-ウェブマスター日記 2021/3-4

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2021/4/27
家族LINEで、午後「お誕生日おめでとう」と送りました。ロンドンに住む長男の40才の誕生日です。マイナス8時間の時差を考え、ロンドン時間の朝を狙ってメッセージを送りました。
その後、次男のお嫁さんからや家内からもメッセージが入りました。ロンドン時間の28日朝(日本時間午後)、長男のお嫁さんからメッセージが入りました。写真とビデオも投稿されました。
「記念すべき40才(うれし泣き)のお祝いをしました」だって。ビデオは2本で、コストコのような大型スーパーの広い通路で、ルーカス君が英語の歌を歌っています。面白いおもちゃを見つけたので、「パパ、見て〜」とパパの方に走って行きました。
もう一本のビデオは、恒例の家族お誕生会の様子で、長男を挟んで子供たちが、「Happy birthday to you・・・」と歌い、みんなで競ってろうそくを消していました。いつものように、お嫁さん手作りケーキです。チョコプレートに「祝40サイ」と書かれていました。
子供たち3人ともサングラスの写真がありました。りょうくん(8才・小3)が「今からスパイ活動に行ってくるから」と庭に出かけて行ったそうです。こうちゃん(5才・年長)が、1番の仲良しクラスメイトと肩を組んでいる写真もありました。
スーパー内で長男がマスクをしていましたが、子供たちはみなマスクなしで日本とマスクに対する考え方の違いを感じます。2人が通っている学校では、校内でのマスク着用禁止です。マスクをすることで、吸気のCO2濃度が上がることによる脳への悪影響を考えています。10才以下の子供がマスクをすることでの悪影響論文に従っています。
僕はお店や銀行に入る時以外はマスクをしていません。屋外で感染することはないとデータが出ているのに何故マスクをするのか不思議です。マスクをする時も極力鼻をカバーせず、口呼吸になることを防いでいます。
家内が、「体調回復した?」と、虫垂炎の手術から退院したばかりの長男を気遣う言葉を書いていましたが、それに対し長男が、「体調はすっかり良くなり、運動ができない以外は普通の生活に戻れた」と書いていました。
昨年から、次男の長女すみれちゃん(4才)の怪我、長男とこの3男ルーカス君の骨折、次男の眼窩骨折に続き、長男の虫垂炎手術と続いているので、長男一家は今年の夏に日本に帰省するそうです。2週間隔離があっても、我が家に帰り厄除け祈願するそうです。お嫁さんの実家も含め、あちこちの厄除けにご利益のある神社に参るのでしょう。男の厄年は42才で満年齢だと、長男はちょうど前厄の年です。


2021/4/25
先週末、次男のジュニア時代のライバルのお父さんが琵琶湖に置いている船に乗せてもらったので、そのお返しにホームポート新西宮から船を出します。うちの方のメンバーに声を掛けましたが、日大クルージング部出身のHさんだけが参加でした。もともと、Hさんを2人で乗る予定でしたが、琵琶湖のお父さんにも声をかけ参加することになったのです。10時YH集合です。
琵琶湖から2人来られます。お二人ともジュニア時代のライバルお父さんです。車で来られるとのことなので、車でのピックアップの必要がないのでバイクで向かうことにしました。
8:33「セブンイレブン」で、「カフェオレ500ml108円+味付け海苔マヨネーズ125円+ブルボンアルフォート304円+ひと口歌舞伎100円+割りばし20膳198円=904円8:36セブンサントリー天然水112円」購入。自宅からインスタントコーヒーと、「JALうどんでスカイ」を持っていきました。
9時前にYHに着き、桟橋のゲートを通り船に乗り、始業点検します。エンジンも一発点火し問題なしです。10時センターハウス1F集合にしたので、9:30にセンターハウスに戻りました。10時少し前にお二人がやってきたので、出艇申告しました。船に行くとHさんがおられました。エンジンのベルトやオイルを交換したのでそのチェックをしていました。
桟橋を離れ、10:23新西YH給油桟橋で軽油20L入れました。東出入口から出て、メインセイルを上げます。ジブもフルセイルに展開し、セイリングで神戸港を目指しました。北風で尼崎西宮港から出て大阪湾へ。11時になり、南風(海風)が入ってきました。気圧配置は北風だけど、天気が良いので海風が入ってきました。クローズホールドで南に向かって走ります。出艇時は私がドライブしましたが、琵琶湖のIさんにステアリングを任せ、セイルアップなどしました。
12時になり、お湯を沸かし「JALうどんでスカイ」を皆さんに振舞いました。琵琶湖のお二人からもお菓子が出てきて、4人でワイワイセイリングを楽しみました。神戸空港連絡橋の下をくぐり、神戸港に入ります。僕がお二人の写真を撮り、別の琵琶湖のライバルお父さんNさんにLINEで送りました。しばらくして、IさんにNさんから電話が入りました。Nさんは堺に船を係留しており、朝から明石まで行きすでに堺に戻ったようです。
神戸港に入ると、また北風になりメリケン波止場前でUターンして戻りました。三菱重工ドッグに潜水艦が陸揚げされていました。再び神戸空港連絡橋をくぐります。沖に出たらまた南風で西宮沖まで戻ります。ここでまた北風が入り、クローズでYHを目指しましたが、ぐんぐんブローが入り10m/sオーバーになりました。クローズでは1ポイントリーフしないといけなくなり、「セイルを降ろして機走で帰りましょう」と提案し、セイルを降ろしてハーバーバックしました。
ハーバー前でドライブを代わり、フェンダーやライン用意を指示しハーバー内に入ります。桟橋に戻り、Hさんがコーヒーを用意してくれたので、みんなでブレイクタイム。ハーバーで別れ、4時過ぎに帰宅しました。


2021/4/22
京都西山の寺社を巡ることにしました。6:24、倉庫から「里山VTR250」を出し、出発。給油。r13〜R176で池田からR423に入り北上します。「余野」で右折しr109で東進。r43に突き当たり、左折して北上します。「清阪峠」を慎重に抜け、r46に突き当たり右折してほんの一寸走り左折してr733で東進します。少しだけr6を走り、再びr733で京都を目指して東進。「通行止め 京都市内へは行けません」の案内板が立っていました。残念な案内ですが、バイクなので行けるかも?と東進を続けました。次の案内板は、「この先通行止め 金蔵寺行けます」。道路中央部バリケートではなく、道端立て看板でした。行けるかな〜。小さな峠「逢坂峠」を越え、つづら折れで京都盆地に下ります。途中、外界の絶景が見える場所がありますが、急坂&急カーブの連続なので写真を撮る勇気はありません。急勾配の大名刺・コンクリート舗装が登場します。工事現場に来ました。ガードマンが立っていました。道路崩壊の復旧工事をしているようですが、ほぼ終了しているようです。1日に2回、朝夕2時間だけ通れるようで、朝6〜8時のタイミングでラッキーでした。その区間を過ぎ、京都側から上がってくる通行止め看板のところに作業員やトラックが止まっていました。作業開始寸前です。
8:08、バイクを置いて「石井神社」に参りに行きます。小さな集落のお宮のようですが見つけられませんでした。「十輪寺」に向かいます。r733で平地まで下り、ナビに案内されるままで進むと、「京都女子大グラウンド」敷地のようで、「部外者通行止め」で残念でした。
r733に戻り、更に下って「京都縦貫道」を潜り、8:33「大歳神社」。『大歳神社の由緒 祭神は大歳神で、養老2年2月の創建という。延喜式神名帳に記され、山城国鎮座社の内大社に列せられていた。この境内は柏の森と称し、社を柏の社とも言う。農耕生産の神、ひいては方除祈雨にも霊験ありと知られ当地方の守護神である。相殿にも石作神と豊玉姫命を祀ってある。石作神は代々石棺などを造っていた豪族の祖神であり、火明命の後裔である。垂仁天皇の后、日葉酢姫命おかくれの時、石棺を献上し、石作大連公の姓を賜った。
石作連を祀った石作神社は延喜式神名帳に記され、貞観元年従五位下に昇格している。 大日本史に石作神社今灰方村大歳神社内にありと記され、石作氏衰微後、当社に合祀されたものである。石作神は昭和49年6月愛知県岡崎市に建立の石工団地神社に分霊す、豊玉姫命は海神であり彦火火出見命の后である。例祭は、10月21日、氏子祭は10月第3日曜に行い、江戸中期より引き続き金剛流家元による奉納舞有り。
大歳神社系 天照大神、素戔嗚命・大市比売の子が大歳神(当地奉祀)と宇迦之御霊神、大歳神の子が向日神(向日神社奉祀)』
『「栢の杜(かやのもり)」縁起 大歳神社は養老2年の御創建で、御祭神は農耕・生産の神「大歳神」である。延喜式神名帳には山城国122座中大社53座の1社に列せられる古社と記されています。 江戸中期以降、毎年秋の氏子際には金剛流家元が「翁」を奉納される事となっています。
大歳神社は別名「栢大明神」とも称され、境内には栢の木が繁茂し昭和51年に長嶋正彦前宮司が小謡[栢の杜]を作詞し、金剛巌前家元が節付され、「翁」に続いて小謡「栢の杜」を奉納されました。境内は平成7年に京都市の史蹟に指定されましたが、近年は周辺の高木に蔽われて昔日の面影が失われましたので、このたび御創建1300年の記念事業として、高木を剪定し、栢の苗樹を補植して復活を図ると共に、小謡「栢の杜」に金剛永謹家元に形付をお願いし、金剛龍謹次期家元に仕舞を奉納して頂く事になりました。栢の杜の樹々が色濃く繁り、大歳神社の御神威が赫々として光り輝き、金剛流家元の「翁」と「栢の杜」の奉納が幾久しく続く事をお祈りいたす次第であります。  平成30年10月1日 大歳神社』
r208に出て、京都縦貫道をくぐり「十輪寺」。駐車しようとPを探すも、「無断駐車禁止、罰金10000万円」とかあちこちに書いてありうんざり。この寺院の姿勢に疑問を持ちパスすることにしました。このような寺院に参っても御利益があるとは思えませんでした。
r208を戻り、8:57「入野神社」。r10〜r733〜r207〜西ノ岡竹林道で、9:13「桓武天皇皇后・天之高藤広宗照姫之尊・高畠陵陵」。帰宅後調べると、「父は藤原氏・母は阿倍氏で、光仁天皇の子・山部親王に入内し、宝亀5年(774年)8月に小殿親王を産んだ。天応元年(781年)4月15日には山部親王が即位して50代桓武天皇となり、皇后に立てられる。天応4年(785年)には安殿親王(51代平城天皇)が立太子される。
延暦5年(786年)には神野親王(52代嵯峨天皇)を産む。同8年(789年)には高志内親王を産む。同9年(790年)閏3月10日に31歳で崩御し、高畠陵(長岡陵、京都府向日市)に葬られた。大同元年(806年)には即位した平城天皇により、皇太后を追贈された」。
陵墓敷地内に、よくある物置小屋ではなく、家屋が建っていました。横には宮内れた軽四トラックが置かれており、職員さんが住んでおられるようです。交番みたい・・・。
京都西山はタケノコの産地です。その時期になると、関西のTVでは必ず映像が流れます。竹林畑の道を走り、9:23「竹の径」。京都観光パンフレットに載る写真の場所でした。竹林畑では農作業が始まっています。それでも静寂で美しい。
9:30「物集女(もずめ)城跡」。『物集女(もずめ)城跡 物集女城は、中世にこの地域一帯を本拠としていた国人(土豪)物集女氏の居城跡と考えられています。 長享元年(1487)上久世庄(現京都市)公文に「郷々出銭」を申し入れた「惣国」の代表者6人の中に物集女四郎右門尉光重の署名が見られます。この物集女氏はおそらく幕府の西岡被官衆の1人で、応仁の乱後、惣国の結集に参加したものでしょう。
織田信長が山城地域を鎮圧したのち、天正元年(1573)細川藤孝は桂川西岸一帯の一職を与えられ、国人らの領土を安堵しました。安堵を受けた国人らは、勝竜寺城(現長岡京市)の藤孝のもとに御礼に参上すべきでありましたが、物集女氏の当主忠重入道宗入は、代々の自分の領地であり参上するいわれはないと拒絶したため、勝竜寺で誘殺され、以後、同氏は衰退しました。
城跡は、この付近にある土塁と濠によって確認できます。土塁は、幅7〜12m・高さ1.0〜1.5mの規模で、北東隅の一部と東辺45m分が残っています。濠は、幅5〜10mを測り、深さ1m以上あります。現在も水を貯えている部分は、昔から地域の人々の用水池として利用されてきました。
こうした遺構から、城は東西100m・南北75mの規模を有していたことがわかります。この大きなムクの木のある所は少し高くなっており櫓跡と推定できます。敷地内は中央で2段に分かれており、西側が城主の居館のあった主郭、東側が配下の者達の住居等のあった副郭にあたると思われます。
また、この地域は、中海道遺跡(弥生時代を中心とする複合遺跡)の中心地にあたり、1800年ほど前から物集女集落の中心地として人々の生活の足跡が残されている所でもあります。  向日市教育委員会』
『立入禁止 物集女城跡を見学の皆様へ ここから先は、個人の所有地です。このため、土地所有者の許可なく立ち入らないでください。  向日市教育委員会・土地所有者』
少し走り、9:38「淳和天皇火葬塚」。r67にでて、9:45「物集女(もずめ)車塚古墳」。『現在も機能する石室の排水溝 物集女車塚古墳の横穴式石室の床面下部には、室内へ浸透した雨水などを外部へ導く、極めて入念に作られた排水溝がある。玄室では四壁沿いに、羨道(せんどう)部では梱石(しきみいし)までの両壁沿いと中央部とにあり、これらは、合流して墳丘外へと抜ける。
この構造は、玄室から梱石までは板石を逆三角形に組み合わせたもの、梱石から羨門(せんもん)までは素掘りの溝に板石で蓋をしたもの、前庭部から墳丘崖面までは板石を口字形に組み合わせたものと場所によって異なる。
この解説板の中央下部から顔をのぞかせている排水溝は、整備工事に際して復元したものである。長雨が続いたときは、石室を除湿する水が少しずつ流れ出る。 千数百年を経過しても機能する小さな排水溝ひとつ取っても、古代人の英知が伺える。  平成7年(1995)1月 向日市教育委員会』
『物集女車塚古墳 今から200年ほど前、江戸幕府は歴代天皇のお墓(御陵)を定めるため調査を行った。その結果、物集女車塚古墳はまず、淳和天皇の陵の候補となる。しかし、文久年間(1860年代)の調査では、はじめて「前方後円に築たる古墳」と記録され、大原野小塩山方面に、陵の参考地は移された。こうした経緯を反映して地元では、この古墳が「淳和天皇の霊柩車を埋めた塚」と言い伝えられてきた。
1920年代の後半(昭和初年)から、前方部の崩壊が進み、古墳の保存・修景を目的に、昭和58年(1983)から本格的な考古学調査が開始された。荒れ放題の崖をていねいに掃除すると、地盤の地層の上に古墳の土が盛られている。高台の地層を基盤に、その上に何枚もの上層を積み置く作業によって、39度をこえる急勾配の墳丘は、崩壊や雨水による浸食をまぬがれたと言える。
古墳のかたちは、墳丘の裾ののびや、後円部と前方部のつけ根(くびれ部)を見ると、対称的になっておらず、前方部の東、つまり平野側の裾は凸形にふくらみをおびている。古墳の大きさは、削られた部分を復元すると長さ43〜48m・高さ7〜9m程度である。墳丘面は2段の平らな面(テラス)と上下2つの急な斜面で構成される。墳丘中程のテラスは北が広く、南が狭いが、後円部の南・西側にむけて不明瞭になる。上位の斜面の下半部には、人間の頭ぐらいの大きさの礫(れき)を使った石組み(葺石)が設けられている。一方、テラスには小形の円筒埴輪が列をなして並ぶ。
公園の北西あるいは北部では、地盤の地層を掘り込む幅6mの大きな溝が見つかっている。古墳時代中期の大形古墳のような周濠にあたるものではなく、西側の高台との間を区画する施設と見られる。古墳の南側のくびれ部の地下では、方形状に巡ると見られる埴輪列が見つかり、くびれ部位置に凸形の「つくり出し」のような施設があったとも推定される。
石室内部の発掘調査の際に、石組みの部分的な崩壊の跡がみつかり、特に石室入口(羨道部)のひずみや石材の割れがめだった。そこで、石室の解体・復原・壁材の修理をおこなうことになった。後円部南半部の墳丘の土は大きく上部層・中部層・下部層の3種に分かれている。石室は、台地に穴を掘りくぽめ、側石を積みならべ、そのすき間を中・下部層の土を充填して作っている。これらの地層は石と石をつなぐ接着材の役目をする。下部層は羨道部の北半部と玄室を覆っており、中部層はそのまま墳丘の骨格となっている。側壁がひずんだり、はらみ出した部分では、墳丘土と石材が分離したり、空洞ができていた。 なお、玄室の前壁外側には、長持形石棺の一部(「龍山石」製、古墳時代中期)が、転用材として使われていたこと;が注目される。
当古墳の整備は平成4年度から3か年をかけて、京都府の緑と文化の基金助成金を得て実施したものである。  平成7年(1995)1月 向日市教育委員会』
『この古墳の保全整備事業は、「京都府緑と文化の基金助成金」ならびに「地域総合整備債(地域文化財保全事業債)」を得て、平成4年(1992)〜平成6年(1994)年度の3か年で実施しました。  平成7年(1995)1月竣工 向日市』
r67〜r201で、10:05「彩戸国中神社」。境内に入ると、色とりどりのツツジが満開で素敵でした。絵馬掛けを見ると、馬の絵馬が下がっています。流鏑馬神事など、馬にまつわる故事が残る神社なのでしょう。
『御祈祷奉修 家内安全・交通安全(自動車祓)・旅行安全・初宮詣・七五三詣・学業成就(入試合格祈願)・病気平癒・厄年祓(男25才42才・女19才33才) 出張祭典:地鎮祭・上棟祭・竣工祭、その他諸祈願随時御奉仕』
『綾戸国中神社 元は綾戸宮(あやとぐう)と国中宮(くになかぐう)の二社であったが、現在では合祀されており、左が綾戸宮、右が國中宮である。綾戸宮は大綾津日神(おおあやつひのかみ)、大直日神(おおなおひのかみ)、神直日神(かみなおひのかみ)、國中宮は素戔嗚尊を御祭神とする。
社伝によれば、綾戸社は継体天皇15年(521)に大堰川(おおいがわ・掛川)七瀬の祓神として、大井社と称して創建された。その後、天暦9年(965)綾戸社に改称された。社号の額は第70代後冷泉天皇の御宸筆と伝えられている。
國中社は本来蔵王の杜(現蔵王堂光福寺)に社地があって、中世には牛頭天皇社とも呼ばれており、古くには久世郷全体の郷社であったと推定される。戦国時代、國中社が綾戸社の境内に移され、以来、綾戸國中神社と称するようになった。日本三大祭のひとつである祇園祭に欠かせないものとして、綾戸國中神社の「久世駒形稚児」がある。
この「駒形稚児」と祗園祭との関係は、「國中社は素戔嗚尊の荒御魂なり。八坂郷祗園社は素戔嗚尊の和御魂なり。依って一体にして二神、二神にして一体で神秘の極みなり」と古文書に記され、「御神幸の7月17日に訓世の駒形稚児の到着なくば、御神輿は八坂神社から一歩も動かすことならぬ。若し此の駒故なくしてお滞りあるときは、必ず疫病流行し人々大いに悩む」とも伝えられている。
駒形を奉持することで稚児は神そのものとされ、神幸祭・還幸祭では中御座神輿の先導をつとめる。  京都市』
馬の絵馬の意味がわかりました。
r201〜R171。10:22「セブンイレブン京都久世店」で、「ゆずれもんサイダー500ml93円+ひねり揚げ辛子明太マヨ100円=193円」購入。
R171を南下し、右折してr202で西進。東海道新幹線をくぐり、JR東海道線・阪急京都線をくぐります。左折して、「大極殿通」で南下し、左折して再び「阪急京都線」をくぐり、10:37「北真経寺(きたしんきょうじ)」。裏門のようですが、目の前に「鶏冠井(かいで)公民館」がありました。
『四門の事 日蓮宗、開基日造聖人、日蓮宗京都六壇林の内、正保初年(1644)日祥二壇日春により開設された学問所である。東西南北に四門を配してあるが、東門は既に失している。四門とは、苦集滅道の四諦なり。釈迦、出家の因縁はこれによる。明治12年廃壇。この間法華文句、法華玄義の天台学、祖書の習学がなされた。北門復興にあたり、建碑する者也。  当山370世・本経日慈識』
『鶏冠山(かいでざん)北真経寺(きたしんきょうじ) 所在地:京都府向日市鶏冠井町御屋敷 本尊:一塔両尊四士(いっとうりょうそんしし)
当寺は、鎌倉時代末に日蓮宗を関西にひろめた日像上人(にちぞうしょうにん)によって、真言宗真言寺から改宗・改名して真経寺と称するようになりました。この時以来、真経寺は、村民の信仰を集めるようになり鶏冠井は関西最古の日蓮宗集落として、日像上人の布教活動の拠点の1つになりました。
江戸時代に入ると、鶏冠井に檀林という「宗門の学問所」が設けられました。これを機に真経寺は、2つに分かれ、南真経寺(現・向日市鶏冠井町大極殿)と北真経寺(現在の所在地)となりました。
そして、北真経寺は、学僧の集まる学問所として承応3年(1654)に通明院日祥(つうめいいんにっしょう)によって開講され「鶏冠井檀林」として知られるようになりました。境内には、「楓寮(かえでりょう)」や「松寮」、「竹寮」などと呼ばれる学僧の寄宿舎が9棟をはじめ学舎が建ち並び、盛時には100名を超える学僧が集まり、教義を学んでいました。
数多くの学僧を育てた檀林も明治8年(1875)に廃され、明治11年(1878)には学舎のほとんどが解体されましたが、現在の本堂や東隣の食堂などは、檀林の面影をよくとどめています。特に本堂は、檀林時代の講堂を受け継ぐ貴重な建物として、京都府の登録文化財となっています。
また、檀林時代に所有していた教義書やその版木・学僧の守るべき定書をはじめとする数多くの古文書が現在まで保存されています。近年実施された境内の発掘調査では、学僧が使用していた陶磁器などが発見されました。
このように永い歴史をもつ北真経寺の境内一帯は、かつて長岡京岡京(784〜794)の内裏(天皇の私生活の場)の中心部でした。西側道路を隔てた公園は、内裏内郭築地回復跡として国の史跡に指定されています。
年中行事:1月第3日曜日・初講 2月7日・星祭 3月・春季彼岸会 8月17日・盂蘭盆施餓鬼会(うらぼんせがきえ) 9月7日・鬼子母神会(きしもしんえ) 9月・秋季彼岸会 12月15日・御火焚祭(おほたきさい)  向日市』
北に面して空き地があり、かつての長岡京跡かな?と思って見に行きました。『史跡長岡京・内裏内郭築地回廊跡 所在地:向日市鶏冠井町荒内1-4他 昭和48年(1973)4月23日 長岡京は、桓武天皇の命により、延暦3年(784)11月11日に奈良・平城京から、山背(城)国乙訓郡に遷された古代日本の都です。延暦13年(794)に京都・平安京に遷されるまでの10年間、当地一帯が日本の首都でした。
都の大きさは東西4.3km・南北5.3kmと広大で、地下に眠るこの遺跡を「長岡京跡」といいます。都の中は、天皇の住まいや役所など国家の中枢部のある「宮域」と貴族や役人の住まいである「京域」に分かれます。この宮域のほぼ全域が、向日市に位置しています。
長岡宮大極殿から東へ200m離れた本地で、昭和41年(1966)の宅地開発により、築地回廊と呼ばれる。中央に土塀を設けて両側に廊下を通す特異な施設の北西角の部分が発見されました。また、廊下には、かがり火を焚いた跡や詰所のような施設も発見されました。
このため、発見された築地回廊は、何らかの施設を厳重に警護するために造られた廊下と考えられました。 その後、昭和43年(1968)には、同じ回廊の東西隅が、翌昭和44年(1969)には、天皇の住居である内裏正殿の遺構が確認されました。
この結果を受け、本地は、桓武天皇の住まいを取り囲んだ内裏内部築地回廊の北西部であることが判明し、国の史跡に指定されています。 これまでの発掘調査により、長岡京の内裏は、公園の東隣にある北真教寺の少し南側を中心に160m四方に広がっていることがわかっています。 また、この地域一帯は「荒内」という地名(小字)ですが、明治頃までは現在地の北の地域のみが「荒内」と呼ばれていたようです。この「荒内」を「荒内裏(荒れ果てた内裏)」に由来するものと推測されます。  平成24年(2012)2月 向日市』
再び、「阪急京都線」をくぐり、「大極殿通」に出て、11:01「長岡京大極殿跡」。『史跡・長岡宮跡・大極殿・後殿(小安殿)地区 所在地:向日市鶏冠井町大極殿・祓所 昭和39年(1964)4月27日指定・平成11年(1999)1月14日追加指定ようこそ長岡京跡へ 今から約1200年前、この地に長岡京という都がありました。この公園は都の中でも一番重要な中心地で「大極殿」と呼ばれ、現在の国会議事堂と同じような機能を持った地域でした。
長岡京は、桓武天皇が延暦3年(784)11月11日に奈良平城京から遷した都で、延暦13年(794)10月22日に平安京に遷るまでの約10年間、ここ向日市が日本の中心地となりました。 長岡京の規役は、東西4.3km・南北5.3kmを測り、現在の向日市・長岡京市・大山崎町・京都市の一部にあたります。この長岡京の中でも役所が立ち並ぶ地域を「長岡京跡」と呼んでいます。
長岡宮の内部は、いくつかの区画に分けられます。政治・儀式の場である大極殿や朝堂院(ちょうどういん)、天皇の住まいである内裏、役所の日常的業務を行う曹司(ぞうし)、宴会を行う庭園などです。 大極殿は天皇の即位や元旦の朝賀(正月の儀式)、外国使節の謁見などに用いられた古代の儀礼空間として最も重要な建物でした。(長岡京の場合、桓武天皇一代の都で、即位の儀式はありませんでした)
後殿は、大極殿の北側に設けられ、平安京では「小安殿」と呼ばれる建物です。平城京までの都は大極殿のすぐ北側に天皇の住まいである内裏がありましたが、長岡京では独立して離れたため天皇が大極殿に御す時の休憩所として後殿(小安殿)が機能したようです。
このような長岡京の存在は、古くは江戸時代から知られていましたが明確な場所を特定していませんでした。明治28年(1895)、平安遷都1100年記念祭に長岡宮跡大極殿遺址保存の気運がおこり、公園東側の石碑が有志金により建立されました。
この長岡京跡の発掘調査は、昭和29年(1954)12月末に行われ翌1月に遺跡の存在が初めて確認されました。また大極殿の調査は、昭和34・36年(1959・61)に宅地開発を契機に確認されました。その後、京都府による保存整備を経て現在に至っています』
『国指定史跡・長岡宮跡
古代日本の首都・長岡京:長岡京は、桓武天皇の命により、延暦3年(784)11月11日に奈良平城京から、山背の(城)国乙訓郡長岡村に遷された古代日本の都です。延暦13年(794)に京都平安京に遷されるまでの10年間、当地一帯が日本の首都でした。都の大きさは、東西4.3km・南北5.3kmと広大です。地下に眠るこの遺跡を「長岡京跡」といいます。
当時の詔に「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」とあり、地名に因んで「長岡京」と名付けられました。長岡という地名は、古来より、向日神社のある低い丘陵(通称向日丘陵)を中心とする一帯を指します。「長?(岡の異体字)」と墨書された飛鳥時代の土器が、本市から出土したことがこれを裏付けています。
都の中心地・長岡宮:都は、宮域と京域に分かれます。宮域は、都の北部中央に位置し、天皇が政治を司る大極殿や天皇の住まいである内裏・国儀大礼(こくぎたいれい)を行う朝堂院、各役所など、国家の中枢部が所在したところです。長岡京の時代、「長岡宮」と呼ばれ、そのほぽ全域が向日市に含まれます。京域は、宮域を取り囲む街区(道路に囲まれたブロック状の区画)です。中央に朱雀大路を配し、大路と小路を縦横に通して碁盤の目状に区画していました。区画内には、貴族の邸宅や役所に勤務する役人の住宅街、東西の市などが置かれ立派な都市空間を形成していました。
史跡長岡宮跡:昭和36年(1961)の発掘調査により確認された大極殿跡が、昭和39年(1964)に「長岡宮跡」として、国の史跡に指定されました。以後、長岡宮跡に関する重要な遺跡が発見されるたびに、同一名称で追加指定が行われてきました。
史跡は、文化財の種類のひとつ。歴史上または学術上価値が高いと認められる遺跡は、史跡として指定されます。国が指定した史跡は、一般的に重要文化財に相当します。
史跡長岡京跡・大極殿:約1200年前の当地一帯には、現在の東京霞ヶ関のように国の役所が立ち並んでいました。 大極殿と朝堂院は、その最も重要な施設です。長岡宮では、回廊(通路のある塀)や築地(土塀)に囲まれた大極殿院と朝堂院を南北に配し、瓦葺きの立派な建物が建てられていました。
大極殿のルーツ:大極殿は、天皇が政治を司る場所です。「大極殿」の名は、中国の宮殿の正殿「大極殿」に由来します。「大極」は、万物の根源、天空の中心たる北極星を意味します。日本の天皇は、中国の天文思想に習って、世界を支配する中心として、地上に「大極殿」を建てました。
建物の中心には、儀式や謁見の際に天皇が着座する「高御座」(玉座)が、南向きに据えられていました。長岡京遷都の翌年、延暦4年(785)正月の元旦朝賀が行われたと記録にあり、いち早く建設を進めなければならない重要な施設だったことが伺われます。
飛鳥時代以来、歴代の都では、天皇の住まいである内裏の南に連結して大極殿を設けていました。長岡京に都が遷されると、大極殿は内裏から完全に独立し、「朝堂院の正殿」としての性格が強まりました。 大極殿は、主に朝堂院に出仕する官人(役人)のための天皇の謁見の場として使われるようになりました。 長岡京の大極殿は、奈良時代から平安時代に移り変わる転換期の朝廷政治を我々に示してくれています。
長岡京大極殿:大極殿院は、朝堂院の北に位置し、東西97.68m・南北114.848mの瓦葺きの廊下(回廊)で囲まれた空間に、天皇が出御する大極殿と控えの間である後殿(平安宮では小安殿)が南北に建ち、その規模は昭和36年(1961)の発掘調査で規模が確定しました。
大極殿:東西(桁行)9間・南北(梁間)4間の瓦葺きの四面庇建物です。長岡京の廃都後に耕作などにより削られていたため、柱の規模は明確には確定する事はできませんでしたが、建物の土台となる基壇を発見する事ができました。基壇は、東西42.8m(約145尺)・南北21.6m(約73尺)・面積約924平方メートル(約280坪)で、高さが2.4m(約8尺)であったと考えられます。南面に3つの階段、北面に2つの階段と後殿につながる軒廊(屋根付きの渡り廊下)があります。北面の公園の中央まで、コンクリートで一段高くなった部分が基壇を表しています。
後殿:大極殿の真北に建てられた東西(桁行)7間(27.9m)・南北(梁間)2間(12.8m)・面積357平方メートル(約108坪)の瓦葺きの建物です。基壇は、大極殿より低く約1.1mの高さと考えられます。
宝幢:大極殿の南の前庭に、元旦朝賀(正月の儀式)の際、東西6m間隔に正確に配列された宝幢と呼ばれる7本ののぼり旗が立てられました。長岡宮の宝幢は、元旦の使用例を示す日本で唯一の遺構です。
長岡宮の大極殿・朝堂院の特徴は、奈良時代の難波宮(大阪市)を解体して移築された点です。それは、一刻も早く平城京(大和)の地を離れ、新しい都を建設するためでした。しかし、一方で平安京の大極殿や内裏(天皇の住まい)の配置にも繋がる特徴も持っています。奈良から平安時代への過渡期の遺跡として長岡京跡は歴史上重要な遺跡です。  平成22年(2010) 京都府向日市』
『大極殿 桓武天皇が平城京より延暦3年(784)11月11日この地に遷都された長岡京中心の建物である。  向日市』
『長岡京の礎石 石塔の前に並ぶ7つの石は、長岡京の研究の第一人者である小林清氏(故人)が採取された長岡京の建物の礎石と考えられるものです。 昭和30年代後半から40年代の初頭(1961〜70)、開発に伴う十分な発掘調査が行われていませんでした。 小林氏は、個人として、工事現場に出向き、これらの礎石を採取されました。 これまで市内では約1000回、長岡京の調査を実施していますが、これだけの数の礎石は検出されていません。  平成31年(2019)3月 向日市教育委員会』
『史跡長岡宮跡大極殿地区の整備について
長岡宮跡大極殿地区の整備は、昭和39年(1964)に始まります。 これは、昭和36年(1961)の発掘調査によりはじめて長岡宮の大極殿や小安殿が発見され、昭和9年(1964)に国の史跡に指定されたことから、京都府教育委員会による指定地の買い上げと整備が同時に行われました。向日市は、整備工事の完成を待たずに京都府から土地などを借り上げ昭和40年(1965)4月1日に「大極殿公園」として供用を開始しました。 市内の「内裏公園」も同様で、昭和55年(1980)以降は史跡長岡宮跡の買い上げや整備は向日市が実施するようになり現在に至っています。この石碑は明治28(1895)年に北大極殿公園に建立され、昭和40(1965)年に史跡整備に伴って現在の場所に移設されました。
北大極殿公園は、長岡京跡の保存のはじまりの地です。明治28年(1895)の平安遷都1100年を契機に、その数年前から桓武天皇が営んだ「長岡京跡」の地を探し、顕彰碑を建立する機運が高まりました。そして、明治26年(1893)に現地掘削が行われ瓦などが見つかり、地元が土地を買い上げ、石碑を建立し、その後、国に寄附された地が北大極殿公園です。
長岡京の発掘調査は、昭和29年(1954)に中山修一氏が阪急西向日駅前で開始されたこととなっていますが、中山氏に遡ること61年以上前に長岡京跡の現地検証が行われていました。 平成29・30年度(2017・18)に実施した史跡の整備工事は、桓武天皇が政治を司った大極殿を防御するための回廊跡にあたり、大極殿公園と北大極殿公園の間に位置することから、遺跡整備と供に、両公園の一体化を図りました。これにより、約5600平方メートルの公園ができました。  平成31年(2019)3月 向日市教育委員会』
r203をちょっとだけ西に走り、11:31「南真経寺」。『鶏冠山(かいでざん)南真経寺(みなみしんきょうじ) 所在地:京都府向日市鶏冠井町大極殿 本尊:十界曼荼羅 当寺の創建は、寺伝では鎌倉時代末の徳治2年(1307)とされています。 御開山日像聖人は、宗祖日蓮聖人の帝都に日蓮宗布教せよとの遺命を受け鎌倉時代末期に上洛されたが、多宗派の迫害を受けて、しばしば京都から追放され、これを三ちつ三赦(さんちつさんしゃ、3度追放されその度に赦される)といい、徳治2年(1307)頃、乙訓郡山崎付近にとどまって布教活動を行っていました。
当時、鶏冠井には、真経寺という真言宗の寺院がありましたが、住僧実賢(じっけん)は日像聖人の教化によって日蓮宗に改宗し、寺名も真経寺と改めました。(真言宗の真と、日像上人の幼名経一丸の経をとられた)真経寺は、関西における日蓮宗の最初の寺院となり、以降日像上人の布教活動の拠点となりました。現在向日神社参道前の左に日像上人が石に座して説法された説法石が祭られています。
真経寺は、はじめは、一寺でありましたが、江戸時代の承応3年(1654)に、南北の2つに分かれ北真経寺は壇林(仏教の学問所)、南真経寺は鶏冠井村民の信仰の場となりました。法華経の信仰を現した当時の鶏冠井題目踊は京都府無形文化財に指定され踊り継がれています。 明治時代の初めの頃に整理された台帳には、山門正面にある開山堂が寛永11年(1634)に、本堂が正徳4年(1714)、鐘楼は元禄12年(1699)の建立と記されています。また「真経寺」の額は本阿弥光悦により書かれたものです。
寺宝は、御霊宝箱に納められ南北真経寺の間で管理されています。この中の尊性法親王消息翻摺法華経(そんしょうほっしんのうしょうそくほんしゅうほけきょう、開結共十巻かいけちともじゅかん)は、国の重要文化財に指定されています。  平成26年(2014) 向日市』
『今月の聖語 一華を見て春を推せよ 日蓮宗』
r67〜西国街道で、11:39「石塔寺」。つつじが満開です。西国街道〜新西国街道で、「須田家住宅別棟」に着きましたが、Pがなくスルーしました。左に「京都向日町競輪場」を見ながら通り過ぎ、次の交差点を左折してr73。枝道に入り、11:53「向日神社」。『乙訓景観十景 平成30年度京都府地域力再生プロジェクトおよび京都市西京区地域カサポート事業として、旧乙訓郡域の後世代に継続して残したい自然景観歴史的文化景観、ならびに生態景観からなる乙訓景観十景を選定しました。 今後ともこの地域の誇りとする景観の保全と活用を期待します。
勝山 1592年、戦のため肥前名護屋へ向かう大閣・豊臣秀吉を、関白・豊臣秀次が向日明神の苓屋で出迎えました。この時、秀吉が山号を「勝山」とつけたと伝わります。  平成31年3月 乙訓地名詩編纂「チーム乙訓」』
『桜ミュージアム 笹部さんの山桜 4月上旬開花 上方では文楽が好まれ、江戸では歌舞伎が好まれました。上方文化を粋とすれば江戸の文化は派手で、上方では山桜が江戸ではソメイヨシノが好まれました。上方では花だけを愛でるのではなく葉も愛で、紅葉や冬枯れの景色も楽しみました。山桜には多くの品種があります。
笹部さんは全国がソメイヨシノ一色になってゆくことを憂え、1934年向日神社の北に桜の園をつくりました。 全国から山桜の名木を集めて育て、ソメイヨシノに代わる品種の開発に没頭しました。そして、育てられた1万本以上の桜が造幣局など全国の名所に送られました。この山桜も桜の園から移された桜です。  鎮守の森の会』
『向日神社 御祭神:向日神・火雷神・玉依姫命・神武天皇
縁起:当社は延喜式神名帳に記載された式内社で、神名式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向日神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。当社の創立は、大歳神の御子、御歳神がこの峰に来られ向日山と称され、この地に永く鎮座されて、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。社伝によると養老2年(718)である。上ノ社は五穀豊穣の神として、下ノ社は祈雨・鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であった事は、古書に数多く見られるところである。
祭礼:例祭5月1日 氏子祭5月第2日曜日 祭礼は3日前に当社から大神様を御鳳輩にお遷し、鶏冠井御旅所(芝斎場)を経て上植野御旅所へお移しする神幸祭(おいで)に始まり、上植野御旅所から各地区を巡行し当社へお還りになる還幸祭(おまつり)に至る。
本殿建物:現在の御本殿(三間社流造)は、応永25年(1418)に事始を行い建造されたもので、室町時代の流造様式の代表的建造物として、現在国の重要文化財に指定されている。
宝物:棟札(応永・慶長年間などの御本殿棟札5枚・国指定重要文化財の附) 日本書紀(神代紀下巻・延喜4年藤原清貫奥書・国指定重要文化財) 扁額(小野道風筆の正一位向日大明神の額) 古印(向日社政印の銅印) 朱印状(豊臣秀吉及び徳川歴代将軍の朱印状)
境内社:天満宮社・勝山稲荷神社・稲荷神社・五社神社・祖霊社・春日神社・神変大菩薩・勝山身代不動尊明王・増井神社・神石・御霊神社』
『鶏冠木(かえるで)の苑(その) ここには約170年前まで本殿があり、その後は山桜と楓の神苑となり戦前まで土俵がありました。 雑木を切り払い、通路を付け替え石舞台をつくって元の神苑に戻しました。 「鶏冠木の苑」は楓の古名「かえるで」にちなんだものです。  平成17年5月吉日 向日神社』
『神変大菩薩・勝山身代不動明王・白雲龍王・白玉弁財天女 神様の大広前の木棚が腐蝕し破損が著しいので、御崇敬の皆様より新しく玉垣を建立されてはどうかとの有難い申し出を頂きました。 崇敬の念を深め御神徳の登場に努力せねばなりません。是非本事業を進めて下さいとの神願を賜り、崇敬者一同協力なる賛同を得、本事業を完成致しました。 ここに、この御寄進者の御芳名を裏面に記す。  昭和59年10月吉日 向日神社95代宮司 六人部是継』
『仰々当窟に奉祀する役行者尊像は、今を去る125年安永6年5月洛西物集女邑信徒の発願により刻離せられしものにして、再来同邑の勝地桜井の上に鎮座ましまし。近隣の衆の帰依厚く、今日に及んでその跡を絶たず。然る時、偶々向日友信会総大先達・三宅勇蔵氏その宝前に詣で願わくば、尊像を勝山の麓に遷し奉り、益々その威徳を周ねからしめんと欲す。氏の願い切にして加ふるに友信会員の熱望拒み難く、物集女邑の信者も暫くその請を容れ、茲に日を賭してこの窟に遷座し尊を、勝山神変大菩薩と改め奉るものなり。されば神変大菩薩の霊験益々あらたかに、その功徳は永く末代に伝ふべきなり。  維時昭和25年8月27日 物集女村信者 向日社友信会』
『桜ミュージアム桜の園 白雪 4月中旬開花 子どものころに遊んだ向日神社の鎮守の森は赤松と桜の明るい森でした。薪を取らなくなって暗い森になり、桜の名所だった参道にも竹や笹が侵入し、近くにある競輪場の駐車場になっていました。それを憂えて「鎮守の森の会」をつくり、元の森に戻す活動をはじめた平成16年の冬のことです。
電線に倒れ掛かったこの桜を見つけました。枯れかかっており伐りましょうかと宮司さんに相談すると、生かしてやりましょうと言われ、引っ張って起こしました。春になるとソメイヨシノの倍はあろうかと思われる一重で真っ白な花が咲きました。桜の園から移された桜だと思われますが。向日神社の参道や境内には同様の桜が10本近くあります。
ソメイヨシノが生まれた江戸時代の末、大名屋敷や寺院に250種近くの桜がありましたが、明治になると桜を育てる人がいなくなり、伐られてなくなってゆきました。東京駒込の植木職人・高木孫右衛門はこれを錯しみ、接ぎ木をして庭で育てました。白雪もその中の1つです。  鎮守の森の会』
『大鳥居の沓石 この石は、奉祝向日神社御鎮座1300年祭の奉祝事業で、皆様方の御奉賛を戴き、大鳥居(約200年前に建立)改修事業を為して補強して組み直しを致しました。その際に出土しました根石の上(朱色部分)にありました沓石(左右の大柱を地中約2mにて支えていた石)であります。 左記の図は、大鳥居の寸法です。  平成30年10月吉日』
『五社神社 祭神:大巳貴神(おふなむちのかみ)・武雷神(たけいかづちのかみ)・別雷神(わけいかづちのかみ)・磐裂神(いわさくのかみ)・事代主神(ことしろぬしのかみ)』
境内に、「乙訓剣道発祥の地」の碑がありました。横に「乙訓道場」と額が下がった建物がありました。
『桜の園があったころの向日町 向日市は長岡京の中心「長岡宮」があるなど、古代から現代に至る歴史が積み重なった町で、その場所ごとに桜をめぐる物語があります。 1934年から1961年の27年間、向日神社の北に日本一と称された笹部新太郎さんの桜の苗圃「桜の園」がありました。笹部さんは著書「櫻男行状」で次のように書にいています。
「京都府下の向日町に、3000坪そこそこの藪開きの土地があった。新京阪線(阪急)東向日駅から15分の距離の高台で、私は一目見るなり飛び付いた。土質は軽く、水もたれ、旱魅いずれもその憂いのないところである。 この土地への途中、三丁ばかり手前に陶匠・河合卯之助氏の向日窯と邸宅がある。土地買入から藪開きの作業と何から何まで河合氏のお世話になった・・・
私はここで昭和9年の桜苗を武田尾から移植したのを手始めに、夥しい数の苗木の栽培を経験した。 向日町の苗圃で育てた苗木の生育するにつれて、やれ薬剤散布だ、移植だ、堀上だ、除章だと、大勢の園丁や人夫が往復するたびに河合邸に何かと面倒をかけた。 さすがにそれが私にも気兼ねに思われるので、時々そっと門前を素通りして苗圃にいっておると、いつもそれと河合邸に知られて食事時に何やかやと届けられて、これ七また恐縮した」
河合卯之助さんは京都の五条坂で生まれた陶芸家です。1928年に図書館の道向うに私邸とエ房を造りましたが文化サロンとして賑わい、関西一円から文化人や実業家が集まりました。
翌年、西向日駅周辺に上下水道の完備したモダンな住宅地ができました。民芸運動に係わっと英文学者の寿岳文章(じゅがくぶんしょう)さんや漢学者の狩野直喜(かのうなおき)さんが住み、向日庵(こうじつあん)や葵園(あおいえん)のサロンを開きました。 桜の園があったころの向日町は文化人や実業家が往み、あちこちにサロンのある文化の薫る町でした。  2013年11月 鎮守の森の会』
r67を南下し、左折して205〜r209で西に走り、12:25「赤根天神社」。『赤根神社 当神社は赤根天神社と称し、祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。古い昔より、その神徳を願し、地域住民は家内安全・五穀豊穣を祈願して参り、古い書物や今里自治会館に保管してある古文書にも色々と記録されている。古老の話などでは、その昔、今里には神輿が1基あって向日神社のお旅所でもあった。
年間の行事には元旦祭を初め、お節会祭・向日神社還行祭・お千度参りなどがある。その他、五穀豊穣にまつわる祭も盛大に行われている。 現在、神社のお守りは今里区民が1年交替で毎月1日と15日に本殿や参道を掃き清め、御神酒(おみき)をお供えし、鎮守の神として区民の安全を祈願している。近年は、近郷の人々の参拝もとみに多い。  長岡京市観光協会・社団法人京都府観光連盟』
『長岡京市指定文化財有形文化財(建造物) 平成6年11月3日指定 赤根天神社 本殿・拝所 附本殿覆屋1棟 附瓦製狛犬1対 18世紀前期(江戸時代) 赤根天神社は、伊井諾尊・伊弉冉尊を祭神とする。もとは、井ノ内の旧石田家が奉祀する神社で、応仁の乱で焼失したが、それまでは、この地に石田家の屋敷があり、屋敷内にたつ鎮守社であったという。現在、赤根天神社は、今里区民の鎮守として奉られている。 今里集落の北端に位置し、社地は南北に長く、南に烏居をおき、参道は北へのびて本殿・社務所に達する。
本殿は、正徳3年(1713)10月の造営と伝えられるが、蟇股・虹彩絵様などの細部意匠は18世紀前期のもので、正徳3年造営の可能性は大きい。 本殿は、覆屋内に建つこけら葺の一間社流造で、正面に奥行1間の前庇を付けて拝所としている。身舎(もや)は、亀腹(かめはら)基壇の上に土台を据えてたち、正・側面三方に高欄付きの切目縁(きりめえん)をめぐらして、正面に浜床を設けている。身舎内部は2室からなり、内陣正面に板扉、外陣正面に格子戸4枚をたてている。比較的規模の大ぎい一間社流造で、全体に堅実な造りとなっている。
本殿には、「宝永二歳酉三月日、源平寺町、久右衛門の刻名のある瓦製狛犬一対を安置している。また、境内には、宝永6〜7念(1709〜10)に石田瀬兵衛政永が寄進した石灯籠や石鳥居が現存している。 当社は、在地の土豪の旧鎮守社という由緒も加わって、当地の歴史を語るうえで興味深い存在である。  平成12年3月 長岡京市教育委員会』
バイクで少し走り、12:36「乙訓寺」。山門前に「弘法大師ゆかりの寺」と刻された石碑が立っていました。『長岡京市指定文化財(建造物) 表門 昭和63年11月3日指定 概要:一間一戸・四脚門・切妻造・本瓦葺 元禄8年(1695)沿革:大棟端(おおむねはし)の鬼瓦にも元禄8年の銘があり、様式上からも元禄の建立であることは確かである。仕様覚(しようおぼえ)は惣門と記し、金30両ばかりと見積もっている。赤門とも称されている。 長岡京市教育委員会』
『乙訓寺(おとくにでら) 真言宗豊山派長谷寺の末寺。洛西観音霊場第6番札所。本尊、合体大師像。 寺伝によれば、推古天皇の勅願によって聖徳太子が開いたとされる。長岡に都があった延暦4年(785)に早良親王(さわらしんのう、桓武天皇の弟)が幽閉された地として、また嵯峨天皇の弘仁2年(811)に空海(弘法大師)が別当となった寺院として、歴史の表舞台にも登場し乙訓随一の大寺院として栄えていた。
江戸時代の元禄8年(1695)に護持院隆光が5代将軍綱吉の母・桂昌院の援助により再興した。 また、重要文化財の毘沙門夫像や市指定文化財の十一面観音像等がある。境内には、ぼたんが2000株余りあり「ぼたん寺」としても名高く、洛西屈指の古刹である。  長岡京市観光協会・社団法人京都府観光連盟』
『長岡京市指定文化財(建造物)・鎮守八幡社 昭和63年11月3日指定 概要:一間社・流造・銅板葺 元禄8年(1695)
沿革:享保8年(1723)の修理により桧皮葺から柿葺に替えている。その後、桟瓦葺に替えたのは明治以降と考えられる。平成元年に修理し、軒の一部を?葺し、その上に銅板を葺いている。  長岡京市教育委員会』
境内の新緑が美しい。『長岡市指定文化財(建造物)・本堂(附宮殿) 昭和63年11月3日指定 概要:正面3間・側面5間・一重・宝形造・本瓦葺・前拝1間・後門1間 元禄8年(1695)
沿革:元禄8年5・6月に竣工し、当初は大師堂と呼ばれていた。宮殿には本尊の合体大師像が安置されている。  長岡京市教育委員会』
『長岡京市指定文化財・有形文化財(建造物)・乙訓寺 本堂(附宮殿)・鎮守八幡社・鐘楼・表門・裏門・附棟札2枚 元禄8年(江戸時代) 昭和63年11月3日指定
早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉されたことで知られる乙訓寺は、長岡京造営以前から、かなりの規模の寺院であったことが寺院北側一帯の発掘調査によって判明している。弘仁2年(811)唐から帰朝した空海(弘法大師)は、同年11月に乙訓寺別当に任じられ、その修理造営を命じられた。空海は、弘仁3年10月、高雄寺に移ったが、ここに真言宗に由緒の寺としての歴史に印された。
中世には足利義満がこの寺を南禅寺の白英徳俊(はくえいとくしゅん・応永10年寂)に与え、禅宗寺院として再出発した。法皇寺の寺号も称した。5代将軍綱吉及びその生母・桂昌院の信任の篤かった護持院隆光(ごじいんりゅうこう)は、真言寺院としての乙訓寺再興を計画した。当時、乙訓寺は南禅寺金地院の兼帯地であったので、東山豊国神社辺にあった文殊院屋敷を拝領し、金地院と交換して乙訓寺の地を入手した。工事は元禄7年(1694)12月8日に起工、翌8年5月21日竣工し、6月15日に供養した。造営後は宝永2年(1705)8月まで隆光の直接支配下にあったが、この年に長谷寺の芳運房元貞(ほううんぼうがんてい)が入山して1世となり翌3年11月に護摩堂が建立された。近世中期の寺観は都名所図会により窺うことができる。  平成2年2月 長岡京市教育委員会』
『長岡京市指定文化財(建造物)・鐘楼 昭和63年11月3日指定 概要:方一間・入母屋造・本瓦葺 江戸中期(年不詳)
沿革:牧野成貞の寄進による建立と伝えるが記録を欠き建立年代は不明である。鐘は戦時に供出され、昭和41年に鋳造された。前の鐘銘を再刻していて元禄9年(1696)10月に精海(せいかい)が三条釜座(さんじょうかまんざ)の信州大掾(だいじょう)藤原国次に造らせたことが判る。  長岡京市教育委員会』
『長岡京市指定文化財有形文化財(天然記念物)・乙訓寺のモチノキ樹種:クロガネモチ(モチノキ科) 形態:単木 幹周:2.93m 根元周囲:3.55m 樹高:9m 推定樹齢:400〜500年 平成7年11月3日指定クロガネモチは関東地方以西の本州・四国・九州・沖縄の常緑樹林内に生育する常緑高木ですが、庭木や街路樹としてもよく使用されます。樹皮は灰白色又は暗褐色でなめらか、葉は両端が尖った楕円形で長さ6〜10cm、葉柄は1〜2cmで紫色を帯びます。雌雄異株で6月頃に花弁の長さ約2mmの白色又は淡紫色の花をつけます。果実は球形で直径約6mm、11月から12月に赤色に熟し、種子が1個入っています。
乙訓寺のモチノキは京都府内でも屈指の巨大さを有する名木です。古くから地域の人々に親しまれ、寺のシンボル的な存在となっています。昭和9年(1934)の室戸台風で幹が折れ、近年枯れ枝が目立ち、頭部から雨水が入り腐食と空洞化が進み、樹勢が衰退していました。元の姿に戻すため関係者の協力を得て蘇生、保全対策を講じたことにより再び以前の樹勢が戻りました。これからも緑のある憩いの場として安らぎと潤いを与えてくれるでしょう。  平成1503三月 長岡京市教育委員会』
『早良親王(さわらしんおう・750〜785年) 平城京から長岡京に遷都して間もない延暦4年(785)、造長岡宮使(造営の最高責任者)藤原種継が、当時の桓武天皇の留守中に暗殺されてしまいます。事件に激怒した桓武天皇は、首謀者である大伴継人らをはじめ、関係者数十名を処刑しました。 桓武天皇の実弟・早良親王も、事件への関与を疑われ、乙訓寺に幽閉されてしまいます(※暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明)。親王は身の潔白を訴え、抗議のために断食しますが、淡路島へ流罪となり、途中、恨みを抱きながら絶命したといわれています。
早良親王の死後、桓武天皇の身の回りには不幸が相次ぎます(生母・高野新笠の病拓や皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)の突然死、第1皇子・安殿親王(あてのみこ・後の平城天皇)の原因不明の重病の発病など)。また、日照りによる飢饉・疫病の大流行、小畑川の氾濫による大規模な洪水被害など、天災にも苦しめられました。延暦13年(794)、和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は平安京への遷都を決意します。「長岡京」が廃都になった理由は定かではありませんが、桓武天皇が早良親王の崇りを恐れていたとする説もあります。
延暦19年(800)、桓武天皇は早良親王に「崇道天皇」の謐号(しごう)を贈り、淡路島から大和国に遺骸を移しました。ここ乙訓寺の境内にも、早良親王の供養塔があります』
崇道天皇の大和の八島陵墓に参ったばかりなので、繋がりを感じました。淡路島に流されるまで幽閉されていたこちらの境内に早良親王の供養塔があり、手を合わさせて戴きました。天皇を諡されるなんて、相当怖かったのですね。
r10から名神高速を使わずR171で、14:05帰宅しました。


2021/4/21
ロンドンに住む長男のお嫁さんから、LINEが入りました。虫垂炎の手術で入院していた長男が退院したそうです。手術直後、お医者さんから言われた退院日(3日後)から1週間遅れました。とっくに退院しているものと思っていたのでびっくり。腸の動きがなかなか戻らず退院が延びたようです。僕の虫垂炎手術経験から想像するに、おならが出なかったのかな?うんちも・・・。
会社からお見舞いのフルーツが届いたそうで、「イギリスでもこういう文化があるんだ」と知ったそうです。子どもたちは、パパが帰ってきて大喜びだったそうです。
僕は中学生時代の虫垂炎手術で2ヶ月も入院したので、私と違い病気知らずだった長男ですが、私同様虫垂炎には弱いようです。お腹の中にあったものが一部なくなったのだから、良い塩梅に落ち着くまでゆっくりしないとね・・・。
写真も多数送ってくれました。庭にシートを敷いてお弁当を食べた後、大きなイチゴにルーカスくん(2才)がかぶりついています。日本のいちごと比べても大きくて、とても美味しそうです。
こうちゃん(5才)の絵と文字の写真がありました。数字・ひらがな・アルファベット、読みやすいです。家族を書いた絵を見ると、お嫁さんが中心にいます。顔の下にいきなり足が生えているので、ルーカスくんの絵にこうちゃんが「りょうくん・こうちゃん・・・」など注釈を書いたのかもしれません。お嫁さんの顔が一番大きく、次がこうちゃん、次がりょうくん・ルーカスくん・パパです。家族内の中心がお嫁さんで、次がこうちゃん・・・。その絵を見ながら、ルーカスくんが描いたのかも?と感じてきました。ルーカスくんから見て、もっとも大きな存在がお母さんで、次がこうちゃん。自分を含め他の3人は同じと感じているのかな?・・・と。
お嫁さんの横に描かれている「りょうくん」と「こうちゃん」の目がお嫁さんに向いており、お嫁さんの存在は更に大きいのでしょう。僕の脳内想像ですが、家庭での家族それぞれの位置づけが想像され笑いました。


2021/4/18
小学生からヨット競技をした次男のライバルのお父さんIさんから、クルージングに誘われました。コーチしているヨット部の女子マネージャーも誘いましたが、新2回生の半数の船舶免許試験日と、その他2回生マネさんの船舶免許練習日で来れませんでした。
最初バイクで行き早朝寺社巡りしてYHに向かう予定でしたが、天候が定まらないので電車で向かいました。9:30「堅田駅」でIさんにピックアップしてもらいます。朝ごはんを食べて、「通勤リード110」で駅まで出て、JRに乗り、7:36「セブンイレブンハートイン尼崎駅西口改札内店」で、「キリンファイアワンデイラテ微糖600ml129円」を購入。
快速で「大阪駅」に出て、新快速に乗り換え、京都の次の「山科駅」で湖西線に乗り換え、9時過ぎに「堅田駅」に着きました。駅前ロータリーでIさんを待ちます。9:20頃Iさんの車に乗せてもらいYHへ。
現r558(旧R161)を北上し、「志賀ヨットクラブ」に着きました。息子がジュニアヨットをやっていた頃の琵琶湖ジュニアヨットクラブ所属の選手のお父さんが3人もここに船を置いていました。最寄り駅は、「JR和邇駅」でした。
係留スペースは広くなく3艇停まっているだけで、陸置きメインのハーバーでした。階段を動かしIさんの船に乗り準備します。ジブファーラー艇だけど、毎回ジブを下ろしているそうです。ジブを揚げます。メインシートもセットします。
ハーバー後ろの比良山に雲がかかり、「雨が降ってきそうですね」と。雲が流れてきて霧雨が降ってきました。カッパを着て準備を続けます。加えて沖を見ると比良山降ろしの強風が入っています。「ジブだけで行きましょか」と提案すると、「ファーラーしたら、メイン上げても行けるんじゃない」とIさんから。
用意ができ、ハウスに下架してもらいき行きます。すでの1艇出て行きました。沖でセイルをアップしフルセイルで快走しています。船を動かしてもらい、クレーンに吊られ湖面に降りていきます。「バウライン付けないのですか?」と聞くと「大丈夫でしょう」とのこと。「湖面に下ろしてから桟橋にラインを結ばず飛び乗るのかな〜」とクエスチョンでした。船が降ろされている途中、スターンのデッキが地面と同じ高さになった所で止まり、そこで乗り込みました。「なるほど〜」と納得です。湖面に降ろされ、まだクレーンのロープが船の下をくぐっている状態で、「エンジン掛けて〜」と職員さんから。小さなハーバーですが、その分アットホーム感が素晴らしくとても気持ちが良いです。長男さんが社長、次男さんが副社長の家族経営+αなのだそうです。
機走で狭い水路を抜けて行きます。ジブファーラーを出してフルセイルでアビーム〜クォーターリーで走り出します。互いの息子や娘の話に花が咲きます。D社ヨット部に上がった息子さんはヨット部マネさんと所帯を持ち、お子さんが3人おられるそうです。奥さんは帰国子女で、帰国後D社系列高校に入学し、大学に上がられたそうです。英語がペラペラで、和歌山で英語を教えているそうです。うちの長男のお嫁さんも英語ペラペラで、孫たちも現在英語圏で暮らしているので、彼らの帰国後のことを頭に入れながらいろいろお聞きしました。ここ数年はお父さんより息子さんと会うことの方が多かったけど、もう3人もお子さんがいるんだ〜。
そのお姉さんは、滋賀県偏差値トップ膳所高校の高校体育教師をしているそうです。膳所から僕がコーチしている大学ヨット部に定期的に入部しているので、膳所出身の部員に聞けば知っているでしょう。高校時代、ボート部でインターハイや国体に出場されたそうで、体育会系です。Iさんの奥さんは体育会系ではないとのことでびっくり。
天気は、出挺時にはお日様が見えたりして回復しましたが、比良山からの風はブローでガンガン降りてきます。湖面には白ウサギが飛び、ベースで8m/s・ブローで10オーバーのようです。互いにヨットレース経験者なので、落ちついてジブを大きくしたり小さくしたりして走らせます。結局、メインは上げずにジブのみで走りました。
琵琶湖の東湖岸近くまで走り、琵琶湖大橋東の付け根近くから戻ります。ハーバーに近づいた頃、また比良山から12m/sオーバーと思われる風が吹き降りて来ました。僕がティラーを操作している間に、フェンダーやもやいロープをセットされていました。ハーバーは風上で水路が狭いので、風にバウを振られると確実に水路壁に擦りそう。「もう一周しましょうか?」と提案するも、「まあ、大丈夫でしょう」だって。ジブをファーリングして、ティラーを交代してバウのラインを持ちます。ハーバー職員さんが女性も含め7〜8人総出で待ち構えていました。長いボートフックなど小道具を男性陣は持って心配顔です。
Iさんは風に負けないようスピードを上げ、真っ直ぐに水路に突っ込みます。僕はタイミングを見計らってロープを投げ着艇終了。すぐに水路に降りてライフラインを持ちます。「Iさん上手いわ〜、お見事!」と称賛の声が上がっています。女性陣からは拍手が・・・。職員さんが左舷スターンにロープを結び、左舷スターンロープを離し、180度船の向きを変えます。「なるほど、こうして上架するんだ」と勉強になりました。
バースに戻った船に上がり、解装します。比良山の山頂が見えているので雨は心配ないけど風が強いので、ジブを広げられません。他の艤装を解いていると風が弱まり、「ジブ下ろしましょか」。また風が上がるかもと思いながら急いで下ろします。ジブを地上に下ろし、下で畳みます。
解装を終え、荷物を下ろし、クラブハウスで昼食にします。Iさんが飲み物とパンを買ってきてくれているので、ビジター料金を共になんと1000円。ホンマにこれだ足りるのかな〜。ビジター料金は500円なんだろうか?食べながらいろいろ喋りました。Iさんはほぼ毎週末、このハーバーに来ているそうです。家も空いていれば車で15分だそうで、我が家から西宮YHより近いわ。
食事を始めたら雨になりました。「帰りましょか、また誘いますから乗りに来てくださいよ」、また車で「堅田駅」まで送ってもらいました。プラットホームに上がり、また本でも読もうかと・・・「あっ、忘れた」。往路、本を読みながら来ました。Iさんへのお土産の紙袋に入れたまま、Iさんに渡してしまいました。「あ〜残念、帰宅まで暇だわ〜」。Iさんから「お土産ありがとうございます。大切な天皇の本が入っていました。送りましょうか?」「すみません、急がないので次回まで車に入れておいて下さい」。無事帰宅しました。ああ楽しかった〜。


2021/4/15
家族LINEに、ロンドンに住む長男のお嫁さんから投稿がありました。長男が虫垂炎の手術をしたそうです。「今、無事に終わったとドクターから電話がきた」とのこと。「何故電話?」と思ったら、コロナ禍で病院に家族が入れなかったからだそうです。手術が決まったのが日本時間の前日夜遅くでだったので、事後報告になってしまったそうです。
1週間以上前から膨満感や腹痛、だるさなど体調不良が続いていて、微熱も出るようになり、これはおかしいと病院に行き、虫垂炎と分かり大きい病院に転院し夜に手術となったそうです。現在現地時間23時過ぎ。ドクターの話では、全て順調に終わり、麻酔からも目覚めたと。土曜日退院予定だそうです。なにわともあれ、良かったです。お嫁さんは3人のチビたちを抱え、更に大黒柱としてお世話にならねば・・・家内同様明るいお嫁さんなので、まあ安心しているけど・・・
早速、次男のお嫁さんからお見舞いのLINEが入りました。長女すみれちゃん4才は幼稚園、長男おうちゃん1才も保育園に入園し、仕事に復帰したばかりなのにありがたい。
僕もLINEにメッセージを入れておきました。親族からリアルタイムに返信があるだけでも、お嫁さんたちの力になるでしょう。
息子たちやその一家にとって初めての内臓系入院です。長男は、小学生の時の足の骨折や歯が折れたの2回の怪我がります。昨年晩秋の長男とこの3男ルーカスくん2才の足の骨折もありましたが、内臓系の病気とは無縁でした。
僕は、中1の夏休み初日に虫垂炎に罹りました。夏は腹膜炎を併発しやすいので、薬で痛みを和らげながら真夏を過ごし、少し涼しくなった8月末に手術を受けました。
お医者さんの「手術見るかい?」に興味を持ち、全身麻酔ではなく局所麻酔で受けました。ベッドの上に鏡を付けてくれ、「お腹見える?」と角度調節してもらい手術に入りました。自分のお腹を見ながら手術を受けました。引っ張られる感覚や、「意外に出血が少ないんだな〜」と観察しながらの手術でした。
結局腹膜炎を起こし、2ヶ月も入院しました。私立の中学に通っていましたが、同じ市から通っていたクラスメイトが毎日学校の勉強ノートを持ってきてくれ、何とか勉強に遅れずに済みました。今でも年賀状交換をしているKくんで、彼は大学の教授をしています。
追伸として、「お笑い番組など笑うのはお腹に響く」と書いておきました。クラスメイトがお見舞いに来てくれたのは嬉しかったけど、学校であったおもろい話を聞く時笑うと手術跡に響き辛かった記憶があります。
長男が帰宅すれば、3人のおもろいチビさんが揃っているので、それが一番の鬼門かもしれません。
お嫁さんから再びLINEが入りました。父親である私も虫垂炎経験者だと知り、ちょっと安心したようです。僕が局所麻酔で手術観察したのにびっくりしていました。「想像しただけで血の気がひきそう」だって。
長男は、術後の痛みで苦しんでいるようです。しばらくお腹を庇って、大笑いもできないので、子供たちがいつものように「パパー!」と飛びついていかないように言い聞かせるそうです。


2021/4/11
家内も休みなので、お墓参りに行きます。四輪に自転車を2台載せ家内を乗せ、8:46「セルフ宝塚176」で給油。家内のサイクル女子服装は、バリバリではないけどかわいい系でピンクピンクしていてかわいい。「宝塚IC」から中国道に乗り、山陽道に乗り換え、「三木小野IC」で下車しお墓参りをしました。お花は前日に僕が買いに行きました。お墓用のではなく、もっと華やかだけどセンスの良い花にしました。家内の両親が眠る墓だけど、姉の旦那さんが自分の実家のお墓を隣に引っ越させて2つの家のお墓をお守りしてくれています。そちらは神式のお墓なので、榊が供えられています。彩りがイマイチだし、左の水鉢が空いていたので、家内がお花をそちらにも供えています。優しいな〜、こういうところが好きだな〜。
帰路に着きます。山陽道に乗り、10:19「山陽道三木SA」でトイレ休憩。「ボスとろけるカフェオレ500ml162円+パン180円+ぶどうパン190円」購入。中国道に乗り換え、「西宮北IC」で下車し、r82「盤滝トンネル」で六甲山を南に抜けて西宮市入り。阪急甲陽園線の甲陽園駅まで来て、適当なPを探します。
11:19Pに入れ、リアゲートから自転車を下ろします。夙川の桜土手を下って西宮浜まで下り、昼食して戻ってくる計画で阪急甲陽園線沿いを走り出しました。さあ夙川の土手に入ろうかという時に、家内から「だめ〜」の声、どうしたのかと思ったら、持ってきた眼鏡が合わず二重に見えているそうで怖いとのこと。これは危ないと思って、サイクリングを中止することにしました。近くにあったコンビニで待つように言い、僕だけ車にも戻りました。11:19〜12:00タイムズ24甲陽園若江町220円。
自転車を積んでコンビニに戻り、家内の自転車も積んで西宮浜に向かいます。いつもの新西宮YHではなく、学生時代ヨット部で活動していた西宮浜へ。12:30「ウインドワード風上P」。
学生の艇庫は跡形もなくなくなっていますが、おしゃれなカフェなど一寸リゾートになっていました。バイカーズカフェがありましたが、コロナ架でお休み中でした。「JIB」のステッカーが貼ってあるアクセサリーショップがあったので入ってみました。ジブバッグがたくさん置いてありました。その他にマリンの雰囲気の雑貨があったので、バイクに載せようと2点購入しました。「WINDWARD OCEAN CLUB」という店名です。この港は諏訪さんが仕切っており、西宮ヨットハーバーを経営しているので学生時代からお世話になり、2年前までは新西宮でのヨットレースで競いあっていました。お店の方といろいろ話し、楽しい時間を持ちました。この浜にあるレストランの情報も頂きました。バイカーズカフェの他に、2軒のレストランがあり、芦屋浜側のお店に入りました。
30分ほど待って席に付きました。もう一軒のレストラン(Aquq south coast)もプールが有りましたが、こちら(CORAL KITCHEN)にもプールが有りました。2F室内席で食べました。ベランダ席もあり、芦屋YHが見えます。中央にプールがあるので、夏のシーズンにはビキニのお姉さんが泳いだりカフェしたりしているのかな・・・。シェアサイクリングステーションが有りました。


2021/4/10
5:00、倉庫から「里山VTR250」を出して出発。R171〜中央環状線。5:10「エネジェット中環豊中SS」で給油。131km/4.3L=30.5km/L。5:16「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「フルーツカフェオレ500ml93円+味付け海苔辛子明太子140円+味付け海苔海老マヨネーズ125円=358円」を購入しました。
「吹田IC」から近畿道に乗り南下し、「第2阪奈道」に乗り換え西進し、生駒山系をトンネルで抜け奈良番地へ。道なりにR308~r1~R369、左:奈良県、右:奈良公園の間を抜け、右折してR169を南下します。鹿が道路に出てきそうで危ない。奈良ホテルの横を走ります。
6:16、「穴栗神社」。『穴栗神社(伊久里の杜・くりのもり) 奈良市横井1丁目677番地 御祭神:伊栗(いぐり)社(太玉命)・穴栗社(高御産霊尊たかむすびのみこと)・青榊社(青和弊あおにぎて)・辛榊社(白和弊しらにぎて)
この神社の鎮座する地は、古く「日本書紀」景行天皇(第12代)の条に「春日穴咋邑」(かすがあなくひのむら)と出ているところです。神社の名を穴吹・穴次と書くものもありますが、春日大社の記録によると、平安時代に、この地から穴栗・井栗の神が春日大社に勧請(分霊)されたと書かれています。 境内にある元禄4年(1691)建立の社号標石にも『穴栗四社大明神』とあり、穴栗は古くからの呼び名です。 現在、穴栗神社は横井東町の氏子がお祀りしています」。
万葉集に、「妹が家に 伊久里の杜の 藤の花 今来む春も 常かくし見む ・・・高安王(巻17ー3952)」と詠まれている。「伊久里の杜」は、井栗の神を祀っていた、この地です。
歌は、天平18年(746)8月7日に、越中守大伴家持の館での宴の場で、玄勝というお坊さんが伝誦したものです。作者の高安王(大原高安)は、天武天皇の皇子・長親王の孫に当たり、奈良の都の人です。「恋しい人の家に通っている伊久里の杜に咲く藤の花よ、また巡ってくる春にも、いつもこのように眺めていたいものだ」と詠んでいる作者は、藤の花の咲く頃、このあたりを通って、恋しい人のもとを訪ねたのでしょう。
境内の万葉歌碑は、平成10年5月に、平城(なら)万葉教室と横井東町自治会の協力によって建立されました。  「伊久里の杜」万葉歌碑建立実行委員会』
4社並立の本殿でした。社殿は南向きで、参道と鳥居は東向きに立っています。参道・鳥居の前に広がる田畑と山の上に朝日が昇ったタイミングで、とても気持ちが良い。
少し東に走り、6:34「御前原石立命(みさきはらいわたてのみこと)神社」。
『御前原石立命神社 延喜式内社 主祭神:御前原石立命 古市町の鎮守の神として祭る 境内社:御霊神社(崇道天皇(早良親王))・春日神社(天兒屋根命)・五社明神社(天忍穂耳命・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野久須毘命)・龍王神社(高おがみの神)・巽神社(辰巳明神)・西之宮神社(大国主命・猿田彦命・八重事代主命)・三宝荒神社(奥津彦命・奥津姫命・火産霊命) 境外社:厳島神社(弁財天社)市杵島姫命』
『御前原石立命神社 三大祭 祈年祭(別名・御田植祭):2月11日・五穀豊穣・国家太平・氏子の繁栄を祈願する祭である。祭典終了後、恒例の餅まきの神事がある 秋祭:10月吉日・氏子の繁栄と五穀豊穣の感謝をする祭である 新嘗祭:11月23日・新穀を神前に供して御神徳に感謝する祭である』
r188を北に走り、右折して東の山をウロウロし、6:59「奈良陸軍墓地」。鳥居が有り、手水舎があります。手水舎には陸軍の星マークが入っています。
『旧軍墓地の由来 墓地の敷地は5649平方メートルあり、墓地には「満州事変戦没者合同墓碑」(昭和11年5月30日建立)と「歩兵第38連隊将兵英霊合祀の碑」(昭和9年3月建立)の2つの塔と寛城子事件(かんじょうしじけん)などで亡くなられた34体の将兵の墓標が建立されています。歩兵第38連隊は、明治29年12月、京都市伏見区深草に創設された。明治42年3月、奈良市高畑町に歩兵第53連隊が新設されたが軍備縮小により大正14年3月に廃隊され、これに代わって同年4月、京都深草より奈良高畑へ歩兵第38連隊が移駐しました。また、移駐に伴い京都7方面山陸軍墓地「京都市伏見区宝塔寺山町」の関係諸霊をも此処に遷してお祀りしております』
墓石が立っています。「満州事変戦病没者合同墓碑」「歩兵第38連隊将兵英霊合祀之碑」の大きな墓石の横に、「陸軍歩兵大尉・正七位勲六等・・・・之墓」のような個人の墓石が並んでいました。
r188に下り、7:23「崇道天皇八嶋陵」。「崇道天皇」というのが耳あたりがなかったので帰宅後調べたら、『早良親王(さわらしんのう)は、光仁天皇の皇子、母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。桓武天皇の皇太弟に立てられたが、藤原種継の暗殺に関与した罪により廃され、絶食して没した。崇道天皇(すどうてんのう)と追諡されたが、皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない』とのこと。早良親王が没後贈られた諡(おくりな)でした。
ちょっと走り、7:32「嶋田神社」。『あおによし 奈良の大路は行きよけど この山道は行き悪しかりけり 解説:奈良の大路は楽に歩けるけれど、この山道は通ってゆくのが大変でした。 出典:万葉集・巻15の3728 詠人:中臣宅守』
『奈良市指定文化財 嶋田神社本殿(宝永6年) 昭和57年3月1日指定 春日大社本社本殿は、幕末まで、ほぼ20年ごとに建て替えられてきました。その際払い下げられた旧本殿が各地に残っています。 建立・移築の経過は次の通りです。
宝永6年(1709):春日大社本社本殿第3殿として建立(部材から「三之御殿」の墨書が見つかっています)
享保12年(1727):崇道天皇社本殿として現八嶋陵の地に移築
明治19年(1886):八嶋陵整備に伴い、崇道天皇社と嶋田神社を合祀、嶋田神社本殿として現在地に移築  奈良市教育委員会』
r188に戻り南下します。7:46「円照寺」。門跡寺院でした。「これは」と期待されましたが、参道は通行禁止で拝観もされていませんでした。残念!
r188を少し南下し、7:54「五つ塚古墳群」。『五つ塚古墳群 古墳時代後期(6世紀後半〜7世紀) 平成8年4月11日指定 五つ塚古墳群は、その名の通り5基からなる古墳群で、山裾に墳丘の後背部を掘削、盛土して造られています。 山側の1・3・5号墳が円墳、2・4号墳が方墳で、埋葬施設はいずれも南に向かって開口する横穴式石室です。
築造時期は、石室形態などから円墳の1・3・5号墳が6世紀後半、方墳の2・4号墳がやや新しく7世紀に入って造られたと考えられます。 古墳時代後期の小古墳は、この周辺に数多く群集して造られており、五つ塚古墳群もこうした群集墳の支墳のひとつと見られます。  奈良市教育委員会』
小さな円墳が並んでいました。特に保存もしていないのに、1300年もわかるほど原型を留めて円墳が残ったものです。田畑が広がり、いつ崩されても不思議ではなかったのに・・・。
8:00「圓照寺宮墓」「霊元天皇皇女墓」。石段を上がっていくと、山の斜面に郭があり、メインエリアに「有栖川宮職仁親王王女・文享女王墓」の墓碑の後ろに五輪塔が立っています。別の郭に「一乗院墓所」など、江戸時代と思われる墓標が並んでいます。「明鏡院」「京雲院尊儀」「天祥院公主」「智徳院殿之墓」「最勝心院宮・御遺髪塔」「廣厳心院」「大慈心院」・・・無縫塔が並ぶ郭もあり、門跡寺院の歴代門跡のお墓が並んでいるようでした。住職の墓石である無縫塔に女王名が彫られ、それらが並ぶのが珍しい。さすが皇族の女性のお墓だけあって、田舎の山中なのによく手入れされていました。この費用は、宮内庁から出ているのだろうか?
バイクに戻り、更に枝道を登っていきます。峠を超えると「正暦寺」に行けそうでしたが、未舗装路になり断念して戻りました。
8:22「延命地蔵尊」。更に道を奥に入り、8:32「正暦寺」。Pにバイクを置きます。八重桜が満開で綺麗です。
『ここは信仰道場です。おしずかに願います。幼稚園・小学校・中学校・高等学校の各団体の本堂敷地内でのご休憩は、固くお断りいたします。ただし研修などでご使用ご希望の場合は、必ず寺の許可を得てください。
正暦寺の歴史・・・正暦3年(992)、一条天皇の勅命を受けて兼俊(けんしゅん)僧正(九条兼家の子)が創建。龍華樹院(りゅうげじゅいん)とも称す。創建当初は堂塔・伽藍を中心に86坊が渓流を挟んで建ち並び、勅願寺としての偉容壮麗を誇っていた。ところが、治承4年(1180)平重衡の南都焼き打ちの際、その類焼を受け、全山全焼。寺領は没収され一時は廃墟と化した。その後、健保6年(1218)、興福寺一条院大乗院住職・信円僧正(関白藤原忠通の子)が法相宗の学問所として再興。昔の勝る隆盛を極めた。また13世紀初め(建暦年間)の頃に、蓮光法師(法然上人の弟子)がこの地に草案(本殿を安養院、別院を迎接院)を結び、浄土門の法灯を掲げたこともあった。今は福寿院客殿(国重文)を中心に、わずかな伽藍を残すのみであった。客殿には、狩野永納(えいのう)の描いた欄間・襖絵が伝わっており、孔雀明王像(県重文)・千体地蔵菩薩などを祀っている。
秘仏薬師如来倚像(倚像)御開扉日・・・4月18日〜5月8日(秘宝展を行います)、11月3日〜12月6日(秘宝展を行います)、12月23日(冬至の日)(福寿院客殿にて御開扉致します)
主な年中行事・・・修正会(しゅしょうえ):1月3・4・5日午後1〜4時 節分会(せつぶんえ):2月3日午後10時〜12時 人形供養:3月9日午後2時〜3時30分 薬師会式:4月18日午前10時〜午後3時 冬至祭:12月22日午前10時〜午後2時  菩提山正暦寺』
「清酒発祥の地」の碑が立っています。福寿院客殿を拝観しましょう。「写真撮影禁止 本堂・客殿、各参拝所内での写真撮影は全面的に禁止いたします」と書かれており残念。「拝観おそなえ料 大人500円小学生200円」。こけら葺きのとても綺麗な屋根です。
拝観開始時間直前でしたが、入れてくださいました。狩野永納筆の襖絵が素敵です。「県指定重要文化財・孔雀明王像」が正面におられ、テープ案内が流れ、それに沿って襖絵や庭からの借景を楽しみました。続いて護摩堂へ。不動明王が迫力があります。
本堂・鐘楼を見学しに行きましたが、そこに上がる石段がロープで封鎖されていました、残念。沢に沿って登って行きます。春の新緑が若く綺麗で清々しい気持ちになりました。
山を下り、9:30「弘仁寺」。山門に「入山料200円」と書かれた木箱が置かれていました。チャリン!明星堂に上がります。絵馬が数枚下がっています。賓頭盧さんがお堂前におられます。大日如来・朝明星太子・役行者・不動明王がお堂内におられました。隣の本堂へ。こちらにも絵馬が数点下がっています。数学絵馬も下がっており、現代文にした問題・解説・回答がありました。とても難しく皆目わかりません。江戸時代の庶民の数学力にびっくりしました。
r187に出て、R25名阪国道を東に走り、「福住IC」で下車し、R25〜r186で、10:05「氷室神社」。『氷室神社御由緒略記 御祭神:闘鶏稲置大山主命(つげいなぎおおやまぬしのみこと)・大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)・額田大中彦命(ぬかたおおなかひこのみこと)・気吹戸主神(いぶきのぬしのかみ)・神屋盾比売命(かみやたてひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・水神大神(すいじんのおおかみ) 末社:琴平神社(大物主神)・厳島神社(事代主神・たぎ津姫命) 摂社:二社神社(春日大神・白山比売命)・三社神社(八幡大神)氷の神様を祀る神社として親しまれている氷室神社は、日本書紀によると、仁徳天皇の異母兄弟である額田大中彦皇子がこの地(闘鶏つげ)に狩りに来た時、小屋のようなものを見つけた。「これは何か?」とこの地を治めていた闘鶏稲置大山主命に尋ねると氷室だと教えてもらう。
1600年ほど前である当時、氷は大変珍しいものでした。そのため皇子はその氷を持ち帰り、仁徳天皇に献上されたそうです。仁徳天皇は大変喜ばれそれ以来、毎年福住の氷を献上することになりました。その後、氷室神社が建立されたようです。
平城宮跡の発掘調査で、木簡(文字を書いた木の札)がたくさん発見されたその中に、「都祁(つげ)の氷室」のことが書かれており、福住の氷室から平城京へ氷が運ばれていたことが証明されました。
また、この地に長屋王の別邸が有ったのではないかと言う学説や各地の氷室の氷をこ後に集めて、その年の吉凶を占ったという言い伝えもあります。この貯えた氷には、飲み物を冷やすということ以外に、天皇家や身分の高い貴族が亡くなった時の遺体保持のために使われていたとも伝えられています。
全国で最初の氷室神社であり、今でも古代氷室跡が20数ヶ所見つかっている地の核であるこの神社は、まさに氷室の里の中心と呼ぶにふさわしいところです。 平安時代初頭から続く氷を奉るまつり(現在の献氷祭)が斎行されており今に至っております』
参道を歩いて石段を上がると、周囲に鎮守の森の高木に囲まれた小ぶりの境内がありました。『氷室神社 社格:旧郷社 祭神:額田大仲彦命(ぬかたのおおなかひこのみこと)・闘鶏稲置大山主命(つげのいなぎおおやまぬしのみこと)・大鷦鷯尊(おおささぎのみこと) 創紀:允恭(いんぎょう)天皇3年(414)
由緒:古代、福住町をはじめとするこの大和高原一帯は、闘鶏(つげ)国と呼ばれていた。「日本書紀」によると、仁徳天皇62年の歳、額田大仲彦皇子がこの地に狩りに来られた時、野中に粗末な小屋を発見した。そこで、従者に確認させると室だという。
この地を治めていた闘鶏稲置召して尋ねると、氷室だという。その用途を尋ねると、冬に氷を氷室に納め、夏に取り出して酒に浸して飲むと美味しいという。皇子は持ち帰って天皇に献上すると、天皇は大変喜ばれ、以降毎年福住の氷室の氷を天皇に献上することとなった。
その氷室を守り、水の神を祀る我が国でも珍しい神社で、当社は全国氷室神社の総本社である。他社と区別して「都祁氷室神社」と呼ばれることもある。
大祭:献氷祭・・・宮中の氷室の氷配分に因み、6月1日に平安時代の承平2年(932)醍醐天皇によって祭行がはじめられた。現在は旧暦を新暦に読み替え、毎年7月1日に「献氷祭」として行われる。 秋祭り・・・毎年、10月中旬の日曜日に行われる。前日は宵宮で、当日は本宮である。本宮には当神社から、氷室跡のある室山麓の御旅所まで、盛大な渡御行列が行われる』
r186を北上し、r80に突き当り、左折してr80を西に走り、右折してr183に入り、最後は未舗装の農道に入ってやっと、10:42「春日宮天皇田原西陵」発見。もっと広い道から参道が続いていました。
r183に戻り、r184にチェンジし、10:52「白山神社」。リニューアルしたばかりのようで、小ぶりながら綺麗な社殿が2社並んでいました。「白山神社」と「春日神社」が同じ大きさで並立に建てられています。祠程度の社殿の前に獅子の鮮やかな絵が書かれています。バイクに戻る時山側を見ると、檻が設置されていました。イノシシ狙いのようです。
r183で東進し、r47で北上し、枝道に入り、11:12「八柱神社」。石段を上がっていくと、落ち着いた境内と更に一段上がった社殿がありました。社殿は、覆屋の下に祠程度の大きさですが中央の「八柱神社」を挟んで、「稲荷神社」「八幡神社」が建っていました。こちらも前に絵が書かれており、八柱神社には獅子、稲荷神社には狐、八幡神社は鳩と、それぞれの神様に因んだ動物の絵でした。地図を見ると、すぐ近くにも「八柱神社」があります。これから参ろうとしている神社も「八柱神社」。この地域は何故これほど「八柱神社」が多いのだろう。「八柱神社」は「八王子」と同じく、天照大神と素戔嗚尊が高天原で誓約(うけい)という占いを行った時生まれた8神様を祀っている。
私の母方の先祖は室町時代まで遡れ、美作菅家党です。その先祖は菅原道真公で、菅原氏の先祖は土師氏。土師氏は出雲族で、イエスキリストとほぼ同じ時代を生きた11代垂仁天皇の時代、垂仁天皇によって畿内に呼ばれ、當麻蹶速と相撲をして勝利し、埴輪を開発し古墳制作集団として土師氏を賜りました。この土師氏が誓約(うけい)によって、天照大神の首飾りの勾玉を口に含んだ素戔嗚命が吐き出した5神様の1人「天穂日命」の子孫です。「天穂日命」は、天孫降臨の時、高天原から大国主命のもとに派遣され、説得するうちに心服した神様です。天孫降臨後、大国主命のもとで葦原中津国の繁栄に尽くし、出雲國造家や土師氏は子孫です。
八王子・八柱・菅原道真などを祀る神社に参るといつもちょっと気持ちが高ぶるのは、子供の頃母から毎回教えられた「あなたには菅原道真公の血が流れている」によります。「三つ子の魂」は恐ろしいし素晴らしい。ソロツーリングルートを計画し、その地域の訪問地を地図上でプロットする時、これらの神様を祀る神社を見つけるとチェックしてしまう。
西に向かう枝道を走ります。森の中の中央線落ち葉落枝の道が気持ち良い。11:27「八柱神社」。山の麓の森の中の神社で、「八柱神社」を中心に「宗像神社」「大国主命」の祠が並んでいました。境内にある建物を見ると、「誓多林町公民館・八柱神社社務所」と書かれていました。「誓約(うけい)」を想像する地名でドキンとしました。帰宅後調べたら、「せたりんちょう」と読むようです。
更に西に走り、11:36「八柱神社」。こちらも祠程度の小さな社「八柱神社」「八阪神社」が並んでいました。バイクにもどると、手入れされている水仙が咲いていました。水仙といえば冬から春の花というイメージでしたが、4月に咲いているのに驚きました。
更に少し走り、11:46「峠茶屋」。ハイキンググループが休憩されています。「お茶でも飲もうかな?」とストップすると、縁側に腰掛けていたご主人から「わらび餅ありますよ」と声を掛けられバイクを置きました。「何cc?」「250ccです。わらび餅ください」。ご主人や休憩しているハイキングの方々と話しながら休憩しました。ヤマザクラが満開です。
更に西に走り、「東大寺」「春日大社」の裏山・春日山原生林を走る「奈良奥山ドライブウェイ」に突き当り右折。未舗装路を北上し、12:07、バイクを置いて「首切り地蔵」へ。ドライブウェイながら車の通行は殆どなく、ハイキング道のようです。
『若草山山頂3.7km・鶯の滝2/1km 円成寺6km・柳生13.7km・地獄谷石窟仏1km 首切り地蔵0.4km・破石町バス停3.5km』。石畳の道を下っていきます。あまりに急坂で下るので、帰りの上りが怖くなって「首切り地蔵」に至る前にUターンしてバイクに戻りました。
バイクでドライブウェイを南下しました。峠茶屋からの交差点を過ぎると舗装路になりました。12:23「地獄谷石窟仏P」。『世界文化遺産貢献の森林 奈良盆地に所在する国有林は、世界文化遺産・国宝・重要文化財・史跡・名勝などの所在する森林で、これらと一体となり優れた自然景観などを形成する重要な役割を果たしています。
奈良盆地には世界文化遺産に登録されている神社仏閣など木造建造物が数多くありますが、これらの建造物を後世に守り伝えていくためには、修復用資材の確保や保存・修復に携わる技術者の養成を図り、併せて市民の方々に森林と文化財との関わりを理解していただくことが重要となっています。
このため、この地獄谷国有林をはじめ奈良盆地に所在する国有林(約350ha)を「世界文化遺産貢献の森林」として設定し、檜皮や長尺・大径材の供給に取り組んでおり、古都奈良の景観にふさわしい森つくりを行っていきます』
『地獄谷石窟仏0.4km』。行ってみましょう。バイクに夏用メッシュプロテクターの上に羽織っているカッパを脱いで出発。『地獄谷石窟仏 これより600m 春日山原生林(世界遺産):御蓋山(283m)東の花山(497m)芳山も含め、春日大社背後の山を総称して春日山という。 平城京の昔から、都人に散策の地として親しまれてきた山で、古歌にも数多くうたわれている。 仁明天皇の承和8年(842)以来、春日大社の神域として狩猟伐採が禁じられて来たため原生林となり、国の天然記念物に指定されている。
滝坂の道:春日山と高円山の間の谷川沿いに、奈良の街と柳生を結ぶ近道として開かれた道で、柳生街道とも呼ばれる。昔は人の往来も多かったが、今は通る人も殆どなく忘れられようとしている道である。 江戸時代初期、当時の奈良奉行がつくらせたという石畳の道が今も残り、また朝日観音・夕日観音・春日山石窟仏(穴仏)・首切地蔵など石仏の宝庫でもあり、東海自然歩道になっている』
道路を渡ったところに山道に入口があり、『地獄谷新池・首切地蔵』と書かれた案内板が立っていました。もとに戻り、12:30さあ出発。まず軽く登りましたが、すぐに軽く下りのコースになります。暑くて、メッシュジャケットと下のDaiwa釣り用カッパを脱いで木に掛け、谷に下っていきます。小さな橋を渡り今度は登りです。一昨年の大風台風の影響か、杉の大木が根こそぎ何本も倒れています。
12:35「地獄谷石窟仏」。磨崖仏は大きな岩を笠のように削った下に彫られていました。仏様が風雨を凌げるようになっていました。フェンスで覆われ触れないようになっていました。その前にベンチが置かれ、ハイキングの方の休憩所になっています。山道は更に続いていましたが、倒木のため通行止めのようです。「峠茶屋」の方に繋がっているようです。
『地獄谷石窟仏(聖人窟) 年代:奈良時代不詳 作者:未詳 仏像:凝灰岩層をくり抜いた石窟で、側面に仏像が線刻されている。聖(ひじり)が住んでいたという伝承があり、聖人窟とも呼ばれる。
向かって右側壁:妙見菩薩坐像 奥壁右:十一面観音像 中央:盧遮那仏 左:薬師如来
弥勒仏は石仏で作られることから、中央盧遮那仏は弥勒仏という各諸説がある。今も彩色などが残っている  近畿中国森林管理局 奈良森林管理事務所』
バイクに戻り、更に南下します。交通量はない下りワインディングで、気持ちよく走れました。「高円山頂上展望所」があったので止まります。西に奈良盆地の素晴らしい景色が広がっていました。先客が1台おられ、年配カップルがお弁当を食べておられました。『高円宮憲仁親王殿下御手植』の植樹がありました。敗戦後、GHQにより皇族宮家が天皇ご兄弟以外降下され、皇族が減ってしまいました。国体に参加した時、当時の皇太子と妃殿下が兵庫県代表の前に来られ、お声がけくださいました。ジュニアヨットのASEAN大会に選手を引率した時、タイヨット協会会長だった王様の弟一行が来られ、お話と握手をしました。そのセレモニーの後、タイの選手やオフィシャルに羨ましがられました。圧倒的に世界一の皇統を続けている天皇家は皇族が減り、このままではいずれ男系男子は絶えます。戦前のように男系男子皇統を持つ一家が皇族復帰し、ロイヤルファミリーがそれなりの名誉職に就き、国際国内行事にお出まし頂き日本の素晴らしさを形でお示し頂きたいと思います。なんせ、殆どの日本人の先祖を遡れば「源平藤橘」など皇統に繋がるのだから。殆どの日本人の本家なのだから。
下ります。つづら折れを繰り返し標高を下げます。料金所が有りました。「いくらかな?」と言葉を待ったら、料金所のおじさんも同じで、「峠茶屋からですか?」と聞かれ「はい」と答えると、「新若草山高円山ドライブウェイ320円」を現金払いして出発しました。東大寺側とこちらの天理側に入口があり、僕がその半券を出すのを待っていたのでしょう。峠茶屋側から横入りする車は少ないのでしょう。
r80に下り、西に走ります。r754〜r1、R24をくぐって道なりにR308を西進します。「宝来IC」から「第2阪奈道路」に乗り、「近畿道」〜吹田ICから「中央環状線」〜R171で、14:07帰宅しました。


2021/4/3
6:55、倉庫から「招き猫CB400SB」を出して出発。R171〜中央環状線に乗り、7:11「エネジェット中環豊中SS」で給油。172km/9.35L=18.4km/L。7:15「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「フルーツオーレ500ml93円+助六寿司398円=530円」購入。中国道横を走り、吹田からr2で近畿道沿いを南下します。
大阪モノレール「沢良宜(さわらぎ)駅」を左折し、r143を東進します。道なりにr15に乗り、「鳥飼仁和寺大橋」で淀川を渡りました。ここは有料橋で100円。ETCがなく現金払いでしかもゲートが1つだったので後続車を待たせてしまいました。左折してr18で東進。「京阪本線・寝屋川駅」をくぐり、左折して「八坂通り」。突き当りを右折してr18で東進。左折してR170 を北上し「寝屋川」を渡り、右折して寝屋川沿いを走り、8:19「秦河勝墓」。
寝屋川を見下ろす小高い丘の住宅地に囲まれており見つからず、バイクを置いてウロウロ探しました。所在地が「川勝町」の「秦山」で、地名が「川勝町」でびっくりしました。秦河勝は聖徳太子の時代に生きた秦氏の族長です。秦氏は大陸からの渡来人で、秦の始皇帝やユダヤの部族を祖とするとも言われている。京都を地盤にし、後に朝廷の平安遷都に影響を与えました。秦河勝の謂れは、京都北部にも残っている有名人ですが、河勝のお墓のある場所に「川勝町」「秦山」という名が残っているとは・・・、帰宅後調べると「秦(はだ)町」「太秦(うずまさ)」という地名も周辺にありました。あまりに長く続いた地名だとびっくりです。それとも、後につけたのか・・・。秦氏の本拠地は、秦氏が建立した「広隆寺」のある京都太秦(うずまさ)だと思っていました。そちら周辺の寺社歴史探索した時、謂われ板に書かれていた記憶があります。どうやらこれほど寝屋川のここに秦氏・秦河勝に繋がる地名が残っていることを考えると、秦氏の本拠地は寝屋川だったのかもしれません。朝廷にあれだけ大きなプラスの影響を及ぼした秦氏なのだから、寝屋川から淀川沿いに京都盆地に至る広大な地域に勢力を張っていたのでしょう。当時の人口は500万人程度とされているので、土地なんて余りまくっていたから納得できました。
『寝屋川市指定史跡 伝・秦河勝の墓 4世紀から5世紀にかけて大陸から多くの人々が我が国に渡来してきました。秦氏の祖とされる「弓月君(ゆずきのきみ)」もその1人で、養蚕・機織(はたおり)の技術を伝えたといわれています。
秦河勝は秦氏の長で、聖徳太子を補佐して6〜7世紀に活躍し、太子から仏像を授かり京都の太秦に蜂岡寺(はちおかでら・広隆寺)を建立したことでも有名な人物です。 この地には「秦河勝の墓」として、高さ約2.4mの五輪塔が残されています。五輪塔の地輪の四面には、秦河勝の事績や五輪塔建立の経過などが400余字で刻まれています。碑文によると、以前には豪壮な五輪の石塔がありましたが、豊臣秀吉の命により淀川左岸に文禄堤を築いた際に持ち去った為、現存する五輪塔は慶安2年(1649)に再建されたものであることがわかります。
市内にある秦・太秦の地名も秦氏に由来すると考えられ、平安時代に編纂された「和名類聚抄(わみょうりゅいじゅうしょう)」にも茨田郡八郷の1つとして記されています。 五輪塔の前面には一対の石灯籠が建てられているほか、五輪塔の北東には「正六位上兼右近衛府生・秦武文(しょうろくいじょうけんうこのえふじょう・はたのたけふみ)」と刻まれた柱状の石塔も建っています。  寝屋川市』
寝屋川を渡り、r18で東進します。右折してr154で南下し、「第2京阪道路」側道を走り、右折してR168で南下します。「JR学研都市線」を渡り、左折してR163で東進。左折して、r52で南下します。左折して新興住宅地内の広めの道路を東に走り、R24で南下し。
左折してr44で「JR大和路線」を東に渡り、9:23「狭岡(さおか)神社」。『延喜式内・狭岡神社 祭神(本殿八座):若山咋神(わかやまくいのかみ)・若年神・妹若沙那売神・弥豆麻岐神・夏高津日神・秋比売神・久久年神・久久紀若室葛根神 神位:従五位下 文徳天皇・仁壽2年辛刃11月5日』
『狭穂姫伝承の鏡池(姿見池) 鏡池(姿見池)と名付けられたのは、沙本昆売(狭穂姫)がその美しい姿を、この佐保の池に写したとの謂れによります。水脈の変化により渇水しましたので、平成17年5月保水工事を致しました』
『佐穂姫伝承地 沙本昆売(さほひめ・狭穂姫)は、開化天皇の孫で垂仁天皇の皇后でした。兄・沙本昆古(さほひこ)は、この佐保一帯の王でありました。不幸にも夫と兄の政争に巻き込まれ亡くなりました。 古事記による』
境内の掃除をされている方がおられ、「ようこそ」「どちらから?」・・・いろいろお喋りしました。
『君に恋ひいたもすべなみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも 万葉集巻4593笠女郎(かさのいらつめ) 天平時代、笠氏一族の娘は、あなた恋しさの思いをどうすることもできず、美しい松の木の下で只々あなたを待ちつつ、苦しい思いをしているのですと訴えます。君は大伴家持。彼の住む佐保のあたりを思いつつ歌ったのでしょうが、この恋は悲恋に終わったようです』
『天満宮、この標石は昭和20年代まで一条通沿いに有りました。道路拡幅のため移転しました。右肩に「北へ三丁天神社内」とあります。佐保田庄引付(天理図書館蔵保井文庫)の古書に「永享7年(1435)に天満宮遷宮」とあり、現在本殿東側末社に併祠されています』
拝殿には、この神社の祭りの様子や周辺の変遷が写真入りで紹介されていました。
『平城京遷都1300年記念と万葉フォーラムに寄せて 万葉集中の「筑紫歌壇」で大伴旅人卿が、亡き妻と重ねてうたい愛した梅の木を太宰府の地から故郷の佐保の地へ献木致します。
雪色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも
平成22年5月21日 大伴旅人巻5-850 太宰府市太宰府万葉会』
奈良高等学校西門前でした。r44に戻り、r44を東進し、「奈良育英中高」角を右折し、「やすらぎの道」を南下し、「奈良女子大」横を走り、奈良中心を東西に走る「大宮通りR369」を南に渡りました。
10:00「漢国(かんごう)神社」。境内に摂社「源九郎稲荷神社」がありました。枝垂れ桜が満開でした。
『奈良県指定有形文化財 漢國神社本殿 1棟 桃山時代 昭和26年11月1日指定 三間社流造・檜皮葺で、要所を極彩色に塗装した美しい建物です。桃山時代の形式・手法を示し、慶長15年(1610)の神社文書に建築部材の明細を記したものがあるので、その頃の建立と推定されています。奈良市指定文化財 茶糸威胴丸具足(ちゃいとおどしどうまるぐそく) 1領 桃山時代 平成16年3月3日指定 徳川家康が慶長19年(1614)に参詣して奉納したものと伝えられています。徳川家に仕えた奈良の甲冑師・岩井与左衛門の作と考えられ、近世に奈良で盛んに作られた甲冑の代表的作例として貴重です。境内の鎧蔵に納められていましたが、今は奈良国立博物館で保管されています。  奈良市教育委員会』
本殿の庇がとても長く、その下で初宮参り神事が行われていました。「やすらぎの道」を少し南下し、10:12「率川(いさがわ)神社」。『率川神社(いさがわじんじゃ・子守明神) 祭神:玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)向かって右殿(御母神)・媛たたらい五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)向かって中殿(御子神)・狭井大神(さいのおおかみ)向かって左殿(御父神)例祭日:6月17日・三枝祭(さいくさのまつり)
御由緒:当神社は、推古天皇元年(593)大三輪君白堤(しらつつみ)が、勅命によって創祀した奈良市最古の神社であります。父母神が御子神を両側から見守るようにして鎮座奉斎していることから子守明神と称せられ、安産・育児・息災延命の神様として篤い信仰を集めております。
例祭の三枝祭は、御祭神に縁の深い笹百合(ささゆり、古名さいくさ)の花で、白酒(しろさ)・黒酒(くろさ)の酒樽を飾ってお祭りするところから名付けられて名前であり、大宝令(701年)に国家の祭祀として定められている古式ゆかしい神事で、疫病除けの祭りとして今に受け継がれ「ゆりまつり」の名で知られています。
本殿は、一間社春日造檜皮葺の建物3棟が東西一列に並び南面しており、近世初頭の社殿形式を伝えるものとして奈良県有形文化財に指定されています。率川(いさがわ)阿波神社 御祭神:事代主神(奈良市最古のえびすさん) 例祭日:6月17日 初戎:1月5日』
日本最古の神社「大神神社」の摂社で、奈良市内最古の神社でした。境内に摂社3社が並んでいました。『摂社率川阿波神社 御由緒:この御社は、平安時代の「延喜式」にも記され、御祭神・事代主神は本社の大物主大神の御子神で、俗に恵比寿様と申し上げます。社伝によると宝亀2年(771)藤原是公が夢のお告げにより、阿波国より勧請したと伝えられています。 1月5日の初戎祭は、奈良で一番古い福徳成就の祭で、商売繁盛をはじめ生活守護の神様として多くの参拝者で賑わいました』
『末社春日社 御祭神:武甕槌命・経津主命・天兒屋根命・比売神 御例祭:6月17日 御由緒:御祭神は、春日(奈良市)の神4柱を祀り、国家安泰を始め諸願安全の御神徳篤い神様であります』
『末社住吉社 御祭神:表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長帯比売命(神功皇后) 御例祭:6月17日 御由緒:御祭神は、伊邪那岐神が禊(みそぎ)をした時にお生まれになられた神様です。 大阪墨江(住吉)に鎮る神と同神であり、神功皇后の遠征守護神として申し上げ海洋の神様であります』
本殿は、3連並びの檜皮葺屋根の立派な社殿でした。『奈良県指定有形文化財 大神神社摂社・率川座大神御子神社本殿 江戸前期 昭和31年8月7日指定 当社は大神神社(おおみわじんじゃ・桜井市)の摂社で、奈良時代以前に遡る古い由緒を持っています。 本殿は、同規模・同形式の一間社春日造(間口1間、切妻造妻入の建物の正面に庇をつける神社本殿形式)・檜皮葺の建物が3棟並び、各殿の間を塀でつなぎます。 建立時代は、正面の蟇股や木鼻の彫刻の形状などから、江戸時代初めと考えられます。 全体・細部とも優れた意匠の美しい建物で、江戸前期の春日造本殿として貴重です。  奈良市教育委員会』
3つの本殿を繋ぐ壁に松などの絵画が描かれており、リニューアルからそれほど時間が経っていないようでとても綺麗です。大神神社の遙拝所がありちょっとびっくりです。伊勢神宮や御祭神のお山の遙拝所はよく見ますが、大神神社の遥拝所は珍しいです。
『大神神社ニュース 奈良市本子守町鎮座・率川神社に本社・大神神社遙拝所設置 平山郁夫画伯の三輪山の絵をはめ込み 奈良市本子守町に鎮座する率川神社は奈良県桜井市にある大神神社の摂社で、奈良市最古の神社です。 この神社で6月17日に行われる「三枝祭(さいくさのまつり)」は飛鳥時代から行われる由緒ある祭事で、ささ百合の花で酒樽を飾って神前にお供えすることから、「ゆりまつり」の名前でも知られています。
この度、この率川神社に本社大神神社をはるかに拝む遥拝所を設置致しました。以前から毎月17日の月次祭(つきなみさい)には本社を遥拝することが行われておりましたが、広く一般参拝者にも大神神社と率川神社のかかわりを知っていただくために、今回の設置となりました。
以前の遙拝所は小さな石柱でしたが、高さ約2m・幅約2mの石製・野外衝立式で、正面上部には三輪山を描いた陶板画をはめ込んでいます。 この絵は大神神社に収蔵する平山郁夫画伯作の「神の山・三輪山の月」(平成11年奉納)です。実際の絵画を30×44cm程度の陶板に縮小してあり、奈良の地より大神神社の御神体である三輪山に思いを馳せて遥拝できるようになっております』
『蛙石 この石は、その形状から「かえる石」と言われています。蛙は、一度に沢山(1500個ぐらい)の卵を産むことから繁殖力・命の再生・豊富・裕福のシンボルとも言われています。特に蛙は「カエル」という言葉の語呂が縁起が良いとされ「お金がかえる」「幸せがかえる」「若かえる」「無事かえる」「貸した物がかえる」など言われ、参拝者も健康回復・旅行安全・金運アップなどの御利益を願って、この石を撫で親しまれていることから「撫で蛙」とも呼ばれるようになりました』
「やすらぎの道」を南下し、左折して「ならまち大通り」を東進します。10:33「住吉神社」。とても小さなお宮で、社門が閉まり本殿も参れませんでした。
『奈良市勝南院町5番地鎮座・住吉神社 祭神:表筒男命(うわつつのおみこと)・中筒男命(なかつつおみこと)・底筒男命(そこつつのおみこと)(共に水の神様)外に蔵王権現を祀る 例祭:7月31日 当社の御鎮座年月は詳らかならざるも、往古元興寺境内勝南院に鎮座さる。宝徳2年、元興寺と興福寺の争いに焼失。焼跡に民家建て連なり、誰言うことなく現在地に祠を造り、住吉四社大神を祀り、町名を勝南院とし、安産・町内安全・無病息災・商売繁盛を祈願し今日に至る。蔵王権現は、明治末期より大正初期に町内の誰かが、密かに本殿に祀る』
『勝南院町 奈良市勝南院町(しょうなみちょう)と読む。 元興寺一院だった仙光寺が衰えた後、勝南院が建立されたが、宝徳年間の火災で焼失。そこに民家が建ち並び、この町名になったとも言われる。
この町の住吉神社前に古井戸があり、毎年3月3日に潮波が湧き出したというところから「汐浪井」と呼ぶようになり、そこから勝南院というように変わったものと言われている。  産経新聞より』
住吉神社の前に、お茶の素敵な香りを漂わせているお茶屋さんがありました。『登録有形文化財・田村青芳園(せいほうえん)茶舗・店舗兼主屋 江戸後期 平成24年8月13日登録 田村家は、江戸時代から近代にかけて宿屋を営んでいました。この町家も、江戸後期に宿屋として建てられたものです。
表構えは、庇上部に虫籠窓(むしこまど)を設け、両側に袖卯建(そでうだつ)をつけます。内部は、南側を通り土間とし、北側の居室部分は総2階建てとなっています。江戸時代の町家で総2階とするのは珍しく、宿屋として建てられたためと考えられます。
現在も通り土間が維持されるなど、伝統的な町家の姿をよく留め、江戸後期の奈良の宿屋建築を知る上でも貴重な建物です。  奈良市教育委員会』
『勝南院町(しょうなみちょう) 元興寺の一院・勝南院のあったところから町名となったと伝えている。この町に住吉神社がある。神社の前に井戸があって、3月3日の日に潮浪が湧き出たので、この井戸を「汐浪井」と呼んだという伝説を残している。  奈良町座』
「大和茶」の看板が上がっています。少し北に歩き、「開運招福・道祖神 上ツ道・伊勢街道」と上がっている小さなお宮に参拝します。
『奈良市今御門町壱番地鎮座・猿田彦神社(道祖神) 御祭神:猿田彦命・市杵島姫命 例祭:9月7日 当社は、人皇51代平城天皇の御代に元興寺境内に始めて御創祀申し上げた奈良市に於ける神社であります。 宝徳2年、元興寺大火後再度の火難に類焼し、終に現状の小祠となりしは嘆きても余りあります。
なお、当社は往古より道祖神・妻神・塞神として名高く、道開の神に依り商売繁盛・開運招福の神であり、また良縁・安産の神、即ち妻神として、特に婦人に信仰が厚いのであります。 境内の巨岩は、塞の神として、勝利の守護神として篤い信仰を集めております。
古歌に、「村のよめ、道祖神に願をかけ(明和)」』
お茶の芳香に誘われ「田村青芳園茶舗」に入り、「ほうじ茶400円」購入。年季の入った焙じ機械が現役で活躍していました。店名と「香味満喫」と書かれています。
「ならまち大通り」を東進し、R169を渡り、r80へ。10:55「式内赤穂神社」。こちらも小ぶりな神社でしたが、延喜式内社のようです。くたびれた木戸を開閉し境内に入ります。『式内赤穂神社 御祭神:天児屋根命1座・天満宮1座・弁財天社相殿』
『式内赤穂神社の由来 古来、高畑町の春日社神官邸町の西端の地に鎮座して久しく里人の尊崇を受け給う。 平安時代「延喜式」所載の古社にして、かの二月堂お水取りに読み上ぐる神名帳にも赤穂明神とあり、連綿今日に至るまで、読躍せらるる古例なり。
上古、天武天皇紀6年に、十市皇女を同10年に氷上の夫人を「赤穂ニ葬ル」とあるは蓋し、この地辺ならむ。もと社地広大にして数百余坪、桜樹多く、幕末頃まで桜田の地名ありき。近世の記録には、天兒屋根命を祀るとせるも加ふるに、「高貴の姫君を葬る」との口碑伝承あるは、いと久しく女人守護の霊験久しかりし証なり。
明治御一新の後、この里荒廃し200戸近き社家・禰宜の大半は離散して築地塀のみ虚しく残り、秋山道人・堀辰雄らの文人愛惜の詩文あり。されど、より深く嘆きまさりし里人有志。滅びゆく天満宮跡・弁財天を合祀して赤穂社の左に配し、今に2社併存す。昭和5年以来、この地の産土神鏡神社の別社となり、地元有志再興の至誠を注ぎつつ今日に至る。神徳の長久を仰ぎ、先人の篤信を継承して復興の機運を待望する所以なり。  昭和52年9月18日・例祭の佳日  赤穂神社地元奉賛有志  鏡神社・赤穂神社 宮司・梅木春和』
拝殿には、旧周囲地図が貼られていました。バイクでちょこっと走り、11:01「志賀直哉旧居」。「奈良学園セミナーハウス」とも書かれています。長男が中学受験した奈良学園がここの現所有者で管理しているのかと驚きました。帰宅後調べたら、奈良学園大学も経営していました。
『志賀直哉旧居 志賀直哉が自ら設計し、家族とともに9年間(昭和4〜13年)過ごした住居です。直哉が54才の時、この家の2階書斎で「暗夜行路」を完成させました。2階居間から眺望できる素晴らしい春日神社の新緑と、古美術にひかれ当地に移住しました。この客間には小林多喜二も泊まりました。和と洋を折衷した食堂・サンルームは圧巻で「高畑サロン」と呼ばれ親しまれ、月に50名以上の文人墨客が訪れました。志賀直哉のアート作品であるこの住居で癒やしの空間をお楽しみ下さい。 志賀邸平面図(435坪・1437平方メートル)』
『ようこそ志賀直哉旧邸へ 入館料:大人(高校生以上)350円・中学生200円・小学生100円*団体割引あり(30名以上) 開館時間12〜2月(入館は16時まで)9時30分〜16時30分 3〜11月(入館は17時まで)9時30分〜17時30分』
『奈良県指定有形文化財・志賀直哉旧居(奈良学園セミナーハウス) 主屋:昭和4年(1929) 表門・塀:昭和4年(1929)頃 平成28年2月5日指定 兎に角、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残っている建築も美しい。そして2つが互いに溶け合っている点は他に比を見ない 志賀直哉「奈良」より
文豪志賀直哉とその家族が、昭和4年から13年(1929〜38)まで暮らした住まいです。志賀が自身の構想に基づき、京都の数奇屋大工(茶室を造る大工)を呼び寄せて建てました。
数寄屋風を基調としながら、和洋折衷の食堂と民芸風のサンルームを中央に配し、南の庭に面して夫人の部屋と子供の部屋を設けるなど、旧来の日本家屋とは一線を画する自由な構成で、志賀の文化人としての精神がいきいきと伝わってきます。志賀を慕って多くの作家や芸術家が来訪し、「高畑サロン」と呼ばれる文化交流の舞台となったことも特筆されます。 奈良学園により、庭を含む全体が志賀の芸術作品として保存・活用されています。  奈良市教育委員会』
駐車場がなく、バイクを停める場所を歩いて探します。隣に「ギャラリー喫茶・高畑」があり、更にお隣に『御食事処・杉幸園(さんこうえん) 月替りコース3500円(税込) お料理+デザート盛合+お好きなドリンク』がありました。そのお店のPはありましたが他になかったので、旧邸に戻り掃除をされていた方にPの場所を聞きました。
『学校法人奈良学園は、昭和53年6月24日に厚生省社会保険庁所有のこの邸を買収した。 この邸は、厚生年金「飛火野荘」として使用されていたが、文豪志賀直哉が自ら設計し、京都から数奇屋大工を呼んで新築、昭和4年から昭和13年まで居住した。 由緒ある建物で、老朽化が進み、全面的改築計画が持ち上がるとともに保存を望む声が全面的に高まった。
奈良学園は、これに応え奈良文化女子短期大学セミナーハウスとして保存する一方、一般にも公開することにした。 奈良学園では、この邸を教育施設として活用し、近代文学探求の拠点としたいと望んでいる。資料などについては、志賀直哉の遺言並びにご遺族の意思によって展示を見合わせた。  昭和53年11月14日 学校法人・奈良学園・理事長・伊瀬敏郎』
玄関に用意されていたビニール袋に靴を入れて見学します。『建第131号・奈良県文化財指定書 志賀直哉旧居(奈良学園セミナーハウス)3棟
主屋:木造・建築面積360.6平方メートル・平屋一部2階建て・桟瓦葺・北面玄関脇板塀付属・西南隅土塀付属・門一所を含む・北面表門間土塀付属・潜門一所を含む 1棟
付・待合1棟:木造、建築面積1.3平方メートル、杉皮葺、左右袖塀付属
倉庫1棟:木造、建築面積10.6平方メートル、桟瓦葺
表門:木造、間口1.9m、棟門、桟瓦葺 1棟
塀:土塀、延長156m、桟瓦葺、西面潜門一所を含む 1棟
宅地1438平方メートル
奈良市高畑町1237番2 施設内のプール一所を含む
右を奈良県指定有形文化財に指定する  平成28年2月5日 奈良県教育委員会』
2Fから見学します。『2階6畳書斎 前身の「時任謙作」から数えれば実に25年の歳月を経て、直哉唯一の長編小説「暗夜行路」が完成される。終章を結ぶ大山の夜明けがここで書かれる。
「昭和12年3月1日 「暗夜行路」53枚ほどとうとう書き上げた」 直哉の日記にこう記されている。その一部である。
静かな夜で、夜鳥の声を聴けなかった。そして下には薄い靄がかかり、村々の灯も全く見えず、見えるものといえば星と、その下に何か大きな動物の背のやうな感じのする此山の姿が薄く仰がれるだけで、彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏出したといふやうな事を考えていた。彼は少しも死の恐怖を感じなかった。然し、若し死ぬならこのまま死んでも少しも憐れむところはないと思った。然し永遠に通ずるとは死ぬことだいふ風にも考えていなかった。 (「暗夜行路」抜粋)
この文机(ふづくえ)は、上司海雲が直哉に贈ったもの  (平成24年12月、志賀直吉より当旧居に寄贈)』
『志賀家の客間 写真は初めに谷崎潤一郎が購入し後に直哉に譲られた観音像。谷崎潤一郎の許でこの仏像に直しのあった手と足を、直哉は明珍恒夫に外してもらい「大変良くなった」と言って床の間に飾ったもの。
昭和6年11月、訪れた小林多喜二はこの部屋に宿泊したと思われる。多喜二に宛てて、直哉が「作者はどういふ傾向にしろとにかく純粋に作者である事が第1条件だ」と思う、と書いた長文の手紙(昭和6年8月7日付)が遺される』
『コロナ感染終息祈願 旧居菩薩像(現在会津八一記念博物館所蔵)の平安初期制作時の姿を推定して制作。仏像の修復、復元は志賀直哉さんの好まないところであり、失礼の無いよう旧居菩薩像にあやかりながらもオリジナルの創作としました。本体は紅松、光背と台座は桧材を用いました。光背は北斗曼荼羅ですので右手に宝剣を持った妙見菩薩と推定しました。左手は降魔印としました。物事の本質を見抜いた志賀さんにふさわしい菩薩です。世界の新型コロナウイルス感染終息を祈願し、暫時の間、展示させていただきます。  令和2年春 館長記す』
『平成24年9月21日付け、各社の報道どおり、志賀直哉が大切にした観音菩薩立像の所在が、60数年ぶりに判明しました。 当旧居を見学されたお方のコメントがヒントになって、現在は、早稲田大学内会津八一記念博物館に所蔵されていることがわかりました』
次は1階です。先客の女性の方が見学されていました。
『1階書斎 机は、北向きに置かれる。直哉は次のように述べている。 若い頃は書斎は北向きが好きだった。明る過ぎると、気が散るので、机の上だけ明るく、ほかは薄暗いといふような窓の小さな部屋が好きで、我孫子でも奈良でもさういふ書斎を作ったが、年のせいで、今はさむざむした書斎は嫌になった。奈良でも仕舞ひには2階の南向きの6畳を書斎にし、北向きの書斎は夏だけしか使はなかった。 (志賀直哉「私の書斎」)
この机は、当時、直哉愛用の机。 (平成24年12月、志賀直吉氏から寄贈)』
茶室がありました。茶道師匠免許持ちの家内なら喜ぶだろうな〜。『茶室 裏千家関係の大工下嶋松之助による茶室。この茶席について直哉は書いている。 私は茶道の事をいふ資格のないものであるが、20何年の昔、奈良の上高畑といふ所に家を建てる時、大工が裏千家関係の数奇屋大工で、建物の何所かに茶席を造りたいといふので、私は書斎の裏の中庭に面した南向きに6畳の日本間を作って、友達が来た時、寝転んで気楽に話をしたり、或ひは将棋をさしたり出来る部屋を作ってくれと言ふと、大工は喜んでそれを忽ち本式の茶席に作って貰った。結局、私の考へた用途にはならなかったが、家内の娘3人、興福寺の坊さんを師匠にその部屋で茶の稽古をする事になった。  (志賀直哉「茶について」)』
『洗面・浴室・化粧室 写真に子供の後ろ姿が写る手伝いの場所がなかなか見つからなかった。浴室のタイル剥がしがこの難局を打開する突破口になり、元の壁に敷居が埋められていることが分かり、直吉氏の談と併せて当初の姿が徐々に明らかになった。脱衣・化粧部屋も畳敷で、化粧や着替えのための部屋が有ったことも判明した。浴室には当時シャワー(冷水)が付けられていて、角形で木製の五右衛門風呂と判明し復元している』
『女中室 米軍接収時代に大きく模様替えされており、台所とともに壁板や天井板が貼られ、全体的にペンキが塗られていた、残されている柱の鴨居跡、天井の周り縁の痕跡から、この一区角に和室4.5畳の女中部屋「女中室」があったことが改めて裏付けられ、復元された。機能面を考えて、台所は勿論、北側の出入口を使えば、勝手口・火口・玄関・倉庫などに居室を通らず行くことが出来る、非常に動きやすい場所にあるといえる』
『台所 ガス(プロパンガス)・水道・電気さらに冷蔵庫(氷冷式)といった当時(昭和初期)の最新設備を備え付けるこの台所は、同時にハッチで食堂と直につながり、引出しは台所・食堂両方面に引くことが出来る。いわゆるダイニングキッチンが第2次世界対戦後に普及したことからいえば、これらの工夫は先駆的と言える直哉の合理的精神を余すところなく見せており、貴重である』
『1階サンルーム(高畑サロン) 家人が「ヴェランダ」と呼んだ、瓦敷せんの土間、茶室風の躙り口(にじりぐち)と化粧小屋組の天井をもつこの室は、いわゆる「高畑サロン」のシンボルとなった部屋である。旧居の中で最も特徴的な造りを見せ、「座右宝」(大正15年)に編集された「待合」(西本願寺・滴水園)に発想を得ていると思われる』
『食堂 食堂は最も広い室である。革張りのソファーが室の隅にしつらえられており、直哉はこの室を単なる食堂ではなく自由な団らんの場として設計している。漆喰塗りの天井は中央部を球面にして大きな行灯(あんどん)型の照明を吊るす大胆な造りになっている。家族や食客の姿が目に浮かぶ。
夜書斎にいると11時半頃女中を入れたいからすぐ風呂にくる。風呂に入り食堂で一服してまた書斎に入り書きものをした、一寸疲れた所で一服と思うとエアシップのカンに1本しかなかった。・・・後略・・・(「手帳18」昭和5年3月17日)直哉の食堂での何気ない一コマである』
『廊下 室内側の壁は浅葱(あさぎ)の薄い青色。中庭をめぐる廊下は遊戯性と合理性が見事に構成される。
直哉は「生活はもちろん調子(音楽的)もありたいが、習字でいう入木道的でもありたい。2つの一致する生活が理想だ」と書いている。(里見とんへの手紙 大正4年6月2日付)
*「入木道」とは、「大漢語林」によれば、筆力の強いたとえのことであり、王義之の書は筆に勢いがあって書いた木に深く染み込んだという故事によると説明される』
『井筒型・蹲(つくばい) 御影石で造った井筒風の手洗いで、水道バルブをひねると、中央にある小さな穴から水が湧き出るようになっていて、スイカや飲み物を冷やすことも出来ました。実用と装飾を兼ねた珍しい手洗いです』
『1階和室6畳(夫人の居間) 直哉は会話から妻の姿を描いている。・・・所では俺は?と私は言った、お前に比べて不幸といえば不幸だ、というようなものは何もないが、それでも俺は只なんとなくいろいろな事に不服で仕方がない。こう言ったら妻は笑い出した。
部屋の北の押し入れ上段に祭壇がある。無宗教の志賀直哉に対して信心深い夫人の面影が伝わる。食堂の東隣は、6畳の夫人の居間で南向きのガラス戸の前は畳廊下になって、夫人の居間は京都の下島が得意の数寄屋普請であった。(瀧井孝作「志賀さんの生活」)』
『如意輪観音 仏像彫刻小展 夫人は、ここに観音像を安置していました。それにちなんで、暫時仏像彫刻を展示しています』
『直哉の居間 この居間は、襖を開くと子供の寝室と1つになり、踏込みの3畳和室を介して床格子の子供勉強部屋と繋がっている。直哉が深く子供に関心を向け、愛情を注いでいた事がこの部屋の配置からよく分かる』
『子供の寝室 留女子(るめこ次女)・寿々子(すずこ3女)・万亀子(まきこ4女)・直吉(次男)・田鶴子(たずこ5女)・貴美子(きみこ6女)・・・雑魚寝』
写真が飾られています。「自宅前の志賀直哉自身や家族」「庭のプール」「武者小路実篤・高村光太郎・正親町公和などとの集合写真」
『子供勉強部屋(写真は庭から見たもの) この部屋は6人の子供の共同生活の場所であり、床のコルクは彼らが遊ぶ衝撃音を柔らげるためと思われる。南の庭に向いた広縁は一段低く作られており、庭との自由な行き来が図られている。奥左が「直吉の部屋」、奥右が「姉の部屋」、板張り。(平成20年、志賀直哉氏談による)』
『志賀直哉の窓(「直哉の窓」) 平成20年の調査において発見されたもの(障子は推定)。壁面の障子窓は、自然の窓というよりお互いの顔が見えるためのものであり、心の窓ともいえる交わりを現している。直哉の心の世界を映し出すこの窓は、旧居の復元を監修した呉谷充利によって、改めてここに「志賀直哉の窓」と名付けられた』
「出口→ 子供用プールは右側です。庭は自由に散策ください」の案内板に従って、ビニール袋に入れて持っていた靴を履いて、気持ちの良い庭に出ます。よく手入れされています。レンガで造られたプールは細長く「3×1m」程度の大きさで、泳ぐことは出来ません。水浴び程度です。
バイクに戻り、r80に出て南に、そして東に走ります。気持ちの良いワインディングを登っていき、左折してr183。
12:01「太安万侶墓」。茶畑が広がっている斜面にむかって、墓の案内板があります。加えて県道沿いにトイレまで設置されており、古事記の編者とはいえ、ここまでリスペクトされているとは驚きでした。急な茶畑内の斜面を登って行くと斜面に円形に巻石されていました。円墳だったようです。
『史跡・太安万侶墓 太安万侶墓は、東山山中の田原の里に所在する奈良時代の火葬墓である。 昭和54年1月、竹西英夫氏によって茶の改植中に発見されたもので、出土した銅製墓誌により、古事記の編者として有名な太安万侶の墓であることが明らかになった。墓誌には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣太安万侶以発亥年7月6日卒之養老7年(723)12月15日乙巳」の41文字が刻まれ、居住地、位階と勲等、死亡年月日、埋葬年月日を記してある。
墳丘は直径4.5mの円墳と推定され、埋葬施設は中心部に墓拡を掘り、底に木炭を敷いて墓誌を置きその上に木棺を安置し、四周と上面を木炭で覆った木炭槨であった。さらに、その上の墓拡全体にうすく木炭を敷いた後、砂質土を版築状に硬くつき固め、木棺の中には火葬骨、真珠などが収めてあった。
奈良時代上級官人の墓として、このように規模、構造、遺物の出土状況等が明らかにされた例は極めて稀であり、昭和55年2月19日史跡に指定された。  昭和56年11月 奈良県教育委員会』
下も上も茶畑に囲まれています。茶畑の所有者が畑拡張の際に偶然発見したそうで、その時は「はてな?」から始まったのでしょうが、太安万侶の墓とわかった時の驚きはいかばかりだったのか・・・。発見されたのが昭和54年、僕の生後なので最近です。週末でも観光客が来なさそうな場所ですが、世界最古の歴史書を編纂した古代の偉人を桜と椿が咲いて見守っています。よく整備されているのは、茶畑の所有者はじめ地元の方の努力の賜物でしょう。僕のような歴史好きにとっては、感謝感謝です。
r183を進み、12:17「光仁天皇陵墓」。r183を更に進み、r80に出て、12:29「今井堂天満神社」。森の中を進み境内へ。『今井堂の謂れ 源頼朝と戦って破れた木曽義仲は、その家来・今井四郎兼平と共に信楽から名張を経て田原郷隈笠(日笠)に逃れ、ここに身を隠した。頼朝に追われた弟の義経が、奈良の興福寺へ行く途中、隈笠を通ったので、兼平は義経を討とうとするが失敗する。その後、頼朝が大仏殿に参詣した機会を捉えて、兼平は興福寺僧兵の姿にかえて矢を放つが不成功に終わる。
兼平の一人息子であった隈笠四郎兼則は、父のために七重の石塔を建て、旭将軍と言われた木曽義仲の霊と共に今井兼平を祀ったのが、この今井堂である。兼平が鍬で何か書き付けておいたという石の手水鉢が昭和初期まであった。その他、兼平は巻物を持っていて民家に預けていたようだが、後に火事でやけてしまった』
田舎の周囲人工の多くない集落にしては立派な社務所を覗くと、絵馬が数点飾ってあった。社務所外壁にも多くの絵馬が下がっている。別の窓から社務所内を覗くと、御神輿が2基置かれていました。本殿石段前にある拝殿にも内外に絵馬が多数下がっています。これらを見ながら、集落の信心の篤さを感じました。古来からの神々を祀るお社ではなく、800年前とはいえ実在の地元に住んだ人物を祀ったお社だからなんだろうと想像しました。加えて、集落に多くの今井兼平の血を引く子孫が住み、先祖を代々崇敬して来られたのだろうな〜と。
r80に戻り東に走ります。沿道に、八重桜のピンクやソメイヨシノの薄ピンクを楽しみながらゆっくり走ります。長い「水間トンネル」を抜け、左折してR369で北上しました。「柳生」の地に入り、「天乃石立神社」目指して森の道を登って行きましたが、バイクを置く場所がなくなりそうで一旦下り、バイクを置いて徒歩で向かうことにしました。
13:14「柳生ロマンの里博物館」。机の上に、コースターなど木製製品が置かれ代金箱も置かれています。木製コースター「表:空竈門炭治郎・禰豆子・鬼滅の刃IN柳生一刀石 裏:和」500円を購入しました。分岐があり、「左:芳徳禅寺450m・ほうそう地蔵770m 右:一刀石・天乃石立神社380m」。
13:21「天乃石立神社」。道の横の沢に巨岩がゴロゴロしています。『天の石立神社 ここは柳生家の修練の場といわれています。この谷には、巨岩が重塁しており、前伏盤、前立盤と後立盤からなる巨石を天の石立神社の御神体として祀っています。
延喜式神名帳にも記されている式内社で、手力男之命が開いたという天の岩戸の扉が空を飛んでここに落ちたという伝説がある。自然信仰の貴重な神社です』
ひときわ大きな巨岩に注連縄が巻かれ、それを御神体として祀るように社殿は有りませんが東屋が建っており鈴が下がっていました。
『式内社・天石立神社 戸磐(といわ)明神・戸岩谷神社・神戸岩(かんべいわ)神社ともいう。御門の守護神である。天石門別神(あめのいわとわけのかみ)と同じ神である。延喜式神名帳に記す式内社で4座の神:天照大御神(日向神社)・豊磐門戸命(とよいわかどのみこと・天石立神社)・櫛磐門戸命(くしいわかどのみこと)・天磐戸別命(あまのいわとわけのみこと・石立神社)、総称し天石立神社という』
謂れ板に図が書かれ、社殿のない東屋を拝殿とし、前方にある3つの巨岩と横にある1つの巨岩それぞれに、4座の御祭神が名付けられていました。
『式内天乃石立神社 柳生戸岩谷の天乃石立神社は、延喜式神名帳に記載されている式内社である。延喜式は1000年前延長年間に撰せられたもので、その神名帳には、全国の官国幣社2132座を記載しているが、戸岩谷の天乃石立神社も、小社としてその中に加わっている。
天乃石立神社の祭神は、天照大御神・豊盤門戸谷・櫛盤門戸命・天盤戸別命となっているが、神体は扉を形をした巨岩(花崗岩)・前伏盤・前立盤・後立盤の3つに割れている。前立盤は高さ6m・幅7.3m・厚さ1.2mあって、全体が扉の形をしている。
伝説によると、神代の昔、高天原で手力雄命が天岩戸を引き開けたとき、力余ってその扉石が、虚空を飛来し、この地に落ちたのだという。虚岩崇拝の好適例で、古来土地の人達の信仰は深く強いものがあった。正保2年(1645)但馬守宗矩は、参道を修理して並木を植えているし、宝永2年(1705)柳生宗弘(のち藩主俊方)は、能舞台を建て石灯籠を寄進し、寛保2年(1742)藩主俊平も、石灯籠を寄進している』
更に奥に進むと、13:23「鬼滅の刃」のモデルになったという「一刀石」がありました。『一刀石(いっとうせき) この大きな岩は花崗岩ですが、中央で見事に割れています。一節によると、柳生新陰流の始祖・柳生宗厳(やぎゅうむねよし・石舟斎)が天狗を相手に修行をしていて、天狗と思って切ったのがこの岩だったと伝えられています』
一刀石の前に木製舞台があり、その上に玩具の刀がたくさん入ったバケツが置かれていました。「鬼滅の刃」の影響でしょう、徒歩で15分の上り坂なのにカップルや親子連れが来ています。
バイクに戻り、R369を北上し、道なりに左折して西に向かいます。気持ちの良い道を軽快に走り、r47にチェンジします。道沿いにセーリングクルーザーが置かれていました。海から遠いのに何故?
13:54「夜支布(やしゅう)山口神社」。『柳生街道 夜支布山口神社 大柳生の氏神で平安時代の延喜式にもあらわれている古い社です。境内にある摂社・立磐神社の本殿は、春日大社の第4殿を延享4年(1747)に移したものです。この神社には、1年交代で集落の長老の家にも神様の分霊を迎える「回り明神」という、珍しい行事が伝わっており、700年の伝統を持つ大柳生の太鼓踊りが奉納されます』
『国指定:重要文化財・立磐神社 社殿形式:一間社春日造檜皮葺 建立年代:江戸時代享保12年(1721) 祭神:天力男命(たじからおのみこと) 当社地は、立岩に神霊が宿る霊地として巨石信仰の古代から崇拝され、立岩の前には早い時期から社殿が建てられていたが、後世に山口神社が当社地に移され、立磐の神が摂社となった神社である。
春日大社蔵の記録及び社殿から発見された墨書によると、現在殿は春日大社享保御造替時に新造された本社本殿の第4殿を延享御造替時(1744〜47)に当地へ移譲されたものである。
社殿は、切妻造妻入の正面に軒の付いた古い形式をよく伝え、また当初材が多く残り、移建の事情も明らかな事に注目すべきものがある』
最初読めなかった「夜支布」が「やしゅう」と読むことを知り、柳生は当て字なんだろうな〜と想像しました。このように、「よみ」は同じだけど「漢字」が変わる地名はたくさんあります。日本人は識字率は世界で最も高かった民族だけど、「文字」ではなく「よみ」で伝わるのが普通だったようです。きっとこの地の地名も同様でしょう。
R369に戻り西に走り、14:10「忍辱山円成寺」。池の向こうに木々の間から多宝塔が見えます。『円成寺の国宝・重要文化財 本堂(阿弥陀堂)付本尊厨子・柱絵来迎図・重要文化財(室町時代) 阿弥陀如来・重要文化財(平安時代) 四天王・重要文化財(鎌倉時代) 南無仏太子・県指定文化財(鎌倉時代) 多宝塔大日如来(運慶作)国宝(平安時代) 護摩堂僧形文殊・県指定文化財(鎌倉時代) 春日堂・白山堂・国宝(鎌倉時代) 宇賀神本殿・重要文化財(鎌倉時代) 拝殿・市指定文化財(江戸時代) 楼門・重要文化財(室町時代) 円成寺庭園・名勝(平安時代)
毎月の恒例行事:15日写経会 28日不動尊護摩供養 *写経をご希望の方は随時お申し出下さい
本堂(重要文化財)は、平安時代の阿弥陀信仰の様子を今に伝えております。 鎮守社・春日堂・白山堂(国宝)は、日本最古の春日造社殿です。 運慶の第1作・春日如来坐像(国宝)は「相応殿」にお祀りしております』
池を覗くと、綺麗な錦鯉が泳いでいます。拝観料500円。多宝塔が綺麗です。檜皮葺の楼門もナイスで、本堂に入ります。撮影禁止だったのが残念でしたが、重要文化財である阿弥陀如来や四天王が目を引きました。
『奈良市指定文化財 円成寺春日堂・白山堂拝殿1棟 付棟札1枚 江戸時代(延宝3年1675)・桁行4間・粱間3間(東側2間)・入母屋造・こけら葺き この建物は、円成寺の鎮守社である春日堂白山堂(国宝)の拝殿で、棟札によって延宝3年(1675)に建てられたことがわかります。 簡素で優美な意匠を持った上質な建物で、江戸時代初期の拝殿として貴重です。
円成寺は、江戸時代には幕府の保護を受けて繁栄しましたが、そうした時期に建立されたこの拝殿は、寺の歴史を考える上でも重要な建物です。  奈良市教育委員会』
R369を西に走り、右折して「広域農道」のような気持ちの良い道に入り、「州見台」山の手住宅地内を走る広い道で西進。R163に出て一気に西進。近畿道まで西進し、近畿道沿いを走るr2に乗り、中央環状線〜R171で、16:34帰宅しました。


2021/3/27
6:17、倉庫から「里山VTR250」を出して出発。6:20、近所のローソンで、「サントリーボスカフェオレ500ml162円+バナナ4本279円=441円」購入。R171〜中央環状道路〜r14で、R171を少し東進し、左折してr115で北上。
7:04今城塚古墳。「いましろ大王の杜」と書かれた案内板地図がありました。巨大な前方後円墳が水堀も含め奇麗に整備され保存されています。高槻市民の憩いの場になっているようで、ジョギングしている女子学生やカメラを持って散策しているおばさんなど、気持ちの良い朝を楽しんでいました。ソメイヨシノが満開です。
『聖域をあらわす垣根 古墳を何重にも取り巻く円筒埴輪列は、聖域を表す垣根であり、邪魔な霊などを立ち入れなくする結界です。内堤の上面には内外2列、そして墳丘の各テラスや墳頂部の外縁にも円筒埴輪がめぐり、その総数は約6000本と推定されています。内堤のコーナーには、器台に壺を載せた形を象徴する朝顔形埴輪を立てていました』
外堀を囲う壺が再現されています。多くの古墳でこのように壺が囲んでいたとの資料は展示されていますが、大きな古墳全体を壺で囲んでいる当時の姿を完全再現しているのは珍しいです。古墳の横には、大きな「高槻市立今城塚古墳歴史館」がありました。
西に走り、団地内を阿武山に向かって登り、7:23「京都大学阿武山地震観測所」。車道の門は閉じられていますが、横には「阿武山古墳900m」案内矢印が観測所内を指しています。ここは、「高槻市奈佐原4丁目16」です。
バイクを置いて、門扉横を抜け、古墳に向かって歩き出しました。7:52車道の途中に、古墳への案内板があったので、舗装路を外れ山に入りました。7:57尾根に出て、「阿武山古墳0.15m」の案内板が立っていました。麓から上がってくるもう一本の道と交差しており、「下り:桑の原橋1.2km、登り:阿武山山頂0.6km」。
7:59「阿武山古墳」。ここは、中臣鎌足埋葬地と比定されています。『史跡阿武山古墳 昭和58年8月30日国指定 阿武山古墳は、平野を見下ろす標高210m余の山頂にあり、遠く笠置から生駒、六甲の山々を望むことができる。 この古墳は盛土をもたず、尾根の先端部に溝を巡らせて径約82mの範囲を墓域として区切っている。
墓室は花崗岩の切石とレンガでつくられており、墓域の中央、地下3mにある。床の中央には棺台がしつらえられ、墓室の内側は漆喰が厚く塗られていた。 棺には布を何枚も漆で貼り合わせた夾紵棺(きょうちょかん)がもちいられ、中に60才前後の男性人骨がほぼ完全に残っていた。錦の衣服をまとい、ガラス玉製の枕をして、胸から頭にかけ金糸が散らばっていたことが知られている。
墓室は昭和9年に偶然発見され、「貴人の墓」として反響を呼んだが、出土品は調査後まもなく埋め戻された。 被葬者については、発見直後から飛鳥時代の大豪族である藤原鎌足をあてる説がある。おもに鎌足と三島の関係を語る伝承に基づくものであった。昭和62年には、人骨のX線写真の検討から生前の体格や死亡時の状況があきらかになった。また絹製の冠や玉枕も復元され、それが7世紀後半の最高位者に贈られた冠にあたるとして、669年に没した大職冠(だいしょくかん)藤原鎌足の墓とする説が再び脚光を浴びている。しかし高位の冠はほかに検証例がなく、墓域から出土した土器から古墳の年代は7世紀前半と考えられることなど、被葬者の特定はなお今後の研究に委ねられている。 阿武山古墳は、数少ない飛鳥時代の墓制を示す貴重な古墳として国の史跡指定を受け、永久保存が図られている。  平成元年3月15日  文化庁・大阪府教育委員会・茨木市高槻市教育委員会』
『阿武山古墳(貴人の墓) 昭和9年に発見された古墳で、その構造が従来の古墳と異なり、石室内を漆喰で塗り、レンガを3段に積み、その上に夾紵棺を安置していました。石室は、花崗岩の切石で築いた横穴式石室で南側に入口があります。棺は、麻の布をウルシで固めたもので、外側は黒ウルシ、内側は赤ウルシを塗っていました。
棺内には人骨が残されており、調査の結果、およそ60才前後の金糸をまとった老人の遺体が葬られていたようです。遺物としては、ガラス玉を銀線でつないだ枕がありました。
その結果、大化薄葬令(たいかのはくそうれい)の影響を受けて築造された古墳であろうと推察され、藤原鎌足の墓ではないだろうかという人もいますが、この貴人が誰であるかははっきりとしていません  茨木市教育委員会』
阿武山山頂に向かいます。馬酔木の可愛い花が綺麗に咲いていました。山道から時々大阪市街地まで見渡せる下界の景色が見えます。阿武山御神木がありました。8:27「阿武山山頂」。簡易なベンチやテーブルがいくつか作られており、時計や温度計までありました、10℃。山桜が、山道周辺に咲いていました。8:43地震観測所車道まで降りてきました。
バイクに戻り、r115で東に走り、左折してr6で北上しました。9:13「般若院南山安岡寺」。境内には多くの桜が咲いていました。ピンク色が綺麗な山桜は背は低いが若い樹らしく勢い良く張りがあってナイスです。満開の割に参拝の方も観光の方も数人です。
『安岡寺(浦堂本町) 安岡寺は、南山と号する天台宗系の単立寺院で、如意輪観音を本尊とする。宝亀6年(775)に光仁天皇の子・開成皇子が創建したと伝えられ、本堂の背後の岡に、大般若経600巻を一石に一字書写して安置したことから、安岡寺般若院と称するようになったという。
戦国時代には、三好氏や高山氏の兵火にあい荒廃したが、江戸時代の寛文年間(17世紀後半)に良盛(りょうせい)が再建、大日坊など4塔頭を数え、大いに栄えた。しかし明治時代の廃仏毀釈により、現在は、本堂や鐘楼堂、院号の由来となった般若塚、青梅観音堂などとなっている。
本堂には、本尊のほか愛染明王坐像、不動明王像、地蔵菩薩像などが安置され、青梅観音堂には千手観音坐像が祀られている。この観音坐像は、青梅観音ともいわれ、真上になった安正寺(あんしょうじ)の本尊であったが、廃寺に伴って当寺に移された。檜の一木造りで漆箔が施され、像高137cm、平安時代初期の作とみられ、昭和49年6月に国の重要文化財に指定されている。
当寺で毎年2月1日に行われる大護摩供(だいごまく)では、大峰山の行者や訪れた人々らが焼けた丸太の上を素足で歩き、無病息災や交通安全などを願う。  平成20年3月  高槻市教育委員会』
「近畿36不動尊第12番霊場」の木札が下がっていた。「弘紹不動明王」の案内板があったので見に行きましょう。真っ赤な梅の花も咲いています。境内の山際に新しい不動尊が置かれ、その奥に修験道が修行する滝が作られていた。本堂には、「新西国客番霊場」の木札が下がっている。「客番霊場」という指定があるのですね。
『観音御霊水 この霊水は、桓武天皇の御兄君開成皇子がこの地に安岡寺を建立された折、この地の神福大龍王の口より湧き出でた霊水であります。以来この霊水は、清浄にて如何なる水飢饉の時でも枯れることなく湧出しております。古来、僧及び修験者たちがこの水を飲料として口をすすぎ身を清めて、国家安隠・五穀豊穣を祈りました。皆様も、この霊水の御利益を頂いてください 南山安岡寺 院主』
『この神木は龍王の住処として、清浄なるところです。祈れば福徳円満を授け、難病奇病を平癒して下さいます、心してよく祈念することです。 大観法象』
『鎮守の御社 御祭神:熊鷹大神・大杉大神・天照大神・白菊大神・蛭子大神・神服大神』
『青梅観音由来 青梅観音は、その昔上村の青梅寺と呼ばれた安正寺の御本尊でありました。その寺が廃寺となり安岡寺にお移りになりました。御尊像は平安時代の中頃につくられたもので、檜材一本造り六十一面千手観音菩薩であります。座像の千手観音像としては日本でも珍しい大像で国の重要文化財に指定されました。
昔よりお堂の前の紅梅・白梅は毎年たくさんの実をつけ、その実は観音様のお力により、不老長寿・無病息災の功徳があると伝えられております。 総本山四天王寺101代管長常順』
『叶観音由来 このお堂の御本尊は、金銅の聖観世音菩薩で、大阪の篤志家粟田金太郎氏より当山に奉安された御尊像であります。諸々の願いを叶え奉るところから、叶観音と呼ばれ人々の信仰を集めております。当山では観音様御宝前において祈願いたしました。祈願成就の力石をお授けいたしております。 総本山四天王寺101代管長常順』
バイクでr6に下り、北上しました。枝道にそれ、10:10「八阪神社」。『八阪神社(大字原) 八阪神社は、素戔嗚命を祭神とする。社伝によれば、清和天皇の時代(9世紀後半)に疫病が流行したため、牛頭天王を祭神に迎えたのが起源という。明治5年(1872)に村社となり、大正3年(1914)には城山地区の勝手神社を合祀した。境内には、花崗岩製の石槽があり、昭和49年3月に芥川4丁目にある教宗寺(きょうそうじ)の石槽とともに、大阪府の有形文化財に指定されている。神社では、毎年4月初めに農耕神を迎えまつる、「春祭歩射神事(ぶしゃしんじ・通称大蛇祭)」が行われる。 祭礼は藁で編まれた大綱を大蛇に見立て、神輿のごとく担いで村内を練り歩いた後、大綱を境内に設けた的場の2本の松に架け渡し、的を取り付け、弓で射る「歩射=弓引き」を行う。
明治時代以前は、村の男達が境内を流れる川を挟んで上手下手に分かれ、綱が切れるまで引き合ったという。 社伝には、「その昔、神社の北西、阿路ケ谷(あじがたに)の池に住み村人を悩ました大蛇を当社に祈願して退治した」という故事に因んで綱引きと称して祭礼を行ったと記されている。
「八阪神社の春祭歩射神事」は、弓引きの神事と綱掛けの神事とが習合合体したことがうかがえ、民俗の重層性を考える上で極めて貴重な祭礼として、平成18年2月に市の無形民族文化財に指定されている。  平成18年3月  高槻市教育委員会』
こちらでも、満開の山桜とソメイヨシノが待っていました。境内を入ると、謂れ板と石棺?が置かれていました。謂れ板を見に行くと、石棺ではなく石槽でした。『サルに注意 この辺りで、野生のサルが目撃されています。驚いてケガをしないよう、ご注意ください。目撃された場合は、下記へ連絡ください。 TEL 674-7402(高槻市農林緑政課)』
本殿の屋根が緑色で、銅板葺きのようです。「日露戦役記念碑」が立っていました。高槻市の山沿いの農村なのに、とても立派な本殿です。周囲にそれほど民家がないのに、信心篤い方が多いようです。絵好きのサークルなのか、グループでのんびりあちこちに散って写生しています。天気が良いので気持ち良さそうにお喋りしながら手を動かされています。風雨に長年さらされた絵馬が数点、絵馬殿に下がっています。
バイクに戻り、さらに奥に進んでみます。民家エリアが消え山道になり、「林道・原桧尾谷線 延長5617m(起点)・幅員3m・開設昭和60年 管理者高槻市」の案内板が立っていました。さらに上がっていくと、「車両通行禁止」看板とゲートバーでそれ以上行けなくなりました。舗装もされていないし・・・。二股に分かれており、「上萩谷」方面に行く舗装路を上ります。地図では先に行くと、「田能林道」経由でr733まで通じているようですが、本日の高槻探索メニューと外れるのでUターンしてバックしました。
r6まで戻り、府道を渡って、10:38「神峯山寺P」。バイクを置いて、舗装路を歩きます。軽登山スタイルのグループがいます。何処に登るのかな〜と地図を見ると、人気のポンポン山が、先にありました。
10:44「神峯山寺(かぶさんじ)」。軽登山服装のグループは、神峯山寺をスルーして舗装路を上がっていきました。「光仁天皇祈願所 日本最初毘沙門天 根本山神峯山寺」と自然石に彫られた趣のある石碑が立っています。
『神峯山寺 神峰山寺は、根本山と号して天台宗に属し、毘沙門天を本尊とする。寺伝によれば、役行者小角が開山し、宝亀年間(770年頃)に開成皇子が創建したという。当時は仏教の聖地として、比叡山(京都府)や葛城山(奈良県)と並ぶ7高山の一つに数えられ、僧坊21・寺領1300石に及んだ。皇室の崇敬が厚く、また足利3代将軍義満や豊臣秀頼の生母淀君らの寄進も多く、大いに栄えた。秀頼も諸堂を造営したと伝えられる。
しかし、江戸時代中期の明和2年(1756)に火災で焼失し、安永6年(1777)に再建された。現在は、宝塔院(ほうとういん・本堂)と寂定院(じゃくじょういん)・龍光院の3院となっている。
本堂に安置されている阿弥陀如来坐像は、寄木造りで平安時代後期、また2体の聖観音立像は一木造りで同中期と後期の作とみられ、いずれも昭和25年8月に、国の重要文化財に指定されている。
境内には、本堂のほか開山堂や観音堂、光仁天皇の分骨を納めた十三重塔、開成皇子の埋髪塔(まいはつとう)という五重塔、九頭龍滝などがある。また当寺は、新西国観音霊場の第14番札所であり、紅葉の美しさでも広く知られている。  昭和62年3月  高槻市教育委員会』
仁王門には、「光仁天皇勅願所」の木札が下がっていました。真っ赤な寒椿が咲いています。こちらも山桜のピンクが満開でとても綺麗です。水子地蔵がおられました。『あたたかい両親の愛情を受けながら、太陽の光にあうことなく、未生児として母の胎内から消えていった子、また折角の生を受けながら不慮の事故のため、幼い命をなくした子供たちの霊を弔い、慈悲深い地蔵尊の御前で懺悔(ざんげ)し、世の多くの子供たちの健やかな成長と、かけがいのない命を大切に育てることを念じ、水子精霊の供養をし、併せてお子様の健康を祈願いたしましょう』
「化城院(けじょういん)」には、『毘沙門不動護摩 3000日連続修行 令和元年5月15日』
『平成23年2月27日より 化城院4000日連続護摩修行中 参拝自由。お願い事をされる方は、お坊さんと一緒に火の側でお参りが出来ます。 神峯山寺』
お堂に上がると、護摩行が行われていました。女性の方と2人で堂内を覗いていました。お坊さんの側に入れる感じではなかったので、しばらくしてお堂を出ました。すると、「どうぞお入りください」と護摩の切りの良いところだったのか声がかかり、待っていた女性が中に入っていかれました。
本堂に向かって境内を上がっていきます。『お願い このさざんか(山茶花)は推定樹齢100年、天然記念物クラスです。私たちが木の周囲を踏み固めてしまい、大変に弱り枯れそうになっています。根本から子供が育ち始めています。今の親木になるには100年かかります。何とか親木が元気になって欲しいとの祈りを込めて、周囲を直接踏まない処置をしました。参拝の方々には不自由をおかけします。皆様のご協力をお願いします。 神峯山寺住職・近藤眞道』
本堂の入口に、「毘沙門大王」の扁額が下がっていました。『毘沙門天王真言:おん べいしらまなや そわか 大吉祥天女真言:おん まか しりやえい そわか 善膩師童子(ぜんにしどうじ)真言:おん しゃこだらや そわか』
般若心経も書かれていました。本堂前には、「高槻の古木・菩提樹(シナノキ科)」がありました。石段を上がり、「観音堂」から「鐘楼」に上がり、鐘を一撞き。「観音堂」「開山堂」を巡り、「九頭竜滝」へ。修験道の修行する滝で、関係者以外立ち入り禁止でした。
バイクに戻り、「神峯山寺」横を走り、ポンポン山方面へ。ハイキング姿の方を時々追い越します。11:43「本山寺P」。地図によると寺院までまだ距離があるので、DAIWA釣りウエア上下を脱ぎ、夏用メッシュバイクウエア上下だけになって歩きに備えます。
歩き出してすぐ、「五丁」と刻まれた道標がありました。あと500m歩かなきゃ。勾配は緩いですが、「まだかな〜」と歩き、「二丁」を過ぎ、12:04「本山寺鳥居」。特徴ある鳥居に来て小休憩します。
『本山寺略縁起 当山は霊雲院と号し、文武天皇の元年役小角草創し、自作の毘沙門天像(重文)を安置し、宝亀5年開成皇子堂舎を改造し祝国道場となせり、後大治年中刺史橘輔元父子本尊を信仰して堂宇を再興し、良忍上人に於いて剃髪、父は良恵、子は忍恵と号す。良恵は寺内に草庵(現櫓塚)を結びて融通念仏を修し、久安4年8月寂し忍恵は当山18世となる。天正10年山崎合戦の時明智方の残兵により本堂を焼失す。慶長8年豊臣秀頼堂舎を再建し祈願所となす。宝永年中住持慶円桂昌院(徳川綱吉の母)に請うて寺門を重興し時に、綱吉松平伯州(京都所司代)に命じて工事を監護せしめた。本尊毘沙門天王は役小角の作、山城鞍馬山・大和信貴山と相並びて、本邦三毘沙門天と称せられる(望月仏教大辞典より)。主な行事:初寅会・正月3日 弁財天法要・5月第2日曜 牛頭法印授与・10月第2日曜 勧請掛・12月22日
これより奥2kmポンポン山に至る道中に大杉あり。古来より天狗杉と称し、鞍馬・愛宕・本山寺・箕面に飛翔する天狗の休息の地と伝えられる』
『勧請掛の由来 当山は今より1300余年前修験の際、祖役行者の開基せられたる霊場にして安置在す。御本尊・毘沙門天王は、行者の時刻開眼し給へる。本邦三毘沙門天の内、最古の国宝尊像であります。今当山古例の一として伝はる。勧請掛は当山を守護し給ふ。天神地神を勧請祭祀する行事で、毎年12月25日に奉修せられるのでありまして、参詣道に面する老松樹の間に12筋の注連縄を掛け、諸天善神の来光を乞うのでありますが、往古より世人この注連縄12筋の最短を以て翌年度の社会情勢農作物の良作諸物価の高低を暗示するものとして、参詣さるるのであります』
鳥居をくぐるとすぐ、道が二手に分かれています。「右:本山寺・ポンポン山」。右手の先に鳥居が見えていますが、左の道の先に小さな山門が見えます。後ろからやってきたハイキングスタイル2人組が迷わず右手ルートを取ったので、左に進みます。
山門を抜けると正面に石垣。石垣に突き当り、右折して石垣に沿って進みます。『本堂向かって右側よりポンポン山方面 ポンポン山3.5km・善峰寺7.5km』の案内板がありました。こちらからもポンポン山に登れるようです。綺麗なトイレがあったので拝借。
12:11「本山寺」。案内板に「一隅を照らす」のポスターが貼ってあったので、天台宗の寺院のようです。「手水舎」がありました。『ハイカーの方へ このお水は、参拝者の方にはお山の恵みを頂いた神聖なお水です。お寺にとっても命の水です。頭・顔・靴などを洗う水ではありません。子供たちも見ています。迷惑行為は絶対止メる事。 当山住職』
「みずかけ不動尊」があります。『本山寺年間行事 初寅会大護摩共(1月3日)・宇賀神弁財天法要(5月第2日曜日)・大峰山修行(7月土〜第2日曜日)・施餓鬼法要(9月第2日曜日)・大般若転読護摩供(11月第2日曜日)・月例護摩供(第2日曜日) 厄除祈願・交通安全祈願・病気平癒・合格祈願など・諸祈願随時申し受けます 詳細は電話または寺務所にてお問い合わせ下さい TEL072‐687‐9921 北山本山寺』
『本山寺 本山寺は、北山と号して天台宗に属し、毘沙門天を本尊とする。寺伝によれば、役行者小角が開山し、宝亀年間(770頃)に開成皇子が創建したという。 戦国時代には、三好長慶や高山飛騨守・右近父子らが寺領安堵状を出すなど、寺運は栄えた。天正年間(1580頃)に兵火で焼失したが、豊臣秀頼が慶長8年(1603)に再建、現在の中の門は、その際に伏見桃山城から移築されたと伝えられる。
江戸時代に入ると、高槻城主・永井氏や皇室などの崇敬も厚く、宝永年間(1704頃)には、徳川5代将軍綱吉の生母桂昌院が大改修を行い、現在に至っている。 当寺の聖観音立像(像高60.4cm)と毘沙門天立像(像高152cm)は、いずれも平安時代後期の作と見られ、昭和25年8月に国の重要文化財に指定されている。また安堵状や禁制など11通を2巻にした本山寺文書は、戦国時代や近世初頭の歴史を伝える貴重な資料として、昭和49年3月に市の有形文化財に指定された。 この他、足利8代将軍義政が愛用したと伝えられる葡萄日月硯(ぶどうにちげつすずり)などがある。  昭和62年3月  高槻市教育委員会』
『摩尼車(まにぐるま) これは摩尼車というものです。「摩尼」とは摩尼宝珠とも如意宝珠とも言われ、意のままに宝を出すと言われる珠のことです。 仏様の徳にたとえたり、お経の功徳にたとえたりします。これを1回まわせば、お経を1巻読んだのと同じ功徳が得られると言われています。摩尼車にかるく手を当てて、手前に回して下さい。その時、左の経文を唱えて下さい。
「羯諦羯諦 ( ギャーテーギャーテー ) 波羅羯諦 ( ハーラーギャーテー ) 波羅僧羯諦 ( ハラソウギャーテー ) 菩提娑婆訶 ( ボージーソワカー ) 」』
本堂「霊雲院」には、「毘沙門天王」の木札が下がっていました。下山します。12:44「本山寺P」に戻りました。登ってきた道を下ります。中央線はありませんが、森の中の舗装路でとても気持ちが良い。登ってくる時気になった分岐する舗装路に入り、未知の道を下ります。やがて沢沿いの道になり、中央線のある舗装路r79に出ました。高槻市街地に下ります。「新名神高速道路」「名神高速道路」をくぐり住宅街へ。
13:11「伊勢寺」。地域住民のご先祖のお墓が並び、その菩提を弔う何処にでもある菩提寺です。戦国末期、芥川合戦で討ち死にした「和田惟政」が葬られているそうで、その墓石を探します。「和田惟政墓所」の案内板がすぐ見つかり、矢印に従って探しましたが、最後が見つかりません。スマホで墓石の形を調べ発見しました。
住宅地を下り、JR京都線をくぐり、R171に出て西進し、r14〜中央環状線〜R171で、14:25帰宅しました。


2021/3/7
コーチしている大学ヨット部の宮津練習に参加します。まず、9時にJR園部駅で女子マネージャー3人をピックアップします。朝4時に目覚め、あ〜だこ〜だやり、朝食を食べ、車に荷物を乗せて出発。8時前出発でOKなのに、することがなかったので7:15頃出てしまいました。
R477で北上し、8:14「ファミリーマート園部小山西町店」で、「フルーツミックス500ml100円+味付け海苔エビマヨネーズ138円=346円」購入。8:15に駅に着いてしまいました。マネさんLINEに「着いたよ」と入れて、本を忘れてしまったので、スマホでメールなどをチェックして待ちます。
9時前にマネさんたちがやってきました。2回生マネOさんをリーダーに、1回生Mさん・Tさんです。コロナ禍で他大学であるマネさんがクラブの練習に参加できなかったので、Oさん・Mさんとは10月のマネさんたちを招待してのクルージング以来です。Tさんは10月に入部したので初対面です。
車に乗せて出発。Tさんはどんな娘かな?といろいろ質問すると、明るく楽しそうに気持ちよくしゃべる娘で好かれそう。京都の女子大に通っていますが、中学受験して系列中学から通っているようで、賢いお嬢さんのようです。髪のカラーリング・マニキュアなどお洒落さんでもあるようです。マネさんたちは皆マスクをしており、僕としては残念。
10時に、宮津YH着。事務所にハーバーマスターを訪ねますが、日曜日はお休みだそうで副ハーバーマスターさんがおられたので挨拶しました。この日は470チームの練習で、8艇と自主練習S級2艇が用意をしていました。既に出艇準備が整っているようで、インフレータブルボートは海に浮かべられています。1時間早く来たら良かった。
着替えたらすぐミーティングで出艇しました。北寄り(沖から)の風3〜6m/Sが、ブローの強弱はあるにしてもコンスタントに入り、15:30まで昼食(沖飯)15分を挟んでみっちり練習しました。1回生マネ2人には何度も交代してドライブ練習してもらいました。今回4回目のTさんは、この日が最も長い時間運転したそうです。車の免許を持っていることもあり、楽しそうに運転し1日で運転技術は合格レベルに達したと思います。今回2回目のMさんは、前回かなり上達し、またレベルを上げました。選手や若手コーチは、「今年」を重視するので、1回生マネに運転を僕みたいにたくさんさせていないようです。15年以上コーチを続けている僕は、今後の練習効率の安全のベースとなる女子マネのドライブ力を保つため声を掛けどんどん運転させます。
ハーバーバックすると、宮津練習開始1週間前に訪問し、宮津湾の水深・風の傾向・練習海面などの情報を教えてもらった「FACTRY HACHIMAN」の八若社長が来られていました。コーチボートは少し早めに帰着し、1回生マネさんの桟橋出着艇練習を2回生マネOさんがしました。その後インフレータブルを上げ、マネさんにエンジンの水洗いなど、海でのコーチボートの毎日メンテナンスをやらせながら教えます。宮津ヨット協会の重鎮・八若さんにもやり方を聞きます。
副ハーバーマスターに挨拶して帰路に着きます。マネさん3人を車に乗せ、おしゃべりしながら帰ります。後半は後ろの席の1回生2人が気が合うようでお喋りが止まりません。僕は助手席のOさんと話し、JR園部駅で下ろして解散。18時に帰宅しました。



逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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