-ウェブマスター日記 2021/7-8

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2021/8/29
4時に目が覚めました。まだ夜が明けないので二度寝したら5時過ぎに目を覚ましました。朝ごはんとしてバナナをお腹に入れ、ゴソゴソ部屋を片付け、バイク装束に着替えてビジネスホテルを後にしました。
6:12、「評議峠林道」入口。『民有林林道・評議峠線・全長5174m・設計速度20km/h・平成24年4月・管理者:熊野市』。森の中に入っていきます。初めての道なので、地図では通している県道にたどり着けるのかな?
6:32、「評議峠林道」終点。T字路に突き当たり、右折すれば「小阪峠」ですが、左折して「滝向林道」を進みます。『民有林林道・滝向線・幅員3m・全延長2058m・設計速度20km/h・管理者:熊野市』。
狭いけど舗装されている林道を走り、6:42「大馬神社」。『町並みと浜磯の散策
ゾーン・大馬神社 大馬神社:創始は明らかでないが平安時代から祀られている神社で、市内で最も古い文明10年(1478)の棟礼がある。 桓武天皇(737〜806)のころ坂上田村麻呂(758〜811)がこの地方を荒らす賊を討ち、賊の頭の首を地中に埋め、その上に社殿を造ったのが始まりといわれる。その後、智興和尚という人がこの話を聞いて参詣しようとしたところ、田村麻呂の霊が現れ、和尚を案内した。霊は大きな馬に乗っていたことから大馬神社と呼ばれるようになったという。元は大馬地区の産土神であったが、現在はふもとの八幡神社が遥拝社となっており、井戸町全体の氏子組織によって祀られている。毎年順番で当屋を決め、当屋になった組が1月6日の祭礼を取り仕切る。 なお、大馬神社には狛犬がなく、井戸川下流の海岸にある獅子岩が阿の狛犬、獅子岩の南に位置する神仙洞の人面岩が吽の狛犬に見立てられている。
弓引き神事:祭礼の日には、弓引き神事が行われる。当屋の組から弓引きと矢取りが2人ずつ選ばれる。当日の朝、水垢離を取った後、直垂に着替え、刀を差して烏帽子を被る。 まず、的に向かって1人につき数回矢を引き、神主から御神酒を頂いた後、、再び的に向かって矢を放つ。最後に流し矢を行って終了する。  黒潮回廊と神々の故郷・熊野市』
『熊野市指定文化財 有形民俗文化財・大馬神社の棟札 大馬神社には147枚の棟札があり、最も古いのは、文明10年(1479)9月2日の事始め、翌11年2月12日立柱の記録の棟札で、市内最古である。しかレ、虫喰が多く永く保存ができないため、慶長7年(1602)のみ指定した。 この棟札は、高さ104.5cmの欅の板の表に天照皇大大馬権現・八幡大菩薩を祀り、井土の人々にょって米を出し合っているが、文字が消えた箇所が多く総数は不明。
裏面には、慶長7年7月4日に始め、同年11月24日に遷宮したと記録し、表同様米を出した人の名を記入している。この多くは井土村の人であるが、木本・神山・桃崎からの寄進者や、福蔵坊・嶺泉寺・龍口庵・西覚庵の名もある。  熊野市教育奎員会』
山の中の神社なので森と一体化していますが、鎮守の森の木は優位に大きな感じがします。橋を渡って神域に入ります。「大馬神社遙拝所」がありました。『御参拝ご苦労さまです。本殿まで御参拝が困難な方は遙拝所で逢拝して下さい。 大馬神社』
『熊野市指定文化財 天然記念物・大馬神社社叢 大馬神社の杜叢は、杜殿背後の滝を源流とする谷川と、南西の広葉樹を主とする森で形成されている。谷沿いと社殿付近はスギの巨木と広葉樹の高木の混交林で、低木と下草も豊富である。 地形上、湿度も高く温帯性の植物と暖地性の植物が混生している。
そのため植物や、蘚苔類が豊富で、ミヤマトベラやサイゴクトキワヤブハギなどの珍しい種類がみられる。 熊野市内でも、植物分布上貴重な森である。  指定:昭和44年7月17日 熊野市教育委員会』
枝の杖が数本用意されていたので、長く歩くのかな〜登るのかな〜と思いましたが、鳥居をくぐると森の中の石畳参道が大馬川に沿うように続いていました。
『熊野国総鎮守・大馬神社 鎮座地:三重県熊野市井戸町 祭神:天照大御神・水波能売神・天兒屋根命・誉田別命・仁徳天皇・神武天皇・大山祗命・坂上田村麿将軍・白馬大明神・字迦御魂大神・白龍大神 例祭:1月6日 神紋:五七桐 建物:本殿(神明造)・幣殿・拝殿
当社は、嵯峨天皇の御代、紀伊国室郡に南蛮夷賊が蜂起し、東国や西国から伊勢・熊野に参詣する人々を妨げていたので、勅命により坂上田村麿将軍が、当地に天照大御神・天児屋根命・誉田別命勧請して盗賊等を平定。 そして、再びそれらが蜂起せぬようにと、その賊頭の首を地中に埋め、大同4年(809)に社殿を造営したと社記にありこれを以てその創始と伝える。文明11年(1479)の棟札には四社権現(大馬・伊勢・熊野・八幡)という名がみえ、江戸時代には大馬権現と称された。天正3年(1575)領主・堀内安房守より年高9石、慶長6年(1601)には浅野氏より年高5石の寄進を受けた。元和5年(1619)徳川頼宣の入国以来、毎
年和歌山表において従前の寄進を拝領。
尚、七里御浜海岸の獅子岩(阿の岩)、神仙洞(吽の岩)が古来より当社の狛犬と称されている。 明治39年12月25日、神饌幣帛料供進社に指定され現在に至る』
苔むした石畳参道の途中に、「禊場」と彫られた石柱が立っていました。沢に向かって細い石畳道が続いています。沢の先に、「大馬清滝」の瀑布が滝音を立てていました。滝の前に、落ち着いた社殿が建ち、周囲には鎮守の巨木が林立していました。
バイクに戻り、「滝向林道」で山を下ります。r156〜r34を経て、7:20「一の水林道」。『林道一の水線 幅員3.6〜4.0m・延長8591m 設計速度20km/h 管理者:熊野市』。林道でゆっくりと標高を上げていきます。木々の切れ間に下界を
見ると、知らない間にかなり標高が上がって行きました。山並みの向こうに海まで見えます。
7:45「一の水トンネル」。『くまのおもしろ珍景・絶景〜其の4 一の水トンネルのやまびこ やまびこって山の上で聞こえるものと思っていませんか?なんとこのトンネルは、とっても綺麗なやまびこが返ってくる不思議なトンネルなんですよ。さあ、大声を出して、耳を澄まして、不思議さを体感しよう。
※反対側に人がいる場合があります。恥ずかしいので、そっと引き返しましょうね』
やまびこを試そうとしたら、トンネルの壁にトカゲが這っていました。『一の水トンネル 1990年9月 三重県 延長:487m・巾4.0m・高4.5m 施工:日本土建
・井本組・JV』。このトンネルを峠として、西側に下って行きます。
7:57「赤倉林道」。『民有林林道・赤倉線 幅員:3.6m、全延長:4174m、設計速度20km/h 昭和34年 管理者:熊野市』。「大丹倉」に向かって林道を登っていきます。
8:09「穴山関所跡」。『熊野市指定文化財 史跡:穴山関所跡 「紀伊続風土記」赤倉村の項に、「関所、屋敷跡、丹倉より東六丁余、往還筋に穴山という切所の石壁あり、昔此処に関所を置きしと云い伝ふ」とある。ここは、木ノ本より一之水峠を越え、赤倉・丹倉を経て本宮に通ずる主要街道であり、付近には寺の川の心名があることや、赤倉神社もあることなどから、関所を設けたものであろう。
設置年代は不明であるが、中世この付近一帯は西山郷に属し、竹原氏が支配して
いたことから、竹原氏が設置したものと考えられる。 高さ30mの垂直の岩場であり、また、付近の山中に、3ヶ月型の屋敷が残っている。記録に残る数少ない関所として意義がある。  指定:昭和44年7月17日 熊野市教育委員会』
林道が突き当り、8:17「大丹倉」。『熊野市指定文化財 史跡・熊野天狗鍛冶の発祥地(近藤兵衛屋敷跡) ここは、近藤兵衛という者の屋敷跡で、東西64m・南北45mの広さがあり、頂上は高1m・天端1mの卵形の土居が残る。中世の館の形式である。
兵衛のことについて詳佃は不明であるが、武士であると共に修験者でもあり、この場所で鍛冶を職とし、別名・天狗鍛冶とされ、新宮の権太吉久・吉兵衛、久兵衛は兵衛より矢の根の技術を伝授されたという。また、豊臣秀吉に度々矢の根を献上している。その他、槍・刀など、数は少ないが現存している。  指定:昭和44年7月17日 熊野市教育委員会』
『渓谷と神話の冒険ゾーン・天狗鍛冶屋敷跡(熊野市指定文化財・史跡) 熊野天狗鍛冶の発祥地:屋敷跡は大丹倉の北にあり、縦13m横9mの方形で高さ1m足らずの土手に囲まれている。今でも金属の原料などが出土している史跡である。 文禄(1592〜96)の頃、丹倉の山守をしていた近藤兵衛という武士がいた。兵衛は砦を守りながら鍛冶をしていたが、夜になれば大丹倉の岩壁にこもり、荒行をする修験者でもあった。神出鬼没の行状から、里人は彼を天狗さまと畏敬するようになったという。
兵衛は矢の根鍛冶を得意としており、新宮の権太吉久という鍛冶に矢の根の技術を授けた。吉久は、これを受け継ぎ、天狗吉久という名で矢の根鍛冶を続け、太
閤秀吉に度々矢の根を献上したという。これが天狗鍛冶の始まりといわれている。現在、有馬町にある歴史民俗資料館には、「天狗吉久銘の槍」が展示されており熊野市指定文化財となっている。
また、ここから引き返す途中に丹倉神社がある。祭神ぱ近藤兵衛と高倉下で、御神体はしめ縄を張った巨岩である。天保10年(1839)と刻まれた御神灯があり、その横に木本浦の船津憲之が寛延3年(1750)に寄進した大きな鼎(金属の器)がある』
「カシノト道・徒歩1時間」「表丹倉・徒歩30〜40分」。大丹倉は5分なので、歩いて行きます。少し歩くと鳥居がありました。『三重県指定文化財・天然記念物及び名勝・大丹倉 紀伊半島東南部に位置する熊野市は、地質学上西南日本外帯の四万十帯の中にある。熊野地方の高地は熊野酸性岩と総称される火成岩でできが、第3紀中新世の宮井層の上に3回にわたり噴出し形成したとされる。 大丹倉は、その第1次の活動で地中のマグマが地上へ噴出し流動した溶岩流が長年侵食を受けて出来たものである。
神木流紋岩と呼ばれるこの火成岩体は、当地方では赤倉から凰伝峠にかけて分布し、露頭では噴出後に流動したことを示す流理構造が認められるほか、垂直で均一な柱状節理も所々でよく発達している。 崖の表面は流紋岩中に含まれる鉄分のため赤みを帯びており、崖全体として一種独特の景観を呈している。 台地上になっている崖の上からは、河川が刻み込んだ谷や周辺の山々を一望することができ、地質学上のみならず景観として貴重なものである。  指定:平成15年3月17日』
『大丹倉は、尾川川右岸に位置する断崖上にそそり立つ大岩塊で、地質学上も景観上も貴重なものとして、県の天然記念物及び名勝として文化財の指定を受けています。 文化財を金具等でき損する行為は、三重県文化財保護条例の規定により罰せられます。  三重県教育委員会・熊野市教育委員会』
鳥居をくぐり更に少し上がると森を抜け、上空が広がりました。細長い広場があきな自然石の石碑が立っています。『橿原神宮遙拝所』と刻まれていました。熊野に上陸し、八咫烏の導きによって奈良盆地を中心に日本を1つにしていった神武天皇が眠っている橿原を遥拝する場所をこんな所に作るなんて・・・と、手を合わせて遥拝しました。
その広場の一方に岩盤があります。それを少し登ると、いきなり大岩盤のトップでした。行者さんの覗き修行場のようです。100m以上ある岩盤のてっぺんのようです。下が覗けるかな?と腰を落として端に寄っていったけど、とても怖くて覗けませんでした。見ることも出来ない遥か下の谷を経だてて対岸の山が間近に見え、その向こうに山々が連なっています。雲ひとつない上天気の午前中で、景色は最高です。
バイクに戻り、「赤倉林道」を下ります。r52に突き当り、右折してr52を西に走ります。9:12「大丹倉観望」。『渓谷と神話の冒険ゾーン・大丹倉 大丹倉(熊野市指定文化財・天然記念物):前方の大絶壁が大丹倉である。岩璧の高さは約300mで、流紋岩でできている。岩肌が赤く見えるのば、岩に含まれる鉄分が風化によって酸化したためである。「丹」という字は「赤い色」という意味があり、「倉」という字は断崖絶壁の山を表す。ここからこの名が付いたといわれている。 標高488mの頂上からの展望は素晴らしく、頂上の絶景ポイントまで徒歩約5分のところに駐車場がある。
大丹倉と修験道:この地方は古代から修験道が盛んであった。修験道は、山岳地帯で厳しい修行を行って霊験を得ることなどを目的にしている。熊野の嶮鹸な山地は、修行の場に適し、大丹倉の中腹には行をしたという10畳以上の石畳がある。 頂上に、高倉剣大明神が祀られている。苔むした自然石が御神体で、その下に河内の国から来た行者が残していったという剣が納められている。また、天狗様と呼ばれ、修験者で鍛冶でもあった近藤兵衛という武士の屋敷跡(天狗鍛冶屋跡)も残っている。  黒潮回廊と神々の古郷・熊野市』
正面に「大丹倉」がドーンとそびえています。先程まであのてっぺんにいたんだと・・・。改めてあのてっぺんからの「のぞき」は恐ろしや〜。
r52を先に進み、9:33「大森神社」。『大森神社とどぶろく祭 大森神社は、鎌倉時代の建保元年(1213)、地元の南 太夫が奈良・春日神社に詣でた際に神鏡を持ち帰って祀ったのが始まりと伝えられています。大森神社は毎年11月23日に例祭が行われる。この例祭は、にごり酒を参拝者に振る舞うことから「どぶろく祭」と呼ばれている。起源は明らかではないが、嬢楽の少なかった山里の住民にとってどぶろくのおすそ分けは、年に一度の神様の大盤振る舞いとして大きな楽しみであったと思われる。
東海地方でどぷろくの醸造が認められているのは、伊勢神宮・飛騨の白川郷とここだけであるが、この伝統を守るには先人の苦労があった。明治29年(1896)酒税法ができ「密造酒」は一切認めないとのお達しがあったが、尾川の幸権佐右衛門は県令(知事)田辺輝美に「大森神社は古くから濁酒を持って祭る習慣で、これに背くことは神罰をこうむる」と訴えた。神前に持ち出されて頭を抱えた県令は、やむなく醸造を認めたという。 こうして現在も、氏子によってどぶろく9斗9升9合(約180L)が造られていりのである』
『熊野市指定建造物 建造物・大森神社本殿
神社には、神明造りをはじめ15種類の建築様式があるが、大森神社の本殿は春日造りである。春日造りの特徴は、1間(六尺)四方の井桁(いげた)を組み、その上に4本の柱を立てる。これを一間社春日造りという。
屋根は切妻造りで、左右に反りがあり、本来は檜皮葺(ひわだぶき・桧の皮で葺く)であったが、昭和28年(1953)の遷宮後現在の如くになった。本殿の軒は、繁垂木(しげたるき)である。向拝は、2本の向拝柱に支えられて妻入に付設し、登高欄となり、縁に脇障子がある。春日造りは朱塗りが本来の様式であるから、明暦3年(1657)の頃には朱塗りであったかも知れない。
なお、市内及び熊野地方で春日神社もあるが、大森神社のように古い様式を残した春日造りはない。  熊野市教育委員会』
境内はまさに林で、真っ直ぐな参道だけに木が生えていない。神門に謂れ板が掲げてありました。『濁酒の由来 大森神社草創伝説によると、750年前粉所の南太夫権泰が奈良春日大社より神鏡を承り、これを御神体として祀ったのが、始まりと伝承されています。
当神社に濁酒が造られた年代は不明ですが、かなり古い時代より造られ、祭礼用にお供えされていたと思われます。明治になり太政官が発令され免許制度となり、全国でも数少ない濁酒造りが許可され、祭礼用として9斗9升9合が免除されましたが、昭和23年酒税法の改正があり、課税されることになりました。以前は尾川村の神社の祷連中が独占して御供田よりの収穫米で酒造しておりましたが、昭和20年頃から氏子である尾川・長井・粉所の氏子の話し合いにより、酒造の場所を移して行っています。ちなみに杜氏の方は尾川の木戸口家が代々行っていたが、長井の氏子総代・福島正剛氏(故人)が引き継ぎ、現在では尾川・長井・粉所の総代3人により御神酒が造られています。
例大祭の当日には、御神前にお供え拝礼し、御神酒を頂き老若男女の別なく、お互いの交流の場として永々伝承される事を祈念いたします。  平成30年11月23日』
境内横には「尾川川」が流れていました。とても綺麗な澄んだ水が静かに流れていました。
r52に戻り、r40にチェンジして南下します。この交差点にGSがあり、自販機でお茶を購入しました。ああ〜美味い。10:02「平谷神社」。横に渓谷を流れる沢がBGMになり、苔むした社殿や灯篭が良い感じでした。
r40を先に進み、10:12「西山神社」。バイクを置いて、急坂の道を歩いていきます。イガ栗が道に落ちており、口が開いていました。8月末なので、栗の季節の始まりです。
10:37「赤木城跡」。比高30mほどのそれほど要害には見えない城跡でしたが、藤堂高虎が熊野に睨みを利かせるために築城した縄張りのようで、ワクワクしながら攻め上りました。中世の山城好きなので、ここは長年訪問したかった南紀の城です。やっと訪問できました。今回のツーリングの2つの目玉の1つ目です。もう一つは「熊野奥宮・玉置神社」です。
『赤木城の由来 赤木城の麓には田平子峠を越え、入鹿・本宮方面に通じる十津川街道と、城の東側には風伝峠から吉野方面へと抜ける北山街道が走っている。この辺りは古くから金や銀・銅・鉄などの鉱物資源に恵まれ、また森林も豊かで戦国期にはたびたび熊野の木材が切り出された。
豊臣政権は、古米木材の産地であった熊野の支配を目指して、天正13年(1585)には紀州に侵攻して北山入りし支配下にしたことや、この辺りでは厳格な検地に抗して大規模な一揆が再三起こったことから、赤木城を築いたと考えられる。赤木城の築城については、天正17年(1589)頃と言われていて、後に築城の名手と呼ばれた藤堂高虎が、当時木材確保と一揆の鎮圧のため北山入りしていたことから、高虎が築城したと推測されている。
この城の特徴は、中世と近世の築城法を併用した平山城である。主郭を中心に三方の尾根と山裾に郭が設けられている。尾根を利用して築かれた郭の配置は、中世山城の様相を引き継いでいる。一方、高く積まれた石垣や横矢掛かり、工夫を凝らした虎口などには、近世城郭の要素が見受けられ、また、石垣に反りがなく自然石をそのまま積み上げる野面乱層積みの手法も過渡期の要素と言える。石垣は、主郭や東郭のように周りからよく見える所は高く丁寧に積まれ、北郭や西郭のように見えにくい所は低くし、また角度も緩くなっている。
築城当時の原形を残した城跡は、全国でも少なく貴重である。このため昭和57年4月、田平子峠と共に三重県史跡に指定され、平成元年10月9日には、国の史跡となった。  令和2年2月 熊野市教育委員会』
『(伝)鍛冶屋敷跡 この付近は、昔から「鍛冶屋敷」という地名が残っており伝承もある。 平成7年8月この地区で発掘調査を実施した結果、多数のピットや土杭・残土が検出され、永楽通宝及び施釉陶器(16世紀瀬戸産)近世染め付け椀の小片が出土した』
石垣が多数残って、「兵どもの夢のあと」を感じます。『東門・門跡 石垣や堀によって囲まれた平地を「郭(曲輪)」と言います。東郭は門をはさむ2つの郭からなっており、最初に敵を迎え撃つ場所です。そのため、石垣は高く、険しく積まれている。郭内で発掘調査は行われていませんが、礎石がいくつか見られることから、建物があったと考えられる。
門跡では礎石が2石残っており、間口8尺・奥行6尺の四脚の門があったと推定されます。門の直前で坂が急に険しくなっているのは、敵に攻められ難くするためだったと思われます。  令和2年1月 熊野市教育委員会』
『虎口 郭の出入口を「虎口」と言います。城攻めの時にはここが要所となるので、敵を防ぐための工夫が凝らされています。赤木城では通路を何度も折り曲げて二重の虎口を設け、要所には門を構えて備えています。下段の虎口には防御のためか階段が見られず、梯子のようなもので登っていたと考えられます。まだ、戦いの時以外は登城のための通路でもあり、主郭へ入る上段の虎口では大きな石を用いて立派に見せている。
虎口では石垣の崩壊が著しい状態でした。これについては城の廃絶後に、敵に利用されることを防ぐ目的で意図的に崩された可能性も考えられています。  令和2年1月 熊野市教育委員会』
『赤木城の守り 赤木城に侵入するには、まず左手に見える東郭の間を通らなければなりません。東郭にはさまれた狭い門で侵入して来る敵を防ぎます。次に虎口では、何度も折り曲げた通路で敵を囲み迎え撃ちます。主郭は高い石垣で守られ、横矢掛からから敵に弓を射掛けます。右手に見える西郭は南や西から登って来る敵を、背後を守る北郭は尾根伝いに来る敵を防ぎます。正面の山裾に見える南郭は下の道からも近く、おもに生活の場所であったと考えられています』
『主郭・北郭 主郭は城の最高所にあり、城下からの比高は30mほどです。方形に近い台形をしており、高さ4mほどの石垣が巡ります。随所に横矢掛かり(敵を側面から攻撃するために石垣を突出させた部分)が設けられています。石垣は他の郭よりも高く丁寧に積まれ、城の中心にふさわしいつくりです。
また、主郭に残っている礎石も大きく、他の郭より立派な建物があったと考えられます。ここから播磨地域で生産された焙烙(ほうろく・土製の鍋)が出土しました。主郭からは赤木・長尾・平谷といった周辺の集落が一望できます。
北郭は石垣が2〜4段と低く、西面には石垣が積まれていないなど他の郭に比べて簡素なつくりですが、尾根の先には掘先が設けられ、北から来る敵を防いでいます』
『西郭 細長い尾根の上に築かれた西郭は、4つの郭からなっています。尾根の西側にある大きな谷は、斜面を削り敵が登りにくいようにしています。西郭1では2棟の礎石建物と室(食物などを貯蔵する施設)か水溜と思われる石組み遺構が見つかりました。西郭2・4にも礎石がいくつか見られることから、建物があったと考えられています。西郭の石垣は、他の郭と比べて斜面が緩くなっており、また、麓からよく見える部分には大きな石が使われています。西郭からは、天目茶碗や砥石・釘などが出土しました。  令和2年1月 熊野市教育委員会』
『赤木城跡 熊野市紀和町赤木の標高230mの丘陵に築かれた赤木城は、中世と近世の築城法を併用した「平山城」で、国史跡・熊野市指定文化財に指定されています。 築城したのは、江戸城の縄張りも手掛け、「築城の名手」と呼ばれた戦国大名・藤堂高虎で、野面乱層積みという高度な技術によって積み上げられた反りのない石垣が特徴です。 主郭は約800平方メートル、南郭375平方メートル、西郭約80平方メートル、主郭の四隅は、算木積みと横矢掛りの工法を用いています。
長い年月の間に、石垣は崩れ、木々に埋もれていましたが、平成4〜16年までの13年間に渡って、石垣の積み直しや遊歩道の設置などの維持整備を行い、復元作業を行いました。あわせて平成7〜15年まで発掘調査が行われ、天目茶碗や砥石・釘などが出土しました。 築城当時の原形を残した城跡は全国でも珍しく、朝霧に包まれた風景はまるで天空の城のようだと人気を集めています。平成29年4月6日(城の日)に「続日本100名城」に選ばれました』
バイクに戻り、r765〜r780で、11:22「丸山千枚田」。綺麗な棚田が並んでいました。Pにバイクを停め、じっくり眺めました。「一番小さな田んぼ」がありました。
『紀和町丸山千枚田条例 わたくしたちが誇りにしている地域資源に丸山千枚田(以下「千枚田」という)がある。千枚田は、祖先から受け継いだ貴重な稲作文化で全国的に稀であり、存在が注目されている。 しかし、千枚田における農作業は、地形上、機械による省力化に限界があり、加えて農業環境の変化もあり、休耕地と荒廃地がみられる。 このような状況の中、この貴重な資源を保護し後世に継承していくことは極めて重要で、あわせて有効に活用していくことが、わたくたちに課せられた責務である。
千枚田は、幾百年もの昔、一鍬づつ大地を起こし、石を積み上げ、土を宛がいながら営々と2200余枚を造成し、以来、今日まで休むことなく天水を貯え、芝を刈り込んで耕作し、管理してきたのである。 また、ここに住む人たちは、裾野を埋め尽くす雲海に朝の英気を養い、暮れなずむ連山の空を赤く染める落日に心を癒しながら、正に、千枚田とともに生き続けてきたのである。歴史は巡り、時は流れたとはいえ諸々の日本農耕文化の原点を内包しているのが千枚田である。わたくしたちは、ここに先人の英知と偉業を偲びこれを称えるとともに、千枚田に親しみ、愛しつつその保護に一層努力することを宣言し、この条例を制定する。  平成6年4月27日 紀和町長・中浦敏夫』
千枚田内の道を走り、r40に出ると、「丸山千枚田展望台」がありました。紹介パンフレットに載ってる写真が撮れました。R311に突き当り、左折してR311を走り、「風伝トンネル」を抜け東へ。11:49「尾呂志神社」。小川沿いのお宮でした。「若一王子伊勢神明」の扁額が挙がっていました。こちらも境内の樹は太く立派です。
r62に戻り、更にR311に出て、そこにあったお店でアイスを所望しました。カップかき氷を店の前の椅子に座ってクールダウンしました。12:20「阪本神木林道」入口。初めての林道に入っていきます。熊野古道の峠へのアプローチがあったり、絶景があったり、舗装もそれほど荒れておらずなかなか良いです。
「坂ノ峠」を越え、下りに入った所で、未舗装になりました。「あちゃ〜」、峠には車が2台停まっていました。登山口なのかな?下調べでは未舗装路が長く続くことはないので、バイクを置いてどれぐらい続くのか見に行きます。未舗装の原因がわかりました。林道の上の崖が崩れ、舗装路の上に砂利が覆っているようです。土砂が大量なので、車が通れるように平らにならしただけで仮開通しているようです。30mほど進めば舗装路になっています。「砂利が大きく難儀だけど、これなら行けるかな?」と決めバイクに戻っていると、「バイクの人〜」と呼ぶ声が聞こえてきました。「はい」と答えると、「車、通りますから」とのこと。
交通量ゼロだったので、道の中央にバイクを置いたので邪魔になってるようです。下り坂で乗ったままバックできず、すぐ先が砂利道なので先にも進めず、その位置で置きました。
バイクに戻ると、「この先は舗装されていますよ。すぐトイレがあります」と教えてくれました。2台の車は知り合いなのか?数人で話が盛り上がっていました。2輪2足で慎重に下ります。土なら楽なのですが、大きめの砂利で水の流れた溝も数本出来ているので溝にハマると転けそう。あ、あ〜前輪が溝にハマりコケちゃいました。このCBで初めての走っている時コケです。まあ、両脚をつきながらだったので立ちごけみたいなものです。リアボックスを外して軽くし、ヘルメットを脱いで、サイドスタンドを立てて、ブレーキ掛けながら気合一発ウンショと立てました。良かった、車の方に手伝ってもらわなくて・・・。
バイクをざっと見て大丈夫そう。エンジンガードとリアガード2つ着けているので、平地で倒してもガード以外何処も地面に当たりません。砂利道を出てからリアボックスをつけるのが良いのですが、下り勾配なのでサイドスタンドで立てるのが危ないので、その場でリアボックスをセットしました。バイクにまたがり、エンジンスタート・・・ん?反応なし。おかしいなとチェックするとキルスイッチがONになっていました。ローギアに入っていたので転倒と同時に勝手にエンジンストップしたのに・・・無意識にキルスイッチONにしたのかな?
2輪2足で下ります。すぐにトイレでした。林道入口よりかなり標高が高そう。鳥居が見えたのでバイクを停めました。『横垣峠 浜街道と分かれ山間を行く本宮
道 熊野古道は花の窟のある有馬で二手にわかれて、一方は海岸沿いに熊野那智社、熊野速玉大社を目指して南下する浜街道、もう一方が山間を進み、阪本・風伝峠を経て熊野本宮大社へ向かう本宮道である。 神木から風伝峠手前の坂本へ通じるのがこの横垣峠であり、阪本側の神木流紋岩の石畳は特に素晴らしい。 道中には、付近の人々が「弘法の水」と呼ぶ湧き水や、その側には「水壺地蔵」が建立されており、これにまつわる物語も残されている』「折山神社」に参ります。『御浜町・阪本の集落 世界遺産・「熊野古道・横垣峠」:熊野古道伊勢路の浜街道と分かれ、熊野本宮大社をめざし山間をいく本宮道のひ
とつが横垣峠です。御洪町神本から風伝峠手前の阪本へと続いています。阪本側には神木流紋岩を敷き詰めたすばらしい石畳が残り、往時を偲ぶことができます。この宮は熊野酸性岩の最初の活動で形成された。地中のマグマが噴出した溶岩流
です。峠道を抜けると眼前に広がる緩やかな棚田と山の稜線。この風景に心が落着き、癒やされます。かつての旅人も同じ想いをしたことでしょう。
産業遺産・人々の営み「鷲ノ巣池と三倉池」:鷲ノ巣池は江戸時代末期の天保9年(1838)、稲作のために築かれた池です。阪本川の水源のひとつで標高807mの鷲ノ巣山650mの地点にあり、谷を堰き止める堤が約30m・奥行きが約50m・水深が約5m、堤の基礎は巨大な3段の石積みによって保たれています。三倉池は鷲ノ巣池の完成から7年後の弘化2年(1845)、下流の阪本川本流を堰き止め築かてた池。堤は約36m・奥行き約54m・深さ約3m。この池から棚田へ大溝(用水路)が整備されています。
江戸時代、阪本では水不足に悩まされ、用水を奪い合う「水喧嘩」が絶えなかったところ、庄屋・小原源七郎が藩の世話役人・白井久蔵と大規模な溜池造成事業にとりかかり、米づくりが安定し、生活が豊かになりました。かつて人々が米作りに対して、いかに工夫を凝らし向き合ってきたのかを、現代に伝える産業遺産です。
自然遺産「四季折々の山里景色」:棚田を縫う小道を歩く:静かに開ける阪本には田に囲まれた小道がここそこに伸びています。参節ごとに表情をかえる緑豊かな里でのんびりと散策が楽しめます。春を告げる梅の花:寒風にさらされ、ほかの花に先駆けて咲く梅の花は阪本に春の到来を告げてくれます。
アサギマダラの舞う秋:見る角度や光のぐあいによって、翅の白っぽい部分が「浅色」に見えるアサギマダラ。沖縄から東北まで、ほぼ日本全土で見られ、小さな体に海を越えて移動するパワーを秘めています。
フジバカマが花をつけ、秋色の景色に包まれる頃、アサギマダラが群れをなして本へとやってきます。横垣峠を降りた里の入口にフジバカマの咲く花畑があります。御浜町阪本:尾呂志川支流である阪本川上流の谷間に広がる美しい風景の阪本地区。石積みによって築かれた棚田に心やすまる里山です。地名は、山のふもとに村落ができたことに由来します。紀州犬の祖といわれ、尾呂志城主に従い各地の作戦に参加した勇士・峰弥九郎稲作のための溜池を作った小原源七郎、伝説の外科医として活躍した下平用彩(しもだいらようさい)のふるさとです。細田広がる平地を行く「阪本周遊コース」と健脚向きの「鷹ノ巣登山コース」で、阪本の風景と歴史、空気にふれてみてください。散策みどころ:亀島の石灯籠:周囲25m・高さ5mほどの自然石を人々は亀島と呼びこの頂上には石灯籠が建てられ、神木の妙見社信仰のための遙拝所とされています。近辺でこの石灯籠ほどの大きさのものはありません。神木妙見社は、国家鎮護・除災招福・長寿延命に御神徳があるとされ、日露の戦役に出陣した中で、妙見信仰の人々は全員無事に帰還したと言われていま。
子安観音:岩洞院元屋敷の上にある子安観音は、大きな岩に抱かれるかのようにっそりと佇んでいます。元の子安観音も左奥にあり、焼けて破損したため、弘化3年(1846)に祀られました。集落を見守る石造物:歩く道沿いに数々の石造物が点在しています。折山神社:庄屋の小原源七郎が紀州藩を動かし、鷲ノ栗山に溜池を完成させた記念に、安全を祈願して建立した石灯籍がたっています。昔、この神社は折山の中腹にありました。春と秋に例祭が行われます。水月山岩洞院:開基は天正7年(1579)。鷲ノ巣池と三倉谷の池を築いた徳を称えて明治5年に岩洞院境内へ小原源七郎と白井久蔵の顕彰碑が建てられました。また墓地には、峰弥九郎の墓があります。岩山:三倉池の奥に天を仰ぐ岩山がそびえ立っています。山村料理・阪本の味 伝統の「さんばい」:祭りや人が集まるときに欠かせない阪本の料理「さんぱい」(三杯酢)。季節に採れる根野菜のほか、塩・酢煮漬けたサンマやアジが入って栄養満点。昔の人の知恵が詰まった美味しさです。
茶粥:さらっとしていて、粘りがないのが特徴。熱々を食べれば身体も心もほっこり。
番茶:誰もが親しんでいる香ばしい香りと味。遅れて伸びた茶や、硬くなった茶を製茶したものです。
めはり寿司:高菜の朝漬けの葉でくるんだ弁当用のおにぎり。山仕事へ行く時に重宝しました。
阪本棚田米:棚田のお米(コシヒカリ)は、山からの澄んだ水を使い自然に作付けされています。お米本来の旨味とモチモチした食感が抜群。
紀州犬のふるさと:御浜町阪本地区がその発祥とさる紀州犬。三重県の天然記念物にも指定されていて、勇猛果敢な気性であることから古来より猟犬として親しまれ、今でも阪本地区で飼われている。
紀州犬物語「弥九郎とマン」:江戸時代、紀の国は阪本村に弥九郎という鉄砲撃ちの名人がいました。ある日、弥九郎が山で口の中に骨が刺さって苦しんでいる1匹の狼を助けたところ、しばらくしてから家の前に1匹の子犬がおいてありました。弥九郎は「これはあの狼の子に違いない」とたいそう喜び、その子犬を「マン」と名付けました。弥九郎に大切に育てられたマンは、新宮のお殿様を慕った手負いのイノシシを撃退して褒美をもらうほどの勇敢な猟犬へと成長しましたが、ある日、弥九郎を訪ねてきた叔母がこう言いました。「狼は生き物を1000匹食べると次に飼い主を襲うという。イナゴ1匹でも生き物のうち。そろそろ1000匹になるかもしれないから用心したほうがええぞ」。それを外で聞いていたマンは、悲しそうに夜空へ3回吠えて、姿を消してしまいました。マンが居なくなった後、夜になると鷲ノ巣山から哀しそうなオオカミの遠吠えが聞こえるようになり、紀州犬は弥九郎が育てたマンの血を引いていると言われています』
バイクに戻り、R311に出て、風伝トンネルを通らず旧道に入り、13:12「風伝峠350m」。風伝古道と交差しており、古道は苔むした石畳で趣がありました。
『紀伊山地の霊場と参詣道「風伝峠道」 風伝峠道は、麓に風伝トンネルができるまでは本宮道・北山道・十津川道が合流する重要拠点の地であった。 この峠から吹き下ろす風は凄まじく、颪(おろし)が尾呂志の村名になったという説がある。また、北山方面で発生する霧は、風伝峠から一気に尾呂志の里に舞い降りる、その壮観さは他見できない景勝である。 この峠には、多くの歴史が秘められている。北山方面でおきた農民一揆(天正と慶長)では、一行がこの峠を越え新宮を攻めるとみて、ここに陣地を構築した。また、江戸末期には、十津川で旗揚げした天誄組の一行が風伝峠に来るとみて大砲をすえ、投げつける石を積み重ねたという遺跡も残されている。  三重県御浜町』
風伝峠は、三重県熊野市紀和町と三重県南牟婁郡御浜町の境でした。R311に合流し、13:32「入鹿八幡宮」。『入鹿八幡宮の由来 八幡宮とは、応神天皇を主神としその父、仲哀天皇と母、神功皇后の三柱を祀り、源氏の氏神として深く信仰された。入鹿八幡宮の勧請について、明治十五年に編纂した「紀伊の国南牟婁郡小栗須村地誌」に入鹿某が大分県宇佐より勧請し岡原山に祀ったと記している、このあとは本殿内に収蔵されている延徳三年(1491)の棟札を最古とし、明治まで20枚残っていることにより考証される。 八幡宮は源氏の信仰があつく棟札に山本義家とか、入鹿村総領一族などの文言があることから源氏の一統山本氏が氏神である八幡宮を勧請し崇拝したのものと考えられる、なお現在、応神天皇以下10柱を祭神としているがこれは、明治三十九年の一村一柱令により丸山(丸山神社)、板屋(矢倉神社)、矢ノ川(矢倉神社)、大河内(大河内神社)、小川口(楠森神社)、木津呂(天石神社)、島津(池森神社)、湯ノ口(杉野神社)玉置(牛頭神社)の各神社を合祀したためである。  入鹿八幡宮 紀和町教育委員会』
R311に戻り、「紀和鉱山資料館」。見学しようと思いましたが、コロナ禍休館中でした。R311を西に進み、北山川手前で左折し、13:46「入鹿温泉ホテル瀞流荘・トロッコ電車・小川口駅」。営業中のトロッコ列車です。時刻表を見ると、1時間に1本のペースでした。北山川沿いを更に進みます。北山川では長い竿を振って鮎釣りをされている方がいました。舗装をやり直して箇所があり、慎重に走りました。
13:59「トロッコ湯ノ口温泉駅」。『湯ノロ温泉の紹介 当温泉は、遠く南北朝時代の延元2年(今から670余年前)、後醍醐天皇がこの周辺の金山発掘を手がけた当時よりこの地に温泉が湧出し、地域住民の湯治場であり、或いは貴重な薬用効果の温泉として広く利用され、その地名も「湯ノ口」として今日に至っています。昭和初期、紀州鉱山の操業に伴い地下資源の開発と共に湯脈が地底に沈んだものと伝えられています。
紀州鉱山が閉山した翌年の昭和54年10月、金属鉱業事業団が鉱床調査の為この地でボーリングを実施中、地下1300m地点より突然温泉が湧き出したため、当時まだ残っていた旧鉱山施設の中に浴槽を造って温泉を引き込み、地域住民に開放しました。これが現在の湯ノ口温泉の始まりです。平成20年には鉱床調査で掘削した初代源泉に代わる本格的な温泉掘削を実施し、新たな温泉「新湯ノ口温泉」が湧き出しました。
源泉名:新湯ノ口温泉(泉質:ナトリウム・カルシウム-塩化物温泉、泉温:45.7℃、湧出量:毎分1200L、浴用適応症:神経痛・筋肉痛・関節痛・慢性消化器病・冷え性・慢性婦人病・慢性皮膚病他)』
こちら側のトロッコ駅を見に行きました。駅からすぐに入っていくトンネル前に行くと、冷たい風が吹き出て来ました。夏の日中は天国です。
R311に戻り西進します。「葛山トンネル」「九重トンネル」を抜けました。R169旧道入口を過ぎてしまいました。Uターンしてまた2つのトンネルを抜け、左折してR169旧道に入りました。林道並みの旧道を走り、R169現道と交差しました。林道のようなR169旧道を進む方が早いのですが、通行止めで残念。左折してR169現道にチェンジし、長い「瀞峡トンネル」を北に抜けました。
トンネルを抜けてすぐ、鋭角に曲がってR169旧道に入ります。すぐに、長い「田戸トンネル」を南に抜け、玉置神社に向かう林道に乗りました。15:04「玉置龍神水」。美味い!
15:32「本宮辻」。道標によると、交差する山道を400m歩くと「奥軌道」とのこと。吉野と熊野を結ぶ修験道山道です。「犬吠檜玉石神社」まで5分ですが、帰宅時間を考え、ここは残念ながらキャンセルして玉置神社に向かうことにしました。水分補給しながら、コケた時のバイク被害を丹念にチェックしました。エンジンガード・リアガードの転倒跡は当然として、右フロントウインカーの先っぽにも接触したようです。驚いたのはカウル右側の一部が剥げていたことです。フロントウインカーより明らかに内側なのに何故?って場所です。コケたとこが砂利だったので、その凹凸で当たったのでしょう。エンジンガードしか付いていないVTR250をコカしたら、必ず右ならリアブレーキペダル、左ならチェンジペダル、リアガードの威力は偉大です。マフラーに傷が付きません。
分岐が現われ、右折して「京ノ谷大谷林道」に入り、15:49「玉置神社P」。標高1003m、Pからの山並みが素晴らしい。売店があり、かき氷でも・・・と思いましたが、うどんなどしかなさそうで残念。鳥居から参道のようです。杖も用意されており「登るのかな〜」と売店のおじさんに聞くと片道15分ということでホッとしました。
参道脇に、「枕状溶岩」が置かれていました。『県指定天然記念物・玉置山の枕状溶岩堆積地 平成9年3月21日指定 玉置山頂上付近にある枕状溶岩は、海底火山の噴火により噴出した玄武岩質の溶岩が水中に流れ出し、冷えて固まったものである。産出地帯は不規則な楕円体状または曲がった丸太状をなした岩石が積み重なったもので、一つ一つの内部構造は中心から放射状に割れ目がある。岩石の形状が枕に似ていることから枕状溶岩と呼ばれでいる。
この地域の枕状溶岩は、長い年月の間に地殻変動などで地表に現れたもので。標高1000mの山頂付近に積み重なって存在していることは、日本列島や紀伊半島の形成を考えるうえで貴重な資料であいる。
この地域はブナ林が発達する環境条件であるが、枕状溶岩が堆積する地形・地質学的に特異な地域を反映して、ミズナラなどの落葉広葉樹を主体とする中にヒノキ・モミ・ツガなどの針葉樹、ヤマグルマ・ホンシャクナゲなどの常緑広葉樹を交え特異な群落が発達しでおり、植物学上からも極めで学術的価値が高い。  平成10年3月 奈良県教育委員会』
参道は途中で分岐しており、右は緩い下りの砂利道。「お体の不自由な方は、左の道より参拝下さい」と書かれた道標が立っています。左は鳥居をくぐり、階段が下がっています。『奉献・表参道明神型鳥居一基 平成15年10月吉日 奈良吉野郡 寄進者:南部環境開発株式会社・代表取締役・北川秀信殿』
階段を下ります。杉の巨木エリアに入ります。その向こう少し上に社殿が見えてきました。『大杉:県内随一の太い杉で、周囲が約11mあります。(左へ約20m下った所にあります)』。和歌山No1の杉の太さは見事でした。霊気をまとっているように感じました。手水舎が現われ鳥居もありました。玉置神社正面のようです。
短い石段が上がっており、本殿が見えます。『第39回国民体育大会(わかくさ国体)山の火採火地』の石柱が立っていました。
『玉置神社 社伝によれば当神社の草創は、神武天皇御東征の折、八腿烏の案内にて熊野より大和の地を目指す途上、この地にて十種神宝(とくさのかんだから)を奉じ身の安全を御祈願されたことに始まるとされ、古誌には第10代崇神天皇の御宇に天下安泰と悪魔退散を祈願して社殿が創建されたと記されています。
熊野と吉野を結ぶ修験道の大峯奥駈道が開かれて以降は、行場としても知られるようになり、古より現在に至るまで熊野三山の奥の院として人々の篤い信仰を集めてまいりました。
神社に伝わる弓神楽は、玉置権現が白木の弓を射て悪神を調伏したことに由来するとされ、左記の御神歌が伝わっています。「熊野なる玉置の宮の弓神楽、弦之音すれば悪魔退く」』
『天然記念物・杉の巨樹群 杉の巨樹群 昭和34年4月14日指定 スギは日本特産のスギ科の常緑針葉の高木で、全国各地に自生しているが、広く植林もされている。 古代より建築用材として利用されできたため、全国的に巨樹・老木は少なくなってきている。この玉置神社境内にはスギの巨樹が多数あり、学術的にも価値が高い。その主なものは、平成9年の測定では次のとおりである。
神代杉(じんだいすぎ)胸高周囲8.3m・高さ20m、常立杉(とこかちすぎ)8.6m・25m、磐余杉(いわれすぎ)7.0m・30m、浦杉7.0m・28m、大杉8.7m・40m  平成10年3月 奈良県教育委員会』
『熊野三山の奥の院として信仰を集める当社は、熊野信仰が盛んとなった中世には数々の行幸があったと古誌に記されています。 右の石塔は後白河院と和泉式部の参詣記念として建てられたものと伝わっています。 後白河院は保元2年(1157)に行幸されたとの記録があり、左の御製を残されています。「忘るなよ程は雲井に隔つとも、馴れて久しき三熊野の月」。和泉式部の歌として次のものが伝わっています。「玉置の名に立つものは秋の夜の、月に磨ける光なりけり」』
短い石段を上がり、本社に参ります。『右殿:天照坐皇大御神(あまてらしますすめおほみかみ) 中央殿:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・国常立命(くにのとこたちのみこと)・伊弉冉命(いざなみのみこと) 左殿:神日本盤余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)』
『参観下さい 直ぐ裏側に樹齢3000年の神木(神代杉)あり 30m下方に日本随一の根回り19.5mの大杉あり』
玉置神社参拝記念として「絵馬」を社務所で授かりました。バイクに戻りましょう。帰路は「車椅子の道」を使いますが、いきなり緩いながらも上り階段が続いていました。平坦な砂利道になり、岩を御神体にしているのか、「白山社」という小さな摂社がありました。玉置神社の下に向かう道との分岐まで戻り、16:40Pに戻りました。往復1時間でした。玉置神社の標高は930mで、Pより70m低い位置にありました。参拝は「車椅子道」の方が楽ですが、下の道の方が大杉群の中を歩くので雰囲気が良いです。西の山並みを見ると、雲間から光の階段が差し、とても綺麗です。
帰路に着きます。「京ノ谷大谷林道」を下ります。17:12、樹木が切れたところから十津川が見下ろせました。とても綺麗です。
17:20「猫又の滝」。『昭和24年12月、念法開祖・小倉霊現大僧正、紀州路にご巡教のおり一夜夢中に一霊神現われ、「我は八大龍王姫松明神なり、我が棲む地の隣によき山林あり、その材木を持って念法信教総本山の道場を建立し給え」と託宣して消えぬ。開祖はその夢のことを忘れるともなく忘れておわせしか、翌昭和25年3月19日十津川村ご巡教の時、この夢中の託宣のことを思い出され、信徒たちにその夢の情景を語られるに、その座に居合せし人々みな異口同音に、そは折立のネコマタのことならんと言えり。やがてネコマタの滝の隣地の山林の持ち主・中上猛太郎氏より、この地上の原木全てを総本山金剛寺道場建立の資材に供養せんとも申し出ありき。
これより先、開祖は信徒の増加に伴い、日毎に狭益をつげる総本山道場に苦慮せられ、大衆教化のため、大道場を建立せんとの大願を持ち給えるところなれば、中上氏の申し出を快く受け給いその材木の伐採、搬出に近在の信徒の助力加勢を指示し給えり。ここに近在の同信奮い立ち、県命の奉仕に業務は渉り、やがて大阪の総本山金剛寺道場は完成を見るに至る。時に昭和25年12月のことなりき。開祖は1日ネコマタの滝の前に立ち給いて神酒を口に含み、霧の如く息吹き給えば、芳醇たちまち四辺にみちみてり、この時霧中に一霊神あらわれ、「我は八大龍王姫松明神なり、今念法の救いを信じ、教えを実行するものを、我れ必ず守護せん」と言う。
開祖はこのネコマタの地を八大龍王姫松明神の聖地と定め給い、この明神は念法守護の霊神なれは、今後念法同信は浅塁の思いをなすこと教誠し給う。八大龍王姫松明神の開顕より32年を閲し開祖のご霊徳を偲び、記念の碑を建立するもの也。維時・昭和58年3月吉日 奈良県吉野郡十津川村折立 念法真教・十津川念法寺』
R168に出て十津川沿いを北上します。「十津川村役場」を通り、いくつものトンネルを抜け、五條手前で暗くなってきたのでバイクを停め車載カメラを外しました。五條市街地にでて、右折してR24に乗り、19:06「セブンイレブン五條須恵店」で、「森永チョコモナカジャンボ140円」購入し糖分補給しました。街頭の殆どないR168の紀伊半島中央部区間は、暗くなると危ないので、何とか暗くなる前に脱出できて良かったです。この区間はカーブが多いのに高速四輪が多いので、低速の僕は苦手です。左ウインカーで、出来るだけ早く抜いてもらうようにしています。
R24は道なりに北に向きを変え、「京奈和道」無料期間に乗り、「橿原高田IC」で下車しました。左折して西進し、「高田バイパス」から「南阪奈道路」で、日本最古の官道「竹内峠」を越えて大阪府に入ります。「近畿道」にチェンジして北上し、「吹田IC」で下車して「中央環状道路」からR171で、20:37「エネジェットセルフ北村SS」で給油しました。「297km/12.3L=24.1km/L」。2日間楽しみました。


2021/8/28
先週日曜日に琵琶湖で活動するヨット仲間とクルージングをしました。その時、「あんたの船で宿泊クルージングしたいんだけど・・・」と提案されました。じゃあ計画してみようと、淡路島翼港・姫路的形・和歌山マリーナシティなどに当たりましたが、全てコロナ禍緊急事態宣言によるビジター受付休止で無理でした。旅脳になってしまったので、三重県南部、和歌山県との県境に位置する「熊野」一泊ツーリングしようと前日に決めました。お隣さんのバイク仲間に計画を伝えると、島根県山口県ツーリング中だそうです。
5:33、倉庫から「招き猫CB400SB」を出して、出発。R171〜中央環状道路、吹田ICから「近畿道」に乗り、「南阪奈道路」にチェンジし、葛城山系を越え奈良県入りしました。「葛城IC」で下車し、奈良県道r30で南下します。左折してR309で東進し、6:54「ファミリーマート御所富田店」で、「バナナ3本228円+フルーツミックスジュース100円=328円」購入し、バナナ1本朝食にします。
ここからR309は南に方向を変えます。「下市町」に入り、「吉野川」を渡り、更に南下します。
7:42、「丹生川上神社下社」。『日本遺産 丹生川上神社下社 日本最古の水神を祀る神社。雨乞いには黒馬を、晴れを祈る時は、白馬をこの社に献上したという。絵馬発祥の神社としても有名で、森を育むために必要な水を祀った神社として崇敬された』
『丹生川上神社 上社:吉野郡川上村迫 中社:吉野郡東吉野村小 下社:吉野郡下市町長谷 「絵馬」発祥の社 古くから丹生川上神社には朝廷より、雨を祈り「黒馬」、晴れを祈り「白馬」が献上されました。
この水神に対する信仰は、時代の流れとともに京都・貴船神社に受け継がれてゆきます。都が遷り、そのお祭りは室町時代に途絶えましたが、平成23年に国内で続けて起こった水に関わる災害の復興を祈り、平成24年に白馬献上のお祭りが約600年ぶりに復興しました。その後、当社ご崇敬の方より神馬が奉納され、境内で飼育をはじめ、現在故事に習い、神馬献上の祭りは丹生川上神社三社で継承しています。人は神に雨を願い馬を奉る。人は神に願い馬を奉る。人は神に願い事を書き絵馬に奉納する。
「うまくゆく白ちゃん黒ちゃん守り」 初穂料1000円』
境内に、柵で囲った馬場がありました。観光客も少ないだろうこの神社で、馬がいるんだとビックリしました。丹生神社はここで三社全て参りましたが、ここの謂れ板で初めて、京都貴船神社信仰の元宮と知りました。貴船神社も「絵馬発祥の宮」と謳っていますが、それは丹生神社にあったんだと知り嬉しくなりました。
『丹生の御神馬 神様のお馬です。むやみに食べ物を与えないで下さい。また、ケガ等をしてはいけませんので、触れる事を禁じます』
鳥居横に、『旧官幣大社・丹生川上神社下社 平成の修復 日本最長・木造階(きざはし)復元工事及び境内整備工事 金剛組』と書かれた大きな看板が立っていました。
世界一の長寿企業「金剛組」の仕事場でした。創業は飛鳥時代だったよね〜と帰宅後調べると、578年でした。奈良の会社だと思っていたら、聖徳太子が朝鮮半島から四天王寺建立の為に招いた工匠3人の1人金剛重光という金剛組の創業者だそうです。昭和に入り多角化により経営が傾き、2006年に同じ大阪の高松建設傘下に入り、現在は宮大工に集中し、平成時代に9基あった五重塔新築工事の3基を受注し経営が安定しているようです。
木造建築は火災に弱いが、それさえなければ鉄筋コンクリート造りより長寿命で味があります。鉄筋コンクリート造りの寺社が増えていますが、どうも馴染めません。
広い境内から拝殿を見ると、拝殿から裏山に向かって「日本最長・木造階(きざはし)」が急斜面で上がっており、そこに本殿があるようです。
『牛石に思う この石は形が牛の寝ているように見える所から、誰となく牛石と呼ぶようになった。この石は大正天皇御大典の奉祝を記念して、丹生区より奉納されたものです。当時、これといった道具もない時代に、これだけの石を人力だけで、そり台に乗せて川より引き上げ、若者の心意気と辛抱強さの象徴として此処まで持ち込んで下さった労苦に頭の下がる思いがします。
それから約1世紀に亘り辛抱強くここに座ったままの石である。だから世の移り変わりの色々を知っている。ロマンに満ちた石である。今改めて当時の人々の労苦に感謝しながら、いつの世にあっても辛抱の大切さを教えてくれている。この石を愛しく思い、真心込めて優しく3回撫でてあげましょう。思いがけない幸運に恵まれるかも』
『蛙石 牛石の傍の石、この石がなぜ牛石の傍に立っているのか現在の氏子中で誰も知らず不思議に思っていた。 だが、最近その理由がわかった。 この石をじっと眺めていると蛙が立ち上がった姿に見える。そこで、この石を蛙石を名付けることにした。
牛は、じっくりと物事を見極めて粘り強く歩むことから、人生も商売も牛歩のようにあれと言われている。
一方蛙は、瞬時に捕らえる瞬発力を持っている。すなわち、静と動の対照的な性格を持つ石を並べて置いたのは、人生にも物事を決める時、熟慮すべきか、即決すべきか、判断に迷う時がある。そんな時、この2つの石に触れながら心静かに考えてみよう。その時、2つの石の精がきっと良い決断を与えてくれるでしょう。牛の粘り強さと蛙の瞬発力を兼ね備えた人生であるために、何事も原点に帰る(蛙)気持ちこそが大切だとこの石が教えてくれている』
境内に、神馬がいるであろう馬小屋がありました。窓がないので外からは見えませんが、中でゴソゴソやってるので神馬がいるのでしょう。
『丹生川上神社と神馬 馬と最も縁有る社 絵馬発祥の神社
雨乞いに黒馬 晴れを祈り白馬
水神さまに馬を奉る神事の継承護持に、左記の通りご協力をお願い致します。神馬飼蓼料1000円 ・神馬に因み「交通安全ステッカー」授与
神馬講年間5000円 特典 ・翌新年お札・吉野の七草郵送 ・神馬に因み絵馬・交通安全ステッカー』
社務所に向かいます。『丹生川上生社めぐり 丹生川上神社は吉野郡に三社あります。三社をめぐってそれぞれの水の神様のご神徳をお受け下さい。
※三社をめぐって、福神矢にそれぞれのおやしろの御守をおつけ戴きましたら、「丹生川上三社めぐり結願御神符」をお授け致します』
『「寒の水」と「寒九の水」 暦の上で寒(小寒から節分)の期間に汲んだ特別な水を「寒の水」と言います。
1年で一番寒い「寒」に採水した水は柔らかな味で、いつまでも腐らず保存に出来ると言われて来ました。その水を体内に含ませる事で、健康長寿であるという言い伝えやこの「寒の水」で作られる。味噌や醤油は格別で、昔のお母さんは家族の健康を祈り、寒さに耐えながら作ったようです。日本酒では「寒造りの酒」と別に扱い、味の深み香り味わいが違う特別な酒としたようです。
また、寒の期間で、最も重宝される日が「寒九」です。その日の水を「寒九の水」と言い、1年で一番澄んだ水と伝わり「薬なり」と称えられました。
水に生命の躍動を感じ、水に生き方を求めてきた日本人「腐らず」「よどんで濁らず」いつも澄んだ心であるために、日本最古の水神「丹生川上の神」に手を合わせて下さい。
水の神の水「寒の水」「寒九の水」あります。「寒の水」初穂料500円/1本、2000円/2リットル2本』
『多羅葉 多羅葉は(モチノキ科)で雌雄異株であり、花は5月から6月に咲き、木によっては無数の果実が付き、秋に赤く熟すから遠くからでも多羅葉とわかるくらいであるが、この木は雄木なのか花は咲くが実の成ったことはない。
多羅葉と言う和名は中国の多羅樹に由来すると言う。葉の裏に堅いもので文字などを書くと、その部分が黒く浮き上がる。そのまま上手に乾燥すると、20年経っても文字が読めるという。経文を書いたことから多羅葉との一説もある。葉に文字を書いたことから葉書の語源になったとも言われる(別名を葉書の木)。この木は暖地を好み、本州では静岡県より以西で育つ。四国・九州に多いが、近郷ではこの神社以外で見かけることの少ない珍しい木である』
多羅の木の葉は、榊に似た「The葉っぱ」という綺麗な形で、榊より大きく緑色が薄い。
『丹生川上神社下社由緒
御祭神:闇オカミの神(くらおかみのかみ)・いざなぎ・いざなみ二尊の御子神ご創建:天武天皇、白鳳4年(676)「人声の聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば、天下のために甘雨を降らし、霜雨を止めむ」との御神誨に困り創建された古社である。
御例祭:6月1日
御神格:延喜式の名神大社22社の1社。元官幣大社、明治4年列格
ご鎮座地:丹生川の川上・丹生山。神武天皇御東征の途、御親祭遊ばされた地である。
朝廷の尊崇:天平宝宇7年(763)幣帛の外、特に黒毛の馬を奉献される。その後、祈雨には黒馬、祈晴には白馬を献ずることが恒例とされた。孝明天皇、安政元年(1854)に、「外患倶服国家清平」の祈祷を仰せ付けられた。
御神徳:大気を浄化し、万物生成化育の根源たる水を主宰遊ばされ、地球上のありとあらゆる物象の上に、はかり知れない恩恵を垂れ給い、守護あらせられる命の神様である』
『祈願言葉の例 家内安全・身体健全・交通安全・開運厄除・試験合格・学徳成就・良縁成就・子宝祈願・安産祈願・病気平癒・商売繁盛・健康維持・心願成就・工事安全・作業安全・大漁祈願
このほか自分の思う言葉を書いて祈願して下さい。
絵馬奉納1枚500円です。社務所にお申し込み下さい』
『皆様、本日はようこそのご参詣有難うございます。御本殿に御拝礼をお済ませになった方は、拝殿の右手の方へお廻り下さい。
そこからご覧になると、拝殿から立ち上がるように伸びる急傾斜、75段の階段を上がり詰めた所にある杉の大木、樹齢500年(推定)幹周り、1本は5.5m、1本は5.8m(実側)。見上げれば梢(こずえ)は中央に届くかと思われるような大木に守られるようにして。
総檜の流れ造り、屋根は銅板葺きで建坪7.31坪の荘厳な御本殿を仰ぎ見ることの出来る当神社で一番厳かで心を癒やしてもらえる場所だと思います。 是非一度、拝殿右側から御覧下さい』
拝殿内部を覗くと、昭和45年・平成20年の「天皇陛下・幣帛料御下賜」札、神武天皇と孝明天皇の御影が掲げられていました。拝殿前脇に神水井戸がありました。
『欅(けやき)に願いを込めて  昔から大木に神宿ると伝えられていますが、正にこの欅、神宿るに相応しい大木、樹齢500年(推定)株回り4.5m、樹高約30m。大昔より涸れたことのない御神水の恩恵を受け、四方に伸びた枝に繁る若葉は、神の恵みそのままに朝日に映えて神々しく輝き、秋の紅葉はさながら錦絵のようで、見る人の心を捕らえて離さない。今、心静かに大木の幹に手を触れて生気を頂きながら、何か1つだけ願いをかけてみよう。思わぬ御利益に預かる事ができるかも』
拝殿裏の御神木の向こうに縄が張られ、『これより御神域につき、立ち入りを禁じます。 社務所』と書かれていました。御神域の山側を見上げると、巨木が木々の間から数本見えました。本殿裏の巨木杉は凄そう。近くで見たい。
バイクに戻り、丹生川沿いを走り、R309に戻り先に進みます。「丹生トンネル」を抜け、8:14「道の駅黒滝」。トイレ&売店ブラブラして出発。ぐんぐん南下し、長〜い「新笠木トンネル」「親川合トンネル」2連発を抜け、「MORIKURO HULAHULA」の横を抜けました。急に道幅が狭くなり、「天の川」沿いを走ります。
8:44、「みたらい渓谷」。交通量は少なめですが、朝から美しい渓谷を観に乗用車が来ています。更に進み、観光の車がなくなり、対向車も来ない沢沿いの道をのんびり走ります。9:05、「川迫川」を渡る橋の上から川を覗き込みます。素晴らしく綺麗な水が流れており、餌がなさすぎて岩魚さえ住めなさそう。
更に標高を上げていくと駐車場があり、車が停まっています。「行者還トンネル」Pです。ここの標高は1100mで、行者還岳(1546m)や弥山(1895m)への登山口です。稜線まで上がると「大峯奥駈道」があります。吉野と熊野三山を結ぶ道で、修験道の修行道でもあります。
トンネルを抜け、R169側に下ります。R169に出て、トイレ休憩しました。R169を南下します。10:12、「道の駅・吉野路上北山」で休憩しました。「ヤマザキショップ道の駅吉野路上北山店」で、「アイス氷100円」購入しクールダウンしました。横を流れる「北山川」を見ると、小さなテントを張って水浴びしている家族が数組いました。小さなお嬢さんが2人、ライフジャケットを着ています。良いですね〜、僕は子どもたちが小さな時、家族4人ライフジャケット必着で海に入っていましたが、当時はそんな家族はいませんでした。ライフジャケットを着ているだけで、多くの夏の水事故が防げます。
R169を南下し、左折してR425に入り、10:42「池原ダム」。ダムから下側を見ると、遥か下に「下北山スポーツ公園」が見えます。
『新宮川の清澄化を目指して 近年新宮川水系北山川は、上流域の開発事業や山腹崩壊などにより、洪水時には池原ダム湖に濁水が流入し、下流の濁水長期化現象が著しくなってきました。池原ダム表面取水設備は、この濁水長期化現象を軽減し、豊かな清流に戻そうとする設備です。  池原発電所の取水システム』
『表面取水設備とは 表面取水設備」とは、ダム湖の中層が濁っている時に、ダム湖の表面付近にあるきれいな水を取水出来る設備です。濁水は、洪水時に池原ダム湖に流れ込むと下図のように中層に漂うことになります。 既設の取水口は、この中層から取水していますが、「表面取水設備」は表層のきれいな水を取水して流す方式です』
『水利使用標識 河川名:1級河川・新宮川水系北山川
許可年月日・許可番号:令和3年3月12日・元国近整水第126号
許可期限:令和22年3月31日
許可権者名:国土交通大臣
水利使用者名:電源開発株式会社
水利使用の目的:発電
取水量:342立方m/秒
貯留量:2億2千万立方m
取水施設管理者名:電源開発株式会社
所轄事務所名:国土交通省近畿地方整備局・0729-22-4564』
『池原発電所概要 池原発電所は、わが国における最多雨地帯(年間約4000mm)の大台ヶ原に源を発する北山川の池原地点に高さ111m、頂長460mのアーチ式コンクリートダムを築き、最大出力35万kWを発電する北山川水系一貫開発の根幹をなすものです。また、この発電所は、夜間の余剰電力を使って、下池の七色ダムから池原ダムに水を揚げ、自流に加え昼間に発電する混合揚水発電所です。発電した電気は、関西・中部地域に送られ電力消化ピーク時に、最大の力を発揮しています。
池原発電所:新宮川水系北山川・池原ダム・揚水発電(ダム式)
ダム:ドーム型アーチ・高さ111m・丁長460m・体積64万6600平方m
貯水池:総貯水容量3億3800万立方m・有効貯水容量2億2000万立方m
取水口:延長1・2号18.5m、3・4号23.0m 高さ1・2・3・4号52.0m 幅1・2号37.2m、3・4号42.7m
水圧鉄管:内径×延長1・2号4.5m〜3.6m×145.5m、3・4号5.4m〜4.3m×145.9m
発電所:地下式 地下棟幅20.3m・高さ42.5m・長さ122.0m 地上棟幅20.3m・高さ11.2m・長さ36.0m
放水路:開きよ1431.4m(放水庭77.1mを含む) トンネル部300.5m 底巾18.0m
ポンプ水車:立軸渦巻、フランシス形ポンプ水車 最大出力1・2号8万kW×2、3・4号11万kW×2
発電電動機:立軸傘形回転界磁閉鎖、風道循環形 容量1・2号機78000kVA、3・4号機110,000kVA
最大使用水量:342立方m/秒
最大有効落差:120.5m
認可最大出力:350000kW 1・2号72000kW×2 3・4号103000kW×2
洪水吐設備:シュート式 ゲート4門(幅15.0m・高さ16.8m) 計画洪水量6700立方m/秒
運転開始:1・2号機昭和39年9月 3・4号機昭和41年10月
電源開発株式会社』
R425を戻ります。R169に出て少し南下し、右折してR425を西に向かい、11:06、「池神社」&「明神池」。R425に入り、つづら折れで標高を上げた所に意外に大きな「明神池」がありました。更に西に伸びているR425は、森の中に消えており、かつては人知れず「神秘の沼」のような存在だったのではないでしょうか?
禁足池なので大きな鯉がウヨウヨいました。池の上に出ている小さなテラスが有り、無人で鯉の餌を売っています。100円で餌を買いテラスに乗ると、大きくて様々な色の鯉がわんさか寄ってきました。餌を池に撒きながら、勢いの良い鯉の動きを楽しみました。池神社を擁する神池の鯉は、神様の使いでしょう。R425を挟んで、池神社がありました。
『池神社 創立は飛鳥時代、天武天皇の白鳳年間(673〜681年)役行者が大峰入峯から下りて、無人の山中に幽玄な湖を見て、深くその霊気に打たれ、これをまさしく神のお在しますところとして、祀り始めたのが起源と伝えられている。最初は池の阪峠(辻堂)にあったが、元和年間(1615〜24年)に現在地に遷宮された。社号は、初め「池峯大明神」または池峯神社と称し、後に「池大明神」と称し、明治6年(1873)に社号を「池神社」と定め、郷社に列せられる。主祭神は、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)=弁天様となっている。昔から雨乞いの御利益で知られて、当村の祭神さまであるばかりでなく、広く南紀・熊野一門の崇敬を集めている。祭神は他に二神をも祀っている。「天児屋根命(あめのこやねのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)」。 この神秘的な池神社を平成28年4月19日に日本遺産として認定されました』
『池神社・明神池のいわれ 奈良時代、役行者が無人の山中のこの幽玄な湖を見て、深くその霊気にうたれ、神の存します処として、祀り始めたのが池神社の起源です、大正13年の「池神社記」では、白鳳の頃、役行者が大峰入峰の節下って、鎮祀し後世聖護院(現京都市左京区)醍醐寺三宝院(現同市伏見区)入峰の際、池神社に参寵し修法を難行し、銀4枚ずつ奉納したと云います。その当時の修行場は、社の北の山伏平だったと伝えられています。社前の明神池は、周囲1km・面積6haあり「注ぐ谷なく出るに川ない池」として崇められ、不敬のことがあると、雷鳴を伴う大雨が降るといわれ今でも畏れ慎んでいます。古書によれば、大阪城築城の際にこの池の周囲の大木が献上され、大阪城落城したときには、その末木が湖面に浮かんで7日7夜湖面の周囲を回り続けたと云われています。
明神池の七不思議
1.入る谷無し、出る川無しなのに決して涸れず、水位がひとりでに上昇することがある。
2.神社の前の道も聖域である。
3.池に石を投げると雷雨になる。
4.鯉や亀を殺(あや)めると死ぬ。
5.御神木を伐(き)ると崇(たた)りがある。
6.吉兆の「浮木様(うきさま)」が現れる。
7.池の水神(すいじん)「白龍(はくりゅう)」が立ち登る。
池神社祭神:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)』
『1.入る谷無し、出る沢無しなのに決して涸れず、ひとりでに水位が上昇することがある。
周囲を小高い峰に囲まれた「明神池」は、注ぎ込む谷も出てゆく川もありません。しかし常に満々と水をたたえどんな日照りの時でも池が干上がったことは一度も無いということです。ところが明治時代、池の水がひとりでに溢れ出してついには拝殿の階段に到達したことがありました。村人は「悪いことの前触れ」もしくは「神の怒り」ではないかとひどく恐れたそうです。また昭和50年(195)にも、大した雨も降らないのにどんどん水位が上がり、拝殿まで水が溢れたことがありました。その時は、大学の先生に調べてもらいましたが、やはり原因不明であったとのこと。ただ、その調査の際、池の深さは場所によって1.5〜7mと様々で、湖底は起伏に富んだかなり複雑な地形であることが分かったそうです。
2.神社の前の道も聖域である
現在、「池神社」の拝殿と「明神池」の間には国道425号線が通っております。しかしここで不敬なことをしたりこの道を通って遺体を運んだりすると、よくないことが起こると言われておりました。それで村人は昔は葬儀の「野辺送り」の際は棺(ひつぎ)を車から降ろし、神社とは反対側の湖畔の道を人力で運んだということです。
なぜこのようなことをしたのでしょう。実は昔は、現在の拝殿のすぐ近くまで池が広がっており赤い鳥居は水に浸かっていたと言われているからなのです。すなわち池と鳥居の間の道路はかつての「神社の境内」、あるいは「御神体」の上に作られたも同然だということ。車で通過するときでも敬虔な気持ちで軽く一礼してお通りください。
3.池に石を投げると雷雨になる
池に石や木を投げたり、池の水を汚したりトイレをしたりすると、晴天であってもたちどころに大雨が降ると言われています。あるとき池の横を通りかかった旅人が「自分は氏子ではないから大丈夫」と思って石を投げたところ、突然雷が鳴り響き、バケツをひっくり返したような豪雨と強風が吹き荒れて全身ずぷ濡れ。ひどい目に遭ったということです。
またこのような話もあります。「池に船釘を投げ込むと龍が現れる」と聞いたある男性が船釘およそ4kgを持ってきて池に投げ入れました。するとにわかに空がかき曇り谷じゅうに雷鳴が響き渡ると同時に水面が波立って、池から巨大な龍が天に上がったというのです。男性は恐怖と驚きで気を失いその場に倒れ込んでしまったそうです。たとえ突然の雨にならなくても石を投げるとその後で転んだり怪我をしたりするなど良くないことが起こると言われています。
4.鯉や亀を殺(あや)めると死ぬ
「明神池」は池そのものが御神体であるため、釣り糸を垂れることも船を浮かべることも、また足を踏み入れることもしてはならないとされてきました。ところがある男性が「明神池」の鯉を釣ったことを、床屋で自慢げに話しました。すると急に崇りが出て病気になってしまいました。どこの医者に行っても治りません。占い師に尋ねると「明神池の魚を釣ったからだ」と言われました。そこで神社に謝りにきたところ病気は嘘のように治ったそうです。現代でも池の鯉を捕って刺身にして食べた人がいますがその人は翌日、石を運ぶ作業をしているとき重機が倒れ、即死してしまいました。
また池神社である男性が弁当を食べている、と弁当の匂いを嗅ぎつけたのか池から亀がノコノコと岸に上がってきました。ところがその男性は亀におすそ分けをするどころか、亀を捕まえて足を紐でしばった挙句、木の枝に吊り下げてそのまま家に帰ってまったのです。その人は翌日、山道を走っているときに車ごと転落しあっけなく亡くなってしまいました。「明神池」には現在、密かに放流された「ブラックバス」なども生息しておりますが、「キャッチ&リリース」であっても「池の魚」を傷つけることになります。釣りは絶対になさらないでください。5.ご神木を伐ると崇りがある
神域の木を伐(き)ると、伐った者はその場で気を失って「100年の眠り」につくとも言われています。また神社の草木を切ったり採ったりすると、怪我をするなどの天罰があると言われています。「明神池」を一周する遊歩道でも、池側の木は一切伐つてはならないと言われているため、池に倒れた木も全てそのままにしてあります。「池神社」の御神木は神社の北20mほどの位置に立っていた直径3m以上ある大木で「矢立の杉」と呼ばれていたそうです。
それが大阪城の建材にするため、秀吉の命令で伐採されることになりました。もちろん村人は畏れて誰も伐ろうとはいたしません。しかし秀吉の落とし胤(だね)と言われる「神をも恐れぬ兄弟がこの地を訪れ、御神木を伐ろうと言い出しました。ところが斧を入れる度に刃がこぼれてしまいます。兄弟は斧を研ぎながらほんの少しだけ切れ込みを入れました。ところが翌朝、その切り屑がすべて木に戻っていたのです。兄弟は同じように斧を研ぎながら木を削り続けましたが、その翌日も同じ現象が起こって木は元通りになっていました。
そこでその兄弟は、削った木屑を夕方に焼いてしまうことにしました。これではさすがの御神木も、切り傷を元に戻すことができません。2人の荒くれ者によって、とうとう伐り倒されてしまったのです。ただし「明神池」の怒りは、その後別の形で現れました。「浮木様」の項目をご覧ください。
ちなみにこの兄弟はその後、「明神池」の水を「池原」の集落へ流そうと思い立ちました。そこで池の周りの木を伐り始めたところ、突然池の中央が波立ってきて2人はその場で気絶。目が覚めたときには手にした斧の柄が腐っており、着物もトロトロ、顔は髭だらけ。驚いて村に下りると、「3年」の月日が経過していました。さすがにこれには懲りて、以後は無茶をしなくなったということです。
6.吉兆の「浮木様」が現れる
池には長さ4mほどの太い古木が、長年浮いたり沈んだりしていると言われています。木の上には苔や草が生えていますが、これは「池神社」の御神木だった「矢立の杉」の一部で、「浮木様(うきさま)」と呼ばれています。普段は見ることができない「浮木様」が現れるのは大いなる「吉兆」とされていて、世の中にめでたいことが起こったときは池の中をグルグル回ったそう。
また、その「浮木様」の上に亀が1〜5匹ほど乗っていることもあり、これは神様が遊びに出られたものと考えられてきました。そもそも「浮木様」は大阪城の建材にするために切り倒された御神木の梢の部分である「末木(うらき)」ですから、大阪城に異変や不幸があるときは必ず現れたらしく、「大阪夏の陣」で大阪城が炎上したときなどは、「浮木様」は7日7晩池を回り続けたと言われています。神をも畏れぬ秀吉の行いを、「明神池」の神様は決して許さなかったということかもしれません。このほか「国家の一大事」が起こる前にも、「浮木様」が姿を現すと言われています。戦前においても何度か目撃されていますし、最近では2011年6月25日の朝にお参りに来られた方が伝説通りの完璧な「浮木様」に出会いました。
それは長さ4mほどの太い木で、上には右手に青草が生い茂り左手に亀が1匹乗っていたそうです。湖畔に漂っている流木や周囲の倒木は樹皮が剥がれて土色になっているか腐って黒ずんでいるかのどちらかですが、その木は上に草が生い茂っているにもかかわらず真っ白で美しかったということです。「国家の一大事」、もしくは「類まれな吉兆」と言われていますので何が起こるか楽しみにしているのですが・・・。
7.池の水神(すいん)「白龍」が立ち昇る
「明神池」のお膝元、「池峯」の集落に住む人の話です。家族3人で「池神社」にお参りをしていたところ、突然水面がザワザワし始め池の中央から大きな「水柱(みずぱしら)」が立ちました。それはまるで「滝」を逆さにしたようなもので、「龍神が池から飛び立たれた!」と思い、3人で手を合わせたということです。その不思議な「水柱」を見たことによって、「この世ならぬものが存在する。池には龍神が住んでいる」ということを深く確信したとか。れっきとした現代の話です。
別の村人によると、あるひ「御神事」をしているとき、いつもは静かな池がザワザワと波立ち始め池のほとりの「餌やり場」にたむろしている何十匹もの鯉が大慌てで蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。すると見る見るうちに池が泥で濁り、池の半分が真っ赤に染まったのだとか。やがて池の中央に、「巨大な白蛇」のようなものが現れたそうです。はっきりと肉眼で見えたらしい。驚きで立ちすくみましたが、大急ぎで拝殿に戻ってつい先程お供えしたばかりの生卵をとってきて池に投げ入れたところ。池は瞬く間に静かになったということです。1995年の話です』
『池神社を詠む 神杉の並ぶ樹林にひびき合ふ、池の神社のことだまの風。
悠久の時の流れにはぐくまれ、大樹は炎ちゅうに緑蔭をもつ。
藍ふかく水澄みたれば池の面に、去にゆく夏のうきぐもひとつ。
伝説の中に恐々しき龍体を、現となして風のさやげる。
今の世に古りし宮居の巨杉に、甲かたぶけて秋の声聞く
五條市岡口 光野政子』
謂れ板を読みながら、「凄い伝説だ」とあらためて池を振り返って畏れを感じました。各地にいろんな伝説が残っていますが、「火のない所に煙は立たず」のことわざのように、この池の周辺でいろいろな不思議が起こってきたんだな〜と思いました。
『やまとの水・明神池 下北山村池峰 奈良県では、古くから地域の人々の生活と深く関わり守られてきた清澄な水や、すぐれた水環境を「やまとの水」として選定しました』
『明神池周遊歩道 1周1km 下北山村』
『此の池、神池につき魚類の釣り、すくいどり等一切を禁じます。 奈良県神社庁 下北山村役場・池神社社務所』
R425を戻り、R169に出て南下します。11:55「熊野石藏美術館」。とても小さな花崗岩造りの建物でした。赤とんぼがいました。サワガニと金魚がタライで飼われていました。美術館はこの地域には珍しい素敵な建物でしたが、扉が閉まっていました。『登録有形文化財 第24-0045号 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁』
R169に戻り、南下します。左折して枝道を東に進み、12:15「飛鳥神社」。『飛鳥大又川流域 大又川:熊野市は峻険な山地が大きな面積を占め、大小様々な河川が山間を縫うように流れている。中でも、特に綺麗な川が「大又川」である。大又川は尾鷲市との境、矢ノ川峠付近を源流とし、大台山系から流れる北山川に合流し、七色ダム、熊野川を経て熊野灘に注ぐ。我が国有数の多雨地帯のため流域はたっぷりと緑をたたえ、カツラ・カヤなどの巨木が点在している。また、透明感のある水流はアユやアマゴなどの最高の棲み処となっており、多くの釣人で賑わう。川に沿って、源氏・平家、南北朝・後南朝の歴史を刻んだ神社仏閣・史跡があり、多くの物語が残されている。また、古くから集落が出来ており、様々な石垣を見ることが出来る。
カッパの碑:カッパとキュウリに関する伝説は全国各地で見られるが、熊野市にも数多く残っている。カッパは小阪地区で「ガロボシ」と呼ばれている。昔、増水のたびに水没する小さな橋があり、川に落ちて死ぬ人が多かった。村人はそれを、ガロボシに引き込まれたと言って恐れていた。ある時、この河原で百姓が牛に綱を付けて放牧していたが、いつの間にかガロボシが綱の端を腰に巻き付けて、川の中に引き込もうとしていた。しかし、牛が懸命に河原に駆け上がったため、ガロボシも陸にあげられ、村人に捕らえられた。村人に責められたガロボシは「この村で好物のキュウリを作らなければ出てこない」と約束したという。それ以来、この地ではキュウリを全く作らなくなった。 昭和58年(1983)キュウリを作り、出荷する話があり、住民が相談した結果、300年続いた禁を解く御祓いが行われた。この碑は、その時に建てられたものである。
三次郎藪:佐渡地区に、「三次郎藪」と呼ばれている竹林がある。その昔、そこに住んでいた三次郎はとんちが好きな百姓で、面白い話が多く残っている。
三七日(みなぬか):三次郎が親の三七日だからと近所の人たちを招いた。すると、お参りに集まった人達の前に、蓋付きの碗を並べられた。その蓋を取ってみると中に料理はなく、なんと米糠ばかりであった。みんなが文句を言うと「だからミナヌカ(皆糠)だと言ったのに」と平気な顔で言うので、あっけに取られたという。
烏(からす)売り:三次郎は烏を懐に隠し、キジを手に持って「烏は要らんか」と木本の町を大きな声でふれ歩いた。これを見た町の人は、三次郎がキジを烏だと思いこんで売っていると考えた。そこで、キジを安く買えると思って「買おう」と言うと、三次郎は待ってましたとばかりに懐から烏を出した。声をかけた人は、文句を言おうにも言えず、渋々お金を出したという。
岩を切り落とす:山崩れで大きな岩が民家の前に転がり込み、困っていたところに三次郎が通りかかった。そして「明日、この岩を切り落としてやろう」と言うので、家の人はたいそう喜んだ。翌日、三次郎がやって来て岩に登り、懐から一本の錐を取り出した。皆が不思議がっていると、岩の上から錐をころころ転がし、「これで、キリオトシタ(錐落とした)」と澄ました顔で帰って行ったという』
『熊野市指定文北財 天然記念物・小阪の飛鳥神社社叢
所在:熊野市飛鳥町小阪・飛島神社境内
現状:社殿大又川河岸には、ツクバネガシ・クスノキ・タブノキなど常縁広葉樹と、スギ・ヒノキ・アスナロの針葉樹を加えて、サカキ・ウラジロガシ・イヌマキなどが中層に多く見られる。 社殿の両側から裏にかけては、ヤマザクラ・ハゼノキ・カマヅカ等の落葉樹を交え、低木にミヤマシキミ・アオキ・ネザサ・スズタケ・イヌツゲなどが見られる。 藤本としては、フジ・テイカカズラ・ツタ・キヅタなど、また養生食物としてはマメヅタ・ノキシノブなどがある。  指定:昭和44年7月17日 熊野市教育委員会』
境内の社叢が素晴らしかった。幹の太い杉が見応えある。『飛鳥神社 当社付近から弥生式土器などが出土しており、この境内は古代からの祭祀跡であったと思われる。祭神は速玉男命(はやたまおのみこと)・倉稲魂命(うけのみたまのみこと)・弁財天神・大山津見神・牛頭天皇神である。例祭は11月3日に行われ、太鼓・獅子舞・餅まきなどで賑わう。
飛鳥神社社叢(熊野市指定文化財・天然記念物) 社叢の周囲には、スギ・ヒノキ・アスナロなどの常緑樹、ツクバネガシ・ウラジロガシ・タブノキなどの常緑広葉樹、ヤマザクラ・ケヤキ・アカシデ・カエデなど落葉樹が見られる。 特に、社叢裏にある四本杉は、祓戸四柱の神木とされ、その太さは8m以上あり、社叢横のアスナロと並んで、熊野市・南牟礼郡を通じて随一である』
『神木四本杉 この四本杉は樹齢1300年以上、胸高周囲9mの南郡随一の巨杉・奇木であります。四ツ俣に分かれた幹には、祓戸四柱神(瀬織津姫・速開津姫・気吹戸主・速佐須良姫)がそれぞれ宿るとされ、人々の罪穢を祓い清めていただけることから、主に病気平ゆ、健康長寿に御利益があり、又家庭円満・商売繁盛の守り神ともいわれています』
バイクに戻り、R42を少し南下し、左折して三重県道r737を東進しました。「八丁坂トンネル」という長いトンネルを抜け、12:37絶景山並みの向こうに海が見えました。とうとう紀伊半島の海が見える所まで南下してきました。標高は350m。「新鹿湾」に向かって山を下り、「熊野尾鷲道路」の下をくぐり、「JR紀勢本線」もくぐって、R311に突き当たりました。
12:49、正面に「新鹿海水浴場」がありました。水着のお姉さんが歩いています。石碑が立っていました。『熊野市指定文化財 有形民俗文化財 新鹿の巡礼道標 岩質:凝灰岩(以前は石英粗面岩と呼ばれていた)
切竹文字:正面「右・ふち山 左・いせ道」  東側「すぐ・ふち山」 西側「すぐ・いせ道」 裏面「天保二年卯年 世話人・角屋長九郎 石工・大矢太蔵」道標の銘文は清蓮院流(御家流)の字体で、薬研(やげん)彫りで底の丸い丸彫りと薬研彫りの折衷技法の文字と伝えられている。なお、上部は一部欠けている。また、「すぐ」とは「まっすぐ」の意味である。
新鹿は、熊野街道の主要な宿場の1つであり、また飛鳥や五郷などの山間部と海岸線をつなぐ重要な拠点であった。飛鳥から八丁坂峠を越えてきた道は、この道標のところで熊野街道にぶつかり、T字路となっていた。 ※天保2年(1831)指定:昭和52年7月27日 熊野市教育委員会』
地震の碑も立っていました。『東南海大地震の記 震源地:熊野灘海底、規模M8.3 昭和19年12月7日午後1時35分大地震あり、津波おしよせ、死者行方不明16名、流失倒壊家屋151戸、浸水家屋は遊木地区ともに百数十戸におよび、その他田畑崩壊多数あり。 昭和56年9月1日(防災の日) 熊野市』
『三浦樗良小伝 ここから東方100mの高森地内に俳人・三浦樗良の句碑があります。 樗良は、徳川中期の享保14年(1729)紀伊長島地蔵町に生まれ、のち父とともに伊勢の山田に移り住みました。早くから芭蕉を慕い俳諧の道に志し、やがて京都にのぼり、蕪村を知り共に力を合わせ芭蕉の唱えました。わび・さびなどの自然を愛し、旅をすみかとする風雅の道を全国に説いて廻りました。後世、俳諧中興の祖と仰がれるようになりました。わが熊野には、宝暦9年、木本の指月庵(同11年再び新鹿野牛子の岐川庵に凡そ1年余滞在、当地の同志たちと高吟唱和し、白頭鴉集・二俣集などをつくり、世に先駆けて正風復古の旗揚げしたことは、俳諧史上画期的な偉業として高く評価されています。 宝永9年11月16日、52才伊勢山田で歿くなっています。
昭和54年3月建立 熊野市教育委員会・熊野市文化協会・新鹿公民館・さざ波句会』
R311を東に走ります。海岸線の崖際を走る細い道でした。眼下には美しい海岸線が広がっています。長い「遊木トンネル」を抜け、「甫母漁港」内の堤防横の道になりました。1つ前の「二木島漁港」はバイパスが出来ていましたが、ここはまだのようです。次の漁港への分岐前で一旦停まり、漁港に向かった方が良いのかな?と迷いましたが、R311へ。
13:18、「楯ヶ崎P」。駐車場はありましたが、「コロナ禍」の影響でしょう、ロープが張られており利用できなくなっています。バイクが2台、ロープを避けて入っていました。ここから「楯ヶ崎」まで徒歩です。
『「神の戦ひたる処」望むビューポイント 甫母(ほぼ)町 甫母とは含まれるを意味し、二木島湾の一小海湾をなしていることからその名がついたと伝えられています。また日本書記に記された神武天皇東征軍の荒坂津への上陸伝説や千畳敷で楯ヶ崎を望んで伊勢大神と熊野大神が酒盛りしたという伝説が残されています。楯ヶ崎は、高さ約70m・周囲約600mの大岸壁で全貌見事な柱状節理の壮観を呈し、平安時代の歌人・増基法師は「神のたたかひたる処」と詠い怒涛衝撃する形成が勇猛なる人の気概を高め、太古神明斗戦の地であることを伝えています。楯ヶ崎へは、荒坂の産土(うすぶすな)の神を祀る阿古師神社を経由する約2kmの遊歩道と、大きさでは楯ヶ崎を凌ぐ大絶壁「海金剛」など海上からしか見えないダイナミックな景観が楽しめる海上遊覧船(予約制)で行くことができます。
ここは、標高264mの山頂にあり、明治2年(1869)まで海防上の重要な番所としての使命を果たしてきた「楯ヶ崎遠見番所跡」の下方に位置し、東南においては紺碧の熊野灘、西南においては、明媚な二木島湾と朱に染まる夕日を望み、峻険極まる地にあって、旅人の心を癒してくれる情景です。  三重県熊野市』
遊歩道入口がありました。「楯ヶ崎1.9km」の案内板が立ってます。半島の先の「楯ヶ崎」ビューポイントとほぼ同じ標高ですが、遊歩道はぐんぐん下ります。「また登らなきゃ」とガッカリしながら下ります。
途中、漁港からの道が合流してきて、海まで下り、13:37「阿古師神社」。『熊野市指定文化財 史跡:阿古師神社 甫母町607番地 昭和44年7月17日指定 二木島湾を抱く東の岬にあり、対して西の岬に室古神社がある。 祭神は、豊玉姫命・伊勢大神・三毛入野命との説がある。
「日本書紀」持統天皇6年(692)阿胡の行宮において、紀伊国牟婁郡の阿古志海部・阿瀬麻呂の兄弟が鮮魚を献上したとあるのは、この神社である。 ここの祭礼は、古代を最も厳格に伝承しており、阿古師・室古両社にちなむ関船早漕ぎ競漕(二木島祭)は、往年の熊野水軍や捕鯨の勢子船の早漕ぎを彷彿させる。  平成20年6月20日 熊野市教育委員会』
『黒潮の恵みと湯の体験ゾーン 阿古師神社(熊野市指定文化財史跡) 昔、二木島湾を境にして、熊野(牟婁・むろ)の国と伊勢(英虞・あご)の国に分かれていた。この地は伊勢の国に属していたことから阿古師神社の名が付き、向いの神社は室古(むろこ)神社の名が付いたという。
「紀伊続風土記」に「村より卯辰(東南東)の方、出崎を阿古崎といふ。海上渡り20余町阿古崎の艮(うしとら)、阿古師明神あり。二木島の辰の方の出崎に在する室古明神と入海を隔て東西相対す。阿古師は英虞の神なるべし」と両神社の関係が記されている。祭神は、豊玉姫命・伊勢大神・三毛入野命(みけいりぬのみこと)の諸説がある。このうち、三毛入野命については、神武天皇の兄で、天皇御東遷のとき遭難しこの地に祀られたと伝えられている。
また、室古神社との間で行われる例祭は従来5月5日と11月2日であったが、現在は11月3日である。神社での古式に則った祭典の後で開催される関船競漕は、8本の櫓を32人で漕ぐ八挺櫓(はっちょうろ)の船の競争で、水軍や捕鯨の際の勢子船の早漕ぎを彷彿とさせる力強く勇壮で活発なものである。  黒潮回廊と神々の古郷 熊野市』
コンクリートの船着き場があり、とても綺麗な水でビックリしました。「楯ヶ崎0.9km」の標識に従って先に進みます。登り勾配でゆっくり標高を稼ぎます。海を覗くと、海底の岩や砂が見通せ気持ちが良い。
『先端に位置する高さ80m、周囲550mほどの半円形の断崖絶壁の岩場は、楯のような恰好をしていることから、半島一帯の中でもここを特に「楯ヶ崎」と呼び、県の名勝及び天然記念物として文化財の指定を受けています。 文化財をき損す、三重県文化財保護条例の規定により罰せられます。  三重県教育委員会・熊野市教育委員会』
14:12、半島の先端「千畳敷」。R311から1時間、神社から35分。「楯ヶ崎」の美しい姿が見えます。『楯ヶ崎(三重県指定・名勝・天然記念物) 「紀伊続風土記」に「石壁千尋。其石皆断石、森列屏立して大海の怒涛す」と書かれ、また平安中期の増基法師の「いほむし」に「うつなみに満ちくる汐のたたかふを楯ヶ崎とはいいにぞありける」と詠まれた名勝である。花崗岩が楯を並べたように、そそり立っていることからこの名がついた。柱のような割れ目は柱状節理と呼ばれ、この地方のいたる所に見られる』
雲ひとつない上天気で気持ちが良い。14:19「二木島灯台」。遊歩道では数組の観光客とすれ違いましたが、ここには誰もいません。千畳敷に寝転んでいる年配のご夫婦がいてビックリしました。
『灯台は国の幸を迎える灯 小さな島国日本が豊かな文化生活をするため、資源を製品を迎え、送るあかり。灯台は大事な使命を果たしています。汚したり、壊したり、いたづらしたりしないで下さい。明日の日本がもっと豊かで幸せであるために。尾鷲海上保安部 05972-2-1203』
遊歩道を戻ります。「阿古師神社」を経由し、15:04バイクに戻りました。千畳敷からの帰りも1時間でした。漁港にバイクを進めていれば、片道30分でしたね。R311を戻ります。
15:22「二木島漁港」。『熊野市指定文化財 史跡・陳雲しょうの墓 陳雲しょうは清国の臣、商船得泰号の乗員して、文政8年(1825)末、通商のため長崎へ航行中、暴風雨で遠州吉田村に漂着。翌3月上旬幕命により長崎へ護送の途中、下り潮強きため、二木島浦に寄港停泊中、陳氏は病のため死亡、同浦に埋葬された。出帆にさいし碑又と費用を預り、墓石建つや、これに寄せる浦人の崇敬は、我が国の神仏に対するがごとく、度重なる戦争中も、この墓前には春華のたえまがなく、美しい国際美談と云える。
指定:昭和44年7月17日 熊野市教育委員会』
海岸沿いの道を進み、15:33「室古神社」。『熊野市指定文化財 史跡:室古神社 所在:二木島町67番地 指定:昭和44年7月17日 二木島湾を抱く西の岬にあり、対して東の岬に阿古師神社ある。祭神は、海神豊玉彦命、他に熊野大神・稲飯命との説がある。この社は、縄文・弥生以来の複合遺跡になっていて、実に千古の古社たるを思わしめる。この地は、古くは牟婁郡の東の端にあって、熊野権現を祀り 牟婁(室)と称えられたのであろう。ここの祭礼は、古代を最も厳格に伝承しており、この両社にちなむ関船早漕ぎ競漕(二木島祭)は、往年の熊野水軍や捕鯨の勢子船の早漕ぎを彷彿させる』
『黒潮の恵みと湯の体験ゾーン 室古神社(熊野市指定文化財・史跡) 昔、二木島湾を境にして、熊野(牟婁)の国と伊勢(英虞)の国に分かれていた。この地は、熊野の国であったため室古、向いの神社は、阿古師の名が付いたという。祭神は、豊玉彦命・熊野大神・稲飯命の諸説がある。「社記」には「神武天皇御東遷の時、風浪の難に遭い皇兄稲飯命、三毛入野命(阿古師神社の祭神)共に海に入りて歿す。土人皇兄の屍をおさめて帰り、之を奉葬す」と稲飯命に関する記述がある。また、縄文時代からの複合遺跡で、千古の社でもある。
二木島祭(三重県指定無形民俗文化財) 毎年11月3日に室古・阿古師両神社の名代として2隻の関船が出て、早漕ぎ競争が行われる。 40人近い屈強の男たちが、太鼓の早いリズムに合わせて八丁櫓をあやつり、速さを競う。周囲には、数十隻の漁船やワラで作ったかつおを釣る船が伴走し、静かな湾内を波をけたてて走る勇壮な祭りである。 地元の漁民が、かつお船で神武天皇を助けに行った故事に起源があり、古代の祭礼を厳格に伝承しているが、後継者を育てる目的で中高生による「子供船漕ぎ祭」が、5月4日に開催されている。  黒潮回廊と神々の古郷 熊野市』
r572でR311に戻り西進します。いくつかトンネルを抜け、遊木漁港への枝道に入り、16:02「遊木神社」。
R311に戻り、西に走ります。「新鹿海水浴場」を通過しました。16:18「波田須の道」。『徐福の里波田須のビューポイント・波田須町 波田須の地名は、古<「秦住(はたす)」と記され、新井白石著の「同文通考」にも「今熊野の付近に秦住という地あり、土人相伝えて徐福の居住の旧地となす」とあるように、徐福が不老長生の仙薬を求めて、また新天地を探して中国から渡来し、この地に上陸したという伝説や足跡、品が数多く残っています。
波田須の人が「徐福さん」と親しみを込めてこう呼ぶ宮は樹木に囲まれ、石段上にささやかな鳥居と祠をいただく簡素な佇まいながら、群青の太平洋の大海原を望み、徐福の壮大な気宇を感じさせずにはいられません。宮の傍らには徐福の墓もあり、徐福が探していたかもしれない天台烏薬が茂っています。また、周辺からは秦時代の貨幣「半両銭」が発掘されるとともに、徐福が焼物を始めた場所とされる「窯所」と呼ばれる辺りからは、陶器の破片が出土しています。
鎌倉期に普請されたといわれる巨石の石畳が残る「波田須の道」、風情溢れる竹林を抜ける「大吹峠」、さらに西国三十三所の石仏が並ぶ観音道など熊野古道を背に、楠と樫の美しい樹叢を見下ろし、紺碧の太平洋を背景になだらかな丘の斜面には棚田が広がI賠その間に点在する民家の佇まいは熊野の桃源郷を見る思いであり、徐福ならずともこの地に浸かりたくなる情景です』
「徐福の宮」は、国道から下に小さな森として見えます。そちらに向かう道は急坂で下っています。バイクでは厳しそうなのでパスしました。「波田須神社」を目指して、バイクを置いて国道を山側に上がって行きました。
『国史跡・熊野参詣道伊勢路 波田須の道 波田須は熊野地方で最も暖かく、風光明媚で自然豊かな桃源郷のような別天地である。 徐福上陸の地として名高く、中国や台湾との交流もあり、数多くの伝承も残る。 弘法大師にまつわる「あしたの話」「弘法の足跡水」「弘法栗」など豊かな弘法伝説がある。 かつての旅人や巡礼が、難儀していくつもの峠越えの後、空腹を抱えてこの波田須に来ると、この熊野古道沿いに「おたけ茶屋」があった。おたけばあさんの心の籠もった「こけら寿司」を食べて、疲れを癒やしたことであろう。
伊勢路の熊野参詣道に残る数少ない茶屋跡として貴重な存在であり、ここに佇むと、その昔が偲ばれる。 おたけ茶屋から西に行くと、大吹峠へ向かう道と泊観音へ登る道とに分かれている。 史跡には「文字岩」や「返り討ちの供養塔」などがあり、近在にない歴史豊かな土地である。  文化庁・三重県・熊野市』
「波田須の道」は、苔むした石畳の古道でした。今や殆ど見向きもされない観光地のようですが、「長く歩いてみたいな」と思う道でした。
R311を海岸線を西に走ります。右からやってきたR42と合流しすぐ、左に枝道に逸れ、16:39「鬼ヶ城」。『熊野地域案内図 吉野熊野国立公園は、三重・奈良・和歌山の3県にまたがり、紀伊半島の中央山岳地帯と、山間を延々と蛇行して流れる川、及び半島南東部の海岸から構成されています。 尾鷲から潮岬の海岸線や熊野川沿岸は断崖が数多く、変化に富んだ景色である一方、ウミガメの産卵地にもなっている七里御浜や王子ヶ浜といった直線的な海岸も見られます。 また熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社の3つの霊場とそこへ至る参詣道(熊野古道)が文化的景観として評価され、世界文化遺産に登録されています。
1.楯ヶ崎(名勝・天然記念物):熊野灘に面する壮大なスケールの大岸壁で、高さ70m・周囲600mにも及ぶ花崗班岩の柱状節理からできています。楯ヶ崎の名は、楯をつき並べたような大岸壁によると思われ、神話をはじめ様々な伝説が伝えられています。 探勝には、楯ヶ崎やその奥にある海金剛を間近に見ることのできる観光遊覧船や、楯ヶ崎園地からの遊歩道がお薦めです。
3.鬼ヶ城(名勝・天然記念物):鬼ヶ城は、海風蝕と数回の大地震で隆起した凝灰岩の大岸壁で、東口の鬼ヶ城センターから西口の弁天神社まで約1kmの間に、熊野灘の荒波によって削られた大小無数の海蝕洞が階段状に並ぶ奇岩で知られる海岸の名勝地です。東口から山頂の鬼ヶ城城跡を経て、熊野古道の「松本峠」に至るハイキングコースがあり、山頂付近にある展望地からは、湾曲した綺麗な七里御浜と熊野市街を眺めることが出来ます。鬼ヶ城・松本峠・共に世界文化遺産に登録されています。
4.瀞八丁(特別名勝・天然記念物):瀞峡は、大峰山脈や大台ケ原を源とする熊野川の支流である北山川下流域の渓谷で、上流から奥瀞・上瀞・下瀞に分かれ、特に下瀞は巨岩・奇岩が並び荘厳で美しく、「瀞峡」とも呼ばれています。粘板岩や砂岩が侵食され、屏風のように垂直な絶景や奇岩と神秘的な淵が連なった渓谷美、コバルトブルーに澄み渡った静かな瀞の幽水美を、ウォータージェット船や川船などで探勝することが出来ます。
5.七里御浜(史跡):七里御浜は国指定史跡熊野参詣道伊勢路に含まれています。 志摩半島から鬼ヶ城までの荒々しい海蝕崖の光景とは対照的に、なだらかな海岸線が新宮市王子ヶ浜まで20kmあまり続きます。クロマツなどの海岸林を背景に、長い礫浜が緩やかな円弧を描き、熊野灘の白波と相まって美しい風景が見られます。アカウミガメの産卵地でもあり、5〜9月は海岸へ車両の乗り入れが規制されます。
6.宇久井ビジターセンター:吉野熊野国立公園のすぐれた自然や、宇久井半島の海・森・里山に、より深く親しんで頂くための拠点施設です。宇久井半島は元々島であったのが、陸続きになった陸けい島で、照葉樹林に覆われた植生・南方系の昆虫・豊かな海岸動物・太古の地形を偲ばせる地質等々、南紀特有の豊かな自然環境を有しています。センターでは、写真や標本展示、データベースを通して自然情報の提供を行っているほか、自然体験プログラムを実施しています。
7.那智山(熊野那智大社:重要文化財・史跡、那智大滝:名勝、那智原生林:天然記念物、那智の樟・那智山旧参道の杉並木他:天然記念物、山上不動堂跡他:史跡):那智原生林を源とする那智の滝(一の滝)は、落差133mを誇る名瀑で、銚子口から一気に落下する様は人々に畏敬の念を抱かせます。この辺りでは人工林がほとんどの中、社寺林として長年守られてきた那智の原生林が残されており、国の天然記念物に指定されています。また周辺には、「蟻の熊野詣」と言われたほど人々の信仰を集めた熊野三山の1つ熊野那智大社、西国三十三ヶ所第一番札所の青岸渡寺、熊野古道など史跡や文化財が多く残されており、2004年に世界文化遺産に登録されました。
8.橋杭岩(名勝・天然記念物):大島に向かって大小40程の岩が約850mに渡ってそそり立っている岩群です。海の侵食により柔らかい堆積岩は削られて硬い火成岩のみが残り、その様が橋の杭のように見えることからこのように呼ばれ、国の名勝天然記念物に指定されています。干潮時には、干潟を歩いて近くまで行くことが出来ます。 弘法大師と天の邪鬼が一晩で大島まで橋を架ける競争をしたものの、負けそうになった天の邪鬼が鶏の鳴き真似をして夜が明けたと思わせたため、弘法大師が橋を完成させることなく杭だけで終わったという伝説も残っています。
9.潮岬(名勝):本州最南端の地で、後背の台地には「望楼の芝」と呼ばれる10万平方メートルの芝生が拡がり、眼前には太平洋が果てしなく広がります。この望楼の芝では、2001年より芝焼きが行われるようになりました。他地方の芝焼きと異なり、平地で行われる為に危険性が少なく、すぐ間近で見学することが可能です。
2.10.海域公園:海域公園地区では、海の中のサンゴ礁や藻場、干出する干潟など豊かな海域が保護されています。 串本の海域は暖かい黒潮の影響で亜熱帯性生物が、二木島の海域は沿岸水の影響で温帯性生物が見られるところで、サンゴ類や海藻類、魚類などの生物が多様なことから海域公園地区に指定されています。これらの海域の景観はダイビングやスノーケリングで楽しむことが出来ます。 また、串本の海域公園地区の周辺には、海中展望塔や半潜水型海中観光船、水族館などの施設があります』
『鬼ヶ城:熊野灘に突き出た半島で、石英粗面岩の岩盤には海の侵食によって出来た大小無数の奇岩があり、約1kmにわたる遊歩道沿いには、変化に飛んだ絶景続きます。平成16年には、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産に登録されました。 ここには昔、鬼と恐れられた「多娥丸(たがまる)」という海賊が住みつき、熊野一帯を荒らし回っていましたが、8世紀頃に征夷大将軍の坂上田村麻呂が来て退治したという伝説が残っています。
1.千畳敷:石英粗面岩が海蝕されて出来た大洞窟で、前方に5段の段丘があります。高さ15m・広さ1500平方メートルあり、上段・下段に分かれています。
2.奥の木戸・3.猿戻・4.犬戻:長さ百数十m・高さ数十mの絶景です。猿や犬も生き返すほど険しいことからこの名が付きました。
4.鬼の風呂桶 6.神楽岩
7.木喰岩:約300tの大岩が太平洋の怒涛に持ち上げられ、その岩下に流木が食い込むところから名前が付けられた。流木は大波が来るごとに入れ替わると言われています。
8.鰐岩:鬼ヶ城の中央に突き出たところの海にある巨岩で、まるで海を泳ぐワニのようであることから、誰となくこう呼ぶようになりました。
9.潮吹:岩の割れ目に挟まれた大石の下に、両側から波が押し寄せるとき、吠えるような音響を発して潮を吹くといわれています。
10.飛渡り:岩の割れ目が深く入るところで、下から怒涛の音が聞こえ飛沫が上がってくる。橋のないときはここを飛んで渡ったことからこの名が付きました。
11.鬼の見張り場:昔、海の交通が盛んであった頃、七里御浜を一望におさめた見張り場に絶好の場所でした。
12.水谷:鬼ヶ城山頂から絶えず清水が流れ落ちており、昔、鬼が水を汲んだ所と言い伝えられています。
13.鬼の洗濯場:平らで大きな岩場になっており、昔、鬼がここで洗濯をしたと言われていることからこの名が付きました。
14.蜂の巣:洞窟の天井に無数に窪みがあり、まるで蜂の巣のようであることからこの名が付きました。
15.波切不動:石英粗面岩の岩盤から一種異質の岩が突き出ており、かつては不動尊の形をしていたことからこう呼ばれるようになりました』
岩場の遊歩道を巡っていると、下の岩場に釣り客が数人楽しんでおられました。この日は風が強くないが、皆さんライフジャケットを着用されており、良い世の中になってきたな〜と思いました。
『天然記念物および名勝・熊野の鬼ヶ城、附獅子巌 昔から南紀州の奇景として名高い。 鬼ヶ城は、石英粗面岩からなる岬の崖が一段の高さ2〜4mの6段からなる階段状をなし、数回に渡る急激な地盤の隆起のあとを残している。 各段毎に波蝕洞窟があり、洞窟はいずれも入口の上端が鋭くとがり、天井部には蜂の巣状の風蝕跡があり、床面は板のように平らな棚となっている。
獅子巖は、鬼ヶ城の南方井戸川の河口に近い砂浜にあり、高さ約25mの石英粗面岩塊であって、あたかも獅子が大洋に向かってほえる形をしている。 いずれも、土地の隆起と海蝕の現象を示す著しいものとして学術上価値が高い』
『昔、熊野の鬼たちはここに集まり棲んだ。彼等は風に髪を飛ばし、渦を啖い夜はよもすがら岩を揺すぶる波濤の音の中に眠った。月明の夜より雷鳴の夜を好んだ。2本の角は稲妻の中で生き生きとした。  鬼ヶ城にて 井上靖』
『魔見(まみる)ヶ島(マブリカ) 魔見ヶ島は、鬼ヶ城の沖合約1.5kmに浮かぶ無人島で、地元ではマブリカと呼ばれ磯釣りやダイビングの人気スポットとなっています。 桓武天皇のころ、将軍坂上田村麻呂が鬼ヶ城の鬼の征伐を命じられた際、沖の魔見ヶ島に童子が現れ舞い唄い、鬼が油断して岩戸を開く一瞬に将軍が神通の矢を放ち、見事一矢でしとめたという伝説が残っています』
『世界遺産・鬼ヶ城 鬼ヶ城伝説:国指定文化財・名勝天然記念物 鬼ヶ城は、海風蝕と数回の大地震で隆起した凝灰岩の大岩壁。東口から西口の弁天神社まで約1kmの間に大小無数の洞窟が階段状に並んだ奇岩奇勝が知られる名勝である。その昔、桓武天皇(737〜806)の頃、この地に隠れて、熊野の海を荒らし廻り、鬼と恐れられた海賊多蛾丸を、天皇の命を受けた坂上田村麻呂(751〜811)が征伐した。その伝説に基づいて鬼の岩屋と呼|ばれたが、後に鬼ヶ城といわれるようになった。
鬼ヶ城めぐり:鬼ヶ城は洞窟や奇岩にユニークな呼び名がついている。広々とした千畳敷から奥の木戸・猿戻り・鬼の風呂桶・犬戻り・神楽岩・木喰岩・鰐岩・潮吹・鬼の見張り場・飛渡り・水谷・鬼の洗濯場・蜂の巣・波切不動などと続いている。それぞれに特徴のある洞窟や、絶壁などが連なり、見飽きることのない名勝である。風が強く、少し海が荒れた日の鬼ヶ城は、猛々しく激しい極めて男性的な表情を見せている』
R311に戻り、西に走ります。17:10「コスモ石油三重交通商事熊野営業所」で給油。318km/12.54L=25.4km/L。17:17、「獅子岩」。
R311を西に走り、17:27「花窟神社」。道標が立っていました。『熊野市指定文化財 有形民俗文化財 口有馬道標 石碑:高さ91cm・幅:27cm 切付文字:「くまのさん 右 道 志ゆんれい」とあり、上部の一角は欠け、建立年月日の切付けは見られない。
道しるべは、本来「右」「左」と示すが、熊野三山、西国巡礼はここから右に曲がって行くベしという指示のみ刻む。 右へ曲がらず眺めのよい松林道を真っすぐに行くと、行く手に志原川が海に注ぎ、橋もない当時は渡し船が上流にあったものの、渡し賃を節約し波打ち際を渡ろうとして、高波にさらわれる人も多かった。かつての志原川西岸の松林には、14基の無縁墓碑が並んでいたという。ここ、花の窟の前は本宮道と浜街道の分岐点で、人々はともすれぽ風光明媚な浜街道を選んでしまうため、安全な道は有馬村本街直に廻るように直しるべを建て誉告したもので、地元の人たちの他国から来る旅人を思いやる心情がうかがえる。  平成11年1月28日指定 熊野市教育委員会』
『花乃窟神社 祭神:伊弉冊尊(いざなみのみこと)・軻遇突智尊(カグツチノミコト) 例大祭:春祭2月2日・秋祭10月2日 神代の昔より、花を供えに祭るので、花乃窟と言う。窟の頂上より架け渡すお綱は、神と人を繋ぎ、神の恵みを授けて下さるお綱なり。  平成9年5月23日』
『自然と健康を育むゾーン・花の窟神社
花乃窟神社(熊野市指定文化財・史跡):熊野市は、神話や伝説ヵ豊富なところで、その代表的なものがここ「花の窟」である。 「日本書紀」によると、皇室の祖先とされる女神天照大神の母神である伊弊再尊は、火の神・軻遇突智(かぐつち)神を産んだとき、火傷を負って死に、この地に葬られた。尊の魂を祀るため、土地の人々は花が咲く季節に花を飾り、のぽりや幡旗を立て、笛太鼓を鳴らし、歌い踊って祭を行うとされている。このことから「花の窟」という名前がついた。 熊野三山の中心である本宮大社は、主神が伊弊再尊の子の家津御子(かつみこ)神であるため、今も花を飾って祭が始まる。このことからもわかるように「花の窟」は熊野三山の根源ともされ、わが国の古代信仰の重要な意味を持った場所なのである。
お綱掛け神事(三重県指定無形民俗文化財):「日本書紀」に記されていることが今に引き継がれ、2月2日と10月2日には多くの人々が集まり「お綱掛け神事」が行われる。綱は藁縄7本を束ねた物で、花をつけた3つの綱旗が吊るされている。この縄旗は朝廷から毎年奉納された錦の旗であったが、洪水で旗を積んだ舟が難破したため、縄でその形を模したのが始まりといわれている。  黒潮回廊と神々の古都・熊野市』
すぐ横に国道が走っているのに、しっかりした鎮守の森の中を参道がまっすぐ通り、神門をくぐります。
『産田神社 社殿修復費募財のお願い 平成30年、台風24号による暴風雨の煽りを受け、樹齢500年程の聊神木が、御社殿大屋根に覆いかぶさり、鰹木3本落下破損、玉垣一部倒壊等々の被害を受けました。総代会におき、倒木撤去諸々清掃作業つぶさに行い、現状に至っております。
昨年末月、天皇陛下即位30年奉祝、並びに御代替わり奉祝と感謝また皇住継承の意義の啓発を含め、御社殿・玉垣修復事業を記念と定め準備を進めておりますが、何分かかる費用が多額となり、氏子・崇敬者、また御参拝の方々にもご寄付を募っている処でございます。皆様のご理解、ご協力の程宜しくぉ願い申し上げます。  産田神社・総代会
花の窟神社と産田神社:花の窟神社が、伊弉冉尊の御陵であるのに対し、産田神社は伊非再尊が火神・軻遇突智(かぐつち)尊をお連みになったところであります。その時に火傷む負い、それが元で亡くなったことから、両社は一対的な意味合いがあります。
また、産田神社には、神社の原始形態とされる神域を示す「ひもろぎ」があります。「いにしえの歴史を持つこの2つの神社を守り、繋ぎ、皆様に愛されるパワースポットとして後世に伝えていきたい」 総代会一同、そんな熱い想いでおります。皆様の温かいご支援を、どうぞよろしくお願いいたします』
境内正面に、高い一枚岩の壁がありました。御神体が岩というか岩壁のようです。岩壁にはあちこちに穴が開いています。『危険注意 岩の破片が風化によって落下の危険あり、御神体に近づかないで下さい。花の窟神社』。岩壁前に玉垣が巻かれ、注連縄が玉垣内に立てられた柱を結んでいます。これは想定内でしたが、岩壁前の境内を囲う鎮守の森の枝から縄が多数下がっています。こんなお祀りの仕方は初めてです。
『花の窟神社お綱掛け神事
花の窟神社は「日本書紀」に書かれている日本最古の神社であり、「日本神話のルーツ」である。
人々は、様々な願いを聞いてくれた伊弊再尊の死を悲しみ、感謝の気持ちを込めて祭礼を行うようになった。毎年、「春季例大祭」2月2日(種まきの時期)、「秋季例大祭」10月2日(刈入れの時期)。
7本の縄を束ねる理由:伊弊再尊(イザナミノミコト)の子である「7つの自然神」を表している
7つの自然神:風の神・・・級長戸辺命(しなとべのみこと)、海の神・・・少童命(わたつみのみこと)、木の神・‥句句廼馳(くくのち)、草の神・‥草野姫(かやのひめ)、火の神・‥軻遇突智尊(かぐつちのみこと)、土の神‥・埴安神(はにやすのかみ)、水の神‥・岡象女(みつなのめ)
「7つの自然神」の使いとしてお祓いを受けた白装束姿の7人が、御神体の頂上に登り縄を引っ張り上げ、木の根元に縛って固定する。
左回り(反時計回り)で7回半回り、残りを右回りで巻きつけて固定する。
天まで届く柱を立て、立派な宮殿を造り、「別天津神(ことあまつかみ)」の命を受け国生みのためその柱を回った。
左回りに7回半回ったが生まれなかった。その後、右回りすると国が生まれた。そのためと考えられる。
「三神」を意味する旗縄(昔は、朝廷より献上された錦の御幡)で「三流の幡(みながれのはた)」と呼ぶ。「三神」とは、宇宙を基本構成する伊弊再尊(イザナミノミコト)の子 太陽の神‥・天照大神(あまてらすおおみかみ) 月の神・・・月読尊(つくよみのみこと) 大海原・統治の神・・・素鳶鳴尊(すさのおのみこと)』
枝道を走り、17:47「産田神社」。『自然と健康を育むゾーン 産田神社 祭典の際、拝殿で行われる直会(なおらい)の時、「ホウハン」という特別な膳が出る。「ホウハン」の献立は、●米飯に白味噌を使った味噌汁をかけた汁かけ飯−碗 ●さんまを腹開きにし、骨を残したまま握ったすし ●生魚を細かく切ったものに唐辛子だけであえ、二切か四切を皿にのせた「アカイ」などである。
産田神社祭祀遺跡(熊野市指定文化財・史跡):産田神社は弥生時代からの古い神社で、伊弉冉命と軻遇突智神(カグツチノミコト)を祀っている。日本に米作りが伝えられた頃からあったと考えられており、古い土器も出土する。古代には神社に建物がなく、「ひもろぎ」と呼ばれる石で囲んだ祀り場(祭祀台)へしめ縄を張り神様を招いた。この神社の左右にある石の台がそれである。日本で2ヶ所しか残っておらず、大変古くて珍しい。
弓引き神事(1月10日):奥有馬・口有馬の当屋から各1人ずつ選ばれた弓引きは宵宮の日、花の窟神社前の浜で身を清めた後、参籠殿にこもり一夜を過ごす。当日の朝は、産田川で身を清め、午後9時過ぎから行われる祭典が終了するまで、再び参籠殿にこもっている。式典が終わると弓引き神事が始まる。まず的に向かって交互に2回矢を射る。次に4回ずつ矢を射って腕を競うのである』
鳥居をくぐり、真っ直ぐな石敷き参道が拝殿に向かっています。鎮守の森には二股杉などがありました。
『熊野市指定文化財 史赫:産田神杜祭杷遺跡 所在:有馬町1814番地 指定:昭和39年4月28日 祭日:毎年1月10日(昔は陰暦1月10日・11月15日)
由来:「日本書紀」一書に女神・伊弉冉命(いざなみのみこと)が、ここで火の神軻遇突智尊(かぐつちのみこと)を産み亡くなったので、花の窟に葬ったとある。産田という名は、産んだ所と伝えている。この付近では、埋蔵土器が多く出土し、考古学的に先史古代にわたる古さを物語っている。太古社殿のなかった時代のひもろぎの跡(神の宿る所)と伝えられる場所も残っている。  平成20年3月 熊野市教育委員会』
『熊野市指定文化財 有形民俗大北財・産田神社の疎札 練札(むなふだ)とは、社寺や民家を新改築した時の記録を建築に関係した人の名や経費、建築年月日を板に記入したもので神社の由来を知る一級資料である。 産田神社には100枚の棟札が保存されているが、今回文化財に指定したのは永正18年(1521)と慶長元年(1596)同6年(1602)と同20年(1615)の4点である。
永正18年の棟札は、永淑を本願とし、榎本朝臣和泉守忠親が奉行となり、神主が藤原森純とし、高さ63cmの杉材の表に墨書している。裏面には、これに要した米とその場所など記入している。 詳しいことは、昭和63年に発行した「神社棟札」を參照されたい。  熊野市教育委員会』
本殿裏に見えるケヤキ?クス?の巨木が見事です。R311で南下し、左折してR42で東進。18:06「ローソン熊野有馬店」で、「ざるそば355円+明治ブルガリアヨーグルトブルーベリー136円+明治ブルガリアヨーグルト124円+タラミアラゴン完熟白桃204円=822円」購入。
R311を東に走り、左折してr141で、JR熊野駅北にある「ビジネスホテル平谷」へ。バイクを玄関前に止めたら、「予約された・・さんですか?」と女将が出てこられ、バイクをPに置いてフロントへ。18:25、1泊4800円前払いして部屋に入ります。TV見ながら、「ざる蕎麦」夕食取って、ヨーグルトデザートを楽しんで夢の世界へ。


2021/8/22
元琵琶湖ジュニアヨットクラブのお父さんに誘われ、琵琶湖北湖クルージングに誘われました。10時志賀YC集合です。8時に出発すれば間に合うので、7時前に空を見上げながらバイクで行くか電車で行くのか迷っていました。
電車で行くことに決めました。「通勤リード110」で、JR最寄り駅に出て、7:07「セブンイレブンJR伊丹駅前店」で「ゆずれもんサイダー500ml93円+味付け海苔辛子明太子140円+味付け海苔海老マヨネーズ125円=386円」購入。「尼崎駅」で新快速に乗り換え一気に京都へ、「山科駅」で湖西線新快速に乗り換え、「堅田駅」で各駅停車に乗り換え「和邇駅」へ。
駅を出ると、Yasさんの車が待ってくれていました。電車内からLINEで現在地を送っていました。9時過ぎにYHへ入り、10時にD社コーチのNisくんがここに来るというので待ちます。南湖の藻の繁殖が良く、藻の心配がない北湖のこのYHをベースに練習したいそうです。Imaさんが間に入り、YHと交渉するそうです。
クラブハウス内で話していると、外の芝生にNisくんと学生2人の姿が見えました。10時になり交渉開始。交渉が成立し、2週間ほどこのYHを基地に練習するそうです。
3人なので、Yasさんの船に乗るようです。1〜3m/s・Nの風の中、ポートクローズで走ります。話はそれぞれから湧いてきて、笑いの絶えないセイリングになりました。南湖での新人戦2日目は無風で風待ちのようで、12時前になって風が入り2レースして、前日の5レースに加え7レースで終了しました。
相変わらずD社が速く、3番手ぐらいに当方が食らいついています。最終レースは1回生ジュニア出身者470の2人が、順位を上げ2・3位でフィニッシュしており、古い船なのによく頑張っているなと感心しました。乞うご期待です!
帰路のアビーム帆走で風がなくなり、4時前に上がりました。ハーバー着艇と同時に細かい雨が落ちてきましたがすぐに上がり、改装中もほとんど濡れませんでした。しばらくクラブハウスでクールダウンし帰路に着きました。
またYasさんに駅まで送ってもらい、和邇から2駅目の堅田から新快速姫路行きに乗り、一気に尼崎まで帰りました。福知山線に乗り換え、ただいま〜。結局雨に降られることはなく、細かい雨程度だったので、バイクで行った方が楽しかったでしょう。


2021/8/21
コーチしている大学ヨット部の所属する近北ブロックの新人戦です。8時ハーバーなので、7時前に倉庫から「里山VTR250」を出して出発。天気予報が微妙で、高速道路ばかりだけどCBは温存しました。前回のツーリングで割ってしまったスクリーンをオリジナルに戻し、クリップ式のサブスクリーンを新たに付けたので、その試乗をしたかったのですが・・・。
R171〜吹田ICから名神高速に乗り、「京都東IC」で下車し、湖西道路に乗り、大津京ランプで下車し、7:09「セブンイレブン大津市松山町店」で、「味付け海苔海老マヨネーズ125円+味付け海苔辛子明太子140円+ゆずれもんサイダー500ml93円=386円」購入。
ハーバーにバイクを置き、おにぎりを食べました。1・2回生がやってきてレース艤装を始めました。1回生中心に声を掛けます。1回生新人女子部員3人は全員スキッパーで、ジュニア上がりの1人を除いた2人をリラックスさせようと、「初レースはフィニッシュできたら御の字だよ」と。
軽風ながら北風が入っており、新人には丁度よい風です。この日は、470のコーチボートです。470スタート後、トップ艇のラインの延長線にコーチボートを置いて風の振れ・強弱に対するタックポジションをチェックします。気づいたことを言葉にして部員に伝えます。女子マネさんがそれを記録していきます。
R1・1上マークを当方が1・2位で回航しました。2人共新人のジュニア上がりのスキッパーNukさんです。先に入部し、結果を出しながら定番の良い船(5番艇)に上がっている女子がトップで、2位が遅れて9番艇に乗っている男の子Nisくん。3・4位がD社で、3位のOくんは去年インカレ個人戦で全国制覇した日本の学生トップの子だからどこまでトップを保てるのか・・・。下マークまでで3位に落ちていました。クルーが新人1回生だから仕方ないね。
コーチボートに乗っていたIshiくんは、2レース目にその船のクルーとして乗るので緊張しているみたい。フィニッシュし、選手を交代させ第2レースへ。第2レースでも第1上マークをNukさんがトップ回航しました。今度は2位と大きな差だったので通常ならセイフティーリード、フィニッシュまで差を保てるかもしれません。第2上マークでも同じぐらいの差でフィニッシュまで保ってトップホーン。Nukさんはジュニア時代世界選手権経験した実力者ですが、大学に来て初トップだそうです。
5レースして、翌日に3レース残してAP/Aフラッグでレース終了です。ハーバーバックし、陸上で気づいたことで海上で言えなかったことを伝えます。2回生スキッパーNakくんがやって来て疑問点を質問されました。上手くポイントを伝えられたかな?
バイク装束に着替え、湖西道路〜名神高速でき路に着きます。17:59「桂川PA」で「チョコモナカジャンボ151円」を購入し糖分補給しました。吹田ICで下車し、中央環状道〜R171で帰宅しました。


2021/8/15
朝6時過ぎ、お盆休みに帰省してくれた次男一家が、車で埼玉に帰っていきました。長男一家がロンドン在住で容易に帰ってこれない分を埋めるように、今年のお盆も帰って来てくれました。お正月帰って来れなかった分、GWに帰ってきてくれました。わが子ながらありがたいなと思いました。それをむしろ後押ししてくれただろうお嫁さんに感謝です。
天気予報通り、午前中には連日降っていた雨が上り、太陽さえ顔を覗かせてくれたので、ホームポートに係留艇を見に行きました。8/9に高校ヨット部同期と船に乗る予定でしたが、台風の強風で無理でした。ハーバーのレストランで話したのですが、風が強くなり係留艇近くのヨットのファーリングジブが解け、大変な状況になっていました。
その翌日、メンバーが係留艇を見に行き無事なのは知っていましたが、暇なので見に行きました。家内と一緒に行きたかったのですが、家内は次男一家の帰省後始末のため大忙しで、「行っといで」だって。行く前に僕も手伝い、次男一家が泊まった実家の僕担当場所は片付けました。
「通勤リード110」でハーバーに向かい、センターハウスに入ると、レストランが臨時休場していました。カードキーで桟橋に入り、係留艇を見ました。バウ右側のロープが1本切れていました。台風到来前に増しロープしていたので、問題なしでしたが、改めて強風のパワーを感じました。船に乗り、エンジンを掛けたら一発始動で問題なし。ドッグハウスに入り、ビルジが溜まっていないか確認しましたが、こちらも問題なし。トイレルームにも水漏れなし。
コクピットに上がり、ボックスを開けてロープを探し、切れたロープの替えとして適当なロープを出して応急処置しました。スマホで写真を撮り、共同オーナーの先輩方に送り、新規購入を促しました。バイクで自宅に戻りました。


2021/8/14
11時にお寺さんがお盆法要をしに来てくれます。8時に実家に、家内が作った朝食を運び、仏壇の部屋の準備を始めました。仏壇の部屋の窓を開け、家内がそこから出入りしお花を整えます。僕が盛ったご飯の量が少ないと、家内が持って帰りました。僕は2Fから座敷椅子を10脚下ろし並べます。
朝食を終えたすみれちゃんとおーちゃんがやってきて、あ〜だこ〜だ遊びます。10:30になり、弟一家がやって来ました。長男てるくんはまだ京都の大学の下宿から戻っていませんが、弟夫婦と長女りっちゃんは元気そうです。妙齢になった長女は、高校の同級生が北大に行っているので、1週間下宿に泊めてもらいながら北海道を見聞してきたようです。次は、九州大学に進学した友人を訪ねて北九州を観光したいそうです。コロナ禍で世の中大騒ぎ中ですが、時間が割合自由になる大学生時代を大いに楽しんで見聞を広げて欲しいと思います。
11:00、お寺さんが来られました。早速、お盆法要開始。AMはうちで終わりのようで、私が市長さんに頼まれて市内の池で作ったジュニアヨットクラブ卒業者のことを教えてくれました。既に40代半ばになっているその方は、東大ヨット部キャプテンをしたようです。そのお宅にもお盆法要に伺っているので、きっとそちらにも私の話をしてくれているでしょう。
法要が終わり、昼食を買いに行こうかと相談したら、京都の下宿まで長男くんを迎えに行くようで、食べに出ることにしました。2台の車に分乗し、「和食さと」を目指します。先に出た弟の車から、義理妹がこの車に乗ってる次男に連絡が入りました。「さと、閉まってるよ」「じゃあ、くら寿司にしよう」。
12時過ぎに、「くら寿司」に入り、2つのテーブルに別れて食事しました。りっちゃんがこちらのテーブルに来て、僕が弟夫婦のテーブルに移動しました。お腹いっぱい食べて、家内が精算し、ここで解散しました。弟一家は京都に向かい、我が家は自宅に戻ります。雨が降ってるので昼寝タイムとなりました。
夕方起き出し、「うどんののらや」に向かいました。おーちゃんは、いつものようにモリモリ食べます。すみれちゃんはそれなりに。1年前まではあまり食べなかったのに、少しは食べるようになったそうです。食欲は、自分のお腹に合わせて出るようなので、あまり無理に食べさせない方が良いです。2人共元気で病気にもあまり罹らないので、そのままで良いと思います。
長男とこの上2人は、サマースクールでサッカー・テニス・ゴルフに通っていますが、すみれちゃんは体操教室と絵画教室を頑張っているそうです。こちらに来てご機嫌なおーちゃんは、家では大泣きを繰り返しているが、保育園では全く泣かないようです。しっかりしているのでしょうか?とお嫁さん。夏に入り、RSウイルスに感染し、熱が続いたそうです。帰宅して「おやすみ」。


2021/8/13
天気予報は雨ですが、京都に向かいます。目的地は「清水寺」と「京都鉄道博物館」です。1週間前、バイクで「清水寺」に参ったのですが、ガラガラだったので、お盆ですが雨なのでさらにガラガラではないかと・・・。我が家の車に乗って名神高速で一気に京都。
10:30過ぎに、「清水坂観光駐車場1040円」。傘を持って、門前町を歩きだします。雨は降ったり止んだりで、多くの人は傘なし。お店に寄りながらブラブラと。11:13山門前。山門をくぐって中へ。
『明治初期の基準点標石 この石は、明治8年(1875)内務省地理寮(後に地理局)により、英国の測量技術を導人して、京都市街地図を作成するために設置された基準点です。地下に埋設されている基準点標石の上端に刻まれている対角線の中心が基準となっています。 基準点一式の形状は3つの石組よりなり、現存する唯一の物で、近代測量及び地図作成技術を知る上で貴重な歴史資料ですので大切にして下さい。
・当時の測量では、京都市内に観測点を27点設け、右記の基準点は9点設置しました。
・「清水」からは、「高瀬七条上ル」「六角堂」「聖護院村」の各基準点を視準し測量しました。  平成14年3月29日 清水寺・国土地理院』
本堂前廊下に、『千日詣 8月9日〜16日 内々陣特別拝観』と書かれていました。並んで、本堂内の内陣に入り、仏様を間近で拝観しました。清水寺に1000回参った事になるようで、それを証明する御札を授かりました。
清水の舞台で写真を撮り、本堂を出て「音羽の滝」へ。綺麗に整備されており、そこに3本の人工の滝が落ちています。滝の下は、浅い水遊び場のように整備されています。まるで、修験道者の修行場のようです。雨は上がり、冷たい水に手を着けると、おーちゃんも真似をして冷たさに喜んでいます。ぶらぶら歩きまわっていましたが、片足を滝の下の水の中に。「危ない」と片手を掴むと、私を見て笑っています。「こいつ、ワザとか?」なんて思っちゃいました。男の子はこうでなくちゃ。
「清水通り」を駐車場の方に下ります。12:30になったので、お土産屋さんの2Fに有るレストランに入りました。家内がレジして車へ。車に戻ると、再び雨が降って来ました。「京都梅小路鉄道博物館」前で皆を下ろし、車をPへ。傘を差して博物館に入口に行くと、家内がチケットを持って待ってくれていました。大人1200円。
以前は梅小路操車場を中心にしたSL博物館でしたが、大阪の鉄道博物館が閉鎖され、操車場横に新幹線や在来線車両・旧特急車両を揃えた博物館が併設されていました。ノーズの長い新幹線500系がかっこいい。何故かミゼットが1台置いてありました。遮断機が降りる踏切があり、子どもたちに大人気でした。いろいろ見学し、運転席に座れる所でおーちゃんを座らせました。2Fに上がると、「きかんしゃトーマスとなかまたちin京都鉄道博物館 7/17(土)〜9/5(日)」という企画展がありました。人気があるようで並んでいましたが、全然列が先に進まないので諦めて、2Fレストランでカフェしながら小休憩。私はそこらを見学していた会えませんでしたが、京都人の安田美沙子さんがいたそうです。
窓から外を見ると、SLが走っています。数年前、長男一家と乗りました。まだ乗れるかな?と私はSL乗り場に向かいました。新幹線のドクターイエローの前だけがありました。SL乗り場で、「16時の最終SLに乗れますか?」と受付のお姉さんに聞くと、「乗れますよ、チケットを購入下さい」。自販機で大人4人・3才以上1人分を購入し、すぐに次男に電話します。みんなでSLに乗りました。
お土産売り場があり、次男一家が入っていったので、出てくるタイミングを見計らって、車を取りに行きました。皆を車に乗せ帰路に着きました。伊丹に戻り、「阪急オアシス」に買い物へ。お嫁さんが、たこ焼き用のタコを買いに行きました。僕も一緒にお店に入り、「干しぶどう」を買ってもらいました。お金は、前日の1万円のお釣りで足りるようです。
帰宅して、「たこ焼き」パーティーへ。次男夫婦が車に「たこ焼きセット」を積んできていました。次男夫婦は慣れた手付きでサクサク作りました。美味しい、大満足です。長男のお嫁さんへ、TV電話を掛けました。ルーカスくんは幼稚園に行っていました。りょうくんは勉強中でした。何の勉強しているのか聞くと、週末だけ通っている日本人学校の算数の宿題だそうです。りょうくんは本好きで、ハリーポッターの分厚い本も読んでいました。子供向けの本とは思えません。りょうくんは、アメリカとイギリスで通算6年目なので、原書読めるんだと驚きました。よく考えたら、日本語は漢字があるけど、英語は26文字だけだから読めるんだ・・・。すみれちゃんは、2日目のTV電話なのでニコニコ笑っています。同じ年のこーちゃんも昨日よりは顔がほぐれていました。


2021/8/12
夕方、次男一家がやって来ました。すみれちゃん(5才)は、もう私達夫婦を人見知りすることなく、お喋りが始まりました。私の部屋にやってきて、針金で作った自転車飾りに興味を示しました。おーちゃん(2才)は私達夫婦に人見知りしてママの足にくっついていますが、すぐ慣れるでしょう。
私が実家の鍵を渡し、家内が1万円渡し、夕食を買ってきてもらうことにしました。19時過ぎから実家で寿司その他夕食にしました。もうおーちゃんも私達夫婦に平気になっており、ミニカーで一緒に遊びながら食べます。
スマホでロンドンの長男お嫁さんにTV電話してみました。ロンドンは-8時間なので、向こうはAM11時。お嫁さんは自宅にいました。夏休みなので、りょうくん(8才・9月から小4)・こうちゃん(5才・9月から小1)はいましたが、ルーカスくん(3才)は7月からプリスクール(幼稚園年少)に通っているのでいませんでした。年齢的には9月から3年保育の1年目なのですが、7月から通っているとは驚きです。お兄ちゃん2人は、恥ずかしがってます。すみれちゃんも恥ずかしがっている。LINEでお互いの動画や写真を毎週のように見ているのに・・・。


2021/8/10
コーチしている大学ヨット部恒例の「琵琶湖周航」の日です。昨年は「コロナ禍」により、中止になりました。例年、2回生部員が企画実行し、1回生部員が参加する3〜4日周航のイベントでしたが、今年は3回生が企画実行し、1・2回生が参加するスタイルに変更になりました。昨年同様のコロナ禍なので、初日は1回生日帰りで、2・3日目は2回生1泊です。加えて、琵琶湖周航とは名ばかりの北湖キャンプ場への車移動になりました。3回生はコロナ禍の中、なんとか周航を復活させたのでしょう。
四輪で琵琶湖に向かいます。8:17「セブン大津鏡が浜店」で、「ゆずレモン93円+味付け海苔海老マヨネーズ125円=235円」購入。ヨット部艇庫前に車を駐め、久しぶりに艇庫2Fに上がってみます。コロナ前は毎回ここにいたのに、久しぶりです。立派なトロフィー棚が出来ていました。中には一昨年の全国制覇トロフィー初め、多くのトロフィーや盾が並んでいました。その他に、今まで何処にあったのか多くのトロフィーや盾が、2つのダンボールに山積みになっています。それを見て、銘板だけ替えて「琵琶湖周航優勝トロフィーにしたら良いと提案しました。
9時になり、隣の浜で開会式がありました。選手宣誓があり、オフィシャルから「琵琶湖周航の栞」が全員に配られました。参加部員の顔写真やプロフィールが書かれており、番号がふられていました。その番号は男女別になっており、その番号順にオフィシャルに呼ばれ、「周航中公約」が渡されました。虫を集める公約に当たった男子部員は虫網と籠が渡されました。お化粧を引き当てた男子部員もいます。どれだけの美女に変身するのかこうご期待!女子部員4人のうち3人が「シークレット公約」でした。
3回生部員3人+1回生部員3人を乗せ、r558を北上します。助手席のOくんの指示に従い車を走らせます。まずは郵便局へ。先日、甲子園球場東側の南北道で「Uターン禁止違反」でお縄になりました。その罰金6000円を国庫に収めました。
「坂本北ランプ」から「湖西道路」に乗り北上します。「小松ランプ」で下車し、r558でさらに北上し、「北小松区営小松浜水泳場」へ。駐車料金1500円。先発したハイエースから、3回生部員がテントを下ろしていました。水泳場には多くのテントが張られていました。部員に聞くと、下見の時はテントもなく誰もいない感じだったそうです。琵琶湖の沖にはロープが張られ、遊泳場が区切られていました。先に張られたテント内では、先着した1回生女子部員が着替えているようで、3回生が不届き者を見張っていました。
着替えを終えた1回生男子部員が水泳場で水遊びしています。プラスチックバットとボールが2コあり、バッティングしています。着替えた1回生女子部員も水遊びに加わります。元気の良いYamさんのバッティングやピッチングを見て、運動神経が良いな〜と思いました。Nukさんとボール投げで遊んでいたIidさんがバットを持ったのに注目していると、バットコントロールが良くクリーンヒットを飛ばしています。この子もナイス運動神経。女子3人共スキッパーのようで、Iidさんは470。来年の女子インカレは即席クルーを練習し、Nukさんと組んで全日本デビューして欲しい。をzyし3回生はテント張ったり、食事の準備をしたりしています。


2021/8/5
「千石越林道」をメインに、その他の伊勢国の林道を走りに行きます。3:11出発。R171〜中央環状道路。3:24「エネジェット中環豊中SS」で給油。260km/9.95L=26.1km/L。3:28「セブン豊中緑丘2丁目店」で、「ゆずレモンソーダ500ml93円+バナナ3本200円=316円」購入。吹田ICから「近畿道」に乗り南下し、「南阪奈道路」で大和国に入り、R165〜R166で東進します。「高見山」を越えれば伊勢国だな〜と走っていたら、「高見峠」に上る道がめに入りました。数度、土砂崩れで走れなかったので、再度チャレンジしましょう。
「仮・高見山林道」に入り登って行きます。5:17「杉谷隧道」。バナナを1本食べ、喉も潤しました。標高が上がっていくと、下界が綺麗に見えだします。上天気なので、まさに絶景。
5:53「高見峠」。『日本遺産・高見山 台高(だいこう)山脈の北端、奈良県と三重県境に位置する高見山(1249m)は、古くから信仰の対象となった秀麗な山。山頂の「高角(たかすみ)神社」には、祭神として「瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)」も祀られ、神武天皇東征の先導をつとめたという「八咫烏建津命(やたがらすたけつぬみのみこと)」も記され、古くから地元の人たちから尊崇されている』
『熊に注意 令和3年5月30日(日) 午後1時頃東吉野村大字日裏の民家近くで1m程の熊が鹿の捕獲檻にかかりましたので、熊に注意して下さい。 入山の際には、鈴を携帯する等人間の存在を、アピールし充分に気を付けて下さい。  東吉野村・桜井警察署』
『熊に注意 令和3年7月31日 東吉野村杉谷高見山登山道頂上手前300m付近で、2mほどの熊の目撃情報がありました。入山の際には、鈴を携帯する等、人間の存在をアピールし充分に気を付けて下さい。  東吉野村・桜井警察署』
高見山は伊勢国と大和国の国境の山ですが、イメージとして三重県と思っていました。この峠は奈良県東吉野村なんだと、再認識しました。高見山への登山口のようで、駐車場やトイレがありました。登山道入口に鳥居が立ち、階段が上がっていっていました。
『告 此の道は民有地に付いておりますが、登山等通行は自由です。しかし、落石等危険な箇所も多く充分に注意して下さい。 尚、通行にあたり、事故がありましても東吉野村及び森林所有者は一切責任を負いませんので、念の為申し添えます。  東吉野村・森林所有者』
『登山客のみなさまへ 新型コロナウイルス感染症拡大防止に伴う登山自粛のお願い 新型コロナウイルス感染症拡大防止に向け、国及び奈良県からも不要不急の移動の自粛が呼びかけられているところです。 東吉野村の様々な自然の恵みを体感していただきたいところですが、登山の自粛について皆様のご理解とご協力をお願いします。  東吉野村』
登山届ボックスがありました。『登山届はこちらへ ルールを守って登山をお楽しみください。 「まつさか香肌イレブン」 登山道や休憩場所に、ゴミが落ちていましたら、拾って持ち帰っていただきますようお願いします。 皆様の愛山心で、いつでも気持ちよく登山ができます。ご協力を卿願いします。  松阪市飯高地域振興会』
三重県方面から朝の太陽がオレンジ色の光を届けてくれています。誰もいない高地で気持ちが良い。遥か下の低山の間を雲海が埋めています。調べてみると、山頂まで比高300m、往復2時間だそうです。僕なら倍の4時間かな〜。
『白雲に峯はかくれて高見山、見えぬもみちの色そゆかしき のりなが
この歌は、江戸時代の国学者・本居宣長が、寛永6年(1794)10月11日(現在の11月3日)高見山を越え、東吉野村において詠んだ歌である。文字は、宣長自筆「紀見のめぐみ」(本居宣長記念館所蔵)により採った。
本居宣長(1730〜1801)は、父母の吉野水分神社への祈誓により、享保15年(1730)、伊勢国松阪に生まれた。家業は木綿商であったが、宣長は家業をおき、京都で医学を修め、帰郷後は、松阪で医業の傍ら、源氏物語や万葉集など古典の研究を続けた。34才の時、江戸の国学者・賀茂真淵が、参宮の帰途松阪に泊った時、対面を許され、その門弟となる。(松阪の一夜)
真淵に入門した宣長は、現存最古の歴史書「古事記」研究に専心努力し、着手より35年後の、69才の夏、「古事記伝」44巻を完成した。その間、全国より訪問者、入門者は引きも切らず、63才の時には、紀州徳川家より、藩主へ国学を講じるため召し抱えられた。
この歌は、紀州へ初出府した時の作で、表題の「紀見のめぐみ」は、紀州家への感謝と喜びから命名された。この年宣長65才、高見の道は険しいが、宣長には、自分に生を授けてくれた吉野水分神社への道であリ、また、生涯をかけた国学を紀州家に普及する喜びに満ちた旅でもあった。
ごの歌には、秋の和歌山街道を旅寸る宣長の、様々な感懐が宿されているようにも思える』
伊勢国側に降ります。5:56「雲海」。下り坂だが、あまりに綺麗な雲海だったのでカメラに収めたくてバイクから降りました。ここで悲しい悲劇が・・・。サイドスタンドがない右側に降りたのですが、かかとがシートに引っかかってしまいバイクが右側に倒れてきました。片足で足場がしっかりしていない状態でバイクを支えました。右手は右ハンドルを持ったままだったので、ハンドルバックミラーステイにスクリーンが当たり、スクリーンを真っ二つにしました。バイクの転倒は防ぎましたが、倒してもエンジンガードとリアガードでハンドルエンドさえ地面に着かないのは経験済みだったので、飛び退いた方が良かったかもしれません。CB400SBのオリジナルなら、ハンドルミラーではなくカウルミラーなので、当たるはずがありません。バックミラーの視認角度を広げる為にハンドルミラーに変更したこと。ハンドルミラー仕様でも、オリジナルスクリーンなら当たりませんでしたが、風防効果を高めるために大きなスクリーンに変更していたので当たるようになっていました。半分割れて落ちたスクリーンをリアボックスに入れ、現場を後にしました。
緩やかに下って行きます。R166に出ました。R166を東に走ります。6:43「黒瀧神社」。鎮守の森の幹が太く、伊勢大和国境の森の豊かさとともに、神道信仰の深さ・歴史の長さを感じました。『主祭神:菅原道真大神 祭神:八柱皇大神・宇迦之御魂神・木花咲耶姫神・金山彦神・経津主神・火産霊神・白山比め神・応神天皇』『松阪市指定文化財 天然記念物 指定:平成9年2月18日 黒瀧神社の夫婦スギ スギ科スギ属スギ(杉) 県下最大級のスギの巨木である。樹高約38m・胸高周囲8.85m。2本に分かれているため「夫婦スギ」と呼ばれ、黒瀧神社の御神木とされている。  松阪市教育委員会』
立派な社殿と、雰囲気の良い鎮守の森で気持ちの良い朝です。夫婦杉は県下最大級らしく、素晴らしいものでした。
R166を東に走り、右折してr569。櫛田川を渡り、R166に戻ります。右折して、R422に乗りまた「櫛田川」を渡り南下します。国道ですが広くない舗装路が続きます。楽しいワインディングを長く走り山を越え、r31との交差点を過ぎても南下し、左折して、7:38「千石越林道」入口。沢沿いに舗装路を登って行きます。ただ数ヶ所だけ短い未舗装区間がありました。本道が沢から離れていく所で、沢沿いに上がっていく道もありました。地図を見て迷った末、沢沿いの道を選択しましたが、これが失敗で急坂・細道ですぐに舗装が荒れだし、「こりゃあかん」とUターンしました。素直に本道を上がり直せば良かったのですが、林道入口まで戻りました。急坂・細道でのUターンで苦労したので、「林道突破」の気持ちが折れちゃいました。やはり、林道ツーリングは、200kgCBではなく150kgVTRにすべきでした。帰宅後調べたら、本道はCBでも難なく突破出来そうな道でした。元は沢沿い道でしたが、本道を新しく作ったようです。バイクをVTRに変更して再チャレンジします。
沢沿いの道でバイクを止め小休憩しました。沢を覗くととても綺麗な水で、鮎がたくさん泳いでいました。岩に体を擦り付け自分の縄張りを主張しています。R422に戻り、「珍布峠」界隈を探索しようと北上します。
8:25「咳の地蔵」。『故地崎國太郎氏は、領内大杉谷組合村長として、在任13有余年、常に両村融和村開発に重きを置き、県道編入電灯施設等、両村融和村治開発に重きを置き、県道編入・電灯敷設等両村の受くる恩恵は誠に大なるものあり。大正9年両村を円満に分離。その後、本村村長として在任すること20有余年。この間、林野統一、村有造林領内橋架設と共に学校統一、引いては学校建築等総て映するものは私事私財を省みず、済世救民の基礎確立に一意専心たり。その功徳光明を放つ。我等村民はこの偉大な功績を永遠に讃えるため、謹んで功徳碑を建立する』
『咳の地蔵 寛政の頃、、此の地に屋敷を構えて住んでいた1人の老婆がこの谷に沿って薪をしていた所、突然激しい咳に苦しめられ、あまりの苦しさに、ふとこの谷の水を汲んだところ、不思議にもピタリと咳が止まり、危うく一命を取り止めたそうである。
これは、何かご利益のある水に違いないと信じ、文化5年(1808)小山氏が領主となり、ここに地蔵を建て祀り、吾が咳の全治をも願い、その御利益を受けたという。以来、誰呼ぶとなく「咳の谷」、「咳の地蔵」と名付けられ多くの信奉者を集めた。まさに、神秘そのものであり、我々が祖先より受け継いだ文化遺産として、後世に広く伝う可く、ここにその由来を記す。  神滝区』
R422を更に北に戻ります。道なりにr31に乗り、「宮川」沿いを東進します。R42に突き当り、左折してR42を少し走り、左折してr429〜r710で、9:03「三瀬谷神社」。
『三瀬谷神社略記 一鎮座由来「三瀬谷神社」の創始は、資料や口承も乏しく定かではありません。 乏しい資料や口承によると、垂仁天皇25年丙申3月に、倭姫命が天照大神の御鎮座地(現在の滝原宮)を探して宮川沿いに遡上ってこられました。 三瀬谷の下三瀬地区(現在の三瀬の渡し跡)で、宮川を渡るために御輿をお止めになりました。その場所に、氏神様として「八柱神社」が建立されました。 この神社は由緒もあり、郷人の信仰を集めていたため、江戸時代の初期(およそ1630年代)頃に、佐原地区の郷人が分祀して建立したのが「佐原八柱神社」の創始と考えられます。
明治時代になり、佐原地区を中心とする三瀬谷村が成立しました。由緒正しき祭祀の実施を目指した明治政府は、村内の各宇神社の合祀を推進しました。明治39年12月、長ヶ・下三瀬・佐原・弥起井・上菅・下菅・川合・大ヶ所・滝広までの9地区の「八柱神社」9社とその境内社64社を「佐原八柱神社」に合祀、村社「三瀬谷神社」となりました。
昭和20年代になり、国家(政府)による統制がなくなり、宗教法人が成立しました。そのため村社という社格はなくなりましたが、地域のの氏神様「三瀬谷神社」として現在に至っています。なお、明治時代に各地区の「八柱神社」を合祀していたため、地区の要請により元の場所へ分祀された神社もあり、現在は「三瀬谷神社」の摂社として各地区が中心となって奉祭されています。
境内面積:324坪(1069平方メートル)
御本殿:権現造(構造:句祠登勾欄擬賓珠付き)
御祭神:國狭槌命・田心姫命・漓津姫・市杵嶋姫・天穂日命・天津彦根命・活津日子命・熊野橡樟日命・天忍穂耳命・吉備津彦命・素戔嗚命・応神天皇・大山祇命・思兼命・神功皇后・保食神・瓊瓊杵尊・水速女神・稲倉穂命・菅原道真・金山彦命・経津主命・軻遇突智神(かぐつちのかみ)・仲足彦命・木花咲耶姫命・素賀神  三瀬谷神社社務所 〒519-2404三重県多気郡大台町佐原439  三瀬谷神社 参拝の栞』
『月次祭の案内 毎月第3土曜日午前10時斎行 どなたでもお参り頂けます。 
*斎行日時が変わる事があります。詳しくは宮司にお尋ね下さい』
『下三瀬地区・奥谷巧様奉納 キリン
・コロナウイルスの終息を、首を長くして待つ
・コロナ禍の中でも、高い視点から先を見通す心を持ちたい
・参拝された方たちに和んで頂けるように
などの思いを込めて制作され、当社に奉納くださいました。
*壊れる恐れがありますのでキリンに乗らないでください。
*奉納者の意向によりキリンはお譲り出来ますので、興味のあります方は、宮司(090-6981-1467)までご連絡下さい』
境内の鎮守の森の御神木が大きく、厳かな気持ちになりました。r429を北上します。道なりに「飯南三瀬谷林道」に入り、標高を増し「相津峠」で「大台町」から「松阪市」へ。松阪市側に下り、道なりにr710になりました。r745を走り、櫛田川を渡り、R166に乗り西進します。再び「櫛田川」を渡り、r745で再び西進。またまた「櫛田川」を渡って、R166を西進。
10:17「道の駅・飯高駅」。「飯高町宮前177いいたかの店」で、「アイスかき氷110円」を購入しクールダウンしました。R166に戻り、更に西進しました。
枝道に逸れて、10:34「北畠具教(とものり)の首塚」。「首塚まで200m」。バイクを置いて、山に入り獣道を登って行きます。10:40、周囲の森の木々の山中に立派な「五輪塔」が立っていました。五輪塔の後ろには、『殉死者 出羽守芝山藤原秀定(法諡安道院光山瀧水大居士)・大久保清左衛門成宗(法諡源兵居士)・松井新九郎秀頼(法諡心元居士)・松井新治郎助秀(法諡元祖居士)』と彫られていました。『故伊勢国臣前中納言 正三位源具教之元墓』とも彫られていました。
バイクに戻り、10:54「花岡神社」。この神社も鎮守の森の巨木の背が高い。
『宮前村元標跡 此処に30cm角4尺程の角柱が建っていた。正面に宮前村元標と、側面には松坂まで何里何町、津まで、山田まで、吉野、高野などの里程が書かれていた。 この辺りは商家や宿も多く宮(旧社名:花岡社・八王子社)の前から、或は宮の前まで、宮の前の・・・と目安に使った言葉が地名となって今も宮の前と言われる』
バイクに戻り。「珍布峠」のある林道に入っていきます。道標が設置されているので迷いませんでした。沢に沿った林道で、「ほたるの里」の看板が立っていました。
『木戸の一軒家 旧瀧野村西の出入口に当たり、実際に開き戸のある門(木戸)があったわけではないが、一軒の茶店があって草鞋(わらじ)や駄菓子などを売っていた。 此処から谷出(たにで)までは人家がなく、道行谷に沿って松並木が、道行く人々を慰めてくれたが、度々の道路改修と戦時中に松は1本も残らず切り倒され、現存しない』
少し走ると、『死人谷(しびとだに) この少し上で、谷水を飲む様子で、その後死んで行倒(ゆきだお)れがあったが人通りが少なく、長い間気がつかなかった。 後に村人は無縁仏として葬ったが、この谷は誰云う七なく「死人谷」と嫌った』
少し走り、『道行谷(みちゆきだに) 櫛田川の支流、この谷川を道行谷、この土橋を道行橋という。 何ともロマンチックな名で芳野(よしの)を逃れた「源義経と静御前が通った」という古老の話も、知る人は少なくなった。真偽の程は定かでなくても公法の土の「道行谷」の地名と、言い伝えは残したい』
また少し走り、『石灰爺さん 此所に生国も身寄も名前も定かでない、一人暮らしの老人が住んでいた。 何所で習い覚えたか、山から掘り出した石灰岩から石灰を作っていた。 時折里へ出て、米・味噌を買い、お酒を飲むと、「蝶がムカデに惚れ、何で惚れたと問うたなら、おアシの多いのに惚れました」。 上機嫌に浪曲を語って、村人の人気者であった。この石灰爺さんも昭和の初め頃から何処に行ったか誰も見かけなくなった』
また少し走り、11:13「珍布峠」。想像していた以上に勾配のゆるい峠でした。四輪でも通過できる道幅がありましたが、対向車とすれ違うことは厳しく、四輪の観光客は徒歩が良いようです。大岩を割って通る道で、かつて多くの方が骨を折って作業したのでしょう。
『国分け伝説 珍布峠・礫石(つぶていし) 此処は古道・紀州街道の本道である。国分け伝説に言う珍布峠は、この道沿いの山の上にあり、礫石は下の川俣(かばた)川(櫛田川)の中程にある巨岩である。古道に山の峠を越し、下の常夜灯の付近で赤池の里道を谷出の方に進み間もなく現在の本道に合流する』
『赤桶橋 コース折り返し点まで1300m 珍布峠ウォーキングコース』
『礫石・常夜灯 礫石まで200m』
バイクで「珍布峠」を越え、櫛田川の流れが下に見えます。『検校(けんぎょう)橋』。『検校(けんぎょう)・祢宜(ねぎ)・坊主(ぼうず) 昔、知恵者と云えば検校・祢宜・坊さんが代表的な人であった。 参勤交代の主要道路、紀州みち和歌山街道は150年程前の改修工事の際無名土橋は、小さいながらも欄干付きの洒落た橋になり検校橋・祢宜橋・坊主橋と名付けられ、道往く人の話題になり、里人に親しまれた』
少し下り、バイクを止めます。『赤桶橋 コース折り返し点まで800m』。『礫石・常夜灯 礫石まで200m』。バイクを置いて、戻りながら緩やかに下っていきます。
『町指定文化財 史跡 指定:平成3年9月27日 礫(つぶて)石 倭姫命の歌碑昔のこと、天照大神が白馬に乗って珍峠にさしかかり、国境を尋ねると、天兒屋根命があらわれ、「この下の境ヶ瀬が伊勢と大和の国境」と答えた。大神は、「この境は疑わしい」と言い、大石を川の中に投げ入れ、波のとどまる所て決めることにした。そしてそばにあった大石を礫のように投げ入れると、川の水は巨大な水柱となり、にわかに滝のように落下した。そこで、このあたりを滝野の里と名付けた。勢いよく川上に逆流していった。その波の変化した様子から、それぞれの地名を加波(かば)の里・波瀬の里・舟戸の里と呼ぶようになった。さらに激しい勢いで逆流していった波は高見山に達した。この日より高見山を伊勢と大和の国境と決めた。それから、この大石を礫石と呼ぶようになった。との言い伝えがある。(礫石は眼下の櫛田川内で自然石)
「流れては、昔に帰る川俣川、礫いはうつ、水のしら浪」
弘化4年春・滝野知雄  松阪市教育委員会』
バイクに戻り、櫛田川沿いでR422〜R166で「道の駅・飯高駅」方面に向かいます。11:40「水屋神社」。『伊勢と大和の国分け伝説と礫(つぶて)石のいわれ むかしむかし、白馬に乗ったお伊勢さまが赤桶の里の峠にお越しになりました。 そして「誰か国ざかいを知る者なきや」とおっしやいました。すると水屋の森から鹿に乗った白鬘の翁が出迎えました。
お伊勢さまは「あら珍しや春日の神ではないか」と喜ばれ、伊勢と大和の国境を決めようと笹舟を作り、そばにあった大石を川中に投げ入れ、舟の止まったところを境にしようと約束されました。
大石は礫のように投げられました。波は逆まき笹舟は川上へと押しやられやっと舟戸の里で止まりました。波はさらに高見山を越え杉谷村で消えました。お伊勢さまは「おっと過ぎたに、おっと過ぎたに」と手を打って喜ばれました。両国の境は高見山と決まりました。
今も礫石と呼ばれて巨石が珍らし峠の麓の川中に、でんと据わっています。往古、和歌山街道を往き来する旅人は、この礫石に小石を投げ当たれば男子が授かるとて旅情を慰めました。礫石の上の小道にひっそりと歌碑が建っています。
「ながれては、むかしに帰る、川俣川。礫いはうつ、水のしら浪。 弘化4年春・滝野知雄」と刻まれております』
『お水取りの水屋神社 閼伽桶(あかおけ)の井 赤桶区内北垣戸に鎮座 毎年7月31日夜 水神輿渡御
水屋神社縁起 創建:千余年前、大和の春日大社の安産所として天兒屋根命を奉斎す。その後大化4年(648)奈良の三笠山から素戔嗚命・龍神姫尊及び櫛稲田姫尊を勧請す。和銅3年(710)興福寺東門院領「関伽桶の庄」となり慶長5年(1600)関ヶ原合戦以後伊勢領となる。 当社に遺る南北朝時代、文中2年(1373)の棟札にも大和州関伽桶庄宮と記され ており、三殿並立の朱塗の春日造も明治25年現在の神明造に改められた。
闘伽桶の井とお水祭り:清和天皇貞観元年(859)11月9日、春日大社に水送りし正月暦を刷ったと伝う。諸病平癒・諸願成就・水商売繁盛の霊水なり。現在は7月31日祇園宵宮に水みこしが本社に渡御する。
水屋の大楠:神木にして天然記念物、樹齢千年以上、根廻り29m・樹高35m、春日さま・お稲荷さまを祀る。
磯石の伝説:当社裏の香肌峡600m下流に石炭岩の巨石があり、礫石と呼ぶ。左岸の上の古道に歌碑あり、弘化4年(1847)大庄屋・滝野知雄が、「流れてはむかしに帰る川俣川、礫岩うつ水の白浪」と刻み、往古和歌山街道を往来する旅人はこの石に礫を投げ、一度で当たれば男児出産するとて旅情を慰めた。伝説は昔お伊勢さまが白馬に乗って珍らし峠にさしかかられ、水屋の森から鹿にまたがった春日さまが出迎えた。二神は伊勢と大和の国境を決めるため笹舟を浮かばせ、巨石を投げ笹舟の留まる処を境とした。これ以後高見山が両国の境になったという。
宮家の御信仰:一品京極宮家仁親王の胡佐の宮誕生報恩の令旨が奉納されている。
本居宣長の歌碑:当社の西方200m、赤桶橋たもとに建ついにしへにたがおこなひしなごりとて、名にはおひけん闘伽桶の里』
『令和3年度 水屋神社行事予定 7月31日:水祭り、8月1日:夏祭り・鎮霊祭、11月23日:秋季例祭、12月31日:除夜祭、1月1日:歳旦祭、3月20日:春季大祭・護国英霊祭』
『主祭神:建速須佐之男命 祭神:櫛名田比売命・天兒屋根命・龍神比売御命・蘇民将来・天照皇大神・品田和気命・大山津見神・宇迦之御魂神・迦具土神・菅原大明神』
境内に鎮守の巨木が林立しています。櫛田川沿いの立地故か、吸い上げる水に困らないからかもしれません。境内がとても穏やかに感じます。本殿横境内に楠の巨木が立っています。「これが御神木か」と見上げて目を根本に戻すと、「神木・水屋の大楠は、本殿裏にございます」と書かれた札が立っていました。「楠椙和合の樹 二号楠・二号杉」。「水屋の大榊」。「春日大社の鹿にゆかりの鹿子(かご)」。
本殿の裏に回ると、御神木の巨楠が立っていました。観光客は1人もいませんが、この神社の境内を歩いていて「凄い!」と感じました。謂れ板に書いてあった春日大社のお水取り神事に使う水を取る閼伽桶の霊水を読んだからだろう。東大寺のお水取りは有名で、季節の風物詩になっている。東大寺二月堂の閼伽井で汲まれる霊水は遠く越前国に繋がっているらしい。その閼伽井に繋がっている霊水の場所を訪問したことがあるが、地理的に信じがたいけど、「確かに」と感じる場所で脈々とお水取り神事が続けられていた。きっとここ水屋神社もそうなんだろうな〜と感じる事ができた。
『大楠社 春日大明神(天兒屋根命)・稲荷大明神(宇迦之御魂神) この神祠にはこの里の祖神でございます春日様がお祀りしてございます。このお社は、古く大和の春日大社の安在所として創建されたからでございます。 併せまして京都の伏見稲荷さまが祀られてございます。当神社には、御分霊奉斎の次の文書が残されております』
『神水・水屋の大楠 天然記念物・本殿裏鎮座 「水屋の翁と国わけ伝説」 むかしお伊勢さまが白馬に乗って珍らし峠にさしかかられました。「誰か国ざかいを知る者なきや」とおっしゃいました。すると水屋の森から鹿に乗った白髪の翁(春日の神)が出迎えました。 伊勢の神さまは「おお珍らしや春日の神ではないか。あなたの国とわたしの国との境を決めよう」と申されました。 ふたりの神さまは笹舟を作りその止まったところを国境にしようと約束され、大石を礫のように川中へ投げ込まれました。 波はたちまち滝のようにさか巻き、途中であわとなったり、加わったり、瀬になって笹舟は川上に押しやられました。 舟は舟戸の里で止まりましたが、波は高見山を越えました。「おっと過ぎたに、おっと過ぎたに」とふたりの神さまは叫ばれました。
両国の境は高見山と決まり春日の神さまも水屋の森にお戻りになりました。 波留・滝野・珍らし峠・堺が瀬・礫石・さかさま・粟野・加波・波瀬・舟戸・大和の杉谷などはこの話から生まれた地名であると土地の者は今に語り伝えています』
R166〜R422で、12:06「荒滝不動尊」。R422は未開通道路で、これより先はありません。
R422でR166に戻り、12:28「九曲城跡」に来ましたが、登城口が見つからず断念しました。獣避けフェンスを開閉し、小さな寺院跡?を探索しました。
R166を西進し、12:42「粟野八柱神社」。
『安養寺の文化財 安養寺は大日山と号する寺院で、寛永17年(1640)小堂が建立され、その後、享保3年(1718)、寛延3年(1750)に再建され今日に至る。
鰐口:県指定有形文化財・昭和30年4月7日指定・室町時代
径22.4cm・厚さ8.2cm、青銅製の鰐口で、面は内環線により銘帯と撞座(つきざ)の2区に分けられている。銘帯には向かって右に「安養寺」、左に「文安元年(1444)10月20日」と刻まれている。
面の張りはやや低く、耳は巾が広く、目は横に長い円形をしている。撞座中央に単純化された蓮華座が鋳出するほかは装飾らしきものはなく、古雅(こが)で素朴な感じを受ける作品である。  2007年3月9日 松阪市教育委員会』
R166に戻り、西へ走ります。高見ループから「高見山」を高見トンネルで抜けます。14:02「道の駅・宇陀路大宇陀」。アイス食べて休憩しようと思ったけど、「森永チョコモナカジャンボ」なくてパスしました。
R166で桜井市市街地に入り、R165に突き当り、左折して西進。14:25「セブンイレブン桜井阿部店」で、「森永チョコモナカジャンボ140円」購入してクールダウンしました。
R166から道なりにR169に乗り、「JR桜井線」を渡り、14:43「エネジェット橿原SS」で給油。275km/10.62L=25.9km/L。R166〜南阪奈道路〜近畿道〜中央環状道〜R171で、15:56帰宅しました。


2021/7/31
京都観光が非常な下火になっているので、京都市街地の混雑寺院「清水寺」に参拝することにしました。久しぶりです。6:24、倉庫から「招き猫CB400SB」を倉庫から出し出発。R171〜中央環状道路〜吹田ICから名神高速。京都南ICで下車し、R1。東寺まで北上し、右折して「九条通」を東進。道なりに「東大路通」になり北上します。R1を経由し「五条坂」を登り、7:27「清水坂観光P」410円に入れました。
清水寺に向かってゆるい坂を上がっていきます。両側にお店が並んでいますが、開店前なので殆どのお店が閉まっています。ウインドウショッピングが楽しい。フィギュアの並んだお店があり、後で寄ろう。
『音羽山清水寺塔頭真福寺大日堂 東日本大震災の津波で流された、名勝高田松原の松、鎮魂と復興の祈りをこめ、1万人以上の方々が「ひとノミひと削り」に参加 奉納・大日如来坐像 学校法人二本松学院・京都伝統工芸大学校・仏像彫刻専攻一同謹造』
聖護院八ツ橋のお店、扇子のお店もあります。7:38「音羽山清水寺」。正面階段にカメラ禁止の看板があり、驚いて見に行くと、「正面階段付近での集合写真撮影禁止・AM10:30〜PM4:00」でした。ほとんど観光客がいない階段ですが、コロナ前は大混雑だったのでしょう。「境内飲食禁止」「ドローン禁止」「ペット入山禁止」とも書かれていました。
山門をくぐり境内に入ります。「胎内めぐり休止中」の案内板がありました。「三重塔」が青空に映えて綺麗です。『重要文化財・三重塔 この塔は、当山ご本尊観世音菩薩の御霊験によって嵯峨天皇の皇子ご生誕あり。承和14年(847)命を奉じて創建されたと伝える。
現在の塔は寛永9年(1632)の再建で、日本最大級の規模をもち、三間四方、高さ29.7mに達す。昭和62年(1987)文化庁の助成をえ、京都府教育委員会に委託して、解体修理、彩色復元の落慶をみた。
一重内陣の中央に大日如来坐像を安置し、四面の壁に真言八祖像、四天丸柱に密教的な仏画を描き、柱は雲天竜、天井その他は飛天。華型幾何文様が極彩色で全面荘厳されている。
なお今回の修理で全重を総丹塗りに戻し、他塔にその類例を見ない。各重の丸桁(がんぎょう)・台輪(だいわ)・長押(なげし)などの各種極彩色文様をすべて寛永の昔に復元した。
一重で見ると、桁下の丸桁の両端は「摩竭魚(まかつぎょ)」。中央は「金剛盤に宝珠(ほうじゅ)」。中段の台輪の両端は「出八双卍崩円竜(ではつそうまんじくずしりゅう」。中帯は「向い蝶」、下方の長押の両端は「入八双若芽唐草(いりはっそうわかめからくさ)」。中帯は「四弁花羯磨繋(かつまつなぎ)」の文様になっている。  北法相宗清水寺』
西門の朱色と彩色された文様が、青空に映えて美しい。『重要文化財・西門・江戸初期 寛永8年(1631)の再建。三間一戸、正面8.7m、側面3.9mの優雅な八脚門で、西面して急な石段上に建つ。 単層・切妻造り、桧皮葺き屋根で、正面には向拝をつけ、七段の木階き設け、床と共に高欄をめぐらし、背面には軒唐破風を架ける大層珍しい形式になる。軒は二重繁垂木、斗ぐみは和様一手先出組み。左右の脇間に鎌倉様式の写実性と量感ゆたかな持国天と増長天の立像を奉杞する。開放されている中央の間は立派な折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)となり、また随所に勝れた墓股・虹梁・木鼻などを多く備え、平成5年(1993)丹塗りと極彩色文様が復元され桃山様式の華麗さを再現している。拝殿風の華美なこの門からの京都市街・西山の眺望は素晴らしい。勅使門にも使われたが、絶好の洛中展望台とされ、かつ西山に沈む夕日の見事さに西方極楽浄土を観想する日想観拝所となったとも考えられる。前方の仁王門と二門が相並び立つ趣向は格別に意味深長である。  北法相宗清水寺』
京都盆地が一望の素晴らしい景色です。京都のモニュメントとしてロウソクを連想させる京都タワーが見立ちます。
『世界遺産「古都京都の文化財」(京都市・宇治市・大津市)
清水寺は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録されました。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、とくに優れて普遍的価値をもっていることを国際的に認められたことになります。
清水寺は、「清水寺縁起」によると、宝亀9年(778)に僧延鎮が音羽の滝上に観音を祀ったことに始まり、延暦17年(798)には坂上田村麻呂が仏殿を建立して桓武天皇の勅願寺となったと伝えます。創建後何度も火災によって焼失しましたが、その都度再建され、現在は西門・三重塔・経堂・田村堂・轟門・朝倉堂・本堂・阿弥陀堂が東西に並び、そのほか周囲に仁王門・馬駐・鐘楼・北総門・釈迦堂・奥の院・子安塔・鎮守堂(春日社)、そして鎮守社の地主神社社殿が建っています。大半の建物は17世紀前半に再建されたものですが、こうした景観は13世紀には成立していました。
伽藍の中心となる本堂は寛永10年(1633)に再建された懸造の建物で、いわゆる「清水の舞台」として知られ、林立する高い束柱に貫を縦横に通して豪快な姿をみせています。また、仏堂である石敷の内陣と礼堂である板敷の外陣からなる本体に裳階、正面庇、翼廊、舞台がつくという平面や、その全体に寄棟造・檜皮葺の大屋根をかける架構は、平安時代からの形を受け継ぐものです。
これらの建造物のほか、境内の東寄りには江戸時代初期の借景の技法を用いた成就院庭園が設けられています。なお、これらの周囲に広がる自然景観もみごとです。  登録年月日 平成6年(1994)12月15日決定、17日登録 京都市』
拝観料400円を収めて本堂へ。『国宝・清水寺本堂・江戸時代 寛永10年(1633)、徳川三代将軍家光の寄進再建。東・北・西に裳階をつけた正面十一間36m強。奥行九間30m強。棟高18mの高大な観音菩薩を祀る聖堂である。
創建は平安建都と同期(8世紀末)坂ノ上田村麻呂将軍夫妻の寄進による。起り檜皮葺き、寄棟造りの屋根や、軒廻りの蔀戸(しとみど)吊りに優美な平安王朝の宮殿と貴族の寝殿造り邸宅の面影を伝承している。
正堂最奥の内々陣の大須弥壇の上に「清水型観音」といわれる清水寺独特の姿をする本尊十一面千手観音と脇侍の地蔵菩薩・毘沙門天(三尊とも秘仏で、それぞれ国宝の厨子内に安置され、33年毎に開扉される)及び千手観音を守護する28部衆、風神・雷神を全体揃えて奉祀する。
外陣は礼堂で、普段一般の参拝は此所で礼拝する。ために内側正面の欄間に本尊・脇侍の御正体(みしょうたい)を大きな円鏡形に彫刻して奉懸する。
また他の各欄間には江戸時代の大絵馬が20面近く奉納されており、中央の間の金箔の太丸柱や折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)・三尊の梵字を彫刻する彩色蟇股などに江戸初期桃山建築様式の華麗さを見る。
なお礼堂の東西両端に翼廊(楽舎)を突出し、廊下の南側へ「舞台」を張り出している。
西翼廊(車寄せ)の鉄製の大錫杖(しゃくじょう・重さ90kg・長さ2.62m)・小錫杖(14kg)と高下駄(1足12kg)は、明治初年、修行者たちが本堂下の音羽の滝から百段の石段万度上り下りの満額成就を感謝して奉納したもの。弁慶の持物にふさわしいが、各所に奉納者の刻名が残っている。すぐ前には出世大黒天が笑座し、左手の廂間内には塩断ち阿弥陀が鎮座する。その窓下長押の深い痕筋は堂廻りの数取り串の歴史的な擦り傷の跡である。
東出口の西側欄間には、臨済宗の中興の祖と称えられる白隠禅師(1689〜1766)揮毫(きごう)の観音経喝句「慈顔視衆生、福聚海無量」の竪額が揚がる』
本堂内に以前使われていたのであろう柱が数本置かれていました。大きな絵馬が掛かっています。清水寺の代名詞、清水の舞台の張り出しには参拝の方が数人、朝だから少ないのでしょうが、コロナ禍で更に少ないのでしょう。
舞台の正面に、「子安塔」が見えます。「音羽の滝」が見える谷を隔てた対岸の尾根の森の中から三重塔が絵になります。眼下に見える「音羽の滝」は、三筋に分かれ、修験道修行者が行う滝行を3人並んで行えるようになっています。自然滝の風情がなく、「以前もこうだったっけ?」と意外な状態でした。
参拝順路に従って歩くと「地主神社」がありました。「えんむすびの神」と大きく朱で書かれています。「恋占いおみくじ」がまずあり、カップルで来れば良いな。『ご利益 大国主命さまは、えんむすびのご利益がある神様として有名です。因幡の白兎を助けられた心のやさしい神さまで、みんなに幸福を与えて下さいます。  世界文化遺産 京都地主(じしゅ)神社』『本殿・拝殿・総門・境内地 世界文化遺産登録 えんむすびの神・地主神社』
『世界最古の縁結びの神さま 恋の神さま縁結びの神さまとして知られる地主神社は、恋の成就や良縁達成を祈願する全国各地からの参拝者で年中賑わっている。その歴史は古く、創建年代は遠く神代(日本の建国以前)にさかのぼり、本殿前の「恋占いの石」は縄文時代から伝わるとされる。現代の社殿は、寛永10年(1633)3代将軍徳川家光によって再建された。奈良時代の双堂という最古の建築様式を残す本殿は、拝殿、総門、境内地と共に国の重要文化財に指定され、世界文化遺産にも登録されている。
本殿ご祭神:縁結び・土地守護の神・大国主命(主祭神)・厄除け・開運招福の神・素戔嗚命・奇稲田姫命・足摩乳(あしなづち)命・手摩乳(てなづち)命・ご祭神五柱の神々は、三代続きとなることから安産・子授けの信仰も篤い。
相殿ご祭神:交通安全・旅行安全・乙羽竜神・学問受験・知恵の神・思兼(おもいかね)大神
末社ご祭神:芸能上達・長寿の神・大田大神・商売繁盛・家内安全・栗光(くりみつ)稲荷大神
天皇行幸:嵯峨天皇(811年)地主桜のあまりの美しさに3度御車を返される。円融天皇(970年)臨時祭仰せつかり後、永式の例大祭地主祭となる。白河天皇(1082年)17日間ご滞在。
水飲み天井龍:夜ごと天井を抜け出して音羽の滝の水を飲みに行ったという伝説で知られる拝殿天井の龍の絵(狩野元信筆)。八方にらみの龍ともいう。京都の東を守る青龍とされる。
恋占いの石:眼を閉じて一万の石からもう丁万の右へ無事たどりつくことができると恋の願いがかなうという。
地主の桜:謡曲「田村」「熊野」で知られる名桜。
平成6年ユネスコの世界文化遺産に登録され、地主神社のご神徳は、海外にも及び世界各国の参拝者も後をたたない。
毎月第1日曜日 えなむすび地主祭り 世界文化遺産 地主神社』
社務所に、縁結びのお守りが多種多様に並んでいた。本殿にお参りします。僕というより、良い縁を頂いている息子たちでもなく、5人の孫たちの良い縁を願いました。
『厄除開運・活力の神 祓戸大神 祓戸大神様は、皆様の厄や悪運を除き、活力と明るく清らかな心を授けて下さる神様です。厄除大国様がお持ちの水晶玉に軽く指を触れ、開運をご祈願下さい。また左方の人形祓いで厄をお祓い下さい。  京都地主神社』
『人形祓い 人を形どった紙に、息をふきかけ身代わりとして水に流し、身についた悪運・悪縁・病気などいろいろな悩み事をとり祓う神事。心身を清め、生きる有機と活力がわくとされています。古代より伝わり、奈良時代もは宮廷でもおこなわれた由緒ある魔除けのお祓い。
願い事 悩み事解消(恋の悩み・コンプレックスなど)悪縁切り・病気回復・厄おとし・災難除け・事故除け・悪運除け・家庭不和解消  世界遺産京都地主神社』
『水にとける人形 人形をこの桶の水に浮かべて下さい。水にとけて厄祓いになす。  世界文化遺産 京都地主神社』
『恋占いの石 ご本殿前の左右にある守護石で、両目を閉じて反対側の石にたどり着くことができれば恋の願いが叶うという。一度でできれば願いも早くかない、出来なければ願いが叶うのも遅れるという。また友人などのアドバイスを受けると願いを成就するにも人の助けがいるという。  世界文化遺産京都地主神社』
『名桜地主桜 八重と一重の花が同時に咲く珍種で、日本でも地主神社にこの1本が現存するのみ。811年、嵯峨夭皇行幸のみぎり、あまりの美しさに、3度御車を返された故事により別名「車返しの桜」ともいう。また謡曲「田村」「熊野(ゆや)」をはじめ平安時代の「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」室町時代の「閑吟集(かんぎんしゅう)」江戸時代の文楽「新薄雪物語」や歌舞伎、長唄、小唄等にしばしば登場。芭蕉の師、北村季吟や宝井其角の俳句にも詠み込まれた。
「地主からは木の間の花の都かな 季吟」「京中へ地主の桜や飛胡蝶 其角」
4月第2日曜日の「えんむすび祈願さくら祭」には、謡曲の奉納や、宮司による俳句の献詠、また平安時代、地主桜を御所へ献花した故事に因み白川女による献花式等も行われ、京の春に色どりをそえる。  献木:佐野藤右衛門 考証:井上静蔵』
『恋の願かけ絵馬 この絵馬には全国からお参りに来られた方たちの様々な願いが込められています。恋の成就を願う人もいれば、大好きなあの人への想いを書く人もいます。また、願いが叶えられてお礼参りに来られた人の絵馬も奉納されています。 ご両親や知人の方が、ご本人に代わって奉納することも出来ます』
『恋の願かけ絵馬 毎月第1日曜日のえんむすび地主祭りで縁結び、恋愛成就、開運招福のご祈願をいたします』
『一願成就・おかげ明神 どんな願い事も、1つだけなら必ず「おかげ(ご利益)」がいただけるという一願成就の守り神様。特に女性の守り神として厚い信仰を集めている。また後方の御神木は「いのり杉」とも「のろい杉」ともいわれ、昔、女性の間で流行した「丑の刻参り」に使われた。白の衣に頭はローソク、顔は真白に化粧をし、午前2時「丑の刻」に相手に見立てた藁人形を、人知れずこのご神木に釘で打ち付けのろいの願をかけたという。その五寸釘の跡が、現在も向かって左後方に無数に残っている。  世界文化遺産・京都地主神社』
『諸願成就 撫で大黒さん 願いを込めて大黒さんを撫でるとご利益がいただけます。 こずち:良縁・開運・厄除け あたま:受験必勝・成績向上 おなか:安産・子宝 たわら:出世・土地守護・家内安全・夫婦円満 福袋:金運・商売繁盛 手:勝運・芸事上達 足:旅行安全・交通安全
病気回復は病のある所をお撫で下さい。  世界文化遺産・京都地主神社』
『幸福祈願所 神様への願いを込めて幸福祈願鉦(どら)の中心を軽く叩き、えんむすびと幸福をご祈願下さい。  世界文化遺産・京都地主神社』
『地主神社 清水八坂一帯の産土神で、元は地主権現と呼ばれ、明治維新後に現在の名に改められた。祭神として、大国主命とその父母神素菱鳴尊・櫛名田姫ら5柱を祀る。
創建は奈良時代以前であり、平安遷都と共に皇室をはじめ広く信仰を集めた。天禄3年(972)の臨時祭には、円融天皇が行幸し、その後も歴代天皇の行幸が伝えられている。
現在の社殿は、清水寺本堂と同様寛永年間(1624〜1644)の徳川家光による再建で、桃山時代の様式による華麗な建物である。本殿・拝殿・総門はいずれも重要文化財に指定されており、拝殿天井の龍の画は狩野元信の筆と伝えられている。境内には桜樹が多く、「地主の桜」と呼ばれ、古くから桜の名所として有名で、謡曲「田村」「熊野」、小歌集「閑吟集」などにもしばしば登場する。また、縁結びの神として広く崇敬を集めている。
「京中へ地主の桜や飛胡蝶 其角(きかく)」「地主からは木の問の花の都かな 季吟」  京都市』
『えんむすび祈願 契(ちぎ)り糸 紅白の契り糸の紅は女性、男性は白に名前を書き「良縁大国」様に紅白あわせて結び付け、えんむすびをご祈願下さい。これから良縁に恵まれた方は、女性は紅に名前を、白に「良縁祈願」「恋愛成就」など一言でお願いを書き、あわせて結び付けご祈願下さい。  京都地主神社』
釈迦堂・阿弥陀堂に参り、「子安塔」まで歩きました。ここまで来る方はおられず、僕一人でした。ここから、谷を隔てて清水の舞台が見え、ここからも良い眺めです。
谷に下ると、記念碑が立っていました。『仁清記念碑 野々村仁清は、江戸前期17世紀の陶芸家で、京焼色絵陶器の完成者とされる。仁和寺門前に御室窯を開き、華麗優雅な茶陶を焼造して出世したことに因み、碑書は仁和寺門跡法龍大僧正の筆になる。清水寺貫主・大西良慶和尚が後援し、大正9年(1920)洛陶会が建立した』
『乾山記念碑 尾形乾山は、江戸中期の陶芸家(1663〜1743年)仁清に学び、鳴滝窯を開き、兄の画家光琳の絵付けによる合作を出し、色絵京焼の発展に大きく貢献した。碑の書は臨済宗建仁寺派管長・竹田黙雷禅師の筆になる大正9年(1920)清水寺貫主・大西良慶和尚の後援で、洛陶会が建立した』
「音羽の滝」まで来ました。『音羽の滝 三筋の霊水は大昔より音羽山中より涌き出る清泉であり、創建以来一度も枯れる事なく、今日に至ります。観音様の功徳水である金色水とも呼ばれ、延命長寿・諸願成就のご利益があるといわれてきました。(霊水冥加料500円) またここは開山延鎮上人と開基行叡居士が出会った当山の起源の場であり、現在では不動明王をご本尊としてお祀リいたしております。毎月28日の不動縁日には朝7時より山内僧侶が揃い、信者と勤行を致します。是非とも早朝の荘厳な雰囲気の中、共にご参拝頂ければ幸いです。  合掌』
『顕彰碑 8世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷の首領・阿弖流為(アテルイ))は、中央政府の数次に亘る侵略に対し、十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り、同胞の母礼(モレ)と共に京都に連行された。田村麻呂は、敵将ながらアテルイ・モレの武勇・人物を惜しみ、政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ・モレ両雄は802年河内国で処刑された。この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ・モレ顕彰碑を建立す』
清水寺を離れ、清水坂を下りながらウインドウショッピングします。8:55「京扇子専門店錦扇」で、1000円扇子購入し、暑いので扇ぎながら歩きます。綺麗な絵柄の絵皿・陶器のお店が目を引きました。「産寧坂」にチェンジします。
『産寧坂(三年坂) この坂は産寧坂といい400年以上も前からある有名な坂で、名前のいわれについては古くから、いろいろの説があります。京都における最初の名所案内説である、「京童」(1658)や「洛陽名所集」(1659)にすでに数説あげられています。
清水寺の子安の塔に続く坂であるため産寧坂というのが一般的で、産は「うむ」、寧は「やすき」という意味で、この坂を通って清水寺を参詣すると安産すると言われております。その他、大同3年に出来たので「三年坂」ともいい、また清水寺へ参詣の人を、この坂で再び祈願を深くするというので、「再念坂」という説もあります』
『三年坂(産寧坂・再念坂) 八坂か‘ら清水坂に通じるこの石段は「三年坂」または「産寧坂」「再念坂」ともいわれる。 宝暦12年(1762)刊行の「京町鑑」によると「大同3年(808)に開けし故三年坂とぞ」と記されている。また、三年坂を上った清水寺の塔頭である安産に御利益があるといわれる泰産寺(子安の塔)の産(生み)寧(やすき)坂で「産寧坂」ともいわれている。
明暦4年(万治元年・1658)に刊行された「京童」・「洛陽名所集」には、三年坂・産寧坂・再念坂という3通りの名前があらわれる。なかでも再念坂については、清水寺への参拝後、この坂で再び願い事を念じたことから「再念坂」と名付けたとある。
三年坂で転ぶと「三年のうちに死ぬ」、「三年寿命が縮まる」といわれる逸話は、すでに延宝7年(1679)刊行の「京師巡覧集」で紹介されており、転んで抜けた魂を瓢箪が戻してくれるとのおまじないがあり、瓢箪を売る店が往時は軒を連ねた。
産凛坂地区は、昭和51年、文化財保護法に基づき、京都市が伝統的建造物群保存地区として指定し、国の重要伝統的建造物群保存地区第1号にも選定されている  京都市』
9:18、700円タペストリー購入。「産寧坂ひょうたんや」さんで、「小銭がま口お財布+ソーラー首振り京人形」購入。
『興正寺霊山本廟 当寺は真宗興正派本山興正寺(京都市下京区七条堀川)の飛地境内で、宗祖親鸞聖人の御骨が収まる本廟(御霊屋・おたまや)であり、全国門信徒の総納骨所です。この地は釈迦が初めて説法されたインドの「霊鷲山(りょうじゅせん)」に似ているところから霊山(りょうぜん)といわれ、法然上人が別時念仏を修せられた所でもあります。
境内には、京都の近代画家・菊池契月、養父の菊池芳文画伯の墓、勤皇の志士・三国大学の顕彰碑などがあります。  本山興正寺霊山本廟』
親鸞聖人の御廟に参りましょう。親鸞聖人の御廟は、大谷祖廟はじめ、この界隈に数ヶ所あります。品位のある御廟でした。
「坂本龍馬の墓」の案内板が立っていたので、数年ぶりにお参りすることにしました。「維新の道」を上り下りし、「霊山歴史館」。
『当館は、幕末・維新期の歴史研究や史資料の展示を行う国の登録博物館である。近代日本への一大転換期となった同時期のありさまや、志士らの熱意から多くを学び後世に伝えることを目的としている。
明治元年(1868)、新政府による初の布告でここ霊山の地に、志士らを祀るわが国初の招魂社(現・京都霊山護国神社)が創設された。一帯には墓碑300余があり、他にも多くの殉難者が合祀されている。
昭和43年(1968)に明治100年を記念して設立された。霊山顕彰会が、荒廃して墓碑の改修を行い、参道も「維新の道」と名付けて整備した。当歴史館は昭和45年に、神社の一角にあった参集殿跡地に建設され、顕彰会の手で運営されている。  京都市』
『パール博士顕彰碑 見学の方は社務所受付まで』『ラダ・ビノート・パール博士は、インドの著名な国際法学者。1946〜48年極東軍事裁判のインド代表判事。博士は連合国側の判事でありながら、この裁判の違法性を証明し日本側被告全員の無罪を判決しました。 博士の正論と勇気ある平和への呼びかけは日本とインドの友好と親善の礎となっています。  インド独立50周年記念1997年11月20日竣工』
『京都霊山護国神社(京都神社) 当神社は、幕末維新に殉じた志士と大東亜戦争にいたる京都府出身の英霊7万3千11柱奉祀する。 幕末、各藩が東山36峰の中心である、ここ霊山にそれぞれ殉難者を祀ったのが当神社の起源で明治元年5月に太政官布告をもって我国初の官祭招魂社とすべきことが決められた。この布告により各蕃は社殿を建設し、同年7月には盛大な祭典が挙行された。
ついで明冶10年には皇室より巨費が下賜せられて神域が整備され全国招魂驚うち、最も崇敬を集めた。さらに昭和4年6月には昭和天皇御即位大礼の建物を下賜せられ、現社殿を整備し昭和14年に護国神社と改称して現在に及んでいる。
霊山神域内には坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允・平野国臣・宮部鼎蔵をはじめ蛤御門の変・天誄組の義挙等に加わった志士たちの墓300余墓があり、1356柱が合祀されてあり、この地は明治維新を偲ぶ大霊城・史跡である。  京都市』
300円で「霊山墓地」へ。まず「パール博士顕彰碑」へ。『碑文 当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、1946年、東京に於いて開廷された「極東国際軍事裁判」にインド代表判事として着任致しました。既に世界的な国際法学者であったパール博士は、法の真理と、研鑽探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ1人、被告全員の無罪を判決されたのであります。
今やこの判決は世界の国際法学会の興論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております。パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍されましたが、日本にも度々来訪されて日本国民を激励されました。
インド独立50年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念年にあたり、私共日本国民は有志相携え、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界の平和を希われた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります。
1997年11月20日 パール博士顕彰碑建立委員会 委員長:瀬島龍三 副委員長:山口信夫・木村幹彦・野池二見 顧問:林田悠紀夫・荒巻禎一・枡本頼兼・塚本幸一・稲盛和夫・松村了昌・山本卓真・清瀬信次郎・小堀桂一郎・加瀬俊一・田中正明 設計:佐藤総合計画・白川建築設計事務所 施工:大林組 発起人代表団体:同台経済懇話会 協賛者:旭化成工業・伊藤忠商事・オリンパス光学・明光商会・ワコール・九六・京セラ・スズキ・トヨタ自動車・富士通・松下電器』
『昭和の年代は、昭和初期の世界政治経済の大混乱に端を発し、昭和6年(1931)9月18日満州事変、昭和12年(1937)7月7日支那事変、昭和14年(1939)5月12日ノモンハン事件を経て、昭和16年(1941)12月8日、米・英両大国に対する大東亜戦争へと突入、昭和20年(1945)8月15日の終戦に至るまで民族存亡の命運を賭けた対戦に進展し、地球の1/2に当たる広大な戦域に400余万にのぼる将兵は、終始連合軍の圧倒的物量攻勢と対決、屍山血河の激戦を展開した。その間わが本土も度重なる空襲に焦土と化し、本土決戦も辞さずの一億国民の徹底抗戦の構えも原子爆弾の投下、ソ連の参戦と大勢の赴くとごろ、遂に聖断によりポツダム宣言受諾の止むなきに至り、15年に及ぶ大戦の幕は閔じられた。
この戦いは250余万の民族の尊い生命が失われ、想い起すだに惨烈悲痛の極みである。生還したとはいえ敗戦の汚名を甘受し、筆舌に尽くし難い度々の屈辱と苦渋を乗り越え英霊となった戦友の分までもと、祖国の復興に取り組んで世界に類のない発展を成し遂げた。平和の祖国の現状を見る時、ともすれば歴史のかなたへと薄れていく。過ぎし日に思いを馳せ、この世代に生を受け、青春を学業を職場を家庭をと、全て投げ売って戦った意義は、アジアの植民地解放の大理想を強く信じた宿命的戦いであった。このことは歴史の証明するところであった。この昭和史に残した足跡と、この戦いに参加した事実を、永く後世に伝えんと、生存せる戦友相計り、祖国日本の繁栄と、世界恒久平和の願いをこめて護国の英霊鎮まる京都霊山護国神社の佳域に「昭和の杜」を造園建設し併せて「従軍記念の碑」を建立するものである。  昭和63年10月14日 京都霊山護国神社権宮司・木村幹彦撰文』
『白鴎顕彰之碑 学徒出身戦没海軍飛行科予備士官の霊に捧ぐ 大東亜戦争は航空決戦が祖国の存亡を決する戦況となり、旧制大学、高等・専門学校を卒業または在学中の学徒たちは、緊迫した祖国と同胞を護るために敢然と海軍飛行科予備学生・予備生徒を志願し、学窓から大空の決戦場へ赴きました。
短期間の猛訓練に耐え、航空隊指揮官として英知と勇気をもって戦い、2485名が雲ながるる果てに散華されました。そのなかで神風特別攻撃隊士官搭乗員の85%実に658名が学徒出身海軍飛行科予備士官でありました。
学徒たちが戦争の矛盾を感じつつも、一心に祖国の安泰と、家族の家族の平安を信じ「後を頼む」の一言を託し、生死を超越して戦った精神こそ、この国を継ぐ者への指標であります。こうした痛恨の史実を語り継ぐため、戦後日ならずして生存同期生相集い海軍航空隊を象徴したその名も「白鴎顕彰之碑」を建立し、深く哀悼の意を捧げ、世界の平和を祈るものであります。  2001年(平成13年)5月27日 白鴎遺族会』
『金鵜勲章之歴史と鎮魂の賦 金鵡勲章は、明治23年明治天皇に依り制定され武功抜群者に授与された国家の最高勲章で、曰清・日露戦争より大東亜戦争に至るまでの受章者は、94万余名にのぼるが、大東亜戦争の受章者はすべて戦死者であり、他の戦役等でも戦没の受章者が大多数を占めている。
特に、靖国神社・護国神社に合祀された英霊(特攻隊戦死者を含む)の大半は金鵡勲章の受章者であり、我々生存者は既に高齢化を迎えて極めて少ない存在となった。大東亜戦争終結後、新憲法施行により、金鵄勲章に関する制度は廃止されたが、我々の長年の請願により、昭和56年の第94国会で本人一代に限り公式着用を認められ、宮城参賀・総埋観桜会、その他の公式行事に着用し得ることゝなった。回顧すれば、はるか支那事変に始まり、続いて国運の浮沈を賭けた、あの大東亜戦争に於いて、米英を主とする列国より、死活を分つ、強力な経済封鎖の抑圧を受け、坐して死を待つを潔よしとせず、祖国の自衛自存と東亜の開放と安定の為、敢然起って死中に活を求めて列国に挑んだ戦いを「八紘一宇の聖戦」と心から信じて、祖国の防人として南浜北辺の戦野に、空に、そして海に於いて悪戦死闘の末逐に鬼神も哭く壮烈悲惨なる玉砕の悲運を喫した。殉国の英霊に対し、心から感謝と鎮魂の祈りを捧げ、その抜群の武功を顕彰すると共に、ここに不戦の誓いをこめて、世界の恒久平和を祈念するものである。  終戦50周年記念(紀元2656年・平成8年) 曰本金鵄連合会 京都府金鵄会生存者一同』
僕の母は祖父が40歳を越えた頃生まれた五女で、その祖父は日露戦争に参戦しました。近衛騎馬隊の隊長として大陸に出兵し、冷えて腎臓を壊し帰国後退役しました。大陸での戦闘で部隊が奮戦したようで生前金鵄勲章を頂きました。僕が子供の頃、祖父は既に亡くなっていましたが、祖母が毎回見せてくれました。
『駆遂艦長波の航跡 長波は、1942年6月30日大阪藤永田造船所で竣工。同年8月北方キスカ島へ船団護衛、9月南方トラック島へ向う第2水雷戦隊の1艦としてショートランド基地として、ガナルカナル島の陸軍部隊を支援十数回にわたる輸送を遂行同年10月南太平洋海戦、11月にはルンガ沖夜戦に二水戦旗艦として参加、1943年再度北方艦隊に編入アッツ島支援及びキスカ島の徹収作戦に従事す。この作戦で船体を損傷し修理のため母港舞鶴に帰港修理後、9月に南下ラバウルを基地として、ブゲンビル島沖海戦その他の各海戦に参加、11月11日ラバウル港における対空戦斗で被弾し航行不能となり、巡洋艦夕張及び長良の両艦に延々5千海里を曳航され呉軍港に入港修理後、翌年7月連合艦隊と共にシンガポール港に入港、10月ブルネイ港を経由、レイテ島沖海戦に参加11月マニラとレイテ島間の物資輸送護衛作戦行動中オルモック湾において米空母艦載桟350余機と交戦激烈な対空戦斗の末ついにオルモック湾に戦没する。
戦没者:247柱 時刻:12時45分 東経124度31分・北緯10度50分』
「満州開拓青年義勇隊碑」。倒幕の先駆として五条代官所を襲撃し旗揚げした「天誅組」を組織した土佐勤王党の「吉村寅太郎の墓」がありました。
『天誅組の人々 文久3年(1863)8月13日、大和行幸の詔が出るや「攘夷親征の奉迎」と土佐の吉村虎太郎をはじめ、三河刈谷の松本健三郎・備前の藤本鉄石(津之助)等は、侍従中山忠光を盟主に立て、京都東郊の方広寺に集まり、倒幕のため挙兵に出た。奈良県五條代官所を襲撃、成功を収めたが、8月18日の政変により事態は急変、行幸は中止になり、直ちに幕府は諸藩に彼らの追討を命じ、応戦するも十津川郷士の離反などから敗走を重ね、秀でた志士を失うこととなる。吉村虎太郎は、同藩の間崎滄浪(そうろう)らについて文武を学び、その成績極めて優秀にして、他の志士たちより容姿端麗、同志間ではひと際目立つ存在であったと言われる。「おくに」という娘との清純な恋愛を通じ、ひととき青年としての喜びを感じた9月27日、傷を負い敗走中、大和鷲家口で藤堂藩兵に囲まれ、もはやこれまでと「吉野山、風に乱るるもみじ葉は、わが打つ太刀の血けむりと見よ」と辞世を残し、銃弾を受け薨る。享年27才。天誅組総裁・藤本鉄石は、同志中最年長の48才にして文人墨客で、昼は一心に絵を描き、夜は志士たちと会談を重ね回天の策を巡らすという二重生活を送る。天誅組に加わって後、奮闘するも敗走の途中、戦死してしまう。天誅組総裁・松本謙三郎は、18才の時、槍術の稽古中に左眼を失明、吉野山中での激戦にて敵弾を受け、右眼をも失い自刃した。過激な攘夷派で知られる公卿・中山忠光は、血路を開き、大坂から海路長州へと逃れたが、元治元年(1864)11月、潜伏先の豊浦郡田耕村にて暗殺され、20才の短い人生を終える。
天誅組は、倒幕の急先鋒であり、憂国の士の集団であったが、彼らの純粋な想いだけを残し、短期に壊滅した。  京都霊山護国神社』
周囲には、多くの天誅組志士の墓が並んでいた。
『安政の大獄と頼三樹三郎・梅田雲浜ら志士 嘉永6年(1853)6月のペリー率いる黒船来航以降、砲艦外交に屈服する形で解かれた諸外国との国交は、安政元年(1854)日米和親条約、日露和親条約と続けて、天皇の勅許なしに徳川幕府を締結してしまう。
外国を嫌い、攘夷論を推す孝明天皇の「皇祖に申し訳たたず退位する」という言葉に呼応する形で、攘夷論と尊皇論は一つになり、政局の中心は京へと移行。尊皇攘夷派志士たちは、一挙に倒幕運動へと傾倒してゆく。
当時、徳川幕府は将軍継嗣問題、外交条約調印で政局が割れていた。大老に就任した井伊直弼は、これらを強行採決し、反勢力への弾圧が対抗策として施行され、小浜藩士・梅田雲浜、鷹司家の小林良典、頼山陽先生の3男・頼山樹三郎、長州の吉田松陰ら多くの有能なる常識者が、次々とその対策として捕縛されるに至った。
その総数は150余人に及び、大部分が江戸送りとなり、斬首もしくは流罪と厳罰を受けた。この大弾圧は、全国の尊王攘夷派志士を激昂させる結果となり、「違勅の元凶・井伊を葬れ」とついに井伊大老は、安政6年(1860)3月、登城途中、江戸城桜田門で水戸藩浪士に襲撃を受け殺害される。
この事件を期に、徳川幕府は終焉へと加速、明治維新へと大きく時代は流れてゆくのではあるが、憂国の赤誠もむなしく維新の鴻業の礎石となった。殉難者の損失は計り知れない。  京都霊山護国神社』
坂本龍馬・中岡慎太郎の墓が並んでいた。『坂本龍馬・中岡慎太郎の最期 徳川慶喜大政奉還劇の大作者である坂本龍馬は、洛中においては河原町三条下る材木商・酢屋嘉兵衛方に寓居していたが、遭難10日前に醤油商・近江屋新助方に転居した。坂本龍馬は、当時、最も幕府側から狙われていた志士で、新選組・見廻組らの追及が急となり、藩邸の掘内慶助らの気遣いから近江屋を選んだのが仇となった。
慶応3年(1867)11月15日、午後6時ごろ中岡慎太郎が訪問。この2・3時間後、会談中の彼らは刺客の襲撃に遭い、坂本龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は右の肩から左背骨にかけ、三の太刀で更に前額部を裂かれて悲痛なる一言を残して倒れた。盟友・中岡慎太郎も全身に刀槍を負い、2日後の17日の夕方に息を引き取った。
18日、近江屋において葬儀が行われ、ここ霊山に埋葬された。昭憲皇太后の夢枕にひとりの侍の陰が立ち現われて「微臣坂本にございます。この度の海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえご安心願いあげます」と言い残すと消えたという。坂本龍馬、志士中の一級志士と言っても過言ではない。 墓所:右・中岡慎太郎 左・坂本龍馬 左奥・下僕藤吉  京都霊山護国神社』
『池田屋事変 浪士狩りと称し、洛中の取り締まりを行っていた新選組は、元治元年(1864)6月5日早朝、武田観柳斎らにより桝屋喜右衛門と名乗る古高俊太郎を捕らえ、壬生屯所へ連行。土方歳三による激しい拷問により、志士密会と大謀議を自白。同日夜半、池田屋にて会談中の尊皇攘夷派志士たちを新選組・近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助らが襲撃。
これにより、宮部鼎蔵、吉田稔磨、松田重助ら優れた人材が闘死もしくは捕縛され失われた。また、この事変が期となり長州藩が挙兵、上洛。禁門の変が起こる。吉田稔磨辞世の句「むすぎても又むすびても、黒髪のみだれそめにし、世をいかにせむ」。長州藩邸から池田屋へ向かう途中に詠まれた。  京都霊山護国神社』
池田屋事件で亡くなった志士の墓が並んでいた。
『禁門の変(蛤御門の戦い) 元治元年甲子(1864)7月19日、長州兵3方面から発して御所を目標に進んだが、互いに連絡協力の余裕なく、それぞれ3ヵ所で勝手な戦いとなった。福原越後の伏見勢は北上して藤ノ森で大垣兵、竹田街道で彦根兵と新撰組にたたかれあっけなく敗走。
国司信濃の天竜寺軍は一挙に御所の西側をついたが、会津・薩摩のため蛤門から撃退され、益田右衛門介の山崎軍は南から堺町門に迫りながら越前兵に壊滅させられた。この日の戦を後世「禁門の変」あるいは「蛤御門の戦い」と称す。
実は3つの軍団の3つの戦闘なのである。その際に来島又兵衛政久、久坂義助通武、寺島忠三郎昌昭、入江九市弘毅、真木和泉守保臣等外数十名戦死あるいは屠腹する。これらの志士ことごとく霊山に眠る』
墓地のもっとの高い所に、桂小五郎の墓があった。
『桂小五郎・幾松墓所 維新三傑の1人、桂小五郎。容姿端麗にして神道無念流の達人。吉田松陰の門下生で理性もあり流血に縁遠く、一生人を斬ったことがないと言われ、この点は北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬と似ている。
勤王芸藝妓の第一人者、三本木の幾松とのロマンスは、文久元年の頃、桂小五郎28才、幾松18才、相思相愛の仲となり、激動の時代のなかで苦楽を共にし、そして結ばれた。
勤王の志士と云われる志士達の最後は、大方悲劇に終わっているが、明治10年(1877)5月26日に45才で病没するまで、動乱の幕末を駆け抜け、維新後も活躍し、陽のあたる道を歩んだ幸運児とも云える。
幾松とても同じで、維新の大業成るや正二位公爵・木戸孝允の妻となり、従四位を賜るほどの女傑。此処霊山に建立されている勅碑からも伺え知ることが出来る。  京都霊山護国神社』
10:28、道を隔てたところにある「霊山歴史館」へ。拝観料900円。2Fに上がると、京都市街地が一望でした。館内には、坂本龍馬を斬った刀など、素晴らしい展示品が揃っていましたが、写真撮影禁止で残念でした。ペリー来航から始まる幕末の動乱に絞った展示で、幕府軍の撤退戦闘など面白く読めました。
「維新の道」を西に下ります。『翠紅館(すいこうかん)跡 ここに幕末の頃、翠紅館と呼ばれる屋敷があり、たびたび志士達の会合の場となっていた。 もとは正法寺というお寺の塔頭のひとつがあり、眺望が良く、会合などに利用されていたのを鎌倉時代に公家の鷲尾家が買い取り、その景観の素晴らしさから「翠」と「紅」の素晴らしい館という意味で名付けたと言われる。その後、鷲尾家から西本願寺の東山別院に寄進された。
文久3年(1863)正月27日には、土佐藩の武市半平太、長州藩の井上多聞・久坂玄瑞ら多数が集まり、ついで同年6月17日にも、長州藩の桂小五郎、久留米藩の真木保臣(やすおみ、和泉守)らが集まった。この数年前から、攘夷運動は次第に高まり、反幕府の政治勢力となりつつあったが、これら各藩の志士代表者会議で、攘夷の具体的な方法が検討され、世にこれを翠紅館会議という。同年8月13日には、孝明天皇の大和行幸の詔書(しょうしょ)が出されて攘夷運動は頂点に達した。
しかし8月18日に政変が起こり、その結果攘夷派は失脚、代わって公武合体が主導権を握り、幕末の政局は混迷の度を増して行った。  京都市』
『太閤秀吉・北政所ゆかりの寺 高台寺・高台寺天満宮・高台寺駐車場・霊山観音・高台寺お茶所 至:八坂神社・円山公園・知恩院』
久しぶりに高台寺に参りに行くことにしました。見回すと、「八坂の塔」が見えます。和装のカップルがいます。素敵な着物でカメラマンが側にいたので、結婚式の前撮りのようです。広い高台寺Pがガラガラです。「かき氷」の垂れ布に惹かれて「高台寺湖月茶屋」で、「かき氷いちごみるく550円」を緋毛氈の上で食べてクールダウンしました。お客さんは僕一人で、店主さんもバイトの女の子も暇そう。
ハート型の絵馬が沢山絵馬掛けに下がっています。お隣は天満宮のようです。
『御祭神 綱敷天神菅原道真公 北政所が崇敬していた綱敷天神像で、菅原道真公が藤原時平の讒言(裏切り)で、九州太宰府に流されて行く時、船内に敷物がないため船の友綱を巻いて円座とし、憤怒の形相をあらわにした道真公像である。「本朝画史」(狩野永納筆・延宝6年刊)によると、この画像は京都・北野天満宮の境内にある東向観音寺所蔵の「菅神自画像」と摂津上宮天満宮の「上宮天神像」とともに、菅原道真の「真跡疑イ無キ者也」と伝えている。  高台寺』
社務所で、「高台寺開運招福絵馬400円」を授かりました。高台寺拝観へ、600円。お庭を拝観。軒下のあちこちに提灯が下がり、おばけの絵が描かれています。方丈に入ると、「Re:百鬼夜行展 伝説の遊女、地獄太夫」が開かれていました。
『百鬼夜行展 九十九神、捨てられた古道具が形を化け物や妖怪に姿を変えて夜の闇の中を行列し、ざわざわと徘徊する様を描いている。 日本では古来、生き物を同じく道具にも魂が宿っており、道具を大切にするという意味を込めて描かれている。九十九神:古くから道具は百年経つと精霊が宿るという云われがあり、九十九年目の精霊が宿る前に捨てる習慣ができ、捨てられた道具が化け物に変化すること』
『百鬼夜行屏風 明治初期 河鍋暁斎 河鍋暁斎は幕末から明治にかけて活躍した絵師である。浮世絵師・歌川国芳に師事し、その類まれのない画力で内外ともに高く評価されている。本品は元々戸袋に描かれていたものを屏風に張り替えられている』
『大賞 「100%YOUKAWAII☆PARADE」 ナカイミホ筆 以前、高台寺さんの百鬼夜行絵巻を見、妖怪たこちが行進したという伝説の残る「一条通」を見学に行った。生まれも育ちも東京の私は、「さすが妖怪の本場、京都・・・」としみじみ思った。昔から、高台寺さんの所蔵品はもちろん、「百鬼夜行絵巻」が好きだ。とにかく、妖怪たちが「カワイイ」のだ。怖がらせたいんだか、キュンとさせたいんだか、どっちなんだい?と聞きたくなるような、楽しげでコミカ几な彼ら。名前さえついていない者(妖怪、付喪神)も多く登場するけど、絵巻を描いた当時の絵師たちがすごく楽しんで描いたんじやないかな、そんな想像ができる世界観が好きだ。
今回「100%YOUKAWAII☆PARADE」を描くにあたり、京都の一条通の代わりに自分に馴染みのある原宿の「竹下通り」を選んだ。賑やかで元気で、一見明るいが、気を抜くとカラフルな化け物でも出てきそうな、カワイイ百鬼夜行が行われそうな通りだと思っている。 京都と東京、絵巻とデジタル、そんなことを考えながら、私も百鬼夜行絵を描いた古の絵師たちのように、楽しき描かせていただいた』
『百鬼夜行図 江戸前期 伝土佐経隆 土佐経隆作と伝わるこの絵巻は大徳寺・真珠庵所蔵の「百鬼夜行絵巻」と構成が類似しており、土佐派の画人による同系統の作。百鬼夜行を題材とする作品は平安末期以降数々作られており、「人にもあらず、あさましき物」と呼ばれ恐れられていた。京都三大風葬地のひとつ、鳥辺野にある高台寺でも周辺に多くの逸話が残っている』
『国の史跡・名勝 高台寺庭園 開山堂を中心に東の臥龍池(がりょうち)、西の偃月池(えんげつち)の2庭よりなる池泉回遊式庭園である。小堀遠州の作によるもので国の史跡・名勝に指定されている。西庭の偃月池には廊橋を架けて中央に秀吉公遺髪の観月台(重文桃山時代)を配し、池の中央に亀島を設け、南岬には高く盛土して鶴島を表現しており、桃山江戸初期を代表する名園として世に知らされている。
東庭の臥龍池は、高台寺建立以前の古庭園の名残りを残しており、鷲峰山より流れる菊渓川の水を入れている。開山堂から上のお霊屋に向かって龍が昇っている姿を表している。廊下臥龍廊も美事であり、四季おりおり楽しめる名庭園で特にの紅葉は有名である』
お庭が素晴らしい。夕方からのライトアップに来たこともありましたが、これほど観光客の少ないことはなく、これほど良いお庭だったのかと、改めて堪能しました。やはりじっくり見ないと本当の良さは感じられないのかも・・・。霊屋(おたまや)に参ります。前を歩くお若い女性2人組もゆったり鑑賞しています。続いて「傘亭・時雨亭」へ。階段を登って行きます。茅葺屋根の素朴な建物で、何に使っていたのだろう?下ってくると、「恋人の聖地 桂由美」がありました。豊臣秀吉・おね夫婦に肖ってだろうか?
芝生の庭に緋毛氈が敷かれた長椅子があり、平屋の日本家屋がありました。『お抹茶席 ご自由に席へお入り下さい お一人様500円 雲居庵』と書かれていたので、クーラーを求めて入りました。お客様は僕一人。抹茶の苦さと和菓子の甘さが美味しい。クーラーがよく利いてクールダウンしました。
『鷲峰山・高台寺(臨済宗建仁寺派) 東山霊山の山麓、八坂法観寺の東北にある。正しくは高台聖寿禅寺といい、豊臣秀吉死後、秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長10年(1605)開創した寺である。寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行ったので、寺観は壮麗をきわめたという。
しかし寛政元年(1789)以後、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失い、現在残っているのは旧持仏堂の開山堂と霊屋・傘亭・時雨亭・表門・観月台等で現在国の重要文化財に指定されている。
尚、豊臣秀吉夫人(北政所)は、天正16年(1588)に従一位に叙せられ、慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り、嘉永元年(1624)9月6日76才で亡くなられた』
『開山堂(重文):高台寺第1世の住持、三江紹益禅師(1572〜1650)を祀る塔所である。左右壇上には木下家定(ねねの兄)、雲照院(家定の妻)等の像も安置されている。礼堂部中央の彩色天井には北政所の御所車の天井、前方の格子天井には秀吉が使った御船の天井が用いられている。
霊屋(おやまや・重文):秀占と北政所をお祀りしている所であり、厨子内左右に秀吉と北政所の木像を安置している。須弥壇や厨子には、華麗な蒔絵が施され世に高台寺蒔絵と称され桃山時代の漆工芸美術の粋を集めている。
傘亭(重文)・時雨亭(重文):利休の意匠による茶席であり伏見から移建したものである。傘亭は竹と丸木が放射状に組まれ、カラカサを開けたように見えることからその名があり、正式には安閑窟と呼ばれる。時雨亭とは土間廊下でつながっている。
臥龍廊:開山堂と霊屋を結ぶ階段で龍の背に似ている所からこのように名付けられた。
観月台(重文):檜皮葺きの四本柱の建物であり、三方に唐破風をつけた屋根の下から観月するための建物である。
庭園(史跡・名勝):庭園は、開山堂の東の臥龍池、西の偃月池を中心として展開されており、小堀遠州の作によるもので、国の史跡・名勝に指定されている。偃月池には、秀吉遺髪の観月台を配し、北に亀島、南の岬に鶴嶋を造り、その石組みの見事さは桃山時代を代表する庭園として知られている。  拝観受付時間:午前9時〜午後5時』
「ねねの道」に出て、12:54「高台寺・掌美術館」へ。『国名勝指定・圓徳院北庭:高台寺建立を発願された北政所は、慶長10年(1605)この地に伏見城から化粧御殿と前庭を移築し、高台寺造営にあたられた。北政所は、19年間に渡ってここに住まいし、亡くなられた。高台寺の霊屋に納められた。終生この庭を愛され、この地は北政所終焉の地となった。
豊公出世守り本尊・三面大黒天:三面大黒天は秀吉公が出世時代に念仏仏とした尊像であり、北政所がこの地に移され今日に至っている。大黒天・弁財天・毘沙門天の三面を合わせ持ち、一仏礼拝によって三尊天のご利益を得るという、誠に秀吉公らしい信仰である。今日大黒天は、福の神・弁財天は学問・教育、毘沙門天は、勝利・子宝等の神として、多くの信仰を集めている。堂及び表門は御所の鎮守大国殿を移築したものである。
歌仙堂:長嘯子(ちょうしょうし・若狭城主)は、北政所の甥であり、今日では歌聖として知られている。歌仙堂は長嘯子を祀り、もと霊山にあったものを木下家の関係でこの地に移築した。なお詩仙堂・雅仙堂と合わせ京都の三堂と言われ、学問・詩歌を志す人々の信仰を集めている』
「三面大黒天」に参り、「高台寺・掌美術館」へ。こちらも撮影禁止だったので残念でした。「ねねの道」に戻り、バイクに戻りましょう。着物に身を包んだ妙齢の女性たちが、カフェに入ろうかキャッキャ楽しそう。京都には着物の女性が似合います。観光客が少なく、遠くから見えたので長く様子が見れて、外国人観光客があふれる前の京都の風情が戻った感じで良かった。
「竹内栖鳳邸跡」、ここは「THE SODOH HIGASHIYAMA KYOTO」というガーデン結婚式場です。門は開いていましたが、スタッフが出ていないので、式はないのでしょう。以前、コーチしてる大学ヨット部の卒業生の結婚式に招待されたことがあります。
『青龍寺 見性山(けんしょうざん)と合し、浄土宗鎮西派に属する。 延暦年間(782〜805)に、桓武天皇の勅命によって小塩(おしお)山(右京区)に建てられ、もと大宝寺(だいほうじ)と称したが、平安遷都とともにここに移ったといわれる。
その後荒廃していたが、建久3年(1192)、法然の弟子・見仏(けんぶつ)が再建し、法然を招いて、念仏道場として引導寺と改めた。更に、寛永年間(1624〜1643)、霊巌(れいがん)によって青龍寺と改称された。
本堂に安置する本尊聖観音(しょうかんのん)像は平安時代の作品で、伽羅(きゃら)観音ともいい、桓武天皇が伝教大師(最澄)に命じて、唐から渡来した伽羅の木で彫刻させたものと伝えられる。 本堂の前にある大小2つの石は念仏石といい、見仏らが阿弥陀仏を昼夜に6回拝む六時礼讃(ろくじらいさん)を行ったとき、伏せ鉦(かね)の代わりにこれを叩いて礼讃の調子をとったといわれている。  京都市』
「二寧坂」を歩き、「八坂庚申堂」に入ってみます。浴衣の女性が多く華やかでした。「八坂の塔」を正面に歩きます。何度見ても、絵になります。「空模様が怪しいな?」と思いながらバイクに戻り、車載カメラはナビをリアボックスに仕舞い、バイク装束を着ようと思った瞬間、大粒の雨がドッと落ちてきました。P職員さんが手招きをしてくれたので、事務所の庇の下に雨宿りしました。土砂降りの雨で駐車場内を水がガンガン流れています。30分ほどして雨が収まり、帰路に着きました。


2021/7/25
琵琶湖でのヨットレースの日です。次男がジュニアヨットをしていた頃の琵琶湖のクラブに所属していたライバルくん達のお父さんから誘われました。先月に続き2回目です。9時にハーバー集合ですが、その前に湖西の寺社旧跡を巡りましょう。
4:58、倉庫から「招き猫CB400SB」を出して出発。R171〜中央縦貫道。5:09「エネジェット中環豊中SS」で給油。167km/7.14L=23.4km/L。「吹田IC」から名神高速に乗り、「京都東IC」で下車。湖西道路に乗り換えて、「滋賀里ランプ」で下車。
r47で少し南下し、6:04「倭神社」。『倭(しどり)神社の由来 倭神社は、大津市滋賀里3丁目字天塚に所在し、京阪電鉄滋賀里駅の北方約500mの小立上に位置する。祭神は、天智天皇の皇后である倭(やまと)姫と伝えるが、おそらく’この小丘上の本殿の改築の際、朱の痕跡が認められる花崗岩の板石が5〜6毎発見されたことなどから古墳と考えられ、その蔵葬者が倭姫だとする伝承によるものであろう。江戸時代の記録によると、天正19年(1591)及び宝永7年(1710)に赤塚大明神として再興されたという。
現在、墳頂には南向きの一間社流造りの簡素な本殿が建ち、本殿へいたる参道の石段付近の東側にクスノキ、西側にケヤキの巨木がみられ、それらは昭和51年(1976)12月1日付けで大津市保護樹木に指定されている。
また、この古墳は「赤塚古墳」と命名され、地籍図等の復原による東向きの前方後円墳か、もしくは近年の測量調査による直径30〜40m、高さ2.5〜4.0mを測子円墳と思われ、築造年代が古墳時代中期の5世紀前半頃と雅定されている。この神社は、通称「赤塚の明神さん」の名で滋賀里地区全域の佳民に親しまれており、御例大祭は9月23日で、宵宮祭には江州音頭による踊りが平成8年まで催されていましたが、現在は行なわれていません。
年中行事 1月1日午前11時・歳旦祭 2月11日午前11時・紀元祭 7月16日午後3時・神湯祭 9月23日午前10時・御例大祭 12月23日午後3時・火焚祭平成11年3月吉日 氏子一同』
r47に戻り、京阪石山坂本線沿いを北上します。バイクを止め、枝道の坂を上がり、6:22「穴太古墳」。穴太駅のすぐ西、丘上です。穴太地区の墓地が広がり、地区の清掃日のようで、多数の方が出て掃除をしています。琵琶湖が眼下に広がり、風通しがよく、気持ちの良い墓地です。その北側の森に入ると、古墳群が潜んでいました。穴太という土地柄大陸半島からの渡来者の墓地なのでしょう、小さな墳丘がポコポコしています。
r47を北上し、「比叡山坂本」地区に入り、道なりに「日吉大社」参道・r316を東進し、R161・湖西道路側道を北上し、右折してr558に突き当ります。6:43「ローソン大津比叡辻2丁目店」で、「サントリーボスとろけるカフェオレ500ml162円」購入。
r558を北上し、r315を少し走り、6:52「福領寺」。『当山の沿革 正しくは、「東海山深廣院福領寺」と号し浄土宗寺院。 寺伝によると古くは近隣の森畠に天台宗寺院として栄えたが、織田信長の比叡山焼き討ちによって前身の寺院堂宇も焼失。徳川家康の江戸幕府開府と同じ年の慶長8年(1603)に当時の雄琴城主(別名・和田氏館)和田秀純の霊を弔う寺として再建された。
本尊阿弥陀如来は、慈覚大師作と伝わる平安時代の仏像で、明治42年から昭和25年まで旧国宝、以降国の重要文化財に指定されている。像高は87cm、本体は漆箔(表面に下地を施し漆を塗り、金箔を押す技法)、頭部は螺髪、肉髻を調表し白毫に水晶をはめてあり、「肉髻は高く両頬からあごにかけての丸いふくらみ、流麗な衣文の様式から平安時代後期(藤原時代)の作とうかがわれる。総体に均整の取れたまとまりのよい像」(大津市教育委員会)と紹介されている』
更に急な坂道を上がっていくと「雄琴神社」。振り返ると眼下に琵琶湖が広がっています。
バイクに戻り、r315を西に走ります。「JR湖西線・おごと温泉駅」の下をくぐり、「湖西道路」に乗って北上しました。「和邇IC」を下車し、山側に少し走り、7:21「水分神社」。境内に銀杏の木があり、銀杏の実が枝ごと落ちていた。「還来神社」にも参ろうと思いましたが、鎮守の森は見えるのに参道が見つからない。やっと見つけましたが、民家が所有なのか、宮司さんが解禁していないのか一般の方は参れなくなっていました。
バイクに戻り、和邇ICまで戻り、r311を東進し、r558にチェンジし北上し、7:44「真光寺」。琵琶湖に面した意外に大きな寺院でした。東に、静かな琵琶湖の湖面が広がっています。海のように干満差がないので、水面と陸地が近いです。ネムノキが綺麗に咲いています。
その隣が目的地のYHなので、8時前に着いてしまいました。バイク装束を脱いで、ヨット装束に着替えました。スタッフに挨拶すると、前回僕の大学ヨット部の後輩が来たと教えてくれました。前々回、母校ヨット部のことを話したら、後輩がこのYHに船を置いていると教えてもらい、前回名刺を渡しておきました。僕が母校コーチをしていた頃の選手だったので、後輩は僕の名刺をもらって驚いたそうです。
Yさんが来られ、来るはずだったIさんが急用で来れなくなったことを知りました。その代わり、Iさんの娘婿さんが来られるとのこと。Yさんの船でレースに出ることになりました。Iさんから、コーチしている大学ヨット部の「女子マネさんを呼んでよ」と言われていましたが、前期テスト中だったので実現しませんでした。それで来なくなったのかも・・・真実は親戚のご不幸があったので仕方ありません。Iさんの娘さんは、滋賀県の教員で、コーチしてる大学ヨット部に数人その高校出身者がいます。旦那さんも元教員で現教育委員会なので、話をするのが楽しみです。
Yさんと一緒にレース艤装します。暑くなりそうで水分補給が大切そう。それを終えてクラブハウス前で佇んでいると、婿Nさんが来られました。船が降り、レース海面に出ます。僕のポジションは、Iさんの代わりにヘルムスを指名されました。
レースは微軽風の中で2レース行われました。スタートは両方とも目標の上1を取りました。第1レース、遥かに遠いマーク目指して、即タックし右に伸ばしたら、かなり手前でスピンが上がり、マーク間違いしていました。一気にビリ2まで下げて1上マークを回航しました。風がなくなり・・・8位/9艇。第2レースもトップスタートでしたが、風が反対に振れたり、また風がなくなったりで5位でした。21ftの最小艇なので30ftのトップスピードには敵いません。
16時過ぎにハーバーバックし、暑い中片付けました。レース中、東京オリンピックの水泳競技の決勝をNさんがスマホで流していました。Nさんは教育委員会のスポーツ振興部門で働いていて、国体好成績目指して滋賀県スポーツ選手の強化をしています。多くの選手を直接指導したりしているそうです。瀬戸さんが予選落ちし、「舐めとったな〜」と。続いて登場した大橋選手はイトマンスイミングクラブで競泳を始め、滋賀県・彦根東高校で活躍し、東洋大学に進んだそうです。彼女のレースは仕事として見ておかなければならないそうです。
スタートすると、実況中継とともにNさんの「行ける行ける」「来たー」の応援が姦しい。優勝してすぐ、スマホでコメントを打ち込んでいます。滋賀県三日月知事のコメント係だそうです。知事などのコメントの多くは、役人が下地を書き、秘書室や知事自身が手を加えて記者発表になるそうです。その一次下書き担当だそうです。
大橋選手や競泳の細かいところまで知っているそうですが、知事のコメントなので「いいそうな言葉」を使ってコメントを作成しなければならないそうで、書き上げたコメントを音読してくれました。今回は時間が勝負なので、直属上司のN課長の決済を受ければそのまま流れるのだそうです。レース中でしたが、風がなく暇だし楽しませてもらいました。N課長から電話が入り、文言を決めていました。このN課長さんの息子さんは、Iさんの教え子で、現在僕のコーチしている大学ヨット部3回生で、なんという奇遇・・・。
クラブハウスで水分補給しながらゆっくり涼み、帰路に着きました。湖西道路〜京都東IC〜名神高速。18:47「桂川PA」で「ガリガリ君ソーダ75円」購入し、19時過ぎに帰宅しました。


2021/7/24
ほぼ林道と言えそうな三重県道r755を縦走しましょう。4:47、「里山VTR250」を倉庫から出発しました。R171〜中央環状道路で、4:59「中環豊中SS」で給油。152km/5.6L=27.1km/L。5:04「セブン豊中緑丘2丁目店」で、「カフェオレ500ml108円+バナナ3本200円=335円」購入。
吹田ICを越え、近畿道側道のr2を南下し、左折してR163で東進します。「清滝第2トンネル」を抜け、奈良県に入ります。道なりに京都府に入ります。木津川を渡り、木津川沿いを東に走ります。
6:15「恭仁(くに)京」。『史跡・恭仁京跡(山城国分寺跡) 名称変更:平成19年2月6日 恭仁京は、奈良時代に聖武天皇によって造られた都です。当時、たびたび疫病や戦乱に見舞われ、世情不安の中、こうした事態を打開するためか、聖武天皇は、奈良の平城京を離れ、各地を転々とした後、天平12年(740)に現在の加茂町瓶原(みかのはら)の地を中心に新都を定めました。しかし、恭仁京は天平16年(744)にわずか4年あまりで廃都されてしまいます。
その後、宮域は大極殿を中心に、山城国分寺として再利用されることになります。山城国分寺跡は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域をもっ寺でした。山城国分寺跡(恭仁宮跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地表に残されています。皆さんの立っている場所は、塔跡の正面になります。周囲を屏に囲まれた塔は、残されている基壇跡や礎石跡から考えて七重塔であったと推定されます。  木津川市教育委員会』
広大な緑の敷地が広がり、田舎なので背後の山まで見通せ、気持ちの良い風景です。『史跡恭仁京跡・内裏地区 昭和49年度から発掘調査を開始した恭仁宮跡は、平成8年度には宮の範囲(宮の周りを囲む大垣跡を確認)が東西560mであることがわかりました。
現在地は、天皇が日常生活を送る「内裏」と考えられているところです。平城宮では掘立柱塀で仕切られた1つの区画でしたが、恭仁宮では東西に区画を分けていることがわかりました。現在はそれらを「内裏東地区」「内裏西地区」と名付け、総称して「内裏地区」と呼んでいます。
「内裏西地区」は掘立柱塀で四方を囲み、東西約97.9m、南北約127.4mの長方形です。中央に掘立柱建物(SB5303)が確認されています。「内裏東地区」の塀は南と東西の3辺が土を突き固めて盛り上げた築地塀、北が西地区と同様掘立柱塀で囲まれており、東西約109.3m、南北約138.9mの長方形です。こちらには南北に並ぶ2棟の東西棟庇付き建物(SB5501・SB5507)が確認されています。
東西内裏の規模と構造の違い(築地と掘立柱塀では築地の方が堅固な作り)は明らかで、これは他に例を見ない配置であります。  木津川市教育委員会』
横にあった「木津川市立恭仁京小学校」の後ろに「国分寺跡」がありました。礎石にあちこちに残っていました。
『恭仁京大極殿と山城国分寺跡 この場所は、天平12年(740)12月15日に、聖武天皇が「恭仁京に幸す」と宣言して、平城京(奈良市)から遷都して来たところで、恭仁京と呼ばれました。聖武天皇が恭仁京に遷都された理由は明らかではありませんが、北に急峻な山地をいただき、南に平野がひらけてその中央を泉川(木津川)がゆったりと流れる瓶原の環境も無視できない重要な要素でした。「万葉集」には、新しき都を讃める歌が収録されています。
三香(みか)の原、布当(ふたぎ)の野辺を、清みこそ、大宮のところ、定めけらしも(1051) 咲く花の、色は変わらず、ももしきの、大宮人を、たち変りける(1061)
このように新京を詠んだ歌には、季節によって移ろう景観の美しさや「泉川」と呼ばれた木津川の清流に心ひかれたものが多いようです。
恭仁京の中心には、天皇の住まいや国の行政官庁か入っでいた恭仁宮か設けられ、宮の中央に国政をつかさどる建物が配されました。そこには平城宮から移築された大極殿がそびえ、天平の藍が輝いていたのです。現在、恭仁小学校の裏にある土壇が恭仁宮大極殿の跡で、昭和51年(1976)京都府教育委員会によって発掘調査が実施されました。  木津川市教育委員会』
R163に戻り、更に東に走ります。伊賀上野市街地に入り、ちょっとゴチャゴチャして服部川沿いを走ることになり、R163からちょこっと外れ、7:28「鳥坂神社」。r2でR163に戻り、更に東に走り、7:47「威徳寺」。
R163に戻り東に走り、右折してr2に入り、8:03「広徳寺」。『禁葷酒』と彫られた岩が山門前に立っていました。禅宗系の寺院のようです。「広徳禅寺」。『地球をきれいにすると、仏様にほめられる』と掲示されていました。
r2に戻り南下します。左折して「馬野渓」へ。獣避けフェンスがありました。僕を抜いていったオフロードバイクの方が開けて、僕に「お先にどうぞ」と。ジェスチャーに甘え、ゲートを抜けた所でバイクを止め、「締めておきます」とオフさんに行ってもらいました。
「馬野渓」に沿って走る林道は、梅雨の雨で出た小石や小枝が路面に広がっています。延々、渓谷沿いの林道を走り、「いつ終わるのか」と思っていたら、突然r512に合流しました。すぐに「航空自衛隊笠取山分屯基地」がありました。そして、風車が見えだしました。
8:44「青山高原」、標高800m。バイクをPに停め、売店でアイスでも食べようと歩いて行くと、建物がなくなっていました。ただトイレが並んでいるだけ。この日も数台のバイクと四輪が来ていたので、土日は商売になりそうなのに・・・。周囲の風車群をカメラに収めます。青山高原だけでなく、南の山並みにも林立しています。これから走ろうとしているr755は何処を走っているのだろう?
r512を南に下ります。R165のトンネルの上「青山峠」から、r755にチェンジし、更に南下します。一気に道路幅が狭くなり、森の中の尾根道林道になりました。「こんな道を延々走るのかな〜」と思っていたら、道路幅が広がり中央白線道になり、空が開けました。「青山高原保健休養地」のようです。別荘地ですね。道なりに走っていると、休養地内に入り込んでしまったようで、道がエンドになりUターンして戻ります。
r512に戻り、南下を再開します。尾根道林道に戻り、時々木々の切れ間から下界が広がります。交通量が殆どなく、明るい尾根道で僕の大好物です。9:31、木々が大きく開けていたのでバイクを止め、絶景を堪能します。山並みが連なり美しい。
9:33、「r670と合流」。バイクを止め、案内板など写真に収めます。r755尾根道もそうでしたが、伊賀市と津市の境の峠でした。r670のこれから進もうとする方向からバイクが上がってきました。同じく峠で止まり地図を持って案内板まで来られたので、「どちらからですか?」とか「どちらへ?」に始まり、いろいろ話しました。案内板は、「東海自然歩道」のものでした。
r670とr755の重用区間を南下します。森の中の林道をゆっくり下っていると、谷側にトラックが転落していました。「え、今落ちたの?それとも以前・・・」、下り坂なのでバイクを止められず、またがったまま写真を写しました。どうやら以前に落ちたようですが、こんな四輪では走る気にならない細い道で左右に木々が生えてる森の中の林道で、クレーン車が入ってこれるように思えません。入ってきても、踏ん張る足を出すスペースも下の土も軟そう。どうするのだろう?更に下り、分岐に着きました。左にr670が分かれて行きます。右折してr755を進みます。メス鹿が道路にいました。
「布引峠」でr29に合流、右折して重用区間を走り、左折してr755の続きを南下しようとしましたが、「土砂崩れのため通行止」となっていました。r29を北西に走り、左折してr693で南西へ。峠を越え、下って11:21「名張川」でバイクを止め休憩しました。「名張川」には鮎釣り名人が数人入っており、長い竿を操っています。
R422〜r693で西〜北西に走ります。「つつじヶ丘住宅地」内を通過し、r694〜r81でR165に乗り、西に走ります。枝道に逸れ、山をぐんぐん上り、「笠間峠」でr781と交差し、12:26「茶臼山」山頂。電波塔が林立しています。三角点まで上がると、535.8mの標高と記されていました。
山頂すぐ下に牧場があり、肉牛が沢山飼育されています。往路では牧場内で自由にしていたけど、帰路に通ると風通しの良い牛舎でお食事中でした。「笠間峠」まで下り、右折してr781を西に進みます。森の中の林道を緩やかに下ります。広域農道の「やまなみロード」にチェンジし北上します。R25下をくぐり、r127を少し走り、再び広域農道「大和高原広域農道」に入り北上。
r80に突き当り、西進します。奈良市街地に入り、13:34「セブン奈良八軒町店」で、「森永チョコモナカジャンボ140円」購入しクールダウン。r1〜r7〜中町ICから「第2阪奈道路」に乗りました。近畿道にチェンジし、「吹田IC」下車して中央環状道路〜R171を走り、14:54「セルフ北村SS」で給油しました。265km/8.63L=30.7km/L。帰宅しました。


2021/7/18
前回の亀岡ツーリングで、明智道を少し歩きました。その1時間後、再びr50の明智道分岐を通りました。明智道は、明智光秀が「本能寺の変」の前日、愛宕神社からの帰り使った道です。愛宕神社で催された連歌の会(愛宕百韻)で、その冒頭に、光秀が詠んだ「時は今 あめが下しる 五月哉」で有名です。「土岐氏の明智光秀が、天下に号令を下す5月」の意味を裏に秘めた歌と解釈されています。明智道が通じている「愛宕神社」に参ってみたくなりました。京都市第2位の高峰「愛宕山」山頂にある全国愛宕信仰の総本社で、火の神様・戦の神様です。少し前のNHK大河ドラマ「直江兼続」で兼続の兜に「愛」を着けていました。ドラマでは「愛情」の「愛」と紹介されていましたが、歴史好き・戦国好き・神社好きの僕は、「違うだろ、愛宕信仰に肖ろうとだろ」と直感しました。「戦国時代に、「愛情」という概念があったのだろうか?」って。
何度か参ろうと思いましたが、標高920mで表参道の清滝口70mで、比高850m・距離4kmで厳しい。r50愛宕道口標高400mで比高520m。高雄・西明寺脇の清滝川115mで断念していました。ところが、西明寺からの林道が「首なし地蔵」まで舗装されていることがわかりました。ここの標高が700mなので比高220m、しかも等高線を見ると尾根道なので楽そうです。「こりゃ行かなきゃ」と・・・
倉庫から「里山VTR250」を出し、R171〜中央環状道路で、6:17「エネジェット中環豊中SS」給油。250km/8.59L=29.1km/L。6:21「セブン豊中市緑丘2丁目店」で、「カフェオレ500ml108円+バナナ3本200円=308円」購入。「吹田IC」から名神高速に入り、「大山崎JCT」から「京都縦貫道」に乗り北上し、「大原野IC」で下車しました。r141で東進し、左折してr140で北上し、R9に突き当り右折して京都市街地へ。「阪急嵐山線」をくぐり、「桂川」を渡り、左折してR162で北上します。京都市街地を抜け、仁和寺近くの「福王寺」を北に抜け郊外へ。
7:29「平岡八幡宮」。境内の御神木横に「地主社」がありました。『地主(じぬし)社 祭神:大地主大神 土地を守る神として信仰を集め、古くは地獄谷に鎮座され、現在も最初に詣でる習わしがある』
本殿に参ります。『歌舞伎 靭猿(うつぼざる) 舞台背景の杜 歌舞伎靭猿では、本殿左右に紅白梅が配され、後ろの拝殿は舞殿でもあり、坂東流の得意芸である』
『花の天井 仁孝天皇により、文政10年、画工綾戸鐘次郎藤原之信筆の44枚の極彩色花絵が神殿天井に描かれ、その華麗さを今日まで伝えている』
『平岡八幡宮 当社は梅ヶ畑八幡宮とも呼ばれ、応神天皇を祭神とする右京区の梅ヶ畑一帯の産土社である。大同4年(809)に神護寺の鎮守として、空海が大分県の宇佐八幡宮から勧請したのが起源であり、応永14年(1407)の焼失後には足利義満が社殿を再建している。
現在の本殿は、文政9年(1826)に造営されたもので、大工は上嵯峨の宗兵衛と室町の中川常右衛門藤原忠寛である。この本殿は、市内に現存する数少ない切妻造本殿の1つであり、平成12年に京都市の有形文化財に指定されている。本殿天井には極彩色の花図が44面描かれており「花の天井」と呼ばれ、更に内法長押(うちのりなげし)には熨斗(のし)に包まれた梅や椿が描かれるなど装飾性の強い空間になっており、これら彩色画を描いたのは彩戸鐘次郎藤原之信である。また、毎年10月の祭礼「三役相撲(京都市無形民俗文化財)」は地元の子供と大人が取り組み、神の加護を受けた子供が勝つという古くから伝わる神事である。  京都市』
『式内社 祭神:武内宿禰 景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5天皇に仕え、大臣として古代大和朝廷を支えた功臣である』
『為朝の試し石 弓の達人、鎮西八郎為朝(源為朝)が射抜いたと伝わる石で、俳人・京鹿子の鈴鹿野風呂の句碑でもある。 左の石は、つぎねふ、佐々木一水の句碑。
真開らきの竜胆(りんどう)、玉の如き晴れ 野風呂
啄木鳥(きつつき)の天鼓のひびき山桜 一水』
『梅ヶ畑の梅と白玉椿伝説 神殿内に描かれた紅白梅・紅白椿は、当地が古くは梅の産地であり、現在の「梅ヶ畑」という地名の由来と思われる。また境内に今も多数の椿が自生し、故事に願い事をすると、白玉椿が一夜で花開き、願いが成就したという記載があり、白玉椿伝説と呼ばれている。椿は平安時代より長寿・招福・吉兆の木とされ、昔は白い花の椿は全て白玉と呼ばれた。文政10年、彩色師・山本深淵筆』
『貴布弥社 祭神:罔象女神(みずはのめのかみ・水波之売神) 水・雨など自然の恵みを司る神として、当社の創建期より鎮座され、神山北東より湧き出る水は、古くから地域の貴重な水源であった』
拝殿・舞殿・絵馬殿の外壁に砥石が掲げられ、横に説明書が掲げられていました。
『砥石奉納の由緒 砥石の発祥は寿永の頃(12世紀初め)、梅ヶ畑の郷土・本間藤左衛門時成が、菖蒲谷の流れの間の山で発見し採掘したのに始まる。これより800年の間、八幡神の加護により、梅ヶ畑は砥石の本場として栄え、質量共に全国一を誇っていた。
砥山は鳴滝から高雄にかけて、国道の西側山腹に、向田・木津山・中山・猪尻山・紅山・朝原山・菖蒲高山・長四郎山・勘敷(かんじき)山・奥殿(おくど)山・白砥山・互阡両山・菖蒲宗五郎山・尾崎山・大突(おおづく)山・天砥山・巣板口山等に連なる。数多くの抗口から数百万の原石を掘り出し、そのなかより無類の名品を産出して、本山合砥石(ほんやまあわせといし)の名声を全国に高めた。
日本の伝統工芸文化の一端を支えた蔭には、梅ヶ畑の親方並びに多数の砥山掘り・引き場・石運びの職人衆と畑の姥達の、膏血(こうけつ)をしぼり、精魂を込め、時には命をかけて仕事に励んだ功労を忘れてはならない。
ここに梅ヶ畑の砥石の栄光ある歴史を永く伝えると共に、これに従事した人々の功績を顕彰するため、砥石の原石、曼荼羅型壱個を梅ヶ畑の氏神、弘法大師縁の平岡八幡宮の御神前に奉納し奉つる』
境内中央に土俵がありました。『若宮社 祭神:誉田別命 巫女を通じて怨霊の祟りを封じる為に勧請され、鎌倉期には若宮社の前に専用の参道、鳥居があった』
『御神水 樹齢600年とも800年とも言われ神社創建以後今日まで残る最も古いものの1つである。
樹種:ツブラシイ 樹高;15m 幹周囲:4.8m 根長:東西25m・南北30m
京都市で幹周最も大きく老齢であり、京都市植樹対策委員会にて、名木の1つに指定されている。  平岡八幡宮』
R162に戻り北上し、高雄地区に入り、左折して「清滝川」沿いを走ります。「西明寺」入口を過ぎ、7:50「谷山林道」入口でバイクを止めます。標高120m。清滝川を渡った所で分岐し、車止め杭されていますが西明寺に車で上がって行けそうです。
『通行止のお知らせ 雲心寺林道内は災害により通行不能となっております。 谷山-首なし(可)・首なし-松尾線(不)・松尾分れ-細野(可) 雲心寺・松尾林道委員会』
『注意 この先、谷山6号橋までが一般市道、谷山6号梯より先は谷山林道です。 谷山林道は森林施業用の民有林林道です。 事故・不法投棄・山火事防止のため、関係者以外の車両等の通行はお断りします。 なお、落石・土砂崩れ・路面凍結等による林道内での事故が発生しても一切責任を負いません。  林道管理者:京都森林組合 市道管理者:京都市西部土木事務所』
沢沿いの林道に入り、7:55「浪切不動尊」。滝行修行場がありました。「谷山林道」に入り更に登って行きます。8:10「左:西ノ谷林道、右:雲心寺林道」分岐、標高460m。「雲心寺林道」に入り更に登ります。すぐに頭上の森が開け、尾根筋に出たようです。山並みの広がりや、遠い下界の京都の街が見えてきました。曲がりくねった川が見えるので、嵐山から下の桂川かもしれません。
8:21、舗装路が終わり広場に出ました。景色が広がっています。100mほど先に「愛宕山参拝口」がありました。バイク装束を脱ぎ軽装になり、補助食のバナナを食べ、あと比高200m「愛宕神社」を目指します。8:35「愛宕山首なし地蔵参拝口」標高700m。
歩きだすと、あるはずの「首なし地蔵」がなく、やけに怪しい道になりました。道に倒木が倒れています。それらをまたぎ、下界の景色を楽しんでいると、道の半分が流れてなくなっています。いくら参拝の裏道とは言え、あまりに酷い道なので「間違ったかも?」って思い始めました。更に倒木が増え、またぐために地面を見ると、カタツムリがいました。更に進むと、とうとう道がなくなりました。仕方なく、どこで間違ったかUターンして戻ります。
上に並行する道が見えてきて、そちらにチェンジします。森の中を登り始めました。細いなりにしっかりした道になり、どうやら参拝道に乗れたようです。下山してくる男性と出会いました。森の中の道をマイペースで登って行きます。バイクを置いた広場が見えます。斜面を横切る道になり、ロープ道になりました。「ロープなんて必要か?」って思いながらそのエリアに入り、斜面から滑り落ちないように慎重に歩きます。やはりロープが必要な道でした。
別の山道と合流しました。9:38、「山の案内図」が立っていました。歩いてきた道は「愛宕神社裏参道」でした。そしてここは、「首なし地蔵方面下山口」でした。ここからの道は勾配がゆるくなり、道幅が4倍になりました。9:41、未舗装ながら車道に合流しました。ワダチがあり、「こんな山の中を車が走っているんだ」とビックリ。ここには案内板が立っていないので、間違わないよう写真に収めます。目印はコンクリート&アルミ電柱です。
9:44、別の未舗装車道に合流しました。お地蔵さんが目印です。森の谷側が切れ、下界が霞んで見えました。標高をかなり上げたようで、雲の下の高さと同じでした。霞んで見えたのは、雲の中の霧だったようです。「雨が降ると困るな〜」と思いながら歩くと、山装束を決めたグループが来られました。「こんにちは」と挨拶し通り過ぎたら、女性が1人振り返り、「京都府山岳連盟です」とパンフレットを渡されました。地図かと思ったら、京都府山岳連盟の活動が書かれたパンフレットでした。
9:53、下からの山道と合流しました。「首なし地蔵、高雄、細野 愛宕神社、清滝80分」「亀岡、越畑、竜ヶ岳、地蔵山方面 JR保津峡ST120分」と書かれた標識の立っていました。合流してくる道は、「月輪寺、清滝」方面への道でした。ここは、「月輪寺・大杉谷方面下山口」でした。
「上山者の皆さんへ ここは、1300年程昔より続く愛宕山の神域です。公園でも、ましてや貴方の山でもありません。従って、参拝者優先、神社・山の維持管理に必要な行為優先です。
近年趣味で山歩きをする人が増加し、中には山菜・草木の採取・木の伐採を目的にしている人や、弁当飲食の容器の持ち帰りをせぬ人等、認識不足・マナーの欠けた人が多くなっています。従って将来参拝者以外の入山禁止を考慮する昨今です。上山する人(個人)引率者の再興を望みます。  総本宮・京都愛宕神社』
そこからすぐ、9:56石段下に着きました。『Do You Know 愛宕太郎坊? 困難に打ち勝てる絵馬 片倉小十郎奉納絵馬の由来 この絵馬は、京都愛宕研究会が中心となって東日本大震災から被災地の方々の生活が一日も早く平穏無事な日常を取り戻れることを祈願し、東北と近畿とのきずなを今一度思い起こそうとする趣旨のもとに復元制作されたものである。制作にあたっては、この趣旨に賛同された多くの方々より有形無形の協力が寄せられた。
2015年5月5日に京都市・植原から会員ならびにボランティア80名の手によって苦心の末、愛宕神社に奉納され、モデルとなった原作絵馬奉納から400年目にあたる同年5月24日に飾り金具を取り付けて完成となった。
なおオリジナルの絵馬には戦勝祈願が叶ったことを記す「立願成就之所」という願文が記されているが、この復元絵馬では新たに「天下静謐」を祈願している。奉納に携わった数多くの人々の願いに応じ、未曾有の災害にみまわれた東日本地域をはじめ、全世界に平穏と静謐が訪れることを願って選ばれた言葉である。右には原作品となった絵馬の由来を記し、このたびの奉納の意義を後世に伝えたい。
この絵馬は、愛宕山にすまう日本一の大天狗・太郎坊が、神使である猪にまたがって疾走する姿を描いたものである。宮城県には同じ図様の絵馬が数点確認されており、著名な存在であったようだ。最初の奉納者は伊達政宗の家老・片倉小十郎重綱である。
片倉氏は代々篤い愛宕信仰を有しており、本拠・宮城県白石市をはじめ東北地方には愛宕神社が多数存在する。
本来の絵馬は1615年、大坂夏の陣に際して重綱が愛宕神社に戦勝祈願を行い、その返礼として奉納されたものであった。夢に太郎坊が現れ片倉勢をさんざんに打ち破ったことから、陣所を変更したところ武勲を立てたという。図像はこの夢を踏まえたものである。絵師は海北友雪であった。
この絵馬は1665年火災によって焼失し、片倉景長(3代)によって再興された。しかしその絵馬も後、片倉村典(8代)による修復中に、功徳にあやかろうと押し寄せた人々に欠片として与えられ、改めて1800年に制作・再々奉納されたものが現在の作品である。
片倉家は折に触れ当主が主催して修復を継続していたが、明治以降はその伝統も途絶えた。本来の奉納場所は境内に存在した塔頭のひとつ教学院であったが、これが廃絶後、愛宕神社本殿裏手に移されたようである。  京都愛宕研究会 2016年3月建』
石段下に休憩小屋が建っており、本道から上がってきた多くの方が休憩していました。長い石段を上がっていきます。バスの時刻表もありました。ここまでバスで来れるのかな?
10:08「愛宕神社」、標高920m。紫陽花が綺麗に咲いています。石段を下ります。石段下の小屋に入り、補給食としてバナナを食べました。10:20「月輪寺分岐」。10:28「地蔵分岐」。「探しています」のパンフレットが落ちていました。平成28年に、清滝から愛宕山にお礼参りに入り行方不明になったそうです。
10:33「首なし地蔵分岐」。下から上がってくる男性に会いました。高尾から上がってこられたそうです。「よくこのような道を知っておられますね」と驚かれたので、「ネット検索で知った」と答えました。10:57「首なし地蔵」。往路、道を間違い見つけられなかった場所です。10:59「参拝口」。バイクまで戻ってきました。往路1時間半、帰路40分でした。
バイク装束に着替え、「雲心寺林道」を下ります。往路、広場には軽四が1台だけでしたが、車が数台停まっていました。皆さん、愛宕神社参りなのでしょうか?オフロードモーターサイクルが、未舗装路の練習をしていました。
ここから舗装路になり、延々下ります。登っていくる白人さんんおロードバイクとすれ違いました。「浪切不動尊」横を通過し、「清滝川」沿いまで下り、清滝川を渡ったところでバイクを止め休憩しました。清滝川沿いr138を走り、R162まで戻り、左折してR162で北上します。r138「西明寺」下の清滝川の小さな河原で、家族連れがテントを張ったりして水遊びしています。夏の清涼地でしょうか。
11:44「高山寺」。バイクをPに置いて参拝に向かいます。『高山寺(こうざんじ) 栂尾(とがのを)山と号する真言宗の寺で、釈迦如来を本尊とする。平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 寺伝によれば、宝亀5年(774)、光仁(こうにん)天皇の勅願によって開創され、当初、神願寺都賀尾(とがを)坊と称したが、建永元年(1206)後鳥羽上皇の院宣によって、明恵(みょうえ)上人が華厳宗復興の道場として再興し、寺名を高山寺と改めたと伝えられている。広い境内(国の史跡)には、石水院(国宝)、開山堂、金堂などが建ち並び、中でも石水院は、鎌倉時代初期の寝殿風住宅建築で、後鳥羽院の賀茂別院を移築したものといわれている。寺宝は数多く、鳥羽僧正筆とされる「鳥獣人物戯画」をはじめ、「明恵上人樹上坐禅図」など国宝8点、重要文化財約1万点が所蔵されている。
また、境内の茶園は、鎌倉時代初期に明恵上人が栄西禅師から贈られた茶種を植えた所で、ここから全国に茶が普及したといわれている。この由緒から、毎年11月8日には、宇治の茶の製造業者から新茶が上人廟前に献上される。  京都市』
『世界遺産「古都京都の文化財」(京都市・宇治市・大津市)
高山寺は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録されました。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、とくに優れて普遍的価値をもっていることを国際的に認められたことになります。
高山寺は、宝亀5年(774)に開創された寺を、13世紀初頭に明恵上人が中興して高山寺と改称したことに始まります。中興当初は金堂・阿弥陀堂・十三重塔・東西経蔵などが建ち並んでいましたが、その後中世の戦乱期に荒廃し、江戸時代にはいって寛永11年(1634)に再興されました。
石水院は、明恵上人時代の唯一の遺構で、13世紀前半に建てられた住宅風の建築です。庇を槌破風で処理する手法や細部意匠などに、鎌倉時代の特色がみられます。 自然と調和した建築であるこの石水院は、訪れる者に安堵感を与え、日本文化のひとつのあり方を示すものでもあります。自然と調和した建築であるこの石水院は、訪れる者に安堵感を与え、日本文化のひとつのあり方を示すものでもあります。このほか、境内の奥寄りには宝瞑印塔や如法経塔が並んでいます。  平成6年(1994)12月15日決定、17日登録  京都府』
11:48、前回訪問できなかった石水院に入ってみます。拝観料800円。
『栂尾山高山寺・石水院 高山寺は、建永元年(1206)、明恵上人が後鳥羽上皇の勅願によりこの地を賜り、華厳宗の道場として中興開山した寺院である。草創以来、皇族・公卿・武士の要人たちの庇護の元、学問寺として興隆した。寺宝は典籍を中核に、国宝・重要文化財を含む12000点余が伝わる。平成6年(1994)、世界文化遺産に登録された。
石水院(国宝・鎌倉時代)は、明恵上人時代の唯一の遺構であり、上人が後鳥羽上皇より学問所を賜ったものとされる。簡素な佇まいの寝殿造風住宅建築である。明治22年(1889)、金堂の東より現在地へと移築された。西正面は、かつて春日明神・住吉明神の拝殿であったところで、今は善財童子像が置かれている。欄間には、富岡鉄斎筆の木額「石水院」がくかかる。南面内部には、寺号の由来となった後鳥羽上皇の勅額「日出先照(ひいでてまずてらす)高山之寺」や、明恵上人筆とされる木額「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」が当時より伝わる。  京都市』
世界的に有名で、現代の日本漫画の原点とも言われている「鳥獣戯画」は、この塔頭の所有です。展示されている戯画数点を拝見し、縁側に座ってパンフレットを読みました。鎮守の森を吹き抜ける風が涼しく、とても気持ちが良いです。
バイクに戻り、R162を北上します。右折し清滝川沿いを走る枝道に入り、12:36「中川八幡宮社」。『当社は鎌倉時代の頃,鎮守の森として山の神々を祀り、その後、源家の一族がこの地に定住し、当八幡宮社を建立されたものと伝えられる。寛文12年(1672)頃と明治27年(1894)の2回の災火にて本殿を消失し、古文書等はほとんど烏有に帰したが,幸いにも御神霊は無事奉遷されたので翌明治28年(1895)に再建された。
御祭神は15代応神天皇(誉田別尊・ほむたわけのみこと)であり、10月の第2日曜日に例祭が行われる。本社八幡宮社の脇宮として,右に伊勢大神宮(御祭神・天照大神)、左に春日神社(御祭神・武甕槌神)を祀る。また、境内末社として、本社右に山の神々社(御祭神・大山咋尊)が鎌倉時代の頃に、左に愛宕神社が大正12年(1923)神社改築の際それぞれ祀られた。本社と山の神々社の間にある岩座は、昭和50年(1975)に建立、パワースポットとも言われ、お参りが多い所である。
境内には北山杉の母樹といわれる樹齢約600年の御神木が立つ。  京都市』
社殿に参り、境内を探索すると、本殿左後ろに杉の大木が他と離れて立っていました。『八幡宮大杉 この大杉は、推定樹齢が600年で中川地域では最も古い杉であり、品種としては、白杉と言われている。まっすぐで木肌が白くて美しく、北山杉の元祖と崇められている。白杉はい花が咲かず、実もならず、実もならず、スギ花粉は出さない。
北山杉は、この大杉から枝を取って挿し木をして苗木が作られ、山に植林されてきた。その枝からさらに挿し木が行われて、これが数百年間繰り返されてきた。挿し木方法は、交配が行われることなく、親木の遺伝子がそのまま受け継がれていくので、白杉のよい遺伝子を持った北山杉を増やしていくには、最もよい方法であった。
今日の北山林業があるのはこの大杉(母樹)のおかげであり、600年もの間、風雪や雷にも耐えてきたところから、地元では御神木として、大切に保存されている。  哀都市』
京都北山の広大な地域に植林され、日本はもちろん世界的ブランドにまでなっている北山杉が、挿し木で増やされているとは知りませんでした。しかも、原木(母樹)がこの木だとは・・・。神社の謂れ板で読んだ時は、「どんな古い樹だろう?」と想像しましたが、古木でも威厳のある樹でもなく、綺麗な樹でした。
『中川八幡宮社 鎮座地:京都市北区中川北山町123番地 御祭神:15代応神天皇(誉田別尊) 例祭日:10月第2日曜日
無格社であった当社が、明治14年12月23日に村社に公認され、大正12年11月30日に幣帛供進の指定村社に昇格。 ご利益として、厄除け・開運・家内安全・交通安全・安産。 本社八幡宮社の両側に脇宮として、右側に伊勢大神宮(御祭神:天照大神)、左側に春日神社(御祭神:武甕槌神)を祀る。
境内末社として
・山の神々社(御祭神:大山祇尊)本社右側:勧請不詳。鎌倉時代の頃より、鎮守の社として当社を祭り、当地域の林業発展土地産業開発の事を考慮してお祀りされたものと考えられる。
・愛宕神社 本社左側:大正12年神社改築の時、現在の地を開いて愛宕神社の御神霊を迎えて祀られた。
・岩屋 本社と山の神々社の間:昭和50年建立
秋の紅葉には境内のもみじが大変鮮やかに色付きますので、散策がてらお参り下さい。  平成18年3月吉日』
R162に戻り、帰路に着きます。更に北上すると、ロードサイドの気温29℃でした。左折してr363〜r362〜r363で、13:07「大神宮社」。境内入口に手水舎があり、京都市内の神社のように花びらが浮いており、田舎なのにお洒落だな〜と思いました。
『天上の木 京都市右京区・京北細野町 長野大神宮社のサカキ』。サカキは、枝葉を神事に使うので、山の中のあちこちに自生しているし、境内で手入れされているので多く見かける。その僕の常識から遥かに超えた大きさのサカキとしては大木で驚きました。ただ、枝葉が高く、神事に使おうとしても梯子がいるので、使いにくそう。覆屋に守られた本殿は厚い茅葺き屋根を持った立派な社殿でした。
r363を西に走ります。すぐに中央線のない道になり、森の中に入っていきます。交通量が殆どないので、夏の日差しを遮る森の中の日陰を気持ち良く走ります。四輪は慎重にすれ違わないと谷側に転落する細道でカーブの連続ですので、あくまでもスピードは控えめに・・・です。
森の中で、R477に合流し、やがて森を抜け出し、「廻り田池」から三股川沿いを亀岡側に下ります。バイクを止めて休憩します。喉を潤し、一息つきました。R477を亀岡盆地まで下り、大堰川(おおいがわ)を渡り、R9に突き当りました。左折してR9を少し走り、右折してr452で「JR山陰本線」を渡り、r73に合流し、R372との交差点を左折して、13:50「ファミリーマート亀岡宮前町店」で、「チョコモナカジャンボ151円」を購入し糖分補給しました。
R372〜R477で南下します。丹波国と摂津国の峠を越えて、摂津側の空が見通せるようになると、夕立が降りそうな空模様が前方に見えてきました。「やばいな〜」。「行けるところまで行こう」と決め南下します。「妙見ケーブル」付近で遠くに雷鳴が聞こえて来ました。「ときわ台」住宅地に入り、枝道に逸れ、ナビ・カメラ・バッグなどをリアボックスに入れて、いつ降ってきても良い準備をしました。ボックスにはカッパが入っていましたが、むしろ濡れて涼しくなって帰ろうと選択し、夏用バイクメッシュ上下装束で再び走り出しました。
R173に合流してすぐに雨が降ってきました。狭いエリアで降っていたようで、すぐに雨は上がりましたが、道路は盛大に濡れていました。それでもしっかり濡れたので、一気に涼しくなって帰宅しました。


2021/7/17
コーチしている大学ヨット部のコーチングに行きます。AMは練習で、PMは1回生のクラス分けのための試乗会です。9時出艇に間に合えば良いので、琵琶湖湖西の歴史遺産を巡ってからハーバーに行くことにしました。
5:57、倉庫から「里山VTR250」を出して出発。R171〜中央環状道路で、6:11「セブン豊中市緑丘2丁目店」で、「カフェオレ500ml108円+味付け海苔海老マヨネーズ125円=251円」購入。「吹田IC」から名神高速に乗り、「京都東IC」で下車し、湖西道路に乗り換えます。「皇子山ランプ」で下車し、「JR大津京」手前まで下り、右折してr47で南下しました。
7:05「弘文天皇長等山前陵」。「大津市役所」の裏でした。参道から市役所の公用車Pが見え、現代の町の中心地の横にこんなに厳かで静かな鎮守の森があり、「壬申の乱」の敗者の宮が眠っているとは・・・さすが近江国です。弘文天皇は38代天智天皇の大友皇子で、壬申の乱で天智天皇の弟・大海人皇子(天武天皇)と戦い敗戦しました。38代天智天皇死後、空位になった天皇位を争ったのが「壬申の乱」で、勝利した大海人皇子が39代天武天皇に即位したとなっていましたが、明治になって39代天皇位を大友皇子に贈られ、弘文天皇とされました。他の天皇陵同様、しっかりと手入れされた御陵でした。
案内板に「新羅三郎の墓」とあったので、森の中に入っていきます。ほとんど観光する方がないようで道は荒れており、諦めて戻りました。7:19「新羅善神堂」。以前訪問した国宝社殿です。
『足利尊氏再興の社殿 国宝・新羅善神堂(しんらぜんしんどう) 南北朝時代(貞和3年・1347) 桁行三間・梁間三間・一重流造・向拝一間・檜皮葺
三井寺の鎮守社のひとつで、北院伽藍の中心建築です、現在の建物は、足利尊氏によって貞和3年(1347)に再興されました。檜皮葺屋根の流れるような美しさをもつ社殿建築で、「流造」の代表的遺構として知られています。
堂内の須弥壇には素木の厨子が安置され、三井寺の開祖・智証大師ゆかりの国宝・新羅明神坐像がまつられています。
平安時代、河内源氏の武将・源頼義の三男・義光が、新羅明神の社前で元服し、’新羅三郎義光と称したことから三井寺は源氏一門をはじめ河内源氏の流れを汲む足利家の尊崇を集めることとなりました。
文化庁 令和元年度 文化財多言語解説整備事業(文化資源活用事業費補助金)』
バイクに戻り、少し走り、7:32「法明院」。「ここが入口?」と思えるほど草茫々でした。入って良いものか躊躇しながら入っていくと階段が現われ、伽藍が見えてきました。「不許葷酒肉入山門」の石柱が立っていました。禅宗の寺院のようです。
『法明院 円城寺(三井寺)の北院。池泉回遊式の庭園から眺める琵琶湖の眺望は素晴らしいものです。境内には日本美術を世界に紹介したフェノロサの墓があります。また、源義光の墓や義光が元服したという新羅善神堂、弘文天皇御陵が近くにあります』
石段脇に、人工の滝があり、修験道の滝行の場のようでした。境内に上がると、お庭に入る門があり、「入園料100円也」となっていました。100円をチャリンし入ってみます。手入れが行き届いたとはいえないお庭でしたが、静かで良い雰囲気です。弁天池もありました。「フェノロサの墓」の案内板に従い、墓地エリアに向かいます。森の中の石段を上がっていくと、左右にまばらに墓石が並んでいます。7:39「アーネスト・フェノロサの墓」。
『アーネス・フェノロサの墓 アーネスト・F・フェノロサ(1853〜1908年)は、米国マサチューセッツ州出身の哲学者、東洋美術研究家。 1878(明治11)年に来日し、東京帝国大学で哲学、政治学などを講じた。教え子の岡倉天心(1863〜1913年)と共に日本美術の真価を米国や西欧に紹介し、古美術の保護や日本美術の振興に尽力したことから日本美術の恩人ともいわれている。
ことに1885(明治18)年、友人で医師のビゲロウ(1850〜1926年)と共に三井寺法明院の桜井敬徳(1834〜1885年)から受戒し、法名「諦信」を授かっている。こうした縁で法明院にたびたび滞在し、現在、愛用した天体望遠鏡や地球儀などが法明院に保存されている。 帰国後もボストン美術館東洋部長として日本美術の紹介と啓発につとめたが、1908(明治41)年、ロンドンで客死する。 死後、その遺志にしたがい分骨され、ここに葬られた。 また、この墓域には、ビゲロウの墓や現在の東京国立博物館の初代館長・町田久成(1838〜1898年)の墓、桜井敬徳の銅像がある。  大津市』
バイクに戻り、湖西道路に沿って琵琶湖側を北に走ります。7:53「早尾神社」。バイクを置いて、石段を上がっていきます。「カエンタケが見つかりました」と書かれていました。赤橋で湖西道路の上を渡ります。社殿が現われました。御参りし石段を下り、8:03「山上不動尊」。分岐する石段を下っていきます。「大峯山入峯三十三度供養」の石柱が立っていました。修験道のメッカ大峯山への修行記念のようです。
『智証大師入唐御詠 法の船さして行く身ぞ、もろもろの神も仏も、われを見そなへ 天安2年(858)6ヶ年にわたる入唐求法の旅から帰朝された円珍(智証大師)は、此処千石岩の深渓を練行の聖地と定められ、貞観元年(859)日吉の早尾明神を勘定して、円城寺の護法神とされると共に明神の本地仏である不動明王を崖下の大石卓に親刻され、早尾明神と共に寺門の鎮護とされ山上浪切不動尊を開基されました。その後、幾多の変遷を経て鎌倉時代の仁治3年(1242)、円城寺の大法師等によって新たに磨崖不動を刻し、同年8月28日開眼供養が行われ、以来この石仏が山上不動尊として尊崇されています。一方、山上村においては享保13年(1728)11月29日の「定」により、翌14年より毎年10月29日(陰暦)の智証大師の御命日には惣村中が寄り合い、大師講相勤めると共に不動堂の管理維持についての取り決めがなされてきました。本年も智証大師円珍和尚の1100年の大遠忌に当たり、この勝機に大師御開基の行場を更に充実して信徒の皆様と共に、その御遺徳を永久に伝えていきたいと存じます。  平成2年9月28日 山上不動堂世話方』
バイクに戻り、湖西道路をくぐって、8:15「旧大津陸軍墓地」。各地に旧軍墓地がありますが、現代のご時世柄、予算削減の煽りを受け、荒れ放題に近い墓地もあるのに、こちらは甘美や贅沢ではないが、良く手入れされていました。「明治37・8年戦役下士戦病死者合葬碑」「明治37.8年戦没准士官戦病死者合葬碑」の石碑が立っていました。「大東亜戦戦没者之碑」の石碑も立っています。それらの後ろに、戦没者故人の墓石が並んでいました。
『記念碑 この地は、今般建設省起業一般道路161号西大津バイパス改築工事のため、559柱のうち237柱の英霊を安置祭祀する旧大津陸軍墓地であります。この墓地は、元歩兵第9連隊が明治7年6月に大津にて編成され、駐屯中に西南の役日清日露の両戦役また第1次世界大戦等幾多の戦役で赫々たる戦功を残し、名誉の戦没を遂げられた将兵の霊を祀ってあります。 今回墓地の一部を改葬するに当たり、この碑を建立しその偉勲を永代に讃えるものであります』
バイクに戻り、r47に出て、近江神宮から近江神宮道を湖岸に下り、8:20YH着。コーチしている大学ヨット部の艇庫へ行き、部員たちに挨拶しました。艇庫に入り、バイク装束を脱いでコーチング装束に着替えます。AMはS級コーチングです。S級ブリーフィングに参加し、短くコメントします。コーチボートに乗って沖に出ます。主にレース練習をして12時にハーバーバックしました。風が上がり、良い風で有意義な練習になりました。
PMは練習無しで、1回生のクラス分けの為の試乗会です。4月に入部し、プレイヤーはシングルハンドのシーホッパー級やレーザー級に乗って練習して来ました。1人乗りなのでヨットの基本を自ら学びます。大学ヨット部の正式種目は、470級とS級の2人乗り艇ですので、夏にクラス分け&ポジション(スキッパーorクルー)分けします。
陸上で、両クラスの基礎動作の練習を1時間ほどしました。スキッパー動作はシングルハンドとあまり変わりませんが、クルー動作は大きく違うので、何度も反復練習します。僕はインフレータブルボートに乗って沖に出ます。1回生全員が両クラス4ポジションを経験します。まずは、Sクラスが出艇し、1回生部員をインフレータブルからS級に乗せます。良い風が入っているので、みんな喜んでいます。続いて470が出てきて、470の試乗会開始です。ハーネスを着せ替えたりするのを手伝いながら、それぞれの楽しさを教えます。18時にハーバーバックしました。
着替えてハーバーを後にして、バイクで帰路に着きます。湖西道路を走り、「京都東IC」から名神高速に乗り、18:44「桂川PA」で「ガリガリ君ソーダ75円」を購入しクールダウンしました。「吹田IC」で下車し、中央環状道路〜R171で19時過ぎに帰宅しました。


ロンドンに住む長男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。7〜8月が夏休みなので、9月に始まった学年が6月末に学年末を迎えます。昨年は、長男・遼くん(当時7才)が人生初の成績表(小2)を、6/16に頂いてきました。全ての教科が「Outstanding」で長男夫婦が大喜びして、速攻で送ってきてくれました。
イギリスは、世界標準で、僕の子供時代と同じ5段階評価(A・B・C・D・F)+(A+)です。A+:Outstanding傑出した成績100点、A:Exellent特に優秀90点、B:Good優れた80点、C:Fair70点、D:Pass通過60点、F:Fail(不合格)。あまりにすごい成績なので、私達夫婦も大喜びしました。
日本は学期末毎に成績表が配られますが、イギリスは学年末のみです。遼くんはアメリカで3年間幼稚園に通い、6月にレセプションという年長組を卒業し、9月からイギリスで小学校に入学しました。でも、イギリスはアメリカより1年早く小学生になるので、いきなり小2になりました。「ピカピカの1年生」を経験せず、人生初の学業成績が2年生でした。そして今年、3年生の成績・・・。「今年はまだかな〜」と思っていたら、7月に入って成績表が出たそうです。コロナ禍で、1ヶ月卒業が遅れたようです。
今年は、次男・航ちゃん(レセプション・5才)の初成績表も送られてきたようです。こうちゃんはまだ幼稚園なので成績表ではなく、6段階評価はありません。それでも、詳しく園での行動や態度が書かれており面白いです。
初めての親のいない環境での共同生活なので心配でしたが、最初の数日泣いただけで、あとはむしろ行きたくて仕方ないようになりました。りょうくんの通う小学校の付属幼稚園なので、それも安心出来た要因です。
「好奇心が高く、学びたがっている」「独立して学習出来る」「困難にトライすることを楽しみ、忍耐力を持って必ず達成できるように努力する」「集中力が高く、クラスメイトと出来たものを共有し、自分に誇りを持っている」
「質問に的確に答え説明する事ができる」「想像力が逞しく、自分の達成したことを説明する事ができる」「フレンドリーで、クラスメイトに共感を示し、上手に遊んでいて行儀が良い」「非常に優れた運動能力を持ち、体育セッションで良いバランスを持っている」「鉛筆を正しく持ち、手紙が上手い。ハサミ・ピンセット・鉛筆などを上手に使いこなす」「食生活と運動の大切さをよく理解している」「カーペットタイムでは、注意深く耳を傾け、歌・童謡・物語を楽しんでいる」「聞いたことをよく理解し、指示に従うことが出来る」「クラス全体のセッションで自信を深めており、ディスカッションに積極的に参加します」「グループまたは1対1でとてもお喋りで、大人やクラスメイトと話します」
「単語を読むことが出来、読書が好きで読書ゾーンにいます。クラスメイトと絵本を見るのが好きで楽しんでいる」「2桁の数字の足し算・引き算が出来、2D・3Dの形状・スペースが理解出来る」「量・重さ・大きさ・位置について話し比較できる」
「昆虫の成長を学ぶことを楽しみ、種子から植物を育て、その比較ができる」「人・家族の似ている所・違いを理解している」「双方向ホワイトボードの使用に自信を持っており、独自の画面を作成する事ができる」「小さな世界や建設現場で遊ぶのが好きで、ドレスアップして想像力豊かな遊びのシナリオに参加します。歌と音楽を楽しみ、クラスの歌に参加します」「遅刻0.48%、出席98.09%」。
すぐに幼稚園に慣れ、行くのが好きなので心配していませんでしたが、どうやらクラスリーダーとして楽しんでいるようです。お嫁さんの話では、遼くん同様クラスメイトに人気があるようで頼もしいです。遼くん同様、優しい性格で人助けが自然に出来るようです。航ちゃんは、生まれて4ヶ月で渡米し、1週間アメリカで暮らしただけですが、私達祖父祖母にもすぐ慣れて、遼くん以上に人懐っこい子だなと感じました。両親から受け継いだ性格に加え、お嫁さんの作った家庭環境と育て方によるところが大きいと思います。母親の影響は絶大です。
「スポーツデイ」という運動会があり、遼くんはかけっこで学年3位になり表彰されたようです。航ちゃんはクラスで1番になり、リレーのチームリーダーになったそうです。でも、コロナ禍で親が見に行けず、残念すぎたそうです。
遼くんの成績は、連続オールOutstandingは成りませんでした。英国の国語であるEnglishのWritingがgoodになってしまいました。でも、その他は全てOutstandingで、再び学年一級の学業成績のようです。「出席96.52%・遅刻0%」。
英語・数学・科学・歴史・地理・体育は、日本でもお馴染み。保健道徳・芸術・設計技術・音楽も日本にもあります。コンピューティング・宗教教育・現代外国語は僕には馴染みがありません。遼くんにとっては、アメリカで通った幼稚園にはコンピュータールームがあり、タイピングというPCを使った時間がありました。
宗教教育は、日本で教育を受けたことがない遼くんにとっては自然でしょうが、僕の小学生時代にはありませんでした。中学からはミッション系私立に通ったので、「キリスト教」という授業が週1あり、毎日チャペルでの礼拝時間が15分ありました。僕にとっては、中学でキリスト教に触れたことはとても人生に役立ちました。長男の通った私立中学は宗教関係ない学校で、僕には違和感がありました。それが不満で次男には宗教の絡んだ学校に行かせたくて、真言宗系の中学に入学しました。父母参観日などで、宗教的な話があり落ち着きました。
現代外国語は、小2の時はフランス語でしたが、小3ではスペイン語を学んでいたようで、これまたOutstandingをもらっていたので、イギリス人の同年代の子の平均より優れていたようです。スペイン語を学ぶのが楽しく、基本的なスペイン語の語彙を使えるようになったようです。その流れでサンバを学び、ダンスしたり楽器を演奏したりしたそうです。語学の勉強で、音楽・ダンス・楽器が加わると学びが楽しくなりそうです。歴史では、石器時代・古代エジプト人・アングロサクソン人・バイキングについて学んだようです。同じ歴史でも、日本との違いを感じます。
そして「態度と行動」。これもOutstandingでした。担任教師からのコメントは、日本のそれと違いとても多く詳しいですが、遼くんの成績表では、小2に続きここへのコメントが他の倍ほどありました。僕にとってはここが最も知りたい所で、息子たちの成績表でも、ここと出席・遅刻の欄を最初にチェックしていました。
『Ryoは、ユーモアのセンスと陽気な性格、そして学習好きのため、喜んで教える知的で・楽しく・前向きな少年です。「ジョン・ペリン・ウェイ」をフォローし、笑顔で自分自身や周りの人に対して常に権利を尊重する態度を示しています。Ryoの穏やかな性格とクラスや遊び場での前向きな姿勢は、一緒に遊ぶ友達が不足することはありません。彼は前向きな姿勢を示しており、彼の近くにいるすべての人々の間に、穏やかなゾーンを作り出しているようです。まれに、Ryoの精神が落ちたとき、それはさらに顕著になります。彼は回復力が彼の最強の力の1つであることが証明されており、常に自分自身のために物事を好転させる方法を見つけているようです。彼は、教室のすべての人に親切で、親切であるという模範を示しています。彼の自信は一年を通して成長し、彼の努力は見事でした。私は意外なことにRyoを教えることをとても楽しんでおり、彼の温かくフレンドリーな性格が恋しいです。彼が4年目、そしてジョン・ペリンとそれ以降の明るい未来のために最善を尽くすことを願っています』
昨年の担任先生からのコメントは、『Ryoが、私のクラスにいることを嬉しく思っています。彼は楽しく、創造的で、熱心で、常に敬意を表しています。 Ryoはクラスメートと強い絆を築き、誰とでも協力して仕事をすることができ、常に仲間を幸せに保つよう努めています。 彼は常に人々を笑わせる能力を彼のすべての努力に適用し、そうする機会が与えられたときに自信を持って実行します。 Ryoは、遊び場で競争力を持ち、速くレースをし、さまざまな人々と公平に遊ぶことが大好きです。 彼はすべてのタスクに非常に熱心であり、特にクラスでの健康とダンスを維持し、誰もが参加する意欲を高めています。 Ryoは、創造的で想像力に富んだ個性を駆使して、楽しく新しいアイデアや視点を生み出し、執筆に力を注いでいます。 彼は自信を持ったチームプレーヤーであり、常に新しいことに最初に挑戦することを喜んでいます。 彼がすべてに注入する彼の純粋な幸福のために、彼が試みるものは何でも驚くべきものになると私は確信しています。 いつも笑って幸せにしてくれてありがとう、Ryo。 Ryoが繁栄し成長し続ける3年目までのご活躍をお祈りしております』でした。
昨年に続き、担任先生からの最上級の褒め言葉を頂きました。昨年とは別の未婚女性教諭で、2人の大人の女性からこのような言葉をもらえ、とても嬉しいです。クラスメイトの女の子にとどまらず、他クラス・他学年の女の子からも人気だそうで、毎日送り迎えをしているお嫁さんが驚いています。
長男もクラスの人気者で、いつもクラスの中心で、小1の時の運動会開会式選手宣誓に始まり、毎年のようにリーダーをしていました。中高でも大学生になっても続きました。イギリス人の方が日本人より感情を表に出すだろうから、人気が目に見えるのでしょう。
遼くんと航ちゃん兄弟は、担任先生からのコメントを読むと、よく似ているようです。同じ両親の遺伝子を受け継ぎ、同じ両親に育てられたのだから「当たり前」とも言えますが、積極的で良くお喋りしクラスメイトと仲良く出来る理想的な子に育っているようです。僕はあと20年もすればこの世から「おさらば」しますが、僕の肉体は滅びても、僕が遠い先祖から面々と受け継いできた遺伝子を、息子を通して孫に伝わり、20年後以降も元気に暮らしている。「子宝」「子は親の鏡」・・・人生の何たるかを幸せを感じます。
遼くんは現地校に通っているので、日本語や日本のことを勉強する場がないので、週末だけ「ロンドン補習授業校」に通っています。こちらの小3・1学期の成績表もありました。こちらの評価は、日本国内と同じ3段階評価で、Aと書かれているだけで、担任先生からのコメントも短い。イギリス現地校の成績表はPDFで、日本人学校のはペーパーの成績表です。これにより、スペースの決まっているペーパーゆえ、担任先生からのコメントの文字数が限られているからのようです。自由に書けるイギリス式の方が良いと感じました。
『自分の考えや思いを臆することなく発言し、時々ユーモアのある発言で授業を盛り上げてくれることもありました。学年の目標は漢字テストを頑張ることで、努力した成果がしっかり表れて立派です。この調子で、目標達成に向けて頑張りましょう』。漢字テストの賞状も頂いていました。
ビデオと写真も送ってくれました。公園に電飾の鳥が置いてあり、首を振ったり土をつついたりの自然な動作をしています。暗くなれば、より鮮やかに見えそう。ルーカスくんがお喋りの中で「light」と発音するのを聞いて、「さすがアメリカ人」と思いました。アメリカ生まれなのでアメリカ国籍の国籍も持っていますが、まだ2才なので幼稚園にも通っていません。家庭での日本語環境で暮らしているのに、兄たちの友達やTV・スーパーマーケットで入ってくる英語のシャワーで自然に身についたのでしょう。
写真のバックにあった時計で、ネクストゲームとして「vsイタリア」となっていました。「ウェンブリー・スタジアムなの?」と質問したら、ビンゴでした。今月イギリスで大盛りあがりだった「Euro2020」の決勝戦前日に、スタジアム隣のショッピングモールに買い物に行ったら、前日なのに既に盛り上がっており写真を撮ったそうです。ロンドンは「Euro2020」期間中、連日大盛り上がりでしたが、決勝でイタリアに負けてしまった翌日は、驚くほど静かな街になったそうです。長男はこういうのが好きなので、「アメリカ在住中はイチローの3000本安打」をスタジアムに観に行き、「宮里藍の引退直前最後の全米女子オープン」応援に行き、遼くんが握手してもらいました。大坂なおみが優勝した「全米オープンテニス」に錦織圭・大坂なおみを応援しに行きました。何度も、日本のTV局クルーに撮影され、ニュース映像で流れました。子どもたちがもう少し大きければ、スタジアムから応援したかったでしょう。
「グリニッジ天文台」での写真がありました。経度0のラインを家族でまたいでいる写真がありました。世界標準だから、明石の東経135度の子午線をまたいだことはありますが、グリニッジは世界標準だから大きな違いだわ。


2021/7/11
前日に続き、母校ヨット部のレース応援船ドライバーをします。8時に「通勤リード110」で出発し、8:15「セブンイレブン」で、「味付け海苔辛子明太子140円」購入。家から麦茶も持ってきました。前日残ったアイスコーヒーは船の冷蔵庫に置いてきました。その他、カッパや双眼鏡も船に置いたままです。
8:30過ぎてホームポートに着き、係留艇に行き、窓を開けカーテンを開け空気を入れ替えます。前日鍵が開かなかったドッグハウスの扉は問題なく開きました。ここで気づいたのですが、一旦取り外したキーボックスを昨日午後セットしたのですが表裏逆にセットしてしまったようでやり直さないといけません。スマホが鳴りました。母校マネボスからでした。今年のマネボスは男の子で、元は選手でしたが体調を崩しマネさんに転向してヨット部員を続けてくれています。本日は4人の1回生を乗せるそうです。
ディンギーヤードに戻ります。母校前で部員たちが円陣に座りミーティング中です。それをカメラに収めている女子学生がいたので、「KGスポーツの方?」と訊くと「ヨット部担当」だそうです。昨日も2回生でしたが、この子も2回生でした。離れた場所で運営ミーティングが始まったので、注意事項を聞きに行きます。前日、スタートライン近くに行き過ぎていた次のスタートのボートがレース委員会から注意されていましたが、ジュリー委員長から「注意」の発言がありました。本日は「失格」になりそうです。「9:35、470D旗」とのことです。マネボスに、少し早く出艇すると伝えていたので、母校ミーティングが終わった時点で乗る3人が集まり、船に向かいます。もうひとりは、隣のハーバーに行きインフレータブルボートを取りに行ってるそうです。
係留艇に乗り、テキパキと指示して桟橋から離れました。ハーバーを出る手前で、インフレータブルボートが入ってきて、ここで4人目をピックアップしました。フェンダーをスターンに移動し、ゲートを閉め、西出入口から出ると、すぐにジェノアセイルを上げました。4m/s程の風が入っています。ジブファーラーシステムを教え、フルセイルにしましたが、ウインチでも重くて学生が驚いています。ディンギーのセイルの数倍の面積があるので、そのパワーにビックリしています。エンジンを切ってセイリングだけにして、福岡ジュニア出身の1回生部員Kくんにステアリングを交代します。ポートタックのKGチームとミートしそうなので、タックします。ジェノアだけでもヒールが大きいのと、ジェノアの張替えが遅いので、船が止まり気味です。4人均等に交代し、クルーザーセイリングを体験させました。
スタートラインに近づき、僕がステアリングを持ち、ジェノアをファーラーさせました。ここからレース観戦&応援です。部旗をマストに上げてスタートを待ちます。SWの順風が入り、気持ち良くセイリングしています。12時過ぎに掛けて8m/sまで風が上がり、そこから少しずつ落ちていきましたが、レース終了でも3〜4m/sあったので、3レースしっかり良いレースが出来ました。470のレースが本船がレース海面を横切ったので、1レースだけノーレース&再レースになりました。途中で1回だけ、KGコーチボートがやってきて、女子部員がこの船のトイレを使いました。前日は470チームが良かったが、この日はS級チームが良く、最終8レース目は1・2・3・4・5・7位でフィニッシュしたり、1回生スキッパーが一時トップを走ったり、楽しく応援出来ました。トータルでは、全日本インカレ個人戦6枠の内、470もS級も4枠取れました。圧勝です。
レースが終わりハーバーバックします。西出入口手前でステアリングを持ちながら、部員にフェンダー・ゲートオープン・シート準備などさせて、桟橋に戻りました。ここから2日間使ったので掃除です。ドッグハウス内の戸締まり、カーテンクローズ、トイレ掃除、デッキをホースとデッキブラシで洗います。1回生部員は初めてなので、楽しんでいます。ここで、「あっ、忘れた」。ドッグハウスのゲートのキーボックスを逆に付け替えます。船の工具を渡して、部員にやってもらいました。ヨット部員は整備を良くするので、これからこういうのが多くなるでしょう。
ディンギーヤードまで戻り、ここで解散しました。バイクに戻り帰路に着きます。帰宅したら家内がいませんでした。大好物のプレーンヨーグルトを400g平らげ、風呂に入っていると家内が帰ってきました。スーパーに買物に行ってたようです。それから、夕食食べながら互いの1日を披露し合い夜が更けて行きました。


2021/7/10
コーチしている大学ヨット部は、この土日に琵琶湖で「インカレ個人戦予選」です。一昨年までならコーチングするのですが、コロナ禍でコーチボートの定員の半分しか乗れないので、熱心な若手コーチが乗るので僕はフリーです。同じ日程で母校ヨット部も関西地区の「インカレ個人戦予選」です。母校から連絡があり、新入生部員をクルーザーに乗せて観戦させて欲しいとのこと。そのドライバーをすることになりました。
「通勤リード110」を倉庫からだし、7:50近所の「セブンイレブン」で、「いつものコーヒー甘さ控えめ1L238円×2=476円+ひねり揚辛子明太子マヨネーズ100円+洋菓子ミックス320円=972円」購入。
R171を走り西宮のホームポートへ。8:15、ディンギーヤードの裏の二輪Pにバイクを置き係留艇へ向かいます。セキュリティーカードでディンギーヤードに入ろうとすると、ゲート前でご夫婦が電話を掛けていました。僕がセキュリティーキーでゲートを開け、ご夫婦とディンギーヤードへ。そのご夫婦を迎えに、母校艇庫お隣さんのコーチが来ていました、「おはよう」。「K大監督です」とご夫婦に挨拶をしていました。レースに部員のご家族を呼んでいるようです。良いことです。ヨット競技ははるか沖合でするので、野球やサッカーのようにスタンドで見れません。船に招待し見せてあげると選手は、なんだかんだ言いながらも頑張ります。女の子は素直に喜びますが、男の子は表面上は「なんで来たん」とか言いますが内心は親に応援されて嬉しくて、よりその競技に力が入ります。監督さんも総監督さんもお子さんがヨットをやっているので親の気持ちがわかりますし、それで選手がどうなるかも知っています。とっても良いことです、一時部員が減って苦しい部の運営をしていましたが、力を付けていくでしょう。僕も、次男の大学にコーチとして呼ばれてから、常にこの気持ちでコーチングしました。親子がその競技で喜ぶと、自然に実力が上がっていきます。一昨年コーチしている大学が40年ほどぶりに全国制覇した時も、僕が用意した船に部員の親を呼んで大勢で応援しました。お子さんが全国制覇する瞬間を共有できて嬉しかったでしょう。親子で生涯の思い出になったと思います。
桟橋へ行き船に乗り、さあドッグハウスの扉を開けよう。・・・キーを回すが、何かが引っかかってキーが回らない。別のキーを出して試すが、同じところで引っかかって止まる。「まずい、マズイです」。扉はアクリルボードで中が見えています。「CRCをキー穴にスプレー」することと、「マイナスドライバーでキーケース自体を外してしまう」の2つの方法を考えました。
ドッグハウスに入れないので船に置いてある工具を取り出せないので、母校艇庫に向かいます。艇庫前では母校部員たちが円陣に座ってミーティング中でした。2Fに上がってみると、女子マネ2人とOB1人がいました。すぐに対応してくれ、工具箱からドライバーを2本見つけました。後輩OBくんがCRCを見つけてくれたので、「ちょっと借りるわ」と係留艇に戻りました。CRCを吹くが物理的に引っかかっているので、予想通り何も改善しませんでした。マイナスドライバー2本使って物理的にキーケースを外し、ドアを外せました。
ドッグハウスに入り、窓を開けカーテンを開けトイレ掃除します。ここで携帯に電話が入りました。「9:40、D旗が上がるので、その頃乗せてもらう部員2人を向かわせます」「OK、今船にいます。準備できたらディンギーヤードに行きます」。メインキーをONにし、エンジンはいつものように一発始動。
ディンギーヤードに戻り、借りた工具を元の位置に戻します。母校はミーティング中でしたがお隣さんはミーティングを終えていたので、監督や総監督と話しました。「KGさんは全日本個人戦の権利6艇全部取りますよ」なんて持ち上げてくれますが、半分の3艇全日本に行ければ御の字でしょう。ホーンが鳴り、D旗が上がり、レース艇が一斉にスロープから出艇して行きます。いつもなら応援合戦になるのですが、コロナ禍で静かです。
部員が2人やってきて、「よろしくおねがいします」「こちらこそ」。2人共1回生で、福岡ジュニア出身の子と、修猷館ヨット部出身のヨット経験者でした。このような有望新人をレースに出さない母校の人材の厚さを今更ながら感じました。コーチしている大学なら、絶対に金の卵だからレース経験を山程積ませます。
船まで来ると桟橋に女子マネージャーがいました。母校「KGスポーツ」の取材部員女子もいます。2人が乗るインフレータブルボートのエンジンが掛からず待っているそうです。「じゃあ、こっちに乗っていく?」と誘いますが、マネさんはインフレータブルのドライバーをするそうで、新聞部員のみ乗せて、1回生部員2人に指示しながら桟橋を離れます。2人共レースを知っているので、レースの見方を説明しなくてもよく観戦が楽です。
第1レースの470上マーク回航は、予想通り母校が上位を占めました。トップ5に4艇・トップ10に5艇(出場6艇)入っています。昨年全日本インカレ2位だったキャプテンくんより前に数艇いるので、部内下剋上があってチームレベルが上がっているようで良い練習が出来ていそう。S級はそこまでは行かないが、マークごとに順位を上げているので応援していて楽しい。
新聞部員に、ヨットレースのことやマークの位置・シャッターチャンスなどいろいろ教えます。ウェブサイトに順次載せており、新聞表紙に載ると部員も喜ぶでしょう。母校最強運動部のアメリカンの事を聞くと、部員には担当運動部があるようで、アメリカン担当ではなく試合を取材したことがないそうです。彼女はヨット部担当だそうで、これから何度も取材してくれそう。朝調子の悪かったインフレータブルボートがやってきたので、2レース目に取材新聞部員をそちらに乗せました。
この日は5レース行われ、470は全日本インカレ個人戦への出場切符6艇中4艇、S級は3艇入っています。明日も頑張って欲しい。レースが終わりハーバーバックし、桟橋に戻り部員たちに指示して船を後にします。ディンギーヤードに戻り解散し、艇庫まで行き、O大GMのKさんがいたので声を掛けあ〜だこ〜だ話しました。
学生艇庫前を通って帰ろうとしたら、手持ち無沙汰そうなご夫婦がおられたので、「お子さんの応援ですか?」と声を掛けました。Ki大の1回生の親だそうです。ジュニアヨットはしていなかったそうですが、中学からヨットを楽しんだそうです。あれやこれや話しハーバーを後にして帰宅しました。


2021/7/4
コーチしてる大学ヨット部は琵琶湖でポイントレースです。母校ヨット部は、インカレ個人戦予選です。1週間前に続き母校の観覧船に呼ばれていたのですが、数日前になってキャンセルになっちゃいました。
10:48セブン緑ヶ丘いつものコーヒー甘さ控えめ1L238円+ひねり揚辛子明太子マヨネーズ100円+ふんわりドーナツ12個298円=686円1週間前に感じたオートパイロットの不具合をじっくり見に来ました。
係留艇に着いてバッテリーをONにして表示を見ます。「STLK FAIL」。「STLK FAIL」を調べたら、「I presume STLK fail means seatalk fail. Seatalk is the 3 pin slighly curved plug that will daisy chain to all other instruments. check all connections.」。と書いてあったので、パイロットスタンド前にある3ピンコネクターを調べましたが、何処が悪いのかわかりませんでした。
前回故障した時は、ステアリングが270度ぐらいしか回らなかったので、それをチェックしました。360度+50度ほど回りました。お隣さんの係留艇ジャヌー37にオーナーさんが来られました。「出るのですか?いい風吹いていますね」と声を掛けます。「思案中です」とのこと。オーナーさんが船底ブラシでフジツボなどを落としています。続いてお一人来られました。お隣さんを見ると、うちの船と同じレイマリンのオートステアリングシステムが付いているようです。
名刺を持ってお隣さんに向かい、「すみません」とオートステアリングシステムの不備を説明し、「ステアリングの回転角度を見せてもらえませんか?」とお願いしました。「どうぞどうぞ」と乗せてもらい、オートヘルムをチェックすると、同じレイマリン社製で型番を同じ「ST4000+」でした。360度+90度ほど回りますが、これは問題なさそう。お礼を言って船から降りて、うちの船のコクピットでコーヒーを飲みながら読書「THE ROTHSCHILD 林千勝著」を開始しました。この本はロスチャイルド家の勃興を書いたとても面白い本で、350ページありますがどんどん読んじゃいます。7月に入って読み始めたのに既に150ページ読みました。
「2時間ほど出ますが、ご一緒しませんか?」とお隣さんから声がかかり、ご一緒することにしました。SW・5m/sほどの良い風が吹いており、メイン・ジェノアをフルセイルにし、ヒールしながら快調に進みます。「関西スナイプ選手権」は土曜日から始まっていますが1レースしか出来なかったので、2日目の良い風でのレースで数多く出来そうです。470級は別海面でレースをしていました。2つの海面の間を通って、赤白灯台の間を抜けて大阪湾に出ました。外では、クルーザーレースをしていました。関西ヨットクラブ主催の「IRC」クラスと「ホワイトセイル」クラスの合同レースでした。
その上マークの西を南に抜け、神戸空港の東海面まで出て、Uターンしました。私がゲストなので、あれこれ私のヨットのことをお話しました。僕と同じ学連ヨット部出身の方もおられ、その話もしました。現役ヨット部にもう顔を出していないようで、やはり大学ヨット部の強さは、OBも含めた総合力だな〜と思いました。
お二人で、川久保教授や井上教授の新型コロナに対する考え方についての話が出ており、私同様現在の日本の新型コロナに対する政府の方針に対する疑問点が出ていました。ワクチンに対する疑問も話されていました。暫定承認中で、まだ承認されていない医薬品を、一部の市区町村が小学生にも打とうとした施策に危機感を持ったようです。PCR検査機器自体に「PCR検査で診断しないように」と書いてあるのに、さも確実な診断方法として指標としていることに疑問を持っておられました。まさに僕と同じ考え方で、素直に厚労省の死者数・危機説明書などを見たら持つ疑問点を指摘されていました。やはりこちらの本職の方々もそう考えているんだな〜と、僕の考えに力を得た気持ちになりました。ロンドンに住む長男の子たちが、現地小学校・幼稚園でのマスク禁止を紹介すると、「そうなんですか」と驚いておられました。さすがに本職、小児科学会での「子供にマスクをすることの危険性」論文の話が出ました。
辛坊治郎さんのサンディエゴ航海の話を出すと、お一人の方は、アメリカの100フィートのセイリングボートに乗ってアラスカまで行ったことがあると話して下さいました。千島列島には寄れないので、アリューシャン列島の西の先端目指して走り、アリューシャン列島伝いにアンカレッジまで行ったそうです。日本からなら、アンカレッジはサンディエゴと同じぐらいの距離だそうです。
パスタとスープをご馳走になったので、帰路では朝買ったドーナツを皆で食べました。
サイズは違うが同じメーカーのボートなので、セイルアップダウンシステムは同じで違和感がありませんでした。ところがハーバー前でのメインセイルファーラーが、タックで引っかかりました。時々あるようで、マイナスドライバーで引っかかりを外すとスムーズにファーリング出来ました。
桟橋に戻ると、当方のボートにHさんがおられました。お礼を言って下船し、船に戻りました。Hさんにオートパイロットの事を聞くと、「やっぱあきませんね、20万ぐらいだから買ってくださいよ。3度修理して復活したから、もう限界でしょう」と言われました。オートパイロットなくてもセイリング出来ますが、少人数やゲストの多い時は必要です。新品に更新することになりそう・・・。
プロ野球「阪神vs広島」戦をラジオで聞きながら、Hさんとバイクの話をして解散しました。バイクに戻り、16時に帰宅しました。朝駅まで送って行った家内が、神戸のホテルで17時まで用事です。18時頃迎えに行くことになりそうです。講習会の司会をするので疲れているでしょう。
自宅でゴソゴソしていて、18時過ぎにLINEが入り、最寄り駅まで迎えに行きました。改札で待っていると家内が出てきました。黒のスーツから細い足がスラリ、車に乗るとスカートが短くなり、ミニからキレイな足が出ていてナイスです。帰宅して互いの今日のお話をしながら夕食を食べました。講習会では、僕の中高の同級生が、「あんないい加減なワクチン打ったらあかん」と言ってたそうです。家内から、「お父さんと同じ考えの人が多くて良かったね」だって。



逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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