-ウェブマスター日記 2022/1-2

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2022/2/27
前日、琵琶湖から帰宅し、PCを開くとLINEにメッセージが入っていました。「突然だけど、明日天気が良さそうなのでクルージングに出ます。一緒に乗りませんか?」と、琵琶湖北湖で活動しているImaさんからでした。前日のヨット装束など一式を片付けず、そのまま倉庫のバイクの上に置いたままにしました。
朝、倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、R171〜中央環状道路〜吹田ICから名神高速に乗りました。8:09「桂川PA」で、「柿の葉寿司鯖3個405円」購入。「京都東IC」で下車し、湖西道路を北上しました。10時集合と言われていたのですが、その前に艤装するだろうと、9時に間に合うように来ました。ハーバーのゲートは開いていましたが、お客さんはゼロです。2月ですから、船に乗る人も少ないですね。
ここに着くまで雨に降られました。名神の天王山トンネルを抜けた京都側で小雨、湖西道路に入って、近江神宮から北でも小雨。フロントスクリーンに雨粒が付く程度で、バイク装束が濡れている感じがありません。カッパはリアボックスにヨット用が入っているので、もっと降れば着てしまえば良いです。
「志賀ヨットハーバー」の屋根のあるPに置こうと思っていましたが、工事をしていて置けませんでした。ちょうど来られたスタッフの方に聞くと、日曜日は工事をしないので、その軒先に置いてOKとのこと。バイクを置いて、ヨット装束に着替えました。ウェットバーに入り、買ってきた柿の葉寿司を食べ始めました。スタッフの男性も入ってきてカウンターに座ります。女性スタッフが温かい珈琲を入れて下さいました。新しい男性スタッフの方は、宝塚に住んでおられたそうです。呼んでもらったImaさんとの接点であるジュニアヨットのことを話すと、僕が伊丹市長に言われて作った溜池でのヨットクラブのことも知っていました。3年前まで乗っていた新西宮のドラゴンフリートのことを話すと、古参スタッフさんがPC検索し、新入りスタッフさんに見せていました。
前日、Imaさんが整備していた船に乗って、オーニングを外し始めているとImaさんがやってきました。ご近所のお友達と、琵琶湖ジュニアのNodさんも一緒です。Nodさんの息子さんがヨーロッパ選手権日本代表になった時、僕がジュニアヨット協会のレース理事だったので、強化合宿など琵琶湖でしました。ジュニアヨットをやっていた次男を介しての古いヨット知り合いです。
ハーバーの西にそびえる比良山は雪を被って白く、そこから吹き降りてくるブローは8〜10m/sほどで、風の強弱の多い日になりそうです。ジブは湖上に出てから出すそうで、クレーンで船を下ろしてもらって桟橋を離れます。Imaさんの船ヤマハ30Sはバッテリー2個で、1つが寿命になったようで新しいバッテリーを繋いでいました。
快調にエンジンがかかり、沖に出ます。「まずはジブセットだな〜」と思っていたら、Imaさんから「メインを上げましょう」とのこと。風位に立ててフルメインにして琵琶湖大橋の方に向かいます。「ジブやめとこか」ってことになり、メインだけで走ります。西風が強いので、メインだけでもしっかり走ります。Imaさんがヘルムスで、僕がメインシートトリマーで、ワインがでてきたり飲みながらお喋りの花が咲きました。まあ僕はアルコールが駄目なのでコーラでしたが・・・。
ヘルムスがNodさんに交代し、Imaさんはドッグハウスに入り、新バッテリーのことやなんやかんやしています。琵琶湖大橋をくぐり南に抜けました。Imaさんによると、この船で琵琶湖大橋をくぐったのは初めてだそうです。
雄琴沖まで南下し、タックして北湖に戻ります。僕がヘルムスになり、Imaさんがメインシートトリマーをしてくれました。往路はアビームでしたが、復路は晴れてきて風の強弱・風向の変化が起き出し、アビーム〜クォーターリーで琵琶湖大橋をくぐり、そのからハーバーに向け、クローズホールドからクローズドリーチで走りました。琵琶湖大橋〜ハーバーまでの半分走った所で、風が無くなりました。北からはブローの帯が近づいていますが、南西からのブローの方が強く、最後はそれを受けてハーバー前へ。メインダウンのタイミングで、ティラーをImaさんに渡し、そちらの作業を手伝います。
船が上がり、解装してウェットバーへ。僕は先にバイクに向かい、バイク装束に着替えてからウェットバーに入りました。また女性スタッフさんが珈琲を入れて下さいました。解散になり、湖西道路で南下し、「京都東IC」から名神に乗りました。16:22「桂川PA」で「チョコモナカジャンボ151円」を購入し、糖分補給しました。
名神〜吹田ICで下車して、中央環状道路〜R171で帰宅しました。前日は吹田ICで混んでいましたが、この日は渋滞なしでした。

帰宅後、自室からノートPCを持ってきて、TV見ながらメモリー増設作業をしました。私のメインPCはデスクトップです。サブの自宅の富士通ノートPCのメモリは4GBです。流石にパフォーマンスがイマイチに感じて来たので、8GBに増設することにしました。4GBメモリを1枚買えば良いかな?と思ったけど、調べたら2GBが2枚刺さっているようで、4GBを2枚買って交換することにしました。
PCの形式などを記録し、近所の「PC工房」に向かいました。きちんと調べてもらい、「DDR3PC3-12800CL11 4GB×1 CFDpanram 1.35V D3N1600PS-L4G PSD3L1600C114GVS」1880円×2+メモリ安心交換買取保証188円×2=4136円購入しました。「メモリ安心保証」は、メモリ本体価格の1割で、メモリとの相性が悪かっても、新しいメモリや別の用品に交換してくれる制度です。
富士通ノートPCを裏返し、バッテリーを外し、メモリーの刺さっている部位のネジを外し蓋を開けました。2GBメモリー2枚を外し、買ってきた4GB2枚を指して完了。電源を入れると、いつものようにPCが立ち上がりました。実装RAMが8GBに増えています。動作も早くなり快適になりました。


2022/2/26
僕がコーチをしている大学ヨット部の練習が先週から始まりました。11月の全日本インカレ団体戦に向けて、新たなシーズンの始まりです。倉庫から、「招き猫CB400SB」を出し、R171を東に走り中央環状道路へ。7:09「エネジェット中環豊中SS」で給油。159km/6.72L=23.7km/L。7:13「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「ゆずれもん500ml93円+味付け海苔辛子明太子140円+味付け海苔ツナマヨネーズ115円=378円」購入。
「吹田IC」から名神高速に乗り、「桂川PA」で休憩。ずっと工事をしていたPA施設が完成していました。大きくはトイレ・売店・レストランの配置は変わっていなかったけど、小綺麗になっていました。トイレ入口の前に扉が出来ていて、トイレ棟と売店・レストラン棟が廊下で繋がっており、外に出ずとも行き来できる配置になっていました。再び走り出し、「京都東IC」で下車し、湖西道路を走り、8時過ぎヨットハーバー着。
久しぶりの部員に挨拶しながら、艇庫に入り、バイク装束からヨットカッパに着替えました。2/23にヨット部卒業式がありました。例年なら京都のホテルで盛大に送り出すのですが、コロナ禍により2年連続のZoom卒業式で盛り上がりや華やかさがイマイチでした。彼らの年代にはほぼ被害ゼロなのに、年寄りに自分を通して感染させない為人の理屈ですが、「こんなことって有り?」って今までとは違う何かおかしなものが裏で動いているように感じ仕方ありません。
9時になり、体操〜出艇前ブリーフィング。初めに僕が指名され、長いシーズンに向けての今すべきことを伝えました。4回生が卒業したとは言え、470・8艇、スナイプ9艇が出艇し練習開始。先週の練習は、毎日良く風が吹き、良い練習になったようです。この日は、三井寺の風で、右からのブローが時々入り、レースならわかりやすい海面です。北の比良山(山頂裏にびわ湖バレイスキー場がある)上部は雪が覆い白くなっています。夏〜秋は水位が下がっていましたが、現在は雪解け水が入っているのか水位はプラスになっています。
4〜10m/sまで風の強弱がある海面で、チューニングを小まめに変更出来ていない艇があるのが気になりました。ジブリーチの開き具合、ジブリーダーのチューニング、カニンガムの入れ具合、バングの入れ具合など、気づいたことを都度マイクで練習艇に伝えました。
練習後半はマークを打ってラウンディングマーク練習で、12時にハーバーバックしました。レスキューボートのトイレが使えなくなったとのことで、「トイレットペーパーを流さない事が大事」と再度伝えました。去年マネさんに伝えたこと(エチケット袋・ボックス)は購入されているのですが、レスキューリーダーが「やっぱりトイレに流したい」と実行を却下してしまったようで、実行されていませんでした。当然、トイレに流したいのは当たり前ですが、自宅のトイレと違い船のトイレはパイプが細く、水も外部から吸い込み、外部に流すタイプなので、家のように浄水が流れるわけではありません。加えて清水タンクではなく無尽蔵に水が使えるのに、水を流すのをためらってしまい便器からトイレットペーパーが消えると流れたと思ってしまいます。結果的には流しきれておらず詰まりやすいです。加えて毎日トイレを使うわけではないので、パイプ内に残っていたトイレットペーパーが乾いてしまって詰まります。練習終わりに、直接レスキュー隊長にマリントイレの現状を伝えました。うちの船もそうだけど、多くのプレジャーボートで「トイレットペーパーをトイレに流すの禁止」にしていることなどを。理解してくれたようです。
昼休み、選手をまわり、気づいたことをマンツーマンで伝えました。元ジュニアヨットのお父さんKashiさんが、シーホース級を整備していました。あれやこれや話しました。午後の練習も、体操・ブリーフィングから始まり、また話しました。午前はスナイプでしたが、午後は470を見ました。同じく気づいたことを海上で伝えます。トイレは排水バルブが開いていなかったのが流れなかった原因でした。「なんじゃそりゃ」。
午後の練習を終えハーバーバック。すぐにバイクに行き、バイク装束に着替えました。ちょうどKashiさんが帰る所で、バイクの横であれやこれや。Kashiさんもバイクに乗っておられるようで、前輪を太いのに変更したら直進安定性が増しすぎて曲がらないバイクになったそうです(笑)。
YHの艇庫棟がリニューアル中で、艇庫裏でミーティングしました。しっかりとセイルのコントロールのことと、筋力の弱い女子選手の楽ちんセッティングの一例を出して、力任せに頑張るだけではないヨットというスポーツの片鱗を伝えました。
帰路に着きます。湖西道路〜名神高速〜中央環状道路〜R171で19時過ぎに帰宅しました。「吹田IC」出口で名神本線ににまで渋滞が繋がっています。バイクなので渋滞に巻き込まれませんが、「何故?」ってなりました。吹田ICから中央環状道路まで渋滞しており、中央環状線での事故が渋滞の先頭でした。それを過ぎるといつものように車が流れていました。


2022/2/25
「里山VTR250」のブレーキパット交換に、「ホンダドリーム尼崎店」に行きました。今月の点検で、フロントブレーキパットが減っていることと、テールブレーキランプが切れていることを告げられました。パッドもランプも在庫切れで、ランプは手持ちの物に交換してもらったけど、後日再来店を促されました。それで向かったのがこの日でした。約1時間で、「フロントブレーキパッド交換(パッドセット6215円+工賃2200円)+テールライトバルブ交換(バルブウインカー363円+工賃1210円)=9988円」を終えました。


2022/2/12
参考にさせて頂いているウェブサイトで、奈良国立博物館で吉野「金峯山寺」仁王門金剛力士像が展示されているのを見つけ、それも観に行くことにしました。同じ方が、東大寺戒壇院千手堂の本尊「千手観音」特別公開を観に行ったそうで、それも観に行こう。
仕事の準備をして、倉庫から「里山VTR250」を出して、8:53出発。8:57「エネジェットセルフ北村」で給油。このバイクは、普通二輪免許(〜400cc)を取ってすぐ、2008年8月にトリップメーター800kmの中古バイクとして購入しました。現在のトリップメーターが46834kmなので、13年半46000km走りました。トータル燃費は31.5km/L。
R171を東に走り、中央環状道路を経由し、「吹田IC」から「近畿道」に乗って南下。「第2阪奈道路」に乗り換えて、生駒山の下を抜けました。ここで左のミラーが風で内側に向いています。「あれ、おかしいぞ」。少しグラグラします。走りながら手で後ろが見える角度に修正しながらスピードダウンして走ります。「宝来IC」でR308に下車し、すぐに路肩から歩道に乗り上げ停止。
リアボックスを開け道具袋を探ります。8号六角レンチがなく固定できません。スマホでホームセンターを検索し、R308を東に進み、10:18「コーナン三条大路店」で「8P六角棒レンチ987円」購入。駐車場でしっかり固定し直しました。現在使っている7インチゴリラナビを10年使っているので、新しく9インチナビ(ドリームメーカー ポータブルナビ 9インチ PN0904B)を購入しました。それをバイクに搭載できるようあれこれやっていました。その過程で左ミラーも弄くりました。左ミラーには車載カメラも設置しており、もっとしっかり固定し直しました。
r1で東に走り、左折してR169で北上、右折すれば東大寺の交差点を左折してR369を西進し、また左折して奈良公園内を走り、興福寺Pの前で止まります。バイク駐輪できるか聞くと、「1時間以内ですか?」と聞かれたので、「東大寺の方にも行きたいから、もう少し駐めたい」と言うと、「ここは興福寺参拝の方のPだから、バイクならならまちPの方に行けば良いです。バイク置き場もあります」と、「突き当りを右折すれば良い」と丁寧に教えてくれました。「ありがとうございます」とバイクに乗ります。「猿沢池」をグルっと回って、「ならまちP」へ。
興福寺方面に歩きます。左に猿沢池、正面に興福寺五重塔が見えます。神の使い鹿があちこちにいます。『菩提院大御堂(ぼだいいんおおみどう、通称十三鐘) 本院はふつう、奈良時代の高僧玄ほう僧正(?〜746)の創建と伝えられるが、実際はむしろ、玄ほうの菩提を弔う一院として造営されたものであろう。本尊は阿弥陀如来坐像(鎌倉時代、重要文化財)で、別に児(ちご)観音立像が安置される。 鐘楼に掛かる梵鐘は永享8年(1436)の鋳造で、かつて昼夜12時(1時は今の2時間)に加えて、早朝勤行時(明けの7つと6つの間)にも打鐘されたところから、当院は「十三鐘」の通称でも親しまれている。
なお、大御堂前庭には、春日神鹿をあやまって殺傷した少年三作(さんさく)を石子詰(いしこづめ)の刑に処したと伝承される塚がある。元禄時代、近松門左衛門がこの伝説に取材して、浄瑠璃「十三鐘」を草したことは有名である。  法相宗大本山興福寺』
『登録有形文化財 菊水楼旧本館・本館・表門・庭門 平成12年12月4日登録 菊水楼は、旧興福寺興善院跡に位置し、明治24年(1891)の開業以来、多くの賓客を迎えてきた料理旅館です。 旧本館は木造2階建、本館は木造3階建で、ともに明治時代の入母屋造の純和風建築です。本館の玄関天井に菊水の彫刻、壁に菊水形の丸窓をあしらっています。
表門と庭門は、江戸時代に建てられた円成寺子院の門を明治時代に移築したものと伝えています。 いずれの建物も歴史ある旅館にふさわしく、一の鳥居前の景観に欠かせないものとなっています。  奈良教育委員会』
奈良公園内を「奈良国立博物館」に向かって歩きます。多くの鹿がのんびりしており、鹿糞だらけで踏まないように歩くのは無理でした。「なら仏像館(旧本館)(片山東熊設計、1894年竣工、重要文化財)」は素敵な重厚感のある建物です。『なら仏像館は、奈良県で最初の西洋建築なのよ』。
11:27、「なら仏像館」から入ります。拝観料1200円。「特別公開:金峯山寺仁王門金剛力士像」「特別展国宝:聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」。
『天平彫刻の名品として知られる聖林寺の国宝・十一面観音菩薩立像をはじめ、かつてこの仏像があった大神神社(おおみわじんじゃ)付属の大御輪寺(だいごりんじ)伝来の仏像や、大神神社の自然信仰を示す三輪山(みわやま)禁足地の出土品などを展示します。 特別陳列お水取り 奈良時代から一度の中断もなく続く東大寺二月堂の「お水取り」。本展では、「お水取り」や二月堂にまつわる絵画、工芸品、典籍等を展示し、その歴史と信仰を紹介します』。
『ごあいさつ 奈良国立博物館の歴史は、明治28年(1895)の開館から今日まで、126年に及びます。その間、当館では複数の建物を増改築してきましたが、開館当初から引き続いて使用している展示施設がこの「旧帝国奈良博物館本館」、現在の「なら仏像館」です。 「なら仏像館」は、明治時代を代表する建築家の1人、片山東熊(1854〜1917)の設計によるもので、奈良で最初の本格的な西洋建築と位置づけられます。重厚な外観を持ちながら、細部の装飾にも趣向を凝らした日本近代建築の代表的な作例として、昭和44年(1969)には、国の重要文化財に指定されました。長らく当館の「本館」として特別展や平常展に活用してきましたが、平成22年(2010)から現在の名称に改め、仏像専門の展示施設として再スタートし、平成28年(2016)には、展示室の内壁や照明設備・展示ケースなどを大幅にリニューアルしました。
現在、当館には、社寺などからお預かりした寄託品と館蔵品とを併せて、数百件の仏像が収蔵されています。「なら仏像館」では、これらの収蔵品の中から適宜選りすぐり、定期的な展示替えをおこないながら、常時百体近くの仏像を展示しています。日本の飛鳥時代から鎌倉時代の仏像を主としつつ、中国、朝鮮半島のものを含め、多数の仏像の名品を間近にご覧いただくことができます。「なら仏像館」は、仏像専門の展示施設として世界に冠たるレベルを誇り、まさに「仏像の殿堂」と言っても過言ではないでしょう。
令和3年(2021)2月には、この「なら仏像館」に、奈良県吉野町の金峯山寺から、像高5mに達する巨大な金剛力士像二躯を迎え、展示を一新しました。この金剛力士像は、通常、金峯山寺仁王門に祀られていますが、門の修理に伴って移動し、保存処置を施した上で、展示の運びとなりました。 明治時代の趣ある建築の風情と最新の展示設備を備えた「なら仏像館」で、仏像の魅力を存分に味わっていただければ幸いです。 最後となりましたが、仏像をご寄託いただいているご所蔵者をはじめ、ご協力いただいている関係各位に対し、厚く御礼申し上げます。  奈良国立博物館長:井上洋一』
他の展示物は撮影不可ですが、仁王像は撮影可でした。入口で、カメラを下げている私に「仁王像は撮影できます」と教えてくれました。『特別公開 重要文化財 金剛力士立像 奈良金峯山寺 康成(こうじょう)作 像高:阿形505.8cm・吽形506.2cm 吉野郡吉野町に位置する金峯山寺(金峰山修験本宗の総本山)の仁王門(国宝)に安置に安置される金剛力士像。仁王門は平成30年(2018)度より大規模な修理が開始され、これと並行して金剛力士像も翌年度から2か年をかけて、公益財団法人美術院により彩色や漆下地の剥落止め、矧目(はぎめ)など変色箇所の修整、足元や台座の材質強化などを主とする保存修理が実施された。像内の銘文により、南北朝時代の延元3年(1338)から翌年にかけて、大仏師康成により造られたことがわかる。見上げるばかりの巨像で、劇的な憤怒相と全身にみなぎる力動感は圧巻であり、鎌倉時代の金剛力士像にみる颯爽とした姿を基本としつつ、丈六の巨像を破綻なくまとめあげた点に康成の優れた技量がうかがえる。建仁3年(1203)に運慶・快慶らが造立した奈良・東大寺南大門像に次ぐ大作として、また当代を代表する金剛力士像としてもきわめて高い価値を有している』
『重要文化財 金剛力士立像 康成(こうじょう)作 南北朝時代延元4年(1339) 奈良金峯山寺 高さが5m以上もあって、大迫力! お寺の門番だから、強そうなすがたをしているよ。それぞれ「あ(阿)」と「うん(吽)」という口の形をしているのがわかるかな? 神社にいる狛犬にも同じ口の形をしているものがあるから探してみてね』
『彫刻 日本の彫刻のなかで最も多いのは木彫である。カヤやヒノキ、クス、ケヤキなど、彫刻に適した材種が豊富に生育する日本の風土が背景にある。樹種の選択には時代による傾向が認められ、奈良時代から平安時代初期にかけてはカヤが、平安時代後期以降はヒノキが主流となった。 木材以外の素材としては、金属や石、乾漆(かんしつ)、塑土(そど)などがあり、これも時代による流行がある。とりわけ大和の地を中心に展開した飛鳥〜奈良時代の古代彫刻においては、多様な素材が用いられ、幾多の名品を生んだ。
仏像の体型や表情、あるいは着衣のひだなど細部の表現を観察すると、作風ないし様式にも時代による特徴か見いだされ、それらが個々の時代の美意識の産物であることが理解されよう。と同時に、優れた作品は、時代を超えて人の心に響く普遍的な美しさや力強さも有する。展示を通じて、彫刻の深い魅力を味わっていただければ幸いである』
仏像館を観終わり、地下に降りて本館の方へ向かいます。地下に、仏像の種類や製造方法の展示がありました。スーベニアショップがあったので中に入ります。「十一面観音マグネット550円」を購入しました。また、バイクのタンクに貼ろう。
『今から、2500年ほど前のインドで、仏教は、釈迦によって開かれました。釈迦が入滅した後、仏教徒たちは、釈迦の遺骨である舎利(釈迦の遺骨)を納めた仏塔を礼拝し、釈迦の姿を形に表そうとはしませんでした。 釈迦の姿を表した仏像が出現するのは、釈迦が入滅してから500〜600年ほど経ってからでした。釈迦の姿は神格化され、普通の人間とは異なる特徴を備えるようになります。また、仏教の教えにも変化が生じ、釈迦以外にも様々な種類のほとけが出現し、仏像の種類が増えていきました。 仏教はアジア各地に広まり、それぞれの地域の風土に合わせた信仰が形作られ、各地で仏像が造られました。仏像のすがたは、それぞれの時代や地域に生きた人々の求めた信仰の表れでもあるのです』
『仏教美術の殿堂として 明治時代のはじめ、日本では大きな社会変化の中で、寺院が衰退し、仏像をはじめとする寺宝類が寺外に流出する事態が起こっていました。こうした事態を重く見た明治政府は、文化財を保護する政策を積極的に推進することになります。折しもヨーロッパで開催された万国博覧会への参加と、その後国内で開催した博覧会での成功によって、政府は優れた文化財を公開してその価値を広く知らせることの重要性を認識します。そして、文化財の保護と公開を恒常的に行う場として、博物館が設立されることになったのです。
こうして、明治28年(1895)4月29日に、奈良国立博物館(開館時は「帝国奈良博物館」)は、東京国立博物館に次ぐ国立の博物館として開館しました。 奈良の古社寺に伝わる文化財の保存に協力するという目的で開館した当館には、次第に多くの文化財が奈良を中心とした社寺から預けられるようになりました。陳列室には、法隆寺の百済観音像や、興福寺の阿修羅像といった、日本を代表する仏教美術の数々が、所狭しと陳列され、仏教美術の殿堂として、多くの人々を魅了していました』
『仏教美術の専門館として 戦後になると、各社寺で文化財の収蔵施設が整備されるようになり、興福寺の阿修羅像をはじめとして、数多くの名品が、当館から所蔵者のもとへ戻っていきました。 名品が少なくなる状況の中、当館は、昭和33年(1958)の「仏教美術入門展」を皮切りに、仏教美術の専門館という性格を明確に打ち出し、特別展をはじめ、仏教美術に特化した活動を展開します。
昭和47年(1972)西新館が完成、平成10年(1998)には東新館が完成し、展示面積は開館当初の1.7倍に増えました。また、明治27年(1894)に建造された、なら仏像館は、仏像(彫刻)専門の陳列館として、保存と公開に適した環境を提供するため、陳列ヶ−スや照明装置を一新し、平成28年(2016)年4月に、リニューアルオープンしました。 現在、当館では、国宝・重要文化財を含む、約3800件の文化財が所蔵・寄託されており、現在も、国内屈指の仏教美術の専門館として、珠玉の仏教美術を常時陳列しております』
『正倉院展 奈良時代に建てられた名刹、東大寺の北西に位置する正倉院には、聖武天皇(701〜756)ご遺愛の品をはじめとした、奈良時代の歴史と文化を今に伝える約9000件の宝物が伝えられています。現在これらの宝物は、宮内庁正倉院事務所によって管理され、当館で例年秋に開催される「正倉院展」でその一部が公開されています。
この展覧会は、戦後間もない昭和21年(1946)に始まりました。以来、東京で開催された3回を除き、毎年、奈良国立博物館で開催されています。 会期日数は、原則17日間に限られます。貴重な宝物の保存のため、温湿度などの展示環境や輸送・展示方法には、細心の注意が払われています。また、展覧会に出陳された宝物は、原則10年間は展示されません。 8世紀の国際色豊かな美術・工芸品の数々や、当時の人々の生活を物語る歴史資料を観覧するため、毎年多くの人々が当館を訪れ、秋の奈良を彩る恒例行事となっております』
博物館をじっくり鑑賞し、東大寺方面に向かいます。13:30「東大寺山門」。
『肢体不自由児施設・重症心身障害児(者)施設 東大寺福祉療育病院 今から約1250年前、聖武天皇は、人間だけではなく動物も植物も全ての生き物が栄えることを願って大仏様(盧舎那仏)を造られ、そのお后の光明皇后は、今の福祉施設にあたる悲田院(ひでんいん)や施薬院(せやくいん)を建てて人々のために尽くされました。
このお考えに則り、東大寺では聖武天皇1200年御遠忌記念事業として、昭和30年に東大寺整肢園を開設致しました。ここでは、身体の不自由や重い障害を持つ子供たちをお預かりして療育(治療と教育)をすることで、そのお心を受け継いでいます。また、現在は一般整形外科・小児科などの外来診療やリハビリテーション及び在宅障害児のショートステイや通園事業などにも取り組んでいます。 大仏さまの精神を今の世に生かす施設として、皆さまのご理解とご協力をよろしくお願い致します。  社会福祉法人・東大寺福祉事業団』
『五百立神社(いおだてじんじゃ) 当社は五百余所社(ごひゃくよしょしゃ)とか五百立神社と称せされる。五百余所社の社名は天喜4年(1056)5月の東大寺文書に二十五所社・気比気多社などと共にその名が見える。 中世の絵巻などには、大仏殿創建に従事した500余人の工匠が、工事が完成すると五百羅漢になって天空高く飛び立ち、姿を消したとの説話が見える。本来の祭神は定かではない。 大仏殿江戸期再建の際にも。五百余所社は大工・小工の崇敬を集めたようで、番匠社とも呼ばれ、宝永6年(1709)3月の大仏殿落慶法要供養を目前にした正月6日に、大工棟梁堀内筑前守(若狭)が新建寄進している』
『東大寺 東大寺の大伽藍は、聖武天皇の発願になる盧舎那大仏が大和国分寺の本尊として造立されたのが契機となって成立した。大仏開眼供養会が営まれたのは天平勝宝4年(752)。開基は良弁僧正。
東大寺では、天下太平万民豊楽が祈られるとともに、華厳教学を中心に仏教全般に渡る教理研究が行われた。 その後2度も兵火に遭ったが、創建期や鎌倉復興期の建物や仏像などの優れた文化財、修二会(お水取り)に代表される広汎な信仰活動を今に伝えている』
東大寺の壁に沿って歩きます。『東大寺戒壇院千手堂特別公開 重要文化財 厨子入千手観音菩薩・四天王像・鑑真和上像 8:30〜16:00 中学生以上600円・小学生300円』の看板が立っていました。
東大寺入口をパスし、東大寺の塀から離れ、芝生広場を歩いていると、梅が咲いていました。公園の向こうに東大寺戒壇院戒壇堂の伽藍が見えます。修理中のようで足場が周りに組まれています。
13:48、「戒壇院」横の「千手堂」へ。拝観料600円。本尊「木造・千手観音菩薩像」が開帳されていました。年季の入った厨子の内側は、新調されたのかな?と思えるほど鮮やかな仏画が描かれ、厨子中央に金色の千手観音菩薩像が鎮座し、四方に四天王がドンと護っていました。良いものを観せて頂きました。
『東大寺戒壇院(戒壇堂・千手堂) 東大寺戒壇院は、奈良時代に戒壇が設置された下野薬師寺・筑紫観世音寺と共に、日本で初めて正式に戒を授ける常設の場所として創建されました。現在の戒壇院は「天下の三戒壇」と呼ばれた往時の伝統を今に伝えています。「戒」とは僧侶として修行する者が守るべき規範で、授戒とはその「戒」を授かることです。日本では鑑真の来日によって正式な授戒の制度が確立したと考えられています。
天平勝宝6年(754)、唐から来日した鑑真が聖武太上天皇ら440人余りに、大仏殿前で壇を築いて戒を授けました。翌年、改めてその戒壇の土を移して戒壇堂が建てられ、それを中心に戒壇院が創建されました。 創建当初の建物は治承4年(1180、平安時代)の兵火で焼失し、鎌倉時代に東大寺を復興した大勧進重源や栄西、行勇らにより再建されました。当時の戒壇院は、中門と戒壇堂(受戒堂)、そして講堂が南北に並び、中門と戒壇堂が廻廊で結ばれていました。また、戒壇堂と講堂を取り囲むように東西と北面には僧房が設けられていました。さらにはその外側に経蔵、鐘楼、僧堂、千手堂などたくさんの建物があったことが古図(戒壇院指図)から知られます。しかし、この再建された建物も文安3年(1446、南北朝時代)の火災、永禄10年(1567、戦国時代)の三好一松永の兵火により焼失しました。その後、慶長10年(1605、江戸時代)に現在の千手堂(階段上左手)が再建され、享保17年(1732、江戸時代)に現在の戒壇堂(階段上正面)が慧光によって再建されました。
戒壇堂内にある戒壇は土壇で、壇上中央に多宝塔が置かれ、その中に釈迦如来像と多宝如来像が安置されています。この多宝塔は江戸時代に造立されたものですが、それまでも壇上に仏塔が置かれていたことが史料からわかっています。また、戒壇を守護する奈良時代の四天王立像(国宝)も、再建時に中門堂から移されて安置されたものと考えられています』
別の道を使ってバイクの方に帰ります。入江泰吉の旧居がありました。『水門町と入江泰吉 この場所は水門町といい、東大寺境内の南西隅にあたります。水門という名前は「奈良坊目拙解」(享保20年、1735)によると、吉城川の水を東大寺南面の築地南西から寺内へ小川を構えて引いたことに由来するとされ、現在も、吉城川が町内を流れ、そこに2つの小川が合流しています。近世には、興福寺の子院があり、東大寺や手向山八幡宮の関係者も居住したとされる町です。
江戸時代には、吉城川の水流を利用した奈良晒(武士の峠などに用いられた高級麻織物)の晒場があり、後に晒問屋の清須美氏が借景庭園のある山荘三秀亭を設けました。明治33年(1900)には、豪商の関氏が依水園を築造するなど、明治から大正期にかけて水門町付近には大庭園を有する邸宅が多く建てられ、土塀や門を構える屋敷が立ち並ぶ町並みが見られるようになります。
この場所を拠点に活動したのが、奈良の風土を約半世紀にわたって撮り続けた写真家の入江泰吉です。入江は、明治38年(1905)に奈良市に生まれ、大阪で写真店を開業したのち、大阪大空襲で奈良に引き上げてきてから、古寺や自然などを題材にした作品を発表しました。
ここ入江泰吉旧居は、吉城川沿いに建つ近代和風住宅で、居室から吉城川を望む景色は格別です。この場所で入江は、大和の歴史に関する書物を紐解き作品の構想を練り、創作活動にいそしんだといわれています。
奈良市は入江の妻ミツエ氏からこの建物の寄贈を受け、平成27年(2015)に公開施設としてオープンさせました。現在は入江の仕事ぶりや毎日の暮らし、人となりや作品制作にかける情熱を感じ取れる場として、多くの人に親しまれています』
「依水園」という美術館があるお庭がありました。『依水園について 依水園は、江戸時代の前園と明治時代作の後園の2つからなる庭園で、昭和50年(1975)に国の文化財として名勝に指定されました。前園はかつて若草、御蓋、高円山を一望した三秀亭中心の池庭で風情が漂います。また後園では氷心亭前からの東大寺南大門と春日山を借景したスケールの大きな眺めが圧巻です。加えて古寺の建勿の礎石を庭石に、挽臼を池の渡り石に用いるなどのアイデアを見せたり、流れや植物の扱いにも心を尽し安らぎの空間を生んでいます。一方入口内左手の芝生広場奥に建つ特徴的な姿の寧楽美術館では日本、朝鮮、中国の館蔵美術品を展示し美の世界へ誘います』
その隣の「吉城園(よしきえん)」に入ります。『当園は「興福寺古絵図」によると同寺の子院「摩尼珠院」(まにしゅいん)があったところとされています。明治になって民間の所有となり、大正8年(1919)に現在の建物と庭園が造られました。企業の迎賓施設を経て昭和の終わりに奈良県が所有し、庭園鑑賞及び茶会に広く利用していただくよう、平成元年4月1日より開園したものです。
敷地面積約8900平方メートルの園内は、池の庭・苔の庭・茶花の庭からなり、池の庭は江戸時代からの地形の起伏、曲線を巧みに取り入れ、建物と一体となるよう作られています。苔の庭は前面が杉苔に覆われた庭園で茅葺き屋根の離れ茶室と一体となった閑静なたたずまいを呈しています。茶花の庭は茶席に添える季節感のある花などが植えられ素朴で潤いのある庭園として親しまれています。
茶室の使用については受付にご相談下さい。
〇開園時間:9:00〜17:00(入園は16:30迄)
〇閉園期間:2月24日〜2月末日
〇入園料:無料
園内での下記行為は禁止されているのでご注意下さい。
飲食・喫煙・ゴミ捨て・三脚の使用・写生・ペットの同伴』
『羅浮山(らふさん) 板張りの向こうに騎馬武者を描いた杉戸絵があります。その上に掲げられた扁額には「羅浮山」と書かれています。「羅浮山」とは、中国・広東省増城県北東の大洞窟のある仙術修験の山です。後水尾天皇の第16皇子の真敬親王(しんけいしんのう・1649〜1706)が、彼の姉で、第1皇女の文智女王に長く仕えた、上鵬尼が所蔵していた手水の立石(後にこの茶室の玄関の左手にしつらえられた)のたたずまいを、ご覧になって、「羅浮山」と命名されたと言われています。
注:・真敬親王は一乗院門跡、興福寺別当を務められた。御陵は吉城園北東500m、東大寺境内の一乗院墓地である。
・文智女王は、1640年に21歳で、尼寺の円照寺(山村御殿)を開かれた』
「ならまちP」まで戻りました。「奈良県奈良市高畑町1112-1・利用可能時間24H・100円/60分(24時間最大500円)・収容台数20台」。400円でした。三条通り〜R169〜R369〜r1〜第2阪奈道路で西進し、近畿道にチェンジし北上。吹田ICで下車し、中央環状道路〜R171で。16:09帰宅しました。


2022/2/6
数日前、「里山VTR250」の9年間使ったバッテリーが上がってしまいました。そこで、前回と同じ「AZ BATTERY AZ高始動カルシウムバッテリー(液入タイプ)ATZ7S 6,039円」を購入しました。その取付けです。シートを外し、難なく取替終了。電圧を測るとOK。キーONし、車載カメラ・ナビOK、バッテリー充電器に繋いでOK。問題なしでした。少し走ってみようかと思いましたが、この日の最高気温は5℃で風も強く寒そうなので止めました。
家内から、日常仕事場で履く靴を買うというので、ABCマートに向かいます。ロードサイドのお店に行こうと思いましたが、バスで川西能勢口のSEIYUに行くとのこと。SEIYUの2Fにあるとのこと。家内とバスに乗り川西能勢口へ。久しぶりのバス乗車です。阪急バスは乗車時にICOCAをピッとし、降車時にもピッとするシステムになっていました。伊丹市バスは市内均一料金なので、乗車時にピッとするだけでOKだそうです。
SEIYU2Fに行くとABCマートはありませんでした。「あれ〜あったはずなんだけど」「退店したのかもね」。靴売り場はありました。シックスのちょっとお洒落なのがありました。アシックスは元オニツカタイガーという靴専業メーカーでした。とても履きやすくお気に入りのメーカーです。今でも、バイクシューズとして、アシックスワーキングシューズを使っています。ワーキングシューズは足先に芯が入っており、シフトチェンジに便利です。それが気に入り、日頃のシューズもワーキングシューズを履くようになりました。仕事で朝夕蹴る作業があるので、足先が痛くないのが最高です。
「能勢電に乗らない?」と提案され、10年ぶりぐらいに能勢電に乗りました。阪急グループなので、使っている車両は阪急カラーのマルーンカラーです。嫡孫のりょうくんが3歳で電車にハマっていた頃、一番好きな電車が阪急電車でした。東京に住んでいるので本物を見たことないのに、渋い選択です。「センスいいな〜」と我が孫ながら嬉しくなりました。
「山下」駅で乗り換えです。外観カラーが阪急カラーではない電車も走っていましたが、内装カラーは阪急カラーの木目調だったので、単に外観カラーを塗り替えただけのようです。ただ、シックな阪急カラーの方がセンスが良いと思います。電車勾配アップダウン&左右にカーブを切りながら走ります。窓から見える景色は冬枯れした山の風景で素敵です。家内はお喋り好きではありませんが、横にいてとても落ち着きます。主に僕が喋り、それに相槌を打ったり可愛い仕草付きで喋り返してくれる時間が気持ち良い。
終点「妙見口」に着きました。寒いからか妙見山に登るスタイルの乗客が少ない。3月まで、妙見ケーブルは休止となっていました。コロナ禍ではなく、冬は運休がデフォルトのようです。駅前に出て「かめたに」で昼食を取りました。僕は「名物シシ鍋味噌煮込みうどん1650円」、家内は「とよの京あげ丼800円」。家内の「あげ」は美味しかったです。豊能山口食品の「お揚げ」だそうで、家内は山口食品のことを知っていました。今シーズンはシシ鍋を食べていなかったので、初イノシシ肉です。家内も美味しく食べていました。
休止だったので妙見ケーブルで妙見山に登れませんでしたが、素直に帰ります。川西能勢口まで一気に戻り、阪急バスに乗り換えて最寄りバス停で降りて帰宅しました。


2022/2/2
天気が良いので、奈良の寺社巡りに行くことにしました。朝、仕事の準備をして、倉庫から「里山VTR250」を出しました。リアボックスにツーリング備品を積み込み、タンクバックを付け、車載カメラとナビをハンドルにセットして、キーON。あれれ、セルの回りが少し弱く、エンジンが掛かりそうで掛からない。何度かセルを回しましたが、こりゃダメだ。バイクに乗らなくても、週1でバッテリー充電しており、数日前に充電したばかりなのに・・・。毎回、満充電にしているのに・・・。メンテナンス履歴を見たら、このバッテリーを前回交換したのは、2013年4月、9年使いました。電圧を測ると、11Vを切って10.8V、寿命ですね。
倉庫から「招き猫CB400SB」を出して、「里山VTR250」を戻します。9:15出発。9:21「エネジェットセルフ北村」で給油。171km/7.18L=23.8km/L。R171〜中央環状道路で東に走り、「吹田IC」から近畿道に乗って南下しました。「第2阪奈道路」にチェンジし、生駒山の下をくぐりました。
道なりにr1〜R369を東に走り、「奈良市役所」門を左折して北上。右折してR24に乗り北上しましたが、右折するポイントを見過ごし、大きく北に走ることになりました。バイパス道路で交差点がありませんでした。UターンしてR24を南下し、左折してr44を東に走ります。
10:41「瑞景禅寺」。黄檗宗の寺院です。
一旦南下し、「一条通」を少し東に走り、左折して北上し、10:53「長慶寺」。「是より境内地、死んだ宗教を活かす長慶寺。神仏となるは生きた人間にかぎる」と彫られた石柱が立っていました。「天上天下唯有此地 己」「不許楽生不恐死者外入門内」「如来道宣布 無庵長慶」「不許死人入門内」と彫られた石柱が林立していました。山門横には、「保山普門院長慶寺」と彫られた石柱が立ち、木製山門は閉じられており、山門内は全く見えませんでした。
異端を発する空気に満ちていたので、帰宅後調べたら、『吉村長慶氏は幕末に奈良の商人の家に生まれ、相場師等として活躍し莫大な富を築き、明治後期以降奈良市議会議員としても再選を重ね、様々な社会運動・政治運動に身を投じるなど奈良ではよく知られた戦前期までの「名物オヤジ」とも言うべき存在でした。吉村氏は独特の政治的、宗教的な「思想」を持ち、「宇宙菴」と名乗ったのは、その思想が表現された奇妙な石碑・石造物をあちこちに建設するという非常にユニークな活動を終生行い、その中では自らの顔をかたどった「長慶像」なども多数制作されました。また「石」に関わる公益事業としては、佐保川に架かる橋を複数建設するなど、地域への貢献も忘れず果たしました』とありました。
歩いて次へ。11:03「常陸神社」。『母子獅子 母獅子のお乳を求め慕いよる子獅子「子授けの常陸の宮サマ」ならではの唐獅子です。特に子獅子の表情を御覧ください。 子授けの祈願は毎月19日、当社で受承っております。 常磐神社』
『御案内 当神社は、毎月19日が例祭日で4月19日が大祭日です。 古来から御祭神をお慰めするため五色の紙のぼりを社前に奉献する習わしとなっています。また次のような事項も取り扱っておりますから、ご希望を申し出て下さい。
記 1.御膳料奉納 御祭神に御神饌をお供する行為です。御膳料を奉納された人のご芳名を記帳して神前に奉献します。
2.御祈祷(拝殿で神官が祝詞を奏上して御祈祷いたします) 子授成就・女人安産・家内安全・家業繁栄・交通安全・学業開運・自体健康。なお安産腹帯の御祈祷もいたします。代理人が持参されても結構です。
3.布のぼり(赤・青の2種類)の献上 各種願い事、または諸願成就の際、住所・氏名・年齢を記入し、これを御祈祷の上、毎月19日の祭日に参道または社前に奉献します。
4.其の他 御祈祷のお符・お守り・おみくじ等も用意しております。なほ、休憩所において、甘酒やお茶の接待もさせて頂いております。ご遠慮なくお立ち寄り下さい。 常磐神社敬白』
『常陸神社勧請の記 常陸神社の御祭神を少名毘古那(すくなひこな)の尊と申す。今より千余年の昔、国司たりし常陸大掾(だいじょう)中臣無良自(むらじ)と云う人が少名毘古那の神を信じ、1社を建立信迎せられたる時、桓武天皇延暦7年、都を山城国愛宕郡へ遷し賜うに際し、祭神を当佐保岡の地に移し賜へり。然るに中世応仁の大乱により、神社も廃壊して神燈も絶えんとせしを、徳川の治世となり、8代将軍吉宗公社寺の由来を調べ再建ありし時、当神社を郡山の城主柳澤甲斐守吉里候に申し付け、御造営ありてより参詣者続々と相集まり。時移り明治の後期、拝殿社務所を改築、今日に至る。
わざわひは少名彦那の神なれば、祈るやまひもひたちなるらん。 昭和48年4月19日建立 常陸神社』
11:08「法蓮稲荷神社」。『法蓮稲荷神社由来 当稲荷神社は往古より法蓮字大黒が芝(現ドリームランド入口北側の丘上)に鎮座され、法蓮を始め近傍の住民より崇敬されておりました。もともとこの地には隼人石、七匹狐と称される石塚が存在したところから狐と関連する稲荷信仰と結びつき、稲荷大明神が奉信されておりましたが、明治16年にこの地は聖武天皇皇太子の那富山御陵墓と決定されることとなり、宮内省より堺県知事を通じ稲荷神社の移転が要請され、結果として常陸神社の境内隣地が、清浄の地として社の移転先となり、ここに遷祀されたもので、以来120有余年、今日に至っております。ご祭神の豊受大神は食物の神、農業神としてだけでなく人間の生活にとって根源的な役割を司る神様として、その広大無辺なご神徳を慕われて、その信仰が広がり殖産興業・開運招福・火防の守護神として多くの人々に最も身近な神様として崇敬されております。 平成16年1月吉日 法蓮稲荷講』
11:12「八峰大神」。
バイクに戻り、住宅街を少し東に走り、11:26「興福院」。「歴史的風土 平城宮跡 特別保存地区 奈良県」と書かれた柱が立っていました。門前に、「不可酒肉五辛入寺門」の彫られた石柱が立っています。禅宗の寺院のようです。山門から内側に入れませんでした。
r44〜やすらぎの道〜r754〜R169で南下し、11:42「崇道天皇社」。『重要文化財・崇道天皇社本殿・1棟 桃山時代 昭和24年5月30日指定 この神社は、早良親王(さわらしんんおう・崇道天皇)の御霊を鎮めるために806年(大同元)に創祀されたと伝えられています。 本殿は一問社春日造・檜皮茸です。1623年(元和9)の棟札があることなどから、1586年(天正14)に春日大社若宮神社の本殿として建立されたものを、1623年に移築したと考えられます。春日旧社殿の古い遺構として貴重です。 奈良市教育委員会』
『文化財愛護 重要文化財 崇道天皇社本殿全域』
『由緒 奈良市西紀町40番地鎮座 崇道天皇社 祭神:早良親王(追号崇道天皇) 当社は平城天皇大同元年(1180年前9の創立にして桓武天皇の皇弟太子(光仁天皇・高野夫人)第2皇子)の霊を鎮め祀る天応元年桓武天皇の皇太子となる。
延暦3年都を平城京より長岡京に移し、天皇祭事を太子に任せらる同4年故ありて乙訓寺に幽閉され、後淡路島に配流途に崩御あらせらる遺骸を仁井の里に埋葬された。 国内に凶事続出、親王の怨霊との声高まり、同17年天皇遺骨を大和八嶋陵に迎え、同19年陵に於いて追尊の儀執行せらる。 平城天皇大同元年、社を建立。霊を慰められたのが当社の創立である。
重要文化財(旧国宝)本殿1棟・一間社春日造檜皮葺:棟札により、元和9年霜月4日造営になったことを知る。春日神社式年造営に方って、若宮の旧本殿を移建したるもので、最古の建造物である。 例祭10月15日』
R169を南下し、左折して、12:02「奈良県護国神社」。広い敷地の森の公園内にある学校の運動場のように広い境内を持つ神社でした。『奉祝令和4年秋・御創建80周年 コヒマ嵐に誘われて散りにし戦士の血の色がアッサムの山脈夕映えて、万感迫るなり。ああ将兵は還らねど国に尽くせし丈夫の戦史は永く伝えなん。 出原繁雄命28才 昭和19年5月12日 印度コヒマにて戦死』
創建80周年(1942年)と歴史の浅い神社で驚きました。広い境内を埋め尽くした出征兵士の白黒写真があり、大東亜戦争に多数の県民若者が出征していくのに際し創建されたのでしょう。
『令和 出典万葉集 梅花の歌32首 時に初春の令月にして気淑(よ)く風和らぎ梅は鏡前に粉を挽き蘭ははい後の香を薫す。 大伴旅人』
拝殿脇に千羽鶴が多数下がっていました。これまで多くの護国神社を参ってきましたが、創建時期が大東亜戦争前ということもあり、その戦の慰霊と顕彰に軸足がある神社に感じました。境内を巡ります。『大君の三笠の山の黄葉は今日のしぐれに散りし過ぎなむ 大伴家持』『梅ならずたたへる水の底までも、清きこころは月ぞ照らさむ 菅原道真』
『山の辺の道 悲恋 影媛物語 この物語は、今から1500年ほど前に、当神社の東方の山の辺の道に伝わる。読む人をして涙をそそるひときわ物悲しい物部の影媛の物語で、時の皇太子ワカササギ皇子と平群のシビの影媛をめぐる妻争いが、日本最古の史書日本書紀に出る伝承である。
影媛は、石上の豪族物部アラカビの娘でこの上ない清純で美しい女性であった。太子ワカササギ皇子が媛の美しさに心ひかれ、物部影媛を桜井の海石榴市(つばいち)の歌垣に誘い想いを伝えた。
その際に、大臣平群真鳥の息子のシビが現れ、媛は自分の妻であることを告げ、媛もそのことを認めたので皇子は悔しく思い落胆した。 シビと父真鳥親子は、かねてから傲慢無礼で国を傾けようとしていたので討伐され、シビは捕らえられ奈良山で処刑された。 媛は、石上から夫の後を山の辺の道を泣きながら髪振り乱し裸足で奈良山まで追ったが、シビは既に処刑されていた。媛は悲涙目にあふれ狂わんばかりに嘆き悲しみ、歌を詠んだ。
「石上、布留を過ぎてこもまくら、高橋過ぎ物多に大宅過ぎ、春日の春日を過ぎ、妻こもる小佐保を過ぎ玉筍には飯さへ盛り、玉怨に木さえ盛り泣そぼろ行くも影媛哀れ」
国思歌「倭は国のまほろばたたなづく、青垣山こもれる倭しうるはし」
古事記倭健命・日本書紀景行天皇 奈良県護国神社高円の森をまもる会・山の辺の道「奈良道」を守る会』
『大東亜戦争集結60周年8月15日 追悼式斎宮行献詠3首朝霧らふ 高円の杜の 御社に われら集いぬ 魂祭りせむと高円の 杜の社頭に 額づけば 英霊反響もす 蝉時雨かも国護る 防人と征きし 丈夫ぞ 英霊靖かれ 永久に祀らむ奈良高畑住人・斎藤基樹 平成19年8月15日建立』
『奈良県護国神社 御祭神:明治維新以来大東亜戦争までの国難に殉ぜられた。奈良県出身の英霊3万柱を祀る 維新戦争西南の役119柱・日清日露戦争903柱・世界大戦満州事変119柱・大東亜戦争28068柱
山の辺の道:奈良盆地東部の春日山山系の山麓を南北に連なる古道で、一般に石上神宮以北を山の辺の道北道と呼ぶ。北端から若草山・御蓋山・春日山と連なる。続いて高円山が位置し、石上神宮の鎮まる布留山に至る。 この青垣の山並みは、大和青垣国定公園に指定され、まほろばの情景をかもし出している。古来この古道には多くの壮絶な戦乱事変が、さまざまな男女の愛憎が織りなすドラマが去来した。道筋には国家創世記からの宮跡・古社・古刹・巨大古墳・遺跡が存在しており、多くの事績や物語り、さらには約150首の万葉歌が詠まれ語り継がれて、現代に生きる私達は無限の恩恵をこうむっている。こうした古代を偲びたい。
東市が生んだ国学者北浦定政:定正は、国学者で、百姓から身を起こし15才で藤堂藩古市奉行所に出仕し、藩士に取り立てられ山陵研究者として名を成した。墓は春日苑1丁目西側の墓地にある。 江戸時代後期の陵墓・条理・宮跡研究家として名を成した。その業績は平城宮跡や条理研究の出発点となった。幕府から天皇陵の調査を命ぜられ、彼の著した「山陵精考」には、神武天皇陵は現在の天皇陵の南西部の丸山設をとっている。晩年には光仁天皇陵など荒廃した陵の整備に尽力した。
風雲児古市澄胤:古市城に拠点を置く戦国豪族の古市氏の中で澄胤は、傑出した興福寺衆徒の戦国武将であった。北大和の雄・筒井氏と対立圧倒して大和守護代を獲得し大和に覇をとなえた。 澄胤は、一世の風雲児で戦国文化大名のはしりといわれ高工座衆や馬借集団を掌握し、応仁の乱後復興に京都に物資を運び巨利を得、将軍家に参し、文化芸能人を招き、今流の総合商社であった。能楽金春・茶祖村田珠光に師事した。外部勢力の大和侵攻に組みし、国衆の反感を招き、後に筒井氏の反撃を受けた。晩年河内の高屋城を攻めて討死した』
『古市古墳群:池の中にある島は古墳である。 境内と周辺に現存の古墳が5基と、消滅した古墳9基の計14基が確認されている。 この地域は、5世紀・6世紀の古代豪族である小野氏の拠点とされ、これら古墳群は小野氏の墳基とされる。小野氏は皇室から別れ、ほぼ全国に支配地を持ち、多くの皇后や后を輩出した和爾市の一族で、後の世の明日香時代には小野妹子や、平安時代の名筆家の小野道風や絶世の美女とされた六歌仙の1人・小野小町など多くの偉人を輩出した。特に古市方墳は400年前後頃の築造で、鏡が5面・鉄刃勾玉などが出土しており、神功皇后の朝鮮出兵と時期が重なる。
戦国時代の油山城址と古戦場:境内にあった油山城は、戦国初期に古市一帯を支配した。豪族古市氏の本拠の古市城(現古市小学校)の支城で油山氏の居城であった。古市氏と筒井氏の宿命的な抗争で、この油山城も1520年に筒井氏軍勢に攻められ落城し、この戦で古市公胤は討死した。油山の字名が残る』
「ビルマの塔」があった。『碑文 第2次世界対戦のビルマ戦場において祖国のために尊い生命を捧げられた兵士の御霊をまつるゆかりの塔』
『天の下すでに覆ひて降る 雪の光を見れば貴くもあるかな 紀清人』『身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂 吉田松陰』
バイクで枝道を東に走り、12:41「八阪神社」。『鹿野園の由来 鹿野園は万葉集に歌われた高円山西南麓に位置し、地元では「ろっきやお」と呼んでいる。鹿野園という地名の由来は、奈良時代(752)東大寺大仏開眼法要の導師を勤めたインドの婆羅門僧正「菩提僊那(せんな)」が、鹿野園の地形がインドのサールナート(鹿野苑)に良く似ているところから、鹿野園と名付けたといわれている。サールナートは仏教の聖地で仏像製作の中心地として栄えたところであり、釈迦が悟りを開き5人の弟子に説法した五聖地の1つで、鹿が多くいたことから漢訳経典で鹿野苑と書かれている。奈良市北東部の忍辱山・誓多林・大慈仙・菩提山とともに、いずれもインドに現存する地名である。
添上郡鹿野園村の慶長から元禄までの郷帳では村高480石、竟延4年頃(1750)の「宗国史」によれば、家数65・人数303とあり、近世の初め御番衆領、次いで幕府領、元和5年(1619)津落(藤堂落)領、明治22年添上郡東市村大字鹿野園となり、その後昭和26年奈良市鹿野園町となった。
鹿野園には今は無き梵福寺という寺が存在していた。奈良時代、鑑真僧正の弟子「善謝」が庶民と一体となり悟りを開こうと梵福寺を建立したと伝えられている。「大和誌」や「日本後記」「東市村誌」に梵福寺にっいての記述がある。本尊の十一面観音像は像高95cmの立像で、華瓶を持ち錫杖を執る長谷寺本尊形式の像である。室町期の宿院仏師作と考えられる。また不動明王立像と制多迦童子・衿迦羅童子の脇侍が三尊像になっており、これらは町の文化財として鹿野園町集会所の奥の間に安置されている。
町内を東西に走る道は旧伊勢街道で、東山間地域と奈良の町を結ぶ唯一の道であり、大阪や奈良付近の人々が往来した。現在、町の東には東海自然歩道と山の辺の道が存在し、地元住民はじめ一般の散策道となっている。山の辺の道脇の竹林の中には身ノ立山不動明王堂かある。本尊は高さ156cmの大きな石仏である。 平成24年(2012)1月作製 鹿野園町自治会』
『鹿野園町 八阪神社 奈良市鹿野園町255番地 鎮座
御祭神:本殿・八柱御子神 摂社・木華開耶媛命、摂社・天照皇大神、摂社・天児屋根之命、摂社・事代主之命、摂社・大国主之命
この神社には右の6社が鎮座されている。 本殿の「八柱御子神」は天照皇大神と須佐之男命が誓約して生まれた宗像の三女神、天忍穂耳以下五男神の総称で、京都八坂神社等で祀られている。 天明5年(1785)の鹿野園村「氏神社境内改帳」によると、鹿野園村字東宮に八王子大明神・天照皇大神宮・春日大明神の3社があり、これに対して字辰巳宮(東南)に浅間神社「木華開耶媛命」が、戌亥の字西ノ宮(西北)には大国神社「大国主之命」と蛭子神社「事代主之命」の2社が鎖座されていた。3ヶ所が現在の形に合祀されたのは明治5年以降のことである。 神社は旧名八王子大明神と称したが、明治3年に八阪神社と改めた。ところが明治8年に八柱神社と改称すべき旨通達があり、明治27年再び元の八阪神社に改称するよう通達があったので改めた。明治34年「添上郡祭神由緒調」に鎮座由来についての報告があり、「当社往昔梵福寺(或説に旧岩淵寺の一院なるか)鎮守と而巳、鎮座年月日は今不詳と雖も村有簿冊帳によれば天正(1570頃)以前の神社なることは明白なり」と記されている。
現在自治会に於いて年7回の祭事を行っている。 1月3日えびす祭「事代主之命」 2月17日祈年祭 6月1日糟祭 7月20日夏祭「木華開耶媛命」 9月1日八朔祭 10月第2日曜日秋季大祭 11月23日新嘗祭  平成24年(2012)1月作製 鹿野園町自治会』
r188〜r51で南下し、13:00「セブンイレブン奈良窪之庄町店」で、「ゆずれもん500ml93円+ひねり揚旨辛チーズ100円+つぶあんパン5個128円=346円」購入。Pでパンを半分食べて昼食にしました。更にr51を南下し、13:12「森神社」。r187・農免道路を走り、13:22「和爾座赤阪比古神社」。
枝道を走り、R169を渡り、13:32「楢神社」。境内中央で火が炊かれており、神職他数人の氏子が集まり、木札に書かれた願い事を読みながら火に投げ入れていました。『行事 1月1日元旦祭 1月5日鏡開祭 2月2日火舞神事 2月17日御田植祭 4月第2日曜日春季大祭 10月9日秋季大祭 10月10日渡御祭 毎月13日月次祭』。遅いどんと焼きだと思ったら、「火舞神事」でした。拝殿に参りました。
『子授け・長寿招福の神 楢神社の由緒 楢神社社務所 天理市楢町443
御祭神:五十狭芹彦・鬼子母神
御祭神五十狭芹彦は孝霊天皇第2皇子であらせられ、崇神天皇の勅命を奉じ四道将軍として山陽道を平定された勲功によって山陽地方では吉備津を平定された勲功によって山陽地方で葉吉備津彦命と称え斎き祀り申しあげている。 当社の伝聞によれば、山陽道平定後、一旦帰京され、再び勅を奉じ北陸道の平定に向かわれ、勲功をお建てになって彼の地で崩御された。その智・仁・勇に秀でられたご神徳を畏敬し慕い申しあげナラツヒコ(奈良豆比古)命と申しあげてお祀り申しあげている。鬼子母神は、当社の古版木に「住吉、加賀国白山の嶺に現れ給いて、御神譚を石川比売命と号し奉る。御本地は詞黎帝母に在し、此神慈照方便深くして抜苦与楽の御神なり。御神誓空しからず和光同慶の眼を開き給い小児を愛し万民撫育し給うこと世の知れる処となり」とある。更に「白山から天真榊に乗って当地に影向あらせられた」とある。この2柱の御神霊を併せ崇めて楢大明神と称え奉り祭祀奉る。
御神絞:丸に違い柏
御鎮座:神薯景雲元年(767年称徳帝在位)
白山の嶺より天真榊に乗り給いて東国石川乃河上楢郷に着き給いて此神木に影向あらせ給い光を放ち給う。庶人奇異の思いをなして天皇48代称徳帝の御宇奏聞を遂げ神護景雲元年9月13日神託により此処(上の宮)へ社殿を造営したと、古版木に見える。その後風雪に朽ち兵火に焼失して現在地に遷座申しあげた。
神殿:桧皮葺き一間の春日造り
現在の神殿は文久2年(1861)春日大社の第52次造営に際し払い下げを受け、氏子によって担ぎ帰り移築したものである。
御神徳:奇御魂(くしみたま)
不思議な御神霊による「子授けの御神徳」は古くから有名である。御神徳にあやかり授かった子供には「排」「奈良」の字を頂いて命名するのが慣わしであった。大阪の住友楢光、画家の小出楢重などである。 また、健康の優れない子供の場合、子供を神前に捨て子として健康を祈願すれば、丈夫な子に育つ霊能を授けて下さる子供の守護神として広く崇敬されてきた。
幸御魂(さちみたま)
慈悲深いご神徳は、ご神井に豊かに湧き出る清水のように家族円満、家運隆盛の恩頼を幸ねえ給うのみでなく、長命与楽のご神徳はつとに名高い。8代目市川団十郎は一族の繁栄を祈願して「ならの葉の広き恵みの神ぞとは、此の三益井を汲みてこそ知れ」と献歌と共に一族の名前を刻んだ井筒を奉納している。
和御魂(にぎみたま)
和光同慶の慈愛をもって万民を慈しみ給う御仁徳は。額づく人々に、大らかにして沈着な人となりを育み給い、学業成就、事業成就を祈願する人々の崇敬の的とされている。灯篭、玉垣に刻まれた幾多の実業家の名前がご神徳の高さを物語っている。
荒御魂(あらみたま)
武勇に秀で知略に長けたご神徳は、英知に優れ、苦難に雄々しく立ち向かう思慮に富んだ逞しい人柄を授け下さる神として、激しい受験競争や複雑な人間関孫の社会で活躍ざれる人々にとって厚い信仰の的となっている。
宝蔵物:・太刀(大小揃い) 名○○州長船祐定大永八年十二月 鰐重信・大絵馬 縦2.24×横3.28m(県下屈指)神功皇后が応神天皇を竹内宿禰に預けて出陣されるの図 ・狛犬 寄木細工 弘化3年 狛犬彫士 高松彦四郎、こと 奉納
摂末社:境内摂末社(八幡神社:祭神:応神天皇 恵比須神社:祭神:恵比寿須神) 苅郷摂末社(厳島神社:祭神:市杵島比売命 稲荷神社:祭神:寅太丸稲荷大明神)
上の宮摂末社(楢神社創始の宮) 神明神社:祭神:天照大神 春日神社:祭神:天児屋根命 五柱神社:祭神:五柱神 稲荷神社:祭神:保食神
由緒
当社は神護景雲元年(767)9月称徳帝の奏聞を遂げ紳託により宮山に創建された。東大寺二月堂修二会に読誦する東大寺上院神明帳に和蓮・楢・巻向とみえて和爾坐赤坂比古神社に続いてナラツヒコ(奈良豆比古)神社と読まれる神社や、また、延喜式神名帳の添上郡にみえ石奈良豆比古神社に比定する説もあり、当社の伝聞する説話に符合するのであるが、鬼子母神を合祀して二柱御神霊を祭祀するようになり楢大明神(楢の宮さん)称え敬われてきた。
明治の廃仏毀釈令のおり、ナラツヒコ(奈良豆比古)命を祀る神社であったからであろう。五十狭芹彦神社と改称させられたが、一般には「楢の宮さん」として畏敬され慕われてきた。昭和31年に現在の楢神社と改称した。
そもそも、楢の地名は、東方3kmの和漬族の拠点と認められる地域にある西山古墳群の1つから「佐井寺僧道薬師 族姓 楢君素止奈之孫和銅7年(714)2月26日命過」と記載ざれた墓誌が発見された。そこに見られる「大楢君」と称する族姓名に由来すると考えられる。また、大楢君素止奈は650年頃の在世と推定出来、飛鳥時代中期斉明天皇時代の人物である。
従って楢の地に、英傑智謀の誉れの高い楢族の遺祖ナラツヒコ命を祭神としたナラツヒコ命神社を創設しても不思議ではないし、神仏混淆の時代であり、しかも、佐井寺在籍の僧侶を擁する氏族とすれば鬼子母神を古フツヒコ命と合祀しても不自然ではない。
他方、ナラツヒコ命と五十狭芹彦命を同一神とする説話は、日本書紀の一書に曰くとして取り上げられていて当社の伝聞にも符合する。それ故に、明治の廃仏毀釈令のおり、祭神がナラツヒコ命から五十狭芹彦命となり、神社名がそれにならって動いたとしてもやむ無いことであろう。
ナラツヒコ命、即ち、五十狭芹彦命の智・仁・勇に秀でた英傑智謀のご神徳を尊び、崩御されたとする北陸の土地から慈照方便深く伐苦与薬の神であり、和光同慶の眼を開き給もうて小児を愛し万民撫育の慈愛の御神徳の高い鬼子母神をお迎えして合祀し、2柱の御押霊を併せて楢大明神として祭祀したのである。
爾来、大明神の奇・幸・和・荒御魂の御神徳に対する人々の崇拝は弥が上に血局まり、中世〜近世に当社が広く人口に檜爽したのである。
その盛況ぶりは、奉納された玉垣や灯篭に刻まれている氏名が県内一円は云うに及ばず畿内一円に及ぶことからも推測されよう。
中でも、大阪長堀の商人伊丹屋政介の奉納した神功皇后が応神天皇を竹内宿禰に預けて出陣される様子を描いた県下屈指の大絵馬、笠置の酒造家大倉一族、大阪屋一族等の崇敬者が奉納した大灯寵等に加えて弘化3年に大阪島内南畳屋町山田屋善七倅楢吉が世話人になり狛犬彫生局松彦四郎、妻ことによって寄木彫りの狛犬を奉納していてまた、8代目市川団十郎が厚い信仰を寄せていて弘化5年(1848)神井に「ならの葉の広き恵み神ぞとは この三益井を汲みてこそ知れ」の和歌と一族の男7人、娘5人の名前と桝三重ねの家紋を刻んだ井筒を寄進している等の事績から頷けよう。
更には、文久2年(1861)には春日大社の五十二次式年造営に当たり神殿の払い下げを受ける等御祭神のご神徳の高さが伺い知ることが出来る。
明治以降の治乱興亡の時代にあって常に万民を慈しみ、健やかな子供を授け、育て給うて幸せな恩頼を蒙らしめ給うとして、氏子崇敬者の畏敬の的となづている。御祈祷:子授け・安産・初宮参り・七五三参り・縁結び・学業成就・受験合格・商売繁盛・交通安全・家内安全・長寿招福・厄払い・地鎮祭
定例祭:1月1日・元旦祭 1日〜5日・新年祈願祭 1月5日・お鏡開き 2月2日・星祭り 2月17日・恵比須祭・御田祭り 3月初午日・初午祭 4月第2日曜日・春季例大祭 9月1日・八朔祭り 10月体育の日・秋季例大祭 11月15日・七五三参り 毎月13日・月次祭』
r145〜R169を使い、13:56「高おかみ神社」。『水神社 祭神 弥都波能売神(みつはのめのかみ) 弥都波能売神は、神生みの終わりに生まれた、火を鎮める水神にして豊穣をもたらす農耕神です。岡象女神、岡象女、水波能売命、みづはのめのかみ、などとも記されます。
神名については、ミツハ(弥都波)を「水つ早」として「水の出始め」の意味として、井戸や泉と関係させる説がある一方、これを「水走(みつは)」として、潅漑のための引水とする考え方もあります。これは農耕と水とのかかわりを強調する考えです。
実際に弥都波能売神の神話的イメージにある尿は、農耕にとって非常に重要な肥料となります。その意味で弥都波能売神は、火を抑える水神であるとともに、生産に豊穣をもたらす農耕神でもあるといえるでしょう。
弥都波能売神の神格:水神・農耕神
弥都波能売神のご利益・神徳:農耕守護・祈雨・止雨・子授け』
バイクで少し戻り、14:04「和爾下神社」。『和爾下神社古墳 東大寺山丘陵の西麓台地上に築造された前方後円墳である。全長約120m・後円部直径約70m・高5m・前方部幅50mである。前方部が短く、端部が両側へ撥形に開く特異な形態である。当古墳と、東大寺山古墳、赤土山古墳、及びシャープ総合開発センター内に所在する古墳などにより東大寺山古墳群を構成している。 当古墳から東北約800mには和爾の集落があるが、この周辺一帯は、古代大和政権の一翼をになった和爾氏政本拠地と推定され、東大寺山古墳群は和爾氏の奥津城と考えられる。 内部主体や副葬品は明らかではないが、墳丘西側には石棺材があり、また昭和59年の防災工事に伴う調査において一基の埴輪円筒棺が検出された。これらの遺物により古墳の築造時期は、4世紀末から5世紀初頭と推定されている。 天理市教育委員会』
『影媛(かげひめ)あわれ 石の上、布留を過ぎて、薦枕(こもまくら)、高橋過ぎ、物多(ものさわ)に、大宅(おおやけ)過ぎ、春日(はるひ)、春日を過ぎ、妻隠(つまごも)る小佐保(おさほ)を過ぎ、玉筍(たまけ)には、飯(いい)さへ盛り、玉もひに、水さえ盛り、泣き沾(そぼ)ち行くも、影媛あわれこの長歌は、日本書紀武烈天皇即位前紀にある。 影媛は、以前から交際していた平群の鮪(しび)が、太子(後の武烈)の命で大伴金村の軍に乃楽(なら)山で殺されたのを悲しみ、希留から乃楽山まで行って、夫の葬いをした。ここ櫟庄(いちのもと)は、山の辺の道と都祁(つげ)山道との衝(ちまた)に当たり、当時の政治・経済・軍事・文化の要衝であった。 媛はその山の辺の道を、泣きそぼちつつ行ったのであろう。都祁山道をはさんで、南には物部氏、北には和爾氏がおり、この辺りが勢力の接点であった。武烈天皇の母春日大娘皇后は、雄略天皇が和爾臣深目の女童女君(むすめおみなぎみ)に生ませた女である。影媛は、物部の麁鹿火大連(あらかびおおむらじ)の女である。  解説・小柴幸夫 注・読みかなは新かなづかい』
『和爾下神社(本殿重要文化財) 神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄(いちのもと)へ水を引くため高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移し、道も新しく真っ直ぐに作らせたので、この森を治道の森といい、宮を治道社といった。和爾下神社古墳の上に祀られた神社で櫟本の地方にいた豪族の氏神であったが、今は櫟本鎮守の神社である。
この治道社の(春道社とも書く)祭神は素蓋鳴命の本地が牛頭天王であるので、天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係で柿本上社ともいわれた。明治初年に延喜式内の和爾下神社がこれに当たると考証されて社名を和爾下神社と定めた。
今の社殿は、三間社流れ造り、桧皮葺一間向拝付で桃山時代の様式を備え、古建築として重要文化財に指定されている。
祭神は、素戔嗚命・大巳貴命・稲田媛命。例祭は、7月14日祇園祭、10月14日 氏神祭礼  天理市教育委員会』
『記念碑 和爾下神社本殿は、桃山時代の風韻を遺し彫刻色彩に優美なる手法が見られる。昭和13年7月国宝建造物に指定され、現在重要文化財である。昭和46年3月国庫補助金と氏子崇敬者の寄付により総工費1400余万円也(寄進内訳・国庫補助金180余万円・出氏子寄進570余万円・内氏子寄進660余万円)を以って、本殿御屋根葺替及び拝殿の改築社務所宝庫並びに授与所新築等、社頭修復の工を起こし、今年12月竣工を告げたり。 依って概要と関係請負の氏名を刻し、永久に祈念せんとす』
R169に戻り南下し、西名阪自動車道をくぐり、右折して、14:22「石上市神社」。
R169をもう一度東に渡り、14:28「平尾姫丸稲荷神社」。『平尾山案内記:平尾山稲荷神社の境内を中心として平尾山の大部分は旧地名を「宮の屋敷」といった。日本書記による と第24代仁賢天皇の石上広高宮や、その御父市辺押磐皇子の石上市辺宮は、この「宮の屋敷」の地にあったと考証されている。更に東方には大塚・うわなり塚など5世紀頃の大きな前方後円墳や何十という古墳が残っている。又明治16・7年には神社 の東方100米の地より2個の銅鐸が出土して、この地域が古代の文化中心地帯であったことを立証した。特に前記仁賢帝の時代は大和朝廷の所在地として、わが国政治・文化の中心だったのである。
これは今から1500年も昔のことであるが、その後奈良時代から平安時代も平尾山の麓には民家が建ちならび、石上寺・在原寺・六坊寺・薬師堂などの寺院が営まれた。「在原寺縁起」によると、第51代平城天皇の皇子・阿保親王は石上の在原の地に住まわれ承和2年(835)に平尾山にあった補陀落山光明寺を在原に移して在原寺を創建しその本尊十一面観音を迎 えておまつりしたということである。また親王の子で六歌仙の1人とうたわれた在原業平朝臣は、この石上で生まれ平尾の神の氏子として幼名を平尾丸と名づけられた。
「宮の屋敷」というのは石上広高宮の屋敷という意味であ ったかもしれないが、後には宮址に祀られた平尾のお宮の屋敷と考えられて来た。第61代醍醐天皇の時に編述さ れた延喜式に記されている石上市神社は、このお宮のことである。この神社は江戸時代の中頃に石上村の鎮守として現在の石上の民家付近に移されたが、稲荷社はこの旧地のお宮にお残りになった。これが正一位平尾姫丸稲荷大明神で宇賀御魂の神を祀る。この稲荷神社は石上村に限らず遠近の人々から篤く信仰され五穀豊穣・家内安全・商賣繁昌を祈願する人々、平尾丸の在原業平のように賢い子供をという親心から信心する人々など跡を絶たず、特に初午の早春のころ参詣者で一山を埋めるにぎわいを呈する。  昭和40年3月』
R169に戻り南下し、右折して枝道を西に走り、14:49「祝田神社」。『祝田神社 天理市田部町里中鎮座 祭神:豊受大神 祭例:10月14日 由緒:祝田とは古代大和朝廷の屯倉(みやけ)の地(朝廷の直轄領)で屯倉の耕作に従事した農民を表す田部と関連のある名称である。 祭神・豊受大神は、五穀を司り豊穣をもたらす女神として奉斎され、広く衆民の崇敬を集めている。境内には末社・春日神社がある』
境内に、小さめの土俵がありました。枝道を西に走り、「JR桜井線(まほろば線)」を渡り、右折して枝道を北上し、「西名阪自動車道」をくぐり、道なりにr51。突き当りを右折し、再び「JR桜井線」を東に渡り、左折してR169を北上しました。奈良市街地まで戻り、第2阪奈道路〜阪神高速〜近畿道〜外環状道路〜R171で、16:16帰宅しました。


2022.1.30
家内も休みなので、以前から「行こう」とリクエストされていたJR山陰線「鎧駅」「餘部」「城崎温泉」の行程を提示します。雪景色の列車旅が楽しそう。最寄り駅6:10出発です。この早い時間がネックになり、家内から「パス」の答えが帰ってきました。2/1が僕の父親の誕生日で、2/14が命日なので、我が家のお墓参りに行くことになりました。
9:30に四輪で家を出て、r13〜r12で、10:01「道の駅いながわ」。「ベーカリーカフェKonne」で、「食パン260円+ドーナツ130円=421円」購入。道の駅で「お墓のお花」を買い、屋台で売っていた「いな坊焼き」カスタード・つぶあんを各1個150円×2=300円購入。車内で食べながらお墓を目指します。
いつものように、お墓の掃除をしてお花を供え、お線香に手を合わせ帰路に着きます。再び、「道の駅いながわ」前の「日本一鯛焼き・猪名川渓谷ライン店」で、鯛焼きつぶあんを2個200円×2=400円購入しました。いな坊焼きと鯛焼きはほぼ同じですが、鯛焼きの方が美味しかった。
帰宅して、AmazonPrimeで映画やドラマを見て1日が終わりました。


2022.1.29
毎年、コーチしているヨット部員の卒業生クルージングと1回生クルージングをしています。シーズンオフの12〜2月にするので、寒いです。2020年から始まったコロナ禍で、例年のパターンが崩れてしまい、練習に参加できなかったマネージャー・クルージングなど新しく企画したりいろいろやりましたが、2022年に入りどうやらコロナか禍もお終いのようです。
昨年、1回生クルージングが出来なかったので、1・2回生クルージングに幅を広げました。船舶免許の練習で琵琶湖に通う子や自動車免許取得合宿に参加する子もおり、1・2・3回生各1人の少数の参加にとどまりました。3回生の子は、W大からの3回生への編入生です。高校ヨット部では琵琶湖で活動しており、同期のキャプテンがコーチしている大学ヨット部に入学し、高校時代からの第一志望大学に編入試験で合格し、ヨット部に入ることになりました。3回生ですが新入生なので呼ぶことにしました。
仕事場を準備し、8時過ぎに出ました。集合場所の8:34「JR西宮駅北口店ファミリーマート」前。「クリームパン5個108円+フルーツミックス500ml100円=208円」購入。9時に集合でしたが、定刻前に着たのは3回生新人のみ。1・2回生は、電車で寝過ごして1時間遅れになると連絡が入りました。急ぐこともないので、そのまま車内で2人であれやこれや話します。W大でもヨット部に入部し1年間活動し、2回生の時は編入試験に向けて休部して勉強していたそうです。編入試験は一般入試より楽なのかな〜と聞くと、フル試験ではないけど2回生同様の学力も問われるそうで、しかも14倍の狭き門だったそうです。W大のコーチは、僕も現役時代競い合った方なので、その方の話もしました。
9:40頃、遅れていた2人もやってきて出発。10:09、新西宮ヨットハーバー着。センターハウスでトイレをして、出艇申告もして、カードゲートから桟橋に出て係留艇へ。出艇準備を教えながら桟橋を離れます。南西の良い風が入っています。東出入口からハーバーを出ました。神戸大・大阪大・母校KGが練習していました。メインセイルを上げてジェノアも出して、フルセイルで大学の練習を横目に南西へ。フルセイルになりエンジンを止めて、部員にステアリングを交代します。4〜6m/sの風なので、適度にヒールもして「楽しい」を連発しています。
六甲アイランド沖の赤白灯台から大阪湾に出て、関西空港方面に進路を取ります。神戸空港の東を抜け、堺コンビナートのタンク群が見えてきました。関空に降りる旅客機が低空で飛んでいます。13時になったのでUターンして帰路に着きます。再び、赤白灯台から西宮尼崎港内に入り、海上自衛隊阪神基地を観に行きました。防波堤に掃海艇が2隻泊まっていました。前方に機関砲と日章旗、後方に機雷探知機と旭日旗。琵琶湖ではこのような船はいないので、部員が喜んでいました。ハーバー方面に戻り、セイルダウンしてステアリングを僕に交代。お隣の「芦屋ヨットハーバー」に寄り道しました。桟橋付き邸宅を見て、予定通り15:30頃ハーバーバック。16時になると暗くなり始めるので15時台に帰着しましたが、最も日没の早い元日から1ヶ月経ったので、だいぶ陽が長くなりました。桟橋に係留ロープで係留し、船を片付けセイリング終了。
センターハウスに戻り、「レストラン・カフェFRIANDISE」に入ります。午前中センターハウスでトイレを拝借した時、1000円引きのクーポン券を頂きました。4人共ケーキセットを注文し、お喋りに花が咲きました。16:00、帰着申告するタイミングで、会計を済ませました。ケーキセット×4=4360円-1000円。暗くなりだしたら解散しようと思っていましたが、2時間ぐらいカフェにいました。話が盛り上がりました。
車に戻ります。10:09〜17:20新西宮ヨットハーバーP800円。部員を「JR西宮駅」に下ろし、R171で帰宅しました。


2022/1/23
前日に続き、船のステッカー剥がしです。前日は左舷側3枚剥がし、アセトンでFRP表面と綺麗にして新しい船検ステッカーを貼りました。毎回面倒だけど、古いステッカーを剥がしてから貼りましょう。そうすれば、ステッカーの紫外線劣化が少なく、角を数箇所剥がせばビリビリと剥がせそうです。同じ桟橋に係留している船を見ると、皆さん重ね貼りなどせずちゃんと1枚だけ貼られています。
また朝からひたすらゴシゴシ。予定通り2時間で終了しました。これで右舷側も船検証ステッカーを貼り替えられました。
11:30に終了し、ラッカー薄め液(シンナー)とアセトンを陸上保管のレース艇ロッカーに戻し、帰路に着きました。天気予報では13時から1mmの雨です。早く帰らねば。R171を西に走り、武庫川を渡る手前にある「スーパーマルハチ」に寄り道しました。朝、家内から「バター」と「食パン」を買ってくるよう頼まれました。昼までちゃんと覚えていたのは、我ながら褒めてあげたい。忘れる前に買ってしまおうと訪店したのですが、レジの混んでいること・・・雨がポツポツ落ち始めていたので、何も買わずにバイクで更に西に走り出しました。地元に戻り、近所の空いてる「スーパーマルシゲ」(元「スーパーマスカット」)で買い物をして帰宅しました。
帰宅すると、「よく覚えていたね」と家内に褒められました。家内が「見たい」TV番組を一緒に見て、夕方になり「夕食を食べに行こう」と四輪で家を出ました。2人ともあまりお腹が減っていなかったので、カフェ「珈乃香」でサンドウィッチとケーキセットで夕食にしました。スマホでテーブルの上と家内を写して、家族LINEに送りました。


2022.1.22
朝一に仕事場の準備をして、「通勤リード110」にまたがり、一路西宮の母港へ。先週日曜日に続き、係留艇の船検証貼りをします。船検は、車の車検同様のもので、6年に一度検査にパスしなければ船を運航出来ません。中間の3年目に中間検査もあります。3年前は僕が船検に立ち会いましたが、今回は先輩が立ち会いました。これであと3年船を楽しめます。
車検同様、検査済みステッカーを船に貼らないといけませんが、前回のステッカーの上に貼っていったので、ステッカー同士が固着し、一番下のステッカーは船体FRPと同化して剥がれません。1週間前、安易に「貼り替えよう」としましたが、難儀しました。近所のホームセンターまで走り、ステッカー剥がしスプレーとプラスチックスクレイパーを買って頑張りましたが遅々として進みません。ヘルプLINEを送ると、ヨット仲間から連絡が入り、ラッカー薄め液とアセトンを借りました。それでもなかなかはかどりません。
この日はその続きです。プラスチックスクレイパーは少し曲がるので弱く、家から金属製スクレイパーを持ってきました。あれこれ探していると、家内が「これ使ったら」と渡してくれました。家内によるとバターナイフということですが、以前に僕が買ったスクレイパーだと思う。
午前中から夕方16時までひたすらステッカーをゴシゴシし続けました。左舷側の3枚のステッカーを剥がすのに4時間かかり、+2時間で右舷側の半分まで進みましたが、日没が近づいたので撤収しました。


2022/1/17
ロンドンに住む長男の長男りょうくんの誕生日で9才になりました。家族LINEに、「おめでとう」メッセージを送ると、お嫁さんからビデオと写真・メッセージが送られてきました。
「あっという間に9才です。誕生日の朝、起きてくるりょうくんを腕を広げて待っていたら、迷わず胸に飛び込んで来てくれて、あと何年こうして抱きついてくれるかなーとしみじみしました。まだまだ中身は子供だけど、少しずつ大人っぽさも感じるようになってきています。昨日は学校でもお祝いしてもらったようで、すごく喜んで帰ってきました。サッカーには大ハマりしていて、毎日テレビでリーグ戦のハイライトを見たり、家の中でも練習したりしています。学校の放課後のクラブにも入って、毎週水曜日に頑張っています。サムライフットボールクラブは、毎週月曜と日曜日の試合に出ているのですが、先日の試合で初の2ゴールを決めてとても自信になったようです」だって。
バースデーケーキにロウソクを灯した家族での誕生日会では、嬉しそうにだけどちょっとハニカミながら家族からの「バースデーソング」を聞き、ロウソクを消していました。
いつものお嫁さん自作ケーキには、サッカーボールとユニフォームデザインのチョコプレートが載っていました。ユニフォームの背番号は「2」でした。サッカーで2番はセンターバッグのポジション。ディフェンダーのようです。
りょうくんは、侍フットボールクラブの赤ジャージを着ています。「ミチコロンドンコシノ」ロゴと、「ナイキ」のマークが入っています。スポンサードされているのかな?さすが旬のプロサッカー選手が校長をしているスクール、いろんな企業にスポンサードされているのでしょう。
試合の写真を見ると、相手チームに攻め込まれているシーンで、りょうくんはセンターバックのポジションにいました。試合後の試合後写真を見ると、背が伸びたようでチビではありませんでした。我が家は僕を含め、小学生の時はチビが定番だったのに、意外に背が伸びだすのが早いです。所属サッカークラブ「Football SAMURAI Academy」からの試合結果連絡を見ると、りょうくん所属の「Under9」は、12-0で勝利していました。今年に入り、「U8」から「U9」に上がったようです。日本のように4月替わりではありません。
それらを見て楽しんでいると、再びお嫁さんから家族LINEに投稿がありました。「お父さん、お母さん、本が届きました!いつもありがとうございます。早速喜んで読んでいます!(英語だとすんなりと読み始めてくれます)。日本の怪談の英語本があるとは、びっくり。読んだら英語で感想を書いておじいちゃんに見せたら?と提案してみようかな、と思ってます」だって。
1週間前、「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のKWAIDAN」という英語で書かれた本をバースデープレゼントとして送りました。コロナ禍の航空機減便により、もっと到着に時間が掛かると思っていましたが、通常通り1週間で到着しました。家内とお嫁さんからのメッセージを読みながら、「ありゃ〜、やっぱり英語の方が読みやすいんだ〜。家庭以外は全て英語の世界で生活しているので、仕方ないよね」と。週1で日本の文科省の小学校に通って、膨大な1週間分の宿題をこなしていますが、そんなんじゃ英語力に日本語力は追いつかないようです。
次男のこうちゃん5才も、誕生会でサッカーチームのジャージを着ていました。「BJK1903」と月と星のマークの入ったロゴです。調べたら、「ベシクタシュ・ジムナスティック・クリュビュ」というトルコ・イスタンブールを本拠地とするサッカークラブで、1903年創立の古い歴史を持つトルコを代表するクラブでした。さすがサッカー発祥の地イングランド、いろんなチームのジャージやユニフォームが手に入るのでしょう。
サッカーの起源は、8世紀のイングランドで、戦争に勝利すると相手の将軍の首を切り取る習慣があり、勝利した兵士がその首を蹴って遊んだことがルーツとのこと。戦闘で首切りするより、ボールを蹴って勝敗を決めた方が良いね。


2022/1/1
次男一家が車で帰省する予定でしたが、雪のためキャンセルになり夫婦だけのお正月になりました。長男一家はロンドンで、コロナ禍もあり日本の隔離期間を考えると母国にさえ帰国できません。2日前、「JR西日本・冬の関西1デイパス(関西自由周遊区間1日間)3600円」を購入しました。大晦日寒波をプラスに考え、日本海側に雪景色を観に行こうと考えました。
8時頃、「通勤リード110」にタンデムし、JR最寄り駅に向かいます。予定では、福知山〜舞鶴〜小浜線〜敦賀〜湖西線〜京都〜大阪〜帰宅のルートでしたが、雪のため「小浜線」が運休になったので、京都まわりで湖西線で敦賀に向かいます。JR尼崎駅で新快速米原行きに乗り換え京都に向かます。多くの席が塞がっていたので4人掛け席の対面に家内と座りました。しばらくして、僕のお隣のお若い女性から、「あの〜この電車は「のす」に停まりますか?」と持っているスマホを見せながら尋ねられました。「ああ、停まるよ。ちなみに「のす」ではなく「やす」って読むんだよ」と答えました。大阪駅に着き、4人掛けのもうひとりが下車し、お若い女性は「こちらに座られますか?」と後ろの席に移られました。京都まで、お喋りしようと思ったのに残念。「天王山」を過ぎ「大山崎」をを過ぎると、京都西山は雪景色でした。雪が舞っており、車窓から見える屋根にも雪が積もっています。
JR京都駅で、湖西線に乗り換えました。山科駅を過ぎ、長いトンネルを抜けると雪がしっかり降っています。「JR比叡山坂本」を過ぎると、車窓は雪国。終点「JR近江舞子」から先は、雪で運転休止になっていました。最も雪が多い「JR近江塩津」に行こうと思っていましたが残念。車窓から見える琵琶湖も寒そうです。湖西線を戻り、「JR山科駅」で湖東を北上する「米原行」に乗り換えます。「JR草津」まで乗り、「JR草津線」に乗り換えました。もう雪国の景色はありませんが、時折雪が舞います。地方線で各車両にはブレーキ・動力がないので、出発時にガタンガタンします。ローカル線の楽しさです。
「JR貴生川」で乗り換え。「信楽高原鐵道」はここで乗り換えで、かつて家内と信楽を自転車で走った時、自転車を持って乗りました。「甲南」「甲賀」「油日」と駅名が続き、忍者色が濃いです。「柘植」で関西本線に乗り換えました。「伊賀上野」を通過し、「大河原」から「木津川」沿いを走ります。「笠置」から見える「笠置キャンプ場」にはテントが並んでいます。寒いのに凄い!駅から若者キャンパーが数人乗ってきました。ここは電車で行けるキャンプ場です。
「加茂」で「大和路線」に乗り換え、次の駅「木津」で「学研都市線」に乗り換えました。「新祝園」という駅がありました。「ほうその」と読むようです。珍しい、そして御目出度そうな名前なので謂れが気になります。駅の観光案内に「祝園(ほうその)神社」がありました。帰宅して調べたら、『崇神天皇時代討伐された武埴安彦(たけはにやすひこ)の亡魂を鎮めるため勧請された』とありました。「武埴安彦」を調べると、「8代孝元天皇の皇子で、10代崇神天皇の時代に挙兵し討ち取られた」とのこと。11代垂仁天皇が、イエス・キリストと同年代を生きた方なので、紀元前の「日本書紀」のお話です。
「同志社前」を通過し、関西難読地名「放出」から「京橋」、「北浜」を通過し「尼崎駅」。この電車は次の「塚口駅」行でした。尼崎駅で下車し、帰宅しました。

家内と「冬の関西1デイパス」を使ってJR湖西線に乗りながら、家族LINEに雪景色の写真などを送りました。それに対し、次男のお嫁さんから家族LINEが入りました。「あけましておめでとうございます」で始まり、「雪景色、綺麗ですね」。
大晦日からの寒波により、我が家への帰省を止めたので、年末年始を富士宮市で過ごしているそうです。12/31は牧場、1/1は富士山の絶景スポットに行ってきたそうです。そして1/2は熱海だそう。写真を見ると、「富士山麓朝霧高原まかいの牧場」とありました。田貫(たぬき)湖の向こうに雪を冠した富士山が見えています。馬と触れ合っています。僕もそうだったけど、次男は家族をいろんな所に連れて行き楽しんでいます。家長はこうでなくちゃ。

夕方、長男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。「明けましておめでとうございます。イギリスは今、1日の朝です」。時差が-9時間なので、ロンドンの朝9時が日本の同日夕方18時です。
長男一家は、クリスマス休暇を利用して、24〜31日までトルコ旅行してきたようです。イギリスは新型コロナオミクロン株で陽性者が増えているけど、日本ほど強い鎖国政策していないので、海外からの渡航者の隔離が楽です。「コロナ関連の準備(ワクチン証明やPCRテストなど)は大変でしたが、無事行って来れて本当に良かった。12/31夜に帰ってきて、みんな早々に爆睡し、0時の年越しごろ花火の音になんとなく気付きながらも起きる事なく、朝を迎えました。日本と違ってお正月のテレビ番組などもないので、元旦のいう感じは全くないです。PCRの結果が出るまで自主隔離の年始です」。
「24日から旅行だったので、少し早くサンタさんにも来てもらいました」だって。子どもたちがサンタさんからのプレゼントに歓声を上げている写真がありました。トルコ旅行の前半はカッパドキア。洞窟ホテルで宿泊したようです。岩山にポツポツと窓があり、周囲に緑の木はなく荒涼とした風景でした。後半はイスタンブールに行ったそうです。
ヒジャブで髪を隠したお嫁さんが、モスクに溶け込んでいます。ヒジャブを被っていない女性もいるので強制ではないのでしょう。かわいいな〜と思ってお土産に買ったのでしょう。モスクは外観も内装も素晴らしく圧巻だったようです。お嫁さんは、長男を出産する前まで海外を飛び回る仕事をしていたので、トルコにも行ったことがありそうですが、きっと長男は初めてのはず。そして、学校で様々な宗教について詳しく学んでいるりょうくん(8才)が、色々と解説してくれながら見て回ったそうです。イギリスの小学校なので、クラスメイトにイスラムの子もおり、イスラムの勉強もしているのですね。
「トルコアイスを食べたり、搾りたてザクロジュースを飲んだり、本場のケバブを食べたり・・・、親日国なので皆とても優しくしてくれました」だって。皆さんから、「久しぶりに日本人を見た!」と喜んでくれ、道案内してくれたり、おすすめスポットを教えてくれたりしてくれたそうです。ただ、子供たちはホテルのプールとショッピングモール内の室内遊園地に大喜びで、観光や旧跡なんて興味がないですね。僕も子供の頃はそうでした。「温泉に行く」「出雲大社に・・・」「伊勢神宮へ・・・」、両親は謂れや歴史を教えてくれていましたが、「そこに行って何するの」が僕の興味でした。温泉なんて、ただのお風呂だし・・・長男はアメリカニュージャージー3年、ロンドン3年目で、合計6年連続で海外勤務です。「せっかく会社のお金で欧米に住むのだから、盆正月に帰省するなんてせず、アメリカ大陸やヨーロッパ大陸を楽しんだ方がいいよ」とアドバイスしましたが、長男は家族を連れて海外で視野を広げています。子どもたちは良い経験になっているでしょう。



逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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