-ウェブマスター日記 2020/5-6

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2020/6/27
倉庫から、「招き猫CB400SB」を出し、4:30出発。R173を北上します。夏用メッシュバイク装束で出てきました。「一庫ダム」で22℃でした。20℃あると夏用メッシュで平気です。5:28「ローソン篠山安田店」でトイレ休憩し、「伊藤園ミネラル麦茶670ml129円+田辺農園バナナ3本266円=395円」を購入しました。
R173を北上し、綾部市域に入り、由良川を渡り、すぐ左折してR27。左折してr8で西進し、6:20「綾部八幡宮」。
『御祭神:応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・仁徳天皇・武内宿禰
当社は治承年中小松内大臣・平重盛卿の勧請創建なるも天正年中宝蔵焼失し、宝物録記等由緒悉(ことごと)く鳥有に帰し詳ならざるも領主・平重盛卿の寄進せし扁額字今に存す。
寛永10年(発酉)3月以来、領主九鬼式部少輔隆季殊に尊崇し氏神となし、その後累代の崇敬篤く社領什宝等の寄進あり。
明治4年7月太政官達郷社規則に依り郷社に列せらる。 大正3年8月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
宝物:平重盛卿寄進扁額・1面、九鬼式部少輔藤原隆季以下藩士連名奉納による石灯籠・1封、九鬼式部少輔藤原隆季謹書の掛軸・1幅』
『聖岩(ひじりいわ)由来記
この聖岩は、元岩神さんと親しみ申し、石凝姫命(いしこりひめのみこと)が神宿リ給い、遠い先祖がもろもろの願いを懸け、祈りも籠めたものであります。この度、山麓一帯を整理するに当り、牧野工業株式会社の好意により、ここに移転し参った次第であります。
お社は先年地元宮代町及びに篤信者の手により境内に遷座申し上げております。口碑によれば、八幡宮山麓一帯は湖で元の岩神さん辺りは舟着場であり、四境寂寥(せきりょう)として、附近の田園には鳥獣虫蛇が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、この被害は後を絶えず、神明の力に頼らなければ誰も安心して、農耕に勤(いそ)しむことが出来なかった。村人達は舟着場の巨岩に、四厄退散の願を立てて、斎戒(さいかい)沐浴し連日連夜、祈祷を続けたのであります。満願いの日、天暗く、四尾山は鳴動し鳥獣鳴き騒ぎ、村人また恐怖に震え戦(おののく)く時、雷鳴一気轟き一瞬音響と共に巨岩は裂けて、男岩と女岩の2体となり、石凝姫命(いしこりひめのみこと)が出現され神鎮り給い、立ちどころに鳥獣虫蛇の害を絶やされ、村人は安んじて子孫の計を立てることが出来たと請われる。
以来岩神は蝮(まむし)除け害虫封じの神として崇められ広く農耕庶民の信仰するところとなったのであります。中世以後、岩神さんの石にて頭を打ち、お砂を噛むと頭痛歯痛に霊験があると伝承され、また赤ん坊の頭が早く固まり、強い歯が生えますようにと美しい小石を供え、子供が心身共に堅固に育つようにと祈る風習も伝った。岩神のお祭りは子供の祭りとして、旧6月15日の祭日には、婦女子の参詣で賑わったとか。
また岩神さんは女神であらせられ何時の頃か、縁結びの神と崇敬され、近郷の若衆や娘衆の逢引の場となり、岩の下から湧き出る清水に水鏡を映して、恋の成否を占ったと言われ、この泉は後年枯渇して清水石に取り替えられたが、御縁がありますようにと一文銭5枚を水引に結んで投じたと伝わる。この手洗石は昔の清水石であります。多くの男女が水鏡を映して結ばれたことを偲び、微笑ましく思われます。
閑話休題
ギリシャ人は、人間は初め男女が一体であったのを神が割いて2人別々にされたため、男はその相手の女を求め女は相手の男を探して広い地球の上を法定し歩いているのだと言ったそうな。
幸福な女はその当の相手の男に巡り会い、また幸運な男たちは、当の女に巡り会うのだが、大勢の男と女とは本当の相手を知らずに終わると言った。そこにお互同志が、愛し合い恋しあって、もろもろの悲喜哀歓が在るという。
この聖岩も、元は一体であったが、男岩と女岩の夫婦岩になり、2つの子岩を産んだ。宜(むべ)なる哉(かな)。岩神さんが、農耕鎮護に御利益がある外、一家繁栄・和楽・縁結び・子育ての神であらせられ、岩神さんと親しまれ慕われる所以もここにあるのでしょう。
終わりに当たり、この伝承とともに聖岩が何時までも安泰でありますよう祈る次第であります。
昭和54年10月 拍手三拝 文責:上柿多茂津』
『八幡宮 綾部市宮代町
八幡宮は綾部郷の惣社、井倉八幡宮という当社縁起書には石清水八幡宮の別宮で治承年中(1177〜81)平重盛が勧請したというと綾部藩々記にのべている。
2月4日奉射講の弓初、4月3日御田植のまねびの行事があったが、戦時中中断した。平成6年、寛政8年(1796)の古記録をもとにお田植を復活し毎年実施している。御田植祭は綾部藩内7社の関係者が寄り合い、翁の面をつけた八幡宮の神職が、暦見・田おこし・水当・田すき・種まき・鳥追い・苗取・田植を進め、苗取・田植は笛・太鼓・鉦の拍子と音頭にあわせて全奉仕者が行い、最後に傘鉾のねり込で終了する。
綾部郷の稲作が演技の進行の通り豊穣である事を祭って願う民間行事である。半左衛門と兵衛の掛け合い問答と半左衛門の所作の演技は、古式をよく伝え、一郷の年中行事の始めとして、後世に長く継承されるものである。
平成11年1月 綾部の文化財を守る会』
r8を西に進み、右折してr74で「JR山陰線」を渡り、枝道でr74に出て、6:45「大川神社」。鎮守の森はあるが、里山の麓にある何処にでも在るような神社です。拝殿の蟇股の彫刻が「イタチ」に見え珍しい。本殿を見ると、彫刻は更に凝っています。蟇股の龍が見事でした。
r74に出て西進、右折してr9で北へ。枝道に逸れ、6:58「澤神社」。階段を上がって境内へ。土俵がありました。本殿は覆屋に守られています。2殿(大嶋神社と澤神社)並列に並んでいます。小ぶりですが、唐破風屋根で立派です。境内に摂社が建っています。そちらの方が、蟇股などの龍は立派でした。境内には他に、舞台棟?が建っています。神輿蔵?も。
r9に戻り、7:11「赤國神社」。
『赤国神社 祭神:瓊々杵尊・猿田彦命・天宇須女命。
何鹿郡式内社12座の1社。丹国社、後に赤国社と記し、稲葉山の宮の段に奉祀されていたという。慶長5年の兵火により類焼、什宝記録を焼失した。
江戸時代の初期まで、旧暦8月の十日祭に梅若太夫の能楽が奉納されたという。宝物(文の鳥)は神輿に附する銅製の鳳凰で「正和三甲刀九八日下司源光高」の銘を有し、当社の由緒を物語る市指定文化財。境内発見の八稜鏡は藤原期の作である。 大正年間、当社近隣で石斧・鉄滓・土器の発見は、当地方考古学研究の先駆となった。
綾部市指定文化財:文の鳥』
よく手入れされた境内で、大きくない神社なのに神馬像が建っており驚きました。拝殿には「正一位赤國大明神」の扁額が掲げてありました。拝殿から本殿を覗くと御簾が下がっており、本殿正面は見えませんでした。
r9に戻り、7:25「須波岐部神社」。ゆるく上がっていくと境内がありました。更に一段上がった所に社殿があります。
『式内社・須波岐部(すわぎべ)神社
祭神:大日霊貴尊(おおひるめむちみこと・天照大神)
平城天皇の大同2年(807)須波岐山に建立されたと伝えている。3代実録貞観11年(1869)12月8日の條にて「授丹波国正六位上物部簀掃(すはぎ)神従五位下」とあり、位階を有する丹波における古大社である。恐らく古代須波岐部物部氏の氏神であろう。境内の薬師堂は、神宮寺であった中谷山天慈院のもので、堂内には室町時代を下らないと思われる薬師如来坐像が安置してある。
綾部市観光協会 綾部の文化財を守る会』
覆屋で守られた唐破風本殿の彫刻は素晴らしかった。中井権次一統作のようです。
r9に戻り北上を続け、7:46「上市八幡神社」。境内に神楽庫が建っていました。境内にブランコがあり、児童公園になっているようです。更に石段を上がり上の境内へ。「八幡宮」の扁額が下がっています。本殿の彫刻が素晴らしく、蟇股には龍の他に獅子?の彫刻が彫られていました。脇障子の彫刻も良いです。摂社に「高倉神社」があり、こちらの彫刻は更に素晴らしかった。蟇股の龍が立体的で躍動していました。唐破風屋根を力士の彫刻が支えていました。
r9に戻り、道なりに西に走り、7:56「諏訪神社」。
『諏訪神社由緒縁起
鎮座:京都府綾部市西坂町嵩松54番地の1
祭神:建御名方富神と姫神八坂刀売神
創祀:建久4年(1194)源頼朝の命により信州上田城主(豪族)上原右衛門丞景正が丹波国何鹿郡の地頭職に任ぜられ物部町下市の高尾(屋)に城郭を構えて居城し、信州一の宮諏訪明神の分霊を祀って氏神とし、領内の各所に諏訪神社を創設し祀らせた。当神社もこの当時に創祀されたと考えられる。氏子崇敬者の地域は、西坂町一円であり村社高蔵神社末社であります。
境内社:太田神社(稲荷神社)・熊野神社(熊野三山の熊野三所権現)・厄除神社(昭和44年当厄者による神殿寄進)。長床の神殿の中には、権現社・馬宮社・庚申社・清正公社が祀られているが、明治27年頃、長床が火災に合い古文書等資料焼失した。
祭儀 放生会(ほうじょうえ)祭・9月14日:神事として祭の当日境内の中央に仮設土俵が作られて、年少の子から順次勝ち抜きで進められ、終わりまで勝ち残った2人が最後に力競べとし、わざと負ける相撲を交互に取結びとなる。放生会祭は、お諏訪様の水を司(つかさど)り給う。限りなく尊く高き御神徳恵を感謝し、魚など放して心から神に感謝する意義深いお祭りである。
秋祭:10月17日のお祭りは、高蔵神社の神輿御巡幸の御旅所で、この神幸の途次宮司が参拝し、自治会長始め氏子町中のお旅奉仕者が参列のもと、例祭が厳修される』
r9を更に西に走り、枝道に入って、8:06「高蔵神社」。
『延喜式内社(厄除け延命長寿) 高蔵神社由緒略記
鎮座地:京都府綾部市西坂町宮ヶ嶽21番地
創祀年月日:延喜式巻9の中に記載があり、延喜時代901年以前の創始であると考えられる。
社名:「新訂増補国史大系延喜式」には、高蔵神社と2種類の訓がつけられている。小字名に「高倉」があり、律令時代に食糧などを保管する高蔵が建立され、その由緒から社名が付けられたものと思われる。近世には、大蔵大名神・高蔵大名神とも称された。
御祭神「「武内宿禰」である。宿禰は古事記・日本書紀の伝承に現れる大和朝廷の発展に尽力した政治家で、孝元天皇の曾孫とも言われる。鎮座の里の字名に竹(武)乃内の地名が残っている。
式内社となったのは:御鎮座の西坂町が古代早くから開拓され、文化が開けた豊かな集落であり、当社の近くに円墳1基、北方に3基がある。
社伝によると、古来より厄神と言われてきており、厄除け延命長寿の霊験あらたかであると伝えられている。また、往古より宮ヶ嶽の頂上に祀られていたものを、中世に現在地に遷し祀られたものと言う。
遷座されたのは:毎年国司が奉幣のため参詣の際、余りに急峻のために度々落馬することなどあり、中世にこの地に遷し祀ったとも言われている。また、社殿の衣冠束帯の8体の神像は、宮ヶ嶽山頂に祀られていた社殿の礎柱を以って刻まれたとの口伝もある。
更に、竹の内の小字大門には、常夜灯として氏子が御灯を献じ続ける灯籠がある。これは、高蔵神社が宮ヶ嶽の山頂に祀られていたころ、灯を献じ山頂の男宮を崇め祀った遙拝所であったと考えられる。
本殿の建立は:棟札から、亨保14年(1729)9月吉辰と建立されているが、多分再々建であろうと考えられる。
当社の特異神事:3月28日の八幡宮社の祭例に鬼射の神事が伝承されている。社殿記録に「源頼光が大江山の鬼退治の際、高蔵神社に参詣し、諸願成就の上は再度参拝すると祈誓し、鬼射の神事を執り行った」という。今にこの神事が伝承されている。それは「長さ1尺幅8寸の薄い杉板の1枚に鬼の字を、別の1枚の杉板には、左馬の字を書き、的の上につるし置き、児童が先に鬼の字を、次に左馬の字を射抜かしむ。」とある。
氏子崇敬者:江戸期より西保村(現西坂町)全域であり、氏子数は明治16年4月調に160戸とある。
年間恒例祭事 歳旦祭・1月1日:新年互礼会を兼ね全戸参拝 厄除祭・1月18日:氏子中の成寿者の奉告祈願祭 祈年祭・3月18日:地域の安泰、五穀豊穣を祈願 勧学祭・3月18日:氏子中の子弟の小学校入学と中学校卒業を奉告し祈願 例大祭・10月17日:秋祭、神幸祭と神興の巡幸。諏訪神社九社神社が御旅所 感謝祭・11月23日:新嘗祭
境内社とその恒例祭事 八幡宮社・3月18日:鬼射の神事 若宮神社 稲荷神社・3月1日:五穀豊穣・家業繁盛祈願 大山祗神社・12月8日:山の神を祀り大草履(片方)を奉納。奇祭として有名。 牛頭神社・7月土用丑の日』
r9を更に西進し、8:24「円通山普門寺」。
『本堂並びに客殿建立の記
室町時代には現地よりも10町(約1km)ほど離れた矢津の権現山にあり、山号寺号も普門山円通寺であった応仁(1467年)頃、兵火に焼かれた普門山円通寺は現在地に移り、円通山普門寺と改められる。文亀年間(1501〜1504年)、開山勅賜大化智幻禅師(桂林寺3世柏悦道根和尚)は伽藍を再興し、門前は繁盛して市をなす。その後幾多の盛衰を経て、延宝8年(1680)、田辺城桂林寺の末寺となる。寛政3年(1791)火災に遭い、山門(創建天明2年)のみ残して焼失、寛政11年(1799)に再建される。
再建以来200年を経過する本堂は、積年の豪雪や風雨、由良川の氾濫による水害などで老朽化が進み平成12年9月、機縁が熟そうとしているこの時期を除いてはないという総意にいたり、裏山を切り崩し6m嵩上げして土地造成を行い、山門と鐘楼と「33発心の石段」でつなぐ本堂並びに客殿の建設を開始する。
平成14年7月:本堂完成 平成15年9月:客殿完成・落慶法要・法戦式・稚児行列ここに当山檀信徒、有縁の皆様の物心両面に渡る御協賛・御支援、工事関係者の方々の御尽力に深く感謝申し上げ、末永くその御浄行を顕彰致します。
お寺への思いをしっかり受け継がれた皆様によって建立された本堂・客殿は、御先祖の供養、かけがえのない心の拠り所・研鑽・安心の場となり、仏法の興隆、人々の幸せ、平和を願うものとなることを祈念致します。
平成17年3月4日 普門現住19世正弘 謹記』
『見てござる いつでもどこでも み仏は』
r9で「由良川」を渡り、R175に乗って、8:37「阿良須神社」。『安産・女性の守護神 式内・阿良須神社』。
『安産の神 式内・阿良須神社
阿良須神社は、町内唯一の式内社である。(丹後風土記残欠)には、天火明命(あまのほあかりのみこと・海人族の祖神)が飢えてこの地に来た時、この土地の神に助けられ、この土神に蟻道彦大食持命(ありじひこおおけもちのみこと)という称号を与えたとのべられている。尚、この地にある神祠が蟻巣と言われ、転訛して阿良須となったと記されている。
祭神は、神吾田津媛命(かんあだつひめのみこと)であるが、別名木花咲耶媛(このはなさくやひめ)の名の方が有名である。この神は、日本神話によると、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高千穂の峰に天降った時、最初に出会った絶世の美人で山の神を代表する大山祗神の娘である。のち瓊瓊杵尊の妃となり、火照命(ほでりのみこと・山幸彦)や火遠理命(ほおりのみこと・海幸彦)を生んだ女神である。
(丹後国式内社取調書)には、阿良須神社は(安産の神)と記され、古来(子宝・安産・女性の守護神)として崇敬されている』
『福知山市指定文化財・天然記念物 阿良須神社のスギ』
石段を上がり社殿のある境内へ。本殿は覆屋で守られており、その覆屋の隙間があまりなかったので、彫刻が見れず残念でした。
バイクに戻り西進し、R175に合流して西に走り、「雲原川」を渡って右折しr9に乗って北上します。「元伊勢」への道です。右手に「元伊勢外宮(豊受大神社)」を見て通過し、左手の里山に神社社殿が見えてきたので寄り道しました。
8:52「二股八幡神社」。長い石段を上がっていきます。境内から景色が広がっています。ここも本殿は覆屋に覆われていましたが、彫刻は素晴らしかった。
r9に戻り北上します。「元伊勢内宮(皇大神社)」前で、「天岩戸神社」から流れてくる「宮川」を渡り、沢沿い林道を登って行きます。「大江山」山頂付近まで登る林道なので急坂が続くと予想しましたが、意外に沢沿いを緩やかに登って行きます。と安心していましたが、勾配が増しつづら折れの道になりました。
四輪が離合しずらい1.5車線ですが、舗装はわりあい綺麗でした。林業木材集積所がありました。仕事はお休みのようですが、操業中は木材トラックがこの林道を使っているようです。
9:35「鬼嶽稲荷神社」。『鬼嶽稲荷神社 ここは大江山(千丈ヶ嶽・832.5m)の8合目海抜約640mのところ、頂上まであと約1.2kmです。ここ鬼嶽稲荷の一帯はブナの原生林で多様な植生がみられ多くの昆虫や鳥獣が生息しており、まさに野生の宝庫です。
昔、神社はもっと頂上近くにあったと伝え、人々は大江山のことを御嶽と呼んでいました。社伝では、往古、四道将軍として当地へ来た丹波道主命が父、日子坐王の旧蹟に神祠を建立したと伝えています。又、この一帯に修験の遺跡も多く残っています。本殿に向って右手の小祠(はしくらさん)も、その1つです。大江山は修験の山でもあったのです。
社殿が現在地に移されたのは、弘化年間(19世紀中頃)と思われ、このとき伏見稲荷大社の分霊を勧請し、鬼嶽稲荷と名を改めました。以来、当地方の主産業であった養蚕の神、稲作の神として、農民たちの篤い崇敬を受けてきました。本殿の前の狐の石像を御覧ください。狐の尻尾は道祖神を思わせます。農民たちの豊穣への祈りがこめられているのでしょう。
秋の早朝、ここからの雲海の眺めは絶景です。特に日の出の瞬間「ご来光」は神秘的で、美しい紅葉とともに、多くの来山者を迎えています』
『福知山十景 大江山連峰・ブナの原生林・雲海
大江山は、「酒呑童子(しゅてんどうじ)」をはじめとする鬼伝説が残る神秘的な山です。また自然の宝庫で、ハイキングにも最適の地です。秋に8合目の鬼嶽稲荷神社から見渡す雲海は、乳白の中に山々が島のように浮かんで見えます。ブナ林は原生林として残る貴重な森です。
平成19年8月3日に国定公園に指定されました』
神社の前に長椅子の並んだ展望台があり、景色が見れる休憩小屋もありました。目の前に山並みが広がっていました。標高640m。薄くもやっており、後からやってこられた登山の方の話によると、この日は景色がイマイチなようです。修験道の小屋が稲荷神社の前に建っていました。
バイク装束を脱いで、履いてきたタイツの上に短パンを重ね着、上は着てきたインナーの上にベストを着て準備終了。「大江山鬼嶽稲荷神社」に詣ります。
『お知らせ 本日は、ご参拝ありがとうございます。御朱印の授与日は、別表の通りです。本日は社務所不在につき、後日改めて送付させていただきますので、ご希望のお方様は、拝殿備え付けの記帳台で申込書に記入して、奉納袋に浄財(代金)を同封の上、賽銭箱に投函してください。2週間程度で郵送します。 
鬼嶽稲成神社社務所
4月 11(予備日) 26(予備日)
5月 3・4・5・6 17(日) 31(一斉登山)
6月 1(例祭) 14(日) 28(日)
7月 12(日) 26(日)
8月 9(日) 23(日)
9月 6(予備日) 13(日) 22(祝)
10月 11(日) 25(童子祭り)
11月 3(祝) 15(日) 23(祝)』
『鬼の洞窟 鬼の洞窟に続く下方の山道は、荒れた箇所や細く急な箇所があります。入られる場合は自己責任で十分注意してください。 300m』
の案内板が、下に向かう山道にありました。獣道程度の道で整備もされていません。パスしました。
トイレを済ませ、本日のメインディッシュ「大江山」山頂を目指し、「大江山登山道」を登ります。『千丈ヶ嶽(大江山)1.1km』。10:14、山に向かって整備された階段道がつづら折れに上がっています。登りだして500mほどが、階段の連続で勾配がきつく厳しかった。数度休憩し、水分補給しながら、加えて階段をできるだけ外して登ります。森の中なので、野鳥のBGMが気持ち良かった。後半は、尾根に出たのか平坦な道になり、楽になりました。
『鬼嶽稲荷神社0.8km・千丈ヶ嶽0.3km』の地点に三叉路がありました。別方向から登ってきた道と合流しているようです。案内板に従って進みます。森が開け、出ると山頂が見えました。
なだらかな緑の山頂で気持ち良さそう。10:50山頂着、『大江山山頂・千丈ヶ嶽832m』。休憩込みで登り36分。東屋があり、ベンチが距離を取り数脚置かれています。『大江山連山:赤石ヶ岳736m・千丈ヶ嶽833m・鳩ヶ峰746m・鍋塚763m』。
後から登って来たトレッキングスタイルの若者男性に聞くと、赤石ヶ岳から来られたようで、4座完歩するようです。少し休憩&激写タイム取って、軽快に2座に向かいました。景色の良い1つのベンチに座り、バナナを食べて早めの昼食です。11:45、帰路に着きます。基本下りなので快調に下ります。階段エリアになり勾配がつくと、歩くというよりトレイルランナーのように小走りになってしまいました。12:04、神社まで戻りました。下り19分。
『鬼嶽不動尊・不動の滝・ぶな林・金時の逆さ杉 100m』に向かいます。獣道程度の斜面を横切る細道を進みます。まだ沢とは呼べない山肌を流れる水が一部滝になっており、不動尊がありました。タンクに貯められ、パイプが神社に向かっており、トイレの水や手水の水に使われているようです。修験道行者が巡るのでしょう。
バイクに戻りました。下ります。神社には駐車場がないので、道沿いの広い所に登山客の四輪が停まっています。三叉路まで下りて、登ってきた道人は別の道で下ります。ログハウスが見えてきました。別荘地のようです。
三叉路があり、山を登っていく道がありました。この道の先に、大江山連山登山口があります。大江山連山への登山口が2ヵ所あり、最も標高の高いのが「鬼嶽稲荷神社」で、もう1つが鳩ヶ峰と鍋塚の間の尾根に上がるポイントです。標高630m。ここから再び登り、2座を攻めようと予定していましたが、鬼嶽稲荷神社に至るまで寺社に寄り道し過ぎて足が品切れになっており、パスすることにしました。「日本の鬼の交流博物館」横を下り、r9に出て右折し南下します。R175にチェンジし、12:54「浄仙寺」。
『木造阿弥陀如来立像(福知山市指定文化財 彫刻)
浄仙寺の本尊で、来迎印を結んだ阿弥陀如来立像です。寄木造によるもので、像高は96.1cm、眼は玉眼で、全体に漆箔が施されています。快慶作品後半期の来迎印阿弥陀如来立像に倣った像で、顔立ちから13世紀中頃から後半頃に造られたと考えられます。体部前面材や光背など多くの部分が、後の修理で補われたものとなっていますが、当地方に少ない慶派風の作例であり、鎌倉期に流行する来迎の阿弥陀如来像として貴重な仏像です。
木造阿弥陀如来座像(福知山市指定文化財 彫刻)
来迎印を結ぶ阿弥陀如来座像です。寄木造の像で、像高は52.1cm、眼は彫眼となっています。平安時代後期の安定感のよい落ち着いた感のある作風ですが、衣文の表現や張りのある顔立ち、自然味のある肉付けから、鎌倉時代初期の慶派とは異なる京仏師の作と考えられます。鎌倉時代の当地域の仏像を考える上で、非常に興味深い作品です。
紙本金地著色浜松図(福知山市指定文化財 絵画)
六曲一双の屏風で、たおやかな曲線と州浜を描き、枝ぶりの美しい青松を配する優雅な大和絵で、金地と海の群青、松葉の緑青と幹の茶の色合いを美しく描き出しています。屏風の署名や印から、歴代朝廷絵所預職を継いだ土佐家の一員光芳の作ということがわかります。
平成24年3月 福知山市教育委員会』
山門の蟇股に躍動感のある龍の彫刻がありました。本殿の蟇股にも龍の彫刻があり、ヒゲが立派でした。木鼻や手挟みの彫刻も素晴らしい。
R175を南下し、13:10「少林寺」。ちょっと動き、13:13「熊野神社」。石段を上り境内へ。小さな神社でしたが、彫刻が良かった。
R175を南下しR9、福知山市内に入り、左折してr523。御霊神社横を通り、由良川土手道に上がり走ります。目指す寺院は見えるのに、土手から直接行けません。キックボートで遊んでいる中学生?に、「この道、このバイクで下がれる?」って聞くと、「行けますよ、急だけど」と教えてくれました。土手から細道を下りました。
13:45「久昌寺」。『不許葷酒入山門』『曹洞宗・久昌寺』。山門の木鼻の獅子の彫刻には玉眼が入り、口を開け白い大きな歯を見せている。もう一方は、玉をくわえていた。境内に摩尼車がありました。
『摩尼(まに)ぐるま 摩尼とは、菩提心・仏ごころ、または仏法のたから、あるいはお経の意で、1回まわすとお経を1遍となえた事になります。 そして悪をなくし、濁った水を澄ましめわざわいを去らせる徳があります。
文博宇井伯壽監修「佛教辞典」より』
『補巖山・久昌寺・曹洞宗
本尊:大恩教主・南無本師釈迦牟刄仏
本山:福井県木本山永平寺 横浜市大本山総持寺
開山:威雲宗虎大和尚 兵庫県氷上郡氷上町・永谷山円通寺12世・慶長12年(1607)4月27日寂
創建:文禄元年(1592)
開基:豪徳院殿雄山良英大居士(朽木公・万治3年11月13日亡) 久屋妙昌禅尼(高橋源太夫の妻)
貞享2年(1685)火災を罹り、堂宇悉く焼失
元禄元年(1688)2世南渓存越大和尚禅師代再建 禅師は雲岫廣覺禅師の勅賜号を賜う。
寛政7年(1795)4月7日、類焼を罹る。(13世泰翁壽仙大和尚代)
明治16年(1883)5月15日、21世省拙祖覚大和尚代惣門を除き諸堂焼失し
明治17年〜27年(1884〜94)、再建竣功す
明治40年(1907)8月、大水害を受け諸堂大破のち復旧
昭和5年(1930)、24世大晃覚明大和尚代 開山堂・位牌堂改築
昭和33年(1958)、25世寛山哲了大和尚代 鐘樓堂改築
福知山城主・朽木公の菩提寺なり
鎮守:福徳毘沙門天・祇園牛頭大王・薬師如来(小野小町の歌かけ薬師)』
r55で由良川を渡り、道なりにr74に乗り、14:02「稲粒神社」。
『京都府登録有形文化財
稲粒神社本殿1棟 一間社流造正面軒唐破風付銅板葺附棟札4枚 寛文拾捻霜日朔日の記があるもの1 寛政拾壱己年3月吉日の記があるもの1 棟上寛政拾壱己未年3月吉日の記があるもの
寛政11年(1799) この境内を文化財環境保全地区決定
昭和60年5月15日 京都府教育委員会』
『本殿は一間社流造で正面に、唐破風をつける。組物は二手先尾垂木付の斗きょうを用い詰組に配し、尾垂木端には渦紋を施し、四隅のものは竜の姿彫りにする。妻飾りは二重虹梁で、二重目は出組にして更に一手持出す。
向拝は海老虹梁一組と手挾2組で繋ぎ、連三斗も三段積みにし、桁・頭貫間には竜の彫物をはめ込む。縁は四周にまわし脇障子は斜後方に開いて付けられる。このように当本殿は小振りではあるがふんだんに細工を凝らした優品である。
建立時期は寛政11年で、大工は播州三木と当村の者彫物師は江戸時代後期に中丹・丹後で活躍する柏原の中井氏である』
r74を更に先に進みます。14:18「佐須我神社」。境内に土俵がありました。r74に戻り、r524で由良川を渡り、「JR山陰線」を越えて、左折してr8に乗り換え、14:36「ローソン福知山石原店」で、「ガリガリ君ソーダ75円」を購入し、糖分補給しました。
線路を渡り、14:47「阿毘地神社」。境内を探索中に踏切が鳴りました。慌ててカメラを構えました。「特急こうのとり」かな?
バイクに戻り、帰路に着きます。「JR山陰本線」を渡り、r8〜r525〜R9。15:25「梅田神社」。目の前を、「土師川」が流れています。堤防はあるが、大水が出たら水害に遭いそう。唐破風屋根の本殿が2つ並び、互いの破風屋根がくっついていました。大きな覆屋で守護されています。彫刻も素晴らしい。観光客なんて誰も来ないだろう集落の神社クラスですが、驚きの掘り出し物でした。蟇股の龍彫刻には針金ヒゲがあり、中川権次一統作のようです。2社の1つは「春日神社」でした。腰下にも彫刻が入っています。脇障子にも彫刻が入っており、社殿の裏に回ったら、裏からも別の彫刻が彫られており、この社殿はお金が掛かっています。この社殿を建立した集落の経済力と崇敬の心を物語ります。
両社殿の他に境内に土蔵があります。神輿が入っていそう。摂社もあります。大きな覆屋には両社殿の他に絵馬殿もありました。摂社「日吉神社・八幡神社・太田神社」と書かれた扁額が板壁に下がっています。社殿がないけど、板壁に扉があり、その中に祠が置かれていそうです。
R9に出て東進し、R173との出合手前で、枝道に右折し、ショートカットしてR173にチェンジし、一気に南下します。16:08「ローソン篠山安田店」でトイレ休憩し、「UC日本のフルーツブルーベリーアイス185円」を購入し、また糖分補給。17:14帰宅。


2020/6/24
長男から家族LINEにワードファイルが入りました。長男は高3の時生徒会長をしていた関係で、中高一貫校の同窓会の学年理事になっています。その連絡が定期的に我が家に届くので、1週間ほど前に内容をメールで送ったから、その返事かな?と思いました。それにしてはワードなんて大げさだし、第一次男夫婦もメンバーの家族LINEに返事を送ることはないし・・・
何だろう?と期待してファイルを開けると、長男りょうくん7才のロンドン現地校の学年末成績表でした。現在小2ですが、1年前の6月まではアメリカ在住で、現地校は年長さんだったので、成績表などありませんでした。長男にとって我が子の初めての成績表で、僕にとっては孫の初めての成績表です。「うお〜」と一生懸命読みました。
去年7月、長男のロンドン赴任辞令により、家族全員アメリカから一旦日本に帰国し、新潟のお嫁さんの実家に居候しました。長男は1週間ほど日本で過ごしロンドンへ。家族の住む家などロンドンの生活基盤を整え、8月お盆の時期に長男が帰国し、我が家で家族とともに過ごしました。そして伊丹空港〜羽田空港〜ヒースロー空港とトランジットしてロンドン生活が始まりました。
科目毎に大まかな成績が書かれ、次に先生からのコメントが書かれています。このコメントが各教科全てに10行ほどあり、英語圏でない僕には、「大作だけど、面白そう」。文字好きな僕には、英語だってワクワクです。
現在はオンライン学習中ですが、学校に楽しく通っており、車で送っていくと他学年の女の子にまで視線を向けられ相当モテモテだとは聞いていました。でも学業成績が送られてきたことがありませんでした。日本は3つの学期ごとに成績表がありますが、イギリスでは学年末のみのようです。
ロンドンの治安の良い日本人駐在員に人気のエリアに住んでいます。日本なら通える公立小学校は最寄りの1つだけですが、イギリスは治安が日本ほどよくないこともあり、親が学校まで送り迎えします。よってエリア内にあるいくつもの公立小学校から、希望を出して試験を受けて合格することで通う学校を選ぶシステムです。
長男夫婦は、エリア内で最も優秀な人気のある小学校を希望し、幸運にも合格を得て通っています。欧米なので超アッパークラスの子女は私立高に通うのでしょうが、ミドルからアッパーミドル層が通う学校でりょうくんはどんな成績なんだろう?
上から読んでいきます。小学校名・REPORT2019−2020。1年間の成績表のようです。成績表なのに、単なるREPORTなんですね。名前・学年・クラス。次に「Attendance: 94.34、Punctuality (late): 2.36」。出席94.34%・遅刻2.36%ってことかな?お嫁さんに問い合わせました。
いよいよ各教科。
『English(英語) Reading(読み):Outstanding Writing(書く):Outstanding』
EnglishはReadingとWritingに分かれています。両方ともOutstandingです。凄い!欧米の大学での成績表と同じGBA評価をしているようです。最近は日本の大学でもGBAを採用するとこるがあり、僕がコーチをしている大学でも採用しています。僕が小学校時代慣れ親しんだ5段階評価です。中高は点数評価になり、大学は優良可不可の4段階でした。
具体的な点数を知りたくて調べてみました。
「素点100〜90点・成績表示A・GP4.0、89〜80・B・3.0、79〜70・C・2.0、69〜60・D・1.0、59〜0・E・0.0」
「A・Excellent・4、B・Good・3、C・Satisfactory・2、D・Passing・1、F・Failing・0」
「Outstanding(A+・4.0、A・4.0、A-・3.7)、Good(B+・3.3、B・3.0、B-・2.7)、Acceptable(C+・2.3、C・2.0、C-・1.7)、Poor(D+・1.3、D・1.0、D-・0.7)、Failing(F・0.0)」
2015年から採用している京都大学のGBAは6段階評価では、「A+(GP4.3)96〜100点・極めて優れている/Outstanding A(GP4.0)85〜95点・特に優れている/Excellent B(GP3.0)75〜84点・優れている/Good C(GP2.0)65〜74点・合格基準に達しており、学修の効果が認められる/Fair D(GP1.0)60〜64点・合格基準に達しているが、更なる努力が求められる/Pass F(GP0.0)0〜59点・不合格/Fail」で、りょうくんの小学校の評価もこれに近いようです。
次に先生からのコメント。
「Strengths
1.Ryo can read with fluency pace and expression. He is able to answer questions based on characters and storylines as well as predict and infer using his knowledge.
2.Ryo is very creative and imaginative with his writing. He uses great adjectives, adverbs and conjunctions to put across his ideas clearly;and is aware of the reader.
Areas for development
1.To be able to consistently use punctuation and hold the reader’s attention.」
「強み
1.りょうくんは流暢なペースと表現で読むことが出来ます。知識を活かし予想や推論するのと同様に、キャラクターやストーリーをベースにした質問に答えることができる。
2.非常に創造的で想像のある文章力を持っている。彼は素晴らしい形容詞、副詞、接続詞を使い、自分の考えを明確に伝え、読者を知っています。
開発エリア
1.句読点を一貫して使用し、読者の注意を引くことができるように。」
『 Mathematics(数学) Number(数字):Outstanding、Problem Solving(問題解決):Outstanding、Measurement(測定), Geometry(形状) and Statistics(統計):Outstanding』
算数もオールOutstanding。
「Strengths
1.Ryo has brilliant knowledge of the four operations and is able to solve problems using correct methods, answering confidently and then proving it with the inverse.
2.Ryo has great understanding of shape, space and measure using his mathematical knowledge to estimate and show halves, quarters and thirds practically using different means.
Areas for development
1.To be able to comment mathematically on the answer to a question explaining how the person got there.」
「強み
1.4つの操作に関する優れた知識を持っており、正しい方法を使って問題を解けるし、自信を持って答え、その逆を証明できる。
2.違う意味を持つ1/2・1/4・1/3という数学的知識で、形・空間・測定をとても良く理解している。
開発エリア
1.人がどうやってそこにたどり着いたのか説明する質問に数学的なコメントが出来るように。」
『Science(科学) Practical Skills(実践的スキル):Outstanding 
Knowledge and Understanding(知識と理解):Outstanding Recording and Interpreting Data(データの記録と解釈):Outstanding』
「Strengths
1.Ryo can hypothesise, analyse and predict the answers to scientific questions.
2.Ryo can carry out a fair test in line with a theory and can explain why he is doing the experiment in that specific way.
Areas for development
1.To be able to ask scientific questions using relevant knowledge.
強み
1.科学的な質問に対する答えに、仮説・分析・予測できる。
2.理論に沿ったフェアなテストが出来、その特定な方法で実験をしている理由を説明することが出来る。
開発エリア
1.関連する知識を使って、科学的な質問が出来るように。」
『Computing(コンピューティング) Application of Skills(スキルの応用):Outstanding』
「Strengths
1.Ryo can confidently turn on a computer, log on and open programs. He uses the mouse and keyboard well and is able to follow instructionsusing the computer efficiently.
2.Ryo understands internet safety and can open online programs. He can code effectively and use trial and error to complete tasks.
Areas for development
1.To generate, edit and save a piece of work.
強み
1.自信を持ってコンピュータの電源を入れ、ログオンしてプログラムを開くことが出来る。マウスとキーボードを上手に使い、コンピュータを効率的に使い、指示に従うことが出来る。
2.インターネットの安全性を理解し、オンラインプログラムを開くことが出来る。
効果的にコーディングし、試行錯誤しながらコンピューター・タスクを使える。
開発エリア
1.仕事のピースを、作り編集し保存出来るように。」
『PE(?下のコメントより体育と思われる) Application of Skills(スキルの応用):Outstanding』
「Strengths
1.Ryo has great balance and agility. He is able to complete tasks using his creative movements and evaluative techniques.
2.Ryo is a great team player, always motivating those around him. He enjoyed learning new ball skills and can now throw, catch, kick and aim using a ball.
Areas for development
1.To learn the rules to a team sport and guide his team towards following the rules correctly.」
「強み
1.素晴らしいバランスと俊敏性を持っている。クリエイティブな動きと効果的なテクニックによって、タスクを完了することが出来る。
2.素晴らしいチームプレーヤーで、いつも周りの人をやる気にさせる。新しいボール(ゲーム)のスキルを学ぶのを楽しみ、今ではボールを投げ、キャッチし、キックしたり、ボールを使って狙ったりすることが出来る。
開発エリア
1.チームスポーツのルールを学び、チームを正しいルールに向かうよう導けるように。」
『Foundation Subjects History(歴史):Outstanding Geography(地理):Outstanding Religious Education(宗教):Outstanding PSHE(?):Outstanding Art(芸術):Outstanding Design Technology(設計):Outstanding Music(音楽):Outstanding MFL(?):Outstanding』
「Comments
This year Ryo has explored different topics and projects with great enthusiasm and confidence. He has used different historical artefacts,commented on religious practises and events as well as looked at different explorers, continents and maps. Ryo enjoyed thinking of new ways to save our environment and is very aware of climate change as well as things we can do to stop it. He has experimented creatively with new ways to draw, shade and stick, working with new and interesting concepts and materials imaginatively. Ryo participates actively in all conversations we have as a class and sensitively responds to different ideas. He helps others understand through great explanations and asks creative questions that make others think. In each of these subjects he confidently tackles any challenge with fun and innovative ideas that encourage others to participate with the enthusiasm he does.」
「コメント
今学年、さまざまなトピックやプロジェクトを熱意と自信をもって出来た。さまざまな歴史的工芸品を使い、宗教的習慣や出来事についてコメントし、さまざまな探検家・大陸・地図を見てきた。私たちの環境を守るための新しい方法を考えることを楽しみ、気候変動とそれを止めるために私たちに出来ることを良く知っている。描画・シェーディング・貼り付けの新しい方法をクリエイティブに実験し、新しい興味深いコンセプトや素材を想像力をもって取り組んでいる。クラスの全ての会話に積極的に参加し、さまざまなアイデアに敏感に反応します。すばらしい説明で他の人の理解を助け、他の人に考えさせる創造的な質問をする。これらの課題それぞれに、他の人が熱心に参加することが出来る楽しく革新的なアイデアで様々な挑戦に自信を持って取り組む。」
『Attitude and Behaviour(態度と行動) Attitude(態度):Outstanding Behaviour(行動):Outstanding』
「Class Teacher Comment
Ryo has been a joy to have in my class. He is fun, creative,enthusiastic and always respectful. Ryo has created strong bonds with his classmates and can work cooperatively with everyone, always trying to keep his peers happy around him. He always applies his ability to make people laugh to all of his endeavours and confidently performs when given the opportunity to do so. Ryo loves being competitive in the playground, racing fast and playing fairly with a variety of different people. He has great enthusiasm with all tasks especially our keep fit and dancing in class getting everyone motivated to have a go. Ryo has worked hard to push himself more in his writing using his creative and imaginative personality to generate fun new ideas and perspectives to write from. He is a confident team player who is always happy to be the first to try new things. I am confident that he will be amazing at anything he tries due to his pure happiness that he injects into everything. Thank you, Ryo, for always keeping us laughing and being happy. I wish Ryo the best going up to year 3 as he continues to flourish and grow.
「クラス担任教師コメント
りょうを私のクラスで持てることが喜びでした。彼は楽しく、創造的で、熱狂的で、常にリスペクトフル(敬意)を表します。クラスメートと強い絆を築き、誰とでも協力して仕事をすることができる。いつも自分の回り仲間を幸福にしようとしている。いつも人々を笑わせる能力をすべての努力に適用し、そうする機会が与えられたとき自信を持って実行する。 遊び場で競争力があり、速く競争し、いろんな人々と公正に遊ぶことが大好きです。彼はすべてのタスク、特に私たちがフィットを保とうとし、クラスで踊りみんなにやる気を起こさせる熱意を持っています。 創造的で想像力豊かな個性を使い、ライティングにハードワークし、楽しい新しいアイデアや視点を生み出してきました。彼は自信を持ったチームプレーヤーで、いつも新しいことに最初に挑戦することに喜んでいます。将来自分の本当の幸福のために全てに注ぎ込むことは、何をしようとも素晴らしいと確信しています。サンキューRyo、いつも私達を笑わせてくれ、ハッピーでいさせてくれた。Ryoが3年生になり、繁栄成長し続けることを願っています。」
最後に、担任教師さんの名前とサインが書かれていました。日付は、「Date:16.06.20」。6/20が学年末なのか早いなと思ったので調べたら、学年末から2〜3週間前に生徒に配られるそうです。今年はまだ登校できていないので、ワードファイルで親に送られたのかもしれません。
初孫の初めての学業成績表をじっくり読み、りょうくんの頑張りに感動してしまいました。幸い息子たちは小学校の時から学業成績で悩むことはありませんでしたが、オール5とこれほど成績が良いことはありませんでした。主要教科とスポーツは良い成績でしたが、芸術系とかイマイチな部分もありました。ところがりょうくんはオール5です。中3までオール5だった家内のようです。家内に、「隔世遺伝だね」と言うと、「大器晩成の方がいいのよ」と謙遜していましたが、ニコニコしていました。
まあ、僕が小学校時代の評価とは基準が違うのかも知れません、僕らの頃はクラス内の相対評価で、トップ5が5、次が4・・・と成績順に評価されます。でも絶対評価なら、この学年でクリアすべき学力の平均が3で、それ以上がgood4評価、更に上がOutstanding5なら、多くのOutstandingがいれかもしれません。
これまでも、学芸会で主役を演じたり、性格面で表彰されたりしていたので、それなりによくやっていると想像していました。成績が良いに越したことはありませんが、僕が最も大事だと思っているのが、人と上手に付き合えること。
今回の成績表には、先生のコメントが多く書かれ良くわかりました。最後の「態度と行動」のコメントを読みながら涙が出そうになりました。「Ryo has been a joy to have in my class. He is fun, creative, enthusiastic and always respectful.・・・」の書き出しで、先生がりょうくんをどう見ているのか一目瞭然です。
行動力、回りをハッピーにさせる人を巻き込む力や笑わせる力、これはここまで生み育ててきたお嫁さんの環境を作る力に負うところが多いです。そんな家庭を収入面で支えてきた長男も、親として100点満点が付けられたようなもの。ありがたいです。
僕ら夫婦は、我が子を一度も叱らず、失敗した時も子を責めず、後処理のために家長である私が頭を下げに行きました。結婚式での最後の長男挨拶では、「多く失敗し迷惑を掛けてきたが、一度も親に叱られたことがない」と言い出しました。「これからも今まで通り、見守ってください」と言われた。
息子たち2人共、温和な家庭で育ったお嬢さんと縁を持ち、家庭を築いています。孫たちもみな、笑顔が絶えず楽しそうに育っています。ハッピーの多い家庭で育つと、ハッピーのおすそ分けを周りに出来る人になると思っています。りょうくんが褒められたことは、お嫁さんが褒められていること。嬉しいな〜。また1年後の成績表を楽しみにします。イギリスは小1に上がるのが日本やアメリカより1年早いので、9月から次男こうちゃんも1年生になります。来年は2人の成績表が見れそうです。

家族LINEで、長男お嫁さんに返信しました。
「遼くんの成績表、ありがとう。
凄い成績で驚きました。
私達世代の成績表なら、オール5じゃないか・・・
各教科それぞれに書かれた先生のコメントを読みながら、涙が出てきました。
Ryo has been a joy to have in my class. He is fun, creative,enthusiastic and always respectful.
これって最高の褒め言葉だよね。
りょうくんが主語だから、いつも周りの人にリスペクトの心を持って接しているということだよね。
以前聞いた「りょうくんは他の学年の女の子からもモテる」に繋がっているんだなと思いました。
3才から多民族の中で育ったので、りょうくんにとっては普通なんだろうけど、日本国内しか知らない私には、学業成績はともかく、肌の色や母国語の異なる人が集まる環境の中で、皆の先頭に立って課題に取り組み、お友達を励まし、クラスをポジティブな方向に導ける姿に大きな将来性を感じます。
しかも、笑いや楽しさをもってそう出来るんだから、言葉選びや態度も好感を持ってもらえるのでしょう。
・・くん(長男)、良かったね〜
そして・・・さん(お嫁さん)、りょくくんはじめ子どもたちに、この成績表のように接してきた故の結果。
子どもたちに楽しい生活環境を提供できているから・・・
あらためて、・・・さん(お嫁さん)凄いな〜と共に、ありがとうね。
りょうくん、good job!」


2020/6/21
家内と久しぶりのサイクリングに出ました。最初、京都府内の山陰線駅を利用して輪行サイクリングを計画したのですが、「電車は〜」と家内が難色を示したので、千丈寺湖周遊することにしました。
7:30頃、車に自転車を2台積み込み開始。車の2・3列目座席を前方に移動し、自転車を入れるスペースを確保します。フロントタイヤを外し、自転車本体をリアゲートから入れてシートで固定しました。
8:30出発。コンビニで、飲み物と補給食としてパンを買いました。長尾山トンネルを抜け、r325〜r33〜r68〜r49で北上し、枝道に逸れ千丈寺湖湖畔を走り適当なPに車を入れます。千丈寺湖はのお客さんが多く、岸釣りの方・バスボートを出して沖釣りの方、楽しそうです。
自転車を出して、フロントタイヤを組み立てます。僕が随分前にプレゼントしたピンクのサイクリングウエアとタイツ&ミニスカートの家内は可愛くてナイスです。千丈寺湖はL字形したダム湖で、湖畔の道が周遊しています。舗装されていますが、散歩道程度で広くはなく、サイクリングには最適です。以前に一度ここを一周したことがあります。
いざ出発!ほぼ平坦な湖畔道路を12〜15km/hで走ります。千丈寺湖の北岸を西に走り、僕が写真を撮るために止まると家内が抜いて前を走り、僕が追いついて細いウエストラインを眺めながらついていき、交差点前になると僕が前に出ての繰り返しです。
ダムに続く湖を渡る橋から、湖の東岸を北に進路を変え、8:53「末東公会堂」横の「天満神社」で休憩します。僕は趣味の謂れ板読みです。
『天満神社(末東) 鎮座地:末(末東)字庵ノ谷369番地 祭神:菅原道真由緒:天満神社は京都北野天満宮より分霊を勧請し、創建されたと伝える。末東と末西の2つの天満神社は、今はダム湖水で隔てられているが、秋祭(10月17日)には、時を合わせて神事を行い、曰の丸扇でお互いに招き合うという行事がある。また、当日は「ホーホー踊り」と称する芸能(田楽)獅子神楽がある。旱天続きの年には、末西・天満神社の神輿とともに加茂にある加茂(天満)神社まで神幸すれば必ず降雨があるところから「請雨天神」と呼ばれている。万延2年(1861)に寄進された石造狛犬は、この種の狛犬としては異形で、垂れ耳・丸目に四角い顔・体毛尾紋共に浅い掘り込みで秀作とは言えないが、猿に似て、見ていて飽きのこないユーモラスな狛犬である。
祭日:秋祭10月17日 ホーホー踊り 三田市観光協会・末東区』
狛犬を見ると、犬なら目は顔の横にあるはずなのに、人間のように顔の正面についている。首から下は犬だけど、顔は猿でした。
9:24「下青野公園」。トイレ休憩です。テニスコートが10面ほどあり、ほぼ全部プレイされていました。横の青野川沿いに芝生の広がる公園がありました。木陰があり、ベンチがあり、テントを設営されている方が数組ありました。地面直はダメですがバーベキューもOKで、家族で来たら楽しそうです。青野川で水遊びできたら100点満点ですが、ダム湖沿いなのでそれは無理そう。木陰のベンチに座り、家内とお喋りしました。
ここで青野川を西に渡り、ダム湖西岸沿いの小径を南下しました。10:24「青野ダム」の建物内で休憩しようと思いましたが、日曜日で閉まっていました。気温は29℃になっており、風の通る木陰が気持ちが良い。ウグイス・ホトトギスはじめ、多くの野鳥のさえずりがBGMです。
ここから南岸沿いを東に進路を変え、10:40、ベンチのある東屋で休憩します。湖の対岸は車の置いた駐車場です。ここまで湖畔の道には、ちょこちょこ多くの小ぶりな駐車場や休憩所があり、釣りの方が池の淵まで下りて楽しんでおられます。
更に湖の南岸を東に走ります。この道の南側に、芝生やオブジェが見えます。その「大芝生公園」の駐車場がありました。その南は「有馬富士公園」です。続いているのかな?有馬富士は、円すいの形をした秀麗な里山で、有馬富士公園駐車場に車を置いて、家内と山頂まで登ったことがあります。有馬富士公園はとても広く、山・池・ビオトープ、これらを巡る遊歩道、思いっきり遊べる芝生エリア、施設・・・幼児・小学生のいる家族なら1日中遊べます。
ダム湖の東の端を北に移動し、ここから西向きに進路を変えます。ここに「玉皇山弥勒寺」というお寺があります。一山全部がこの新興宗教の敷地のようで、金色のどう見ても布袋さんの大仏があちこちに見えます。奈良東大寺の大仏も最初は金箔で黄金に光っていたそうですが、金色に光る大仏は現代の日本では違和感があります。帰宅後調べたら、台湾?大陸?から来た宗教法人みたい。
11:19、飯盛山の麓にある別荘地エリアに入り、「LA・BO・RA TORIO Desincraft&Cafe 三田市小野1471-6010〜16時水木休み」。カフェの看板がありました。地道の先にお店があるので、数台停めることが出来る湖岸道沿いの駐車場に、自転車を停めました。お店から、「こちらまで来られても良いですよ」と声を掛けられました。山の斜面を利用した小ぢんまりしたカフェで、メニューは飲み物のみです。僕はジュース、家内はミルクコーヒー。
オーナーである奥様とお喋りしました。リタイヤ後に住もうとこの地を購入されたそうですが、斜面なので広い家を建てるには費用が掛かるので、車で数分の所に住みながら、お店に通っておられるようです。店内にも木工細工や針金細工の作品が所狭く並んでいます。自転車を停めている時声を掛けてくださったので、「ご主人が作られているのですか?」と聞くとビンゴ!細工物だけではなく、お店のメイン建物以外は、みな旦那さんと奥様で手作りされたようです。
僕らが座った席はベランダで、ここも手作りだそうです。庭にはいろんな木工細工が使われ、小綺麗で可愛い佇まいになっています。ベランダから見える湖畔道を時折、自転車やバイク・車が通ります。この道は気持ち良く走れるので、バイクではよく通る道です。ああ、気持ちが良い。
たくさんお喋りをして御暇します。「良かったら他も観ていって」と誘われたので、1階下に降ります。ここにも更にもう1階下にもいろんな作品が並んでいました。作業中のご主人ともお喋りしました。注文を受けて出来たばかりのドーム屋根の犬小屋が素敵でした。木造の二重屋根になっており、直射日光を受けても、室内はそれほど暑くないそうです。庭には、柚子・金柑・かぼちゃが植えられており、ゆりが黄色い花を咲かせています。旦那さんが趣味をいろいろ作っている側で、奥様が手伝いながら、「カフェでも開こうか?」というノリでやっておられる雰囲気です。
自転車に戻り、走り出すとすぐに車の停めた駐車場でした。自転車を片付け、車に乗りました。カフェで昼食を取れなかったので、r308に出て、12:48「中華そば・わらべ」で、「中華そば680円+冷っこそば和風ダレ700円=1380円」を食べました。家内の出身の播州風中華そばだそうです。以前、家内と寄ったことのあるカフェが閉店し、新しくこのお店が開店しました。
再び千丈寺湖湖畔のカフェの前を通り、別荘地内を通過して「小野公園」へ。カフェで教えてもらった「クロモリバイク工房エコー」が、r49を渡った所にありました。洒落た外観を想像していましたが、古民家でした。看板も控えめで、周囲の雰囲気に影響を及ぼさないようにしていました。「小野」は、歴史の長い地で、天智天皇が御幸した時、地元の豪家に泊まり、御伽の末お子を授け、その証明の為に刀を与えました。その子が成長し、歴史には残っていないが、地元「小野」に伝わる物語です。
帰宅の途に着いていると、「お墓近い?お墓参りしない?」と家内の声に賛同し、r49〜r323〜r319〜r12で、我が家のお墓に参りました。お花を飾り、草を掃除し、r12〜r319〜r33〜r325で長尾山トンネルを抜け、宝塚市山手台の「阪急オアシス」へ。お買い物して帰宅しました。

2020/6/17
週末雨で出かけられなかったので、ツーリングに出ることにしました。倉庫から「里山VTR250」を出し、5:28出発。r13に出て、5:37「伊丹産業セルフ川西SS」で給油。198km/5.73L=34.6km/L。川西池田からR173で北上します。ロードサイドの気温は16℃でした。
「安田交差点」でR372を渡り、6:33「梅田大明神」。境内に禊池がありました。山あいの細い川筋に沿って拓かれた田園にある小さなお宮なのに、手水舎ではなく禊池があるのに驚きました。禊をする為に小さな池に下る階段があり、白衣を着て禊をする方々の姿が目に映るようでした。
覆屋で守られた本殿の彫刻が素晴らしく、蟇股の龍は針金ヒゲで中川一統作画想像された。木鼻の獅子・象を含め玉眼が入っています。唐破風に下がる懸魚は鳳凰のようですが、その上に髭を生やしたジャックスパロー?がいました。組物の龍が長く素晴らしかった。
覆屋をぐるりと巡ると、社殿裏の里山に大岩が現れていました。かつては川の流れが山肌を削り大岩を現し削っていたのでしょうか?磐座信仰を感じました。
『梅田神社(うめだじんじゃ) 所在地:兵庫県丹波篠山市小原6 御祭神:梅田大神(うめだのおおかみ) 
創建等の由緒は不明。通称は梅田大明神。現在の福知山市三和町菟原下にある梅田神社の分霊を祀ると伝わります。古代の豪族・細見氏が統治していた地で、梅田7社の1社と言われています。細見氏は紀貫之(藤原氏)を祖とし、梅田大神は春日神である天児屋根(あめのこやね)命と思われます。旧社格は村社。
本殿の彫刻は見事です。また本殿背後には大きな磐座もあり、国道縁の神社とは思えない神域です。境内には文化13年(1816)と彫られた石灯籠がありました。
由緒等の案内板は無し』
R173を北上します。「道の駅・瑞穂の里さらびき」手前で右折し、枝道に入ります。東に峠を越え、T字路に突き当り、左折して更に北東へ。京都縦貫道の下をくぐり、左折してr444で西へ。
7:12「二ノ宮神社八幡宮」。ここも本殿は覆屋で守られていました。覆屋内部に絵馬が下がっています。他でも下がっている絵馬の他に、木槌など道具の立体絵馬が下がっています。これは珍しい。道具を供養する由縁がこの神社にはあるのかな?蟇股の龍の彫刻が素晴らしい。鹿や小鳥の彫刻も立体的で良いです。覆屋の屋根は銅板葺きですが、その中は茅葺屋根でした。
バイクに戻り、r444〜R9で東へ。「九手神社」で左折し枝道に入り谷あいを北上します。
7:36「子安権現不動尊」。P横に「曹洞宗新宮寺」があり、谷を登って行くと「子安権現」があるようです。
『水子供養地蔵尊 この世に生まれるべきでありながら、生を受けることなく葬り去られた水子や、誕生後日浅くして世を去ったみどり子の菩提を念じてこの水子供養地蔵尊を建立しました』
『災難に遭う時節には、災難に遭うがよく候 良寛禅師』
『弁財天・江戸初期創建 河の神土地豊穣の農業神として、後には智慧言語音楽の神、更に福徳の神として尊ばれた』
『大日堂 大日如来(室町時代造像):真言密教の中心となる仏様で、その智慧の光明は宇宙絶対最高のものと言われます。 弘法大師(明治初期造像):空海(774〜836)と言われる平安時代の高僧で、中国から密教を伝えた真言宗の開山』
苔の生えた長い石段を上がり境内へ。
『不動堂 不動明王(藤原時代):煩悩や悪の心をしりぞけ、一切の災難・不幸を取り払う強くたくましい神として崇拝されます。 四天明王(室町時代):不動尊のまわり、東に降三世明王、西に大威徳明王、南に軍茶利明王、北に金剛夜叉明王と配されています。 破損仏(弘仁〜藤原時代):原形を留めないまでに朽損した諸仏、菩薩、諸天等15体が両側に安置してあります。 木製五輪塔(鎌倉時代):全国でも珍しいといわれる木の五輪塔です。上から空・風・火・水・地を表しています』
不動堂は入れず、外から見ることも出来なかった。残念。
『京都府指定文化財(彫刻)木造不動明王坐像1体(平成2年4月17日指定) 京都府登録文化財(彫刻)木造熊野十二所権現本地仏像12体(平成2年4月17日指定) 丹波町指定文化財(建造物)権現堂1棟(平成2年4月16日指定) 丹波町指定文化財(書籍)紺紙金字法華経7巻(平成2年4月16日指定)
由来:子安新宮権現は寛治4年、熊野参寵中、夢のお告げによって白河法皇がここ紅の地に創建されたと伝えられている。その時には、伝教大師御作といわれる多くの尊像が伽藍に祀られ法華経も奉納され、以来安産を守護して来た。
しかし、長い年月の間には南北朝時代の寺領押収などがあり、社塔はすっかり壊れてしまった。 現在の社殿は元禄5年、新宮道意という人が中心で再建の大事業が完成した。 その後300年補修も折々に行なおれ、最近では昭和45年に全尊像の奉修が、また平成5年には創建900年記念で、全建物の修復が完了した。
所有者:新宮寺 所在地:丹波町字豊田』
『子安新宮大権現 阿弥陀堂 
阿弥陀如来 愛染明王・虚空蔵菩薩・地蔵菩薩・聖観音・千手観音・十一面観音・薬師如来・釈迦如来・如意輪観音・毘沙門天・竜樹菩薩
藤原時代に造像された榧材一本造の仏像で、安産の守護神として代々尊崇されてきました。
権現様は、神仏一体でここには12体の仏様が、右のように祀られています』
『子安新宮権現御詠歌 安らけく生れ育つを願いおく、慈悲の新宮大権現』
階段を下り、7:53「新宮寺」。
R9に戻り、東進。左折してr446。8:03「子守神社」。『京都府指定文化財 絵図・板絵著色神馬図・一面 指定・平成元年4月14日 所有者・子守神社 所在地・丹波町字富田 丹波町教育委員会』
境内中央に絵馬殿があり、色んな種類の絵馬が下がっていた。拝殿の彫刻は素晴らしかった。
バイクでR27に出て、北上します。枝道に逸れ、「大福光寺」へ向かいます。8:27「丹波広域基幹林道」西の起点に着きました。「渡辺氏住宅」「大福光寺」を訪問した時見つけましたが、フェンスが施錠されており入れませんでした。今回はどうかな?と見に来ましたが、同じく施錠されており、林道関係者以外は入れなさそうです。残念。
R27に戻り、由良川沿いに、綾部方面に北上します。8:32「ローソン京丹波升谷店」で、「サントリーボストロケルカフェオレ500ml162円+バナナ4本266円+亀田ハッピーターン192円=620円」購入。
すぐ右折し、r12。左折してr51。8:46「下粟野河上三所神社」。
『当社は、和知地区に四柱ある河上三所神社の1社で、当社に現存する最古の棟札により、永徳3年(1383)に創建されたと推知され、古くは河上三所神社大明神と称しました。
本社の祭神は、伊諾那岐尊・伊談那冊尊・国常立尊の三神とし、末社は、広峰神社に広峰大神、大神宮に天照大御神、稲荷神社に宇賀魂命、愛宕神社に火産霊命を祭神としています。
和知町誌には、近代の初めまで御田植式が行なわれたが現在は廃れたと記されています。また、昭和30年代中ごろまでは、秋の大祭に稚児流鏑馬の儀式が行なわれていましたが、儀式に使う馬の手配が難しくなり現在は行われていません。
祭神は、年に大小9回執り行われ、秋の大祭の宵宮祭には年番氏子有志が園芸などを奉納、大祭には神楽と呼ばれる獅子舞が奉納され、神輿巡行の最後には太鼓を疫病や悪霊に見立て、逃げる太鼓を神輿が追いかけるという「五穀豊穣・無病息災」を祈願した儀式は勇壮で、永く伝承されています。
祭事:祈念祭2月上旬 節句祭4月上旬 根付祈願祭5月下旬 夏祭7月下旬 二百十日祈願祭210日前後 宵宮祭10月上旬(秋大祭の前日) 秋大祭10月上旬 新嘗祭11月中旬 年越し12月31日』
覆屋に守られた本殿でした。覆屋内には木槌の絵馬が10ほど掲げられていた。他の絵馬もいろいろ。本殿には、細かくはないが色んな種類の彫刻が施されていた。スズメバチの巣が屋根に下がっていた。
少し歩き、8:57隣の「明隆寺」。自由に出入りできる茅葺屋根のお堂で、銅板葺きされていた。堂内の格子から覗くと、60年に1度開帳の秘仏が安置されているであろう厨子があり、厨子の横には彩色の施された天像が数体並んでいた。
『明隆寺観音堂(みょうりゅうじかんのんどう) 所在地:京都府船井郡京丹波町下粟野 ご本尊:木造観音菩薩立像
観音堂は阿上三所神社境内の隣、神社よりまだ高台に建っています。室町時代後期以前の建造物で、年代の判明している村堂としては丹波地方最大で、全国的にも最古の建造物の一つなのだそうです。本尊の観音菩薩は秘仏として60年に1度だけ一般開帳されています。
観音堂は一般には大御堂の名で知られ、寿命山明隆寺と称されます。本尊の観音菩薩は聖徳太子が自刻した30余体の観音菩薩のうち、丹波に安置された1体であり、この像を祀る霊場として当寺が開創されたと伝わります。その後衰退し、文明年間(1469-87)に再興されるも再び荒廃。天文8年(1539)に修行僧の賀蔵主によって、細谷から現在地に移されて再興されました。その後は地元住民と当地の地蔵院によって護持されてきました。観音堂は桁行5間、梁行5間、自然礎石・寄棟造り鉄板葺きで、性格としては辻堂のようなものだったようです。
文化財 国指定重要文化財・観音堂附棟礼4枚(建造物) 町指定文化財・観音菩薩立像(美術工芸品)』
更にr51を奥に進み、9:23「河上三所神社」。横を流れる「上和知川」の水がとても綺麗です。急な石段を上がって境内へ。本殿は覆屋に守られていました。覆屋には裏から鉄骨で補強されている。本殿の彫刻が素晴らしかった。蟇股や木鼻の彫刻には玉眼が入っていた。
更にr51を奥に進み、9:46「仏主日円寺」。期待しながら階段を上がって境内に上がるが、お堂は真新しい建物で、しかも仏教のお堂らしくなかった。境内にイチョウの巨木があった。乳が多数枝から垂れていた。育児・母乳・出産などのご利益が付きそうだが、謂れ板はありませんでした。目の前の沢・上和知川では、おじさんが釣りをしています。アマゴでしょうか。
r51を更に奥に進みます。すぐに沢沿いの道は砂利道になりました。そこに橋があり、右折して沢を渡り長老ヶ岳への登山道もあります。
『仏主・長老ヶ岳
ここ仏主(ほどす)は、全国的にも珍しい地名であり、地域の古文書によれば、薬師如来により「仏ノ主」と名付けられたとされています。 また、「長老さん」の愛称で地元から親しまれている長老ヶ岳は、標高917mの非火山性孤峰であり、山頂からは日本海や丹波高原の峰々を見渡すことができます。また、かつては山頂に密教の寺院が100寺ほどあったといわれています。蛙岩の上に座っていた「蛙仙人」から長老ヶ岳を譲り受けた円能法師が飛鳥時代に開山したとされ、山岳信仰と仏教が結びついた修験道の聖地となっていました。 山腹にはホンシャクナゲやイワカガミなど希少な植物が残っているほか、地形学上も重要な地域となっています』
『スズメバチ注意 「七色の木」周辺でスズメバチの目撃情報(2020.5.28)がありました。近くに巣がある可能性がありますので十分注意して頂ますようお願いいたします。 京丹波町和知支所 0771-84-0200』
橋を渡り、別の沢沿いに山に入っていきます。1台のワゴン車が、舗装路の路上への落石を片付けながら、ゆっくり走っていた。後続のバイクに気づき、ワゴン車が避けてくれたので、抜いて山を登って行きます。10:08「林道ゲート」で、これ以上登れなくなりました。仕方なく、下ります。
r51〜r12で、R27出合手前で右折し、由良川・R27と並行して北に走ります。道なりにR27との交差点に出て、そのままR27を渡りr59「JR和知駅」方面へ。「河上三所神社」鳥居下にバイクを置きます。
10:36「イボ水宮」。『イボ水宮(みずさん) このイボ水宮は、イボに効くことから「イボ水さん」と呼ばれ親しまれている。 このイボ水さんの根拠は定かでない。ただ昔からこの神水をイボにつけると、そのイボがなくなると言われ、そのイボがなくなれば、お礼として柄杓を奉納することとなっている。今でも多くのヒシャクが納められており、その効き目は確かな所、また、この水がラジューム泉を含んでいることがその効き目かもしれない。
どんな薬を使っても治らなかったイボが、この神水で治ったという東京の人、地元の人々だけでなく、遠くからありがたい神水を頂きに来られる人は後をたたない』
神水を汲む蓋を上げると、流れのない淀んだ怪しい水があった。
10:41「河上三所神社」。長い階段を登って境内へ。絵馬殿には、多くの絵馬が下がっていました。ブルーシートを被せたお神輿が置かれていました。神輿庫がないようで、ここに通年で置かれている風です。本殿は覆屋で保護され、彫刻はナイスでした。バイクに戻る時、石段ではなく車道を降ると、閼伽井がありました。こちらの水はどうかな?と覗くと、こちらの水は綺麗でした。湧水なのでしょうか?
r59で由良川沿いを走り、R27に合流し、11:24、R173との出合近くの「羅漢山宝住寺」。『羅渓山宝住寺の由緒 当山はかつて当地にあった井上寺がかんしょうで光秀の丹波平定のころ教山至道禅師寂年の永正15年(1518)を開創とし、釈迦如来を本尊とする。綾部藩主・九鬼氏菩提寺の末寺であったが、明治21年(1888)大本山妙心寺の直末となる。
堂宇は元禄12年(1699)火災で消失したが恒雲和尚が再営。さらに寛政2年(1790)観法和尚が再建立した。義海和尚は裏庭に十八羅漢を祀り大心字庭とし平成16年(2004)本堂等再建の平成大改築を行った。薬師堂の薬師如来(綾部市重文)はきゅうり封じ薬師大祭で知られる。弟子義方の代に駐車場を整備し山門を再建。景観を一新した。
観音堂は文政6年(1823)穆洲(ぼくしゅう)和尚が再建し恵心僧都作とされる聖観世音菩薩を祀る。向拝の龍の彫刻は徳川家康に重用された中井正清一統の権次正貞の作である。 天下安穏 万民和楽』
『綾部西国観音霊場御和讃 尋ね行く綾部に祀る観音は、慕いまいらす衆人の 心の丈を聴き給ふ 生まれ来し 人の命の尊さを 今ぞ詣でし涼しきに知る 南無大慈(だいず)南無大悲 観世音 義妙』
『法住寺観音堂・彫刻由来 法住寺は永正15年を開創とする古刹である。観音堂の正面虹梁にある躍動感溢れる龍の彫り物は関ケ原の合戦以後、徳川家康に大工頭として重用された橘朝臣中井大和守正清の6代、柏原の住人・中井権次正貞(1780〜1855)の作である。中井一統の彫り物のシンボル宝珠を中央に配し安定感を増し、木鼻にも迫力ある獏が彫られている。
当観音堂は当山9世で薩摩出身の穆洲(ぼくしゅう)和尚が、文政6年(1823)3月18日に再建した。眼病に霊験あらたかな観音様と伝えられていたが、長い星霜を経て朽ちていた、恵文和尚は再建を発願し、大工は福知山の今井小兵衛定永が、龍の彫刻は中井権次正貞が制作し、約半年で完成したと棟札に記されている。棟札の最後には、「観音堂の荘厳が完成した。皇風が永遠に盛んで諸人の福寿が増し、幾世にも栄えんことを」と結ばれている。
今般、念願の顕彰碑を建立出来たことに付き、有縁の芳志に深く感謝申し上げる。 合掌  令和元年(2019)成道の吉辰 羅漢山法住寺第17世義方昌俊 謹んで誌す』
『綾部西国観音霊場札所 聖観音 第3番法住寺』
R27を西に走り、左折してr8で由良川を渡り、右折してr77。右折して再び由良川を渡ります。
11:48「里宮高倉神社」。『里宮高倉神社由緒略記 この社は、人皇77代・後白河天皇の第2皇子・高倉宮以仁王(もちひとおう)がお祀りしてあります。 治承4年、源三位頼政は凶暴を極める平氏追討のため、以仁王を奉じて挙兵し治承の乱となりました。宇治の激戦において官軍に利あらず敗戦となり、頼政は平等院において戦死しました。宮は焦眉の危機を避け12名の武将とともに頼政の所領であった丹波国・吉美郷へ落ち延びて来られました。
時あたかも、田植の最中の6月9日、由良川の白瀬を渡り里へ辿り着かれた宮を迎え、里人たちは清水を汲んで来て宮の矢疵を洗い汗をぬぐい介護し奉るとともに、笛・太鼓を打ち鳴らして田楽踊りを踊りおもてなしをしました。宮も大変およろこびになり「イヤソー、イヤソー」と踊りをはやし立てられたといいます。 然し、十二士や里人たちの心からなる介護もむなしく矢疵は痛みを増し、御年30才であえなく他界されることになりました。
「あま雲のかかる位山晴れもせず、高嶺あらしに散るぞかなしき」の辞世があります。御遺体は里の宮地にねんごろに葬り、この地に霊廟を建てて祭祀されました。その後、養和元年(1181)9月9日、奥ノ谷ノ森、高峯(現在の高倉町)に社を建立してお遷しし、高倉天一大明神として奉斎されました。この里宮は宮の御最期の地であり、元宮でもあります。
江戸時代には、山家藩より奉行が立ち祭礼を出仕執行することを慣例としてきました。当日、御神輿は高倉よりこの里宮へ吉美地区の各社がお供して渡御になり、祭礼が行われ、宮前の桜並木の馬場で武者行事「流鏑馬」の神事もあり、また若者が腰太鼓・横笛・編竹の三種を用い、「ひやそ」と称する石田楽踊りを奉納して来ました。この「ひやそ」は宮の囃言葉で「イヤソー」から来ていると言われています。矢疵を洗い、お疲れを癒やしたと伝えられる清水は、社の東北約150mの所に、今も絶えること無く湧き出しております。
宮が矢疵の腹痛でお悩みの時、「私が天界に行ったなら、このような腹痛の苦しみを後世の万民が味わうことのないよう救い守護しよう」と仰せられました。以来、御神徳は四方に輝きわたり、はらいたの神様として、また世直しの神・五穀豊穣・安産・万病平癒の神として、霊験あらたかなるを伝え、崇敬を集めて来られました。 里宮高倉神社』
11:58「御手槻大明神」。ここも中川一統の彫刻で拝殿・本殿が飾られていた。大きく口を開けた龍は立派でした。あまりみられない月の彫刻があるのが珍しかった。
r77に戻り南下し、由良川を渡り、JR舞鶴線・JR山陰本線を渡り、右折してr8。12:13「了円寺」。南門から入り、境内を見学しながら東門へ。こちらが正門のようです。
『穢土(えど)1日の修業 人間の身の回りに起こることは、楽しい事より嫌なこと苦しいことが多いようです。今、世界中を震撼させている新型コロナウイルスは、恐ろしい出来事です。この艱難辛苦(かんなんしんく)の苦しみを皆が共にすることで、より強い忍耐が生まれ、この忍耐力は希望を生ずるのです。
「穢土1日の修業は深山の千日の修業に勝る」と教えにありますが、穢土とは人間が現実に住んでいる苦しみの現世であり、この苦しみの今は決して無意味ではなく、この出来事を辛抱強くがまんすることで、山奥にこもって千日修業するより尊い修業が1日で出来るというのです。1人1人が自覚を持って今の困難を乗り切りましょう』
本堂前に、紫陽花が綺麗に咲いています。龍の彫刻は見事で、舌までベロンと出ています。
12:27「浄光寺」。本堂の蟇股の龍の彫刻は、針金ヒゲでした。
「広小路通」〜「大本通」〜r709で、12:38「正暦寺」。『気をつけよう。自分が怒れば相手も怒る。自分が笑えば相手も笑う』
『京都府指定名勝・正暦寺庭園 京都府教育委員会 平成6年2月指定
正暦寺は天慶5年(942)空也上人によって開創されたと伝えられ、後に正暦の年号を寺号に授与された真言宗の古刹である。また秘仏聖観音像がご本尊で古くから広く尊崇を集めてきた。
当庭園は、第15世湛信上人が藩主の後援を得て天保年間に完成させた庫裡の西側に位置し、江戸時代中期に作庭された枯れ山水の名園である。 約159平方メートルの広さをもつ庭園内は、小高い築山のほぼ中央部に雌雄2つの枯れ滝を組んで全庭の重心とし、鶴島や出島・岩島さらに三尊石組、洞窟石組などを配石する優れた構成になっている。こうした構成の巧みさやチャート・硬砂岩等地元産の大振りの石を用いた石組の力強さと巧みさ、更に石一つひとつの据え方に高い技術が伺われる。 また背後の藤山を借景に取り込んだその姿は、府北部最優美の庭園、との評価に違わぬ美しい景観をみせている。
正暦寺の有する仏涅槃図(明治37年2月国指定)・千手観音立像(昭和45年3月市指定)と共に当庭園は親しく鑑賞するに値する貴重な文化遺産である。 平成6年7月 那智山・正暦寺』
境内から由良川が見える。左岸の高台に位置していました。京都北部一の庭園を観たかったが、何処にあるのか皆目わかりませんでした。『綾部西国観音霊場札所・聖観音・第1番正暦寺』。本堂の彫刻は複雑なものでした。針金ヒゲの龍に玉眼が入っており、龍が大きな口を開いている先に人の彫刻があり、こちらにも玉眼が入っていた。神社の脇障子に人の彫刻があるのはよく見かけますが、蟇股に人の彫刻があるのは珍しい。
バイクに戻り、帰路に着きます。R173に出て南下開始です。旧道に逸れて山の中の道を走り、再びR173に合流します。
13:40「道の駅瑞穂の里さらびき」でトイレ休憩。「イチゴリング133円+チョコリング133円+ミルクバー140円+ミニチュアカー1100円=1506円」購入。ミルクバーアイスで糖分補給します。
R173を南下し、枝道に入り、14:08「小原の大日堂」。
『県指定文化財 木造大日如来坐像 昭和62年3月24日指定
平安時代後期の作と考えられる寄木造の仏像で、内刳り(うちぐり)と漆箔(しっぽく)を施している。 像高97.5cm、面相はふっくらとおおらかで、ゆったりとした姿に安定感がある保存状態は良く、当時の中央で造られた作品の特徴を持っている。
市指定文化財・小原の大銀杏 昭和45年10月13日指定
小原大日堂の前にある雌雄一対の大銀杏である。高さ25m・目通周囲6.2m・推定樹齢250〜300年、樹勢なお盛んで見事な巨木である。 篠山市教育委員会』
R173を更に南下し、「安田」交差点を通過し、天王トンネルを抜け、枝道に入り、「カフェ・ツリーハウス」前を通過し、「はらがたわ峠」を越え下ります。峠には道を半分塞ぐバリケードがありましたが、通過します。以前より更に荒れています。ところが、14:36倒木でバイクでも通過できませんでした。仕方なく、戻ります。すぐに、スクーター2台のツーリングバイクがやって来たので、「この先、倒木で通れませんよ」と会話。再び「はらがたわ峠」を越え、R173まで戻ります。「はらがたわトンネル」を南に抜け、すぐ右折して枝道・旧道へ。R173に戻り、また枝道に外れたりしながら、R173を南下します。枝道で「大路次川」沿いを走り、15:02「一庫ダム」によって出来た「知明湖」によって水没した旧道トンネルが見えていたので激写。16:50、帰宅しました。


2020/6/7
前日土曜日のツーリングで撮ったムービーを記録したSDカードが壊れており、PCに取り込めませんでした。新しく購入したばかりのamazonオリジナル64Gがいきなり壊れていたようでショックです。柏原から帰路につこうと思った時に気づいたので、帰路しかムービーがありません。日曜日は家内と一緒に何処かに行く予定でしたが、「寝てるわ、何処かに行ってきていいよ」とお一人様になったので、土曜日のルートをトレースすることにしました。
倉庫から、「里山VTR250」を出し、4:42出発。4:48「出光セルフ宝塚176」で給油、196km/6.66L=29.4km/L。長尾山トンネルを抜け、r325〜r33〜r319〜r12で、西峠〜城東トンネルを抜け篠山側に下り、5:41「曽地中厄除八幡神社」。r12〜R372〜r304で、5:49「泉八幡神社」。
r304を北上し、6:05「二村神社」。真っ直ぐな長い石段を上がって境内に上がりました。拝殿を覗き、本殿の彫刻を見上げました。神社の正面は東を向いていますが、西から細い車道が上がってきていました。石段を下ると、石段の南に別の神社があった。そちらに行ってみましょう。狛犬のように牛の像が置かれていたので、菅原道真を祀る天満宮かもしれません。
バイクに戻り、枝道を篠山川土手まで北上し、土手道を西進し、篠山川を渡り、左折してr77で西進。R176を渡り、篠山川沿いを西に走ります。「川代トンネル」をくぐってすぐに、左折してr292。「JR福知山線」を渡りました。右には「丹波竜の里公園」があります。篠山川を渡り、6:33「木ノ中地蔵」「熊野神社」。
阿草川沿いを奥に入って行きます。7:30、途中の謂れ板「阿草の石仏」。更に奥に入ります。「獣避けフェンス」まで入り、ここでUターン。「丹波竜の里公園」横を通り、6:51「丹波竜発見場所」。横に「アイガモ水田」がありました。
『丹波竜発見地と周辺の観察
ここは丹波竜と呼ばれる恐竜の化石の発見地です。平成18年(2006)8月7日、足立きよしさんと村上茂さんの2人が生痕化石(巣穴やはい跡などの生活のあとの化石)を探していると、岩の表面から突き出た灰褐色の物体を発見しました。2人は、重要な化石ではないかと考えて一部分を掘り出しました。その後、掘り出した物体を兵庫県立人と自然の博物館に持っていったところ、恐竜の肋骨の化石だということが判明しました。
第1次発掘(2006年度)1月25日〜3月31日 第2次発掘(2007年度)11月20日〜3月30日 第3次発掘(2008年度)12月2日〜3月24日 第4次発掘(2009年度)12月8日〜3月25日 第5次発掘(2010年度)11月10日〜2月20日 第6次発掘(2011年度)12月11日〜1月15日
この化石の発見をきっかけとして、その後6回に渡る発掘が行われました。1回の発掘は、調査前後の工事も合わせて2〜3ヶ月もかかる大規模なもので、その結果、肋骨以外にも胴椎(胴の骨)・尾椎(尾の骨)・腸骨(腰の骨)など竜脚類(丹波竜)と思われる複数の骨が発見されました』
『旧上久下村営水力発電所跡地
当時、村一帯がランプ生活だった大正9年、上久下村になんとかして電気を引きたいと、村長・平藤徳蔵氏らが相談されて、水力発電を行なう協議が整い、発電用水は上滝下滝水利組合の灌漑用水を利用して導水することになり、この地に建設されました。大正9年12月に当時の予算約8万円で着工され、大正11年6月に竣工しましたが、総工事費10万9800円を費やしての完成となりました。配線整備が行なわれ、大正12年1月8日から本送電を開始しました。8ヵ集落は、山林の売却等により資金をつくり大変な苦労がありましたが、当時としては近隣にその比をみない施設の完成であり、村民の喜びは格別でありました。
しかし、昭和17年電気事業統合令により、昭和18年関西配電株式会社に統合され、始業以来わずか20年で、旧上久下村営水力発電所は閉鎖されました。その後関西電力株式会社に引き継がれ、昭和38年まで運転されてきましたが、電力需要の増大により、大規模な発電施設が整備されたので廃止になりました。
現在この川代峡谷に静かにとどめる姿は、まさに村民旬文明に取組みした歴史を物語っています』
『館内への入場は無料です。案内人がいますので、お気軽に声を掛けて下さい』
この発電所には数度訪問していますが、かつては自由に訪問見学出来ました。バイクに戻ると、遮断機が下がり、JRが通過しました。踏切を渡り、r77に出て右折してr292。獣避けフェンスで、Uターン。
7:05「説宗寺」。7:07「下滝駅」。r77をJR福知山線沿いに西に走り、道なりに踏切を渡ります。ちょうど遮断機が下り、先月乗った「特急こうのとり」が通過しました。「JR谷川駅」手前で左折し、7:24「春日神社」。
r86に出て、7:26「名可森神社」。本殿は覆屋に覆われています。7:33「天満宮」。r139に出て北上し、7:43「素盞嗚神社」。舗装路ではなくなったけど更に少し進み、7:46「薬師如来」。更に地道を奥に進み、民家を結ぶ舗装路に合流。「賀茂神社」前を通過し、未舗装路になったけど、「石龕寺(せきがんじ)」に向かうハイキング道を進みます。7:49、ロード用バイクではここまで。徒歩で森の中を進みます。7:52「金屋の十三塚」。
『国指定有形民俗文化財 金屋の十三塚
昭和61年3月指定 所有者:丹波市
金屋の十三塚は、石寵寺への金屋集落側からの参道である寺坂道に接して13基の塚が南北一列に築造されている。一辺2.1〜1.5m・高さ0.2〜0.6mほどの平面が方形の小さな列塚12基と、一辺3.7×3.8m・高さ0.9mとやや大きめの親塚1基とからなる。
この十三塚には、足利尊氏が京都から逃れる際に部下13人が追っ手に立ち向かい奮戦した後、自刃し果てたが、尊氏は無事石窟寺へ逃れることができたため、後に13人の部下の冥福を祈って塚を造ったという伝説が残る。
原形を良く保ち、他の十三塚と比較して塚の規模は小さいが、盛土でなく、積石塚であるのは珍しい。また、南から数えて8号塚には小さい一石五輪塔があり、様式から室町時代後半期のものとみられ、十三塚の築造の時期を推定できるものとして重要である。
かつて全国的に所在していた十三塚も土木工事等によって多くが破壊され、現在完存するものは十数ヶ所に過ぎない。築造理由や時期は不明な点も多いが、15世紀から16世紀にかけて成立展開した十三仏信仰との関連が想定されており、庶民信仰の様相を示すものとして貴重である。  平成22年3月 丹波市教育委員会』
ハイキング道から外れた森の中に、石が集められた低い塚がハイキング道に並行するように一列にほぼ等間隔で並んでいた。由緒のように足利尊氏が京から源氏の勢力圏である丹波路を逃れる時の将士の奮戦に応えるものとして積まれたものであるならば、すでに700年ほど経過している。塚の周囲は柵もありません。土足で踏むことさえ容易です。現実的には、大水で既存した時は都度信心する地元の方が修復されて今に至ると想像した。いずれにしても、足利尊氏の部下に対するこういう態度が人心を集めるのだろう。その歴史を語り継ぎ、その意思を後世に繋げようとする庶民の姿が見え、日本って良い国だな〜と思いました。
バイクに戻り南下し、篠山川・JR加古川線を南に渡り、r77〜r139で加古川沿いを南下します。「小苗群集墳」の案内板を見つけ、探しに走りましたが見つけられませんでした。r139に戻り、8:10「瀧尾神社」。JR加古川線の真横に有る神社でした。
バイクで「船町橋」を渡り、8:24「船町蛭子神社」。R175を北上します。8:37「ローソン丹波市山南町奥店」で、「助六寿司399円+サントリーボストロケルカフェオレ500ml162円=561円」購入。
8:47「天満神社」。更に奥まで走り、8:58「福田子安地蔵尊」。更に奥まで走り、舗装路が切れて、獣避けフェンス。「林道内山線起点・幅員3.6m・延長520m」と書かれていました。
戻ります。小さな峠を越え、R175を渡り、r109で加古川を渡り、左折してr532で、9:10「小野天満宮」。
『氷上町指定文化財・小野天満宮舞台(割拝殿わりはいでん)
昭和48年9月14日指定 所有者・管理者:小野区
この建物は、神社の割拝殿の変形された舞台で、最初は貞享3年(1686)に建てられ、猿楽を行ったが、江戸時代末期から農村歌舞伎の流行により、もっぱら浄瑠璃芝居(三味線にあわせて歌う語りもの)を演ずるために用いられ、今日のものは明治30年の再建のものである。中央の通路は上演の際は板を渡し、一部は追り台を仕掛けて天井からロクロで追り上げる仕組みとなっている。また、北側に楽屋および浄瑠璃棚が設けられている。当時の盛況をうかがえる貴重な建築物である。  平成4年3月 氷上町』
『市指定文化財 天満宮のモミ
昭和48年9月14日指定
所有者:小野自治会
小野天満神社境内北側の石垣にまたがって生え、目通り幹囲約5.30m、高さ約15.0m(元は約27.5m)で、幹の下部が一部分枯れているが、石を積んで保護されている。推定樹齢は約450年で数少ないモミの大木である。幹の上部は切られており、地上3〜4mの付近にはコブが生じている。下枝は地上10mのところに生じ、啄木鳥(きつつき)がつけた穴や巣が幹の中に巣をつくっているのがみられる。
平成25年3月 丹波市教育委員会』
舞台の中央を参道が通る構造です。舞台は絵馬殿を兼ねており、多数の絵馬が下がっていた。境内のモミの木は大木でしたが、途中で幹が折れており、「でかい」という感覚は少なかった。下部が大きくえぐれ、最下部は石で塞がれていた。補強されているというべきか?現在、樹木医がモルタル?で埋めるのと同じかな〜と思いました。拝殿左右に随身がおり、守護していた。拝殿・本殿の彫刻を楽しみました。龍には針金ヒゲだったので、中川一統作のようです。木鼻の龍が長く精巧でした。本殿の屋根にスズメバチの巣が下がっており、これから秋にかけて、活発に活動しそう。
r532を北上し、道なりにr109になってすぐ枝道に入り、「大歳神社」。獣避けフェンスが手前にあり、パスしました。r109に戻り北上します。枝道に入り9:35「大歳神社」。r109に戻り北上し、枝道に入り9:41「白山登山口」。9:45「鷲住寺」。9:46「伊尼神社」。お隣の「ヒメボタルの住む森」。
r109に戻り北上し、右折してr291で東進。9:54「味耜高(あじすきたか)神社」。どう読むのかわからなかった神社です。加古川防波堤横にあり、周囲は丹波に囲まれています。田植えの終わった稲が美しく、田んぼを覗くとおたまじゃくし・カブトエビ・ミズスマシがわんさかいます。背の高い本殿で、なかなか格好いい。境内に土俵があります。
『御祭神:味耜高神社・味耜高彦根神(大国主神の第1御子) 諏訪神社・建御名方富神(大国主神の御子)
御祭神・味耜高彦根神は、別名迦毛之大御神(かものおおみかみ)と仰せられ、復活・蘇生・病気平癒等に関し、御神徳灼かな神様であります。また建御名方富神は水を掌る神様で、農耕・日常生活に欠かせぬ水に関し御神徳が仰がれています。御鎮座の年月は不詳ですが、神社本庁登録簿によれば、迦毛之大御神をお祀りする神社は、全国に277社、県下に6社があり、その内、2社が、丹波国(丹波市本郷・篠山市西木ノ部)にあります。
この神様は弥生中期、大和(奈良県)の鴨の一族が守護神として斎き奉り、その後一族は広く全国に分布し、各地でこの神様をお祀りしました。その流れを汲むのが、本味耜高神社であります。
室町中期の文明18年(1486)及び、江戸初期の明暦元年(1655)と2度再建され、明治6年(1873)には村社に列せられました。明治33年(1900)には、無格社諏訪神社を合祀いたしました。此期より社殿及び拝殿の改築を企画し、境内を拡張、玉垣・連塀の増築等殆ど根本的な模様替えを行い、大正4年(1915)4月12日上棟、遷宮の式典が行われました。
氏子一同神への崇敬の念厚く、祭祀を尊重し子孫の繁栄を祈ってまいりましたが、平成16年(2004)秋、台風16・18号の烈風で罹災、鎮守の森及び拝殿や境内社は倒壊、玉垣・連塀等甚大な被害を受けけました。然しながら神社庁始め関係者・氏子一同の不断の努力により平成18年(2006)10月7日、本殿上屋並びに拝殿・境内末社及び神輿等立派に修復再建して、竣工の式典を挙行し今日に至っています。
境内社:秋葉神社・稲荷神社・荒神神社・金比羅神社・厳島神社』
東に走り、「北近畿豊岡道・氷上IC」からr7で南下し、山塊を南〜東〜北に迂回し、10:19「真宗大谷派・教王山・佛現寺」。10:34「日本一低い谷中中央分水界」&「いそ部神社」。
『日本一低い谷中中央分水界
ここは、日本列島の背骨にあたる中央分水界が通っているところです。 ここに落ちた雨つぶは、二方に分かれて、1つは瀬戸内太平洋)側へ、1つは日本海側へ流れて行きます。 水分れ公園奥向山の尾根が平地へおりたところから、だいたい高谷川右岸(北側)を通り、新町(行者山東端)まで、約1250mの間、海抜100m前後で分水界を形作っており、日本一低い分水界として、有名です。最も低いところは、新町交差とで標高95.45m、水分れ橋では、101.04mです』
『いそ部の神
剣爾山は、三角形の美しい形をしています。こういう山を昔の人は「神奈備(かんなび)山(神様の山)」と言いました。 山上近くにある大岩は、神様が天から下りてこられる拠り所と考えて、こういう岩を「磐座」(いわくら)と言いました。
その山の前に健てられたのが、いそ部神社です。 このあたりのご先祖、いそ部の民は、大きな岩をつかって、古墳を造ったり、たんぼを造ったり(後には条里制水田造りもした)する土木工事が得意な人たちでした。 その崎部の人達の祖先、奇日方命(くすひがたのみこと)をおまつりしたのがいそ部神社のはじまりは(和鋼3年、今から約1300年前頃)です。
後に、八幡宮を勧請(神様のおいでを願う)して、八幡さんとなりました。 なお、この八幡さんは、柏原の八幡さんより歴史が古く、昔から、このいそ部神社のお祭をして、その次の日に神様を、柏原の八幡様にお送りすることになっておりました。
その後、いそ部神社には、いろいろな神様をお招きして、たくさんの神様がおまつりされて、石生の人達の守り神さまとしてお祭りされております』
『氷上町指定文化財 いそ部神社本殿・春日社殿・熊野社殿
昭和48年9月14日指定 所有地・管理者:いそ部神社
延喜式内社奇日方命(くしひかたのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと)・神功皇后・比売大神を祀る。創立沿革は不詳であるが、社伝によると永禄年間(1558〜1570)再建、宝暦2年(1752)改修と伝えられる。 本殿・三間社流造・檜皮葺
向拝の面取角柱、高欄(こうらん)の木割・逆蓮頭(ぎゃくれんとう)、頭貫(かしらぬき)鼻・肘木鼻の絵様繰形(えようくりかた)、暮股、手狭の紋様等は古く、後補されているがなお多分に室町時代末期の様式を残している。 春日社・熊野社一問社見世棚様流造柿葺
向拝の面取角柱、虹梁の獏鼻・破風板・蟇股等に室町時代末期の様式を残している。  平成4年3月 氷上町』
『あと部の石清水
いそ部神社の「御祓橋」のそばに清水が湧き出ており、名付て石清水と言います。昔から干ばつ(長期に雨が降らず田畑など乾くこと)の時にも涸れることなく、今もこんこんと湧いています。
氏子は雨乞いをしたり、干ばつの時には石清水を升で測り、この水で命を長らえてきました。この恵みに報いるため、毎年7月に「万度(まんたん)まいり」というお祭りを行うようになりました。氏子が揃い、竹串を持ち、鳥居の前より社前に進み一本を涙じながら一万本に達したところで御神酒や神饌をいただきます。この水も同じいそ部の石清水ですが、生水での飲用はお控えください。
平成26年4月 生郷自治振興会 生郷元気な地域づくり実行委員会』
R176に出て南下し、枝道に逸れ、10:58「大歳神社」。山塊を背に森の中の神社で、静かな佇まいでした。R176に下り、柏原市街地に入り、11:11「厳島神社」。少し移動し「西楽寺」。
少し移動し、11:18「建勲神社」。柏原市街地は、江戸時代を通して、織田信長の弟から発する世襲が続き、歴史遺産の宝庫です。織田信長を祀る建勲神社があるのは当然です。
『建勲神社
柏原藩主織田家の先祖である織田信長を祀る神社で、全国には柏原と京都市、天童市の3社しかない。 その歴史は、元禄8年時の藩主が藩邸内に祠を建て信長を祀ったのが始まりである。 明治2年、朝廷より信長の勤皇敬神を追賞され建勲神社の神号を賜わり、翌年建勲神社に改められた。
柏原では、これを受け明治3年に初めて神式で信長をまつったが、社がなかったため陣屋内に仮神座を設け、祭礼が行われた。現在地に社が建てられたのは明治13年でこれ以降すべての人々が参拝できるようになった。
その後、長期にわたり歳月を経た本殿は老朽化と台風により壊滅的な被害を受け、昭和9年に改築された拝殿も火災により焼失し、早期復旧が迫られたが実施までには年月を要した。 平成17年工事に着工し、翌18年完成することができた』
少し走り、「柏原藩陣屋跡」。『県指定文化財・柏原藩主織田家旧邸長屋門 昭和37年7月16日指定 所有者・管理者:柏原町
柏原藩初代藩主織田信休(のぶやす)が、公邸の表御門として正徳4年(1714)に築いたもので、内部は向かって左側が畳敷きの番所、門扉を挾んで右側が板張りの馬見所と砲庫の三室に仕切られている。 桁行13間半・梁間2間を測り、桟瓦葺きの入母屋造と総体的に簡素な構造ではあるが、数少ない大名邸宅遺構の1つとして貴重である。  平成4年11月 兵庫県教育委員会』
『国指定史跡・柏原藩陣屋跡 昭和46年1月6日指定 所有者・管理者:柏原町柏原藩陣屋跡は、正徳4年(1714)に初代藩主・織田信休によって造営された柏原藩主織田氏の居館跡である。 造営当初の建物は文政元年(1818)の火災で焼失し、文政3年(1820)頃に再建されたものが現在する御殿である。
現在は表御殿の部分と長屋門が残るだけであるが、門から御殿玄関へと続く構えは全国的に類例が少なく、近世大名の居館を考えるうえでも貴重な遺構として国の史跡に指定されている』
中庭に、建物が建っていた名残がありました。
『国指定史跡・柏原藩陣屋跡 陣屋は、元禄8年(1695)に、大和国松山藩(奈良県宇陀市)から2万石で柏原に国替えとなった織田信長の次男・信雄の子孫にあたる信休が、正徳3年(1713)に造営に着手し、翌4年に完成した柏原藩の藩庁・屋敷で、明治4年(1871)まで存続しました。
当時の規模は、東西130m・南北158mで、現在の崇広小学校、兵庫県柏原総合庁舎の範囲にまで及び、御殿のほか庭園や土蔵・馬場・稲荷神社、幕末には藩校も設けられていました。 しかし、文政元年(1818)に火災がおき、長屋門など一部の建物を残し焼失しました。
現存する表御殿は、文政3年(1820)の再建時のもので、焼失をまぬがれた表御門にあたる長屋門とともに往時の姿を今に伝えています。 このように大名の陣屋で、建物が江戸時代と変わらず当時の場所に現存するのは、全国にもわずかしかなく、近世陣屋史上貴重な遺構として、昭和46年(1971)に国の史跡に指定されました』
『表御殿 右前方に見える建物は表御殿にあたり、玄関から北側を改築部を除き、文政3年(1820)再建時の姿が残っています。 表御殿は、藩主が藩士や来客と対面するなど公的な儀式の場として使用されていた所で、檜皮葺の唐破風と千鳥破風を持つ玄関が特徴となっています。
表御門(長屋門) 陣屋の正面にある表御門は、長屋門と呼ばれる形式のもので、正徳4年(1714)に築造され、陣屋内に残る唯一の創建当初の建造物です。
柏原藩陣屋跡整備事業 平成15〜23年にかけての、柏原藩陣屋跡整備事業において、表御殿の桟瓦葺替え工事、玄関屋根の檜皮葺替え工事、カイズカイブキ移植工事、環境整備工事等が実施され、「旧柏原藩織田邸平面図」を参考に、史跡地範囲内における建物範囲や間取りを、表面表示の工法で整備しました。また表御門(長屋門)に連続する塀を、広小路土塀を参考に整備しました』
『御用所 表面表示で整備されたこのあたりは、御用所と呼ばれ、藩士が藩政(柏原藩の政治)の執務を執り行う場でありました。 古絵図(旧柏原藩織田邸平面図)や明治時代の古写真によると、御用所は2階建てでしたが、大正3年(1914)に取り壊されました』
『カマド跡 平成20年度の発掘調査において、江戸時代の遺構と思われるカマド跡が検出されました。 カマド本体は壊れていましたが、カマドの基礎分の焼けた土がみつかりました。このカマド跡は、古絵図(旧柏原藩織田邸平面図)で描かれている御台所の土間部分に位置します。 現在は、遺構の上に盛土を行い、遺構の保護を図っています』
『石積井戸 崇広(そうこう)小学校の給食室を撤去した際に、給食室の下から、石積で築かれた井戸が見つかりました。 この石積井戸は、直径約0.8m・深さ約4.3mで、石積みの沈下を防止するための胴木が用いられていました。 石積井戸の位置は、古絵図(旧柏原藩織田邸平面図)に描かれている奥御台所にある井戸の位置とほぼ一致しますが、この石積井戸の築かれた年代については、明らかではありません。 また、この井戸枠は、旧柏原藩士の山室氏邸内より移設復元したものです』
11:32「新町八幡宮」。11:35「武内神社」。「獣避けフェンス」を開閉し、山側に入り、鳥居をくぐり、森の中の参道を緩く上がっていきます。
バイクに戻り、R176に出て南下し、11:54「円成禅寺」。R176を南下し、「新鐘ヶ坂トンネル」を抜け、篠山側へ。枝道に入り、10:10「本来寺」。谷のどん突きに有る小さな寺院で、墓地のエリアや周囲の集落から想像するとお墓も多くない菩提寺です。境内も大きくはないですが、彫刻は素晴らしかった。木鼻の獅子の上に笠のような板があり、珍しかった。
枝道を走り、12:21「味渕神社」。境内に土俵がありました。本殿に、兎などの彫刻が刻まれています。手挟みは花の彫刻が多いですが、花の中に雉子の彫刻が入っていました。彫刻に見どころの多い神社でした。
R176に戻り、少し南下し、枝道に逸れて、12:34「池尻大明神」。『池尻神社人形狂言は、池尻神社の祭礼で奉納される人形芝居で、語りと謡いに合わせて人形を操ります。人形浄瑠璃の古い形態を残す貴重な民俗芸能です。 子ども三番叟は追入神社の秋祭りに奉納されます。3人の子どもが面をつけずに一番叟・二番叟・三番叟まで舞い、続いて白い翁面と黒い翁面を着けた子ともが、天下泰平・家内安全など多くの願いが込められた舞を奉納します』
『市指定無形民俗文化財 池尻神社人形狂言
池尻神社の秋祭りの際に奉納される人形芝居であり、現在は10月第2日曜日に行われている。池尻神社の遷座百年を記念して、宝暦4年(1754)に奉納されたのが人形狂言のはじまりとされる。
演目は「神変応護桜」のみであり、宝暦3年に徳永村の庄屋であった中澤傅左衛門が台本を書いた。あらすじは神社に立ち寄った若者(八重垣)が、八岐大蛇の人身御供になりかかっていた娘(稲田姫)を助けるために八岐大蛇を退治するというものである。囃子は太鼓と拍子木のみで、地謡は浄瑠璃調・謡曲調・説教節調などが混在しているところが特徴である。
人形は5体あり、「じじ」と「ばば」は2人遣いで、「禰宜」「八重垣」「稲田姫」は3人遣いであるが、胴串の特徴などから1人遣いの系統と考えられ、古浄瑠璃の特徴を残している。なお、人形の頭は県の有形民俗文化財に指定されている。天保9年(1838)に狂言講が組織され、永らく人形狂言の伝承を担ってきたが、現在では池尻神社人形狂言保存会によって保存と継承が行われている。
指定年月日:昭和35年1月18日 篠山市教育委員会』
『中世荘園・大山荘ゆかりの地 殿垣内
現在の篠山市町ノ田、かつての池尻村に「殿垣内(とのがいち)」という地名が伝えられています。古文書や周辺の地名などから、殿垣内に大山荘の地頭・中沢氏の館があったと考えられています。
中沢氏の館に関連する地名として、土塁(土居)の存在が窺われる「ドイノウエ」や、中沢氏の菩提寺と同じ名前の「長安寺」などがあります。
中世の「東寺文言」の中に「池尻東殿」という人物が登場します。これは大山荘東部の池尻村に殿と呼ばれる有力者がいたことを示しています。また、別の時期の「東寺文書」には「地頭東殿」という記載があり、これらが地頭である中沢氏を指していると考えられます。
さらに、交通の面でもこの地は西京街道と大坂街道が交わる交通の要衝として重要な場所であり、中沢氏が館を構える場所としては絶好の場所だったのでしょう。中沢氏はここを拠点に東寺の持つ大山荘の支配権を徐々に奪い、新たな領主としての地盤を固めていったのでしょう。  篠山市教育委員会』
本殿の彫刻は素敵で、見どころが多かった。
帰路に着きます。R176に出て南下し、「JR新三田駅」からr570〜r68〜r33〜r325で長尾山トンネルを抜け、14:02帰宅しました。


2020/6/6
梅雨の季節になりました。毎年この季節が巡って来ますが、梅雨入りの時と7月に入って集中豪雨の話題がニュースに載る時期のみ雨が続くけど、「毎日しとしと」という梅雨の季語のような空模様が1ヶ月半も続くことはありません。僕の一番好きな季節は5月です。次に好きなのがこの6月です。新緑鮮やかな5月は去りつつありますが、5月より暖かくなり、でも蚊が猛威を奮うこともなく気持ちが良いです。
さあ、ツーリングに出ましょう。あいも変わらず、好きな寺社巡りです。丹波柏原の宮大工集団・中川権次一統の作品を楽しみに行きましょう。倉庫から「里山VTR250」を出し、5:16「出光セルフ宝塚171」で給油。178km/6.09L=29.2km/L。
長尾山トンネルを抜け、r325〜r33〜r319〜r12で「城東トンネル」を抜け篠山側に下ります。6:07「曽地中厄除八幡神社」。「兵庫丹波篠山エコラの森」の木柱が立っています。長い石段を上がっていきます。ホトトギスが鳴いています。今年もホトトギスの渡りの季節がやって来ました。ホトトギスは、高原や森を住処にしますが、大阪平野の北の端に位置する我が家でも今年鳴き声を聞きました。子供の頃稀にしか聞かなかったクマゼミが、メジャーだったアブラゼミを押しのけ、最近はむしろ優勢になったように、大自然もいろいろあるようです。
境内に上がると、絵馬殿にもう絵柄が見えなくなった絵馬が数枚下がっています。
『曽地中厄除八幡神社 祭神:八幡大神・武内宿禰命・春日大神 祭礼:1月18・19日
当神社の創建は、明智光秀の丹波攻めにより記録文書など焼失し、不詳であるが、おそらく平安中期より末期で京都の石清水八幡宮より分霊され、千年以上前であろうと思われる。 その後、社殿は再三改築され天保8年(1837)現在の社殿を造営する。
主祭神の武内宿禰命は、神功皇后をはじめ6代の皇室に仕え、その重任をはたされ御齢300才を重ねられたと伝えられている。 氏子の人々は、その御高徳を偲び、厄災を払い寿命の長く久しさを称え、「厄除」の2字を付けて、厄除八幡として崇敬している。
八幡大神(応神天皇)は、奈良時代には国の隆昌と民族の幸福を護られる神として、また仏教の発展を守護される神として、全国に祀られるようになる。後に、武士の守護神として厄除除難、産業文化の興隆を祈る神として信仰厚い神である。春日大神(天児屋根命)は、天照大神が天岩戸にこもられたとき、神楽や祝詞を奏じて大神をお迎えしたといわれる神で、奈良の春日大社より分霊をいただきお祀りされたのである。
当厄除八幡は、家内安全・厄除け・病気平癒を祈る神である』
拝殿は唐破風屋根で、いきなり素晴らしい彫刻が並んでいます。「うわぁすげ〜」なんて心の中で叫び、猛烈に激写していますが、誰もいません。そう、僕のような歴史好き・謂れ板読み・寺社好きは稀で、同業者を見かけることはまずありません。しかもバイクで巡る方なんて稀過ぎです。中川一統を見分ける1つ、蟇股の龍に針金ヒゲがありました。龍の顔に翼を持った鳥の彫刻がありました。兎なのに龍のような歯を持った彫刻もある。
バイクに戻り、r12からR372に出て、直ぐに右折してr304で、6:31「泉八幡神社」。境内には絵馬殿があり、『戦利兵器奉納ノ記 是レ明治37・8年役戦利品ノ1にして・・・ 明治40年3月 陸軍大臣寺内正毅』という絵馬が下がっていました。石段を上がり本殿に行くと、蟇股の龍に玉眼が入っていました。木鼻の獅子や象にも玉眼が入っていました。
バイクに戻る時、ふと南西を見ると、「高城山・八上城」の山頂城跡部が見えました。一見してすぐ「山城あるな」とわかります。北上し、道なりにr305。r301〜r140〜r77で、篠山川沿いを西に走ります。JR福知山線も走り、大好きな道です。右折し、JR福知山線を渡り「丹波竜の里公園」横を走り、篠山川を渡り、r292。
7:11「木ノ中地蔵」。『木ノ中地蔵 本尊「ほん羅陀山地蔵尊」略縁起によると、行基菩薩作。江州(滋賀県)木下の地蔵尊、但州(兵庫県)城崎木上の地蔵尊とともに、1本3体の地蔵尊。難産・苦痛・難病を救う。 昭和54年(1979)4月、825年御開帳 1981.12 阿草文化財管理委員会』
『地蔵堂 元禄8年(1695)建立 東林寺保存「慈眼山神宮寺本尊略縁起」によると、慈眼山焔魔堂として法道仙人が開基。文治3年(1187)焼失。寛永年間(1624〜1643年)に明覚上人が、神宮寺を中興。明治初年廃寺。寛永2年(1849)、安政3年(1856)修復。弥勒堂・十三堂・薬師堂(1678年延宝検地帳により、当時の除地願いで確認)の古い尊像を木の中地蔵とともに安置している。 1981.12 阿草文化財管理委員会』
道に面するオープンなお堂の中の格子の向こうに、様々な仏像が安置されていた。目の前は緩やかな傾斜を利用した水田が広がり、田植えを終えたばかりで緑が美しい。
横の石段を上がると、7:17「熊野神社」。山に続く鎮守の森に囲まれ、素敵な社殿があった。左右に狛犬が守護するのがデフォルトですが、ここは変わっています。ガラスケースに入ったリアルな犬?と言うより狼の木造が左右を守護しています。懸魚・蟇股の彫刻が良い。蟇股の上、屋根を支える部材にも彩色が残る稚児が踊る彫刻がなされ珍しい。これは蟇股や木鼻の彫刻とは材質?雰囲気が違い、違う年代の制作物かもしれない。脇障子の翁の彫刻も良かった。
何処まで続くのだろうと気になったので、沢沿いの谷筋道を山に入っていきます。7:30「阿草の石仏」という立て札が立っていました。
『阿草の石ぼとけ ひでりの年のこと。峠をこえて旅の坊さんたちが阿草にやってきました。五へいさんは、お茶といもを坊さんにすすめました。坊さんは喜んでお礼にと、「田に水がどっさりほしい」との五へいさんのねがいをかなえるため、石ぼとけをかついできて、「この仏さんの足さきをこすれば水がわき出ます」といって去りました。
五へいさんがこすると水が出て、五へいさんの田だけでなく近所の田も、阿草のすべての田が生きかえりました。それから阿草は水にこまりませんでした。ある年大水で石ぼとけは流されたそうです。 丹波のむかしばなし(第3集より)』
更に沢沿い道を登っていくと、田が消え、森に入り、獣避けゲートになりました。まだ舗装路が続いていましたが、獣避け扉開閉してまで探索する気はなく、Uターンしました。
r77に戻り、西進します。探索してみたいと思っていた地図では行き止まりの県道r292に右折して探索開始。沢左右に広がる田畑がだんだん狭くなり、谷を奥に進んでいくと、また獣避けフェンスで行き止まり。舗装路はまだ伸びていますが、この県道に入る時目に入った寺院を観に行きましょう。県道を戻り、7:49「臨済宗三会山説宗寺」。「丸に二つ引紋」が目に入りました。足利尊氏と同じ紋で、丹波篠山にも縁があります。「観応の擾乱」京を追われた時、篠山から篠山川沿いを西に逃げ、石龕寺(せきがんじ)に息子・義詮を隠した。そんな足利尊氏と縁の深い地にあるので、足利氏との縁を想像した。
『説宗寺(龍魂寺)のご案内 ようこそ当山へお詣り下さいました。当山はここ上滝の郷にあって古来、龍魂寺とも呼ばれていました。正しくは臨済宗妙心寺派・三会山説宗寺であり、地元の檀信徒の菩提寺で、開山から420年余になります。
この度、川代渓谷から恐竜の化石が発見・発掘され龍魂寺と呼ばれる由縁が一層明らかになりました。 平成17年3月、説宗寺薬師堂・位牌堂建立の時、百日紅(さるすべり)を記念植樹しようとして境内を掘り起こすと、龍の頭に似た岩石が出現しました。檀信徒は「龍神さんが現れた。近いうちに在所に祥事がおきる」と慶びました。今回の化石発見の前兆とも思われ信仰の対象として現在に至っています。
龍は仏法を護持する随獣として、寺院と龍は渾然一体であります。化石発見以来、恐竜の菩提寺としてその供養をしております。 今回の世界的驚異に巡り合われた善男善女の皆様方、万病を治癒するという「薬師瑠璃光如来」にお参りいただくと共に、14000万年前に当地に生存した恐竜の供養と龍神さんに是非ともお参り下さいますようご案内申し上げます。 合掌』
境内に、作り物の恐竜の尻尾が置いてあった。丹波市は丹波竜で町おこしをしています。発見場所などに大きな首長竜のモニュメントが置いてあります。現役を退いたその像の残骸でしょうか?
『龍魂石 平成17年3月のこと、薬師堂・位牌堂の落慶の記念として百日紅を植樹しようとして、この場所を掘り起こすと、龍の頭に似た龍神石が現れました。檀信徒は「竜神さんが現れた。近いうちに在所に祥事が起きる」と慶びました。川代渓谷の恐竜化石発見の前兆でした』
r77に戻り、8:04「下滝駅」。おトイレを拝借。男子トイレにツバメの巣が鋭意製作中でした。
r77を更に西進し、JR福知山線を渡って南側に出て、「JR谷川駅」手前の枝道に入り、8:14、長野公民館隣の「春日神社」。拝殿の蟇股の龍に針金ヒゲがありました。境内に、「高座神社遙拝所」がありました。訪問したことのある丹波市の高座神社を遥拝するようです。伊勢神宮ではなく、他の超有名な神社ではなく市内の高座神社で、びっくりしました。
バイクに戻り、8:23「素盞嗚神社」。石段を上がり境内に上がると、静かな良い感じの神社でした。この道は何処に繋がるのかな〜と進むと、舗装されていない地道になり、8:37「薬師如来」。こんな所に寺院?「上岡山・重文・薬師如来」の石柱が立っていました。地図に出ていないのに重文とは・・・スマホで調べて見ましたが、検索にも引っかかりません。石段を上がって境内に入ります。検索にヒットしない寺院なのに、意外に素敵です。鐘楼があったのでボーン。両親先祖への感謝の言葉を口にします。手水舎のタオルが綺麗でした。一見無住職寺院のようですが、地元の方が整えているようです。「国指定重要有形文化財・木造薬師如来坐像」の石柱が立っていました。
『縁起 仰当山薬師如来者行基菩薩之御作也。昔、人王45代聖武帝の御世に行基初めて扶桑順行し、御時直作之御本尊を自ら奉負此里の辻堂に来たり、一夜を宿り暫(しばし)眼(ま)どろみ給う内、不思議成かな。丑三つ頃、空中より紫雲天下り、光明赫々(かくかく)として、尊体顕曰(のたま)わく是より乾(いぬい)の方に当り、45丁去りて、古木蒼々生い茂り、俗に古林之尾と言ふ地有り。
如来此所に鎮座して、未世諸人を助けんとの御告げ成り。行基、夢覚め暁天に当山に登り此所に小堂を修復、御尊像を奉謝上岡山上岡寺と名づけ給いし御本尊なり。一度拝する輩は、眼病を助け、婦人は安産させんとの御請願なり。信心の輩は近ふ寄せて御拝あられませ』
本殿を覗くと、御本尊がおられるであろう厨子の左右に、小ぶりの十二神将像が並んでいました。
r77〜r139を経て、9:03「丹波市立丹波竜化石工房ちーたんの館」近くにある「天満宮」へ。石段を上がり境内に上がると、静かな良い感じの神社でした。r139で加古川沿いを南下し、「船町橋」で加古川を渡り、9:12「船町蛭子神社」。こちらの彫刻もナイスでした。
ここから、R175で北上します。9:11「ローソン丹波市山南町奥店」で、「伊藤園梅クール500ml151円+バナナ3本266円=417円」購入。「梅クール」という美味しそうな名前だったので購入しましたが、梅酒のジュースのイメージではなく、梅の酸っぱさが強くイマイチでした。ただカフェオレのような甘さはなく、飲み後は良かった。
R175を北上し、右折して枝道に入り、9:30「八幡宮」。周囲に車がたくさん停まっており、男女お年寄りが屯しています。「なんじゃ」と目の前を見ると、『いらっしゃいませ グランドゴルフ場 しあわせの里』と書かれたグランドゴルフ場の芝生が広がっていました。多くのお年寄りがゲームに興じて歓声を上げています。遠くからそちらを見ていると、管理人のおばさんに「何か御用ですか?」と聞かれました。「いえ、別に」と手を振ると、「カメラ禁止です」と強い口調で言われました。「なんじゃそりゃ、部外者は興味を持ったらあかんのか」とちょっとカチンとなりました。何でも、まずは興味を持つことから始まるのに・・・。プレイヤーをカメラで撮ってから文句を言えよ。
『市指定文化財・木造鳥居 昭和54年3月13日指定 所有者:八幡神社
この木造鳥居は高さ4.20m・柱の下部真々2.90mの稲荷鳥居で、島木の鼻は鉛直に截(き)り、笠木(かさぎ)の上に屋根をつくり、現在は銅板で葺いてある。向つで左柱の内側の貫(ぬき)との交点に用いられている楔(くさび)に、元禄13年(1700)の墨書があり、また柱は左右とも下部を石材に代えて補強している。その向って左の柱の石材後面には安永3年(1774)の修理銘があり、造立年代が明確な元禄時代の木造鳥居が現在まで保存されているのは貴重である。
左柱石材修理銘:安永3甲午○8月15日 現住快算代
楔墨書銘:元禄13年○○○覚  平成23年3月 丹波市教育委員会』
石段を上がって境内へ。拝殿の蟇股の龍に針金ヒゲがありました。本殿の彫刻も素晴らしかった。加えて摂社「若宮社」の彫刻も。その下に使われなくなった鬼瓦が多数置かれていた。口が大きく裂け、ギザギザの歯をむき出しにした化け猫?の彫刻が印象に残った。本殿に亀の彫刻があり、これも印象に残った。
枝道は何処に続くのか、更に奥に進みます。9:54「福田子安地蔵尊」がありました。
『福田子安地蔵尊・縁起 本像は福田子安地蔵尊と称し、文政5年(1822)からこの地に安置され厚い信仰を集め、まつり継がれて来ました。特に安産の守り地蔵としてお産に際しては、万難を避け健やかな子宝をお授け戴ける霊験あらたかな地蔵尊で、地元近辺はもとより遠方からも沢山の善男善女がお参りになります。胸に愛着に包まれた可愛い赤ちゃんを抱いておられる、優しく慈悲深いお姿が東西南北隈なく回転する事が特徴で、大変珍しく、数少ない地蔵尊です。
安産と子宝を授かる祈願にお参りされた願主は、地蔵尊をご自宅方面に向け祈願されれば、その願いは必ずや叶えて下さることでしょう。祈願の際、よだれ掛けに姓名を記してお供えするのが習慣となっております。静かで豊かな自然に恵まれた福田の里で、優しく慈悲深い子安地蔵尊は多くの人々の幸せを守り、この地に潤いを与えて下さっています。 合掌』
地蔵下に回転盤が入っているようで、両手で軽く動きました。こんなお地蔵さんは初めてです。更に奥に進むと、獣避けフェンスで行き止まりでした。更に道は続いていましたが、舗装はここまででした。道を戻り、R175を少し北上し、r109に入り、10:11「由利大歳神社」。巨木が目に付きました。
『市指定文化財 大歳神社のケヤキ・カゴノキ ケヤキ・昭和51年10月12日指定 カゴノキ・昭和51年10月12日指定 所有者:上油利区
ケヤキ:神社の向かって右側の林の中にあり、幹囲目通り5.9m・高さ41mあり、推定樹齢は450〜500年である。
カゴノキ:神社参道左側にあつて、幹囲目通り2.3m・高さ20mあり、樹勢旺盛で成長中である』
参道石段脇に、周囲の土が流された古墳の石組みがありました。
『氷上町指定天然記念物 ケヤキ・ムク・カゴノキ
所有者:由利大歳神社 管理者:由利部落
ケヤキの巨樹:本樹は神社参道の右側にあって、高さ41m・目通り幹囲5.9m・推定樹齢450〜500年
ムクの巨樹:本樹は神社参道の左側横穴式古墳の上にあり、高さ39m・目通り幹囲7.1m・推定樹齢500〜600年。
ケヤキ・ムクは、早く地球上に発現した樹木で、生きた化石と言われている。このケヤキは、郡内最大ものである。又、このムクも県下有数の大木で貴重な存在である。
カゴノキ:神社参道の左側にあり、高さ20m・目通り幹囲2.3m、樹勢旺盛である。日本西南部に天生し、郡内には稀に生しているが皆小木である。本樹は郡内最大のもので県下でも有数の大樹である』
拝殿には、絵馬が下がっていました。『大正3年5月25日 未年32才女 東洋汽船株式会社 天洋丸』
本殿は小ぶりでしたが、彫刻は見事でした。蟇股の龍が躍動的で、木鼻の龍が長く勇躍していた。
R175に並行して走るr109を北上し、枝道に外れ、10:29「白山登山口後谷(ごや)城跡」&「白山神社」。
『白山登山口 白山神社は天文2年(1533)当地の豪族赤井氏によって白山山麓に創建せられ、文禄元年(1592)山頂に奉斎したと伝えられる。 祭神は菊理媛神(くくりひめのかみ)・伊耶那岐神・伊耶那美神であって、加賀の白山を神体山として鎮祭する白山比売(しらやまひめ)神社の御神霊を勧請したと伝えられる。
例祭日は6月14日から八朔(8月1日)に変わっているが、宵宮から当日にかけては参詣者か多く、古くは、山南町や播州から山越えの尾根伝いに詣でたものである。 祭神はその御事績から結びの神・下の病の神として崇められ、下の病すなわち「瘡(かさ)」と同音相通する「笠」を供えて祈願する習俗がいまも残っている。 昭和28年、山麓に現在の社殿を造営し奉斎した。
赤井為家が築造した後谷城の砦はこの付近にあった。また、神社を創建したと伝えられる赤井伊賀守忠家の墓は、社の東方、現在の谷村伊賀町にあるが、異見もある。後谷城は天正7年(1579)6月、明智光秀の軍によって落城している』
『後谷城跡 後谷城(後屋・後野とも書く)は、白山麓の後谷に赤井一族が本拠地として、13世紀初期(鎌倉時代)から16世紀後期(安土桃山時代)まで300年以上にわたり、戦国乱世の時代を生き抜いてきた地方豪族の城館である。
城跡は前方から曲輸跡が石積の段差を設けて奥に5〜6面延びているのが見られる。現在の白山神社のあたりが中央部で本丸跡であろう。最奥部には後谷谷川の堰堤(えんてい)を築き、増水時の堤防と外部からの防御壁とを兼ねる土塁と本丸跡敷地前に空堀が一部残っている。中央の城館を囲む前後左右には、家臣団の屋敷跡と見られる石積の敷地もあり、城館の左右にある小山の山頂部には砦跡や、白山登山道の脇にも居館跡が見られ、更に白山の山頂には曲輸跡があり、その城域は数町歩に及ぶ極めて広大なものであったと考えられる。城跡内にあった赤井氏建立の白山神社の祠が、その後白山山頂に移されたが、昭和28年に後谷城跡の現在地に社殿が造営された。
赤井氏は寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)赤井系図等によれば、信濃の源満実(みつざね)の3男家光が丹波国氷上郡芦田庄に配され芦田姓を名乗ったとされ、その5代後の為家が建保3年(1215)赤井野に移り、谷村後谷に城館を構えて赤井姓を名乗り初代後谷城主となった。為家から10代目赤井伊賀守忠家(谷村公民館裏に供養塔)、時家・家清・五郎忠家が順次後谷城主となり、徐々に領地を広げて氷上郡現在の丹波市全域を支配下に収め、16世紀半ばの信長時代には家清の弟、丹波の赤鬼と恐れられた赤井直正が荻野氏の養子に入り黒井城主となり、赤井一族の頭領・荻野悪右衛門直正として、丹波周辺へも勢力を急拡大させ数度にわたる明智勢の丹波攻めも撃退したが、天正6年(1578)直正の病死後、赤井一族は再度信長の命を受けた明智勢の猛攻で遂に天正7年(1579)後谷城を始め各地の山城が次々に落城し、遂に黒井城の落城を最後に丹波における赤井一族の支配が終わった』
赤井直正の黒井城方面を見ると、山頂の山城跡がダイレクトに見えていた。獣避けフェンスを開閉して「白山神社」&「館跡」を観に行きます。参道脇の鎮守の森越しに土塁?曲輪跡?が見えます。拝殿の蟇股・木鼻の彫刻には玉眼が入り、良い感じでした。館は鎮守の森というより山塊麓の標高が上がっていない平地にあります。如何に勢力を誇ったといえど、ここでは守備が弱い。裏は山に続いているので、詰めの山城がありそうですが、由緒にはありませんでした。
バイクに戻り、少し走って、10:51「鷲住寺」。『今こそ和顔愛語慈眼(わがんあいごじげん) コロナウイルス感染防止に年令問わず、それぞれの立場で立ち向かって下さっている皆様のお陰で、ひとまず最悪の状態は免れつつあります。お疲れ様でございます。そして、何よりありがとうございます。今日の努力が明日の光へと繋がります。共に油断することなく、励みましょう』
手入れされた植木がありました。
また少し走り、10:54「伊尼神社」。境内に梵鐘があったので、ボーン。拝殿の蟇股の龍の彫刻は見事でした。針金ヒゲ。絵馬が下がっています。「初宮詣」「七五三祝」「結婚式」「安産祈願」「還暦祝」「厄除祭」・・・の絵馬が下がっています。『安産祈願 新しい命が胎内に宿るのは全く神様の思し召しです。 児童憲章:全ての児童が心身共に健やかに生まれるよう努め、かつ育成されるよう努めなければならない。氏神様のお守りを頂いて、ひたすら身をつつしみ心を正して、玉のような嬰児(みどりご)が生まれ出るようお祈りを捧げることは、人の親として至情であります』のように、その説明とその様子が絵に描かれ奉納されていました。摂社を巡りバイクに戻りました。
バイクでほんの少し走ると、11:05「伊尼神社」の横に「ヒメボタル」の説明板が立っていました。
『ヒメボタルの棲む森 ヒメボタルを守ろう
ゲンジボタルやヘイケボタルは、人里近くの小川や田んぼで見ることができますが、ヒメボタルは、山の中に入っていかないと見ることができません。 ヒメボタルは、幼虫期も陸上で生活する陸生のホタルです。体長は、オスで6ミリ前後・メスで5ミリ前後です。メスはオスより小型でずんぐりむっくりしており、後ろ羽が退化して飛べないのが特徴です。
オス、メスともに腹部に黄白色の発光器を持っています。オスは規則的に約0.5秒に1回のフラッシュ光を放ち、メスは間隔をおいてまばたく誘引信号を放ちます。午後8〜9時ごろが最も多く見られるようです。 日中は、地上に積もった落ち葉の中や土の上で休んでいます。幼虫は陸に住む小型のカタツムリの仲間であるベッコウマイマイやオカチヨウジガイなどを食べて大きくなります。 成虫の寿命はオス・メスともに7日くらいで、見られる期間は6月中旬〜7月中旬です。ホタルを見るときのルール ●ホタルを持って帰るのはやめましよう。 ●ゴミなど捨てないで自然を大切に守りましよう。 ●騒いだり、大きな声でしゃべるのはやめましよう  一沼貫の文化を耕す会・沼貫地区自治振興会−』
おお〜ここでヒメボタルの鑑賞が出来るのか〜、まさに6月中旬にドンピシャな時期じゃないか〜。ところが、その横に、『ヒメボタル見学・撮影の皆様に注意!今年はコロナの流行により入山できません。6時になると扉にカギがかかります』、あ〜がっかり〜。
r109で北上し、r291で東へ、r7で南下し、R176で柏原まで南下し、11:27「新町天満宮内稲荷神社」。少し南下し、11:36「新町天満宮」。柏原市街地に向かい、11:43「柏原藩陣屋跡」近くの「稲荷大明神」。蟇股の龍が迫力があった。「柏原八幡宮」横を走り、11:48「西楽寺」。『安産・子授け・育児 願い事の叶う「しゃもじ奉納」 子安観世音 服帯・お守りあります 浄土宗・西楽寺』
境内に入ると、本堂の蟇股の龍に針金ヒゲがあった。
11:56、柏原市街地「柏原八幡宮」のある里山の麓にバイクを置きます。「稲荷神社大明神」の鳥居をくぐると、「厳島神社(弁財天)」がありました。石段を上がって、稲荷社の境内へ。絵馬殿に沢山絵馬が下がっていました。本殿はとても立派です。木鼻・蟇股など、彫刻の数が多く、そしてかなり細かく素晴らしい。「稲荷五社大明神」の扁額が下がっています。牛の彫刻・鶏の彫刻・果物を手を伸ばし取ろうとしている猿・兎・・・種類が豊富です。
石段を更に上がり、12:10「柏原八幡宮」の方に向かうと、「五社稲荷神社」の社務所がありました。更に石段を上がり、「柏原八幡宮」の境内へ。ここは里山の頂上です。山城禁止になる前なら、中世の山城立地です。七五三なのか、綺麗な着物を着た5才ぐらいの小さな女の子が、プロカメラマンにシャッターを切られています。下の子を抱っこしたご両親がそれを見ています。女の子とお嬢さんが楽しそうに会話し、特にポーズを要求されることもなく、和やかに撮影しています。観光モデルさん?八幡宮紹介のモデルさん?の撮影かな。
『柏原八幡宮由緒
御祭神:誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)・比売命(多紀理比売命・たぎりひめのみこと)(多気都比売命・たぎつひめのみこと)(市杵島比売命・いちきしまひめのみこと)
御鎮座:社伝によれば、舒明天皇の御代(629〜641)出雲の連(むらじ)らが、当山(入船山)の頂きに素戔嗚命を奉祀(現・八坂神社)したのが当宮の創始と言われています。その後、万寿元年(1024)に入船山周辺の、三箇処から霊泉の湧出を奇瑞として、後一条天皇の勅旨により国家鎮護として京都の石清水八幡宮より御分霊を勧請し、丹波国「柏原別院」が創建され社殿を始め多宝塔・極楽寺・大安寺・清水寺ほか54坊が造営された。
御神徳:厄除開運・五穀成就・病患平癒・家内安全・勝運必勝・子宝安産・交通安全・産業興隆の神として尊崇され、とりわけ厄除けの神威が高く毎年2月17・18日に斎行する厄除大祭は「丹波柏原の厄神さん」と親しまれ、北近畿を中心に全国各地より7万人余の参拝者で終日賑わい、17日深夜から18日の未明にかけて執り行われる「青山祭壇の儀」は日本最古の厄除神事で、往古の道饗祭(みちあえのまつり)・疫神祭(えきじんさい)の遺風を今に伝える流例伝承の神事である。
建造物:社殿は天正13年(1585)に羽柴(豊臣)秀吉の造営によって再々建されたもので、三間社流造りの本殿に入母屋造りの拝殿を連接し、軒唐破風の向拝一問を張出す複合社殿で、檜皮葺きの屋根に、箱棟・千木・勝男木をのせる。(大正2年国宝保存法により特別保護建造物に指定、現在は国指定重要文化財)明治維新の神仏判然令により仏像・経巻・仏具の一切を別当寺の東光院(乗宝寺)に移し、円満に神仏分離が行われた。 当宮には三重塔(兵庫県指定文化財)鐘楼に釣鐘(兵庫県指定文化財)など神仏混淆当時の景観を今日に保っている。
境内の狛犬:本殿前一対の狛犬は「丹波佐吉」(源照信)の作で、大阪府泉南地方を産地とする、和泉砂岩を原材料とした物で一般に「浪速狛犬」と呼ばれる部類に属するものである。 大新屋村(現柏原町大新屋)で旗本佐野家の代官を勤仕していた、上山孝之進成績と、北山村(現・柏原町北山)居住の有力者、田口金次昌栄両人によって文久元年(1861)に寄進したもので、台石の「奉献」の文字は筑前国(福岡県北西部)の女儒亀井少琴の揮毫になる。 丹波佐吉の作品は丹波市内に数点現存しており、左記の2点は奉拝・拝観することができる。
・大燈寺観世音像(青垣町稲土) ・稲荷神社狐像の一対(柏原町北山)厄除神社前一対の狛犬は柏原町内で木彫作家を営む初代「柏里」(本名・磯尾健治)の石材を用いた作品で、昭和27年(1952)2月に氏子崇敬者によって献納されたものである』
絵馬殿にいろいろな絵馬が下がっていた。拝殿・本殿は檜皮葺の美しい社殿でした。その後ろに綺麗な三重塔が建っていた。こちらも檜皮葺でした。梵鐘があったのでゴーン。参拝者が数組おり、毎週出かけている寺社ツーリングで最も人が多かった。
『厄除開運・難逃れの釣り鐘
願い事を込めて心静かに3回鳴らせてください。この釣り鐘は古来より3回鳴らすと難を逃れ福を授かると言われております。
由緒:康応元年(1389)と天文12年(1542)の2つの年号が刻まれており天正年問(安土桃山時代)に豊臣秀吉が大砲鋳造の為、郡内の鐘を柏原に集めた際、特に優れた物であり豊臣秀吉が改めて寄進したものです。 神仏分離の際にも棄却を免れ今日に至り兵庫県指定文化財に指定されています』
三重塔には、「八幡文庫」の額が下がっていた。斗きょうの龍の彫刻の彩色が鮮やかだった。組物の上に彩色鮮やかな相撲力士がいて、屋根を支えていました。
『県指定文化財・八幡神社・三重塔
平成元年3月31日指定 所有者・管理者:八幡神社
八幡神社は、萬寿元年(1024)石清水八幡宮の丹波別宮・柏原八幡宮として創建された神社である。三重塔は、文化10年(1813)から同12年にかけて建立された。 心柱に「従文化癸酉(みずのととり)霜月至同十二乙亥正月」と墨書があり建立の経過は社蔵の日記(文化9年より12年)によって詳しくわかる。各重柱間を三間とする三重塔で、初重内部は四天柱を立て全体に格天井(こうてんじょう)を張り、来迎壁前に須弥檀を据える。心柱は八角で初重丸桁桔木(まるけたはねぎ)にのせた牛梁(ぎゅうりょう)の上に立つ。江戸時代後期建立の塔婆で神仏混淆(こんこう)当時の名残りを止めた数少ない歴史的建造物である』
バイクに戻り、R176で南下し、右折してr86で「JR谷川駅」方面に向かいます。12:44「若宮神社」。小ぢんまりした神社ですが、彫刻は細かく良かった。境内に絵馬殿があり、公家や女官の絵馬が下がっていた。絵馬殿に腰掛け、昼食としてバナナを頬張りました。
帰路に着きます。r86〜r77で東に走り、「カフェルート77」で休憩しようと思ったけど、意外にバイクが多くパスしました。篠山市街地からr49で南下し、「美濃坂峠」を越え、r308で青野川沿いを走り、千丈寺湖畔を東に走り、r49〜r68〜r33〜r325で長尾山トンネルを抜け、14:26帰宅しました。


2020/5/30
また兵庫県内の寺社巡りをすることにしました。でも14〜17時まで、コーチしてる大学ヨット部のOB会主催のzoom座談会に出席しないといけないので、14時帰宅目標です。
5:13、「里山VTR250」で出発しました。「宝塚IC」から「中国道」に乗り、「加西IC」で下車しました。r24で北上し、6:07「ローソン加西満久町店」で、「バナナ4本266円+キリン午後の紅茶ミルクティー500ml129円=395円」購入しました。
ここからr145で西進します。6:12「石部神社」。『播磨国風土記ゆかりの地 「播磨国風土記」は、奈良時代初期の和銅6年(713)5月の官令により作成が命じられた地誌で、715年頃に編纂されたものと見られています。この日本最古の地誌である「播磨国風土記」には、地名の由来や土地の伝承、土地の肥沃さなどが記されており、当時の生活や文化、自然、人やものの移動など、様々なことをうかがい知ることができます。加西市は、賀毛郡に含まれ、ゆかりの地が多く登場しています。
鴨里:「播磨国風土記」に鴨甲は、郡名と同じ名称で由来も郡名と同じとあります。また、里の中でも最初に記述されているので、賀毛郡の中心的な里だったのかもしれません。鴨里は当初は1つの里でしたが、後に上鴨里・下鴨里の2つの里に分けられたとあります。里は50戸(1戸は20人程度生活集団)で1里と決められているので、1つの里が2つの里になったということは、急激に人口が増えるような出来事があったのかもしれません。
賀毛郡へ巡幸した応神天皇は、修布(すふ)の井の脇の木に止まった鴨を見て「何の鳥だ」と従者に質問します。従者の品遅部君前玉(ふむちべきみさきたま)は「川に住む鴨です」と返答します。天皇が「射よ」と命じ従者の放った1本の矢は、2羽の鴨に当たります。矢を受けた鴨は飛んで逃げようとしますが、途中で力尽きます。
この伝承は、2つの里を象徴するような2羽の鴨が、天皇の命令で1本の矢で射られるなど、上下鴨里の支配に関連する伝承と考えられます。鴨が木に止まることや、1矢が2羽に当たることは、とても珍しいことであり「寄瑞(きずい)」といえます。こうした奇瑞は、土地の神霊がこの支配を認めたと解釈され、ここでは応神天皇による鴨里支配の正当性を示していると読むこともできます。
皇塚(こうづか)古墳:石部神社裏山の山頂にある皇塚古墳は、伝承では神社創建と同じ養老元年(717)頃に築かれた、元正天皇皇女の墓とされています。実際の古墳は6世紀前半に築造されているので、人々が神社の創建前から、この地を大切にしていたことが伺えます』
神社は丘の前になり、2本の大杉の間に石段があり境内に上がっています。幹の太さが揃って、太さから想像するともっと樹高がありそうなんだけど15mほどで伐られているのか、2本とも高さが揃っています。「この神社、なかなか格好いい」。
『市指定文化財・石部神社門杉
石部神社門杉は境内の石段登り口に立つ2本の大杉です。この大杉は東西とも、根回り約5m・高さ約30mの大木で、その位置から門杉と呼ばれています。石部神社は、養老3年(719)鎮座と伝えられ、鎮座直後に記念樹としてこの杉を植えたという伝承があります。
市指定文化財・皇塚(こうづか)古墳
皇塚古墳は、石部神社の背後にそびえる標高149mの丘陵頂上部に造られた古墳時代後期(6世紀前半)の円墳です。墳丘はその形をよく留めており、古墳の規模は径約20m・高さ約2mです。古墳のある頂上からは周辺地域を一望出来ることから、被葬者はこの地域一帯を統治した人物などの可能性が考えられます』
2本の大杉は、割れ目・剥がれを補修した跡がありましたが、葉は青々と茂り樹勢は旺盛のようです。本殿を見ると、前面にビニールが下がり、風雨から守られているようです。境内に上がると、左右に別れ随身が守護していました。
『祭神:市杵島姫命・田心姫(たごりひめ)命・湍津姫(たぎつひめ)命
由緒
奈良朝元正天皇の養老3年(719)、宮島より勧請。養老元年(717)元正天皇の皇女勅を奉じて安芸国宮島の厳島神社へ参詣され、護衛の近士70余命、他に宮人を従えて宮島にご到着。37夜の御祈願を終えられ海路帰途につかれたが、折り悪しくも暴風海波甚だ荒れ航行至難。皇女のお疲れ又一方ならず、ために播州室津の港に上陸された。此処に至り3日間御静養された。播州賀茂郡船岡の辺を啓御されたが、皇女の御疲労再び重く、里人に仮殿を造らせて静養に努められたが、御容態安からず遂に崩御せられたる。
この由上聞くに達し勅使の御下向あり三津山(宮山)の山頂に埋葬せられた。今も山頂に古墳があり、之を皇塚という。
皇女崩御の際の御遺言「身が守護神は伊知岐島姫命なり、これを迎えて此の地の産土神と崇め祀れ」により、宮島の厳島神社より勧請して、この地に神社を創建し奉斎された。 石部神社鎮座記より
養老3年3月の創建にして、勅使の御参向があり醍醐天皇の延喜年間「式内社」として神名帳にも所載され、徳川将軍家光が社領朱印5石を寄進し、境内山林竹木の諸役を免除され、爾来将軍家の崇敬厚く、維新まで続いたが、明治元年(1868)還納。
鎮座地の在田郷は播州赤穂浅野家の領地であったため、浅野家の崇敬亦格別であった趣で、正保年間(1645〜1648)浅野長直公巡歴の際、本神社及び神護寺の為に特に添挙状を書かれ将軍家へ差し出される等の事あり、現在拝殿正面に揚出されている黒馬の額は浅野家の献納と伝えられる。
明治7年(1874)2月郷社に列し、昭和21年10月兵庫県知事より「県社に当然列格せられるべきものたりしことを認む」との県格令を受けている』
絵馬殿に、多数の絵馬が下がっていました。境内を探索し、古墳に上がってみることにしました。境内の丘に向かって右手から上がれるようです。獣避けフェンスが丘を囲んでおり、6:37フェンスを開閉して丘側に入って行きました。木組みの階段がまっすぐ上がっていました。左右に丘を巡りながら上る道もあるようです。6:42丘のトップに着きました。東屋もあります。
『加西市指定文化財・皇塚古墳
所在地:加西市上野町70番地 所有者:石部神社 昭和46年3月30日指定 墳形と規模:円墳 墳丘径16〜20m 築造時期:古墳時代(6世紀前半)
この古墳について石部神社の社伝には、元正天皇の皇女を葬ったという伝承が残っています。 墳丘径16〜20m・高さ2mの円墳で封土の流出が少なく旧態を留めており、古墳時代後期の自然の丘陵地を利用して造られた古墳です。埋葬主体は木棺直葬と考えられています。
盗掘にあっていたものの主体部には及んでおらず、鏡や刀剣・土師器・玉などが出土しています。 皇塚古墳は、加西市域では数の少ない6世紀前半の古墳で、出土遺物から年代を知ることができる貴重な例と言えます』
古墳らしい造作は感じませんが、山頂が緩やかに膨らんだ形に整形された円墳で、周囲の樹木が伐られており、景色が広がり気持ちが良い。「ツツジの小径」を下ります。
『カラスザンショウ(ミカン科) 幹や枝に大きな鋭い棘があるサンショウの仲間。大型の奇数羽状複葉を持つ落葉高木』『コバノミツバツツジ(ツツジ科) 4月始め頃、葉に先立って紅紫色の花がたくさん咲く。加西で最も早く咲くツツジ』『石部ツツジの丘 この丘にはコバノミツバツツジがたくさん生えています。5月頃にとても綺麗なピンク色の花を咲かせます。このツツジを増やすために、ツツジの生育を妨げるソヨゴやヒサカキといった常緑樹を伐採したり、草刈りをしています』『テーダマツ(マツ科) アメリカ原産のマツクイムシに強い松、長い三本葉の松で、松傘も大きく、棘がある』『ドウタンツツジ(ツツジ科) 主に暖地の蛇紋岩地帯に自生する落葉低木、春壺型の白い小花を多数つける。紅葉が美しいのでよく植えられる』『ジャシヤンボ(ツツジ科) 暖地に生える常緑低木。果実は黒紫色に熟し食べられる。葉も美しいので庭にも植えられる』『ウラジロガシ(ブナ科) カシの一種。成長した葉の裏は、粉をふいたような白色をしているので、この名がある』
r145を西に走ります。7:21「礒崎神社」。『赤穂義士ゆかりの地 「忠臣蔵」で有名な浅野赤穂藩は、正保2年(1645)6月、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の祖父である浅野長直が常陸国(茨城県)笠間藩より国替えにより赤穂藩主となったことに始まります。赤穂藩が誕生した当時、所領は53500石でしたが、そのうち赤穂郡一円にあったのは35200石。加えて飛地として、佐用郡に1200石、加東郡に8200石、加西郡に8900石が所領としてありました。つまり、赤穂藩のうち約1/3にあたる所領が加東郡・加西郡にあったことから、加西市には、赤穂義士ゆかりの地が今でも数多く残ります。
奥野将監(おくのしょうげん)屋敷跡(礒崎神社脇):赤穂藩士の1人で浅野家の重臣である奥野将監が隠れ住んだという屋敷跡が礒崎神社の脇にあります。奥野将監は、赤穂城明け渡し後、大石内蔵助に次ぐ重臣として大石内蔵助を支え、藩内の取りまとめにあたりました。しかし、浅野家再興が不可能になると、吉良上野介への仇討ちが決定した京都での円山会議の直後に脱盟し、討ち入りには参加しませんでした。
この脱盟については、大石内蔵助か吉良上野介を打ちもらした際に備える2番手だったとも、また、浅野内匠頭の隠し子を育てるためだったとも云われていますが、真相は不明です。 脱盟後は、将監の娘が礒崎神社の宮寺快智院に嫁いでいるのを頼り、右衛門(ウエ門)と名を改め、礒崎神社脇の山裾に居を構え、晩年を過ごしました。禄高1000石の高禄であった将監ですが、討ち入りに参加した藩士が義士として持ち上げられる一方、討ち入りに参加しなかった藩士たちは身を隠すように暮らしていたことを物語る小さな住居跡です。
礒崎神社:719年に現在の上道山町岩崎神社の地に創建され、その50年ほど後に現在の地へ遷座されたと伝えられる由緒ある神社です。 創建当時から、朝廷からの勅使が遣わされた数少ない神社の1つで、平安時代には雨乞いの神様として広く知られていました。江戸時代に、神宮寺が建ち、僧侶が礒崎神社に奉仕していました。奥野将監は、この神宮寺を頼ってやってきました』
参道を歩いて行くと、社務所右手に、「奥野将監館跡」がありました。何があるわけでなく、ただの空き地でした。奥野将監は、討ち入り直前に隊を離脱しましたが、筆頭家老・浅野内匠頭隊が吉良上野介首取りに失敗したら、次の隊を組織する覚悟だったのではないかと想像します。
母の実家の本家は、平安時代、関八州を平らげ独立宣言した平将門を討ち取った俵藤太秀郷の末から続く下野の大名・佐野氏の家老職をしていました。江戸の大火事の時、居城「唐沢山城」から視認し、謀反と勘違いして将軍家が危ないと完全武装して江戸に急行した。
徳川将軍家は、佐野軍のあまりに早い江戸入りに恐怖し、佐野氏を永年の地元から領地変えした。その時、母の先祖の家老は、家老内で1人帰農し、武士を捨て地元に残り名主(庄屋)職を続け明治に至った。何故帰農したかと言うと、世の中がまた戦乱の動乱期に入ると、佐野家の地元をずっと掌握するためだった。
子供の頃、毎年母に連れられて正月の一族郎党の集まりに参加していました。当主がそれぞれの家を紹介し、宴をする会ですが、集まる場所が当主の町中の自宅ではなく、町外れの小山の山頂近くの山中にある屋敷でした。かつての山城で、動乱が起きると佐野家当主を迎え、先祖からの地で再興する手筈だったそうです。
NHK大河ドラマ「天地人」で主人公・直江兼続が、豊臣秀吉の命で上杉家が越後の居城春日山から米沢に領地替えさせられる時、同僚家老の1人が帰農して庄屋として越後に残った。上杉家の影響力を維持するためとドラマ中で発言していた。これと同じです。
奥野将監は、赤穂四十七士が庶民の心を捉えるようになると、討ち入り前に離脱した意気地なしのレッテルを貼られたと思う。これは江戸時代・戦国時代に家老の1人が帰農して地元に影響力を持たせ続けようと考えたのと同じ思考が裏にあったとするのが、当時の当たり前の武士の生き方だったように思う。
立派な獣避けフェンスを開閉し、更に参道を進むと、意外に立派な拝殿が見えてきました。石段を上がると、左右に小さな「門守随神社」があり、随身が守護していた。更にもう1段石段を上がり、拝殿に参りました。中川権次一統作の針金ヒゲ龍が蟇股に勇猛な姿を見せていた。玉眼が入り、玉を握っている。拝殿屋内上に籠が下がっていた。多数の絵馬も掲げられている。
本殿脇障子は、翁と鯛の彫刻でした。他の彫刻も素晴らしく、激写タイムだった。境内に土俵があった。
バイクに戻り、川を渡ってすぐ、7:54「千山寺」。こちらの彫刻も、針金ヒゲ・玉眼の中川一統彫刻ルックでしたが、まだ新しいように見えたので、ルックなんじゃないかな〜と思いました。
少し走って8:07「高藤神社」。地図を見ると目の前の木々に覆われた丘の山中にあるようですが、道がなくアウト。また少し走って、8:12獣避けフェンスを開閉して探します。2つの溜池の間の正面にありそう。ですが、山に入る道がなく見つけられずアウト。
8:52「久学寺」。『河上山久学寺の由来を尋ねるに、その昔、丹波国円通寺の3世たる人を瑞翁性光禅師が広く仏縁を求め、法域を播州に広めんことを発願し、ここ播磨国加西郡上芥田、深山霊谷の地に聖地を得て、文安3年(1446)一寺を創建、寺名を久学寺と名付け以降布教に務めらる。
歳月は流れ、正保2年(1645)、浅野内匠頭長直公が国替えにより、常陸国笠間藩より播州赤穂53000石の城主に任ぜらる。長直公、時に親しく藩内の巡視あり。石高8928石の飛地、加西郡33か村見聞の際には、久学寺に宿泊せらるる等の事もありて、時の住職6世是天良扶和尚に深く帰依され、山林田畑12石を寄進。浅野家菩提寺として、父長重公並びに浅野家代々の弔祭を依頼さる。
その後、長直公は赤穂花岳寺の再建に際し、中興開山として久学寺6世・7世の住職を招し。同寺にも浅野家の弔祭を依頼せらる。
時経て、長直公は隠居せられ、嫡子長矩公が延宝3年(1675)御年9才にして遺領5万石を継承、同8年8月従五位下、内匠頭に叙せらるる。城代家老・大石内蔵助もまた、しばしば久学寺を訪れ、8世碧峰和尚とは特に昵懇の間柄なりし。
元禄14年(1701)の春3月、如何なる運命の致すところなるかな、長矩公、江戸城における勅使接待の節、不運にも刃傷に及ばるの変事あり。折しも偶然、内蔵助は同寺にありて和尚と碁盤を囲み居たりしが、悲報に接し急ぎ赤穂に帰藩されたりと言い伝う。
これら諸々の縁故を以て、長矩公はじめ四十六士の法名は、久学寺9世海音和尚が授けしとぞ。それを記す過去帳、同寺に遺存あり。
また、久学寺は過去に天災多く、江戸時代より明治期にかけ、数度にわたり土砂災害に遭遇したるも、その都度、間を惜かずして修復なる。
然して今日、信仰篤き檀信徒の普請ありて懇望の平成大改修竣工、落慶の日を迎えるに至る。欣快(きんかい)何ぞこれに過ぎんや、これ皆、普く檀信徒の精進奉仕の賜物なり。この佳き日を記念して、謹んで久学寺の由来を刻し併せて諸檀家の功労を顕彰するものなり。 合掌』
山に向かう枝道の行き止まりにある寺院ですが、Pもそれなりにあり、赤穂浅野家の菩提寺や浅野内匠頭由縁・四十六士戒名の関係か、檀信徒の多さを感じまし。本堂に参ると、蟇股の龍や木鼻の獅子の彫刻が見事です。獅子は口に枝葉を咥えていました。何れも新しそうです。
r369に戻り、r34に出て、9:18「柳山・楊柳寺ようりゅうじ」。『天台宗 本尊:楊柳観世音菩薩(ようりゅうかんぜおんぼさつ)・十一面観世音菩薩立像(3体)
往昔より頭痛や手足の痛みを癒やしてくださる観音様と親しまれています。白維年問(650〜654)法道仙人が千手観音のお告げにより、山麓の柳の大木に自ら観世音菩薩を刻み、伽藍を建立して、その尊像を安置したという縁起が残されています。当寺は、天正年間(1573〜1592)野間城落城の際に焼失し、その後一部が再建されたと伝えられています。本尊の楊柳観世音菩薩立像や十一面観世音菩薩立像など、7体の平安時代の仏像が県指定文化財となっています。5haを超える境内には、本堂をはじめ、仁王門・鐘楼堂・阿弥陀堂・奥の院・法持院・薬王院などの堂宇が立ち並び、県の環境緑地保全地域にも指定されています。これらのうち、本堂・仁王門は平成24年に国登録有形文化財に登録されました』
仁王門をくぐります。『この寺は柳山楊柳寺(俗に柳の観音さん)と称します。天台宗に所属し、本山は比叡山延暦寺です。
開基は法道仙人、当山縁起によると、孝徳天皇白雉年間(650年頃)天竺より渡来の法道仙人によって創建され、仙人帝の御悩平癒を祈って霊験あり、よって柳山楊柳寺の勅号を賜った。
爾来(じらい)、衆人の帰依浅からず七堂伽藍立ち並び一大霊刹となった。天正年間野間城落城の際、兵火にかかり全山焦土と化したが、中興の祖・隆慶上人、慶安年中・3大将軍家光公より朱印・十石・山林方八町を寄付され、一山を再興今日に至った。
境内は54948平方メートル(16651坪)あり、鬱蒼とした樹林の中に、仁王門・鐘楼堂・茶室・阿弥陀堂・本堂・奥の院が立ち、塔頭寺院として法持院・薬王院がある。
兵庫県指定重要文化財として、左記の仏像がある。 木造十一面観音立像(甲):像高1.18m・平安時代 同(乙):像高1.16m・平安時代 同(丙):像高1.08m・平安時代 木造千手観音立像:像高1.8m・平安時代 木造兜跋毘沙門天立像:1.55m・平安時代 木造多聞天立像:像高1.35m・平安時代』
仁王門をくぐると、左に「薬王院」、右に「法持院」の案内板が立っていた。「法持院」には「楊柳寺当番寺」となっていた。石段を上がって森に入っていくと、鐘楼がありました。ゴーン、両親・先祖への感謝の言葉とともに手を合わせました。
バイクに戻り、r34を先に進み、9:50「大歳大明神」。『ご祭神:大歳神・大田命 中三原・上三原両地区の氏神で、創立年代は不明ですが、残されている棟札から、寛永2年(1625)本殿を再興し、寛文12年(1672)に拝殿を再興したことが知られています。現存する拝殿・本殿等は明治に入ってから建てられたものですが、多彩な彫刻が施されています。特に、拝殿軒下をぐるりと囲む十二支の彫刻はみごとなものです。脇障子には、明治16年(1883)3月の日付と「新井弥三郎正次」の彫刻師の名前がしるされています。新升弥三郎正次は、篠山・摂津・播磨東部方面に作品が残されており、町内では、中区鍛冶屋の大歳金刀比羅神社にも残されています。
境内社として、若宮社(ご祭神:事代主命・大田命・建御名方命)と大神宮社(ご祭神:大日女命)が祀られています。秋には、緋色の幟とともに子ども神輿の行列が練り出され、盛大な秋祭りが行われます』
養鶏場がすぐ裏にあり、コケコッコーが姦しい。彫刻が見事でした。多彩な彫刻が並んでいるので、1つずつ丁寧に拝殿・本殿の周囲を見て回った。神社彫刻では珍しい蛇もありました。
10:06、「毘沙門堂」の案内板が目に入ったので寄り道しました。隣りにあった「大日堂」から見学し、続いて「毘沙門堂」へ。『毘沙門堂 天台宗 本尊:毘沙門天
古くは「西光寺毘沙門堂」と言われており、1月には「14日祷」という行事が行われています。建物は江戸時代初期に火災にあい、元禄14年(1701)に再建されました。
所蔵されている「般若十六善神画像」は保存状態も良好で、宋風の特徴をあらわす巧みな描画や彩色がほどこされた南北朝時代の作品です。兵庫県指定文化財に指定されており、現在は楊柳寺法持院で保管されています。また本尊脇に安置されている十一面観音像は、平安時代後期の作とされています。
堂内には、八千代区で最古の神馬図絵馬(安永9年・1780)など多くの本格的な大絵馬のほか、地震や厄除け、皮膚病治癒を願う鯰(なまず)の絵馬などもたくさん奉納されています。 境内には干ばつになると雨乞いに使われたといわれる鐘を納める鐘楼が建ち、景観保全樹木である樹齢150年の楠木がそびえています』
樹齢150年の楠は、150年とは思えない大木で枝ぶりも良い。楠って150年でこんなに太く大きくなるのですね。毘沙門堂内に入ると、多くの絵馬が下がっていた。
r34を更に進み、「船坂トンネル」を抜けて右折し、枝道に入ります。枝道を上がっていくと、10:22「笠形山」登山口P。獣避けフェンスがありましたが、舗装路はまだまだ続いているようだったので、開閉してバイクで更に上がります。森の中の道を上がり、「笠形寺」への分岐がありましたが、スルーして更に上がると、コンクリート舗装になり更に急勾配になりました。「笠形神社」はまだ先なので、バイクで最後までは上がれそうにありません。横には沢を隔てて「笠形寺」が見えており、こちらを見学することにしました。
勾配が急なので、ここにバイクを置くのはこかしてしまいそう。一旦下って、10:32分岐にバイクを置いて、歩いて上がりました。ここから寺方面は「諸車通行止 笠形寺」の看板が立っています。
徒歩で上がり、10:35「笠形寺コウヤマキ」。『県指定文化財・笠形寺のコウヤマキ 昭和52年3月29日指定 所有・管理者:笠形寺 根回り8.8m・樹高21m・枝張りは東西11.6m・南北11.2m・樹齢500年と推定される。
コウヤマキは、日本中部山地を原産とする1属1種の常緑樹で、木材は特に水に強く、桶や船材に多く用いられた。また樹皮は「まきはだ」と呼ばれ、水漏れを防ぐのに使われていた。
本樹は市川町上牛尾の高台地(標高360m)に成長し、明治21年に火災を受けたが、再び繁茂して現在に至っている。樹形端正・樹勢強壮、この種の老木として学術的価値大である』
コウヤマキってこんなに凄いの?って感じの雰囲気のある巨樹でした。屋久杉のように枝が複雑に張り、老木なのに葉は多く青々と茂っており、樹勢がまだまだ旺盛でした。紫陽花が、そろそろ咲きそうでした。
10:39「笠形寺」。『笠形寺・蔵王堂 市川町指定重要文化財 絹本着色不動明王像 木造兜跋毘沙門天像 木造不動明王像 木造聖観音立像 笠形寺の鬼面』
「笠形神社」は、ここから1300m徒歩40分なので往復2時間。14時から、コーチしてる大学ヨット部のzoom会議なので、諦めました。
バイクに戻り、森の中の道を下ります。フェンスまで戻り、開閉してr34に戻ります。11:07「岩戸神社」。
『市川町指定重要文化財・岩戸神社 岩戸神社は正中元年(1324)この地に移され、現在の本殿は寛保元年(1741)に建てられています。 建物は、本殿と拝殿、そしてその間に舞殿が付く構造となっています。
本殿の彫刻は特にすばらしく、丹波柏原町の中井家一統の作として有名です。 社殿は巨木・巨岩に囲まれ、神域にふさわしい環境をつくり出しています。廷宝2年(1674)には姫路城主・松平大和守自ら参拝し、境内の風致を賞賛しています。 市川町教育委員会』
Pから参道が続き、沢に架かる小さな橋を渡って境内に入ります。沢に大岩があり、その一部に玉垣が巡り丸い物が沢山その中に入っています。本殿周囲の彫刻は見事でした。蟇股の龍は針金ヒゲでした。木鼻の龍にも針金ヒゲがついています。脇障子もなかなか見事です。境内の一部にコミヤマスミレが群生地がありました。『コミヤマスミレ(小宮山菫)・スミレ科 葉脈に沿って茶の斑が入る系統で白い小さな花を咲かせます。これだけ多くの群生している処は珍しいとのことです』
拝殿に土足で上がるようになっていました。絵馬が多数下がっていました。随神門が拝殿と一緒になっており、随身が守護していました。岩戸神社紹介の手作り小冊子が置いてありました。
『岩戸神社縁起 祭神:本殿:伊弉冉命・伊弉冊命・手力雄命 末社:天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)
正中元年(1324)2月-後醍醐天皇の時代 寺谷にあった福泉寺境内から神社、寺はそれぞれ現在地に移る。(これより前の記録は不詳)
正中元年9月、本殿建立、その後何回か改築。本殿・拝殿等の建物は、寛保元年(1741)天明2年(1782)当時で殆ど現在の規模と同様であった。
延宝2年(1674)、姫路城主松平大和守自ら参拝。金若干を奉納し、境内の風致を賞したあることからしても、当時今に劣らぬ神域であったと思われる。
昭和54年1月1日、本殿を建造物の装飾彫刻巧妙精緻であるとして市川町教育委員会より有形文化財として指定される。
岩戸神社(上牛尾):上牛尾岩戸神社の境内には、高さ・幅共に15mほどの大岩石が神殿にせまり、拝殿の右方より高さ7〜8mあまりの岩が屏風のように立ち、あたかも天の岩戸を建てたようです。拝殿の下には岩戸川の渓流が流れ、周囲の岩は苔むし、樹齢数百年の老木が生い繁り、その様は静閑で神秘的です。
神社は、正中元年(1324)後醍醐天皇の時代に当時寺谷にあった福泉寺境内から現在地に移されたもので、延宝2年(1674)姫路城主松平大和守自ら参拝、金を奉納し境内の風致を賞したということからも、当時は今も劣らぬ神域であったようです。度重なる新改築を経て、現在の本殿は寛政7年(1795)に新築され、建造物の装飾彫刻は巧妙精緻なものとして町文化財に指定されました。彫刻師は氷上郡柏原町の久須善兵衛政精・中井丈五郎・中井丈吉で日光東照宮の彫刻を源流とする見事な力作です。
瀬加村詩には、「旧6月中は毎年毎宵日参の慣あり、これ昔悪疫流行のことあり、その終息祈願にこの事始めりという。6月13日部落民こもりてお日待ちの勤をなす。」とあります。
牛尾の構居(かまえ)(上牛尾):瀬加村詩によると、牛尾の構居は上牛尾・下牛尾の境付近にあって、城主は牛尾源次兵衛と記されています。 源次兵衛は鶴居稲荷山城主・永良遠江守の家臣で、ともに赤松氏の家臣でした。永良氏の領地となった牛尾659石を治めるために、牛尾庄に構居を造り、牛尾姓を名のりました。その後、赤松氏の衰退にともない、郷士となって岩戸に永住し、代々庄屋をつとめたとされています。
この構居の場所ははっきりとは判明していませんが、岩戸と河内の境、通称ホーキダと呼ばれる附近と推定されています。 この牛尾氏は、天正11年(1583)、羽柴秀吉の築城のときに、普請奉行のもとで石を切り出す仕事に従事したことが古文書によって知られています。
岩戸神社御神木(上牛尾):岩戸神社の本殿のすぐ横に御神木の杉の木があります。根回り7m・樹齢450年の大木です。周囲の巨岩とこの御神木が岩戸神社の神々しい雰囲気をつくり出していました。 ところが、この大木が台風23号の強風にさらされ、途中より折れてしまいました。御神木以外にも境内の大木が何本も析れ、大変な被害でした。本殿が無事だったのがせめてもの救いです。 折れた木の長さ2mの丸太に加工されて、地域の方によって再利用される予定です。
岩戸神社霜月まつりの神楽舞(上牛尾):下牛尾の岩戸神社は毎年、霜月まつりが行なわれます。この行事は岩戸神社の祭礼の中で最も重要なものとされています。秋の収穫を終え、五穀豊穣を感謝し、お祝いする意味があります。昔は祭礼だけでなく、公民館で芝居を行なうなど、大変にぎわっていました。
平成17年11月午後3時から行われ、巫女舞が奉納されました。奉納したのに加古川市在住の加古光会というグループで、故事に従って各地の神社で神楽舞を奉納する同好会の皆さまです。この日は、「朝日舞」「豊栄舞」「浦安の舞」の3曲を舞いました。天の岩戸へお隠れになった天照大御神を祭神とする岩戸神社で舞が奉納され、神聖な気持ちになる一時でした。
岩戸神社の山野草園(上牛尾):播磨富士と呼ばれる笠形山にはすばらしい自然が残っています。939 mの標高を持つため、里山では見られない珍しい植物がたくさん自生しています。
岩戸神社の山野草園では笠形山で見られる希少な植物を見ることができます。岩戸神社の境内は巨大なスギに覆われて直射日光があたりにくく、湿度が高い環境が山野草に適しているようです。クマガイソウやショウジョウバカマなど、普段見ることができないものが育っています。
クリンソウ(九輪草)上牛尾:瀬加小学校上牛尾分校には1年から4年までの児童が学んでいました。ここの校庭には有名なものがありました。それはクリンソウの群生です。今は岩戸神社の境内に移されています。
クリンソウは湿地に生える多年草です。葉はすべて根元に集まって、その中心から1本の花茎が出ます。花茎は40〜80cmで、先端に2〜5段にわたって小さな花をたくさんつけます。
名前のように9輪(段)に咲く花は珍しく、分校の花も7輪のものが多いようです。花の色は、白・黄・ピンクと多彩ですが、分校の群生はすべて濃いピンク色をしています。 毎年6月中旬頃には、可憐な花を咲かせます。ぜひご覧ください。クリンソウと同種類の花は、ヨーロッパでもプリムラ及ばれ親しまれています。
矢塚の森(上牛尾):今から400年ほど昔、豊臣秀吉の天下の頃の話です。秀吉は、京都に方広寺という大きなお寺を建て、大仏を安置することを計画しました。そのため全国から多くの大工やきこりが集められました。牛尾の村からも緒一郎という人が多くの職人を引き連れて京に出向きました。
ある日、京の中山中納言が飼っている鷹が逃げ出してしまいました。鷹の足には紐が結び付けてあったのですが、それが御所の高い屋根にひっかかってしまい、飛び立てなくなりました。皆が困っていると、それを見た緒一郎は下から矢を射り、見事に鷹の足の紐を切りました。
感謝した中納言は緒一郎に牛尾という名字と、方広寺上棟式の弓を送りました。牛尾の村に帰った後、その弓矢を埋納した場所が「矢塚の森」として今に伝えられています。
絵馬の歴史
絵馬の歴史を考える場合、まず絵馬が出現する以前の、馬に対する信仰の形態を見ていきたい。 日本では縄文・弥生時代にも野生種の馬が生息していたのであるが、本格的に家畜化して人間の乗用に利用されるようになるのは古墳時代からと考えられている。古墳に副葬されている多種類の馬具や、古墳上に置かれている馬形埴輪によって、その具体的々姿を知ることができる。物資運搬や軍事的な意味からも大変貴重な存在であったに違いない。
馬が人間に実用されるようになるのとともに、精神生活にも彫響を与えるようになる。古墳時代〜奈良・平安時代の遺跡からは、土馬や木製の馬形が多く出上している。 土馬は10〜20cm程度の大きさで、粘土をこねて馬の形を作って焼き固めている。形態は埴輪と違い写実的ではなく、馬と解る程度の粗製品である。馬形とは、細長い板に切り込みを入れて馬の側面の形を表現したものである。
これらは墳墓・集落・官衝などいろいろな場所から出土している。人々の「祈り」と深く関わったものに違いないが、とくに水霊信仰との関連を考える意見もある。 これらの出土物は、絵馬出現以前の信仰の形態を私達に教えてくれる。絵馬が発生した頃は土馬や馬形を使用した信仰の形態をそのまま引き継いでいると思われる。
最古の絵馬:絵馬がいつの頃に発生したかという問題については、最近の発掘調査の成果によって徐々に明らかにされつつある。 現在確認されている絵馬で最古のものは、奈良市平城京跡の長屋王邸宅北側の二条大路から出土している。27.2×19.6cmの板に馬の側面全体が描かれ、馬体にはベンガラ等で着色が施されている。また、鞍や鏡などの馬具が表現されているのも興味深い。この絵馬の板を年輪年代学で分析した結果、西暦728〜738年という年代が与えられている。
この地に奈良時代の絵馬としては、静岡県浜松市の伊場遺跡から出土した奈良時代後半のものが有名である。この絵馬も馬の側面全体を描いており、構図的には二条大路のものと共通する。(ただし、伊場遺跡のものは裸馬である)』
『社寺彫刻「中井一統」について
「彫刻師・柏原住人・中井家」は、江戸時代中期から昭和中期にわたり、6代(約250年)続いた彫刻師一族で、丹波國氷上郡柏原に本拠地を置き、丹波・但馬・丹後・播磨の広範囲に渡り、その地域の中心となる社寺に見事な彫刻を数多く残している。 中井一統は、特に龍の彫り物を得意とし、欄間、あるいは向拝虹梁上に躍動的な龍を配し優れた技を発揮している。さらに木鼻・手挟み・蔓股・妻飾り・脇障子と建築を彫刻で埋め尽くした社寺も数多く残っている。
元和年間(1615〜24年)に宮大工として京都(福知山)から柏原へ移る。初代から3代目までは宮大工として活躍。庶民文化の発展、社寺建築の発展に合わせて、宮大工と彫刻師とが分業で建築する時代に移り変わり、4代目からは社寺彫刻専門として代々受け継がれる事になった』
杉の廃材で作ったと思われる高さ1cmほどのコースターがありました。「岩戸神社」の朱印が押されています。絵馬かな?と思いましたが、横にマジックが置いてありました。沢沿いにあった大岩と玉垣に囲まれた場所に、願いを書いて投げ込む部材のようです。僕はコースター絵馬として購入しました。50円。
バイクでr34に戻り、南下ししばらく走り、左折してr145。11:49「礒崎神社」。
『御大典記念 礒崎神社 旧村社
祭神:田心姫命・応神天皇 境内社:八坂神社・祭神素戔嗚命 合祀社:祭神天御中主命・稲倉魂命・御祖神・素戔嗚命・大歳神・武甕槌命・大山祇命・軻遇突知命(あぐつちのみこと)・八王子大神』
『由緒:当神社の創立は、天正15年(1587)推定にして、現下道山町礒崎神社より、田心姫命・応神天皇、2柱の御分霊を勧請し、最初若井町字芝大歳神社に奉斉せしが、後寛文12年(1672)現在地に社殿を建立奉還す。天御中主命以下諸神は、明治43年(1910)無格社を合祀せり。
当神社の氏子は、上下若井町は元下道山町礒崎神社の氏子にして、古来は現下道山町と上道山町は一村にして道山村、又は東道山村と称し、若井町と大内町は一村にして西道山村と称し、両者を総称して道山の庄と称したり、故に曽て西道山村なりし、若井はその本村たる道山の氏神。即ち現下道山町礒崎神社を本宮と称し、当社を新宮と称す。境内社として八坂神社を祀る。
若井町字岩の熊稲荷神社、同村字丸山大歳神社、同村字芝大歳神社、同村字清水大将軍神社、同村字キトラ武太神社、同村字大倉妙見神社を明治43年2月6日合祀。同村字前田政崎神社を同年2月20日合祀。
同村字六地蔵大歳神社、同村字六地蔵稲荷神社、同村字門口山王神社、同村字山田八王子神社、同村字山田愛宕神社同年7月11日合祀せり』
拝殿に多くの絵馬が下がっている。「奉納日露戦役紀念」「奉納征露戦役紀念」2枚の絵馬。蟇股の龍の彫刻は針金ヒゲでした。赤い舌の彩色が残っています。
帰路に着きます。r34〜r24で「加西IC」から「中国道」に乗り東進。12:23「セブンイレブン中国道社PA上り店」で、「ガリガリ君リッチチョコミント140円」を購入し糖分補給しました。「宝塚IC」まで一気に走り、13:08帰宅。
14時から17時まで、コーチしてるヨット部OB会主催のzoom会議に出席しました。昨年のインカレ(全日本学生団体選手権)S級クラスで全国制覇しました。創部85年で3度目の全国制覇です。最初の優勝が、僕の学年の1つ下なので、それぞれの主将は健在です。OB会理事が司会し、3人の元主将が答える形式です。ムービーと文字起こししたものをヨット部アーカイブに残し、後輩の参考にしてもらおうとのこと。僕にも、コーチとして一昨年の準優勝・昨年の優勝を側で見ていた立場からの今回のzoom会議の感想など話を振られたので答えました。みなさんの話に出なかった女子選手が今後増えてくるだろう学生ヨット会の趨勢と、女子マネージャーの活躍なくしては優勝がなかったことを話した。加えて今回全日本から始めた部員父母を巻き込んだ施策の将来も話した。


2020/5/24
5:20、2週間前バッテリー上がりでレッカーされた「招き猫CB400SB」に乗って出発しました。長尾山トンネルを抜け、北摂里山地帯へ。r325〜r33から、「川下川ダム」横を武庫川に下り、r327で武庫川左岸を上り、右岸を走り、「JR道場」駅横を走り、R176に出ました。少し北上し、r17〜r720で西進しました。「三田フラワータウン」に入り、r95〜r356で中国道の北を西進し、6:29「東光寺」。
『三木市指定文化財 東光寺銅鐘
指定:平成18年2月23日 所有者・管理者:東光寺 所在地:三木市吉川町福吉
 安土桃山時代
口径65.2cm・高さ114.1cm・竜頭高21.5cm
本鐘は播州三木郡東光寺の鐘として、慶長6年(1601)3月26日に「奉鋳」されました。作風については、当時の鋳物師集団「姫路野里の鋳物師」の特徴が見られ、製作者として「平末次」の記銘があります。鐘の保存状態も良く、当時の吉川の歴史を知名上で、貴重な資料となっています』
本堂を覗くと、本尊エリアの前に「姑射山」の扁額が掲げられていました。
『国指定重要文化財 東光寺本堂 吉川町福吉 桁行5間・粱間5間・一重・寄棟造・本瓦葺
山号を姑射山(小屋山)と称し、僧行基の草創と伝えられている。 本堂は、永正14年(1517)の墨書がある蟇股より、室町時代中期から末期頃の建立である。 構造は、和洋を中心とした折衷形式で蟇股・木鼻・虹梁など特徴が見られ、鶴林寺の技法をさらに発展させたものである。 室町時代中期頃の折衷形式を考える上で、貴重な資料である』
本堂脇を上がると、多宝塔がありました。
『県指定文化財・東光寺多宝塔
指定:昭和41年3月22日 所有者・管理者:東光寺
この建物は,多宝塔と呼ばれ、建てられた年代な本堂と同じ室町時代中期である。 大正初期の大修理に下層の一部・柱・縁廻りを補修し上層の屋根を鉄板で仮葺した。 軸部及び斗洪部・相輪などの主要部分や建具・内部須弥壇等は、建立当初のままである。 特に、内部須弥壇の格挟間の刳型(くりかた)や絵様彫刻は当時の特徴を表した素晴らしいものである。 県下における多宝塔の貴重な資料である』
『修行大師尊像 昭和9年宗祖弘法大師誕生1100年記念として、当山東光寺住職安藤了厳和尚により、この地に修行大師尊像の建立開眼供養の法廷せられて以来、高祖弘法大師の御霊、月日と共に明けらけく慈恩意に随って篤きを加うも平成7年1月17日の阪神淡路大震災により、損像する。しかるに、壇信徒と相計りて修行大師尊像の再建を発願し、今無比の勝縁を得て俊成する』
中国道側道を西に走り、突き当りを左折して、中国道の下をくぐり南側に出て南下します。枝道に入り、ナビ画面に現れた「蓮光寺」に着きましたが、由緒ありそうな感じではなかったので、スルーしました。少し走ると、お堂があった。「何かな?」と寄り道。「三木市コミュニティバス みっきぃよかたんバス 金会北」というバス停でした。「1ルート吉川庁舎前・健康福祉センター方面 月〜金9:16・11:21・14:46・16:56(土日運休) 運賃大人160円・子供80円」の時刻表でした。
r17に出て西進します。7:10「ファミリーマート吉川町大沢店」で「バナナ3本223円+フルーツミックス500ml100円=328円」を購入。R428との分岐を越え、美嚢(みのう)川沿いを走ります。「ひょうご東条IC」を越え、中国道の北側の側道を走ります。
7:31「住吉太神宮」。鳥居をくぐり、石段を上がり境内に入ります。土俵がありました。正面に拝殿・本殿があり、周囲に能舞台がありました。その一部廊下をくぐって境内に入る作りになっていました。能舞台の一部が切れているので、もう舞台には使われていないのでしょう。
若い緑のもみじが美しく、境内には誰もおらず、雰囲気が良かったです。里山の麓にあるので、野鳥の鳴き声しか無い世界でした。「巫堂之跡」の石碑が立っていました。巫女が集まるお堂があったのでしょうか?当時の神社規模はわかりませんが、この規模で巫女をたくさん雇えたとは経済的に裕福だったのでしょうね。境内の外れに方形のお墓がありました。「法師了後霊」に並んで「大阿闍梨如雲」と「大阿闍梨弘英不生位」と刻まれいました。「大阿闍梨」の称号は、現代では天台宗系・真言宗系の密教を収めた阿闍梨の中で、最高位の修行僧を指します。天台宗系の大阿闍梨は、千日回峰行を成し遂げた密教僧のみの称号。
お墓の形や古さを見れば、深く遡っても江戸時代以降のようです。現代の千日回峰行に匹敵する山岳修行を収めた方が、2人もこの地に眠っているのか・・・と驚きました。現在、この地に寺院の痕跡はありませんが、明治の神仏分離令以前は神仏習合がデフォルトだったので、密教修行僧がこの地を根拠に修行に励んでいたのかもしれない。
天台宗系密教の大阿闍梨が住む寺院や、千日回峰行で巡る山中の一部を巡った事があるが、険しい山中の如何にも修行の場を感じさせていた。それに比べこの地は、低山や丘の起伏が続く地です。この墓石を見て、とても驚きました。この地のもっと北にも南にも低山ですが山岳地があり、それぞれ修験道の修行地があるのけれど・・・。
r17を西へ。R372〜r567で、8:11「佐保神社」。トイレを拝借しました。トイレでは、サギのギャーギャーの声が多数聞こえていました。トイレから出て横に池があるのかな?と探したらなく、そこから生えている高い木の上にサギの巣がありました。青サギやコサギが飛んできてギャーギャーやっていました。
『祭神:東殿天照皇大神・中殿天児屋根命・西殿大己貴命 旧社殿:坂合神社 旧社格:県社(明治14年指定) 創建:垂仁天皇23年 遷座:養老6年(722) 例祭日:春祭4月16日(湯祭り)・秋祭10月16日 兵庫県加東市社777番地・鎮座』
『佐保神社 由緒
当神社の始まりは、第11代垂仁天皇23年の創建と伝えられていますが、この当時は加西の鎌倉峰に鎮座されていました。 その後、養老6年(722)に現在地に遷座され、延喜式にも所載の古社であります。 当地に遷座された頃は「坂合神社」と呼ばれておりましたが、いつの頃からか「佐保神社」と称されるようになりました。
鎌倉時代には、朝廷や幕府の崇敬を集め隆昌を誇り、尼将軍として有名な北条政子は、八丁四方に内の鳥居、一里四方に外の鳥居を造営させました。 今でも、その中の一基(西の内の鳥居)は加東市鳥居地区に、地名と共に残っております。室町期に入り、度々の騒乱により一時荒廃いたしましたが、江戸時代に至って姫路城主池田輝政公の祈願所として社領10石を寄せられ、さらに幕府より御朱印社領10石を賜わるなど、ようやく復興いたしました。
また明治時代になり、官国弊社に次ぐ近郷唯一の県社の社格を付与されました。なお、旧加東郡社町の名は往古より「佐保社村」と呼ばれ、当神社の門前町として発展してきたことに由来し、北播磨の雄として栄えてまいりました。
現在の本殿は、延享4年(1747)に再建されたもので、三間社流造正面干鳥破風・銅板葺で、幣殿・拝殿・瑞神門とともに、華麗な彫刻で飾られています。
御祭神は、東殿(向って右)天照大神、中殿(中央)天児屋根命、西殿(向って左)大己貴(おおなむち)命の3神であります。
この他境内神社には、恵比寿神社・諏訪神社・八幡神社・神明神社・愛宕神社・金刀比羅宮・稲荷神社・先宮社・天神社などがあります。また境外末社として若宮社があります』
随神門左右には、武者が守護していました。彩色が綺麗でした。境内に「日露戦役記念」石碑が立っていました。
「佐保神社」から西に走り、r204〜8:44「住吉神社」。加古川の土手にある神社でした。本殿を見に行くと、孔雀?の彫刻がありました。首の長い鳥の彫刻は珍しいです。鶴には見えないけど白鳥には見えます。その鳥が獣の彫刻上に乗っており、こんな彫刻は初めて目にしました。拝殿の蟇股の彫刻は、3人の武者でした。これも珍しいし、初めて目にしました。「奥野丸」という貨物船?の絵馬が下がっていました。孔雀彫刻の反対側を見ると、同じく獣の上に鳳凰?が乗っている意匠でした。
枝道を北上します。r145〜r349で、9:02「春日神社」。
『御祭神:武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売大神
人皇34代推古天皇の御宇法道仙人遊行の時、今之五峰山光明寺の麓に武甕槌命に逢へり神、仙人に告て曰く、汝速やかに草創すべしと山の麓に社を造営し、命を勧請し守護神と崇む則、今の春日神社是也。其後、人皇48代称徳天皇の御宇神護景雲、中和州三笠山に垂跡し給ふ春日大明神の一座は武甕槌命也。是に滝野の御社も亦、是に準じ春日大明神と称し奉る。生成化育を旬どり給ひ、寿命長延・安産・家運隆昌・交通安全の守護神と御神徳高く是也。
祭祀:元旦祭1月1日初詣で 節分祭2月3日星祭開運厄除 祈年祭3月 大祓祭7月15日夏越祓茅輪くぐり 秋大祭10月第1日曜日 新嘗祭12月』
蟇股にウサギの彫刻があったり、境内に「下り藤紋」の入った奉納馬の銅像があったり、歴史を感じさせるお宮でした。本殿には雉子?や鹿?の彫刻が入っていた。日露戦役記念石塔があり、戦役従軍者名板があった。「上滝野屋太鼓庫」と書かれた大きな倉庫があった。太鼓神輿が収納されているのでしょうか?社務所を覗きます。
『勝祷(かとう)守 当神社の御祭神は、特に武運長久・勝負運にご利益があり、勝負事(試合・受験・出世・病い)その他諸々の勝負事に勝つ、相手に勝つ、または、自分自身に勝つように祈りを込めたお守りです。
加東市に因んで勝守を勝祷(かとう)守としております』
『蘇民将来子孫之門』の御札がガラスに貼ってあった。『日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。
説話:古くは鎌倉時代中期の卜部兼方『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』
の疫隈国社(えのくまのくにつやしろ。現広島県福山市素盞嗚神社に比定される)の縁起にみえるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むたふ(むとう)のかみ、むとうしん)を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、(一般的・通俗的な説では弟の将来の一族を、)皆殺しにして滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。 from.wiki』
荒ぶる神・素戔嗚命らしい由緒のある民間信仰です。この御札はバイクに貼っていないので購入したかったが、生憎社務所は閉まっていた。
『春日神社・御祭神
武甕槌之命(タケミカズチノミコト):「古事記」には、国譲りの際、アマテラスオオカミの使者としてオオクニヌシノミコトと交渉した神様である。雷や剣、武力を象徴する神様であり、産業発展・武芸向上・国家鎮護等のご利益があるとされる。夕ケミカヅチは雷の神であり、また地震の神とも言われ、地震を引き起こす大なまずの頭を踏みつけ、地震を制御する役割も担っている。
御利益:武道競技の守護・厄除け・縁結び・安産・病気平癒・延命長寿・交通安全・殖産興業・国家鎮護・芸能上達・豊漁・航海安全・五穀豊穣・殖産興業・航海の神・地震を鎮める神
経津主之命(フツヌシノミコト):「日本書紀」の神産みの第6の一書では、イザナミノミコトがカグツチを斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。葦原中国平定ではタケミカズチノミコトとともに出雲へ天降り、オオクニヌシノミコトと国譲りの交渉をしている。
御利益:勝負運・開運招福・災難除け・合格出世・殖産興業・国家鎮護・安産・病気平癒・縁結び・延命長寿・交通安全・五穀豊穣
天児屋根命(アメノコヤネノミコト):日本神話における天岩屋伝説ではアマテラスオオカミがこもった岩屋の前で祝詞を唱える役目を担ったとされる。後の天孫降臨の際にはアマテラスオオカミの孫で天皇の直接の祖先とされるニニギに付き従い地上に降り古代日本において神事、祭祀を司ったとされる。
御利益:受験・入試合格・学業成就・合格出世・開運厄除・子孫繁栄・国家安泰・諸願成就
比売大神(ヒメオオカミ):アメノコヤネノミコトの妻とされ、良妻賢母の神として信仰されている。
御利益:家内安全・縁結び・子授け・子孫繁栄・安産・延命長寿・病気平癒(天押雲根命(アマエノオシクモネノミコト 天児屋根の命・比売大神の子孫神)):当社御祭神図に記されている神で、アメノコヤネノミコト・ヒメオオカミの子孫神である。正しい知恵を授けてくれるといわれている。アメノコヤネノミコトと共に藤原家の祖神である。
御利益:受験・入試合格・学業成就・子孫繁栄・国家安泰』
r349を全国高校駅伝の常連校「西脇工業高校」まで北上し、右折してr34。左折してr346で北上します。「杉原川」を渡り、道なりにR427で北上。
9:42「安田稲荷神社」。広い境内の中央に「随神門」がありました。「農村婦人の家」がありました。中川宮大工一統作の彫刻でした。
『鎮座地:多可郡中区中安田字村東509番地1
氏子区域:安田郷4町(集落)中区西安田・中安田・東安田・西脇市羽安町
御祭神:大国主命・稲倉魂命(うかのみたまのみこと)・武甕槌命
御神徳:五穀豊穣・商売繁盛・殖産興業
由緒:当初は、西安田の「イヤカ谷」(現在、大歳神社の西、城山と伝えられている山の東側ふもと)にあったとされています。その後、暦応3年(1340)11月に西安田円満寺の東側、「長石ヶ谷」(現「宮ケ谷」)に遷座しました。現在も遺構が残る宮ケ谷に270年余り鎮座していた社殿は、元和3年(1617)2月に焼失しましたが、同年12月、中安田の現在地に移して新しく建て替えられました。明治7年(1874)2月、新しい神社制度になり、「村社」の社格が与えられました。昭和21年(1946)12月、戦後の新しい制度で宗教法人「稲荷神社」となり、現在に至っています。
境内社:名越神社(御祭神・三筒男命みつつおのみこと)・八幡神社(御祭神・品太和気命ほんだわけのみこと)・天満神社(御祭神・菅原道真)
主な祭礼:1月1日歳旦祭 2月3日節分祭 2月4日立春祭 3月初旬祈年祭(春の卯の日祭) 6月下旬早上り(さのぼり)祭 10月10日に近い土日秋季大祭 11月下旬新嘗祭(秋の卯の日祭) 12月31日大祓祭』
10:02「法幢寺」。『大雄山宝幢禅寺(だいおうさんほうどうぜんじ) 臨済宗妙心寺派。本尊は聖観世音菩薩ですが、開創当時は地蔵菩薩で、夢窓国師の開山、足利尊氏建立の精舎と伝えられていますが、詳かではありません。 当寺所蔵の縁起によりますと、「ある日、里人の夢に夢窓国師が現われ、近く大愚禅師が来られるので再建するよう告げられた。寛永11年(1634)丹波国慧日寺から大愚禅師が来られ、釈迦堂を始め、方丈・鐘楼など建立され、法燈が再び輝き渡った」と記されています。
慶安元年(1648)8月、3代将軍家光公より寺領20石、山林一円、諸役免除の朱印状を賜わり、現在も保存されています。 また、徳川代々の将軍よりも免状を与えられたことにより、寺殿の瓦には「葵」の紋が刻まれています。 なお、梵鐘・鐘楼は再建当時のものと伝えられでいます』
寺領に広い池がありました。たんぽぽがたくさん咲いています。本堂に向かうと、こちらも中川一統作の彫刻がありました。龍のひげが針金でした。
バイクに戻り南下し、枝道を西に走り、杉原川を渡り、右折し北上します。再び杉原川を北に渡り、10:28「大歳金刀比羅神社」。
『ご祭神:大歳神・大巳貴命(おおむなちのかみ)・保食神(うけもちのかみ)・事代主命
往古は鍛冶の神、天目一命が奉祀されていたと推測されますが、大歳神社は延宝検地帳にも広大な神域が記されており、慶長年代以前の創始と考えられます。寛政6年(1795)2月、当村の藤井孫右衛門が諸病平癒のため、讃岐琴平宮より勧請したものです。明治44年1月、在来の大歳神社に合祀、大歳金比羅神社と改称しました。社殿は荘厳な神殿造りで近隣稀な威容を保っています。
金刀比羅祭礼は、姫路の総社祭、北条の住吉神社祭と併せ、「播州三大祭」と称せられ、かつて10万余の参拝者で賑わい、鍛冶屋線の列車も5〜6輌編成で、両三日終日賑わったものです。なお、人り口の常夜灯は、天保2年(1831)9月の建立であり、万燈瀧は金刀比羅講引退記念などと記され、比較的新しいものもあります』
Pがある立派な神社で、灯籠の並ぶ参道を歩いていくと、右に錦鯉の泳ぐ池がありました。ここは憩いの場です。僕の足音を感じ、多くの鯉が橋の下に集まって来ました。現在は廃線になっている「JR鍛冶屋線」の終点「鍛冶屋駅」が、このお宮すぐ近くで、西脇駅からこのお宮まで結んでいた鉄道路線だったようです。拝殿には多くの絵馬が下がっていた。本殿には金毘羅の「金」の文字が入り、千木がかっこよく天を突いていた。彫刻が見事で、蟇股の龍の動きがダイナミックで大きな口を開けていました。龍の上に藪睨みに見える大きな顔があります。木鼻の獅子?には尖った立髪が多数首を飾っていた。脇障子や縁の彫刻も細かく見どころでした。
摂社に、「弥都波能売神社」がありました。「弥都波能売神(みづはのめのかみ」は、「日本書紀」では「罔象女神(みつはのめのかみ)」で、伊耶那美命が「火の神・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」を産んで火傷してお隠れになった時、生まれた水の神です。この神を祭神にした神社は少なく、おおっと思った。
バイクに戻り、北上しr86に乗り、「小野尻トンネル」を西に抜けます。
10:57「大歳神社」。『市指定文化財・石造鳥居 昭和54年3月13日指定 所有者:大歳神社
この鳥居は、高さ3.54m・柱の下部芯々2.70mの明神鳥居であるが島木の鼻は鉛直に截(き)ってあり、笠木(かさぎ)両端には反増(そりまし)をもち、その鼻上面に鎬(しのぎ)を作る。向って左の柱背面に宝永5年(1708)の造立年を、右の柱背面には寄進者を記している。 左右背面の銘の書体が異なるようにも見えるが、造立以来ほとんど損傷もなく建っている石造の貴重な鳥居である。左柱銘:宝永五戊子年正月吉日建之 右柱銘:小野尻村氏子中』
拝殿の蟇股には龍の彫刻があり、口を開けた龍が見事でした。祝詞が書かれた板が掲げられていた。和歌山市周辺の神社に似ています。本殿屋根の千木を見上げると、水平切りされており、大歳神社の祭神・大歳神が男神なのに・・・と思いました。時々、「男神=垂直、女神=水平」が崩れている所がありますね。木鼻に玉眼が入っていたり、彫刻が素晴らしかった。
r86を西に走り、11:15「牧山神社」。随神門をくぐり、境内に入ります。拝殿の龍は大きな口を開け、針金ひげでした。中井権次一統作のようです。縁の彫刻に亀?の彫刻が入っていました。珍しい。
少し走り、11:25「延命寺」。『仏は外に求めず、仏は内に求む』。石段を上がり境内に入ります。山門前に、狛犬のように右に四郎・左に九郎のワンちゃんの像が守っていました。僧坊の屋根の下に、自転車のリム・ビール缶・ポカリ管・パイプで手作りした水車&風車がありました。境内から外界を見ると、緑の景色が広がり気持ちが良かった。
『菩提樹(聖樹) シナノキ科の落葉喬木葉は卯月形でとがり、夏には淡黄色の花を開く。球形の小さくて堅い実を結びその核で数珠を作る。釈尊がこの樹の下で、端座瞑想すること50日間12月8日、暁の明星と共に成道された』
『沙羅の樹 釈尊が沙羅樹の林中で涅槃に入った時、その四方に各2本の高い沙羅樹があった。それで双樹という。東方のものを常と無常、西方のものを我と無我、南方のものを楽と無楽、北方のものを浄と不浄、に例えた。皆1つは枯れ、1つは栄えた。釈尊が涅槃に入り終わると、東西の二双樹と南北の二双樹がそれぞれ一樹となり、垂れて床を覆い、木の色が白変して枯れたという。
平家物語に、「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理」とある。この花が咲いたり散ったりする様は盛んなもの、必ず衰える真理を表す』
鐘楼があったので、ゴーン、手を合わせ両親に感謝の言葉を心の中で唱えました。境内の横から更に石段が上がっていたので、登ってみました。片方は低い白壁、もう一方は紫陽花、来月は綺麗な花を咲かせるのでしょう。社名はありませんでしたが、神仏習合していた時代の名残りのようです。
バイクに戻り、r293〜r86で、11:55「大歳神社」。境内にはいくつもの覆屋に守られた摂社があった。覆屋に守られた本殿は、鳳凰や龍などの彫刻が良かった。鶴や鴨?の彫刻もあった。鴨は水面に佇む姿と飛翔する姿でした。「手挟み」にも花の彫刻。バイクに戻ります。鳥居の前の家が廃屋状態で、無残な姿をさらけ出していました。
r86に戻り西へ。大きな樹があったので、12:12緊急停止し「大ケヤキ」。r86を西に走り、右折して枝道を山に向かって南下します。12:19「小新屋観音」。
『小新屋観音(こにやかんのん)
小新屋観音は、永正7年(1510)この地を領していた、岩尾城主・和田日向守斎頼(ときより)公の霊夢で、「我年久舗石金山ニアリ今ヨリ鍵掛尾ノ麓清水ヲ前ニシテ安置セヨ子孫迄守護セント御告ゲ有リテ夢覚メヌ、或夜、石金山二紫雲タナビキ観世音石船ニツニ乗り給ヒ鍵掛尾ノ麓へ飛ビ給フ」城主誠御告げなりと四問四面の神殿造の本堂と小庵を建立、自ら「観音院」と名付け格式高い祈願所としたのが基まりで、其の後幾多の変遷を経て、今では霊験新な観音様として親しまれ善男善女のお参りが絶えません。
御本尊:十一面千手観音(春日の作) 両脇仏:毘沙門(弘法大師作) 不動尊(智証大師作) 御開帳:33年毎 小新屋十一面千手観音御詠歌:ゆきぐれて、ここに宿かる巡礼か、ながよの夢も覚まし給われ』
沢を渡ってお堂の境内に入りました、奥に向かう小径があり入っていくと、人工のパイプ滝修行場がありました。現役の修験道の修行場のようです。パイプ滝の横に不動明王が佇んでいました。『行場 願主は籠り堂に籠り、観音堂での祈りとこの滝に打たれて行をしました。 小新屋観音保存会』
『石船由来 永正年間、城主和田日向守。観音様ガ夢見セアリ、西安田円満寺ヨリ観音様ガ不動明王・増長天王ニ守ラレ、石金山ヨリ荒イ谷川ヲ石船デ御下リニナリ緑堂。清水流レル此ノ地ヲ安地ト定メ、諸人ヲ御救ニナリ、観音様由来記ニヨレバ、アツタ一船ガ紛失シテイタ。昭和58年の大水害デ発見サレ此ノ位置ニ安置ス。 小新屋観世音』
『いぼの神 いぼでお悩みの方、ここで箒を授かり、毎日いぼを掃くと知らない内に消えると伝えられています。完治後は、新しい箒を作り授かったものと一緒に奉納して下さい。 小新屋観音保存会』
観音堂縁の上に手押し車が置かれていました。『手押し車(片引車) 大正12年、京都梅ケ畑一ノ瀬村より、足に障害を持つ娘を手押し車に乗せた父娘が、この里を訪れ観音堂を尋ねました。村人は観音堂の岩謂れを話した所、父娘は籠り堂に籠もり、日夜祈りに身を捧げ、1ヶ月ほど経ったある日、お堂前の桜の木につかまりながらも歩けるようになり、父娘は観音様のお陰と涙して喜び合い、日毎に快方に向かいました。帰路につく際、この手押し車を奉納したものです。 小新屋観音保存会』
バイクに戻り、沢道を下ります。パトカーが来た時と同じところに、まだ止まっています。警官がパトカー角の道にチョークで線を引いています。もう1台車が止まっているので、パトカーと事故を起こしたのでしょうか?来た時はいなかったパトカーが更に2台止まっています。こんな交通量のない道で事故なんだ。r86に戻り、12:43「日吉神社」。『祭神:大山祇命 相殿:国狭槌尊(くにのさつちのみこと)・豊斟渟尊(とよくんぬのみこと)・伊弉諾尊・伊弉冉尊大山祇命は、素戔嗚尊の御孫にして地方開拓に神功高き神である他は、何れも我国創建の神々である。
由緒:当社は滋賀県元官幣大社・日吉神社の御分霊を奉斎せし社で、本殿は宝暦11年巳年9月に改築せられ、拝殿及び鳥居瑞垣等は、昭和3年戌辰年10月今上天皇御大典記念として建設せしものである』
境内に入ると、本殿裏に主鳥居が螺旋状に上がっていた。稲荷宮でしょう。上がりませんでした。拝殿の蟇股に後ろを振り返っている獅子、立体的な龍、みな立体的で見事な彫刻でした。本殿を見ると、更に見事な彫刻で。蟇股・木鼻はもとより脇障子も見事でした。
r77に出ました。「円応教本部」の横を走りました。ここの駐車場に、鯉のぼりが多数泳いでいました。
13:00「賀茂神社」。絵馬殿には彩色の落ちた絵馬が1枚下がり、鬼瓦が置かれていました。以前本殿の上を守っていたのでしょう。ここも彫刻が素晴らしかった。木鼻の下に、鳩?が止まっているのと松の彫刻がありました。珍しいな。
JR加古川線沿いに西に走り、JR谷川駅横を走り、JR福知山線沿いを西に走ります。r77でJRを南に越え、篠山川北側を西に走り、13:17「大歳神社」。
『大河のよめがばし
かかし大河に板橋がありました。幼い頃、助けた狐の親子の力で、おみっちゃんは、りっぱな花嫁衣装をきて、かごにのり、ここの板橋を渡りました。にぎやかな嫁入り行列を見送った村人たちはおみっちゃんを祝福しました。それ以来、この板橋を「よめがばし」といい、娘の嫁入りのときはこの板橋を渡り、その幸せを祈ったということです。
河川改修で川幅が拡がっで位置がわかりにくくなりました。
丹波のかかしばなし(第1集より)』
本殿の蟇股の彫刻を見上げると、太さを感じる龍でした。木鼻の彫刻は兎でした。別の龍は鎌首をグーンと前面に飛び出ており、かなり立体的でした。屋根を支える組物の斗きょうも龍の彫刻になっていました。
r77で篠山川沿いを東進します。R176を渡り、舞鶴道をくぐり、篠山市街地に入り、右折してr49で南下開始です。美濃坂峠・標高500mを越えて三田市へ。「永澤寺」横を走り、三田市最高峰・永澤寺峠・標高580mを越えて下ります。
r49で南下し、左折してr37〜r323で東進し、右折して「波豆川」沿いを南下しました。ここで、ガソリンメーターが点滅しているのに気づきました。CB400は点滅し始めると、残量あと4Lです。4L×24km=96km走る計算ですので平気でしょうが、篠山で入れておけばよかった。
r68を渡り、「西谷農協大池」交差点〜r33〜r325で「長尾山トンネル」を抜けて、15:04「伊丹産業セルフ口谷SS」で給油。336km/13.96L=24.1km/L。15:11帰宅。


2020/5/13
先週末は天気が良くなく自宅と仕事場生活だったので、天気予報が良かったこの日お休みしてツーリングに出ました。前回、不覚のバッテリー上がりで断念したR482小代〜若桜区間に再チャレンジします。バッテリー上がりでレッカーされた「招き猫CB400SB」は、ホンダドリームさんの充電で復活していますが、新調したバッテリーがまだセットされていないので、「里山VTR250」を倉庫から出しました。
5:45出発し、長尾山トンネル〜r325〜r33〜r68〜r570で、「JR新三田駅」まで走り、R176にチェンジし北上します。「丹波篠山口」を通過し、最後は道なりにr7に乗り、「氷上IC」から「北近畿豊岡道」に乗りました。この道路はR483と国道ナンバーが振られており、「遠阪トンネル」区間以外は無料です。7:43「道の駅但馬のまほろば」でトイレ休憩しました。
『道の駅・但馬のまほろば(朝来市) 古くから交通の要衝として栄えた当地域には、古代・中近世・近代の歴史遺産が数多く残されています。中でも北近畿豊岡自動車道の整備に伴い発掘された「茶すり山古墳」は、近畿最大(直径約90m)の円墳で、中央政権(ヤマト政権)と強く結びついた首長の墓であると言われ、国史跡に指定されています。
古事記の倭武尊(やまとたけるのみこと)の歌にも詠まれている「まほろば」は「美しく優れた所」を意味し、道の駅「但馬のまほろば」には当時を偲び古代政庁をモチーフとした施設が配置されています。 古代の雰囲気を感じながらゆったりとお過ごしください』
更に無料区間を北上し、終点「日高神鍋高原IC」で下車し、突き当りを左折してR482を西進します。8:28「ミニストップ日高久田谷店」で、「フルーツオーレ500ml108円+バナナ3本198円=330円」購入。
R482を更に西に走り、枝道に左折し、道なりに「田の口栃本林道」に入ります。道がだんだん細くなり、森の中に入っていく林道の入口に差し掛かると、ワクワクします。
8:43「大わらじ神社」。「大ワラジ」が林道脇の木に下がっており、緊急停止しました。道を挟んで大きな石灯籠がありました。
『大ワラジ奉納の由来 田ノ口区には、古来より1月15日に村人こぞって稲藁を持ち寄り大ワラジと大ゾウリを編み、サエノカミに奉納する伝統行事がある。 賽神・妻神・幸神・障神・斎神道祖神はいずれも、サエノカミで日本に於ける土俗信仰の神として、崇拝されている。
この行事は、現在地に奉られた自然石を御神体としたサエノカミに、大ワラジと大ゾウリを片方ずつ作り、そばに生える杉の大木に吊し神事が行われる。この行事の起源やいわれについては記録は残っていないが足の病気を治すために行われる事が多く、神の履物として奉納される。
又、旅の安全・区への災難の潜入を防ぎ病気の箇所と御神体とを手で撫でながら祈願し、成就の時は男性はワラジ・女性はゾウリを作り、お礼に奉納している。現在では、下半身の病気・厄除けとしてだけでなく家内安全・交通安全の祈願・又、小児の守護神として、小石を奉納する人も多い』
8:49、「清瀧神社」。『主祭神・伊邪那岐尊 由緒沿革
創立年月不詳。元禄2年(1689)社殿を再建。
明治6年(1873)10月村社となる。
明治14年(1881)社殿を改築。
明治21年(1888)4月15日部落の大火に社殿類焼。
明治22年(1889)6月28日に神殿を再興。
昭和6年(1931)本殿の屋根替え(銅板葺)
境内神社:稲荷大神・八柱大神・山祗大神・胞衣大神・清所大神・石竜大神』
小ぶりの本殿でしたが、彫刻は素晴らしかった。ただ、沢が横を流れて森の中なので湿度が高いのだろう痛み気味でした。シャガが群生しており、サギソウと並んで5月に咲く花として好きな花で嬉しかった。
バイクに戻り、林道を上がり、峠を越えR482側に下ります。下った所に獣避けゲートがありました。開閉して里側に出ます。ここにもシャガの群生があった。R482に出て左折。
9:17「道の駅・神鍋高原」。バイクを置いて、神鍋スキー場を見に行きます。小学生の時、ここで初めてスキーを経験しました。大学生になり、ヨット部で資金稼ぎのためにスキーツアーをやっていたので再びスキーを楽しむようになり、友人と会社を作ってスキーツアーをした。卒業後も冬は毎週スキー場に通うスキーフリークをしていた。僕のスキー好きはこの地から始まりました。懐かしいな。
『植物の採取はやめましょう! 神鍋山周辺は国定公園の特別地域に指定され、次の行為は法律で厳しく禁止されています。 希少植物の採取 溶岩などの採取 希少植物とは、ウバユリ・ヤマジノホトトギス・ナンバンギセル等日高神鍋観光協会・神鍋山野草を愛でる会・西気地区区長会』
『神鍋山(標高469.5m)は、約25.000年前に噴火した近畿で最も若い火山です。ここから30分ほどで登ることができ、山頂には壮大な噴火口があります。噴火口を一望できる噴火口展望東屋、観光客の安全・地域振興・降雪を祈願し建立された神鍋神社、見晴らしの良い東側山頂など、見どころいっぱいのお鉢巡り(一周750m)もおすすめです』
R482からすぐにr712にチェンジし、交通量のない田舎道を北上します。藤の紫が沿道に綺麗に咲いています。5月の花の代表です。樹花・タニウツギがピンクの花を咲かせています。
「床瀬」まで北上し、「林道」の案内板に誘われ、「林道奥山床瀬線」に入ります。畑の中を走る農道を走り標高を上げていきます。ツーリングマップルTMには未舗装となっていますが舗装路が続きます。やがて森の中に入っていきます。標高が上がり尾根に出ると視界が広がる所がありました。バイクを停めて激写タイム。藤が紫の花を咲かせています。山並みが遠くまで広がっています。落ち枝・落ち葉・落石、木が倒れ道が半分塞がっていたり・・・でも舗装は綺麗な状態で続いています。460mの峠を越え、西側に下ります。里山に下りました。
10:10三叉路に出て、林道終了。ここからr135です。北上します。10:24「桑原神社大イチョウ」。『郷土記念物・桑原神社の大イチョウ 指定対象:イチョウ1本 平成5年1月19日指定 秋に葉が全部落ちると翌日には雪が降るという言い伝えがあり、地域の人々から神木として崇められている。イチョウとしては県内第3位の巨木である』
『兵庫県指定天然記念物・桑原本の大イチョウ 桑原神社境内に生育するイチョウ。県内のイチョウとしては、樹高44mは県内第1位・胸高周囲8.2mは県内第3位』
小ぶりの本殿でしたが、彫刻が素晴らしい。唐破風の懸魚は鳳凰で、蟇股は生き生きした動きのある龍には針金ヒゲがあり、中井権次一統の作のようです。鶴や鷲も彫られています。
『京都国立博物館保管 当、桑原神社には古くから伝わる行道面が9面(菩薩面7面・僧形面2面)あり、昭和42年兵庫県指定の文化財となっている。以前は地区で保管していたが現在では姫路の県立歴史博物館に菩薩面7面と京都の国立博物館に3面が保管されている。これらの面は神事に使われたと伝えられているが、明らかでなく、伝来についても不明である。
1号面(平安末期)・僧形面(鎌倉期)・僧形面(鎌倉期)・2号面(鎌倉前期)・3号面(鎌倉前期)・4号面(鎌倉期)・5号面(鎌倉期)・6号面(鎌倉期)・7号面(鎌倉期)』
大銀杏は巨大で、今までの人生で見た中で最も大きなイチョウでした。若葉が若く多く、まだまだ樹勢は盛んでした。
バイクに戻り、r135・竹野川沿いを下り北上します。10:45「稲荷社」。稲荷社なので、他の多くの稲荷社同様あっさりした社殿だろうと想像していましたが、意外に彫刻が立派で木鼻の獅子の顔が横を向いており、蟇股の龍のヒゲが針金で、中井権次一統作のようです。龍の爪や歯が白く、唐破風の懸魚の鳳凰のトサカ(飾冠)が赤く、完成時の彩色はどんなだったのだろうと見たくなりました。蟇股の龍の上に力士が屋根を持ち上げていました。竹野川からカジカの鳴き声が聞こえます。このBGMはいいな。
r135を北上し、左折してR178に乗って西進します。「平家之史跡・畑」の石碑が立っていました。源平合戦に破れた平家の公達が、隠れ住んだ地のようです。清盛の弟・経盛が隠れ住んだ戸倉峠の西「若桜・落折」の地を訪問したことがあります。墓石には「平家」姓、表札にも「平家」姓が並び、平家の家紋「揚羽蝶紋」もあちこちに見え、これは凄いと思いました。その地から見れば、ここは北に位置する山深い地。日本三大修験修行地の1つなので、平家は隠れ棲んだと言いながら再起に向け重要な地を押さえたように見えます。
11:16「三川山蔵王大権現」。『頌徳 三川山洗心会は、昭和32年3月、三川山弥勒寺住職石部賢道掃僧正に依って開基され、昭和37年8月山陰に於いて初めての企画であり、当時としては時代の最先端を行く全行程を貸切バスに依る西国33ヶ所、本四国88ヶ所、日本百観音及び昔から諸国に散在する有名札所の巡礼団体を組織し、亦廃絶同様の但馬西国33ヶ所の復興、小豆島秋季団体巡拝の道を開くなど、各霊場に引導されし同行は数知れず皆それぞれに勝利をこうむり、今日の如く諸国巡礼隆盛の基礎を築かれしは、正に仏恩報酬の浄行と言うべく称うべし。
昭和59年は、宗祖弘法大師御入定1150年御遠忌に相当し、また三川山洗心会開基30周年を記念して、洗心会本部が10余年の年月を費やして各霊場より拝受せし御霊砂をもって、西日本1ヶ所の日本188ヶ所御砂踏み霊場を、三川山大権現浄域の一隅に開創して、神変加持大師及びぽっくり尊を本尊として勧請し、又盤若の滝を開いて、八大剣龍王を祭り、御霊砂を埋蔵して今正に開眼供養の法要を修す。乃至法界平等利益』
『三川山では毎年3月と11月の2回左のとおり、小豆島88ヶ所巡拝の旅をつづけています。おさそい合せの上、1人でも多くご参加下さい。
全行程をレンタカーで、楽に歩かずにお詣りができます。
1、3月2〜6日春の小豆島巡拝 4泊5日で奥之院も含めて93ヵ所全札所の巡拝と観光をいたします。
2、11月5〜7日秋の小豆島巡拝 2泊3日づつ3回に分けて、右と同様全札所の巡拝と寒霞渓のもみじ見物をいたします。
3、巡拝奉納全その他くわしくは左記別院にお電話かお手紙を下さい。案内書をお送りいたします。
669-65 城崎郡香住町小原616 遍照寺中 三川山別院 三川山洸心会0796-36-3750・3041 (各地、先達・世話人)』
三川山蔵王堂には、「本尊:金剛蔵王大権現 脇士:毘沙門天王・吉祥天王」がおられるようです。彫刻も素晴らしい。唐破風の懸魚には鳳凰、蟇股には鶴と龍の2段。鐘楼が下がっていたので、音色を楽しみます。
『但馬国総祈願所・三川山縁起鈔
当山は今を去ること、1300有余年の昔、第40代天武天皇の白鳳3年、役行者神変大菩薩に依って開創されし古霊場であり、御本尊は菩薩一刀三礼の御作にして和州吉野山・伯州三徳山と共に蔵王権現の日本三山の一なり。
後、第45代聖武の御世を経て第49代光仁天皇の宝亀元年に至りて1万余坪の聖域に十間四面の荘麗なる蔵王堂を中心として諸堂・塔頭・宝蔵・僧房等・伽藍18宇悉く落慶し、聖武・光仁両天皇様の勅願に依る山陰鎮護の祈願道場と定められる。
以来、山陰屈指の霊場、但馬國総祈願所として、歴代國主・諸公をはじめ一般の尊崇いよいよ篤く降盛を極めし権現様であリ、また神変御流修験道の根本道場として、奥の院に散在する行場、100余町歩余りに、坊舎50余宇、白衣の行者常住して修行にはげみしと言う。
第105代後奈良天皇の天文7年雷火に依り奥の院を除く、伽藍悉く山火を伴って焼失す。後、十五字の諸建造物の再建なるも天保3年3月、空前の南風吹き荒れ、全山5メートルを越す積雪、一時に溶け、現在の本坊より約1.5km奥にある通称「底無しの沼」「蛇抜け」と称する山岳の崩壊に依り発生せる。但馬有史以釆と言われる大山津波(土石流)のために、1万余坪の境内、十間四面の蔵王堂・伽藍諸堂・宝蔵・大梵鐘その他すべて15宇、流失または地底深く埋没し、山津波は13km下流の佐津の海を黄土の海に染めしと言う。
時の出石城主仙石、村岡城主山名の両公、再興を計りしも旧観に復するを得ず、時あたかも明治維新に際会し、時の政府の排佛毀釈の暴拳に依り、山門の衰願その極に達す。時の住職寛光上人、現在の蔵王堂その他を再建するも、当事者その方法を誤りし為に反て苦境に堕し、多くの寺有財産を失い、蔵王堂・回廊・庫裡・客殿、その他今似て流失以前の規模に復せず。以来、百数十年、歴代法主あらゆる苦難の道を辿りながら寺門の興隆をはかリ今日に至るも世は常に有為転変。山以来、今日まで1300有余年いくたびかの栄枯盛衰をくリ返し、今は昔日の輪奐の美を想像する「よすが」もなし。されど、日本三大蔵王権現の一と言われる。御本尊様は御安泰にして霊験放光赫々として輝き、曽ては5月3日の大祭は、文字通り但馬三大祭の隨一にして、境内も道路も万余の人で埋まり、身動きもできぬ有様なりしが時代の変遷、心の動き、いかんともいたし方なし。
平成4年2月には現住法主80才の高齢をおして、インドの(仏跡)お釈迦様の御遺跡を捨身行の巡礼をなし、念願の御霊砂を拝受して帰寺、霊場三川山も道路・駐車場・公園その他諸設備の完成と相まって、権現様ぽっくり尊・とげぬき大師・奥之院の御分身尊、西日本1ヶ所の日本188ヶ所のお砂踏みに、遠近より大勢の方々のお詣りがあり、また国定公園・県立公園・ひょうご森林浴公園50選の三川山の大自然を求めて入山する人々も、おいおいと増して近き将来に曽ての三川山大権現の御霊験御威光の盛況は期して待つべしと』
ここの標高は、218mと書かれていました。『氷ノ山後山那岐山国定公園 三川山登山口 山頂を経て神鍋高原に至る』
『氷ノ山・後山・那岐山国定公園 三川山(887.8m)は、香住町の屋根と言われる町の最高峰で、ブナ・トチ・ヒメコマツの原生林に覆われた名山である。山腹にある三川権現は、675年に役行者によって開創されたと言われる由緒ある古刹で、大和の大峰山・伯耆の三徳山とともに日本三大権現の1つとして有名である。5月3日の例祭には全国から山伏や行者が集まり、盛大に護摩供養が行われる。登山道の途中には三川権現の奥の院があり、春は新緑やシャクナゲの花が咲き乱れ、秋には緑・赤・黄の色とりどりに変化する自然の装いが紅葉の名所として利用者に親しまれている』
更に奥に舗装路が進んでいるので、「奥之院」に行けるかな?と思い、バイクで奥に進みます。すぐに可愛そうな道になり、未舗装へ。バイクを置いて歩いて行くことにします。森に入ってすぐ、「入山禁止」の看板が立っていました。仕方なくバイクに戻り、r256を戻ります。
12:04、「平家の史跡・畑」地区まで戻りました。猪の罠が置いてありました。エサとして米ぬかや芋が置いてありました。12:16「セルフBN香住南」で給油。198km/6.45L=30.7km/L。ここから、r4で南下開始です。自宅から最遠部なので、ここから帰路です。12:28「大乗寺」。山門の木鼻の獅子の彫刻の顔が斜め前を向いています。これは、中川一統の作かもしれない。猿・ウサギやトビウオ?もいました。龍の彫刻に針金ヒゲがありました。ビンゴ!
中央門が開いておらず、横の通用門から入ろうと思ったら、『新型コロナウイルス内拝対応について 障壁画内拝は、休業要請対象施設の範疇に該当する為、兵庫県の要請に従い、当面の間拝覧中止とします。(境内諸堂の参拝は可能です) ご理解の程、よろしくお願い申し上げます』と掲示されていました。江戸時代、丸山応挙が逗留し、お礼に多くの壁画を残していた寺院で有名だったので、壁画拝観停止は残念です。
再訪問の機会を持とうと、伽藍拝観も止めてPに戻りました。「円山菓寮」というお菓子屋さん?「芭蕉庵」というレストランがありました。
『大乗寺(応挙寺) 別名を応挙寺とも呼ばれており、修行中の円山応挙が住職に援助を受けた恩返しとして、その一門とともに、客殿に描いた襖絵などが重要文化財として多数保存され、寺全体がさながら円山派の美術館となっています。天平17年(745)に創建された、但馬地方でも有数の古刹です。
但馬松原 三田浜周辺の海岸には、松島・弁天島・鉄砲島・兄弟赤島などの島々が点在し、その景観は日本三景の1つ、三陸海岸の松島のごとくすばらしいので但馬松島と呼ばれています。ここより東の今子浦までは、国指定の名勝香住海岸の景勝地となっています』
12:46「椋橋神社」。左横に寺院があります。明治維新以前の神仏習合スタイルそのままでした。まず神社に参ろうと参道を進むと、大悲殿(観音堂)が右側にありました。「堂内に入ってお参り下さい」、靴を脱いで上がると、「高野山真言宗遍照寺」の額が下がっていた。御本尊は、「桔梗観音・十一面尊」でした。
次に、右に「大師堂」がありました。蟇股の龍の彫刻が立体的で素晴らしかった。ヒゲが針金だったので、中川一統作のようです。獅子や鳩の彫刻もありました。
『大師堂 真言宗開祖弘法大師をお祀りしています。 下足は、階段下で脱いでお参り下さい』。次に「薬師堂」がありました。
『祭神・伊香色雄命 古事記・日本書紀に記されている男神で、物部氏の祖とされる饒速日尊(素戔嗚尊の子)6世の孫。 第10代崇神天皇の御代に疫病が大流行し、多くの民人が死んだ。天皇が大いに愁い、神祇を祀ったところ、疫病は治まり天下は泰平になったとある。その神々の中の一柱の神である。
なお、伊香色雄命を祭神として祀られている神社は、他に辛国神社(大阪府藤井寺市)。伊加加志神社(徳島県吉野川市)・伊加奈志神社(愛媛県今治市)等がある。 椋橋神社について、同じ名を持つ椋橋総社(神社)が大阪府豊中市庄本町にあり、毎年盛大に例祭が行われている。祭神は素戔嗚尊で鯉に乗って神崎川を遡り当地に鎮座した。その鯉はそこで力尽き、現在鯉塚として祀られているという本神社と同様の伝説が残っている』
『椋橋(くらはし)神社縁起
祭神:伊香色雄命(いかがしこおのみこと・神饒日(にぎはやび)6世の孫)社格:式内神社(延喜式神名帳に列す)
例祭:古来10月9日であったが、現在は同月第2日曜に行われている。
伝説によると、伊香色雄命という神様が鮭に乗って谷田川を遡り、小原村で降りた。そして宮谷口にやって来て、ここが私の居る所だと鎮座し、小原大明神と唱えた。神様の乗った鮭は谷田川を遡って七味郡山田村(現在の香美町村岡区山田)に着き、鮭大明神となって信仰された。
国司文書によれば、「人皇40代天武天皇白鳳2年(662)8月、椋橋部連小柄が美含郡司となって府を長井郷においた。同13年秋同氏がその祖、伊香色雄命を小原丘に祀り氏神と為す」とある。これが、当社の設立である。なお、椋橋部小柄は伊香色雄命16世の孫である。 兵庫県神社誌 香住地誌』
本殿の木鼻には玉眼の入った彫刻で、小ぶりながら見事でした。神社参道左側の寺院「遍照寺」エリアに入ります。池があり、立派な大きさの錦鯉が10匹ほど泳いでいた。循環しているのか、池の上から水が流れ水音が心地良い。
r4に戻り、南下します。酒造煙突が目に入りストップ。「香住鶴」という酒造会社でした。r4沿いに流れている矢田川河原に「弁天淵」の看板が立っていました。
『かつての弁天淵
昭和30年頃の弁天淵の写真です。この弁天さんの裏側には深さ5mから7mもある大きな淵が渦を巻いておりました。(今はその面影はありません)そこには多くの魚が棲んでおり、獲れたアユの味は格別で、多くの釣り人でにぎわう、矢田川の名所でもありました。
弁天淵の下側の小さな岩で、飛び込みをして遊ぶ矢田川の原風景です。昭和30〜40年頃は多くの子どもたちが澄みきった弁天淵に飛び込み、夏を満喫して遊んだものです。今はなつかしい昔話です。 小原区』
『弁天さんについて
七福神のなかで唯一の女神として知られ、福徳・諸芸能上達の神として信仰されています。 弁天さんはもともとインドの「水」の神様がルーツのようです。大河がもたらす豊穣な恵みが女神となり、さらさらと流れる河の音が音楽を奏でるようだとの連想から音楽の女神ともなっています。 さらに、弁天さんは弁才天・弁財天といわれ、「弁天さんにお参りし、お金を洗うと財産が増え御利益がある」ともいわれております。
小原の弁天さんのいわれ
矢田川沿いに暮らす多くの村人は川(水)が田畑や魚などにもたらす大きな恵みに感謝の誠を捧げてきました。そしてここに弁天さんが祀ってあるのは、矢田川が洪水で氾濫した時代、先人たちは「川沿いの村々を守ってくださる神様」として崇めてきたからです。更に、この弁天さんは元気な子どもの成長をかなえて下さる神様としても親しまれてきました。特に、「夜泣きのひどい子は小原の弁天さんにお参りすれば夜泣きがやみ、元気に健やかに育つ」という、いわれのある弁天さんでもあります。 小原区』
バイクに戻ろうと河原を歩いていたら、鹿の糞が落ちていました。こんなところに鹿・・・と驚きました。少し走って、「三柱神社」。13:29「荒御霊神社」。境内に、「村岡町名木・タブノキ」がありました。境内横に谷田川が流れており、大雨時の川の流れによっては流されそうだな〜と感じ、故に古社では無さそうと思いました。13:34「谷田川発電所」。
13:38「道の駅・あゆの里矢田川」。道の駅の裏に矢田川が流れ、「RVパーク」がありました。トイレ休憩し、「アイス150円」買ってクールダウンしました。
r4を南下し、14:00「伊曽布神社」。県道の上に神社がありましたが、上に上る道があったので、そちらに登って行きバイクを置いて参ります。覆屋で守護された小柄な本殿ですが、彫刻が素晴らしい。右の木鼻の阿形の獅子の首が少し横を向いていた。これまで横を向いているのは左ばかりだったので珍しい。蟇股は、上段が獅子で下段が龍でヒゲが針金でした。中井権次一統作のようです。唐破風の懸魚は鳳凰でした。本殿の横に神輿が置いてあった。
「但馬大仏」の「長楽寺」が丘の上に見えていました。大仏は見たいけど、建物が近代的すぎてパスしました。R9に出て、すぐ左折しR482で矢田川沿いを走ります。やがて「おじろスキー場」「ニューおじろスキー場」エリアに入りました。このスキー場も懐かしい。学生時代は「おじろ」、次男とジュニアヨットクラブの宿泊スキーで「ニューおじろ」で遊びました。
16:26「多他神社」。『祭神:素盞嗚尊・太田他根子命・埴安姫命 多他神社はもと三宝荒神と称し、小代庄一の宮で延喜式内神社である。「延喜式」神名帳巻十神祇神名の中に七美郡十座並小、多他神社と記載されている。「延喜式は延喜5年(905)編纂に着手されている」』
更に南下し、山岳地帯への登りに入り、左にr87が分岐して行く。左折し急勾配つづら折れ道を登り、14:41「小代神社」。『郷土記念物・小代神社の巨木群 これらの樹木は、地域のシンボルとして親しまれている。ハリギリは、県内最大のハリギリの巨木です』
『小代神社祭神 天照皇大神 豊受大神
延喜式神名帳に小代神社2座と記載されており、多他神社と共に小代庄では最も古く由緒正しい神社である。社殿は左右に2棟あり、左殿は内宮・右殿は外宮である。他に境内には百二十神社と稲荷神社も祀られている』
境内は森の中にあり、巨木が林立し雰囲気が素晴らしく良い。シャガの群生があり、モリアオガエルの棲む池が水面を静かにしていた。
『天然記念物 もりあおがえるの棲息地
小代神社の境内にある池の付近が棲息地である。 わが国だけにいる種類で、本州、四国、九州の山地に 棲息している。 体長は雄が5〜7cm・雌が6〜9cmあり、背は暗緑色の地にかっ色の斑点があり、腹は薄灰色の保護色になっている。 4〜6月ごろ、池や水たまり近くの小枝や草むらに白い泡のような卵のかたまりを生みつけ、ふ化すると水の中で「オタマジャクシ」になり、1ヶ月ほどで「カエル」になる』
『天然記念物 小代神社の燈明杉 所在地:美方町秋岡字宮山
延喜式神明帳(927)によると、小代神社が記載されており、皇太神宮と豊受大神宮が祀られている。 燈明杉は、小代神社の境内にあり、この名の由来については伝説が残っている。 慶長の頃(江戸時代初期)大阪浪人上田新左衛門という信仰深い武士が美方の地に留まっているとき、老翁が夢に現われ、 神の霊があるとのお告げの通り、東方の杉の頂上に燈火のかがやきを感じ、老杉の下に祠を建てて厚く祀ったという説が伝えられ、大切に保存されている。 境内には小代杉の指定母樹が9本あり、燈明杉はそのもとになったものと思われる』
巨木が林立する昼でさえ日光があまり届かない境内なので、下草が殆ど生えておらず、この日訪問した中でダントツに雰囲気の良いお宮でした。標高422m。
バイクに戻り、山を下ります。R482に戻り、南に登っていきます。1年前に、未開通路が整備され全線開通しました。ここを走ることを目的に、ツーリングして来ました。「通行止め」看板はここまでないので、R29まで走れそうです。暫く走ると、路上にシマヘビが日向ぼっこしていました。
四輪離合不可な道幅ですが、舗装路は綺麗で快適な山道です。未開通区間だったのでしょう。対向車はここまでバイク1台なので、ゆっくりだけど快適に走ります。
15:24、峠に着きました。「兵庫県香美町」から「鳥取県若桜町」に入ります。標高950mです。若桜町側に下り、15:31「わかさ氷ノ山スキー場」。ここは新しいスキー場でしょうか?鳥取県側だから行きにくいこともあり、「氷ノ山国際スキー場」には毎週通った時期もありましたが、ここは初めてです。冬場ゲレンデになるだろう斜面を見上げながら、かつてスキー通いしていた頃を思い出します。
「日本の棚田百選・つく米棚田」の眺望がありました。「氷山命水」の案内板もありました。走ってきた道沿いにありました。
R29に突き当り、左折してR29で「八束川」沿いに東に進みます。ワインディングで標高を上げていきます。「落折」地区の横を通りました。ここは、源平合戦に破れた平家一族「平経盛」一族が隠れ棲んだ落人の里です。経盛は清盛の弟、平家の大看板です。「三川山蔵王大権現」の近隣に「平家の史跡・畑」があったのと同じように、ここ「平家落人の里・落折」も「不動院岩屋堂」近くにあります。
2つとも、修験道の修行場で、紀伊護摩壇山に近い地に「平維盛」(清盛の嫡孫)の隠れ里があることからも、修験道と平家落人の関係が想像されました。
「戸倉峠」を「新戸倉トンネル」で抜けて、一瞬の鳥取県を何処にも止まらず通り抜け、再び兵庫県に戻りました。「滝・流しそうめん」のお店は閉まっていました。「音水湖・引原ダム」横を走り、16:12「道の駅・はが」で休憩しました。
Pの真ん中に可愛い野鳥が虫を加えて鳴いています。「虫取れたよ〜、何処にいるの?」って、相方を呼んでいるように聞こえました。「おかき330円」購入し出発。
16:32「迩志(にし)神社」。『口碑ニ西谷迩志明神ハ若螺姫ト称シテ一ノ宮大明神ノ御妃神ニ座セリ御社頭ナル宮淵ノ水底ハ道路ヲ隔テヽ本社ノ下ニ入リ其深サ知ル者ナシ土人ハ明神ノ御使ノ龍蛇住メリトテ甚ク怖ルヽナリ 又古ヨリ姙婦ノ安産ヲ祈レバ霊験ヲ蒙ルトテ参詣スル者常ニ多シ 一説ニ当所垣ヶ原ト云フ所ニ平ナル大キナ岩アリ此岩ノ上ヘ天下リ被爲遊シヲ氏神ト奉祀セリ』
境内に土俵がありました。
R29を南下し、「山崎IC」から中国道に乗り、「宝塚IC」で下車し、18:27「伊丹産業セルフ口谷SS」で給油。208km/7.21L=28.8km/L。18:33帰宅しました。


2020/5/2
5時に「CB400SB」を倉庫から出し出発しました。コロナ禍で県をまたぐ移動自粛要請が出ているので、先週に続き兵庫県内北部にソロツーリングに出ます。「集近閉」を避けるため、人気のなさそうな寺社を1人で訪問し、屋外で飲食します。風を切って晴れ晴れしましょう。
5:16「セルフ宝塚176」で給油。254km/10.29L=24.7km/L。「長尾山トンネル」を抜け、佐曽利カルデラ里山地帯に入ります。r325〜r33〜r68で、「JR新三田駅」にでてR176で北上します。篠山口まで北上し、右折してr94し、「丹波篠山口IC」から「舞鶴若狭道」に乗りました。6:22「西紀SA」でトイレ休憩しました。
「春日IC」で「北近畿豊岡道」に乗り換え、「遠阪トンネル」を抜け和田山側へ。「但馬のまほろばSA」でトイレ休憩し、「和田山IC」を通過し、8:00「終点・日高神鍋高原IC」で下車し、R482を西に進みます。
8:10「久斗兵主神社」。鳥居の横に「八幡神社」の石柱も立っています。境内の横に沢が流れています。すぐ近くまで迫る山からの急な流れなので、沢音が境内に流れ清浄さを感じます。拝殿の彫刻は中川一統の作と連想できる。正面・唐破風屋根から下る懸魚は鳳凰で、蟇股には屋根を持ち上げる力士像、蟇股は動きのある龍がお見事。木鼻の獅子と象の彫刻も見慣れた中川一統の造形です。丹波柏原の本拠を中心に活動した江戸時代の宮大工集団による寺社彫刻は、丹波を中心に北部に多く残り、中川一統による神社建築物をメインに訪問している僕には、もうお馴染みになっている。ここの龍には中川一統の特徴である針金ヒゲがないようだが、中川一統作に間違いないと思われます。拝殿の扁額には、「久刀寸兵主神社」と書かれていた。拝殿の天井には絵馬が下がっていた。本殿屋根の鰹木は3本、千木が垂直切りされており、主祭神が男神であることを示していた。
『有用広葉樹母樹 指定番号:兵庫H8-8 指定年月日:平成8年10月1日 樹種:ケヤキ 兵庫県』
8:27「秋葉神社」。場所がわからず集落内をウロウロしていたら、「何処行くの?」と聞かれたのでお尋ねしたら、「この道の先を登っていく山の中だけど、バイクでは無理だから、歩いてじゃないと行けないよ」と親切に教えて下さいました。バイクを置いて道を上がっていくと、獣避けゲートがありました。いつものように開閉して山に入ります。
坂道を上がっていくと、小屋のような本殿が見えてきました。境内としてきちんとしたエリアはなく、鎮守の森と思われる巨木が林立するエリアと、その木々に光を遮られ雑草が育たないエリアが何となく境内かな〜と思われました。近隣住民が、境内として鎮守の森として木を伐らなかっただけなのでしょう。これが、神域として禁足地を設け、そこの自然を守る役目だったように思います。禁足地をわかりやすくしたのが神社で、多くが人々の恵みを生み出す山・水源にあることで分かります。恵みの清い水を守り続けて来たことが、今日本列島に生きる現代人にも多くの恩恵をもたらしているように思う。猪が掘り返した跡もありました。
8:57「ミニストップ日高久田谷店」で、「バナナ3本198円+フルーツオーレ500ml108円=330円」購入。Pでバナナ1本を食べ、朝食にします。R482を少し西に走り、枝道に折れ、9:04「佐久神社」。
『郷社・佐久神社 鎮座地:三方村佐田字宮山 祭神:荒木神社・八幡神社・山祇神社・三柱神社
由縁:創立年月不詳にして楽前庄五箇村の開拓神と大川五社大明神と称す。(中略)明治6年10月、郷社に列し、同41年11月4日4社を合祀し、翌43年拝殿を新築・昭和4年本殿の屋根替を行う。昭和63年には秋葉大権現の改築を行う。
境内神社:正一位稲荷大明神・秋葉大権現
祭日:産土講
例祭:初午祭・秋祭り・産土講』
バイクを置いて、鳥居をくぐり、また山に入っていきます。すぐに獣避けゲートがあり、開閉して山側に入ります。いきなり苔が多く生えた急階段が上がっています。きついな〜と思ったら、立入禁止になっていました。横のつづら折り道を上ります。
本殿曲輪に上がります。野鳥の声がBGMの静かな神社でした。建物は古いですが、境内は杉苔に覆われ綺麗です。摂社の稲荷神社の彫刻が素晴らしく、蟇股の龍に赤い玉眼が入っていました。本殿の蟇股は、爪で水鳥を捕まえている龍の構図で、珍しいなと思いました。筍がかじられていました。猪でしょう。
バイクに戻ると、瓦屋がありました。典型的な形相の鬼瓦・獅子瓦・シャチ瓦などが置かれていました。r268〜r259〜r268で、9:33「隆国寺」。
『隆国寺は、室町幕府(14〜15世紀)に垣屋龍国の菩提寺として創建された曹洞宗の寺院である。
垣屋氏は、当時但馬の治めていた守護大名・山名氏の家臣の中でも四天王と呼ばれる重臣であり、この地域の領主でもあった。隆国寺はもともと阿瀬金山(日高町羽尻)にあったが、元和9年(1623)に大光院(日高町羽尻)・西方寺(日高町観音寺)を併せて現在地に移った。その後、寺は火災に遭うものの、寛政4年(1792)から文化3年(1806)の間に再建された。平成元年(1989)には、本堂の屋根が寄棟茅葺から入母屋銅板葺へと改修されている。
建物は、本堂を中心に庫院(厨房)・僧堂・東司(お手洗い)・鐘楼堂・山門・総門が互いに回廊で結ばれていて、特に山門は三たん(但馬・丹後・丹波)随一と称され、江戸時代の寺院建築として価値が高い。境内には、牡丹をはじめとする四季折々の花々が咲きほこり、花の寺として親しまれている。
兵庫県指定文化財・隆国寺障壁画 昭和60年3月26日指定
弘化3年(1846)の作。三六面の襖絵からなる。作者は岸派の岸岱(がんたい)・岸徳である。岸派は、幕末から明治時代を代表する写実的な流派で、中国画の影響も受けた。岸岱は、父の岸駒が得意だった虎を力強く描いている。一方の岸徳は、得意とする花鳥や孔雀を繊細で穏やかな画風で表現している。岸派を代表する作品の1つである。
豊岡市指定文化財・隆国寺石垣 昭和55年12月18日指定
寛政4年(1792)〜文化3年(1806)の寺の再建にともなって造られた石垣である。高い所で1.7mんも及ぶ石垣は、寺の周囲ん張り巡らされ、城を思わせる。神鍋溶岩を巧みに組み合わせている。
豊岡市指定文化財・悦岩道号記 昭和61年3月27日指定
天皇や大名とも関わりのあった等持院(京都市北区)の禅僧・策彦周良の晩年の書であり、その中に漢詩が記されている。天正4年(1576)、山名氏の家臣だった垣屋光成が策彦周良より授かった。「悦岩」とは、光成へ与えられた道号(称号)のことである。 漢詩には、阿瀬渓谷の自然そのものの美しさを称えつつ、禅の境地が表現されている』
表山門には、「近畿楽寿観音霊場第4番札所」「但馬7花寺霊場」「関西花の寺第6番」「宝の道七福神但馬霊場」の札が下がっている。山門中央には、「入山料300円」と書かれた入山箱が置いてあった。チャリン。境内地図を頂きました。入ると、いきなり良い雰囲気で、石楠花が咲いています。さすが「花の寺」、良く手入れされています。内山門が立派で、動きのある龍の彫刻があり、ヒゲが針金でした。中川一統作のようです。入ると、明るい日差しを受けた若い緑がより若々しく見えます。白い小手毬(こでまり)が満開で、こちらも綺麗です。赤や白・ピンクの石楠花が満開で、これだけ石楠花が咲いていると豪華です。
本堂に参りました。境内の花の写真が飾ってあり、大きな柱時計が下がっており、太鼓も高い位置にありました。本尊裏に回りました。「七曜紋」がありました。位牌の並んだ小部屋があり、厳かな雰囲気でした。
境内の本堂の裏に回ります。ふと下を見ると、コンクリートにモミジの葉が押し花されていました。裏には石楠花畑がありました。それを三脚立てて撮っている方がおられました。
r268を少し北上し、10:19「神門神社」。大きく目立つ鎮守の巨杉が目立ちます。神門は武者像が守護し、平安貴族絵馬も下がっていました。本殿の彫刻が素晴らしかった。木鼻の獅子は少し横を向いており、珍しかった。蟇股の彫刻には多くの猿が彫られていた。龍は、鱗が細かく彫られており、リアル感が出ていた。玉眼入った龍で、ヒゲが針金でした。
r268を北上し、左折してR482を西進。10:31「十戸滝」。10:36「式内・戸神社」。「シャガ」の群生が綺麗な花を咲かせていました。境内に入ると、鎮守の杉が天を突いていた。神門から2本の杉の間の向こうに本殿があった。2本の杉の間が狭く、これも神門みたいだな〜と思った。日中でも鎮守の森により薄暗い境内には、苔が生え広がっていた。
R482を少し走り、右折してr529でちょこっと北上し、左折して「広域農道」のような快適な道を西に走りました。10:46「山神社」。『豊岡市指定・天然記念物・山神社社叢 指定:昭和48年3月29日 所在地:豊岡市日高町山宮 所有:山神社 山神社社叢は、大ケヤキ3本・大カシ1本・大イチョウ1本をはじめ、ケヤキ・カシ・スギの樹林が600坪に及びうっそうとしている。樹勢も旺盛で壮観であり、保存する価値がある。 ケヤキ根回り6.4m・目通り幹囲5.2m』
拝殿は唐破風屋根で、蟇股には力士が支える彫刻や立体的な針金ヒゲ龍が見事でした。拝殿絵馬がいろいろ下がっております。本殿裏に御神木がありました。
『御神木 朴の巨木 根回り9.5m
古来、山神社の御神体は、此の朴の木の謹作と言い伝えられ、また大日本史神祇志に「山神社今在宮村称厚朴大明神祀大山祇命」と記してあって、山神社と朴の木は因縁深きものあり。故に昔、氏子は朴歯の下駄を用いざる風習であったと言い伝えられている』
農道を走り、突き当りを右折しr712。「神鍋高原」のすぐ東です。峠を越えて下ると「床瀬」集落に入り、「床瀬そば」の看板が目立つ。道なりにr1に乗り北上します。
11:15「式内大社・はじかみ神社・八幡宮」。バイクを置いて、山を登っていきます。下1/3に神門があり、武者像が守護していた。一度休憩し、かなり上がりました。本殿曲輪まで上がると、また神門があった。獣道に毛が生えた程度の山道で、石段も整備されていない人口の少ない地域の神社だったので期待薄でしたが、本殿は意外に立派でした。
『はじかみ神社 鎮座地:竹野町椒字岩内1738番地2 特選神名版:椒村(城崎郡三椒村大字椒 神祇志料:今椒村にあり 祭神:不詳
由緒:創立年月不詳なる仁明天皇・承和9年(842)、宮社に預け清和天皇・貞観10年(868)従五位に叙せられ、延喜式(延喜5年・905年)の制名神大に列せらる。中古以降所伝の明確を欠き、明治6年村社に列し、同22年本殿を再興し幣殿を新築せり。
(続日本後紀)仁明天皇・承和9年冬10月、辛西朔乙亥但馬国気多郡はじかみ神領官社
(三代実録)清和天皇(貞観10年12月27日)丙午授但馬国従五位下椒神従五位上
(延喜式巻10神名式下)但馬国131坐大18座小113座・気多郡21座大4座小17座・はじかみ神社神名大
(特選神名版)はじかみ神社名神大 祭神今按獨椒は今本ホソキとよめれど誤なり和名抄に獨椒。和名茶留波之加美一名不佐波之加美とみえたればハジカミとよむ。べー古事記にるくめのこらがかきるとにうえしはじかみくろひびくとあり。
さて典薬式に但馬国獨椒柏子仁各一斗とみえ今も朝倉山椒とて名物なり。此の椒村はことに其物のよく生ずる所なりけむ。故に、其土地に鎮ります。神を獨椒と号けく祭れるものなるべし』
『竹野町指定彫刻 竹教指第3号 名称狛犬一対
指定:昭和52年11月15日 竹野町教育委員会
所有者:城崎郡竹野町椒 はじかみ神社 氏子総代』
山門は、茅葺屋根の上に銅板葺きでした。茅葺屋根部分を見ると、メンテナンスはしっかりされています。お祭りなどの写真が数点飾られており、地域の方々の信心が伝わって来ました。本殿の彫刻は細かく、龍の動きも素晴らしい。扁額が、「はじかみ神社」と「八幡宮」の2つが下がっていました。境内に土俵がありました。平地にあるお宮なら、地域の子たちの相撲クラブなどで使えますが、これだけ上に登らないといけない神社なら、神事に使うのだろうな〜と思いました。この土俵がフルサイズではなく、小さめだな〜と感じました。何故なんだろう?バイクに戻り少し進むと、11:49「はじかみ神社おまき桜」が県道沿いに立っていました。
『郷土記念物・はじかみ(ほそき)神社のおまき桜 エドヒガシ1本 平成8年3月29日 地域の人々の暮らしを永年見守ってきたこのエドヒガンは、地域のシンボルとして親しまれている。エドヒガシとしては県内最大の巨木である』
『おまき桜の由来:豊岡市竹野町椒字下村のエドヒガンザクラの古木は、推定500年とされている。樹高13m・胸高幹周り6.49mである。
その名前は、このサクラに花がつけば「苧(からむし)」つまり「麻」の種を蒔く時期であることに由来する。農耕社会にあって「苧」は大切な換金作物であった。2〜3mに成長したときに川淵で和紙の原料である楮(こうぞ)に使用する釜と同じ釜を「苧蒸釜」と呼び換え、蒸し皮をはぎ繊維を採集していた。これは船舶用の網・漁網・夏用の麻布として珍重されていた。また、実は七味として利用されていた。
江戸中期から明治30年代まで、竹野浜の北前船主は、この良質の「苧」を「苧麻(ちよま)」と呼び、重要な交易品として盛んに全国へ輸出していた。
豊岡市指定天然記念物・昭和54年3月8日指定 兵庫県郷土記念物・平成8年3月29日指定』
r1を北上します。交通量のない気持ちの良い道が続きます。R178に突き当り、右折して少し走り、「竹野川」を渡って、12:04「桑原神社」。「レストラン山里」の横にバイクを置いて、石鳥居をくぐり石段を上ります。
バイクに戻り、「次へ」とイグニッションON・・・気持ち良くいつものようにセルは回りますが、エンジンが掛かりません。「あれ?おかしいな・・・」。セルが回るのでバッテリー上がりではなさそうですが、何故かエンジンが掛かりません。バイクを見回しましたが、何処にもオイル漏れなど怪しいところはありません。仕方なく、「ホンダドリーム尼崎」に電話しますが、生憎GW連休中です。「ホンダドリームオーナーズカード」に電話します。「タンクを開けてガソリン残量を確認して下さい」「キルスイッチONになっていませんか?」など、電話を通してセル音を聞いてもらいながらチェックしてもらい・・・「レッカー手配します。正確な場所を教えて下さい」「R178とr1の森本交差点で、レストラン山里さんの目の前です」「GSが近くにありますね」「はい、見えています」「一旦電話を切ってお待ち下さい。一応、バスやタクシーなどの帰路の対応を・・・」なんてことになっちゃいました。
すぐにレッカー手配出来たようで、「1〜1.5時間でレッカー車が着きますので、お待ち下さい。駅まで送って下さるようですが、事故による怪我などの保障はありません」。竹野川が横を流れ、座ってバナナを食べます。カジカの鳴き声が聞こえる綺麗な川です。バス停も確認しました。
JAFレッカーは15kmまで無料・それ以上は730円/1km。HMGレッカーは50kmまで無料。JAFとHMG両方加入していますが、CBはホンダドリームで新車購入したので、3年間無料でオーナーズカードが付いていました。その後は年会費3780円で更新しています。このカードのレッカー距離無制限無料の特典を利用しました。加えて、帰路交通費・宿泊費・レンタカーいずれかの費用が2万円限度で補填されます。
1時間ほどして神戸のレッカー会社の豊岡支店からレッカー車がやってきました。「ガソリンは?」「バッテリーは?」とチェックしてもらい、結局レッカーになりました。豊岡駅まで送ってもらい、JRで帰ります。バイクは、GW明けに「ホンダドリーム尼崎」に届けるそうです。
14:43「JR豊岡駅」に着き、オーナーズカードに言われた通り、4060円の領収書を貰ってチケットを買い、電車の旅になりました。あ〜あ、どうしちゃったんだろう・・・
GW明け、ホンダドリームに連絡すると、「バッテリー充電したらエンジンかかりました。他を点検しましたが、他の故障はなく、バッテリーが弱くなっていたのが原因のようです。いつでも取りに来て下さい」「でもセルは元気よく回っていましたよ」「セルを回す力があっても、エンジン始動までの力はなかったようです。そういうこともあります」「そうなんですか・・・」。
ということで、単なるバッテリー電圧不足だったようです。ならば、現場でレッカー車にケーブル繋いでもらったらOKでしたね。宿泊ツーリングの時は、ブースターを持っていくのですが、日帰りの時は積んでいませんでした。車には常時ブースターケーブル載せているのですが・・・。
電力不足になった心当たりがあります。僕は寺社訪問からバイクに戻ると、次の訪問先をナビ地図見ながら決めます。その時エンジン掛けずにポチポチやります。この時間が長すぎたのでしょう。過去に京都で、一度これでバッテリーを上げた経験があり、レッカー手配したことがあります。この時はセルも回らずバッテリー上がりが素人でも分かりました。レッカーを待っている間にイグニッション回したらエンジン始動し、レッカー手配をキャンセルしました。VTR250ではバッテリーを上げた経験がないので、CB400の方が始動時の電力を多く使うのでしょう。
今回のバッテリーは、AZバッテリーの「ATZ10S」です。ホンダドリームで一時期採用されていたもので、VTR250の定期点検で、バッテリーが弱いから交換しておいた方が良いと言われ、純正のユアサからAZに変更しました。「バッテリー寿命は2〜3年ですから、こちらの方が安いからお薦めです」とのことでした。ユアサの半額の1万円ぐらいでした。このバッテリーが素晴らしく、現在8年目に入っています。
これで気に入り、通勤リードもCBもAZに寿命のタイミングで交換しました。ドリームでお願いしたら、AZの取り扱いがなくなっていたのでネット購入しました。CBは交換してから2年ちょっとなので、充電すればまだ大丈夫そうですが、ドリームのメンテナンスさんが「2年使ったから交換しておいた方が良い」と勧めるので、アマゾンで購入6578円しました。ドリームさんのユアサは3万円弱だったので、AZで2年持てば御の字とこちらにしました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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