-ウェブマスター日記 2022/5-6

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2022/6/26
コーチしてる大学ヨット部のインカレ個人戦地区予選2日目です。倉庫から「里山VTR250」を出して、5:27出発。R171〜中央環状道路〜吹田ICから名神高速に乗り、京都東ICで下車しました。R1を西に走り、左折して左折してr185で南下します。
左折して住宅地に入り、6:19「花山稲荷神社」。小高い丘の上に軽く登り、摂社の「御嶽大神」がありました。『この磐境(おっか)にお祀りしてある御嶽大神をはじめ諸々の神様は皆様方の病気を治して下さる神様です。医学の発達した今日でも治らぬ病は沢山あります。このような難病を治して下さる神様です。絵馬札に願いを込めて心をこめてお参りして御覧なさい、きっと良くなりますよ。 今までに、そのような例が沢山あります。よくなられましたら御礼参りも忘れずに。 尚、絵馬・供物・ろうそく・神酒等は社務所にございます』
「藤丸大神」はじめ、いろんな神様を祀る摂社が並んでいます。稲荷神社の社殿に、『6月30日午後3時より 夏越の大祓を斎行致します。 今年半年間の罪穢れを祓う神事です。人形は社務所にあります。初穂料は1袋1000円です。真に勝手ながら6月28日までにお届け下さい』
r185に戻り南下し、左折してr118を西進します。正面に「稲荷山トンネル」が見えます。伏見稲荷の神域「稲荷山」を抜けて深草に至ります。トンネルに入る手前を右折し、山を登って行きます。6:43「若宮八幡宮」。
バイクで少し走り、バイクを置いて竹林の山道に入っていきます。6:48「大石の瀧岩屋寺」。『大石の瀧 大石の瀧は、大正14年4月に建立。稲荷山・お山詣り・山伏信仰のお瀧行場の小祠で、本殿や拝殿はなく瀧に向かって鳥居が建ち、この瀧自体が神体と社殿を兼ねている。また、大石の瀧の名前の由来は、この山科西野山は、赤穂義士・大石内蔵助良雄の隠棲地であり、大石旧邸内にある大石稲荷大明神の分祀を祀り、また、各神仏をお瀧祈願所(遙拝所)として祀っていた。その由来である。
昭和34年1月7日、大石の瀧神主・山藤霊玄氏が亡くなられ、大石の瀧は廃瀧となった。 その後、約半世紀の間そのままになっていたため、地元有志の方々のご協力により整備された。 また、大石の瀧に祀られていた一部は、大石旧跡・岩屋寺境内と、大石の瀧神主・山藤霊玄氏夫婦が眠る西野山墓地に祀られている。
平成25年6月吉日 曹洞宗・神遊山・金地院 岩屋寺』
山道は更に登っており、愛宕神社が先にあるはずです。伏見山を中央に、伏見稲荷神社の反対側の東斜面です。
r118を戻り、左折して「新大石道」を北上し、7:09「ファミリーマート京都清水焼団地店」で、「なめらかクリームパン118円+甘熟パイン&天然水117円=235円」購入。右折して、r185〜R1〜湖西道路。皇子山ランプで下車し、r47〜近江神宮道で、7:32ハーバー着。
皆に挨拶し、桟橋で朝食を食べます。昨日同様の南西の風が吹いていますが、昨日ほど風力はない。でも安定して吹いているのでレースは出来そう。体操・ブリーフィング後、定刻通りD旗が揚がりレース艇がレース海面に向かいました。この日の470第1(通算第3)レース10:05スタートから、S級第4(通算第6)レース14:47フィニッシュまで、しっかりとレース出来、全6レースで2日間のレース終了しました。
470は、1・2・4・5位D社、3・6位Rits、当方は8・10・12・13位。S級は、1〜5・9位D社で、6・7・8・10位が当方。当方からのインカレ個人戦出場は、S級1艇になりました。バイクに荷物を持っていった時に、琵琶湖ジュニアのSudさんに会いました。3番目のお子さんがジュニア選手です。1週間前、次男が所属していた兵庫ジュニアの練習に加わっていたそうです。お姉ちゃんの所属を聞くと、D社入学後レーザー活動しているそうです。この日は、トップ選手と練習していたそうです。近くで船を片付けていました。お兄ちゃんはKOなので、秋の全日本インカレ団体戦でここに来るでしょう。お母さんも楽しみだそうです。
Sudさんと話していると、レース運営していたNisくんがやってきました。「昨日はありがとう」と声を掛けました。前日の当方沈艇のレスキューに協力してもらいました。彼は、K産大のインカレ優勝した時のエースでキャプテン。
ブリーフィングで話し、帰路に着きました。16:30「桂川PA」で「ガリガリ君ソーダ75円」購入し、糖分補給して帰宅しました。


2022/6/25
コーチしている大学ヨット部のレース日です。インカレ個人戦地区予選です。各クラス上位6艇のみ全日本の挑戦権を得ます。両クラス2艇行けるといいな。地区最強のD社の下級生も速いので、実力的には両クラス4つは取りそう。それに続くRitsと当方で残りの取り合いになりそう。先週の結果なら、470が0・S級が1。先々週の結果なら、470が2・S級2でした。
倉庫から「里山VTR250」を出し、5:07出発。R171〜中央環状道路で、5:19「エネジェット中環豊中SS」で給油。265km/9.17L=28.9km/L。5:23「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「マーガリン・バターロール4個108円+ゆずれもんサイダー500ml93円=217円」購入。
吹田ICから名神高速に乗り、京都東ICで下車。R1から枝道に入り、6:12「若宮八幡宮」。境内はそれほど大きくないが、落ち着いたお宮です。『手水舎 この手水舎は、元、境内の中央部に当る拝殿と社務所の中程に、井戸と共に設けられていましたが、諸般の事情により、使用が困難になりましたので、此度、その手水舎と井筒を此処に移設いたしました。 尚、その井戸は明和7年(1770)11月氏子の篤信家栗津武右衛門清房氏の奉納であり、又、手水合は昭和9年9月、氏子中により再建されたものであります。  平成18年5月 若宮八幡宮社務所』
小さな土盛があり、『大津皇子之供養塔・粟津王之供養塔』が、立っていました。
『住所:京都市山科区音羽森廻町
祭神:仁徳天皇・応神天皇・神功皇后・素盞嗚尊・天武天皇
摂社・末社:天満宮(宇治稚郎子命・菅原道真)
神徳:厄除開運
由緒:創祀は不明。天智天皇が志賀の都から山科郷へ巡幸を行った時、音羽の地に八幡神を勧請したのが始まりと伝える。 当初は仁徳天皇・応神天皇・神功皇后の三柱を祀っていたが、末社の出雲社を廃する際に、祭神である素盞鳴命を本社に合祀した。その後、大津皇子の御子である粟津王の末裔とされる粟津氏が、この地を拓いて居住するようになり、祖である天武天皇が併せて祀られた。
平安時代には神仏習合による寺院が境内に設けられ、十一面千手観音・不動明王・毘沙門天が勧請された。その後、廃仏毀釈により他所へ預けられたが、戦後境内に御堂を再建して再び祀られている。往古より五斗の神供米を朝廷より受けていたが、明治3年より廃止になった。 本殿の造営は、寛治元年、応永年中、寛文7年、宝暦2年、明治15年、と昭和になってから3度行われたと記録されている。境内には大津皇子と粟津王の墓とされる2基の古墳があり、室町初期の宝篋印塔が現存する。 大津皇子は天武天皇の第3皇子で、母の大田皇女は天智天皇の皇女。「懐風藻」によると「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」とあり、多くの人々の信望を集めていた。朱鳥元年、天武天皇が崩御すると、川島皇子の密告により謀反が疑われ、妻である山辺皇女とともに自害させられた。 粟津王は大津皇子と山辺皇女の第2子。大津皇子死後、粟津王はこの地に移り住み、土地の発展に力を注いだ。音羽地域には粟津姓が多く、その末裔たちにより八幡宮境内の宝篋印塔が建てられたと伝わる』
謂れ板によると、小さな土盛は、天武天皇御子「大津皇子」とその御子「粟津王」の古墳のようです。天武天皇崩御後の争い(謀反の疑い)に破れ自害した。粟津王は、父・大津皇子が天皇になれなかったので、臣籍降下してこの地に落ち着いたようです。先祖のお墓を守るため、「若宮八幡宮」を勧請し、粟津氏の子孫が保ち続けていると想像されます。
少し走り、6:26「南殿光照寺」。『南殿光照寺 泉水山光照寺といい、真宗大谷派の末寺にて浄土真宗を中興された蓮如上人が、この地に造営された南殿に延徳元年(1489)8月28日退隠されて、明応8年(1499)3月25日にこの地で往生されたのであった。
然るに天文元年(1532)8月24日、六角定頼らの兵により、諸堂をはじめ、この南殿も本願寺と共に焼亡いたしました。 幸いにして蓮如上人御在世南殿山水亭の遺跡をのこすため、東本願寺家老・粟津家の祖元昌が、南殿光照寺を建立し現在に至ったのである。  京都市』
掲示板には、『戦争は罪悪です 竹中彰元師の言葉より』
住宅街の曲がりくねった枝道を少し走り、6:36「本願寺山科別院」。『朝のお勤めのご案内 時間:毎朝7時 本堂:讃仏偈 中宗堂:正信偈和讃 どなた様もお気軽にご参拝下さい。 *貸代用のお経本をご用意しております』
『蓮如上人月忌法要 毎月14日午後2時より *4・8・10月を除く』
『ようこそご参拝くださいました 開門:午前6時30分 閉門:午後4時30分 (事務受付は、午後4時15分に終了いたします)』
『生のみが我らにあらず、死もまた我らなり』
住宅街を少し走り、6:49「真宗大谷派山科別院長福寺」。6:59「西宗寺」。山門前に、『蓮如上人御往生之地』と彫られた石碑が立っていた。
『西宗寺由来 当寺は、浄土真宗蓮如上人御旧跡の随一。蓮如上人に帰依し、山科本願寺の寺地を寄進せる海老名五郎左衛門信忠は、法名浄乗と賜わる。 文明13年(1481)10月18日、御絵像の「方便法身尊形」を下され、山科本願寺諸堂と共に建立なされた西宗寺の開基となる。
明応7年、大坂にて上人御不例なり、翌年2月山科本願寺へ御登里を願われ、浄乗の子・祐信にその用意仰せつけたまう。山科へ御つきあり。御影堂の御真影に暇乞いなさり、祐信に御尊影「山科蓮如上人御形見の御影」を与えたまう。明応8年(1499)3月25日、上人恩徳のふかかりし、この地で浄土に遠帰したまう。かなしきかなや日月西雲にかくれ法灯もゆらぐ。  西宗寺縁起より』
本堂脇に、『蓮如上人放鷺の像』があった。『放鷺の像由来 明応8年(1499)85才御病気中の蓮如上人に、御弟子空善坊、御なぐさみにと鷺を差し上げれば、上人この声を聞こしめして「鳥類だに、法を聞け、法を聞け、と鳴く。なんぞ同行聴聞せざるや」と戒めたまいてこの鳥を放ち、「一切衆生、六道輪廻の籠の内の鳥に似たり。今、籠より放つがごとく、信心決定の同行は、臨終捨命の夕べ、広大寛平なる西方浄土の花のうてなに至り、七宝樹林の遊びこそ、あら楽しや」とのたまえば、同行ことごとく感涙にむせびけり。 この故実により、御往生の地を「放鷺殿」と称し、以来、当山は「放鷺山」と号す』
枝道を南下し、新幹線高架軌道に突き当り、右折してR1を西へ。右折してr185大石道を北上し、7:15「桓武天皇皇孫遍照僧正墓」。住宅地内の小ぶりな円墳を宮内庁が管理していました。
r185を更に北に向かい、右折してr116・渋谷街道を東進し、左折して北上し、右折してr143で東進。湖西道路に乗って北上し、7:37ヨットハーバー着。
次々にやってくる部員に挨拶し、艤装を始めた少し緊張気味の選手に声を掛け、桟橋に座り朝食を食べました。Zoom開会式を終えて、天気予報・体操してブリーフィング。僕が最初に喋り、次いで監督。風は南西の順風が入っており、予報でも最大風速9m/sで十分、エキサイティングなレースが楽しめそう。
予定通りの定刻で、D旗が揚がり470出艇。続いてS級がハーバーから離れてレース海面へ向かいます。僕はS級のコーチボートに乗ってコーチングです。中〜強風で2レース終えたところで、更にブロー10m/sオーバーが次々に入る状況になり、本部船にAP/A(本日のレースは終了、これ以上レースはしません)が揚がりました。「あれ、まだ12時なのに、何故AP/Hじゃないの?」と思ってたら、すぐにAP/Hを揚げなおしました。全艇、ハーバーバックです。
しばらくハーバーで落ち着き、風が落ち着いてきたので、再びD旗が揚がって出艇。艇。3回生2回生女子コンビ艇が、ハーバーを出てすぐ練習に入ったところで沈してしまいました。沈起こししましたが、何だか船が沈んでいる。「エアータンクに水が入っているんじゃないの?」。若手コーチが、「沈起こししたばかりだからコクピットに水が入っているだけだと思います」だって。レース艇に近づき、「船沈んでるように見えるけど、大丈夫?」と声を掛けるが、「大丈夫です」だって。レース海面に着く途中で、沈艇があっちにもこっちにも。スタートを待っていましたが、まだまだブローが入ってくるので、本部船にAP/A旗が揚がり、本日のレースは2レースで終了になりました。
当方S級の最終艇(3回生・2回生コンビ)の後ろをくっついてハーバーに帰ります。ハーバーまではまだ遠いが、良い練習になりそう。ところが、一緒に乗っていたS級若手コーチが、「曳航しましょうか?」「いや、このままでいいよ」。走れなかったりトラブルなら仕方ないけど、強風コンディションで曳航したりするのはかえって危険です。それに練習になるし。メインセイルを下ろすのに手間取り、なかなか曳航できず、遅れてしまいました。ハーバーに近づいたところで、470のコーチボートをしていた当方インフレータブルボートから、「S級女子コンビが沈して、センターを流してしまった」との連絡が入りました。すぐに陸上に連絡して、飛び込み要員の体力が充実している男子とセンターボードを用意しました。僕がコーチしだした20年前には想像も出来ない手際の良さです。僕が指示しなくても連絡が飛び交い、頼もしいです。チームとして総合力が上がった証拠です。
ハーバーに曳航してきたレース艇を戻し、すぐに男子部員とセンターを乗せてレース海面に戻ります。沈艇はそのままで、レース委員会の運営艇も沈上げを手伝ってくれていました。「こちらでやります」とお礼を言うと、ドライバーが出てきて・・・あれれ、Nisくんでした。彼は琵琶湖ジュニア出身で次男の2つ下だったかな?ASEAN選手権に出場した時、僕が引率しました。
当方インフレータブルが接舷し、沈した女子2人・1回生女子マネ・1回生選手を乗せて、男子が乗って行きます。僕の乗っているコーチボートはハードボトムの大きめボートなので、沈艇には近づけません。すぐにセンターを差して船を起こして曳航して帰りました。沈した女子2人は、「何故沈してしまったのか」「どうした方が良かったのか」など、精力的に喋っています。当然ずぶ濡れなのにたくましい。「大丈夫?寒くない?」と聞いても「平気です」ってニコニコしています。サバイバルに強いお母さんになりそう。対して1回生新人は選手もマネさんも「寒い」ということで、すぐに風の当たらない温かいところに移動させます。ハーバーに戻り、お疲れさん。みんなの顔を見ても平気そうです。ブリーフィングで話して帰路に着きました。

初日の成績は、470が1・4・6位D社、2・3・5位Ritsで、当方は7・8・9位で、6位までのインカレ個人戦本戦への出場権にいま一歩です。S級は、1・2・3・5位D社、4・6・7・8が当方、Ritsは10・12・14・16位でした。まだ2レースしか終わっていないので、明日でまだまだ順位の変動がありそうです。


2022/6/19
インカレ夏季大会団体戦2日目です。倉庫から「里山VTR250」を出し、4:35出発。「吹田IC」から名神高速に乗り、「京都東IC」で下車。r143を西に走り、枝道に入り、5:31「永興寺」P。目の前に素敵な建物が建っています。帰宅後調べると、建築家・本野精吾(もとのせいご)が昭和4年(1929)に建てたモダニズム建築で、染織家で京都高等工芸学校(現:京都工芸繊維大学)校長であった鶴巻鶴一の邸宅でした。塀の外からだけど、琵琶湖疏水脇という立地もナイスです。2億円で売り出されていました。
琵琶湖疏水を渡り、5:35「無量山・永興寺」。掲示板に、また「和顔愛語」が掲示されていました。『和顔愛語 窮地に陥った時や大きな苦しみを抱えた時は、明るい・穏やかな微笑みや真心の籠もった言葉に接した時、人は生きる勇気と大きな夢が描ける』『永興寺参禅会 毎月第3日曜日午前8時・午前10時』
禅宗である曹洞宗の寺院でした。『承陽大師霊場』の石碑が立っていました。承陽大師は、曹洞宗の開祖・道元です。『永興寺(えいこうじ) 日本曹洞宗開祖、道元禅師ゆかりの寺院である。 建長6年(1254)、道元禅師示寂の翌年、荼毘(だび)地(高台寺北側)に弟子、詮慧(せんね)和尚が永興庵を建立(後、比叡山徒によって破却)、寛延元年(1748)、面山瑞方(めんざんずいほう)和尚が左京区粟田口に永興庵を再建する。
明治38年(1905)、村上素道和尚が左京区鹿ヶ谷に永興庵(自炊林)を再建した。 大正5年(1916)、大本山永平寺が現在地を購入。 村上和尚が、大正8年(1918)、この地を永平寺別院永興寺として指定、鹿ヶ谷の自炊林から移築した。 平成8年(1996)、本堂再建と同時に境内西側に山科豊川稲荷社(叱枳尼真天/だきにしんてん)を再建、東側には大黒天を祀っている。寺宝として日本一の木魚・道元禅師御一代絵巻・本堂大間天井龍図(平成の龍、第1号)がある。 平成12年(2000)山門・鐘楼を造立して、一般の人にも開放、除夜の鐘と8月15日終戦記念の正午に大正・昭和の反省と新たな世界平和を祈念して、鐘撞きを許可している。  京都市』
禅宗系寺院の定番「不許葷酒入山門」の石柱が立っていました。境内に、小ぶりの稲荷社がありました。『山科豊川稲荷社 当稲荷社は、愛知県豊川稲荷の御本尊・咤叔尼真天様の御分身を奉祀しています。叱叔尼真天様は印度から渡られた女神で神仏合体の神とされ、古く戦国時代から諸願成就の守り本尊として広く信仰されております。
祈祷内容:出世開運・商売繁昌・家内安全・交通安全・合格祈願・その他祈願(ご自由にお詣り下さい)』
『山科豊川稲荷社略縁起 当社は、愛知県豊川稲荷社の分霊で、豊川?枳尼真天(だきにしんてん)をお祀りしています。 この善神は女神様で、妙相瑞麗にて稲穂を荷い宝珠を掲げられて白狐にまたがる御姿をしておられます。この女神様は、福徳の神・開運隆盛の神・興産の神、すなわち生産(秀でた人物・財産を生み出す)の神様として、古来より人々に広くあがめられ、信仰されました。
特に、今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康等の戦国の武将は必ず戦勝を祈願したものです。 当山科豊川稲荷社は現在、この山科の地にて信者の全身を護持しているところであります。以前、鹿ヶ谷に祭られておりました際には、祇園町衆の信仰を集めていました。皆様方も、まごころを持ってお参りなさいますと、女神様の神呪力をもって、悪事災難を除いて福徳知恵を得て、苦を抜いて楽となし悲しみ転じて喜びとなり、諸願が成就される事でありましょう。  山科豊川稲荷社』
r143に戻り、少し西に走って左折して枝道に入り、右折して「旧東海道」を西へ。5:57「大乗寺」。掲示板に「花の見頃、9月中旬から約1ヶ月間 酔扶養(すいふよう)の寺」と書かれていました。
『酔芙蓉の寺・大乗寺(だいじょうじ):大乗寺は、戒禅比丘隆詔(かいぜんびくりゅうじょう)大和尚が、約300年前に七本松の内野(現在の上京区鳳瑞町)に開き、禅宗系の寺から法華の寺に改宗されたと伝えられています。その後は、代々尼寺として受け継がれ、無本山の寺でしたが、約200年前に法華宗の大本山本能寺の末寺となりました。
昭和55年に現在の地に移転したものの、無住の荒れ寺となっていた大乗寺でしたが、平成4年以降、移り住まれた住職により、参道整備など復興が進められるとともに、寄贈された酔芙蓉の苗100本ほどから挿し木して育て、今では1500本もの酔芙蓉が群生する「酔芙蓉の寺」として知られています。
酔芙蓉:9月から10月頃に花を付ける酔芙蓉は朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけて紅色に変化し、酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることから、この名が付いたといわれています。大乗寺のように、1000本以上群生する酔芙蓉は全国的に珍しく、立派な花寺となっています』
小さいですが、2ヶ所Pがあり、もう1つのPにバイクを停め上がりましょう。こちらの掲示板に、『和顔施(わがんせ) あなたの笑顔が、みんなを幸せにする 物をあげること(財施)・仏様の教えを説くこと(法施)・恐れを取り除くこと(無畏施)・和やかな顔で接すること(和顔施)、これみんなお布施です。 ひとりじゃない 南妙法蓮華経がつなぐ過去も未来も 咲かそう、いのち 法華経』
裏参道から大乗寺に上がっていきます。細い参道は紫陽花の花が彩っていました。眼下に山科盆地が広がっていました。表参道の急な石段と合流しました。楽だという裏参道から上がってきましたが、表参道のPを見ると、少ししか登っていません。更になだらかな石段が上に続いており、10段ほどで民家のような本堂に着きました。こじんまりした慎ましく営まれている尼寺のようです。
『立ちわたる身のうき雲も晴れぬべし、たえぬ御法の鷺の山風 日蓮聖人御和歌』。
酔芙蓉を見てきました。『小倉百人一首・第28番 山里は、冬ぞさびしさ、まさりける 人目も草も、かれぬと思へば 源宗干(むねゆき)朝臣
歌意:山里は(他の季節でさえさびしいが)冬にはさびしさが、いっそうまさって感じられることだ。人の往き来もとだえてしまい、草木も枯れてしまうと思うと。
鑑賞:ここ、山科の里は三方を山々に囲まれ、南に開けている閑静な地で、都の人々が余生を過ごす適切なところであったろうかと思います。 第58代光孝天皇の皇孫・源宗干も、賜姓皇族の1人としては不遇であったとされる。生涯の余生をこの山科の地で送ったのでありましょうか。
世にある人から見れば、四季それぞれに趣もある山里ですが、定住する身にとっては、本当に淋しい片田舎です。 官途にあった頃には、それなりに寄り集まった人々も、今は少ないままに他の季節でも淋しい田舎ですが、冬ともなると荒涼の世界、草も枯れ果て人の訪れも途絶えて淋しさも限界に達します。 過ぎ来し方を振り返り、歌人宗干は何を思ったでありましょうか。疲れ果てた人生荒野の旅路を思い、宗干はいま真冬の茅屋に臥して、1人静かに御仏の目に迎えられている自分を見出したのでは。  寄進主:近藤清一』
『百人一首・第15番 君がため、春の野にいでて、若葉つむ わが衣手に、雪はふりつつ 光孝天皇
歌意:あなたのために、春の野に出て、若葉を摘みとっている私の着物の袖に、雪がしきりに降り続いているよ。
鑑賞:何というお優しい大御心の御製でありましょう。 春まだ浅く、時に降雪を見る肌寒い日ではありますが、息災であるようにと、臣下一同に賜る若菜を摘みに野に出て給うという。 その御心には、本当に肌の寒さも感じないほのぼのとした慈父の情を感ずるではありませんか、この御製を口ずさむと、自ら御歴代天皇の御仁慈が国民われわれの胸に伝って来るのであります。
遠い昔の平安期の御代にあった光孝天皇のこの御製を拝踊して感激するのですが、更に近くは、今からわずか50年前のこと。 我が国が戦争に敗れ、1億国民が飢餓に瀕した時に、昭和天皇は皇家の私有財産を敵将マッカーサー元帥の前に差し出されて、国民に食を与えて欲しいと懇願されました。 国民のための食料を求められたのであります。真に真に有難き極みであります。  寄進主:近藤清一』
少し走って、6:21「光照寺」。『光照寺 当寺は大字日岡の地にあり、頂後山と号し、浄土宗にして、京都の金戒光明寺末であり、寺格は30等である。本尊は阿弥陀如来を安置し、創立の年代は詳かでない。寺傅によるに、宗祖法然上人乱を避けて此地に来り住居せしとき、自身の木像を彫刻して、末世までもその奮蹟たることを示さんとて遺し置いたとのことである。其の後僧観誉閑月と云えるものが、上人の奮蹟を慕って堂宇を再建して之れに住した。因って此の僧を当寺の中興開山と云う。境内は80坪を有する。  京都府山科町誌 昭和5年9月20日発行より』
旧東海道を少し西に走り、r143〜大石道を経て、6:33「六所神社」。JR東海道線のトンネル入口の真上です。「古跡・御神水井跡」がありました。『六所神社祭典 八朔祭9月1日午後3時・放生祭9月15日午後3時・宵宮祭10月大祭前日午後8時・大祭10月吉日午前9時・御火焚祭11月15日午後3時・大祓式12月31日午後3時・元旦祭1月1日午前9時・トント祭1月15日午前9時  平成13年10月吉日 氏子会』
『六所神社の起源と北花山 六所神社は、第58代光孝天皇の仁和3年に創立され、伊勢の天照皇大神・尾張の熱田大神・山城の賀茂大神・大和の春日大神・近江の日吉大神の6神を奉祀している。依って、六所神社と称した。 当初、元慶寺の開基、遍昭僧正の勧請によって、元慶等寺の鎮守であったが、現今は、北花山の産土神(氏神)として、約1100年の歴史を有している。
北花山は、山科七郷のひとつで、第38代天智天皇の時代に、郷名が華頂、第50代桓武天皇の京都遷都から花山に変わり、天正17年に、上花山・下花山・北花山に分割されたが、簡保の時代に、下花山を合併して、今日の北花山となったと言われている。
なお、明治22年2月町村制施行で、宇治郡山科村、大正15年10月宇治郡山科町、昭和6年4月に京都市東山区に編入、昭和51年10月京都市山科区となった。由緒ある六所神社と、古い歴史に彩られた郷土北花山を、後世に伝えるため、六所神社大鳥居の建設に際しこれをしるす。  平成2年8月吉日』
鳥居をくぐり境内に入ります。『六所神社御祭神 天照皇大神宮・賀茂下上大明神・八幡大明神・日吉山王大明神・春日大明神・熱田大明神 北花山・六所神社氏子会 平成13年10月吉日』
大石道に戻り、r116から、6:46「元慶寺」。『元慶寺 天台宗の寺院で、華頂山元慶寺という。本尊は薬師瑠璃光如来。 六歌仙の1人として知られる遍照(へんじょう)が、陽成天皇降誕に際して貞観10年(868)に定額寺と称して建立した。元慶元年(877)に清和天皇の勅願寺となり、元慶寺と改めた。 寛和2年(986)外孫・懐仁(やすひと)親王の皇太子即位を画策する右大臣・藤原兼家と道兼父子の策謀により、在位2年で第65代花山天皇が退位、出家されることとなった。花山天皇は、元慶寺で出家し、花山法皇と称した。その後、花山法皇は徳道(とくどう)上人が創始した後、廃れつつあった西国33所観音霊場巡りを復興したため、これが縁で元慶寺は西国33所番外札所となっている。
寺格も高く多くの寺領で栄えたが、応仁の乱で焼失した。今日に残る鐘楼門・本堂(薬師堂)・五大堂・庫裏は、寛政元年(1789)から寛政4年にかけ、妙法院宮堯恭法親王(みょうほういんのみやぎょうきょうほっしんのう)と真仁法親王(まさひとほっしんのう)の御遺志に従った妙厳(みょうごん)と亮雄恵宅(りょうゆうけいたく)が再興したものである。
鐘楼門の上には、菅原道真が勅命により元慶寺のために詠んだ漢詩が刻まれた3代目の梵鐘が再興され、収められている。  京都市』
『写経会のご案内 毎月8日午前9時から午後4時の間、随意にご参加下さい。 一巻壱千円 元慶寺』
鐘楼門をくぐって境内へ。鐘楼門の左右には、仏様の写真が貼ってありました。仁王像が守護できるスペースがあるのに、小さな写真は不似合いです。本来おられた写真の仏像が、修理などで何処かに出張中なのかな?柱や天井に「千社札」が多数貼られていました。謂れ板に書かれていた花山天皇が、藤原氏の陰謀に引っかかって譲位し、剃髪して太上天皇になられたのがこのお寺だったとは知りませんでした。ここで出会えてラッキーでした。『人皇65代花山院法皇・御落飾道場』
と書かれた石碑があり、その奥に僧坊がありました。
花山法皇は、2才で皇太子、17才で天皇位、そして騙されて19才で太上天皇(上皇)・剃髪して法皇になり、摂津国東光山(兵庫県三田市)で出家生活を続けた。この寺は僕の北摂里山ツーリングコースにあり、何度もお参りしています。
そのまま歩いて、背中合わせにある「華山寺」を訪問しました。『愚堂国師入定之地 華山寺』『臨済宗妙心寺派華山寺』。『京都市指定保存樹ケヤキ 平成16年3月指定 にれ科(落葉高木) 境内地北の塀ぎわにそびえるケヤキは、樹齢200年といわれています。その雄大な姿は周辺からよく見えるため、この木を道しるべにするなど、地域の人たちのランドマークとして親しまれています。 25山科区ケヤキ』
掲示板には、『京都市山科区介護予防推進センター 会場:華山寺(京都市山科区北花山河原町33) リズム体操Yoneciseヨネサイズ 第1・3水曜日 7月6日/7月20日・14:00〜15:00 参加無料』など、Yonecise関係の案内が掲示されていました。
バイクに戻り、r116〜大石道で南下し、右折してR1を西進し、7:18「上花山六所神社」。『上花山・六所神社 本殿御祭神:熊野大神・稲荷大神・松尾大神・日吉大神・八幡大神。客人大神 末社御祭神:愛宕大神 例祭日:10月16日 天文12年(1543)、当時の有力者であった比留田氏により地域の守り神として創建され、爾来、上花山住民の安寧の拠り所として尊崇される。
昭和47年には、上花山水利組合をはじめ、氏子や篤志家の浄財により本殿を再建、併せて祝詞舎及び社務所を新築。 昭和55年には、氏子崇敬者の尽力により、末社新築、社務所増築、境内整備を成し遂げる』
謂れ板を読んでいると、社殿の方から参道を30代と思われる男性が出てこられました。「おはようございます」と挨拶すると、「おはようございます。紫陽花が綺麗ですから、どうぞお参りしていって下さい」と返ってきました。掃除をし始めました。「自治会の境内掃除当番の方なのか?」とも思いましたが、僕に対する物腰から「自発的に掃除奉仕されている方なんだろうな」と確信しました。お若いのに、素晴らしいな。僕なんて、小学校の同級生の家が氏神さまの宮司なのだけど、七五三や初宮参り・初詣で参拝する程度で、大きな修繕の寄付のお付き合いや、自治会通じての定期的な氏子寄付に一口乗るぐらいです。
新興住宅地の神社という佇まいで、細長い境内ながら満開の紫陽花が咲き誇っていました。本殿には、『奉納 うちそろい、六所乃神に何事も、念じたまへよ朝ふ夕なに 昭和49年3月吉日 内海孝造』
『上花山・六所神社 御祭神:熊野三所大神(伊邪那美命・速玉之男命(はやたまのうのみこと)・事解之男命(ことさかのうのみこと))・八幡大神(誉田別命)・稲荷大神(宇迦之御魂命)・松尾大神(大山祇命)・客人大神(伊邪那岐尊・久々里比売命(くくりひめのみこと)) 日吉弐拾壱神社 御祭神:愛宕神社(軻遇突智(かぐつち)火神)』
R1〜湖西道路で、7:47セブンイレブンでパン購入。7:58ヨットハーバー着。部員に挨拶し、パンを食べて朝食にします。ブリーフィング後出艇します。前日同様、470のコーチボートに乗ってレース海面へ。第1レースが10時スタートなのに、当方S級が揃って風上に向かって練習しています。「これはやばいかも?」と少し前に気づきましたが、何度もスタート前の練習しすぎを注意しているので「まあ大丈夫だろう」とスルーしていました。7〜8分前に1艇が気づいてスタートラインに向かい、他艇も戻りだしました。S級のスタートは470の5分遅れなのでスタートには間に合いますが、470がスタートシークエンスに入ったらレース海面にいるS級は「邪魔をした」ということで失格orペナルティーになります。でも1艇だけまだ風上に向かっており、「こりゃ駄目だ」とガックリ。でもここでラッキー、本部船にAP旗(スタート延期)が揚がりセーフ。何度も言っているのに、風が弱い琵琶湖を本拠地にしているので、朝イチの第1レースはAP旗が定番になっており、それに慣れきってしまっています。来週末は、インカレ個人戦予選なので、また注意せねば。
南西からの風で3レース成立し、全7レースでこの大会が終わりました。470の優勝はD社Aチーム、2位がRitsA、3位が当方Aで2位と124点差でほぼWスコアの惨敗でした。前日の失格2つを挽回するどころか更に差をつけられてしまいました。前日同様、Cチームの2人のスキッパーにコーチボート上であれこれアドバイスし、一皮剥けさせるために「上1即タック」を強く勧めました。まだ下級生なので来年以降の戦力です。当方はスポーツセレクション入学者がゼロなので、4年間でグングン育てなければなりません。2人とも次のレースで「上1即タック」を決めました。コーチボート上では、「でも、混んでいるエンドより、空いている所からスタートした方が良くないですか?」「私は、スタートで船を止めることが下手なので・・・」なんて出来ない・しない理由を並べていましたが、僕からの「殻を破ってこいよ、意外に簡単だよ」の言葉に促され、「チャレンジして見ます、見ていてください」とレース艇に乗り換え、コーチボートから離れて行きました。2日間で最上位で第1マークを回航し、フィニッシュも最高順位でした。S級は、優勝D社A、2位が91点差でD社B、3位が更に66点差で当方A、4位が29点差でRits。総合は、優勝D社A、2位190点差でRitsA、3位30点差でD社B、4位63点差で当方A、5位292点差で当方B、6位23点差で金沢A、7位15点差で富山Aでした。14:14、S級トップ艇がフィニッシュしハーバーバック。ブリーフィングして、15:57帰路に着きました。
湖西道路〜京都東ICから名神高速に乗り、16:21「桂川PA」で、「チョコモナカジャンボ162円」購入し糖分補給しました。「吹田IC」で下車し、17:15帰宅。


2022/6/18
コーチしている大学ヨット部のインカレ夏季大会2日間の初日です。先週から3周連続の週末レースです。5時過ぎに、倉庫から「里山VTR250」を出して出発。R171〜中央環状道路で、5:34「エネジェット中環豊中SS」で給油。194km/5.44L=35.7km/L。「吹田IC」から名神高速に乗り、桂川PAでトイレ休憩。「京都東IC」で下車し、r143の北を東西に走る旧東海道を西に走り、6:25「弘誓山・當麻寺」。『浄土宗西山禅林寺派 文化財指定・丈六阿弥陀如来安置』。掲示板に『毎月第2土曜日午前中・写経会・たまには静な時を過ごしてみませんか』『和顔愛語』と書かれていました。「和顔愛語」という言葉、僕のかなり好きな言葉で、実践しようと心がけています。調べてみると、「大無量寿経」というお経の中にある言葉だそうです。『和やかな顔と思いやりの言葉で人に接すること』とありました。『辛いときや嫌なことがあったとき、愚痴をこぼしたくなるとき、そんなときこそ、まず自分から笑顔と優しい言葉で周りの人に接する姿勢が「和顔愛語」ということ』だそうです。「和顔愛語」を最も良く実践できているのが「明石家さんま」さんだと思います。人を笑わせるためにまず自分が破顔して精一杯の笑顔になって、身振り手振りも加えて、見ているだけで楽しそうで、自然に笑いに引き込まれます。「和顔愛語」という言葉に最初に出会ったのが、どこかの寺院の掲示板です。いろんな言葉が掲示されますが、定期的に目にする「和顔愛語」は、多くの僧侶に愛されているお経の言葉なのでしょう。
帰宅してもう一度調べてみました。『「和顔愛語」には「先意承問」(せんいじょうもん)という言葉が続く。「先意承問」とは、「先に相手の気持ちを察して、相手のために何ができるか自分自身に問いただす」こと。「和顔愛語」は、この「先意承問」とセットになってこそ、日常で実践できる。相手に「笑顔になってほしいのならば、まずは相手に笑顔を見せる」「優しい言葉をかけてほしいのならば、まずは相手に優しい言葉をかけてあげる」行動が「和顔愛語 先意承問」です』。
『弘誓山當麻寺(ぐぜいざんたいまじ) 永観堂禅林寺を本山とする浄土宗西山禅林寺の寺院である。派祖・西山証空(せいざんしょうくう)上人が天福2年(1234)に創建と伝えられている。
本尊は「山科大仏」とも呼ばれる像高2.67mの寄木造の丈六阿弥陀如来像で平安時代末期につくられた定朝様の仏像である(昭和59年(1984)京都府文化財に指定)。寺宝の當麻曼荼羅は「観無量寿経」という経典を絵で説いたもので、古代インドのマガタ国の「王舎城(おうしゃじょう)の悲劇」と称される親子間の悲劇を描いた「韋提希(いだいけ)夫人物語」を題材として釈迦が夫人に説いた阿弥陀様と極楽世界の様子を表現している。奈良・當麻寺の當麻曼荼羅に基づいて室町時代末期から江戸時代初期に製作された。縦3m・横2.25mで平成28年(2016)6月に3度目の保存修理が行われた。極楽世界の鮮明な色彩が残っている。 境内、正面には「やすらぎ観音さま」が安置されている。  京都市』
門が閉まっていたので境内に入れず、謂れ板を熱心に読んでいたら剃髪した坊主頭の男性に後ろから声を掛けられました。「旅行ですか?」「はい、寺社巡りが好きなので、琵琶湖の用事の前に寄りました」「仏像もありますので、お時間のある時またお寄り下さい」。男性は横の駐車場扉を開けて入って行かれました。「ん、當麻寺のお坊さんだったのかな?」。謂れ板を読み終え、Pの方に歩いていくと、広い駐車場の中央にラジオを置いてあれこれやっておられました。ラジオ体操の準備かもしれません。
東海道を更に西に進み、r143に合流し、JR東海道線の下をくぐってすぐ、6:34「天智天皇山科陵」。誰もいない長く広い参道を御陵に向かって歩きます。天皇陵はこれまでたくさん参って来ましたが、多くは参拝者がゼロでした。仁徳天皇陵など、P整理ガードマンがいる御陵もありますが、殆どは静かに参れるので好きです。中門から先にも石畳が続いていました。御陵前は砂利広場になっており、御陵手前まで歩き手を合わせ頭を下げました。玉垣から向こうは砂利が綺麗に掃かれ風紋のようになっています。気持ちの良い朝です。
バイクに戻り、r143を更に西に進み、右折して枝道を走り、「琵琶湖疏水」を渡り、7:02「本圀寺」。「天智天皇山科御陵」の山側・北側を東西に流れる琵琶湖疏水の北側に位置します。山門前に、『日蓮宗教院』と彫られた大きな石柱が立っていました。山門には、「総門要付關(ようふかん)」と書かれた扁額が下がっていました。
『碑立建・総門要付關 かずならぬ、わがみなれども、いるひとの かごをいのりて、もんたてまつる さらのはな、ちるがごとくに、ゆきしきみ ふとのくにへと、このもんをたつ 為吾子追福修善廻向供養 平成廿八年六月十日 伊藤昌子殿建立之也 当山九十七祖百四世代』
『大本山京都山科・本圀寺(ほんこくじ) 日蓮法華宗の四大本山の1つ事始めの寺。日蓮聖人が鎌倉の松葉が谷に創建し、自ら22ヶ年往持された法華堂・安国院の祖跡、末寺700を容した霊跡大本山。
嘉暦3年(1328)、後醍醐帝の綸旨を受け、貞和(ていわ)元年(1345)、光厳帝の勅諚により京都六条楊梅(ようばい)の地に移遷し、爾来各帝の綸旨を受け、立正安国・四海静謐(じょうひつ)を国祷(こくとう)する正嫡不法(しょうちゃくふほう)の勅願道場として、文明14年(1482)、後土御門帝の勅諚により、法華総本寺の認証を受く。
昭和44年(1969)、六条より山科の当地に移転し、目下再建中である。日蓮聖人御持仏の立像釈尊像・御真筆の立正安国論広本・御法難の赦免状の三箇(さんが)の霊宝を格護す。幅日本一の元俊作大涅槃図・長さ日本一の絵巻物註画讃(ちゅうがさん)・重要文化財の輪蔵式経蔵あり。大本堂・大師堂・安国院・開宗堂・妙見堂・清正廟(せいしょうびょう)・稲荷堂・柿本社、総門・赤門・三門・冠木門(かぶきもん)・二天門・唐門あり。財運の銭洗弁天など、パワースポットもある。  京都市』
『開運門(通称「赤門」) この山門は文禄元年(1592)、加藤清正公が寄進した山門で、平成8年に修復し復元したものです。加藤清正公は尾張の国中村(名古屋市)の貧しい家に生まれましたが豊臣秀吉に従って功績を立て、どんどん出世して後に肥後熊本82万石の太守となりました。 恵まれないどん底から出発して幸運を勝ち取った清正公は開運勝利の神様「せいしょこさま」として広く尊崇されています。 開運勝利の神様「せいしょこさま」がお建てになって「せいしょこさま」の魂がこもり、しかも赤い色には深い特別のご利生がありますので、お題目を唱えながらこの門をくぐれば不思議なことに必ず開運勝利の人生が開けることから「開運門」と呼ばれています』
『重要文化財本圀寺経蔵移築 六条より山科の本地へ 寛正5年(1464)、将軍義政これを寄進建立し、慶長12年(1601)、太田資次これを再建装飾せり。輪蔵は天文法難・天明大火にも焼失を免る。本朝最勝なり。
山科本圀寺再興伊藤日瑞上人代、京都市教育委員会指導下に、金4950万円也で昭和53年10月11日着工し、梅本鳳泰上人代同54年11月15日竣工せり。  平成27年3月瑞叡日慈識之』
境内に『九名大尊神』の祠がありました。『九名皇諦石(くみょうこうたいせき) がん封じの神様 お守り、絵馬あります』。
『九名皇諦尊女 「くみょうさま」は法華経・陀羅尼品の「九名皇諦女」様のことです。天文法難(天文5年=1536)の時、大火の中にお姿を現され危難をお救いくださった御守護神で炎と煙の中で体をねじって御出現くださったそのときのお姿のままお祀してあります。
お題目を唱える人を必ず救うという誓いをおたてになった神様で、特に「がん」など難病をお救いくださる霊妙不思議な霊験があり、「女人守護・火中出現のくみょうさま」として現証をお示しくださいます。
毎月8の日(8日・18日・28日)がご縁の日です。特別祈祷は寺務所へお申し出下さい』
『大本山本圀寺寺務所 茶藝閣』
『正嫡付法(しょうちゃくふほう)根本道場 大本山・本圀寺 このお寺は法華経を唱えている全国のお寺の総本山「大本山・本圀寺」で、日蓮大聖人がお住まいになっていたお寺です。 日蓮大聖人がお住まいになっていたお寺ですから「総本寺」という称号を昔朝廷から頂いたのです。法華経のお寺の総本家という意味で法華経の根本道場であります。
日蓮大聖人は今から700数十年昔、当時幕府のあった鎌倉でお題目をお弘めなさいました。その時お住まいになったのがこのお寺で、大聖人が自ら「大光山・本圀寺」と名付けられたのです。 大聖人がお亡くなりになって間もなく鎌倉幕府は滅亡、足利尊氏が京都に室町幕府を作りました。尊氏は日蓮大聖人がお住まいになっていた法華経の根本道場「本圀寺」を京都に移してほしいと懇願。光厳天皇が勅命をお出しになって本圀寺は鎌倉から京都に移ってきました。貞和元年(1345)、今から650年の昔です。(現在の鎌倉松葉ヶ谷石井山長勝寺はその旧跡)。 それ以来王城鎮護の勅願道場として栄え、数々の歴史を留めて今日に至りました』
仁王門をくぐります。『奉納・健脚健康わらじ 仁王尊(金剛力士像)はとてもたくまいお身体をされています。 その仁王尊にあやかり、身体健全やこどもの発育健全をねがいます。 足の立つ仁王尊にあやかり、足の治癒もねがいまして、わらじを奉納します』
『正嫡付法』の扁額が下がっている仁王門をくぐります。仁王門の柱には、『忍辱波羅蜜(にんいくはらみつ)』を書かれていました。本堂に参ります。その奥に、「清正宮」がありました。鳥居が金色です。清正公の墓所となっており、加藤清正は肥後国大名として亡くなったので、本廟は熊本城近くにあるのが普通です。何故、京都に?と疑問に思い帰宅後調べると、「本圀寺は朝鮮出征時の加藤清正の祈願所及び菩提所であった」とのことで、「両親の遺骨と自身の肉歯を石室に納め、生き墓「真生廟」を建立した」ことから始まるようです。
『立像釈尊の縁起所由(えんぎしょゆ) この本師堂に奉安する尊像は正嫡付法の霊跡、大光山本圀寺に格護し奉る三箇(さんが)の霊宝中の霊宝たり。弘長元年5月12日高祖日蓮大聖人、伊豆伊東に流罪中、地頭伊東朝高公、大熱病にかかりもだえ苦しめり。家臣綾部正清の再三に亘る懇請に感じ、高祖、川奈の船守弥三郎(ふなもりやさぶろう)宅より和田に至り御祈念されたる処、熱去り薄紙をはぐが如く全快す。地頭朝高、歓喜し法華経の信者となり、先に海中より出現せし仏像を高祖に献上し奉る、此れ即ち立像釈迦牟尼佛なり。
爾後(じご)、高祖大聖人御生涯中の御持仏として伊豆伊東、鎌倉松葉ヶ谷、佐渡3ヶ年、身延の山に9ヶ年常隋(じょうずい)給仕し給ひ、大小の法難いかに重なるとも、本仏釈尊と共に乗り越えよみがえり給い、立正安国(りっしょうあんこく)の大志を遂げ給ふた霊験顕著なる尊像なり。
高祖大聖人、池上入滅に先立ち弘安5年10月3日正嫡付法の誠証(じょうしょう)として、この御尊像と共に自筆の立正安国論壱巻(りっしょうあんこくろいっかん)赦免状3通(伊東・竜の口・佐渡の法難)に譲り状を添へ、ニ祖日朗聖人(にそにちろうしょうにん)に授奨せらる。
日朗上人不惜身命(ふしゃくしんみょう)の遺族を守り護持し給ふた利生(りしょう)あらたかな尊像なり。後に日朗聖人、鎌倉殿中問答に勝利の法勲(ほうくん)を樹(た)てられた三祖日印聖人にこれを嘉賞(かしょう)して授奨さる。四祖日静(にちじょう)聖人の代に至り光厳帝の勅諚を賜わりて京都に移り嫡々相承(ちゃくちゃくそうじょう)して本圀寺に護持し奉り現在に至る。
如何なる危局(ききょく)に至るも一心に祈願する者をして必ず現証(げんしょう)の霊験、利やくを与えこれを蘇生(そしょう)せしめ、現当2世の大願成就の仏果を与え給ふ霊宝なり』
『本師堂:ここには「閻浮第一立像釈迦牟尼世尊(えんぶだいいちりゅうぞうしゃかむにせそん)」がお祀りしております。「閻浮第一」とは世界中に2つとないという意味で、「立像」とは立っていらっしゃる御尊像という意味です。 日蓮大聖人が伊豆の伊東へお流されになった時に不思議なご縁で感得され、それ以来お亡くなりになるまで、日蓮大聖人が片時も離さずお給仕し拝んでいられたお釈迦様がここにお祀りしてあるのです。
文永8年、龍の口ご法難の時もこのお釈迦様を胸に抱いて荒蓮の上にお座りになり、佐渡島へお流されになった時も背中に背負って荒波をお渡りになり、佐渡塚原三昧堂では雪を固めて壇を作りその上にお釈迦様を安置して拝んでいられたのです。 お亡くなりになる時、本圀寺第2祖日朗聖人に授け、末代までも本圀寺にお祀りするようにご遺言なさいました。 それ以来700余年間このお寺にお祀りしてあるのです。
日蓮大聖人が拝んでいらっしゃった仏様は、世界中でここにしかありません。 一心に南無妙法蓮華経とお題目をお唱えした時、日蓮大聖人のお声が聞こえるではありませんか。 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経』
『九頭龍銭洗(ぜにあらい)弁財天:ここにお祀りしてある九頭竜銭洗弁財天様は八大龍王の中で最も神通力の強い神様で、特に金銭、財運をお授け下さる神様です。山科の霊域に太古から鎮座され、188年昔、光格天皇の文化5年戌辰正月、当山第33祖・日酋大和尚この地に巡錫の砌感得された九頭竜銭洗弁財天様が、平成7年10月4日戌辰の吉日から翌5日の己巳の吉日にかけて不思議な神力を示してここに再び応現され、参詣の方々を必ず守護するという誓いをお立て下さいました。
龍神様の御神体の中から流れ出る御霊水で銭を洗い、浄財袋に入れてお持ち下さい。福禄寿が授かり財運がつき願いごとが成就します。 辰(たつ)と巳(み)の日がご縁日で特に戌辰(つちのえたつ)己巳(つちのとみ)の日が大願成就日です。 御霊水で洗った浄銭を入れる浄財袋は札所でお求め下さい』
『建立碑 安國院・生御影堂・小客殿 うつそみを、うつせしそしの、みすがたの、やさしくつよき、のりのほほえみ 酬本化上行高祖日蓮大菩薩 御降誕第800年報恩供養也 為中興沙羅樹院日瑞大和尚 第37回忌追孝報恩供養也 平成27年5月7日建立之矣 光山正嫡付法書沙羅院瑞叡日慈』
勅使門がありました。他の寺院のように豪華ではありませんが、落ち着いた雰囲気です。
バイクに戻り、「琵琶湖疏水」を渡り、r143・三条通に戻り、7:28「セブンイレブン京都三条御陵店」で、「マーガリンレーズンバターロール4個116円」購入。r143〜湖西道路で、7:46ヨットハーバー着。
部員みんなに挨拶し、パンを半分食べて朝食にします。選手やマネージャー・運営やレース観戦する1回生プレイヤーとあれこれ話しました。体操してブリーフィングして出艇。この日は、北の軽風で4レース成立しました。この日は470チームのコーチボートに乗ってコーチングです。クルーが足らないので、8艇参加しました。秋の団体戦のプレ大会なので、3艇で1チーム。A・B・C3チーム8艇エントリーしました。D社A・RitsA・当方Aがトップ3になるだろうと予想しましたが、当方にスタートフライングが2回あり失格2つ付いたので、両校には差をつけられました。トップでフィニッシュラインを横切ったのに、トップフィニッシュのホーンが鳴らずにがっかりです。
Cチームの1艇が、スキッパーが毎レース交代しました。常に片割れがコーチボートに乗っていたので、レースで勝つための重要ポイントを話し続けました。スタート前に左右どちらの海面に行くか決めて、長いスタートラインのそちら側から、できれば一番左か右から出て、真っ先に有利を予想した海面に向かうこと。常にフレッシュウインドの中を走ること。S級は、4チーム・10艇出場しました。こちらもAチームに2回スタートフライングがあり、D社に大きく離されてしまいました。16:40に第4レースのトップ艇がフィニッシュし、本日のレースは終了、ハーバーバックしました。ブリーフィングで、この日感じた事、選手にアドバイスしたことを部員全員に共有し、帰路に着きました。


2022/6/12
琵琶湖のヨット仲間がボートの整備をするので、そのお手伝いです。いや、賑やかしになれば御の字です。当初の予定は、レース日でしたが、強風予想により中止になったので整備に切り替わりました。
倉庫から、「招き猫CB400SB」を出し、5:10出発。R171〜中央環状〜吹田ICから「名神高速」に乗りました。5:49「桂川PA」でトイレ休憩。京都東ICで下車し、湖西道路で一気に北上しました。北小松付近で、高架道が道なりにR161なり、湖岸道路になりました。
「白髭神社」前を通過し、枝道に逸れ、6:53「日吉神社」。狛犬が猿のような顔をしています。本殿の彫刻が猿の造作で、木鼻の象の彫刻には玉眼が入っていました。R161の下をくぐって湖岸に出てみました。強風が吹いています。すぐ南に「北小松水泳場」のキャンプ場が見えています。
R161を逆に南下し、再びUターンして北上し、枝道に逸れて、7:08「鵜川48体仏」。
『志賀県指定史跡・鵜川四十八体仏 指定日:昭和36年(1961)4月26日石仏の大きさは、それぞれ多少の差はあるが、像高約1.6m・顔長0.5m・肩幅0.76m・膝高0.46m・膝幅約1.3mある。地元の比良石といわれる花崗岩製で、いずれも定印を結んだ丸彫りの阿弥陀如来座像である。
現在は33体だが、元々はその名のように48体が東面していたようである。不足のうち13体は江戸時代前期に坂本慈眼堂(大津市)へ移され、また2体は昭和62年(1987)10月に盗難にあった。
伝承によると、天文22年(1533)に近江半国の守護であり観音寺城主であった佐々木六角義賢(よしかた)が、亡き母の菩提を弔うため建立したとされる。 しかし、冷泉為広(れいぜいためひろ)の『為広越後下向日記、延徳3年(1491)3月4日条に、船で琵琶湖の西側を北上し、白髭神社へと進んだところで「次に廿八体ノ石ノ阿弥陀アリ」と記されており、この時すでに石仏群が存在していたのがわかる。
あらに、永享8年(1436)、周辺の境界争いの記録に「四十八体」の文字があり、48体石仏がその頃にはすでに存在し、境界の目印として認識されていたといえる。48という数は、弥陀四十八願という信仰に因む、阿弥陀如来に対する供養信仰に基づくものである。大きな丸彫り阿弥陀仏が48体も造られ、また、1ヶ所に祀られているところは他所にはないようである。  《史跡地内には、立ち入らないでください。高島市文化財課》』
『師弟句碑
高野素十 茨城県出身。
・高浜虚子に師事し、写生に徹した簡素で平明な句風で知られる。
・この句は、ここ鵜川四十八体佛での作。
・昭和39年9月、素十主宰俳誌「芹」所載
・昭和51年10月4日没。(83才)
上原はる 高島町勝野に生まれる。
・高野素十の薫陶を受け、写生俳句を学ぶ。
・昭和48年1月なづな句会を結成、爾来28年間、主宰として指導に当たる。
・この句は、平成5年10月の作。平成10年3月発刊「合同句集なづな第5集」に所載。
なづな句会は平成13年あふち(樗)句会と改名  (高島町文化協会所属)』
R161を北上し、枝道に逸れ、7:19「乙女ヶ池」。『乙女ヶ池 この内湖は、天平宝字8年(764)恵美押勝(えみおしかつ・藤原仲麻呂)の乱の戦場となり、敗れた押勝とその一族郎党が捕らえられて処刑された「勝野の鬼江」と推定されています。又、背後の山中には壬申の乱(672年)の際、近江朝(大友皇子軍)の基地であった三尾城が存在していたと考えられるなど、日本の古代史上の二大戦乱の場となった所です。 またこの地は、古代、びわ湖舟運に欠くことのできない天然の良津(港)でした。付近の勝野・三尾(水尾)崎・真長浦・香取浦の地名が歌枕として「万葉集」に詠まれています。
中世の戦国期には、武将たちが周辺の山中に城や砦を築いて、領国の護りとしました。また、軍事上この地を重視した織田信長は、甥の信澄に大溝城を築かせて城主としました。乙女ヶ池は、琵琶湖に通じる大溝城の外濠としての務めを果たしたのです。 かっては洞海、ウラウミなどと呼んでいましたが、昭和初期、淡水真珠の養殖場として利用された頃から「乙女ヶ池」と呼ぶようになりました』
バイクで枝道を走り、7:44「圓光禅寺」。『滋賀県指定史跡・大溝藩主分部家墓所:分部家はもと伊勢上野城主(三重県河芸町)であったが、分部光信公が江州大溝藩に転封になって以来、第12代光謙公にいたるまでその系譜が続いている。この霊廟には、大溝藩初代の光信公(京都大徳寺に葬る)第7代の光庸公(江戸種徳寺に葬る)以外の歴代の藩主と第11代光貞公夫人の墓碑や五輪塔が整然と並んでいる。
なお墓所の一隅には、第2代嘉治公の不慮の死に殉じた3士をはじめ、第12代光謙公の長男光義・養女芳子の墓石が建てられている。また廟の前には無実の罪のため切腹したと伝えられる分部武左衛門の慰霊「祥光供養」塔が建てられた』
『萬松山・圓光禅寺:臨済宗東福寺派、本尊は釈迦牟尼佛、開祖は照室寂禅師。この寺は延文3年(1358)伊勢中山に創建された禅寺である。当時は後光厳帝の勅願之道場となり、官寺として朝延より荘園を、室町幕府よりは寺領を賜わる名刹であった。元亀年中、往時文寂禅師が上野城下(三重県河芸町)に同寺を移した。後に分部光嘉が中山から上野城に移るに及んで、圓光寺に寺領を寄進して、菩提寺とした。
元和5年(1619)分部光信は、江州大溝藩(滋賀県高島町)にお国替えとなり、これに伴い圓光寺並びに塔頭も当地に建立された。 なお本坊内には、慈峯院高島西国第33番札所、十一面観世音菩薩を祀っている』
『輝雲山・瑞雪院:本尊は薬師如来、圓光禅寺の塔頭である。この寺は分部光嘉公夫人(瑞雪院殿)の菩提を弔うため伊勢上野の圓光寺境内に建てられたが、本坊と共にこの地に移された。 鐘楼の梵鐘は、分部光嘉の長子光勝の菩提寺であった光勝寺のもので、京都「方広寺」大仏殿の梵鐘の残り銅で鋳造した伝承がある。 当初塔頭桂芳院(光勝寺)にあったが、廃寺となり隣接の瑞雪院の鐘楼に移された。小鐘であるが音色極めて優美である。
寺の裏山には、大溝藩に幽閉中に病没した北方探検の英傑「近藤重蔵」の墓がある。 生前重蔵はこの地の風景を賞でてしばしば散策したと伝えられる』
『高島町指定史跡・近藤重蔵墓所:近藤重蔵(名は守重、号は正斎)は、国後島択捉島をはじめ蝦夷地(北海道)の探検者として著名な人物である。とくに寛政10年(1798)から10年間に5度にもわたる探検で北方開拓に大きな足跡を残した。択捉島で「大日本恵土呂府」の標柱を建てたり、漁場を開いて開発に努めたり、札幌を中核とする蝦夷地開拓を進言するなど多くの成果を挙げた。また文武両道に秀で、学識も深く、1500巻にも及ぶ著書を残している。
しかし晩年は不遇が続き、大溝藩で2年有余幽閉の生活をし病没した。文政12年(1829)享年59才。寺の境内には、重蔵遺作の詩碑が顕彰会によって建立された』
『大善寺:天台真盛宗西教寺の末寺で、山号を紫芝林山という。本尊は安土桃山時代の作である。 織田信長より高島郡を賜った織田信澄(信長の甥)は天正6六年(1578)大溝城(高島町)入城に当って、帰依していた新庄(新旭町)大善寺の別院として、大溝城下の湖岸(現日吉神社御旅所)に移した。開山真順上人のときで、300石を賜ったという。
元和5年(1619)分部光信の入封後も旧時の因縁により特別の待遇があり、山号額は第8代光実公より賜ったものである。 湖岸に近く、再三の風水害で延宝4年(1676)現在地に移った。享保10年(1725)火災にあい、真随上人の時再建された』
8:06「日吉神社」。『日吉神社:本社は、嘉祥2年(849)長法寺草創のとき、その鎮守神として坂本の日吉大社より「山王権現」を勧請したと伝える。 長法寺廃絶後は、石垣村の産土神として盛衰を繰り返すが、織田信澄(信長の甥)の大溝城築城や、江戸時代に入って分部氏の入封などによる大溝城下の整備は、本社復興の支えとなった。祭礼神事には、石垣村村民が神社に奉仕してきた永い歴史から「宮元衆」として、今でも特別に奉仕することになっている。 祭礼(大溝祭)は宵宮5日3日、本祭は4日に行なわれ曳山の巡行(滋賀県選択無形民俗文化財)で賑わう』
緩やかな階段を上がって本殿へ。舞殿には謹詠絵馬や絵馬が奉納されていました。枝道を少し北上し、8:29「長田神社」。境内を散策し、本殿を参拝してバイクに戻りました。周囲に田んぼが広がり、田植えを終えた苗が強風に揺れていました。r296を西に走り、8:41「水尾神社」。『水尾神社 滋賀県高島郡高島町拝戸 祭神:磐衝別命(いわつくわけのみこと)比売神 例祭:5月3日
由緒:本社創建は不詳であるが、既に天平神護元年(765)には神戸十三戸の奉充があった延喜式内の古社で、東山道の官幣大社5座の中の2座(河南社・河北社)を占め、社域は現在より相当広大であった。本殿(元河南社)には、垂仁天皇の皇子である磐衝別命を祀り、河北社(現在は本殿脇の小祠)には継体天皇生母振姫を祀っている。
磐衝別命は、此の高島の地を本拠として栄えた三尾君の祖であることは、古事記・日本書紀に明らかである。姫宮である振姫はm高島の別業高島宮に居られた彦主人王の妃で、越前三国より迎えられ、当社拝殿を産所として3児を出産されたと伝えられる。此の皇子の1人男大迹王(おほどのおおきみ)が後の継体天皇となる。江戸期には、8代将軍吉宗が神輿1基を奉納。9代家重公は社殿を再建、共に現存している。境内には鎌倉中期の石灯籠や供養塔の残欠が数多く残っている。 又、当社背後の杣山(三尾山)は、古来より歌枕としても有名で、万葉集をはじめ数々の歌が詠まれている。 「五月雨に、なほ川音も高島や、水尾の杣山、雲もなかれむ」』
拝殿に参ります。『石灯籠:鎌倉中期の作と伝えられる。文化財的価値の高い遺物である』
拝殿には、『安産子授大神』の木札が下がっていた。武烈天皇が子無く崩御された皇統断絶の危機を救った継体天皇を授かった振姫命を祀っている日本国最高の子授の神様です。我が家の息子達は幸いにして子を授かっているので必要ありませんが、子孫の繁栄を願います。
水尾庭園を巡ります。池の周りに菖蒲が咲いています。満開期を過ぎていますが・・・。シマヘビがいてドキリとしました。池面に被さるような枝を張った木に、モリアオガエルの卵がいくつも下がっていました。
r296を東進し、左折して北上し、右折してr23で東進・北上し、9:16「稲荷山古墳」。『滋賀県指定史跡・稲荷山古墳 所在地:高島郡高島町鴨 昭和39年8月19日指定 明治35五年の県道拡幅工事のさいに発見されたこの古墳は、後円部に横穴式石室を持つ前方後円墳で、発見当時は、長さ9m、幅・高さともに約1.8mの石室があったとされ、内部には凝灰岩質の刳貫(くりぬき)式家形石棺が収められていた。棺内からは金銅製の冠や沓などの装飾品や馬具類などが、棺外からは須恵器類などの豊富な副葬品が出土しており、古墳の造られた時期は6世紀前半と位置づけられている。
また、この付近は古代の三尾郷に想定され、石棺や副葬品の状況などから、継体天皇に2人の妃を嫁がした三尾氏に関係する古墳の可能性が高いとされ、滋賀県を代表する古墳のひとつとして注目されている。  平成8年3月 滋賀県教育委員会』
窓の大きな小屋があり、石棺を覆っていました。窓からしっかり見学できました。バイクを少し動かし、9:21「志呂志神社」。
r23を北に少し走り、9:29「えな塚」。『胞衣塚(えなつか) 史跡:高島市指定文化財・昭和60年4月3日指定 この胞衣塚には、継体大王が誕生した際の胞衣(赤ちゃんを包む膜・胎盤など)を埋めたという伝承が残っています。継体大王とは、この高島の地で生まれ、越前国高向で育ち、河内国の樟葉宮で、第26代の天皇として即位したと伝わる人物です。
この塚は、直径12mの円墳で墳丘上に生えている松は「ごんでんの松」と呼ばれています。南には「御殿川」と呼ばれる川が流れ、この付近の小字名には「上御殿」「下御殿」という地名が残ります。三尾里を含めた周辺には継体大王との関係が連想される地名の他、継体大王にまつわる伝承も数多く残っています。  高島市教育委員会』
r23を北に走り、9:36「箕島神社」。また少し走って、9:43「安閑神社」。『力石(水口石)・神代文字の石』と案内板が掲示されています。『力石(水口石):鎌倉時代の説話集「古今著聞集」に「越前国(福井県)から都へ相撲の大会へ行く1人の武士が、この村(石橋村)を通りかかり「大井子」という美しい村娘に出会った。この娘は、大変な力持ちで、武士はこの村に止まり力を付けて都へ上がりお陰で、相撲大会に勝った」と誌るされている。また、この石は「この村で田の水争いがあった時、この娘は、夜の間にこの石で水口を塞ぎ、水争いを止めた石」といわれる。大人が大勢で持ち上げられない大きな石を持ち上げた力持ちの娘。当時の水争いの激しさを伝える遺跡である。
神代文字の石:字とも絵とも判別のつかない陰刻がされた石である。元は知らないで橋に使われていたというが、一説には古墳の一部ではなかったか、とも言われる。この陰刻の解明は未だなされていないが、この種の記号文字は神代文字と呼ばれ、不思議な歴史の貴重な遺産である。  安曇川町北出区』
r23〜r297で、9:51「稲荷神社」。右折して、吉田神社参道を北に走り、9:59「佐田神社」。10:07「田中神社」。『田中神社 御祭神:素戔嗚命・奇稲田姫命・八柱御子神 御神徳:素戔嗚命は、和歌の祖神にして悪疫を鎮め、厄除けに威のある神に坐します。往古より田植神・五月神・五穀の守護神とも称し、田中郷総氏神として奉斎され、その御神徳は広大無辺です。 例祭日:5月4日  宮司』
『御祭神素戔嗚尊の歌碑 (明治22年4月建立) 「八雲立つ、出雲八重垣妻籠みに、八重垣作るその八重垣を」(古事記) このお歌は、天照大御神の弟神にて当社の御祭神「素戔嗚尊」が日本で一番最初に作られた歌にて、短歌の起源と云われ、素戔嗚尊は「和歌の祖神」と崇められています。
御歌の内容は、素盞鳴尊がお妃にされた奇稲田姫と住む所を出雲の国に求められ、「私はこの地に来て心爽やかで、気持ちがよい」と、宮殿を建てられます。するとそこに雲が立ちのぼります。その情景を歌にされたのがこのお歌です。「雲多く湧き起こすという出雲の国の名にふさわしく、湧き出る雲が織り成す八重の垣。妻の櫛稲田を静かに籠もらせようと、雲は作るよ八重の垣。ああその八重の垣よ」という意味の込められたお歌です。  宮司』
境内に、『田中古墳群(彦主人御陵)』の案内板があったので、以前にも行きましたが、再び参りに行きましょう。
『安曇陵墓参考地 当初は帆立貝式古墳で、周辺にある高塚4基の陪塚と共に宮内庁の所管となっております。「王塚」又は「ウシ塚」と呼ばれ、地元では応神天皇の皇玄孫彦主人王(ひこうしきみ)の墳墓と伝承しています。
伝承では、彦主人王は近江国、北越5カ国を刺史として治めておられました。越前国坂中井の里より妃として迎えられた振媛(ふりひめ)さまは垂仁天皇の子孫にあたえられ、この山崎の地で3つ子をご安産になりました。3王子の弟君彦太王は後に中興の名君第26代継体天皇となられました。彦主人王は王子が5歳のときお亡くなりになりましたのでこの地に葬られたと伝えられています。当墳は大小4捨数基の塚が散在す王塚田中古墳群の最大のものです。  安曇川町』
『田中古墳群 (滋賀県高島市安曇川町田中字山崎)
田中古墳群:高島平野の中央を流れる安曇川右岸に広がる泰山寺野台地の東端部一帯に位置します。昭和45年に行われた滋賀県教育委員会の遺跡分布調査により、その存在が明らかになりました。平成21〜24年にかけて高島市教育委員会が実施した測量調査によって、古墳の総数は70基にのぽることが判明しました。
田中王塚古墳(1号墳):田中古墳群の北端には、古墳群で最大の大きさを誇る「田中王塚古墳」が存在します。現在、田中王塚古墳とその周囲の古墳4基は、継体天皇の父「彦主人王」の陵墓「安曇陵墓参考地」として宮内庁が管理しています。立ち入りは制限されていますが、周辺の地形測量から、全長約70m・高さ約10mの「帆立貝形」(円墳とする説も有ります)を呈する古墳です。築造時期は、周辺から採集された埴輪の破片や古墳の形から、5世紀中葉と考えられています。古墳の規模や造られた時期から。田中古墳群の中心的な古墳(盟主墳)と考えられています。
その他の古墳(2号墳〜70号墳):田中王塚古墳以外の古墳は、円墳や方墳を主体に構成され、10m〜20m程の大きさです。埋葬施設は、これまで考えられてきた「木棺直葬(もっかんじきそう)」の他に、「横穴式石室」が存在します。造られた時期等によって異なるものと考えられます。これらの古墳の築造時期は、かつて田中古墳群から出上し、現在、田中神杜に所蔵の上器や36号墳の発掘調査の成果から、5世紀中葉〜6世紀後葉にかけて造られたものと考えられています。このことから、田中古墳群では、盟主墳とされる田中王塚占墳が造られる前後から、造墓活動が継続的に行ゎれ構成された古墳群で、継体天皇擁立に尽力した三尾氏一族の古墳群と考ぇられます』
r297を東進し、「JR安曇川駅」をくぐり、10:38「ファミマ安曇川西万木店」で、「コッペパンつぶあん138円+CCレモン139円=277円」を購入。r558を南下し、10:43「エネジェット安曇川SS」で給油。269km/10.16L=26.5km/L。
r297〜r558〜R161高架道で湖西を南下します。11:14、ヨットハーバー着。YasさんとImaさんが、Yasさんの船の上で整備していました。コクピットのウインチボックスが小さくて、Yasさんが買った大きいのに交換しています。ウインチも新調されており、Goodの出来でした。
Yasさんの新車に乗って昼食を買いに行きます。パンダという可愛い名前のイタリア車で、「イタリア語でパンダってどういう意味ですか?」と聞くと、「イタリア語ではなく、熊のパンダから命名されたと思う」と、ピラーに画かれたパンダの足のデザインを指差されました。そうなんだ〜。まだ綺麗でちょっとお洒落にモディファイしていた軽自動車を買い替えたのか?と思ったら、大きいBMWの方を買い替えたそうです。子どもたちが巣立ち、大きな車より、可愛くてキビキビ走る車の方が好きになってきたそうです。
12:11、「ファミマ和邇南浜店」で、「グリーン宝麦茶680ml129円+コッペパンいちごジャム138円=270円」購入。整備が終わり、沖を見ると朝吹いていた風が弱くなっているので、3人でセイリングに出ることにしました。昼食を食べている間に船を降ろしてもらい、沖に出ます。ところがメインハリヤードがマストの上に上がってしまっており、メインセイルが上げられません。あ〜、ジブだけで走りますが、この船はハイパフォーマンスボートなのでセンターボードの幅が狭く、ジブだけではリーヘルムが強くバウが下に向きます。タッキング出来ないのでジャイブ回りで方向を変更したり、「なるほど、こうなるんだ〜」と勉強になりました。
ハーバーバックし、帰路に着きます。湖西道路〜京都東ICから名神高速。16:48「桂川PA」でトイレ休憩し、「赤福餅800円」を家内へのお土産に買いました。17:31、帰宅。


2022/6/11
コーチしている大学ヨット部のコーチングの日です。午後から雨の予報なので、電車で行くことにしました。最寄り駅まで、「通勤リード110」で走り、本を読み始めました。「監督たちの高校サッカー」です。6:17「セブンハートインJR尼崎駅西口改札店」で、「マーガリンレーズンバター4個108円」購入。この日は、魔法瓶に氷と麦茶を入れて来たので飲み物はOKです。
快速に乗って大阪〜京都を過ぎ、山科駅で湖西線に乗り換えます。やってきた各駅停車に乗り、対面4人がけ座席に座ると、横には見慣れたお若い女子Horさんが・・・。お化粧しているので声を掛けず、本を読み続けました。大津京駅に着いて席を立つと、「おはようございます。気づきませんでした、すみません」「おはよう、集中してたから声を掛けなかったよ」。並んで話しながら階段を下りた所で、「チャージするから先に行って」と、ICOCA3000円投入してから改札を出ました。7:40「セブンハートインJR大津京駅前店」で、「風に強いビニール傘65cm624円」購入。傘を持って来るのを忘れました。まだ降っていませんが、ヨットハーバーからの帰路は降っているでしょう。コンビニのレジで並んでいると、Suzくんがいました。
ハーバー内に入ると、富山や金沢大の船が並んでいました。遠路からの遠征なので、いつも声を掛けているから、艤装しながら部員が「おはようございます」と声が掛かりました。「九州大学」の文字がサイドに書かれたS級が2艇います。「九州から来たの?K大のコーチをしている・・です」と自己紹介し、あれやこれや。2艇4人での遠征のようで、コーチボートはありません。前日の船下ろしの時は、当方部員が手伝ったようです。事前に連絡を取り合ったのでしょう。女子部員が1人いたので、「トイレの時はK大コーチボートに付いてるから遠慮せずおいで」と伝えておきました。
当方部員に挨拶し、部員たちとあれやこれや話しました。1回生女子マネさんも数人先輩マネさんに教えられながら一緒に行動しています。1回生選手も数人おり、レース運営や陸上PC担当・コーチボートからレース観戦に分かれています。2回生以上の選手は全員レースに参加するので、1回生練習のコーチングやレスキューボートがなく練習なしのようです。Nanキャプテンから、タイムスケジュールが伝えられ、体操・時計合わせ・天気予報報告を終え出艇に備えます。トイレに行くついでに九大バースに行き、「当方ブリーフィングに合流しなよ」と誘いました。「良いんですか?」と驚いていましたが、「当方が九州に行った時は世話になるからお互い様じゃん」と笑いました。九大は、全日本インカレの常連で好敵手ではありますが、それとレースサポートは別です。「予備セイルあるの?工具や部品入れがあるのら、それもコーチボートに乗せておけば良いよ。トラブったらおいで」。
ブリーフィング時間になり、九大選手がレース艇を当方横のスロープに持ってきて、九大も加わってブリーフィング。最初に僕が指名され、「下級生は思い切ってスタートから攻めること。上手い選手がスタートライン先頭に並ぶので、失敗しても学ぶことが多いから、そこにいるとグンと上達するよ。上位艇は結果も求めて行こう。でも秋のインカレ予選・本戦が本番だから、まだ半年あるので、チャレンジする気持ちは忘れないように。レースでフィニッシュする毎にコーチボートにおいで。ペアだけで話していると煮詰まってしまうことがあるから、気持ちをリフレッシュすることが次のレースに繋がるよ。楽しくレースに挑もう」などと話しました。
レース艇が次々にレース海面に向かって出艇して行きました。470が現役学生9+OB2=11艇/全40艇出場します。S級は現役11+OB1=12艇/53艇。S級コーチボートに乗って沖に出ます。1回生女子マネ2人と1回生プレイヤー4人が乗っています。朝良い風が吹いていたのに落ちてしまい、遅れているS級を引っ張ってスタートエリアへ。12時ぐらいまで風がなく、D社など他大学のレース艇が近くを通るたび、声を掛けました。
12:25の第1レースがスタートし、この日は3レース成立しました。1回生に指示し、ビデオを撮ったり、レースのあれこれを教えたりしました。3レースを終え、470は、D社エース艇が1位・当方OBが2位・現役3・7・9・11・12位でした。D社・Rits・当方が上位に並び3強。S級は、1・2・3がD社OBが並び、4・6・10・11・14位が当方で、学生に限れば、1・3・7・8・11位で、やはりD社・Rits・当方が3強のようです。3位が2回生・1回生コンビで、7位が1回生、新しい力が結果を出しています。インカレ本戦で入賞(6位以内)に入るには、スターター3艇の他に2艇、計5艇速いボートを揃えなければ戦えません。両クラスとも3艇は計算できますが、4番艇以下の力が足りません。そこから新しい目が出てきたので、あと半年が楽しみです。
15:55に3レース目の最終艇がフィニッシュし、AP/A旗が本部船に揚がり、この日のレースは終了。ルール違反をプロテストした艇がいたので、その艇を引っ張ってハーバーバック。僕もそこでコーチボートを降り、抗議書作成の手伝いをしました。相手艇であったD社艇がルール違反で失格になりました。
解装し、ブリーフィングします。気づいたことを話しました。3回生女子コンビ艇がスタートを果敢にチャレンジし、結果追い出されてビリスタートになった例を上げ、チャレンジすることで多くを学べたので、練習で追い出されないよう練習を積んだら良いと話しました。本人たちには、前もってどのように対処したら良かったか話しています。抗議艇を引っ張って帰った時、フィニッシュ後直ぐにハーバーバックしないといけない。僚艇と一緒にいては、レース終了後60分以内に抗議書を提出しないといけないルールなので、抗議書が出せなくなってしまう。自艇の最優先課題を頭に置きながら行動するよう伝えました。今大会はレース海面とハーバーが近いので良いが、時には艇長だけを乗せてコーチボートをぶっ飛ばしてハーバーバックしなければ間に合わないレースもあるので、とても重要と話しました。彼らは2回生・1回生コンビなので勉強になったと思います。
ブリーフィングを終え、帰路に着きました。レース中からポツポツと雨が落ちていましたが、カッパを着るほどでもなく、せっかく買った傘を使いませんでした。自宅最寄り駅からのバイクでも雨は大したことなく、カッパ無しで帰れました。


2022/6/5
関々戦2日目です。初日の結果は、各クラス6レース中、470は全勝、S級は2勝4敗でした。近年は、関西ブロックではKGが14連勝と一人勝ちです。でも、全日本の成績はなかなか優勝に絡めません。近畿北陸ブロックで同じく一人勝ちのD社が全日本でも優勝に絡むのと大違いです。14連勝に導いたKG監督自身が、関西ブロックのレベル低下が全日本で優勝に絡めない原因と分析しており、監督交代して自身は関西学連理事長に移って、関西全体のレベルアップしようとしています。
7:32、「ローソン西宮久保町店」で、「アップルジュース100%1L・180円」購入してハーバーへ。ゲストバース先端遠くに、アメリカから走ってきた20フィートの小さなヨットが見えました。新西宮ヨットハーバーは、通関手続きのできる港です。神戸港から、職員がやってくるのでしょう。昨日夕方に帰国したので、本日の通関手続きが終わるまで、日本国に上陸出来ません。堀江さんは船で泊まっているはずです。
ディンギーヤードに向かい、母校艇庫前へ。監督やコーチ、選手・マネージャーとあれやこれや話しました。前監督Kくんが、コーチ連中を連れて飲みに行ったようです。濃い話をしたそうです。Kくんは人望があり、皆が集まります。かつては選手として、クラスリーダーとして、コーチとして、OBとして
参加していたミーティングを、第三者として聞きました。選手が着るビブをクラスリーダーが名前を呼び上げて各自に渡しています。レース前の名物行事になっているようで、「はーい」と思いっきり大きな声で応える選手、「ほーい」とか公表したくないようなオリジナルな応答する選手など、都度笑いが出ています。緊張するレース前、緊張がほぐれて良い習慣だな〜と感じました。対して、隣の艇庫のKDは、選手が輪になって立ち、右回りで短いフレーズ「勝つぞ!」とか「初心に帰って」「いつも通り」「思いっきり」など大声で自分をチームメイトを鼓舞している。こちらもナイス!と感じました。
同時に、反対隣の阪大と名大を迎えて3年ぶりの定期戦をします。加えて、甲南大が学習院大と成蹊大を迎えての3年ぶりの定期戦開会式をしています。この日は、近畿インターハイで、全国インターハイ切符を争います。コロナ禍で中止になっていた大会が復活し嬉しい。僕のようなロートルにとっては2年などすぐですが、若者にとっては勉強以外に生涯の友達を作る時間であり、クラブ活動で青春を燃やす時間です。コロナウイルスで死に至るというお先短い年寄りに感染させないために若者の貴重な時間を奪うという政策は何なんだろう?って思います。世紀の悪政策だと憤慨しています。
風は弱いけど、時間通りD旗が揚がり、レース艇が出艇して行きました。Kaw理事長・Sekさん・部員4人と係留艇に向かいます。僕のドライブで東出入口から出艇し、レース海面へ。風がなくなってしまい、KGコーチボート・KDコーチボートなど寄ってくる船に声を掛けあ〜だこ〜だ。風は南に振りましたが、南の海面はモヤッたままで、AP/Hで一旦ハーバーバックになりました。
この船もハーバーバックします。西出入口からハーバー内に入ります。ゲストバース前に来ると、堀江謙一さんが船に乗っておられました。「おかえりなさい」と声を掛けると「ありがとう」と。南からの風が出てきているので、桟橋には戻らず、東出入口から出ていきました。既にレースが出来る風が入っています。レース海面に戻ると、本部船とマークボートがいます。名阪戦・甲南3校定期戦が合同になっており、その上マークが近くに打たれたので、こちらのレースはもっと西に移動すべく、本部船が移動しました。
レース艇がハーバーから出てきて、レースが始まりました。風速の強弱があり、2日間で最も強いフルハイクアウトコンディションでのレースもあり、楽しそうでした。母校KGは、昨日のミーティングで言われたのか、声を掛け合いチームレースらしいレースになりました。この日、両クラス3レース行われ、KGが6レース全勝でした。2日間、470は9レース全勝、S級も2-4から5-4に逆転しました。良いレースをありがとう。
ハーバーバックし、部員にデッキをブラッシングしてもらいました。昨日に続き、Hirさんが桟橋で待っていて、少し船で話してから雨が落ちてきたので帰路に着きました。帰宅すると、「用意できてるよ」と家内がTVの前から立ち上がりました。靴を買いに行くことになっていました。パンプスを買いたいそうです。百貨店に行くなら、1人で行くだろうから、僕と行くならABCマートでいいのかな?と思ったら、ロードサイドの靴屋さんで良いそうです。2軒目で気に入ったのが見つかり購入していました。夏に息子たちが帰省した時に履くのに使うのかな〜と想像しました。


2022/6/4
この日と翌日、母校ヨット部の関々戦です。現役に頼まれて、交代要員を乗せるために船を出すことになりました。4回生女子マネTさんから前日までに2度電話があり、この日は10時出艇とのこと。「船の準備してから、8時頃艇庫前に行く」と返事していました。
いつものように4時前に目が覚め、仕事場であれやこれや。することがなくなったので、「通勤リード110」を倉庫から出し、自宅に戻って朝食食べて出発しました。7:20「セブンイレブン西宮マリナパーク店」で、「オレンジ1.5L170円+レジ袋特大5円+いつものコーヒー甘さ控えめ1L238円×2+味付け海苔ツナマヨネーズ115円+味付け海苔辛子明太子140円=978円」購入。7:30頃ハーバーに着いて桟橋係留艇で始業点検。オイル漏れしていたところは、連絡通りヤンマーが直してくれていました。7:41、エンジン一発始動。トイレ掃除して、ハッチを開けてドッグハウス内の空気の入れ替え終了。
母校艇庫前に行きました。学生たちから「おはようございます」「おはよう」。僕が高校ヨット部に入部した時、先輩から言われたのが、「艇庫前を通る年上の人全員に挨拶しろ」。先輩でなくても、他校関係者でも、近所のおばちゃんでもOK。これにより、今でも自宅前を通る方には挨拶するのが習慣になっています。これによりご近所さんとの関係が良く、住みやすい環境が作れました。コーチをしている大学のある琵琶湖のヨットハーバーでも同じで、多分全国何処のヨットハーバーでも学生艇庫前でも続いていると思います。こういうところが学生スポーツの好きなトコロです。
女子マネTさん他女子マネさんが寄ってきて、あれこれ打ち合わせました。乗艇メンバーはK前監督・現学連理事長、OG・S女史、学生5人。母校コーチ・監督とあれこれ話し、隣の艇庫のO大GM・Kさんとあれこれ。対抗戦相手のKD艇庫前に「いかにも部員両親」と思われるご夫婦がカメラを構えていました。「親御さんですか?」と声を掛けると、やはりKD4回生のお嬢さんのご両親でした。レギュラー選手なのですが、今年の対抗戦の主催校がKDなので、運営側に回っているようです。女の子ですが今年の関西学連委員長を拝命しているそうで、人望もあるようです。いつもレースでは、KDの支援艇はTさんの船を出します。ところがこの週末、KDヨット部OB・OGのTさん夫婦は、愛知県蒲郡で開催されているS級マスターズに出場するので出ないはず。「乗る船、あるのですか?」「いいえ、出艇した後帰ります」「じゃあ、乗りませんか?」「え、いいんですか?」「良いですよ、定員余ってますから」。母校コーチ・監督・前監督に話を通し、KD側もOKとのことでご一緒することになりました。
KDヨット部顧問先生がやってきて、開会式が始まりました。この大会は3年ぶりです。前回2019年は母校KG主催で、その時も部員を乗せるために参加していたのですが、OB会長が用事で来られなくなり、頼まれて僕が開会挨拶することになりました。それを思い出しました。
エール交換などが終了し、レース開始。D旗がホーンとともに揚がり、470・S級が出艇して行きました。艇庫前で、乗艇学生たち・理事長・OGと合流。出艇写真を撮っていたゲスト親御さんと合流して船へ。僕のドライブで桟橋を離れました。東出入口を抜けたところで、理事長にステアリング交代。今年春まで監督だったので、自由に観たい所に船を動かしてもらいましょう。僕はゲストご夫婦を緊張させないためにお喋り。お嬢さんは就活で苦戦しているのを聞き、「困ったら、うちに来ますか?」とK前監督から。運送会社を経営しているので、元ヨット部員を数名雇っています。「女子インカレ」の話になり、お嬢さんも今年初参加するそうです。K前監督時代の10年で半分近く総合優勝しています。4年前に卒業したOG・Tさんも優勝してダイヤモンドのネックレスをゲットしています。2位ルビー・3位エメラルドネックレスが賞品です。
後輩学生と話に行きます。2回生1人・1回生4人(内2人女子)で、ジュニア上がりが2人います。2回生の子は以前聞いていますが、1回生とは初見。出身が兵庫ジュニアと聞き、「なら、私の次男の後輩だ。兵庫ジュニアヨットクラブは僕が作ったんだよ」と話すとビックリしていました。しかも高校は大阪の清風高校ヨット部で、これまた次男の後輩でした。1回生入部7人中6人がヨット部経験者だそうで、コーチしている大学ヨット部と比べると強烈な戦力です。
13:25、水上飛行艇が高度を下げ、レース海面の近くに着水しました。辛坊治郎さんが失敗した1回目の太平洋横断時にクジラとぶつかって沈没した時、救助した世界最高性能の水陸両用飛行艇US2です。メーカーの新明和工業の工場が西宮尼崎港に面した神戸東灘区にあります。南西の軽風が吹いており、西から飛んできたUS2が海面の北東まで旋回し、風に向かって揚力を維持しつつ低速に落として高度を下げて行きます。「こんなに速度を落とすんだ」というぐらいゆっくり走っても失速して落ちません。高性能の根源を見ました。安定した姿勢で着水しました。すぐに水上艇の状態で、工場の方向に海面を走って行きました。僕が学生時代は、開発途上だったのか、毎日のように何度も離着水を繰り返していました。新明和工業は、戦前戦中の川西飛行機が前身で、陸軍最新鋭戦闘機の名作「紫電」「紫電改」を開発製造した高い技術を持った会社でした。戦後、GHQにより国産航空機製造を禁止され、民需で食いつなぎ、自動車部門は今のダイハツ工業です。飛行機部門はこの新明和工業。関西を代表する企業です。
レースは2回ソーセージコースのショートコースで、軽風の中6レース出来ました。この大会は全15レース予定されています。15時過ぎにAP/A旗で終了し、ハーバーバック。ハーバーに戻り、16:30給油桟橋に着けて満タン給油29Lしました。ご夫婦と学生を降ろしました。Tさんにご夫婦のエスコートを頼みます。彼女は、新型コロナウイルスを打っていません。マスクなしを続けており、電車でもマスクなしだそうです。僕も外ではマスクなしですが、彼女の根性の座り方に偉いと思いました。エビデンスのないことはしないそうで、K理事長は「俺も変わってるけど、こいつはもっとや」と笑っています。
バース桟橋に戻り、後片付けをして解散。学生たちと別れ、帰ろうとセンターハウス前に戻ると、一般の方がたくさん南の方角を見ています。ヨットハーバーは非日常なので気持ちの良い散歩コースですが、こんなに多くの方がいるのは異常です。「あ、そうか、堀江謙一さんが帰ってくるのだな」。桟橋ゲートを抜けてすぐ、係留艇の準メンバーHirさんから電話が入りました。「何処にいてはります?」「センターハウス前です」「船に行きます」「じゃあ僕も行きますわ」。
船に戻り、2人であれこれ話しました。上天気で丁度よい気温で、1年中で最も気持ちの良い時期です。上空を3機のヘリコプターが旋回しだし、その輪がだんだん近づいてきます。その輪の中心に堀江謙一さんの乗る船がいると思います。2艇隣が堀江さんが日頃乗っているマーメイド号のバースですが、この日は係留されたままです。お仲間さんは別の船でお迎えに出ているのでしょう。汽笛やホーンを鳴らしながら、東出入口からハーバーにハーバーの船が入ってきました。それに曳航されて小さな20フィートの堀江さんの船が入ってきました。堀江さんが思いっきり手を振っています。
この日母校と定期戦を行っていたKD高校ヨット部が堀江さんの出身校です。20代の青年の頃、20フィートの小型木造ヨットで、このハーバーの前身「西宮ヨットハーバー」からパスポートも持たずに密かにアメリカに向かって出艇しました。不法出国なので家族にも内緒だったから、家族から捜索願が出される程でした。無事世界で初めて太平洋単独航行を成し遂げ、サンフランシスコに不法入国しました。日本政府は当初不法出国なのでカンカンで、即拘束され囚人として帰国のハズでしたが、サンフランシスコ市長が太平洋横断に歓喜し、パスポートが省略されて入国し、名誉市民にまでなってしまいました。アメリカでは大人気で、それを受けて日本でも大歓迎されました。
堀江さんの船の追って、次々に出迎えに出ていた船が帰って来ました。お隣さんも戻って来られました。「何処まで向けに行っていたのですか?」「灯台まで」、何だか楽しそうです。同じ関西ヨットクラブのメンバーなので、誇りでもあるのでしょう。暫くしたら、レース艇が次々に出ていきました。Hirさんによると、「大阪湾レース」のようです。大阪湾一周オーバーナイトの恒例レースです。陽が西の空低くなり、解散して帰宅しました。家内とあれこれこの日の出来事を話しました。幼稚園同窓会LINEグループに、堀江さん凱旋写真を投降したら、盛り上がりました。


2022/5/29
中学校の先輩、高校・大学ヨット部の先輩であるNさんの海での散骨の日です。亡くなったのは一昨年ですが、コロナ禍でヨット部葬がずっと延期になっていました。僕が高1でヨット部に入部した時、N先輩は大学卒業しOB1年目でした。7才年上です。僕は大学付属中高で学びました。高校ヨット部は大学と同じ艇庫で活動していました。高1の時の大学ヨット部キャプテンも伊丹市出身で、前キャプテンのN先輩に続き伊丹在住キャプテンが続きました。加えて、高校ヨット部キャプテンも伊丹市在住でした。
N先輩とはヨット部で同じ釜の飯を食った仲ではありませんが、僕がOBになってから家が近いこともあって、いろいろ引っ張ってもらいました。大学4回生の時、兵庫県代表として国体に出場した時、伊丹市の市長から市内の国体選手が呼び出されました。「頑張ってね」のセレモニーです。僕の目的は、国体3回目なのでセレモニーでの晴れ姿ではなく、金一封期待です。目的通り、金一封を頂きました。この時の市長Yさんは、市内のスポーツ振興を政策として力を入れており、市のスポーツセンターが完成し、水泳の代表選手にコーチングを頼んでいました。僕は、「海のない市だけど、平安時代に僧行基が作った大きな溜め池・昆陽池で子供のヨットは出来ないか?」と聞かれました。「出来ますよ」「じゃあ、頼むよ」と口約束しましたが、翌年、就職して東京に行ってしまったので、立ち消えになってしまいました。1年後、転勤で関西に帰り、「あれ、どうなったのかな〜」と思っていたら、「おい、子供のヨットクラブ作るから、お前も協力せ〜よ」とN先輩に声を掛けられ、伊丹市からの資金で、昆陽池でジュニアヨットクラブを立ち上げました。
昆陽池の設立時の池は、中央に噴水がありとても邪魔。すぐに同じく伊丹市の飲料水確保池の瑞ヶ池に場所変更になりました。広報伊丹でヨット部員を募集し、小中学生のヨットクラブが軌道に乗り始めました。中心はN先輩で、部員の親御さんにヨットを教えながら、ヨット経験者がいなくてもクラブが回るように土台を作っていきました。レースにも参加しました。コーチング料は1人1日4000円ぐらい伊丹市から出ていたような・・・。でも、N先輩は、それを寄付させて全額プールし、ヨットの部品など子どもたちに全て使い親御さんの負担を少なくしました。コーチはKGヨット部出身者が中心なので、最長老のNさんから「ボランティアでいいよね」で文句などでるはずがありません。その代わり、「昼、食べに行こう」と皆を誘い、何度も「今日は俺が持つわ」で奢ってもらいました。遠征時のコーチの宿泊費などないので、子どもたちや親御さんはホテルや旅館に泊まりますが、引率コーチは安いラブホテルで泊まったこともあります。あそこは2人料金なので安上がりです。
N先輩が母校ヨット部の監督に推挙されジュニアヨットクラブから離れました。数年後「お前も来い」と僕も誘われ、コーチに就任しました。翌年、「次の監督はお前な」と打診されましたが、とてもN先輩のように出来ないな〜とペンディングしました。次男がジュニアヨットクラブに入部し、元ヨット乗りが1人しかいなかったので危険だと思い、母校コーチを辞め、ジュニアヨットクラブのコーチに復帰しました。母校ヨット部には時々顔を出し、ホームルームを立ち上げ、数年後女子マネにノウハウを伝え、自分たちで動くようになりました。
僕は文科省のスポーツコーチ(セイリング)資格を取得し、がっつりジュニアヨットクラブを動かす側になりました。次男が高校生になりジュニアを離れた後もジュニアに関わり、近畿地方唯一の全国理事になり、広報委員長としてウェブ・メール・携帯電話も含めて大改革しました。全日本選手権や世界選手権最終選考レースの事務局長や広報を担当し、それ以前なら1日のレースが全て終了した数時間後でないとレース結果が出なかったのを、次のレースまでにそれまでのレースのオーバーオールの結果をメール登録者全員に送るシステムを構築しました。僕は陸上にいますが、レース海面のコーチボート場では一斉にコールが鳴り、コーチ・親御さん皆さんがレース結果を閲覧する姿が実現しました。レース会場に来られていない親御さんや祖父母さんでも登録すれば同じ情報を得られるので、大好評を得ました。息子も日本代表として国際レースに参戦し良い経験をしましたが、僕自身が世界選手権・ASEAN選手権など監督として小中学生を引率して国際レースに参加しました。空港で税関を通らず特別室で対応されたり、タイ王家皇族の方に歓迎され、握手し話したり、いろいろ特別な体験も出来ました。そして今、次男が進学した大学のコーチをしています。あれやこれや僕を引き回してくれたN先輩は、僕の大恩人です。
散骨の出艇は10:30ですが、それに使う係留艇のチェックもあり、7:30に四輪に乗って自宅を出ました。いつもなら「通勤リード110」で行くのですが、多くの先輩が来られるので、駅まで送ることがあっても対応できるように四輪にしました。7:42、近所の「セブンイレブン」で、「いろはすシャインマスカット555ml117円」購入。8:13、新西宮ヨットハーバーPへ。
時間があればウインチも整備しようと整備道具も持参しました。係留艇に乗りエンジン始動。ドッグハウスの換気をします。トイレ掃除もしました。コクピット上にサンブレラ(屋根)をセットしました。エンジンオイルの漏れをチェックしました。やはり少し漏れているようで、ヤンマーに部品交換してもらうことになりました。
10時前になり、受付のあるセンターハウス前の係留艇ゲートに向かいます。多くの先輩に挨拶し、H大ヨット部GM・Kさん、コーチしているK大前OB会長Aさん、D社で僕の同期だったHくんも来てくれていました。D社前監督Sくんもいました。Sくんは伊丹のジュニアヨットクラブに入ってきた4期生です。その後D社に入学しヨット部主将、そして監督したN先輩の教え子です。僕も彼を引率してレースに連れていきました。ジュニア時代は、アジア選手権代表になりました。
80余名集まり、10:30、5艇に分乗しました。僕が乗ることになったのは、甲南大ヨット部OB艇で、ババリア38フィートからXc45フィート艇に船を替えており、写真を撮らせて頂きました。大型艇に増えているメインセイルファーラー付きですが、主流のマストファーラーではなくブームファーラーになっていました。「ブームファーラーなんですね。フルバテンですか?」「そうです、セイリング力が高いですよ」。マストファーラーはメインセイルのラフをマストに巻いていくので、水平のバテンを入れることが出来ません。バテンがないと、メインセイルのリーチが緩く、セイリング力が劣ります。ブームファーラーの方が、僕のようなレーサー上がりの方にはバテンを入れることが出来るので好評です。45フィートのブームファーラーなのにそれほど太くなく好印象でした。
この船のオーナーは、僕の1才下のFさんで、毎年年賀状交換している仲です。沖に出て行きます。息子さんたちが優秀で・・・なんて、僕をよく紹介してくれました。沖に出て行きます。KGの後輩が数名のっており、僕がN先輩に引っ張られてコーチをしていた時代の選手だった子達でした。当時の話で盛り上がりました。散骨海面に着いて、5艇が円を描くように周ります。各艇から花が投げられ、ホーンが鳴ります。FくんがKG校歌や応援歌を用意してくれており、JBLコンパクトスピーカーから大音量で流してくれました。ライバル校ではありますが、仲間でもあります。2年前に西宮のレース艇を降りるまで、数年間別の艇で毎月ポイントレースでバチバチ競っていました。母校含めた学生がレースをしていました。470・S級とも40艇以上参加しており、帰宅後調べたら公式戦ではなく、オープンレガッタのようでした。この春から、KG監督が代わりました。前監督が関西学連トップに就任し、関西全体のレベルをアップさせるために、レース経験を積ませようとレースを増やしているのだと想像しました。
ハーバーバックし、センターハウス2F会議室を使った「N先輩追悼の会」へ。僕の3才上のKさんの司会で会が始まりました。N先輩と同期のK先輩が中心になってN先輩夫人とコンタクトしてこの会に繋がりました。食事しながら、N先輩を追悼する話がいろんな方から披露されました。大学ヨット部の頃の話題が多かったので、Sくんを推薦しました。ジュニア時代の思い出からいろいろ話してくれました。Hくんは、得意の詩吟を披露してくれました。仕事でも関係したN先輩の跡継ぎの息子さんやN先輩の奥様ともお話させて頂きました。
お開きの時間になり、帰路に着きました。8:13〜13:26新西宮ヨットハーバーP800円。Hくん・Sくん・Aさんを、阪神西宮駅・JR西宮駅まで送ってから帰宅。帰宅してから、係留艇にウインチ整備道具を忘れたのに気づきました。家内から、「お茶しに行こう」と言われていたので、1時間ぐらいしてから、再びYHに向かい、係留艇から道具を回収し、センターハウス1F「フリアンディーテ」でお茶しました。家内はケーキセットで、僕は今年はじめての「ふわふわフラッペ」を堪能しました。


2022/5/28
コーチしている大学ヨット部の女子インカレ予選日です。本日・明日、2日間の予選です。インカレ(全日本学生選手権)には、男女混合個人戦・団体戦と女子個人戦・団体戦があります。団体戦には、470・S級2クラス各2艇の点数の合計で競います。2020・2021年の2年間、コロナ禍で女子インカレが中止になっていました。3年ぶりの女子インカレです。優勝するとダイヤモンドのネックレスで、2・3位はエメラルドとルビーです。男子には賞品などないのに、女子らしい大会です。助っ人の男子部員は少数いますが、選手は全員女子で、女子マネージャーも参加するので、とても華やかです。2018年に久しぶりにコーチしている大学ヨット部が1艇参加し、男子部員のサポーターがおらず、サポートカーもなかったので、私が日程を空け全日サポートしました。支援艇もなかったので母校ヨット部に頼んで乗せてもらいました。その年は470個人と総合優勝を母校がして、最終レースフィニッシュ後はお祭り騒ぎで校歌を歌いながら、他校が既に帰着しているハーバーに凱旋しました。こういう他校の慶びを見て拍手して称えるのも、よりヨットが好きになることに繋がると思い、翌年は2艇参加したので男子部員のサポーターも獲得して部として楽しみました。全日本なので各地区予選を通過しなければなりません。近畿北陸ブロックからは7艇参加できるので、上位7位に入らなければなりません。
5:00、倉庫から「里山VTR250」を出して、出発。R171を東へ。地平線から真朱な朝日が上がってきてとても綺麗。中央環状道路〜吹田ICから名神高速に乗り、京都南ICで下車しました。R1をほんの少し南下し、左折して東へ。「近鉄奈良線」を渡って、左折してR24を北上し、右折して名神高速側道を東へ。r35に乗り、「京阪本線」を渡り、「JR奈良線」をくぐりました。
5:57「仁明天皇深草陵」。r35に戻り、6:03「大岩神社」。1週間前に参拝した「大岩神社」の徒歩参道鳥居があります。そこは歩かず、横の道に入り、前回同様バイクで上がっていきます。上の鳥居前を通過し、展望台に行きましょう。峠まで上がったところで、舗装がなくなってしまいました。道幅があるし平坦なのでここは平気ですが、展望所を越えた下りの道路事情が気になります。前進するか少し考え、GO!
6:11「大岩山展望台」。眼下南西に、深草・伏見盆地が広がり、盆地との間が桃山で桃山城が見下ろせます。伏見の向こうには、霞んで見えませんが石清水八幡宮のある八幡山があるはず。北西には京都盆地が遠望でき、亀岡方面の朝霧が見えます。
来た道を戻るか先に進むか思案し、怖いもの見たさで先に進みます。お散歩で来られている数人は、道の先から来られ展望して帰って行かれます。すぐに舗装路になりホッとしましたが、再び未舗装の竹林の間を縫う道になり、急勾配で下っていきます。ブレーキを掛けながらゆっくり下ると住宅地の道になり、突き当りを左折したら「墨染通り」。r7に突き当り、左折して一瞬だけ走り、山科川沿いの道を北上しました。
6:35、「明智光秀の胴塚」。『明智光秀の胴塚 天正10年(1582)6月2日、明智光秀は「本能寺」(下京区)に宿泊していた主君・織田信長を急襲し、自害させました。しかし、光秀はすぐ後の13日に、備中高松城(岡山市)から引き上げてきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)らと山崎(天王山)で戦い、敗北しました。光秀は近江の坂本城をめざして逃れます。その途中、伏見区小栗栖小阪町の竹藪(通称「明智藪」)で農民から襲撃され、竹藪から突き出された竹槍に刺されて重症を負い、その場で自害し、家臣に首を打たせたと伝わっています。その際、光秀の首は介錯をした家来によって隠されたと言われており、東山区梅宮町に首を埋葬したと伝える「首塚」があります。 また、「明智藪」近くのこのあたりに、光秀の遺体(胴体)が埋葬された「胴塚」があったと伝えられています。 この石碑は、こうした伝承を伝えるため、昭和45年(1970)10月に、地元山科の有志によって建立されたものです。 京都市』
6:36、「セブンイレブン山科勧修寺店」で、「カフェオレ500ml108円+太巻といなりの詰合せ430円=581円」購入。名神高速の下をくぐり北側へ。
6:50、「坂上田村麿の墓」。その名もズバリ「坂上田村麻呂公園」内にありました。『坂上田村麻呂の墓 この墓には、平安前期の武将・坂上田村麻呂を葬っている。田村麻呂は、奈良時代の武将・坂上苅田麻呂の子。延暦20年(801)当時の日本では大きな問題となっていた蝦夷地を平定するため征夷大将軍に任命され、遠く陸奥に出兵し、これを治めて大変な功績をあげた。
京都にあっても弘仁元年(810)薬子の乱などに活躍し、官職は右近衛大将にいたった。弘仁2年5月23日死去、54才。この地で葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅によって甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺に納められ、平安京にむかって立ったまま葬られた。 田村麻呂はまた仏教の信仰も深く、清水寺を創建したことでも有名である。 なお、この墓地は、明治28年平安遷都千百年祭にさいし整備されたものである。 京都市』
「新十条通」を西に走り、7:01「折上稲荷神社」。『モルガンお雪・奉納鳥居「加藤楼稲吉」 この鳥居にはお雪の4姉妹の名前が刻まれていますが、4女の彼女の名前は妬みや当時のアメリカとの関係悪化により伏せられ、匿名で奉納されています。その名前は、姉が経営していた祇園の置屋・加藤楼で、折上稲荷様から最高の「吉」を頂いた女性「加藤楼稲吉」と記され奉納されています』
『女性の玉の輿・良縁・出世祈願 ひょうたん大神 近代史上最高の玉の輿に乗り、「日本のシンデレラ」と騒がれたモルガンお雪が当神社で特に信仰した神様。家業の祇園加藤楼で芸妓として働いていた雪(ゆき)は、財閥のモルガン氏と結婚。アメリカの社交界でも評判となり日本の女性の地位を高めた女性といわれました。 お雪さんが当時いつも所持していた「ひょうたんお守り授与」』
『人間が生きていく上で三大苦労(人間関係・健康・お金)を除いてくださる稲荷様「三九郎稲荷神社」1週間祈祷受付5000円』
『開運腰掛け石 江戸末期、嘉永2年1月8日宮中女官・長橋御局様等がお礼参りの時に又、モルガンお雪も腰掛けてご利益を頂いた大変縁起が良い開運の石です』
『働く女性の守り神・祈願受付 江戸時代、孝明天皇の側に仕える女官が今後も元気で働いてくれるよう当社に祈願され御礼として長命酒を奉納されました。以来「働く女性を守る稲荷様」として信仰されています。
祈願「働く女性の仕事・商売がうまくいき、良縁に恵まれ、いつまでも美しく健康長命でありますように」 祈願料5000円』
『折り上げきつね守り授与 お稲荷さんのお使いである「おきつねさん」を1枚の紙で折り上げたお守り。 江戸時代、孝明天皇の側に仕える女官の信仰を集め「折上稲荷さまのご利益は折紙付き」と言われた縁起の良いお守りです。 金きつね 銀きつね 稲荷きつね 節分きつね』
新十条通〜R1〜湖西道路〜滋賀県道r47で、7:27ハーバー着。学生に挨拶し、各艇を見て回ります。男子部員は練習で、女子選手は女子インカレ予選に出場する変則練習です。初めてのインカレで緊張している顔もあれば、いつもどおりの顔もあります。出来るだけリラックスさせるために、笑顔で話します。470級は、2回生2人で1艇。スキッパーNukさんはジュニアからヨットに乗っているエースなので心配いりません。クルーIidさんは日頃スキッパーをしているので、初めてのクルーです。いつものエース艇を温存し、5番艇に乗り換えています。余裕やね。1番艇で全レース・全マークトップの完全優勝を目指して欲しかったけど、通過すべき予選と位置づけているようです。出場9艇中7艇が全日本出場権利を得ます。
S級は、8艇中7艇が予選通過します。4回生コンビは優勝狙いです。3回生コンビと2回生コンビの2艇が何だか不安顔。でも日頃の実力なら、通過するはずです。ブリーフィングして、9:40になり、470・D旗が陸上本部に揚がり、出艇。続いてS級もD旗が揚がり、S級も出艇。コーチボートは2クラスで1艇。他の2艇は、S級練習と1回生シングルハンド練習に張り付きます。コーチボートにはドライバーとして3回生女子マネ1人と、練習せずレースのサポートをする470選手が乗ります。
北からの風で、14時までに5レース出来ました。470は、1・2位D社で3位当方。S級は1位D社、2位当方4回生コンビ、6位当方3回生コンビ、7位当方2回生コンビ。走りを見ていると全艇予選通過できそうです。ハーバーバック後、この日感じたことをブリーフィングで話し、帰路に付きました。16:55「桂川PA」で、「チョコモナカジャンボ151円」購入して糖分補給しました。


2022/5/21
コーチしている大学ヨット部のコーチング日です。僕のコーチングではなく、現役トップセイラーの臨時コーチング日です。470級は、次男が随分前に道を付けたIchくんが来てくれます。毎年のように1〜2回、ペイドコーチしてくれます。次の2004年のパリオリンピックも狙うか聞いていませんが、過去2回チャレンジし、惜しくも日本代表を逃しています。その間、国体は2〜3回制しているトップセイラーです。Ichくんは次男より少し下の年齢で、ジュニア時代からの知り合いです。僕がジュニアヨット協会の理事だった頃、全日本選手権や世界選手権事務局・広報委員長の仕事で、何度かIchくんのお母さんに手伝ってもらいました。3日間コーチングしてもらいます。加えて、スナイプ級の新艇を買ったので、そのメーカーさんが来てくれます。トップレーサーOさんがレーシング艇メーカーを職業にしています。D社・Ritsと当方メインに、他の琵琶湖で活動する学生も参加します。
5:56、倉庫から「里山VTR250」を出して出発。R171〜中央環状道路〜吹田ICから名神高速に乗り、京都南ICで下車しました。R1を少し南に走り、右折してr202を西へ。
6:42「飛鳥田神社」。『飛鳥田神社 江戸時代の文書「荷田龍頭田の田に、祖先の霊が白い鳥となり稲の実を口に含んで飛来した。そこで龍頭田は祖先の霊を祀り、飛鳥田神社と名付けた。弘仁7年(816)に宮社に昇格しました。神社の一帯に東福寺が建てたれることとなり、延応元年(1235)この地に遷られた」等と記される。米を始めとする五穀の神に加え、子孫繁栄・子供の守り神であり、学力向上・受験合格・頭の病気平癒の神様と教われる。 飛鳥田神社護持委員会』
r202〜R1に戻り、北上します。「京都南IC」まで戻り、手前を右折しr68を東へ。道を間違え、「近鉄京都線・竹田駅」前に来ちゃいました。Uターンして、もう一度r68に乗り、竹田駅の下を抜けて東へ。r35で東に走り、「JR奈良線」をくぐり、右折して山道を登り、7:09「大岩神社」。
『大岩神社 深草山の主峰で、徳川家康上洛の折、乗馬の飼草を賄ったところから、通称御草山と呼ばれる大岩山にあり、山頂付近の大岩・小岩を御神体の男神・女神とする古代の神祀りの名残のある神社である。 江戸時代の山火事で古文書が焼失したため、創建についての詳細は不明であるが、古くから深草に住み勢力のあった紀氏の守り神とも言われている。
参道には、多くの小塚が立ち並び、途中には京都の日本画家・堂本印象が寄進した珍しい石造彫刻の大小2つの鳥居があり、石工は中村広次郎による。角柱であり地蔵・武人・女神など抽象的な造形の人物像や紋様などが浮彫りされている。結核の治癒に効験があるとして信仰を集めたこともあり、昭和8年(1933)発行の宗形金風「深草誌」には往時の賑わいが記されている。 近年、地域の尽力により山上の大岩山展望所やトレイルコースが整備された。 京都市』
「牛頭天王」「黒高大神」「吉光大神」「萬吉大神」「力松大神」「豆子大神」「豊川大神」「戸川大神」「末広大神」「白長大神」など、初めて見る神様が祀られていました。山中のお宮ではありますが、それほど標高がないのにこの怪しい雰囲気にゾクゾクします。小ぶりな拝殿脇には、「大阪実行大岩講中」「大阪道頓堀・・・」「大阪千日前・・・」と彫られた石柱が並んでいました。一部の方が深く信仰するお宮のように感じました。謂れ板によると、御神体が男神・女神とする大岩・小岩で、山岳信仰の地に自然に信仰があつまったように感じました。子授けの神様として信仰だったり、それが叶った御礼信仰であったりするのかも・・・。
謂れ板に書かれていた「家康休憩の地」とのことで、京都盆地の南・伏見盆地が一望できる展望を見て、これから入る京都盆地の様子を遠望出来る良い地でした。ここは、東に越えると山科盆地があり、天王山決戦に敗れた明智光秀が落ち延びた途でもあります。山科盆地に下る直前で、光秀は討ち死にしています。
r35に戻り、名神高速沿いを東に走ります。r118で「勧修寺」の東を南下し、右折してr35に戻り、7:30「吉利倶八幡宮」。
『豊臣秀吉公は、伏見城北東に位置する当宮を晩年崇敬し、その遺命により慶長3年寺社奉行・前田玄以が大型木製灯篭を奉納しました。現存する壹基も経年のため改修されてはいるが、歴史的文化的価値が高く、現在も「太閤灯籠」と称され親しまれております。 八幡宮宮司・長谷川貴啓拝』
『八幡宮の御由緒 御祭神:応仁天皇・仲哀天皇・神宮皇后 相殿配祀神:加茂大神・吉野大神・貴船大神・日吉大神・稲荷大神 御鎮座地:京の都は山科に伏見に通じる街道あり。大岩街道と称す。その街道沿い東の端山八幡山の中腹に平安時代の初めより御鎮座されております。京都外環状線と京都府道35号大津淀線の交差点「外環小野」を淀方面へ、勧修寺の南側に表参道の鳥居が望めます。京都市営地下鉄東西線「小野駅」1番出口より徒歩5分。境内地及び常緑の山林・鎮守の社が当宮の宮域で御座います。〒607-8218京都市山科区勧修寺御所ノ内町94番地
勧請・沿革:仁寿の御代、八幡山の中腹に夜毎に金色に光を放つ神木があり人々は恐れ慄(おのの)いておりました。その事をお告げで知られた文徳天皇はこの地を鎮護国家の霊場とすべく、社殿を創建し八幡大神様を勧請され、御遷宮の儀を執り行いましたところ、山は激しく鳴動したと云われております。
昌泰3年、延喜格式を編纂し、延喜帝とも称される醍醐天皇は、真言宗山階派・大本山勧修寺建立の鎮守の神とし、造営料に社領等寄進されました。 住吉より王臣家の崇敬深く社祭には勅使の差遣が御座いました。また宇多天皇の皇子・敦実親王は自作の尊像を奉安されるほどであり、その頃より世間では神仏習合思想が流行し始め、参詣者は盛んに五穀豊穣・平穏無事を御祈願されました。
やがて源氏の八幡信仰が広まりますと、当宮にも武将や大名より社領神宝その他数多の寄進があったと云われており、長禄2年には室町幕府・8代将軍・足利義政公より修復造営料とし社領等の寄進も御座いました。 その数年後、義政公の後継等複数の要因から応仁元年より文明9年の11年間の長きに亘り洛中各所で大乱が展開されました。文明2年7月には大内政弘が勧修寺に東軍を攻め、一帯に火を放ち、この兵火のため当宮の末摂社数多の神宝・日記等悉く炎上焼失致しました。しかし何故か本殿だけは延焼を免れ、御神水がその身代わりにか大火のため枯れたような色になりました。そこで枝を切り払いましたところ、梵字=サンスクリット文字「キリーク」=がその切り口に浮かび上がりました。それより種子八幡とも称され「吉利倶」の文字が充てられたとも云われております。
幸いにしまして勧修寺に八幡縁記等貴重な古文書が残っておりましたので、事跡の一端をそれに依って辛うじて知る事ができます。 国家安泰・武運長久に霊験あらたかと豊臣秀吉公、伏見城東北に鎮座する当宮を崇敬するも慶長3年8月18日死去せられ、その遺命にて豊公重臣・寺社奉行の前田玄以が同年12月金灯籠・木製灯篭及び社領12石を寄進されました。
元和3年、常陸松岡藩主・戸沢政盛社殿を造営し、寛永12年勧修寺大僧正・寛海長吏より禁中、仙洞・国母・将軍等の奉加帳を備えて、当宮修復を行いました。 元禄8年、出羽新庄藩主・戸沢正誠、本殿を再建しました。その後、享保・安永・嘉永・明治・大正・昭和と概ね40年ごとに修理が施され、現在に至っております。 慶応4年、伏見宮・邦家親王の第1王子・山階宮・晃親王、拝殿及び神楽殿・灯籠等を寄進されるも、現在神楽殿は残っておりません。 境内には、醍醐天皇が身を清められた海軍元帥・東郷平八郎が植樹した楠も残っており、本殿は切妻平入檜皮葺大型御殿として、京都市の有形文化財に指定されております。 なお、吉利倶八幡宮・山科(山階)八幡宮などとも呼ばれておりますが、当宮には一般的な「○○八幡宮」と云うような上に冠する名称はなく、正式名称は「八幡宮」で御座います。
御神徳:厄除八幡様・弓矢八幡様とも称せられる八幡大神様はいくつもの伝来による御神徳が伝えられております。 古来より当宮では、霊験あらたかと皇室皇族の崇敬の念厚く、五穀豊穣・国家安泰と多くの御祈願をされております。 また多くの武将たちが八幡大神様を信仰したことから、武道の神様としての御神徳があります。そして近年では、武運長久の御神徳にて敵や災いを退け仲間を守り助けることと発展し、厄除の御神徳に高く恵まれることと貴ばれ御祈願される参詣者も少なくありません。
他にも神功皇后が応神天皇を懐妊中に戦に圧勝したと伝えられ、安産と子育ての神様としての御神徳が生まれたとも伝えられております。なお、応神天皇は胎中天皇の異称を持ち、母子信仰の表れでもあり、当宮では父帝である仲哀天皇を祀ることからも家内平穏に御神徳があるとも伝えられております。
付記:当宮に御参詣賜り高き貴き御神徳を戴かれました由、大慶至極に存じます。八幡大神様の御加護のもと、御健勝にて過されます由、御祈り申し上げます。また当宮、御殿御神宝を始め、境内各所の保護維持に御理解御厚情賜ります段、御同慶の至りに存じます。 八幡宮宮司・長谷川貴啓』
『八幡皇大御神様は、千古より常緑の御山の杜に鎮守されております。元禄8年、出羽新庄藩主・戸沢政誠、再建の檜皮葺の御本殿、慶応4年伏見宮邦家親王の第1王子・山階宮晃親王が拝殿を寄進。端麗な姿で鎮まり、清々しくも尊厳な空気の中に聳(そび)える御神矢は総代会が奉納したもので御座います。境内各所の灯籠や狛犬・鳥居に至るまで親王様や氏子崇敬者をはじめ御参詣の皆様が奉献されたものであり、敬神の念が感じられます。
現在、古と変わらぬ神聖な姿を保ち、広大無辺なる御神威を発揮されているのは、祖先から受け継がれてきた貴重な伝統や文化遺産、そして素晴らしい魂を受け継いでいる賜物で御座います。今後も皆様の御心や御志により、後世に伝えていくという意義ある使命を成し遂げなければならないと存じます。 大神様との御神縁により、当宮へ御参詣の皆様におかれましては、御賢察の上、格別の御理解を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。 八幡宮宮司・長谷川貴啓』
本殿前左右に矢型ポールが立っていました。謂れ板に書いてありましたが、珍しい。
『八幡宮本殿 京都市指定有形文化財 八幡宮は仁寿3年(853)の創建と伝え、江戸時代までは勧修寺の鎮守社であった。 現本殿は元禄8年(1695)に建築された。このときの大工は、後に勧修寺の宸殿(しんでん)等の造営を手掛けていることから、勧修寺の元禄復興の一環として再建されたと考えられる。その後、享保19年(1734)と安永8年(1779)に修理が行われており、向拝部分は様式から、享保の修理時に改変されたものと推定される。 建物は桁行3間、梁行2間で切妻造(きりづまづくり)、桧皮葺(ひわだぶき)の屋根をのせる。内部は、内陣(ないじん)と外陣(げじん)が前後に仕切られるが、間仕切の位置は棟通りと一致せず正面に寄り、内陣には祭壇が設けてある。 この本殿は、向拝が改変されているものの、当初の姿を伝えており、江戸時代中期の大型の切妻造平入本殿として、その価値は高い。 昭和六十二年五月一日指定 京都市』
『御祭神 金山彦神 金山姫神 往古、御社殿を築き、金鉱や金運向上、蓄財の大御神と御神徳を仰がれたが、現在は金神宮と刻まれた石碑と石垣を残すのみとなっております。当宮の御祭神である八幡神勧請の基となる金色に輝く神木の伝説とも関連深いとされ、昨今でも、この場が敬われております。 平成25癸(みずのと)巳(み)年 八幡宮宮司・長谷川貴啓拝』
r35〜r117で北上します。右折してR1を東進し、湖西道路に乗って、「皇子山ランプ」で下車し、r47〜神宮道でヨットハーバーへ。
ヨット部員に挨拶し、いつものようにあ〜だこ〜だ。前日から明日まで3日間コーチしてくれるIchくんがやってきて、「おはようございます」。近況をあれこれ話し、Ichくんのコーチングを見ていました。風がないので出艇延期になり、陸上でのコーチングが続きました。S級のレース艇メーカーのOさんが、D社関係者とやってきました。D社さんが、僕をOさんに紹介してくれました。Oさんは関東のN大学出身ですが、次男と1学年しか違わないので、「同じレースに出ていましたよね」って親しみを感じてくれました。お初なので、ネームカードを渡しました。Ritsで座学をやったばかりのようで、その流れで当方に来てくれました。艇庫に入り、ホワイトボードに絵を書きながら、当方部員からの質問に答える形式で座学が始まりました。この地区の強豪校のD社・Rits・当方3校をメインにしたクリニックで、それぞれの学校でした座学を部員が録画し、全校で共有するスタイルです。
風が入ってきたので出艇します。部員はこの日・翌日とショートコースでのレース練習を中心に、コーチングを受けました。僕は、このタイミングで離脱し、神宮道〜湖西道路で南下し、R1〜r35、枝道を走り、11:59「白石神社」。
『白石神社とご神体巌・小山石切場 ここ牛尾山登り口に鎮座する白石神社は、伊弉諾尊・伊弉冉尊を祭神とし大同年間に朝廷より村中に勧請されたと伝えられています。 神社の本殿側には、神社名の由来となったご神体石があり、大きさは、高さ約4m・幅約6m・奥行き約3mを測ります。ご神体大巌の上部には、石を割り取るために彫られた矢穴列痕が三条あり、西北隅には欠き取られた痕跡が認められます。矢穴痕の存在はすでに知られていましたが、2014(平成26)年には、ご神体の東北隅に長州藩毛利家と思われる刻印「−に○(一文字一星)」が発見されました。
この白石神社の背後(北)の山一帯が、小山石切場です。小山の石切場からは、近世の初期から切り出しが行われたようで、黒川道祐著「雍州府志」(貞享3〈1686〉年頃)や津久井清影(平塚瓢斎)著「聖蹟図誌」(文久2〈1862〉年)などにその名が見られます。また、洛東高等学校本「山科古図」(天保期頃作成と推定)には、白石神社背後の山に「大イワ」「石キリ山」の表記があります。
石切場跡には、近世初期から現代に至るまでの矢穴タイプを見せる矢穴や矢穴痕などが残され、1955(昭和30)年ごろまで石の切り出しが行われていました。 この小山石切場からも、音羽川流域一帯、小山の南に広がる大塚山一帯とともに、豊臣・徳川期伏見城の築城石が切り出されました。 2015(平成27)年4月、京都市の遺跡台帳に「641大塚・小山石切丁場跡」として記載され、これらの石切場が全国からも注視されています。  調査・研究グループ中川・武内・久保記 やましなを語りつぐ会 2016年10月吉日 白石神社宮総代 おこしやす「やましな」協議会 參京都醍醐ライオンズクラブ』
『白石神社 由緒 当社の御祭神:伊ざなぎの命・伊ざなみの命
その創立は古く、大同年間(806年〜809年)に朝廷より村中に建立勧請されたと伝えられている。 境内に大きな白石があることから白石大明神として、社名になった。 この巨石に対する信仰が、神社の始まりと云われている。 白石神社』
急な参道階段を上がって境内へ。『スギ(通称・大杉) すぎ科常緑高木 高さ30m・幹周3.9m 平成13年3月、京都市建設局水と緑環境部緑政課に於いて、区民の誇りの木として選定されました。 白石神社』
『白石神社 縁豊かな山々と清らかな渓流に恵まれた小山の里に鎮座する当神社は、伊邪那岐命に伊邪那美命の夫婦2柱を祭神とする。 当神社の神域としての起こりは古代の自然崇拝から、社殿の横にある巨岩を神が降臨した盤座として祀ったことが始まりであると言われている。
創建は、宝永2年(1705)の比留田(ひるた)家文書によると、平安時代初期の大同年問(806〜810年)に朝廷から村中に勧請されたとされる。また、同文書編纂時期には、社殿が檜皮葺、拝殿が藁葺であったと記されている。現在の社殿は平成9年2月に改築されたものである。
御神体である巨岩(幅9m・高さ4m・奥行3m)の上部には石を割り取るために彫られた矢穴列痕が3条ある。これは徳川家康が伏見城を再建するために築城石として切り出そうとしたのではないかと推測される。
境内にある樹齢300年を超える御神木の大杉は、平成13年に「京都市区民の誇りの木」に選定されている。 京都市』
『御神徳由緒 古事記神代の上巻に、伊邪那岐の大神は己の罪・穢れを祓うために、阿波岐原において禊祓いを行ったゆえんで、祓戸の大神として古来より神社の祭典、諸祈願祭には「祓詞」を奏上し、幣で左・右・左と祓うことによって万物を清め罪穢れを除き去り、厳粛に祭典が執行される。
大神は禊をして「国生」と多くの神々を生成され、その中で一番貴い御子神が「天照大御神」である。 伊邪那岐の大神(男)伊邪那美の大神(女)は夫婦として初めて、夫婦の正道を定める。
御神徳:延命長寿・夫婦円満・家内安全
産霊の祖神:縁結び・子授り・安産 白石神社』
バイクに戻ると、水車が見えたので見に行きました。粉挽きに使える仕様になっていました。観光用ではなく実用です。『記 水車とは、天の恵みにより、万民の心を潤し、廬山の露は水を与える。是れにより、豊作恩恵を賜り、春夏秋冬時に応じ、機に従う・・・牛尾山法厳寺住職・田中洋祐』と書かれていました。また上がってみたくなり、この道を奥にある「牛尾観音」に向かいます。
12:21「牛尾観音P」。奥に車が1台停まっており、テントを張ってキャンプを楽しんでおられました。牛尾観音の参道を半分ほど登って行きましたが、帰ることにしました。
バイクに戻り、名神高速沿いを走り、12:42「天神社」。『「帰って来た石」の由来 大塚、天神社境内に据えられた三石は、2015年に発掘調査された伏見・指月城跡とされる石垣より石垣より移設したものです。 伏見・指月城とは、戦国の世から統一に向かう画期の、豊臣秀吉が天正20年(1592)に居城を発展させ、明使(講和会議)を迎える為に鋭意築城されたが、歴史的記憶にも残る文禄5年(1596)の慶長地震によって倒壊しました。 関ヶ原の戦いの後、徳川家康も伏見に城を築きますが、何れの時にも山科の石は使われているようです。発掘調査地の所有者(株)大京をはじめ発掘を担当された(有)京都平安文化財さんや、文化財保護課の協力によってここに残置できるのは、
この大塚、天神社の背後(東)である「行者ヶ森」山一帯が、山科(大塚・小山)石切場の中心地で、昭和52年の刻印石(角立ち四つ目結」)発見以来、30数年を経て平成23年に刻印「一に○」が再発見され、現在20以上の刻印がみつかっており、200個以上の石に矢穴や矢穴列痕が刻まれ、一例を除いて全てが石英班岩となります。
平成27年4月、京都市の遺跡台帳に「641大塚・小山石切丁場跡」として搭載され、この山の石垣石が全国からも注視されています。発掘関係者各位のご協力を得て、「山科の石」がふるさとへ帰ってくる事が出来ました。 中川・久保・永井・武内記 2015年12月吉日 大塚天神社保存会・共有山護持会 おこしやす「やましな」協議会・京都醍醐ライオンズクラブ』
バイクに戻り、r35〜R1〜名神高速。吹田ICで下車し、中央環状道〜R171で、13:40「エネジェットセルフ北村」で給油。261km/8.77L=29.8km/L。13:45、帰宅しました。


2022/5/17
次男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。数日前の長男お嫁さんから、「今年の夏で長男のロンドン勤務が終わり帰国します」の連絡に対しての反応です。「海外生活、本当にお疲れ様でした。残り2ヶ月、忙しい日々になるかと思いますが、体調に気をつけて頑張ってください。帰国を楽しみにしています」だって。家族の写真も送ってくれました。すみれちゃん5才は、1年生の「くもんドリル」に夢中のようです。ハナマルが嬉しいみたいだって。おーちゃん2才は、カメラを向けると変顔をするようになったそうです。4月に帰省した時も、やってました。先生からモテモテで、「おーちゃん大きくなったら、先生とデートしてね!」っと誘われていたそうです。
写真には、「温水プール」に行ったのかな?両腕に浮き輪を着けた水着姿のすみれちゃんとおーちゃんが室内プールで遊ぶ姿が写っていました。すみれちゃんは、セパレート水着を着ていました。胸には水着の上にひらひらが付いており、大人の水着と同じでした。潮干狩りにも行ったようです。おーちゃんはライフジャケットを着せてもらっていました。後ろ姿で顔が見えないが、もう1人ライフジャケットを着た男の子がいたので、お嫁さんの妹さん一家と一緒に行ったのかも?おーちゃんはコケてしまったようで、ずぶ濡れで泣いています。
すみれちゃんの下中央の歯が1本抜けていました。そういう時期ですね。お嫁さんのお父さんに買ってもらった武者人形を居間に飾っていました。すみれちゃんの足が長くなっておりびっくり。来年4月に小1に進学するすみれちゃんが赤いランドセルを背負っています。もう買ってもらったようです。4月に新学期を迎える日本では、4・5月になると値崩れを起こすのかも?おーちゃんもランドセルを背負っています。自宅での写真ではないので、お店で背負っただけかも?


2022/5/15 びわ湖テラス
家内の要望で、「びわ湖テラス」に行くことになりました。僕も行ってみたかった場所なので、二つ返事で「よし行こう」となりました。車で行くか電車で行くか・・・トップシーズンの夏休みでもGWでもないので、車で行ってもそれほど渋滞には巻き込まれなさそうですが、具体化させるのは僕の仕事なので、2案出すと、「電車で行きたい」とのこと。
最寄りの「JR湖西線・志賀駅」からバスが出ており、ゴンドラに乗って山頂駅へ。ここがメインですが、そこから更にリフトでお隣の山の山頂に行けます。冬シーズンは「びわ湖バレイ」というスキー場で、冬に数度滑りに行ったことがあります。オフシーズンはターフスキー場になっているので、夏にも数度滑りに行きました。数年前、「びわ湖テラス」という琵琶湖の絶景を売りにする施設が開業し、話題になっています。
9時からゴンドラが動くので、それに合わせて家を出ることにしました。「通勤リード110」にタンデムし、6:30最寄り駅から電車に乗り「尼崎」。6:37「セブンイレブンハートインJR尼崎駅西口改札内店」で、「フルーツオーレ500ml100円」購入。で快速に乗り換え、「山科」で湖西線に乗り換えました。8:01に出発し、8:38「志賀」駅着。「びわ湖テラス直通バス」の案内板に従って外に出ると、8:44発バスが待っていました。バスでワインディングを少し登り山麓駅がありましたが、手前にいくつもPがありました。下のPからなら、だいぶ歩いて登らなくてはならなそう。
「びわ湖バレイ山麓駅」に着き、ロープウェイ乗り場に向かいます。大人往復3500円ですが、WEB前売り(土日祝3000円)を購入していました。スマホに届いたQRコードを窓口で見せると、すぐに往復チケットが発券されました。ゴンドラ定員が121人だそうで、9時の始発便に乗れました。こんな大きなゴンドラは初めてで、安定して標高を稼いでいきます。係の方が乗っており、「少し揺れます」や「下りのゴンドラとすれ違います」など注意を促してくれます。ゴンドラが大きいので、揺れがゆっくりで安定しています。
琵琶湖が眼下に見えてきて、ロープウェイ山頂駅からさらにリフトで登る更に高い山頂が見えてきました。山頂駅に着き、びわ湖テラスの方に少し下ります。テラスのは朝なのでお客さんが少なく、パンフレット写真のように楽しめました。お若いカップルがスマホを床に置いてツーショット写真を撮ろうと苦心しているのを見つけ、「撮りましょうか?」と提案すると、「お願いします」と素直です。僕らもかつてはこうだったな・・・と思いながら、パシャリ!
テラスの琵琶湖側に細長く浅いプールが有り、綺麗な水が満たされています。テラスのソファに座り景色を楽しみ、「少し寒いな」に促され、「カフェに行こうか」と後ろの建物(Tne Main)にあったカフェに入ります。まずは、席を確保します。1時間程度までだって。運良く、琵琶湖を望む席が確保できました。費用は必要ありませんが、「お一人ワンドリンク」が条件だそうです。続いて、注文カウンターへ。サンドウィッチやシチューなどの軽食とドリンクがありました。ジェラートもありましたが、まだ少し寒い。
9:26「びわ湖テラステラスカフェ」で、「HOTココア550円×2=1100円」注文。甘〜いココアで美味しかった。家内には少し甘すぎたようだけど、「美味しいね」だって。ニコニコ微笑んで僕の顔を覗き込んでくる。「あ〜可愛い、全然変わらない」、何処に行っても男性の心を捉え、モテます。僕のリュックからペアルックのカッパを出すと、上下着込んでいました。僕はジャンパーを着ているので寒くないですが、それをペアルックの上カッパに着替えました。
リフトに乗って「蓬莱山」山頂に行きましょう。リフトに向かって歩いていると、ヘルメット+ハーネスに身を包んだ「ジップラインアドベンチャー」を楽しみに行く一団が追い抜いて行きました。リフトに乗りました。下りのリフトでした。冬はスキーゲレンデであるリフト横の芝生に、子供が遊べる遊具がいろいろありました。反対の琵琶湖側を見ると、アスレチックや短いジップアドベンチャーがありました。
リフトを下りて、次のリフトへ。そこにもいろんな遊具が並んでいました。バスケットボール・フリスビー・竹馬・一輪車・・・。「バードキャッスル」という施設があり、ランチやドリンクメニューがあるようです。2本目のリフトに乗って蓬莱山山頂へ。冬はスキー場なので、山頂に木がなく、360度見渡せました。東は琵琶湖、南西に京都盆地、北西には福井県の山並みが続いていました。西の山並みは京北から兵庫の山並みなのかな〜。無料の双眼鏡がありました。「Cafe360」という屋台がありました。お客さんも適当で、気持ちの良い場所でした。
2本のリフトで下り、ロープウェイ山頂駅横で、「フラダンス」をしていました。妙齢をお過ぎになった女性グループ、続いてもうすぐ妙齢の少女グループ(小2〜中学生)が魅惑的な腰振りで素敵です。先程踊っておられた妙齢を少し過ぎた女性が、横で少女たちを盛りたてようと笑顔で指導しています。先生みたい。ブロンドの髪のお嬢さんも2人おられました。1人は踊っておられ、少し年上お姉さんは先生の横で見ています。1曲終わり、お姉さんもグループに入り2曲目が始まりました。年上のブロンドお嬢さんがフロント中央に入り、ブロンドのお2人はよく似ています。想像の翼が広がりました。2人のお嬢さんは姉妹で、お母さんは指導している先生。ハワイで暮らしていて、ご家族で帰国して滋賀県に住んでおられる。白人のお父さんが外で働き、奥さんはフラダンス教室を開いている。このイベントはその教室の発表会も兼ねている・・・なんて。僕の母も亡くなるまでフラダンス教室に通っていました。「健康のために」と通っていたけど、「発表会があるけど観に来る?」なんて言われたこともあります。母親のフラダンスを観たくもないのでスルーしましたが、動きがゆっくりで、体操より楽でそして楽しそうでした。
ゴンドラで下山し、ロープウェイ山麓駅でバスをしばらく待って、志賀駅へ。駅前のパン屋さんに入り、パン購入。それを食べながら湖西線に乗って「山科駅」へ。新快速に乗り換えて「尼崎駅」。宝塚線に乗り換えて最寄りの駅で、バイクに乗り換え帰宅しました。


2020/5/8 レース2日目
レース2日目、6:30頃自宅を出発し、湖西道路・皇子山ランプを下りて、7:36「セブンイレブン大津松山町店」で、「伊藤園ミネラル麦茶670ml129円」購入。ハーバーに着き、みんなに挨拶。予報ではN8ノットで、朝から北風が入っています。このレースは全7レースなので、昨日出来なかった5レース出来そう。この日も新人が数人来ています。新人マネさんも3人、470コーチボート・S級コーチボート・陸上レースサポートPC係と分けて、3回生Tマネさんが前日に続き、レクチャーしています。上手にリーダーシップを取っています、イイね!
ブリーフィングして定刻に出艇。Nの良い風と思っていたら60度ぐらいの風で、いまいち安定していません。左右に30度ぐらい違うブローが入ります。順次スタートし、4レース成立しました。470は、D社が強く、Rits・当方がそれを追う実力のようです。手合わせが少ない金沢が気になっていましたが、まだアドバンテージがありそう。対して同じハーバーで活動しながら独自活動が多くレースでの手合わせが少ないRitsは、実力を高めていそう。去年以上に当方との差が少なそうです。S級はD社が強く、次いで当方ですが、まだ差がありそうです。
レースの合間、「・・さ〜ん」と黄色い声が聞こえ来ました。「あれれ?」を周りを見回したら、OPが近くにいました。元琵琶湖ジュニアのテルミちゃんが手を振っていました。「I先生のファイスブックで見ていました。・・さんを見つけて来ちゃいました」「お子さんがOP乗ってるんだよね」「息子が怪我をして乗れないので、今日は私が乗っています」だって。次男の2才上にテルミさんの弟がいて、同じ高校ヨット部に進学して、チームを組んでインターハイや国体に出たりしていました。僕がOP協会理事でヨーロッパ選手権担当になった時、テルミちゃんにコーチをお願いしました。琵琶湖で数回ヨーロッパ選手権ナショナルチームの練習をし、ヨーロッパ選手権ではオーバーオールで優勝しました。10年以上前、家内と京都二条城ライトアップに行った時、二条城からライトアップを頼まれた芸術系大学の生徒さんを引率しているテルミちゃんに会いました。ハーバーバック後、テルミちゃんに聞くと、実家の近くに住んでいるようで、5年生・3年生の男の子2人のお母さんでした。「私、OPに乗ってた頃と体格変わってないから、平気で乗れますよ」だって。ワンピースウェットスーツに身を包み、バリバリディンギーセーラーです。
15時前に最終第6レースがスタートし、フィニッシュ後ハーバーバック。ブリーフィングで気がついたこと、現在の当方の実力の位置づけを話し、帰路に着きました。17:13「桂川PA」で「チョコモナカジャンボ151円」で糖分補給しました。ああ楽しかった。


2020/5/7 レース
コーチしている大学ヨット部レース(メイレガッタ)に参加します。本日・明日とコーチングに行きます。倉庫から「里山VTR250」を出して、6時に出発。R171〜中央環状道路〜吹田ICから名神高速に乗り、京都東ICで下車しました。ハーバーに着いてから、飲み物がないのに気づき、コンビニまで歩きました。バナナと麦茶を購入。コンビニでも会いましたが、ハーバーに戻り、みんなに挨拶しました。1回生新人が数人来ています。昨年獲得できなかった女子マネ3人と、女子プレイヤー1・男子プレイヤー5。新人の内、高校ヨット部経験者とジュニアヨット経験者2人は、選手としてS級に乗ります。ジュニアワールド経験者のS君はスキッパーデビューです。昨年に続き、過去例のない2年連続ジュニア経験者の入部で、しかも両名ともOP世界選手権日本代表選手なのでピカ一新人です。各選手・特に女子スキッパーに声を掛けレース前の様子を見ます。天気予報通り、風がなく風待ちになりました。ブリーフィングで「チャレンジャーであること」「楽しく乗ること」を話しました。新入生に話に行きます。が、無風。南西(三井寺)の微風予報なので期待できませんが、11時ぐらいからレース出来たら良いな〜と思いながら時間が過ぎていきます。
D旗出艇の縛りがないので、Ritsが出ていくタイミングで出艇しました。北風が入ったりしながら安定しない風の中、練習もできず沖での風待ち。無風の状態でレース運営本部船が出て来ました。更に風待ちが続き、北風が時折入りますが持続せず、12時を過ぎてから三井寺の風が入ってきました。470スタート、続いてS級スタート・・・のはずですが、3回もゼネラルリコールを繰り返しスタートできません。ブラックフラッグ規制になってやっとスタート。典型的な三井寺の風で右からのブロー多めで左右から風が入ります。第2レースもS級がゼネラルリコールを繰り返し、S級がなかなかスタートできなかった影響でこの日は2レースしか出来ませんでした。もう1レース出来たのにな〜。
S級のコーチボートに乗っていたので、S旧スタート後右海面をレース艇とともに上っていきます。2レース目、超大型新人Sくんが一番右をポートで走っています。ハーバーに戻って聞くと、上1即タックの典型的な勝ちパターンを実行したそうです。僕自身、レースでは半分以上このパターンのレースをしていました。レグの1/2を過ぎた所でタックし、スターボで集団のバウを切っていきます。さすがワールド、良いレース運びです。新人に指示して、ビデオを撮りました。典型的なトップコースでしたが、新人なので最も古い船故ボートスピードが足らず、1上4位回航でした。このようなレースを続けていれば、上位艇が使えるようになるでしょう。
1回生に、シートのコイルの仕方、レース時の時計係、レース中のビデオ・着順記録など、いろいろ仕事を振りました。1回生マネさんも1人乗っており、3回生マネHくんが時々交代しながらいろいろ教えていました。ドライブ力を見ていると、2回目のハードボート運転ながら真っ直ぐ走っており、この時期の新人としては上手でした。Hくんに聞くと、5人の新人みな上手だそうです。マーク回収練習で、全員1回目から回収できたのだとか。
16時頃ハーバーバックし、ブリーフィングで話してから帰路に着きます。18:09「セルフ北村SS」で給油。246km/7.8L=31.5km/L。


2022/5/5 母校学生レース
母校KGヨット部のレース観戦です。前日に続き、共同運用しているセーリングクルーザーを出します。前日は琵琶湖で、友人とクルージングしていたので僕はこの日だけです。7:30頃、「通勤リード110」で出発。8:07、「セブンイレブン西宮マリナパーク店」で、「ゆずれもんサイダー500ml93円+具たっぷり辛子明太子140円=251円」購入。ハーバーに着いて、母校艇庫に顔を出します。乗艇者がいるかどうか聞くと、現役もOBもいない。繋留艇に行き、エンジン一発始動。ドッグハウスの空気の入れ替え。トイレ掃除。ヘルムスマン用のサンブレラ展開。これで日陰が出来ました。
9:30頃、S先輩がやってきて、母校から聞いた情報を伝えました。Hさんがやってきて、10時になったので僕のステアリングで桟橋から離れました。ハーバーに着いた時から南の風向でした。上天気なので11時より前からレースが出来る風が入ると予想していました。2〜3m/sの安定した南西からの風が入っており、予定通り10:30に470級がスタートして行きました。続いてS級、2回ゼネラルリコールでスタートやり直ししてスタートしました。
前日はS先輩だけで、部員希望者と部員の父兄を乗せたようです。「この船で新人勧誘したのですか?」「そやねん、男子3人・女子3人、マネージャー希望者もいたわ。下船時3人入ると言ったので、すぐに艇庫に戻り入部届にサインしてきてと言っといたわ」だって。前日、良い風が入り5レースできたそうです。沈艇も出る風まで上がったそうです。470は、1・2・4・5・8・13位/45艇。S級は、1・2・3・6・7・27位/44艇。残りは3レースなので余裕で出来そうです。3〜4m/sまで風が上がり、ゼネラルリコールが多かったものの3レース消化してレース終了。大阪市所有の帆船「あこがれ」がレース海面近くを通ったので、レース観戦しながら観に行きました。この4月からヨット部監督が代わりました。前監督のKくんは関西学連委員長にスライドし、監督に元ジュニアヨット上がりのOくんが就きました。その公式戦初戦、順調に滑り出しました。
この日の最終スタート13:30までに最終レースがスタートし、14時台で全レース終了。ハーバー前まで戻り、S先輩にステアリングを交代し、Hさんと2人で着艇準備しました。桟橋に戻り、船を片付けました。まだ15時台前半だったので、3人であれやこれやお喋り。オイル補充の仕方をHさんからレクチャーを受け、17時になり解散しました。ああ楽しかった。


2022/5/4 ツーリング&クルージング
琵琶湖のImaさんから誘われてクルージングです。倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、6:54出発。6:58「セルフ北村SS」で給油、274km/11.44L=24.0km/L。R171〜中央環状道路〜吹田ICから名神高速に乗り、桂PAで休憩しました。桂PAから京都東まで時々渋滞で止まるほど混んでいました。流石GW連休後半です。渋滞は難儀だけど、コロナ禍で日常を失った2年間を経験しているので、嬉しくなりました。バイクなので渋滞も楽なのですが・・・。京都東ICで下車し、湖西道路に乗り換えて北上。片側2車線から1車線になる「坂本北IC」付近から再び渋滞し出しました。「和邇IC」で下車し、r311で東進し琵琶湖まで出て、r558で北上し、志賀YHを通り過ぎて、8:25「JR蓬莱駅」前にある「八所神社」。家内と今年、雪景色を楽しもうとJR湖西線に乗っていた時見つけた神社です。
『滋賀県滋賀郡木戸村大字南舩路字宮ノ後321番地鎮座 村社・八所神社
1.祭神:八所大神・住吉大神
1.由緒:神護景雲2年4月、僧良辯神託ヲ蒙リテ之ヲ創建シ、八所大明神ト称ス。社蔵文書「寳字年中増長辯神前ニ於テ法華経ヲ修讃シ一字一石ノ結塚ヲ境内ニ建立セリ」。社蔵棟札「斉明天皇5年3月比良行幸ノ節、当社ニモ臨幸アリテ舩路ノ安泰ヲ祈願セサセ給フ」ト伝フ。社蔵文書「足利将軍ハ安産守護ノ神トシテ崇敬篤ク、又和邇坊ヨリ社領若干反ヲ寄進スル所アリ、慶長7年9月小出播磨守検地ノ際ハ境内ニ反十二歩ヲ除地トセラル」。社蔵文書「延宝7年4月、享保6年正月ノ雨度ニハ社殿ノ改築ヲナセリ」。社蔵文書「寛永13年藤原重貴ヨリ鰐口一口ヲ寄進セリ」、鰐口銘文「明治9年村社ニ列格シ昭和4年1月許可ヲ受ケ祭神ヲ決定ス。社蔵文書。
1.祭祀:例祭5月6日
1.社殿:本殿流レ造1坪2タ 玉垣69尺 拝殿4坪8合4タ 手水舎5合3タ 神輿庫9坪6合3タ 社務所15坪3合1タ 鳥居1基
1.境内:国有地505坪 1.氏子:40戸』
鳥居前に車が多数止まっており、境内に老若の男たちが忙しくしています。鳥居前に「御神燈」の提灯を出しています。蔵の扉が開いており、覗くと御神輿や太鼓が入っていました。バイクに戻り、r558を南下して、8:36志賀ヨットクラブ着。9:30集合時間まで1時間も余裕があります。バイク装束からヨット装束に着替え、クラブハウスに入り、コカ・コーラ150円買って休憩。ハーバー職員さんとあれこれ話しました。
このYHはアットホームで気持ちが良いです。9:15頃、Imaさん・Nisさん・Yasさんがやってきて、Katさんと話していました。Katさんは、3人のお子さんの家族と、ハーバー内の芝生や湖岸でバベキューなどで遊ぶそうです。3人共元琵琶湖ジュニアヨットクラブでヨットを楽しみ、下の女の子2人はその後もヨットを続けました。同じく琵琶湖ジュニア出身のImaさんの息子さんのお嫁さんと3人のお子さんもそこで遊ぶそうです。「息子さんは?」と聞くと、僕の母校「新西宮YH」でクルーザーレースだって。
Imaさんの船を艤装していると、ImaさんにNodさんから電話で「農機具が壊れた。まだ出ていないのなら、仕事できへんから乗るわ」と入り。クラブハウスでしばらく休憩しました。Yasさんのお客さん(Mit男・女?)もおり、6人でクルージングに出ました。あ〜だこ〜だ、気持ちの良い風の中、昼過ぎまでセイリングを楽しみました。ハーバーバックし、船を片付け、クラブハウスでお喋りして、16:09帰路に着きました。湖西道路〜名神高速〜中央環状〜R171で、17:29帰宅しました。


2022/5/1 ヨットレース
コーチしている大学ヨット部のレースの日です。数日前、腰を寝違えました。首の寝違いは何度か体験しましたが、腰は初めてです。朝起きたら右腰が痛くて、立ち上がるのに苦労しました。何度か経験したぎっくり腰に似ていますが、右側だけの腰が痛い。立ってしまうと歩けますが、前かがみをしたりすると右腰が痛い。「どうせすぐ治るだろう」と高をくくっていましたが、夕方になると楽になりますが、寝て朝になると元の木阿弥が続きました。
行けるかどうか、船に乗れるかどうか考え、当日の朝の様子で行く行かないを決めようと思っていました。当日朝、寝床からゆっくり起き上がります。前日の夕方より痛いですが、前日朝よりはマシなので、「むしろ動いた方が楽になるのでは?」と考え、「GO!」。小雨の天気予報でバイクはパスし、車はGW中で渋滞にハマるとどうしようもなくなるので電車で行くことにしました。
最寄り駅まで、「通勤リード110」で走り、本を読みながら快適な小さな旅です。「監督たちのサッカー」という本で、5人の高校サッカーの名監督へのインタビューをメインに構成されています。筆者は、女性アナウンサーで、その人脈を駆使して、名監督・そこで育った選手など周囲の言葉も載せており、監督の姿をいろいろな角度から理解出来る。筆者の監督に対する感情は抑えており、気持ち良く読めました。「JR大津京」駅で下車し、ICOCA2000円追加。8:14「セブンイレブンハートインJR大津京駅前店」で、「フルーツオーレ500ml93円+具たっぷり辛子明太子140円+味付け海苔マヨネーズ125円=386円」購入。
傘を差してハーバーで歩き、みんなに挨拶し、キャプテンとあれやこれや。小雨に加え風がないので、レース延期になりそうです。天気予報では午後から北風が入るとなっています。8:40、予定通りレース前ブリーフィング。1ヶ月間の2回生中心に動いた新人勧誘を労います。24名入部してくれたようで、女子プレイヤー2名(高校ヨット部経験者+1になりそう)・女子マネージャー5名入部してくれたようで、この女子8名の戦力は重要です。特にマネージャーは2回生0なので、今年マネージャー獲得がならないと部自体が大きく変貌します。多くの新入生が選んでくれた根底にある「楽しさ」「笑顔」を、現部員から感じたから。スポーツで成績が残るのは、選手自体がそのスポーツを試合をレースを楽しめているから。
失敗は誰でもあるし、特にスポーツ推薦入学者がゼロのこの大学で、9割が入部してからヨットというスポーツを始めるのだから失敗なんてつきもの。その時、先輩やコーチ・監督が叱るかどうかが分かれ目で、叱らず対処法を教え選手自らが練習し出来るようになることで成績が上がっていく。叱られてしまうと、「次、叱られないようにしよう」と先輩やコーチ監督の方を見てしまい、自らの技術を磨くのに自らのやり方で出来ない。だから、「楽しい」「笑顔」が大切です。そんなクラブの状態が今ここにある。君たちが、君たちの先輩が築き上げてきた歴史です。久しぶりに真剣にヨットに乗る初日が本日のレース。これまで通り、下級生はしっかりチャレンジしましょう。と伝えました。続いて監督からブリーフィング。
雨は降ったままで、陸上待機になりました。部員たちと艇庫でお喋り。3回生女子部員にクラブで使っているSlackに招待してもらいました。風が入ってきたので11時過ぎに、僕以外の他のOBコーチがブリーフィングし出艇。レースが始まらなくても練習する目的で沖に出ましたが、風がまだ弱い。本部船が待機している北のレース海面を見ると、より風がある。S級10艇(他にOB2)を曳航してレース海面へ。
レース海面で離すと、そのまま練習に入ります。それを追いかけながら、本部船・他校・他出場選手・レース委員会のマーク設定を見ながら、「そろそろやるな」と感じ、集合ホイッスルを吹いて「スタートエリアに戻れ」のサイン。練習している470数艇を見つけたので、ドライブしている女子マネさんに向かわせ、ホイッスル吹いてレース海面に戻しました。
先にスターとする470は、3度ゼネラルリコール(フライング)し、スタートやり直し。4度目にスタートして行きました。3度目のスタートがブラックフラッグだったので、4レース目のスタートにエントリーできませんでした。リコールしたのは9艇/28艇中で、当方4艇(OB含め)/10艇中・D社4艇/6艇中・富山1艇。第1レース中暇なので、D社4艇に当方2艇が混じって練習していました。ジュニアヨット繋がりの選手が双方にいたので、「一緒に練習しない?」「する」となったのでしょう。
続いてS級スタート。S級とともに第1上マークに向かいます。この日、3人の新入生が参加していました。ジュニアヨット出身の子と高校ヨット部出身の子は、ヨットを知っているのでレース運営に出しました。ヨットが初めての子がコーチボートに乗っていたので、いろいろ教えました。
470第1レースは、当方とD社が互角に競っています。双方のエースがブラックで参加していないのに、レベルが高い。この水域の強豪校Ritsが参加していないのが残念です。1当方・2当方・3D・4D・5富山・6当方・7当方・8当方・9京産・10富山でフィニッシュ。S級の当方は、トップ10に1艇(5位)/41艇中だけで残念。470第2レースは、1当方・2D・3当方・4当方・5当方・6D・7D・8D・9D・10当方/28艇中で、当方とD社とのガチンコレースになりました。S級は、1〜4D・5当方・6〜8D・9当方。470第3レースは、1D・2当方・3D・4〜6当方・7D・8D・9当方。S級は、1当方OB・2DOB・3DOB・4当方・5D・6〜8当方・9〜10D。
3レースでレース終了。3レーストータルで、470は1当方・2D・3当方・4D・5当方・6当方。S級は、1〜6D・7当方・8京産・9当方・10当方。当方の現在の力は、470はD社とガチンコ、S級はD社の後塵を拝しています。レースに参加していないRitsの実力はどうかな?と気になります。ハーバーバックし、バイク装束に着替え帰路に着きました。



逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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