-ウェブマスター日記 2021/1-2

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2021/2/28
家内と久しぶりに映画を観に行きました。昨年のコロナ禍から、映画の封切りが減り、「これは」という映画が減りました。この映画は僕の好きなラブストーリーですが、「これは是非」とは思いませんでした。朝、地元の映画館の上映を見ていると、この映画が長く上映されているな〜と引っかかりました。脚本は、「東京ラブストーリー」などを手がけられた坂元裕二という方でした。
家内を誘い、「通勤リード110」にタンデムして映画館へ。チケット販売機で隣の座席を確保できました。前回は12月?1月?だったと思いますが、コロナ禍対策で前後左右予約できず座席数が半分になっていました。映画はカップルや隣に並んで見るのが定番なのに・・・。ロビーで待っていると、「鬼滅の刃」炭治郎&禰豆子ファッションの幼稚園ぐらいの男の子と女の子が楽しそうに走り回っており根強い人気です。未だに「鬼滅の刃」が上映されています。
9:40「花束みたいな恋をした」。お若いカップルと、女性1人、中学生風の女の子のグループが多かったです。封切りからかなりロングランになっていると思うのですが、お客さんの入りが良さそうです。映画そのものの封切り絶対数が少ないからかもしれません。有村架純さんと菅田将暉のW主演のラブストーリーで、特別な出来事があるわけでもなく淡々と出会い、共に住み、そして別れる数年間を紡いでいました。エンディングで、「あれ、もう一度・・・」を匂わせるところでスパリと終わり面白かったです。家内からは、「あんなことあるわけないでしょ」と辛口コメントが来ましたが、そもそもフィクションだし・・・と僕にはOKでした。
12:09「ミスタードーナツ」で、「オールドファッション118円+ゴールデンチョコレート140円+エンゼルフレンチ151円×2=560円」を買って帰り、昼食にしました。


2021/2/21
1週間前に続き京都の寺社巡りツーリングしましょう。7:50、倉庫から「里山VTR250」を出して出発。前回は「招き猫CB400SB」でしたが、2日前に車検でホンダドリームに預けたので、VTR一択でした。R171〜中央環状線で、8:05「エネジェット中環豊中SS」で給油。206km/7.74L=26.6km/L。8:10、隣接する「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「ひねり揚100円+フルーツオーレ500ml93円=208円」購入。
「吹田IC」から名神に乗り、一路京都へ。「京都南IC」で下車し、R1を北上。右折して「久世橋通り」を東進、右折して「油小路通り」を南下します。左折してr201で東進し、鴨川を渡ります。「龍谷大学・深草キャンパス」前を通過し、突き当りを左折して北上すると、「JR奈良線」を渡り、すぐに右折し枝道を東に登っていきます。
9:00「深草墓苑・深草陸軍墓地」。「満州事変戦病没者合同墓碑」「歩兵第9連帯将兵英霊合祀之碑」の石碑が立っていた。大阪の「真田山陸軍墓地」のように戦死者の石碑が立ち並ぶ景色はありませんでした。帰宅して調べてみました。
『深草の地には明治38年に第16師団司令部が置かれ、支那事変では師団隷下の歩兵第9連隊と歩兵第20連隊などが南京・徐州・武漢攻略戦などで戦った。第16師団の誕生は鄙びた深草村の様相を一変させた。瞬く間に「軍都」に変容した。東山36峰の南端、稲荷山に続く深草七面山西端の丘陵に国に殉じた第16師団兵士たちを祀り顕彰する「陸軍埋葬地」が造成された。その「京都陸軍墓地」は昭和29年頃旧陸軍用地転換法により京都市へ無償浄土され、現在は「京都深草墓苑」となっている。京都市が造成した墓苑の面積は2万2000平方mなので、「京都陸軍墓地」も同程度だったと推測される。市は陸軍墓地の尊厳を傷つけないように自然に満ちた安住の地をテーマに墓苑化を進め、納骨堂形式の「市民のお墓」を造成した。従って、他の陸軍墓地のような英霊を祀る墓石群は全くない。数基の合葬碑が墓苑内に点在するのみである。』
9:19、横にある「石峰寺」へ。『石峰寺 百丈山(ひゃくじょうざん)と号し、黄檗宗に属する。 宝永年間(1704〜11)、万福寺の千呆(せんがい)和尚の創建と伝えられ、当初は諸堂を完備した大寺であったが、度重なる災火により堂宇を焼失し、現在の本堂は、昭和60年に再建されたものである。
木堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。これは、江戸時代の画家伊藤若冲が当寺に庵を結び、当寺の住職密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。なお、境内には、若冲の墓及び筆塚が建てられている。 また、門前より少し西へ行った所にある古井戸は、古くから名水として知られ、「茶碗子の水」と呼ばれて茶の湯に愛好されている。  京都市』
JR奈良線を西に越え、右折してr201で北上します。外国人の一番人気らしい「伏見稲荷神社」の前を通ります。ここも観光客が少なそうで、駅前の鳥居周りのPも混んでいなさそう。
9:32「光明院」。『光明院(こうみょういん) 東福寺の塔頭として明徳2年(1391)、金山明昶(きんざんみんしょう)が創建した寺院であり、桜や紅葉の季節には、特に苔が美しいことから別名「虹の苔寺」とも称される。 方丈の前に広がる池泉式の枯山水庭園は、昭和14年(1939)、重森三玲(しげもりみれい)が作庭した名庭で平安式の州浜型の枯池に多数の石組を配し、大海を表す白砂に構成された3ヵ所の三尊石組から仏のごとく斜線上に立石が並んでいる。
その背後には、サツキやツツジが雲紋になぞらえて刈り込まれ、雲の上に月を形どる重森三玲設計の茶亭・羅月庵(らげつあん)が佇む。「波心の庭」から眺めると、羅月庵が東の空に昇る月の姿となる。 本堂には、本尊である金造佛の釈迦牟尼佛が安置されている。  京都市』
山門前に、『開運・摩利支尊天』『東福寺山内・光明禅院 雲嶺庭』の石柱が立っています。山門を入ると掲示板に、「日本画家・丹羽優太 個展開催中」「波心庭拝観時間:午前7時頃から日没まで 拝観志納300円」と書かれていました。庫裏に入ると、竹柱があり「志納料金入」と書かれていました。300円投入。僧侶や事務の方はおられませんでした。
襖絵が独特でした。縁側から「雲嶺庭」が広がっています。周囲は閑静な住宅地で、裏は伏見稲荷の山。しかも観光客はゼロで、静かで気持ちの良い時間が持てました。
バイクに戻り、北に走ると正面が東福寺でした。右折し山側に上がり、9:59「仲恭天皇光條陵」。石畳の階段を上がって行くと、途中に「月輪南陵」がありました。平安時代後期・第75代崇徳天皇皇后・藤原聖子(せいし)の陵(みささぎ)でした。天皇位を後白河天皇に譲位した上皇時代、「保元の乱」で後白河天皇に破れ讃岐に流され、日本国を呪うと公言した上皇の后。さぞや波乱万丈の生涯を送ったのでしょう。ここに陵墓があるとは知りませんでした。
さらに石段を登り、「仲恭天皇光條陵」がありました。後ろを振り返ると、京都盆地が眼下に見え、京都タワーが綺麗に見えています。その御陵前に御陵を守護するように「維新戦役防長藩士墓」がありました。明治維新前夜、「禁門の変」で薩摩藩・会津藩に破れ多数の戦死者を出した長州藩士の墓標がずらりと並んでいました。ここは陵墓と違い宮内庁の管理ではないように思うのですが、しっかり清掃されているようです。佐藤栄作・岸信介兄弟・毛利元道の名が刻まれた「明治維新百年記念植樹」の石碑も立っていました。
10:22「芬陀院(ふんだいん)・雪舟寺」。山門前に、「水墨画の雪舟の庭」と書かれています。『芬陀院(雪舟寺) 東福寺の塔頭で、元亨年間(1321〜24)の時に関白一條内経(うちつね)公が、東福寺の開山である聖一(しょういち)国師の法孫・定山祖禅(じょうざんそぜん)和尚が開山に迎えて創建した。 水墨画などで有名な雪舟等楊(とうよう)禅師が東福寺に参るときは必ず当院に身を寄せ、庭を作ったので雪舟寺ともいう。
建物は元禄4年(1691)と宝暦年間(1751〜63)の2度、火災にかかったが、桃園天皇の中宮恭礼門院の御殿の一棟を賜って移築し、更に明治32年(1899)に昭憲皇太后から御内鍍金を下賜されて改築した。
「鶴亀の庭」として知られる方丈の南庭は、寛正(かんしょう)・応仁期(1460〜68)の雪舟の作と伝えられ、美しい苔地の中に鶴島と亀島の石組があるのが特徴で、昭和14年(1939)に復元修理された。東庭は重森三玲作の枯山水庭園で、書院の背後には、茶関白といわれるほど茶道を愛した一条昭良(あきよし・恵観えかん)好みの茶室図南亭がある。  京都市』
拝観料300円で庭を観に行きます。お庭も良かったが、庫裏内の襖絵なども素敵でした。茶室が塔頭内と、別棟茶室2室ありました。
10:47「天得院(てんとくいん)」。『天得院(てんとくいん) 東福寺の塔頭で、万松山(ばんしょうざん)と号する。 南北朝時代の正平(しょうへい)年間(1346〜70)に東福寺第30世住持・夢夢一清(むむいっせい)禅師が開創した。その後、荒廃したが、大機恵雄(だいきえゆう)禅師により再興され、慶長19年(1614)、文英清韓(ぶんえいせいかん)長老が住持となった。清韓は、豊臣秀吉・秀頼の学僧として寵遇(ちょうぐう)され、秀頼の請に応じて方広寺の鐘名(しょうめい)を撰文したが、「国家安康、君臣豊楽」の文字が、家康の名を分断し、豊臣家の繁栄を願うものとして徳川家康の怒りを招き、ついに、寺は取り壊されたといわれている。
現在の堂宇は、天明9年(1789)に再建されたもので、明治元年(1868)に、山内の塔頭・本成寺(ほんじょうじ)を合併して、今日に至っている。庭園は、美しい苔に覆われた枯山水庭園で、桃山時代の作庭と伝えられている。 また、境内には、歌人の萩原井泉水(はぎわらせいせんすい)の句碑が建っている』
豊臣秀頼が京都方広寺に寄贈した鐘に彫られた「国家安康、君臣豊楽」を問題視して、家康は自分亡き後徳川家の前に再び立ちはだかるであろう豊臣家を力づくで潰すきっかけにした。あの銘文を考えたのが天徳寺の住持なのか・・・この故事は知っていたが、その寺院がここにあったとは。
バイクを置いたまま、10:49「東福寺」。『東福寺 慧日山と号し、臨済宗東福寺派の大本山である。藤原道家が嘉禎2年(1236)東大寺・興福寺と並ぶ大寺の建立を発願して東福寺と名付け、禅僧円爾弁円(えんにべんえん・聖一国師)を開山に招いて、建長7年(1256)完成した。その後火災を受けたが、室町初期に道家の計画通りに再建され、京都五山の1つとして栄え、多くの伽藍・塔頭が建ち並び、兵火を受けることもなく明治に至った。明治14年に惜しくも仏殿・法堂など中心部を焼失したが、今なお堂々たる中世禅宗の寺観を保っている。
三門(国宝)は室町初期の作、禅宗三門として最古の遺構である。禅堂(禅僧の坐禅所)・東司(便所)・浴室も室町時代の建物(重要文化財)でいずれも禅宗建築の重要な遺構である。本堂・方丈は近時の再建で、開山堂に至る渓谷には多くの紅葉があって通天橋が架かり、また偃月橋(えんげつきょう)・臥雲橋(がうんきょう)が架けられて紅葉の名所をなしている。  京都市』
『東福寺のイブキ 東福寺は、鎌倉時代の中頃、九条道家により創建された古刹で、開山には聖一(しょういち)国師(円爾弁円えんにべんねん)が迎えられました。 この木は、国宝の三門(応永12年=1405建立)と仏殿(明治14年焼失、昭和9年再建)との間、西寄りにあります。高さ16.5m・胸高の周囲3.36m。枝張りは東西10.5m・南北に8mあります。
江戸時代中頃の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にぱ「円柏(いぶき)の古樹は開山国師、宋国より携へ来る」という記載とともに鳥瞰図の中に「唐木」として描がれています。また、1700年前後、土佐光高によって描かれた東福寺境内図(チェスタービ¬ティー図書館蔵)にも古樹の風格が見事に描かれています。
本樹の雄大な姿は、明治年間の仏殿焼失の際、損傷を受けたらしく、主幹の北側に多くみられる枝の切断あとはその時の処置によるもののようです。 江戸時代には既に古樹として知られ、開山国師とのゆかりも深いこのイブキは、東福寺の歴史と文化を理解するうえには欠かせないものといえます。
昭和63年5月2日、京都市文化財保護条例により、京都市登録天然記念物とされました。  京都市』
「国宝山門 楼上公開 日本最古最大級の三門(国宝)楼上内部公開、十六羅漢像、明兆筆の極彩色の天井画」と案内されていたので向かいます。コロナ禍で公開延期のようで、拝観できませんでした。
『浴室(重要文化財) 室町時代長禄3年(1459) 禅宗伽藍の現存最古の浴室である。現在でも使用できる程現代的なシステムが採用されている。所謂「サウナ風呂」である。当時は100人単位の僧侶が修行していた。沐浴に「お湯」を使用すると膨大な量となる。当然お湯を沸かす貴重な水はもとより、水を沸かす薪の量も多く、東山36峰の山々が禿げ山になる可能性がありました。そのためお湯ではなく「蒸気」で体の垢をふやかし擦り落とすことで、お湯の使用量を格段に節約し、自然を大切にしたのである。今で云う「エコロジー」の精神である。自然の中に人間は生かされ、自然に感謝して生きる。禅の中には人間のみのエゴを捨て去り、地球規模での輪廻を詠っているのである。
構造は、東側に破風の2つの蒸し風呂が並び、各々板戸を立てている。後方に釜や焚き口が有り、蒸気を簀(す)の子を通して下から送る。大きさは、桁行3間・梁間4間、一重正面入母屋造り・背面切妻造り、本瓦葺き。内部は正面板敷きの上に中央向唐破風。  重要文化財指定 明治40年8月28日』
10:56、『五社成就宮(京都府有形指定文化財) 室町時代・文禄3年(1594) 一間社流造、檜皮葺。 東福寺の鎮守社として石清水八幡・賀茂・稲荷・春日・日吉の5社を祀るので五社明神社とも云う。もとは法性寺(925年摂政であった藤原忠平(941年関白太政大臣)の創建の総社)であって、摂政忠道在世頃はその祭礼を総社祭と称し、祇園会に匹敵するほどの賑やかさであった。総社祭は東福寺の鎮守社になってからも引き続き行われ、寛元元年(1243)8月22日には九条道家をはじめ右大臣実経や左大将忠家等が参列したという。今は毎年11月の第2日曜日にお火焚祭が催され、家内安全・無病息災・商売繁盛・学業上達の祈願を行っている。  京都府有形指定文化財指定 平成5年4月9日』
石段を上がって本殿を参ります。『京都府指定文化財・東福寺大鐘楼(江戸時代)』がここにありました。
11:05「景勝金剛院」。梅が咲き、墓石が並んでいます。『お願い これより先、参道に敷きつめている瓦は、明治14年に永福寺の法堂(本堂)が火災にあった時のものを利用しています。現在は、当時の1/3ほどになってしまいましたが、少しでも大切に保存したいと思います。その為、これより先、車などの進入はお断り致します。何卒ご理解頂きますようお願い申し上げます。  最勝金剛院』
参道に瓦が縦に入っており、土の道が強くなっていました。参道の突き当りに六角堂がありました。参道脇に「平安神宮 紅しだれ桜」の石柱が立っています。「秩父宮勢津子妃殿下記念御植樹」「高松宮宣仁親王殿下記念御植樹」「高松宮喜久子妃殿下記念御植樹」「三笠宮崇仁親王殿下記念御植樹」「三笠宮百合子妃殿下記念御植樹」と並んでいました。皇族方皆様は揃って植樹されたのだろうか?
『鹿児島藩招魂碑 即宗院 在山上』『中井桜州山人墓所』の石碑があり、「即宗院」を観に行きます。小さな橋を渡り「即宗院」へ。
『京都市指定名勝 即宗院庭園 即宗院は東福寺の塔頭の1つであり、元中4年(1387)に薩摩の島津家の菩提寺として創設された。元禄12年(1569)に焼失した後、慶長18年(1613)に現在地で再建された。また平安時代末のこの地には、関白・藤原兼実が営んだ月輪殿と呼ばれる山荘があったといわれる。
「法然上人絵伝」に描かれ名園として知られた月輪殿の庭園は、荒廃しつつも即宗院の庭として存続していた。昭和47年(1972)以降に行われた発掘調査により、滝石組と園池の汀を検出し、「都林泉名勝図会」の挿図を参考するなどして護岸石組みの一部が整備された。 山と樹林に囲まれた閑静な地にあって、平安時代以来の地割りを受け継いでいる本庭園の学術的価値は高く貴重である。
平成元年4月1日に京都市の名勝に指定された。  平成元年4月1日指定 京都市』
即宗院の山門は閉じられており、「一般非公開」となっていました。特別公開を待たないといけないようです。
横に、『重要文化財 国宝・龍吟庵方丈 鎌倉時代』がありましたが、こちらもコロナ禍の影響で公開延期になっていました。塔頭から東福寺境内に戻ると火鉢があり、その水の貯まった火鉢を覗くとメダカが数匹泳いでいました。
11:23「方丈八相庭園」を観ましょう。拝観料600円。観光客もおらず、縁側からゆっくり枯山水を楽しませて頂きました。メインのお庭はそれなりに良かったが、観てきたばかりの2つの塔頭のお庭の方がずっと良かった。世界遺産「龍安寺の石庭」とほぼ同じサイズでしょうか、僕的には「龍安寺の石庭」同様、もう少し広がりが欲しい。サブの植物を幾何学模様に整えたお庭の方が良かった。きっと枯山水を観すぎたのでしょう。
「奈良街道」を北に走り、「東福寺」北側のPにバイクを置いて、11:53「明音寺」。「尺八根本道場」とも書かれています。「善恵院(ぜんねいん)」の表札が下がっています。帰宅後調べると、「善恵院」が「明音寺」を1871年に合併したそうです。「明音寺」の開祖は虚竹(寄竹)了円禅師で、日本の普化宗の始祖。深編笠をかぶり、尺八を吹いて諸国を歩く尺八禅の一派があり、その人たちによる普化尺八といわれる虚無僧が興りました。禅宗の一派である普化宗/虚無宗(こむしゅう)は剃髪しない半僧半俗の虚無僧がお経の代わりに尺八を吹くのだそうです。この「虚竹(寄竹)了円禅師」は、味噌を宋で学び帰国して紀州・興国寺に住み、湯浅に伝え日本中に広がる祖になった「心地覚心(法燈国師)」が宋から連れてきた普化尺八を奏する居士4名のうちの1人です。元の尺八の根本道場は興国寺でしたが、現在は京都のここです。興国寺を参った時、味噌・醤油・尺八の謂れ板を読んで興奮したことを思い出します。
境内の苔が美しく、手入れが行き届いています。
11:58「同聚院(どうじゅいん)」。『臨済宗東福寺派に属する東福寺の塔頭の1つである。東福寺の寺地一帯は、平安時代中期に藤原忠平が法性寺(ほっしょうじ)を建立した所で、寛弘3年(1006)には、藤原道長が40才の賀に当たって、五大明王を安置する五大堂を境内に造営した。その後も、藤原氏が法性寺の造営に力を入れたが、鎌倉時代初期には衰微し、その跡地に九條道家が東福寺を建立したのである。
本寺は藤原道長が建立した五大堂の遺跡で、五大明王のち不動明王坐像(重要文化財)が幾多の災害を越えて祀られている。像は仏師定朝(じょうちょう)の父・康尚(こうしょう)の作品で、像高265cm、忿怒(ふんぬ)相の中にも優美さをたたえた藤原美術の代表彫刻の1つである。夢の中で藤原道長が不動明王より「土方」の印を授かったことから、古くは土地の守護を表す「土力不動」、十万の貫属を従えて衆生救済をする「十万(じゅうまん)不動」、十方遍く不動の力を照らす「十方(じっぽう)不動」などと称され、火除をはじめ厄除けの霊験あらたかな不動尊として信仰が深い。年明けに「土方」の字を書いた「星守護札」が配布されている。  京都市』
パンフレットに、モルガンお雪さんの事が書いてありました。
『働く女性のためのお参り所 モルガンお雪(日本のシンデレラ)の信仰したお寺と神社 日本女性の存在を世界に知らしめるモルガンお雪をしっていますか?女性が国際社会に進出した明治期、世界に日本女性の存在を知らしめた1人にモルガンお雪(加藤ゆき1881〜1963年、81才没)がいます。 お雪は祇園の芸妓で胡弓の名手として知られており、世界三大財閥のモルガン氏に見初められましたが当時は国際結婚も難しい状態でした。お雪は苦心の末、古来より女性の信仰を多く集めていた菩提寺の同聚院と折上稲荷神社をあつく信仰することでその難局を乗り越え、国際結婚を決意して「日本のシンデレラ」として世界の社交界へ足を踏み入れることになりました。
モルガン氏との結婚は日米友好の先駆けとして大きく報じられたことにより、古くから女性の信仰があつかった同聚院と折上稲荷神社は「働く女性の守り本尊・守り神」として社会進出をする全国の女性に広く知られるようになりました。お雪が常に身につけていた瓢箪のお守りは、折上稲荷神社にて今でも授かることができます。
お雪は世界の社交界で活躍して81才で人生の幕を下ろしますが、3回忌の際には彼女を慕ってフランスから同聚院へ新品種の白バラが献花されました。その名も「ユキサン」。モルガンお雪をイメージしたその気品は、日本女性の象徴としてその姿と香りを今に伝えています。
同聚院と折上稲荷神社は、このモルガンお雪のように現代のより多くの女性が国際社会にて活躍できるよう、切にお祈り申し上げております』
隣の「霊雲院」は「本日休観」でした。日露戦争の時のロシア人捕虜が収容された寺院です。当時の国際戦争規則に従ったとてもゆるい捕虜生活で、日本人の人間性が見えます。
バイクに戻り、「東大路通」に出て、「湧泉寺」Pに移動。12:20「戒光寺(かいこうじ)」。丈六の釈迦如来に驚きます。『重要文化財(鎌倉時代)運慶湛慶父子の大作「釈迦如来」10mの木彫の大仏さんです。昇殿して参拝下さい』。
『真言宗・準別格本山 丈六戒光寺 当寺の御本尊様は、身代わり丈六釈迦如来と申します。身の丈は約5.4m、台座から光背部分を入れると10mにもなります。この仏像は、鎌倉時代の仏師:運慶・湛慶(たんけい)親子の合作で宋風をおびた極彩色の木造で、国の重要文化財に指定されています。 足非、本堂までお参り下さい』
『泉涌寺七福神めぐり 第2番泉山融通弁財天 伝教大師作と言われるこの弁財天像の姿は、従来の琵琶をもたれた弁天像とは違う。「八臂像」といい、手が8本ある。その8本の手にはそれぞれ、蔵の鍵・宝剣等の法具を持っておられ、それを使い、学芸・商売の事はもとより、融通を利かせてあらゆるお願いを聞いて下さると言われている。
また、「金銭の融通をつけて下さる」とも言われ、商売で成功を納めた信者も少なくはない。 なおこの像は秘仏であり、御開帳は1月の七福神めぐりと、11月3日の弁財天大祭の年2回だけである』
12:25「光明山即成院」。手水舎に「与一の手洗い所」と書かれていました。
『与一の手洗い場 手を洗う事は手を合わせる事。手を洗うことであなたの願いが1000年の祈りによって成就する。
心身清浄 恋愛成就・学業向上・運気好転・金運向上・病気平癒
この手洗い場に設置しました紙石鹸「願いが的へ」は、那須与一公の功績にあやかって数々の恵みを得られるよう祈願されております。仏さまに手を合わせる心と手を洗うことで心身清浄になり、湿らせた手に紙石鹸をのせ、願いを込めて手を洗ってください。
1000年の祈り 願いが的へ』
『即成院の「阿弥陀如来並びに二十五菩薩像」は、国指定の重要文化財です。文化庁によると、令和2年(2020)11/1現在、全国にある重要文化財の彫刻の数は2723で、その内140が国宝。国宝は重要文化財の中で特に大事な国の宝と認定されたものとのこと。
今回、即成院の仏さまが毎年恒例の「国宝」仏像カレンダー編6つの内の1つとして、来年度(令和3年2021)の、「国宝」仏像カレンダーの7月8月に選ばれました。重要文化財なのに「国宝」紹介の書籍に登場する次の「国宝」、「国宝予備軍」と呼ばれる由縁である数少ない稀な立ち位置の仏さまとしての面目躍如とまたなりました。
選んでいただきました関係各位の皆様方に心から感謝申し上げます。  合掌感謝 即成院住職平野雅章拝』
12:34「法音院」。『法音院(真言宗泉涌寺派) 鎌倉時代末期・嘉歴元年(1326)無人如導宗師によって創建されるが、室町期応仁の乱により当院も兵災焼亡。 その後、江戸時代初期・寛文5年(1665)幕府及び本多正貫・同夫人の支援を得、覚雲西堂師の手により再建される。書院は伏見桃山城の遺構の一部である。
現在の本堂は英照皇太后(孝明天皇女御)御大喪の御須屋(御陵の上に設けた仮屋)を賜ったもので本尊は不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん/ふくうけんじゃくかんのん)。一面三目八臂(いちめんさんもくはっぴ:顔1つ・目3つ・手8本)のお姿で、もれなく人々を救済加護し、あらゆる困難・苦難・災難から救ってくださる観音様である。
洛陽33観音霊場第25番札所であり、泉涌寺七福神では健康長寿・諸病平癒・富貴繁栄の御利益がある寿老人を祀る』
『法音院鎮守府(三社明神) 三社の御神徳・御利益 八幡大菩薩:武運長久・仏法守護・競事勝利・受験合格・安産祈願 春日大明神:子孫繁栄・交通安全・商売繁盛・立身出世・恋愛成就 天照大神宮:国家安穏・世界平和・五穀豊穣・家内安全・心願成就
参拝祈り方:鈴を振る。お参りできたことへの感謝を伝え、願い事をお伝えする。二拝二拍手一拝。祝詞とよばれる祈りの言葉を唱える。「はらいたまえ、きよめたまえ、かむながら、まもりたまえ、さきわえたまえ」
神鹿:境内の神鹿(狛鹿)は鹿を神使とする春日明神の本地仏(本来の姿である仏様)が、当院の本尊でもある不空羂索観音であり、また七福神で健康長寿・福徳を司る寿老人も鹿を神使いとしているところから安置されたありがたい神鹿である』
『本尊・不空羂索観音 「ふくうけんじゃくかんのん」。サンスクリット語で「アモーガ・パーシャ」。必ず獲物を捕らえる縄という意味です。「パーシャ」は古代インドで狩猟に使った投げ縄のことで、漢訳で「羂索」と表記され、優れたパーシャが必ず鳥や魚を捕らえるように、我々のあらゆる困難・苦難・災難を観音様のお持ちの羅索で取り除き救ってくださいます。皆様には観音様の慈悲を象徴する「救済加護御守」を常に御加護されている感謝の気持ちを忘れずお持ちください。 泉山法音院』
バイクに戻り、r142「九条通」を西に走り、「東寺五重塔」前を通り、R1で南下し、「京都南IC」から名神高速道路に乗りました。13:03「桂川PA」で「バニラソフト151円」を購入し糖分補給しました。「名神高速吹田IC」で下車し、中央環状線〜R171で、13:54帰宅しました。


2021/2/14
コーチしている大学ヨット部が、コロナ禍緊急事態宣言により、滋賀県琵琶湖にあるホームポートで練習できません。後期試験が終わり、京都府の日本海側・宮津のヨットハーバーで練習することになりました。次男がジュニアヨット時代、何度か練習・レースで訪問した場所ですが、ハーバーマスターへの挨拶をしに行きましょう。
8:04、倉庫から「招き猫CB400SB」を出して出発。R173を北上し、9:14「ローソン京丹波和田店」で「ピーナッツクリームパン5個108円」購入し、朝食として2個食べました。「京丹波みずほIC」から「京都縦貫道」に乗り北上します。「宮津天橋立IC」で下車し、r9で「JR宮津駅」前へ。R178で、10:30「さとう宮津店」で「リーベスバウム15.71695円×2=3390円」を御遣い物として購入。
宮津駅前に戻り、10:40「FACTORY HATCHMAN」へ。数年前にコーチしている大学ヨット部にセイルのセールスに来られた時知り合ったHさんがやっているお店です。Hさんとは大学時代、インカレで同じYHで競い合った方で意気投合しちゃいました。製造しているセイルバッグを家内のプレゼント用に購入し、宮津湾の風のことを教えてもらいました。京都国体のヨットレース会場だったので、その時の海図・レース海面のコピーを頂きました。
R178を海岸線を東に走り、左折してr605で「黒崎半島」海岸沿いを北上します、12:22「田井宮津ヨットハーバー」。ハーバーマスターを訪ねましたが、生憎おられず代理の方に御遣い物と名刺を渡し、「よろしくお願いします」と頭を下げてきました。
バイクに戻り、12:50「マリーンピア前浜」で止まり、練習海面を写真に収めました。r605で黒崎半島を北上し、半島を西に峠を越え、半島の東側に出ました。道なりにr604に入り、13:07「住吉神社」。
鳥居が海に向かって立っています。さすが海の神様住吉さん。鳥居前に『明治27・8年征清記念碑』が立っていました。踏切の音が聞こえてきました。神社裏に「京都丹後鉄道宮舞線」が通っていました。蟇股の龍や木鼻の獅子・象の彫刻に玉眼が入っています。社殿に奉納されている絵馬に『不波 明治28年8月』と書かれています。漁師さんが奉納したのでしょうか、海の平穏への願いですね。「手水舎」にお面が複数下がっていました。どういう意味なのだろう?
バイクに戻りr604で南下し、R178に合流し、13:26「由良神社」。「新宮涼庭先生像」が立っていました。『贈正五位 新宮涼庭先生略伝 新宮涼庭、名は碩。駆賢斉域は、鬼国山人と号し、徳川中期に最も傑出した儒医であります。天明7年3月13日丹後の由良に生まれ、青年時代蘭学に志して、長崎に赴き、通詞吉雄永保の塾に学び、ついで当時の蘭館長ヅーフに認められ、蘭医フェールケ及びバディに師事して学殖が豊かになり、帰国後、京都に開業して当代随一の流行医と称せられるようになりました。この間蓄積した巨万の財を有意義に散ずべきことを心得「良医は国の病を治す」という抱負の下に経国済民の大業に手をつけ、当時打ち続く区作のため全国至る所、餓子が路に横たわるといった状態であっても、名藩の財政が疲弊の極みに達しているため、救済の挙に出ないのを見た涼庭は起こって、諸藩候に済生治民の策を献じ、先ず旧恩深き牧野家領下士民のため、金穀を贈ること数度。ついで盛岡・福井両藩の請によって、その財政を整理し、諸藩の学費を献ずるほか、京都東山に私学順正書院を営んで、後学の指導に務めま
した。後この順正書院に出入りした一條相公・久我亜相・出石・鯖江・宮津・綾部などの藩候、その他篠崎小竹・頼三樹・斎藤拙堂・梁川星巌・藤井竹外などの文人墨客の作品を集めて、「順正書院記」及び「順正書院誌」が刊行されています。また涼庭の著書として知られているのは、医療関係では「窮理外科則」「泰西疫論」「療治鎮言」「人身分離則」「外薬則」「外用方符」「解体則」「血論」「小児科書」「婦人科書」文芸その他に関するものには、「西遊日記」「但泉紀行」「駆堅斉文鈔」及び詩鈔其他数種あります。特に有名なのは、「破れ家のつくり話」の上中下3巻であります。嘉永6年秋から宿阿暫く重く、翌安政元年1月9日68年の歳を京都に終え、遺骸は南禅寺天授庵に葬り、「順正院新開京庭居士」としました。大正4年先生生前の功により正五位を追贈されたのであります。
新宮京庭顕彰碑 日本医師会・武見太郎書』
境内横に別の社殿があり、入っていくと13:29「如意寺」がありました。『史跡 京都府指定重要文化財 鎌倉時代初期(800年前)名仏師快慶(別名・安阿弥菩薩坐像 その他 三荘太夫首塚(宝篋印塔・室町時代) 真言宗東寺派 由良山宝珠院如意寺』
『如意寺 宮津市字由良 如意山と号す、真言宗。由良の地はもと丹後国加佐郡、藩政時代は田辺(舞鶴)領であった。由良の湊千軒といわれた如く、近世は北前船の船主・船頭衆の出身地でもあった。如意寺は古寺で、地蔵堂に祀られる金焼き地蔵尊坐像は、胎内に「巧匠アン(梵字)阿弥陀仏」の銘をもつ鎌倉期慶派の仏師、運慶の弟子筋にあたる快慶初期の造像である。
由良湊は古くから山椒大夫伝説で知られるが、かの「説経さんせう太夫」冒頭に「ただいま語り申す御物語、国を申さば丹後の国、金焼き地蔵の御本地をあらあら説き立て広め申す」とうたおれた如く、この物語の趣旨は、この地蔵尊の「御本地」としての「あんじゅ・ずし王」を語ることにあったのである。尊像の肩のきずは、さようだいが山椒大夫におされた焼きごてを代ってうけて下さった地蔵ご利益のしるしという。
ここ由良には、山権太夫を土地の開発長者とする伝承もあって興味深い。石浦には太夫屋敷跡、七曲り八峠には首ひきの松跡、浜辺にはあんじゅ汐汲み浜等がある。如意寺の隣由良神社は、もと熊野権現で近世は如意寺の支配に属した。
如意寺が長福寺を称したことについて古来諸説があるが、天和2年(1682)宮津成就院の碩学頼元の「丹後国寺社帳」には由良村如意寺とあるし、寺のごま壇・棟札銘には宝暦年間(1755ころ)長福寺とあることは確かである。  宮津市教育委員会 宮津市文化財保護審議会』
r604から枝道に入り、「京都丹後鉄道宮舞線」を渡り、13:40「奈具神社」。鳥居横に池があり錦鯉が泳いでいます。「津波避難地・奈具神社 海抜10m」の立て札が立っています。『延喜式内社・奈具神社・丹後国加佐郡11座の1社 祭神:豊宇賀売命(とようがのめのみこと) 祭儀:祈年祭(としごいのまつり)4月10日・氏子安全・五穀豊穣祈願 例祭10月10日・年1回秋の大祭奉納太鼓など 新嘗祭11月23日・新穀を献じ収農奉告』
朱い梅の花が綺麗です。本殿に参ると、彫刻が素晴らしい。「五三桐紋」が扉に彫られており、蟇股の龍と鶴・木鼻の像と獅子に玉眼が入っています。
再び、「京都丹後鉄道宮舞線」を渡り、R178を南に走ります。左に「由良川」が見えだし、由良川左岸を上流に走ります。13:57「和江神社」。境内入口に、『安寿と厨子王ゆかりの地・国分寺跡(毘沙門堂)・厨子王がかくまわれた寺・100m先左折』の立て札が立っていました。
R178を南下し、左折してr569で由良川を渡り、左折して由良川左岸を河口に向けr571を走ります。道なりにr601に乗り、14:17「穴観世音大菩薩」。『1つ善をすると1つ善が去る、日々善をなせば日々悪は去る』『例祭毎月14日 大祭:4月14日・9月14日』
『神埼の穴観音 古代に神がよりついて開かれたという神崎の地で、古くから信仰を集める「穴観世音大菩薩」(穴観音)が近年、パワースポットとして注目を集めている。その昔、病のために盲目になった母親の枕元に3体の観音様が現れ、娘と共に白砂青松が続くこの場所で探し当てたのが穴観音。祈願のおこもりをした満願の日、、再び目が見えるようになったと言う伝承がある。
この観音像は、1300年以上前のもので、海を渡ってきたのではないかという鑑定も。諸病に効験あらたかなるも、中でも女性に因んでの霊験が広められ、特に1つの願いを頼めばご利益ありとの事。穴の入り口に立てば冷気が漂い心洗われる』
『神崎の穴観音 信仰守りし観音講 神寄りし神崎に生きる
東神崎、槙山(まきやま)の麓、巨石に囲まれた天然の洞穴内に「穴観世音大菩薩」が祀られている。 古くから多くの市内外からの信仰を受けて「穴観音」の名で親しまれる観音様は、地元住民たち「観音講」によって今も脈々と守り継がれている。 線香の灰をイボにつけると治り、石を持って帰ると子宝を授かるなどご利益を授かりに、近年では他府県からも多くの参拝者が訪れる。
毎年4月と9月の14日には「大祭」が行われ、毎月14日は「例祭」として住職がご祈祷を行っている。 地元住民からなる観音講たちは、60才近くになるとその役に就く人が多い。 祭礼前日には、洞穴内やお堂の清掃を行い、当日には訪れる参拝者たちを温かく迎え、丁寧に持てなしている。 「大切なのは心から信じること」 長さに渡り信仰を守ってきた観音講その信仰心は確かに受け継がれている』
「穴観音祈祷所」があり、小さな洞窟に入ってみました。やはりここに観音様がおられました。電灯が点いて明るく、生花がまだ新しい。崇敬者が多い信仰の篤い観音様のようです。
「妙見の滝」の案内板が立っていたので、バイクを置いて歩きましたが、遠いようでバイクに戻りました。r571に戻り、由良川右岸を遡ります。道なりにr568に乗り南下を続け、突き当りを左折してR175を東進します。
14:47「八坂神社」。R175を東に走り、左折してR27。14:57「エネオス舞鶴SS」で給油。268km/10.71L=25.0km/L。R27を南下し、「舞鶴西IC」から「舞鶴道」に乗りました。「綾部JCT」から「京都縦貫道」にチェンジし南下。「京丹波みずほIC」で下車し、R173で池田まで南下し、17:00帰宅。


2021/2/13
7:33、「招き猫CB400SB」で出発。R171〜中央環状道路へ。7:47「エネジェット中環豊中SS」で給油。228km/12.17L=18.7km/L。7:51「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、フルーツオーレ500ml93円購入。吹田ICから名神高速道路に乗り、桂川PAでトイレ休憩して、「京都南IC」で下車し、R1で北上。右折して「久世橋通」に乗り東進し、道なりにR24に入り北上します。右折して「東大路通り」を東進・北上し、8:59「八坂神社」。
「清水寺」に上がる東大路通でも感じたけど、観光客がとても少ないです。一昨年のお正月、次男一家と共にお参りに来た時、あまりの行列で断念したのとは大違いでした。9時なのに参拝の方は数人です。こんなに参拝の方が少ない八坂神社は、今まで見たことがありません。
『古事記1300年 平成24年(2012)は、我が国初の歴史書「古事記」が和銅5年(712)に撰上されてから、1300年の年に当たります。 天武天皇の勅命により稗田阿礼が誦習(しょうしゅう)した帝紀・旧辞(天皇の系譜や神話・伝承、氏族の縁起など)を太安万侶が撰録した「古事記」には、神代から推古天皇までの歴史が描かれており、中でも初代・神武天皇の前代までを記した上巻は「日本書紀」の神代巻と共に、日本の神々の御事績を記す中心的な書物です。
「古事記」によると当社の御祭神・素戔嗚命(須佐之男命)は、伊耶那美命と共に国生み・神生みをされた伊耶那岐命が黄泉国から戻られて禊(身を洗い清められる事)をされた時に天照大御神・月読命と共にお生まれになった神様で、伊耶那岐命はこの誕生に、「沢山の子を生んだ最後に三柱の貴き子を得た」と大変喜ばれ、素戔嗚命には海原を統べるようお命じになりました。 ところが素戔嗚尊は母を恋しがって啼いてばかりおり、また田畑を壊すなどの罪を犯して、高天の原を追放されます。
地上に天降られた素戔嗚尊は出雲の国の肥河(ひのかわ)の河上で、恐ろしい八俣の大蛇が今年も娘を喰らいにやってくると泣いていた両親と奇稲田姫命(櫛名田比売)に出会い、八俣の大蛇を退治されます。 そして須賀の地に到り「我が心すがすがし」という清浄の境地に達せられ、宮を建てて奇稲田姫命と結婚されました。この時の喜びの気持ちを込めて詠まれたのが、「やくも立つ、いづも八重垣、妻ごみに、八重垣つくる、その八重垣を」という歌で、和歌のはじめとされています。
荒ぶる神であり、同時に数々の苦難を乗り越えて英雄神となられた当社の御祭神・素戔嗚尊。この「古事記」や「日本書紀」が伝える偉大な御神格が、現在まで連綿と受け継がれてきた信仰の礎となっています』
『日本書紀1300年 「日本書紀」は、養老4年(720)舎人親王らにより撰上された。我が国現存最古の正史です。正文には撰文が「一書に曰く」として併催されっており、全30巻のうち1・2巻は神代紀=神々の御事績を記した巻=となっています。
され「日本書紀」によれば、伊弉諾尊・伊弉冉命の御子としてお生まれになった当社の主祭神・素戔嗚尊はずっと泣いてばかりおり、青山を枯山に変えてしまうほどでした。そのような尊に父母神は、「全くひどい乱暴者だ、この天下にいてはならない」と、遠く根の国へ行くことを命じられます。
そこで姉神の天照大神に別れの挨拶をするべく高天原へ昇って行かれますが、このとき大海原は激しく揺れ動き山や岳は鳴り轟いたために、天照大神はこの国を奪いに来られたのではと武装して待ち構えます。そのお姿に驚かれたのは尊も同じ、そこで誓約(うけい)により身の潔白を証明しましたが、そのことに喜ばれた尊は嬉しさの余り数々の罪を犯され、天上から追放されてしまいました。
天降られた尊はひの川(出雲・斐伊川)の川上で、1人の少女とさめざめと泣く老夫婦に出逢います。聞けば「毎年八俣大蛇が娘を呑みに来て今また最後に残ったこの娘も呑まれようとしている・・・」といいます。そこで尊は八俣大蛇を退治して、助けた娘・櫛名田姫を娶られます。「古事記」にも収められたこの神話は、高天原でのお姿から一転、尊の勇敢な英雄神としてのご神格を神たちに伝えてくれます。
また「一書」によれば、素戔嗚尊は御子・五十猛神を帥いて新羅国・曽戸茂梨(そしもり)の処に天降られ、そこから出雲国へ到られたと記されています。尊を祀る当社は祇園祭に代表されるように、古くより疾病除けの神様として信仰を集めてきました。また素戔嗚尊は明治以前までは天竺の祇園精舎の守護神であった。牛頭天王同一視されました。「日本書紀」の記述によると、ソシモリとは韓国語で「牛頭」のこと、新羅には牛頭山という山があり熱病に効果のある薬草・栴檀(せんだん)を産したために、この山の名を冠した神仏が信仰されてきたそうです。
令和2年、「日本書紀」は成立より1300年を迎えます。1300年連綿と伝えられてきた我が国の歴史、これを機会に今一度ひもといてみては如何でしょうか』
境内の摂社を巡りました。『大神宮社 皇室の祖先神であり、八坂神社御祭神素戔嗚尊の姉神に当たります。天照大御神(内宮)と、衣食住をはじめとした産業の守護神であります豊受大御神(外宮)をお祀りしています。第62回式年遷宮による伊勢の神宮の撤却材を以て修復し、平成28年10月16日に竣功しました。  祭日:春季祭4月17日、秋季祭10月17日』
『忠盛燈籠 永久年間の頃(12世紀)白河法皇が祇園女御の許に赴かれようとしてこのあたりを通られた時、折しも五月雨の降る夜で前方に鬼のようなものが見 。法皇は供の平忠盛に討ち取ることを命じられたが、忠盛はその正体を見定めての上とこれを生け捕りにしたところ、油壷と松明とを持ち燈龍に燈明を献ろうとしていた祇園の社僧であった。雨を防ぐ為に被っていた蓑が灯の光を受けて銀の針のように見えたのであった。忠盛の思慮深さは人々の感嘆するところであったと云う。この燈龍はその時のものといわれている』
『祇園社乱闘事件 八坂神社(当時は祇園社)の境内で今から865年前に、平清盛に関わる乱闘事件がありました。 時は久安3年(1147)6月15日、祇園臨時祭(祇園御霊会、現在7月24日に行われている還幸祭の翌日に当たり、朝廷から奉幣が行われた)の日の事。 中務大輔平清盛は心に秘めた宿願を果たさんと、祇園社に田楽を奉納します。 この田楽を守護していたのが清盛の郎等進、兵伎を帯び祇園社へと赴いた彼らにこの後思わぬ事態が待ち受けています。
 武装した彼らを見、祇園社の神人(下級神職)はその解除を求めます。しかし清盛の郎等はその要求を受け入れず、ついには乱闘へと発展、祇園社の権上座隆慶をはじめ負傷者まで出る始末。乱闘騒ぎは深夜にまで及びさらにこの後も尾を引きます。
6月26日になって祇園社の本寺であった延暦寺はこの乱闘の事を訴えます。これに対し播磨守平忠盛は乱闘の下手人7人をすぐさま検非違使に引き渡します。事かに思われましたが、延暦寺衆徒らの怒りは治まりません。28日、延暦寺の衆徒と日吉・祇園両社の神人は清盛と父・忠盛の流刑を訴え神輿を弁いて入洛しようとします。神々の神意の体現とされた神輿の動座を伴う強訴(神輿振り)は当時人々に大変恐れられていました。これに対し鳥羽法皇は「道理に任せ裁許する」と回答し、ひとまず彼らを帰山させます。
しかし中々裁許は出ません。洛中には衆徒らが再び入洛しようとしているという声が頻繁に聞こえてきます。 事件の実検などを行った法皇が、清盛の罪を決したのは8月5日になってのことで、その内容は贖銅(実刑に代わり銅を納めること)という軽いもの、忠盛・清盛と鳥羽法皇との関係の深さを物語る歴史の一幕でした。
さて、乱闘事件の顛末では平忠盛・清盛父子を擁護した鳥羽法皇は、祇園の神に対する謝罪を何度も行っています。中でも久安4年(1184)2月20日には法華八講が修され、これが当社における法華八講の初見となりました。  平成24年壬辰記』
『悪王子社 祭神:素戔嗚尊の荒魂  悪王子の「悪」とは「強力」の意であり、荒魂は、現実に姿を顕わす、霊験あらたかな神の意であります。諸願成就の御神徳で聞こえております。元は東洞院四条下ル元悪王子町にありましたが、天正年中(1573〜92)烏丸通万寿寺下ル悪王子町に還り、慶長元年(1596)四条京極に、さらに明治10年(1877)本社境内に移築したものです』
『美御前社 祭神:市杵島比売神・多岐理比売神・多岐津比売神 美御前という名の通り、美を象徴する神として祭られています。本社の祭神、素見嗚尊が天照大神と誓約(うけい)をされたとき、素戔嗚尊のもっておられた十挙剣を振りすすいで生れた三柱女神で、宗像三女神といい、清浄・潔白の証しとなった神々で、俗に弁天さんといわれるのもこの市杵島姫の神です。古くから祇園の芸妓さん舞妓さんをはじめ美しくなりたい願望の女性はもとより、美容理容・化粧品業者の崇敬を集めています』
美容の神様だけあって、美容学校・美容室・資生堂など美容関係の玉垣が巡っていた。刃物神社もありました。『刃物大神の由来 京都は、平安の時代より明治維新に至るまで王城の地として栄え、その間刀剣を始め刃物の製作に幾多の名工を輩出、刃物発祥の地として隆盛を極めてきました。
刃物の基礎はこの地の土壌に培われ、またここで修業せし人々をも各地に転出させ、その技術を源流としてそれぞれ刃物産地の基盤を確立いたし、現在に至っております。 私達は、これら祖先の遺業を偲び伝統を受け継ぎ、京刃物の真髄を後世に伝えるとともに、業界の振興を啓蒙を目的として、ここに有志相図り刃物神社を奉建するに当たり、その由来を識す。  昭和48年11月8日 刃物神社建設委員会』
『五社 八幡社:応神天皇(武の神)・例祭日9月15日 竈(かまど)神社:奥津日子神・奥津日売神(竈の神)11月28日 風神社:天御柱命・国御柱命(風の神)4月4日 天神社:少彦名命(薬の神)12月8日 水神社:高おかみ神・罔象女神(みつはのめのかみ)(水の神)6月1日』
『祖霊社 八坂神社の役員や関係物故者の御霊を顕彰し、御祭神としてお祀りしています。 祖霊社春季祭:春分の日、祖霊社秋季祭:秋分の日』
『末社・厳島社 祭神:市杵島比売命 市杵島比売命は素戔嗚尊が持つ剣から産まれた三女神(美御前社祭神)の内の一神。 古くから容姿端麗で舞を踊ることから舞踊謡曲の神として、祇園の舞妓芸鼓の皆さんに崇敬されています。平成30年3月14日に、社殿修復竣功しました。  祭日:厳島社祭・3月15日』
『太田社 祭神:猿田彦神・天鈿女命(あめのうずめのみこと) 猿田彦神は天孫降臨に際して日神の使として先導の役割を果たした導きの神とされています。 天鈿女命は天照大神の天岩戸隠れに際し、岩戸の前で神楽を舞った神であり、天孫降臨にお供をして猿田彦神と対面してともに導き、宮廷神楽を奉仕した猿女り、芸能の神とされています』
『末社 大国主社 祭神:大国主命・事代主命・少彦名命 大国主命は、出雲大社の御祭神でもあり、神話にて素戔嗚命の御子とも6代の孫とも伝えられる縁結びの神様です。 事代主命は、その御子・少彦名命は医療の神で大国主命とともに国造りに励まれました。
古くより祇園さんの縁結びの神として氏子崇敬者の信仰を集めており、1月9・10日の初えびすで行われる。三社詣では、御本殿・北向蛭子社とともに大変多くの参拝者で賑わいます。 令和2年3月26日に、社殿修復竣功しました。
祭日:例祭・新年初甲子の日』
社務所で、「御神札(木札)」(1000円)を授かりました。「京都祇園八坂神社 悪疫退散御守護 急急如律令 蘇民将来子孫也」と書かれています。京都三大祭の「祇園祭」は、疫病退散が起源です。職場に飾り、コロナ禍の早期退散を願いましょう。
少し東山に向かって登り、9:24「吉水弁財天堂」。少し歩き、「長楽寺」。山門を入るとすぐ、『水戸藩烈士の墓 長楽寺後山 大場一真斉景淑・原市之進仲寧・徳川余四磨昭訓・鵜飼吉左衛門知信・鵜飼幸吉知明 水戸藩攘夷留名碑 柱谷虎之助外86名』と書かれた立て札が立っていました。「大谷祖廟」をはさみ、京都護国神社が山腹に並んでおり、多くの勤王の志士が眠っています。ここに、水戸藩士の墓があるのは知りませんでした。『頼山陽先生墓所』の石柱が立っています。頼山陽は、江戸時代の歴史家・思想家で、代表作「日本外史」で武家の歴史を語った。幕末の尊皇攘夷思想のベースになりました。氏の墓所が、維新志士の多くが眠るこの一帯にあるのに意味を感じました。石段を上がり「本堂」へ。
『京都市指定有形文化財長楽寺本堂 長楽寺の現在の本堂は、寛文6年(1666)に造営された愛宕郡西賀茂村(現在の北区西賀茂)の正伝寺仏殿を、明治23年(1890)に移築したものである。正伝寺における造営は、日記によると、寛文6年正月12日に「仏教斧ノ初」とあり、この時に木工事を始めたことがかかる。大工は「北山新蔵」であった。その後、同年3月18日に「柱立」、3月22日に「梁上」と工事が進んでいる。
建物は、桁行三間・梁行三問の身舎(もや・本屋構造)の四周に庇状構造の裳階(もこし)が付く禅宗様の仏殿々ある。内部は身舎を格天井(ごうてんじょう)、裳階を化粧屋根裏とし、床は土間とする。柱は丸柱で、石造の礎盤(そばん)の上程立つ。身舎の柱筋より半間ほど前方に立ち、柱間上部は透かし彫りの欄間をはめる。
この本堂は、建築年代が明らかであり、京都市内では数少ない本格的な小規模禅宗様仏殿の遺構として貴重である。  平成19年3月30日指定 京都市』
『布袋尊像(泥工) 東福寺開山聖一国師・弁円禅師(1202〜1280)が入床7年の后帰国された際、三国の土を以て自作されたというこの布袋尊像は感座たぐいない霊像であって、その後日本に広く祀られた布袋の模範像とされ、室町時代に始まったという七福神信仰の布袋の代表として景仰されて来た。また現在もなほ京都の旧家のかまどの上に祀られている。大小7体の布袋は当時内乱で笑いを失っていた家庭に笑いを取り戻させるため、禅師が人形師に命じて配らせられたものという(この像は土をこねて作られ焼かれておらない)』
『創立:当寺は延暦24年(805)、桓武天皇の勅命により、伝教大師を開基として創建せられ、初め天台宗の別院であった。 本尊・伝教大師入唐され帰朝の折、暴風起こり船厄く破れんとした時、示現された観世音の尊像を自ら刻んで本尊としたまうたもので、霊験にくひなく古来勅願所として歴代天皇の御帰依深く勅封の秘仏として奉安せられ、歴朝の御即位式及び御厄年に勅使代参あって、その侍立の下にのみ開帳せらるることを慣例として来た。
宗派:当寺は初め天台宗であったが、その後天台宗慈円の高弟・隆寛律師(1148〜1227)が、浄土宗の開祖・法然上人の風を慕うてその教えを乞い、この寺に住して多念義または小坂義と号し、専修念仏長楽寺派を開立せられた。 その後、至徳年間(1380〜)、当時の一代の名僧・国阿上人に譲られ時宗(開祖・一遍上人)となり、明治39年に時宗総本山格の名刹七條道場・金光寺を当寺に合併せられた。本堂:延暦年間創立。昌泰年中修復(898)、正保年中再建(1644〜1648)、明治18年焼失、明治23年西賀茂・正伝寺の法皇(元桃山城中にありしを正伝寺に移し)これを当寺に譲り受け今日に至る。
平成19年3月 京都市有形文化財に指定 洛陽33ヶ所観音霊場・第7番札所』
『建礼門院御搭』と書かれた立て札が立っていました。建礼門院は平徳子、清盛の娘で高倉天皇に嫁ぎ皇后となり、安徳天皇の母親です。木曽義仲の京都突入により、平家一門と共に都落ちします。壇ノ浦の合戦で源氏に敗退し、息子の安徳天皇を抱え、母(清盛の正室・時子)が入水した後を追い入水しますが、助けられました。平家全盛期に、「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した平時忠(時子の弟)と共に、京都に護送されます。時忠は能登半島に配流され、徳子は京都大原の尼寺「寂光院」で髪を下ろし、平家一門の菩提を弔う生涯を送ります。
「建礼門院御搭」に興味を持ち帰宅後調べたら、御遺骨が葬られている説と剃髪された時の髪を埋めた遺髪塚ともありました。建礼門院の御陵は、寂光院の近くにあるので、宮内省が管理しています。よって、遺髪塚であるように思いました。都落ちの地「大原」で暮らすこれからながら、栄華を誇った京都盆地を見下ろす地に遺髪を埋め哀愁を感じていたのかも知れない。
平時忠の配流地を訪問したことがあります。皇族ならまだしも、敗戦武士ながら地元民に歓迎され愛され豪族として力を持ち、子孫のとても立派な屋敷が現代に続いていました。平家を破った源義経が、兄頼朝の猜疑心に標的となり都落ちして陸奥藤原氏に落ちて行く途中、この時忠に守護されたそうです。歴史の面白さを感じたものです。平和な江戸時代は庄屋として地元をまとめたようです。
落ち葉が半分埋まった小さな禊池があり、セットで滝行場と思われる設備がありました。とても雰囲気があります。コロナ禍で観光客が激減していますが、最盛期でもひっそりしているのではないかと穴場感を感じました。『重要文化財-一遍上人像』の立て札が立っています。石碑もいろいろ立っています。『頼山陽先生墓・頼三樹三郎墓 徳川慶喜公ゆかりの尊攘苑 これより100m先 市内一望絶景の地』の案内板が立っており、裏山を昇る細道を登って行きます。頼山陽のお墓に参り、木々の間から京都盆地を一望しました。
バイクに戻り、「ねねの道」を経由し、「東大路通」に出て北上し、左折して「三条通」を西進し、9:54「大将軍神社」。木鼻や蟇股の龍の彫刻が立派でした。境内に「荒熊稲荷神社」がありました。『大将軍神社 素戔嗚命を主神とし、相殿に関白藤原兼家を祀る。桓武天皇が平安京を造営した際、大内裏鎮護のため四方四隅に祀られた大将軍神社のうち、東南隅の1つである。 特に平安京東のこの地は、三条口の要地にあたり、邪霊の侵入を防ぐ意を以て重要視されてきた。このあたりに建てられた藤原兼家邸は、応仁の乱で廃壊したが、境内に東三條社として名跡を留めている。また、樹齢800年と伝える銀杏の大樹があり、かつては鵺(ぬえ)の森とも呼ばれ、源頼政の鵺退治の伝説を偲ばせる。  京都市』
「三条通」を東進し、10:07「粟田神社」。鳥居を見上げると、「感神院新宮(かんじんいんしんぐう」と扁額が下がっています。『平安時代・貞観18年(876)、疫病が流行し、清和天皇が祇園感神院(八坂神社の前身)で祈らせたところ、この地に祀れという神託を得て感神院を勧請して創建されたといいます。感神院の新宮という意味で感神院新宮、或いは祭神の牛頭天王から粟田天王社と呼ばれました。戦乱により祇園感神院の祭礼・祇園御霊会(祇園祭の前身)が行われなかった年には、新宮であるこの社の祭礼をもって祇園御霊会の代わりとしていたそうです。平安時代末期、青蓮院の里坊が付近の三条白川に作られるとその鎮守社となりました』
ゆるい勾配の石段を上がって行くと、神馬像が奉納されていました。『神馬 神様のお乗りになる馬として、古くから神社には馬が飼われておりました。また祈願のため奉納されたものでもありました。 この銅馬は、明治末にご奉納頂いたもので、旅立ち守護の当神社に相応しい大変立派な姿をしています。銅馬には次のように銘が刻まれています。
明治44年8月穀且 島津久吉73才・妻まさ62才 出生地:京都市粟田東姉小路町二條新地大門寺町 現在地:広島市大手町3丁目』
境内の舞殿舞台に、紙製?人形・龍・犬・蛇・・・などが置かれていました。帰宅後調べてみると、「毎年10月の体育の日前後に行われる粟田祭の夜渡り神事で出される粟田大燈篭の一部」だそうです。ねぶた祭りの「ねぶた」の超小型という感じです。
「無料開放中」と書かれた小ぶりな宝物殿に入ってみます。『元祭主久通宮殿下 元家令角田家拝領 皇大神宮由緒御唐櫃 当社に寄贈せらる 昭和16年10月神事』
『粟田神社 主座:建速素戔嗚命(牛頭天王)・大己貴命(おおなむちのみこと) 左座:八大王子命(八嶋士奴美神・五十猛神・大屋彦神・大屋媛神・抓律姫神・須勢理媛神・大年神・宇迦之御魂神) 右座:奇稲田媛命・神大市比売命・佐頭良比売命 右座外殿:竹生島社・猿田彦社・度会社・天御中主社・賀茂社・日吉社・和歌三神社・手力雄社・崇徳天皇社・大聖歓喜天
平安時代、清和天皇貞観18年(876)春に神祇官並びに陰陽寮より、「この年隣境に兵災有りて秋には疫病多いに民を悩ます」と奏上されました。天皇は直ちに勅を下され、五畿七道の諸神に国家と民の安全を祈願されました。
その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(現八坂神社)にて7日7夜祈願をされました。そして満願の夜、興世の夢枕に老翁が立ち「帝都の東祇園の東北に牛頭天王(素盈嗚尊)に縁の地在り。その地に我を祀れば必ず国家と民は安全なり。我は大己貴神なり。」と告げて消えました。興世は夢とは思わず、ご神意であると奏上し、勅命により奉行としてこの地に社を建ててご神霊をお祀りしました。
また一説には平安京以前より、この地を本貫とした粟田氏の氏神として創建されたとも伝えられています。 明治以前の旧社名は感神院新宮であり、牛頭天王を祀ることから栗田天王社また栗田八大王子社とも称されました。 御神徳はスサノオノミコトが御祭神のため、厄除け・病除け。また都の東の出入口である粟田口に御鎮座されており、旅立ら守護の神様としても広く崇敬を集めています』
『粟田祭:粟田祭は、長保3年(1001)旧暦9月9日の夜、神童が祇園社に現れて神人に「今日より7日後に祇園社の東北の地に瑞祥が現れる。そこに神幸すべし」と告げられたことにより始まりました。毎年10月に行われる最大の祭礼行事です。体育の日前々日の「出御祭(おいでまつり)」、体育の日前日の「夜渡り神事」、体育の日の「神幸祭」「還幸祭」、そして15日の「例大祭」までの神事・行事を総称して粟田祭と呼んでいます。この粟田祭は1000年の歴史を持ち、室町時代には祇園祭が斎行できなかった時には、当社の祭りを以て代わりとしたと云われています。
夜渡り神事:体育の日前夜には「夜渡り神事」「れいけん祭」が執り行なわれます。約400年前の旧暦9月14日の夜、大きな石の上に瓜が覆っており、そこに御金札があって光り輝いていました。これは神様の御降臨であるとして金札は神社に納められその石を瓜生石と名付けられました。この故事により御神宝の阿古陀鉾と地蔵鉾が行列を為し、金札の現れた瓜生石の周りを三度巡拝する「れいけん」の神事を執り行います。近年は知恩院様のご参列により、神仏習合の祭典を斎行しております。平成20年(2008)よりは古く行われていた風流灯籠を復興し、「粟田大燈呂(あわただいとうろう)」として行列に加わり、多くの人より驚嘆のお声をいただいております。
神幸祭:神幸祭には、剣絆が6基差され、神輿が氏子町内を渡御しています。剣絆とは祭礼の神輿渡御の先導を勤め、神様のお渡りになる道筋を祓い清め、悪霊を鎮める祭具です。剣差しと呼ばれる人によって重さ約40kg・長さ7〜8mのものが1人で指されます。剣差しは腰に差し革という棹受けを付け、独特の歩行法で剣先をしならせ、その揺れで鈴が棹に当たり涼やかな音色をたてます。
当社の神輿は江戸時代の末期の文久2年(1862)に造られた京神輿で、平成28年(2016)に解体修理が為され、水銀鍍金により往時の輝きが蘇りました。 200名以上の担ぎ手により氏子町内を渡御し、青蓮院の四脚門から入御します。青蓮院では宮司が当社の本地仏であり、明治まで神社でお祀りされていた薬師如来に献幣し、青蓮院御門主様が御加持をお授け下さいます。
例大祭:当社の本来の祭礼日であり、毎年10月15日午前11時から執行はす。例大祭には当社本宮の八坂神社から幣帛供進のため神職がお越しになり本殿にて祭典が行われます。その中で、神様にお楽しみいただくために舞楽や式庖丁などの奉納を行います。
粟田口:この辺りは古くは山城国愛宕郡粟田郷に属していました。粟田郷は上粟田・下粟田に分かれ、上粟田は浄土寺・鹿ヶ谷・岡崎一帯を指し、下粟田は岡崎より南で四条辺りまでを指していました。上古の頃、5代孝昭天皇の末である粟田氏が本拠とする土地であり、大宝律令選定に加わり遣唐執節使として唐に渡った正三位中納言粟田朝臣真人は粟田氏の氏長者だと伝えられています。まだ粟田郷は平安京の郊外として、右大臣藤原良相の粟田院、関白藤原道兼の粟田殿、花山院家の粟田口第など貴族公卿の別荘地として、六勝寺を始めとした寺社の地として早くから栄えました。
平安時代後期には三条小鍛治と呼ばれた刀鍛冶(刀工)の三条宗近が神社鳥居の北側竹林に居を構え、稲荷神の化身の若者に相槌を打たせた小狐丸や国宝となっている三日月などの名刀を鍛えたと伝えられています。その三条派の後の鎌倉初期からは、大和国より移り住んだ国家を祖とする粟田口派と呼ばれる刀工集団がこの地に栄えました。その子の国友・久国・国安・国清・有国・国綱の六兄弟は後鳥羽院の御番鍛冶となる者もおり、鎌倉中期には短刀の名手と呼ばれる藤四郎吉光を察出するなど、山城国の刀鍛冶の名を世に広めました。これらのことから、山城伝(山城国刀鍛冶)発祥の地とされ、刀工を始め愛好家にとって憧れの地とされています。
江戸時代には、神社の辺りから蹴上にかけて窯が建ち並び、禁中や柳営に重用さわた京焼の代表として粟田焼(粟田口焼)が盛んに作られました。往時には清水を凌ぐほどの勢力を誇り、野々村仁清や青木木米を始めとした数々の名工がこの地で学んだと云われております。明治からは輸出に力を入れていましたが、度重なる不況や恐慌により徐々に振るわなくなり、一時途絶えてしまう事となりましたが、元の窯元が復興されて伝統を繋いで頂いております』
『粟田丸(あわたまる) 粟田丸は日本郵船の欧州航路改善のために投入されたA型貨物船の4番船として、三菱長崎造船所で昭和12年(1937)に竣工した。
総トン数7.397t・全長141.02m・型幅19m・最大速力19.3ノット・載貨重量9567t
昭和16年(1941)、粟田丸は日本海軍に徴傭され、特設巡洋艦として入籍、呉鎮守府籍となる。 昭和18年(1943)7月のアリューシャン列島のキスカ島撤退作戦には応急収容隊として参加。南方への兵員輸送のため10月20日上海を出撃したが、22日未明魚雷4発を受けて撃沈した。
写真は昭和14年10月、日本郵船粟田丸船長・水田正造氏参拝時ご奉納』
絵馬の他に、掛け軸・祭事具・古文書・刀剣が展示されていました。『あいくち 銘:兼元 刃長:27cm 反り:なし 目釘穴:1個 兼元は室町時代に孫六兼元が最も著名な美濃の刀工として君臨し、その流れが江戸時代へと及びます。本作は、その新刀期の兼元と思われます』『太刀 銘:昭和12年5月・月山貞勝謹作・花押 刀長:68.3cm 反り:1.9cm 目釘穴:1個 月山貞勝は、明治2年大阪に初代貞一の長子として生まれました。主に大正から昭和の初期にかけて活躍し、数多くの皇室御用刀や陸・海軍などの御下命刀なども鍛えました』
手水には、沢山のあひるのおもちゃが浮かんでおり、花でデコレーションされた手水舎が多い京都で珍しい存在です。歴史のありそうな赤レンガの壁がありました。『赤レンガの擁壁 大正年間に造られたと伝わる。水抜き穴から内部の栗石が見え、丁寧な仕事ぶりが窺える』
本殿の彫刻がなかなか良かった。蟇股は獅子でした。境内から京都盆地が一望できました。
北に走り、明治神宮大鳥居手前を右折し、琵琶湖疏水沿いを東に走り、右折して10:30「無鄰菴(むりんあん)」。「入場料600円 4〜9月9am〜6pm 10〜3月9am〜5pm」「庭園カフェ ラストオーダー16:45 お庭を眺めながら至福のひと時をお過ごし下さい」
『無鄰菴は、明治27年(1894)〜29(1896)年に造営された明治・大正時代の政治家山縣有朋の別荘です。 庭園と母屋・洋館・茶室の3つの建物によって構成されており、庭園は施主山縣有朋の指示に基づいて、七代目小川治兵衛により作庭された近代日本庭園の傑作。 それまでの池を海に、岩を島に見立てる象徴主義的な庭園から、里山の風景や小川そのもののような躍動的な流れをもつ自然主義的な新しい庭園観により造営されました。 南禅寺界隈別荘群の中で唯一通年公開されている庭園で、昭和26年(1951年)に国の名勝に指定されています。洋館の2階には、伊藤博文らと山縣有朋が日露開戦前の外交方針について話し合った「無鄰菴会議」に使われた部屋があり、当日の様子を今に伝えます。
施主と庭師、理想の関係:「この庭園の主山というは喃、此前に青く聳える東山である」無鄰菴の施主 山縣有朋は実は優れたランドスケープデザイナーでもありました。この庭にたたずむと、全てが東山を軸に造られていることがわかります。もはや借景を超えて、これは主山。有朋の命を受けて、それを実現したのが七代目小川治兵衛。彼は見事に約1000坪の別荘としては小ぶりな敷地に、有朋の希望をとりこみ明るい里山の風景から深山の滝まで物語性あふれる空間を生み出しました。これぞ施主と庭師の理想的な関係。現在は、その作庭意図をもとに文化財として長期的にはぐくむ取り組みが計画的に行われています。
時が織りなす庭。苔の美:「苔によっては面白くないから、私は断じて芝を栽る」 苔の美しさが京都の庭の美点といわれてきましたが、有朋公は芝がお好み。無鄰菴の明るい芝生の空間は、当時のイギリスなどに見る自然風景式の庭園や、日本の里山の風景にも近しいものがあります。しかし、造営からしばらくすると高湿度の環境のもと、苔が優勢に。「苔の青みたる中に名もしらぬ草の花の咲出たるもめつらし」と、有朋は時が経つごとにその美を受け入れ、現在は50種以上の苔がビロードのように広がります。時が織りなす美がここに。
樅(モミ)の木30本、庭に植える:芝に限らず、有朋は植栽にも斬新な感覚を持っていました。松や梅と違って普通庭木としてはあつかわない樅をとり入れるようにオーダーしました。七代目小川治兵衛はそれにとても驚きましたが、しっかり受け止め実現する力量がありました。古写真にも若い樅の木が。それらの一部は今も無鄰菴にたたずみ、庭を見守っています。
南禅寺界隈、琵琶湖疏水の流れ:「従来の人は重に池をこしらえたが、自分は夫(それ)より川の方が趣致がある」 心地よいせせらぎを響かせる「流れ」。実は琵琶湖から引かれたお水です。皇居が東京に遷り、経済の衰退をたどる京都を活性化させようと行われた明治の大公共事業、琵琶湖疏水開通。それに政治家として関わった有朋は、この地で最初に別荘を築き、疏水の水を直接引き入れました。サイフォンの原理を使って滝口まで持ち上げる治水方法は現在もそのまま利用されています。
無鄰菴会議、往時をしのぶ洋館:明治36年(1903)4月21日、この洋館で日露開戦前の対ロシア外交方針を決める重要な会議が行われました。集まったのは伊藤博文、小村壽太郎、桂太郎、そして山縣有朋。これがいわゆる「無鄰菴会議」。その後の日本の東アジア外交の方針を決定づける重要な出来事として歴史上に位置付けられています。実はエアコンがなかった当時、洋館は空調ができる貴重な空間でもありました。暖炉がしつらえられたこの室内で為政者たちは何を話し合ったのでしょうか』
「三条通」を西進し、右折して「東大路通」を北上し、左折して「丸太町通」を西進し、鴨川を渡り、10:44「下御霊神社」。境内に梅の白い花が綺麗に咲いています。年季の入った土蔵があり、扉が開いていました。扉には菊と沢瀉の家紋が入っていました。
『神物賓庫 これは神輿や祭具を保管する蔵(神庫)です。 天明8年(1788)の大火により、またもや内裏をはじめ公卿の邸宅、多くの家屋が焼失し、当社も罹災しました。 ただ幸いなことに、土蔵だけは扉を締める事で火災を免れ、宝永の大火(1708)の翌年に東山天皇・霊元上皇より賜った大宮神輿など現代では再現不可能な貴重な祭器が無事でありました。 元々は宝永の大火後に建てられましたが、その当時の境内絵図ではこの場所には違う建物がありますので、天明の大火後に社殿造営に伴い、現在の位置に移築したと考えられます』
拝殿は檜皮葺の屋根、本殿は唐破風・檜皮葺屋根の立派なものでした。
『京都市指定有形文化財 下御霊神社 本殿・幣殿・拝所・南北廊・拝殿現社殿は、天明8年(1788)の大火で旧社殿が焼失した後、再建されたものである。 本殿は天明8年に仮皇居の聖護院宮において造営された内侍所(ないしどころ)仮殿を、寛政3年(1791)に移建したもので、仮殿造営当初の規模、形式をよく残している。本殿の前には切妻造の幣殿(寛政5年)が取りつき、その前には更に唐破風造の拝所(寛政5年)がつく。また、幣殿からは南北に入母屋造の廊(文政13年・1830)がのびている。 本殿・幣殿・拝所そして南北廊が、屋根をそれぞれ交錯させて一連の内部空間をつくる特異な社殿構成は、市内の御霊社に特有のものであり、なかでも当社の社殿は造営の年代が古く貴重である。 また、拝所の前方に独立して建つ拝殿は、寛政10年に造営されたものである。  昭和58年6月1日指定 京都市』
よくある手水舎がありましたが、かつて京都の旱魃を救ったようです。『下御霊神社・地下水の伝承:江戸時代の明和7年(1770)の秋は京の市中が旱魅(かんばつ)に見舞われました。 当時の神主(第38代)出雲路定直が夢のお告げで境内の1ヶ所を掘らせたところ、清らかな水が沸き出でて涸(か)れることなく万人に汲ませることができ、「感応水」と名付けられたと伝わっております。
今はこの井戸の痕跡はありませんが、現在の地下水も同じ水脈です。改めて「御霊水(ごりょうすい)」と名付け、皆様とともに大事にしていきたいと存じます。 その為に最も大切なことは、水の恵みをあたりまえに思わず毎日神様に感謝することです』
摂社に稲荷神社があり、歴史の有りそうな木製のお狐さんが守護されていあました。
『山崎闇斎(あんさい)先生 元和4年(1619)〜天和2年(1682) 山崎闇斎先生は江戸時代初めに神道と儒学を開運させつつ独自の説を展開・実践した異彩を放つ学者でした。 先生はまず儒学(特に朱子学)を深く研究し儒者として徐々に知られるようになり会津藩主の保科正之に招かれます。また神道にも目覚めて広く研究し神道の奥義を伝授されました。
神儒を極める中で神代より皇統が例外なく受け継がれ続けてきた日本は、革命の無い忠義が実現されているよ国柄であり、将来も君臣が合体して敬(つつしみ)を以って真の道を実現していく事が理想の姿であると主張されたのです。その門下及びその末流に多くの英傑及び志士が輩出され、幕末の勤王思想、国民自覚精神鼓吹の大なる先覚者であります。
高弟には正親町公通(おおぎまちきんみち)・浅見綱斎(けいさい)・渋川春海(はるみ・幕府天文方)・谷重遠(子孫に谷干城)などが挙げられ、公家・大名・祠官から庶民にまで至り、続いて若林強斎・竹内式部、幕末には梅田雲浜(うんびん)、有馬正義(新七)などに受け継がれました。浅見綱斎の著した忠臣義士の史実に評論を付した「靖献遺言(せいけんいけん)」は吉田松陰をはじめ多くの志士たちが愛読しました。
この垂加社の起源に、先生(霊号・垂加霊社)が晩年にお祀りされた自らの清らかな幸魂奇魂(さきみたまくしみたま・心神)を封じた霊璽(れいじ・卸魂代)を、高弟の1人で下御霊社神主・出雲路信直に託され、最終的に末社・猿田彦社の相殿に垂加社として合祀されました。
すなわち闇斎先生は今もここで皇室を守護せられているのであります。
神垂祈祷(しんすいきとう)冥加正直(みょうがしょうじき)伊勢神宮の神道書の1つ「倭姫命世記」の「神垂以祷為先(かみはたるるにねぎごとをもってさきとなし)冥加以正直以本(くらきはくはふるにしょうじきをもってもととなせり)」の語句に由来します。その意味は「神の恵みをうける(垂る)ためには人として祈祷が第一で、目に見えない神慮が加わる(冥加)ためには人として正直をもってするのが根本である」ということで、祈祷と正直によって神の恵みをうける事ができるとする垂加神道の境地を表す言葉です。当社の御札には鎮疫の御札と共にこの言葉を記した御札が入っております。ここから右手北側奥の石碑(闇斎先生祠堂碑)もご覧下さい。毎年2月22日(垂加社祭日)と22日(天皇誕生日)には社家出雲路家に相伝されている関係資料を社務所にて展覧しております。(拝観料300円)
先生の母上がある夜にご覧になった夢のお話です。 母上が故郷近江国の比叡山坂本の日吉社にお参りした後に鳥居の前でひれ伏していると、老翁が忽然と現れ梅の花一枝を与えるので、それを受け取り左の快に入れました。 その後ご懐妊され生まれた子が闇斎先生でした。
母上は愛情をもって厳しくお育てになりました。先生は垂加社に納める鏡の裏にこの夢の話を描いたものを彫らせたと伝わっております。
南の末社に日吉社もありますので、良ければお参り下さい』
『八社御霊を祀り疫病災厄から都を守護する社 下御霊神社 病気平癒・地鎮祭・厄除・清祓・初宮詣・家内安全・七五三・交通安全』など承っております。御相談御予約下さい』
『下御霊神社 平安初期の貞観5年(863)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原吉子(きっし)・藤原広嗣・橘逸勢(はやなり)・文屋宮田麻呂の6座に、吉備聖霊(きびのしょうりょう)と火雷天神(からいのてんじん)を加えた8座、即ち八所御霊を出雲路(上京区)の地に奉祀したのが始まりである。
いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。 当初、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正18年(1590)に豊互秀吉の命により当地に移転した。古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年問(1716〜1736)に霊元天皇が当社に行幸し、震筆(しんぴつ)の祈願文を納めている。本殿は、寛政3年(1791)に仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。 境内の垂加社には、江戸時代の神道家・山崎闇斉を祀ってている。  京都市』
『正門 天明の大火(1788年)後に造営された仮皇居(御所)の建礼門を下賜され移築したものと伝えられています。大きい梁の中央に龍が飾られ、表側の化粧梁には玄武と朱雀に乗った仙人が、また裏側の梁には麒麟と鳳凰が飾られております』
隣に、10:58「革堂行願寺」がありました。『革堂(こうどう・行願寺) 霊ゆう山行願寺と号する天台宗の寺院で、西国33ヶ所観音霊場の第19番礼所である。 寛弘元年(1004)に行円(ぎょうえん)上人によって、一条小川(上京区)に創建された。子を孕(はら)んだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、常にその皮をまとって鹿を憐れみ、人々から皮聖と呼ばれていたことから、この寺も革堂と呼ばれるようになったと言われている。
以降、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火により寺地を転々とし、宝永5年(1708)の大火の後、この地に移された。 現在の本堂は、文化12年(1815)に建てられたもので、堂内には行円上人の作と伝えられる本尊千手観音像を安置している。
境内には、都七福神巡りの1つになっている寿老人神堂をはじめ、愛染堂・鎮宅霊苻神堂・加茂明神塔などがある。また、宝物館には、若い女性の幽霊が描かれている幽霊絵馬が展示されている。 京都市』
「寺町通り」を北上し、京都御所の南東角を右折して「丸太町通」を少し東進し、左折して京都御所の1本東の南北道を北上します。
11:10「天台宗清荒神護浄院」。西横には「京都府立鴨沂高等学校」がありました。「明治天皇行幸所・京都府尋常中学校」の石柱が立っています。御所のすぐ、歩いて行幸出来るね。『洛陽33ヶ所観音霊場第3番護浄院』。境内に入ると、標語が書かれていました。『雪の日に、母に抱かれて寝た夜の母の温かみは、今もなお冷えた心を温める』『和やかな顔、温かい言葉、それだけで人は救われ、自分も癒やされる 荒了寛』『人生は長いようだが、1日1日の積み重ねです。1日をあやまれば一生をあやまる』『失敗するから成功するんですよ』『人は死ぬと仏様になれる?とんでもない、人は死ぬとただの死人』
『護浄院 常施無畏(じょうせむい)寺と号し、天台宗の寺で通称・清荒神という。 本尊の清三宝大荒神は1200余年前、光仁天皇の皇子・開成親王の作と言われ、摂津の国にあったのを後小松天皇の勅により僧乗厳(じょうげん)が醒ヶ井高辻の地に勧請し、初めて清荒神と言われた。その後、慶長5年(1600)ここに移され、後陽成天皇御自作の如来荒神尊7体を合わせ祀って長日の御祈願を行い、元禄10年護浄院の院号を賜り今日に至っている。また、一般の家庭では、かまどの上に祀られ火の守護神とされる。
尊天堂内に安置される福徳恵美須神はもと禁裏に奉安せられていたが、明治維新に際しここに移され、京都七福神の一に数えられ、世に尊信が篤い。なお、荒神町の地名はここより起こったものという。 京都市』
「寺町通り」に出て北上し、11:18「梨木神社」。『萩の宮 梨木(なしのき)神社 ご祭神:贈右大臣正一位三条実萬(さねつむ)公・内大臣正一位大勲位公爵三條実美(さねとみ)公
ご由緒:実萬公は、当時「今天神」と人々から尊称され、才識兼備のお方であった。光格・仁孝・孝明3天皇に仕え、皇室の中興に尽し、王政復古の大義を唱えて、明治維新の原動力ともなられ、安政の大獄の折、幕府より圧迫を受けて一乗寺村に幽居の後、50才で薨去された。 明治2年その功績を愛で、天皇より「忠成公」の謐(おくりな)を賜わり、同18年10月旧邸の地名にちなみ、梨木神社として創祀せられるに至った。
実美公は、父実萬公の遺志を継ぎ、朝威回復・攘夷決行の急進派少壮公卿の中心人物として活躍。しかし文久3年8月18日の政変で頓坐し、同志の公卿と共に長州西国に赴かれ、艱難辛苦を経て維新の大業を達成せられた。そして明治新政府では、右大臣・太政大臣・内大臣等を歴任された明治の元勲である。 公は明治2年東京へ遷都の際、御所廃止の論が起こるも、これに極力反対された。今曰なお栄えて在る京都の大恩人である。のち大正4年、大正天皇即位ご大典の折合祀せられた。
祭日:4月18曰春季例大祭 9月第3日曜日萩まつり 10月10日秋季例大祭
史蹟:染井の水 京都3名水(醒ヶ井・県井・染井)の内、現存する唯一の名水。昔この地は「染殿」とも称され、宮中御用の染所としてこの井戸が用いられた。萩の名所:境内一円数百株の萩が繁殖。9月中可憐な花が咲き乱れ、参詣者の詩情を誘う』
ここの絵馬の1つにハート型がありました。表面はライトブルーに塗られ、「縁結び愛の木」と書かれていました。境内に「染井井戸」がありました。『染井 当社境内は、9世紀後半に栄えた藤原良房の娘・明子(あきらけいこ・清和天皇の御母染殿皇后)の里御所の跡で、宮中御用の染所として染井の水が用いられたと言われている。京都三名水(佐女牛井(さめがい)・県井(あがたい)・染井)のうち現存する唯一の名水として知られる』
『源氏物語ゆかりの地 梨木神社(中川の家候補地) 平安京東端の、東京極大路に沿って流れていた京極川の二条以北を中川と呼んでいた。付近の廬山寺(ろざんじ)は紫式部邸跡といわれ、「源氏物語」でも貴族の別荘が多く建ち並ぶあたりと設定されている。「花散里」で右大臣の圧力が強まり、心休まらない源氏は花散里に逢いに出かける場面で「中川のほどおはし過ぐるに」とあることから、花散里邸はこの辺りと推定されている。花散里は姉の麗景殿女御(れいけいでんのにょうご)と住んでいた。また「帚木(ほほきぎ)」では、光源氏が方違えで紀伊守邸を訪れ、空蝉(うつせみ)に出会う場面があるが、この屋敷があった場所も中川である。「蜻蛉(かげろう)日記」の作者(藤原道綱母)も中川の近くに住んでいた。 平成20年3月 京都市』
11:27、道を隔てた「廬山寺」へ。「天台圓浄宗大本山廬山寺」「元三大師」『世界の偉人・紫式部邸宅跡・源氏物語執筆地』
『廬山寺(廬山天台講寺)沿革 天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55才で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麗、現廬山寺通北に興願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月3日入滅まで、都に下った時の宿坊とされる。良源入滅後、次第相承の本光禅仙上人(嘉元2年1304寂)が現船岡山の麗に興願金剛院を再興する。一方、台密・戒浄(顕教)等事相伝承した住心覚瑜(かくゆ)上人(1158〜1235)が京都出雲路に仏閣を建て、廬山寺と号す。
廬山寺第3世並びに第5世明導照源上人(1298〜1336)が両上人の廬山、輿願師跡を伝領し、輿願金剛院師跡に廬山寺を統合し、輿願を廃し、廬山寺とし、円密戒浄の四宗兼学道場として天台の別院となる。この明導上人、受法はもとより四宗兼学であったが、特に円に精通し、第4世並びに第6世実導仁空上人(1309〜88)が密教と共に浄戒二門にも力を注がれ、両上人によって円密戒浄の四宗兼学道場としての一家の密乗を成し、廬山寺流として経軌を根底とした天台秘密乗の教判を開説されたのである。この廬山寺流は実に伝教大師より南北朝時代における天台教学の全貌を知る手鑑と称すべく、真に日本天台の宝庫であると推奨される。この頃より寺号を廬山天台講寺と称し、更に第8世明空志玉上人が明の永楽2年(1404)、足利義満の命により明に派遣された時、明の唯実上人より中国の廬山にならって日本廬山と公称されて以後、度々文書等では日本廬山天台講寺と明記されることがあった。その後応仁の乱、永禄12年(1569)にも類焼し、その時の再建勧進に「此の地は洛中の叡山、日本の虎渓なり、誰かこれを帰敬せざらん」と述べ、「洛中の叡山」の気概にあふれていた。天正元年(1573)に現地に移転、宝永5年(1708)と天明8年(1788)京都の大火で堂舎類焼するが、代々歴朝の帰依厚く、寛政6年(1794)、禁裏、仙洞、女院の御下賜をもって再建されたのが現今の本堂である。
大師堂において毎年2月の節分会に勤務修される「追難式鬼法楽」は開祖元三大師が宮中で300日の護摩供を修せられた時に3匹の鬼(赤鬼=貧欲、青鬼=瞋恚(しんい)、黒鬼=愚痴)が出現し、その三鬼を独鈷、三鈷の法器でもって退散させたという故事による。この独特の節分行事は、京都市の冬の代表的行事でもある。また、この地全域が昭和40年、角田文衛博士によって紫式部の邸宅跡であると考証発表されたのである。紫式部の曽祖父にあたる権中納言藤原兼輔(堤中納言)がこの地に邸宅を構えたのが始まりで、「源氏庭」と称する庭に咲き誇る桔梗が美しく、庭園美を醸し出している。 紫式部はこの地で育ち、結婚生活を送り、「源氏物語」を執筆したのである』
境内に「筆塚」がありました。『紫式部・大貳三位・歌碑 大貳三位:作者は名を賢子と言い、父は右衛門権佐・藤原宣孝、母は紫式部。長保2年(1000)に出生、永保2年(1082)に薨じた。親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母となり、従三位典侍(ないしのすけ)に昇進した。三位であると共に太宰大貳・高階成章と結婚したため、宮廷で大貳三位と呼ばれた。
歌人としては母親に匹敵するほどの才媛で、歌集「大貳三位集」を遺した。極めて聡明で人徳があり、乳母典侍として、後冷泉朝の宮廷文化の昂揚に大きく寄興した。
紫式部:越後守・藤原為時の娘で、名は香子(たかこ)と言ったらしい。生年は天延元年(973)頃、没年は長元4年(1031)頃と推定される。夫・藤原宣孝の卒後、中宮・藤原彰子(あきこ)に仕えた。 中古36歌仙のひとりとされ、大作「源氏物語」のほか「紫式部日記」「紫式部集」といった作品がある。その文名は遍く知られており、ユネスコによって、「世界の偉人」のひとりに選定されている。 平成7年(1995)9月 文学博士・角田文衛撰』
『廬山寺 現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、正しくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈慧大師良源(じえだいしりょうげん・元三大師がんざんだいし)が船岡山南麓に開いた輿願金剛院(よがんこんごういん)に始まる。寛元3年(1245)、法然上人に帰依した住心覚瑜(じゅうしんかくゆ)上人が出雲路に廬山寺を開き、この2ヶ寺を兼務した明導照源(みょうどうしょうげん)上人(1339〜1368)によって、廬山寺を輿願金剛院に統合し、寺名を「廬山天台講寺」とした。
四辻善成の「河海抄(かかいしょう)」にとあることから、紫式部邸の位置が「正親町以南、京極西頬(つら)、今東北院向也」とあることから、この地を紫式部邸宅跡と推定している。また、曽祖父の堤中納言こと藤原兼輔(かねすけ)の屋敷があった地で、式部の父の藤原為時(ためとき)に譲ったことから、ここで「源氏物語」や「紫式部日記」が執筆されたという説があり、平安時代の貴族邸を模した庭には紫式部邸宅跡の顕彰碑が立つ。  平成20年3月 京都市』
拝観料500円で、邸宅参拝に上がります。素敵で静かな石庭が見事でした。京都の町のど真ん中なのに静かです。邸内(寺内)に歴史のありそうな素敵で貴重なお宝がありましたが、撮影禁止で残念でした。
少し北に歩き、11:48並びにある「清浄華院」へ。『贈従一位山科言継公墓』の石碑が立っています。『清浄華院 浄土宗八総本山の1つ。浄華院ともいう。貞観2年(860)清和天皇の勅願により慈覚大師円仁が創建した禁裏内道場に始まる。後に後白河・高倉・後鳥羽の3天皇から帰依を得た法然上人が、この道場を賜り浄土宗寺院に改めたとされる。この道場を賜り浄土宗寺院に改めたとされる。室町時代には皇室や公家・将軍家の帰依を得、浄土宗の筆頭寺院としての地位を築いたが、応仁の乱により一時荒廃、天正年間に現在地へ移転した。その後も皇室の帰依を受け、境内基地には東山天皇母君敬法門院の他、皇子・皇女の墓が多数営まれている。
幕末には御所警備を担当した会津藩・薩摩藩・徳島藩・熊本藩の宿所の1つとなり、会津藩主で京都守護職となった松平容保が半年間過ごしている。山科言継・姉小路公知などの著名人の墓も多い。寺宝として普悦筆「阿弥陀三尊像」(国宝)や「泣不動縁起」絵巻(重文)がある。 大殿には法然上人像を安置、また境内の不動堂には「泣不動縁起」に由来する泣不動尊像を安置する。 京都市』
また少し北に歩き、11:53「本禅寺」。『法華宗 本山 本禅寺縁起 当山は帝都に日蓮大聖人の教えを弘める為に、門祖開山日陣尊聖人が応永13年(1406)、四条堀川に開創されまた門祖遺訓に何くにて死に候へ。魂魄は四条堀川に留まる可く候と申された名刹て有り。 日蓮大聖人の重宝たる。 随身仏立像尊を奉安する。 現在地へは天正年間、太閤豊臣秀吉の命により移る者也』
「寺町道り」を北上し、左折して12:03「幸神社」。『幸神社 祭神:主祭神:猿田彦大神 相殿神:天之御中主神・天照大神・瓊瓊杵尊・少彦名神・可美葺牙彦舅尊・大国主命・事代主命・天鈿女命 日本最古の縁結びの神として知られる当社の祭祀は、遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年(661)に御再興され、平安京創建時(794)桓武天皇により、皇都の東北の鬼門除け守護神として御造営されました。平安京造営時には社名を「出雲路道祖神」と言い、江戸時代の初め現在の地に御遷座された際「幸神社」と改められました。
主祭神に祀られる猿田彦大神は、当社に伝わる道祖神信仰と習合せられ、古くより霊験あらたかな縁結びの神として崇められています。そして、相殿神に祀られる天鈿女命は、神代随一の踊り手で芸能の始祖として知られ、また歌舞伎の創始者である出雲の阿国が当社の稚児、巫女として仕えた故実により、芸能上達を願う人々の崇敬を集めています。
本殿東側の壁に祀る三番叟(さんばそう、御幣を担ぐ猿の神像)は、御所内裏の東北隅の猿ヶ辻に祀られる猿の神像と共に皇都を護っています。表鬼門である東北の空を雲上にて眺望し、疫神・悪鬼・邪気などの侵入を防ぐ姿を顕しています。御神徳 縁結び・芸能上達・鬼門除け・旅行安全』
「同志社女子校」を北上し、右折して「上立売通り」を東進し、左折して「寺町通り」に戻り北上し、12:14「光明寺」。また少し北上し、12:18「浄土宗西園寺」。『西園寺(さいおんじ) 宝樹山竹林院と号する浄土宗の寺である。 鎌倉幕府の太政大臣となった藤原公経(きんつね)が、元仁元年(1224)に衣笠山の麓に苑池(えんち)を造り、池畔に本堂、寝殿など壮麗な堂字を建てて、西園寺と称したのが当寺の始まりである。 以来、この寺名が子孫の家名となり、当寺も西園寺家の北山山荘として子孫に受け継がれた。 しかし、足利義満が北山殿(金閣寺)を造営するに当たってその地を所望したため、上京区んお室町に移り、更に天正18年(1590)にこの地に移転した。
現在の本堂は、天明の大火(1788)後に再建されたもので、正面には、明治・大正・昭和の3時代にわたって政界で活躍した西園寺公望(きんもち)の筆による寺号の額を掲げている。 また、堂内には恵心僧都(えしんそうず)の作と伝えられる本尊・阿弥陀如来像(重要文化財)を祀り、地蔵堂には、北山の衣笠山麓にあった西園寺の功徳蔵院(くどくぞういん)の遺仏と伝えられる槌止め地蔵を安置している。 京都市』
『辨天堂 このお堂は、弁財天(弁才天弁天)がお祀りしてあります。弁財天は妙音天とも美音天ともいいますが、もとは学問や弁舌音楽などを司るインドの神で楽器の琵琶は弁財天の象徴です。 中国では天女の形姿をとり、日本では財宝の神として七福神の1つにかぞえられています。 西園寺家は代々天皇や上皇に琵琶の秘曲を伝授した宗家の家柄です。 当山開山藤原公経公が、北山第(現在の金閣寺の地)西園寺を造営されるにあたっては、妙音堂を建てて弁財天を祀り、以後琵琶の相伝も妙音堂でおこなわれるようになりました。 時移りところがかわっても、妙音堂は公郷方を中心に護持され、近世には御所内西園寺邸に祀られていましたが、明治以後民間において信仰奉賛されるようになりました。 当山の弁財天堂は、このような開山西園寺公経公以来の伝統によって、この妙音弁財天をお祀りしているのです。 当山』
「寺町通り」を更に少し北上し、12:23「天寧寺」。『山号は萬松山と号し、曹洞宗に属する。 当寺は、もと会津(福島県)城下にあったが、天正年間(1573〜1592)に、天台宗松蔭坊の遺跡といわれるこの地に移転されたと伝えられている。その後、天明の大火により堂宇を焼失したが、本堂は文化9年(1812)に、書院は天保14年(1842)に再建された。
本堂には、仏師春日作と伝える本尊釈迦如来像を、観音堂には後水尾天皇の念持仏聖観音像及び東福門院の念持仏薬師如来像を安置している。 境内墓地には、江戸時代の茶人として有名な金森宗和、剣道示現流の開祖といわれる善吉和尚らの墓がある。また、山門を通して挑める比叡の秀峰は、あたかも額縁に入れたように見えるところから、山門は「額縁門」と呼ばれて親しまれている。 京都市』
謂れ板にあるように、山門を潜ろうとすると比叡山が正面に見えまさに額縁でした。
『京都市登録天然記念物 天寧寺のカヤ カヤは山林に散生する常緑高木です。社寺境内や沿道に植栽されることも多く、ヨーロッパでも公園や庭園によく配植されます。材は碁盤に使われることで知られます。 このカヤは樹高16.2m・胸高の周囲は4.78mあります。頂部には落雷のあとが、また幹の本堂側には天明8年(1788)の本堂火災時に受けたと思われる傷痕がみられます。 市内有数のカヤの大木として、昭和62年5月1日、京都市登録天然記念物とされました。 京都市』
『京都市指定有形文化財 天寧寺 本堂・書院・表門 天寧寺は曹洞宗の寺院である。境内の主要な建物は、天明8年(1788)の大火によって旧堂が類焼した後、19世紀前期から中期にかけて建てられた。 本堂は、文化7年(1810)に上棟された六間取りの大規模な建物である。正面に向拝を設け、前列3室を仕切らずに1つの空間とし、後列中央間に来迎柱を立てて置仏壇とするが、これは同じ禅宗の一派である臨済宗寺院の方丈建築とは異なる構成である。
書院は弘化2年(1845)の造営で、床の間・床脇、付書院を持つ15畳の上の間と、同じく15畳の下の間からなり、その周囲に入側縁をまわす。西北隅に一間四方の室が張り出すのが特徴である。 表門は安政4年(1857)建築の薬医門で、構造や意匠に禅宗様の要素が見られる。 これらの建物は、江戸時代後期の伽藍の形態をよく伝えている。また市内においては数少ない曹洞宗の近世寺院建築として貴重である。  平成14年4月1日 京都市』
「寺町通り」を更に北上し、突き当たって右折し「鞍馬口通」、12:30「上善寺」。『上善寺 千松山遍照院(せんしょうざんへんしょういん)と号する浄土宗の寺院である。 貞観5年(863)、僧円仁(えんにん)により、天台密教の道場として千本今出川(上京区)に創建されたと伝えられている。その後、文明年間(1469〜87)に、春谷盛信(しゅんこくせいしん)によって再興され、後柏原天皇の勅願寺として栄え、文禄3年(1594)、寺域を現在の地に移し、浄土宗に改められた。
地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、平安時代の初め、小野篁(たかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵尊を排して蘇った後、一木から刻んだ6体の地蔵の1つと伝えられ、「鞍馬口地蔵」「深泥池地蔵」「姉子の地蔵」などの愛称で親しまれている。この地蔵は、当初、小幡の里に祀られていたが、保元年間(1156〜59)に、洛北の深泥池のほとりに祀られ、更に当寺に移されたものと言われている。毎年8月22・23日の京都六地蔵巡りには、多くの参拝者で賑わう』
山門前に、『贈正四位入江九一外7名首塚』の石碑が立っていた。入江九一を知らなかったので帰宅後調べたら、長州藩士で吉田松陰門下生でした。門下生四天王の1人として頭角を現し、1864年「禁門の変」で長州が破れた時、久坂玄瑞とともに京都で討ち死にした尊皇攘夷志士でした。入江を討ち取ったのは京を守護していた福井松平藩士でしたが、藩主松平春嶽の許可を得て他8名の志士とともに越前藩の京都菩提寺である上善寺に手厚く葬られたそうです。享年28才。その後長らく長州藩に忘れられていたが、旧福井藩から毛利家に連絡し、明治30年代に碑石が修築されたそうです。九一の妹は伊藤博文の最初の妻だそうです。
『もしもこの世が喜びばかりなら、人が決して勇気と忍耐を学ばないだろう。 ヘレン・ケラー』
12:34「閑臥庵」。『閑臥庵(かんがあん) 山号を瑞芝山(ずいしざん)という黄檗宗の禅寺である。もとは梶井常修院(かじいじょうしゅういん)の宮の院邸であったが、江戸時代前期に後水尾法皇が、夢枕に立った父・後陽成天皇の言葉に従って、王城鎮護のために貴船の奥の院より鎮宅霊符神(ちんたくれいふしん)をこの地に勧請し、初代隠元(いんげん)禅師から6代目の黄檗山萬福寺管長千呆禅師が開山となって寺としたのが当寺の起こりである。 北辰鎮宅霊符神は十干十二支九星を司る総守護神である。
御所の祈願所として法皇自ら「閑臥庵」と命名し、御宸筆(しんぴつ)の額を寄せて勅号としたほか、法皇は、春に、秋に、和歌を詠んで庭を愛でたといわれ、秋の句 「明けぬとて、野辺より山に入る鹿の、あとふきおくる、萩のした風」 など、御宸翰その他が今も伝えられている。
また、法皇も好んだ黄檗宗特有の精進である茶料理が、今は教化の一部として一般に饗されている。 京都市』
東進し、賀茂川沿い「賀茂川街道」に出て南下。右折し再び「寺町通り」に出て北上し、左折して12:43「御霊神社」。社殿も立派で、崇敬者が多いのが想像されます。手水舎が花でデコレートされており、京都らしいな〜と思いました。随神門の左右に武者が守護していました。武者随神門が好きです。
『御霊神社(上御霊神社) 祭神として崇道天皇(早良さわら親王)・吉備真備・橘逸勢(はやなり)をはじめ、十三杜の神霊を祀る。 この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが、平安京遷都(794)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちにそくなった入杜の神霊が祀られたといわれ、その後、明治天皇の御願により祭神五杜が増祀され、現在に至っている。
平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする御霊信仰が盛んで、怨霊をなだめるための御霊会が度々行われ、疫病除けの霊社として名を広めた。朝廷から庶民に至るまで広く信仰を集めたが、特に御所の守護神として皇室の崇敬が厚く、神輿や牛車等、皇室からの寄付品を多数嵐している。
本殿は、享保18年(1733)に下賜された賢所御殿を復元したものといわれている。 また、境内は「御霊の杜」と呼ばれ、応仁元年(1467)正月18日に畠山政長と義就(よしなり)の合戦が行われ、応仁の乱の発端となった場所としても知られている。  京都市』
『応仁の乱勃発の地 文正2年(1467)正月18日朝、この付近すなわち御霊の森(上御霊神杜境内)での合戦から「応仁の乱」は始まった。前日の17日深夜、畠山政長は自ら屋敷を焼いて、一族郎党や奈良筒井氏の成身院(じょうしんいん)光宣(こうせん)らと兵約2000を率いてここに布陣した。
翌18日早朝、畠山攻長と畠山家の家督を激しく争っていた畠山義就が兵3000余で攻撃をしかけ、18日は終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝景、ついで山名持豊(やまなもちとよ・宗全)の命を受けた山名政豊が加勢した。しかし政長方には瀬みの細川勝元がこの時点ではまだ動かず、まる1日の合戦の結果、政長方は持ちこたえられず退去した。これが「応仁の乱」の最初の合戦である。
その年の3月、年号は「文正」から「応仁」と改まり、細川氏・山名氏の両陣営はそれぞれに味方を集めて戦時体制をかため、5月から上京を中心に、将軍・足利義政の後継者争いも絡み合う、東西両軍の全面的な戦に入った。この戦は京の都を疲弊させ、室町幕府の権威を失墜させたが、厭戦の風潮の中、細川・山名両氏の間に和睦が成立し、文明9年(1477)、11年問に渡る大乱はようやく収束をみた。 なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。  京都市』
枝道を少し西に走り、12:59「猿田彦神社」。左折して、R367(烏丸通)を南下し、右折して「上立売通り」を西進し、右折して「堀川通」を北上しました。右折して、13:09「宝鏡寺」。『京都市指定有形文化財・宝鏡寺6棟 書院・本堂・使者の間・玄関・阿弥陀堂・表門 宝鏡寺は、西山と号する臨済宗の寺院で、寛永21年(1644)に後水尾天皇の皇女・理昌尼王が入寺してからは尼門跡寺院として栄え、今日も百々御所の名で知られる。
境内は天明8年(1788)の大火で焼失し、まず復興されたのが書院で寛政10年(1798)3月に上棟した。建物は、東端北寄りに主座敷である御座の間、手前に次の間の大広間を配し、さらにこの西寄りに猿の御間以下7室と蛸の間が3列に並ぶ。襖絵は、天保4年(1833)に円山派の絵師により描かれたものである。
この後、少し遅れて文政13年(1830)に本堂・使者の間・玄関などが造営された。このうち本堂は、前後各3室からなる6間取の方丈形式で、後列東端は床を一段高くして上段の間とするが床の間・棚などの座敷飾りを欠いている。また、室境には狩野派の絵師により描かれた襖絵が残る。
さらに弘化4年(1847)、光格天皇勅作の阿弥陀如来像と共に御所の建物の古材を賜り、阿弥陀堂が造営された。 宝鏡寺の書院以下のこれらの建物は、尼門跡寺院の構成をよく伝えるものとして価値が高い。  平成6年4月1日 京都市』
枝道を少し東に入り、13:13「千利休居遺跡「不審庵」」。千利休はここに住んでいたのか〜と、ちょっと感動しました。「これは見学せねば」と思ったのですが、『拝観しておりません』『御用の方は左の玄関においでください。家元にご用のある方以外は門内に入らないようお願いいたします。 不審庵』と書かれており残念。家内がお茶の免許皆伝者なので、千利休はとても興味があります。
少し北に走り、13:15「本法寺」。「執金剛大力神」の扁額が下がっていました。山門左右に金剛力士が鋭い視線を送っていました。『略縁起 当山安置の大摩利支尊天は、力(気力・体力・財力)の守護神として諸天善神中、最も霊験顕著なり。依って古来より崇敬絶えず、現前の清衆歩みを進め参詣せられんことを。 また、諸の御祈願、御開帳などは、本山本法寺方丈寺務所までお申し出下さい。  平成27年乙未年正月 本山本法寺』
猪の狛犬がいました。和気清麻呂を祀る京都護王神社のようです。『本法寺 叡昌山と号し、日蓮宗本山の1つである。永享8年(1436)本阿弥清信が日蓮上人を開基に請じて創建したのが当寺の起こりという。 はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1536)法華の乱によって山徒に焼かれ、のちここに移った。江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護を受けて繁栄し、中山法華経寺(千葉中山にある日蓮宗本山)輪香にあたる上方三山の1つでもあった。
現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであるが、本阿弥光悦作庭の「巴の庭」は有名である。このほか当寺は本阿弥家の菩提寺であったことでも名高く、一門の墓もあり、本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせている。寺宝には、千舜挙(せんしゅんきょ)筆と伝える蓮花図、群介図・中文殊左右寒山拾得(かんざんじっとく)画像、長谷川等伯筆の仏大涅槃図など絵画10点と本阿弥光悦筆の法華題目抄など書2点の重要文化財を所蔵している。  京都市』
涅槃図などを観に行きます。拝観料500円。石庭が美しい。石庭正面に勅使門のようなものがありますが、天皇家の菊の御紋ではなく葵紋なので、紀州徳川家の使者をお迎えする時の門でしょう。廊下の梅の盆栽に花が咲いています。庭を観るテーブルに透明ビニールクロスが掛けられ葉が押し花のようにテーブルを彩っています。縁側の脇の手水舎に綺麗な花が浮かび、いろいろ日本的なお洒落が美しい。「巴の庭」以外に小さな中庭が数ヶ所あり、のんびり観賞出来ます。観光客がほぼゼロなので贅沢な時間です。「長谷川等伯筆の仏大涅槃図」などは写真禁止だったので写せませんでしたが、流石に見事でした。
『本法寺 1592年(文禄元)から98年(慶長3)まで7年におよんだ文禄・慶長の役(韓国・挑戦では壬辰倭乱、中国では万暦朝鮮役などとよぶ)は朝鮮半島の人々に甚大な犠牲を与えた。豊臣秀吉の死によって戦闘は終息したものの、その戦後処理は難航した。朝鮮側は新しく日本の政権を握った徳川家康の真意を確かめることが先決だと考えていた。そこで慶長9年(1604)に松雲大師惟政という高い地位にあった僧侶をまず派遣することにした。松雲大師はこの戦中に僧兵を率いて日本軍と戦った人である。同年12月末に対馬島主などと共に入洛した松雲大師は本法寺に滞在し、家康との会見を待った。その間、京都五山の著名な僧侶たちが本法寺に大師を訪れて詩文の交流をしたり、仏教や儒教の知識について筆談問答を重ねた。ある日本の僧侶は松雲大師を「傅覧強記・筆跡もまた麗し」と評している。家康との会見は翌年3月初旬に伏見城で行われた。
この会見で家康は「我は朝鮮に讐怨(しゅうおん)なし。和を請う」と述べた。この報告を松雲大師から得た朝鮮朝廷は、「家康からの謝罪の意思を表わした国書の到来」などが国交回復の条件とした。これが届いたので、慶長12年(1607)には朝鮮から戦後初めての使節団(回答兼刷還使・かいとうけんさつかんし)が来日することにつながった』
枝道を少し北に走り、13:48「妙覚寺」。『妙覚寺大門 妙党寺は北龍華具足山(きたりゅうげぐそくざん)と号し、京都日蓮宗名刹三具足山及び京都16本山の1つである。 南北朝時代の1378年、龍華院日実上人により、信徒で豪商の小野炒覚の四条大宮の邸に創建され、その後、二条衣棚に移ったが、豊臣秀吉による大規模な都市改造の際に、この地に移建された。 一時は、本能寺とともに、織田信長の上洛時の宿所とされ、千利休による茶会も催された。
この大門は、寺伝によると、秀吉が天正18年(1590)に移設した聚楽第の裏門を、寛文3年(1663)に移建したものといわれており、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の方丈・唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構である。城門特有の両潜扉を持ち、梁の上には伏兵を配置できる空間が設けられている、建築史上興味深い建物である。  京都市』
拝観しようと思ったら、『只今の期間は、拝観休止とさせて頂きます。尚、ご主題・御朱印は随時受け付けております。 日蓮宗本山・妙覚寺』
枝道を少し走り、13:55「もくけ地蔵天台宗西林寺」。
衣棚通り〜上立売通り〜小川通り〜今出川通〜堀川通〜五条通〜大宮通りで南下します。左に「西本願寺」「龍谷大学大宮学舎」を見、右に「京都水族館」、更に「JR東海道線・嵯峨野線」を超え、「東海道新幹線」をくぐりました。東寺五重塔南東角を右折し「九条通」を西進し、すぐに左折してR1を南下しました。「京都南IC」から名神高速に乗り、14:22「桂川PA」で「バニラソフト151円」で糖分補給しました。「吹田IC」で下車し、中央環状線〜R171で帰宅しました。


2021/2/7
奈良の寺社ツーリングに出ます。倉庫から「里山VTR250」を出し、6:26出発。R171〜中央環状線〜r2で南下し、左折してR163を東進します。「清滝第2トンネル」で生駒山系の北を抜け、右折してR168で南下します。「天野川」沿いを走ります。
7:19「岩蔵寺」。案内板がない寺院なので、前回探索した時見つけられずスルーしていました。野生の勘で枝道に入ると、正面に石段が上がっていました。バイクを止め、石段を上がっていくと寺院がありました。山寺的な寺院を想像していましたが、ひっそりと小ぶりの建物がありました。境内に木材が井桁に組んでありました。修験道の匂いがします。昔妙齢の美女だっただろう女性が、水を汲んで仏像などを掃除されています。山側に大岩が林立し、滝はありませんでしたが不動明王が似合う景色です。「岩屋山岩蔵寺」と書かれた扁額が掛かっています。昔の美女さんに、「修験道のお寺さんですか?」と聞いてみましたが、「何も知らないんです、すみませんね〜」との答えでした。
R168を南下し、阪奈道路・近鉄奈良線をくぐり、続いて近鉄生駒線をくぐって更に南下。「第2阪奈道路」をくぐる手前で左折し、側道を東進します。近鉄生駒線を渡り、R308に乗り、国道なのに林道の細さになり、峠を越えました。R308を西の大阪側に走れば有名な激坂スポット「暗峠」があります。
左折してR308から離れ、「矢田山遊びの森」へ登っていきます。次の目的地「東明寺」へのショートカット道のようですが、バイクでも走れる道なのだろうか?「The end」になり延々バックすることになりそう・・・と、半分期待しながら入っていきます。いつ歩道のみになるか、あるいは道がなくなるか楽しみながら山中を走り峠を越えて下りへ。コンクリート舗装になり勾配を増して下ります。里に下り、突き当りを右折して、再びコンクリート舗装の急勾配になり、8:05「東明寺」。山寺のようです。バイクも厳しそうな山道に、次に向かおうと考えている「矢田寺」の案内板が立っています。自然歩道が続いているようです。
『東明寺 鍋蔵山と号し、高野山真言宗。本尊は薬師如来。松尾寺、金剛山寺とともに矢田丘陵の高所に建てられた歴史の古い山岳寺院の1つです。矢田村の惣鎮守である矢田坐久志玉比古神社の神役を勤めていたことも知られています。 寺宝には、重要文化財の木造薬師如来坐像・木造地蔵菩薩坐像・木造毘沙門天立像・木造吉祥天立像があります。いずれも平安時代の作です。 なお、裏山には本多家の跡目相続をめぐる争いである「九六騒動」で活躍した郡山藩家老都筑惣左衛門の五輪塔があります。  平成5年10月  大和郡山市』
本殿に行くと、「舎人親王勅願所」の木札が下がっています。舎人親王は、日本書紀の編纂者。こんなところに・・・と驚きました。「鍋蔵山東明寺」。蟇股の龍の彫刻が凝っています。
『東明寺略縁起 東明寺は、天武天皇の第3皇子で「日本書紀」の撰者として名高い舎人親王の創建である。宗派は、高野山真言宗。
舎人親王は、母である持統天皇が眼病に悩まされているのを哀しみ、その回復を祈って諸寺諸社に日参していたが、夢枕に老翁に姿を変えた白髭明神のお告げがあり、さっそく当山に登り、翁の与えた金鍋(きんか)一口を持って霊井の水をすくい、この水で母君の両眼を洗ったところ、忽ちに母君の眼病は平癒したので、恩謝の為にこの山に精舎を建立した。
その造営は持統天皇の8年(693)春3月に始まり、翌年4月8日に終わった。そして、この山が金鍋納蔵の山であり、また東方浄瑠璃世界の本主で衆病悉除の医王である薬師瑠璃光如来を本尊とし、更に、眼病平癒を得た因縁から、この寺は鍋蔵山(かぞうざん)・東明寺と号するようになった。
お堂内の拝観 お薬加持 ご祈祷(身体健全・安産祈願・当病平癒など各種祈願) 先祖供養・水子供養秒 年忌法要(法事) いずれも要予約0742(52)7320東明寺年中行事 3月第1日曜日11時:薬師講 4月8日13時:東明寺開山法要 11月第4日曜日14時:大般若経転読法要 毎月8日13時:薬師法会』
山を下り、里の信号を右折して、8:30「矢田寺」。山門前ではなく、本堂の方までバイクで上がりました。山寺ですが、意外に大きく下界の景色が広がっていました。
下山し、9:13「ローソン大和郡山新町店」。「サントリーボスとろけるカフェオレ500ml162円+ピーナツクリームパン5個108円+レジ袋3円=273円」。
r123に入り、9:30「松尾寺」。坂を登って行くと、意外に駐車場が3ヶ所もある立派な寺院でした。バイクをPに停め、小さな山門前に、「本尊・厄仏観世音霊刹・松尾寺」の石柱が立っていた。小ぶりな山門を入ると、『やまとの松尾寺霊泉 大和郡山市松尾寺 奈良県では、古くから地域の人々の生活と深く関わり守られてきた清澄な水や、すぐれた水環境を「やまとの水」として選定しました』
の立て札が立っていました。境内に上がると、『イノシシが境内にいます。人間に動揺しません。お気を付け下さい。10頭前後の群れを多数目撃してます』の立て札も。境内に木組みがあり、護摩を炊いていそう。
境内から一段高い所に三重塔が見えています。そちらに上がっていくと、『十三重石塔(鎌倉) 舎人親王の毛骨を埋めた塔。初層の投身には月輪内に金剛界四仏の梵字を薬研彫に刻み軒反りは温雅。相輪には水煙を作られている鎌倉中期の名塔である』。三重塔から更に石段を上り、『松尾神社 祭神・祭礼:歳旦祭1月3日・春の大祭3月1日・初午祭2月3月・秋の大祭10月1日・二のうま祭・三のうま祭 牛頭天王(素戔嗚尊)・婆利采女(櫛稲田姫):結婚・家庭円満・子宝 本社松尾大明神:地主・国家鎮護・醸造・土木建設・諸願成就 清瀧権現:雨請い・雨止め 福徳龍王:福徳開運 末社:十九所大明神・葛城御歳大明神』
木々の間から下界が見えます。意外に標高が高い。
『七福神堂(西大黒堂)創建 承和年中・平安時代:現在の堂は元治元年(1864)甲子の年、郡山城主・柳沢保伸殿が村内一般に亘り、3ヶ年間の勧進をし、願主らの浄財によって再建されたものを昭和39年に解体修理した。
松尾山大黒天(重文):七福神堂(元大黒堂)の本尊は、弘仁5年(814)寺伝によれば、弘法大師が御自らお刻みになったもので、福徳開運・商売繁昌・幸福の神として広く信仰され、霊験を受ける者が多い。総丈約1m桧材一本造りの本像で、垂れ布の付いた頭巾を被り、括り上げた袴を着けた逞しいお姿に、左手は袋を肩にして負い、右手は拳槌印にして腰に当て、沓を覆いて荷葉座(蓮の葉)の上に立たれる面容も威厳があり技法も優れ、比論を絶する優作として広く知られる。現存大黒天の中では筑紫の観世音の像と共に、最も古く勝れた彫像である。弘法大師の聖示:「夫れ摩訶迦羅天(まかぎゃらてん)(大黒天と訳す)は大自在の化身にして一粒を供養せば億萬石の富貴乃至官位様を授け給へりとの折言願経軌に明らかなり。人の苦難を救わんには財宝に過ぎたるものなし。さればこの尊天を礼拝せんには、沐浴斎戒し灯明・酒・洗米・鮮果などの供具を備え信を祈らば、財宝珍器、意のごとくなるべし。丹誠んで深く信ぜよ。 昭和61年1月1日』
『聖徳太子(574〜622年) 1400年御遠忌記念公開 南無仏太子像(太子2歳像)・孝養太子像8対し(太子16歳像)・摂政太子像(太子35歳像) 古くから大和松尾寺は、法隆寺奥之院として知られる。聖徳太子は用明天皇の皇子、幼名は厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子。深く仏教に帰依し推古天皇の摂政として十七条憲法を制定等々。飛鳥文化の推進者となる。
620年聖徳太子「国記」「天皇記」を作る。720年舎人親王(松尾寺開山)日本書紀編纂をする』
里に下り、r9を西に走り、10:08「法起寺」。拝観料300円。『法起寺 法起寺は別名、岡本尼寺・岡本寺・池後寺・池後尼寺と呼ばれ、法隆寺や四天王寺・中宮寺などとともに、聖徳太子御建立7ヵ寺の1つに数えられる。鎌倉時代に著された「聖徳太子伝私記」に、かつて法起寺三重塔の露盤銘に創建の由来が刻まれていたという「塔露盤銘文」が掲載されている。それによると、太子は推古30年(622)2月22日、薨去にあたって、長子の山背大兄王に岡本宮を寺院とすることを勅したとある。発掘調査においても、法起寺の前身建物の遺構が確認されており、聖徳太子が推古14年(606)に法華経を講説した岡本宮であると考えられている。また舒明10年(638)に福亮僧正が、太子のために弥勒像1躯と金堂を造立、さらに天武14年(685)には、恵施僧正が宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706)に塔の露盤を造ったという。寺は盛衰を繰り返し、その後江戸時代、17世紀後半には真政圓忍とその弟子達が塔を修復し、講堂を再建した。また文久3年(1863)には聖天堂も造営された。講堂の本尊であった木造十一面観音菩薩立像はスギの一材から造られ、10世紀後半の作と考えられており、現在は収蔵庫に安置されている。法起寺は平成5年(1993)、法隆寺とともに「法隆寺地域の仏教建造物」として世界文化遺産に登録された』
境内に、「重要文化財・十一面観音立像」(平安時代)をメインに仏像を収蔵したコンクリート造の収蔵庫がありました。平安時代製造なのに金箔がとても綺麗です。リニューアルしたのかしていないのか・・・煤払いなどをしていなければ、オリジナルのままでしょう。他に、平安時代「不動明王」、江戸時代「賓頭盧尊者」「阿弥陀如来」「愛染明王」「達磨大師」「弘法大師」「穣麌梨童女」「阿?如来」「釈迦如来」の仏像が並んでいました。
奈良的な甘美のない講堂があり、三重塔が美しい姿を見せていました。『三重塔(飛鳥時代国宝) 慶雲3年(706)に建立された現存する日本最古の三重塔で、高さは約24m。初重の円柱の胴張り、雲形組み物などに飛鳥時代の仏教建築様式がみられる。また塔の柱間は、法隆寺五重塔の初重、三重、五重とそれぞれ同じ寸法で、模したと考えられている。初重内部は土間で、法隆寺五重塔にみられる塑像群などはなく、四天柱と八角の心柱が見える。建立以来修理を重ね、昭和47年(1972)から50年(1975)にかけての解体修理では、改造されていた三重目の柱間が三間から二間へと創建時の姿に復元された』
「文久3年(1863)に建立された 聖天堂 江戸時代」がありました。「歓喜天」の扁額が下がっており、夫婦の愛を称賛する仏教の守護神天部の1つです。象頭人身ガネーシャが抱き合う像が代表的で、刺激的な愛欲像で弁天様同様好きな像です。
r9を更に西に走り、10:24「法輪寺」。拝観料500円。『法輪寺は三井寺とも呼ばれ、創建には2説を伝える。1つは推古30年(622)、聖徳太子の病気平癒を願い、長子の山背大兄王らが建立したというもの、1つは天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、円明法師らが建立したというものである。昭和25年(1950)の発掘調査では創建伽藍配置が法隆寺式であること、法隆寺西院伽藍の2/3の規模であること、出土瓦の文様が法隆寺と類似することが判明した。このことから7世紀末頃には寺観が整ったとみられる。
正保2年(1645)、伽藍は台風によって倒壊し三重塔だけが残ったが、江戸時代中期に宝祐上人や大円上人らにより復興が進められた。明治期には三重塔が国宝に指定され、同36年(1906)には解体修理も行われている。しかし昭和19年(1944)7月22日、三重塔は落雷で焼失した。住職による塔再建の発願・勧進は地元をはじめ全国から支援され、昭和50年3月に創建当時の姿で竣工した。現在耐火耐震の講堂(収蔵庫)に11体の仏像を安置する。
星のお堂 妙見堂と妙見菩薩について 妙見堂は本尊に妙見菩薩立像を祀る仏堂で、1年の除災招福と請願成就を願う節分の星祭りなどを行う。妙見信仰は近世以降、法輪寺の信仰の一角をなした。旧妙見堂は江戸時代中期の様式を残す三間堂だったが平成15年(2003)に改築され、格天井には改築前の星曼荼羅に加え、新しく十二支か描かれる。
また妙見菩薩立像は11世紀の作で、現存する最古の木彫妙見像といわれる。北辰(北極星)を仏格化した菩薩で、平安時代には現世利益を願う妙見信仰が広まり、中世には武士の軍神として、近世以降は諸願成就の仏として庶民の信仰を集めた。通常は秘仏だが、毎年4月15日の妙見会式で開帳される。
主な寺宝:三重塔(昭和50年再建)・薬師如来坐像(飛鳥時代/重文)・虚空蔵菩薩立像(飛鳥時代/重文)・十一面観音菩薩立像(平安時代/重文)・妙見菩薩立像(平安時代/秘仏)
行事のご案内:星祭り2月3日・新春妙見護摩祈祷2月15日・妙見会式4月15日・秋季特別展11月1〜7日・妙見護摩祈祷毎月15日・お写経の会毎月第4日曜』
境内に入るとすぐ、三重塔が迎えてくれました。『法輪寺三重塔は7世紀末に創建され、地下式の心礎や雲肘木など飛鳥時代の建築様式をよく示し、明治時代には国宝に指定されていた。しかし昭和19年(1944)7月21日、落雷で焼失し、現在の塔は多くの人々の支援により昭和50年(1975)3月末に再建されたものである。基壇面の地下2.5mにある旧三重塔の心礎をそのまま用い、心礎中央に穿たれた舎利孔には、焼失時に拾得された仏舎利が、内側から順に瑠璃・金・銀・銅の壷に入れ子状に納められている。また初重内陣には焼失の難を逃れた釈迦如来坐像(平安時代)と四天王像(平安時代後期)を安置する』
コンクリート造の宝物殿がありました。『重要文化財 薬師如来坐像 木造、彩色、像高110.6cm、飛鳥時代。法輪寺本尊で、もとは金堂に安置されていた。現存する飛鳥時代の木彫如来像としては唯一、最大とされる。樟材の一木造で、必要に応じて木寄せが行われている。施無畏与願(せむいよがん)の印を結び、二重の宣字形台座の上に懸裳を垂下させて結跏趺坐(けっかふざ)する。寺伝に山背王一族の現世利益を祈願して鞍部鳥(くらつくりのとり)に造らしめたと伝え、薬壷を持たない古い形式である。面長なお顔や直線的、平面的な像容は一見して止利式の如来像の形を受け継ぐが、2枚の大衣を重ねる着衣形式やうねりのある二重瞼。一直線に引き結んだ唇、衣文の左右非対称などから、中国の斉周様式の影響もうかがえる。
重要文化財 虚空蔵菩薩立像 木造・彩色、像高175.4cm、飛鳥時代。かつては薬師如来立像とともに金堂に安置していた。寺伝では虚空蔵菩薩とするが、左手に水瓶(すいびょう)を持ち、右手は屈臂仰掌(くっぴぎょうしょう)している像容から観音菩薩と考えられる。樟の一本造で、三段葺きの大きな反花の蓮華座の上に両足を揃えて直立する。内刳りはないが、木心部分に当初からとみられる空洞状の朽損がある。体つきは平面的で簡素な肉づけで、側面から見るとやや腹部が前に出ており、法隆寺の百済観音像に似る。本尊の薬師如来と共通するうねりのある二重瞼、一直線に引き結んだ唇、天衣の左右非対称などから、中国の斉周様式の影響が伺える。
重要文化財 十一面観音菩薩立像 木造、彩色、像高360.0cm、平安時代。講堂の本尊で、頭部から台座(請花)までと、両腕の大部分が杉の一材から彫り出されている。大きな眼、太い眉、厚い唇の力強い顔は平安前期の特色を示し、穏やかな作風から10世紀頃のものと考えられる。化仏(けぶつ)は宝髻(ほうけい)の上に仏面1、地髪の正面に慈悲面3、左側に憤瞋面3、右側に牙上出面3、背後に暴悪大笑面1とあり、右手を長く垂下して左手を屈臂(くっぴ)する。光背は中世の後補である。かつては初午のお参りが盛んであったと伝えられている。現在も地元の三井集落に観音講が継承される。また会津八一「鹿鳴集」にも歌が詠まれ、境内に歌碑が建つ。観音菩薩は、正しくは観世音菩薩あるいは観自在菩薩という。観世音とは衆生が救いを求める音声を聞くとただちに救済することと、観自在とはその救済も自在であることを意味する。救いを求める者に応じて千変万化の相に変化するとされ、種々の変化(へんげ)観音が考えられた。十一面観音は最も古い、かつ代表的な変化観音である』
バイクに戻り、10:51「斑鳩神社」。『斑鳩神社(天満宮) 斑鳩神社は、旧法隆寺村の守り神として、丘の麓にありましたが、元享(げんきょう)4年(1324)に現在のところに遷したといわれています。地元では「天満さん」の名で親しまれています。 菅原道真公(845〜903)を祀る神社で、天慶年間(938以降)に、法隆寺第9代官主湛照僧都(たんしょうそうず938〜946)により建立されました。 また、湛照僧都管主は、菅原氏の後裔であることも関係し、ここに建立したと伝えられています。 境内には、本殿・一殿・二殿と惣社・五所社・白山社・大将軍社・厳島社・恵比寿社の6社が祀られています。 10月中旬には、家内安全と五穀豊穣を願って、五台のふとん太鼓が練り繰りひろげられます。
主な祭礼行事:12月31日除夜祭/元旦歳旦祭/1月2・3日元始祭/1月15日恵比寿祭・大どんと/10月中旬秋祭り』
鳥居をくぐり、石段を上がって境内へ。拝殿の蟇股の龍が立派でした。木鼻の彫刻も細かく見事でした。大きな絵馬は数枚掛かっています。『斑鳩神社 理念(目的) 斑鳩神社が多くの人に喜んでお参り頂けるみんなの為の神社になるよう努力しよう。そしてみんなが斑鳩神社を大事にしようという気持ちを通じて、人々が公共心について考える一助になれば幸いであります。 斑鳩神社 氏子総代会』
バイクに戻り、斑鳩神社から五重塔が見えていた法隆寺へ。11:08「法隆寺」。
『南大門(室町時代・国宝) 法隆寺の玄関にあたる総門。三間一戸の八脚門で、当初は中門前の石段上に建っていたが、寺域の拡張により現在の場所に移された。法隆寺の伽藍への主たる入口であり、門前の松並木からこの門を潜り抜けると幅広い参道に出る。永享7年(1435)の再建である。組入天井を張り、木鼻や花肘木が用いられ、軒は中央から大きく反り上がっている』
南大門を抜けると広い参道が一直線に伸び、正面に立派な中門、その奥に五重塔が見えます。中門の左右に仁王像が見張っています。東大寺のように中門の左端に入口があり、拝観料1500円。「西院伽藍」「大宝蔵院」「東院伽藍」の3つのチケットの合計です。それぞれに入る時、チケット確認がありました。中門を入ると、右に金堂、左に五重塔の法隆寺タイプの配置です。
『聖霊院(鎌倉時代・国宝) 法隆寺を創建した聖徳太子の尊像を安置する殿堂で、聖徳太子が薨去されて500年に当たる保安2年(1121)に、僧房東室の南端三房分か御堂とされ、弘安7年(1284)に建て替えられて現在の姿となった。聖霊院内陣の奥にある唐破風を付けた厨子は三部屋に区切られ、その中央には、保安2年に開眼された等身大の聖徳太子像、向かって右側の厨子には、太子の仏級の師である高句麗僧の恵慈法師と太子の弟君にあたる卒末呂王、背後に地蔵菩薩像、向かって左側の厨子には、太子の長子である山背大兄王と太子の弟君にあたる殖栗王、背後に如意輪観音像が祀られている。
聖徳太子像(平安時代・国宝) 聖徳太子(574〜622)は、6世杞半ばに中国大陸から日本に伝来した仏教の普及において、中心的な役飼を累たした人物で、本像は推古天皇の御前で勝鬘経を講説された35歳または46歳の時、あるいは摂政の姿とされる。毎年3月22日には厨子の扉を開いて、太子の御命日法要であるお会式が営まれる。このとき大山立と言われる供物などで堂内が荘檄される』
『東室(飛鳥時代・国宝) 西院伽藍廻廊の東に位置する僧房で、天平19年(747)の「法隆寺資材帳」に記された4棟の僧房のうち、創建以来の遺構を伝える唯一の建物である。扉口と連子窓の南北二間分で1房を示し、本来9房であったが、南側の3房が聖霊殿に改められ6房分が残る。保安年間(1120〜1124)に旧材を用いた再建に近い大修理がなされ、以来、度重なる大修理や改造によって僧房としての機能は失われていった。しかし現在の建物は北側の第2・第3房が白鳳創建当初に近い形式に復されている。また、大梁が全体に円弧形で廻廊の虹梁によく似ていることから、廻廊とともに造営されたと考えられる。なお東側の軒には丸垂木が使われており、創建当初の面影が遺っている。
妻室(平安時代・重要文化財) 東室に付属する建物で、東側に並列して建つ。平安時代の建立と考えられ、正式に「東室小子房」と称し、小子房としては現在唯一残る建物である。慶長6年(1601)の改造の際に、南北の長さが約2/3に縮小され、南半分が聖霊院の御供所、北半分が東室の台所にされた。現在は当初の9房の姿に復元されている。各房は三間を1房とし、南寄りの一間は扉口にある前室、北寄りの二間は窓のない居室となっている。そして東室の各房と中庭を挟んで1組として使われ、中庭も房ごとに仕切られていた』
『大宝蔵院(百済観音堂) 国宝の百済観音像をお祀りする百済観音堂を中心に、東西の宝蔵からなる宝物館で、平成10年(1998)に建てられた。東西の宝蔵には、法隆寺に伝来する各宝の数々が安置される』
『食堂(奈良時代・国宝) 奈良時代に創建され、もとは政屋と呼ばれる建物であったが、平安時代になって食堂として使われるようになった。内部は土間で、全体が吹き放しの広い一室となっており、中央の厨子に奈良時代の塑像(そぞう)、薬師如来坐像が安置されている。建物は食堂の南側にある細殿と軒を接して建つ双堂で、奈良時代の建築様式をよく残している。なお現在は4月8日にお釈迦様の生誕を祝う仏生会の法要が営まれる』
「大宝蔵院」に入ります。『大宝蔵院 観音菩薩像(夢違観音・白鳳時代・国宝) 7世紀後半の作で、高さ86.9cmの銅造。以前は東院の絵殿に祀られていたもので、悪い夢を良い夢に変えてくださる力があると信仰され、「夢違観音」の名前で親しまれてきた。親しくみずみずしい顔立ちが印象的である。
地蔵菩薩像(平安時代・国宝) もとは奈良県桜井市の大神神社の神宮寺、大御輪寺にあった地蔵菩薩像で、9世紀の作である。明治時代初年の神仏分離に際し、法隆寺に移された。内刳はなく、頭から台座の蓮肉部までヒノキの一材から彫出され、衣文の鋭い表現も際立っている。来歴や持物から神像という説もある。
玉虫厨子(飛鳥時代・国宝) 宮殿部の柱や横材に施された唐草文様の透彫金具の下に、玉虫の羽が敷き詰められていることから「玉虫厨了」と呼称される。7世紀の造立で、本来は推古天皇御所持の厨子であったとも伝えられる。高さは226.6cm。宜字形の台座上に置かれた宮殿部は、綴葺の屋根、精緻に造られた組み物等で仏殿の形に造られ、雲斗・雲肘木など、金堂と共通する古い建築様式がみられる。また下部の台座には正面に「舎利供養図」、背面には「須弥山世界図」、側面には仏教説話などをもとにした「捨身飼虎図」(しゃしんしこず)「施身聞偈図」(せしんもんげず)の彩画もみられ、当時のあらゆる技術の粋を集めた厨子として大変貴重である。
大宝蔵院 国宝の百済観音像をお祀りする百済観音堂を中心に、東西の宝蔵からなる宝物館で、平成10年(1998)に建てられた。東丙の宝蔵には、法隆寺に伝来する名宝の数々が安置される。
百済観音像(飛鳥時代・国宝) クスノキの一材から彫出された観音像で、法隆寺を代表する仏像の1躯である。像高209.4cm、すらりとした姿で、微笑みかけるような柔和な表情が印象的である。左手には水瓶を持ち、右手は肘を曲げ、掌を上に向ける。光背の支柱は竹のように見えるが木彫で、基部には山岳文が表現される。この像が初めて法隆寺の記録に登場するのは17世紀末で、そこには「虚空蔵菩薩百済国より渡来 但し天竺の像なり」と記されている。明治になって化仏のある透彫の宝冠が発見されたため、観音菩薩であるとされ、百済観音と呼ばれるようになった。しかし造顕されたのは日本であると考えられている。
伝橘夫人念持仏及び厨子(白鳳時代・国宝) 橘夫人(橘三千代)は藤原不比等の夫人であり、聖武天皇の妃、光明皇后の母である。蓮池を表した銅造鍍金の台から、螺旋状に立ち上がった3本の蓮茎の上に蓮華座が乗り、阿弥陀三尊像が安座する。本像には初唐の影響がみられ、7世紀後半の作と考えられている。厨子の扉には様々な菩薩や金剛力士、須弥座の背面には、阿弥陀如来の浄土に往生したばかりの菩薩たちも描かれている。
百万塔(奈良時代・重要文化財・102基) 天平宝字8年(764)に起こった藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の後、罪滅と国家の平安を祈念するために、称徳天皇(重祚前は孝謙天皇)の発願によって造られた木製の三重小塔である。神護景雲4年(770)に100万基が完成し、十の大寺に10万基ずつ納められたが、現存するのは、法隆寺伝来の約4万6千基のみである。搭身部の中央を刳り抜いた中に、造搭・書写の供養が説かれた陀羅尼経が納められており、年紀の明らかな印刷物としては世界最古である』
『東大門(奈良時代・国宝) 西院伽藍から東院伽藍へ通じる参道途中に建つ。門の来歴は不明だが、昭和9年(1934)の解体修理の際に発見された部材の番付墨書から、食堂の南方あたりに南向きに建っていた門を平安時代に移築し、東西に通り抜ける門としたと推測されている。南北に通る棟木が、両脇と中央の合計3本ある三棟造という建築様式で、奈良時代の姿を伝える貴重な門である』
暫く歩いて「夢殿」へ。『夢殿(奈良時代・国宝) 宝珠が印象的な八角円堂で東院の本堂である。天平時代の創建で、鎌倉時代の寛喜2年(1230)に高さや軒の出、組物などが大きく改造された。軽やかでかつ安定した外観は、法隆寺の数ある建造物のなかでもひときわ美しい。また夢殿の名称は、聖徳太子の夢の中に現れた金人の伝説に由来する。八角形の堂宇は供養堂として建てられたものが多く、夢殿も例外ではない。この場所は聖徳太子が住んでおられた斑鳩宮の跡地で、朝廷からの信任も厚い学僧であった行信僧都は、その荒廃ぶりを嘆き、太子と一族の供養のために伽藍の建立を発願し、天平11年(739)に夢殿を造営した。堂宇には、聖徳太子の等身像と伝える救世観音像のほか、行信僧都坐像、平安時代に東院を復興した道詮律師坐像などが安置されている』
『救世観音像(飛鳥時代・国宝) クスノキの一材から彫り出された像で、像高が約179cmあり、聖徳太子の等身像と伝えられる。慈悲に満ちた面長な顔立ちで、大きな宝冠を頂き、火焔付きの宝珠を両手で胸前に捧げ、二重反花の台座に立つ。そのお姿は太子を意識したとも考えられる、久しく秘仏として厨子の扉が閉ざされていたが、明治17年(1884)に法隆寺を訪れたフェノノサらは反対する僧侶たちを説き伏せて厨子を開扉した。現在では毎年2回、春と秋に特別開扉が行われる』
『絵殿・舎利殿(鎌倉時代・重要文化財) 創建時は「東院縁起」に「七間御経蔵」と記された建物で、聖徳太子ゆかりの品々を保管する蔵であったが、承久元年(1219)の建て替えで改造され、東側三間分を舎利殿、西側三間分を絵殿、中央一間を馬道とした。舎利殿中央の仏壇上には貞治3年(1364)造立の春日厨子が置かれ、「南無仏舎利」が収められた。この南無仏舎利は、太子が2才の春に東に向かって合掌し、南無仏と唱えられた時に、その掌中から出現したと伝えられる。毎年1月1日から3日間厳修される舎利講で奉出(御開帳)される。また絵殿には、平安時代の永久元年(1069)に、秦致貞(はたのちてい)によって聖徳太子の生涯の事績が描かれた障子絵が納められていた。後方には聖霊会の本尊である太子像をお祀りする相殿が設けられ、承久元年の建て替えで現在の姿になった。なお、障子絵は「聖徳太子絵伝」と言われ、明治11年(1878)に皇居に献納され、現在は天明7年(1787)の模写となっている』
『伝法堂(奈良時代・国宝) 聖武天皇の夫人であった橘古那可智の住居が、東院に移築奉納された建物である。切妻造本瓦葺・桁行七間・梁行四間の建物で、二重虹梁蟇股式の架構や、化粧垂木のすぐ上に本瓦を葺くゆるやかな屋根の外観は、典型的な天平時代の建築様式を示す。当時の住宅建築を伝える唯一の資料をしても貴重である。堂内には3組の阿弥陀三尊像や四天王像など、奈良時代や平安時代に造られた約20体もの仏像が安置されている』
中宮寺に入ります。尼寺のようです。『中宮寺の歴史:中宮寺は飛鳥時代、現在地より約500m東方に創建された。旧地の発掘調査では、四天王寺式伽藍配置であったことが判明し、また若草伽藍と同箔の瓦も出土していることから、法隆寺と中宮寺は僧寺・尼寺の関係にあったと考えられる。国宝菩薩半跏像(伝如意輪観音)は金堂の本尊で、天寿国しゅう帳(てんじゅこくしゅうちょう)は講堂本尊背面に奉安されていたと伝える。
平安時代になると寺運は衰退し、本尊とわずかな堂宇を残すのみとなった。鎌倉時代にこれを中興したのが、興福寺学僧・璋円(しょうえん)の娘であった信如比丘尼である。文永11年(1274)2月26日、比丘尼はそれまで所在が不明になっていた「天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅまんだらしゅうちょう)」を法隆寺の綱封蔵(ごうふうぞう)で発見し、中宮寺に戻した。あわせて帳の修理と複製品の製作を行い、塔・金堂を修理するなど復興に尽力した。
延慶2年(1309)の火災以降、寺は再び衰微し、天文年間(1532〜1555)、後伏見天皇8世の皇孫・尊智女王(そんちじょおう)が入寺する。その後、後西天皇内親王・有栖川宮より姫君など6人が入寺し、宮家の皇女を迎える尼門跡寺院となった。現在も宮門跡の御陵(墓所)は宮内庁が管理するなど、皇室とのゆかりは深い。圓照寺・法華寺とともに、大和三門跡尼寺に数えられ、そのなかでも最も創建の古い尼寺である。
菩薩半珈像(伝如意輪観音) 木造、彩色、像高167.6cm、飛鳥時代。中宮寺の本尊で、寺伝には如意輪観音とされる。また聖徳太子の母をモデルに造られたとも伝えられる。飛鳥時代の最高傑作の1つであると同時に、日本の美術史を代表する仏像の1つでもある。国際的な美術史的評価も高く、本像の顔の表情や優しさは、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型とされ、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作の「モナリザ」と並んで、「世界の3つの微笑像」とも呼ばれている。
造像にあたっては、樟材を用いた特異な寄木造の技法が用いられている。頭部は2材、体部の主要部は1材でかたちづくられ、さらに両脚部や台座など、大小さまざまな材を複雑にはぎ合わせる。これにより、伸びやかで繊細な肢体の表現が可能になったといえる。後に仏像制作で多用される寄木造の仏像としては世界最古の像でもあり、美的表現を支える造像技術にも注目される。
右の足を膝の上に置いた半珈の姿勢で左の足を垂れるが、左足の位置が一般の半跏像に比べて高く、足を地に下ろす、まさにその一瞬を写しとっていると考えられる。右手を曲げて、その指先をほのかに頬に触れ、人の悩みをいかにせんかと思惟する、清らかな気品をたたえている』
『お知らせ 中宮寺 御身代わり御本尊様 特別公開
中宮寺御本尊の如意輪観世音菩薩様は、本堂修復工事に伴い、以下の日程で宮城県美術館および、九州国立博物館へご出陳されます。 国宝の御本尊様ご不在期間中、通常非公開のお位牌堂にて、大正および平成時代に製作されたお二方の御身代わり御本尊様を特別にお参りいただけます。 長期間にわたりご不便をおかけいたしますが、何卒ご理解いただきますようお願いいたします。
中宮寺 御身代わり御本尊様 特別公開スケジュール
期間:2020年11月7日(土)〜2021年3月31日(水)
拝観料:大人300円/1人(高校生以上)、中学生以下無料
拝観時間:午前9時〜午後4時(3月21日からは午後4時半)(受付は15分前に終了)
御本尊様 ご出陳スケジュール
期間:2020年(令和2年)11月4日(水)〜2021年(令和3年)3月31日(水)
宮城県美術館 展覧期間:2020年11月12日(木)〜2021年1月12日(火)
※年末年始を挟みます。詳しい日程は宮城県美術館のホームページでご確認ください。
九州国立博物館 展覧期間:2021年1月26日(火)〜3月21日(日)』
バイクに戻ります。その道に、「待清庵」という和風のカフェがありました。
『待清庵(たいせいあん)の歴史 待清庵は1812年、約200年前の文化文政の頃、法隆寺大僧都覚賢(だいそうずかっけん)により建てられました。覚賢は現在の郡山城南に明和元年(1764)に生まれ、76歳という当時としては長寿でこの世を去ります。覚賢は柳原中納言隆光を後見人とし、法隆寺に僧侶として仕え、文化9年(18122)勅許により大僧都を賜ります。また、天保7年(1836)年、斑鳩古事便覧を著述しています。茶道に通じていた覚賢は、法隆寺善住院に待清庵という茶室を建立「待清庵で釜のお湯が沸いたのでお茶を一服」という手紙を仲問の僧侶に出して皆を招き、お茶を楽しんでいたと法隆寺の記録に残っています。明治3年(1870)、法隆寺善住院住職実乗という僧侶(本名樋口正輔)が住職の地位の退き、現在の蒲邸の場所に家を構えます。 彼は此処で住まいしながら法隆寺の録事や信徒総代などを務め、明治10〜30年代まで法隆寺の日記や公文書などを多く記しました。そして、彼は自分がかつて住職をしていた善住院の茶室を現在の場所に移しお茶を楽しみました。
茶室移築の時期や方法について、詳細は分かっていません。一旦解体したのか、或いは解体せずに土塀を壊して引いてきた可能性もあります。当時は引いて移築することも珍しくなかったようです。 茶室の門戸や室内に掲げる横に長い額である扁額待清庵は、天保8年(1837)、前葉室山鶴峯禅師93才によって書かれ、覚賢が75才の時に彫刻しています。この扁額は茶室には大きすぎることから、どこか別の場所に掛かっていた可能性も考えられます。 また、当時の茶釜は現在も法隆寺で保管されています。
法隆寺128代管主・高田良信師 講話より』
バイクに戻り、r25を西に走り、13:09「龍田神社」。『由緒沿革 産土神。風宮龍田神社の御祭神は、天御柱之大神、国御柱之大神の二荒魂と田比古之大神、龍田比女之大神、陰陽二柱の皇神である。雨風を鎮め水難、疫病を防ぐ神と楓・桜などの四季を司る神を祀る。五穀豊穣・息災長寿天地萬有厄除の神である。延喜式神名帳所載の龍田地主大神である。他に末社として十二社を祀る。
10代崇神天皇の御代に年殻の凶作が続いた時、帝自ら卜占をもって占い、天神地祇を龍田山の聖地に祀られた。後、聖徳太子が推坂山で法隆寺建立の地を指示された龍田大明神を法隆寺の守護神として鬼門厄神として法隆寺建立と同時に御廟山(錦ヶ丘)南麓の地主神とし祀られた。(聖徳太子伝私記より)中世は法隆寺より別当方30口を給え、龍田三方講平群の18御の産土神として荘厳なる祭儀を司る神宮である』
梅が咲いていました。『県指定 天然記念物 ソテツの巨樹 昭和32年6月13日指定
ソテツは雌雄異株の裸子植物で、分岐の少ない円柱状の茎に、大形で羽状の葉を茎頂にむらがらせてつける。成長すると高さ数mにもなる常緑樹で、熱帯から亜熱帯にかけて分布し、その一部は九州南端にも自生している。 雄花も雌花も大形で茎頂につけるが、暖地でなければほとんど花をつけることがなく、近畿ではまれに8月頃に見られる。 このソテツの巨樹は植栽されたもので、東西に2株あり、根元の総周囲は約5.7mに達する。茎頂にはしばしば雄花を付けている。 平成11年3月 奈良県教育委員会』
『金剛流は、能楽シテ方の一流で、大和猿楽4座(結崎・円満井・外山・坂戸)のうちの坂戸座を源流とする。 坂戸座は、その名称を法隆寺周辺部にあった古代郷で、おおむね現斑鳩町の並松・五百井・服部・竜田・小吉田・稲葉車瀬・神南付近を範囲とする坂戸郷に由来し、古刹法隆寺に所属して発展をみた猿楽の座である。
中世の法隆寺付近には、法隆寺東郷・西郷が成立しており、その郷民たちの精神的紐帯として祀られた竜田神社を中心に、竜田市が栄えていた。「法隆寺々要日記」によれば、覚元元年(1243)にはこの市の守護神として、摂津西宮から夷神が勘請され、その祭礼に郷民自身による猿楽が盛んに演じられたとある。
法隆寺付近の郷民たちは、竜田市の経済力を背景に、強固な自治的組織を生み育て、祭礼に彼ら自身がしむとともに、彼らのなかで法隆寺に所属し、大和一円で活躍した専門の猿楽集団である坂戸座を育てたのである。 よってここに金剛流発祥之地の碑を建てる』
r25に戻り西進し、竜田川を渡り、左折してR168で南下し、大和川を渡りました。13:30「達磨寺」。「達磨太子の愛犬・雪丸」の像が迎えてくれました。
『達磨寺 片岡山と号する臨済宗南禅寺派の寺院。境内には、達磨寺古墳群と呼ばれる6世紀末頃の古墳が3基ある。「日本書紀」の推古天皇21年(613)条に、聖徳太子が飢人を助け、厚く葬ったという片岡飢人伝説が記され、のちの太子信仰によって、その飢人が実は達磨大師の化身であると考えられるようになった。そして、今も本堂の下にある達磨寺3号墳が達磨大師の墓であるという伝承が成り立ち、鎌倉時代の初め頃に墓の上に堂を建て、寺院として開基された。開基には、解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)や勝月房慶政(しょうげつぼうけいせい)が関わっているとされる。その後、旧仏教勢力の弾圧や松永久秀の兵火によって荒廃を繰り返したが、そのたびに復興を遂げた。とくに室町時代には室町幕府の将軍足利氏の援助を得ながら、往持の南峯祖能(なんぽうそのう)が大規模に復興した。江戸時代には、徳川将軍から30石の朱印地を拝領している』
『県史跡 達磨寺石塔埋納遺構
達磨寺は、片岡の地において聖徳太子が出会った達磨大師の化身である飢人を葬ったと伝承される塚を中心として建立された寺院です。 石塔埋納遺構は、達磨寺本堂に先行する基壇状遺構上面の中心に位置する小型の石室で、発掘調唇によって確認されました。 20cmほどの花園岩や一部には平瓦を積んで造ちれ、宝置印塔を埋納して板石で蓋をしていました。 宝灰印塔の中には合子(ごうす)が納められており、合子の中には舎利になぞらえた石英片岩小片を入れた水晶五輪塔が置かれていました。これらの出土遺物と遺跡の状況から、石塔埋納遺構の年代は、13世紀と考えられます(県指定文化財 達磨寺出土石塔及び舎利容器は本堂内に安置されています)。
基壇状遺構は、古墳時代後期の円墳(達磨寺3号墳)を改変したもので、中世には墳墓あるいは土塔と見なされていたようです。古墳の規模は、直径約16mに復元され、横穴式石室が確認されていますが詳細は明らかではありません。 石塔埋納遺構の築造は、聖徳太子や達磨大師信仰の中世における高まりを示します。また、全国的に類例のない特異な形態を持ち、舎利信仰の具体像を示す極めて重要な史跡と言えます。  平成27年3月 奈良県教育委員会
所在地:北葛城郡王寺町本町2丁目4607番1の一部
指定日:平成26年3月28日
年代:13世紀
石室:一辺約50cm・深さ約80cm
基壇状遺構:東西約14m・南北約11.5m・高さ約1.9m』
横に幼稚園がありました。達磨寺が経営しているのでしょう。人工芝の緑の園庭が綺麗です。
『達磨寺中興記石幢(ちゅうこうきせきどう) 国指定重要文化財 石幢とは八角石塔のことで、室町時代の分安5年(1448)に建てられた。石幢には寺が荒廃したのち、室町将軍らの力添えによって復興したことを記した「達磨寺中興期」の文章が刻まれている。石幢の地下からは、嘉吉2年(1442)銘の石碑などが出土した』
『王寺町戦没者 忠魂碑 昭和29年11月建立 日露戦争以降、第2次世界大戦においてあまたの王寺町縁故の方々が、国難に殉じられました。 愛する故郷を思い、家族を案じながら尊い命を捧げられた英霊のご遺徳を長く追憶し、崇敬・報恩・慰霊の誠を捧げ、その事績を後世に伝えようと忠魂碑が建立されました。 ここに謹んでご冥福をお祈り致します。
在天の英霊 願わくは永遠の平和を 護らせたまわらんことを
平成26年8月 王寺町遺族会』
梅のピンクの花が綺麗に咲いていました。『九重達磨搭 灯篭や五輪塔の台石を九重に重ねて塔にしたもので、塔身には「法華搭」の文字が刻まれている。 もとは本堂の西に接して建てられ、地下に石室をつくって大量の一字一石経を納めていた。現在は、永代供養の石塔として祀られている』
『達磨寺旧本堂瓦製露盤 王寺町指定文化財 露盤とは、宝形造の屋根頂部を飾り、伏鉢・宝珠と合わせて構成される。露盤の部分に銘文があり、江戸時代の元禄5年(1692)、法隆寺の瓦師によってつくられたことがわかる。「大和名所図会」の挿絵に描かれた本堂の屋根を飾っていたものに当たる』
『松永久秀墓 戦国武将・松永久秀の墓とされる。寺の記録によれば、松永久秀が天正5年(1577)10月10日に信貴山城で自害した後、筒井氏がその亡骸をここに葬ったという。墓石に「松永弾正久秀墓 天正5年10月10日」の文字があるというが、現状は風化している』
『戦国の武将松永弾正久秀
松永弾正久秀とは:永正5年(1508)摂津?生まれ、天正5年(1577)10月10日没悪人として伝えられる久秀:戦国時代、「斎藤道三・宇喜多直家・松永久秀」の3人が「三大梟雄」(残忍で荒々しい人)と言われていて世間では悪名が鳴り響いていた。
信長が語った久秀の三悪事:1.旧主家の三好氏を滅ぼした。 2.13代将軍「足利義輝」を暗殺した。 3.奈良の大仏を焼き討ちした。 この行為について信長は、「常人では1つとして成せないことを、3つも成した男」と酷評している。
信長への裏切り:1.武田信玄と書状をやり取り、そして1571年、三好義継・三好三人衆と共に信長に造反をおこすが、武田信玄が上京中に死去し武田勢撤退、。その後、織田勢に多門山城を包囲され、多門山城を明け渡し降伏。 2.1577年上杉謙信・毛利輝元・石山本願寺などの反・織田勢力と呼応して、本願寺攻めの陣から無断で離脱、信貴山城に寵城。
松永久秀の最期:籠城後憤慨した信長は、織田信忠を総大将に明智光秀・細川藤孝・佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽氏勝そして筒井順慶を主力として加えて40000の大軍を送り込み信貴山城を包囲。 信長は平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると促したが拒否、このため人質の孫2人を京都六条河原で処刑。 天正5年10月10日古天明平蜘蛛(こてんみょうひらくも)を天守で叩き割り天守に火をかけ自害。(一説には茶釜に爆薬を仕込んでの自爆) 首は安土へ送られ、遺体は筒井順慶が達磨寺に葬った。
茶人として久秀:久秀は、武野紹鴎(じょうおう)に師事しており、茶人としての交流は広く茶人としても名が通っており、大和国や堺、京の豪商や著名人を招き、多門山城で幾度か茶会を行っている。
城造りのスペシャリスト:これまでの城は、「平城」だったが日本で初めて「天守閣(櫓)」を持つ「多門山城」を築城した。城は壁は白壁、屋根は瓦葺きで、石垣を用い最上階に「櫓」が築かれていた。「多門櫓」の始まりで、これをモデルに織田信長が「安土城」を造った言われています』
ここに松永久秀が葬られていたとは知りませんでした。葬ったのが、常に大和国で反目していた筒井順慶というのも、当時の戦争のあり方を知らしめていると思いました。
『片岡八郎・春利墓
片岡八郎(第17代)の墓:片岡八郎利一は王寺の人で、南北朝の頃、鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)の重要な家来のひとりであった。 大塔宮は京都で幕府軍と戦うが、戦況は不利となり、紀州熊野に逃れようと道を大和十津川にとったところ、途中、玉置庄司盛高(たまきしょうじもりたか)が待ち構えていると聞き、八郎は矢田彦七と2人で、宮に味方するように説得したが、盛高は聞き入れず逆に軍備を厳重にする始末であった。
十津川村玉置山花折塚付近で危機が迫っていることを急いで宮に伝えようと引き返すと、追手が50〜60人追ってきて、2〜3人を倒すが矢を撃たれて深傷を負ってしまった。八郎は、宮への伝言を彦七に託し、敵の真っ只中に斬り込んで、桜花の散るように勇ましく戦死した。時は元弘2年(1332)初夏のことである。 この忠義の死によって大塔宮は危機を脱する事が出来、大正4年(1915)11月10日、国家に尽くした者として八郎に正五位が贈られた。墓の南側には皇紀2600年を記念して建てられた片岡八郎彰忠碑がある。
片岡春利公(第27代)の墓:片岡新助春利は、戦国時代末期、片岡城(上牧町下牧)の城主で、永禄12年(1569)に松永久秀・久通が攻めて来た時、片岡城や馬ヶ背城(王寺町本町3丁目地内)でよく戦ったが攻略され、のちに病死した』
『石造雪丸像 王寺町指定文化財 聖徳太子の愛犬・雪丸の像。寺の記録によれば、雪丸は人の言葉が理解出来、お経が読め、達磨の墓(本堂下の達磨寺3号墳)を守るため、自分を本堂の北東に葬るよう遺言したという。雪丸像は、もとは本堂の北東にある達磨寺1号墳の石室近くに祀られていた』
『一夜竹 達磨大師が携えていた竹の杖をここに挿したところ、一夜にして芽が出たという。 竹の種類は蓬莱竹。蓬莱竹の原産地は熱帯アジアであるが、日本の暖地でもよく育つ。強い再生力があることから達磨竹とも呼ばれる竹である』
『薬師石 目を閉じて近寄り、両手で抱けば病気が全癒するという。 江戸時代の寛政3年(1791)に出版された「大和名所図会」に掲載される達磨寺境内の挿絵にも「やくし(薬師)石」が描かれ、古くからその信仰のあったことが伺える』
『達磨寺方丈 奈良県指定文化財 棟札から江戸時代の寛文7年(1667)に、京都の工匠によって建立されたことがわかる。3室2列の禅宗方丈の基本形からなるが、屋根は西面が入母屋造、東面が切妻造の少ない本格的な方丈建築として貴重である』
『達磨寺方丈(奈良県指定文化財) 達磨寺方丈は、江戸時代の寛文7年(1667)に建てられた建物です。方丈とは、お坊さんの住まいのことを言います。仏間を中心に左右に2つの計3つの部屋を置き、さらにその前にも同じように3つの部屋を置くという禅宗の様式に則った間取りです。
部屋の形状に特徴があります。西面が入母屋造、東面は切妻造で非対称になっています。奈良県では希少な方丈様式です。 「亀集庭」という石庭も名園です。(亀集庭は、現状は石庭ですが、石庭でなく他に変更される名前も変わるかも)』
方丈の庭に入ってみると、映画?の撮影をしていました。
バイクをPに置いたまま、R168を渡り「岩松寺」前を歩き、13:56「片岡神社」。
『片岡神社 古くは元町大峰の東北端に鎮座していたそうです。 「新抄格勅苻抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)」に大同元年(806)のこととして片岡神の神戸(封戸、昔神領に附属して租・庸・調を神社に納めていた農民)のことが出ているそうで、その頃既にこの神社が成立していたことを示しています。 また、「三代実録」には、貞観元年(859)正月、正五位下に昇叙されたことが出ています。
この社は、放光寺の鎮守社ともいわれ、本殿向かって左方には大原神社・金計神社ほか計4社が祀られています。 社伝によると風雨の神として尊信せられ正暦5年(994)には、疫病や天変地異が続いたため、中臣氏人が宣命使となって救済を祈願して奉幣したと言われています』
14:00「放光寺」。『諸人は もともと仏なりと信じて 拝みましょう』
『放光寺 現在は王寺小学校の後方にありますが、王寺小学校の敷地はその遣跡であったようです。 古くは片岡王寺と称せられ。聖徳太子が建立したと伝えられる古刹であり、百済王から帰化した大原博士の建立とも考えられています。1046年雷火で堂門の多くを焼失し、1384年には金堂の再建落慶供養が行われていますが、1572年松永久秀の乱により再度炎上したそうです。 正安4年(1302)に僧審盛(しんせい)が著した「放光寺古今縁起」が伝わっています。寺門には当寺第2世瑞鳳(1724寂)の書になる「片岡山」の額を掲げ、「放光寺」の額は隠元(いんげん)の書です。 本尊は十一面観音坐像で、開山鉄牛(かいざんてつぎょう1700年寂)の倚像がまつられています』
『不動明王石像 花崗岩に刻まれた不動明王像で、右手に剣、左手に索を持ち、火焔光背には光線を刻し、台座には鱗片状の花弁を刻す。室町時代に上る作と思われる』
R168を北上し、左折してR25で「大和川」に沿って西進し、14:18「龍田本宮」。『安村家邸内社 安村家は、中世に栄えた立野氏を引き継ぐ形で龍田大社の権神人を勤め、龍田大社の神宮寺であった東一坊(とういちぼう)及び法隆寺西園院(さいおんいん)の住持(じゅうじ)を兼帯(けんたい)で担っていた一族です。安村家邸内社は、元々は安村家の邸宅内に置かれていた社で、現在は安村家に縁のある奥野家が管理を行っています。
慶長15年(1610)、当主である安村喜右衛門信安(信安以降、当主は安村喜右衛門を代々襲名していく)は、竜田藩主の片桐且元から大和川を航行する魚梁船(やなぶね)の支配を申し付けられました。魚梁船という名前の由来は龍田大社の祭事「瀧祭」で供える魚を捕る場所を「魚梁」と呼んだことにあり、大和川の亀の瀬を挟んで上流を航行していました。
しかし、片桐家の断絶を起因として元禄10年(1697)に魚梁船の支配権が立野村惣百姓に移り、長年の請願の結果、正徳3年(1713)に再び支配権が安村家に戻りました。この際、幕府は運上銀の代わりに船の利益を龍田大社の修復料に充てるよう命じており、龍田神社と安村家、魚梁船の3者の結びつきが公認されたことになりました。
この繋がりは明治に入っての龍田大社の官幣大社化や、明治25年(1892)の鉄道の開通による大和川舟運の衰退などによって終焉をむかえますが、現在でも龍田大社から三郷駅に下っていく坂道を「安村坂」と呼ぶなど、当時の繁栄を今に伝えています。  三郷町教育委員会』
『惟神(かむながら)とは、神代から伝わる神様の御心のままにという意味です』
元私邸のお宮にしては立派で、神楽殿も新しく、地域の方の信心が伝わります。
『末社・白龍神社 江戸時代に当社御神域に白蛇として出現し、明治後期一夜にしてそのお姿が見えず、当時騒然たりしも明治41年春突如(大和国葛城郡)にごり池に白龍として出現されし吉報に依り、当時薮宮司・神官・地元氏子に依り辛櫃を奉持しお迎え申し上げ、この地に祭祀されたのが当社創建と伝わる。
その後、本社龍田大明神のお使え神結びの神・浄難災難除けの神として、女性の方々の信仰は特に篤く安産時期には所願に訪れる参拝者が多い。
祭事 月次祭:毎月1日・15日・初辰の日 初辰祭:毎年2月初辰の日
末社・龍野恵美須神社 当社は、寛元元年(1243)摂津国恵美須神総本社であります西宮戎神社から御分霊を勧請し、察事を続けられましたが、何時しかそのご社殿も荒廃しましたが、恵美須信仰者の方々の御篤志に依りまして、今度昭和62年11月28日再び摂津国西宮戎神社から御分霊をお迎えし、商売繁盛・福徳開運・家庭円満の守護神である。龍田恵美須さんとして、ご復興致し末永くお祀り申し上げるものである。
祭事 月次祭:毎月1日・5日・15日 初えびす祭:毎年正月5日〜8日
末社・三室稲荷神社 当社のご創建鎮産は定かではありませんが、往古から三室稲荷さんとして商売を営む人々の信仰篤く、商売繁盛の神として訪れる参拝者が絶えない。
祭事 月次祭:毎月1日・15日・初午の日 初午祭:毎年2月初午の日』
絵馬殿前に、「天皇皇后両陛下御下賜・弊饌料」の立て札が3本立っていました。「平成22年10月7日」「平成26年11月15日」「平成28年4月2日」の日付が入っており、これだけ頻繁に天皇皇后両陛下から御下賜されているとは驚きました。元私神社のお宮なのに、これだけ天皇家と繋がりがあるとは・・・。
『歌番号 巻9-1751(長歌) 作者:高橋虫麻呂
現代語訳:島山を行き巡っている川沿いの岡辺の道を、つい昨日私は越えて来たばかりなのに、たった一夜寝ただけで、峰の上の桜の花は激流の瀬を散って流れている。我が君がご覧になるその日までは、山おろしの風よ吹くなと、峠を越えて行って、風の神として名高い龍田の社で風祭りをしよう。
歌の背景:この歌は難波宮から龍田路を通って平城京に還って来&峠越えの際に詠まれたと考えられています。主君である藤原宇合に、美しく咲き盛る桜の花をぜひご覧いただきたい。それ迄は花を散らす山おろしの風が吹かないように、龍田大社の風の神に風祭をしようという、龍田路に咲き誇る桜を愛でた歌です。平安時代に編さんされた「延喜式」には龍田大社で行われていた「龍田風神祭」の記載がありますが、現在においても毎年7月の第1日曜日に龍田大社では「風鎮祭」が行われています』
こちらも、綺麗に梅が咲いています。梅はよく咲いているのですが、今年はまだ梅につきもののメジロを見かけません。暖かい春のような日和になるとやってくるのかな?正面に回ってみると、「官幣大社龍田神社」と彫られた大きな石柱が立っていました。
R25に戻り、大和川沿いを西進し、生駒山系を大阪側に抜けました。R165〜R43で尼崎まで来て、r13で北上し帰宅しました。


2020/1/31
9:23、年間で最も寒い時期なので、陽が上がってから出発です。9:26「セルフ北村SS」で給油。44km/2.19L=20.1。前回ツーリングの給油でメーターを戻していなかったらしく、2Lしか入りませんでした。r13で南下し、r41「十三筋」で大阪市内へ。10:02「ファミリーマート花岡十三元今里店」で、「フルーツミックス500ml100円」を購入しました。
r41で「阪急十三駅前」を通過しR176、淀川を渡り「阪急中津」から「新御堂筋」側道を南下し、左折してR1で東進し、10:25、「緒方洪庵墓所」である「龍海寺」。この1年間、コロナ禍で世の中様変わりになりましたが、今回のコロナウイルスのようなインフルエンザと同じ程度ではなく、ずっと致死率の高い「天然痘」を撲滅に至った種痘を日本で最初に行った「緒方洪庵」に参ろうとやってきました。しか〜し、門が閉まっており入れません。寺院は神社と違い閉鎖的でイマイチです。ジェンナーが「牛飼いの娘を嫁にもらうと、子供に天然痘が伝染らない」の民間伝承を研究し発見した牛痘を輸入し、我が子を治験第一号にした大先生です。R1に戻り西進し、左折してr102を南下し「大川」を南に渡り、左折してr168を西進。
10:43、「適塾・緒方洪庵居宅」。『内北浜通 かつては北の演といわれ、北に向いて家屋の建つ広い浜でした。水運による交流が盛んになるにつれ、家屋が建ち並び、ここに2つの通り(内北浜通と北浜通)が出来ました。さらに長崎貿易や各藩の諸物産の集散地として、金相場会所・俵物会所・銅座などとともに各種問屋・両替屋などが立地し、経済・金融取引のまちへと発展しました。
福沢諭吉と適塾 天保5年(1835)大阪・堂島の中津藩屋敷で生まれた福潭愉吉は、安政12年(1855)適塾に学び青春時代を過ごしました。安政5年(1858)江戸に出て蘭学塾を開き、慶応4年(1868)慶応義塾を開設します。そして明治6年(1873)最初の分校が大阪に開校されました。大阪慶応義塾の碑が北浜2丁目に残されています。
ようこそ船場へ 船場 船場は、東西南北を4つの堀川(土佐堀川・東横堀川・長堀川・西横堀川)に囲まれた区域で、江戸時代に「天下の台所」といわれ栄えた大阪の経済・文化の中心地でした。今も碁盤目状の街区が残り、古い歴史と豊かな市民文化が息づくこの街の散策をどうぞお楽しみください。
緒方洪庵と除痘館 医師・緒方洪庵は、コレラの治療・天然痘の予防などに大きな貢献をしています。嘉永2年(1849)多くの医師とともに、当時多数の死亡者を出していた天然痘の予防のため、除痘館を古手町(現・道修町4丁目)に開設し、種痘を行いました。万延元年(1860)今橋3丁目に移し、各地に種痘ワクチンを送るなど普及活動に尽力しました』
『史跡:緒方洪庵旧宅及び塾 昭和16年12月13日指定
重要文化財:旧緒方洪庵社宅 昭和39年5月26日指定
所在地:大阪市中央区北浜3丁目3番8号(旧過書町井池東入)
この建物は、幕末の医師・蘭学者であった緒方洪庵が弘化2年(1845)に買い受けて、天保9年(1838)に大坂瓦町に開いた私塾・適塾(適々斎塾)を移転した場所である。洪庵は、文久2年(1862)に幕府の奥医師として江戸へ迎えられるまでの約17年間にわたり、ここに居住した。
洪庵は、ここで諸国から集った門人たちに蘭学を教え、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの人物を育てた。
敷地は間口約12m・奥行約40mあり、主たる建物は、主に教室に使われた表屋(前方部)と、洪庵と家族の居室にあてられた主屋(後方部)からなり、南庭に土蔵と納屋がある。表屋は寛政4年(1792)の北浜大火後まもなくの建物と考えられ、もとは町筋に面する商家の形であったが、洪庵入居の際に若干の改造が行われたとみられる。
表屋は2階建ての1階を教室、2階を塾生部屋とし、主屋は一部2階建てで西側に通り庭を持ち、台所・書斎のほか4室がある。台所の2階にはズーフ部屋と女中部屋がある。
洪庵が出府してのち、再三に改造があり、大正4年(1915)には前面道路の拡幅によって約1.2mの軒切りが行われた。昭和51年(1976)から55年にかけて行われた解体修理で、軒切り部分を除いて、概ね洪庵居住当時の姿に復原した。平成25年(2013)から同26年には、文化財価値に配慮した耐震改修工事を実施した。この住宅は、蘭学発展の拠点となった歴史を伝えるばかりか、近世における大坂北浜の町家建築の姿を示す貴重な遺例である。
この建物は昭和17年(1942)、国に寄付されることとなり、洪庵の子息や適塾関係者らによって明治初期に設立された大阪仮病院や大阪医学校を源流とする大阪帝国大学(当時)へ移管された。現在はこれを大阪大学が所有し、一般公開している。建物内部では、適塾及び洪庵の事績を伝える資料展示を行っている。
平成26年(2014)4月 文化庁 大阪大学』
『開館中Open 開館時間:午前10時〜午後4時 休館日:月曜日・祝日の翌日(但し土・日・祝の場合は開館)年末・年始は休館します(休館期間:12月28日〜1月4日) 拝観料:一般270円(140円)学生140円(80円)生徒無料 但し()内は団体料金20名以上です』
大阪大学のNewsLetter冊子がありました。表紙が阪大ヨット部で目が行きました。見知った顔が腕を組んでかっこいい。『元気です!阪大生 勝利さえ上回る目的に向かって Interview:大阪大学体育会ヨット部』と書かれていました。表紙をめくると表表紙にもヨット部のカラー写真で、『風を読み、風と一つになる 大阪大学ヨット部 1934年に大阪帝国大学医学部ヨットクラブとして発足した歴史と伝統を受け継ぎ、1963年の全日本大学ヨット選手権(インカレ)準優勝をはじめ、国立7大学戦(七帝)で6度の優勝など輝かしい戦歴を誇る。一時は部員減少で低迷したが、2019年には「470級」「スナイプ級」両クラスでの全日本インカレ出場を果たした。現在は新西宮ヨットハーバー(西宮市)を拠点にプレイヤー20人、マネジメントスタッフ8人が全日本インカレ優勝を目指し活動している』
10:53「銅座の跡」へ。跡地は石碑のみでしたが、「大阪市立愛珠幼稚園」が営業していました。大阪市内最古の木造幼稚園だそうです。
『建第2505号 重要文化財指定書 愛珠幼稚園園舎1棟 遊戯室棟・玄関棟・西保育室棟・北保育室棟・便所棟・東棟からなる。
遊戯室棟:木造、建築面積265.4平方メートル、西面下屋・北面下屋及び庇付き・桟瓦葺・北面突出部附属
玄関棟:木造、建築面積127.86平方メートル、桟瓦葺・南面西突出部・南面中央玄関車寄・南西棟突出部附属・北面遊戯室棟に接続(以下附書)
右を重要文化財に指定する
平成19年6月18日 文部科学大臣・伊吹文明』
『愛珠幼稚園は、地元先覚者の幼児教育への熱い思いと協力で明治13年(1880)に創設されました。現園舎は3代目として明治34年(1901)に竣工しました。遊戯室は、高所に窓を設け、床は二重にし、最新の西洋技術を使って広い空間を作っています。 園庭には盛り土をして保育室や廊下と同じ高さにし、安全性と広さを確保しています。 園舎周りには高塀を巡らせ、南正面には「塀重門」という格式の高い形式の門を置いています。その他にも通常の学校建築には見られない質の高い建築様式が使われています。 昭和6年(1931)設置の廻旋滑り台は、子どもたちの大好きな遊具です。
愛珠幼稚園は、木造最古の幼稚園舎でありながらも、子どもたちが通う現役の園舎です。 このようなことが総合的に判断、評価されて、平成19年(2007)6月、国の重要文化財に指定されました。 これを記念し、大阪市立愛珠幼稚園創立130周年記念事業として後世に伝えます。
平成22年6月吉日 愛珠会』
道を挟んだ南に「緒方ビル」がありました。緒方洪庵の子孫の方がお持ちのよう
です。「銅座の跡」石碑横に、『近世、銅の精製や売買はこの銅座で総括していた。銅座の制度は明和3年(1766)から維新まで続き、明治13年(1880)、その跡に「愛珠幼稚園」が設けられた』と刻まれていました。
11:03「美々卯本店別館」。横には献血車がたくさん停まっており駐車場のようです。玄関横に「緒方洪庵」の石碑が立っていました。ここは、「緒方洪庵除痘館発祥の地」です。『緒方洪庵1810〜1863 除痘館発祥の地 江戸時代、最も恐れられていた疫病の天然痘がジェンナーの発明した牛痘の種痘で防ぐことができることがわかった。嘉永2年(1849)に緒方洪庵により大阪で最初の種痘が行われたのが、古手町のこの碑の西隣の地である。洪庵はこの種痘所を除痘館と称して同志と共にここを中心に全国的に種痘事業を展開した。除痘館は万延元年(1860)に適塾の南側に移転した』
御堂筋に出て南下し、大丸の横を通り、左折して「千日前通」を東進し、11:21「新選組大坂旅宿跡・萬福寺」。『新選組は幕末期、近藤勇に統括された、京都を本拠とする浪士集団です。 幕末の京都は、江戸にかわって久しぶりに日本の政治の中心地となっていました。 それは、京都にあった一橋慶喜(禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮、のちの15代将軍)・松平容保(かたもり、会津候、京都守護職)・松平定敬(さだあきら、桑名侯、京都所司代)が、孝明天皇に強く支持されて権力を握ったからです。これを「一・会・桑権力」(いっ・かい・そんけんりょく)とよびます。
その松平容保に新選組は所属し、「一・会・桑」の政敵、長州毛利家の志士たちと戦いました。元治元年(1864)、池田屋事件・禁門の変などで大きな軍功をたてたことはよく知られるところです。新選組は「一・会・桑」を助けた最強軍事集団といえます。
近藤勇らは、京都に本拠をおくとはいえ、もともと畿内に滞在する将軍徳川家茂の護衛と、大坂を含む長い海岸線(摂海)の防衛に携わるため江戸より西上してきた者なので、当初より将軍の大坂城滞在のときなどは、たびたび大坂に出張していました。 その際に使用された旅宿のひとつが、ここ萬福寺です。 たとえば幹部・島田魁(かい)の手記によれば、慶応元年(1865)5月、将軍家茂の3度目の西上にあわせて、新選組は大坂市中取締を命じられています。 その時期の大坂町奉行所の発した文書によれば、「壬生組」が萬福寺を宿所にしています。 すでに同年3月、新選組の本拠は、当初の葛野郡壬生村から西本願寺境内へ移つていましたが、この「壬生組」こそ新選組のことと思われます。 実際、同年7月1日付、幹部井上源三郎から兄井上松五郎に宛てられた書翰によれば、前月中に松五郎が萬福寺に源三郎を訪ねています。たまたまそのとき、源三郎は京都に戻っていて会えませんでしたが、この書翰からも大坂滞在中の新選組の旅宿のひとつが萬福寺だったとわかります。萬福寺の現在の建物のうち、庫裏や山門などは幕末期には存在しており、往時をしのぶことができます。
以上のことから、当所を大阪市内における新選組史蹟のひとつとしてここに建碑し、顕彰いたします。
2010年6月 歴史地理史学者・中村武生』
バイクで少し走り、11:29「吉祥寺」。塀の外側が新選組カラーになっていて驚きました。着物の袖のギザギザデザインです。「禅宗・大阪名所義士の寺」と彫られた石碑が立っていました。この寺院は「赤穂四十七士」縁の寺なのに、新選組との謂れもあるのかな〜?と更に期待が膨らみました。赤穂浪士の着物の袖はギザギザではなかったよね。
大石内蔵助の像が出迎えてくれました。大石内蔵助父子(大石内蔵助・大石主税)のお墓がありました。江戸で切腹したのでお骨はないと思うので慰霊碑だと思います。刻まれた年齢が47才と16才、平均寿命が50才の時代、内蔵助は忠義を貫いたが、嫡男は子を残さず散った。大石家の嫡流が途絶えたのは残念でした。きっと内蔵助にも葛藤があったと想像しました。
帰宅後、大石内蔵助の子孫が根絶したのか調べたら、次男は出家し、三男が家を継ぎ赤穂浅野家の本家・広島浅野家に仕え、脈々と家を繋いでいるようでした。長男に生まれた僕は、時代が家系から個人になった時代なのに、加えて両親から家系を強く言われたこともないのに、両親と合う嫁という必須目線で探し、息子たちの名前に通字したり、次世代に継ぐを意識して生きてきました。両親を喪主として送り、息子たちが立派に育ち役目を果たした感があります。大石内蔵助は三男二女を授かっていました。良かったな、嫡男を道連れにする内蔵助の胸の内に、きっとあと2人の息子の存在があったように思います。
『墓碑の由来 当寺は大阪に於ける浅野家累代の菩提寺にして、寛永7年創立当時の住職縦鎌師は、浅野長矩(ながのり)候とは昵懇の間柄で長矩候の参勤交代の折りには、必ず立ち寄られた由緒ある寺であります。元禄15年四十七義士快挙を遂げ、翌16年2月切腹のあと足軽・寺坂吉右衛門が四十七義士の遺髪・遺爪・鎖かたびらに銀10両を添えて建碑を依頼したもので、江戸赤穂よりも魁けて建立されたと言われています。戦災により本堂・蔵屋敷より移構の山門ならびに木彫四十七士像・長矩候自筆の扁額・遺品など全て灰燼に帰しましたが、墓碑は戦火を蒙りながらも現存して歴史を物語る貴重なものであります』
四十七士の志士姿の集合像がありました。それぞれに義士の名前が書かれています。蜂須賀正勝顕彰之碑がありました。謂れ板を探しましたがありません。帰宅後調べたら、蜂須賀正勝は天正14年(1586)大坂で亡くなり、吉祥寺すぐ北の国恩寺に葬られたそうです。昭和46年、徳島市万年山の蜂須賀家歴代墓所に移されたので、吉祥寺に顕彰碑が建てられたそうです。地図を見ると国恩寺はありませんでした。
「谷町筋」を南下します。正面に「あべのハルカス」が見えます。右折してR165を西進し、すぐ右折し「松屋町筋」を北上し、11:45「安居神社」。目の前に「天神坂」と書かれていました。
『天神坂 安居天神へ通ずる坂道なので、このように呼ばれている。この神社境内は大坂夏の陣に真田幸村が戦死したところで、本殿脇に「真田幸村戦死跡之碑」がある。また、同境内すぐ下には七名泉の1つ、安居の清水があり、「かんしづめの井」(癇静め)とも呼ばれよく知られている』
石段を上がって安居神社境内へ。「真田幸村ゆかりの地・安居天満宮」の幟が立っています。白い梅の花が咲いています。「真田幸村之像」がありました。武人として生きた幸村の生き様はかっこいいな〜。パラパラと参拝者があり、僕のような歴史好きと思われる女性が2人いました。
『幸村公はこの境内で無念の死を遂げました。その生き方は生きる人間の本義を貫いた人として多くの人に愛されています。この地から幸村公ははるか故郷、信州上田を偲び、また父・昌幸公を慕い、そして大阪城に思いを馳せていたのかもしれません。幸村公の遺徳を偲び、ここに銅像を建立しました。この銅像にお手をお触れ下さい。そしてその徳を授かって頂ければ喜ばしく思います。
安居神社 宮司』
像の上に、1円玉や5円玉が六文銭よろしく並べられていました。幸村信者さんの仕業でしょう。ここに来てわかったのですが、上本町丘陵の西の端で、当時は夕日が綺麗に見えたと思われます。四天王寺から夕陽丘の地名があちこちに残っています。
この地は、茶臼山の北に隣接しています。「冬の陣」で徳川軍を散々に打ち負かした出丸「真田丸」でしたが、豊臣重臣が徳川家康からの和睦案を受け入れ、堀は埋められ「真田丸」も破壊されてしまいました。これで豊臣方の敗北を悟った幸村は、半年後の「夏の陣」で真田丸から更に大坂城から遠い茶臼山に本陣を構えます。冬の陣では家康が本陣を構えた地です。茶臼山には古墳があり、現在は天王寺公園として大阪市民の憩いの地になっています。環濠のある古墳なので、当時も水濠で守護されていたのかもしれません。
家康本陣に突っ込んだ幸村は、散々に打ち破り、家康も自刃覚悟しましたが、旗本に担がれ旗竿さえ打ち捨て逃げ去りました。しかし多勢に無勢、家康本陣の危機を知った友軍が巻き返し、真田の本陣北(大坂城寄り)まで幸村は退却したが、多くの将兵を失った幸村は、ここの松の下で休んでいた。幸村とは知らずに近づいた越前松平家の将兵により、「俺の首を手柄にされよ」の言葉を最後に討ち取られた。
『織田幸村陣歿の旧跡 元和元年大阪夏の陣に徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて大阪城を攻めた。ここに於て大阪の兵は城の既に憐むべからざるを知って出でて戦い、6月6日幸村は後藤基次・薄田兼相等と大和口を防がんとして河内の片山道明寺に赴き、基次等が敗死したので殿軍となって伊達政宗の兵と戦い、翌7日は天王寺附近に松平忠直の軍を迎え奮戦したが、ついに当社境内一本松の下で戦死した。時に年齢49歳であった。当時の松は既に枯死したが、社殿復興を機に昭和26年4月24日これを記念して植樹された。例年5月に幸村祭が盛大に行われる』
絵馬500円を授かり、バイクに戻りました。松屋町筋〜r102〜谷町筋で、12:09「荒陵山四天王寺別院愛染堂勝鬘院(しょうまんいん)」。この付近は大通りや一方通行・右折禁止が多いので、一直線に行けないので時間が掛かります。
門前に、多くの会社の名前が上がっていました。奉納されたのでしょう。次男がお世話になった「清風学園」の名前もあった。姉妹学校の「清風南海学園」の名も。「鴻池運輸」も上がっていました。「重要文化財 勝鬘寺・愛染堂・多宝塔 桃山時代慶長2年(1597)再建」「重要文化財 大阪府指定文化財 勝鬘院・愛染堂・金堂 江戸時代初期再建」。寺門に、「第1番札所 西国愛染明王霊場」の札が下がっています。「チョーヤ梅酒」「サントリーホールディングス」の社名も上がっています。境内に入るとすぐ祠が立っていました。
『大力(だいりき)金剛尊 この大力金剛尊は、清王朝時代のもので、大正時代に活躍した大阪市天王寺区出身の横綱(第26代)大錦が満州巡業の折りに、自身の守護神として気にいって中国から持ち帰られた仏様です。
初めは大阪国技館に奉安されていましたが、昭和25年に愛染堂に縁あってやって来られました。特にスポーツや勝負事には霊験あらたかで、勝利開運・善因善果の功徳があり、又盗難・火災等の災難除けとしても篤く信仰されています』
手水舎があり、横に謂れ板が立っていました。『愛染めの霊水 この井戸は常に清浄の霊水が湧き出で、この井水を飲めば愛染明王の御本尊により愛念を叶え、病癒え運を開き給う。古歌に
「ほらぬ井にたまらぬ水の汲みたてて 影も形もなき人ぞ汲む」
かくの如き霊水なれば、この井水にて染め物なせば、色彩よく染まるをもって昔より、藍商者(あいだまや)の門に信仰が盛んであって、俳句に
「賑わしや愛染詣での紺屋づれ」
井戸屋形は豊公の建立であったが、昭和20年3月14日の戦災のため焼失した』
パラパラと参拝者がありました。本殿(金堂)内に入ると、薄暗く正面に本尊他数体の仏様がおられ、雰囲気が素晴らしかった。
多宝塔に向かいました。『重要文化財多宝塔 御詠歌 まいる度、厄を払いて身を護り、勝利に導く大日如来金剛 合掌』『多宝塔本尊・大日如来金剛 愛染明王と共に世に厄除、勝利・開運をお授け下さる金剛として皆様の信仰厚く御真言は、オンバザラ ダトバン 合掌 御命日は5日・15日・25日 通常、愛染まつりに御開帳、拝観 *重文多宝塔には大日如来金剛様をおまつりしてございます』
『多宝塔 宝塔は推古天皇元年(593)聖徳太子の創建。
慶長2年(1597)豊臣秀吉が再建した。高さ22m・建坪32平方メートル・三手先造り・本瓦葺き・極彩色。様式は桃山時代で、当時の粋を集め豪華雄大、彫刻壁画亦妙技を尽くしている。明治35年サンフランシスコで万国博覧会が開催された時、日本建築の代表として、この塔の模型を出展した。明治42年国宝建造物に指定された。御本尊は大日大勝金剛尊。勝利開運の本尊として民衆の信仰が篤く毎年愛染まつりに開扉される』
境内に、ツルが巻いた桂の木がありました。『愛染(あいぜん)かつら 縁結びの霊木 樹齢数百年といわれる巨大な桂の木に、ノウゼンカズラのツルが巻き付き、桂とカズラが一体となったその姿は、まるで男女が寄り添っているように見えるので、恋愛成就・夫婦和合の霊木として信仰されています。
この霊木の前に2人並んで立ち、愛を語り合った男女は、たとえ2人がどんな苦難にあろうと、やがて結ばれるという古い言い伝えがあります』
境内から出て道に戻ります。
『愛染坂 その名のとおり、坂の下り口にある愛染堂勝鬘院から名付けられた。愛染さんの夏祭り(6月30日)は大阪夏祭りの先駆けとして知られ、境内の多宝塔は市内最古(文禄3年)の建造物で、重要文化財と指定されている。大江神社には「夕陽岡」の碑があり、このあたりからの夕焼けは今も美しい』
隣接する「大江神社」に参ります。
『大江神社 御祭神
本社:豊受大神(とようけのおおかみ)・素戔嗚尊(須佐之男命・すさのおのみこと)・欽明天皇(きんめいてんのう)・大己貴命(おおなむちのみこと・別名大国主命)・少彦名命(すくなひこなのみこと)
摂末社:日吉稲荷神社・羽呉神社・大江護国神社(山口藩殉難諸士招魂碑)由緒:当神社は、上之宮・小儀(四天王寺東門外・北側)・土塔(南門外・東側)・河堀・堀越・久保の各社と共に天王寺七宮と云われ、四天王寺の鎮守として聖徳太子が祀られたものと云う。大江の社号は、慶応3年この社地が大江岸の続きなるを以て時の紀宮が改称せしなりと云う。
当社は天王寺北村の産土神(うぶすながみ)にして、祭社主神に豊受大神を祀り、稲荷神と同一神にて五穀豊穣・食糧保持の神であり、また明治40年神仏分離により本社へ合祀せられた東門外の元村社・小儀神社及び南門外の元村社・土塔神社の祭神・素戔嗚尊、元村社・上之宮の祭神、欽明天皇、大己貴命、少彦名命の何れをも祭神とする。
上町台地の西端に沿う一帯は「夕陽ヶ丘」と呼ばれており、その昔、この台地のすぐそばまで海がせまり、西の海に夕日が沈みゆき、茜色に染まる空の美しさにいつしか「夕陽ケ丘」と呼ばれるようになったと云う。当境内には俳句碑があり、芭蕉の句としても有名である。
主な御祭事:1月1日元旦祭、7月16日夏祭、10月16日例祭(秋祭)、12月31日大祓式』
西側に階段が下っています。木々の間から、西の平野・家並みが広がっています。上本町台地が半島だった頃、海がここに迫っていたのでしょう。そこを眺める場所として大きめの東屋がありました。同じく上本町台地の西の端に築かれた仁徳天皇宮殿にも、同じような東屋がありました。
バイクに戻ります。「谷町筋」に出て南下します。Uターンして、12:32「堀越神社」。
『時の摂政・聖徳太子が、太子の叔父君にあたる崇峻天皇を偲んで、風光明媚なこの茶臼山の地に、四天王寺建立と同時に当社を建立創建されました。明治の中期まで、境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、堀越という名が付けられました。古くから「堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」との言い伝えがあります。
御祭神:第33代崇峻天皇 配祀:小手姫皇后・蜂子皇子・錦代皇女
境内小社:大上神仙鎮宅霊苻尊神 陰陽道における天地創造の中心に位置する宇宙根源の神とされ鎮宅霊苻は陰陽道最高の護符とされています。
熊野第1皇子之宮 日本サッカー協会のシンボルマークとしてお馴染みの八咫烏(ヤタガラス)で有名な熊野権現に参拝する、いわゆる熊野詣の出発地です。
茶臼山稲荷神社 徳川家康が大阪夏の陣の際に危機を救われたことから、家康の信仰が厚かったとの言い伝えがあります。
黒龍社・白龍社 黒龍・白龍の名の通り、黒蛇・白蛇の神様です。古来より蛇が神聖な生き物としてあがめられ、多くの伝説が今でも伝えられていますが、事業発展加護の御利益があると伝えられています。
ひと夢祈願 初穂料5000円 ご予約頂きますようお願いいたします。 一生に一度だけのひと夢祈願は、あなたの願いを短冊に1つだけお書き頂き、お守り袋の中に封入致します。ご祈祷を受けた後、授与されたお守りは日々肌身にお付け下さい。その願いは成就されると伝えられています。
こけざるの梅 初穂料1000円 古来より申年の梅には「神が宿る」と伝えられ食すると薬になると、また所持すると「こけない」「転倒しない」お守りと珍重されました。古来の伝統にのっとり奉製し、こけないお守り即ち「こけざるの梅」と命名し、御希望の皆様に授与させて頂きます。
ご祈祷・ご守護:堀越神社 06-6771-9072』
『堀越さんの御神木 神霊の宿る樹、降りる樹として、今も多くの人々に大切にされている樹齢550年と言われる楠木です。数度にわたる落雷と2度の大火災にも耐え、昭和40年の谷町筋の拡幅工事と地下鉄谷町線の開通工事に伴い、現在の場所に移転。その移転時に、天空一転にわかに掻き曇った様子は、新聞にも掲載されました。「気力が落ちた」「疲れた」と感じた時、御神木の持つ力を頂いて下さい。御神木に接して、太上神仙鎮宅霊苻尊神が鎮座されています』
歴女なのかパワースポット巡りなのか、それらしき女子が単独でグループで参っておられました。
谷町筋を北上します。R165に乗り、「四天王寺」横を東進し、r28〜玉造筋〜谷町筋で、12:45「統国寺」。『広瀬旭荘墓所 名は謙。大分県日田の人、儒者淡窓の実弟。詩文に通ず。30才で大阪に来り多数の門人を教育す。幅広い浪華文化人との交流がある。 文久3年57才で没』。「統国寺会館」という立派なコンクリート造り建物がありました。境内にペンキが雑に塗られたコンクリート壁が2本立っていました。何かな?と思ったら、ベルリンの壁でした。『ベルリンの壁 1961年8月東ドイツによって建造。1989年11月ドイツの統合により崩壊。冷戦を最も象徴する建造物である。 京都耳塚還国実行委員会 喜捨』『済州4.3犠牲者慰霊碑』。
ハングルが多く、「何か違和感があるぞ」と思ったら、朝鮮系の寺院でした。本殿「大雄殿」では読経されており、信徒が入って行かれました。『平和祈願 無縁仏之塔』。境内に、『西方浄土 極楽の地』と書かれ、小型のお墓が綺麗に並んでいました。日本式の「・・家の墓」ではなく、夫婦と思われる名前が書かれた墓石が並んでいました。夫婦と断定できないのは、日本と違い夫婦別姓だからです。左右に2人の名前が刻まれ、「之墓」と下に刻まれていました。姓の部分は全て黒文字ですが、名前は赤字と黒字がランダムです。日本同様、生存されている方が赤で亡くなった方が黒かもしれません。
帰路につきます。谷町筋に出て北上し、左折してR165で西進。左折して堺筋で南下し、右折してR43に乗りドーンと西進します。淀川を渡り、尼崎に至り、ここから北上すれば我が家ですが、まだ時間があるのでハーバーに寄ることにしました。武庫川を渡り、武庫川女子大・甲子園球場横を走り、「新西宮ヨットハーバー」。係留艇に行き、エンジンを掛けて点検し、小一時間ほど船で過ごし帰路につきました。14:50、自宅近所の「セブンイレブン」でm「チーズあられ128円+コーヒーゼリー100円×2=200円=354円」を購入し帰宅しました。家内とコーヒーゼリーのおやつを食べ、1日が終わりました。


2021/1/5
次男のお嫁さんから荷物が届きました。前日に次男からTV電話が入り、怪我で心配してるだろう私たち両親を安心させようと、詳しい経過を教えてくれました。頭蓋骨のレントゲン写真を前もってLINEで送ってくれていたので、それについても説明してくれました。正月2日の怪我だったので、救急処理だけして1/4精密検査することになっていました。その結果報告です。
顔正面からのレントゲンを見ると、目の下の骨が折れて鼻側はくっついていますが、耳の方が離れて下に垂れ下がっています。眼窩底骨折ですね。バトミントンの桃田選手がタイの試合中、交通事故による事故で骨折した場所です。桃田選手は手術をしましたが、次男は「不都合が出なければ保存治療しましょう」とお医者さんから言われたそうです。
次男の家からのTV電話だったので、お嫁さんもすみれちゃん4才・おーちゃん1才もいました。その時、お嫁さんが「すみれの描いた絵がコップのデザインになって発売されるんです」と驚かせてくれました。友達がすみれちゃんの絵が気に入り商品化してくれたようです。お嫁さんは大学のデザイン学科卒なので、そちらの道に進んだ学友がいるのでしょう。
「コップを送りますから」と言ってくれていたのが、届きました。川越名物の銘菓も入っていました。2種類のコップが入っており、原色のクレヨンで描いたのだろう可愛い絵がコップに描かれていました。「SMILE」と書いてあったので、家内に「デザイナーの「すみれ」って書いてあるわ」と言うと、「何言ってんの、SMILEじゃない、馬鹿にしてるでしょ」と見破られ騙せませんでした。
家内はとても素直な性質です。大学生になり家内と知り合った頃、海水浴だったか何だったか誘った時、「体調が悪くちょっと明日は・・・」と申し訳なさそうに断られました。その様子を見て「はは〜ん」と理解し、「ちょうど僕もアノ日だから断られて良かった〜」と言うと、「そうなの?どんな風になるの?」と食いつきました。「月に1回ね・・・」と適当に教えると、「知らなかった〜」と新発見をしたような顔をしています。「こういうことは男は絶対に口にしないことだから、親や友達に言っちゃダメだよ。バカにされるから・・・」と言うと、不思議そうな顔をしています。「男性にそんなのあるわけないじゃない、バカ!」とか笑ってくれると思ったのですが、まるで疑わないのです。「ウソだよ」と白状しました。そしたら、「今まで知らなかったから・・・、やっぱり男性にはそういうのはないのね」とニコニコしていました。
家内を初めてヨットに乗せ、家内を初めてスキーに連れて行ったので、体育会系の僕は何でも出来ると思っています。子どもたちが大きくなってから、「パラグライダーに乗りたい、教えて」と言われ、「いやいや、それは出来ないわ」というと、「あれ、出来ないの?」と驚いていました。「あんた、何年僕と暮らしているねん!」と突っ込みたくなりました。愛すべき嫁さんです。それから思うと、「Smile」を僕に釣られて「Sumire」と読まなかった家内は成長したようです。


2021/1/3
仕事場に行き、ゴソゴソやっていたら、家内から電話が入りました。内容は、次男が怪我をしたとのこと。肋骨は骨折していないが、目の奥の骨が折れているとのこと。「ええ〜、交通事故なのか?」。いろいろ詳しく聞きたかったが、家内の混乱し動揺している様子が声から聞こえる。
すぐに仕事を切り上げ、家路に急ぎます。詳細がわからないから、次男の顔が陥没したのか・・・と最悪の事が頭を過り、歩きながら氏宮の方に手を合わせ口に出して次男の無事を願います。「お百度参りに行かなきゃ」と僕に出来ることは何かと考えながら玄関を入ります。
家内が、「お父さん、どうしよう。お見舞いに行こうか」と第一声。詳しく電話の様子を聞くと、次男本人から電話がかかってきたとの事。これでちょっとホッとしました。「やっちゃった〜」と自嘲気味に電話してきたとのこと。事故が起こったのは1/2午後。お嫁さんの妹一家が実家に帰ってきたので、お嫁さん実家を2世帯住宅にリニューアルして住んでいる次男一家と一緒に3人の子を連れ、公園に遊びに行ったそうです。
次男がふざけて、ブランコの周りを囲む低い鉄柵の上を歩いていて足を滑らせ鉄柵の上に左肋骨から落ちて、胸をしたたか打ち息ができなくなったそうです。本人が「回復するまでうずくまっていれば良かったのに、痛みを堪えて歩き回っていて意識が遠のき、滑り台の倒れ顔を打った」と話していたそうです。
鼻血ボタボタになり、救急車に乗って近く病院に運ばれ、胸部レントゲンと頭部CT撮ってもらい、肋骨は折れてなかったけど、目の奥の骨が折れてるとわかったそうです。その後、入院することなく帰宅し、晩御飯も朝ごはんも普通に食べ、目もちゃんと見えるし吐き気などもないから大丈夫と思うが、1/4に基幹病院形成外科で精密検査受ける予定だそうです。
その後、LINEで写真が送られてきました。右目の上の額から右頬骨にかけて擦り傷が痛々しく、横に写っているすみれちゃんの笑顔がぎこちない。「すみれちゃん、心配しただろうな」と返信すると、お嫁さんからもLINEが入りました。すみれちゃんはパパを心配して1時間以上泣いていたそうです。「少しの間は安静にしていてもらいます」と書かれていました。こういう時こそ、しっかりしている女性が主導権を持って家族全員をコントロールするのが良いです。僕も何度も家内から「ダメ!」ときつく言われ、熱中症気味ながら「大丈夫、出来るよ」を続行しようとしたのを諦めました。「お父さん、ちょっといつもと違うよ、帰りましょう」と無茶を引き止めてくれました。
我が家は、すみれちゃん右目の上の怪我〜長男の3男ルーカスくんの右足骨折〜次男の怪我と昨年から事故が続いています。お百度参りはしないことにしましたが、厄払いに行かなきゃ。


2021/1/1
大晦日は、家内から「紅白にユーミンが出るよ」と言われ、2人で久しぶりに夜ふかししようと見始めましたが、乃木坂46を見終わった頃限界が来ました。映画で見た若手女優さんがコーチしてる大学ヨット部の部員に似てて調べたら乃木坂46齋藤飛鳥さんとわかりずっと注目していました。流石に映画のヒロインに抜擢されるほどの方なので、大勢並んだ乃木坂さん達の中でセンター付近におられたので、すぐ見つけられました。10時前には寝床について1年が終わりました。翌朝は元日、LINEをチェックすると、次男のお嫁さんからメッセージが届いていました。「あけましておめでとうございます。去年は世の中的に大変な1年となりましたが、家族みんなが健康に過ごすことができて本当によかったです。今年も宜しくお願いします」。
大晦日は、次男とすみれちゃん4才は映画「鬼滅の刃」を観に行ったそうです。お嫁さんはおーちゃん1才とマクドナルド(ハンバーガー)で楽しくお留守番したそうです。2時間は長かっただろうな。
送られてきた写真を見ると、すみれちゃんと次男の間に大きなポップコーンのカップが置かれていました。すみれちゃんの片手にはジュースのプラスチックボトルが握られています。

夕方になり、ロンドンも朝を迎えたようで、長男のお嫁さんからもLINEが入りました。「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」。
「今年はどうか色々と状況が落ち着いて、安心して皆で会える日が来るといいなぁと願っています」。
ロンドンの2度目のロックダウンが延長になったようです。小学校は例年より1週間遅れで来週から再開の予定でしたが、ロックダウン延長の影響で、しばらくの休校が決まり、またオンラインでの授業になってしまうそうです。りょうくん7才・小3とこうちゃん4才・レセプション年長は、スクーリングこそ異文化も語学力を向上させるもとなのでとても残念です。スクーリング5年目のりょうくんはまだしも、2年目のこうちゃんにとっては特に残念に思います。
毎日寒空の下でも公園でちょこっと遊んで、あとは家でゆっくり過ごしているそうです。写真を見ると、3人が少しの遊具で遊び、広いたくさん樹木の生えた公園で走り回っています。骨折のギブスが取れてまだ1ヶ月のルーカスくんも、公園ビデオで全速では走らないまでもお兄ちゃんたちと同じように走っていたので安心しました。
家での様子ビデオでは、こうちゃんとルーカスくんが、ソファーで滑り台を作りゴロゴロ転がっていました。こちらでも、ルーカスくんは骨折した足を庇うことをしないので更に安心。庭では、長男のゴルフネットに向かってこうちゃんがスイングしていました。長男がゴルフボールを置いてやり、こうちゃんがマイアイアンでボールを打っていました。お嫁さんによるとこうちゃんが3人の中では最も運動能力が高いようです。ボールを毎回まっすぐ飛ばしているので、ナイススイングが続いていました。凄いぞ!
こうちゃんスイングの裏で、りょうくんの声が聞こえます。英語の物語を読んでいるようです。お嫁さんやルーカスくんに読んであげているのか、とても感情がこもっています。



逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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