-ウェブマスター日記 2020/7-8

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2020/8/23
家内が、朝からzoomでオンライン会合でお仕事でした。コロナ禍で始まったzoomオンライン会議ですが、僕に遅れて家内も慣れました。毎回僕がサポートしていましたが、この日は送られてきたzoom案内メールをクリックするところから会議終わりまで、1人で出来ました。
その後、家内のリクエストの映画「糸」を観に行くことにしました。11時過ぎに家を出て、「通勤リード110」で映画館に向かいます。以前は二輪というくくりで自転車とバイクが混在した駐輪場でしたが、置き場が変わり、バイク置き場がスッキリし空いて置き場を探す必要がなくなりました。
映画館に上がり、チケットを買います。コロナ禍によって封切り映画がなくなり、1週間前から本格的に封切り映画の配給が再開しました。先週観に行った「弱虫ペダル」でのチケット購入で驚いたのが、「空いてる席がとても少ない」&「隣席空きがない」でした。前後左右に一席空けるので、席数が単純に半分になっているからでした。「糸」は更に空席が少なかった。仕方なく、前後真ん中通路より前の席を選びました。
12:20〜「糸」。昔観た「青春の門」のような映画で、主人公の男女2人の子供時代から30才頃までを描いた作品でした。新垣結衣・生田斗真主演の「はなみずき」に似た鑑賞後感の良い作品でした。暗い歌なのであまり好きではない中島みゆきの「糸」が挿入歌でした。
「思い、思われ、ふり、ふられ」のアニメ版の封切り宣伝広告が通路に貼られていました。「弱虫ペダル」同様、漫画が人気らしく、好きなラブストーリー物なので映画の連チャンを家内に提案しましたが、「糸がとても良かったから、また今度」と振られてしまい断念。
「ミスタードーナツ」でドーナツを数個買って帰宅しました。それを食べながら、アマゾンプライムで映画を見て過ごしました。


2020/8/22
亀岡の寺社巡りに出ました。池田からR423で北上し、豊能町に入り、右折してr110で東進します。何度も走った県道を走るのもアレなので、ナビ地図を拡大し細い道も見れるようにして、適当に枝道に入り、「見山の郷」に抜けました。r109に出て東進し、突き当りはr43で左折して北上し、超細道「清阪峠」を抜けて「亀岡市」側に北に下り、r407にチェンジして北上します。
7:59「八幡宮」。R423に亀岡盆地に急勾配で下るつづら折れのすぐ近くです。バイクの音が近くで聞こえます。一面稲穂の緑が美しい田園地帯が山に入る地に立
地します。
『八幡宮(別称:岩清水八幡宮) 八幡宮は、往古より王城鎮護また源家の廟神伝えられている。古記録によれば平安時代・承平3年源満仲(多田満仲とも称す)が、丹波地方を領すに及んで、丹波桑田郡六ヶ荘中(現在亀岡市曽我部町中岩山)の地に八幡宮を勧請し、その後、社殿を建立し現在に至ったものである。
現在区民の大部は、源満仲の子孫と伝えられ多田姓を名乗る氏子も多く、代々八幡宮を氏神として尊掌して来たものである。
神仏混合時代には、山城国天台宗善峰寺の分院として明王院と称して、代々の僧侶が八幡宮を護持してきたもので、明治以降神仏分離に伴い、村社に指定されたものである。
神前の手水鉢に注ぐ水は、岩山の奥地より湧出する霊水で、古来より如何なる渇れたことなく、混々として湧き出でて岩清水として深い信仰の対称とされている。毎年9月15日は、放生会の例祭を厳修している』
森の中の石段を上がっていきます。
『亀岡の名木30-26 八幡宮社のヤマザクラ1 樹種ヤマザクラ・バラ科 所在・亀岡市曽我部町中岩山8 落葉高木。本州・四国・九州の温帯から暖帯に分布し、日本特産である。材はやや堅いが、加工しやすく、狂いが少ないので床柱や敷居、楽器の外張りにも用いられる。ヤマザクラは昔から詩歌や絵画の題材となり、社寺や庭園に植えられて国民生活に深く結びついてきた。花期は4月上旬〜中旬。〈調査日2017年6月6日〉 幹周・4.82m 樹高・15.1m』
『亀岡の名木30-27 八幡宮社のヤマザクラ2 樹種ヤマザクラ・バラ科 所在・亀岡市曽我部町中岩山8 落葉高木。本州・四国・九州の温帯から暖帯に分布。日本に10種ある、サクラ属の基本野生種の代表的な種で、西日本でよく見かける野生のサクラ。ヤマザクラは、同一地域内においても個体変異が多く、開花時期・花の色合いなどをはじめ、様々な変異が見られ、それぞれの違いを発見することも楽しめる。
〈調査日・2017年6月6日〉 幹周4.15m 樹高15.0m』
桜の案内板に、セミの抜け殻がくっついていました。我が家の壁でも毎年セミが羽化します。今年も我家の庭で育ち壁によじ登って羽化したセミが4匹いました。蝉の鳴き声は暑い夏を想像させ、更に蒸し暑い気分にしますが、お盆を過ぎ一気に蝉の鳴き声が減ると、過ぎ去る夏を懐かしむ気持ちになります。小学生の頃は、暑苦しいアブラゼミの鳴き声から、ツクツクボウシに変わると、「あ〜夏休みが終わる〜」と残念でなりませんでした。小学生時代の午後はセミ取りが定番で長く遊ばせてもらったこともありセミが好きです。よって、庭には除草剤を撒かず、雑草除けの砂利なども入れず、セミがたくさん育つようにしています。
本殿には、2羽の鳩が互いに向き合う瓦が載っていました。「向かい鳩」(対い鳩)は、八幡神社の神紋です。丹波篠山東部を鎌倉時代から領した「波々伯部(ははかべ・ほうかべ)氏」は源氏で、鶴が向かい合う「対い鶴丸」という家紋です。隣町でもあるので、それを思い出しました。バイクに戻ろうと緩い石段を下ると、広い平野が一望出来ました。地面が緑で美しいです。
r407を北上し、右折してR423を東進し、「京都縦貫道」をくぐってすぐ右折し、縦貫道沿いを南に走り、枝道に折れ縦貫道下をくぐって、8:34枝道のエンドへ。バイクを置いて、「秋葉神社」目指して歩き出しました。沢沿いの道を歩けど見つからず、途中の枝道を探るも獣道になったりで、諦めてバイクに戻りました。
8/25早朝、再度アタックしました。『秋葉神社(下矢田町医王谷) 秋葉神社は亀岡市街地の西南にそびえる竜ヶ尾(たつがお)山から東北に延びる丘陵地に祀られた火防せの神として崇敬される神社です。
社伝等によると、元禄17年(1704)時の亀山藩主・青山下野守忠重が、度重なる城下の大火を憂い、城下の安全を祈願して、前任地の遠州浜松より火鎮の神として秋葉三尺坊大権現を紺屋町穴太口に勧請したのが始まりです。
その後、寛延3年(1750)に亀山郷長杉原守建の願いがあり、藩主・松平信岑の命により現在地の小坊主ヶ岳山上に移されたといわれています。参道には「亀山城主寛延庚午正月吉辰」と銘文のある常夜灯一対があり、また本殿の前には信岑が宝暦2年(1752)に寄進した石灯龍が立っています。このように秋葉神社は千歳の愛宕神社とともに私たちのふるさと亀岡を火災から守っています』
長い階段が山を登っています。5:30出発。階段を登りきった所に石鳥居が立っていました。真下には京都縦貫道が走っています。ここに横から未舗装ながら車道が上がってきていました。ここから、参道とわかる道はなくなり、山の中を獣道程度の細道が上がっています。鳥居も案内板もないので、「また行き着かないかも?」と一抹の不安を懐きながら登っていきます。
麓の「謂れ板」に記されていた常夜灯がありました。どうやらここまでは道は合っているようです。次の目標も見えないまま、山道を登って行きます。5:41、簡素な木製鳥居が見えてきて、その先に急勾配の長い石段が上がっています。道は間違っていなかったようです。5:47、急な石段を登りきりました。質素な「秋葉神社」の社殿がありました。社殿前に、謂れ板に書かれていた石灯籠がありました。「亀山城主」と刻まれています。
5:49、お参りして下ります。朝日がオレンジ色に輝いています。イノシシが掘り返した跡があります。車道のところまで降りてきました。年配の奥様がおられたので、「おはようございます」と挨拶しました。ゴミ拾いをされておられます。日本には多くの寺社がありますが、地元の方のこのような献身行為があり、寄付があって維持しています。僕もそんな一員ですが、有り難いことです。6:01バイクまで降りてきました。登り17分・下り12分でした。
枝道を東に走り、R9に出て南下し、9:23「三宅神社」。
『三宅神社の建物・植木などの痛みが激しく、何度も修理をしていますが少しも改まりません。神社境内においてボール遊びや水栓遊び、犬の散歩を絶対しないで下さい。 三宅町自治会』
『郡家と三宅 倉(みやけ)というのは、大化改新以前に存在した天皇の直轄地をさしており「日本書紀」安閑天皇2年の条を見ると、丹波国に蘇斯岐(そしき)の屯倉が置かれたことが記されている。(みやけ)が何処に置かれたかについては諸説がある。
群家(ぐんけ)を古くは「こおりのみやけ」と読み郡衛とも言った。郡家は今日の郡の役所と考えられ、その役所には郡庁・郡舎・厨家・厩のほか十数字の正倉が建つ郡政治の中心となった。三宅郡家説を主張する理由としては、旧山陰道の要地を占め、郡家面積にしても河岸段丘・方二町の平坦面からすると、その中に収まり、式内社三宅神社(俗に三宅稲荷)は屯倉の存在を物語るものと古くから注目されてきた。
最近、郡家の発掘報告が次々となされ、次第にそのアウトラインが浮かび上がってきたので、三宅の地にもやがて科学的な調査が近づくことも時間の問題と言えよう』
R9に戻り、r402を南に走り、9:50「桑田神社」。「トロッコ亀岡駅」横を走り、10:01「桑田神社(篠町山本)」。手水舎はナマズでした、珍しい。「なまずの滝」と書かれていました。
『桑田神社(篠町山本)延喜式内社 鍬山神社の祭神と共に保津の山峡を切り開き亀岡盆地を干拓したという大山祇神と市杵姫命とも祭っている。市内では古い社で、大日本史神祇志にこの社地辺を桑田というと記されているにかかわらず、明治6年まで川向の保津の請田神社を名乗っていた。
ここは保津の急流を見下す景勝の地にあり、古代集落の成立に適し、盆地の入口に当たり、政治的にも重要地位を示していたと考えられ、秦氏の勢力がいち早く波及した所である。近世、篠村七郷から厚い崇敬をうけている』
石鳥居をくぐり、緩やかな石段を上がっていくと、里山の麓を切り開いた郭のような細長い境内地でした。山側には高木が林立しています。里側を見ると保津川と亀山盆地が広がっていた。本殿の彫刻はナイスでした。摂社を含めて植物と鳥の彫刻で、定番の龍や獅子などの霊獣や鹿などの動物はいませんでした。木花の植物は立体的で見事な出来栄えでした。
JR山陰線沿いを走り、JR亀岡駅からr403。r405で宇津根橋で大堰川(桂川・保津川)を東側に渡ります。左右に広がる稲穂の緑が気持ち良い。「平の沢池」で左折しr25で、10:38「池尻天満宮」。
『天満宮社 学問・書道・誠心・雷等災除け・農耕の神様
鎮坐地:亀岡市馬路町池尻68番地
御祭神:菅原道真公
祭典:例祭1月25日・祈年祭2月25日 新嘗祭11月25日
境内社:白太夫社蛭子社・稲荷社・日吉社・春日社・八幡社
由緒:祭神の菅原道真公は承和12年(845)6月25日京都菅原院で生誕、幼少の頃より詩歌に優れ朝廷に仕え朝野の信望も厚かったが、藤原時平の譲言により太宰府に左遷され、延喜3年(903)2月25日59才で配所において薨去(こうきょ)されました。
社伝によれば御帰神後公の御神徳を仰ぎたいと池尻村の人たちが、御分霊を太宰府より当地にお遷しし小さな祠にお祀りしたのがはじめてとされその後、長禄2年(1458)社殿を創建・長享2年(1488)社殿を再築し氏神とする・元禄2年(1689)社殿の新築、現在に至っております。
信仰歌:海ならず たたへる水の 底までも 清き心は 月ぞ照らさん』
『亀岡の名木 池尻天満宮社のオガタマノキ 樹種:オガタマノキ(モクレン科) 所在:亀岡市馬路町池尻
暖地に生える常緑高木。京都府には自生種はまだ見つかっていない。オガタマというのは招霊の意といわれ、神事に用いられてきた。花は香り高く、主に神社に植えられている。この木は神聖な木で、魔除けとして植えられ、今では神木として崇められている。3月中旬から下旬に可憐な白い花が咲き、10月に赤い実を付ける。
〈調査日1,995年11月21日 胸高幹周2.0m・樹高16m〉』
10:45「坊主塚古墳」。『坊主塚古墳は、昭和31年と平成10年に発掘調査が実施され、その全容が明らかになりました。一辺が38mで2段に築成された墳丘は2重の周濠を廻らせ、これを含めると、一辺が65〜67mの規模になります。墳丘及び周濠斜面には葺石が施され、南辺には造出(つくりだし)が設けられていました。周濠内からは、大量の円筒埴輪と共に、形象埴輪や器材埴輪が出土し、特に造出部分にこれらが集中して出土することから、造出で古墳祭祀や権威継承儀礼が行われたと考えられます。また、周濠の東南隅から全国で2例目となる僻邪(へきじゃ)の埴輪とされる盾持(たてもち)人形埴輪も出土しました。
古墳の主体部からは、朱を塗布した組合式木棺と彷製神獣鏡と共に、三角板鋲留短甲・横矧板鋲留衝角付冑と頚冑(あかべかぶと)、肩甲(かたよろい)、篭手(こて)、草摺(くさずり)等の最新式の甲冑一式と鉄刀、鉄剣等が副葬されていたことから、古墳時代中期の武人的な性格を持った地域首長の墓であること分かりました。 馬路町まちづくり推進会議』
r25を走り、10:59「住吉神社(観音堂)」。『住吉神社 当所・住吉神社は明治6年4月刑部村より遷座せしものである。従前は熊野権現であり、慶雲3丙午年(皇紀1366・西暦706)義渕僧正の勧請せしものと謂う。詳細は明らかでない。是の熊野社は、春日社・八幡社・稲荷社と共に各小社として祀る。例祭は、9月12日である』
r25に戻り、大堰川を渡るR477との交差点で右折し、「住吉神社」。『京都府登録文化財 住吉神社本殿(室町時代)・昭和62年4月15日登録 住吉神社文化財環境保全地区・神社の森一帯・昭和62年4月15日決定』
明和5年の石灯籠があった。
r25〜R477で、11:15「大辻神社」。絵馬殿に絵馬が下がっている。少し走り11:26「梅田神社」。『重要文化財・畝田神社本殿・南北朝時代建武5年(1338)建立』。『亀岡の名木・梅田神社ノムロノキ 樹種ネズ・ヒノキ科 所在:亀岡市旭町宮ノ前23 常緑低木。やせ地や湿地に生える。これだけの高木は珍しい、一般に用いられる名前はネズ。ネズとは、この枝をネズミの通り道に置くと、葉がネズミを刺し、そのうちネズミがいなくなることから、「ね居ず」が転訛してネズとなったと言われている。岩手県以南の日本・朝鮮半島・中国に分布する。〈記録日1995年4月25日 胸高幹周2.2m・樹高12m〉』
『梅田神社(旭町印地) 本殿‥重要文化財
当社は祭神に天兒屋根命をまつり、和銅2年(709)の創建と伝える。室町時代には、丹波守護細川氏の崇敬があつく、細川勝元は宝徳2年(1450)に神領地を寄進し、境内地とともに赦免地にしたという。
社殿は、一間社流造・檜皮葺の建物で、建武5年(1338)に造営された。長禄3年(1459)の修理を始め、当社には葺替等の修理に関する棟札が多く伝わり、社殿にかける人々のあつい思いがしのばれる。
境内には、大変珍しい榁(むろ)の古木がある。
また、社殿横の宝篋印塔は、「イボの神様」として信仰され、宝篋印塔のくぼみに米粒を供え、そこでできた米の汁をつけると不思議とイボがとれるという』
『梅田神社本殿 国指定重要文化財(建造物) 構造形式:一間社流造・檜皮葺 祭神:天児屋根命
現在の本殿は、建武5年(1338)北條高時、執権のとき、家臣藤井盛次に命じて建立した。一間社流造。屋根は檜皮葺である。
全体に装飾は控えめで、架構は簡素である。細部様式は古様を示すものが多く、その中で身舎頭貫(みやかしらぬき)に大仏様系の木鼻を用い、斗棋肘木(ときょうひじき)に禅宗様の笹繰(ささぐり)を施すなど、鎌倉時代に宋から伝来した洋式を採用していることが注目される。緩やかな屋根の曲線と軒反りの美しい、繊細高雅な建築です。
本社には「御上棟建武5年寅戌正月晦日・・・」の記があり、願主藤井盛次・僧祐園、大工藤井重宗、藤井景文・・・」と記されている棟札が残されていた。また裏面には「御上長禄3年卯巳正月二六日・・・」と記されている。この棟札から建武5年(1338)に建てられ、長禄3年(1459)に再構されたされたことがわかる。この棟札と建築様式が一致し、亀岡市内で記録に残る最古の神社建築として昭和16年(1941)に国宝建築物に指定され、昭和25年(1950)には国指定重要文化財に指定された(亀岡市内では千歳町の愛宕神社本殿が最古のものとして国指定重要文化財と指定されているが、棟札等がなく、建築年代が明らかでない)。しかし、この棟札は国宝に指定された前後、東京の文部省に貸し出された際戦災によって焼失したといわれる。
現在本社では21枚の棟札が所蔵されているが、そのうち11枚も国指定重要文化財に指定されている。重要文化財の指定を受けて、昭和26年(1951)には本殿の解体修理が行われ、往時の姿がよみがえった。現在の本殿の屋根は平成26年(2014)に葺き替えられた』
『梅田神社
当社は「類聚国史(るいじゅうこくし)」「古跡志らい魚記(こせきしたらいうおき)」「明和丹波志』等の古書に掲載され、これらの言い伝えによると。元明天皇の和銅2年(709)に創建されたといわれる。
大神朝臣狛麿(おおかみあそんこままろ)丹波守の夢に「老翁来タリ告ゲテ日ク、阿那爾恵志丹波国井路ノ里ニ清水湧キ出ル瑞地アリ、此処ニ一ノ宮殿ヲ築造シ天児屋根命ノ神霊ヲ斎キ祀レヨコレ必神事アリ」と。朝臣丹波守はこの夢のお告げを早速朝廷に奏聞し、桑田郡井路村を瑞の浄土と定め、郷民に命じ浄財を集めさせ、社殿築造の事を執らしめた。社殿は同年9月に完成し、天児屋根命の御霊を鎮め奉ったのを創祀とする。
清和天皇の貞観5年(863)5月5日丹波の国に雪が降り五穀不穣、しかるに、井路の地だけは神徳によって豊かに実り、それらの種子を四方に分け与えた。これによって一地域を挙げて御赦免朱印地とせられ、井路村を印地村と改め、この文字を用いるようになった。
「梅田神社」の称号は最明寺時頼(北條時頼、鎌倉幕府の執権(1227〜1263)が諸国巡行の節、当地の家臣を伴い印地村鎮守社に参拝し、謹みて「梅田神社」の称号を奉り、「印地村諸家にて春秋の祭祀を絶やすことなく、子孫に伝えて祭祀を忘るる事なけれ」と言い残したという。
室町時代には丹波守護細川氏の崇敬があつく、細川勝元は宝徳2年(1450)に神領地を寄進し境内地とともに赦免地にしたという。天正5年(1577)明智光秀の
兵火にかかり衰退したが、本殿は焼失を免れたと伝える。
その後、当地を領域とする篠山城主青山下野守は特に信仰が篤く、かつての用に内及び神領をご赦免地とし、古式による神事祭典を行った。お日待ち、お千度、ご供さん配りなど、五穀豊穣にかかわる素朴な神事を、今なお忠実に受け継いで行っている。
なお、平成21年(2009)10月18日には、梅田神社創建1300年記念祭・記念式典を氏子(区民)中心で執り行われた』
r408〜11:42「大送神社」。本殿の彫刻は素晴らしかった。蟇股の龍が表情や動きがリアルで、立体的で凄い。他に、ウサギや鷲・燕の彫刻が見事です。
r408を走り、11:54「舩井神社」。『祭神:住吉神(底筒之男・中筒之男・表筒之男) 春日神(武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売命)
神徳:航海安全・陸上交通・航空安全・旅行安全・五穀豊穣・殖産興業・学業成就・試験合格・芸能上達・武道競技政治必勝成就・出世開運招福・厄除け・災難除け・縁結び・安産・夫婦和合・延命長寿・諸願成就
例祭:10月21日(近くの日曜日)
式内社(延喜式神名帳927年に記載されている神社)郷社
創建は、「神功皇后の三韓征伐の時、住吉明神に守護を祈られたところ、住吉明神が現れて御船を守護し、海路つつがなく航海出来た上、三韓征伐も成功したので、凱旋後、神功皇后はこの地に住吉明神(舩井神社)を祀った」(和名抄)とある。
ここより北西500mの地、大堰川20町堰近くに「オコノモリ」と称える塚がある。「太古の森」とも書く。ここは大樹が繁り、舩井神社前身の住吉神社が鎮座していたと伝えられている。
舩井神社の名称は、大堰川を下る船の停泊地「船居」に由来する。大堰川の清流近く舟運の守り神として祀られるとともに、船枝村・滑谷村・室橋村・三津村・畑中村・諸木村・野条村の産土神でもあった。大堰川の氾濫により、文武天皇の御宇、慶雲2年(705)にこの地遷宮と伝える。
その後、崇徳天皇の御宇、保安元年(1120)丹波国司三条宰相原家保郷、南部より森日4座の神を勧請して、この社に合祀される。
本殿は天保6年(1835)に再建されたものである。
平成17年(2005)遷座1300年祭を斎行する。
境内の大杉や大榧、大公孫樹に悠久の時の流れを、立派な本殿や拝殿に奉納されている左甚五郎作の金網に覆われた絵馬をはじめ多くの絵馬に、古来新庄の郷の産土神として敬神崇祖のあつい思いの歴史を感じさせられる』
2度目の参拝です。絵馬殿に絵馬が下がっている。
『拝殿奥右上に掲げられている「左甚五郎作・金網に覆われた馬の絵馬」 この馬は夜毎に絵馬から抜け出し、近くの池に水を飲みに行っていたが、首に鈴をつけていたので、その音がやかましく村の人が困ったそうだ。
そこで、みんなで相談して馬が抜け出さないように彫刻に網をはることにした。それからは、馬が夜中に水を飲みに出ることがなくなったので、鈴の音もやみ、静かになったそうだ』
セミの抜け殻が、謂れ板にくっついていた。絵馬殿には多くの絵馬が下がっていた。左甚五郎作の馬は金網に覆われていた。
『舩井神社祭神・神徳
春日神(4柱) 武甕槌命(たけみかづちのみこと):武道・競技・政治必勝成就・芸能上達・旅行安全・厄除け・五穀豊穣・殖産興業・安産・縁結び・航海安全 経津主命(ふつぬしのみこと):武道・競技必勝成就・試験合格・出世開運招福・災難除け・延命長寿・農業海上安全・殖産興業・安産・夫婦和合 天児屋根命(あめのこやねのみこと):学業成就・受験成功・入試合格・出世開運・厄除け・諸願成就 比売神(ひめのかみ):学業成就・受験成功・入試合格・出世開運・厄除け・諸願成就
住吉神(3柱) 底筒之男命(そこつつのおのみこと)・中筒之男命(なかつつのおのみこと)・表筒之男命(うわつつのおのみこと):海上安全・漁業・開運・貿易・造船などの業種守護・陸上交通・航空安全』
本殿の彫刻が見事です。蟇股の龍には玉眼が入り、動きがダイナミックです。社務所入口に絵馬や謂れなど、自由に授かれるようになっています。前回絵馬を授かったので、今回は謂れ紙を授かりました。初穂料は賽銭箱に入れておきます。「腕守社」に参りました。『腕守社には前九年の役で源頼義・義家親子に討たれた安倍貞任の腕を祀っている。奥の五輪塔は「腕(かいな)守」と呼ばれ、貞任の腕が埋まっているという。貞任の魂が、自分の体を元に戻そうとすると、青い尾を引いた人魂(ひとだま)が東の方へ飛んでいくという。
腕の痛みに効くとされ、昔は農作常で腕を痛めた人が、よくお参りに米ていたという。源氏の勢力が強かった船井郡には怨霊鎮魂を目的としたいくつかの貞任の身体を祀る場所がある。丹波の山並みを縫うようにして、ゆったりと流れる桂川。その中流辺り、京都市右京区京北から南丹市八木町にかけて、桂川の流れに沿うように、はるか奥州の地の豪族、安倍貞任(あべのさだとう)(1019?〜62)にまつわる伝説が残っている。
平安時代の後期、朝廷は、自分たちから独立した勢力を持っていた奥州の豪族・安倍氏の征討を源頼義らに命じた。11年間に及ぶ戦い「前九年の役」(1051〜62)の末、一族の長だった安倍貞任は「厨川(くりやがわ)の戦い」で戦死し、安倍氏は滅亡した。
貞任の亡骸は朝廷に送られ、都の陰陽師の進言により「東西南北に川のある地」である「有頭(うつ)の地」(源・京都市右京区京北下宇津)に埋められた。しかし翌朝、日の出とともに貞任は生き返り、たたりをなした。そこで、体を二分、三分としたが、やはり生き返る。最後は、体を7つに分けて埋め、下宇津八幡宮に貞任の霊を祭り、ようやくたたりは静まったという。
亡骸を7つに切ったところが「切畑」、首を埋めたのが「貞任峠」。ほかにも、両肩と胴体は「高谷」、腰と両足は「人尾(ひとのお)峠」、足と手を埋めた「足手峠」など、下宇津周辺には貞任伝説にまつわる地名が残る。中でも貞任峠にある「貞任の首塚」は歯痛封じの御利益があるとして、古くから地元で信仰を集まていた。
下宇津から桂川を下ること約20km。南丹市八木町にはここ舩井神社のほかにも、頭を埋めた「久留守(くるす)神社」(同町刑部)は頭痛に効く、などの伝承がある』
r408を西に走りだしてすぐ、「男前豆腐店」がありました。ここで驚いたのが、豆腐工場の道を隔てた里山側に子鹿がいたことです。僕が近づいたので山に入っていきましたが、適当に交通量の有る府道の昼間に鹿を見たことに驚きました。r408を西に走り、府道を外れ、大堰川沿い左岸を南下し、12:11「野家守神社」。
バイクに戻ると、道端に蛇が干からびていました。r408に戻り、「大堰川」を渡り、12:17「圃場整備事業」石碑。『圃場整備事業完成・美和の里』
『趣意 本地区の圃場整備事業は、「土地利用秩序形成」の指定を受け、府営事業として施工された。農村の活性化と、集落環境の整備改善を図るための事業として、圃場整備を契機に、企業の誘致及び集落施設等の非農用地も創設することとなった。更に、地区内の公共施設である府道「郷の口、室河原線」の拡幅改良と、一級河川「桂川」の拡幅及び護岸の改修にも、関係者の深い御理解と御協力を戴き着工、現在継続的に施工されている。此処に、豊かで活力の有る「ふるさと」づくりを目指し、地域の限りない振興と、発展に寄与することを祈念してこの記念碑を建立する。 平成9年3月吉日 美里地区圃場整備協議会』
石碑の横に木製水車が回っており、それを回している水路を覗くと小魚がたくさん泳いでいました。
r408を南下し、12:22「荒井神社」。『京都府登録文化財・荒井神社本殿(江戸時代)・昭和63年4月15日登録 荒井神社文化財環境保全地区・神社の森一帯・昭和63年4月15日決定』。隣の「西光密寺」。ここは「高倉天皇勅願寺」で、「文覚上人得度地」です。
r408を南下し、r451で、12:29「八幡・稲荷・疫神社」。『八幡神社・稲荷神社・疫神社 八幡神社は天正5年(1577)の建立とあります。祭神は誉田別命であり、口伝によると「その昔、大洪水のとき雀部(現・美里)より流れて来て現在所に止まった。その後雀部に返すも再度流れて来たので客社として奉った」とされています。八幡宮の祭礼は毎年8月15日に行われ、その様相は近在唯一のものであったと伝えられています。大きな山車の上に八幡太郎の人形を飾り、笛や太鼓・鉦のお囃子で獅子舞が村の各戸を廻り無病息災のお祓いをしました。また境内では芝居が上演され相撲大会も行われ周辺には多くの露店が並び賑わいました。一時期戦争で中止となりましたが、現在は大幅に縮小し10月21日の前後の土曜日に子ども神輿と獅子舞の巡行を行っています。
八幡神社の両脇に稲荷神社と疫神社があります。稲荷神社は鳥羽の多くの人が商人であったので奉ったと思われます。また疫神社は、その昔疫病が流行ったのを鎮めるために奉ったと思われます。現在、疫神社の祭礼は例年1月19日前後の日曜日に行われています。 (図説丹波八木の歴史・鳥羽今昔物語より) 平成30年3月 鳥羽自治会』
『八木町最古の石燈龍と手水鉢 八幡神社の正面左にある石燈龍は元禄2年(1689)建立の銘があり八木町では最古のものと言われています。また、境内にある手水鉢の縁に20個ばかりの穴がありますが、これは願い事が叶うようお百度参りやお千度参りした際に小石で突いたものと言われています。 (丹波八木の歴史・鳥羽今昔物語より) 平成30年3月 鳥羽自治会』
r451から田圃の中の道に外れ、京都縦貫道を西にくぐり、12:37「鳥羽田神社」。
『鳥羽田神社 創建は文亀2年(1502)11月、祭神は春日四柱神とされています。様式は「延喜式」神名帳に記されている「嶋物部神社」か「忘多非神社」でないかと推定されています。現在まで4月に五穀豊穣の祈願祭、10月には収穫感謝祭が執り行われています。鳥羽の奥の宮さんとして慕われ、区民が交代で清掃をし神社を守っています。境内には、八木町でも一番古い石灯龍(向かって右側)があります。「元禄2年(1689)に建立」と銘が入れられています。また、神木である檜の大木には妖怪退治の伝説があります。 (図説・丹波八木の歴史より) 平成30年3月 鳥羽自治会』
R9に出て、12:42「ローソン八木室河原店」で、「PARMチョコレート151円+サントリーボスとろけるカフェオレ500ml162円=313円」を購入し、Pで糖分補給&休憩しました。
r454でJR山陰道を西に渡り、12:58「春日神社」。境内に鹿が4〜5頭いました。バイクに気づき山に入っていきました。境内を探索している間、鹿の警戒声が谷間の境内に響いていました。
13:06「八幡神社」。石段を上がり、「金比羅大権現・秋葉大権現・愛宕大権現」がありました。周囲の田畑を見下ろせる景色の良い場所でした。別の道を下りながら景色を楽しみました。
r454に戻り、小さな峠を越え、13:26「鏡神社」。森の中の参道を歩き境内へ。谷の突き当りにある神社でしたが、想像以上に立派な神社でした。下流に他が広がる地域なので、水の恵みへの感謝の気持ちが現れているようでした。
『敬神生活の綱領 神道は天地悠久の大道であって、崇高なる精神を培(つちか)ひ、大平を開くの基である。神慮を畏(かしこ)み祖訓をつぎ、いよいよ道の精華を発揮し、人類の福祉を増進するは、使命を達成する所以である。
ここにこの綱領を掲げて向ふところを明らかにし、実践につとめて以って大道を宣揚することを期する。
・神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清きまことを以って祭祀にいそしむこと。
・世のため人のためん奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと。
・大御心をいただきてむつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること』
r454に戻り西進し、左折してR477で南下します。
13:46「埴生出雲神社」。自販機があったので、「炭酸ジュース100円」購入し参道を歩きます。
『埴生出雲神社 創建は55代文徳天皇の時代、天安2年(858)と云う。以後建治2年(1276)迄は社領神主宮寺等も完備し、崇厳な神社であったが永録年間(1558〜1569)に明智光秀により焼亡されて衰微したが、その後村人相伝えて守護し、近年御本殿を始め境内参道等も隈なく整備され現在に至る。祭神は「大尊己命」「須勢理姫命」「天満大自在天神」。例祭は10月17曰。 平成24年3月建立 本
梅探友会』
境内に小さな橋を渡って入ります。周囲を見ると、今は狭いがかつては水濠が巡っていたような感じがします。森に入り、石段を上がり石鳥居をくぐると、水濠同様広い神社でした。社殿は質素です。絵馬殿には彩色は落ちていますが、多数の絵馬が下がっていました。黒い糸トンボであるハグロトンボが多数舞っています。
R372に出て枝道に逸れ、14:06「薮田神社」。『藪田神社は、和銅4年(711)に建立されたが数度火災に遭って現在に至っている。今2社が祀られていて、正面の社は月読命又左奥には猿田彦命が祀られ、丹波4社の1つに数えられる有名な神社である。古文書によると現在の2社の他に37社も小宮があって広く亀岡・園部・篠山方面の39ヶ村が持ち帰って祀っている。昔この地を藪田の庄と云い字を志田樋(したひ)と云っていたので志田樋(したひ)神社と呼んでいたが藪田の庄の総本社であったため、後に薮田神社と呼ぶようになり現在に至っている。 平成22年4月建立 木梅探友会』
「旧山陰道」を東に進み、R477で南下し、道なりに大阪府道r106〜兵庫県道r604で一庫ダムを通過し、R173で南下し池田。


2020/8/16
夏休み最終日です。高校ヨット部同期と船に乗る予定でしたが、彼の長男のお嫁さんと孫が交通事故に遭ったと、帰省しなくなりキャンセルになりました。彼と同じく中高の同級生のヨット乗りにも声を掛けていましたが、彼もキャンセル。仕方なく、家内と2人で乗ることにしました。
車に乗って、8:13「新西宮YH入庫」。桟橋を歩き久しぶりに船に行くと、ステアリングの切れ幅が小さくなってる。船底にフジツボなどがついていそう。エンジンを始動させ桟橋を離れます。東口から湾内に出て、セイルアップします。
風向はSWで、風は2m/sほどで弱いですが、エンジンを止め、風だけで穏やかに進みます。セイルアップに力を使い、ライフジャケットが暑すぎて、頭がぼーっとしてきました。生欠伸が出て熱中症?って感じになり、視力も落ちてきました。これはあかんと、ライジャケを脱ぎ座って回復を待ちました。家内も僕の様子が変なのを感じたのか、いろいろ世話してくれます。しばらくして視界が明るくなり元に戻りました。この気温なので、海風が徐々に強くなる絶好のセイリング日和ですが、芦屋沖まで走ってハーバーバックしました。
ラダーの切れ角はやはりおかしく、右には回るが、左には半分も回っていない感じです。微風だとセイリングだけではスターボからポートにタックできません。整備しなきゃ・・・。桟橋に戻り、船を片付け、センターハウスに避暑します。カフェ「Friandise」でお気に入りのかき氷を食べようと思ったが、モーニング680円だけでした。冷水は飲み放題なので、3杯も飲んじゃいました。
11:40精算して帰路に着きます。11:45、出庫700円。帰宅して、有川浩原作の「空飛ぶ広報室」のドラマをアマゾンプライムで見ていました。有川浩さんはミリタリーオタクなので、航空自衛隊のディテールが素晴らしい・・・と思う。
「あ〜、鶉野飛行場に行ってくるわ」と家内に宣言し、速攻でバイク装束に着替えます。倉庫から「招き猫CB400SB」を出して、13:57出発。14:03「出光セルフ宝塚176」で給油。306km/12.22L=25.0km/L。
「宝塚IC」から「中国道」に乗り、「加西・加古川IC」で下車します。r24〜r716で南下します。左折してr23で「鶉野」へ。15:01、左手に単発飛行機が見えてきてストップ。
『鶉野飛行場に残る戦争遺跡 無蓋掩体壕
大東亜戦争末期、姫路海軍航空基地では本土決戦に備え、待機する「紫電」他を隠すため、飛行場周辺に土盛りの「無蓋掩体壕」を作りました。約3m高さの堤体にして飛行機を入れ、木の枝や木葉で覆いして保存していた。
昭和20年7月に入り基地の施設や配備する飛行機に対し、連合軍の戦闘機の攻撃も頻繁になり、海軍第585設営隊の完璧な作業で1機も破壊される事なく全機無傷で残された。この掩体壕を含めて飛行場の周辺には55箇所の無蓋掩体壕が作られました。
今に残るこの「無蓋掩体壕」は鶉野飛行場に現存する価値の高い戦争遺跡です』
『海上自衛隊 SNJ-5練習機
米海軍名「SNJ」の呼称を海上自衛隊が引き継ぎ、航空自衛隊では別名T-6「テキサン」とも呼ばれ米国のノースアメリカン社で開発された傑作機の1つで、世界で最も成功した練習機です。昭和10年に誕生してから約55年間飛び続け、総生産数17096機、世界の40ヶ国で使用されました。
戦後、自衛隊発足後、昭和30年1月、MSA協定により供与され、航空自衛隊に167機、海上自衛隊に48機の計215機を保有した。この機体は、鹿児島県鹿屋市の海上自衛隊「鹿屋航空基地史料館」に展示されていましたが、第1航空群司令のご好意により加西市防衛協会に貸与されたものです。
SNJの要目 速度:巡航約287km/h 機体:幅12.81m・長さ8.84m・高さ3.8m 発動機:R-1340 600馬力×1基 全備重量:約2400kg 乗員:2名 製造会社:ノースアメリカン社
貸与機関:海上自衛隊鹿屋第1航空群 搬送会社:播州商運株式会社 展示管理:加西市防衛協会 現地仮設:黒田建設株式会社 機体修復:ハヤブサ倉庫有限会社・前田広之・小林一明・平田信夫・三宅常夫 標示記事:鶉野飛行場資料調査会』
『日本海軍 96式25耗対空機銃
この機銃は平成17年(2005)12月17日、に東映株式会社が製作した「男たちの大和」の撮影に使用された実物大の模型です。最近加西市の鶉野飛行場の戦争遺跡が、多くの方々に知られることになり、その中でも完全な形をした対空機銃座跡が現在4ヵ所(戦争当時5箇所)が当時そのままの姿で残されております。
その内の1ヶ所(鶉野町の奉天池東)にある機銃を平成22年に有志により清掃、整備しました。この度東映太秦撮影所の保管されている模型機銃をお借りし、装着して当時の飛行場を守る姿を再現し、設置の状況を見て頂きたいと思います。
96式対空機銃の説明
この機銃は日本海軍が軍艦及び陸上の基地を守るために配置されたが、主に低空から侵入する飛行機を攻撃するために配備されました。
25機銃の開発史
製造業者:横須賀海軍工廠造兵部・製造機関:1936〜1945 ・ 製造数:32380挺
25機銃の諸元
重量:(連装)1,650kg ・ 銃身長1,500m ・ 要員数:5名・口径:25mm・作動方式:ガス圧利用
砲架:電動旋回又は手動旋回・仰角:-10度から+80度・旋回角:360度・初速:900/秒
発射速度:最大発射速度230発/毎分・実用発射速度130発/毎分
有効射程:有効射高3,000m前後・最大射程8, 000m・最大射高5250m
装填方法:15発入り箱型弾倉 照準方法:95式照準装置(2FR式)』
少し走り、15:05紫電改模型格納庫横のPへ。
『局地戦闘機「紫電・紫電改」の整備に使われた「整備台」
この「整備台」は、大東亜戦争中「川西航空機鶉野組立工場」で製作された局地戦闘機「紫電・紫電改」の発動機の整備に使われ、昭和18年(1943)に作られたものごす。戦後飛行場の施設は解体されましたが、「整備台」は昭和22年4月に加西郡の各小学校に払い下げられました。しかし年月が経ち他の学校では廃棄処分にされましたが、賀茂小学校ではその後、長い間大切に使われていました。そして、平成26年(2014)5月27日、賀茂小学校の皆さんに見送られ、ふるさとの鶉野に戻って来ました。
鶉野組立工場で完成した「紫電11型」466機・「紫電21型」46機
戦後飛行場に残った「紫電11型」57機・「紫電21型」13機
米国に回航された「紫電11型乙」3機
鶉野平和祈念の碑苑保存会』
『終戦75年特別展 写真で見る局地戦闘機「紫電改」 実機模型「紫電改」操縦席完成記念展示
大東亜戦争の終焉を余儀なくされる昭和20年2月10日。川西航空機鶉野組立工場に初めて「紫電21型」(紫電改)「7364号」が運びこまれ組立が始まった。終戦までに46機が完成。そして時代は替わり令和の年を迎えた。戦後75年にして「紫電改」は甦った。製作に挑戦した株式会社「広洋社」の斎藤裕行専務を筆頭に若き技術者集団たちであった。
乏しい資料を駆使して造りあげたのです。多くの人達は出来上がりを評価した。展示日には千数百人を数える。かつて若き搭乗員は起死回生をかけ果敢に戦った。この「紫電改」は我々に力を与えてくれ、加西のまちおこしに寄与することであろう。
展示場所:「アステアかさい」3階多目的ホール
展示日:令和2年8月7日(金)〜8月16日(日)
講演:令和2年8月16日(日)13時30分
場所:「根日姫ホール」
朗読:「そのときわたしは10才でした」(えとうよりこ作) 読み聞かせ:渡瀬道子さん
トーク「加西の空襲」:上谷昭夫・渡瀬道子さん
ウォールギャラリー 絵画展示:えとうよりこ作画「そのときわたしは10才でした」
主催:一般社団法人・鶉野平和祈念の碑苑保存会』
『模型「紫電改」公開スケジュール
10:00展示公開・講話「姫路海軍航空隊」と紫電改
10:20「紫電改」エンジン始動実演「エナーシャ」回せ!
10:30屋外移動⇒写真撮影
10:45「紫電改」写真撮影 外気温度上昇時早く屋内に移動有り
13:30「紫電改」屋内移動展示 エンジン始動実演「エナーシャ」回せ!
14:00講話「姫路海軍航空隊」と白鷺隊の若者たち
15:00閉館
次回展示:令和2年8月16日(日)
「アステアかさい」にて「操縦席」除幕式公開
加西市鶉野未来課 一般社団法人鶴野平和祈念の碑苑保存会』
『戦争遺跡などの紹介
1.鶉野飛行場滑走路跡:当時のままの滑走路跡が残る、全国でも貴重な戦争遺跡。周辺には防空壕なども点在しています。
気球の飛行に適した場所であり、気球の聖地としても有名です。
土地の起伏や家屋が少なく、法華口駅が近い、物質や人員移動に適した場所でした。
2.鶉野平和祈念の碑苑:尊い犠牲の上に築かれた平和が永遠に続くことを願い、平成11年、元隊員やご遺族、地元有志等により建立されました。
神風特別攻撃隊「白鷺隊(はくろたい)」:姫路海軍航空隊から編成された特別攻撃隊。厳しい飛行訓練を重ね、戦地へと出撃したのは前途有望な青年たち。終戦までに63名の尊い命が失われました。
3.局地戦闘機「紫電改」:第2次世界大戦末期、旧日本海軍が切り札として投入した戦闘機。姫路で作られた後、鶉野に運ばれ、飛行場滑走路跡の南西にあった川西航空機姫路製作所鶉野工場にて「紫電」「紫電改」が500機あまり組み立てられました。滑走路跡には格納庫を模した備蓄倉庫があり、第1・第3日曜日に紫電改の実物大模型を公開しています。
プロペラや防弾ガラスの厚み、操縦席に至るまで再現されています。
加西市歴史遺産群散策ナビ「REKINAVI」:加西市の公式散策アプリ。歴史遺産の紹介やマップの他、AR機能で紫電改が飛び立つ様も見られます。歴史遺産を学びながら、まち歩きを楽しめます。ぜひ、ダウンロードしてください。
4.巨大防空壕跡(自力発電所跡):長さ14.5m・幅5m・高さ5mの空間を持つ基地内最大のコンクリート製防空壕です。自力発電所として使用されたといわれており、外部は小山にカモフラージュされています。
5.対空機銃座跡:攻撃してくる飛行機を迎え撃つための機銃座で、1分間に230発の弾を5,000mまで発射できたそうです。地下室も含め、完全な状態で残っています。
周辺にある防空壕:基地周辺には、他にもコンクリート製や素掘の防空壕などが点在します。生々しい戦争の爪痕が見られます。
6.爆弾庫跡:砲弾・爆弾・戦闘機に装備した機銃弾や燃料が貯蔵されていたと言われています。コンクリートの壁は70cm・天井は1mの厚みがあり、1トン爆弾にも耐える構造となっています。
7.門柱・衛兵詰所跡:姫路海軍航空隊への入り口として、門柱・衛兵詰所・訪問者との面会所がありました。現在はそれらをイメージした休憩所が整備され、工事の際に発見された門柱基礎が展示されています。
加西市歴史街道ボランティアガイド:戦争遺跡を巡るなら、内部見学もできるボランティアガイドがお勧めです。2週間前までにお申し込み下さい(2名以上)
加西市観光案内所:電話0790-42-8823』
『戦時中に空でつながった4市の新たな交流:太平洋戦争末期、加西市にあった姫路海軍航空隊、そして宇佐市にあった宇佐海軍航空隊では特別攻撃隊が編成され、若い隊員たちは集結した鹿屋市の基地からともに沖縄方面へ出撃していったのです。そんな旧海軍飛行場ゆかりの地として空でつながる4市が、未来に向けて平和ツーリズム普及のためのプロジェクトを始動します』
『紫電改模型公開予定日 毎月第1・3日曜日 午前10時〜午後3時 天候などにより屋内展示に変更する場合があります』
『「紫電改」と加西市のかかわり
先の大戦において、航空機の技術はめまぐるしく進歩した。大戦では航空機による戦いが重要視され、各国が新型戦闘機の開発を急いだ。水上機を専門とした川西航空機では菊原静男主任設計士たちが初めての陸上戦闘機である「紫電」を開発し、「零戦」をはるかに凌ぐ2000馬力のエンジンを搭載し、20mm機銃4丁も搭載した。西宮の鳴尾工場で生産が始まったが、鳴尾工場だけでは海軍の増産命令に対応が出来ず、昭和17年6月、遊休となっていた日本毛織姫路工場が航空機生産工場へと用途変更された。姫路には飛行場がなかったため、加西の東笠原に組立工場が、鶉野に滑走路が建設された。姫路工場で生産した「紫電」は3分割し、馬車で加西へと運んだ後、再度組み立てられた。
昭和19年秋、川西航空機の設計者たちが「紫電」の改良型である「紫電改」を誕生させ、日本海軍は起死回生にかける戦闘機として、増産命令をだした。姫路工場では昭和20年3月より「紫電改」の生産が開始し、同時期に全長1200 m の試験飛行用滑走路が完成した。これが今に残る滑走路跡である。
鶉野組立工場では終戦までに「紫電」466機、「紫電改」46機が組み立てられ、終戦時(昭和20年8月31日時点)には、「紫電」57機、「紫電改」13機が残っていた。同年10月16日には、米軍が「紫電」3機を実験のため、米空母「バーンズ」に搭載して、横須賀からアメリカヘと運んだ。
鶉野平和祈念の碑苑保存会・上谷昭夫』
少し走り、15:17滑走路中央にある「鶉野平和祈念の碑苑」。旭日旗が挙がっています。
『姫路海軍航空隊 鶉野飛行場跡』
『飛行場建設に協力した地元の人々
播磨平野中部丘陵の加西郡九会村中野・鶉野・宮木と下里村野条一帯は、鶉鳴く農村地帯であった。
昭和16年12月8日、西太平洋で始まった米・英国との戦いにおいて、航空機によるハワイ真珠湾攻撃が成功し、海軍は、航空機搭乗員の訓練を目的として全国各地に練習航空隊を設置することになり、この地も候補に上がった。一般民家・企業が立ち退きの対象となり、昭和18年1月上旬より土地買収及び家屋移転等の承諾調印が行われた。工事が始まり、地元加西郡はもとより近隣町村より勤労奉仕団・国民学校・中学・女学校の学徒動員の生徒、また朝鮮の人達の献身的労働により、わずか1年余りの作業で飛行場は完成した。
そして、全国より配属されて来た若き操縦練習生たちは、日夜飛行訓練に精を出した。訓練合間の休日には地元の人々は彼らを温かくお世話しました。
昭和20年に入ると、この鶉野にも米艦載機が飛来し、飛行場は言うに及ばず、周辺の民家にも攻撃を加え、一般住民にもかなりの被害が出た。戦争は我が方に利あらず、8月15日に戦争は終わった。そして元の静かな鶉野に戻った。この平和をいつまでも続けるため、ここに飛行場設置に協力した多くの人々の労苦を後世に残し、碑を建立するものである』
『神風特別攻撃隊白鷺隊記
神風特別攻撃白鷺隊は、姫路海軍航空隊員より編成され、この地鶉野飛行場において日夜訓練を重ねた。
隊長・佐藤清大尉以下63名は、その保存する艦上攻撃機21機をもって、昭和20年4月6日より5回に渡り、鹿児島県串良基地より出撃し、沖縄周辺の米軍艦艇に対し飛行機もろとも体当たり攻撃を加え、壮烈な戦死を遂げた。
戦いは遂に国土防衛戦に入り、膨大なる物量を誇る米軍の強襲に、我が沖縄守備隊の戦力には如何ともしがたく、菊水作戦が発動され航空機による特別攻撃隊の投入となり、海空による総攻撃が開始されたのである。
姫路空白鷺隊も決然としてこれに加わった。隊員たちは出撃に際し、遥か故郷の愛する家族らに別れを告げ、再び還ることなく特攻に若き命を捧げ、武人の努めを全うしたのである。
今ここ鶉野の地に碑石を建立し、この史実を永世に伝え、謹んで殉国された勇士の御霊をお慰めし、併せてその御加護により永遠の平和の実現を切に願うものである』
『鶉野飛行場の施設概要
姫路海軍航空隊基地施設概要
基地名:姫路海軍航空隊其他(陸上)
所在地:兵庫県加西郡九会村・下里村
創設年月:昭和17年12月
航空隊開設:昭和18年10月1日
完成年月:昭和19年5月
面積:2.531.040平方メートル 飛行場滑走路1200m×60m1本(転圧1500m×60m2本土質粘土) 運搬路(誘導路)8000m×30m 終戦時15000m 掩体壕・中型10箇所・小型45箇所
主要機種:中・小型練習機(97式艦攻・93式中練)
格納庫(木造)9157平方メートル 40m×120m2棟(4×4)
兵舎:約8919平方メートル
収容施設:庁舎2092平方メートル・送信所179平方メートル 講堂1756平方メートル 移住施設6200平方メートル(1200人) 工業場1580平方メートル 倉庫1454平方メートル
防空施設:対空機銃25ミリ連装4ヶ所・単装2ヶ所
電波探信儀:桑原田
川西航空機株式会社姫路製作所
工場名:鶉野組立工場
所在地:加西郡九会村・下里村
工場創設:昭和17年7月1日日本毛織より川西航空機へ
昭和19年8月:鶉野組立工場落成式
昭和20年3月:工場隠匿名称「神武秋津工場」を使用。 第1001海軍航空隊がテスト及び輸送業務をする。 第11航空工廠姫路分遣隊が来。
昭和20年6月:姫路製作所空襲被爆
昭和20年7月:第2軍需工廠設立。海軍管轄となる。
工場施設面積:約93500平方メートル
生産機種:局地戦闘機「紫電」「紫電改」 19年12月より「紫電」生産開始446機製造 20年3月より「紫電改」生産開始44機製造 設計は姫路出身の菊原静男技師であった。
工場施設:第1組立工場1650平方メートル 第2組立工場185平方メートル2ヶ所 第1格納庫875平方メートル 第3格納庫940平方メートル 飛行指揮所・兵器庫・プロペラ調整室・点火栓室・管制器室
戦後川西航空機は新明和工業として、飛行艇を製造している。
終戦時に残存した航空機:「紫電」57機・「紫電改」13機(他に未完6機)・「零式練戦」3機(白菊・彗星・銀河・90式陸練・陸軍高連各1機)・「93式中練」2機』
『97式艦上攻撃機
姫路海軍航空隊に練習機として配備され、多くの若者がこの機で練習を行った。昭和20年3月神風特別攻撃隊「白鷺隊」が編成され、沖縄戦が始まるや特攻機として使用され、昭和20年4月6日から5月4日まで5度の出撃により全機が失われ、63名の若人が散華した』
飛行場の南側に走り、「姫路海軍航空隊飛行科・地下指揮所・軍需品庫」地下壕へ。見学者は予約が必要です。以前は予約無しで入れました。地下壕コンクリートむき出しの質実剛健の施設ですが、ミリオタには楽しいです。
飛行場の南西に移動し、15:26「地下防空壕」。『コンクリートでつくられた地下構造の退避壕で深さは3m程あります。内部構造は爆風を避けるために複雑な構造になっており、換気口も設けられています』
15:28「巨大防空壕」。『長さ14.5m・幅5m・高さ5mの内部空間があり、基地内最大のコンクリート製防空壕です。自力発電施設として使用され、高温・騒音のため天井を高くし、冷却水槽・換気・吸気に配慮した構造となっています。外部は土を盛り、小山のようにカモフラージュされていました』
『特攻隊員が最期に綴った思い 鶉野飛行場跡「巨大防空壕」で上映姫路海軍航空隊特別攻撃隊 白鷺隊「遺書・遺詠集」
上映日:毎月第1第3日曜日
上映時間:10:30〜・11:30〜・13:30〜・14:30(各回20分程度)
上映場所:鶉野飛行場跡巨大防空壕(加西市鶉野町内・裏面に地図)
入場料金:無料
注意事項:荒天の場合は上映を中止することがございます。新型コロナウイルス対策のため、マスク着用でご来場ください。入場の際はこちらで準備したヘルメットを着用していただきます。
申込方法:事前予約制(各回先着20名)※3ヵ月先上映分まで予約可能FAX(裏面様式をご利用ください)
電話(希望日・希望時間・氏名・住所・電話番号(昼間でもつながる)・参加人数)
※受付は平日の9:00〜17:00とさせていただきます。
※予約の空き状況については、電話にてご確認ください。
問合せ・申込:〒675-2312 加西市北条町北条28-2 加西市観光案内所 TEL:0790-42-8823 FAX:0790-42-6054』
少し南に走り、15:32「衛兵詰所」。『防空壕(コンクリート) コンクリートでつくられた強固な退避壕で、この前に衛兵詰所と面会所がありました。空襲時に詰所勤務の兵隊と面会者の退避に使われていました。内部構造は爆風を和らげるため複雑になっており、換気口も設けられています。壕内には30名ほどが入れます』
『門柱基礎 姫路海軍航空隊への入口として、衛兵詰所や門柱、来訪者との面会所がこの附近にありました。姫路海軍航空隊は昭和18年(1943)10月に開隊し、昭和20年(1945)5月に閉隊しました。その後、姫路航空基地として存在し、終戦後の同年10月にアメリカ軍が進駐しました。この門柱基礎は平成28年の散策用歩道整備工事の際に見つかったものです』
トイレを拝借しました。手洗い場に、この飛行場や紫電改を紹介した新聞記事が貼られていました。
少し南下し、15:41「爆弾庫」。『広角砲弾、800kg・250kg・50kg爆弾、戦闘機に装備した機銃弾や燃料が貯蔵されていました。コンクリートの厚みは壁70cm、天井1mもあり、1トン爆弾にも耐える構造と言われ、前面には爆風から貯蔵庫を守るための土堤が設けられています。内部はアーチ状で、奥には換気口が設けられています』
帰路に着きます。r716に出て、左折してR372。すぐに左折し、「神戸大学大学院農業研究科・附属食資源教育研究センター」前を通過し、斜め右に曲がり、再びR372に合流しました。JR加古川線・加古川を東に渡り、左折してR175で北上し、中国道に乗りました。
16:17「セブンイレブン中国道社PA」に入り、「ワッフルコーンミルクバニラ192円」でクールダウン&糖分補給し、17:14帰宅。


2020/8/15
映画でも観ようかな〜と調べたら、12:20「弱虫ペダル」に決定。家にいても仕方ないので、「通勤リード110」にタンデムして映画館に向かいました。チケットを買おうと券売機をゴソゴソすると、かなり席が埋まっています。しかも隣同士の席がない。スタッフに声を掛けると、コロナ禍で前後左右の席が空くようにしているそうです。
時間に余裕があるので、「無印良品」「100円ショップ」「アパレルショップ」「本屋さん」であれこれ見ます。
「弱虫ペダル」は席が半分になっているとは言え、お客さんが多かった。しかも殆どが若い女の子。主役の男の子目的なんでしょう。「キング&プリンセス」の男の子です。これは、ロードバイク乗りには有名な漫画で、大人気マンガの映画化です。
主人公・坂道はオタクの高校1年生。千葉県総北高校に入学し、いつものようにママチャリで山の上にある学校への20%急坂をアニメを口ずさみながら登っていく。それを見ていたのが、中学自転車部で名を馳せた同級生・今泉。「この急坂を口ずさみながら平気な顔してペダルを回してる・・・」。放課後、自転車置き場で坂道を捕まえ自転車部に誘ったら、「アキバにこれで行くから」「往復90kmもあるぞ」「毎週通ってるから平気だよ」。
坂道はアニメオタクなので、アニメ部に入る予定だったが部員不足で休部になってた。5人集めれば復活するとのことで、パンフを配りだす。大阪の中学の自転車部で名を馳せ、自転車部で有名な総北高校に入学した鳴子から声を掛けられ友だちになる。坂道は中学では1人ボッチでした。高校入学と同時に出来た友達2人とも自転車部という偶然。あと2人加えて5人が自転車部に入部した。新入生歓迎レースが開催された。ママチャリで参加しようとした坂道でしたが、総北自転車部をサポートしている自転車屋さんからロードバイクが貸与され、それで参加する。坂道が苦手な鳴子にアドバイスを受け、坂道はオールラウンダーの今泉を追いかけ、ヒルクライム頂上でデッドヒートの末、坂道が逆転して勝ってしまう。でもここで力尽き落車してリタイヤ。1年生レースの完走者は、優勝・今泉、2位鳴子だけ。
坂道は3年生に鍛えられ、インターハイ予選で、6名のメンバーに1年生3人(今泉・鳴子・坂道)が選ばれ、レースに臨む。中盤までの平地をチーム全員を鳴子が引っ張る。坂道は坂道が引っ張る。そして最後は今泉とキャプテンが指すと云う作戦。さて結果は・・・。
素敵な映画でした。同じ高校の1年生ヒロインに橋本環奈がおり、サポート自転車屋の娘役でした。若者のスポ根物は清々しくて良いです。かつての暑苦しいスポ根ではなく、最近のはラブあり笑いありで誰でも楽しめるようになっています。


2020/8/14
お盆の法要の日です。お寺さんからAM11:00〜との連絡を受けています。ロンドン在住の長男一家は帰国せず、次男もこの日から北海道でホテル建設の仕事で、7月に続き1ヶ月行ったままのようで帰省せずです。弟んとこもお嫁さんが仕事で来れず、甥は9月のテストの備え京都の下宿から帰宅せず、弟と姪だけが来ます。前日から、実家の掃除や食事の準備・仏壇のお花を準備しましたが、スーパーの9時開店に合わせ家内とスーパーに向かいました。食材の買い足しです。帰宅して家内は昼食用の素麺作りを始めました。僕は弟たちに見せる長男・次男一家から送られてきた写真やビデオを見れるようにPCを実家に準備しました。
実家で待っていると、10:30頃弟と姪が来ました。「おはようございます」と姪が来ました。今年女子大に入学したピチピチの女子大生です。コロナ禍でまだ一度もスクーリングに行ってないそうです。PCを通じての課題提出と、ズームでの授業で、レポート提出やリモートテストで前期試験を終えたそうです。
学校の友達は、ズームやLINEで出来たそうです。中高のクラスメイトは、全国に散らばり、北海道札幌の友達から「おいで」と呼ばれたりしているようです。家内にお化粧のことを聞いています。家内はお化粧品をプレゼントしています。友達は何処で習ったのかお化粧デビューして綺麗になっており、「私も」だそうです。ボーイフレンドのことを聞いたら、「まだいません」だって。お肌が綺麗で女子力が更にアップしており、お淑やかで優しい子なので、「モテるだろうな〜」と感じさせる子です。スクーリングが始まり、男の子との接触機会が増えれば・・・と思っています。
15分ほど遅れてお寺さんが来られお経を上げて頂きました。お寺さんは入婿さんで、僕と家内の大学の後輩です。長男さんが今年これまた同大学の理学部に入学されたそうです。夏休み、お坊さんになるための修業を浄土宗本山・京都知恩院でする予定でしたが、コロナ禍で自宅修業になってしまったようです。3年間掛けて免許を取るコースがあるそうです。お寺さん自身、一般家庭で育った人なので、サラリーマンしながら修行して免許を取られました。「じゃあ息子さんは姪と同じ年齢ですね」と話すと、「え〜そうなんですか、息子はまだ子供だからお姉さんだと思っていました」と驚かれていました。
素麺・お寿司・唐揚げなどで昼食を取りました。家内から、「ビデオ電話しようか」と提案があり、次男のお嫁さんに電話してみました。隣の我が家からのWifi経由なので不安定です。姪にWifi経由をカットしドコモライン経由にしたら安定しました。いきなり電話したのに、お嫁さんは口紅も入っており、子どもたちもきちんと洋服を着ていました。
お墓に向かいました。弟が先に出発し、僕らが追いかけます。お墓に手を合わせ、解散。僕らは、「川西IC」から「新名神高速」に乗って、「京都東IC」で下車して「永観堂」へ。お寺のPは空いていました。いつものように「お参りです」と伝えると、拝観料なしでパス。ノートに住所氏名・家内実家のお寺さん名などを書くのがなくなり、「お参りです」と伝えるだけでOKになっていました。
家内の両親や祖父母は、ここに分骨されています。スマホで自撮りして「家族LINE」に流しました。リモート法事です。


2020/8/13
お盆休みに入りました。今年は息子たち一家は帰省しないので、のんびりお盆です。まず「中山寺」に参ります。「通勤リード110」にタンデムして向かいました。「阪急中山寺駅」南に着き、Pのお兄さんに、「バイク置く場所ありますか?」と聞くと、「お参りだよね、ここに置いて」と事務所横のスペースに置かせてもらいました。200円。
境内に上がると、五重塔(六重の塔?)が新築されていました。屋根の下が青く塗装されており、珍しいなと感じるとともに綺麗だなと思いました。次男の長男おーちゃんが突発性湿疹で40℃の熱を出したということ(もう回復しています)なので、「子どもたちをお守り下さい」と手を合わせました。
帰路、カフェ「珈乃香」に寄りました。「たまごサンドイッチセット900円+ふんわりかき氷マンゴー780円=1680円」でお昼ごはんにしました。13:39精算して帰宅。


2020/8/9
家内の実家のお墓参りに出ました。いつものように朝早く家を出ました。コロナ禍の影響で交通量が少ないと思っていましたが、意外とそうでもなかった。加古川のお墓に参ります。前日土曜日に家内の姉夫婦が参ったので、お花はなしで楽でした。お水でお墓を冷やし、お花の水を入れ替え、線香を立てて手を合わせました。
加西市の鶉野飛行場に向かいます。7:45「防空壕」到着。ざっくりとしたコンクリート造です。『戦争遺跡防空壕』『姫路海軍航空隊飛行科 地下指揮所・需品庫』。前回は中を見学できたけど、朝早いからか鍵がかかっていました。『見学者の皆様へ 防空壕の見学には事前にボランティアガイドの予約申込みが必要です。見学の7日前までに、加西市観光案内所に申込みを行って下さい。2名様以上で、見学当日はボランティアガイドの同行をお願い致します。 申込先:加西市観光案内所(北条町駅内)0790-42-8823』。目の前は、神戸大学農学部の牧場で、牛が牧場の草をはみのんびりしています。
鶉野飛行場滑走路に移動しました。朝早いから国旗はまだかな?と思っていましたが、ポールに旭日旗が揚がっていました。旧海軍の施設なので今でも海上自衛隊が管理しているのでしょう、海上自衛隊の国識別旗でもある旭日旗です。僕は日章旗より旭日旗の方が好きです。
滑走路の北側に移動します。対空機銃騎乗う高射砲台と、海上自衛隊練習機を見学しました。更に移動し、滑走路北にあるカフェのPへ。少し歩いて、「紫電改格納庫」へ。扉は閉まっていますが、ガラス越しに前後から機体が見れます。毎月第2第4日曜日に公開されているそうで、その時講演会もあるようです。
カフェに戻り、「モーニングセット600円+650円=1375円」を食べました。お店で紫電改公開日の人出を聞くと、かなり多いそうです。9:56にカフェを出て、家路に着きました。


2020/8/8
9:33、「里山VTR250」に乗って出発。9:40「伊丹産業セルフ川西SS」で給油。170km/5.87L=29.0km/L。池田からR173で北上。
10:47「豊林寺(ぶりんじ)」。『豊林寺の珪石鉱山と殉職者慰霊碑ここ玄渓山豊林寺(丹波篠山市福井の周辺で、昭和9年(1934)に珪石が発見され、以来1960年代まで、篠山在住の鉱山事業者に受け継がれながら、珪石の採掘が続けられました。
篠山の珪石鉱山では多くの朝鮮人が働いていましたが、この豊林寺鉱山では、朝鮮人の親方のもと、とくに農閑期には、近隣の農家の人々も珪石採掘の仕事に携わっていました。また、豊林寺で、鉱夫3人の名前を刻んだ慰霊碑が発見されました。この碑の向かって左側面には、「為鳥山鉱山殉職者之霊菩提」、正面には「南無観世音大菩薩」、右側面には「殉職者名・金本容鎬・上田三郎・武田三童」と刻まれています。
昭和23年(1948)3月5日の「篠山新聞」は、同年3月3日に起きた「村雲村鳥山鉱山」の事故による3人の鉱夫の死を伝えています。その記事と合わせて考えると、慰霊碑の3人の姓はいすれも日本風の名前ですが、3人共朝鮮人であったことがわかります。
誰が建立したものか不明ですが、このような朝鮮人殉職者の慰霊碑が保存され、檀家の人々によって弔われているのは全国的にも珍しく、貴重な記念碑となっています。 2020年3月3日 高野山真言宗総本山金剛峯寺 玄渓山豊林寺 丹波篠山市福井自治会・中自治会 丹波篠山市人権・同和教育研究協議会 丹波篠山市教育委員会』
『玄渓山豊林寺(真言宗)と豊林寺城跡
当寺は、法道仙人が開基で、朝廷の尊崇が厚く、元慶(がんぎょう)元年(877)には陽成天皇の勅願所になったとの伝承があります。教仙僧都(きょうせんそうず)が宝治年間(1247〜49)に天台寺院19坊を建て、三岳修験道の一寺として栄えたといわれています。中世のころ、応仁の乱や明智勢の丹波攻めの際に焼失し、慶長4年(1599)天台・真言寺院として再興されました。後ろの山に、豊林寺城跡があり、大芋式部丞(おくもしきぶのじょう)が応永年問(1394〜1428)のころに築城し、代々大芋氏の拠点でした』
鉱山の口がすぐ近くにありました。R173に出て少し北上し、右折してr702で東進し、11:09「八幡神社」。r702に戻り東進し、11:26「大通寺」。『お盆は、あなたの一番大切な人が、我が家に帰って来る時です。準備をしてお迎えしましょう』
11:37「中畑城跡」。『中畑城跡 のぼり道』の看板があったので、バイクを置いて水分補給しました。そこに地元の旦那さんが来て、「どちらからですか?」と聞かれました。あれやこれや話が弾みました。
山城を目指し、矢印の方向に進みます。地元の方の一押しなようで、ガレージのシャッターなどに武将の絵が描かれています。先程話した方ももちろん知っていましたが、この地で生まれ育ちもう良い年齢になっているのに、一度の登ったことがないそうです。案内板も完備されていますが、藪こぎになるかも?なんて想像しながら登城口に取り付きました。
まずは獣避けフェンスのお出ましです。開閉して山側へ。「城戸口跡」となっていました。獣避けフェンスには蜘蛛の巣が張っており、先が思いやられます。コンクリート階段を上がると、「金比羅神社(城郭跡)」がありました。「頂上まで350m」となっています。座って、水分補給します。
土道になり上がっていくと、また獣避けフェンスがありました。開閉して頂上側へ。「愛宕神社」がありました。「頂上まで250m」になりました。「矢竹・弓の矢を作るために植えたもの」。続いて「秋葉神社」がありました。「城郭跡・頂上まで150m」となっています。少し広いけど土橋の道が登っており、左右は急勾配です。「穴・数個の穴があるが、「落とし穴」かと思われる」となっています。土橋の左右に穴が残っています。
急な道を登っていきます。「城戸口跡」がありました。11:56、山頂(東の丸)に着きました。麓から20分でした。
『中畑城(別名・北八田城) 丹後志高庄の住人・北市ノ正(いちのかみ)が承久年間(1219〜1222)に、観音像を授持して当地に来たり、城郭を造り安置したと言われ、その後南北朝時代に入り、北道氏の代になり本格的な山城としてこの地域の重要な拠点となった。中畑城は数多くの郭(とりで)が造られ、頂上の西北部に天守台跡と思われるところがある。南東には八木城山から遠く愛宕山まで見通せ、西は尾根つたいに兵庫県へと繋がり中畑城の重要な位置役割が伺われる。寛永年間(1624〜1644)北万鶴(ばんかく)時宗の代になって居城になったと言われている。城下の道は奥丹・中丹・篠山と京を結ぶ道として兵馬の動きも記録されている。
遠く中世に当地区の先人達は、平素は農耕に精を出し、一旦事ある時はこの城に立てこもり、一丸となって命をかけて外敵と戦った様子が偲ばれる。
なお、北氏の子孫で号を「八田」と称した人がいたので、当地域を「北八田」と言われたのも伺われている。
(資料)丹波志・日本城郭大系・大通寺観音縁起・日本歴史地名大系』
主郭は細長く、麓から見上げた時予想したより大きかった。謂われ板が立っていて良かった。地元の方でも登っていないので期待薄でしたが、攻城道はわかりやすく緩く整備されており、ナイスな中世の山城攻めになりました。
木々の切れ間から麓が見え、登りきった充実感で大満足です。暑い中登ったので、水筒から水分補給しながら、置かれていたベンチで休憩しました。細長い本郭の端の「東の丸」に上がりましたが、西に歩き郭の端まで行くと、「本丸跡」に続き「西の丸」がありました。「東の丸」と標高差は無く、切岸や土橋・空堀なく殆ど一体の郭でした。「西の丸」の西に、尾根道が下っていました。本郭同様、尾根道の左右は急斜面で、標高はそれほどない山城ですが、自然地形が攻めづらい守備力の強い山城でした。
12:07下山します。12:17麓に着きました。下山10分。バイクに戻り、r702でR9に出て北上。「京都縦貫道・丹波IC」横の枝道に入り、12:33「玉雲寺」。
『霊樹山・滝見峰・玉雲寺 当山は、大容梵清禅師が須知出羽守慶吉の懇請を受け、応永23年(1416)開山となられた寺である。梵清禅師は、薩摩の島津氏に出生され、了堂真覚禅師の法を継がれ、当寺開山往持のほか、大和の補厳寺・加賀の仏陀寺・能登の総持寺(曹洞宗大本山)に住職された。以来、本山門派が京都府だけでなく、岡山県や宮城県などにまで及び、古い記録によると160余寺を数えている。
しかし、天正7年(1579)、明智光秀の市森城攻撃があり、その兵火で寺の建物宝物などがほとんど焼失した。現在の境内・本堂・庫裏は、光秀が禅師の遺徳を尊崇し、翌天正8年に再興したものである』
鎮守の森に佇んだ石段を上がると、山門の下で三脚を立て撮影をされている方がいました。蝉の声が姦しいですが、静かに佇む山門から石段は絵になります。境内はよく整えられているとは言えませんが、桔梗がたくさん咲いていました。この寺院を兵火で焼いた明智光秀の家紋が咲く寺なんだ・・・と面白く思いました。梵鐘が下がっていたので、手を合わせゴーン。
本堂はよくある構造でしたが、山門の彫刻は素晴らしかった。バイクに戻り少し進むと、12:47「琴滝P」でした。『京丹波町指定文化財(名勝)琴滝 高さ43mこれより徒歩約2分 滝は水美しく、岩を流れる重三弦琴の糸を想わせます。春は桜、秋は金山、紅葉して景観も一段と美しく、映画のロケーションによく利用されます』
森の中の沢沿いの道を緩やかに登っていき、正面に高さのある滝が見えてきました。暑い日を走ってきたので、とても気持ち良い。Pには数台の車が停まっており、観光客もちらほら歩いています。近隣の方には素敵な休憩地でしょう。
滝は沢の突き当りにあり両側は山です。滝の手前を左右に山道が登っていました。右は「小滝池」、左は「須知城」。小滝池への道は通行止めなので、12:56、「須知城」へ登ってみましょう。「玉雲寺」手前に「須知城」登山口がありました。地形を想像すると、あちら側からは枝尾根を城まで登る道で、滝からの道は一気に標高を稼ぐ道と想像されます。
伐採された杉が乱雑に放置された山に獣道がなんとなく山を登っています。時には両手両足を使ってグイと登らないと登れません。尾根まで標高差あと10m・本郭も視認できる所まで登りましたが、13:04ここで「もういいか」となり下ることにしました。
13:12、琴滝に戻りました。滝には、お若いカップルとお母さんがおられました。お嬢さんはドレスを着込み、写真を撮り合っています。山から降りて、息を弾ませ水筒から麦茶を飲んで一服している僕を見つけ、「どうぞ」と滝正面位置を譲ろうとされました。「いえ、既に映しましたので、どうぞ」と。若いカップルにはお子さんはまだいなさそうなので、新婚さんかゴール間近のカップルと男性のお母さんという関係が想像されました。お母さんがお嬢さんに気を使って声を掛け、男性はマイペースって感じです。僕もそういう時期があったので、羨ましく見ていました。
森の道をPまで戻りました。先に歩き出したカップル&お母さんが、まだPでおられました。カップルさんは、次男と同じメーカーの外車に、お母さんは1人で別の車に別れて乗りました。お嬢さん「ありがとうございました」、お母さん「気をつけてね、じゃあまたね」の言葉で帰って行かれました。どうやら僕の想像は当たったようです。
道を戻り、舗装路から未舗装路に外れ、「須知城登山口」前を通り、元の道に戻りR9に戻りました。
R9を南に向かいます。「園部」まで南下し、左折してr19に入り、13:39「春日神社」。蟇股や脇障子の彫刻は中々でした。
『奉納 猿田彦之面 昭和44年9月16日 園部町木崎町・浅井一広・64才 奉納者・浅井一広、かねてより能面彫刻においては当代随一と言われる京都市左京区粟田口の住人・北沢如意師について、その技を学びつつありし所、ある日友来遊して曰くわれ等が氏神である春日神社祭礼の日、御輿の先導をする猿田彦の面は、延宝8年園部藩主・小出英利公が石の鳥居を奉建された当時の作と推定されるが、近年腐触甚だしく原型を留めぬ有様なので、この際その技を生かし、新しくこの面を打って奉納しては如何とのことに、三区の宮総代・北井兼松氏・藤田幸次氏・高屋助次郎氏に、その旨を伺った所、喜んで賛助し依頼されたので、よき桧材を選び謹んでこれを打って奉納した次第である。 作家敬白』
r19に戻り、13:48「水天宮」。『安産と子供の守り神・水火難除災招福・水商売の守護神 丹波園部・水天宮 御祭神:天御中主神安徳天皇・建礼門院平二位の局 平祀:稲荷大神・保食神 神事:9月第1日曜』
R9を南に渡り、14:00「加茂神社」。
『祭神は、加茂別雷命で、創祀は天文3年(1534)田中肥前守信兼が、旧知行地の氷上郡の加茂神社を勧請して建立したと伝えられていますが、南北朝時代の永和2年(1276)に既に大村(城南市の旧村名)のことが記録に見え、天文3年(1534)は再興の年と推測され、従って本社の創祀についてはそれ以前にさかのぼると考えられます。
「日本書紀」敏達天皇6年(577)2月条に「詔(みことのり)して日祀部(ひまつりべ)・私部(きさきべ)を置く」とあり、園部の地域には、このうち私部が置かれたと考えられています。私部とは皇后のために置かれた一団のことを指し、この私部を管掌していた者が大村に居住する大村直氏(おおむらのあたいし)であったとも言われます。
「続日本紀」には大村直福吉の名が見え、この大村直氏が奉祭した神社が加茂神社ではないかと推測されます。当社の最大の特徴は、彩色に彩られた本殿で、17世紀後半の建築と考えられます。現在多くの色彩が失われているものの一部にその名残があり、かつての華やかな姿を偲ばせています。特に本殿内の板壁に描かれている月光菩薩像は、神仏習合であった過去を今に伝える貴重な文化財です。江戸時代の中・後期の丹波地域の社殿には、妻面を柱筋から張り出て屋根を大きく見せる架構法を用いる特徴がありますが、ここにしそれが見られないのは、この本殿がそのような複雑な架構法が用いられる以前の、簡素で古風な姿を示しているといえます』
『撫牛の信仰 撫牛とは、自分の身体の病んだ部分や具合の悪い部分をなでたあと、その牛の身体の同じ箇所をなでると、悪いところが牛に移って病気が治るという俗信であり、風習がある。撫牛は、病気平癒のみならず、諸願成就にも効果があるとされ、開運を信じて常に牛の身体をなでていれば、出世はもとより、万事願いがかない、自ら思いもよらない幸運に恵まれることさえあるといわれる。子女の無病息災や子孫繁栄などの効能があるとも言われ、撫牛によだれ掛けを奉納する風習もあり、それを生まれたばかりの乳児に掛けると元気に育つという言い伝えが残っています』
バイクに戻り少し走り、14:14「大森神社」。バイクに戻り、南下してr454に突き当たり、右折して峠を越えます。r453を渡り、14:25「旧摩気小学校」。運動場も草茫々ではなく、コンクリート校舎も綺麗で現役の小学校に見えます。すぐ横にある「菅原神社」に参ります。
r453を南下し、R372を渡り、14:39「御霊八所大明神」。『明智光秀公の母堂を祀ると言われる神社です』
『御霊八所大明神は、1502年藪田神社より勧請し建立されました。本社はその名称から怨霊を慰め災いを除くための御霊神とされ、その祭神に吉備大神崇道天皇・伊予親王・藤原大夫人・橘逸勢・藤原広嗣・文屋宮田丸・火雷大神と考えます。境内にある「つくばねがし」は樹高32m・樹齢約400年と考えられ、近隣稀に見る大樹であり、ここに1986年12月注連縄を幹に巻き、永く神木として保存することを銘記する。 1987年2月吉辰誌』
r453を南下し、「るり渓渓谷」横を走り、r54で「るり渓温泉」横を通過し、r731でR173に出て南下します。15:05「ファミリーマート能勢町栗栖店」で、「練乳いちご氷バー90円」で糖分補給しました。R173を南下し、帰宅しました。


2020/8/2
丹後半島の海岸沿いを走ろうと、高速道路が楽な「招き猫CB400SB」を倉庫から出します。5:04出発。5:13、「伊丹産業エッソセルフ川西SS」で給油。
250km/10.48L=23.9km/L。池田から、R173を北上します。6:18、「ローソン京丹波和田店」で、「バナナ3本266円」購入してPで1本食べました。
R173をさらに北上し、「京丹波みずほIC」から「京都縦貫道」に乗り、北に向かいます。6:58「由良川PA」でトイレ休憩しました。『左手正面に見える山は砥石ヶ岳(岡田小富士)といい当地区で古くから親しまれ、信仰の対象とされた山で、中腹には砥石を産出した後があり、頂上からは大江山連峰の眺めもすばらしく、春はタムシバやコバノミツバツツジ、秋には雲海が楽しめます。大俣地区から登山道あり』
『丹後天橋立大江山国定公園
丹後半島は、リアス式海岸、河岸段丘や砂浜、海蝕洞等の特異な海岸景観と、その背後に位置する世屋高原、大江山連峰の山容と、近畿地方においては有数のブナ林が織りなす山容、森林景観が一体となった景観を形づくっています。また、湿原、ササ群落、ススキ草原と変化に富んだ自然環境を有し、希少な野生動物の生息・生育地となっているなど自然性も高い。さらに、棚田などの里山的山村景観や、社寺などといった歴史・文化的景観も有しています』
「京都縦貫道」北上再開。基本片側1車線なので、高速4輪に追いつかれる度に、路肩の広い場所があれば左ウインカーで退避し抜いてもらいながら走りました。70km/h規制されているので「+10の会」で走っているのですが・・・。
「宮津天橋立IC」で下車する予定でしたが、また間違って次の「与謝天橋立IC」で下車しました。両方に「天橋立」の名が入っているのでややこしいです。これで3度目のミスです。
R176〜r2〜r615で、7:25「木積神社」。『延喜式内社木積(こづみ)神社(旧郷社) 鎮座地:与謝郡岩滝町字弓木小字石田宮ケ谷 祭神:五十猛神(いたけるのかみ)(天照大神の弟・素戔嗚尊の子) 大物主神(素戔嗚命の子、大国主神の別名)
由緒・沿革:当神社は「木積山王宮」とも云われる。創立は平安時代醍醐天皇の御代、延喜2年(902)の勅により全国各地における崇敬篤き神社を選び、「延喜式内社神名帳」が作られ当神社はその中で官幣小社として載せられており、よってその創立はそれ以前と考えられる。しかしその後の罹災等により建築物社記・古文書等を消失したため、その沿革等を詳しく知ることはできないが、現存する古文書「丹後国式内杜取調書」「山王宮社再建寄進帳」によると、天明6年丙午8月(1786)に再建され、その後昭和15年社殿改築がなされ現在の神域となっている。
また「三輪神社・祭神大物主神」については、創立年代は不詳なれど、慶応4年4月の記録に「山王大神・祭神大物主神」とあり、明治2年6月17日「三輪神社・祭神大物主神」と改号され「木積神社」に配祀されている。
「木積神社」「三輪神社」共に、樹木・木材家屋・医薬治療・延命息災・国土経営・家運隆昌の祖神として、古くから氏子はもとより、歴代藩主を始め広く世人に崇敬されている。
杜宝:中務郷有栖川宮殿下御筆「木積山王大神」の神号、狛犬(石造)2体、石灯籠2基、宝僅印塔2基
例祭:4月30日神幸祭、5月1日還幸祭、神事として「神楽」「太刀振り」「ささばやし」を奉納する。 平成13年4月吉日 弓木区・石田区』
本殿の蟇股の彫刻が見事で、針金ひげの龍が蟇股に施されており、中川権次一党の作のようです。観光客も参拝の方もいない神社でしたが、とても立派でした。血走った玉眼の入った龍が立体的で力作でした。
r2を西に走り、7:46「小聖神社」。45度ぐらいの急な石段を頑張って、境内に上がると覆屋に守られた本殿でした。r2に戻り西進し、「京都丹後鉄道宮豊線」を渡り、7:57「弥刀神社」。
中規模の神社でしたが、由緒ありそうな雰囲気を感じました。「皇紀2600年記念」の石碑が立っていました。ゼロ戦誕生の年ですね。切りの良い数字ですので、多くの神社で「皇紀2600年」を目にします。覆屋に守られた本殿の彫刻は見事でした。本殿の扉に、十六菊紋と三七葵紋が刻まれていました。
R312〜R176で南下し、8:13「稲崎神社」。落ち着いた神社で、森に囲まれた境内が気持ち良い。覆屋に守られた本殿の扉に家紋などの彫刻が刻まれており、この地域の特徴のようです。蟇股には針金ひげの龍の彫刻が素晴らしい。
R176に戻り、r76で西進。8:26「深田神社」。こちらも中川一党の作と思われる玉眼の入った見事な龍の彫刻が蟇股に入っていました。本殿の扉の彫刻も素晴らしい。
r2に出て、8:42「中村神社」。鎮守の森に囲まれた神社で、境内に土俵がありました。ブルーシートで保護され、周囲には観客席が作れるスペースが有り、お祭りには子供相撲で賑わいそう。新しそうな社殿だな〜と観に行くと、蟇股には玉眼が入った龍の彫刻が良かった。彫刻は歴史を経ていそうなので、屋根をリニューアルしたようです。
r2〜r76で北上し、8:54「平地地蔵」。境内をご近所さんが寄って草刈りをしていました。みなさん草刈機で熱心です。境内に無縫塔が数基並んでいた。かつては寺院があり、住職が住んでいたようです。ネムノキがピンクの花を付けていた。我が家のある大阪平野北部より、季節が遅いようです。
r76を北上し、9:04「富持神社」。段数の少ない石段を上がり境内に入ると、覆屋に守られた本殿がありました。環濠された本殿で、珍しい。バイクに戻ろうとしたら、蛇(シマヘビ?)がいてびっくり。
r76〜R312〜r17で北上し、9:33「金比羅神社」。とても大きく立派な神社です。「茅の輪」をくぐると、参道の左右に池があり、亀がいっぱい甲羅干しをしていました。
『ご祭神:大物主大神(オオモノヌシノオオカミ) 古来「人の身につき願ひて叶はざることなき大神」と称えられるほどの広大無辺なご神徳がございます。由緒:旧峰山藩主・京極家は、代々ゆかりの讃岐金毘羅権現を深く信仰され、この峰山の地に金毘羅社を勧請したいと念願されていました。7代藩主・京極高備(タカマサ)公は同族のよしみから丸亀・多度津の両京極家にあっせんを依頼し、金比羅宮にも交渉を続けられました。そして遂に、藩主をはじめ町衆の永年に渡る悲願がかない、1国1社の先例を廃して御分霊を勧請することができ、文化8年(1811)現在の峰山町泉の地に社殿を建立してご祭祀されたのです。
大祭:4月9・10日(春季大祭) 7月9・10日(夏季大祭) 10月9・10日(例祭) 第2日曜(神輿渡御)
信仰:創建以来現在にいたるまで、歴代の峯山藩主をはじめ町内外の人々から広く信仰を集めてきました。殊に丹後ちりめんの中心地として商いに栄えた町内商工業者や、丹後・若狭の海事従事者の崇敬は篤く、心の拠り所とされて参りました。現在は峰山町旧町内が氏子区域として、当社をささえられていますがご婚礼・初宮詣・七五三詣・厄年詣から、家内安全・商売繁盛・交通安全、そして漁業・海事の大漁安全と、丹後一円から祈願詣リの方々は跡を絶たず、百般にいたる信仰を集めています。
沿革:創建時は神仏混淆の「金毘羅権現社(コンピラゴンゲンシャ)」と称していましたが、明治に神仏が分離されて社号を「金刀比羅神社」と改められました。そして明治6年には郷社に、大正8年には府社(何れも戦前の旧社格)に格付けられました。
また、明治44年のご鎮座百年祭の際には、120段もの石段が設けられ、現在につながる神域が整い、当地では他に例のない壮麗な社となりました。
丹後大震災:昭和2年(1927)3月、北丹後地方を襲ったM7の大地震は峰山の町に壊滅的な被害をもたらしました。当社の社殿も例外なく罹災・倒壊し、現在のご本殿をはじめすべての社殿はこれ以降に再建されたものです。
境内:約6000坪(2万平米)
境内末社(5棟7社):秋葉社(迦具土命)火防の守護神 佐々木社(定省命)宇多源氏(京極氏)の祖神 八坂社(素蓋鳴命)疫病災害除けの守護神 猿田彦社(猿田彦命)導の神・交通の守護神 木島社(保食命)機織養蚕の守護神 稲荷社(倉稲魂命)五穀豊穣・商売繁昌の守護神 粟島社(少彦名命)医薬の祖神・女人の守護神
金刀比羅神社社務所 〒627-0034京都府京丹後市峰山町泉1165-2TEL 0772-62-0225 FAX 0772-62-5993』
しっかり整った石段を上がると、朱色の綺麗な神門がありました。「金」の文字の入った提灯が下げられていました。その並びに「稲荷神社」がありました。さらにもう1段上がると、「宇多源氏京極家祖神・佐々木神社」と「疫病厄除の守護神・八坂神社」がありました。
更にもう1段上がって本殿へ。さすが藩主の鎮守社、今に至るもよく手入れされ、多くの参拝者を集め続けているのが伺えます。社務所まで降りてくると、猫の焼き物が多数置かれていました。
『ねこプロジェクト みんなで「こま猫」を作ろう!! こんぴらさんの狛猫にちなんだ素焼きの「こま猫」に思い思いの着色をしてもらい、平成23年の200年大祭には200対の奉納展示を行いました。
「峰山の町中をねこでいっぱいに」こんぴら手づくり市で絵付けお申し込み受付中 ねこプロジェクト実行委員会』
r17を北上し、10:07「全性禅寺」。山門の彫刻は、針金ひげの龍でした。中川一党作のようです。境内に牛の像がありました。天神さま・菅原道真を祀る「天満宮社」がありました。
『天神さまとなで牛さん うし年生まれの道真公(天神さま)が亡くなった時、ご遺体を運ぶ車を引いていた牛が悲しみのためか途中で動かなくなりました。やむなく道真公はその地で埋葬されました。その場所が今の福岡県の大宰府天満宮です。
この牛さんの頭をなでると賢くなり、また牛さんをなでた手で体の悪いところをなでると健康になるという昔からの言い伝えがあり、なで牛さんとよばれています。全性寺のなで牛さんは特に「天気牛」ともいわれ、以前は遠足や運動会の前日になると峰山小学校の児童たちが寄り道をして、この牛さんをなでて帰っていきました。
牛さんのなでかた 良くして欲しいところを何回もなでます(牛さん) その手で体の部分をよくさすって下さい(ご自身)』
『お百度参りとお百度石 お百度まいりとは、大切な願いがかなうよう神様に百回参詣することです。お参り回数を重ねることで、信心の深さと願いの切実さが神様に伝わります。お参りの仕方は、お百度石から神殿までを100往復します。50回・60回と参拝するうちに心の中から雑念が消え、ひたすら願いを祈る無心の境地になってきます。その心が尊いのです。
おもかる石は、願いごとがかなうときには軽く、むずかしいときには重くなるといわれています。天神さまのご加護を念じて、この石を持ち上げて下さい。思ったより軽く持ち上がるでしょう。持ち上げるときは石を落して割ったり、ケガをしないようにくれぐれもお気をつけて下さい』
『全性寺と天満宮 江戸時代前期、全性寺が臨済宗天龍寺派の寺院として建立された時、仏さまやお寺をお守りする鎮守の神社として天満宮が造られました。以来350年を超える時を刻んでいます。
天満宮のご神体は平安時代の貴族・菅原道真公で天神さまともよばれ広く親しまれています。学業向上に、また道真公の死後、京都に北野天満宮がまつられて以降、都の人々の暮らしが穏やかになったことから、特に開運招福にご利益があります。
全性寺天満宮の社殿は明治以降では。明治36年(17世佐竹龍水大和尚代)・昭和9年(18世佐竹龍洲大和尚代)・平成19年(20世木村大閑和尚代)にそれぞれ再建されています』
r17を北上し、右折して「京都丹後鉄道宮豊線」を渡り、10:22「咋岡(くいおか)神社」。県道を走っていて、鳥居を見つけたので寄り道しました。石段を上がります。本殿前に一体化した拝殿があり、軍艦の白黒写真絵馬が掲げられていました。
『奉納・皇太子殿下・御渡欧供奉記念 大正10年 赤坂 海軍一等水兵勲八等・・・ 大日本帝国戦艦・鹿島』。昭和天皇がヨーロッパ訪問した時、供奉艦鹿島で訪問された。その時、鹿島に乗っておられた方が奉納されたと想像しました。もう一つ軍艦写真絵馬が奉納されていました。『大正4年11月遠洋航海記念』と書かれていました。
r17を北上し、10:31「国指定史跡・赤坂今井墳墓」。『赤坂今井墳墓は中郡盆地から福田川の河口へ通じる谷筋に面した丘陵の先端に造られた弥生時代後期末(2世紀末〜3世紀初め)の大型方形墳丘墓です。16世紀ごろに山城が築かれたため一部削られていますが、造られた当時は東西36m・南北39m・高さ3.5mの長方形の墳丘と四方に巡る幅5〜9mの平らな面から出来ており、墓域は南北51m・東西45mに渡る当時では日本有数の規模となります。墳丘築造に際しては、南北34m・東西22m・高さ9mに渡って丘陵を切断して墳丘や周辺の平らな面が造成され、より大きく見せるための工夫がされています。
中心的埋葬施設である第1埋葬は墳丘上面の奥よりに位置し、長さ14m・幅10.5mの規模です。中央上面からこぶし大の石約300個による集石と割られた土器群が出土し、さらに西側には南北に並ぶ一列の柱穴列が見つかっていることから、独特な祭祀を行う場があったと考えられています。
第1埋葬を一部切り込んで造成された第4埋葬は、長さ7m・幅4.2mの規模です。舟底状木棺(ふなぞこじょうもっかん)長さ4.4m・幅1.3mの棺内から頭飾り・耳飾り一式、鉄剣1点、ヤリガンナ1点が出土しました。頭飾りは、被葬者の頭の部分に管玉(くだたま)・勾玉が規則正しく三連に連なるもので、布などに編み込んでいたものと考えられます。使用された玉類は確認できたものだけでガラス勾玉22点・ガラス管玉57点・碧玉(へきぎょく)製管玉39点を数え、ガラス管玉の中には、古代中国で兵馬桶にも使用されていた顔料「漢青(かんせい)」(ハン=ブルー)の主成分であるケイ酸銅バリウムが含まれていました。
赤坂今井墳墓はその規模・立地・墓上での祭祀のあり方を知ることが出来る丹後を代表する大型墳丘墓であり、丹後地域の弥生社会の発展を理解する上で大変重要なものです』
県道沿いに案内板が立っており、無料の資料を頂いた。「何処にあるのかな?」と農道を奥に歩いていくと、県道横にありました。綺麗な墳丘です。よく手入れされており、藪こぎなどなしに墳丘の上に立てました。
r17を更に北上し、京都丹後鉄道宮豊線を何度か渡り、左折してR178で西へ。交差点のところに、「野村克也ベースボールギャラリー、静御前出生の地」と書かれた大きな看板が立っていた。野村さんは京都峰山高校出身と知っていましたが、まさにここだと再認識しました。源義経の愛妾・静御前がここに生まれたとは知りませんでした。
11:04「賀茂神社」。『加茂神社由来 長久4年(1043)に山城國上賀茂神社より御分霊を受け創立、祭神は別雷神を祭り丹後における由緒ある神社の1つであります。
中世に於ては相当栄え伏見天皇の正応元年(1288)における丹後田数帳には、木津之庄加茂社領として52町歩余の田畑が領有されていた事が記されています。なお、この歴史を物語るものとして、文化財の指定を受けた鰐口が現存しております。
神社:延喜式内加茂神社
祭神:別雷神
境内末社:八雷神・稲荷神社・小谷神社・大川神社・愛宕神社・威徳神社
神事:元旦祭1月元日 節分2月3日 春公式祭3月上旬 秋大祭10月10日 秋公式祭11月23日
厄除祈祷・家内安全祈祷・学業成就祈祷・安産祈祷・交通安全祈祷・号の他諸祈祷』
山から沢が流れ出すところにあり、水量も多く清浄感を感じました。石段を上がると、雰囲気の良い境内でした。
R178に戻り、西進。11:16「売布神社」。『売布神社 垂仁天皇90年、但馬の国造であった田道間守命は、天皇の命により不老不死の香菓の実を求め、景行天皇元年に帰国しました。この時、田道間守命が祭壇を設けたところが、売布神社の創立された場所と伝えられています。
その後、文安4年(1447)には、現在地に社殿を移したと伝えられています。本殿は、寛文9年(1669)に建築された一間社流造で、京都府指定文化財に指定されています』
見学している間、道の奥から銃声が聞こえていました。猟期ではないので、害獣駆除の名目で鹿でも追っているのでしょうか?普通は犬が追いかけ追い詰められたところで銃を撃つのですが、等間隔で銃声が何発も聞こえてくるので、練習でもしているのかな?とも想像しました。それとも、この道の奥に「ライフル射撃場」があるのだろうか?長男は大学時代「ライフル射撃部」だったので、地図には載っていない射撃場があることを知りました。
R178に戻り、11:25「かに一番木津店」。『いちご狩り30分間食べ放題 1〜3月大人2000円小人1600円、4〜5月大人1600円小人1200円、8:30〜11:00・13:00〜16:00、期間中無休』。大きないちご狩り園が、裏にありました。道の駅のようなお土産物売り場が併設されており、「いちごフラッペ450円」を購入し糖分補給&クールダウンしました。
R178を先に進み、11:46「浜詰海水浴場」。日陰用のテントが海岸に多数並び、海水浴客が楽しんでいました。沖には海上保安庁の警備艇が停泊していました。海水浴の事故防止のためだろうか?職員は、家族やカップルで海水浴を楽しむ方々を、羨ましく双眼鏡で見ているのでしょう。
11:54「志売比神社」。バイクを置いて神社に参ろうと、ふと海の方を見たら岩場に若者3人が甲羅干しをしていました。1人は女性で素敵なビキニ姿でした。あ〜いいわ〜。石段を上がっていくと、海水浴場が眼下に広がって行きました。野鳥とセミの鳴き声が姦しく、「The夏」でした。拝殿に入ると、「ご自由にお取り下さい」とパンフレットが多数置いてあり、一式頂いたので、お賽銭をはずんでおきました。手を合わせ、お願いもしちゃったけど・・・。
少し海岸道路を走り、12:09「恵比須神社」。「浜詰漁港」がありました。戻って、r665に乗り海岸道路を走ります。12:27「静神社」。
『静(しずか)神社 悲劇の英雄、源義経の愛妾であった静御前を祀っているのがこの神社です。静は磯の禅師の娘として生まれ、京に出で、白拍子になり義経に見染められるのですが、義経が追放された後は故郷の磯に帰り晩年を過ごしたということです。
義経が磯の惣太という船持ちの豪族にあてた手紙が残っていたという江戸時代の記録もあります。しかし、この手紙や多くの遺品は天明2年の大火で神社とともに消失してしまい残念ながら残っていません。現在の社も、元のところから西へ200m離れた位置に建てられ、静御前の木像を祀っています』
石段を上り境内に上がると、海岸線が見下ろせました。
『「丹後七姫」イメージ花「静卸前」 ヒトリシズカ(一人静)センリョウ科花言葉:静謐・隠された美愛にこたえて
春の初め、まだ緑が少ない頃に端正なこの花が花壇を明るく彩る多年草。その強さと、花の立ち姿の美しさから、静御前のイメージ花に選ばれました。静御前の故郷である、ここ磯で、日本海の寒風にも耐えて、清楚で可憐な花を咲かせています』
r665で少し走り、12:37「静御前生誕の地」。バイクを置いて、生家の跡の碑を見に行きます。海岸を見下ろす場所でした。
『静御前生誕の地 静は磯に生を享け、父は磯野善次といい「磯の衆」と呼ばれた海士の一族であった。幼名を静尾といい、7才で父を失い母に連れられて都へ上った。母は白拍子として有名になり、静も都で指折りの白拍子へと成長していった。
やがて義経に見初められ、愛妾となるが義経はその後、兄頼朝に追われる身となり、はなればなれに。その後疲れ果てた心身を休めるため、生まれ故郷の磯へと帰ってきた。
静は眺望のよい三つ塚法城が成に草庵を結び、義経の無事と、由比が浜で殺された愛児の冥福を祈りつつ、花月を友として暮らしたと伝えられている。また一説に、草庵は静の出生地の屋敷跡で母娘共々余生を送ったとも言われている。今もこの屋敷跡下の海岸を「尼さんの下」と言っている』
r665を走り、12:50「日吉神社」。『日吉神社は、大山咋命(おおやまぐいのみこと)を祀ります。境内社の1つには、盛大な夏祭りの行われる水無月神社があります。本殿は、文政10年(1827)の再建と伝えられています。本殿の彫刻は、江戸時代後期以降、丹波・丹後地域で活躍した彫刻師・中井の第6代・権次正貞の作品です。本殿は、江戸時代後期の丹波地域を代表する建物である点が評価され、平成5年には京都府の登録文化財に登録されています』
石段を上がると中間郭があり、境内を神道式の石碑が立っていました。
『日清日露戦役紀念碑について
明治27〜28年の日清戦争及び37〜38年の日露戦争には、浅茂川区からも50数名の区民が出征しました。この両戦役を顕彰するために建てられたのがこの紀念碑(記念碑と同意)で、侯爵東郷平八郎元帥の書です。
日露戦争の時には、浅茂川区は軍事援護団体「後援会」を創立して出征兵士やその家族の援護に取り組みました。
後援会は、戦地と郷里との往復郵便書簡の事務のほか、
1.留守家族を慰問し、時には農作業の労働提供
2.応召者を見送り、送別金を贈与する
3.戦死者の招魂祭や凱旋軍人の歓迎祝賀会
などの援護事業を行いました。中心になったのは、青年会「矯正社」の人たちで、出征兵士からの後援会宛の書簡や後援会から兵士への通信など当時の貴重な記録が、現在も区事務所に大切に保管されています。なお、矯正社は水無月祭とも深い関わりを持ち続けました。
この紀念碑を、出征兵士と後援会との書簡とともに、浅茂川区民の誇りとし、優しさと団結のシンボル塔として、長く後世に顕彰していきたいと思います。
平成24年8月吉日 浅茂川区』
横に並んでいる摂社の蛙股は、針金ひげ龍の彫刻でした。他の彫刻も摂社にしては、見事でした。港に続く川には、プレジャーボートが多数停まっていました。更に石段を上がり本郭へ。日吉神社本殿に参ります。覆屋に守られた本殿で、それほど大きくはありませんでしたが、彫刻は見事でした。日吉神社らしく、猿の彫刻もありました。境内には、「征露紀念」と彫られた狛猿が守護していました。r665で橋だけ渡り、13:06「島児神社」。「八丁浜海水浴場」にあるとても小さな神社というより祠でした。『島児神社 京丹後市網野町網野および浅茂川には、浦島伝承が伝わっています。島児神社は、浦島子(浦島太郎)を祀る神社です。この近辺には、網野神社(京丹後市網野町網野)と六神社(京丹後市網野町下岡)にも祀られています』
r665を東に走り、13:13「網野神社」。『網野神社 網野神社は、日子坐王・住吉大神・水江浦嶋子の3神を祀る神社です。もとは銚子山古墳の近くにあったが、享徳元年(1452)9月に現在地に奉遷されたと伝えられています。
境内社の蚕織(こおり)神社は、宮中紅葉山の養蚕神と京都今宮神社の織物神の分霊を祀ったもので、大正14年4月に創立されました。早尾神社は、天湯河板挙命(あめのゆかわたなのみこと)を祀り、かつては秋の彼岸の中日を例祭日として竹市と相撲などがありました。
網野神社本殿・拝殿・渡廊・神饌所・透塀・手水舎・石鳥居、蚕織神社本殿は、国登録文化財となっています』
『網野神社・蚕織神社 網野神社の境内にある蚕織(こおり)神社は、大正14年(1925)に、地元のちりめんと養蚕の関係者が織物と養蚕の神を奉祀し、毎年4月に祈願祭を行い、丹後ちりめんを奉納している』
『網野神社(延喜式内社・旧府社)
御祭神:日子坐王(ひこいますのみこ・水江日子坐王みずえのひこいますのみこ) 住吉大神 水江浦嶋子神(みずのえうらしまこのかみ)
御由緒:当社は延喜式内社であるので、創立は10世紀以前と見られています。元々は、3箇所に御鎮座されていたものを享徳(きょうとく)元年(1452)9月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。 現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正11年(1922)に建てられたものです。拝殿は入母屋造の正面千鳥破風と軒唐破風付きで、こちらも大正11年に本殿と同じくして建てられましたが、昭和2年の丹後大震災の被災により、昭和4年(1929)に再建されました。
当社は延喜式内社であるので創立は十世紀以前とみられています。元々は、三箇所に御鎮座され日子坐王(水江日子坐王):日子坐王は、第9代開化天皇の皇子とされており「古事記」の中つ巻、第10代崇神天皇の御代に日子坐王は勅命により丹波國(古くは丹後も丹波國に含まれていました)に派遣されて土蜘蛛の首領「玖賀耳之御笠」(くがみみのみかさ)を誄されたとあり、また別の記録にはその後、日子坐王は丹波に留まり、國造りをなされたとあります。さらに日子坐王は網野神社の他、丹後町の竹野神社などに祀られ、網野銚子山古墳の主ではないかとも伝えられています。
住吉大神:伊邪那岐神の禊の時に成った上(表)筒男命(つつのおのみこと)・中筒男命・底筒男命の3神を住吉大神と申し上げます。神功皇后の新羅遠征を守護したことから、特に海神として崇敬されています。また、網野神社の住吉大神の縁起には、古代に日本海経由で来着したという説や近世になって河田金右衛門が泉州堺(現在の大阪府堺市)から勧請したという説などがあります。
水江浦嶋子神:水江浦嶋子神は、かつて網野村字福田の園という場所に暮らし、毎日釣りを楽しんでおられましたが、ある時、海神の都に通い、数年を経て帰郷されました。今日まで伝わる説話や童話で有名な「浦嶋太郎さん」は、この水江浦嶋子神が、そのモデルとなっています。
網野には他にも浦嶋子をお祀りした嶋児神社(網野町浅茂川)や六神社(網野町下岡)、嶋子が玉手箱を開けた際にできた顔の皺を悲しみのあまりちぎって投げつけたとされるしわ榎(えのき・網野銚子山古墳)など、水江浦嶋子神に関わる史跡や伝承が今日までたくさん残っております』
地域の核になる大きな神社でした。『しわ榎2世の育成 浦島伝説で有名な「しわ榎」は、永い年月による高齢化と度々の台風によって幹は空洞化し、大枝も折れ無残な姿になりました。
そこで、網野郷土文化保存会が中心となり、行政の支援と樹木医の指導を仰ぎながら、近くの網野南小学校5年生の課外授業として、播種から苗の世話そして、ここに定植する体験学習として取り組みました。
関係者が多く集まり植樹祭を執り行い、榎2世の育成を祈念し、今後も苗木の成長を見守る決意を固めたところです。
平成19年3月 網野町郷土文化保存会』
『皺榎(しわえのき) この樹には浦島太郎についての民話が伝承されている。ここは水の江の住人・浦島太郎終焉の地で、太郎の館跡。太郎が龍宮より帰り、玉手箱を開くと忽ち老翁となる。驚愕せる太郎はその顔の皺を取って、この樹に投げつけたりと依って、今日この榎はその樹皮醜き皺をなすなりと云う。
昭和51年6月 宝娶山本覚寺第27世・権大僧正・石原照山』
『銚子山古墳と陪塚 網野銚子山古墳は全長198m・後円部径115m・同高16m・前方部幅80m・同高10mを測る日本海側最大の前方後円墳です。墳丘は3段に築かれ、それぞれの斜面には葺石が葺かれていました。また各段のテラス上には、丹後地域に特有の円筒埴輪(丹後型円筒埴輪)の列がめぐっていました。前後には小銚子古墳と寛平法皇陵古墳の2基の陪塚を従えています。4世紀末〜5世紀初頭に丹後地域を治めた有力者が葬られた、雄大で整美な古墳です』
『しわ榎 しわ榎は、網野銚子山古墳と寛平法皇陵古墳の間にある榎の大木です。 竜宮から帰った浦島子(浦島太郎)は、この場所で玉くしげ(玉手箱)を開けました。この時、顔がしわだらけになってし
まった浦島子は、悲しみのあまり、しわをちぎって投げつけたため、榎の樹皮がしわで凹凸になったと伝えられています』
大きな前方後円墳でした。墳丘に登れるので、端から端まで歩きました。墳丘の麓にある「本覚寺」に寄りました。
『当山縁起 当山は凡そ440年前の開創なり。即ち泉州堺に河田金右衛門あり。篤く法華経を信じ、仏心院日光聖人に帰依す。然るに天正7年織田信長による世に安土法難と称する大弾圧の厄あり。宗門の命脈正に危機を煩わす。茲(ここ)に於いて河田氏はともあれ1度はこの重圧を避け復興を祈願し、祖像(光師開眼の花押あり。及び氏神住吉明神を奉り当邑に逃れ来る。ここに真言宗の一小庵を興し寺となす)。
善性院日永聖人を開山と頼み、宝永山本妙寺と称す。後第6代日通大徳の代(寛文2年)本覚寺と改む。
昭和2年、丹後大地震で七堂伽藍倒壊し、ようやく今日に至る。
平成30年春4月 再記』
r665を経て、14:03「六神社」。石段を上がっていくと、覆屋で守られた本殿の彫刻は素晴らしかった。それほど大きくないお宮だけど、不釣り合いな見事な彫刻が施され蟇股の龍は針金ひげでした。その上に綱を持つ牛飼いに操られた牛の彫刻が珍しい。唐破風の立派な屋根の本殿でした。
r665に戻り、r53を走り出します。14:19「春日神社」。境内に蔵のある立派な神社で中堅どころでしょうか。本殿の彫刻も見応えがありました。摂社の床尾神社の彫刻も良かった。この地方の神社は、扉にもしっかり彫刻を入れているのが特徴のようです。
『床尾(ゆかお)神社 床尾神社は、現在、春日神社の境内社ですが、もとは床尾山に祀られていました。 言い伝えによると、もともと鎮座していた床尾山では、お宮が北面していて、不浄のことが]あると日本海の船が進めなくなったそうです。そのため、神社は、山の下の低地に遷され、あわせて社殿の向きを南面に改めたと伝えられています』
r53〜r655で、14:47「小町公園」。『内山ブナ林 ブナは、日本の冷温帯を代表する落葉広葉樹。内山ブナ林は、京都府内でも最大級の約40haの広さを持ち、そのエリア内には多様な動植物が確認されており学術的にもその評価が高い。 自然観察施設のブナハウス内山から標高702mの高山山頂までは稜線散策道(観察道)が整備されており、途中、内山集落跡や幹の周囲が3.65mにわたる大ブナを見ることができる』
蓮の葉が浮かぶ池に面した建物がありました。
『内山ブナ林と小町の里 内山ブナ林地域は丹後天橋立大江山国定公園として2007年に指定されました。京丹後市大宮町五十河の里(小町の里)から登ることができます。登山口には平安時代の歌人・小野小町が眠る墓と小町公圃があります。小町公圃の展望台望台に登ると、内山プナ林と五十河の里を見渡すことができます。
小町公園から山中のブナハクスまでは自転車で行くことができます。ブナハウスは標高500m以上の山中に建てられており、トイレや昼食などの休憩場所として利用されてる無人の施設です。小町公圃からブナハウスまでは徒歩50〜60分ぐらいです。ブナハウスから内山山系の最高峰の高山(標高700m・丹後半島最高峰)までは、少し急な斜面を登ります。登る途中では樹林の間から、琴引浜と天橋立を遠望できます。山頂からは太鼓山の風車発電の風車などを展望することができます。ブナ林が最もきれいな所は、ブナハウスから約300〜400m登った地域です。また、山頂の尾根沿い付近には、京都府内最大のブナが生育しています。このブナの太さは約3.65 mもあり、ブナの母樹といえそうです。
山中の登山路は良く管理されており、運動靴で登ることができます。夏は蚊が多いので、長袖長ズボン・帽子の着用が適します。秋の内山は11月上旬から下旬にかけてすばらしい紅葉に包まれます。秋に少人数で登るときは、クマ避けの鈴を持っていくと良いでしょう。ツキノワグマが生息している森ですが、出会うことはほとんどありません。冬は12月から3月下旬頃まで山頂付近は雪でおおわれています。毎年1m以上の積雪がありますので、冬登山は完全装備で登りましょう。春の訪れは遅く、4月になります。小町の里やブナハウス周辺の集落跡には、フクジュソウが咲き乱れ、登山者の心を和ませてくれます。
野鳥・草花・昆虫など季節毎に移り変わる自然は、疲れた登山者の心身を癒やしてくれます。自然観察だけでなく、健康増進、家族連れにも良い所です。
さあ、登ってみよう、内山ブナ林へ』
『京丹後七姫伝説 京丹後市観光協会
・小野小町(美しすぎた情熱の歌人)・京丹後市大宮町五十河(駐車場完備・大型バス駐車場有り)
平安時代の六歌仙の1人で絶世の美女として知られる小野小町は、深草少将の猛烈な求愛に疲れ果て、京の都を逃れて大宮町五十河に隠れ住んだと伝わる。五十河地区には小町が開基したと言われる妙性寺、小町の墓と伝えられる小町塚があり、一帯は小町公園として整備されている。R312号線・大宮市民局前から約7km。九重の 花の都に 住まわせで はなやか我は 三重にかくるる(三重とは三重の郷五十日村(現五十河))
・細川ガラシャ(戦国に散った一輪の花)・京丹後市弥栄町味土野(道路は非常に狭いので注意)
明智を秀の娘(三女)玉は丹後田辺城(舞鶴市)の細川忠興に嫁いだが(1578年16才)、本能寺の変(1582年)で父が信長を討ち、弥栄町味土野に幽閉された。ここでキリスト教に出会い(1582年ガラシャ)の名を授かった。関ヶ原の合戦の折り、人質として夫の足手まといになることを潔してせず悲運の最期をとげた(1600年38才)
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花あれ 人も人なれ
・静御前(悲運の英雄に愛された舞い姫)・京丹後市網野町磯(駐車場有り)網野町磯で生まれ、京の都で指折りの白拍子として有名になり、源義経に見初められました。義経と頼朝の不仲により、義経と共に追われる身となり吉野山中で義経と別れ、故郷の網野町磯に戻り、夫の無事と子の冥福を祈りました。磯周辺には静御前を祀る静神社や、義経が訪れたときにまつわる岩などが残されています。
・間人皇后(優しき土地に名を贈る)・京丹後市丹後町後が浜(駐車場完備・大型バス駐車場有り)
母子像が日本海を眺めるようにたたずむ。聖徳太子の御母である(穴穂部間人皇后)は曽我氏と物部氏の争乱をさけ太子とともにこの地(現間人・大浜の里)に身を寄せたと伝わります。大和の国へお帰りになるになるにあたって皇后自らの名を贈られたが、住民たちは恐れ多く感じ皇后が退座されたことにちなみ(たいざ・間人)と読むことに。
・羽衣天女(舞い降りた美しき天人)・京丹後市峰山町鱒留(駐車場完備)・比治の山
2つの羽衣伝説があり、1つは日本最古と思われる羽衣伝説。もう1つは羽衣を隠した狩人「さんねも」と結ばれた大女が3人の娘をもうけたが再び天上へ戻って行ったという物語。
いずれの伝説でも、天女が舞い降りた場所(水浴び)は磯砂山の中腹にある女池(めいけ)といわれている。モニュメントがある磯砂山(標高661m)頂上からの眺めは最高です。
・乙姫(竜宮の姫君)・京丹後市網野町浅茂川(駐車場完備・大型ベス駐車場有り)
丹後の国風土記に伝えられる浦島太郎伝説が最古と言われ、水江浦島子(みずのえのうらしまこ)の名前になっている。浦島伝説ゆかりの神社・浅茂川海岸に鎮座する嶋児神社に祀られています。
・川上摩須郎女(かわかみのますのいらつめ)美しき将軍の妻・京丹後市久美浜町
丹波の国(現京丹後市久美浜町)国王として君臨した丹波の主命の妻。伯耆谷には、この一族の大勢力の遺跡が数多く存在しています。景勝地のかぶとやま山頂の祠に祀られており、そこから見る久美浜湾、日本海の景色は最高です。神谷太刀の宮にも、丹波の主命の事が記されています』
「小野小町展示室」がありました。小町ゆかりの品が展示されているようですが、「大人200円・小中学生100円」の入室料が必要なようです。パス建物から出て、小野小町の墓を見に行きます。
『五十河一新宮(いかが・しんぐう)
五十河・新宮区はごんなところ?
「五十河」という地名は、江戸時代にはじめてみられるものです。「妙性寺縁起(みょうしようじえんぎ)」によれば、この地に来た小野小町が火事に困っていた村人たちの相談を受けて、「五十日」という地名を「五十河」に変えれが火事が治まると教えのが由来といわれています。
この地区では、五十河において縄文時代から生活をしていた痕跡がみられます。飛鳥時代には、須恵器を焼いた新宮窯跡が操業しています。
この地区には、平安時代の歌人小野小町がこの地で亡くなったという伝承が残っています。小町の舎には、全国の小町伝承に関する資料を展示しています。また小町を開基と伝える妙性寺、小町の守護仏を祀る薬師堂・小町の墓・小町をしたってこの地に来た深草少将の墓と伝える岡の宮などが残っています。小町が腹痛を起こしたという「小町坂」は、現在も小字名として新宮区に残っています。
神社は、五十河区に霧宮神社・中原神社、新宮区に三社神社があります。また霧宮神社境内には、町内でもっとも大きな杉(八岐杉)があるほか、もともと内山にあった三柱神社が鎮座しています。内山には、北近畿地方有数の面積をほこるブナ林があり、京丹後市指定天然記念物に指定されている京都府下で一番大きなブナの木もあります』
『小野小町の墓
平安時代、百人一首で知られ、六歌仙の1人で絶世の美女と云われた小野小町が、年老いて丹波路を旅する途中、五十河の住人甚兵衛と道連れになった。当地で旅の疲れを休め、再び甚兵衛に送られ旅立つも、新宮より道戸へ通ずる長尾坂で急に病の身となり、甚兵衛は小町を背負って帰り我が家で介護、薬石効なく辞世の句
「九重の花の都に住みはせで はかなや我は三重にかくるる」
の一句を残してこの地で世を去ったと云われる。以後、長尾坂は小野負坂(小野坂)と呼ばれている。法名を妙性といい、小野山妙性寺は小町を開基として建立され、今でも妙性寺には由来を記した巻物、小町像、位牌が寺宝として残っている。
大宮町』
お墓に手を合わせました。『薬師堂 妙性寺の由来を記した「妙性寺縁起」によれば、薬師堂は小野小町の守護仏である薬師如来を祀ったお堂とされています』
『妙性寺300m・中原神社350m・霧宮神社・三柱神社150m』
ちょうど閉まったばかりの蕎麦屋さんがありました。食べたかったけど仕方ありません。
r655〜r53で南下し、右折してR178。左折してR176。天橋立まで来て、15:26「真照寺」。『どこまで逃げる わたしは慈悲のなか』。少し走り、15:35「仏性寺」。山門の彫刻はナイスでした。龍の彫刻が、針金ひげで中川一党作のようです。横にある「桜山天満宮」へ。『天満宮 宮津市字万町 古くより天満宮・また天神社とよぱれてきた。もとは社殿うしろの桜山にあったというが、その勧請年代は不詳。寛永年間(17世紀前期)に宮津藩主京樋高広が現地に再建したと伝える。
天満天神というのは、菅原道真の霊を神格化した呼称で、その歴史は古く、仏教信仰と結んで、渡唐天神の信仰を生み、また文芸・学問・諸芸能の神として、その信仰は広く上流権門から庶民の間にも浸透した。
ここに祀られる菅公神像は、もと太閤秀吉が身辺に守護神としてもっていたものを側室松の丸の手を経て、藩主京極高広に贈られたものと伝える。松の丸は高広の父高知の妹で、若狭守護武田元明に嫁いだが、元明は秀吉に攻められて自殺し、松の丸は秀吉の側室とされた。秀吉の伏見城松の丸に住んだので松の丸殿と呼ばれ、淀君と勢力を競ったという。
京極高広は境内地の一角に、田辺(舞鶴)同隆寺より有栄法印を招き成就院密厳寺を建てて天満宮の支配に任じた。いまの桜山会館の地という。境内宝物庫は天満宮・成就院関係の宝物や、近世万町町絵図、祭礼屋台等を収蔵している。氏子の人々が自ら財を募って建設した貴重な宝物庫である』
境内に、絵馬殿があり見学。本殿の彫刻も見事でした。境内に石碑が2つ並列に立っていました。
『本庄宗秀・宗武の墓 幕末期に宮津藩主を務めた本庄宗秀・宗武の墓所です。宗秀は異国船が来航する中、宮津湾の砲台築造などに当たり、寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中といった幕府の要職を歴任しました。慶応2年(1866)、第2次長州征伐では副総督を務めますが、長州藩士の捕虜を釈放したことから老中を罷免。晩年は文芸書画を好み、伊勢神宮の大宮司にもなりました。明治6年(1873)に死去。享年65才。
宗武は、最後の宮津藩主です。戊辰戦争では、朝敵の嫌疑を受けますが、西園寺公望が率いる山陰道鎮撫使に対して帰順の意思を示し、明治2年(1869)の版籍奉還では宮津藩知事、同4年(1871)の廃藩置県では宮津県知事となりました。明治6年、北海道の開拓に従事しますが、同年、父・宗秀の死去により宮津に戻りました。龍神社の宮司を務めています。明治26年(1893)に死去。享年48才。墓所の前に架かる石橋は、宮津城二の丸にあった昌国宮から移築されたものです。昌国宮は藩主の本庄資昌(本庄家初代宮津藩主)を祀るために建てられたもので、宮津城の廃城により荒廃したため、明治19年(1886)、昌国宮の再興事業として墓所の南側にある桜山に本荘(庄)神社が建てられました。
この墓所の周辺には、宮津藩主・本庄家に関連する旧跡が点在しており、明治期の藩主顕彰の中で作られた空問となっています』
r9から「京都縦貫道」に乗って南下し、「京丹波みずほIC」で下車し、R173を南下します。16:38「ローソン京丹波和田店」で、「ガリガリ君ソーダ75円」を購入し、Pでクールダウン。R173で南下します。17:20「ファミリーマート能勢町栗栖店」で、「チョコバニラバー86円」を購入し、再び糖分補給。R173で南下し、18:06帰宅しました。


2020/8/1
先月訪問した能勢の酒屋&作家さんの奥さんの実家・亀岡市峠にある「石田梅岩の生家」を訪問することにしました。9:01、「里山VTR250」で出発。池田からR423で北上します。ロードサイド温度計は26℃でした。右折して、京都府道r733で東進。右折して山中に入っていきます。
9:55、「稲荷神社」。石段を上がっていきます。森の中の本殿を見ます。覆屋に守られた本殿は檜皮葺の屋根を持ち、鳩の彫刻などが蟇股に施されていました。山の中の枝道を更に進み、r46に出て北上します。
r407に乗り換え、10:14「石田梅岩生家」。府道沿いに車が10台ほど入る砂利引きのPがあり、「ここかな?」とバイクを停めるとビンゴでした。石田梅岩は、僕のような一握りの人が知ってるぐらいで、江戸時代、平和な時代になり、蔵が建つほど金を儲け、武士に金貸したりするので蔑まれてもいた商家に、大きな意義を持たせ京都の商人から絶大な人気を得た哲学者です。近江商人の「三方良し」にも通じる「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」と説いた。京都にも大阪にも、石田梅岩を敬愛した碑があり、そういうのを見た時から本を読んだりして好きになった。r46は、石田梅岩が哲学した山中を走る「石田梅岩哲学の道」ん並行して走っている。何故、この山中の道が石田梅岩に由縁があるのか疑問だったが、生家を訪問し理解できました。
観光案内板を探しましたがありません。横に立つ石柱に「石田先生誕生地」と彫られているだけです。府道沿いに田が広がり、一段高い所に大きな木が立つ立派な家があり、「あそこかな?」と歩いていきます。ビンゴ!立派な長屋門をくぐると、「石門心学開道舎」と書かれた木造の建物がありました。「石田梅岩先生生誕地」の石碑が立っています。ユリの花が綺麗に咲いています。横には公園があります。
「ここか〜」と感動していたら、「どちらからお越しですか?」と不意に声を掛けられた。振り返ると、長屋門横の屋根付き庭のテーブル席にお年寄りが腰掛けられておられた。「兵庫県の伊丹からです」「遠くからご苦労さまです。まあお掛け下さい」と椅子を勧められました。横の母屋の木戸に入られ、150mlペットボトルのお茶を渡されました。「どうぞ」。
「石門心学開道舎」の鍵を開けてくださり、「ここは梅岩を信奉しておられる方が建てた建物で、痛みが激しくなり、親父が手入れして蘇らせました。半分、私の勉強部屋です。どうぞ見学して下さい」と見せて下さりました。中は2部屋で、1部屋は石田梅岩に関する様々な物が置いてありました。別の1部屋はまさに勉強部屋と言われた通り、PCが置かれたテーブルに蔵書が壁一面の部屋でした。テーブル席に座り、石田梅岩さんについて一通り説明して下さりました。梅岩さんは妻帯されずに亡くなったので、子孫はおられないそうです。このご主人は、生家を継いだ梅岩さんの兄の子孫で、表札の主でした。僕が大阪の梅岩さんを祀る神社や石碑を訪問したこと、すぐ近くを走る「石田梅岩哲学の道」をバイクで何度も走ったこと、能勢の酒屋&作家さんの奥様の実家ながここ峠集落でそば屋をやっていることなどを話すととても喜ばれ、ご自身の身の上話までされました。
ご主人の後、この家はどうなるのだろう・・・「三方良し」や「先も立つ、我も立つ」は、西洋的な生き馬の目を抜く出し抜く商売ではない日本的な商人気質が表されており、これから益々大切にしたい商人道です。最近、また石田梅岩が脚光を浴びるようになっているそうで、亀岡市が隣の「梅岩公園」を再び整備するそうです。全国の商工会議所からの団体訪問も増えそうです。
ご主人は、京都郵便局に勤め、定年後は農業をしながら、亀岡市の神社総代や梅岩関係の催しに呼ばれスピーチをしたりしているそうです。現在のお年は88才で、流石にいろんな役職から降り、講演も減らしているそうです。話のネタは尽きず、1時間以上話し込んじゃいました。御暇します。庭に屋根付きの大きめのテーブルを置き、椅子を数席並べ、天気の良い日はのんびり読書・・・なんて最高だな。母屋の庭に、花が落ちた蓮がありました。横の公園を見ると白い蓮の花が咲いています。「孝行蓮」と呼ばれているそうです。別の種と思ったら、梅岩が「正直」「勤勉」「質素・倹約」の教えを説いた石門心学の私塾を京都で開学した1792年、母親が自宅の庭先で育てていたハスが初めて花をつけたことから、梅岩の親孝行が咲かせたとして「孝行蓮」と名付けられ、石田家が代々、株を受け継いできたそうです。7月初旬からの蓮の季節になると、訪問者が多くなるそうです。
『石田梅岩翁記念公園
ふるさと亀岡が生んだ偉大な先人、石門心学の祖石田梅岩は、当地亀岡市来別院町来掛の農家の2男として貞亨2年(1685)に生まれました。
梅岩は、11才の時から京都の商家に奉公に出て、一旦帰郷しますが、23才の時再び京都の商家「黒柳家」に奉公に出ました。実直な奉公の傍ら、寸暇を惜しんで勉学に励み、独学で「人の人たる道」を追求しました。
その教えは、神道・儒教・仏教など様々な分野の知識を取り入れ、体系化したもので、日常生活に立脚した道徳的手本として確立させたものです。
享保14年(1729)に、京都車屋町御池上ルの借家で初めて講席を開きました。講席は、広く一般民衆に呼びかけ、聴譜無料、出入り自由、男女が共に学ぶといったもので、当時では型破りなものでした。すなわち、生涯学習実践の先駆的なものといえます。
元文4年(1739)に「都鄙問答」、延享元年(1744)には「倹約斉家論」を刊行しました。
梅岩の教えは、手島堵庵を始め多くの弟子たちに受け継がれ、京都(明倫舎)・大阪(明誠合)・江戸(参前合)などを拠点として平易な道話を通じて多くの人々に浸透し、全国に心学講舎が設立されました。亀岡においても天明6年(1786)ころに持養舎が設立されました。現在も当地に開道舎が、梅岩の教えを伝えています。
昭和9年(1934)には、石田梅岩先生顕彰会が結成され、昭和39年(1964)には生家の前庭に梅岩公園、記念館が建設され、7月になると梅岩遺愛の孝行蓮が開花します。
また毎年9月24日には、墓前祭が盛大に斎行されます』
『孝行蓮の由来
ここは、心学開祖・石田梅岩先生のご生誕地です。先生は青少年期に聖賢の書を熟読、さらに小栗了雲師に「人間の本性」を学び、師の没後京都の町中で「人の道」を説かれました。
享保14年45才の時でした。その年生家前庭の泥田に母永年待望の白蓮が咲きました。人はこれを孝行蓮と名付けました。心学は、日本の各地に伝わっています。東京心学参前会』
梅岩公園の写真を写していると、ご主人が来られ、「これ、お子さんやお孫さんに読ませて下さい」と、本を2冊頂きました。
「こころの花束勘平さん物語 企画編集いしだにろう 企画正田ひとみ 亀岡市生涯学習都市宣言30周年記念 発行:石田梅岩先生公園」、これは子供にも興味を引くよう漫画になっています。企画編集は石田二郎さんで、ご主人ご本人です。離れの勉強部屋でコツコツ書かれたのでしょう。自費出版した昭和61年1刷ですが、近年の石田梅岩の静かなブームに乗って亀岡ロータリークラブが平成30年に第2刷したようで、その1冊を頂きました。
もう1冊は、「石門心学の開祖石田梅岩 財団法人石田梅岩先生顕彰会」で、生家の写真、江戸時代の梅岩の講釈絵図・机・肖像画・お墓・年譜などが載っていました。
r407を北上し、11:37「小瀧神社」。府道に沿って流れる「蘇我谷川」沿いに広がる田んぼから里山に入る所にありました。森の中の静かな神社でした。枝道を更に奥に入り、11:55「曹洞宗天王山極楽寺」。目を引くところがない小さな寺院でスルーし、更に石段で上る位置にある「素盞嗚神社」へ。桔梗紋でした。檜皮葺の屋根の神社で覆屋に守られていました。暑い時期になり、こういう木陰の広がる神社が気持ち良いです。
更に枝道を奥に入り探索しましたが、すぐに行き止まりになっていました。戻ります。道沿いに、トタン屋根に守られた「窯」がありました。r733に出て、R423に突き当り、右折してR423を北上。
左折して枝道に入り、12:25「素盞嗚神社」。森の中の檜皮葺の本殿で、覆屋に守られていた。左折して、r732で西進。
枝道に入り、12:38「松尾神社」。『松尾神社(西別院町犬甘野) 祭神:大山咋命・市杵嶋姫命
松尾神社は、社伝によると、寛和年間(985〜987)、源満仲が武運長久を祈願して勧請したといい、古来よりこの地の氏神として崇敬されてきた。
本殿は、間口の広い一間社流造、檜皮葺である。本殿の擬宝珠嗚(ぎぼしめい)に「宝永6年(1709)」とあり、その頃の造営と考えられる。
7月の第1日曜日には、境内で「犬甘野の御田」が行われる。これは、神前で農作業や豊作の様子を演じることにより、豊作を祈る予祝(よしゃく)の祭りである。本殿前の上下2段の広場で、早乙女や牛使いなどが「朝田植え」「コビル(軽い昼食の意)」「昼田植え」という時間の経過を示す2段構成で田植えの作業を演じる。演じられる田植えの様子は、中世の大田植の痕跡を残し、京都府登録無形民俗文化財である』
森の中の神社と高をくくっていましたが、木造の鳥居をくぐると、長い一本道の参道が森の奥へ続いています。参道・本殿横を沢が流れ、清浄に空気に包まれています。境内中央の絵馬殿には、判別不能になっている絵馬が数枚飾られています。セミと野鳥のさえずりが気持ち良い。
r732に戻り、西進。ロードサイド温度は29℃。左折して、「地黄林道」で山中を南下します。この道は好きな道ですが、今年初走行です。R477「地黄」まで抜ける舗装路林道で楽しいです。
林道は、「地黄湿原」のど真ん中を突っ切ります。バイクを停めます。
『地黄湿原大阪府緑地環境保全地域 この湿原は自然湧水湿地で、食中植物やラン科植物・トンボなど湿地特有の物が生息・生育しています。
この素晴らしい環境を守るため湿地周辺の山林も含めて、大阪府自然環境保全条例に基づく緑地環境保全地域に指定されています。
これにより、動植物の捕獲・採取が禁止されていますので、ご協力をお願いします。
問い合わせ先:財団法人・大阪みどりのトラスト協会 06-6949-5705』
林道を先に進みます。小さな峠を越え、下りに入ります。「もう少しで、妙見奥之院への分岐だな〜、林道も終わり」と思いながら下っていると、バリケードが林道の中央にありました。オフロードバイクが1台停まっており、男性が立っています。バイクを置いて、「この先バイクでも行けませんか?」「だと思います」とのこと。「もう少しなのにな〜」と言いながら、バリケードの横を抜けて行きます。オフバイクのお兄さんもついて来ました。少し歩くと、林道中央にショベルカーが置かれており、バイクでも通れそうにありません。
お兄さんと話しながら、バイクに戻ります。バイクのところで、話の続きをしました。本土出身ですが琉球大学農学部を卒業し、就職して大阪で働きだして1年だそうです。親に「学費の安い国公立でないと・・・」と言われたので、琉球大学農学部に入学したそうです。数年前に沖縄一周した時に感じた反米軍基地・反辺野古飛行場のことを話すと、「反基地運動している方には近づいたら危ないですよ。ハングルの看板も多いし・・・」と元地元民の視点からいろいろ教えてもらった。僕同様、反基地運動家の怪しさを感じていたようです。農学部は、進路がとても広いので、その事を話したら同じ感覚でした。大阪周辺にこんなに森があり、オフ車乗りには楽しいエリアが広がっているのを喜んでいました。でも、彼の年齢ではオンロードに乗る方ばかりで、オフ車の仲間が少ないと嘆いていました。
15分ほど話し、林道を帰ることにしました。「地黄湿原」まで戻ると、スクーターとすれ違いました。通行止めを教えたかったけど、余裕がありませんでした。r732に戻り西進し、左折してR477で南下し、R173で南下します。池田に戻り、14:18帰宅しました。


2020/7/26
家内もお休みなので、琵琶湖に浮かぶ神の島「竹生島」に行くことにしました。ルートは、JR伊丹駅〜湖西線近江今津駅1980円〜琵琶湖横断航路・竹生島クルーズ(今津港〜長浜港)2880円〜長浜駅〜伊丹駅2310円。コロナ禍で休業していたようで、前日7/25から運行再開されていました。
JRに長く乗るので、「JR西日本ワンデイパス(1日乗り放題)」を探しました。コロナ禍で販売中止になっていましたが、新たに「ワンデイスマイルパス3670円」として紹介されていました。利用できる路線に上記3駅全部入っているのでお得です。でも8/1からだったので残念。
天気予報では、伊丹も琵琶湖北部も雨なのでイマイチですが、電車と船が殆どで竹生島でもそれほど歩かないから。むしろ風がない予報なので、船に乗るなら風の方が重要です。
10時半前、JR伊丹駅発〜大阪駅で乗り換え、12時頃「近江今津」、1980円。近江今津港は駅から見えています。一本道を湖畔に向かって歩くと、「琵琶湖周航の歌資料館」がありました。「今津町で、琵琶湖周航の歌が生まれました」だそうです。
『メダカ・ヒツジグサ・カキツバタが生息するビオトープ
かつて、今津の沼や小川等でよくみられた、メダカ・ヒツジグサ・カキツバタは、ごく限られたところでしかみられなくなりました。これら今津の希少生物を身近に観察していただくとともに、自然環境保護の大切さを願って、ここに小さなビオトープをつくりました』
『ひつじぐさを育てています
琵琶湖周航の歌の作詞者は長野県岡谷出身の小口太郎で第三高等学校(現在の京都大学)のボート部の年間行事である琵琶湖周航の際に、今津町の宿で歌詞を発表し、当時流行していた「ひつじぐさ」のメロディーに合わせて歌ったのが琵琶湖周航の歌の誕生でした。その歌は、琵琶湖の風景と自然の雄大さを歌い、心に残るメロディーは優しく全ての人々の心を癒してくれます。
原曲の名前となった「ひつじぐさ」は、小型の睡蓮で未の刻(午後2時頃)に咲くことからその名称の由来となっています。
「ひつじぐさ」の作曲者の詳細は長い間不明でしたが、平成5年6月に新潟市新津出身の吉田千秋であることがわかりました。高島市から吉田千秋の生家に「ひつじぐさ」が送られ、現在も大切に育てられています。
琵琶湖周航の歌は、平成29年6月28日に誕生百周年を迎えます。
琵琶湖周航の歌を伝承する会 環境を守る今津の会』
『琵琶湖周航の歌の原曲は吉田千秋作曲の「ひつじぐさ」です。周航の歌発祥の地である今津ではこのヒツジグサを増やそうと努めています。ヒツジグサは富栄養化した水では育だないので、琵琶湖水質浄化のシンボルともなるのです。千秋は若くして亡くなりました。その前年、「サーワトキンス(大杯すいせんの仲間)」の球根2球を購入し自宅に植えたのですが,花を見ずして永眠しました。この水仙が現在千秋の実家で美しく咲いいます。
今津でも実家からいただいた球根をここで増やし、歌と花を愛した吉田千秋を偲びたいと思います』
多数の鉢が歩道の一部に並べられています。ビオトープなのでしょう。琵琶湖周航の歌の歌詞が、一部碑になっています。真宗大谷派「西福寺」横を歩き、「竹生島行き観光船のりば」に到着。
『浜通り
今津は、都と北国を結ぶ陸の道である北国街道(西近江路・国道161号)と、日本海と琵琶湖を結ぶ海の道である九里半街道(若狭街道・国道303号)が交わる交通の要衝として発展してきました。江戸時代には北国街道の宿場が置かれ、また、九里半街道を運ばれてきた日本海諸国の産物が大津にむけて船積みされたり、西国33所巡りの巡礼が竹生島宝厳寺を目指したりした港として賑わいました。北国街道は、衣川・和邇(今宿)・木戸・北小松・河原市・今津・海津の7ヵ所の宿場が設けられていました。湖岸に平行する「浜通り」は、当時の面影を伝えています。湖岸には宝永7年(1710)に金沢藩が築いた石垣が、天川から庄垂川まで、500間(約900m)に渡って残っています』
「竹生島クルーズ」は、今津港往復、長浜港往復、今津港発〜長浜港着の3航路があります。「今津港13:10発〜島滞在65分〜長浜港15:10着」の琵琶湖横断航路のチケットを購入しました。今津港発9:30・10:40・12:00・13:10・14:20、1日5便あるようです。
出港を待っていると、雨が落ちてきました。元々、天気予報は雨だったので、ここまで降らなかったのがラッキーでした。竹生島からシャトル船が桟橋に戻って来て、雨の中桟橋から船へ。船内はガラガラです。席に座り、2人の自撮り写真を撮り、家族LINEに投稿しました。電車では、水着メーカー製の水玉模様マスクを夫婦お揃いでしていましたが、家内に「ここからはこれね」と渡された次男のお嫁さんお手製のマスクに変えます。家内が着てきたTシャツは、長男一家が昨年お盆に帰省した時にもらったプリンストン大学Tシャツです。マスクとTシャツが写るように写真を写しました。
竹生島まで20分。島が近づくと雨が上がりました。船内では、古代湖琵琶湖の特徴、琵琶湖に浮かぶ4つの島の特徴、竹生島の案内が流されていました。桟橋に上がると、今津行き・長浜行き・彦根行きの3つの桟橋がありました。「琵琶湖周航の歌」の竹生島の部分が碑になっています。港から見える山の斜面に寺院や神社の屋根が見えています。歩く距離は少なそうですが、階段がきつそう。入島料が必要なようで、「竹生島入島記念500円」で上陸。「宝厳寺」に向かって石段参道を上がっていきます。角度が急で45度ぐらいありそう。1つ目の石段を上がると、とても綺麗な建物がありました。これが船内で紹介されていた秀吉の建てた大阪城から移築された建物のようです。
『国宝・宝厳寺唐門 慶長8年(1603)
慶長7・8年(1602・3)豊臣秀吉の子秀頼によって、京都豊国廟(秀吉の亡がらを葬った廟所)の建造物を竹生島に移築するかたちで、当時荒廃していた竹生島の伽藍整備が行われました。この時、豊国廟の極楽門が移築され現在の宝厳寺唐門になったといいます。豪華絢爛と評される桃山様式の建造物の特徴がよく表れており、破風板内部の正面中央には大型の墓股が置かれ、その内部は牡丹の彫刻で埋められています。墓股の外部や脇羽目なども多彩な彫刻で埋め尽くされ、極彩色で飾られています。
現在は、長年の風雨によりその華やかな色もずいぶん褪せていますが、建立当初は、黒漆塗りの躯体と、赤・黄・緑などの極彩色とが鮮やかなコントラストで映えていたことでしょう。
さて、この唐門は京都から移築されてきたものですが、実は、その前に一度移築を経験しています。このことが最近のある大発見によってよりクローズアップされてきました。2006年、オーストリアのエッゲンベルグ城に飾られていた壁画が、豊臣時代の大坂を描いた屏風絵であったということが判明したのです。そこには、大坂城の本丸と二の丸の間にかかる屋根や望楼を持つ豪華な橋・極楽橋が描かれていたのです。この橋は、慶長元年(1506)に建造され、慶長5年(1600)に京都の豊国廟へ移築され極楽門として設置されたことが分かっています。さらに、慶長7年(1602)に竹生島に移築され現在に残っているというわけです。江戸時代の初期に徳川家によって破却された豊臣時代の大坂城の一部が唯一、竹生島に現存しているのです。秀吉が、初めて城持ちの大名となった地である長浜に、栄華を極めた秀吉の象徴とも言える大坂城の遺構が唯一残っていることは、深い因縁を感じさせます』
『国宝唐門
「唐門」とは、唐破風(中央が高く、左右になだらかな曲線で垂れる破風)をもつ門という意味です。 この「唐門」は、京都東山の豊国廟(秀吉の亡がらを葬った廟所)に建っていたものを、慶長7年(1602)豊臣秀頼の命により片桐且元を普請奉行として移築されたものと考えられています。移築の際、土地の条件から観音堂に接して建てられています。
桧皮葺、建物全体を総黒漆塗りとした上に金鍍金(きんめっき)の飾金具が散りばめられ、虹梁中央の墓股の周囲には鳳凰や松・兎・牡丹の彫刻を、2枚の大きな桟唐戸(さんからと)や壁には牡丹唐草の彫刻を極彩色塗りで飾っています。豪華絢爛と言われた桃山様式の「唐門」の代表的遺構です。
平成18年(2006)、オーストリアにあるエッゲンベルク城で豊臣期大坂図屏風が発見されました。絵中にはこの門が大坂城にあった姿で、本丸北方に架けられていた「極楽橋」の形が描かれています。
唐門が付いたこの橋は、城内の堀などを越えて城主のいる本丸へと渡る廊下橋という形式の橋で、橋の上には屋根や望楼を持つ豪華なものです。大坂城の極楽橋は慶長元年(1596)に建造され、慶長5年(1600)に京都の豊国廟へ移築されたことが分かっています。エッゲンペルク城の絵図から判断して、竹生島の「唐門」は秀吉が建てた現存する大坂城唯一の遺構であることは、ほぼ間違いありません。慶長元年(1596)大坂城「極楽橋」建造〜移築〜慶長5年(1600)京都「豊国廟」〜移築〜慶長7年(1602)竹生島宝厳寺「唐門」』
『重要文化財・宝厳寺観音堂 慶長8年(1603)
西国三十三所観音霊場の第三十番札所。 秘仏の千手千眼観世音立像は、十一面四十二臂の等身仏。その名の通り千手を表した掌にはそれぞれに一眼を持ちます。観音堂も唐門同様、豊臣秀頼の命により京都から移築してきたものです。
平面構造は、桁行五間、梁間四間で、その外回りに縁がめぐっています。琵琶湖側の正面一間通りが外陣、奥四間通りが内陣になっており、等身の観音立像は、内陣の右手奥に安置されています。折上格天井の天井板には牡丹・菊・桐が描かれ、欄間の彫刻や龍彫の木鼻など、随所に桃山時代の美の最高峰が見て取れます』
入ってみると、さすが秀吉、伏見桃山時代の豪華絢爛な美しい建物でした。更に石段を上がってみます。
『重要文化財 宝厳寺五重石塔の説明
初重塔身の四方には四仏が配され、台石の格狭間の形や各重笠石の反りの形状などから鎌倉時代の特徴が見られます。 五重石塔で重要文化財の指定を受けているものは、全国で7基しかなく、これはその1つです。 石材は、比叡山中から採掘される小松石によりつくられた石造りの五重の塔です。 豪雨による土砂崩れにより水没し、未だ発見されていないため、相輪の下部のみが後補のものとなっています』
『竹生島流棒術発祥之地』の碑が立っていました。本堂である「法巌寺弁財天堂」に入ります。
『宝厳寺弁財天堂 昭和17年建築
竹生島宝厳寺の本尊は「弁才天」。寺伝によると神亀元年(724)、聖武天皇が天照皇大神の神託により僧行基に勅命し弁才天を祀ったのが始まりと言います。本尊の弁才天像は、江戸時代まで島の東側の弁財天社(現、都久夫須麻神社本殿)に安置されていました。しかし、明治時代の神仏分離によって弁財天社は都久夫須麻神社本殿と定められたため、明治4年(1871)、やむなく弁才天像は塔頭妙覚院(とうちゅうみょうかくいん)の仮堂に仮安置されました。以来66年間、弁才天堂の造営は未着手のまま時が流れましたが、昭和12年(1937)6月、ようやく起工式を執り行うまでに至りました。しかし、翌月には盧溝橋事件が発生。日中戦争が勃発し半ば事業も中止状態になってしまいます。この事態を憂慮した東京在住の事業家滝富太郎は、自ら再建局長の任に着き、広く篤志を募る一方、巨万の私財を投じ遂に昭和17年(1942)10月、太平洋戦争中にも関わらず完成させたのが現在の弁才天堂です。なお、設計・監督は文部省の乾兼松。
堂内の壁には、法隆寺金堂壁画模写事業の主任画家を務めた荒井寛方筆の飛天が描かれています』
「お願いだるま」というダルマが沢山置いてありました。『弁天様の幸せ願いダルマ 竹生島宝厳寺は、弁財天の聖地として古くより多くの信仰を集めております。また弁財天は、人々を苦しみから救い幸せに導いて下さる女神とされております。
このダルマは、皆様の心にある悩みや苦しみを弁天様に打ち明け、安らぎと幸せを願うダルマとして奉製致しましたので、備え付けの用紙にお伝えしたい願いを書き、ダルマの体内に納め奉納下さい。 1体500円』
次男のお嫁さんからLINEが入りました。「マスク使ってくれてありがとうございます。小顔のお母さんには少し大きかったでしょうか?」だって。これに対して、家内が、「大きいのが気にいってます。日焼け防止にもグッドです」と返していました。
更に石段を上がって、三重塔を観に行きます。「重要文化財・宝厳寺・釈迦三尊像・鎌倉時代」「重要文化財・宝厳寺・毛抜型太刀・藤原時代」「重要文化財・宝厳寺・紙本墨書・空海目録表・藤原時代」「重要文化財・宝厳寺・銅製三足香爐・藤原時代」の立て看板が立っています。
『宝厳寺三重塔 平成12年再建
三重塔は本来、釈迦の舎利(遺骨)を納める仏塔の1つです。竹生島の三重塔は、「竹生島勧進状(正中3年(1326)」や「菅浦与大浦下荘堺絵図(14世紀前半)」、「竹生島祭礼図(室町時代後期)」等によりその存在が中世から確認できますが、江戸時代初期には廃絶したようです。
以来約350年間再建されることはありませんでしたが、宝厳寺の積年の念願が成就し、平成12年(2000)現在の三重塔が完成しました。設計に当たっては、中世以来竹生島の宮大工を務めた阿部家に残されていた設計図を参考にし、現代の宮大工が6年の歳月をかけて建立しました』
「三重塔」の横に、『モチの木 約400年 片桐且元が、国宝観音堂の普請奉行として来島の時に手植えした記念樹』が立っていた。
石段を2つ下り、国宝唐門から観音堂へ。『宝厳寺渡廊 慶長8年(1603) 宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社本殿を結ぶ渡り廊下。竪連子窓を両側に配し、彫刻や天井板を廃したシンプルなデザインは、唐門・観音堂・都久夫須麻神社本殿とは少し趣を異にします。急斜面に建つため床下は足代を組んだ舞台造。豊臣秀吉の御座船「日本丸」の部材によって建てられたという伝承を持つことから別名「舟廊下」と呼ばれています』
『国宝・都久夫須麻神社本殿の説明 本殿は、桁行5間梁間4間の入母屋造の檜皮葺、前後に軒唐破風をつけ、周囲に庇を巡らした建築物です。
慶長7年(1602)の豊臣秀頼による復興の祭、元の本殿の外回りに京都から移した建物を入れ込んだ特殊な構造です。
両開き桟唐戸・壁・内法長押(なげし)上には、菊や牡丹などの極彩色の彫刻が施されています。内部の柱・長押などは梨子地で蒔絵が施されています。
折上格天井(おりあげごうてんじょう)は、菊・松・梅・桜・桃・楓などの金地着色画で、襖の草花図とともに桃山時代後期の日本画壇の中心であった狩野光信の筆と伝えられています』
「竹生島・八大竜王拝所」があり、入っていくと「瓦投げ」がありました。目標は湖面に突き出た小さな岬の上に建つ石鳥居。鳥居の下をくぐると願いが叶うそうです。湖面は、往路同様風がなく波がありません。
『黒龍堂 黒龍は、八大龍王の1尊。龍王は、大海に住み雨を降らす神である。また、釈尊の誕生時には歓喜の清浄水(清めの雨)を降らせたと伝えられ、修行者の修道無難、道念増進の守護神でもある。隣に立つ大木は、黒龍が、湖より昇って来ると伝えられる神木である。黒龍堂は、昭和45年大阪・岡橋氏により建立された。近年、堂の痛みが進んでいたが、平成7年解脱会有志の方々により修繕、合わせて鳥居が再建された。 平成7年3月吉日 竹生島宝厳寺』
階段を下り桟橋へ。14:14、売店でかき氷イチゴ400円を購入し休憩しました。長浜からの連絡船が桟橋にやってきて、お客さんが降りてきます。折返しの船に乗り、長浜に向かいます。長浜港に近づくと、秀吉の建てた長浜城が見えてきました。小雨が降ってきました。
港には、甲冑を着た武将たちが出迎えてくれました。マスクをしているのが面白い。
『日本遺産 滋賀・びわ湖
日本遺産「琵琶湖とその水辺景観一祈りと暮らしの水遺産」
人々は、琵琶湖の水や山からの湧き水を生活の中に巧みに取り入れ、水を汚さないように工夫をしながら生活を営んできました。また、水を神として敬い、信仰の対象としてきました。さらに、湖辺の集落では、湖魚を用いた独自の食生活や伝統的な漁法が育まれ、独自の景観を生み出してきました。滋賀では、このような水と人との関わりが今も息づき、大切に受け継かれています。
竹生島
竹生島は、西国33所観音霊場めぐりの30番札所として、古来より人々の厚い信仰を集めてきた、長浜市の沖合にある琵琶湖で2番目に大きな島です。琵琶湖八景のひとつに数えられ、平家物語の「竹生嶋詣」や謡曲「竹生島」にも神秘的な美しさを秘めた島として登場しています。
また、秀吉が建てた大坂城極楽橋の一部で現存唯一の大坂城遺構として注目されている国宝・宝厳寺唐門や、桃山文化の代表的な国宝建築物で、豊国廟の建物を神殿として寄進された都久夫須麻神社本殿、重要文化財の宝厳寺舟廊下などの見どころもいっぱいです。
さらに、パワースポットとしても知られ、島全体が神秘的な空気に包まれており、パワーをもらいに多くの人が訪れます。弁天様の幸せ願いダルマや竜神拝所のかわらけ投げも人気です』
JR長浜駅まで歩きます。道標があると思っていましたがありません。地図でおおよその位置関係が頭に入っていたので、難なく到着。
15:57、長浜駅から、「琵琶湖線新快速・播州赤穂行」に乗って帰路に着きます。大坂駅で「新三田行」に乗り換え、18:01伊丹駅、2310円。


2020/7/19
家内もお休みでしたが、「家でのんびりしてる」とのことで、前日に続き亀岡方面にツーリングに出ることにしました。8:44、「里山VTR250」を倉庫から出し出発。兵庫県道r13を北上し、8:52「セルフ川西SS」で給油。
「194km/6.13L=31.6km/L」。R173で北上します。能勢町に入り、r104にチェンジ。道なりにr54、突き当りを右折してr731で東進し、9:36「西山神社」。
覆屋に守られた本殿は、期待薄だったがナイスでした。御神籤(おみくじ)が2種類置いてあり、パンフレットもご記帳ノートもある。みなセルフですけど、この神社を定期訪問している宮司さんの誠実さを感じました。
境内に「茅の輪」がありました。当然、くぐります。入ってきた県道側は搦手口だったようで、境内の南に石段が下り石鳥居がありました。石鳥居の南に街道が通っていました。その横に、「大路次川の支流」が流れていました。
『西山神社(千ヶ畑西山)
半国山の南麓に鎮座する西山神社は、牛頭天王(素戔嗚命)・良持天王・山神・聖御前の4柱をお祀りしています。 社殿南正面には、西加舎から岩石峠を越えて能勢町天王を経て福住・篠山へと通じる篠山街道の旧道が通っています。
由緒などについては不詳ですが、西山神社御造営記録(法常寺文書)によると、天王18年(1590)11月に本殿の再営のあったことがわかります。その後、歳月を経て社殿は痛み、雨霜が御神体を侵すようになったので、千ヶ畑・広野の両村の氏子などの力により、再建が計画されたというものです。
元禄16年(1703)9月29日に用材の伐採が始まり、翌宝永元年5月6日に斧始、7月6日に柱立と工事は進み、9月11日に遷営があり竣工しました。この時の大工は、播州三木の坂井市右衛門、絵師は広野村の福井治兵衛でした。なお、亀岡での播州大工の活動は、興能神社・穴太寺・金剛寺などでも見られますが、当社はその中でも早い例です。本殿は、桁行4間・粱行2間の4間社流造です。正面には軒唐破風を持ち、更に2ヵ所に千鳥破風を設けるといった独特な構造形式をとっています。このような4間社は、京都府下でも例の少ない貴重な建物です。当社では、毎年1月3日に五穀豊穣を祈願する「年振神事」や、1月15日の「神主譲り」として「鬼」の文字を書いた的に弓で矢を射る「鬼射ち」の神事が行われます。これらは貴重な民族文化財です』
「旧篠山街道」を走ろうと、r731をバックし、r54から「旧篠山街道」へ入ってみました。農道に毛が生えた程度の何処にでもある道でしたが、往時は重要街道だったんだね。10:04、「西山神社」の前に神社を見つけたので寄り道しました。「愛宕社」、急な石段が山を登っており、石段の間にキノコが生えていました。上まで登って行くと、小さな山頂です。小さな祠が愛宕社のようです。上がった反対側にも谷で下っており沢が流れていました。山頂が小さいのでイマイチですが、山城のような地形になっていました。
「旧篠山街道」に戻り、東進します。先ほど走ったr731に並行して走っていますが、こちらは「大路次川の支流」に沿って走っている谷筋の道で、狭いですが田畑が川沿いに広がり気持ちが良いです。
r731に合流し、左折してR477で北上します。右折してR372で東進し、10:31「谷性寺」。
『宝の道七福神霊場・第1番札所(恵地寿大神) 楽寿観音霊場・第25番札所清瀧山谷性寺
本尊:不動明王(明智光秀公崇敬) 明智光秀公首塚・光秀公尊像・七重石塔(光秀公の無量顕彰と慰霊)・明智山門(輪法紋、桔梗紋)
行事:毎年5月3日 亀岡春祭り(光秀公武者行列) 遠忌法要
当山は平安時代の創建になる真言宗の古刹で大党寺派に属し、不動明王を本尊としている。天正年問明智光秀公は本尊不動明王を厚く崇敬し、将兵はその加護を得て、本能寺の変を決意するや、この不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願をこらし、その高徳を得て本懐を遂げる。
天正10年(1582)山崎の戦いで無念の最後を遂げるも、公の崇敬厚い当山不動明王の許に墓碑建立、従者の記しが小型石碑に見える。
安政2年(1855)公を慕う志士あり、光秀公首塚を残す。
毎年初夏、境内は桔梗花一色に咲き乱れるところから、人呼んで「桔梗寺」という。
昭和56年公の400回忌に当たり、1350余名のもの相寄り、光秀公木像を安置して開垠供養を営む。
1972年、日本国内最初の明智光秀公顕彰会が結成され、その善政と遺徳を偲び6月13日の命日を中心に遠忌法要が営まれ、平成15年には当山周辺の田畑を借り受け、桔梗苗を植え込んで名実ともに「桔梗寺」の雰囲気が整う。
開花期は毎年6月上句より9月上句』
ここは、明智光秀の首塚があるお寺です。ちょうど桔梗が満開で、観光客がたくさんおられました。この寺院は2回訪問しているので、横の「篠葉神社」を目指して来たのですが、桔梗祭を見に行きます。仁王像2体・光秀の首塚・明智山門を見ます。
『明智山門
丹波路のもつ不思議な魅力、それは天正3年(1575)始めて丹波入りをした光秀公が、野辺地に山路にまた町並みに庶民とともにあり、雨につけても風につけても共に悲しみ、共に楽しみを分かちあった肌のふれあいが、今なお生き続けているせいではなかろうか。
公は近世亀山城の築城、並びに城下町の基礎を造られたが、中でも寺院配置には政治的・宗教的人心収攬を兼ねて特別な配慮をされた。その中の1つに柳町の西願寺がある。ここを護ってきた人々の間に「明智門」と伝承する山門がみられ、そこには400年の風雪に耐えてきた歴史の重味が感じられる。この西願寺の寺院建造物も、昭和50年には土塀・明智門を残すのみとなり、それもやがて宅地造成の谷間に消えようとした時、光秀祭の武将を連年つとめた国元健太郎氏によって明智門は当谷性寺に寄贈され、住職城光寺哲立法印によって光秀公丹波入りの節の一時的本陣ともなったゆかりの場所でもあり、公の魂の鎮まる首塚の地に昭和51年10月3日移築されたものである。
山門中みるべきものとして蛙股の欅材に彫刻された桔梗紋があげられる。この刻紋は中世の桔梗紋を近世のものを繋ぐ。短期間にみられる紋であり彫刻史、紋章史上意義深いものとなるであろう。更にこの蛙股について特記すべきは、その内側に桔梗紋、外側に輪法紋が配されていることである。(西願寺の頃は内に輪法、外に桔梗)そして公の残影の存するところ、不思議にも輪法紋と桔梗紋の霊妙な組み合わせが認められる。
いま光秀公の足跡を辿りつつ、当地に生きる多岐にわたる変化した桔梗紋に接した時、善政と人間尊厳の極限に迫ろうとした公の桔梗の花道に、ほのぼのとしたものを感じるところであろう。
京都の文化財を護る会 亀岡市』
隣の「篠葉神社」へ。『篠葉神社(亀岡市宮前町) 当神社は、延喜年間(902〜926)貞純親王(清和源氏の始祖)が当神社の氏神として創建された神社です。御祭神:産業神・彦火火出見命(神武天皇の祖父・御神徳幸福の神) 山神・大山祇命(酒屋の祖神・武門の守護神) 野神・野椎命(のずちのみこと・天地創造の神・夫婦神)
創建以来、当地の人々によって崇敬され、お祀りされてきましたが、戦国時代、天正年間(1573〜1591)の戦火で焼失しました。承応2年(1653)己5月、氏子の手によって再建され、現在に至っております。当時は楽々葉大明神御社と言われたらしい。享保年間(1716〜1735)旧伏見宮家・第20代邦家親王より、篠葉大明神の書を下賜された。明治3年、篠葉神社と改称され、現在に至る。明治6年6月、村社に列格する。
主な祭典:例祭10月17日 祈年祭3月17日 新嘗祭11月23日』
境内中央の絵馬殿には、イノシシの絵馬など数点が下がっていました。本殿は覆屋に守られ、張り紙はあった。
『新型コロナウイルスの感染拡大に伴う当社前の「鈴紐の撤去」について篠葉神社にご参拝いただき、ありがとうございます。新型コロナウイルスの感染が全国的に拡大している現状に鑑み当神社におきましても参拝者の不特定多数の方が触れます「鈴紐」を撤去しております。感染予防のための配慮でございます。よろしくご了承の程お願い申し上げます。 令和2年5月1日 篠葉神社宮司・総代』
その横に、紫陽花畑がありました。休耕地に紫陽花が植えられているのでしょうか。その横に桔梗畑があり、観光客が多数おられました。
R372に出て東進し、11:07「河阿神社」。『河阿神社(稗田野町柿花) 当神社は、約2000年程前に九州方面から移住してきた南方系の採鉱治金術を知った部族によって創始されたのである。
明治初年神社改めの時の御神体は蛇骨であるのでもよくわかる。そこでこの時、御祭神を豊玉姫命と息子の鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の2柱に定められたものであろう。人身御供の伝説があるのも山部人が里人の娘を神社に奉納させたものである。後の人が岩見重太郎のヒヒ退治伝説にからめたものであろう。
社歴では、康平年中(1058〜1065)勧請とあるは、この時に社殿を建立しもので、元中8年(1391)管領細川頼元が篤く当社を崇敬し、地頭吉岡正春をして社頭を管理せしめたが、天正5年(1577)明智光秀が亀岡城を築城により社頭は壌滅したが、慶長元年(1596)守護代前田玄以によって復古され、社域9町歩(89260平方メートル)が寄進され免除地となる。宝永6年(1709)3月10日社殿の改築を行い現在の社殿となる。明治6年村社に列格、国家公認の神社となる。徳川中期より佐伯燈籠に一翼をになう神社である』
本殿は、唐破風の格好いい社殿でした。本殿斜め前に、謂れ板にあったおぞましい物がありました。
『河阿(あくま)神社「人身御供(ひとみごく)伝説 生娘長持の台石
その昔、まだ山内谷の家々が茅葺屋根ばかりであった頃、鎮守の森はうっそうと繁り、大きなヒヒが住み着き、娘のいる家に白羽の矢を立てた。ヒヒが神の化身と恐れる村人達は、長年に亘り屋根にささった白羽の矢は、神のお告げとばかり娘に白装束を着せ、泣く泣く長持に入れて社殿正面に奉納してきた。ある年のこと、1人の武将が娘の身代わりとなり長持に入り、深夜大捕物の末ヒヒを退治した。その後、平和な山内谷となったげな。この石は、当時生娘を入れた長持を置いた台石と伝えられている』
素戔嗚命の八岐大蛇伝説に似ています。実態は生娘を要求するところを見ると、ヒヒではなく、山賊なのかな〜と・・・ならば、源頼光の酒天童子伝説の方に近いのかも・・・。目の前に台石を見ると、余りにリアルです。
R372を東に走り、11:41「積善寺」&「桜天神」。バイクで坂を上がって行くと、正面寺院への最後の坂はかなりの勾配で断念し、横を見ると未舗装のPがありました。止まってそこに入れようと思ったら、左足の下に地面がありませんでした。コンクリート舗装と地道のPに10cm以上の段差があり、バイクはコンクリートの上で足は地道でした。「あれ、地面がない」・・・ということで左側にバタン。しかも、左側はコンクリート地面より10cm以上低いので、起きないよ〜。
1人で起こすのを諦め、寺院横の民家へ「すみません」と助けを求めに行きました。60代と思われる奥さんがおられましたが、「力がないので・・・」と断られました。仕方なく、道を下って次の民家へ。同年輩の男性が「はいよ」と快く手伝ってくださいました。バイクは難なく起きました。
「エンジンかかる?」「はい、それは大丈夫だと思います」。最初に声を掛けた奥さんも出てこられ、「動かなかったら、バイクのお店があるよ」と教えてくれました。バイクを起こすまで時間がかかったので、地道Pにガソリン漏れしています。斜め下にコケたので、より多くのガソリンが漏れたかな?地面なので量がわからないけど・・・。
バイク左側をじっくり見て現状確認。ハンドルとクラッチレバーは問題なし、ドライブレコーダーDrivemanも問題なし。ここで気が付きました。あ〜キーONのままじゃん・・・バッテリーが・・・。セルは回るがエンジン始動はしません。
「まあ、乾くと大丈夫だろう」。エンジンガードには傷が増えましたが、リアボックス上部が少し削れただけど、他は平気でした。
前回コケたのは、2014年に隠岐の島ツーリングに出た時、フェリーに乗り早く降りろと焦らされた時、サイドスタンドが十分出ておらず「招き猫CB400SB」を初コケさせてしまった時以来です。「里山VTR250」に関しては、過去4回コカしています。免許取り立ての2008〜9年に坂道Uターンで3回立ちごけして、2013年に久しぶりにコカして以来です。
VTRは、毎回少しガソリンが漏れ、シフトペダルが曲がりました。でも今回は無傷です。何故かな?と思ったら、ステップをオリジナルの細いのから、オフロード用の幅広に交換していたからのようです。「プロト・ワイドフットペグ 400X・CBR400R・CB400F用」です。このペダルに交換してから、足裏の痛みが消え大正解でした。コケた時も良いみたい。「招き猫CB400SB」も同じものに交換しています。
バイクを置いて、「積善寺(しゃくぜんじ)」を見学に行きます。続いて横の「桜天神」へ。
『桜石と桜天満宮
桜天満宮は、菅原道真の近臣である高田若狭介が道真から賜った桜の木と自刻像を独鈷拗山(とこなげさん)の麓に社を建立し祀ったのがはじまりと伝えられています。その後、建久元年(1190)に積善寺の中興開山の無極(むごく)上人が道真のお告げに従い、ここ積善寺に遷しました。それ以降、神慮により桜の花文様の桜石が産出するようになったといわれます。
桜石は自然が造りあげた日本を代表する貴重な鉱物で、大正11年(1922)に国の天然記念物に指定され、平成28年(2016)には日本地質学会によって「京都府の石」に選定されました。
みなさんの協力のもと、これらの文化財を大切に守っていきましょう。見学で入山される場合は、必ず積善寺の許可を得てください。
桜石は、泥質岩にマグマが貫入して熱変成作用を受けホルンフェルス化した際に、様々な鉱物が再結晶したものです。当地の桜石は六角短柱状で、指先でたやすく結晶を割ることができます。また、割った面をみると美しい花弁状の模様をみることができることから「桜石」と呼ばれています』
バイクに戻り、エンジン始動・・・イグニッションは回るけどエンジン始動に至らない・・・でももう一度・・・バッテリーが弱くなり、これは無理そう。リアボックスから5月に新規導入した「suaokiジャンプスターターU3 8000mAh 12V車用 バッテリー充電器 最大400A」を出します。充電残量は満量なので大丈夫そう。CBなら簡単なのですが、VTRはシートを覆うリアキャリアの上にバイク便リアボックスを付けているので、全部外さないとシートを外せません。バッテリーはシートの下です。
工具を取り出し、リアボックスを外し、リアキャリアを外し、バッテリーにコードを繋げます。キーを回すと一発始動しました。リアキャリア・リアボックスをセットして走り出します。
R372に戻り、更に東へ。12:44「御霊神社」。『亀岡の名木 御霊神社のオガタマノキ 樹種:オガタマノキ・・・モクレン科 所在:亀岡市稗田野町佐伯ノ神41
暖地に生える常緑高木。京都府には自生種はまだ見つかっていない。オガタマというのは招霊(おぎたま)の意といわれ、神事に用いられてきた。花は香り高く、主に神社に植えられている。
材はかたく、家具・床柱・楽器・臼などに用いる。
3月中旬〜下旬に可憐な白い花をつけ、10月に赤い実をつける。
調査日:2017年5月17日 幹周:1.87m 樹高:19.9m』
『御霊神社のムクノキ 樹種:ムクノキ・・・アサ科 所在:亀岡市田野町佐伯賽ノ神41
常緑高木。人里に多く、また神社や寺院に大木となったものが多い。この樹は亀岡の名木中、単木では最大であり、ムクノキとしては京都府下でも最大級の巨木である。材は建築・船舶などに用い、黒く熟した果実は甘みがあり、昔は童の格好のおやつであった。鳥も好んで餌とする。この神社境内奥には同じく名木に指定されたムクノキがある。
調査日:1995年10月17日 胸高幹周:8.5m 樹高:22m』
彫刻が素敵です。鳥の彫刻が多い。
『亀岡の名木 御霊神社のタブノキ
樹種:タブノキ・・・クスノキ科 所在:亀岡市稗田野町佐伯斎ノ神41常緑高木。この水は亀岡には自生もなく他に植裁品も見ない。日本の野生植物木本1(平凡社)によれば本州・四国・九州・琉球・朝鮮半島南部に分布し、通常は沿海地に多く自生している。若木の頃は見栄えがしないが、この木は自然樹形で雄大である。葉は厚い革質で光沢があり裏面はやや白い。花は黄緑色で4〜5月に咲き果実は扁球形で黒紫色で8〜9月に熟す。
調査日:1995年10月17日 胸高幹周:3.55m 樹高:22m』
枝道を少々走り、12:57「若宮神社」。
『若宮神社
当神社の創建は、奈良時代の景雲3年とされ、多気神社として鎮祭されるも、その後社運の消長があり、南北朝の嘉慶元年9月に再建され若宮神社と改称された。
祭神は窮乏の民に3年の徴貢を免じたが大鷦鷯尊(おおささぎのみこと・仁徳天皇)で昔より安産の守護神とされ八幡信仰等で若宮八幡宮と呼ばれた事もある。
左右の小社は地主禰勒尊は寿永3年2月1日、一の谷の戦に向う義経が通った腰掛岩がある。
本殿は再建当時の流れ造リで内陣天井裏の桁に約600年前の龍が画がかれている。
例祭は毎年8月と10月で奇祭佐伯灯篭は平安時代より続いている。井出山の地名か知るす如く井泉は若宮さんの御香水と言って薬餌と甘露の水で知られる。
源義経の腰掛岩150m先』
境内に上る石段脇から湧水が湧き出ていました。これがここに神社・禁足地が設けられた因で、義経軍の休憩地になった因なのでしょう。境内に上がると、絵馬殿はありました。
r407〜R423、枝道に入り、13:14「犬飼天満宮」。『菅原道真公を祭神とする当社の由緒は、天保元年(1830)の火災により記録類が焼失したため創祀等の詳細は不明です。
古老の口伝等によると、貞亨2年(1685)に比叡山安楽院より法任和尚が隣接する山王寺の住職として来られた時に、当地に祀られていた天満宮を犬飼丸尾へ遷座し、その跡地に山王権現を遷し祀られました。
その後、明治6年に神仏分離令により山王権現社が廃止となり、再び天満宮をこの地に戻し現在に至っています。
社は、総欅造りの本殿で江戸期の建築として精巧な造りの社殿です。手水鉢には涸れることのない石清水が湧き出ています。
境内には、樹齢500年以上の杉の神木(亀岡市選定の名木)がそびえており、江戸期の燈龍・神獣・菅公の歌碑等が奉献されています。
例祭:8月25日 お火焚祭り:12月25日』
天女の彫刻など、本殿の彫刻は見るべきものが多かった。手水舎には、『この水は、下の池に流れ、鯉を放流してあります。汚物を流したり、特に油類の入ったものを洗ったりしないようにして下さい。大切な水資源、清く美しく守りましょう。 銘水天満宮』
下の池の入口には、「弁財天」の石鳥居が建っていた。弁財天池には直接、山からの水が流れ落ちてきた。
横の山王寺・山王寺霊園には、立入禁止の立て札が立っていた。
『山王寺(曽我部町)
青宝山宮寺山王寺は、弘仁年間、弘法大師の御開山になるお寺で、当初、真言宗に属して建立されたが、正徳年間、比叡の高僧であり律僧でもある霊空・玄関の両師が御巡杖されてより、天台宗に転宗、以降、日光輪王寺御門跡御永寺として、その教盛をたかめ暦代御門跡の御尊崇を受け上野東比叡御門跡比叡山延暦寺比叡山安楽律寺等、各寺の用務を勤め幕末には延暦寺御末寺となり法燈が受け継がれてきた由緒寺院である。又、明治初期の廃仏毀釈の法難を受けるまで山内には、天満宮・山王大権現の御社を奉祀する神宮寺として、その寺格を誇り、通称「宮寺」と言われ、広く一般の参拝を受けた。御本尊阿弥陀如来は種々な秘話をもって奉安され、今日、衆生済度の御光をはなたれている。この由緒寺院も終戦後、無住寺となり荒廃したが、昭和50年有住寺となり戦時中に供出された梵鐘も新鋳され今日に至っている』
R423に戻り、ドカンと南下し、14:20帰宅しました。


2020/7/18
久しぶりに雨予報のない週末だったので、近場ツーリングに出ることにしました。「里山VTR250」で出発。R477を走り、9:24「能勢電車妙見口駅」。ハイキング&登山スタイルの方が群れていました。妙見山登山や周辺の寺社・山城ハイキングを紹介するパンフレットが置かれていたので頂きました。
R477に出て北上します。旧R477に乗り換えて旧道沿いを北上します。9:45「嶋田酒店」。ここのご主人は、家村耕のペンネームで「光秀奔る」「摂丹の霧」「明智の娘ガラシア」など数冊の小説を書かれている作家さんです。10年ほど前、この日と同じ「里山VTR250」でお店の前を通った時、「光秀奔る」と大きく書かれた手作り看板を見つけ、アルコールが飲めないので酒屋さんに縁がないのに寄り道しました。お店の店頭壁に、「光秀奔る」の一節が大書されていました。お店に入ると、「光秀奔る」の単行本が山積みされており、本好きなので「本も売っておられるのですか?」とご主人に尋ねました。「私が書いたんです」「え、作家さんですか?」「ええ」・・・と意外な答えが返ってきました。
その時は売っていたサイダーを飲みながら、ご主人といろいろ話しました。「大河ドラマ主人公に明智光秀を」という署名を集めておられたので、その場で署名しました。
僕は明智光秀が好きです。長尾景虎(上杉謙信)に次いで好きな武将が光秀です。天下統一直前の織田信長を裏切った信長軍団No2光秀は逆賊・裏切り者というイメージで統一されていますが、光秀の地元・福知山・亀岡・坂本を巡ると、謂れ板などにとても良く善政が書かれています。信長の地元の謂れ板などには、信長の業績は書かれているが、善政の記述にお目にかかったことがない。多くの武将の供養塔や墓が並ぶ高野山でも、武田信玄・上杉謙信などに比べ信長の墓は小さく探さないと見つからない。本能寺の変以降、信長の遺児や親族は看板にはされたけど、織田のもとに参集する武将はおらず・・・なんて客観的事実を見ると、武将個人の本質が見える。
光秀は、信長の命で山陰道攻略で調略した波多野氏を、光秀と波多野の約を無視し首をはねました。光秀を窓にして四国の雄・土佐長宗我部氏を友軍に引き入れたのに、四国を席巻する勢いになると、あっさり約束を違え長宗我部征伐軍を組織した。先頭に立って動いてきた光秀の顔は丸つぶれで、信長の独善的性格が見える。畿内など信長政権中枢部を次々に友軍武将から領地を取り上げ、信長の親族に領地替えさせる。あのまま信長が全国統一すれば、日本国から正義・信頼は消え、実力のみの民心になっていたかもしれない。
松永久秀の氾濫、佐久間信盛の追放、荒木村重の謀反・・・何度も、信長軍団内から反信長が起きましたが、それを成就させたのが明智光秀。じっと機会を待ち、少人数で堺を巡っていた友軍・徳川家康を京都におびき寄せるため、少数の供回りだけで本能寺に宿泊した信長のスキを突いて自害に追い込んだ。さすが光秀です。公家の応援、戦後家康に徴用された光秀温故の親族・・・、謎の多い人物ですが、光秀知行地の評判を見るにつけ、光秀好きになりました。
「嶋田酒店」前を通る時、「聖戦本能寺」と大書された手作り看板が目に入りました。「あれ?新作?」と、Uターンしてお店の前にバイクを停めました。店の外に、『歴史小説・聖戦本能寺 光秀は天正6年正月、近江坂本本城において初めての茶会を開いた。 当時、武家社会の茶会といえば一国一城の主として、主君から茶器(主に釜)を与えられたものが催せるのである。 並み居る信長家臣のなかで、誰よりも早く茶会を許されたのが光秀であった。 光秀の茶の師匠は堺の津田宗及など、数人だったと思われる。
信長の主なる家臣たちは、天下平定も近しとそれぞれ血まなこで闘っている。 信長に仕えて年月も浅い光秀だけが、丹波経路に勤しんではいるが、連歌会をもったり特に天正6年から10年まで、5年続けて正月に茶会を開いている。 朝廷や信長との光秀の立場、真相いかに。 昭和20年、終戦まで逆臣の汚名をかぶり続けた光秀の泉下のひとりごとを、聴きたい歴史愛好家が多いのではなかろうか。本文より 家村耕』
店内に入ると、「光秀奔る」とともに「聖戦本能寺」の文庫本が山積みされていました。
「また、書かれたのですか?」「はい」。「いつ文庫化されたのですか?全作品読んでいますが、これは知りませんでした」「単行本では出していません、最初から文庫です」とのことでした。「2020年1月15日初版第1刷発行」と奥付に書かれていました。
この本を購入し、「サインしておきますね、お名前を教えて下さい」と僕の名前をメモ帳に書きました。ご主人と1時間以上話し込んじゃいました。ご主人は京都出身であること、家村耕というペンネームの由来。光秀大好きご主人が京都新聞に連載した一連の記事の小冊子と、地黄を根拠に活躍した戦国武将・能勢氏を研究された資料の小冊子をお土産にもらっちゃいました。
僕がなぜ光秀好きになったか?父の実家や母の実家の本家の歴史や、平安時代から続く武家の家老職だった本家が持っている山城での経験などを話しました。歴史好きのご主人も興味を持たれ、お互いに楽しい時間を過ごしました。
最後に亀岡に行くというと、今月走ったばかりの「心学の道」が出てきました。「石田梅岩」と言う名も出てきました。石田梅岩の生家を訪問しようと、ナビ登録したとこでした。その生家の近くが奥様の里らしく、蕎麦屋をやっているのだとか、「是非寄ってください」と「東掛」という地名を教えて頂きました。
ご主人がバイクの所まで出てこられ、見送られて出発しました。R477を北上します。「ひいらぎ峠」を越えて摂津から丹波側に下ります。
11:17「屋磨内神社」。参道を歩きだしたら、シオカラトンボとクロアゲハがいました。境内前に水堀があり、石垣を組んで上の境内があり社殿が建っています。ここは、由緒・歴史あるお宮かも・・・。
『屋磨内神社 当社は長徳元年(1008)9月当地の氏神として創建。
祭神 奇稲田姫命:素戔嗚命(広峰神社)の妻。八岐大蛇退治で素戔嗚命に助けられ姫となられた。 大山祇命:上賀茂神社の父。玉依姫(宮川神社)の夫天正年間(1590年)の戦乱で全焼せるも、文禄年間(1610年)再建。その後、元禄9年(1709)正月再び火災を起こし焼失。当年9月再建、今日に至る。本殿横の寄木作りの狛犬2組は当時のもので価値高し。
正徳5年(1728)宣旨により正一位。大梵天王社の称号を受け幕末に至る。明治3年(1882)神社改めによって屋磨内神社と改称。明治6年、村社に列格。現在に至る。
天保3年(1845)11月吉日。前田信友後室建之の一封の石灯籠あり。武運長久祈願為とあり。当地代官の後室が、幕末に夫君の武運を祈られたものと思われる立派な灯籠である。
亨保初秋(1735年)建立 延享2年(1758)建立
例祭10月15・16日改め昭和57年(1982)10月19日 春の宮:1月3日 秋の宮:12月10日』
本殿の彫刻はナイスでした。鳥居まで戻ってくると、まだクロアゲハがいました。R477に戻り北上し、11:33「菅原神社」。
R477を更に北上し、左折して枝道に入り、11:43「広峯神社(本梅町)」。
『広峯神社(本梅町) 当社は出雲系に属する部族が由良川筋より本梅川を逆上り、当地に住み着いた人達によって祭られたものであり、その起元は大和初期と同時代かと思われる。それは現在の社殿の右百米の処に元宮と称する岩坐がある。社殿の建築様式は大和地方に見られる神社創祀のものに似通うもので貴重である。社伝では承和年中(834〜848)勧誘とあるが、正嘉元年(1257)8月19日に棟上の棟札が現存しており、この時に改築されたものと思われる。棟札は、亀岡市内には類例がなく京都府下でも古いものである。天正年間(1573〜1592)戦国時代をむかえ兵火により社殿古記録は焼失したがこの棟札のみ残った。宝永年間(1704〜1711)現在の社殿を造築した。御祭神は須佐男之命。正徳5年(1715)に宣旨をうけてから明治3年の神社改迄は、牛頭天王と称していたが廣峯神社と改称された。
明治6年、村社に列格。京都八坂神社と同格神社で創建は当社の方が古い』
神社横から山を上っている林道を登ってみます。すぐに舗装が切れましたが、20軒ほどの小さな分譲住宅地がありました。分譲した地の半分は買い手がつかなかったのか、空き地になっていました。
林道を経てR477に戻り、更に北上し、左折して枝道に入り、12:05「中野八幡神社」。山に入る森の中の神社で、本殿の脇障子の彫刻に鯉が刻まれていました。R372を北に渡り、12:18「大内神社」。神社横に児童公園があり、滑り台・ブランコ・ジャングルジムがありましたが、サビサビで使用不可になっていました。オープンな境内に巨杉が1本独立して立っていました。
『天上の木(10選)亀岡市東本梅町・大内神社のスギ』『亀岡の名木・大内神社の大スギ 樹種:スギ(スギ科) 所在:亀岡市東本梅町大内上條18 常緑高木、スギはクスノキとともに長命で、かつ大木となり、全国各地で天然記念物に指定されたものが多い。真っ直ぐに伸びる幹の特性を生かし、建築・家具・樽・電柱・船舶・土木工事などに重用され、樹皮は家屋の屋根材、葉は線香や抹香に用いる。また枯れた小枝は竈(かまど)で煮炊きした時代、焚き付けとして多用された。このスギは京都府京北町の山地で発見された巨木群に次ぐ大きさで、里のスギでは府下最大級である。昭和50年頃、落雷により幹の内部から出火し、穴を開けて消火した跡が北側に残る。
調査日:1995年11月14日 胸高幹周:8.03m 樹高:36m 「亀岡の名木」36ページ所載 亀岡市・(公財)亀岡市都市緑化協会』
r452に出て東に進み、千代川方面へ。12:44「岩城神社」。『創祀は寿永2年(1183)。御祭神は市杵島比売命。 古文書に宝徳2年(1450)に細川勝元が神領を寄進したとある。旧神殿は天正5年(1577)に焼失、現本殿は文禄2年(1593)に再建されたものである。 9月6日に湯立神事が行なはれる。また、10月21日の秋祭では、神輿は舞殿に御遷座されたまま行なはれる。
『岩城(いわしろ)神社(北ノ庄鳴滝)
旧山陰道に沿った峠の入口に鎮座する岩城神社は、市杵島比売命と大山祇命の2柱を祭神としてお祀りされています。市杵島比売命は、素戔嗚命の御子として宗像三女神の1女神で中津宮と言われ、天孫降臨の際に道中を守護された神です。大山祇命は保津峡を切り開き、湖であった亀岡盆地を開拓された神として伝えられています。社殿等によると、当社は寿永2年(1183)に創祀されました。
その後、宝徳2年(1450)には丹波守護・細川勝元が寄進しています。また、永禄2年(1570)には亀山城主・明智光秀が、八木城攻めの時、戦勝祈願をしたとも言われています。江戸時代には当地が旗本・能勢氏の領地となり、特に名君と言われた能勢宗右衛門が社殿等を整備したということです。
現在の社殿は、延宝7年(1679)頃まで建てられた一間社流造り檜皮葺の建物で、総欅素木造り の比較的質素な構えの建物です。向背は一般的な連三斗・中備に蟇股・虹梁木鼻を象鼻としています。蟇股は、身舎正面に鯉、向拝背面に牡丹の彫刻を配し、足よりもかなり出た立体的なものになっています。
当社では、毎年9月6日に、神前で大きな釜に湯を沸かし、この中に塩・酒を入れ清めた後、笹をつけて湯をふりまき、一切の罪穢を祓い清め悪疫の流行を防ぐ、特殊な神事である「湯立祭」が行われています。
市内で実際に湯を振りまく湯立神事は、畑野町の西山神社や保津町の請田神社(保津八幡宮)など数社に残るのみ。
ご利益:無病息災・病魔退散・地域安全・子宝・安産』
r452に戻り、京都縦貫道の上を渡り、JR山陰本線を渡り、右折してR9で山陰本線沿いを南下し、右折して枝道に入り、再びJR山陰本線を渡って、13:06「宮垣神社」。
R9・JR山陰本線に並行する枝道を南に走り、R9を少し走り、13:25「大井神社(並河)」。空に怪しく黒雲がある。境内に入ると、小さな石造太鼓橋があり、下を川が流れていた。この川が不思議で、枯れた池から水路が出て太鼓橋の下から下流は水が流れています。おかしいなと橋の下を覗いたら、人工的に水が枯れた川底から吹き出ていました。先程寄った「宮垣神社」に、「御用のある方は、大井神社まで」と書いてありました。大井神社の宮司さんが、周辺の無住神社の神職を兼務しているのでしょう。良く手入れされた立派な神社でした。横には大井小学校があります。
摂社『天満宮社 御祭神:菅原道真公 御神徳:学問・学業・受験合格 菅原道真公は、5才にして和歌を詠み、12才で漢詩をものにしたという神童で、学問受験合格の神として厚い信仰を受けている』
絵馬殿に、鯉の絵馬がありました。絵馬掛けに、白馬の絵馬と的に当たった矢の絵馬が下がっています。
『御祭神
月読尊(つくよみのみこと):天照大御神、建速須佐之男命とともに、三貴子として崇められ、黄泉国から帰りし伊邪那岐大神が禊祓をした時に成りませる神。月・夜を掌る神。農耕の神。
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと):多紀理姫命・多岐都姫命とともに、宗像三女神として崇められ、建速須佐之男命の伊吹の狭霧に成りませる神。市の神。海・航海安全の神。交通安全の神。
木俣命(きのまたのみこと) 別名:御井神(みいのかみ):大国主命と妻・八上比売命の間に生まれ給うたが、樹の三又に挟んでおかれたことにより木俣命という。後に諸処に井戸を掘って、民利を興した功績により御井神と称する。木の神。井戸の神。なお、全国に御井神を売る神社は数あるが、木俣神として祀る神社は当社のみと伝えられている。
社格:明治6年・郷社公定 明治10年6月・延喜式内神社公認 明治40年3月・神饌幣帛料供進神社指定
社殿:以前の本殿は、天正4年(1576)に兵火に罹り、天正12年(1583)に豊臣秀吉によって再興された由緒ある建物であったが、420余年の年月によって老築化が激しく進み、平成22年の当神社御鎮座1300年記念事業として氏子崇敬者の御奉賛により全面修復工事を実施した。(平成21年10月竣工)』
『大井神社(大井町並河)
和銅3年(710)の創建、光秀の兵火で焼失した社殿を天正12年(1584)秀吉が片桐且元を奉行として再建せしめたものという。
祭神は御井神・市杵島姫命で、伝説によると御井神(木俣神)が市杵島姫命と洛西松尾大社から神使の亀に乗って大堰川を遡上されたが、保津の急流が乗り切れなかったので、鯉に乗り換えて、ここ大井に上陸して鎮座されたということである。
為に当社の氏子は鯉を尊び、食用は勿論、捕らえることも禁じ、5月の節句に鯉のぼりもあげない風習が続いている。10月16日の例祭には、古く貞観8年(866)に始まったという勇壮な競馬が当社の馬場で武者姿の氏子により奉納される』
手水舎は、京都西山の柳谷観音のように、花でデコレートされており素敵でした。絵馬殿には、亀の甲羅や剥製そのものが奉納されていました。盆栽の写真が数点奉納されていました。雨が落ちてきました。黒雲は一部なので、すぐ止むだろうと雨宿りすることにしました。
『大井神社・立花 京都府指定無形民俗文化財 平成3年4月指定
この立花は、ボクと呼ばれる松の古木を土台に、1本1本松葉を差し込んで作った松枝や、松の荒皮、苔などを取り付け、左右対称となる一対の松を中心に、若松(正真)や生花(前置)を挿し添え仕上げられ、毎年8月19日に行かれる花祭において、一夜限り観覧に供されます。
大井町並河区・土田区・小金岐区・南北金岐区・並河区の大井垣内・稗田野町大田区の6地区それぞれで作られ、完成した立花が夕刻に神社へと運ばれ奉納されます。
輪番で回る神前花のみ立花の形が変わり、ボクではなく若松を真として作られ、色鮮やかな生花が挿し添えられるのも特徴です。また、神前花を担当する地区が、天満宮(境内社)に奉納する1鉢を作る慣わしです。
詳細な由来は不明ですが、現在も使われている薄僻(うすばた・花器)や花台は300年以上も前のものであり、更に当地の立花の様式が、華道における立花が大成する以前の花形を窺(うかが)わせるところがあることから、大変貴重な文化財とされています。
パネル奉納・平成29年度氏子総代一同 写真撮影・森川博一』
r402〜r405〜R9を走り、14:01「ローソン・ガレリアかめおか前店」で、「午後の紅茶500ml129円」を購入し、喉を潤しました。R9を南下し、14:07「伊達神社」。曽我谷川沿いにあるとても小さな神社というより祠が2つあるだけでした。
R9からR372に乗り西進。左折して、京都縦貫道側道に入り、「安行山」を林道で登り山頂、14:20「盤栄稲荷宮」へ。展望台がありました。亀岡盆地の絶景が広がっていました。南から盆地を見渡す角度です。ここが南向きなら、朝霧雲海の絶景ポイントです。南や東向きなら、雲海の上に上がってくる朝日が見れます。稲荷宮は、山頂の森の中に広がっていました。本殿の他に、小さな祠があちこちに立っています。個人的や会社が立てているようです。さすが商売繁盛の神・稲荷宮です。信仰し成功を収めた個人や会社が奉納したのだと思います。
安行山林道を下ります。京都縦貫道を陸橋で渡り、「亀岡CC」に向け、森の林道を登って行きます。14:42「霧のテラス」。ここも眼下には亀岡盆地。でも西と北に広がっているので、朝霧に上がってくる朝日の大スペクタクルは望み薄です。でも絶景。リョウブの樹花が綺麗に咲いていました。
亀岡CC脇道を下ります。14:53「徳神社」。バイクを置き、CCのある山裾と田んぼの間の小径を歩くと鳥居が見えてきました。鳥居をくぐり森の中の参道をゆるい勾配で登ると、ひっそりと小さな社殿が佇んでいました。覆屋に守られた本殿は檜皮葺で、境内には舞殿もある地域の方が守ってきた神社と想像しました。
ある土地に長く住んでいると、年々愛着が増します。息子たちは同じ地で生まれ育ったので、初宮参り・七五三・初詣・・・事あるごとに氏宮に参り、父の代から寄付をしてきました。今は東京圏と海外に住んでいますが、わざわざ孫の初宮参りに我が家に帰省します。森の中にひっそり佇む「徳神社」も、そんな地元の方々が支えているのでしょう。境内は苔に覆われていますが、雑草や落ち葉は定期的に整えられています。良い気持ちになりました。
「東掛川」沿いを走り、15:04「小泉春日神社」。森の中を上がって行きます。
石段ではなく。参道道は根っこが縦横にはびこり、良い階段になっています。鞍馬寺から貴船神社への山道のようです。
『小泉春日神社
事業名/京祁府豊かな森を育てる府民脱活用事業
事業場所/京祁府亀岡市来別院町小泉
事業対象本/栂(つが) 樹高30m・直径1.25m 枝張:東西23.2m 南北29.5m事業内容/古枝の剪定を行い、若枝を成長させる方法で樹木の若返りを図りました』
r46を南下し、右折してr733を西進。15:21「素盞嗚神社」。桔梗紋でした。更に、r733を西進し、15:31「大宮神社」。
『大宮神社
御祭神:天照大神・大宮売神・素戔嗚神
鎮座地:亀岡市西別院町万願寺前垣ノ内46番地
由緒:和銅3年(710)5社の境内社とともに湯谷ヶ丘の山中に創建された。
天平年間(729〜749)行基がこの地を訪れ万願寺を創立した大宮神社をその守護神として祀った。
元禄3年(1703)本殿がこの地で造営された。
平成22年10月24日、創建1300年祭が執り行われた。
境内社:稲荷神社祭神:倉稲魂命 住吉神社祭神:筒男三神・神功皇后 八幡神
社祭神:応神天皇 愛宕神社祭神:迦遇槌命 春日神社祭神:天児屋根命』
山の麓の森の中の神社でした。r733を西進し、左折してR423を南下。15:47「BIKER'S IN TRUST」で休憩しましょう。「ソフトクリーム380円」で糖分補給です。
R423を南下します。16:34帰宅。


2020/7/12
家内もお休みだったので、先週に続いてサイクリングするか?ドライブするか?電車の旅?なんて考えていたら、京都永観堂に墓参りに行こう・・・ということになりました。家内の実家のお墓は、春のお彼岸に参りましたが、永観堂に分骨もしているので、そちらは今年になって一度も参っていません。しか〜し、「パスして家でのんびりする」とのお達しが出てキャンセルになりました。
そのかわり、「モーニングに行かない?」と誘われたので、勿論OKして車に乗り込みました。初めて行く郊外ショッピングセンターに隣接するカフェです。隣接するスーパーで食材、2Fの靴屋さんで買い物するとのことですが、10時開店まで1時間少しあります。カフェでモーニング(トースト・サラダ・ウインナーエッグ・ヨーグルト・コーヒー)を注文し、あれこれおしゃべりしました。10時30分ぐらい前になって、入店待ちのお客さんが出始めました。このタイミングで精算します。9時オープンのスーパーで食材を買って車へ。続いて10時ジャストのタイミングで2Fへ。靴屋さんとしまむらが入っていました。靴は好みがなかったらしくパスし、しまむらで目についたマネキンさんが着ていたアウターを1つ購入しました。
帰宅して、「HERO」などを見たり昼寝したりしながら過ごしました。日曜日のお楽しみ、「大河ドラマ・麒麟がくる」が在庫ドラマが尽きてお休みでつまらない。そんな時、次男のお嫁さんから、LINEが入りました。家内がスマホで気づき、僕のPCで送られてきた写真を、HDMIで繋がってるTVででかく拡大し見ました。
次男は、北海道洞爺湖でホテルを建設する仕事で6月中旬から出張していました。会社の新規事業として取り組み始めたホテルの設計を毎回出掛けているので、次男が取り仕切ってチームが動いているようです。
1ヶ月出張終わりに合わせて、お嫁さんは2人の子を連れて北海道に行ってきたようです。飛行機は早朝便だったので乗車率40%ぐらいでガラガラだったそうです。飛行場まで同居してるお父さんに送ってもらったとしても、3才と0才児を抱えて大変です。おーちゃん0才は初めての飛行機でしたが、寝てくれたので問題なかったようです。もうすぐ4才のすみれちゃんは、1才ぐらいの時、ハワイ旅行をしました。無料なので専用座席はなく、次男夫婦の座席の前に設置されたバスケットベッド入り渡航しました。今回のお〜ちゃんはどんな風に乗ったのだろう?
2人は久しぶりのパパに会えて、すごく嬉しそうだったそうな。札幌の「モエレ沼公園」「狸小路商店街」〜美瑛(丘の上にあるカフェと花畑)〜青い池〜ラベンダー畑(冨田ファーム)〜花畑牧場を巡ったそうです。北海道はとても大きい。近畿地方+東海地方+四国+岡山県と同じぐらいの大きさです。レンタカーでも借りたのでしょう。7月はラベンダーが咲く時期なので、6月に比べ一気に観光客が増えると聞いていますが、どこも人が少なかったそうです。コロナ禍の影響でしょう。外国人が程ゼロですからね。
写真を見ると、さすが梅雨のない北海道だけあって、晴れた空のもと誰もいない広大な芝生で走り回っていたりしていました。大自然を贅沢に満喫することができたそうです。次男の交通費はタダでしょうから、ラッキーだね。

ロンドンに住む長男のお嫁さんからも、LINEが入りました。写真やビデオも送ってくれました。
ロンドン動物園が再開し、久しぶりにちゃんとしたお出掛けをしたようで、子どもたちは大興奮たっだようです。麒麟・タイガー・ペンギン・ラマ・ゴリラ・・・。イギリスの首都動物園なので、日本で言えば「上野動物園」。場所も、大英博物館のすぐ近くなので、立地も申し分ありません。上野動物園と比較すると、質素で1世代前の日本の動物園のようです。その分、木々が多く動物舎もゆったり配置されている感じ。あくまでお嫁さんが送ってくれた写真を見ての想像です。長男とこのように幼児〜小学生低学年の子供を持つ家族には最適に思います。ロンドンは大英博物館でさえ無料で入館できる市民の文化度を高める国なので、動物園も無料なのでは・・・と調べたら、大人26ポンド(1ポンド135円)と意外に高額でした。上野動物園は600円なのに・・・これは意外でした。
庭にビニールプールを置いて、皆で入っていました。ちびさんが3人いるのでビニールプールにしては大きめでした。昨年帰国した時に家内がプレゼントしたヘリーハンセンのラッシュガードを3人共着てくれていました。ヨーロッパブランドで格好いいものね。
こうちゃん4才が自転車に乗っているビデオがありました。日本人のお友達に再会でき、自転車をもらったそうです。その自転車で、こうちゃんは初めてペダルのある自転車に乗ったのですが、りょうくん同様初乗りでいきなり乗れていました。りょうくんは、アメリカで3才から3輪キックスクーターに乗り、2輪キックスクーターに乗り換え、買ってもらった自転車に乗ったらいきなり乗れました。こうちゃんは、りょうくんのお下がりの3輪キックスクーター〜2輪キックスクーター、ロンドンに来てキックバイクに乗り換えていました。自転車の後ろを持っていた長男が、「こげこげ」と言いながら手を話すと、スイスイこうちゃんは走ります。公園からの帰りでは、もう長男は走り出しの少しのサポートのみで安心して小走りに、こうちゃん自転車を追いかけるだけになっていました。ルーカスくん1才は今3輪スクーターですが、2輪スクーターとキックバイクのオーナーになっちゃいました。
りょうくんの在宅授業のビデオがありました。きっと長男からのお下がりだろうDynabookのノートPCに向かっています。PCからは女性の先生の声が聞こえて来て、手を振っています。先生やクラスメイトの顔がPCに並んでいるのでしょう。小2のりょうくんはまだスクーリングが再開していません。例年なら夏休みなので、9月の3年生からスクーリングの再開になるようです。


2020/7/11
学連ヨット部OBの集まり「二金会」の日です。18時、新西宮ヨットハーバー3F「和茶」で開催です。僕はアルコールが飲めないので、車の不便な地でもあり四輪で行くことにしました。駅からの送迎が出来るので、「私以外に7人、送迎できます」と、幹事Kさんに連絡をしました。
17:30「阪神西宮南口」ピックアップなので、17時にYH桟橋の係留艇を見に行こうと思っていました。16:10自宅を出発したのに、R171伊丹市内で渋滞が発生しており、阪神西宮駅附近で17時を過ぎていました。
仕方なく、待ち合わせ場所の駅南口に向かいます。渋滞中に雨が降ってきました。車を置いて南口ロータリーで待ちます。同期のD社H君が、幹事Kさん夫婦・コーチしてる大学OBTさんご夫婦が一緒に来られました。幹事さんによると、送迎車が4台に増えたそうです。D社Fさんが次にやって来て、7人集まったところで、第1便として出発しました。
17:34YH着。3Fに上がると、法政OB3人が先着しておられました。令和2年卒のOBなりたてのT君もいました。幹事さんは駅に残り、奥様が幹事補佐として会費の取りまとめをします。アルコールが飲めない僕は5000円、アルコール飲み放題の方は6000円です。
20人集まり、18時に幹事さんの司会で始まりました。僕は4人席で、横にD社同期、前に幹事さん奥様とコーチしてる大学OBTさんの奥様。参加者全員、卒業大学・年度と名前が書かれた名札を首から下げます。Tさん奥様の下げた名札は、Tさんではなく、D社卒と書かれていました。「D社卒だから旧姓なのですね」と聞いたら、なんと奥様ではなくカップルでした。Tさんとは北野高校の同級生で、Tさんは死別、奥様?は離婚でお一人になってから一緒に暮らすようになったそうです。幹事さんも北野の同級生で、その関係で参加されたようです。ヨット部とは全然関係ない同級生のお坊さんも参加していました。この方とは、D社同期と幹事さんとの昨年GWの淡路島クルージングでご一緒した顔見知りです。恒例の各人の近況を話す時間になりました。O大OBのお医者さん〜お坊さん〜D社マネージャーOG墓石屋さん〜法政OB京都の仏具屋さんという一連の流れで指名されたり、笑いの連続でした。僕は、孫第1号が先月頂いた小2の通信簿の話。「最近最も嬉しかったこと」として披露しました。賢い日本人がロンドンの公立学校での成績だから割り引かれるかもしれませんが、全ての教科で「outstanding(A+)」だったことを話しました。
自己紹介に指名される前から席を移動し話していたO大Nさんの横に戻ったら、「いつオチが出るかなと思ったら、オチなしだったね」と笑われました。Nさんは私の1年上の方で、学生時代は競っていた間柄です。僕と同期のO大ライバルS君の名前を出したら、「あいつ、高松高校でヨットやってたんだ」と教えてくれました。互いにレースでトップ争いをしていたから、学生時代何度も話しているのに、出身校のことを話したことがなかったんだと驚いてしまいました。「インターナショナルスクールに行ってるの?」「いいえ、地元の公立です」「お孫さん、凄いね〜」・・・なんて。
大学ヨット部は、コロナ禍で練習できない日々が続いています。コーチしてる大学ヨット部は、O大ヨット部と仲が良く、練習再開に向けての対策をいろいろ教えてもらいました。その御礼を言うと、Nさんが中心になって、知り合いのO大医学部教授と作った再開マニュアルを大学側に提出して、翌週末からの練習再開にこぎつけたそうです。その資料も見せてくれました。当方は、この日から練習を始めています。
20時を過ぎて解散になりました。17:34〜20:49新西宮ヨットハーバーP500円。7人を車に乗せ、6人阪神西宮駅で降ろしました。京産OB・Kさんは「阪急西京極駅」から徒歩5分の所に住んでいるそうで、「阪急西宮駅」までご一緒しました。駅まで楽しくお喋りして、その後帰宅しました。


2020/7/5
家内が神戸のホテルに行く用事があるので、駅まで送りました。「8:30に出るから・・・」と着替えて待っていましたが、「髪が乾かない〜あ〜遅れる〜」、「あ〜このスカートにはこれ合わない」と、僕もハイヒールを探すことになりました。15分遅れて家を出ました。出かける前にファッションが決まらないのはいつものことで、何とも思いません。本人も心得たもので、多少遅れても遅刻しないよう出発時間を早めに設定しているのを知っているからです。それを楽しんでいるのだろうと思います。何を言っても「はいはい」な気の許せる僕以外の人なら、たとえ息子でもこういう姿を見せないのを知っています。
車の中で、「今日も綺麗だわ〜」なんてヨイショしながら、「行ってらっしゃい、気をつけてね」と駅で降ろしました。家に帰り、「通勤リード110」で西宮に向かいました。久しぶりに船を見に行きます。9:52「セブンイレブン西宮マリーナ店」で、「ゆずれもん500ml・100円」購入。ホームポートのセンターハウス内1Fの長椅子がなくなっていました。丁度よい休憩スペースだったのに、コロナ禍の影響でしょうか?
桟橋は賑わっていました。ポイントレース日のようです。桟橋やレース艇で準備をしている皆さんは、全員マスク無しで気持ち良かったです。新型コロナウイルスは、空気感染ではなく接触感染なので、既存のインフルエンザや風邪同様、マスクは罹患患者さんが咳を飛ばさないために必要で、感染予防にはならない。まあ、しないよりマシと、感染症専門家の話や文章で知りました。トイレなど不特定多数が使う場所を手で触るので、コマメに手を洗うのが最も効果的とのこと。石鹸で洗う必要もなく、ただ水洗いするだけで感染するほどの量のウイルスに届かないようです。日本人は殆どの人が毎日風呂に浸かるのと、室内に靴を脱いで上がるので室内に靴底からウイルスが入らないのが良いそうです。
日本は湿度が高いので、太古から感染症に定期的に見舞われました。神道にはつきものの禊や、神社に参る際の手水は、そんな太古からの感染症対策として定着したのではないかと、今回のコロナ禍で感じました。
コロナ禍以降の世の中を見ると、日本人の横並び体質故、マスクが大流行で、繁華街でもない道を歩く時でも皆さんされています。僕は繁華街以外はマスクをしません。コーチしてる大学ヨット部は、学校側からの要請で活動禁止になっています。屋外で感染したデータはないのに不思議です。
YHに来て、誰もマスクをしていないのに、「日常が戻ってきた」と嬉しくなりました。こうでなくちゃ!係留艇で暫く過ごし、エンジン始動もしました。桟橋を戻りゲートを出ると、セイルを抱えた選手が2人が走ってきました。ゲートキーを持っていなさそうなので、「開けようか?」と言うと、大学ヨット部の後輩でした。「あ、・・さん」「おう、今日レース?」「はい、マート(艇名)に乗ります」だって。
帰宅し、昼食を取り、亀岡方面をツーリングすることにしました。倉庫から「里山VTR250」を出し、12:17出発。12:27、r13の「伊丹産業セルフ川西SS」で給油。221km/7.79L=28.4km/L。池田から、R423で北上します。
「毘沙門堂」の案内板に惹かれ枝道に逸れ、12:46「曹洞宗少林山退蔵峰陽松庵」。
『陽松庵由緒沿革
宗派:禅・曹洞宗
寺名:少林山退蔵峰陽松庵
開山:天桂傅尊(てんけいでんそん)禅師
認可:曹洞宗認可参禅道場
陽松庵は江戸中期の曹洞宗の名僧天桂禅師によって再興され、諸堂伽藍の整った名刹です。創建は観応2年(1351)京都嵯峨天龍寺を開いた臨済宗の夢想疎石(むそうそせき)と言われるが、300年後には廃寺同様となり、陽松庵という扁額が残っていただけと言います。正徳3年(1713)禅師に深く帰依した木部の牡丹屋下村小兵衛が、広い土地を提供、更に徳島藩第7代藩主蜂須賀宗英の指示で、家老の淡路城主・稲田九郎兵衛種栄(たねなが)が浄財寄進して伽藍を建立し、禅師を開山として享保6年(1721)に再興され、天桂派の根本道場とし、禅師は此所を自分の墓所と定めました。禅師の後は直指玄端(じきしげんたん)禅師が2世となり、享保20年(1735)には経蔵を、元文4年(1739)客殿と庫裡を建立し、さらに延享元年(1744)には鐘楼と回廊が新築されて、諸堂伽藍が整備されました。
天桂・直指両禅師の名声を慕って、全国から雲水(修行僧)が集まり、陽松庵は天下の大道場の観を呈しました。
そして幕末の天保2年(1831)には常恒会地(じょうこうえち)の寺格を得て天桂門下の拠点寺院として発展しました。その後、年を経ること270年道場としての面目を護持して今日に至っています。現在は参禅道場として、諸堂を開放し、毎日曜日午前9時半から参拝会(坐禅)を行っています。何誰でも参加できます。
当山34世 福本高芳』
『善きことは、いそぎおもむくべし、悪しきことにむかいては、心を守るべし』
緩やかに上る道を歩き、石段を上がって境内へ。一般の方受け入れている本格的な座禅道場が、こんな近くにあったんだと・・・。大阪平野の北、山エリアに入るところにあります。野鳥の鳴く静かな環境で、都会に近いのに大きな敷地を未だに維持されている良さげな寺院でした。
少し走り、13:10「慈恩寺」。ここに「毘沙門堂」がありました。少し走り、13:16「寒山寺の鐘」。低い位置に鐘が下がっており、いかにも中国風の鐘です。
『この梵鐘は、中国江蘇省蘇州市にある名刹寒山寺の梵鐘の複製品です。この寒山寺の梵鐘は、唐の詩人張継の「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」に詠まれた有名な梵鐘であり、除夜の鐘としても広く知られています。
この梵鐘は、池田市と蘇州市の友好都市締結25周年を記念して平成18年に蘇州市より贈られ、池田市からは、当山慈恩寺で使用されていた300年の歴史ある鐘を、寒山寺鐘の博物館に寄贈しました。
鐘と鐘の音を内外の皆様に鑑賞していただき、池田市と蘇州市、そして日本と中国の友好の鐘の音が、いつまでも響き合うことを願っています。
「楓橋夜泊 張継
月落ち烏啼いて霜天に満つ 江楓(こうふう)漁火愁眠に対す 姑蘇城外(こそじょうがい)の寒山寺 夜半の鐘声(しょうせい)客船に到る」』
『慈恩寺北摂福神毘沙門天・由緒
神亀2年(725)、特に北摂の地(北方)を選し、住民の天災疫病を療ぜんがために聖武天皇が行基菩薩に勅を発し創建したことに始まる。天長5年(828)には弘法大師が中興し大唐の大慈恩寺になぞらえ「慈恩寺」と号す。
爾来その灯明は消えゆる事無く今日に至る。毘沙門天の力は威神力。一心に念ずる者には無限の「福と富と力」を具す福の神であり災疫を祓う大神である。特に眼力は生命力の根源ということから眼力不動尊が奥之院に建てられ眼病に悩む多くの信者の心を療ず。眼力不動尊に灯明灯籠奉納が発願され参道の荘厳化がなされた。
行事としては古来より地元住民の愛山護持力は根強く、交通安全除災招福開運春季大祭。報恩謝徳秋季大祭の二大祭が執行されている。 平成18年7月2日』
R423に戻り、「伏尾温泉・不死王閣」から余野川沿いを北上します。28℃でした。「新名神・箕面とどろみIC」を通過し、「Biker's in TRUST」。バイクが沢山止まり、屋外ベンチでくつろいでおられました。郊外になり、対向するバイクとのバイクピースが楽しい。コロナ禍前が戻って来たようで、ちょっと嬉しい。
R423から、右折して京都府道r733へ。また右折し、「湯谷」を登っていきます。「平家の隠れ里」のように谷に沿って農地が棚田状に広がり、ひっそりと民家がある。何度か訪問している地で、好きな場所です。13:56「湯谷集会所」前にバイクを停め、石段を「玉依神社」へ上がっていきます。森の中の道を上がっていくと、灯籠が現れました。そこは郭でした。更に石段が上がっており、社殿が見えます。社殿郭に上がると、覆屋に守られた本殿があり、山の中の氏子もずっと少なかっただろう神社ですが、彫刻もなかなか素晴らしい。勿論、誰もいない僕だけのお参りでしたが、とても良い雰囲気でした。
バイクに戻り、r733に下りR423に戻りました。14:21交差点にある「多吉神社」。隣に「瑞雲山常楽寺」があります。掲示板に、『蒔いた種のとおり、花が咲く』
と書かれていました。まさにその通り・・・。寺院の掲示板に書かれている言葉はいつも何かを思い出させます。
『多吉神社(たきじんじゃ)
祭神:高御産靈神(たかみむすびのかみ)・神御産靈神(かみむすびのかみ)由緒:延喜式内社多吉神社は、和銅2年(709)当地柚原の向山瀑布の岩頭に創立されて滝大明神と呼ばれていたが、天正12年(1584)霊夢を受け現在地に遷座されて御霊大明神と呼ばれ、のち明治6年に滝の字にちなんで多吉神社と改められた。
本殿の妻側にある額は、正徳5年 (1715)に京都吉田神社の卜部氏の書いたもので「当社御霊大明神御神誌」 とあり、当時の名称を示す。
祭神高御産霊神は、古事記等に国ゆずりや天孫降臨を命令された筆頭の神として登場され、天照大御神が皇室の祖神としてあがめられる以前にあっては、大王家の祖神であったとされている。
この神を祭る神社は、全国でも式内社では5社しかなく、亀岡市内では当神社1社のみである』。
広くない境内の中央に舞殿がありました。舞殿は茅葺きで銅板葺きが覆っていました。小さな手押し消防ポンプが天井から下がっていました。珍しいです。落ち葉が集められて山になっています。鎮守の森に囲まれているので、強い風も入ってこないのか、綺麗な山になっていました。手水舎は勿論ありましたが、禊の池もありました。
R423を北上します。ワインディングを楽しみ、亀岡側に下ります。広い田園地帯に下りて気持ち良い。左折して、r407を北上します。14:52「小幡(おばた)神社」P。近くに「金剛禅寺」があったので、寄り道しました。
『金剛寺(応挙寺)
臨済宗天龍寺派。堂宇・楼門は約250年前のものである。西洋画法も取り入れ円山派という写生画の一派を樹立した円山応挙は、享保18年(1733)5月1日に、この穴太の地に誕生、9才の時に金剛寺に入門したが、和尚に画才を認められ京都に学んだ。
その絵は正確な現実描写と日本的な平明と典雅を備えている点に特色がある。天明8年(1788)に祖先及び両親の追善菩提のために七堂に障壁画を描いた。山水図13幅・群仙図12幅・波濤図28幅・屏風1双、いずれも国の重要文化財に指定され、現在は巻物に改装して保管されている。寛政7年(1795)63才で逝去した』
鐘楼門を入ります。墓地に入ってみました。古い墓石を探すと、「比島派遣軍戦没者慰霊碑・戦没戦友慰霊之碑」「比島寺廃寺に伴い金剛寺に移築す・殉国愛馬之碑」の石碑が立っていました。
隣に旧家豪邸があったので、周囲を回ってみました。長屋門が立派です。檜皮葺屋根でした。
『小幡神社
当社は、崇神天皇の命により派遣された四道将軍のひとり、丹波地域を治めた丹波主命が、皇祖開化天皇を主神として祀ったことに始まるといわれ、開化天皇の御子の彦坐王(ひこいますのみこと)とその御子小俣王の3代を奉斎しています。また社殿等によると、和銅元年(708)に、丹波国司・大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそんこままろ)が霊域に社殿を建立され、延長5年(927)に編暴された「延喜式」「神名帳」にも記載された古社です。
社蔵の棟礼によると文和元年(1442)には管領・細川政元の本殿造営とその後明応元年(1492)を始めとする修造、屋根葺替えが行われています。現在の社殿は、天和3年(1683)に造立された一間社流造、檜皮葺の建物です。亀岡市内で妻に二重虹梁大瓶束(こうりょうたいへいそく)を用いた早い事例であり、京都府の登録文化財となっています。また、社宝として全国に三幅といわれる円山応挙の絵馬の1つが保存されています』
r407に戻り南下します。「穴太寺」前を通ると、15:19「新鮮野菜直売所」がありました。R423を渡り、更に南下。15:24「興能神社」。
『与能神社(延喜式内社) 曽我部町寺
祭神として事代主命(えびすさん)建御名刀命(諏訪さん)天照皇大神(お伊勢さん)天児屋根命(春日さん)の四神を祀る。
「諸国鎮座神秘抄」によると、奈良時代に四道将軍丹波道主命を国家の平和鎮護の為祀った与能神宮寺が起源とされ、現御旅所を中心に、曼荼羅堂、講堂等寺区全域に伽藍を誇り、皇室の崇敬篤く口丹波南部の中心として隆盛をきわめたが鎌倉時代以後兵火にあい焼失した(礎石、古瓦が現存)また「谿端與能宮旧記」によると、空海が嵯峨天皇の命により神宮寺を開き奥院露堂で護摩修行を行い、後嵯峨天皇の代に村山、与能など八庄を神領として寄進を受けたとされる。
立派な彫刻のある本殿は三間社流造で、現存する慶長8年(1603)の棟札によると社殿が文応元年(1260)に建立され、 慶長元年(1596)に地震により倒壊し、同8年に再建されたことがわかる。現在の本殿は正徳4年(1714)に改修され たものと考えられる。境内には応永21年(1414)の銘のある石灯籠があり、境内の百太夫社は芸能の神としてその方面の崇敬をあつめている』
『京都府登録文化財 興能神社本殿(江戸時代) 昭和61年4月15日登録興能神社文化財環境保全地区 神社の森一帯 昭和61年4月13日決定』
『亀岡の名木87 輿能神社のコウヨウザン 樹種:コウヨウザン・・・ヒノキ科ヒノキ科コウヨウザン属の高木針葉樹でスギに近縁な樹木。中国南部・台湾原産・中国南部における最重要造林樹種である。 日本には江戸時代に社寺を中心に導入されたという説もあるが、社寺等に植えられた大木の由来を調査すると、江戸時代以前に渡来した可能性がある。
この樹は、御旅所のものと合わせて日清戦争の戦勝記念として明治時代に植えられたものではないかと思われる。
調査日:1995年8月29日 胸高幹周目:1.94m 樹高:24m 「亀岡の名木」192ページ所載』
本殿の立体的な彫刻を拝見しました。亀の立体的な彫刻絵馬が珍しかった。境内に、『とうおがたま(モクレン科) 神さんに、お供えする木。白い花はとても良い香がする。コブシ・ホウ・シキミの仲間』があった。
バイクに戻りました。神社脇から『石田梅岩心学の道 共生の理念 世間ノアリサマヲ見レバ、商人ノヤウニ見ヘテ盗人アリ。実ノ商人ハ先モ立、我モ立ツコトヲ思フナリ紛レモノハ人ヲダマシテ、其座ヲスマス。是ヲ1列ニ云フベキニハアラズ』の石柱が立っていました。
「石田梅岩心学の道」に入っていきます。2年ぶりかな?今まで数度走行したことのある「桜峠」のある道です。交通量の少ない道なので、以前より経年劣化していた。でもこういう道は好みなので、特に問題はありません。むしろ楽しく森の中を走りました。
15:45「桜峠」。『子孫繁栄の道 商人トイフトモ聖人ノ道ヲ不知バ、同金銀ヲ設ケナガラ不義ノ金銀ヲ設ケ、子孫ノ絶ユル理ニ至ルベシ。実ニ子孫ヲ愛セバ、道ヲ学テ栄ルコトヲ致スベシ』
r46に出て南下し、左折してr43で、16:05「鎌倉神社」。ここも隠れ里的な気持ちの良い田畑が谷間に広がっていました。
『鎌倉神社(亀岡市東別院町鎌倉)
祭神は、大巳貴命・少彦名命・事代主命の3神を祭る。第43代元明天皇の御宇・和銅3年(710)10月14日、天皇の詔旨奉遷し此の地見立山山麓6000坪の境内に社を創立し、村の氏神として崇敬す。第104代・御柏原天皇の御宇・永正12年(1516)12月23日、足利義稙の時代に井上和泉守外篤信家に依り再建され、慶長14年11月14日、亀山城主・岡部内膳正長盛御代々の祈願所として神饌料を奉納せられた。
文化9年現在の200余段の花崗岩石階段が竣成す。明治29年指定村社と成り、10月20日が秋の大祭と定められていたが、現在は10月10日に執行される』
『京都府登録文化財 鎌倉神社本殿(江戸時代) 昭和60年5月15日登録鎌倉神社文化財環境保全地区 神社の森一帯 昭和60年5月15日決定』
長い階段を登って行くと、山からの森の続きでもある鎮守の森に囲まれた静かな神社でした。標高400m地点・境内19338平方メートル・3万平方メートルの広大な社域を有している。覆屋に守られた本殿でした。山中の斜面でしたが、本殿境内の上だけぽっかり空が開いていました。
16:28、道の駅「de愛・ほっこり見山の郷」で休憩しようと思いましたが、時間が遅かったようで閉店ガラガラでした。r110に出て、R423に突き当り、左折してR423を南下し、16:43「BIKER'S IN TRUST」で停め、「ソフトクリーム380円」を購入し、テラス席で休憩しました。店員さんに、「何処に行かれていたのですか?」と声を掛けられたので、「この近所の山の中の神社巡りです」と答えました。興味を持たれたのか会話が弾み、寺社参拝・謂れ板読み・歴史好き・林道好きの事を話しました。
元、小さなドライブインがあった場所なのでカフェだけだと思っていましたが、バイクショップもありました。小さな建物の中で、バイクの整備をされていました。元の建物内のトイレを利用しました。1Fは中古バイクが並んでいました。W650・SR400・ハーレーなどが並び、お値段が控えめに下がっていました。「MOTERCYCLE CUSTOM」の拝み看板がありました。カスタムバイクショップのようです。僕の後にカワサキの大型バイクでやって来た方のお仲間5〜6台でやって来ました。カワサキH2が2台もあり、スゲーと思いました。R423を南下し池田に出て、17:35帰宅しました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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