-ウェブマスター日記 2022/3-4

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2022/4/24
家内も休みです。1日ずっと一緒にいれます。僕は家内のストーカーなので、僕は嬉しい。僕があまりにくっつくものだから、「あ〜、うるさい」なんて言いますが、笑いながら出しくっつくまで逃げないし、きっとまんざらでもないのだろうと想像しています。家内はスマートでウエストのさわり心地が最高です。ほっぺたがきめ細かく柔らかいので、好きあらば僕のほっぺたをくっつけに行きます。ここで「あ〜うるさいな〜」が出ます。でも逃れようとはせず、その時やってることをそのまま続けます。
「9時になったらスーパーに連れてって」「いいよ」。うだうだお喋りしながら朝食を食べ、車でスーパーへ。僕の主食ヨーグルトが品切れになったので、5個買いました。僕がカートを押して、家内が食材をカートの上のカゴに入れます。手を繋いだり腰を持ったりしてカートを押すご褒美をもらいながら買い物終了。帰宅してお昼になったので、昼食を食べにパンカフェへ。続いてユニクロへ。シュッとした女性用パンツを買っていました。気に入ったのが、160と書いてある女児用のもの。女の子は成長が早いので、小学生高学年で160cmある子もいます。でもお尻が発達仕切っていないので「履けるのか?」と思いましたが、帰宅後履いてみたら「丁度良かった」とのこと。家内はそれほどお尻が大きくないので問題なしでした。
家内のリクエストで、「15:35余命10年」という映画を観に行きました。朝から雨が降っており、まだ降りそうな空模様だったので車で向かいました。ところが大渋滞で映画館のあるショッピングセンターにたどり着けそうにありませんでした。帰宅してバイクで向かっても間に合ったけど、JR北伊丹駅の踏切に引っかかり、いつまで経ってもバーが上がりません。あまりに長いし、電車が駅を出たところで止まったままです。仕方なく、Uターンして別の道で帰宅しました。消防自動車が1台、パトカーが数台、駅に向かって行きました。帰宅してPCで検索すると、「酔っぱらいのおじさんがプラットホームから転落し、北伊丹駅を通過する快速電車に接触して亡くなったそうです。
家内が、「家で映画を見る」とのことで、アマゾンプライムで映画を見ることにしました。映画を見て、少し寝て、大河ドラマ見て1日が終わりました。


2022/4/23 ヨット部新人勧誘
コーチしている大学ヨット部の新人勧誘に参加します。コロナ禍で2年間まともな新人勧誘が出来ませんでした。通常というのは、大学入試発表に始まり、学内でパンフレットを配り、ヨット試乗会に勧誘し、ヨットに乗ってもらって入部を勧誘します。夕食は合宿所で鍋をつついて更に勧誘し目立たく入部という流れです。4月の毎週土日に新人勧誘します。20〜50人ぐらいヨット体験してもらい10〜20人入部してもらって目出度く勧誘終了。それがこの2年間出来ず、ズームで勧誘したりして苦しかった。それでも、一度もヨットに乗らずに入部してくれ、何とか日本国内大学ヨット部最大人数レベルを保って来ました。大学による1日の参加人数制限があるものの、以前と同じヨット試乗会が復活しました。倉庫から、「里山VTR250」を出し、7:55「セルフ北村SS」で給油。266km/9.66L=27.5km/L。中央環状道路を走り、吹田ICから名神高速に乗り、京都南ICで下車し、大学正門に寄りましたが、ヨット部の勧誘幟が立っていませんでした。別の場所で集合しているのかな?そのまま、「山中越」で比叡山を越えてYHへ。
ちょうど新人がYHにやってきたところで、懐かしい風景。この日は25人ほどの参加者で、今年も数年前同様予約ですぐ定員まで埋まっちゃうそうです。すでに7人新人を獲得しているようで、滑り出し順調のようです。午前中組の試乗会が終わり、12:36「ファミリーマート大津茶が崎店」で、「いなり寿司3個214円」購入。艇庫に戻り食べます。各自用意した昼食を各々食べており、何となくカップルかな〜と2人で食べている姿が数ヶ所に見えました。「良いな〜、良いです」。部員に聞いて知っていたカップルもいるし、知らなかったカップルもいて、部内事情が少しわかって面白い。
14時前に、午前試乗した新入生を送りに行った車が、午後試乗する新入生を連れて戻ってきました。女の子も2人います。午前と合わせて5人。午前同様、2チームに分けて、前半にヨット体験する組と後半にヨット体験する組に分かれ、待っている間、艇庫内で部員と話します。先ず、自己紹介タイム、ヨット部の楽しい・・・いろいろなテーマで司会が進行・説明し、好感を持ってもらいます。最後に全員集まり、ヨット(470・スナイプ)・レスキューの3つで何が一番楽しかったか?ひとこと?ヨット部入部について?など各自発表してもらって解散。午後参加してくれた女子2人は入部しそうです。男子新入生からも数人、「入部を前向きに考えています」「もう一度、試乗会に来ます」など前向きな一言があり、すでに入部してくれた7人に加え、10人はオーバーしそうです。
帰路に着きます。湖西道路〜名神高速に乗り、17:43「桂川PA」で「バニラモナカジャンボ151円」で糖分補給して帰宅しました。


2022/4/17・琵琶湖クルージング&幼稚園同窓会
幼稚園の同窓会の日です。「幼稚園の同窓会」と人に話すと驚かれます。僕の通った幼稚園は「西宮幼児生活団」という保育園で、当時としては他に類を見なかった3年保育でした。当時の幼稚園は就学前の1年間、午前中だけ通うのが定番で、全員が幼稚園に通っていたわけではなかった。しかし、羽仁もと子さんという教育家がつくった幼児生活団は独特の保育カリキュラムで、「もっともっと高い潜在能力を持っている幼児の能力を開花させる」を実践していました。週2回夕方15時まで保育で、週1日は音楽だけしかしません。羽仁もと子さん主幹の「婦人之友」という婦人雑誌を読んでいた母が、僕をこの幼稚園に通わせました。他の園児もみな似たりよったりで、教育熱心な母親を持つ子供が集まりました。園に近所に住んでいる子はおらず、僕の住んでいる伊丹、尼崎、西宮市甲子園、神戸、芦屋、大阪市など周辺の市町村から、全員電車バス利用しないと通えない子達ばかり。
3才で入園し、1ヶ月後には電車バスを使って1人で通うようになります。園での昼食やおやつは母親が当番でやってきて、子どもたちに見つからないように作ります。園児へのクリスマスプレゼントなども母親が作ります。その製作講習を園で教えてもらいます。園児の数も多くなく、1学年1クラスだけで10〜15名くらいしかいませんでした。入園時は16人、親の転勤で少し減り、卒業時は13人でした。
そんなこんなで園児同士も親しくなり、母親の絆も強くなりました。みんなで帰る時、駅方向ではなく終点方向には何があるのか興味を持ち、全員で反対行きバスに乗り終点で下りて、その後駅行きのバスに乗り換えて帰ったことがありました。帰りに通る「阪急西宮北口駅」でハズレ車券(西宮競輪)が駅のホームや階段に、大量にポイ捨てされており、友達と2人でゴミ箱から箱を拾って、その中に集めました。幼児だけど電車には乗れるし、時計は見れるので、2人とも平気で楽しんでいました。1時間以上楽しんだ「そろそろその箱を持って帰ろう」としていると、駅員さんに捕まり駅長室に連れて行かれました。何も悪いことをしていないのに・・・。定時に家に帰ってこない息子を心配して母親が捜索願を出したようです。駅長さんと話していると2人の母親が入ってきて、しっかり叱られました。その競輪場は、その隣にあった阪急西宮駅とともに今はなく、阪急ガーデンプレイスになっています。
そんなこんなによって、卒園後も毎年母親を含めた同窓会が続きました。現在は、ほとんどの母親は鬼界入りし、僕が中心になってLINEグループで繋がっています。横浜に住む女の子が関西に帰ってくる機会を捉え、集まることになりました。千葉に住む男の子もやって来ます。大阪で集まるので、大阪中心部をよく知る女の子が幹事になり、17時阪急百貨店12階「銀座アスター(中華料理)」集合になりました。
その後、琵琶湖のImaさんから連絡があり、「クルージングしませんか?」「OK」。9:12「JR和邇駅」ピックアップで、電車で琵琶湖に向かいます。当初、Imaさんと2人だけの予定でしたが、草刈り機が壊れたので暇になったとNodさんがドタ参で加わり、3人でクルージングしました。Nからの弱い風で僕ヘルムスで琵琶湖大橋をくぐり南湖へ。12時を過ぎ北湖に戻ります。Nからの風が増し、4m/s前後で快調に走ります。Imaさんが修理したオートパイロットも快適に動きました。Nodさんにティラーを交代し、Imaさんが買ってきてくれたお弁当を食べました。Imaにティラーを交代し、Nodさんがお食事。丁度よい風で良い天気、気持ちの良いクルージングになりました。
15:30「JR和邇駅」発に乗れば間に合うので、それに合わせヨットを片付け駅まで送ってもらいました。15時過ぎの電車に乗れたので、京都からも各駅停車で大阪に向かいました。それでも30分前には「銀座アスター」に着きました。4人集まったので予約席に入ります。17時前に全員集合し、いきなりあれやこれや話の花が咲きました。適当に注文し、各自取皿で取りながら食べました。2時間以上お喋りし、1人4000円ほどでした。次の同窓会は福岡ですることに決め解散。ああ、楽しかった。


2022/4/11・信州/善光寺・上田松本城・諏訪大社ツーリング・最終日
目を覚まし、6時からの無料朝食を食べました。食パンが食べ放題で、自由に使えるジャムとマーガリンを載せモグモグ。飲み物も飲み放題なので適当に利用させて頂きました。6:25「快活クラブ諏訪赤沼店」(諏訪市四賀1751-1、4/10・18:34〜4/11・6:25)宿泊費2277円+ラーメン880円=3157円。6:36、出発。
r487〜R20〜R152で、6:55「諏訪大社・上社・前宮」。鳥居横に、『神紋・穀(かじ)の木』と書かれた玉垣に囲まれた木がありました。枯れてしまったのか小さな幼木でした。
『十間廊(じゅっけんろう) 古くは「神原(ごうはら)廊」と呼ばれ、中世まで諏訪祭政の行われた政庁の場で、すべての貢物はこの廊上で大祝の実見に供された。毎年4月15日の「酉(とり)の祭」には鹿の頭75がそなえられたが、これらの鹿の中には必ず耳の裂けた鹿が入っていることから諏訪の七不思議の1つにかぞえられた。 上段に大祝の座、つぎに家老、奉行、五官の座があり、下座に御頭郷(おとうごう)役人などの座も定められ、左手の「高神子屋(たかみこや)」で演ぜちれる舞いを見ながら宴(うたげ)をはった。  昭和49年4月 安国寺史友会』
鎌倉道を登っていきます。珍しい名前だな〜。『小町屋の中小路 小町屋集落は前宮を中心として大まかに3本の道筋が通っている。その真ん中を上っていく道を中小路と呼んで、戦前までは一般の人々の前宮本殿への参詣道路であった。 中世の古文書史料等から想定されるところでは、この中小路の両側には、水眼(すいか)の清流を挟んで、前宮神殿(ごうどの)に居館を構えた現人神(あらひとがみ)の上社大祝に直属する家臣たちの屋敷地が建ち並んでいたと思われる。 また精進潔斎し、穢(けが)れをとって前宮の、神事や祭礼に奉仕する人たちの精進小屋なども設けられたところで、景観は大事に保存したい。 安国寺史友会』
『上宮前宮本殿 前宮とは上社本宮に対し、それ以前にあった宮の意味とも考えられている。前宮の祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)と、その妃・八坂刀売命(やさかとめのみこと)と古くから信じられ、ここ前宮の奥に鎮まるところが墳墓と伝えられる。古来より立入ることが固く禁じられ侵すときは神罰があるといわれた。四方には千数百年の歴史を有する御柱が7年目毎に建てられ、現在の拝殿は昭和7年に伊勢神宮から下賜された材で造営されたものである。  昭和49年5月 安国寺史友会』
清流が流れる道を上がり本殿まで来ると、左右と左右後方に御柱が真っ直ぐ天に向かって立っていました。『御柱(おんばしら) 前宮一之御柱である長さ5丈5尺(約17m)直径1.2m(目通り)の楡(にれ)である。御神徳の更新を祈る氏子の魂を結集した御柱である。上社網置場(御柱置場)より20数キロの行程を、数千人の氏子の奉仕により曳行されるので、裏側は擦り減っている。茅葺の御宝殿と共に寅年と申年の7年目毎に建て替えられる。御神水で神域の四隅に建立される。 御柱祭は、天下の奇祭として有名であり、次回の御柱大祭は、平成34壬寅(みずのえとら)年に行われる。  諏訪大社』
本殿横を流れる沢の音が素敵に響いています。沢を覗きに行くと、綺麗な清流で、車から降ろしたソフトボール大のガラス玉をその沢に浸している方々がいました。ご家族のようです。ガラス玉に諏訪大社の念を入れているのかな?何かの宗教団体なのかな?と思いました。
『名水「水眼」の清流 古くから「すいが」と呼ばれ、山中より湧出する清流は、前宮の神域を流れる御手洗川となり、昔からご神水として大切にされた。 中世においては、この川のほとりに精進屋を設けて心身を清め、前宮の重要神事をつとめるのに用いたと記録されている。 この水眼の源流は、これより約1kmほど登った山中にあるが、昭和5年に著名な地理学者・三沢勝衛先生によって、はじめて科学的調査がされ、その優れた水質は「諏訪史」第2巻に取り努げられている。  昭和53三年8月 安国寺史友会』
『御室社 中世までは諏訪郡内の諸郷の奉仕によって半地下式の土室が造られ、現人神の大祝や神長官以下の神官が参篭し、蛇形の御体と称する大小のミシヤグジ神とともに「穴巣始(あなすはじめ)」といって、冬ごもりをした遺跡地である。 旧暦12月22日に「御室入り」をして、翌年3月中旬寅日に御室が撤去されるまで、土室の中で神秘な祭祀が続行されたという。 諏訪信仰の中では特殊神事として重要視されていたが、中世以降は惜しくも廃絶した。  安国寺史友会』
バイクに戻り、r16を西に走りました。7:27「諏訪大社上社本宮」。『大欅(樹齢約1000年) 古くは贄(にえ)・御狩(みかり)の獲物(お供物)を掛けて祈願をしたことから「贄掛けの欅」と呼ばれ境内最古の樹木の一つである。 近年、欅が大変弱っています。養生に理解と協力をお願いします』
『勅使殿(ちょくしんでん)・国重要文化財 現在の勅使殿は、元禄3年(1690)の創建であり、安政年間に大修理を加えてある切妻流れ、正面大唐破風造りである。中央の記録では、神門戸屋・帝屋とも書かれており、建武2年(1335)大祝即位の記録には、御門戸屋にて神事があり、社殿に布を敷いて、其の上に五穀を供え、そこに大祝が着座したことが見えている。また、勅使参向の折には、幣帛の授受が行われた所である。 元旦の蛙狩神事や御頭受神事も行われた所である。当時の勅使殿は、今の神楽殿の前あたりにあり、拝殿の性格をもっていた』
境内に土俵がありました。『五間廊(ごけんろう)・国重要文化財 現在の建物は安永2年(1773)の建造であり、廊下様式切妻造りである。古記録には、神長官・祢宜太夫権祝・擬祝・副祝の五官着座のことが見えている』
『神楽殿・国重要文化財 文政10年(1827)の建立で、祈願者の神楽奉納の御殿であり、四方吹通し、入母屋造りである。大太鼓は、神楽殿建立と同時に奉納され、胴は樽と同様に合わせ、木作りで神龍が画かれている。 皮は一枚皮が使われ、一枚皮では(牛と伝う)日本一と云われる。この大太鼓は元旦の朝にのみ打たれる』
『天流水舎(てんりゅうすいしゃ)・国重要文化財 俗にお天水と称される。どんな晴天の日でも、雫が三滴は屋根上の穴から降り落ちると云われ、諏訪の七不思議の1つに数えられている。旱天の祈りには、このお水を青竹に頂いて持ち帰り、雨乞いの祭をすると、必ず雨が降ると云い伝えられる』
『信濃国一之宮・諏訪大社上社本宮 1.鎮座地 上社本宮(諏訪市)・前宮(茅野市) 下社秋宮(下諏訪町)・春宮(下諏訪町) 1.御祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)・八坂刀売神(やさかとめのかみ) 1.御由緒 我国最古の神社の1つであり、信濃国の国造りをなされたのち、日本国土の守護神としてこの地にお鎮まりになり、信濃国一之宮として皇室武門および一般の信仰が厚く、全国1万有余の諏訪神社の総本社である。(旧官幣大社) 1.祭事 上社例大祭(酉の祭)4月15日・下社例大祭(お舟祭)8月1日・御射山社祭(上・下社)8月27日・式年造営御柱大祭寅年及び申年 右の他年間200余皮の祭事あり 1.御神紋:梶の葉(かじのは)』
『4月祭典 2日山出し 5日11時注連掛祭 14日16時夕祭 15日10時例大祭 15日内御玉殿祭・若獅子社祭・荒玉社祭 16日10時二の祭献詠祭 18日15時本宮宝殿上棟祭 19日10時磯並六社祭 22日正午習焼神社参向 27日10時前宮月次祭 同日大年社祭・犬射原社祭・御座右神社参向 28日10時御沓石祭』
境内に、雷電像がありました。原寸大の雷電為右衛門手形がとてもでかい。『雷電為右衛門の像 幕末に信州小県郡大石村が生んだ名力士で、茅野市出身の彫刻家・故矢崎虎夫氏の文部大臣賞作品。モデルは横綱柏戸と佐田山及び富士錦である。勝負に強い御神徳を仰ぎ、当大社に奉納された』
手水舎の手水が温泉で温かでした。『明神湯 往古より、諏訪明神ゆかりの温泉とされ諏訪の温泉の源泉とも伝えられている』
『旧賽銭箱 この賽銭箱は、諏訪郡川岸村(現・岡谷市川岸)の片倉一族により奉納され、昭和初期から昭和20年頃まで上社本宮の拝所賽銭箱として使用され、その後は幣拝殿前の賽銭箱として、平成22年まで使用された』
『長野県天然記念物 昭和39年8月20日指定 諏訪大社上社社叢 約11.5ha この社叢は落葉樹からなる自然林として多種多様の樹木と多くの美しい植物群落を同一箇所で見られる珍しいもので、滅びつつある中部地方天然落葉樹林の林相の保存されている貴重な樹叢である。クリ・カエデ類フジキなど木本160余種。ヤマブキソウ・レンプクソウ・ミヤマイラクサなど、草本420余種が生育している。
国指定重要文化財 昭和58年12月26日指定 諏訪大社上社本宮幣殿等6棟 この建築は天保6年(1835)に上棟式をしており、工匠は上諏訪の人。幕府から内匠の称号を許された名匠2代立川和四郎富昌の作である。拝殿と幣殿をつづけ本殿を設けない諏訪社様式で、安定もよく彫刻も美しく富昌の代表作であり、また左片拝殿にみる蟇股から脱化した粟穂に鶉(うずら)の彫刻は写生に徹した富昌の至芸である。  文化庁・長野県教育委員会・諏訪市教育委員会』
境内から裏山に登り、斜面に立っている御柱を見に行きました。境内に戻ります。
『勅願殿(国重要文化財) 勅願とは、天皇の祈祷という意味である。当社の場合、この建物は御祈祷を行う場所である。 建立は、元禄3年(1690)と言われ、建物の配置は諏訪大神の御神霊が宿る守屋山(御神体山)に向かい建てられ、古図には祈祷所と記されている。 幣拝殿が大社の恒例祭典や重要神事を斎行して、国家安泰並公事の祈祷を執行する場所であるのに対して、勅願殿は個人私事の祈祷を行う場所である』
『祈願絵馬 祈願の際に神様のお召しになられる馬を絵に描いて奉納したのが始まりである。当社では、毎月15日に所願の祈祷を執行している。 裏面に、願事と名前を書いて掲げて下さい』
『出早社(摂社) 御祭神:出早雄命(いずはやをのみこと) 例祭日:10月15日 祭神は諏訪大神の御子神であり、地元の人々からはお諏訪様の番神として崇められている。また古くからイボ石神として敬われ、小石を捧げてイボの全快を祈る風習が残されている』
境内から出ました。『吉良上野介義央公養嗣子(孫)吉良左衛門周公ここに眠る。  吉良町』の案内板を見つけ、隣の寺院に向かいます。『神宮寺学校跡 明治7年(1874)から大正15年(1926)まで神宮寺学校があり、繭(まゆ)倉を改築した3階建校舎が建っていた。 法華寺も校舎として使用され、お寺学校と呼ばれた。明治の中頃に中洲尋常高等小学校となり、中洲学校校舎統一まで学び舎として使用された』
『如法院跡 如法院は弘法大師の草創と伝えられる。上之坊ともいわれ、御朱印20石・如法経役料20石があり、毎年4月から100日潔斎して法華経を書写し、10月に諏訪大社上社御内陣のお鉄塔に納めて、国家安全・四海泰平の祈願をするのが主な行事であった。 建物は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で壊されたが、文明17年(1485)の銘がある大日如来像をはじめ、多くの仏像仏具は移されて、富士見町乙事の法隆寺に現存する』
8:00「法華寺」赤門の寺院でした。諏訪大社の神宮寺の位置にある寺院ですが、「神宮寺跡」と書かれた案内板もあったので、神宮寺の塔頭だったのかもしれません。いずれにしても、明治初期の廃仏毀釈で大きく寺院に逆風が吹いたことで、様変わりしたのでしょう。
『吉良義周(よしちか)の墓 吉良町 忠臣蔵で有名な吉良上野介の嗣子義周の墓が、本堂裏に現存する。 高島城南之丸に幽閉された身であるとはいえ名門吉良氏の最後の当主の墓としては、まことにみじめで、赤穂浪士の名声の影に泣く被害者の悲哀を今も伝えている』
『臨済宗妙心寺派・法華禅寺』『ご案内 吉良義周の墓碑は、庫裡の横を通り20m上った左側にあります。無縁仏でありますが、罪過なき公の菩提のために心から冥福をお祈り下さいまして、お詣りを要望申し上げます。 この山門楼上に西国三十三番の観音尊像があります。どうぞお詣り下さい。尚延命息災の御守もございます。線香は寺にも有ります。 法華寺』
『吉良義周公の墓・50m』へお詣りに。少し雪が残っていました。
『吉良義周墓 吉良左兵衛義周(1686〜1706)は、米沢藩主・上杉綱憲の次男であったが、祖父にあたる吉良義央(上野介)の養子となり。元禄14年(1701)吉良家を継いだ。 元禄15年12月14日、赤穂浪士による江戸本所の吉良邸討ち入りに遭遇し、自身も手傷を負う。翌年、評定所に呼び出され、大目付より「仕方不届」として領地召上を申し渡され、諏訪安芸守忠虎(4代高島藩主)へお預けの身となった。高島城南之丸へ囲われた義周への処遇は、丁重かつ儀礼を尽くしたものであったことが伝えられている。しかし、配流から3年後の宝永3年(1706)1月20日、21才の若さで病死してしまう。幕府による検死の後、同年2月4日、法華寺裏手に埋葬された。 墓石には「宝燈院殿岱嶽徹宗大居士神儀 宝永三丙戌天正月廾日」と刻まれている。  指定昭和54年2月15日  諏訪市教育委員会』
『吉良良周公に捧ぐ 義周公未だ赦されず、ひとり寂しくここに眠る。 公は上杉綱憲(吉良上野介長男)の第2子として生をうけ、5歳にして上野介嗣子(あとつぎ)として吉良家の人となった。 名門の血を継ぎ、優れた才能を持ち、将来を期待された義周公に突然不幸が襲った。元禄事件である。世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。しかし、ここに幽閉の2年有余、高島藩主忠虎公をはじめ藩の手厚いご対応、また当法華寺11世春巌和尚の温かいご配慮に、われら吉良町民はせめてもの慰みを覚えるのである。 公よ、安らかに眠り給え。  平成6年6月吉日  吉良町』
『諏訪大社と織田信長、徳川家康について 「織田信長の失敗と徳川家康の成功は諏訪神社の扱い方であった」と云われてます。 諏訪大社が祀っている建御名方神は、日本を代表する「戦いの神」で天正10年(1582年)3月3日、織田信長の嫡男・信忠の率いる軍勢は、武田家が崇拝していた諏訪大社上社本宮を焼き討ちし、上社本宮の建物をすべて灰にしてしまいました。信長と云えば比叡山延暦寺の焼き討ちが有名ですが、その時に延暦寺の守護神である日吉大社も焼き討してしまいます。さらにその後、諏訪大社も焼いてしまいました。ところがここからおかしなことになります。3月11日武田家は滅亡、19日に信長は上諏訪入りし上社本宮近くの法華寺に陣取ります。この寺で、信長は本能寺の変の直接の原因とも云われる事件を起こします。武田氏との最終決戦である甲州征伐では信長に従軍した重臣の明智光秀の言動に信長は怒り、諸将が居並ぶ前で光秀を殴り蹴り、頭を手すりに押し付け、皆の前で光秀は信長に大恥をかかされた訳です。
それから3ヶ月もたたない6月2日未明、信長は本能寺において、光秀に謀反を起こされ本能寺で自害、同じく信忠も光秀軍と戦い討死します。 そして光秀も6月13日に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と戦い、逃げる途中農民に殺害されました。一方、徳川家康は、信長の死後、諏訪の地は家康が支配します。諏訪大社で最古の建物は、上社本宮の四脚門で、慶長13年(1608年)に徳川家康が大久保長安に命じて造営されました。さらに、家康は滅亡した武田家の家臣を数多く召抱え、最後の武田家トップとなった武田勝頼を弔うお寺を建てるなど、武田家関係者にかなりの配慮をしました。こうして家康は「最強の軍神 諏訪大社のご祭神を味方につけ」徳川幕府が約260年以上続きました』
『鷲峰山法華寺 もと天台宗であったが、鎌倉時代・寛元年間・領主蓮仏入道盛重が中興し、建長寺蘭渓道隆を招いて禅宗に改めた。天正10年織田信長が甲州征伐の時、この寺を本営として滞陣して論功行賞を行ない、多くの武将たちが集まった。信長が明智光秀を愚弄して恨まれ、本能寺の変の原因の一つをつくったのは、ここの寺である』
大きな寺院ではありませんが、吉良家最後の当主の墓があり、吉良家が滅んだ地でした。戦国時代の一大トピックス「明智光秀謀反、織田信長討死」の原因の1つになった「金柑頭!」の場面もこの寺院でした。諏訪大社の横になければ、観光の目玉になるだろう寺院、訪問できてラッキーでした。
バイクに戻り、r183〜r16で東に走り、R152で北上し、R20で西に走ります。r487〜R20〜8:44「手長神社」。『下桑原鎮守・手長神社・御由緒 手長神社は、中世には下桑原鎮守と知られ、近世には高嶋の浮城の鬼門鎮護の神と崇敬された。古く手長宮と称し、御祭神は手摩乳命(てなづちのみこと)と申し上げる。氏子は手長さまと親しみ、諏訪大神の祖父母樣と言い伝える。早くも中世には辰野町羽場に分社が勧請され、崇敬は重厚にして広大。匠事芸事全般を守護され、子育て万物育成に霊験あらたかにして、奇稲田姫との御神縁から稲を愛される。 神域の手長の森は、市天然記念物、拝殿は立川和四郎冨棟作で、旧本殿と共に市文化財。境内に神気横溢。
八朔祭:夕祭9月14日・例祭9月15日・二の祭9月16日 式年造営御柱祭:寅と申の年毎に御柱、曳き建て造営を執行』
『延命杉 心平穂に、天つ御空の梢を仰ぎ、三度深く息すれば、生命延ぶと言うなり  杉 樹齢約500年』
拝殿の彫刻が見事でした。『ご由緒 手長神社の御祭神・手摩乳神は古事記の八俣大蛇の段に登場する神様です。大山祇神の御子神、足摩乳の妃神として稲の徳をもつ奇稲田姫を、手撫で足撫でして養育されました。 諏訪湖岸東側一帯は、旧石器・縄文時代の遺跡が語るように、いにしえ人の生活、土地の神に祈りを捧げてきた信仰が伝わります。 手摩乳神は古くから手長の丘を治めておりましたが、建御名方神が来られてからは、その力に従い、共に諏訪の国造りに尽くされました。 鎌倉時代の文書には、「下桑原鎮守」とみえ、諏訪神社上社の末社として御造営にあずかり、茅野外記太夫により、御湯立の祭りが行われていました。天正19年(1591)に、高島城が築かれると、神社が鬼門に当たるところから、城内外の鎮守神として、歴代の高島藩主・諏訪家より格別崇敬されました。 江戸時代、相撲が盛んに行なわれ、諏訪の三辻のひとつに「手長の辻」があり、八朔相撲として親しまれておりました。9月15日の神社の例祭を八朔祭といいます。寅と申年の御柱大祭は、200段の石段を提灯掲げて曳き上げ、社殿の四隅に建てる豪壮な祭です。
拝殿は天明8年(1788)、諏訪の大工棟梁・立川和四郎冨棟の手によるけや木の木目を活かした重層な建物です。末社の弥栄神社は昭和8年に旧本殿を移築したもので、宝永6年(1709)、大隅流宮大工・伊藤庄左衛門により造られました。(共に諏訪市有形文化財指定)。境内には下桑原郡の御頭御社宮司社をはじめ、町内の祠精進湯の石祠・祝神などが祀られており、古い信仰を伝えています。神楽殿は大正初期に造られ、昭和9年に移築奉納された郡内唯一の能舞台です。「手が綺麗になりますよ」と師匠に言われ、お手長さまで初舞台を踏んだ日本舞踊の徒も少なくありません。 鎮守の杜は、市天然記念物、鳥や小動物の宝庫です。 諏訪湖を望む景勝地。境内は神気横溢。  手長神社』
『手長神社旧本殿 弥栄神社(やさかじんじゃ) 宝永6年(1709)に大隅流・伊藤庄左衛門により造営。一間社流造。創建当初は柿葺。後に銅板葺となる。氏子区域の六柱神社・八意思兼命社・北野社を合祀している。社名の弥栄(ヤサカ又はイヤサカ)とは、「益々栄える」との意であり、氏子区域に限らず、参拝者すべての家庭に繁栄をもたらす社である。  (諏訪市有形文化財指定)』
バイクに戻り、R20〜r183〜R20経由で、「諏訪IC」から「中央道」に乗りました。9:25「諏訪湖SA」。諏訪湖が一望でした。桂由美プロデュースの「恋人の聖地」もありました。トイレ休憩の後「レモン157円」を購入し、諏訪湖を見ながら休憩。年配のおじさんが寄ってきて、バイクのことを聞いてこられました。昔、地元鹿児島で公務員をしていて、バブル経済の頃奥様が亡くなってやる気を失い、仕事を辞めてしまったそうです。「北海道に行こう」とすぐに電車に乗って北の大地に向かったそうです。最初は旅だったが、バスや電車がなかなか来ずに、バイクを買ったそうです。それが「スズキGT380」。お隣さんがビンテージバイクとして乗ってるのと同じです。偶然でビックリしました。バブル経済の時期だったので、田舎でも人手不足で、何処に行ってもすぐに仕事が見つかり、アルバイトしながらバイクで日本一周したそうです。面白い話で楽しかった。
10:32「駒ケ岳SA」。空木岳?南駒ヶ岳?雪を被る白い頂を見せる中央アルプスの高峰が美しい。11:21「阿賀PA」。ファミリーマートで、「チョコモナカジャンボ151円」で糖分補給。11:41「阿賀PA」で給油します。235km/9.38L=25.1km/L。「恵那山トンネル」を通過し、11:58「神坂PA」。12:29「屏風山PA」。13:52「養老SA」。キッチンカーで「たこ焼き」を購入しました。家内と幼稚園同窓生LINEに投稿しました。16:00「菩提寺PA」。「中国道豊中IC」で下車し、R171で、17:04帰宅しました。明るいうちに帰宅できて良かった。


2022/4/10・信州/善光寺・上田松本城・諏訪大社ツーリング・2日目
6:07、「快活クラブ上田産業道路(4/9・20:12〜4/10・6:06=9:54)2673円」。6:22出発。R18〜二の丸通り〜祝町大通り〜6:43「上田城」P。桜が満開で、とても綺麗。朝早いけど、桜見物の方が来ています。
『上田城お勧め見学ル−ト その4 尼ヶ淵(城の南側を守った天然の堀)
ここから本丸の櫓を見上げると、その守りの堅さを実感します。江戸時代にはここを千曲川の分流が流れていたのですから、さらに防備は強固なものになりました。崖の高さは約12mあり、上田泥流層の垂直な崖がさらに敵の侵入を難しくしました。ところが、千曲川が増水した際に、崖を川の水が削ってしまうことから、歴代の城主はこの対応に頭を痛めました。崖面に築やれた石垣には算木積みの古い技法と考えられるものもあり、仙石氏の頃、あるいはそれ以前に築かれた石垣である可能性もあります。そして、亨保17年(1732)の大水では、ついに崖が大きく崩落してしまいました。そのため、城主・松平忠愛(ただざね)は崖を守るための石垣の築造を計画し、翌年から工事を始めました。享保21年、石垣は完成しますが、石材と石工の不足から当初の計画通りにはいかず、南櫓と西櫓の下を除いて、石垣は低く’なったり、造られずに終わってしまいました』
『二の丸櫓台と煙硝蔵 二の丸にあった3箇所の虎口には櫓台が東西に各1箇所、土塁上には6箇所に設けられていました。現在遺構が保存されているのは東虎口の1箇所と、土塁上の2箇所のみです。櫓台の存在から、上田城復興に着手した仙石忠政は二の丸の各虎口にも櫓門と櫓を構築する予定だったことが分かりますが、寛永5年(1628)忠政が病死したため未完成に終わりました。また仙石氏在城以降の絵図には、二の丸南西部に焔硝蔵が1棟描かれています。焔硝蔵は仙石氏が上田城主だった貞亨3年(1686)に新設され、本丸内の櫓に保管されていた煙硝(火薬)を移しました』
『本丸西虎口 本丸には東西2箇所、二の丸には3箇所の虎口がありました。虎口とは、城内への敵の侵入を防ぐために城の門に枡形を造って曲げるようにした出入口のことです。平成3年に実施した本丸西虎口の発掘調査では、櫓門の礎石及び石垣の根石等が検出されました。このことにより、本丸東虎口と同様、西虎口にも櫓門1棟があったことが分かりました。また石垣の天端(てんぱ)には、櫓門下層最前列の冠水と、最後列の敷桁を載せるための切り欠きが残っています』
「上田城櫓観覧券売場」がありました。まだ時間前だけど、大人300円(博物館との共通券500円)・高校生以上学生200円(300円)・小中学生100円(150円)でした。
『智恵の神社・真田神社の由緒 当社は、戦国時代の天正11年(1583)、上田にこの平城を築き、城下町を造った真田父子を主神とし、江戸時代に民政に尽くした仙石・松平の歴代藩主を祭神とする神社であります。 殊に十数倍の大軍を2回に亘り撃退して日本一の智将と謳われた真田幸村の神霊は、今も智恵の神様として崇められています。  真田神社』
『本丸東虎口 現在、本丸の東西虎口には3棟の櫓が残っています。 東虎口にある南北2棟の櫓は明治8年(1875)に民間に払い下げられ、上田城の北方、太郎山山麓の上田遊郭に移築されました。昭和16年(1941)には、市内の建築業者から東京の料亭に転売されるという事態が起こりましたが、市民らにより上田城址保存会が結成され、2棟の櫓を買い戻しました。その後、戦局の悪化による中断をはさみながら同24年(1949)に現在地に復元。南櫓・北櫓と名付けられ、上田城跡のシンボルとして人々を迎えることになりました。昭和34年には、西櫓とともに長野県宝に指定されています。 また現在東虎口にある櫓門は、古写真等を根拠に平成5年度に復元したものです。  長野県地域発元気づくり支援金』
『真田石 大手の石垣に巨石を用いる例は多く、城主はその権威を示すために、大きさを競ったという。真田石は、真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある。現在ある石垣は仙石忠政が造ったものであるが、真田氏に寄せる人々の敬愛の情がうかがえる伝承である。 この説明板は株式会社長野銀行様の御協力により作成しました』
『青年真田幸村(信繁)公之像 真田幸村、実名・信繁、仮名・源次郎は、上田城を築城した真田昌幸の次男として元亀元年(1570)頃に生まれた。彼の少年期、真田家は主家・武田家滅亡に始まる激動の渦中に晒される。有力大名の人質として青春時代を過ごした幸村は、上杉景勝の下で元服、第1次上田合戦に参加した際には徳川軍を相手に活躍、勝利に貢献する。やがて羽柴秀吉の側近・馬廻(うままわり)衆として、従五位下左衛門佐・豊臣信繁として叙任。太閤秀吉の死後、天下分け目の戦いとなった関ヶ原の前哨戦・第2次上田合戦にて、幸村は再び徳川の大軍を翻弄する。戦後、昌幸と共に紀州・九度山に配流となるも、14年の雌伏を経て、秀頼の大坂城に入城。冬の陣では、出丸「真田丸」にて徳川方攻城軍に大打撃を与える。続く慶長20年(1615)の夏の陣では、寡兵にもかかわらず徳川方の備えを突破、大御所・徳川家康の本陣を崩し追い詰め、「古今之(これ)無き大手柄」、「日本二八(ひのもとには)例少(ためしすくなき)勇士也」、そして「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と絶賛された。彼の人柄を実兄・信之は「柔和で忍耐強く、ことばは少なく、怒ることもなかった」と語っている。幸村が残した手紙からは、彼が素直で飾らず、細やかな心情の持ち主であったことが伝わってくる。最後の年には「定めなきこの世ですので、一日先のことはわかりません。我々のことなどは、すでにこの世にあるものとは思わないでください」としたためた。滅びゆく運命を自覚し受け入れながらも、最後の戦国武将として勇猛果敢に敵の大軍に突入してゆく生き様、彼の活躍は当時の敵方からも称賛され、なおかつ現代に至るまでも、多くの人々を魅了してやまない。本像は、幸村の初陣とされる第1次上田合戦(1585)頃の青年・幸村像をイメ−ジして造立されたものである』
『真田幸村公牌材・信玄公兜松(かぶとまつ)由緒 天文17年、甲斐の武田信玄公、坂城第尾城主・村上義清公と雌雄を決すべく砂原峠を越えて馬を上田原に進め給う。途次、山上の松の大木に目を止め、「勝木なり(立派な木だ)」と賞し給う。その松の形、四方に枝を広げ、さながら甲冑の兜に似たり。以来、里人「信玄公兜松」と呼びならわす。以来四百数十年、諸行無常の習いとて近年遂に枯死し、伐採のやむなきに至れり。心ある人、その切り株の上に銅製の兜の形を飾り、またその材を以って牌を作り、当神社御祭神真田幸村公の御名を記してここに奉斎す。真田家の祖幸隆公は、信玄公の配下に入りて祖父の地真田の郷を奪還し、三男昌幸公、この地に上田城を築城し給う。昌幸公次男幸村公大坂城にて赤備えを以って武名を天下に輝かす。この赤備えこそ武田二十四将の中にも勇名高き飯富兵部虎昌公より伝わりしものという。また、幸村公の御名「信繁」は、信玄公の信頼最も厚き弟君典厩信繁公にあやかるべく昌幸公の付けられたものと言われ、まことに両雄の由縁浅からぬものあり。信玄公命名の古木を以って幸村公の牌となし当社御参拝の諸賢に歴史の流れを伝えんとするものなり。 真田神社 平成12年4月吉日』
『本丸西櫓 本丸には7棟の櫓がありました。いずれも元和8年(1622)真田信之の松代転出後に上田域主となった仙石忠政が行った、寛永3年(1626)からの上田城復興工事の際に建てられました。現在、本丸の東西虎口には隅櫓が3棟ありますが、南櫓・北櫓の2棟は、明治維新後、他所へ移築されていたものを現在地に再移築したものてす。西櫓のみが寛永期の建築当初の部材を残し、外観もほぼそのままの姿を残す西櫓は全国的にも貴重な建物であり、昭和34年には南櫓・北櫓とともに長野県宝に指定されました。櫓の構造は桁行5間(約9m)梁間4間(約7.2m)の二重櫓で、主要材は松と栂(つが)てす。屋根は入母屋造で本瓦葺き、外壁は下見板張りで一部を白漆喰の塗龍(ぬりごめ)としています。窓は「武者窓」という形式で、突き上げ戸が取り付けられており、棒で突き上げてすばやく開けられるようになっています。1階の狭間(さま、矢・弾丸を放つための窓)は、いずれも下方の敵を狙いやすいよう低い位置に開けられています。南・北面では左から縦長の矢狭間が1つと、正方形に近い鉄砲秩間3つが並んでいます。また西面では、左側に矢狭間が1つ、その右に鉄砲狭間が並んで配置されています。 長野県地域発元気づくり支援金』
『ねがい玉 古来より、神社の神輿の渡御において輿の下をくぐり抜けて神様のご加護をいただくという慣わしがあります。 願いをこめた「ねがい玉」は、みなさまの代わりに、本殿の下を巡り神様の御力を蓄えて手元に戻ります。 神様の御力をいただいた「ねがい玉」はお持ち帰りいただき、大切に保管していただきます。※ねがい玉以外は入れないでください。  真田神社』
『真田井戸 この井戸からは、抜け穴があって城北の太郎山麓の砦に通じていた。敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。 上田市木 一位の木製』
Pに戻ると、僕のCBの隣にホンダゴリラが停まっていました。ホンダモンキーに続き、高校生の時乗ったバイクでした。続いてダックスホンダ・・・素敵な小型バイク全盛の頃でした。ナンバープレートがご当地物で、「上田市」の後に、真田氏の家紋「六文銭」のデザインでした。
「祝町大通り」を東に走り、左折してr77で北上。この道沿いに、「真田十勇士」像があるそうで、ゆっくり走りながら探しました。予想より小さかったですがありました。子供の頃の僕は、真田幸村より真田十勇士でした。首領の猿飛佐助、サブの霧隠才蔵、力自慢の三好清海入道・三好伊左入道兄弟、穴山小助・由利鎌之助・筧十蔵・海野六郎・根津甚八・望月六郎。僕はニヒルな霧隠才蔵が最も好きでした。NHKTVで人形劇もやっていました。突き当りを左折してR18。千曲川沿いを走り、長野自動車道・北陸新幹線をくぐり、千曲川を渡りました。r335にチェンジし、道なりにr77。道なりにR117。「犀川」を渡ります。遠くに北アルプスの雪を被った山脈が見えます。8:19「エネジェットペトロ中御所SS」(長野市中御所4-9-7)で給油。194km/7.92L=24.5km/L。道なりにR19〜r399。突き当りを右折しR406。信州大学の横を走り、左折してr37で北上します。
8:40「善光寺P」500円。善光寺境内を歩きます。
『徳川家大奥供養塔 江戸時代3代将軍徳川家光の正室本理院、家光の乳母春日局、家光の次男綱重の正室紅玉院など、大奥関係者の供養塔です。江戸で善光寺の出開帳が行われた際には、大奥の強い希望で前立本尊が江戸城内に招き入れられるなど、善光寺は徳川将軍家から篤く信仰されています』
『千人塚(二斗八塚) 江戸時代初期の慶長年間に起こった百姓一揆の犠牲者の冥福を祈って建てられた塔といわれています。また、延宝年間に起こった百姓一揆、二斗八騒動で処刑された人々の供養塔ともいわれています』
本堂横に、「令和4年御開帳」と書かれていました。7年に1度の御開帳で、御本尊「一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来」は、白雉5(654)年以来の絶対秘仏で、鎌倉時代に御本尊の御身代わりとして「前立本尊」が造られました。その御開帳のようです。ラッキー。
『松代藩真田家の古塔 江戸時代に善光寺の外護職を務めた松代藩の藩主・真田家の供養塔です。松代藩は善光寺を保護すると共に篤く信仰していました。境内東部には重臣らの供養塔も現存しています。松代と善光寺とのご縁は今も深く、7に1度の善光寺御開帳の折には、本堂前に建っつ大回向柱の用材を松代町が毎回寄進しています』
『高尾燈籠 江戸吉原の三浦屋四郎左衛門が奉納した燈龍です。三浦屋は吉原にあった遊郭で、遊女高尾太夫の供養塔として造立されたと昔より言われております』
9:13「善光寺参拝券御開帳参拝共通券(内陣・山門・経蔵・忠霊殿)1200円」購入し、本堂内に入ります。本堂前境内に「回向柱」が立っており、御開帳されている「前立本尊」から綱が繋がっています。「回向柱」にお参りしている参拝客も多いです。
『石造宝篋印塔(伝佐藤兄弟供養塔)長野市指定文化財 この地方で最古の逆修供養塔です。西塔には応永4年(1397)の銘が入っています。 古くから、源義経の忠臣佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)兄弟の供養塔といわれ、若くして戦死した2人を供養するため、母親の梅唇尼(ばいしんに)が善光寺に参詣して建てたと伝えられています』
『仏足跡(仏足石) お釈迦様の足跡を石に刻んだものです。古代インドで仏像が造ちれるようになる前から、お釈迦様を表す象徴として礼拝の対象とされてきました』
『水子救苦観世音菩薩(みずこきゅうくかんぜおんぼさつ) 平素善光寺大勧進にご高配を賜り篤く御礼申し上げます。さて、この度は、水子救苦観世音菩薩像の改修にあたリ、通分にご浄財をご志納項き感謝申し上げますとともに、この勝縁によって、観世音菩薩と尚一層のご縁が深まります事をお祈り致します。尚水子救苦観音の保全の為皆様方より、ご浄財のご喜捨を賜れますことを、重ねて切にお願い申し上げます。(1口千円からの御申込みとなります。当院の売店にて承ります) 合掌 善光寺大勧進』
ものまねタレント・コロッケさんのコロッケ屋さんがありました。小腹が空いたので1個ご賞味。美味しかった。浅草浅草寺のように、仲見世通りがありました。
『輪廻塔 石柱にはめ込まれている車輪状の石(輪廻車)を回すと、諸々の苦悩を抜け出すことができると言われています』
『むじな燈寵 昔、下総国(現在の千葉県)のむじなが、殺生をしなければ生きていけない自らの罪を恥じ、人の姿に化けて善光寺に参詣しました。 むじなは、善光寺に燈篭を寄進したいと願っていましたが、宿坊でうっかりむじなの姿のまま入浴していたところを人に見つかり、何処へか逃げ去りました。むじなを不憫に思うた宿坊の住職が、その願いを叶えるため、ごの燈範を建てたといわれています』
『謡曲と善光寺 大衆信仰の寺である善光寺は、謡曲にも数多く謡われております。 「土車(つちぐるま)」のあらすじは、妻に死別して世を捨てた深草少将が当寺にやってくる。一方、家臣の小次郎も、父・少将を慕う若君を、土砂運搬用の土車に乗せて全国を尋ね歩き、当寺にたどり着く。少将は2人に気づいたものの、出家への妨げになるとして、一旦やり過ごす。が、疲れと絶望で川に身を投げようとした2人を寸前で呼び止め、再会を喜び合うのだった。 「柏崎」「山姥」「道明寺」「藤」なども、阿弥陀如来さまに救いを求めて来るのは同じで、昔から善光寺はだれからも頼られ、温かく受け入れてきたことを物語っています。 謡曲史跡保存会』
『宝生流謡曲・岡本翠山翁碑 明治初年元長岡藩士。岡本翠山翁(1824〜1891年)北信濃にて宝生流謡曲の先達として名あり。句作画法さらに小笠原流礼式等文武万端に通じ、門弟千数百人を擁す。没後7回忌。明治30年(1897)ここ善光寺境内に門弟有志により、この碑を建立した。 平成26年秋の長野県北部地震により倒壊す。翠山翁の流れを汲む翠雲会・長野宝生会々員等により平成27年3月修復した。 平成27年(2015)盛夏 有志一同』
『善光寺日本忠霊殿 戊辰戦争から第2次世界大戦までの戦争で亡くなった、約240万柱の英霊を祀る仏式霊廟です。明治39年(1906)に創建され、昭和45年(1970)に現在の姿に改築されました。1階には善光寺ゆかりの宝物を展示する「善光寺資料館」が併設されています』
「小松美羽展」が資料館内で特別開催されていました。入ってみます。
『献眼献腎者慰霊碑 移植のために角膜と腎臓を提供した物故者の崇高なる尊い行為を称え、その善意に感謝して、昭和60年(1985)に長野りんどうライオンズクラブが建立した慰霊碑です。題字は当時の善光寺大勧進貫主・三浦義薫師の御揮毫です』
『神風特攻隊碑 太平洋戦争で神風特別攻撃隊に加わり散華した英霊の供養と顕彰のために、隊員の17回忌にあたる昭和36年(1961)、長野県神風特攻隊遺族会によって建立された碑です』
バイクに戻り、10:57出発。r37〜R406〜r399〜R19。JR信越本線・北陸新幹線横を走り、犀川沿いを気持ち良く走ります。「道の駅・いくさかの郷」の案内板を通過し、「こりゃ限界」と思い、赤信号で前を走るSさんに追いついたタイミングで、12:11休憩。1時間ノンストップで走りました。再び走り出し、12:37「写真撮り」休憩。遠くの北アルプスの白い頂を、バイクのバックに収めます。Sさんの来年の年賀状写真候補だそうです。
更にR19を南下し、松本市街地が近づき、r295にチェンジし、13:22「松本城」P。初めての国宝「松本城」です。江戸時代以前の天守閣が現存しているお城は12城あり、そのうち7城が重要文化財で、5城が国宝指定されています。西から「松江城」「姫路城」「彦根城」「犬山城」そしてここ「松本城」です。僕はこの松本城で、国宝5城コンプリートです。お色直しして真っ白なお城に戻った「姫路城」と対象的に、少し小ぶりですが十分にでかい「松本城」は、真っ黒で渋くカッコいい。優美な姫路城に対し、質実剛健「松本城」という見た目です。青い空が広がる気持ちの良いバック、水濠の向こうにブラックな天守閣、これは格好良いです。
『松本城(本丸庭園・天守)拝観料金表大人(高校生以上)700円・小人(小中学生)300円』
『松本城と城下町 松本城は深志(ふかし)城と呼ばれ、中世には小笠原氏の一支城であった。そのころ今の二の丸東側には市町(いちまち)が形成されていたが、西方一帯は沼地であった。本格的な近世城づくりが始まっだのは1580年代で、城郭と城下町一体の都市計画を推進したのは、豊臣大名としてこの地に入った石川氏である。天守を建てたのは2代康長の時で1593〜94年と推定される。3重の水堀りと土塁を巡らして郭の縄張りを行い、本丸と二の丸を内郭とし三の丸を外郭とした。この広さはおよそ39万平方メートルで、内郭には天守・御殿・蔵など城主と藩の施設を置き外郭は上級家臣の屋敷地とした。総延長3.5kmの塁上には隙間なく土塀をかけ、厳重な城門を構える虎口(枡形と馬出し)だけが城内への通路であった。城外は南から北へ通る善光寺街道に沿って城下町を割り、その東側に寺社を配置した。居住区分は厳格で土(さむらい)と町人の混住はなく、士屋敷地は木戸の内と外に分けて中級と軽輩の居住区とし、町人地は親町3町・枝町10町・24小路に区分し、身分や職業によって住まわせた』
『松本藩歴代城主 石川氏:笹竜胆紋。天正18年〜慶長18年(1590〜1613)。8万石。初代数正・1代康長。文禄2〜3年天守3棟築造。小笠原氏:三階菱紋。慶長18年〜元和3年(1613〜1617)。8万石。3代秀政・4代忠真。戸田氏:はなれ六ツ星紋。元和3年〜寛永10年(1617〜1633)。7万石。5代康長・6代康直。松平氏:丸に三葉葵紋。寛永10〜15年(1633〜1638)。7万石。7代直政。寛永11年頃辰巳附櫓・月見櫓増築。堀田氏:黒餅に堅もっこう紋。寛永15〜19年(1638〜1642)。10万石。8代正盛。水野氏:丸に立ちおもだか紋。寛永19年〜享保10年(1642〜1725)。7万石。9代忠清・10代忠職(ただもと)・11代忠直・12代忠周(ただちか)・13代忠幹(ただもと)・14代忠恒。戸田氏:はなれ六ツ星紋。享保10年〜明治2年(1725〜1869)。6万石。15代光慈(みつちか)・16代光雄・17代光徳(みつやす)・18代光和(みつまさ)・19代光悌(みつよし)・20代光行(みつゆき)・21代光年(みつつら)・22代光庸(みつつね)・23代光則(みつひさ) 平成23年12月30日 松本史談会誌之 設立85周年記念』
『松本城保存の功労者 小林有也(1855〜1914):大阪出身で、初代松本中学校長として来任し、29年間にわたり子弟の教育に尽くした。荒廃していた天守を憂い、明治34年(1901)に松本天守閣保存会を設立し、11年間にわたる修理の中心となり、天守を倒壊の危機から救った。市川量造(1844〜1908):松本城下町の下横田町に生まれた。明治5年(1872)に松本城天守が競売に付され、235両余りで落札され取り壊されるのを憂い、天守買戻しに尽力し、その保存に貢献した。後に、戸長、県会議員等を歴任した』
城内に入り、天守閣を見上げると、その向こうに北アルプスの白い頂が並び、城の黒と山頂の白のコントラストがとても綺麗です。天守閣に近づくと、桜が満開で、薄ピンクがとても綺麗。城内に大きな枝垂桜があり、こちらも満開でとても綺麗。少し並んで、天守閣に入城しました。
『乾小天守と丸太柱 乾(いぬい)小天守は天守の北に位置するのに、乾と呼ばれるのは、北は叛(そむ)く、敗れるなどの意があり、忌み嫌われたからである。 三重四階の櫓は、天守と渡櫓で連結している。乾小天守は天守と構造が異なり丸太柱が使用されている。1・2階の10本と3・4階の通し柱12本は丸太材である。 用材はツガ・モミ・アスヒで、表面仕上げは手斧(ちょうな)はつりである。なお柱間は江戸間(6尺=1間)である』
『武者走 天守1階の周囲1間通りは、内側の床より50cm低い。これを入側(いりかわ)または武者走と呼ぶ。戦闘の時、武士が矢玉を持ってここを走りまわるのでその名がついたという。 武者走の外側の柱列をよくみると曲線を描いていることがわかる。これは下の天守台石垣の天端の線が糸まき状曲線に仕上げてあるためである。この影響は2階にも及んでいる』
『鯱真木 この鯱真木(しゃちしんぎ)は、昭和の修理の際、新しい真木と取り替えられたもので、「天保十四葵卯年(1843)四月取替」と墨書されている。長さは190cmで大棟下(おおむねした)の棟木に取る付けられ、その先端80cmが鯱の中に入っていた』
『矢狭間(やざま)・鉄砲狭間 松本城天守が築造されたのは、慶長5年(1600)の関が原合戦以前である。そのため武装強化に意が用いられている。弓や鉄砲を発射する狭間の数が多いのはその現れである。小さい方形のものを鉄砲狭間、長方形のものを矢狭間と呼び、内側が広く外側が狭い。蓋のない初期的構造である。(矢狭間60箇所、鉄砲狭間55箇所)』
『石落 天守1階の四隅に壁から張り出して下方に開口(常は蓋をする)する構造を石落(いしおとし)と呼ぶ。これは石垣をよじ登ってくる敵に対して石を落したり、弓や鉄砲をうって撃退する装置である。松本城では四隅のほか天守1階の中央や乾小天守・渡櫓にも石落が設けられていて、他城に比べてその数が多い。(11箇所)』
『壁の構造 天守の壁は、各階とも外壁は塗りごめの「大壁」、内壁は柱の見える「真壁」である。 下地には、径1.5〜3.0cmのサクラ・カエデ・リョウブなどの細丸太(こまい材)が用いられている。 壁の厚さは1・2階で28.8〜29.4cmあり、上の階ほど薄くなっているが火縄銃の弾は通さない。 この壁は、昭和の修理の際、保存のために一部切り取った創建当時の2階の壁である』
『天守大棟の鯱 鯱は、頭は竜または虎に似ていて、背には鋭いとげを持つ海魚の形をした想像上の動物です。大海の水を飲みほし、非常の場合には、これを吐き出して身を守ると言われています。火災よけのまじないとして天守などの大棟にあげられ、棟飾りに使われています。 ここに展示してある鯱は、昭和の修理の際に新しい鯱と取り替えられたもので、高さは127cm(雄)と124cm(雌)です』
『天守の土台支持柱 天守の土台は、天守台の中に埋め立てられた16本の土台支持柱によって支えられていたことが、昭和の修理でわかった。支持柱は下図のように土台の入側通りに12本、中央部に4本が、碁盤目状に立てられていた。 支持柱はすべてツガ材で、径36.3〜39.3cm、長さはおよそ5mあり、その下端は地盤に達し、上端は土台に「ほぞ差し」になっていた。 この土台支持柱は、北側。東より2本目の柱の一部である』
『懸魚芯材 松本城天守の千鳥破風と入母屋破風には「かぶら懸魚」を取り付けてある。 この懸魚芯材は、辰巳附櫓のものである。材はヒノキで創建当時のものと推定される。芯材の下げ苧(さげお・麻)を細かく釘止めしてから、白漆喰を塗り重ねて仕上げる。上部の「六葉」と「樽の口」は黒漆塗りである』
『天守2階 天守2階の母屋の中の柱間(京間寸法)は東西7間・南北6間で、柱に残る小舞穴の痕跡から、この階は8室に部屋割りされていたことが分る。武者窓(竪格子窓)からの明りも多く、有事には武者達の営所に当てることができた。東南の室:(東西)2間×(南北)3間、中南の室:2間×3間、西南の室:3間×3間、東北の室:1間×3間、中北一の室:1間×1間、中北二の室:2間×1間、中北三の室:3間×2間、西北の室:3間×3間』
『松本城鉄砲蔵 松本城天守は、我が国へ天文12年(1543)に初めて火縄銃が伝わってから、50年後の文禄2年から3年(1593〜94)にかけて築造された。天守の厚い塗りごめの壁や鉄砲を撃つための数多くの狭間などは、火縄銃の攻防を予想して築かれたものである。松本市出身の故赤羽通重氏は、か代子夫人とともに一生涯をかけて、数多くの鉄砲・装備品・文書類などを収集された。赤羽氏はこの貴重なコレクションを鉄砲戦を想定して築造された松本城に展示することは意義が深いと考えられ、鉄砲141挺をはじめ数多くの装備品や文書類を松本市に寄贈された。松本市では、昭和63年6月に「松本城鉄砲蔵」を開設し、さらに質・量ともに充実した赤羽コレクションを、平成11年3月に松本城天守2階と松本市立博物館とに分けて展示した。松本城天守には火縄銃の種類や製銃地などを、また松本市立博物館には武器を歴史の流れにそって位置づけて展示してある』
『鉄砲の分類 火縄銃は玉目の重さ・口径・働きや発火機構によって分類された。
1.玉目と口径による分類 小筒:9匁(もんめ)5分まで・18mmまで 士筒:10匁〜29匁5分・18mmまで 大筒:30匁以上・26mm以上
2.働きによる分類(火縄銃) 単筒:50mmまで 馬上筒:500〜800mmまで 狭間筒:1500〜1700mm
3.発火機構による分類 火縄銃:点火した火縄を挟む火挟みを、着火火薬のある火皿に打ち付けて点火する。 雷管式銃:玉と発射火薬を薬莢(やっきょう)にこめ、雷管を打って発射する。 火打ち式銃:火打ち石を鋼鉄片に打ちつけて、火花を出して点火する。
※火縄銃は振動が少なく命中精度が高かったので幕末まで重用された。鉄砲蔵には小筒が最も多くおさめられている』
『銃身の製作法 真金(しんがね)はよく鍛練した鉄棒で、これに銃身になる瓦金を赤熱して叩きながら巻き付ける。荒巻が終わったら合せ目を赤熱して沸(わかし)付けし、真金を入れてよくなじませ、丸くする。尾栓(びせん)はねじ切りで工作して取付ける。巣口(すぐち)は型を沸付けしてやすり仕上げをし、銃腔内研磨等をする。数物の「番筒」はこれでよいが、瓦金仕上げしてからさらに細長い帯金を巻いて熔着(ようちゃく)したもの、さらにその上に2重に巻張りをして熔着し、上質の銃身をつくることがある。 上身(じょうみ)に前目当、先目当、横に火皿を取付けて完成。上質「はがね鉄」の2重巻張り銃身は最高級品である』
『火縄銃の製作地と特徴 鉄砲伝来からほぽ10年の問に鉄砲は優秀な刀匠集団により、九州、近畿を中心に大量に生産され、戦いに用いられるようになった。しかもその製法は外国の教えをほとんど受けることなく、独自の研究工夫によって開発完成したのである。薩摩銃(鹿児島):鉄砲伝来した種子島の刀匠、八板清定、天文13年(1544)より始まる。全体に細作り、カラクリ部分は鉄多い。カニ目無し内カラクリ、地板に鍍金(めっき)。火挾みに彫刻等がある。用心金は無い。柵杖(さくじょう)の穴を明ける背割れはない等。所謂(いわゆる)、伝来筒の各特徴を有するものが多い。銃床に紅がら漆塗りもある。
根来筒(紀州筒)和歌山:種子島で銃製作をいちはやく会得して天文13年(1544)紀州根来に帰った津田監物が鍛冶集団芝辻一家に製作させた。根来鉄砲隊の主銃をまかない盛んであった。間もなく主製産地を堺に譲ったが、技術は残り生産は続けられた。銃の特徴として角型銃身、材質は柔らかい。柑子大きく、カラクリは真鍮製外カラクリ多く、全体に実用本位な大型物多い。戦国初期の要望そのものである。現存するものは少ない。
堺筒(大阪):泉州堺の商人、橘屋又三郎が種子島より製法を学び、当地の鍛冶職に伝えた。根来筒の製作集団から有名な銃工・芝辻清右衛門等を迎え盛んになった。この集団は以後300年間徳川後期まで、芝辻・榎並屋・井上・田中家などで集団をなし、国友集団と共に日本製銃の2大産地であった。銃は角銃身、大きな柑子、材質は軟かいもの多い。銃床尾の象の鼻附近は大きく丸く、先へ行くとスマートに細くなってくる。カラクリ部分は真鍮、外平カラクリ多い。地板の彫刻、銃身部の絵巻模様の象嵌(ぞうがん)、銃床の裏、横、にぎり部分は木部の見えない程真中飾り金具多い。前目当は富士山、片富士型、先目当は杉型多し。所謂大名筒といわれるものはほとんどここの作品である。
備前筒(岡山):戦国後期、備前を中心に有名な長船刀匠集団が、裏日本の優良鉄地を使って製作を始めた。銃身は丸型、一角多く、総てに備前鉗子が付いている。材質は硬いはがね、前目当杉型、銃床は堺筒に似る。目釘3ヶ背割りの無いものもある。カラクリ平型、全体に地味で、銃床、銃身ともほとんど飾りなし。実用本位の感じで、実射で良く当たるので愛好家が多い。
国友筒・日野筒(滋賀): 天文末年、種子島領主より将軍足利義晴に献上された鉄砲が国友村の鍛冶集団に貸し下げられ製作が始まった。天文18年(1549)頃から織田信長等の大量注文、元亀元年(1570)長浜城主になった羽柴秀吉の援護があり、砲術家稲富一夢の指導、戦国活躍の中心地にあり、一大盛況を呈した。
徳川家康の天下取りの火器基地等を経て、幕府の兵器廠(しょう)として幕末まで400年程続いた。盛時は銃工1000人を数えた。銃の状態は製作年代によって変化はあった。銃身角、丸、一角、柑子無し、カラクリは平カラクリ、外記カラクリ、外カラクリ等、前目当スリワリ、チリスカシ、先目当杉型、象嵌、銃飾りは少なく、それぞれの時代にまとまった、取扱いやすいものが多い。銃身の厚(こう)も初期に肉厚く、後期には2/3位になる。後期にはネジを部分に使うとかカラクリも改良を加え、特殊のものが見える。 10匁級持筒にその年代特徴を見る。日野筒とは国友町の隣地で日野の産。国友筒とほとんど変わらない。尚、現存する火縄式銃の約1/3位は国友筒ではなかろうか。
仙台筒(宮城) 徳川初期末、幕府は製銃の統制を厳しくして、生産地の管理を厳重にした。地方大藩は銃の要求を解決するために国友村鍛冶団にひそかに人を送り技術を習得させ、自藩に製銃所をつくった。仙台藩によって国友系の銃が作られたのは必然である。幕府の意向を斟酌(しんしゃく)しつつ幕末まで続けられた。陸奥の小藩でも同様に作られたものもあり、総称して仙台筒という。銃の特徴は、角、丸筒、柑子はないものが多く、材質は硬い方である。外記カラクリ多く、機械的に仕上がっている。前目当チリスカシ、スリワリ型、先目当はスリワリ、杉型、銃身の飾りは少なく、銃床に瓢箪、ブドウ、葛等植物飾りのあるものもあり、全体に角張っているが使い易く、安定している。実射銃として評価が高い』
『平カラクリ 伝来当時のカラクリに、日本人の器用さと簡素さを加味して完成させたのが、このカラクリである。一番多く作られたと思われるカラクリで、日本全国どこでも見られるポピュラーなものである。正しく調整しておいても、持ち歩いているうちに徒落(かけおち)の可能性が生じる短所がある』
『外記(げき)カラクリ 江戸時代の寛永年間に、幕府鉄砲方、井上外記正継によって考案された、蛭(ひる)クワエと火挟みとでロックされるカラクリで、無双カラクリとも呼ばれた。 このカラクリは部品が多いため、正しく調整してロックするのに時間がかかるが、暴発等の徒落(かけおち)は完ぺきに防げる理想的なものである』
『蟹(かに)の目無き内カラクリ 江戸時代中期に開発された、だぶるゼンマイカラクリとも言われているカラクリ。火挟みの回転軸に、地板をはさんでロックブレイトと発条(ばね)を付け、楔(くさび)ピンで止めてセットする。そして火挟みを持ち上げると、機構一式が火挟みと同じ回転をし、ロックされる。一度完ぺきにロックされると徒落(かけおち)の心配が一切ないカラクリである』
『発射法
1.火縄銃は前装銃(ぜんそうじゅう)であるから、銃口を上に向けて火薬を注ぎ込み、弾丸を入れ柵杖(さくじょう)を持って上から突く。
2.銃を水平に戻して安全装置の火蓋を開け、薬室に小穴で通じている火皿に点火薬を入れ、火蓋を閉じる
3.引き起こしてある火挟の竜頭(りゅうず)に、点火した火縄の先を挟み火蓋を聞く。開くことを切るといい、いわゆる「戦いの火蓋が切られる」という言葉がここから生れている。
4.銃身を左の手で支え、銃床尾を右手で握り、右手を頬に当て照準目当で狙いをつける。
5.引金を引くと、火挾が火皿を打ち火縄が火皿の点火薬に着火し、薬室に導火されて爆発が起こり弾丸が発射される。
早合(はやごう)による弾丸の装填 火縄銃の装填を少しでも早くと考えられたのが旱合である。前もって底をつけた革や紙の筒に玉と火薬をつめて封またはふたをしておく。使う時にその封またはふたを取って火薬と玉を同時に銃口から入れるのである。早合は、早合入れと呼ぶ胴乱(どうらん)に入れるか、襷(たすき)旱合という弾帯で肩にかける』
『点火方法の進歩 銃器の発達は、いいかえれば点火方法の進歩ともいえる。点火方法は、指火(さしび)式から現代の雷管撃発式になるまでには、火縄式・火打石式・雷管式と数百年にわたり、絶えまない研究が続けられた。
雷管撃発式:火門に雷管をかぶせるだけで、直ちに撃発できるもの。
指火式銃:最初に出現した火砲で、とくに装置と呼ばれるものはなく、直接火種を火門に押しつけて点火する。火矢筒・石火矢・仏郎機(ふらんき)等の旧式火砲には19世紀の初めまで使われたが、小銃では15世紀に火縄銃が生まれると同時にすたれた。
ピン打式銃:1836年にフランス人ル・フォショウが考案した。 銅製の筒の後端にほぼ直角に針が突出していて、この頭を打つことで薬莢(やっきょう)内の雷汞(らいこう)を発火させる。
薬莱:真鐘製の小筒で、火薬をつめる容器
雷汞:水銀を硝酸で溶かし、エチル・アルコールを加えて反応させてつくる化合物。わずかの衝撃摩擦でも爆発する』
『前装銃から後装銃への発展 火縄銃や燧(ひうち)石銃の欠点を解決したのが雷汞(らいこう)と呼ばれる点火薬を用いた雷管である。最初は、雷管を火道にかぶせ撃鉄で叩くと発火し、前装していた発射火薬に通じて爆発、弾丸を打ち出す「前装式管打ち銃」と呼ばれる雷管銃だったが、まもなく薬莢(やっきょう)内に発射火薬と弾丸がこめられた「後装式管打ち銃」となり、やがて雷管と薬莢が1つになった後装銃となっていった。 この時期の欧米における鉄砲の進歩・変化は驚異的で、またたく間に後装式連発銃にまで至るのである』
『戦国期の弾づくり・火縄づくり:女子の弾づくりの図:戦国期、武士の妻や娘が受け持った作業に鉄砲の弾づくりがある。火縄銃にはそれぞれの銃に合った鉛弾が必要で、いつ何時攻め寄せてくるかも知れない敵に備えての弾づくりは女子の仕事だった。もちろん半農半武士の女房や娘も同じことで、文久3年に刊行された「銃戦紀談」に古き時代の画を写すと題して、その所作がはっきりと描かれている。
火縄づくりも装具の補修も女性の仕事:火縄は火縄銃にとっては特に大切なものであった。実際に火縄銃を射ってみると、よい火縄だと命中度がちがう。木綿の火縄は火もちもよく、火縄の先に生じる灰も真っ白な軽い灰で、引き金をひいてからドンと弾の出るタイミングがまことによい。
戦国期には木綿は絹におとらず非常に高価貴重なもので、古書に、当時は火縄の素材が高価なため繊維の長い竹や麻を混ぜて火縄をつくったという記録もある。 その他、装具の補修も、糒(=干し飯)や味噌などの携帯食料の確保なども、火縄や弾丸づくりにおとらず大切な女性の仕事だった。松本城と鉄砲:松本城はてっぽによる攻防を予想して築かれた名城である。城の周囲にめぐらした石垣上の塀ややぐらは、銃弾に耐える厚い塗籠(ぬりごめ)づくりで、弓矢を射るための矢狭間や鉄砲を発射するための鉄砲狭間(銃眼)が数多く設けられた。天守閣だけで矢狭間60・鉄砲狭間55がある。天守閣から内堀、外堀までの各80〜200mは鉄砲の有効射程距離内に入るように設計されている。
松本城天守閣の鉄砲狭間は正方形で、内側が広く、広角度に銃身を呵して敵を狙えるようになっている。周囲の300m以上の敵に備えて使用するのは特別に銃身の長い狭間銃であった』
『船載砲 中世末ころ、ガレー船に船載された青銅製の船載砲(オランダ船)。先込・黒色火薬・火縄着火・鉛弾径33mm・火薬量1発100g 位、有効射程300〜500m。船上を引き回したり、装弾便宜のために木台下部に車輪がついている。城塞砲としても使われた。 (種子島流集者之内)より』
『階段 松本城天守の階段は、1階から6階までに7箇所設けられている。その位置がお互いに離れているばかりでなく、どの階段も勾配が急(55°〜61°)で、特に4階から5階へと登る階段は蹴上げが約40cmあり最も険しい』
天守閣最上階から周囲を眺めました。松本市街地はまだ高層ビルがなく、築城当時城主が見ていた景色とそれほど変わらないように感じました。大都会にない城ゆえの醍醐味を体験できました。
『天守6階 天守6階は周囲に3尺(90cm)通りの入側が巡る3間の1部屋となっている。無目敷居が回っているので、畳を敷くことも可能である(階段を除き京間16畳となる)。有事には最高幹部の司令塔(城主の座所)となるところである。6階の床面は地上22.1m、堀水面上23.9mあり、東は山辺谷から美ヶ原高原、南は松本市街の中心部と塩尻・木曾方面、西は安曇平が広がり、その向こうに北アルプス(乗鞍岳・槍ヶ岳・常念岳・燕岳など)、北は信州大学・国宝開智学校から放光寺・城山方面が一望できる。 寄贈松本城ロータリークラブ』
『建言(けんげん)書・懇願書 明治2年6月の版籍奉還後、全国の城郭はすべて政府の所有となった。しかし、旧藩主は藩知事としてそのまま城地にあったが、明治4年7月に廃藩置県となり藩知事をすべて東京に移住せしめ、全国の城郭は一部を存置するのみで、大部分を破却することとなった。 松本城天守は明治5年1月競売に付され、235両余で落札され、取り壊されることになった。このとき、松本下横田町副戸長の市川量造(りょうぞう)ら有志が天守保存運動に立ち上がり、天守を破却の危機から救ったのである。 上掲の文書は、天守を利用して博覧会を開催しようと、明治5年11月に市川量造が筑摩県に提出した「建言書」である。しかし、天守は堕軍省所属になっていたため借用は不許可となった。明治6年9月、再び天守惜用の「懇願書」を提出し、博覧会開催の許可を得たのである。こうして明治6年11月10日より12月24日まで筑摩県松本博覧会が開かれた。以後、明治9年まで天守において都合5回の博覧会が開催され、その収益と有志の醵金(きょきん)をもって天守は買い戻されたのである』
『建第40号 国宝指定書 松本城天守5棟(天守5重6階本瓦葺・乾小天守3重4階本瓦葺・渡櫓2重2階本瓦葺・辰巳櫓2重2階本瓦葺・月見櫓1重地下1階附本瓦葺)右を国宝に指定する。 昭和27年3月29日 文化財保護委員会』
『守護神二十六夜社勧請の謂れ 天守6階、小屋梁の上に26夜社を勧請したのは、元和4年(1618)である。其の年の正月、月令二十六夜の月が東の空に昇る頃、二十六夜様が、天守番の藩士、川井八郎三郎の前に美婦となって現われ、神告があった。「天守の梁の上に吾を奉祀して毎月26日には三石三斗三升三合三勺の餅を衝(つ)いて斎(いつ)き、藩士全部にそれを分ち与えよ、さすれば御城は安泰に御勝手向きは豊なるぞ」。 翌朝このことを藩主に言上し、翌2月26日に社を勧請し、以来明治維新に至るまで其のお告げを実行してきた。お陰で松本城天守は多くの危難をのり越えて無事今日に至っている』
『天守五階 天守五階は、中央に3間×3間の大広間を置き、周囲は入側(いりがわ)と4つの破風入込間という構成である。有事には幹部の居所に当てられるものと推定される。四方に窓が開いていて6階とともに戦況を見るのに都合がよい。なお、この階の柱は全部で30本あり、すべて創建当時のものである。うち入側隅柱4本(ヒノキ1、アスヒ3)は6階との通し柱である。また、北側・東よりの柱には明治修理の際綱をかけて柱を引き起こした擦痕(さっこん)がある』
『天守四階 天守4階は、3階までの各階とガラリと室内の趣が異なっている。柱が少なく天井が高い上に、四方から外光が入るので明るく広々とした感じを受ける。柱・鴨居・長押などはすべて鉋(かんな)仕上げで、鴨居の上には小壁もあり居室風に設えてある。敷居がないので建具は用いられていなかったが、幕や屏風で仕切れば入側と2つの部屋に分かれる。有事の際、6階とともに城主の座所に当てられた場所と考えられる』
『天守三階 この階は天守二重の屋根裏に設けられているので窓が全くない。明かりは南側干鳥破風の木連格子(きつれこうし)からわずかに入るだけである。そのため当時は「暗闇重(くらやみじゅう)」と呼ばれていた。 外部からの遮へいが強いので有事には「武者溜(たまり)」に当てる、との説もあるが普段は倉庫であった。この階から4階への階段は対角線の位置に2箇所ある』
『花頭窓 窓の上方が尖った特殊なアーチ型になった窓を花頭窓(かとうまど)という。禅宗寺院の建築に見られる形式で、中国におこり我が国へは鎌倉時代に入った。それが後には、城郭建築にも広がった。 松本城では乾小天守4階に2箇所、辰巳附櫓2階に2箇所設けられている。窓の内側には、引分の板戸が付き、下の敷居には水切りの小穴があけられている』
『松本藩玉箱 火縄銃の玉を入れて運ぶための箱。幕末維新期に松本藩で使用されたもの。戸田家は葵の紋の使用が許されていた。 (個人蔵)』
『様々な変り弾 銃身に1発だけを込めるほか、2発込、3発込、連弾(つれだま)という麻糸で5〜6箇つなげたものもある。 図中のものは、主として直径20mm以上の銃身用で、工作弾を用いた。 主弾に鎖付(くさりつき)釣針、主弾に2箇・3箇の子弾の鎖付き、水面を打って跳弾を狙ったもの、半円・2/3半円・尖頭弾・火薬と弾と混合して着火、発射させるなど様々である。いずれも製作に手がかかるわりには破壊力がさほどでなかったため、あまり使われなかった』
『月見櫓 北・東・南に設えてある舞良戸(まいらど)を外すと、三方吹き抜けになり、回りに巡らされた朱塗りの回縁や船底型の天井など書院風の造りと相まって、優雅な雰囲気を醸し出し、天守・渡櫓・乾小天守と比べ開放的で、平和な時代に造られたことがよく分る。 この月見櫓は松本城主松平直政(家康の孫)によって、一国一城令という統制の厳しい中、寛永年中に3代将軍家光を迎えるため、増築されたものである。 現存する城郭建築の中で月見櫓を持つのは松本城と岡山城だけであるが、天守と一体となっているのは、松本城だけである』
天守閣を下りてきました。階段が、上段に行くに従って、狭く急になり、上行下降ですれ違いが出来ないなど、観光客に渋滞が発生していました。職員さんの指示が明確で、人気のお城であることが分かりました。城内曲輪に戻ると、鮮やかな傘と着物に身を包んだお姫様と殿様が観光客と一緒に写真に収まっていました。鉄砲隊装束の雑色がカメラマンです。
桜が満開で絵になります。
15:06、バイクに戻り、帰路に着くSさんとここでお別れです。「さようなら、お世話になりました」。r320〜R19〜R158で、「松本IC」から「長野道」に乗りました。後ろからSさんが追い抜いて行くと思ったら、ペースが同じようでバックミラーにも姿が見えませんでした。信号1つ待ちの差、そのままだったようです。「塩嶺トンネル」を抜けてすぐ、「岡谷IC」で下車しました。R20〜r184で、15:52「諏訪大社下社春宮」。
『神と人とをむすぶ柱 神人和楽 信濃国一之宮総本社「諏訪大社」 式年造営御柱大祭
令和四壬寅年・御柱大祭日程 4月1日〜6月15日
山出し:上社(4月2・3・4日)・下社(4月8・9・10日)
里曳き:上社(5月3・4・5日)・下社(5月14・15・16日)
宝殿遷座祭:上社(6月15日)・下社(5月13日)
「式年造営御柱大祭」御奉賛のお願い
当大社では来る今和4年に「式年造営御柱大祭」を斎行致します。 この大祭は古くより当社の最も重要な祭儀として継承され、上社・下社(四社)社殿の四隅に御柱を建立し、諏訪大神の御霊代を奉安する宝殿の造営を行い調度品を新調して遷座祭を斎行致します。 つきましては氏子崇敬者の皆様から広く浄財を仰ぎ、遷座祭を始め諸祭儀滞りなく斎行致したく、何卒格別の御芳志により御奉賛賜りますようお願い申し上げます。 信濃国一之宮総本社・諏訪大社記 1.奉賛全 一口 金五千円 会社・団体は1万円よりお願い致します。
1.奉賛受付 神札授与所・社務所にて受け付けます。インターネットでも受け付けます』
『神楽殿 御神前にお神楽を奉納するための建物で、落成は江戸時代前期・天和年間(1681〜1684)頃のものである』
『上諏訪社(末社) 御祭神:建御名方神 上の諏訪つまり上社の御祭神をお祀りしている。 例祭日:7月15日』
『若宮社(摂社) 御祭神:建御名方彦神別命(たけみなかたひこがみわけのみこと)・伊豆早雄命(いづはやをのみこと)・妻科比売命(つましなひめのみこと)・池生神(いけのおのかみ)・須波若彦神(すわわかひこのかみ)・片倉辺命(かたくらへのみこと)・蓼科神(たてしなのかみ)・八杵命(やきねのみこと)・内県神(うちあがたのかみ)・外県神(そとあがたのかみ)・大県神(おほあがたのかみ)・意岐萩命(おきはぎのみこと)・妻岐萩命(つまぎはぎのみこと) 例祭日:7月1日・毎月1日 お諏訪さまの御子神13社をお祀りしている』
『御柱(おんばしら) 御柱は、寅年と申年の7年目毎に御宝殿の造営と共に立て替えとされる御神木で、社殿の四隅に建立されています。この春宮一之御柱は、長さ17m余・直径1m余の樅(もみ)の樹で霧ヶ峰高原に続く東俣国有林に於いて伐採され、数千人の氏子の奉仕により曳行されました。 御柱祭は、天下の奇祭として有名であり、次回は平成34壬寅年に行われます。 諏訪大社』
『幣拝殿(へいはいでん) 国重要文化財 この建物は、御弊を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったもので幣拝殿と呼ばれている。 建築様式は、二重楼門造りで全体に見事な彫刻が施されている。棟梁は、地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門で、秋宮と同じ絵図面で秋宮幣拝殿より1年早い安永9年(1780)に落成した。 春秋雨宮は、社殿構造は同じで当時は双方で技術が競われた』
『左右片拝殿 国重要文化財 片拝殿と呼ばれるこの建物は、幣拝殿と同じ安永9年(1780)地元の大工柴宮(伊藤)長左衛門により造営されたものである。秋宮に比べて幅が短く屋根は片切りになっている』
『下社重要文化財建造物 春宮:幣拝殿・左右片拝殿(昭和58年12月26日指定) 秋宮:幣拝殿・左右片拝殿・神楽殿(昭和58年12月26日指定)』
『筒粥殿(つつがゆでん) 下社特殊神事の1つである筒粥神事の神粥炊き上げが行われる建物で、毎年1月14日夜から15日の早朝にかけて、神職がいろりを囲み一晩中葦筒を米と小豆の粥に入れて炊き込み、葦筒44本の内43本は作物の豊凶を、残りの1本は世の中を占う。 土間中央のいろりは江戸時代初期のものである』
『諏訪大社下放春宮 幣拝殿・左右片拝殿 重要文化財・昭和58年12月26日指定
諏訪大社は建御名方神と八坂刀売神を祀り、上社は建御名方神(彦神)を、下社は八坂刀売神(女神)を主祭神としている。 下社の祭神は、2月から7月まで春宮に鎮座し、8月1日の御舟祭で秋宮に遷座し、翌2月1日に春宮に帰座される。
下社の中心となる建築は、正面中央にある拝殿と門を兼ねたような形式の幣拝殿、その左右にある回廊形式の片拝殿、それらの背後にある東西宝殿からなる。東西の宝殿は茅葺・切妻造、平入の簡素で古風な形式をもち、寅申の7年ごとの御柱大祭で新築する式年造替制度がとられている。右のような社殿形式は諏訪大社に特有のものであり、またその幣拝殿と左右片拝殿に似た形式は、長野県内の諏訪神を祀るいくつかの神社でも用いられている。
現在の春宮の幣拝殿は安永8年(1779)に完成したと考えられる。大工棟梁は、高島藤に仕えた大工棟梁・伊藤儀左衛門の弟である柴宮(当時は村田姓)長左衛門矩重(延享4年・1747〜寛政12年・1800)であった。 幣拝殿は、間口の柱間か1間、奥行が2間で、背後の壁面に扉口を設ける。2階は四方が吹放ちで、屋根は切妻造・平入の檜皮葺で、正面は軒唐破風をつける。 左右の片拝殿は、梁行の柱聞が1間・桁行が5間で、屋根は、片流れの檜皮葺である。
幣拝殿の建築様式の特徴は、各所につけられた建築彫刻の数の多さとその躍動感にあふれた表現である。正面の腰羽目の波、虹梁の上の牡丹、唐獅子・唐破風内部の飛竜・1階内部の小壁の牡丹・唐獅子・扉脇の竹・鶏で名作が多く、建築彫刻の名手である柴宮長左衛門の腕前がよくうかがえる。 信濃圖一之宮諏訪大社・下諏訪町教育委員会』
社務所で、「諏訪大社木札」と「絵馬」を授かりました。
バイクに戻り、ほんの少し移動。
『峡の田に座して、石仏のどかなり 正人 万治3年(1660)敬虔な心の石工たちに刻まれてから村人たちに阿弥陀様と親しみ崇められて来たが、近年岡本太郎先生にその特異な石仏としての存在が評価され世の注目を浴びている。「万治の石仏」毫毛・岡本太郎画伯 昭和53年4月 下諏訪観光協会建立』
『万治の石仏 明暦3年、諏訪高島藩主・諏訪忠晴が諏訪大社下社春宮に、石の鳥居を寄進しようとしました。この仕事を請け負った石工が、この地にあった大きな石を加工しようとノミを入れたところ、石から血が流れ出しました。驚いた石工は鳥居を造ることをやめ、この不思議な石に阿弥陀如来仏を刻み、建立したと伝えられています。万治の石仏は、その名の通り「万(よろず)のことが治(おさまる)」万治を「はんじ」と読み、物事をばんじまるく治めて、願いを聞いてくれるありがたい石仏として、広く人々の信仰を集めています。大きな自然石にちんまりと首が乗っているアンバランスな佇まいとユーモラスな表情が特徴的。日本が誇る芸術家・岡本太郎も万治の石仏を愛して止まず。この石仏を拝むために下諏訪を何度も訪れました』
『万治の石仏と伝説 南無阿弥陀仏万治3年(1660)11月1日 願主名誉浄光心誉廣春 伝説によると諏訪大社下社(春宮)に石の大烏居を造る時、この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れをなし仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)。その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ、烏居は完成したというのである。石工達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。尚、この地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町字石仏となっている。 下諏訪町』
『観光協会と商工会議所が提唱する「万治の石仏」お参りの仕方
1.正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる。
2.石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに3周する。
3.正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する。
(春宮ともゆかりのある石仏です。春宮へもお参り下さい。)
下諏訪観光協会・下諏訪商工会議所』
バイクに戻り、春宮前を通り過ぎ、r184〜R20〜R142で、16:23「諏訪大社下社秋宮」。
『根入(ねい)りの杉 この杉の木は樹齢凡そ6〜700年で、丑三つ時になると枝先を下げて寝入りいびきが聞こえ、子供に木の小枝を煎じて飲ませると、夜泣きが止まるといわれている』
境内に入ると白いビニールカバーで覆われた土俵がありました。秋宮の本殿前左右に太い御柱が真っすぐ空に向かって立っていました。きっと後ろにも左右に立っているのでしょう。
『左右片拝殿(国重要文化財) 安永10年(1781)、初代立川和四郎富棟により造営された。 幣拝殿に比べ、彫刻などは見られず、江戸時代の記録には、幣拝殿は帝屋(御門戸屋)片拝殿は回廊と記されている』
『下社重要文化財建造物 秋宮:幣拝殿・左右片拝殿・神楽殿(昭和58年12月26日指定) 春宮:幣拝殿・左右片拝殿(昭和58年12月26日指定)』
『幣拝殿(国重要文化財) この建物は、御弊を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったものである。二重楼門造りと呼ばれ、2階は跳勾欄(先の反った欄干)を回し、全体に見事な彫刻が施されている。諏訪高島藩の命により、安永10年(1781)に初代(立川流)棟梁・立川和四郎富棟によって造営された』
本殿右前に、『昭和39年5月12日 昭和天皇皇后両陛下御参拝 天覧の白松(三葉の松)』が高く育っていました。
『御柱(おんばしら) 御柱は、寅年と申年の7年目毎に御宝殿の造営と共に建て替えられる。御神木で社殿の四隅に建立されています。この秋宮一之御柱は、長さ17m余・直径1m余の樅(もみ)の樹で霧ヶ峰高原に続く東俣国有林に於いて伐採され、数千人の氏子の奉仕により曳行されました。 御柱祭は、天下の奇祭として有名であり、次回は平成34壬寅年に行われます。 諏訪大社』
『信濃国一之宮・諏訪大社秋宮
1.鎮座地 上社前宮(茅野市)・本宮(諏訪市) 下社春宮(下諏訪町)・秋宮(下諏訪町)
1.御祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)・八坂刀売神(やさかとめのかみ)
1.御由緒(旧官幣大社) 我国最古の神社の1つであり、信濃国一之宮として朝廷や幕府の信仰が厚く、全国1万余の諏訪神社の総本社である。御祭神は、信濃国の国造りをなされ、日本国土の守護神としてこの地にお鎮りになられた。
1.祭事 上社例大祭(酉の祭)4月15日 下社例大祭(お舟祭)8月1日 右の他年間200余の祭事あり 式年造営御柱大祭(寅年及申年)
1.御神紋 梶の葉(かじのは)』
『重要文化財指定 昭和58年12月26日指定
1.諏訪大社下社秋宮幣拝殿 この幣拝殿は、安永6年(1777)に起工、同10年に落成した。工匠は諏訪出身の初代立川和四郎富棟で、彼は当時盛んになった立川流建築を学び、彫刻は中沢五兵衛につき、いくつかの名建築を残した。軒まわりその他に彫刻が多く華麗なのは当時の流行であり、それがすべて素木の生地を生かして清楚である。彫刻には独特のおおらかさがあり、拝殿内部の竹に鶴などは代表作である。
重要文化財指定 昭和58年12月26日指定
1.諏訪大社下社秋宮神楽殿 この神楽殿は、2代立川和四郎富昌の作である。 彼は技をすべて父にうけ、天賦の才能と異常な努力で立川流の最高を極め、幕府から内匠の称号を許されたほどの名匠である。この神楽殿は天保6年(1835)富昌54才の作で、父の建てた華麗な幣拝殿の前に荘重なものをつくってよく調和させ、幣拝殿を引き立たせているところが賞賛される。 昭和60年3月 長野県教育委員会・下諏訪町教育委員会』
『さざれ石 君が代は千代に八千代に さざれ石の 巌となりて苔のむすまで(君が代は、日本国民の永久の幸せを祈る歌である)
平安時代前期に発見されたさざれ石は、石灰が雨水に溶解され粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)となり、何千年・何万年もの間に、小粒な石を凝結して、次第に大きな巌となり、苔むしてくる石である。 奉納:愛知県半田市亀崎北浦町・タワラ産業株式会社・細谷信彰』
拝殿の注連縄が、出雲大社のように太く驚きました。主祭神の建御名方神は、出雲の大国主命の息子で、天孫降臨の前、葦原中津国の大国主命に国譲りを迫った建御雷神と力比べして負け、ここまで逃げてきました。その関係で、注連縄が太いのかな〜なんて思いました。
バイクに戻り、R142〜R20で、17:01「温泉禅寺」。『本堂 この本堂は文政10年(1827)高島藩主8代・諏訪忠恕(ただみち)の時、城内に建てられた能舞台であるが、明治3年寺の火災ののち本堂として移築されたものである。 中央に3間四方の本舞台・後坐・地謡坐などの遺構を残している』
『梵鐘(県宝) 天正10年(1582)織田信忠の軍が伊那郡市田村(現高森町下市田)の安養寺から略奪して、上之諏訪(神宮寺)まで引きずって来て、そこへ捨てていったものを、温泉寺創立にあたって流用したものといわれている。 鐘銘は長い道のりを引きずってきたため摩滅してしまっているが、「吉永享二年竜集庚成霜月二八日住持比丘寿 謹銘 檀那美濃守源清 大工大和国藤原朝次」と読める。永享2年(1430)に伊那郡市田村の安養寺のために鋳造されたものであることがわかる。  指定昭和61年8月25日 長野県教育委員会・諏訪市教育委員会』
『忠恒桜 この老木は、藩主・忠恒公が大阪夏の陣(1615)に出陣し戦傷凱旋の際持ち帰り御廟(藩主の墓所)の参道に桜大門として記念に植えた内の1本であります。 明治3年温泉寺火災の熱により損傷をうけ空洞化して樹勢が衰えていたが諏訪地方事務所林務課と樹木研究会緑の輪の御尽力により樹勢回復の処置をして頂いたものです。  平成14年3月 臨済宗・温泉禅寺』
『経蔵(転輪蔵) この経蔵には安永9年(1780)初代立川和四郎冨棟の手になる八角八面の輪蔵があり、その中に黄槃板大蔵経がおさめられている。これはその昔文字を知らない人のために真心込めてこれを1回転することにより経文を読んだと同じ功徳が存るとしたものである』
『諏訪市有形文化財・温泉寺鉄塔 鉄塔とはいうものの石造であり、もともとは諏訪大社上社の御神体とし、拝殿の奥に安置され信仰の対象であった。 鉄塔は弘法大師が建てられたが、腐朽したため源頼朝が再興したといわれている。寛永7年(1631)高島藩主諏訪忠恒が石造にて復興し、この仏舎利を祀った。明治初年の神仏分離により撤去放置されたのち、湯の脇天神山に移し、一社を設け祀る計画もあったが国学者の反対で実現をみることができなかった。藩主の菩提寺である温泉寺に移され安置することに決まり、今日に至ったのである。現在の多宝塔に納められたのは昭和54年だった。  指定・昭和46年2月12日 諏訪市教育委員会』
満開の素敵な枝垂れ桜の古木が墓地中央の道に咲いていました。『温泉寺のシダレザクラ 諏訪市天然記念物 種名:シダレザクラ別名イトザクラ(バラ科) 推定樹齢:320年(平成7年現在) 大きさ:北側のもの・目通り幹周3m65cm、南側のもの・目通り幹周2m83cm
シダレザクラはアズマヒガンの一変種で、枝がしだれるのが特徴である。自生種はないといわれ、多く社寺に栽培され品種もいくつかある。 古図によるとこの道の両側はシダレザクラの並木となっており、伝えでは2代藩主・忠恒が大阪夏ノ陣に出陣したときに持ち帰って植えた桜で、これら2本はその名残りであるという・この道は桜大門と呼ばれ、道を登りっめた所に高島藩歴代藩主の廟所がある。  指定・昭和54年2月15日 諏訪市教育委員会』
そこを上がっていくと、「和泉式部の墓入口」と書かれた看板が目に付きました。和泉式部は、全国各地にお墓や慰霊塔があり、縁の地が多い平安時代の恋多き歌人です。これだけ多いということは、よっぽどの美人だったのでしょう。多くの男性との色恋沙汰の話が残っており、魅力的だったのがわかります。和泉守の正妻、冷泉天皇第3皇子との熱愛、冷泉天皇第4皇子からの求愛、藤原道長の武勇を誇る家司との再婚・・・才色兼備の絶世の美女。小野小町とともに、天国に行って会いたい女性です。僕自身が和泉式部に恋しています。
早速、和泉式部の小ぶりなお墓に手を合わせました。これで何箇所目の和泉式部のお墓に手を合わせたのでしょう。我が在所にも和泉式部のお墓がありますが、今まで参ったお墓で最も有力だと思うのが、京都寺町通りにある「誠心院」です。和泉式部は関白藤原道長の娘・藤原彰子(一条天皇の中宮)に仕えました。道真が和泉式部のために小堂(誠心院の前身)を建て、晩年、和泉式部が暮らしました。その境内にある宝篋印塔のお墓です。
バイクに戻り、R20〜r50で、17:28「高島城」。『諏訪鉄平石(すわてっぺいせき) この参道橋は「鉄平石」の一枚岩で作られています。 名前の由来は、鉄のように硬く平らな石という意味からきています。霧ヶ峰周辺で産油された石を「諏訪鉄平石」と呼びます、諏訪鉄平石は特に品質が良く、諏訪には高い石工技術を持つ職人もおり、日本全国で多くの乱貼りや小端積み門柱・石塀・敷石・建築物の外装などに利用されています。 色調は灰色〜灰青色又薄小豆色で斜長石や輝石の斑晶が特徴的な石材です。  寄贈・諏訪商工会議所青年部』
『高島城南之丸跡 高島城本丸の南方にある一郭を南之丸という。松平忠輝のお預かりを勤めて以来整備され、以後、高島藩が江戸幕府の罪人を預かった場所である。周囲は湿地で、堀と柵とで厳重に囲われ、ただ1つの橋が城に通じているだけの孤立した郭であった。忠輝は、徳川家康の6男で越後高田60万石の城主であったが、大坂夏の陣直後の元和元年(1615)家康から勘当を申し渡され、翌年幕府から改易され、正室・五郎八(いろは)姫(伊達政宗の長女)とも離別、伊勢朝熊で2年、飛騨高山で7年過ごしたのち、寛永3年(1626)から初代高島藩主・諏訪頼水が預かった。改易の理由は、乱暴な性格とも、大久保長安等と天下取りを企てたからとも伝えられるが、真相は不明である。
忠輝の南之丸での生活は、外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、家臣は諏訪で抱えた者を加えると85人にもなり、大名の格式をもって生活した。58年間の長きに渡り不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだという。天和3年(1683)、93歳の生涯をここで閉じ、市内の貞松院に葬られた。その後、幕府の儀式を司る高家を務めていた吉良上野介義央の養嗣子である吉良義周(よしちか)が、赤穂浪士襲撃事件後の評定によって、領地を召し上げられ元禄16年(1703)に4代藩主諏訪忠虎へお預けとなった。高島藩では南之丸を修理し住まわせたが、3年後の宝永3年(1706)に病没、市内の法華寺に葬られた。以後も数人の預かり人がいたが、幕末までにはこの場所は「御茶園」となったようである。  諏訪市教育委員会』
陸橋で県道と堀を渡り、城内に入ります。すでに公園化されていますが、諏訪湖側に天守が復元されています。『本丸御殿跡 ここは、本丸御殿があった場所である。家老など重職との接見や重要な行事が行われた表御居間・御次・下御次・下段之間があり、御納戸・中御納戸・御祐筆部屋・大納戸部屋など藩主の身の周りの世話をする部屋が付属していた。奥には藩主の私生活の場である御休息居間・同二之間・同三之間かあり、江戸城でいえば、大奥にあたる長局(ながつぼね)と呼ばれる部屋が隣接していた。 また、御用部屋や郡方(こりがた)、御勝手方など藩政の中核となる部屋も備えられていた。  諏訪市教育委員会』
『高島城のフジ(諏訪市天然記念物) 種名:フジ(マメ科) 推定樹齢:120年(平成7年現在) 大きさ:東のもの根元周1m86cm・西のもの根元周3m1cmこのフジは「高島公園のフジ」として古くから親しまれている。高島城が破却され、城址が公園と定められたのが明治8年、開圖が9年5月。このフジは当時植栽されたもので、市内では最古のものである。5月には紫色の蝶形花(ちょうけいか)をたくさんつけた総状花序(そうじょうかじょ)をたれてみごとである。  指定昭和53年1月17日 諏訪市教育委員会』
『天守閣入場料 一般:大人310円・小人150円(小人・小中学生)幼児(小学校入学前)は、無料です。 団体は(20名以上):大人200円小人100円 「団体料金」とは団体ごと一括払いのみ適用です。
開場時間 開門午前9時 閉門午後5時30分(4月1日〜9月30日迄) 閉門午後4時30分(10月1日〜3月31日迄) 入場は閉門30分前迄
障がい者等の割引:障がい者手帳・療育手帳を提示された方 大人150円小人無料』
『高島城 高島城は天正18年(1590)、豊臣秀吉の家臣・日根野織部正高吉によって設計され、文禄元年(1592)着工、慶長3年(1598)完成した。 この高島城は、諏訪湖と数条の河川が凋囲をめぐり濠の役をつとめ、諏訪湖の波が城の石垣に迫り、「諏訪の浮城」と呼ばれ慶長6年(1601)初代藩主・諏訪忠礼に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇ってきた。明治4年(1871)廃藩置県となり、明治8年(1875)廃藩置県によって天守閣は撤去され、翌明治9年(1876)5月高島城趾は「高島公園」として、一般に開放された。 朝夕の「時の太鼓」が鳴らなくなって100年、諏訪の住民の「高島城」に寄せる愛着は強く、昭和45年(1970)春、ここに「高島城」は復興された。  諏訪市』
『石集配湯枡 享和3年(1803) 第7代藩主・諏訪忠粛(ただかた)の頃、城内三の丸浴場に、引湯のため木樋(きとよ)を継ぎ、集湯・配湯をした石枡(いします)である。  諏訪市』
『高島城(浮城とも言う) この地は高島城本丸跡である。この城はおよせ380年前、文禄・慶長年間、日根野織部正高吉が7年を要し、彼独特の築城の技術を生かし、諏訪湖の波打ち際に築いた難攻不落の水城で、別名を浮城とも言われている。関ケ原役の後は、諏訪氏の居城となり、そのまま転封もなく維新まで続いた。この間、城は中山道や甲州街道の道中記には必ず載せられる名勝でもあった。 本丸内は藩主の御殿や書院、また一般政務の御用部屋・郡方、また賄方などがあり、能舞台・氷餅部屋など多くの建物で埋まっていた。明治維新の改革で、高島藩は消失、明治8年には天守閣も破却されたが、諏訪氏の在城260余年間、一度も百姓一揆を起こさせるような暴政の出たことのない名城であった。明治9年、本丸跡は高島公園として公開され、護国神社も祭られ、諏訪の人々の心の拠り所として親しまれて来た。今日も城内と言われた大手門以南の地形がおおよそ昔のままの姿とのことで、近世の城郭を考えるいい資料である。今度も復興については、文部省文化財専門委員・大岡実博士の設計により、破却当時の姿を忠実に再現したものである。庭園は、天守閣復興とともに諏訪高島城復興期成同盟会長・岩本諏訪市長が自らの設計により、諏訪市が人の心の和によっていよいよ発展することを念願して、人字形の池に心を島で表し、滝や渓流を配して躍動感を与えて造られたものである。  昭和45年5月』
『冠木(かぶき)門跡 冠木橋を渡ったところに冠木門があった。冠木門とは、左右の柱の上部に1本の貫(ぬき)を通しただけの簡単な門のことをいうが、高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門と呼ばれる屋根付きの門であったことがわかる。 おそらく、当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、名称のみ残されたものであろう。  諏訪市教育委員会』
『諏訪市文化財 高島城本丸の堀と石垣 高島城は、衣之渡川・中門川などの川を堀とし、諏訪湖と阿原(あわら・沼沢地)に囲まれ、縄手だけが城下町に通じていた。 天守閣の石垣と、本丸の正面と東側の石垣は規模が大きいが、西側と南側の石積みは簡単なものであった。衣之渡郭・三之丸・二之丸などの石垣も比較的小規模である。石垣は、野面積みで、稜線のところだけ加工した石を用いている。地盤が軟弱なので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいる。  昭和54年2月15日指定 諏訪市教育委員会』
バイクに戻り、r50を走って、17:57「諏訪湖ヨットハーバー」。夕日が諏訪湖の向こうの山並みに落ちていくのを見ながら休憩しました。r50で「JR中央本線」を渡り、18:15「八剱神社」。
『諏訪市有形文化財・御渡帳(みわたりちょう) 指定昭和49年3月23日 諏訪市無形民俗文化財・御渡り神事・指定昭和53年1月17日 八劔神社
当神社には、天和3年(1683)以降、明治5年までの御渡りの記録「御渡帳」が伝わっている。諏訪の七不思議の1つである諏訪湖の御渡りは、古くから広く世に知られていた。
当神社の特殊神事である御渡りの拝観は、宮司・氏子総代・古役等が御渡りの下座(くだりまし)・上座(あがりまし)の地点を確認してその年の農作物の作柄や気候等を占い、諏訪大社上社へ注進奉告するものである。  諏訪市教育委員会』
『諏訪市有形文化財 木製狛犬(2対)・木製角力(すもう)人形(3体) 武田晴信寄進状・指定昭和49年3月23日 御枕屏風・松平忠輝遺品・指定昭和53年1月17日  八剱神社蔵
狛犬(2対)のうち1対は前脚を立て、後脚がほとんど作られない特殊な形である。 角力人形(3体)は相撲姿で髭(まげ)を結ったものもあり珍しい。武田晴信寄進状は、信玄(晴信)が川中島合戦の始まった天文24四年(1555)に社領を寄進し、武運長久を祈念した時のものである。 御枕屏風は、領内全域が描かれた六曲一双の屏風で、3代藩主・諏訪忠晴が常にこれを座右に置いて政務を執ったことからこう呼ばれている。 松平忠輝遺品は漆仕上げの刀架で、葵の紋が数多くつけられている。  諏訪市教育委員会』
『おんばしらが動く 深い谷間に木やりが響き、透き通った声が心に届く。揃いの法被・腹掛の曳き子たち、さあいよいよ曳くぞ。氏子の気持がひとつになり、綱を持つ手に力をこめる。リズムを刻むように、ヨイサヨイサの快い掛け声、ググッとおんばしらが動く。太い曳き綱から自然の力、生命の情念が伝わってくる瞬間だ。みんなが先人達の思いを共感し、御柱とともに歩む。そして覚える神に仕えていること、生きていることの喜びを。  令和4壬寅年卯月』
『八剱神社御柱本見立(弥生廿日) 一之御柱・目通り周囲220cm、二之御柱180cm、三之御柱176cm、四之御柱166cm 高さ素性とも申し分なく御座候』
『山茱萸(さんしゅゆ・ミズキ科):早春鮮黄色の小花・晩秋紅色楕円形果実』
『八剱神社御由緒 八剱神社は八千矛神(やちほこのかみ)を主祭神に、日本武尊(やまとたけるのみこと)と誉田別命(ほむたわけのみこと)を合わせて祀る大和田の氏神である。古来は、船湛神主によって奉祀され、諏訪神社に準じた神事を行うとともに、諏訪湖の御渡り拝観という特殊神事を守り伝えてきた。天正18年(1590)、高島築城に際し城地にあった八剱神社と高島村は現在地に遷された。初代高島藩主・諏訪頼水は当社を城の鎮護神社として以来、歴代の藩主は産土神として篤い崇敬の念を寄せ、社領・絵馬・神宝等を寄進している。江戸時代の末までは、諏訪神社の矢島権祝が神官として仕えた。大祭は夏の虫除け祭り(現行7月 第1日曜日)秋の例大祭ーみかん祭り(現行12月第1日曜日)の他、7年目毎の寅申の年に御柱大祭が斎行される。御柱大祭には御柱の曳建てとともに御本殿の建て替えと遷座祭が行われ、氏子地区毎に御遷宮の飾り物を造って奉祝しその宏大豪華さを競った。諏訪の七不思議の第1にあげられる「諏訪湖の御渡り」は、諏訪明神が氷の上を渡られた跡といわれ、御渡りができれば氷上を人馬が渡っても危険でないとされてきた。当社には天和3年(1683)以降の御渡り拝観の記録「御渡り帳」が伝わり 今日まで書き継がれている。拝殿は 嘉永元年(1848)に上棟したもので、彫刻は立川専四郎富種の手になるものである。  八剱神社社務所』
『八剱神社拝殿 この建物は、嘉永元年(1848)小和田太子講により建てられました。彫刻は請負・立川専四郎富種(立川流4代目)によるものです。正面虹梁は、瑞革錫杖彫、玉をもつ龍、妻飾りは親子獅子、卯毛通しは鶴、木鼻には獅子と象、海老虹梁は亀、手挟(てばさみ)には牡丹が彫られています。昭和8年(1935)、彫刻保全のため、富種の孫・冨尚他が修理を行い、宮坂新三により金網が施されました。彫刻の凹凸に添って型どられている太い針金や網を見ると、手掛けた人々の想いが伝わってきます。幣殿の扉には、高島藩主・諏訪家の丸に殻の家紋、〆時代は違いますが、神楽殿の蟇股には武田菱・殻・鶴丸(藩主裏紋)、五七桐紋が見えます。18世紀中頃から欅(けやき)の木目を活かした素木(しらき)造の社寺建築がブームとなり、各地で宮大工棟梁が出ました。諏訪の地では、立川流・大隅流の両派が出て、互いに工匠の技を競い合い、見事な建物が伝わっています』
バイクを停めた鳥居前に、手水があります。『小和田乃湯・温泉手水 江戸時代、高島城内に温泉を引くため利用していた木管を再現しました』。珍しい温泉手水で温かい。バイクに戻り、r20を走り、18:37「快活クラブ諏訪赤沼店」。手続きをしてボックスに入り、注文したラーメンを夕食にお休み。


2022/4/9・信州/善光寺・上田松本城・諏訪大社ツーリング初日1
お隣のご主人Sさんとのお泊りツーリングの日です。行き先は信州。善光寺・上田城・松本城です。お隣さんは1泊で帰られますが、予定表では15時から380km走る予定になっており、とても僕には無理そうなので、僕だけ+1泊します。ついでに諏訪大社中心に諏訪湖周辺を探索しようと思っています。
6時出発なので10分ほど前に倉庫から「招き猫CB400SB」を出していると、お隣さんがやって来ました。「もう一度、インカムセットできるか試したくて・・・」、2日前お隣さんの家に行きペアリングしようとしましたが無理でした。僕のインカムは知り合いから頂いたもので、これまで一度も使ったことがありませんでした。そこで、お隣さんと同じ「B-COM」を買おうとしたら、3万円ぐらいでした。マイクとスピーカーだけで本体がないインカムが出ており、1500円ぐらいからあります。自分のスマホとペアリングし、互いのLINE電話を繋げればインカムが繋がります。ただ難点は音質が落ちること。音質が良い「NikoMaku HelmetHeadset C35」4500円を購入しました。前日届き、スマホとペアリングしました。簡単でした。家内のスマホを借りて、家内のと僕のスマホをLINE電話で繋ぐと、ヘルメットにセットしたC35で会話できました。音質に不満はありません。お隣さんに、「LINE会話でインカムする」システムを伝えると、「簡単ですね、別メーカーでも関係ないし」。でも、結局繋がりませんでした。
6:14出発。6:19「エネジェットセルフ北村SS」で給油。215km/8.65L=24.9km/L。R171を東に走り、「豊中IC」から中国道に乗り、吹田JCTから名神高速に乗り換え、桂川PA〜大津SA〜草津SAを通過し、新名神ではなく旧名神を北上。「栗東湖南甲賀IC」を通過し、正面に「近江富士」を見て「野洲川」を渡り。7:24「菩提寺PA」で休憩しました。「あ〜いきなりロングで辛かった」。いつもなら、SAごと(約60km)休憩するので、目的地まで体が持つのかな〜。7:45出発し、8:40「養老SA」休憩。9:09出発し、「小牧JCT」で中央道にチェンジし、10:23「恵那峡SA」休憩。11:01出発し、長い直線「恵那山トンネル」を抜け、11:39「座光寺PAスマートIC」で下車しました。我が在所ではソメイヨシノが終わりましたが、桜が満開です。
r229〜11:56「元善光寺」。境内に入ると、「御開帳」の文字が書かれた真新しい「回向柱」が立っていました。本堂から綱が繋がっています。御開帳された本尊と結ばれているのでしょう。
『元善光寺数え唄 一(ひ)さかたの光あふるる信濃路を、二(ふ)しぎなご縁にみちびかれ、三(み)んなそろってお詣りしたら、四(よ)そでは得られぬご利益を、五(い)つもいっぱいいただいて、六(む)かしも今も変わらずに、七(な)むあみだぶつと唱えつつ、ハ(や)っと詣れた元善光寺、九(こ)こに詣りてありがたや、十(と)わの幸せ願いつつ』
『元善光寺の由来 元善光寺は、今から約1400年前第33代推古天皇10年に、木多善光公によって開かれたという。 善光公は麻績(おみ)の里の出で、国司に随って都に上り、ある時難波の堀江で一光三尊の如来にめぐりあい、これを背に負って古里に帰り、臼を浄めて安置し奉った。これが当山の起りである。 臼はかくしやくとして輝き、「御座光の臼」と呼ばれて今も当山の霊宝となっている。里を座光寺と称するのもこの様に因るものであろう。
41年を過ぎ、第35代皇極天皇2年。仏勅によって本尊は芋井の里に遷された。今の長野善光寺がそこに始まる。この時、授かった霊木をもとにして、善光公自ら一刀三礼の上一光三尊仏を彫りこの地に留められ、寺は元善光寺とよばれるようになった。 善光寺の名は本多善光公の名に基づき、元善光寺の元は木元の意で、古来善光寺に参詣するだけでは片参りになると言い伝えられた。 当山の由緒の深さを物語るものといえよう』
『元善光寺 宝物の紹介 座光の臼:今から1400年前、本多善光公が御本尊様を難波の堀より迎えた時に此が臼の上にご安置をされ、後に臼から光明が輝いていたために座光の臼と呼ばれます。涅槃像:御釈迦様が亡くなられたことを涅槃に入られたと申し、その御姿を現した御像です。当山には2体の涅槃像が祀られており、その内の1体は飯田市の文化財に指定されております。薬師三尊像:薬師如来様、脇侍の日光菩薩様、月光菩薩様の3体の御像で当地域でも最大級の薬師三尊像です。西方にある阿弥陀様の極楽浄土に対し、お薬師様の浄瑠璃浄土は東方にあるといわれます。その他、仏像仏画など80点程が宝物殿に収蔵されております』
「信州飯田元善光寺宝物殿・西国三十三観音霊場お砂踏み参拝拝観券」500円で、宝物殿を見学しました。写真撮影禁止で残念でしたが、見どころ満載でした。西国三十三観音お砂踏みをしてきました。r229を経て、12:42「高森町立高森南小学校」。Sさんが元善光寺で仕入れてきた「桜の名所」情報に従って来ました。地元の方が知る名所のようで、桜見物の方は多くないが、見事でした。R153〜r228で「JR飯田線」を東に渡り、13:23「信州大鹿産「信濃江」石挽き手打ちそば」。「ざるそば700円」を食べました。r228〜R153で、13:33「出光高森SS」で給油。
R153を北に走り、r218にチェンジして、再びR153。r18にチェンジして、天竜川沿いを走ります。r209〜r210〜r209〜R153で、14:56「伊那市高遠城跡公園市営P」、「自動二輪車1日1回200円」。高遠城址公園入園観覧券500円で入園しました。前回訪問した時は5月第2週だったので無料でした。観光客もいなかったけど・・・。ソメイヨシノが満開でとても賑やかでした。遠くに南アルプスの白い頂が見えます。ここからは見えそうにないですが、日本第2の高峰「北岳」だったらいいのにな〜。
『宝幢院曲輪(ほうどういんくるわ) ニノ丸から堀内道で通じていたこの曲輪は、城郭の南端に位置し、曲輪の東方には幅6m・長さ170mの馬場が続いていた。 かってここには宝幢院というお寺があり、高遠城落城の際には、法要が営まれたが、城中という立地的制約があったため、一般の人も参詣できるようにと、城の東、月蔵山(がつぞうさん)のふもとの龍ヶ澤に移り桂泉院と改名して現在に至っている。 この曲輪からは、西に中央アルプス、東に南アルプスが望め、桜の時は残雪が、紅葉のときは新雪が目にも清(さや)かに映る』
『本丸跡 高遠堤は巧みに天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけて二ノ丸、さらに、その外側に三ノ丸を廻らした城郭三段の構えをもっていた。 天正10年(1582)城主仁科五郎盛信が織田軍に敗れ壮烈な戦死を遂げた後、高遠城の城主は保科氏、鳥居氏と替わり、元禄4年(1691)からは内藤氏が廃藩まで8代、180年間にわたって城主であった。江戸時代、本丸には城主の権威の象徴たる天守閣はなく、平屋造の御殿や櫓(やぐら)、土蔵などがあった。
本丸御殿は政庁であるとともに藩主住居も兼ねていたが、廃城時、城内の建物は取り壊され、今では明治8年(1875)頃に移植された桜の古木が毎年美しい花を咲かせ、幾多の武士が眠るこの地に散華となって降り注いでいる』
『高遠城の戦い(古戦場跡) 天正10年(1582)2月、織田信長は、信玄亡き後の武田氏の混乱に乗じて、一気呵成(いっきかせい)の攻略に転じた。 伊那口からの嫡男信忠率いる5万の兵の進攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。
時の城主、仁科五郎盛信(信玄の5男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか3千の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。古来「要害は必ず兵禍を被る」と言われるが、この城も盛信以下将兵決死の奮戦にもかかわらず、雲霞の如ぎ大軍の前には如何ともし難く、3千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、、自らの手で腸を壁に投げっけて果てたと古書は伝えている。 この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き天目山で自害した。高遠城の戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後を飾る戦いの場となったのである』
『高遠公園碑 「高遠之城 拠信山東陬」(高遠の城は信山の東陬(とうすう)に拠り)で始まる白文、楷書の碑文は、東宮侍講、三島毅(つよし)の名文で、地理的歴史的考察を踏まえ、公園地に決定されるまでの沿革が記されている。 碑文は明治の三筆と舌われた書家、巌谷修(一六)の書で、その子、巌谷小波(さざなみ)は日本の児童文学者である。父子ともども高遠と縁が深く、鉾持参道(ほこじさんどう)には小波の句碑が建てられている。 公園碑が建てられたのは明治14年(1881)、台石には青銅板がはめられていて、それには、明治維新の際、高遠藩から戊辰戦争に出征した年月や方面、人名が刻字されていたが、戦時中に亡失している』
『中村不折寿像 公園内の銅像として長年親しまれてきた「中村不折寿像」は、長年の風雨にさらされ、胸部に亀裂が生じ、左手に持つ3本の絵筆は折損するなど老朽化と破損が著しいため、平成20年3月、本像と台座の一部を不折の美術作品を収蔵する信州高遠美術館に移転しました。  伊那市教育委員会』
『新城(盛信)神社・藤原神社の由来 天保2年(1831)7代藩主・内藤頼寧(よりやす)は、家臣・中村元恒の建議により、天正10年(1582)当城において織田の大軍を引き受け、壮烈な最期を遂げた武田信玄の5男・仁科五郎盛信の霊を五郎山より城内に迎え「新城神」と称して祀り崇拝した。以前より城内には、先代内藤頼以(よりもち)が内藤家の祖神である藤原鎌足公を勧請した「藤原社」があったため、廃藩後の明治12年(1879)この神社を「新城神」と合祀して今日に至っている。 なお、宝物として内藤家寄進の甲冑、その他の文化財があったがそれらは現在、高遠町歴史博物館に保管されている』
『白兎橋(はくときょう) 文政の頃、高遠で酒造業を営み、藩の仕送役を勤める廣瀬治郎左衛門(1768〜1843)は、その号を白兎と称し、謡曲・俳諧・和歌などを嗜(たしな)む風流人であった。文政の百姓一揆の際には、自家の米蔵を開放して奉行所に押寄せた百姓らに与え、大事に至らせすにすんだという。また、多町に通じる弁財天橋を自費で修理するなど、公共のために尽力した。その曾孫(ひまご)、省三郎(奇璧きへき)は私有物となっていた宝幢院曲輪を買い上げ、それを公園として寄付した。その時、南曲輪へ通じるこの橋を造り、曾祖父の俳号にちなんで「白兎橋」と名づけたのである』
バイクに戻り、r211〜R152〜R361〜r207〜R361〜R152で北上開始。杖突峠を越えて、諏訪盆地に下り茅野市街地。突き当りを右折してr16、左折してr197〜r192〜R152。標高を高め、「白樺湖」が見えてきました。すぐに、ビーナスラインと交差しました。まだ雪が路肩に残っています。標高1400m。上田盆地側に下ります。前を走るSさんは、とっくに言えずマイペースで走ります。18:01休憩。LINEで休憩中をSさんに伝えると、道の駅で待っているとのこと。口を潤し、再び出発。18:22、道の駅「マルメロの駅ながと」(長野県小県郡長和町古町2424-17)でSさんと合流。19:32、「かりん亭長門本店」で、ラーメン792円で夕食にしました。20:04、「快活クラブ上田産業道路店」に着き、宿泊しました。


2022/4/7・長男一家、新潟へ
息子一家が帰省すると、いつも家内が朝食を作るのですが、長男のお嫁さんから昨夜「明日の朝食は、自分たちで作って食べる」と言われたので、この日の家内はマイペースでした。
ご苦労さま。長男一家が、お嫁さんの実家新潟に発つ日です。7時頃電話が入りました。りょうくんからでした。「お祖父ちゃん、サッカーしない」「いいよ、すぐ帰るわ」。また実家横の空き地でサッカーです。僕はゴールキーパーでりょうくんと組みます。こうちゃんは1人で奮闘。3-4でこうちゃんの勝ちの時、家内がやってきました。こうちゃんと僕が組んで、2対2でゲーム開始。8:15になり、ゲーム終了。「ボールを新潟に持っていく?」と聞いたら、「これ置いとく。新潟でまた買ってもらう」だって。車に荷物を積み込み、助手席には家内、長男一家を乗せて出発。朝の交通渋滞がありましたが、空港まで近いのですぐに着いてバイバイ。幸せな1週間が終わりました。家内が用意した食材はまだ残っているだろうから、僕らがそれを消化しないと。
家内を職場に送り、僕は自宅に戻って、実家の戸締まり・火の元など家内に言われた通りのチェックをします。お菓子の忘れ物をいくつか見つけました。明日から、布団干しなど片付けが始まりますが、怒涛の1週間が終わりました。りょうくん・こうちゃんから、イギリスのことをいろいろ教えてもらいました。車から「自販機」と指さします。お嫁さんに聞くと、イギリスにも自販機はありますが、全て屋内設置で屋外に自販機が置かれていることはないそうで、孫たちにとっては珍しい光景のようです。「日本は世界で一番安全な国だよ」とお嫁さんが説明しています。お嫁さんは財布を一度スリの被害にあったそうで、運転免許証も一緒だったので、長男が会社を休んで、一度1人で日本に帰省したそうです。
孫たちはスーパーが好きでした。「お菓子」コーナーがあるからだけど、イギリスは種類も少なく、昔からのベーシックなお菓子ばかりで、目新しいお菓子がないそうです。それに対し日本は、種類が豊富でデザインが綺麗、そして何よりずっと美味しい。「イギリスと日本、どっちのお菓子が美味しい?」と聞くと、3人「日本」、即答でした。イギリスから送られて来た棒アイスを食べている写真を見ると、舌がアイスの色になっています。僕が子供の頃の棒アイスがこうでした。
こちらにいた1週間、雨が降りませんでした。お嫁さんが「上天気」をよく空を見上げていました。イギリスは、いつも曇りで日本の雲ひとつ無い上天気は年数日だそうです。でも、1日中雨の日も殆どなく、曇り空から時折軽く雨が落ちてきて、またすぐに雨が上がる。これの繰り返しだそうです。それでイギリス紳士は雨傘をステッキ代わりにする姿がデフォルトだそうです。
長男が、「日本もガソリン高くなったな〜」と言ってました。「イギリスは北海油田があるから安いんでしょ?」と聞くと、「日本の倍だよ。北海油田の殆どはノルウェーだから。ノルウェーは原油産出国だからヨーロッパで一番の金持ち国家だよ」と教えてくれました。イギリスはガソリンに掛かる税負担が150円に対し、日本は60円だから。通勤とお嫁さん用に2台持ってるので、ガソリン高騰は辛いそうです。通勤車は、アメリカ勤務同様会社からの支給だからマシですが・・・。


2022/4/6・昆陽池公園
幼児向け遊園地も併設している王子動物園に行こうと思っていましたが、水曜日は休園日で残念。自宅隣の空き地でサッカーします。りょうくんとこうちゃんは、毎日「お祖父ちゃん、サッカーしよう」と誘ってくるので、連日の筋肉痛です。ルーカスくん3才は、キックバイクに乗り、長男と公園に行っています。サッカー休憩していたら、ルーカスくんチームが帰ってきたので、パンを持って「昆陽池公園」に行くことになりました。10:59、みんなを乗せて公園Pへ。白鳥がゲージに入って2羽しかいません。あれれ・・・、昔は昆陽池にたくさんいたのに・・・。日本有数の渡り鳥飛来地で、白鳥も飛来していました。自由に羽ばたいて飛んでいったり帰ってきたり。いい感じだったのに・・・。
ここでも広場でサッカーをしました。園内を流れる小さな川でエビやアメンボを採ろうとしますが、捕まえられません。昆陽池を一周します。伊丹ヨットクラブ発祥の池横を歩いていると、「鯉がいる」。大きな鯉、丸々と太った錦鯉が寄ってきました。人から餌を貰っているのでしょう。
「昆虫館」に入ります。大人400円・3才〜小学生100円。僕は「伊丹在住65才以上」なので200円でした。市民から寄贈された昆虫の標本、ちょうちょ・カブトムシ・・・いろいろ展示されています。名物の多数のちょうちょが舞う温室がナイスです。Pまで歩き、「10:59〜13:33」600円。昆陽池の北にあるベーカリーCafe「MIYABI」で昼食にします。僕は、アイスコーヒー&パン半分。息子一家が帰ってきてから食べ過ぎなので控えましょう。帰路に着きます。「ドン・キホーテで降ろして」と言われ、長男夫婦を降ろして帰宅しました。自宅で3人と遊びます。「ジェンガ」を4人でします。「黒ひげ危機一発」を楽しみ、レゴで家創りを競います。ルーカスくんはレゴ・デュピロで創ります。
長男夫婦が帰宅したので、仕事場に戻りました。営業許可書が今月までなので、申請書を持って役所に向かいます。先月持っていったのですが、「年度替り後にお願いします」と言われてしまいました。前回チェックしてもらっていたので、15分ほどで受付終了し帰ってきました。夕食は回転寿司にでも行くのかな?と思っていましたが、「まだ食材が残っているので、作って食べる」とのこと。
17時になったので、自宅のお隣さんの家に向かいます。次の週末、信州善光寺ツーリングに行くので、その打ち合わせです。ツーリングに使うヘルメットを持ってリビングへ。ツーリング友から貰ったインカムが繋がるか試します。でも、何度やってもダメです。お隣さんは「B+COM」ですが僕のは中華製。諦めました。続いて、先週「キャンプしましょう」と提案されOKしていましたが、テントを張ったり片付けたりのあれこれの時間短縮の為、「快活CLUB」って知っていますか?高知ツーリングの時初めて泊まって寝れるとわかって・・・。「何度も泊まっていますよ、もちろんOK」。土曜日6:00に自宅前集合して出発します。それまでに、サッカーによる筋肉痛を解消しておかなきゃ。仕事場に戻り、19時になって自宅に戻ります。みんな、餃子と白ごはん・麺類メインでパクパク。「良く食べるな〜、餃子もっと焼かなきゃ」と長男夫婦は喜んでいます。「ごちそうさま」。


2022/4/5・東大寺
「東大寺に鹿を観に行こう」と長男に提案しました。四輪に一家を乗せ、中国道〜近畿道〜第2阪奈道で奈良へ。助手席にはりょうくんが座っています。「もうすぐ鹿がいるよ」。奈良公園で鹿を見つけ、弟たちに知らせます。子供は喜怒哀楽の表現が大きく、こちらも楽しくなってきます。東大寺大仏殿参道前で皆を下ろし、11:45「高畑自動車駐車場1000円」。500m離れているので歩きます。服装を間違えたようで、暑くて熱中症気味。「こりゃあかん」と途中で自販機からカルピスウォーターを買って、座ってクールダウン。連日の孫とのサッカーで太ももが筋肉痛で、歩くのが少々辛い。
12:10「東大寺参道」。長男一家と合流しました。鹿せんべいで鹿と楽しんだ?追いかけられた?ようです。「東大寺山門」で大きな仁王像に孫たちが大声を張り上げています。「templeだよね」とりょうくん。りょうくんは3才まで日本で育ちましたが、下の2人は日本で暮らしたのは2週間ぐらいしかないので、日本はほぼ初めてです。これで、神社とお寺を体験出来ました。りょうくんは、イギリスでの宗教の授業でブッダを習った時、「仏教の経典は何?」と質問されたそうですがわからなかったそうです。キリスト教なら「Bible」、ユダヤ教でもイスラム教もこれです。仏教経典には般若経・法華経などいろいろありますね。僕だけ大仏殿に入るのをパスし、参道脇にあったベンチに寝転がって休憩していました。暑くて長男のお嫁さんからプレゼントされた英国旗マークのブランドセーターを脱ぎましたが、横たわると風に吹かれ寒い。セーターを布団にして目をつぶります。
しばらくしてトントントン。孫たちに起こされました。熱中症気味が治りました。歩くのが遅いのはサッカー筋肉痛だと長男夫婦に言い訳してマイペースで歩き出しました。仏象ガチャガチャをねだって買ってもらっています。「お腹が空いた」と言うので、「夢風ひろば」に入ります。僕はクールダウンのためにアイスクリームを注文し、皆はピザとかあれやこれや。「僕がお祖父ちゃんの横」と人気になっています。叱らないし、おだてるし、笑い話をするので人気なのかも・・・。会計して、「まほろば大仏プリン本舗」で、「大仏プリンカスタード大864円」を購入しました。
帰路に着きます。駐車場まで皆で歩き、自宅近所まで戻り、飛行機を観に行きます。15:30〜16:11「OPS千里川土手P」で駐車、300円。りょうくん9才が、「何かここ覚えてる」と言います。「こうちゃんもいた」とも言います。お嫁さんが思い出し、「こうちゃんが赤ちゃんの時だ。轟音でビックリするから、耳を抑えてたわ」。JAL・ANA・J-Airの飛行機が次々と降りてきます。真上近くをお腹を見せながら通過するので、子どもたちは大喜びです。そのまま帰宅しました。
長男は、15時から仕事だそうです。「パパ、パソコン持ってきたの?」とりょうくんが聞いています。僕は仕事場に戻りました。帰宅して、使ったお皿などを片付けるために実家に行くと、お嫁さんと孫たちは寝ていました。仏壇の部屋で長男は仕事をしているようです。部屋から英語が聞こえてきます。翌日長男に聞くと、22時ぐらいまで日本・ロンドン・アメリカをネットで繋いで仕事をしていたようです。日本が夜、イギリスが昼間、アメリカが朝だそうです。


2022/4/4・六甲山牧場
次男一家が帰る日です。「六甲山牧場」に行くことになりました。また僕だけ「通勤リード110」に乗り先導します。「阪急逆瀬川」から、r16で六甲山のワインディングを登ります。「六甲山牧場」Pに着きました。四輪PとバイクPは別で、バイクを降りて四輪の方に歩き合流します。何故かりょうくん9才が長男に抱っこされています。「どうしたの?」「酔っちゃった」、次男のお嫁さんも酔ってしまい車で寝ているとのこと。次男のお嫁さんは、小学校から高校までテニスをやっており、小学校では県代表、高校ではキャプテンをやったスポーツウーマンですが、車に酔いやすい。2日前のヨットの時も、ドッグハウスに入ってしまい酔いました。それを知ってるので、ゆっくり先導したし、四輪の運転をしている次男もゆっくり走ったのでしょうが酔っちゃった。
牧場に向かいながら、「良いドメ、買ってくるよ」と提案し、長男にスマホで薬局の場所を検索してもらい、バイクに戻ります。鈴蘭台方面のお店まで30分・往復1時間です。次男のお嫁さんが歩いてきました。「大丈夫?」と聞くと、「マシになりました」「酔いドメ買ってくるよ」「ありがとうございます」。気持ち良く楽しくワインディングを下ります。月曜日なのでバイクは少ないですが、走り屋さんが腕を磨く道路です。12:30、「ウェルシア神戸鈴蘭台店」で、「乗り物酔い止めQD12T590円」購入。
六甲山牧場Pに戻り、家族LINEに、「駐車場まで戻った。何処にいる?」と入れましたが、入口まで来ても返信がないので、家族LINEに電話しました。次男が電話に出ました。「QBBチーズ館にいる」。六甲山牧場500円で入場。僕の次の方が、「神戸市民で・・・」「無料です」なんて会話しています。調べたら、「大人(高校生以上)500円・小人(小学生以上)200円・未就学児無料・神戸市内65才以上無料」でした。神戸市立六甲山牧場でした。ロバなどいろんな種類の動物がおり、乗馬体験エリアもあります。アップダウンする道を歩き、「BBQチーズ館」へ。昼食を買っているところでした。
13:14「BakeryBi Cafe DIL PA PA」で「ウインナーロール230円」購入。屋外のテーブルでワイワイしながら食べました。13:46「神戸市立六甲山牧場チーズ販売店」で、「ソフトクリーム400円」買って戻ると、こうちゃん5才が手を伸ばして来ました。「他にいる人?」、こうちゃんが僕から受け取ったソフトを弟に渡し、僕についてきます。13:48「神戸市立六甲山牧場チーズ販売店」で、「ソフトクリーム400円×3=1200円」購入。皆で楽しくデザートを食べました。ちびさんだけで、「お父さんにも頂戴」と言われると渡し、「良い親子だな〜」と思いました。
毛皮がモコモコの羊が自由に園内を走り回っています。こうちゃんが、「僕の膝の上に羊が乗った」と教えてくれました。「そうだよ、怖くて泣いちゃったんだよ」とりょうくんが教えてくれました。「泣いちゃったの?」「うん、怖かった」。丘の上で休んでいる羊を触りに行き、なかなか先に進まないが皆楽しそうです。ベンチに座って、孫たちの遊んでいる姿を見ていました。
バイクPに戻ると、「100円」と書いてありました。「無料じゃなかったんだ」と知りチャリン。四輪とは別々に、バイクでr16を逆瀬川に下ります。仕事場に戻ってあれやこれや。しばらくして四輪が戻ってきました。酔いドメは飲んだけど、酔いやすい次男のお嫁さんのため、表六甲ドライブウェイを神戸側に下り、高速道路に乗って帰ってきたそうです。優しいな〜と思いました。
次男一家が帰路に着きます。車に乗せて最寄り駅まで送りました。帰宅後バイクに乗替え、18:08、「トイザらス伊丹店」に、しっかりしたゲイラカイトを買おうと思いましたが、正月期間中だけの商品だそうです。「マジカルスプリング109円+ボンデキャップ(ピンポンボールを打ち合うおもちゃ)399円=508円」を買って帰りました。イマイチかな〜と思っていましたが、意外に孫たちは大喜びでした。階段を下ろしたり、ピンポン玉を打ち上げてキャッチしたりしています。夕食食べて「おやすみ」。


2022/4/3・弟一家も合流
弟一家がやって来る日です。先月の次男一家の帰省では、王子動物園に行っていたタイミングで実家に来たのですれ違いました。またやって来てくれます。9:30にやってくるとのことで、朝食を済ませて準備しなきゃ。時間通りやってきて、隣の空き地でサッカー・カイト・柔らかボールでのおもちゃテニスで遊びました。小学生時代、埼玉県のテニス代表選手だった次男お嫁さんは、流石に上手です。りょうくん相手にラリーが長く続きました。地面がガタガタなのに素晴らしい。
11時の開店に合わせて、家内とサンドウィッチ専門店に向かいます。家内を下ろして僕は車の番です。イチゴなどフルーツをクリームで包んだサンドが目を引きます。カツサンドなど大人の人数(9人)+子供5人用に3つ買いましたが、ボリューミーで余っちゃいました。夕方になり、弟一家は帰っていきました。
家内と2人で、近所の評判の良いケーキ屋さんにバースデーケーキを買いに行きました。予約していなかったので、並んでいるケーキに名前を入れてもらい、ローソクを6本頂きました。小ぶりのケーキしかなかったので、丸いケーキと縦長ケーキ2つ買いました。長男とこの次男こうちゃんが、4/6誕生日です。4/6だと次男一家がいないので、前倒ししました。17:38、長男が回転寿司テイクアウトをネット注文しました。僕と家内が四輪で取りに向かいます。「スシローサーモンまぐろセット1人前8貫+スシローセット10種4人前40貫=3520円」。僕の実家に持って帰り、お寿司を皆で食べます。それを終え、じゃじゃじゃーん、「ハッピバースデーtoYou」。こうちゃんがちょっとはにかんでいます。バースデーソングが終わると、勢いよくローソクを消して「おめでとう」。ケーキも美味しくいただきました。好物のお寿司を食べた後なので、少しケーキが残り、僕のお腹に消えました。
息子達がやって来たタイミングで、家内からの洋服のプレゼントをしており、僕から本をプレゼントしました。「Curious George Around Town Boxed Set (Box of Six Books)英語版」と、「やさしい英語で読む グリム童話 (音読CD BOOK)」。ロンドンに転勤してから幼稚園に通い始めたこうちゃんは、現在現地小学校1年生です。日常の会話では不自由がなく、本を広げて目を輝かせているので、楽しく読んでもらえそう。僕からのプレゼントは本と決めています。母親が毎日僕に本を読み聞かせしてくれました。その御蔭で、字が読めるようになると本好きになり、今でも毎日本を読んでいます。息子たちにも毎日本を読み聞かせして、同じように育ち、生徒・学生時代で勉強で困る姿を見ませんでした。孫にも同じようになって欲しいので、イベントごとに本をプレゼントしています。お嫁さんたちから、「どのように子育てされたのですか?」と聞かれ、「毎日の本の読み聞かせ」の重要さを伝えています。


2022/4/2・ヨット
8:30朝食予定で、家内がお食事作り。息子達2人が七五三、孫たち5人の初宮参りしてもらった氏宮に皆で参ります。帰宅して、みんなでヨットに乗りに行きます。長男家5人+次男家4人+私=10名なので、8人乗りの我が家の車に全員乗れないので、僕だけバイクで向かいます。我が家の車は次男ドライブです。R171を西に向かい、「新西宮ヨットハーバー」。10:38、通勤リード110で「伊丹産業セルフ緑ヶ丘SS」に向かい給油。162km/4.1L=39.5km/L。給油してから車を追いかけますが、バイクの機動力の良さで信号で止まるたびに先頭に出れるので、すぐに追いつきました。
ハーバーPに入れ、ライフジャケットやカッパなど荷物を持ち、センターハウスに入ります。出艇申告をして船に向かいます。ゲートキーで桟橋ゲートを開けて桟橋を歩きます。船に着いて出艇準備を始めました。私がドッグハウスに入り、カーテンを開けたり、トイレのチェックをしていると、「ギャー」「どうした?」。僕についてドックハウスに降りてきた「すみれちゃん5才」「こうちゃん5才」「ルーカスくん3才」・・・こうちゃんが、ドッグハウス内に設置されたテーブルを開こうとして、ルーカスくんの右手人差し指を挟んでしまったようです。こうちゃんも驚いています。長男のお嫁さんから、「いろいろ触っちゃダメって言ったよね」と注意され、こうちゃんはしょんぼりしています。ルーカスくんはママに抱っこされましたが泣き止みません。挟んだ指は、内出血少々と外傷出血ちょびっと。長男もいつもなら泣き止むのに泣き続けているので、「病院に行こうか」とお嫁さんと相談しています。免許は大人5人皆持っていますが、長男はコロナ禍で日本に帰国できず失効しています。次男が運転して、長男がルーカスくんを抱っこして船を降ります。「念のため、休日診療所に行くわ」。
私の外は、子供4人+お嫁さん2人。役に立つ息子たちが消えたので、全て僕がしなくちゃ。全員にライフジャケットを着せました。幼児用が船内に1つしか無いので、家から子供用1・次男がヨットを始めた小2の時買ったのを1、新しく買ったのを1持ってきたので、それを着せます。電源を外し、メインキーをONにして、イグニッション・・・エンジン始動しました。係留ロープを外して桟橋を離れました。すぐにりょうくん9才が、「僕も運転したい」。「ハーバーを出たら代わろうね」「じゃあ僕も」とこうちゃん。ママに叱られたのに泣きもせず、もう平気な顔をしています。この子が最も長男の性格にしています。社交的で打たれ強いので、リーダーの資質を強く持っています。
ハーバーの防波堤を抜け、ジェノアをフルセイルにします。SW・2〜3m/sなので、メインセイルをフルセイルにしたいですが、力のある息子たちが抜けてしまったので、2週間前同様ジェノアだけで帆走しました。すみれちゃんは、2度目なので前回よりずっと真っ直ぐ走れるようになりました。こうちゃんもなかなか上手。りょうくんは流石9才、すぐにステアリングと船の動きを学習し、真っ直ぐ走らせるので、もうサポートなしでOKです。更に、「もうちょっと右かな」と、弟達のコーチもしています。ママたちは乗る人に徹しています。長男から、「西宮の休日診療の外科が見つかった」のLINEが入りました。赤白灯台まで出てUターンし、2.5時間ほどでまた桟橋。長男のお嫁さんに桟橋に降りてもらい、桟橋からロープをもらいます。2本目を結んでいたら、次男が戻って来ました。「指先の骨が少し欠けてた。指の間にガーゼを挟み、中指と人差し指をまとめてテープで留めただけ、全治2週間だって」。船を片付け、14:36「Cafe FRIANDISE」で、「エビフライセット1500円+カツカレー1300円+キッズカレー720円+細切りポテト390円+トリュフマッシュルームピザ1000円+マルゲリータピザ1000円+ガーリックトースト530円+鮮魚ポアレ1550円=8990円」注文。ルースくんと長男は先にレストランにおり、ワイワイガヤガヤ、楽しく頂きました。
帰宅後、りょうくん・こうちゃんに誘われサッカー。長男次男も加わり、ワイワイ・・・。再び皆で夕食に出ます。僕は、通勤リード110で向かいます。19:57「のらや」。「ワガママえびごぼ1450円たこソース165円大盛110円+天ぷら1200円+ちゃんぽん980円+ワガママのら1350円温めんたい110円+肉うどん950円+仔猫きつねS550円+TOたべくらべ500円=7365円」。まだチビなので、遊び食べの孫もいますが、息子たちが日を合わせて帰省し、5人の孫たちが「ワイワイガヤガヤ」。こういうのを幸せと言うのでしょう。


2022/4/1・長男一家帰省、夜に次男一家帰省
息子たち一家が帰省する日です。数日前から、あれこれ準備をして来ました。ほとんどは家内が・・・。家内は彼らが泊まる自宅の隣に建つ僕の実家の掃除や食事飲み物関係の準備がメインで、布団・シーツや毛布を干してくれ、僕がそれを取り込んでシーツで布団を包みます。前回2家族が同時に帰省した時から孫がそれぞれに1人増え、5人の孫たちが大きくなったので、布団や毛布が足りるか不安です。先にやってくる長男のお嫁さんに最終チェックしてもらい、必要ならニトリに走ることにしました。車を洗い、実家の窓やサッシ、玄関の掃除をしました。長男一家はロンドン在住で、コロナ禍により日本への帰国が出来ませんでした。やっと日本での帰国時移動制限がなくなり、3/31午後帰国しました。PCR検査結果待ちで羽田空港隣接ホテルで泊まり、陰性結果を受け午後便で伊丹空港まで来ます。
13:35着予定なので、「空港に着いたよ」と連絡を受けてから自宅を出発しても間に合う距離しかないのですが、13:15自宅を出ました。Pに駐車し、到着ロビーで待ちます。結局14時にゲートを出てきて、「お世話になります」「ご苦労さん」「久しぶり〜」。「りょうくん9才、大きくなったな〜。こうちゃん5才、足が長くなった。ルーカスくん3才、誰かわかる?」、一通り挨拶して車に戻ります。助手席に乗った長男から、「お父さん、コロナ禍で日本に帰国できず運転免許証が失効していて、運転できないんだ」とのこと。13:26〜14:12大阪国際空港P400円。
お昼ごはんを食べていなかったので、ファミレスに向かいました。15:16「ガスト伊丹瑞穂店」。「ミートスパ659円+いちごパンケーキ659円+ミニネギトロ丼494円+海の幸ごはん989円+セットドリンクバー241円=3042円」注文。アメリカに3年、その後イギリスに住んで3年目です。前回会ったのが3年前、アメリカからイギリスに転勤になったタイミングで、ルーカスくんの初宮参りも兼ねて帰省した時でした。
その2年前に僕ら夫婦がアメリカの長男宅を訪問しました。りょうくんは、3才で渡米し6才までいたので、アメリカの記憶がしっかりありましたが、こうちゃんは0〜3才までのアメリカ生活を殆ど覚えていないそうです。つまり、そこで僕らと1週間住んだことも忘れていました。ルーカスくんはアメリカで生まれ、前回会ったのが赤ちゃんの時なので僕に会うのは実質初めてです。家族LINEで、平均週1ペースで写真やビデオで見ているので、僕に「久しぶり」感はありませんが、りょうくんは「おじいちゃん」とすぐに僕に親しみを込めて打ち解けましたが、こうちゃん・ルーカスくんはそうではありません。でも、こうちゃんはアメリカの時同様すぐに慣れてくれました。でもルーカスくんは少し時間が必要みたい。こうちゃんは社交的で、どんな環境でもすぐに慣れてしまいそう。
日頃使っていない僕の実家に荷物を下ろし、家内に「こんんちは」。緑ヶ丘公園に桜を観に行きました。自宅にあるキックバイクにこうちゃん、3輪キックボードにルーカスくんが乗り、りょうくんにはサドルを低くした大人用小輪折りたたみ自転車を渡し乗っていきます。遊具で遊びました。実家に戻り、サッカーボールを買いにおもちゃ屋さんに向かいました。が、幼児用の柔らかなボールしか無く、スポーツデポに向かいました。17:01「スポーツデポ中山寺駅前店」で、「サッカー練習球4号・1098円」購入。帰りにスーパーに寄り、夕食を買います。お嫁さんが「うどん作るよ」とその材料も買っていました。帰宅後、家の横の空き地でサッカーが始まりました。僕とりょうくんが組み、長男とこうちゃんが組んでゲーム開始。りょうくん・こうちゃんは、ロンドンのサッカークラブで習っているので、想像以上に上手でした。こうちゃんはりょうくんより3つも年下なのでパワーとスピードで劣勢ですが、テクニックが素晴らしい。長男がボールを持つと、空きスペースに走り手を上げボールを要求します。飛んできたボールを足元でトラップして止め、シュートして来ます。僕は足でクリアして凌ぎます。「お祖父ちゃん、ナイス」と声を掛けてくれます。僕は体力的に3人に劣るので、ゴール前に張り付き、オフェンスはりょうくんにお任せです。こうちゃんは劣勢なので長男もオフェンスに参加し、りょうくんに対抗します。長男にシュートされるとゴール量産されるけど、長男はこうちゃんにシュートを任せるので、こうちゃんからシュートの山です。長男のオフェンス参加で空いたゴールにりょうくんが速攻で攻めます。結果は3-2で勝利、良い勝負でした。
実家に戻り、長男一家は夕食タイムです。僕は仕事場に出てあれやこれや。仕事を終え帰宅し、隣の実家へ。こうちゃんから、「お祖父ちゃん、これプレゼント」と、フード付きトレーナージップアップを貰いました。お嫁さんから、「karrimor」というイギリスのブランドの製品だそうです。胸にユニオンジャックのマークが付いています。タグには「Build for Adventure」と書かれていました。家内が隣の自宅からやってきて、家内も同じブランドのジップアップをプレゼントされています。家内から3人に、スポーツウエアのプレゼント・・・みんな大喜びで早速着ています。数日前に買った「ジェンガ」を見つけ、「これやろう」と私含め4人で遊びました。
りょうくんから、読書感想文を貰いました。1/17の誕生日に日本から「KWAIDAN」という小泉八雲の英語本を送りました。英語で書かれた感想文でした。
『When I read the Story KWAIDAN, I got intrestean in the Story called Yuki-Onna. The intresting part wes that when it wes night, Minokichi saw a woman which was very white. It was the Yuki-Onna, Yuki-Onna said to not say a word about it to Musaka. Minokichi said the Story to Musaka then that night She was murdered. This Story made me feel so scary. It also helped me to get some other intresting words and using it to my homework.
Thank you for letting me nead this book Grandfather.From: Ryo・・・』
(物語怪談を読んで、「雪女」の物語について興味を持ちました。興味を引いた部分は、夜になりミノキチがとても白い女性を見たこと。雪女と呼ばれ、雪女はムサカに一言も言わないで言った。でも、ミノキチはムサカに物語を言ってしまい、その夜彼女は殺害されました。この話は私をとても怖く感じさせました。そして、僕は他の興味深い言葉を手に入れ、それを僕は宿題に使いました。お祖父ちゃん、この本を送ってくれてありがとう。  ・・・より)
あ〜だこ〜だお喋りして「おやすみ」。自宅に戻り、夕食&お風呂。次男一家が、仕事を終えてからやってきます。19時、「電車に乗ったよ。20時東京駅発新幹線に乗り、23時最寄り駅着予定」とLINEが入りました。軽く寝て、22:45に四輪で自宅を出発し最寄り駅へ。15分遅れで次男一家がやって来たので車に乗せ、実家に下ろして「おやすみ」。


2022/3/31・長男一家帰国
ロンドンに住む長男一家が帰国しました。昨年夏、一昨年末のルーカスくん骨折・昨年春の長男虫垂炎手術を経験し、厄払いのために帰国を考えたのですが、帰国時14日間隔離が障害になり断念しました。ドイツに住むお隣の娘さんが旦那さんと帰国しましたが、2週間実家で隔離生活をされており大変そうでした。3/28、家族全員でPCR検査を受けに行きました。ロンドンヒースロー空港を出発し、ロシアルート避けアラスカ上空ルートで15時間のフライトだったようです。羽田に入国後のPCRも全員無事陰性になり、晴れて日本入国できました。15時過ぎに羽田着だったので、通常ならトランジットしてその日のうちに伊丹空港まで飛んでくるのですが、コロナ対策のため羽田から離れられずホテル泊を強いられました。本日4/1午後、伊丹に飛んできます。空港まで迎えに行かなきゃ・・・


2022/3/27

お隣さんと初めてのツーリングです。僕が小2の時引っ越して来てからのお隣Mさんが、昨年引っ越されました。同じ小学校の1年先輩で、小学生の頃から遊んでいた方が、社会人になってから転勤などで居なかった時期はありましたが、仕事をリタイヤして実家に戻られ、ご両親と一緒に住むようになりました。Mさんもバイク乗りで、BMWの大きいのに乗っておられました。僕が2008年にバイク免許を取り、1年ほど乗って慣れた頃、「一緒に走りに行きませんか?」と誘ったのですが、既にBMWを手放され、車のBMWだけになっちゃっていました。「もう年だから、バイクには乗らないんだ」と残念でした。親御さんが他界され、「今後、2Fに上がるのがしんどくなるから、家売って市内の駅に近いマンションに引っ越します」と挨拶に来られ、50年以上になるお付き合いに終止符が打たれました。
まだ住んでおられる時に内見され、1ヶ月ほど内装リニューアルして、次の方Kさんが引っ越して来られました。3人のお嬢さんがおられる一家で、お庭のPでお友達を呼んでBBQを楽しまれる方で、「キャンプ好きなのかな〜」と想像していました。お隣さんなので挨拶したりしてお付き合いが始まり、昨年晩秋、我が家の得意技「柚子外交」をしました。ピンポーン、「庭で実った柚子なんですけど、夫婦2人なので、料理に使ったり柚子湯に使ってくれませんか?」。
ある日の夕方、ツーリングから帰ってくると、「カッコいいバイクですね。何処に行ってこられたんですか?」「・・・」「僕もバイクにリターンしたんですけど、バイクに乗る友達がいないから・・・」「タイミングが合えば、一緒に走りに行きましょか?近所に一緒に走りに行った方もいます」「是非」。
この日は、コーチしてる大学ヨット部の練習に参加する予定でしたが、「新人勧誘するので、次の週でお願いします」とキャプテンから連絡があり、暇になってしまいました。ならばと、「ピンポーン、旦那さんご在宅ですか?」。「次の日曜日、一緒にツーリング如何ですか?」「行きましょう。僕の2ストでうるさいですけど良いですか?」。これでお隣さんとのツーリングが決まりました。「朝10時、ここに集合で」。別のお隣さんにも声を掛けましたが、1週間前の高知ツーリングの疲れが残っているようで、「次回誘って下さい」だって。
9:30、倉庫から「招き猫CB400SB」を道に出して、リアボックス・ナビ・ドライブレコーダーを取り付けて、家の中に入ってゴソゴソ。5分前に出たけど、お隣さんはまだ。10時ジャストに表に出ると、お隣さん夫婦がバイクとともにおられました。奥さんから「お願いします」。バイクは「スズキGT380」。380ccという今ではない珍しい排気量で、40年前の旧車バイクだそうです。程度の良いものなら2〜300万の高値で国内中古バイク販売されているようです。若い頃お世話になったバイク屋さんに、海外で探してもらい、輸入したバイクだそうです。ボロボロだったので、部品をリニューアルしたりメンテナンスしてもらったそうです。売ったら利益が出るのかも?
10:04、出発。2ストなので排気にオイルが交じるので、後ろを走ります。遅いですけど・・・」「僕も遅く、制限速度+10で走りますから」。r13を北上し、川西池田から、R173を北上します。「一庫ダム」横から快適に走ります。いつもなら僕の方が遅いので、ピタリと後続車に付かれるのですが、Kさんは僕と同じようなペースで走る方でした。「はらがたわトンネル」「天王トンネル」を抜け、篠山盆地に下ります。R372との「福井」交差点を越えて更にR173を北上し、「細工所」交差点を通過し、11:11「釜揚げうどん&Cafe 風輪里(ふわり)」。
バイクPにバイクを入れるとすぐにドアが開き、「2人?」って聞かれました。「はい」「20分ぐらい待つよ、良い?」「待ちます」。店の前を何度も通過して、バイクが停まっているので気になっていたお店です。店内に入ると、バイクが2台置いてありました。Kさんが、「バイカーズカフェをやってた方のお嬢さんから聞いていたお店です」とのこと。数日前、Kさんが庭でBBQしてた時、そのお嬢さんも座っておられました。お嬢さんが働いているお店で知り合ったようです。Cafeさんの自宅が我が家の近くで、ワンちゃんと散歩する皆さんと挨拶するようになり、そのCafeに何度も行っていたので知り合いです。僕は「かき揚げうどん」700円、Kさんは「釜揚げうどん」650円を注文しました。20分も待たずにうどんが出てきたような気がします。美味しかったが、12時に来られた方は1時間待ちと言われていたので、昼食時に来るのはパスした方が良いなと思いました。
新しくお隣同士になったKさんとは互いにしっかりお喋りするのは初めてなので、互いの家族構成やあれやこれや披露し交流を深めました。Kさん宅のお子さんは女の子3人です。大学生風の娘さんと小学生の2人のお子さん。ご夫婦とも伊丹で育ったそうで、奥さんが学んだ小学校は僕と同じでした。しかも、奥様は我が家の次男と同じ年齢かもしれません。旦那さんは少し上のようですが、僕とKさんは1世代違います。うちの孫はまだ9才が頭なのに、Kさんとこは既に大学生、お若い頃のお子さんでした。Kさんの奥さんは、顔を合わせるといつも「おはようございます」など挨拶をされます。「愛想が良いですね」と言うと、結婚した頃は人見知りで全然違ったそうです。Kさんは社長さんなので、お仲間を呼んで飲み食いされます。「愛想良くなったのは、僕が教育したんです」と笑っていました。「何かあったら、隣近所や仲間が頼りになるんだから」と、常に奥様と話されているそうです。僕と同じです。互いにこういう気持ちがあると、気持ち良く交流できそうです。12:08出発。お会計でドキンとしちゃいました。なんと財布を忘れて来ちゃいました。初見で、僕が誘ったのに情けない。「すみません」と代金立て替えをお願いすると、「良いですよ、気にせんといて下さい」。あ〜情けなや〜。

R173を南に戻り、「細工所」交差点を右折し、r702を西進し、左折してr543を南下し、r12に合流しました。南下して、城東トンネルを抜け、西峠を越えて、12:39「CafeSARAtoTEN」。僕はケーキセット(クリームソーダ)を注文しました。ここも初めて入るお店です。我が家のお墓に参る時、「三角屋根の民家が素敵だな〜カフェになったら良いのに」と思っていました。中に入ると、民家そのままの玄関があり、靴を脱いでスリッパに履き替えリビングでお食事するスタイルでした。ワンちゃんを抱えたお客さんで賑わっていました。Kさんが「ドッグカフェですね、ドッグランが隣接してありました」と教えてくれました。
13:34、帰路に着きます。r12〜r319〜r33〜r325で帰宅しました。14:19、お互いの家の前にバイクを止め、Kさんのビンテージバイクを見せてもらいました。ボロボロの車両を輸入したので、「あれを直して」「これを新品に交換し」・・・と教えてもらいました。ヘッドライト・ウインカー・シート・フロントフェンダー・リアフェンダー・マフラー、その他磨きなどで、40年前の車両には見えません。唯一ホーンだけが古くサビの浮いたままでした。「何故?」って聞いたら、「40年前のバイクであることの証拠を残したかったから」だって。Kさんは、バイク置き場に走って行かれました。話が弾んでお借りしたお金を返すのを忘れたので、家に入り忘れた財布からお金を出して封筒に入れて、Kさんの郵便受けに入れておきました。交換したLINEに、「お借りしたお金は郵便受けに入れておきました。ありがとうございました」と連絡しました。
帰宅後、家内と四輪に乗って、スポーツデポに行きました。次の週末、長男一家がロンドンから3年ぶりに帰国し、我が家にやって来ます。加えて、2週間前にやってきたばかりの次男一家もやって来ます。息子たち夫婦と孫5人、僕ら夫婦と合わせて11人が我が家に集合します。孫たちにスポーツシャツなどをプレゼントしたいとのことで運転手をしました。スポーツデポでシャツを4着(140・120・110×2)購入し、一番下のおーちゃん2才用のがなかったので、別のお店で追加購入して帰宅しました。


2022/3/21
昨日パスをした「王子動物園」に行くことにしました。早朝、仕事場であれやこれやして、また7時過ぎに帰宅し、8時に食事をして、9時出発。R171〜阪神高速を使って、10時動物園到着。東京ディズニーランド・USJなど、イベント型や若者向けの遊園地が流行るようになってから、小さなお子さん向けの「宝塚ファミリーランド」「甲子園阪神パーク」など「動物園&子供向け遊園地」の多くが閉園してしまいました。数少ない生き残っている子供向け施設。施設も更新されていないし、大きな投資もされていません。お客さんを呼んでいた老齢のパンダは病気で見れないし、この日で終るにしてもコロナ禍による蔓延防止措置期間中だし、ゆっくり見て回れると思っていました。ところが、駐車場に入る車の列が出来ていてビックリしました。入場ゲート前で、「チケット買っとくわ」と言う家内を下ろし、列に並びました。列は信号待ちなだけで、Pにはすんなり入れました。だけど、ゲートから最も遠いPになっちゃいました。
「何故、こんなに多いのだろう?前回来た時はそれほどでもなかったのに・・・」とゲートに着くと、家内から「今日は王子動物園の開園記念日で無料なんだって」と教えてもらいました。大人600円得しちゃいました。入園料を調べると、中学生以下は無料でした。加えて兵庫県在住65才以上も無料でした。
入園時にすべての人がマットを踏むことを指導されました。ベビーカーの子も靴で踏むことを案内されていました。鳥インフルエンザが流行った時、養鶏場や牧場施設に入る時やっていたのと同じです。
入ってすぐ左にフラミンゴの池がありました。沢山のオレンジ色の羽が揃い綺麗です。鴨・孔雀・鶴を見てパンダ舎の前を通りました。普段なら入れるのですが、パンダさんは病気療養中で残念でした。ホッキョクグマを見て、「動物こどもの国」でうさぎ・羊・ヤギを間近で見学しました。動物ふれあいは中止でした。入園者が多いから、かかりの方の手が足らないからかな〜。すみれちゃん5才はスマホを手にしてパシャパシャ写真を撮っています。おーちゃん2才でさえ、スマホを器用に使ってユーチューブを見ているぐらいなので、写真を撮るなんて5才にとっては朝飯前なのでしょう。時代は変わりました。おーちゃんは、大勢の人の間をぶつからないように走り回っています。
ナマケモノ・亀・コウモリ・ワニ・夜活動する動物サイトを巡りました。すみれちゃんは、何故か入園前から「コウモリ見たい」と言っていました。ところがいざ目の前にいると、暗い室内もあり少し怖がっていました。絵本の世界とは少し違ったのかな?おうちゃんを何度も抱っこして動物を見せましたが、ワニは怖いようです。
キリン・カンガルー・ダチョウを見ながら、もうすぐ12時なので、「お腹が空いた。食べに行こう」と孫たちが言い出しました。「旧ハンター邸」横を通り、「動物科学資料館」の上の庭園を通り、遊園地のカレーのお店を目指しました。着くと、閉店していました。キッチンカーで、ラーメンや焼きそばを購入し、僕はカップラーメンを食べました。ベンチが多くあり、お客さんが多いけど、座る場所に困ることはありませんでした。
お腹が満腹したので、遊園地タイムです。家内が「乗り物チケット」を買って、すみれちゃんに渡します。メリーゴーランド・観覧車・サイクルモノレールなどに乗りました。すみれちゃんはバッテリーカーに一人で乗り、上手に運転していました。おーちゃんは、ママと一緒に乗ったバッテリーカーで泣き、パパと一緒に乗ったメリーゴーランドでも泣いてしまいました。どうやら勝手に動くのに危ないと感じるのでしょう。園内では走り回っているのに不思議です。
14:30になり、帰路に着きました。阪神高速〜R171で帰宅。夕食は家で食べることにして、次男夫婦が買い物に出ました。その間、孫たちは我が家に来て、積み木や絵かるたで遊びました。パパが写っている赤ちゃんの頃・子供の頃の写真を2人に見せたら、皆見事に「パパ・おばあちゃん」と当てました。ところが、ヨットに乗っている学生時代のパパの写真は見破れませんでした。髪の毛が金色だったからでしょう。
イオンに行ってきた次男夫婦が帰り、隣の実家に戻り、18:30から夕食。孫たちはモリモリ食べていました。明日朝、5時過ぎに帰るというので、夕食後私達夫婦は自宅に戻り、早く寝てもらいます。翌朝5:30に帰っていきました。雨が降っており、関東は午後みぞれの予報です。


2022/3/20
ヨットに乗ります。早朝仕事場に行って、あれやこれやして7時過ぎに帰宅し、8時に実家に泊まっている次男一家に、家内が作った朝食をピストンで運びます。僕の朝食も運んで、次男一家と一緒に食べました。9時に出発を決め、使い終わったお皿を自宅にピストンします。
9時に、全員我が家の車に乗って出発。我が家には3才以下のチャイルドシート2つと、6才以下のジュニアシート2つあります。それぞれを1つずつ車に載せます。次男に最終チェックしてもらいます。フロントに僕と家内、2列目にすみれちゃん5才とおーちゃん2才、3列目に次男夫婦が座って出発。
R171で西宮に向かい、9:39新西宮ヨットハーバーPへ。船にもあるのですが、家から持ってきたライジャケなどを下ろしました。我が家には、僕の歴代ライジャケが3つ、家内用に買った女性カラーが2つ、次男がジュニア時代に使っていたのが2つ、孫が生まれて買ったチビ用が1つあります。家内に、「これ汚いからダメ」とパスされたのを残し、チビ用・大人用・女性用各1積んできました。
センターハウス内へ入り、トイレと出艇申告をしました。カードゲートを抜けて桟橋を歩きます。この日はクルーザーレースのようで、大きなスピンをゲート前で広げているチームもいます。船に乗り、荷物をドッグハウス内に入れ、電源コードを抜きます。メインスイッチをONにし、イグニッションON、エンジンが回りだし、冷却水も快調に出ています。OK。係留シートを外して、僕のドライブで桟橋を離れます。船に積んでいるチビライジャケの方が小さく、それをおーちゃんに着せ、家から持ってきたのをすみれちゃんに着せます。足りない大人用を2つをドッグハウスから出して着用。
お嫁さんは、次男との結婚前に一度乗りました。「おじいちゃんが運転しているんだよ」と子どもたちに説明し、写真に撮り喜んでいます。「すみれちゃんも運転する?」「う〜ん、ちょっと怖い」。「パパが横にいるから大丈夫だよ。パパは日本代表選手だったんだよ」。ハーバーから出て、ジェノアセイルだけフル展開し、エンジンを切りました。次男はメインセイルもフルセイルにしたそうでしたが、チビが2人乗っているのでヒールさせると船嫌いになりそうで、ここはジェノアだけの帆走にします。それでも、3〜4m/sの南風が入っているので、快調に走っています。
お嫁さんが乗った前回は風がなく、セイリングではゆっくりしか進みませんでしたが、この日はスイスイ走るので楽しそう。ステアリングを次男に交代しました。母校学生が練習しています。母校は琵琶湖のレースに出場しているので、2チームに別れて練習しているようです。近大・甲南・大阪も練習しています。すぐ近くに走って来たので、「あれがパパが乗っていたヨットだよ」と教えました。むしろお嫁さんが見ています。
レース艇がレース海面に出ていきます。いかにも速そうでカッコいい。しばらく走ってから「すーちゃん、運転してみる?」。すみれちゃんがステアリングを動かし、次男がサポートしています。すみれちゃんは、目を輝かせて嬉々としてステアリングを動かしています。口もよく動き、キャッキャ喜んでいます。おーちゃんもちょこちょこステアリングを動かしています。
2時間ほど動かして飽きだしたので、僕にステアリングを交代します。オートパイロットをONして、自動でステアリングが動き出して、「え、透明人間?」とすみれちゃんが驚いています。「おじいちゃんの上にいるよ」とそれに合わせます。また次男にステアリングを交代し、ランニングでハーバーバックしました。最後は僕がステアリングし、桟橋に着けました。ヨット乗りの次男がいるので、気が楽です。係留ロープをセットし、電源を繋ぎ、ライフジャケットを片付け、メインスイッチを切って船を離れました。
センターハウスの1Fカフェ「フリアンディーズ」で昼食にします。セットメニュー4+子供メニュー1を注文しました。フリードリンクなので僕はジュースを何度もお代わりしました。天気が良かったのに、暗い雲が六甲山の方から流れて来ました。雨予報なんてなかったのに・・・。昼食後、「王子動物園」に行く予定でしたがパスし、六甲山頂のガーデンテラスに上がることにしました。前回次男一家と上がったのですが、お盆で混んでおり駐車場渋滞が山上道路から発生しており断念しました。お嫁さんに六甲山からの景色を見せたくて提案したら、次男夫婦も即OKでした。
9:39〜13:35「新西宮ヨットハーバーP」800円。r82〜r16で、14:25「六甲山ガーデンテラス」前払い1000円。空気が澄んでおり、黄砂も飛んでいないので、淡路島や加太・友ヶ島がクリアに見えています。先程ヨットで走った西宮・芦屋沖の海が見えます。お土産物屋や雑貨屋に入り、15:15カフェでデザートを食べました。僕は「ミルクフロート」、家内は「ひつじのショーンラテ」を注文しました。とても綺麗だったので、家内が「写真に写して」と僕の方に寄せてきました。パチリ!
帰路に着きました。r16で逆瀬川に下りました。帰宅して、「また夕食買ってくる?」と次男夫婦に聞くと、18時から外食することにしました。次男が選んだのはインド料理屋さん「ミラマハル」。2回目のインド料理です。最初も次男夫婦の新しい家を訪問した時連れて行ってもらいました。すみれちゃんは、「ナン」とか「ラッシー」とか知っていたので、何度もインド料理屋さんに行っているのでしょう。ナンが好きだそうです。お子様メニューについていた大きなナンをペロリと食べてしまいました。明日も天気が良く暖かいので、この日行けなかった「王子動物園」に行くことに決め、おやすみ。


2022/3/19
次男一家が帰省する日です。家族LINEで、「6時に家を出た。ゆっくり行くわ」と入り、6+8時間=14時。これなら琵琶湖に行けるなと考え、家内に「琵琶湖に行ってきていい?」「いいよ」と了解を貰って、隣の実家の玄関掃除、門扉・階段掃除、エクステリアを大ざっぱに掃除して、「招き猫CB400SB」を倉庫から出して出発。
6:53「エネジェットセルフ北村SS」で給油。267km/11.64L=22.9km/L。R171〜中央環状道路〜吹田ICから名神高速に乗りました。7:34「桂川PA」で「カルピスウォーター151円+柿の葉寿司鯖3個430円=581円」購入。京都東ICで下車し湖西道路を北上してYH着。
この日から3日間、次男の帰省と同じ期間、「同志社ウィーク」という同志社大学主催のヨットレースです。ハーバーに入ると、先週から来ている神戸・大阪に加え、西宮フリートから母校KG・関大も来ています。日本で最もレベルの高い関東フリートのKO・立教・中央が参戦しています。
コーチしている大学ヨット部艇庫に入り、部員たちと挨拶を交わします。バイク装束を脱いで、カッパを着ます。母校KGと関大の艇置き場に行き、トイレしたくなったら僕のコーチしてる大学のコーチボートに来るよう伝えました。KD・T総監督も来ており、あ〜だこ〜だお喋り。LINEを見ると、大会サイトに支援艇・コーチの健康チェックシートがあったので、朝の体温など入力しました。
8:30から開会式がZoomでありました。11時470スタートなので、10時出艇なので、9:45からブリーフィング。僕が最初に指名され、ペップトークで部員の気持ちを高めます。特に下級生には、積極的にスタートを攻めるよう気持ちを高めさせる言葉を発しました。
レース艇が次々に出ていきます。風もあり、順調にレースが出来そう。ところが、沖に出てみると風が落ちてきて、スナイプチームを曳航してレース海面に入りました。曳航を離し、レース海面に向かう最後尾まで戻り、他校のレース艇を曳航してレース海面へ。
風の強弱と、北西からの風と南西の風が交互に入り、風向の不安定もあって、なかなかレースが出来ません。12:57、やっと470がスタートし、次のS級スタートがゼネラルリコールして風向が変わりスタート延期になってしまいました。470がフィニッシュして、13:52S級がスタートします。運営のD社大4回生からアウターに乗っている前監督Shim君に無線で指示を仰いでいます。
僕の乗ったコーチボートはS級担当なのでスタートラインに留まり、470の1上回航スピン展開を見ていました。トップ10に当方が3艇(4・8・10位)回航しました。他は、14・22・23・25・36・44・59位/全60艇です。昨年の東京オリンピックに出場した男子・女子・ナショナルチーム(NT)の計3チームが招待選手で出場しており、良い滑り出しです。昨年も2度コーチしに来てもらったNTのIchi君がトップ回航、そのままトップフィニッシュしました。昨年入学した次男の後輩兵庫ジュニア出身のNukさんが1つ順位を上げて3位フィニッシュ。トップIchiくんがペナルティーを受け13位に後退したので、2位フィニッシュに繰り上がりました。
470フィニッシュ後、S級がスタートし、1上4位に当方の2回生女子コンビが来ました。ヨット未経験で一昨年入部した子と昨年2回生になってから入部してきた子のフレッシュなコンビです。S級コーチボート内が盛り上がります。風下第3マークで10位に落ち、次の上マークで12位、あとの2つのマークでは1艇も抜かれず、12位でフィニッシュしました。上出来、立派です。新ヒロイン誕生です。高校ヨット部経験者で、1・2回生時のインカレにも出場したキャプテンが猛追し、一時2艇遅れまで追いつきましたが、再び引き離され、コーチしているヨット部内(10艇)でトップフィニッシュでした。全84艇。
14:39、スナイプがフィニッシュし、470の第2レースがスタートしました。続いてS級がスタートシークエンスに入りましたが、上マーク付近の風が落ちてしまい、本部船にAP/A旗が揚がり、この日のレースはお終いです。初日は、1レースしか出来ませんでした。風速はあったのに振れが大きく、運営は難しかったでしょう。
ハーバーバックし、次男一家が自宅に着いているだろうから、ミーティングに出ずに帰路に着きました。湖西道路〜名神〜中央環状道路〜R171で帰宅。次男一家が家内と話していましたが、まだよそ行きの服装です。5分ほど前に着いたばかりだって。関東付近の朝の通常渋滞に捕まってしまって、11時間も掛かったそうです。次男の顔を見ると、なんか眠たそう。お嫁さんに交代せずに、ずっと運転していたみたい。
家内がお嫁さんにお金を渡し、次男たちに夕食を買ってきてもらうことにしたようです。19:30から、自宅隣の実家で夕食。ワインを買ってきたようで、次男が飲み始めました。珍しいな?と思ったら、次男が設計した北海道洞爺湖の会社ホテルの周りでワインを作るそうです。最初はぶどうを買ってワイン作りを学習し、ぶどう畑を作って育て、原料も自前で調達してメーカーになるとのこと。そのためにワインを勉強しているそうです。20時過ぎに「ごちそうさま」して、明日のメニューを「ヨット&動物園」に決めて、「明日朝8時に朝食ね、おやすみ」。

夕食の写真を、家族LINEに流したら、ロンドンに住む長男のお嫁さんからLINEが入りました。こうちゃん5才小1が学校でまた表彰されたそうです。
「This certificate has been awarded to Kosei ・・・
RESILIENCE
kosei has been working hard with phonics and sounding out his words. He never gives up and always tries his best.」
お勉強を頑張ったそうです。母国語でない英語を喋り、クラスメイトとの交流を頑張ったのでしょう。こうちゃんはパパがアメリカ転勤になった月に日本で生まれました。まさか臨月にお嫁さんが渡米するにもいかず・・・。アメリカで3年暮らし、TVからもお出かけの環境もすべて英語の世界でしたが、いつもお嫁さんと一緒なので日本語で過ごしました。お嫁さんも長男も英語に不自由しないので、家庭での会話を日本語で通しました。子どもたちに英語シャワーを浴びせるより、むしろ日本語が不自由にならないように・・・という配慮でしょう。ロンドンに転勤し、こうちゃんは幼稚園に通い出しました。1年後、りょうくん9才と同じ最も人気の高い地元の小学校に入学しました。こうちゃんはお喋りで度胸があるので、幼稚園入園時から、先生やお友達の言うことがわからないなりに、日本語で話しかけていました。
イギリスの公立小学校は、日本と違って校区が広く校区内の5〜10校から選択し受験して合格を得なければ入学できません。クラスメイトで近所に住むお友達と学校を離れて遊んでおり、その子にとっても一番の友だちがこうちゃんのようです。不自由なく学校で過ごせるようになったことを表彰されたのかもしれません。前日、りょうくんとパパがアーセナルの女子の試合を観に行ったそうです。岩渕選手が怪我で出場しなかったようで残念でしたが、楽しんできたようです。他のアーセナルの女子選手と握手したり、一緒に写真に収まったりしていました。


2022/3/14
ロンドンに住む長男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。次男の長女すみれちゃんの幼稚園音楽会での小太鼓演奏を見て、ロンドンの幼稚園や小学校ではこういうのが無いので羨ましいそうです。「感動して泣いちゃう」と書いてありました。次男とこの長男おーちゃん2才のお喋りが上達しててびっくりしたようです。今回のビデオで車を握りしめていたので、4月に帰国して会う時、ロンドンバスを買って帰ろうかな〜と書いてありました。
次男が、ピロリ菌検査して多かったので薬を飲んで消滅させたと書いてあったので、お嫁さんも帰国のタイミングで「人間ドッグ受けて、ピロリ菌検査したい」と書いてありました。
りょうくん9才は土曜日、日本学校の3年生終業式だったようです。一年間、毎週土曜日1日も休まず出席して頑張りました。第3学年Cクラス集合写真には19名のクラスメイトがいます。女の子が10名。ハーフと思われる子が7名おり、この学校自体も多国籍です。
ロンドン在住日本人小学生が通う学校は3種類あります。1.イギリスの現地校(公立・私立)。2.日本の文科省学習要項に従った教育をする日本国内の小学校と変わらない授業をする日本人学校。3.現地校に通いながら日本語をメインに勉強する日本語学校(週1)。りょうくんが通うのは、1と3です。3は週1日土曜日に日本国内の小学生と同じレベルまで多くを学ぶので、宿題が山のように出ます。加えて、サマースクールなど長期休みでは、サッカー・ゴルフ・テニススクールで運動し、毎週日曜日にサッカースクールに通っています。
1年間の通知表(成績表)も載せてくれました。日本国内のように3学期制ではなく、「4月〜6月夏休み前」と「9月〜3月」の2学期制です。無遅刻無欠席でした。「忌引」休み欄はわかりますが、「出停日数」の欄もありました。小学生で出席停止なんてあるんだとビックリしました。僕の小学生時代の成績表には、このような欄はなかったはずです。成績の方は、3段階評価でオールAでした。現地校の成績も2年・3年と5段階評価でオールOutstandingだし、りょうくんはよく出来るしよく頑張っています。りょうくんが通っているサッカークラブの写真もありました。


2022/3/13
次男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。金曜日に、すみれちゃん(5才)の幼稚園で音楽会があったそうです。すみれちゃんは中央後方で小太鼓を担当していました。木琴・大太鼓・・・クラスメイトはみな上手で、想像以上の出来栄えでした。息子たちの保育園での音楽会とは大違い。でも、誰かが間違ったりしているところが面白みがあったり味があったり笑いがあったりで良いかも。
おーちゃん(3才)は、保育園で水いぼを貰ってきたそうです。幼稚園や保育園からいろんな病気を貰ってきます。息子たちも園で流行りだしたら貰ってきて、お陰様で子供の頃に罹患しておいた方が良い病気の免疫に困ることはありませんでした。予防接種に連れて行くことも多い時期で、その後の人生の体づくりの基本の時期とも言えます。
おーちゃんが、街なかの電話ボックスを見つけて、お嫁さんの「これ何?」の質問に、「けいたい」と答えていました。僕と2世代違うと、ここまで違うのかと驚いちゃいました。そう言えば、自宅の電話は壊れたままです。掛かってくる電話は、何かのアンケートや押し売りばかりになったので、買いなおす気もなく放ったらかしです。家族間の連絡は、携帯電話やLINE・メールになっちゃいました。


2022/3/6
Imaさんに誘われて、琵琶湖北湖のレースに出ます。9時にYH集合です。朝起きて、天気をチェック。晴れ予報で西風が6〜8m/s。更に北の高島の天気予報は、雨/雪で寒そう。バイクで行こうと考えていましたが、高島方面から雪雲が流れて来そうで、電車で行くことにしました。Imaさんに、「電車で行きます。駅でピックアップお願いします」とLINEしました。
6時過ぎに通勤リード110に乗って家を出ます。駅にバイクを置き、駅でICOCA2000円投入し、JRで湖西に向かいます。尼崎駅で快速に乗替え、京都駅で湖西線各駅停車に乗替え、予定通り8:32和邇駅着。駅前にImaさん車が待ってくれており、「おはようございます」。
ハーバーに着くと、YasさんとNis長男、D社を昨年卒業したと今年卒業したTsuzさんと今年卒業したHir君がいました。この日のレースメンバーです。Tsuzさんは僕と当時のジュニアヨット親が作ったジュニアヨットクラブの卒業生で次男の後輩です。Hir君は、次男の中高ヨット部の後輩です。僕がコーチしている大学ヨット部の同じ地域の目標とすべきヨット部で活躍した爽やかな若者。Hir君は2週間後のD社ウィークの運営を最後に、来月から奉職するとのこと、頑張って欲しいな。Nis君長男は、ジュニアの時のタイのパタヤビーチでのASEAN選手権の選手で、僕が監督として選手を引率しました。Yasさんの息子さんもその時の選手です。
Imaさんによると、昨日は吹いていたそうですが、この日はそれほどでもありません。ベース6m/s・ブロー10m/sでしょうか。小雨が降ったり止んだりしており、船に上がって艤装しながら、レースがあるのかどうかImaさんが気にしています。「レースする」との連絡があり、船を水上に下ろしてもらって出艇。セイルは上げずに機走でレース海面に急ぎます。時折、西風のブローが入りますが、晴れ間が見えだしました。時雨雲が比良山から降りてくるとブローと小雨が落ちてくる気象です。
レース海面は、琵琶湖大橋の南側で、堅田の杢兵衛造船隣のレークウエストヨットクラブ沖です。レークウエストYC主催のレースのようです。杢兵衛造船は、琵琶湖遊覧船外輪船「ミシガン」のメーカーです。レー
クウエストYCは杢兵衛造船が経営するヨットクラブで、杢兵衛造船経営のNakさんの娘・息子さんも琵琶湖のジュニアYC出身で、息子さんは次男の高校ヨット部の2年先輩で、インターハイや国体でチームを組んでいました。娘さんがオリンピックを狙っている時、僕に「良いクルーいないですか?」と問い合わせがありました。
スタート時刻11時の30分ほど前にレース海面に着いて、セイルをアップしました。まず、Imaさんヘルムスでクローズを帆走します。僕はジブをトリムし、リーチが開きすぎているのでトラベラーを前に移動し、左右を揃えチューニングしました。レースが始まれば、ヘルムスIma・メイン僕・ジブYas・バウはNisリーダーの元若者2人でスピン作業です。マークが打たれて、ジブを巻いてメインだけで走っていたレース艇が次々にジブを出し、「いよいよスタートだな」と思っていたら、ガチャン・・・ジブが下りてきました。「ジブハリが緩んだ」とジブハリシートを止めているカムを見ると正常・・・あれれ?と思っていたら、バウのNisくんから「ジブハリが切れました。いやジブのピークロープが切れました」。すぐに代用できるか考えますが、ジブのピークにクリングル(穴)がないので無理そう。
Imaさんが確認し、「無理やな、リタイヤして帰ろう。クルージングやね」。Imaさんは電話連絡しようとしていましたが繋がらないようで、僕が「本部船にリタイヤ言いに行きますか?あそこです」と声を掛けます。電話を諦めメインシートを絞り本部船まで走り、僕が手を上げて注意を引きます。Imaさんは「ジブトラブルでリタイヤします」。「メインだけで走ったら」と返されましたが、笑ってさよなら。
D社若手OB・OGにティラーをメインシートを渡し、ドッグハウスからワインが出てきました。僕はスターンリーサイドに座り、若手2人に目的地を指差し、大まかな目標を示します。ジブハリヤードが上がったままなので、ハーバーバックしたら、誰かが上に上がって下ろさないと。
琵琶湖大橋をくぐり北湖に入ると、更に北の高島沖にブローが見えます。クルージングであっちに行くと思っていましたが、Imaさんから「昼飯、ハーバーで食べようか」と。ハーバー前まで戻り、Imaさんにヘルムスを交代し、メインセイルを下ろします。
ハーバーバックし、クラブハウス内で昼食を取ります。お喋りしながら1時間ほど休憩し、船の片付けに向かいます。昼食中、時々比良山下しが入り、強風と小雨〜晴れが交互に来ていました。解装中も同じで、横殴りに雪まで舞いました。船の片付けが終わり、Hirくんにボースンハーネスを着せて、おへそ前のフックにメインハリヤードを引っ掛けて上げていきます。Hirくんはマストを登ります。マストトップ手前まで上がり、持って上がったシートをジブハリに引っ掛けて下の僕らが下げます。Hirくんはゆっくりと降りてきます。ピークのフックが破れたジブを畳んでコイルします。メインセイルもレイジージャックが切れたので回収します。みなImaさんが自分の車に運んでいます。セイルメーカーに直してもらわないと。琵琶湖大橋のところにあるセイルメーカーもジュニアヨットの仲間なので、身内で直せそう。
クラブハウスに戻り、お茶を頂きながら再び休憩。帰路につきます。Imaさんに和邇駅まで送ってもらい、ICOCA1000円で購入。湖西線に乗り南下し、京都駅で東海道線に新快速に乗り換え、尼崎駅で福知山線に乗替え、最寄り駅で下車します。ICOCAで改札を抜けようとしましたが足りませんでした。ICOCAに2000円追加し改札を出てバイクに戻ります。仕事で神戸のホテルに行ってる家内に、「今伊丹駅、今から帰るから迎えに行けるよ。連絡下さい」とLINEしました。あれやこれやしながら待っていると、「JR駅まで迎えに来て」とLINEが入り「OK」。四輪で家内をピックアップしに行きます。家内は業界の勉強会の司会をしたので、立ち仕事で疲れているだろう。
家内を乗せて家に戻り、四輪などの片付けをして部屋に入ると、ドーナツをコンビニで買ったそうでそれを食べます。僕の好きなミスタードーナツにルックスは似ていますが、味は少しモッチリしています。僕はミスタードーナツの方が好きだな〜。NHK「ダーウィンが来た」「鎌倉殿の13人」を見ておやすみ。


2022/3/5
天気が良いので、奈良の寺社巡りをすることにしました。倉庫から「里山VTR250」を出して、9:32出発。R171〜中央環状道路で、9:51「エネジェット中環豊中SS」で給油。139km/4.72L=29.4km/L。9:55「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「ゆずれもん500ml93円」購入。「吹田IC」から近畿道に乗り南下し、「南阪奈道路」にチェンジして、大阪と奈良を隔てる生駒山系を抜けて奈良盆地に入ります。「葛城IC」で下車し、右折してr30で南下します。奈良盆地の西側の丘陵地を走るので、左側に盆地から東側の丘陵地まで見渡せ、気持ち良く走れます。枝道に入り、10:57「鴨山口神社」。『鴨山口神社 御祭神:大山祇命 大山津見とは「山の神霊」を意味し、各山々の精霊を統括支配する神であろうとされている。
藤原時代前期(800年代)とされる木造座像あり、大曰霊貴は衣冠を付け、御霊大神は女神とされ共に重文(国宝)に指定されている。 当社、西方に猿目という垣内がある。昔、猿田彦大神顕れ、このような霊異地は珍しく照輝くこと日・月のごとく、すなわち時々天照皇大神天降り給いて鎮座云々と記されており、この地の在所を倶戸羅邑と申すも、天照皇大神の御霊日月のごとく奇異に現れ恰ひしよりの名なりとされ、クシラとはクシヒトという天訓なり、御霊の2字もクシヒトと読めり・・・之当所をも霊異邑と申なれども、のち俗語してクシラ邑となると記されている。 (由緒書) 御所市大字櫛羅字大湊2428。
天満神社:御祭神菅原道真公 八幡神社・金比羅神社:御祭神大物主命・誉田別命 稲荷神社:御祭神倉稲魂命 春日神社:御祭神天兒屋根命 椿山神社:御祭神宇迦之御魂神 天照皇大神宮:御祭神天照皇大御神』
『鴨山口神社 葛城山麓の扇状地、櫛羅大湊に位置する本社は、古くから朝廷に皇居の用材を献上する山口祭を司った由緒深い神社であります。祭神は、大山祗神・大日霊命・御霊大神・天御中尊をお祀りしています。 「延喜式神名帳」には、山口社は14社あるが、その内、葛上郡の鴨山口神社が本社であるとされており、即ち式内の大社として格式の高い神社であります。 本殿は、春日造桧皮茸(8尺に7尺)であり、拝殿は、瓦茸(5間に2間)であり、本殿に安置されている大日霊貴命(おおひるめのむちのみこと)坐像、御霊大神坐像は国の重要文化財に指定されています。 平成元年11月吉日 寄贈:御所ライオンズクラブ』。ピンク色の梅が綺麗に咲いていました。
r30に戻り南下し、山側の枝道に逸れて、11:12「駒形大重神社」。『村社駒形大重神社御由緒 御祭神:駒形神社(駒形神(木股の神)木の神・水の神・安産の神 大重神社(滋野貞主命・家内安全・学業成就・良縁成就の神 大倉下照姫命・穀物の神)
・当社は古くから当地域内で「大重神社」と「駒形神社」という別々の神社としてそれぞれ鎮座していましたが、諸般の事情により明治41年2月1日に「大重神社」を「駒形神社」へと合併奉祀した為、「駒形大重神社」と改称されました。同時期に神社境内には、春日神社・市杵島比売神社・八幡神社・神明神社・琴平神社の5社が鎮座されています。
駒形神社御由緒
・創立年代や沿革は不明ながら、昔から当地ではこの山林を駒形山と云い、御祭神を木股様(木股の神)と申し上げて崇敬してきました。 木股(木俣)は「このまた」とも読むことから「こまがた」と転化したものとも考えられます。 御祭神「木股(木俣)の神」は因幡の白兎伝説でも有名な大国主命と八上比売の御子神で別名を「御井の神」とも申し上げることから木の神・水の神・安産の神様として崇敬されています。
大重神社御由緒
・大重神社は創立年代不明ながら、明治41年2月1日迄は地域内字田口に鎮座した延喜式神名帳にも記載されているいわゆる式内社で、「大和名所図会」にも葛木大重神社として掲載されています。しかし、なぜ「大重」という名称となったかは不明で、穀物の神である「大倉下照姫命」を祀る「大倉神社」であったものが、「大重」と変化したという説等諸説あります。
御祭神「滋野貞主命」は平安時代初期に活躍した人物です。奈良時代の有名な儒学者で当地楢原出身の楢原東人の會孫にあたり、滋野という姓は御祭神の父・家訳が桓武天皇から賜ったことに由来します。 貞主公は仁明天皇の皇太子時代「学士」として家庭教師に選ばれるなど特に学問に秀でておられ、「経国集(漢詩文集)」20巻を勅撰されさらに天長8年(831)には日本最古の百科事典と云われる1000巻もの書物「秘府略」を撰集されておられることで有名です。
又、政治家としても大変有能で仁明・文徳の両天皇に重用され、藤原氏が権勢を握っていた時代にありながら参議・正四位宮内卿・相模守という非常に高い位に就かれました。 更には民衆の生活にも心を寄せられ、私費を投じて平安京内の自らの邸宅に慈恩寺という寺院を建立して人々の安寧を願っておられたと云われています。 当神社に伝わる古文書にも、「滋野貞主は生まれつき思いやりがあり、度量もありながら情け深い性格で、話をする際には人を傷付けない様に気遣いをする人であり、人々を推挙してその能力に応じて引き上げた」などと記されています。 又、貞主公は当時としては非常に背が高く、六尺二寸(約188cm)もあったと云われています。
仁寿2年(852)の春に唇に悪性の腫瘍を患い、天皇より薬を賜ったもののそれを使う事を望まずに「自分の葬儀は質素に行う様に」との遺戒をしてまもなく自らが建てた慈恩寺の西書院で2月8日(新歴3月2日)に享年68歳で帰幽されましたが、その死に際しては身分の上下を問わず悲しみ、嘆かない者はいなかったと伝わっています。 当地楢原では古くから縁のある滋野貞主公のご人徳を偲び御祭神と仰いで。家内安全・学業成就・良緑成就等の神様として人々に篤く崇敬されています。 御所市観光協会』
境内から、大和盆地内の畝傍山・耳成山などランドマークが見えます。「無事蛙」の石像があります。
バイクに戻り、r30に出て北上し、鴨山口神社横を過ぎて右折してr213を東進し、盆地に下って行きます。右折してR168を南下し、11:41「鴨都波(かもつば)神社」。『無病息災・厄除けの木 無患子(むくろじ)』がありました。『神農社 御祭神:少彦名大神 医薬の神・病気平癒の神・百薬の長として酒の神』。
『稲荷神社 御祭神:宇迦之御魂大神 商売繁盛の神・五穀豊穣の神』。
『鴨都宿鷺(おうつしゅくろ) 山の残霞(ざんか)に心を奪われているのだが、林にはまだ日が差し込んでいる。羽根が白くつやのある白鷺は、緑濃い樹木に群がっている。鷺が群れているところは、いつも雪が積もって白く堆(うずたか)くなっているように見える。その雪堆(せったい)は、時には高く飛び上り、いつの間にか、鷺は見えなくなっている。
嗚都波神社は、第10代崇神天皇の時代に創建されたという。 祭神は積羽八重事代主命、下照比売命である。 事代主命は、元来「鴨族」が信仰していた神であり、大神神社に祀られる大国主命の子にあたることから、「大神神社の別宮」とも称される。
神社付近一帯は、鴨都波遺跡と呼ばれ、鴨都波1号墳をはじめ弥生時代中期から古墳時代前期の遺跡が出土している。この鴨都波遺跡は、弥生時代の拠点的大集落がそのまま継続している珍しい遺跡である。 鴨都波神社は、その遺跡群の上に鎮座しているが、神社の広大な森林には、いろんな鳥類が棲みついている。漢詩は、神社の中の林に分け入り、白鷺の群れをよく観察して詠まれている。 かづらき煌(きらめき)ネットワーク 令和2年2月建立』
『御祈祷受付 初宮参り・安産祈願・七五三詣り・病気平癒祈願・方除厄除祈願。地鎮祭・上棟式・竣工式・入学学業祈願・交通安全祈願 鴨都波神社 電話0745-62-2176』
『鴨都波神社・鴨宮殿 大ホール(洋式)70名・中ホール(洋式)40名 お見合・同窓会・講演会・展示即売会等にもご利用下さい。 御所市宮前町514 TEL0745-62-2175』
『鴨明神 鴨都波神社 御祭神:積羽八重事代主神・下照比売命
由緒:本社の御祭神は、古く鴨都波八重事代主神と申し奉り、それは鴨の水辺で折目ごとに祀られる田の神という御神名で、弥生時代の中期初頭、この葛城川の岸辺に鎮め祀ったのに始まる。本社は高鴨社に対して下鴨社ともいい、鴨族の発祥地としてこの地方を治め、全国に分布する鴨社加茂の源である。
御祭神は、宮中八神の1つとして尊崇され、神功皇后の朝鮮遠征や天武天皇の壬申の乱に御神託を授け給いし神徳高き神にて、延喜の制では名神大社に列した古社である。 寄贈:御所ライオンズクラブ 平成13年1月改建』
『無患子の御守について 鴨部波神社の杜には、古より無患子の木が数本生息しています。この無患子となムクロジと読み、「子が患わ無い」という意味です。子どもに限らす無病息災・家内安全を願う縁起の良い木として、神社においては伝統的に守り継がれてきました。特にその実は毎年生る訳ではなく、数年に1度という貴重なものです。神社では、その貴重な無患子の実に願いを込めて、氏子崇敬者の皆様方に、「無病息災」「家内安全」「開運招福」の身守りとして授与いたします』
『火産霊神社 御祭神:かまど三柱大神・金山彦命 日常生活の中で欠かすことの出来ない火を造り、またその火を禍から護る神。金の神・石工の神・金工の神』
『猿田彦神社 御祭神:猿田彦大神 庚申さんとも称えられる子供の成長を祈る神として信仰が厚い。天孫降臨の道先案内を努めたことから、交通安全の神として有名』
『天神社 御祭神:菅原道真公 文教の祖神・学業成就・学力向上。入試合格祈願の神として侵攻厚い』
『樹齢400年 御神木 いちい樫』
枝道を北に少し走り、12:09「モリソン高級万年筆Cafe&Bar」。国産の万年筆製造メーカーで、現在は製造しておらず、他社高級万年筆やオリジナル高級ボールペンなどを販売しているようです。「カフェ&バー」も営業していましたが、外観は、改装中で見れませんでした。
バイクに戻り、R168に並行する枝道を北上します。左折して、JR和歌山線・R168・近鉄御所線を渡り、12:27「角刺神社」。『奈良県葛城市忍海鎮座 角刺神社(旧村社) 御祭神:飯豊青命(いいとよあおのみこと)
由緒:第22代清寧(せいねい)天皇が崩御された時、皇太子億計(おけ)王(仁賢にんけん天皇)と皇子弘計(をけ)王(顕宗けんそう天皇)の兄弟は互いに皇位を譲り合い、なかなか御位に就かれないので姉君である飯豊青命が代わって、この地で朝政を執られました。 日本書紀には、「倭辺(やまとべ)に見が欲しものは忍海(おしぬみ)のこの高城(たかき)なる角剌宮(つのさしのみや)」とあり、大層立派な建物であったようです。
飯豊青命の執政期問は短く、わずか10ヶ月余りで崩御され、葛城埴口丘陵に葬られました。北西900m先にある飯豊天皇陵がそれです。 飯豊青命は記紀では天皇としては認められてはいませんが、天皇の扱いになっている歴史書も古来より数冊残されており、史上初の女性天皇としてその歴史に注目が集まるところです。鏡池:境内にある鏡池は飯豊青命が毎朝、鏡代わりに使った池と伝えられています。またこの池は蓮池とも呼ぼれていて、当麻寺の中将姫が曼荼羅を織るための蓮糸をこの池から採ったと言われています。
忍海寺:境内に建つ忍海寺は神仏習合の表れとして神社に置かれた寺院である神宮寺です。本尊の観音菩薩立像は飯豊青命が仏の姿で現れたものではないかと伝えられています』
『分水石と九平さん 江戸時代後期に、忍海と近隣の村との水争いで、火柱を抱くものがあればその村の主張を聞くとの話が出ました。 そこで忍海の九平さんが犠牲的精神を持って火柱を抱いた結果、忍海に有利な割合で水を分けることが出来ました。
ここにある分水石は、当時の決められた割合通り水が流れるように溝幅が刻まれています。 この石は忍海の西にある戸分ケ(とわけ)と言う分水地点にあったもので、住宅団地開発に伴い当地に移転し保存されています。
九平さんはその後、当時としては長生きをして、明治8年に亡くなられましたが、村を救った義民として今も親しみをもって九平さんと呼ばれ祭られています。 ここに遺徳を偲び功績を記します。 平成20年12月 忍海土地改良区』
『お参りいただきありがとうございます。
この辺りは5世紀の終わり頃、日本の政治の中心として栄えたようです。 8世紀の初めの奈良時代に完成した日本書紀には、「忍海の角刺の宮は立派で到底、我々の望むべくもない手の届かぬものである」と詠われています。
日本の歴史上、最初の実在人物とされる葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が5世紀の初め頃、新羅から連れ帰った人が住み着いたのが忍海の始まりとされています。その人たちは鍛冶仕事に従事する渡来系集団として活躍したそうです。 忍海の西に位置する平岡で公園墓地の建設にあたり、昭和61年に発掘調査が行われました。その時、鉄錨(かなけし=ヤットコ)・鉄床(かなとこ)・鉄鎚(かなづち)等の鍛冶道具が出土しました。また、鉄製の馬具・鉄製の紡錘車・スキ先・鎌等、鉄製品が多く出ました。これらには朝鮮半島と関係深い遺物が目立ち、渡来系の鍛冶集団の埋葬を示唆しています。また、その後忍海の西側の脇田で古代寺院遺跡跡が発掘されました。 今の脇田神社の周辺には観光寺院とされる伽藍遺講があり、新羅系の特異な鬼面文のある軒丸瓦が出土しています。太い眉、細い目で写実的でいかつい鬼の顔です。鉄器製作との関わりを窺わせるものも多数、見つかっています。さらに、東大寺の大仏製作にも忍海の人が携わったことが記録に残されています。
6世紀の中頃、百済の聖明王が日本に仏教を伝え、聖徳太子が熱心に信仰されたこともあり、仏教は急速に広まりました。 忍海寺(にんかいじ)は宮寺と呼ばれているように神宮寺です。 神仏習合の結果、神社を守る寺として設けられ、明治維新の廃仏毀釈にもかかわらず、仏教寺院様式の建物として残されていましたが、集会所が無かった事から昭和34年に社務所風に改築されました。しかし老朽化と耐震性に問題があるとして平成20年5月に再建しました。 その際に発掘調査、周辺整備もして末永く歴史を伝えていくべく努力をしています。
このように忍海は、歴史時代の初めより明治30年に葛上郡と合併して南葛城郡となるまで忍海郡(おしみごおり)として長く続いています。 1500年前に日本にはじめて伝えられた、漢字・機織り・鉄器作りの技術等はこの忍海の地より各地に広がったのかもしれません。 この古い歴史を誇りとして正しく次の世代に伝え、地域全員で由緒ある角剌神社を守ってまいります。
この機会に皆様の浄財をお願いします。維持、整備費用として活用させていただきます。 よろしくお願い致します』
近鉄御所線を東に渡り、R168を北上。左折してr254で西進して、また近鉄御所線を西に渡り、12:44「飯豊天皇埴口丘陵」。20代安康天皇と市辺押磐皇子が大泊瀬皇子に暗殺されました。市辺押磐皇子の2人の息子は暗殺を恐れ逃げ、播磨・志染の石室に隠れ住んだ。大泊瀬皇子は21代雄略天皇になり、その子22代清寧天皇に世は移ったが子がなく、市辺押磐皇子の2人の男子を都に迎えた。清寧天皇は崩御したが、兄弟が皇位を譲り合って次の天皇が決まらなかった。そこで2人の姉が飯豊天皇として皇位についた。在位は短く崩御し、弟たちが順に皇位を継いでいった。33代推古天皇より早い、最初の女性天皇です。
r254を東進し、近鉄御所線を渡り、右折してR168を南下します。左折して枝道を東進し、JR和歌山線を渡り、突き当りを右折してr116を東進します。r133〜r35で、13:10「稲代坐神社」。
r35〜r133で、13:25「天津石門別神社(あまついわとわけじんじゃ)」。『天津石門別神社(あまついわとわけじんじゃ) 所在地:奈良県高市郡高取町越智字大西85 御祭神:天手力男命(あめのたじからおのみこと)
由緒:越智氏居館跡の西に鎮座・旧村社。 古来九頭神社と称し、「越智氏系図」に元暦2年(1185)越智家の祖、親家が戦場守護神として祀ったと記し、越智党団結の契機及び城館鎮護の神とされた。明治8年(1875)奈良県示達により「延喜式」神名帳高市郡「天津石門別神社」に治定され、社名も改称されたが根拠は不明。式内天津石門別神社は天石戸別神とも書き、貞観17年(875)3月29日正五位下より従四位下に昇叙(三代実録)。式内社は近世まで所在不明で(大和志)、「五郡神社記」のみ忌部村(現奈良県橿原市)の忌部神社(式内天太玉命神社)に併祀と記す。なお「三代実録」貞観5年2月14日条に大和国の天津石門別稚姫神を従五位下より従五位上に昇叙したとあるが、天津石門別神社との関係は不明。当社には社殿がなく、板石を楯状にめぐらした玉垣中央に神体の榊が植えられている。里俗に九頭竜明神と称し、水神として祭祀されているが、自然崇拝の古い信仰形態を残しており、もともと九頭神(国津神・牛頭天王)を祀っていたものが語の類似により九頭竜となり、社名改変に伴って天岩戸を開いた天手力男命を祭祀するに至ったと考えられる。なお「越智氏系図」には越智親家が冑の八幡座の九頭銀竜を安置。九頭上大明神といって奉祀したとの説話がみえる。 寺院神社大辞典より』
拝殿裏に回ると、謂れ板に書いてある通り、小さな丘の上に板石が縦に地面に刺さり、四角に囲われた1.5m四方程度の玉垣がありました。板石は隙間なく刺さっているので中が見えません。御神体の榊の上部が玉垣の上に見えています。御神体だから古木かと思ったら、まだ若い榊のように見えます。榊の御神体も初めてだし、板石の玉垣の初めてなので、興味深く拝見しました。
r133に戻り、北上します。左折して、13:45「軽樹坐神社」。近鉄南大阪線を越えて、13:53「安寧天皇神社」。少し走り、14:13「懿徳(いとく)天皇畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)」。裏側からアプローチしたようで表に歩いて行けませんでした。バイクに戻り、表側に回って、懿徳天皇陵に手を合わせました。帰路に着こうと自宅にナビを合わせ走り出したらすぐ、14:19「安寧天皇畝傍山西南陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのうえのみささぎ)」がありました。
初代神武天皇陵が橿原にありますが、そのすぐ北側に「2代綏靖(すいぜい)天皇桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのうえのみささぎ)」があり、初代の南西に「3代安寧天皇陵」、南に「4代懿徳天皇陵」があります。同じ山の森で繋がっています。
帰路に着きます。大和高田バイパス〜南阪奈道路〜近畿道〜吹田ICで下車。中央環状道路〜R171で、15:26帰宅しました。

ロンドンに住む長男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。4/1に帰国するのですが、JALの直行便を予約したそうです。僕からの「シベリア上空を飛んで帰ってくるの?」の質問に、「今はロシアルートを避けて運行しているようですが、私たちが帰る時はどうなっているか… 無事に帰れることを祈っています」だって。「30日夜ロンドン発〜31日午後羽田着・ホテル泊、1日午後帰省〜7日お嫁さんの実家新潟へ、14日羽田ホテル泊・15日午前羽田発ロンドン」の予定だそうです。
写真も送ってくれました。ルーカスくん3才はすっかり幼稚園に慣れ笑顔でいっぱいです。園に着ぐるみやお姫様のドレスなど置いてあり、先生に言うと着せてくれるそうです。いろんな衣装を着た写真があります。りょうくん9才がバレンタインデーに日本語で書いた手紙を書いてくれたそうです。まさかの子供からのバレンタインプレゼントだったので、大感動したそうです。日本以外のバレンタインデーは、男性から女性に向けたものだから、日本に帰ってきたら驚くかも?りょうくんが現地小学校4年生学年行った研修日帰り遠足の写真もありました。モスクに行って来たそうです。ロンドンは多人種都市なので、ヒジャブを被った先生もいます。もちろん生徒にもおり、白人・黒人・中東系・アジア系・ブロンド・黒髪・・・こういう環境で育つと、いろんな視点が自然に身につきそうです。



逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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