-ウェブマスター日記 2020/9-10

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2020/10/31
朝から上天気です。お昼になっても上天気の空に誘われ、六甲山に走りに行くことにしました。倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、13:04出発。逆瀬川からr16を登っていきます。
14:00、六甲ガーデンテラス下のPにバイクを入れます。「神戸すまいまちづくり公社P」210円。係のおじさんが、「上のPも空いてますよ」と教えてくれましたが、「歩いて行きます」と答えました。上のバイクPは、四輪Pと同じ道を上がるので、時々渋滞を起こしており、対向車に気をつけながら上がらなければなりません。この下のPは、掛かりの方がいないことも多く、何度も無料で駐めています。
「六甲ガーデンテラス」に上がります。途中の道に紫陽花が咲いていました。流石高所。アートが展示されていました。
『六甲ミーツ・アート芸術散歩2020 FM802 FM802賞
大野光一Kouichi OHNO 1987年東京都生まれ・在住 2015年NIIGATAオフィス・アート・ストリート/優秀賞 2017年Tokyo Midtown Award 2017/優秀賞
あなたを見つける、かなたが見つめる I find you, over there look at you.
「私たちは日々沢山の顔に囲まれながら暮らしています。ですが余りに見慣れてしまってその事に無頓着になっています」と作者は述べています。現代は社会でまた家庭で様々な仮面を被って生きることが避けられない時代ですが、素顔で生きていきたいというのが本音では無いでしょうか。作者はその素顔が恐ろしくまた美しいと考え、その感覚がここでは提示されています。2020年は世界中の人々がマスクで顔を覆わざるを得ない状況が生まれてしまいました。この作品は顔について考えてみることが最も必然性を持つ時代に展示されたことになります。
ROKKO MEETS ART』
ガーデンテラスは、雲ひとつない真っ青な青空の下にありました。見慣れた景色がそこにあります。売店のテラスから下界を見下ろします。和歌山まで見通せると思ったけど、意外に霞がかかっており、視程はそれほどでもありませんでした。14:05、「KOBE+」で「キャンドルバーナー×4=1375円」購入。14:20「六甲おみやげ館」で、「六甲山チーズケーキ833円+マグネット296円×2=1553円」購入。
バイク置き場を通り越し、フィールドアスレチックを少し散策。お若い方々がパンフレット片手に、何やらゲームをやっています。バイクに戻り、r16で往路同様の道を下ります。15:19帰宅。久しぶりの六甲山頂でした。


2020/10/25
奈良県野迫川村の高野龍神スカイラインに繋がる林道を巡ろうとツーリングに出ました。5:25、林道に向かうため「里山VTR250」に乗り出発。R171〜中央環状道で東に走り、5:36「エネジェット中環豊中SS」で給油。185km/6.5L=28.5km/L。吹田ICから近畿道に乗り、「堺IC」で下車しました。
r61〜r208で、6:25「多治速比売神社」。朱色の裏門を思わせる神門をくぐり境内に入ります。『当社は、延喜式内社で、多治速比売命を主神として、素蓋嗚尊・菅原道真公を併祀しています。安産・縁結び・厄除けの神様として現在も知られています。 本殿は、国の重要文化財に指定されています。天井裏の墨書や棟札の記載などから、天文10年(1541)に再建されたことがわかります。八つの墓股と向拝の2つの手挟にそれぞれ彫刻が施されています。 荒山宮の名でよく知られ、梅と桜の名所としても有名です』
境内に注連縄の架かった2つの小岩があり、回りを石玉垣が巡らされていた。「福石神」と彫られた石柱が立っている。
『福石神にまつわる昔話 むかしむかし、和田村(堺市和田)にたいそう夫婦仲のいいお百姓さんが住んでいました。2人は働き者だったので、どこの田んぼよりもたくさんのお米が取れていましたが、この家には貧乏神が住み着いていたので暮らしはいっこうに楽になりませんでした。
「どうかここから出ていってもらえんやろか」
「阿呆ぬかせ。昔から住んどる貧乏神じゃ。山ほど米があるのに誰が出ていくかい」
いくら2人が頼んでも聞き入れてもらえません。
とうとう夫婦は力ずくで追い出そうと貧乏神に飛びかかりました。
ところがこの貧乏神は、そこらのやせ細った貧乏神と違って栄養満点で丸々と太っていたので、どうにも敵いませんでした。
そこてで女房は、着物をさっと脱ぐなり、七色もあざやかな波模様の腰紐を貧乏神の前に突き出しました。さすがに貧乏神も目がくらみ、目が抜けてしまいました。神様も色香には弱かったのでしょう。このすきに2人は貧乏神を押え込んでしまいました。
「俺も好きで貧乏神に生まれとうはなかった。何の因果か。らいせいは福の内といわれる神様に生まれ変わるでな。ほな、さいなら」
といって丸い石となって消えていきました。
その後、この福石のおかげでお百姓さんはみるみるうちに村一番の長者になりました。夫婦はこの福を自分たちだけが授かったのではもったいないと思い、この福石を多治速比売神社に寄進したということです。
今でもこの石は、福石として大切に祭られています』
『福石社神事 1月6日午後2時 境内末社の福石社の神事で「福石おこなひの式」といわれる。 版木(はんぎ)で作られた御札を柳の枝2本でススキの穂、榊の葉と共に挟み、神前に供える。 これを「牛王杖(ごうずえ)」と称し、祈祷後家に持ち帰り、苗代田の水口に挿し立てておけば、蝗(イナゴ)などの虫害を防ぐことが出来るという農業神事である』
『ご利益 五穀豊穣・商売繁盛・縁結び・子授け・夫婦円満』
枯木が屋根に覆われていました。『この古木は昭和55年に石屋川改修工事の際、表参道神域沿いの石屋川底より発見されたものであります。樹種は楠の木であり、奇しくも当神社本殿も室町時代後期に楠材で再建されており、縁がありますのでお祀りしております。 樹齢約300年 上下逆さまに安置しています』
朱色に彩色された拝殿に参ります。拝殿の後ろにある本殿は、檜皮葺のどっしりした雰囲気でした。
『多治速比売神社一荒山宮(こうぜんのみや)由緒
当神社は、和泉国大鳥郡の延喜式内社24座のひとつで、6世紀頃の御創建と伝えられている。 明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であったが、神仏分離の際神社のみとなった。 現在の本殿は、室町時代の建造物(天文年間1539〜1541年に再建)で、国の重要文化財に指定されている。 主祭神は、多治速比売命(たじはやひめのみこと)で女神として厄除・安産・縁結びの神として崇敬が厚い。 本殿には、素蓋嗚尊(すさのおのみこと)・菅原道真公も合わせて祀られ、特に道真公は、学問の神(天神様)として厚く信仰されている。
境内には、13の末社【坂上社(式内社)・鴨田社(式内社)・大神社・住吉社・天照社・八幡社・春日社・熊野社・白山社・弁天社・稲荷社・福石社・水天宮】があリ、合わせて荒山宮(こうぜんのみや)とよばれている。
昭和38年に、泉北ニュータウンの造成計画に伴い、由緒ある当神社のご神威をさらに発揚すべく、境内の整備、拝殿・参集殿等の大改築を行い現在に至った。当時の社有地の大部分は、住宅、公園用地として買収され、神社周辺は堺市の公園として荒山公園(こうぜんこうえん)と名付けられ、そこには、「花の名所づくリ」の一環として市により梅林が整備され、約1340本の梅が植樹されている』
『現在の本殿は、室町時代の建造物 天文年間(1539〜1541年)に再建。本殿の構造物は、加工の難しい楠(香木)で出来ています。
様式は、三間社入母屋造(いりもやづくり)で、正面に千鳥破風(ちどりはふ)があり大きな向拝があって、それに軒唐破風(のきからはふ)がついている。向拝柱上部中央の墓股(かえるまた)には、龍・雲・浪。 左右の墓股には、表面に牡丹・唐獅子。 裏面に雲・宝珠が、内法長押(うちのりなげし)。
正面中央の蟇股には桐、右の蟇股には鯱。 左の蟇股には、山茶花・松・幣が。 北と南の側面蟇股には、鯉・松・滝・雲がそれぞれ彫られている。
向拝の手挟(たばさみ)は、透彫(すかしぼり)で左右2個あり、向かって右は、右面に芭蕉に蛸蜘(かまきり)、左面に水に蓮。 向かって左は、右面に海藻と貝類、左面に水に花菖蒲が彫られている。 また、向拝の木鼻は、獣頭のような変わった珍しい形が付けてある』
少し走り、6:47「桜井古墳」。『桜井古跡 桜井神社 桜井井戸と呼ばれ、悠久の昔より桜井神社御祭神に深い縁故を有し、古来夏祭に御神幸あり、和泉名所図絵にも登載の古跡である。
常に清水湧出して枯渇することがなかったが、明治18年(1885)の大洪水により河川氾濫して埋没、大正4年(1915)御大典記念に30ぶり復旧、さらに平成元年(1989)妙見川拡幅、宮橋架替工事の竣功により、整備保存されたが、井戸は現存しない。 (平成元年10月31日)』
小川で隔てられていますが横に鎮座する「櫻井神社」をお参ります。「国宝櫻井神社拝殿」と彫られた石柱が立っていました。境内に入ると、正面に拝殿がありその背景に高い木々が立っています。神輿庫もありました。『庫内安置の神輿は、木造黒漆塗、元文3年(1738)修補の社伝あり。蟇股・垂木等欠失・飾金具破損の状態。当社上神谷戎正遷宮50年を迎え、戎会計により平成11年10月補修完了』
お百度をされているお若い女性が1人、一心不乱に拝殿と境内のお百度石の往復をしています。手には多数の棒を握っています。多数の灯籠が下がった絵馬殿があったので見に行きます。大きな鬼のお面がドーン、歴史を感じさせる戦の絵馬が下がっています。地車お神輿の写真が数点飾っています。鬼の面をつけた2人の鬼が境内で舞っているお祭りの写真があり、『国の無形文化財 こおどり鬼面 昭和44年12月9日 堺市民会館 ふるさとの歌まつり 出演記念NHK奉納』と書かれていました。
国宝拝殿に向かいます。奈良の古い寺院を拝観する時感じるように、京都の古寺・古社の優雅さとはかけ離れた素朴さを感じます。
『国宝桜井神社拝殿 この拝殿は神社の祭礼を行う建物で、建立は鎌倉前期と推定されている。中央間を土間の通路とした割拝殿で、架構方法は二重虹梁蟇股といわれる奈良時代以来の伝統的な形式となっている。装飾的な要素をひかえた明快な建物で、各部に鎌倉時代の特色をよく示している。大正6年国の特別保護建造物に指定され、昭和3年解体修理が行われ、同28年文化財保護法に基づき国宝に指定された。その後同53年屋根葺替等保存修理を行う。神社拝殿最古の遺構として貴重な建物である。 大阪府教育委員会』
『櫻井神社 御祭神は、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后で、上神谷八幡宮とも称せられています。 当社は、延喜式内社で、古くから公武の崇敬がありました。天正5年(1577)織田信長の根来攻めの兵火にあい、社頭は一時荒廃しますが、江戸時代に神門・鐘楼・宝蔵等が再建されました。
拝殿は、鎌倉時代の建築で、古い様式の架構である二重虹梁蟇股がみられ、創建当時の姿をとどめています。内部は、中央に「馬道」と呼ばれる通路を持つ割拝殿形式の建物で、市内では唯一の国宝に指定されています。
毎年10月5日に近い日曜日の秋祭に奉納される「上神谷(にわだに)のこおどり」は、中世の風流踊りの影響がうかがえる神事舞踊であり、国選択・大阪府指定無形民俗文化財に指定されています。
また、鎌倉時代の神像と応永19年(1412)の銘を持つ石燈寵は、大阪府の有形文化財に指定されています。  国選択・大阪府指定無形民俗文化財』
r208で西に走り、7:18「美多弥神社」。『美多弥の宮由緒 鎮座地:堺市美木多上120番地 御祭神:天兒屋根命他6柱 往古の事績悠久にして詳かなうねど、醍醐天皇の(約1000年前)延喜式神名帳(神社の戸籍)には、既に式内社として搭載せられている。後醍醐天皇の御代には、参萬坪を有する広大なる境内には大樹生い茂り堂々たる社にして商工業反映の福の神として、崇敬者の信仰特に厚く、また楠木正成一族の守護神でありしが、天正年間(約380年前)織田信長の兵火にかかり御炎上。その後文禄元年(約350年前)楠木氏の遺族・和田道讃、本殿を再建せり。現在の本殿と拝殿は、昭和47年改築す。
境内の自然林(シリブカガシの森)天然記念物に指定。
祭日 大祭:10月4日・5月上旬
奉納:石灯籠・金拾五萬圓 石玉垣・大金五萬圓・中金参萬圓 昭和50年10月15日献納』
石段を上がり郭に上がりましたが、更に石段が上がりコンクリート造りの拝殿へ。左右に紅白に覆われた「待合所」テントが2ヶ所用意されていました。七五三の季節なので、その待合室かもしれない。本殿は拝殿の後ろに建っていますが、屋根など全容が見えませんでした。
Pに戻っていると、しいの実のようなモニュメントがありました。『大阪みどりの百選 美多弥神社のシリブカガシの森』『願いが叶う「幸せなでいっちん」 「いっちん」とは、美多弥神社社叢内に群生する天然記念物「尻深堅(シリブカカシ)のことです。その大きくて光沢のある実(どんぐり)は、手でこすると更にその輝きが増すことから幸せの実として、昔からみんなに親しまれ、よき事があったり、体の悪いところをこすると痛みや病気を除去してくれるとも言われてきました。ご自身のことは勿論のこと、大切な家族への願いを込めて何度でも優しく「なでなで」してあげて大きな幸せをお招き下さい』
r208〜r215〜r61〜r20〜R170。枝道に入り、「関西サイクルスポーツセンター」横を通りました。子どもたちがチビの時、なんどかここに家族できました。当時は新しく流行っていた感じでしたが、まだ営業時間前だと思うけど、少し寂れている感じがします。r218〜r61で「滝畑ダム湖」横を通り南下し、山に入って行きます。「滝畑湖畔バーベキュー場」がありました。
一気に道が細くなり、沢道になりました。「光滝寺キャンプ場」「荒滝キャンプ場」の横を通ります。両方とも、キャンパーで流行っていました。こんなに寒いのに・・・。ここから本格的な林道になりました。落ち葉・落枝に加え、1日前の雨もあり道路に多くの水の流れが出来ています。かなり奥に入ったところにテントが張られていました。キャンプ場ではなく単なる沢沿いの森の中です。寒いのか、朝から火を炊いています。バイクが1台止まっていました。僕のように林道好きのようです。景色や音を楽しんでいるようです。
8:15「蔵王峠」(標高570m)。バイクを置いて、少し戻ります。峠の直前で、右に上がっていく「堀越観音」への道が分岐していました。
ここから、和歌山・紀ノ川側に下ります。8:27、素晴らしい景色が眼下に広がっていました。紀ノ川を越えて和歌山側の山々が綺麗に見えています。8:31、干し柿が沢山下がっています。近辺斜面に柿の木畑がありました。更に下り、「京奈和自動車道」くぐり、「JR和歌山線」を渡り、左折してR24で東進します。
8:54「小田神社」。『鎮座地:伊都郡高野口町小田76番地 祭神:(主祭神)物之部武彦命  (配祀神)蒼稲魂命・国保食命・猿田彦命・ 市杵島姫命・誉田別命・ 大日霊命・素盞鳴命・日本武命・香津知命 境内社:稲荷神社・国保食神社・猿田神社・香津知神社 例祭日:10月31日 主たる建造物:本殿(木造銅板葺春日造5平方メートル)・拝殿(木造瓦葺平屋造53平方メートル)・手水舎(木造瓦葺2平方メートル)・鳥居(一ノ鳥居・二ノ鳥居 花崗岩) 境内地:1,090平方メートル 氏子区域:高野口町大字小田
由来:小田神社は、饒速日命の13世の孫である物之部武彦(建彦)命を主祭神としてお祀りしている。この神は物之部尾興連公の弟神で小田連等の祖である。醍醐天皇の延長5(927)年に撰上された「延喜式神名帳」に、「小田神社」として記載されている式内社(紀伊国で31社、伊都地方では天野大社とともに2社)である。
又、平安末から鎌倉初期の編纂といわれる「紀伊国神名帳」には、「従五位上小田神」の名で神祗官の幣例に預かる官知神として伊都郡内5社の中に列せられている。
このように、往古の小田神社は、神域が4町四方(1町は109m)もあったと伝えられるほど、広大かつ立派な社としてその尊厳さは他社に及ぶものがなく、朝野ともに尊敬の深い大社であった。
しかるに、数度の兵乱のため社殿や宝物を失い、社地も荒廃して木陰に仮殿を設けてお祀りしていたが、紀州徳川の藩祖頼宣公が天和年中に旧境内本殿の跡に石の宝殿を建て「小田神社」の4文字を刻んで後世に伝えさせたという(これが現在の御神体となっている。
これによって「延喜式内社」の面目が作られ、江戸屋五兵衛なる町人が御神燈を献納したり、高野山から「式内社方角案内」の額が奉納されたりしている。
社名の「小田神社」は、地名に基づくものでなく、小田連公が大和からこの地に移り住み、その祖先である物之部武彦命を奉り祀りしことによる氏族名から付けられた名で、その建立は1,400年前と伝えられている。
江戸時代末に刊行された「紀伊名所図會」の「小田神社」の項に、次の2首が掲載されている。
守ります小田の御神の恵みとも しらでやしづがをしねかるらむ(読人しらず)玉だれのをだの宮居はあれにけり 昔にかへすますらをもがな(小田 牛雄)「物之部」は、「モノノグ(兵器)」と「モノノフ(兵士)」を掌る氏族の名称で、古来から大伴氏とともに我が国の軍神として崇められてきた神であった。明治維新後の小田神社は、高野口町大字小田の氏神様として現在に至っている。祭礼の日に行われた競馬は近郷の呼び物であったというが、今はその面影すら残していない』
R24に戻り、東進します。9:13「セブンイレブン橋本東家店」で、「味付け海苔海老マヨネーズ125円」を購入。R24を更に東進し、右折してR370で吉野川を渡り、すぐに左折して吉野川左岸を東進します。右折してr732に乗り、山中を南下します。深い谷の高所に県道が走っているので、横は素晴らしい景色です。谷を隔てた対岸の高所にも家屋が建っています。
9:50、小川の横にすすき原が広がっている所で、朝食にしました。小川・沢沿いの森の中の道を進み、分岐を右に進路を取りr733で、引き続き沢沿い道を進みます。交差点を右折し、r733から離れ、丹生川沿いの林道を走ります。
10:16、「丹生神社」。丹生川沿いの神社で、この地域にある丹生神社同様、歴史のある古社と思っていましたが、立派だけど趣の薄いコンクリート神門にはガッカリ。神門をくぐると、石段が上がっていた。それを上がると、祠の少し大きめ程度の本殿がありました。立派な神門と小さな本殿のアンバランスが面白い。でも本殿の木鼻や蟇股などの彫刻はなかなかでした。本殿扉脇の昇り龍の彫刻は珍しかった。
バイクに戻り、道を引き返します。r733に出て南下し、今井峠(紀和トンネル)を抜け、r53に突き当り、右折してすぐ、10:48「野川弁財天妙音院」でバイクを停めます。高野山真言宗の寺院でした。小柄ながら、左右に仁王像が守護していました。
『野迫川村指定文化財・妙音院 狛犬1対・能面1面・狂言面1面・梵鐘1口 昭和53年3月31日 野迫川村教育委員会』
木造の山門らしからぬ門をくぐり境内に入ると、テーブルの上に小さな仏像がたくさん並んでいた。屋根付きの階段廊下を上がります。左右に幟が並ぶ上り階段を上がると、本殿がありました。この本殿は、多色で彩られていた。多くの神社は朱を基調にカラーリングされているが、ここはとても多い。日本的な感じがせず、タイに神社があればこのようなカラーリングになるのではないかと想像しました。蟇股・木鼻の彫刻も何となく日本的ではなく、他の国の文化を感じました。社紋が今まで見たことがないデザインで驚いた。本殿外壁の絵は孔雀や鶴で日本的でしたが、最も奇異だったのが狛犬のデザインです。こちらは中国・朝鮮半島風を思わせました。
r53を戻ります。r733との交差点を過ぎて進みます。11:05、「平川釜落林道」の入口に着きました。この林道で峠を越えr734に抜けるつもりでしたが・・・。
『この先、水道工事のため、通行止め *池津川集落へは行けません』
『通行止(日曜・祝日・年末年始を除く) 通行止時間:8:30〜17:00 第7号野迫川村簡易水道事業・池津川地区基幹改良工事 区間:野迫川村池津川地内(県道高野辻堂線 期間:令和2年9月23日〜令和3年2月26日 施工:福田建設株式会社 発注者:野迫川村』
道が半分バリケードで塞がっています。「日曜日だから通れるのかな〜」と、一縷の不安を懐きながら、GO! 沢沿いの道をゆるく登って行きます。林道らしく、軽四四駆の対向車が下ってきました。11:15、峠でバイクを止めます。「林道開設記念碑」が立っていました。11:22大きく下り、r734に出ると「通行止」の拝み看板が道に立っていたのストップ。「行けるのかな〜」と思いながら、GO! 谷の下に流れる「池津川」沿いを走ります。
r733に突き当り、右折してそれに乗り、少し走って大きくほぼUターン右折して、「上垣内立里林道」へ。開設記念碑11:38、次の目的地「荒神社」の大きな石柱と、林道開設記念碑が立っていました。すぐに先ほど走ってきたr734を渡る橋がありました。そこからの景色が意外に標高が高く、標高を見ると880mもありました。驚き!
林道を緩やかに登り、11:54「立里荒神社」。標高1250mにある神社です。こんな高所にある神社なのに、大きなPがあり、しかもほぼ満車でした。お参りの方も沢山いてビックリ。『これより上、神域なれば厳粛にお参り下さい。ペット連れのお参りはご遠慮下さい。 荒神社』
展望所があり、素晴らしい山並みが広がっていました。高所から紅葉が始まっています。山並みは大和連山(大峰山系)のようです。『金剛山1112m・大天井ヶ岳1439m・山上ヶ岳1719m・大日山1726m・稲村ヶ岳1725m・大普賢岳1780m・弥山(みせん)1895m・八経ヶ岳1915m、そしてここ荒神ヶ岳1260m』
本殿に向かう階段参道がゆるく上がっており、伏見稲荷のように鳥居がそれを覆うように沢山立っていた。11:56登りましょう。12:06「本殿」到着。
『大和国吉野郡池津川の南に当りて、海抜4200余尺の高峯荒神ヶ岳という所に三宝荒神の御社あり。本地は阿弥陀如来ましまし当所の鎮守なり。抑も当社の由来を尋ぬるに弘法大師御勧請の霊神と申伝うるなり。
往昔人皇52代嵯峨天皇御宇弘仁7年、大師高野山伽藍を開基し給う思召にて初めて御登山これあり。今の檀場にて地鎮の法を修行し給う時、俄かに天地振動し東の方より黒雲たなびき其中に異類異形の夜叉神顕われて大師の御建立を妨げんと種々の障碍をなしければ、大師暫く修法を止め、汝は何者ぞと問い給う。
夜叉答えて曰く我はこれ荒神ヶ岳に住む神也、我別に神体なし、汝は則一切衆生本有倶生障(しゅじょうほんうぐしょうく)の惑貪瞋痴(わくどんしんち)の三毒にして一切衆生の善根功徳を障うる神なり我に9億9万8千5百72神等の眷属ありて、衆生の悪業力に因って、彼の眷属を不信心の家に遣し日々に七難を起し夜々に七福を滅して貧窮無福の人となさしめ、一切の善事を障うるなり。
若し衆生有て、勇猛精進にして種々の供具を備え、一心に我を祭らば速に本に帰し三宝荒神と現じ一切の障碍悉く消滅し一切の諸願立所に満足せしめん、七難即滅七福即生は我第一の誓願なり、汝先我を供祭せば必ず大願成就すべしと云えり。依て大師無二の信心を凝し1枚の板に三宝荒神の御像を画きて本尊となし、17日の間荒神供を御修法ありて、伽藍繁栄、密教守護の祈誓をなし給うて、檀上の鬼門に荒神の社を勧請あり。而して後に大伽藍を御建立ありけるに何の障もなかりき、故に大師御一生の間は、毎月当山にご参詣ありしとぞ。
其後第2祖真然僧正を始めとして、代々の高僧各意願ある方々は参詣ありけるに諸願満足せざる事なし。
日々夜々に参詣し願にまかせて求願すなわち、成就すれば神威霊光日々に新たなり。他の悪疫流行或は水難火難等の消滅を一心に祈願する時は霊験忽ち著わるゝことは世人の能く知る処なれば委しく記さず。近畿各地方より参詣の客四時続々として断ゆることなし、随うて遠方の参詣人は参籠すべき設備あり。
本社祭神:火産霊神(ほむすびのかみ)・誉田別命(ほんだわけのみこと)
摂社(五社神社)祭神:天照皇大御神・大山柢命(おおやまづみのみこと)・保食命(うけもちのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・素盞鳴命(すさのおのみこと)
例祭:5月8日 新穀感謝祭:11月23日 月次祭:毎月28日』
林道の先に進みます。12:28「立里」停留所がありました。バス停前は廃屋でした。民家と言うより、並び立つ「ホテル開雲荘」関連の建物という感じですが、窓は割れ室内に雑然と物品が置かれています。
林道を戻ります。r733に下り、南下します。12:57「平維盛歴史の里」。『平維盛塚由来記 一の谷の合戦に敗れた平家は、屋島へと逃げのび、寿永3年(1184)宗盛公の下命によリ、平維盛公(26才)は熊野水軍の援軍を求めるため、熊野別当田辺湛増(現在の和軟山県田辺市)のもとへ使者として派遣されたが、天下の情勢はすでに源氏側にあったため、湛増は平家の恩恵は知リつつも、熊野一国の安泰を考慮し、援軍を断った。
湛増は維盛公に姫を娶(めと)らせて、自分のもとに匿(かくま)い、源氏の追討から守った。しかし源頼朝は文治5年(1189)維盛逮捕令を発令し、一大平家狩りをおこなった。湛増は配下豪族に命令し、維盛を守護させながら、奥熊野の山岳地帯に逃した。建久9年(1199)源頼朝の死により、平家狩りも休止した。維盛は京の妻子に再会するため、紀伊山岳路を北上、建保4年(1216)維盛(58才)主徒は、野迫川村平へ到着。山岳流浪潜伏すること30余年におよび、源氏追討と山岳突破の疲労により、この地にとどまリ承久元年(1219)61才で終焉。里人により手厚く葬られ「平維盛塚」として伝わる。「嗚呼(ああ)小松三位左中将平朝臣維盛公、終焉の地」』
維盛塚に登ってみます。集落の景色が広がります。1本の大銀杏が黄金色に輝いています。周囲は山並みが連なり、維盛公健在の頃は、周囲から途絶された自給自足の集落だったのでしょう。
林道を先に進み、r733に合流します。「弓手原川」沿いを走り、「弓手原林道」に入り、13:39「タイノ原林道」分岐。ここから「タイノ原林道」をR371まで登ります。「熊野参詣道小辺路」と交差しました。尾根まで登り、木々の切れ間がありました。紀州の山並みが広がっていました。標高は830mを越えています。ここから右に左に時々木々の切れ間があり、素晴らしい景色が広がっていました。R371に突き当たりました。標高1090m。
R371を少し南下し、14:10「桧又林道」交点。「通行止」看板が立っているので、そこに止まっていたオフロードバイクの方に、「下から上がって来たのですか?」と訊きました。そうではなかったですが、「下から車が上がってきていたので、行けるんじゃないですか?」とのこと。ダメで元々と、林道を下ります。
標高740m、沢に下りました。川沿いに走り、14:24「天分神社」。川に架かる橋を渡ったところに神社がありました。森の大木に囲まれた社殿で雰囲気がありました。
バイクに戻り、先に進みます。14:35「弓手川林道」に合流しました、740m。右折すれば、再び「R371・高野龍神スカイライン」に上がれますが、道路中央に「崩土のため終日通行止め」の看板が置かれています。バイクを止めじっくり考え、「バイクなら大丈夫かも?」とGO! 崩土場所を通過し、14:47高野龍神スカイラインへ登る林道との分岐に着きました。道路中央に、反対側向け通行止め看板が立っていました。楽々通過できました。林道を登り、14:51「R371・高野龍神スカイライン・箕峠」。
スカイラインを高野山に向け、気持ち良く下ります。カーブを曲がると、バイクが数台止まっており、あれれ?と思ったら、レッカー車に壊れたバイクが1台載せられていました。高速バイクのメッカの道だから、事故っちゃったようです。救急車がいないので、怪我はしなかったのかな〜。
片側通行信号でバイク4台に追いつき、ここから5台連なってグループツーリングのようになりました。R480との分岐を通過し、「高野山」に突き当たりました。駐車場には多くの車が停まっており、観光客も多い。r53で西に走り、15:25「エネオス河内屋石油高野山SS」で給油。217km/7.25L=29.9km/L。
r53を東進し、「奥の院」からR371で北に下ります。標高800mから紀ノ川80mま
一気に標高を下げます。狭いので、高野山の西を「紀ノ川」まで下るR370より交通量が少ないから、カーブばかりだけど気持ち良く走れます。r102の分岐(標高200m)を通過し、更に標高80mまで下り、南海高野線を渡り、紀ノ川に突き当たり、右折してR370。紀ノ川を渡り、左折してR24を西進します。右折してR371。「紀見峠トンネル」を抜け大阪府に入り、R170〜R309〜近畿道で、17:57帰宅しました。


2020/10/24
久しぶりのバイクです。ここ数週間の週末は、母校ヨット部の観覧船のドライバーをやったり、コーチしている大学ヨット部のマネージャー達とインカレ団体戦地区予選やクルージングで、5週間船活動ばかりしていました。
8:56、「里山VTR250」に乗って出発しました。r13で北上開始。9:07「エネジェット伊丹産業セルフ川西SS」で給油。275km/11.68L=23.5km/L。池田からR173〜R477で北上し、篠山盆地に入りR372〜r452〜r453〜r54で、10:16「熊野神社」に到着。でも何処にあるのかわかりません。「黒田古墳」という案内板があり探しましたが、これもわからない。帰宅後ネット検索したら、近くにあった会社の隣にあったようです。木々は伐られ、綺麗な芝生に覆われた前方後円墳でした。手入れされすぎていて、古墳と気づきませんでした。こんなに綺麗にしてしまったら、風雨で削られ後世に伝えられずに跡形なくなりそう。
枝道を少し走り、10:28「黒田城址」への登城口。獣避けフェンスが山側を囲っており、山を見上げると比高50〜100m。フェンスのゲートがあり、登れそう。電気柵を外し、フェンスを開閉し森に入ります。山道を登り始めるとすぐ、椎茸栽培が並んでいました。「城址」案内板があり安心して進みます。
ところがです。生あくびが出てきて、「こりゃあかん」。厚着をし過ぎたようで熱中症気味です。ちょうど道から外れたところに森の切れ目があり、そこに退避して倒木に腰掛け服を脱ぎます。ダイワフィッシング上下・夏用メッシュバイクジャケットパンツを脱ぎ、その下に来ていたズボンとトレーナーを脱ぎます。「あ〜楽になった〜」、生あくびも終わり、お茶を飲んで、目を瞑って大の字に寝転がりました。体調が戻ったので、主郭を目指すか退却するか考えて目を開けました。目の前に青い空が拡がっています。それは気持ちが良いのですが、猛禽類が1羽舞っています。更に2羽、続いてカラスが更に低空を数羽・・・こりゃやばい。僕から死臭が漂ったのか、いつでもつつけるような体制のようです。「鳥葬」という言葉が頭をよぎりました。すごすごと退散しました。
バイクに跨ると、庭にいた横の家の奥さんから、「登って来られたのですか?」「はい、中世の山城好きなもので」・・・たまに、僕のような物好きが来られるようです。
r54に戻り、道なりにR477。R9を渡り、r19に乗り、11:16「セブンイレブン園部内林町店」に寄り、「フルーツオーレ500ml93円+たっぷりクリームパン100円+モリカシマウマウマウマバー130円+袋3円=351円」を購入し、Pでシマウマウマウマバーで糖分補給しました。
枝道に入り、JR山陰本線を渡り、京都縦貫道をくぐり、11:32「一原神社」。社の裏山の林道に入り山越えするつもりでしたが、途中で舗装路が終わり撤退。「一原神社」前を通り、11:51「朝倉神社」。一面苔に覆われた参道が迎えてくれた。高い鎮守の高木が左右を覆います。木造鳥居に架かる扁額には、朝倉大明神と書かれていた。本殿の裏に一際高い巨杉が目立ちます。
『朝倉神社の大杉 京都府南丹市園部町千妻岡崎7番地 樹高30m・幹まわり9mこの大杉は朝倉神社の神木として、古くから地域の人々に親しまれ保護され、その間いく度かの落雷災害にも耐え今日に至りました。神社拝殿に掲げられた天保10年(1839)の「奉買請御帳木之事」という買請証文の内容から、千妻村の人々が山方奉行からこの杉を神社の神木として10両2分で買い取ったことや、またその当時この杉は幹周りが1丈5尺2寸(約4.6m)であったことがわかります。府下にもこうした神木は多いがそのうちでも最大といえる巨木であり、天保10年から140年余の期間に幹周りが約4.4m増大し太さとしてはほぼ2倍に成長したことがわかる貴重な樹木です。
昭和58年京都府指定文化財(天然記念物)として指定されました。
昭和59年3月 京都府教育委員会 南丹市教育委員会』
r19〜r25で、12:07「春日神社」。『春日神社本殿(重要文化財) 平安時代初期の大同2年(807)蟠根寺(ばんこんじ)の守護神として春日大明神が建立され、仁平2年(1152)平清盛の進言により、桐の庄18ヵ村の総社として再建したと伝える。現在の社殿は、形式などから室町時代初期の建立と考えられる。
建物の内部は2室に区切られており、内陣前面中央間の板扉内面には、束帯姿の随身像が描かれている。本殿の柱は丸柱で、向拝柱は角柱である。この向拝柱の面取りが大きく取ってあるのが時代的な特徴で、そのほか墓股の彫刻や繋(つなぎ)虹梁、鬼瓦等がよく時代の特徴を表している。
祭神:天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比売神 形式:一間社流造・檜皮葺・瓦棟鬼瓦付 指定:重要文化財・大正10年(1921)
本殿の構造 社殿は、一間社流造で間口は一間で、切妻平入りである。軒は二重の本繁垂木(ほんしげたるき)で、柱の組物は三ッ斗組(みつどぐみ)である。正面の組物の間には優美な笹竜胆(ささりんどう)の彫刻を施した墓股を装備している。その他、側面等の組物の間には、蓑のような絵様を付けた蓑束を配している。軸部は円柱で、地長押(じなげし)・切目長押(きれめなげし)・内法長押(うちのりなげし)を廻し、向拝(庇)は一間、組物は三ッ斗組、組物の間には墓股を配す。柱は角柱で大面取(おおめんどり)を行い、繋虹梁を付け、正面は頭貫(かしらぬき)・浜床を付す。身舎(しんしゃ)正面は、3枚引格子戸、他三方は嵌板(はめいた)である。縁を三方に廻し、脇障子・組高欄(くみこうらん)を付け、正面木階7級・宝珠付登高欄(のごりこうらん)を付ける。内部を内陣・外陣に区画し、内陣前面中央間には幣軸付両開板扉を建て込み、この扉内部には束帯姿の随身像を描く。両脇間は嵌板張(はめいたばり)で長押上三方に小脇付横連子を装備し、内陣の天井は、猿頬天井(さるぼうてんじょう)、外陣は格天井(ごうてんじょう)で、床は拭板敷(ぬぐいいたじき)である。妻飾は、三ッ斗組・虹梁下蓑束(こうりょうしたみのづか)、上は叉首組(さすぐみ)・大斗拳鼻付(だいとこぶしばなつき)、破風に猪目懸魚・桁隠(けたかくし)を付ける。外部は、総丹塗(たんぬり)、彫刻は随所極彩色を施し、長押釘隠(ながしくぎかくし)・扉定規縁四葉藁座(とびらじょうぎふちよんようわらざ)・懸魚六葉は全て鉄製のものを飾る』
『神社の建物について 神社建築の基本的な分類に「妻入り」と「平入り」がある。妻入りの代表的な形式としては、「大社造」や「住吉造」があり、平入りの代表としてぱ「神明造」があげられる。高屋の春日神社のような「流造」は、神明造から発展した形式で、仏教建築の影響を受け、屋根が反り、正面の屋根を流れるように前面に延ばして庇としたもので、全国一数が多い』
境内に入ると、朱色の美しい本殿が迎えてくれました。神殿の後ろには高い避雷針が立ち、地域の崇敬の熱さを感じます。
少し走り、大堰川の北側に出て、12:37「玉泉寺」&「春日神社」。建物は山の中のようで道から見えませんでした。バイクを置いて、細い沢道を上がっていきます。朽ちたコンクリート細道が右に上がっているのでそちらに入ります。ステンレス製の手すりが外れて倒れています。廃屋があり、目指す寺社建物ではありませんでした。そこから更に上の郭に建物が木々の間から見えるので、直登で斜面を上がりました。小さなトイレ棟があり、寂れた神社と寺院が建っていました。小さな建物で、住職も神官もいないようで、やがて朽ちそう。神仏習合の時代からあるようで、トイレ〜玉泉寺〜春日神社という並びで、奥から郭に上がったようです。その向こうに鳥居があり、こちらに正面道がありました。こちらから帰ります。上がってきた沢道でした。下から軽四トラックが上がって来て、「何か御用ですか?」と車内から聞かれました。「寺社巡りが好きなもので、お参りです」。すれ違って登って行った軽四がUターンして僕を追い抜いて下って行きました。不審なバイクが入っていったので、地元の方が確認に来たのかな?と思いました。仏像盗難とかいろいろ怪しい事件があるからな〜。
r25に戻り、12:53「大神神社」。R9に出て、JR山陰本線に沿って南下し、右折し枝道に逸れて、13:18「春日神社」。『指定書 春日神社本殿1棟・一間社流造・こけら葺 右を京都府指定有形文化財(建造物)に指定します 平成18年3月17日 京都府教育委員会』
道を戻り、r455からR9で南下し、右折してr452で帰路に着きます。13:48小さな祠の横に山に上がっていく階段を見つけ寄り道しましょう。階段を上りだすと、イガ栗がたくさん落ちており、更に登っていくと「慰霊碑」がひっそりと立っていました。階段を下り、小さな祠にお参りします。祠の中に、沢山の石仏が入っていました。近隣の山中や路端に置かれ、長い間信仰されていたのでしょう。
ここからr452は細い峠道になります。峠を越えて下り、r73に合流し丹波篠山方面に進みます。R372〜R477〜R173軽油で、14:58帰宅。


2020/10/18
AMは、家内がZoom勉強会で、PMは誕生日プレゼントを買いに行くとのこと。27日は長男のお嫁さん、30日は次男とこの長男のバースデーです。天気が良いのでベイクツーリングも考えましたが、西宮ガーデンズに買い物に行くとのことで一緒に行くことにしました。
5時に仕事場に行き、あれやこれややって7時に帰宅。朝食を食べ、あれやこれや。家内はZoom勉強のために10時前にアレコレし始めましたが、「お父さん、出来ない」と泣きついてきました。前回は仕事場PCでやったけど、今回はスマホで勉強するとのこと。
すぐにスマホに届いたメールや資料などをチェックすると、資料はPDFでPCでないと開かない。PCをチェックすると会社から同じメールがPCには届いておらず、それでスマホで参加しようと思ったそうです。こりゃだめだと、家内のPCメールソフトで、スマホメールも受信できるように設定し受信。それでPDFを開いて資料をゲットし、ZoomもPCで開いて家内にはいどうぞ。
12時まで勉強会なので、僕は自分のPCでamazon.Primeビデオで、「ミッションインポシブルシリーズ」を観ました。「おはようアレックスくん」で始まる人気アメリカTVドラマの映画化版です。主役のトム・クルーズがかっこよく、007シリーズに似た面白さがあります。
12時になり、「通勤リード110」にタンデムし西宮に向かいます。「お腹が空いた〜、早く食べれるのがいい」ということで、ロードサイドにある「なか卯」に寄りました。僕は「親子丼セット」家内は「親子丼」を注文し、1090円。安いな〜。
R171を西に走り、「西宮ガーデンズ」でプレゼントを探します。長男のお嫁さん用にエプロンを、「アフタヌーンティー」というお店で家内が選びました。隣に同じ店名のカフェがあり、そちらの無料券を頂いたけど、お客さんが入店待ちで並んでいたのでパス。
続いて隣の阪急百貨店へ。去年の夏休み、長男一家と次男一家が同時に帰省する時、孫たち4人にヘリーハンセンのラッシュガードをプレゼントしたのですが、その時購入したお店に行きたいとのことで、2人で「こっちかな?」と探してたどり着きました。次男の長男おーちゃんへのプレゼントを探します。1才の誕生日なのでまだ身体が小さすぎて、ヘリハンにはサイズがありませんでした。同じお店に並んでいたノースフェイスのニットジャンパーを家内が選び購入。
「ファミリア」「ミキハウス」「DIESEL」など子供服ブランドのお店が並んでおり、チビなのにかっこいい。バレエの発表会帰りを思わせる白いドレス&髪を結んだ小学校低学年を思わせる美少女があれこれ選んでいます。お母さんとお父さんは弟くんの子供服を選んでおり、家内は「すみれちゃんも・・・」なんて想像していました。女の子が欲しかった家内のしたかったことかな?残念ながら男の子2人だったので、アウトドアになっちゃいました。息子のピアノの発表会を観に行ったことはあったけど・・・。
バイクで帰宅し、アマゾンプライム「かぞくいろ -RAILWAYS わたしたちの出発-」を2人で観ました。久しぶりに家内の涙を見ました。


2020/10/11
コーチしている大学ヨット部のマネージャークルージングの日です。先週に続き、2回目です。前回は、4・3・2回生女子マネ4人の参加でしたが、この日の参加は2回生1人・1回生3人です。家内も参加することになりました。家内も参加するので、車で向かいます。
10時南海浜寺公園駅集合ですが、7:30過ぎに家を出ました。r13を南下し、「中島IC」から阪神高速・湾岸線に乗ります。海遊館・USJの上空を通過し、「出島IC」で下車して、時間があるので「仁徳天皇陵」を家内と一緒に参ります。天皇陵正面に無料Pがあるのですが、土日は利用禁止のようで、隣接する「大仙公園」P有料に入れないとダメみたい。交通量も少ないので、1分だからと路駐してお参りしました。
「浜寺公園」に行き、トイレを拝借します。「浜寺公園駅」に着きましたが、10時にはまだ30分あります。旧駅がカフェになっており、おじさんが店開きをしています。
『浜寺のまちについて このあたりは万葉の頃から高師浜と呼ばれた景勝地でした。14世紀に後村上天皇の命を受けた三光国師がこの地に大雄寺を建立しました。当時、吉野の日雄寺を山の寺、大雄寺を浜の寺と呼んだことから、そのあたりを浜寺と呼ぶようになりました。
明治6年に大久保利通が高師浜を訪れたときに、村人が松原を伐採しているのを見て、百人一首の中の「音にきく高師の浜のあだ波は掛けじゃ袖の濡れもこそすれ」を本歌取りして「おとにきく高師の浜のはま松も世のあだ波はのがれざりけリ」という歌を詠み古来の景勝の破壊を諌めました。恐れ入った堺県の県令税所篤は松原を修復して浜寺公園と名付けました。この公園は、その年に日本初の立公園の1つに指定されました。大阪から鉄道が延びて、公園には料亭や別荘が建ち、周辺にはお屋敷が増えて保養地になりました。明治39年に東洋一といわれた海水浴場が出来て、明治40年に鉄道の電化と複線化に合わせて新しい駅が建設されました。大正から昭和にかけて、駅の東側の住宅開発が進んで、昭和初期には、浜寺は関西随一の高級住宅地になりました。一度は住みたいまち、いつまでも住みたいまち、浜寺です』
『浜寺公園駅舎について 浜寺公園の駅舎は、明治40年に辰野片岡建築事務所の設計により竣工しました。日本最古の私鉄の駅であり、辰野金吾の設計した建築物として、また、その優雅なたたずまいが評価されて、国の登録有形文化財として認定されました。
外観は左右対称で、上層の寄棟屋根に配置された4つのドーマ窓、大小の切妻屋根と下層の庇屋根が建物の正面をバランス良く形作っています。壁面はハーフティンバー模様で、入口の柱は鹿鳴館を思わせるといわれています。また、屋根は元はスレート葺きで暖炉の上に煙突がありました。今は、トタン葺きの赤屋根が鮮やかです。
建物は北側の駅務室と南側の特等待合室で構成されており、特に南棟の内装は、暖炉とシャンデリアが格子窓のデザインと調和して華やかな室内を演出しています。中央のコンコースの奥が改札口で、その先にプラットフォームが拡がっていました』
駅舎は左右中央の3つに区分されており、左の元駅員室がカフェになっています。中央が浜寺公園(海)側にウォークインでイベントホールになっています。この日はイベントがないようで、カフェの延長席としてテーブルと椅子がならんでいます。右側はステーションギャラリーで、これまでのこの駅舎の歩みが写真や絵画で展示されています。
『登録有形文化財 南海電気鉄道株式会社 南海本線 浜寺公園駅駅舎明治40年に竣工した駅舎は、現存するわが国最古の私鉄の木造建築の駅である。
設計は辰野片岡建築事務所が担当している。現在は赤色のトタン葺き寄棟屋根が目を引くが、建設当時はスレート葺きで、中央部に装飾塔があり、傍らに2本の煙突があった。中央のファサードと左右棟に切妻屋根が正面を向き、その間の4個のドーマ窓と両翼に拡がる下層の庇がバランス良く配置されて建物の正面を引き立てている。
柱や梁、筋交いは青灰色に塗装されて、白壁を飾っている。この構造はハーフティンバー様式と言われているが、主構造材が内側に隠れていて、表面は柱や筋交い模様に別材で装飾されているので、19世紀後半の英国に見られるチューダー・リバイバル様式に近いと思われる。
正面の柱の形は鹿鳴館の2階のテラスの柱に似ているといわれている。この様な、屋根・壁面・柱などの設計手法には若き日の辰野金吾の英国留学の影響がうかがえる。また、同じ時期に辰野が設計した難波駅の重厚なデザインと見比べると、彼が抱いていた田園都市浜寺の将来への期待がこのデザインに込められていたように思われる。
共同設計者の片岡安は、大学の先輦辰野を大阪に迎えて辰野片岡建築事務所を設立し、義父片岡直温とその兄片岡直輝の政界、財界への彫響力を背景に南海鉄道の駅舎や中央公会堂の設計を受注している。当時、浜寺に住み地元の社交クラブ清風雅会などを通じてまちの文化形成にも寄与したことがうかがえる。
辰野金吾と並んで片岡安の功績もこの駅舎の歴史に刻み込まれている』
カフェの用意をしていたおじさんに、9:30になったので開店時間を聞くと10時とのことで、家内とお茶できませんでした。車の助手席にいた家内がギャラリーに入っていきました。10時前になり、1回生Mマネが駅から出てきました。10:05になり1回生男子マネH君が出てきました。この2人とは先月の琵琶湖のレース観戦でご一緒しました。同じ電車に乗っていたようで、2回生Moマネと1回生Kマネが出てきました。Kマネは2週間前に入部したばかりで、初対面です。はじめまして・・・。
ここで電話が入りました。船のオーナーNさんからでした。「ハーバーのゲートに着いたら電話してね。門を開けに行くから。11時から本船が入るから港から出れないから、それまでに出たいと思って」「全員揃い、今からハーバーに向かいます」。ハーバーゲート前に着くと、Nさんが門を開けて持っていました。ダイヤルキーになっています。桟橋まで歩き、Nさんの船へ。共同オーナーのKさんがおられました。家内が「いつもお世話になっています」と挨拶。
すぐに皆が船に乗り、オーナーさんの支持に従って、君と係留ロープを離します。家内と女子はコクピットで座っています。桟橋から離れると、すぐにスタンションゲートを閉め、2回生マネMさんも加わって、フェンダーを回収します。機走で港の出入口を目指します。11時には余裕で通過できます。自己紹介を提案し、僕から自己紹介を始めます。続いて家内。同じ大学の別の学部のNo1美人だったことなど、僕からも紹介します。続いてマネージャー達、そしてオーナーさん。お互いに名前が覚えられないので、Mさんに養生テープに名前を書いてくれるよう頼みます。僕の胸には、前日のKG観覧船で書いてもらった名前が書いてあります。
港の外に出ると、3m/sほどのSWの風が吹いています。早速メインセイルを上げます。Hくんにメインハリヤードを上げさせると、その重さに驚いています。Hくんは高校時代ヨット部で420級に乗ってレースに出ていたので、ヨットの基本はわかっています。視界が良く、明石海峡大橋が見えているので、それを目指します。少しずつ風が強まり、6ノットほどで西に進みます。「あれが西宮、あれが淡路島、そしてあれが友ヶ島海峡」と、皆にKさんが教えてくれました。コーラや珈琲・水が出てきて、Nさん特製「たまごサンドウィッチ」が出てきて、皆で「美味しい、美味しい」。スマホで皆の写真を撮り、ヨット部のLINEに流します。
この土日は、琵琶湖スナイプ選手権です。上位6艇が、全日本スナイプ選手権の出場権を得ます。西宮も琵琶湖もレースです。琵琶湖のレース展開は随時、ヨット部LINEで入ってきます。西宮の結果は、KGスポーツ速報でチェックします。前日のような強風レースではありませんが、相変わらずKGは強く、よく走っています。
1回生マネKさんが船酔いのようで、ドッグハウスに入って寝ています。もうひとりの女子マネMさんは先月の琵琶湖でのレース観戦同様、平気でステアリングを握っています。Hくんは流石に上手く、何もサポートが要りません。途中で、神戸空港連絡橋をくぐり、神戸港に入るコースに変更しましたが、神戸空港島まで来て、20mの高さに対し、このマストの余裕が1mないことがわかり、タック回りで帰路に着きました。Hくんのタックは上手でした。ここでKさんが起きてきて、再び酔わないようにステアリングを握らせます。これが意外に上手で、車の免許を既に持っているとのこと。お父さんは、コーチしてるヨット部のOBなので、勧誘されたのに縁を感じて入部したのだとか。実家は山口県なので学校の寮生です。来年は一人暮らしする予定だとか。Mさんは羽曳野の人で、学校まで2時間半もかかるのだとか。こちらも下宿したいそうです。新人女子マネ2人は、164cmと背が高くスリムで、モデル体型で家内は「綺麗な子達でお父さん嬉しいね」だって。14時をまわり、次のレースのスタートはなくなりました。結局母校KGは、2位にトリプルスコアの大差を付けて、両クラス優勝しました。Kさんはステアリングを握ったのが良かったのか、船酔いの再発はなく楽しく操船し、赤白灯台手前まで頑張りました。
ステアリングをオーナーNさんに代わり、オーナーKさん・Hくん・私で、係留ロープ・スタンションゲート・フェンダーを用意しました。シングルバースに船が入り、僕の舷の方が桟橋に近かったので、桟橋に飛び降りロープを結びます。すぐに反対側に走り、Hくんからロープをもらい仮固定します。次々に桟橋に置いたロープを船に渡し、船を固定して行きます。船から荷物を受け取り、家内を含め女子たちを船から下ろします。Hくんに、「手を持ってあげて、役得の位置やで」とHくんに女の子達の手を取らせます。
船の片付けが終わり、皆で帰路に着きます。Nさんが「京都まで送るよ」とのことで、うちの車にMさんだけを乗せ、駅まで送りました。帰路に着きます。16:15「ローソン浜寺公園店」でトイレを拝借。家内は船でもトイレを借りませんでした。「ミニ歌舞伎揚108円」を購入し、阪神高速湾岸線〜r13で1時間弱で帰宅しました。ああ面白かった〜。


2020/10/10
先週末に続き、母校ヨット部はレースです。先週はインカレ個人戦地区予選でしたが、今週末はインカレ団体戦予選です。先月末、僕がコーチしてるヨット部は、予選で2クラスの内1クラスが予選落ちしてしまったけど、母校は是非ともインカレに両クラス出場する切符を手に入れて欲しい。
土日のレースで、土曜日は僕が母校観覧船のドライバーをします。通勤リード110で出発。8:20、近所のセブンで「緑ヶ丘助六寿司398円+フルーツオーレ500ml93円」を購入して ハーバーに向かいます。家を出る時は小雨が降っていましたが、雨は止みました。
8:40ハーバーで出艇申告して係留桟橋へ。エンジンは一発点火。トイレ掃除をし、窓を開け空気を通します。スマホをチェックしたら、KGヨット部マネボスのFさんからメールが届いていました。なんと昨夜のもの。台風の為、470D旗9:45予定が10:45に延期になったそうです。台風は離れていくので、午後に向け風速が落ちていく予報だから、少しレーススタートを遅らせたのでしょう。でももう風は落ちており、9:45でいいのに・・・と思う。例年なら3日間のレースなのに、コロナ禍の為2日間に短縮しているので、少しでも多くレースを消化したいのに・・・。
エンジンが暖まったのでエンジンを止め、母校艇庫のあるディンギーヤードに向かいました。母校艇庫前で、マネリーダーFさんとタイムスケジュールを確認し、隣の艇庫前におられたO大ヨット部OB会長Hさんとお話しました。昨年、O大ヨット部GMのKさんと共にした「鳴門海峡・沼島クルージング」で、淡路島福良港にて共に1泊しました。その時Hさんは、牛窓から自艇で来られました。
10:30になり、470D旗が揚がりレース艇が出艇して行きます。スナイプ級がレース海面に向かうのを待って、共に乗艇する学生6人と共に係留艇に向かいます。すぐに桟橋を離れ、レース海面に向かいます。良い北寄りの風が吹いており、ハーバーから出てすぐジェノアをフルセイルにしてスタートラインに向かいました。学生たちは、クルーザーでのセイリングが初めてのようで喜んでいます。付いているセイルは学生が乗っているディンギーと同じですが、サイズが違いパワーが違い、人力では引けないシートの重さに驚いています。
ベース風速が8m/sでブロー13m/sの強風レースになりました。1週間前の個人戦予選同様、2海面に別れてそれぞれのクラスの第1レースがスタート。S級のスタートを見て上マークに向かいますが、エンジンを回してもスピードが出ません。風に押し戻されます。加えてコクピット上に張られているサンブレラが風に煽られ抵抗になっています。サンブレラを畳むことにしました。サンブレラを撤去すると船は安定し、スピードが出てきました。それでも遅いので、上マーク付近で観戦することにしました。
風上マーク付近に到着し、2回生マネさんにステアリングを交代し、船を任せます。持ってきた双眼鏡を1回生に渡し、レース展開や回航順位を確認します。レースのことを話したり、レース展開に興奮したり楽しく応援観戦出来ました。「KGスポーツ」という大学スポーツ専門新聞のカメラマン女史が来ており、彼女に良いシーンを撮らせるため船の位置を指示したり、「レース艇がこう来るから」とシャターチャンスを教えたり・・・。
少しずつ風は落ちてきましたが、ベースの8m/sは変わりません。六甲山に雨雲が掛かってきました。風向からあの雨雲は来そうにありませんが、池田の山にも雨雲が現れ、「雨降ってくるよ」と皆にカッパを勧めます。1回生男子の1人が上1枚だけで寒そうだったので、僕が持ってきたカッパ予備を渡し着せます。予想通り雨雲がやってきました。小雨程度ですが、再び10m/sオーバーのブローが入って来るようになりました。ここで、KGインフレータブルボートがやってきて、女子のトイレタイムになりました。途中で本部船にAP/H旗が揚がり、レース延期/ハーバーバックの指示が出来ました。観覧船もハーバーに戻します。
レースの方は強風ゆえ、しっかり走れる船とそうでない船との差は大きく、鍛えられている母校KGが圧倒しています。他校は沈艇が出ていたり、トラブルでコーチボートに曳航されてハーバーに戻る艇が多数います。もともと、強風ゆえハーバーから出て来ない学校やレース艇もいます。両クラス2レース終了時点で、470は3艇合計得点で13点でした。1位1点・2位2点・3位3点で1レース最低得点は6点ですので、1・2・3位と1・2・4位フィニッシュでした。女子スキッパーも1艇いるのに、この強風で遜色なく走っています。
フェンダーやロープの準備を学生に指示し、ハーバー入口前でドライブを交代します。桟橋に戻ると、Hさんがおられました。明日はHさんがS先輩と共に観覧船ドライブをするので、水などを持ってきたようです。すぐに雨が上がり風も落ちてきました。すぐ再出艇しないと・・・とホーンが聞こえて来るのを待ちますが、なかなかです。隣に係留したKG系列校・啓明学院から借りたボートにに乗っていた部員も加え、おしゃべりタイム。
日没までの時間があるので、レース委員会はAP/A旗を揚げて、本日のレースは終了になりました。明日のレースに供え、学生たちに指示し、サンブレラをもう一度展開し解散しました。僕は、ドッグハウス内でカーテンなどをしてHさんと船を後にしました。ディンギーヤードでトイレを済ませ、帰宅しました。


2020/10/4
コーチしている大学ヨット部の女子マネージャーをゲストにクルージングです。僕もゲストですが・・・。先月淡路島一周&小鳴門海峡クルージングで乗せてもらった古くからのヨット知り合いの船に乗せてもらいます。9:30「浜寺公園駅」集合ですが、いつものように早く起きたので、堺と言えば古墳なので、古墳めぐりをしましょう。
4時にバイクを用意しだし、4:30出発。r13を南下し、R43を越え、r57で更に南下し、「中島IC」から阪神高速湾岸線に乗りました。
「三宝IC」で下車し、5:20「方違神社」。まだ暗くて全容はイマイチ掴めませんが、立派な神社でした。さすが堺の神社です。
『崇神天皇5年に疫病が大流行し、多くの民が死亡しました。天皇は同8年12月(紀元前90年)勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟の石津原に遣わせ須佐之男神を祀らせ給うたところ、疫病は途絶え五穀は豊穣となったといい、これが方違神社創祀の起源とされています。
創祀より時を経て、神功皇后は朝鮮半島に出兵し新羅・高句麗・百濟を平定しました。皇后は凱旋の途中で忍熊王の叛乱に遭いますが、三筒男神の御神教により当地に天神地祇を祀り、神武天皇ご斎祷の故事に倣い御自ら八十平瓮を作り菰の葉に埴土を包み粽として奉り、方災除けを祈願して皇軍を勝利に導かれました。後に応神天皇は此の地に須佐之男神・三筒男神・神功皇后を合せ祀り、方違大依羅神社(かたたがへおおよさみのかむつやしろ)と尊び奉られました。
明治6年3月郷社に列し、明治40年2月水天宮社を合祀、同年10月向井神社並びに境内社(愛宕神社・神明社・小祠四社)を合祀して方違天王神社と改称しましたが、同年11月方違神社に復号し、明治41年12月に八幡社及び武内社が合祀されました。
明治元年には東京遷都の折に17日間の祈祷の命を蒙り、昭和20年の第二次世界大戦により社殿を焼失するも昭和23年に再建、平成22年には創建2100年を迎え平成29年に社殿の造替を始め大規模な境内整備がなされ現在に至ります』
『当神社奉斎地は「三国山こずえに住まふむささびの鳥まつがごとわれ待ち痩せむ」と『万葉集』にも歌われているごとく、摂津、河内、和泉の三国の境界なるが故に、“三国山”また“三国丘”とも称され、この三国の境(ちなみに“堺”の地名はこれに由来する)で何処の国にも属さない方位の無い清地であるという考え方に依り、その境内の御土と菰の葉にて作られた粽は悪い方位を祓うという信仰を以て、古きより方災除の神として御神徳を仰ぐ参詣者が全国より訪れます。奈良時代には行基が伏屋を設け人馬往来の要衝として栄え、平安時代には熊野詣の通過地点であったため熊野詣の人々が参詣し旅の安全を祈ったといいます。以後、方災除けの神として朝廷武家をはじめ崇敬篤く、関連文献には、仁徳天皇・孝徳天皇・空海・平清盛・後鳥羽天皇・徳川家康などの名前が見えます古来より方災除の神として知られ、普請、転宅、旅行等には御神札、御砂、粽を受け、方除の祈祷を望む人が多く、また、住居においても家相上理想的な建築は容易ではなく、知らず知らずの間に、又知りながらも方位を犯して新築、改造、転宅、旅行等を行う時、方除けの守護神として方位、地相、家相、日柄、厄年等に由来するすべての災難を取り除き、幸をもたらすという御神徳を以て広く厚く尊崇されています』
5:41「ファミリーマート京屋御陵通店」で、「バラエティーおかずおむすび368円+レジ袋3円=371円」購入。船で食べましょう。
5:47「大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)」。『仁徳天皇陵古墳(仁徳天皇百舌鳥耳原中陵・もずみみはらのみささぎ)
仁徳天皇陵古墳は、わが国最大の前方後円墳です。第16代仁徳天皇の陵に定められ、宮内庁により「仁徳天皇百舌鳥耳原中陵」として管理されています。
全長486m・後円部の直径249m・前方部の幅307m・周濠を含めた南北の長さ840m・東西の長さ654m・周囲の距離2718m・面積464124平方メートルで、その大きなことから「大仙陵」とも呼ばれています。
3段に築かれた墳丘はくびれ部の両側に造り出しを備え、墳丘の周囲には3重の周濠が巡ります。さらにその外側には、多くの陪冢(ばいちょう・ばいづか:大型前方後円墳の周囲に造られた小古墳)が造られました。ある試算によれば、仁徳天皇陵古墳を造るには1日最大2000人が従事して15年8か月の年月が必要で、延べ680万人もの人々が従事したとされており、莫大な労力が費やされたことがわかります。明治5年(1872)9月、前方部正面の第2段目斜面で竪穴式石室が発見されました。石室には長持形石棺という石製の棺が納められ、金銅製の甲冑・刀・ガラス製の容器などの副葬品が見つかりましたが、もとの通り埋め戻したとされています。これらのうち石棺と甲冑を精密に写した絵図が伝えられており、その内容を具体的に知ることができます。
墳丘や堤には、3万本近い埴輪が立て並べられていました。円筒埴輪のほか女性埴輪や馬形埴輪、水鳥形埴輪などが出土していますが、それらの製作年代より5世紀中頃に古墳が完成したと考えられています。「日本書紀」によると、仁徳天皇67年の10月5日に、仁徳天皇がこの地に行幸して陵地を定められ、同月18日から工事が始まりました。この時、鹿が野原から走り出て来て、工事に従事している人やの中で倒れました。人々が調べてみると、鹿の耳から百舌鳥が飛び去り、耳の中が喰いさかれていたので、この場所を「百舌鳥耳原」と名づけたと記されています。
仁徳天皇は、それから20年後の仁徳天皇87年正月16日になくなり、同年10月7日に百舌鳥野陵に葬られました。(「古事記」には、「御陵は毛受耳原(もずのみみはら)にあり」と記されています。)』
2重の水濠に囲まれていました。多くの天皇の古墳は2重3重の水濠に囲まれていたことは知られていますが、市街地開発などで外堀は埋められ1重の堀で残っているのが一般的です。さすが世界一の古墳、仁徳天皇陵は2重水堀で残されています。陵正面から水濠を越えた所にある仁徳天皇陵を見るが、あまりの大きさゆえ、陵のどの部分が見えているのかわかりません。鬱蒼とした自然林に覆われ、こういうのをずっと遺している日本人の先人に敬意を感じます。お参りを終えバイクに戻ろうとしたら、高層の建物が見えます。確か堺市役所の展望台だったような。最上階の展望台に上がれば、世界遺産百舌鳥古墳群が上空から見下ろせるはずです。「無料・年中無休・9〜21時・P有り」なので、いつか登ってみたいと思っています。
5:57「百舌鳥八幡神社」。こちらもでかくて立派です。戦国時代でさえ、環濠都市として戦国大名とは独立して歩んだ都市だけあって、豪快豪放な世界を股にかけた商人がわんさかいます。それらの富の寄付によって維持管理された神社だけあって素晴らしい。ただ京都の寺社のような侘び寂びはあまり感じず、都市経営陣の合理性を感じます。
『百舌鳥八幡宮 御祭神は応神天皇で、神功皇后、仲哀天皇を配祀しています。社伝によれば、神功皇后が外征の帰途、この地において幾万代まで天下泰平を祈願されたことにより、当地を万代(もず)と称し、神社を創建してお祀りされたと伝えられています。平安時代末期には、当社が石清水八幡宮の別宮となっていました。南北朝時代には、深勝親王の参寵や大内義弘の寄進、江戸時代には堺奉行の参向など、古くより公武の崇敬がありました。現在も、厄除開運として多くの参拝客が訪れます。現在の社殿は、本殿が享保11年(1726)、拝殿が文政13年(1830)の建立で、昭和46年に修復されました。社前の大楠は樹齢約800年で、大阪府の天然記念物に指定されています。中秋の名月の頃に、大小17基のふとん太鼓が繰り出す勇壮な月見祭が有名です』
『招魂社 さきの戦争で戦死された氏子出身の方々の英霊をお祀りしています』
が、境内に摂社としてありました。絵馬殿には、ご近所さんが数人、「おはよう」と集まってお喋りされていました。
『大阪府指定・天然記念物 百舌鳥八幡宮のくす 昭和45年2月20日指定 胸高径:1.8m・ 幹周:5.2m 樹高:25m 樹齢:7〜800年
くすの木は暖かい地方に多い常緑樹で、独特の芳香を生じ、しばしば大木に育つこともあって、市内の社寺や旧家の庭には、多くのくすの大木があります。なかでもこのくすは、枝張り・葉付きともにすばらしく、屈指の樹勢を誇っています。空を覆うばかりに四方に伸びた幹枝やそれを大地でしっかり支える根は生命力にあふれ、歴史の移り変わりを年輪に刻みながら育つ。その姿は、人々の信仰をあつめています。 平成3年3月 大阪府教育委員会 堺市教育委員会』
r197〜r28で、6:13「ニサンザイ古墳」。『5世紀後半 2016年4月11日指定 前方後円墳 ニサンザイ古墳周濠 墳丘長300.3m・後円部径168.6m・後円部高26.9m・前方部幅246.4m・前方部高27.9m
ニサンザイ古墳は、百舌鳥古墳群の南東端に造られた墳丘長が日本第7位の前方後円墳です。百舌鳥古墳群では第3位の規模です。墳丘は3段に築かれ、築造当時の姿をよく保っています。前方部の幅が大きく広がり、後円部より前方部が高くなる墳丘は、前方部が発達した新しい傾向を示しています。北側の造り出しが良好に残っていますが、南側にも設けられていたようです。築造時に巡っていた外濠は現在は埋没しています』
百舌鳥古墳群第3位の大きな古墳なのに、埋葬者が誰だったかわからないそうで世紀の謎として考古学者が研究しているのでしょう。学術的には古墳の発掘を願っているでしょうが、現代にも続く世界有数の有名家系の先祖のお墓ゆえ許されません。昨年、仁徳天皇陵の外堀と内堀の間の一部の発掘が許可されましたが、埴輪など貴重な実像が発見されました。後世に謎が続くのが、また素晴らしい。
r28〜r34で、6:31「履中天皇陵古墳」。『5世紀前半 前方後円墳 墳丘長365m・後円部径205m・後円部高27.6m・前方部幅235m・前方部高25.3m
履中天皇陵古墳はミサンザイ古墳とも呼ばれ、仁徳天皇陵古墳、応神天皇陵古墳(羽曳野市)に次いで墳丘長が日本第3位の規模を誇る前方後円墳です。台地の端に海岸線と平行するように築かれ、古墳が海からよく見えるように築かれたと考えられています。墳丘は3段に築かれ、築造当時の姿をよく保っています。墳丘周囲には幅の広い濠が巡り、さらにその外側には外濠が全周していたことが明らかになっています。
濠の周囲には、かつて10基前後の古墳があり、現在も寺山南山古墳・七観音古墳・経堂古墳の3基が残っています』
r28で、6:56「大鳥神社」。『大鳥大社 由緒 祭神:大和武尊・大鳥連祖神 例祭:8月13日 御増祀記念大祭:3月15日 当社はその起源古く古来大鳥大明神と称せられ、延喜式明神大社であり和泉国一宮である。
大和武尊は景行天皇の皇子にして勅を奉じ、熊襲並に東国を平定、帰途伊吹山の賊を平らげた時、病を得て伊勢国熊褒野に薨じ給うたが、御屍は白鳥と化し御陵を出て、大和国琴引原、次に河内国古市にとび、最後に此の地に留まり坐したので、社を創建。之が当社の起源と伝える。
又、大鳥の連祖神は、大中臣と元を一にし、祖先は天の岩戸開きに功を立てた天兒屋根命である。
聖武天皇の御世には、僧行基が勅願により神宮寺としてこの地に勧学院神鳳寺を建立したが、明治の神仏分離により廃寺となり、当社は明治4年3月官幣大社に列格。社殿は大鳥造と称して神社建築史上貴重な様式を今に伝えている』
『御神木 根(値)上がりの大楠 此の大楠は当社の御神木で、樹根が隆起していることから「根上がり」「値が上がる価値が上がる・運気が上がる」とされ、古より商売繁盛・財運向上の大楠と伝えられ、「根上がりさん」の呼称で親しまれている。樹根部分の穴に「楠神霊」を祀る』
『平治元年、平清盛・重盛親子が熊野参詣の途中、都にて兵乱あるとの急報を聞いて都に帰る途中、大鳥大社に参拝し、戦勝を祈願した。この時、「かひこぞよ、かへりはてなば飛びかけり、はぐくみたてよ、大鳥の神」。この和歌一首と神馬一頭を献じた。明治初年、大鳥神社大宮司・富岡鉄斎翁の筆により建てられた自然石の碑です』
「令和の御造営」がされており、鳥居も修理中のようです。さすが和泉国の一宮、立派な神社でした。拝殿には、「弊撰料下賜」の札が多数下がっていた。「初宮詣」「七五三詣」の写真を撮る場所が用意されていた。境内には神馬像の他に、大和武尊像もあった。
『御祭神は、日本武尊と大鳥連祖神の2柱であり、和泉国一の宮にあたる延喜式内社です。同じく式内社の大鳥北浜神社・大鳥美波比神社・大鳥井瀬神社・大鳥羽衣浜神社と併せて、大鳥五社明神と呼んでいます。
本殿は、神社建築史上、大社造につぐ古い様式で、大鳥造と呼ばれている切妻造の妻入り神社建築ですが、明治38年に焼失し、同42年に造営されたものです。神域は千種森といわれ、樹木が密生しています。白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったという伝説もあります。
平清盛・重盛父子も、平治元年(1159)熊野参詣の途中当社に参拝し、清盛は「かひこぞよ かへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神」と詠み、のちに、富岡鉄斎(当社大宮司)の筆による石碑が建てられました。境内には、与謝野晶子歌碑もあります』
r28〜r30〜r34〜R26で、7:31「石津神社」。国道に面した鳥居の左右に大楠の古木が立っていた。『天然記念物(大楠) 堺市指定保存木143号 平成5年3月1日 樹種:くすのき 樹齢:推定1000年 樹高:14m 樹回:6.21m』
『当社の起源は古く、延喜式内社です。主祭神は八重事代主命(戎神)・大己貴命(大国主神)・天穂日命で、末社に野見宿禰命・菅原道真公が祀られています。石津の地名は、戎神がこの地に降臨した際、五色の神石を携えてきたことに始まるとされています。
垂仁天皇(紀元前29〜70)の時。天穂日命14世の孫の野見宿禰命が神主と定められました。野見宿祢命は、相撲の起源とも伝わる当麻蹴速との力比べや、天皇の埋葬時に埴輪を置くことを考案した人物としても知られています。
明治42年(1909)には神石市之町の村社を合祀し、現在も、この地域の氏神として広く信仰されています。
江戸時代に刊行された名所案内記である「和泉名所図会」(寛政8年(1796)刊)には、境内のすぐ南側を石津川が流れ、その水を用いたこの地域の地場産業である「石津の晒し」が行われていた様子が描かれています』
境内社庫に、金色に輝く御輿が展示されていました。摂社に、野見宿禰神社と天満宮がありました。母方の先祖は「美作菅家党」なので、その祖は「菅原道真公」。更に先祖を辿ると「野見宿禰命」、更に遡ると「天穂日命」。この神社は、それらの先祖のロイヤルストレートフラッシュでした。「野見宿禰神社」は珍しく、初めて詣ったのかもしれません。
『堺市指定保存樹木 堺市指定保存木144号 平成5年3月1日 樹種:くすのき 樹齢:推定700年 樹高:13.5m 樹回:2.95m』
石津川沿いを走り、r206から、7:47「石津太神社」。『やっさいほっさい祭「御神木」 奉納のお願い 泉州の奇祭と称せられる。「やっさいほっさい祭」(12月14日斎行)は、108束の御神木が、お焚き上げされ、氏子宗敬者各位の1年の厄災を祓い、来る。新しい年の幸を祈願するお祭でございます。今般、御神木を皆様方に拳納して頂く事になりました。よろしく御協力の程、お願い致します。
尚、御神木には祈願文を添えて焚き上げますので、社務所に備え付けの祈願文にお名前をお書きの上ご奉納下さい。
ご神木:1本300円 受付場所:社務所 受付期間:1月1日〜12月10日 石津太神社』
『当社は延喜式内社で、社伝によると、孝昭天皇7年(紀元前469年)に創建され、蛭子命(ひるこのみこと・戎大神)・八重事代主命をはじめとする諸神が祀られています。孝徳天皇が白雉3年(653)、孝謙天皇も天平勝宝元年(749)に当社を参拝しました。
毎年12月14日に、当社で行なわれている火渡神事(やっさいほっさい)は、むかし蛭子命が石津川河口部北岸(現在の御旅所で石津太神社発祥之地)に流れ着いた時、漁師の人々が108束の薪を集め、火を焚いて暖めて迎えたという伝説によるものです。
北本殿・南本殿・拝殿・一の鳥居・二の鳥居は、江戸時代に建築され、堺市指定有形文化財となっています。特に、一の鳥居は、寛永19年(1642)の銘文が柱に刻まれている、市内で最も古い鳥居です』
境内に摂社「白蛇社」「磐山稲荷社」「八幡宮」がありました。石津川沿いを海に向かって走り、r204で南下します。「阪堺電気軌道」沿いの道です。待ち合わせの「南海電鉄・浜寺公園駅」を見て、8:05「浜寺公園」へ。朝ご飯を食べましょう。
『浜寺公園は、堺市と高石市にまたがる広域公園で、明治6年12月に開園した大阪で最も古い公園の1つです。万葉の昔から白砂青松の地として詠われているように、現在も5,000本を超える美しい松林を誇る公園で、「日本の名松100選」にも選ばれています。園内には、この地を訪れた大久保利通が、松林伐採を惜しんだ歌である「惜松碑」(せきしょうひ)が建っています。
近代には、海浜リゾート地として賑わい、園内には数軒の料亭が営まれていました。その料亭の1つであった「寿命館」では、明治33年(1900)に、堺生まれの与謝野晶子が与謝野鉄幹と親しくなった歌会が行なわれました。園内には、晶子歌碑があります。
園内には、大プール群・交通遊園・ばら庭園・サイクリングロード等があり、総合公園として、四季を通じて多くの方々に親しまれています』
r29〜r204〜r34〜r30〜r61で、9:01「御廟山古墳」。『御廟山古墳は百舌鳥古墳群のほぼ中央に位置する全長186m・前方部幅119m・高さ17m、後円部の直径95m・高さ17mの前方部を西に向けた前方後円墳です。墳丘は3段に築かれており、南側くびれ部には造り出しがあります。百舌鳥古墳群の中では4番目の大きさですが、埋葬主体部の構造や副葬品についではわかっていません。
周囲には周濠と堤がめぐっていますが、平成3年度の後円部外側の発掘調査で幅16m・深さ0.7mの外濠が見つかっています。
第15代応神天皇の御陵という伝説(「嘉永4年堺絵図」には応神帝廟とある)がありますが、本当の被葬者は明らかではありません。
カトンボ山古墳や万代山古墳など、陪冢(ばいちょう・大型古墳の周囲に近接する小型古墳)と考えられる古墳が発見されたようですが、現在残っているのは万代山古墳(日光教内)1基だけです。
本古墳は、墳丘の形態やカトンボ山古墳の年代などから、5世紀の中頃の築造と考えられます。現在は、墳丘部分は陵墓参考地として宮内庁が、周濠部分は溜池として地元が管理しています』
少し走って隣の古墳、9:05「いたすけ古墳」。『5世紀前半 1956年5月15日指定 前方後円墳 百舌鳥古墳群 古墳の規模:墳丘長146m・後円部径90m・後円部高12.2m・前方部幅99m・前方部高11.4m
いたすけ古墳は百舌鳥古墳群のほぼ中央にあり、かつて周囲には多くの古墳がありました。墳丘は3段に築かれ、南側のくびれ部には造り出しがあります。前方部は幅が広く、長さが短い特徴的な形をしています。
1955年、宅地造成計画によって破壊の危機に直面しましたが、市民を中心とした保存運動によって国史跡に指定されました。南側の濠の中に残る橋げたは宅地造成のために架けられた橋の名残です。後円部から見つかった衝角付冑型埴輪(市指定有形文化財)は堺市の文化財保護のシンボルマークとなっています。
後円部の南東側には、いたすけ古墳と関わりのある古墳(陪家)と考えられる善右衛門山古墳があります。 陪家(ばいちょう):大型古墳の周囲に築かれた中小の古墳』
r34〜r204で、9:23「南海浜寺公園」。これから乗る船のオーナーNさんの車が駅前にいました。「おはようございます」。話しながら学生たちを待ちます。次の電車で、マネさん4人が出てきました。Nさんにマネさんたちを軽く紹介し、「お願いします」。僕はバイクでマネさんたちはNさんの車に載せて頂き、船へ。もうひとりのオーナーKさんがおられ、軽く挨拶してすぐに出艇しました。このヨットハーバーは、大きな工業港の奥にあり、本船が頻繁に港を出入りします。入口が狭いので、本船出入港の間はプレジャーボートの出入りは出来ません。出入り禁止の時間が迫っているので、慌てて出港します。
落ち着いて、僕がチェアマンになって自己紹介します。4回生マネ2人と2回生マネ2人です。「何処に行こうか?」で、関西空港方面に行くことになりました。関空を目的地にしたのは、この船で9月中旬に「小鳴門海峡クルージング」した最終日、帆船「海王丸」に遭遇しましたが、その海王丸が関空方向に見えたからです。
Kさんがマネさんたちにステアリングを任せてくれ、海王丸を目指します。10:50「海王丸」横を通過します。そのまま関西空港連絡橋の中心部を目指します。旅客機が着陸して行きます。南からの風なので、北から風に向かって着陸していきます。11:58、連絡橋の下をくぐります。そのまま、関空島の北まで走り、ここでセイルを上げフルセイルで島の北側を西に向かい、島の西側を北に下っていきます。風が落ちてしまいジェノアセイルを下ろし、15:04「海王丸」を一周して機帆走で港に戻りました。
船を片付けます。マネさん達はNさんが駅まで送ってくれました。帰ってきたNさん含め船の片付けを終え、船を後にしました。ああ楽しかった〜。妙齢の4人の彼女たちを迎え、オーナー2人も喜んでいました。三方良しです。


2020/10/3
「関西インカレ個人戦」の母校ヨット部応援に行きます。470・スナイプ両クラス、上位各6艇が「全日本インカレ個人戦」に出場する切符を得ます。この土日、2日間がレース日です。他の水域は、このレースも団体戦も9月にレースを終えていますが、関西は甲南大学が学校からのクラブ禁止期間が長かったので、他校は甲南のクラブ活動再開に合わせて待ったようです。
甲子園高校野球もインターハイもコロナ禍で中止になりましたが、インフルエンザの患者が毎年1000万人・病院に行かないので患者数にカウントされない方が1000万人・死者3500人+肺炎10000人に対して、新型コロナ感染者20000人・死者1000人(他疾患が主原因でも、PCR陽性ならコロナ死にカウント)をどう見るかです。
2018年の日本人の死因1位は癌37万3547人(1日1023人)・2位心疾患20万8210人(1日570人)・3位老衰10万9606人(1日300人)・4位脳血管疾患10万8165人(1日296人)。
他を見ると、交通事故死者3532人・インフルエンザ3323人・肺炎94654人・餅の窒息死1300人・自殺20840人。
2020.7.9の新型コロナの国内感染の状況は、陽性者数1936人(人口10万人当たり1.61人)・重篤者数31人(0.03人)・死亡者981人(0.82人)。29才以下の死亡者1人・30代死亡者4人・40代死亡者14人・50代死亡者33人・60代死亡者99人・70代死亡者266人・80代以上死亡者552人。
最後に、政府統計には出ているが、マスコミはまるで報道しないことに国籍別統計があります。2/1〜7/4入国拒否国家からの入国者数5万人以上(「特段の事情による」を理由に入国)。国籍別患者数7/8現在20010人(日本国籍8170人・外国籍277人・国籍未確認11563人)、つまり8170/20010=全体の59%が外国籍の方です。
全て政府の行政機関が公表している数字で、素直に数字を見てみると、「餅の窒息死」とほぼ同じ&若者にはほぼ無縁の疾患に怯え、経済活動まで類を見ない制限を加え自殺者を増やしている。高校生や大学生など若者のこの1年は人生に大きな意味を持っている。みな、友達や先生・異性と身近に交流することで、大きく成長する時期です。外出自粛措置は、スポーツをしている若者にとっては、大きなマイナスで大きな喜びを失った。
あれもこれも、感染症予防法による感染症の分類と対応で、第2類に指定したままにしていることが原因です。第1類:エボラ出血熱・コンゴ出血熱・ペスト・ラッサ熱・痘そう(対応:交通制限・入院勧告・就業制限・消毒)。第2類:(新型コロナ)ジフテリア・SARS・結核・鳥インフルエンザ(入院勧告・就業制限・消毒)。第3類:コレラ・腸チフス・パラチフス・赤痢(就業制限・消毒)。第4類:肝炎・黄熱・狂犬病・炭疽・ボツリヌス症・マラリア・オウム病・回帰熱・つつが虫病・デング熱・日本脳炎・発しんチフス(消毒)。第5類:インフルエンザ・はしか。早く、インフルエンザと同じ5類に指定替えした方が良いと思う。
私自身、大学ヨット部のコーチングが大学側の措置で3月から出来ていません。毎日開かれているZOOMミーティングでは、何も伝えられない。先週末行われたそのチームは、5年ぶり?に1クラスが全日本への出場権を得られませんでした。私なりに、コーチングしているヨット部員や母校ヨット部員を楽しませたいと思っています。
8:19、近所の「セブンイレブン」で、「プレミアムフルーツオーレ500ml93円+助六寿司398円=533円」を購入し、8:48「セブン西宮マリナパーク店」で、「スナック397円」を買いホームポートへ。
係留艇に乗り、集合時間の9:30まで、ドッグハウス内のトイレを掃除し、窓を開けて空気を入れ替え、エンジンを掛けました。一発始動で気持ちが良い。SaiさんとSさんが来られました。OBは3人で、母校ヨット部員が5名乗ってくるそうです。
9:45ネットブリーフィングからレーススケジュールに入るのですが、風が弱く出艇を促すD旗が揚がりません。10時には南寄りの海風が入りだし、クルーザーのIMSレース艇がハーバーを出ていきます。学生は動かず、11時にはレースが出来そうな風になりますが、イマイチ力が弱く、12時過ぎにD旗が揚がり出ていきました。すぐに学生たちがやってきて、Sさんヘルムスでハーバーを出ました。次の土日は、関西インカレ団体戦ですが、Sさんが来れなくなったそうで土曜日のヘルムスを頼まれました。
4回生トレーナーのM女史の他に、女子2人・男子2人の1回生が乗りました。ハーバーを出て自己紹介し、あ〜だこ〜だ。レースの方は弱いWSWの風で2レース行いました。いつもなら、470の6分後にS級がスタートする同じ海面で2クラスしていましたが、コロナ禍の影響か2つの海面で別々にスタートするレーススタイルになっていました。第1レース470は、母校KG6艇が8位までにフィニッシュし、次週のインカレ団体戦の結果が見えそうです。
レースが終わりハーバー桟橋に戻ると、Hさんが待っていました。学生を下ろし、次週の集合時間をM女史と打ち合わせ別れます。オートパイロットのベルトが切れそうだったので、Hさんが見つけたベルトに交換作業します。いつもお世話になっているプロのヨットメンテナンス屋さんも来てくれる予定でしたが、クルーザーのレース中でまだ戻って来ません。前回分解した時の写真を見ながらHさんがドライバー片手にあ〜だこ〜だ。問題なく、僕も手伝って終了しました。桟橋係留しながらですが、オーパイは元通りになりました。
これで解散しました。1回生は10人入部したようで、半分5人が未経験者そのうちの4人が乗ってくれたのでいろいろ話しました。男の2人はやる気満々で、レースの解説をすると質問がたくさん飛んできて楽しかった。


2020/9/27
車内ですぐ寝てしまい、目を覚ましたら0時を過ぎていました。0:32「セブンイレブン鏡が浜店」で、「ブルガリアヨーグルトあじわい苺135円」を購入し夜食して、再びコテン。6:12「セブンイレブン鏡が浜店」で「いちごジャム&マーガリン110円」を購入し朝食。6:46、YHに移動し、お散歩&朝のお勤め。ブリーフィングで最終日だからと熱くならず淡々とレースを消化する大切さを話しました。
Yさんと琵琶湖YCで合流し、選手の出艇を待って、マネさんたちを乗せてレース海面へ。上天気です。風も安定し、2レース消化しました。470は、1位D社が2位にダブルスコア異常離しダントツです。D社セレクション1回生Oくんが個人でも1位の走りを見せ、キャプテン艇が全体3位でD社部内でも3位という圧倒的な強さで、他とはスピードが違います。インカレで3〜4m/sの風で安定すれば、D社が全国制覇しそうな勢いです。2位は金沢が最終10レース目でRitsを逆転し2点差です。当方は4位で3位との差が54点。前日とほぼ同じです。完敗です。総合は、1位D社、2位Rits108点差、3位当方48点差、4位金沢115点差。以下は、5位京産257点差、6位富山163点差、7位滋賀326点差でした。
ハーバーに戻り、マネ観戦チームも解散です。レース艇も帰ってきて、船を片付け艇庫前で、現役やOB・OGたちが集まり、それに加わりお喋りし帰路に着きました。6:46〜14:37柳が崎YH300円。湖西道路〜京都東IC〜名神で、15:01「桂川PA」で「バニラソフト151円」で糖分補給しました。吹田ICで下車し、中央環状線〜R171で帰宅しました。
「ただいま〜」「早かったね」で、いろいろ片付け、夕食とって、NHK大河ドラマ「麒麟が来る」を見ようと粘ったのですが、目が閉じてしまいました。


2020/9/26
4:31、「セブンイレブン大津鏡が浜店」で、「プレミアムプレーンヨーグルト400g135円+ブルガリアヨーグルト180g135円+完熟マンゴ−オーレ128円=429円」を購入し、ヨーグルトを朝食にしました。6:20YH・Pに移動し、散歩&朝のお勤めを終え、ハーバーで佇んでいると、学連メンバーが集まりだしました。7:30集合だって。
部員がやってきて、艇庫前で円陣ブリーフィング。僕と監督が指名されました。Yさんと琵琶湖YCで合流し、前日同様のタイムスケジュールで出艇しました。曇り&晴れの天気で、風も安定し、この日も4レース消化しました。8レース目のS級は1・2フィニッシュしてトップRitsとの差を一気に詰めました。9レース目のスタートしたのですが、470第1マーク回航直前にN旗が上がりノーレースになりました。
全10レース中8レース終了で、470は1位D社で、2位Ritsにダブルスコア、7点差に3位金沢が迫り、4位当方は3位と56点差になってしまいました。力負けの感じがします。S級は1位Rits、2位当方で5点差、3位D社とは38点差です。4位金沢は3位と79点差の大差です。
ハーバーに戻り、6:20〜17:12柳が崎YH300円。前日同様、「来来亭」で「チャーハン定食950円」を夕食にして、休みました。


2020/9/25
近畿北陸ブロックインカレ初日。コーチしている大学ヨット部の目標「インカレ団体戦」の予選が始まります。ここを470級3位以内、S級4位以内に入らないと、団体戦本戦に進めません。今年はコロナ禍で、2月末から8月末まで練習できず、辛いチームでした。レースも中止が相次ぎ、夏休みに入りレースも行われるようになりましたが、当方は学校からの禁止措置で遠征も出来ず、とても不安です。ZOOMミーティングで毎日の交流は続きましたが、やはり顔を合わせて笑い合って切磋琢磨しないと・・・。ヨットという海の上で風に吹かれる中での競技の特性故、例年同様練習できていた学校は少ないにしても、多くの学校が7月から練習再開されていました。当方はぶっつけ本番・・・どうなることやら・・・
6時に起きて朝食を食べ、四輪に布団を積んで家を出ました。R171〜中央環状線〜吹田ICから名神に乗り、京都東ICで降りて湖西道路を走り、7:33YH着。この大会もコロナ禍措置で例年から変わっています。開会式・艇長ブリーフィングがZOOMです。当方大学からの措置で、コーチ各クラス2人まで&他大学に通う女子マネは全員クラブに参加できません。
今回の私の立場は、いつものようなレース・コーチングではなく、練習・レース海面に行けず、現場で応援も観戦も出来ない女子マネのサポートです。マネさんの一部の学連要員は、レース運営で運営艇や陸上本部でレース運営をします。他は選手と接触出来ないので、選手がレース海面に出てから観覧船を出します。この観覧船は私が琵琶湖の友人に頼んで貸してもらいました。当方大学ヨット部艇庫に並ぶ琵琶湖YCの船です。
雨が降っており、予報は1日中雨です。借りる船を確認し、車で準備して艇庫前に降りると、他校含め当方部員がやってきます。例年なら合宿所からどっとやってくるのですが、今年は下宿や実家からバラバラと・・・なんか雰囲気がな〜。琵琶湖YCにお借りしたYさんが来られました。琵琶湖YC内でYさんとお喋りしながら、マネさんリーダーに居場所を伝えました。
9:30、470Dフラッグが上がり、いつものように当方が一番にスロープを下ろし、レース海面に向かいました。S級Dフラッグが上がりS級も一番に出ていきます。Yさんと艇庫を出て、ボートに向かいます。マネさん達が当方艇庫から出てきて、船を出します。新入生男子マネさんが1人来ています。「はじめまして」。LINEで挨拶していただけでした。
雨ですが、北西の風で安定しているので、10時にレースが始まります。ゼネラルリコール1回の後、第1レースが始まりました。第1マークの470はイマイチの順位で、S級はトップが当方でしたが、スタートで早すぎるスタートをしたようで失格なので、残念なレース展開で進みました。ところが、風が大きく変わってしまい、N旗が上がってノーレース。ラッキーです。その後はブローや振れはあるにせよ風がなくなるなどのことはなく、4レース消化しました。470は、D社が1位で、2位Ritsにダブルスコアのリードです。3位は10点差で金沢、17点差で当方。当方は初日4位でしたが、1艇早すぎるスタートをしたための失格があったので、3・4位の実力差はほぼない感じです。S級は、1位Rits、2位当方20点差、3位D社10点差、4位金沢45点差。
雨は3レース目に上がり、晴れ間さえ見える天気になりました。レース艇に先立ちハーバーバックし、マネチームは解散しました。7:33〜17:37柳が崎YH・P300円。近くの「来来亭」でチャーハン定食950円を食べ、合宿所横に車を入れ寝る用意をしました。選手3人に誘われ、ZOOMミーティングに参加し、ヨーグルトを食べてオヤスミ。


2020/9/22
目を覚ますと夜中0時。昨夜はヨーグルト断ちだったので、前のコンビニにヨーグルトを買いに行きました。0:06「セブンイレブン鳴門大桑島店」。「ブルガリアヨーグルト爽やかいちご180g135円+明治ブルガリアヨーグルト115円+バイオマスレジ袋小3円=273円」購入。プレーンの400gがなくて残念。自室で至福の時間を過ごし、夢の中に落ちました。
6:03、荷物を持ってフロントに降りました。朝の読書です。6:30になり朝食時間になりました。僕は和食、他の方は洋食を選びました。船に向かい、7:06出発しました。7:12、海峡を抜けると、鳴門海峡にかかる大鳴門橋が見えます。フルセイルで沼島を目指します。沼島と淡路島の間を抜けます。海峡なので風が強い。潮目がありました。遠く霞んで和歌山市が見えています。風向が北東で、ジェノアを巻き、メインをダウンして巻いて機走6ノット。
「友ヶ島水道」を抜け、「関西空港」をダイレクトに狙います。遠く後方に、「帆船?」が見えました。ここも潮目があり、波立っています。「加太ノ瀬戸」の北側(風上)には多数の遊漁船・漁船が出ていました。ケッチタイプのセーリングクルーザーがクローズホールドで大阪方面を目指しています。帆船がぐんぐん追いついてきて、船影をカメラでしっかり写せました。「日本丸」or「海王丸」どちらかのようです。帆船の前に、海上保安庁の巡視船が守備していました。11:16、大阪岬町の関電・「多奈川発電所」が見えてきました。昨年のクルージングは、岬YHの船でした。懐かしい。12:03、関西空港の滑走路に駐機している旅客機が視認出来るようになりました。12:39、関西空港連絡橋が肉眼でしっかり見えて来ました。昨年の大風台風で流された小型タンカーが壊した場所がわかります。ほぼ空港側で少し色が変わっています。というより、他が日焼けして色が変わったのでしょう。
関空の対岸の「泉南りんくう公園の観覧車」と「スカイゲートホテル関西エアポート」が見えます。ピンクの尾翼が可愛い「Peach Air」の旅客機が着陸して来ました。多くの旅客機が駐機しています。コロナ禍で、飛べなくて困っている飛行機も多いでしょう。連絡橋の中央部の手前海の中に、赤白ポールが立っています。その向こうの橋に中央部?最も高い部分のマークが付いています。
12:42、連絡橋の下をくぐります。13:10、遠くに2日前にくぐった「明石海峡大橋」が霞んで見えます。14:23、母港に入り係留桟橋に着けました。台風対策でもやいを増やして取り、昼食タイムです。出来るまでデッキをデッキブラシで洗います。焼きそばが出てきました。美味しく頂き、このクルージングの精算です。全員の全ての費用はNさんが払いました。「全員10000円」で、アルコールを飲まない僕は9000円でした。
掃除やゴミを出し、16:45船を後にします。Nさんの車に乗り、「浜寺公園駅」まで送ってもらい、私とKohさんが降ります。他は京都まで車でご一緒するようです。Kohさんと電車でいろいろ話しました。疲れており、JR大阪駅から福知山線快速に乗ったのは良いが、寝ていて最寄り駅を過ぎてしまい、また快速で戻ってバスで19時頃帰宅しました。


2020/9/21
2時間毎に起きていたように思います。レム睡眠(浅い眠り)毎に起きたのでしょう。6時頃、明るくなっているので起き出しました。コクピットで歯磨きをし始めると、ラジオを聞いていたKさんが立ち上がりました。「ラジオ体操」が流れて来たからです。歯磨きを終え、僕もそれに加わりました。ラジオ体操第1&第2、流石小学校の校長先生、Kさんはバッチリです。途中で起きてきたMさんもバウデッキに行き、ラジオ体操に加わりました。こちらも小学校の先生なので、バッチリです。
皆が起き、用意が出来たので、2日目出発。北風が吹いています。海苔網の間を抜け、外のブイラインの外に出て、それに沿って南に進みます。メインセイルだけ上げて、機帆走6〜7ノットで走ります。
10:53、「大鳴門橋」がしっかり見える位置になりました。セイルをダウンし、海峡通過に供えます。昨年の5月GWは、「大鳴門橋」をくぐり、鳴門海峡を抜けましたが、今回は「小鳴門海峡」通過です。11時過ぎ、「小鳴門海峡」に突っ込みます。海峡は狭く、浅瀬もあるので、海図ナビを見ながらステアリングをマニュアルにしてコントロールします。僕は、浅瀬を視認するためにバウに行きます。
海峡からの潮は、向かい潮です。播磨灘側の沖は別方向で、海峡入口が潮が当たり波立っています。そこにスローで突っ込むと、「イルカ!」と叫びました。バンドウイルカが数頭、船の回りを囲みます。特に僕のいるバウでは、右に左に、バウをくぐって位置を移して並走し、最高です。カメラを首から下げていないのが、生涯の悔いです。これをビデオで映せれば・・・。船内で、「カメラ、カメラ、動画で撮って」と言葉が飛び交います。潮目なので魚が多いから、イルカもそれを狙って来ているのかな?
潮目を過ぎ、海面が静かになると、そこまではイルカはついてきません。11:26、1つ目の橋「小鳴門新橋」をくぐりました。「徳島県道r183・鳴門スカイライン」が走っています。バイクでここに来た時、このスカイラインを走りました。「ウチノ海」を見下ろす素敵な道でした。海に石灯籠が左右に立っています。神社かな?と予想したらビンゴ!陸上に鳥居が建ち、きっとその奥に本殿があるのでしょう。この配置は、海から参る感じです。漁に向かう時は大漁&無事安航を祈願し、帰る時は大漁&無事に感謝し手を合わせるのでしょう。
ジェットスキーが5台走ってきて、「ウチノ海」に入っていきました。11:53、2本目の橋「小鳴門大橋」をくぐります。「徳島県道r11」が通っています。数字的にはくぐれるのですが、何度抜けても下から見上げていると、「当たらないのかな〜」と不安になります。3・4本目の橋・「小鳴門橋&撫養(むや)橋(神戸淡路鳴門自動車道)」が近づき、またバウに行き海底を凝視します。12:07、橋の下をくぐります。中央に小さな島があり、右側の方が深いのですが、1つの橋が高度を下げており、左側を選択します。島の近くが深いと海図ナビが示しているので、出来るだけ島に寄せて進みます。「スローダウン、左・左」とステアリングを持つヘルムスマンKさんに叫びました。バウを左に振り、通過できました。海底の砂が見えてビックリしました。
これで橋はお終いです。右手に、「大塚倉庫」の倉庫が見えてきました。小高い山の上に「撫養(むや)城」が見えています。中世の山城ですが、復元天守だそうです。江戸時代に入り平和になり、1638年廃城になりました。
本日予定していた係留地に向かいますが、本船が横抱きで2隻係留されています。他の係留場所を探します。僕は船から降り、陸上から探しますが、やっと見つけたのが、海峡からの枝用水路の奥です。30フィートほどのセイリングクルーザーが着いたところで、声を掛けました。「あの橋をくぐれれば、ここに置けますよ」少し空きスペースを広げてもらいました。走って降りたところに向かいますが、同じタイミングで船も戻って来ました。係留スペース確保を伝えるが、「あの橋、くぐれないわ」。海面上15mと表示されていました。結局、本船の前の小さなスペースに船を係留しました。
Nさんが予約した「ホテルゲート88」に向かいます。チェックインして部屋に入ります。シングル3・ツイン1なので、誰がツインになるかで男子でじゃんけん大会になりました。僕はじゃんけんに勝ち、シングルを獲得しました。Nさんが夕食の第1候補に電話しますが、2時間待ちでがっかり。シャワーを浴び、階下に降ります。集合時間より前なので、フロントのお姉さんに相談します。フロントにあるパンフレットを見ながら、ここがいいよと教えてくれました。「この道を真っ直ぐ歩けばいいのですね」「え〜、歩くのは無理だよ。タクシーで行かないと」。皆さん降りてきて、タクシーで店に向かいます。
僕は「うなぎの蒲焼定食」を食べました。食べ終わる頃は、入店待ちの行列が出来ていました。またタクシーを呼んでもらいホテルに戻りました。ホテルの前の「マルナカパワーシティー鳴門店」で食材を買い込みます。買ったものを持って船に行き、Kさんを残してホテルに戻ります。干満差が1mだそうで、念の為船番をするそうです。お店での食事もタクシーもマルナカでの買い物も全てNさんが会計をしました。明日は戻るだけなので、明日朝までに精算し、明日請求書が回ってくるそうです。ホテルに戻り、PCであれやこれやしながら眠りにつきます。TVを見るが、AVチャンネルもありビックリしました。地上波でこんなん流してもいいのか〜と思いましたが、有料チャンネルも組み込んでいるのでしょう。


2020/9/20
次の週、コーチしている大学ヨット部が、インカレ団体予選に臨みます。コロナ禍で大学からの規制が厳しく、通常昼休みを挟んでAM+PMの練習をするのがヨットなのですが、半分に制限されています。よって、470クラス半日・S級半日の練習になっています。当方は、スポーツセレクション入学制度がないので、入部する1回生のほとんどが初めてヨットに乗る部員です。練習を重ね、選手が育っていくクラブなので、練習できないのは厳しいです。加えて、女子マネージャーの殆どが他大学なので、そこでも「他大学の部員は参加できない」規制でつらい状態です。ヨット部員なのにクラブに参加できないのは、本人にとって辛いです。特にこの秋の全日本で引退する4回生マネージャーには辛い。そんなこんなで、クルーザーに乗せてやろうと動いたのですが、母校先輩・後輩と共に運用している船なので、母校の所属する関西水域もレース続きで、その応援船として使うので乗せてあげられませんでした。
更に加えて、レースに観覧船として借りている船が、先方都合で次週のインカレ予選に使えなくなりました。担当マネさんから、「困ってしまいました。お知り合いで船を借りれる方を知りませんか?」と連絡を受けました。昨年一度僕の口利きで借りた船を借りるよう指示で、一件落着したのですが、2週間前に先方都合でダメになっちゃいました。「コーチ困ってしまいました」「なるほど〜、じゃあまた別で探してみるわ」。
そこからまた動いて、息子のジュニア時代の琵琶湖の選手のお父さんNさんに連絡を取り、「他で見つからなかったらOKだよ」って返事を頂きました。Nさんと共同オーナーKさんで、他の船も大学ヨット部仲間と持っておられます。Kさんに電話でお願いすると、「今年は一度も動かしていないので不安なので、他で見つからなかったらお貸しします」とニュアンスを感じました。また別の琵琶湖の選手の父親Yさんに電話しました。こちらは、所属クラブのレスキューボートを貸してくれるとのことで、こちらは同じヨットハーバーで便利だし、よく使われているので甘えることにしました。
そうなると、NさんとKさんに謝らねばなりません。まずKさんに電話し、「他で見つかった」ことを伝えると、「良かったです。船の掃除などしなければ・・・と思ってました」と快くキャンセルOKでした。続いて間に入ってもらったNさんに電話すると、「良かったですね」。「Kさんとは電話だけだったので、お礼に伺いたい」と伝えると、「次の連休、クルージングを計画しています。暇なら一緒に行かない。Kさんも来るよ。計画はKさんが立てているので、きちんと決まったら連絡するわ」と言われました。琵琶湖に船を持っていらっしゃるKさんとの縁を続けたいこともあり、菓子折り持って頭を下げようと思ってたけど、1日なら乗れるな〜なんてことが頭をよぎりました。
翌日、Nさんから連絡があり、「1日目淡路島東海岸の港泊〜2日目小鳴門海峡泊〜3日目寄港」と誘われました。「初日乗り、淡路島からバスで帰ります」と伝えました。その事を家内に話すと、「3日間乗ってきていいよ」と。Nさんに、全日程参加する事を伝えました。僕含めて5人のクルージングだそうです。
長い前置きで、この日が始まりました。8:30「南海電鉄浜寺公園駅」集合なので、6:30頃家を出ました。いつもなら駅まで「通勤リード110」で行くのですが、3日間置くことになるので、歩いて駅に向かいます。6:44発に乗ろうと思っていたのですが、駅に着いたら出ていっちゃいました。ICOCA2000円チャージ。
6:58発でJR大阪駅〜JR新今宮駅で乗り換え、8:19「浜寺公園」駅に着きました。駅を出たら、ちょっとレトロな「旧浜寺公園駅」がありました。浜寺公園の入口も見えます。すぐ、お迎えのNさんが車で来てくれました。Nさんは、次男がジュニアヨットをしていた頃の息子のライバルのお父さんです。Nさんの長男さんがASEAN選手権大会日本代表に選ばれた時、私が監督として引率しました。選手5人・コーチ1人・監督1人の小さな遠征でしたが、より親しくなりました。ジュニアヨット自体選手が少ないので、レースは選手の親たちが地元のレース委員会の手伝いをして成り立ちます。専任コーチなんて雇えないので、何処のクラブも皆親がコーチです。そんな数年間を次男が中学卒業まで過ごし、その後私はジュニアヨット協会理事として全国のジュニアのお世話もしたので、日本中に多くの知り合いが出来ました。次男に感謝です。
もうひとりの参加者を待ち、船に向かいます。「浜寺マリーナ」にNさんのクルーザーが係留されていました。「Beneteau Oceanis 473」です。中古で買って1年だそうです。去年は瀬戸内海〜四国沖太平洋クルージングをし、今年は春に九州一周を予定していたそうですが、コロナ禍で順延したそうです。Kさんと共同購入し、堀江健一さんを真似てアメリカ西海岸を目指すそうです。その後は南太平洋を巡って帰国する夢を持っておられます。
Kさんは、滋賀大学教育学部体育会ヨット部出身の方で、僕がインカレ常連KGヨット部出身で現役の大学ヨット部コーチなので、「バリバリのレーサーが来る」と緊張していたようです。僕に会って、「何だ普通だ」。校長先生を最後にリタイヤし、今はヨットです。
3人目はKohさんで、Kさんの高校時代の同級生です。社会人(公務員)になって、1人乗りのヨット教室でヨットに乗り出し、同窓会でKさんと再開し、ヨット仲間に加わったそうです。4人目は紅一点Mさんです。Kさんのヨット部の後輩です。こんな男ばかりの中で旅に出ても良いのか?と思ったら、旦那さんは「山男」で同じ教師仲間で、子供が生まれてから雪山には行かなくなったけど、今でも山にばかり行ってるそうです。お子さんも大きくなり、仕事もリタイヤしアルバイト的に週3〜4日学校で働いて、自由を謳歌しているのだそうです。
出艇準備が終わり、9:15、もやいを離して桟橋から離れます。シングルバースでこのサイズなのに、係留費は「新西宮YH」の1/3だそうです。ハーバーは水路にあり、沖側の埋立地に石油化学工場があり、風や波の不安は無さそうです。昨年の大風台風(関空連絡橋に小型タンカーが流されて激突した)にも被害なしだったそうです。ただ、大型タンカーが港に出入りするので、それらが通る時は赤白灯台の間はクローズになるそうです。
灯台を抜け湾内から出ると南風が吹いており、メインだけ上げて、機帆走で明石海峡を目指します。風が上がってきたので、フルセイルでエンジンを切ります。セイルだけでも6〜7ノット出ており、機走と同じでした。
明石海峡に近づきました。海峡は、遊漁船で大賑わいです。12:45「明石海峡大橋」をくぐります。大阪湾から播磨灘に抜け、淡路島の東海岸沿いを南下します。沖に、一直線にブイが並んでおり、それより島側は養殖網などが入っています。本日の泊地「郡家港」に近づき、網が無さそうなのでダイレクトに目指すと、島から漁師の兄ちゃんがやってきて、「網が入っているから、ブイの沖を走って」と注意されました。「何処に行くの?」「郡家」「ブイの切れ間があるから、そこから入って」と教えてもくれました。結構な速さで潮が南から北に向かって流れており、ブイが波を切っています。
「海苔網」の間を抜け島に近寄り、16:09「郡家港」沖に達しました。予定していた係留場所には、台船が係留されていました。仕方なく、その台船に横抱きで係留します。ここで夕食です。防波堤の上では多くの釣り人が糸を垂れています。17:46、コクピットで夕食を食べていると、綺麗な夕日が西の空を染めて来ました。お喋りの花が咲いた夕食を終え少し寒くなってきた。2次会は風に吹かれないドッグハウス内です。Kohさんがバーテンダーに変身し、カクテルまで出てきました。飲めない僕は関係ないですが・・・。
22時頃就寝。僕はバウの部屋を指定されました。オーナーズルームでトイレ付きで広いのですが、波が入ると揺れます。最も揺れないのはキール付近のミジップルームです。それまで風はそよそよだったのに、寝る頃から風が上がり、揺れて眠りにくい。何度か目を覚ましましたが、睡眠は意識を失う時間ではなく、横になっていることで十分なので気にしません。目を覚ましたら、天井にあるハッチを通して満天の星空が見えます。カメラを持って、ハッチを開けて写真に収めようとしますが、流石に写りません。残念。


2020/9/13
先輩たちとホームポートでセイリングの日です。4時に起きて、家内に頼まれていた仕事をやっつけ7時になりました。Zoomミーティングの書紀をし、その報告書をフリーハンドで書いたものをワードファイルに仕上げる仕事です。自宅に戻り、朝食。頂き物の二十世紀梨が美味い。お風呂に入り、8時過ぎに家内とともに自宅出発。家内は、僕の仕上げた誤字脱字混じりのワードを、校正校閲します。
R171を走り、8:40「セブンイレブン西宮マリナパーク店」で、「ひねり揚100円+6種の彩りおかき268円+レジ袋3円=400円」購入。予定では、先輩がハーバーマスターをしている須磨YHまで走り、須磨で昼食して帰路に着きます。途中、船の上で食べるつまみ物を購入しました。
桟橋の係留艇に着き、台風対策で増しロープをしていたのを片付けます。10分ほどエンジンを始動しましたが、快調です。ドッグハウス内でハッチを開け、カーテンを開け、空気を通します。次はトイレ掃除です。窓を開け空気を入れ、ポンピングして便器内の水を新たにし、パイプの洗浄をします。その途中に、Sai先輩が来られました。続いて1週間前に会ったHさん、S先輩とO君がやってきてメンバー全員集合。
Hさんが冷蔵庫の掃除をしながら、「飲み物ないから買ってきますわ」だって。ビールを冷凍してしまっていたようです。「前回乗ったのは誰や?」「僕だけど、冷蔵庫なんて触らなかったし・・・、いつから冷凍されていたのか・・・」。冷蔵庫の掃除を僕とOくんが受け持ち、Hさんはハーバー前の生協に向かいました。
Hさんが帰ってくるのを待って、予定の9:30を過ぎて桟橋から離れました。前回乗った時右旋回でステアリングが半分ほどしか動かなかったが、しっかり回ります。でもステアリングを持つS先輩が、「なんか走らんぞ〜」。いつものスロットル回度ならもっとスピードが出るはずなのにイマイチです。沖に出て巡航上限スロットルまで上げるが、3.8ノットしかスピードが出ません。しかも、冷却水に煙が混じり灰色っぽいです。これは厳しい、相当エンジンに負荷がかかっていそう。Hさんが松尾さんに電話して聞きます。「船底にフジツボなどが付いてるからじゃないの・・・」とのこと。
SWの良い風が入っているので、この風が続く限り須磨行きには問題無さそう。S先輩が、「今日の須磨は止めや。ここらでセイリングしよう」ということになり、メインセイルを上げます。ジェノアも展開し、フルセイルでクローズホールドを走り出します。僕にヘルムスが代わり、YHから出てきたドラゴンを追いかけます。後輩のSawくんが買ったAoyさんのイギリスに置いていた船です。日本に入って来たばかりで、先週マストを立てたところで、初セイリングです。Aoyさんが亡くなり、ヨーロッパのレース参戦のために置いていた船が不要になり、Sawくんが新オーナーになりました。
さすがレース艇、ドラゴンは速く追いつきません。1年後輩Oくんにステアリングを交代します。Oくんは久しぶりなので、ヘルムスマンの座る位置など、いろいろ教えます。ヘルムスはヨット部員だったので、問題ないです。ドラゴンがスピンを上げて下ってきたので、それにミートします。デッキがウッドでとても綺麗です。セイルナンバーはJPN50のようです。
母校KGの練習を見に行きます。スナイプ級は「江ノ島スナイプ」に遠征しているようで主力がいないので、下級生が練習しています。470は、神戸大と大阪大を加え3校でレース練習をしています。10月になれば、インカレ全日本の個戦と団体戦の予選です。
僕のスマホがポケットの中でピコンピコン鳴っています。この週末は琵琶湖で草レースをしています。来週が個人戦・再来週が団体戦予選です。関西ブロックの全日本予選が遅いのは、甲南大学の練習再開が遅く、出来るだけ遅くした結果だったようです。
ハーバーバックします。東出入口前でヘルムスをS先輩に交代し、僕とOくんがメインセイルを下ろします。11:30桟橋に戻り、昼食を食べに行きます。センターハウス3F和楽に上がります。
食後、Oくんは用事で帰っていきました。他は船に戻り、上下架桟橋に船を動かし、リフトで上架してもらい、船底に付いた牡蠣やフジツボをゴリゴリ落とします。続いて高圧洗浄機で吹き飛ばします。水力が強烈で、足を踏ん張っていないと身体が後ろに反らされます。下架し桟橋に戻り、船を片付け解散になりました。
15時台に帰宅し、家内が終えていた校正をPCでワードに打ち込み、仕事終了。散髪に行き、1日を終えました。「麒麟が来る」を見終えて就寝。


2020/9/12
先週の続きを走りに行くことにしました。前日にチェーンオイル・メンテナンスした「里山VTR250」を倉庫から出します。4:47、近所のローソンへ。「助六寿司402円」を購入。R171を東に走り、道なりに「中央環状線」に乗り、4:59「エネジェット中環豊中SS」で給油、136km/5.05L=26.9km/L。「吹田IC」から「近畿道」に乗り南下します。「岸和田SA」でトイレ休憩します。
道なりに「阪和道」に乗り、「広川南・日高IC」で下車しました。和歌山県道r176を東に進み、右折してr21で南東に走ります。7:38「SanPin中津」でトイレ休憩しました。朝霧が晴れて行き、真っ青な気持ちの良い青空が広がって行きます。朝、雨が降っていたようで、道路は濡れています。7:43、魚道のある小さなダムがあり、豪快に水が流れています。大きな風力発電用風車が山の上に立ち並ぶウインドファームが見えます。「船津発電所」かな?
「日高川」に突き当たり、左折してr26を東進。日高川沿いを走ります。いくつかトンネルを抜け、峠を越えて、再び日高川沿いを走ります。右折してR424で、南東へ進みます。この道も「日高川」沿いの道です。
8:07「椿山ダム」。『日高川の筏流しの歴史 日高川の筏流しは、今から400年近く前野江戸時代初期には既に行われていたとみられる。上流から切り出された木材を筏に組んでつなぎ、竿一本で激流を下って河口の御坊まで運ぶ。高い技術を必要とする命がけの仕事であった。激流の難所は、「湯本の御殿滝・柳瀬の檜皮の滝・甲斐の川の鎌滝・小家の丸滝・串本の大滝・滝頭の生滝・佐井の鳴滝・高津尾の黒島滝」と8ヶ所あり、「日高川八滝」と呼ばれた。旧川上村の筏師たちは時代とともに国外にまでその腕を買われ、大陸の資源開発のため動員。朝鮮半島の鴨緑江、満州の牡丹江などでも腕をふるった。この長い歴史と伝統を持つ筏流しは、日高川流域全土に大きな被害をもたらした昭和28年7月18日の「7.18水害」によって集結した。 平成18年8月吉日 元筏師・井原眞男・節子建立』
8:16「ヤッホーポイント」。日高川を渡る「椿山レイクブリッジ」を渡り、ヤッホーポイントに向かいます。この吊橋はしっかりしており、なんとなく揺れていますが、それほど怖くはないです。
R424を先に進み、左折してトンネルを抜けr29で、日高川に注ぐ「小藪川」沿いを東に進みます。8:50、吊橋があったので渡ろうと思ったけど、渡り板が狭く薄く、これは怖い。数歩で撤退でした。更に東に進み、「寒川集落」へ寄り道します。8:55「寒川神社」。
『寒川神社(美山村大字寒川284番地)
 当社は、元久元年(1204)寒川家の氏神として創建され、明治6年(1873)村社寒川神社となリ、さらに明治41年(1907)に村内各社を合祀しました。
祭神は、国常立命・伊弉諾命・伊弉冉命他20柱を祀っています。
木造女神坐像2躯は平安後期、木造武神坐像は鎌倉時代、木造男神坐像は室町時代の彫刻です。いずれも県文化財に指定されています。
祭りは現在11月3日に行なわれ、4人立ちの獅子舞いは県内でも珍しいみごとな舞いで、江戸中期の宝暦8年(1758)にはじまりました。県の無形文化財に指定されています。 平成4年3月 美山村教育委員会 和歌山県教育委員会』
近くにある茅葺屋根の「寒川家住宅」を観に行きます。大工さんが入っていて、修理中のようです。元庄屋さんかな?横に「朔日川」が流れ、休耕田がありました。その上にアカネトンボがたくさん飛んでいました。ここは標高300m、もう少しすると、真っ赤になって赤とんぼとして里に下りるのでしょう。赤とんぼはオニヤンマなど夏のトンボと違い20〜25℃が適温らしく、30℃を超えると生存の危機らしいです。茜トンボ(赤とんぼ)が飛んでいる所は、人にも快適です。
r29に戻り、「小藪川」沿いを東に走ります。『この先5.5km地点、道路工事中のため通り抜け出来ません(不老長寿の水へは行けます)』の立て看板があり、ガーン。『不老長寿の水・3.7km7分、龍神温泉まで・12km・20〜25分』。「不老長寿の水」を目指します。
右は深い谷で、左の山側からは時々細い滝が流れています。洗い越しになっている所もありますが、単に溢れて路面を覆っている場所が増えてきました。ただの水たまりなら良いが、泥が隠れた水たまりは滑ってコケるので要注意です。水たまりが来れば、スピードダウンしてバイクを傾けないようにし、両足を広げて通過します。
「長寿の水・0.9km」のところで、「通行止」の拝み看板が立っていました。それを横目に通過します。9:35「長寿の水」着。『戻る方角 寒川(小藪川)まで4km7分 寒川(土居)まで9km15分 R424まで13km20分 愛徳荘(椿山ダム)まで20km30分 進む方向 峠(村界)まで3km6分 龍神温泉まで8km15分』。あと8kmで龍神スカイラインなのに残念。
道が広がり、「癒しの駅・長寿庵」という東屋が、細い滝の横に建っていました。内部に写真とともに短歌が書かれた額が下がっています。短歌の会会員さんがやってきて、この地で詠んだのかもしれません。
『美山短歌会
川合山登りゆきたり社前 岩より出ずる宮清水1号
水質も満点なりと大鼓判 押されて秘境の名所となりぬ
宮前で疲れを流す岩清水 飲んでさわやか連れもて行こう
昏昏(こんこん)と山の岩問に湧きいずる 澄みたる水を貴しと飲む
清冽(きよらか)な岩清水湧く美山路に リフレッシュする喉うるほして
街の友不老長寿の岩清水を タンクに汲みて家ずととする
小鳥啼き沢蟹の棲む山間に 湧き出ずる清水に喉をうるほす
地の恵み天の恵みの岩清水 静けき山に長寿の水音
平成10年8月吉日』
『山あいの憩いのひと時岩清水』
『祝 水車回転(開店) 協力:和歌山電工』と書かれた木柱が立っていましたが、それらしき水車は見つかりませんでした。流されたのだろうか?
『千古の泉 この泉は古より岩間からの湧き水であります。 特に先人故上岡岩吉翁が村長在任中の偉業に、この地寒川財産区にスギ30万本植林を計画し、その時川合事務所が開設され、飲料水としてこの水を愛飲され、正に寒川財産区の泉であり宝でもあります。
此処に先人達のご苦労を偲ぶと共に、いついつまでも後生に愛されんことを祈り、今回この施設を作ったものです。 また、この作業は総て、ずぶの素人が精根こめて、宮の前岩清水同様造ったもので、みんなで大切に保存して下さい』
「長寿の水」を、ありがたく頂きました。『道中、気をつけて行きなはれや』
『はるばると、大師高野の峰より里帰り、逢えてうれしや水汲みびとに』
『弘法大師ゆかりの地寒川(弘仁年間) 大師が真言の根本霊場地を物色しつつ、諸国を跋渉(ばっしょう)の途次、寒川の地に来られる。その時、5間4面の堂を建立(現地蔵堂の位置)地蔵堂は、これより上流700mに在り、5体の地蔵尊を祀っている。腰痛・子授け・安産の地蔵として、今も遠近よりお詣りが絶えない。
会式:1月24日(餅投げ)・8月24日(盆踊り)
こんこんと、春夏秋冬、岩清水 武次』
行ける所まで行ってみようと思いましたが、すぐに道が荒れてきて&勾配がきつくなり諦めました。開通後、またチャレンジしたい林道です。「(仮)小藪川林道」を戻ります。道なりにr29になり、R424に出て南下し、R371へショートカットするために、左折して名もない林道に入ります。
10:42、『民有林林道・橘川線 全体延長19.56km・延長14.262km・幅員4.0m』の起点で休憩しました。川沿いの森の中の道で、交通量ゼロの道。お寿司でお腹を満たしました。『事業の概要 延長19.56km・幅員4m 事業費146870万円 施工期間/昭和52年度〜平成3年度 事業主体/龍神村美山町 平成4年9月 林道橘川線推進委員会』。右折してトンネルを潜ります。トンネルの上に名が刻んでいると見上げたら、「山紫水明」と刻まれていました。これって、トンネル名なのかな?
R371(R425重複)に出て左折して走ります。11:07「シェル美福屋石油店」で給油。213km/7.34L=29.0km/L。ここで大きなミスをしてしまいました。VTR250の燃料タンクの蓋はポコンと取れます。キーをタンクの蓋の鍵穴に挿して右に回し蓋を外して、ずらしたタンクバックの上に置いて、店員さんに給油してもらいました。ちょっと目を離した隙に、キー付きの蓋が地面に落ちました。「あっ」と思ったけど遅し。給油が終わり蓋を締め、蓋を押し込むとキーが回り蓋が閉まりました。キーを回して蓋から外すと、キーが少し曲がっています。「まずい!」と思ってイグニッションに差し込み回すが回らない、ガーン!キーを折らないように慎重にコンクリートに押し付けて曲がりを戻します。「どうかしましたか?」と店員さんに声を掛けられ、事情を話すと、「待ってくださいよ」とキーを持って万力に挟んで曲がりを戻してくれました。横に曲がっているだけならこれで直るのでしょうが、縦にも微妙に曲がっています。肉眼でも曲がっているなとわかります。イグニッションキー穴に差し込むけど回りません。キーを180度回転させて差し込んだらキーが回りエンジンが掛かりました。これで帰れる、ホッ!
R371(R425)を先に進みます。山の景色が気持ちの良い道が続きます。右折してR425単独道へ。日本有数の狭路国道が始まります。小さなトンネルを潜ると、形の良い茅葺き屋根の家が斜面にあるのが目に入り、『史跡・天誅倉』のPがありました。11:30、バイクを停めてその家に向かって上がります。
『和歌山県指定文化財 史跡 天誄組志士幽閉の倉 指定年月日/昭和43年4月16日
江戸時代末期の文久3年(1863)尊皇倒幕を志した天誅組は、前侍従中山忠光卿を擁立し、孝明天皇大和行幸の先駆けをしようと江戸幕府の五條代官所を襲ったが敗北した。
その一員で水郡長雄を党首とする8名は、再拳を図るため十津川から紀州領の小又川までのがれできたが、里人から警備の堅固さを告げられ脱出の困難さを知り、文久3年9月22日この地の警備隊に自首した。
彼らが京都に護送されるまでの間幽閉されたのが、当地の百姓喜助の倉である。当時を偲ばせるものとして、水郡長雄が倉の柱に、「皇国のためにぞつくす真心は神や知るらん知る人ぞ知る」と辞世の句を書いている。
この天誅組を幽閉した倉は、昭和39年の大雨で倒壊したのち、復尾したものであるが、幕末史を知る上で貴重な資料である。 田辺市教育委員会』
倉の扉は開いており、障子扉が閉まっていました。「開くかな?」と手をかけると開き、自動的に照明が点き、室内展示が見えました。靴を脱いで展示を見て回りました。
『激動の幕末と草莽(そうもう)の志士 19世紀に入ると、日本を取り巻く情勢は激変します。開国を求める欧米列強の艦船が日本各地に姿をあらわし、中国で起こったアヘン戦争では英国軍の近代装備の前に中国が敗れるという事態に、日本中が危機感を強めて行きます。
国内では全国で飢饉が続き、窮乏した農民による大規模な一揆や打ち壊しが頻発するようになり、民衆の世直し気運が高まっていきます。また、幕府の財政改革も、庶民の不評、大名・旗本の反発にあって失敗に終わります。幕府の力の衰えが明らかになり、武家社会が行き詰まってきた時、ペリー率いる米国艦隊が浦賀に来航します。幕府は、開国をめぐる国の方針がまとまらないまま、ペリーの圧力に押されて和親条約を結び、200年以上続いた日本の鎖国は終わりを告げます。開国を契機にして、開国推進(佐幕)派と反対(尊皇攘夷)派の対立が、朝廷を巻き込んで激しさを増す中、大老井伊直弼は天皇の許可を待たずに通商条約調印を強行。さらに、反対派の大名や公家をはじめ多くの志士を激しく弾圧し安政の大獄を引き起こし、憤慨した水戸浪士によって暗殺されます。この大獄で処罰された人々の中には、藩の枠組みや身分的な制約をこえて行動する志士が少なからずみられます。彼らは草莽の志士と呼ばれ「幕府が中心となって治める今の体制では、国の将来が危ぶまれる」という、現状に対する強い危機感に促されて、在野にあって自ら政治的活動に身を投じた人々でした。志士達は各地で尊攘派の社会集団をつくり、互いに連絡を取りながら運動を盛り上げていきます。
ここ天誅倉に幽閉された8名も、新しい時代を創る先駆けとして行動した草莽の志士達でした。尊攘運動が最も激しくなった文久3年8月、かねてから討幕の蜂起を計画していた急進派の志士たちは、天皇の攘夷祈願の大和行幸計画が発表されると、行幸の先鋒として大和の天領占拠を目指して挙兵します。しかし、京都での政変で行幸は中止、逆賊となった天誅組は追討軍との戦いの末、壊滅します。この後も志士達は各地で討幕の蜂起を試みますが成功に至りません。しかし、政局は討幕へと大きく動き始めていました。長州・薩摩をはじめとする西南雄藩では、尊皇倒幕派が藩政を掌握して互いに手を結び、幕府に大政奉還を迫ります。追い詰められた幕府は政権を朝廷に返上し、ここに2世紀半に及ぶ徳川幕府の政治は終わりを告げます』
『水郡長雄 辞世の歌 水郡長雄ら一行8名が、この倉に幽閉されたのはわずか2日間でしたが、紀州藩の駐屯隊長吉本任(たもつ)をはじめ、部落の人々の厚いもてなしに感激した長雄は、自らの血でこの倉の柱に辞世の歌を書き遺しました。
 皇国のためにぞつくすまごころは 神や知るらん 知る人ぞ知る 河州水郡長雄
ここに書かれている辞世の歌は、現在、柱から切り取られて保管されている血書を参考にして再現したものです』
急な階段を2Fに上がってみます。
『天誅組河内国甲田村水郡(にごり)邸出発之図 文久3年(1863)8月13日、孝明天皇が攘夷祈願の大和行幸の勅を宣布すると、翌14日、この機に大和の天領を奪い、畿内を討幕の根拠地にしようとする土佐の吉村虎太郎、三河の松本謙三郎(奎堂けいどう)らは公家の中山忠光を奉じて京都・東山の方広寺に集まりました。その夜の内に大阪へ下った忠光以下38名は、河内国甲田村(現富田林市甲田)の同志・水郡善之祐(にごりぜんのすけ)(長雄)邸へ16日に到着。翌17日早朝、大和の五條代官所をめざします。
「天誅組河内国甲田村水郡邸出発之図」には、備前の藤本鉄石らと合流する旗揚げの地、楠公首塚のある河内長野の観心寺へと水郡邸を出発する天誅組が描かれています。
以下この図に登場する50名の人物の出身地・身分・年齢を隊列の先頭から順番に記載します。
和田佐市(河内・農・32)・中垣健太郎(筑後・藩士・25)・酒井伝次郎(筑後・藩士・25)・森本伝兵衛(河内・農・30)・東条昇之助(河内・豪商・36)・武林八郎(河内・農・23)・鴨川清三郎(河内・庄屋・39)・三浦主馬(河内・医師・48)・辻庄蔵(秦将蔵)(河内・代官・33)・中村徳治郎(河内・豪農・25)・浦田弁蔵(河内・豪農・33)・伊吹周吉(土佐・医師・25)・那須信吾(土佐・医師・35)・土居佐之助(土佐・藩士・23)・田所騰次郎(土佐・藩士・23)・石川一(因幡・藩士・21)・島村省吾(土佐・藩士・19)・半田門吉(筑後・藩士)・保母健(肥前・藩士・22)・田中楠之助(河内・大庄屋・20)・安岡斧太郎(土佐・庄屋・25)・竹下馬雄(肥後・農)・荒巻半三郎(筑後・藩士・24)・島浪間(土佐・藩士・22)・尾崎涛五郎(肥前・藩士・24)・鶴田陶司(筑後・藩士・25)・沢村幸吉(土佐・藩士・21)・中山忠光卿(京都・公卿・18)・森下幾馬(土佐・藩士・30)・鍋島米之助(土佐・藩士・24)・前田繁馬(土佐・庄屋・29)・辻幾之助(河内・商人・28)・森下儀之助(土佐・藩士・34)・江頭種八(筑後・藩士・23)・長野一郎(河内・医師・27)・水郡英太郎(河内・大庄屋悴・13)・松本謙三郎(三河・藩士・33)・吉村虎太郎(土佐・大庄屋・27)・上田宗児(土佐・茶道家・27)・吉田(本名:田中重次郎)・ (筑前・豪農・34)・渋谷伊与作(常陸・藩士・23)・磯崎寛(本名:尾崎孝基)・ (因幡・藩士・24)・宍戸弥四郎(三河・藩士)・水郡善之祐(河内・大庄屋・39)・中倉才次郎(土佐・農・25)・池内蔵太(土佐・藩士・23)・木村楠馬(土佐・農・24)・山口松蔵(筑後・農)・伊藤三弥(三河・藩士)・安岡嘉助(土佐・農郷士・28)』
右に記した志士の多くは、脱藩した浪士や地方の豪農商出身者ですが、医師・儒者・僧侶・神官などの活躍も記録に残されています。彼らの多くは、20〜30歳台の将来ある若者でした。
この挙兵は、藩という枠組みを越えて浪士と農村の指導者層が手を結び、地域の農民をも組織化しようとした最初の討幕運動といえます。
千早峠を越えて五條代官所を襲撃した天誅組は、ここに討幕の旗頭を明らかにします。しかし、8月16日の政変で行幸は中止、天誅組は逆賊として追われる身となります。
十津川郷士の支援を得た高取城の攻撃は失敗。その後、大日川(おびがわ)の戦い、白銀岳(しろがねだけ)の攻防、下市夜襲など各地で善戦しますが、天辻峠の陥落に至り十津川へ退陣します。既にこの時、郷士達には天誅組追討の朝命が下っていました。協議の結果、十津川退去を決定した一行は活路を求めて大峰の山々を越えて北上、吉野鷲家口(わしかぐち)で遭遇した幕府軍との壮絶な戦いの末に壊滅しました。一方、本隊と別れて十津川に潜入した河内勢は郷士の離反に遭い、難を逃れてこの地にたどり着き紀州藩に自首しました。
天誅組の挙兵は失敗に終わりましたが、この義挙に刺激された諸国の志士達は起き上がり、5年後、明治維新の大業が成し遂げられました』
『天誅倉(天誅組志士幽閉の倉)文久3年9月22日、紀州藩小又川駐屯隊長吉本任(たもつ)の前に、疲れ果ててはいるが天誅組志士としての信念と、気概に満ちた水郡長雄の姿がありました。
「あえて命を惜しむものではないが、死に際して一言天誅組義挙の精神を天下に示したい」と、刑死を覚悟で紀州藩に自首してきた水郡らの意気ごみに感じ入った隊長の吉本は、天誅組一行を農夫喜助の米倉に収容し、酒肴をととのえてもてなす一方、医師を呼んで負傷者を治療させました。これは捕虜というよりは客人としての待遇でした。吉本任と部落の人びとの手厚い看護に感激した水郡は、「鬼神も恐れざりしがまことある人のなさけに袖ぬらすらむ」よ詠んで、感謝の意を表しました。この時収容された8人は、この米倉で2日間過ごした後、9月24日、審問のため和歌山へ送られました。
現在、この米倉は「天誅倉」と呼ばれ、和歌山県の指定文化財となっています。私達は、明治維新の礎となった天誅組の人々を称えるとともに、この倉をいつまでも当時の姿のままで保存したいと願っています』
『天誅組河内勢略伝
・水郡長雄 本姓は紀、通称は善之祐、後に小隼人と改める。文政9年(1826)河内国甲田村の代々大庄屋の家柄に、長男として生まれる。幼い時から文武を修め、郷人に尊敬される。
文久3年8月16日に、中山忠光卿一行が水郡邸に至る。その時、拝謁(はいえつ)して軍資金や兵米・鉄砲・刀剣などを献上し、同志を呼び集め忠誠を誓う。同3年9月11日目忠光卿と訣別、16日に十津川村上湯川村・田中主馬造宅に宿泊。翌日、西牟婁(むろ)郡近露(ちかつゆ)村に行くが紀州兵と遭遇、引き返して再度田中宅に泊まる。20日夜、紀州国境の番小屋で爆殺の危機に遭う。22日に小又川村にたどり着き紀州藩に自首。元治元年7月20日、京都・六角の獄で斬首される。享年39歳。明治3年7月4日、正五位を贈られる。
 辞世 皇国のためにぞつくすまごころは かみや知るらん知る人ぞ知る
・水郡長義 幼名は英太郎、長雄の長男。父とともに義軍に加わり、同志と共に捕らえられたが、15歳未満のため罪を許される。慶応3年、北越で奮戦して功績があった。明治3年、東京府少属を任じられる。5年に渡米、7年11月帰国、警視庁勤務の後、宮内省嘱官となる。
15年に熊谷始審裁判所検事補。浦和裁判所検事になり、大阪・和歌山・金沢・姫路の地方裁判所を歴任。43年7月18日に堺大浜で没する。享年59歳。正五位を贈られる。
 辞世 此の世にはたてし功のなけれはや せめて報いめ後の世にこそ
・吉田重蔵 名は良秀。筑前御笠郡隅村の出身で、田中俊助の次男。義挙に加わり奮戦、功績があった。同志とともに京都の獄で斬られる。享年34才。明治35年11月8日、従五位を贈られる。
 辞世 九重につくす心の増りてそ いよよ恋しきふる里の空
・保母健 名は累光。肥前島原の人物。長じて秋田の儒者・平田篤胤(あつたね)に学び皇学を修めて尊王の意味を知り、同志と共に交遊する。同志とともに京都の獄で斬られる。享年23歳。明治35年11月8日、従五位を贈られる。
・辻幾之助 名は統茂、後に子茂という。河内国富田林の人物。幼い頃から文学を好み、五の坪池開掘に努力した。天下の情勢を知り勤王の志を懐き、ついに同志と共に斬られる。享年26歳。共に正五位を贈られる。
 水複山重紀路秋 一朝将志独成愁 鴻雁不敢伝郷信 南向至辺位楚国
・原田一作 元は亀太郎と称しており、備中上島郡松山の出身。森田節斎に学び、勤王の志厚く、同志と共に京都の獄で斬られる。年齢不明。従四位を送られる。
・田中楠之助 名は祐信。河内国大県郡法善寺村(現在柏原市法善寺町)の大庄屋の次男として生まれる。武道を好み、剣・馬術をよくし、豪放で男だてに富む。善之祐と交遊があり義軍に身を投じ、各地に戦攻があった。共に京都で斬られる。享年21才。明治35年11月8日、従五位を贈られる。
・船田彦次郎 (石川一)因州鳥取新田、松平伊勢守の家来・高百石。同志とともに義軍に加わり、京都で斬られる』
『紀州・龍神にて 紀藩が吾子の火傷の手当てするに謝して、鬼神も恐れざりしがまことある 人のなさけよ袖ぬらしつつ 長雄』
R425を東に進みます。「天誅倉」までは、地方の国道レベルでしたが、すぐに林道レベルになってしまいました。右手は、「小又川」の深い谷です。11:53、谷の対岸の山が大きく崩れていました。ちょうど視界が広がっていたので、激写&休憩しました。道路の山側に小さな滝がいくつも現れます。その半分は道路に水が流れており、冬場は凍結注意で走ったらあかん道です。道と川の標高差がなくなってきました。いずれにしても、川の水がとても綺麗です。道は1.5車線で、落ち葉・落枝・落石・水たまりの連続なので、アベレージスピードは20〜30km/hで伸びませんが、交通量はほぼゼロで好物の道で楽しい。
12:06、「民有林林道・中の河線 延長2155m・幅員3.6m」が分岐していました。ここでまたドリンク休憩。12:30、「十津川村・迫西川」。「進路(東)方向:十津川温泉31km・温泉地温泉39km、戻る方向(西)方向:龍神温泉16km」。南北道R371とR168を結ぶ東西道R425のまだ半分も来ていないことに驚きました。スピードを出せないので、距離が伸びません。
12:42、小さな滝を激写していると、バイクが抜いていきました。先程抜いたニンジャ250ではありませんでした。走り出した直後、四輪の対向車がありました。R425に入って初めての対向車でした。突然民家が現れ、森が切れ、頭の上に空が広がりました。既に過ぎた「牛廻越」で和歌山県龍神村から奈良県十津川村に入りましたが、十津川村の方が道路が少し良くなりました。R425沿いに住む住人も多いみたい。緩やかな下り基調になりました。少し走ると、対向バスが来ました。「この道をバスが走っているのか・・・」と驚きました。ちょうど道の広いところで良かったです。
13:11「片川口」バス停。13:16、「手掘り感満載のトンネル」がありました。それを激写していると、ニンジャ250が抜いていきました。それを追いかけて出発。少し走るとヘリポートがありました。少し走ると滝。民家が増えてきました。13:42、『民有林林道・奥大谷線 幅員3.0m・延長2055m』分岐。「迂回路」として奥大谷線が指定されています。
13:51「川合神社」。『川合神社の祭神は菅原道真公、村人は親しんで(天神さん)とお呼びしている。天満宮・天神社は全国に12000余社あると言われているが、この川合神社には、桓武天皇の16代の子孫・平資盛(すけもり、清盛の孫、改名して玉置直虎)は、文治元年(1185)2月7日摂津の国一ノ谷落城の後、河内の国の梅谷で36郷の領主となった。しばらく居住して、北野天満宮を杉の枝に勧請し、男子4人を連れて、伊勢の国へ移り、牧田庄大里に居住して16郷を支配した。この地を長男市正(いちまさ)に譲り、玉置直虎(たまきなおとら)は大和十津川郷の玉置山に移った。健保5年(1217)、3男の加賀守直次が十津川郷の鎮守頭として、玉置庄司(たまきしょうじ)と名乗り、その住居に天神社を建立していたが、安貞2年(1228)5月25日、西川の河合(川合)の郷に祀り、川合天神と称するようになった。そして末代まで玉置氏の鎮守神として崇め、お参りを怠ってはならないと戒めた。(「玉置山権現縁起」より)
加賀守直次が天神社を建立した河合の郷はどこか。世界遺産「小辺路」(高野街道)に隣接し、「矢倉観音堂」上の尾根を東へ下がった所、現在の川合神社から道路を500mほど上がった前田谷の上流に「川合(かわい)」と呼ばれる地がある。ここは杉木立の間を細い谷川が流れ、その岸辺には大石をあしらった石垣が今も苔むしたまま残っている。昭和20年代までは数枚の棚田だった。一番下の小さな田が「天神田」と呼ばれて、牛で耕さず人手で行われていた。小さな祠が祀られていたのでしょう、「天神さん」がいつ宮平の地に遷されたかは定かではない。
その後、宮平の地には菅原道真公を祀る本社をはじめ、境内社として勝手神社・若宮神社・稲荷大社の4社が鎮座することになった。明治44年(1911)、これまで各大字ごとに祀られてきた神々を川合神社に合祀した。そのため境内が狭くなり、大正4年(1915)10月15日、境内を拡張し22柱の御祭神を西川区の総氏神様としてお祀りすることになった。左端には、地区でお亡くなりになった方々の御霊を祀る祖霊社が鎮座している。
平成27年(2015)11月吉日 川合神社氏子有志』
少し走って、左折して「川津今西林道」に入ります。TMでは「路面状態良好で展望も素晴らしい」と書かれています。14:03、谷川を渡る小さな橋。ここで2本の谷川が合流しています。2本の川両方とも、土砂で埋まっています。上流で山が崩れたのでしょう。山奥なのに広い河原になっています。石の粒が揃っており、この場で石粒販売が出来そう。小さな滝で激写休憩し、更に標高を増して行くと、上からヘルメット無しのカブのおっちゃんが下ってきて、大きく手を振ってくれました。止まると、「この先、崩れてて通れない」と教えて下さいました。標高670m。
残念ながら、Uターン。途中の分岐まで戻りました。『林道今西線(起点) 幅員3.0〜3.6m・全延長4155m・設計速度20km/h 管理者:十津川村長』。「林道今西線」は、まだ工事中のようで通行止めになるようで、更にトンネルの所まで下りました。トンネルを潜り、峠を東に抜け、R168まで下りました。
「十津川」を橋で渡り、「十津川村役場」のPにバイクを停めて休憩しました。「道の駅・十津川郷」が見えています。橋の上から十津川を覗くと十津川に直接注ぐ小さな滝がありました。「十津川」沿いをR168で北上します。左折してr733に乗り、「十津川」を西に渡り、ここから長駆「高野龍神スカイライン」の「ごまさんスカイタワー」付近まで登ります。標高差は、320mから1250mまで930m。現在時15:07。山に入るには勇気のいる時間です。街灯など皆無なので、日没までに「高野山」まで行きたいけど・・・。いざ行カん!
道路脇から細い滝が下っており、「神納川」の深い谷に下っています。更に進むと、県道が工事のためか、河川敷仮設道路を走ります。標高が上がり、道は川から離れ、横が深いそして大きな谷になってきました。道なりに、「奥千丈林道」になり、慎重に走ります。ここで標高520m。
右に左にバイクを振りながら、ゆっくりと標高を稼ぎます。尾根に近くなったようで、道を覆っていた森の木々がなくなり、山並みが見えてきました。素晴らしい景色です。標高820m。ただ、陽が傾き明るさが落ちてきました。1週間前に「ごまさんスカイタワー」から見たこの道は、最後は長くスカイタワーPから見えていました。つまり、直接スカイタワーが見えてから数キロ走るはずです。日没が不安ですが、スカイタワーは見えません。
せっかく標高を稼いだのに、下りだしました。標高730mまで下り、沢を小さな橋で渡り、また登り基調になりました。標高780mまで登りましたが、また下りになり680mまで下り、沢を橋で渡ります。また登り基調になり、緑の森に覆われたなだらかな山容の重なりを見ながら、ゆっくり標高を伸ばして行きます。
周囲の山の頂上が近づき、標高1200mを越えたな〜と思える「尾根道」になった頃、BMWのアドベンチャーバイクが下ってきました。初めての対向車です。16:35、林道の谷側の木々がなくなり、素晴らしい展望になりました。谷を隔てて遠くに「ごまさんスカイタワー」が見えてきました。谷を隔てた山の山頂などを走る林道が見えます。「ごまさんスカイタワー」横から山に入っていく未舗装林道がありましたが、あの道の先でしょうか。
谷側に木々がなく、深い谷を見ながらの走行になり、高所恐怖症気味の僕にはちょっと怖い。でも素晴らしい景色で、四国のUFOラインの尾根道に似ています。少し暗くなっていますが、日没前に「高野龍神スカイライン」まで着きそう。尾根道なので、落石などは少なく走りやすくなりました。道端のすすきが大きく育っており、左右から覆う道路を走ります。なんだか楽しくなってきました。R168からr733を経て延々山道を登って来たご褒美の道を走っているようです。
通行止め踏切型ゲートを抜けてすぐ、R371「高野龍神スカイライン」に到着。左折すると「ごまさんスカイタワー」ですが、暗くなる前に高野山まで下りたいので、右折して高野山に向けて北上します。勾配は緩やかな下り基調です。交通量は少ないですが、バイク率が高い。素敵なワインディングロードですが、気持ちよくカービングしていると、バックミラーに後続バイクがおり、驚くことがありました。対向バイクも明らかに速く走っているバイクやツーシータースポーツカーがおり、この道は怖いな〜と思いました。僕のような鈍足バイクは、あまり走らない方が良い道と悟りました。
17:09、この道も尾根道です。東の奈良県と西の和歌山県の県境尾根を縦走しています。谷側の木々が切れた所があり、バイクを止め激写タイム。西の山並みが素晴らしい。もうすぐ高野山の繁華街と思っていると分岐がありました。新しく出来た中心街をパスして「大門」に続く道のようです。迷わずそちらを選択します。この新しい道もR480指定のようです。ナビに載っていない道です。綺麗な道で気持ち良い。この時間なので空いているので、ワインディングを快調に走ります。長いトンネルを2本抜けます。まだ空が明るくラッキーです。15時過ぎてr733に突っ込んだ時点で、「明るいうちにスカイラインに着ければラッキー」&「高野山は暗いだろう」を覚悟していました。「九度山まで明るければ良いけど・・・」と思いながら走ります。
17:29、「大門」通過。九度山に向かってR480の下りワインディングに入ります。気温24℃でした。スカイラインで僕を一瞬で追い抜いていったロータスに追いつきました。木材を積んだトラックがネックのようですが、僕が追いつくとすぐ良い場所があったのかトラックにハザードが出て、抜かさせてくれました。更にロータスの前の軽四も横に寄ったので、ロータスに続き僕も抜きました。ロータスは速く、すぐに視界から消えていきました。しばらく走ると、バイクが追いついてきたので、左ウインカーで抜いてもらいました。
バイクもすぐに消えていきましたが、暫く左右にバイクを振っていると、バイクにもロータスにも追いついてしまいました。工事かな?追い抜いていったバイクのドライバーは髪の長い女性でした。リアタイヤサイズから想像するに、250ccのようです。
工事現場を通過し、交差点でR370に当たり、右折して「九度山」方面に下ります。女子バイクは左折して行きました。ロータスに続いて、森の中のワインディングを下ります。「高野下」まで下り、森から出ました。右折し、R370から離れ、広域農道「紀の川フルーツライン」農道に上がり、道なりに「紀ノ川」に下りました。R371に乗り紀ノ川を渡り、「紀見トンネル」を抜け、「石仏バイパス」を利用し、18:33「エネジェット河内長野ニュータウンSS」で給油。198km/5.91L=33.5km/L。暗くなってしまったので、車載カメラを回収し、R170〜R309で「三原北IC」から「阪和道」に乗りました。「吹田IC」で下車し、中央環状道〜R171で帰宅しました。


2020/9/6
家内が仕事で神戸のホテルに行きます。8時に駅まで送り、家内に頼まれ近所のスーパーに寄って食材を買って家に帰りました。朝食のトーストを焼き、「通勤リード110」で新西宮YHに向かいます。その途中伊丹警察署に寄って、「通勤リード110」でお縄になった反則切符を持って手続きをしました。5年ぶりのお縄です。3〜5年に1回のペースでお縄になっています。過去のお縄は、四輪での踏切一時不停止、バイクでの高速道路路肩通行以外は全て駐禁です。二輪での駐禁は初めて。反則点数2点+罰金9000円の納付書を頂きました。日曜日なので納付は後日。駅前の銀行に振り込みに行った時、混んでいて並んでいた時間が余計だったようで、駐車監視員にペタリされました。5分ぐらいしか停めていなかったので、係員がいる時にバイクに戻りましたが、既にペタリされた後だったので「残念なり」でした。
YHに着いて、台風対策のため係留艇に向かいます。今回の台風10号(950hPa)は九州の西海上を北上するので、こちらには大きな影響は無さそうだけど、ステアリングキレ角問題もあります。
係留ロープを4本追加しながら、ステアリングを回してみると、前回は270度しか回らなかったのに、380度ほど回るようになっており直っていました。直した事情を聞いていないので、S先輩に電話しました。「え、直ってるの。きっとMがやってくれたんじゃないかな。直ってたらOKじゃん」。M先輩に電話してみましたが、「電源が入っていないか・・・」で、次にHさんに電話しました。「昨日、Matさんが直したみたいよ。何処が悪かったか聞いているので、船にいるのなら15分で行くよ」とのこと。
増しロープ作業を再開し、最後のロープ作業をしている時、Hさんがやってきました。ステアリングをラダーに伝える所が、抜けかけたボルトに引っかかっていたようで、それを直してもらったようです。加えて、オートパイロットのワイヤーが切れかかっているようで、修理が出来るまで使用禁止だって。前回家内と乗った時私が気づいた異変を、先輩方に伝え、Matさんの修理に至りました。良かった〜。
Hさんと、あれやこれや船上で話し、13時が迫ったので、昼食を食べに行きました。斜め前に係留しているセイリングクルーザーから、D社OBのAさんの声が聞こえていましたので、挨拶してからセンターハウスに向かいました。私が船に着いてから桟橋を離れていき、GS桟橋の方に行かれていました。それから沖に出たのかどうかわかりませんが、桟橋に帰って来られていました。
センターハウス3F「WACHA」で、「カレー950円+セットドリンクオレンジジュース150円=1210円」を昼食にしました。13:34解散して帰路に着きました。R171で伊丹市内に入った頃、ポツポツと雨が落ちてきました。傘が要るほどではありませんが、しっかり雨になる前に倉庫に戻りました。
夕方、駅まで家内を迎えに行き、1日が終わりました。台風が九州に近づき、NHKが台風特番になり、楽しみにしていた「大河ドラマ・麒麟が来る」の放送がなくなってしまいました。よって8時台に夢の中に入りました。


2020/9/5
高野山から龍神温泉まで走る「龍神スカイライン」にトライします。このスカイラインは標高1000m前後の峰を走る絶景スカイラインで、走り屋バイクの聖地です。僕のような鈍足バイクにはお呼びでないスカイラインですが、この峰への絶景林道が数本あります。それにトライしましょう。
5時前に、倉庫から「招き猫CB400SB」を出して出発。R171〜中央環状線を走り、吹田ICから近畿道に乗って南下します。道なりに阪和道に入り、「岸和田SA」で休憩しました。続いて6:35「紀の川SA」。「和歌山IC」で下車し、r143で東進し、7:02「セルフィックス和佐SS」で給油。大手ではないGSですが、強烈に安い「レギュラー@118円」の看板に惹かれ入店しました。247km/9.73L=25.4km/L。
そこからr9で南下し、左折してr13を少し走り、「都麻津姫神社」。良さそうな名前だったので寄りましたが、丘を上がっていく小さな神社でパスしました。r13に戻り、右折してr9で南下し、7:24「伊太祁曽神社」。
『紀伊国一之宮・伊太祁曽神社の御由緒 妹神大屋津比売命 御祭神:五十猛命(大屋毘古命) 妹神郡麻津比売命
五十猛命は、木の神様であり、国土緑化の神様でもあります。2柱の妹神と共に全国の山々に木を植えて、青山となされた御神徳は、高く木之国の祖神と崇められ、有功之神と称されています。
また、父神須佐男命と共に浮宝(船)を造り、住民に漁の業を教えたことから、漁業関係者の信仰殊に篤く航海交通安全を司る神様でもあります。さらに大国主命が八十神に命を狙われた時、当社に身を寄せ木の俣をくぐって難を逃れたことから「いのち神」の信仰が起こり、災難・厄除の神として知らされています。
当社は五十猛命を祀る全国多数の神社の総社・一宮として木材業・山林業など木に関係する生業の方々を始め、漁師などの尊崇篤く厄除・交通安全・病気平癒などの祈願が多く寄せられます。
主な祭典:卯杖祭1月15日・卯杖・小豆粥・粥占神事 木祭4月第1日曜・木霊感謝・植木市 茅輪祭7月30・31日・わくぐり・夏越祓 例大祭10月15日・新穀感謝の秋祭・振興渡御』
『大鳥居 明治19年の記録によれば「大鳥居・神明造柱廻り6尺3寸・横巾3間壱分・高さ3間9分」とあり、現在とほぼ同じ大きさであった事が窺える。
昭和13年の御造営で現状の明神鳥居に変更されて以来、80有余の星霜を経て、老朽化が進み倒壊の恐れがあった。折しも第62回伊勢神宮式年遷宮の古材の譲手に預かり、鳥居の修繕を計画した次第である。
この大鳥居の柱の下部分は、今までの鳥居の木材を再利用し、上部分に伊勢神宮の古材を繋ぎ合わせ、伊勢神宮と当社を融合した形で完成した。
尚、笠木・島木・貫の腐食部分は埋木をすることにより、原型の保持に努めた。
平成29年7月吉日 伊太祁曽神社』
『御神木の大杉 木の神五十猛命を祀る当社の御神木として永くこの地を聳え、その樹齢は1000年とも言われてきました。昭和37年、落雷により炎上、そばに若杉を植え、古幹は割拝殿に保存。大国主命を助けた神話(古事記)に因み「木の股くぐり」を体験して下さい。 社務所』
境内から更に石段で上がり、拝殿門をくぐり本殿郭に上がります。天皇陛下からの幣帛料の木札が数枚下がっていた。さすが紀の国一之宮。本殿に参りました。「有功殿」という社殿がありました。
『神木・梛(なぎ)の木 神木槨の木
梛は、マキ科の針葉樹ですが広葉樹の様な幅の広い葉が特徴です。その葉は縦に平行脈が多数あり簡単に裂くことができますが横方向にはなかなかちぎれません。また、他の植物の生育を抑制する物質を分泌するとも云われてます。
葉の丈夫さから「家内安全・夫婦円満」、他の植物の生育を抑制する力から「魔除け」の霊力があると伝えられます。その名が凪に通じるとして船乗りの信仰も篤い樹木です。
いずれもその葉をお守りとして持つと良いと伝えられています。 伊太祁曽神社』
割拝殿に参ります。『命を守る耐震補強 壁柱(吸震工法) 壁を柱状に変更することで地震の揺れを吸収し、家屋の倒壊を防止、命を守る耐震補強の工法です。杉の間伐材を利用して角材を連結した壁を作り耐震壁とします。社団法人大阪府木材連合会が京都大学防災研究所と共同で研究開発した吸耐震工法です。この割拝殿の改修に際し、壁柱工法を採用して耐震性を向上させ地震に備えました。御家庭でもご検討下さい。「そなえあれば憂いなし」 伊太祁曽神社』
『伊太祁曽神社の御祭神「五十猛命」は素戔嗚尊の御子神様です。「日本書紀」には父神に従って高天原から天降られる時に多くの樹木の種を持ってこられて、日本全土に蒔き植樹されたと記されています。このことから「木の神」と崇められてきました。和歌山県は木の神様がお鎮まりの国ということで木の国と呼ばれていましたが、奈良時代に国の名前は漢字2文字とし雅字を充てよという勅命によって「紀伊国」と改められました。
この様な御神徳故に木材業・山林業に拘る方々の崇敬は極めて篤く、材木の主な集産地には御分霊をお祀りした「伊太祁曽神社」が鎮まっています。
古事記には大屋毘古神という名で登場する五十猛命は、大国主神が八十神に追われ矢を射掛けられるところを木の俣をくぐり抜けさせることでその命を救います。このことから災難除の神・いのち神という信仰が生まれ、厄除けや病気平癒の祈願に多くの方がお参りされます。拝殿に置かれた御神木の一部は根元に人がくぐり抜けられる穴があいており、災難除けの木の俣として参拝者がくぐって行かれます。
木の神様は船の神様でもありました。古代の交通手段は徒歩か船でした。船は大量輸送ができ、また食物の確保(漁業)にも必要な為、浮宝と呼ばれて大切にされました。船は木で造ったことから海に拘る人達は木の神様を崇め、航海安全を祈るようになりました。今も大阪湾から紀伊水道沿岸の漁師の方々の信仰が篤いのはこのためです。海上交通の安全を護る神は、自動車が普及すると陸上交通の安全を護る神としても崇められるようになりました』
『世界チャンピオン・城所啓ニ氏のチェンソーカービング 木を伐るチェンソーで丸太を彫刻するチェンソーアートは「チェンソーカービング」とも云われ、犬・熊・フクロウ・龍など様々な彫刻を行います。 チェンソーで仕上げまでを行うため「世界最速の彫刻」と云われ、作品だけでなくその制作過程をエンターテイメントとして楽しみます。日本では、主に杉材を使用して森林育成に貢献しています。 毎年当神社の「木祭り」(4月第1日曜)には世界チャンピオンの城所啓二氏(龍神村在住)がその腕前を実演奉納してくれます。 これらの作品(十二支)はその時のものです』
横に、イノシシ・犬など多くのチェンソーアートが展示されていた。また、穴の空いた御神木も置かれており、木の俣くぐりが出来るようになっていました。摂社の「蛭子神社」に参りました。入口に龍のチェンソーアートが展示されていました。寺院の仁王像、神社の狛犬のようです。
『蛭子神社 伊太祁曽神社の氏子区域内に祀られていた産土神を国の方針でここに合祀されました。22の神社があり、それぞれの神社名とお祀りされていた場所は掲示のとおりです』
霊石が置かれていた。『霊石おさる石 猿の顔に見えるところから「おさる石」と呼ばれる。古くは参詣者が本殿参拝の前に手をあてて心気を鎮めたと伝えられる。今日では首より上の病に霊験著しいという』
社務所は閉まっていました。大きな神社なのに・・・御守護など展示されている授かりものを見上げながら・・・残念。
『御井社 御祭神:弥都波能売神(みづはのめのかみ)・御井神(みいのかみ)この先50m 神社の前の井戸より湧く水は絶える事無く古くから「いのちの水」として多くの人々に敬われてきました。飲むと活力を得ると伝えられ、飲料水や料理用にと遠方より汲みに来られる人もあります。
殊に病気の人には元気を取り戻す霊力があると信じられ、春秋を通じてこの社を訪れ、水を汲みに来る人も絶える事なく、神様に手を合わせてから、「お水を戴き」ましょう』
『祇園神社 祭神:須佐男命・天照大神・埴安姫命
この祇園神社は、伊太祁曽神社の祭神五十猛命の父神様である須佐男命等をお祀りしています。神社合祀令により氏子区域内に祀られていた祇園社4社(塩ノ谷・明王子・山東中・奥須佐)も明治42年にここに合霊されました。現社殿は平成23年9月に改築されました』
r138〜r13で、「わかやま電鉄貴志川線」沿いを東に走り、右折してr10で南下し、8:08「貴志駅」。「ニタマ駅長」は出勤前で、駅内カフェも開店前でした。
『マネージャー駅長「ニタマ」ヒストリー
ニタマ駅長が生後2ヵ月頃の話です。岡山の国道53号線を2匹のねずみ色の子猫が歩いていて、車に幄かれそうになっていました。通りかかったご婦人が助けて家に連れて帰りシャンプーをしたところ、三毛猫と判明しました。
そのご婦人が、和歌山電鉄の親会社、岡山電気軌道の社員と知り合いであったことから、三毛猫ならたま駅長と縁の深い、岡山電気軌道で引き取ってもらえないかと相談があり、お困りならもらって差し上げてとの社長の意向により、岡山電気軌道の観光セッター事務所で受付嬢として暮らしていました。
そして、高齢で多忙のたま駅長の駅長業務の手助けが出来ればと、再々の社長面接に見事合格し、和歌山電鏃に転勤することとなりました。
2012年1月5日、伊太祈曽駅長兼貴志駅長代行の辞令を受け、たま駅長に初めて猫の部下が誕生。その後、たま駅長直々の研修を受け、2月18日に伊太祈曽駅長に着任しました。
「ニタマ」の名前の由来は、たまに似ている三毛猫で「似たま」をもじってニタマということと、たま駅長が一番で、たまの部下で2番目のたまということで命名されました。「ニタマ」がカタカナ表記なのは、ペルシャ猫のように毛足が長く洋猫であることから決まったものです。
経歴:生年月日2010年3月3日(推定) 性別♀(メス) 岡山生まれ
2012.1.5 たま駅長初めての部下として「ニタマ駅長」が誕生。伊太祈曽駅長兼貴志駅駅長代行に就任。たま駅長の公休日などに貴志駅の駅長代行を務める。
2012.2.18 たま駅長の研修、見習い期間を経て伊太祈曽駅に着任
2013.2.7 和歌山市長より、和歌山市観光特別大使アゼリニャを拝命
2014.1.5 スーパー駅長に昇格(課長職)
2015.8.11 たま駅長の後継として「たま2世駅長」を襲名。貴志駅駅長に就任。
2019.1.5 マネージャー駅長に昇格(部長級)』
r10に戻り、ほんの少し走って、8:14「大国主命神社」。
『主祭神:天照皇大神・大國主命・少名毘古那命 合祀神:権大神 境内社:市杵島比売大神 例祭日:春4月3日・秋10月3日 特殊神事:大飯盛物奉納神事 社宝:大御輿(1台)・大飯盛物祭礼絵巻・貴志荘権大神伝記板・大相撲勧進元記板・大相撲番附板(2枚)・奉納百句集板額 指定文化財:大飯盛絵巻祭礼図(市指定)・権大神像(市指定民俗文化財)・神舞殿(市指定民俗文化財) 主たる建造物:本殿(木造檜葺3間流造29.97平方メートル)・拝殿・神舞殿(木造瓦葺高床式舞台造39.6平方メートル)・神輿庫(鉄筋コンクリート造13.2平方メートル)・ 手洗舎(木造瓦葺1.95平方メートル)・ 社務所(木造入母屋造平屋85.17平方メートル)・一ノ鳥居(石造明神鳥居)・二ノ鳥居(硬質ビニール明神鳥居) 境内地:9.190平方メートル・境内山林26.572平方メートル 氏子区域:貴志川町大字・神戸・国主・国主台・前田・尼寺・上野山
由来:貴志川左岸にある陽向山に鎮座する大国主神社は通称(おくにっさん)と呼ばれ、「縁結びの神」「福の神」として古来より上下の崇敬甚だ厚く、紀伊続風土記によると、大国主命が八十神等の危難から逃れる為、木ノ国大屋毘古神(伊太祁曽神社)のもとへ赴く途中、当地に立ち寄られた事を由緒として祀られたのが始まりとされ、本国に大国主命を祀る所多きも当社その本宮なるべしとあります。
また、「紀伊国名所図会には、嵯峨天皇のお告げにより、弘仁9年(818)当神社を御造営になり畏くも遥々行幸あそばされて、境内に白槇をお手植えになったとあり、建久6年(1195)源頼朝により社殿再建がなされたとあります。
後鳥羽上皇御歌 「ふたまたや 又二股の 川中に しるしの烏帽子 われは立ておく」
明治時代に合祀された権大神は、貴志谷を開拓した鎌倉時代の貴志正平を農耕の神様としてお祀りしています。
鎌倉時代から続く大飯盛物祭は、神社近くの国主淵に住む龍蛇の鎮魂のため、約6000個の餅を取り付けた高さ5m・幅3mの大きな握り飯に見立てた盛物を神社に奉納する神事で、天下の奇祭として有名です。
御神徳:縁結び・開運招福・商売繁盛・家内安全・五穀豊穣・病気平癒・交通安全・厄除けなど』
『祀の川市指定文化財
民俗文化財(指定第8号):権大明神垂連神像(南北朝時代)・大盛飯祭礼図(明治時代)・大国主神社神楽殿(江戸時代中期)
指定:昭和51年9月29日 所在地:貴志川町国主1番地
権大明神垂連神像は、貴志の庄を開拓した農祖神として古来郷人に親しまれ「権大さん」と呼ばれ、その御姿は農衣で左肩に鍬を担いでいたといい伝えられているが、今はその鍬はない。一木造り彩色で身丈約37cm・肩幅約19cmで大国主神社に合祀されている神像である。
大盛飯祭礼図は、古来「貴志の大盛飯」として継続されてきた祭礼行列を描いたものである。
明治初年中絶のやむなきに至り、今後の復興の資料にと中西才松翁が中島寿雄氏に依頼し、明治17年3月に祭礼行事の模様を描いた貴重な資料である。
神楽殿は、高床式舞台造りである。当時この地方の文化殿堂として祭礼に際しては能舞台や神楽殿ともなった。また、句会の場ともなり場合によっては奉納相撲の観覧席ともなって人々を楽しませてくれた。このように神事・祭礼につかわれた建物であろう。
民俗文化財(指定第19号) 大飯盛物祭(鎌倉時代より現在) 指定:平成5年9月21日 所在地:貴志川町国主1番地
鎌倉時代末頃から大国主神社に伝わる伝統ある行事である。
盛物とは高さ約5m・幅約3mの電球様のものを竹軸て作り表面にむしろを巻き、餅をぐるりに取付けたもので、この盛物を奉納する全国的にも類例のない珍しい祭である』
『大國主神社神事
例大祭:春祭4月3日 大祭:祈年祭2月・秋祭10月3日・新嘗祭11月23日 中祭:歳旦祭1月1日 小祭:日供毎日・月次(つきなみ)祭1日・15日 大祓:夏越大祓7月31日・除夜祭12月31日
人生儀礼:初宮詣・七五三詣・入学報告祭・成人祭・自動車祓・交通安全・厄除・其の他
出張祭:地鎮祭・宅神祭』
『氏神様のおいたち 清流の国主淵の丘に祭られているこの神社は、市杵島比売神社と申し上げ国主区民の氏神様です。私達の遠い先祖の時代から代々祭り継がれてきました由緒ある神様です。
市杵島比売神社に関しては、紀伊続風土記にも明記されています。このお社は、平成21年4月に西垣内田村太郎氏により奉納されました。
平成21年 国主区長 中西国夫拝跪』
r10に戻り、先に進みます。R424に突き当り、そこにあった「セブンイレブン貴志川町井ノ口店」で、「助六寿司」を購入。
R424〜r129から「広域農道」のような快適なワインディングロードでいくつかのトンネルをくぐり、r19で南下します。ツーリングマップルには、「龍神街道」となっており、「狭路多し・対向車注意」と但し書きされています。好物な道を前菜にします。片側は深い谷の「落ちたら死ぬ」&「四輪離合注意」の山中の崖道でとても素敵です。9:09、「南福寺」。無住の小さな寺院が県道沿いにありました。9:18、山中の峠で「有田川町」から「紀美野町」へ入りました。標高640m。「平成の龍神街道(江戸時代コース)」と書かれていました。
森の中の林道をまだまだ楽しみ、沢に「遠井谷川」と名がつくようになり、9:31「如月(きさらぎ)美術館」。お寿司を頬張ります。沢はまだ傾斜が強く、とても綺麗な水が自然のBGMを流していました。食べながら驚いたのが、藤棚からフジの花が下がっていたことです。9月なのに・・・。
更にr19を下り、R480に合流しました。R480を東進します。トンネルを抜けたら、左に「あらぎ島」が見えてきました。寄り道します。9:45「あらぎ島」展望所に到着。久しぶりに来ました。
R480に戻り、東にゆっくり走りながら、この日のメインディッシュ「森林基幹道清水上湯川線」入口を探します。「しみず温泉あさぎり」に上がる道があったので探索しましたが空振り。R480に戻り、更に東進。10:09「高野龍神スカイライン」の道標を見つけました。「森林基幹道清水上湯川線」入口発見。いざ行かん!舗装林道をワインディングしながら登って行きます。標高600mほどに登った頃から尾根道に出たようで、木々の切れ間から山並みが見え始めました。数分走って、今度は反対側の山並みを激写。尾根道スカイラインです。「矢筈山」山頂まで標高差50mぐらいのところを走って東に抜けていきます。標高650mほどです。10:44、r19・湯川渓谷から登ってきた「湯川笹の茶屋林道」が、右から合流しました。
ここからは「湯川笹の茶屋林道」。10:53「京都大学・和歌山研究林」の入口がありました。11:01「日光神社」入口がありました。参ろうと思い、ヘルメットをタンクバック&ハンドルに置いて歩き出したら、ヘルメットが地面に落ちてしまいました。慌てて拾いましたが、残念なことに庇を留めているプラスチックネジが折れていました。庇を固定するビス穴に突っ込むと、庇の下で稼働するスクリーンは動くので、問題なく使えそうです。交換ネジがあればいいな〜。日光神社まで「徒歩15分・800m」とのことで、ヘルメットの意気消沈もありパス。
2日後・9/7、「バイクワールド伊丹店」に、折れてしまったコミネヘルメットネジを買いに行きました。どうせ在庫がないだろうから、取り寄せてもらって後日取りに行く流れになるだろうと思っていましたが、汎用品がありました。店員さんがその場で袋から出して持参したヘルメットにねじ込むとぴったり、110円でした。
11:03、R371「高野龍神スカイライン」に合流。標高1080m。『高野龍神国定公園 本公園は、紀伊半島の中央よりやや西側に位置し、和歌山県と奈良県にまたがり、人文景観を特徴とする自然公園である。北部には、9世紀初期に弘法大師が開基した山岳宗教の聖地高野山があり、中央部には和歌山県の最高峰である龍神岳。南部には古い歴史を持つ山峡のいで湯・日本三美人湯の1つとして有名な龍神温泉がある』
ここから、高野山から南下してきたR371「高野龍神スカイライン」を、龍神温泉に向かって南下します。11:14「ごまさんスカイタワー」。東の山並みが遠くまで見えています。走ってみたいr733から龍神スカイラインに上がって来る絶景尾根林道も見えます。
『護摩壇山
紀州の屋根、護摩壇山を頂上とする龍神の山並みは、雄大な原生林の大樹海といにしえ人の逸話を数多く残している大自然と伝説の宝庫です。
本公園は、紀伊半島の中央よりやや西側に位置し、和歌山県と奈良県にまたがり、人文景観を特徴とする自然公園である。北部には、9世紀初期に弘法大師が、開基した山岳宗教の聖地高野山があり、中央部には和歌山県の最高峰である、護摩壇山、南部には古い歴史を持つ山峡のいで湯、日本三美人湯の一つとして有名な龍神温泉がある』
アイスでも食べようと、「ごまさんスカイタワー」に入りましたが、少量のお土産だけで、コンビニ的なものは売っていませんでした。タワーは有料で300円でした。
『展望塔 高さ33m エレベーター15人乗り
平維盛が護摩木をたいて、平家の行く末を占ったという史実にちなみ、護摩木を積み上げた独特の形に設計しています。 展望台からは、大台・大峰をはじめとした美しい山並みの他、見通しの良い日には、紀伊水道の島々も望むことができます』
家内からLINEが入っていました。コーチしている大学ヨット部のレース観覧船をお願いしていた方から電話が入ったそうです。すぐに電話し、貸してくれるボートを確認するため、学生とコンタクトを取りました。
ここから下り基調になり、交通量も少ないので、軽快にワインディングを楽しみます。12:06、右折してr19に入ります。ここから日高川沿いの林道を上流に向かいます。標高500m。この日、2本目のメインディッシュです。12:17「日高川」を渡ります。橋の上で止まり川を見ると、とても綺麗。鮎釣りの方が川に入っています。ここから、「(仮)日高川沿い林道」。
12:20、吊橋があったので、バイクを置いて渡ってみます。1.5車線舗装林道です。落ち葉落枝&落石はデフォルトで、穴は水たまりになっており、スピードは出せませんがとても楽しい。道を譲り抜いてもらった1台と、数台の四輪とすれ違いました。抜いて行った四輪も釣り人で、この林道に入る四輪は皆さん釣りの方のようです。
12:29「龍神山」と書かれた吊橋があり渡ってみました。こちらはワイヤーが細く、敷いた板もイマイチで、渡り始めたら揺れてこちらは断念しました。12:35「日高川」に合流する沢が右に離れていきます。それを渡る橋に止まって見ると、小さなダムに魚道が作られていました。
日高川を遡ります。ずっと勾配は緩やかですが、流石にこれだけ登ってくると、日高川沿いから林道は離れ、谷底までの距離が上がり、周囲の山の山頂が近くなってきました。緑のセンターラインが現れだし、落石の数が増えてきました。
12:57、林道のピークに近づいたのか、木々の切れ間から周囲の山が遠望できるようになってきました。標高900m。
『西ノ河国有林 自然を愛し森林を大切にしましょう。 枝を折ったり樹木に傷をつけないようにしましょう。 鳥獣を愛しましょう。 焚き火とたばこに注意しましょう。 樹木や土石の採取はやめましょう。 和歌山県森林管理署』
『西ノ河鳥獣保護区・区域図 この区域は鳥獣の捕獲が禁止されています。鳥獣の保護にご協力をお願いいたします。 和歌山県』
『西ノ河原生林県自然環境保全地域 指定:昭和52年3月26日
地域の特色 温帯より温帯への推移帯をなすツガの極相林であるが、ブナ林要素のものやサカキ・ヒサカキ・ウラジロガシなど暖帯林要素のものと混合し、高度を増すに従ってブナ林に近づきます。
また、渓畔林のツガーヤハズアジサイ群落やホンシャクナゲの群落は特色あるものです。 生物分布上注目を要するものもあり、すぐれた自然環境を形成しています。
・山火事防止のため、区域内での焚き火・タバコの喫煙などは禁止します。
・区域内で各種行為を行う場合は、知事の許可を受けなければしてはいけません。
詳しくは、市町村役場または最寄りの県事務所へお問い合わせ下さい』
林道脇に滝が何本もありました。道の下をくぐって沢に流れて行ったり、洗い越しで道を渡っていたりしていました。倒木が片付けられている場所があったり、がけ崩れの土砂が片付けられていたり、いつ通行止めになっていてもおかしくない林道です。
13:22、どうやら林道のピークに来たようです。標高1080m。激写していると、対向するオフロードバイクがやってきました。会釈すると止まってくれ、「どちらかな?」と、互いにこれから走るコース状況を確認し合いました。この道をオンロードバイクで・・・と僕のバイクを見ていました。「あのボコがあるから気をつけて」と言われただけだから、未舗装路やオンロードで走れないコースでは無さそうです。
下りに入ります。13:29、分岐がありました。右に行くと、「高野龍神スカイライン」に至ります。左へ下ります。ここから、更に道路コンディションが荒れてきました。砂利道のように落石が残っている場所があったり、結構太い倒木が処理されていたりで、要注意区間となりました。こんなとこでエンコしたら、レッカーはなかなか来そうにありません。
13:44、危惧していたことが起きました。倒木が道路を塞いでいます。うんしょうんしょ、路上の邪魔になる落幹・落枝を除去しました。山側からの倒木なので、出来るだけ高さの空間がある山側を抜けようと、バイクを少しずつ動かし、枝を1本ずつスクリーンやリアボックスをクリアさせながら、なんとか抜けることが出来ました。
少し走ると、太い落枝が道路を塞いでおり、バイクを降りて片付けて先に進みます。また落枝が道を塞いでおり、またバイクを降りて片付けて再出発。14:33「新桂木トンネル」を抜け、「日高川」沿いを走り、R424に乗り北上開始です。予定ではまだ林道を走る予定でしたが、時間的に無理で帰路に着きます。
14:49「道の駅・しらまの里」。アイスを購入し、糖分補給します。空模様が怪しく、夕立に遭いそうです。ドライブレコーダーにビニールカバーして出発。R424を北上していると、カッパを着るほどではありませんが、ポツポツ落ちてきました。水たまりエリアに入りました。ちょっと前、降っていたようです。
快調に楽しんだR424が終わり、「有田」市街地に入り、左折してr22で西進し、ドライブレコーダーとナビをリアボックスに片付けました。北を見ると、これから走る高速道路ではしっかり降られそうです。林道で何度も水たまりを越えたので汚れたバイクの洗車が出来そうです。カッパを着て濡れないけど蒸れるのと、着ないのと天秤に掛け、着ないことにしました。
「有田IC」から「阪和道」に乗り、予想通りしっかり雨になりました。「紀ノ川SA」で休憩し、コカ・コーラで糖分補給し出発。「岸和田SA」で休憩する予定でしたが、休憩せず一気に帰宅しました。紀ノ川から岸和田まで降られ、パンツ上部まで染みてきましたが、必ず降られると思っていた八尾・東大阪付近は晴れており、乾いてしまいました。帰宅直前、またポツポツ来ましたが、速攻で倉庫に入れてラッキーでした。
予定では、R425を東進〜R168を北上〜r733・林道を西進して「高野龍神スカイライン」に戻り、北上して「高野山」〜帰宅コースでしたが、半分しか走れませんでした。後半分を次回走らなきゃ。



逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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