-ウェブマスター日記 2022/9-10 |
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Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア 感想をいただけるとありがたいです→webmaster |
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2022/10/30 横浜に行く日がやってきました。明日は、この8月に日本に帰ってきた長男とこの次男こうちゃん6才・三男ルーカスくん4才の幼稚園運動会です。コロナ禍で中止や人数制限になった運動会が多いのに、2020年でもそれ以前同様「誰でもおいで」運動会をやっているとても珍しい幼稚園です。もちろん園児へのマスク強要もしないGoodな幼稚園です。公立幼稚園では、こうはいかないでしょう。長男から「観に来ない?」と連絡を受けた時、「親以外でも参加できるのか確認してみたら?」と問いました。コロナ禍政策を昨年夏に止めたイギリスに住んでいたので、日本の現状をわかっておらず、日本に住んでいた6年前の感覚なんだろうと・・・。制限してこなかった幼稚園の姿勢を聞いて、腹の座った経営者や校長先生の行動に感動すら覚えました。僕は2020年当初は心配しましたが、夏には「こりゃ、普通の風邪だ」と見切りました。それ以来、特別に何もしていません。
人の自然免疫はとても強く、自らの身体を自動的に守ってくれています。人生最初の外部免疫は、出産した直後の母親からの初乳です。その中に多くの母親が経験し培ってきた免疫があり、少し黄色いそれを飲むことで免疫力がつきます。それからは、自らが病原菌に感染し、ウイルスに侵され、戦って熱を出して自ら戦い方を覚え「免疫力」としてストックしていきます。それが「自然免疫力」。無菌室にいればウイルスや病原菌と戦わずに済むかもしれませんが、そこから出れば、無菌室にいた間強くなったウイルスと旧式の免疫と戦わなければならず、よりキツイ戦いをしなければなりません。
マスクというものは、発症した患者さんがして、少しでも少なく他者への感染を防ごうとする手段です。健常者がつけても、それほど大きな感染を防ぐ効果はありません。だから僕は、屋外にいる時マスクをすることはしませんでした。殆どの方がマスクをしており、マスクしてランニングしている方を見ると、酸素補給が出来にくいので苦しくないのかな?マスクランニングって、本当に健康増進に繋がるのかな?なんて思っています。「マスクしてね」と書いてあるお店に入る時にマスクをするだけで、出来るだけ暴露してこれまで通り病原菌やウイルスに自分の身体を晒し、自らの免疫力を信じて、新たな免疫を獲得する方が良いと、沢山の免疫やウイルスを研究している方の本を読んで決めました。それをずっと実践してきました。数ヶ月前、そんな僕よりずっとツワモノに会いました。母校ヨット部の後輩女子です。レース艦船に船を出した時、2日間乗ってきた後輩です。前監督も一緒に乗っており、「こいつ、電車でもお店でもマスク一切しないんですよ。日頃マスクなんてしない俺だって、お客さんとの打ち合わせや会社ミーティングではするのに・・・」だって。2020年秋の退陣時、安倍首相は感染症法2類から5類への変更を口にしましたが、あと半年首相職に留まり変更を実現させていれば日本の姿は大きく変わっていたでしょう。世界の殆どは以前同様の生活スタイルに戻っているのに、未だマスク強要している首相が子供の頃読んだ「裸の王様」に見えて仕方ありません。
朝起きたら、生憎の雨でした。「通勤リード110」に荷物積んで、2日後の帰路を考え家内のヘルメットを入れたリアボックスを付けて、カッパ着て傘持って出発。早朝なので、駅の二輪置き場には誰も居ないだろうと3日間駐輪料金600円をスピードメーターパネルに貼っておきましたが、係の方は来られていました。600円を剥がして渡して電車へ。6:27、「新大阪JR東海パッセンジャーズ」で、「ハムチーズ&たまごサンド612円」購入。自由席で一気に新横浜へ。JR在来線に乗り換え、横浜経由で横須賀へ。相変わらず、しっかり雨が降っています。カッパを着て傘を差して雨の中へ。
『昭和52年市制施行70周年記念 横須賀風物百選 横須賀駅
「汽笛一声新橋を」の歌詞で知られる鉄道唱歌に「汽車より逗子をながめつつ/はや横須賀に着きにけり/見よやドックに集りし/わが軍艦の壮大を」という一節があります。
明治22年6月16日、大船〜横須賀間に開通した横須賀線の終着駅、横須賀駅開業当時の駅頭風景を上手に表現しています。 そのころの横須賀は、現在右手に見える米海軍基地内に、明治17年に設けられた横須賀鎮守府などの諸施設がある重要な海軍基地となっていました。一方陸軍も、明治13年から観音崎をはじめとして市内の沿岸各所に着々と砲台を築いていました。しかし、人員や物資の輸送は、横浜―横須賀間の船便に頼っている実情でした。
明治19年6月、陸海軍は、鉄道布設の必要性を記した請議書を海軍大臣・西郷従道、陸軍大臣・大山巌の名を連ねて総理大臣・伊藤博文に提出しました。この求めに応じて鉄道局は、翌20年に測量を開始し、21年1月に工事を起こしました。
工事費は、明治19年から始まっていた東海道線建築費から40万円支出しました。当初終着駅は、観音崎附近へとの要望がありましたが、更に5万円から10万円の予算を必要とするうえ、市街地を通さなければならない等の複雑な問題があり、現在地となりました。
現在の駅舎は、昭和15年に新築されたものですが、大正3年に改築した駅舎の面影をよくとどめている貴重な建物です。 開業当時、汽車はおよそ1時間ごとに発着し、東京〜横須賀間に約2時間を要しました。客車は1・2・3等とあり、煙突の長い機関車がそれを引きました。3等運賃は39銭で、当時の米価が1升11銭前後でしたのでかなり高かったようです。乗客数は、明治40年ごろで1日平均1843人と記録されています。 横須賀〜久里浜間は、軍の求めにより、昭和19年4月に開通したものです』
駅前のバスロータリーの向こうに、海上自衛隊・横須賀基地が見えています。調べると総監部が置かれている重要基地でした。海上自衛隊軍港としては、呉・横須賀・舞鶴がメイン基地と思われます。軍港に向かうと最初に目に入ってきたのはヘリコプター空母「いずも級」。「いづも」or「かが」のようです。目を移すと、イージス艦や潜水艦が停泊しています。駅から戦艦三笠までバスが走っているようですが、バス停が見つけられず仕方なく歩いて行きます。スマホ地図に従って歩くと、意外に近かったです。三笠公園に続く小径に帆船マストレプリカが立っています。
『日本丸 昭和59年9月、大型帆船「日本丸」が横須賀市で誕生しました。このモニュメントは、メインマストを中心に実船の一部を約1/3の縮尺で再現したものです。「日本丸」の主要要目は次の通りです。船種:練習帆船 帆装型式:4本マストパーク型 主要寸法:全長110.09m・垂線面長86.00m・型幅13.80m・型深10.70m・満載吃水6.29m 総トン数:2570トン 航海速力(機走時):13.2ノット 主機関:1500馬力ディーゼル機関2基 帆面積合計:2760平方メートル 帆枚数:横帆・縦帆各18枚 マスト高さ(船底から):最大55.52m 搭乗人員数:乗組員70名・学生120名・合計190名昭和62年3月 横須賀市』
「三笠公園」に着きました。雨なので観光客ゼロ。クラシックな船型が見えてきました。見学チケット600円。
『記念館三笠の由来 三笠は、1904年(明治37)2月に始まった日露戦争において、東郷大将が率いる連合包隊の旗艦として、終始敵の集中砲火の中で奮戦し、同年8月10日の黄海海戦では露国東洋艦隊に大打撃を与え、遂に1905年(明治38)5月27日の日本海海戦では、遠来のバルチック艦隊を全滅させる偉功をたてた日本海軍の代表的な軍艦であります。
日本海海戦の大勝利は、世界史の流れを大きく変えたと言われますが、この偉業を成し遂げた日本民族の誇りと自信を新たにするとともに、その栄光を永く後世に伝えるために、その「シンボル」として、三笠は1926年(大正15)以来収蔵する多数の記念品とともに、ここ白浜海岸に保存され、多くの人に親しまれてきました』
『世界三大記念艦「三笠」 Memorial Ship MIKASA 記念艦三笠は1902年にイギリスで竣工しました。 日露戦争では、東郷平八郎司令長官が乗艦し、連合艦隊の旗艦として日本海海戦でバルチック艦隊に勝利した後、1926年に記念艦として横須賀に保存されました。 旅行サイト「トリップアドバイザー」2020年度日本全国博物館トップ20にも選出されています。 世界三大記念館「三笠」は、ルートミュージアムのサテライト施設でもあります』
戦艦「三笠」に乗艦します。『40口径30cm連装砲塔 戦艦の象徴である主砲です。最大射程約10km、砲弾重量約400kg、操作人員40名で、35cmの装甲に囲まれ、自重50トン、動力には水圧が用いられていました。天然の突出物は砲台長及び射手の観測窓で、後方の砲台長用のものは将校塔と呼ばれ、黄海海戦(明治37.8.10)の激戦時に伏見宮博恭王殿下がご奮戦された場所です。当時の砲戦距離は、照準器の関係上6km程度がよいとされ、命中率は10%と言われましたが、精度をさらに高めようと猛訓練に励んだわけです』
『三笠主砲弾 三笠の主砲30cm砲弾は重量400kg、最大射程10kmでした。砲弾には爆発力の激しい大量の下瀬火薬が装填され、起爆装置には安全でしかも感度の鋭敏な伊集院信管が弾底に着けられていました』
『軍艦三笠要目(建造当時) 長さ121.9m・幅23.2m 深さ13.2m・吃水8.3m 排水量15140トン 速力18.0ノット 主砲30cm砲4門 副砲15cm砲14門 補助砲8cm砲20門 発射管45cm発射管4門 主機械レシプロ2 軸数2 馬力15000 舷側甲板厚材質9KC 乗員数859 建造所:英国ハーロー市ヴィッカス造船所』
甲板武装を見て回っていると、三笠公園にSLが展示されているのに気づきました。日本鉄道の歴史は、明治5年「新橋〜横浜」間で始まりました。その後、海軍が横須賀に鎮守府を置いたことで鉄道が横須賀に引かれます。それを記念したSL展示かもしれません。
『三六式無線電信機 日本海軍はマルコニーが発明した無線電信に着目し、実用化のため無線電信調査委員会を設けて研究開発に努め、明治36年(1903)に三十式無線電信機を完成させました。三六式無線電信機は、突貫工事により日露戦争が始まるまでに全艦艇・監視所・陸上司令部などに装備され、連合艦隊の円滑な指揮運用、迅速な情報の収集・配布が可能になりました。なお、この電信機の通信距離は80海里でした。 海軍技師・木村駿吉 第2高等学校教授(現・東北大学)木村駿吉は乞われて海軍技師になり、無線電信調査委員会の委員として日夜研究に励み、明治34年に三四式無線電信機を開発、更に性能の改善を図り、三六式無線電信機を完成させました。本装置は横須賀海軍工廠造兵部で木村駿吉技師の直接指導を受けた元工手・山田寿二氏が作成した複製です』
無線室がありました。モールス信号表が貼ってあります。『記念館「三笠」について 日露戦争は、ロシアの極東進出によって存亡の危機に立たされた日本が、挙国一致して戦い抜いた戦争です。日本海海戦において東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃滅したことにより、ロシアを講和会議の席に着かせたポーツマス講和条約が締結されました。最新鋭の戦艦「三笠」は連合艦隊の旗艦として常に先頭に立って戦い、歴史的な大勝利に大きく貢献しました。ワシントン軍縮会議で主力艦の保有制限が課せられ廃艦になるところでしたが、栄光の歴史を持つ「三笠」は記念館として保存することで合意され、大正15年(1926)、現在の場所に固定し保存されました。 太平洋戦争後、占領軍の命令により大砲・マスト・艦橋などが撤去され、見る影もなく荒れ果てましたが、「三笠」を復元しようとの機運が内外に高まり、昭和36年に国民の浄財、国の予算及びアメリカ海軍の支援などにより、現在の姿に復元されました』
『東郷平八郎提督 日本(1848〜1934) 若年にして海軍に入り、戊辰戦争に参加した後7年間イギリスに留学しました。日清戦争では「浪速」艦長として黄海海戦で活躍、国際法に則り高陞号(こうしょうごう)を撃沈し名を高めました。 日露戦争では連合艦隊を率いてロシアの旅順艦隊及びウラジオ艦隊を撃滅し、また、日本海海戦においては、ロシアのバルチック艦隊を対馬沖に迎撃し、海戦史上例のない圧倒的な勝利を収め、日露戦争の勝利に大きく貢献しました。西のネルソン提督、東の東郷として世界中に知られています』
『ネルソン提督 イギリス(1758〜1805) 1770年海軍に入り、数々の海戦において輝かしい戦果を収め、戦闘で右眼と右腕を失いましたが、その敢闘精神は他を圧していました。1805年10月21日のトラファルガー岬沖海戦では、イギリス艦隊を率い「イギリスは各自が己の責任を果たす事を期待する」との信号を掲げ、勇猛果敢にフランス・スペイン連合艦隊と戦い、圧倒的な勝利を収めました。この戦いにおいて敵兵に狙撃され武運つたなく旗艦「ヴィクトリー号」艦上で戦死しましたが、イギリス海軍史上最高の提督として、国民から敬慕されています』
『ジョン・ポール・ジョンズ提督 アメリカ(1741〜1792) 1776年のアメリカ独立戦争時に海軍に入り、対英通商破壊戦などで活躍しました。1779年に「ボンノム・リチャードス号」艦長としてイギリス船団を攻撃した際、護衛の「セラビス号」と戦い敗色濃厚となり降伏を勧められましたが、「I have not yet begun fight.(戦いはこれからだ)」と応じ、退勢を挽回して遂に相手を降伏させました。アメリカ海軍創設期の艦長として最も輝かしい戦歴を有しており、アメリカ海軍の敢闘精神を象徴する英雄として尊敬されています』
『世界の三大記念艦 日本の「三笠」、イギリスの「ヴィクトリー号」及びアメリカの「コンスティチューション号」は世界の三大記念艦として広く知られています。活躍した年代はそれぞれ異なっていますが、何れの艦も国難に際して勇猛果敢に戦い、国家の独立と安全に大きく貢献しました。各国はそれぞれを記念艦として大切に保存し広く観覧に供しており、国家的な誇りの象徴として多くの人々に親しまれています』
『記念館「コンスティチューション号」 1797年に建造されたアメリカ海軍の帆走軍艦であり、ナポレオン戦争、米英戦争などで活躍しました。特に、米英戦争中の1812年8月19日、イギリスの軍艦「グリエール」「ジャバ」と交戦した際、猛烈な砲火を浴びながら戦い抜いたことから、「アイアンサイド(Iron Side)」と呼ばれるようになりました。「コンスティチューション号」はアメリカ海軍の伝統、また、愛国心と誇りの象徴として建造地ボストン海軍造船所の岸壁に係留されており、現在も現役の軍艦です』
『記念館「ヴィクトリー号」 1765年に建造されたイギリス海軍の帆走戦艦であり、数々の海戦で活躍しました。1805年10月2日、トラファルガー岬沖海戦においてネルソン提督率いるイギリス艦隊の旗艦として奮戦、フランス・スペイン連合艦隊に大勝利し、ナポレオンのイギリス本土上陸を断念させました。19世紀初頭以来、「ヴィクトリー号」はイギリス海軍の誇りの象徴として、ポーツマス軍港内の世界最古のドライドッグにイギリス海軍現役の記念艦として保存されています』
『日本遺産 平成29年(2017)4月、記念艦「三笠」は「日本遺産」(鎮守府/横須賀・呉・佐世保・舞鶴:日本近代化の躍進を体験できるまち)の構成文化財として認定されました。 日本遺産は、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定するもので、横須賀市には官製造船所として幕末に誕生した「横須賀製鉄所」に設置された在日米軍海軍横須賀基地ドライドッグ(1号から6号)を初めとする17ヵ所の構成文化財群であります』
艦橋を歩いていきます。『8cm砲台 当時12断砲と呼ばれ、砲員は4名、弾丸重量は5.4kg、20門ありましたが現在10門です。 どの砲も旋回俯仰可能です。全部模造砲です』『時鐘 艦船では4時間を1周期として30分ごとに1点鐘から8点鐘までを点打し時鐘とします。 午後6時半から8時までは順序どおりになっていませんが、これは長い船の歴史にかかわる習慣によるものです。 時鐘は火災や霧のときにも乱打し警報として使われます』 『釣床(ハンモック) 釣床は、ロープ及び帆布で作られ、稲わらの入ったマットを敷き、支給された毛布(3枚)を使用していました。 また、戦闘時には、艦橋上部の機器及び人員の防護用にも使用しました。 この砲室には10名が配員され、ここで就寝し、食事をし、砲の手入れ、訓練、砲撃を行いました。 釣床を使用したのは、海軍中尉以下の約830名です』 『Z旗 旗旋信号では、旗の組合せにより、いろいろの意味をもたせますが、一旗だけを使います。 マストに揚がっている信号旗はアルファベットの最後の字であるZを表示しており、普通Z旗と呼ばれています。 日本海海戦のとき、三笠はこのZ旗をこのマストに揚げて、「皇国の興廃この一戦にあり各員一層、奮励努力せよ」との東郷司令長官の号令を全軍に伝えて奮戦し、遂にこの海戦で大勝利を収めることが出来ました。 その後、この故事に因んで、難事を打開する場合に「Z旗を揚げる」という慣用語ができ、またZ旗が「大成功を期する旗じるし」して使われるようになりました』 艦橋から1階下に下ります。『世界情勢 列強の植民地獲得 18世紀後半の産業革命以来、欧米諸国の商工業は急速に発展し、安い原料を確保するため、また、大量に生産した製品を輸出するための市場を求め、次々にアフリカ・アジア方面に進出しました。また、科学技術の進歩に伴い驚くほど軍事兵器が発達したことにより、欧米諸国は産業の振興に併せて強力な軍事力を保有し、「列強」と呼ばれる世界の大国となりました。 列強に対抗する力を持たないアフリカ・アジア・アラブ諸国は、強大な列強の進出を前にして服従するしかなく、次々に支配されていきました』 『列強のアジア進出 19世紀に入ると、西欧列強によるアジアへの進出が活発になり、その波は東アジアにも迫りました。当時のアジアは平和が続いており、日本も清国も軍事への関心を失い、新しい軍事技術の導入や国防の努力を怠っていたため、欧米諸国との軍事力の格差が広がっていきました。列強の強大な軍事力を背景とした進出になす術はなく、アジア諸国は次々にイギリス・フランス・オランダなどに支配され、清国は領土を租借され、日本とシャム(タイ)以外のアジアの国々は植民地になりました。 東南アジアの情勢 民族、宗教が異なり、多様な文化、伝統を有する東南アジアは、次々に列強に支配されていきました。イギリスはインドを植民地にした後、ペナン・マラッカ・シンガポールの海峡地帯を占拠し、マライ半島南部を併合して連邦国家とし、イギリスの保護下に置きました。一方、フランスはベトナム南部進出を足がかりに全ベトナム・カンボジア・ラオスを植民地にしました。オランダはインドネシアを、また、アメリカも米西戦争に勝利しフィリピン諸島を支配下に置きました。東南アジアではタイだけが唯一国、独立を維持していましたが、それはイギリス、フランスの緩衝国家としてでした。 ロシアのアジア進出 ロシアの南側は他国と接しており、西側はわずかにバルト海に面しているものの、北方は氷海で閉ざされており、外洋に進出するためには南方の出口を確保する必要がありました。 そこでロシアは地中海・インド洋・太平洋方面への出口を求め、野心的な南下政策を推し進めましたが、地中海方面の権益を持つイギリスやオーストリアなどから厳しい反発を受けたため、その矛先は北東アジアに向けられました。 ロシアとヨーロッパ諸国 1700年に始まった北方戦争で、デンマーク・ポーランド・ロシア連合軍はスウェーデンに勝利し、ロシアは念願のバルト海進出を果たしました。その後、1795年にポーランドを併合、また、1809年にはフィンランドを支配下に置き、ロシアはヨーロッパ方面にも勢力を広げて行きました』 『日本の海軍 西欧列強によるアジア諸国の植民地化の惨状を目の当たりにし、開国・通商を求めて次々に訪れる外国軍艦の脅威に曝された幕府は、ペリー艦隊の来航を機に鎖国を解き、沿岸の防備を固め、軍艦の取得、人材の養成など海軍力の整備を始めました。また明治維新後、新政府は近代国家の建設を目指して諸制度の大改革を断行し、産業の振興を図り、国防力の強化に努めました。我が国の独立と安全を確保するために特に海軍力の強化が急がれ、イギリスなどから海軍に関する制度、組織などを導入するとともに、新鋭軍艦を購入し教育制度や造船技術について学び、造船所を建設して自国で艦船の建造・修理が出来る態勢を整え、開国からわずか50年足らずで列強に対抗しうる精強な海軍を作り上げました』 『幕府の海軍 ぺIJ一艦隊の浦賀来航を機に、幕府老中阿部正弘は海防の強化を図るため「大船製造の禁」を廃止し、オランダからの軍艦購入、長崎海軍伝習所における人材養成を行うとともに、小規模ながら長崎製鉄所での製鉄、造船を緒につかせ、海軍の職制、諸規則などを定め、近代海軍創設のための諸施策を次々に打ち出しました。 日米修好条約批准のための「ポーハタン号」及び「咸臨丸」のアメリカ派遣、神戸海軍操練所の創設もその頃の出来事でした。 長崎海軍伝習所 近代海軍の建設には人材養成が欠かせないことから、幕府は安政2年(1855)、オランダ海軍軍人を教官とする海軍伝習所を長崎奉行所内に設け、選抜された伝習生及び優秀な若い藩士を対象として航海術・砲術・造船術など海軍術全般についての教育を開始しました。 全ての講義はオランダ語で行われ、幕臣の中で蘭学及び兵学の第一人者であった勝海舟が伝習生監を務めました。海軍伝習所は安政6年に閉鎖されましたが、この間に榎本武揚・川村純義・中牟田倉之助など、幕末維新期に活躍した優秀な人材を輩出しました。 咸臨丸の太平洋横断 幕府海軍の伝習船「咸臨丸」は、日米修好通商条約批准のため新見豊前守正興を正使とする遣米使節を乗せた「ポーハタン号」に同行し、1860年2月10日に浦賀を出港、3月17日にサンフランシスコに無事到着しました。「咸臨丸」はオランダ製の小型砲艦(排水量625トン)であり、司令官に軍艦奉行木村摂津守が、艦長に教授方頭取勝海舟が任命され、長崎海軍伝習所出身者などから選抜された者が乗組みましたが、多くの制約困難を克服して成し遂げた太平洋横断は日本軍艦として初の快挙であり日本海軍発展の礎を築きました。 咸臨丸乗乗組員 サンフランシスコの写真館で撮影したものです。前列右から、福沢諭吉(軍艦奉行従者)・岡田井蔵(蒸気方手伝)・肥田浜五郎(蒸気方)・小永井五八郎(公用方下役)・浜口興右衛門英幹(おきえもんひでもと・運用方)・根津欽次郎勢吉(きんじろうせいきち・運用方手伝)です。 坂本龍馬 長崎海軍伝習所に続き、築地・神戸に海軍操練所が設けられ、勝海舟の薫陶を受けた坂本龍馬か塾頭として神戸海軍操練所に入り、航海術の習得に努める一方、国事にも奔走し、薩長同盟の締結に大きな役割を果たしました』 『開国 列強のアジア侵略が進む中、嘉永6年(1853)にアメリカ東インド艦隊司令官ペリー提督の率いる4隻の軍艦が、浦賀沖に現れました。アメリカは清国との貿易中継地が必要であり、また、捕鯨船の糧食などの補給や遭難船の保護が必要であったため日本に開国を迫りました。アメリカの要求に応じる決断をした日本は、翌嘉永7年(1854)3月に日米和親条約を締結して開国、続いて安政5年(1858)には日米・日蘭・日露・日英・日仏修好通商条約をそれぞれ締結し、急速に国際社会に組みこまれていきました。 ペリーの来航 1853年7月8日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督率いる4隻の軍艦が横須賀の浦賀沖に現れました。ペリー提督は日本の開国と通商を要求する国書と一緒に白旗を渡し、次回入港までに回答するよう要求し、開国に応じなければ武力で制すると威圧しました。幕府内でアメリカの要求を承諾するか、拒否して武力で立ち向かうかで意見が分かれましたが、対抗できる軍事力を持たない幕府は、翌嘉永7年、再度来航したペリー提督に開国に応じる旨回答しました』 『幕末の混乱 開国をきっかけに幕府への批判がさらに高まり、尊皇攘夷運動が活発になりました。幕府専制を維持しようとする保守派と反対派の政争が激しくなり、尊王攘夷運動を弾圧した大老・井伊直弼は、水戸藩浪士に暗殺されました(桜田門外の変)。尊王攘夷運動は討幕運動に発展し、封建制度に不満を持つ民衆もこれに加わりました。幕藩体制を維持することが不可能と判断した15代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返上しました。 薩英戦争 文久2年(1862)9月、薩摩藩国府・島津久光の行列を馬に乗って横切ろうとしたイギリス人4名に対し、無礼な振る舞いと激怒した警護の武士が切りつけ死傷させる事件が起きました(生麦事件)。イギリス政府は幕府と薩摩藩に対し、陳謝及び賠償金を要求しましたが、薩摩藩がこれを拒否したため、イギリスは準備不足もあって双方に大きな損害は出ませんでしたが、幕府が薩摩藩の賠償金を立て替えることで和議が成立しました。イギリス軍艦の威力を知った薩摩藩は開国に積極的となり、イギリスに接近し最新軍事装備の導入を図りました。馬関戦争 文久4年(1864)8月、長州藩が関門海峡を通行中のアメリカの汽船を砲撃したことが発端となり、馬関戦争が起きました。長州藩は、報復のため襲来したイギリス10隻・フランス3隻・オランダ4隻・アメリカ1隻の連合艦隊と上陸した1900名の陸戦隊を相手に戦いましたが、砲台は全て占領され、42門の大砲も捕獲されました。圧倒的な武力の差で敗北した長州藩は、下関海峡の武装解除と外国船の安全通行を認め、これを契機に開国派に転じ、薩英戦争で大敗しイギリスから軍事技術の導入を図った薩摩藩とともに、倒幕運動の主導的役割を果たすことになりました。 徳川幕府の終焉 慶応3年(1867)、15代将軍徳川慶喜は倒幕運動が激しくなり、幕府の政権維持は不可能と悟りました。そこで政権を朝廷に返上して倒幕運動を沈静化し、幕府解体後将軍を議長とした議会を作り、徳川家主導の政局運営を確保することにより、実質的な支配を維持しようと考えました。しかし、王政復古の大号令により、旧幕府軍と新政府軍の戦いが始まり、旧幕府軍は敗北、260年余り続いた徳川幕府は終焉を迎えました』 『明治維新 260年余続いた幕府は倒れ、幕藩体制から立憲君主制の近代国家に変わりました。西欧列強がアジアに進出する中で、対抗できる国力を持たなければ、清国・インドと同じように植民地にされかねないとの危機感を持った明治政府は、殖産興業・富国強兵をスローガンとしてさまざまな改革を断行し、新たな制度を取り入れ、国家の近代化を推進しました。 近代国家の建設 戊辰戦争に勝利を収めた明治新政府は、封建体制から脱却し、近代国家を建設するため、廃藩置県、四民平等などの大改革を断行し、欧米に学び、学校制度・徴兵制度・租税制度を確立し、鉄道・港湾を整備して産業の振興を図り、グレゴリオ暦を導入するなど、「文明開化」と呼ばれる西洋化を進めました。また、軍隊の近代化にも収り組み、フランス・ドイツからは陸軍、イギリスからは海単の軍事顧問を招き、若い士官を海外に派遣し、人材の養成に努めるとともに、外国から軍艦・兵器を購入し、軍事力の強化にも力を注ぎ、近代化を急速に進めました。 廃藩置県 明治4年(1871)、大久保利通をはじめとする新政府指導者は、中央集権制度を確立するため地方に「県」を置くこととし、天皇の名において廃藩置県を布告しました。これにより軍事・徴税と年貢も新政府の管理下に入り、さらに、「県」の知事は政府が任命することにより、中火集権の基礎が確立されました。 明治天皇 嘉水5年(1852)に生まれる。孝明天皇の皇子で名は睦仁。慶応3年(1867)から明治45年(1912)の間在位。 大政奉還・王政復古・戊辰戦争、そして明治維新に続く激動の時代を統御され、人改革を断行し、大日本帝国憲法・国会開設などを行って近代国家としての基盤を固め、産業を振興し、日清戦争及び日露戦争を勝利に導き、日本の国際的地位を高め、「大帝」として内外の尊敬を集めました。明治天皇の崩御の際は世界の新聞がこぞってその功績を讃えました。 憲法発布 明治22年(1889)、東アジアで最初の成文憲法である大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されました。この憲法は形式的な権限と最高の権威を持つ天皇を不可侵の元首とし、立法と財政に関する権限を帝国議会に持たせるなど、立憲君主制の理想として諸外国、特にアジア・アラブ諸国で高く評価され、大きな影響を与えました。 戊辰戦争 慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いを緒戦として、明治新政府軍と旧幕府軍との戦いが明治2年(1869)まで続きました(戊辰戦争)。新政府軍は、上野戦争(江戸無血開城)・東北戦争・五稜郭の戦いのいずれにも勝利を収め、立憲君主制の統一国家形成へと大きな一歩を蹄み出しました。 徴兵制 徴兵制は国民に兵役を養務づけ兵士を採用する制度であり、18世紀末フランスで始まり、19世紀になるとドイツ・イタリアなどでも取り入れられました。明治政府は、フランスの制度にならい、明治5年(1872)、「徴兵制の詔書」および「徴兵訓諭」を発布し、国民に兵役が義務づけられました』 『日清戦争と三国干渉 朝鮮の自主・自立を目指す独立派を援助する日本と、朝鮮は自国の属国(朝貢国)と主張する清国との間の対立が激化し、日清戦争が起こりました。日本が圧勝し日清講和条約が締結され、台湾・遼東半島の割譲・賠償金の支払いなどが決まりましたが、ロシア・ドイツ・フランスの三国は、遼東半島を日本が領有することは東洋の平和に有害であり、清国に返還するよう勧告しました(三国干渉)。軍事力で対抗できない日本はこれに従うほかなく、国民は「臥薪嘗胆」を合言葉に国力の増進と軍事力の増強を図りました。 東学党の乱(甲午農民戦争) 東学とは西欧の学問に対抗するため東洋の学問を重視すべきという思想で、本来はキリスト教を排斥する新興宗教でしたが、これに外国の商品や資本の流入による失業、腐敗した官僚や外国に弱腰の閔氏(びんし)の朝鮮政府に対する不満などが加わり、大規模な農民戦争へと拡大していきました。 明治27年(1894)4月頃には東学党の乱は朝鮮全土に波及し、一時は首都京城(現在のソウル)にも迫る勢いを見せました。 清国と日本の朝鮮出兵 日本は、朝鮮を独立させて清国から引き離そうとし、他方、清国は朝鮮を朝貢国として維持しようと図り、両者は激しく対立しました。「海関(関税)」を押さえ商人を送り込み、政治経済の両面で強い影響力を雛持していた清国は、東学党の乱が起きると、鎮圧のために出兵しました。 一方日本では、支援していた朝鮮の改革派金玉均(きんぎょくきん)が上海で暗殺され、反清感情が高まっており、清国が出兵したことを知った日本政府は、清国の朝鮮支配を打破し、日本の影響力を高める好機と考え、明治18年(1885)の天津条約に基づき即座に出兵しました。日清戦争 東学党の乱の鎮圧をきっかけに出兵した清国と日本との戦争は、豊島冲海戦を発端に始まりました。清国は「定遠」や「鎮遠」などドイツ製の最新鋭戦艦を持っており、日本が勝てるとは、世界のどの国も予想していませんでした。しかし、日本は世界の予想に反し平壌の戦い・黄海海戦に勝利を収め、翌1895年3月までに旅順・大連・威海衛(いかいえい)を攻略し、北洋艦隊を壊滅しました。明治28年(1895)3月には下関で講和会議が始まり、4月17日に日清講和条約が調印されました。 豊島沖海戦 連合艦隊は明治27年(1894)7月23日に佐世保を出港、朝鮮全羅道西北端の群山沖へ向かいました。第1遊撃隊司令官・坪井航三少将率いる「吉野」「浪速」「秋津州」の3艦は。25日に豊島沖で清国軍艦「済遠」「広乙」を発見、両艦隊は直ちに戦闘を開始しました。戦闘開始1時間後、「済遠」は直隷(ちょくれい)海峡に逃れましたが、「広乙」は東海岸で座礁大破しました。この戦いが日清戦争の発端となりました。 黄海の海戦 明治27年(1894)9月17日、連合艦隊は小鹿島北東で清国艦隊を発見し、黄海海戦が始まりました。日本側は連合艦隊司令長官・伊藤祐亨(ゆうこう)中将率いる旗艦「松鳥」以下12隻、清国側は丁汝昌(ていじょしょう)提督率いる「定遠」「鎮遠」など12隻と水雷艇2隻でした。清国艦隊は「定遠」「鎮遠」を先頭とする笠型横陣形、これに対して日本の連合艦隊は単縦陣(一列縦隊)で戦いが開始され、士気と技量に優る連合艦隊は清国艦隊に大打撃を与え、黄海の制海権を確保しました。 威海衛(いかいえい)の夜襲 明治28年2月4日・5日の両日夜、日本の水雷艦隊は威海衛港内に進入して決死的な奇襲攻撃を敢行し、清国海軍の旗艦「定遠」を大破、「来遠」「威遠」ほか1隻を撃沈しました。また、艦隊は陸上砲台を砲撃し、清国海軍の戦意を著しく喪失させました。9日には「靖遠」(せいえん)が撃沈され、艦隊を失った丁提督は部下将兵の助命を日本側に要請した後に自決し、「定遠」艦長も爆沈し運命をともにしました。なお、丁提督の遺体がジャンクで運ばれる事を知った日本海軍は、接収した輸送船を返却し、遺体に儀仗兵(ぎじょうへい)をつけ、提督に相応しい葬送ができるよう配慮しました。 高陞号(こうしょうごう)事件 清国軍艦「済遠」を追撃中、「浪速」艦長・東郷平八郎大佐はイギリス商船旗を掲げた汽船「高陞号」と遭遇、停船を命じて船内検査を行い清国兵と兵器を発見しました。東郷艦長は中立違反と判断し、拿捕しようとしましたが、「高陞号」が応じないため乗組員に退去を命じ、警告後に撃沈し清国兵を捕虜としました。イギリス船を撃沈したことは、イギリス国民の誇りを傷つけ国際問題になりましたが、世界的国際法学者ホーランド、ウェストレーキ両博士が「東郷艦長の処置は国際法上適切である」との論説を斯聞に発表したため、イギリス世論は沈静化し、東郷艦長の名を国際的にも高めることにもなりました。 三国干渉 明治28年(1895)4月17日に日清講和条約が調印され、賠償金の支払い、台湾・遼東半島の割譲などが決まりましたが、調印6日後にロシア・ドイツ・フランスの三国は、遼東半島を日本が所有することは清国の首府を危うくし、朝鮮の独立を妨げ、極東の平和の障害となると強硬に申し入れ、遼東半島を清国に返還するよう日本に勧告しました。特にロシアは艦隊を山東半島沖に展開して日本を威圧、軍事的に三国に対抗する力を持たない日本は、遼東半島を清国に返還せざるを得ませんでした。 下関講和会議 日清戦争の講和会議は、伊藤博文首相・陸奥宗光外相と清国の李鴻章(りこうしょう)・李経方(りけいほう)との間で、下関の春帆楼(しゅんぱんろう)において行われ、明治28年(1895)4月17日に調印されました。条約は前文および11ヵ条よりなり、その内容は次のようなものでした。 1.朝鮮独立の承認 2.遼東半島(三国干渉で返還)・台湾・澎湖(ほうこ)諸島の日本への割譲 3.賠償金の支払い 4.新しい通商航海条約・最恵国待遇条約の締結 5.沙市(さし)・重慶・蘇州・杭州の日本への開市開港 「臥薪嘗胆」 ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって遼島半島を返還せざるを得ない屈辱を味わった日本は、「臥薪嘗胆」を合言葉にして富国強兵に努めました。「臥薪嘗胆」とは、中国の古語で「薪の上に寝て身を苦しめ、苦い胆を嘗めて報復の志を忘れない」意であり、必死に頑張って列強に対抗しうる国力を造成し、自国の権威を守れる国にしようとする当時の国民の強い感情を示す国民一致の合い言葉でした』 『明治の海軍 明治政府にとっての大きな課題は、列強から日本を守るための軍備の強化、即ち新国軍の建設でした。明治元年1月17日に海陸軍制度を定め、最初の海陸軍総督として岩倉具視・小松宮嘉彰(よしあき)親王・島津忠義が、海陸軍務係に広沢兵助・西郷隆盛が就任しました。この時の海軍は、まだ名目上の制度だけで統括する艦船も部隊もありませんでしたが、明治4年、幕府から接収した7隻及び諸藩から献上された艦船11隻が兵部省の所属になり、翌5年には兵部省が廃止され海軍省及び陸軍省を設置、明治6年10月に初代海軍卿に勝海舟が就任し、明治海軍の建設が本格的に始まりました。 海軍省の設立 明治5年2月に兵部省が廃止され、海軍省及び陸軍省が独立、海軍省に4寮(主船・水路・兵学・軍医)、3司(機関・造兵・武庫)のほか、水兵本部・裁判所及び提督府を置き、初代の海軍卿(大臣)には勝海舟が就任しました。 この時の海軍兵力は、軍艦14隻・運送船3隻・計17隻・総排水量13832トンでした。 横須賀造船所の建設 横須賀造船所は、小栗上野介忠順の尽力とフランス人技師ウェルニーの設計により建設した横須賀製鉄所を、明治元年(1868)に明治政府が幕府から引き継ぎ、造船所として改修し明治4年(1871)に完成したものです。ドライドッグ・船台・スチ一ムハンマー・溶鉱炉・起重機などの近代設備を有する東洋一の造船所であり、これにより自国で大型艦船の建造・修理ができるようになりました。後に横須賀工廠と改名され、明治22年(1889)には鋼骨鉄皮の巡洋艦「高雄」、同27年(1894)には鋼製の巡洋艦「橋立」を竣工させました。 海軍兵学寮 明治3年(1870)に築地の海軍操練所は海軍兵学寮と改められ、兵学頭(校長)には川村純義が就任し、海軍士官養成を開始しました。幕府海軍から接収した「千代田形」を練習艦として配属し、明治6年(1873)にはダグラス少佐以下34名のイギリス教育団が来校、諸規則も整備され、砲術・航海・機閔・造船等に関する実施教育が行われ、素養として数学と英語が重視されました。明治維新で活躍した錚々たる人物が第1期・2期生として学び、山本権兵衛もその1人でした。 海軍兵学校 明治9年(1876)には海軍兵孚寮は海軍兵学校と改名され、同21年に教育環境に恵まれた広鳥の江田島に移され、以来海軍士官の教育のメッカとして、数多くの海軍士官を輩出しました。日露戦争で活躍した広瀬中佐は第1回(海兵15期)、秋山参謀は第2回卒業生でした。海軍兵学校は、イギリスのダートマス、アメリカのアナポリスとともに世界に知られる兵学校となりました。海軍兵学校に続き、海軍機関学校・海軍経理学校・海軍軍医学校も設立され、海軍士官の教育体制が確立しました』 『海軍の拡張 明治5年(1872)、海軍発足当時の保有艦船はわずか軍艦14隻、輸送船3隻の合計17隻(13832トン)でしたが、第2・第4代海軍卿川村純義は厳しい国家財政の中で艦隊の拡張に務めました。明治22年には艦隊条例が発布され、新鋭の艦隊を主力とする常備艦隊が編成されました。 海軍省主事(軍務局長)山本権兵衛は、初代海軍大臣・西郷従道を補佐し、人事の刷新など海軍の大改革を断行するとともに、海軍が国防の要であることを主張して海軍拡張計画を軌道に乗せ、列強に遜色のない一流の海軍を作り上げました。 イギリスへ軍艦を発注 「佐賀の乱」や「征台の役」などが起こり、海軍力の増強が急務となったため、明治8年(1875)5月に急遽イギリスに軍艦3隻の建造を発注しました。この3隻は明治11年(1878)に竣工、日本に回航され、「扶桑」「金剛」「比叡」と命名されました。初めて日本が保有した本格的な甲鉄艦であり、イギリス留学を終えた東郷平八郎はこの時「比叡」で帰国しました。 国産第1号「清輝」の竣工 明治9年(1876)6月、日本人の手によって設計・建造された汽帆両用の国産軍艦「清輝」が竣工しました。「清輝」は軍事視察のため明治11年(1878)1月横浜を出航し、ヨーロッパ諸国を歴訪、翌12年4月横浜に帰港しました。この巡航は全航程26000余海里、1年3ヶ月に及ぶ壮挙であり、新生日本を世界に印象づけました。 西郷従道と海軍拡張8ヵ年計画 明治16年(1833)以降8ヵ年間で、大艦5隻・中艦8隻・小艦7隻・水雷砲艦12隻を建造する海軍拡張計画が決定されましたが、清国との緊張が高まり、同国海軍の「定遠」「鎮遠」(ドイツ製戦艦・7220トン・30cm砲4門)に対抗し得る艦艇の建造に迫られました。明治24年(1891)、初代の海軍大臣・西郷従道は、三景艦(日本三景の名をつけた「松島」「厳島」「橋立」)を含む艦艇を建造し、艦隊の強化を図りました。 建造された主要な艦艇 明治16年(1883)の海軍拡張計画及びそれに続く明治18年(1885)の拡張計画により、15隻の艦艇の追加建造が認められ、三景艦のうち「厳島」「松島」はフランスで建造されましたが、「橋立」は自国で建造することになり、明治27年(1894)横須賀造船所で竣工しました。 鎮守府の開設 海軍の拡張に伴い、沿岸の防備・艦艇修理・整備・給炭給水・弾薬・糧食の補給などのため、艦艇の定係港及び後方支援組織が必要となり、明治17年(1884)に横須賀鎮守府(東海鎮守府を改称)、同22年(1889)に呉・佐世保、同34年(1901)に舞鶴の各鎮守府が設置されました』 『アヘン戦争と清国 イギリスは清国から茶や陶磁器の輸入が増え、銀が流出すると、インドにアヘンを作らせ清国に売り込みました。アヘンにより国が乱れることに危機感をもった清国は、アヘンの輸入を禁止しましたがイギリス側がこれに従わなかったため、特命大臣林則徐はイギリス商人のアヘンを没収し廃棄しました。これに反発したイギリスは自由貿易の侵害を口実に、1840年に軍艦を派遣しアヘン戦争をしかけました。圧倒的な軍事力によりイギリスは清国を屈伏させ、最初の不平等条約である南京条約を結び、香港島を割譲させ、また、貿易制限を撤回させました。 三角貿易の構造 イギリスは清国から茶・絹・陶磁器といった特産品を輸入し大量の銀を支払っていましたが、銀の流失を食い止めるためインドを介在させる三角貿易を始めました。イギリスはインドに機械織りの綿製品を輸出し銀で支払わせ、清国からは茶や陶磁器を買い入れ、インドは清国にアヘンを輸出し銀を獲得してイギリスから綿製品を輸入し、また、清国はアヘンを買い入れイギリスに茶や陶磁器を売るしくみであり、清国から人量の銀が流出しました。 列強の中国分割 清国は南京条約により香港をイギリスに割譲しましたが、その後、天津条約・南京条約などを締結し、イギリスに加えフランス・ロシア・ドイツなどに租借地、租界として領土を次々に蚕食され、また、鉄道敷設権や鉱山採掘権を奪われ、列強に属する半植民地国家になっていきました。 南京条約 アヘン戦争でイギリスに敗れた清国は、1842年8月に南京条約を締結し、香港の割譲、太平洋に面した5港の開港、また、没収したアヘン及び戦費に対応する多額な賠償金の支払いを余儀なくされました。 更に翌年、清国は領事裁判権・関税決定権・片務的最恵国待遇・土地租借権など不平等な内容が盛り込まれた追加条約の締結を強要され、アメリカとの望厦(ぼうか)条約、フランスとの黄埔(こうほ)条約など不平等条約を結ぶ端緒となりました。 租借地と租界 南京条約により香港の租借が認められたことで、「租借地」より更に列強に有利な上海などの「租界」設立の道が開かれました。その後、アメリカとの望厦(ぼうか)条約、フランスとの黄埔(こうほ)条約が結ばれ、これらの国もイギリスと同様の特権を得ることになり、清国は列強の「租借地」や「租界」によって領土を分割され、欧米諸国の従属的な市場として支配されました。なお、列強は租借地を軍事的・政治的拠点として、租界を自国民の居住、貿易のために利用しました。 朝鮮を巡る情勢 朝鮮は長らく清国を宗主国と仰ぎ朝貢国として従属していました。 日本は朝鮮半島が清国のものになると緩衝地帯がなくなり、日本の安全に大きな支障が生じるため、朝鮮の独立派を支持し軍制改革などを援助しました。清国は、日本が朝鮮に対する影響力を強めることに反発し、仮想敵国と見るようになりました。一方、ロシアはシベリア鉄道の建設を開始し、義和団の乱に乗じて大兵力を満州に派遣して居座り、軍備を強化し、朝鮮にも手を伸ばしました。このように朝鮮をめぐる攻防が日清・日露間で激しくなりましたが、日本にとって一番の脅威はロシアでした』 『近代日本の建設と日清戦争 鎖国によって長い間平和な時代が続いていた日本にも、西欧列強の波が迫りました。度重なる外国船の出現で鎖国を維持できないと悟った幕府は、ペリーの来航を機に開国を決断しました。尊皇攘夷、倒幕か佐幕かの混乱を経て樹立された明治政府は、さまざまな改革を断行し、産業の振興を図り、陸海軍の整備を進め、列強に対抗できるよう、国家の近代化を推進しました。この中、日本にとって最大の脅威である強国ロシアは南下の意図を露わにし、シベリア鉄道の建設を進め、強大な軍事力を背景に日本に対し圧力をかけました。また、朝鮮を引き続き自己の支配下に置こうとする清国と、朝鮮を独立国家として維持したい日本との摩擦が激化し、軍事衝突に発展し日清戦争が勃発しました』 『日清戦争後の海軍力の増強 日清戦争に勝利し下関講和条約が締結され、我が国に遼東半島が割譲されることになりましたが、圧倒的な軍事力を保有するロシア・ドイツ・フランスの三国に異を唱えられ(三国干渉)、軍事力で対抗する力は無い日本は、遼東半島を清国に還付せざるお得ない屈辱を味わい、「臥薪嘗胆」を合言葉に国民は高税に耐え軍事力の充実強化を図りました。 明治28年(1895)に第1期、翌29年に第2期海軍拡張計画が議会で承認され、10年間で軍艦103隻、153000トンを建造することが決定され、更に明治35年には戦艦「鹿島」「香取」を主体とする第3次拡張計画が成立し、ロシア海軍に対抗し得る海軍力の整備が本格的に始まりました。 艦隊整備構想 明治28年末における山本権兵衛軍務局長のロシアとの戦争を念頭に置いた艦隊構想は、戦艦6隻及び一等巡洋艦6隻を中軸とする通称「六六艦隊」でした。即ち、戦艦「富士」「八島」に加え15000トンの戦艦4隻及びロシア巡洋艦(8000トン)を上回る9000トン以上10000トン未満の一等巡洋艦を6隻建造し、これらの補助として軽巡洋艦以下の艦艇を整備する計画でした。 「三笠」の建造 戦艦「三笠」は、イギリスのバーロー・イン・ファーネス市にあるヴィッカース造船所において、明治32年(1899)1月に起工し、3ヶ年の歳月と880万円(88万ポンド)の経費をかけ同35年(1902)に竣工し、直ちに日本に回航され常備艦隊に編入されました。 排水量15140トン・全長122m・速力18ノット・主砲30cm砲4門・副砲15cm砲14門などを搭載しており、当時世界最大級の一等戦艦でした。 新鋭艦の建造 明治29年(1896)から始まった海軍拡張10年計画により、甲鉄戦艦の「富士」及び「八島」に加え、明治32年から34年にかけて「敷島」「朝日」「初瀬」が次々に竣工し、最終艦の「三笠」の建造、回航により戦艦6隻の態勢が整備されました』 『連合艦隊の編成 日露関係が険悪化し一触即発の情勢になり、明治36年(1903)12月、第1艦隊及び第2艦隊をもって連合艦隊が編成され(その後第3艦隊を編入)、連合艦隊司令長官(第1艦隊司令長官兼務)に東郷平八郎中将(翌年6月大将に昇任)が任命され、艦隊は戦時態勢に移行しました。連合艦隊司令部参謀長・加藤友三郎少将、作戦参謀・秋山真之(さねゆき)少佐などが東郷司令長官を補佐し、また、第2戦隊司令長官には上村彦之丞中将、第3戦隊司令長官には片岡七郎中将がそれぞれ任命されました。 兵力は、戦艦6隻・一等巡洋艦6隻を主力とし、2等・3等巡洋檻(19隻)・駆逐艦・水雷艇などを加え、総排水量約280000トンでした。 これに対し、ロシア太平洋艦隊は戦艦7隻・巡洋艦11隻を主力とし、砲艦・駆逐艦などを加え、総排水量は約190000トンでした』 『ロシアの脅威と日英同盟 ロシアは三国干渉後、政治・経済・軍事力の全てを拡大しました。満州においても義和団事件をきっかけに大軍を送りこみ、撤退協定を結んだにもかかわらず居座り、さらに軍備を増強し南下の意思を露わにしました。 ロシアの脅威が目前まで迫った日本は、ロシアを朝鮮から排除するため、利害の一致したイギリスと日英同盟を締結しました。当時、「太陽の沈むことなき大国」と言われたイギリスと、対等な立場で同盟を締結したことは、日本の国際的地位を大きく高めました。 義和団事件(北清事変) 西欧文化が国内に流入し、自国の文化や社会習慣が崩壊することへの反発から、清朝政府を擁護し、西欧勢力を排除しよう(扶清滅洋)とするナショナリズムが高まり、義和団が蜂起し外国人の殺害や略奪が起こりました。 1900年6月には、義和団が北京の各国大公使館地区を攻撃し、これに清同軍が加わったため、包囲された大公使館の同胞を救助しようとするする列強連合軍(日本も参加)との間で戦闘が始まりました。同年8月には連合軍が北京を攻略、籠城していた各国の居留民や清国人キリスト教徒を救出し「義和団の乱(北清事変)」は平定されました。 日英同盟 ロシアは義和団事件の際、東清鉄道の防衛を口実に満州に大軍を送りこみ、事件解決後も撤退に応じず居座り続け、旅順に要塞を構築し軍備を固め、勧告西岸の龍岩浦(りゅうがんほ)に軍事基地を建設して朝鮮半島に手を伸ばし、日本に対し露骨な軍事的圧力を加えました。朝鮮半島は日本の安全にとって極めて重要な地域であり、ロシアと話し合いで解決するか、イギリスと同盟しロシアの南下を阻止するかで、国論が分かれましたが、信頼できるイギリスと同盟すべきとする小村寿太郎外相の主張が入れられ、日英同盟が締結されました。有色人種の小国日本が当時世界の超大国イギリスと対等な立場で同盟を締結したことは、日露戦争へのフランスやドイツの干渉を阻止しただけでなく、日本の国際的地位を大きく高めました』 「三笠」の推進装置、旧帝国海軍階級章、艦長室、連合艦隊司令長官室、食堂、風呂、士官の写真、歴代艦長名、東郷元帥の遺髪、明治天皇の御真影、軍楽隊室・・・を見て回りました』 『日露戦争 ロシアは満州を支配し、朝鮮にも軍事基地を設け、日本に対し軍事的な圧力をかけてきたため、日本は自衛のためロシアとの戦争を決意しました。日露戦争は、明治37年(1904)2月9日、日本海軍による仁川沖海戦、大連、旅順のロシア艦隊に対する夜襲で始まり、黄海海戦、蔚山沖海戦に勝利を収め制海権を確保、一方日本陸軍は遼陽の会戦、奉天の会戦に勝利し、日本は優勢を確保しました。ロシアは頽勢(たいせい)の挽回を図り遠路バルチック艦隊を極東に派遣しましたが、連合艦隊はこれを対馬沖に邀撃(ようげき)し、日本海海戦において海戦史上比類のない圧倒的な勝利を収め、これにより日露間の講和の機運が高まり、アメリカのルーズベルト大統領の仲介でポーツマス講和条約が締結されました。日露戦争は日本の独立と安全を守り国際的地位を高めたのみならず、欧米列強に抑圧されていたアジア・アラブ諸国に独立の希望を与えました』 『日露戦争の経緯 ロシアは、義和団事件(北清事変)が解決した後も軍隊を満州に駐留させ、旅順・大連の防備を固め、更に朝鮮にも軍事基地を設けるなど支配拡大の野望を露わにしました。朝鮮半島は日本の安全保障上緊要な地域であり、ロシアの朝鮮進出に危機感を強めた日本は、ロシアには満州、日本は朝鮮での権益を相互に認める方向で粘り強く外交交渉を続けましたが、ロシアの対応は極めて不誠実であり、交渉中に兵力の増強を図りました。開戦の時期が遅れるとますます不利になると判断した日本は、明治37年2月6日にロシアとの国交断絶を通告し、同9日に陸軍先遣部隊を仁川に上陸させ、仁川沖のロシア艦艇と戦闘、大連・旅順のロシア艦隊に対する夜襲を敢行し、日露戦争が始まりました』 『日露両軍の兵力と作戦計画 日露間の兵力の格差が大きいことから、日本の計画は早期決戦に重点が置かれました。ロシアがヨーロッパ方面から増援部隊を送る前に、満州のロシア軍を壊滅させる必要があり、陸軍は朝鮮・鴨緑江を制圧し、満州南部(遼陽)でロシア陸軍を撃破する作戦を立てました。一方、海軍は、陸軍の兵員や軍需物資を安全に船舶で輸送するためには制海権の獲得が必須であり、また、ヨーロッパからの増援艦隊到来に備えるためにも、早期に太平洋艦隊を壊滅する必要がありました。 日露両軍の兵力と作戦計画 日露開戦時の日本とロシアの戦力比較 人口 日本4600万人:ロシア12000万人 兵力 100万人:200万人 海軍 28万トン:35万トン 火砲 636門:2260門 日本の作戦計画 1.陸軍はロシアに先んじて朝鮮に進出し、京城を占領する。 2.陸軍は満州を主作戦地とし、遼陽においてロシア軍と決戦する。ウスリーを支作戦地とし、牽制作戦を行う。 3.海軍は速やかにロシア太平洋艦隊を撃滅し、日本周辺の制海権を確保する。 ロシアの作戦計画 1.陸軍は遼陽、海域付近で防戦、八tビンまで11本軍の進撃を遅滞させつつ後退、その間に兵力をヨーロッパから増派し日本軍を撃滅する。 2.海軍は黄海の制海権を確保し、日本陸軍の朝鮮半島西岸と鴨緑江付近への上陸を阻止し、ウラジオ艦隊により日本の海上交通を遮断する』 『緒戦 日露戦争に勝利するためには黄海及び日本海の制海権を確保し、満州で戦う陸軍への兵員や物資の補給を安全に実施する必要があり、そのためには旅順方面のロシア太平洋艦隊を先制攻撃により壊滅しなければなりませんでした。そこで、日本がロシアに対し国交断絶を通告した後、明治37年(1904)2月9日、瓜生少将率いる第4戦隊は、仁川沖においてロシアの巡洋艦「ワリヤーグ」及び砲艦「コレーツ」と交戦し、また、駆逐隊は同日夜半、旅順港および大連沖に停泊していたロシア艦隊を奇襲攻撃しました。 仁川沖海戦 2月8日に瓜生少将の率いる第4戦隊は、陸軍部隊を無事に仁川に上陸させた後、仁川港に停泊中の巡洋艦「ワリヤーグ」及び砲艦「コレーツ」に対し。「9日午後1時までに仁川を出港しない場合は攻撃する」と通告しました。「ワリヤーグ」艦長は劣勢にもかかわらずに、9日正午過ぎ仁川港を出撃し日本艦隊の集中砲火を浴びて大破、「コレーツ」とともに仁川港にもどり自沈しました。 マガロフ中将の死 明治37年(1904)4月13日、マガロフ中将は駆逐艦「ストラーシヌイ」が旅順口付近で連合艦隊に砲撃されていることを知ると、戦艦「ペトロバウロウスク」に座乗し救援のため出撃しました。しかし、「ペトロバウロウスク」は日本海軍が敷設した機雷に接触、沈没し、マガロフ中将以下620名の乗組員が戦死しました。世界的に有名な戦略家であり部下からも信頼を受けていたマガロフ中将を失い、ロシア艦隊の士気は大きく低下しました』 『満州進撃 明治37年(1904)4月上旬、黒木大将指揮の第1軍が快進撃する中、第1軍とともに遼陽方面のロシア軍を撃滅する任務を与えられた奥大将の指揮する第2軍の上陸作戦が決行されました。5月4日に第2軍を搭乗させた輸送船団は、第3艦隊に護衛されながら塩大漢に近接し、翌5日には上陸地点沖で第3艦隊が援護射撃を行う中、上陸に成功し遼陽に向かいました』 『旅順要塞の攻防 明治37年(1904)8月以来、乃木希典大将率いる第3軍により、旅順要塞に対する攻撃が2回にわたり敢行されましたが、堅固な要塞と機関銃に阻まれ攻略することができませんでした。11月下旬から12月にかけての第3回目の総攻撃では、比較的敵の防備が薄い203高地を攻め、激戦の末に同高地を占領しました。203高地占領後、弾着観測班を山上にあげて旅順港内のロシア艦隊を砲撃、旅順艦隊を壊滅し、明治38年1月1日に旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏しました。 水師営の会見 明治38年1月1日旅順要塞は遂に陥落、ロシア軍は降伏しました。長期にわたる激しい攻防を終え、水師営の民家において乃木大将とステッセル中将との会見が行われましたが、乃木大将は勝利に驕(おご)ることなく敗者をいたわり、ステッセル中将に対しても帯剣を認め、和やかな雰囲気の中で旅順開城についての話合いが行われました』 『旅順口閉塞作戦 旅順口閉塞作戦は、連合艦隊参謀の有馬良橘(りょうきつ)中佐が、米西(アメリカ・スペイン)戦争におけるサンチャゴ港閉塞作戦を参考にして計画したしたものです。旅順口の航路幅は約90mでしたので、水路に船を沈めて港口を塞ぐという作戦でした。多くの志願者から選抜された隊員で閉塞隊が編成され、閉塞作戦は3回行われましたが、完全に航路を閉塞することはできませんでした。 有馬良橘 文久元年(1861)和歌山県に生まれる。口清戦争では東郷平八郎「浪速」艦長の下で航海長として活躍し、日露戦争では連合艦隊先任参謀に起用され、旅順閉塞作戦の主導的役割を果たしました。戦後は、「音羽」「磐手」艦長、第2艦隊参謀長、砲術学校長、教育本部長、第3艦隊司令長官などを歴任、昭和6年(1931)には明治神宮宮司となり、東郷平八郎元帥の国葬では葬儀委員長を務めました』 『第1回閉塞作戦 第1回の閉塞隊は、有馬中佐以下77名で編成され、2月24日「天津丸」「報国丸」「仁川丸」「武楊丸」「武州丸」の5隻が、水雷艇の支援下に旅順口に突入しました。しかし、ロシア側の激しい砲撃を受け辛うじて広瀬少佐の指揮する「報国丸」だけが港口に到達し自沈しました』 『第2回閉塞作戦 第2回の閉塞隊は、有馬中佐以下68名で編成され、3月27日未明、「千代丸」「福井丸」「弥彦丸」「米山丸」の4隻で決行されました。第2回目の封鎖作戦は、予期していたロシア側の激しい砲撃を受け、各船は港口付近まで到達できたものの予定地点に沈めることができず、閉鎖作戦は成功しませんでした。この閉塞作戦で、広瀬中佐は離船のためボートに乗り移った直後に被弾し戦死しました』 『第3回閉塞作戦 第3回閉塞作戦は5月2日、12隻で計画されましたが、天候が悪化したため急濾作戦中止が決定されました。しかし、視界が悪く中止命令が各船に徹底せず8隻の閉塞船が突入し、帰還できた隊員は半数以下でした』 戦艦「三笠」の歩みコーナーがありました。『当時の情勢 明治28年(1895)、日清戦争(清国は今の中国)で日本が勝利し、下関で結ばれた講和条約により、戦争の賠償として、清国は台湾と遼東半島を日本に割譲(領土を譲り渡す)することが決まりました。 しかし、ロシア・フランス・ドイツの三国は、遼東半島の割譲に反対し、軍事力を背景にして遼東半島を清国に返すよう、日本に強く迫ってきました。(三国干渉) 軍事力ではとても対抗できない日本は、その要求に応じ遼東半島を清国に返還せざるをえませんでした。 明治維新により大改革を行い、近代国家を建設すべく歩み始めたばかりの日本は、世界の厳しさを思い知らされたのです。 当時は、列強(イギリス・フランス・ドイツ・ロシアなど軍事力の強い国)が競ってアジア・アフリカの国々を自分の植民地として支配し、富を奪う時代でしたから、強い軍事力を持たなければ日本も同じ運命をたどることは明らかでした。 そこで日本政府は、国を豊かにするために広く産業を興し、また、国を守るために、外国に軍艦の建造を発注し、大砲なども買い求め、陸軍および海軍を強化しました。 「三笠」は、イギリスに発注した戦艦6隻の中の最後の艦であり、明治35年3月イギリスのヴィッカース造船所で完成し、横須賀に廻航され艦隊に編入されました』 『ロシアの極東進出 ロシアは清国での戦乱に乗じて大軍を清国に送り込み、そのまま満州(清国の東北部)に居すわり、日本が返還した遼東半島を清国から借り受け、強固な要塞(軍事基地)を築きました。 そして、シベリア鉄道を通じてロシアから満州にぞくぞくと軍隊を送り込み、さらに、朝鮮半島にも基地を作って勢力の拡大を図りました。 我が国にとって朝鮮半島は極めて重要な地域であり、もしロシアが朝鮮半島を支配することになれば、日本の安全が脅かされるので、日本政府は、ロシアの溝州の支配を認める代わりに、朝鮮半島には進出しないよう粘り強く交渉しました。 しかし、ロシア政府は日本を小国と侮り、外交交渉を引き延ばすだけで誠意ある回答を行わず、シベリア鉄道を通じて陸軍兵力を送り込み、また、ロシア太平洋艦隊の増強を図りました。 このままでは軍事的にますます不利になると考えた日本政府は、ロシアと国交を断絶(国の付き合いをやめる)し、ついに明治37年2月、ロシアとの戦争を決意しました。日露戦争の始まりです。』 『日本海海戦 日本海において、明治38年5月27日及び28日の2日間にわたり激しい戦いが繰り広げられました。 5月27日、東郷平八郎司令長官が率いる連合艦隊は、遠くヨーロッパから派遣されたロシアのバルチック艦隊を対馬沖で待ちかまえ、その主力の戦艦などを撃破し、翌28日には、ウラジオストクに逃走を図った残りの艦隊を包囲したため、バルチック艦隊は降伏しました。 「三笠」は、連合艦隊の旗艦として常に先頭に立って戦い、日本海海戦の勝利に大きく貢献しました。 日本海海戦における圧倒的な勝利は、ロシアの戦う意思をくじき、両国の間で、講和(戦争をやめる)の話し合いが始まり、アメリカ大統領の仲介で、アメリカのポーツマスにおいて、日露講和条約が結ばれたのです。 日本海海戦の勝利は、我が国の独立を守っただけではなく、植民地になっていたインドなどアジアの国々に、勇気を与え、独立を促しました』 『戦艦「三笠」記念艦となる 各国が軍艦の建造を競うようになり、経済的な負担が大きくなり過ぎたため、軍艦の保有隻数を制限する軍縮会議が、ワシントンにおいて開催されました。 大正12年9月(1923)、日本はワシントン軍縮条約で決まった保有制限を受け入れ、「三笠」を廃棄(スクラップ)することにしました。 しかし、日本が日露戦争に勝利し、独立を守った誇りの象徴として「三笠」を残すべきであるとの声が高まり、軍事専門委員会(委員はアメリカ、イギリス、フランスなど)で記念艦として保存することが認められました。 当初は、「三笠」を東京の芝浦に置く予定でしたが、横須賀港の岸壁に係留中、関東大震災により船底部を破損したため場所を横須賀に変更し、海岸の岩場を掘り、「三笠」を満潮の時に引き入れて艦首を皇居に向けて固定しました。 記念艦「三笠」の保存記念式は、大正15年11月12日、摂政宮であられた皇太子殿下(昭和天皇)のご来臨の下、多数の人々が出席して厳粛盛大に挙行され、記念式終了後、「三笠」は三笠保存会に引き渡され管理運営を同会が行なうことになりました』 『連合軍が進駐し接収 昭和20年8月15日(1945)、太平洋戦争が終わり、横須賀にも連合軍が進駐し「三笠」を米国海軍が管理することになりました。 「三笠」を好ましく思っていなかったソ連(今のロシア)のデレビヤンコ中将は、スクラップにするよう強く主張しましたが、横須賀市が「三笠」の保存を強く要請していたため、連合軍極東軍事委員会は両方の意見を入れて、マスト・大砲・艦橋・煙突などを取り去るものの、船体はそのまま残すことを決めました。 「三笠」はスクラップを免れました』 『「三笠」遊興施設となる 昭和23年1月、横須賀市は、「三笠」を水族館に、またその周辺を遊園地にする許可を米海軍横須賀基地司令官に申請し、「艦橋・大砲・マスト・煙突などを取り去ること」を条件として認められました。 横須賀市はこれを受けて、湘南振興株式会社に「三笠」及びその周辺の使用を許可し、同社は、船橋・マストを始め上甲板にあった構造物及び艦内の銅・真鍮などの金属を売り払い、昭和24年4月、「三笠」の上甲板に水族館を建設し、また、周辺に遊園地を作りました。その後さらにダンスホールを上甲板に増設しましたが、一時は賑わったものの、次第に客足が遠のき、「三笠」は手入れされることなく放置され、見る影もなく荒れ果てました』 『復元に向けての動き 昭和26年に講和条約が締結され、日本は独立を回復しました。昭和30年代に入り経済の復興とともに、人々の気持ちも落ち着きを取り戻し、「三笠」の荒れ果てた現状に気付き、多くの人々から復元すべしとの声が上がりました。 その口火を切ったのはイギリスのルーピン氏でした。戦艦「三笠」が英国バーロー市の造船所で建造中、乗組員と親しく交際していたルービン氏は戦後日本を訪れ、見る影もなく荒れ果てた「三笠」を見て嘆き、ジャパンタイムスにその状況を投稿して日本人の奮起を促しました。 そして、作家の伊藤正徳氏は産経新聞に連截した「大海軍を想う」の中で、日本が独立を守った誇りの象徴として「三笠」が保存された経緯と荒廃した現状に触れ、復元を強く訴えました。 また、上皇陛下が皇太子殿下の頃に、ご教育を担当した元学習院院長の山梨元海軍大将は、防衛庁長官に「三笠」の復元を要望するとともに、米極東海軍司令官に協力を求め、また、大正15年に「三笠」を現在の場所に固定する作業を指揮した中村虎猪氏は横須賀市議会議員として地元で精力的に活動しました』 『記念艦「三笠」の復元 昭和33年11月、「三笠」を復元し管理運営に当たる三笠保存会が設立され、会長には、戦後の混乱期に大蔵大臣を務め経済界で信望の厚い渋沢敬三氏が就任しました。 三笠保存会は復元工事に必要な経費を確保するため、募金目標額を1億5千万円と定め、各都道府県に支部を置いて個人及び企業団体に募金を呼びかけました。 個人の目標額は5千万円でしたが、国民の復元に対する期待は大きく、48万人を超える人々から目標を大幅に上回る約8240万円が集まり、また、企業団体からも7380万円が寄せられました。 米海軍も積極的に協力し、募金総額は揚陸艦1隻のスクラップ売却代金を含め2400万円に達し、また、日本相撲協会は勧進相撲を催してその収益金を「三笠」の復元のために寄付しました。 復元工事には国の予算9千8百万円と募金8千百万円が充てられ、昭和34年10月から36年5月までの約1年7ヵ月にわたり、馬渕建設・浦賀船渠・石川島播磨重工業が分担して工事を行い、計画どおり完了しました』 『復元記念式 昭和36年5月27日、防衛庁と三笠保存会との共催による「三笠」復元記念式が、義宮殿下(今のお名前は常陸宮殿下)の臨席の下、内外の多数の御来賓をお招きし、5千人を超える人々が出席して盛大に行われました。 式典は西村防衛庁長官・渋沢三笠保存会会長両主催者の式辞で始まり、次いで、池田勇人内閣総理大臣(小暮運輸大臣が代理で出席)・神奈川県知事・横須賀市長・米海軍代表ドーリー少将などの祝辞が述べられました。 その後、義宮殿下が舷門入口においてテープカットを行われ、これに合わせて前部マストにはZ旗が掲揚されました。 上空には海上自衛隊及び米海軍航空機が編隊で飛行し、また、沖合では魚雷艇数隻が高速で走り、復元の喜びが会場に満ちあふれました。 そして、三笠公園内にある東郷元帥お手植えの月桂樹のそぱに、ニミッツ元帥・コナリー米海軍長官・パーク米海軍作戦部長の名で3本の月桂樹が植樹されました。 復元記念式終了後、「三笠」の管理運営は(財)三笠保存会に委託され、現在に至つています。』 『小泉信三氏の講演 昭和33年11月、日本工業倶楽部での三笠保存会設立発起人総会において小泉信三氏は「三笠」復元の意義を、次のとおり話されました。「自尊自重の精神のない国民が、他国人から侮りを受けるのは当然であり、自らを重んずる精神のないものは、弱小のものに対しては不遜となり、強大なるものに対しては卑屈になることは避けがたいことであります。 他国の武力に屈するのやむなきに至った小泉信三日本人は、国民としての誇りを失い、心の支えを失って、退廃に陥りました。 道徳的努力を無意味なものとし嘲(あざける)る思想、ひたすら官能の満足を追い求める傾向、さらに、何者かに媚びる気持から、しきりに日本及び日本人を侮り嘲る風潮が生じています。 このたびの三笠保存会の設立により、国民の間で復元機運が高まり、記念艦「三笠」が元の姿に復元され、自尊自重の精神を取り証すことができることは、申しようもない喜びです。 私は、多くの同胞が、ことに1人でも多くの少年・少女が、復元された「三笠」を訪れて、我が日本の昨日と今日と明日とに思いをいたすことを願っております」(抜粋)』 『日本の勝利と歴史的意義 産業革命以来、西欧列強は競ってアフリカ・アジアに進出し、強大な軍事力を行使してこれらの地域の国々を屈服させ、国土財産を収奪し次々に植民地として支配していきました。近代国家として歩き始めた小国日本が、財界の強国として恐れられていた大国ロシアと戦い勝利を収めたこと、とりわけ日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を迎撃し、海戦史上例を見ない圧倒的な勝利を収めたことは、列強に隷従させられていた国々、特に有色人種と蔑視され、抑圧、蹂躙されていたアジア・アラブ諸国に希望を与え、独立の気運を高めました。 また、ロシアに抑圧されていたフィンランド・ポーランドの独立運動などを助長し、ロシア国内における革命健運を高め、アメリカにおける黒人に対する人種差別撤回運動にもつながりました。 インドの独立運動家であり、のちの首相ネルーは日本の勝利を、次のように子供に話したと伝えられています。「日本は勝ち、大国の列に加わる望みを遂げた。アジアの一国である日本の勝利は、アジアの全ての国々に大きな影響を与えた。私は少年時代、どんなにそれに感激したかをお前によく話したことがあるがあったものだ。たくさんのアジアの少年・少女、そして大人が同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国は敗れた。だとすれば、アジアは、昔、たびたびそういうことがあったように、今でもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。ナショナリズム(アジアの民族としての自覚)は、いっそう急速に東方諸国に広がり「アジア人のアジア」の叫びがおこった』 『軍神「広瀬中佐」 旅順口閉塞作戦で危険を冒して部下を救おうとして戦死した広瀬中佐の勇敢な行為は、国民に深い感動を与え、広瀬中佐の歌が作られ文部省唱歌として多くの人達に親しまれました。 広瀬武夫 明治元年(1868)大分に生まれる。海軍兵学校卒業後にロシアに留学、その後ロシア駐在武官として活躍しました。日露戦争では、第1回旅順口閉塞作戦に「報国丸」指揮官として作戦に従事し、続く第2回の閉鎖作戦でも「福井丸」指揮官を命ぜられました。敵弾をかいくぐり旅順口に「福井丸」を自沈させ、離艦する際に杉野兵曹長が見当たらないため、3度にわたり艦内を捜索したが発見た時に被弾、戦死しました。この責任感旺盛にして勇敢な行為誌、「軍神広瀬中佐」として賞賛されました』 『秋山真之(さねゆき) 明治元年(1868)、愛媛松山に生まれる。明治23年(1890)7月に海軍兵学校を主席で卒業、アメリカに留学して海軍戦略・戦術を学び、観戦武官として米西(アジア・スペイン)戦争を研究しました。日露戦争では連合艦隊作戦主任参謀となり、日本海海戦ではバルチック艦隊を7段構えの作戦により撃破し、歴史的で圧倒的な勝利を収めました。「天気晴朗ナレドモ波高シ」の電文や「連合艦隊解散の辞」は名文として知られていますが、これらは秋山真之の起案したものです。(秋山好古の弟)』 『明石元二郎 元治元年(1864)、福岡蕃の大名町に生まれました。陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業し、ドイツ留孚を経て、フランス公使館、次いでロシア公使館付陸軍武官となりました。日露戦争が開戦するとスウェーデンのストックホルムを本拠として欧州及び露国の情報・工作活動を実施しました。明石大佐は、資金援助などを通じ、革命抵抗勢力などを支錬し、ロシアの対日継戦意図の挫折を図りました。 戦後、参謀次長・師団長を歴任し、第7代台湾総督に就任し、在任中に没しました』 『秋山好古(よしふる) 安政6年(1859)愛媛松山に生まれる。陸軍士官学校・陸軍大学を卒業し騎兵少尉に任官、その後フランスに留学し、日清戦争では騎兵第1大隊長として活躍しました。日露戦争で騎兵第1旅団長として機動力を発揮して奮戦、遼陽・奉天会戦に勝利をもたらし、「騎兵の父」と仰がれました。近衛師団長・朝鮮軍司令官・教育総監などを歴任後に退官し、北予中学校校長(現松山北高校)として青少年の教育に尽力しました。(秋山真之の兄)』 『乃木希典 嘉永2年(1849)、長州藩江戸藩邸に生まれる。戊辰戦争に従軍、明治19年(1886)ドイツに留学し、軍政・陸戦を学び、日清戦争では歩兵第1旅団長として活躍しました。日露戦争においては第3軍を指揮し3度の総攻撃により難攻不落の旅順要塞を陥落させ、また、その後は奉天の会戦に参じ、その勝利に大きく貢献しました。軍事参議官を経て学習院長に就任、大正元年(1912)9月、明治天皇の御大葬儀の当日、赤坂の自邸において殉職、静子夫人も殉じました』 『児玉源太郎 嘉永5年(1852)山口に生まれる。戊辰戦争・西南戦争に従軍、陸軍参謀本部第1局長として組織、装備の近代化を推進、その後、陸軍大学校校長・台湾総督を歴任し第4次伊藤博文内閣の参謀長として大山満州軍総司令官を補佐し、多くの制約困難を克服し陸戦を勝利に導きました』 『大山巌 天保13年(1842)、鹿児島に生まれる。薩英戦争に従軍、その後フランスに留学して軍事学を学び、帰国後は日本陸軍の建設に尽力、参謀本部次長、陸軍卿を経て、第1次伊藤内閣から第2次松方内閣まで6代の陸相を務めました。日清戦争では第2軍司令官として活躍し、明治31年に元帥となり、翌年参謀総長に就任。日露戦争では満州軍総司令官に任ぜられ、卓越した総帥により全軍の戦闘力を存分に発揮させ奉天会戦などに勝利しました。(西郷隆盛の従弟)』 『伏見宮博恭(ひろやす)王殿下 明治8年(1875)東京に生まれる。明治天皇の命で明治19(1886)に海軍兵学校を卒業後、ドイツに留学しキール海軍兵学校に引き続き、キール・ドイツ海軍大学校に学び、船路大西洋を横断して帰国されました。その後、海軍士官として勤務し、日露戦争では「三笠」に乗り組み、第3分隊長(後部砲塔指揮官)として活躍、明治37年(1904)8月10日の黄海海戦では、後部砲台に命中した砲弾で負傷されました。昭和7年元帥府に列せられました』 『東郷平八郎 弘化4年(1847)鹿児島に生まれる。薩英戦争・戊辰戦争に従軍、その後7年間イギリスに留学しました。日清戦争では浪速艦長として出撃、イギリス国旗を掲げ清国兵・武器を運送していた「高陞号(こうしょうごう)」を国際法に則り撃沈し、世界に名を馳せました。その後、佐世保・舞鶴各鎮守府司令長官などを歴任し、日露戦争では連合艦隊司令長官としてロシアの旅順及びウラジオ両艦隊を壊滅し、また、日本海海戦ではバルチック艦隊を迎撃し世界に類例のない大勝利を収め、日露戦争の勝利に大きく貢献しました。日本海海戦における卓越した作戦指揮、とりわけ敵前大回頭(T字作戦)は「Togo Turn」と呼ばれ世界的に有名です。大正2年(1913)4月元帥府に列せられました』 『山本権兵衛 嘉永5年(1852)鹿児島に生まれる。薩英戦争・戊辰戦争に従軍、その後ドイツの軍艦に乗り組み、砲術・航海術・戦略戦術を学びました。西郷従道(つぐみち)海軍大臣官房主事、また、海軍大臣として人事の刷新を断行し、組織・制度を確立するとともに、列強に伍する艦隊を整備し、日本海軍を世界一流に育て上げ、その傑出した功績から「海軍の父」と称されています。日露戦争直前、先任序列を無視して舞鶴鎮守府長官の東郷平八郎中将を連合艦隊司令長官に抜擢し、この英断が日本の勝利に繋がりました』 『日露戦争と人々 日露戦争は、帝政ロシアの脅威に晒された日本が、独立と安全を守るために必死に戦った自衛の戦争です。日本海海戦の勝利により日露間の講話の機運が醸成され、アメリカ大統領仲介でポーツマス講和条約が締結され、戦争は終わりました。日露戦争は日本の独立を守り、国際的地位を高めたのみならず、列強に蹂躙・抑圧されたアジア・アラブ諸国、さらにはロシアの支配下にあった東欧諸国を目覚めさせました。明治の先達は、政治・外交・経済・軍事それぞれの分野で日露戦争の勝利に大きく貢献しました』 様々な展示物を見ていると、大きな菊の御紋が目に付きました。「三笠」の艦首飾りと説明されていました。間近で見るとその大きさに驚きます。 『久松五勇士物語 明治38年(1905)5月25日、宮古島の漁師5人は荒波の中、昼夜を分かたず刳船(くりぶね・サバニ)を力漕し、「バルチック艦隊発見の知らせ」を海底電信局のある石垣島に届けました。既に「信濃丸」がバルチック艦隊を発見していましたが、この身命を賭した行為は、昭和になってから明らかになり「遅かりし1時間」と題する見出しで教科書にも紹介され、顕彰されるに至りました』 『日本海海戦 ロシアの旅順艦隊及びウラジオ艦隊を壊滅し、制海権を確保した連合艦隊は、呉・佐世保などに帰港し戦闘被害の修理、弾薬などの補給を行い、再度洋上に進出、対馬西方に哨戒艦を配備するとともに、日夜厳しい訓練を実施しつつバルチック艦隊を待ち構えました。 5月27日早朝、哨戒艦「信濃丸」からの「敵艦隊見ゆ‥・」の第1報を得て、鎮海(ちんかい)方面に集結していた連合艦隊は直ちに出動、対馬沖においてバルチック艦隊を迎撃し、2日間に及ぶ激戦の末、海戦史上例を見ない大勝利を収めました。 日本海海戦後、講和の機運が高まり、日露戦争は終局に向かいました』 勲章が並んでいました。祖父が頂いた「金鵄勲章」も展示されていました。母方の先祖は、鎌倉時代まで遡れます。平安時代に美作国守として京の都から下った菅原道真の子孫で、美作管家党として軍事化して城持ち武士団の一翼を担っていました。鎌倉時代末期、足利尊氏に味方しました。後醍醐天皇の「建武の新政」に反対し袂を分かった尊氏が都で敗戦し西国九州に逃れて行くとき、美作管家は尊氏を追討した新田義貞軍を美作で対抗し、尊氏は九州まで逃げることが出来たが、母方先祖の城は落城し、親戚を頼って北関東まで流れていった。室町・戦国・江戸時代は、佐野氏家老として家系が続きましたが、「江戸の大火」を佐野氏居城「唐沢山城」から視認した佐野家は、「江戸が攻められている」「徳川が危ない」と完全武装姿で江戸に急いだ。突然、思いもよらなかった武装集団が江戸市中に入ってきたことに驚いた幕府は、佐野家を領地替えし幕府直轄領となった。その時、家老の1人だった先祖は、帰農して地元に残りました。遠く、平将門を討ち取った俵藤太秀郷を祖とする「佐野家」は平安の昔から下野国に根を張った藤原氏流れの名家です。徳川の天下もいつまで続くかわからないので、先祖からの長い地元とのつながりを絶たないためです。それ以来、庄屋として地元民と繋がりながら、小山を山城として「イザ」って時に主君佐野家を迎える準備をしていました。結局その機会はなく江戸は終わり、実業で肥料会社・鉄道会社・銀行などを創業し、当主は衆議院議員をしたりしていました。その分家であり母の実家の祖父は、実家の実業をしながら武人に戻り、近衛兵として天皇陛下直属軍として騎兵隊長をしていました。日露戦争に従軍し軍功を上げ、金鵄勲章を頂く幸運に恵まれましたが、酷寒の地で体調を崩し腎炎のために、帰国後40才代で亡くなりました。5女だった母が4才の時です。子供の頃、祖母や叔父叔母から何度もその勲章を見せてもらいました。「我が家一番の宝物」と言っていました。金鵄勲章も形は思えており、「あっ、これ」ってすぐにわかりました。また見れて得した気持ちになりました。 『バルチック艦隊 ロジェストウェンスキー中将を指揮官とするバルチック艦隊(第2太平洋艦隊)は明治37年(1904)10月15日にバルト海海軍基地リバウ発、11月3日にタンジール(モロッコ)でスエズ運河を通るフェリケルザム支隊を分離し、大西洋を南下しました。 12月29日にマダガスカル島に到着しフェリケルザム支隊を合同後、翌38年(1905)3月16日に同地発、インド洋を東航しカムラン湾に向かいました。他方、ロシアは旅順艦隊の壊滅に伴い、増援のため急進旧式軍艦5隻を基幹とする第3太平洋艦隊を編成し、2月15日にリバウを出発させました。なお、カムラン湾に到着後、第3太平洋艦隊はバルチック艦隊に編入されました』 『蔚山(うるさん)沖海戦 対馬東方海域を哨戒中の上村中将率いる第2艦隊は、8月14日に旅順艦隊支援のため南下するウラジオ艦隊を捕捉、5時間に及ぶ砲撃戦の末「リューリック」を撃沈、「ロシア」及び「グロモボイ」に大損害を与え、ウラジオ艦隊を撃滅しました』 『黄海海戦 明治37年(1904)8月10日午前9時、旅順口から出撃した旅順艦隊を発見した連合艦隊は、その退路を断つため敵の後側に回りこみ砲撃を開始しました。ところが従来とは違い旅順艦隊はウラジオストクを目指して一路南下したため追撃し、午後1時過ぎに砲撃を再開しました。この海戦で旗艦「ツェザレウイチ」が被弾して操舵不能となり、戦艦など9隻は旅順口に引き返し、中立国に逃げこんだ艦艇は武装解除されました』 『日露戦争が世界史に与えた影響と日露戦争後の世界情勢 日本海海戦の意義と口比谷焼き打ち事件: ロシアは、日露戦争の劣勢を挽回するためバルチック艦隊を極東に派遣しました。 1905年5月、束郷平八郎司令長官が指揮する連合艦隊は、対馬沖でバルチック艦隊を迎え撃ち、高い士気と巧みな戦術で全滅させ、海戦史に残る驚異的な勝利をおさめました。 この海戦の決定的な勝利は、ロシア海軍を壊滅させ、反政府勢力の叛乱により国内情勢が不穏になっていたロシアを講和に向かわせました。 ルーズベルト大統領の斡旋により、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれました。日本代表・小村寿太郎とロシア代表ウィッテの交渉は難航しましたが、日本はロシアから最大限の譲歩を引き出し、1905年9月にポーツマス条約が結ばれました。 日本は、朝鮮半島における優越権・南樺太の領有権・南満洲鉄道の権益・遼東半島南部の租借権を得ましたが、賠償金を獲得することはできませんでした。そのため、条約内容を不服とし、戦時中の重税等に不満を持った一部の国民が暴徒化し、日比谷焼き打ち事件をはじめとする暴動が日本各地で起きました。国民はこの戦争が、財政的にも軍事的にも限界にきていることを知りませんでした。それは軍事作戦上・外交上の機密だったからです。 日露戦争が世界に与えた衝撃:日本は、日英同盟を背景として日露戦争に勝利したことで、ロシアの極東における南下政策を断念させたため、極東には安定がもたらされました。有色人種の小国・日本が、自人の大国ロシアに勝ったという事実が世界に及ぼした衝撃は大きく、日本の国際的地位は高まり、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツなどと並んで大国の一角を占めることになりました。 また、ロシアの強い影響下にあったフィンランドやトルコの民族意識を高め、植民地支配に抵抗していたアジアやアフリカの諸民族の独立運動に弾みをつけ、人種差別されていた世界の人々に勇気を与えました。 日比谷焼き討ち事件:増税に耐え忍び、日露戦争を戦った国民は、ポーツマス条約に不満を持ち、一部が暴徒化し日比谷で焼き討ち事件を起こしました。軍事・外交の機密上、国民は戦争の財政的・軍事的な限界を知らされていませんでした』 『日露戦争後の日米関係 米国における排日の嵐: アメリカでは、日露戦争に勝利して存在感を高めた日本に対し、人枝差別に加え、中国利権からの締め出しや、日比谷焼き打ち事件でアメリカ公使館が襲撃対象となったことで生じた外交問題から、対日感情が急速に悪化し、日本を脅威とみなす黄禍論が高まっていきました。 ルーズベルト大統領の対口政策に影響を与えたのが共和党の政治家ロッジでした。ロッジは、日本政府の移民問題に関する抗議文が「アメリカを脅迫している」と問題視し、日本人排斥の新移民法を可決させました。 米国の大海軍の建造−ルーズベルト大統領と海軍戦略家マハン: 海軍至上主義(ネーバリズム)と日本人排斥を主張していた海軍戦略家マハン大佐は、「アメリカの貿易を擁護し、かつ外国に強圧を加えるために、各所に海軍基地を獲得し、発展させよ」との持論を展開しました。マハン大佐の主張を信奉していたルーズベルト人統領は、海軍建設の必要性を認識しました、その背景には、1906年にイギリス海軍が建造した戦艦「ドレッドノート」の存在がありました、このド級戦艦の出現によって、アメリカ海軍の戦艦が一挙に旧式化したことに驚いたルーズベルト人統領は、日本海軍に対抗するため、海軍力の増強を開始しました。 日本は、1907年に最初の帝国国防力針を策定しましたが、ロシア海軍の脅威がなくなった後の海軍政策の中核は、アメリカを仮想敵とする対米7割規模の海軍力の有成でした。このような中、1908年にルーズベルト大統領は、新造戦艦16隻からなる、船体を白色に塗った「グレート・ホワイト艦隊」を太平洋に就航させ、日本に対する示威行動として、横浜にも寄港させました、日霧戦争後、わずか3年にして、日米両国は水面下での戦いを始めました。 黄禍論: 当時のヨーロッパ人の日本人や中国人に対する黄禍論(黄色人種脅威論、Yellow Peril)を描いたヘルマン・クナックフースの萬意画(暗示する画)。右端に仏陀がおり、十字架の光る丘にはヨーロッパ諸国を擬人化した女神たちの前で、大天使ミカエルが戦いを呼び掛けています。 アルフレッド・セイヤー・マハン: 「アメリカ軍人事典」(Greenwood Press)には、マハンについて「海軍戦史研究家・海軍戦略家。海軍至上主義者・国際政治の評論家・帝国主義者・黄禍論を唱えた人種差別主義者・アメリカの歴史に最も影響を与えた扇動家」と書かれています。 戦艦「ドレッドノート」(HMS Dreadnought): 「ドレッドノート」は、副砲を撤去し、連装主砲塔のみを装備した新型戦艦で、戦艦の概念を一変させた革新的な艦でした。 グレート・ホワイト艦隊:ルーズベルト大統領は、新造戦艦16隻からなる船体を白色に塗った艦隊を太平洋に就航させ、示威行動として横浜にも寄港させました』 『ロンドン海軍軍縮会議: ワシントン海軍軍縮会議では巡洋艦や駆逐艦などの補助艦艇の建造は無制限だったため、1930年に補助艦艇の制限を目的とした、ロンドン海軍軍縮会議が開かれ、日本の補助艦全体の保有率は対英米比6.975割で合意されました』 『第1次世界大戦と日本 ドイツ領有地の占領: 1914年にヨーロッパで第1次世界大戦が勃発しました。日英同盟にはヨーロッパにおける参戦条項はありませんでしたが、日本はイギリスからの強い要請を受けて参戦しました。 参戦に伴い、日本はドイツ領南洋諸島の占領を決定し、「鞍馬」「浅間」等からなる南遣支隊は、マリアナ諸島・カロリン諸島・マーシャル諸島を無血占領しました。ついで、イギリス軍と連合軍を構成して、ドイツ東洋艦隊の拠点である山東半鳥の青島と、膠州湾のドイツ軍要塞を占領しました。その際、水上機母艦「若宮」は日本初の航空作戦を成功させました。日本の南洋諸島の領有は、アメリカのハワイとフィリピンの補給線を遮断することになり、アメリカを警戒させました。 日本海軍のインド洋及び地中海派遣: 日本は、ドイツ東洋艦隊に対処するため、「肥前」「浅間」「出雲」からなる遣米支隊をアメリカ西海岸に派遣して警戒任務に就かせるとともに、「伊吹」は、英・豪海軍艦艇と欧州派遣部隊の輸送船団護衛を行いました。 1917年には、第3特務艦隊を太平洋に、第1特務艦隊をインド洋に、「明石」を旗艦とする第2特務艦隊を地中海に派遣しました。第2特務艦隊は、連合軍の兵員70万人を輸送し、7千人以上を救出するなど大きな成果をあげましたが、「榊」はオーストリア潜水艦(Uボート)の攻撃を受けて59名が戦死しました。大戦後、その功績が認められて、第2特務艦隊司令官以下27人は、イギリス国王から勲章を授与されました。 第1次世界大戦後の世界と日本: 第1次世界大戦中、ドイツは、中立国アメリカを親ドイツとし、さらに日英同盟の離間を図るため、日本に対する黄禍論を利用しました。 1919年、ベルサイユ条約が締結され、第1次世界大戦は終結しました。 1920年には、アメリカ大統領ウィルソンの提唱で国際連盟が設立され、日本は常任理事国となりました。 日本は、ベルサイユ講和会議の国際連盟委員会において、唯一の有色人種国家として、人種的差別撤廃提案を世界で初めて提出しましたが、否決されました。 また、ロシアでの革命につづき、アジアやアラブ諸国では民族自決の機運が高まり、インドなど各地で独立運動が活発化しました。日本ではその独立運動を支援する動きもありました。 南洋諸島の占領: 1914年、日本は第1次世界大戦に参戦し、海軍の南遣支隊は、ドイツ領のマリアナ諸島・カロリン諸島・マーシャル諸島を無血占領しました。青島要塞攻撃に参加した日本海軍初の水上機母艦「若宮」:水上機母艦「若宮」は世界初の航空作戦を成功させました。 マルタ島の第2特務艦隊: 1917年、「明石」を旗艦とする第2特務艦隊を地中海に派遣しました。艦隊は、連合軍の兵員70万人を輸送、7千人以上を救出するなど大きな成果をあげました』 『国際協調とつかの間の平和 日英同盟の解消と米国の対日戦争計画:第1次世界大戦でドイツが敗北すると、アメリカにとっての脅威はイギリスと日本に代わりました。1919年、アメリカは対英(War Plan Red)、対日(War Plan Orange)、対英日(War Plan Red and Orange)の戦争計画を立案しましたが、とりわけ対英戦争で背後を日本に攻撃される可能性がある日英同盟が最大の問題でした。日英同盟の廃止を望むアメリカはm国際秩序の再編成に動き出し、日英同盟に代わる国際システムを構築しようとしました。 アメリカの呼びかけで1921年からワシントン会議が開かれ、日英同盟の代わりに、太平洋の平和を希求するという理由から米・英・仏・日による4カ国条約が締結され、この条約により日英同盟は解消されました。また、日本の中国進出を抑制するため、中国の主義尊重と領土保全を保証し、門戸開放と機会均等を確認する名目で、9カ国条約が締結されました。これ以後の国際社会は、ワシントン体制と呼ばれるようになりました。ワシントン軍縮会議:左から幣原喜重郎(外務次官)、加藤友三郎(海軍大臣・全権大使)、徳川家達(貴族院議長)。 ワシントン会議で、高額な新型艦の建造が人きな財政負担となるため、各国は海軍の軍縮を呼びかけました、米・日の上力艦(戦艦)の保有量を5:3の比率にすることで合意しました』 『中国大陸と日米ソ関係 中国の国共内戦:中国では、ベルサイユ条約によって山東省の権益がドイツから日本に譲渡されたことで、不満が蔓延しました。暴力革命により世界の共産化を目指す、ソ連・コミンテルン(各国共産党の国際統一組織)の指導によって中国共産党、次いで日本共産党が設立され、その活動により、抗日、反帝国主義の同民大衆運動が拡大していきました。 1927年、共産党勢力の排除を図る国民党の蒋介石が、上海でクーデターを起こし、国民党と共産党との間で国共内戦が始まりました。1928年、満洲を支配していた軍閥の帳作霖が殺されました。定説では関東軍の犯行とされていましたが、最近の研究ではソ連・コミンテルン説もあり、真相は未だ歴史の閤の中です。しかし、この事件後に息子の張学良は、国民党に服属し、事件1年後の1929年にはソ連の協定違反を理由に、東清鉄道権益の武力による奪回を試みましたが、ソ連軍の反撃を受けて敗北すると、矛先を日本に変えました。この間、蒋介石は、国民党内で権力を強め、共産党を掃討する作戦を鍵開しました。 満洲事変と国連の対応:国民党と共産党の激しい内戦が続く中、1931年、奉天郊外の柳条湖で関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破した事件に端を発し、満洲事変が起きました。翌年、関東軍による満洲全土の占領を経て、関東軍主導の下に、同地域は中華民国からの独立を宣言して満洲国が建国されました。中国の提訴を受け、国際連盟はリットン調在団を派遣しました。報告書は「満洲における日本の権益は一部認めるものの、満洲国は認めない」というもので、日本は国際連盟を脱退しました。以後、日本は国際社会から孤立し、日独伊三国軍事同盟の締結に直進していくことになりました。 ソ連・コミンテルンに襲われた日本:日本共産党は、モスクワにおいてソ連・コミンテルンが決議した、対日本共産党指導の根本方針である「1927年テーゼ(指針書)」の「支那に於ける革命の干渉とソ連邦に対する戦争準備に対して戦え」を受けて、日本の軍人や国民への激しい赤化(共産化)工作を始めました。世界恐慌と日独伊三国同盟:第1次世界大戦中、日本は異常な好景気に恵まれましたが、その後、各種の矛盾を内蔵する日本経済は停滞を迎えていました。 1929年10月24日、ニューヨークの株式市場で株価が大暴落し、またたく間に世界に波及して大恐慌となりました。各国は、争って保護貿易に走り、植民地や資源により経済ブロックを構築可能な「持てる国」と「持たざる国」とに分裂しました。両者は対立を深め、「持たざる国」日本・ドイツ・イタリアは結びつきを深めました。世界恐慌は、日本・満洲・ドイツとの三角貿易などの経済圏が、軍事ブロック形成へと進み、1936年の日独防共協定となり、1940年の日独伊三国同盟締結の伏線となりました。 満洲事変の発端となった柳条湖事作を報じる東京日日新聞:国民党と共産党の激しい内戦が続く中、1931年、奉天郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件に端を発し、満州事変が起きました。翌年、関東軍主導の下に満州国が建国されました。 柳条湖事件を調査する国際連盟のリットン調査団:満州国の建国に対し、中国は国際連盟に提訴しました。国際連盟はリットン調査団を派遣しました。報告書は、満州国を認めないというもので、日本は国際連盟を脱退しました。以後、日本は国際社会から孤立していきました。 軍閥の「張作霖」爆殺事件の現場:関東軍が爆薬を仕掛けたのは線路上でしたが、爆発は天井部分であり、コミンテルンによる爆殺説が有力となりつつあります。張学良と蒋介石:軍閥の張作霖が爆殺されると、息子の張学良は、蒋介石の国民党に服属し、その後、ソ連の東清鉄道権益の武力による奪回を試みましたが、ソ連軍の反撃を受けて敗北すると、矛先を日本に変えました。 「王道楽土、五族協和」をうたう満州国のポスター:満洲国の建国に際し、満州における五族(日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人)が互いに協和し、理想国家を目指そうとするポスターが掲げられました。 世界大恐慌:1929年ニューヨークの株式市場で株価が大暴落し、またたく間に世界に波及して大恐慌となりました。写真では、失業者にスープ・コーヒー・ドーナツが無料で配給されています』 『大東亜戦争への道程 第1次世界大戦後の世界と日本・中国:第一次世界大戦後、国際情勢に大きな影響を与えたのはソ連とアメリカでした。ソ連は、コミンテルンを通じて、世界各国で共産革命の支援をしていました。また、アメリカ主導の外交に対して、日本は国際協調の流れに乗ろうとしましたが、「四ヵ国条約」で日本外交の主軸であった日英同盟を失いました。さらに「支那に関する九ヵ国条約」で日本の中国進出が抑制されるなど、アメリカが主導しヨーロッパ列強が共同戦線を張るワシントン体制下で、日本の孤立は深まっていきました。アメリカの外交官マクマリーは、排日・愛国主義を煽り、意図的に内乱状態の激化を図る中国に対し、「ナショナリズムを口にして国際法や条約を蹂躙することは許されない」と批判しています。 国際連盟のリットン調査団は、中国の対日ボイコット(商品不買だけでなく、放火・強奪・破壊・横領などの不法行為を含む争乱)の実態を報告しています。やがて、対日ボイコットは、ナショナリズムの高揚にともない、権益の侵害・不法な立ち退きや事業中止要求、日貨不買の営業妨害、暴行傷害などが急増していきました。 特に衝畢を与えたのが、1927年3月に蒋介石が南京に入城したとき、北伐軍の兵士たちが日本を含む各国の領事館に侵人し、略奪・暴行・凌辱を繰り返した「南京事件」と、1937年7月に、女子供を含めた日本居留民212名が、翼東防共自治政府保安隊らの中国軍により虐殺された「通州事件」でした。 「持てる国」と「持たざる国」との闘い: 1937年、日本は、コミンテルンの世界赤化(共産化)工作の激化にともない、共産主義勢力を分断し、これと対抗するため「日独伊防共協定」、さらに対米戦抑止のため1940年、「日独伊三国軍事同盟」を結びました。これに対し、ルーズベルト大統領は、日本に経済的圧力を加え、日本の孤立を図る「隔離演説」を行いました。日本は、「「持てる国」が「持たざる国」に対して既得権益の譲歩を拒めば、解決する途は戦争による外ない」と反論し、両者は激しく対立しました。 孤立への道-開戦: 1937年の盧講僑事件から始まった支那事変は泥沼化していきました。そして、米・英・中・蘭4ヵ国による経済包囲のなか、援蒋ルートを遮断するため、北部仏印(仏印:現在のベトナム・ラオス・カンボジア)へ、さらに南方資源を確保するため、南部仏印に進駐しましたが、アメリカの対日石油全面禁輸を招き、日米関係は決定的に悪化しました。 アメリカは、中国と仏印から日本軍の完撤退、及び三国同盟の廃棄を求める「ハル・ノート」をつきつけ、これを最後通牒と受け止めた日本は、対米開戦を決意し、1941年12月にアメリカの海軍基地真珠湾を奇襲攻撃して大東亜戦争か始まりました。 通州事件を報じる「朝日」新聞: 1937年7月、北京の通州において、中国人部隊が、日本軍の守備隊及び日本人居留民を襲撃し、女子供を含めた212名が虐殺されました。 日独伊三国軍事同盟を祝う絵葉書: 日本は共産主義勢力を分断し、これと対抗するため、日独伊防共協定、さらに対米戦抑止のため、日独伊三国軍事同盟を結びました。 日本軍が占拠した盧溝橋: 1937年7月7日、北京郊外の盧講僑付近で起こった日本軍と中国軍の衝突事件。中国軍から軍事演習中の日本軍への発砲により交戦状態となり、支那事変のきっかけとなりました。 サイゴン市内の日本軍: 米・英・中・蘭4力国による経済包囲のなか、日本は南方資源を確保するため、1941年、南部仏印に進駐しました。この結果、対日石油全面禁輸を招き、日米関係は決定的に悪化しました。 真珠湾攻撃: アメリカは、1中国と仏印から日本軍の完全撤退及び、2三国同盟の廃棄を求める「ハル・ノート」をつきつけました。これを最後通牒と受け止めた日本は、対米開戦を決意し、1941年12月8日に、アメリカの海軍基地真珠湾を奇襲攻撃して大東亜戦争が始まりました』 『大東亜戦争 真珠湾攻撃と東南アジアの占領: 1941年12月8日、日本海軍は、南方と日本を結ぶシーレーンへの脅威を排除するため、ハワイのアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃し、成功しました。日本は、「大東亜共栄圏の建設」をスローガンに「アジアの諸民族を欧米の植民地支配から解放する」と訴え、アジア各地に進駐しました。 1942年2月にシンガポールのイギリス軍が降伏し、3月にはジャワ島のオランダ軍が降伏しました。開戦から半年後、日本は、当初の目標であった南方の資源地帯を確保するとともに、南洋諸島の島々から東南アジアに至る地域を占領しました。 日本海軍の対米戦略: アメリカ海軍に対し劣勢であった日本海軍が採用した戦略が「遊撃漸減戦略」でした。それは、開戦初頭にフィリピンとグアムのアメリカ艦隊を撃破した後、マリアナ諸島沖で来攻するアメリカ艦隊を待ち受けて、「潜水艦による第1段遊撃戦」、「航空機と水雷部隊による第2段遊撃戦」で戦力を漸減させた後、「艦隊決戦」で決着させて太平洋の制海権を確保するという戦略でした。アメリカ軍の対日戦略:真珠湾攻撃で空母の打撃力の有効性が立証された結果、海戦の主役が戦艦から空母へ移行しました。1942年5月に珊瑚海海戦があり、6月には空母を中心とした機動部隊によるミッドウェー海戦で日本が敗れました。8月からソロモン諸島のガダルカナル島にアメリカ軍が上陸し、本格的な反攻が始まりました。 アメリカの対日戦略は、「無制限潜水艦作戦」、「B-29爆撃機による日本本土爆撃」、「日本海軍の撃破による制海権の確保」、そして「南太平洋から島嶼つたいに日本へ侵攻」して日本を終戦に持ち込むことでした。 大東亜戦争の推移: アメリカ軍は、ニューギニア北部を西進し、1944年10月にフィリピンのレイテ島に到達しました。ここで日本海軍とレイテ沖海戦が起きましたが、日本軍は敗北し、続くルソン島の戦いでも敗北しました。フィリピンを失った日本は、南方からの資源の輸入に支障をきたすようになり、戦争の遂行が困難になりました。 中部太平洋では、1944年6月にマリアナ諸島に侵攻し、B-29の基地が構築されました。さらに、1945年2月に硫黄島、1945年4月に沖縄が侵攻されました。それまで日本陸・海軍は、最善を尽くして善戦しましたが、日本の敗北は決定的となり、8月6日に広島、9日には長崎に原爆が投下され、さらにソ連軍が満州に侵攻したため、日本政府はポツダム宣言を受諾して終戦を迎えました。大東亜戦争における日本軍の進出とアメリカ軍の反攻:開戦から半年後、日本は、当初の目標であった南方の資源地帯を確保するとともに、南洋諸島の島々から南東アジアに至る地域を占領しました。米軍の反攻は南太平洋を西進し、日本の南方資源ルートを切断し、北進しました。 シンガポール陥落で日本軍との降伏交渉へ赴くイギリス軍首脳:チャーチル首相が「イギリス軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と評した、シンガポールの陥落。 レイテ沖海戦で、回避行動を取る戦艦大和:アメリカ軍は、ニューギニア北部を西進し、1944年10月にフィリピンのレイテ島に到着しました。ここで日本海軍とレイテ沖海戦が起きましたが、日本軍は敗北し、続くルソン島の戦いでも敗北しました。フィリピンを失った日本は、南方からの資源の輸入に支障をきたすようんなり、戦争の遂行が困難になりました。レイテ沖海戦で、回避行動を取る戦艦大和。アメリカ海軍の急降下爆撃機が投下した爆弾が艦首部に命中し、白煙が上がっている。 日本を空襲したB-29爆撃機: サイパン陥落の結果としてB-29爆撃機による本土爆撃が本格化し、継戦が困難となる一因となった。爆撃機の手前に並んでいるのは、2000ポンドAN-M66通常爆弾で、日本は「1トン爆弾」と呼んだ。遅発機能がうまく働かないことがあり、日本各地に不発弾が埋もれたままになる原因となりました』 『占領政策 ポツダム宣言の受諾:日本政府は、1945年8月14日にポツダム宣言を受諾し、15日に昭和天皇はラジオで終戦の詔書を日本国民に発表しました。9月2日、日本政府代表は、戦艦「ミズーリ」艦上で、連合国の代表と降伏文書に調印し、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の占領下に入りました。総司令官は、ダグラス・マッカーサー元帥でした。 法制: ・日本国憲法が1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行されました。 ・日本国憲法の規定により立憲民主制は維持され、天皇は「日本国及び日本国民 統合の象徴」となりました。 ・日本国憲法前文と日本国憲法第9条には、他国への軍事力による侵略は否定していますが、国連憲章第51条に定める自衛権は保有しているという解釈があります。そのため、自衛のための必要最小限の防衛力として自衛隊を保有しています。1950年8月に警察予備隊(後の自衛隊)が発足しました。政治:・本土、植民地、占領地の日本軍は、武装解除されました。 ・マッカーサー元帥は、「女性の開放」「労働者の団結権の保障」「教育の民主化」「秘密警察の廃止」「経済の民主化」の五大改革指令を伝え、民主的制度が復活しました。 ・治安維持法が廃止され、結党の自由が保障され、政治犯が釈放されました。 ・財閥が解体され、多くの新興企業が生まれました。 ・地主から土地や農地を収容し、小作人に農地を分け与えて農地改革が行われました。 極東軍事裁判: 1946年5月から1948年11月にかけて極東軍事裁判が行われ、極東国際軍事裁判所憲章が規定する「平和に対する罪」に違反したとされるA級戦犯容疑で約100人が逮捕され、28人を起訴しました。裁判の結果、7名が死刑、16名が終身刑の判決を受けました。 サンフランシスコ平和条約:1951年9月8日、日本と連合国との「戦争状態」を終結させて日本の主権を承認するため、49ヵ国が署名してサンフランシスコ平和条約が締結され、同日、日米安全保障条約も署名されました。平和条約は、1952年4月28日に発効しました。1952年にトカラ列島、1953年に奄美大島、1968年に小笠原諸島、1972年に沖縄県が日本に復帰し、占領は終了しました。 東京湾の戦艦「ミズーリ」艦上で降伏文書の調印に向かう日本政府全権: 1945年9月2日、日本政府代表は、戦艦「ミズーリ」艦上で、連合国の代表と降伏文書に調印し、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に入りました。1945年9月27日の昭和天皇とダグラス・マッカーサー元帥の会見:日本国憲法の規定により立憲君主制は維持され、天皇は「日本国及び日本国民統合の象徴」となりました。マッカーサー元帥は、「女性の解放」「労働者の団結権の保障」「教育の民主化」「秘密警察の廃止」「経済の民主化」の五大改革指令を伝えました。 極東軍事裁判におけるA級戦犯の判決: 1946年5月から1948年11月にかけて極東軍事裁判が行われ、極東国際軍事裁判所憲章が規定する「平和に対する罪」に違反したとされるA級戦犯容疑で約100人が逮捕され、28人を起訴されました。裁判の結果、7名が死刑、16名が終身刑の判決を受けました、 東京銀座の晴海通りを行進する警察予備隊:敗戦により、本土、占領地の日本軍は、武装解除されました。1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争において、米国は日本駐留部隊の主力を朝鮮に出動させることとなり、日本における防衛兵力・治安維持兵力が存在しないこととなりました。警察予備隊は日本の平和と秩序を維持するため、警察力を補うものとして設けられました。しかし、警察とは独立して内閣総理大臣の指揮を受けました。 サンフランシスコで平和条約に署名する吉田茂首席全権と全権委員: 1951年9月8日、連合軍との「戦争状態」を終結させて日本の主権を承認するため、49ヵ国が署名してサンフランシスコ平和条約が締結され、同日、日米安全保障条約も署名されました。平和条約は、1952年4月28日に発効し、連合国による占領は終わり、日本国は主権を回復しました』 『冷戦の時代 冷戦の開始:冷戦は、アメリカを盟主とする西側陣営とソ連を盟主とする東側陣宮との対立構造で、対立は、外交・軍事分野だけではなく、経済・思想、更には宇宙開発、航空技術・文化・スポーツ分野にも及びました。軍事力で直接戦う「熱戦」に対して「冷戦」と呼ばれました。 核兵器による恐怖の均衡: 1945年にアメリカ核兵器を開発して以降、米ソ間で核開発が進んで、相互に甚大な損害を与える核弾頭や核運搬手段を保有した結果、核兵器は使えない兵器として手詰まり状態となり、「恐怖の均衡」が生まれました。 中華人民共和国の建国: 中国では、中国共産党が内戦で勝利を収めて全土を統一し、1949年10月に中華人民共和国を建国しました。一方、国民党は、台湾に撤退して中華民国を設立し、ここに2つの中国が並立し、冷戦がアジアに広まりました。 冷戦時代の危機: ・ベルリン危機:1948年6月、東西両陣営の占領地域における通過改革を巡る対立で、ソ連は、西ベルリンを封鎖しました。西側諸国は、「ベルリン空輸」で封鎖に対抗したため、1949年5月に封鎖は解除され、危機は回避されました。 ・キューバ危機:1962年10月、ソ連によるキューバでの核ミサイル基地の建設が明らかになり、アメリカがカリブ海を海上封鎖したため、米ソ間で全面戦争寸前まで緊張が高まりましたが、ソ連が譲歩したことで危機が回避されました。 冷戦時代に起きた熱戦: ・朝鮮戦争:1950年6月、北朝鮮が朝鮮半島の統一を目指して韓国に侵攻して戦争が勃発しました。国連軍と中国人民志願軍が参戦し、3年問の戦争で朝鮮半島全土が荒廃し、1953年7月に休戦しました。 ・ベトナム戦争:共産主義イデオロギーを背景にした、南北ベトナムの統一を目指した植民地解放戦争で、宣戦布告なき戦争ともいわれ、1975年4月に終結しました。 冷戦の終結: 1991年にソ連が崩壊したことで冷戦は西側陣営の勝利に終わり、アメリカが唯一の超大国となりました。しかし、世界の均衡が崩れ、冷戦で抑えられていた地域紛争や民族紛争が各地で問題になり、国際政治はいっそう複雑になりました。 核の三本柱:核戦略は、大陸間弾道ミサイル・潜水艦発射弾道ミサイル・戦略爆撃機の3つの運搬手段「核の三本柱」で構成されています。 北京で中華人民共和国の建国を宣言する毛沢東:1949年10月、中国共産党が内戦で勝利をおさめて全土を統一し、中華人民共和国を建国しました。一方、国民党は、台湾に撤退して中華民国を設立しました。 朝鮮戦争の推移: 1950年6月、北朝鮮軍が韓国に侵攻して戦争が勃発しました。国連軍と中華人民志願軍が参戦し、3年間の戦争で朝鮮半島全土が荒廃しました。1953年7月に北緯38度線で両軍が対峙したまま休戦協定が成立しました。現在に至るまで完全な和平には至っていません。 ベトナム戦争の推移:「北ベトナム」対「南ベトナム・米軍」の戦いでしたが、本格的には「共産主義」対「資本主義」の戦争でもありました。当初、米国は少数の「軍事顧問団」を派遣しましたが、その後、大規模な正規軍を南ベトナムに送りました。この戦争を巡って世界各国で反戦運動が発生しました。1973年1月のパリ協定により米国はアメリカ軍を撤退させました。その後も南北の戦闘は続き、1975年4月の北ベトナムによる南ベトナム・サイゴン陥落によってベトナム戦争は終結しました』 『冷戦後の世界と国際情勢 文明の衝突:冷戦後の世界では文明間の対立が国際政治の焦点となり、「西欧」「中華」「イスラム」「ヒンドゥー」「日本」「東方正教会」「ラテンアメリカ」「アフリカ」の8つの文明の境界地域で衝突が起きやすく、紛争は永久に続く可能性が指摘されています。 アメリカ同時多発テロとテロのグローバル化:2001年9月11日、アメリカでテロ組織アルカイダによる同時多発テロが起き、国際テロ組織の脅威が世界的に認識されるようになりました。アメリカは、テロ組織とのグローバル戦争を宣言して、アルカイダへ報復し、有志連合とともにアフガニスタン紛争、イラク戦争を戦いました。今日では、イスラム国との戦いが勃発しています。 中国の台頭とトゥキディデスの罠:国際政治を見通す格言に「トゥキディデスの罠」があります。それは「大国は、その地位を守るために現状維持を望み、新たに台頭する国家は、既存の国際制度を変えようとして、大国と軍事衝突に発展する可能性が高まる」ということです。経済成長が続く中国は、「一帯一路」の構想をかかげ、世界への影響力の拡大を図っています。また、海洋の権益を核心的利益として、海軍力の強化に取り組み、外洋へ進出しようとしています。中国の台頭は、まさに「トゥキディデスの罠」であり、周辺諸国の脅威となっています。 海洋の安全と海上防衛強化の必要性:南西諸島には、アメリカ軍が駐留する基地があり、東シナ海は、日本のシーレーンが集中する海域です。また、東シナ海は、中国が有事の際に支配しようとする海域であることから、東シナ海は、各国の利害が衝突する緊要な海域です。南シナ海は、中国が、周辺国と対立する中、自国の海と主張し、人工島を建設して軍事化を進めています。日米両国は、「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けて協力を進めていく考えを示しています。日本周辺の海洋の安全を確保するため、海上防衛を強化する必要性が高まっています。 ポスト冷戦と変化の時代の到来:冷戦後、超大国アメリカのパワーが衰退したことから、中東の無秩序化・難民問題・国際テロの脅威・資源問題・グローバリゼーション、そして中国・ロシアとアメリカとの間での新冷戦の到来という不安に満ちた世界が出現しました。日本では、少子高齢化・環境汚染・人工知能(AI)やeコマースの発達が顕著であり、この激しい変化の時代に総合力をもって対応しなければなりません。 「21世紀に生きる君たちへ」(司馬遼太郎、2001年2月初版、抜粋):「歴史とは何でしょう」と聞かれるとき、「かつては存在した何億という人生がそこに詰め込まれている世界なのです」と答えることにしている。私は、少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。 私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。「未来」というものである。 君たちは、21世紀をたっぷり見ることが出来るばかりか、その輝かしい担い手でもある。 世界の8つの文明の分布図:冷戦後の世界では文明間の対立が国際政治の焦点となり、8つの文明の境界地域で衝突が起きやすく、紛争は永久に続く可能性が指摘されています。 アルカイダによる同時多発テロで炎上するニューヨークのワールド・トレード・センター:2001年9月11日、アメリカでテロ組織アルカイダによる同時多発テロが起き、国際テロ組織の脅威が世界的に認識されるようになりました。アメリカは、テロ組織とのグローバル戦争を宣言して、アルカイダへ報復し、有志連合とともにアフガニスタン紛争、イラク戦争を戦いました。今日でも、テロとの戦いが継続しています。 南シナ海で発着艦訓練を行なう中国空母「遼寧」:経済成長が続く中国は、「一帯一路」の構想を掲げ、世界への影響力の拡大を図っています。また、海洋の権益を核心的利益として、海軍力の強化に取り組み、外洋へ進出しようとしています。 南西諸島が中国海軍の進出を阻むルート上に位置していることが理解できる逆さ地図:南西諸島には、米軍基地があります。東シナ海は、日本のシーレーンが集中する海域であるとともに、中国が有事の際に支配しようとする、利害が対立する緊要な海域です。南シナ海では、中国は、人工島を建設して軍事化を進めています。日米両国は、「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けて協力を進めていく考えを示しています。日本周辺の海洋の安全を確保するため、海上防衛を強化する必要性が高まっています』 『日露戦争後の世界と日本 1498年にバスコ・ダ・ガマが喜望峰を回りインドに到着以来、約500年間、アジアは白色人種により過酷な植民地支配を受けていました。この過酷な大波を跳ね返したのが、アジアで唯一独立を保ち日露戦争・日本海海戦に勝利した日本でした。この勝利は今まで列強の支配に喘いでいた有色人種・民族に独立の希望をもたらす世界史的な意義を持つものでした。しかし、同時に列強、特に米国との戦いの種子を萌芽するものであり、大東亜戦争(太平洋戦争)に通じる道でもありました。日本は、韓国・満州等に進出しました。一方、米国は西部開拓終了後、太平洋を西進し、ハワイ・グアム・フィリピン等に進出し大陸の門戸開放を求め、両国は衝突しました。日本は、日中及び日米という2つの大戦争を同時に戦い、敗れました』 海上自衛隊の展示コーナーがありました。『ソマリア・アデン湾における海賊対処活動 ソマリア・アデン湾の海域では、機関銃やロケット・ランチャーなどで武装した海賊行為が多発しており、米国をはじめとする多くの国はソマリア・アデン湾における海賊行為を抑止するための軍艦などを派遣しています。 自衛隊は、平成21年(2009)3月海上警備行動により、わが国関係船舶を海賊行為からの護衛を開始しました。 同年6月海賊対処法により、すべての国の船舶が護衛対象となりました。 護衛艦はアデン湾を往復しながら、民間商船を護衛しており、哨戒ヘリコプターも上空から船団の周辺の監視、P-3Cもジブチ共和国に活動拠点を置き、アデン湾の警戒監視を行っています』 『インド洋におけるテロ対策特措法及び補給支援特措法による補給活動 平成13年(2001)の9.11テロ以降、国際社会は、テロとの闘いを続けている。わが国は平成13年(2001)11月から平成22年(2010)1月までの間、旧テロ対策特措法及び補給支援特措法に基づく活動として、インド洋において、テロ対策海上阻止活動に参加する欧米諸国やパキスタンなどの艦艇に艦船燃料・艦艇搭載ヘリコプター用燃料および水の補給活動を行い、国際社会からも高い評価を受けました。 活動実績は、艦船燃料は939回(145回)、約51万KL(約2万7005KL)、艦艇搭載ヘリコプター用燃料は、85回(18回)、約1200KL(約210KL)、水については195回(67回)にわたり約1万1000トン(約4195トン)です。( )は補給支援特措法に基づく活動の実績)』 『船舶の護衛に寄せられた感謝の声 平成21年3月に海上自衛隊がソマリア沖・アデン湾における護衛活動を開始して以来、護衛を受けた船舶の乗組員や船舶の運航事業者から、国内外を問わず、感謝のメッセージが多数寄せられています。自動車運搬船「Lyra Leader」船長・喜多祐次郎氏:海賊行為が多発する海域を航行する際の恐怖不安は相当なものであり、航行中は艦橋において不眠不休で指揮をとらなければなりません。 海上自衛隊の護衛艦及び対潜哨戒機による海賊対処活動がソマリア沖・アデン湾で行なわれるようになり、感謝いたしています。 日の丸を機体に描いたヘリが近づいて旋回し、互いに手を振り合って意思の疎通が図れた時は、戻か出るほど有難く、非常に心強く思いました。 日本船主協会会長・宮原耕治氏 この海域を航行する商船にとりまして海上自衛隊の護衛艦及ひ哨戒機による護衛は、何にも増して心強いものがあります。 酷暑と緊張の中、現地で護衛活動に当たられている海上自衛官及ひ海上保安官の御苦労を思いますと感謝に堪えません。 健康に留意され、無事に職務を全うされますよう、心からお祈り申し上げます』 僕は歴史好き・日本大好きなので、是非とも行きたいと願っていた場所と船でした。日本海海戦の大勝利で超大国ロシアに勝利し、その自信はその後の日本の繁栄につながった思います。その後、アメリカに対しての大敗北もありましたが、その後の復活にも戦艦「三笠」を旗艦としたあの勝利がなければ、世界から一目置かれる国としての大復活も無かったと思う。そんなバトルシップであることが1つ。 東郷平八郎を尊敬していた太平洋戦争時の米国太平洋艦隊総司令官チェスター・ニミッツ提督が、戦後すぐ横須賀港から上陸し、ダンスホールとして使われた挙げ句、荒れ果ててしまった「三笠」を見て激怒し、記念艦として保存されるよう働きかけました。日本での原稿料など私財を寄付し、米国からの資材調達にも協力したことが、世界三大記念艦としての現在の姿があります。 ニミッツは、日本海軍にとって最大の敵でしたが、若い頃、日露戦争に勝利した東郷平八郎をその戦勝パーティーに招かれ胴上げしたことに始まり、東郷の国葬にも参列しています。沖縄決戦に航空兵力を持たずに特攻した戦艦大和に対し、東郷平八郎と日本海軍に敬意を払って、航空兵力を出さず艦隊決戦しようとしましたが、それではあまりに米国の損害が大きいと部下から反対され、航空機を出して艦隊決戦の前に沈めたという逸話が残っている軍人でした。米国映画で、ナイフを失った悪者に対し、自らもナイフを捨てて素手勝負に挑む正義の味方のあのシーンそのままの人物です。そんな東郷とニミッツとの関係が、パネルで掲示されていると思ったのに何もなく、少し残念な思いも残った訪問でした。 「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るため日本軍がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」。これは、フィリピンとグアムの南太平洋にある太平洋戦争の激戦地「パラオ・ペリリュー島」にある碑文です。米国太平洋艦隊司令官チェスター・ニミッツの言葉です。ペリリュー島の攻防が行われたのは大戦末期1944年9月。航空母艦を含め総兵力4万2千人の米軍と1万2千人の日本軍守備隊が2ヵ月半にわたり激闘した。日本軍は「サクラ・サクラ」の電文を最後に玉砕し、米軍にも1万人の死者が出した。日本軍は米軍の総攻撃前に、それまで親しく交流していたことで日本軍とともに米軍と戦う決意までしていた地元民全員を本島に移した。結果、地元民に犠牲者はなく、今でもパラオはとても親日の国です。天皇陛下(現上皇・上皇后両陛下)が戦後初めて訪問した時の大歓迎に驚き、戦時中の歴史やニミッツの碑を学びました。 艦を降り、「三笠公園」内にあるお土産売り場「三笠売店」に向かいます。12:09、「Z旗ステッカー360円+三笠グラス1200円=1560円」購入。ステッカーは自分自身に、グラスは孫へのお土産として買いました。 また傘を差して、駅まで歩きました。「ICOCAチャージ5000円」しました。ここから、家族LINEに、「今、横須賀駅。これから家に向かいます」と投稿。すぐに長男から「ブルーラインだよね。あざみ野駅で「東急田園都市線」に乗り換えて2駅で「市が尾」。あざみ野駅に着いたら連絡して」と入りました。JRで横浜駅を通過し新横浜駅。「横浜市営ブルーライン」に乗り換え、「あざみ野」へ。ブルーラインに乗り換えの時、傘を忘れちゃいました。あるあるデス。 市が尾駅に着いたら西口と東口があり、両方見ましたがどちらにもお迎えの車がいない。あれれ?と思って、「西口?東口?」とLINEすると、お嫁さんから「すぐに行きます」と返信がありました。長男からは、「お父さん見落としてた、御免」とLINEが入りました。すぐに目の前に「日産セレナ」がやってきました。雨の中走っていき、「ゴメンね、ありがとう」と車に乗り込むと、運転しているお嫁さんの他にりょうくん9才も乗っていました。「新車が買えてよかったね」と言うと、「おじいちゃんの車が良かったから、僕が選んだんだ」とりょうくん。我が家はワンボックス3列シート車で、お嫁さんの実家も3列シート。長男とこは子供が3人で家族5人なので5人乗りの乗用車では狭いです。8月に帰国したばかりなのに、半導体不足で生産が遅れているはずの新車を手に入れました。お嫁さんによると、何処にも無かったんだけど、タイミング良くキャンセルが入ったようで、数日後電話が入り即答したそうです。ずっと黒い車ばかり乗っていたのに、ブルー(パープル)なのは色の選択が出来なかったからだそうです。 ブルーラインという横浜市地下鉄に乗って車窓を見て、丘陵が続く地を開発したように感じました。駅からすぐに大規模開発した閑静な住宅地の道を走り数分で長男宅に着きました。住宅地内の道に面しているので、殆ど車が走らないので安全そうです。りょうくんの通う小学校が近くで便利そう。長男の会社がある「大手町」まで乗換なしで電車で1本だそうで、そちらも便利そう。 玄関を開けると、孫2・3のこうちゃん6才・ルーカスくん4才と長男が迎えてくれました。金曜日なのに、長男は在宅勤務のようで家にいました。だったら、LINEではなく電話すれば良かった。お嫁さんがお茶を出してくれ、家内が選んだお土産を孫たちに渡しながら、あれこれお喋り。数日前、新大阪駅で買った新幹線靴下とお箸を渡します。9才のりょうくん用のサイズが無かったので、戦艦「三笠」グラスをプレゼントしたら、「ちょうど無かったんだ」と大喜びです。下の2人は、すぐに靴下を履いています。ロンドンからの引っ越し荷物が船便なのでまだ着かないから、いろいろ日用品が足らないそうです。 すぐに「おじいちゃん、サッカーしよう」とリビングでソフトボールを使ったサッカーが始まりました。3年間サッカー発祥の地イギリスで暮らしていたのでサッカー大好きです。日本代表キャプテン・吉田麻也選手が校長してるサッカークラブに入っていました。日本に引っ越して来てすぐ、上2人はサッカークラブに入りました。明日の運動会の話題になりました。3人共足が速いようで期待大です。「おじいちゃん、僕の部屋見せてあげる」と連れて行かれました。ルーカスくんはママと一緒に寝ているようですが、上2人は2段ベッドでした。上がりょうくんで下がこうちゃん。2人のベッドを見ると数冊の本が枕元に置かれていました。それが全て英語の本で、「やっぱりな〜」。上は3才で渡米したので、6年間現地校に通いました。2番目は4ヶ月で渡米し、イギリスに移ってから幼稚園に通い出したので、英語の世界ばかりです。サッカーしてても、誰かが英語で喋りだすと、3人で英語会話が始まり、いつの間にか日本語になっており、不思議な世界です。中学に電車通学し始めた頃、神戸のインターナショナルスクールに通う日本人の子と白人の子が互いに自国語で声を張り上げて喧嘩していたことを思い出しました。最初英語で話していたのにヒートアップし母国語になり、時には互いに日本語で喧嘩したり、見ていて面白かったです。あの世界がこんな身近に出現するとは・・・。 長男はリビングでPCで仕事をしていました。きちんと17時まで仕事して切り上げていました。週の半分ぐらい在宅勤務しているようです。外を少し歩きましたが、大きな家が並ぶ閑静な住宅地でとても環境が良さそうです。青葉区は、横浜市内で最も所得が高い区のようで、周囲の住環境が気に入ってここに住むことにしたようです。 お嫁さんが作ってくれた夕食を食べ、僕は孫たちに続き風呂に入り、歯磨きして寝る用意終了。孫たちはパジャマに着替え、お嫁さんの前で寝転がり、1人ずつ歯磨きをしてもらっていました。翌朝の歯磨きは、自分でしています。寝る前だけ、お母さんにしっかり磨いてもらうルーティンのようです。20時になったので「おやすみ」タイムです。お嫁さんはルーカスくんと、長男は上の2人と一緒の部屋で寝るようです。「お父さん、TV見てていいよ。NetflixとYoutubeしか見れないけど」と言われましたが、僕も21時には寝るのがルーティンなので同じタイミングであてがわれた部屋に入り、すぐ寝てしまいました。 2022/10/2 琵琶湖北湖でのクルージングに誘われました。5時頃からあれやこれやして、8時に倉庫から「招き猫CB400SB」を出して出発。8:16、中環豊中SSで給油。229km/8.99L=25.5km/L。名神高速を「京都東IC」で下車し、湖西道路に乗って北上。坂本付近で片側2車線から1車線になるので、いつも渋滞が発生します。8時出発で9時頃だから仕方ないです。バイクの力技で止まっている車を横目にゆっくり前進。最初遠くに見えていたバイクのライトが近づいてきます。後ろのバイクの方が速いけど、追いつく前に渋滞が解消され気持ちよく北上開始。「仰木雄琴ランプ」付近から「真野ランプ」まで。また渋滞していました。後ろからくるさっきのバイクがまた追いついて来たので、車列に移動し先を譲りましたが、後ろのバイクは僕の後ろに入ってきます。先に行ってくれたらこちらの安全上良いのに・・・と思いながら、また僕を先頭にゆっくり前進。真野を過ぎて解消し、「和邇ランプ」で下車してr311で琵琶湖へ。後ろのバイクが付いてきます。あれおかしいぞ・・・さてはYasさんかな?と怪しんでバックミラーを見ていると、信号で止まったタイミングで「おはようございます」、やっぱり〜。そのまま2台でハーバ−入り。 バイク装束からヨットに乗る装束に着替えると、Mitさんが「おはようございます」とやってきました。この日はYasさんの船に乗るようで、艤装しに行きます。準備していると、Imaさんもやってきました。前日土曜日も2人で整備に来ていたようで、船を出していたようです。午後は良い風が入っていたようです。この日の沖は、まだソヨソヨの弱い風しかありません。 船を降ろしてもらい沖出しします。エンジンを止めセイリング開始。いつものように馬鹿話に花が咲き、Imaさんが買ってきてくれたパンやアテを食べながらアルコールも。僕はコーラ。この日はもう夏が終わっていますが、出ているセイリングボートが多いです。僕のホームポートの西宮は海に面しているのでフィールドが広い。琵琶湖は内海なのでエリアが限られるので、密度が濃く感じます。15時を過ぎハーバーバック。後半少し風が入ってきましたが、それでも3m/sほどでした。今月はヤンマーマリーナ主催レースに出場するそうです。 船を片付け、着替えて精算して(食費割り勘1000円+ビジター料金500円=1500円)帰路に着きました。1ヶ月後のインカレ本戦で使う親の観覧船をレース期間中置くかもしれない「唐崎マリーナ」を見に行きます。湖西道路を使わず、旧R161・現r558を南下します。堅田を過ぎ、雄琴を通過し、坂本を南に走り、唐崎。京産大ヨット部艇庫〜KKRホテル〜D社ヨット部艇庫の次に「唐崎マリーナ」がありました。その南に隣接して「唐崎神社」がありました。 営業時間を過ぎており、マリーナ職員の話は聞けませんでしたが、唐崎神社からマリーナや係留するであろう桟橋を写真に写し、ヨット部LINEに送りました。桟橋の水深がわからないので注意することと、東からの強風が入るとダイレクトに波が入るので、係留ロープを増す作業が必要そうです。それら気づいたことをLINEに書き込んでおきました。 バイクに戻り、r558を南下し当方合宿所横で赤信号により止まっていると、部員がセイルを持って歩いて来ました。「やあ」。湖西道路に乗って、いつものように「京都東IC」から名神に乗って帰宅しました。 2022/10/1 コーチしている大学ヨット部のコーチングをします。4時頃目を覚まし、あれやこれやしてから、6時頃倉庫から「里山VTR250」を出して出発。R171〜中央環状道路。「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「味付け海苔エビマヨネーズ135円+味付け海苔辛子明太子150円+サントリー天然水キリッと果実600ml129円+ソフト強靭ケーブルタイプC2m1080円=1635円」購入。 スマホを替えました。最初に買ったスマホを2年ほど前に、ツーリング中に落としてしまいました。道路に転がったスマホを拾い上げた時、ディスプレイにキズが入ったけど普通に動いて「助かった」と思いました。あれから2年、亀裂が茶色になってきて、タッチの反応が遅くなってきました。加えて、電源を切ってもバッテリーが減るようになり限界が見えてきました。そして2台目のスマホを注文しました。 契約している格安スマホ「IIJmio」のウェブサイトを見て、2万円ほどの安価なこのスマホに決め、電話して旧スマホ「ZenFone Max Pro (M2)」と簡単に交換できるか確認して購入。「モトローラ社製・moto e32s」が1週間前に届きました。nanoSIM+microSDを入れ替え、旧スマホからデータを移し、この日初めて家から持ち出しました。電話帳やLINE友達・グループデータを動かせたので僕の作業としてはナイスでした。やってきたスマホには、充電ケーブルやコンセントが付属されていませんでした。新しいスマホは「USBタイプC」だったので、それ用ケーブルを買いました。旧スマホは「MicroUSB」だったので、新しいケーブルが必要でした。バイクにセットすると、充電開始してグッジョブ! 名神〜湖西道路でハーバー着。皆に挨拶し、あれこれお話。女子マネさんが、昼食のタッパーを用意しています。ほぼ全部員がマネ飯希望ですが、合宿所がコロナ禍で全員一緒に入れないので、合宿所で作って昼食時にハーバーまで持ってきてくれます。希望者は、自分用タッパウエアを用意し名前を貼ってマネさんに渡します。食事後、各自で洗ってタッパウエア入れに入れておくシステムです。タッパウエアの大きさでご飯量が決まります。学生だから、みんな大きい。「今日は何人?」と聞くと、61人だって。 数日前、遅刻した罰として、Kojくんが坊主にしました。インカレ本戦に向けての「気合い」の意味もあるのでしょう。理由は何でもよく、良いタイミングでやらかした部員が冗談で坊主コールを受けて、笑いながら承諾する感じです。キャプテンがバリカン持って、ゴミ袋に穴を開けて被り、皆が囲んで笑いながら、本人も「あ〜」とか嘆きながら笑い合ってるムービーが、部のLINEに流れたので知っていました。この時期、昨年のMurくんが坊主にしました。本人に、「頭の形いいな〜」とか、「気合い入ってるな〜」とか声を掛けます。「部の伝統だよね、来年は誰かな〜」と、前を通った部員に「来年頼むぞ」なんて肩を叩いたりしました。 朝のブリーフィング後出艇して練習開始。風が安定せず、無風になってハーバーバックし、座学に切り替えました。昼食後、午後の練習開始。強くはないけどそれなりに安定した風が続き、良い練習になりました。練習の途中で、コーチボートのエンジンが止まって、イグニッションは回るけどエンジン始動しない状態になりました。2週間ほど前にも同じ症状が出て、ヤマハに来てもらって直してもらったそうです。再びヤマハに連絡し、来てもらいました。電気系は問題なく、燃料系のトラブルのようです。直し方を詳しく聞き、全部員で共有することにしました。 17時にハーバーバックして、ブリーフィングして帰路に着きました。「秋の夕日はつるべ落とし」・・・名神高速を西に向かって走りながら、それを強く感じました。 2022/9/25 レース最終日です。6時に家を出ました。桂川PAでトイレ休憩し、湖西道路を通って、6:54「セブンイレブン大津松山町店」で、「マーガリン入りレーズンロール4個127円」購入。またレース艇を置く場所が変わっており、これでインカレ本戦の艇置き場の予行演習終了。艇庫に向かう間、悠々自適のKYC会員さんに会いました。ハーバーの管理のバイトもしておられるベテランさんです。「昨日、ヨットを出していましたね」と声を掛けると、「成績どう?」「まあまあってとこ。インカレ本戦は行けそうです」。「昨日朝のブリーフィングを聞きましたよ。良いこと言ってましたね」「それぐらいしか僕には出来ないし・・・」。 部員に挨拶し、あ〜だこ〜だ。運営する若手OBがパラパラと集まって来ました。運営の前準備は各大学の現役ヨット部員の学連担当が手分けしてやっています。OB・OGは、この時間は余裕があります。それに混じって美人さんがやってきました。女子マネOGのRioちゃんだ。「あれれ・・・」と声をかけると、「・・さ〜ん」と僕の名を呼び駆け寄ってきます。久しぶりの再開の熱い抱擁・・・したいけど、セクハラ認定されるので握手して再開を喜びました。「京都観光ついでに寄りました」と言っていますが、後輩の応援ついでに京都観光したのでしょう。スタイル抜群の色白美人に磨きが掛かっており、「きっとカップルで来たな」と野生の勘が働きました。「そろそろ結婚するんじゃないの?」なんて話を向けたら、「いや全然、相手がいませんよ」なんて答えます。女子は嘘が上手いです。 朝のブリーフィングで、監督と僕が喋りました。Tan監督がヨット部員だった頃、既に僕がコーチをしていました。当然、僕の方が年上。それを忖度して、キャプテンが先に僕を指名します。でも部の立場は監督がいてコーチがいます。より責任が大きいのは監督なので、キャプテンに「僕に気を使わず、部の立場を優先し、監督を先に指名していいよ」と伝えました。それから、監督が先に話すようになりました。 風がないのでしばらく陸上待機になりました。Rioちゃんに、「今年、1回生に6人もマネさんが入部してくれたんだよ。後輩マネに声を掛けてあげてよ」と、お初の1回生マネさんのところに連れていき、紹介しました。すぐにあれやこれや会話が始まりました。「集合写真撮ろうよ、僕が撮るよ」と声を掛け、マネさんのスマホを借りてパシャリ、「はいもう1枚」。Rioちゃんを観覧船に誘いますが、「出艇見てから帰りますから」とのこと。 少し風が入ってきたようで、レース運営から、「レース艇を出すそうです」の連絡があり、急いで部員を乗せて大津マリーナに向かいました。事務所で車のナンバーを書き込んで駐車します。 すぐに沖に出て上マーク付近に船を止め、風の状況を取って随時送ります。風は弱まり、鏡のような湖面になりました。僕の予報では「11時から北湖からの北風が入って1レースできればOK」です。時折、南西・北・西からのパフが入るが続きません。時々、北の琵琶湖大橋を双眼鏡で見て、安定する北風の吹き出しを待ちます。運営艇がかなり北まで走って風を見に行っています。 風はなく、天気が良く、暑いのでバウデッキ下のドッグハウスに部員たちが入っています。僕とコーチ・6番艇4回生女子選手・ドライブ担当マネさんがコクピットに留まり、風の吹き出しに注意しながら、あれやこれやお喋り。11になり北から弱い風が入ってきましたが、また無くなってしまいました。11:30になっても、パラパラとパフが入るだけで、風上まで風が続いていません。最終日は、12時スタートが最終なので、「こりゃ駄目だな、今日はノーレースだわ」と。 11:45までレース委員会は粘りましたが、AP/Aフラッグが揚がりレース終了です。大津マリーナに帰ります。部員を他の車でピストン輸送して返し、女子コーチと6番艇4回生女子部員(部の会計担当)と一緒に残ります。レンタル艇の精算です。15分ほどお喋りしながら待って精算し、ハーバーに戻りました。いつものようにPに駐めようとしたら、何と満車では入れません。ここが満車なんて初めてです。路駐OK場所に移動して艇庫前に戻りました。 すぐにブリーフィングが始まり、「おめでとう。当地区の雄・D社との差を更に縮める事ができました。全国でもこの日に予選最終日を迎えている学校が多数あり、多くの大学ヨット部が敗退し、4回生は引退し新チームに変わります。最終戦・全日本インカレまであと1ヶ月、このチームであと1ヶ月活動する事ができます。緊張感のある中でまだヨットを楽しめる幸運を噛み締め、これからの1ヶ月精進しましょう」と話しました。 帰路に着きます。まだ明るいうちに帰宅し、家内とあれやこれや、DVD映画観たりして過ごしました。映画は、「ニコラス・スパークス原作・かけがえのない人」です。僕はラブストーリー好きで、ニコラス・スパークス原作作品はほとんど読んでいます。映画化された作品は全部DVDで持っています。 次男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。七五三の前撮りをしてきたそうです。七五三に前撮りがあるのか・・・初耳でした。すみれちゃん6才は、お嫁さんの7歳の着物を可愛く着こなしてくれたそうです。おーちゃんは、疲れてくると前歯が出でしまうようで、後半ほとんどネズミのお顔になってしまったそうです。写真を見ると、ネズミの顔が確認出来ませんでした。 それに対し、長男のお嫁さんからLINEが入りました。「みんな可愛い、可愛すぎる。すーちゃん、着物もドレスも最高に似合うね、いい家族写真」だって。おーちゃんには悪いけど、女子の可愛さには男子では太刀打ちできません。家族写真のお嫁さんも素敵ですが、すみれちゃんは圧倒的に可愛い。本人の無邪気さや幼児ながら「女」のツボを自然にやってる魅力を知っているので、僕にはより可愛く見えてしまいます。TVには幼児モデルさんが多数出ていますが、すみれちゃんの可愛さには敵いません。 2022/9/24 インカレ予選2日目。5時過ぎに家を出ました。名神高速〜湖西道路を経て、6:18「セブンイレブン大津松山町店」で、昼食用に「マーガリン入りレーズンロール4個127円」購入してハーバー入り。翌日の3日目の風予報が1m/sなのでノーレースが予想されます。勝負の2日目です。ハーバーで皆に挨拶します。このハーバーで1ヶ月後に全日本インカレが行われるので、レース委員会はこのレースでその予行演習をしています。初日とレース艇を置く場所が変更になっています。今大会の出場校数の3倍が全日本なので、1/3のエリアの地面にテープで1艇分づつ仕切って各校指定された場所にレース艇を置いています。予備艇置き場も別の場所に作っていました。僕が大学1回生だった頃もこのハーバーで全日本インカレが行われ、ハーバー外の琵琶湖の砂浜から出着艇した記憶があります。狭いハーバーなので工夫しなけりゃ。あれから、ハーバー内の艇庫配置を変更したので、今大会は何とか置けそうです。まあ、数年に一度やってくるここでの開催をハーバー内でこなしているので問題ないのですが・・・。 運営要員で来ている多くのOBに加え、数年前に卒業した女子マネージャーOGFujさんが来ていました。同期との交流を聞いたら、5人の同期マネさんと毎月のように会っているそうです。この5人のマネさんの代で、当方マネのレベルがグンと上がりました。レース中の陸上PC部隊が出来たのもこの5人がいたからこそです。その中心的存在が彼女で、お父さんが大学ヨット部出身でクルーザーでレースを続けているので、子供の頃からヨットに乗っていたから、ヨットの動きを入部時からわかっていました。近畿北陸ブロック学連に参加し、レース日程から運営までブロック全体を動かしていました。4回生ではそのリーダーになってレース運営の実質トップで辣腕を振るいました。2021年の東京オリンピックでも、レース運営スタッフとして参加しインターナショナルな人材になってしまいました。今回も呼ばれてレース運営しているそうです。でも今回は下マークという楽な場所なので、レースを楽しんでいるそうです。来月の全日本でも運営に来てくれるそうです。 8時過ぎに、レース前ブリーフィングしました。勝負の2日目、選手には前日同様の注意点を話しました。部員を車に乗せ、大津港に移動しました。前日同様、風上マーク付近の風情報を取って随時報告します。風が弱いのでAPフラッグが揚がりレース延期です。しばらく待ってAP/Hフラッグが揚がり、一旦ハーバーバックして陸上待機になりました。ただこの船は風情報を取り続けます。 12時過ぎになって北風が入ってきて、レース艇が出てきました。10m/sほどのブローが入るレース海面になり、タイムリミット16時スタートまでに3レース出来て全7レース終わりました。上位と下位選手の力量差が顕著になり、470では再びトップ9がD社・Rits・当方の3校だけという展開になり、点差が縮まらず開かない状況になりました。当方の470では3番艇がトップフィニッシュし、1・2・3番艇それぞれ1回トップフィニッシュ出来ました。2日間で4・5番艇まで交代で出場し、代役もスターターに見劣りしない着順で走り、470級は1ヶ月後の本番で5艇使える目処が立ちました。 S級は、4番艇のジュニア上がりRyoくんペアが交代で出ましたが、これまた遜色なく走り実力通りです。軽風スペシャリストの5番艇がまだ使えていないのが残念ですが、当方では数少ない高校ヨット部出身者でインターハイなどの本番レース経験を持っているので問題ないでしょう。 2日間(7レース)を終えての成績ですが、470はトップRits・2位D社・3位当方で順位の変動なし。トップと2位が27点差で、2位と3位が7点差。7レースで7点差なんて1レース平均1点しか変わらず、D社との実力差を夏休み中の練習の充実を見せてくれました。インカレ枠4位が金沢で3位当方との差が132点もあり、当方の倍の得点で、明日のレースを待たずともトップ3はほぼ確定です。個人成績では1〜8位が上位3校で占め、9位が金沢で10位がD社でした。明らかに上位3校が充実しています。 S級は、トップD社と23点差で当方が2位、2位と3位Ritsとの差が110点あり、これまた当方のほぼ倍の得点です。こちらも明日を待たずトップ2は確定です。3位との差51点で4位は京産で、5位が1点差で富山、6位が11点差で金沢。S級の全日本出場枠は5なので、この3校で最終日の4・5位争いが熾烈を極めそう。個人成績は1D社・2〜3当方・4〜5D社・6当方と2校6艇でガチンコ勝負です。1ヶ月後の全日本インカレで、この水域で6位入賞出来るのは、470では上位3校・S級では上位2校でしょう。当方の今年の目標は2クラス総合3位ですので、神風が吹けば達成可能です。 7レースフィニッシュでこの日のレースは終了し、ハーバーバックになりました。大津港に戻り、前日のボチャンを繰り返さないよう気をつけながら降り、部員を車に乗せてハーバーに戻りました。みな笑顔で片付けています。ブリーフィングで労い、気づいたことを話しました。そして前日同様、風呂入って早く寝て明日の朝も気力体力充実させて最終日のレースに臨もうと話しました。帰路に着きました。「17:01〜17:30滋賀県立ヨットハーバー700円-400円=300円」。家に着く頃はしっかりと日が傾き、日が短くなってきた秋になったことを感じました。 2022/9/23 本日から3日間、コーチしている大学ヨット部の1年間の目標である「大学ヨット選手権団体戦」(略:インカレ)への地区予選です。ブロック予選を勝ち抜かないとインカレ本戦には進めません。多くの大学ヨット部は、この地区予選で姿を消し、そこで4回生はヨット部を引退し新チームに変わります。 インカレ出場数は、470・スナイプ各クラス24校。24-8=16の基本枠を各ブロックの所属学校数によりブロック予選通過数が割り振られます(九州2・四国1・中国1・関西2・近畿北陸2・中部1・関東6・東北1・北海道1=17)。前年度全日本選手権の上位6校の所属するブロックに出場枠が、特別枠としてプラスされます(各地区最大2)。更に開催地枠1がプラスされ、各クラス24の出場枠が埋まります。所属する近畿北陸地区は、470級が基本2+特別枠1+開催地枠1=4校、S級が2+2+1=5校枠があり、少し余裕があります。 当方はここ数年。両クラス全本出場しているので、この予選は当然通過するという空気があります。この空気を払拭すべく、9月に入り部員の気持ちを全日本本戦ではなく予選通過に集中すべく引き締める言葉を、ブリーフィングで発してきました。でも一方では、予選1ヶ月後の全日本に望む体制を整えて来ました。具体的には部員の親御さんの観覧船の用意をスべく、担当部員に全国の動きを伝え早め早めに動くようアドバイスして来ました。キャプテン・各クラスリーダーともそれについて話を詰めてきました。1回生以外が全日本経験者なので、同じ気持ちで動けています。 6時に家を出ました。雨予報というのもありますが、大津港から出すレンタルボートを使っての3艇目のコーチボートを使うので、四輪で出発しました。7時過ぎにハーバーに着き、選手に声を掛けます。このレースは各校各クラス3艇しか出場できません。他のレースは誰でも出場できるので、みな選手として出場できますが、これと次のインカレ本戦だけはクラブ代表の感が強い。初出場の選手がリラックスしているか表情を見ながら、軽口で笑顔にさせようとします。いつもと少し違う雰囲気に表情が硬い1回生にもあれやこれや。女子マネさんが明るいとクラブ全体の雰囲気が和むので、特に1回生マネさんに寄っていってあれやこれや。前回1回生クルージングの時僕が購入し寄付した国際信号旗ステッカーがコーチボートに貼られているのを確認し、マネさんたちに「ありがとう」と言います。 この「ありがとう」という言葉は万能の力を発揮します。「おはよう」「おやすみ」などの挨拶、「ありがとう」「ごめんなさい」の言葉を相手の目を見て言える人は飯の食いっぱぐれにならないと思っています。社会生活の基本の言葉が「ありがとう」です。家内は、必ず「ありがとう」という人で、とても人に好かれています。夫婦生活40年を越え、マンネリの極みですが、互いに基本的な挨拶や「ありがとう」を忘れることはありません。「僕の宝物は家内」「今でも手をつないで歩くよ」なんて、ラブラブなのを平気で言うので、先日も1回生マネさんに「長続きする秘訣を教えて下さい」と質問された時、挨拶の言葉を毎日欠かさないことと「ありがとう」「ごめんなさい」をはっきり言う事と答えました。 D社S級コーチNisくんから声を掛けられました。「D社S級はインカレ本戦優勝しそうだね」と言うと、「いえいえWが強いし、Kは強敵ですよ。・・は強いし、・・は速いから」と当方を持ち上げてくれました。話しぶりから、同じ水域の当方をかなりライバル視しているようです。Nisくんは、ジュニア時代からの知り合いで、彼の所属していた琵琶湖ジュニアと僕が作った兵庫ジュニアで競い合っていました。 8時にズーム開会式があり、それを終えてブリーフィング。選手には失格しないよう気をつけることと、1回生から各自振られている仕事を確実にこなすこと。スターター6艇12人では、インカレ本戦は戦えないことを話し、コーチボートに乗るサブ各3艇12人にもレースに出る機会があるので、自分がレースに出ている気持ちや目でレース観戦するよう話しました。 僕は大津港から出すボートに乗るので、部員を車に乗せ走ります。事務所で出艇申告して船へ。大津港はヤンマーが管理業務に協力しているハーバーで、バブリーな燃費の悪そうな船を貸してくれました。ディーゼルエンジンで十分なのに、ガソリンエンジンボートです。 大津港の前は藻が多く、出てからバックしてスクリューに巻き付いた藻を外してレース海面に急ぎます。上マークの上に位置し、風の振れを随時グループLINEに報告します。選手の身近にいるコーチボート1から選手にそれが伝わります。レースを追いかけるコーチボート1には、各クラスコーチ1と4番艇の選手4人が乗っています。スタートライン・下マーク・アウター下マーク・フィニッシュ付近を移動するコーチボート2には監督・コーチ2・ドライバーマネージャー2・5番艇選手4が乗っています。コーチボート3に僕が乗っており、上マーク付近に位置し風の動きを随時報告し、上マーク回航を見ます。OB観覧船に、部員が乗り、アウター上マーク付近に位置し、コーチボート3と同じ仕事を担当します。ただOB観覧船なのでOBの要望優先で動きます。 雨の降る天候の中第1レースがスタートし、470のトップ9がD社・Rits・当方だけで、他校との実力差を感じます。2レース終えて総合では当方がトップで僅差にD社で、幸先の良いスタート。北東の良い風でこの日のリミット4レースが14時前にフィニッシュしてしまい、もう1・2レース出来るのにハーバーバック。 初日470成績は、Ritsがトップで55点・2位D社75点・3位当方84点・4位金沢152点。当方と4位がほぼWスコアで4番目の枠を目指して3校が競う展開で、その他は更に離れています。Ritsのレギュラーは昨年のメンバーがほぼ残っているので強いと思っていましたが、D社の上に行くとは予想外でした。 S級は、トップD社65点・2位当方70点・3位富山144点・4位Rits152点・5位金沢165点。こちらは、D社と当方が5点差の僅差で、3〜5位をその他で競う展開です。Ritsが意外に奮わないのが想定外でした。レースを見ていると、D社S級は当方キャプテン艇をがっつりマークしているのを感じました。当方キャプテンをタイトカバーして風を奪ってきます。その分カバーから外れた当方で一番早いNumくんが23回トップフィニッシュしました。ジュニア小学生からヨットやってるベテランが多いD社の関東の雄(W・KO・日大)を見据えた戦い方を見ました。インカレ本戦で、優勝争いが絞られて来る後半の戦い方の予習をしているようです。2クラス総合は、トップD社140点・2位当方154点・3位Rits207点、RitsS級が奮わないので、総合争いも2校に絞られそうです。 大津港に戻り、部員を乗せハーバーに戻ります。OB観覧船に若手OBが数人乗っていました。東京から元選手・元マネカップルが一緒にやってきました。彼らとハーバーで再開をあれこれ、部員に差し入れを持ってきたので、部員に彼らを紹介し、特にマネさんミーティングに元マネを紹介してあれやこれや。成績を自分では出せませんが、女子マネの力は絶大です。僕がコーチしだした20年前は、春や夏の長期休みでは全員帰省してしまい女子マネゼロで悪戦苦闘していました。僕が冷たい麦茶を用意して選手に渡すレースをしていました。全日本なんて遥か彼方の世界でした。一人ずつ口説いて女子マネがいつもいるようになり、マネさんが船舶免許取ることで選手がヨットに乗るのに集中できました。可愛い女の子がいると男子は燃えるもので、部員も増え今は押しも押されぬ強豪校に成長しました。OGになっても東京から応援に駆けつけるほど、女子マネもヨット部を楽しんでくれたということ。これが続くと良いです。 ブリーフィングで、感じたことを話し、「14:27〜15:51滋賀県立ヨットハーバー700円-400円=300円」、帰路に着きました。桂川PAでトイレ休憩し、アイスを探しましたがこの日もケースにはアイスはなくお土産だけが入っていました。アイス復活を願います。 2022/9/16 数日前、次男のお嫁さんから家族LINEが入りました。おーちゃん3才が咳とゼーゼーした呼吸で病院に連れて行ったそうです。診断は、「喘息だからすぐに入院」となり、1週間入院になったそうです。川口医療センターという病院で、すみれちゃん6才が誕生すぐ低体重で入院した病院で。お嫁さんが付き添うそうです。入院前の検査で疲れたようですが、元気はあるので大丈夫とのことで、少し安心しました。 次のLINEでは、病室からリモートワークですが、元気ありありのおーちゃんの「遊ぼう攻撃」にあい全然仕事にならず、寝ている間に仕事しているそうです。おーちゃんはママ独り占めなのでハイテンションで、いろんな歌を元気いっぱい歌ってくれるそうで、隣のベッドの子が笑ってくれているそうです。ただ、人見知りを発揮して、看護師さんや先生に話しかけられても無反応で、テンションの差が面白いそうです。 薬がかなり効いたようで、早期退院できるかも?だそうです。ただ、喘息持ちのようなので、1年程度薬を飲むことになるようです。症状が頻繁に出るようであれば、ステロイドを使うとのこと・・・ステロイドはできれば使いたくないと心配していました。そして、この日おーちゃんは無事に退院できました。3連休はゆっくり過ごすそうです。我が家の長男も、幼児の頃「百日咳」に罹患しました。毎日咳が続き、その名の通り約3ヶ月間咳が続きました。代わってあげたいけど出来ず、可愛そうで仕方ありませんでした。親は偉大です。 2022/9/12 長男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。車が納車されたようで、子どもたちも大喜びだったそうです。自動車会社での納車写真がありました。6年間の海外勤務を終え、8/1に日本に帰ってきた長男一家ですが、海外勤務ではなくなったので、会社からの車の支給はありません。自前で車を用意しなければならず、いろんなメーカーに当たりましたが、どこも半年後・1年後の納車と言われ、中古車も考えていました。でも中古車でも新車と同じぐらい高額だったりで困っていました。そんな中、1車種だけ新車即納のがありました。他に選択しなく「日産セレナ」を購入しました。写真を見ると、パープルカラーでした。珍しい色です。最近、素敵なカラーリングの車が増えているように思います。 りょうくん9才は、放課後お友達が遊びに来たり、公園に遊びに行ったりしてすっかり日本の小学校に馴染んでいるようです。ロンドンで通っていたテニススクールとサッカースクールにも通い始めたようです。 こうちゃん6才とるーかすくん4才も幼稚園生活を毎日楽しんでいるようです。週1でスイミングスクールに連れて行ってくれたり、クッキングに力を入れている幼稚園だそうです。今は毎日運動会の練習もしているようで、10/8日(土)が本番だそうです。雨天延期で9日になるかも・・・だって。「是非観にいらしてください」と誘われました。 即答で、「運動会を観に行く」と伝えたら、孫たちは大喜びしてくれたそうです。加えて、「8日は横浜の家に泊まってゆっくりしていってください」だって。我が家の前は、近所の幼稚園バスの待ち合わせ場所で、お子さんをバスに載せたお母さん方の井戸端会議が始まります。そこに飛び入りし、「今年の運動会は人数制限ないの?」と聞いてみました。答えは、「各幼稚園で違うだろうけど、うちの幼稚園は両親と兄弟だけとの制限がある」とのことでした。そのことをお嫁さんに伝えると、「今年は人数制限がないそうです。おじいちゃん、おばあちゃん、親戚、沢山観に来てもらってください」とメールが来たところだそうです。 息子たちは1才前後から保育園に通ったので、1才から小6までの運動会や音楽会を知っています。このような行事は、年齢が小さいほど面白い。先生の指示に従わない可愛さがたまらない。初めての孫の運動会見学です。孫1・2号の幼稚園は海外だったので行けず、更に運動会なんてないし・・・。初の機会は、次男とこの長女すみれちゃんでしたが、入園が2020年なのでコロナ禍で見学できませんでした。楽しみです。 2022/9/11 大学ヨット部のコーチング日です。倉庫から「里山VTR250」を出し、R171〜中央環状道路で、7:31「エネジェット豊中中環SS」で給油。「243km/8.55L=28.4km/L」。7:36「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「マーガリン入りレーズンロール4個118円+サントリー天然水キリッと果実600ml129円=266円」購入。吹田ICから名神高速に乗り、8:11「桂川PA」でトイレ休憩。「白くまバー151円+月化粧1400円=1551円」購入しました。白くまバーでクールダウン&朝食。京都東ICで下車し、湖西道路を走り琵琶湖のヨットハーバー着。 女子マネリーダーToyさんに「月化粧」を渡します。「マネさんにお土産、マネ飯作ってる間にでも食べて」。ブリーフィング後、AM練習開始。上回生チームはレース練習を中心にし、下級生チームは基本練習中心。インカレ団体戦予選まであと3週間、悔いなく最後まで練習を重ねて行きましょう。 12:30にハーバーバックし、マネ飯を皆で食べます。最後のヨット部生活を送っている4回生のリクエスト料理です。この日は、「野菜たっぷりカレー」これは美味そうです。朝、お土産を渡した時、「コーチ、マネ飯食べますか?」と誘われたけど、「うん」と言っとけば良かったな〜。 ブリーフィングして出艇。AM練習で感じたことを話しました。加えて、「あと1ヶ月弱、インカレ本戦のことを考えず、予選通過に向けてチャレンジャーであれ」と気持ちで「予選通過は当たり前」という近年の成績の上にあぐらをかかないよう引き締めました。キャプテンには、他校との合同練習レース練習や2クラス合同スタートで杯数の多いスタートでの緊張感や感覚を磨くようアドバイスしました。 レース練習していると、予選レース海面であるこちらにレース艇をもってきている「富山大」が、「レースしているのですか、一緒に出来ませんか?」とやってきて、「もちろん、OK。次のスタートは・・分スタート」と伝えレース艇杯数が増えました。「金沢大」もやってきて加わり、大フリートのレース練習になりました。金沢のコーチボートにはプロコーチのTakさんが乗っていました。レースまであと3週間、雰囲気が出てきました。 16:30になりレース練習を終了しました。金沢さん・富山さんが挨拶して離れていきました。当方は、部員数が多く杯数も多いので、2つに分けてハーバーバックします。良い練習が出来ました。 ハーバーに戻り、ブリーフィングして、バイク装束に着替えて帰路に着きました。いつもなら桂川PAでアイスを頬張るのですが、2回連続でアイスクーラー自体が撤去されていたので、寄る気になりませんでした。アイスがないコンビニやレストコーナー売店なんて意味ないやろ!プンプン! |
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Full sail 2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。 1.今、一番言いたいこと 私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。 本当に幸せな奴だと自分でも思う。 「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。 この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。 中略 最後に両親へ。 最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。 |
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日記の始まり ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。 高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。 ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。 もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。 ジュニアヨットに対する基本的考え→『学業とヨット』 |