-ウェブマスター日記 2021/9-10

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2021/10/31
SNSで見つけたヨット乗りさんが、「乗せてあげるよ」のお誘いに厚かましくコンタクトしました。初乗艇の私を気遣い、天気の良い日を考えて下さいました。西宮の知ってるハーバーに向かいます。前日夜、「ありゃ、菓子折り買うの忘れた」とネット検索し、当日朝8:30に西宮の千鳥屋さんが開店するのを見つけホッとしました。
通勤リード110で出発し、8:37「千鳥屋西宮本店」で、「銘菓撰」購入。8:48「セブンイレブン西宮今津港町店」で、「ゆずれもんサイダー100円」購入してハーバーへ。早く着きすぎたので、あたりをウロウロします。
バイクに腰掛け本を読んでいると、ハーバーに入っていかれる方がいました。きっと本日のメンバーさんだと思い、教えてもらっていた船に行くとおられました。Yamさんというバイスキャプテン格?の方。挨拶します。オーナーSutさんが来られ、DaiさんとSanさんがやってきてメンバー全員集合のようです。Sanさんは女性でした。
さあ、出艇。いきなり私のドライブで桟橋を離れます。いつもセイリング日記に上げておられる阪神高速湾岸線橋脚下を通過します。中央を走れば音が鳴るそうなのですが鳴りませんでした、あれれガックリ。セイルアップし機走からセイリングにチェンジ。
ティラーではなくステアリング艇でしたが、風上側に座ってステアリングすると、いつもステアリングの後ろで車の運転スタイルばかりだったようでビックリされちゃいました。ジェノアのラフテルテイルが見やすいから・・・と説明すると、なるほどやってみようだって。それぞれの乗り方がありますね。僕はディンギーでヨットを覚えたので、風上側に座る方が自然です。ステアリングを交代し、Sutさんの煽りで僕の乗り方をやっておられました。一文字防波堤の尼崎側から大阪湾に出て、クルーザーレースを横に見ながら、一文字の神戸側から西宮尼崎港に入りました。
また僕にステアリングを交代し、僕のホームポート・新西宮ヨットハーバーのゲストバースに船を着けます。3時間900円でした。「新西宮ヨットハーバーレストランカフェFRIANDISE」で「エビフライ定食1500円」を昼食にしました。オープンエア席での昼食が気持ち良い。14:40カフェを出て船へ。
弱いながら風が続いており、楽しみながらハーバーバックしました、帰路も私ステアリングで阪神高速湾岸線橋下を通過しましたが、また鳴らない。またまた残念。桟橋に戻りました。ああ楽しかった。ベイトリップが目の前なので、知り合いに会うかな?と思ったけど会えませんでした。
皆さんに挨拶し、帰路に着きました。またヨット知り合いが増えました。

10/30は、次男の長男・おーちゃんの誕生日でした。次男のお嫁さんから、LINEが入りました。『お父さん、お母さん、誕生日プレゼントありがとうございます。本や塗り絵・ブロックたくさんもらったおーちゃんは大喜びでした。ブロック…パーツが増えて大作ができそうです』
僕は息子たちがチビの時、絵本読みを毎日し、プレゼントはレゴブロックなど作る素材が多かったです。次男はレゴが気に入り、毎日大作を作り、毎晩僕が帰宅すると、まずそれを見せてくれました。そして今は、建築士をしています。ブロック作りをまだしているようなものです。
おーちゃんは2才になったばかりなので、まだ小さなレゴは難しく、大きめのレゴデュプロブロックをプレゼントしました。すでにデュプロを買ってもらっているので、より大きな作品に挑戦してくれるでしょう。送ってもらった写真を見ると、すみれちゃん(5才)が作っていました。
『2才になったおーちゃんは、言葉も少しずつ増えてきて、いろいろな事が理解できるようになってきました。時々変な顔をしたり、とぼけたフリをしたり、お調子者な性格も出てきました。元気でやんちゃなところがあるので、毎日追いかけっこしています。
保育園では、何か1つ出来たら先生とハグをするそうで、甘え上手で可愛がられているようです。毎日元気に通ってくれているので、あまり心配をかけないいい子に育っています』だって。保育園での誕生日会のビデオも送ってくれました。お嫁さんの声も入っており、お誕生日の家族なら園児の後ろで見れるようです。1週間前、同居しているお嫁さんの両親と妹家族で軽井沢に行って、おーちゃんの誕生日を祝ってもらったそうです。その時の写真もありました。
『誕生日当日は、はとバス(2階建て)に乗って、東京駅から国会議事堂→東京タワー→レインボーブリッジ→豊洲新市場→歌舞伎座を1時間でドライブするツアーに行きました。喜ぶと思って予約したのですが、天気も良く気持ち良かったのか開始10分で寝てしまいました』。長男一家は、ニューヨークやロンドン・パリで2F建てバスに乗っています。僕ら夫婦は、京都で2F建てバスに乗りました。これで次男一家も2F建てバスデビューしました。
『今日は私のお友達とハロウィン仮装(ハロウィン)して遊んできます。いつも家族サービス頑張ってくれているたーくん(次男)には、久しぶりに1人の時間を楽しんでもらいます(本)』。子供たちに親に預け、渋谷とかに行ったのかな?と想像したら、写真に魔女?姿のすみれちゃん、?姿のおーちゃん、頭にリボンの載ったお嫁さんが写っていました。渋谷ではなさそうで、ジャングルジムのある広そうな公園でした。子供たちを連れた元クラスメイトと集まったのかもしれません。僕が30代の頃は、ハロウィンなんで皆無でした。東京にディズニーランドが上陸した影響でしょうか?


2021/10/24
週末は一泊で「四国お遍路バイク旅」を計画していましたが、夜中1時発の神戸港発フェリーに乗に行くのが辛いなと感じキャンセルしました。家内と何処行こうか考えました。KGファイターズの試合はありません。朝8:30にスーパーに買い物に行き、一旦帰宅して冷蔵庫に収納し、丹波篠山に向かいました。
ホームフィールド北摂の里山は、秋色に色づき始めていました。夜明けが遅くなり悲しい季節ですが、全山紅葉の秋のひとときはもうすぐのようです。r12で北上し、「西峠」を越え丹波篠山市へ。「丹波猪村」で、猪肉蕎麦を食べました。家内は親子丼。お腹を満たし、r12を北上し、R372に突き当り、西へ。「丹波猪村」にもr12沿いにもありましたが、国道沿いにはテントが立ち、丹波黒豆(枝豆)を売っています。この時期は丹波黒豆求めて多くのバイクや四輪車がやってきます。バイクも多いですが四輪も多く、国道は大賑わいです。
混みすぎて、R372の渋滞が始まりました。国道から混むなら、篠山中心部に向かう県道などはもっと混みそうで、早めに国道を外れ、篠山城の北から中心地に入ることにします。r301を西に走り、北から市街地に入り、いつもの「特産館ささやま」Pに車に入れました。Pは1台待ちでPに入る時、「ここは特産館専用Pです。退出する時、特産館のレシートを確認します。レシートがない場合は駐車料金を申し受けます。あらかじめご了解下さい」と書かれた用紙を頂きました。「二階町通り」を歩きました。ここでも、お土産のメインは「丹波黒豆」です。枝付きもあり、枝豆だけもあり、「1kg1000円」が相場のようです。「800円」のところもあり、枝豆だけのところもあります。「買って帰ろうか?」と家内に聞きましたが、「もういい」とのこと。お客様から既にもらい、大量に湯がきました。夫婦二人だけの世帯なので、2日ほど毎食枝豆を食べました。
子供たちがチビの時から、ここには何度も「猪鍋」を食べに来ました。最初は、幼児の長男含め家族3人でお正月に宿泊し、目の前の猪肉屋さんの店頭に猟師が仕留めたばかりのイノシシを置いていったのを見つけ、お肉屋さんに了解を取り、まだ血が流れるイノシシの肌を触り、長男を軽く横たわるイノシシに乗せました。それから毎年のように冬になると篠山に来るようになりました。両親のいる時は6人で、父が亡くなってからは5人で、息子たちが家族を持ってからは、お嫁さんや孫も連れて。
11:24、「なつかし屋」でけん玉770円など1025円を買いました。「大正ロマン館」で家内を待たせ、車に戻ります。12:14「特産館ささやま」で、「黒豆ロールケーキ1080円」購入。家内を「大正ロマン館」でピックアップし、R176で帰宅しました。その途中、13:59「JR新三田駅」近くの「コメダ珈琲」に寄り道し、「デザートセット790円+890円=1680円」でオヤツにしました。シロノワールを食べようと入りましたが、家内はケーキセット、僕は新製品のシロノワールのパンケーキがバウムクーヘンに変更されたものを注文しました。もちろんいつもの半分シェアです。r68〜r33で帰宅しました。


2021/10/17
午前中、家内と久しぶりに映画デートしました。毎年5〜10本は2人で映画館に足を運んでいたのですが、コロナ禍で映画製作本数が減り新規上映本数も減ってしまい、2020年は3本ぐらいしか観に行っていません。今年も同様で、これで3〜4本目です。
4時過ぎに目を覚まし、6時台に家内と一緒にトーストを食べ、またゴソゴソしました。8:30になり、四輪に家内を乗せて映画館に向かいます。朝は昨夜からの雨が降っていましたが、もう止んで晴れ間さえ出ています。前線通過に伴う雨だったので前線通過後の強めの風が吹いています。
JR尼崎駅北側にある商業施設内の映画館で、9:20「マスカレード・ナイト」を観ました。数年前に観た「マスカレード・ホテル」の続編です。主役の木村拓哉さんと長澤まさみさん、その他のキャストも同じ方を揃えている感じです。僕はキムタクの演技が好きです。自然体の演技に感じ好感しています。長澤まさみさんは女性の色気や可愛らしさ・優しさを強く感じる女優さんではなく、さっぱりした男っぽさが魅力です。でも、脚線美が素晴らしい。家内も「さっぱりした」性格で、女性特有のウェットな感じがなく気に入っています。でも今まで会った女性の中で最も肌が綺麗で透明感がある女性の魅力を持っています。女性の魅力の一部を持っているけど、さっぱりした性格の女性が好きなようです。そういう意味で、長澤まさみさんもとても好きな女優さんです。
前作同様、楽しめる映画で、良い気持ちで映画館を出ました。10月末は、長男のお嫁さんと次男とこの長男おーちゃん(2才)の誕生日です。おーちゃんのプレゼントは用意できているのですが、長男のお嫁さんのはロンドン在住で送料が必要なこともあり決めかねているようです。チョコチョコとお店を見て回りましたが、まだ「これだ」というのが見つからないようです。前回は、「西宮ガーデンズ」で見繕いましたが、この日は午後から用事があるので時間がなく、いろいろ回れませんでした。


2020/10/10
また3時台に目が覚めました。6:19「ファミリーマート大津茶が崎店」で、「ピーナッツクリームパン108円+ブルガリアヨーグルト低糖124円+ブルガリアヨーグルトブルーベリー145円=377円」購入。パンとヨーグルトで朝食にしました。旧R161(現r558)で琵琶湖西海岸を北に向かいながら、寺社観光しながら和邇のヨットハーバーに向かう予定でしたが、四輪では気楽に駐車できずバイクでないとPがある所以外の観光はダメですね。
9:30集合なのに、2時間前に着いてしまいました。湖岸沿いの道に車を駐め、読書タイムしました。1年ほど前、「木曜日にはココアを」というカフェに集う人々の物語をオムニバス風に並べた文庫本『3分で読める!コーヒーブレイクに読む喫茶店の物語 「このミステリーがすごい編集部編 ほっこり泣ける物語から、ユーモア、社会派、ミステリーまで喫茶店をめぐる超ショートストーリー25作品 宝島社文庫』を読みましたが、またカフェの本をお気に入りの本屋さんで見つけてしまいました。北東の安定した風が入り、すぐにヨット部LINEで情報を送ります。この風が南湖に吹き込み安定すると予想しましたが、南東から優勢な5〜6m/sの風が入り、それも送ります。
9:30になり、ハーバーPへ。既にYasさんがおられました。加えて女性が2人おられ、Yasさんのお店のお客さんとそのお友達だそうです。お客さんの長男さんは大阪の大学のヨット部員だったそうで、それで誘われたのでしょう。
着替えてYasさんの船に行くと、ImaさんとNodさんが来られました。Nodさんは久ぶりです。「・・さん、久しぶり。いろいろ活躍を聞いていますよ」だって。4人で艤装します。すぐに準備が終わりました。船を下ろしてもらい、乗り込んでImaさんドライブで湖面へ。4〜ブロー8m/sの風が入り、時折白波が立つコンディションで、気持ち良く走ります。お一人が船酔いで気持ちが悪くなってきました。ドライブすると船酔いは治るので、ティラーを持ってもらいます。なかなかセンスが良く真っ直ぐ走れています。琵琶湖大橋のすぐ北まで走り、「リブレ」のレースをしていました。そこでタックして北にバウを向けます。ヨット部員を持つお母さんにティラーを任せ、僕が横でサポートします。ハーバー真東まで戻り、ジブをファーリングして、昼食にします。僕がティラー担当になったので、片手でサンドウィッチが食べにくくシュークリームを頂きました。
食べながらハーバーに帰るように動かします。食事中でヒールを小さくするためジブは巻いたままで、ゆっくりスターボで進みます。お一人がまた船酔いでバウにおられるので、ジャイブ回りは怖いかな〜と思ってタック回りを試しましたが、ジブがないと回りませんでした。仕方なくジャイブ回りしてポートタックになり、反対側に座っているImaさんにティラーを渡しハーバー前へ。セイルダウンしてハーバーに戻り、船から降ります。船酔いした方はすぐに楽になりました。船酔いで早めにハーバーバックしたので、芝生のテーブル・チェアで昼食の続きをします。残りのサンドウィッチを完食しました。船の解装を始め、4人なのですぐに終了しました。これで解散。
コーチしている大学ヨット部のレースの経過をずっとクルージングヨット上でチェックしていました。この日は2レースで、全8レースで3日間を終えました。結果、470級はD社には追いつけませんでしたが、3位以下を離し2位になりました。S級は、6レース終了時点でD社と同点でしたが、7レース目で4点負けましたが、最終8レース目は10点勝ってトータル4点差で優勝しました。総合は、優勝D社、75点差で2位当方、3位Rits124点差・・・でした。
r558を南下し、R477を西進し、「真野IC」から湖西道路に乗って南下しました。「京都東IC」から名神高速に乗り、「吹田IC」で下車し、中央環状道路〜R171で明るい内に帰宅できました。3日ぶりの我が家と家内、やはり落ち着きます。
ロンドンに住む長男のお嫁さんから、家族LINEが入っていました。りょうくん(8才)が日本語学校で書いた詩が、ロンドンの日本語学校(3校あり)のお便りに掲載されました。室内トランポリン場で思い切り遊んできた写真や、公園でのんびりしてきた写真などがありました。ほとんどはルーカスくんのプリスクールでの生活写真で、9月初め初めてのスクールで先生に抱っこされていた写真と大きく違い、クラスメイトと美味しそうに食べています。手を繋いで輪になってお遊戯をしています。選ばれたりょうくんの詩は小学生低学年にはナイスな語彙で素晴らしい。他の子は皆作文なので、詩を書くなんて更に素晴らしい。まあ、爺さんの欲目です。


2020/10/9
夜早く寝たので、3時台に目が覚めました。真っ暗なので2度寝したりゴソゴソしたり、ヨーグルトを朝食にして移動。6:35YHのP。2日目は1日目より少し風がある。ブリーフィングで、「この日で大勢が決まる。5レースする予定なので、最後まで気持ちを切らさず頑張ろう。マネージャー・サポーターも仕事を割り当てられているので、レース結果に気持ちは左右されるだろうが、自分の仕事をきっちりこなそう」と話しました。
定刻通りに出艇し、2日目のレースが始まりました。両クラスD社に続き2位で始まった2日目ですが、470上位4校、S級上位3校が他の学校とは差があり、インカレ本戦に進むのは、この学校で決まるのが見えてきました。470級は、2・3レースを終え、トップD社に2位当方は少しずつ離されながらも食らいつきますが、3位以下が離れて行きます。ところが少し風が上がった4・5レースで当方の成績が3艇揃えて上がらず、トップフィニッシュはあるが3艇目がダメだったりで、D社を追いかけるスコアメイクに苦しみ、最終6レース目で、3位Ritsに1点差にまで追いつかれてしまいました。D社は独走体制です。5位以下は遥かに離れたので、インカレ本戦出場はほぼ確定ですが、3位以下は想定外です。明日巻き返さねば。S級はD社と接戦で、2レース終えトータル1点負け、3レース終え2点負け、4レース終え逆転し1点勝ち、5レース終え8点勝ち、6レース終え同点で2日目終了。3位Ritsとは大差になりました。
ハーバーバックし、6:35〜17:40「柳が崎YH」300円。大津湯出風呂にはいり、18:56「来々亭チャーハンセット950円」。19:20「セブンイレブン大津鏡が浜店」で「ゆずれもん500ml93円+はちみつレモン天然水540ml109円=218円」購入し、また合宿所横で車中泊します。20時ズームミーティングして「おやすみ」。
2日目を終え、470は2位グループで接戦、S級は優勝争いで熱い戦い中ですが、全日本インカレへの切符はほぼ確定なので、明日はヨット仲間から誘われ北湖クルージングに向かいます。


2020/10/8
コーチしている大学ヨット部の最大&最終目標である全日本団体戦の地区予選3日間の初日です。全日本開催地「愛知県蒲郡海陽ヨットハーバー」で数週間夏練習して来ましたが、この地区予選で470級は上位4校・スナイプ級上位3校に入らなければ、4回生は全日本を経験出来ずに引退です。どうしても、ここを通過せねば。そして、ここ数年の目標だった打倒D社を果たして、1位通過を実現したい。例年なら合宿所で学生と寝泊まりするのですが、今年も昨年同様コロナ禍で利用できません。そこでヤドカリすべく、四輪に布団を積んで出かけました。6:16「エネジェットセルフ北村」で給油。R171〜中央環状道路〜吹田ICから名神高速。京都東ICで下車し、7:22「セブンイレブン大津松山町店」で「カフェオレ500ml108円+フレッシュバナナ200円=332円」購入。7:26YHのPへ。
7:30に朝一の集合を終え、レース艤装します。選手だけではなくサポートメンバーもそれぞれ動いて、それぞれの持場で仕事を始めています。沖を見ると風が弱く、AP旗(レース延期信号)が上がりそう。11時からかな〜、あるいは1日中風待ちで明日からかな〜。3日間で全10レースの予定です。
ブリーフィングは出艇前にすることになり、出艇延期・風待ちが確定してから部員たちと他愛のない話をしていました。京都ヨットクラブの知り合いの方が来られ、「コーヒーあるよ」。京都ヨットクラブに移動し、あ〜だこ〜だ話します。
綺麗なシーホースが数艇艇庫内に置かれており、いろいろ聞かせてもらいました。D旗(出艇OK)の準備情報が流れたようで、仏教大がセイルを上げました。セイルに風を受けたブームが470ラダーに当たり、知り合いが「仏教大の子」と注意してあげました。キャプテンの女の子が入ってきて、部員数など状況を尋ねます。部員獲得状況を聞くと、ウェブサイトなどがないようで、ツイッターやフェイスブックだけです。それも更新が少なく、デジタルで活動をオープンにしていません。僕は、最初ジュニアヨットクラブでウェブサイトを立ち上げ、この効果を実感しました。次にジュニアヨット協会の理事に立候補し、広報委員長としてウェブサイトを立ち上げ、親御さんのメーリングアドレスを組織化し、デジタルを強化し大好評を得ました。続いて母校ウェブサイト、そしてコーチしている大学のウェブサイトを女子マネージャーで回すことを画策し、もう私など必要なくなっています。その御蔭で、コロナ禍でも新入部員募集に困りませんでした。それらをかいつまんでキャプテンさんに伝え、ヨット部が盛り上がるよう促しました。僕の学生時代と比べると、活動してる大学ヨット部数が半減し、当然ヨット部員も減っています。ヨットがもっと盛り上がって欲しいな。
D旗が上がり、470が出艇していきます。上マーク付近に固定し風情報などを送る支援艇に乗るので、そちらに移動しました。上回生の他に1回生も乗ります。レンタルしたのでKihオーナーさんに挨拶&自己紹介します。乗員を乗せ桟橋を離れます。ですが・・・、何だか動きが変です。セーリングクルーザーですが、雨が濡れないよう囲いのあるセンターコクピットがあり、そこにスロットルとステアリングがあり快適に運転できます。Kihさんがステアリングをぐるぐる回していますが、スターンに見えてるラダーヘッドが動いていません。こりゃ、ステアリングとの連動が壊れているなと、直接ラダーヘッドを手動で動かすとちゃんと船の動きが変わります。その事をKihさんに報告し、コクピット内ではエンジンスロットルのみで、方向はラダーヘッドを手動で動かすことにしてレース海面を目指します。アウトコクピットの座席を上げティラーを探します。やっぱり有りました。ティラーを取り出し、ラダーヘッドに挿してティラーステアリングに切り替え楽になりました。エクステンションも付いているので更に楽です。ハーバーの船の混んでるエリアを抜けたので、2回生S級スキッパーのInaちゃんを指名して交代しました。
上マークの風上に船をアンカリングし、風データなど収集開始しスタートエリアにいるコーチボートにデータ−送ります。ブローが降りて来ず、レースできないかも?14:30頃安定した風が入りだし、470第1レースが14:50スタート。1・5・19で第1マーク回航して行きます。D社は3・4・6位回航。今年のD社470は全国制覇すると予想しているので、流石に強い。S級は、8・10・18位回航。D社は1・6・7位。470、1下は1・4・15と順位を上げましたが風がなくなりノーレースになりました。S級1下は6・7・13でこちらも順位を上げたがノーレース。
あらためての470第1レース1上は、2・4・11位。S級は3・9・13位。470の2上は、3・6・11位。S級は5・6・11位。470フィニッシュは、当方4・6・11=21点、D社1・2・8=11点、Rits5・7・9=21点、金沢3・10・14=27点。他校とは差が大きそう。S級フィニッシュは、当方3・5・11=19点、D社1・6・8=15点、Rits4・9・15=28点、他は1艇走っても他の2艇が遅いので差がありそう。
初日は1レースだけしか出来ませんでした。ハーバーバックし、7:26〜17:11「柳が崎YH」300円。風呂屋「大津湯」に向かいましたが、Pが満車で近江大橋を東に渡り、18:43「大津湯本水春」で風呂に入ります。800円+タオルセット250円=1050円でした。戻ってきて、19:36「来々亭西大津店」で「チャーハンセット950円」で夕食にしました。艇庫横に移動し車内に布団を敷いて寝る支度終了。20時にズームミーティングして夢の中に落ちました。


2021/10/3
昨秋、高校ヨット部の同期S君が亡くなりました。彼は50代でガンが見つかり、お金持ちで不労所得の多い家なので即仕事からリタイヤし、治療しながら悠々自適の生活をしていました。彼も僕も母校KGに中学から大学まで10年通い、校技(学校スポーツ)のアメリカンフットボールが体育の授業で中学から親しみました。そんな環境で育ったので、アメリカンフットボールが好きです。
アメリカンはサッカー〜ラグビーから派生したスポーツで、とても頭を使う面白いゲームです。体格の良い重量級もラインズマンで必要で、すばしっこいランニングバック、上手に逃げながらパスをピンポイントで通す野球のピッチャータイプのクォーターバック、足が速く背が高くジャンピング力があり更にキャッチング力もあるワイドレシーバー、遠くまで正確に蹴るキッカーというキッキング専門の選手も必要です。ディフェンス側も、重量級のディフェンスライン、ワイドレシーバーに対抗するラインバッカー・・・いろんな特性を持つ選手が必要で、タックルで消耗するので同じポジションで数人必要です。オフェンス11人・ディフェンス11人がグラウンドに出て、多いチームで70人ぐらいが次々に交代で出てゲームをする多くの選手が同じ試合に出る総合力がぶつかり合うスポーツです。生でゲームを見に行くと、試合前にライン際に並ぶ選手数を見ると、凡その勝敗が見えます。選手交代自由なので、人数が多いチームが有利です。
亡くなったS君は、KGアメリカンチームの追っかけで、東京での試合でも観に行っていました。数日前、「秋のリーグ戦がそろそろ始まるな〜」とKGファイターズのウェブサイトを見ていて、10/3が初戦だと知りました。S君の顔が浮かび、すぐに前売りチケット(1300円)を購入しました。ホームスタンド・バックスタンド各2500人の有観客試合です。京都西京極陸上競技場(たけびしスタジアム)12時から京大vs関大、15時からKGvs同志社。チケットは、「MOALA Tiket」システムでのみ購入でき、スマホデジタルチケットのみで紙チケットには対応していません。次節の10/17「王子スタジアムKGvs京大」は、無観客が決定しています。例年なら秋のリーグ戦は、1部リーグ8チームが総当り戦して、最上位校が関西1位となり、大学日本一出場西日本代表最終戦出場権を得ます。関西2位が、西日本リーグ1位と対戦し、その勝者が西日本代表最終戦に駒を進め、関西リーグ1位と戦い、その勝者が大学日本一を決める甲子園ボウルに進出し、東日本1位と対戦します。
でもコロナ禍で昨年よりシステムが変わりました。関西1部リーグ8チームを4チームずつ2ブロックに分け、4チームでリーグ戦をして両リーグ1位が関西リーグ優勝を競います。負けても西日本リーグ優勝校と対戦し、再び関西リーグ優勝チームと対戦し、勝者が甲子園ボウル出場権を得ます。
母校KGは、関大・京大・同志社と同じリーグです。12時キックオフの京大vs関大戦から見ることにします。朝時間があるので、「通勤リード110」のバッテリー交換をしました。数日前、突然セルは回るがエンジンが掛からなくなりました。
何度もキーを回しているとキュルキュルが弱くなり、前回のバッテリー交換時期を見ると2018/3/16で、3年7ヶ月なので新しくすることにしました。前回同様、「AZシールド型バイク用バッテリーATX7L-BS・4483円」を購入しました。バッテリー交換は30分ほどで出来たのですが、キュルキュルは頼もしくなりましたがエンジン始動しません。「こりゃだめだ」と、スクーターの前カウルを外したまま近所の自転車屋さんに向かいました。子供の頃からの知り合いで、僕の自転車も、家内の自転車も、息子たちの自転車も全てここで購入しています。僕が前カウルのないバイクを押して行くと、「あれ?」って顔をしています。キュルキュル音を聞き、プラグを外してチェック。まだ大丈夫そうだけど、少し開いて来てるということで交換してもらいました。これでエンジン始動しました。9:35、NGK・CR7EH9+エアフィルター点検1200円。エアフィルターも点検してもらったので、その分解料も取ってもらいました。
10時に、「通勤リード110」で家を出て、最寄り駅にバイクを置き(200円)JRで「JR富田駅」で下車し、歩いて「阪急富田駅」に移動し、「西京極駅」まで乗りました。初めての西京極陸上競技場でしたが、駅からすぐでした。電車内で「第2級海上特殊無線技師試験」の参考書を読んでいました。先月ヨット仲間が使っていないレーダーが船に付いていただけで海上保安庁臨検を受けお縄になりました。その時乗っていたので興味を持ち、免許を取ろうと思いました。次の試験は来春なので、時間的余裕はまだまだあります。
スタジアム入口で体温測定されOK。次にスマホを開きチケット画面を見せ、何やらピッとされ中へ。12時の10分ほど前にスタンドに入ったので、すぐに「京大vs関大」戦が始まりました。家族LINE・KG仲間LINE・KGヨット部先輩LINEに送りました。知り合いがいれば反応があるはずです。反応は有りませんでした。ファーストアタックで京大はタッチダウン寸前まで行きましたが、フォースダウンでキックして3点先取すると思ったらギャンブルしてインターセプトでゼロ点に終わりました。まだ前半最初なのだから3点取って先行した方が良いと思いましたが、関大の方が格上と感じたのか、タッチダウン7点を続けなければ勝てないと焦っていたのでしょうか。パスが良く通り良い感じだったのに・・・。関大がタッチダウンで先制したけどすぐに京大が取り返し、好ゲームになってきました。京大オフェンスはパスが良く通り進むのですが、ファンブルリカバリーとかパスインターセプトとかミスで攻撃権を関大に取られ、最後は35-14で関大の勝ち。
試合の途中から、一見でKG応援団とわかる「KG」と大きく書かれたタオルやユニ
フォームを身に着けた観客が増えてきました。フィールド外にもKGと同志社の選手・部員達が入ってきました。次の試合の開始時間15時の1時間弱前に試合が終わり、前の試合のチームが片付けた後、マネージャー達がテントなどテキパキと準備して行きます。選手は準備運動やパス練習などを始めました。
観客席は混んでおらず、「隣の席を空けるよう」アナウンスされていますが、それよりずっと空いています。ホームスタンド側は更に空いています。僕を含め応援客は現金なもので、強いチームには応援が多いです。KG以外は応援客が少ないです。KGファイターズは、チーム運営の他にも気を配っており、親御さんも組織されています。関大応援席とは明らかに雰囲気が違います。あちこちで、KGOB・OGと思われる集まりができ、「久しぶり〜」とやっています。選手の母親と思えるグループも出来、お子さんの話題で花が咲いています。チラチラ聞こえる楽しそうな会話が、こちらまでウキウキさせます。
僕の席の後ろに座っておられた男性が電話を受けお友達を案内しています。お友達は女性で、仕事の話の他に、お子さんの話、そして負けてしまった京大の試合状況の話もされていました。僕も前の試合は京大を応援していたので、「お子さんが京大ですか?」と声を掛けました。そしたら、男性自身が京大卒だそうです。関大応援サイドで京大応援していた縁で、あれやこれや試合が始まるまでお話させて頂きました。
「KGvs同志社」が始まりました。選手が並んだ時点で、第1試合同様勝敗がある程度見えました。KGの方が圧倒的に部員が多い。第1試合中に買いに行った「関西アメリカンフットボールリーグパンフレット」によると、KGの選手数は160人で、同志社78人。第1試合は、関大114人・京大60人。京大QBがキッカーもやっていたので、最初良くても疲れて後半に差が出てきます。立命館130人・神戸大学92人・近畿大学75人・桃山学院66人。これが関西1部リーグの所属選手数です。試合は予想通り、KGはランである程度進み、時には大きくゲインし安定しています。昨年まで3年間スターターQBを勤めた奥野くんが抜けましたが、抜擢された2回生QB15鎌田くんのパスんがよく通ります。時折ロングパスが出て、これも見事に通りKG応援団から歓声が上がります。パスに関しては鎌田くんの方がロングを投げられそうです。あと2年あるので、大型パサーに成長しそうです。ワンプレイ終了後、場内アナウンスがランでゲインしたRBやパスを受けたWRの名前が流れ、近くの選手のお母さんグループから一層大きな歓声が上がります。
第2Qが終わり、35-0。第3Qから、QBはじめ各ポジションにスターターではない選手が増えました。つまり2軍に本番の経験を積ませ、今年の後半、来年以降の戦力の養成をしています。第4Q、ファーストプレイ、同志社のキックオフをKGリターナーが一気に同志社ディフェンスを抜き去りタッチダウン。第4Qに入り、スターターが更に多く上がりだし攻撃力が鈍り、タッチダウンまで到達せず、フィールドゴール3点を狙ったキックを同志社にカットされ、ボールを押さえられ攻撃権まで奪われてしまいます。とうとうTDを決められてしまい48-7。これで試合終了。校歌を歌い、互いの健闘を称え合うエールを交換し、帰路に着きます。
1つ残念だったのが、コロナ禍で声援を抑えるべく、チアリーダーがいなかったことです。関大・京大・同志社は少数いましたが、KGはゼロでした。圧倒的に応援の多いKG故、抑えたのでしょう。後ろの席のお2人は第4Q途中で帰っていかれました。京都のお店の話をしていたので、いっぱい飲んで帰路に着くのかも知れません。
阪急西京極〜阪急富田。JR摂津富田まで歩き、18:20「セブンイレブンハートインJR摂津富田駅改札口店」で「コカ・コーラ151円」購入。糖分補給しました。〜JR尼崎〜JR伊丹で下車し、「通勤リード110」で帰宅しました。

僕が家族LINEにアメリカンフットボールの写真を送ったからか、次男のお嫁さんからLINEが入りました。9/23から洞爺湖に行ってきた写真やビデオを送ってくれました。次男が設計した宿泊施設に泊まり、子供たちは思いっきり走り回って、自然をいっぱい感じ、大喜びだったそうです。
この宿泊施設は、会社の保養所でもあります。次男夫婦が勤める建設会社の創業者である会長さんは、自身が設計者なので技術部門を見ており、息子さんの社長さんが営業部門担当です。次男は設計者なので、会長の下で働いています。次男は新規プロジェクトのホテル部門を動かしていましたが、コロナ禍でホテル需要が落ち込み新規がストップしました。そのタイミングで、会社の保養所兼用で北海道洞爺湖に宿泊施設を建てました。外観はウッディーで光を多く取り込んだ建物です。
写真を見ると、敷地内にリンゴの木が植えてあり、すみれちゃん5才とおうちゃん2才が美味しそうに木の横で頬張っていました。次男は、有名な建築雑誌にも取り上げてもらった六本木の農業レストランを設計し、敷地内の温室で稲穂も実らせていたので、北海道ではリンゴの木を植えることにしたのかもしれません。会長さん自身が個人で会社の近くに農園を持っており、次男含め社員が農業クラブを組織し、野菜や果物を育てています。
会長さんも一緒に行ったのか、しばらくこちらにおられるのか、すみれちゃんと手を繋いだり、抱えていました。「パパが作ったんだよ〜」と言われ、2人はちょっとパパのお仕事が分かったかも。ホテル第1号やお店など、これまでも何度も連れて行ってもらっているので、とても良い子育てだと思います。新千歳空港で借りたのか、ヴォルクスワーゲン・ビートル・カブリオレに乗っています。既に秋に入っている北海道ではオープンカーが気持ち良さそう。


2021/10/2
コーチしている大学ヨット部のコーチングです。9月末で滋賀県初の緊急事態宣言が解除され、久しぶりに県立YHがクローズから開け、YH出艇の練習ができます。緊急事態宣言中は、ヨット部合宿所前の砂浜からと私立YHから出艇して練習していました。レギュラー陣は、蒲郡YHまで遠征していました。
5:33、「里山VTR250」で出発。R171〜中央環状道路で、5:49「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「味付け海苔エビマヨネーズ125円+味付け海苔辛子明太子140円+ゆずれもんサイダー500ml93円=389円」購入。吹田ICから名神高速に乗り、「京都東IC」で下車。
京都府道r143を西に走り、「JR山科」駅前を通過し、6:35「徳林庵」。横の道入口に、「人康親王御墓」「十禅寺」の石柱が立っていました。
『京 東の門番 東海道の守護仏 山科地蔵徳林庵 旧東海道沿いに建つ寺院です。地蔵尊は、小野篁(たかむら)作で、1157年に後白河天皇の勅命により、京の都の主要街道6箇所に安置された地蔵のうちの1体です。それ以降、京都に入る際の厄除けの場所、東海道の門番として、今もなお多くの人が訪れます。また、琵琶法師の祖として知られる人康親王、蝉丸ゆかりの寺でもあります。
主な行事:8月六地蔵めぐり
六地蔵めぐり:850年の伝統を持つ行事で、8月22・23日に都の主要街道にある伏見地蔵(大善寺)・鳥羽地蔵(浄善寺)・桂地蔵(地蔵寺)・常磐地蔵(源光寺)・鞍馬口地蔵(上善寺)、そして山科地蔵(徳林庵)の6体の地蔵を巡り、御札を集めて家の入口に吊るすと、厄病退散・家内安全の護符になるとされています』
『徳林庵 柳谷山と号し、臨済宗南禅寺派の寺で、南禅寺の雲英禅師がその祖と言われ、仁明天皇の第4の宮人康親王の菩提を弔うために草創したものという。この地はもと十禅寺の開山人康親王が隠栖された処で、地名も四の宮泉水と言われている。地花堂本尊は、参議小野篁が1本から刻んだ六地蔵の一と言われ、京の町から諸国・諸地方へ向かう東海道の出口にあたり、物詣や疫病の送り精霊会などの交流から道祖神塞神の信仰となり、地蔵菩提信仰として栄えた。また堂後には、四の宮明神と人康親王を祀る供養塔があり、また蝉丸塔とも呼んでいる。江戸時代には、検校位を有する盲人が、毎年1回全国から参集して琵琶の奥枝を献じ、親王の御霊を慰めたという。  京都市』
バイクに戻り、横の道を入り、京阪京都線を渡り、6:43「十禅寺」。『十禅寺:楊柳山と号する本山修験宗、聖護院門跡の末寺である。
平安時代の859年、仁明天皇の第4の宮、人康親王を開山として創建され、この辺りが「四の宮」と呼ばれる所以となったといわれている。また、「泉水町」という当地の町名は、その頃、ここに大きな泉があったためとも伝えられている。更に、人康親王の庵が山科御所と呼ばれていた名残りが、京阪電車の四の宮車庫の辺りを「堂後町」、当時の南を「垣の内町」及び「南河原町」という町名に見ることができる。
度々の戦火にかかり荒廃したが、1655年、霊夢を見た明正天皇によって再興された。明正天皇は後水尾天皇と東福門院の第2皇女で、当時の本尊である正観世音菩薩に特に信仰が厚く、遺言により、自信及び父母の位牌が当寺に安置され、菩提寺勅願所として36石の禄と数々の宝物が下賜された。
境内の東北隅の木の下に、開山・人康親王の廟があるほか、宮中に代々伝わり、人形の原型といわれている天児(あまかつ)、愛玩の人形這子、天皇直筆の文書である宸翰(しんかん)、庭石の短冊石などを蔵している。
また、毎年11月3日には本山の御親修により、天下泰平・家内安全諸願成就の護摩法要が行われる。  京都市』
バイクでほんのちょっと走り、枝道にある石鳥居でストップ。「郷社・諸羽神社」の石柱が立っていました。『天孫降臨(てんそんこうりん)の神話の中で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の左右に従った天児屋根命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るところから、兩羽(もろは)大明神と称したという。貞観4年(862)、清和天皇の勅命でこの地に社殿を建てたのが当社の始まりとされる。
この後、正殿に応神天皇、脇殿に伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・素戔鳴尊(すさのおのみこと)・若宮八幡を合わせ祀るようになり、社名の「兩羽」の文字も「諸羽」に改められた。社殿は応仁の兵火により焼け、その後もしばしば火災に遭った。
当社は、山科18郷の中で第4番目に当たるとされ、古くは「四ノ宮」と呼ばれて、この付近の産土神(うぶすなのかみ)として人々に崇敬された。
神社の背後の山は諸羽山といい、平家物語の中に、「木曽、もろは山の前、四の宮川原に打出で・・・」と記されているのは、当社周辺のことである。 山科区四ノ宮中在寺町  京都市』
枝道を入り、京阪京都線を渡り、JR東海道線をくぐり、6:58「諸羽神社」。『諸羽神社略記 御鎮座:京都市山科区四ノ宮中在寺町19番地の1 御祭神:天児屋根命・天太玉命・八幡宮・伊弉諾命・素盞鳴命・若宮八幡宮 末社:天満宮・稲荷社 御由緒:本社の祭神は初め天兒屋根命と天太玉命であり、上古にこの二柱の神が禁裏御料地の山階郷柳山に降臨座されたので楊柳大明神と奉称した。そもそも、この二柱の神は天孫降臨時に左右を補佐した神であるところから両羽大明神とも称し奉った。
人皇第56代清和天皇の御世の貞観4年(862)に禁裏御所により社殿が造営され、両羽大明神と唱え給い、裏山の名も両羽根山と称するに至った。
中古の後柏原天皇の御世の永世年間より中央に八幡宮、左に伊弉諾尊を、右に素戔嗚命及び若宮八幡宮を配し以上六柱を合祀した。よって両羽の文字を諸羽と改称する。往古の社殿は応仁の兵火により、又その後再建された社殿も江戸中期明和年間の大火により焼失した。同期明和5年氏子中より募財して、3度目の造営がなされ今日に至る。従前は皇室との関係が深く御崇敬を賜った。
明治に至り郷社の社格を受ける。古来山科18郷中4宮・安朱・竹鼻の産土神として親しまれている。現在、社域総坪数1800余坪、山城志大帖、夫木集に曰く、「豆良志土手(つらしとて)諸羽乃山仁加久留共(もろはのやまにかくるとも)我山彦耳成天答武(われやまびこになりてこたへむ)」  諸羽神社・諸羽神社保存会』
バイクに戻り、来た道を下り、JR東海道線をくぐらず線路の北側を西に走ります。JR山科駅を通り過ぎ、右折して山側に少し走り、7:07「琵琶湖疏水」で行き止まり。朝のお散歩の方や、トレーニングを終えて体操している方がいます。疎水沿いに「安祥寺」がありました。門が閉まっており見学不可でした。「高野山真言宗・吉祥山宝塔院・安祥寺」。『安祥寺 安祥山宝塔院安祥寺は、京都に都が遷され平安時代となって約50年後の嘉祥元年(848)、仁明天皇の皇后、文徳天皇のご生母である藤原順子皇太后の発願により創建され、開基は弘法大師空海の孫弟子である入唐留学僧恵運僧都です。
開創の由来から規模の大なることは推測されますが、造営がほぼ完了したと考えられる貞観末(875年前後)には、上下両所の大伽藍を始め、塔頭の坊舎700余を有し、鏡山陵以東山科一帯の山野を独占したと伝えられています。
しかし、平安時代の末には既に開創当初の盛観は次第に失われ、応仁・文明の乱には、上・下両寺共殆ど灰燼に帰し、衰退の極に達しました。
そして、江戸時代に入って五十丁四辺の山林及び境内地復旧の令を受け、久方ぶりに寺の面目の一分を回復、その寺域がほぼ現在の安祥寺の基となっています。今に、観音堂・地蔵堂・大師堂・青龍社・弁天社・鐘楼堂等が鏡山に抱かれるように建ち、法灯を護っています。  京都市』
「護国寺」の案内板があったので、歩いて向かいます。7:11「護国寺」。
バイクに戻り、琵琶湖疏水を渡ります。疎水は水量が豊富で、もう少し時間が経つと、琵琶湖からの遊覧ボートがここを走るのでしょうか?JR東海道線まで下り、左折して「JR山科駅」の北側を東に走り、左折して山側に走ります。
7:26「毘沙門堂」。境内に入り「本堂」前に、『当山が山科に開かれた記念日「開山会」 日時:令和3年10月3日午前11時法要(於本殿)御参拝下さい』との立て札が立っていました。何とこの日が開山記念日でした。残念ながら、時間がないので法要参加はパスしました。春は素晴らしい姿を見せ、観光客を呼ぶ「枝垂桜」があります。一度来ましたが見事でした。
バイクに戻り、「後西天皇皇子」の宮墓地を探しに奥に入っていきましたが、地図を見ると明後日の方向に向かっているので戻ります。再び毘沙門堂Pにバイクを置き、歩いて墓地へ。7:36「後西天皇皇子・公弁親王墓以下6墓立塔・輪王寺宮墓地 宮内庁』。
「毘沙門堂塔頭・山科聖天」案内板に従って歩きます。『護法山双林寺(山科聖天):毘沙門堂門跡塔頭の一院で護法山双林寺という。寛文5年(1665)後陽成天皇の勅により、徳川家より安祥寺の寺領の一部を与えられ毘沙門堂と共に建立された。
当初、本尊は湖東三山の西明寺より迎えられた阿弥陀如来であったが、のち聖天堂を建立し、毘沙門堂門跡公弁法親王ご念仏の大聖歓喜天(聖天)を賜り本尊とした。
その他、武田信玄など多くの信徒や寺院から奉納された聖天像も約70数体合祀し、その数は他に類がなく、願いの叶う霊験あらたかな山科聖天として広く信仰されている。
正面には不動堂があり、堂内で大護摩の焚ける特別な構造をした建築物で、本尊の不動明王は比叡山無動寺谷より迎えられた多数の仏像を巧みに組み合わされた大変珍しい像を安置している。
頭部は愛染明王と馬頭観音、さらに頭の頂点に楊枝の形状の部材が約100本入っている。 織田信長の比叡山焼き討ちにより損傷した仏像を不動明王として蘇らせたものであると言われている。  京都市』
『手水舎で身を清める「洗心」:参拝者が心身を清めるための施設です。水は古くから穢れを洗い流すものと考えられてきました。参拝の際にも穢れ落としから参拝します。単に身を清めるだけでなく、心の機れを洗い清めることが大切です。柄杓に口をつけたり水を飲んだりせず、次のひとが気持ちよく使えるように心遣いを忘れない。この手水鉢は宝袋を模った巾着型をしています。皆さんに福が来ますように』
『もてなす街・山科 京都の街に、人々を迎える小さな街。三条街道、ゆっくり歩けば、高くそびえる牛尾山。山並み美しき東山、さくら並木映す山科疏水。夢を探す天文台、素敵にもてなす街、山科。山の裾野に広がる街並み、人々を見守る。そっと手を合わせ、幸せ祈る、子供たちを見守る、四ノ宮地蔵。おもて参道、やわらかな日差し、安朱は、四季を通して。鮮やかに迎えて下さる、毘沙門堂。
願いを叶える、聖天様。優雅にもてなす街、山科。幸せの山の恵みを運ぶ、山科川。清らかな流れ川沿い歩けば、いくつかの彩映し出す。春は花見、夏は蛍、秋は紅葉、冬には水鳥。木立を抜ける、やさしい風、安らぎ知らせる街、山科。南に佇む、大きな仏閣、人々のお参り。絶え間なく続く、小野の小町、ゆかり深しき、随心院。三方の山を背に広がる、皆を迎える、山科盆地。時を知らせる、日時計、山科御陵。未来を想い、歩んでゆく。心をもてなす街、山科。笑顔が溢れる街、山科。素敵にもてなす街、山科。  詞:周作、曲:潤』
『大聖歓喜天(聖天さま):その御尊像は、十一面観音菩薩と大日如来が力を合わされ、大自在天として分身し、頭が象で体が人身という2体の抱擁身の姿で出現されたインドより渡来の密教の仏像です。御利益は現世利益が中心で、御本尊として「現世の苦を除き現世の幸福を増す」と説かれ、願い事は、一心に聖天様におすがりして祈ることによって叶えられるという。法力が大変強大であらたかなことから、そのお姿は修業をした聖天行者しか拝むことができない秘仏(非公開)として信仰されている。願い事は真言を唱え一心におすがりして拝むことで、お経は観音経と般若心経を唱える。
内陣中央部の赤い円壇の上には聖天厨子というおやしろがあり、真中に並ぶ厨子の中には御本尊が安置され、脇の厨子の中には修法として「浴油」という油をかけて御祈祷する金銅の尊像が納められている。後壇の中心には、ご本体である十一面観世音者薩を祀り、両ガラス戸の中には、創建当時から今日まで各方面からの奉納や預けられた聖天像(客天と云う)が70数体安置され、その中には武田信玄が出陣の際、兜に入れていたと伝えられる聖天像も安置されている。
お供物には、昔唐から我が国に献上された「お團」という独特の揚げ菓子を今日も日々供える』
『浴油供祈祷のご案内:歓喜天(聖天)は、古代インドにおける仏道修行者を誘惑する魔物ガナパティあるいはガネーシャのことで、魔性の集団であるビナーヤカの王とされています。
浴油は、遠い昔、男天の聖火尊(ガネーシャ)が魔神として暴れ回っていた頃、ある日、聖天尊が他の神々から憎まれ、毒物を喰らわされ苦しんでいた。それを見た女天である十一面観音橡がこれを哀れみ、聖天尊に仏法に帰依する事を誓わせ、その山中にある油の池に連れて行き、その油を加持して聖天尊の頭より潅(そそ)がれた。それにより悪い毒物が除かれ、同時に悪神が善神となった。それを喜んだ聖天尊は以来、十一面観音様と力を合わせて世の中の苦しんでいる者を救う誓願を立て歓喜双身天(象頭の男女天の抱擁身)となられたという。これが、浴油祈祷が聖火尊への最上の祈祷とされる所以である。 当山では、大聖歓喜天(聖天)様の縁日(毎月1日より)に浴油法を行っております。
歓喜天浴油法とは、密教に伝わる秘法中の秘法と言われ、聖天様を本尊とし、その御神体に油を浴して行うものです。 聖天橡の、信者のどのような恵みもかなえ信心を得るという大加持力によって、信者方々の悩みや祈願に対し道を切り開く手助けをしようとするものです。 下記祈祷会に御希望の方は、寺務所までお申し込み下さい。
記 浴油会:祈祷期間年中。祈祷日時(毎年1月より12月まで)毎月1〜7日(浴油)、16日(華水供)
もみじ祭り大浴油会:祈祷日時11月中下旬・7日間21座修行。祈祷7日間毎日・二座浴油、一座華水供を修す。御札授与・園遊会開催
初湯油会:正月1日より7日間浴油。御札授与。「護持会」入会により上記全て御案内申上げます。 年額103,600円』
『護法山双林院由緒(通称:山科聖天):当院は毘沙門堂門跡塔頭の一院である。毘沙門堂は、寛文5五年(1665)後陽成天皇の勅により徳川家から安祥寺の寺領の一部を与えられ、天海大僧正・公海大僧正に至って現地に再興された。当院も同年に建立された寺院である。当初、本尊には湖東三山の西明寺より迎えられた阿弥陀如来(藤原時代作「光坊の弥陀」と称す)を安置するが、のち明治元年に聖天堂を建立し、門主の公遵法親王ご念持仏「大聖歓喜天」を賜り本尊とした。そのほか武田信玄や多くの信徒や寺院から奉納された聖天像を70数体合祀し、願いのかなう霊験あらたかな「山科の聖天さん」として広く信仰されている。正面には不動堂があり、堂内で大護摩が焚ける、特別な構造をした建築物である。比叡山の千日回峰行者であった第24代住織が、明治16年に比叡山無動寺より勧請された不動明王を安置する。
(ご縁日)聖天尊:毎月1日・16日、不動尊:毎月28日』
『護持会入会のお願い:寺門維持と各位の家内安全祈念の為、是非皆々様のご入会をお願い申し上げます。会員には、年中諸行事と年次総会へのご案内を致します。
会費(1口)年額3600円(会計年度・毎年4月より翌年3月まで)  山科聖天双林院』
『正五九(しょうごく)護摩供のご案内:9月26日11時より
古くより正月・田植えの5月・収穫の9月は、神仏に願って災厄をはらうためにお寺や神社に参詣したと記されています。9月は、特に神様の御加護を頂くために仏様へ祈りを捧げるべき月となりますので、護摩供を行い、檀信徒の皆様の万難消除・諸願成就を祈祷いたします』
『お不動様へのお参りのしかた:お願いの数だけロウソクや線香を立てる。護摩木を書く(炉はお不動様の口とされ、炎によって護摩木が焼かれ、願いが煙となって天に届き、願い事が叶えられるとされる)。お賽銭を入れる(失礼の無いよう、お賽銭は少し多いと思う金額を入れる)。お願い事を言う』
『不動堂本尊:不動明王(木造坐像‥・国宝級・‥)は、脇佛に四大忿怒像を従えた五大明王であり、愛染明王と馬頭観音(平安朝以前の作)や、その他多数の仏像を巧みに組み合わされた寄木造りで、さらに頭の頂点に楊枝の形状の部材が約100本入れてあるという大変珍しい仏様である。
織田信長による比叡山焼討ちにより損傷した仏像を当時の仏師が、「二度とこのような悲劇が起こらないよう」祈りを込め、災難の種を護摩の炎により消滅させ、私達人間の苦しみの身代りとなって願いをかなえて頂けるという、「不動明王」として蘇らせたものであると言われている。
護摩供:護摩壇の炉はお不動様の口であるとされ、願いごとを書いた護摩木を炉で燃やすことにより願いを聞き届けて頂けるといわれる。
護持会入会のご案内:年間1口3600円で受け付けております。 護持会会員には、年中行事のご案内をさせて頂いております。寺院維持にご協力をお願い致します。 ご入会ご希望の方は、下記までお電話もしくはFAXにてご連絡下さい。
浴油会入会のご案内:御浴油とは、聖天様独特の祈祷法のことで、密教の修法の中でも最も深秘の法とされています。この祈祷により聖天様のお力がより一層高められ、不可能と思われるような願い事でも、必ず成就させて頂けるといわれています。 毎月1日・16日に祈祷しています。入会ご希望の方は、下記までお電話もしくはFAXにてご連絡下さい。
住所:〒607-8003京都市山科区安朱稲荷山町18-1 TEL(075)581-0036・FAX(075)593-7866 郵便振替口座01070-1-4180 加入者:双林院 所要時間(山科駅より)徒歩約18分 タクシー約5分』
バイクに戻り、JR東海道線をくぐり、京阪京都線を渡り、左折してr143を東進しました。名神京都東ICからR161を北上します。8:08ヨットハーバー着。
久しぶりの琵琶湖の練習に参加です。部員に挨拶しながら、艇庫でバイク装束から着替え、皆と話します。470チームが艤装中で、蒲郡の練習で気づいたことをアドバイスします。470チームが出艇して行き、スナイプチームがやってきます。コロナ禍で部員を2つに分けて、YHで出会う人数が多すぎないよう調節しています。10時にミーティング後スナイプチームも出艇します。マネさんたちとコーチボートに乗って湖面に出ていきます。
風が弱く、北からのブローを見つけて、風を求めてコーチボートで練習艇を引っ張って琵琶湖大橋近くまで北に上りました。艇隊帆走で細かいセッティングをアドバイスし、コース練習に入ります。13時からレース練習予定でしたが、風の入りが遅かったので1時間遅れで始めました。風の振れがあり強弱もある勉強になる風でした。上マークまで7分のコースで練習しました。
16:30に海上練習を終え、ハーバーバックします。マーク回収しコーチボートもハーバーバックしました。ハーバーに戻り、皆といろいろ話し、帰路に着きました。


2021/9/26
4時前に目覚めましたが早すぎるので二度寝して、5:30に目覚めて活動開始。天気予報をチェックすると、なんと雨です。天気は回復傾向で、10時から曇りで、PMは晴れマークになっています。5:47、快活クラブでカミソリ170円を購入し身だしなみを整え、19:08〜5:58快活クラブ豊橋栄店2574円。
まだ雨が降っていますが、観光に出かけます。R23を東に走り、6:17「湊神明社」。
『旅寝塚句碑 芭蕉翁貞享4年(1687)芳野紀行の途次、越人を伴い保美(渥美町)に杜国を訪れんと、11月10日吉田に泊まる。句はその夜の感慨を「寒けれど、二人旅ねぞ、たのもしき」と詠じたもの。  昭和7年豊橋趣味の会一同、この句碑を建つ  平成5年1月吉日 三河芭蕉会』
『羽田野敬雄(はたのたかお)と湊神明社 湊神明社(江戸時代は田町神明社)の幕末から明治にかけての神主は羽田野敬雄だった。羽田野は羽田八幡社の神主でもあり、羽田村に居住し、当社には祢宜の朝倉氏がいた。羽田野は江戸の国学者平田篤胤(あつたね)の三河で最初の門人だった。天保4年(1833)に篤胤に神代文字(彼らが古代にあったと考えた文字)で「カムナガラ」(神の心のままに、右から読む)と書いてもらった。それを伊勢神宮の遷宮の時にいただいた神木に、明治15年(1882)に彫った額が、拝殿左側に掛かっており見ることができる。  主催:羽田野敬雄顕彰会 共催:とよはし100祭実行委員会』
バイクに戻り、少し移動し、6:29「吉田神社」。『影降石(ようごうせき・天降石):社史に「延宝元年(1673)6月9日、吉田城主小笠原長矩(ながのり)鳥居を建つ。寛永17年(1640)水野忠清が建つる所のもの風災に罹りたるを以てなり、今回従前の木造を改めて石造とし其位置を南方六間に移す」とあります。その際、木鳥居附近の地中深く埋まる巨石が発見されました。御閻(みくじ)による神託を受け、巨石はそのまま、石鳥居は位置を移して建立されました。石廻りには竹柵を設け注連をおろし、以後、影向石として大切にしたと伝わります(影向とは神仏が一時応現するとの意です)。
延宝7年(1679)6月8日、城主小笠原長祐(ながすけ)は影向石の竹柵を修め、又、貞享4年(1687)6月6日には影向石の竹柵を改修して石垣を造ると伝わります。また天降石(てんごうせき)との呼び名もあったようです。それより150年以上を経て、豊橋上伝馬(かみでんま)の金物商夏目可敬(なつめかけい)が編著した三河国名所図絵には、「鳥居より本社の方10歩許にあり、実に奇石にして諸人愛弄すへき面影あり。いつの頃にや空かき曇りて霹靂雨雹と共に天より降しかば影降石と号す」と記されています』
『吉田神社例祭・祇園祭 祭礼日程:7月第3木曜日(子供の笹踊)、金曜日(宵祭)大筒手筒煙火放揚(境内)、土曜日(前夜祭)打揚煙火放揚(豊川河畔)、日曜日(例祭)神輿渡御(頼朝行列)笹踊
吉田神社の例祭は「豊橋祇園祭」の名で親しまれ、7月第3全曜日より3日間盛大に執り行われます。古くより花火祭として其の名を遠近に知られ、滝沢馬琴は羇旅満禄(きりょまんろく)において「三州吉田の天王まつりは6月15日。今夜の花火天下第2と賞しております。かつては吉田城内天王社祭礼として陰暦6月13日より15日の3日間に渡り行われ、13日は本町を除く氏子各町其々の街路上より花火が放楊されました。14日は吉田城下、東海道沿い本町の東西両端に山車(祭車)が引出され、車上では児之舞と獅子舞が奏されました。本町の中央には吉田城主の桟敷が設けられ、建物・大筒・手筒・打揚・綱火等様々な花火が祭を彩りました。15日の神輿渡御は、天文16年(1547)に今川義元が神輿を寄進している事からその歴史は古く、源頼朝に扮した男児が神輿と共に騎馬にて進む姿から、頼朝行列とも呼ばれます。行列に先立って吉田城内関屋小路に設けられた城主見物の桟敷の前では、駆馳の式(10騎が南北の馬場を3回駆けるもの)があり、笹踊は踊り返し(往復3回)、饅頭配と呼ばわる頼朝の家来は城主に挨拶し饅頭を配り、其々神幸に供奉しました。先頭を進む笠鉾(飾鉾)は氏子町内外の寺院から8本出され、神輿を中心に行列をなして下社であり御旅所である御輿休天王社(今の新本町素蓋嗚神社)へ神幸、神事斎行後、城内天王社へ還幸しました。天王社祭礼は公給(藩の援助)42俵、御馬12疋や馬具馬丁等、吉田藩の厚い保護を受け、氏子町内のみならず藩の武家の祭でもあり、吉田の町全体の祭礼であったともいえます。明治の廃藩による公給廃止や神仏分離の結果、山車や寺院からの笠鉾、駆馳等は廃絶しましたが、獅子飾鉾(かさほこ)や頼朝、乳母、10騎等は氏子各町によって引き継がれました。花火もその制令が厳しくなり、放揚場所は境内、豊川北堤、城東練兵場等、定めがない時期が続きましたが、明治30年に13日の夜手筒大筒を境内に、14日昼夜打楊を関屋川岸の水上にて放楊する事となり、以後定例となりました、明治42年より例祭は陽暦7月13日より15日と改められ、昭和44年より7月第3金曜日を基準日とする事となり、今日に至ります。
旧式祭礼図(明治23年・畑在周・吉田神社蔵):廃藩前の祭礼の情景が上下に分けて描かれています。下には14日本町での山車や建物(立物)花火・大筒花火・綱火等・火垢離(ひごり)をとる笹踊の姿もありす。山車は上下2車あり、西を上の車、東を下の車と称し、廃藩以前は公給42俵がその経費に充てられ祭儀中最も重視されました。建物花火も2基あり、同じく本町の東西に立ちました。これに火を放てが黒煙渦巻き虚空に上り、火光四方に散乱してその明るいこと真昼の如く、黒煙が消え去ると絵模様が鮮明に現れたと伝わります。上には15日の御神幸が錨かれ、先頭の笠鉾から鼻高面(はなだかめん)・獅子頭・神輿・笹踊・頼朝・乳母・騎馬(10騎)、最後尾は饅頭配です。左側には御神幸前に行われた駆馳の様子が描かれ、桟敷でで駆馳を観る城主たちの姿も見えます。
花火:社史における花火についての最も古い記録は「慶安4年(1651)4月将軍徳川家光薨す。之に因りて6月例祭の日、山車10騎及花火等皆之を止め只神幸を奉仕す」というものです。又「花火の種目は流星・建物・打楊・手筒・大筒・綱火等あり。花火の用ひられしは流星手筒を初めとす。始め山車上に於て之を放つ。然れども其大なるものなし。次て建物綱大等用ひらるるも亦然り。建物の巨大となりしは、元禄13年(1700)にして手筒の雄大となりしは正徳元年(1711)なり。当時これを大筒といふ。後、更に大なるものを製し之を台上に繋縛して以て放つ。然して大筒の名称之に移る」とあり、手筒については「筒花火は元来両車上に於てのみ之を放ち、其大なるものなかりしが、元禄中、本町糀屋(こうじや)金兵衛の弟・小倉彦兵衛、初めて山車以外に於て大なし(大放しの略:手筒の内やや大なるもの)を放つ。時に彦兵衛皮羽織を着して之を為すといふ。其翌年に至り上伝馬・山名屋与兵衛等之に倣ひ、遂に此年其雄大を致す」とあります。廃藩に伴い明治5年から10年まで花火は廃し、明治11年に手筒及び打楊を復興、大筒も後に復興されました。明治25年を最後に建物花火と鋼火は廃絶しましたが、仕掛花火の原点はこの建物花火であります。
笹踊(ささおどり):笹踊の創始は不詳ですが、正保2年(1645)に大太鼓を新調したというのが最も古い記録です。小太鼓2人・大太鼓1人で構成されます。社史には「其服装の華美となりしは宝永元年(1704)にして以後益其度を進む。13日の夜萱町在住の下祢宜沼仁左衛門の家に会して、其装儀を理し下社に至る。この時これ(笹踊)に向て花火を放つの式例(火ごりの式)あり。この式宝永3年に始まる」とあります。廃藩前は祭礼期間全てで行われ、浴衣に編笠をつけた囃子方大勢は笹踊歌を歌い、14日と15日は城吏(じょうり)の警衛がつきました。廃藩後は木祭のみで行われ、火垢離も廃しましたが、氏子町内を巡りながら踊を披露し、神輿の送迎を司ります』
『吉田神社 御祭神・素蓋嗚尊 創建については諸説あるが、旧社家の文言には天治元年(1124)、当地で疫病が流行した際、牛頭天王を勧請し疫病退散を所願したのに始まるとある。源頼朝の崇敬殊に篤かったとされ、治承2年、頼朝雲谷普門寺に在宿の折、御祈願の為名代鈴木新十郎元利をして参拝せしめ、後文治2年石田次郎為久また代参とあり、其の時二日市に天王社(後に御輿休天王社、今の新本町素戔嗚神社)を建立したとある。
牧野古白の今橋城(吉田城)築城後は、御城内天王社・吉田天王社と称し、今川義元・酒井忠次・池田輝政、又徳川幕府成立後も歴代の吉田城主により社殿の造営や修補がなされ、鳥居や手水盤等寄付にかかるものも多く残る。室町幕府にかかるものも多く残る。室町時代には田畠十貫文を領し、今川義元は六貫百文の畠を加増。徳川家康は改めて30石を寄進し明治に至るまで之を領有した。天保6年10月正一位の神階を賜り、明治2年3月吉田神社と改祢。明治4年7月郷社、大正11年10月には県社に昇格せられた。
例祭(祇園祭):7月第3木曜日(子供の笹踊)、金曜日(宵祭)大筒手筒煙火放揚(境内)、土曜日(前夜祭)打揚煙火放揚(豊川河畔)、日曜日(例祭)神輿渡御(頼朝行列)笹踊』
その季節になると関西でもTVニュース放映される手筒発祥の地でした。バイクに戻り、R23を少し走り、6:43「豊橋市公会堂」。重厚感の有る素敵な建物です。枝道に入り、6:46「豊橋ハリストス教会」。
6:54「安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)」。『神明奉献講のご案内:神明奉献講では、日々お護りいただいております安久美神戸の大神様に感謝し、日々の平穏無事を祈る為、毎月1日の月旦祭、15日の月次祭において、ご神前にお神酒を奉献いたします。
奉献酒料:1口5000円(毎月1日に1年間、ご神前にお神酒をお供えいたします)、2口10000円(毎月1・15日に1年間、ご神前にお神酒をお供えいたします)
※お神酒は神社にて準備し、1.15日にお供えいたします。
※毎月1日の月旦祭、15日の月次祭の祝詞にて申込者のご芳名を奉読し、ご祈願をいたします。
※月旦祭(1日午前8時30分〜)、月次祭(15日午前9時〜)にご参列いただけます。  お申し込み、ご不明な点は社務所までおたずね下さい』
『厄除けタンキリ飴 からかい神事で天狗に敗れた赤鬼は、己の非を悟り、そのつぐないにタンキリ飴と粉を撒きながら町内を駆け巡ります。この粉を浴び、飴を食べると厄除けとなり健康になるとされ、鬼祭の名物となっております』
『「鬼祭」の由来:安久美神戸神明社の例大祭は「鬼祭」と呼ばれ、東三河に春の訪れを告げる祭りとして、遠近各地より多くの参拝者を集め、盛大に執り行われます。嘗ては旧暦正月14日に、神戸の繁栄と五穀豊穣を祈り、祭りが行われてまいりましたが、現在は毎年2月10・11日の両日に改められました。平安から鎌倉時代に流行した田楽を、古式を崩さず伝えられており、昭和55年国の重要無形民俗文化財に指定されました。「赤鬼と天狗のからかい」を始め、田楽・神楽・歩射・占卜・神幸など神事は多岐にわたります』
『からかい神事:2月10・11日の両日に行われる鬼祭は、「赤鬼と天狗のからかい」で最高潮を迎えます。いたずらをする荒ぶる神「赤鬼」と、それをこらしめようとする武神「天狗」が双方秘術を尽くして戦い、やがて敗れた赤鬼がつぐないにタンキリ飴と粉を撒きながら境外へ飛び去ります』
『国登録有形文化財 安久美神戸神明社本殿始め5棟 平成22年9月10日登録平安時代中頃、「飽海」(あくみ)の地が伊勢神宮の神領地として寄進され、天下泰平と神領の繁栄を祈ったことが当社の創祀と伝えられています。戦国から江戸時代には、城内鎮護の神として祀るため今橋城・吉田城内に社殿が置かれていましたが、鎮座地が陸軍用地となったため、明治18年(1885)に現在地に遷座しています。大正12年(1923)には県社に昇格し、昭和5年(1930)には現在の社殿を造営しています。 文化財建造物に登録された5棟の建物は、一体的な歴史的景観を形成しており、非常に貴重な文化財と言えます。
安久美神戸神明社本殿(昭和5年建設):桁行3間梁間2間、神明造銅板葺の高床式建物。柱は総丸柱で、内部は北側(内陣)と南側(外側)の2室に分かれ、周囲に高欄付き縁を巡らす。棟には千木と鰹木を上げ、両妻では棟持柱が棟木を支える。伊勢神宮の正殿の意匠に近づけようとする意図が見られる。
安久美神戸神明社幣殿及び拝殿(昭和5年建設):両側に脇殿を加えた大型の拝殿で、桁行18.2m梁間4.8mを測る。屋根は切妻造銅板葺で、柱は総丸柱。棟には千木と鰹木を上げる。また、後方に一段高く5.5m四方の幣殿を張り出し、この大棟にも千木と鰹木を上げる。本殿と共に設計は、内務省神社局の角南隆。安久笑神戸神明社神楽殿(明治18年建設):桁行4.5m梁間4.5m、屋根は入母屋造及び切妻造桟瓦葺で、正面と両側面は開放される構造で、北側は蔀戸(しきみど)方式となる。舞台に船底天井を張り、鏡板に松を描くなど能舞台の要素を備える。境内に残る数少ない昭和以前の建物。
安久美神戸神明社神庫(昭和5年建設):桁行5.5m梁間4.5m、5棟のうち唯一の鉄筋コンクリート造。屋根は寄棟造棲瓦葺で、正面には向拝が付く。外観は土蔵風で軒反りや隅木を作り、内部も柱型や隅木などを表す。
安久美神戸神明社手水舎(昭和5年建設):桁行3.5m梁間2.9m、屋根は切妻造、茅葺型銅板葺。四隅に円柱を四方転びに建て、豕扠首組(いのこさすぐみ)で棟木を受ける。素木(しらき)造の直線的で装飾のない意匠であり、境内建物と統一感を持つ。  豊橋市教育委員会』
境内中央に八角形の祈りの場が作られています。『豊橋のお伊勢さま・安久美神戸神明社 伊勢神宮遥拝所 天慶3年(940)、朱雀天皇によってこの地(飽海荘)が伊勢神宮に寄進されました。伊勢神宮祭主である大中臣頼基の一族、大中臣基守がこの地に入り、「天照皇大神」をお祀りしたのが当社の始まりです。当社の社名である「安久美神戸神明社」とは、安久美の神戸(神宮の神領地)に建てられた。神明社(天照大神を祀る神社)という意味です。
このように、当社と伊勢神宮との関わりは大変深いものです。そこで、当神社の御本霊たる天照皇大神宮(伊勢神宮)のご神力を頂くべく、神宮の方位に向けて遥拝所を整えました。皆様に於かれましては是非ともお参りになり、大神さまの弥益々なるご神徳をお受け頂きますようご案内致します』
『ご奉賛のお願い 御大典奉祝 鬼祭神面奉製事業 令和の御大典を奉祝し、豊橋鬼祭で用いる黒鬼・天狗・赤鬼の神面始め、小鬼・青鬼・天鈿女面を豊橋市出身の面司・北沢美白氏奉製によリ、新調することと致しました。つきましては、皆様方よりのご助力を賜リたくお願い申し上げます。
奉賛金:1000円(奉賛御礼)神面奉製奉賛限定ご朱印 5000円(奉賛御礼)神面御用材御守り(桐箱入) 1万円(奉賛御礼)御朱印帳袋(帆前掛け仕立て) 3万円(奉賛御礼)神庫柵板芳名記載』
『由緒 御祭神:天照皇大神 配祀:八幡大神・秋葉大神・菅原道真命 当神社は天慶3年、平将門の乱鎮定の報宝とし、朝廷より伊勢大神宮へ寄進せられし神領地に創立せられた古社にして、安久美神戸の総社と斎い奉る。
明応6年、今川氏親の命により、牧野古白この地に築城の際、御社殿を改築し、城内鎮守の神崇め、今川義元公・徳川家康公より30石の社領を御寄進せらる。また、歴代城主及び庶民の崇敬篤く、現在の御社殿は当時の勅任技師・角南隆氏の設計に基づき昭和5年竣工す。
例祭(2月10・11日)神事(重要無形民族文化財)鬼祭:赤鬼と天狗からかい及び司天師の田楽は著名なり  安久美神戸神明社』
『東照宮(家康公)御腰掛松:社伝によれば徳川家康公は天文23年、未だ竹千代君と称し吉田城内に居られた折、正月14日の祭礼(鬼祭)に当神明社を御参拝になり、御社前の松樹の下に腰を掛けて鬼祭を興味深く御覧になられた。その後慶長8年、家康公は征夷大将軍に任ぜられ、伏見城に当社神主司守信を召され、御朱印を以て神領を御寄進になられた。その時家康公は「久敷うおじゃる今も神式にちんばの真似をするか」と御下問があり、それ以来例鬼祭の司天師田楽を俗に「ちんば踊り」と云う。 現在、松は時代を経て新たな松が植えられて、根元の大石は旧社地より神明社へと移された』
本殿の屋根を見上げると、水平切り千木と6本偶数鰹木で共に女神を祀っているのを示していました。
7:05「豊橋ハリストス教会」。こちらは残念ながら、リニューアル中で外観が覆われて見れませんでした。
7:07「豊橋公園」。『吉田城と城下町・歴史をたどる観光マップ 城下町・吉田(A Cadtle Town ・Yoshida):江戸時代、吉田は城下町として栄え、吉田城の周辺には町人町があり東海道が通っていました。東海道沿いには吉田宿があり、吉田宿は江戸日本橋から34番目の宿駅で約287kmのところに位置していました。東隣は二川宿で約6.1kmにあり、西隣は御油宿で約10.5kmにありました。正徳2年(1712)の戸数は945軒、人ロ7219人であり、本陣が2軒、脇本陣が1軒、問屋場が1か所、その他多くの旅籠がありました。
吉田城(Yoshida Castle):吉田城は永正2年(1505)に築城されたとされる今橋城が後に改名された城で、池田照政(輝政)が城主の時代に大きく整備・拡張されました。戦国時代には軍事・経済・交通の要として三河の重要拠点でした。豊橋市公会堂(Public Hall):昭和6年(1931)竣工。ロマネスク様式で正面両側のドーム頂上までの高さは16mあり,市内の鉄筋コンクリート造りの近代的建築物の発祥とも言われています。国の登録有形文化財です。
安久美神戸神明社(Akumikanbe Shinmeisha Shrine):豊橋三入祭の1つである「豊橋鬼祭」が開催される神社。本殿などの建物は国の登録有形文化財となっています。「豊橋鬼祭」は春の訪れを告げる祭礼として毎年2月10・11日に行われ、古式を崩さず伝えられていることから国の重要無形民俗文化財に指定されています。吉田神社(Yoshida Jinja Shrine):スサノオノミコトをお祀りし、頼朝朝をはじめとする多くの武将たちから深く崇拝されていました。手筒花火発祥の地としても知られ、毎年7月には豊橋三大祭の1つである。「祇園祭」が開催されています。豊橋市役所13階には、手筒花火の魅力を詳しく、楽しく学べるスポット「手筒花火体験パーク」があります。  令和3年3月作成』
『江戸時代の吉田城と城下町:吉田城の歴史は、永正2年(1505)、牧野古白(こはく)によりこの地に今橋城が築かれたことに始まります。大永2年(1522)、今橋は吉田と改名され、吉田城は戦国時代の争乱の中で、今川・武田・松平(徳川)ら戦国武将により激しい攻防戦が繰り広げられました。
徳川家康は、永禄8年(1565)吉田城を攻略し、配下の酒井忠次を吉田城に置きました。天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に伴い、池田照政が15万2千石で入城し、城の拡張と城下町の整備を行い、現在見られる吉田城を造りました。照政は慶長5年(1600)関が原の戦いの後、播州姫路に所替えとなり、姫路城を造りました。江戸時代は東海道の要衝として、松平・水野・小笠原・久世・牧野などの9家22代の譜代大名が吉田城の城主になりました。
吉田城の範囲は、東は八町通5丁目、西は関屋町、北は豊川、南は呉服町・鍛冶町までで、東西約1400m南北約600mに及び、東海道では駿府城・名古屋城に次ぐ、大変大きな城でした。現在は、本丸・二の丸・三の丸・藩士屋敷地の一部などが豊橋公園として利用されています』
『歩兵第18連隊(豊橋市今橋町・豊橋公園):歩兵第18聯隊は、明治17年(1884)6月に名古屋で新設され、吉田城址に兵舎の建設が進められました。明治18年(1885)4月には大半ができ上がり、明治20年(1887)5月までには移駐が完了しました。現在の豊橋公園、豊城中学校、豊橋市役所のあたりがその場所になります。戦後、施設の多くは取り壊されましたが、門や哨舎・弾薬庫・灰捨場・碑などにわずかに往時をしのぶことができます』
公園内を歩いて、7:13「吉田城」。この城は、私の地元で言えば山陰道の「篠山城」、山陽道の「姫路城」のような徳川政権を西国有力大名から守る東海道の要の城です。加えて、織田・松平(徳川)・今川・武田の勢力が奪い合う地です。何故なのかバイクで走って分かりました。広大な平地が広がり、田が広がっており、経済力のある地でした。ここを押さえた武将が経済力を土台に強軍を養い国内制覇に向かったのでしょう。
『吉田城 吉田城略史:吉田城ははじめ今橋城と称し、永正2年(1505)牧野古白によって築城された。 以来束三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、天正18年(1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし輝政は在城10年で播磨姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。
吉田城の縄張り::吉田城の縄張りは豊川や朝倉川を背に本丸を基点として、二の丸・三の丸を前面と側面に配した半輪郭式の「後ろ堅固の城」と称されるものである。ただし、この縄張りの欠点は、河川を背にして戦う背水の陣となり、さらに背後からも渡河され、本丸を直接攻撃されやすいことにある。このため、吉田城は本丸背後に腰曲輪を備え、石垣もより高く強固なものとしてその弱点を補っている。
その城域は、束は現在の飽海町から旭町、南は曲尺手町から呉服町、西は関屋町に達するおおよそ84万平方m(約25万5千坪余)にも及ぶ広大なものであった。 今橋城時代の縄張りがどのようなものであったのかそれを裏付ける史料はないが、往時の本曲輪は、現在の本丸と三の丸会館の間(現在地付近)の金柑丸跡を中心とする一帯と推定される』
縄張り図を見ると、一級河川・豊川を北側背後にして本丸が位置し、豊川の水を引いた内堀が本丸の回りを巡っています。二の丸がその南に位置し豊川の水を入れた水堀、更に三の丸が位置しこちらの外にも豊川と繋がった水堀が巡っています。更に外側に武家屋敷が並び、その外側をこれまた豊川と繋がった外堀が巡っていました。
石垣が残る本丸に入りたかったのですが、「崩れる心配がある」ということで規制ロープが張られていました。石垣脇を巡る内堀は水が抜かれていました。水がないので返って石垣の高さが目立っていました。加えて、本丸や外堀周辺の整備があまりされておらず、木々が生い茂り更に異様な雰囲気を醸し出していました。かつてここに駐屯していた『歩兵第18連隊之跡』が立っていました。その横に鳥居が立っており、その奥に銅像が立っていました。
『略記 の銅像は、明治27・8年の日清戦役後建てられた戦勝記念碑上に奉安した、神武天皇のお姿であります。 お装いは、いずれ故実に基づいて古代武人を模したものでしょう。しかし、お顔だけは、よりどころのないため、賢くも明治大帝をお写し申し上げ、原型にしたと言い伝えられております。その均整の取れた気高い風格といい、おのずからなる威厳の拝せられるのは、明治時代の代表的芸術の籠もった傑作と言わねばなりますまい。ただ遺憾なことは作者名の定かでない点でありまして、これはあるいは当時の、封建的思想に支配され、上にはばかるきびしさと重いおきてがしからしめたとも考えられます。
ご銅像並びに記念碑は、かつて、歩兵第18連隊の管区でありました。三河・遠江・駿河・伊豆4カ国の広い浄財によって建ち、民間のひたむきな愛国魂のこもった権化であり崇敬の対象でもあったのでした。けれどもさきの太平洋戦争の惨たる敗戦により、もとの八町棟兵場から、ひそかにご安泰の場所に遷座のやむなきに立ち至った次第でございました。
その後18年、牡会状勢は著しく変転し、かつては国をあげての観念も、また建国の意識も大きくくずれ去ろうとしており、それのみが麗しい敬神崇租の伝統も淡い泡沫と消えようとする痛ましささえ感じさせられるのでございます。
ためにご銅像はこの渦にまかれ漂はされて、たまたまご再建の議はニ三度提唱されたことはありましても、ついに実現の運びとならずに終わりました。今、吉田城・本丸出ぐるわの一角保食神金柑丸稲荷を祭った情地に、ささやかながら仮のご座所を設け、再び待望のご銅像をまのあたり仰ぎ奉ることの出来ましたのは、20年を振り返り無量の感、いよいよ深く胸迫るのを覚えずにはいられません。以上つつしんでそのいきさつを略記し、これを後世に伝えることにいたしました。「玉くしげ、みずらに風の、吹きやまず、この国原は、安らけくあらじ」
昭和40年11月23日 豊橋市民・丸地古城』
『歩兵18会(戦友会) 志を同じくする我ら会員は、この碑のもとに集い、歩兵第18連隊戦没将兵の業績顕彰及び慰霊、並びに戦友・遺族の相互親睦及び福祉向上に努め、その歴史を後世に伝えるものである。
昭和31年10月12日創設会長・佐野哲太郎 昭和41年10月10日第2代会長・土屋正一 昭和53年10月8日第3代会長・本多久一 平成9年3月15日建立 平成9年5月28日第4代会長・川嶋正巳』
蒲郡YHに向かいます。R23を西に向かいます。8:03「ファミリーマート蒲郡大塚店」で「ピーナッツクリームパン108円+ビタミンウォーター130円=238円」購入。吉田城を見学している時に雨は止んだのに、R23で走っているとまた降ってきました。
YHに着き、ディンギーヤードで大学ヨット部員に合流しました。Ichi特別コーチ・470リーダーとこの日の練習内容を話し合います。昨日ほど風は上がりませんでしたが、NE〜E・3〜4m/sの風が入り、軽風でのチューニングや走り方をIchiくんからサイドバイサイドでアドバイスをもらいながら、後半は昨日同様ラビットスタート付きの1レグ10分の1レグレースを何本もやって風の入り方を学んでもらいました。
15:30にハーバーバックしました。この日から2回生マネージャーのHorさんが京都からやってきました。彼女のお父さんはここのYHの社長さんで、東京から単身赴任しています。彼女は去年浪人時、お父さんの家で勉強していたそうです。お父さんにとって、こんなお嬢さんは可愛いでしょう。ハーバーバックの直前、モータークルーザーがこっち目指してやってきました。「あれっ、お父さんじゃないの?」と、コーチボートのドライブをしていたHorさんに声を掛けると、「あれ?そうかな?」「そうだ、去年運転させてもらったボートだ」。クルーザーが近づいてきて、デッキに出ていたお父さんから、「運転してるの」と娘が頑張ってる姿を見て喜んでいます。「お父さんですか、・・です」と挨拶します。「お世話になっています」と返され、また練習艇を追いかけます。
雨の方は、天気予報が外れ、ずっと降ったり止んだりが続きました。ディンギーヤードに上がり、バイク装束に着替え、センターハウスでアイスを買って階段で糖分補給しました。そこにIchくんがやってきて、あ〜だこ〜だお話。16:30になりミーティング。途中で帰路に着きました。
R247を西に走り、17:09「エネオスジェイクエストOR蒲郡」で給油。309km/12.25L=25.2km/L。R23バイパスに乗り換え、伊勢湾岸道。ほとんど雨は止み、風もそれほど強くなく安心して海岸の高速道路を走れました。新名神に乗り換え、18:45「セブンイレブン新名神鈴鹿PA店」で「レーズンバターロール4個105円」購入し、お腹を軽く満たしました。19:59「草津PA」で、「チョコモナカジャンボ151円」で糖分補給。先輩と共同運用している係留艇の台風対策をHirさんがやってくれたようです。次週半ばに最接近しそうな今度の台風はかなり強力そうなので気になります。家内に、「21時頃帰宅します」とLINEして出発しました。名神高速〜吹田IC下車〜中央環状道路〜R171で帰宅しました。倉庫にバイクを入れ、片付けて帰宅しました。家内は既に夢の中で、ゴソゴソ片付け、風呂に入って夢の中に落ちました。


2021/9/25
コーチしている大学ヨット部が愛知県の蒲郡で練習しているので、それに参加します。特別コーチ(3日間)を、470級でオリンピック代表を目指していたIchくんに頼んだので顔を見せましょう。Ichくんに最初にコーチを頼んだのは、この大学ヨット部出身の次男です。共にジュニアヨット出身なので、その縁で頼んだようです。Ichくんは東京オリンピック日本代表にはなれませんでしたが、数度国体優勝し、日本というより世界のトップ選手の1人です。最近は毎年1回コーチに来てくれており、今年は2回目です。
9/25早朝に家を出発する予定でしたが、蒲郡YH8時に着くためには4時には出ないとだめなので、前日9/24に出ることにしました。13:54出発。R171〜中央環状道路、吹田ICから名神高速に乗り、「京滋バイパス」にチェンジしました。再び名神高速に合流し、15:07「草津PA」で「朝摘みオレンジ&天然水133円」購入。トイレ休憩など入れました。
バイクに戻ると、出発しようとしていたハーレーさんから声を掛けられました。「どちらに行かれるのですか?」「愛知県の蒲郡まで」・・・、姫路の方で、息子さんもバイク免許を取り車種は883ですが同じハーレーを買い、親子ツーリングを楽しむようになったそうです。今回もその予定でしたが、息子さんが参加できなくなり、ソロで信州ツーリングに行くそうです。情報交換し、出て行かれました。遅れて出発し、「新名神高速道路」にチェンジしするところで、ハーレーさんが道を間違えたのかストップしており、車の切れ間を待っていました。先に入りましたが、しばらくしてハーレーさんはバイバイしながら追い抜いて行かれました。
15:52「セブンイレブン土山SA」で、「コーヒーロール108円」を購入しパクパク休憩しました。新名神は延伸されており、「四日市JCT」から「伊勢湾岸道」に乗り換えました。新名神は1車線が広く、路肩も広く相変わらず走りやすいです。「強風だと難儀だな〜」と思っていましたが、それほどでもなく快調に走り、「豊明IC」で下車しR23へ。R23は一般道ですが、元有料道路の高架道路で高速道路並みに走れます。
17:22「道の駅にしお岡ノ山」で、「横綱一番250円」購入。終点「蒲郡IC」まで走り、R247に乗り換え、道なりにR23に乗り、18:01YH着。なんとPで部員たちがミーティングをしていました。ミーティングに参加し、18:57YH出発。19:04「ファミリーマート大塚海岸店」で、「シルキータッチ普通マスク437円」購入。明日朝の観光を考え、豊川に向かいます。R23を東に走り、R151にチェンジし、19:37快活クラブ豊川IC店に泊まりました。
19:37〜5:33快活クラブ豊川IC店2475円。9/25夜明け前に目を覚まし、明るくなるまで待って5:43出発、R151〜愛知県道r31で、5:48「三明寺」。『本堂(江戸時代) 三明寺本尊は、千手観世音菩薩を祀る。 ・山門(薬王門)江戸時代「龍雲山」の額は蜷川子書である。 ・水子地蔵菩薩御塚 ・聖観世音菩薩経塚 ・仏壇供養所』
『西院河原地蔵和讃 これは此の世のことならず、死出の山路の裾野なる。 西院河原のものがたり、聞くにつけても哀れなり。 2つや3つや4つ5つ、10に足らぬみどり子が、西院河原に集まりて、父上恋し母恋し。 恋し恋しと泣く声は、此の世の声とはこと変わり。 悲しさ骨身を通すなり、かのみどり子の所作として、河原の石を取り集め、此れにて回向の塔を積む。 一重積んでは父のため、二重積んでは母のため、三重積んでは故里の、兄弟我が身と回向して。 昼は1人で遊べども、陽の入相のこのころは、地獄の鬼が現われて、やれ汝等は何をする。 娑婆に残りし父母は、追善作善の勤めなく、ただ明け暮れの嘆きには、むごや悲しやふびんやと。 親の嘆きは汝等が、苦患を受くる種となる。 我を恨むこと勿れと、黒鉄の棒を差し伸べて、積みたる塔を押し崩す、其の時能化の地蔵尊。 ゆるぎ出でさせ結びつつ、汝等命みじかくて、冥土の旅に来たるなり、娑婆と冥土は程遠く。 われを冥土の父母を、思うて明け暮れ積めよと。 幼きものを御衣の、もすその内にかき入れて、哀れみ給うぞ有難き、いまだ歩まぬみどり子を、錫杖の柄にとりつかせ、忍辱慈悲の御肌へに、抱き抱えて撫でさすり、あはれみ給ふぞ有難き。 南無地蔵大菩薩』
『三明寺本堂と本堂内宮殿
本堂:愛知県指定文化財 平成4年2月28日指定
正徳2年(1712)に再建された桁行五間・梁行五間の本瓦葺きの本堂です。堂内の天丼は格天井で極彩色画が描かれ、彫刻ともに大らかで元禄・正徳年間頃の特徴をよく表しています。
この本堂再建に際しては、豊川村の有力者であった中田(小笠原)四郎右衛門義忠親子が近隣の48か村から数千人に及ぶ人足の協力を得て工事を進めたという古文書も残っています。
建築にあたった大工は、牛久保村の岡田善三郎成房ですが、地元大工の優れた技量と知恵がうかがえ、近世の東三河の地方的な特色を備えた仏堂といえます。宮殿:国指定重要文化財 昭和28年3月31日指定
宮殿は本堂内にあって、本尊の弁財天を安置する厨子で'す。天文23年(1554)の建造で、一間社流造、高欄脇障子付の縁を巡らし、屋根は柿(こけら)葺きです。桁行・梁間ともに1m余、高さ4m余の木造建物で、小社殿の趣を持ちながら、柱・屋根などの主要部材や組物・垂木などの細部に至るまで良好に保存されており、室町時代末期の様式をよく伝えています。  豊川市教育委員会』
『三明寺三重塔 国指定重要文化財 明治40年5月27日指定
三明寺は、寺伝によれば大宝2年(702)の創立といわれています。平安時代の末に一度戦火にあい焼失しましたが、南北朝時代に、後醍醐天皇の皇子無文(むもん)元遷(げんせん)が遠州方広寺に行く途中ここに立ち寄り、その荒廃を嘆いて再興したと伝えられています。
諸堂中最も古いこの三重塔は、亨禄4年(1531)の建造で、総高14.5mの柿葺の小塔です。 一層・二層を和様に、三層を禅宗様にしたのが全国的にも珍しく、三層の軒の反り、扇垂木(おうぎだるき)、鎬(しのぎ)のある尾垂木(おだるき)などに禅宗様の意匠が認められます。  豊川市教育委員会』
バイクに戻り、r31の続きを走り、「名鉄豊川駅」前を通ると、すぐに「豊川稲荷」が見えてきました。6:04「豊川稲荷」。『総門:この総門は当寺の創立から214年後の町歴2年(1656)に一度改築された。 現在の門は明治17年(1884)4月18日当寺29世黙童禅師(もくどうぜんじ)によって上棟改築されたものである。門扉及び両袖の扉は1000有余年の樹齢を重ねた高さ4.5m・1.8m・厚さ15cmの欅(けやき)の一枚板で樺独特の如鱗(うろこ)のような木目は類い稀な木材として専門家に知られている。 屋根は銅板鱗(うろこ)葺きで又諸処に使用されている唐金(からかね)手彫の金具は優れた技法を示している。 頭上に祀られている十六羅漢は名匠で諏訪ノ和四郎その他名工の合作といわれ参詣の諸人はこの仏様に見守れながら、この門をくぐるのである』。総門を見上げると、細かな彫刻が多数彫られていました。
『鎮守堂:別名、龍天堂とも言われ、昔の神楽殿であったものを昭和5年春本殿の落慶開帳に際し修築したものである。 祭神は白山妙理大権現で宗祖道元禅師が修行のため入宋に際し特に禅師を守護し、それより曹洞宗の寺院では守護神としてお祀りされている。 内部正面のご尊像は、名匠諏訪ノ和四郎の作である。
毎年5月と11月の大祭の時には、お神輿を本殿より多くのご信者に担がれて、この鎮守堂に渡御し安置するところである』
境内に風鈴棚があり、多数の風鈴が気持ちの良い音を流していました。『鐘楼堂:豊川稲荷大本殿の落慶(完成)を記念して、昭和12年浜松市大々講の寄進によるものである。 総樺材造りで近代の建造物としては優秀な結構として賞讃されている。天井より吊される梵鐘は、戦時中に供出されて久しく妙音をきくことが絶えていたが、終戦後戦歿者の慰霊のためと世界平和と人類の福祉を祈願するために鋳造されたものである。朝夕に打ち鳴らす妙音は、4km以上の遠方まで響き渡らせている。更にその妙音は、しばしば「除夜の鐘」の音としてNHKを通じて全国に放送されて人々に親しまれている』
『豊川稲荷×ネイキッド YORU MO-DE 会場MAP』の案内板が立っていました。「NAKEDディスタンス提灯」「奉納提灯」「奉納提灯マッピング」「参道ライトアップ」「除菌アートNAKEDつくばい」「NAKED花みくじ」「地域コラボ展示コーナー」の文字があり、夜のイベントのようです。コロナ禍で世の中イベント中止モードなので、こういうのはとてもいいなと思いました。
『山門:天文5年(1536)今川義元公が寄進した建物で当寺の現建物中最古の建物である。 又唯一の丸瓦葺造りの屋根の形をしている。 寛政5年(1792)に修理し更に昭和29年春、かなえ講の協賛によって大修理が行われた。 左右の阿吽の仁王像は昭和41年篤信者によって寄進されたものである』
『豊楽殿:文政7年(1824)の建立で旧本殿の祈祷殿(般若殿ともいう)であったが大本殿の新築によりここに移築されたものである。 特に天井には「絵画格天井」がそのまま保存されている。 大祭時の余興、その他随時に使用されている。建物は50坪(165.24平方m)で総桧造り銅葺で瀟洒な建物である』
『妙厳寺(豊川稲荷)諸堂新築および改築ご協賛のお願い
ご信者の皆様には平素より、ご信仰の念篤くご参拝を賜り衷心より厚く御礼申し上げます。 さて、永年皆様方にご参拝またご利用頂いております、当山の法堂・書院・客殿をはじめ諸堂が老朽化し、安全面が懸念される時期に至ってまいりました。
また古い建築様式であるため、お体のご不自由な方、ご高齢の方にはお参りに困難をおかけ致しております。 つきましては、皆様方のご協賛・ご寄付を賜りつつ順次、新築・改築を成し、ご信者の皆様により安全に且つより便利にご参拝頂けますよう普請して参りたく存じます。
何卒、右趣意にご理解をいただき、お力添えを賜りますようお願いを申し上げます。ご寄付の受付は境内各所に於いて行っております。  宗教法人妙厳寺諸堂建築事務局』
『豊川いなり大本殿:寒厳義尹禅師(かんかんぎいんぜんじ)がご感得、ご自作の瑞厳妙相をそなえられる「豊川だ枳尼真天(だきにしんてん)通称「豊川いなり」のご本体が祀られており、全国幾千万のご信者の信仰の中心でありご祈祷の根本道場である。
御真言は「オンシラバッタニリウンソワカ」と申しご参詣の人々は、このご真言を唱えて拝礼しご加護を受けられたい。 当寺29・30・31世の3代にわたる大本殿新築の大願は明治・大正・昭和の3世代に跨って信者の信心を凝集して昭和5年春竣工し落慶大開帳が行われた。
建物は総欅造、妻入二重屋根三方向拝の型をとり間口十間七分五厘(19.35m)高さ百二尺(30.6m)奥行二十一間四分三厘(38.59m)丸柱直径八寸(24cm)のもの、直径三尺(90cm)のもの計72本が使われ、内部は内陣般若殿、施主殿に区画され、内陣は本尊「豊川だ枳尼真天」が奉祀してあり、その厨子は、諏訪ノ和四郎の作で、屋根の瓦に至るまで朱漆塗りで精巧に彫刻を配し、稀に見る巧緻精麗な出来栄えは拝観者の讃嘆するところである。
更に両脇祭壇には伏見宮家より贈られた毘沙門天、有栖川家宮家から贈られた聖観世音菩薩、その他貴重な諸仏、諸菩薩の像及び諸仏具等が安置されている。明治時代に至り、有栖川宮家より「豊川閣」の大額が下賜され大本殿内に掲揚されている。 当寺を「豊川閣」と呼ぶのは、この因縁によるものである』
『おさすり大黒天・造立の由来 経文に「仏の慈悲は限りなく信者の願いを聞き入れるけれども、よこしまな我欲をもって祈願することなかれ」とある。仏身を撫でさすることによって広大無辺の仏のご利益を頂くことができるのである。ご真言「オンマカキャラヤソワカ」。このご真言を唱えながら撫でさすって福徳をいただく』
『奥の院:文化11年(1814)の建築で、旧本殿の内陣の建物を奥の院の本殿とし、旧本殿の拝殿を奥の院の拝殿にし、大本殿の新築にともなってここに移築された。 この建物は祭典の行事が行われる霊殿で信者の諸人が至心を凝らして参拝し読経礼拝される。 拝殿の諸処に見られる種々の彫刻は、名匠諏訪ノ和四郎の一代の傑作といわれている』
『慶雲門:安政5年(1858)の建物で旧奥の院の拝殿であったが、昭和5年大本殿の落慶にあたり、ここに移築して奥の院参詣の門となった。 この門にも名匠諏訪ノ和四郎の優れた彫刻を見ることができる』
バイクに戻り、r31〜r495〜r380で、6:30「砥鹿(とが)神社」。予想していた以上の大きな神社でした。それもそのはず、三河国一之宮でした。『神亀石:古くより「鶴は千年、亀は万年」と言われているように、亀は長寿を象徴する縁起の良い生き物として知られています。この神亀石にふれて、健康と長寿を祈念しましょう』
『日本一大きいさざれ石:さざれ石は君が代に歌われているように、千代に八千代に年を経て小石が集まり、巌となった貴重な石で、永遠の平和と繁栄を象徴する神霊の宿る石で開運石や子産み石と云われています。 子宝・安産・夫婦円満や幸福を願って石に触れてください』
『愛知県指定天然記念物 昭和47年6月7日指定 砥鹿神社のケヤキ 高さ45m・樹齢600年 正面坂下で幹周りをご観察下さい』
『願かけ割符守のおすすめ:古来割符は、固い約束の証として用いられて来ました。割符守の表にはお名前と裏に願い事を記し、心願成就の祈りを込め割符守を2つに割って、お名前と願い事を書いた一片を割符守掛けにお掛け下さい。もう一片は願掛けの証として、また、願掛け守護符として大切に肌身にお着けください。 心願成就の暁には、願掛け守護符はお返しし、お礼参りを致しましょう。 初穂料800円
願旨記入例:家内安全・厄除開運・諸難防除・良縁成就・身体健全・子宝安産・商売繁盛・入試合格・交通安全・病気平癒・財運万福・就幟成就』
『願串について:古来より日本人は神社に詣でて玉串をたてまつって祈願するのが、神拝のならわしであります。 願串は、この玉串にのっとった祈願成就の串でありますので、あなたの住所氏名を記し神前に納めて下さい。 当神社においては、あなたの願い事が叶うよう神前に供え、成就の祈願をいたします。  初穂料1本300円』
『願掛け絵馬:神鹿絵馬(神恩感謝・心願成就等)神鹿絵馬殿絵馬掛けにご奉納下さい。 良縁絵馬(良縁成就・縁結び等)守見殿神社絵馬掛けにご奉納下さい。 ゑびす大黒絵馬(家業繁栄・商売繁昌等)三河ゑびす社絵馬掛けにご奉納下さい。 円満絵馬(子宝・安産・夫婦円満)さざれ石横絵馬掛けにご奉納下さい。 初穂料各500円』
『御代替奉祝記念事業協賛のお願い:今年は天皇陛下の御譲位と新帝の御即位の年です。平成の御代をかえりみ、陛下の御事蹟に感謝の誠を捧げつつ、新天皇陛下の御即位を慶祝申し上げ、記念事業を左記により実施致す事と相成りました。 つきましては、氏子崇敬者皆様方には何卒御賛同下さいまして、御浄財を賜りたくお願い申し上げます。
記:1.奥宮御本殿御屋根葺替:砥鹿神社奥宮御本殿の桧皮御屋根は、積年の風雨によって腐朽甚だしく雨漏りもみられる為、御屋根の葺替えを行い、御神慮を安んじ奉りたく存じます。
2.富士山巡拝所周辺の林苑整備及び巡拝施設の設置:樹木の成長により視界が覆われつつあるので、富士山遥拝所周辺の林苑整備及び遥拝施設設置を実施したいと存じます。
3.草鹿砥宣隆大人命顕彰事業:草鹿砥宣隆(くさかどのぶたか)は、砥鹿神社の神主を代々務める草鹿砥家に文政元年(1818)に生まれ、17才の時に平田篤胤の門下に入り国学を学び、神道祭祀・国語学・和歌などに関する数々の著作を遺しました。慶応2年(1866)には自邸の傍らに「一宮文庫」を設立し、地域の人々の教育の普及に貢献しました。
砥鹿神社では、平成30年に生誕200年、令和元年に没後150年の節目の年を迎える事から、大人命の著作集の刊行及び歌碑の建立を実施して、その実績を顕彰していきたいと存じます。
1.事業等期間:平成31年4月より3ヶ年事業 1.総事業額:2000万円 1.募財目標額:1000万円 1.協賛金金額:1口金1万円 1.お申込み方法:御奉賛、御協力頂けます方は、社務所に御用意してあります申込書に御記入の上、奉賛金を添えてお申し込みください。  三河国一之宮砥鹿神社』
『三河ゑびす社ご由緒:三河唯一知徳「二宮」・体徳「三宮」の神を祀る
左・二宮「ゑびす様」:1.御祭神:本社大己貴命の御子神である事代主命を祀る。優れた託宣により父神を補佐した事から知恵の神として知られる。
1.例祭:2月7日午前9時
1.御利益:商売繁昌・家内安全・入試合格・学業成就
1.ゑびす講大祭:11月20日午前11時※特別祈祷(終日) ※ご祈祷をお受け頂いた方はゑびす講員として大神様とご縁を結んで頂けます。 祈祷料3000円・5000円・8000円・1万円以上
1.奉納提灯(商売繁昌・家内安全・財運隆昌) ※灯明料を年間1000円奉納願います。 ※5ヵ年掲出させて頂きます。 大一対8万円・中一対5万円・小一張5000円
1.初ゑびす祭:1月10日午前11時 ※特別祈祷(終日) 祈祷料3000円・5000円・8000円・1万円以上
1.ゑびすだるま祈祷:11月20日から翌年3月末まで 祈祷料6000円・8000円・1万円 願掛けゑびすだるま 初穂料・大3500円・中2500円・小1500円
右・三宮「お諏訪様」:1.御祭神:本社大己貴命の御子神である建御名方命を祀る。武勇により父神を助け、後に農業神となった事から体力・健康の神として知られる。
1.例祭:2月7日午前9時
1.御利益:身体健全・健康長寿 大自然の霊力を込めた水晶守・初穂料1200円』
広い境内に点在する摂社を巡りました。
バイクに戻り、R151に出て、6:44「セブンイレブン三河一宮店」で、「味付け海苔海老マヨネーズ125円+手巻きおにぎり辛子明太子140円=286円」購入。R151を南下します。左折してr31を東に走り、左折してr499を東へ。「豊川」を渡り、7:00「賀茂神社」。
こちらも大きな神社で、トイレ付きの数台分のPがあります。『ご祈祷案内:交通安全祈願・厄除祈願・八方除け祈願・合格祈願・安産祈願・結婚祈願・初宮祈願 心を込めてご祈祷致します。 賀茂神社 090-8865-7565』
太鼓橋を渡ると、下に大きな菖蒲園が広がっていました。スプリンクラーが回り、充分に水を与えていました。境内の鎮守の森というより手入れされていない自然に返りつつある森の中を歩きます。
『豊橋市指定史跡・神山古墳1基 昭和48年3月12日指定
この古墳は円墳で、墳丘の東側と南側が旧間川にけずられて急な斜面となっていますが、ほば完全な形で残されている市内では貴重な古墳です。規模は直径28m・高さ3.5mで円墳としては県内有数の大きさです。 造られたのは6世紀前後と考えられ、豊橋市北部をおさめた有力者の墓と推定されます。かつて、この古墳の付近には前方後円墳と伝えられる弁天塚古墳や大塚古墳(埴輪が出土)を始めとするいくつかの古墳がありましたが、現在残っているのは神山古墳だけです。 この古墳は、別名「竜神古墳」とも呼ばれています。これは古墳の周囲にかかる霧が竜のような姿になって昇天すると言われるところからつけられた名前です。  豊橋市教育委員会』
『檜皮葺の歴史:檜皮葺(ひわだぶき)は、日本独特の屋根でおり、日本の風土から生まれた素晴らしい芸術作品であります。檜皮葺は檜の皮で葺いた屋根のことです。 こわらが京都御所や出雲大社や厳島神社のような日本丈化を代表する建物に用いられており、日本を代表する立派な建物に長い間使われ続けてきたところに大きな意味があります。その造形の優美さや、やわらかさが、日本人の心を深く据えています。
檜皮という耐久性にも富んだ素晴らしい素材に恵まれ、それを芸術品ともいえる屋根造りに高めた先人たちの技術が、世界にも例を見ない伝統文化を育てたのです。檜皮葺が本格的に行われるようになるのは飛鳥時代(593〜709)からであり、飛鳥時代の後半に藤原京が造営されました。それ以来檜皮葺の技法が普及したようです。
奈良時代(710〜794)には東大寺が造られますが、平安時代(794〜1192)に檜心葺の屋根工事の技法が広く普及したことが分かります。叉、鎌倉時代ごろから檜皮葺の技法が確立し現在に至っております。
檜皮を立木から採収する作業を檜皮採取と言い、その職人を原皮師(もとかわし)と言います。檜皮採取は、檜の木の外樹皮だけを木のヘラにより取り除きます。このように外樹皮と内樹皮の境に木のヘラを入れて内樹皮を檜の木に残します。根元から順次ヘラを入れ作業を進め、ローブにより順次、木の上にと登って採取していきます。こうして採収した外樹皮を檜皮葺の屋根材料に使用いたします。このように檜皮採収原皮師が山に入ることにより森は生きていきます。雑草とした森林が元の美しい山に変わっていくところが楽しみです。  問い合わせ:田中社寺株式会社 058-272-2871』
『檜皮の森:ここは、我が国の歴史と文化を伝える文化財建造物の保護についての国民の理解を増進し、修理のための資材の安定的確保を図るため、所有者等の理解と協力のもと、文化庁がふるさと文化財の森として設定したものです。
設定名称:賀茂神社境内林 設定年月日:平成28年3月18日 設定番号:第67号 所有者:宗教法人賀茂神社 管理者:宗教法人賀茂神社 所在地:愛知県豊橋市 面積:5.2ha
檜皮は、古代から社寺を中心とする建築に用いられてきた。我が国の代表的な屋根葺材料の1つです。檜の立木から採取した皮を長方形に整形し、何枚も積み重ねて葺くことによって、優美な曲線の屋根を形作ります。  文化庁』
『県指定有形文化財 賀茂神社本殿1棟 昭和36年3月30日指定
屋根が桧皮葺の現社殿は、規模が比較的大きい一間社流造で、細部の手法に照らすと棟札にみえる寛永元年(1624)新造とある際のものと思われます。ただし正面の向拝にみえる墓股の彫刻に菊の大輪をあしらうなど一部に桃山風の様式をとどめているので、おそらく別の棟札にみえる、慶長6年(1601)に造立された時のものを再利用したと考えられます。
県指定有形文化財 猿田彦古面1面 昭和33年3月12日指定
この古面は神事に使用されたもので、作風は古調を伝え雄偉(ゆうい)のうちに力を備えた手法で、なかなかあなどり難いものを示しています。色彩は剥落(はくらく)していますが、頭部の浅い彫法・紐穴が2つある点などと合せて、室町期に属するものと思われます。
市指定有形文化財 賀茂神社の仮面6面 昭和42年2月17日指定もとは祭典や行事などに用いられたようですが、今はこれらの面を使用する行事や由来などは分かっていません。伎楽(ぎがく)面から能面にいたる過渡期の作品として、仮面研究上貴重なものです。  豊橋市教育委員会』
『この御神木は楠にして、樹令凡そ千年以上と推定される。往古は枝葉天を覆う巨大なりしも、落雷・台風等により損傷し樹勢とみに衰えて、今は僅かに空洞の一部を残すのみとなれリ。天正元年1月7日、徳川家康公野田城の合戦に敗走してこの御神木の空洞に潜まれて、あやうく危地を脱せしと言う。公、これ御神霊の御加護と崇敬浅からず。関ヶ原戦后、天下を掌握するや、慶長8年9月神領高100石の御朱印状を寄進される』
r499を戻り、7:23「王林寺」。「大楠」の案内板が県道に立っていたので寄り道しました。『玉林寺のクス 市指定天然記念物 昭和43年10月1日指定 クスノキは、関東以西の暖地に自生する常緑高木で、防虫剤に使われる天然樟脳の原料になります。5月頃、黄白色の小花をつけ、花が散った後に黒色の小形の実を結びます。成長が早く、病虫害に強いことから巨木が多くみられます。
本樹は、目通りで約9mあり、枝の広がりは18mにも及んでいます。 玉林寺の創建は延徳2年(1491)といわれますが、本樹の樹齢は650年以上と推定されています。  豊川市教育委員会』
r499を戻り、左折してR151を南下します。右折してR23を西進し、7:58「蒲郡YH」。ここから、大学ヨット部のコーチングです。船に乗る用意を持ち、ディンギーヤードへ。ヨット部員が既に艤装を始めています。ラックの陰でバイク装束から、海上に出る服装に着替えます。10分ほどで、特別コーチのIchくんがやってきました。挨拶に行き、積もる話で盛り上がりました。
ミーティング後、9時に出艇し、15:30まで練習しました。NE〜Eの風向で、ブローを除いて5〜10m/sまでの良い風が入り続け、インカレ本番でのレース海面で良い練習が出来ました。Ichくんの指導は細かくポイントを突いているのでわかりやすく、その面でも良い練習になったと思います。クローズホールド・ランニング・アビームを走る艇を追いかけ、サイドからコーチングします。後半は、ラビットスタートでのレース練習で、ワンレグ8分のワンレグレースを回数しました。僕としては、風向・風速による風の入り方を多数経験して、本番レースでのストラテジーを頭に入れて欲しいと思っていたので、この練習は良かったと思います。
16時にハーバーに戻り、すぐに着替えました。16:30からディンギーヤードでミーティングをしました。その後、それぞれのホテルなどに戻りました。18:10「ファミリーマート大塚海岸店」で、「濃厚海老だしひねり揚108円」購入し、R23を東進し、19:08「快活クラブ豊橋栄店」に泊まりました。


2021/9/20
インカレ地区予選最終日です。最終日は14時が最終スタート時間です。2日間で7レースしているので、風が良ければ4レース出来ますが、予報では1m/sなので出来て2レースでしょう。係留艇運用グループではS先輩と僕だけで、S先輩は車を売ってしまったので、駅でピックアップします。9:10、JR西宮駅なので、遅れないよう渋滞を考え、8:10に家を出ました。ホームポートまではいつもバイクなので30分あれば充分ですが、四輪なら駅まで30分必要でしょう。
ところが意外に車が少なく、8:29「ファミリーマートJR西宮駅北口店」で、「チョコクリームパン5個108円」購入。S先輩も早く来られ、ハーバーに向かいます。9:16「新西宮ヨットハーバーP」着。S先輩は僕の3つ上で、1回生の時のキャプテンです。S先輩もそうですが、僕も付属高校ヨット部なので、僕が高1の時、S先輩が大学1回生で、共に下っ端でよく並んでセール縫いなどをしました。同じ艇庫で一緒に練習するので、もう腐れ縁です。お喋りしながら係留艇に向かいます。船をチェックします。すぐに学生たちがやってきました。2日間7レースで、4回トップを引いたS級3回生女子スキッパーと、2回トップフィニッシュしたS級3回生男子クルーがお役御免で乗ってきます。来年、部を引っ張っていく選手です。大学の新聞部取材部員(2回生)も乗り、そして監督。監督まで観覧船に乗ってきて、全て各クラスチーフコーチに任せて来たようです。
2人に桟橋を離れる作業手順を教え、指示して桟橋を離れます。新聞部が乗っているので、カメラアングルを考え、S先輩がドライブしています。沖に出ましたが北風で弱く、AP旗で風待ちになりました。晴れて天気が良いので、海風が入る為には早く北風が無くなった方が良いです。海風・陸風の原理を新聞部員の女の子に説明すると、「小学校の時習いました。まさかここで実際に体験するとは・・・」と。「燃料入れに行きましょか?」と提案し、この間に給油しにハーバーに戻ります。給油を終え桟橋を離れる頃には、ハーバー内にも南風が入って来ました。
レース海面に戻ると、ちょうどレースフラッグが上がりました。レースに入り、K監督がドライブを交代し、レース観戦します。今年からKGのOBが学連レースのレース委員長をするようになりました。これまで少し不満だったレース運営のゆっくりさが解消され、スムーズなレース運営で次々にレースが始まるのでより多くのレースが出来て選手も喜んでいるでしょう。
母校KGは順調で、4・5・6番艇まで団体戦デビューさせ、第1マークがイマイチの順位でもしっかり追い上げ、フィニッシュではそれなりの順位でまとめています。S級に2日目1・2・3フィニッシュされて悔しがっていたという470が、1・2・3フィニッシュをやり返しました。
母校は両クラス&総合優勝で完全制覇しました。甲南が両クラス全日本への切符を得、近大と関大が片クラス出場権を得ました。選手2人に桟橋着艇ルーチンを伝え、指示しながら桟橋に戻りました。監督と学生・新聞部員をクラブへ戻し、僕が水洗いして車に向かいました。「9:16〜15:03、800円」。S先輩をJR西宮駅まで送り帰宅しました。


2021/9/19
19〜21日は、関西水域(兵庫県・大阪府・奈良県・和歌山県)の大学ヨット部インカレ団体戦です。この大会は、全国インカレ予選でもあり、470・スナイプ両クラスそれぞれ上位3校が全国インカレ団体戦に駒を進めます。全国の大学ヨット部の多くが目標とするのが全国インカレ団体戦で、まずは各地区予選を通過しないと本戦に進めないので、1年間の集大成をこの地区予選にぶつけます。母校KGもこのレースで上位3校に入らねば・・・。1週間前の日曜日、台風対策で係留艇に行った時、共同運用している先輩がいて、学生から3日間の観覧船を打診され、3日間の予定を聞かれました。数日後、LINEでメンバーに正式に打診があり、3日間とも参加することにしました。
18日(土)は、台風の最接近日だったので観覧船を出すのがなくなりました。ところが朝7時には晴れ間が見えだし風も吹いていなかったので、8時に台風対策で増しロープしたのを外しにハーバーに向かいました。レース艇が並び、盛り上がっているだろうな〜と思っていたのですが、マストを立てていないレース艇もあり、「あれれ?」ってなりました。学生に聞くと、第1レーススタートが12時になったそうです。桟橋に行き、増しロープなどを外して帰りました。
7:33、セブンイレブンで、「いつものコーヒー甘さ控えめ1L238円+ひねり揚旨辛チーズ100円+プレミアム洋菓子ミックス320円+ゆずれもん500ml93円+おにぎりせんべい175円+具たっぷりツナマヨ115円=1129円」購入。通勤リード110に乗ってハーバーに向かいます。
集合は9:30ですが、まだ8時。学生艇庫が並ぶディンギーヤードの雰囲気を楽しみに行きました。母校前に行くと、マネリーダーが「おはようございます」と走ってきました。1回生部員5人と、キャプテンのお父さんを船まで連れて行けば良いそうです。8:40に、470D旗が揚がるので、その後集合して船に向かいます。キャプテンF君のお父さんが、望遠レンズを着けたカメラで学生たちを撮っていました。挨拶に向かい、あれやこれや。大学時代、新聞部でそこでカメラを覚え、今それが本職だそうです。F君は僕がヨット仲間と作ったジュニアクラブの元部員です。次男の後輩です。F君お父さんも、元ジュニアヨット部員の父なので話が合います。
470・スナイプ級共に出艇して行き、皆で係留艇に向かいます。ヨット部GMのS先輩・ヨット部OB会長I先輩・同じ代のM先輩、日大ヨット部OBのHさん、甲南OBのOさんがいました。僕が出艇作業を学生に指示して桟橋を離れ、11人で沖に出ました。S先輩ドライブでレース海面に向かいます。KGチームが練習していたので、近くからFさんが写真を写しています。キャプテンで470チームリーダーでもあるF君はレース艇に乗っていませんでした。レース初日に2レース行われ、2つともトップフィニッシュで、他の2艇もよく走り、いきなり大きなリードを作ったので、4艇目に経験を積ませるために交代したそうです。余裕だな〜。監督が、「今年は強いです」と言っていたので、順調に仕上がっているのでしょう。僕も学生の470チームリーダーの時、2日目までで大きなリードを作ったので最終日は交代してレースに出ませんでした。でも、お父さんには残念でしょう。まあ、ジュニアからヨットやってるので、山のように息子のヨット写真を撮っておられるだろうから良いでしょう。僕のコーチしている大学ヨット部では、3家族も観戦申し込みがあったのにKGは少ないな。
レースの方は、S級1.2.3位フィニッシュをはじめ、母校は上位を走りまくり、2位と100点差以上付いたので、レギュラーを交代させています。観覧船に乗ってる1回生にも最終日にはチャンスが来そうなので、彼等に軽口で刺激しました。特にジュニア出身の2人のスキッパーは、チャンスに目が輝いています。初めに、養生テープに名前を書いて全員のライジャケに貼りました。その後の自己紹介で打ち解け、レース結果も含め雰囲気は最高です。
日大は関東ブロックなのでこのレースには関係ないですが、甲南は正に正念場なのでそちらも応援します。スナイプ級は2位で通過しそうですが、470は関大・和歌山と3位争いが熾烈です。


2021/9/5
数日前、2週間前に琵琶湖でクルージングしたIさんから、「次の日曜日、Nさんの船に行くけど、一緒にクルージングする?」「行きます」。Nさんに、「Iさんから誘われました。私も参加します」「OK、朝9:30にハーバーゲート前集合」。前日に、同じく2週間前に琵琶湖でクルージングしたYさんから電話が入り、「朝・昼ごはん買っていくから買わないでね」「了解」。
ヨット仲間に誘われ、堺からクルージングに出ます。4時過ぎに目を覚ましたので、堺近辺の寺社・歴史遺産を巡ってからYHに行こうと考えましたが、GPSに登録している堺周辺のポイントはなく、9:30着でいいな・・・と、のんびりしました。
8時過ぎに家を出ました。「里山VTR250」で行く予定でしたが、高速利用では早く着きすぎるので下道で行くことにしましと。それに伴い、「通勤リード110」にバイクも変更しました。これでプロテクター入りバイク夏装束を止めて、ヨット用ライフジャケットを着るだけにしました。
r13を南下し、8:24「セブンイレブン尼崎久々知西町1丁目店」で、「ひねり揚辛子明太子100円+6種の彩りおかき268円=397円」購入。日焼け止めを忘れたので、それも買おうと思ったのですが、なんとシーズンオフで棚に並んでいませんでした。
r13をさらに南下し、R2を渡りr57で南下し、R43に突き当り、左折して大阪方面へ。淀川を渡り、「北津守」交差点を右折してr29で南下します。阪神高速湾岸線側道になり、9:10YHゲート着。
Nさんに「ゲート前に着きました」とLINEして待ちます。Nさんがゲートまで来られ入れてくれました。船に行くと皆さん来られていました。いつものNさんの車がないので「あれれ」と思ったら、とうとう壊れたそうで別の中古車に買い替えたそうです。またスバルのワゴンでした。型式落ちだけど走行距離の少ないほぼ新車です。「快適になったわ〜」だって。共同オーナーのKさんはいませんでした。太平洋横断のためのアマチュア無線の試験だそうです。
僕が乗り、荷物をドッグハウスに置くと、桟橋を離れます。Nさんに係留ロープを外す手順を聞き、デッキを動き回り次々にロープを外して行きました。赤白灯台を出る手前、外から海上保安庁のCLが入ってきました。小型巡視船です。すれ違いながら、「どうもご苦労さま」と会釈します。
「さあ港の外に出るぞ」というタイミングで、CLがUターンして来て「止まって下さい」。臨検のようです。琵琶湖には海保がないので、臨検を受けたことがないそうで、むしろ僕が最も臨検の経験が多いみたい。Nオーナーが、「海技免許と船検表持ってくるわ」と、Iさんにステアリングを交代し、ドッグハウスに入っていきました。
Iさんが、「ここ航路中央だから、あっちに移動して止めます」。CLが当方の土手っ腹にゆっくり寄ってきて、「2人乗り込みます。ちょっと調査時間を頂きます」。あれれ、免許証見せて終わりじゃないの?通常の臨検とは様子が違います。乗ってきた海保職員によると、マストに付いてるレーダーに関する臨検のようです。レーダーは前オーナーが付けたもので、当方は使っていません。付いてるだけで、使ってないのにいけないの?Nさんが電源を入れているハンディーVHFは、受信しているだけなので無線環境に無理を掛けていないのに・・・。
乗ってきた職員は、違反現認として自信を持って乗り込んできました。何故?職員さんが説明してくれました。受信だけでも僅かに電波を出しているようで、免許なしではONにすることもダメだそうです。レーダーもONにはなっていないが線が繋がっているのでダメなんだって。オーナー2人は来年の太平洋横断のために設備を揃え、免許取得・開局に進んでいる途中なのに・・・。携帯電話があるのでマリン無線なんて必要ないと気にしていませんでしたが、いろいろ勉強になりました。アマチュア無線の免許を持っているので、なんとなく概要がわかります。「マリン無線の免許取ろうかな〜」なんて気持ちがムクムクとしてきて、帰宅後調べてみました。いきなり最近3回分のテスト問題があったのでチャレンジすると、3回とも合格点が取れました。講習会テキストも上市されているし、いきなりテスト受けに行ってもいいし、講習会に参加し基礎を学んでも良さそうです。
これだけなら、それらを認識しクルージングに出発するところでしたが、船検証がありませんでした。共同オーナーKさんが、大洋を渡るために用途変更するために船検証を持ち出しており、「このままクルージングに出るのを見過ごせませんわ」と職員に言われました。「ですよね〜」と、クルージングを中止し、CLに付き添われながら桟橋に戻ることになりました。Nさんは、ドッグハウス内で質問を受けながら時々コクピットに出てこられ、「すんまへんな〜」。僕ら3人は、長年の知り合いで、互いの子どもたちの世話をした仲でもあるので平気です。僕は、ジュニア時代のお二人の息子さんをASEAN選手権大会に引率した監督だったし、もうひとりの息子さんを、僕の息子と共に全日本に連れて行った仲です。そして私の息子もそれぞれの方にお世話になっています。ヨットという世界は競技人口が少ないので、親が無償で他所様のお子さんの世話をしないと活動できません。気心の知れた者ばかりなので、Nさんもまだ気が楽だったでしょう。僕らも気にしてないし。むしろ、貴重な体験でした。僕の乗ってる船もチェックしないと。ゲストさんが乗っていなくて良かったです。
桟橋に戻り、あ〜だこ〜だお喋りしました。帰って行ったCL艇は基地に戻ったのか、摘発したCL艇の頭の職員さんが、陸上から来られました。それでもまだ独身だそうで、皆さんの若いです。「さすがヨット乗りさんですね。桟橋に戻る時、皆さんテキパキと動かれ素晴らしいなと思いました」なんて言われちゃいました。ヨットに乗ったことがないそうで興味を持っておられました。海保の管区の区割りや「海猿」的な仕事内容など、いろいろお聞きしました。
職員さんたちが帰り、4人であれやこれやピザやパンを食べながらお喋りします。しばらくしてまた海保から電話が入り、Nさんは石津にある海保ブランチに向かいました。3時を過ぎ、「あと30分で帰るわ」との連絡を受け、3人で船の片付けを始めました。最後にサイドボトムやデッキに水を掛けブラッシングしたところでNさんが帰ってきました。最後チェックしてもらい帰路に着きました。
往路と同じ道を逆に戻り、暗くなる前に帰宅しました。家内とあれこれ話し19時台に床に入りました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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