでした。
470は、日大の首位固めモードです。7Rは3艇で41点、8Rで1艇38位で小さく叩いたものの他が2・6位で合計46点、もう盤石です。Wが勢いを増して猛追しました。7R32点・8R32点で日大との差を詰めていきます。加えてこの日の審判で、日大38位艇がRETになってしまい38点から73点になり、お尻に火が・・・。トップマーク回航後、アウトサイドマークを回ってからボトムマークに向かわないといけないのに、アウトサイドマークを回るのを忘れてしまいました。誰もしないようなイージーミスです。普通ならトップマークの間近で見ているオフィシャルマークボートが見ており、レース委員会からプロテストされるのでしょうが、そこから出ずに当方からプロテストが出て、日大はミスを認めRETしました。これにより、日大とWの差が3点となり、ほぼ点差なしに等しく、次のレースで勝った方が優勝と大接戦になりました。
7RでKG470が爆発しました。4・5・8位=15点のビッグゲーム。そしてこの日のヒーローいやヒロインは、KG主務のFuzさんでした。7・8Rを4位・トップフィニッシュで5点にまとめました。Fuzさんご両親が観覧船に乗られるので、一旦12時にハーバーバックし、「朝から来られたら、お嬢さんの4位を見れたのに・・・」なんて言っていたら、次のレース8Rで1上4位から2上トップ回航しました。2上前から、「トップじゃないの?」なんてMorくん・Kobさん・僕が大盛りあがり。親御さんを巻き込んで、2上〜サイド上〜下マークまで追っかけして応援し、そのままハーバーバックしました。Fuzさんの親御さんは一目散に大会開催ハーバーに戻り、娘と直接喜びたいでしょう。
470(〜8R)は、1位日大264点・2位W267点・3位KG403点・4位D社468点・5位当方585点・6位KO668点・7位Rits713点。明日のレースは12時までなので、多くて2レース。入賞(〜6位)はほぼ決まりのようです。S級(〜7R)は、1位W249点・2位D社312点・3位当方357点・4位KO389点・5位東大531点・6位KG546点・7位中央597点。こちらは5位争いに注目です。総合は、1位W516点・2位D社780点・3位当方942点・4位KG949点・5位KO1057点・6位日大1071点・7位中央1365点・8位Rits1524点。入賞校はほぼ確定ですが、当方とKGとの3位争いがたった7点で熱いです。プロテストの結果、KGと当方が逆転しほぼ同点なので、明日勝った方が3位です。3位と4位はトロフィーが有る無しで大きな違いです。
今夜KGOBの集まりがあるようで、Kobさんは車を移動させる場所を見つけに行くそうです。キャンピングカーなのでトラックサイズだから、近くの地下駐車場には入れられません。僕がMorくんをホテルまで送ることになったのですが、当方学生から「車、空いていませんか?少し乗せて欲しいのですが・・・」「OK、6人までなら乗れるよ」と4人乗せて出発。ホテルまで送って、ハーバーに向かう時、「あと2人乗せて欲しいのですけど」「いいよ、大津港に戻ったらいいかな?」。+2人乗せてハーバーに戻りました。車を合宿所横に於いて自転車でハーバーに向かいます。更に沢山集めって来た若手OB・OGとあ〜だこ〜だお喋り。懐かしい数年ぶりの白くなった顔が並んでいました。女子マネOGさんも数人来てくれており、みんなの力が選手の力にプラスアルファしているのでしょう。
近くのラーメン屋で食べようと思ったけど行列が出来ており、車でr558を北上し、18:26「天下一品唐崎店」で、「チャーハン定食こってり1110円」食べました。合宿所横まで車で戻ってきて、車内に寝床を準備し、パジャマに着替えていると電話が鳴りました。Mor先輩からでした。「OBが集まってるんだけど、Ogr監督から話したいことがあるそうで、代わるわ」。KGのOgr監督から、「・・さんとこからKGにプロテストが出ており、こちらからそちらにプロテスト出してるんです。出来れば・・・何とか出来ませんか?」。何だか大変なことになっていました。ルールを守ってこそのヨットレースだから、違反に対してプロテストするのは当たり前ですが、この裁定によってはその後の活動云々になってしまうので、「すぐにプロテスト会場に行くわ」。すぐに自転車に乗ってハーバーに向かいました。暗く誰もいないハーバーにKG部員が数人いました。「何してるの?」「プロテスト待ってます」。大会本部に向かい、プロテスト会場の場所を聞きます。
プロテスト会場の「びわこ大津館」で、当方選手・コーチから事情を聞きました。当方からのプロテストは、「KG艇がルール違反し、それを認識したKG艇が720°ターンし始めたが、360°ターンだけでレースに戻った」という内容でした。ルール違反があっても、その場で720°ターンすれば違反解消されてレースに戻れます。それに対するプロテストでした。当方のビデオにも映っているし、全レース艇に積まれたロガーにより、GPSで全艇の航跡が見れます。事実確認は簡単です。KG選手が720°したと勘違いしてのでしょうが、それがわかった時点でRET(リタイヤ)したらお終いでした。それをなかったことにしようと動いたのが、ルール以前の問題としてプロテスト委員会案件となり、当方からはどうしようもない状態になっていました。
KGOgr監督に電話するとハーバーまで来ているとのことで、当方とKGで話し合おうと提案しました。Ogr監督ももちろん同意で、当方キャプテン・コーチを待たせ、プロテスト会場でKG監督・キャプテン、当方キャプテン・コーチ・監督代理として私が集まり、テーブルを囲んで座り、私から口を切りました。状況をこちら(プロテストを出した当時者)から説明し、KGからの状況認識を聞くと、Ogr監督から、「今回の案件がどのような結果になっても、双方をクラブの関係がおかしくならないよう友好関係はそのままでいたい」。KGキャプテンから、「選手に確認しこちらのミスが確認できたのでRETしました。それで終わりにしたい」。冷静な話し合いになり、互いの意見を出し合って相手の認識や考えを双方で聞きました。KGの活動が制限されることがないよう願いました。最後にとんでもないことがあった1日でしたが、合宿所に戻りPC・スマホを充電し、車に戻り「おやすみ〜」。


2022/11/4
いつものように4時台に目が覚めました。春〜秋3シーズン薄手寝袋は中々の高品質で、パジャマ&寝袋だけで全然寒くありませんでした。5:43「ファミリーマート大津茶が崎店」で、「ブルガリアヨーグルト145円」購入。車の中で、朝ヨーグルトを朝食として頂きました。PCで成績&ヨットウェブサイトチェックしようとしたら、何と充電0になっていました。仕方なくスマホの小さな画面でチェック。ますます充電が怪しい。
自転車でハーバーに行き、部員に挨拶し、KG部員とも打ち合わせしました。ウェブニュースのNamちゃんがいました。声を掛けたら、「いや〜どう?調子いいんじゃないの」「まぐれまぐれ」「いや、まぐれじゃ成績でないよ」なんてお喋り。取材で、いろいろ回っているのでしょう。WのKomコーチとも話しました。KOのWakさんとも話したかったけど、忙しそうでスルーしました。
7:05にブリーフィング。前日乗ったKGを見て、マネさん3人で回しているクラブのしんどさを感じたことを話し、当方は10人もマネさんがいて、思いっきり練習に専念出来る環境の良さを話しました。マネさんの考えた新しいアイデアがいろいろ出してくれています。観戦する親に向けた服装などを紹介する写真が、前日親のLINEに出ていました。1回生女子マネIto・Moeさんがいろんなポーズを取り、矢印で紹介するのがわかりやすく、ポージングが楽しくてナイスアイデアでした。それが僕には受けたので、「ItoさんのMoeポーズが良かった」と紹介すると、予想通りみんなそれを感じていたようで笑いが取れました。人は、自分のために行動するより人のために行動する方が力を発揮出来、疲れも少ないと心理学で聞きました。朝チェックした初日の具体的成績を披露し、有力校が「横文字・英語」(RETリタイヤ、DSQ失格、OCS・UFDフライングスタートなど出場艇数+1=73点)で大きく稼いでいる事実を伝えました。上回生にとっては当たり前のことですが、下級生にとってはインカレ団体戦で勝つコツのもっとも重要な肝なので伝えました。暗に、横文字注意したつもりです。マイナス言葉・命令言葉・指導言葉を使いたくないので、暗に示しました。最後に、「ニコニコリラックスして乗ると走るよ」「笑顔で楽しくヨットすると速くなるよ」の言葉で締めくくりました。
その後また、レース艇置き場で、スターター選手をリラックスすべくお喋り。今大会は、小さなハーバーにレース艇144艇+予備艇で200艇ほどの船が置かれており、ハーバー桟橋にはオフィシャル艇で埋まっており、各校コーチボート・支援艇・観覧艇は近隣のハーバーに置き、出さないとダメです。そこで、レース艇出艇に間に合うよう支援の部員は早めに散らばっていきます。
ヨットショップが数店出店しています。前日声を掛けられ話した京都宮津のセイルバッグショップに寄り道し、オーナーの知り合いとあ〜だこ〜だ。前日目をつけた薄型セイルバッグを購入しました。そしたら、ステッカー(中1・ミニ3)をおまけしてくれました。艇庫に戻り、1回生女子マネさんに渡しました。ItoさんとYosさんがいたので渡し、次にやってきた1回生マネ2人にはじゃんけんしてもらいました。
自転車で車に戻り、車でファミマへ。8:52「ファミリーマート大津茶が崎店」で、「天然水きりっと果実150円」購入。KG1回生Andくんを乗せて、8:57「大津港マリーナP」。事務所で料金500円を払い、出艇申告もしました。Kobさんが来られ、出艇準備。この日のお客さんはウィークデイなので少なく、キャプテン一家3人だけ。Kob先輩・Shib先輩と私です。キャプテン一家を迎え、桟橋から離れました。
最初南西の軽風で、最後は北東の順風まで、徐々に右に風が振っていくウインドコンディションで、470は4レース、S級は3レース出来ました。S級は途中で風向が大きく変わってノーレースになり、1レース少ないです。470の日大の勢いは止まらず、3艇合計で20点・12点・8点という前日以上の高スコアでもう優勝決定の様子です。6レース目は69点で落ち着きましたが、もうどうしようもない感じです。S級は当方が小爆発し、34点・10点と良い感じです。僕が知る限り全日本最小得点だった数年前の18点を更に下回りました。ハーバーバックして部員に聞いたら14点の間違いでした。
マネさん新企画が、家族LINEにアップされてました。全部員の名刺型のプロフィールで、顔写真と質問2つ。「Q1・生まれ変わったらなりたいもの」の質問に、「石油王」「ペンギン」「イルカ」「ハワイ人」・・・おもろいな。「Q2・自分の好きな所」には、「貯金出来る」「口笛が上手い」「どこまでも歩ける」「腕相撲が強い」など、こちらも様々。
470級(〜6R)、1位日大142点・2位W207点・3位KO332点・4位KG381点・5位D社451点・6位当方499点。S級(〜5R)、1位D社196点・2位W217点・3位KO222点・4位当方236点・5位東京345点・6位KG393点。総合、1位W424点・2位D社577点・3位当方687点・4位KO722点・5位KG725点・6位日大745点。S級で東大が5位に上がってきて、当方はS級で2つ、総合で3つ順位を上げました。
親御さんにレースを楽しんで貰えるよういろいろ解説しました。Kobさんはレース展開を大声で喋り、Andくんは親御さんの横に座って質問にいろいろ答えていました。風の落ちた時、KGコーチボートがトイレを借りに寄ってきたりしていました。
レースが終わりハーバーバックし、KobさんがAndくんをホテルに送って行ってくれたので、親御さんをハーバーまで送りました。そのまま車を合宿所に置き、自転車でハーバーへ。3年前、西宮大会で優勝したS級チームのリーダーNagくんがやってきました。「お久しぶりです」「BHマガジンの大会レポート読んでいるよ」。毎日チェックしているヨットウェブサイトのリポーターになっているようで、名前入りで記事を書いてくれています。「三船さんのコーチングを受けているんですよ。びっくりするぐらいめちゃ速くなりました」「三船さんは、ナショナルチーム時代一緒で、唯一学生だった僕に何でも教えてくれた人で、日本一のコーチだと思うよ」なんて話しました。ブリーフィングに間に合いましたが、若手OBからの話を優先し、僕は指名されましたがスルーしました。朝だけで良いです。
車に帰る時、18:21「餃子の王将」に寄り、「九州セット880円」を夕食にしました。合宿所に寄り、ピンポンすると若手OGの副監督が出てきました。院生なので勉強をしていました。レポート提出があるそうです。邪魔しないように、PCとスマホの充電をしました。レポートが終わったようで、2人でお喋り。女子部員の快適なヨット部生活のために、女子にしかわからないことを男子部員にも説明してくれた子です。これから女子部員は増えるだろうし、そうでなくちゃ強くなりません。男の子にわからない体調のことを、ヨット部員から取ったアンケートを数値化・グラフ化してレジュメを作り、わかりやすく解説してくれました。それをすごく褒めたからか、僕のようなおじさんにも気楽に喋ってくれます。彼女の彼氏から僕にこれからのヨット生活と仕事について直接相談を受けたりしていたので、その後のことなども話しました。僕は恋バナ・ラブストーリー好きなので、自分の経験だって誰にでも話します。彼女を京都の下宿まで送る車が来るまで色々話せました。レースのオフィシャルとして動いている学連委員が車で帰ってくるのに入れ替わって京都に帰っていきました。若い女の子は、夜道1人で歩いちゃダメです。特にヨット雑誌て「ヨット美人」として紹介されたこともあるお嬢さんだから余計に心配です。その後しばらく充電し、21時に車に戻り、おやすみ〜。


2022/11/3
とうとうコーチしている大学ヨット部の最終戦「全日本インカレ団体戦」の日が来ました。前日に開会式をやっていますが、レースはこの日からです。四輪に布団・寝袋を積み出発。R171〜中央環状道路。5:19「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「ゆずれもんサイダー500ml98円+フレッシュバナナ3本220円+ひねり揚100円+ぼんち揚199円=669円」購入。母校KGの親の観覧船ドライバーをしなければならないので、乾き物も買いました。
6:30前に合宿所横に車を駐め、自転車を下ろしてハーバーへ。いつもならハーバーPに駐めるのですが、大会期間中はオフィシャルなどの利用が多く利用できません。ハーバー内は既に学生でいっぱいです。KOのWakさんとかWのKomさん・NKのMihさんなど、ヨット界で有名な監督・コーチさんの顔も見えます。僕よりずっと知識のある方々ですが、コーチングの仕方が私とはぜんぜん違います。ヨット経験者が入部している、あるいはリクルートして戦力を整え、それを鍛え上げてチーム力を上げるやり方と僕は違います。リクルートなんて出来ない大学なので、多くの部員を4月の新歓で集める。経験者は1割いれば御の字です。9割の未経験者を「何故ヨットは風だけで走るのか?」から始めて、多数の船を出して練習し、クラブ内競争を高め、切磋琢磨して技術を磨く。自分が得た知識は、すぐ横に人に話し彼を強くする。そのことで、結局自分が上手くなる・・・というスタイルです。このためには、教え込むのではなく、失敗しても失敗しても小言は言わず、ニコニコ楽しい練習環境を整える。モチベーションを高く保つには、自分で考え自分で自由に行動しチャレンジする環境が必要です。チャレンジすれば失敗はつきもので、それでも明るく包み込むクラブの雰囲気があればまたチャレンジできます。そんなスタイルが僕のコーチングです。少年野球のように、親も観戦に呼び込み、クラブに向かう熱さを結集して戦うスタイルです。
部員に挨拶し、KG主務・Fuzさんとタイムスケジュールを決めました。彼女は470のエーススキッパーなのに親の観覧船の部員側の連絡係。「あれ、マネさんになったの?」「いいえ、乗ります」「そうだよね、速いのに勿体ないと思った」。9:30第1レーススタート>8:30D旗出艇開始になるだろうから、7:20に朝のブリーフィング開始です。ブリーフィングで、監督に続いて指名されました。皆に目をつむってもらい、最終日の自分の姿を頭に浮かべてもらいました。目標を達成し歓喜している自分の姿、チームメイトと抱き合っている自分。閉会式でトロフィーを頂く姿・・・。十分練習してきたので必ず目標は達成できる。いつもの「英語・横文字を叩かないよう」の言葉は発しませんでした。レース初日のペップトークなので、あえてマイナス言葉を省きました。
選手は艇置き場に移動し、自艇のフィッティングをチェック。そこでスターターの各選手の肩を抱き、冗談でリラックスさせます。自転車で車に戻ります。ところが自転車に着くまでに知り合いに次々に会い、その知り合いを紹介されあ〜だこ〜だ。車に戻ってr558を南下し、8:13「大津港マリーナP」。事務所で駐車料500円。Kob先輩に「ハーバーに着きました」と電話すると、KG1回生部員1人とともに、雄琴マリーナから船を回航中でした。
桟橋が見える場所で待っていると、KG同期のMukくんが来ました。船が来たので桟橋でシートを受け取り桟橋に結びました。Mukくんが、KG同窓会滋賀支部4人と4回生部員の家族4人をエスコートして来ました。ここで電話が入りました。北湖でチームを組んでヨットレースに出ているYasさんからでした。「今、何処にいるの?」「まだ、ハーバー。部員の親御さんを乗せてもうすぐ出ます」「もうレース海面に来てるよ」とのことでした。皆さんにライフジャケットを着て乗ってもらい、最後にSib先輩クラブGMが来られて出艇。他校の観覧船も出ていきます。藻が湖底から伸びており、スクリューに絡まないよう慎重に進みます。YasさんとImaさんがImaさんの船で来られていました。9時にここにいるということは、北湖の志賀ヨットハーバーをオープン直後に出てきたのでしょう。
風がなく、陸上でD旗が上がらず、レース艇はハーバーに待機中です。レース海面に向かう予定でしたが、ハーバー前に浮かべて待機しました。12時が近づいてきました。12時になると別の2家族とお客さんが交代するのでハーバーバックしなければなりません。11:30を過ぎ風が出てきたので、D旗が上がりレース艇が次々に出艇してきました。KGレース艇が見える位置に船を動かし、親御さんにお子さんの晴れの姿を見せてハーバーバックしました。
トイレ休憩している間に、4回生部員2家族が到着し、6名を乗せて再出艇。琵琶湖大橋・北の風の軽風が入っています。スタートラインの下・南に位置し、470・S級スタートを見てから上マークに向かいます。このボートはセイリングボートでエンジンが小さいので、とてもレース艇に追いつけず、上マーク付近をウロウロしながら何度も上がってくるレース艇を見てもらいました。親御さんの殆どはヨットレースなんて初めてなので、レース方法やマークの位置、何故ヨットは風上に走れるのか?など、いろいろ説明しました。
3レース予定でしたが、2レース成立しました。470は前評判の良い日大が3艇×2レースで33点という超高スコアでいきなりダントツ。2位Wが90点でこれが例年なら1レース3艇合計の45点ピッタリの優勝スコアです。3位KO100点・4位KG104点・5位D社110点も優勝スコア。この実力派4校大接戦です。6位が当方で132点、このスコアも高スコアで5年ほど10位の壁を破れなかったので上出来の初日です。S級は、1位KO61点・2位W71点・3位D社113点は例年の優勝スコア。4位中央124点・5位法政138点、そして6位当方144点。目標の優勝には厳しいがまあまあの滑り出しです。4年前の準優勝・3年前の優勝の時と同じような得点なので、こちらも上々。470とS級を合計した総合は、1位161点でKO・Wが同点。3位D社223点・4位KG251点・5位日大265点、そして6位当方276点。470のダントツ日大は、S級が走らず総合ではイマイチです。先週のレースでも感じましたが、上手く行けば総合で日大に勝てそうです。
15:30以降のスタートはないのでハーバーバックしました。2レースだけでしたが、親御さん達は大喜びで、お婆さんはもっと喜んでいました。船を片付け、事務所で帰着申告して、1回生AndくんとKobさんを乗せて帰ります。まずAndくんを浜大津のホテルへ。Kobさんと2人で雄琴マリーナに置いてあるKobさんの車をピックアップしに、r558で北上します。Kobさんは前日、琵琶湖東岸瀬田の北にあるキャンプ場にいたそうです。Kobさんの車はキャンピングカーで、夏は1ヶ月ぐらい奥さんと北海道で過ごしたそうです。羨ましい。
浜大津から柳が崎まで混んでいました。先輩の車に横付けし、ハーバーに戻ります。南向きは、柳が崎から北が混んでいたので、時間調整もあり夕食にしました。18:03「京都一光寺麺屋聖Kiyo雄琴店」で、「淡竹大950円+煮卵50円=1000円」。目論見通り、南行の混雑は解消されており、18:31「ミニストップ大津唐崎店」で、「2wayケーブル1m980円」購入。スマホの充電ケーブルを忘れたので購入しました。スマホを変えたので、備え付けのマイクロケーブルではダメで、タイプCが必要でした。合宿所横に車を入れ、おやすみ〜。




逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
inserted by FC2 system