-ウェブマスター日記 2021/5-6

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2021/6/30
ずっと走りたかった亀岡の林道を走りに行きます。数度チャレンジしましたが、いつもゲートが閉まっており残念でした。最近、他の方がこのルートを走られたのを見て、「こりゃ、行けそうだ」となりました。
9:12、倉庫から「里山VTR250」を出して出発。9:20「エネジェットセルフ川西SS」で給油しました。192km/5.89L=32.6km/L。r13〜R176〜R423で北上します。亀岡市に入り、道なりにR372〜r403で「JR亀岡駅」前。r25にチェンジし、大堰川(保津川)を渡り、すぐに右折してr401。
枝道に入って、10:36「愛宕道」入口。『ハイカーの皆さんへ 亀岡市内において、豚熱による野生イノシシの死亡が確認されています。感染を拡大させないために入山を控えて頂ますようお願いします。
万が一入山された際の注意点:靴底の洗浄と消毒を行うこと。ゴミなどは放置せず持ち帰ること。  亀岡市農林振興課:0771-25-5094』
『登山三箇条 知ってますか?:遭難者の約6割が60代以上。60代の体力は20代の約6割。年齢・体力に応じた計画、山歩きを。 守って下さい!:登山計画書の作成・提出を。山道の下調べ・事前準備を。 再確認!:遭難の8割が「山道から外れた」こと。地図アプリの活用を』
『寝不足・準備不足・天候不順 無理せずに登山の最終点は「自宅」です』
『愛宕さんへの道 「愛宕さん」の呼び名で親しまれている愛宕神社は、亀岡市と京都市の境に位置する愛宕山(標高924m)の山頂に鎮座している。火伏せの神として多くの信仰を集めると共に、前近代は戦の神としても知られ、織田信長の家臣で本能寺の変の直前に参詣した明智光秀、伊達政宗の家臣で大坂夏の陣での必勝を祈願し、戦後に祈願成就の御礼に絵馬を奉納した片倉重綱(のち重長と改名。通称、小十郎)など多くの武将が愛宕の勝軍地蔵を信奉していた。
この愛宕神社の参詣道がいわゆる「愛宕道」である。愛宕道の名称は、特定の道を指すものではなく、愛宕神社へ通じる道の総称で、東西南北それぞれの愛宕山山麓から複数の登山道が伸びている。例を挙げると、大堰川両岸の村々と愛宕山を描く「亀山城下愛宕参詣道図」(年不詳、亀岡市文化資料館蔵)には、川西の山陰道から分岐して馬路など川東の村々を通り、愛宕山西麓の村へ至る街道が描かれており、そのうち小口村・出雲村・中村・国分村・保津村から愛宕山への登山道が6つある。なかでも小口村・中村・保津村からの道が、他と区別するように太く記されている点は興味深い。
愛宕の神々を信仰して神社へお参りした人々は、愛宕の神様のご利益を持ち帰り、なかには分祀する例も見られた。全国各地の愛宕神社はこのようにして生まれ、現在、北は北海道から南は鹿児島県にかけて約890社が存在する。愛宕の神様が祀られた山は、のちに愛宕山と呼ばれるようになり、こちらも全国に約110座ある。  京都愛宕研究会  参考文献:亀岡市教育委員会・財団法人亀岡市文化財保存会編』
『明智越 保津より嵯峨へ越える峰の道を明智越という。この道は保津町の東方山麓要害の地を占めて、南北朝時代に頭をもたげる保津城の搦手を登り口として緩やかな坂道を登リきると、山道の最高峰、峯の堂に達する。それよリ、見晴らしのよい平坦な尾根伝いの道を行くと鐘撞堂跡、更に下り尾抜道の土用水の霊泉すぎ、水尾から嵯峨烏居本に達する。この間、およそ8km。
明智光秀公、天正10年(1582)5月17日、安土城を去って光秀公の築城した水城坂本城に帰り、同26日秀吉を救援すべく中国遠征の軍を整えるため、公が智謀を傾けて築城した亀山城へ入った。同27日「はた」に山塞を構えた愛宕山次郎坊に属する僧兵(寺侍)に案内されて、愛宕山将軍地蔵に願をかけ、太郎坊の閻を占って運を定め、28日石坊に於いて連歌の師匠絶巴と連歌をよみ神前に納めた。光秀公の発句に「ときは今、天が下知る五月哉」は、公の心境を物語るものとしてあまねく後世に語り継がれている。
亀山に帰った光秀公は6月1日午後10時、15000騎の軍を3段に備えて、北より明智越(神越)、唐櫃越、老ノ坂越の3面より本能寺に向ったのである。
明智越は子供にも老人にもたやすく散策のできる、しかも左右に保津川の渓谷を見下り愛宕山の聖地を望みながら清い空気を五体に吸収しえるハイキングコースといえる。屋根づたいの平坦な道は、歴史の道であり、哲学の道といえよう』
愛宕道に入ります。すぐに、10:39『簾戸口(すとぐち・保津城口)』。『この奥、愛宕神社・貴船神社、妙見さん跡』『伝説民話・保津三狐、山坊の甚五郎住処跡』『右手:保津城跡』『左:空池、右:土取り場跡』。保津城跡の遺構は、堀切や空池だけでしたが、「明智越」沿いにあり楽しめました。
バイクに戻り、愛宕谷川沿いに出て、「林道愛宕谷線」でr50「神明峠」を目指します。前回閉まっていた「愛宕林道」起点のゲートが開いていました。「よっしゃ〜、GO!」。交通量のない沢の水の流れとバイクのエンジン音の中を進み、11:00「愛宕谷夫婦岩跡」。11:10、二連の「溜池」がありました。ここから急坂・急カーブになり、11:17、r50に出ました、「神明峠」。『昭和62年度〜平成2年度 農林漁業用揮発油税財源身替林道整備事業 林道愛宕線 増員300m・延長4120m 事業主体亀岡市』
r50に、「神明峠」の案内板が立っています。『警告 門扉開閉に破損(施錠切断)等の不法行為は処罰する。 鍵などの問い合わせ・連絡場所:保津町自治会事務所・0771-22-0810 保津町自治会・保津山林道保全会・亀岡警察署』
r50を「越畑」の方に向かいます。反対に向けば「JR保津峡駅」。「嵯峨樒原(さがしきみはら)」集落まで来て、「七谷川」沿いを下っていきます。「七谷林道」入口まで下り、林道に下っていかず、右折して分岐道を探索しました。
11:35「桃原池」。大きな溜池でした。「愛宕林道」にあった溜池もそうですが、この地域の関係者しか通らないし知らない場所にこのような大きな溜池がある事自体驚きです。この池に見合うような大きな田畑があるように見えません。
『この記念碑は、府営老朽の溜池整備事業で全面改修し、その竣工を記念して建立する。 総工事費:9381万円 工期:自昭和51年2月〜至同53年3月 工事内容:堤体・余水吐・斜樋底樋の改修 貯水量:128000立方メートル 堤高:136m 堤長:68m 受益面積:590ha 施工:朝日建設株式会社
沿革:文政10年・国分・江島里両村で桃原池を築造し、面積2町9反7畝15歩に地上権設定 安政2年・堤防のかさ置 慶応2年・落し口の石取普請 明治44年・底樋隧道・堤防はがねの新設 大正2年・堤防の一部修繕 昭和53年・全面改修』
更に奥に進みます。舗装路が続くので、r50まで登れるのではないかと期待しましたが、民家が現われ驚きました。平家の隠れ里のように、「知る人ぞ知る」「ポツンと一軒家」です。スルーして奥に進むと二股に別れ、両方とも未舗装になりUターンしました。「ポツンと一軒家」からTVの音が聞こえてきました。廃屋かも?と思っていたので、これまたビックリ。
11:45、「七谷林道」終点まで戻りました。『この先は、林道七谷線です(終点)。この林道は森林施業用の民有林林道です。事故・不法投棄・山火事防止の為関係者以外の車両等の通行はお断りします。 なお、落石・土砂崩れ・路面凍結などによる事故が発生しても一切責任を負いません。  管理者:七谷林業組合・亀岡市』
『七谷林業 幅員:3m 延長:3682m』
この道は関係者以外走れないんだ〜・・・せっかく来たから、1回だけ通らせて頂きます。この林道も、亀岡側の登り口で入れなかったことが2度ありました。こちらも初めてです。
「七谷川」沿いを下ります。11:51、谷底の絶景が見えました。「七谷川野外活動センター」横を通り、r25に突き当り右折。r25を北に走り、12:08「出雲大神宮」。いろんな種類の紫陽花が綺麗に咲いています。桔梗やアザミ・鷺草に似た花も見えます。久しぶりに「引っ付き虫」を見ました。小学生の頃、これでよく遊びました。『重要文化財・丹波国一之宮・出雲大神宮本殿・鎌倉時代末期(元徳年中建立)』。
参道を入っていくと、しめ縄を張った「さざれ石」が鎮座していました。世界一短い国歌「君が代」の歌詞が好きです。『国歌 君が代は、千代に八千代に、さざれ石の巌となりて、苔のむすまで
さざれ石:さざれ石とは細かき石の意で、永き歳月をかけて互いに寄り集まり、大きな巌となったといふ尊きものである。勅撰和歌集・古今集に、「わが君は、千代に八千代にさざれ石の巌となりて、苔のむすまで」と詠まれ、国歌「君が代」の原典となっている。
上代からの巌に神霊が宿るといふ巨石崇拝の信仰と共に天皇の御世を繋ぎ、国民一人一人が力を合はせて、国づくりを成してゆく修理固成といふ国家建設の理念をも現はしている。  平成29年酉年10月吉日 伊弉冊神宮宮司・本名孝至謹書』
境内に花を敷き詰めハート型にしたものや、手水舎の花びらが浮かべられ、インスタ映えポイントが用意されていました。
参道横に池があり、弁天さんがありました。『末社・弁財天社 御祭神:市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト) 御由緒:市杵島姫命は天照大御神と素戔嗚尊が高天原の天真名井(あめのまない)で誓約(うけい)をされたとき、お生まれになられた三女神の一神にして、宗像三女神として九州福岡県の宗像大社辺津(へつ)宮に杷られる女神である。海の神・航海の神・道案内の神として崇敬されると共に、弁財天として芸能守護・財運守護・女性守護の女神である。
御神徳:芸能守護・女性守護・美容守護・財運守護 祭典日:月次祭毎月23日御斎行』
『出雲大神宮由緒 当宮は大国主命とその后神、三穂津姫命御二柱の御神格を併せて主祭神と称え祀り、丹波國に御鎮座なされています。(他に天津彦根命・天夷鳥命を祀るという説もあります)。殊に三穂津姫命は天祖高皇産霊神の娘神で、大国主命国譲りの砌、天祖の命により后神となられました。天地結びの神、即ち縁結びの由緒は叉ここに発するもので、俗称元出雲の所以であります。日本建国は国譲りの神事に拠るところですが、丹波国は恰も出雲大和両勢力の接点にあり、此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当宮です。古来大平和の御神意に拠り、国と国人総ての結びの大神を祀るとして上下の尊崇極めて篤く、崇神天皇再興の後、社伝によれば元明天皇和銅2年(709)に初めて社殿を造営。現社殿は鎌倉末期の建立にして(旧国宝・現重要文化財)それ以前は御神体山の御陰山を奉斎し、古来より今尚禁足の地であります。又御陰山は元々国常立尊のお鎮まりになられる聖地と伝えられています。
社名:正しくは出雲大神宮、千年宮、出雲神社
社殿造営:元明天皇和銅2年(709)10月21日(現在は例祭を斎行)
神階:弘仁9年(818)名神に預かる。「日本紀略」弘仁9年12月乙丑条 承和12年(845)無位より従五位下を授けられる。「続日本後紀」承和12年7月辛酉条 貞観14年(872)従四位下より従四位上。「日本三代実録」貞観14年11月29日条 元慶4年(880)正四位下。「日本三代実録」元慶4年6月21日条 延喜10年(910)正四位上。「日本紀略」延喜10年7月23日条 正応5年(1292)正一位。「西園寺相国実兼公日記」正応5年12月2日己丑条
延喜の制:名神大社
明治の制:国幣中社
万寿2年(1025)、日照りが続き農作物に影響が出た為、当宮の領家職西園寺家は留守所に仰せて雨乞いを祈祷せしめたところ、忽ち雨が降った(「左経記」万寿二年七月一日条)事から御神威。いよいよ顕らかに、正応5年(1292)には正一位に昇る。その間、国司巡拝の定着化を背景に、丹波国一宮となり、丹波国司や荘園本所領家の尊崇を集める。
摂末社:古は三十六ヶ所あったが兵火に失われ、現在は上の社、黒太夫社、笑殿社、春日社、稲荷社、崇神天皇社あり
神宮寺:明治4年出雲極楽寺に借地移転する。 現在の十一面観世音菩薩像は重要文化財
例祭:10月21日(社殿造営の由緒による)
私大祭:4月18日 当日無形文化財風流花踊奉納
古墳:横穴式 5世紀〜6世紀前、前方後円墳車塚古墳は当宮由縁の口碑あり。推定は成務天皇代』
夫婦岩がありました。『真名井のいずみ 古来より絶えず流れ続ける真名井の水は大神様の御恵みであり、その大御蔭を頂いて田畑が潤い、秋には山吹色に色づいた稲穂が収穫される事から、その水は自ずと御神水と奉られてきました。
「千年山これやむかしのさされ石いは、ほにふかき苔のいろかな」
これは宗尊親王が詠まれた和歌ですが、藤原為章によれば、古歌や旧記に載す千年山とは御影山を指すとしています。 御神体山中の静けさに響く清らかな御影の瀧の水音を聞けば、自ずと神聖さを感じずにはいられない事でしょう。  丹波国一之宮・出雲大神宮』
拝殿や本殿は檜皮葺屋根が美しい。拝殿には四方に御簾が下げられるようになっていました。本殿板塀に、「天皇皇后両陛下・御幣饌料」と書かれた木札が、平成20年10月31日・平成21年11月18日・平成22年3月25日・平成24年12月3日・平成28年10月23日・平成31年3月25日・・・多数立っていました。
『出雲大神宮のオガタマノキ 樹種:オガタマノキ(モクレン科) 所在:亀岡市千歳町出雲  暖地生える常緑高木。京都府には自生種はまだ見つかっていない。オガタマというのは招霊の意といわれ、神事に用いられてきた。花は香り高く、主に神社に植えられている。
初代のオガタマノキは樹齢1500年以上と推定され、2010年までこの地にあった。この木はその子孫で、大本へ開教100年の折に贈られていたが、2012年3月に里帰りした2代目である。この木は参拝者に神徳を与え、人々に幸福を授くと伝えられ、神宿る木として崇められている。 3月中旬〜下旬に可憐な白い花を付け、10月に赤い実をつける。
(初代オガタマノキ資料 調査日:1996年1月29日) 胸高幹高1.55m 樹高15m「亀岡の名木」116ページ所載  亀岡市(公財)亀岡市都市緑化協会』
神官が茅の輪を用意しておられました。『茅輪(ちのわ)神事とは 茅輪をくぐることで罪獄れを祓い、心身の清浄を祈念する神事で、夏越の祓とも言われています。
水無月の夏越(なごし)の祓(はらえ)する人は、千年の命延(の)ぶというなり(「拾遺和歌集」)
右記の古歌を歌いながら、茅輪をくぐり抜けると、悪疫諸災から免れると伝えられております。
茅輪のくぐり方:茅輪の正面に至り軽く頭を下げる順次輪を左足からくぐり越えて左へ廻る。 次いで再び正面に至り順次輪を左足からくぐり右へ廻る 次いで更に正面に至り順次輪を左足からくぐり左へ廻る』
『皇祖より壱萬年以前 大八州国国祖神社(おおやしまのくにくにのみおやのじんじゃ) またの名而して御神体山御影山は、国常立尊の神蹟なり。出雲姫年久しく奉仕する。出雲姫薨じて三穂津姫命と謐される』
『徒然草(皇紀1990年頃・西暦1330年頃) 鎌倉末期、或は室町初期に、兼好法飾により著された「徒然草」の236段には、出雲大神宮の事が記載されています。丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。しだのなにがしとかや、知る所なれば、秋のころ、聖海上人、そのほかも、人あまた誘ひて「いざたまへ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて、具しもていきたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。御前なる獅子・狛犬、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深き故あらん。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝のことは御覧じとがめずや。むげなり。」と言へば、おのおの怪しみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言ふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられやう、定めてならひあることにはべらん。ちと承らばや。」と言はれければ、「そのことに候ふ。さがなきわらはべどものつかまつりける、奇怪に候ふことなり。」とて、さし寄りて、据ゑ直して往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり』
裏山は御神体なので禁足地です。歩いて入れる最深部に磐座があり、そこに参るためには、社務所で申込みが必要です。社務所にその旨を告げ、名簿に住所氏名を記入すると、「100円お収め下さい」とのこと。「お持ち帰り用たすきですので・・・」と、白紙のたすきを授かり、それを首から下げて山に入ります。
『末社・崇神天皇社 御祭神:崇神天皇(第10代天皇スジンテンノウ) 御由緒:第10代崇神天皇(御真木入日子印恵命・みまきいりひこいにえのみこと)は大和三輪山麓の磯城瑞離宮・しきみずかきのみや)を都とされ、即位の初めに神鏡零剣を倭笠縫村(やまとかさぬいむら)に遷し天照大御神を祀ると共に、国家と神社の制度を整えられ、産業を興し交通を整えて国民の福利を進め、大和朝廷の基盤を確立された数々のご事績から御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称された聖帝です。 崇神天皇ぱ丹波の国を平定され、当宮を創建されました。
御神徳:国家安泰・産業守護 祭典日:月次祭毎月14日御斎行』
山中に社殿が点在しているようです。「上社」に参ります。『神の磐座参拝の方へ(入山受付時間:午前9時〜午後4時) 御神体山「御影山」の磐座群に国常立尊様が御鎮座されています。此れより先、神域なる神奈備山の磐座がございます。 ご参拝の際は、必ず社務所にて受付を済まされ、たすきをお受けになり入山してください。また、下山の際は、たすきを社務所までご返却下さい。  出雲大神宮社務所』
注意書きの鳥居をくぐり、山中の道を歩き、「磐座」に参ります。『亀岡の名木30-17 出雲大神宮のヤマトアオダモ(雄) 樹種:ヤマトアオダモ(モクセイ科) 所在:亀岡市千歳町千歳出雲  落葉高木。本州(青森県)・四国・九州の山地の渓流沿いなどに生える日本固有種。別名、オオトネリコとも呼ばれ、花期は4月〜5月ごろ、雌雄異株で花は葉の展開と同時期に咲く。花弁はなく、おしべ・めしべを尊が支えている。 普通ヤマトアオダモは直立して生えるがこの樹は大きく傾き、横向きに生長し、特異な姿を呈している。
調査日:2017年3月14日 幹周1.26m 樹高25.6m 「亀岡の名木2・98ページ所載  亀岡市(公財)亀岡市都市緑花協会』
『「御神座」御磐座群 この磐座群は、御神体山「御影山」に鎮まる国常立尊(くにのとこたちのみこと)の象徴として皇祖より1万年以前からこの地に鎮まっております。 伝承によりますと、國常立尊は丹波国の桑田の宮に天の御舎を立て、ここにお遷りになられたことが述べられております。
今尚、禁足の地であるこの磐座は、まさに國常立尊の聖蹟であると伝えられます』
下って、『摂社・上の社 御祭神:素戔嗚命・櫛稲田姫命  御由緒:素戔嗚命は、伊弉諾尊が筑紫の日向の橋の小戸の阿波岐原(あわぎはら)に禊ぎ祓い給う時に生まれられた三貴子の一神にして、櫛稲田姫命と夫婦になられた厄災を祓う英雄神であり、夫婦和合の神である。牛頭天王・武塔神などとも呼ばれる。御神徳:厄災解除・夫婦和合・国家安泰 祭典日:月次祭毎月14日御斎行』
『末社・稲荷社 御祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) 御由緒:宇迦之御魂神は稲の精霊が神格化された神で、御名の宇迦は食(うけ)と同じ意味で食物の事をさし、五穀・全ての食物を司る神である。 稲荷大明神として崇敬されると共に、五穀豊穣・商売繁盛・開運招福・念願成就の霊験あらたかな神である。
御神徳:五穀豊穣・商売繁盛・家内安全 祭典日:月次祭毎月23日御斎行』
『末社・春日社 御祭神:建御霊之男神(タケごカヅチノカミ)・天児屋根命(アメノコヤネノミコト)  御由緒:武甕槌命は天変地異に優れた神にして、また雷、地震の神とも言われ、地震を制御する役割を担っているとされる武神である。 天児屋根命は高天原で専ら祭祀を司る興台産霊神(こととむすびのかみ)の御子神にて、天照大神が天の岩屋戸にお隠れになられた時、その出現を請い、美声によりて祝詞を奏上された御神なり。
御神徳:開拓開運・武道守護・学芸向上・勉学守護 祭典日:月次祭毎月14日御斎行』
『大国恵美須社 社殿創建1305年を記念し、伝統工芸信楽の二像をお祀りいたしました。 御祭神・大国主命は縁結びの神様、七福神の恵比須様は笑殿殿社に祀られている事代主命商売繁盛の神様です。 参拝される皆様がいつもこの二柱の神様のお顔のように、にこやかに幸福な日々を過ごされます事を御祈念します。  平成26年6月8日建立』
バイクに戻り、r25を北に走り、R477に合流し「大堰川」を渡り、「八木」でR9に突き当り、左折してR9を南に走り、すぐに右折してr452に乗り「JR山陰線」を渡ります。細道を抜け、r73に突き当り、右折してr73を走ります。
13:19「献上米の碑」。『京都府南桑田郡宮前村・森修一郎 精米 右献穀新嘗祭之節、御供進被為在候事 大正8年11月25日 宮内省』
少し戻って、13:21「亀岡市交流会館」。「森のステーションかめおか」に入ります。ボルダリングの施設がありました。この周辺は、天然砥石の大産地です。「天然砥石館」を見たくて入ったのですが、木金土日しか開いていないようで閉館していました。
r73を進み、丹波篠山に入りR372を渡り、旧山陰道を西に走ります。R372と合流し少し走り、左折してr453で南下します。r54に乗り、「るり渓」を通り抜けます。「るり渓温泉」Pにも多くの車が停まっていました。r731にチェンジし、R173に向かいます。
「深山」山頂に向かう道野ゲートが開いていました。バイクを止め、「上がれるのかな?」とゲートを見に行くと、『SAVE A HORSE RIDE A COWBOY』『遊馬らんど グラスホッパー大阪深山 入口』と書かれていました。ホースライディングクラブが出来たようです。でも、これでまた深山山頂に登れそうです。
R173に突き当り、左折して一気に南下し、14:39帰宅しました。


2021/6/27
先週に続き、次男のジュニアヨット時代のライバルのお父さんから、レースに誘われたので琵琶湖湖西「和邇」に向かいます。当初は、先週同様バイクで行こうと思っていましたが、天気がイマイチで雨が振りそうなので電車で行くことにしました。10時和邇駅でピックアップをお願いしていましたが、朝4時頃からゴソゴソしてすることがなくなったので7時に出発しました。軽く雨が降り出したのでカッパを来て「通勤リード110」で駅に向かいます。
7:24「セブンJR伊丹店」で、「味付け海苔エビマヨネーズ126円+ゆずれもん
500ml93円=238円」購入。ICOCAに30000円チャージして電車に乗りました。JR尼崎駅から、湖西線利用の新快速が来たので、これで一気に湖西「堅田駅」へ。乗り換えて「和邇駅」に着きました。まだ9時で、ヨットハーバーまで1.5kmなので歩くことにしました。小さなロータリーに出るとタクシーが2台止まっていたので、タクシーに乗っちゃいました。590円。
Yさんが既に来られており、Yさんの船も出されていました。Yさん・ハーバー職員さんと軽くお喋りして船に上がり艤装を始めます。僕が母校ヨット部コーチをしていた時の選手だったHくんもこのハーバーで船を置いていると先週聞いたので、名刺をハーバー職員さんに渡し、Hくんが来た時に渡してもらうようお願いしました。メインセイルをレース用にチェンジしました。ジブをセットし、ジェネカーのシートも用意します。一応用意ができたので船から降りてお喋りしていると、Iさんが来られ、再び船に上がり、ジェネカーもセットしました。
船を下ろしてもらい、乗り込んで出発。Iさんがヘルムスです。風がほとんどなく、スタート時刻11時には当方しかスタート海面に着いていませんでした。10分遅れでスタートしました。当方はジェノアの練習をしていたスタートラインまで戻れず送れてスタート。4艇スタートでいきなり3番です。他は24フィート艇ですがこちらはハイパフォーマンスボートなので上り角度が良く、1上マーク中盤で追いつきました。一旦トップに出ますが、ブローのある右海面に行ったのが裏目で、スターボになってマークに向けるとベアが入る逆ブレで1上マーク2番回航。
トップ艇はスピンなしで、こちらはジェノアを上げて追い抜きました。でもまた風がなくなってしまい、角度をとって走らないといけないHPBゆえ、スピードはあるが下れないので、下マークが遠い。スピンを揚げた3番艇に追いつかれ、3艇ほとんど同じになりました。ジェネカーを下ろし、メインセイルだけど下して走り、1下トップ回航。2上トップでまたジェネカーなしで2下マークを目指しますが、中間にあるフィニッシュラインでコースショートになりトップフィニッシュ。
風がないのでこれで終わりかな?と思ったら、風待ちになりました。レースコミッティーからは、「15時なれば風が入りますから・・・」とのことですが、まだ1時間半もあるよ。雄琴ハーバーからやってきた2艇が加わりました。少し風が入ったタイミングで第2レースがスタートしました。上マークはアビームです。今度はジャストでスタートしトップで第1マークを目指しましたが、また風がなくなりました。Iさんから「リタイヤして帰りましょか」。エンジンを下ろして、ハーバーバックしました。当方に続き、次々にエンジンスタートでハーバーバックしました。1番に陸上に上げてもらい、解装してクラブハウスで一息しました。2番だったブルーボトムのオーナーさんがおられ、「紅茶飲みますか?」とお呼ばれしました。Yさんに「和邇駅」まで送ってもらい、帰路に着きました。ああ楽しかった。


2021/6/26
母校ヨット部のレース観覧船として先輩たちと共同運用しているクルーザーを出すことになりました。琵琶湖に大学ヨット部レースのコーチングに行く予定でしたが変更しました。関西水域の強豪校の様子見もあります。ここ数年、母校の1強なので今年もそうなのか・・・
倉庫から「通勤リード110」を出し出発。8:34、近所のセブンで、「ソフトせんべい塩味178円+いつものコーヒー甘さ控えめ1L238円+ひねり上げ辛子明太マヨネーズ100円+味付け海苔辛子明太子140円=708円」購入。R171を西宮に向かいます。9:03「セブン西宮マリナパーク店」で、「ポリ袋黒45L10P178円」を購入しました。クルーザーのトイレ用袋がなかったので用意しようと思っていたので忘れました。店員さんに聞くと、45L以上のしかなく仕方なくこれで・・・。
ハーバーに着き、係留艇に向かいます。9:30集合20分前に着いたのに誰か来られています。Hさんかな?と思ったら、S先輩でした。年齢を重ねると早起きになるので、暇なので来られたのでしょう。早めに行って空気の入れ替えをしておこうと思ったのに、先輩が既にされていました。トイレを掃除しました。Hさんが来られると思いましたが、本日はSさんと2人のようです。
バッテリーメインスイッチをONにし、エンジンスタート。一発始動しました。すぐに、母校ヨット部員が3人来ました。2回生マネHさん1人と1回生選手Sくん・Fくん2人です。HさんとSくんはKG系列高校出身で、授業土曜講座でヨットを取っていたそうです。Fくんは横浜のサレジオ学園出身だそうで、甥と一緒です。1回生部員は女子マネさん1人を含め10人入部したそうです。
しばらくしてマネさんは艇庫に帰っていきました。買ったコーヒーを皆に振る舞いリラックス。船に来る前ディンギーヤードにトイレに寄った時、ちょうどレース前ブリーフィングが始まりました。レース委員長は、僕が母校コーチ時代の選手Tくんでした。コースは上下ソーセージで、最初は風待ち予定と言っていました。
マストトップを見上げると、風向は南西になっています。早く入ってくると良いけど・・・。部員相手にあれこれ喋っていると、S先輩から「沖に出よか」との指示。Sさんドライブで僕が部員を指示し、係留ロープや電源ラインを外し出艇。東出入口からハーバーを出て、部員にドライブさせました。交代で運転させながら、東灘の海上自衛隊阪神基地に向かいます。風が出ればジェノアを展開しましたが、すぐにブローが切れてしまい残念。掃海艇が2艇停泊しており、隊員が数名甲板に出ていたので3人揃って敬礼しましたが、無視されちゃいました。
Uターンしてレース海面に戻っていると、レース艇がハーバーから出て来ました。ちょうど本部船がレース海面に着くタイミングでこちらも着きました。ここからはS先輩のドライブです。母校は470級7・S級6艇出場のようです。
1レース目が始まりました。S級のスタート後1上マークに向かっていると、470の1上回航が遠くに見え、トップがダントツのようです。トップ4が母校のようで、トップ10に6艇回航し、今年も1強かも・・・。2レース目からステアリングをSさんと交代し、4レース目までドライブしました。途中パラパラと雨が落ちる時もありましたが、傘が必要な程ではなく、暑いのでむしろ歓迎です。
4レース目の470第2上マーク回航後、レーストップ艇と並行してフィニッシュに戻ると、本部船にAP/Hが揚がっていました。ドッグハウスに入り着替えておられるS先輩に、「フィニッシュまで来ました。AP/Hですわ、レース終わりのようです」と報告すると、「ほな帰ろか」の指示。ハーバーバックします。部員に、帰るまでの段取りと、桟橋到着時の手順を伝えます。
ハーバー手前まで来ると、「ほな代わろか」とS先輩から。桟橋に着くと、「よっしゃ行け」と部員2人を下ろし僕も降ります。前後の係留ロープを取りに行かせ、僕は中央で船を持ちながら指示します。桟橋側係留ロープをバウ右側のロープを船に結び、僕はドッグハウスに入り帰り支度をして荷物を桟橋に下ろします。
この2日間は、元は関西インカレ個人戦でしたが、緊急事態宣言で練習できなかった大学もあり延期になりました。そこで、ノンタイトルのレースになりました。レース結果は、470が1・3・4・6・9・18・20位がKGで、2近大・5関大でした。S級が2・3・6・12・14・23位がKGで、1大阪・4近大・5近大でした。団体戦を考えれば、KG1強のようです。


2021/6/20
次男のジュニアヨット時代のライバルチームの子のお父上Yさんからセイリングに誘われ、琵琶湖に向かいます。集合時間11時なので余裕があります。湖西の寺社巡りをしましょう。
倉庫から「招き猫CB400SB」を出して、6:06出発。R171〜中央環状道路で、6:21「中環豊中SS」で給油。206km/8.5L=24.2km/L。併設の「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「伊藤園ミネラル麦茶670ml120円+味付け海苔辛子明太子140円=280円」購入。「吹田IC」から名神高速に乗り、「京都東IC」で下車し、「湖西道路」へ。「坂本北ランプ」で下車し、湖西道路の側道を走ります。
左折し、7:30「梅宮神社」。『参拝行事ご参加について 1、自分の願いを(何でも可)短冊に書いて、笹に吊るして下さい。 2、社務所前に設置致しましたつくえを利用して短冊にお書き下さい。 3、願い事が叶うように、心を込めてご参拝して下さい。 4、笹が古くなったり、吊るすところが無くなれば随時入替し、古い物は保存の上ご縁日に焚き上げさせて頂きます。  梅宮神社』
『梅宮(うめのみや)神社由緒 御祭神:大山祗神(酒解神・さかとけのかみ)酒造祖神・山神の総統、木花咲耶姫命・このはなさくやひめのみこと(酒解子神・さかとけこのかみ)子授け・安産の守護神、瓊瓊杵尊・ににぎのみこと(大若子神・おおわくこのみこと)天孫・三種の神器を携え降臨、彦火火出見尊・ひこほほでみのみこと(小若子神・こわくこのみこと)初代神武天皇の祖父神 摂社:天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) 神紋:橘
当社は、鎌倉時代第92代伏見天皇の正応5年(1292)5月に京都洛西・梅宮神社(現在の京都梅津梅宮大社)の4柱の神を勧請し、当時衣川村一帯の官領であった猪飼道盛により創建され、子授け・安産をはじめとして酒造・縁結びの神として崇められてきました。
室町時代、近江守護・佐々木高頼夫人が、子のできないことを憂い当社に祈願したところ、御神徳によりたちまちのうちに御子を身ごもられ安産されました。ご宿願が達せられたことから明応8年(1499)に社殿の再建がなされ、以来、志賀梅宮大神と称され、子授け・安産を願う多くの人々の詣でるところとなりました。当社は、日本で最初に酒を造られた酒造祖神・酒解神を祀るところから醸造業(酒・醤油・麦酒等)に携わる人々からも崇敬を集め、また山神の長・大山祗神の座す神社として山林業・土木業に関わる人々にも崇められております。
梅子石(うめこいし)子授け・血脈相続の神石:神殿の子宝石「梅子石」は、男石と女石の一対からなる夫婦石で、京都梅宮大社の神石「またげ石」の姉妹石であります。この石を夫婦で抱くと子宝に恵まれるといわれる所以から、産め子石や生め子石とも表されております』
社殿の左側に橘の木が植えられていました。『橘の樹の由来 橘は、古来より日本の柑橘類の総称とされている。 この橘(日本橘)は蜜柑の原種的な樹で、香りが高く常緑で、冬でも美しい黄金の実を結び、古くから広く食用・薬用に用いられている。
万乗集に「橘は、実さへ 花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常棄の樹」と詠まれている。
梅宮神社が橘を社紋とするのは、橘を家紋としていた橘氏の租、諸兄公の母により創建されたところに由来する。 宮中では、紫宸殿の南階下の西に橘(左近の橘)を、東に山桜(右近の桜)が植えられ、多くの神社がその例にならっているが、梅宮神社は桜のかわりに神社の名にちなみ、梅の樹(天満宮も同様)となっている。 この橘の樹は、京都梅宮大社から移植したものである』
『子授け・安産・縁結び(子孫繁栄・良縁成就) 撫で石(なでいし) 旧くから、こび地域を見守ってきたこの石は、神殿の子宝石「梅子石」とつながっており、撫でると願いが叶うと謂われています。
子授け・安産・縁結びなどの御利益にあずかり、この石の年輪のように幸せが積み重なることを願いながら、石を撫でてお詣りください』
バイクで少し走り、7:40「衣川廃寺跡」。『国指定史跡・衣川(きぬがわ)廃寺跡 衣川廃寺は、7世紀に建立された古代寺院です。堅田丘陵の東端、琵琶湖から西へ約900m、標高約106mの所にあり、琵琶湖水面との比高は約20mを測ります。昭和50年に最初の発掘調査が行われ、昭和52年に国史跡に指定されました。史跡の整備は、平成6年より始められ、その時にも整備に伴う発掘調査が再度行われています。
史跡地のほぼ中央西よりと南半部東よりに版築によって築かれた2つの建物基壇は、それぞれ金堂と塔の基壇に推定されています。南側の斜面には屋根瓦を焼いた瓦窯(かわらがま)が築かれています。また金堂基壇の下からは寺院造営に関係する工房と考えられる竪穴遺構が見つかっています。衣川廃寺から出土した軒丸(のきまる)瓦の文様には、単弁蓮華文(たんべんれんげもん)や複弁蓮華文、忍冬文(にんどうもん)などいろいろな種類のものが認められ、衣川廃寺の特徴の1つとなっています。その他には塔のミニチュアである瓦塔(がとう)も出土しています。
衣川廃寺は、古代寺院がどのようにして作られていたのか、仏教が日本に伝来して各地方へどのように広まっていったのかを考える上で重要な遺跡です。  大津市教育委員会
所在地:大津市衣川2丁目 指定年月日:昭和52年3月8日 指定面積:2832平方メートル』
『衣川廃寺の建立過程 衣川廃寺は丘陵の先端部に造られています。そのため、最初に北側の斜面地を造成し、敷地を整えたあと、金堂基壇の工事に取りかかるとともに南西斜面には瓦窯を築き、屋根瓦が次々と生産されました。塔基壇の工事を進めつつありましたが、塔は当初の計画どおりには完成しなかった可能性があります。また、新たな堂塔の建設を見ることもなく、寺院の建立は何らかの事情で中断したようです。その後は、小規模ながら宗教的な一面を覗かせていましたが、平安時代の終わり頃には廃寺となりました。江戸時代にいたって、この地は黄檗山万福寺の末寺である龍瑞寺の墓地として利用されました』
『塔基壇 この基壇は、平面形が正方形を呈し、塔を建てるために築かれた基壇と推定されます。基壇は、版築という、少しづつ土を叩きしめながら盛り上げていく土木技術によって強固に築かれています。調査では50cm程、こうした版築の土層を確認しています。
基壇の周囲は特別な外装を施すことのない簡素なものです。基壇上面からほ、中心柱の台石である心礎(しんそ)や周囲の礎石などは見つからなく、どのような塔が建っていたのかはわかっていません』
『金堂基壇 この基壇は、東西約18m・南北約15mのもので、南を正面とした横長の建物があったものと思われ、伽藍の位置とその形状から、金堂の基壇に推定されています。塔基壇と同様に版築不法によって築かれ、基壇周囲の包装もありません。
基壇上からは、礎石を安定させるための根石の痕跡が見つかり、ここに礎石が置かれていたことが知られますが、礎石自体はすでに失われており、調査によってその位置が確認されたものについて復元してあります』
『金堂基壇の築成 基壇は、その上に建つ堂塔をしっかりと安定させるため、強固に造らなければなりません。金堂基壇は整地のための盛土の後、土を叩きしめながら土盛りする版築によって築かれました。版築工法にも1層の単位が比較的厚い下層のものと、薄く細かい上層のものの2種の工程があります。
また、金堂基壇北辺の一部では、瓦と石を敷き詰めた遺構が見つかっています。基壇築成過程の一部、もしくは基壇裾に敷かれたものとも考えられます。この遺構が基壇裾になるものとすると、金堂基壇の北東部分は2.3m以上の高さをもつものとなります』
『衣川廃寺の出土品 衣川から古瓦が出土することは古くから知られていました。最初に発掘調査が行われたのは昭和50年で、このときの調査によって衣川廃寺の重要性が改めて認識され国史跡に指定されました。そして平成6年から衣川廃寺を史跡公園として整備するため、再度発掘調査が行われました。
これらの調査ではたくさんの遺物が出土しています。その大半は瓦類です。軒丸瓦には蓮の花弁を模した蓮華文などの文様が付けられています。衣川廃寺出土の軒丸瓦には、単弁のもの、複弁のもの、忍冬文のものなどいろいろな種類の文様があります。また、塔跡周辺からはミニチュアの塔(瓦塔)の破片が見つかっています』
『金堂基壇の版築 寺院などの建物は立派に見せるため、一段高く土を盛った基壇の上に立てられます。基壇の築成は瓦葺きの重たい建築物を支えるために強固に築かなければなりませんでした。そのため、少しずつ土を突き固めながら築いていく版築という方法がとられています。この剥ぎ取り資料は、推定金堂基壇のほぼ中心を、西(山側)から東(琵琶湖側)の方向に切り、その土層を剥ぎ取り転写したものです。傾斜している土地をならすための盛土の後、版築を行った様子が、きれいな縞の模様のように見えます』
『史跡衣川廃寺跡 587年に、日本で最初の寺院である飛鳥寺の造営が開始され、その後、仏教は各地域へと広がっていきました。その波は近江にも及び、ここ衣川の地に、近江でもいち早く寺院が建立されました。文献などの記録が残っていないこの寺院は、衣川にあった逸名の寺院と言う意味で衣川廃寺と名付けられました。
衣川廃寺では、本尊を安置した金堂、仏舎利を納めた塔が建てられていたと推定される2つの建物基壇、建物の屋根に必要となる瓦を焼いた瓦窯がみつかっています。また推定金堂基壇下から見つかった竪穴遺構は寺院造営に関係する工房ではないかと考えられています。  昭和52年3月8日 国史跡指定』
r558に戻り北に少し走り、右折して今度は琵琶湖側に向かい、7:53「妙盛寺」。『南(な)んの不足も今日一日は、誰も言うまい朗(おお)らかに。無理な仕事も今日一日は、みんな精出せ社会のために。阿(あ)すにのばすな今日一日は、御恩報謝で働こう。弥陀の子ちゃもの今日一日は、慈悲と菩提の種を蒔け。陀(だ)れの前でも今日一日は、和顔愛語(わげんあいご)で親切に。佛(ぶつ)ほとけの教えで今日一日は、清く正しく生き抜こう』
『天正山妙盛寺・天台真盛宗 天正元年(1573)妙盛比丘尼在住より堅田は、琵琶湖の最も狭くなった湖上交通の要所であり、かつ比叡山横川の麓にあたり、古い歴史を持つ地域である。寛和元年(985)恵心僧都源信が「往生要集」を表し、正歴6年(995)堅田の浮御堂を開基したと伝えられ、また寛弘7年(1010)堅田の柳田、現妙盛寺を開基したと云われている。
本尊は、木造阿弥陀如来(1240〜1250年頃)で「鎌倉時代の院派」の作である可能性がある。 この地域は、戦乱が多かった為か、現在でも、それほど古像が現存していないその中で、鎌倉時代の造像になる本像は貴重である。
天正山妙盛寺は、天正元年(1573)に建立されたと伝えられているが、源信開基以来560年もの間、堅田の諸民の加護を得て守り伝えられたところ、谷口在の西勝寺(当時は尼寺)から尼僧のお弟子が代々往持しに来られていたようだ。天正元年(1573)は、妙盛比丘尼という尼僧が来られ、天台真盛派の寺院として、今日に伝えられることとなった。また、堅田守護堀田兵部の守が帰依し、寺紋も堅田の御家紋であることから、その昔をしのぶことが出来る』。朝早すぎたのか、境内に入れず残念でした。
枝道を少し走り、8:08「祥瑞寺」。『朝茶飲む、僧静かなり、菊の花。 芭蕉翁は、元禄3年(1690)の秋に、ここ祥瑞寺を訪れました。 早朝、お勤めを終わった禅僧がひとり静かにお茶を飲んでいます。 「僧静かなり」ということばからは、日々の厳しい修行に培われた僧の静かな心境が伝わって来ます。 「菊の花」は、庭に咲いている菊の景色とともに、秋の朝のさわやかな気配を表しています。  大津市』
杉苔の美しいお庭で、禅寺らしい落ち着いた雰囲気が漂っていました。かつては周囲にお堀が巡っていたのか、その名残りがあり、紫陽花が咲き誇っていました。一休和尚が修養された地と彫られた大きな石柱が立っており、当時この地の中心の寺院だったのが想像されました。なんとなく、戦時の住民の集合地というか駐屯地が想像されました。
少し走り、8:20「居初氏庭園」。『国指定 名勝居初氏庭園(天然図画亭庭園)』
『国指定・名勝居初氏(いそのし)庭園(天然図画亭庭園)大津市本堅田2丁目 居初家には、天然図画亭と称する建物と庭園があり、天和元年(1671)頃に、千利休の孫にあたる千宗旦の門人・藤村傭軒(ようけん)と、堅田郷士の北村幽安(ゆうあん)との合作で出来たものと伝えられています。
天然図画亭は、茅葺入母屋造で、広い廻縁を取り入れ、内部には書院形式の茶室があります。庭は飛び石、あられ敷と大刈り込みを巧みに取り入れた枯山水庭園です。庭の東側の借景には琵琶湖の湖面が広がり、その対岸には三上山(近江富士)をはじめとする湖東の山並みが見られる。いわゆる借景の構成となっています。 昭和56年6月11日に国の指定文化財になりました。  大津市教育委員会 昭和63年11月』
こちらも朝早いからか閉まっていました。湖岸側にまわり庭園を覗きましたが、お庭に面して縁側があり、あそこに座ると湖面が広がり、東からの風が吹くと気持ち良い昼寝が出来そうです。堅田は、京都に向かう北からの水運が目の前を通り、琵琶湖の水運を牛耳っていた湖族の本拠地です。居初氏は、代々威勢を奮っていたのでしょう。
また少し走って、8:30「出島(でけじま)灯台」。小さな水路を挟んで「レークウエストヨットクラブ」と「杢兵衛(もくべえ)造船所」がありました。杢兵衛さんのお子さんは、次男と同じ世代で、ジュニアヨット仲間でした。長男さんとは高校で同じ学校になり、インターハイではチームを組んでいました。世代的にその子が会社を動かしているのだと思います。琵琶湖汽船の外輪船ビアンカを造った造船所です。杢兵衛さんも堅田の湖賊の末裔です。
『大津市指定文化財・有形民俗文化財 出島の灯台1基(大津市今堅田1丁目)琵琶湖の最狭部に位置する今堅田の岬の先端に、明治8年(1875)に建てられた、他に類を見ない木造の灯台です。 高床形式で、四隅に立つ4本の柱と、中心に立つ支柱の計5本の柱で支え、高さ約7.8mの支柱の頂部に火袋を取付けます。光源は大正7年(1918)まではランプを使用し、それ以後は電灯に切り替わりました。昭和36年(1961)9月の第2室戸台風により倒壊寸前の状態となりましたが、地元の熱心な保存運動により、昭和48年に今日見る姿に復旧され、平成元年(1989)からは点灯が再開されました。 平成3年2月1日、大津市の有形民俗文化財に指定されました。  大津市教育委員会 平成18年(2016)3月』
すぐ横に琵琶湖大橋が見えています。木造の小さな灯台でした。現在も現役とのことなので、夜湖上を走り灯台の光を目指してみたい。現在は、小さな岬の先端に建っているのですが、「出島」と名がつくぐらいだから元は小さいながらも島だったのかな〜と思っていたのですが、帰宅して地図を見ると、杢兵衛造船や隣の堅田漁港を含む大きな島でした。ただ境目は小川程度の所もあり、島に渡ったという感覚はありません。
バイクに戻り、湖岸から離れ、「JR湖西線」をくぐり、8:44「谷口八幡神社」。地区の掃除日なのか、神社手前の細道を地域の方が総出で掃除をされていました。
『谷口八幡神社・由緒書 鎮座地:大津市真野谷口町309番地 主祭神:素戔嗚命・応神天皇 境内社:春日神社・八坂神社 (境外)稲荷神社・龍神社 例祭:5月5日 神紋:木瓜巴 本殿:一間社流造・間口5尺4寸・奥行4尺4寸 境内社:621坪 氏子:44戸
由緒:創立は文明3年と伝えられる。元、南庄村の牟礼岡山に鎮座されていた。牛頭天王社をこの地に奉遷して、産土神と崇敬してきた。 永禄年間に応神天皇を相殿に合祀せられた。 古来、牛頭天王社と称されていたが、明治初年に八幡神社と改称され、明治9年に村社に列せられた。
主な神事:春季大祭(5月5日)、大祓祭(7月7日)、大祓祭・新嘗祭・頭蓋祭(12月8日)、祈年祭(3月2日)
平成14年3月31日 谷口町八人衆・氏子総代』
バイクで少し走り、8:53「若宮神社」。「天理教途中文教会」の山側奥にありました。境内中央に、修験道寺院などにある護摩焚きをする石組み囲いがありました。この日参拝した神社の多くがこの形式です。この地方の特徴のようです。湖西の山側には、半島帰化人が多く住んでおり、古墳があちこちにあります。この墓は日本のとは大きく違い、石をドーム状に組み上げその下に埋葬するスタイルです。その末裔が、坂本の石組みで有名な穴太衆です。織田信長の安土城の高石垣を組み上げ、多くの石垣に引っ張りだこになった石組みの専門集団になりました。護摩焚きの石組みを見て、それを思い出しました。「さすが湖西・・・」と。
また少し走って、9:01「近宮神社」。山際に田園の広がる農道に毛が生えた程度の田舎道を進みます。ポタリングをしているロードバイクを時々見ます。湖岸道路は高速ロードバイクが似合いますが、山際の高低差がある道は、ポタリングが似合います。
「湖西道路」下を山側にくぐり、R477を少しだけ走り、9:10「河内神社」。扁額には「沙門大明神」と書かれています。鶴の彫刻が素晴らしかった。
R477に戻り、湖西道路をくぐり湖側へ。左折して、9:20「神田神社」。『重要文化財・神田神社本殿 大正2年4月14日指定 神田神社は、彦国葺命(ひこくにふきのみこと)がこの地を開創した時に社殿を建てたと伝えられ、祭神に彦国葺命を祀る。現在の本殿は棟札に「御上棟当社神田明神御宝殿建徳元年」(1370)とあり、よく時代の特色を伝える。形式は前室付き三間社流造。正面庇に建具を備えて前室とし、さらに向拝をつける形式は滋賀県の中世本殿に遺構が多く、古式流造が一層優美に発達したものである。 母屋柱上に舟肘木を用いる簡素な意匠であるが、本格的に造られた均整のとれた本殿である。  昭和63年3月 滋賀県教育委員会』
参道が、大きな池の横を通っており、池の向こうに社殿が見えます。ここも氏子さんが多数出て掃除をされています。有難いことです。横に田が広がっており、溜池のようです。
『警告 この池は魚を放流して養魚しれいます。無断で釣りをした場合、窃盗罪で警察に連絡いたします。  普門自治会・真野北部土地改良区』
『水を大切に使いましょう。 1.バルブを開ける時は、出る水量を見ながらハンドルを回し、用水路よりオーバーしないようにしましょう。 1.バルブを開けた方は、責任を持って必ず閉めるようにしましょう。 1.田の排水口より余分の水が流れ出ないよう気をつけましょう。 1.お金のかかった水です。無駄なく使いましょう。  真野北部土地改良区』
『神田神社 彦国葺命(ひこくにふきのみこと)・素戔嗚命・鳥務大肆忍勝(とりむだいしおしかつ)を祀る。本殿は檜皮葺の優美な姿を誇る三間社流造である。流造は、神社本殿形式の1つで屋根に反りをつけ前に長く伸びた庇を付加した形をいうのである。 当本殿は、整った側面の屋根が特に美しい。棟札によって南北朝時代の建徳元年(1370)の建立であることがわかる。  重要文化財指定 大津市』
本殿に足場が組まれており、お参りが出来ませんでした。『ご参拝はこちらです。社殿改築中につき、神様はこちらにお祀りしています』。土蔵に、「仮本殿」の木札が下がっていました。
バイクで少し走り、9:32「金比羅宮」。地図を見ると、本殿裏まで道が上がっているようですが、バイクを置いて長い階段が上がっている参道を上がっていきます。途中で1回階段に腰掛けて休み、無事参拝できました。横を見ると舗装路がありました。再び、階段を下ります。
少し走り、9:54「神田神社」。鳥居が地面の高さにあります。『手が届く鳥居 ここに置かれているのは笠木(かさぎ)と呼ばれる鳥居の上部です。 本来は手が届かない笠木に触れ、心願成就をお祈りください。
手の届く神田神社の笠木 あなたの願い叶うかも! この石は神田神社の石鳥居の笠木です。 普通、笠木に手は届きませんが、この笠木には手が届きます。 手の届かないところに手が届く(願が叶うかも)石です。 願いを込めて笠木に触れてみてください。 あなたの願いが叶うかも! 縁結び・商売繁盛・起業などなど』
水おみくじがありました。『千両・万両、黄金の庭。向かって右側が千両の庭、向かって左側が千両の庭。合わせて千両万両黄金の庭』
『橘・たちばな 正しくは「やまとたちばな(大和立花)」で日本原産の柑橘類です。 古来、日本では「やまとたちばな」を「ときじくのかぐのこのみ(非時香果)」とよび、その実は大変かおりもよく「不老長寿」の力があるとも言われています。 此の処にお祀りしている「回暦春神社」の神様のご神徳により、この「たちばな」を「常若の木(常に若々しく、みずみずしい)」として植えたものです。この「たちばな」の生まれをたどりますと伊勢の「答志島(とうしじま)」にその原木が保存・保護されており、この島に残されている「たちばな」の元の木は京都御所の右近の橘の子孫と伝えられているそうです。  献木:清水清嗣様(三重県鳥羽市商工会議所専務理事)』
『神田神社の鬼瓦 神社の建物を守るために取り付けられた大変古いかわらで、瓦の側面に「享保」の年号の書き込みがあり、江戸時代中期(およそ300年前)に制作されたことがわかります。生産地は近江八幡(八幡瓦)であることも記されています。ご参拝の皆様の「災い除け・厄除け」になることを願ってお飾りしています』
『神田神社が当地にお祀りされたのは西暦811年です。以来1200有余年の長きに亘り常に私達を見守って頂いております。神様のお住まいである社は本殿と二宮であり、現存の二殿は江戸時代の1748年(滋賀県市町村沿革史)頃建立とされています。建立後300年以上を経過し、檜皮屋根や柱等の損傷が顕著になり、早急な改修が必要となっています。
ついては、「令和に改元の良き年」を記念して社殿の整備を実施し、神田神社の神様の更なるご神徳の発揚を念じ、参拝者各位の益々の「お幸せ・家内安全」を願い、荘厳清新な神田神社の佇まいに整備致したく、信仰あつい多くの皆様のご志納を、何卒よろしくお願い申し上げます。  令和2年7月吉日  神田神社社務所
事業内容 1.社殿(本殿・二宮・拝殿)の改築 2.社殿背面の石垣改修 3.社殿改築に伴う殿内調度品の整備
総事業費:1億9千万円(神社拠出金1億2千万円+ご志納金7千万円) 工事期間:令和2年〜同4年』
R477に戻り琵琶湖に向かい、左折してr558で琵琶湖に沿って北上し、左折して和邇川沿いを西進し、10:20「天皇神社」。『重要文化財建造物・天皇神社本殿 神社本殿は流造の形式が多い中、天皇神社本殿は全国的にも稀な切妻造・平入の本殿で、県内の重要文化財では近隣の小野神社境内社篁神社本殿と小野神社飛地境内社道風神社本殿を加えて3棟にすぎません。建物の規模は、正面(桁行)三間、側面(梁間)二問で、前面に一間の庇(向拝)を付けます。正面中央間と右側面を幣軸構(へいじくかまえ)板戸両開とし、屋根の勾配が著しく緩い点が、他の2棟とは異なります。
天皇神社の創建は、社伝によれば康保3年(966)と伝えられ、元は和通牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治9年(1876)天皇神社と改称されました。現本殿は、小野神社職務歴代記に「正中元年2月3日和週牛頭天王社創建新始同年12月19日上棟式」云々とあり、正中元年(1324)の建立と考えられます。
平面は、後方中央一間が内陣で、その周囲三方は外陣とします。向拝廻りのほとんど全ての部材と縁、脇障子、外陣正側面と内陣の建具、切妻破風と鎚破風は後世の改造となりますが、外陣と内陣に加え、内部の彫刻を失ってはいますが蟇股の姿を留めています。
江戸時代の、延宝6年(1678)から安政6年(1859)にわたる10回の屋根葺き替えの棟札が残されており、昭和57年(1982)に附指定となりました。  平成22年7月大津市教育委員会』
『重要文化財・天皇神社本殿 明治43年8月28日指定 天皇神社は、牛頭天王社と称し、天台宗寺院の鎮守社と伝えられる。祭神は素戔嗚命を祀る。 現在の本殿は、隅柱に「正中元年2月3日鋲始(ちょうなはじめ)……」(1324)の墨書があり、よく鎌倉時代の作風を伝える。形式は三間社に一間の向拝をつけた屋根切妻造、檜皮葺の本殿。 全国的に切妻造本殿は遺構が少なく、外観の整った優れた建物である。  昭和63年3月 滋賀県教育委員会』。彫刻が素晴らしかった。木鼻の獅子には玉眼が入っていました。
r311を琵琶湖に向かって東進し、左折して北上し、JR湖西線をくぐりました。ここは、JR和邇駅でした。10:31「大将軍神社」。『大将軍神社 鎮座地:大津市和邇中浜58 主祭神:中浜神 境内社:若宮神社・護国神社 例祭:2月16日 本殿:一間社流造・間口三尺・奥行三尺 拝殿:切妻造・間口一間四尺・奥行二間一尺 その他主たる建物:神輿庫・祭器具庫・手水舎 境内地:275坪 氏子:54戸・中浜崇敬者270人
由緒:祭祀年代不詳であるが、慶長7年、延宝7年の調査除地帳に、現在の場所に氏神大将軍宮の鎮座が記されている。尚、この慶長7年の書中に「従往古」とあることからみて、創立は相当古いものと考えられる』
「JR和邇駅」まで戻り、JR湖西線をくぐって、10:39「住吉神社」。『住吉神社 御祭神:底筒男命・中筒男命・表筒男命 摂社:八幡神社 末社:貴船神社・地主地蔵
御由緒:寛弘7年2月、花山天皇の皇子・清仁親王が比良最勝寺にご参詣になり、当村北浜の湊より帰途の御座船に召されます。その節、俄の時化にて湖上の風は烈しく、御船は正に危うき極みとなり、この危難を助け参らすべしと北浜の漁師はもとより、寺浜(南浜)からも急ぎ船を繰り出したのであります。この時、親王舳先に立ち給いて、住吉大神の神護を祈念し給えば、忽ち風は止み波も鎮まり、北浜や寺浜の漁師の救援に護られ、寺浜へ程なくご安着給わりました。同年4月、このことに深く感じ給いたる。北浜の湊を見下ろすこの地に社殿を構え、住吉三社神を勧請の上、併せて御神田を給し賜りました。
天文7年11月、山門の僧徒比良最勝寺を焼き打ちの折、当社の社殿もこの難に遭い焼滅し、里人らは神楽を小野神社に奉遷しました。天文13年5月、社殿を再建し神楽は還遷されました。天正の騒乱期には、御神田を没収されたことや慶長15年には、小野神社神主の光平が社務を兼勤との記録も残っていあmす。 明治9年10月、村社(北浜村)に列せられました。
所在地:大津市和邇北浜字住吉。昭和24年国有地譲与を受ける。
名称:宗教法人住吉神社
認証:庶宗2606号
敷地:境内6畝13歩、保安林2反8畝6歩、神田3畝11歩
建物:本殿流造1坪5合7寸 摂社・末社各1棟 社務所・神饌所・手水舎・地蔵
御鎮座1000年記念 平成22年11月吉日 北浜長寿会』
r558に出て、10:45「志賀ヨットハーバー」。Iさんが車から荷物を出していました。「着かれたところかな?」と思ったら、Yさんの船がバースから移動され、梯子が横にあります。11時集合と言われていたけど、1時間は早く来られていたようです。もっと早く来ればよかった。すぐに夏用バイクメッシュ装束を脱ぎ、用意していると、IさんもYさんも「おはよう」と来られ、僕のバイクをあれやこれや。前に駐めてあった150ccスクーターで、Yさんは来られたようです。用意してハーバー事務所に向かい費用を払おうとすると、帰りで良いそうです。船に上り、ジブセイルなどの用意を手伝います。準備完了し船から降り、クレーンで湖面に下ろしてもらいます。
船に乗り込み、Iさんヘルムスで琵琶湖に出ます。風の強弱・振れがあり、あっちこっちに走り回りました。ほぼ無風から8m/sまでセイリングを楽しみました。お喋りの方も会話が途切れません。同年代で、子どもたちがヨットで真剣に覇を競い、琵琶湖にレースや練習で来た時はお世話になり、反対に西宮に来られた時はお世話し、僕はIくんとYくんを別のレースで引率したこともあります。気心の知れた間柄なので話が弾みます。
後半に、Iさんからティラーを渡され、僕がスキッパーをしました。Yさんの船はエラン21というハイパフォーマンスボートで戦闘的です。ツインラダー艇は初めてで、ウエザーヘルムが少ないという第1印象です。ブローが入ると良い感じですが、抜けるとリーヘルムになり勝ちで、もっとウエザーが欲しいとトラベラーを風上に持ってこようとしましたが、コントロールシートが絡んで動きませんでした。強風時のバックステイでのコントロールも感じたかったが、台形メインをクリアするためにマストトップでバネが入っており、あまり効き目を感じられませんでした。いろいろチューニングして楽しめそうなボートです。
15時が近づき、ハーバーバックの時間となりました。ジブファーラー巻いたり、メインセイルをダウンしたり力仕事はお二人に任せ、ティラーをメインセイルコントロールだけで楽をさせて頂きました。最後はIさんにスキッパー交代し桟橋接岸。船が上がってくるのを待っていると、カルピスとお菓子が出てきました。ハーバーからの「おもてなし」のようです。ハーバー経営者さんから、「KG卒ですか?じゃあ、Hさんとか知ってますか?」「はい、僕がコーチしてた頃の選手です」「ここに船を置いています。ここで鉢合わせしたら、ビックリするでしょうね」だって。
船を片付け、精算し、バイク装束に着替えます。解散です。r558を南下し、湖西道路に乗り一気に南下しました。「京都東IC」から名神高速に乗り、16:31「桂川PA」でトイレ休憩しました。ここでアイスで糖分補給が定番でしたが、まだ工事中でした。「吹田IC」で下車し、中央環状線〜R171で、17:07帰宅しました。

この日は「父の日」です。いつもお嫁さんたちが、あれこれ贈ってくれます。僕がヨット乗ったりバイク乗ったり自転車に乗ったりします。加えて、低山ですが中世の山城に登ったりするので、スポーツウエアやそんなブランドのタウンウエアが多いです。昨年から少し趣が変わって、雪駄でした。畳や緒が純日本風で気に入っています。今年も1ヶ月前から毎日のように使っています。そして今年は・・・「Lindt(リンドール)のチョコ」でした。スイスのブランドだそうです。
ロンドンに住む長男のお嫁さんから、LINEが入りました。「先週末キャンプに行った時の写真と、りょうくん(8才・現地校小3)とこうちゃん(5才・年長幼稚園年長クラス)のクラス写真でした。
りょうくんのクラスは16人で、黄色人種はりょうくんだけのようです。黒人系が2人で、インド系が2〜3人。女の子が9人で、先生も女性なので女の子の勢力が強そう。こうちゃんのレセプションクラスは28人で、女の子が15人。こちらも黄色人種はこうちゃん1人で、黒人系が6人、イスラム系がヒジャブ被ってる女の子が1人。先生は女性ですがヒジャブ被ってるのでイスラム系のようです。座る席は自由だったのか、よく近所の公園で遊んでいる仲良しの男の子がこうちゃんの横に座っています。2人とも多彩な人種の中で学校生活が始まり、日本人によくある(僕もそう)他の人種に対する構えない大人になるのか今後が楽しみです。こうちゃんは、りょうくんが通う小学校の附属幼稚園なので、同じ制服を着ています。女の子もネクタイを締めています。イギリスでは、女性もネクタイをする文化があるのかな〜。
新学期始業式&終業式どころは入学式さえない文化の国なので、日本の学校のように集合写真を撮る機会が殆どありません。アメリカで3年間幼稚園に通い、イギリスで3年間小学校生活を過ごしたりょうくんでも、集合写真は年1回のこの時期だけです。9月に学年が始まり、6月に終わるので、学年卒業集合写真です。9月からは、りょうくん4年生・こうちゃん小学校入学です。今年4月に5才になったばかりの「こうちゃん」が小1なんて、なんかピンと来ません。
キャンプでは、いつも庭に立てているアメリカで買ったのだろうコールマンのテントが活躍していました。フィールドアスレチックのある緑の広い公園で、大きな池や遊具のある公園もあります。浅い人工の川が流れています。ペンギンもいるので動物園が併設されているのかも?テントエリアは日本のそれとは大違いで1区画が広く芝生が広がっており、木々を上手にパーテーションにしています。お隣を気にすることなく、ゆったり楽しむ場所のようです。イギリスの国土は、日本の64%で、人口は6665万人で日本の55%。加えて、日本の国土の多くは山岳地でイギリスは丘が繋がっています。実質の人口密度はかなりゆったりしてそう。キャンプ場もそんな感じなのでしょう。


2021/6/17
我が家から朝出勤すると真正面に六甲山が見えます。その山頂に、最近巨大な建築物が見えるようになりました。「なんだろう、あれ?」と家内と話すようになり、だんだん「あれが何なのか、知りたい」と思うようになりました。ネットで調べても皆目わかりません。調べてわかったのは、「六甲山頂は昔米軍基地だった」ということ。六甲山頂にあるレーダーは、時々自衛隊が来て点検しているので現在は自衛隊の施設の筈です。そこで、「あの不思議な建築物は自衛隊?米軍共用?軍事施設ではないか?」と確信するようになりました。だから、ネット情報が皆無なんだ・・・と。
9:10、倉庫から「招き猫CB400SB」を出して、「あの不思議な建物」を見に行くことにしました。武庫川を渡り、r114〜「阪急逆瀬川駅」からr16で六甲山に登って行きます。「甲寿橋」を過ぎ、西宮から有馬温泉に抜けるr82に合流し、左折して再びr16でいよいよ急勾配を登っていきます。登っていくロードバイクを追い越し、気持ち良さそうに下ってくるロードバイクとすれ違います。
10:03「一軒茶屋」。ここは、有馬温泉と芦屋を結ぶ「魚屋道」の最高所です。昼食時に両側からここまで登ってきて、一軒茶屋や六甲山最高峰まで更に登ってお弁当を食べ、夕方に向けて両側に下るコースが週末は賑わいます。ここに1ヶ所だけトイレが有り、とても綺麗とは言えないのに賑わっていました。男は良いとして、女性には厳しいなと思っていました。「山ガール」と呼ばれる若い女性が登山分野に増えてきたので、ファッショナブルなお若い女性が、そんなトイレに並んでいるのを見て、「綺麗なトイレに更新されたら良いのにな〜」と思っていました。
そんなトイレが閉鎖されたのを知っていましたが、新設されたトイレを見るのは初めてでした。山の雰囲気を壊さないデザインでお洒落でナイスです。六甲山山頂まで登ります。標高931m。ここは以前のままで、巨大建築物は建っていません。西の「ガーデンテラス方面」を見るが、こちらにもなし。アンテナ棟を見ると、自衛隊車両が来ており、ゲートが開いて電波塔の扉も開いています。隊員が数人何やらやっています。ジャスミンの白い花が咲いています。眼下に大阪湾が広がっています。先週末、セイリングした西宮尼崎港〜一文字防波堤〜大阪湾が一望です。とても綺麗。
バイクに戻り、六甲山の峰をr16で西へ。10:40「六甲ガーデンテラス」下の「六甲有馬ロープウェイP」に入れます。誰もおらず本日無料。ロープウェイに乗ればいつでも無料です。ガーデンテラスまで歩いて登っていくと、コンクリート地面を尺取虫が横断しています。
ガーデンテラスのバイクPにバイクが2台。カップルのようで楽しそう。売店などは、11時前なので閉まっています。テラスから東の山頂を見ますが以前と変わらず、目指す巨大建造物は見えません。どうやら、900mクラスの峰には建っていないようです。ホトトギスの鳴き声も聞こえます。6月なので日本に渡って来たのでしょう。
「六甲有馬ロープウェイ山頂駅」まで歩きます。六甲山上巡廻バスが停まっています。バスは20分に1本でした。ロープウェイも20分に1本です。
r16を逆瀬川に向かって下り、左折してr82旧道へ。この道から、「突然出来た謎の巨大建造物」が見えるかな?と思ってキョロキョロしながら走りましたが、近すぎるからか建造物は見つかりませんでした。「盤滝トンネル」を有馬温泉側に出たr82の下を抜け、「船坂」でr51に突き当り、右折して宝塚に下ります。「蓬莱峡」のつづら折れから、「謎の巨大建造物」が見えました。位置的にr82の上・盤滝トンネルの上です。
帰宅後、チェーンで塞がれ上がれなかった「NTTDocomo中継所」に絞って調べると、以前からあった電波塔が老朽化修復工事で周囲に足場を組んだために、突然巨大化建造物が出来たように見えたようです。
R176に出て、12:01帰宅。


2021/6/11
先月、丹波篠山ツーリングでご一緒したお隣Sさんをヨットに誘いました。6/12(土)を予定していましたが、今朝天気予報をチェックしたら昼頃雨が降る予報に変わっていたので、8時前にお隣さんにピンポンして、「今日乗りましょか」と変更しました。「9時ですよね、市民病院に健康診断の結果を聞きにいかなければなりません。9時半には終わるのでそれからでも良いですか?」「じゃあ10時に」。
倉庫から「通勤リード110」を出して自宅前に戻り、ごそごそ用意をしていました。外でバイクの止まる音が聞こえ、外に出ました。「お待たせしました」「じゃあ行きましょか」。9:55、近所の「セブンイレブン」で、「いつものコーヒー甘さ控えめ1L238円+ベルギーワッフル298円+味付け海苔マヨネーズ125円+揚げセンベイ海苔塩味178円=906円」購入。
2台でR171を走り西宮ヨットハーバーへ。マスクしてセンターハウスに入り、出艇申告して桟橋に出て係留艇へ。エンジンは一発点火。Sさんにライフジャケットを着てもらい、電源コードを船から外し桟橋へ。西南西の2m/sほどの風が吹いています。桟橋に横付けされているので、船の右後方からの風です。まずバウ(前)のロープを3本離し、桟橋側のロープも離し、最後に南西からのロープをSさんに持ってもらいながら、アスターンで桟橋を離れます。船が動き出したのでSさんにロープを離してもらいます。
東出入口からハーバーを出ます。ちょうど母校KGが練習に出る所でした。風はあるのに10:30とは遅いなと思ったら、沖で既に練習しており、トラブルなどで一旦ハーバーバックし再出艇してきたようです。
ハーバーから出て、オートパイロットを入れようと思ったけど、Sさんにステアリングを持ってもらい、メインセイルを上げました。Sさんはバイクの運転がキビキビしており「運転が上手いな〜」と感じていました。セイルを上げている間、風位に立てながら走るのもマアマアで、初めてにしては上出来です。ステアリングを交代し、クローズホールドで南に進路を変え、ジェノアをフルセイルにします。セイルの重さ(風のパワー)を体験してもらいました。ウインチでジブシートを引いてフルセイルにしてもらいました。
そこで、「ステアリング、交代しましょう」。マストトップの風見の角度、正面の景色を見て進路を一定にして走る方法を教えます。センスが良く、ナイスなステアリングです。タックをします。ステアリングの動かし方、次の進路の目指す目標を伝えタッキング。2度タッキングして赤白灯台の間から大阪湾に出ました。航路中央ブイからベアし、一文字防波堤を回って帰るコースにしました。後ろに見える神戸空港連絡橋・淡路島、進路先の「あべのハルカス」を教えると、海からなら意外に遠くまで見えることに驚かれていました。淀川河口目指して進みます。風は少しづつ上がり、既に白波がチラホラ見えるようになってきました。4〜5m/sでしょうか。「今何処ら辺ですか?」「正面が淀川河口です」。目立つ煙突の大阪市ごみ焼却場や海遊館の場所を教えます。
一文字尼崎沖の白灯台を回って、西宮尼崎港内に入ります。釣りをされるので、一文字渡船のことを知っていました。港内でも白波が立っており、風は6〜8mに上がっています。ジェノアを半分にファーリングし、メインセイルもトラベラーを下に動かし、ヒールを小さくします。Sさんは上手で、ヒールしても落ち着いてステアリングされ、まっすぐ走れているのでとても優秀です。
西宮沖に戻り、ジェノアを全部ファーリングして、エンジンを掛け再び風位に立ててもらい、メインセイルをダウンしました。バウとスターンに、もやいロープを準備し、ステアリングを交代して芦屋側の西出入口からハーバー内に戻りました。Sさんにフェンダーを下ろしてもらい、スタンションゲートを開放し、桟橋に着けた時の動作を伝えます。
ゆっくりと桟橋に着け、Sさんにロープを持って降りてもらって適当に桟橋のアイに結んでもらいます。僕はバウロープを持って桟橋アイに繋ぎ、桟橋に置いておいたロープで船を固定しました。セイルをきちんとたたみ、バウとミドルのハッチを開け空気を船内に通し、コクピットでお昼ごはんにしました。朝買ったコーヒーをコップに入れてSさんへも。15時前に桟橋に戻り、16時半ぐらいまであれこれお喋りしました。
帰路に着きます。センターハウス前に来ると、僕を呼ぶ声が・・・。振り返ると、母校ヨット部のコーチ時代選手だったI君が、「また転職しましてん」と名刺を出しました。「関西ヨットクラブ」の職員になったようです。センターハウスに入ると、ノースショップにKさんが店番をしています。お子さんが次男の母校高校のヨット部員なので、「息子さん、どうしてるの?」「ちょうど和歌山でインターハイ予選中ですわ」「観に行かないの?」「来んでいいと言うし・・・」。中学時代はクルーでヨットを始めましたが、高校になってスキッパーに転向したそうです。バイクで帰宅してお別れしました。

この日は、ロンドンに住む長男の三男ルーカスくん(3才)の誕生日です。「おめでとう」と家族LINEに投稿しました。時差が-8時間なので、ロンドンは朝9時、上の2人を小学校・幼稚園に送り終わった時間帯です。しばらくしてお嫁さんからLINEが入りました。
「ありがとうございます。プレゼント届きました。こういう知育系のおもちゃは、家にあまりないのでとても嬉しいです」。マグネットでくっつく四角と三角の積み木のおもちゃを、amazon.ukで注文しました。4/6、2番目のこうちゃん(5才)の誕生日にプレゼントした「黒ひげ危機一発」のように皆で遊んでくれるといいな。
「最近レゴが大得意のりょうくん(8才)が、はりきってお手本を見せて作ってくれました。今日は夜にケーキでお祝い予定です。あっという間に3才、最近は生意気も言うようになってきましたが、私の中ではまだまだ赤ちゃんです」だって。
孫3人からのビデオメッセージを送ってくれました。ルーカスくんとお嫁さんの公園散歩の様子がナチュラルで良かった。


2021/6/6
船を見に行きます。大学ヨット部先輩達と共同運用しているセーリングクルーザーですが、主要メンバー中で最も若いので、時々チェックしています。前日、同じ桟橋に係留しているD社同期Hくんにセイリングを誘ったが、D社先輩の船に乗るのとでフラレました。
朝ごはんを食べ、9時過ぎに「通勤リード110」に乗ってホームポートを目指します。9:30にホームポートに着き、桟橋を渡って船へ。桟橋に入るのにカードキーが必要だし、ガードマンが夜中も常駐なので安心な係留地ですが、定期的に船の点検は必須です。桟橋を船に向かって歩いて気づいたのが、「係留艇が減ってる」ということ。前回セイリングした1ヶ月前は、以前とそれほど違っていなかったのにちょっとショックです。京阪神3府県に出された緊急事態宣言により仕事場できなくなり、それをチャンスとして長期クルージングに出ているのなら良いことですが、「コロナ禍」の影響で収入が減り船を売ってしまったと思います。欧米の1/100の被害で、例年のインフルエンザ被害と同じぐらいなのに・・・。加えてインフルエンザその他のウイルス疾患がウイルス干渉によって激減し、2020年の死者は11年ぶりに減り、世界で一番「超過死亡者数」が減ったのに・・・。トータルすればむしろプラスだったのに、こんなに経済を止めてしまって馬鹿じゃないの?と憤慨しています。ボート・ヨットなんて、利益を出さないので真っ先に切られてしまう存在、経済の好不調の波を真っ先に受けます。
バッテリーメインスイッチをONにしてエンジン始動。一発始動しました。ドッグハウスに入り、ハッチを開け風を通します。良い天気で風も弱いので、ライフジャケットなどをデッキで干します。続いてトイレ掃除しようと思ったら、トイレブラシがない。「あったはずなのに」と探しましたがないので、ハーバー前の生協に買いに行くことにしました。
桟橋〜センターハウスを抜けると、駐車場からD社同期が先輩方と歩いて来ました。10:37「コープこうべマリナパーク店」で、「撥水トイレブラシ398円」購入。桟橋に戻ると、桟橋の我が艇斜め前に係留されているD社艇に皆さんが乗っています。挨拶に行きました。この船のオーナーさん初め皆さんに「こんにちは」。しばらくして桟橋を離れていきました。既に南西の軽風が入っており、楽しいセイリングになりそうです。A先輩にそう話すと、「いや〜昼飯食わなアカンからすぐ帰ってくるし。食べに置いでよ」なんて誘われました。
船の掃除を終え、「良い風なので昼に帰ってくるなんてないだろう」と予想しながらも、「もし昼飯を誘われたら、手ぶらで行けないし・・・」と思い、再び生協へ。11:28「ブルボンエリーゼ32本198円+カルビーえびせん98円+亀田海老海苔あられ94円+グリコビスコアソート44枚298円=748円」購入。
船に戻り、コクピットで本を読み出しました。大阪市大井上教授と松田学さん共著のコロナ本です。世の中の主流とは大きく違い、「コロナウイルスがいなかった欧米と違い、コロナウイルスが土着している東アジアに位置する日本はコロナウイルス免疫を持っており、既に新型コロナウイルスに対する免疫も持っている」という井上先生の専門分野とデータを素直に見た結果から導いた結論を書いた本です。京大川久保先生・宮崎先生などと同じ考え方の本です。
昼を過ぎおなかが減ったので、おにぎりを食べました。雲がなくなり快晴になり日差しがきつくなったので、ドッグハウスに入って本を読みました。ラジオでFM放送をBGMに寝転がって良い気持ちです。そのまま寝てしまいました。
14時ぐらいに目を覚まし、また本を読んでいると、セイリングしていたクルーザーやモーターボートが帰ってき出しました。斜め前のD社艇も帰ってきたので、もやいを取りに行きました。干していたライフジャケットなどを片付けていると、D社同期がプリッツを持って来てくれました。
15時になり、帰宅することにします。D社艇に挨拶しに行き、桟橋を出ると電話が鳴りました。さっき挨拶したD社同期Hくんからでした。「帰るの、お好み焼きを焼こうかと思うんだけで、食べに来ない?」。食べに行きたかったけど、家内から「買い物に連れてって」と言われていたので、泣く泣く帰路に着きました。


2021/6/5
コーチしてる大学ヨット部のコーチング日です。14時琵琶湖のハーバー出艇で時間に余裕があるので、近江寺社ツーリングしましょう。同じYHで「スナイプマスターズ選手権」がこの土日開催されます。それもちょこっと感じれると良いな。
6:26、「里山VTR250」を倉庫から出して出発。6:31、御用達のご近所「エネジェットSS」で給油。「107km/3.56L=30.1km/L」。R171〜中央環状線〜吹田ICから名神高速に乗り、「大津IC」で下車し、r56〜r103で「京阪石山坂本線」を渡り、右折してr18で西進します。
左折して枝道に入り、7:33「石座(いわい)神社」。『石坐神社御由緒 石坐神社は、天智天皇が琵琶湖の神様を祭祀Eだことに始まる。その創始は、天智天皇御代8年9月9日神奈備山(かんなびやま・御霊殿山ごりょうどやま)の磐座に湖中より龍灯が飛来し、御神託のまにまに小祠を建てて祭祀なされた。これを御霊殿神社と申し上げる。
持銑天皇御代・朱島元年旧5月1日粟津の王林の地・石坐野に、八大龍王宮との両殿が創建された。八大龍王神とは、琵琶湖にゆかりの神様で龍神と伝えられ、我が国では水徳の恵みの神で古来より雨乞いの神・福寿の神として信仰がある。主祭神王宮と正霊天王宮との両殿が創建された。
主祭神豊玉比古命は、人皇第1代神武天皇の御祖父神にあたり、産坐王は、彦坐命と申し上げ、人皇第9代開化天皇の第3皇子・近江国造治田連の租霊神であり、近江開拓の祖神に坐しまして八大龍王宮の御祭神である。 近江大津宮を開かせ給ひし天智天皇は、大友皇子(弘文天皇)・伊賀宅子媛(大友皇子御生母)と共に正霊天王宮の御祭神である。
御祭神 八大龍王宮:豊玉比古命(神武天皇御祖父神)・彦坐王(開化天皇第3皇子) 正霊天王宮:天智天皇(天命開別天皇)・大友皇子(弘文天皇)・伊賀宅子媛(大友皇子御生母) 奥宮御霊殿神社:石坐大神(八大龍王神)』
『祭事表 1月:元旦(初詣・歳旦祭)・小正月(古神札焚上神事) 2月:3日(節分祭・年越厄除大祓)・11日(初午祭) 3月:春分(祈念祭) 4月:第1日曜(勧学祭) 5月:3日(石坐祭) 6月:9日(湖神祭・彦坐王祭)・10日(時の記念日・漏刻祭)・下旬(夏越厄除大祓) 7月:23日(弘文天皇祭・宅子媛祭)・土用(麦湯祭) 8月:15日(弁財天祭) 9月:9日(海神祭・御霊殿山遥拝)・秋分(お千燈祭) 10月:15日(淡海石坐神火祭) 11月:23日(新嘗祭) 12月:3日(天智天皇祭)・第1日曜(お火焚祭)・15日(鎮火祭)』
『節分厄除大祭のご案内 石坐神社厄除まいり 2月1日午前10時(月始祭)・2日午前10時(百度祓)・3日午前11時(厄除大祭)午後3時(節分祭・豆まき・年越厄除大祓)・4日午前10時(立春放射式・お百度まいり)
厄年厄祓・災難除祈願受付 厄祓祈祷者には、厄除札・守護矢・厄除守授与致します。 自動車での参拝者は、駐車場をご利用下さい』
『安産の祈願 戌の日に安産のおはらいをする慣習がある。犬は安産であるが故に、昔から戌の日に腹帯をしめる習わしである。石坐神社では、安産のご祈祷を戌の日に受け付けております。
(命名)ご出産なされたかわいい赤ちゃんの名付け、ご相談に応じます。社務所へ申し出て下さい。
車のおはらい:新しく自動車を購入されたら、交通安全のご祈祷(車のおはらい)を受けましょう。祈祷者には、特別祈願守を授与致します』
『八大龍王神の御縁起 八大龍王宮は、粟津八宮と称され、八柱の高貴な神達が御祭神である。 奥宮の御霊殿(ごりょうど)神社は、今から1342年前(平成24年より)湖中より龍灯飛来(りゅうとうひらい)の奇瑞(きずい)により天智天皇は、勅旨をして御霊殿山の磐座に小祠を建て石坐大神を御鎮祭なされた。その後、石坐野に持統天皇・朱島元年旧5月1日・正霊天王宮・八大龍王宮の両殿が創建された。今から1325年前、これが石坐神社の創始である。
当宮は、神奈備・御霊殿山(御龍燈が御霊殿と訛(なま)る)の八大龍王が、移座なされ鎮まり給ふ神社であり、石坐大神は産大神・氏神であると共に、祝いの神・福寿厄除・お祓いの神としての御神徳による崇敬神社である。八大龍王神は、八柱の龍神で主祭神・石坐大神は、海神豊玉比古神と申し上げ、他の高貴な神たちは、秘説七座にして御神名は、洩れ伝えられていない。
右古・地球は、海水におおわれていた。その後、幾多の地殻変動により陸地が出現し、現在のような地球模様になったのである。 琵琶湖は、日本海の入り江であって、今津から若狭にかけて海道が開かれていたが、その海道が塞がれて淡水湖が誕生した。これが、淡海・琵琶湖である。
皆、イザナギの神・イザナミの神のご神業になることであり、伊邪奈岐大神は、郡品の祖と申し上げるように万物をはじめ諸神の祖にまします。 大海原は、天照す太陽光により熱せられて水蒸気となり、天空に上がり雲海と化して、四季折々、降雨・降雪により山嶽・樹林を潤し、伏流水として水脈を流れ、河川より河口へと・再び大海に注がれる。
そうした大自然の中で、人類の生活に欠くことなき日常生活の場での清き水は、湖・河川・井戸から、水道水として供給され、広範囲にわたり多大な恩恵を蒙ることは、言葉では言い尽くせない感謝の事象である。
宇内の水穂を司り給ふ八大龍王とは、神社系統にありては、海の神・山の神・湖の神の高貴な神たちであるが、その御神名については、現世に伝えられていない。ただ仏教系統を始め他宗教により、その片鱗が伝えられている。
インドのヒンズー教の八大龍王は、慈雨の神として信仰され、仏教の法華経典中の八大龍王は、難陀(なんだ)・跋難陀(ばつなんだ)・娑伽羅(しゃから)・和修吉(わしゅきつ)・徳叉迦(とくしゃか)・阿那婆達多(あなばたつた)・摩那斯(まなし)・優鉢羅(うはつら)と八大龍王を表現している。 淡海湖神の地上応現の聖地である御霊殿山にお鎮まりになる八大龍王神は、石坐神社に移座して鎮座まします。
信仰とは、現世の所謂(いわゆる)、学問の世界における俗知の学問に非ず、霊知を学ぶ秘奥の学問であり、人間は、現世に生をうけ、かむながら人倫の道を神習う浄き明き直き正しき真の道を実践し、敬神崇祖の道を行じて人寿尽きて、天(あめ)の真澄に召し返す定めの時が来たりて幽世(かくりょ)に行きなむ時まで、天に徳を積むことが肝要である。
神仏にざんげと感謝の祈りを捧げ、福寿厄除・おはらいの祈願をこめ八大龍王と称へ奉る淡海の石坐の大神に清純なる祈りを捧げ意義ある信仰のよりどころと称しましょう。神通とは、信と不信にあり、これは、信仰の格言であり「心ここに有らざれば、見えども見えず、聞けども聞こえず、食らえどもその味わいを知らず」との自覚が大切である。
八幡託宣中、「世は変われども神は変わらず」「神は斉(いつ)くまにまに栄ゆるものぞ」との神託に感銘を深くする。 かむながら神の子である人間は、毎日神仏に合掌し、家庭の祭りを行う神棚は、家族の心のよりどころとして奉斎致しましょう。 琵琶湖の神は、石坐神社に鎮まる淡海の石坐の大神に座します。天上将来の宮である』
『延喜式内社 石坐(いわい)神社御由緒
御祭神 八大龍王宮:豊玉比古神(海津見神)・彦坐王命 正霊天王宮:天智天皇・大友皇子(弘文天皇)・伊賀宅子媛命
御創立:天智天皇8年(669)旧9月9日、御霊殿山(御龍燈山)の神奈備の天津磐座に豊玉比古神御出現。朱鳥元年(686)旧5月1日、石坐野の王林の広庭に両殿を御創建。光仁天皇宝亀4年旧12月3日、正一位勲一等の神階を贈り給い鎮護国家之神也と御勅宣あり。同5年12月3日勅祭を行わせ給ふ。鎌倉時代文永3年(1266)旧8月29日に現在地に両殿御遷座。慶長5年、関が原の役で大阪方の大軍来りて神域に陣し、敗軍に及んで社頭に火を放つ。時に八大龍王宮は災いを免れたるも、上古より伝われる古記録宝物焼失す。江戸時代、膳所城主の篤い崇敬を受ける。明治時代、高木神社と改称。大正6年、旧称・石坐神社に復す。
主な御祭礼:歳旦祭・1月元旦 節分祭・2月3日 祈年祭・3月春分日 大祭・5月3日 漏刻祭6月10日 夏越の大祓・6月下旬 千灯祭・9月秋分日 神奈備磐座祭・旧9月9日 新嘗祭・11月23日 御火焚き祭・12月上旬 神奈備山登拝・12月29日 月始祭(おついたち参り)・毎月1日 神奈備磐座月次祭・毎月旧9日 厄除け交通安全諸願成就次祭・毎月15日
御神徳:神を敬い祖先を崇め神習う道を教え導き給い救世済民の恩頼を垂れ給ふ。厄祓い祈祷(大厄33歳・42歳)厄除け守護矢授与。災難除祈祷、災難よけ特別守授与、誕生祭祈祷。交通安全祈願・社運隆昌・商売繁盛・家内安全・病魔退散等諸願成就祈願。地鎮祭・清祓い・宅神祭など執り行います。
石坐神社社務所 大津市西の庄15の16 077(524)8696』
『延喜式内社・石坐(いわい)神社御由緒
当社は、天智天皇8年旧9月9日、神奈備山(御霊殿山)の磐座に湖中より龍灯が飛来し、御神託のまにまに勅使を遣わし、大石の上に小祠を建てて祭祀なされた。壬申の乱ののち、持銑天皇朱島元年旧5月1日、粟津の王林の地・石坐野(膳所石神町)に八大龍王宮(豊玉比古命・彦坐王)と正霊天王宮(天智天皇・大友皇子・伊賀宅子媛)との両殿が創建された。
光仁天皇宝亀4年(773)旧12月3日、正一位勲一等を授けられ、鎮護国家の神社なりと勅語があり、翌5年12月3日勅会の祭礼が行われた。12月3日は天智天皇崩御の日に当たるからである。承和2年(835)旧12月3日宣旨あり。
近江国滋賀郡石坐の圧・石坐神宮社 勅願の儀 遂に修造の功為り 天下泰平を祈り奉るべし 按察使藤原良門
この時、累代社務を継承奉仕せし、現法伝寺の大友氏の公閔上人御房は、正霊天王宮の判当職に任ぜられた。
建久3年(1192)、右大将源頼朝上洛の途次、当社に御寄進があった。
建保2年(1214)旧5月1日、神殿再建の折、左近衛中将藤原資平を勅使として差遣された。再建は粟津原の合戦により社殿焼失されたことによる。
文永3年(1266)旧8月29日、神主・佐々木八郎左衛門尉守安は社殿を湖辺に遷し、更に秘殿を造営した。今の社殿である。守安は、大友与多王の遠孫であるが佐々木氏を称した。その棟札は、捌宮・棟上・神主・佐々木守安 大工・藤井為弘・藤井宋貞
当時は、捌宮(はちごう)と称し、粟津八宮とも言った。八大龍王神のことである。この時も粟津の合戦により社殿が焼失したのであり、当時の相模川流域の和田、膳所両社にかけても戦火が及んだようである。
弘安年中(1278)、皇子御病気で医療勅なく当社に祈願され、南郷の青山藤右工門が高木の崎(石坐神社前)で綱を曳き、一尺三寸余の大鯉を獲たので之を献じたところ御平穏なされたので勅使を泳遣し奉幣なされた。
応仁の乱(1467)に、当社も歴代所伝の古文書神宝など多く散失した。
天文3年(1534)、法伝寺住僧から承和以来一棄院滋賀寺(法伝寺)が兼掌していた社務を小馬氏・江坂氏に譲られた。
慶長5年(1600)、関ケ原の役に大阪軍が来て神域に陣し、敗軍に及んで火を放つ時に八大龍王宮は災を免れたるも正霊天王宮並びに拝殿と社務所他2棟など神門・廻廊ともに上古より伝わる古記録・宝物消失する。
当社は、その後明治維新に至るまで八大龍正社と称し、江戸時代雨乞の御神徳により膳所城主の篤い崇敬を受ける。
大正9年6月10日、時の記念日が定められ膳所町・滋賀郡の御協賛のもと漏刻祭が盛大に執り行われた。
正霊天王宮は、粟津西の圧鎮守の産土神として、八大龍王宮は福寿厄除神として広く崇敬されている。当社家には、この高札場を勅使台と称すと言い伝えられている。  大津東ロータリークラブ』
様々な色の紫陽花が咲いています。『石坐(いわい)神社 この神社は延喜式に近江国滋賀郡八社の一に数えられていたことから、その創建の古いことを思わせる。 祭神は海津見神(わたつみのかみ)を主神とし、天智天皇・弘文天皇・伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)、豊玉比古命・彦坐王命(ひこいますおうのみこと)を祭っている。
むかし干害にあったこの地の人が雨乞いをしたら、ひじょうな応験があって里人の信仰が深かったと伝えられている。 またこの社は八大龍王社とか高木宮の社号を有したことがある。
重要文化財:木造天命開別命坐像(平安時代)・木造伊賀采女宅子媛坐像(平安)・木造弘文天皇坐像(平安)・木造彦坐王坐像(鎌倉) 県指定文化財:本殿(鎌倉)』
『滋賀県指定文化財 建造物・石坐神社本殿1棟(大津市西ノ庄) 三間社流造・屋根桧皮葺の社殿でまわりを平唐門(ひらからもん)と塀によって囲まれています。社殿の前面にある向拝部やまわりの縁は後世に付けられたものですが、身舎(もや)には建築当初の古材が残っており、桁や舟肘木などの様式は古いもので、脇障子が社殿の前寄りに付いているのは珍しい形式です。
この社殿の建立年代は、棟れの写しによって文永3年(1266)に建造されたことが知れ、鎌倉時代の社殿建築として貴重なものです。 昭和32年8月に県の有形文化財に指定されました。  大津市教育委員会 平成元年12月』
『御祭神 正霊天王宮(しょうれいてんのうぐう)・八大龍王宮、伊賀宅子媛(いがのやかこひめ・大友皇子御生母)・天智天皇(天命開別天皇)・大友皇子(弘文天皇)・豊玉比古命(神武天皇御祖父神)・彦坐王(ひこいますおう・開化天皇第3皇子)』
『御霊殿山(ごりょうどやま)遥拝所 石坐の大神は、海神豊玉彦命と申し上げます。淡水湖である琵琶湖の神様は、淡海の大神と申し上げ御子に坐します。神代の昔、大神様は御霊殿山にお鎮まりになられ、天智天皇御代8年旧9月9日御鎮祭。神奈備山は奥宮の禁足地にあります。遥かに拝み奉り神恩感謝の祈りを捧げましょう』。大津市街地に広い境内を持つ神社でした。
r18を東に走り、「近江大橋」を渡りましたが、ハーバーに寄ろうと踵を返しました。再び「近江大橋」を渡り直し、大津中心地で道なりにr558で湖西を北上します。
8:01「柳が崎YH」に着きました。「スナイプマスターズ全日本」が土日の2日間開催されますが、レース艇が数艇しかいない。すぐにトラックが入ってきてレース艇を降ろし始めました。コーチしている大学ヨット部OG・Hさんが手伝っています。どうやらレース運営をするようで聞いてみると、午後からレースで、日曜日は午前中で終了だそうです。スキッパー(艇長)が40才以上のレースなので、ゆったりレースです。コーチしている大学ヨット部員も「おはようございます」とやって来ました。宮津のセイルメーカーHさんが、やってきました。ショップをオープンするのでしょう。レース艇を降ろすのを手伝いに走っていました。
YHを後にしました。r558を少し北上したところでバイクを止め、さっき話したOG・Hさんに電話しました。でも繋がりませんでした。携帯電話あるあるです。「あのさ〜、O大ヨット部OBでヨット部GMしているKさんが、マスターズの応援で乗れる船を探していて、現役がD社関係に連絡してくれたようなんだけどなかったんだ。旗揚げでも何でもするので、運営艇に乗れるかな?」「レース委員長に聞いて、連絡します」。
r558を更に北上します。「堅田」まで走り、右折してR477で「琵琶湖大橋」を渡ります。この橋は有料道路で、バイクは1回100円なのですが、かつてETC設置がなく面倒でした。ETC料金はいくらなんだろう?帰宅後調べたら、80円でした。R477をそのまま走り、左折して、9:06「己爾乃(こじの)神社」。
スマホをチェックすると、さっき電話したHさんから着信していました。コールバックし、「あのさ〜、O大ヨット部OBでヨット部GMしているKさんが、マスターズの応援で乗れる船を探していて、現役がD社関係に連絡してくれたようなんだけどなかったんだ。旗揚げでも何でもするので、運営艇に乗れるかな?」「レース委員長に聞いて、連絡します」。
『式内己爾乃神社(こじのじんじゃ)正一位御前社 御祭神:大己貴命・天津彦根命・素戔嗚命 神宮寺:保流山玉林寺 「己爾乃御前社」とか「己爾乃御前大明神」とか称され、文武天皇の大宝3年(703)に中臣為恵が創建した延喜式内社である。この地は古来より曲狭の里。己爾野荘大曲里と呼ばれ、中世には大満加里とも言われた。度重なる洪水の時、御前大明神が現れ、「この地は霊地なり。我が祭らば五穀豊穣にして国民安隠なるべし」との託宣により御奉斎された。往古は現在地より南西に位置し、荘厳華美な神社として栄えたが、元亀2年の兵乱で破壊され、現境内は寛政3年から文久3年にかけ70年余を費やし、再建されたものである』。摂社のお稲荷さんを守護する狛狐が編笠を被っていました。
バイクで少し走り、9:27「己爾乃神社」。さっきと同じ名前の神社です。『速野(はやの)つ子宣言 1、あいさつをする子供になります 1、交通ルールを守る子供になります 1、やくそくを守る子供になります 1、仲良く助け合う子供になります 1,物を大切にする子供になります』
r11〜r151〜r504で「野洲川」を渡りました。9:53「新川神社」。スマホを見ると、Hさんから電話が入っていました。折返し電話すると、「乗れそうです。どの船とはまだ決まっていませんが、レース委員長がやりくりして乗れます」「ありがとう、じゃあすぐKさんに電話します」。Kさんに電話したら、「ありがとう。でも出れなくなりました。昨日の夜だったら大丈夫だったんだけど嫁さんと喧嘩して・・・ごめん。お手数掛けた方に謝っといてください」。残念なことになしました。すぐHさんに電話し、事情を話し謝りました。Hさんは、わはは・・・と大笑いしていました。じゃあ、また・・・。
鳥居をくぐり参道を歩いていくと、参道中央にしめ縄が張られ、独特な下がりがありました。この形式のしめ縄に似たのは初めてではありませんが、このお宮独特のしめ縄でしょう。
『新川神社御祭神 御本殿:主祭神(須佐之男命) 配祀神(奇稲田姫命・大物主命) 境内社(摂末社):右境内社(御本殿に向かって右側)多賀神社・大神宮 左境内社(御本殿に向かって左側)若宮神社・日吉神社 放生池境内社:厳島神社 ご参拝順序:御本殿・右境内社・左境内社・放生池境内社』
バイクで少し走り、10:29「行事神社」。こちらの神社も、参道に独特のしめ縄が張られていました。
「三上山(近江富士)を正面に見ながら、R8に突き当り、右折してそれに乗って、10:33「御上(みかみ)神社」。『御上神社 御鎮座地:滋賀県野洲市三上838 御祭神:天之御影神(天照大神の御孫)
由緒:当神社の社記によると、天之御影神は今から2200余年前の孝霊天皇6年6月18日、三上山に御降臨になったので神孫の御上祝等は三上山を神体山として鎮祭申上げた。降って養老2年勅命によって、現在の地に社殿を造営して遷祀された。爾来朝野の崇敬あつく清和天皇の御代に正一位、醍醐天皇の御代に明神大社、次に圓融天皇の御代には勅願所と定められ四海大平の祈願を行われた。武家政治になっても源頼朝を始め各武将も尊崇深く、神領を寄進奉った。明治9年郷社に、大正2年県社に、大正13年には官幣中社に御列格遊ばされたが、昭和21年2月宗教法人となり神社本庁所属の別表社となった。
御神徳:御祭神・天之御影神は御神徳高く霊験あらたかで忌火神、金工鍛冶神、産業神、開運悪魔除けの神として信仰され、当地方は昔から神体山三上山を中心に忌火郷、悠紀郷、むかで退治の神話で有名で、山麓からは24個の銅鐸が発掘され、5〜6世紀の古墳群が現存している。
主なる祭日:祈年祭・2月17日 春季例大祭・5月第3日曜日 影向祭(山上祭)・旧6月18日 秋季古例祭(ずいき祭)・体育の日 神衣祭・忌火祭二の申に近い土曜日もしくは日曜日 新嘗祭・11月23日
文化財:御本殿(国宝)拝殿・楼門・若宮社(各国指定重文)・三宮(県指定)・狛犬(重文)・角力人形(県指定)・ずいき祭(国指定重要無形文化財)  以上略記』
広く長い参道の先に立派な楼門が見えています。振り返ると三上山の綺麗な三角錐の山容が正面に見えています。随神門の左右には、彩色の残っている綺麗な武者が守護していました。
随神門を潜ると、境内中央に檜皮葺の綺麗な拝殿が鎮座していました。『国宝・御上(みかみ)神社本殿 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺  鎌倉時代
建立年代は明らかでないが、様式手法からみて鎌倉時代の建立と推定される。入母屋造、漆喰壁および連子(れんじ)窓など仏堂的要素が融合した神社建築で、簡素であるが優れた形をなしている。
中心部一間四方を母屋として正面に板扉を構え、その周囲に一間通り化粧屋根裏の庇を廻した構成であるが、側柱の間隔はすべて同じで、母屋の柱間はその一間よりやや広い。
母屋、側廻りとも隅柱上に舟肘木をのせ、向拝の蟇股は内部彫刻を失っているが、柱上連三斗(つれみつと)の組物と共に力強く、手挾みは珍しい形をしている。反花(そりばな)を刻んだ縁束石(えんづかいし)が並んだところは壮観であり、その正面右端のものに建武4年(1337)の刻銘があり、縁廻りおよび向拝は、この時の改造とみられている。  平成7年3月 滋賀県教育委員会』
摂社ながら楼門・拝殿・本殿と同じ檜皮葺の小ぶりの若宮社がありました。『若宮神社 重要文化財 御祭神:伊弉冉尊 配神:菅原道真命・天石戸別命・天御鉾命・野槌之神 例祭:10月14日』
『鳳輦神輿(ほうれんみこし) 3台の古い神輿は、鳳輦神輿と称して高貴の方が乗られる構造になって中を広く作られております。500余年前、宝徳2年の銘があります』。倉に神輿が3台収まっていました。
R8を少し戻り。10:57「稲荷神社」。『稲荷神社 主祭神:宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ) 由緒、創祀不詳。神社縁起書によれば、天智天皇壬申の乱に野洲川原で戦死した人々の供養及び鎮護国家を祈願し、石城村主宿称が福林寺を建立。その守護神として天暦2年4月に、伏見稲荷大明神を寺域小篠原氏神として崇敬されたと伝える。のち、永禄年間の争乱で福林寺の伽藍は衰亡し、当社と福林寺の一宇真福寺のみが残った。
寛永10年、松平陸奥守より禁制を与えられ、元禄16年8月27日、志礼の地から、現在沢ノ口へ社殿が遷座された。同時に正一位稲荷大明神の宗源宣旨を受けている。享保14年には、松平家の京屋敷中門が、当社へ奉納移建された。明治41年村社を指定され、大正3年5月、十二所神社・三神社・大神社・岩神神社を合祀した。うち十二所神社(古宮神社)は、廃寺福林寺本堂の上座にあって、一山の御法守護神として崇敬されていた由緒を持ち、昭和25年重文の指定を受けている。社宝・縁起書・宗源宣旨・棟札・神鐘・神鏡』
玉垣内の本殿他三社は小ぶりですが、全て檜皮葺でした。中央の本殿を見ると、狛犬の頭に1本角が生えていました。加えて蟇股の彫刻はウサギでした。稲荷神社には珍しい。
『重要文化財 稲荷神社境内社・古宮神社本殿 野洲郡野洲町大字小篠原 一間社流造、こけら葺 室町時代
古宮神社の草創は鎌倉時代で、本殿はもとは近くの福林寺境内にあつた十二所神社の建物を、大正3年に稲荷神社の境内に移築されたものである。 本殿は組物や頭貫(かしらぬき)の木鼻、向拝の蟇股などの意匠よりみて、室町時代の建立と考えられる。昭和17年の解体修理によって、覆屋の中で荒廃していたものが、現在のような端正な姿に復原整備された。
この建物は中規模の一間社で、頭貫に禅宗様建築の細部である木鼻をつけ、母屋正面の鴨居うえ欄間や向拝の蟇股に、唐草模様の彫刻を入れるなど意匠の優れた本殿である。  平成6年3月 滋賀県教育委員会』
本殿に参拝すると、剃髪したお坊さん風だが平服の方がいました。参拝を譲られたのでお先に失礼。私が参拝を終えると、その方が正面に立ちやおら法螺貝を出され吹き出しました。修験道の修行者と想像しました。秀麗の山容の三上山なら、修験道の修行場に相応しそう。
山中の磨崖仏を参りに行こう。11:10、磨崖仏への分岐。「福林寺跡磨崖仏540m」と案内板が立っていますが、開閉できないフェンスで塞がれていました。少し下り、11:13「妙光寺山磨崖仏」入口。入口の朱色の鳥居をくぐり、かなり以前に整備された山道を入っていきます。「古墳?」と思われる石組みがありました。説明板はなかったので違うかもしれません。細い沢沿いの道です。11:22「岩神大龍神」。こちらも古墳と思われる石組みに鳥居が立ち「岩神神社」になっていました。
少し走り、11:37「福林寺跡磨崖仏」入口。案内板に沿って、山道を少し歩き、山中に点在する磨崖仏へ。『福林寺跡磨崖仏 このあたりは「堂山(どうやま)」といわれ小磨崖仏群が点在しています。中でも入口より約50m進んだ右手奥には、岩に平肉彫りされた約45cmの地蔵立像が13体あります。 また、一番見ごとな磨崖仏は如来像2体と観音立像1体が刻まれており、特に観音立像は最も美しい姿をしているといわれ、室町時代初期の作品でありま。
ほかにもたくさんの磨崖仏があったとされますが、大正9年の調査報告書に「近年コノ礎石二彫刻セル仏像ヲ割取ラムトセルモノアリ」と書かれています。しかし当時すでに仏像の大部分は、大阪方面の富豪の庭に持ち去られたといわれ、いまに残る一番見事な磨崖仏もノミのあとが痛々しく残っています。 これより約1km先には妙光寺山磨崖仏があり、高さ約160cmの地蔵菩薩立像が大きな岩に彫られています。  平成4年2月 野洲市観光物産協会』
磨崖仏群の隣の森が切り開かれ、規制線が張られていました。何かな?と思ったら、「発掘調査をしています」の札が下がっていました。
バイクに戻り、R8に下り大津に向かって南下開始。11:56「御上神社」前の「ローソン野洲御上神社前店」で、「味付け海苔熟成焼きたらこ150円+つな揚げ108円=258円」購入。
R8を走り、栗東ICへの分岐を通過しR1になり、右折してr18に乗り、「JR南草津駅」下をくぐり、「近江大橋」で瀬田川を渡り、浜大津から道なりにr558に乗り、琵琶湖西岸を北上します。12:47YH着。


2021/5/30
家内も休みなので、コロナ禍で空いてる京都観光にドライブしました。R171〜中央環状線。「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、ドーナツ5個とエビマヨおにぎり、そして僕は「ゆずれもんサイダー500ml」を購入しました。
「吹田IC」から「名神高速」に乗り、「京都南IC」で下車し、R1で北上。右折して「八条通」で東寺五重塔南を走り、道なりに北に向きを変え「東大路通」へ。前日に続き連日の京都市街地ですが、同じ週末なのに、たった1日経っていないのに、明らかに人が少ないです。すれ違う京都市バスを見ると何れもガラガラ。お客さんの乗っていないバスが3台繋がって走っています。京都の観光地を巡るのはこのバスが便利なので、いつもなら観光客でいっぱいなのに、観光客がいなくなって乗る人がいなくて先行するバスに追いついちゃったのでしょう。
まっすぐ北上し、R367で「高野川」沿いを走ります。「八瀬」を過ぎ、交通量が一気に減りました。大原集落に入り、「三千院」の道標が指す細道の分岐前になった「大原の里P400円」へ車を停めました。料金を払いたいけど誰も来ないので、「こっち」の指差す方に歩いていき400円払ってきました。途中にあった軽四に手入れをしていたおじさんが、「あ〜、すいません」とお母さんに払っている僕に気づいて寄ってきました。半券をもらって車に戻っているとバイクが入ってきて、「すいません、バイク停められますか?」。「わからないけど、あそこにいるおじさんに聞いたら」と伝えると、「すいません」だって。
家内とゆっくり歩いていきます。10:26、趣のある建物。『この建物は、明治後期の頃、三千院への拝観客を目当てに旅館として建築された木造建物です。 旅館の名前は「ますや」といい、往時には、若き日の日本画家・土田麦僊(つちだばくせん)が書生として住み込み、俳人として名高い高浜虚子も幾度か逗留したことがあるなど、地域では有名な宿泊施設でした。
昭和の初期に旅館は廃業され、しば漬けの販売や生産に携わる民家として再生したのですが、昭和62年頃、研修センター用地として株式会社ゼロコーポレーションの所有となりました。 その後暫く放置され、廃屋同然になっていたのですが、平成12年、地域の景観に配慮し、往時の姿を出来る限り残すような形で再生させようという趣旨で大改修されました。 現在の建物は、平成13年10月に完成したものです』
ゆるい坂道をお喋りしながらゆっくり上がっていると、先程バイクでPに入ってこられたお若い女性が追いついてきました。「バイク、停められたの?」「はい」「僕もバイクに乗るから参考になったわ。何処から来たの?」「山科です」だって。
「出世稲荷神社」というのがありました。帰路に寄りましょう。10:45、「三千院」前のお店が開いています。お土産屋さんに入ってみました。招き猫・扇子・髪飾り・・・。
『三千院 天台宗五箇室門跡の1つ。最澄(伝教大師)が比叡山に庵を結んだ時、東搭南谷に一堂を建立したのが起こり。 本堂往生極楽院(重要文化財)は、江戸時代に大修理を行ったが、内陣は、比較的古形を保つ。殊に山形に板を貼り、25菩薩の来迦図を描いた船底天丼は有名で、堂内に阿弥陀如来両脇士坐像(3体・重要文化財)が安置される。
大正初年に修補された客殿内部各室の襖は竹内栖鳳等、当時の京都画壇を代表する5氏の筆により飾られている。  京都市』
しっかりと石垣が組まれた山門です。三千院は、20年以上?30年?来ていません。こんなだったっけ?拝観料大人700円。「往生極楽院」前の苔のお庭がとても綺麗です。もみじの若緑が美しい。秋は秋色で彩られるのでしょう。ガードマンが2名見守っています。「往生極楽院」に参ります。「あじさい苑」を散策しながら上がっていきます。我が家の周辺よりは遅い紫陽花の開花ですが、土壌が良いのか青が綺麗に出ています。色んな種類の紫陽花が咲いており、楽しめました。『金色不動堂(秘仏) 平安時代・智証大師円珍御作 国指定重要文化財 智証大師の瞑想中、虚空に現われ、「我を拝せば、金色の光により、一切の闇を照波し、善に導き、悪を断ずる」と告げられ、刻まれたと伝わる。
不動明王の破魔断悪の功徳の他、金色には増益(良い事を増す)利益があり、健康・学力・素質の開花豊作豊漁に霊験あらたかです』
境内の沢沿いに、「鎌倉時代の石仏(阿弥陀如来像)」を観に行きます。琵琶湖の西、犀川の上流「滋賀の石仏」を思い出しました。大津市の琵琶湖の西岸一体は大陸・朝鮮半島からの帰化者が集団で移り住んだ地で、半島式の墳墓が並ぶ「百穴古墳群」の上流にある石仏です。
「あじさい苑」には、大原菊があちこちにかたまって咲いていました。『大原菊(深山嫁菜みやまよめな) きく科・山地・林内の日陰に生える多年草 大原菊は春から夏にかけて白く淡青紫色の花を咲かせます。今回は、大原環境美化推進協議会とNPO大原里づくり協会が、京都市・地域創造基金の協力を得て「花いっぱい運動」を展開、大原住民の皆様、事業所皆様に「大原菊」を配布し、各家庭の庭公園、空き地に花をいっぱいもたらしました。
大原で昔から守り育てられて来た「大原菊」がいつまでも大原の里で咲き、大原の里が住みよい町、観光地として親しまれる町として展開することを祈ります。  平成27年3月』
「三千院」を出て、売店の道を奥に歩きます。『鉈捨藪跡(なたすてやぶのあと) 文治2年(1186)の大原寺・勝林院での法然上人の大原問答の折に、その弟子の熊谷直実は「師の法然上人が論議に敗れたなら法敵を討たん」との思いで、袖に鉈を隠し持っておりました。しかし、上人に諭されてその鉈をこの藪に投げ捨てたと言われています。  大原里づくり協会』
沢を渡る橋を渡ると、11:41『後鳥羽天皇大原陵・順徳天皇大原陵 宮内庁』がありました。後鳥羽天皇は、源頼朝に征夷大将軍を授けた天皇で、天皇位を譲位し長く院政を敷いた。しかしながら、天皇親政を企て「承久の乱」を起こしましたが、反対に鎌倉幕府によって「隠岐の島」に流され、そこで崩御しました。順徳天皇は後鳥羽天皇の子です。バイク女子さんとここでまた会いました。天皇陵に参るなんてビックリ。家内が、「お父さんと話が合うかもね」だって。
「実光院」という塔頭がありましたが、「当分の間、拝観を休止いたします」でした。ここも、コロナ禍の影響のようです。
『法華堂 後鳥羽天皇御冥福のため、梨本門主尊快親王母公修明門院御計らいにて、水無瀬の御所を以て、仁治元年に建立された享保21年類焼。現在堂宇は、安永年度の建営。昭和11年月、内部及び屋根修繕、本尊普賢菩薩』
11:45「勝林院」。『勝林院(しょうりんいん) 魚山(ぎょざん)と号する天台宗の寺院である。 円仁(えんにん・慈覚大師)が唐から持ち帰り、比叡山に伝承した法儀声明(ほうぎしょうみょう)の修練道場として、弟子の寂源(じゃくげん)が長和2年(1013)に創建し、後に天台声明の根本道場となった。声明とは、インドで始まったバラモンの学問の1つであるが、日本では仏を讃える歌謡や経を読む音律として広がり、仏教のほか民謡などの日本音楽にも大きな影響を及ぼした。
文治2年(1186)に、天台宗の顕真(けんしん)が浄土宗祖の法然を招き、専修念仏について論議した「大原問答」が行われた所でもある。伝説では、その際に、本尊の阿弥陀如来が手から光明を放って念仏の衆生済度(しゅうじょうさいど)の証拠を示したと言われ、本尊は「証拠の阿弥陀」と呼ばれた。
本尊を安置する本堂は、鐘楼とともに、京都市の有形文化財に、また、創建当時の梵鐘と境内東側の石造宝篋印塔は、国の重要文化財に指定されている。  京都市』
「宝泉院」と共通拝観料800円で拝観します。本堂の彫刻が素晴らしかった。紅葉や鶴などの彫刻が立体的で細かく、他の寺社彫刻では見たことがない精細さで驚きました。
本堂内に入り、ボタンを押して「3分間声明」を聞きました。『仏教寺院音楽 声明 声明とは、寺院で行われる儀式の中で、僧侶によって唄われる仏教の音楽である。経典に旋律をつけて合唱し、仏を讃仰(さんごう)する。キリスト教の教会音楽に匹敵する宗教音楽である。
また声明は、平曲(へいきょく)や謡曲などの日本の伝統音楽に大きな影響を与え、日本音楽の源流であるといわれている。 大原に伝わる声明は、大原魚山流声明と呼ばれ、平安時代に慈覚大師円仁(天台宗の高僧)によって中国から伝えられ、鎌倉時代に聖応大師良忍(融通念仏開祖)が大原で大成して以来、天台宗を代表する声明として、現在に至るまでこの地を中心として伝承が続けられている。
声明を聞きたい方は、ボタンを押してください。声明は約3分で止まります。続きをお聞きになりたい場合は、再席ボタンを押してください』
12:00、「宝泉院」に向かいます。境内に入ると、「法然上人、衣掛けの石」がありました。『京都市登録天然記念物 宝泉院のゴヨウマツ このゴヨウマツは、樹高11m・枝張り南北11.5m・東西14mのほぼ扇形の樹冠をしている、周囲の竹林は、冬の季節風を防いでおり、この木の生育を保全するのに役立っていると考えられる。 根回りは4.25mで、幹は3本に分かれている。
3本の幹の中で、中央の幹が一番大きく、樹冠のかなりの部分を占めている。この幹は高さ4m程のところで大枝に分かれ、さらにその上で小さな枝に分かれ、見事な樹冠を形成している。 樹形が極めて優れており、樹勢も旺盛であり、ゴヨウマツの大木として貴重なものである。  平成3年4月1日登録 京都市』
塀の外からですが、「うわ〜これは」と想像させる姿が見えていました。庫裏に入りお姉さんに半券を渡すと、「お茶菓子とお抹茶のお渡しは、向こうの広間でお待ち下さい」と言われました。「お抹茶のお呼ばれがあるみたいよ」と家内に伝えると、「うわ〜久しぶり〜」と喜んでいます。家内は子供の頃から長男を出産するまで、お茶を習っていました。免許皆伝お師匠さんですので、お抹茶大好きです。
小さいながらよく整ったお庭を見ながら廊下を進みます。廊下の外に縁側があり丸座布団が置かれています。座ってお庭を楽しめるようです。池には錦鯉が優雅に泳いでいます。囲炉裏が切られた板の間があり角座布団が4席用意されていました。
更に進むと、畳敷きの書院があり、目の前に垣根越しに見えていた立派なゴヨウマツを中心にした素敵なお庭が広がっていました。朱毛氈が畳敷きの外廊下に敷かれており、そこに数組のグループが座っていました。そこに座りお庭を眺めながらお喋り。お姉さんが、お抹茶と茶菓子を運んで下さいました。ゴヨウマツは見事な枝振りでした。五葉松は盆栽に人気の松で、そんな小型の盆栽松が大きくなったような枝ぶりで見応えがありました。樹齢700年だそうです。
縁側の天井を見上げると、「血天井」がありました。『血天井のいわれ 書院廊下の天井は、伏見城の落城の時の遺物で、慶長5年9月8日、徳川家康の忠臣・鳥居元忠の一党(370人)が石田三成の軍と交戦し、武運拙く伏見城で自刃した時の板の間を天井にしてその霊を弔ったもので血天井と称している。
この宝泉院の血天井は、慶長5年(1600)7月関ケ原の戦の寸前、伏見城を孤守した鳥居彦右衛門元忠一党らのものと伝えられる。鳥居元忠(1539〜1600年)は、天文20年(1551)13才で徳川家の近侍となってから、常にその先陣に従っていた。姉川の役・三方原合戦・武田勝頼の浜松城攻めに、それぞれ戦があり、諏訪原城攻めの時、左股に貫通銃創を受けびっことなった。
天正14年、家康に従って入京の折に豊臣秀吉から叙爵のすすめがあったが、元忠は三河譜代の者なれば二重に忠を尽くすべき道をわきまえずとして、これを辞した。同8年に小田原陣でも功あり。家康の関東入国で下総国矢作4万石の城主となった。慶長5年家康が上杉征伐の向こうに当たり、元忠を止めて伏見城を守らん事を言い渡し、再開すべからずと水杯を交わして訣別した。元忠は1800余人の寡兵をもって伏見城を守り、宇喜田・島津以下の西軍9万余を悩まし防戦よく努めたが、包囲二旬をへて8月1日落城に自害自刃した。時に鳥居元忠62才といわれる。血天井の血痕は、市田博士によって京都西加茂・正伝寺に伝わる元忠一党らの血天井から血液反応を調べた所、当時代のものである事を証明されている。
武将その有様が、天井の板真上に血痕の顔・足・烏帽子などがくっきりと出ています。
1985年5月31日 京都西本願寺に於いて、妻と供に法名を受け、宝泉寺に参拝の機に、住職・藤井宏全氏とのえにこれあり。供養冥福に拝書させていただく。 合掌
解説、宝泉院住職・藤井宏全 謹書 毛利寿海 法名善忍』
飾られている写真を見ると、皇太子・皇太子妃時代の現太上天皇・上皇后のお姿が写っていました。美智子妃は母型の親戚なので、一気に親近感を持ちました。
12:41「出世稲荷神社」。『御由緒 天正15年(1587)年に関白太政大臣、豊臣秀吉公が聚楽第を造営するに際し邸内に日頃より信仰していた稲荷神社を勧請しました。翌年、後陽成天皇が聚楽第に行幸し稲荷社に参拝したときに、立身出世を遂げた秀吉に因んで「出世稲荷」の号を授けたという。聚楽第取り壊しの後も元の場所に鎮座していたが、寛文3年(1663)に二条城西方の千本通沿い(千本旧二条付近、京都市上京区千本通竹屋町下ル)に遷座した。
開運出世の神として大名・公家から庶民までの崇敬を受けた。 江戸時代後期には庶民が寄進した300本を超える鳥居が立ち並んでいたという。 近代に入ると千本通界隈が映画興行の街として繁栄したため、牧野省三や尾上松之助が鳥居を寄進した。 平成24年(2012)6月に京都市上京区より左京区大原に移転した。
御神徳:当神社には次の10種の御神徳がございます。 開運出世の福・衣食住の福・地位名望の福・衆人愛敬の福・農工商その他一切の生業に大繁栄の福・延命長寿と病気平癒の福・千客万来の福・武運長久の福・善智識の福・金銀財宝の福  出世稲荷神社』
石段を上って行きました。『三石大神 三石大神御神体は、福石(右)・壽石(中)・禄石(左)の三石です。 その昔、博徒相場師などが中央を勝石、右方を取り石、左方を打出し石と呼び大変信仰していました。 現代でも勝負の神さまとして多くの方が強運を祈願されています。 三石大神前にあります狛犬は、「新門辰五郎」ご奉納  出世稲荷神社』
社殿兼社務所に入ります。『出世稲荷神社 社殿ご開扉公開中 堂本印象画伯「雲龍図」公開 拝観料無料 ご自由にご参拝下さい ご参拝時間9〜17時』
雲龍図はなかなか良いものでした。『出世稲荷神社 足軽から関白太政大臣へと世にも稀な立身出世を成し遂げられた豊臣秀吉公は、幼少の頃から稲荷五社の信仰が篤くm天正17年(1587)に聚楽第を造営する際、天下統一の成就は稲荷信仰のおかげと感謝して、邸内に稲荷社を勧請されました。これが出世稲荷神社の始まりです。翌年、聚楽第行楽の折に稲荷社に参拝された後、陽成天皇より「出世」の称号を賜り、諸大名が開運出世祈願する社として大いに栄えました。
寛文3年(1663)にこの地に移されてからは秀吉公の出世にあやかって出世開運を願う人々がいつも絶えず、江戸時代後期には、鳥居の数も329本に達したと伝えられえいます。境内には秀吉公と北政所をお祀りした豊の社があります。
出世稲荷には「開運出世の福」「衣食住の福」「地位名望の福」「農工商その他一切の生業に大繁栄の福」などの10種の神徳があるとされています。
境内の水天宮には水難・火難・病難・盗難除けのご利益があるとされ、寿石・福石・禄石野2つの石を御神体にした三石大神は、かつて「勝石・取り石・打ち出し石」などと呼んで大変信仰した勝負運の神様です』
Pへ下っていると、横のP内にロングボディーの壊れたキャデラックが置いてありました。
車に戻り、R367で京都市街地に戻り、13:10「大徳寺P」。塔頭「黄梅院」に入ります。拝観料1000円。庫裏に入ります。靴箱には一足もなく、貸し切りのようです。京都市内なのにとても静かです。縁側に並んで座り、石庭を眺め静かな時間を持ちました。
14:28「大徳寺P」500円。帰路に着きました。「堀川通」を南下し、「JR京都駅」下を南に抜け、右折して「九条通」を西進し、左折してR1で南下し、「京都南IC」から「名神高速」に乗り、「吹田IC」で下車し、中央環状線〜R171で帰宅しました。


2021/5/29
久しぶりの上天気の週末です。空いている京都のメジャーな寺社を観に行きました。8:57、「里山VTR250」を倉庫から出し出発。R171〜中央環状線、9:12「エネジェト中環豊中SS」で給油。179km/6.33L=28.3km/L。9:17、隣接する「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「味付け海苔エビマヨネーズ125円+国産白桃オーレ500ml128円=273円」購入。
「吹田IC」から名神高速に乗り、「京都南IC」で下車しR1で北上します。道なりに「東大路通」に乗り北上し、10:09「智積院」。『総本山智積院寺誌 当山は五百仏山根来寺智積院と号し、弘法大師を宗祖と仰ぐ真言宗智山派の総本山であり、成田山新勝寺・川崎大師平間寺・高尾山薬王院の三大本山始め、全国に3000の末寺がある。そのはじめは南北朝の頃(14世紀初)、興教大師開山の紀州根来山に学頭寺院として創建せられたが、天正13年(1585)に一山が兵火にかかって全焼したため、学頭玄宥能化が難を京都に避け、慶長6年(1601)に至って徳川家康の帰依を得て、豊国梵宇3区を寺領として賜り、現在地に再興された寺である。やがて本院の基礎が確立されると、上ノ寺・下ノ寺を中心に林間に学寮を建て、時の能化及び碩学を慕う四来の学侶を収容し、後の勧学院の仏教研学の道場として栄え、元禄宝永の頃には学山智山の名と共に学風の隆盛を極めた。
元和元年(1615)更に祥雲寺が下賜せられ、壮麗を誇った重閣の法堂では報恩講出仕輪読が厳修せられ、今日でもその伝統を護持して当山の行事となっている。この祥雲寺はその後焼失したが、秀吉の愛児鶴松の菩提のため建立されただけに桃山時代の文化を伝える障壁画が、今日国宝として名勝庭園と共に日本文化の粋を誇っている。
金堂は宝永2年(1705)、桂昌院殿から黄金1000両を賜り建立された由緒ある当山の中心となる建造物であり、ここに行われる大法会には本尊大日如来の霊光を仰ぐ善男善女の参拝が許された。続いて寛文7年(1668)には開山堂、寛政元年(1789)には大師堂が建立され、宗祖弘法大師、中興興教大師の降誕法会と不動尊護摩供祈願法要の行われる。青葉まつりは当山年中行事の最たるものである。明治維新の頃に至り、当山の寮舎堂塔伽藍荒廃甚だしく、勧学院と金堂焼失、更に上地令による境内縮少の悲運重なり、一時衰退を来すに至った。その間、制度の改定、宗派の統合分離など変動が激しかったが、明治33年真言宗智山派を公称し以来、法流の源泉信仰の中心道場として総本山の面目を新たにすると共に、挙宗一致復興の努力が傾けられ、昭和50年には大金堂の再建立、54年には往時の境内失地を回復教学の振興と教化の充実、宗風宣揚の進運に向かうこととなった。全国檀信徒の総菩提所・総祈願所として威容日々に整い、壮厳なる殿堂宗派の根本道場、信仰の一大中心としてゆるぎない基盤の上に団参者、年々数を増やし近畿36不動霊場をも加えて群参は絶ゆることがない。
知恵を積み、徳を磨くの寺なれば、この世を照らす法の灯(詠歌)
真言宗智山派管長・総本山智積院化主第63世・大僧正上野頼栄 代大貫家為先祖代々万霊魂供養 大貫瀧之介・遺志継承 昭和56年7月吉日 茨城県那珂湊市 嗣主・大貫直俊建立 施工:笠間市稲田 青木石材工業・青木正市』
金堂を参りに行きましたが、リニューアル中で参れませんでした。『金堂 寺院の中心となるお堂で、本尊を安置する。智積院では、金堂にて様々な法要を執り行う。
現在の金堂は、明治15年(1882)に昔の金堂が焼失したために、宗祖弘法大師空海のご生誕1200年の記念事業として昭和50年(1975)に建立。本尊は大日如来で、西村公朝師の指導により藤原様式で造られた尊像です』
明王殿に参りに行きます。『明王殿(みょうおうでん) 智積院の護摩道場・祈祷所であり、不動堂とも呼ばれている。 本尊の不動明王は、興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)ゆかりの紀州根来寺より伝来したと言われており、麦付き不動とも呼ばれている。
明王殿は、京都13仏霊場第1番、近畿36不動尊霊場第20番札所になっています。 このお堂は以前は、京都四条にある浄土宗大雲院の本堂であったが、智積院の旧本堂(方丈殿)が焼失された際に譲渡されたものである』
明王殿の裏に「あじさい園」があり観に行きます。いろんな種類の紫陽花が咲いていました。写真を取りながら振り返ると、京都タワーが見えました。更に上がっていくと、「大師堂」がありました。
『大師堂 建立年代・寛政元年(1789)、当山24世胎通僧正(1720〜1798)の時落成した。6間に6間半・坪数48坪。 大師堂は、真言宗宗祖弘法大師空海(774〜835)の御尊像をまつる。大師は31才で遠く中国に渡り、恵果和上より真言密教を相承帰国してのち高野山を開創し、また東寺を賜って真言宗の根本道場とした。またその御一生は日本文化の発展に貢献し、教育・思想・美術工芸・書道・土木など・国家の繁栄国民福祉に特筆すべき足跡を残された。承和2年3月21日62才をもって高野山に入定された』
拝観料を収めて「宝物館」に入ります。「国宝・長谷川等伯障壁画」を鑑賞しましょう。次に「名勝庭園」を観に行きます。
『講堂 大寺院の重要な機能である教室を意味するもので、智積院では真言密教の最も重要な儀式である灌頂(かんじょう)の道場や、檀信徒の回向道場として使用しています。
この講堂は、中興の祖・興教大師覚鑁850年御遠忌(ごおんぎ)の記念事業として平成7年(1995)に落慶。本尊の阿弥陀如来は、もとは金堂に安置されていたものを移したもので、平安時代後期の造立です』
『ひらひらとつくもを、ぬひて落花かな この句は、高浜虚子(1874〜1959年)が、昭和5年4月に智積院を参拝された時に作られました。 「つくも」とは、高さ1.2m、池沼などに生える多年草である太藺(ふとい)のことで、かつて智積院の池に沢山生えていたことが、この句から伺えます。 この句碑は、昭和48年2月に、千葉県神野寺、山口照導師より寄進されたものです』
広い庫裏を巡りました。襖絵・石庭・お庭を楽しみました。数人の稚児が笑って遊んでいる襖絵がありました。鳥獣戯画を思い出しました。鳥獣戯画の稚児版です。『子供のにこやかな笑みを持った姿は、平和のしるしである。世界では民族紛争や飢餓におびえている姿がいっぱい。子どもたちのにこやかな笑顔が、また元気で遊べるような平和で明るい世界を皆で作り上げましょう』
明治維新直後、日本を訪問した西洋人の日記には、「日本人は世界で一番子供を大切にする民族」と表現する者が多く、子供天国だったようです。まさにその姿が襖絵に描かれたように感じました。
「東大路通」に出て北上し、「四条八坂神社前」を過ぎ、右折して「仁王門通り」を東進し、右折して「神宮道」を南下し、11:30「青蓮院」。
『京都市登録・天然記念物・青蓮院のクスノキ このクスノキは、青蓮院の築地の上に4本、さらに境内の庭園内に1本が生育している。 樹高は、最大のもので26.1mに達する。いずれも幹から太枝を伸ばし、クスノキに特徴的な半球形のこんもりとした見事な樹冠を形成し、樹勢も良好である。
12世紀に親鸞聖人に植えられたとも伝えられているが、クスノキが現在の境内の地割に沿って生育していることから、青蓮院が現地へ移転した12世紀以降に植栽されたものと考えられる。 樹勢が旺盛で、樹形も優れているだけでなく、円山公園から平安神宮に続く神宮道の中で、青蓮院を含む地域の景観要素となっている大木として貴重なものである。  平成10年4月1日登録 京都市』
『青不動明王・護摩御祈祷(毎月所定日午後2〜3時)於将軍塚青龍殿 ご参拝ご希望のお方は受付へお申し出下さい。当日ご参拝出来ないお方でもお札を無料郵送致しますのでお申し出下さい』
歩いて少し「平安神宮」の方に戻ります。『栗田口 粟田口とは、三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広範囲に渡る地名である。 この付近は奈良時代以前から開かれた土地で、粟田氏が本拠とし、栗田郷と呼ばれていた。平安京がでさると、東国との交通の要地あるいは軍事上の要衝にあたることから、やがて粟田口(三条口)と呼ばれ、京都七口の1つにも数えられた。
鎌倉・室町時代にはここを通って馬借や車借など運送業者が物資を運んだ。江戸時代には東海道五十三次の西の起点、三条大橋を間近に控え、人や物資の往未で一層にぎわった。
またこの付近には、平安時代の末以降、刀鍛洽(刀を作る職人)たちが住居を構えていた。中でも、童子に化けた狐に鍛冶の手伝い(相槌)をしてもらい名匠・三条小鍛冶宗近が有名である。江戸時代の元和年間(1615〜1624)には瀬戸から焼き物の技術が伝えられ、「粟田焼」と呼ばれる陶器の産地になった。この右手にある門跡寺院・青蓮院は「粟田御所」とも呼ばれている。  京都市』
「青蓮寺」に戻ります。青蓮寺と道路を隔てた正面に、「PAVILION COURT」があります。レストランかな?と思ったら、結婚式場のようです。京都には、このような旧家屋をリノベーションした特徴ある結婚式場がいくつもあります。清水三年坂に近い同じような式場披露宴会場に、コーチしてるヨット部卒業生カップルのウェディングで招待されたことがあります。
青蓮院横の大きなお堂に向かいます。『植髪堂の由来 養和元年(1181)親鸞聖人が9才の時、青蓮院第3世門主慈鎮和尚のもとで得度した時に剃り落とした髪を、親鸞聖人の親族が保管し、張り子で造った親鸞聖人の童形像の頭上に植え付け、常に自分たちの傍に置いていました。まもなく、このお像は青蓮院に移され、永く蔵せられることになります。
親鸞聖人の教えが広まるにつれ、このお像のことを伝え聞いて礼拝を願う人々が数多く訪れるようになったので、新たに一閑張りお像を造り、法衣を纏い、当院の末寺で一番近くにあった金蔵寺(明治に廃寺)の御供屋に安置して誰でも拝めるようにしました。
宝暦9年(1759)に熱心な信徒の方々が御供屋の東側に1つのお堂を安置しました。お堂は「阿弥陀堂」と言い「植髪堂」とも称せられるようになりました。
天明5年(1783)定法寺町(神宮道三条上がる東側)に、新たにお堂を建て移す準備を始めることになりましたが、経済的に困難が大きかったらしく、毎年各地で植髪尊像の出開帳を行うなどした上、文化8年(1811)正月に立柱、3月に入仏供養が行われました。このお堂が、現在の植髪堂で、その後、当地に移るまでに2回の移築を経ています。
昭和54年(1975)8月に、10ヶ月に亘る長期大改修工事を経て現在に至っています。 植髪像を祀る御厨子は、宝暦10年(1760)に造られたものです。中央に植髪像とともに、元の形に倣って阿弥陀如来をお祀りしています。 また階下及び隣接堂宇に納骨堂を設置し、ご縁の方々に広くご利用いただくよう努めています』
「植髪堂」を出ると、「PAVILION COURT」から着飾ったお若い女性が出てこられました。幸せの絶頂のひとときを共有なされたお友達・・・楽しそうです。
『青蓮院 三千院・妙法院と並ぶ天台宗三門跡の1つで、天明の大火(1788)の際に仮の御所となったことから、粟田御所とも呼ばれる。
最澄(伝教大師)が比叡山に建てた僧侶の住居の1つ「青蓮坊」に始まるとされ、平安時代末期の行玄(ぎょうげん)のときに三条白川(現在地のやや北西)に移り、鳥羽法皇の第7皇子が行玄の弟子として入寺して以来、皇族や摂関家の子弟が門主(住職)を務める「門跡寺院」となった。
歴代門主のうち、3代の慈円(じえん)は歴史書「愚管抄」(ぐかんしょう)の著者として有名で、17代の尊円(そんえん)入道親王は和風と唐風を融合した青蓮院流(のちの御家流)と呼ばれる書風で知られる名筆家であった。
境内全域が国の史跡に指定されており、粟田山の山裾を利用した庭園は、龍心地(りゅうしんち)を中心とした優美な池泉(ちせん)回遊式庭園で、主庭は相阿弥(そうあみ)の、霧島の庭は小堀遠州の作と伝えられている。また、神宮道沿いの門前には、この寺で出家した親鸞聖人のお手植えと伝わる巨大な5本の楠(京都市登録天然記念物)がある。
寺宝として、青黒く描かれていることから「青不動」の名で知られる「不動明王二童子画像」(国宝)をはじめ、多数の文化財を蔵する。円山公園東の山頂に、飛び地の境内である将軍塚青龍殿を有し、そこからの京都市街の眺めは別格である。  京都市』
『天台宗青蓮院門跡 青蓮院は、京都五ヶ室門跡(妙法院・三千院・曼殊院・毘沙門堂・青蓮院)の1つです。境内約3000坪は全域、国の史跡に指定されています。
国宝青不動明王は、東山山頂「青龍殿」にお祀りしています。また、毎月満月の日午後2時から護摩供を厳修します。みなさま、青龍殿へのお気軽にご参拝下さい』
『むさぼる心、憎しみの心、怒りの心に負けず、感謝の心と人への思いやりを受けず、己の中の仏の心を信じて唱える南無大聖大悲・青不動明王』
庫裏内を拝観します。襖絵・屏風・お庭など気持ち良い。
『小御所 徳川時代、後桜町上皇は天明8年の皇居炎上の時、青蓮院を仮の皇居と定め、光格天皇・明治天皇もここにしばしば駐輩して小休止された。  史跡「旧仮御所」』。ここは甘美ではないが、よく手入れされた素敵な部屋でした。
『大切な5つの心 「はい」という素直な心 「すみません」という反省の心 「おかげさまです」という謙虚の心 「させて頂きます」という奉仕の心 「ありがとうございます」という感謝の心 よき心の灯で一隅を照らそう』
『聖天堂 明治政府の廃仏毀釈政策により門跡寺院の経営が破綻。一部の境内地と共に売却された聖天堂を此の度復興し、以来本堂でお祀りしておりましたご本尊を遷座いたしました。  令和3年正月』
『国宝 不動明王二童子像(青不動) 通称青不動といわれ、日本の三不動画のひとつとして有名です。不動明王は密教の仏で大日如来の使者とされ、もっとも重要な明王です。現存する平安期の不動画の最高傑作にふさわしい威厳と荘厳さをもち、この青不動明王を供養し奉るときの利益は甚大といわれています。国宝の中でも特に厳しい保存条件のもと、創建以来秘仏として受け継がれてきました。密教において宇宙の中で仏様が並んでいる図式を曼荼羅といいますが、その曼荼羅の中心にあるのが大日如来で、大日如来の化身が不動明王です。大日如来は崇高すぎて直接拝みにくいということから化身の不動明王を拝むことになります。
青不動は画面の中央で、右手に剣、左手に扁索を持ち、火炎を負い、おごそかに岩の上に鎮座しています。身体は暗青色で、墨線で輪郭がつけられ、顔は眉骨が隆起し、片方の目は天を、もう一方は地を睨んでいます。牙も上下にのび、炎の赤と体の青がみごとなコントラストをなし、煩悩を焼き尽くす姿が表現されています。忿怒の相で盤石の上に座る不動明王に動きはありません。まさに一切の人々を救うまではここを動かないという不動の姿を表しています。右手に持つ剣は魔を退散させると同時に人々の煩悩を断ち切るため、左手の羂索(けんさく)は悪を縛り上げるためのものであり、煩悩から抜け出せない人々を救い上げるためにもあるといわれます。
こうした不動明王の特徴は、9世紀末に天台宗の安然が「不動明王 立印儀軌修行次第 胎蔵行法(りゅういんぎきしゅぎょうしだい たいぞうぎょうほう)」によって著した「不動明王の十九観」に基づいて描かれています。
右下には、蓮華の茎を左わきに挟んで合掌する矜羯羅童子(こんがらどうじ)、左下には左手に金剛杵、右手に棒を執り、力を誇示する制叱迦童子(せいたか)が描かれています。両者とも不動に視線を向け、やや前かがみの姿勢です。この2人は従順さと反抗的態度という侍者の二面性を表し、不動と二童子の位置はほぽ正三角形の構図となっています。
そして暗闇の中で燃え盛る背後の火焔の中には7羽の火の鳥、迦楼羅(かるら)が描かれています。迦楼羅は金翅鳥(こんじちょう)ともいい、竜を好んで常食するという伝説上の鳥です。鷲の如き神猛な鳥類の一類を神格化したもので、赤と朱色で形作られています。これは三毒(貪欲・瞋恚(しんに)・愚痴)を喰らい尽くす鳥であるといいます。明正が向かって左を向くことから、炎の尾はそれに対応して向かって右に流れ、紅蓮の焔が激しく燃え上がり揺れ動いています』
『西方浄土 庭の世界には古代より三尊石という石組みの手法があります。三尊には釈迦三尊や薬師三尊などがあるそうです。 この庭はその三尊石を中心に西方浄土をイメージして作庭しましたが、残念ながらそれぱ作れませんでした。西方浄土は皆さんの心の中にあるはずです。そのような気持ちでこの庭を親て下さい。  京都府造園組合 青年部』
『青蓮寺門跡のご本尊熾盛光如来(しじょうこうにょらい) お前立ち像 糸魚川産・翡翠(ひすい) 平成18年10月1日開眼
青蓮院門跡のご本尊は「熾盛光如来」といい、形式は種子曼荼羅(掛け軸)です。「熾盛光如来」をご本尊とするお寺は、日本中で当青蓮院門跡のみです。平安後期開創の時から非公開でしたが、平成17年秋3ヶ月に亘り初のご開帳が行われました。その後はまた非公開となり、現在はそのお姿に直接お参りしていただくことが出来ません。
平成18年(2006)秋に、本翡翠・プラチナ製のお前立ち像が篤志家によりご奉納され、ご本尊のお厨子の前に安置されました。その奥におまつりされるご本尊と共に、合掌して「ボロンボロンボロン‥・」とお唱えしてお参りして下さい。
宝珠:新潟県糸魚川産の非常に貴重な翡翠原石を宝珠に象りました。糸魚川産の翡翠原石は現在天然記念物に指定されている為、一般の採掘は禁止されております。しかもこのように巨大な翡翠原石を新たに入手する事は、非常に困難との事です。しかし、この翡翠は篤志家の家に伝わったものである為、造立・奉納が実現しました。翡翠は、ダイヤモンド、ルビーに次ぐ硬度があり、古来宝石として珍重され、又、三種の神器の勾玉も糸魚川産翡翠と云われています。
ご本尊の種字(ボロン):仏様を表す梵字は、「熾盛光如来曼荼羅」の中に描かれています。青蓮院の寺伝「華頂要略」によると、第3代門主慈円が白金製のご本尊を造立した記録があるところから、プラチナにて象嵌されています。
台座:欅材総金箔押し。京仏師吉田源之丞師により制作されました』
握りこぶしより大きな翡翠が綺麗に丸く磨かれ目を引きます。「宸殿」エリアに入りました。宸殿は紫宸殿の略。皇居が焼失した時、天皇陛下が臨時に移り住んだ所でしょう。平安時代末期に仮御所になったので、当時の建物ではないのでしょうが、建て替える度に天皇陛下の仮住まいを作り続けたようです。再びの皇居焼失に備えて朝廷からの要請もあったのでしょう。「門跡」という寺院形態自体が、仮皇居に意味合いがあったのでしょう。
御簾に隠されたお部屋がありました。御簾ですので、内部はある程度見えますが、観光客が誰もいない僕だけの静かな世界で御簾のある世界の側にいると、とても厳かな気持ちになりました。撮影禁止だったのが残念でした。
「神宮道」を南下し、「知恩院」前を右折し「古門前通り」を西進し、12:31「白川」を渡ったところでバイクを止めました。数ヶ月ぶりの白川ですが、初夏の雲が浮きとても綺麗。白川の畔で、結婚式の前写真を着物カップルが取っています。最も幸せを感じる時期ですね。左折して「丸太町通」を西進し、「京都御所」の南を走り、南西角で右折し「烏丸通」を北上します。
右折して、12:46「相国寺慈照院」。横に「正親町天皇皇孫・智仁親王墓以下七墓・桂宮東ノ墓地 宮内庁」がありました。「慈照院」は拝観していませんでした。
「烏丸通」に出て北上し、枝道に入り、12:58「妙顕寺」。大本堂・鬼子母神堂・三菩薩堂を見ます。大本堂の彫刻が素晴らしい。「方丈」に入り、書院などを拝観します。襖絵や枯山水石庭が美しい。よく手入れされており、気持ちの良い場所です。参拝客がいないので、ほぼ独占です。大客殿の枯山水の向こうに「勅使門」がありました。写経する部屋がありました。1枚1000円。
『四海唱導の庭 こちらの庭は「勅使門」に面し、貴人を迎えるための庭となっています。 「勅使門」とは天皇家の方だけが通れる門であり、妙顕寺は1334年に後醍醐天皇に宗門最初の勅願寺に認められたため、今でもこの「勅使門」が残っています。「四海唱導」とは「世界中のあらゆる人々を法華経の教えに導き、その功徳によって人々を救うという意味が込められています。それを表したのがこのお庭です。 左奥の3つの石組みは滝を表し、滝から流れ落ちた水が白砂で表した大海へと広がっている様子を表しています』
『光琳曲水の庭 「光琳」とは江戸時代に活躍した画家、尾形光琳のことです。尾形家は妙顕寺の檀家であったため、尾形光琳とは関係の深いお寺でした。 文献では尾形光琳が設計したお庭がかつて妙顕寺にあったと書かれてありますが、1788年の天明の大火によって、妙顕寺は焼けてしまったため、その際にお庭も焼失しました。そのあと、このお庭は宝物庫に残されている尾形光琳の描いた松竹梅図の掛け軸を元に作られました。 大きな赤松を中心に川の流れる様子を曲水として表現しています。真ん中の赤松の樹齢が約400年、手前の黒松が約200年とされています』
『孟宗竹の坪庭 小さいながらも風情があり、苔と竹の青々しさが清涼感を感じさせてくれるお庭です。 特に文献には記述がなく、記録も定かではありませんが、妙顕寺の宝物庫にある尾形光琳の松竹梅図になぞらえて作られたのではないかと言われています。 毎年、新しい竹が生えるので毎年場所や形が異なります。以前、ネスカフェのCMの背景にも使われたことがあります』
宝物殿を拝観したかったが、春秋の特別展の期間中のみ公開だそうで残念でした。庭に「水琴窟」があったので、水を掛け音を楽しみました。
『抱一曲水の庭 赤松・モミジ・椿・草花・杉苔、そして僧侶が修行(水行)する行場の井戸と修行石(平らな石)、そこを源流とする川流れで庭が構成されています。 妙顕寺には、琳派ゆかりの作品が残されており、酒井抱一の「観世音図」にちなんで、アオイ・アジサイ・マツモトセンノウ・カワラナデシコ・ヤマユリ・春のアヤメ・開花期の長いキキョウ等を植え、春から秋まで花が咲き、晩秋には紅葉も楽しめます。 妙顕寺は街の中ではありますが、静寂な場所であり、庭に水琴窟を設け、その音色に耳を傾けると心癒される雅な庭です』
西に走り、「堀川通」を少し北上し、枝道に入って。13:51「玄武神社」。『玄武神社 御祭神として、文徳(もんとく)天皇の皇子である惟喬親王(これたかしんのう)を祀り、別名惟喬社とも呼ばれている。 社名の玄武とは、青龍・白虎・朱雀とともに王城を守る四神の1つで、平安京の北西の守護神として名付けられた。亀に蛇が巻き付いた形で描かれることが多い。
当社の起こりは、親王mp末裔で当時この地に住んでいた星野茂光が元慶(げんけい)年間(877〜885)に、親王の御霊を慰め、また王城北面の鎮護を願って、親王の外祖父にあたる紀名虎(きのなとら)が所蔵していた親王寵愛の剣を祀ったことに始まると伝えられている。
毎年4月の第2日曜日には、「玄武やすらい祭」(国の重要無形民族文化財)が行われる。この民族芸能は、平安時代の花の精の力による疫神封じ(花鎮め)に由来し、桜や椿で飾られた風流傘を中心に、鉦や太鼓の囃子(はやし)にあわせて、鬼や小鬼が町を踊り歩く。京都の奇祭の1つとして知られている。  京都市』
北に走り、「北大路通」を西に走り、大徳寺南東角交差点を右折し、14:00「大徳寺P」。四輪のPしかなかったので管理人さんに聞くと、「ここに置いて、15:30までに帰ってきてね」と言われました。無料でラッキー。
14:01、塔頭「龍源院」に入ります。『龍源院 大徳寺の塔頭の1つで、大徳寺南派の本庵である。 文亀2年(1502)に大徳寺第72世住職・東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登(現在の石川県)の領主・畠山義元が豊後(現在の大分県)の大友義長らとともに創建した。
方丈・玄関・表門(すべて重要文化財)はいずれも創建当初のもとで、方丈は大徳寺山内最古の建物と言われ、禅宗の典型的な形式を示している。
方丈の南・東・北に趣の異なる3つの庭園があり、北側に広がる龍吟庭(りょうきんてい)は、苔の上に三尊石が建つ須弥山式枯山水の名庭で、室町時代の作と伝えられている。南庭(方丈前庭)は、白砂の大海に苔と石組で鶴亀を配した蓬莱式の庭園、また、東の東滴壺(とうてきこ)は日本最小の石庭といわれ、一滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせている。
このほか、庫裏の南側には聚楽第の礎石を配した阿吽の石庭がある。 寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔絵(まきえ)の基盤、天正11年(1583)の銘がある種子島銃などを蔵している。  京都市』
『重要文化財 龍源院釈迦如来坐像(鎌倉時代・建長2年(1250)行心造)』
『重要文化財 龍源院方丈・唐門・表門(室町時代・文亀2年(1502)建立)』
『名勝庭園 龍源院参観案内
仏像:釈迦如来坐像(鎌倉時代1250年・行心作)重要文化財
庭園:一枝壇・方丈前蓬来山形式の石庭 東滴壺・日本最小の壺石庭 竜吟庭・室町時代・相阿弥作・須弥山式枯山水 こ沱底(こだてい)・書院前阿吽の石庭(聚楽第の基礎石) 鶏足山・開祖堂前庭・往時京都御所にあった菊花御紋章入り石灯籠あり
建造物:日本最古の禅院式方丈・重要文化財 附玄関(唐門)及び表門共に重要文化財 開祖堂・昭和の唐様木造建築の代表作』
方丈に向かい、拝観料金350で拝観します。
『日本最古の火縄銃(下段) 銃床尾に天正11年の年紀があり、火縄銃の中では在銘最古のものである。戦国期の遺品が極めて少ない中で、原資料は貴重な遺例といえる。墨書銘にある「喜蔵」は、金森長近の養子となり、信長・秀吉に仕えた長屋可重の幼名と考えられている。元目当の位置が機関部寄りにあり、製作時期が早いことを窺わせている。
銃床尾墨書銘「天正11年9月9日 喜蔵とりつき」(1583)全長158.5・銃身長111.5・口径2.0』
『こ沱底(こだてい)別名:阿・吽の石庭(あ・うんのせきてい) 書院軒先の石庭で、こ沱底といいます。こ沱とは、中国の河北省鎮州城にある宗祖臨済禅師の住庵した寺の南に流れる河の名で、後来吾宗の正豚を伝えることを言います。 別名阿・吽の石庭といい、阿吽とは吸う息、吐く息で、天と地、陰と陽、男と女、電流の十とーと、どの1つをも切り離すことの出来ない宇宙の真理をそのままに表現しているのがこの石庭です。 東・西の基礎石は昔秀吉が建てた聚楽第のものです』
『東滴壷(とうてきこ) 日本最小の石庭といわれ、極めて小さな石庭でありながら格調高く殊に有名です。 庭の右側に平たい1枚の板石が置かれ円い波紋は1滴の水が滴り落ちる姿を表わしています。 一滴の水が小川となり大河となり、ついには大海となる様に、一滴の大切さ、一滴がそのまま大海につながっている事を表現しています』
大小、いくつかの枯山水の石庭が僕を魅了しました。襖絵も素敵です。
『当院「白蔵主」の屏風について 昔、堺の南宗寺塔頭・松林寺に1人の雲水僧が居りました。墨染の衣に身を包み、座禅をしたり托鉢をしたりして、毎日修行しておりました。或る時はこっそりと町へ出て貧しい人を助け、或る時は和尚になって迷い悩んでいる人を救い導いたり、常に世間の困った人々を助けて居りました。実はこの雲水は松林寺山内の耕雲庵に住む1匹の古狐でした。この古狐の亡き後附近の人々は「白蔵主」と申して、今現在も耕雲庵の裏山に祠を建て、丁重に祀っております。
この屏風は明治時代の画匠鈴木松年先生が白蔵主の逸話を画材にした傑作中の傑作であります。これにまつわる話があります。昭和35年5月の或る日の事でした。大阪西成区に住んで居られる杉浦某氏という方が突然当院を訪ねて来られました。その話を伺いますと次のような事でした。
近頃家業不振で思わしくなく、その上家庭の不幸が相次ぐので、とある行者に見てもらったところ行者は「あなたの家に狐さんの画いたお軸か屏風のような物が有りはせぬか、その狐さんは修行中の身でまだ修行をしたいと願っている。もし狐の絵があったら一日も早くどこぞのお寺にでも納めなさい」と。そこで杉浦氏はどこのお寺へ納めたらよいものかど尋ねたところ、大阪より北の方、京の都に狐さんの望む寺があるやもと申されたのでその行者さんら数人で京都に参り、諸方を転々と探し求めて大徳寺の当龍源院の門前まで来てしまいましたが、どうしたことか、これより先一歩も足が進まず遂に意を決め当院の門を叩きし由でした。当院方丈東の間は、禅海宗俊和尚(大徳寺180世、高山市大隆寺開山、寛永21年(1644)大徳寺に出世)が「狐窟」と銘し扁されました。今日このように狐窟の銘ある寺へ訪ね来られて、白蔵主の屏風の寄進を申し出られしことは、誠に不可思議な因縁と申す他なく、快くこの白蔵主の屏風を当院へ寄進して頂きました。その後杉浦家は誠に平穏無事に日々を暮らし、今なお大阪の西成区に住んで居られます。以上はこの白蔵主にまつわる実話でございます。  龍源現住喝堂識之』
14:11、お隣の「黄梅院」へ。『重要文化財・黄梅院本堂(室町時代1588年建立)』
『重要文化財・黄梅院庫裏(室町時代1590年建立)』『重要文化財・黄梅院茶室書院(鎌倉時代1351年建立』
『黄梅院 大徳寺の塔頭の1つで、織田信長が父・信秀の追善菩提のため、永禄5年(1562)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に命じて建立した小庵に始まる。 大徳寺98世住持・春林宗俶(しゅんりんそうしゅく)和尚を開祖に迎え「黄梅庵」と名付けられた。
天正14年(1586)には秀吉により本堂と唐門が、天正17年(1589)には毛利元就の子・小早川隆景により庫裏・表門が改築され、この年に「黄梅院」と改められた。庫裏は日本の禅宗寺院において現存する最古のものといわれている。
秀吉の希望により千利休が作庭した枯山水の直中庭のほか、破頭庭(はとうてい)、作仏庭(さぶつてい)など禅寺の風情ある美しい庭園を有している。
本堂の襖絵「竹林七賢図」は雪舟の画風を継ぐ雲谷等顔(うんこくとうがん)の代表的な水墨画で、重要文化財に指定されている。また、書院には千利休の茶道の師である武野紹鴎好みの茶室・昨夢軒(さくむけん)がある。
墓所には、織田信秀、毛利元就夫妻、元就の息子三兄弟、信長の次女とその夫・蒲生氏郷、毛利一族などが祀られている。  京都市』
拝観料1000円。高いな〜と思いましたが、広い境内に建てられた伽藍から眺める千利休作庭のお庭がとても素敵です。お庭の茶室が素敵です。伽藍を結ぶ渡り廊下が屋根のあるオープンエアで、苔の緑と綺麗に模様された白砂利が良い。歴史のある墨絵襖絵がナイスです。
「黄梅院」を出て、他の塔頭を観に行きます。14:40「玉林院」。『重要文化財 玉林院客殿・南明庵』があったので入っていくと、「拝観謝絶」となっていました。残念。
14:43「高桐院」。『高桐院 大徳寺の塔頭の1つで、江戸時代初期の武将で茶人としても有名な細川忠興(三斎)が、父・幽斎の弟・玉甫紹踪(ぎょくほじょうそう)を開祖として建立した細川家の菩提寺である。
三斎は、千利休の7人の高弟(利休七哲)の1人に数えられる名手で、書院は利休の邸宅を移築したものといわれる。書院に続く茶室「松向軒(しょうこうけん)」は三斎好みの二畳台目で、三畳の水屋が付き、壁や天井にも趣向が凝らされている。書院の庭は江戸初期の作庭で、また、本堂の前庭は楓の樹を巧みに配しているのが特色である。
寺宝として、中国の南宋時代の画家李唐(りとう)の山水画二幅が有名で、現存する墨絵山水画の圧巻と賞賛されている。 境内には三斎と夫人ガラシヤのほか、歌舞伎の創始者とされる出雲阿国らの墓がある。三斎の墓標の石灯龍は、利休が秀吉の望みを断って三斎に贈ったものと伝えられている。  京都市』。こちらも「拝観休止」中でした。
14:46「近衛家廟所」。ここは拝観出来ないようでした。近衛家は、江戸時代我が在住伊丹市の領主だったので興味があったのに残念。14:47「総見院」。ここは「信長公廟所」ですが、コロナ禍で拝観休止のようです。14:51「三玄院」。
14:53「大徳寺仏殿」。『大徳寺 臨済宗大徳寺派の大本山で、広い寺領に別院2ヶ寺と21の塔頭を有する。 鎌倉末期の正和4年(1315)に、大燈国師(だいとうこくし・宗峰妙超しゅうほうみょうちょう)により開創され、花園上皇と後醍醐天皇の厚い帰依を受けた。室町時代には、幕府の保護を辞退して在野の禅院として独自の立場を貫いた。応仁の乱で建造物は焼失したが、「一休さん」として親しまれている47世住持の一休宗純(そうじゅん)が堺の豪商の庇護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建造物や寺領が寄進され、江戸時代初期に現在の建造物はほとんど整えられた。
三門・仏殿・法堂(はっとう)・経蔵・庫裏(以上いずれも重要文化財)・方丈(国宝)など、主要建造物がすべて保存され、禅宗の典型的な伽藍配置を示している。唐門(国宝)は聚楽第の遺構と伝えられており、豪華な彫刻に飾られた桃山時代の代表的建造物である。方丈の室内を飾る狩野探幽(たんゆう)の襖絵(重要文化財)をはじめ、書画・古文書などの多くの寺宝を蔵する。
茶祖・村田珠光、千利休など多くの茶人の帰依を受け、茶道とのかかわりが深い。  京都市』
14:51「三玄院」。『三玄院 天正17年(1589)浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)が春屋宗園(しゅんおくそうえん・大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。
小堀遠州・古田織部・薮内剣伸・長谷川等伯などは、春屋に禅を学んだ人々である。 沢庵・千宗旦らも修行をし、春屋・三成・忠政・剣仲・織部の墓がまつられている。 織部好みの三畳台目・八窓の茶室篁庵(こうあん・江戸時代建築)があり、本堂ふすま絵の八方にらみの虎は、原在中の筆による』
三玄院も拝観休止だったので、仏殿前に戻ります。『大徳寺のイブキ 大徳寺の現在の仏殿は寛文5年(1665)に再建されたものであるが、このイブキも、そのころに植栽されたものと思われる。 イブキは、ヒノキ科ビャクシン属の高木で、日本では本州(宮城県以南)・四国・九州に分布する。イブキビャクシン又は単にビャクシンと呼ばれることもある。一般に長命の木であるが、これほどの大木になることは稀であり、貴重である。 昭和58年6月1日京都市指定天然記念物に指定された。  京都市』
ちょうど観光案内の方が数人の団体を連れておられ、その説明によるとほぼ消えている天井絵は龍だそうです。14:56「正受院」。こちらも拝観休止中でした。「千体地蔵塚」、多くの石地蔵が集められていました。
14:58「興臨院」。『重要文化財 興臨院客殿・唐門・表門(室町時代1520年代創建)』『興臨院 大徳寺の塔頭の1つで、大永年中より天文2年間(1521〜33年)に、能登(現在の石川県北部)の戦国大名・畠山義総(よしふさ)が仏智大通禅師を開祖として建立し、自らの法名を寺号としたという。
方丈(重要文化財)は創建後に火災に遭ったが、天文年中(1532〜1555)に再建され、畠山氏が衰退した後も、前田利家によって修復が行われた。方丈玄関の唐門(重要文化財)は室町時代の禅宗様式を見事に表しており、創建当時のものといわれる表門(重要文化財)は「興臨院の古門」として有名である。ハイタラ樹の名木がある枯山水庭園や茶席「涵虚亭」も趣き深い。
寺宝として椿尾長鳥模様堆朱盆(つばきおながどりついしゅぼん・重要文化財)を所蔵している。 墓地には畠山家歴代の墓のほか、久我大納言夫妻など、当院ゆかりの人々の墓がある。  京都市』『春の季節拝観・興臨院 期間:4月25日〜6月13日(土日祝日公開) 拝観時間:10時〜16時半 拝観料金:大人600円・中高生400円・小学生300円』
静かなお庭を室内や廊下から眺めます。『茶室・函虚亭(かんきょてい) 中国北宋時代の政治家でもあり、詩人の蘇東城の詩文から付けられる。(涵す:ひたす、みずにつける)(虚:備えなく)何も考えずにくつろぐ 古田織部好みの四畳台目隅板付きの茶室と四畳半の水屋からなる 昭和3年(1928)尾道出身の山口玄洞氏寄贈』
15:06「瑞峯院」。『重要文化財 瑞峯院本堂・唐門・表門(室町時代)』『大友宗麟公菩提寺・瑞峯院 枯山水庭園茶室』。拝観料を納め巡ります。『独坐庭 荒波に打ち寄せられても雄々と独坐している蓬莱山の風景です。さわがしく忙しい日々の生活。ひとときを静かに座ってこの蓬莱山のように雄大な泰然とした心境を体得したい!!』。
『拝観料金 一般(30人以下)大人400円・小人300円 団体大人350円』『御朱印300円・大徳寺納豆1000円』
大きくはないが、何か引き寄せる力を持った枯山水石庭でした。先客の女性2人が、縁側に並んで座っていました。お邪魔してはいけないので、端っこで座り良い気分にさせて頂きました。墨の襖絵が落ち着きます。
『安藤軒:表千家惺斎宗匠の指示により、三畳台目送勝手席と三畳角炉の席閑眠庭(十字架の庭):大友宗麟公はキリシタン大名でしたので、横に3ヶたてた4ヶの石の流れを十字架に組れ、万民の霊を弔っております』
15:15「大悲院」。「精進鉄鉢 大悲院泉仙」という和食料理店がありましたが、コロナ禍休業中でした。
バイクに戻り、帰路に着きます。「北大路通」を東進し、右折して「堀川通」で南下し、右折して「四条通」で西進し、左折して「大宮通り」で南下します。突き当りを右折し「八条通」で西進し、左折してR1で南下し、名神高速に乗りました。「桂川PA」でトイレ休憩し、いつものようにアイスで糖分補給しようと思いましたが、売店がリニューアル中でアイスを買えませんでした。「吹田IC」で下車し、中央環状線〜R171で、16:29帰宅しました。


2021/5/23
日曜日でお休みですが、仕事場でゴソゴソしてから、家内はZoom会議だし、丹波篠山方面に走りに行こうと、倉庫から「招き猫CB400SB」を出します。バイクに乗って自宅に戻り、家内とお喋りしながら朝ごはんを食べていると、バイクの音が聞こえて来ました。我が家のご近所さんでバイクに乗られるのは2軒。「これは近いぞ」とお隣さんの玄関を覗くと、ご主人がバイクを洗っておられました。「何処かに行かれるのですか?」に始まり、前回話していた北海道ツーリングの話になり・・・、ツーリングに出かける予定はなかったようですが、僕の篠山ツーリングにご一緒することになりました。ご主人は、サンドバギーを持っておられましたが、昨年からバイクに変わりました。
来週から北海道ツーリングに出かけられるそうです。数年前に僕が6月に北海道ツーリングしたので、「場所により気温差が大きかったですよ。冬装束で行きましたが、晴れたら20℃ぐらいになりグローブが暑くてコンビニで軍手を買ったし、大雪山山岳路では雪が降ってきたし、トマムスキー場では4℃でした」などの話を垣根の手入れをしていた時バイクで帰って来られたご主人と前回しました。30分後に出発と決めました。
9:58出発。10:05「セルフ宝塚176」で給油。279km/11.22L=24.9km/L。「阪急山本駅」下を抜け、長尾山トンネルを抜け、r325〜r33〜r323〜r37からr49に乗り北上しました。美濃坂峠(標高500m)を越えて、篠山盆地に下ります。R372を渡り、左折してr306を西進し、11:32「春日神社」。手前に謂れ板が立っていました。
『波多野氏ゆかりの岩崎城 槇ヶ峰の末端山頂に位置する。戦国末期の城跡と考えられる。柳原左近兵衛が拠ったと云われ、篠山盆地西方を望み、八上城は見えない。城跡の山頂は3〜4段の段差を持つ削平地で、40m程最高所へ延びる。東へ降りる尾根の途中の曲輪端に低土塁付きの堅堀を備えるが、臨戦的に使用されたと思われる。  令和2年12月 城南地区まちづくり協議会』
今回で3度目の訪問です。小さなお宮ですが、彫刻が素敵です。今回、神社手前に「岩崎城跡」の謂れ板を見つけました。その先に山に入る獣避けフェンスが見えたので、いつか城攻めしましょう。
r306に戻り、西へ走り、右折して北に向かい、「篠山川」を渡りました。左折してr140で西に走り、右折してr97で北に走り、12:06「宮田天満宮」。
『篠山市指定天然記念物・五葉松 昭和53年8月1曰(1978) 管理者・官田地区樹高約4.5m・枝張り約12mの壮観たる五葉松である。地元宮田地区の手厚い保護を受けて、強い樹勢を保ち続け、その枝葉を現在も広げている。
五葉松は別名ヒメコマツとも言い、松科松属の常緑高木である。野生では高さ30mにもなり、北海道南部から九州の太平洋側に分布する。本来は山地の険しい尾根や岩場などに自生するが、庭木や盆栽にも多用され、愛好する人が多い。葉は針状で、5枚ずつ束になってつく。雌雄同株で、5月頃若い枝の基部に雄花、先端に雌性球花をつける。和名の五葉松は、5枚の葉をもつマツの意から名付けられたものである。  平成11年4月1曰(1999) 篠山市教育委員会』
手入れが行き届き、四方に枝が広がる素晴らしい松でした。小さな神社ですが、彫刻も素晴らしく、蟇股の龍には玉眼が入っていました。脇障子の彫刻も見応えがありました。
r97を更に北に少し走り、12:33「弘誓寺」。『御光ヶ嶽弘法大師八十八ヶ所霊場 西国八十八ヶ所参拝は遠路にして願望遂げることは困難であると思い、近場に霊場を設け参拝させることを希望して御光ヶ嶽(板井向日山萩谷山頂)に新四国と称し弘法大師八十八ヶ所の霊場を設けて、霊仏霊像を弘誓寺の山門北を一番とし霊山全山に配安置されている。
明治24年4月8日御詠歌供養塔建立。明治34年子安地蔵菩薩の銅像建立。子安地蔵菩薩銅像は大東亜戦争に応召され、抜魂を挙行解体され軍需に召され終戦後、子安地蔵尊は元の位置に石造として安置され、山の一部は現在遊歩道として整備されている。  西紀中地区里づくり振興会』
寺院が、鳥居正面の山を上った100m先に見えています。寺院なのに鳥居?と思ったら、寺院に上がる参道横に、参道を守るように社殿がありました。きっと、江戸以前の神仏習合そのままなのでしょう。本殿は、斗拱が良い感じで、彫刻も素敵です。蟇股は動物で珍しい。
寺院まで上がって行きました。本堂は唐破風の趣のある屋根でした。彫刻も素晴らしく、屋根から鳳凰が下がっています。堂内に入ってみると、彩色が残っている素晴らしい彫刻がありました。欄間それぞれに龍が彫られ、針金ひげがついていました。これは丹波の宮大工集団・中井権次一門の作のようです。
ご一緒しているお隣さんに中井権次一門の話をすると、「そういう目線で見ると面白いですね」とのこと。僕はバイクで寺社巡りしますが、素通りしていたとのことです。まあ、それが普通ですよね。僕のように手当り次第寄り道するスタイルの方なんていません。中央の欄間の龍の彫刻の上に、「傳教」と書かれた額が掲げられていました。天台宗の寺院です。
r97に戻り東進します。分水嶺まで緩やかに登り、左折してr69で緩やかに西進して下ります。右折し枝道に入り、13:00「一宮神社」。『一宮神社(栢野区かやのく) 天正12年11月10日(1584・戦国時代)の創立であると言われています。 祭神は、大市比売命で相殿は受持神です。 明治6年10月、村社になり明治42年3月に稲荷神社を合祀されました。以前はここに小学校が設置されていました。片側三本柱の鳥居も立派です。また、社殿奥の大きな岩から松が生えておリ見応えがあります。 本殿妻飾りには、今話題の柏原藩宮大工の中井権次一統の彫物があります』
本殿横に大きな岩が見えます。祭神はこの岩だったのではないかと想像しました。神道は宗教ということになっていますが、「アミニズム・自然崇拝」であって宗教とは違う感じがします。仏教やキリスト教のような経典がなく、戒律もありません。生きていくために最重要な川、水の源である水源、食物を生み出し育む山・海、人の力ではどうにもならない巨大な力を感じる巨岩、それら全てを産み出す大自然に神を感じ、それらを祈る対象にしているのが神道と思います。
本殿を見に行くと、蟇股の龍に針金ひげがありました。木鼻や脇障子の彫刻も素晴らしかった。
r69に戻り西進し、右折してr709で北上し、13:37「照仲寺」。『薬王山照仲寺(しょうちゅうじ)天台宗(下三井庄区) 法道仙人の開基で、天正年間の明智光秀による丹波攻めで焼失しました。天正13年(1585)祐永法印(ゆうえいほういん)によリ中興されました。二階造りの山門は天台宗寺院特有の造りで、像鼻、蛙股の造りは古い年代のものです。 本尊は薬師瑠璃光如来(座像)です。 境内には大師堂・薬師堂・宝蔵などがあリ見事なさつきの古木に囲まれた庭園があります。(別名、さつき寺とも呼ばれています)
焼け残った一株両幹の柿木から出てきた金の薬師如来像と金の曼荼羅が体内に造りこまれた薬師如来像や日光月光菩薩・四天王・十二神将が揃っている薬師堂があります。 また、下の写真は今話題の丹波柏原藩の宮大工、中井権次一統の彫刻です。大路地区には数多く中井家の彫刻がある神社・仏閣があります。 また、大路地区内の彫刻は龍がほとんどですが、この寺においては唐獅子となっています』
立派な2階建ての山門をくぐります。このような山門は天台宗特有のものだとは知りませんでした。境内には、サツキがたくさん植わっていました。弁天池がありました。石段を上がって本殿を見に行きました。彫刻が良かったです。下ってくると、ご一緒した方から、「あれ水芭蕉ですよね」と教えてくれました。見ると黄色い花で、水芭蕉って白と思っていましたが黄色もあるのか?と思い、帰宅後調べてみました。黄色もあるようで、知識が増えました。でもこの寺院の花は、ちょっと違うようです。
13:56「道の駅・丹波おばあちゃんの里」に入り、お昼ごはんにしました。トイレを拝借し、僕はラーメン、お連れさんはカツ丼を食べました。
帰路に着きます。お連れさんは、「ホンダレブル250」を去年買われてバイクデビューされました。脚付きが良く安心だそうです。慣れたので「ホンダレブル1100」に乗り換えるそうです。前回話した時、1100の試乗にホンダドリームに行くと行っていたので、その感想を聞くと、とても良かったそうです。230kgと重いけど、同じく試乗した「CB1100」より重心が低く、ずっと良かったそうです。DCTなのでクラッチレバーがなく、とても楽だったそうです。
レブルは重心が低く脚付きが良いので、女性に人気だそうです。確かに重心が低いというのも脚付きと同じく、安心の肝ですね。オンダドリームで「CB1300」に跨った時、起こすのも大変で、とても僕には乗れる代物ではありませんでした。同じホンダでも、「NC750」は燃料タンクが下にあり重心が低く、起こすのが楽だったのを覚えています。BMW「F750GS」に跨った時も軽いなと感じました。オーナーによると、水平対向エンジンなので、エンジン重量が低いからだそうです。
帰路に着きました。「舞鶴若狭自動車道・春日IC」から高速に乗り一気に南下します。「三田西IC」で下車し、r92〜r720〜r570で有馬富士の横を通り、道なりにr68〜r33〜r325〜長尾山トンネルを抜け、17:04帰宅しました。


2021/5/15
9:01、「招き猫CB400SB」を倉庫から出し出発しました。丹波の寺社巡りをします。r13〜池田からR173で北上しました。9:48「ファミリーマート能勢町栗栖店」で、「フルーツミックス500ml100円」を購入しました。気温24℃、暖かくなりました。
篠山盆地に下り、いつものように交通量が少なく気持ち良く北上しました。左折してr300に乗り西へ走りました。目指す中世の山城に近づき、スピードを落としながら山城がありそうな地形を見ていると、「白藤城跡」の幟が数本立っているのを見つけました。
10:35「大芋党の山城 白藤城跡 大芋活性化委員会」。のぼりは立っているものの、謂れ板や案内板がないので、場所の目安はつくが、登り口がわからない。山は獣避けフェンスに囲まれており、目についた車も通れる出入口は違っていた。次に見つけた出入口をま目指そうと歩き出した時、旦那さんと田植えをされていた奥様が歩いて来られたので声を掛けました。「白藤城跡はこれで、こちらが二の丸であちらが本丸」と指差して教えてくださいました。女性なのに詳しいなと思ったら、「上がられますか?こないだ主人が下草を刈りましたが、倒木が多いので上がれるかな〜」とのこと。旦那さんが城跡を保存しているのですね。城主一族の末裔かもしれません。奥様が入って行かれた家は、まさに城跡の麓の家でした。
謂れ板がないのでネット情報を載せます。『篠山市街北方に位置する藤坂集落の鎮守春日神社から北西に約1km、 弓谷峠にかかる手前北山に遺構が残っている。戦国時代、大芋衆の一人として活躍した中馬氏が 築いたものと伝えられ、北方の船井郡、西方の氷上郡に通じる街道を押える格好の地にある。 城址は山頂の曲輪と西尾根先の曲輪で構成され、二段式の詰め城形式である。 主体は山上の曲輪で、北尾根先に二重の堀切、土塁で防御された曲輪が残っている。 西尾根先の曲輪は、東尾根側に残る大堀切、高土塁、塹壕状の空堀が素晴らしい。 小ぶりな城で城址までは簡単にたどり着けるが、雑木とブッシュに覆われていて 探索は一筋縄ではいかないところだ。 西南の山麓には後裔にあたるという中馬家の屋敷があり、見るべきところの多い城址ではある。
中馬氏は新田氏の後裔といい、室町時代はじめの明徳年間(1390〜94)、 新田義貞の弟脇屋義助の子尾張守義治が丹波に来住したことに始まるという。「丹波志」などによれば、 義治から4代目の右近之進義貢は新田から中馬と改め、藤坂に新たに館を構えた。そして、義貢の孫越前守治秀が、 元亀元年(1570)に館後方の山上に築城したとされる。 治秀は中村城の山上氏、福井城の森本氏らとともに、八上城主で多紀郡一帯を支配する戦国大名波多野秀治に属した。 天正3年(1575)、織田信長の命を受けた明智光秀による丹波攻めが始まると、 治秀ら大芋衆は波多野方として明智軍と対峙した。しかし、天正5年(1577)、 光秀に降伏、同十年の山崎の合戦に明智方として出陣、武運つたなく戦死した。残った一族は離散したが、 のちに藤坂に復帰して帰農したようだ。
山麓の中馬家を訪ねてみると、立派な門構えの住宅で、門の横には堀跡を思わせる窪地があり、屋根瓦には 新田氏ゆかりの「一つ引両」紋が据えられている。中馬家と南面する林景山長谷寺には、中馬氏の先祖である 脇屋義助の位牌が祀られているとのことだ。 南北朝時代史に名を刻んだ新田義貞ゆかりの家が、丹波の一隅で連綿と続いている。まことに、家の歴史とは 数奇なものである』
田んぼの畦を歩いてフェンスへ。開閉して山側に入ります。獣道さえないので、尾根に向かって直登しました。間引きされた杉の幹が森の中の斜面に転がっており、それらを乗り越え登っていきます。鹿の糞が落ちており、イノシシのヌタ場があります。早朝の光景が想像され楽しい。フーフー言いながら尾根下まで登り、放置された倒れた幹に腰を掛け休憩。毛虫が糸にぶら下がっているエリアがあったり、蜘蛛の巣が張っていたり・・・。山に蜘蛛の巣が張り出して、そろそろ中世の山城攻めの良い季節が終わりそうです。これからは、雑草が伸び蛇に気をつけないといけないし、蜘蛛の巣が厄介です。暑くなると登るのがきつくなるし、夏を過ぎると松茸山が立ち入り禁止になるし、続いて猟期が始まりイノシシに間違えられないよう注意しないといけないし・・・。山城攻めは、冬の終わりから梅雨までが一番です。
尾根に上がり、尾根の上下を見ると、奥さんが「二の丸」と言っておられた西方向に、いきなり堀切が見えました。早速向かいます。少し歩いたら、「本丸」「二の丸」の案内板が立っていました。雑木を用いた簡単なものですが、まだ新しくこれがご主人が整備されたものでしょう。
二重堀切が見事に遺っています。現役だった戦国の世から400年以上経って、ほとんど手入れされていないにも関わらず、山城攻め素人の僕にでも「おお〜」とはっきり痕跡が確認できます。2つの堀切をこけないように下り、根っこを掴みながら登って郭に上がると、更に西が切岸されており、郭が2段確認できました。郭には矢竹が自生しており、戦国の詰城の戦闘が身近だった頃、必要にかられ植えた子孫だろうと想像しました。
同じ中世の山城でも、地元保存会がしっかり整備し、歩きやすいように道をつけ、遺構がわかりやすいように説明文や掘り直しなどされているのも良いですが、このようなほぼ手つかずに埋もれた山城は探索者にとって格別です。ここまでの直登も相まって、達成感が半端ないです。
続いて「本丸」攻めをしようと思いましたが、「二の丸」より標高が高く、尾根伝いでは行けず再び直登が強いられます。断念して山を下りました。あぜ道に、「マーガレット」「ミモザ」「たんぽぽ」「シロツメグサ」「ネモフィラ・メンジェシー」が咲いています。
r300に戻り、西に走り「藤坂峠」を越えて、道なりに北に方角を変えて走ります。「本郷」交差点手前まで来ると、11:37「鯉のぼり」が谷を渡るロープに鈴なりに下がり泳いでいます。激写タイム!谷と言っても下は小学校・公民館や田んぼ。
本郷を過ぎ、道なりにr710で北上します。R9に突き当り、左折して北上します。11:54「ローソン福知山三和町店」で、「森永チョコモナカジャンボ151円」を購入し、店内スペースで食べるつもりでしたが、コロナ禍の影響でしょう席スペースが撤去されていました。仕方なくPで糖分補給しました。
工業団地の中を縫う広い道を走り、枝道に入り、12:31「正法寺」。『なみだで洗われたまなこは、きよらかでふかい』。禅寺でした。境内に上がると、「ニワナズナ」「ハナビシソウ」が綺麗に咲いていました。年代物の消防ポンプがありました。P隣に鳥居があり、石段が上っていました。かなり登るので山城攻めで足を使ったのでパスしました。墓地があったので入ります。特に目を引くお墓や家紋はありませんでした。無縫塔が20ほど並んでいました。20/4=5・・・寺院の歴史は500年でしょうか?
少し走り、12:44「愛宏神社」。社殿はなく1畳ほどの小さな敷地の神社ですが、手入れされた玉垣垣根が三方を囲んでいました。『愛宏神社略記(愛宏山934m) 鎮座地:京都右京嵯峨愛宏町 御祭神:本殿・伊邪ナミ尊(伊勢大神の母神)・土ノ神・木ノ神・五穀神・火ノ神の5杜 若宮・三柱・奥宮・十七柱
愛宏神社の御鎮座は、光仁天皇御字天慶元年(781)和気清麻呂が勅願に依り慶俊僧都と協力。王城鎮護の神として鎮座と伝わる。
愛宏神社・火ノ神(倶迦槌命)は、火を司とリ光と熱を以って万物を活動させ、又火が燃える様な勇猛熾烈な神とあり。桓武天皇平安遷都より、都の乾に鎮座護国鎮火の神として朝廷の崇敬斜めならず。永徳元年極位の神階を授けらる。享保5年(1720)我等が先入此地に遙拝所を設け、崇敬今日に至る。 本社参詣を記念し、御土を裁き此の地に撒く。  昭和62年3月29日 参詣者一同』
12:54「厳島神社」。隣の耕作放棄地?に檻ワナが設置されています。「ちかよるなきけん」と書かれています。本殿は、田舎の寂れた神社でしたが、蟇股などの彫刻が素晴らしく良かったです。
r59に戻り、西に走り、「舞鶴若狭道」をくぐり、R175手前で枝道に逸れ、13:07「三ツ塚廃寺跡」。木々と芝生の広い公園で、池なども残っていました。かつてはとても広かったようです。帰宅後調べてみると、「白鳳時代の終わり(1300年前)に建てられた寺院。仏教伝来間もない頃で、各地で豪族が自らの権力を誇示するために、古墳に替わって寺を建てていた時代です。全国各地で、白鳳時代から奈良時代(1300〜1200年前)にこのような寺が600以上建てられたが、丹波市内で見つかっている白鳳時代の寺院跡は三ツ塚廃寺跡だけ」ということでした。r59に戻り、すぐに枝道に入り、13:17「済納寺」。『一隅を照らすのは国の宝なり』と刻られた石碑が立っています。天台宗の寺院のようです。寺紋は、我が家と同じ「武田菱」でした。
枝道を通り、13:29「鴨神社」。随神門を構えた由緒あると思われる神社でした。
『鴨神社の由緒 兵庫県丹波市市島町梶原633の1(舞鶴若狭道春日IC10分・JR市島駅15分) 御祭神:賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)
創建は賀茂縣主真蓑(かもあがたぬしまみの)にかかるとの口伝があるが不詳である。応永28年正月吉祥日(1421)「再造鴨大明神社殿」の棟札があり、禰宜賀茂縣主経良の名が記されている。
天正7年(1579)明智光秀の丹波攻めにより兵火にかかり、社殿ほか一切を焼失した。現在の本殿は延宝8年(1680)に、拝殿は文化8年(1811)に再建されたものと伝えている。
江戸時代は鴨郷(加茂乃庄)9か村の総社として地域住民の尊崇を集め、4社(鴨神社と貴船神社、八幡神社、春日神社)を合祀したことから当時は鴨四座大明神と称し、氏子640戸を擁したという。時の領主旗本川勝氏も崇敬の念篤く、神社の繁栄維持に勤めた。
大正13年5月に郷社に列せられる。境内の面積は約2400坪。本殿の両脇に2社と1社を配し、祝詞殿に続く東西10間南北2間の広さの拝殿、それを三方の塀で囲んだ社殿は壮観である。
戦後に宗教法人鴨神社となる。一の鳥居(大正3年3月再建、柏原中井権次彫刻)の脇に御神木の天然記念物・大公孫樹(推定樹齢数百年・高さ20m・幹周6m)がある。
参考:京都・上賀茂冲社の御祭神も当神社と同じく賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)で、神社の正式な呼称は賀茂別雷神社という。同下鴨神社は賀茂建角身命(かもたけつむみのみこと)と、娘の玉依媛(比売)命(たまよりひめのみこと)が御祭神である。玉依媛命の子が賀茂別雷命であることから賀茂御祖神社が正式名称。賀茂建角身命は、丹波国の伊賀古夜比売(いかこやひめ)を妻に迎え、玉依日子命(たまよりひこのみこと)と玉依媛命の2人をもうけ、兄の玉依日子命は後に父のあとを継いで賀茂懸主となった。
祭儀 節分祭2月・祈年祭2月・例祭(水無月祭)7月・流鏑馬神事(秋祭)10月・新嘗祭11月
神野神社・伊可古塚址の石碑:境内の東北隅の地に建立。
丹波市指定文化財絵馬:「桃園義盟圖」長渾蘆州(円山応挙の高弟で蘆雪の義子)の画を蔵。
摂社:下鴨神社(下之森大神宮昭和23年遷宮)・厄神神社・豊受神社・金刀比羅神社・柿本神社・鴨荒魂社・稲荷神社・猿田彦神社・厳島神社の9社。
平成26年4月吉日 平成22年度 鴨神社氏子総代』
境内に入ると土俵がありました。鎮守の森の木々は高く、蟇股の龍の彫刻が素晴らしい。針金ひげがある龍で、中井権次一党作のようです。拝殿には、絵馬が数点掛かっています。
『伐採した杉の木について 境内で一番高くて(約30m)、隣の楠木と結び合い何かと話題の多かったこの杉の木。 鴨神社と共に幾百年を歩み、幾多の風雪にも耐えてきたが、近年傷みが目立ちはじめ、平成19年春の落雷後は先端が枯れはじめ、それに伴って枝の落下などが増え危険な状態の中、伐採することとなった。年輪は400〜430十年位を数えており、天正7年(1579)あの有名な織田信長の丹波攻めでこの社や杜が焼失し、その直後に植えられたものと考えられる。よって歴史の証人であるこの「切り株」を後世に残すこととした。
平成19年(2007)11月5日 丹波市森林組合費用30万円 平成21年3月吉日鴨神社氏子総代記』
伊勢神宮・宮中三殿・山稜・橿原神宮・明治神宮の遥拝所がありました。
バイクに戻り、「竹田川」を渡って、13:42「本明寺」。『浄土真宗本願寺派 龍峰山本明寺 寺の縁起によると、和銅5年(709)に本願庵の創建が始まりとつたえている。 その当時は真言宗であったが、寛永4年(1627)庵主喜作が浄土真宗に帰依し、僧名を教玄と改める。本山より本尊名号と宗祖絵像の下付を受ける。山号を龍峰山、寺号を本明寺と称する。
当時の本堂は集落の東で竹田川の近くにあったが、正保年間(1645)竹田川の氾濫で本堂が流失した。現在の本堂は文政5年(1822)に着手し、8年の歳月を経て再建し現在に至る。  美和ふるさと観光協会』
寺院だし、浄土真宗なので期待していませんでしたが、本殿の蟇股の彫刻は素敵でした。
R176に出て、帰路に着きます。「春日IC」から「舞鶴若狭道」に乗り、「三田西IC」で下車し、r92〜r720〜r17〜R176〜r327で、「JR道場駅」を横目。武庫川沿いを走り、「川下川ダム」横を走り、r33〜r325で「長尾山トンネル」を抜け、15:26帰宅しました。


2021/5/9
倉庫から、「招き猫CB400SB」を出し、前日より早く出発しました。5:34、近所のローソンで、「助六寿司399円」購入。集合時間の8時まで余裕があるので、高速道路を使わず琵琶湖を目指しました。R171〜中央環状線。5:47「中環豊中SS」で給油。270km/11.83L=22.8km/L。r14〜R171で9条通りまで北上し、東寺横を通って5条通〜R1〜湖西道路でYH着。YHで助六寿司を食べていると、部員たちがやってきました。「おはようございます」。
朝から昨日より強い三井寺の風が入っています。昨日のように風が落ちたりしなければ良いが・・・。ブリーフィングして出艇。湖上は思いの外風が強く、8m/sオーバーで白波が立っています。スタートラインに着くまでに沈艇が出ています。その艇は起きて大丈夫だったけど、バングがゆるいようなので、しっかりバングを入れてレースに入るようアドバイスしました。当方は、琵琶湖という微風軽風が多いエリアなので、強風時のバングがゆるいです。
当方キャプテンが乗る470エース艇がジブの窓を破って近づいてきました。アンカー打って、ジブを交換しました。その途中、ジブの一部が切れたレース艇が来ました。470リーダーは止めておくよう指示しましたが、このようなサバイバルの状況では出来るだけ早いハーバーバックが鉄則です。僕が「すぐに帰れ」と指示しました。
本部船に、AP/H旗が上がったようで、スタートライン付近にいた艇も帰りだしました。他校艇も含め、レスキューのついていない殿艇とともに湖面を見ながらハーバーバックしました。しかし、S級コーチボートから連絡が入りました。2回生コンビが乗っていたレース艇が沈し、エアタンクに水が入ったのかかなり水没しているとのこと。飛び込み要員が必要とのことで、急いでハーバーバックし、ドライバーの3回生マネOさん・470コーチ・僕を残し2回生マネさん3人と1回生を下ろし、ハーバーバックしていたS級選手数人&主将を、飛び込み・力仕事要員として乗せて再び湖面を疾走し沈艇に向かいます。途中で、沈艇に乗っていた2回生女子選手をなどを乗せて、S級コーチボートがハーバーに向かって疾走していくのとすれ違いました。各艇の状況は、共有LINEで随時発信しているのである程度他でもわかります。
半分以上水没した沈艇は、レース運営艇に引っ張られていました。バックで引っ張っているのでエンジンへの負担が大きそう。近づいてこちらからロープを運営艇に投げて沈艇の曳航ロープに結んでもらい、こちらはが引き継ぎました。S級コーチボートでは馬力が非力で引っ張れなかったようです。
ここから延々、ハーバーに向けて引っ張ります。風が強く、更に優勢なブローも入るので何時間かかることやら・・・。悲惨な状況ですが暗くなってはやってられないので、圧倒的に年上の僕が冗談を言ったりして笑わせようとしました。でもそんなことは無用で、みんな明るい。頼もしいです。S級リーダーは、1回生の時同じような状況で笑顔を見せていたら、上回生女子マネージャーさんに叱られたそうです。「いやいや、こんなん笑わんとやってられんやろ〜」と僕がいうと、「ですよね〜」と僕が向けたスマホに向かってピースサインまで出しています。主将がトラピーズフックに曳航ロープを引っ掛けて、トラピーズに乗っている真似をして笑わせています。
何度かのブローが通り過ぎ、風が落ち着いて来たので、同じエンジン回転数でも速度が少し早くなったようで、目指す合宿所前が近づいてきました。沈艇はマストとブーム・セイルを外しています。飛び込み要員がいなかったS級コーチボートから4回生女子選手が飛び込み、レース艇に乗っていた2回生2人をコーチボートに上げて、曳航ロープを結ぶまでやったようです。スーパー女子選手です。スマートでお淑やかな美人選手なのですが、爺さんは博多湾の漁師で、さすが海の男の孫です。S級リーダーのGFさんでもあり、将来の家庭の姿が想像できるな〜。ハーバーから、レース再開する旨の連絡が入りました。S級は仕方ないにしても、470の上位選手は出しましょう。このレスキューに乗っている主将などをハーバーに戻さないと・・・。S級コーチボートが戻って来たので、S級乗りを数人そちらに載せ替え、曳航ロープも渡して、当方470コーチボートはハーバーバックしました。砂浜は水深が浅いのでより大型な当方では小回りが利きません。
ハーバーで、再び470マネさんたちを乗せ、レースサポート体制を再構築してレース海面に戻りました。既にRitsはレース海面に向かっており、選手に急いでセイルを上げてレース海面に向かうよう指示します。今度は北風になっており、470レース艇を曳航して急ぎます。何とかレースに間に合いました。振れながらも安定した3〜6m/sの風が入り続け、残り3レース消化しました。昨日と違って、470チームはD社とある程度戦え、必ず1〜2艇はトップ5に絡んでいました。
D社コーチボートが近づいてきて、監督に「D社強いね〜。今年はインカレ優勝行けそうだね」と言うと、「いやいや、まだまだ」といつもの謙遜です。「S級艇1艇大変だったようで?」と聞かれたので、「エアタンクのハッチが外れ、かなり沈んだけど、砂浜に上げたよ」と答えました。「それは良かった」。昨日のレースでは、D社女子部員がトイレを借りに来たけど、レースでガチンコ勝負しても、その他のことはお互いに助け合わないと・・・ね。
全レースが終了し、ハーバーバック。途中でポツポツ軽く雨が落ちてきました。ハーバーに戻り、部員やOBたちに声を掛け話し、ブリーフィング前に帰路につくことにしました。
湖西道路ではポツポツしていましたが、比叡山の東だけだったみたいで、名神京都東ICが近づくと路面も濡れていません。名神に乗っても雨は皆無でした。16:47「桂川PA」で、「チョコモナカジャンボ151円」で糖分補給。いつものソフトクリーム型アイスが高級品に変わっており、190円って高いやろ〜。毎度おなじみのコースで帰宅しました。


2021/5/8
コーチしている大学ヨット部が、琵琶湖のメイレガッタに参加するので、2日間コーチします。車で行って車中泊する事も考えましたが、バイクで日帰りすることにしました。
倉庫から、「招き猫CB400SB」を出して、荷物を積んで出発。R171〜吹田ICから名神高速に乗り一気に走りました。「京都東IC」で下車し、湖西道路で北上し「皇子山IC」で下車。7:16、「セブン大津松山町店」で、「味付け海苔エビマヨネーズ125円+味付け海苔辛子明太子140円=265円」購入。
ハーバーで朝食を取っていると、8時になり部員たちがやってきました。三井寺の良い風が吹いています。昨年からのコロナ禍で2回生部員の名前もまだしっかり覚えていないのに、1回生部員がいます。レスキュー・コーチボートの定員により参加人数が絞られ、全員参加には至っていません。
レース艇を回り、ラダーのガタなどをアドバイスし、大型新人Nさんにマストステップ位置などチューニングをアドバイスします。速いボートを作るところからがヨットというスポーツです。次男の後輩でジュニアからヨットに乗っており、ワールドも経験した期待の新人ですが、これまではちゃんとしたボートに乗っていました。対して大学は個人艇ではないので経年艇で結果を出しながら上位艇を実力で手にしなければなりません。
ブリーフィングで話し、定時になり出艇していきました。470級のコーチボートに乗って湖面に出ます。3回生マネOさんと2回生マネ3人、腰を痛めて上がっている470リーダーOくん、1回生プレイヤー1人、そしてコーチ陣が乗っています。
第1レースは三井寺でしたが、2レース目は北風、そして3〜5レースは再び三井寺と目まぐるしいウインドコンディションでした。でも、風速は3m/s以上あり、勉強になるレースでした。リザルトはD社の圧勝です。特に470級は昨年全日本インカレ個人戦優勝のOくんより上をHくんが走っています。あと2艇もそれに続く感じで毎レーストップ5に入ってきます。「これは、今年のインカレ470はD社優勝の流れだな〜」と感じました。2019年春のD社ウィークで圧勝するKO470に「これはKOが全国制覇しそうだ」と口外したのに似ています。
これに対抗しているのは、当方OBのMくん/Tくんコンビと、当方学生が1艇からむぐらいです。選手に聞くと、「フリーが速い」とのことで、当方が1上トップ回航してもアビームセイリングで抜かれる姿を見ました。
S級も同じような状態で、D社OBも加わって、D社優位です。全5レースで、当方で一度もトップフィニッシュできませんでした。D社に続いて当方とRitsが両クラスともほぼ互角です。水域の他校、金沢や富山のような遠方校は別にして、共産・龍谷も参加しておらず、前回2019年に比べ寂しい大会でした。両校とも練習もしていない感じで、ヨット部存在の危機に瀕しているのかもしれません。当方もコロナ禍で新人加入が例年のように対面でやり辛いので大変ですが、他校も頑張ってほしい。
S級2回生スキッパーI女史さんが、4レース目の1上を10位ぐらいで回航しました。第1レースはビリ、フィニッシュビリ2。第2・3レースはずっとビリ2でした。ビリ3とは離れていますが、少しずつ前との差が詰まっていました。それが一気に半分より上で回り、当方4回生含め部内でも半分より上を走りました。そして最終第5レースはフィニッシュでもビリ4でかなり上達しました。ハーバーで声をかけると、「すごく嬉しかった」「少し上手くなった感じがします」ととても嬉しそうでした。3回生スキッパーK女史さんが第5レースでトップ5入りで1上マークを回航し、D社集団の中で孤軍奮闘していました。フィニッシュは9位でしたが、こういうレースはとても勉強になりワンランク上がります。2人をハーバーで思いっきり褒めておきました。嬉しそうでこちらもニコニコです。ハーバーバックし、ブリーフィングして帰宅しました。


2021/5/4
あっという間に、次男のGW帰省最終日です。明日5/5早朝5時に出発し埼玉に帰ります。よってあまり疲れないように過ごしましょう。最初、「王子動物園」を予定していましたが、緊急事態宣言発令により入園できなくなりました。次に目的地にしたのが、「東条湖おもちゃ王国」。かつては「東条湖ランド」という名でした。東条湖の周辺に別荘地が開発された時、親が別荘を持っていました。何度も休みの日に泊って、東条湖ランドでも遊びました。大学生の時、家内を連れて行ったこともあります。プールもあり、夏は最高です。その時の写真アルバムに、家内が「よっちゃんのお嫁さんになったみたいで幸せ」とでコメントしています。エプロン姿の家内とテーブルに座って家内の作ってくれた昼食を食べています。今でもそのアルバムを見てニコリとしてしまいますが、結婚後、夏に泊まると蛾が窓にたくさん止まるので、「怖いから泊まりたくない」と家内に言われ、家族で泊まらなくなり売ってしまいました。
「おもちゃ王国」は幼児が楽しめる乗り物が多く、プラレール・リカちゃんハウス・ブロックルーム・ままごと・シルバニアファミリー館などの部屋があり楽しめそうです。ところがこちらも4/30になって「明日から休園します」となりがっかりでした。「西谷大池釣り堀」に行くことにしました。
8時に家内が作った朝食を取り、いつもの早朝バイクルートの阪急山本駅〜r325〜r33で「西谷大池」。10:30、2時間1500円で貸竿を2本借ります。先客が2組います。僕と次男で釣り始めました。すみれちゃんはおとなしく、家から持ってきた折り畳み椅子に座って見ていますが、おーちゃんは桟橋の上を走り回り、いつ落ちるか冷や冷やなので家内とお嫁さんが追いかけて大変です。おーちゃんは手をつながれて歩くのが嫌で自由に動き回りたいから逃げて大暴れです。お客さんに迷惑なので、Pで石ころを集めたり、周りの田んぼで走り回ったり。
次男が鯉2匹、僕が鯉3匹釣って、2時間たっぷり遊びました。釣れたらすみれちゃんに竿を持たせワーワー。すみれちゃんはタモ番が好きで、タモに釣れた鯉をすくって喜び、逃がして喜びしています。家内とお嫁さんが交代でおーちゃんの世話をしました。家内がおーちゃん・すみれちゃんの世話をして、お嫁さんがフリータイムの時、次男の横に座って、近くにいた釣り名人?にアドバイスをもらっていると、「釣ってや、彼女にいいとこ見せないとね」なんて言われていました。12:30になり、釣りを終わりにしました。我が家が入った後、お客さんが増え、なんと順番待ちが起きていました。大きな釣り池ですが、大部分は余裕のある桟橋が設置され、野池釣りのように太公望がのんびり釣っておられます。野池の一部が仕切られ、濃く鯉が入れられ釣り堀になっています。釣り堀は持ち帰り禁止で、釣って放流の流れになっています。
西谷大池隣接のレストランで食事をします。昔ながらのドライブインを連想させるレストランで座敷席もあり、僕のお気に入りです。お値段の安めなところも二重丸です。すみれちゃんは、チャーハン&ラーメンを食べます。おーちゃんは、ガツガツラーメンとチャーハンを食べています。
帰宅して、次男夫婦とおーちゃんはお昼寝タイムになりました。すみれちゃんは、僕と一緒に鯉のぼりを降ろします。我が家の方に来て、文字数字付き積み木やトランプで遊びました。ババ抜きなのに、すみれちゃんはジョーカーが好きです。すみれちゃんが眠たくなり、次男夫婦がいる実家に家内がついて行って、起きていたお嫁さんにバトンタッチしました。そこで僕がお昼寝タイム。暫くして家内に起こされ、「デパートに連れて行って」。次男たちがやってきた時、次男たちからと同居しているお嫁さんの御両親からプレゼントを頂きました。次男夫婦からはフルーツ麦茶で、御両親からはお菓子でした。
そのお返しを買いに行くそうです。家内を車に乗せ、川西阪急に向かいます。コロナ禍なので営業時間が気になり家内が調べると、19時終了でした。ギリギリ入店なのでデパートをやめてイオンモールに変更しました。18:58「イオン伊丹」で、「モロゾフファンテローザ2000円」を購入し帰宅後、家内が次男のお嫁さんに渡しました。
翌日帰るので、お嫁さんに「いつもありがとうね、家庭の中心は奥さんだから」と、母や家内の実話を話しました。我が家のお嫁さんは、長男次男とも恵まれました。美人さんで温和でゆったりしてて、孫たちがのびのび育っています。僕ら夫婦は大満足です。
5/5、早朝5時に次男一家が帰路に着きました。12時前に埼玉県川口市の自宅に着いたようで、お嫁さんがLINEを入れてくれました。


2021/5/3
お墓参りの日です。次男とこ長男おーちゃん(1才半)は、昨お盆はコロナ禍で帰省できず、初めてうちの両親に対面します。8時に朝ごはんを次男一家が泊っている実家に運びます。
うちの車に乗り込み、9:44「伊丹産業セルフ川西SS」で給油しました。セルフのGSですがお姉さんが寄ってきて、「LINEキャンペーンをしています。今回の給油10円引きなので当店LINEをスマホに登録しませんか?大きい車なので・・・」。僕のスマホは電源を入れてなかったので家内のスマホに登録しました。10円引き137円で42.49L給油しました。今後半年間、+2円引きだそうです。
r12で北上し、我が家のお墓へ。お花を買おうと思っていた「道の駅いながわ」が満車で入れませんでした。墓苑の事務所でお花を買い我が家のお墓へ。掃除をします。すみれちゃん(4才)に花を生けてもらいます。お線香を上げ、集合写真を撮って車へ。
県道で山を越え、R477に出てR372を経由し亀岡へ。「保津川下り」に向かいます。乗り場の横に「京都パープルサンガ」のホームスタジアムがあります。新しいスタジアムなので綺麗です。
休日の「保津川下り」は、定時出発ではなく、1隻満席になり次第出発します。「大人4100円・子供(4才〜小学生)2700円」でした。亀岡のコンビニで買ったおにぎりを食べます。15分ほどして満席になったようで、チケット番号を呼ばれました。船乗り場に向かいます。お嫁さんが「うわ〜凄い」と川べりに並ぶ船を見て喜んでいます。集合写真を撮ります。
船に向かっていると、「・・さんいますか?」と船頭さんから呼ばれました。手を上げて急ぎます。40人乗りの船で、我が家の6人が先頭の席に座るようで、最初に乗り込まなければならないみたい。私と家内が一番前の列で前に船頭さん3人がいます。次の列に次男一家4人と、3列目の家族の1人・お姉さん。
船頭さんに、「御主人、どこから来られました?」「兵庫県の伊丹市からです」「遠くからありがとうございます」。船頭さんは前に3人、竿を川底や岩に刺して動かす人・右に座ってオールをこぐ人2人、そして最後尾でラダーを操る人1人です。船頭さんからの説明がありました。「出発しま〜す」。波を被った時用のビニールの説明がをが用意されているので、それを広げて家内にかけていると、「御主人、まだ早いよ」と。
静水面をゆっくり下りだしました。この日は中程度の水量のようで、嵐山まで1時間半だそうです。水量の少ない日は2時間ぐらいかかるそうです。こぐ人2人はぐんぐん漕ぎます。こぐ人の前に座っている船頭さんが説明役のようで、面白おかしく案内してくれます。「亀が甲羅干しをしています」。僕が「鴨がいる」とカメラを構えると、「御主人、そんな遠くのカモを狙わなくても、これから真横で見れるよ」と、また茶化されます。
ゆっくり平和に流れている時もあるし、岩にぶつかりそうで急流に水しぶきを浴びながらワーワー下る時もあり、大いに楽しめました。「紫の花が咲いていますね、あれは藤の花です」。「白い花も咲いていますね、なんていう花か知っていますか?」「ヤマボウシ」と答えると、「そうなの?知らなかった〜」。「京都市内から来られた方いますか?」、なんとゼロでした。「この船に、2度目・3度目の方いますか?」、手を上げるとなんと僕ら夫婦だけでした。多くの鉄橋の下をくぐりました。トロッコ列車が横を走ったこともあったし、JR保津峡駅には列車が止まっていたし通過しました。「全部で何本の鉄橋をくぐりましたか?」「6本」と答えました。答えたのは僕だけ。こういう観光では、できるだけ船頭のトークに乗るのが全員で盛り上がって良いと思っています。「さすが、リピーター知ってますね」だって。ここは間違うべきでした。
こぐ船頭さんは急流部以外はずっと漕いでいるので重労働のようで、トーク船頭さんは3回交代しました。その都度、お客さんが座る真横の縁を歩いて後部の船頭さんと交代するので、「押さないでくださいよ〜」とか冗談で笑わせます。ラフティングの方やキャンプをしている方、カメラをこちらに向けている方がいると、「手を振ってね、ボーっと乗ってちゃ駄目だよ。こっちは重労働してるんだから」。「御主人、なにカメラ撮ってるの、ここは笑うとだよ」と、僕を出汁にお客さんに拍手を求めます。3列目に小学生の男の子が座っており、「僕、もっと濡れたい?」お母さんが、「着替えを持ってきています」。「前においで、ここからが本番だから、一番良い席に座らせてあげるよ」。家内の右側に座ります。僕の席も波を被る席でしたが、右側の1・2列目が最も濡れる席のようです。最後の急流で男の子が波を被って、濡れてしましました。嵐山のローボートゾーンに近づき、平和に流れるゾーンになり、男の子は舳先に座らせてもらい、お母さんから預かったカメラで船頭さんに写真を撮ってもらっています。
ここは、押し売り船が接岸してくるゾーンなので次男たちに伝えると、「今はコロナで船来ないんですよね〜」だって。「カメラで撮りますよ」と言われたので手を上げてカメラを渡します。前から家族を中心に撮ってもらいました。
嵐山に上陸し、渡月橋近くで休憩します。一番後ろを歩いていた次男とおーちゃんが渡月橋を渡ってしまったようではぐれてしまいました。すみれちゃんと僕ら夫婦は、14:13「新八茶屋」で、「抹茶ソフト400円+季節ソフト桃400円=800円」購入し、座って待ちます。お嫁さんが探しに行ってスマホで場所を教えて帰って来ました。すみれちゃんに「桃ソフト」を渡しましたが、桂皮ニッキが少し入っていて大人の味だったようで気に入りませんでした。お嫁さんにそれを言い、「ジェラートがあるから買ってあげて」と。みんなでアイスやジェラートを楽しみました。
JR嵯峨野駅まで歩きます。途中でお隣さんへのお土産を買ったりしました。次男たちに駅で集合することにして、家内と先に駅に向かいます。時々お店に寄りながら駅へ。JR駅に着き、僕だけ「トロッコ嵯峨野駅」へ。15:23「嵯峨野観光鉄道竹の道嵯峨の庵」で、「手提げ巾着3個1100円」を購入しました。
トロッコ列車に乗りたかったのですが、4月末には満席になっていて諦めました。販売窓口を見ると、当日券もあるようで「あれれ」でした。「大人630円・小人320円」でした。
前日に続き、家内がお金を渡し、次男夫婦に夕食を買ってきてもらいました。お寿司屋さんに注文し、取りに行ったのかな?スシロー的なお寿司セットでした。


2021/5/2
8時に皆で朝ごはんを食べました。昨夜同様、おーすけ君(1才半)はごはん大好きで、私がご飯を次男一家が泊っている実家にご飯を運ぶと、ニコリとして「早く席に座らせろ」と私に付きまといます。おかずを次々と運び入れると、満面の笑みです。お嫁さんが椅子に座らせスプーンを、おかずなどなしに白ご飯を食べ始めます。次男やお嫁さんが、海苔や卵焼きを小さく切ってお椀のご飯の上に入れるとパクパクパクパク。すみれちゃん4才があまり食べなかったので、お嫁さんは楽なようで頼もしくも感じているようです。
すみれちゃんは、椅子にきちんと座り、大人用の丸箸をもってお行儀よく食べています。しかも誰が教えたのか、箸の持ち方が綺麗で中指を箸の間に入れて箸を模範的に使ってお茶碗の中で海苔をごはんに巻いて食べています。驚いて、お嫁さんに教えたの?と聞きましたが、特に教えてもいないのに自然にこの持ち方になったそうです。運動感覚もよい子ですが、器用なようです。今すぐ皇室に招待されてもお受けできそうです。お箸の使い方が綺麗だと一目置かれて、男の子にも好かれそうです。お嬢様だわ〜
天気が怪しいですが、公園に行きます。昨日同様、キックバイクや3輪キックスクーターを出してくるのかと思ったら、すみれちゃんは虫網と虫かごを持って出てきました。一昨年のお盆に帰省した時、長男とこの子たち(りょうくん・こうちゃん)と一緒に隣の公園んで蝉取りをしたのを覚えているのか、あの時と同じです。2才だったのに、網で1匹蝉を捕まえられ大喜びでした。
僕は2輪キックスクーターに乗りカメラを下げて出発しました。小川沿いの道をキックスクーターで進むと、すみれちゃんが走って追いかけてきました。昨日昼、我が家にやってきた時は前回同様恥ずかしがっていたのに、もう慣れて2人で先に進みます。おーちゃんは歩き始めてまだ半年なのに、歩くのが好きらしく「抱っこ〜」と言わず遅いながらもしっかり歩いています。よって次男夫婦と家内は遅いです。
公園の池についてすみれちゃんと皆を待ちます。皆と合流し公園の遊具で一通り遊びます。ブランコ・滑り台などいろいろ。滑り台は大きいのと中間のと2台あり、中間のでも対応年齢が3才からです。おーちゃんはお姉ちゃんに続いて中間の滑り台に上り、滑るところで腰を降ろしますが、滑りだすのが怖いらしく滑りださないよう足を踏ん張り、だんだん行けそうになったのか体が緩みました。僕が頭を打たないよう横でお尻と足を軽く触ってるので、筋肉の動きでそれを感じることができ面白い。滑ってからまた上がってきたすみれちゃんが、「行けるよ」と声を掛けたり背中を軽く押したりしています。そしてシュー滑りだしました。
僕はそれについてサポートしますが、頭が後ろに反ったけどゴツンと頭をぶつけることはなく首がしっかり保てています。運動神経が良いです。家内と最初にスキーをした時、「まだ首が座っていないんじゃないの?」と思えるほどだった家内とは大違いです。
池の周りに虫取りに行きます。5月のこの時期はトンボも飛んでおらず虫はなかなかいません。すみれちゃんんの狙いは池に向き、「パパ取って〜」と網を渡し、次男が池をすくいながら歩きます。アメンボなどを捕まえて網に入れましたが、水草を大きく揺らす魚は捕まえられませんでした。
ドングリを拾ったりしながら上池を一周しました。僕が子供のころの上池は、多くの大人が釣りをしており、夏休みの午後、釣りをしたり泳いだりして遊びました。対になってる下池にはレジャーローイングボートが浮かび、ボート屋のおじさんから賑やかしとして時々タダで乗せてもらいました。下池のカワセミポイントにはカワセミがいませんでした。早朝出ないといないよね。
家に戻り、空港のスカイパークに向かいます。次男の車はお嫁さんの要望か真っ赤な2ボックスアウディですが、5人乗りなので我が家の8人乗りで出かけます。スカイパークはコロナ禍でもオープンしていますが、Pが閉鎖です。よって家族を降ろして民間Pに駐車して戻るための自転車とキックバイク・キックスクーターを積みました。
ところが、雨がポツポツ落ちてきて、オープンエアーのスカイパークをあきらめ、空港Pに入れて、空港ターミナル4Fのカフェに入り昼食にしました。幼児が遊べる場所があり2時間も長居してしまいました。11:30〜14:18大阪国際空港900円-300円=600円。
帰宅して、雨が止んでいたので、近くの廃寺に行きました。ドングリがたくさん落ちておりそれで遊んだり、家から持ってきたボールを蹴ったり、松葉相撲したりして遊びました。次男とすみれちゃんがキャッチボールしています。ハンドボールサイズで柔らかな子ともにやさしいボールですが、すみれちゃんは上手にキャッチ出来ています。運動神経良いね。
昨夜同様、次男にお金を渡し夕食を買ってきてもらうことにしました。子供たち2人は我が家で預かります。積み木で遊び、2Fに上がって元次男の部屋のベランダに上がり遊びました。途中ですみれちゃんが眠いというので、家内と2人で家内の部屋で寝てしまいました。僕はおーちゃんと階段を上り下りしたり、ベランダで遊んだりしました。そしたら、道路から「おーちゃん」とお嫁さんの声が聞こえてきました。おーちゃんがすぐ反応ににっこり。僕と楽しく遊んでいましたが、やはりお母さんは最高ですよね。「ママんとこ行こうか」というと「うん」。庭に降ろすと、ママの方に走って行きました。僕はお役御免で本を読んでいると、次男がやって来て元自分の部屋で家探ししていました。18時の夕食まで昼寝しました。
すみれちゃんが起きたので夕食です。家内が起こしに来てくれました。おーちゃんは座敷に座ってスプーン持ってもぐもぐ。すみれちゃんは寝起きでいまいち元気がなく朝食のようなお嬢さんごはんではなく、ママに抱っこされたり座ったりして食べています。味付けのりが好きです。関西ではごはんに巻くだけでおいしく食べられる味付け海苔が当たり前なのですが、関東は元々は味なし海苔が定番です。家内が、「これ持って帰り」と言っています。車で帰省したので楽に持って帰れます。おーちゃんは相変わらずモリモリ食べています。座敷では背が低いので、次男に座布団とクッションを敷いてもらってお茶碗を覗き込めるようにしてもらっています。気持ちよく食べるので頼もしいです。保育園でも毎回完食しているようです。4月から保育園に通い始めたのですが、泣いたのは3日ほどだけですぐに慣れて、保育園に行くとバッグを自ら持ってくるそうです。公園でも僕と2人で遊んだ時も、後ろを振り返り家族がいることを確認するとスタスタ歩いて行きます。階段でも僕が後ろにつくと上がりだします。意思をはっきり伝え、先に進みます。食事の時は食べさせてもらうより自分でスプーンを持つのが好きなようで、次男同様1人でも平気な感じがします。幼児の時、スキー場で僕が乗るリフトの下で1人雪遊びをしていた次男を思い出します。迷子と思ったスキー場職員さんに保護されすぐ横の食堂に連れていかれたこともありましたが泣くこともなく待っていました。次男が消えたので慌てましたがすぐ見つかってホッとしました。


2021/5/1
次男一家が帰省しました。埼玉を朝出て、初めて車で帰ってきました。渋滞なしで6時間ほどでした。
イギリスに住む長男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。イギリスはワクチン接種対象者が40才まで下がり、長男は12日に接種予定だそうです。お嫁さんは同学年だけど、長男よりちょうど6ヶ月遅れなので、数週間遅れになるそうです。かな?というところです(たらー)
早くすーちゃんとおーちゃんと遊びたいなぁ



逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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