-ウェブマスター日記 2020/11-12

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
感想をいただけるとありがたいです→webmaster

2020/12/29
堺・大阪の古墳・寺社ツーリングに出ることにしました。倉庫から「招き猫CB400SB」を出して、7:50出発しました。r13を南下し、R2を渡り「中島IC」から「阪神高速湾岸線」に乗り、堺まで一気に南下します。「助松IC」で下車しr29に合流し、左折しr38で東進します。右折してR26で南下し、左折してr36で東進しました。
「陸上自衛隊信太山駐屯地」を右折して南に向かい、9:01「信太山陸軍霊園」。かつて信太山丘陵一帯が旧陸軍の基地でした。ここは、「黒鳥山公園」の一部になっており、旧軍墓地にありがちな「整然と墓石が並んでいるけど、お参りの方は殆どいない」とは違い、犬のお散歩の方やランニングする生徒さんもいました。
階段を上がっていくと、『黒鳥山公園バラ園 English Rose Garden イングリッシュローズは、オールドローズの可憐な美しさと香りの良さ、モダンローズの四季咲性を兼ね備えたバラです』。季節的にバラは咲いていませんが、良く手入れされていました。更に上がっていくと、大きな「忠魂塔」が建っていました。
公園に上がります。広場が広がっていました。大阪平野から大阪湾まで見下ろせます。中央に小高い丘があり森が残っていました。「古墳?」とひらめき登ってみたけど、謂れ板がなくウロウロしていると、「天皇駐蹕(ちゅうひつ)碑」が建っていました。駐蹕とは、天皇が行幸の途中乗り物を止めたり、一時滞在することです。大正・昭和どちらかの天皇が、ここから旧陸軍の訓練を観兵されたのでしょう。
r38〜r30で、9:29「聖神社」。『聖神社 当神社は延喜式内の旧社であって聖神を祭る。社は信太明神とも呼び、今から約1300年前、白鳳3年(675)8月15日天武天皇の勅願により、国家鎮護の神として創建。 和泉国5社のうち三ノ宮に位置し皇族武家の信仰があつく、殊に後白河法皇の崇敬があついく、その奉納されたと伝える勅額が社宝として残っている。
安産・子宝の神、又長寿の守護神として知られ参詣者の多い神社である。 本殿は慶長9年(1604)兵火見失われたのを豊臣秀頼が再建したもので桃山時代の特質を示す雄麗精緻な建築美を誇っている。 なお本殿建造物は昭和13年改体大修理され、現在重要文化財に指定されている。  和泉市』
大きな神社でした。本殿に加え、末社も檜皮葺の綺麗な屋根を持ち、彩色も鮮やかで素敵な神社です。
『大阪府指定有形文化財
聖神社末社平岡神社本殿 昭和52年3月31日指定 1間社春日造桧皮葺の社殿で慶長9年(1601)から同11年にかけて再建されたものと考えられる。 小規模な社殿ながら重要文化財に指定されている聖神社末社三神社本殿、同滝神社本殿と同じ手法が隨所にみられ、聖神社を構成する桃山時代の一連の遺構として重要である。  平成10年3月  和泉市教育委員会』
『聖神社 聖神社は白鳳3年(674)、天武天皇の勅願によって信太首(しのだのおびと)が創建したと伝えられ、以降延喜式内社、和泉国五社明神の三の宮に列し、「信太明神」の別称でも人々に親しまれている。祭神は素菱鳴尊の孫神「聖大神」を主祭神とし、天照大御神他4柱の神々を配祀している。かつての境内地は信太山丘陵の大半約100万坪を有していた。境内には国指定重要文化財である慶長9年(1604)再建の聖神社本殿をはじめ、末社の3神社本殿、瀧神社本殿があり、末社平岡神社本殿は大阪府有形文化財に指定されている。
国指定重要文化財
聖神社本殿(昭和25年8月29日指定) 豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建し、屋根は桧皮葺、桁行3間・梁間3間の三間社入母屋造という神社建築様式で、桃山文化の粋を集めた極彩色の装飾が施された壮麗な社殿である。
末社三神社本殿(昭和52年1月28日指定) 三間社春日造とよばれる全国的にも珍しい建築様式で、屋根は桧皮葺・正面三間・身舎側面二間の前面に一間通りの庇を設け、極彩色が施されている。元は東南部の神護寺「奥の院」に鎮座していたが、明治6年に現在地へ遷座した。
末社瀧神社本殿(昭和52年1月28日指定) 三間社の北側に隣接、鎮座する社殿で、屋根は桧皮葺、正面一間、身舎側面一間の一間社春日造である。
平成19年3月31日  和泉市教育委員会』
バイクに戻り、9:45公園のトイレ拝借して朝のお勤め終了。自転車を押して歩いてきたおじさんに、「かっこいいですね」と声を掛けられました。「何ccですか?500cc?」「400ccです」。「おいくつですか?」・・「私は4つ上です。私なんか自転車しか乗れないのに・・・」だって。
r30で西進し、JR阪和線を渡り、10:07「信太森神社」。安倍晴明の母親である信太の森の白狐の棲家です。安倍晴明の父親である保名に助けられた恩を返すため、白狐が化身した葛の葉が傷ついた保名を阿倍野まで送り、見舞いした時に見初められ安倍晴明を生む伝説の地です。
『由緒 信太森葛葉稲荷大明神と申し奉るは(日本書紀神代の巻)保食神之なり。 掛巻も畏れ保食神は天照大神の御神勅を給はり、種穀養殖蟹また天津日嗣を始め奉り、天下万人に衣食住の道を教え、蒼生の末の片葉に至るまで餌を養い世を賑はしめ給う大神なり。天下万民誰か1日としてこの大神の御徳を仰がざらん。
和銅元年旧2月初午の日に、元明天皇はこの森に御鎮座まします大神を奉りて祭事を為し給うて以来、世人はこの森を信太森と称して稲荷大神第一の御命婦神白狐の棲を言い伝へり。白狐口に筆をくわえて書き残したのが世に有名な左の一首である。
「恋しくは、来て見よ和泉なる、信太の森のうらみ葛の葉」
御神樹由縁 平成15年3月28日 和泉市指定天然記念物
社殿の南側にある楠の樹は樹齢すでに2000余年楠大明神を祭る。根元より2つに別れているので一名夫婦楠ともいい、枝ぶりが四方に繁茂しているので、千枝(知恵)の楠とも言い伝えられている。人皇第65代・花山天皇(今より1000年前)熊野行幸の際(信太森千枝の樟)の称を賜わる。古今六帖の歌に、和泉なる、信太森の樟樹は、千枝に分れてものこそ思え
また清少納言の草紙に「森は信太森」と記して以来和歌の題となっている稀有の楠である。良縁を求める若い男女、また夫婦揃っての参拝者が多い。
姿見の井戸
楠の樹の南側にあり、稲荷大明神第一の御命婦白狐が義婦人(葛の葉姫)と化現した時に、鏡に代えて御姿を写した井戸という。葛の葉が無事との森に帰り着いたことから、交通安全を願う人々が姿を写している。
白狐石
本殿奥に安置す。今より1000余年前保名の御命婦白狐が身を写したる石である。(黒石に白石にて狐像を現す)唯一の聖霊秘蔵物として保存す。
御霊石
本殿奥に安置す。葛の葉が保名の許から帰った時に、この石に化したという。葛の葉の霊がこの石にこもっていることから、両手でこの石をなでて祈念すると願い叶うという。
夜泣きの子には、昔より名高き、葛の葉のマジナイ致します』
『葛葉稲荷神社の伝説
約1000年余り前、今の大阪市阿倍野の里に阿倍保名が住んでいた。父は豪族であったが人に騙され所領を没収されたので、保名は家の再興を願い、当地信太森葛葉稲荷に日参していた。
ある日のこと、数人の狩人に追われた1匹の白狐を助けた。そのとき、保名は手きずを受けその場に倒れた。 白狐は葛の葉という女性に化け、保名を介抱して家まで送りとどけた。それから数日後、葛の葉は保名を見舞い、やがて互いの心い、妻になり童子丸という子供をもうけた。その子が5才のとき、正体がわかり、
「恋しくば、尋ねてきてみよ、和泉なる、信太の森の、うらみ葛の葉」の一首を障子に書き残して、信太の森へ帰ったといい伝えられる。
この葛葉伝説にまつわる狐がおまつりされているのがこの神社で、今も人々の信仰をあつめている。  和泉市』
『和泉式部 秋風は、すこし吹くとも、葛の葉のうらみがほには、みへじとぞおもふ』
『松尾芭蕉句碑 秋風のおもて見せけり、今朝の霜』
『神社の社紋、葛の生息地(裏見の葛の葉)について
こちらの神社には、当時、三出葉のうち、表が1枚、裏がえしが2枚の異形の葛が生えていました。 「信太の森の、うらみ葛の葉」の「うらみ」とは「裏見」の意味で、こちらに生えている葛の葉を表しており、神社の社紋にもなっています。説明:マメ科のつる性多年草。山野に生える。葉は三小葉からなる秋に紅葉色の花をつける、秋の七草の1つ。つるの繊維は、くず布の原料。根は、でんぷをとり、干した葛根は解熱の漢方薬になります。葛根を加工したのがくずもちです』
『鎮座御祭神 宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)・大己貴神・大宮姫神・素戔男神・猿田彦命・若宮葛乃葉姫』
本殿の彫刻が凝っていました。他の稲荷神社にもありますが、境内の本殿裏を主に摂社が沢山ありました。個人が寄進し境内に立てたのでしょうか?最も庶民的な稲荷神社の特徴かもしれない。日蓮宗独特の字体の石碑もありました。弁天様のように周囲に水濠が巡っている摂社もありました。
『昭和53年6月5日夕暮れ近く、大音響が時ならず境内に響き渡った。社務所からの通報に近隣の人など社前に駆けつけ一見するやただ愕然とした。
畏くも人皇第65代花山天皇御命名と伝えられる千枝の大楠の大枝が折れて落下し、その直下の石灯籠まで砕けていた。この惨状にしばしの間呆然とした。斯くてはあらじと一応の取片付けを終えて一夜は過ぎ、翌朝尾位町成田三造氏が大枝の切断を始めるや、意外な事実を発見した。即ち太枝の下に2体の白蛇が打ちひしがれ、既に昇天されていた。
樹上にまします時は白龍大神と礼拝し諸人等を守り給へる大神であったのに、此れはどうした事か嗚呼生きとし生きる者の生死にまつわる厳しき天命である事を悟った。その夜、成田三造氏が寝につかんとするや、不思議や瞼に龍神の姿が浮かび、眠りにつく事が出来、その翌朝早速此の浄地に鎮り給ふ。大神達を信仰深き1200有余命の有志の御協力に依り、目出度く立派な御神殿の建立を見るに到りました。
斯くも如く御神徳の如何に尊く広大な事を身心に深く感じ、ここに楠木龍王2柱大神の由来を記す』
『姿見の井戸 稲荷大明神第一の御命婦白狐が美人婦(葛の葉姫)と化現した時に、鏡に代えて御姿を写した井戸。葛の葉が無事この森に帰り着いたことから』
『和泉市指定天然記物 葛の葉稲荷のクス 平成15年3月28日指定
樹高21m・幹周り11m 但し幹は2本に分かれている。 東側幹周り5.8m・西側幹周り6.9m 枝張り南北20m・東西18m
葛の葉稲荷のクスは、「泉州志」や「和泉名所図会」をはじめとする、江戸時代の文献に「千枝のクス」として紹介されているように、枝が四方に繁茂していることから「千恵(智恵)のクス」とよばれ、また幹が2つに分かれていることから「夫婦クス」ともよばれています。 幹は地上から約1mで2本に分かれていますが、これは既存の幹を何らかの事情で失った後、根元から新たに2本の芽が出て成長したものと考えられています。
神社のに由緒では、花山上皇(平安時代・約1000年前)が熊野詣の際に「千枝のクス」と名付けられたもので、樹齢2000年とも伝えられていますが、現存する2本の幹でつくられる樹冠の大きさ(枝張り)は直径20m程度で、単木と仮定すると、直径2.9m・幹周り9mのクスノキ(1本の幹)となり、新たな出芽以後の樹齢は700年前後と考えられています。 本樹は、市内でも屈指の巨木であるとして、また古歌や葛の葉伝説に関連して神木として古くから祀られてきていることから広く知られています。  平成15年10月 和泉市教育委員会』
『こちらの楠木は、これらの御利益があります。
縁結び・良縁:根本より2つに分れているので、夫婦楠と言われています。
学業成就:枝ぶりが四方に繁茂しているので、千枝(知恵)の楠とも言われています』
『江戸時代の信太森神社境内の風景 道中風景図巻
道中風景図巻42 和泉信太森稲荷社 ふくろうの塔 利休作巻4
「道中風景図巻」とは、八代から江戸までの風景118図が描かれた全12巻に渡る絵巻物です。今から150年前の日本の風景を見ることが出来ます。この作品は、松井章之(1813〜87)が、安政3年(1856)に江戸へ行った時、肥後藩の御用絵師・杉谷雪蕉(1827〜95)を同行させ、制作させたものです。章之は、肥後藩の家老で、代々、八代城に居城した松井家の10代目です。松井家10代章之が、江戸に参府したのは、13代将軍家定に拝謁するためでした。大名である細川家の家老である松井家には、参勤交代の義務はありませんが、将軍や自家の代替わりには、江戸へ参府して将軍にご挨拶する慣わしでした。  資料提供:財団法人松井文庫蔵(熊本県八代市) 道中風景図巻43泉州尾乃村巻4』
『子安石:安産、子授けの御利益があります』
『子授け守:「信心の人、信太森葛葉稲荷神社のお守りを給わり、子無き人の授与を祈る、安産を祈る」とされる、子安石の前でお守りを持ち、お願いして下さい。 (社務所までお問い合わせ下さい)』
『利休作 ふくろうの燈籠』
バイクに戻り、R26を北上します。10:48「ローソン堺鳳西町店」で、「キリン午後の紅茶ミルクティー500ml131円」購入。
バイクで西進し、R26に出て北上し、11:12「開口神社」。お正月の飾り付けが終わっています。でももちろん初詣の参拝者はおらず、ゆっくり詣れました。『扇塚建立の地』。
『開口神社御祭神:塩土老翁神(しおつちのおしのかみ・元開口村の神)海上交通を守る神であり、伊邪那岐命の子。塩(潮)を司る神であり、命の源泉を護る神ともいわれ、安産の神として崇められている。
素戔嗚神(元木戸村の神)伊邪那岐命・伊邪那美命の子て、天照大神の弟。国土の安全、植林の神、疫病除災の神として崇められている。
生国魂神(いくたまのかみ・元原村の神)国土開発発展の基となる神として崇められ、生嶋神ともOわれる。
開口神社は、神功皇后により創建されたと伝えられ、奈良時代には開口水門姫神社とも称せられています。港を護る役割をもち、最古の国道といわれる竹内街道・長尾街道の西端にありました。また、行基により、念仏寺も建立されたといわれています。 その後、平安末期の天永4年(1113)、開口村・木戸村・原村の3村の神社が合わさって、三村宮(又は三村明神)とも称されました。 念仏寺の通称が「大寺」であったため、念仏寺が廃寺となった今も、堺の人々は「大寺さん」と愛着をこめて呼んでいます。 明治時代には、本神社境内に、現在の堺市役所・大阪府立三国丘高等学校・大阪府立泉陽高等学校・堺市立第一幼稚園などが置かれたこともありました。 堺にゆかりの深い絵師・土佐光起が本神社の創建を描いた「大寺縁起」や古くから伝来する「伏見天皇宸翰御歌集(ふしみてんおうしんかんおんうたしゅう)」「短刀(銘吉光)」は、重要文化財に指定されています。
「念仏寺築地修理料差文」(ねんぶつじついじしゅりりょうさしぶみ)天文4年(1535)4月28日 開口神社蔵
天文元年(1532)12月、堺の町の大半を焼失する大火などで寺の築地が壊れたため、築地條理料として1貫文を割り当て、寄進を募った際の記録です。「今市町・与四郎殿せん」とあるのが千利休、「舳松町・紹鴎皮屋」とあるのが武野紹嶋です。 このような開口神社文書は、鎌倉時代から江戸時代にいたる開口神社と大寺(念仏寺)関係の古文書であり、大阪府の有形文化財に指定されています』
『影向石 開口大神(主祭神:神塩土老翁神)がご影向の時、この石に腰掛けられ、その後住吉へ向かわれ住吉の神となったとも、行基上人と法談した場所とも、弘法大師と御対面された時の御座所とも言われる石である』
『少女たち 開口の神の樟の木の、若枝さすごとのびて行けかし 晶子』
境内に神馬像があり、もう一つの鳥居のある入口は、商店街に面していました。
『海会寺金龍井
臨済宗東福寺派海会寺は、元弘2年洞院公賢(とういんきんかた・1291〜1360)が草創し、乾峯士曇(けんぽうしどん・1285〜1361)を招いて開山とした寺院です。 天正13年(1585)頃までは甲斐町東にあり、その後大町東に移転し、さらに慶長20年(1615)大坂夏の陣の
大火以降現在の南旅篭町東に移転しました。 
海会寺金龍井(海会寺井)の名称は、海会寺がこの甲斐町東付近にあった時代に掘られたこと、乾峯士曇が干ばつのときに龍神に祈ったところろ、老人に化身した鬼面龍神が現れ井戸を掘る場所をおしえたという由緒があることにちなんでいます。 室町時代の記録「角虎道人文集」(かっこどうにんもんしゅう)には、この井戸は、「泉南第一の井戸」であると書かれています。また江戸時代の記録「全堺詳志」には「豆腐製造」に、同じく江戸時代の記録である「和泉志」には「茶の湯」に適した水を出す井戸であると書かれています。このように古くから名水を産する井戸として広く知られていたことがわかります。
1992年10月 堺市教育委員会』
バイクを少し北に走らせ、11:24「菅原神社」。
『石田梅岩先生像 石田梅岩先生は勘平江戸時代中期の人で、丹波に生まれ京に出て商家に奉公しながら神儒仏三教の心を身につけて、心学の基を開かれた。近世文化発祥の地である堺に来て、寛政の頃に中沢道二翁が心学道話を試した時には三千の大衆が集まり、文化14年には心学講舎庸行舎が此の地の人々によって建てられた。梅岩先生220年忌にあたり、地元会位の熱意によって、この像が再建された事は欣扶になえない永く世生人心に益する事を祈る。
昭和39年6月 石門心学会理事長・文学博士・石川謹撰・山川虎男書』
『大阪府指定有形文化財 菅原神社・楼門 昭和45年2月20日指定 昭和51年解体修理
この門は正面の柱間が3間、出入口が1ヶ所の三間一戸の楼門で、屋根は入母屋造・本瓦葺です。楼門とは2階建ての門で、上層に手すり付きの縁が廻らされている門のことを言います。 この建物の特徴のひとつは軒を支える複雑な組物に、彫り物をほどこした絵様肘木を用い簡略化していることです。特に上層では、大斗絵様肘木の上に尾垂木付きの絵様実肘木を重ね、伝統的な二手先(にてさき)組物に似た構成としています。これらは近世建築の様々な表現方法のひとつと考えられ、建築史上の意匠変化を知る上で重要です。 このような特色ある手法や様式などから、建立年代は17世紀後期にさかのぼるとみられます。大阪府下での数少ない楼門建築として貴重です。
平成4年3月 大阪府教育委員会・堺市教育委員会』
バイクに戻り、少し北に走り、右折してr12を東へ。阪神高速15号堺線をくぐり、11:41「片違神社」。
『5世紀 ―辺11m・高さ(現存)2m 方墳 天王古墳は反正(はんぜい)天皇陵古墳の東側にあり、鈴山古墳とともに反正天皇陵古墳と関わりのある古墳(陪冢・ばいちょう)と考えられています。墳丘の周りに濠が巡っていたかどうかはわかりませんが、百舌鳥古墳群では数少ない方墳の1つです。 天王という名称は、このあたりにあった向井神社の別称「牛頭天王社」に由来するものと考えられています。 陪冢:大型古墳の周囲に築かれた中小の古墳』
少し走り、「鈴山古墳」。
『5世紀中頃 一辺22m・高さ3m 方墳 鈴山古墳は反正天皇陵古墳の東側にあり、近くにある天王古墳とともに反正天皇陵古墳と関わりのある古墳(陪冢)と考えられています。鈴山古墳の西側で行われた発掘調査では、反正天皇陵古墳の外濠や円筒埴輪が見つかりましたが、鈴山の濠は見つかっていません。 鈴山古墳の周辺には北三国ヶ丘遺跡が広がっており、発掘調査では中世の溝や墓が見つかっています。これらの遺構はかつてこのあたりにあり、後に反正天皇陵古墳の北側に接する方違神社へ合祀移転された向井神社に関連する遺構と考えられます』
歩いて、11:55「反正天皇陵古墳」。『5世紀中頃 前方後円墳 古墳の規模(墳丘長148m・後円部径76m・後円部高13m・前方部幅110m・前方部高14.8m)反正天皇陵古墳は田出井山(たでいやま)古墳とも呼ばれ、百舌鳥古墳群の北端に築かれた前方後円墳です。造られた場所は大阪湾を望む台地の端にあたり、古墳の向きが海岸線に沿っていることから、古墳が海からよく見えるように築かれたと考えられています。 墳丘は3段に築かれており、西側のみに造り出しがあります。かつては現在の濠の周囲に外濠が巡っていましたが、遅くとも14世紀には埋まったようです。外濠からは埴輪や須恵器・勾玉が見つかっています。東側には天王古墳と鈴山古墳があります』
バイクに戻り、「けやき通り」〜r2で道なりにR310。右折してr30に乗り、12:16「堺市役所・高層棟」。ロビーに入り、エレベーターで最上階21Fに上がります。速いエレベーターですぐでした。堺市を広く展望できる場所で、市役所が閉まっている休日でもオープンしており、世界遺産古墳群を見下ろせます。
火縄銃など堺の歴史も展示紹介されていました。『堺鉄砲と天下統一 天文12年(1543)、種子島に外国製の火縄銃が伝えられた。当時堺の商人は、鹿児島から琉球王国まで貿易にでかけていたので、すぐに鉄砲の存在を知り、技術を習得して堺に持ち帰り製造を始めたという。戦国大名の三好一族を破った織田信長(1534〜1582)は、自分に味方した堺商人の今井宗久(1520〜1593)などを通じて堺を支配した。貿易都市堺は、火縄銃に欠かせない外国製火薬原料の調達にも便利であり、信長は火縄銃を大量に保有し活用出来た。特に武田騎馬隊との長篠の戦いでは、火縄銃が活躍し信長による天下統一に貢献した。今井宗久は、津田宗及や千利休を信長に紹介し、千利休は豊臣秀吉の茶頭としてこの後活躍している。堺鍛冶による火縄銃の高度な製造技術は、平和な江戸時代になると包丁造りにも生かされ、さらには自転車製造業など堺の産業発展に貢献した。
長さ3mの世界最長とされる「慶長火縄銃」をはじめとした堺鉄砲の展示が多数あります』
『千利休と茶の湯
千利休(1522〜1591)は、堺今市町の田中与兵衛の子で、初名は与四郎という。茶道を北向道陳(きたむきどうちん)と武野紹鴎(たけのじょうおう)に学んだ。利休は、禅と茶を深く追求した村田珠光(じょうこう)を敬い、大徳寺の大林宗套(だいりんそうとう)や笑領宗訴(しょうれいそうきん)のもとで禅の修行に努め、宗易という法名を得た。
利休は茶頭として織田信長に仕え、信長の死後、豊臣秀吉の第1の茶頭となり、茶の湯天下一の名人と言われた。天正15年(1591)に秀吉が催した北野大茶会の中心となったが、天正19年(1591)に秀吉の怒りをかい、自害を命じられた。現在、南宗寺に、千家一門の供養塔や利休好みの茶室実相庵などがある。利休は、茶道具から茶室庭園まで茶事全体に簡素な美を今日に至る茶の湯を大成した』
『来て見て体験し匠の製品が買える 堺伝統産業会館 環濠に囲まれた堺の旧市街には、千利休屋敷跡や与謝野晶子生家跡などの旧跡のほか、刃物・和菓子・線香・昆布などの長い伝統を持つ老舗が数多く残されています。堺伝統産業会館では、刃物や線香、注染和晒(ちゅうせんわざらし)など、堺の伝統産業に触れる事ができ、それらの製品の販売もしています。「チンチン電車」の愛称で親しまれている阪堺電車は、旧市街の旧跡・老舗巡りに最適です』
『現存する堺の歴史資産 山口家住宅・妙国寺 旧市街の北部には、戦災を免れた町家、寺社等が数多く残されています。山口家住宅は、江戸時代前期の町家として全国的にも極めて貴重で、国の重要文化財に指定されています。また、幕末に堺事件の舞台ともなった妙国寺にある大蘇鉄(国の天然記念物)は、樹齢1100年とも伝えられ、織田信長にまつわる伝説が残されています』
『三国ヶ丘の地名と方違(ほうちがい)神社 堺市は、和泉・河内・摂津の三国の境に発達してきた都市です。「三国ヶ丘」の地名もまた、三国が接する丘であったことを起源とするものです。この三国ヶ丘に建てられた方違神社は、全国でも珍しい方災除けの神として全国から参拝者を集めています』
『堺市立文化館 堺アルフォンス・ミュシャ館 アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)は、現在のチェコ共和国に生まれ、19世紀末から20世紀初頭にかけてパリを中心に花開いた芸術様式「アール・ヌーヴォー」の旗手として活躍しました。ミュシャの作品は、しなやかな曲線と豊かな色彩を特徴としています。異国趣味や古典古代を思わせる装飾様式で、多くの美しい女性像を描き、人気を博しました。堺アルフォンス・ミュシャ館では、世界有数の規模を誇るミュシャ・コレクションを様々なテーマで紹介するとともに、デジタルコンテンツを活かして、ミュシャの作品世界を新たな視点で鑑賞いただけます』
『泉州 堺湊新地繁栄え図
堺の海辺には、17世紀の後半、頼戸内海の海変で突然に戎島が出現したが、この地はその後、歓楽街として賑わうこととなる。宝永元年(1704)の新大和川開通により、河川の流出する土砂で附洲が発達し、遠浅となり港湾も埋没するようになったが、享保期の布屋(田中)次兵衛、寛政期の吉川俵右衛門などの商人の尽力で堺港の再築に成功した。これが現在の旧堺港の原型となり、港の東邦に堺湊新地の発達とその繁栄をも招くことになる。
土砂の襲来はその後もやまず、港湾の埋没と附洲の増加は続いれが、市民の間にもそれが市況の沈滞を招くことから、積極的にことにあたらんとする気風を生じた。港湾の土砂浚えのための市民による大がかりな砂持興行(砂運び)が、寛政7年(1795)の2万余人によるものを始めとして、文化・文政期などに行われた。天保期になり当時の奉行・矢部定謙(さだかね)が熱心に浚渫(しゅんせつ)と新地の開発につとめ、次の奉行・跡部良弼(よしすけ)も、天保5年(18334)、旭川の開削や港口の波除石堤、風除高堤などの諸工事をおこした。同年には、新地(竪川南側)への橋である栄橋・旭橋・勇橋なども相ついで架設され、渡初めが行われている。翌6年、旭橋の西詰に龍神堂が建てられ、善法寺と名付けられた。翌7年には、中之町浜から南半町までの河川の開削に伴う砂持興業で、御ひげ山が成立した。すべて、この図の内に描写されているとおりである。
新地はかくして、港湾河川の開削の結果成立したが、この地に芝居小屋が建てられたり、天保13年(1812)に戎島から茶屋が移ってきたことにより、戦前まで続く栄橋・龍神の盛況をもたらした。図の全体の説明文にも、港口の浚渫などの工事の結果、新地が繁栄し、港の活況が取り戻されたことを喜ぶ旨が記述されている。当時の市民が。寛永期の鎖国以後の堺の衰退に際会しながら、港の復旧・新地の繁盛をいかに願っていたかをうかがうことができる文章であろう。
なおこの図には、同時に、湯屋町大道大小路角の旅館の、案内紹介文がのせられている。旅館の位置が、名所の妙国寺蘇鉄や、浜辺・波戸・魚市場などの見物には近隣した場所にあるので、ほかの旅館の客引きが自己の旅館へ客を強引に引きよせようとしても断り、止宿するよう強く宣伝する内容となっている。
原画:版画 縦35cm・横48cm 江戸時代末期 銅板レリーフ 寄贈:三菱マテリアル株式会社』
『古市古墳群 古市古墳群は、百舌鳥古墳群の東約10kmの羽曳野市・藤井寺市に位置し、東西・南北約4kmの範囲に広がる古墳群です。4世紀後半から6世紀中頃にかけて造られた127基の古墳が存在したことがわかっています。都市化の進展などによりその多くが失われ、現在は45基の古墳が残っています。仁徳天皇陵古墳に次ぐ国内第2位の規模を誇る応神天皇陵古墳(墳丘長425m)、仲姫命陵古墳(墳丘長290m)など墳丘長200mを超える古墳が7基含まれるほか、その周囲には点在する陪塚など小型の方墳も見られます。
百舌鳥古墳群と古市古墳群は、いずれも日本有数の巨大古墳を含んでおり、古墳が築かれた時期も近く、歴史的な関わりが深いと考えられています』
『仁徳天皇陵古墳 仁徳天皇陵古墳は、墳丘長486m・高さ35mで、周囲の三重の濠を含めると全長840m・全周は2850mもある前方後円墳です。現在は仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。 前方後円墳は日本独自の古墳の形の墳墓で、その中でも最大の仁徳天皇陵古墳は、前方後円墳を代表する古墳です。
この仁徳天皇陵古墳を造るのに、1日あたり最大で2000人、延べ680万7000人を動員しても、15年8ヵ月の期間を要するとの試算があります。このような巨大な古墳を造ることのできた人物は、当時の国を束ねた王の中の王、まさに大王と言えます。仁徳天皇陵古墳からは、円筒をはじめ人物や水鳥、馬などの埴輪が出土しており、これらの特徴から仁徳天皇陵古墳は5世紀中頃に造られたと考えられています』
『百舌鳥・古市古墳群 古代日本の墳墓群
世界遺産とは:ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界遺産条約に基づいて登録された文化遺産や自然遺産、複合資産です。登録には、顕著な普遍的価値や真実性・完全性を有するなどの条件を満たしていることが必要になります。世界遺産には、記念工作物・建造物群・遺跡などの文化遺産、動植物の自生地や自然景観などの自然遺産、それらを両方有する複合遺産があります。
「百舌鳥・古市古墳群」は、アゼルバイジャンの首都バクーで開催された第43回世界遺産委員会で、2019年7月6日二世界文化遺産に登録されました。
百舌鳥・古市古墳群とは:百舌鳥・古市古墳群は、大阪府の南部に位置し、堺市の「百舌鳥」、羽曳野市・藤井寺市の「古市」という2つのエリアからなる巨大な古墳群です。
4世紀後半から6世紀前半にかけて巨大な王墓を含む多数の古墳が築造され、約1600年を経た現在でも市街地の中に多くの古墳が残されており、これほど巨大な前方後円墳が集中している地域は他に例がありません。「百舌鳥」と「古市」は、約10kmの距離を隔てながらも強い結びつきをもった一体的な古墳群です。
世界遺産の構成資産は、百舌鳥・古市古墳群に現存する89基の古墳の中から、多様な形と格差のある規模の古墳を造り分けた古墳時代中期(4世紀後半から5世紀後半)に属し、保存状況の良い45件49基を世界遺産の構成資産としています。
百舌鳥・古市古墳群の価値:多様な形と格差のある規模で造り分けられた古墳 古墳は日本各地に16万基以上も造られましたが、その中でも古墳時代の文化を代表し、他に例のない物証を提供しているのが、百舌鳥・古市古墳群です。構成資産である45件49基の古墳は、前方後円墳を頂点とした多様な形と格差のある規模の墳墓で有力者の地位や権力の大きさを示した古墳時代の社会政治的構造や、古墳上で行われた洗練された葬送体系の存在を証明しています。
画期的に築造された古墳 百舌鳥・古市古墳群は、古代東アジアにおける墳墓のひとつの典型です。古墳および古墳に伴う埴輪や濠、葺石を施した幾何学的で段を重ねて造られた墳丘は、歴史的に重要な古墳時代における社会階層の成り立ちのうえで、顕著な役割を果たしたものです』
『堺手織緞通について 堺手織緞通は天保2年(1831)に堺の糸物商、藤本庄左衛門が製造したのが始まりとされる手織りの敷物です。明治10年(1877)第1回内国勧業博覧会への出品を契機に名声が広まり、アメリカやヨーロッパにも盛んに輸出されるなど、一時は堺を代表する地場産業として栄えました。堺の敷物産業のルーツである堺手織緞通は、大阪府知事指定伝統工芸品として、現在は堺式手織緞通技術保存協会によって技術が伝承されているほか、平成6年(1994)からは大阪刑務所の職業訓練としても採用されています。また平成18年(2006)には、大阪府指定無形民俗文化財に指定されました。本作品は、堺手織緞通ならではの繊細な立体表現により、仁徳天皇陵古墳と周辺の景観を見事に織り込んだものです』
『世界最大級の墳墓・仁徳陵古墳 エジプト・クフ王のピラミッドや中国・秦の始皇帝陵と並んで世界三大墳墓の1つに数えられる仁徳陵古墳。三重の濠を含む全長は約840mもあります。正面の拝所からは荘厳な雰囲気が伝わってきます』
『大仙公園に集積する数々の文化施設 仁徳陵古墳に隣接する、堺市のシンボルパーク「大仙公園」には、堺市博物館・茶室「伸庵」「黄梅庵」・日本庭園・自転車博物館サイクルセンターなどの施設が整備されています。堺市博物館では、百舌鳥古墳群や中世の自由都市を中心とする堺の歴史が解説されています』
『南宗寺・大安寺をはじめとした堺の寺町 中世に自治都市として栄えた堺には数多くの寺院が建てられ、現在も江戸時代の建物が多く残る寺町を形成しています。その寺町の南端に位置する南宗寺には、重要文化財山門、仏殿のほか、利休好みの茶室、伝説の徳川家康の墓などが見られます。また、中世の豪商納屋(呂宋・るそん)助左衛門の邸宅跡と伝えられる大安寺には、狩野派の作といわれる襖絵(重要文化財)が残されています』
『海に開かれた歴史都市の玄関口・堺旧港 中世には、なんばん貿易の拠点としで栄えた堺。明治から約1世紀に渡り、船の安全を見守ってきた旧堺燈台は、日本最古の木造洋式灯台であり、国の史跡に指定されています』
360度東西南北見渡せました。数基の古墳の森が点在しています。セレッソ大阪(サッカー)と堺ブレイザーズ(バスケットボール)のプロ2チームの応援板が置かれていました。柿谷選手のサインや出耒田選手のシューズが展示されていました。でかい!
バイクに戻り、阪神高速15号堺線側道に出て北上します。12:46「旧鉄砲鍛冶屋敷」。『鉄砲鍛冶屋敷(内部非公開) 当屋敷は、エ戸時代前期に建築された建物で、江戸時代の鉄砲鍛冶の生産現場としては国内では最古の貴重な建築物です(堺市指定有形文化財)。元禄2年(1689)「堺大絵図」にも、「井上関右衛門」の名前が当地で既にみられています。 主屋は、江戸時代前期に建築された間口4間の棟を中心に、南北に座敷が設けられています。それぞれの棟は、屋根を切妻造とし、本瓦を葺いています。 主屋に入ると土間には、日本一といわれる大ふいごや大筒があり、堺における江戸時代の主要産業であった鉄砲鍛冶屋の面影歴史的風致形成建造物 井上関右衛門家住宅 平成30年3月31日指定 堺市』
保存修理工事中でした。『鉄砲鍛冶屋敷保存修理工事ニュース3 蔵に鉄の薄板? 敷地西側に立地する道具蔵・俵倉・附属棟の解体が進んでいます。 解体といっても、再びその材料が使用できるかどうかを調査しながら、瓦・壁土などを丁寧に取り除く手作業となります。 その過程で、道具蔵と俵倉の内壁や天井面には、幅2.5cm・厚さ3mmの鉄の薄板が等間隔に入れられていることがわかりました。 これは外部からの侵入防止に備えてのものなのか、他の意図があったものかは今のところわかっていません。しかしながら、鉄が大量にあった鉄砲鍛冶屋敷ならではのものではと考えると興味深いものです』。保存修理工事中でした。
r187で西進し、R26を北上し、右折してr479を東進して、南海本線・阪堺電軌阪堺線を越えて、13:06「生根神社」。
『式内大社・奥の天神・生根神社
御祭神:少彦名命
御由緒:御創立は不詳なるも延喜式の神名帳(10世紀前半)において、当時の式官幣大社に列し古来有名大社であった。豊臣時代には淀殿の崇敬社にて片桐且元が奉行して現存の御本殿が寄進された。古伝によれば少彦名命は造酒の祖神であり、神功皇后も当社で酒を造り住吉三神に献じられたとある。また別名「奥の天神」は住吉大社の奥の天満宮を称したとも言われ、一説には沖の天津神(少彦名命)から出た名称とも言われている。
建造物・御本殿(大阪府指定・有形文化財):完全なる桃山時代の建築様式を残し、切妻千鳥破風木造檜皮葺極彩色の建造にて、慶長5〜7年頃淀殿の指示により建造された。
拝殿:昭和11年に旧殿を廃し、総木曽桧材にて桃山時代の建築様式を取り入れた豪華な新殿に造営し直した。その美術的な真価は後世において重要視されて行くのものである。
天満宮:一間社流造りで現在の建物は江戸時代後期の建造物である。殿内には御菅原道真公の御神像が安置されている。室町時代天台法主・融円律師作の在銘の国宝級の御神像である。
紅梅殿:元住吉大社神宮寺の廻廊の一部を明治初年当社に移し、昭和初期に集会所に改造する。西側の石垣は幕末期の「住吉土佐藩陣屋」より移築されたものである。
境内旧跡:「帆柱観音堂跡」神功皇后御乗船の帆柱で刻まれた仏像を帆柱観音と称し、その尊像を祭祀していた御堂の礎石が境内に残されている。「神明穴立石」御本殿東側にあり、「何首鳥」(薬草名)と刻し霊石とされている。
保存樹木:境内の御神木は昭和43年に大阪市より保存樹木として指定されている。氏子区域:住吉小学校下・大領小学校下・東粉浜小学校下・粉浜小学校下・北粉浜小学校下・墨江小学校下一部・東加賀屋・南住吉1丁目。以上約2万余戸、玉出生根神社は、明治初期に当社より御分神されたものである』
『重要美術品・生根神社本殿』と彫られた石柱が立っていました。文化財ではなく、美術品なんだ・・・。摂社「天浄大神」という珍しい名前の神社がありました。『保存樹木 樹齢500年以上 もちの木 名木指定 大阪市教育委員会』。
本殿は彩色が残り、脇障子の彫刻は立体的でした。
『天満宮御由緒略記 境内社天満宮は室町後期の建造物と推定され、御祭神菅公の御本像は文明14年、天台法主融円律師作の在銘ある国宝級の御神体が安置さる
別名奥の天神名は住吉大社の奥の天満宮を称したとも言われています。 勤学の
守護神 通称・奥の天神』
西に走り、「阪堺電軌上町線」を渡り、「阪堺電軌堺線」沿いを北に走り、右折r5に乗って東に走り、「JR阪和線」を渡り、13:33「山阪神社」。
境内に入るとすぐ、数種類の力石が並んでいました。僕にも持ち上げられないだろう重そうな大石ばかりでした。手水舎を囲む玉垣には、「正直 シャープ株式会社」「浄明 シャープ株式会社」と彫られていました。「山阪神社とシャープの関係は?」と帰宅後調べたら、阿倍野旧本社はすぐ近くでした。たった350m。あと数日でやってくるお正月に向けて、テキ屋の屋台の準備が並んでいました。神社・寺院・盆踊りにはテキ屋の屋台が似合います。我が家の近所の公園の盆踊りは、子供の頃はテキ屋が並んでいたのに、近年は反社会的勢力の美名のもと自治会屋台になりつまらなくなってしまった。拝殿に向かうと、それを取り巻く玉社」の名がありました。
稲荷社があり、山阪八日戎社も摂社にありました。戎社は独立しても良さそうな大きさで、1/10には多くの人出で賑わいそう。
バイクに戻り、少し北に走り、13:45「法楽寺」。
『法楽寺略縁起
・法楽寺の創建は治承2年(1178)、平家の棟梁・小松内大臣・平重盛公によりお堂が建立されました。
・源義朝公の念持仏、如意輪観世音菩薩を祀り、怨親平等(絶対平等の慈悲の心)で平家・源氏の菩提を祀ることでした。
・その為に、宋国阿育王寺に黄金3千両(陸前高田産出)を施し結縁を求めました。阿育王寺仏照律師は重盛公の篤志に応えて印度伝来の二顆の仏舎利を重盛公に贈られました。(平家物語に記述があります)
・元亀2年(1571)、信長の兵火(河内攻め)により堂舎等焼失、荒廃、その後永きに渡り無住の時代(140年)が続きましたが、正徳元年(1711)高徳の僧、洪善普摂(こうぜんふしょう)和上が普山(しんざん)和歌山の雑賀衆の帰依を受け大和大宇陀の松山藩・織田家の殿舎を移築し、お寺の再興に尽力しました。今日の山門・本堂はその時の建物です。
・その後、洪善普摂律師、忍綱貞紀(にんこうていき)和上と碩徳の住職が続きそのお弟子の慈雲飲光律師は「日本の小釈迦」と称され、また尊者と慕われた学徳兼備な高僧でした。以来300年、脈々と法灯は護持され今日を迎えています。
※本堂に詳しい縁起書があります』
境内中央に立派な三重塔がドーンと構えていました。来年の干支「牛」の大きな絵馬が塔の前に置かれていました。赤毛ですが、野牛のような立派な牛が描かれています。
『法楽寺「平成の三重宝塔」
発願者:当山第14世庸祐僧正
設計者:赤路建築設計事務所・赤路又茂技師
棟梁:山田利彦棟梁
本尊:金剛界大日如来像・・・向吉悠睦大仏師造顕
脇侍:不動明王立像・愛染明王坐像(江戸時代作)
賓薩印塔に育王山伝来の仏舎利を奉安
四天柱:極彩色金剛界三十六尊曼荼羅仏画像
内陣長押:宝相華文様極彩色
大地より生えあがる力強い平成の低塔を表現
礎石上塔身高50.880尺(15.416m) 相輪長26.433尺(8.009m) 礎石上塔総高77.313尺(23.425m)
平成6年10月15日・地鎮祭 平成7年4月29日・立柱式 平成8年11月26日・落慶法要
三笠宮崇仁親王殿下、同妃両殿下ご臨席を賜わり、「法楽寺平成の三重賓塔」と命名
三重賓塔建立之会代表者 豊田善右衛門・平岡宏和・岩岡敏志・小川幸二・早川良造・山下力』
塔の下縁に、大きな木彫りの酉の置物がありました。酉の置物は引退ですね。
『お大師堂献灯のおすすめ
ひとはみんな、慈しみの心、あわれみの心、喜びの心、苦難を救う心を仏様より授かり、この世に誕生させていただきました。この4つ心を四無量心と申します。私たちはこの四無量心を生活の中で実践することが人生の課題です。お大師様は、この実践を見守り共に歩み、導いてくださいます。私達は己の心の真の姿を知り、灯の如く輝き、花の如く幸せ咲く人生をお大師様と共に歩みたいです。誕生日・喜寿・入学・卒業、人生の喜びをお供え下さい。
南無大師遍照金剛 献灯は本堂受付にお申し出下さい』
本堂に詣ります。十一面観世音菩薩・歓喜天のご真言が書かれていました。境内に、『天然記念物 法楽寺のくす 樹齢800年 樹高26m・幹周り8m』。大楠には注連縄が張られ、天狗のお面が飾られていました。どういう意味があるのだろう?朱鳥居が立っています。狛犬のカラクリがお払い箱になっていました。
バイクに戻り、北に向かいます。「阪神高速14号松原線」をくぐり突き当り、左折して「松虫通」を西進します。「JR阪和線」「阪神高速14号松原線」をくぐり、r28を渡り、右折して「あべの筋」に乗り北上しました。左から「阪堺電軌上町線」と共にr30が合流しr30に乗って北上。
14:15「大阪市設南霊園」。「従五位勲四等五代友厚」のお墓を詣りに来ました。「故五代武子遺髪之碑」(友厚の娘)・「五代豊子墓」(友厚の妻)・「五代友順墓」・「松霜雅子之墓」・「若須賀能売霊墓」、一族の墓石が友厚の墓石を中心に並んでいました。
『五代友厚顕彰碑 五代友厚氏は鹿児島の産、長崎の海軍伝習所に学び、上海に遣いした後欧州に渡り、諸国の新知識に接して帰朝、維新政府の参与に任じられ、外国事務局判事・大阪府判事などを歴任。外交内政に広く貢献した。
明治2年官を辞して大阪に居を定め、各地鉱山の開発、藍の精製に始まり、金銀分析所・活版所・貿易会社・鉄道会社・商船会社など多くの事業を興した。また社会公共にあっても、明治11年大阪商法会議所を設立、初代会頭として商工業界を指導したほか、造幣寮・米商会所・株式取引所・大阪商業講習所の創立に尽力した。
明治18年9月25日、惜しくも50才にして病没したが卓越した先見性と豪放、高潔の人柄をもって、よく大阪経済を衰微の極から救い、後の発展の礎築いた功績は不滅の光彩に輝く。ここに氏の生誕150年、没後100年を記念し、その偉業を懸賞する。  昭和60年2月 大阪商工会議所建立  日本学士院会員・宮本又次撰  日展書家・前田桃園書』
『わたしたちの国籍は天にある 日本橋キリスト』。霊園内を歩き回った。多くの珍しい墓石など、いろいろ楽しめました。
バイクに戻り、阪神高速14号松原線下を西に走ります。「阪堺電軌阪堺線」を渡り、右折しR26に乗って北上します。左折してR43を西進します。「北津守交差点」を通過し、木津川・安治川・淀川を渡り西へ。尼崎市に入り、右折してr57〜r13で北上します。JR山陽本線を越え、名神高速をくぐり、阪急神戸線をくぐります。山陽新幹線をくぐり、15:34「伊丹中央郵便局」。長男への国際郵便で、年賀状を封筒に入れて送りました。そして、15:50帰宅しました。


2020/12/13
芦屋市にある「ヨドコウ迎賓館」を見学することにしました。9:41、「招き猫VTR250」を倉庫から出し出発しました。近所のGSで給油、210km/5.99L=35.1km/L。R171を西に走り、西宮市に入り右折して「山手幹線」を西に走ります。芦屋市に入り、右折して山の手・超高級住宅地・六麓荘に上がろうと交差点で待っていたら、対向のバイク集団が皆サンタ衣装でした。
10:21「芦屋神社」。芦屋山の手の瀟洒な住宅地にある神社らしく小綺麗な神社でした。境内は楓のオレンジでとても綺麗。境内に緋毛氈が敷かれた長椅子に朱い傘が日傘代わりに開かれ、何かな?と思ったら、七五三詣りのフォトポイントのようでした。拝殿脇に、白鶴・澤の鶴・剣菱の樽が奉納されていました。
『芦屋市指定文化財第3号 伝・猿丸太夫の墓 江戸時代の地誌に、当地の旧跡として猿丸太夫墓と記されているが、芦屋と太夫の関係については明らかではない。鎌倉時代後期(13世紀)の宝塔。 総高159.5cm・材質花崗岩』
「水神社」の石碑が立っていたので見に行くと、『芦屋市指定文化財・芦屋神社境内古墳代 時代:古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初頭) 形状・構造:円墳・横穴式石室 規模:墳丘(直径19.0m・高さ3.5m) 石室(全長10.4m・玄室長3.6m・玄室幅1.7m・玄室高3.1m・羨道(せんどう)長6.2m) 指定年月日:平成28年2月19日
芦屋市内において唯一、横穴式石室が完存する古墳。本来、このあたりは笠ヶ塚群集墳として多くの古墳があったが、今はこの古墳しか残っていない。現在は、弁天岩(芦屋川上流)で祀られていた水神の社となっており、玄室内には、後世の石祠が置かれている。 (平成29年3月・芦屋市教育委員会)』
『令和の御造営 御奉賛の御願い 六甲山の頂近くには当社御祭神であります天穂日命の古代祭祀跡と伝える磐座やストーンサークルが現存し、境内にも横穴式石室古墳があるなど、はるか1400年を上回る悠久の歴史を今に伝える古社として、氏子崇敬舎の皆様より篤い崇敬を今日に至っております芦屋神社では、令和の御大典という佳節を奉祝し、御造営事業を展開させて頂くこととなりました。
このたびの御造営事業は「祈る」「集う」「祀る」の3本の柱からなります。
「祈る」神社の根幹をなす御社殿の御屋根葺替改修工事。
「集う」集いの場である客殿の再建と参拝者駐車場の整備。
「祀る」少子高齢化社会に対応した神道式永代祭祀施設の整備。
芦屋神社ではこれらの事業を通じて、皆様の心の拠り所として次の100年も、賑わいに満ちた活気溢れる神社を目指して参りたく存じます。 つきましては、御造営事業の趣旨にご理解とご賛同をいただき、格別なるご奉賛を賜りますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。  令和元年12月吉日 芦屋神社宮司・山西康司
事業総額:3億円 内訳 神社拠出金5000万円 奉賛金2億5000万円』
『芦屋神社略記 主祭神:天穂日命 合祀神:天照大神(伊勢内宮)・豊受大神(伊勢外宮)他14柱
由緒:縁結び・産業繁栄・諸難祓除の神として崇敬を受けております。天穂日命は、天照大神の第2子であり、大八洲国の主宰神であった大国主命と国譲りの交渉を結ばれました。その後、大国主命の大神殿を築き、自ら祭主となられ、今日も御子孫が祭主として出雲大社をお祀りしておられます。
当神社の創始は不詳ですが、天穂日命が高天原より降臨された磐座が六甲山頂に現存することや、境内に横穴式石室古墳があることなどから推察して、約1300年前には既に六甲山を聖地として崇める豪族が芦屋の地にあり、山の神を遥拝する施設としてこの里宮を建立したのではないかと考えられます。
また平安時代の歌人・猿丸太夫の墓所があることや、古来この地を天神山と称することからも、特別な聖域であったことが伺えます。明治時代、芦屋村に点在する全ての神社を合祀申し上げ芦屋村総鎮守となりました。
祭日:春季大祭・4月第1日曜日(花祭・山勝祭) 秋季大祭10月16日(例祭)』
印鑑の塚がありました。珍しい。
『印章塚 人生に於てその出生結婚死亡に至る迄、その届に印鑑なくしては一生を過せないのは御承知の通りです。更に財産等の重要な事も印鑑によって動かされる仕組みになって居ります。
しかるに人々の印鑑に対する認識は薄いのが現状です。そこで不必要になった又故人になった人の印鑑をお祓いを受けた上、この塚に納めてそれまでに果たした重要な役割に報いる為に設けたのがこの印章塚です。 昭和50年7月 宮司記す』
『印章供養碑 人生は印より始まり印にて終わる運命を持っております。親譲りの印を使用される事は、原因不明の不幸が起こりますので、故人の印はそのまま家庭内に放置することは諸々の悩み事やさわりがありますので、ご使用せられない旧印は、当社にてお祓いの上、印章供養碑へお納め下さいませ。 昭和50年7月建立』
『印章の盛運の秘訣 印章は自己の分身であります。日常ご使用になる印は、朱肉の詰まらぬ様手入れを為し、全体に香油などにて磨けば、光沢の出るほど運勢が良くなります。
自己の実印を毎日半紙に100回捺印して、21日間続けて自己の希望を祈念して捺印して下さい。霊相印は必ず良い結果が生じる事を確認致します。 霊相印・印刻司・山中正雄』
バイクに戻り、r344に出て、10:52「ヨドコウ迎賓館」。本日のメインディッシュです。『重要文化財・淀川製鋼所迎賓館』。門を入り、建物に入り、拝観料500円で入館。
『F.L.ライトとヨドコウ迎賓館 フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright,1867-1959)は、20世紀のアメリカ合衆国が生んだ建築の巨匠です。大正年間に来日した帝国ホテルの設計者として、わが国でもよく知られています。彼は有機的建築(organic architecture)を標榜した建築家で、特に住宅作品に傑作が多くあります。
国の重要文化財の指定を受けているこのヨドコウ迎賓館は、F.L.ライトが山邑家(灘の酒造家8代目・山邑太左衛門)の依頼を受けて1918年別邸として設計したものです。F.L.ライトが帰国後の1924年に彼の弟子である遠藤新(えんどうあらた)、南信(みなみまこと)らによって建設されました』
『ヨドコウ迎賓館の見どころ 敷地は南北に細長く、ゆるやかな南傾斜になっており、建物はその山肌に洽って階段上に建てられています。幾何学的な彫刻を施した大谷石、マホガニーの複雑な木組み装飾や植物の葉をモチーフとし九飾り銅板など、特に2階応接室、3階和室、4階食堂などにライト建築の特徴を見ることができます。屋上のバルコニーからは六甲の山並み、市街地や大阪湾を眺望できます』
『F.L.ライトについて 迎賓館の設計者ライトは、アメリカ合衆国が生んだ20世紀最高の建築の巨匠です。 彼は、およそ1人の業績とは信じられないほど厖大な設計業績を遺しましたが、一貫して彼の標榜する「有機的建築(Organic Architecture)」の理想を追求し続けました。「有機的建築」というのは、一口でいえば、より豊かな人間性の保証に寄与する建築ということでしょう。
世界の近代建築が、機能性、合理性の追求を目標としていたので、「有機建築」は、時にそうした方向とは相容れぬものとして、対立する概念のように誤って理解されたこともありました。つまり、機能主義建築や合理主義建築を主流とするならば、この「有機的建築」は、異色の、あるいは異端の建築と見倣されたわけです。
昨今、機能性の追求にのみ突っ走った近代建築が、反省を余儀なくされています。自然の破壊、人間性の欠如が問題になっているわけです。ライトは、建築が周辺の自然環境と融和すべきことを強調し、機能性の追求のみでは豊かな人間性は保証されないとして、「有機的建築」の実践を使命としたのです。彼の理想はいまこそ、真の理解を迫られているというべきでしょう』
『ヨドコウ迎賓館の来歴
1918年(大正7年) F.L.ライトによって基本設計終了。
1923年(大正12年) ライトの帰国後着工。実施設計・施工管理は遠藤新氏と南新氏。
1924年(大正13年)2月 上棟。
1924年(大正13年)中頃 竣工。山邑家の別邸として使用される。
1935年(昭和10年) 天木繁二郎氏の所有となり、別邸・事務所として使用。戦後進駐軍の社交場となる。
1947年(昭和22年) 株式会社淀川鉄工所の所有となる。初代社長の公邸として使用。接客の場としても利用されたことから、後に同社「迎賓館」と呼ばれるようになる。
1959年(昭和34年) 貸家となり、米国人が住む。
1971年(昭和46年〜1973年(昭和48年) 株式会社淀川製鋼所独身寮として使用される。
1974年(昭和49年)5月 大正時代の鉄筋コンクリート造の建造物として初めて、国の重要文化財の指定を受ける。
1981年(昭和56年)7月〜1982年(昭和57年)3月 建物の老巧化等に伴い、保存修理の方針を策定する目的で調査工事が実施される。
1985年(昭和60年)7月〜1988年(昭和63年)11月 貴重なライト建築を後世に遺すため、3年4ヵ月をかけて抜本的な保存修理が行われる。
1989年(平成元年)6月 ヨドコウ迎賓館として一般公開される。
1995年(平成7年)1月 阪神淡路大震災により一部破損。
1995年(平成7年)6月〜1998年(平成10年)3月 地震の被害調査、及び建築当初のオリジナリティを尊重した修復工事が行われる。
1998年(平成10年)5月 一般公開が再開される。』
『ヨドコウ迎賓館の見所
建物の立地:兵庫県芦屋市の緑豊かな小高い丘の上に立ち、阪急電鉄芦屋川駅のプラットホームからも、その端正な姿を遠望することができます。敷地(約4700平方メートル)は南北に細長く、緩やかな南斜面ですが、西側はかなり急な崖になっています。
ライト坂:ヨドコウ迎賓館の道路は、現在「ライト坂」と呼ばれています。この愛称は、当館の設計者ライトに敬意を表したもので、芦屋市の公募によって決まりました。
アプローチ(導入路):道路から敷地内の南端にある玄関までは、建物に沿った長いアプロ−チが続きます。右手に見える建物の外観を鑑賞しながら玄関前の車寄せに到着すると、眼下に雄大な景色が広がります。劇的な効果を十分に計算したライト独特の演出と言えます。
土地と建物の一体化:この建物は、全体としては4階建てです。しかし、敷地の傾斜に沿って各階が階段状にずれて重なっているため、どの断面をとっても1階または2階建ての様相になっています。自然の地形を活かした設計は、土地と建物の一体化を理想としたライトの建築思想を物語っています。
日本建築からの影響:和室の広縁のように外部の自然を巧みにとり込んだり、茶室のにじり口のように狭い空間を抜けた先に開ける空間の広がりを強調した演出など、この建物には日本の伝統的建築を連想させる手法が随所に見られると指摘されています。ただし、ライト自身は日本建築からの影響を全面的に否定していたそうです。
代表的な装飾
「大谷石(おおやいし)」:内外装に多用されている石材は大谷石と呼ばれ、栃木県宇都宮市大谷町一帯で採掘されています。同じライト作品として名高い帝国ホテルにも使用され、日本におけるライト建築を特徴づけています。柔らかく加工しやすく、ライト独自の幾何学的な装飾様式を彫り込むのに適していたようです。
飾り鋼板:ドアや窓・鴨居の上の欄間(らんま)などに使用されてい銅板は、植物の葉がモチーフとなっています。形だけでなく色もグリーンに近づけるため、銅に緑青(ろくしょう)と呼ばれるカビを発生させています。また、採光の必要な場所では透かしを入れ、葉の隙間から射し込む木漏れ日のような効果を演出しています。
湿気対策:ライトは日本の夏の湿気をかなり意識していたようです。各室の換気の際には通風孔を連設し、意匠的に処理してユニークな雰囲気を醸しています。しかし、雨水の浸入で建物が大きなダメージを受けたため、現在はガラスがはめ込まれたり、開けることができなくなっています。
作り付けの家具:館内には至る所に作り付けの家具があり、マホガニーという木材が多用されています。ライトがマホガニーを選んだ最大の理由は、木目が目立たないこと。はっきりとした木目の杉・松・ヒノキといった日本の木材は、独自の装飾効果を損なうものに映ったようです』
特徴的な六角形テーブルと五角形椅子のセットが2組置かれた居間がありました。
『このテーブルといすは、当館を公開する際に建物の雰囲気に合わせて製作した家具です』
素敵なフロアスタンドがありました。『フロアスタンド「TALIESIN1 FLOOR」 1955年フランク・ロイド・ライトが、クライアントの邸宅を手掛けた際、自邸のためにデザインしたテーブルランプをあらためてデザインし直したものです』
分厚い大谷石の組み合わせで作られた暖炉があり、他にはないデザインで柔らかな雰囲気が出ていました。横には応接間から直接見えませんが、ドアもなくキッチン・食器棚室がありました。
上の階3Fに上がると、襖が取り除かれ細長くなった和室がありました。『3階和室 3室続きになっている畳敷きの和室は、当初のライトの設計には盛り込まれていなかったのですが、施主の強い要望により、ライトの高弟である遠藤新や南信の配慮で実現したとされています。ライトはアメリカ式のヤード・ポンド法の寸法で設計し、弟子たちは日本式の尺貫法で設計したようですが、その誤差は壁の厚さで調整されています。こうした師弟の共同作業によって、洋風と和風という一見相いれない要素が見事に融和しています。
和室の西側廊下の窓には、葉をモチーフにした「飾り銅板」が使用されています。そして、透かしを入れることによって、葉の隙間から射し込む木漏れ日のような効果を演出しています。「飾り銅板」は、他にも和室内の鴨居の上の欄間など館内の随所に見られます。
この和室では、毎年春の訪れとともに、ヨドコウ迎賓館にゆかりのある「雛人形」を展示公開しています』
更に上の階4Fに上がります。3F屋根に出られるドアがあります。この部屋は食堂のようです。
『復元された机と小椅子 意図された室内空間と家具 NPO法人有機的建築アーカイブ副代表理事・井上祐一
「全一なる対象としての建築を考える」:ライトの有機的建築を継承した遠藤新はライトに会う以前に、建築を「全一なる対象」と考えていた。大きくは都市、敷地の環境条件から小さくは絨毯・家具・照明器具に至る全てを一体として、建築を考えていた。ちなみにライトのいう「有機的」というのは「一体化された統合性を意味するものであり、内発的なもの」である(フランク・ロイド・ライト「有槻的建築」三輪直美訳)。この意味において、旧山邑家住宅にとって家具は重要な位置を占めている。家具は暮らし方を形にした室内空間(内発的)を構成する大きな要素であり、欠くことのできない存在である。つまり、建築と一体として設計された家具は室内空間を決定付けるものであり、他の家具では意図された室内とは全く別の空間が現れることになる。この意味において、このたびの机と椅子の復元は、ライトあるいは遠藤および南が意図した室内空間に一歩近づいたことになる。なお、復元に当たっては、阪神・淡路大震災以前に山邑家で実測させていただいた図面と写真が基となった。
建築的家具デザイン:ライトの建築の特徴の1つに、キャンティレバー(片持ち梁・片持ち床版)がある。建物の周囲に柱(あるいは壁)を立て、柱から内側に床を設けるだけでなく、鳥居の笠木が柱から飛び出しているように、柱位置より床を外側に飛び出させる。旧山邑家住宅では現場監理をした南信が「夏帽子」と呼ぶ建物周囲の庇がキャンティレバーである。復元された机は、この建築的な考え方で設計されている。机の脚は四隅に寄せて設けるのが一般的である。ところが復元された机は脚が中央寄りにあり、脚の両外側に抽斗(ひきだし)あるいは戸棚をつけた設計である。4本の大きな脚の両外側に天板が突き出し、キャンティレバーとなっている。机はキャンティレバーの天板から抽斗あるいは戸棚を吊った格好に設計されている。まさに天秤棒あるいはヤジロベエのバランスである。天板の中央寄りにある脚部は、キャンティレバー部分とのバランスをとり、太く大きい部材となっている。この脚には軽やかさを表現するためであろうか押し緑飾りが取り付けられ大きな脚の単調さを取り除いている。引き出しより下は脚の内側が斜めに削ぎ落とされ愛嬌のあるフォルムとなっている。
次に、小椅子については、ライトのデザインの特徴の1つである縦格子の入った背が、姿全体を決定付けている。格子の先端には幾何学形態の細工が見られる。もう1つの特徴は、座面下の側面に取り付けられた板である。2枚の板を込み栓で押さえて固定してある。
結び一他の家具の復元への期待:小椅子と机が復元され、このたびヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)に設置された。このことは復元保存に新たなーページが開かれたという大きな意味を持つ。復元された2点の家具以外に、大テーブル・小テーブル・衝立の実測図がある。時間はかかるかもしれないが、今後の家具の復元に期待を寄せている』
暖炉のある子供部屋が有り、そこでこの建物の修理ビデオが流されていました。4畳半の「小間使の間」がありました。食堂に戻ります。この部屋の天井にはスロットが入っており、自然光がゆるく差し込んでいた。素敵な天井です。
『食堂の家具 この家具は、コクヨ株式会社がフランク・ロイド・ライト財団との共同開発により製作した、ライトの精神を受け継ぐテーブルといすです』
ここに、前にあったフロアスタンドと共通するデザインのテーブルスタンドがありました。『テーブルスタンド「TALIESIN1」 1925年フラック・ロイド・ライトが、自邸で使用するためにデザインしたものです。ライトはこのランプを気に入り、後のクライアントの家にも繰り返し用いました』
『4階食堂 この食堂は正方形に近い平面形を持ち、暖炉を中心に左右対称の厳格なデザインで統一されています。欧米において食堂は儀式の場でもあり、これにならって厳粛な気持ちになるようにつくられているそうです。
また、食堂は館内でも特に装飾性が強い場所です。壁面にしつらえられた木製のものは、ほとんど構造上の役割を負わされていませんが、端正でユニークな雰囲気を醸し出すのに効果的です。
天井は、中央部が最も高い船底型になっているため、換気孔が三角形に仕上げられ、バラエティー豊かな演出がされています。昼間はこの換気孔から光が差し込み、夜間には星空さえ眺められるというロマンチックな空間でもあります』
良いものを見せて頂きました。バイクに戻り、r344を南下し、芦屋川沿いを下ります。右折して「芦屋川」を渡り、もう一度右折して「山手幹線」に乗って西進しました。本山を過ぎ、右折して山を登ります。「阪急神戸線」を渡ります。
11:57、道なりに「保久良神社参道」に入りました。『通行禁止 これより先、保久良神社参道は、住民・神社関係車両以外の一般車両は通行禁止です。 保久良神社・東灘警察署』。
バイクを置いて、ここから徒歩です。ハイキングコースの地図も掲示されていました。子供連れの家族がハイキングの服装で登っていきます。横の敷地内に「地震観測所」がありました。きつい坂道ですが、一戸建て住宅やマンションがあります。毎日の生活が辛そう。最後の住宅地を過ぎ、参道の中央にバリケード通行止めが置かれていました。
『磐座 珍生岩(うずなりいわ) 保久良神社』があり、つづら折れが始まりました。12:13「保久良神社」に着きました。「海抜185m」と書かれています。眼下に神戸の海が広がっています。とても綺麗です。住宅地からの距離も適当なので、毎日登山会が自然発生するのも当然です。
『灘の一ツ火 この石灯籠は、文政8年(1825)のものですが、往古は「かがり火」を燃やし、中世の昔より「油」で千古不滅の御神火を点しつづけ、最初の灯台として、「灘の一ツ火」と海上の船人の目印にされました。
古くから、麓の北畑村の天王講の人々が、海上平安を願う「祖神」の遺志を継承し、交替で点灯を守りつづけてきたものです』
『御祭神「椎根津彦命(しいねつひこのみこと)」の御事績
摂津国菟原(うはら)郡(夙川西岸から生田川東岸までの間)の統治を委任された「命」は、多くの里村が良く見渡せる場と、海から昇る日輪(太陽)が遥拝できる場を兼ね合わせた処を、海上から眺め探し求められ、最適な場所として「ほくら山」を見つけられ青亀を麓の真下の海岸に着けられました。
「この由緒から、青亀(あおき)が着いた岸部・青木の地名が起こる」
早速、対岸の山々、東西に広がる村里を眺められ「命」の心に適合した場所であり、祭祀する場として清めた後、東から昇る日輪を遥拝し、大岩を並べ「磐座」とし「祖先神」(須佐之男命・大歳御祖命おおとしみおやのみこと・大国主命)を祭祀して「農業生産・諸産業繁栄・村里安全」を一族の人々と共に祈願されました。
「村名由来の1=「ホ」は「ヒ」(神霊)を集めた場(倉)から」
そして一族の人々共に、生活改善向上の策として、日々・常時「火種」の供給の場を起こし定められ、多くの人々に「火力」の普及保持を勧め、土器生産を通じ農業発展を奨励する一方、海上交通の安全を図るため、社頭に「かがり火」を炊き、航行安穏を祈ると同時に、文物の流通の道を開拓されました。
「社名由来の1=「火種を保持する庫・倉」=「火倉」となる」
「灘の一つ火」の起源=社頭のかがり火が始まり」
火力の補給を通じ、「農業」を促進、海上交通安全から文物流通など、活気溢るる村里の繁栄に尽くされました。
丁度その頃、天つ神の御子(神武天皇)が九州「日向」の国より東・大和に向かうことを聞かれ、青亀に乗り、和田の浦にて釣りをしながら、速水(はやすい)の門(と)(明石海峡)にて待機、「私は国つ神、名は珍彦(うずひこ・宇豆彦)と名乗り、「皇船(みふね)の先導者とならん」と申され、椎棹(しいさお)を通して船中に入り、神武天皇と対面、「椎根津彦」の称号を賜り、海導者として浪速に上陸、河内・大和等転戦、苦労の中に献策を建てられました。後、大和建国の第一の功労者として、神武天皇即位2年「汝、皇船に迎え、導きて、績(いさおし)を香具山の嶺(いただき)に表せり。因りて倭國造を賜る」(古事記・日本書紀・旧事本紀)
また、倭宿禰として天皇の近くにあり、大和建国・安寧に貢献されました。その後、信濃・越後の国の開発に尽力されるなどの後、倭国造りの要職を子孫に譲り、「命」は故郷「菟原の郷」に帰り、弟猾(おとうかし)と共に郷土の育成・発展に尽くされました。
今も昔も変わることなく、毎朝日の出を拝み「磐座」に神々の神恩を感謝し祈りを捧げつつ、代々の祖先から継承されてきたこの聖地を護持し、敬神愛山の道を次世代に向け大切に守り育てていきたいものです』
参道左右に楓が真っ朱でとても綺麗です。12干支の石造が置かれていました。
『保久良神社・御由緒
所在地:神戸市東灘区本山町北畑680番地
御祭神:須佐之男命・大歳御祖命・大国主命・椎根津彦命
由緒:創立年暦不詳なれども境内外地は上代祖神の御霊が鎮座せる磐座磐境の古代祭祀遺跡地にして、其れらより発見されつつある石器時代の石斧・石剣・石包丁・石鏃類・青銅器時代の銅戈(重美)弥生式土器が前期中期後期に亘り多数出土せり。
西暦紀元前2、3世紀頃より西暦紀元3世紀頃のものにしてそのいづれもが儀礼的なものたることの考證せられてあるを見れば、その頃にはもはやこの霊地に祭祀せられたる證拠なり。また当社は始めに椎根津彦命の子孫たる大和連倉人水守(西暦769)等が祭祀したるとも神功皇后(西暦101)三韓の役の戦利武器を此の社地に収蔵し奉りしより起因するとも、又社名の火倉、火の山烽火場の地より起こりしとも称せられる。尚祝部土器、波瑠玉の発見せられてあり、平安時代の延喜式(西暦927)には社格名を載せ奉りてあり。
鎌倉中期の青銅製懸仏が発見されており、摂津誌には建長2年(1250)重修の棟札の所持せる事を記載する等、上代より祭祀の存続せる事実を実証する資料となれり。
古来より天王宮とも称せられ、中古本荘の庄の総氏神にして工業商業者はもとより多くの崇敬の中心となる当神社の位置は、古生層天王山(海抜185m)の山頂にあり、背後に六甲の翠嶺を負い、前には茅亭の海を一望に見渡す最景勝地にして社頭に古石燈籠明台ありて、毎夜北畑天王講の人々交替して御神火を点じ、近海を渡る船舶の航路安全を祈る「灘の一つ火」として崇拝せられ、古来より航海者等の一針路となる。
これは祖神の代表的事績たる海路響導の行為とを考え合わすとき、氏子人の祖神のご遺徳を追慕する行事にして、上代より現在に至るまで長年月の間、1日として絶やすことなく奉仕し居れり。
主たる祭日 1月1日歳旦祭・1月20日大俵祭・5月4日例祭・5月5日神幸式・7月14日名越祭
末社:祓御神社 御祭神:天照皇太神・春日大神』
本殿に参り、境内にあるもみじを見ると、緑・黄色・オレンジ・朱と色とりどりでとても綺麗です。
『阪神淡路大震災復旧記念
灘の一つ火古石燈籠修復・平成7年12月 大鳥居新設/末社鳥居修復・平成8年10月 本社・末社社殿修復・平成8年12月 神輿修復・平成9年3月 玉垣献納 社務所改築・平成11年11月 平成大震災復興完了記念事業
祖神御尊像建立・玉垣献納・平成27年8月11日』
『「磐座」「磐境」古代祭祀遺跡地
「ほくら」の境内には、大きな岩がたくさんあります。この岩は「立岩」といわれ、神様に祈るために人々が立て起こした祈願岩の1つです。 この「天王山」は、六甲連峰より以前に隆起した古成層で、六甲山系の火成岩質に対し、この山全体が水成岩で構成され、往古の原状の姿のまま現存されております。 社務所の裏の大きな岩は、「神生岩」と呼ばれ、上の窪みに貝の侵蝕跡が残っております。
神社の建物の裏の岩石群を中心に、境内にかけて大きな円形状に大岩が配置されております。このように配置された巨岩群は「磐座」と呼ばれ、「磐境」とも言われます。 昔の人は、大きな岩に常世の国より神様をお招きして、農業生産・諸産業繁栄・村里安全を祈願いたしました。
このように古代人等が祈願した神聖な場所を現代では「古代祭祀遺跡地」と呼ばれ、祈る時に使用された「つぼ・かめ・さら」等の土器破片や「やじり・おの」の石器類も多数出土しております。それらは「弥生式」の中期時代のものと認定され紀元前2〜300年頃よりこの「ほくら」では、古代人が祭祀しておりました。1つの「証」であります。
また「ほくら」の「磐座」は昔、大和の国、現奈良県桜井市の大神神社の背後の三輪山頂にある「磐座」と同じ時期のものと言われております』
境内に「立岩」がありました。本殿裏の巨石群「磐座」を見ようと向かうと、もみじの紅葉が美しかった。緑・黄色・朱が1本の木、1本の枝の中でグラデーションになっており、これが良いです。「保久良梅林」の案内板があり、「保久良登山会本部」のバラックが建っています。
確かに巨岩がゴロゴロ転がっていました。一際大きな岩「磐座・神生岩(かみなりいわ)」に注連縄が張ってありました。『市民の森 樹種名:やまもも・くろがねもち他 昭和50年4月5日指定 保久良神社所有』
トイレが有り、梅林があり、小さな広場にはベンチも完備され、親子連れのハイキングの目的地としての「裏山」軽登山に良さそうです。普段着の母友が我が子を連れてベンチに座ってお喋りしています。子どもたちはその周りで子供同士で遊んでいます。
『イノシシなどの野生動物にえさを与えないようにしましょう。ゴミは持ち帰りましょう。
神戸市では「神戸市いのししの出没及びいのししからの危害の防止に関する条例」を平成14年5月から施行されています。イノシシによる生活環境や人身への被害の原因となる餌付けや生ゴミの放置などの禁止について、皆様のご理解とご協力をお願いします』
『環境緑地保全地域 保久良神社の森
神戸市東灘区本山町北畑字ザクガ原680番 1.9ヘクタール 平成5年2月16日指定 この地域は、ヤマモモを中心とした天然林で、優れた風致景観を形成している』
バイクに戻ります。坂を下り、山手幹線を西に走ります。「住吉川」を渡ってすぐ右折し、右岸を走り、左折して、阪急神戸線沿い海側の側道を西に走りました。「香雪美術館」北を走り、その角を左折して坂を下り、13:09「弓弦羽神社」。
『市民の森 樹種名:むくのき・くすのき・あらかし他 昭和49年3月30日指定 弓弦羽神社所有』
『神戸市指定・天然記念物第7号・平成15年3月26日指定 弓弦羽神社の椋木(ムクノキ) 胸高周囲4.3m・根回り5m・樹高16m・枝張り17m・推定樹齢320年
ムクノキはニレ科の落葉高木で、本州・四国・九州の低地に多く生育している。この木は、兵庫県に於いては、胸高周囲で21番目、阪神間では西宮の物についで2番目神戸市内では最大である。樹勢は大きな枝枯れもなく良好で、今後も成長していくものと思われる。  平成15年4月 神戸市教育委員会』
社務所を覗くと、御朱印帳の表紙に三本足の鳥・・・八咫烏かな?絵馬にもそのデザインのが2種類、社名の絵馬が1種類、そして八咫烏デザインが中央に描かれたサッカーボールが3種類ありました。あれれ・・・サッカーボールに八咫烏といえば、サムライジャパンではないか・・・。
『弓弦羽神社 鎮座地・御影町弓弦羽ノ森
御祭神は、伊弊冊命(那智大社)・事解之男命(熊野本宮大社)・速玉之男命(速玉大社)の3柱にして合わせて根本熊野三所権現と称え奉る。
社伝によれば、往古、神功皇后三韓より御凱陣のみぎり、長門國豊浦より摂津國難波浦に向かわれる途中、忍熊王が兵を挙げるを知り給いて、皇后自ら弓矢甲冑を納め給い熊野大神を斎奉し、ご祈念される事絶え間無し。かくして大神たちまちのうちに感応し給いて戦に大勝し、御子ご誕生の後はすくすくとご成長あらせ給う。即ちこの御子「応神天皇」と崇め奉り、それより後諸々の御願い御心のままにご成就せぬ事無しとぞ畏しと云う。
この故事により、神社背後の秀麗な峰を弓弦羽嶽と呼び六甲山とも唱う。又、神功皇后がこの里の泉(澤の井・阪神御影駅南)に、お姿を写し給うによりこの里を「御影」と称す。桓武天皇の御宇、延暦年間(790年頃)この弓弦羽ノ森を神領地と定め、嘉祥2年(849)正月14日神祠を造営し遷座す。是時、熊野別当慶覚、祝文を贈りて日く「摂津國灘浦遊鶴羽之峯権現の故事当文庫に記録あり云々・・・」と。下って亀山市の御宇、文永2年(1265)諸国に荘園を設けて郡司を置かれし際、この里にもまた郡司を置かれたる由来によりこの里を郡家という。
弓弦羽神社は、郡家・御影・平野の3村の総氏神にして、(熊野)権現宮と親しまれ創設の故事により「厄除開運・諸願成就・子供育成守護」の神、熊野権現「みちびきの宮」と、朝野を問わず広く崇敬を受ける。特に、文化9年(1812)には知恩院宮より「御撫物」を賜り、御安全長久の御祈願所となった。また、近年は「厄除開運」「所願成就」のみならず、みちびきの御神徳により「文通安全・恋愛」の神として知られている。
「指定等」:社叢林(松・椋・楠・樫)・神戸市保護樹林・指定第1号・昭和49年3月30日 祭(地車だんじり)・神戸市登録無形民俗文化財第1号・平成9年10月23日 椋木(ムクノキ)・神戸市指定天然記念物第7号・平成15年3月26日・鳥居入る参道西側・神戸市最大の椋木・樹齢約350年
「年中行事」:1月1日・歳旦祭・新春1番祈祷受付(家内安全・商売繁盛・厄除け他) 1月3日・元始祭会社・団体年頭祭受付 1月14日・御保岐祭(省社鎮座由来による神事) 1月15日・とんど(御神符・正月〆縄御焚上) 2月第4日曜日・祈年祭 5月3・4日・春季大祭・地車(だんじり)祭 6月30日・大祓・茅の輪くぐり 7月第3日曜日・夏祭・崇敬会大祭 10月15日・例祭 11月中・七五三詣祈祷受付 12月31日・大祓・除夜祭』
『大江市松翁と弓弦羽神社 大江市松翁は、明治4年(1871)5月2日御影浜弓場にて、米穀商の大江清兵衛の3男として生まれました。大江家は阪神御影駅が出来た当時は、駅から他人の土地を踏む事なく自宅に帰れると言われ、御影の浜と言わず大江の浜と言われた程の素封家で、明治28年には一族の共同出資で御影貯金銀行を創業しました。
市松翁は、二宮尊徳を尊敬し彼の報徳思想を実践する為、明治41年に「報徳組合共済会」を、同43年に「御影(おかげ)報徳会」を設立しました。(御蔭(おかげ)は御影(みかげ)になぞらえると共に「報徳」の心をあらわす)更に、同44年には、御影字掛田116番地(現・御影中町6丁目)に「報徳実業学校」(現在の報徳学園)を開校しました。
又、伊勢の神宮、橿原神宮などを篤く尊崇する敬神家でもあり、氏神である当社も数々の寄進を受けております。 市松翁からの御寄進の主な物は次の2つです。
「明治天皇御製碑」(右側)昭和9年7月建立
明治天皇・御製 日の本の國の光のそひゆくも、神の御稜威によりてなりけり 伊勢大神宮・少宮司・菟田茂丸・謹書
裏面・皇紀2694年(昭和甲戌7月)敬神参拝組合御蔭報徳会
御稜威:神や天皇の強い御威光のこと。「稜威(いつ)」の尊敬語
「遙拝所」(左側)大正15年3月竣工 神明造・1坪4合
遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むことを遥拝(ようはい)といいます。遥拝所とは神社境内などに特別に設けた遥拝の場所(建物等)です。一般的には(伊勢)神宮遙拝所・(皇后)宮城遥拝所と称し、参拝したい所に向かって設けてあります。建物の奥の白布を通しそれを思い浮かべ、遥拝(祈願)をいたします。当社の場合は、神宮・皇居の他に、少し右(南)方向になりますが元宮である熊野三山をも遥拝しております。
報徳実践の人生を終生歩み「御影の尊徳先生」と慕われた翁は昭和18年2月1日生涯を閉じました。享年73才。墓所は、御影北小学校の山側の御影霊園内にあります。
「報徳学園発祥の地」の石碑:御影中町6丁目・弓場線の西側歩道にあります』
本殿は、2社並びの綺麗なお社が玉垣の向こうに建っていました。お化粧直しからあまり時を経ていないようです。拝殿前のガラスケースに、八咫烏のケースがたくさん並んでいました。ケースの下に、「あなたの願い。みんなの願い。はばたく翼で届けます。/ゆづ丸」。願い事を書いた上を八咫烏ケースに入れて奉納するようです。境内の絵馬掛けにデコレートされた絵馬が透明ビニール袋に入れて下がっていました。目立つので見に行くと、絵馬の中央に熊、それの周りに「YUZU」のキラキラ文字。「CANADA」とか「NHK」「応援に行くよ」の文字がデコレートされている絵馬もあり、フィギュアースケート羽生結弦選手を応援する絵馬のようです。「祝スケナカ初優勝 結弦くんの思い描く演技が出来ますように 2019-20」と書かれたものもありました。羽生結弦選手の聖地になっているようです。
『榔(なぎ) 学名:Nageia nagi 熊野神社及び熊野三山系の神社では神水とされ、また、その名が凪に通じるとして特に船乗りに信仰されて葉を災難よけに、お守り袋や鏡の裏などに入れる俗習があります。また葉脈が縦方向のみにあるため、縦方向に引っ張っても容易に切れないことから、葉や実が夫婦円満や縁結びのお守りとしても使われています。
熊野速玉大社の参道の「平重盛」公お手植えの御神木は日本一の梛の大樹で国の天然記念物に指定され、熊野権現の象徴として崇敬されております。この「梛」は、熊野速玉大社の大樹の実から育てた小苗をいただいてきた物です。
「平重盛」平清盛の長男、保延4年(1138)一治承3年(1179)』
『御本殿の鬼板と勝男木 弓弦羽神社の御本殿は明治3年に年造営され、神戸市内でも最大級の木造流造の御本殿です。当初は檜皮葺でしたが昭和11年に銅板に葺替。令和元年に2度目の葺替を行いました。屋根の箱棟の両側には千木と鬼板があり箱棟には5本の勝男木が乗っております。ここから見上げるとそんなに大きな物と思えませんが、大きさを実感していただきたく、昭和11年より令和元年まで御本殿の屋根の上にあった物を、展示しております。
鬼板は、厚さ6寸(18cm)の「桧」を彫刻しその上を銅板で覆います。勝男木も、胴張円柱の「桧」の周り全てを銅板にて覆います。鬼板の中心と勝男木の両端には、金色の神紋(橘)の銃金具を付けています。(鍔金具は取外し、メッキをやり直して現在も御本殿の屋根の上にあります)』
境内に、玉垣を巡らせたサッカーボールの石造モニュメントがありました。玉垣には「ヴィッセル神戸」と「INAC神戸レオネッサ」が刻まれています。奉納したようです。
『弓弦羽神社とサッカーの御縁
1.八咫烏 弓弦羽神社は約1200年前にこの地に、熊野大神様をお祀りしたのが始まりです。「八咫烏」は熊野大神様のお使いとして知られておりますが、近年は、日本サッカー協会のシンボルマークとしても有名です。サッカー協会の方は、3本目の足でサッカーボールをつかんでいます。当社の「八咫烏」は弓弦から放たれた矢に乗って、一直線に目標に向かう「導きの八咫烏」です。
2.御影は日本サッカー発祥の地 御影の地は、日本サッカーの発祥の地と言っても過言ではありません。 氏子地区内の、阪神御影駅の北側にかつて「御影師範学校」(後の神戸大学教育学部)があり、この師範学校に日本初の(日本人の)サッカーチームが出来ました。
兵庫県(神戸市)は、サッカー王国だった。 御影師範は大正7年(1918)大阪豊中グラウンドで始まった日本フートボール優勝大会(現・高校選手権大会)で初回より連続7回の優勝をなしとげました。但し、地域予選を行なう全国大会となったのが大正15年(1926)の第9回大会からで、それまでは「日本」と名乗っても近畿のローカル大会だった為、性格には日本一とはいえません。しかし、全国大会となった第9回以降も御影師範が4回、神戸一中(後の神戸高校)が4回、準優勝は神戸一中と神戸三中(後の長田高校)が各1回と、14回の大会に兵庫代表が8回優勝し、10回決勝に進出しています。
3.御影石のサッカーボール 御影は「御影石」でも有名ですが・・・このサッカ−との御縁もあって御影石でサッカーボールを作りました。このボールにも矢に乗った八腿鳥がいます。真中にステンレスの軸が入っていて横にグルグルと回ります。ピッチの中で全方向にチャンスを窺がうかの様です』
『花梨(カリン) 学名:Pseudocydonia sinensis
バラ科の落葉高木で、その果実はカリン酒などの原料になる。原産は中国東部で、日本への伝来時期は不明である。花期は3月〜5月頃で、5枚の花弁からなる白やピンク色の花を咲かせる。未熟な実は表面に褐色の綿状の毛が密生する。成熟した果実は楕円形をしており、黄色で大型、芳しい香りを放つ。10〜11月に収穫される。カリンの果実に含まれる成分は咳や痰など喉の炎症に効くとされ、のど飴に配合されていることが多い。渋く堅いため生食には適さず、砂糖漬けや果実酒に加工される』
『招霊(おがたま)の木 学名:Michelia compressa(Maxim.)Sarg.
日本に自生するモクレン科では唯一の常緑樹で高さは20メートルにもなります。  招霊(おがたま)の木。又は小賀玉の木とも表記します。 和名は神道思想の「招霊」(おぎたま)から転化したもので、和歌・俳句の季語にも用いられています。
日本神話にでは、天照大神の天岩戸隠れにおいて天岩戸の前で舞った天鈿女(あめのうずめ)命が手にしていたとされ、古くには榊などとともに神前に供える木として用いられました。このことから地方に於いては、真榊とも言います。果実がはぜて中の真っ赤な種子が見える姿より神楽鈴が考え出されたと伝えられています。常陸宮正仁親王のお印であり、自治体においては宮崎県高千穂町などが町のシンボルとしています。 1円硬貨に施されている木の図案は招霊の木だと言われています』
『花蘇芳(ハナズオウ) 学名:Cercis chinensis
中国原産のマメ科の落葉低木で、春に咲く花が美しいためよく栽培される。早春に枝に花芽を多数つけ、3〜4月頃葉に先立って開花する。花には花柄がなく、枝から直接に花がついている。花は紅色から赤紫(白花品種もある)で長さ1cmほどの蝶形花。開花後、長さ数cmの豆果をつけ、秋から冬に黒褐色に熟す。花蘇芳の名の由来は、花弁の色がスオウ(蘇芳)で染めた色に似ているためである』
『末社・十二社
弘化4年(1847)それまで、境内にあった諸末社を合せて相殿に新築し、何度か屋根の葺替えをしたが、現存の建物では神社で一番古い建物である。
東より 秋葉社(火伏の神)・稲荷大明神(衣食住守護の神)・八幡宮(国家鎮護の神)・高良宮(厄除・長寿の神)・金毘羅社(航海安全の神)・松尾神※現在は荒神社(かまどの神)・船玉神社(船の守護神)・水神宮(水の守護神)・霊符神(星宮之社・方位の守護神)・猿田彦大神(交通安全の神)・蛭子宮(恵比寿神・商売繁盛の神)・天満宮(学問の神)
松尾・船玉が中心の良い位置を占めており、当時の御影は、廻船と酒造が有力な産業であった事が想像できる。又、社殿前の灯篭も廻船中・酒造中の奉納となっている。その11年後、松尾神は西隣に立派な社殿が出来遷座された為、長年空座であったが、昭和54年、神社の境外末社であった中之町の荒神社の御霊を移しお祀りしている。
末社・松尾社 安政5年(1857)新築 御祭神:大山咋命・中津島姫命
本宮は京都の嵐山にあり、古くより酒造りの守護神として酒造家の崇敬が篤い。御影は灘五郷の真ん中であり、現在も酒造会社が松尾講を組織し祭典を奉仕している』
『弓弦羽の杜
・草花や樹木を大切にしましょう
・ゴミは持ち帰りましょう
・硬いボールを使うなど他の利用者の危険となる遊びは禁止します
・ペットのルールを守りましょう(フンは飼主が持ち帰る、放し飼いはしない、ブラッシングはしない)
・花火、焚き火、バーベキューなど火気の使用は禁止します
・夜間、早朝は静かに利用しましょう。ご近所の迷惑になります。
管理者:神戸市建設局東部建設事務所854-2191 休日・夜間・早朝の緊急時のみ:休日夜間緊急連絡センター0120-086-106』
帰路に着きます。山手幹線に下り、東進してR171に出て東進し、帰宅しました。

甲子園ボウル
大学日本一を決める「甲子園ボウル」の日でもありました。「甲子園ボウル」応援に行こうかな〜と思っていたし、ツーリング中も時々スマホで試合経過をチェックしていました。ほぼ「勝ったな」と思いながら帰宅し、その直後「勝利」の文字を見ました。
大学ヨット部の先輩たちと組んでクルージングヨットやレーシングヨット活動をしています。その仲間のLINEグループのやり取りで、日大OBのHさんから「甲子園ボウル優勝おめでとうございます」の投稿がありました。このグループで母校KGの応援にスタンドで陣取ったこともあるし、学生時代だって毎年1度は午後の練習をキャンセルし、部旗を持って秋のリーグ戦や甲子園ボウルの応援をしに行っていました。
このメンバーの最年長のアメリカン大好き先輩に、「今年も応援に行っていたのですか?」と問いかけたら、「はい、スタンドから観戦しました。入場制限されて前後左右ガラガラの状態で、試合内容と合わせて快適な1日でした」と返事がありました。この先輩は、リーグ戦もよく応援に行っているし、リーグ最終戦と甲子園ボウル出場決定戦・甲子園ボウルは必ず応援に行っています。
20時から、録画で試合観戦しました。フル録画だったので、試合時間は15分クォーター×4=1時間でしたが、その他時間を含め4時間ぐらいあったかも。その後、プレイ画面だけを繋いだムービーも出ています。
https://www.youtube.com/watch?v=DOkbU6rg7FU&ab_channel=%E8%91%9B%E8%A5%BF%E7%9F%A5%E6%98%8E


2020/12/12
北部が寒くなって来たので、これからは春になるまで北部は回避することにしました。奈良に行きます。倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、6:26出発しました。R171〜中央環状線。6:41「エネジェット中環豊中SS」で給油。
247km/9.56L=25.8km/L。6:46「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で「ゆずれもん500ml93円+マーガリン入りレーズンバター4P100円=208円」を購入。
r2〜r143〜r14。淀川を渡りR1・東海道新幹線をくぐり、r19〜R170〜r18〜r154〜r20で、7:35「星田神社」。境内では、ラジオ体操をしていました。年配の方が50名ほど広がって手足を動かしておられ、境内いっぱいに広がっていました。賽銭箱には、フェイスブック「星田妙見宮」が宣伝されていました。
『星田妙見宮由緒書 「正式名」 小松神社 「創立」 平安時代(弘仁年間)に創建、明治39年11月に星田神社境外社となる。太古より生駒山系は岩座信仰が盛んであり、この中にあって、当宮は現在残る数少ない岩座信仰の霊場です。平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間(810〜823)に、弘法大師が交野へ来られた折り、獅窟寺吉祥院の獅子の窟に入り、仏眼仏母尊の秘法を唱えられると、天上より七曜の星(北斗七星)が降り、それが3ヶ所に分れて地上に落ちたといいます。この時よりここに、「三光清岩正岩の妙見」として、祀られるようになったと言います。
平安時代には「神禅寺」称されており、河内長野の天野山金剛寺の古文書には、「嘉承元年(1106)9月23日 星田神禅寺」と見えます。
また「東和久田系譜」延宝6年(1678)には、「采女迄三代妙見の別当ショクニシテお供燈明捧御山守護致由候緒也」と記されており、応永9年(1402)生まれの和田出雲安直、将監安道、采女安国の3代にわたり、当宮の別当職であったことがわかります。天文4年(1535)の神明帳には、小松大明神と記されています。
星田妙見宮にまつわる詳しい伝説
52代嵯峨天皇の弘仁年間(810〜823)、弘法大師は京都を旅発たれ、ところどころの霊場を訪ね回っておられたが、ふと河内の国私市(きさいち)の観音寺へ立ち寄られ、ここで虚空蔵菩薩求門持(こくぞうぼさつぐもんじ)の法を修められた。すると、その法力によって、その夜、山の手に仏眼仏母の光明が輝いた。そ夜明けになってから山に登り、獅子窟寺山の吉祥院にある獅子の岩屋に入って、仏眼尊の秘法を唱えられた。
すると、不思議にも、大空から、七曜の星(北斗七星)が降り、それが3つに分れて落ちた。
八丁三所と言われている。その星の降った所を探してみると、星田の高岡山の南にある星の森、光林寺の境内の森、そして今一つはこの妙見山の頂にある3つの巨岩である。以来、これらの石を影向石(ようごうせき)として祭ることになったと言われている。(妙見山影向石略縁起)による。
影向石(ようごうせき)とは、神仏がその姿をこの石の上にあらわしたという石で、八丁(872m)とは、3ヶ所の影向石の間が八丁隔たっているという意味である』
ここは、隕石の落ちた場所です。謂れに伝えられています。妙見信仰に繋がったようです。
横には、「星田寺」がありました。「不動明王」「十一面観音」。『交野市文化財 十一面観音像 この十一面観音像は、もとは交野市南方向・標高60mの山中にあった真言宗「小松寺」の根本草堂に祀られていたもので、その後元禄16年「小松寺」の荒廃により、明治初年の神仏分離により当「星田寺」に移された。平安時代後半の典型的な作風によるこの仏像は、一部後補の跡も認められていたものを、平成4年飯田雅彦仏師により、造立当時の型状に復元された均整の取れた容姿に見られる線の流れや、大慈大悲をかもす尊厳の美しさは絶妙である。平安時代から今日まで人々の篤い信仰があり、江戸時代供養のため供えられた手型が現在も保存されている。平成2年6月1日、交野市文化財に指定された。 平成5年発酉5月 三宅山星田寺』
『願いごとは 1つだけにしてください。十一面観世音は、どんな願いごとでも当人の心の在リようで聞きとどけてくださいます。7日間・21日間・百日間と期日を定めて心をこめて一生懸命、念じてください。
ご真言は、「おんまか、きやろにきや、そわか」と、7返唱えて下さい』
『水かけ明星お不動さん 願いごとは1つ、きれいな水をかけてください。池の水は汚れています。かけないようご注意下さい』
R168を南下し、枝道に離れ、「磐船神社」前を通りました。この神社は、「天野川」沿いにありますが、それほど山奥でもないのに大きな岩が重なり合った特徴のある神社で、国道のすぐ近くなので雰囲気があります。R168に再度合流し、南下します。R163を横切り、更に南下し、右折してr701。
8:25「住吉神社」。『古提街道・中垣内越えの今昔 生駒山系を横断して河内・大和を結ぶ古道は、本市においては中央部を通る清滝街道と、南部を通る古堤街道の2つの道がある。古堤街道は、京橋を起点として徳庵・諸福と進んで、中垣内で東高野街道と直交して山道にさしかかる。ここから南田原への道は「中垣内越え」とも呼ばれ、昔から人びとに親しまれてきた道である。
数字を付して古道をたどると、中垣内から東へ急坂を登った道は、竜間の集落にでる。竜間神社を過ぎ集落をぬけて道を東に、さらに北に進むと、阪奈道路料金所跡に出る。このあたりは往時の面影が全く残づていない。古道は一部阪奈道路と重なり、やがて北の道すじを東北に、緑風台住宅東の谷すじを下る。
谷すじを下って上田原ハノ坪に出る地点の南側には、戦国時代に飯盛城の支城であった、田原城址がある。古道は城址北側の堤上を東に進む。このあたりは古道の面影がよく残り、北側台地には城主原氏の墓所があった、干光寺遺跡があり、青磁袴腰香炉(大阪府指定文化財)が出土した。
道は現道の南を平行して進み、中番で新道を横断して東に、住吉神社へと進む。境内には石風呂(大阪府指定文化財)がある。神社南の現道に面して、0道路改修記念碑が建っている。中垣内越えの古道は、冬季・雨季には悪路となるため、なんとか良い道にとの地元の人びとの願いで、明治37年に起工されたが中断、やっと大正12年に完成した時のものである。
道は現道の北側を進み森山へ。下田原への道の交叉点に明治19年建立の道標があったが、今は現道北側に移されている。道は交差点を東に進み、天野川左岸堤に出て天野川を渡り、磐船街道と交叉し東に進む。現道の両国橋たもとには、大正12年建立の府県境石標がある』
境内に入ると、玉垣に囲まれて「石風呂」がありました。『霊のこもる住吉神社に石の風呂 神社の創建は、江戸初期であろう。祭神は住吉四神、上下田原の氏神である。鎌倉期の石風呂は、祭神時の潔斎(けっさい)・浄身用に使用された。府指定有形文化財』
『花崗岩質のこの石風呂は、往古浄身用に使用された浴槽で、鎌倉時代に製作された貴重な石造物』
おトイレがあったので朝のお勤め終了。
r701を西進し、8:46「田原城跡」。小山を見上げ、周囲を歩いて登城口を見つけました。『田原城址 四條畷市上田原八の坪 田原城は、約30mの丘陵に築かれた丘城で、江戸末期の上田原明細帳に「古城跡、字城山、壱ヵ所。但し、凡そ200年以前の永禄の頃、当地守護田原対馬守様御城跡と申伝候」と、唯一の文献が残っています。
永禄3年(1560)、三好長慶が飯盛山城に入城後、その支城として充実した機能を持ち主したが、織田信長の入京後、廃城への道をたどりました。
本丸は周囲に竹矢来を組み櫓を設けていたと思われ、西側に複数の隠し井戸があり、当時の面影を残す水廓や腰郭、切掘りが残り、一の門・二の門・三の門・門口・土居の内・殿様屋敷などの城郭用語を今に語り伝える理想的な中世土豪の城郭です。
田原城の構造図 本丸26m×7m 東郭27m×22m 二の丸東11m×24m西22m×18m 西郭37m×7m 水郭25m×15m 裏山郭20m×10m 西砦15m×12m』
『田原城主(田原対馬守)はキリシタンだった 阪奈サナトリウム駐車場(四條畷市田原台4丁目8-6地内)建設によって発掘調査(平成14年2月12日〜20日)を行いました。この調査は、田原城主一族の菩提寺「千光寺」跡としてよく知られいまず。調査中2月14日、この寺跡の土塀の内側にあたる場所から「天正9年(1581)辛巳礼幡(レイマン)8月7日」の銘が刻まれたキリシタン墓碑が出土しました。これはキリシタン墓碑としては日本最古のものです。 (平成19年1月19日大阪府指定有形文化財に指定)』
比高は20mほどしかなく、すぐに本郭まで上がれます。途中に大きな堀切がありました。里に近いからか、往時の堀切がそのまま埋まらず残っている感じがしました。竹藪化しており城跡の成分が見やすかった。「たけのこは食べられません」と書いた札が立っており、何故なんだろう?と思いました。
『そそり立つ田原城、門口矢の石隠井戸 永禄年間、田原対馬守は上田原字八ノ坪に拠点をおく武将。城跡は、土居の内とも呼ばれ、土豪武士の居館の名残をとどめる』
『矢の石 下を見ると北谷川が流れ、古堤街道が走っています。田原城の殿様が本丸から街道沿いの石をめがけて弓の練習をしたと伝わっています』
r701に出て東に戻り、右折してR168に入り、9:10「あまつの宮・住吉神社」。境内に入ると、氏子さんが集まって掃除をされていました。お正月を迎える準備なのでしょう。拝殿を抜け本殿郭に上がると、躍動感のある武者像がありました。
R168を南下し、近鉄奈良線「東生駒駅」をくぐり、左折してr702〜r7で、9:43「添御縣坐神社」。隣接する「根聖院」に参ります。『三碓(みつがらす)地名起源の石』と彫られた石碑がありました。『三碓地名の由来 この土地一帯を三碓(みつがらす)と言うのは、遡る事1300年前、奈良時代に小野福麿(ふくまろ)がこの地域を治めていました。住居とは別にこの場所に三ツ碓(からうす)をおき、米を搗(つ)かせていましたが、鳥狩りに御幸された聖武天皇が御覧になり、この土地を「三碓」と名付けられました。この碓は搗き碓で、朝鮮半島と戦った後に、米を搗く文化と共に大和に渡って来たと考えられています。「古事記」には播磨の国でもこのような石碓が使用されていたと伝えられています』
本殿「医王殿」に本尊「薬師如来」がおられました。神社の境内に上がりました。舞殿に氏子の方々がおられ、注連縄を作っておられました。拝殿には、参詣の行列が描かれた絵馬が下がっていました。注釈がありました。『奉額 明治第12年巳卯9月、今般虎列拉(コレラ)病流行ニ付村民一同為安全祈願 この絵馬は明治12年(1880)9月に奉納され、この三碓地区でコレラが流行した事を伝える貴重な資料です。この時期、世界的にコレラが大流行していて、三碓の村人にとっても疫病の退散は一番の念願で「土橋」に達するまで行列をなしている風景です。まだ医学の未発達な時代、最後の手段は神社への祈願だったようです。コレラは胃腸の疫病なので「三密集」は問題ありませんでした』
本殿は素晴らしく檜皮葺尾根瓦屋根の素敵な屋根に目が行きました。
r7に戻り南下します。10:12「登彌神社」。『奈良市指定文化財 登彌神社の粥占い 昭和57年3月1日指定 粥占いは、粥を用いて農作物の出来を占う年中行事です。 登弥神社ではもとは小正月の行事でしたが、今は2月1日に行います。氏子が毎年交代で、早期から、米・小豆と、青竹の筒37本を束ねたものを、湯釜で炊きます。1時間あまりで竹筒を引き上げ、農作物の品目ごとに竹筒を小刀で割り、粥の入り具合でその年の作柄の良否を占います。 豊作を祈願する農耕儀礼のひとつとして、古風な形態をよく残していて貴重です。  奈良市教育委員会』
こちらの本殿は相殿で、檜皮葺き屋根の美しい社殿でした。彩色も鮮やかで、お色直ししたばかりのようです。絵馬殿に沢山の絵馬が下がっていました。
『拝殿(登録有形文化財) 建物は元神楽殿で、寛政11年(1799)建と伝わる。昭和14年(1939)までは現在の手水舎の位置にあった。拝殿として移築時に一部部材や瓦を取り換えた。境内の中心にあって存在感のある建物である』
『本殿(登録有形文化財) 東西の本殿は、一間社春日造りで文政7年(1824)11月火災から再建された。2棟を並立して相の間で連結した類例のない江戸時代後期の神社建築様式を伝えている。平成27年(2015)9月、全面修理により極彩色も復元された』
『神饌所(登録有形文化財) 昭和14年(1939)新築された。小規模ながら均整の取れた格調ある意匠の建物で、昭和前期の神社建築様式をよく伝えている』
『登弥神社御祭神 本殿御祭神 東本殿:高皇産霊神・誉田別命 西本殿:神皇産霊神・登美饒速日命・天児屋根命
摂社御祭神 祓殿社:瀬織津比売神・速秋津比売神・気吹戸主神・速佐須良比売神・表筒男神・中筒男神・底筒男神 山室神社:大物主神・菅原道真公 豊穂神社:大日要命・豊受比売神・天宇受女神 荒神神社:大山祇神・庭高津日神 比良田神社:猿田彦神・大己貴神・八重事代主神』
『御由緒 皇紀4年春2月23日、神武天皇がこの地に於いて、皇祖天神を祭祀されたのが、そのそもの渕源であり、その後、登美連が祖先である天孫饒速日命の住居地(白庭山)であった。この地に、命ご夫妻を奉祀したのが当神社のご創建であります。 天皇陛下御即位50年を記念して 昭和50年乙卯10月8日建立』
『登彌神社の由緒は、神武天皇が皇祖天神を祭祀されたのが、そもそもの淵源です。春日造りの社殿が東西に並び、南側の石段は苔が生し、その両側を原始林の状態で保存された杉や樫に囲まれています。美しいこの社にて、奈良市の無形民俗文化財に指定されました筒粥祭が執り行われます。
毎年2月1日の早朝、真冬の厳しい冷え込みの中で行われるこのお祭りは、竹筒に入った粥の詰まり具合で新しい年の農作物の出来・不出来を占う粥占いが行われます。
元禄8年(1695)の陽刻銘がある鉄製の大釜に米2升。小豆1升と竹筒37本を入れて炊き、約1時間半もかけて炊き上げます。十分に火の通った後は、釜から湯気の立ち上がる竹筒を取り出して供え、小刀で割ります。米と小豆の詰まり具合を上・中・下に分け、さらに上・中・下に分類して、計9段階で米や大根・キャベツなど、37種類の農作物を占います。今年は小豆やナス等が出来が良いという結果になりました。占いの後は、熱々の小豆粥が参拝者に振る舞われます』
『神社境内が史跡に 本殿などの登録も 文化審議会
文化審議会(佐藤信会長)では11月15日、特別史跡の新指定1件、史跡名勝天然記念物の新指定19件と追加指定等29件、登録記念物5件の新登録及び133件の建造物の新登録を文部科学大臣に答申した。
このうち特別史跡については、前方後円墳8基と大型円墳1基及び小型円墳からなる埼玉・埼玉古墳群が指定される。また、縄文時代後期前半の遺構である埼玉・神明貝塚などが史跡に。登録有形文化財では大東亜戦争時に上皇陛下の疎開先となった栃木・旧南間ホテル別館や、神仏分離後に社家住宅となった奈良県の旧真法院・旧慈門院それぞれの宮殿・庫裏等が登録される。神社関係では奈良・等彌神社本殿などが登録されることとなる。文化庁の報道発表資料による概要は以下の通り』
『登録有形文化財 等彌神社本殿・拝殿・神饌所・手水舎・社務所 奈良市西部の丘の上に鎮座する同神社の本殿は、一間社春日造の2棟を連結して極彩色で彩る華やかな社殿。棟札から文政7年(1824)の建設であることがわかっている。寛政11年(1799)頃に建設の拝殿は、本殿正面の石段下に建ち、柱間装置を設けない開放的なつくりで、旧神楽殿を移築・改修したものと伝わる。神饌所は昭和14年の建設で、全体的に均整の取れたつくり。切妻造本瓦葺きの手水舎も同年の建設で、吹き放しの長方形平面に加え、中ほどに手水鉢を据える』
『等彌神社祭神饒速日命(にぎはやひのみこと) 通称木嶋明神といい、延喜式内小社で物部氏の祭神とし、神域幽玄神殿も極めて壮大であり、太古大部族の祖神を祭るにふさわしい佇まいである。また、付近丘陵(大和郡山市城町主水山)は弥生時代遺物の散布地帯でもある。 大和郡山市・大和郡山市観光協会』
r7〜r249で南下し、突き当りを右折しr189で西進。
10:35「矢田坐久志比古神社」。『文化財愛護・重要文化財 矢田坐久玉比古神社・本殿 室町時代』『文化財愛護・重要文化財 八幡神社・社殿 鎌倉時代』
『矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社 御祭神:櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひこのみこと)・御炊屋姫命(みかしきやひめのみこと)2座 延喜式神名帳 大和国添下郡 筆頭 2座共案上幣帛の大社旧県社 鎮座地:奈良県大和郡山市矢田町965番地
櫛玉速日命は、天照坐皇(あまてらしますすめ)大神の詔(みことのり)により弟神の天孫降臨に先立ち、豊葦原中津国仮平定のため天乃羽羽矢(あめのははや)と天璽十種神賓(あまつしるしのとくさのかむだから)を授かり、天磐船(あめのいわふね)で天降られました。
初めに河内国の河上のいかるがの峰に天降られ、祭祀を営まれましたがお住まい(宮居みやい)とされず、再び天磐船にお乗りになり大和の天空を駆け巡られながら「吾を宮居の地に導き給え」の御祈願をされ、天乃羽羽矢3本を射放たれました。この伏(さま)が「やまと」の最古の枕詞の「そらみつ」のおこりで、この地に3本とも落ちましたので「矢田」と呼ばれ「矢落社(やおちしゃ)・矢田大宮」と称されています。2の矢(境内)に、32従神(とものかみ)・部人(ともびと)を率いられ天降られます。
この地を治めていた大豪族登美長髄彦(とみのながすねひこ)の妹、御炊屋姫命を娶り宇麻志麻治命(うましまじみこと)がお産まれになります。当地方最大の古社として創建より6世紀前半まで機内随一の名社として栄え社殿は宏壮美麗(こうそうびれい)を極めますが、仏法興隆とともに神裔(しんえい)物部氏は四散し社運は衰退したと伝えられています。(中略)
内務省神社局が、天空を司る神(航空祖神)は、当社であると考証したことから、二宮忠八氏がたびたび参拝されました。楼門のプロペラは昭和18年に大日本飛行協会大阪支部から奉納の満州事変で使われた陸軍91式戦闘機1型から取り外された実物です。航空祖神の額は、航空自衛隊初代幕僚長を務めた後、参議院議員になられ源田実氏の奉納です。
御神徳:御皇室の御繁栄・御鎮護・国民の安泰 天璽十種神宝:医療祖神、治病息災・延命長寿・厄除け 天乃磐船:航空祖神9月20日「航空祭」大空の発展・安全と航空関係者の慰霊 天乃羽羽矢:大願成就・開運・必勝・合格 綱掛祭:1月8日、敬神崇祖・五穀豊穣・水運安全・夫婦円満・子孫繁栄・家内安泰 筒粥占祭:2月1日直近の日曜日、五穀豊穣・生業繁栄 摂社:舟人神、防衛の神・災厄消除・泥棒除け
お知らせ:御祈祷は、土曜日・日曜日・祝日に限らせて頂いております。ご予約をお願い致します。当日の受付は、致しておりません。神社年中祭礼日と12月の土・日曜日は、御祈祷をお受け出来ません。  社務所電話番号0743(52)7313 Fax同じ』
楼門の上に大きなプロペラが付いており、「これは」と誰でも目に付きます。こんな神社を見たのは初めてです。その上に「航空祖神・源田実」と書かれています。鬼瓦には交差した矢が描かれ神紋かな?源田実同様、武を想像させます。神門には2枚の航空写真絵馬が飾られていました。1枚は「中部方面ヘリコプター隊第1飛行隊」、2枚目は「中部方面ヘリコプター隊第2飛行隊」からの奉納でした。陸上自衛隊中部方面総監部は、我が家のすぐ近所です。毎日のように輸送ヘリコプターや攻撃ヘリが飛来します。この部隊のヘリパイロットの方の知り合いもいますが、飛行神社に空から詣っているのですね。
境内に神馬の像が奉納されており、腹に「矢違い」紋が描かれていました。大きく立派な拝殿に「矢落大明神」の扁額が下がっていました。玉垣の向こうに見える本殿は大中2棟並んでいました。檜皮葺屋根の素敵な本殿でした。
境内に、「伝承・二之矢塚」がありました。ピンクの花が綺麗な山茶花が満開でした。バイクに戻り、パンを出して朝食にします。社務所に寄り、木札と御守2300円を授かりました。
r189を戻ります。東に走り、右折してr9で南下し、11:16「甲斐神社」。道が細く、バイクを置くと横には小さなコンクリート池があり、金魚生産をしているのでしょう。
『村社甲斐神社 御祭神:天兒屋根命 当社はその昔・人皇第56代清和天皇、即ち今を去ること千幾余年前に大和国和州添下郡田中村の鎮守の神として、現在の位置に神皇産霊命の御子・天兒屋根命を御祭神として社殿を設け、、社名を田中社と称し祭祀される(通称・甲斐明神)。三代実録に貞観7年4月「援大和国無位田中神従五位下」とあり、また玉葉集及び大和資料に「山きはの田中のもりに注連はえて今日里人は神まつるなり」の一首登載される。右資料より推考すいれば貞観年間以来現時に及ぶまで、実に千幾余念間連綿として、受継来たれるは当村氏子一同の誇りとする処なり。されば往昔より田中の里の農工商全ての産業開発、また暴風洪水の禍害なく、五穀豊穣の蓄生を祈り、延命長寿を願ふ信仰篤く遠近よりの参詣者で、社頭は常に賑はいし由緒深き大和の古社なり。正一位・甲斐明神と伝承す。境内鎮座の末社:八幡神社・神明神社』
拝殿に、数枚の絵馬が下がっています。バイクで少し走り、11:25「小南神社」。小さなお宮ですが、境内に入るともみじがオレンジ色や朱色に色づいていました。「神武皇陵遙拝所」がありました。
『小南神社略記 祭神:誉田別命・素戔嗚命 主神・誉田別命は、第15代応神天皇の別名で、八幡大菩薩と称し、古くより武家の雄たる源氏の氏神として知られ、その神威は特に部門に高い。素戔嗚命は、天照大御神の弟神で八俣遠呂智(やまたのおろち)退治で有名な武神で、神仏融合時は牛頭天王と称し、国土の総べてを支配される王として、昔から天王さんと称賛されています。故に八幡宮天王両宮と呼んでいる。古より毎年正月14日に両宮の当家3人ずつにより、宮坐の儀式が行われていた。当村保存の宮座古文書によると、文明11年己亥(1479)年正月14日と記してある。
なお現在は、500有余年続いた宮座は、平成元年から休止している。また古くから雨乞いの神として崇敬され、元治元年(1864)大正2年(1913)の干ばつには大変効き目があったと伝えられている。本殿前の北と南には正徳元年(1712)の石灯籠があって、1つは小南座とあり、1つは小南方座とある。末社は稲荷社を祀る。
主なご利益:五穀豊穣・家内安全・交通安全・厄除け開運・受験祈願など平成12年元旦・2000年記念 小南神社』
絵馬殿には多くの絵馬が掲げられていました。新旧多くの絵馬で、氏子の尊崇がずっと続いているのがわかりました。
r249を東に走り、右折して南下します。道の左右に小さな池が多数見えてきました。大和郡山市は、全国の金魚の最大生産地です。
筒井順慶の居城「筒井城跡」近くまで南下し、11:48「菅田比売神社」。『往時は筒井小学校の東側(大学篠田北篠田)から佐保川にかけての神社で、信田宮と称し筒井村を中心に57ヶ村の敬神として祭られていたが、天正8年戦国時代の兵戦にて焼失。その後、この地に再建、現在に至る』
『菅田比売神社御祭神は、伊豆能売神様で、御神徳は厄除(厄祓の神様・伊豆能売神・神直日神・大直日神・壌災い招福)の神様です』
『伊豆能売神(いづのめのかみ) 〈記紀神話の男神〉 黄泉国から帰った伊邪那岐神が喫祓をしたおりに化生した神々の一柱。 伊邪那岐神が死の国(黄泉国)から戻って、筑紫の日向の橘小門のあはぎ原で禊をした際に、その禍(まが・邪悪)を直そうとして化生した3神のうちの1柱である。
三神は神直眺神(かみなおびとかみ)・大直晩神(おおなおびとかみ)・それから伊豆能売神で、このうち神直眺神・大直晩神の2神は禍を直す神の意である。伊豆能売神の伊豆は、いつべなどの厳で、斎み清めることを意味しており、汚穢(おえ)をすすいで清められたことを表した神である』
バイクに戻り、12:00すぐ近くの「八幡神社」。r108〜R25で東へ。R24を渡り、r192で東に走り、12:15「和邇下神社」。絵馬殿に、古事記由来の絵馬が下がっていました。奈良に入ると、古代を描く絵馬が多いです。
r192で西に走り、右折してR24を北上し、12:31「売太神社」。環濠に囲まれた集落・神社です。『売太神社御由緒 社格:延喜式官幣社・旧県社 御祭神:主斉神・稗田阿礼命 副斎神・猿田彦神・天鈿女命
稗田阿礼命 この稗田の地は太古の昔より朝廷に奉仕した猿女君稗田氏族の居住地であって、天武天皇の舎人稗田阿礼はこの一族として出仕したのである。 天皇は阿礼が記憶力理解力共に抜群で、学芸諸術の方にも秀でていたのをお褒めになって御自らご精選になった歴代天皇のご事績と建国以来の歴史・神話・伝説・歌謡を直接お授けになった。
この誦習った事柄を30有余年後の元明天皇が太朝臣安萬侶に記録させられた書物が古事記である。之はわが国最古の文学書であり、古代人の生活・習慣・思想等が書かれており、祖先の考え方や生き方を偲ぶのに貴重な書物である。 今日阿礼様の広大無辺のご霊徳を偲び学問の神・知恵の神として信仰が厚い。
猿田彦の神 天孫降臨の際、道案内され、後に天鈿女命の彦神となられた神様で、土地・方位の神として全ての物事の初め、即ち新築・移転・旅立ち・結婚等に災難や悪魔を祓い良い方に導き給うご霊験あらたかな神様である。
天鈿女命 猿女君稗田氏の太祖で大岩戸隠れの神事にたらいを伏せ舞をまわられた女神様でオタフク又はオカメの愛称を持つ福の神・芸能の始祖神として親しみを持って信仰されている』
『言霊の 葉には秋なし神の森 小波(さざなみ)
句碑は昭和10年第5回阿礼祭に建立。当時の日本三大口演童話家の1人・岩谷小波氏本人の揮毫による。 阿礼祭は、大正時代の末に童話の大家・久留島武彦氏が「西洋のアンデルセンのようなお話の神さまにふさわしい、「日本のお話の神さま」として稗田阿礼令を讃えよう」と提唱され、奈良県童話連盟を始め全国の児童文学者等により昭和5年8月15日より3日間に亘り、第1回阿礼祭が執行された。その時の記今碑がこの奥にある。
右の「かたりべの碑」は第50回阿礼祭を記念して、昭和55年5月5日に全国のかたりべにより建立された。 阿礼祭は昭和、平成の歴史と共に歩んできました』
『稗田環濠集落と下つ道と橋 古代、大和平野には南北に通じる道が3つ造成され、下つ道・中つ道・上つ道と称した。 稗田集落は、この下つ道沿いにあり、「稗田」の地名は、「日本書紀」天武天皇元年(673)の条に記載がある。
奈良時代に入り、平城京の都城制が確立すると、奈良盆地を南北に走る道路網が整備され、下つ道は、都の入口の羅城門から真南にのびる。 昭和51年の発掘調査の結果、この下つ道と当時の都市計画によって造られた佐保川の支流との交差部が稗田集落の南端で発見(稗田遺跡)された。下つ道の幅員は16mで東側に11m、西側に4mの運河が並行して掘られてあり、水陸両用の幹線道路であった。政府の要人・外国からの使節・一般の人々や荷物が行き交い、にぎわっていたことがわかった』
『賣太(めた)神社御由緒 御祭神:稗田阿礼 配:猿田彦神・天鈿女命
当社は奈良県大和郡山市稗田(ひえだ)町319番地に鎮座しており、稗田阿礼命(ひえだのあれえのみこと)天宇受賣命(あめのうずめのみこと)猿田彦神(さるたひこのかみ)をお祀りしている。 稗田の地は、太古より天宇受売命を太祖とする猿女君(さるめのきみ)(稗田氏)が居住していた。奈良時代に至り、阿礼さまがお生まれになって天武天皇に舎人(とねり)としてお仕え申し上げていた。 阿礼さまは、人となり聡明で博覧強記に富んだ卓抜な才能の持主であったので、天皇は数多くある学者や名門出身の役人の中から特に28才の若い阿礼さまをお選びになり、天皇がご精選された歴代の神様のご事績、皇位継承や天皇のご事績、神代以来の各氏族の歴史等、数多くの事柄を勅語(みことのり)にて誦習(よみなら)わしお授けになった。 この誦習った事柄を30有余年後の元明天皇が、太安万侶さまに、「稗田の阿礼の誦習った事柄を記録せよ。」とお命じになった。このようにして和銅5年(712)正月28日に出来上がって天皇に撰上申し上げた書物が古事記である。 古事記は上・中・下の三巻からなり、我が国最古の国史・文学の書物で、多くの神話・伝説が豊富にとり入れられている神典であり、又古代人の生活、習慣、思想が多方面にわたってうつし出されているのであるから、私達の祖先の考え方や生き方を偲ぶのにこよない手がかりとなる貴重な書物である。 おもうに阿礼さまは、日本道徳の真髄を極め伝えられた文道の太祖であつて宏大無辺のご霊徳を仰ぎ迎えんとして全国より参詣される方が多く、ご神徳まことにあらたかである。副斉神天宇受売命、猿女君の遠租に当たる女神で、稗田阿礼命はその末裔(まつえい)である。天の岩屋の神事に、天宇受売命は、たけだけしい神霊が寄りかかり霊魂を誘発する鎮魂舞踊を演じ、天照大神を岩屋からお出し申し上げた女神である。 又、天と地の分岐点において猿田彦神と出会い、神懸(かみがかり)により問答された神事などあって、後に猿田彦神とご結婚された。これらのご功績により、女性ではあるが、天皇から男性同様猿女君の姓を賜わり、その後男性も共に猿女君と称し、宮中に仕えられた。この宗族(そうぞく)が稗田の地に定住され、祖神を祀る賣太神社は、平安初期に官弊社に列せられたのである。 天宇受売命は、後世「おたふく」「おかめ」と言われている女の福徳をそなえられた神様であるから福の神、鎮魂の神、笑いの神で、芸能の始祖神としてもご霊験まことにあらたかである。副斉神、猿田彦神、天宇受売命の彦神である。天孫、ににぎの命の降臨にあたって、天と地の分岐点に立って、天孫をお導きした神である。江戸時代には、猿田彦信仰厚く御神徳はすべての物事のはじめ即ち新築、移転、旅立ち、結婚等に災難や悪魔を祓(はら)ってよい方へ導き給うと、昔から諸事をなす際には、そのご霊徳を仰ぎ迎えんとして全国より参詣に来られる方が多い』
R24に戻り、奈良市街地まで北上し、13:04「法華寺門跡」。『光明宗・総国分尼寺・法華寺 光明皇后御創建 総国分尼寺・法華滅罪之寺
天平の昔、聖武天皇が、国分寺・国分尼寺建立の詔を出され、東大寺と法華寺がその根本道場の総国分寺・総国分尼寺として建立されました。 総国分尼寺・法華滅罪之寺は、後に略して法華寺と呼ばれ、中世の頃より宮家や公家の姫君が入寺されるようになりました。姫様の入寺された御寺は尼門跡と呼ばれるようになり、法華寺もその頃より法華寺門跡と呼ばれ現在に至っております。
光明宗・法華寺 法華寺境内は光明皇后が父・藤原不比等邸を皇后宮とし、さらに法華寺を創建した地にあり、その遺構は発掘調査により確認され史跡に指定された。
史跡:法華寺旧境内・法華寺境内・阿弥陀浄上院跡
法華寺庭園は尼門跡寺院屈指の名園であり名勝に指定された。
名勝:法華寺庭園
光明皇后が我千人の垢を流さんと大願をされたカラブロが伝えられる。カラブロは境内にあり、重要有形民俗文化財に指定され、施浴の伝統は今も続いている。
重要有形民俗文化財:法華寺のカラブロ・附・明和3年銘棟札・井戸』
『法華寺の歴史は今から1300年ほど前、聖武天皇の后・光明皇后の発願によって始まる。皇后の父・藤原不比等の死後、邸宅を皇后宮とし、後に宮寺に改められたのが法華寺である。正式名称は法華滅罪之寺で、総国分寺である東大寺に対する総国分尼寺として、女人成仏の根本道場としての役割を担った。伽藍の完成は延暦元年(782)頃で、現在の南門南側に金堂が建つなど広大な寺地を有し、東西両塔・金堂・講堂・食堂など壮大な伽藍を誇った。
平安京遷都後は衰退するが、鎌倉時代に入って復興が行われ、初期には東大寺の重源が金堂などの修復を行った。また中期には西大寺の叡尊が金堂をはじめとする諸堂の再興を行い、多くの尼僧に戒を授け戒律復興と仏法興隆に尽力した。室町時代に兵火や地震などによって伽藍は再び焼失、崩壊するが、豊臣秀頼の母・淀殿が発願し、慶長6年(1601)から翌年にかけて、片桐且元を普請奉行に本堂・鐘楼・南門などが再建した。今日の伽藍はこのときに再興されたものである。皇室や摂家の姫君が門跡(住職)を務める尼門跡寺院として皇室ともゆかり深く、門跡尼寺ならではの誇りと品格を受け継いでいる』
「拝観料700円」で拝観します。まず本堂を拝観し、本尊に手を合わせます。本殿前境内に、「高松宮殿下手植 昭和59年10月16日」「皇太子殿下・行啓記念」と札が立つ松がありました。本堂は奈良風のどっしりした建物でした。豊臣時代に片桐且元が再建した時も、それ以前の建物を忠実に再建したと思われます。
『国指定名勝・法華寺庭園 江戸時代初期に作庭された回遺式庭園。広さは約500坪で、京都仙洞御所の庭園から石や庭木などが移されたと伝える。5月には、池の東寄りに渡された「へ」の字形の土橋を背景にカキツバタが華麗に咲き誇り、庭園は一番の見頃を迎える。境内の東には「華楽園」があり、四季折々の花々を楽しむことができる』
聖武天皇・光明皇后の時代、東大寺とこの尼寺が双璧と建てられたが、その後の盛衰は大きく違ったようです。この日もほんの少しの観光客しか拝観されておられませんでした。ですが、殿下の行啓が続いており、天皇家の日本のベースを支える姿勢を感じました。「国史跡・重要無形文化財・浴室(からふろ)」「史跡県指定・光月亭・華楽園」を観に行きます。
『この浴室は、古くから「からふろ」と呼ばれ、法華寺本願光明皇后が、難病者たちに入浴の恵みをたれ給うたところであります。傍らの井戸は、常に清らかな水をたたえ、この浴室の伝統は井戸と共に古い由緒を伝えています。
浴室の内部は2部屋になっていて、両方ともにむし風呂になっています。近年まで、実際に利用されていました。 唐破風をつけた内部の古い様式や敷瓦の遺構には、昔の面影が偲ばれます。平成15年7月に半解体修理が完成いたしました』
「光月亭 休憩所」に向かいます。厚い茅葺き屋根の素敵な外観の建物でした。
「県文化財指定 江戸時代・光月亭」。内部の土間に入ります。土間からも庭からも和室が見えます。和室への入室は禁止のようですが、土間に「飲み物ベンダー」があり、自由にお茶・コーヒー・スポーツドリンクが飲めるようになっていました。ホットコーヒーをカップに入れ、和室縁側に座り休憩しました。スポーツドリンクも頂きました。庭の垣根の向こうは茶室エリアのようでした。
バイクに戻り、路地のような枝道を西に少し走ると、再建された平城宮跡の壁が目の前に現れました。道なりに進み、13:44「宇奈多理坐高御魂神社」。「重要文化財・宇奈多理坐高御魂神社・本殿・室町時代」。
『宇奈多理坐高御魂神社略記 鎮座地:奈良市法華寺町6000番地 御祭神:3座 高御魂尊(たかみむすびのみこと・中座):高天原にましました神で、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)・神産日尊(かみむすびのみこと)と共に造化の3神として御徳極めて高く鎮魂の神であらせ給う。高天原に大事ある毎に主長として諸神を率いて事に当たり、常に天照大神を助け、八百万の神を指揮し給うた神。
天太玉命(あめのふとたまのみこと・東座):高御魂の卸子、神事を掌り給う神で天岩戸の祈請のとき、その御前で大玉串を奉持され祭祀を以て天照大神にお仕え遊ばされた神。
思兼命(おもいかねのみこと・西座):高御魂の御子、数多くの思慮を一身に兼ね持ち給うたと言う意で、高天原に大事のあった時霊策して事ならなかったことは無いと言う。
由緒:延喜式内の大社で月次・相嘗・新嘗の幣に預かっていた。古文書では、宇奈足とも冤名足と菟足とも書いている。武内宿弥の勧誘と伝えられ「日本書紀」によると持統天皇6年(692)12月24日には、新羅の調を伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足の5社に奉るとある。その1社でこの神社の神戸(かんべ)は正倉院文書の天平2年(730)大和税帳抄格勅符抄に載っているが、何れも神名は菟名足となっている。江戸時代には揚梅神社と呼ばれたこともあり、今「うなたり社」とか「西の宮さん」とか言っているのに近郷だけでの通俗の略称である。
本殿は室町時代の遣溝を残し、三間社・流造・檜皮葺で、国指定の重要文化財である。境内一帯は、平城天皇の楊梅宮阯とか春日斎宮の斎院址とかの学説もある。
境内社:みな天孫降臨に随従された神々を祀る。
天鈿女命社:天岩戸の前で神楽を舞い、天孫降臨に随従された女神。芸能の祖神。
猿田彦命社:天孫降臨の時、先頭に立って八衝の邪神を祓い交通安全に導かれた神。
手力男命社:天岩戸の変のとき岩戸を開いて、天照大神を助け申し上げた力の強い神で、天孫降臨に随従された神。
大宮媛命社:太玉命の御子、天照大神に仕え、世を平和に導かれた神。
豊岩窓命社:天太玉命の子で亦の名を天石門別(あまのいわとわけ)神、御門の神(門戸の守護神・門の神)。天孫降臨のとき天照大神の勅を承り思兼命・手力男命と共に豊葦原に降り給うた神』
道なりに細道をバイクを走らすと、平城宮阯のPがありました。そちら側の車道に出ると、走ってきた道は「進入禁止」になっていました。入口には「進入禁止」となっていなかったのに・・・。13:51、平城宮阯の広い原っぱは、すすきで覆われていました。20〜30年後は、奈良時代の建物が再建されているのかも?
r104に出て西進し、13:54「平城天皇揚梅陵」。枝道を少し西進し、14:02「佐紀神社(亀畑)」。『旧大和国添下郡超昇寺村二條 小字亀畑鎮座 式内村社・佐紀神社 御祭神:相殿三座 天兒屋根命:文学に秀で君臣の問の融和して、後此子孫を中臣と申す之藤原氏の祖神なり 経津主命:武神にして敬ふは蓋し此大神なり 六御縣神:五穀並食物等を守護し給ふ大神なり。農業に尊崇すべし御由緒:今を距ること1300余年、天武天皇御宇白鳳3年(674)の鎮祀にして、即ち神名式(帳)に記載せる佐紀神社は蓋し当神社なり。後、第59代宇多天皇御宇寛平3年(891)9月下旬始めて官社に列し、春冬二度の班弊に預かり、演昭大僧正に台命ありて、超昇寺を別当寺とせられたり。降って、安徳天皇御宇治承4年(1180)内蔵頭三位中将平重衡の兵焚に罹りしも、素より朝家の尊崇厚かりし故、仲御門左大臣忠公の奏聞にて文治6年(1190)に再建せられしも、再び天正6年(1579)兵火のため、遂に狭隘の社地となる。詳しくは社の記録に瞭然たり』
『当社宝物目録 高麗犬:壹封(木彫刻彩色阿形吽形にして各丹塗装。上に据す。年代作者不明) 縁杖:壹柄(松材総長三尺把手漆下地に金泥を塗附く。家康公秘蔵の杖を伝へらる) 摩利支天像:壹幅(紙本著色表装一文字藍地金襴。作者不明) 日光菩薩十二神将像:壹幅 月光菩薩十二神将像:壹幅(絹本著色表装総地廻赤地搬十唐八軸。寄超昇寺正徳二歳大僧正降光洛陽素連筆) 十二天像:壹幅(絹本・・・。正徳2年・・・) 赤童子像:壹幅(紙本著色表装茶・・・) 法華経普門品:壹巻』
バイクに戻り、ほんのちょっと西に走り、14:06「佐紀神社(西畑)」。謂れ板はなかったが、拝殿に祭神名があり、亀畑と同じでした。バイクに戻ると、「歴史の道」という道標が立っていました。そこには「平城宮跡」の他に、「日葉酢媛命陵」も書かれていました。日葉酢媛は、11代垂仁天皇の皇后で、12代景行天皇(皇后は神功皇后)や倭姫(初代斎宮)の母親です。ちょうどイエス・キリストと同じ年代を生きた方で、垂仁天皇は僕の先祖らしい美作菅家党〜菅原道真〜土師氏〜野見宿禰を出雲から大和に呼んだ方で親近感を持っています。数年前、初めて「日葉酢媛命陵」を訪問したことを思い出しました。
横に、「釣殿神社」がありました。『釣殿神社(つりどのじんじゃ) 旧社格:村社 所在地:奈良県奈良市佐紀町西畑2700 御祭神:天児屋根命・釣殿神(経津主命・六御縣命)・市杵島姫命 神木:モチの木(推定樹齢約200年以上) 什物:セミ燈籠(鉄製)一対、狛犬(木製)一対
御由緒:釣殿神社の鎮祀起源については不詳であるが、寛永16年(1639)から元禄15年(1702)までの間に超昇寺村から門外村として独立した時代に、御前池の東側亀畑の地に鎮座する「元官社式内佐紀神社」から分紳鎮祀されたものであると推定される』
r52に出て北上し、R163で西進して近畿道の側道・大阪府道r2〜中央環状線〜R171で、16:06帰宅しました。


2020/12/6
「美山」方面の寺社巡りに出ます。8:01「セルフ川西SS」で給油。
184km/6.05L=30.4km/L。川西池田からR173〜R477で北上。園部市街地に入り、R9を渡り、9:01「ファミリーマート南丹園部内林町店」で、「フルーツミックス500ml100円」購入。
京都府道r19で北上します。「神楽坂トンネル」を抜けると、前回は雨が降っていましたが、今回は気温4℃でした。流石に春秋バイク装束は限界のようです。靴が爪先補強ワークシューズですが夏用メッシュでは寒すぎます。来週からは冬装束に変更しよう。
9:35「道相神社」。紅葉が綺麗です。彫刻も素敵です。蟇股の龍が立体的で玉眼が入っています。本殿前左右に朱の狛犬が守護していました。
r19を更に北上し、R162に突き当り右折し、すぐに左折してr38で東進します。「美山かやぶきの里」に着き、10:04「知井八幡神社」。境内に落ち葉がハート型に掃き集められていました。もみじが真っ朱に染まって綺麗です。
『知井八幡神社の由緒 当神社は、中世地井之庄9ヶ村の惣(総)社で、延久3年(1072)に創建された。永禄10年(1567)に山抜けによる大洪水で流出したため、社殿移築の協議がまとまり、元亀元年(1570)に現在地に移転・再建された。伝承によると、和銅6年(713)妖怪が出没、人々を恐怖におとしいれた。天皇の命を受けた占師は、丹波の奥山に棲む八つ頭の大鹿の仕業と判じた。天皇は直ちに甲賀三郎兼家に命じて大鹿退治に当たらせる。首尾よく退治に成功した兼家は神恩に感謝して、その他に建てた社が、知井八幡神社の起源とされている。なお、大鹿退治に従った家来たちの中には、この地にとどまり村を拓き、氏子として八幡宮の守り手になっていったという。
現在の本殿は、明和4年(1767)に再建されたもので、特に、神社彫刻では丹波地方を代表する神社として広く知られている。また、この地は小浜と京都を結ぶ若狭街道の道筋にあったため、往来の人たちで賑わい、旅の安全を守る神社として賑わった歴史がある』
「かやぶきの里」を斜め上から見下ろす位置にあり、のんびり出来そう。『京都府指定文化財・八幡神社本殿(江戸時代) 昭和59年4月14日指定 京都府教育委員会』
蟇股の彫刻が素晴らしい。鳩なのかな〜。『八幡神社本殿の造営は、明和3年(1766)の上棟で、大工棟梁は「室田利兵衛」が携わっている。室田大工は、播州三木からの出稼ぎ大工で地元ではほとんど知られていません。しかし、南丹市北部・綾部市・福知山方面に、江戸中期に有名な社寺彫刻師・大阪「草花氏」「長谷川氏」や丹波柏原「中井氏」と組みその地域の中心的な社寺を沢山残している。その社寺は、細かな細工の装飾彫刻で埋め尽くされた荘厳豪華な造りとなっています。
彫刻師については現時点、判明していませんが彫刻細工の様子から、丹波柏原住人で柏原拠点に丹波・丹後・但馬国、北播方面に沢山の彫刻を造っている「中井一統」の作品に近いと推測されています』
力士彫刻が屋根を支えていました。各所の彫刻が素晴らしい。鶴の彫刻があり、素晴らしく立体的で、これが一番気に入りました。馬の彫刻は蹄も鮮やかで、躍動感がありました。本殿の彫刻をじっくり観察していると、カップルの観光客が境内に入ってこられました。ここまで1人でしたが、次々に「かやぶきの里」からの観光客が入ってこられ集中が途切れてしまいました。
r38に戻り東へ。r38に出ると道が濡れています。雨が降っていないのでおかしいな〜と思いながら、水ハネでバイクを濡らさないようゆっくり走っていると、消防団の「融雪パイプ」の点検でした。盛大に水を飛ばしている中を一瞬走ったので、シャワーを浴びました。雪の季節がもうすぐそこです。右折してr369に入り、10:32「昌徳寺」。期待していた山寺の雰囲気はない、沢沿いの瓦屋根の民家チックな寺院でした。r38に戻り、西に向かいR162に出て、「道の駅・美山ふれあい公園」で休憩しました。コロッケを頂き小腹を満たしました。
R162に戻り、左折してr12。「南丹市美山中学校」横を通り、11:12「八幡宮」。覆屋の中に入り本殿に詣りました。小さなお宮でしたが、彫刻が素晴らしかった。蟇股の彫刻は鳳凰かな?
R162に戻り北上し、11:29「南丹市立鶴ヶ丘小学校」前に停め、その裏にある「諏訪神社」へ。『諏訪神社所蔵の縁起によると、当初は正一位大森大明神と号して、和銅6年(713)殿の永井正山峰に御建立云々とあるが、その創建年次は定かでない。
(金箔の大森大明神の額現存)
後になって、大長大師円勝坊が大和よりこの地に来て、獣害を除いて民を安堵させようと、応安2年(1369)に信州の諏訪明神を勧請し、この地域に社殿を創立して建御名方命を祀った。本社は狼を御使とし、猪鹿退治の守護神として崇敬されている。
法師は神宮を兼ねて、棚・砂木の二村を祈願布施所とした。そして円勝法師の創始した由縁により、毎年1月5日を御狩の日(出初め)と定め、神宮は草履脚絆の扮装で腰に短刀を帯びて、神弊を捧げ持って先頭に立ち、供奉の民は弓・槍・銃をもって、その後に従って疾走し、猪・鹿をとって神前に供える例であった。このため、大晦日から正月5日まで、南は川合・相白の境にある烏帽子岩に、東は田土、西は松尾の境に忌縄を張って通行を禁じたが、民はこれを犯さなかった。しかしこれは明治維新の時廃止になった。
永和4年(1378)に神殿は、正山の麓に再建立され、当時は今の社域の下段にあったが、正徳2年(1712)に神殿改築が行われ、その時から現位置に遷されている。また、本社は明治初年に、村社から郷社に昇格した。
本社は凡そ15年・20年・30年毎に大祭典を執行し、古くよりその規模の大きさに於いて棚野の千両祭りと言われた。尚、奉納芸は豊郷の獅子舞を先頭に、盛郷・福居より刀踊、豊郷より振踊(姫踊)、高野より神楽、鶴ヶ丘より神楽と俵振りを献進することになっている』
『南丹市指定文化財 諏訪神社のスギ(幹周430cm)平成7年4月1日指定』
社殿の彫刻をじっくり眺め、境内に土俵を見つけ、バイクに戻りました。
R162を渡り、r34で西に走ります。11:51「中風寺」。「釣り上げし鯛を宝と抱きしめて、笑う恵比寿は神の御威徳」「仲の良いのが宝船、心安らぐ世を渡るなり」「人ごとを我れに向いて言う人は、さぞ我が事も人に言うらん」「ありと言う人に地獄はなかりけり、なしとぞ思える人にこそあれ」「三寸の舌で五尺の体をば、養いもする失いもする」「世の中に蒔かずに生えしためしなし、蒔きてぞ末に実や結ぶらん」「世の中はもちつもたれつ立つ身なり、人と言う字を見るにつけても」・・・
『中風寺三山の御案内
中風寺:日本1ヶ所中風除け御祈願所。中風という難病にかからぬよう、毎日御祈祷を致しております。中風除けの御祈祷所でございます。御祈祷は電話予約になっておりますので、中へ入ってお尋ねくださいませ。
奥之院:慈母山水子寺と申します。水子の永代供養を致しております。水子供養御希望の方は、本坊中風寺の方へお申し出下さい。また併せて、百観音、日本百八十八ヶ所霊場参りも出来ます。ぜひお参り下さいませ。
別院:富士山三十三ヶ所観音霊場です。富士山の山頂に於いて、10ヶ年御修行されました。石仏観音三十三尊をお祀りしてあります。一番雄大で、高い山頂での御修行観音様の御利益もまた日本一大きく、高いものと信じます。ぜひ一度お立ち寄り下さいませ。 合掌』
「雲晴れて後の光と思うなよ、もとより空に有明の月」「天地の恵みつみおく無尽蔵、鍬で掘り出せ鎌でかりとれ」「兄弟で田を分け取りする人を、田分者とや人の言うらん」。本殿の彫刻が素晴らしかった。木鼻の像や獅子には玉眼が入り、蟇股の龍の動きを感じる。「御祈祷料金1500円〜特別祈祷2500円〜」。
バイクに戻り、県道を渡って、「松尾鈴波神社」。境内に「普通母樹」の札が下がった杉がありました。「南丹市指定文化財・松尾鈴波神社のスギ(幹周510cm)平成7年4月指定」。御神木ですね。立派な杉が本殿前に鎮座していました。r34に戻り、更に先・西に進みます。この県道は「綾部美山線」で、地図では一部破線で未開通かもしれませんが、綾部に向かいます。12:29「八坂神社」。獣避けフェンスを開閉して『西川」を渡り山側に入ります。
バイクに戻り、r34を先へ。道は森の中に入り、林道になりました。12:40「洞の大滝」。「大滝2段70m」。残念ながら水は殆ど流れていませんが、雨の後などは豪快に流れていそうです。苔センターライン・落ち葉・落枝の道になりました。標高がゆっくり上げながら舗装路が続いています。峠までそれほど比高がなさそうで、県道は開通しているんじゃないかと、つづら折れを上がると、いきなり未舗装路になっていました。ここの標高が450mで、峠が650mでした。未舗装ながら道幅はバイクで走るのに支障ないけど、Uターンしました。
「洞峠」への分岐まで戻りました。『この峠は綾部市睦寄町古屋と南丹市美山町洞の境にあり、標高は約650mで北東には頭布山(871m)、南には地蔵杉、標高898.7mの山が連なる尾根を越す峠である。洞谷には「聖ヶ滝」「音谷の滝」何れも高さ50mと大きな滝も見られる。
この峠を人が往来した歴史は古いと考えられ、丹後や若狭と山城または大和の中間にあり、京に都ができる以前と考えられる。戦国時代の永禄13年(1570)連歌師・里村紹巴が、「上林に一泊して京へ帰る」と書かれた天橋立紀行や、天正7年(1579)明智光秀が君尾山光明寺から洞を通り、現在の京北町周山へ行ったと信長公記などに記載されている。
江戸時代には京街道として利用され、明治に至っては舞鶴に海軍の鎮守府が置かれ、京都から最短の道路として重要視されていた。将来、大陸との交流が進めば、日本海舞鶴から京阪神への重要な道として、観光や産業に大きな役割を果たすと考える。  平成22年3月 洞峠の風にふれあう交流会』
洞峠への道を入っていきます。12:51未舗装になりました。『林道・洞谷線 当該林道は、条例に基づき美山町が管理しており、林業の目的に反する使用は固く禁じます』『これより先は、車での進入は危険ですので、徒歩にて登山を御願いします。 洞区長』『入山中の全ての事故についての責任は、一切負いません。 洞区長』
2つの50m級の滝もこの先のようで断念。道を戻ります。r34を更に戻り、R162ん出て南へ。13:05『戦国大名・川勝光照候・今宮城跡 津向山ササユリ苑P』
『川勝広継(かわかつひろつぐ)は、戦国時代の丹波国の武将。光照(みつてる)とも称した。本姓は秦氏で、秦河勝の後裔とされる。丹波国の武将・下田広氏の子として誕生。下田氏は、聖徳太子の侍臣としてまた山城国の開発者として知られる秦河勝の後裔と言われている。
現美山町静原区の菅原神社近辺に門前市が形成され繁栄していた(市場村)。その要所の地を治めたのが光照である。官位・豊前守光照(別名広継)のとき川勝と称するようになった。 13代将軍足利義輝に仕え、京都北方(美山町全域、日吉町四ツ谷・佐々江、名田庄村、綾部市上林の1/3、京北宇津・弓削、和知町を領地)(胡麻、山国庄の代官職)地域に勢力を振るうようになった。
光照は、菅原神社の門前市場を保護し、そこから得られる収入を確保するため今宮城、後に島城などを築いて外敵に備えた。光照は、1496年(丹波史年表)より今宮城を居城とした(1572年没)。 また、菩提寺の臨済宗光照寺(現静原区)を1570年に築く等小さいながらも戦国大名として発展していた。
光照の後を継いだ継氏(子、島城主1602年没)は織田信長に従い、明智光秀の丹波侵攻に協力している。 秀氏(孫)は、明智光秀の6女を妻に迎えていたが本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の合戦(1600年)では西軍に味方したが直接参戦せず徳川家康に赦免を受け、1601年兵庫県氷上郡三井庄他に移封となり旗本として川勝一族は生き残る事が出来た。  2020.10今宮区』
山城攻めしましょう。先に進むと、山に入る所で獣避けフェンスがあり、開閉しようとしたけど鍵が掛かっていて諦めました。「林道・奈良井谷線 当該林道は、条例に基づき美山町が管理しており、林業の目的に反する使用は固く禁じます」。R162〜r12で、「由良川」沿いを西に走ります。枝道に入り、13:31「菅原神社」。参道階段を上がっていくと、鹿糞がバラバラと落ちていました。周囲の民家の屋根を見ると、梅鉢紋の家紋がついた家ばかりでした。本姓「菅原氏」が多く住んでいるのでしょう。境内に「普通母樹」がありました。『南丹市指定文化財・三埜菅原神社のスギ(幹周430cm)平成7年4月1日指定』
r12に戻り、西に走り、左折して由良川を渡り、13:52「瀧神社」。『祭神:多伎都比古命(たきつびこのみこと)(正一位滝明神)大国主命の孫 社殿:一間社流造・杉皮葺き覆屋付
貞治5年(1366)南北朝時代建造。天和2年(1682)(江戸時代前期)再建。「宗源宣旨」宝永5年(1708)3月5日付1通。註:宗源宣旨・吉田神道で神宣として諸社に神階社格または神号を授けた文書
吉田神道:永和4年(1378)卜部氏が吉田氏を名乗る。文明年間(1469〜1487)吉田兼倶が提唱唯一神道
「極位神宣の啓上」1通。神祇管領長上、従二位、卜部朝臣兼敬より下付瀧神社の名称は、社殿の側に滝が存在していたと言われています。
所在:美山町向山宮ノ谷2-1(土地所有者・向山生森)集落から東へ600m離れた川沿い。
昭和34〜35年、大野ダム建設に伴い移転。社殿は村人が解体し、部材を運び宮大工の手で移築する。
移築後の所在:美山町向山宮ノ谷4-3(土地所有者・向山生森)
改修工事:瀧神社本殿銅板葺き工事(昭和62年)。瀧神社本殿御須屋土台修理工事(平成25年)。愛宕神社修復工事(平成30年)
例祭:毎年10月 令和2年(2020)10月 禰宜:福井豊』
境内に素晴らしく綺麗な茅葺屋根の東屋がありました。
バイクに戻り、r12を西進し、枝道に逸れて、14:05「大原神社」。『天一位・大原神社 祭神:伊弉諾尊・伊弉冉命・天照大神 大原神社は、もとの名を「大原神宮」「大原大明神」と呼び、我が国の本宗である伊勢神宮より御神霊を勧請し祀られた社である。
古伝によると孝徳天皇の御代(645年)に創立され、霊験顕著にして、その崇敬の範囲は丹波全地域は勿論、広く近畿圏に渉り大原詣と称して、参詣者は常に跡を断つことなかりしと伝えられている。
その崇敬の深甚なる結果、天田郡川合の大原神社(文徳天皇・仁壽3年分霊)を始め地方分霊数多くあり、これら分霊地より当地を元大原と称し、当社をして元大原大明神と称し奉られ、「大原詣」なるものが各地に存在した。元和5年(1619)より園部藩主・小出公の10代(250年間)御祈願社となり、丹波の国の古社6社に列せられた。明治40年3月神饌幣帛供進の社に指定され、大正11年7月に郷社に列せられた。伊勢神宮の遙拝所は、明治6年公許である。
猿田彦命を祭神とする摂社川上神社の「からす田楽」は、京都府第1号の民族無形文化財に指定されている。現在の本殿は、文政6年2月火災にかかり、弘化3年に再建したものである。
末社:五社明神・金刀比羅神社
御神徳:全てに御神徳ありと伝えられているが、その中でも特筆すると「農業・林業・商業の振興」「縁結び・安産」「子供の成長・学力向上進学」「病気平癒・交通安全」
例大祭:4月29日 からす田楽奉納神事:10月10日 神木:ケヤキの大木(2本は京都府特別指定(樹齢不詳)』
境内の舞殿では、地元の氏子の方が集まって正月飾りを作っておられました。年内に社殿・境内を飾るのでしょう。本殿の彫刻が素晴らしい。
枝道を更に入り、14:20「石田家住宅」。工事中で、拝観できませんでした。「美山茅葺(株)」の拝み看板が出ていました。茅葺屋根の葺き替え工事のようです。
『重要文化財・石田家住宅1棟 美山町字樫原 桁行9.4m・梁間9.9m・入母屋造・妻入・茅葺
石田家はしばしば樫原で庄屋を務めた旧家である。昭和48年10月より18ヶ月をかけて解体修理がなされ、この時に「慶安3年(1650)3月11日」の墨書が発見され、建立年代が確定され、現在年代の明らかな民家としては最古と言われている。この住宅は、入母屋造・茅葺で西妻側に入口を設ける妻入とする。平面は棟通りで表・裏側と2分割され、表側の奥より座敷「オモテ」下屋敷「シモンデ」馬屋「マヤ」裏側の納戸「ヘヤ」台所「ダイドコ」土間「ニワ」と並ぶ。オモテだけが畳敷で、間仕切は板塀と袖板壁片引戸で区切られ、ダイドコとヘヤ境に帳台構が二間並びに面白い。土間は床面近くまで土を盛上げる「アゲニワ」とする。小屋組は棟束・母屋束・繋梁で構成される「巾」字型の「おだちとりい」組と呼ばれる形式で組まれている。
当家のような独特の形式を「北山型民家」と総称され、北桑田郡を中心とする丹波地方東部に分布し、石田家住宅はその最も古い例で指標となる貴重な民家である。  美山町教育委員会・美山の文化財を守る会』
r12に戻り西に走り、R27に突き当り、左折して南下し、R9に合流しました。園部市街地に入り、右折して「生身天満宮」横を走り、道なりにR477に乗りました。R372〜R477で南下します。
15:58、「パソコン工房」に寄り、ドライブレコーダー用に「SDカード64G・1628円」を購入しました。ずっと32Gを使っていましたが、1日走ると3/4ほど使います。寄り道なしに走り続けると32Gオーバーしそうです。予備の32GのSDカードが1枚壊れてしまったので、64Gを新調しました。


2020/11/29
家内のリクエストで阪急交通社の「ラピート和歌山突入作戦」というツアーに参加しました。家内が新聞広告で見つけ、GoToトラベル利用2人で19500円-地域共通クーポン4000円-キーノ和歌山クーポン600円=14900円ということです。コースは、「9:30南海なんば駅集合〜南海関空特急ラピート〜和歌山市駅〜さかな線めでたい電車〜加太駅〜バス〜黒潮市場〜バス〜玉津島神社〜バス〜キーノ和歌山・和歌山市駅〜南海特急サザン〜19:59南海なんば駅」です。
今月に入り、11月初めの連休は3日間インカレ団体戦・中旬に日帰りで和歌山スナイプ級全日本で2度も黒潮市場に行っています。過去、月に3回も和歌山マリーナシティー黒潮温泉に行くことはありませんでした。
7時過ぎに、「通勤リード110」にタンデムし、JR伊丹駅に向かいます。ICOCAを2000円チャージし、東西線経由の電車が来たので、それに乗って「JR北新地駅」へ。「西梅田駅」から地下鉄四つ橋線に乗り「なんば駅」で下車しました。徒歩で「南海なんば駅」へ。9:30集合の1時間も前に着いたので、受付準備している集合場所に行くと、9時から受付とのこと。
付近を少々ブラブラし、8:48「マクドナルド南海なんば駅中央口店」に入り、「家内はカフェラテS150円+僕はマックシェイクバニラS120円=270円」で時間を潰します。受付をします。40人ぐらいのツアーかな〜と思っていたのですが、100人のツアーだそうです。首から下げるツアー参加認識カードと、バスチーム分け(1・2・3・4号車)ステッカーを頂きました。ツアー参加認識カードは、南海電鉄団体改札を何度でも通れるそうです。ステッカーはバッグ・衣類など何処か見える所に貼っておくとのこと。バッグに貼りました。
次の集合場所は、乗るバスごとに改札を通った所だそうです。改札団体ゲートを通り、トイレに行きます。家内はお化粧直しなどいろいろあるので、僕はトイレ後ホームに上がりラピートを写真に収めました。海外旅行が全面解禁されていないので、関空特急ラピートはガラガラで出発して行きました。
ツアー集合場所で集まり、1号車班25名に入ってホームに上がり、10:00関空特急ラピート1号車に乗ります。貸切列車なので、アナウンスがこのツアー向けです。ラピートは、南海なんば駅と関西空港駅を結ぶ特急ですが、このラピートはこのツアーのみの貸し切り臨時列車で、史上初めて和歌山市駅に行くそうです。ラピートは4両編成で、1両25人で総勢100人のツアーだそうです。コロナ禍なので、通路右側2座席は奇数列・左側2座席は偶数列を使用し、ソーシャルディスタンスを取っています。このツアーは好評だったそうで、年明けに再び募集されるそうです。
臨時観光列車なので、ゆっくり走っています。「左側に通天閣が見えます」など観光バスのようなアナウンスが時々入ります。10:25「浜寺公園駅」。ここで通常の特急サザンに抜かれました。共に特急で、半数は関空までノンストップのラピートがサザンに抜かれるなんてなかったでしょう。岸和田城を車窓から見ました。
11:36、南海和歌山市駅に着きました。赤い旗を掲げた1号車のガイドさんに従って、加太線に移動し、「めでたい列車」に乗りました。この列車も貸切列車だそうです。南海電鉄の職員さんが何人もツアーを見送っており、ガイドさんが説明されていた「私は、日頃は海外旅行の添乗員を続けてきました。コロナ禍で仕事が全てなくなり、私の人生どうなるのだろう・・・と不安になった中、再びこの様なツアーに参加してくださり、誠にありがとうございます。関空特急ラピートも、現在便数を減らし、ガラガラで運行しています。この苦境の中、南海電鉄と阪急旅行社がタイアップして実現したラピート初の和歌山入りです。」を肌で感じました。
春先はまだしも、新型コロナの実態がほぼ見え、昨冬の風邪インフルエンザの死者は新型コロナ死者も含めて減りました。加えて、現在「新型コロナ感染者過去最大&重傷者が増え病床逼迫」とマスコミは姦しいが、昨冬11月以降インフルエンザが激減したように、今冬もインフルエンザは絶滅状態です。コロナウイルスは、普通の風邪のウイルスです。毎年、風邪でも多くの方が重症になり亡くなっています。感染者過去最大は言葉の使い方が間違っており、PCR検査陽性者数であり、感染者や発病者ではないので、過去様々な疾患でもカウントされませんでした。体調が悪くなり病院に受診した時点でカウントされます。故にマスコミが感染者と呼ぶ方々の大多数は無症状です。重傷者ベッドは、新型コロナウイルス患者専用として確保された数が分母なので、これまでの風邪やインフルエンザのように、他疾患も含めて共用されればなんら逼迫していません。私には必要以上の措置で市民生活を制限している方が不思議でなりません。感染しても重症化せず死にも至らない若者の行動を制限するのは理不尽と感じています。
「めでたい列車」の内装デザインは特別でした。つり革は、さかな・カニ・亀の形をしています。その他、各所に海・海洋生物デザインが施されています。12:00加太駅に着きました。ホームで迎えてくれた駅長さんは、「加太」と大きく染め抜かれた厚手エプロンを腰に巻いていました。
駅前にはロータリーがなく、バス1台しか停められません。私達は1号車なので、既に停まっているバスなのですぐに乗り込みます。1号車が出発しないと2号車以降が停車できません。バスで、和歌山市駅を通り越して、一気に和歌山マリーナシティー黒潮市場まで走ります。途中に次男の勤める会社の展示場がありました。13:12、和歌山マリーナシティー黒潮市場Pに到着。2F「和食荒磯」で、「マグロづくし御膳」の昼食を美味しく頂きました。15時出発なので、黒潮市場でお買い物です。今日が期限の地域共通クーポン4000円を使いましょう。13:53「干しブドウ大粒レーズン680円+塩のり650円+金山寺味噌250g540円×2=2410円」と「みかんジュース1L・桃ジュース1Lセット1400円+みかん缶詰650円=2050円」を買い、4000円のクーポンを使い切りました。
息子たちが小さな時遊びに来た「ポルトヨーロッパ」に入ります。以前は入場料が必要でしたが、無料になっています。観覧車やスプラッシュ等に乗る時に料金が発生します。パフォーマーがジャグリングなどをやっていました。話術が匠で面白かった。バスPに戻ると、海際のスペースにバイクを並べ、写真を撮っている方がいました。海際のステップに腰掛け、出発時間を待ちます。
バスに乗り込み、15:17「玉津島神社」へ。『玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ見ぬ人のため 作者未詳 万葉集巻7-1222』
『玉津島のこの美しい景色はいくら見ても見飽きることがないよ。だからこの景色を何とかして包んで都に持ち帰りたいものだ。まだ見ていない人(都で待つ家人)に見せてやりたいから。
この歌は神亀元年(724)10月に行われた聖武天皇紀伊国(玉津島)行幸の折に、お供をした藤原卿が詠んだ歌と考えられます。歌碑には「作者未詳」とありますが、その後の研究によって「藤原卿」の作であることが判明しました。
藤原卿は藤原不比等(鎌足の子)の4人の子供のうちの1人、おそらく藤原麻呂のことでしょう。
藤原卿の目の前に広がるのは、周囲を山に囲まれた大和の都では見ることのない海。そして沖合いに向かってまるで玉の緒のように連なり伸びる美しい小島・南方には干潮時に姿を現し細く長く伸びる砂洲(現在の片男波海岸)。満々たるエネルギーを秘めて穏やかにリズミカルに寄せては返す波の音。見上げれば、青い空。ゆっくりと旋回する鶴の群れ。東方にはどっしりと鎮座する名草山。卿はこの明るく開放的な好景に飽きることなく見入っていたでしょう。
海と山と空とが三位一体をなして、人をやさしく穏やかに包み込んでくれる景観と、そこに息づいている長い長い人間の営みの歴史とがとけあつて、和歌の浦、玉津島は今も私たちの心のオアシスとして生きています。
さあ皆さまもこの風景をご自分の目で確かめてみてください』
『奠供山野 尾根打越ゆる 可世さえて 神い万寿杜者 冬乃日当ま季李奠供山の 尾根打ち越ゆる 風冴えて 神います杜は 冬の日だまり奠供山(てんぐやま)の尾根を吹きわたっていく冬の風は 冴えざえとしてきびしく、ここ玉津島神社には、あたたかい冬陽が当たっている。
作者は中村具嗣(ともあき) 明治39年〜昭和60年(19.6〜1985)。海草郡野上町出身。知秋・源具嗣とも称します。昭和12年(1937)「竹垣詩社」創設、主宰 歌誌「竹垣」創刊。
「写実を通して人間像の把握」を根本理念とします。この歌碑は昭和42年竹垣詩社有志によって建立されました。
浜木綿(はまゆう)は別名浜万年青(はまおもと)と呼ばれ、温暖な浜辺に生育します。開花は夏ですが、寒さ厳しい冬も日当たりのよい場所で、葉は幾重にも青く瑞々しい。その様子は万葉集に1首うたわれ、ここ玉津島神社にも植えられています』
『神亀元年(724)、聖武天皇は紀伊国を訪れた時、干潟に向かって連なる玉津島山のながめに感動して、この景観を守るよう命じた。平安時代以降、玉津島神社に和歌の神・衣通姫(そおとおりひめ)がまつられ、多くの和歌が奉納された。社殿は、関ヶ原の戦い(1600)後に紀州に入国した浅野幸長(よしなが)が慶長11年(1606)に再興し、その後に紀州藩初代藩主・徳川頼宣(よりのぶ)が整備した』
『玉津島神社由緒略記 社伝によれば神代以前の創立にして天照大神の御妹稚日女尊を祀り後、此の大神をいたく尊崇せる神功皇后を併せ祀り、其の後光孝天皇の御脳を平癒せしめられし衣通姫を御勅命により合祀せらる。
小松天皇の勅願所として知られ、又住吉神社人丸神社とともに和歌三神としで朝野の尊敬、殊に厚く後西天皇以下の御製宸筆を奉献せられ、古来京師より春秋2季官人の差遣ありて、祭祀を巌修あらせらる参拝人各各福録寿楽を願ふとしてかなはざるなしと言ひ伝へらる大神なり。
衣通姫神詠 たちかへりまたも此の世に跡たれむ 名もおもしろき和歌の浦波』
『小野小町袖掛の塀』がありました。
『和歌浦状 昨日は長閑(のどか)に候まゝ近隣の衆中会誘引(しゅうちゅうあいいざなひ)、白地にたちいでわかの浦辺へまかり越候
先ず高松之茶屋にしばらく憩ひ夫より名所旧跡を心静に一見せばやとて、枕口石をみていけば萬刧ふるや亀遊岩、ちとせをちぎる鶴立嶋(かくりゅうとう)、うちすぎ行けば養珠寺(ようしゅうじ)、みねに峙(そばだ)つ妙見堂、恵も殊に有明の月にみがける玉津島、衣通姫のあとたれて小松の院の御願所なり。拝殿には御寄進として狩野興甫か歌仙の絵に当御代公家衆の御筆を一々拝見いたしつつ、潮みちくれば田鶴なきわたる芦辺の茶屋にこしかけて、向ひをみればそのむかし小野小町と業平の契りをこめし妹背山。渚にさらす布引の松にかゝれる藤代や2番の札所紀三井寺、塩焼浦のその景趣三國無双の勝地なり。
さて夫(それ)よりも西の方しほがまの社、不老橋ゆけば程なく下馬の橋、轟くとうち渡り御霊の官に参詣して御社を伏しおがみ麓にくだり、天満宮を拝礼し、浦辺に立ちいでながむれば、寄せて帰らぬ片男波、沖の浪間に数みえて浮世をわたる海人小舟。いかにこがるる浜千鳥。あはれを催す折柄に日も入相のことなれば夕を送る遠寺のかねほのかに聞き申候。
夫(それ)より人々打連れて西浜通を立帰り候へば、最早夜陰になり申候。とかくは筆に盡(つく)しがたくこそ候へ かしこ』
『紀州藩祖・徳川頼宣公御寄進石灯籠(左右1基)平成2年12月6日復元)』がありました。『天然記念物・根上り松(名称鶴松)(大正10年和歌山市高松より移転保存』。
拝殿に参ります。とても綺麗なお神輿が展示されていました。社殿裏山の奠供山(てんぐさん)に登ります。
『奠供山碑 国指定文化財(名勝和歌の浦)・和歌山市指定文化財
江戸時代に、紀州藩の儒学者・仁井田好古(にいだよしふる・1770〜1848)が、藩命により藩内全域の地誌「紀伊続風土記」を編さんし、天保10年(1839)に全192巻が完成した。「奠供山碑」は、この編さん事業とともに仁井田好古により記された、藩内24か所の史跡を顕彰する碑の1つである。奈良時代の神亀元年(724)に聖武天皇がこの地を訪れ干潟の景色に感動し守るよう命じたことが奠供山の由来とされている。近くには,同じく天皇の行幸の地を記した「望海楼遺址碑」があり,明治時代に奠供山の麓から頂上に移された』
『名勝和歌の浦 奠供山
神亀元年(724)、聖武天皇は和歌の浦に行幸し、詔(みことのり)を発した。山に登り海を望むに此間最も好し。遠行を労せずして、遊覧するに足れり。故に弱浜の名を改めて明光浦(あかのうら)とす。宜(よろ)しく守戸(しゅこ)を置きて、荒穢(こうわい)せしむこと勿(な)かるべし。春秋二時に官人を差し遣し、玉津島の神・明光浦の霊を奠祭(てんさい)せしめよ(「続日本紀」)この時の山が奠供山と言われる。
また、天平神護元年(765)、称徳天皇行幸の際には、貧供山南麓の「望海楼」で雅楽・雑伎が演じられたとされる。
江戸時代後期、紀州藩10代藩主徳川治宝(はるとみ)により、貧供山の整備が行われ、和歌の浦を一望できる頂上部に拝所が建造された。
明治43年(1910)には、和歌の浦の景観眺望のため、当時東洋一とも称された高さ30mの昇降機が設置され、夏目漱石の小説「行人(こうじん)」に登場している。 和顧山県・和歌山県教育委員会』
すぐに登れました。ツアーの半分近くの方が登ったみたい。和歌の浦が一望できます。今月2回来たヨットレース海面が一望です。和歌の浦は、高校時代インターハイ近畿地区予選のレース海面で、3年間GWの西宮のレースでは勝てたのに、夏前の予選本番には負け続けました。僕も次男も何度もこの海でレースをした思い出の海です。雑賀崎方面を見ると、最も高い山の上に大きな東屋が見えます。南海電鉄の説明員の方が、日本で最初のロープウェイが出来、楽にあの山頂に立てましたが、今はありませんとのこと。今月インカレで訪問した時、それを聞いていました。細い道が通じているので、小さな車なら今でも行けるとのこと。
『名勝和歌の浦 望海楼遺跡碑
望海楼は天平神護(てんぴょうじんご)元年(765)10月、この地に行幸された称徳天皇が、和歌浦湾の眺望を楽しむために造営された楼閣風の建物であった。この碑は、その建物の所在した場所を考証するとともに、和歌の浦の景観美を賞賛した史跡顕彰碑である。文化10年(1813)3月、藩主(10代藩主徳川治宝)の命により建立され、撰文(せんぶん)、揮毫(きごう)はどちらも藩の儒学者仁井田好古の手に成る。
全文656字の碑文を要約すれば、はじめに「和歌の浦」の地名の由来を聖武・称徳両天皇の行幸の故事より説き起こし、「望海楼」の遺址を奠供山南麓の南浜(現:和歌山県公館付近)に推定すると共に、和歌の浦における古今の地形変遷にふれる。すなわち古代の和歌の浦は、前面に雄大な海が開け、背後に島や干潟が複雑に入り組んだ地形を特色としたが、その後、南浜の前面に出島のあたりから東南方に向けて繊細な砂嘴(さし)が成長し、そのため風景が一変した。しかし、景観のおもしろさはいささかも減ずることはなく、まことに造化(ぞうか)の神の妙配というしかないと絶賛している。
現在この碑は奠供山山上にあるが、もとは南麓の南浜にあったものを、明治33年(1900)4月、明治天皇が連合艦隊を率いて和歌浦湾に来泊された際に、お召艦の上から望見できるように現在地に移したものといわれる。 文;薗田香融 和歌山県・和歌山県教育委員会』
境内に下り、隣の鹽竈(しおがま)神社に向かいます。鹽竈神社は、玉津島神社境内の岩山にあるようです。その岩山に鹽竈神社の裏側から上る石段がありましたが、工事中で規制線で上がれませんでした。
『鏡山は塩竈神社の背後の山で、その岩肌は荒れた木理(もくり)のような薄墨色を呈し、香木「伽羅(きゃら)」に似ていることから「伽羅岩」と呼ばれる。
江戸時代の本草学者貝原益軒は「諸州めぐり」で「和歌の浦の石は皆木理有りて甚だ美也。他州にては未だ見ざる所なり」と感嘆している。
塩竃神社に向かうて右側の岩の上には、干潟を望むかのように山部赤人の歌碑「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺(あしべ)をさして 礁鳴き渡る」が建っている。
南側の階段を登ると、鏡山の山頂から和歌の浦が一望できる』
「鹽竈神社」に参ります。『御案内 安産祈願御祈祷・御腹帯御祈祷・子授け妊娠祈願御祈祷 安産御礼参り・子授け(妊娠)御礼参り 御祈祷等御用の御方はお申し越し下さい 安産御守護 鹽竈神社社務所』
岩山の洞窟の中にありました。「和合の松」と書かれていましたが、対象の松は何処にあるのかな?ガイドさんの話では、近隣の方々は、皆さん安産祈願に参るそうです。それにしては小さいし、社務所もないけど、洞窟内なので雰囲気は抜群です。
『不老橋 国指定文化財(名勝)和歌の浦 和歌山市指定文化財(建造物)紀州藩10代藩主・徳川治宝(はるとみ)が、徳川家康をまつる東照宮の例大祭「和歌祭」の時に、徳川家や東照宮の人々が通る御成道として、嘉永4年(1851)に不老橋をかけ整備した。橋のアーチ部分は肥後熊本の石工が作り、雲の浮き彫りがある勾欄(こうらん・手すり)部分は紀州湯浅の石工石屋忠兵衛が作ったという』
『不老橋の修復について
平成27年度に橋の欄干・親柱の一部が破損したため、平成28年度に国庫補助事業を受けて修復を行いました。親柱については、元のまま設置すると、親柱の重量で風化している柱材を傷める可能性があったために、次善の措置として樹脂で複製品を製作し、設置しています。
なお、不老橋は設置されてから160年以上が経過しています。欄干部分など通行の際には十分に気をつけて下さい。 平成29年 和歌山市教育委員会』
バスに戻り出発。ガイドさんが、玉津島神社の御朱印を席まで配りに来てくれました。
「南海和歌山市駅」には直接観光バスが停められないようで、ほんの少し手前でバスを降りました。駅まで数分歩いて、次の集合場所で自由時間になりました。「キーノ和歌山」のクーポンが2人分600円あります。但し、1500円以上お買い上げで300円使えます。薬局があったので、家内がよく食べているカロリーメイトブロックを購入することにしました。カロリーメイトを3000円分購入し、また荷物が増えました。黒潮市場に続いて、ここでも家内のカバンから買い物袋が出てきました。
トイレを探しに行くと図書館がありました。最新式書店に似た最新式図書館で、素敵な空間で残り時間を過ごしました。再集合し、17:30「特急サザン」に乗り、18:30「南海なんば駅」着。往路の逆経路、「地下鉄四つ橋線」で「西梅田駅」、「JR北新地駅」から最寄り駅に戻り、「通勤リード110」にタンデムして19:30帰宅しました。風呂に入り、「NHK大河ドラマ・麒麟が来る」を見れました。


2020/11/28
南丹市の寺社巡りに出ましょう。5:56、倉庫から「里山VTR250」を出して出発しました。6:03「エネジェットセルフ川西SS」で給油、170km/6.13L=27.7km/L。池田からR173〜R477で北上し、R372に突き当りました。左折すると、ポツポツ雨が落ちてきました。西の空は完全に雨です。6:53「ファミリーマート亀岡宮前町店」で、「フルーツミックス500ml100円+ピーナツクリームパン5個108円=208円」購入。
R372からR477にチェンジし北上して南丹市園部町に入りました。進路が北になり雨は止みましたが、空模様が怪しい。市道でr19に突き当り、右折して、7:13「道の駅・京都新光悦村」でトイレ休憩しました。『明智光秀公・黒塗り黒坐像・くろみつ大雄尊 慧日山慈眼寺 拝観の御案内:土日月曜日10〜16時・上記以外は予約のみの拝観』と書かれたポスターが貼ってありました。訪問してみたい。r19を先に進みます。桂川に沿って走るワインディングになり、気持ちの良い道です。ただ雨がまた落ちてきて残念。
r19から外れ、7:38「日吉神社・小牧山東向観音」。参道を上がっていくと、左右に耕作前の田畑が広がり、参道の先に鳥居が見えました。社務所がありました。神主さんのお住いのようです。境内にはイノシシが掘り返した跡がありました。ミミズでも探したのでしょう。歴史の有りそうな石造狛犬が守護していました。
『町指定文化財(小牧山東向観音) この観音さんは、殿田日の谷山神光寺(日の寺)の別院として、元文2年(1737・徳川中期)に建立された。
当時最も信仰の厚かった槌屋元実(京都市上京区の住人)が一念発願して信者と共に、33体の観音仏像と阿弥陀如来を一堂に集め、東向きに安置された。東向きに安置されているのは、全国でも稀であると言われている。
また、この観音様は悪病除、特に雷除として有名で、近郷住民の信仰を集めている。 中央の阿弥陀如来は、平安以前の作で33体の仏像は平安初期のものと言われ、昭和51年に町の文化財として指定したものである。
昭和55年4月 南丹市教育委員会』
明治時代初期に発令された「神仏分離令」以前の神仏習合よろしく、仲良く神社と寺院が壁なく隣り合っています。東向観音の境内には、水がない池に囲まれた弁天様がありました。
バイクに戻り、「JR山陰線」を渡り、r50で山陰線沿いを北上します。雨が上がり、雲の合間から青空が見えている場所もあります。天気予報は曇りだったので、これで上がるのかな?左折して、JR山陰線を渡りr80を西進。左折して胡麻川沿いを走ります。「クラウンヒルズ京都ゴルフ倶楽部」のコースの間を道が走っていました。
8:10「八幡神社」。歴史のありそうな狛犬が守護していました。階段を上がると拝殿、更に上がると本殿がありました。祠程度の小さな本殿でしたが、巨杉が数本囲んでいました。
バイクに戻り、すぐ近くの公共トイレを拝借して、朝のお勤め終了。来た道を戻り、r80に出て更に西に向かいました。雲間から日が差して来ました。
8:36「志波加神社」。『令和2年度 志波加神社祭典 早苗・大祓6月14日 大祭10月11日 新嘗祭11月22日 大祓12月13日 元始祭1月2日 祈年祭3月14日 その他祈祷随時
1300有余年に亘り御霊鎮まる 志波加神社の由緒
志波加神社の歴史 古老の伝承によりますと、現在の西組奥へナミ谷の東「宮ヶ谷」にあったとされ、後に清水寺辺りに遷されたとの説が残っています。今でも森ヶ坪など2〜3ヶ所、御旅所と言われる地名が残っています。
社名の志波加は、アイヌ語で志はまこと、波加は水の意味で、谷々から湧き出る清水に「まことの水」に感謝する意義です。平安時代になまって志和賀の村名とされたようです。
今から、1100余年前の平安中期・延喜(えんぎ)13年(913)醍醐天皇御代に延喜式(行政規則書)50巻が作られました。その内2巻を神名帳(じんみょうちょう)と称し、全国数万社の内2851社を式内社として登載されました。
創祀は、飛鳥(あすか)末期・慶雲(けいうん)2年(705)の尊い神社です。現在の鎮座地に何時、遷されたのかは不詳ですが、式内社登載の経過からすると、恐らく平安時代初期ではないかと推測しています。
現在の全国神社数は約8万社、旧船井郡内では約170社です。式内社は旧船井郡内に10杜、日吉町では田原の多治神社と、志破加神社の2社が登載されています。
由緒:寛保(かんぽう)3年(1743)9月社殿再建の際、棟礼(むなふだ)に延喜式内壮志波加神社と明記されていました。創建当時は、亀居山神宮寺として社僧を置き、献灯奉仕されてきましたが、文政11年(1828)の宝庫焼失し文献か焼失しましたが、明治4年(1871)の太政官布告による全国神社調査により、明治6年(1863)6月、村社と認められ、明治10年(1877)6月、式内社(しきないしゃ)の認証書が京都府知事から下附(交付)されました。
建築様式:明治28年7月の神社取調書(事由)によりますと、「本殿は流造、拝殿は入母屋造、神饌所、境内社は天照大神宮・春日神社・多賀神社・八幡神社・住吉神社・稲荷神社・天満宮で創立年代詳からず」となっています。
境内地は官有地第1種社地930坪3合
右事由の通り志波加神社取調候也 志波加神社社掌(神主)吉田重光尚、東側の金毘羅神社と諏肪神社、西北側の天川権現は明治後期以降に祀られたものです。
○京都府暫定登録有形文化財の登録
平成29年12月27日付け告示で東都府暫定登録有形文化財として本殿・梓殿・境内社天満宮が登録されました。平成30年度京都府・南丹市補助事業の採択により、境内社7社の修繕工事が完成しました。今後とも保存・防災等に努め賢重な文化財を護持してまいります。
御神木の大杉は、石垣裏の根本から2つの幹が分かれてに伸び上がっています。幹部が石垣裏にあり幹周り約7m以上と推定され、凡そ700年の樹齢を経ています。一般的に、「相生杉または相老杉」と称され、縁結びにご利益があると崇められています。
(解説)
1.社殿は、一間社流造で最も普遍的な建築様式です。本殿の創建年代は不詳ですか、江戸時代中期・寛保(かんぽう)3年(1743)に再建されています。
2.祭神は月読命(うきよみのみこと)。天照大御神の弟神で五穀豊穣を司る農神です。
3.境内杜は、御本殿の右側から春日神社・天照大神官・八幡神社です。御本殿の左側から多賀神社・住吉神社・稲荷神社・天満宮です。右端の金毘羅神社・諏訪神社、左側斜面の天川権現は明冶後期以降に祀られました。(大黒天は昭和34年頃)
4.石段下の灯籠一対は、江戸時代初期・寛文(かんぶん)12年(1672)に奉納されたものです。
5.御神木の大杉は樹高約35m、根元が石垣土台の下にあり、株から幹分かれして2本が伸び上がっています。幹周りは7m以上、樹齢700年(鎌倉中期頃)以上と推定しています。 スギ科スギ(地域名称の北山杉と同種)
6.鳥居は、横柱が反っており明神鳥居と称します。享保四己亥年(1719)2月、氏子中建立之と刻まれています。 尚、伊勢神官鳥居は神明鳥居と称し横柱が一直線となっています。
7.鳥居から南方300mの小字トヲケ(宮山)の現在石碑のある所まで―直線の参道がありました。近年のボバ圃場整備の際、松古株が確認されており並木跡と推測しています。
8.初宮詣・七五三詣・安全祈願・縁結び祈願・地鎮祭・入魂式など御祈祷を随時お受けいたします。
平成31年(2019)4月吉日 宗教法人・志波加神社宮司・吉田重光』
『式内社 志波加神社
由緒:飛鳥末期・慶雲2年(705)創祀と伝わります。 平安中期・延長5年(927)に完成した延喜式「行政細則書」全50巻の内2巻を神名帳と称され、当時全国の2861社が延喜式内社として登載されました。現在、旧船井郡内では10社が式内社として杞られています。
御祭神:月読命(つきよみのみこと) 天照大御神の弟神で五穀豊穣を司る農耕の神様です。
建築様式:本殿は一間社流造、拝殿は入母屋造です。境内社は、本殿右に春日神社・天照大神宮・八幡神社。左に多賀神社・住吉神社・稲荷神社・天満宮。東側に金毘羅神社・諏訪神社。西北斜面に天川権現を祀っています。
石段下燈龍・鳥居:灯籠一対は、江戸初期・寛文12年(1672)石垣整備に伴い奉納されたものです。鳥居は江戸中期・享保4年(1719)2月氏子中建立の明神鳥居です。
御神木大杉:樹高約35m、幹部が石垣裏にあり2本の幹が伸び上がっています。「縁結びの相生杉」と崇められ、樹齢は凡そ700年以上と推定しています。
京都府暫定登録有形文化財:平成29年12月27日付告示で本殿・拝殿・境内社天満宮が登録され、平成30年度京都府・南丹市補助金及び氏子・崇敬者各位の御浄財により境内7社修繕が完成しました。今後とも保存・防災等に努め貴重な文化財を護持します。 平成31年(2019)1月吉日』
境内に二宮尊徳像が立っていた。
バイクに戻り、r80に戻り、JR山陰本線を渡り、r50に出て山陰線沿いに北に走ります。8:48「岩上神社」。イチョウの黄色い葉が境内とその前の道路を覆っていました。
r50に戻り北上します。9:05「日吉神社」。森の中のひっそりした神社でした。もみじの紅葉が朱や黄色に色づき、思わずカメラを向けました。本殿の脇障子の彫刻は龍で、口を大きく開け歯も大きく彫られています。
9:20「水分の路」「愛宕神社」。『胡麻分水界(海抜約210m) 水分の路(みずわかれのみち) 標高が一番高い場所であるため、ここを境に降った雨が違った川へ流れます。一般的には分水界と呼ばれます。 「水分の路」では、道路より右に降った雨は由良川となり日本海へ、道路より左に降った雨は胡麻川となり太平洋へ注ぎます』。愛宕神社は、緩やかに一直線に上る森の中の道の先にありました。この道は落ち葉に埋まっており、石段もありません。登りはまだ良いが、雨が降った後でもあり、滑りそうでゆっくり下りました。
r50を南下します。9:30「日吉神社」。『胡麻日吉神社の馬馳け(日吉町指定文化財) 日吉町字胡麻  馬にまたがった騎手が的をめがけて弓を射る流鏑馬(やぶさめ)の様子は、勇壮華麗で多くの観客を釘付けにする。丹波には、この流鏑馬を祭事として行う祭りが各地にある。
胡麻日吉神社の秋祭りは、厄除けと五穀豊穣を祈念して10月15日に近い日曜日に行われる。この祭りのクライマックスに、馬馳けと呼ばれる流鏑馬が奉納される。馬馳けの始まりは江戸時代ともいわれ、今なお伝統的なしきたりが厳然と守られている。
祭りは、祭礼前夜に宮篭りをして「七色(しちくさ)の膳」を食べることから始まる。七色の膳は、午後11時から、梨・ぜんざい・栗・枝豆・菓子・かまぼこ・甘酒の順に配膳され、祭礼の主役を演じる馬場量(ばんばはかり)他4名が食べる。やがて、午前0時になると、馬場量が紅白の布を巻き付けた弓を持って東胡麻地区の聖地を巡拝する。
早朝6時に、馬場量・神馬(鎧)・騎手(衣)・射手(女方)・矢取り(稚児助)の5名が、先導する氏子総代に従って岩上池まで行き、身を清める。8時になると、八幡宮や稲荷神社など胡麻地区に祀られている10数社の聖地を数時間かけて巡拝する。
巡拝を終えると、午後2時過ぎからクライマックスを迎える。神馬・騎手・射手の3騎が、馬場量の手で清められた馬場を馳け、立て並べた3つの的を射る。日吉神社の境内前約200mの距離を、騎手が3回、射手が5回、神馬が1回疾走する。稚児助は、射手の放った矢を拾いながら走る。その後、矢のささった的を神前に供えて秋祭りは終了する』
r50を南下し、r19にチェンジして美山まで北上します。「神楽坂トンネル」を抜け北側に出ると、雨が降っていました。トンネル手前までは殆ど降っていませんでしたが、これはいけません。これ以上の北上は止めて、帰路に着くことにしました。「神楽坂トンネル」を今度は南側に抜けましたが、こちらも雨が降っていました。更にもう一つ短いトンネルを抜けると雨がマシになっていました。
r25との交点・JR船岡駅付近まで戻ると、雨が上がり、明らかに地面の水の含み具合が違います。10:44「道の駅京都新光悦村」で休憩しました。「はんなり煎餅サラダ324円+よもぎ大福3個421円=745円」購入。朝買った「ピーナツクリームパン」を食べてお腹を満たしました。
r19を進みます。道路にも雨の跡はもうありません。r19とR9の交点手前で、右折して枝道に入り、R9を渡り南下します。「新世紀第1トンネル」を抜け、道なりにR477に乗り、「新世紀第2トンネル」を抜けR372へ。
R372を渡り、枝道を東に走り、R477に合流しました。大阪府道r106に乗り南下しました。右折しr4〜r104〜r4で、「栗栖」交差点でR173を渡り、r603〜r602で西進し、兵庫県道r12で南下しました。r319〜r33〜r325で、12:08帰宅。雨に降られて寒かったので、すぐ風呂に入りました。


2020/11/22
神河町・生野・朝来市方面の寺社巡りツーリングに出ました。7:54、「招き猫CB400SB」を倉庫から出して、出発。8:03「出光セルフ176」で給油。206km/9.4L=21.9km/L。「宝塚IC」から中国道に乗り、「滝野社IC」で脱出します。R175に乗り北上開始。「西脇市」に入り、左折してR427で北上。途中、「日野北バイパス」を使って再びR427。「多可町」に入り、左折してr8を西進します。「高坂トンネル」を抜けて「神河町」側に下ります。
「越知川」標高235mに下り、右折してr367で「越知川」沿いに緩やかに標高を上げます。9:49「大歳六社神社」。『兵庫県指定文化財・史跡名勝天然記念物 大歳神社の大スギ 神河町大畑550番地 管理者:大畑区 樹高:43m 胸高周囲:10m スギはスギ科の常緑高木で1種1属の日本固有種です。 南は屋久島から北は青森まで分布し、最大級のものでは高さ60m・胸高直径450cm以上に達するものがあります。
このスギは大歳神社の境内にあります。兵庫県内では養父市大久保氷ノ山のスギに次いで2番目の大きさです。 地元では、この大スギを大歳神社の御神木として、崇め大切に守っています。また、地元はもとより、地域のシンボルとして広く愛され、親しまれ、象徴になっていることから、兵庫県では指定し保護する価値があると認められました。 今後、私たちも大切に保護していきたいものです。 神河町教育委員会』
石段を上ると境内郭があり、件の大スギがドーンと立っていました。兵庫県第2の巨大杉を見上げていると、その向こうの青空に雲が流れており、なんだか巨大スギが進んでいるような錯覚に襲われ不思議な気持ちになりました。更に石段を上がると拝殿がありました。拝殿は絵馬殿兼用で、いくつかの絵馬が下がっていました。南天の赤い実がとても綺麗。紅葉が秋色に色づきとても綺麗です。
バイクに戻り更に上流に上り、10:09「大歳神社」。バイクを降りると、パトカー2台がサイレンを鳴らしながら、更に上流にかなりの速さで走り去って行きました。脇障子や木鼻などの彫刻がナイスです。蟇股の龍の彫刻が立体的で着色されており、特に素晴らしかった。「越知川」に掛かる紅葉が黄葉・紅葉しており綺麗。
バイクに戻り、再び県道を上り出すと、パトカーが数台止まっていました。小型の消防車もいたので、ぼやでもあったようです。道なりに「越知川沿い林道」になり、10:27「大歳神社」。更に林道を進むと、「新田ふるさと村」がありました。キャンプブームなのでテントも車も人も、意外に多く楽しんでおられました。そこを通過してすぐ、10:38ゲートで行き止まりになっていました。ここからは、未舗装の「黒河新田林道」標高475mです。「通行止め」の拝み看板が立っていました。
Uターンして、10:42「新田ふるさと村」。林道を下ります。10:45「不動の滝」。水量は多くないですが、落差の大きな雄大な滝です。大雨の降った後は、どんなだろう?林道〜県道は緩やかに下り、気持ちが良い。この道を「新田ふるさと村」まで走るバスを利用し、レンタサイクルでサイクリング出来るコースがあり、気持ち良く下れます。
r367標高420mに合流し、生野方面の峠を登ります。つづら折れを繰り返し標高630mの峠を越え、生野方面に下ります。廃村状態に近い「白口集落」を通過し、標高330mでR429に突き当り、左折して生野方面へ。
11:09寺町通りに入り「本行寺」。『寺町 八ヶ寺が連なる寺町の形成は全国から労働者が集まったり、代官の文代などで様々な宗派が必要となったことや、生野銀山での労働が苛酷で坑夫が短命だったことなどが、その背景として考えられます。
明冶元年(1868)に、生野鉱山近代化のためにフランス人技師が派遣され、宿舎として寺町にある寺院などを利用して滞在していました。
東西寺や西福寺、教徳寺などでは、カラミ石が階段や塀などに用いられています』
『本行寺 宗派は日蓮宗。 生野鉱山の発展に尽くしたフランス人鉱山師ポール・レルム氏の娘の墓があります。
また、民俗学者・柳田國男の祖父で、生野で医師・学者として活躍した真継陶庵の墓があります。
宝暦3年(1753)から宝暦6年(1756)にかけて生野に赴任し、名代官と称えられた岩佐郷蔵の碑があります』
『今月の聖語 おとこのしわざは、女のちからなり 日蓮聖人御遺文・富木尼御前御書 立正安国・お題目結縁運動 日蓮宗
解説:夫婦円満の秘訣 こんな句があります。夫が「お前みたいなおたふくババを、俺でありゃこそ置いてやる」と言うと、妻はさすがに「私なりゃこそ辛抱もするが、誰がみるぞや痩せ所帯」。 よくお説教で引かれる道歌です。しかし、この句はこう続きます。
「外で俺が働けるのも、家を貴女が守りゃこそ。私みたいなふつつか者を、貴女なりゃこそ大切に。こそと威張ってこちらにつけりゃ、何とこしゃくと喧嘩ごし。こそと崇めて向こうにつけりゃ、ニッコリ笑ってあなたこそ。喧嘩するのも仲良くするも、こその付けどこただひとつ」。 今月22日はいい夫婦の日です。共に見つめ直して下さい。
一連聖人ご遺文「富木尼御前御書」 見延山から富木常忍(ときじょうにん)氏の妻に与えられたお手紙です。 常忍氏が亡き母の遺骨を見延山に納骨した折に託されました。妻が生前母によく仕えてくれたと深く感謝する夫の思いを受けて書かれました。
女性が軽視される時代にあって聖人は常に女性の力の偉大さを称賛されています。 建治2年(1276) 聖寿55才』
本堂の木鼻の彫刻が立派でした。R429に出て、11:31「今井邸」。『今井邸 明治時代中期に建築された、大山師邸宅の別邸。 大阪出格子に区切られた西面の腰板張り、南面の板張り、白漆喰塗り璧の落ち着した伝統的なたたずまいを目にすることが出来ます。
江戸時代の地役人の家屋に似ていますが、格式的ではなく前庭を持たず、一種独特の雅な風情と品格を備える風貌です。 国登録文化財』
『来迎寺 宗派は浄土宗西山禅林寺派。 まるで城壁のような石垣と漆喰の塀は美しく、特に秋の境内の紅葉は一見の価値があります。 松尾芭蕉翁の蓑塚や朝来市指定文化財の当麻曼荼羅(たいままんだら)が奉納されています』
『芭蕉翁蓑塚 俳聖松尾芭蕉が元禄7年(1694)大阪で死去した時に、高弟の広瀬惟然(いぜん)が生前の約束によって翁の遺品のうち7点を譲り受け、その1つの古蓑のこぼれを播州姫路の増位山に埋めて塚を築いたのが蓑塚の始まりです。その後寛政8年(1796)同門の俳人、松岡青羅(せいら)が生野行脚の際、芭蕉の古蓑のこぼれを弟子の青々庵竹也に与えました。 竹也が門人たちの協力を得て来迎寺の庭に建てたのがこの蓑塚です。
こうした由来で芭蕉の蓑塚は全国に4ヶ所(ほかに小蓑塚が3ヶ所)造られましたが、その内の1基として貴重な存在であります。
平成30年3月 朝来市教育委員会』
『東西寺 宗派は浄土宗知恩院派。 境内には徳川家康の尊像と歴代将軍の位牌が安置されています。元和2年(1616)、家康の没後、当時の銀山奉行・山川庄兵衛が現在の学童保育センター付近に御霊屋(みたまや)を建立、家療の尊像を祭祀して御宮と称し、東照寺(後の玉翁院)に別当として堂主に当たらせ将軍の位牌を安置しました。
これ以降、歴代の奉行・代官は将軍の位牌を安置するのがならわしとなり、14代将軍までの位牌が置かれています。昭和27年(1952)、玉翁院廃寺合併の際に東西寺に移されました』
『朝来市指定文化財(美術工芸品) 家康の尊像と歴代将軍の位牌 平成8年4月18日指定
生野銀山は慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で、徳川家康が勝利を得てから徳川幕府の支配となり、銀山奉行所(のちに代官所)を置いて直轄しました。
元和2年(1616)徳川家康が薨去(こうきょ)すると、当時の銀山奉行は一堂を建立して家康の尊像を祭祀し東照寺(のちに玉翁院)と号しました。
以後、歴代の奉行・代官はこれにならって徳川将軍代々の霊牌を安置する習わしとなり、14代将軍までの霊牌が置かれております。なお玉翁院にありました霊牌は、昭和27年(1952)東西寺境内のこの地に移されました。(この玉翁院は、鍛冶屋町の口銀谷ふれあいセンターのところにありました) 平成24年3月 朝来市教育委員会』
本堂の蟇股の龍の彫刻が立体的で素晴らしかった。バイクに戻り、R429で西進し、突き当たって右折し、R312に乗って北上しました。
12:02「倭文(しどり)神社」。『創建1300年・遷宮300年 記念碑』
『式内社 式内社とは10世紀の初め、醍醐天皇(897〜930)の御代に編纂されました延喜式神名帳に記載されている由緒正しい、歴史の古い神社ということです。但馬の国には131社あり、その内朝来郡には9社あります。 生野町内ではこの倭文神社1社のみです。
倭文神社(通称・鮭の宮) 祭神:天羽槌命(あめのはつちのみこと) 創建年代:和銅5年(712) 正徳3年(1713)社殿を修造し遷宮式を行った時、偶然下流から鮭が遡って来ました。村人達はこれをめでたい前兆として喜び、鮭の宮と呼ぶようになりました』
蟇股・木鼻の彫刻が立派でした。特に蟇股の龍は、本日ここまで訪問してきた寺院・神社の龍の彫刻が立体的でしたが、それにも増して立体的で凄みがありました。針金ひげだったので、中井権次一棟の作のようです。
『式内倭文神社は、天羽槌命を祭神とし、創建は、和銅5年(1712)である。正徳3年(1713)社殿を修造し、遷宮の時、鮭が遡上したことにより、鮭の宮と呼ばれる所以である。創建1300年、遷宮300年に当たり、ここに記念碑を建立する。 平成24年(2012)10月吉日 氏子中』
R312に出てすぐ、12:13「播磨屋本店生野総本店」。厚い茅葺きの屋根を持った純日本風の素敵なお店でした。元庄屋をリニューアルしたのかな?庭を通ってお店に向かうと、これまた素敵な水車小屋がありました。「朝日揚げ500円+華麗満月500円+助次郎500円=1500円」購入。
12:29「三柱神社」。境内に土俵がありました。ここまで訪問した神社の多くにも土俵が有りました。この地域の相撲熱は高いようです。蟇股の龍の彫刻が良く、木鼻の獅子の足が走っているように彫刻されていませんでした。脇障子の彫刻も良かった。いつものように本殿の周りの彫刻を見上げながら巡っていると、アオダイショウがニョロニョロ・・・びっくりしました。
R312に戻り、少し北上し、12:41「山口護国神社」。『明治維新の魁 生野義挙関連史跡 朝来市指定文化財 生野義挙志士殉難之地(史跡) 平成元年12月12日指定
江戸時代の終わり、幕府を倒して新時代を開くべく、生野代官所を占拠した事件を生野義挙という。 文久3年(1863)大和義挙が不成功に終わるとともに生野義挙も失敗に終った。その時の隊長が長州藩出身の南八郎(21才)である。 戦に敗れた南八郎以下13人はこの地の山伏岩に「今月今日討死」と血書して8人は切腹し、他は附近で討死した。後に京都より送られて来た同志4人を加えて17名の志士の碑が建てられている。
中央に建っている「殉節忠士の墓」の文字は明治新政府首相西園寺公望の揮毫である。「議論より実を行なへなまけ武士、国の大事をよそに見る馬鹿」の奉献額は南八郎が制札を削って書いた奉献歌の額(市指定文化財)であり、腹巻には「後れては梅も桜に劣るらん魁けてこそ色も香もあれ」と書かれていた。 市内にはこの他に義挙関係の事蹟として、原六郎の生家、神領制札(市指定文化財)、大川藤蔵の碑等多くのものが残っている。 平成26年3月 朝来市教育委員会』
境内は、落葉したイチョウの葉の黄色で埋められていました。加えて、銀杏の実の独特の香りがいっぱい。何処に落ちているのかな?と地面を見たら、葉の数より多いと思われるほど凄い数でした。この季節になると、銀杏の実は食材として人気なのですぐに拾われます。こんなに落ちたままなのに驚きました。
『正義十七士之神霊』の石碑が立っています。『正義十三士自決之址』『征清紀念碑』
R312に戻り、枝道に入り、「円山川」を渡り、r70で南下します。道なりに西に向かい、道なりにR429に乗りました。すぐに枝道に逸れ、13:03「足鹿神社」。境内にイチョウの木が立っており、境内の一部が黄色の葉で覆われていました。
『足鹿神社略記 鎮座地:但馬国朝来郡朝来町八代字宮山 祭神:道中貴命(みちなかむちのみこと) 祭日:夏祭7月18日・竜神祭9月18日・例大祭10月18日 式内社:延長5年(927)醍醐天皇の御代に編纂された延喜式神名帳に記載されている神社 境内の大楠:国指定天然記念物・昭和3年指定 本殿:朝来町指定文化財・昭和57年指定 狛犬:朝来町指定文化財・昭和60年指定 蔵王権現:一面三目ニ臂で忿怒の蔵王権現像は以前、堂屋敷にあったが、現在足鹿神社に合祀されている。また中世からの山岳信仰の修験道である奥の院松山のお滝には、不動明王が祀られている。
神社の創立時期については不詳であるが、右に記したように、由緒ある式内社である。八代川と神子畑川の合流点に近く、また神子畑に沿って宍倉郡一宮に通じる道と養父郡養父町建屋に通じる道との交差点近くに位置し、交通の利便性からも集落の形成に適した地であり、まさに神社の創立に関係しているものと考えられる。地名も「やしろ」と呼ばれていることから、神社と地域との結びつきが古くからあったものといえる。現代においても村の人々の神社への崇拝の念は深く、他地域からの参拝者も数多い。また村の人々の奉仕により、整備の進められてきた境内地では、昔から秋の例祭に綱引きの行事がもたれ、豊作を祈願されているが、神のお供え物は一般的な餅ではなく、赤飯を供することが昔より受け継がれている。御祭神「道中貴命」は平安時代初期に天皇の命により、都からこの地方に派遣せられ、この地において政務に当たるなど、功績のあった人として祀られたものと伝えられている。神社正面の参道近くにある梵鐘は、往事の神仏混淆の名残であり、大東亜戦争の時、供出されたが、近年再興の声が高まり、昭和62年秋に再建したものである。覆い屋内の本殿は、貞享年(1685)再建の棟札を持ち、一間社流れ造り、こけら葺、唐破、千鳥風を持つ堂々たるもので、こぶりながら木鼻や蟇股の彫刻とあわせて室町時代から江戸時代にかけての神社建築の様式したものである。
本殿内両脇にある狛犬は、木彫彩色のみごとなものであり、江戸時代中期の作かと思われる。また境内にある大欅は、東京大学の三好教授の鑑定によると、高さ30m・幹回り9.8mに及び、樹齢千数百年と推定されているが、昭和初期以来の境内地拡張工事などで衰退した樹勢の回復をはかるため昭和63年以降本格的な保護、保存につとめている』
ここにも土俵が有りました。
『国指定文化財(国指定天然記念物) 八代の大ケヤキ欅 昭和2年3月24日指定足鹿神社の境内にあり、推定樹齢1500年を誇る巨木。幹周約9m・高さ約30m。地元では周囲に玉垣をめぐらせて、これを神木として崇めている。
年々主幹内部の腐朽が進み空洞化し、また樹根が菌糸の被害を受け、樹勢の衰えが目立つ。そのうえ台風により、大枝に損害を受けたが、過去の保存修理に加え、平成13〜14年(2001〜2002)に国県の補助による大規模な保護増殖が施されている。
朝来市指定文化財(有形文化財建造物) 足鹿神社本殿 昭和57年10月9日指定式内社足鹿神社の社殿で、現在は覆屋の中にある。三間社流造りで、こけら葺の屋根正面は豪華な唐破風である。近世中期の地方社殿としては、大規模である。正面と両側面には高欄付縁をめぐらせ、脇障子を立てる。正面には昇高欄付木階を設け、身舎前面には向拝がつく。向背は面取り角柱で、柱上には出三ツ斗を置く。また、組物の中間には蟇股を入れる。両端の角柱は、海老虹梁でつなぎ、中柱の上には手挟みを付ける。
この本殿は、貞享年間(1684〜1688)の建築時そのままの姿であり、海老虹梁や手挟みの彫刻、木鼻や墓股の様式などに室町末期の様式を残している。木鼻の彫刻は貞享年問改築以前のものを、そのまま使用しているようである。 令和2年3月31日 朝来市教育委員会』
r70に出て北に走り、右折して枝道に入り、「あすなろトンネル」を抜けます。このトンネルは、トンネル内で180度方向を変える珍しいトンネルでした。一山東に抜け、再びr70で北に走りました。
13:23「船之宮古墳」。全但バスの「桑市」バス停がありました。『県指定文化財・船之宮古墳 昭和36年8月20日指定 この古墳は、全長76mの前方後円墳で、後円部径33m・同高6mであり、前方部には社殿が建てられ、若干変形を受けている。後円部側及び西側くびれ部にかけて一部周濠が残っているが、東側は現在道路によって不明となっている。後円部は若干発達した形態を示しているがなお、古式な様相を残している。
埋葬主体については不明である。遺物等も詳細が知られていない。葺石はあるが、埴輪については不明である。本墳は但馬第2の規模を示す古墳で、その立地及び周濠から、但馬における古墳時代中期(1500年前頃)の代表的な古墳と考えられる。 昭和49年10月 兵庫県教育委員会』
古墳には「八幡神社」が建っていました。『県指定文化財・船之宮古墳 昭和36年8月23日指定 この古墳は円山川左岸の段丘の上に築造された5世紀後半(約1500年前)の前方後円墳である。但馬地方で第2番目に大きい規模の畿内大王墓の形態を有する堂々たる古墳である。
昭和55年度、武庫川女子大学考古学研究会により測量調査が行われ、古墳の外形や現状の規模等が明らかにされた。その後、昭和62年度から平成元年度にかけて、周濠・墳丘の確認調査が行われた際、調査トレンチ(溝)から墳丘斜面の葺石・根石が築造当時のまま現われ、その測量から全長63m、前方部幅50m、後円部径47m、高さ約8mの規模を持ち、3段築成で、くびれ部に造り出しを持つ大型の前方後円墳であることが確認された。周濠は楯形であり、周濠外壁にも墳丘斜面と同様、葺石が施されていることが明らかにされた。なお、周濠の外側からも埴輪等が出土することから古墳周辺にも何等かの遺構のあるものと推定される。
古墳の前方部は北側にあり、上部は中世末期に建立された八幡宮によって変形され、東側は旧国道312号線の下に埋没している。西・南側には周濠の遺構が今も残っている。埋蔵主体は不明であるが、但馬の国造と伝える彦坐王の5世の孫である船穂足尼であるとの伝承もあるが詳かではない。しかし、大和朝廷と何らかのかかわりのある国造級の豪族の墓であると思われる。 平成元年12月 朝来町教育委員会』
周囲を見ると、環濠跡がしっかりと残っていました。
r70〜r526〜枝道で、13:39「八幡神社」。境内に、寒椿が白い花を見せていました。本殿裏にはもみじが紅く紅葉しておりナイスでした。
枝道〜r526で、13:47「伊由神社」。境内に土俵があります。覆屋に守られた本殿は唐破風・こけら葺きで歴史がありそう。「正一位大森大明神」の扁額が架かっていました。
r526を走り、13:55「小田巻神社」。石段を上がると、秋色のもみじが石鳥居を彩っていました。石鳥居に架かる扁額には、「小田巻神社・笹御霊神社」と彫られていました。更に一段境内を上がると、イチョウの黄色い葉が地面の一部を覆っており綺麗。南天の真っ赤な実が良いコントラストになっています。
r526を東に走り、「伊由峠トンネル」標高300mを抜け、下ります。標高180mまで下り、突き当りを左折してr276で北上しました。右折して「広域農道」で東進し、小さな峠を抜け、道なりにr275。「北近畿豊岡自動車道」に突き当り、右折して枝道に乗り、右折してR427に乗りました。「遠阪峠」標高380mを越え、青垣町へ下ります。
14:39「大歳神社」。境内に「熊野大神遙拝所」と「御霊大神遙拝所」の石碑が立っていました。寒椿の白い花がたくさん咲いています。覆屋で守られた「大歳大明神」の扁額が架けられた本殿は、唐破風・こけら葺屋根を持った良い感じでした。木鼻の龍の彫刻は独特でした。脇障子に彫刻が入っています。もみじが黄色に染まり、境内の地面も黄色に染まって綺麗です。ピンクの椿の花も咲いていました。
R429〜R427〜r7〜「青垣IC」から「北近畿豊岡道」に乗り、「春日JCT」で「舞鶴若狭道」に乗り、15:23「西紀SA」で休憩しました。「バニラコーン150円」で糖分補給しました。「三田西IC」で下車し、r92〜r720〜r316〜r141〜r570で、「JR福知山線・新三田駅」横を通過しました。r68〜r33〜r325で、17:00帰宅。


2020/11/15
家内もお休みなので、映画を観に行きました。午後からだったのでAMはブラブラし、お昼に「通勤リード110」にタンデムして家内と尼崎に向かいました。「MOVIXあまがさき」・13:50「水上のフライト」を観ました。主演の中条あやみさんは、ファッションモデル出身です。最近モデル出身の女優さんが増えました。スタイルが良くて、これ系の女優さんは好きです。
陸上競技・走り高跳び種目でオリンピックを目指す中条さん扮する大学生の主人公が、交通事故で下半身不随になり自暴自棄になってしまう。お母さんがかつて主人公が通っていたカヌー教室のインストラクターに相談し、カヌーを勧める。お母さんはご主人を亡くされた未亡人で、このインストラクタさんと良い関係を保っています。
嫌々ながらカヌー教室に顔を出すと、後輩のカヌー教室参加の小学生達に囲まれカヌーに乗ってしまう。根っからの闘争心に火がつき、前を走るカヌーを追い抜かそうとして沈、下半身が動かないのでパニックになるがインストラクターやかつての教室員の男性に助けられて無事だった。このほぼ同じ年齢の男性は、現在車椅子製造をしており、競技車椅子などを作っていた。競技車椅子の軽さと機動力の高さに驚き、彼に作ってもらった競技カヌーで車椅子でオリンピックを目指すようになった。目標が出来たので自分への自信が戻り、車椅子生活になったのでお母さんから勧められていた転校を断り、母校体育コースに戻り、トレーニングに励む。かつての後輩で伸び悩んでいたライバルにアドバイスしたりするようになる。そしてレースの世界へ・・・
良い映画でした。コロナ禍で新作封切り映画が壊滅状態になっていましたが、やっと年末にかけ新作が登場するようになりました。今や「従来の風邪」同様の罹患者であるにも関わらず、いつまで続けるのか経済の自粛要請・・・早く規制のない以前の生活に戻りたいものです。


2020/11/14
今月初め同様、和歌山行きの日です。先月末から今月初めに掛け、3日間コーチしている大学ヨット部の全日本インカレ団体戦のレースでした。そして今回は、スナイプ級全日本です。今年は春からコロナ禍で、ヨットレースもオリンピック筆頭に多くが中止や延期になりました。私関係で言えば、女子インカレも中止になりました。そして開催地も多くは辞退し、限られた開催地の1つが和歌山です。O大ヨット部GMのKさんより、「昨年卒業したヨット部員のお父さんが船を出すので応援観戦に行くけど、一緒に行きませんか?」との有り難いお誘いを受けました。二つ返事で「ご一緒させて下さい」。8:30に大阪のKさんの家に集合し、Kさんの車に乗っていきます。
6:30に倉庫から、「招き猫CB400SB」を出し出発。r13を南下し、R43を東進し、淀川を渡り、JR天王寺駅と近鉄阿倍野駅の間を抜けました。天王寺と阿倍野はR43を隔てて隣接しています。大阪の隣県に住みながら、この事実を知ったのは10年前でした。いつ見ても近鉄阿倍野駅ビルでもある「あべのハルカス」は背が高い。
7:24「セブンイレブン大阪今林4丁目店」で、「フルーツオーレ500ml93円+味付け海苔辛子明太子140円+大きなおむすび和風ツナ145円=411円」購入。数分でKさん宅に着きました。「Pが3台分あるからバイク駐められます」と言われていたので、家の前のPに着くと、車の中にKさん・P内に奥さんがいました。「おはようございます」。
「早いね、家の中に入って」。応接間に通され、コーヒーを頂きました。女の子2人のお着物写真があったので、「可愛いですね」なんて言うと、お孫さんだそうで、今年七五三だったそうです。長男さんはアメリカに住み、次男さんは店長をされているそうです。うちの息子達のことは話していたので、Kさんのお子さんたちのことを聞きました。
本好きであることを話すと、「先輩からもらった本があるから貸すよ」と言われ、ダンボール1箱持ってこられました。その先輩の奥さんがアメリカ在住時の日記を出版され、Kさんが高校時代の仲間と書かれた「うどん県食べ歩き」の本もありました。仲間に出版社勤務の方がおられ、お金を出し合って自費出版し、大手書店などの店長に交渉し、平置きされたようです。
O大ヨット部を昨年卒業したAさんが車でやってきました。彼女も応接間に来られコーヒー休憩。学生時代はS級で全日本女子学生トップクラスの選手で、3回生の時は女子インカレ個人戦で優秀選手に選ばれ、4回生の時は強風レースで第1レーストップフィニッシュ、第2レースでもトップを快走しましたが風が強くなりすぎてノーレースになり、後半の中軽風レースで優勝したRitsに抜かれてしまいました。そのレースは、コーチしている大学ヨット部からも出場しており、そのサポートで私も参加していました。母校KGのコーチボートに乗せてもらっていたので、彼女の勇姿を観戦しました。大学を卒業し、コーチしている大学の大学院に進学し勉強を続けています。実家は東京なので、「車持ってるんだ」と思ったら、祖父母が大阪に住んでいるのでその車だって。
Kさんの車に乗り出発。Aさんを助手席に乗せ、私は後部座席へ。あれこれお喋りしながら近畿道〜阪和道で南下し、「和歌山IC」で下車し和歌山港へ。ここは、高校ヨット部時代のインターハイ予選会場でした。GWの西宮開催のレースではKGが勝つのに、本番のインターハイ予選はアウェー故かいつも敗退し、高校3年間1度もインターハイ本戦に進めませんでした。その数年前に和歌山国体があり、新艇を全県分揃えたので、新しいレース艇がたくさん揃い、海も綺麗で羨ましかった。当時のライバル和歌山星林高校の同級生と今でも年賀状の交換をしています。懐かしいな。
当時は漁港オンリーだったと思うが、クルーザーのハーバーが出来ていました。Aさんの同期の和歌山出身男子とそのお父さん、同期が5人集まりました。同期諸君とは学生時代、合同練習やレースで顔を合わせていたので見知っていましたが、お父さんとは「はじめまして」。
ジャヌーの42フィートセーリングクルーザーに乗り込み、レース海面に向かいます。レーススタート前にレース海面に着きました。O大コーチのSさん艇がいます。当方大選手艇も1艇います。母校艇は4艇出場しています。出場艇は63。前日の初日は1レースしており、10ノットほどの良い風が入っているので、中日のこの日は3〜4レース出来そうです。
予定通り11時にレースが始まり、インカレより長いコースで、トップ艇フィニッシュが50分ほどでした。良い天気・良い風のセイリング日和で3レース行い、15時に終了しました。インカレより陸に近い海面で、良い風ですが北の半島からの風になり振れの多いレースでした。
ハーバーに戻り、全員で「黒潮市場」へ。18時から、2FでSさん主催バイキングを食べます。黒潮市場Pは1時間700円なので、1日500円のPに並びますが、18時になってしまい結局黒潮市場Pへ。食事するので2時間無料になるんだって。Sさんペア・Sさん奥さん・Sさん妹夫婦が加わり、「ゴンドワナ」に入店します。マスクを車に忘れたけど、Sさん奥さんに頂き、ありがとうございました。入店時、消毒することとマスクが必須でした。料理を取りに行く時、手袋をするよう使い捨て手袋を渡されました。
Sさん挨拶・クルーSE君挨拶でお食事開始。Sさん妹の旦那さんはイギリス人でした。バリバリの大阪弁でおかしかった。楽しい時間もあっという間に終わり、20時にお開き。Sさん一家に見送られ、帰路へ。「海南IC」から阪和道に乗り、近畿道でKさん宅。Aさんは車で、私はバイクで帰路に着き、23時前に帰宅しました。ああ、楽しかった〜。


2020/11/8
家内の希望で予約した「京都定期観光スカイバス」の日です。ロンドンやニューヨークで走っている屋根開き2階建てバスが京都に入ったようで、「あれに乗りたい」との希望でした。スカイバスツアーは数種類「北野天満宮・清水寺自由散策時間2時間付き」「二条城・平安神宮自由散策2時間付き」あり、「1.5時間京っと一周」を選択しました。京都は何十回と観光しているので、主な観光地・寺社は既に巡っています。
「高雄って知ってる?」と家内から言われ、「武蔵野の高尾山?京都紅葉の名所・高雄?」って聞き返し、まだ早そうですが高雄三山紅葉散策を組み合わせることにしました。「京都一周スカイバス」は、10時から16時まで毎時出発します。時の便を予約しました。スカイバス後、高雄に向かうので、僕はバイク・家内は電車というスタイルで京都に向かうことにしました。
7時過ぎに家内を後ろに乗せ、家を出ました。家内を「JR北伊丹駅」に下ろし、R171〜中央環状道〜r14〜R171で京都市街地に入り、8:38「京都駅ビル西バイク駐輪場」にバイクを置きました。駅に向かいながら、スマホLINEチェックしましたが、家内から何も入っていないので、駅にまだ着いていないのでしょう。「駅に着いたよ。待ち合わせ場所の京都タワー側改札で待っています」と、LINEに書き込みました。
9:07、「セブンイレブンハートインJR京都駅中央改札口店」で、「マーガリン入りレーズンバター100円+プレミアムカフェオレ500ml108円=224円」購入。朝ご飯は食べてきたので、補給食としてパンを用意しました。改札前で待っていると、家内が後ろからやってきました。あれれ?セブンイレブンに寄っている間に改札を出たのか、「バス案内所」で待っていたとか・・・。
家内がホットな飲み物を買いたいということで、再びセブンイレブンに寄ってから、9:22「定期観光バス案内所」で、予約していたチケットを購入しました。窓口に並ぶと、係の女性が非接触体温計で、全員の体温測定をしていました。ピッ!まだ30分以上あるので、目の前のバス停に停まっているスカイバスを見に行きます。一番乗りでした。他コースのスカイバスが出発して行きました。
1番コースバス停に、乗るスカイバスが入ってきました。「乗れるのかな?」と近づきましたが、まだ準備中とのこと。運転手さんがスカイバスの屋根を覆っている蛇腹屋根を畳みながら後部に収納しています。スカイバスに屋根があることを知りました。これなら突然の雨でも大丈夫ですね。「明星観光バス」と書かれていますが、チケットには「京阪バス」と書かれています。明星は京阪の子会社なのかもしれません。
9:53、バスに乗り込みます。バスの中央部の席でした。2列前と3列前に、ロボット犬をお持ちの方が3人おられました。その犬を上に上げ、それを入れながらカメラに収めています。3人共同じロボット犬をお持ちなので、同好の集まりかもしれません。コロナ禍ゆえ仕方ないですが、乗客全員マスクを着けています。バスに乗り込む時、同行のバスガイドさんから消毒ジェルを掌に受け消毒をしました。
10時出発。前後2列の屋根の下席を除いて満席です。駅北を西に走り、「堀川通」に出て北上します。最後部の位置に立っておられるバスガイドさんの案内は、出発後すぐから駅に戻るまで喋り続けでした。
まず「西本願寺」前を通過します。手を伸ばせば屋根の上にカメラを出せるので、「どうぞ上からお写し下さい」とバスガイドさん。続いて「二条城」。右折して「丸太町通」を東進し、京都御苑の交差点を左折して「烏丸通」を北上します。交差点曲がってすぐ左側に「大丸ヴィラ」があります。大丸創業家の直系下村正太郎さんの家で、ヴォーリス設計の素敵な建築物です。菅原天満宮・・・平安女学院のチャペル・・・、そして和気清麻呂を祀る護王神社・・・ここでは、「イノシシが狛犬の代わりをしています」とガイドさんが案内しています。
反対側は京都御所で、「禁門の変」の現場「蛤御門」を通過しました。「今出川通」との交差点で右折し、今出川通を東へ。同志社キャンパス内にある冷泉家住宅も紹介していました。2階建てバスだから冷泉家邸宅が見えました。鴨川を渡ります。右手に見える川下の鴨川と、左手に見える上流の賀茂川・高野川・鴨川デルタ・飛び石の案内をガイドさんがしています。
「百万遍交差点」京都大学正門で右折し、「東大路通」を南下します。京大吉田寮・・・医学部病院・・・京都八ツ橋発祥の地・・・。琵琶湖疏水を渡り、左折して「冷泉通」で東進します。桜の名所で枝が車道に伸びているので、手を伸ばせば枝を掴めます。前の席の犬型ロボットが見ています。道なりに南に曲がった「冷泉通」は「琵琶湖疏水」を再び渡り、「平安神宮」。
神宮正面で右折・南下し、神宮の大鳥居をくぐります。「青蓮院」横を通過。「知恩院」前を通過し、右折し「知恩院古門」をくぐります。左折して「東大路通」を南下します。「八坂神社」前を右折し、「四条通」を西進します。「南座」には「鬼滅の刃」がかかっていました。
鴨川を渡る手前で左折し、「川端通」を南下します。右折してまた鴨川を渡り、「東本願寺」角を曲がると、正面に「JR京都駅」が見えました。11:06、「JR京都駅」に戻りました。
バスを降り、バイクを停めたPへ。11:14バイクを出します。1日300円でした。家内とタンデムし、「高雄」に向かいます。1時間前にスカイバスで走った「堀川通」を北上し、市内を適当に走り、R162で市内から離れました。バイク率が高まりました。天気が良いので、京北の方に走りに行くのでしょう。
12:04、「京都高雄山本P」にバイクを駐めました、300円。階段を下り、「清滝川」へ。ここにPがあります。ここまで車で来れたんだ〜。澄んだ水が流れており、紅葉した木々が綺麗です。それを渡る赤い橋から、河原に床が出ており、お客さんが青空お食事をしています。
ここから「神護寺参道」が登っています。森の中を石段で上がっていくと、お食事処がいくつかありました。毛氈のひかれた床で食べることが出来、森の木々の日陰のオープンテラスもあります。
修復中のようで、目隠しされた楼門に着き、神護寺拝観料600円。
『高雄山神護寺 「納涼房に雲雷を望む」 雲蒸して堅浅きに似たり、雷波りて空地の如し、颯颯として風房に満ち、祁邱(きき)として雨庭を伴う 云々 弘法大師「性霊集」巻第一より
(私の桂む高蔡の納涼房から、前方の景色を見渡すと、谷岡から雲が湧き上がり、深い渓谷を覆っている。又、空には雷がなりわたり、平地であるかのようである。風は音を立てながら、庵に舞い込んでくる。而は勢いよく、暴風とともに、降り注ぐ。 (口語訳)
神護寺のはじまり:平安京造営の最高責任者であった和気清麻呂公は、都の北西に位置し古くから紅葉の名所として知られるこの地に、愛宕五坊の一つとして高雄山寺を創建されました。天長元年(824)には高雄山寺と、清麻呂公が国家安泰を祈願するために河内に建てられた神願寺とを合併して、「神護国祚真言寺」と改められました。
高雄山寺の時代には和気一族に招かれて、比叡山の伝教大師最澄や、弘法大師空海が人山され、平安仏教の中心的な役割を果たして行くのです。ことに弘法大師は唐(中国)より帰朝して、大同4年(809)に人山以来、14年間住持されました。弘仁3年(812)には伝教大師最澄らに真言密教の儀式である潅頂を授け、真言京立教の基礎を築かれたのです。
この頃、弘法大師は高雄山の納涼房を住まいとされ、冒頭にあげた叙情あふれる五言八句の詩を残されたのです。
文党上人の再興:平安時代に2度の災害のため、堂塔のばとんどを焼失しましたが、一世の豪僧、文覚上人がその荒廃を嘆いて、寿永3年(1184)後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助もあって往年以上の復興をみました。
現在の盛観:応仁の乱で再び兵火を受け焼失しましたが、元和9年(1623)龍厳上人のとき、所司代板倉勝重の奉行によって楼門、金堂(いまの毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再興し、近くは昭和10年、山口玄洞居士の寄進で、昭和の名作といわれる金堂・多宝塔などが新築されて、今日の美観を整えております。
当山の宝物:当山の寺宝は、平安時代前期(約1100年前)と鎌倉時代(7・800年前)の2期にわたるものが大部分であり、芸術的価値においても第一級品に目されるものも多く、国宝17点、重要文化財2833点を所蔵しております。
毎年5月初句の「宝物虫払い」行事には、これらの主要なものを順次展観いたします。
弘法大師の宗教:弘法大師が開宗された真言宗は、従来の仏教、すなわち顕教からは、秘密仏教(密教)といわれます。この真言密教の旨は、「喜言陀羅尼には神秘の力があり、その一字一句には百千の義趣を含蔵している。よってこれを念誦し、観修することによって、災を退け、福を招き、凡夫の身でもすみやかに仏になることができる」と、現世において利益をうけることができることを説いているものです。
平安時代には、当時の権力者であった朝廷や公卿・貴族の信仰が厚かったため、世に貴族仏教のように言われておりますが、その本旨とするところはすべての人びとに通じる、最も普遍的な教義なのです。
神護寺重宝 国宝 ・金堂本尊木造薬師如来 ・多宝塔安置木造五大虚空蔵菩薩 ・紫綾金銀泥絵(両界曼荼羅) ・絹本著色(釈迦如来山像) ・絹本著色(源頼朝外二人肖像両) ・絹本著色(山水図六曲屏風) ・漣頂暦名(弘法大師筆) ・文覚上人四十五箇条起請文 ・銅鐘(銘藤原敏行草)
重要文化財 ・大師堂 ・日光月光菩薩像 ・乾漆造(薬師如来坐像) ・板彫弘法大師像 ・木造(毘沙門天立像) ・木造(愛染明王像) ・尊勝曼荼羅 ・絹本着色(十二天画像) ・絹本著色(真言八祖像) ・絹本著色(真済上人画像) ・絹本著色(足利義持画像) ・神護寺絵図1舗 ・神護寺々領絵図4舗 ・高山寺絵図1舗 ・紺紙金泥一切経2273巻(付経峡202枚・経箱44合) ・後宇多法皇宸翰寄進状1巻 ・ニ荒山碑文1巻 ・文覚上人書状案1巻 ・神護寺略記1巻 ・神護寺文書274通
年中行事 ○宝物虫払い行事5月1日〜5日 国宝源頼朝像・平重盛像・釈迦如来像・涯頂暦名ほかを展示
○多宝塔特別拝観・五大虚空蔵菩薩像 春季御開帳5月13日〜15日 秋季御開帳10月(第2月・祝)を含む3連休』
境内は、「今が旬」には少し早いですが、紅葉が綺麗です。書院・鐘楼・明王堂・・・。『明王堂 神護寺に安置されていた弘法大師御作の不動明王は、天慶3年(940)に平将門の乱を鎮圧するため、寛朝僧正が関東に出開帳された。その地に、この不動明王をご本尊として成田山新勝寺が建立された。現在の明王堂の御本尊は、平安時代後期に神護寺におさめられたと考えられる。明王堂の扁額は、7代目市川團十郎の揮毛である』
平将門の乱の鎮圧のために、神護寺に安置されていた弘法大師作の不動明王像が追討部隊とともに出張したのですね。乱平定後、その不動明王像を本尊として成田山新勝寺が建立されたのですね。歴史好きの僕には、本日一番の収穫でした。天照大神から続く万世一系の天皇家が、称徳天皇に取り入り政治を動かした僧道鏡に乗っ取られそうになった時、その企みを阻止したのが和気清麻呂公です。企みを封じられた道鏡に刺客を送られ危機一髪の時助けたのがイノシシです。故に、スカイバスで巡った護王神社に祀られている和気清麻呂の狛犬が猪です。その清麻呂が創建し、霊廟もあるのがここ神護寺です。
毘沙門堂・大師堂を巡り、石段を上がって「金堂」へ。『金堂 大阪の豪商・山口玄洞氏のご寄進により昭和10年に建立された金堂は、入母屋造本瓦葺、内陣には一本造の本尊・国宝・薬師如来立像を安置。左右に重要文化財・日光月光両菩薩と、室町時代の四天王・十二神将の諸像の諸像が並び立つ。また脇壇にも如意輪観音・地蔵・大黒天・弁財天の坐像を祀る』
金堂内に入ると、十二神将像が見事でした。国宝の「曼荼羅」「源頼朝公画像」の模写が金堂内にあり、撮影可で良かったです。教科書に載っている源頼朝はほぼ全てこの写真です。
『国宝・高雄曼荼羅模写・胎蔵生(たいぞうしょう)曼荼羅 天長年間(824〜834)に淳和天皇の御願で建立された根本真言堂(後の潅頂院)に安置すべく描かれたものであり、手本が彩色本であったのに対し、紫色の綾地に金銀泥を用いているのが特徴である。 横408cm・縦448cm』
『国宝・三絶之鐘 貞観17年 高さ150cm・口径80cmという小ぶりながらも、非常に美しい釣り鐘で、銘文の詞書(ことばがき)には和気常範が真紹和尚の意思を継ぎ、貞観17年(875)に鋳工の志我部海継に鋳造させたとあり、この詞書を文章博士・橘広相(ひろみ)八韻の銘一首を菅原道真の父・菅原是善(これよし)がつくり、当時第一流の書家であった藤原敏行が文字を揮毫したといういわゆる「三絶之鐘」である』
『国宝・源頼朝公画像(模写) 武家政権の発足という日本歴史の大転換期、鎌倉幕府を開いた源頼朝公である。この画像に平重盛公と藤原光能公画像を加えた三幅の肖像画は、後白河法皇行幸のために建立された仙洞院(現存せず)に奉納されたものである。本来はもう一幅あるが、現在は伝わっていない。これらは似絵の名手であった藤原隆信の作とされ、5月の虫払いには一般公開されている』
『文覚上人との出合い 文覚上人との機縁は仁安3年(1168)(30才?)に始まる。そのおよそ20年前、久安年間に如何なる事情からか、一山壊滅の災厄に遭い、寺宝の殆どを散逸して、わずかに残れる本尊薬師如来(国宝)の厨子すら風雪にさらされていたと、平家物語の作者は語っているが、上人自らも「人法共に断絶、堂屋悉く破滅」と記している。
この惨状を見た上人は、復興を決意し、山内の草案に居住して復興に努力するが、独力をもってしては如何ともし難く、5年後に初めて後白河法皇の御所に千石の庄園寄進を所望す。しかしお許しなきため重ねて強訴し、ついに捕られられて伊豆に流罪されるのである。
この心身を賭した流罪が、同胞に配流中の頼朝と相知る機縁となる。ひいては神護寺復興の良縁となった。
上人は頼朝に対し、平家一門並びに都の状態を具さに語り、平家を討つことを説いている。また自ら伊豆を脱走して、法皇より平家追討の院宣を入手し、伊豆の頼朝に神護寺復興を確約させてのち、院宣を手渡したといわれ、その仲介者が法皇の側近藤原光能(似絵国宝)であったとうわさされている』
『国宝・高雄曼荼羅(模写) 金剛界曼荼羅 この曼荼羅は、空海が唐から持ち帰った彩色の曼荼羅の痛みが激しくなったため、新たに作られた写本である。後白河法皇の時、蓮華王院(三十三間堂)宝蔵に入り、高野山を経て、文覚の潅頂院復興に際し、神護寺に戻された。 横368cm・縦409cm』
『弁財天 昭和10年 奈良朝頃は、吉祥天が典型的な美女であったが、江戸期からは七福神の紅一点として親しまれ、広く崇敬されている。もとの名をサラスバディ(水に富んでいるの意)を言い、インドの河を神格化したもので、土地豊穣の農業神として祈られ、さらに文学や音楽の神としてあがめられている。特に鎌倉時代以降は文学音楽のほか弁財天と書いて、在福の神としても広く崇敬されるに至った。お姿はこの像の如く八臂(はっぴ・腕のこと)像であるが、後世にはニ臂で楽器琵琶を手にされた像もある』
『子供の守り本尊 地蔵菩薩 文学や音楽など雄弁の才を司る仏弁財天 彩色鮮やかな仏様は十二神将と四天王であり、十二神将は薬師の本願を護持し、衆生を護る十二の神々であり、四天王は邪気をふみ、東西南北を守護しています。
寄進者は、和気氏子孫の半井(なからい)瑞雪』
『地蔵菩薩 昭和10年 地蔵菩薩は、文殊・普賢・観音などの諸菩薩と同じくあらゆる生き物をそれぞれの立場から救って下さる仏様で、お釈迦様入滅後の56億7千万年のちに弥勒菩薩がこの世に出現されるまでの長い間、「六道に輪廻」する生き物を救済するのがこのお地蔵様である。
六道というのは、生き物が生死を繰り返し、苦しみを受ける場所で地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の6つで、たとえ天上界に生まれてもまた転落するから、苦しみの連続である。
地蔵菩薩は、この六道をめぐって苦しむ生き物を救済するということで、広く信仰され六道という数にちなんで、六地蔵を並べて礼拝する例も多い』
『愛染明王坐像 鎌倉時代作 愛染明王は、愛欲の煩悩を菩薩心(さとり)に昇華させる仏で、頭上に獅子冠を戴き、憤怒像である。この像の頬の部分にエクボがあるのが特徴的。内部は赤色で6本の腕には五鈷鈴(ごこれい)・弓・矢などの持物を執る。光背・台座は江戸時代の後補である』
多宝塔への坂道を上がってみました。『神護寺 高雄山と号し、高野山真言宗の別格本山である。当寺の起源は、もと高野山寺といい、天応元年(781)愛宕五坊の1つとして建立されたと言われ、また和気清麻呂が河内国(大阪府)に建てた神願寺を天長元年(824)この地に移し、空海(弘法大師)が往持となって、神護国祚真言寺と改称した。その後寺運は次第に衰え、寿永3年(1184)文覚上人の中興もあったが、応仁の乱で再び衰え、豊臣・徳川氏などによって修営さ、現在に至っている。
大師堂(重要文化財)は、桃山時代に再建されたもので納涼坊といって、もと空海の住房であったと伝える。また鐘楼にかかる銅鐘(国宝)は、貞観17年(875)の鋳造で橘広相(たちばなひろみ)の序詞・菅原是善(これよし)の撰銘・藤原敏行の書で古来三絶の鐘といい、著名である。金堂内の薬師如来立像・多宝塔内の五大虚空蔵菩薩坐像(いずれも国宝)ほか、多くの重要文化財を有する』
楼門まで戻り、階段を下ります。往路では気づかなかった「硯石」の大きな岩がありました。
『硯(すずり)石 空海弘法大師が神護寺に在山の時、勅願の依頼を受けられたが、急な五月雨で橋が流されたため、この石を硯として対岸に立て掛けた額に向けて筆を投げられたところ、見事に「金剛密寺」の4文字を書かれたという。但し、この寺は現存していない』
13:05、清滝川まで降りてきました。神護寺のパンフレットに書かれた境内地図を見ると、多宝塔のさらに上に、文覚上人のお墓・性仁法親王のお墓がありました。金堂から別の道を上がると、和気清麻呂公のお墓がありました。文覚上人は平家物語のバイプレイヤーで、和気清麻呂は日本国を助けた方です。もう一度訪問し、参ってみたいお墓です。
清滝川沿いの道を上流に歩き、13:31「西明寺」へ。拝観料500円。赤橋で清滝川を渡ります。この橋からの紅葉が綺麗です。紅葉は、川があると鮮やかな色になるそうです。京都の紅葉の名所「東福寺・通天橋」からの紅葉は小さな渓谷から水蒸気が影響しています。
『槇尾山・西明寺
由来:西明寺は、古義真言宗に属し構尾山と号す。高雄(尾)山・神護寺、栂尾山・高山寺とともに三尾の名刹の一つとして知られる。古来から、清滝川のせせらぎと共に、春の桜、つつじ、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と、四季を通じて豊かな自然を現わしている。
天長年間(824〜34)に弘法大師の高弟智泉大徳が神護寺の別院として創建したのに始まると伝える。その後荒廃したが、建治年間(1275〜78)に和泉国構尾山寺の我宝自性上人が中興し、本堂・経蔵・宝塔・鎮守等が建てられた。また正応3年(1290)に平等心王院の号を後宇多法皇より命名賜わり、神護寺より独立した。さらに、永禄年間(1558〜70)に兵火にあって焼亡したが、慶長7年(1602)に明忍律師により再興された。現在の本堂は、元禄13年(1700)に桂昌院の寄進により再建されたものである。堂内には、唐様須弥壇上の本尊釈迦如来憬(重要文化財)を始め、多数の仏像が安置されている。
仏像:釈迦如来像 本堂正面の須弥壇上の厨子内に安置されている本尊で、鎌倉時代に仏師運慶によって彫られた立像てある。清涼寺式釈迦如来像で生前の釈迦如来の面影を伝えていると云われており、重要文化財となっている。釈迦如来は二千五百年前に印度国に生まれ、仏教を創説された。その教えは、「万物は因、縁、果の法に従う。因、縁、果の法を見る時、正智を生ずる。正廣を生ずる時、正しい生活が行われる。正しい生活が行われる時、苦しみ・悩みから救われ、ここに平安の光明が実現する。」と説かれている。
千手観世音菩薩像 本堂の脇陣に安置されており、平安時代に彫られ、重要文化財となっている。頭上に十面を戴き、宝冠をかぶり、合掌する真手を含め四十二手の千手観世音菩薩像である。細面で鼻筋が通った繊細な顔立ちをした立像である。慈悲の力を持って衆生の苦しみを救うと信仰されている。
愛染明王像 本堂の脇肆に安置されており、鎌倉時代後期に慶派に連なる仏師によって彫られた坐像である。五鈷を戴く獅子冠を頭上に乗せ、三目を饌らせ、開口して牙歯と舌先を現わし、六腎の各手に法具や弓箭等を執って坐っている。我宝自性上人の念持本尊で、愛の力を授かるとして古来から多くの人々に拝まれてきた。
建造物:本堂 元禄13年(1700)に5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寄進により再建された。桁行七間、梁行四囲で、内部は梁行に三分されている。中央間が内陣で、後方に四天柱を建てて逆蓮擬宝珠付きの唐様須弥壇に厨子が奉安されている。両横の脇陣が外陣の役割を果たしており、真言宗寺院の本堂としては特異な平面である点に特色がみられる。正面人口の梁上に「霊山鷲心」の額が掲げられている。
客殿 本堂の左方に接近して建ち、本堂左後方と短い渡廊下で結ばれている。造営は本堂より古く、江戸時代前期に移築された。当時は食堂と称し、僧侶の生活や戒律の道場として使用されていた。前列2室、後列3室からなり、前列南室には、慶長および元和年間に3度にわたって制定された九ヶ条からなる「平等心王院僧制」木札が掲げられている。
表門 一間薬医門で、本堂と同じ元禄13年(1700)の造営になり、西明寺の元禄造営の一連の建造物として貴重である。
人物:智泉大徳 延暦8年(789)に讃岐国に生れ、姓は菅原氏、母は阿刀氏で弘法大師の甥にあたる。9歳の時、弘法大師に従い弟子となり、大師をして「密教の事は智泉に任す」と云われるほど聡明であった。天長2年(815)、病にて高野山で寂す。弘法大師は痛く之を慟哭し、自ら欣哉文を草しかと云われる。
我宝自性上人 姓は詳ならず。字は自性で、世に自性上人と尊称された。徳行高邁、博く顕密の学に通じ、学徒雲集せり。上人の教義として「生活に直結する信仰」、即ち、花を供えては「忍耐」の徳を養い、線香を供えては「努力I精進」の徳を省み、水を供えては自他共に潤う「施し」の徳を、御飯を供えては精神の食糧たる「禅定・静心」の徳を養うのが肝要であるといった教えが唱導された。上人の和歌に、「白露のおのが姿をそのままに紅葉におけば紅の玉」(一座行法肝要記)がある。
明忍律師 天正4年(1576)に京都に生れ、姓は中原氏、字は俊正、少内記康雄の次子である。7歳の特、高雄山の庁海僧正に従い弟子となり、内外の諸典を学んだ。慶長15年(1610)、対馬にて病を得て寂す。律師の「自誓得戎の教え」に桂昌院帰依され、現在の本堂を寄進された。その教えによれば、誠心を持って神仏の前で誓いを立てれば、神仏の加護する力と自分の努力する力とで始めて生活に規律(戎)が立ってくるのである』
川を渡り、西明寺拝観料500円。ゆるい階段を上がり山門へ。『西明寺(さいみょうじ) 槇尾山と号する真言宗大覚寺派の準別格本山である。
高雄(尾)山の神護寺、栂尾山の高山寺とともに三尾の名刹の1つとして知られ、紅葉の名所として名高い。
天長年間(824〜834)に、弘法大師(空海)の弟子、智泉(ちせん)が神護寺の別院として開創し、鎌倉時代の建治年間(1275〜1278)に和泉国(現在の大阪府南西部)槇尾山の自性(じしょう)上人が中興したと伝えられる。その後、正応3年(1290)に、後宇多天皇より名前を賜り、神護寺から独立した。
現在の本堂は、徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院が、元禄13年(1700)に寄進したものと伝えられ、正面の須弥壇に本尊の釈迦如来立像(重要文化財)が祀られている。この像は、高さ51cmの小像で、清凉寺(嵯峨釈迦堂)の釈迦如来像を模して、鎌倉時代に運慶によって作られたものである。
とりわけ、門前に架かる朱塗りの指月橋(しげつきょう)付近の眺めは別格で、多くの参詣者が訪れる』
境内の紅葉は見事でした。本堂に上がり堂内を見学します。バイクに戻り、少し走って、14:03「高山寺」。ここは専用駐車場がありました。そこにバイクを入れ、裏参道から高山寺に上がります。
『高山寺 栂尾山と号する真言宗の寺で、釈迦如来を本尊とする。平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。
寺伝によれば、宝亀5年(774)、光仁(こうにん)天皇の勅願によって開創され、当初、神願寺都賀尾(とがを)坊と称したが、建永元年(1206)後鳥羽上皇の院宣によって、明恵(みょうえ)上人が華厳宗復興の道場として再興し、寺名を高山寺と改めたと伝えられている。
広い境内(国の史跡)には、石水院(国宝)・開山堂・金堂などが建ち並び、中でも石水院は、鎌倉時代初期の寝殿風住宅建築で、後鳥羽院の賀茂別院を移築したものといわれている。寺宝は数多く、鳥羽僧正筆とされる「鳥獣人物戯画」をはじめ、「明恵上人樹上坐禅図」など国宝8点、重要文化財約1万点が所蔵されている。
また、境内の茶園は、鎌倉時代初期に明恵上人が栄西禅師から贈られた茶種を植えた所で、ここから全国に茶が普及したといわれている。この由緒から、毎年11月8日には、宇治の茶の製造業者から新茶が上人廟前に献上される』
有名な鳥獣戯画は、ここの所有だったのですね。
『世界遺産「古都京都の文化財」(京都市・宇治市・大津市) 高山寺は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に幕づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録されました。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、とくに優れて普遍的価値をもっていることを国際的に認められたことになります。
高山寺は、宝亀5年(774)に開創された寺を、13世紀初頭に明恵上人が中興して高山寺と改称したことに始まります。中興当初は金堂・阿弥陀堂・十三重塔・東西経蔵などが建ち並んでいましたが、その後中世の戦乱期に荒廃し、江戸時代にはいって寛永11年(1634)に再興されました。
石水院は、明恵上人時代の唯一の遺構で、13世紀前半に建てられた住宅風の建築です。庇を鎚破風で処理する手法や細部意匠などに、鎌倉時代の特色がみられます。自然と調和した建築であるこの石水院は、訪れる者に安堵感を与え、日本文化のひとつのあり方を示すものでもあります。
このほか、境内の奥寄りには宝置印塔や如法経塔が並んでいます。
登録年月日:平成6年(1994)12月15日決定、17日登録 京都市』
高山寺拝観料500円。
『栂尾山高山寺石水院 高山寺は、建永元年(1206)、明恵上人が後鳥羽上皇の勅願によりこの地を賜り、華厳宗の道場として中興開山した寺院である。草創以来、皇族・公卿・武士の要人たちの庇護の元、学問寺として興隆した。寺宝は典籍を中核に、国宝・重要文化財を含む1万2千点余が伝わる。平成6年(1994)、世界文化遺産に登録された。
石水院(国宝鎌倉時代)は、明恵上人時代の唯一の遺構であり、上人が後鳥羽上皇より学問所を賜ったものとされる。簡素な佇まいの寝殿造風住宅建築である。明治22年(1889)、金堂の東より現在地へと移築された。西正面は、かつて春日明神・住吉明神の拝殿であったところで、今は善財童子像が置かれている。欄間には、富岡鉄斎筆の木額「石水院」がかかる。南面内部には、寺号の由来となった後鳥羽上皇の勅額「日出先照(ひいでてまずてらす)高山之寺」や、明恵上人筆とされる木額「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」が当時より伝わる』
『京都市指定名勝 遺香庵庭園
明恵上人の700年遠忌を記念して、昭和6年(1931)に作られた茶庭である。近代の茶道の普及に努めた高橋箒庵の指導のもと、作庭を小川治兵衛(植治)が、建築を3代目木村清兵衛が行った。
庭園はアプローチと、茶室遺香庵の路地、広間の路地からなっている。庭園の最上部にある腰掛は、庭園全体を見下ろすという茶庭としては珍しい構図をしている。遺香庵の路地は、飛石が打たれ、灯籠が据えられている。貴人口の沓脱石は、石を寄せ集めて作られ、茶庭のアクセントとなっている。植栽は、イロハモミジ・アセビ等の他に、ネズミモチが植えられるなど、千家の路地風に植栽をまとめようとする姿勢がうかがえる。遺香庵の茶室・広間などは、千家風を主体としつつも変化を加えた独特の作りとなっている。小川治兵衛の作品の中でも、茶庭として作られた、独特の意匠を持つ庭園として貴重である』
「日本最古の茶園」の石柱が立っていました。「宇治市茶道関係者御席」と書かれた札が扉に下がっていました。
広い境内の鎮守の森が悲惨な状態になっていました。太い幹が沢山根本から伐られ、植林後の伐採斜面と同じ状態となっていました。
明恵上人の御廟がありました。明恵上人はここに眠っていたんだ。観光客は誰も上がりませんが、僕は石段を上がって手を合わせました。木々がなくなり見通しが良くガランとした境内を寂しく見ながら、開山堂・金堂などを巡りました。
表参道からバイクに戻り、往路同様の道で「JR京都駅」に戻り家内を下ろしました。僕はバイクでR171を使って帰宅しました。家内とほぼ同じ時間に帰宅できました。


2020/11/3
レース最終日です。「12:30以降スタートはしない」とセイリング・インストラクション(レース規定)に書いてあるので、2レースでしょう。前日同様、7時前にロビーに降りて、レースメンバーを送り出しました。一旦部屋に上がり、荷物をバッグに詰め、7:31部屋を後にします。ホテルは和歌山城の隣なので、朝のお城が綺麗に目の前にありました。ホテルをチェックアウトし、車に荷物を乗せ、再びホテルロビーに戻り、読書しながら部員を待ちました。朝、LINEで「お城をお散歩しない」と呼びかけていた3回生女子部員と同じく3回生男子が、チェックアウトして荷物を預け、お城お散歩に出かけて行きました。
8:22、「キナンパーク西汀丁・600円」から車を出し、ホテル前に車を移動し、部員を乗せてハーバーに向かいます。8:58「セブンイレブン和歌山マリーナ入口店」で、「洋酒カカオフルーツパウンド148円+つぶあん&マーガリンパン110円=278円」を購入しました。防波堤に最も近いPは満車で数台待っています。部員と荷物を下ろし、9:21「和歌山マリーナシティP・1500円」に入れて防波堤へ。
9:45、470出艇。防波堤の先端に行き、レース艇を見送ります。D社のブルーのジャケットで揃った一団がいます。Wのエンジのジャケットも集団でいます。その中に、去年WのエースだったTさんがいました。肩を叩き、「レースに出たいでしょ」と声を掛けてぺちゃくちゃ。横から「・・さん」と僕の方に顔を向けたのが、Tさんのお父さん。母校のお隣の艇庫の大学ヨット部の総監督さんですが、残念ながら今年は両クラスとも予選落ちし、ここに選手を連れてこれませんでした。「今年はWの応援です」とのこと。
僕のテント2張を中心にした当方部員達の応援場所で、あれこれやっていると、当方3回生のお母さんが来られました。すぐに、副監督に紹介します。昨年は、私が用意した親の観覧船に乗っていただきました。今年D社に入学した宮津ジュニアOGのご両親と、今年のW470のエーススキッパーNくんのお父さんもやってきました。宮津ジュニアOGさんは、昨年インターハイで優勝しました。Nくんは僕の作ったジュニアヨットクラブ出身です。僕もジュニアヨットクラブを作り、コーチをし、次男が部員になり全国をレース転戦する日々を送り、次男がジュニア卒業後はジュニア協会の理事になり、ナショナルチームを引率して海外レースも経験しました。そんなこんなで、お初の方でも、僕の名前を知っていたりします。
上天気なので、楽しく皆と観戦しました。470は2レース出来、Wが最終レースでKOを逆転し優勝しました。2位KO・3位D社・4位KG・5位日大・6位福大でした。最近低迷していた福大が復活しました。S級は優勝Wで2位・日大に100点以上の差をつけて圧勝です。3位鹿屋体大・4位東工大・5位D社・6位KOで、33年ぶりに全日本に駒を進めた東工大が大活躍しました。殆どの部員が大学からヨットを始めたので、こういう大学の活躍にはより大きな拍手を贈りたい。総合成績は、優勝W・2位日大・3位D社・4位KO・5位KG・6位福大でした。Wの完全優勝です。
レースが終了しました。13:29防波堤先端で、帰ってくるレース艇を迎えます。この日は現体制の最終日です。17時に「紀三井寺公園」で全部員が集合するそうです。レースが終われば、レース委員会の「他部員との接触であっても極力避けるよう」という縛りもなくなります。
荷物を車まで運び、16:30に再集合して車で公園に向かうことにして一旦解散しました。3回生部員と一緒に、ポルトヨーロッパへ。次期470チームリーダーSくんは、今年GFさんとここに来たそうです。彼のお勧め映えスポットなどで写真を撮ったりしましたが、そのGFさんとは別れたんだって。「黒潮市場」でうだうだ時間を潰します。目の前で18時から花火大会があるようで、準備をしています。特設ステージと音響設備も用意されており、有名バンドが来るんだって。部員は皆知っていたけど、僕は知らないグループでした。14:18、「金山寺味噌250g540円」をお土産に買いました。
16時になり、少し早いけど車に戻り、サポート部員LINEで「車にいます」と流しました。パラパラと部員がやってきて、公園に向かいます。30ほど前に着いたのに、ほとんどの部員が既にいました。何処も行くことがないのね。陸上コーチ陣は、前日に続き「黒潮温泉」に行ったようです。1回生と喋ったり、マネさん達とお喋りしたりして待ちましたが、17時にレースメンバーが全てを終えて来るとは思えないけど・・・。ヨットレースはレース艇やマストなど、大型の道具を使うので、それらをトラックに積む必要があります。
17:30、30分遅れでレース部員たちがやってきて、このチーム最後のミーティングが始まりました。直前にキャプテンから「挨拶をお願いします」と言われていましたが、いきなり僕が指名され、この1年のこと、このレースを見ながら感じたことなどをスピーチしました。
次に副監督、続いてS級チーム4回生の引退挨拶が続き、4回生プレイヤーから4回生マネージャーへのプレゼントがありました。マネさんたちはコロナ禍以降、直接サポートできなかったのに・・・と感動して涙を流している子もいました。最後に、全員で記念写真を撮って解散になりました。これで僕のコーチングも終了しました。
全員、帰る車があるようなので、1人で帰路につきます。「海南IC」から「阪和道」に乗り北上開始。19:26「紀ノ川SA」で給油。「泉佐野JCT」から「関空道」、そして「阪神高速湾岸線」にチェンジし、「中島IC」で下車し、r13で北上し帰宅しました。あれやこれや全てを片付け、9時にお風呂に入ることが出来ました。ああ楽しかった〜。


2020/11/2
いつものように、4時台に起きました。PCを見ながらゴソゴソ。朝・昼ご飯を買いに出かけます。6:03、「セブンイレブン和歌山八番丁店」で、「プレミアムフルーツオーレ500ml93円+北海道じゃがいもコロッケパン130円+森永アロエYG130円+ブルガリアYG甘美白桃180g135円+味付け海苔海老マヨネーズ125円+味付け海苔辛子明太子140円=813円」購入。
ホテルに戻ると、ロビーにコーチボートに乗っているコーチが、食べながら勉強をしていました。同じテーブルに座り、朝食を食べます。昨日の様子を聞きます。エース艇のスキッパーの様子を聞きます。今年はこれまでレース数が少ないですが、予選も含め最も安定していました。自分が当ヨット部の屋台骨を背負っていると自分にプレッシャーを掛けすぎているのかもしれません。他のレース艇部員によると、いつもとちょっと違う雰囲気になっていたようです。本日の第1レースはメンバー交代でレースには出ないので、気分転換してくれるでしょう。
ハーバーのコロナ対策を教えてくれました。ハーバー外の門でパスカードがないとそれ以上入れません。体温・体調をチェックされ、消毒剤で手を消毒し、パスカードに判子を押してもらいやっとハーバー内へ入れるそうで、初日は大行列になってしまったそうです。
レースメンバーがやってきたので、皆に声を掛けました。7時過ぎにハーバーに向かいました。部屋に戻り、雨予報なので、それなりの服装・用品を整え、ロビーに降ります。長靴&カッパ仕様に変更しました。ロビーで読書して部員を待ちます。コーチや部員が集まってきたので、皆で車に向かいます。
〜8:59、「キナンパーク西汀丁・600円」から車を出して、ハーバーに向かいます。この日はウィークデイ&雨なので、9:47防波堤に最も近い「和歌山マリーナ駐車場」に入れました。
傘を差して防波堤を先端に向かって歩き、レース艇の出艇を待ちましたが、ハーバー前に漁船が多数出ています。海岸近くで、2艘セットで長い網を引いており、しらす漁のようです。ハーバーからは、「漁船待ちをします」とのアナウンスが聞こえてきました。今大会は、全艇にロガーを乗せており、GPSでリアルタイムがネット通じてわかります。昨日は、ハンディーWifiを持ってきた部員のWifiを使って皆がそれぞれのスマホやタブレットでレース観戦しました。レース中以外は海上コーチからLINE情報が入り、陸上本部前にいる部員からも入ります。大会公式情報もネットで流れ、陸上からは遠くて双眼鏡・望遠鏡でないと見れないのに、TVゲームを見ているように観戦できます。
雨が更に強くなり、3mm/h程度になったので、防波堤から撤退します。近くの「黒潮市場」のテーブルに陣取り、食材を買って食べながら観戦しました。10:24、「みかん600円」。12:06、「訳ありおかきMIX580円」。両クラスとも4レースしました。母校の3回生エースF君が2つトップフィニッシュしました。Fくんは僕が学生を卒業してすぐに作ったジュニアヨットクラブ出身です。ついでに言えば、18艇しかフィニッシュできなかった第1レースでは、1・6・8位で僕のジュニアクラブ出身者がフィニッシュしました。次男の後輩でもあります。
当方のS級は、ジュニア出身の3回生スキッパー艇が、4・5位と2回片手フィニッシュしましたが、他はイマイチで残念でした。レースが終わり、「黒潮温泉」に皆で入りました。雨に降られながらの露天風呂が乙なものでした。17:53、Pから車を出しホテルへ。部員をホテル前で下ろし、18:41「ファミリーマート和歌山県庁正面前店」で、「ブルガリアYG苺145円+フルーツミックス100円+ブルガリアYGブルーベリー145円+コロッケ&たまごドッグ138円+コッペパンいちご&マーガリン120円=651円」購入し、「キナンパーク西汀丁P」に車を入れホテルへ。
TV見ながら夕食を食べ、床につきました。例年なら部員たちと楽しいお食事タイムなのに、全員シングルの部屋でつまらないな。


2020/11/1
コーチしている大学ヨット部の最終戦「全日本インカレ団体戦」の初日です。選手やサポートチームは数日前から現地入りし、レース海面で練習したり、レース艇やセイルの計測をしています。
今年はコロナ禍の影響で、ヨットハーバー内に入れる人数が1チーム15人に限られ、3艇×2人=6人+交代選手4人+陸上サポート部員4人でコーチは1人だけしか入れません。コーチは今年卒業した去年の優勝チームのリーダーだった若手コーチが入り、僕や他のコーチ数人は陸上からのサポート&観戦&応援です。僕はハーバーに入れなかったS級チームの2・3回生と共に行動します。というか移動の運転手でもあります。
4:45、近所の「セブンイレブン」で、「助六寿司398円+濃いめのカルピス490ml140円=562円」購入し、4:49近所の御用達「エネジェットセルフSS」で給油して、和歌山目指して出発。9時に和歌山城横にホテルで部員をピックアップするので、時間的に余裕です。
r13を南下し、「中島IC」から「阪神高速湾岸線」に乗りました。「りんくうタウン」まで大阪湾岸を走り、JCTを山側に走り、「泉佐野JCT」で「阪和道」にチェンジし、「和歌山IC」で下車し、ホテルを確認しに行きました。まだ時間が早いので、神社に参ろう。6:40、「日前(ひのくま)神宮」。
『日前神宮(ひのくまじんぐう) 祭神:日前大神 相殿:祭神:思兼命(おもいかねのみこと)・石凝姥命(いしこりどめのみこと)
國懸神宮(くにかかすじんぐう) 祭神:國懸大神 相殿:玉祖命(たまおやのみこと)・明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)・鈿女命(うづめのみこと)
謹みて按ずるに日前國懸大神は、天照大神の前霊に坐しまして、其の稜威名状すべからざる太古天照大神、天の岩窟に幽居まし、時郡憂ひ迷ひ手足措く所を知らず諸神思兼命の儀に従ひて、種々の幣帛を備へ大御心を慰め和め奉るに当たり、石擬姥天香山の銅を摂りて、大御神の御像を鋳造し奉る。
是れ日前神宮奉祀の日像鏡國懸神宮奉祀の日矛の鏡にしてニ鏡斎き祀る。例祭:9月26日 和歌山県市秋月鎮座』
Pに車を入れ、大きな鳥居をくぐり境内に入ると、白装束の神官が紅白の幕に覆われた白テントなどを準備しています。お祭りかな?と思ったら、紅白テントの下の机に、「七五三」「交通安全」「一般祈祷」「お宮参り」と書かれていました。そんなテントが数張り立っており、参拝者が多いようです。お手洗いを拝借し、朝のお勤め。
鎮守の森に囲まれた参道を進むと、正面突き当りになり、左右に本殿があります。右に進むと「國懸神社」がありました。途中に『摂社・中言神社 祭神:名草彦命・名草姫命』。『末社・市戎神社 祭神:蛭子(ひるこ)の神』の祭殿には恵比寿面。『末社・松尾神社』の社殿横に酒樽が並んでいた。酒造りの神様・京都松尾神社の勧請のようです。
國懸神宮に参り、今度は左側の参道を進み、「日前神宮」に参ります。『知恵の神様・思兼命 日前神宮の相殿(ご一緒)にお祭りされております。思兼命様は往古天照大神様が天岩戸にお隠れになられた時、諸神等に知恵を授けられ岩戸より大神様にお出まし頂きました。おかげで世の中は再び太陽の恵みを受けられるようになりました。
この思兼命様の知恵を仰ぎ尊び、古くより知恵の神様・学問の神様として深く崇められております』
『ご由緒:創建2600餘年を溯る日前神宮・國懸神宮は、同一境内に座します2社の大社をなしております。
日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀しております。
神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡(みかがみ)を鋳造しました。その初度に鋳造された天照大御神の御鏡前霊(さきみたま)が、日前國懸両神宮の御神体として奉祀されたと「日本書紀」に記されております。
天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命し、2つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。
その後、崇神天皇51年、名草郡濱ノ宮に遷宮され、垂仁天皇16年には名草郡萬代宮すなわち現在の場所に遷幸され、永きに渉り鎮座の地として今に至っております。
爾来、天道根命の末裔である紀氏(きいし)によって歴代奉祀され、両神宮の祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢の神宮に次いで朝廷からの崇敬も篤く、延喜の制には両社とも明神大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)の祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜るほどでありました。
また古くから紀伊國一之宮として一般の人々からも崇敬をあつめ、両神宮の総称を「日前宮」(にちぜんぐう)とし、親しみをもって呼ばれています。
戦国時代におきましては、豊臣秀吉の天正の兵乱により境内荒廃、社領没収の憂き目に逢いましたが、徳川の時代に入り紀州藩初代藩主、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が入国されるや社殿を再興され、明治4年太政官布告による神格の制が治定されると、官幣大社(かんぺいたいしゃ)に列し、敬神崇祖の大義を示すことと相成りました。
大正8年の国費による境内建物すべての改善工事によって旧観は一新され、大正15年3月の完成をもって現在の姿となっております。
ご神徳:日前宮は紀伊國一之宮にして天照大御神を奉祀しております。
日前國懸大神は、その御別名でありまして太陽の恩恵を蒙り、生とし生ける凡てのものに御蔭(神様の力添え)を戴き、日々の生活に活力を得、人々のえにし(良縁)を結び、うけい(結婚)の徳を授け、生活の基本を守る家内安全の御利益を賜ることから古来より深い信仰を持っております』
ホテル前に戻り、6:51〜8:50「キナンパーク西汀丁」100円。ホテルにもPがありますが、1日1000円なのでお安いこちらを利用しました。ホテルロビーに入り、本を読みながら部員を待ちます。今読んでいる本は、「司馬遼太郎・花神(上)」と「あの頃、君を追いかけた」ですが、「あの頃」の方を持ってきました。これは台湾の映画の原作の日本語翻訳本です。これは映画で見たことがあり、とても良かったので映画では省略されたであろう部分を読みたくて購入しました。
別車に乗る副監督とS級コーチ陣2人が降りて来ました。部員が降りてきたので、7人を載せてハーバー「和歌山セイリングセンター」に向かいます。大会会場のヨットハーバーにはコロナ感染予防のために入れないので、防波堤から観戦します。最寄りの格安P500円は満車だったので、部員を全員降ろし、コーチ車と共に離れたPに入れます。9:30「浜の宮ビーチP」1日500円に入れました。ここで荷物と自転車を下ろしました。それを見たコーチ人が笑っています。まさか自転車で出てくるとは思っていなかったようです。
自転車で、部員の観戦場所の防波堤まで急ぎます。10:30、第1レーススタートなので既にハーバーからの出艇時間には間に合いませんが、風がないので出艇延期になっているでしょう。余裕で間に合いそうです。防波堤に着くと、我が家から持ってきた私物のテント2張が開かれています。そこにみんなの荷物が置かれ、双眼鏡や望遠鏡も設置されていました。
まだ出艇しておらず、みんな手持ち無沙汰です。最初の予定では、観覧用クルーザーを回航してそこから応援するはずでしたが、コロナ禍で無観客試合にするレース委員会からの案内に従ってキャンセルしました。それでも、観覧応援船だと思われるクルーザーが数艇出ています。流石に例年のように大学のフラッグは掲げていないけど・・・。コーチ陣は徒歩20分でやってきました、ご苦労さま。
11:50、470クラスD旗が揚がり、レース艇が次々に出艇してきました。72艇の出艇は圧巻です。防波堤から水路を隔ててハーバーなので、防波堤先端にはD社・W・・・各大学の部員が母校のフラッグを掲げています。例年ならエールが歌われ叫ばれるのですが、今年は静かです。Wのコーチボートがレース艇3艇を引っ張り、防波堤先端までやってきて、ゆっくり応援部員の前を通過したっぷり応援をもらって、レース海面に走って行きました。コマツコーチは、気持ちを盛り上げるのが上手だな〜。
続いて当方が出場しているS級のD旗が揚がり、出艇してきます。レース艇が多く、3艇を曳航したコーチボートは防波堤に近づけませんでした。頑張ってね!レースの方はレース海面の風が上がらず安定せず、14:30スタートまで待たなければなりませんでした。470は風がなくなり、コース短縮になり、18艇しかフィニッシュできませんでした。優勝候補のディフェンディングチャンピオンKOだけが3艇フィにッシュし、いきなり2位以下を大きく離しました。2艇フィニッシュした2位グループは、W・母校KG・日大の3校だけで、優勝はこの4校に絞られました。S級はWが1・2・3位で第1上マークを回航しました。そのままフィニッシュし、いきなり大きなアドバンテージを得ました。当方は15・18・65位で3艇合計で98点。エース艇が一番走らず誤算です。途中で風が落ちてノーレースになった幻の第1レースでもエースが走らず、これは困った。初日は1レースだけで終わりました。
レースフィニッシュ後、テント・双眼鏡・望遠鏡などの回収を部員に頼み、僕は自転車で車を取りに行きます。車で防波堤手前まで戻ってくると、既に部員が荷物を持って待っていたので、車に乗せてホテルに戻ります。
16:29、「キナンパーク西汀丁P」に車を入れます。ホテル最寄りの格安Pです。16:48、「スマイルホテル和歌山」フロントで、宿泊手続きをしました。「GoToトラベル」を利用して宿泊予約したので、1人部屋2泊で4940円の支払いでした。加えて「地域共通クーポン」1000円のチケットを頂きました。つまり2泊で3940円、1泊1970円でお得です。コロナ禍で、毎日の部屋の掃除がないそうです。ゴミは廊下に出しておけば良いそうです。8階の部屋でした。荷物を部屋に置いて、フロントで教えてもらった最寄りコンビニに向かいます。17:44、「セブンイレブン和歌山八番丁店」で、「ひねり揚100円+明治ブルガリアYGブルーベリー135円+プレミアムプレーンYG400g135円+明太のり弁当460円+コンセント充電器2ポート2.4A1186円-地域共通クーポン1000円=1203円」購入。
ホテルの部屋に戻り、TVを点けながら、コンビニ夕食を食べ、風呂に入り、TVを消して寝てしまいました。



逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
inserted by FC2 system