-ウェブマスター日記 2022/7-8

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2022/8/31 1回生クルージング
1回生クルージングの日です。先月、1回生クルージングを2日間予定しました。1回生部員が多く、交代でヨットに乗る体制(4交代制)だったので、希望者に大きなヨットを体験してもらおうと企画しました。初日は良い風でしたが、2日目は台風の影響で海象が厳しく中止せざる終えませんでした。その代替日としてこの日を設定しました。8時に4輪に乗って家を出ます。8:33、「ファミリーマートJR西宮駅北口店」で、「天然水きりっと果実139円+なめらかピーナッツ5個118円=257円」購入。家から持ってきたペットボトル用魔法瓶に入れます。上下2分割する魔法瓶をくるくる回して分割し、ペットボトルを入れて上の魔法瓶をくるくる。上の魔法瓶中央に穴が空いており、そこからペットボトル上部が出ているのでペットボトルから直接中身が飲めます。これが意外に保温でき、冷えた中身が夕方まで温まりません。これはナイスです。
JR西宮駅ファミリーマート前で、1回生6人(Uen女子マネ・Sowくん・Toyくん・Nomくん・Mizくん・Morくん)をピックアップし、9:13新西宮ヨットハーバーPへ。桟橋係留艇へ。学生に手順を教えて桟橋を離れます。「神戸港」に行く予定でしたが、Uen女子マネさんがバイトのため14時ハーバーバック希望だったので、大阪海遊館前を目指しました。ハーバー沖に出てメインセイルをアップし、ステアリングを交代しました。2m/s以下の風だったので、機帆走で夢洲の南に迂回して旧「なにわの海の時空館」前を通って海遊館前へ。Uターンして大阪湾に戻りました。
徐々に風が上がり、ジェノアもフルセイルにして、再び西宮尼崎港内へ。ヨットハーバー前まで戻ると、神戸・大阪・KG・KDヨット部が練習していました。全員交代しながらのクルージングで、タッキングなど基本動作をしました。小型ディンギーにはないウインチに慣れていきました。西風が10m/sまで上がり、最終的にジェノアを1/3、メインをワンポイントリーフして帆走しました。みんな、とても楽しんでいました。意外だったのは、Uen女子マネのドライブが上手で、マネージャーにしておくのは勿体ないと思いました。あまりに楽しく、「あ〜、バイトサボりたい」って言い出しました。「14時帰着バスで駅まで」を詳しく聞くと「15:10JR西宮駅」でOKなようで、14:30桟橋に戻りました。
1回生プレイヤーに「船に水掛け&ブラッシング」を頼み、「9:13〜14:31新西宮YHP800円」、Uenさんを車で駅まで送りました。15:00ハーバーPに戻り船へ。船をしっかり片付けます。ディンギーヤードに移動し、卒業するまで何度か来るであろうハーバーを見学しました。センターハウスに戻り、1Fカフェへ。15:30、Mizくんに一点鐘で、「国際信号旗ステッカー550円」購入してもらい、ヨット部レスキューに貼るよう指示しました。15:48「FRIANDISE」で、「スノーアイス720円+パインジュース520円+メロンソーダ480円+アイス580円+フラペリッチ700円=3580円」休憩しました。部員は一点鐘で、マイライジャケやキャップなど購入していました。
帰路に着きます。「15:00〜17:02新西宮YHP400円」。JR西宮駅に3人、阪急西宮北口駅に2人降ろして帰宅しました。


2022/8/30 長男一家新生活
長男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。長男が3年間のロンドン勤務を終了し、8月から東京本社勤務になり、家族で帰国しました。新居が決まるまでホテル住まいし、お盆前に新居が決まり、我が家に帰省しました。僕は、ヨットレースで和歌山と徳島に行っていたので、中日に1日だけ帰宅し、3人の孫たちと遊びました。長男は1日だけ東京本社に出勤しなければなりませんでしたが、家族はお嫁さんの実家(新潟)に向けて、大阪伊丹空港から新潟に飛び立ち、長男も同日東京に飛んでいきました。その後、長男が新潟に移動し、お盆後は新潟の実家で過ごしたようです。そして東京に戻り、新居を整えながら、子どもたちの学校手続きに走り回ったようです。
昨日(8/29)が、りょうくん(9才・小4)の初登校だったようです。アメリカの幼稚園は、親が車で送り迎えします。年長さんからは、スクールバスで登校。ロンドンから始まった小学生生活も親の送り迎えでないといけません。日本は圧倒的に安全なので、みな歩いて最寄りの小学校に通います。りょうくんは徒歩通学初体験です。緊張でガチガチになっての初登校でしたが、お友達も先生も優しかったようで一安心していたそうです。担任の先生は優しそうな男性の先生だそうです。今日(2日目・8/30)は、放課後クラスメートが家まで迎えに来て公園へ遊びに行ったそうです。お喋りで人懐っこい子なので、友だちができたようです。
りょうくんはアメリカで幼稚園3年間を卒業し、ロンドンで小1のはずでしたが、イギリスは1年早く小1になるので、小2に編入して小学校生活が始まりました。そして、6月にロンドンで小4を卒業したのに、9月からまた小4・2学期に編入しました。小1を経験せず、小4を2年経験することになります。英語は出来るけど、日本語はきっと同級生に遅れをとっているでしょうし、社会なんて全然違う勉強なので3年間の基礎がないから苦労しそうです。ロンドンでは成績超優秀でしたが、日本人はみな優秀だからビックリするでしょう。ロンドンでは宿題がなかったのに、日本ではホームワークしないといけないからこれにも驚くでしょう。どうなることやら、楽しみです。
こうちゃん(6才・年長さん)とルーカスくん(4才・年少さん)の幼稚園が決まり、制服を購入してきたそうです。写真を見ると、2人とも大きめサイズです。こうちゃんは残り数ヶ月のみなので、幼稚園が貸してくれたものを着るようです。レンタルがあるなんてびっくり。準備など間に合えば9/1から通うそうです。こうちゃんはロンドンで小1を卒業しているので、掛け算まで出来ます。きっと物足りないでしょう。いずれにしても、楽しい幼稚園生活になるでしょう。
そして、お嫁さんはついにJALを退職したそうです。10年も休職させてもらえ、復帰も模索していたようですが、家族の現状などを考え退職を選択したようです。小学生の時、外資系に勤めるお父さんの勤続・・年記念で、アメリカ本社に家族で招待され、フロリダ・ディズニーランドを大いに楽しんだそうです。その時のフライト・アテンダントさんにあこがれ、大学ではWスクールして就職することが出来ました。長男とは25才の時に知り合い、長男は早く結婚したかったけど、お嫁さんの「30才までは仕事したい」希望で先延ばしして好きな仕事を楽しみました。
ベースボールのサムライジャパンのアメリカ遠征に1ヶ月間帯同し、皇室のフライトにも抜擢されました。長男と付き合っていなければ、今頃プロ野球選手の奥さんをやってたかも? 会社更生法が適用され国有化され、京セラの稲盛会長がトップに入り急速に経営を立て直し、JAL生え抜きの元パイロットさんが社長職にバトンタッチしました。その時、新社長の横にお嫁さんがいました。新聞にもTV記者会見にも同席し、聞いてはいましたがエースアテンダントだったんだと実感しました。お嫁さん、ご苦労さま。お嫁さんはまた働きたいと言っていたので、子どもたちが手を離れたら働き出すでしょう。長男は、母親(僕の妻)も、僕の母親も、家内の母親もみなフルタイムで働き続けたので、お嫁さんが働くのに違和感がないと思います。長男一家の日本での新しい生活が始まります。頑張れ!


2022/8/28 大津市歴史/新羅三郎墓・陵墓ツーリング
コーチしている大学ヨット部のコーチングに行きます。その前に歴史探索しようと、5:39「里山VTR250」を倉庫から出して出発。R171〜中央環状道路。吹田ICから名神高速に乗り、京都東ICで下車して湖西道路で北上。「皇子山ランプ」で下車し、「JR大津京」まで下って、右折してr47を南下します。右折して枝道に入り、バイクを駐めます。
森の中の道を歩き、6:46「新羅善神堂」。『足利尊氏再興の社殿 国宝・新羅善神堂(しんらぜんしんどう) 南北朝時代(貞和3・1347) 桁行三間・梁間三間・一重・流造・向拝一間・檜皮葺 三井寺の鎮守社のひとつで、北院伽藍の中心建築です。現在の建物は、足利尊氏によって貞和3年(1347)に再興されました。檜皮葺屋根の流れるような美しさをもつ社殿建築で、「流造」の代表的遺構として知られています。 堂内の須弥壇には素木の厨子が安置され、三井寺の開祖・智証大師ゆかりの国宝・新羅明神坐像がまつられています。平安時代、河内源氏の武将・源頼義の3男・義光が、新羅明神の屈前で元服し、新羅三郎義光と称したことから三井寺は源氏一門をはじめ河内源氏の流れを汲む足利家の尊崇を集めることとなりました。  文化庁 令和3年度文化財多言語解説整備事業(文化資源活用事業費補助金)』
案内板に従って石段をゆるく上がっていきます。6:52、『新羅三郎義光の墓 大津市圓城寺町 新羅三郎は、源義光のことで源頼義の子に当たります。兄に源義家・源義綱がいます。新羅三郎というのは圓城寺の北院の鎮守・新羅明神をまつる新羅善神堂の神前において元服したことにちなむもので、兄も八幡太郎義家、賀茂二郎義綱とそれぞれ元服した神前に由来する名を別に有しています。義光は、弓馬の道にすくれ、後三年の役(1083〜87)には、兄の義家を助けるため奥州へ出向いて、清原氏の乱を兄に協力して治めています。 義光は、1127年に没し、この墓が新羅三郎義光の墓と言われています。  大津市教育委員会 昭和62年3月』。バイクに戻る途中で、7:02「弘文天皇長等山前陵」。
バイクに戻り、r47を南下します。右手に「大津市役所」を見て右折し枝道に入り、7:13「大津市歴史博物館」Pへ。博物館の建物の山側に入っていきます。『歩兵第9聨隊は明治7年此の地に創設せられ同年12月18日明治天皇より軍旗を親授された。尓来星霜70年、此処に修武練胆の将兵幾10万を算し、京滋を守る西南の役には肥薩に勇戦。日清戦争には遼東に、翌年台湾に出征して武勲を樹てた。日露戦争には南山・遼陽・黒溝台等各地に勇戦。特に奉天会戦には終始力戦。真に屍山血河の激戦を重ね、将兵の大半を失うに至ったが、克く大敵を撃破し、全軍完勝に多大の貢献をした。また此の戦役に後備歩兵第9聨隊は旅順に苦闘。殆ど全滅の惨に瀕しつつ、要塞攻略に殊功を樹てた。越えて大正8年シベリアに出征。同14年第3大隊を当地に残し主力は京都に移駐した。昭和9年より2年間、聨隊は満洲に駐屯し、北安・黒河等に在って、北満を固めた。昭和12年支那事変が起り、聨隊は北支進攻の後、中支に転戦。同年12月南京攻略戦に参加し、続いて翌年5月徐州に戦い、10月長駆大別山を越えて武漢に進んだ。更に大東亜戦争には比島作戦に参加してマニラに進み、バターン半島に転戦の後、主力は19年秋レイテ島において米軍主力の反攻を受け、敵を水際に迎撃。或は後方陣地に勇戦力闘したが、我第一線は相ついで全滅し、12月8日最後の突撃を敢行。聨隊長以下全員軍旗と共に玉砕したのである。また歩兵第9聨隊を母隊とし、動員編成された幾多の部隊は中支・ビルマ・沖縄など各地に戦い、不滅の武勲を樹てた。今や物換り星移って、在りし日の聨隊を偲ぶ俤も薄れつつあるが、祖国を守る輝かしい伝統と歴史は永久に伝えられなければならない。茲に聨隊関係一同相図り、県下有志多数の御協力を得て、由緒ある此の地を史蹟として保存し、平和の礎石となられた今は亡き戦友への餞とすると共に、国運の隆昌と世界の平和を祈念して、此の碑を建てるものである。 昭和42年4月18日 歩兵第9聨隊記念碑建設委員会一同』
『若鷲の記 大津陸軍少年飛行兵学校は、太平洋戦争が苛烈の度を加え、その戦域が益々拡大された昭和17年10月、航空戦力増強の要請に応じ東京陸軍航空学校大津教育隊として此の地に開設され、翌18年4月、大津陸軍少年飛行兵学校に独立した。当時15・6才の少年たちは、祖国存亡の時、陸軍航空の期待と栄光の重責を担い、「至誠・純真・元気・周到」の校風のもと、炎熱の朝、酷寒の夕、琵琶湖畔に、長等山麓に、幹部要員として徹底した1ヵ年の基礎訓練に励んだ。その数、第15期生から第20期生に至るまで8千有余人。ついで、操縦・通信・整備の各上級学校に学び、若鷲となって大空に巣立ち、北辺の空に南漠の果てに、本土防衛のさきがけとなって愛機と生死を共にした。昭和20年8月、戦いは終わり、これらの出身者、また未だ学業半ばの者は、ともに全国に離散し、本校もまたその歴史を閉じた。 往時茫々、戦後30年。教えし者、教えられし者相集い、かつて青春の全てを捧げうった想い出深きこの地に、永遠の平和を願って、慈に「若鷲の碑」を建立する。  昭和50年10月12日 大津陸軍少年飛行兵学校・関係者一同』
『大津陸軍少年飛行兵学校・第一校歌
1.翔け集う若鷲 仰げ無敵の操縦 競う神技は燐たり燐たり いざ征かむ鵬翼 志賀の古都の花匂う ああ畏し五条の聖諭 旨と励まむ旨と励まむ
2.翔け集う若鷲 見よや手練の通信 樹つる勲は赫たり赫たり いざ伸べむ鵬翼 鳰の入江に朝日映ゆ ああ畏し五条の聖諭 旨と励まむ旨と励まむ
3.翔け集う若鷲 誓え無縫の整備 睦べ三技は凛たり凛たり いざ張らむ鵬翼 長等の山の松青し ああ畏し五条の聖諭 旨と励まむ 旨と励まむ』
バイクに戻り、7:25博物館の下にあった「特殊かまど(温突・おんどる)遺構」。『穴太遺跡の特殊カマド(温突・おんどる遺構) この遺構は、JR湖西線唐崎駅の内方、比叡山麓に広がる穴太遺構で発見された特殊カマド(温突遺構)です。古代のものとしては、現在、我が国で唯一のもので、一緒に出土した遺物から7世紀前半に造られたものと思われます。 これは、国道161号線西大津バイパスに関係した調査で発見され、約4mが残っていました。このカマドは、焼成室(カマド本体)、煙道からできていました。その中で焼成室には、粘土を貼り、煮炊き用の土器を支える石が置かれていました。 一方、煙道は石組で焚口に向かって左側に付き、なだらかに傾斜して延び、約2mで右に折れ、さらに延びていました。石組には、煤(すす)がついており、火を受けたことかよくわかります。 この遺構は、後世に削られて、上部の構造はわかりませんが、石で蓋をし、その上に建物が建てられていたものと思われます。穴太の地は、古くから渡来人と関係の深いところであり、この遺構は現在朝鮮半島などで見られる床暖房施設の温突(おんどる)と考えられます』
隣に銅像が立っていました。『大津市名誉市民・堤康次郎先生之像 先生は、明治22年3月、滋賀県秦荘町に生まれ、早稲田大学在学時から政治家をめざしつつ経済界に進出し活躍。大正13年には衆議院議員に初当選し、以後13回当選、昭和28年・29年には衆議院議長を務め国家の発展に尽力され、また「社会への奉仕」という経営哲学をもって一代にして西武グループを築かれた。亦、大津市では米軍キャンプ地返還や膳所刑務所移転等、今日の大津市の基盤づくりに大きく貢献し昭和32年には大津市初の名誉市民の称号を受賞された。市制百周年を迎えた本年、先生の御功績に感謝し顕彰すべく広く市民の御厚志を得て此処に銅像を建立する。  平成10年12月吉日 堤康次郎先生顕彰事業推進委員会』。西武の総帥・堤さんが大津市出身とは知りませんでした。
『車石 琵琶湖水運によって大津の港に集められた米などの物資は、主に牛車で京都に運ばれた。米だけをみても、江戸時代には多い年で年間73万俵と記録されでいる。牛車は雨天時には車輪が泥道にとられ、その通行は困難を極めた。そのため江戸幕府は、文化元年(1804)から翌年にかけて「車石」の敷設工事を行った。これは、牛車の車輪の幅に合わせて2列の平板な花崗岩を敷き並べるというもので、今も大津・京都間の街道沿いに、車の轍(わだち)の跡が残る石を多く見ることができる。エ事区問は大津八町筋から京都三条大橋までの3里(約12km)で、石は大津側が木戸石、京都側では白川石が用いられた。工費は約1万両といわれ、その一部は心学者の脇坂義堂や近江国日野の商人中井源左衛門らの寄付によって賄われた』
ヨットハーバーに向かいます。r47を北上し、右折して「京阪石山坂本線」を渡って湖岸に向かい、左折してr558で北上。7:42「セブンイレブン大津松山町店」で、「フルーツオーレ500ml98円+マーガリン入りレーズンロール4個118円=233円」購入して、ヨットハーバー着。バイクリアボックスからヨット装束などを出していると、「・・・さん、セイル大津に出るの?」と声が掛かりました。振り返ると、D社OB・Mizさん。レース運営に来られたようです。艇庫に向かうと、京都ヨットクラブ前で「セイル大津」レース陸上本部の準備をしていました。次の週、レースで御一緒するYasさんがいました。コーチしている大学ヨット部が出場するポイントレースもあるので、南湖でレース海面2つ出来るようです。「セイル大津」はハーバー前なので、ポイントレースは北寄りになりそう。
艇庫前でみんなに挨拶します。1回生の初レースです。S級上位チームは、スナイプ全日本(福岡小戸)に出場遠征中なのでいません。470チームは1週間前の全日本470(佐賀県唐津)遠征から帰ってきています。ブリーフィングで、「レースではいろいろあるけど、良くなかったレースを反省するより、良かったレースのスタート前何を考え話し合ったか、何処から出て何処でタックしどんなコースを引いたか勝因を考えた方が将来上手くなる。平均してイマイチなレース結果を出すより、ビリばっかりでも1レースぴか一のレースを出した方が将来成功する。自分の能力を低く見積もらず自信を持ってトップ取れると思ってレースに臨んだ方が良い。楽しく笑顔でレースに臨むことが最も早く実力を上げること。レース後コーチボートに話においで」と伝えました。
レース海面に次々に出ていきます。470のコーチボートに乗ります。D社・Ritsの上位艇は、次週のインカレ個人戦(蒲郡)に前入りしているのか出場していません。第1レースから、上位回航は当方ばかりで部内戦の様相です。ピカリと光ったのが、第3レースで1回生スキッパーKis艇が1上2位回航したことです。第3マーク(下)回航で7位になり、フィニッシュ前に風が落ちてトップ5しか時間内にフィニッシュできなかったけど上出来です。全4レースで、470級は1〜6位/15艇。
ハーバーバックし、ブリーフィングで1上2位を褒め、スタートで大きく出遅れる艇もなく上出来と感想を話しました。インカレ団体戦予選まで1ヶ月、インカレ団体戦本戦まで2ヶ月、君たちが底上げしレギュラー陣を脅かすことがクラブ全体のレベルを上げるから、このチームで活動できるあと2ヶ月、楽しく活動しよう」と伝えました。
D社OB・Mizさんが、当方OBさんとやってきて、「インカレの観覧船のことだけど・・・」と声を掛けられました。前回当方で借りた京都ヨットクラブの船を、D社・当方でシェアして借りる話が進んでいるようです。OB会はOB・OGの観覧船を用意しますが、僕は現役サポーターなので、親の観覧船を用意するよう学生に伝えています。いろいろ当たっているでしょうが、インカレ予選まで1ヶ月なので状況を確認しなければ・・・。
京都ヨットクラブのYasさんがやってきたので話をしました。「あれ、こんなバイクだったっけ?」「これは250で、400も持っています」。インカレ観覧船のことを聞くと、当方学生からもレンタルの話が来たけど、京都ヨットクラブ会員が優先だから断ったとのこと。これは仕方ないけど、その後当たっているのかな? Yasさんが、レースの参加賞かな?Tシャツをくれました。ラッキー!


2022/8/27 北播磨/寺社歴史ツーリング
倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、7:06出発。宝塚ICから中国道に乗り西神。8:14「加西SA」で休憩し、「ファッショングラス1650円」購入しました。「福崎IC」で「播但道」にチェンジし、南下します。「船津・香寺IC」で下車し、右折してr81で西進します。「市川」を渡り、左折してR312を南下し、右折してr80で西進。JR播但線「香呂」駅に突き当り、道なりに踏切を渡り、山道に入ったところで枝道にチェンジし、8:45「若都大子神社」。拝殿には絵馬がたくさん奉納されていました。
『支那事変南京城の中華門、一番乗6勇士大奮戦ス 昭和13年12月12日也』と書かれ、城門の突撃する戦士が描かれた絵馬が目を引きました。その絵馬を眺めながら、戦前の戦闘艦絵馬はたまに目にしますが、支那事変を描いた絵馬は珍しい。当時はもっと多くの支那事変絵馬が掛かっていたのでしょうが、それに続く大東亜戦争で敗戦したので外されたように想像しました。
枝道を更に奥に山道を登っていき、8:58「八葉寺」。山寺の参道を入っていくと、猪が土を掘った跡が多数ありました。鹿糞は落ちていませんでしたが、夜明け頃ワッチしたい場所です。『八葉寺奥之院 市指定文化財 奥之院は、寂心上人によって平安時代に建立されたものです。 ここには、書写山円教寺を開いた性空上人から寂心上人に贈られたと伝えられる。沫浴の湯釜が、厨子に収められ安置されています。厨子には「大永5年6月18日」と製作年代が明記されており、扉内面には乙天・若天の彩色絵が施されており、小規模ながら精巧な仕上がりとなっています。 厨子は県指定文化財、沫浴の湯釜は市指定文化財の指定を受けています。  平成30年7月 姫路市教育委員会』
『独立歩兵第62大隊第2中隊戦没者慰霊碑』が建っていました。『天台宗・八徳山・八葉寺 この寺は、播磨西国3番札所で播磨天台6カ寺の1つに数えられる古刹です。天平8年(736)、行基上人の開基と伝えられ、平安時代「日本往生極楽記」を書いた寂心上人が中興したのが始まりとされています。毎年1月7日に修正会鬼会式(鬼追い)が行われます。これは不動明王、毘沙門天の化身とされる赤鬼・青鬼が「息災延命」「五穀成就」の願いを込めて踊るものです。県指定文化財:奥之院厨子・素文馨 市指定文化財:奥之院・宝篋印塔・沐浴の湯釜 市指定天然記念物:子安の木群落 市指定無形民俗文化財:修正会鬼会式(鬼追い)  平成30年7月 姫路市教育委員会』
『観音堂 西国33番観音』。弁天池と中央に弁天堂がありました。苔の参道を転ばなよう慎重に歩いてバイクに戻りました。
r80に戻り、山道を西に登っていきます。峠に至り、9:33「相坂トンネル」。『相坂トンネル(香寺町相坂) 昔、相坂から谷山や須加院への道は、トンネル南の鞍部を越す険しい山道でした。 大正8年、香呂村長の岩田清治氏の肝入りで工事を開始し、同10年に完成しました。設計は、市川町の尾崎純三氏でした。セメントが普及していなかったため、工事材料の7割まで煉瓦が使用されています。煉瓦は香呂駅西にあった煉瓦工場の製品です。 工事費は約2万円、香呂村の事業としては画期的なものでした。 高さ2.9m・横幅2.45m・長さ76mあります。  昭和61年3月 香寺町』
レトロで素敵なトンネルで、入口に「相坂隧道」と書かれていました。トンネルを抜け、小さな峠を下ると、9:39「毘沙門」の案内板を見つけ緊急停止。
『毘沙門天初祭典(初護摩祈願祭) 毘沙門天山の山頂近くに毘沙門岩屋と呼ばれる岩穴があり、毘沙門堂がおかれて毘沙門天王が祀られている。又そばには薬師如来も安置されている。初祭典は、毎年、1月2日午後1時より毘沙門堂前で執り行われます。この祭典は、地域の人々によって古くから受け継がれた伝統行事であり、行者による山伏問答、大護摩焚き、火渡り等見どころが数多くあります。また、この護摩祈願祭は、家内安全、交通安全、無病息災等の各種の祈願も行っており、新年の幕開けに相応しいイベントとして、多くの参拝客で賑わいをみせています。(毘沙門天王が祀られている毘沙門堂は此処から徒歩約15分のところにあります)  香寺中学校区地域夢プラン実行委員会 平成21年10月25日』
『八葉寺1.5km・田川神社0.6km』の案内板が立っています。『毘沙門堂 播磨国風土記(715年頃)の中で、神前郡の説明で、「石坐の神山・・・」と記述が残されていますが、ここ毘沙門堂のことで、このお堂には豊穂命が祭られています。 このお堂の近くに、法道仙人が開いたといわれる石蔵山万福寺があったと伝えられています。後ろの山は、「天のふたかみ」の御神体として、今も祭られています。  兵庫県姫路市教育委員会』
森の中の道を歩いて行きます。『ようこそ毘沙門堂、慈しむ奥須加院』。綺麗に整えられ朱黒に塗られた杖が並んでいます。目の前の石段が竹垣に囲まれて坂を登っています。覚悟を決めて、バイク装束の上着を脱いで身軽になります。大岩に上り詰め、そこに毘沙門堂という祠がありました。『播磨風土記・石坐神山 香寺町文化協会』の石柱が立っています。
バイクに戻り、r80を進みます。「田川神社」横を通り過ぎ、峠を越え、夢前川を渡り、突き当りを右折してr67を北上を開始してすぐ、でかいイチゴのオブジェが目に留まりました。「いちご狩り」と大きく書かれています。「イチゴ農家だから出来る!・100%ゆめさき苺・衝撃!!苺1パック分使用・丸っぽカキ氷・\1000」「ご当地ソフト」の美味しそうな看板・・・「夢街道farm67」いうCafeです。暑いのでクールダウンしようと寄り道しましょう。
10:20、入口横から裏にあるイチゴ農園に繋がっています。店内に入り、「丸っぽカキ氷」を注文しようとしましたが既に品切れでした。1日・・食ではなく、季節的に品切れの時期なのかもしれません。カキ氷の口になっているので、お若く明るい女店員さんオススメの「夢見るきな粉のかき氷1164円」を注文しました。カキ氷ときな粉のコラボレーションが初めてで、更にシロップまでかかっており、贅沢なカキ氷を堪能しました。食べながらスマホで写真を撮り、家内にLINEしました。ついでに、幼稚園同窓会LINEにも。すぐに盛り上がりました。「何処?」「北播磨夢前町」「何してるの?」「バイクで寺社巡り」・・・。入店したら僕一人でしたが、家族連れや親子が入ってきて、ソフトクリームを注文しています。
r67を北上し、左折してr80を北上〜西進。右折して枝道に逸れ、小さな峠を越えて再びr80で北上。道なりに西進し、R29に突き当り、右折して少し走り、すぐに左折してr80単独道で西進。また小さな峠で、宍粟市に入ります。
枝道に入り、11:39「宇原岩田神社」。石段参道を登っていくと、随神門があり、左右に武者が守護していました。拝殿を見ると、ここも絵馬が所狭しと並んでいる。『宇原岩田神社 祭神:磐筒之男神・磐筒之女神・磐別神・経津主神、末社:大歳神 由緒:嘉元2年(1304)此の地に鎮座、明治7年に社格を村社と定められる。 明治41年、大歳神社・山神社・天満神社を末社として祀ったが、昭和10年に山神社及び天満神社は元の場所に復帰した。
戸原村誌によると、上比地村に岩田神社があり、川戸・宇原もその氏子であった。ある年、秋祭当日折悪しく大洪水で、村民は参詣することが出来ないので、祭礼を延期するよう交渉したが、上比地村は承知せず祭礼を終えた。それで、川戸・宇原の村民は忿怒し翌日水の引くのを待って談判し、遂に川戸・宇原にも同じ神々を祀ることになったそうである。  平成3年3月 宇原老人会』
r80を走り、枝道に入り、12:06「岩田神社」。石段を上がると、目の前に高い木々が左右に並んだ参道が現れました。石段の幅を見て、小さな神社を想像しましたが、随神門を有する神社でした。参道脇の竹林の中に椎茸栽培がされていました。境内に舞殿もありました。
『神社の概要 当神社の由緒は未詳であるが、嘉元2年(1304鎌倉時代)に創立され、本村の産土神であった。代々旧領本多家の崇敬厚く、社殿は永禄6年(1563室町時代)9月に再建されたが、年を経ると共に荒廃に傾き塀などが無かった為、度々社殿など造営の声が起こっていた、境内が狭いために先へ見送られていたが、明治38年5月国有林の払い下げの許可を得て、明治41年2月工事に着手、43年10月竣工すると共に無格神楽殿神門を移築合祀されて現在に至っている。 年間催事 初詣で:1月1日 初午:2月中旬 弓放し:3月18日 夏祭り:5月5日 秋祭り:10月吉日』
拝殿前に絵馬が多数掲示されていました。『祝詞 1.神は是れ、誠神誠意敬神すれば、神意広大無辺にして神徳の加護、必ず垂れ給わん 2.是れ、人は誠実勤勉以て倦まざれば、立身繁栄の大路足下に生まれ、神明の加護只共に其の身上に宿らん  昭和46年度 奥所西当組』
r80に戻り先に進みます。12:21「揖保川」を渡ります。鮎つりを楽しんでいる方がいます。12:23「三協フロンテア」工場がありました。
12:30「岩田神社」。『岩田神社 祭神:磐筒之男神・磐筒之女神・磐別神・経津主神・瀬織津姫命 境内神社:大年神社(大歳神) 由緒:創立年月不詳ですが、大昔大飢饉の時、村人を救った岩田某の徳を偲び、郷の守護神として崇め祀ってきたと言い伝えられてきた。現本殿は元禄16年に、藩主本多肥後守より材木と費用の寄進を受け、近辺に在った榧の大木を使って造立した。
榧の一本堂として言い伝えられて来た。寛延元年に同本殿の屋根葺を行なう。明治6年村社に列し、同42年瀧神社を合祀した。  平成11年10月吉日 調査記述:藤川勉・志水武雄書・梶浦信一刻 奉納者:藤川持樹』
r80を進み、突き当りの「兵庫県立国見の森公園」へ。国見山の麓にあります。Pに入れ、「名勝比地の滝」に向かって沢沿いを歩いて向かいます。獣フェンスを開閉し山側に入り、途中、男の子2人を連れたご家族が沢で水遊びしています。きっと冷たいだろうな。
『宍粟市指定文化財(名勝) 比地(ひじ)の滝 この滝は、上比地地区から谷あいを500mほど入ったところにあります。中世には滝の上流の譲尾に遊鶴寺という寺院があって、羽柴秀吉の長水城攻めのときに焼き払われたと伝えられています。 宝永5年(1708)の「播州宍粟郡誌」や大正12年(1923)の「兵庫県宍粟郡誌」にも名勝として記され、旧暦7月7日の未明には、鰻が滝を登るとの伝説も残されています。 水量豊かな滝の壮観、薦壷の奇趣、周辺のすぐれた景観や植生なども注目されています。  宍粟市教育委員会』
Pに戻り、「しそう森林王国観光協会」の建物があり見学。モノレールが登っています。『お願い モノレールは予約制となっております。乗車されるお客様は事務所で乗車手続きをお願い致します』。時刻表を見ると、「山麓駅9〜16時・毎時10分出発、山上駅毎時40分出発」となっていました。山上には、展望台などがあるようです。山登りスタイルでモノレール横から登っていく方もいますし、モノレールで登り、下りを歩く方もいるようです。モノレール乗車は無料だそうです。
r80を戻り、左折してr26を北上し、枝道に入り、13:46「浄土真宗本願寺派・西光寺」。『わが認識の外にこそ雄大な世界あり』
少し走り、13:56「金谷山部古墳」。『兵庫県指定文化財・史跡 金谷山部(かなややまべ)古墳 この古墳は今から1500年ほど前の古墳時代の円墳で、この地方の豪族の墓と言われています。城下平野を一望する位置に築かれており、宍粟郡の古墳時代を考える上で重要な遺跡です。 当地方に残る「播磨国風土記」には、「山部比治」という里長がこの地を治めていたことが記されています。山部氏は、朝廷直轄の部であり中央の政権と深いつながりをもっていたことが知られています。  宍粟市教育委員会』
『県指定史跡・金谷山部古墳 この古墳は昭和51年12月共同墓地造成工事中に発見された地元の協力と関係者の努力によって保存されたものである。 5世紀中頃の円墳で現状では長径20m・短径15mの南北に長い楕円形を示し、高さ約15mである。古墳の構造は明らかではないが山崎盆地を一望する位置に築かれていることや、単独で存在することなど、宍粟の古墳時代を考える上に重要な遺跡である。「播磨国風土記」宍粟郡の条に孝徳天皇の時代、揖保郡を分けて宍禾郡とするとき山部比治の努力が大きかった。その功によって山部比治は里長となり、里の名を「比治里」と名付けたとある。 この古墳のある金谷地区は比治里の中心地と推定されているため、金谷山部古墳と名付けられるに至った。  昭和55年12月 山崎』
r26に戻り、少し北上し、枝道に入り、14:07「雨祈神社」。『郷社・雨祈神社 鎮座地:城下村千本屋字宮 祭神:高おおかみ神・火産霊神・奥津比古命・奥津比売命・武速須佐之男命 由緒:創立年月不詳なれども、 延喜式の制小社に列せらる。江戸時代貴船社又は貴船大明神と稱せられ享保2年本殿上棟式を行ひ、同5年之を再建す。明治7年2月村社に列し、同9年貴船社を雨祈神社と改稱し、同40年大将軍神社以下4社を合祀せり』。境内に、奉納神馬の銅像が鎮座していました。
バイクに戻り、r26を北上し、枝道に入り、14:22「山崎城跡」。「宍粟市立山崎小学校」になっています。入れないかも?と思っていましたが、城跡の一部は別にありました。
『山崎歴史案内 桜の馬場 城の崖下にあった外堀のさらに南には、東西に250m近い馬場があり、たくさんの桜を植えていたことから、桜の馬場と呼ばれていました。 上の建物は右から二の丸の武具蔵2棟と本丸南東側の角櫓で、馬場へ下る道は今も残っています。馬場の一部は現在、水路南側の道となっています』
陣屋門がありました。『宍粟市教育委員会 宍粟市指定文化財(建造物)山崎藩陣屋門(紙屋門)と左右の土塀』
『山崎歴史案内 山崎町山崎八景・山崎城跡・紙屋門 本丸正面の城門は、町方の「紙屋」が献納したことから紙屋門と呼ばれています。門の奥に見えるのは山崎藩政庁があった本丸屋敷ですが、現在は山崎町門前にあった法務局山崎出張所の旧庁舎が移築されています。 この門は、左右の土塀と合わせて、当時を偲ばせる唯一の建造物です』
『宍粟市指定文化財(建造物) 山崎藩陣屋門(紙屋門)と左右の土塀。高麗門形式のこの門は、断面が矩形(くけい)で幅の広いほうを正面にした2本の主柱(鏡柱)の上部に太い指物(さしもの)を渡して桁を乗せ、その上に組まれた3本の腕木と出桁(だしげた)で切妻の屋根を支えています。主柱に打たれた肘壷には、下方が板張りで上方は透窓(すかしまど)になった門扉が取り付けられています。左右の土塀は、低い石積みの上に築かれて屋根がかけてあり、本多氏入封の延宝7年(1679)以前からのものです。 この門の建築年代は、資金寄贈者である「紙屋」の盛時や他の記録から推して、嘉永〜安政期の1850年代と考えられます。  宍粟市教育委員会』
陣屋門を入ってみると、『鹿澤城本丸跡』と彫られた石碑が立っていました。バイクに戻りました。城跡のお堀の外側に「山崎本多公園グランド」があり、江戸時代初期、要衝の地の雄藩・播州姫路藩主だった本多家の影響と、長く山崎藩藩主をされた本多家の影響でしょう。ちょうど少年野球の練習をしており、女の子率の高さに驚きました。まさかの半分ほどでした。
帰路に着きます。r53〜R29で、山崎ICから中国道に乗り、14:58「加西SA・宇佐美」で給油。264km/10.43L=25.3km/L。15:19「セブンイレブン中国道社PA」で「ガリガリ君ソーダ75円」でクールダウン。宝塚ICで下車し、16:10近所の小型食品スーパーで、「ホテルアイスコーヒー198円+LB81プレーン138円×5=959円」購入して、16:19帰宅しました。


2022/8/21
いつものように4時頃目覚めました。外は雨が降っています。8/8に高校ヨット部同期と乗った時壊してしまった「シートストッパー」を直さなければなりません。メインシートがキンクしたままなので、最低それを外さなければなりません。先週のお盆期間は、レースに出ていたので何も出来ていません。その期間、Hirさんがお持ちのシートストッパーを用意してくれました。それが付くのかな?
「通勤リード110」に乗ってホームポートへ。桟橋係留艇に行って、壊れた部品をあれやこれや。キンクしたシートが外れません。ドッグハウス内に入り、屋根の板を外すとシートストッパーを留めているボルト・ナットが見えています。シートストッパーを外して、下からエントリーすればキンクしたシートが外せるかも?ナットを回し3/4は外せましたが、最後の1つがボルトも共に回って外せません。ボルトのプラス頭が家から持ってきた+2番プラスドライバーより大きくてしっかり留められません。
バイクに戻り、甲子園のホームセンターに走り、+3番ドライバーを1000円で購入。戻る途中、コンビニで「チョコモナカジャンボ」購入。船に戻って作業前にクールダウンしましょう。桟橋を歩いていると、デイセイラーをオーナーさんが上半身裸で洗っていました。さっきの作業中にソロで出ていかれました。よく船を出しておられます。あれやこれやお喋りの花が咲きました。KYC会員で下から2番目の若手だそうです。多くは70才代で高齢化を嘆いておられました。お嬢さんがD社大に入学なされたようで、「ヨットやるなら手頃な35フィート艇に乗り換えるよ」と誘ったそうですが茶道部に入ったそうです。僕がコーチしている大学ヨット部のマネジャーやらないか?と誘っておきました。
Hirさんが桟橋をやってきて、船に戻りました。アイスは予想通り溶けており、慌ててほうばりました。シートストッパーを外しましたが、裏からアプローチできませんでした。左舷に、使っていないシートストッパーが1つあり、サイズが同じなのでそれを付け替えることにしました。Hirさんのアイデアです。その作業をしている間、Hirさんがマイナスドライバーでシートを外してくれました。シートストッパーを付け替え、無事メインシートのシートストッパー復活。デッキに空いたボルト穴をバスボンドシリコンで埋めなければ。またホームセンターに走ろうと思っていましたが、Hirさんから「ドラゴンにあるよ」とのこと。陸置き艇ヤードに行きドラゴンボックスから、シリコンとシンナーを持ってきました。シンナーでデッキを綺麗にし、シリコンで穴埋めし作業終了。
作業工程を何枚も写真に撮り、この船の共同オーナーLINEに流します。Hirさんとコクピットでお喋りし、17時を過ぎたので帰路に着きました。沖では学生のレースをやっています。母校SNSを見ると、母校が走っていそう。470は全日本が佐賀唐津で行われており、上位艇がそちらに参戦しているので次世代も有望そう。全日本では学生を比べると、KOの次に母校、続いてD社が好成績を上げています。僕がコーチしているヨット部から2艇+OB1艇が出場しており、最終成績15位・30位・40位ぐらいでした。


2022/8/20
大学ヨット部にコーチングに行きます。上回生は、470全日本(佐賀県唐津)・S級(福岡県小戸)へ遠征中です。琵琶湖に残っている次世代チーム(1・2回生中心)のコーチングに向かいます。倉庫から、「里山VTR250」を出して出発。R171〜中央環状道路で、6:29「エネジェット中環豊中SS」で給油。
260km/9.09L=28.6km/L。6:34「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、マーガリン入りレーズンロール4個118円+伊藤園麦茶冷凍ボトル485ml140円=278円」購入。吹田ICから名神高速に乗り、京都東ICで下車し湖西道路を北上してヨットハーバーへ。予定では、「新羅三郎義光」の墓に参ろうと思っていましたが、出発時間が遅すぎました。新羅三郎は源頼義の三男です。長兄は「八幡太郎義家」で、「後三年の役」(1083〜87)で蝦夷(東北地方)を支配していた清原氏と抗争をしていたが苦戦しており、新羅三郎が公職を辞して援軍に向かいます。
「前九年の役」(1051〜62)で、この地方を支配し、京都朝廷から半独立していた安倍氏を河内源氏の祖である父・頼義が平定し家勢興隆した。安倍氏は、元総理安倍晋三氏の先祖です。安倍氏没落後、それにとってかわったのが清原氏。清原氏も源氏同様臣籍降下した名家で、その闘争とも言える。
新羅三郎が元服した三井寺新羅善神堂には数度参りましたが、その山手にあるという新羅三郎の墓には参ったことがありません。次回、参りましょう。
8時前でまだ早く、部員は誰も来ていません。部員がパラパラやってきて、まだ艇庫が開いていないので、朝食としてパンをパクパク。艇庫が開いたのでバイク装束を着替えました。470の練習がなくなり、S級下級生だけの練習です。ブリーフィングしてAM練習出艇。僕がコーチボート上からホイッスル吹いて基本練習。1時間、タック・ジャイブをみっちりしました。リーダー艇のホイッスルで基本動作練習しているのを、ビデオ撮影しました。D社大がいつもなら来ない南湖の南までやってきて練習しています。Ritsもショートレース練習しています。ハーバー前まで戻り、サークリングして練習終了。ハーバーバックしました。
マネさんが作ってくれたお弁当を皆で食べます。タッパウエア持参なので、一際でかい1回生Nakくんの内容量が多い。通常部員の倍、女子マネの4倍でしょうか。ブリーフィングしてPM練習に入ります。また僕のホイッスルで基本動作練習をして、続いてロングのレース練習。最初はタック10回、2回目以降はジャイブ30回・タック30回ワンレグ中に強制しました。残念だったのは午前中より風が落ちてしまったこと。ハーバー前まで戻り、サークリングしてハーバーバック。上がってきた1回生部員複数から、「めちゃ上手くなった」の声が聞こえました。コーチボートから見ていても、AMの最初とは雲泥の差で上手くなっていました。この日だけで、タック200回・ジャイブ200回は優に超える数の基本動作をしたでしょう。身体が自然に動くまでは回数しなければ身につきません。
ブリーフィングで、皆の頑張りと上達を褒め、帰路に着きました。練習中でも、基本動作がGoodの時はマイクで「ナイス」など声を掛けています。5分間休憩を数度入れていますが、息が上がる練習は、笑顔がないと続けられません。皆、楽しそうで1週間後の新人戦(1・2回生)でもそれなりに結果を出せるかもしれません。
16時から雨予報でしたが、17時を過ぎてもまだ降っていません。でも、西の比叡山には雨雲がかかっています。何とか降られないかとバイクで走り出しましたが、湖西道路に乗ったとたんに降ってきました。「京都東IC」から名神高速に乗り京都盆地に入ると雨が上がりました。道は全く濡れておらず、夕立もなかったようです。「天王山トンネル」手前から雨が落ちてきて、また上がりました。吹田から豊中に掛けてまた降ってきて、自宅周辺に戻るとまた上がりました。


2022/8/16
いつものように朝一番に目を覚ましましたが、二度寝・三度寝してゆっくりしました。オーナーもKohさんもお散歩に出ておられました。朝食食べて、8:30「由良港」出航。ブームバッグを広げて屋根にして西宮を一気に狙います。
14:07、ハーバー着。この日は火曜日でハーバーが休みなので、船を上架するのは翌日です。船を上架場所に動かしてもらえると、セイルなど重いものは簡単に運べるけど、仕方なく手で運びます。僕は船に水を掛けます。ブームカバーは潮まみれなので、まずそこにたっぷりと。続いてライフジャケット、デッキ・ボディーを洗い流します。
15:29、片付けを終え、チーム解散です。1週間、ありがとうございました。16:00帰宅。


2022/8/15
帰路に着きます。1日で西宮まで帰れる距離ですが、2日掛けて帰ります。8時、徳島を出発し、10:56「沼島」着。風はあまりありませんが、機走で帰るので風速は関係なし。アイスを買ってクールダウンし、沼島八幡神社前のカフェでクーラーに当たり気持ち良い。
沼島を出発し、今夜のお宿「淡路島由良」を目指します。由良手前から15ノットほどの南風が入ってきました。ここでサメ発見。背びれと尾びれの三角が海上をゆっくり動いています。イルカならフレンドリーだけど、サメは孤軍奮闘ちょっとおっかないぞ。ブームの上にブームバッグを広げ日差しを遮る屋根の下で快適に走ってきましたが、狭い港内で初めての宿前の桟橋に着けないといけないので、安全のためブームバック屋根を片付けました。
料理旅館にチェックインし、風呂に入ってさっぱりしました。お風呂が1つで、適当に男湯・女湯に替えるそうです。先に風呂に入り、男3人の部屋に風呂上がり3人揃ったところで、僕が女子部屋をトントンし「上がりました」と伝えました。夕食は海の幸いっぱいでした。
ここで、幼稚園同窓生LINEが入りました。イルカに囲まれたムービーを投稿していました。同窓生のお嬢さんの旦那さんが、阿波踊りレースに出場していたそうです。ちょうど今、一緒に夕食を取っているそうです。大阪北港マリーナ所属の、こちらの船名も伝えました。相手の船名に見覚えがあります。同じBクラス艇だったので相手もこちらを覚えており、「第1レース勝ったらしいね」と返信がありました。


2022/8/14
Sugさんとのツインの部屋で、4時頃目覚めました。二度寝して明るくなった窓の外を見ると、オーナーさんが散歩しています。オーナーさんは元学校の先生で、僕と同じくアルコールを飲まず、早寝早起きで朝の散歩が日課。加えて、リタイヤ後は夕食前にも2時間歩いているそうです。散歩の話・小説・ヨットで立ち寄った港周辺の話・本職である数学の話、4冊の本の出版に向けて動いているようで、紀伊國屋書店にも並ぶようですがどうせ売れないから僕にもくれるそうです。13日のオフ日、皆さんで眉山に登ったそうです。ロープウェイで山頂まで上がれ、海が一望だそうです。その日もレースがあり、軽風でのたうってるレース艇を見ていたそうです。4艇出場し、1艇しかフィニッシュできず、3艇DNFになったそうです。
時間になり、ロビーで待ち合わせ、船に向かいます。レース日の朝は早いです。8:30スタートです。混んでる本部船寄りからスタートし、右(岸)海面を攻めます。軽風の時は岸寄りが鉄則らしく、多くの艇がギリギリ岸を攻めています。第1マークを時計回りで回航し、ジェネカーを上げてジブを降ろします。20位ぐらいで回航したかな?次のマークを半時計周りで回航し、ここまでが第1レースフィニッシュ&第2レーススタート。
ジェノアからジブのチェンジし、第1マークに戻ります。この日の僕のポジションは、オーナーヘルムスのサポートです。ここまで卒なくヘルムスのサポートが出来ましたが、マーク回航後ここでミス。先行艇の内側に入って追いついてオーバーラップしてしまい外側に出せなくなってしまいました。外側の先行艇が前に出てオーバーラップが切れたタイミングで外側に位置を移し、難なく追い越せました。上手くヘルムスにアドバイス出来ました。時々冷たい水を手を離せないヘルムスに渡し、気力を維持してもらいました。
ここでオーナーヘルムスのお役御免。6時間ほどの長丁場なので、ヘルムスを若手に交代します。フィニッシュラインまでのレグの半分走って、僕にヘルムス交代。フィニッシュラインはジャイブしないと入れないのでシャイブのタイミングを考えていました。内側に入っていったスピン艇とのクロス具合が気になります。でもまだロングはスターボなのでこのまま伸ばします。風向がだんだん右にシフトし、ジャイブなしこのままのタックでフィニッシュ出来そうになりました。フィニッシュまで残り1マイル(1.85km)になり、オーナーに「ヘルムス交代しましょう」と声を掛けます。「え〜負けちゃうよ」といつもの台詞。また僕がサポートに付き15時フィニッシュ。風のラッキーシフトもあり、最終レグで5艇ほど抜きました。最終成績は、40艇中、Bクラス4位・総合14位?。風が弱かったので小型艇有利のレースでした。ファーストフィニッシュの常連ロートさんも総合17位ぐらいでした。
フィニッシュ後、ヘルムスを交代し、後片付けをします。川を遡ってケンチョピアマリーナ。まだ明るい時間帯なので、船上であれやこれや会話に花が咲きます。が落ちてきたのでホテルに退散しました。Sugさんはここで帰ります。明日は和歌山まで車で走り、インターハイを終えた清風ヨット部員を乗せて帰る仕事があるそうです。Fujさんも明日お盆法要だそうで高速バスで帰られます。僕はこのお盆期間高速バスで往復しましたが、往路・復路とも3/4ぐらい座席が空いており、予約無しでもOKそうです。
この日は、Kohさんと同室で、オーナー・135EMiyさんの4人で泊まり、この4人であと2日回航します。Kohさんがレース中乗っていた艇など新西宮の大型艇は、オーナーなどを降ろしてすぐに西宮に向かって帰路に着きました。22時頃新西宮YHに着いたようで、数艇はナイトで走ったようです。
シャワーでさっぱりし、4人で徳島駅近くの居酒屋で夕食します。阿波おどりで市内が盛り上がっています。帰りに阿波おどりを見学して、22:03、ホテル前の「ローソン徳島万代町3丁目店」で、「コカ・コーラ129円+マッチ500ml151円+ブルガリアヨーグルトプレーン178円+ブルガリアヨーグルトブルーベリー146円=607円」購入。ヨーグルト食べてお喋りし、就寝。


2022/8/13
いつものように朝4時に起床し、あれやこれや。8時になったので、隣の実家に昨日帰省した長男一家の朝食を運びました。昨夜、家族を置いて中高時代の友達と飲んでいた長男も起きていました。お墓参りに行くことになっているそうで、途中で川遊びも決まっていました。
長男一家の新居は「青葉区荏田」で、周りは邸宅街だそうで、環境が良さそうです。最寄り駅まで徒歩15分、路線バスもあるそうです。本社まで通勤時間1時間だそうです。お嫁さんによると、ロンドンからの引っ越し荷物が着くのが3ヶ月後だそうで、洗濯機などすぐに必要なものは買ったそうです。6年前アメリカ転勤の時、会社が預かってくれた当時の引っ越し荷物が届いたそうですが、「こんなの持ってたっけ?」というものもあったそうです。子どもたちの学校・幼稚園関係の手続きもあり、しばらくお嫁さんは大変そう。
ルーカスくん(4才)に誕生日プレゼントを渡しました。僕からは本(グリム童話)とビデオ(ホーム・アローン)で、家内からはサッカーウエアです。大喜びしてくれて紐を解くのがもどかしく、袋の中からプレゼントを取り出し満面の笑みとお嫁さんへの報告で大忙ししていました。虫網・虫かごを持って、孫たちと隣の空き地へ。バッタやセミの抜け殻を籠に入れます。蝉は網の届くところにはおらず残念。でも、トンボをりょうくん(9才)が捕まえました。
家内の用意が出来たので、お墓参りに出発です。「道の駅いながわ」に車を入れ、お墓参りのお花を買いました。そしてお墓。皆で雑草を取り、墓石を掃除し、線香で手を合わせおしまい。
道の駅に戻り、横の猪名川で川遊びしました。網を持って行ったので、長男が奮闘していました。カニなどいろいろ捕れました。雲が湧いてきて雷が鳴り出し雨が降り出したので、道の駅の中のうどん屋さんで昼食しました。「日本一たい焼き」でたい焼き買って帰宅しました。
隣の空き地でまた虫捕り。今度はバッタを捕まえました。ルーカスくん(4才)が、キックバイクに乗りたいので公園に行くと言って帰りました。それにつられ、皆で公園に行くことになりました。キックバイクはルーカスくん、折りたたみ自転車はりょうくん、僕の乗ってる大人用キックスクーターのハンドルの高さを低くしてこうちゃん(5才)に渡すが乗りにくいそうで文句を言っています。男の子3人ワーワー楽しそうです。
16時になったので、僕だけ公園から自宅に戻りました。神戸三ノ宮19:10発の高速バスに乗って徳島に戻ります。用意していると長男が「駅まで送っていくよ」と言ってくれ、17時に家内も含めて出発。僕だけ最寄り駅に降ろしてもらい、皆で夕食に行くようです。
神戸三宮に早く着いたので、早い便に変更できないか相談しましたが、ネット注文&入金だったので変更できず待ちました。バスに乗ってすぐに寝てしまい、起きたのが徳島市内に入ってからで、終点の徳島駅前じゃないのに間違って降りてしまいそうになりました。無事終点で降り、タクシーで指定されたホテルに向かい、チェックインしておやすみ。


2022/8/12
朝タクシーで和歌山マリーナへ。朝の艇長会議は、ゲスト桟橋上で行われるようです。セイルセットが終わり、D社艇であれやこれや。Sugさんも来られてあれやこれや。8:30スタートに間に合うよう7:30に桟橋を離れます。D社艇から「頑張れよ」の声が掛かりました。
この大会で優勝経験のあるTakさんのストラテジーで軽風の中、本部船寄りでスタートし、右(北)海面を選択します。双子岩に最も近づくコースを取り、和歌の浦湾を出てから沼島のすぐ南を目指します。ここでイルカの群れが応援に来てくれました。10頭はいそうです。
沼島の南まで順調に進みました。多くの艇は天気予報通りの南からの風を取りに南に離れて行きます。遠くではあるが先頭艇が視界に入っており、Bクラスの同サイズのレース艇は遥かに離れています。ここで風がなくなりがっかり。沼島〜徳島間でのたうち回っていた大型先行艇が視界から消えて行きます。風が入ったようです。南から風が入り、遠く霞んでいた南に位置していたレース艇が風を受け北上して来ました。こちらにもやっと南風が届き進み出しました。スタートとフィニッシュをオーナーがドライブし、僕を含め他数人がステアリングを交代して持ちました。全体の7位ぐらいでフィニッシュ。結果はBクラス優勝・総合4位と大健闘でした。
船を片付け、明日のオフを利用し一時帰宅するために、皆さんと別行動します。19:30発神戸行きの高速バスに乗ります。時間には余裕がありますが、暑いのでタクシーに乗ろうと広い道を歩き出しましたがタクシーが通らない。結局、徳島駅まで歩いてしまいました。途中、阿波踊りスタイルの多くの方とすれ違い、踊り場ストリートで見学しながら歩きました。
バス停に着き、ネットチケットを見せて乗れるかどうか確認し、涼しいところに移動して出発時間を待ちます。18:49、「セブンイレブンDR徳島ダイワロイネットホテル店」で、「伊藤園ミネラル麦茶670ml120円+強炭酸レモン500ml85円=221円」購入。
無事、高速バスに乗って一気に北上しました。徳島市内のバス停で2ヶ所止りましたが、淡路島を一気に通過し、20:50高速舞子バス停で下車しました。JRに乗り換え最寄り駅、改札でICOCAで通ろうとしたらピー、3000円投入しました。そこから路線バスに乗って帰宅しました。「ただいま〜」「おかえり」と自宅に入ると、いつもと変わらない家内の顔がありホッとします。風呂に入りさっぱりし、ヨーグルト持って自室に上がり2日ぶりなのに落ち着いた睡眠に入りました。


2022/8/11
「阿波踊りレース」を中心にしたセイリング週間初日です。「通勤リード110」に乗って出発。7:50、近所の「セブンイレブン」で、「つぶあんマーガリン118円+伊藤園麦茶485ml140円=278円」購入。新西宮ヨットハーバー陸置き艇置き場へ。この日の和歌山への回航をご一緒する方々に挨拶します。オーナーKawさんにお土産を渡し挨拶。僕がコーチしている大学ヨット部の元女子マネージャーのお父さんFujがボースンを務めるレース艇で、元女子マネさんを通じて誘われました。お盆期間でもあるのでクルーが足らないとのことで、大学ヨット部OBOGの集まり「二金会」でよくご一緒するSugさんを誘いました。Sugさんがやってきました。
セイルなどをチームルームから出して船に載せます。この日はIRCのレース日なので、多数のレース艇のクルーがいます。次男のOP時代のライバルだった琵琶湖のNisくんやImaくんの顔が見えます。Imaくんは先月J24ワールドで3位に入ったので、西宮凱旋だったようで、皆に祝福されています。
下架に時間がかかると予想しましたが、意外に早く職員さんがやってきて海に降ろされました。給油桟橋に移動し、満タンにして出発。風が弱く機走で走り出しましたが、風が出てきてもレース用セイルしかないとのことで、全工程機走になりました。ブームカバーを広げ左右のライフラインに止めて、強い日差しを遮り快適でした。オーナーKawさん・ボースンFujさん・135Eの女性社員Miyさん・小学校長Kohさん・淡輪YHTakさん・Sugさん・私の7人での回航です。
この船は、イタリアのGrand Soleil(GS34)の日本1号艇だそうです。ツインステアリングでシングルラダー。ステアリング前後にヘルムスが座れる仕様が好きなタイプです。メインシートがステアリング前トラベラーでトリムします。クルージング艇の流行りは、トラベラーがコクピットにあると居住性に難があるので、ドッグハウス上に移動させています。ディンギーレーサー育ちの僕には、力学的にトラベラーは後ろの方が、メインセイルコントロールが有利。ドッグハウス内にはソファーがありません。聞くと、一度もソファーを使ったことがなく、後ろにビニールを被ったまま置かれているそうです。バウヘッドとメインサロンの間の隔壁がなく、セイルがメイン・バウにストンと置かれており、レース艇はこうでなくちゃと思いました。隔壁はあるのですが、これもクルージングでは使わないので、そのまま後ろに置かれたままだそうです。レース中のジェネカー出し入れのためにバウに走る時も隔壁がないのでクルーが動きやすいです。
レースはオーナードライブのようです。6.5ノット巡航で快調に走ります。後から西宮を出たサマーガールなどが抜いていきます。加太と友ヶ島の間の友ヶ島水道を抜け、和歌山マリーナシティー沖へ。2日後から始まるインターハイの練習をしている艇がいます。Sugさんの息子さんは清風ヨット部で420級に出場します。ゲスト桟橋に着けようとしたら、僕の名を呼ぶ声が聞こえてきました。D社同期のHyaくんがいました。一連の仕事を終えてHyaくんが乗っている船に行くと、AzuさんなどD社メンバーが乗っておられました。朝、1週間前に壊したシートストッパーの写真を写しに行った時、斜め前のD社艇がいないな〜と思っていました。Sugさんは、息子さんなどに会いにディンギーヤードに行かれました。
ホテルに向かいます。海南駅前の宿だそうです。和歌山マリーナシティーホテルでバス停の場所を聞きましたが、いい加減な教え方で迷ってしまい4人は乗れたけど僕ら3人は乗り遅れました。ホテルに戻りタクシーを呼んでもらいます。17:51「和歌山マリーナシティーホテル」で、「なっちゃん200円×2」を購入し、オーナーさんと一緒にクールダウンしました。
明日の「紀伊水道レース」でロートの船に乗るKohさんをJR海南駅に下ろし、オーナーと2人で「プリンスイン海南」へ。近くの居酒屋で夕食して、ここで宿泊です。Kohさんは、ロートさんのクルーで、回航だけ手伝ってくれたようです。2つのレース後の徳島から西宮への回航も。


2022/8/10
琵琶湖周航2日目。7時から本堂でお勤めがあるので、それまでに起床と言われていました。寝床(寝袋)や荷物を片付け、お勤めをご一緒します。浄土真宗の寺院なので、住職さんのお勤めを聞き、説教を聞きました。浜に出てまたゲーム。パン食い競走・腕相撲・・・。またまたやまさよちゃんの運動能力の高さを知りました。腕相撲では女子最強。男子部員相手でも中間の強さ。
次は長浜に向かいます。車に荷物を移動させ、本堂をしっかり掃除します。最後は住職さん・奥様にお礼をして出発しました。途中、10:40「セブンイレブン長浜バイオ大学前店」で、「伊藤園ミネラル麦茶670ml129円」購入。海岸道路を北上し、長浜駅前のPへ。「黒壁スクエア」周辺をグループで散策し、昼食。
琵琶湖北部を通り、西海岸に出ます。JR北小松駅前に駐車し、小松海水浴場&キャンプ場へ。先行組の上回生がテントを張り終わっています。先に着いていた1回生が水着に着替え湖水浴中。30分ほど休憩し、僕は離脱します。周航は明日が最終日です。車の中などで、例年の周航のことやあれやこれや話しました。
湖西道路を南下し、京都東ICから名神に乗り帰宅。通勤リード110に乗り換え、17:38「もち吉」で「もち吉夏だより1450円」購入。明日からお世話になりセイリングチームのオーナーへのお土産です。


2022/8/9
コーチしている大学ヨット部恒例の琵琶湖周航の日です。3年前、出発直後レスキューのエンジンが不調になり、湖上でのヨット周航がなくなり、1・2回生全員で車での琵琶湖一周になりました。翌年はコロナ禍で中止になり、昨年は1泊だけのキャンプになりました。今年は久しぶりの船と車での周航予定でしたが、1週間ほど前にレスキューをぶつけてしまい、また周航中止になりました。1・2・3回生全員での車琵琶湖一周です。
皇子山運動公園に集まり、チーム分け・周航個人公約・選手宣誓があり、縄跳びなどチーム対決ゲームが始まりました。1回生Yanくんが寝坊して遅刻したのでメンバーが足らないチームが指名で上回生が加わります。元陸上部やまさよちゃんを指名したチームは、やまさよちゃんの運動能力の高さで2連続ゲーム優勝していました。僕も集団縄跳びで指名され、「ええ〜」と参加し、卒なくこなして威厳が粉々になることなく助かった。
艇庫に戻り、昼食タイム。カレーでした。車で出発。最初の目的地は、「滋賀県立琵琶湖博物館」で、近江大橋〜湖岸道路を北上し到着。水生生物中心の展示物が多く、楽しく見せて頂きました。
次は、長命寺。拝観時間が17時までで、あまり時間がありません。急坂の道なので1台だけ上がっていき、他は下のPで止まって、参道階段を登りました。僕は、数年前から「長命寺の階段レース」を提案しています。来年は実現するかも?次が彦根を過ぎて米原市に入り「上妙寺」。ここの本堂で宿泊します。前回?前々回?、ご住職の奥様に、ここで宿泊することになったきっかけをお聞きしました。50年ほど前、琵琶湖周航をしていた先輩が、天候が荒れて予定していた場所までたどり着けず、緊急にこの寺院近くの浜にヨットを上陸させました。雨の中困っていると、先代?先々代のご住職が犬の散歩で通りすがりました。「どうしたの?」から会話が始まり、本堂に泊まらせてもらうことになりました。現在のご住職の奥様は子供の頃の話で、記憶に残っていると話して下さいました。夕食は素麺で、その後、浜に出ました。またゲームです。ゲーム後、歩いて「磯崎神社」。ここで、これまた恒例の「肝試し」。この神社は、鳥居が湖岸の辺りにあり、本殿はつづら折れの参道階段を上がった上にあります。真っ暗な鳥居前で説明があり、抽選でペア組み合わせ。男女ペアのところは嬉しそう。Ueマネさんペアはリアル充実ペアなのでより嬉しそう。このペアが決まった時、皆にからかわれています。ペアごとに闇の中に消えていきます。時折、悲鳴が聞こえます。上回生が何やらやっているようです。終わってから1回生に聞くと、何もせずただ立っていただけのMinくんが最も怖かったとのこと。本堂に戻り、おやすみ。僕は車に戻っておやすみ。


2022/8/8
恒例の高校ヨット部の同窓会の日です。高校ヨット部の同期は僕を含め4人で、キャプテンSくんが数年前に他界し、国体でペアを組んだYくんは帰省せずなので、今回は2人。仲の良かった高校サッカー部・野球部の同級生が加わり、4人でヨット部同期Katくんの実家で集まります。
その前に、僕の船に乗ることになり、ハーバーに9時集合です。Katくんの息子家族(奥さん・お子さん)も乗りに来るので、僕が車を出して同級生2人をピックアップします。前日になって、Satくんがコロナ濃厚接触者になったのでキャンセル。Okaくんのみを駅で拾ってヨットハーバーへ。
センターハウス前で合流し、6人で船へ。桟橋ゲートを抜けると、堀江謙一さんがアメリカから太平洋横断して帰ってきたばかりのマーメイド号が係留されていました。係留艇に行き、出艇準備してハーバーを出ます。ゲストにステアリングを交代し、ジェノアだけで帆走開始。しばらくすると、孫ちゃんが船酔いしたようで桟橋に戻ります。桟橋で3人下ろし、同級生3人で再び沖へ。Okaくんメインでステアリングしてもらい、ヨット体験してもらいました。昼になったので、ハーバーバック。メインシートのブームストッパーが折れてしまいました。直さなきゃ。
息子一家がKatくんの車に乗って帰っちゃったので、3人で僕の車に乗ってKat家へ。お風呂を貸してもらい、シャワーでスッキリさせてもらいました。そこから延々夜まで飲み会(僕は飲めないので飲まなかったけど)が続き、Okaくんを仁川駅まで送って行き、帰宅しました。


2022/8/7
6:54、倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、出発。6:58「セルフ北村SS」で給油。299km/11.65L=25.7km/L。R171〜中央環状道路〜吹田ICから名神高速に乗り、京都南ICで下車しました。R1南行きに一瞬乗り、すぐに左折して東進。
7:44、「白河天皇成菩提院陵」。綺麗に清掃されています。手を合わえます。バイクに戻り、第2京阪道路の下をくぐり、7:50「北向不動尊」。『北向山不動院 天台宗の単位寺院で、一般に北向不動の名で親しまれている。 大治5年(1130)鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建され、興教(こうきょう)大師を開山としたのが当寺の起こりである。太堂に大師が自ら仏師康助に刻ませた不動明王(重要文化財)を王城鎮護のため北向に安置した。そのため、上皇から北向山不動院の名を賜ったといわれる。久寿2年(1155)、播磨国(兵庫県)大国の庄を寺領として、藤原忠実が中興に当たった。その後、応仁の乱の兵火など、しばしば災害に遭ったが、幸い本尊不動明王は難を逃れた。朝廷の保護も厚く、近世に至って復興した。現在の本堂は、正徳2年(1712)、東山天皇の旧殿を移したものである。 境内鐘楼にかかる梵鐘は二品済深(にほんさいしん)親王の御銘があって、元禄7年(1694)に名士名越浄味によって鋳造されたものである。  京都市』
『洗心井戸について この井戸から湧き出るお水を「洗心水」と言い(本堂東側にもあります)嘉永2年の昔から行者の修行を行うお滝や参詣者の心身を清めるお水として大切にされています。 この洗心水で心身を清め、護摩壇の「龍水泉」のお水でお不動さんに「心願」を唱えてお供えください。  合掌』
不動明王がありました。『北向山・龍水泉 このお水をお不動さんにお供え下さい。このお水で、口や手、その他のものを洗わないで下さい』
『北向のお不動(仏の世界)にお参りをする 私達の日々は心配や苦労の連続です、仕事は厳しく、いつ事故や災難・病気に遭うかも知れません。又、家庭の事などでも色々と心配なことが起ります。このような苦しみから逃れようと、楽を求めて、遊びや旅行や趣味に走リます。これは一時の気休めで真の解決にはなりません。
しかし仏の世界では、このような苦労から逃れる事が出来るのです。病気になろうが、災難や万苦や死が追って来ようが、心豊かな日々を過ごすことが出来るのです。 今、苦しんでおられる皆さん、一心にお不動明王さまのご真言を唱えて下さい。不動明王の慈光を受け、心豊かな幸せは必ず訪れます。  合掌』
京都盆地の南に位置する伏見・竹田のフラット平野にある寺院ですが、「お不動さん」の名の通り、不動明王が鎮座し、滝修行出来る滝?もありました。かつては修験道の修行場だったのでしょう、今でも修験道の風が吹いていました。バイクに戻り、少し東に走り、8:07「安楽寿院」「鳥羽天皇安楽寿院陵」。天皇陵には珍しく多宝塔が建っています。平安京の南に位置する鳥羽は元は別荘地。その流れで造られた天皇陵だからでしょうか?
『安楽寿院 真言宗の寺、保延3年(1137)鳥羽離宮の東殿を寺に改めたことに始まる。開基は鳥羽上皇、覚法法親王を導師に落慶した。保延5年(1139)本御塔(ほんみとう)と呼ばれる三重塔が建立され、続いて九体阿弥陀堂、焔魔堂、不動堂等が建てられた。保元元年(1156)鳥羽法王(上皇)が本御堂に葬られた。鳥羽天皇安楽寿院陵はそのあとである。保元2年(1157)、皇后美福門院は新御塔(しんみとう)を建立、ここには後に近衛天皇の遺骨が納められた。近衛天皇安楽寿院南陵がそれであり、現在の多宝塔は慶長11年(1606)豊臣秀頼により、片桐且元を普請奉行として再興されたものである。
現在の安楽寿院は真言宗智山派に属し、本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)は鳥羽上皇の御念持仏と伝えられ、胸に卍が記されているため卍阿弥陀とも呼ばれる。境内は京都市史跡に指定され、平安時代の三尊石仏、鎌倉時代の石造五重塔(重要文化財)、冠石が現存し、孔雀明王画像、阿弥陀聖衆来迎図、普賢菩薩画像(いずれも鎌倉時代・重要文化財)等を所蔵する。 なお、当院は鳥羽伏見の戦のおりには官軍(薩摩軍)の本営となったところである。  京都市』
『鳥羽離宮跡 鳥羽離宮は、平安時代後期に白河上皇の院政開始の象徴として造営が開始された御所と御堂および苑池からなる広大な離宮である。 その範囲は、東西1.5km・南北1kmにもおよび、当時の日記に、「都遷りがごとし」といわれるほどであった。この地は、平安京の朱雀大路からまっすぐ南に下がった場所にあたり、現在とちがって鴨川は東から南に流れ、西には桂川が流れて、水閣を築くのに絶好な地形であった。
造営は、応徳3年(1086)にはじまり、北殿・南殿・泉殿・馬場殿などがあいついで完成した。これらの殿舎は、右にかかげた広大な池に接して造られ、船で行き来していた。各々の殿には寝殿を中心に殿舎や御堂(仏像を安置)が建ち並び、次の鳥羽上皇の時代に入って、東殿・田中殿の造営が加わり、それぞれ苑池も造られた。このうち現在の安楽寿院を含む東殿に。は、三重塔3基、多宝塔1基が築かれるなど、ほかの殿とは異なった様相を呈していた。そしてこれらの塔には、白河法皇(成菩提院陵)や鳥羽法皇(安楽寿院陵)、近衛天皇(安楽寿院南陵、再建多宝塔が現存)の御骨が収められ、墓前に御堂が造られた。
このように東殿の区域は、死後の世界を用意したもので、まさしく極楽浄土を現世に築きあげたことが分かる。 院政最盛期の証でもある鳥羽離宮跡は、当時の最高の文化と技術を駆使して築かれたが、院政の終焉とともに衰退し、地上からその姿を消していっ’た。
この鳥羽離宮跡の発掘調査が開始されたのは、1959年の田中殿跡の調査からである。以後1984年までには100次をこえる調査が実施され、南殿の殿舎や苑池跡、北殿経蔵や苑池跡、田中殿金剛心院跡、東殿苑池跡の発見など大きな成果をあげている。
これらの調査を自ら始められ、地元の方々や多くの調査関係者らとともに当初から手がけてこられたのが杉山信三博士(1906〜1997)である。ここに示された鳥羽離宮復元鳥瞰図(ちょうかんず)は、博士の長年の調査成果を集大成されたもので、鳥羽離宮跡顕彰の石杖(いしずえ)として、阿弥陀如来座像や石製五輪塔(いずれも重文指定)など、往時の文化財を今に伝える安楽寿院境内に置くこととした。  1998年12月』
『重要文化財 安楽壽院・本尊・阿弥陀如来坐像 指定年月日:明治39年9月6日白河上皇が洛南に造営を始めた鳥羽殿(鳥羽離宮)は、鳥羽上皇に引き継がれて壮大な離宮として完成を見、後白河院政期にいたるまで政治の舞台となった。その東側に建てられ鳥羽東殿とも称された安楽壽院は、御堂と御所が保延3年(1137)に建立され、つづいて塔(2基)・炎魔堂・九体阿弥陀堂・不動堂などが加えられた。
2基あった塔のうち保延5年(1139)に建てられたのは、鳥羽上皇が自らの葬堂とするために建立した三重塔で、保元元年(1156)に崩御のあと実際この塔内に葬られた。現在は安楽壽院に伝えられる本阿弥陀如来像がその本尊だったと推定されている。本像は、この期のほかの仏像に比べると面相部・胴部ともに長めとなり、伸びやかな体躯である。そのプロポーションに合わせるように、二重円相の光背は周縁の透彫り部が長大となり、九重の蓮華座も左右の張りが少ないので腰高の感じがある。しかし光背と台座の大部分は、天文22・23年(1553・54)に大きく修理されているので、ほんらいはもう少し違う印象だったのかも知れない。本像を造立したのは、鳥羽離宮の造仏のほとんどを担当した円派仏師のひとりと思われる。当時の傾向からすればやや細身のからだつきとはいえ、おだやかで安定感のあるつくりはこの派の特徴であり、その推定に間違いはないだろう。白河・鳥羽院政期に宮廷関係のおびただしい造仏を任された円派仏師の貴重な一遺例である。  平成17年3月1日  安楽壽院』
『鳥羽離宮跡とその庭園 白河天皇は、応徳3年(1086)から鳥羽離宮の造営に着手され、次いで鳥羽上皇も精力的に行われました。離宮内には南殿・北殿・馬場殿・泉殿・東殿・田中殿などの御所や証金剛院・勝光明院・成菩提院・安楽寿院・金剛心院などの御堂(寺院)が建立されました。これらの御所跡や御堂跡の発掘調査によって、南殿跡では御所跡や園池・遣水、北殿では勝光明院阿弥陀堂と推定される基壇や園池・中島を、東殿跡や安楽寿院旧境内では大規模な園池や中島を、田中殿や金剛心院境内では釈迦堂・九鉢阿弥陀堂や園池を、馬場殿跡周辺部でも庭園の一部を発見しています。
調査で発見した景石は、その活用を目的に、安楽寿院収蔵庫の周囲に移築復元を行うことになりました。移築に際しては調査当初の姿に戻すように心がけました。景石の大半は高野川流域から採取され、和歌山県周辺部から運ばれてきたと推定される和泉砂岩や緑色片岩も見うけられます。
1.安楽寿院(あんらくじゅいん) 鳥羽上皇により保延3年(1137)に供養された寺院。境内中央には大きな園池があり、この景石はその汀で出土。
2.成菩提院跡(じょうぼだいいんあと) 白河上皇・烏羽上皇により供養された寺院。この石は白河天皇陵の周囲を巡る濠から出土した。
3.金剛心院跡(こんごうしんいんあと) 鳥羽法皇により久寿元年(1154)に供養された寺院。舟着場を構成する横長の石材が和泉砂岩。
4.勝光明院跡(しょうこうみょういんあと) 鳥羽上皇により保延2年に供養された寺院。この景石は阿弥陀堂基壇近くの州浜上で発覚した。
5.南殿跡 秋の山の南に造営された離宮内最初の御所。この庭石は御所から北へ少し離れた池の近くで発見した』
バイクに戻り、枝道を「近鉄京都線」に沿って北上し、「竹田駅」付近へ。r68を東に走り、左折してR24を北上。左折してr143で東進。道なりに「東大路通」になり北上しました。「清水寺」まで北上し、右折してR1を東進します。左折して「新大石道」を南下し、9:05「ローソン山科新大石道店」で、「ソルティライチ500ml129円+ボディペーパーフリーズピーチ385円+ガリガリ君梨75円=589円」購入。Pでガリガリ君でクールダウンしました。
更に南下し、9:18「大石神社」P。歩いて「極楽寺」。蓮の花が綺麗に咲いていました。途中にあった「福王寺」前を歩き、「大石神社」鳥居前まで戻ってきました。大石神社を中心にした観光地図がありました。
『福王寺:本山を知恩院とする、浄土宗寺院である。御本尊の地蔵菩薩は、平安時代前期の公卿小野篁の作であり、大石内蔵助か隠棲していた時の大願成就佛である』
『極楽寺:本山を知恩院とする、浄土宗寺院である。本尊は阿弥陀如来。大石内蔵助か西野山に隠遁していた時、浅野内匠頭の位牌を納め、香華料として田畑を寄進したとされる』
『大石神社:祭神/大石内蔵助良雄公。元禄14年(1701)江戸城松の大廊下にて始まる「忠臣蔵」。大石良雄は赤穂藩断絶後、この地に隠棲し仇討の善後策を練ったといわれている。昭和10年(1935)浪曲師吉田奈良丸・京都府知事らにより全国の崇敬者により創建される。12月14日「義士祭」』
『岩屋寺:赤穂義士・大石良雄の山科隠棲地であり、境内には、大石良雄の遺髪塚、及び宅址の碑が建っている。本堂の御本尊「不動明王」は大石良雄の念持仏と伝わる。浅野内匠頭長矩公の位牌を始め、四十七士の位牌と木像並に大石良雄の遺品等公開。本堂横には討入り前の内蔵助お手植の紅梅が今も清い薫りを放ち、当時を偲んでいる』
『山科神社:祭神/日本武尊・稚武王。寛平9年(897)宇多天皇の勅命により創建。式内社/江戸時代より山科一之宮と称される。本殿(三間社流造・槍皮茸)は室町時代後期の建立。本殿前灯龍/ともに京都市指定・登録文化財。元禄14年赤穂浪士の大石内蔵助良雄が山科に隠棲していた時、当社にて大願成就を祈願したといわれている』
鳥居をくぐり、ゆるい参道を上がっていきます。『忠臣蔵で知られる赤穂義士大石内蔵助の山科隠棲の地に義挙を顕彰するため、1935年、当時の浪曲会の重鎮であった吉田奈良丸など、多くの崇敬者により創建されました。宝物殿には大石良雄・小野寺十内らの手紙をはじめ、多くの品が残されています。
主な行事:4月14日春季大祭 12月14日義挙記念祭
山科義士まつり:12月14日、四十七士などに扮した総勢約300人の大行列が毘沙門堂を出発し、大石神社を目指して山科区内を行進します』
境内に上がると、白馬が飼われていました。奉納馬でしょう。『種類:ファラベラ・ミニホース 誕生日:平成11年4月30日 平成19年に来ました』。参拝されているご家族のお子さんが、前に座り込んで眺めています。「忠臣蔵宝物殿」に入りました。「smap木村拓哉氏 大石神社参拝来社」と書かれた「忠臣蔵1/47 死ぬほど、生きろ」の映画の宣伝写真があります。松方弘樹・片岡千恵蔵・萬屋錦之助・中村勘九郎・里見浩太朗、映画・ドラマで大石内蔵助を演じた歴代役者の写真が展示されていました。
境内に出て、拝殿を参ります。『大石神社 この神社は、昭和10年赤穂義士大石良雄の義挙を顕彰するため、大石を祭神として創建された。大石の山科旧居は神社の付近にあった。毎年4月14日の春季大祭と12月14日の討入りの日に義挙記念祭が行われる。大石は、赤穂城の明け渡しの後、元禄14年(1701)6月下旬に、以前からこの付近に田地・屋敷を持っていた親類の進藤源四郎の世話でこの地に移った。閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利で事件の善後策を講じるのに何かと便利であったからであろう。この地でしばしば同志の会合を開いた。はじめ、はやる同志を押さえ、亡主浅野長矩(ながのり)の弟大学長広を立てて主家の再興を図った。しかし、翌、元禄15年(1702)夏、結局、再興は許されず、吉良義央(きらよしなか)邸討ち入りに方針を固め、同志はひそかに江戸に集まった。大石は、同年5月、妻子をり離縁し、8月にはここを引き揚げ、いったん京都四条寺町に移り、10月江戸に向かった。  京都市』
社務所脇から小径を入ります。『大石太夫・遺髪塚・巖谷寺近道』の案内石柱が立っていました。岩屋寺へ。『岩屋寺 創建時は天台宗に属し、比叡山三千坊の1つであったが、現在は曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で神遊山金寺院と号する。古来は隣接する山科神社の神宮寺であったと伝えられる。赤穂義士・大石良雄(通称・大石内蔵助)の隠棲地(いんせいち)として有名で、大石寺とも呼ばれる。
本堂に安置する本尊不動明王は智証大師の作とされ、大石良雄の念持仏であったという。また、この立札の右手奥には大石良雄の遺髪塚及び宅跡がある。赤穂城明渡しの後、彼はここに隠れてひそかに討ち入りの謀(はかりごと)を巡らしたが、事成って後、一時は荒廃したが、嘉永年間(1848〜54)に京都町奉行・浅野 長祚(あさの ながよし)らの寄付を受けて再興した。
境内には本堂と明治34年(1901)に建立された木像堂があり、浅野内匠頭長矩公の位牌をはじめ、四十七士の木像や位牌、大石良雄の遺品等が安置されている。12月14日には義士忌が行われ、「山科義士まつり」で知られる討ち入り当時を再現する行列が訪れる。  京都市』
横にある山科神社へ。『山科神社 日本武尊(やまとたける)・稚武王(わかたけるのみこと)を祀る。 社伝によれば、寛平9年(897)宇多天皇の勅命により創建されたと伝え、以降、この地の豪族宮道(みやじ)氏の祖神として、また山科一ノ宮とも呼ばれてこの地の産土神として人々の尊敬を受けて栄えてきた。盛時には、社領を丹後・山城に持ち、社殿の規模も大きかったが、度々の兵火のため焼失し、現在は三間社流造の本殿及び権殿・拝殿・神庫などが残っている。また、元禄14・5年(1701〜02)赤穂浪士の大石良雄が山科の里に隠棲していたが、その時、当社奥の院・岩屋神社に参籠して、大願成就を祈ったといわれている。
例祭は、「山科祭」と呼ばれ、毎年10月の第3日曜日に行われる:  京都市』
参道を歩いていると蛇がいました。なんとマムシでした。
『山科神社本殿 現本殿の建築年代を明らかにする史料はないが、本殿の前に立つ石灯籠に寛永20年(1643)。鳥居に万治3年(1660)の刻銘が見られる。一方、本殿の細部の彫刻などに古風なところがあり、また、部材の風蝕が大きいことから、室町時代後期造営の可能性もあるが、一部に後補材が認められ、江戸時代前期には現在の形態になったものと考えられる。
山の中腹に東に面して建つ三間社流造のこの本殿は、造営が古く、また、質も高く貴重な遺構であり、昭和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。  京都市』
大石内蔵助旧居・遺髪塚に戻ります。『遺髪塚碑 播州赤穂藩主浅野家の家老大石良雄(1659〜1703)は、江戸城内での刃傷沙汰で領地召し上げとなったため、縁戚で浅野家に仕える進藤源四郎の縁故により、進藤の出身地である山科に居を構えた。この石碑は、大石の遺髪を埋めた塚に建て、その隠棲の跡を示すものである。
建立年:安永4年(1775) 建立者:宮部義正・上田正並 寸法:高88cm・直径34cm』
バイクに戻り、r118を東に走り、左折して「外環状線」で北上し、R1〜湖西道路で10:38ヨットハーバー着。
コーチしている大学ヨット部の「ファミリーデイ」です。部員70名に対し、70名のご父兄が参集下さいました。僕はこの日のために文科省スポーツコーチ資格者に送られてくる「Sport Japan」の記事「元バレーボール日本代表・益子直美『だから今、監督が怒ってはいけない大会』」と、「子供が育つ魔法の言葉/ドロシー・ロー・ノルト」のコピーを80部持ってきました。
ご父兄の集合時間より1時間も前なので、リーダー3回生Kurさんと動きを確認します。父兄を3グループに分け、「お子さんとヨットに乗る」「艇庫で乗る準備」「合宿所でお話」に分かれて順に動くそうです。僕の担当は合宿所での話のようで、ゲストに話すようお願いされました。次々にゲストがやってきます。お土産持参のご家族もいます。ご家族が来られる部員は全ての役職から離れ、家族と行動を共にします。ホスピタリティーは、その部員が担当します。
第1便とともに合宿所に移動し、皆さんを合宿所を案内します。冷房の利いた2Fの大部屋に集まってもらい、4回生Narくんから部の紹介。PCの資料をTVに映し、上手に説明していました。続いて僕が指名され、コピーしてきた資料を配り、このヨット部がかつての体育会系とは大違いな笑顔でチャレンジするチームであることを説明しました。最先端アメリカから輸入された最新脳科学をベースにした文科省推奨に沿って、部員が自主的に練習し上達してきたクラブで、ジュニアや高校ヨット部未経験者集団ながら、全国制覇の有力校にまでなっています。そんな実績や4年前の優勝トロフィーを披露しながら・・・。大切なお子さんの活動環境をしっかり見てもらいました。これを3グループ続けました。当日、多数の親御さんから好評の言葉を頂きました。コロナ禍で3年ぶりのファミリーデイが盛況のうちに終えることが出来ました。


2022/8/7
6:54、倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、出発。6:58「セルフ北村SS」で給油。299km/11.65L=25.7km/L。R171〜中央環状道路〜吹田ICから名神高速に乗り、京都南ICで下車しました。R1南行きに一瞬乗り、すぐに左折して東進。
7:44、「白河天皇成菩提院陵」。綺麗に清掃されています。手を合わえます。バイクに戻り、第2京阪道路の下をくぐり、7:50「北向不動尊」。『北向山不動院 天台宗の単位寺院で、一般に北向不動の名で親しまれている。 大治5年(1130)鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建され、興教(こうきょう)大師を開山としたのが当寺の起こりである。太堂に大師が自ら仏師康助に刻ませた不動明王(重要文化財)を王城鎮護のため北向に安置した。そのため、上皇から北向山不動院の名を賜ったといわれる。久寿2年(1155)、播磨国(兵庫県)大国の庄を寺領として、藤原忠実が中興に当たった。その後、応仁の乱の兵火など、しばしば災害に遭ったが、幸い本尊不動明王は難を逃れた。朝廷の保護も厚く、近世に至って復興した。現在の本堂は、正徳2年(1712)、東山天皇の旧殿を移したものである。 境内鐘楼にかかる梵鐘は二品済深(にほんさいしん)親王の御銘があって、元禄7年(1694)に名士名越浄味によって鋳造されたものである。  京都市』
『洗心井戸について この井戸から湧き出るお水を「洗心水」と言い(本堂東側にもあります)嘉永2年の昔から行者の修行を行うお滝や参詣者の心身を清めるお水として大切にされています。 この洗心水で心身を清め、護摩壇の「龍水泉」のお水でお不動さんに「心願」を唱えてお供えください。  合掌』
不動明王がありました。『北向山・龍水泉 このお水をお不動さんにお供え下さい。このお水で、口や手、その他のものを洗わないで下さい』
『北向のお不動(仏の世界)にお参りをする 私達の日々は心配や苦労の連続です、仕事は厳しく、いつ事故や災難・病気に遭うかも知れません。又、家庭の事などでも色々と心配なことが起ります。このような苦しみから逃れようと、楽を求めて、遊びや旅行や趣味に走リます。これは一時の気休めで真の解決にはなりません。
しかし仏の世界では、このような苦労から逃れる事が出来るのです。病気になろうが、災難や万苦や死が追って来ようが、心豊かな日々を過ごすことが出来るのです。 今、苦しんでおられる皆さん、一心にお不動明王さまのご真言を唱えて下さい。不動明王の慈光を受け、心豊かな幸せは必ず訪れます。  合掌』
京都盆地の南に位置する伏見・竹田のフラット平野にある寺院ですが、「お不動さん」の名の通り、不動明王が鎮座し、滝修行出来る滝?もありました。かつては修験道の修行場だったのでしょう、今でも修験道の風が吹いていました。バイクに戻り、少し東に走り、8:07「安楽寿院」「鳥羽天皇安楽寿院陵」。天皇陵には珍しく多宝塔が建っています。平安京の南に位置する鳥羽は元は別荘地。で造られた天皇陵だからでしょうか?
『安楽寿院 真言宗の寺、保延3年(1137)鳥羽離宮の東殿を寺に改めたことに始まる。開基は鳥羽上皇、覚法法親王を導師に落慶した。保延5年(1139)本御塔(ほんみとう)と呼ばれる三重塔が建立され、続いて九体阿弥陀堂、焔魔堂、不動堂等が建てられた。保元元年(1156)鳥羽法王(上皇)が本御堂に葬られた。鳥羽天皇安楽寿院陵はそのあとである。保元2年(1157)、皇后美福門院は新御塔(しんみとう)を建立、ここには後に近衛天皇の遺骨が納められた。近衛天皇安楽寿院南陵がそれであり、現在の多宝塔は慶長11年(1606)豊臣秀頼により、片桐且元を普請奉行として再興されたものである。
現在の安楽寿院は真言宗智山派に属し、本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)は鳥羽上皇の御念持仏と伝えられ、胸に卍が記されているため卍阿弥陀とも呼ばれる。境内は京都市史跡に指定され、平安時代の三尊石仏、鎌倉時代の石造五重塔(重要文化財)、冠石が現存し、孔雀明王画像、阿弥陀聖衆来迎図、普賢菩薩画像(いずれも鎌倉時代・重要文化財)等を所蔵する。 なお、当院は鳥羽伏見の戦のおりには官軍(薩摩軍)の本営となったところである。  京都市』
『鳥羽離宮跡 鳥羽離宮は、平安時代後期に白河上皇の院政開始の象徴として造営が開始された御所と御堂および苑池からなる広大な離宮である。 その範囲は、東西1.5km・南北1kmにもおよび、当時の日記に、「都遷りがごとし」といわれるほどであった。この地は、平安京の朱雀大路からまっすぐ南に下がった場所にあたり、現在とちがって鴨川は東から南に流れ、西には桂川が流れて、水閣を築くのに絶好な地形であった。
造営は、応徳3年(1086)にはじまり、北殿・南殿・泉殿・馬場殿などがあいついで完成した。これらの殿舎は、右にかかげた広大な池に接して造られ、船で行き来していた。各々の殿には寝殿を中心に殿舎や御堂(仏像を安置)が建ち並び、次の鳥羽上皇の時代に入って、東殿・田中殿の造営が加わり、それぞれ苑池も造られた。このうち現在の安楽寿院を含む東殿に。は、三重塔3基、多宝塔1基が築かれるなど、ほかの殿とは異なった様相を呈していた。そしてこれらの塔には、白河法皇(成菩提院陵)や鳥羽法皇(安楽寿院陵)、近衛天皇(安楽寿院南陵、再建多宝塔が現存)の御骨が収められ、墓前に御堂が造られた。
このように東殿の区域は、死後の世界を用意したもので、まさしく極楽浄土を現世に築きあげたことが分かる。 院政最盛期の証でもある鳥羽離宮跡は、当時の最高の文化と技術を駆使して築かれたが、院政の終焉とともに衰退し、地上からその姿を消していっ’た。
この鳥羽離宮跡の発掘調査が開始されたのは、1959年の田中殿跡の調査からである。以後1984年までには100次をこえる調査が実施され、南殿の殿舎や苑池跡、北殿経蔵や苑池跡、田中殿金剛心院跡、東殿苑池跡の発見など大きな成果をあげている。
これらの調査を自ら始められ、地元の方々や多くの調査関係者らとともに当初から手がけてこられたのが杉山信三博士(1906〜1997)である。ここに示された鳥羽離宮復元鳥瞰図(ちょうかんず)は、博士の長年の調査成果を集大成されたもので、鳥羽離宮跡顕彰の石杖(いしずえ)として、阿弥陀如来座像や石製五輪塔(いずれも重文指定)など、往時の文化財を今に伝える安楽寿院境内に置くこととした。  1998年12月』
『重要文化財 安楽壽院・本尊・阿弥陀如来坐像 指定年月日:明治39年9月6日白河上皇が洛南に造営を始めた鳥羽殿(鳥羽離宮)は、鳥羽上皇に引き継がれて壮大な離宮として完成を見、後白河院政期にいたるまで政治の舞台となった。その東側に建てられ鳥羽東殿とも称された安楽壽院は、御堂と御所が保延3年(1137)に建立され、つづいて塔(2基)・炎魔堂・九体阿弥陀堂・不動堂などが加えられた。
2基あった塔のうち保延5年(1139)に建てられたのは、鳥羽上皇が自らの葬堂とするために建立した三重塔で、保元元年(1156)に崩御のあと実際この塔内に葬られた。現在は安楽壽院に伝えられる本阿弥陀如来像がその本尊だったと推定されている。本像は、この期のほかの仏像に比べると面相部・胴部ともに長めとなり、伸びやかな体躯である。そのプロポーションに合わせるように、二重円相の光背は周縁の透彫り部が長大となり、九重の蓮華座も左右の張りが少ないので腰高の感じがある。しかし光背と台座の大部分は、天文22・23年(1553・54)に大きく修理されているので、ほんらいはもう少し違う印象だったのかも知れない。本像を造立したのは、鳥羽離宮の造仏のほとんどを担当した円派仏師のひとりと思われる。当時の傾向からすればやや細身のからだつきとはいえ、おだやかで安定感のあるつくりはこの派の特徴であり、その推定に間違いはないだろう。白河・鳥羽院政期に宮廷関係のおびただしい造仏を任された円派仏師の貴重な一遺例である。  平成17年3月1日  安楽壽院』
『鳥羽離宮跡とその庭園 白河天皇は、応徳3年(1086)から鳥羽離宮の造営に着手され、次いで鳥羽上皇も精力的に行われました。離宮内には南殿・北殿・馬場殿・泉殿・東殿・田中殿などの御所や証金剛院・勝光明院・成菩提院・安楽寿院・金剛心院などの御堂(寺院)が建立されました。これらの御所跡や御堂跡の発掘調査によって、南殿跡では御所跡や園池・遣水、北殿では勝光明院阿弥陀堂と推定される基壇や園池・中島を、東殿跡や安楽寿院旧境内では大規模な園池や中島を、田中殿や金剛心院境内では釈迦堂・九鉢阿弥陀堂や園池を、馬場殿跡周辺部でも庭園の一部を発見しています。
調査で発見した景石は、その活用を目的に、安楽寿院収蔵庫の周囲に移築復元を行うことになりました。移築に際しては調査当初の姿に戻すように心がけました。景石の大半は高野川流域から採取され、和歌山県周辺部から運ばれてきたと推定される和泉砂岩や緑色片岩も見うけられます。
1.安楽寿院(あんらくじゅいん) 鳥羽上皇により保延3年(1137)に供養された寺院。境内中央には大きな園池があり、この景石はその汀で出土。
2.成菩提院跡(じょうぼだいいんあと) 白河上皇・烏羽上皇により供養された寺院。この石は白河天皇陵の周囲を巡る濠から出土した。
3.金剛心院跡(こんごうしんいんあと) 鳥羽法皇により久寿元年(1154)に供養された寺院。舟着場を構成する横長の石材が和泉砂岩。
4.勝光明院跡(しょうこうみょういんあと) 鳥羽上皇により保延2年に供養された寺院。この景石は阿弥陀堂基壇近くの州浜上で発覚した。
5.南殿跡 秋の山の南に造営された離宮内最初の御所。この庭石は御所から北へ少し離れた池の近くで発見した』
バイクに戻り、枝道を「近鉄京都線」に沿って北上し、「竹田駅」付近へ。r68を東に走り、左折してR24を北上。左折してr143で東進。道なりに「東大路通」になり北上しました。「清水寺」まで北上し、右折してR1を東進します。左折して「新大石道」を南下し、9:05「ローソン山科新大石道店」で、「ソルティライチ500ml129円+ボディペーパーフリーズピーチ385円+ガリガリ君梨75円=589円」購入。Pでガリガリ君でクールダウンしました。
更に南下し、9:18「大石神社」P。歩いて「極楽寺」。蓮の花が綺麗に咲いていました。途中にあった「福王寺」前を歩き、「大石神社」鳥居前まで戻ってきました。大石神社を中心にした観光地図がありました。
『福王寺:本山を知恩院とする、浄土宗寺院である。御本尊の地蔵菩薩は、平安時代前期の公卿小野篁の作であり、大石内蔵助か隠棲していた時の大願成就佛である』
『極楽寺:本山を知恩院とする、浄土宗寺院である。本尊は阿弥陀如来。大石内蔵助か西野山に隠遁していた時、浅野内匠頭の位牌を納め、香華料として田畑を寄進したとされる』
『大石神社:祭神/大石内蔵助良雄公。元禄14年(1701)江戸城松の大廊下にて始まる「忠臣蔵」。大石良雄は赤穂藩断絶後、この地に隠棲し仇討の善後策を練ったといわれている。昭和10年(1935)浪曲師吉田奈良丸・京都府知事らにより全国の崇敬者により創建される。12月14日「義士祭」』
『岩屋寺:赤穂義士・大石良雄の山科隠棲地であり、境内には、大石良雄の遺髪塚、及び宅址の碑が建っている。本堂の御本尊「不動明王」は大石良雄の念持仏と伝わる。浅野内匠頭長矩公の位牌を始め、四十七士の位牌と木像並に大石良雄の遺品等公開。本堂横には討入り前の内蔵助お手植の紅梅が今も清い薫りを放ち、当時を偲んでいる』
『山科神社:祭神/日本武尊・稚武王。寛平9年(897)宇多天皇の勅命により創建。式内社/江戸時代より山科一之宮と称される。本殿(三間社流造・槍皮茸)は室町時代後期の建立。本殿前灯龍/ともに京都市指定・登録文化財。元禄14年赤穂浪士の大石内蔵助良雄が山科に隠棲していた時、当社にて大願成就を祈願したといわれている』
鳥居をくぐり、ゆるい参道を上がっていきます。『忠臣蔵で知られる赤穂義士大石内蔵助の山科隠棲の地に義挙を顕彰するため、1935年、当時の浪曲会の重鎮であった吉田奈良丸など、多くの崇敬者により創建されました。宝物殿には大石良雄・小野寺十内らの手紙をはじめ、多くの品が残されています。
主な行事:4月14日春季大祭 12月14日義挙記念祭
山科義士まつり:12月14日、四十七士などに扮した総勢約300人の大行列が毘沙門堂を出発し、大石神社を目指して山科区内を行進します』
境内に上がると、白馬が飼われていました。奉納馬でしょう。『種類:ファラベラ・ミニホース 誕生日:平成11年4月30日 平成19年に来ました』。参拝されているご家族のお子さんが、前に座り込んで眺めています。「忠臣蔵宝物殿」に入りました。「smap木村拓哉氏 大石神社参拝来社」と書かれた「忠臣蔵1/47 死ぬほど、生きろ」の映画の宣伝写真があります。松方弘樹・片岡千恵蔵・萬屋錦之助・中村勘九郎・里見浩太朗、映画・ドラマで大石内蔵助を演じた歴代役者の写真が展示されていました。
境内に出て、拝殿を参ります。『大石神社 この神社は、昭和10年赤穂義士大石良雄の義挙を顕彰するため、大石を祭神として創建された。大石の山科旧居は神社の付近にあった。毎年4月14日の春季大祭と12月14日の討入りの日に義挙記念祭が行われる。大石は、赤穂城の明け渡しの後、元禄14年(1701)6月下旬に、以前からこの付近に田地・屋敷を持っていた親類の進藤源四郎の世話でこの地に移った。閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利で事件の善後策を講じるのに何かと便利であったからであろう。この地でしばしば同志の会合を開いた。はじめ、はやる同志を押さえ、亡主浅野長矩(ながのり)の弟大学長広を立てて主家の再興を図った。しかし、翌、元禄15年(1702)夏、結局、再興は許されず、吉良義央(きらよしなか)邸討ち入りに方針を固め、同志はひそかに江戸に集まった。大石は、同年5月、妻子をり離縁し、8月にはここを引き揚げ、いったん京都四条寺町に移り、10月江戸に向かった。  京都市』
社務所脇から小径を入ります。『大石太夫・遺髪塚・巖谷寺近道』の案内石柱が立っていました。岩屋寺へ。『岩屋寺 創建時は天台宗に属し、比叡山三千坊の1つであったが、現在は曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で神遊山金寺院と号する。古来は隣接する山科神社の神宮寺であったと伝えられる。赤穂義士・大石良雄(通称・大石内蔵助)の隠棲地(いんせいち)として有名で、大石寺とも呼ばれる。
本堂に安置する本尊不動明王は智証大師の作とされ、大石良雄の念持仏であったという。また、この立札の右手奥には大石良雄の遺髪塚及び宅跡がある。赤穂城明渡しの後、彼はここに隠れてひそかに討ち入りの謀(はかりごと)を巡らしたが、事成って後、一時は荒廃したが、嘉永年間(1848〜54)に京都町奉行・浅野 長祚(あさの ながよし)らの寄付を受けて再興した。
境内には本堂と明治34年(1901)に建立された木像堂があり、浅野内匠頭長矩公の位牌をはじめ、四十七士の木像や位牌、大石良雄の遺品等が安置されている。12月14日には義士忌が行われ、「山科義士まつり」で知られる討ち入り当時を再現する行列が訪れる。  京都市』
横にある山科神社へ。『山科神社 日本武尊(やまとたける)・稚武王(わかたけるのみこと)を祀る。 社伝によれば、寛平9年(897)宇多天皇の勅命により創建されたと伝え、以降、この地の豪族宮道(みやじ)氏の祖神として、また山科一ノ宮とも呼ばれてこの地の産土神として人々の尊敬を受けて栄えてきた。盛時には、社領を丹後・山城に持ち、社殿の規模も大きかったが、度々の兵火のため焼失し、現在は三間社流造の本殿及び権殿・拝殿・神庫などが残っている。また、元禄14・5年(1701〜02)赤穂浪士の大石良雄が山科の里に隠棲していたが、その時、当社奥の院・岩屋神社に参籠して、大願成就を祈ったといわれている。
例祭は、「山科祭」と呼ばれ、毎年10月の第3日曜日に行われる:  京都市』
参道を歩いていると蛇がいました。なんとマムシでした。
『山科神社本殿 現本殿の建築年代を明らかにする史料はないが、本殿の前に立つ石灯籠に寛永20年(1643)。鳥居に万治3年(1660)の刻銘が見られる。一方、本殿の細部の彫刻などに古風なところがあり、また、部材の風蝕が大きいことから、室町時代後期造営の可能性もあるが、一部に後補材が認められ、江戸時代前期には現在の形態になったものと考えられる。
山の中腹に東に面して建つ三間社流造のこの本殿は、造営が古く、また、質も高く貴重な遺構であり、昭和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。  京都市』
大石内蔵助旧居・遺髪塚に戻ります。『遺髪塚碑 播州赤穂藩主浅野家の家老大石良雄(1659〜1703)は、江戸城内での刃傷沙汰で領地召し上げとなったため、縁戚で浅野家に仕える進藤源四郎の縁故により、進藤の出身地である山科に居を構えた。この石碑は、大石の遺髪を埋めた塚に建て、その隠棲の跡を示すものである。
建立年:安永4年(1775) 建立者:宮部義正・上田正並 寸法:高88cm・直径34cm』
バイクに戻り、r118を東に走り、左折して「外環状線」で北上し、R1〜湖西道路で10:38ヨットハーバー着。
コーチしている大学ヨット部の「ファミリーデイ」です。部員70名に対し、70名のご父兄が参集下さいました。僕はこの日のために文科省スポーツコーチ資格者に送られてくる「Sport Japan」の記事「元バレーボール日本代表・益子直美『だから今、監督が怒ってはいけない大会』」と、「子供が育つ魔法の言葉/ドロシー・ロー・ノルト」のコピーを80部持ってきました。
ご父兄の集合時間より1時間も前なので、リーダー3回生Kurさんと動きを確認します。父兄を3グループに分け、「お子さんとヨットに乗る」「艇庫で乗る準備」「合宿所でお話」に分かれて順に動くそうです。僕の担当は合宿所での話のようで、ゲストに話すようお願いされました。
次々にゲストがやってきます。お土産持参のご家族もいます。ご家族が来られる部員は全ての役職から離れ、家族と行動を共にします。ホスピタリティーは、その部員が担当します。
第1便とともに合宿所に移動し、皆さんを合宿所を案内します。冷房の利いた2Fの大部屋に集まってもらい、4回生Narくんから部の紹介。PCの資料をTVに映し、上手に説明していました。続いて僕が指名され、コピーしてきた資料を配り、このヨット部がかつての体育会系とは大違いな笑顔でチャレンジするチームであることを説明しました。最先端アメリカから輸入された最新脳科学をベースにした文科省推奨に沿って、部員が自主的に練習し上達してきたクラブで、ジュニアや高校ヨット部未経験者集団ながら、全国制覇の有力校にまでなっています。そんな実績や4年前の優勝トロフィーを披露しながら・・・。大切なお子さんの活動環境をしっかり見てもらいました。これを3グループ続けました。当日、多数の親御さんから好評の言葉を頂きました。コロナ禍で3年ぶりのファミリーデイが盛況のうちに終えることが出来ました。


2022/7/31
家内も休みだったので、「船に乗らない?台風対策の増しロープを外しに行くんだけど」と誘ったが、「お隣の掃除するから行かない。ルーカスくんの誕生日プレゼント、まだだったよね。プレゼント買いに行きたいので夕方でいいから連れてって」「OK」ということで僕だけ行くことになりました。先輩方と共同で運用している係留艇のボトムに水生生物(牡蠣やフジツボ・・・)が付きだしているので、走らしてやらなきゃなりません。前日、「先輩方にAM9時頃から台風対策を外しに行きます。寄って頂けるようなら船を出しましょう」とLINEしていました。何方か来られると良いけど・・・。
8:30頃、倉庫から「通勤リード110」を出してホームポートに向かいました。次の日曜日はコーチしてる大学ヨット部のファミリーデイで、お盆期間はヨットレースなので、次船の手入れが出来るのはこの日を逃せば3週間後。9時にハーバーに着き、レースで乗る船を陸置き艇置き場に向かいます。「ああ、これだ。GS34、カッコいいな」。回航+レース、1週間弱お世話になります。
係留艇に行き、ドッグハウスに入り、カーテンを開け船内を明るくし、ハッチを開けて風を通します。メインスイッチをONにして、エンジン始動。一発始動で、冷却水の排水も気持ち良く出ています。トイレのハッチを開け、トイレ掃除。ブラシでゴシゴシしてトイレの給排水をポンピングしてパイプ内の掃除をします。栄養価の高い海に浸かっているので、パイプもフジツボで詰まってしまいます。シンクに置きっぱなしになっていたコップを洗いました。シンクからの排水が遅く、排水パイプが詰まり気味です。
増しロープ4本を回収します。2本は海に浸かっていたので、ロープに緑色の藻とフジツボの小貝が着いています。コイルして船のトランサムにぶら下げました。それを写真に撮り、船のLINEに上げました。ジェノアが台風の風ではらまないようぐるぐる巻きにしたトッピンリフトをほどきます。ここで、Hirさんから電話が入りました。「藻が着いたままのロープを乾かすと、緑色がロープに染み付いちゃいますよ。ブラシで洗わなきゃ」「え、そうなの、ブラシ作業しますわ」「12:30頃行けると思います」「じゃあ、小一時間船を走らせましょうか」「OK」。
1本目のブラッシングを始めました。これまで、台風が来るたび増しロープしていましたが、台風が過ぎると早めに回収していました。ので、こんなに藻が着きませんでした。ブラシはデッキブラシとトイレブラシしかなかったので、トイレブラシでゴシゴシ開始。気持ち良く藻が落ちますが、3m×4ヶ所あるので先が長い。桟橋に座って足を海に浸けながら作業しやっと1本終了したが、暑くて暑くて。たまらず、「かき氷でクールダウンしよう」。センターハウスに戻り、1F「フリアンディーズ」でスノーフラッペ720円でクールダウンしました。
食べている途中で、Hirさんから「船に着きました」「食べ終わったら行きます」。船に戻ると、Hirさんがステアリング上に、サンブレラを組み立てていました。大学ヨット部後輩のSawさんが「お邪魔しています」。2人でドラゴンの整備をしていたのでしょう。サンブレラの組み立てを手伝い、僕は2本目のロープの藻落としに掛かります。3人であれやこれや。Sawくんが学生を終えた頃から数年、僕は母校コーチをしていました。HirさんにMorさんから電話があり、「Kinさんと13:30頃船に行く」と連絡があり、2本目のロープの作業を終えるタイミングでお昼ごはんに向かいました。13:21「センターハウス3F・WACHA」で、「明太子クリーム990円+セットドリンク180円=1170円」。Sawくんは農地を買って農作業も始めたようで、あれやこれや教えてもらいました。
船に戻ります。Sawくんは、ドラゴンの整備の方に向かいました。Hirさんと2人で船に戻ると、Kin先輩がいました。桟橋の水道から清水タンクを満タンにしてくれたようです。朝チェックした時は、タンク1が半分、タンク2がエンプティーでした。暫くしてMor先輩が来られたので、4人で沖に出ます。若手の僕とHirさんがロープを外す作業をするつもりでしたが、先輩2人は「頼むわ」の言葉だけで、仕方なく僕がステアリングで、Hirさんが4本のロープを外して桟橋を離れます。
沖に出ると、W6〜8m/sの気持ちの良い風が入っています。「メインセイルを上げましょうか?」と聞いてみましたが、「今日はいいんじゃない」。メインセイルのカバーのファスナーとの縫製が破れていたので、それをチェックしただけで「修理が済むまで動かさない方が良い」と思ったのでしょう。先輩2人も大学ヨット部員だったし、その後もヨット好きですが、エンジンを切り、ジェノアだけでセイリングし始めました。何故か今日は話の方に夢中でステアリングを持とうとしません。こういう時は後輩の僕がセイリングするしかありません。沖では、ジュニアのレースをやってたようで、14時過ぎにレース終了したのか全艇がハーバーバックしていきます。僕がジュニアの親だった時代、作ったクラブです。近年は日本有数のクラブに成長し、世界選手権に毎年のように日本代表を出している強豪チームです。
一文字防波堤まで行きタックし、芦屋沖に戻ります。錨泊本船を交わすためにタックし、また防波堤まで行ってタックし、ハーバーバックしました。ハーバー前まで走ってきて、Hirさんにステアリングを交代しました。ステアリングの軽快さを感じておられました。フジツボがたくさん着くと、ラダーにも着いてステアリングが重くなります。次の冬には陸揚げし、水生生物が着かないよう船底塗料を塗ることを決定しました。結局僕のステアリングで桟橋に戻り、船を洗い掃除しました。先輩方は船内の掃除、僕は桟橋からバリバリとフジツボを落としました。ケルヒャーの強力ジェット水流で船のハルの汚れを掃除します。藻が着いたロープもケルヒャーすると、更に綺麗になりました。
さあ帰ろうとしたら、サンブレラの片付けをしていないことに気づきました。「片付けた方が良いですよね」と船に戻ろうとしたら、Morさんから「奥さんと買い物があるんやろ、俺は何もないからやっとくよ、先帰り」と優しいお言葉。それに甘え、ゴミだけ持って先に失礼しました。バイクに戻り、一気に帰宅。ハーバーから「30分後に帰る」とLINEしておいたので、家内は準備万端でした。「さあ、行こうか」と言うと、「お風呂に入ったら。まだ時間あるからいいよ」と言われ、一風呂浴びて日焼け止めを落としさっぱりしました。
四輪でJR中山寺まで走り、「スポーツオーソリティー」で孫への誕生日プレゼントとして、サッカーユニフォームを買いました。家内からのプレゼントです。僕からのプレゼントは、いつも通り本です。「グリム童話」と「映画ホームアローンDVD」です。ルーカスくんはアメリカ生まれで米国籍を持っています。誕生日は6月でしたが、既に長男のロンドン勤務が7月までで、日本勤務になるのがわかっていたから、誕生日プレゼントは帰国後にすることにしていました。2ヶ月遅れだけど、喜んでくれるといいな。


2022/7/30
コーチしてる大学ヨット部のコーチング日です。倉庫から「招き猫CB400SB」を出して出発。7:05「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「味付け海苔エビマヨネーズ135円+伊藤園ミネラル麦茶670ml140円=378円」購入。吹田ICから名神高速に乗り、京都東ICで下車して、湖西道路に乗り換えてヨットハーバー着。みんなに挨拶し、バイク装束から着替えます。この日は、上回生の多くが江ノ島遠征しています。1・2回生中心にした新人練習です。春に入部した1回生は、ここまでシングルハンダーに乗ってきました。470・スナイプ、それぞれのクルー・スキッパー4つのポジションを選択し、その初練習です。AMは陸上で基本動作の練習をしました。
お昼になり、マネさんが昼食を持ってきてくれました。3回生Yamくんがリーダーで、「マネージャーさん、本日の昼食は?」1回生マネさんから「・・丼です」「ウエイ、頂きます」でお食事時間。コロナ前の食事風景が復活しました。コロナ陽性者が再び増えてきていますが、殆どの方が無症状。以前なら「患者ではなく、普通の生活をしていた人」。体調も問題なく、働いたり学校に通い勉学に励んでいた人を検査し、わざわざ「病人」にしているに過ぎません。コロナウイルスは、「風邪」という病気を起こすウイルス。毎年、低温と乾燥の時期になると症状を出して「風邪引いた」になるが、そうでない夏場にウイルスがゼロであったはずがありません。症状を出さないまでも生き残っていなければ、冬場に「症状」出して活躍できない。コロナウイルスは、亜種への変異が激しいウイルスで、インフルエンザウイルス以上に変異し続ける。これは、2020年の「新型コロナ」が欧米より始まり日本でコロナ禍が始まった頃から、ウイルス専門家が「1週間単位で変異し続け、毒性が低下して人との共存状態になります。人の遺伝子の半分は、このようなウイルス由来です。先天的・後天的にウイルスに暴露し学習して免疫力を強くする。次々に変異するコロナウイルスに次々に暴露しておくことが免疫力を強くする。この暴露を遮断してしまうと、その後進化した変異ウイルスによって大きな被害が出る」、そのままです。ここまで2年半、マスク・飲食店営業停止・移動自粛・・・により、経済がガタガタになった。多くの自殺者を出した。被害のほとんどでない若者の活動を萎縮させ、将来への学習を大きく低下させた。世界的に1年半これをやっても、コロナウイルスは次々に変異し陽性者がゼロになることはなかった。世界の多くは学習し、ほぼすべての自粛政策を止めた。日本だけが、更に1年続け一人負けしつつあります。ああ、アホらしい・・・。まさに、「裸の王様」。
午後から沖に出ます。1回生のツーマン・ディンギー初体験です。470チームの風上に出て、ホイッスルを吹きます。タック・ジャイブ・クローズホールド・ランニングの基本練習ですが、基本動作が身体が覚えていないので時間がかかります。でも、思っていた程酷くはなく少し安心しました。これからグングン上達し、3年後は彼ら彼女らを中心にして全国を狙おう。
1回生が多く、その割にボートが少ないので、予定通り乗員を交代させ、16:30にハーバーバック。解装してブリーフィング。最初に僕が指名され、「ツーマンディンギーの練習初日ご苦労さま」「二兎を追うもの一兎を燃えずではなく、二兎も三兎も追おう、君たちにはそれだけの能力がある」。そして「他チームから、楽しくヨットしていると感じているように、楽しく練習し結果も出そう」と伝えた。
この日はとても暑く、ハーバー自販機で「ファンタプレミアムレモン160円」2本購入し、家から魔法瓶に入れて持ってきた冷たい麦茶と交互に飲んで、喉の乾きを潤しました。帰路に着きます。バイク装束に着替え、湖西道路〜名神高速に乗ります。17:46「桂川PA」で、「ガリガリ君ソーダ75円」を購入し糖分補給。吹田ICで下車し、18時過ぎに帰宅しました。


2022/7/23
5:19、倉庫から「招き猫CB400SB」を出し出発。宝塚ICから中国道に乗り西へ。晴れの天気予報ですが、早朝まで降っていたようで路面が濡れています。6:06、「加西SA」休憩。ここまでの道中、ずっと雲がかかり小雨が落ちてくるエリアもありました。雲が切れていくようで、もう雨は大丈夫そう。ただ、これから向かう北の方角の山には厚い雲がかかり、降られるかも・・・。トイレ休憩して出発しました。左側エンジン横にチェンジレバーがあるクラシックハーレーがいました。もちろんイグニッションキーがなく、ウンショウンショとクランクを回しエンジン始動していました。こういうのを維持管理するのは大変そう。
更に西に走り、「山崎IC」で下車し、R29を北上しました。左折してr523に入り、6:53「與位神社」。『式内與位神社御由緒略記 御鎮座地:宍粟郡山崎町與位119番地 御祭神:素盞鳴尊・稲田姫命 御由緒:素盞鳴尊は、伊奘諾尊の御子にして生来御気性の荒い神様で、御姉神天照大神のお怒りにあい、天下り給いし後、稲田姫命をめとり、ひたすら心清々して日々を送られた神様であります。当社の御創立は遠く成務天皇14年甲申(かのえさる)2月11日(紀元804年・西暦144年)鎮座と称し、また欽明天皇25年甲申2月11日(紀元1224年・西暦564年)とも伝えられ、そのいずれか定かではありませんが、伊和大神すなわち大国主命が国土経営をなされた時、父母の神として與位大神を與位山の地に、子勝大神を丸山の地に奉斎せられたのが始まりといわれ、延喜式という古い書物にもはっきりと記されていることからしても、延喜式以前の創立を物語る古い御社であります。播磨鏡という書物に「八乙女の鈴やふりつつ、祈るにぞ神も願をよるの夢みせ」と記され、今もこの故実により、8名の氏子の子女が巫女として大祭に奉仕しております。また昔から神饌第一に栗蒸しを奉る古例が存続しており、明治42年に子勝神社を與位神社に合祀し、今日に到っております。 祭儀:春季大祭4月29日・秋季大祭体育の日 氏子:清野・杉ケ瀬・與位・木の谷各自治会 境内末社:大歳神社(猿田彦命・大年神) 境内地:3055坪 與位神社』
『山崎町指定文化財 「與位神社の社叢」 指定年月日:平成12年5月31日・山崎町教育委員会 概要:当社叢は、15000平方mの広大な鎮守の森であり、温帯常緑林としての性格を持っている。 樹種は、高木=イチイガシ・シラカシ・アラカシ・モミ・スギ・ケヤキ・ムク等。低木=ヤブツバキ・アオキ・ヤブニッケイ・シキミ・マンリョウ等。草木=ミヤマフユイチゴ・ミヤマカタバミ・オウレン・テイカカズラ・ビナンカズラ・ヤブミョウガ等 特徴:社殿には推定樹齢400年の巨木、見事な大杉がある。 山崎町指定文化財(昭和60年2月14日)南端にそびえるイチイガシは、幹囲4m・推定樹齢400年である。この地方では、稀に見る珍しい大木である。 特に当社叢の樹木・草木は、古来より鎮守の森として保護され、当地方の自然環境を伝承する上で、最も貴重な植物群落である。 與位神社』
高木が並ぶ鎮守の森に一本の参道が拝殿まで続いています。写真を撮っていると、氏子と思われる年配の男性がお参りに来られ、拝殿・摂社を巡って手を合わせておられました。地元の方に敬意を評し挨拶すると、「どちらからですか?」。しばらくお話ししました。元氏子総代さんでした。鬼瓦も彫刻も素敵で気に入っちゃいました。
『與位神社・子勝神社拝詞(はいし) 掛けまくも畏(かしこ)き 與位・子勝神社二柱の 大前を拝み奉りて 恐(かしこ)み恐みも白(もを)さく 大神等(たち)の広き厚き御恵を辱(かたじけな)奉り 高き尊き神教えのまにまに 天皇(すめらみこと)を仰ぎ奉り直き正しき真心もちて 誠の道に違うことなく負い持つ業(わざ)に 励ましめ給い 家門高く身健やかに 世のため人のために盡(つく)さしめ給へと 恐み恐みも白す』
バイクに戻り、枝道を北上すると、揖保川沿いの道になりました。7:36「エネオス一宮SS」で給油。202km/8.07L=25.0km/L。7:46「道の駅みなみ波賀」でトイレ休憩。「ドライミックス590円」購入しました。りっぱな大きさのスイカが山盛りになって販売されていました。真っ白なゆりが販売されていました。我が家の庭を毎年飾ってくれている「ゆり」が今満開ですが、オレンジ色ばかりなので白が綺麗に見えます。食中植物も販売されていました。買いたくなったけど、バイクなので家まで持って帰れるか自信がなくパスしました。
R29を北上し、R427との交差点に近づくと、小高い山上に波賀城跡が見えて来ました。ここを通るたびに、登ってみたかった中世の城跡です。寄ってみようと思い枝道に入り、「宍粟市波賀市民局」のPにバイクを置きました。目の前に神社がありました。
8:18「宝殿神社」。『宝殿神社のシラカシ林 標高370m・0.2ha・傾斜27°・出現種数60 シラカシを優占権とする樹林で高木層(27m70%)は、シラカシの他、モミ・ケヤキ・イヌシデにより構成され、低木層にはカヤ・ヤブニッケイ・アオキ・ヒサカキ・シュロ・チャノキ・ナンテンなどが見られる。草木層には、ヤブコウジ・ヤブラン・ベニシダ・クマワラビ・ナガバシャノヒゲが多い。
*「波賀城の名馬伝説」により、当社境内には、世々杉の木を植林せざりき。内陸山間部の深土性の立地を特徴づけるシラカシ林として貴重である』
急な石段を上がって境内へ。拝殿に参ると綺麗な名馬の絵馬が下がっていました。摂社に参ります。揖保川が作る谷と、北播磨の山裾が眼下に広がっていました。『宝殿神社(大国主命) 摂社:稲荷社(宇迦之御魂神)・諏訪社(豊宇迦神)・天神社(菅原道真)・目神社』
バイクに戻り、城跡に向けて登っていきます。国道から見ていた時は、急峻な城山なので厳しいと思っていましたが、案内板に従うと舗装路が登っており、バイクで近くまで行けるので楽そう。
8:39「波賀城跡」。10台以上スペースのあるPがありました。Pには、『波賀城はこれより先150m下り、その先登り200m』と案内板が立っていました。『波賀城史跡公園』だそうです。下っていく途中に、木造り門がありました。『熊、出没注意! 鈴など、音の出るものを携行してください。 会話をしながら歩いて下さい。 連絡先:波賀生涯学習事務所0790-75-2241・波賀文化創造センター0790-75-3688』
『ようこそ波賀城・歴史伝承の家にお越しくださいました。波賀文化創造センターではご来場記念に左記のような「来場記念カード(無料)」を用意しております。ご入用なら、お立ち寄りください。当日の日付を入れてプレゼントいたします。 なお、波賀文化創造センターは歴史伝承の家(写真と地図参照)の近くにあります。休館日は月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日の火曜日も)・国民の祝日・年末年始(12月28日から1月4日)』
『波賀城蹟 11世紀の初めの頃までに、私達のこの地域は、伯可庄(はかのしょう)として石清水八幡宮の荘園になっていました。 この地には有名な名馬の伝説があります。「その昔、芳賀七郎という武士がおりました。彼は素晴らしい馬を飼っていましたが、ある時そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きました。七郎は名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。彼は「馬隠しの穴」に馬を隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました。 伝説の芳貿氏は、伯可荘の有力者であったと思われ、ここに初めて城を築いたのも、この一族であったものと推測されます。
13世紀の中頃、地頭として移ってきたのが中村氏や大河原氏です。彼らは鎌倉幕府の御家人(埼玉県秩父郡)を本拠地とした秩父丹党、丹治氏の一族です。中村氏は初代の光時(みつとき)から戦国時代末期の、吉宗まで20代にわたって波賀城主であったといわれます。波賀城を修理・拡張し、これを拠点にして亦松氏などの支配下で勢力を維持したものと思われます。
現在の波賀城蹟は、このような歴史を持つ城を戦国時代末期にさらに拡張・整備した時のものと考えられます。羽柴秀吉が播磨を制圧した時に、北の守りの拠点としたものである可能性も考えられます。 この城は山陽道と日本海側を結ぶ因幡街道や、それと千種を結ぶ街道、三方に通じる街道を眼下にする戦略的な位置にあります。ほとんど独立した山に築かれたために麓から本丸までの距離が短いので、途中に多くの「郭」を作って縦深をとっています。 また、西側の小山(古城)にも砦を築き、一体となって敵軍を防ぐ工夫をしています。復元された城の石垣は中世と近世の中間的な特徴を持ち、全体の縄張りとともにこの城が過渡期のものであることを示す貴重な遺構になっています。
平成2年3月、波賀町では、地方の時代をめざす、ふるさと創生事業の一環として、波賀城史蹟整備に収り組むことを決め、城蹟整備専門委員会を設置して、文献・古文書など考古学的及び地理的環境からみた波賀城史の調査研究を行う一方、城山の山頂部分を中心とする城郭遺構とその縄張りと、山麓部の製鉄遺構の発掘調査等を行いました。このことから波賀城蹟は、それが波賀町の史蹟の中核であるだけでなく、裾野の広い歴史的遺産を含んでいることが確認され、城蹟の整備はそれ等の歴史的、文化的遺産の更なる調査と保護をも含めて実施されるべきものと結論を得ました。このたびその第1期の事業として整備した城山の城蹟公園が、波賀町史のシンボルとして、町民が町史を学ぶ心のよりどころの場となって、永く後世に活かされてゆくことを祈りつつ城蹟説明の一文といたします。  宍粟市』
更に下って、登り戻し、最後は木組みの階段を上がって模擬天守に到着。素晴らしい景色が下界に広がっていました。『波賀城のみどころ(石垣) 波賀城の顔ともいえる当石垣は、全国でも最古式に属し、おそらく天正年間(1573〜1591)以前の成立が考えられる。その特徴は、次にあけるようにコーナー部の積み方にある。 (3期)寛永年間(1624〜1643) この期の特徴は、その稜線にノリ(傾斜角)をつけ、加えて反りがつく。また直角をしたコーナ−部となる角石や角脇石には、規格した切石を用いている。それにより、角石の長辺を交互に組んだ算木(さんき)積みが完成する。 (2期)天正・文禄年間(1573〜1595) この石垣は、やや反りのある稜線をもつ。その石材に大小・凹凸・長短のある自然石を用いるところから、算木積みはまだ十分完成していない。また左右のノリ・反りを調整するために、角石どうしの間にハサミ石を入れる。 (1期)天正年間以前(〜1572) 波賀城の石垣には、まだ反りはなく、ノリだけの稜線である。石材はレンガ状の節理にそって割れた横長石が多い。コーナー部をつくる角石・角脇石といった用途別の意識はまだなく、算木積みは未発達である。 (シノギ角) 下方の通路上に残る上下2段の石垣は、山の地形に沿って、いくつかの鈍角状のコーナー部をつくる。これを「シノギ角」という。この技法は、天正年間には発達するが、波賀城の「シノギ角」石垣は、まだ算木積みが未発達である。これは、波賀城の石垣が天正年間以前の古い様式を備えたことによるものであろう』
木造の模擬天守の中は、波賀城関係の博物館になっていました。貴重な資料が置いてあるけど、監視カメラなどあるのかな?怪しい人間に荒らされなければ良いけど・・・。揖保川の谷を隔てて面する西側の山の中腹に林道が走っています。走ってみたいけど、google mapで見ると未舗装そうで残念。
『時代によって多少の変動はありますが、播磨と因幡を結んでいた昔の因幡街道は大体現在の国道29号に平行していました。沿道の爾志(にし)神社は古くからの神社で、平安時代に編集された「延喜式」に記されている宍粟郡の7社の1つです。波賀八幡神社には天文9年(1540)に丹治大河原之清が備前長船の刀匠に作らせた刀が奉納されています。 街道に近い小さな小山(古城)にも城跡があり、これも波賀城の一部といえます。因幡街道から西へ向かうのが千種への街道です。因幡街道の一部は西側の安賀と野尻を通っていて、峠の下で千種への道に続いていました。現在の道路に沿うようにして千種から美作へと通じていた街道です。 因幡街道と分かれて東へ向かうのが三方への街道であり、ここからさらに富士野峠などを越えて但馬へと続きます。 今日では姫路や神戸など南に向かう交通が大きな比重を持っています、しかし歴史的には因幡・美作・但馬などへの交通がそれと同じように重要な意味を持っていました。波賀城の戦略的な重要さは、ここから見下ろす街道が語っているといえるでしょう』
時折、銃声が聞こえます。猟銃のようです。鹿を害獣駆除しているのでしょう。模擬天守の更に上・山頂に「波賀神社」がありました。
『城山の植生 標高458mの城山は、第1層(頂上部)・第2層(中間部)・第3層(下層部)の3つの植生に分かれています。第1層の頂上部は約20株のイヌシデを中心に、イロハモミジ・クマシデ・アカマツ・シロダモ・モミなどが高木層を作り、低木層にもシロダモ・シキミ・イヌツゲ・コマユミ・イナゴ・ウラジロノキなどがあり、中間温帯の2次林のひとつで、典型的なシデの樹林ですが、その中に冷温帯針葉樹のアスナロが植生し、それは直径50cmを越える巨木でイヌシデの大木と共に群落を形成しており、このアスナロ・イヌシデの群落ほ県下にもその例を見ることの出来ない貴重な樹林です。 尚、この第1層の頂上部は兵庫県の「自然環境の保全と緑化の推進に関する条例」第16条第1項の規定に基づく、「環境緑地保全地域」に指定されています。第2層の中間部は、「波賀城史蹟公園」として唐カエデ・コムラサキ・ヒサカキ・ヤマザクラ・ヤマハギ・ユズリハなどの低木樹を植栽し、園地としての景観形成が図られています。第3層の下層部は大部分がスギ・ヒノキなどの民有人工樹林で、手入れも行き届き、一部縦帯状にコナラ・アベマキ・ケヤキ・クリなどの落葉樹林も残されています。  教育委員会』
バイクに戻り、城山から下り、R29に出て少し北上し、左折してR429を西進します。枝道に入り、9:51「六地蔵」。『六地蔵 造立時期:不明 管理者:有賀自治会 六地蔵とは、六道(ろくどう)「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道」と言う6つの道に現れて衆生(しゅじょう・一切の生物)を救いお守り下さる地蔵菩薩と言う意味。 有賀の六地蔵は、初めは飯見越山道の辻に建てられていたが参拝に不便なため、明治中頃現在地に移転する。 その後、昭和48年に新しく造立し、上屋根も改築する。  有賀自治会町』
『弘法大師像 造立時期:文政13年庚寅(かのえとら)年(1830) 管理者:有賀自治会 大師とは、衆生(生物一切)を導いて悟りを開かせる師という意味で、朝廷から高僧に、死後に贈られる尊号で、普通には弘法大師(空海)のことを言う。 ここは昔からの交通の要地で側の道標(1818年)と共に一思案の休憩場所・祈願場所でもあったと思われる。  有賀自治体』
『道標 建造時期:文政元年戊寅(つちのえとら)年(1818) 管理者:有賀自治会 表:南ハ一宮へ三リ 西ハちくさ町へ三リ 引原村へ三リ 裏:文政元年戊寅年六月 東ハみかた町へ三リ 泉州石工嘉兵衛 と刻まれている。  有賀自治体』
『念仏百万遍供養塔 造立時期:明治時代中頃・昭和62年現地に移転 管理者:有賀自治会 この供養塔は、元梶本静雄宅敷地内に建っていたもので、この辺一帯は、ちょうど引原川と斎木川との合流地点で、大水が出るたびに被害を受けた所と思われる。大水害に田畑・家屋を流された部落の人たちが村中の安全を祈願して造立したものと思われる。 世話人名は、宮治吉郎右衛門・坂本久兵衛とある。  有賀自治体』
森の中に農地が点在する道に入って行き、9:57「鍋ヶ森神社」。『鍋ヶ森神社 管理者:有賀自治会 祭神:豊玉姫命(別名:水神・神武天皇の祖母) 大正11年6月25日:八幡神社合祀祭神を字奥谷山に分霊奉祀 昭和53年7月16日:社殿替え 昭和63年7月17日:現在地に新築移転 平成4年7月12日:公民館奉祀の農神合祀  有賀自治会』
素敵な里山が見えています。波賀城も見えています。ここから、林道になりました。小さな峠を越えて次の里山へ。集落に入り、10:05「加茂神明神社」。長い石段を森の中を上がっています。2回ほど休憩してやっとこさ境内へ。
『加茂神明神社由緒略記 当社は延宝癸丑(みずのとうし)元年(1673)の御代、京都・加茂別雷神社の御分霊を拝享し、当邑背後(通称行者山)の俊峭(しゅんしょう)の地に御鎮座ましまし。 御神徳:克く照寿、人類の邪悪と病魔を祓禊し給い。 御神威:社会の和平と福祉を守護し給い。 御神祐:善く聡現乾坤の裁禍と変異を宗御し給う。爾来、古代の賀茂別雷神社の祭祀(葵祭)に因由し、当社また年々歳々4月14日と定め、祭儀を厳修されるに及ぶ。 更に、明治辛亥44年(1911)の御代、当邨南方の邱麓(通称よなぎ山)に遷御され給い、昭和丁卯2年(1927)の御代、此地嶺を選び、遷座あらせられ現在に至る』
R29に下り、少し北上し、10:26「野尻八幡神社」。『野尻大藤 学名:ノダフジ 規模:根元回り180cm・幹回り140cm・推定年齢200年 特徴:花序は垂れ下がり、花はヤマフジに比べてやや小さく、4〜7月に長さ20〜90cmの長い総状花序を出し、紫色または薄紫の蝶形花を開く。ツルは右巻き(ヤマフジは左巻き)で寿命は長く保存次第で1000年以上にもなる。 分布:本州・四国・九州に分布し、県下では野山に広く分布している。  宍粟市教育委員会』
彫刻が素敵でした。高い木々に囲まれた境内の地面にはいくつも蝉の出てきた穴が開いています。R29を戻ります。左折してR429を東進し、緩やかな上りワインディングを楽しく走って、10:42「疣石(いぼいし)」。
R429は、更に勾配を増し、中央白線が無くなり1.5車線の道になりました。森の中の林道チックになってきました。勾配が増し、つづら折れに近いカーブをゆっくり登っていきます。高野峠を越えて森の中の林道を東側へ緩やかに下って行きます。突き当りを左折して、r6。すぐに左折してr428に入り、11:08「播州三方御形神社」。
『ショウフクジザクラ(正福寺桜) ショウフクジザクラ(正福寺桜)は、キンメザクラとヤマザクラの自然交配種で、美方郡温泉町正福寺の植栽木により命名されたものです。兵庫県の固有種で、但馬地方から播磨北部の宍粟郡にかけて分布する珍しい品種です。半しだれで親木が弱ると枝分かれして、八重咲きの美しい花を咲かせる性質があります。 御形神社のショウフクジザワラは県内でも最大級のものであり、町指定の天然記念物としてふさわしい風格を備えるものといえます。  宍粟市教育委員会』
『五色椿 この椿は同じ枝に紅・ピンク・白等複数の色の花が咲きます。 特に有名なものは、奈良県の天然記念物に指定されている白毫寺の五色椿があります。多くの品種がある椿の中でも珍しいもので、この椿は大きい方かとおもいます』
『宍粟市指定文化財(有形民俗)左義長羽子板』『宍粟市指定文化財(有形民俗)巴御前勇戦図絵馬』『宍粟市指定文化財(有形民俗)百人一首絵馬(附・由緒書)』
『百人一首図絵馬(附・由緒書) 絵馬は全部で17面あり、百人の歌仙全部が描かれた類例は全国でも少なく県下では唯一のもので、保存状態も良好できわめて貴重な遺品といえます。 ほかに由緒書二面が添えられており、弘化3年(1846)に奉納されたことがわかります。  宍粟市教育委員会』
『巴御前勇戦図絵馬 御形神社に奉納されている絵馬で、横204.5cm・縦147.5cmを測り、額縁の朱書きから、嘉永7年(1854)に製作されたことがわかります。 打出浜での最後の戦いで奮戦する巴御前の勇姿が描がれており、保存状態も良くきわめて美しい画面を残しています。  宍粟市教育委員会』
随神門がありました。彫刻が素晴らしい。千社札も貼られています。左右に武者が鎮座していました。社務所を覗いてから境内へ。『百人一首の絵馬 この舞台に掛けてある百人一首の絵馬は、江戸時代後期弘化3年(1846)の作で百人全部の歌が揃っている例としては、全国的にも非常に珍しく、当時のこの里の文化水準を示す証拠の1つです』
境内には土俵がありました。『明治37・8年役戦利品』の石柱が立っていました。日露戦争ですね。戦利品が奉納されているのでしょうか?『御神木「夜の間の杉」 この鈴の緒は御神木に繋がっています。思いを込められ強く引いて、鈴を鳴らし、御祈念ください』
彩色された本殿を一周し、彫刻をしっかり見学させて頂きました。『重要文化財本殿の説明 1.本殿の概要:本殿の建立は奈良朝宝亀3年(772)が創建で、その後再建立があり、更に室町末期大永7年(1527)再々建立がなされ、それが現存する本殿である。 本殿は三間社流れ造り桧皮葺きで、側廻りに高欄をつけた椽(たるき)を設け、柱の上の組物は三ッ斗の出組で軒支輪を配し、木鼻や手挟墓股などんは室町末期の様式技法を伝える繊細な木組や彫刻があり彩色も施されている。現本殿は建立以来数回にわたる大小修理が行われ明治36〜7年、境内大模様替の際透塀お新設され現状の姿に整えられた。
2.重要文化財指定:右のような沿革を持つ本殿は、日本建築史上その形式技法にきわめて優れたものを遺存しており、昭和30年以来この道の権威の度重なる調査研究の結果が日本建築学会に報告され、昭和46年6月国指定重要文化財となった。
3.本殿の解体修理:建物の主要部は建立当初のもので、部材の虫害腐朽が甚だしく国の補助事業として今回次のとおりの解体修理を行った。
(イ)修理の方針:解体修理とし後世改変された箇所はできる限り当初の姿に復元を行う。建物の部材を再用新補の材も原則として旧形旧工法を踏襲する。基壇は根本から積替えを行う。
(ロ)工期工事費等:工期/着工昭和46年2月1日・竣工昭和47年2月29日 工事費/金2044万2030円也(内訳国費補助1705万1000円・県費補助120万3000円・町費補助120万3000円・神社負担98万5030円)
設計監理:文化庁及旅団法人文化財建造物保存技術協会 施エ:重要文化財御形神社本殿保存修理委員会 以上』
境内の摂社を巡ります。本殿はリニューアルされたばかりのようで、極彩色が綺麗。『御形神社の水流し ご神水と南天 当社は古くから、健康・病気平癒のご神徳著しい神社として信仰されています。この手水鉢の水は、神域からの湧き水を利用しており、神さまの恵みが宿っています。また、南天の木も古くから「難を転じて福となす」縁起木として知られています。
用紙(溶ける紙)に、貴方に起こった嫌なこと、忘れてしまいたいこと、治したい病名などを書いて静かにこのご神水に浮かべて下さい。 水に溶けて消えてゆくように、ご神水と南天が貴方の悩みを水に流してくれることでしょう。  御形神社社務所』
社務所で、「交通安全ステッカー」「金運招福御縁」(5円玉が入っていました)「厄除南天まもり」を授かりました。
バイクに戻り、r428を戻り、11:53「宍粟市歴史資料館」。「家原遺跡公園」があり、縄文時代・弥生時代の集落が再現されていました。『中世の建物(掘立柱建物3棟) 平安時代の終わり頃から鎌倉時代にかけては、各地域において武士が勢力を広げるようになり、中世と呼ばれる時代が幕を開きました。 家原遺跡では、この時期の堀立柱建物群や中国製の焼物を納めた土壙墓(どこうぼ)などが見つかっています。その他にも、周りではたくさんの柱穴が見つかっており、さらに多くの建物が立てられていたものと思われます。この頃の記録によれば、周辺は「三方庄」と呼ばれており、これらの建物もそれに関係する施設であった可能性もあります。
中世建物1は、正面の柱間四間・側面三間の建物で、左側に正面一間・側面四間の中門廊と呼ばれる出入口を付けています。平安時代の終わり頃から地方の有力な人々が、都で貴族が住んでいた寝殿造にあこがれて、中門廊を付けた建物を造るようになりました。家原遺跡の同じ時期の建物の中では、最も大切な建物であったと思われます。外観は主屋を茅葺き、中門と庇の部分は板葺きとしています。中世建物2は、正面四間・側面三間の建物に、背面右隅一間の下屋(げや)を付けています。中世建物1と比べると少し格の低い建物と考えられるので、押さえ丸太を乗せた縦板段葺き屋根の建物に復元しています。中世建物3は、正面五間・側面六間の大きな建物で、正面側の二間通りに地面を少し掘り下げた土間を復元しています。土間でいろいろな作業をする目的を持った建物であったのでしょう。また柱の位置から正面と背面を庇と考えて、主屋を丸太押さえ縦板段葺き、庇を板葺き屋根にしてあります』
『弥生時代の建物(竪穴住居・棟) 弥生時代は、各地で本格的に稲作りをはじめるようになった時代です。また、銅鐸などを使ったお祭りを行ったり、鉄製の道具なども使われるようになりました。 家原遺跡では、これまでに23棟以上の弥生時代の竪穴住居跡が見つかっており、全時期を通じて集落が営まれていたものと考えられます。 住居跡はいずれも円形で、直径5m前後のものから直径約9mのものまであります。小型のものはおおむね4本の柱で建物を支えていますが、建物が大きくなるほど柱の数も増えていっています。なかには同じ場所で、建て替えを行った住居跡もありました。住居跡の床の周りには溝を巡らし、真ん中に土杭(どこう)を持つものが多いようです。それぞれの住居跡からは、各種の土器や石斧・石鏃(せきぞく)・砥石(といし)・鉄斧などが出土しています。 ここでは、直径5.2〜5.7mで4本の柱を持つやや小型のものと、直径約7mで6本の柱を持つ大型のものを復元しています。屋根は茅葺で、入母屋作りと呼ばれるものです』
『縄文時代の建物(縦穴住居・棟) 縄文時代は、猪・鹿などの獣類や山の木の実類など、主に自然の恵みに頼って暮らしていた時代でした。 家原遺跡で見つかった竪穴住居跡は、長辺6m・短辺約4.9〜5.5mの隅の丸まった四角い形をしています。床の真ん中には石で囲んだ炉があり、ここで暖を取ったり煮炊きをしたものでしょう。この炉を挟むようにして、2基の柱穴があり、ここに立てられた柱で建物を支えていたものと考えられます。住居跡の中から、縄文時代中期末から後期初頭のものと見られる土器類をはじめ、石斧や石鏃などが出土しています。 また、遺跡内から多くの「落し穴」が見つかっており、ここに落ち込んだ猪や鹿などを捕まえていたものと思われます。 福野(ふくや)遺跡の竪穴住居跡も、長辺約6m・短辺約4.3mの隅の丸い四角形で、やはり床の真ん中からは石で囲んだ炉と2基の柱穴が見つかっています。住居跡から出土した土器から、家原遺跡とほぼ同じ時期に立てられていたものと考えられます。 復元した竪穴住居は、2本の柱の上に1本の桁(けた)を渡し周りから垂木を立てかけて茅葺屋根とした、入母屋作りと呼ばれる形のものです』
『古墳時代の建物(竪穴住居・棟・高床式建物1棟) 古墳時代は、各地域の首長たちが土を高く盛り上げた墓(古墳)を盛んに作った時代です。 家原遺跡では、これまでに78棟を超える古墳時代の竪穴住居跡が見つかっており、この遺跡が最も栄えた時代ということができるでしょう。古墳時代の竪穴住居跡はいずれも四角い形で、おおむね4m四方から7m四方のものまでがあります。建物を支える柱は4本のものが多く、床を固く叩きしめた住居跡が多く認められます。 床の中央には、「コ」の字形に石を組んだ炉や土器を再利用した炉を持つものがあり、新しい時期の住居跡には竈(かまど)を備えるものもあります。 竪穴住居は4本の柱の上に桁と梁を渡し、周りから垂木を立てかけてその上に茅を葺いています。屋根の形は入母屋作りと呼ばれるものです。 高床式建物は、2間四方(2.6m×2.6m)で、合計8本の柱が立てられ、板張りの高床と板壁を持ち屋根は切妻と呼ばれる形になっています。茅葺屋根の竪穴住居群の中では一際目立つ存在といえ、ムラの中でも特別な意味を持った建物であったと思われます』
歴史資料館内に入ります。各種パンフレットが置かれています。横に小さな図書室があり、宍粟市に関する歴史書・戦国史・山城書籍が本棚にずらりと並んでいました。「別所一族の興亡/播州太平記と三木合戦」という本を手に取り、しばらく読みました。貝の化石がボックスに入れてたくさん置かれていました。「貝の化石(本物)さわってみよう!」と書かれており、自由に触れました。かつては海の下だったそうです。「えはらの森・カブトムシドーム」という建物がありました。中から、カブトムシの入った籠を抱えた子供が出てきます。建物の裏に網で囲われた広いスペースが有り、ここにカブトムシが放し飼いにされているように思います。子供が自由により自然の環境に似たところで探し虫捕りするのかな?多くの親子連れが中に入って楽しんでいます。
バイクに戻り、r428〜r6で、12:39「馬頭観音菩薩」。『三方町前川の馬頭観音菩薩の由来 三方町の前川の大師堂には、本尊として馬頭観音菩薩が祭られている。近在には、まれな本尊さまで、古くから(多分、文政の頃か)、三方谷88ヶ所霊場の第7番札所として信仰されてきた。 馬頭観音菩薩は、観音菩薩が、衆生の多様の苦難に応ずるために、変化(ヘンゲ)された、即ち、六観音の一姿で、他に、聖観音、十一観音、千手観音、不空羂索観音、如意輪観音がある。 馬頭観音の姿は、馬の頭を頭上に置いた異様の姿で、その起源は、インドのヒンドゥ教の最高神の一尊であるヴィシュヌ神が馬頭に化身して、強力な力を発揮したと言う神話から来たものと思われる。 日本では、古くから、仏教の説く、畜生道の苦を救う観音として、又、人馬の往来の安全の守り仏として、峠や四辻に祭られた』
r6を少し走り、12:49「荒神社」。境内に入ると、『荒神社のモミジ 樹種名:イロハモミジ 科属:カエデ科カエデ属 幹周:228cm 樹高:22m』。
r6を南下し、R29に合流し、左折してr8を東進し、13:13「庭田神社」。『庭田神社のぬくゐの泉と造酒 庭田神社は、平安時代の延長5年(927)に成立した「延喜式」神名帳の宍粟郡七座のうちに数えられる古社で、古代・中世には播磨国一宮伊和神社と深い繋がりがありました。現在、神社の背後に玉垣をめぐらした清らかな湧き水「ぬくゐの泉」がありますが、かつて庭田神社の氏子には、宵宮祭の当日早朝に家々で醸した白酒を神前に供え、五穀豊穣を祈る風習があったそうです。和銅6年(713)5月に編纂の命令が下り、平成27年(2015頃)に編纂完了から1300年を迎える「播磨国風土記」には、造酒に関わるおもしろい伝承が多く記載されています。 なかでも、宍禾郡比治里庭音村(しそうのこおりひぢのさとにわとのむら)の条には、次のとおり記されています。 庭音(にはと)村。〔本の名は庭酒なり。〕大神の御かれひ枯れて緬生(かむた)ちき。即ち、酒を醸(か)ましめて庭酒(にはき)を献りて宴(うたげ)しき。故、庭酒の村と日ふ。今の人、庭音村と云ふ。(「播磨国風土記」山川出版社)〔大神の糒(ほしいい)に糀が生えたので、酒を醸造し、神酒(みき)として大神に奉ったので、庭酒(にわき)の村といったが、今の人は庭音(にわと)の村という。(現代語訳)〕 また郡末の伊和村条(いわのむらじょう)には、次のとおり記されています。伊和村。〔本の名は神酒なり〕。大神、酒を此の村に醸みたまひき。故(かれ)、神酒村と日(い)う。又、於和(おわ)村と云う。大神、国作おへたまひて以降(のち)に云ひたまひしく、「おわ。我(あ)がみきに等し」といひたまひき。(「播磨国風土記」山川出版社) 〔大神が酒をこの村で醸造したので神酒の村という。一説には於和村というが、それは(伊和)大神が国づくりを終えられ、「(国づくりは)終わった。私の神酒と同じくらいよくできた」とおっしゃった。(現代語訳)〕というようなお話です。 これらの由緒をもって、平成25年に宍粟市は、日本酒による「乾杯」の習慣を広めることで市の歴史と伝統・文化を後世に継承し、地域の振興及び発展に寄与していくことを目的として、「日本酒発祥の地・宍粟市日本酒文化の普及の促進に関する条例」を制定しました。  平成26年3月』
『式内庭田神社由緒記 鎮座地:一宮町能倉字馬場1286番地 創立:第13代成務天皇甲申2月11日 祭神:事代主命・末社(両大神宮社・稲荷社・荒神社・祇園社・蛭子社・五社五行神) 境内面積:1379坪 伝記:古伝によると大国主命が天乃日槍命と国土経営を争い給いし時、伊和の地に於て最後の交渉を終られ、大事業達成に力を合せられた諸神々を招集えて酒を醸し、山河の清庭の地を撰び慰労のため饗宴を為し給えり。 この地が即ち庭酒の里。現在の庭田神社奉祀の霊地なるにより社殿を造営、その御魂を鎮祭れりと云う。然るに当社安永縁起に成務天皇の御代に神託に依り、新に神殿を建て広く崇敬せらる。延喜式の制、小社に列し、江戸時代寛文11年社殿改造、元禄15年本殿屋根替、享保8年本殿屋根替、元文3年拝殿屋根替中略、明治4年本殿棟上再建、昭和43年5月敞殿改築、昭和49年10月拝殿改築、現在に至る。霊石:亀石(社殿右面にあり) 霊地:ぬくいの泉(社殿後方20m)』
『兵庫県指定文化財(天然記念物) 庭田神社のケヤキの大木 指定年月日:昭和60年3月26日 管理者:庭田神社 員数:1本 ケヤキ(欅)は、ニレ科に属する落葉高木で、本州・四国・九州の低山地に自生する。 延喜式内社・庭田神社の社叢にそびえる大ケヤキは、樹高約30m・根回り7.85m・幹回り5.35m(地上1.50m)・枝張り東西約37m・南北約30mを測る県内屈指の大樹である。 地上約8mで分枝をはじめ、主幹も枝状になっている。樹幹に損傷は見られず、きわめて旺盛な樹勢を誇っている。 指定樹齢600年。 令和2年7月 宍粟市教育委員会』
随神門をくぐりました。寺院の仁王門も良いですが、神社の随神門の方が好きです。境内には土俵があります。絵馬殿には、彩色の褪せた絵馬が数枚奉納されていました。『庭田神社と日本酒発祥のぬくゐの泉について 古伝「播磨国風土記」に出雲の国の大国主大神が国造りの大業をなされ、伊和の地で最後の交渉を終えられた時、「オワ(終)」と告げ給いて草原の景色麗しい清水湧き出るぬくゐの水辺を選ばれ、大業に係わられた諸神を招集(めしつど)いて祖霊祭と併せて持成(もてなし)の宴を成し給えりと云う。其の時持参された干飯(けれい)を、ぬくゐの水で戻した時に一部の飯にカビが生え、酒成分が生じて酒の発見となった事が文献に見られます。後に云う庭酒(俄酒)である現在の米飯を材料にして造った日本酒であります。歴史を振り返って此の地の当時を想像してみると、雑木林に囲まれた原野に清水湧き出る程よい場所であったので、儀式の候補地に選ばれたと思われます。 当神社の創立は文献によると、皇紀131年13代成務天皇の御代甲申(きのえさる)2月11日、神託により社殿を建て崇敬されるとあり、当時に遡ると2500余年前となり、先人達が前記の如く史実に残る行動をした遺跡として大切に保存顕彰して行かねばなりません。今日まで時代の変遷と共に住民が住み着き村落が形成され、明治に至り行政下に置かれ、神社にも社格が制定され村社として奉祀されて参りました。境内は当初庭音の里能倉とあり、平地全域が境域であったようです。従って当地は神社を中心にして成立した地域である為、住民の人々は敬神の念厚く、氏神として春秋の2大祭が盛大に試行されています。 以上、神社とぬくゐの泉について略記してみました。 平成25年9月1日  宮司記』
亀石を参り、拝殿に参り、本殿裏に抜け「ぬくゐの泉」へ。泉の多くは斜面から溢れ出ていますが、ここは平地で未だに綺麗な水が湧いていました。まさに「泉」です。かつては、播磨国一宮「伊和神社」の摂社のようです。
バイクに戻り、r8をさらに東へ。峠を登って行きます。13:40「三国各霊塔」。『三国各霊塔 三国各霊塔は、染河内村の田中政右衛門氏が日本・韓国・中国の3国の兵士の霊を弔うため、自らの財産を投げ打って建立したものです。 郷土や国を愛する気持ちの強かった政右衛門は、明治27・28年(1894・95)の日清戦争では、新聞で戦況を知ることを心がけ毎日のように庭田神社に戦勝を祈願していたといいます。 ある夜、多くの兵士が向かいの萩野山において奮戦し、多くの死傷者が出た夢を見て、一念発起して戦死者の冥福を祈ろうとしました。同時に戦争の敵国とはいえ、韓国や中国の兵土も自分たちの国に報いようとする志にかわりはないとして、ともに忠魂の碑を刻むことを決心したものです。 時に明治29年(1896)、染河内村上野田出身の伊藤俊介氏に相談し、飯尾松之進氏を介して釈雲照律師に題名を依頼しました。律師は、その義挙に感動し、日本・韓国・中国それぞれの国に殉じた兵士の霊を祀るべく「三国各霊塔」と名づけました。表の揮毫は、陸軍中将鳥尾小弥太子爵、由来を記す碑文を岡本監輔氏に依頼し、揮毫は中国の少白陳氏の手になりました。明治29年の夏に着手し、明治31年4月18日に観音寺住職ほか多数の参加により除幕式が行われました』
『焼山久吉氏頌徳碑 東河内村生まれの焼山久吉氏は、明治時代に、東河内の林野が杉の育成の適地であることを知り、奈良県吉野地方にまで出向いて植林の方法や技術を学びました。その技術を地元に持ち帰り、植林事業を進め、事業が軌道に乗り始めると売却した林野を買い戻したり、常用の労務者を雇うなどして地域住民を潤すこととなりました。 事業の推進にはいろいろな困難がありましたが、これを見事に成功させ、東河内や一宮町が杉のおかけで財政的にも恵まれた地域となることに多大の貢献をされました。優れた先見性と指導力で、今日の森林大国一宮の基礎を作られた先駆者といえるでしょう。 その功績をたたえて、昭和15年(1940)に東河内村の人たちによって記念碑が建立されました。石碑の題字は、当時の農林大臣であった島田俊雄氏が書いています。 また昭和52年(1977)6月26日には、一宮文化協会設立20周年の特別企画として焼山久吉氏を主人公として、ミュージカル「杉の木の讃」が一宮南中学校体育館で上演されました』
r8を東に下ります。JR播但線・市川を渡り、更に播但道をくぐり、14:21「ローソン神崎南インター店」で、「森永チョコモナカジャンボ162円」購入し、Pで糖分補給&クールダウンしました。
r8を北上し、右折して東進。14:38「埋田神社」。『埋田(うめだ)神社 中世には粟賀荘の荘園鎮守社であったと考えられる埋田神社は、神社本殿が神河町内に現存するもっとも古い建物であり(正保5年造立)、大規模で床も高く豪壮な建物であり、神河町の社寺建築史上非常に重要です。埋田神社は庚辰(かのえたつ)年9月9日に衣冠を整えた翁が田に神木を投げ入れ、その後に「そこにお宮を造立せよ」とのお告げがあったことに由来する。町指定文化財。 *正保5年=1648年  かみかわ銀の馬車道まちづくり協議会 日本遺産 かみかわ銀の馬車道は、2017年に「播但貫く銀の馬車道・鉱石の道」をストーリーとして日本遺産登録認定を受けました』
『神河町指定文化財建造物「埋田神社本殿」 所在地:神河町中村629-1 指定年月日:平成17年7月28日 構造形式:正面三間・背面二間・奥行三間・入母屋造・妻人・向拝一間・銅板葺 建立年代:正保5年(1648棟札)明治33年(1900修理) 埋田神社は中世には粟賀荘の荘園鎮守社であったと考えられます。 本殿は、神社本殿としては大規模であり、床も高く、豪壮な建物です。 神河町内に現存する最も建立年代の古い建物で、神河町の寺社建築史上非常に重要です。神河町指定文化財・有形民俗「四季農耕図絵馬および祭礼図絵馬」 指定年月日:平成17年7月28日 形状:四季農耕図絵馬縦98.9cm横190.3cm、祭礼図絵馬縦96.0cm横190.8cm 奉納年代:慶応4年(1868)6月 この2面絵馬は奉納時期が同じことから、1対の絵馬として奉納されたものと考えられます。四季農耕図絵馬は、米づくりの作業の様子が、季節ごとに生き生きと描かれており、当時のこの地域の生業の歴史を知る上でも貴重な民俗史料です。祭礼図絵馬は、埋田神社周辺の風景と、獅子舞に先導された、お旅所から神社につづく祭礼行列がのびやかに描かれています。画面左下の落款から、春霞によって描かれたことがわかります。この絵馬は、当時の埋田神社の祭礼や風俗を知る上で貴重な民俗史料であり、この地域の江戸時代の農耕や祭礼の様子を知る上で数少ない貴重な史料です。神河町指定文化財・無形民俗「中村・獅子舞」 指定年月日:平成元年2月17日 舞の名称:荒神祓・新太刀・古丸・新丸・神車・牡丹・狐・花・荒獅子・夫婦獅子・獅子踊り・背継ぎ 中村獅子舞は、江戸時代の寛文年間に播磨国多可郡松井荘(現多可町加美区豊部)より伝わったとされています。以来、明治の廃藩までの約200年間、毎年正月3日に福本藩主の御前で舞いを奉納していたといわれています。現在は埋田神社の祭礼で行われています。  神河町教育委員会  平成23年(2011)3月作成』
拝殿には絵馬が多数下がっています。本殿の屋根を見上げた時気づいたのが、左右の千木が水平切りと垂直切りになっていたこと。水平切りは女神・垂直が男神を主祭神にしている場合が多いが、左右で千木が違っているのを見たのは初めてで驚きました。早速、祭神をチェックします。主祭神は鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)で男神。祭神(配祀神)は、玉依姫命・太玉命・天児屋根命・埋田分霊神。 ウガヤフキアエズは、山幸彦の子です。山幸彦は農業、兄の海幸彦は漁師で生計を立てていました。兄に「仕事を交換してみないか?」と提案され、山幸彦は兄から釣り針をもらって釣りを始めました。ところが、釣った魚に針を取られてしまいました。兄に「大切な針を探し出せ」と言われ、困ってしまいました。そんな時、助けた亀が現れ、「僕の背中に乗って海神に相談に行きましょう」と誘われ、海の底の海神の館に向かいます。海神に気に入られ、2人の娘の長女・豊玉姫と恋に落ちました。釣り針は鯛の口に刺さっており取り戻せました。 山幸彦と豊玉姫は陸上に戻り、産屋を建てました。出産が近づき、「決して中を覗かないように」と言われたのに覗いてしまい、サメの姿に変身してお産している豊玉姫を見てしまい、怒った豊玉姫は海の底に帰ってしまいました。幼子を抱え山幸彦が困っていると、豊玉姫の妹の玉依姫がやってきてウガヤフキアエズを育ててくれました。成長したウガヤフキアエズは、育ての母であり叔母でもある玉依姫を娶り、神武天皇などお子さんに恵まれました。 僕の大好きな古事記の神話の物語で、「浦島太郎」「鶴の恩返し」の物語の元になっています。神武天皇の父親を主祭神に、その育ての母&妻玉依姫を副祭神にした神社ゆえの千木に納得しました。
r8を東に走り、峠を登って「高坂トンネル」で峠を越えて下りへ。右折してR427を南下、右折して枝道に入り、15:14「貴船神社」。扁額には、「貴船神社 村社・大歳神社」と併記されています。『貴船神社 御祭神:水喰尊(みずほのみこと)・大歳神 創立年代は不詳ですが、天船地区4ヶ村(坂本・中村・横屋・下村)の氏神です。かつての秋祭りには、豊臣秀吉が寄進した虎の皮を張った2尺余りの陣太鼓を用いたと伝えられています。境内社として大神宮社・祇園神社・山ノ神社・若宮神社等も祀られています。 秋祭りには、貴船神社から御旅所である横屋の大歳神社への渡御が行われています。また、当日には「リョンリョン」をはじめとする民俗芸能が奉納されます。 竜王の舞と呼ばれる「リョンリョン」のほか、獅子が駆ける「神楽の舞」・子供がササラを鳴らし、大人が布張りの太鼓を叩く「ゲイゲイ」によって構成されています。これらの伝統芸能は、中世の芸能を彷彿させる貴重な祭礼行事となっています。 この天船地区には大正時代の頃まで、風流踊りである雨乞踊が行われていましたが、昭和47年に一度復活した後、現在は行われていません』
『景観保全樹木 樹種:イチョウ(イチョウ科) 樹齢:250年(推定) 指定:第2号 平成12年(2000)12月 八千代町45周年記念』。拝殿には絵馬が下がっていました。本殿の彫刻が素晴らしい。
r143を南下します。野間川沿いを走ります。左折してr34で東進。「JR加古川線」を渡り、加古川を渡り、突き当りを右折してR175で南下し、「滝野社IC」から「中国道」に乗りました。「宝塚IC」で下車し、16:36帰宅しました。

ロンドンに住む長男のお嫁さんから、家族LINEに投稿がありました。昨日、引っ越し作業1日目が無事終わり、家の物半分以上が運ばれたようです。一昨日はりょうくんこうちゃん最後の登校日で、りょうくんは寄せ書きをもらって泣きそうだったそうです。航ちゃんも、未だに「本当にもう2度とここにこないの?」と何度も確認するそうです。それを見て、お嫁さん自身が泣きそうになるそうです。それだけ、ロンドンでの生活が楽しかったということ。ルーカスくんは卒業パーティーがありましたが、まだ1週間通うそうです。「3人それぞれ、よく頑張ったし沢山楽しめたし、お友達も思い出もいっぱいできて素晴らしいイギリス生活でした。私もアメリカ・イギリス生活を通して本当に色々学んで感じて、かけがえのない財産となりました。そして、ようやく日本の住居が決まりました」の言葉で締めくくられていました。長男は、仕事の受け継ぎなどできっと走り回っているでしょう。長男も引っ越し用意をしているのでしょうが、やはりお嫁さんメインでの作業になりそう。加えて、3人の男の子を食べさせ、世話をしなければなりません。入社時から、「海外勤務するだろうな」とは予想していました。英語が不自由ないお嫁さんと縁が出来、元気で積極的な男の子を3人も生んで頂き、いつも明るく手際よく家族のベースを支えてくれている。次男のお嫁さんにも同じ思いですが、僕ら夫婦は良いお嫁さんに恵まれました。息子たちは、それぞれの会社で環境で活躍中です。でもこのお嫁さんたちがいなければ、前を向いて行動できません。ありがとう、ありがとう。


2022/7/18
コーチしている大学ヨット部が、僕は参加しませんでしたが、7/17・18の2日間東北仙台でレースでした。7つの大学の定期戦で、全国7つの大学の本拠地持ち回りで開催されています。毎年参加しているのに、近年は九州大学の9連覇中です。全日本では当方の方が九州より上の成績を上げることもあるのに、この大会には何故が近年勝てません。「今年こそ・・・」と「今年はチャンスだよ」・・・.2日間のレースで、470優勝・S級2位・総合優勝しました。ヨット部のLINEで随時レース状況が入るので、2日間ピコンとスマホが鳴る度にチェックし優勢を感じていました。470は順当に点差を広げ悠々勝利しましたが、S級は最終レース2レースで猛追され、最終レースで逆転され2点差負けしました。でも総合は悠々優勝。この結果を、家族LINEで次男に伝えました。次男からは、「とうとう勝った」と喜びのLINEが入りました。


2022/7/12
ロンドンに住む長男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。遼くんは、先月初めての英検をロンドンで受験しました。2級1次(筆記・リスニング)に合格しました。そして今月、2級2次試験(面接形式スピーキング)を受験し、これにも合格しました。1次試験の点数は1722/1950点(88%)でしたが、1・2次合計は2226/2600点(86%)でした。合格ラインは、1980/2600点(76%)のようで、10ポイント余裕がありました。CEFRスコアは2級(1728〜2299点)最上位レベルのB1で、準1級(1980〜2599点)レベルで、1級(2304〜3299点)にももう少しで届きそう。
お嫁さんによると、「あと少しで準1級の合格レベルに届きそうなので、日本に帰ってからも頑張らせてみたい。初めての試験で緊張の中、よく頑張りました」だって。僕も英検初めいろんな資格試験にチャレンジし、不合格もありましたが多くの合格を得て自分への自信を重ねて来ました。9才で良い体験になったでしょう。
次男から、「おめでとう」LINEが入りました。「僕よりは間違いなく上」とまで書いてありましたが、そりゃ次男の方が上です。息子たちは英検を受験したことはありません。大学からTOEICを受験する世代です。英検2級より上の点数を持っています。現在では、TOEFLも大学で受験する時代です。英検2級は、TOEICなら400〜600点、TOEFLなら450〜500点です。
長男のロンドン勤務が今月終了するので、これから日本での生活になります。小中学校と英検を受験していくでしょう。長男夫婦は、せっかく覚えた英語を忘れないように、子どもたちに英語を習わせると言っていたので、1級まで合格するといいな。長男は、数年前日本に帰国したタイミングで大学からの続きでTOEICを久しぶりに受験し、970/990点のスコアでした。孫たちの人生はこれから、試験なんて結果はどうあっても命は取られないのだから、ガンガン受験しチャレンジして欲しい。


2022/7/10
琵琶湖北湖でのレース日です。チームユニフォームを着て行かねば。天気が怪しく、朝夕雨予報です。しかも風速は1m/sが続く予報。朝ゴソゴソ仕事して、6時に倉庫から「里山VTR250」を出し出発準備。ここで雨が落ちてきました。「やっぱり、電車にしよう」。バイクを入れ替え、「通勤リード110」に乗ってカッパ着て最寄り駅へ。駅に着いたら雨が止んでいました。6:25頃の電車に乗って琵琶湖に向かいながらスマホでチェックすると、JR和邇駅着が8:32。あちゃ〜、ハーバー集合時間8:30を既に過ぎている。あれこれ時刻表を検索すると、湖西線琵琶湖大橋から北は30分間隔でした。Imaさんに、遅れることをLINEして、本「女子の教養(武士の娘だった祖母が教えてくれた)石川真理子著」を読んでいました。
駅に着くと、NisくんがYasさんの車パンダで迎えに来てくれていました。彼が中学生の頃、タイ・パタヤで開催されたASEAN選手権に参戦した日本ナショナルチームの選手で、僕が監督しました。雨が降っていました。「こりゃ、カッパを着ないと・・・」と思っていたら、ハーバーに着くと止んでいてラッキー。Imaさんの30Sをフィッティングし、船を降ろしてもらいます。トイレを済ませて船に乗り込み桟橋を離れました。フルセイルにしてクローズを帆走し、スピンを上げてチェック終了。近くに上マークが打たれました。スタートまで30分を切ったのにスタートラインは遥かに風下。風が落ちているのでエンジン始動して戻ります。
10時スタート直前に、左(東)から風が入ってきて、フルセイルでアウターからクローズドリーチスタート。アウターエンドに早く近づきすぎていて、4番手スタートしました。でも、皆さんクローズホールドで東に向かっています。東海面にもマークはありますが、白いマークなので違うでしょう。うちの下にレース艇がおり、一気にマークに向かって下せません。ベアしても大丈夫な位置になり、マークに向けます。
当方が先にマークを見つけたので、トップです。他艇がポツポツと僕らを追いかけてベアしてきます。真の風でアビームで上マークをトップ回航。下マークに向けてもアビーム、もう一周しましたがずっとアビームで40分でトップフィニッシュ。僕はメインセイルトリマーのポジションでしたが、波でマストが揺れます。バックステイを入れて安定させ、スピードが上がったようで、2位の同サイズ艇を引き離して行きます。
この日のレースは、ヨットクラブ主催レースで、参加11艇全て同じYH。Imaさんは良い風でセイリング不消化のようで、「少し走ろう」と言っていましたが、「遅く帰ると上架渋滞が起こりますね」と言うと、「そうか」とハーバーバックすることになりました。2番目にリフトされ、船を片付け、クラブハウス内の席に着きます。会費3000円をImaさんに渡し、フリードリンクを取りに行きます。お隣の席にピンクパンサーチームがやって来ました。オーナースキッパーは、Katさんで、Ima・Yas・Nisさんと同じ琵琶湖のジュニアでお子さんが楽しまれ、次男のライバルでした。
昔話を交えて盛り上がり、楽しい時間となりました。ファーストフィニッシュしましたが、レーティングで負けて5位でした。賞品はImaさんからNisくんへ。Nisくんは大型レース艇に乗っているので、最も詳しい助っ人です。若者は得です。ピンクパンサーは3位フィニッシュでしたが、もっとも大きな船なので、ブービー賞でした。残った賞品をゲットできるじゃんけん大会があり、Nisくんが、プラスチモの双眼鏡をゲットして来ました。船に載せておくと便利なので、Imaさんへ。
Yasさんの車に乗せてもらって和邇駅へ。湖西線〜山科から新快速で尼崎へ。バイクで戻ってきました。朝以外雨は降りませんでした。帰宅したら、家内から「選挙に一緒に行って」と誘われました。僕は期日前投票したので、公園内の投票所まで付き合いました。新しく出来た公民館は初めてでした。去年秋の衆議院選挙は、建て替え工事中だったので、同じ公園内の遺族会館が会場でした。あれこれ本日のレースやその後のパーティーを中心に話しました。20時になり、NHK選挙特番を見てから夢の中に落ちました。


2022/7/8
衝撃の1日でした。昼前、家内から、「安倍さんが撃たれた」との連絡を受けました。「何、どうした?」と、すぐに確認すると、安倍元首相が参議院選挙遊説中に撃たれたのを知りました。場所は奈良西大寺駅前で、数年前ツーリングで訪問した西大寺の最寄り駅。東大寺は超有名ですが、西大寺はイマイチですね。西大寺周辺には寺社が多く、何度もこの周辺を走ったことがあります。
安倍晋三さんは、最初の首相に就任した時の国会所信表明「美しい日本」の言葉にシビレました。僕は、寺社・歴史好きで、どこからでも山が見える日本の景色が好きです。そして何より、日本人の誠実さ・真面目さ・優しさが大好きです。日本に産まれて良かったな〜とずっと思っています。「美しい日本」とは、具体性がない言葉ですが、僕にはいろんな日本の美しさが蘇る・蘇らせようとする指導者に心躍りました。
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第165回国会 安倍内閣総理大臣所信表明演説
(はじめに)(抄)
私が目指すこの国のかたちは、活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」であります。この「美しい国」の姿を、私は次のように考えます。
一つ目は、文化、伝統、自然、歴史を大切にする国であります。
二つ目は、自由な社会を基本とし、規律を知る、凛とした国であります。
三つ目は、未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国であります。四つ目は、世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国であります。  
( 中 略 )
(むすび)(抄)
「美しい国、日本」の魅力を世界にアピールすることも重要です。かつて、品質の悪い商品の代名詞であった「メイド・ イン・ジャパン」のイメージの刷新に取り組んだ故盛田昭夫氏は、日本製品の質の高さを米国で臆せず主張し、高品質のブランドとして世界に認知させました。 未来に向けた新しい日本の「カントリー・アイデンティティ」、すなわち、我が国の理念、目指すべき方向、日本らしさを世界に発信していくことが、これから の日本にとって極めて重要なことであります。国家としての対外広報を、我が国の叡智を集めて、戦略的に実施します。
( 中 略 )
私たちの国、日本は、世界に誇りうる美しい自然に恵まれた長い歴史、文化、伝統を持つ国です。その静かな誇りを胸に、今、新たな国創りに向けて、歩み出すときがやってきました。
かつて、アインシュタインは、訪日した際、「日本人が本来もっていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしい」と述べています。二十一世紀の日本を、アインシュタインが賞賛した日本人の美徳を保ちながら、魅力あふれる、活力に満ちた国にすることは十分に可能である、日本人には、その力がある、私はそう信じています。新しい国創りに共にチャレンジしたいと願うすべての国民の皆様に参加していただきたいと思います。年齢、性別、障害の有無にかかわらず、誰もが参加できるような環境をつくることこそ、政治の責任であります。戦前、戦中生まれの鍛えられた世代、国民や国家のために貢献したいとの熱意あふれる若い人たちとともに、日本を、世界の人々が憧れと尊敬を抱き、子どもたちの世代が自信と誇りを持てる「美しい国、日本」とするため、私は、先頭に立って、全身全霊を傾けて挑戦していく覚悟であります。
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最初に実行したのが、教育改革というより、教育低下を食い止め元に戻しました。僕が小中学生の頃は、日曜日だけが休日で、土曜日は「半ドン」という半日授業日でした。それが、長男の小学校時代、土曜日が休日になり、週休2日にしようと動き出しました。やがて隔週で週休2日になりました。これを見て感じたのは、「このままでは日本がダメになる」でした。
日本は天然資源が少ない国で、人こそが資源の国です。その資源を伸ばすためには教育が最も大事です。僕の母は、県で指折られる程優秀な女性で、県内1番の賞状は実家にいくつも残っています。僕が幼児時代、毎日絵本を読み聞かせしてもらった影響で文字好きになり、国語の作文や読解力は大得意科目でした。勉強ではあまり苦しんだ記憶がありません。同じことを息子たちに毎日して、息子たちを見て、「僕より確実に賢い」と感じていました。それが、週休2日で磨かれなくなります。
休日を増やし、教科書を薄くしていった文科省の言い分は、「先進諸外国は、日本ほど子供を勉強で苦しませたりしません」。僕の子供時代を振り返ると、週休1日で苦しかった?勉強することは苦しいこと?・・・どちらも当てはまりません。学校に行くと同世代の友達がたくさん出来、休み時間も給食も楽しかった。勉強時間も、いろんなことがわかるようになり、「へ〜そうなんだ」と目からウロコの知的刺激を受ける時間だった。文字好きもあり、学校で習った漢字が読めるようになり、好きな本をたくさん読みました。算数の素敵でスマートな解法にカッコいい&美しいを感じ、今でも中学受験算数や理科の勉強を続けています。「勉強って苦痛なのか?」って疑問を感じ、新しい知識を得たりや自己達成感を感じることが出来る喜びの方が大きいです。
「公立校では駄目だな、能力を伸ばしてくれない。進路を広げてくれない」と感じ、僕や家内同様の中学受験を息子たちに体験させたくなる気持ちが更に大きくなりました。
そんな安倍元首相が銃撃され、急遽自宅に戻り、応援しようと日章旗を門に掲げました。残念ながら心肺停止のまま亡くなられ、夜帰宅した時消沈して片付けました。翌朝、今度は日章旗を半旗にして弔問の気持ちを表しました。近所の陸自基地を見に行くと、いつもなら掲げられているはずの日章旗の姿はありませんでした。
参議院議員選挙中の出来事で感じたのは、「各党は選挙運動を止めて喪に服するのだろう」「岸田首相が選挙運動を止め喪に服すると記者会見すると大賞決定」「他党は止めなくても、自民党は止めるだろう」「これで自民党は同情票を集め大勝し、最も多くその影響を受けて票を減らすのが維新を筆頭とする保守野党だろう」ということ。でも、岸田首相の記者会見は、秋田からの移動中として大幅に遅れ、諸外国からの方が早かったというかっこ悪いことになりました。記者会見では「選挙運動を中止し党全体で喪に服する」と発言せず、大勝の機会を失った。この首相はセンスがない&勝負できない人だと思いました。
その後の動きで、国葬に反対する意見が出たのにも驚きました。「美しい日本」というキーワードを掲げ、「この人は凄い」と期待させました。言葉通りのビジュアルとしての美しい自然だけではなく、「優しさ」「女性を大事にする」「子供を大事にする」「自然からの恩恵を神として崇め、禁足地として立ち入りを禁ずる」・・・など、大昔から日本人の心の美しさを取り戻すという意味で捉えました。最初にやったのが、子供の学力を低下させた「ゆとり教育」を終わらせたことで、僕は小躍りしました。
モンゴル・インドなどチャイナ周辺国を訪問し、国内少数民族の文化・言語を壊し職業を奪い、周辺国に大迷惑・大圧迫を与えながら急膨張拡大を続けるチャイナ包囲網を作り出し、遂にはアメリカ・西欧諸国をも巻き込んで元西側諸国を動かした政治力は大したものです。これは、チャイナの驚異を直接感じていた日本の安全に大きく寄与した。このような大きな寄与をした安倍さんを国葬にしないなんて・・・不思議に思いました。多くの言論人が反対したそうでびっくりしました。この報道の中で、佐藤栄作元総理が国葬でなかったことにも驚きました。沖縄返還を実現させた大総理です。ノーベル平和賞を受賞したことと比べると、日本人トップには、世界を見る視点が弱いのだなあと思いました。ああ、実に残念。
子供のいない安倍家はどうなるのだろう?安倍家は、平安時代東北を代表する武将であった安倍惟任(これとお)の子孫です。「前九年の役」などで朝廷と軍事抗争を続け、遂には河内源氏の源頼義に討たれた。遠征軍は遺体を京にまで持ち帰り、京北の地にバラバラにした遺体を埋葬し神社を建立しお祀りしている。惟任と共に戦った弟・宗任は伊予国に流され、そこで勢力を挽回し始めたので太宰府に再度流され、その子の1人が肥前松浦氏の娘婿に入り、水軍松浦党の中枢となる。松浦党は平清盛の友軍となり、山口県長門に流され、その後この地で勢力を維持し続けた。このような先祖を辿れる名家は途絶えさせてはいけないように思います。安倍晋三元首相の実の弟・岸信夫が、岸信介の家の養子になり岸家を途絶えさせなかったように、岸家・佐藤栄作元首相の佐藤家が安倍家存続に動いて欲しい。


2022/7/3
この日もコーチしている大学ヨット部1回生クルージング体験日でしたが、沖縄近海に台風が発生し、天気予報が「くもり」から「雨」に変わりました。前日夜、とうとう時間雨量予報が11ミリの時間帯が増え、少々の雨なら決行だったのですが、中止にしました。雨以上に、大気の状態が不安定になる予報が気になりました。
この日は家内が仕事で神戸の会議所に午後から出かける日です。朝起きたら雨量は減っていますが、相変わらず雨予報。でも外は雨が降っていません。仕事場でゴソゴソしてから、「通勤リード110」にカッパを乗せて、ヨットハーバーに向かいました。台風の予測進路が瀬戸内海で、雨が降る前に船の台風対策をするためです。カードキーで桟橋に入ります。クルーザーレース日のようで、レース艇が数艇艤装しています。前日乗ったばかりの係留艇で、係留ロープをWに取りました。作業中、学生のレース艇がレース海面に向かって出ていきました。でもクルーザーレース艇は出ていきません。桟橋を戻ると、クルーザーレース艇の上でクルーが暇そうにしています。いつもなら11時スタートなのに、天気を見ているのかスタート時刻を遅らせているのでしょうか?
帰路に着き、11時帰宅。11:30、家内を車に乗せ神戸の会議室まで送ります。家内は極度の方向音痴で、僕が地図を作成して用意しましたが、僕が送っていけるので安心です。西宮から阪神高速神戸線に乗って神戸へ。12:30前に会議室のあるビルの前に着き家内を降ろしました。R43で西宮まで戻り、新西宮YH前のCOOPのお店へ。家内から頼まれていたCOOPカードの切り替えカードを受け取りに。店員さんが探してくれましたが見つかりません。受け取り店舗は伊丹市内のお店でした。切り替え手続きは、家内とハーバーに来た時にしたのですが、受け取りは自宅最寄りの店舗を指定していたようです。家内から頼まれていた買い物だけをしました。
R171で帰宅し、「通勤リード110」に乗り換え、COOP最寄り店舗に向かい、司令達成。帰宅して仕事場でゴソゴソ。18時前になり、家内からLINEが入りました。すぐに車に乗って最寄り駅に向かい、家内をピックアップして帰宅しました。「ダーウィンが来た」「大河ドラマ・鎌倉の13人」を見て、寝床に。


2022/7/2
コーチしている大学ヨット部1回生をクルージング体験に招待する初日です。9:30JR西宮駅〜10:00出艇〜15:00〜16:00ハーバーバックの予定です。朝、ゴソゴソ仕事場でアレコレし、8:30頃四輪で自宅を出発しました。9:00、JR西宮駅北口のファミリーマートでお買い物。「麦茶2L×2+氷1袋+なめらかチョコクリームパン5個」購入。9:30になり、参加者全員プレイヤー5人+女子マネ2人がやってきて出発。1人は阪急でやってきて、駅から歩いてきたそうです。
全員を車に乗せ、9:40に「新西宮YH」着。出艇申告して、トイレタイム・出艇申告して桟橋へ。朝からSWの良い風が入っています。係留艇に乗って桟橋を離れ、西出入口からハーバーを出ました。良い風が入っているので、すぐにセイルを上げました。フルセイルで走り出しましたが、SWの風が更に上がり、白波が目立つように(8m/s)なったので、ワンポイントリーフで赤白灯台の間から大阪湾に出ました。ヘルムスは、どんどん交代し、マネさんも体験してもらいました。波による船の上下とヒールのある中、マネさん含めてそれなりに上手です。ヨット部に入部して2ヶ月ですが、1人乗りでヨットの動きに大分慣れて来たようです。
神戸空港東側まで出て、Uターンして再び赤白灯台の間を通って尼崎西宮港内へ。関西インカレ個人戦の初日だったので、そのレースを見に行きます。バウに寝転がっていて船酔いしたYadくんの調子が戻ったが、再び酔ったようです。14:00過ぎ、まだ時間はあるけどハーバーバックしました。ハーバー西出入口前でステアリングを交代し、ジェノアセイルをファーリングして、メインセイルをダウンしてハーバー内へ。
係留桟橋に戻り、係留ロープを繋ぎ、電源を繋ぎます。船を閉じ、桟橋を戻ってディンギーヤードに向かいます。レースに出ている多くの大学艇庫はシャッターが閉まっていましたが、大阪大が開いており、下級生が外に出してある予備艇のところにいました。色々話をして艇庫を外から見せてもらいました。
センターハウスに戻り、1Fレストランカフェ「FRIANDISE」へ。僕はフワフワフラッペ、各自色々注文して、あれこれ雑談が続きました。15:11、「新西宮ヨットハーバーセンターハウス1Fレストランカフェ「FRIANDISE」で、「アイス580円×6+スノーアイス720円+カシスオレンジジュース630円=4830円」。お冷のおかわりをしに行くついでに精算しておきました。
帰着申告して、「9:40〜16:26P800円」精算。みなを車に乗せて帰路に着きます。「JR西宮駅」まで送って全員降ろし解散。「ありがとうね」。



逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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