-ウェブマスター日記 2022/2

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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思い出の女の子1
昨年10月に読了した本「3分で読める コーヒーブレイクに読む 喫茶店の物語」を読みながら、学生時代お付き合いがあった女性のことを思い出しました。ついでに、もっとチビの時からのことも・・・。女性は、過去の男性のことを綺麗サッパリ忘れ、プレゼントされたものや思い出のものを捨ててしまうそうですが、僕はぐずぐず時折思い出しますし、思い出のものを捨てたりしません。
結婚する時、家内が過去の男性との思い出を、僕に気を使って捨ててしまわないように、「嫁入り道具として持っておいで」と言いました。家内の元カレに結婚式披露宴の打ち合わせに行った宝塚のホテルで偶然会いました。家内が元カレさんを見つけ、「あれっ」。元カレさんも「あれ、どうして」。家内に紹介され、少し話しました。家内と同じ学部の同級生で、感じの良い方でした。
僕と同じ様に、家内のおつきあいがどんなでも、僕に会った時の家内を作り上げた要素の1つに、そういう方とのお付き合いがあります。家内が大事にされてきたからこそ男性不信にもならず、今に至ると思うから。
家内は小さな箱に入れて新居に持ってきて、今でも引き出しに入っています。僕の思い出はトランクに入れてあり、家内に「ここに置いておくから、見てもいいよ」と言いました。あれから、家内が僕のトランクを開けて見たかどうか知りません。
2日前の日記に書いた読書感想文に少し書きましたが、他の方のことも思い出すままに書きましょう。
初めて女の子と手を繋いで学校に行ったのは、小1の時です。僕は電車で通う幼稚園に行っていたので、近所の子とは公園で遊ぶ程度でした。小1になり地元の小学校に入学しました。その時同じクラスになった女の子に好かれ、何故か手を繋がれて学校に通うようになりました。帰りも一緒で、その子の家に行き、ままごと遊びの相手をさせられていました。ただ僕は、男の子と遊ぶ方が面白いので、あまり乗り気でなかったのを覚えています。
小2で僕が引っ越したので1年だけで終わりました。でも、大学生になって、その子の母親と僕の母親がどこかで偶然再開し、この子と付き合わないかと復活しそうになりました。僕はお付き合いしている人がいたので、会うこともありませんでした。
もう1人、このような方がいます。僕の母親はお喋りなので友達が多く、フルタイムで働いてもいたので、幼稚園の頃母親と一緒に遊びに行っていた家の同じ年のお嬢さんと遊ぶようになりました。小学生の低学年まで、年数回母親に連れられて遊んでいましたが、その子の家が東京に引っ越したので終わりになりました。僕が就職し東京勤務になった時、母親から連絡があり、その子と東京で会いました。どうやら彼女はずっと僕の事が好きだったらしく、母親同士の電話の中でお婿さんがまた僕と会いたいとのことで、仕方なく会いました。僕は大学4回生の時に家内と結婚の約束をしていたので、1日遊園地やカフェでその子と過ごし、これまでのそれぞれの人生を話したりして過ごしました。もちろん僕に好きな人がいて結婚しようと思ってることも話し、諦めてもらいました。
僕に自覚はありませんが、なんだかんだ僕は女性に人気があるようでした。小2で引っ越しがあり、同じ市内の別の小学校に入学した時、クラスで僕だけが九九を言えたので目立ちました。賢いと思われたようです。当時は小2で覚えるのかもしれませんが、前の学校は市内で一番学力の高い学校だったので、多くの子が九九を言えました。それと、僕は「いじめに対して譲れない一線」を持っており、男の子が悪ふざけで女の子や弱い子を追いかけ回すのを見るのが嫌で、「もう、やめたれや」とつい口に出します。
それで喧嘩になることもありますが、正義の見方のように見られたようで、いきなり学級委員長になっちゃいました。目立つのがあまり好きではなく、どちらかと言うと大人し目な子なのに、言う時はガツンと言うこととのギャップが良かったのか、立候補もしていないのに女の子の大半が僕を推薦しダントツ票が集まってしまいました。それ以来、小学生時代は毎年一度は学級委員長をし、体育委員など他の委員に選ばれることもあり、なんだかんだ毎学期、クラスの役をしていました。
大学生になり、かつての小学校同級生とのお見合いの話が来たこともあります。あいては「ジャイアント」とあだ名されていたクラス一のっぽの女の子です。当然、大学生になると僕の方が背が高くなっていたのでしょうが、小学校でのイメージが強いし、その時もGFさんがいたのでパスしました。両方の母親が乗り気のようで、母親からは何度も言われましたが、断り続けました。


思い出の女の子2
中学生になって色気づいた僕は、電車通学時いつも会う女子校に通う子や同じ小学校から私立中学に通い出した子など、おしゃべりする女の子は数人いました。でも、長く片思いしたのは、幼稚園の同級生の女の子で、乗換駅で僕の乗る電車から降りてくる子でした。
僕は、3歳から3年間、電車&バス通学で西宮にある私立幼稚園に通っていました。教育評論家で勇名な先生が設立した幼稚園で、全国に数校あり、秋田県に中高一貫校、東京に大学までありました。当時、3年保育の幼稚園などなく、幼稚園に通わない子も多くいたし、通ってる子も1年が殆どでした。1学年1クラス15人の小さな幼稚園で、教育熱心な親の子が通っていました。
我が家は別ですが、お金持ちの子弟が半分ぐらいいました。僕が長く片思いした女の子も、スーパーを経営するお金持ちのお嬢さんでした。その幼稚園は、特徴のある教育をしており、年少さん1年目の最初の1週間は親と幼稚園まで一緒に通うのですが、2週間目は幼稚園の門が見える道の端まで、3週間目はその手前にある長い階段の下までしか親は付き添えません。
4週間目は、最寄り駅から乗り換えるバス停までで、次の週は自宅最寄りの電車駅まで、そして最後は自宅から1人で通わねばなりません。入園2ヶ月経てば、全員家から駅まで歩き、定期券を駅員さんに見せ、電車を乗り換え、駅で降りてバスに乗り換え、そして最寄りバス停で下車し、幼稚園まで通えるようになれます。
僕が通い始めて、階段下までしか親が付き添えなくなったその週のある日、僕に大きな試練が来ました。階段の真ん中に長い蛇(アオダイショウ)がおり、それより上に行けなくなりました。僕は下にある母親に、「蛇がいるから来て」とヘルプを出しますが、母親は「大丈夫だから行け」と言うばかり。他の子は、走り上がったりして抜けていきます。僕は行けなくて泣き出したら、先に上に行っていた女の子が降りてきて、僕の手を引いて一緒に上がってくれました。
それ以来、僕のヒーローはその女の子になりました。明るくのびのび育てられたのか、いつも楽しそうで元気で、クラスの副リーダー役でした。幼稚園を卒業し小学生になってからも、毎年母親が交代で主催する幼稚園のクラス同窓会があり、母親とともに参加していました。その幼稚園は今でも続いている母親向け女性誌も発行している母親を成長させる目的もあり、園の昼食やおやつも、当番の母親が2〜3人子供に見つからないように登園し作ります。そんなこんなで、親同士の仲が良いので、子供を出汁に親の同窓会をしているのです。
その女の子と中1で駅で会った時、ドキリとするほど可愛くなっていました。相変わらず笑顔が明るく、「おはよう」とすれ違いざまの挨拶が至福の時でした。その秋、彼女から「文化祭があるんだけど来ない?」とチケットをもらいました。僕からも文化祭のチケットを渡しました。僕は1人で彼女の文化祭に行き、彼女は数人で僕の学校の文化祭に来ました。
そんなこんなで彼女との軽い交際が続きましたが、明らかに僕とは環境が違います。高校生になると、まさに美少女に成長し、いつも綺麗で言葉遣いも丁寧で魅力が凄い。それに対し僕は・・・
女子大に進学した彼女は、それまで会った女性の中でNo1の美女になり、今でも彼女以上の美女に会ったことがありません。彼女はいつも僕には明るく接してくれますが、あまりに不釣り合いなので、友達以上になるようには思えませんでした。互いに車を運転してすれ違った時は、彼女がUターンして来て、「・・君、元気〜」と声を掛けてくれます。カフェでかっこいい男性と来ている彼女に会った時は、「あ、・・君」と僕に声を掛け、男性に僕を紹介してくれます。自分がカップルで来ているのに、後ろめたさなんて微塵もなく、僕が彼に気を使ってしまいます。自分の魅力を知らないのか、小学生の女の子がそのまま大きくなったように楽しんでいます。
彼女に誘われダンスパーティーに一緒に行ったり、彼女とその友達をヨットに乗せてあげたり、彼女の友達を紹介され付き合ったり、その後もずっと片思いが続きました。彼女は美人で華やかで、周りに女の子も男の子も集まる魅力に包まれ、それでいて僕にでも明るく笑顔で接する素敵な女性。僕が中高の文化祭やヨットに誘っても、彼女は女の子の友達とグループでやって来る人気者です。優しい性格なので、「楽しいな」と思えることがあれば、周りのみんなに声を掛けるリーダータイプで、いつも笑顔の輪が周りにあります。それに対し、僕はソロ行動が気楽な性格です。僕にとっては高嶺の華です。
僕が大学4回生の時結婚を決め、これまでお付き合いした女性皆さんには、実家に電話して彼女や親御さんにその報告をしました。僕はいつも付き合い始めたらすぐに彼女の家に行き、親御さんや兄弟と交流を持つようにしていました。1人以外は僕が振られているのですが、一応けじめを付けるために連絡しました。僕も彼女が嫌いになって別れるるわけではなく、「彼女=結婚相手」と考える質なので、合わないな〜と感じるからだけだし、僕よりもっと好きな人が出来たから僕が振られるだけで、それを聞かされて「うん、わかった、ゴメンね」と、喧嘩したわけではないから。
就職して1年目は東京勤務だったので動きませんでしたが、2年目に関西に戻り、婚約披露パーティーをすることにしました。その報告に彼女の家に伺った時、彼女の母親が「困ったな〜」の顔をしていました。甲子園球場に近い家だったので、野球観戦する時、時々彼女の家の駐車場に車を駐めさせてもらったりしていたのに、いつもと大きく違います。いつもなら、「ああ、・・君」と気楽に応対し取り次いでくれたのに・・・。「娘はいますが・・・」と言葉を濁されました。まずい時に伺ったのかな?と、要件だけ彼女に伝えてもらうことにしました。
「婚約しました。婚約披露パーティーをするので、・・ちゃんにも来て欲しいなと思って・・・」とフィアンセ(現在の家内)が作って売れた招待券を渡しました。そしたらお母さんの顔が一気にほぐれ、「おめでとう。うちもそうなの。その相手さんが今家に来ているの、会っていって」とニコニコで裏に入り、彼女と現在の旦那さんが出てこられました。彼女は医科大学の受付に就職し、すぐにインターン医学生だった旦那さんに見初められたそうです。
旦那さんの話によると、「受付にとんでもない美人が来た」と学生の間で話題になり、アプローチする医者の卵さんが続出したとのこと。旦那さんは、大阪の大きな病院の後継ぎさんなので、彼女に合った良い縁だな〜と思いました。彼女なら、どんな公式なパーティーに出席しても華になるし、言葉遣いも仕草もお嬢様なので、きっと周りから好かれます。まさに彼女にぴったりな縁です。
その後、僕の婚約披露パーティーに彼女が来てくれ、2年後の僕の結婚式にも参列してくれ、彼女の結婚式にも招待されたので伺いました。幼稚園の同級生の同窓会は定期的に行われ、僕の婚約披露パーティーには、その同級生の女の子が3人来てくれました。彼女は大阪の老舗病院を経営するお医者さんに嫁ぎました。
嫁ぎ先の家は歴史が古く、平安時代「大江山の鬼退治」で鬼の酒呑童子を退治した清和源氏(摂津源氏)頭領・源頼光の四天王筆頭・渡辺綱の直系です。四天王筆頭は渡辺綱(源綱)ですが、最も有名なのは金太郎さん(坂田金時)。渡辺綱は、紫式部が書いた「源氏物語」の主人公のモデルとなった源融の子孫で、嵯峨源氏の末です。摂津源氏発祥の地は兵庫県川西市で、僕の在所・伊丹市の隣町です。川西市多田には、「頼光寺」があり、その近在に「頼光四天王」の墓所である「小童寺」があり、両方に参ったことがあります。
結婚後も互いに子供が生まれるタイミングが同時期なので、彼女の家にうちの一家で伺ったりして出産祝いを渡したりしていました。彼女の嫁ぎ先は歴史のある家なので、男子を産むのが必須らしく、旦那さんの家や親戚から言われることはないのですが、無言のプレッシャーがあると悩みを打ち明けられたことがあります。我が家は長男次男と生まれましたが、彼女には長女次女で、「男の子を生むまで何人でも産む」と決意を聞いたこともあります。幸い3人目で男の子が生まれ、「これで打ち止め」とニコニコ笑っていました。
次男の入学した中学の1学年下に彼女の長男(3人目の子)が入学し、同じ学校の父兄となりました。その学校は私立なので、生徒集めのために大手塾などにパンフレットを作っています。高校生の時、同じパンフレットにうちの子と彼女の子が同時掲載されたこともありました。うちの子はヨット部のエースとして、彼女の子はサッカー部のエースとして。スポーツにも力を入れている中高一貫校なので、多数のスポーツセレクション入学者がいます。そんな中、うちの子も彼女の子も厳しい中学受験をくぐり抜け、ともに1学年に1クラスしかない超進学クラスにいます。1学期ごとに、学業成績でクラスアップダウンがある進学校でもあるので、ずっとトップクラスを維持しながらスポーツも頑張ってる生徒なので選ばれたようです。
彼女の子は、小学生から始めたサッカーが上手で、高校3年の時、プロサッカーチーム「ジェフユナイテッド市原」のプロテストを受験し、見事合格しました。同時に医学部にも合格し、「どっちにしようか迷ってるの」と彼女は僕に相談してきました。結局お父さんの職業を継ぐため医学部に進学しましたがサッカーへの情熱は冷めず、今はジュニアサッカーチームのスポンサー&コーチをしています。
今でも、僕の作った幼稚園LINEグループで交流があり、常にあれやこれや近況報告しています。


思い出の女の子3
大学生になり、女性としっかりとお付き合いするようになりました。その初めての子とは、入学式直後に出会いました。僕の入学した大学は総合大学ですが、学部により男女比率はバラバラです。僕の学部は、ホームルームと言える英語クラスで言えば、クラス50人のうち女子は3人。10クラスぐらいあったと思うので、学部同学年で女子は30人前後だったでしょう。
あいうえお順でクラス分けされており、仲が良かった同じ学部に進学した子が僕の次のクラスでした。彼のクラスにいた子が気に入ってしまいました。身長164cmで背が高く、170cmの僕とは身長差が少ない。高いハイヒールを履くと僕の方が背が低い。とてもスタイルが良く、今で言うグラビアアイドルのような外見です。スカートを履くと見立たないが、パンツを履くと、横から見て綺麗なS字カーブが素晴らしい。日本人離れした体型をしていました。お顔の方も可愛く、多くの学生が同学部同級生No1の美人さんでした。
僕の友人は、彼のクラスの別の女の子が好きらしく、2人でこの2人を誘いました。彼のクラスの女性は2人だけでした。僕の友人が車で来ていたので、ドライブして芦屋や西宮のカフェに数回行きました。彼はあえなく振られましたが、僕は気に入られ、同じ選択をした授業では並んで受け、デートを重ねました。1ヶ月後には彼女の家に車で送っていき、お母さんとも話すようになりました。それからお兄さんやお父さんとも話すようになりました。
僕は高校に続きヨット部に入りましたが、彼女は通学に1.5時間必要なこともありクラブには入りませんでした。中高男子校だったので、女子のいる学校は華やかで学校が楽しくて仕方ありませんでした。この娘はスマートでスタイルが良く顔も可愛いので、多くの友人が同学年No1と見ており、話したこともない男子から、「おまえ、あの娘と付き合ってるの?」なんて羨ましがられました。
大学付属高校から内部進学試験に合格し入学したので、大学の雰囲気も知っており、中学高校同級生も多く、最初からリラックスして通えました。毎日が楽しく、「大学ってすげえ」と思ったものです。まあ、高校時代も大学の学食に昼食を食べに行ったりしていたので、華やかな雰囲気は感じていたのですが・・・
高校に続きヨット部に入部しました。大学生と同じ艇庫を使っていたので先輩は皆顔見知りでしたが、同じタイミングで半強制入部させられた高校ヨット部同級生4人は、もっと大学を楽しみたくて5月には全員退部してしまいました。
そんなタイミングで彼女と知り合ったのですが、大学に慣れていると何か物足りなくて、7月の前期試験が終わったタイミングで、僕だけヨット部に復帰しました。長い夏休みに僕は毎日ヨット部で彼女はバイトの日々になりました。彼女はピアノを長く習い、エレクトーンに手を出し、自宅にエレクトーンがある家でした。加えてバイトとして結婚式場でエレクトーン演奏していました。エレクトーンのバイトは土日に仕事が入るのですがウィークデイは暇なのでお肉屋さんでバイトしていました。僕は週1の休み以外はヨット部で励んでいたので、すれ違い生活になってしまいました。
彼女はとても可愛く、高校時代はバスケットボール部だったように運動神経も良く、楽しい日々が過ぎました。「私もヨット部に入ってマネージャーしようかな〜」なんて言っていましたが、結局入部しませんでした。当時のヨット部マネージャーは、ほぼ食事当番で、海に出ずに部員の食事作りがメインの仕事でした。ヨット部は長期休暇以外は土日メインの練習で、水〜金は自主練習で、好きなピアノ・エレクトーンのバイトは土日メインなので時間の都合を考え入部しなかったのだと思います。
ヨット部を卒業した社会人の先輩から、「女の子との付き合い方」を伝授されたことがあります。「社会人になったら、大学のようにある程度生活環境の似た子ばかりではないので、お前らのような甘ちゃんは女の子に引っ掛けられる。体を張ってくるから気をつけろ」と。「嫁さんは大学生時代に決めておけ」「女の子は母親に似るから、気に入った娘がいたら彼女の家に行って母親と話せ。母親の姿は彼女の25年後だから、自分の奥さんが彼女の母親で良いと思えたらその縁は良いよ」とも。
1回生の冬になり、ヨット部主催のスキーツアーがありました。彼女はバイトで参加出来ませんでしたが、冬はヨット部のオフシーズンなので彼女との時間が増えました。2月の学年末試験が最後の学園闘争(授業料値上げ反対)によりボイコットされ、レポート提出に代わりました。レポート提出期限は春休み前の3月まででしたが、僕はヨット部の練習が2月末からあるので、殆どトップのスピードで提出して行きました。彼女と同じ学部なので、毎日のように彼女の家に行き、レポートを書きました。早期提出が良かったのか、1回生の成績は素晴らしく良くすべての単位を取りました。これで勢いづき、4回生ではゼミの単位を残すのみぐらいの単位取得スピードで、卒業単位は3回生まででオーバーしていました。僕も文字好きが影響していたとも考えられます。文章なら苦にせずいくらでも書けます。そんなこんなで、ヨットはモスクワオリンピック候補選手に選ばれ、男子ランキング7位まで行けました。学業も好成績で卒業し、卒論も学部7選に選ばれ、卒業生全員に僕の卒論が他の6人の卒論とともに配布されました。
彼女とはドライブをいろいろしたし、うちの山の家にも何度も遊びに行ったし順調でした。僕の家にも来たし、僕の母親も連れて、母の好きな美術館を巡ったこともあります。しれでも僕がヨット部で忙しいのに、彼女は帰宅組なのでつまらなくなったのか、ボーリング同好会に2回生になり入部しました。彼女は可愛くスタイルは抜群で、ボーリング同好会の先輩と縁が出来たようで、ある日高校同級生から「お前、彼女と別れたん?」と聞かれ青天のヘキレキでした。友人によると、「知らんやつと手を繋いでキャンパスを歩いていた」とのこと。僕は気にしませんでした。きっとクラブの男の子だろう・・・と。彼女は可愛いので手も繋がれるよな〜、彼女は優しい子なので断りきれなかったのだろう・・・と。家内だって、40代になっても仕事仲間との会合終わりに、同業者に手を繋がれて歩いたなんてことや、電車でナンパされたりしていました。美人さんの税金のようなものです。その辺は、僕は寛容です。
クリスマス前に神戸でデートした時、気に入ったカフェでのクリスマスランチ・チケットを購入しました。ところが、イブの前日、彼女から電話が入り、「クリスマスイブデートに行けなくなった」と。僕を傷つけたくないので、それ以上言わず「ごめんなさい」とだけでした。手元に残った2人分のチケットが無駄になっちゃいました。僕は何も彼女を責めず、「そうか、残念だけど、わかった」とだけ答え、キャンセルの理由を問うと彼女を苦しめると思い納得しました。好きな彼女を苦しめたくなかったから。こういうのは男がチャレンジし、女性に選択権があるように思っています。
彼女とデートする予定だったクリスマスイブの日、女々しい僕は、彼女との待ち合わせ場所に必要なくなったチケットを持って向かいました。来るはずもない彼女を4時間も待ちましたが、雪が降ってきたのでしょんぼりしながら帰ることにしました。
それ以降も、同じゼミだったので今まで通り勉強し、卒業式の日、最後の彼女との時間を持ちました。僕には既に結婚を決めた別の学部の彼女がおり、その彼女と婚約したことを話しました。彼女も僕の次に付き合ったボーリング部の1年先輩と婚約したようで、大学卒業後すぐ結婚し、彼の住む東京に向かうとのこと。
モデルばりの素晴らしいプロポーションを持った彼女は、いくらでも声を掛けられただろう。彼女の性格も素晴らしい。同じゼミだったので、卒業後も会う機会があったのですが、何故か彼女の住所がゼミ名簿から卒業10年後ぐらいに消えました。風のうわさで、離婚したと聞いたことがありますが、確かめていませんし、ゼミ同級生からの単なる噂なので信じていません。ゼミ同期幹事から、「彼女の居場所知らない?」と名簿整理のタイミングで連絡があったこともあります。
今どうしているのだろう?彼女の実家には別の表札が下がっています。ご両親は亡くなっていても跡取りのお兄さんがいたので実家が残っていてもいいのに・・・。大阪大に通っておられたので、ご両親を連れて東京に移住されたのかな?今でもたまに思い出すと、彼女が不幸な人生を歩んでいないことを願っています。


思い出の女の子4
大学2回生のクリスマスイブ、1回生の春から人生で初めてつきあった彼女に振られました。僕は異性、いや人との関係で、不仲になっても嫌なことを言われても振られても、それに対して過剰反応はせず、淡々と「ああ、そうなんだ」と考える行動する質です。恨み言など言わず、笑顔でサヨナラし、自分の中で何が悪かったのか振り返り反省し、次の機会に生かそうとしてきました。
あのクリスマスイブ、待ち合わせ場所に来ないと分かっていながら4時間も待ち、雪が降ってきたのを機に帰りました。それ以降も学校で会うし、ゼミで話すし、良い関係を続け、卒業の日に今後のことを話し会うことはなくなりました。
無事3回生に進学し、夏休みのある日、知らない女の子から電話がありました。「誰かわかる?」「・・・」。「Aくんと付き合ってるの」と、中学からの友達の名前が出ました。「彼に電話番号を聞いて電話したの、会ってくれませんか?」「・・・、いいけど・・・」。なんの話かな?Aくんの彼女なんて、顔も浮かばないし、僕に何の用だろう。
ヨット部のオフ日に会うことに決め、暑いので「プールに泳ぎに行こうと思ってたけど、どう?」と誘うと、なんとOK。学生時代の夏休みは、ヨットのシーズンでもあり殆どヨット部で練習していました。オフの日は、市民プールか図書館で勉強するのが定番です。クラブは合宿が多く、合宿日でも練習・ミーティング・風呂以外のちょっとした空き時間を見つけ勉強しないと単位が取れません。
まさか初対面の男の子と半裸のプールに行くのにOKするとは思いませんでした。阪急西宮北口駅前で待っていると、「こんにちは」と明るい笑顔でやってきたのは、これまた中学からの友達Bの彼女さん。「あれ〜、確かBくんの彼女だよね」「Bくんとは別れて、今Aくんと付き合ってるの?」・・・驚きました。確かに高校時代、元カレのBくんの彼女として会ったことがあります。
高校時代、Bくんのバンドに誘われたことがあります。Bくんのバンドが解散し、新しいバンド結成すべくAくんとCくんがギター担当としてバンドに入り、僕はドラマーとして誘われました。僕は小学生までピアノを習い、中学に入りギターを少ししたけど、ドラムなんて触った程度です。高校もヨット部だったので、バンドの練習は日曜日なので、練習とバッティングするので参加しませんでした。でも、親が持ってた山の家を練習場所として無料で貸していました。ロックバンドなので音が大きく、スタジオを借りるお金など高校生にあるはずがありません。そんな関係で、Bくんの彼女として話したことはありました。
彼女を車に乗せました。以前同様明るく、気持ちの良いお喋りですぐに馴染みました。身長が155cmないので可愛くリスみたいで、誰にでも好かれるタイプです。彼女の通っていた女子校から系列の女子大に進学したそうです。話が面白く、甲子園の阪神パークプールに着きました。市民プールは家族連れが多く、カップルは目立つし、須磨海岸か迷ったけど、甲子園にしました。
着替えて待っていると、大胆なビキニの水着で出てきました。小柄でバストはお淑やかですがウエストからお尻の線が綺麗で、ドキリとしちゃいました。大学生男子には刺激的です。目のやり場に困るし、当方の自然な成り行きがバレるとアレなので、すぐにプールに入りました。僕の海水パンツは、ヨットに乗る時使うピッチリした競泳用です。
いつもの市民プールの家族連れ大半と大違いで、若い女性も多くカップルも多い。あちらを見てもこちらも見ても刺激的な妙齢の女子の水着姿だし、彼女は僕にくっついてくるし、僕の膨張がどうしようもありません。それを見つけ、彼女はキャッキャ笑っています。流れるプールがあったり、造波プールで「溺れる〜」と抱きついて来たり自由奔放です。こいつ、あざとい!でも、彼女のいない僕も楽しみました。
お付き合いして既にプロポーズも受けてるAくんはバイトに忙しく、車を持ってる僕を紹介してもらい、AくんのOKを貰って僕との友達デートを楽しんでいるようです。あれやこれやを教えてもらい、こういうの平気なんだな〜と、新しい世界でした。
新しい世界といえば、当時はディスコが大流行で、運動部をやっていない友達はよく行っていました。そこに来ている女の子と付き合って結婚した奴もいます。クリスマスシーズンになると、ダンスパーティーが大流行で、大学のキャンパスを歩いていると、ダンパのパンフレットをよく貰いました。僕はディスコには行ったことないけど、ダンパには行ったことがあります。アルコールに弱いし、基本的に早寝早起きなので夜が苦手で、好きになれない世界でした。
プールの帰り、「2人だけのところに行きたいな〜」とか意味深なことを言ってきて、メチャ積極的でした。それ以降、何度も電話をもらい、あちこちドライブデートしました。三宮のセンター街大通りで、「ねえキスして」なんて言われご要望に応えたこともあります。何だか彼女のスカート薄いな〜と思い聞いたら、「スカートの裏地外したの」だって。裏地のない薄い生地のスカートなので、じっと見るとシースルーです。嵐山の保津川沿いで座っていた時、手漕ぎボートが何隻も、乗る人が前を通る時こちらを凝視していたこと。よく見たら、石に座ったミニスカートから綺麗な御足が・・・その内側も見えているんじゃ・・・彼女はそれに気づいていますが平気です。「映画、一緒に観に行って」と連れて行かれたのが、「エマニュエル夫人」。「私一人じゃ観に行けないから」とのことで・・・映画館で見ていると、彼女の手が僕の手に伸び、僕の手を彼女の太ももに導く・・・日本人離れした積極性をお持ちです。
それ以外にもあれやこれや。彼女は僕を次の彼氏と思っていたのかもしれませんが、僕にはAくんの彼女という位置づけでした。「ねえ、私Aくんと別れてもいいよ」なんて言い出して、「こりゃあかん」と思うようになりました。
秋になり、次の彼女が出来、彼女とは会わないようにしました。これが、先輩が言ってた「体を張って結婚相手をゲットしに来る女性」なんだと実体験しました。彼女はAくんから許可を得て僕の連絡先を知ったのだから喋っているのかもしれないけど、僕とAくんで彼女の話をすることはその後もありませんでした。
僕が結婚したのは大学学部卒業2年後で、同じ時期にAくんと彼女も結婚しました。式にも披露宴にも出席し祝福しました。その後も、毎年年賀状をやり取りしてるし、数人の仲間との同窓会を大学卒業後もしてるけど。その同窓会にAくんの奥さんとして毎回彼女もやってきます。でも大学時代の僕とのことは喋らず、大人の対応をしています。相変わらず彼女は明るくリスのようにこまめに動き、アルコールを飲まない僕のために色々気を使ってくれます。
今では2人の子持ちで孫もいます。Aくんは生命保険会社に就職し、売上No1など実績を上げ出世コースに乗っていました。数度の転勤後、関東方面に移ったのを機に、このグループの集まりはなくなりました。年賀状のやり取りは続けているが、Aくんからの「またみんなで会おうよ」の誘いに乗らないようになりました。必ず彼女が来て気まずいから。
3年毎に全国の支店の店長として転勤し、保険のおばちゃんの派閥コントロールが大変らしく、給料半分で他の会社に転職しました。将来の社長として転職し、その後社長になりナノ技術で業績を伸ばしました。娘の旦那さんをA君が雇われ社長をしていた会社に就職させ、今は社長職を譲っています。
昨年、Aくんと僕がいる高校同期の4人グループでAくん・Bくんのバンド仲間の1人Cくんが亡くなりました。それを知って僕は家内とCくんの実家を訪問しました。家内は、大学時代Cくんと同じ学部で、同じゼミでした。卒業の日、ゼミの教授を囲んだ謝恩会に、僕が家内を迎えに行った時、Cくんが「あれ、なんで」と驚いていました。
中学高校大学時代、Cくんの家に何度か訪問したことがあり、お母さんにも妹さんにも良くしてもらいました。Cくんは読売TVに就職し良い給料を貰っていましたが独身でした。ピアノが上手だった妹さんも、まだ独身だそうです。妹さんは関西女子No1偏差値の中学に入学したのに、大学卒業後ピアノでヨーロッパに留学したりしていました。今はスポーツ会社に就職し、お線香上げにC君宅を訪問した時は、スキー指導者として冬山に籠もっていました。
僕ら夫婦でCくん宅を訪問してからA・Cくん共通の仲間Dくんに、Cくんの死を伝えました。「Aくんにも伝えといて」と言付けて。DくんはAくんに連絡し、Aくんの奥さんと3人で、C君宅を訪問したそうです。Dくんによると、Aくんも奥さんも、「またお前に会いたい」と言ってたとのこと。
僕の嫁さんも彼女に一度だけ会ったことがあります。そして彼女から頂いたラブレター数通が、僕の思い出トランクに入れてあります。家内が同一人物と気づいたら、ヤキモチを焼くかもしれません。結婚してから数年後、家内に僕のアルバムに入ってる大学1回生から2年弱付き合ってた彼女のことを聞かれ、質問されるまま答えたら、思いっきり不機嫌になりました。「怒らないから」と言ってたのに、ヤキモチ焼いて怒っているのは明らかで、女子をまた学びました。
彼女との体験をして、男を手球に取る女性のニュースが出るたび、「男を喜ばすツボを心得ている人なんだろうな〜」「自然に男を惹き付ける行動が出来る人なんだろうな〜」と想像するようになりました。水商売の女性はこういうのが上手なんだろうと思います。幸い僕はアルコールがダメなので良いですが、僕のような甘ちゃんはすぐに魅力に落ちてしまいそうです。


思い出の女の子5
大学3回生の秋、同じ大学で別の学部の女の子と知り合いました。心理学系の勉強がしたくて取った一般教養です。クラブで抜けた授業があったので、斜め後ろの席に座っていた2人組の女の子に「ノート貸して」と声をかけました。親切に貸してくれたので、ノートを映しながら教科書を読んで勉強し、数日後のタイミングでノートを返しました。
大学のカフェで話をすると、僕と同じスキー好き女子でした。ヨット部のスキーツアーを紹介し、来てくれることになりました。彼女は下宿生で、僕が毎日トレーニングをしていることに興味を覚えたようで、「じゃあ一緒にする?」と誘い、毎朝彼女の下宿に迎えに行く生活が始まりました。
ヨットは風をコントロールして進むので、アメリカンフットボールやラグビーのようには頑丈な身体が必要ではありません。サッカーのようにか脚力ではありません。でも俊敏性と持久力が必要で、毎朝走っていました。当時僕は実家の近くの父親の仕事場の2Fに一室に住んでいました。食事や風呂は実家で、寝る時だけ一人暮らしをしていました。植木屋のバイトで貰ったソファーなどを持ち込んで、それなりに楽しい生活をしていました。
彼女を下宿に迎えに行き、1人住まいに連れてきて、近所を走り、自分で考えたスクワッドや腕立て伏せなどの基本動作トレーニングをして、彼女と学校まで一緒に行きます。こういう関係の彼女は初めてなので新鮮でしたが、冬のスキーシーズンまでに関係が終わっちゃいました。
母親と一緒に絵画展を観に行ったりして母親は気に入っているようでしたが、人生で初めて唯一女の子を振っちゃいました。最初に違和感を感じたのは、一緒に映画館で映画を観ている時横で寝てしまったことです。車の助手席で寝るのは、むしろ僕に安心してくれていると感じ好印象なのですが、映画で寝てしまわれると、その後映画の感想を交換する事もできず残念です。新しく買った真っ赤なハイヒールが側溝の上の網目に挟まった時、「せっかく買ったのに〜」とかなんだかんだずっと文句を言うことも気になりました。
そして決定的だったのは、僕の知り合いの家がやってたカフェで、「タバコ吸ってもいい?」と聞かれたことです。僕は、お嫁さん候補でないと付き合いません。だからすぐに彼女の家を訪問して親兄弟との相性を感じに行くし、家につれてきて母親との相性もみます。
「ああ良いよ」と彼女がタバコを吸うのを見ていましたが、「この娘はタバコを吸うんだ」とガッカリしました。当時は今よりずっとタバコを吸う人が多く、F1やボクシングなどのスポーツイベントのスポンサーにたばこ会社が多く入っていました。大人の男性の殆どはタバコを吸い(多分80%ぐらい)、女性の喫煙率が上がる時代でした。カフェに入ると各テーブルに灰皿が置いてあるのは当たり前で、喫煙スペースなんて特になく、カフェのあちこちで紫煙が上がっている時代でした。
僕の父親もタバコを吸い、タバコはごく普通の存在でした。彼女も最先端の女性を真似したのか、細いオシャレなタバコを吸っていました。友人の多くがタバコを吸い、僕も高校生の時タバコをは吸ったことがあります。でも好きにはなれませんでした。人生トータルで10本ほど吸っただけです。
ヨット競技の本をいろいろ読んだ中に、ポールエルブストロームというデンマークの「ヨットの神様」と言われるような選手の書いた本がありました。オリンピックで4つの金メダルを、いろんな艇種で取りました。年1回の世界選手権で、銅メダル以上を20個も獲得しています。1948年のロンドンオリンピック金メダルに始まり、最後が1985年の世界選手権銅メダル。孫娘さんと組んで世界選手権に出たこともあります。その本の冒頭に、「肺活量を落とすタバコは吸うな」と書かれており、それを読んで以来吸っていません。
自分の嫁さんがタバコ吸いだと、子供にその影響がありそうで嫌でした。彼女のタバコを吸う姿を見ながら、もうお付き合いは止めようと決めました。僕の口数が少なくなったのを感じたのか、彼女はタバコを吸うのを止めました。多く吸う方ではなかったのでしょう、タバコのニオイを感じることはなかったのに、僕に慣れるとともに地を出してきた感じがして残念でした。僕は、「・・するな」と強制するのは好きではありません。僕がそう言われたら嫌だから。それぞれの人が好きなように生き、その波長が合うのが互いにストレス無く長続きすると思っています。
カフェを出て、そのまま彼女を家に送りバイバイしました。それ以来、彼女をデートに誘うのを止めました。彼女は僕からの誘いがないので、共通の友達を通じて僕に連絡してきました。「彼女とどうなってるの?彼女寂しがってたぞ」と。彼が彼女のバイトしてる大学正門前のカフェに行った時、僕の気持ちを探ってきて、「会いたい」と友達に伝えたようです。直接僕に連絡してもなかったので、後ろめたさがあったのでしょう。
彼女は徳島県の特定郵便局を経営している家のお嬢さんで、大阪の辻調理師学校に通って料理上手でした。大学卒業後も辻さんに就職し、料理の先生をしたようです。僕は秋の全日本で8位になり、ナショナルチームに選ばれ、モスクワオリンピック日本代表を狙う選手たちの仲間入りをしました。そんなこんなで忙しく、彼女への気持ちも冷めてしまったので、連絡を全然していませんでした。
まだ数ヶ月の付き合いだったのでフェードアウトしたらいいな〜と思っていましたが、これはちゃんと話さなければと思い、彼女に電話し会いました。彼女の下宿に迎えに行き、六甲山の六甲山ホテルのカフェに行きました。
素直に「僕はお嫁さん候補として見ており、タバコを吸う人はどうも」と別れを告げました。彼女はやはり多く吸う人ではなく、「もう吸わないから付き合って」と言われましたが、僕の気持ちは動きませんでした。別の学部ということもあり、それ以来2〜3度キャンパスで見かけただけで、縁が切れました。


思い出の女の子6
そんなこんなで大学生活が過ぎ、ヨット部大先輩から言われた「大学時代に嫁さんを見つけておけ」は実現できないのかな〜と、4回生の夏になりました。ヨット部活動は、2回生でインカレ団体戦総合優勝し、3回生秋の全日本選手権で8位に入り、ナショナルチーム入りしました。4回生の秋に、世界選手権が浜名湖で行われ、各国最大3チーム(2人乗り6人)が参加するのですが、日本は開催地枠で枠が6に広がっています。大学ヨット部での活動で学生のレースにも出場しますが、ナショナルチーム強化合宿(江ノ島)にも参加するヨット活動をしていました。結局7位で世界選手権には出場できませんでした。
学業の方は、幸い順調に単位を取り、4回生ではゼミの単位を取れば学部卒業出来るので、その他興味のある授業は受けていますが、ヨット活動に重点を移しても大丈夫でした。結局は学部卒業後、また別の学校に入学し数年間学業を続け別の資格を取るのですが、夏休みお盆に全日本インカレが終わり、後は国体出場だけになったので、夏休みの後半、卒業後の仕事に役立てるべく、資格を取る講習会に参加しました。そこで一緒になったのが彼女です。
「あ、あの娘は・・・」・・・大学1回生の時の昼休み、ヨット部のトレーニングの集合場所は学生会館入口でした。30分ほど部員全員でトレーニングし、その後昼食して午後の授業に出るスケジュールで動いていました。脳内ピンクの男子学生の常で、学生会館奥にある学生食堂に食べに来る女の子の品定めが始まります。「あの娘、スタイル良いな〜」「別嬪さんやわ」と、優・良・可・不可の4段階評価を付けていきます。もちろん、それぞれ好みが違うのでバラバラですが、それほど大きく違うことはありません。
いつも決まった時間にやってくる女子3人組がいました。髪が超ロングでお尻まで届く娘と、腰上までの娘がいるので、目立ちました。もうひとりは背中までストレートのロング。僕は腰上までの娘が気に入り、「マル優」評価を付けました。この3人を知ってる奴がヨット部同期におり、僕とは違う彼の学部の同じ1回生だとのこと。「あの娘、可愛いやろ〜。うちの学部のミスNo1やね。でも同学年の奴と付き合ってるよ」と言われていた娘です。
その1年後、3人組の髪が背中までの娘がヨット部マネージャーとして入部して来ました。同じ学年ですが1浪してるお姉さんで、僕が2回生のクリスマスイブに失恋したことを話すと、その娘から「女の子紹介してあげようか?同じクラスに綺麗な子がいるよ」と言われたことがあります。後で分かったことですが、この時紹介してくれようとした娘が、まさにこの4回生の夏の講習会で会った娘でした。あの時紹介してもらっていれば、僕の学生生活は別のものになっていたでしょう。
女の子が「綺麗な子」や「良い子」というのは信用できません。男だってそうですが、「良い奴」は外見より性格にウェートが乗るから。
講習会は朝から夕方まで2週間で、資格本試験は翌年3月の年1回のみ。ここからまた別の勉強を始めました。講習会が3〜4日過ぎた頃、「昼休み、一緒に食べない」と彼女を誘いました。神戸のジャズ喫茶でジャズを聞きながらお昼を取りました。それから毎日一緒に昼食するようになり、講習も並んで受けるようになり、いろいろ話しました。
僕は彼女が同じ大学の娘と知っていますが、彼女は僕のことを全く知りません。学生会館で1回生の時見つけていたことなどを言うと引かれるかな〜と思い、僕も初対面にフリしていろいろ話しました。
「学生さん?」・・・「何処の大学?」・・・「僕と同じだ」・・・同じ大学と知り、一気に僕に心を開いてくれるようになり、「僕の学部も女の子は英語クラスで3人ぐらいだけで、そっちもそうだよね」なんて話を振ると、「私のクラスも3人なんだ」と返答。「昼休み、学生会館でお昼食べてなかった?」と振り・・・「やっぱり、あの髪の長い子は覚えている」と。
超ロングの娘は、神戸に住んでおり、同じ学部の同じ学年の子と付き合ってることを知りました。この相手が、なんと僕と中高が一緒の友達でした。
講習終了後、超ロングのこの家に行くことになってると聞き、「僕も一緒に行ったらダメ?」と聞くと、OKでした。並んで歩いていると、渡ろうとした横断歩道の信号が点滅になりました。「急ごう」と、彼女の手を掴んで走り出しました。「えっ」と言ったまま、僕に引っ張られ向こうに渡り切りました。手を離されると思っていましたが、そのまま手を繋いだまま、超ロングのこの家を訪問しました。
お母さんが美容師さんで、美容院から結婚式場経営まで拡張したやり手女性経営者さんでした。その後、葬儀会館にも業務拡張し、僕の両親のお葬式はその葬儀会館で行いました。僕の友達とそのまま結婚し、彼女の苗字は彼の苗字に変わったけど、彼は次男だったので入婿のようになり、今はその葬儀屋さんの社長さんです。
超ロングの彼女はお喋り好きで、話が盛り上がりました。中ロングの彼女は聞き上手タイプで、ニコニコ聞いているのが好きなようです。
僕の母親は、「超」の付くお喋りさんで、僕が話し出すとすぐに話しを被せてくれので、お喋りさんはあまり好きではありません。僕はお喋りさんがいると相槌を打つ程度ですが、そうでなければお喋りをリードします。もともと僕は無口でしたが、ヨット部で鍛えられました。高校でも大学でも、学年が上がるとすぐに役職が付き、部員をまとめるために喋らざる終えません。大学ヨット部では、OBの大先輩との交流もあるので、敬語も鍛えられました。突然スピーチを頼まれても、なんとかこなせるようになりました。
そんなこんなで、彼女といるととても快適で、今まで付き合った方の中でダントツに気に入りました。「付き合ってる人いるの?」と聞くと、「いるよ、1回生の時から付き合ってる同じ学部の方だけど、自然消滅になるかも・・・」なんて言うので、俄然希望が出てきました。ここは押しの一手です。
この講習が終わる2週間後には、「この娘と結婚する」と決めちゃいました。最終日、車で講習に向かい、最後の授業を終えて、彼女を車に乗せ、彼女の家まで送りました。彼女の家が近づいた頃、「良い所に連れて行ってあげようか?」と微笑み、道を指示され着いたのが、なんと結婚式場「大和殿」。「なんと積極的な」と思いながら入る。暫く何故ここに連れてこられたのかわからずにいると、彼女が「横の壁を見上げて」と言われ従うと、そこには鮮やかな色彩の和装の花嫁さん。
「え、これって」、彼女が2Fの吹き抜けまで拡大された姿で微笑んでいました。「私だよ。お茶の先生に推薦されて、結婚式場のモデルになったの。播磨一円の大和殿に私がいるの」、これにはたまげました。家内はスリムで首が長く、着物がとても似合います。
それから大和殿は業容を広げ、結婚後TVCMするようになり、そのモデルが水着姿の藤原紀香さんでした。彼女よりずっと背が高くグラマーな紀香さんは、水着がお似合いでした。そのCMが始まると、家内に「後輩が出てるよ」なんて言っていました。
ご両親がおられ、「夕食を食べていけ」ということになり、僕のためにお肉をいっぱい用意してくれており、焼き肉をご馳走になりました。家内はいつ電話したのだろう。それ以前に、僕のことを親に話していたのだろうと、「気に入ってくれているのかな?」と、嬉しくなりました。
お父さんは元陸軍の士官学校を卒業した職業軍人で、地元部隊を率い支那大陸を転戦していた眼光鋭い方でした。戦国時代から武士の家系で、数年前の大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場した播磨の城の重鎮が先祖です。お父さんの名前が部隊の名前に冠された最強部隊で、日中事変以降、地元新聞にその部隊の転戦が何度も載るほどの方でした。
お母さんの実家は姫路の篤志家で、戦時中は市内にうろつく両親を失った孤児を引き取り、何十人も育て上げ、女の子はお嫁に出し、男の子は自分の商売の社員として独り立ちさせた地元の名士です。お母さんのお父さんは、戦後1年後その部隊がシベリア抑留から帰ってくる記事を新聞で見つけ、中学校の先生をしていたお母さんと見合いさせたそうです。お父さんは、僕が伺った当時は地元商工会議所と業界の全国理事をして飛び回っており、お母さんが実質社長として商売を切り盛りしていました。うちの両親もお見合い結婚で、そういう時代でした。
彼女とデートする度に家まで送り、泊めてもらうようになりました。お風呂を頂戴し客間に寝ていると、家族で最後のお風呂から上がった彼女がネグリジェスタイルで客間にやってきて、「もう寝た?」。寝ていたけど飛び起き、「いいや」。
電気を点けると、顔を隠し伏せ、「明るくしないで、お化粧してないから」と豆電球の明るさに落とし、あれやこれや。お茶お華を小学校からやってる着物の似合うスレンダーな娘です。月に2回は泊めてもらい、毎晩これが続きました。両親がいる家で積極的。僕の家でこれが出来るだろうか?・・・無理だね。ご両親にも公認になったようです。
ドライブデートで、彼女の親戚「お母さんの姫路の実家」「お母さんの兄弟の家2件」を訪問し、親戚の雰囲気を感じました。お母さんは長女で、僕の母同様終戦直後に理系大学に入るような才媛で、お爺さんからは「この娘が男なら」と残念がらせた方です。姫路のお母さんの実家では、まだお婆さんが健在で、神道系宗教の教祖さんをしていました。このお婆さんが、戦後、遺児になった浮浪児を姫路の町から連れてきて、この道場に住まわせ育てていったそうです。
僕の母親は、自分と比べて僕の学業成績は小学校のクラスで1番程度なので、ことあるごとに僕を攻めますが、彼女のお母さんは温和で、僕にも優しく接してくださいます。「娘が好きになり連れてきた人だから、きっと良い人で良い縁だ」と、娘を信じていることがわかります。
彼女は親に叱られた事がないと知り、僕はますます気に入りました。ヨット部の先輩から1回生の時教えて貰った「女の子は母親に似るから、気に入った娘がいたら家にお邪魔し、母親と話せ。その母親は25年後の彼女の姿だから、その母親が気に入ったら、その娘はいいぞ」にぴったりです。親戚の方も良い方ばかりで、僕を気に入ってくれたようで、「姪のボーイフレンドがやって来るとは思わなかったわ。その青年はいいね」と後押ししてくれたようで、外堀が埋まっていきました。
2ヶ月後には彼女にプロポーズ「僕と結婚してくれない」し、「いいよ」と即答で返事をもらいました。ドラマのプロポーズシーンで、彼女が驚き、彼が「返事は急がないから」なんてセリフを口にするがありますが、即答でOK返ってこなかったらNOだろうと思います。ある程度付き合ったら、女性は将来のことを男以上に考えるものと思っています。
その時は、彼女のような引く手あまたの美人さんに即効でOK貰って有頂天でした。結婚して10年ぐらいしてから、大学を卒業したらお母さんの跡を継ぎ地元に引っ込む人生になり、お見合い結婚すると思っていたようで、僕と縁が出来て嬉しかったと言われました。
彼女の家は2人姉妹でお姉さんがいます。京都の大学に通い、卒業後は実家を継ぐ予定でしたが、下宿に転がり込んできた同級生で同じクラブの男性と縁が出来、実家を継がずお嫁に行くことになっていました。縁のあった男性は、大学4回生の時に国立医学部を受験し、卒業してすぐ再び大学1回生になりました。
彼女より4つ年上なので、僕が彼女と知り合った時は医学部の4回生。浜松の大学に通っており、生まれた長女を抱えながら、大学で取った資格を使ってお姉さんが働き、お兄さんの勉強を支えました。医学部なのでバイトする時間さえありません。国立大学なので、授業料は年間3万円だったけど、お姉さんの給料では一家を支えきれず、裕福でないお兄さんの実家に代わって彼女の実家が仕送りし、毎月日曜品などを送っていました。
その定期便に僕が参加しました。毎月浜松まで彼女を助手席に乗せ、後ろに日用品を乗せドライブデートしました。お姉さんもお母さんに似て、満面の笑みで僕を迎えてくれ、質素なアパート暮らしですが、家庭がとても明るく気に入りました。お兄さんも医学生ですが、偉そうなところは全く無く、これは今でも一緒です。
お兄さんは神戸大学の医局に就職し、家内の実家のお父さんの口利きで、家内の実家の近所に土地を確保し、小児科を開業しました。僕が跡取り娘を引き抜いたので、彼女の実家の面倒は、お姉さん夫婦が見てご両親の人生を最後まで見送りました。
彼女を我が家に連れてきた時の母親の第一声が、「フランス人形みたい」でした。彼女は、僕が今まで会った女性の中でダントツにお肌が綺麗で、シミ・そばかす一つなく、色白なのでまさにフランス人形でした。僕も最初に見た時はハーフだと思ったので、講習で再会後しばらくして、「ハーフなの?」って聞いちゃいました。
純粋な日本人で、母の好きな竹下夢二の描く絵のような女性でした。スマートで首が長く、お茶お華で着物を着るのに慣れているのでまさに竹久夢二のモデルさんです。弟の結婚の時、お嫁さんの実家に両親とともに伺った時、お嫁さんのお母さんが家内を見て、「モデルさんのようにお綺麗」と褒めてもらいました。
僕は、ヨット部の資金稼ぎとして毎年行っていたスキーバスツアーでノウハウを積み、3回生の秋、他大学の友人を含め4人で会社を作りました。社長は数歳上脱サラさんで、その初シーズンのスキーツアーに彼女を誘いました。
僕はランキング7位という次点で惜しくも世界選手権出場を逃しました。ヤマハの社会人チームに誘われましたが、「午前中仕事して、午後はずっとヨットで練習」という生活に魅力を感じることが出来ず、レーシングヨットは大学までと決めました。
スキーパンフレット配りなどで大阪・京都の女子大を訪問し、正門で女の子達に声を掛けまくっていました。彼女もスキーツアーに誘いましたが、「行きたいけど、お父さんが許してくれないから行けないわ」とのこと。事情を聞くと、お父さんが厳しく修学旅行以外に外泊したことが1回だけとのことで、ことごとくNGを出されたようです。「じゃあ僕が交渉する」と、クリスマススキーツアーのパンフレットを持ってお父さんを説得しました。じっと話を聞き、彼女に「行きたいんか」と訪ねただけでOKが出ました。
冬は、彼女にとって人生初めてのスキーに連れて行きました。通常なら僕もスタッフですが、彼女の来るツアーだけはスタッフから外れ僕も正規料金を払ってお客さんとして参加しました。この会社は大阪の旅行社の中に設立しました。当時はスキーツアーのはしりで、学生しかやっていませんでした。旅行社にとってはノウハウを学ぶ為に、僕らを使ったようです。旅行社は、専従女子事務社員を1人付けてくれていました。
その会社の倉庫が我が家になりました。我が家のお隣の家が売りに出たので、母親が長男である僕の将来の家として。この家が空いているのでそこが倉庫になり、貸しスキー板・靴がズラリを入りました。オーストラリア?ニュージーランド?からシープスキンを輸入し、コートとして縫製してもらい販売したりもしていました。桑名正博を呼んで、船を貸し切り、大阪湾クルージング&ライブをしたりしました。
お客さんとして家内とツアーを楽しみましたが、スタッフが僕にいろいろどうしようか聞きに来るので、雪上運動会や宿でのパーティーの司会までする羽目になりました。日中は家内をスキー教室に入れ、他の初心者参加者と楽しんでもらいました。昼間も暇になったので、スキー教室のコーチのアシスタントまですることになりました。コーチは僕の大学のスキー同好会の学生で、パンフレットのイラストは芸大の学生、4人の中心スタッフの大学生の友達の輪を駆使しました。
最終日は、家内の参加している初心者クラスのコーチになりました。他のクラスは同好会の上手な学生にお願いしましたが、初心者クラスはスタッフでOKです。僕はSAJ2級クラスだったので、中上級者を教えるほどではありませんが、初心者なら十分です。志賀高原の同じゲレンデで練習していたので、最終日はちょっとお洒落な奥志賀高原に行くことにしました。バスで志賀高原まで移動し、ぐっと少なくなったお客さんのちょっと高級なゲレンデです。家内は、スキーが滑れて、皆の引率をする僕がBFだと、初心者クラスの女の子たちに知られ羨ましがられています。僕はそんないい男でないけど、スキー場で滑れる男の子は数倍いい男に見えます。志賀高原ホテルで休憩したりして、人生で最初のスキーを楽しんでもらいました。
https://www.youtube.com/watch?v=OV44FVdMPDY
彼女とのスキーは年明けに第2段をしました。またパンフレットを持ってお父さんに交渉しOKを得ました。ところが、僕はそのツアーに参加せず、家内と個人で取った白馬乗鞍スキー場に行きました。スタッフに事情を話し、家内の実家から電話があった時の対応も含めて・・・。宿泊は、「白馬アルペンホテル」で最高の時間を持ちました。この時は車ではなく電車で向かいました。人生初の「電車でスキー」で唯一の電車でスキーになりました。付属のチャペルで人前結婚式があり、ホテルからの放送に反応して、家内と参列しました。人前結婚式で、参列者は親兄弟・親しい友人程度で、他はホテルに居合わせた見ず知らずの人。ホテルに居合わせた方々からの祝福が温かく、「こんな結婚式もいいね」と素敵な時間でした。ナイタースキーもしました。ホテル前のゲレンデだけですが、ライトに照らされた綺麗なゲレンデで滑れたので感動していました。ナイターを滑っている人を見ながらの夕食もしました。家内にとっては人生はじめての友達の家以外での宿泊で、とても喜んでくれ、「これからも毎年1回でいいから旅行に連れて行って」と言われました。
そのスキーツアーの帰り、JR最寄り駅ホームで電車を待っていました。雪は止み、気温が上がり、高原からの爽やかな風が吹き降りて来ました。その時頭の中を巡ったメロディーが荒井由実。題名は忘れたけど、「高原を渡る風」とかそのような歌詞でした。
学部卒業の日が来ました。ゼミの謝恩会が学部であり、彼女のゼミは宝塚の教授の家でありました。終わる時間が夕方を過ぎるので、そこから2時間半かかる彼女の門限に間に合いません。出席をためらっているので、僕が車で送ることにして最後の日を楽しんでもらいました。教授の家の前で車で待っていると、ゼミ生がズラズラ出てきました。僕と中高で同級生のSくんが先に僕を見つけ、「何でここにいるの?」「彼女を迎えに」・・・車に乗せて彼女を家に送りました。
僕は大阪に本社のある会社に就職し、家内は実家で学生時代同様働きます。何故か新入社員代表に選ばれ、入社式でスピーチしました。まだ「一緒にいれる」と思っていましたが、研修を終えて辞令をもらった最初の勤務先が東京になってしまいました。そのことを彼女に話すと、「東京に行ったら綺麗な人が沢山いるから、私のことは忘れてもいいよ」と涙を流しながら・・・。これには胸を打たれました。
彼女も僕同様、自分の思い通りにならなくても、文句を言わず運命をそのまま受け入れるタイプです。もちろん僕はそんな気持ちは微塵もなく、「毎月帰ってくるから、電話もする」と彼女を慰めました。
僕が東京に発つ日、彼女が新幹線新大阪駅まで送ってくれました。大阪駅で待ち合わせ、そこからどちらからも言葉がない別れの日でした。新幹線ホームで、彼女の涙が頬を濡らしました。彼女が「さようなら」と僕の腕から組んでいた腕を解きました・・・「電話するから」「毎月帰ってくるから」と出来ている約束を繰り返しますが、涙が収まらない。ギュッと抱きしめ、おでこにキスして、我慢できずに唇を重ね、バイバイと手を振り新幹線に乗り込みました。指定席に着くと窓の外には彼女がいます。やがて新幹線が動き出し、彼女も少し歩きましたが、窓の外から姿が消えました。女性の涙が最強なのを知りました。隣の席の男性が、「兄ちゃん、見ていたよ」と僕から事情を聞いて慰めて下さいました。
https://www.youtube.com/watch?v=vqocw6y1z6I
僕のこの日は終わりましたが、彼女のこの日はまだ続きました。僕らを映していた方がいました。「JR東海のクリスマスエキスプレス」という一連のCMをご存知でしょうか?山下達郎の「クリスマスイブ」をバックに、新幹線ホームでのカップルの様子が映される素敵なCMです。これ以前に「シンデレラエキスプレス」という同じJR東海のCMがあり、このバックは松任谷由実でした。
https://www.youtube.com/watch?v=nMVi5Lz5OSo
https://www.youtube.com/watch?v=VmfSBH1XTJQ
これより前に、CMではなく番組としてショートストーリーが流されていたのをご存知でしょうか?新大阪駅東京行き最終列車を見送るホームでのカップルでの別れのシーンを流していました。このような番組になる前関西ローカルで、単発的に新大阪新幹線のホームでのカップルの映像がショートストーリーとともに流されていました。その番組に、僕らカップルが撮られていました。彼女は、僕と別れた後その番組のディレクターに声を掛けられ、番組のことを聞かされ、TVで流す承諾をしたそうです。インタビューを帰る電車内で延々され、番組になりました。彼女は、ただ悲しくて何も考えられず、聞かれるまま答えたそうです。数日後の電話でそのことを聞かされ、僕も承諾しました。美人さんは絵になるので、いろいろあります。
僕は会社の寮に入居し働き始めました。週2〜3回彼女に電話しました。寮には無料の電話がありましたが、僕があまりに長距離電話するので、半年後10円玉を入れる公衆電話になっちゃいました。「お前な〜」と先輩方に笑いながら文句を言われました。
隔月で僕が関西に帰り、彼女が東京に来るお付き合いが始まりました。横浜山下公園、レストラン山手のドルフィンにも行った。11月の僕の誕生日に東京にやってきた彼女は、三越百貨店で厚手のセーターを買ってくれた。今でも大切に着ています。そして、1ヶ月ぶりの逢瀬を終えた僕らは、シンデレラエキスプレスで東西に離れて行った。
https://www.youtube.com/watch?v=LZLPVmslZBY
https://www.youtube.com/watch?v=hb8GK-f3b_s
予定では3年でしたが、神様が微笑み、1年後関西に転勤になりました。このタイミングを逃すまいと、結婚の約束から婚約に発展させ、親父とともに結納を彼女の家に持っていき、家具などを揃えて行きました。幸い家はあるので、少々改装し、それに合う日用品を決めました。婚約指輪は、彼女の大学英学部語クラスの結婚式場経営者の娘のコネで、お安く手に入れました。
そして、1年後24才の時結婚式を挙げました。当時の大卒女子の結婚平均年齢は24才でした。家内も25才がお肌の曲がり角なので、それまでに結婚したいと考えていたそうです。相場ギリギリ間に合いました。高卒の女子は22才ぐらいが平均だったと思います。男は27才ぐらいが平均だったと思うので、僕は早めの結婚でした。結婚式は、母校の大学チャペルで挙げました。中学の時の宗教主事の船本牧師先生にお願いしましたが、イースター当日だったので、ご自身の教会でのミサがあり都合が付きませんでした。そこで、中学の小林牧師校長先生にお願いしました。先生の家に2人で伺い、快く引き受けて頂きました。ずっと片思いだった幼稚園の同級生の彼女も招待しました。彼女の結婚式にも参列していました。披露宴も大学構内で出来ますが、宝塚ホテルで披露宴をしました。学校正門前にタクシーを呼んで、披露宴出席者を運びました。披露宴には、家内のお父さん関係の業界関係者が来られたりして、僕ら2人の友人の比率が下がってしまいました。その関係で、友人の結婚式のように楽しい笑いの多い披露宴にはなりませんでしたが、ご祝儀がたくさん集まり、決算するとなんと黒字になってしまいました。「これなら、何度やってもいいな」と家内に話すと、「バカ」と一言でした。
披露宴の後、参列できなかった友人を呼んで披露宴2次会を開きました。その日はホテルで一泊し、翌日市役所に婚姻届を提出してから伊丹空港に向かい、北海道に飛びました。新婚旅行先は富良野スキー場です。スキーツアーをやっていた関係で、他のツアーの余りを寄せ集め、伊丹〜新千歳航空券+新千歳〜富良野列車+富良野プリンスホテルを組み上げ、お安く5日間のスキー場生活を楽しみました。夕食を旭川に食べに出たりもしました。吉永小百合さんご夫婦が同じホテルに泊まっておられました。廊下ですれ違ったタイミングで、「吉永小百合さんですか?」と声を掛け、「新婚旅行で来ています。家内と吉永さんの写真を撮っても良いですか?」とお願いすると心良く受けてくださり「おめでとうございます。お幸せにね」と言ってくださりました。
翌年25才の時長男が生まれ、その3年後に次男が生まれました。僕はどうしても男の子が欲しくて、産み分けの本を数冊買って勉強しました。「女性は野菜を多く食べ、男性は肉を多く」など実践し、基礎体温も毎日付けました。家内は起床後少し寝ぼけるので、体温だけ測ってもらい僕が記録しました。
産み分けのキーは精子の方で、「男性になるY染色体を持った精子は運動力があるけど寿命が短い」「女性になるX染色体を持つ精子は運動がゆっくりだけど寿命が長い」と書いてありました。排卵日に突入すると、足の早いY染色体精子が卵に早くたどり着き受精する可能性が高いということで、その論に従いました。
お見事!何故男の子が良いかと言うと、小1の時の女の子とのおままごと遊びがつまらなかったから。男の子なら、僕の好きな遊びが出来るので。男の子なら僕に命名権があり、女の子なら家内に命名権があると決めました。家内が女の子に付けたかった名前が「愛里・あいり」です。今でもしっかり覚えています。
男の子だったので、僕の名前を一字入れることを条件に、近所の氏宮である天満宮の宮司さんに命名をお願いしました。このお宮の娘さんと同級生で、境内でよく遊びました。
7つほど考えて頂き、この中からなら良い子に育つとのこと。僕の2人の祖母の名前が両方とも入った名前に決めて命名しました。武将のような名前で気に入りました。江戸時代、我が在所の隣町・尼崎市を統治していた殿様の名前と同じです。その息子に僕と同じ名前がいます。昔から相性が良いのでしょう。高野山の武将の墓にも刻まれています。
次男は、長男に名前負けしたら可愛そうだと思い、また同様にお願いし、同じく武将のような名前を命名しました。今度は家内の故郷播州を統治していた姫路城城主の名前に肖りました。徳川幕府の西国への要所を固める山陽道の姫路と山陰道の丹波篠山の殿様も次男と同じ名前です。そして、僕と同じ名前の織田信長軍団の武闘派柴田勝家と並び立っていた森家の頭領の息子も次男と同じ名前。2人とも、戦国時代まで遡れば、僕と同じ名前の武将と親子関係です。最高の命名が出来ました。
家内がモテるのは、結婚してから更に知りました。「電車に乗ってる時声を掛けられた」と何度も報告を受けました。同業者の会合でアルコールが入ると迫ってくる同業者がおり、電車まで道で家内の手を握って離さない人もいます。「キスされちゃった」と報告されたこともありました。僕は不思議とヤキモチの気持ちは生まれず、「まあ仕方ないな〜」「美人の税金みたいなもんだな〜」と笑うだけでした。僕がこうだから、平気で報告して来るのだと思います。
最も難儀だったのが、何度も来るお客さんが、ある日正装して花束持って家内の仕事場に来たことです。プロポーズされました。既婚だと言っても帰らず、他の社員さんも困ったそうです。時々家内の帰りを待ち伏せするようになり、笑い事では済まなくなり、サンデー毎日の親父に毎日迎えに行ってもらうようになりました。
取引先の若い独身のセールスが相談に来るようになり、休日に「相談に乗って下さい」と頼まれた事があり、僕に「どうしよう」と相談に来ました。「素性は分かっているし、変なことしたら会社にバレてクビになるので、行ってきなよ」とOKしました。何かの相談というより単なるデートだったようで、それで満足したのかそれ以上はありませんでした。家内は聞き上手なので、とにかくモテます。
この年令になっても、同業者の会合なのでアシスタント司会をやらされます。中高の時放送部だったので、お昼のDJアナウンスなどは得意です。司会をやらされることもあります。
大学卒業後20年ほどして、家内の元カレが仕事場に電話を掛けてきて、その後仕事場にやってきました。同じゼミだったので、現住所も仕事場も名簿で知っています。僕同様、同じゼミを入ったのでしょう。彼は京都で学習塾を経営し、大手学習塾が京都進出してきた時、数ヶ所の教室をM&Aされ、サラリーマンとして東京に転居するそうで、家内とのお別れに来たそうです。
20年も思ってもらえて女冥利に尽きます。その元カレからも休日デートを申し込まれ、僕は「自分を作ってくれた人なんだから、楽しんでおいで」と送り出したのですが、結局行きませんでした。彼とは、結婚式の打ち合わせで宝塚ホテルに打ち合わせに行った時、偶然出会いました。家内も彼も驚いていました。紹介してもらい、軽く話しました。
ドラマのこういう場面では、彼と元カレがバチバチなんてことになって盛り上がるのですが、元カレがいなければ家内もその分成長していないので、僕にとっては対決する相手ではありません。選ぶのは女性の方です。
家内は予想して通り、「怒らない人」で温和に息子たちを育て、僕も怒らないので親子げんかのない家庭になりました。長男の結婚式で、両家を代表して私が挨拶した後、長男がマイクを取り、「僕は親に一度も叱られたことがありません。でもやらかした日の夜、親父に連れられて祖父母・ご先祖の墓に参るのが怖かった。親父は手をつないでいているし、年に何度も参る墓なのに夜は別格に怖く・・・」なんてことを話し、「両親には、今まで同様僕ら夫婦を見守っていてもらいたい」と言い、最後に参列者にお礼を言いました。
子供を叱らないぐらいだから夫婦喧嘩もなく、未だに夫婦というより友達同士のような会話をしています。毎朝のように家内の朝風呂を出たところを襲い、後ろから抱きついています。なんだかんだ文句言われながら、洋服を着る邪魔をしています。良い人と縁を持ちました。神様に感謝です。
女性のことを、過去の女性との会話やお付き合いで勉強しました。そして家内にたどり着きました。僕ら夫婦の穏やかな関係は、2人の息子にも伝わったようで、家内に似た綺麗なお嫁さんがやってきてくれました。息子たちはお母さんが気に入り、お母さんのような人を探し当てたのでしょう。それぞれに3人・2人の子が生まれ、お嫁さんたちは楽しそうで輝いています。
家内を見てても感じたのですが、30代の女性が最も輝いているように思います。妻として、夫を含め子どもたちの体を作る食生活に責任を持ち、快適な住環境を整えています。精神的にも家族を支え、自分の親と夫の親ともうまく付き合い、子どもたちが地縁血縁から離れないよう気を配っています。男は仕事を頑張るだけですが、生活全般を見ているのは家庭の奥さんでありお母さんです。そんな重要ポジションを日々やりきり、みんなに感謝されています。奥さん・お母さんから笑顔が無くなれば、家族全員が暗くなってしまいます。男は、その笑顔は続くよう頑張れば良いだけです。家庭は奥さん・お母さんで回っているとこの人生で実体験しました。これからも、家内の顔から笑顔が消えないよう頑張ろう。



逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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