-ウェブマスター日記 2020/3-4

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2020/4/26
朝4:30に目を覚まし、5時からゴソゴソしていました。家内と約束していたので、8:30に四輪で家を出発し、9時からの家内の用事に付合います。家内が用事中、僕は公園で本を読んでいました。時々家内の用事してる方を見ましたが、「いつもより遅いな〜」と読みふけっていました。30分ほどして読み終えたので車に帰ると、家内が車にいました。「あれ〜、わからなかった。遅いな〜と思っていたんだけど・・・」。スーパーに寄るというので、近くの関西スーパーに寄りました。ほぼ全員のお客さんがマスクをしており、マスク嫌いの僕に、「はい、お父さん」と家内からマスクを渡されました。
帰宅後、昼食を食べながら家内とPC経由で映画を見て昼寝。起きて、近所の公園に家内とデートしました。天気が良く、家内と手を繋いで、ずっとお喋りして歩きました。市内No1の梅林でしたが、葉につく病気により全て伐採し、もともと桜で有名な公園だったので、桜が梅に替わって植えられました。池の周りや川沿いのソメイヨシノはもう終わりましたが、他の種類はまだ咲いており楽しめました。上池の中央に出来つつある自然小島が更に発達しており、アオサギ・コサギ・集団での亀の甲羅干しが見られた。鳩が人に慣れており、僕らが歩いて行っても1mぐらい避けるだけで、飛び立つこともしませんでした。
帰宅後、また1本映画を見て昼寝して、起きたら19時になっていました。夕食取って風呂に入って、「モヤモヤさまーず」「NHKダーウィンが来た」の後「麒麟が来た」見て夢の世界になりました。


2020/4/19
ツーリングに出ることにしました。また県境を跨がないようにするため、朝来方面の寺社巡りをします。5:18、「里山VTR」を倉庫から出して出発しました。走り初めてすぐ、雨がポツポツ・・・天気予報では曇りのはずだったのに・・・。r325〜r33に入り、「切畑」の「森脇観光農園」の屋根の下でバイクを停め、DrivemanGP1にカバーを被せます。カバーと言ってもテーブルクロスから自作したものです。再び走り出し、r319で北上し、r12に突き当たり北上しました。「西峠」「城東トンネル」を通過し、丹波篠山側に下り、R372に突き当り左折。すぐに右折し、r304で篠山川を北に渡り、道なりに西向きに走るようになりr301に乗りました。
R176を渡り、「篠山川」沿いを走り、「川代第1トンネル」手前で左折し、旧道を走ってみます。トンネルが出来る前は、川沿いを走るナイスな道だったので、久しぶりに走ろうと思ったら、すぐ通行止めになっていました。残念。元の道に戻り、トンネルに入ります。
「JR下滝駅」横を通過し、枝道で「JR谷川駅」北側を通り、r86に合流しました。北上し、左折してr291に入ります。この県道で峠を越えr290に抜けましょう。肉牛舎が左右に出始めました。センターラインのある道でしたが、牛舎が無くなるとセンターラインがなくなり、舗装路も終わりました。細道はまだ登っており、峠を越えるのでしょうが、Uターンしました。「ツーリングマップル」には、黄色の線でr290まで続いているようになっていますが、オンロードモーターサイクルでは走行は無理そうです。
r86に戻り、「奥野々トンネル」を抜け、柏原側に下ります。R176に突き当たり、左折して北上します。7:11、「ファミリーマート柏原下小倉店」でトイレ休憩しました。「フルーツミックス100円+バナナ4本228円=328円」を購入。
R176を北上し、道なりにr7に入り、7:37「道の駅あおがき」。トイレ休憩しました。枝道を入っていくと、「大師尊」の石碑が立っていた。『奥塩久村の足立(現姓荻野)金蔵氏により明治後期に造られた。氏は信仰心篤く、弘法大師の遺跡を当山にも顕さんと四国八十八ヶ所を模して、それを八十八の石仏に刻み山中に尊像を安置してその徳を讃えた。身財を投げ打ち、更に近郷からも篤志家の寄付を募り明治30年8月15日にようやく完成をみた。爾来、荻野家はもとより奥塩久村の住民によって「おだいっさん」として守り継がれてきた』
8:04「宇徳神社」。バイクに向かい、次に向かいます。『芦田の五十三次 塩道 山陰側の物資や日本海の塩が塩久峠を通り、丹波に運ばれた交通の要所であった。塩が来る、塩来、塩久が地域の名前になったと言われている』
道標が立っていました。『道標には、「右ふくち山 左むち ゑ」と刻まれています。昔は矢の内村が佐治から郡境の塩久峠を通り、福知山へ行く道路沿いにあリ、ここが村の入口になっていたことを示しています。 川東地区元気な地域づくり委員会 2014年』
8:17「神楽神社」。8:27「養徳寺」。『養徳寺と羅漢道 安龍山養徳寺は慶安2年(1649)石梯全卓和尚によっで開山された、当時は現在の小和田寺屋敷と呼ばれる場所にあった。
11世に尊応教道という和尚あり。此の場所では寺域狭陛且つ人家に近く修業道場として不備であった為、尊応和尚は夙に適地を求めて移転を計画し、当時廃寺となっていた真言宗浄土寺跡(現在地)に寺を移すことを弟子の祥峯楚雲和尚に委嘱した。楚雲和尚は師命を奉じて弘化2年(1845)に工を起こし、11年後の安政3年に諸堂の建築を終え、尊応和尚の遺志を全うした。尊応教道和尚は名僧の誉れ高く人徳学識ともに優れ、その教化道風は三丹(丹波・丹後・但馬)に拡がり、帰依するもの頗る多く教えをこう者がひきもきらなかったという。現在も養徳寺中興の祖として崇められている。
背後の全山に安置奉詞されていた釈迦三尊仏・十六羅漢・三十三体の観音像は尊応和尚の徳を慕って十方の帰依者が寄進した信仰の結晶である。 これら石仏群は先年山麓の浄地へ移し参詣の便を図っていたが、北近畿豊岡自動車道の開設にともない養徳寺墓地とともに平成6年現地へ移したものである』
低い丘を巡る道のあちこちに八重桜が満開です。激写タイムを取りました。8:47「大神宮」。「遠坂川」沿いを走り、r7を少し走り、R427との交差点を左折し、加古川を渡る。突き当りを左折し、9:12「秋葉神社」。石段を上がっていきます。登り口は広場になっており、キリスト教会が建っていました。しばらく上がっていた雨が、小雨ですけどまた降り出しました。
9:24「八柱神社」。石段を上がって境内に入ると、小さめの本殿・摂社が数社建っていた。本殿の彫刻が素晴らしかった。特に蟇股の龍が立体的で良かった。絵馬殿を見上げると、彩色は落ちているがなかなか歴史の有りそうな良い感じの絵馬がいくつも下がっていた。境内にはモミジの木が多くあり、新緑の若い緑と石灯籠などのコントラストが綺麗だった。
バイクに戻り、R427に合流し西に向かいましたが、UターンしてR427を道なりに北上して、9:52「報恩寺」。山門のある位置に立っている左右石柱に、「平常心是道」「日々是好日」と彫られていた。「ASAGO KITA HOIKUENN」の跡地がありました。梵鐘が下がっていたので、ゴーン。「高塀寄付」「高塀改修寄附」の銘板があり、寄附者の名前を見ると、9人中8人が足立姓でした。父の実家も周辺皆我が家と同じ苗字で、かつて庄屋だったので、その親族でした。この地も鎌倉時代の地頭・豪族足立氏が長く領した地です。足立氏の菩提寺なのかも知れません。
バイクに戻り、「遠阪川」を渡り、山城に向かっていると、案内板が立っていました。
『史跡・山垣城址と足立氏 山垣城(万歳城)は丹波の名族・足立氏の居城であった。「尊卑分脈」によると足立氏は遠く藤原鎌足を祖とし14世・道兼が武蔵国足立郡を領した。15世遠元が足立氏を称し、武勇の誉れ高く、鎌倉幕府・源頼朝の武道指範となる。その孫・遠政が佐治郷を賜わり承元3年(1209)、この地に移り住み、万歳山に山城を築いた。 以来12代370余年、足立氏の本拠として栄え、足立氏の盛衰と運命をともにした。 天正年間、12代城主・弥三郎基助の時、織田信長の丹波攻めにあい但馬から遠阪峠を越え侵攻してきた羽柴秀長の軍勢と明智光秀の軍勢との挾撃にあい、激戦のすえ、天正7年(1579)5月18日に落城した。
城跡は北から南へ、本丸・二の丸と曲輪跡が連なり、馬場・堀切・土塁の跡もみられ、山麓には「堀の内」「垣の内」の地名がある。
なお、埼玉県桶川市(武蔵国足立郡)に遠元公館跡があり、桶川市史には義を守り友情に厚い武将で源頼朝・政子の信任も厚かったと記されている。 昭和61年11月15日
制作・寄贈:大阪市住之江区南港 足立景−(山垣平地)
調査資料:平治物語・吾妻鏡・尊卑分脈・姓氏家系大辞典・青垣町誌・桶川市史・日本城郭大系・丹波志
協力:城郭研究家・朽木史郎 桶川市史主任・田中利治』
10:10「山垣城跡」。バイクを置いて、城跡登り口に向かっていると、墓地があり新しい墓石が並んでいました。みな足立姓でした。「史跡」案内板がありました。『山垣城跡と初代城主・足立遠政公の墓(左衛門尉遠政) 寄贈・制作・足立景一』
しっかりしたお墓・慰霊碑が整備されていました。その横に同じ案内板「史跡・山垣城跡と足立氏」が立っていました。杉の植林森を登って行きました。登る方が少ないので獣道程度の道なので、道を見失い勝ちの場所がありました。「北近畿豊岡自動車道」の真上に城がありました。真下に高速道路が見えています。
10:22、祠に到着。下には大きな堀切が確認でき、杉の森になっていますが、下に廓が見えます。段廓が2段上がっています。上の廓の木から下がっている虎ロープで上がる場所もありました。筍が掘り返され半分にちぎれた筍が散在するエリアがありました。猪でしょう。
お墓まで戻り、じっくり観察します。まだ新しい生花が飾られています。地元の足立氏のご子孫が守っておられるのでしょう。
「遠阪川」沿いを走り、10:55「鹿島神社」。『鹿島神社・由緒 御祭神 本殿:四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天) 妙見堂:妙見菩薩
●鹿島神社の本社は、茨城県鹿島町宮中にある官幣大社鹿島神宮です。祭神は、武護槌神(夕ケミカズチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)・天児屋根命(アメノコヤネノミコト)を配祀しています。 武人の神として尊敬が厚く、山垣城の足利遠政氏が但馬へ出陣するにあたり、この神社で武運長久を祈願し出発したものと思います。 又、「鹿島立ち」と言う言葉が有るように主神の性質を良く表しています。多くの人達が旅の無事を願い出発に先たち安全を祈った様です。
●本殿向かって右側に2神が祀ってあります。左の神は青面金剛(ショウメンコンゴウ)で礎石に「見ざる、言わざる、聞かざる」の3匹の猿が刻まれています。 青面金剛と三猿があるだけで庚申講が行われていたことが分かります。 最近迄「お日待ち」と言って御堂に龍り終夜お勤めして夜を明かした「お日待ち」は昔の庚申講が引継がれたもので、左に龍堂が有り往時の風習が残っています。仏教での庚申講が神社で行われていた事は大変珍しい事です。
●祭儀 1月3日正月例祭 1月14日お日待ち 3月15日事日待ち 10月3日秋の例祭(現在10月第1日曜日)
●他祭 妙見祭・秋葉祭・荒神祭』
「遠阪川」沿いを走り、R427。「西方寺」に寄ろうと思いましたが、一見してイマイチだったのでパスしました。「北近畿豊岡道」をくぐるタイミングで、左折し枝道に入り、「遠阪川」沿いを遡ります。「熊野皇大神」の幟が立っています。
11:12「鶏足禅寺」。収穫した「長芋」がリヤカーに載っていました。一級河川「遠阪川」には、綺麗な水が流れています。隣は、「熊野神社」です。
『命の神・熊野神社由緒 鎮座地:兵庫県丹波市青垣町遠阪 御祭神:伊弉冊命熊野神社は、通称「今出熊野権現」ともよばれております。 社伝には、亀山天皇(1259〜1274)の時代、今の社より2km奥井尻谷(位知山・いじりやまともいう)の神篭り滝と言う所へ紀州の熊野神社(熊野権現)から分霊を勧請し其の後長禄3年(1459)9月18日現在の地に遷座す。故に今出権現とも称す。 今も、井尻谷より上がる山八分のところに岩のお洞があり、お社が祭ってあります。
命の神とも崇められ、往古は、遠阪・山垣・中佐治の3ヶ村はじめ神楽谷4ヶ村・柴村(兵庫県朝来市山東町)からも健康長寿を願う参詣が多かった。現在においても、各地より病気平癒をご祈願に参詣される。
丹波市の指定文化財として、11月3日に斎行される秋季例大祭「裸祭」、室町時代の作といわれる「木彫りの狛犬」一対、「石造狛犬」一対、明治の初め大工さんが寄進した「数理の額」がある。
祭儀 1月1日元旦祭 2月3日節分祭 4月18日春季例大祭・桜まつり 6月最後の日曜日夏越の祓・芽の輪くぐり 11月3日秋季例大祭・裸祭り
裸祭り:11月3日の熊野神社秋季例大祭で奉納される。 昭和48年7月青垣町(現、丹波市)の無形民俗文化財に指定された。各地から加護をうける人やうけた人がお礼祭りをする。 神事は、裸になり腰に晒しを巻き「ヨイサ」「オイサ」の掛け声勇ましく、本殿と舞堂の間を足踏み鳴らしながら7回半駆け足で往復し、続いて神宝奉還の神事の後を追い舞堂を3回めぐり、のち御幣を奪い合い身の守りとして持ち帰る。 その起源は明らかではないが、所作の中に「田踏み」を思わせるしぐさがあることからして鎌倉時代と考えられる。 裸祭り神事の後引続き「こけら御供」をやぐらの上から参拝者に撒き頒つ。
(こけら御供) 御神饌の赤飯を栗の木でつくった御神札(横3cm縦4cm)に挟んだもの。煎じお茶ししていただくと、頭痛・風邪などに効き長生きするという謂れがある』
境内には桜が満開で、由緒ある歴史のある、そして趣のある社殿と境内に彩りを与えています。境内中央に、土俵があり、盛り砂されています。社殿の大きさに比例し彫刻は大きく流石です。屋根は、拝殿も本殿も千木が水平切りになっており、女神を祀る神社ということがわかります。
R427に戻り、「遠阪峠」を越え、和田山側に下ります。有料道路「遠阪トンネル」を抜けた「山東IC」の所で枝道に入ります。左折して、r275に入り、11:51「粟鹿神社」。
「御神木・幹周り6m・50m先」の案内板があったので、まずそちらを観に行きます。道に椿の赤い花がたくさん落ちていました。「おお〜」巨大な杉の大木がご神木でした。周りは、根の上を踏まないように縄の規制線で囲まれていました。案内板はありませんでしたが、御神木の裏に「古墳」を思わせる人工?丘がありました。鳥居をくぐり参道を入ります。参道の右側に社殿があり、右側に参道と社殿を区切る土塀がありました。土塀に向かって盛砂が2つあり、正面から見ると、勅使門がありました。ここで勅使門に出会えるとは予想外でした。
『朝来市指定文化財(建造物) 粟鹿神社勅使門 昭和47年4月1日指定
勅使門は、勅使が神社に参向する際、出入りする門である。粟鹿神社では、4回の勅使参向があったことが記録に残っている。
創建年は不詳。桁行3.95m・梁間3.3m・妻造りの四脚門形式で、建材の大部分は欅(けやき)である。屋根ぼ現在銅板葺であるが、以前は桧皮葺であった。柱は、上下に踪を施して基盤の上に立っている。
柱上の組物、中備えの三斗詰組、海老虹梁、木鼻等は唐様の手法を示している。本柱間の両開きの唐戸は、透かし彫りの欄間をつけ、羽目板には鳳凰が刻まれている。頭貫には簡単な若草模様が見え、全体的には唐様であるが、妻梁を受ける本柱からの挿し肘木は天竺様の手法がうかがえる。度々の災禍も免れたと伝えられ、数少ない遺構の1つである』
勅使門といえば、ほとんどのところは他の建造物よりメンテナンスされ、彩色も施され豪華に保たれていますが、ここは荒廃が進んでいます。4回も勅使がここをくぐったとは、地域随一のお社だったようです。荒廃が進んでいても、流石に門は閉ざされており、天皇からの勅使しか通れない門が保たれています。ですが、真横が通れるようになっておりました。流石に恐れ多く、帰路に通ってみることにしました。
参道を進むと、また2つの盛砂がありました。左右に武者が守護する神門があり、こちらから入ることにしました。
『朝来市指定文化財(彫刻) 粟鹿(あわが)神社木造著色随身倚像(いぞう・1対2体) 平成23年2月16日指定
木造著色倚像(1対2体)は、随身門に安置されている。木造著色倚像(阿形)は、随身門の南東部に安置、総高117.6cm・像高(座高)82.2cm・一木造(内刳なし)・彩色・彫眼。左右においかけを付けた冠をかぶり、口は少し開けて顔をやや左に向ける。朱色の袍(ほう)を着て、表袴(うえのはかま)をはき、5本の矢を挿したやなぐいを背負う。右手に弓を左手に太刀を持つ。
木造著色倚像(吽形)は、随身門の北東部に安置、総高122.1cm・像高(座高)87.3cm一木造(内刳あり)・彩色・彫眼。左右においかけを付けた冠をかぶり、口を閉じて顔をやや右に向ける。黒色の袍を着て、表袴をはく。左腰に太刀を佩(は)き、5本の矢を挿した胡識を背負う。右手に弓を左手に矢を持つ。
随身倚像の制作年代は、両像とも銘文は記されていないが、随身の像内に入れられていた棟札から、江戸時代前期、宝暦5年(1755)に修理されたことが判明する。さらに棟札の裏に天和3年(1683)に再興されたと記されている。
台座は候補で、色彩は殆ど剥落し、像内に修理時の補材が見られるが、造立当初の姿をよく留めている』
神門の左右には、彩色は落ちていますが武者像が鎮座していました。木造狛犬も左右にいました。
『朝来市指定文化財(彫刻) 粟鹿神社木造著色狛犬像(1対2体) 平成23年2月16日指定
木造着色狛犬像(1対2体)は、随身門に安置されている。
狛犬(阿形)(正式には獅子)は、像高89.4cm・像長88.3cm木造・彩色・彫眼。右足を少し前に出して座り、やや左を向いて開口する。たてがみは巻髪である。狛犬(吽形)は、像高97.6cm・像長85.9cm木造・彩色・彫眼。左足を少し前に出して座り、口を閉じてやや右を向く。頭上に1本の角を出したたてがみは、直毛で房状に表している。
狛犬の制作年代は、両像とも銘文は確認できない。迫力のある表情や力強さが見られる作風は、鎌倉時代風であるが、背筋の後半が湾曲しているのは、制作年代新しいことを示すものと思われ、江戸時代前期の制作と推定される。
台座は後補で、彩色もほとんど剥落し、足先にやや傷みがみられるが、力強く迫力がある当初の姿をよく伝えているのは貴重である』
境内は趣があり、山から続く森の麓にある社の歴史をいろいろ想像します。山桜が濃いピンクの花を咲かせ、良い感じです。摂社に天満宮があります。横には戦時中使われたのだろう砲弾が置かれています。ここの境内中央に土俵があります。神事としての相撲が行われているのでしょう。摂社の「厳島神社」が小さな池の中央にありました。『厳島神社 祭神・市杵島姫命(海上守護・財福・技芸の神)』。
大きく鮮やかな錦鯉が泳いでいます。「稲荷神社」もありました。『稲荷神社 祭神・保食神(農業・食物の神)』。『茗荷神社 祭神・草野姫命 粟鹿神社の神紋・抱き茗荷は、境内にこの末社を祀るによる』。湿度が高いので、スギゴケが良い感じに絨毯を広げています。
御神木を観に行った時見えた古墳?の丘が、本殿の真裏すぐにありました。「謂れ板」はないが、この神社の御神体はこの古墳に葬られた主ではないかと、想像が膨らみました。よく文字の見えない石碑を目を凝らして見たら、由来でした。
『粟鹿大社由来 人皇第10代崇神天皇の御宇。皇威未だ及ばざる地方に皇族四将軍を派遣し大八洲を平定して大和朝廷の基礎を確立したまう。
即ち、人皇第9代開化天皇・第3皇子・日子坐王、その四道将軍として崇神天皇の勅を承け、山陰北陸の要衝・丹波道主に任ぜられ、玖賀耳三笠等の豪族を討伐し、丹波道一円を征定治績を挙げ、大いに皇威を振作して、天皇の綸旨に答う。
粟鹿山麓の粟鹿の郷は王の薨去終焉の地にして、粟鹿神社裏二重湟現存の本殿後方の円墳は、王埋処の史跡なりとす』
やはり、古墳でした。そしてやはり、この古墳を祀る神社でした。天皇家を頂点にした大和朝廷が全国平定する時代の功績者・日子坐王の墓なので、過去に勅使4回を数えたようです。そこから丹後一宮に列せられたようです。現在に至る古代の日本国成長の歴史の一面を見たような気がする。
『粟鹿神社(粟鹿明神) 朝来郡山東町粟鹿 祭神:日子坐王 例祭:10月17日 神紋:菊に茗荷 建物:本殿流造10坪・拝殿15坪 境内:10540坪 末社:5社 氏子:56戸 崇敬者:228人 神事と芸能:瓶子渡し
由緒:当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。
但馬国一宮は出石神社と当社の2社とされる。
御祭神:彦火々出見尊、あるいは日子坐王 祭礼日:歳旦祭・1月1日、祈年祭・2月4日、破敵祭・3月3日、御田植祭・4月卯日、早祓祭(夏越祭)・6月15日、早祓祭・7月15日、秋季例大祭・10月17日
境内社:天満宮・厳島神社・稲荷神社・茗荷神社・床浦神社・猿田彦神社
由緒:式内大社であり、但馬國一宮で、明治期からは旧県社に列していました。但馬国随一の古社であり、2000年以上の歴史があるとも言われています。和銅元年(708)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した粟鹿大明神元記の写本が残っています。(宮内庁所蔵)
日下部氏との関係が深く、朝廷の信頼も篤く、国家の大難に対して4度の勅使が遣わされたと伝えられており、約600年前には勅使門が建立されています。
粟鹿とは、鹿が粟を3束くわえて粟鹿山から現れ、人々に農耕を教えたことからつけられ、粟鹿神社にその鹿が祀られていると言います。
又、但馬国一宮は出石神社とこの社の2社とされますが、いくつかの資料で異なっており、鎌倉時代の但馬国大田文ではこの社を2宮とし、室町時代の大日本一宮記ではこの社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。現在は両社ともが但馬国一宮を称し、全国一の宮会に加盟しています。
「神社名鑑」には「但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。人皇第10代崇神天皇の時、第九代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。旧県社。」とあります』
本殿に参り、お賽銭を弾み、勅使門から帰ることにします。恐れ多くも、勅使門の荒廃しつつある彫刻を愛でながら、ちょっとだけ勅使門の柱を触りながら、横を通り抜けました。r275を粟鹿山に向かってまっすぐ奥に入って行きます。
12:24「当勝神社」。もみじの若い緑と鳥居のコントラストが良い。
『山東町指定重要文化財・営勝神社随身椚一棟 指定/昭和47年4月1日 所在地/山東町粟鹿日の才1748 所有者・管理者/当勝神社
切妻造り軒唐破風付の唐門、屋根は桧皮葺、様式は主として唐様、各所の絵様彫刻に江戸末期ころの手のこんだ手法が見られる。また出入口が直角でないことは、例の少ない形である。
小屋組その他に後補の跡はみられるが、比較的当初のまま保存され、この地方における華麗な建築装飾手法を知る上に参考となる遺構である』
素敵な神門でした。彫刻が素晴らしい。特に蟇股の龍がいい。鹿の彫刻がいい。両側の武将像には彩色が残っていていい。絵馬殿に掛けられている絵馬には、針金網で保護されています。彩色が残り、見ごたえがありました。
『朝来市指定文化財(工芸品) 当勝神社絵馬群 平成21年8月25日指定当社には、近世から近代にかけて制作・奉納された絵馬が数多く残る。
絵馬殿及び拝殿に大小さまざまな絵馬21点が掲げられており、著名な絵馬師「絵馬藤」による作品や美術的にも優れた価値を持つ作品も見られ、絵馬研究の上でも貴重なものである。
市内の神社でこれほど多くの古絵馬が残されている例はなく、また、遠方からの奉納も見られ、当社に対する信仰のあり方を考える上でも興味深い』
「丹波の名彫刻師・中井権次一統のすべて 北近畿ゆかりの神社仏閣を尋ねる 中井権次足跡 ガイドブック・作品マップ・保存版・1部100円」が置いてありました。
『中井家のルーツを辿る歴史秘話
●徳川家康召し抱えの京大工頭「中井正清」とは
柏原・中井家のルーツである中井正清は、徳川家康召し抱えの京大工頭初代である。1565年に法隆寺大工の子として生まれ、父は名人と言われた中井孫太夫正吉で、1598年の方広寺の大仏殿造営の際に、大和の棟梁たちを引き連れて参加したと伝わる。京都市下京区樋之下町の長香寺には、大大名に匹敵する巨大な墓があり、名墓録に「俗名・中井正清」と書かれている。
正清は非凡な才智の持ち主だったらしく、家康は関ヶ原の戦い以降、京大工頭としての高度な妓術を上方から関東に持ち込むべく、正清に江戸初期の重要建造物をほとんど建造させている。城郭にあっては、江戸城・駿府城・名古屋城・二条城など、神社仏閣では、日光東照宮・久能山東照宮・知恩院・増上寺など、徳川家関係の重要な建築を担当した。茶人・建築家・作庭家として有名な小堀遠州が、まだ「作介」を名乗っていた若き日、正清に協力してこれらの作事を行っていたとされる。
なお、大工棟梁を務めた法隆寺大修理の際、棟札に「番匠大工一朝惣棟梁橘朝臣・中井大和守正清」と記している。この「橘」の銘を柏原の中井家も6代目から「中井権次橘云々」と言うようになった。正清に対する畏敬の念が感じられる。
●正清にまつわる隠れたエピソード
正清には作事以外にも隠れたエピソードがある。彼は大筒(大砲)の操作の免許を持ち、大坂冬の陣では、大坂城の中枢部に砲弾を命中させるほどの大筒の名手であった。砲撃によって淀君はショックを受け、和議に傾いたとされる。大坂方は正清を脅威に感じ、夏の陣が始まる前に、大和の中井家の村を襲ったという。西の真田幸村、東の中井正清の知略戦を彷彿させるような出来事である。
また、正清の従弟である利次の孫・利清の息女・お紋の方は、紀州藩主2代目・徳川光貞の側室となり、徳川8代将軍・徳川吉宗の生母である。江戸初期から中期にかけて、中井正清一統は徳川家と切っても切れない縁があったと言える。
発行:中井権次顕彰会 監修:中井権次研究会・岸名経夫 協力:NPO法人・北近畿みらい、丹波市観光協会
丹波の名彫刻師・中井権次一統とは
●柏原・中井家の起源について
「丹波の名彫刻師」としてその名をはせる柏原・中井家は、江戸時代の中頃から昭和初期にかけて、丹波・但馬・丹後・播磨などの神社仏閣に龍や霊獣など数々の彫り物の作品を残した。兵庫県丹波市の柏原へ定住するようになったのは、1615〜1619年にかけて行われた柏原八幡宮・三重塔の再建がきっかけである。戦国時代、明智光秀の丹波攻めにより焼失した三重塔は、柏原藩2代藩主・織田信則によって再建されることになった。
この時、大工棟梁としてその腕を見込まれたのが、京大工頭・中井正清を祖とする中井役所(大工職を統率した中井氏の公儀事務所)から丹後与謝郡へ派遣されていた中井家の血を引く2人の兄弟であった。大工町(現在の柏原町新町界隈)に屋敷を準備され、相当な待遇で迎えられたとされている。その後、兄の道源(法名)が柏原に残って柏原・中井家が成立したと言われている。さらに約200年後の1815年頃から、その三重塔が中井権次一統により再建され、現在に至っている。
●宮大工・彫刻師としての「中井権次一統」
初代道源を祖とする柏原・中井家。彫刻師として活躍するようになるのは4代目言次君音からで、「権次」と名乗るのは6代目正貞からである。4代目言次君音は、主として龍の彫り物を設け始めた。五社稲荷神社・日吉神社・いそ部神社(兵庫県丹波市)・神田神社(同県篠山市)など、最高と言ってもよい技を持って彫り物を施し、中井家最初の彫刻師として名を残した。
そして、次代からが、3人の巨匠が登場する。5代目丈五郎橘正忠・6代目権次橘正貞・8代目権次橘正胤である。7代目権次橘正次は製作数が少ないと思われていたが、顕彰会の活動により、その技量、製作数ともに、他の3人に劣らないことが分かってきている。彼らは卓越した技量の持ち主で、まるで人間業とは思えないような作品を多数輩出している。屋号に「青龍軒」を用い、「龍」の彫刻に最大の思い入れを込めていたと思われる。正貞の弟に清次良正用、その子・清次良正実がいる。彼らの作品を見るにつけ、その高度な技術・芸術性・文化財としての価値は言うに及ばず、作品を見れば見るほど、その思いは深まるところである。9代目貞胤(喜一郎)の頃からは時代の流れで仕事が少なくなり、昭和の初めに京都府宮津市に移住。今はその末裔、10代目丈夫(1998年没)、11代目光夫氏が彫刻店を営み、中井権次一統の系譜を受け継いでいる。
中井権次作品の特徴とその魅力
●龍に込められた思い
中井権次一統による彫刻の特徴は、何と言っても「龍」にある。作品の大部分が龍の彫刻で、5代目丈五郎橘正忠の頃から屋号に「青龍軒」を用い、龍に込められた思いは強い。鋭利な刃物で刻まれたその彫刻は、他の流派の彫刻師の追随を許さないほど素晴らしい作品である。龍は古来から神仏の化身として崇められ、龍の持つ宝珠(玉)は厄を払い民を救い、すべての望みを叶えられると信じられていた。中国では5本爪で持つが、日本では3本爪で宝珠を持っている。いらかが立つ龍の姿には力強さが有り、今にも動き出しそうな躍動感がある。7代目権次橘正次の頃から、龍の目玉にガラス玉を使い始めたことも大きな特徴である。龍の傍には、聖獣と言われる唐獅子・獏(ばく)・麒麟、そして象が常に設えられている。動植物は言うに及ばず、中国の古典に出ている仙人などの彫り物も多い。彫刻の数と多彩さは驚くべきもので、中井権次一統作品の特徴と言える。また、獅子が上の歯列でものをかんだ顔を彫刻した獅子噛(ししがみ)の場所も特有である。通常、神社本殿正面の唐破風(からはふ)の下に彫るが、側面の妻飾(つまかざり)に彫られた作品が多い。
●中井権次一統による「龍」の主な特徴
いらかが立つ(とがっている)、力強さ 目玉の後ろが赤く塗られている 龍の舌が突き出ている 大半の作品で、ひげが銅線で作られている
●芸術作品としての魅力
中井権次一統による彫刻作品は、北関東に多い「彫り物のための建物」とは異なり、「建物のための彫り物」が大半である。それ故、その高度な芸術性はあまり目に止まることがなかった。しかしながら、近年、高い評価とともにその芸術性について見直されている。あの素晴らしい龍、その他の彫刻のデザインをどのようにして会得していったのか?それには京都に近い丹波在住という地の利も大いにあったと想像される。京都の立派な大作を自分の脳裏に刻み込み、絵の原図を作り上げ、彫り物に生かしていったことは、天才と称される6代目権次橘正貞が常に伝家の画図帳を携えていたことにも表れていると言っても過言ではない。中井権次一統は、絵の才能についても秀でていたのである』
中井権次一統彫刻のある寺社の地図が載っていた。播磨・三丹一面に散らばっており、僕の訪問したことのある寺社は1/5ぐらいのようです。
拝殿の彫刻が素晴らしく、特に蟇股の彫刻が大きくて素晴らしかった。絵馬が拝殿の外、唐破風屋根の下に数枚掲げられおり、彩色の残っている絵馬もあり見ごたえがあった。木鼻の獅子に玉眼が入っており、睨みが利いていました。
摂社「靖霊社」を見たら、本殿は質素なのに、覆屋には彫刻が入っており面白かった。「当勝天神」「逆杉社」「常勝稲荷」、摂社を巡りました。無人社務所で、「交通安全守護800円」を授かった。無人ながら、数種類の守護や絵馬・御札を手に取れるようにして、初穂料を賽銭箱に入れるシステムを見ると、信用されているな〜と感じ、ここで悪さは出来ないな〜と思います。
12:49「比叡山鹿園寺」。地図には載っていないが、広域農道と思われる幅広の道が山の麓を巡っています。西に向かって走ります。13:00、「兵主神社」。
13:10、「八幡神社」。鳥居をくぐり、石段を上がっていく。下の曲輪の境内には、土俵があった。大きな神社だな〜と上がったのですが、本殿は意外にこじんまりしていた。でも彫刻は立派でした。蟇股の彫刻が牛でした。これは珍しい。龍の彫刻も素晴らしい出来栄えでした。覆屋で守られていた。
左折して、r276で南下し、鯉のぼりが沢山泳いでいるのが見えたので、「うふど温泉」に寄り道しました。r276に戻り、右折してr526で峠を越えます。左折して、「青倉黒川林道」に入ります。勾配の急なワインディングをぐんぐん登り、13:54「青倉神社」。Pには先客バイクが1台停まっていた。
石鳥居をくぐると、登山棒が沢山置かれており、かなり登るのかな〜と不安になった。13:57「祈祷受付所」。それほど登らずに済んだ。空のペットボトルが洗われて沢山置かれていた。なんだろう?ここから急階段が上がっていた。階段を上がると、手水場があり、「御神水は本殿横上でも汲むことができます」と書かれていた。岩山にへばりつくように本殿が建っていた。本殿に入ると、正面に岩肌が見えます。「この上に御神殿があります。ご参拝ください」の案内板が立っている。靴を脱いで、急階段を上がってみます。2Fは戸板で塞がれており、戸板を動かして2Fに上がった。獣避けのために戸板で拝殿を獣から守っているようです。窓から、御神水汲み場と滝が見えていた。この滝を御神体にした神社のようです。『御祈祷されます御方は、祈祷依頼用紙に御記の上、料金同封賽銭箱に御納下さい。只今、山籠主不在のため、毎月25日の月例祭に祈祷を致し、送付させて頂きます。当分の間御容赦下さい。 社務所』
絵馬も下がっており、興味を引く空間でした。バイクに戻り、坂道を更に登って行きます。視界が開けてきたのでバイクを止め、激写タイムしました。標高は600mオーバーになっています。遠くに「多々良木ダム湖」が見えます。峠を越え下りに入り、多々羅木ダムとペアになってる「黒川ダム」周遊路に突き当たりました。14:28「黒川ダム」。
『水利使用標識 河川名:2級河川市川水系市川 平成13年3月15日〜平成43年3月31日許可:国近整水第30号・兵庫県指令河第12〜34号 兵庫県知事許可 水利使用者:関西電力KK・兵庫県 使用目的:発電及び都市用水 取水量:発電594立方メートル・都市用水0.7立方メートル・総貯留量3339万立方メートル 貯留量:発電1738万立方メートル・都市用水398万立方メートル 取水施設管理者:関西電力』
ダムを見ていると、堤上にアナグマを発見しました。丸々と太り、栄養状態が良さそうです。「冬季は5ヶ月冬眠し、気温10℃を超えると目覚め、春〜夏に子育てする」。じっと僕に警戒していましたが、僕が危害を加えないと判断したのか、土を掘る動作に戻りました。帰路に着きます。
R429に出て東進します。「青垣峠」を越えて、右折してR427に乗り換え、15:05「道の駅杉原紙の里多可」で休憩します。「ひめ鯛378円+オコメセン540円=918円」購入。
R427を南下し、左折してr78、加古川を東に渡り、右折してr7、道なりにR176に入り南下します。「新鐘ケ坂トンネル」を抜け丹波篠山側に入り、左折してr77で東進し、右折してr49で南下し、少しだけR372を走ってr49。「美濃坂峠」を越えて三田市に入り、左折してr308で南下します。千丈寺湖湖畔道路を東に走り、r49に合流し南下。r68を東進し、r33〜r325で17:06、いつも桜が綺麗なお宅でバイクを停め激写。ここは、1本の樹からピンクと白の花が咲いており、ツートンが見事です。
r325で「長尾山トンネル」を抜け、17:23「伊丹産業エネオスセルフ口谷SS」で給油。253km/7.77L=32.6km/L。17:30帰宅しました。


2020/4/11
新型コロナウイルス風邪による禍で、全世界が大変なことになっています。日本は幸いなことに、中国・アメリカ・イタリア・スペイン・フランス・イギリスのような惨事には至らずまだマシです。ロンドン駐在中の長男一家は、自宅勤務になっております。仕事・買い物以外の外出は、1日1回の散歩&運動のみ許可されており、警官が見回っています。罰金まである不自由な生活を余儀なくされています。ただ、欧米は、自由な生活を制限し、仕事出来ないことによる減収を補うため、ベイシックインカムのような支援を国から受けています。
対して日本は、一律・・円というシンプルなベイシックインカムが簡単なのに、「年収が・・%減って、総年収が・・円以下」というわかりにくく、対象者を絞りにくい制度にしたので、何やってるのか・・・と呆れています。
ウィークデイは大人しくしているので、週末ソロツーリングに出ることにしました。好きな「寺社&歴史史跡巡りツーリング」をします。
4:48、「里山VTR250」で出発しました。4:58「伊丹産業セルフ川西SS」で給油しました。196km/7.77L=25.2km/L。川西能勢口からr12旧道に入ります。猪名川沿いを走り、R173に合流しました。一路北上開始です。
6:00、「ローソン篠山安田店」で休憩。「ミニピーナツクリームパン5個100円+カフェラテホット138円=238円」購入。
『県指定文化財・安田の大杉 昭和45年3月27日指定
この杉は、通称「甚七森(じんしちもり)」といわれる杉の大樹で、川原の住吉神社の末社貴船大明神の境内を覆い、遠くから見ると森のように見える。高さ33m・根回り13.2m」」・目通周囲8.4m・推定樹齢700〜800年、樹勢旺盛で学術的にも価値が高いと言われている』
『安田の大スギ
大スギは、根回りく13.2m、樹高約33mの巨木です。推定樹齢は700〜800年で、生育している川原住吉神社の末社である貴船神社の境内を覆い尽くしていて、遠くから見ると森のように見えることから俗に「甚七の森」と呼ぱれています。1970年3月には兵庫県天然記念物に指定されました』
安田の大杉の横にソメイヨシノが咲いており、良い感じになっていました。更に椿も咲いており、こちらも良い感じでした。国道は篠山川に近づき、土手道路になります。川沿いの満開の桜並木の下を走ります。
右折してr300に入り、r710〜r509に入りました。つづら折れが続き、急激に標高を稼ぎます。峠を越え、下りに入った所に「栗柄ダム」がありました。r97に合流し、右折してr69。「栗柄峠」を越えて春日町に下ります。
枝道に下り、7:07「熊野皇大神」。周囲を含めソメイヨシノや八重桜が満開でとても綺麗です。鳥居をくぐり拝殿までの参道の両側にソメイヨシノが並び、桜吹雪で落ちたのであろう花びらの絨毯になっています。田舎のお宮なので、誰もおらず独り占めです。木鼻や蟇股・脇障子に立派な彫刻が入っています。
更に枝道を入り、7:18「観音寺」。小川沿いに小さく開かれた田畑で農作業が始まっていました。朝早くからの田起こしなどの作業は、見ていて和みます。細道沿いに咲く桜や梅や菜の花畑を写真に撮ります。
r69に戻り、r69と並行して走る枝道に入り、7:41「大原神社」。『大原神社(広瀬区) 由緒は不詳です。明治6年10月に村社となり、明治42年5月八幡神社・神明神社を合祀され、さらに旧八王子神社の境内に社殿を移されました。 祭神は、伊邪那美尊で相殿は天照皇太神と品陀別尊(ほむだわけのみこと)です。 拝殿の奥が本殿でその妻飾りには今、話題の中井権次一統の彫刻があります。中井権次一統は丹波柏原藩の宮大工で、中井道源を初代とし9代目貞胤(さだたね)まで神社仏閣の彫刻師として活躍しました。
本格的に神社仏閣の彫物師として活躍したのは4代目・中井言次君音(なかいごんじきみね1722〜1787年)からです。作品は近畿一円に及んでいます。大路地区内にも多く残っています。 この神社の彫刻は、中井家6代目・中井権次正貞(1780〜1855年)の作とされ、とりわけこの神社の彫刻は立派なものです』
枝道を少し西進し、7:55「天満神社」。『天満神社(松森区) 地元では「松森の天神さま」と親しまれています。創立の年代は不詳ですが、寛永11年(1634)以前とされています。祭神は、菅原道真公で、相殿は天児屋根命です。
ご本尊像は管公(菅原道真公)座像で、宝永2年(1705)3月25日の造工とされています。また明治42年5月、春日神社を合祀されました。 この天満神社には、大路焼き小橋長右衛門の焼いた大路焼六角釣灯龍があります。この釣灯箭は丹波市の指定有形文化財となっており、現在は黒井の春日庁舎横・春日歴史民俗資料館で保管されています』
また少し西に走ると、芝桜とチューリップが綺麗に咲いている所がありました。お隣の方が手入れされているのだと思います。
更に西進し、8:08「正覚寺」。境内はチューリップなどの花が咲き、植木がよく整えられ山が借景になっており、気持ちの良い寺院でした。桜が綺麗で寺院の侘び寂び建物のコントラストが良い感じでした。
『開山35周年記念 水琴窟 水琴窟は江戸時代中期頃より、つくばいと共に日本庭園に調えられ、究極の日本庭園施設です。地中に伏瓶を埋めるなど空洞を作り、そこに滴り落ちる水が反響して、琴の音色に聞こえるようにした仕組みです。洞水門とも言います。 三尾山を借景にした静かな庭の中にあって、水が奏でる音色ですから、心を休ませて下さい』
更に西に走り、8:26「八田神社」。枝道沿いですが、山の森に続いた鎮守の森の中にひっそりと佇んだ鎮守社でした。境内には山桜が満開で、緑の森のバックに映えていました。脇障子に彫刻が入った本殿で、木鼻や蟇股の彫刻も立派でした。蟇股の彫刻は、力士が梁を背負ったような彫り物で、かつて1度しか見たことのないもので、珍しいと思います。海老虹梁の彫刻の多くは、花の彫刻などですが、ここのは龍が彫られており、これも珍しいものでした。宮大工の棟梁は誰なんだろう。
バイクに戻り、先に進みます。r69を渡り、集落内の細道を直進し、右折してr138。右折して枝道に入り、8:48「熊野神社」。バイクを降りて参ろうと歩いて行くと、小さな祠「木の根社」があった。横に木の根が露出しており、珍しい祠だなと思いました。
本殿の彫刻が素敵でした。縁の下の彫刻はウサギで、いろいろウサギの姿が楽しめました。バイクに戻ると、「黒井城跡」が山頂に西に見えています。2度城攻めしましたが、ナイスな山城でした。赤井悪源太直正の築いた城で、篠山の波多野秀治と組みして、一時明智光秀討ち死に寸前まで追い込んだが、羽多野八上城とともに各戸撃滅され滅んだ。
枝道を繋ぎ、9:01「柱谷寺」。『照月山・柱谷寺 天台宗(天台法華円宗) 総本山:比叡山延暦寺 祖師:高祖中国天台大師智頭禅師・宗祖日本伝教大師最澄上人
立教関係:中国の天台大師がお釈迦様の御一代の教えのうち最もすぐれた法華経を中心として天台宗をお開きになり、其の後伝教大師が中国に渡られ、これを伝えて延暦25年1月26日、日本の天台宗が開かれた日本仏教の根源となった宗旨であります。 天台宗は法華経に基づく一乗の教えを根本として密裂・禅法・戒法・念仏などをその実践の法門としています。
縁起:寺の創建は戦国乱世や火難、山崩れなどで諸資料記録が無く明らかではないが、文禄2年(1593)幸祐上人によって中興され、文政3年(1820)ゆう厳法師が神池寺周辺の一坊を移して現在の所に建立した。
ご本尊は阿弥陀如来(座像)で脇侍は観音菩薩・勢至菩薩(躊屏像)の珍しいものである。
平成14年に本堂、庫裡改築。 その他、弁天堂・観音堂・赤山明神社・聖観音・平和観音¥新丹波七福神(福禄寿)などがお祀りしてある。 また、阿弥陀如来・薬師如来像画板・不動明王像画は市指定文化財。境内整備では、霊園事業や草木供養の一環として、椛をはじめ九尺藤、楡の木その他季節ごとの花を咲かせて参拝者をお迎えしている』
『柱谷寺御詠歌 照月の 法のみ山に 鐘音なりて 無量の光 里をつつまん 静月忠』
石段を上り、境内に入ります。竹田川が育んだ肥沃な田園が広がっています。シャクナゲが綺麗に咲いていました。
r138に戻り北上します。正面に綺麗な三角錐の「小富士山」が見えます。山に向かって真っすぐ伸びる県道がナイスです。9:30「阿蛇岡神社」。2度目の訪問です。ここも彫刻が素敵です。蟇股は、鳩と猛禽類に見えるけど、どうなのかな?
「藤田弘二翁頌徳碑」が立っていた。誰かな?と思って帰宅後調べたら、農業に貢献された方がおられました。この人のことなのかな?樹齢700年のカヤの巨木が立っていました。本殿裏に「磐座」と直感した岩の重なりがありました。周囲の地形的にここだけ何故岩が固まってあるの?って感じで、少し不思議な感じがしました。古代は、磐座神事が行われていたのかもしれません。「四方大神宮遥拝」の石柱が立っている。
r138を北上します。r59に入り、9:53「済納寺」。「一隅を照らす・・・」の石碑があったので、天台宗のようです。「能勢斎翁頌徳碑」が立っていました。帰宅後調べたけど、よくわかりませんでした。梵鐘があったのでボーン。
r138に戻り、10:07「大勝寺」。境内に上がると梵鐘があり、ボーン。この寺院は、スカイスポーツ・テイクアウトバーンのある「高谷山」へ登る林道入口の真横でした。テイクアウトバーンは景色が良いので、林道で上がろうと思ったが、獣避けゲートで塞がっていました。開閉しようと思ったが、カギが閉まっていました。残念。
竹田川沿い右岸を北上します。川を挟んで、福知山線・R175と並行して走ります。信号はないし、R175より交通量が少なめな気持ちの良い道です。竹田川を渡りR175と平行して走る道に乗り北上。やがてR175に合流しました。更に北上し、「塩津峠」を越え、福知山に近づき、広域農道?に入ってアップダウン・ワインディングしながら西進します。r109に突き当たり、南進します。
「穴の裏隧道」で「穴裏峠」を越えます。右折して枝道に入り、10:54「高座神社」。『芦田の五十三次 名所・旧跡 細見綾子 句源の場所「雉子鳴けり少年の朝少女の朝」昭和24年 山あいの谷々から子どもたちが集まって、やがて1例をなし小学校へ行く。「土の恵の香の中に」という校歌をその少年、少女のために私が作った』
石段を上り境内に入ると、緑の田園が広がり気持ちの良い神社でした。本殿脇に「狛犬」のことが掲示されていた。
『狛犬さんのルーツ(1)獅子と狛犬
最近では、左右一対を総称して「こまいぬ」と言いますが、本来は向かって右が「獅子」・左が「狛犬」です。(この報告では「こまいぬさん」と平仮名を使っている理由は、左側の「狛犬」だけを指すのと区別するためでもあります)さて、獅子・狛犬は、最初から神社の参道にいたわけではありません。参道に置かれるようになっだのは、江戸時代になってから。
平安時代中頃の「枕草子」(996〜1008年頃成立)には、「獅子・狛犬」が3回登場します。(a〜c)また、当時の宮廷女官が書いたとされる「栄花物語」(880〜1092年を扱う)にも登場します。(d)
(a)いと白うをかしげに造りたるに御簾より始めて昨日懸けたるなめり。御しつらひ、獅子・狛犬などいつほどにか入り居けむとぞをかしき
(b)おはしまし着きたれば、大門のもとに高麗、唐土の楽して、獅子・狛犬をどり舞ひ、乱声の音、鼓の声にものもおぼえず
(c)還らせ給ふ御輿りさきに、獅子・狛犬など舞ひ、あはれさることのあらむ、ほととぎすうち嗚き、頃のほどさへ似るものなかりけむかし
(d)このたびは藤つぼの御しつらひ、大床子たて、御張のまへの獅子・狛犬なども、つねのことながらとどまりたり
宮殿の中の鎮子としての獅子・狛犬
(a)(d)には、宮中の部屋の中にいることが書かれています。下の写真は伊勢神宮の斎宮の座られる場所を再現したもの。まさに文章のとおりです。斎宮は天皇の皇女が務める役職でしたから、御張の前には獅子・狛犬が置かれました。そ高貴な方をお守りするという役割でした。同時に、御張が風などでめくり上がらないように押さえる、という実用的な役割もありました。「鎮子(ちんし)」と呼びます。そして、向かって右側には角がなく、左側には角が有ります。今回報告する丹波市内のこまいぬさんでは角の表現が少数ですが、基本は「角無しと角有りの一対」が獅子・狛犬です。(写真:三重県立斎宮歴史博物館・三重県多気郡明和町にて)
音楽や祭礼とともにある獅子・狛犬
(b)(c)は、屋外での様子。(b)では高麗や唐などから伝来した音楽とともに舞う様子が、(c)では御輿を先導して舞う様子が書かれています。
三重県桑名市にある多度大社には763年に創建された神宮寺があり、「神宮寺伽藍縁起並資材帳」(国重要文化財801年)が遺されています。その中に高麗楽(こまがく)の装束として「高麗犬壱頭(こまいぬのかしらが1つ)」との記載があります。さらに「安祥寺資財帳」(871年)という文献には「狛犬頭二面・同皮二面・同尾二支」とあり、「枕草子」以前から舞楽としての狛犬が存在したことを示しています。
現在見ることのできる下記の絵巻や祭礼は、いずれも江戸期に描かれたり創始されたとするものですが、古い形態の名残を伝えていると考えられます。
こまいぬさんのルーツ(2)〜遥かなる時空を超えて〜
まず、獅子のルーツです。「獅了とはライオンである」というのは定説となっています。最初に百獣の王・ライオンを従えることを王権の象徴としたのはとても古く、今から4000年以上前のメソポタミアの人々でした。さらには「守護獣」として王城の門に彫刻されるようになりました。それが仏教にも取り入れられ東へと伝わっていったのです。
・現在のトルコのハットゥシャにある、獅了門。城壁の出入口のひとつで、本来は土師にアーチのあった門です。その石柱の両サイドにライオンが彫られています(紀元前14世紀ヒッタイト帝国の首都遺跡)
・西方のヘレニズム文化と仏教が出会ったインドでは仏法を保護する動物としてライオンが彫られることになりました。現在でも高僧に使う「睨下」の「睨」とは獅子のことです。
・新羅では仏像や仏塔とともに獅子が居るのはもちろんのこと、鎮墓獣としても意匠が用いられました。ただ4・8方向に据えられることが多く、必ずしも一対ではないようです。
・ソウルの王宮跡(景福宮)の前にはヘチ(またはヘテ)像が据えられています。
・中国では法律を司る官僚の冠や衣服にカイチが付けられました。中国語の発音で「法治」に通じ、勇気をもって正義を成す「公正な判断ができる官僚」の象徴として付けられました。
・お墓を守る鎮墓獣として副葬された陶製のサイー但し神獣としてデザインされてい角が沢山あります。229〜589年のもの。
・台湾では現在も憲兵んも徴章にサイが使われています。
一方、狛犬のルーツはというと定説はないのが現状です。説の1つで有力だと思われるのが、サイです。サイは、全身が非常に厚く固い皮膚で覆われており、肉食獣のキバや爪を通さないほど。襲われても補食されないと言われています。さらに動物にしては珍しく、火を恐れず、「山火事を見つけると消す」という習性も持ちます。「角があり勇気を持って正しい判断ができる強い動物」の伝説が中国では神獣に昇華していったのだと思います。
それでは、別々の神獣が「一対」として据えられるようになった源流はどこにあるのでしょうか? 中国のお墓を守る「鎮墓獣」が有力候補です。
・英国王室のお城に置かれた獅子と一角獣
・中国では西晋の頃からお墓の中に鎮墓獣をおくのが流行し始めました。当初はお墓の門に1頭だけだったものが、北魏(386〜534)以降は二頭一対となりました。 下の写真はいずれも唐代(7世紀〜)のもの。
「力の象徴であるライオン=獅子」と「知恵や正義の象徴である角を持つ神獣」を一対にして据えることで王や人々を守ってくれるという発想は、互いに影響を与えながら広がってゆき、地理上の西の端であるイギリスにも東の端である日本にも、確かに伝わったのでした。一方では英国王室の紋章となり、一方では神社の獅子・狛犬となって・・・壮大な時空を超えた旅の果てに、こまいぬさんは居ると思うと、一層いとおしくなりますね。
高座神社(青哨明東四))のこまいぬさん(1)
名工・綿貫重吉の銘が刻まれた個性あふれる参道こまいぬさん
昭和6年(1931)小寺氏の長寿を記念して奉納されたことがわかります。綿貫重吉(或いはその弟子の森田藤四郎がこの銘を刻んでいた)は、こまいぬさんだけでなく、一見無骨ながら平滑面と凹凸面を自在に使い分ける、という凝った玉垣も製作。その個性や力量が伺えます。材料は、柏原で産出する新屋石を使っています。
しっぽギャラリー:尾の数は6本。左右対称に3本ずつ長く広がります。尻尾に透かしを入れるのは、丹波佐吉の技の継承でしょうか。さらに、ここでは尻尾の上や前足の下で小さな子どもたちが楽しく遊ぶ姿が表現されています。アマノジャクという説もありますが、小寺氏のお孫さんたちかな、と思います』
高座神社(青垣町東芦田)のこまいぬさん(2):可愛い顔ながら300才以上の御殿こまいぬさん
「御殿こまいぬさん」がいるのを見つけて、外から撮影しようとしていたところ、宮司さんのご配慮で、特別に許可を得て、近くから拝見することができました。「御殿こまいぬさん」とは、宮中の御帳の前に置かれていた鎮子としての系統を受け継ぎ、参道ではなく本殿の中や扉の前に居るこまいぬさんのことです。室内にいるので、木造の場合も多いのですが、こちらのこまいぬさんは石造です。とても緻密な石で重量感もあります。
「獅子には角が無く、狛犬には角がある」という決まり事をきちんと守って作られているのですが、据えられた位置は、通常とは逆の「向かって右側に狛犬・左側に獅子」。間違えて置かれたのではなく、台座の文字を見ても最初からこの方向に据えるように製作されているようです。京都府舞鶴市などではよく見られる据え方だそうですので、地域の関連も興味深いところです。
縄井田 村田芦東 元禄元年:元禄元年は1688年。こまいぬさんとしてはかなり古い年代です。300年以上も、聖なる山と神様をお守りしてきたのです。角の有無だけでなく、立髪もきちんと描き分けている丁寧な仕事にも注目です。
・本殿・拝殿では、中井権次製作の彫刻の名品を多く見ることが出来ます。3頭の龍が有名ですが、「鶴仙人・亀仙人」も珍しいので、ぜひ見つけて下さい。
・宮司さんのお話では、この辺りは交通の要衝だったとのこと。確かに都から日本海へ抜けるルートにも沿っています。「穴門宮への行幸のおり立ち寄られた」という伝説も真実の一端を語っているようです。また、「蟻が水の在処を教えてくれたので「蟻の宮」と呼ばれるようになった、という言い伝えは、治水に力を発揮した。秦氏に関連する氏族・阿利氏の事跡を示すものだという説もあります』
『高座神社 由緒略記
御祭神:大日霊尊・おおひるめのむち(天照皇大神・伊勢内宮鎮座にて国家安泰) 天児屋根命あめのこやねのみこと(春日大神・国土経営・諸業繁栄・家内安全) 経津主命ふつぬしのみこと(香取大神・外交の神・災難除け) 武甕槌命たけみかずちのみこと(鹿嶋大神・勝運・戦勝・交通安全) 仲哀天皇ちゅうあいてんのう(日本国の開国安定・慈愛の神)
御由緒:当社は人皇14代仲哀天皇(今より1810年程前)がお祭りになった御社で武内宿禰をお供として、この社に参拝され「病気平癒」を祈願され、お宮の名前を高座(たかくら)と名付けられました古社と言われております。以前は高座谷にあり寛文年中(1661〜1673)にこの地へ遷座されました。延喜年中(901〜923)当郡式内社第一に列せられ弘仁4年(813)嵯峨天皇より勅額を賜わりました。しかし、古記・宝剣・勅額等は弘化3年(1846)別当観蓮失火のため惜しくも焼失してしまいました。
現在の本殿は間口二間半・奥行一間半余り、四方に廻縁がある大宮ツマ造りといわれております。又別名を蟻の宮と称えています。今を去ること夏おおいに旱魃の年、村民高座神社に参拝し七昼夜雨乞いの祈願を致しました。七日の夕、村人の1人が大きな蟻がご社殿から這い出て列を作っているのをみつけ蟻の列をたどって行くと蟻が窪みの所で消えてなくなっていました。
窪みを掘り返してみると、清水がコンコンと湧き出てきました。村人は驚き感激して、溝を通し田に水をたたえ枯れかけた稲は青く蘇りました。この年芦田の谷では豊作の年を迎えることが出来たのです。今日でも水路に水神様の祠を作りお祭を続けています。又境内社の馬鳴神社は蚕の宮といわれ、氷上郡内の豊かな生活を求め当社に参拝し、「養蚕を始めよ。守護する神は保食神なり」と夢のお告げにて村民は驚き、広く養蚕を営むようになりました。ここに青垣の地方は蚕を飼うようになり、近隣の人々も多く参拝されるようになりました。
境内社
兼朝神社(かねともじんじゃ)祭神:武内宿禰(仲哀天皇に仕へ経済・諸業繁栄の神) 馬鳴神社(ばなりじんじゃ)祭神:保食神・うけもちの神(蚕の神・食物・五穀・稲・生産の神) 若宮神社祭神:応神天皇(仲哀天皇の子で厄除け・開運の神) 芳魂神社祭神:日清・日露・太平洋戦争に東芦田・西芦田・田井縄・口塩久・粟住野地区の英霊
尚、昭和58年裏山の崖崩れの工事により、6世紀頃より使用された土器(須恵器)が出土してこの裏山は太古の時代の神山であったことが証明されました』
『想い石 1手を合わせ願いを一度念じる 1石を持ち上げ一旦元へ戻す 1手を合わせ願いを3度念じる 1石を持ち上げ最初より軽ければ願い軽し、重ければ努力すべし』
彫刻はさすがの中井一党作でした。
『芦田の53次 名所・旧跡 芳魂(ほうこん)神社 日清戦争から第二次大戦の間、芦田地域から出征して、戦死した155名をお祀りしている。芦田地区区長会が護り、毎年10月5日例祭』
『信仰の証(盃状穴) 当高座神社は、今から約350年ほど前この地に遷座された延喜式内社であります。以後今日迄多くの人達が神の御神徳を仰ぎ蟻の宮、蚕の宮として崇められました。その証が盃状穴として残っています。
盃状穴とは先人の人達が悩み、苦しい時神社に参拝し祈りを捧げ、さらに「願」を掛けて祈りました。手水鉢や灯篭の台石や階段の踏石等に「ノミ」で穴をあけ祈ったともいわれております。又その穴に油を注ぎ祈ったとも言われております。石に盃状の穴が今日まで残り、先人の深い篤い祈りの証であり、盃状穴(足元の赤い印)のある御社として御参拝下さい』
『芦田の五十三次 名所・旧跡 蟻の宮
昔、水不足で困った村人は、「神社で雨が降るようにお祈りをする」と祈った。村人の前を蟻が石段を下り、道を通り山の中に入ると、そこに小さな池があり、そこで、更に雨が降るように祈ると、大雨が降ってきた。池を案内してくれた蟻たちは水に流され死んだ。
その後、稲も育ち、お米が沢山取れた。今も「蟻の宮」と石に彫り、お祈りをしている』
『でで虫が桑で吹かるる秋の風(昭和7年)
でで虫、はかたつむり、のことである。私の生まれた山間地は古くから養蚕の盛んな所なので山裾まで桑畑が続いている。この桑の葉を食べて蚕が育ち絹糸を吐く。春は柔らかい艶やかな葉を出すが、時期が過ぎてしまうと桑の葉はかたくななほど無表情になる。ある日散歩していて、こぶだらけの桑の木にでで虫が1つならずしがみついているのを見つけた。
でで虫も桑の木と同じ枯色、見分けがっかないほどだ。このようにして秋風に吹かれているもののあることを、その時知ったのである。でで虫が桑の木で吹かれているのと同じように私自身も秋風にさらされていることを感じた。 (昭和57年 句集「俳句の表情より」)
細見綾子(明治40年〜平成9年) 芦田地区が生んだ日本を代表する俳人。芦田小学校卒業。昭和2年日本女子大卒業。昭和4年肋膜炎を患い、佐治町の医師の勧めで俳句を志す。以来俳歴は68年にもおよぶ。芦田小学校の校歌を作詞した。昭和56年勲四等瑞宝章受章』
r109に戻り南下し、左折してr7に乗って南下。二股でr109に入り南下。右折して枝道に入り、11:45「円通寺」。Pに受付があり、「入山料300円」と書いてありましたが、誰もいなかったのでボックスに300円チャリン。
『円通寺は、南北朝時代の永徳2年(1382)正月、足利3代将軍義満が、後円融天皇の勅命により創建した曹洞宗の名刹です。年号の首字より「永谷山(ようこくざん)」、天皇の宝号より「円通寺」と名付け、勅願寺と定めました。ご開山「英仲法俊(えいちゅうほうしゅん)」禅師は、室町幕府を開いた足利尊氏の第4子、第2世「牧翁性欽(ぼくおうしょうきん)」禅師は時の関白太政大臣「近衛通嗣(みちつぐ)」の第3子にあたります。室町〜江戸時代の全盛期には、200有余の末寺を有し、丹波・摂津・但馬・播磨にかけて君臨しました。
天正時代、織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻めでは、当地方の寺社仏閣がことごとく焼かれる中、豪士荻野喜右衛門の働きにより兵火を免れたと伝わります。
第40世「日置黙仙(ひおきもくせん)」禅師は、明治新政府の廃仏毀釈政策に対し、敢然と仏教の興隆と円通寺再建に尽力、後に大本山永平寺貫主、曹洞宗管長に就任しました。ご本尊は、南北朝の合一を祈願して、「後小松天皇」が一刀三礼、自ら刻まれ下賜された「如意輪観世音菩薩」です。本堂・庫院等は、江戸時代末期に再建されたもので、当地方最大の規模を誇ります』
『清水(きよみず)地蔵尊 経文「おん かかか びさんまえい そわか」。昭和20年代に、円通寺の熱心な女性信徒数人が付近に放置されていたお地蔵様をこちらにお祭りしたのが始まりです。
その後お堂の裏の霊水を、身体の具合の悪い所につけてお願いすると良くなるとの評判で、今も篤い信仰が続いています。
*水の飲用や点眼はしないで下さい。お経文は繰り返し3度唱えます』
歩いていくと、もう一つPがありました。季節によると多くの観光客が訪問するのでしょう。境内に池があり、鎮守の杉の大木が林立していました。紅葉が良い感じで池に掛かり、紅葉の季節は人を呼ぶのでしょう。池の中央を緩やかな石段が上がり、境内の主郭に入ります。
鐘楼がありました。『鐘の撞き方 鐘はお参りの前に撞きましょう。お参りの後に衝く鐘は、「戻り鐘」と言って、煩悩や苦しみを連れて帰るといいます。1心を落ち着けて合掌一礼する。2静かに1回衝く。3合掌一礼して下る』。作法に従って、一衝きさせて頂きました。
『塀の五本線と二つの家紋 塀の五本線は、天皇家との所縁を表します。また本堂の屋根や襖、庫裏の襖等に足利家の「円に二引きの紋」、近衛家の「近衛牡丹紋」が多く見られます。 これは御開山(初代のご住職)が「足利尊氏」の第4子「英仲法俊」、第2代が関白「近衛道嗣」の第3子「牧翁性欽」であることによります。
1382年「後円融天皇」の勅命によって将軍「足利義満」がこの寺を建て、初代、2代と武門と公家の最高位者の子弟を送りこんだことは、当時の容易ならざる事情が伺えます。
後に「丹波攻め」でこの地方の寺社仏閣を悉く焼き払った「明智光秀」も、豪士「荻野喜右衛門」の説得と円通寺の貫禄に暴挙を慎んだと寺伝は伝えています』
『延命地蔵菩薩 延命・利生を誓願する地蔵尊。お祈りすれば、私たちの苦しみを取り除き願いを叶えて下さるお地蔵様です。特に、新しく生まれた子供を守り健康にそして賢く育つように見守って下さるお地蔵様です』
『不動明王像 サンスクリット語で「アチャラ」(阿遮羅)といい、ヒンドゥー教シヴア神の異名であったのがこの不動明王です。仏教では如来の使者としての性格が与えられ、後には大日如来の忿怒の相に化身したとされる像で、火焔で汚れを焚き浄め、衆生を守ると信じられています。その姿は、一般に右手に剣、左手に索を持ち、頂髪を左肩に垂れ、口には牙があり、両眼を見開いた尊像です。インドにおこり、中国で展開し、わが国には9世紀のはじめに空海・円珍などによって伝えられて以後、不動信仰は現代にまで生きつづけています。
製作年代は明らかではありませんが、江戸時代に編纂された丹波誌によれば「寺中二不動水卜云霊水有、此池ヨリ不動ノ像ヲ掘出ス」霊験あらたかな不動明王像です』
本堂に入ってみます。『本堂「施無畏(むせい)殿」 ・建物は御殿造りで、仏閣としては当地方最大のものです。(広さ12間×7間) ・入口に土間がある珍しい構えで、「武者隠し」の目的があるといわれます。 ・今の建物は庫院とともに弘化元年(1844)の再建です。
・「施無畏」とは観音様の別名で「人々の悩みや苦しみを取去り、幸せに導いて下さると」いう意味があります。
・御本尊は秘仏「如意輪観世音菩薩像」です。1382年の円通寺開山に合わせて後小松天皇が南北朝の合一を祈願し、「一刀三礼」自らお彫りになったものです。御開帳は50年毎に行われます』
境内にはソメイヨシノが咲き、様々な野鳥の歌声が気持ちが良い。池の中央を下る階段を下りて行きます。錦鯉が優雅に泳いでいるのが見えます。紅葉と池に垂れる「枝垂れ桜」が綺麗です。
『源融と賀茂大明神 歌人として、また「光源氏」のモデルとしても高名な河原の左大臣こと「源融」は西暦884年頃からこの地「山田村」に滞在、890年にこの池の辺りに父君の「嵯峨天皇」と「賀茂別雷命」を祭神に「賀茂大明神」を建立、その時の賀詞の一節からこの地を「御油(ごゆ)」と命名したと言われます。この神社は、約500年間総社として地域の人々の信仰を集めますが、円通寺の創建に際し北田井の「賀茂神社」、北御油の「賀茂野神社」(現神野神社)に分祀されます。
そそり立つ大杉は御神木と言われ、唯一当時の名残を留めています。またこの地で「伊可古夜媛(いかこやひめ)」が古代の丹波(但馬・丹後を含む)を治めたとする学説もあり、この場所に賀茂大明神が祭られた訳が伺われます。
伊可古夜媛と結婚した「加茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」(神武の東征・熊野上陸で先導をつとめた「ヤタガラス」その人と言われる)は、今の京都の賀茂を拓き「賀茂の鼎主」となり、「賀茂御祖神社」(下鴨神社)に祭られます。一方の「上賀茂神社」の祭神でもある賀茂別雷命は2人の孫に当たります』
『放生池(ほうじょうち) 「金光最勝王経」長者流水品に、釈迦仏前世であった流水長者(るすいちょうじゃ)が、大きな池が干上がり死にかけた無数の魚を助けて説法して放生したところ魚たちは、三十三天に転生して感謝報恩したという本生譚が説かれています。
仏教儀式としての放生会は、中国天台宗の宗祖智鎧(ちぎ)が漁民が雑魚を捨てている様子を見て哀れみ自分の持ち物を売って魚を買い取って放生池に放したことが始めとされています。 この行いは、慈悲行の志で善いことを施し功徳を積むことになります。
今、生き物を放つことは難しいですが、ここにいる生き物にえさ(食事)を与えることも功徳を積むことになります』
『持国天(じこくてん) 反対側の増長天とともに二天として祀られています。この形式は、中国から来たとされていますが、江戸時代には、二天を守護神として祀るようになった。お寺を守る(仏法を守る)ために祀られています。持国天とは、元来四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)のお一人で、古代インドで方位の守護神として信仰され、須弥山の四方四州を守る守護神と位置づけられ、その中腹で仏法を守っています。甲冑を身につけた唐代の武将風の姿をしています。唯一兜をかぶっています』
山門には、仁王像の守護する位置に中国武将像が守護していた。
『増長天(ぞうちょうてん) 反対側の持国天ととに二天として祀られています。この形式は、中国から来たとされていますが、江戸時代には、二天を守護神として祀るようになった。お寺を守る(仏法を守る)ために祀られています。増長天とは、元来四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)のお一人で、古代インドで方位の守護神として信仰され、須弥山の四方四州を守る守護神と位置づけられ、その中腹で仏法を守っています。甲冑を身につけた唐代の武将風の姿をしています』
「不許葷酒入山門」の石柱が立っていた。「曹洞宗」です。あじさいが参道に整然と植えられており、梅雨の季節は鮮やかでしょう。
r109に戻り南下していると、鳥居が見えてきたので寄り道します。12:38「賀茂神社」。県道に面するのは鳥居の幅だけの目立たない神社でしたが、参道を進み丘の裾にある本殿は、木鼻の象と獅子の彫刻がなかなか良かった。「意外に素晴らしいな」と見上げると、拝(おがみ)の部分に立体的な躍動する龍の素晴らしい彫刻が入っていた。他の部分(斗きょうや手挟(てばさみ))にも、犬・狐や花の彫刻が散りばめられており、大当たりでした。
r109を南下し、右折してr78に入り西進します。以前一度食した「卵かけご飯・かどのの郷」の横を通り過ぎます。13:05「常照寺」。ここにも、「不許葷酒入山門」の石柱が立っていました。ここも曹洞宗でした。
『賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ) 「びんずるさん」で親しまれている賓頭盧尊者は、お釈迦様の弟子で十六羅漢の筆頭です。 若い頃は勝手気ままに暮らしていましたがお釈迦様にめぐり合って出家修行なさいました。 人並み優れた神通力で、病気の人や体の不自由な人を助けたり、欲の深い人や意地悪な人を懲らしめたりしていました。しかし、お釈迦様に神通力をもてあそんだと呵責されてしまいました。お釈迦様は「お前は究極の悟りを得ず、この世にとどよって仏法を守り、人間の病を癒し、多くの衆生を救いなさい」と指示されました。尊者はお釈迦様の言葉を守り、今に至っても人々を救う菩薩です。
常照寺のびんずるさんは、当山5世朝光印宗和尚が天明6年(1786)に奉安いたしました。途中傷みがひどく平成4年に修復し今のお姿になっています。平成23年5月にお堂が竣工し、この場所に鎮座されました。 なで仏さまですので、びんずるさんを擦って病気平癒を祈願してください』
本堂の蟇股は、鶴の彫刻でした。梵鐘が下がっていたので、鐘の音を楽しませてもらいました。お庭には、カエルの置物が多数置かれていました。カエルとはどんな縁起があったのだろう。石庭も手入れされており、大きくはないが気持ちの良いお庭でした。
少し移動し、13:18「大歳神社」。境内に入ろうと思ったら、春になると登場する道路を横断する毛虫を発見しました。ここまでも、何匹も道路横断中のこの毛虫を見ていました。調べてみたら『「シロヒトリ」という毛虫で、ヒトリガ科ヒトリガ亜科。国内では北海道から九州まで生息しています。幼虫で冬を越し、春にスイバ、イタドリ、タンポポ、オオバコ等を餌として食べます。これらを求めて移動し、サナギになるころには6cm程度の大きさになります』でした。
椿と満開のヤマザクラ・枝垂れ桜が境内に咲き誇り、拝殿・本殿の彫刻も素敵です。脇障子に龍の彫刻が入っているのは珍しい。僕と同じように満開の桜の花に誘われたのか、Pに車が1台入ってきて、ご夫婦が桜と神社を鑑賞し、お参りされていた。
『大歳神社 祭神:大歳御祖神=稲作に大いに関係している神様 大山祗神=山の神
創立年不詳 宝永4年(1707)再建・元治元年(1864)火災により造営修復・明治41年(1908)山神社2社合祀・昭和23年(1948)舞堂焼失翌年再建・平成4年(1992)石造鳥居建立・平成10年(1998)台風7号により本殿倒壊・平成12年(2000)本殿再建
境内社(右)この神は社日様と称し春分及び秋分に最も近い戌の日に土の神様を祭り、春は生育を祈り、秋は収穫を祝うとされている。
祭神:彌豆麻岐神(みずまきのかみ)=水撒き・灌漑の神 秋毘売久々年神(あきびめくくとしのかみ)=秋毘売神・秋の女神=久々年神・稲の茎が伸びることの意 若年大神=小正月の意 夏高津日神(なつたかつひのかみ)=夏の高く照る日の神の意 若沙那売神(わかさなめのかみ)=田植えをする乙女の意・農業の神
境内社(左) 稲荷神社・祭神=宇迦之御魂(うかのみたま)大神(農業の神・厳島神社) 弁財天=市杵島比売神(いちきしまひめのかみ)(水の神) 秋葉神社・祭神=火之迦具土(ひのかぐつち)大神 天照皇大神=皇室の神様で皇祖神である 美沙華(みさはな)大神・祭神=毘沙門天(山の神・本来は仏事を守る武神である) 熊野神社・祭神=伊弉諾尊・伊弉冊尊(神話の中で最初に出てくる夫婦神・八百万の神を生んだ功労者)』
八幡神社が横に並んであったので、こちらにも参拝しました。走っていると、斜面にヤマザクラが咲き綺麗な山があったので、激写タイムしました。r78にぶつかり、右折してr78を西進し、13:42「内尾神社」。
『葛野庄総社・内尾神社 御祭神:鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) 鎮座地:兵庫県丹波市氷上町三原字南奥嶋13番地
往古大宝2年(702)三原奥丹治(たんじ)大登峰(おおとがみね)に建てられた山伏の宿堂の春日大明神・地蔵権現・八幡宮・天神・弁財天を勧請して法道仙人が千日の行法をつとめられたのが内尾神社の起源とされております。
文治元年(1185)に源頼朝が神域を献じ祈願所となり、俊乗上人(しゅんぞうしょうにん)により現在の地にお社が創建されました。 後鳥羽院帝の叡聞(えいぶん)に達し、正一位内尾三社大明神の院宣を賜る。また、正応庚寅年(1288)公方様の祈願所並びに御神領・田畑栗林之御下文、明応4年(1494)に右馬助より社内伐木・其の他二ヶ篠制礼を賜る。
当時の社格は明治6年(1874)に村社に列し、大正8年(1920)には郷社に昇格。葛野庄の総社にて、この地方の総氏神として嵩敬されております。
例祭日(「体育の日」の前日の日曜日):この祭典は、無形文化財(丹波市指定)の「中野奴行列」が露払(先導)をし、内尾神社の神霊をお遷しした御神輿が神幸をする神事が行われます。
※観光案内 姫蛍(6月中旬〜7月初旬)』
神社なのに、法道仙人が起源とは驚きました。飛鳥時代、インドから来日し、播磨から丹波に掛けて多くの寺院を創建しました。飛鳥時代、聖徳太子(574〜622年)の活躍もあり、神道派の物部氏を打ち破り、仏教派の蘇我氏の時代になり、国家の中心に仏教が座った。その後の大化の改新645年頃活躍したのが法道仙人。
法道仙人は多くの寺院を創建しましたが、現代に見る一般的な仏教僧ではありません。仏教を拓かれたお釈迦様が仏教僧でなかったように、修行を重ね悟りに至った。初期仏教もそうだったように、現代の修験道のように、修行を重ねていくスタイルが一般的だったのでしょう。現代の日本仏教が葬式仏教になったのは、鎌倉時代以降、浄土宗や浄土真宗によって一般庶民に仏教が根付くようになってから。平安仏教の天台宗・真言宗は、山に籠る修行仏教であったように、法道仙人のスタイルは山に籠もり現代の修験道のように修行に明け暮れるものであったと思う。修験道の開祖・役行者に通ずるものを感じます。
そんな法道仙人が修行した地の1つがここであったようです。山深くもない地にある神社ですが、鳥居をくぐった参道両側に広がるのは、鎮守の杉の大木の林立で雰囲気抜群でした。参道を歩き、本殿廓に上がると、周囲は杉の大木に囲まれ静かな空間でした。拝殿を覗くと、絵馬が多数掲げられています。神社には珍しく、杉玉がいくつも下がっています。鎮守の森の杉から作ったのでしょうか?拝殿を周り本殿を見ると、こちらには彫刻が多数刻まれていました。
バイクに戻り、r78を東進します。道なりにr109になり「葛野川」を渡りました。葛野川が合流した「加古川」に沿って南下します。道なりにr532になり、右折して枝道に入り、「牧山トンネル」を抜け、14:28「山本薬師堂」。
茅葺屋根のお堂でした。『県指定文化財・薬師堂 昭和49年3月22日指定 所有者・管理者:延命寺
薬師堂の創建は明らかでないが、この建物は、天和3年(1683)の棟札から、応永2年(1395)に中興し、弘治3年(1557)に大修理を加え、承応2年(1653)と天和3年にも修理されたと推定されている。同じ棟札に、野瀬倉山仏光寺薬師如来堂と記され、槙山6ヶ村中(現牧山5ヶ部落)が施主となっている。
建物は、一部仏壇廻りが円柱であるほかは大面取りの方柱で、組物は舟肘木を用い、間の柱にはこれを欠いている。桁行5間、梁間4間の寄棟造・茅葺で南面して建つ。
昭和63年1月より半解体修理し、平成元年3月に完了した』
本殿などのあちこちに、穴を開け針金を通した石が下げられている。何か謂れが有るのだろうが、不明です。境内に椿が咲いていました。
バイクに戻り、南下し突き当りを右折しr86で東進。14:47「狭宮神社」。ここは、山南町和田で裏山に「岩尾城址」があります。一度家内と城攻めしましたが、熱中症気味になり途中でダウンし、家内に無理やり帰らされました。
山に向かっての長い参道を入っていきます。
『狭宮神社 当神社は、平安時代中期(西暦927年)延喜式内社に列格した丹波有数の古社であります。主祭神の若沙那売命は、若々しく成育する御神徳で、健康長寿・不老長寿を始め、安産・交通安全等、命の守護神として広く崇敬されています。また、相殿(副祭神)の八幡様は厄除大神で有名です。
御本殿は、江戸中期(西暦1758年)の再建で、入母屋造檜皮葺の誠に巧みで優美な古社にふさわしい建築となっており、特に本殿の彫刻は、江戸期に職人の間で「彫聖」として語り継れた中川利兵衛の作品です。本社周りの境内社(稲荷社・天満宮等)の7宮をめぐられる際に、ごゆっくり御覧下さい。
社殿真向かいには、安土桃山より江戸後期にかけて、厄除や雨乞いの際に奉納された能(丹波猿楽)の舞堂があり、平成14年5月に能楽が復活しております。
山南町指定文化財:狭宮神社本殿・能面小尉一面・狭宮神社社叢』
枝垂れ桜が満開で、薄ピンクと濃いピンクの花が1本から咲いており、素敵でした。絵馬殿には多数の絵馬が下がっていた。
『市指定文化財・狭宮神社社叢 昭和54年3月13日指定 所有者:狭宮神社狭宮神社の裏山は古い植生の様相をよく示している。第1層はツブラジイが優先し、なかにスギ・ヒノキ・アカマツが多少混じっており、第2層はアラカシ・アカメガシワ・コシアブラ・タカノツメ・ソヨゴ・ツバキが混生し、第3層はタラヨウ・アセビ・シャシャンボ、コバノミツバツツジ・ナツハゼ・ツブラジイ・アラカシ・ネジキ等が生え、第4層の下草にはベニシダ・ウラジロ・コシダ・シシガシラ等のシダ類が生えている。この森は原生林ではなく、一度荒廃したのが再び回復したものと思われるが、暖地の原植生をよ<示しており、たいへん貴重な森林である』
『市指定文化財・狭宮神社本殿 平成8年7月9日指定 所有者:狭宮神社
狭宮神社は延喜式内社で、往古は和田村下河原にあったが、正保年間(1640年代)に現在地に遷されたと伝えられる。
本殿は、正面一間・背面二間・側面二間の入母屋造平入で向拝一間を付ける。組物は二手先で、屋根は桧皮葺・千鳥破風を置く。大工棟梁は多可郡の飛田平蔵、華麗な彫刻は大坂の彫物師・中川利兵衛尉藤原親家による。
狭宮神社には、本殿以外にも元禄6年(1693)鶴牧藩の和田代官所の手代であった野添氏宗が奉納した能面小尉(のうめんこじょう)が市指定文化財(彫刻)として、神社裏山の社叢が市指定天然記念物に指定されている』
拝殿の彫刻が素晴らしかった。木鼻は、象と龍が合体したような彫刻でした。
『五の宮愛宕神社・御利益:火の恵み・火難除け・防火』『四の宮弁財天・御利益:水の恵み・水難除け・芸術上達』
本殿の彫刻も素晴らしく、ウサギ・獅子。本殿の屋根の形が素晴らしい。『三の宮稲荷神社・御利益:商売繁昌・家内安全・開運招福』『二の宮恵比寿神社・御利益:商売繁昌・社運隆昌・立身出世』『一の宮猿田彦神社・御利益:方除け・鬼門除け・縁結び』
『狭宮神社(由緒) 薬草の里山南町和田に鎮座する古社で、既に平安時代には国から幣帛を頂く延喜式内社に列格し、古来より通称「さみやさん」で親しまれています。 主祭神に若沙那売命、相殿神に八幡大神を奉斎し、若沙那売命は稲(いね 即ち いのちの根)を司っておられ、早乙女の様にお若くて清らかな少女神様で、八幡様と共に、健康長寿を始め五穀豊穣・厄除・交通安全・心願成就の守護神として広く崇敬されています。 特に正月の初詣、1月第3土・日の厄除大祭、7月25日の天神祭(夏祭り)は多数の参拝者で賑わいます。
稲荷神社:毎年2月の初午の日に稲荷祭が執り行われます。 霊験あらたかなお稲荷様で、特殊信仰として、古来より、体の瘡(腫れ物やできもの等のことで体の腫瘍やアトピー等の皮膚病の総称)を直して下さる神として崇敬されており、商売繁盛と共に病気平癒にも誠にご利益のある神社です。
厄除神社:須佐之男神をお祀りしています。厄神さんとして広く親しまれ、厄除開運の神・除災招福の神・疫病や諸々の災いを鎮める神として尊崇されています。毎年1月第3土・日の両日は厄除大祭が厳粛且つ盛大に執り行われ、厄除・家内安全・開運を願う善男善女で賑わいます。
狭宮神社・丹波市指定文化財
御本殿:御本殿は、宝暦8年(1758)の再建で、屋根は入母屋造り檜皮葺に千鳥破風が組まれ、随所に巧みな技術が取り入れられており、古社にふさわしく誠に優美な姿であります。 また、御本殿の各彫刻は、江戸期に代々活躍した中川利兵衛尉の作品であり、18世紀前後にしかみられないすばらしいもので、現在も職人の間で「彫聖」として語り継がれております。
能面:この能面は、和田代官所手代であった野添氏宗の依頼により、筑前・福岡の源氏信治が作り、元禄6年(1693)に狭宮神社へ奉納したものであります。 17世紀から18世紀にかけて、厄除奉納舞や雨乞い舞として、丹波狼楽の面掛神事能があでやかに行われています。(鶴牧藩日誌より)
茅の輪くぐり神事:夏越し・茅の輪くぐり(神事7月25日天神祭) 夏は様々な疫病や台風等諸々の災い(わざわい)の多い季節で、古来から人々はこの夏を無事に越せるようにと祈願して茅の輪をくぐりました』
r86で南下し、枝道に入り、15:12「也足寺」。八重桜が満開です。弁天池がありました。15:16、隣に並んでいる「伊都伎神社」へ。明治維新までは神仏習合していたのでしょう。拝殿の龍の彫刻が立体的で見事でした。彩色は落ちているが絵馬が多数下がっていました。
15:17、帰路に着きます。r86に出て南下し、R175に乗り換え、すぐに左折しr77で東進します。r86〜r77で、篠山川・JR福知山線沿いを走りました。「電車来い」と願っていましたが残念でした。「カフェ・ルート77」が閉店時間になったようで、店主さんが店じまいをしていました。R176を横切り、篠山市街地を通り抜け、篠山川を南に渡り、R372に合流しました。R372を東進し、右折してr12で南下します。「城東トンネル」を抜け、「後川」「西峠」を抜け、右折してr319で南下します。右折してr33に入り、r325で「長尾山トンネル」を抜け、17:13帰宅。


2020/4/4
コーチしている大学ヨット部の活動が、「武漢ウイルス禍」で自粛になり、予定していた週末の新人勧誘ヨット試乗会の手伝いがキャンセルされました。和歌山県の本州最南端・串本一泊ツーリングに出ることにしました。
4:38、「里山VTR250」を倉庫から出し出発。高速道を使うので「招き猫CB400SB」の出番ですが、林道も楽しもうと思うので、軽いVTRを選択しました。R171〜中央環状道で、4:53「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」。「カフェオレ500ml108円+味付け海苔エビマヨネーズ125円=251円」を購入。
「吹田IC」から「近畿道」に乗り、一気に南下します。道なりに「阪和道」に入り、5:55「岸和田SA」で休憩します。朝カレーで朝食にします。「有田IC」で下車し、左折して和歌山県道r22で東進。右折してR424に乗りました。この道で延々南下開始です。満開のソメイヨシノが有田川に掛かる所にバイクを止め激写タイム。まさに見頃です。我が家は桜吹雪に入り始めたのに、こちらの方が開花が遅かったようです。どこまで走るのでしょう、ロードバイクが何台も走っていました。有田から白浜までR424〜r311経由で80km、輪行で早朝大阪を出発して、丁度良いローディーの1日になりそう。
「日高川」を渡る所で、激写休憩しました。7:40「美山SS」で給油。
153km/5.33L=28.7km/L。気温8℃でした。「林道野々古川又線・幅員4.0m・延長8623m」に入りました。林道1本目です。しっかり舗装されていますが、数日前の雨が道路に溜まっていたり、がけ崩れの小石が散らばっていたり、いつ通行止めになってもおかしくない山岳林道で、好みです。沢沿いの道を数キロ走って、交差点がありました。橋を渡って右折方向が、「林道炭屋谷線・幅員4.0m・延長2340m」起点でした。こちらも舗装されており、走ってみたい。
先に進みます。更に落石が多くなり、雨で土砂が道を渡ったと思われる場所があり、流れ出た材木が脇にあったり、先が思いやられてきました。ナビを見ていると、予定の林道から離れています。先程の「炭谷線」がこちらだったようです。二股になった所で、Uターンして戻ります。分岐に戻り、橋を渡ります。
8:26、「野々川隧道」。ずっと標高を上げてきての隧道なので、この道のピークかも。標高500m。マーキングしましょう。日高川町と印南町の町境のようです。トンネルの上に、養蜂箱が並んでいた。トンネルを抜けたら、予想通り下りになった。ただ落石道は変わらなかった。数百メートル下ったところで、舗装面が崩れて道幅がゼロになっていました。幸いにも山側に余裕があり、地道ですが1mほど幅があります。バイクなら通れそうなので、二輪二足で通過しました。崩壊部分を下ると、パワーショベルが置いてありました。土曜日なので休日なのでしょう。ショベルの横を通り抜け、果たして国道まで抜けることが出来るのか不安になりながらも、「これも林道の楽しみ」と突っ込みました。その後は崩れた場所はなく、無事R425に下れました。こちら側の入口には、「通行禁止」バリケードが立っていました。
R425を東進し、R424に出て、再び南下し始めました。9:01、吊橋があったので渡ってみます。紀州の山岳部には多くの吊橋があり、かつて怖くて渡れなかったので、時々渡って鍛えています。バイクで渡って、対岸道路を走ろうと思ったが、道がなく再び吊橋を渡りR424に戻りました。
9:12、「道の駅・水の郷日高川龍游」で休憩します。ここもソメイヨシノが満開で綺麗です。トイレを拝借すると、入口に「ツバメの巣」があり、周囲を数羽のツバメが飛び交っていました。ツバメの渡りの時期が来たようです。
R425にチェンジし、r29〜r198で南下。R311に出て更に南下し、9:50「道の駅・ふるさとセンター大塔」。
『茶屋の壇 永享6年(1434)に、毒を盛られた小栗判官が蘇生への旅として、本宮湯の峰温泉をめざし照手姫に引かれて行った道筋を、小栗道と呼んで伝えられている。花折地蔵付近の古道を小栗坂と伝えられ又、田辺市本宮町との境に位置する三日森山は、判官をのせた車を、3日がかりで峠を越した事から名付けられたといわれている。
茶屋の壇は、当ふるさとセンター大塔の山側にあったと言われており、小栗判官と照手姫が道中休息された場所と伝えられている』
ここは、八重桜が咲き始めており、この旅は「花見ツーリング」になりそう。
R311を南下し、r219〜r221。「日置川」を渡ってr37へ。橋の上でバイクを止め、河原を見ると「甌穴」のある岩が沢山あった。
10:29「殿山発電所」。10:40、「将軍川林道」へ入ります。本日2本目の山岳林道です。紀州南部を代表する27kmの長距離林道なので期待です。果たして全線通れるのか?
1本目林道が落石が多かったのでワクワクしながら入りましたが、対向車は皆無でしたが意外に落石が少なく、良く管理されている感じでした。10:54、「市鹿野トンネル」。『2002年3月・延長1009m・幅7m・高4.5m 清水・三井・小森特定建設工事共同事業体』。
11:05「佐井川興社・将軍山荘」がありました。林道が沢を渡る地にあり、とても静かです。「販売目的でホタル捕獲禁止・カワニナを採らないで」と書かれており、6月のゲンジボタルの季節の光景を想像してしまいました。音もなく、淡い光が舞い、BGMは沢の水音・・・良いじゃないですか。
のんびり走っていると、初めての対向車がありました。材木を積んだトラックで、林業業者の山からの伐り出しトラックでした。11:19、山側に山間の一軒家があり、林道を隔てて満開の枝垂れ桜が咲いており、白やピンクの花が綺麗だった。11:17、材木集積地通過。先程対向したトラックは、ここで積んだのでしょう。
広範囲に木が伐り出された山がありました。数年後、新たに植林するのでしょう。かつて長く燃料の主役だった木材は、価格が高騰し宝の山だったが、昭和30年(1955)代以降の材木輸入自由化以降、日本林業は衰退の一途へ。円高による海外材木価格の相対的低下も拍車をかけた。平成17年以降、国産材の価格低下や供給体制の近代化などで、国産材利用が上向きになっている。林道を走ると、よく林業伐採現場を見るようになった。
11:45、小さな祠があったのでストップ。バイクの下で変な音がするな〜と思って見たら、枝が引っかかっていた。沢沿いで休憩したり、何度か激写休憩タイムを取りながら、r38に出ました。27kmの長大林道でしたが、問題なく通過できました。
r38に出合って右折し西進。材木運搬車を追い越し、12:26、r38山側に「大己(たいき)小学校(1970年廃校)」がありました。現存する和歌山県最古の木造校舎だそうです。r38の川側に県道を渡る形で校庭があり、満開の桜が華麗を競っていた。山側の校舎横にもソメイヨシノの大木があり、桜吹雪がバイクに降り注いでいた。
r36にチェンジし、海に出ようと思ったが心変わりしてr38に戻り、更に西進しました。r225に入り南下します。林道と見紛う狭いうねうね道で山岳部を突破し、紀勢自動車道をくぐり、JR紀勢線を渡り、R42に乗り東進します。右側には南紀の海が広がっています。
13:08「JR見老津」駅。『イブ王国ラブロード イブ王国(イノブーラン王国)とは、特産品のイノブタ(父は猪・母は豚)を大王に頂き、すさみ町を領土に、昭和61年5月4日に建国したパロディ国家です。王国では、若者たちに「愛の語らいの場所」を提供し、我が国のロマンに浸って、旅の心を満喫してもらおうと、王国内の国道42号線を「イブ王国ラブロード」と命名しました』
無人駅でした。駅舎内は道の駅のようなご近所生産品販売所になっていました。加えて陸海空自衛官募集パンフレットが置いてありました。
R42で東進し、13:20「日本童謡の園」。何故、童謡?と思ったら、神島「江須崎」への小さな岬内の道沿いに、多くの童謡の歌詞とメロディーが流れていました。人感センサーが設置されており、次々に横からメロディーが流れて来た。
『延命地蔵尊由来 抑々、昔の江住村と和深村の境界の磯にある洞窟を根城に住んでいた伝次が、権八という子を連れた母たまと同棲していた。 たまの死後、権八が10才位の時、母を慕い日夜泣き叫ぶので、伝次は権八を釣りに連れて行くふりをしてこの崖から突き落として死なせた。
所謂、継子殺しとして伝わっているここへ、哀れな権八の供養に建てたお地蔵さんである。 南無阿弥陀仏』
岬はリアス式海岸線が豪快で、静かな海ですが波が寄せていました。
『江須崎島へのご案内 左の石段左下り、海辺の道から国の天然記念物に指定されている「江須崎島」へ渡れます。江須崎島はハカマカズラ・ビャクシン・ウバベガシ・シイ等200余種の亜熱帯植物が繁茂し、島内中央の春日神社境内には、皇太子行啓記念碑や日本で最大級のハカマカズラの大樹があります。
又、春日神社裏手より周囲2kmの周遊道があリ、原生林をぬけると島の先端に白亜の無人灯台やまるみを帯びた水平線が目の前。
自然を大切にしながら、楽しく歩きましょう
(ご注意)島内の樹木や岩石を採取したり、傷つけたり致しますと罰せられます』
「江須崎島」まで、歩きました。リアス式海岸線近くに点在する岩場に、釣り人が点々と乗っていました。渡船で渡るには暗岩に気をつけねばならないので、ゴムボートで渡っておられるのかな?
『日本童謡の園公園(すさみ町) 国道42号沿い県立江住海岸公園内「まりと殿さま」像の背後に沈む夕陽が眼下の太平洋を深紅に染める光景は、訪れたあなたを夢の世界へと誘ってくれる。珍しいエビと力二の水族館もある』
「江須崎島」へは、急階段を下るようだったので、バイクで行くことにします。
『江須崎 吉野熊野国立公園
黒潮がもたらした暖地性植物群落
江須崎の成り立ち:江須崎は、小さな水路に隔てられて島になっています。島の周囲は崖(海食崖)で囲まれ、島の中にはかつて海底だったところが隆起した平らな地面があり、海岸段丘となっています。海底であった頃の名残りの丸い小石を、春日神社の切通しの階段の壁でみることができます。
江須崎の神社:江須崎には、明治の神社合祀によってできた春日神社があります。また、それ以前より海の神としてまつられてきた江須崎神社もあります。
暖地性植物群落:紀伊半島南端近くにある江須崎では、暖かい黒潮の影響を受けた暖地性植物群落が見られます。特にハカマカヅラ・サカキカヅラ・ナシカヅラ等の蔓性巨樹が多いことが特徴です。この森は春日神社の鎮守の森として大切に守られてきました』
『江須崎案内 江須崎島は周囲約3km・面積7ha・標高36mの小島であって全島神域として保護され今に至っている。 年間平均気温は17.4℃・降水量2000〜2400mmで亜熱帯区の北限に位置する。
島内の植物は総数200余種に及び、全島が亜熱帯性の原生林より成る。 その主要なものはシイ・イヌマキ・ホルトノキの樹林・ウバメガシ樹林・イスノキ樹林等。 特に島内の珍種にハカマカズラ(ワンジュ)のつるが見られ、ハマセンダン・シマサルナシ等の暖地性の珍しい植物が繁茂することから、昭和28年11月、国指定の天然記念物となっている。 他にナギラン・マツバラン・キジョラン・カツモウイノデ等、貴重な植物が極めて多い。 すさみ町教育委員会』
島に渡り、「春日神社」を訪問しましょう。島の森に入ると、案内板通り独特な植生の森で、南国ジャングルを想像してしまいました。
『春日神社(江住) 西牟婁郡すさみ町江住155番地(江須崎)
主祭神:天児屋根命 配祀神:一杵嶋姫命・事代主命・金山彦神
境内社:金毘羅神社 例祭日:10月13日
特殊神事:新春厄払い神事(1月19日)
指定文化財・主たる建造物:江須崎島暖地性植物群落(国指定天然記念物・昭和28年11月14日指定) 本殿(木造銅板葺春日造35.5平方メートル)・ 鈴門(木造3.3平方メートル)・ 摂社(木造銅板葺春日造30平方メートル)・ 社務所(木造瓦葺入母屋造53.7平方メートル)・ 鳥居(石造明神鳥居)・ 社標柱(石造1基・御大典記念昭和3年11月10日)・ 狛犬(石造1対)・ 灯籠(石造28基)
境内:1500平方メートル 氏子区域:すさみ町江住・江須之川・見老津御鎮座の年代は詳らかではない。
紀伊続風土記によると「春日明神社、村中にあり、江住・見老津2箇村の氏神也(略)。天正4(1576)年9月の棟札に其の時の領主周参見弥十郎諸役見路津1/3支配也と記せり。今に至りても造営修復等は雑費見老津1/3支配すといふ。或はいふ村の旧民城四郎左衛門の先祖藤氏なるを以て鎮守に祭れるを村民信仰して終に氏神とす」とある。
往年より村中の社を本社とし、江須崎に鎮座する春日社を併せて江住・見老津の氏神として来た。
明治6年4月、村社春日神社となる。
同40年4月、神饌幣帛料供進社に指定。
42年6月、一村一社の神社合祀により村内の神社8社を合祀(見老津の金毘羅神社・地主神社・弁天社・戎社、江住の春日神社、浜地・西地の戎社、里野の八幡神社)の後、改めて江須崎の現社地に御遷座された。
江須崎は古来、枯木灘の象徴、神の御崎として神聖視され、海上交通に携わる人々からは難所枯木灘の守り神として、江洲崎明神、春日明神と崇められ、また江須崎さんと呼ばれて親しまれて来た。
境内には江戸時代に菱垣廻船の船主等の奉献した往時の石灯籠が残されている。
社叢:江須崎は標高36m、周囲3km、面積7万平方メートルの本土と砂洲でつながった陸繋島で、真南に枯木灘に突出する名勝であり(熊野枯木灘海岸県立自然公園)、その中央に春日神社が鎮座する。
全島神域として不伐・禁猟とされて来たため、原生林が鬱蒼と茂り森厳な境内は神寂びる。
「江須崎島暖地性植物群落」として国指定天然記念物となっている。
枯木灘―呼称の由来:由来は江須崎先端に繁茂する柏槙の樹皮が剥離し白い木肌を見せて絶壁上に屹立する姿が、沖の船上からの遠望では、あたかも枯れ木のように見えることからの呼称とされる。
例祭:本社神前、境内社の金毘羅神社神前に幣の舞、剣の舞、花懸かり等の獅子神楽が奉納された後、屋台が繰り出され境外社の戎社前で幣の舞を奉納して、地下廻しに向かう。
昭和40年頃迄は雄獅子、雌獅子に分担して地下廻しを行っていたが、以降は新築の家、希望する家での幣の舞奉仕になっている。
現在、獅子神楽は「獅子舞保存会」の献身的な活動によって後継者が育成されている。子供獅子舞が奉納され、子供神輿も出て伝統行事が継承されている。なお江住区では投餅を行っている。
新春厄払い:厄払いの餅撒き行事。
厄年を迎えた氏子、当地出身者・縁者の厄払い祈願をはじめ、大漁祈願、海上安全、交通安全、商売繁盛、無病息災等を祈願して神前に供えられた数十桶の餅が社務所下の広場で一斉に撒かれる。
餅は福餅として喜ばれ、特に大振りの鏡餅を手に入れんと競い合う餅拾いの人々で大いに賑わい活況を呈す。
なお江住地区は遥拝所にて1月13日に行っている。
初えびす:1月10日、各戎神社で神事・餅撒。
初金毘羅:1月10日、金毘羅山で神事・餅撒』
林道を通って串本に向かいましょう。R42に戻り海岸線を東進し、左折してr36に入り、細道で山を登っていきます。「コカシ峠」で右折して「上地谷林道(仮)」に乗り東進します。
14:28、山岳部を下り小さな盆地のような所に出て、左折して「林道大鎌椎平線」に入りました。14:57「和深鶴川線」から、5本目の林道に入ります。「この先11.6km崩土のため通行止め」のバリケードが道脇にあります。「通行止めなのか?開通しているのか?通行止めで帰ってくると23.2km・1時間のロスになります」迷い、一旦諦めることにして、r39経由で「一枚岩」に行こうと出発したが、すぐに気が変わり、1時間ロスしてもまだ日のあるうちに串本に着くだろうから行っちゃえ!と結論し、林道に突っ込みます。
片側が崖の林道の細道で、対向乗用車がありました。カップルが乗っていたので、国道まで通れそうだと意を強くした。引き返した車なら、「通れないよ」と声を掛けてくれるだろうから。林業の木材運搬トラックの対向車がありました。土曜日だけど仕事しているのか・・・林道入口の看板は、業者が横に退かし、元に戻していなかったのかも・・・まあ、考えても仕方ないです。まだ15時で、日が落ちるには時間があるので、最悪それまでに山から出れたらOKです。高度を上げながら細道を走っていると、伐採された山の斜面が現れました。広大な面積の木が伐られていました。山並みが視界に広がり、前方の山の上方斜面に真横に走る林道が見えました。あそこまで登って行くのか・・・この林道も豪快です。
15:18、林道脇の木々が切れ視界が広がりました。下界に南紀・串本の海が見えます。素晴らしい!15:23、分岐に出ました。「左:水呑大師、右:峯ノ山・嶽の森」、右に向かいます。峠を越えると、山並みの絶景が広がっていた。ここから下りに入ります。この林道の峠を越えたようです。順調に下っていましたが、15:33ガーン、山側が崩れており、道が100%埋まっており、一見して通ることが出来ない。仕方ないので、Uターンして戻ります。16:01、r39に戻り、右折して北上します。
16:10「春日神社」。境内の鎮守の森に、しめ縄が巻かれた二股に別れた杉の大木がありました。多くの神社で「夫婦杉」と命名されるはず。ところが、二股に別れているところに窪みがあり、そこに白い大きめの丸石が嵌め込まれていました。これは面白い!
R371に出て右折し南下します。16:21、右手に古座川を隔てて「天柱岩」が見えて来ました。迫力があります。16:25「道の駅・一枚岩」。
『天まで覆う岩の大屏風
古座川の一枚岩の成り立ち:古座川の一枚岩は、冷え固まったマグマの塊が、大地の隆起によって地表に現れ、川に侵食されて、一面の岸壁となりました。マグマが冷え固まった岩は、このあたりから20km以上も東に向かって続いています。このマグマから出来た岩の連なりを、古座川弧状岩脈と言います。古座川弧状岩脈は大昔に形成された熊野カルデラの一部と考えられています。
一枚岩の守り犬:古座川の一枚岩には、岩を食べる魔物から一枚岩を守った「守り犬」の民話が伝わっています。
古くからの石材「宇津木石」:古座川の一枚岩は、比較的柔らかく加工のしやすい石で出来ています。この石は「宇津木石」と呼ばれ、この地方で古くから石材として利用されて来ました。古座川流域には、その宇津木石の砕石場跡があります』
『古座川の一枚岩:国指定天然記念物「古座川の一枚岩」(昭和16年指定)は、高さ100m・幅500mの大岩壁で、「天柱岩」「飯盛岩」「ぼたん岩」「高池の虫喰岩」などの、古座峡の奇岩とつながっています。これらは熊野カルデラ火山の地下深くで、マグマからできた岩体です。火山活動から長い年月を経て、地上に現れた岩体が風化・浸食され、珍しい形となりました。紀伊半島の生い立ちを物語る貴重な地質遺産のひとつとして平成21年5月10日の「地質の日」に、和歌山県唯一の日本の地質百選「古座川弧状岩脈」に選定されています。
一枚岩の守り犬伝説:昔、岩が好物の魔物が岩を食い荒らしながら古座川を遡っていきました。いよいよ一枚岩を食べようと歯み付いた時、、里に住む猟犬が襲いかかって魔物を追い払い一牧岩だけは穴だらけにならずに残りました。
4月19日前後と8月25日前後の数日間、夕日をうけて「守り犬」の影が一枚岩に浮かび上がります』
16:51、今夜の宿泊先「洋風民宿・串本館」着。まだ明るいので、「潮岬」に向かいます。右折してr41に入り南下。
17:07、「潮岬灯台」。横の「潮御崎神社」に向かいます。風の強い地らしく高い石積みに囲まれたお社だった。「鯨山見」というかつて生活の糧を得るため鯨を物見した岬の突端に行ってみた。さすが広い範囲で海が見えていた。驚いたのは、リアス式海岸の岩で釣り人が楽しんでいた。岩の上にはゴムボートが2隻置かれており、自力で渡ったようです。風は強くないが、暗くなりつつあるので大丈夫かな〜と心配になった。食いが良くなる「夕マズメ」を狙っているのだと思う。
『日本遺産 鯨とともに生きる
紀伊半島の南東部、黒潮が流れる熊野灘沿岸の人々は、昔から鯨とともに生きて来ました。一帯では江戸時代初期に組織的な捕鯨が始まり、地域の一大産業へ発展。大いなる海の恵みは人々の暮らしを支え、一方で人々は鯨に感謝し、巨体を余すところなく活用してきました。
熊野に息づくこうした捕鯨文化のストーリー「鯨とともに生きる」が、2016年4月、文化庁の日本遺産に認定されました。物語の舞台は、和歌山県の新宮市と、太地・那智勝浦・串本の3町。なかでも太地は「鯨の町」としてよく知られるところです。
本州最南端のこのエリアには、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する熊野三山や熊野古道もあります。「海の日本遺産」と「山の世界遺産」が織り成す魅力たっぷりの熊野へ、鯨と人の物語をたずねてみませんか。
潮岬の鯨山見:「鯨山見」とは回遊してくる鯨を見張るところで、古座鯨方は春になると古座から袋港に拠点を移し、潮岬の西側の海で捕鯨した。熊代繁里は「熊野日記」の中で、鯨舟24隻が2頭の鯨を袋港まで引っ張ってきて、ロクロで巻き上げる様子を記述している』
r41に戻り先に進みます。17:31「潮岬観光タワー」があり、県道を隔てて「望楼の芝生」がありました。ここは無料キャンプ場で、Pには四輪やバイクが停まっており、多くのテントが立っていました。今回、ここでテント泊しようかと考えたが、4月になったばかりなので寒いと思いパスしました。
r41を進み、道なりにr40になり、R42に突き当り、右折し、17:52「セルフステーション串本」で給油しました。200km/6.31L=31.7km/L。17:58「ファミリーマート串本町桟橋店」で、「ブルガリアヨーグルト145円+助六寿司398円+エビだし旨ひねり揚108円=644円」購入。
18:04、ネット予約&支払い済みしていた「洋風民宿BaySideInn串本館・1泊4800円」に着きました。ロビーに入るとカウンターが閉まっていました。「鍵は?部屋は?」と思い、ロビーにおられた方に、「鍵はどうして頂けば良いのでしょうか?」と聞くと、「予約してる?」「はい」「じゃあ、カウンターに置いてあるよ」。ほんとだ、僕の名前が書かれたシートと鍵が置いてありました。そういえば、セルフ・チェックインと書かれていました。これがそうなのね。「ありがとうございました」。
部屋はツインベッドルームで、TVはタダ。着替えをして助六寿司を夕食にして、さあお風呂・・・と、共同風呂に向かったら、シャワーのみでした。部屋に戻り、PCを立ち上げゴソゴソ。19時台になり眠くなり、明日に備え早く寝ました。


2020/3/29
コーチしてる大学ヨット部監督から、大学の武漢ウイルス対応に対するヨット部としての対応がメールで届きました。幸いヨット部は屋外スポーツなので、日頃の活動への規制はありませんが、4月から始まる新人勧誘への対応が例年と大きく変わりそうです。ヨット試乗は屋外なので問題ないですが、合宿所で密度濃く勧誘するのに注意が必要です。加えて、大学とヨットハーバーとの往復が車という密室になります。僕がクラブ実働部隊最年長なので、4月毎週やっていた車での送迎から外れることになりました。4月はお休みし、5月からコーチングすることになりました。大学によっては、4月の授業はナシで、5月GW後から新学期授業を始める所も出てきました。その分、夏休みが1ヶ月短くなるのかな?
3月に参加予定されていた全国区のレースもキャンセルになり、機先を削がれています。そんなこんなで、家内の実家のお墓参りに行くことになりました。我が家のお墓参りは春のお彼岸に済ませました。
家内を車に乗せ、7:42「セルフ宝塚176」で給油。中国道〜山陽道で播州に向かい、お墓参ります。北風が強く肌寒いです。帰路、9:26「山陽道三木SA」でトイレ休憩し、「和柄ボディータオル715円×2=1430円」を購入しました。コラーゲン入りフェイスタオルで、歌舞伎役者の顔がプリントされ、目と口の部分に穴が開いています。水で湿らせ、フェイスパックのように顔に載せて使うそうです。女性用の舞妓フェイスがプリントされているものと購入しました。4/6が長男の次男こうちゃんの4才の誕生日なのでプレゼントを送ります。一緒に送りましょう。男の子3人なので、大笑いになりそう。通常ならEMS便で1週間強で届くはずですが、航空機便が少なくなっているこの時期、いつ届くのやら。
自宅付近に戻り、家内の用事に付き合い、スーパーで買い物して帰宅しました。映画「弥生3月」を観に行こうと話していましたが、映画館だから今は嫌と言われちゃいました。大阪梅田などの人の多く集まる繁華な映画館じゃないから、「Fukushima50」のように、というよりもっと空いてるだろうから狙い目だと思うのですが・・・。
帰宅して、「AmazonPrimeVideo」で「縁・えにし」を2人で見ました。佐々木希さん主演の映画で、出雲が舞台です。ロードショーで観たかったのですが、タイミングが合わず観ていませんでした。佐々木さんは演技が上手いとは思いませんが、そんなの圧倒する可愛さ・清楚さ・雰囲気を感じる女優さんです。出雲大社・一畑電車など、数年前家内と輪行サイクリングしたエリアが舞台で、とても楽しめました。映画「RAILWAY」を観て出雲に行きたくなり、一畑電車で輪行しながら家内と数日間楽しみましたが、「縁」でまた行きたくなりました。「出雲大社に参りたい」と言ってた次男のお嫁さんを誘い、「伊勢神宮参り」したように次男一家とお泊りで楽しみたいです。
僕だけ2本目、映画「コーヒーがさめないうちに」を見ました。これは、ロードショーで家内と観た映画です。アマゾンプライムビデオで見ました。ストーリーは何となく覚えていましたが、また楽しめました。NHK「ダーウィンが来た」を見て、風呂に入って「麒麟が来る」を見て、1日が終わりました。
午前中、埼玉県に住む次男とお嫁さんから昨日に続きLINEが入りました。すみれちゃん3才が玄関で靴を履く場面からビデオが始まります。「ちゃんと合ってる?」って、次男に靴の左右ちゃんと履けたか確認しています。玄関を開けると、チューリップが数本、バケツに入っています。何処かで摘んできたのかな?お庭のかな?ここは玄関屋根の下なので平気ですが、外は雪が結構降っています。すぐに玄関に続くガレージに移動です。ここの屋根があって平気。芝生のお庭一面、白く雪が積もっています。「踏んでいい?」と次男に許可を求め、すみれちゃんが一歩踏み出します。「足跡〜」と喜んでいます。スタスタ歩いているとステン、尻もちついちゃいました。「冷た〜い」と嬉しそうです。手をつい冷たかったので、手をコートのポケットに突っ込みます。積雪数センチなのに、意外に大きな雪だるまをベンチの横に作っていました。
おもちゃのシャベルが活躍したようです。すみれちゃんが次男に開けてもらった穴に、おもちゃのゴルフクラブをツッコミ左右の手にして、ボールを目に口にして雪だるまが完成しました。「よし出来た〜」と次男が言うと、「もう一つ作る〜」とすみれちゃん。2つ目を作ったのでしょうか?南岸低気圧に伴う春の太平洋側の雪に1日を、雪が降らなかった関西で楽しませて頂きました。


2020/3/28
次男の誕生日です。年度末に生まれたので、幼稚園の頃は、学年で一番小さく、絵でもお遊戯でも歩くのも何でも教室内で一番出来ませんでした。お友達の絵が線になっている時、次男はまだ点々。公園にお散歩に行く時、お友達は歩いているのに次男はゲージに座って。小学生になり、相変わらず学年一のチビでしたが、動きは変わらないようになりました。
「お誕生日、おめでとう」とLINEメッセージすると、「ありがとう、不要不急の・・才です」と返事がありました。夜になり、次男のお嫁さんからLINEが入りました。「今日は人混みを避けて、近くの公園でのんびり誕生日会をしてきました。お出かけには最高の季節なのにこの状況。残念です。外出自粛生活がんばります」のメッセージ。
誰もいない公園に簡易テントを張って、テント内で休憩しながらお花を摘んだり、テント内に寝転んでおーちゃんと遊んだりしています。
すぐに次男から、「いや、外出してるやん。笑」と突っ込まれていました。これにお嫁さんが、すみれちゃんスタンプ「え!」で答えています。お嫁さんは、すみれちゃんのいろんな表情を写真スタンプ「ありがとう」「すみません」「ごめんなさい」「やったー」などにして50円で販売しています。お財布スマホなら購入できるのでしょう。お嫁さんのセンスが光ります。
お誕生会のビデオも入ってきました。お誕生日の歌「ハッピバースデートゥーユー・・・」を上手にすみれちゃんが歌い、パパに向かって拍手しています。家族に祝ってもらい幸せな誕生日です。
次男の育った我が家では、両親含め6人の誕生会を実家で祝いました。年6回誕生会があり、ケーキにありつけます。もちろん、じいちゃんばあちゃんからもプレゼントが有り子供のとっては万々歳だったでしょう。次男の誕生日は家族4人で祝ったようでした。お嫁さんご両親と2世帯住宅なのだから、一緒に大勢で祝えばいいのに・・・。子どもたちの誕生日だけ、そうなるのかな?


2020/3/21
あまりに天気が良いし暖かいので、福知山方面への寺社巡りツーリングに出ました。ずっと冬装束でしたが、「春秋装束」を解禁することにします。
9:22、「招き猫CB400SB」に乗って出発。r13で北上し、r12からR173。天気が良いので気持ち良く走れます。バイクも多く出ており、「天王峠」に向かっての登りで追いついてきたCB1300・3台グループに先を譲りました。気持ち良く走りカーブを曲がると前方にパトカーと警官がおり、止められました。+10の会で走っていたのにスピード違反?とドキリと思いましたが、パトカーの前に停まっていた大型トラックが故障しているようで、対向車との通行をコントロールしているだけでした。
「天王トンネル」を抜けると、崩れて長く通行止めだった所の道幅が広げられており、新しい道にしていました。「天王トンネル」の旧道入口は、バリケード封鎖されていました。かつては何度も走った道ですが、廃道化が更に進んでいるでしょう。篠山側に下り、「安田」交差点で先行していたCB1300・3台グループに追いつきました。その前に3台バイクがおり、7台グループになったまま北上しました。「福井」交差点で、1台右折してr702に入って行きました。
6台ツーリングのまま更に北上し、左折してr300に入ります。CB1300・3台の前を走っていた2台に続いて左折し、同じペースで走ります。2台はカップルのようで、後ろの女性は「藤坂峠」の下りカーブになるとしっかりスピードを落として追いつきます。
「本郷」交差点を過ぎ、r710へ。3台で気持ち良く交通量の少ないワインディングを走っていると、「深山林道」の道標が目に入りました。予定にはないですが、入ってみます。何処まで上がれるか、あるいは何処かに繋がっているのか期待しましたが、入ってすぐバリケード通行止めになっていました。12:53「丹波・鹿倉山」への登山コースの案内板が立っていました。
r710に戻り、北上してR9。しばらく走り、左折して京都府道r709。11:06「興雲寺」。のどかな小川沿いの高台にありました。こじんまりしていますが、下界の景色は良いです。『妙心寺十傑のひとり回天和尚により開山。大阪の陣で活躍した福知山藩主・稲葉紀通の菩提寺で、天田郡西国霊場第7番札所。京都・兵庫にまたがる宝・七福神の寿霊場第6番札所』
福知山藩主菩提寺という歴史を感じたくてここに来ました。r709に戻り、少し手前にあった小さな丘が鎮守の森風だったので寄り道します。11:20「梅田神社」。期待していませんでしたが、「興雲寺」同様石段を上がると、広い境内になりました。本社・本殿というのがなく、横長の覆屋に数社が横並びに収まっていました。左に「西宮神社えびす様」。蟇股の彫刻が「鯛」でした。中央に「梅田神社」。右に「春日神社」が鎮座していました。「奉納神楽・童神輿収蔵庫」がありました。鎮守の森に梅の木が1本生えており、ピンクの花が満開でした。
r709を走り、R9に戻ります。11:38、「ローソン福知山三和町店」で「ミニチョコクリームパン5個100円+ツナ揚げ108円+サントリーボスとろけるカフェオレ500ml162円=370円」購入。北上し、右折してr59。11:52、「玉歳神社」。
福知山で「由良川」に合流する「土師川」沿い右岸を北上し、橋を渡って左岸に出てR9に合流。国道ですが、交通量が少なく気持ち良く走れます。12:05「生野神社」。
『延喜式式内社・生野神社記 (御幣神社みてぐらはん)
式内社とは 延長5年(927)藤原忠平によって調査され、延喜式目に選上登録された中央政府にも相当名の知られた神社のことで、当市内に4座ある。
祭神は、天鈿女命で平和な舞踏や音楽を愛好されると共に、九州から伊勢まで男神を無事送り届けられたという勇ましい女神様でもある。
徳川時代の参勤交代には、当地方の領主綾部藩の九鬼氏をはじめ、福知山・舞鶴・宮津・峰山・豊岡・和田山等の大名が行列美々しく此の道を通る時は、必ず参拝して長途旅行の安全を祈願し、神前の榊の枝葉を戴いて御守とし、帰途これを返納したので以来、旅行・出張・転勤・外遊等の生活と道中安全の神様として有名である。
社殿は慶長年間(1600)関ヶ原の戦の頃、社殿の改築があり、更に元禄年間(1700)忠臣蔵討入の頃、神祇管領より正一位を授けられているが社殿は後の山上にあった。
明治6年(1873)生野神社と改称、昭和4年(1929)拝殿改築、昭和8年(1933)社務所を建てた。
御幣神社:鎌倉時代(1200)から江戸末期(1800)までは、みてぐらはんと称えていた。これは、綾部藩主・九鬼氏が生野に倉庫を建て上納米を取立てていたが、毎年当神社へ御供米を奉献していたので、御幣(み てぐら)と呼ぶようになったという。
祭日は、春季大祭4月11日で、子供相撲や、剣道 大会が奉納され、秋季大祭は10月10日で市内随一の、重量1125キロで、80人の氏子が奉仕する金色燦然たる御神輿を、子供樽御神輿や御幣太鼓3基が綾部藩奉納の武具行列と共に、勇壮な奴毛槍道中が繰りひろげられるのも名高い。
氏子は、三俣・池田・堀越・正後寺・坂室の約250戸で、全地域を御神輿が巡行し、各区の御旅所で休憩するが、江戸中期には、下六人部学区の多保市の西和田ノ前という所に6メートル四方位の岩塚があり、その附近が、中六人部学区の一宮神社の御神輿を、上六人部学区の御幣神社の御神輿と、立会祭礼の御旅所であったともいう。
御加護:いづれにしても、地域社会の発展と商売繁盛・家内安全・学業成就・歌舞音曲の上達や旅行道中交通安全の神様として、御加護はすばらしいものがある』
2度目の訪問です。いや3度目かな?拝殿の蟇股などの彫刻が素晴らしい。「彫物師・当国柏原町住人・中井清次郎正用」とあります。先日訪問した丹波市で訪問した寺社の彫刻が見事で、みな中井一党作でした。本殿も見事です。高い扉の社庫があります。神輿?山車?中をみたいな。
R9に合流し、「舞鶴若狭道」をくぐり、福知山市街地に入ります。JR山陰線を福知山駅のすぐ東でくぐり、r24〜r55で「由良川」を渡りました。12:35「庵我神社」。
『この社の創建は不明ですが、宝亀4年(773)に社殿に泥棒が入ったという記録があるので、相当以前にさかのぼるものと思われます。
府の指定文化財である「木造扁額」は、後醍醐天皇の親任があつく、歌人でもあった朝廷の要人・藤原行房が表に「正二位聖大明神」と書いたもので、それを三角彫りにした鎌倉時代の格式の高い文化財であります。
この種の文化財は極めて稀で、この社と中央とを結びつける重要な文化財であります』
『当社は、古く奈良朝の頃の創建にして社殿中央に天穂日命(天孫卸降臨の前高天原から出雲に使に立たれた神様で土師部の祖)を左に生島神(八十島の守護神)右に気長足姫命(聖大明神と称し仲哀天皇の后)を左右配神として祭祀する由緒ある式内社なり、昔この地方に勢力を誇っていた土器等の製造を業とする部民である土師連が祖先を守護神として祀ったもので福知山藩累代城主の崇敬篤く宝物、神饌物等の奉献あり、天正八年福知山内記十六軒町にありし八幡神社を当社に遷し祀ってよりは専ら八幡宮又は、八幡神社と称せられ霊威極めてあらたかな鎮守の神として尊崇され、現在庵我地区(猪崎、城山、下猪崎、中、池部)の氏神としてのみならずこの地方の守護神として崇敬されている。
社宝の正二位聖大明神の扁額は重要文化財の指定を受けており、他に多くの社宝あり』
境内に梅と早咲き桜が咲いていました。両方とも満開で綺麗だったので、石段に座り昼食にしました。r55を戻り、由良川を渡ります。左折して「昭和通り」を走り、12:54「厄除神社」。鳥居の横に道標が立っていました。
『この遣標は、文化5年(1808)丹後口門の近辺に建てられた行先を示す道しるべである。丹後口門(番所)とは、現在の鋳物師町と寺町の境い辺りである。
道標の多くは、巡礼や社寺参拝の旅人の道案内で、この道標は丹後の成相寺道を知らせると共に、京・大阪、丹後・但馬への道しるべである。
長年、鋳物師町の藤田吉兵衛宅に保存されていたが、平成19年2月に、此処厄除神社に移された。当地方には多くの道標があるが、福知山市では代表的な道標と言われている。
藤田吉兵衛氏は、第3代福知山藩主・稲葉淡路守紀通の家臣・藤田庄兵衛の子孫で、この道標は藤田家の厚意により移設を行った』
『鋳物師町は、旧山陰街道にあり、城下町北口の要路にあたるも、底地のため西風ひとたび狂えば由良川は氾濫し、人家人命を呑み込まれた事がしばしばあった。水害の恐怖は、安心立命の信仰を求め、生活守護の大神・高良玉垂命を勧請し、文久2年堤防上大寛院の傍に創建し、明治31年現在の地に還坐奉祀した。
慶長5年、福知山藩主となった有馬玄蕃・豊氏候は有馬検地を行い、上下柳町・京町・寺町・鋳物師町を新設した。後に久留米に移封したが、代々の藩主は九州北部5ヶ国の総鎮守神である高良大社を尊崇し、御社殿大鳥居等を寄進した。御祭神は高良玉垂命で御鎮座の年代は、太古に属し、皇室の崇敬篤く国幣大社です。筑後久留米藩主として、明治維新に及ぶ歴代の有馬候の縁故により、当地に御分霊されたのです。
高良厄除神社は、開運厄除・無病息災・延命長寿の神様として、信仰極めて篤いお宮で、2月と7月の18日・19日に大祭が行われ、厄年に当たる方々が、御祈願されると霊験的であると言われています。
厄除祈願:男子42才・25才・7才 女子33才・19才・7才 本厄の前後は、前厄・後厄となります
延命長寿の祈願:還暦61才・古希70才・喜寿77才・米寿88才・白寿99才高良厄除神社奉賛会』
「けやき通り」〜「新広小路通り」を経て、R9〜R429で、13:15「天照玉命神社」。
『祭神:丹波国造の先祖・天火明命、別名・天照国照彦火明天櫛玉饒速日命
祭礼:10月10日
社殿境内: 社格は元郷社延喜式内の古社で天田四座 の一にして、創建は人皇第13代成務天皇「4世紀」 の御代丹波国造大倉岐命が宗家の祖先 を祀られたものである。その後戦国時代の混乱と荒廃により一時期衰微していたが、徳川時代、神祇崇敬の念深かった福知山藩主により、社殿造営社領寄進絶えず祈雨五穀豊穣・病気平癒等の祈願所となり、特に承応2年(1653)藩主・松平忠房公は、荘厳な本殿拝殿を修造した。
現在の社殿は大正9年(1920)、氏子の寄進により3ヵ年の歳月を費やして再建されたもの。本殿西に現存の校倉造の宝庫は、享保14年(1729)に建立された近在唯一のもので、高度な文化財的価値をもつ。
本殿西側には、他に八神社。東側には九神社の小宮を祭る。社格制度制定により、明治5年(1872)郡内首位として、郷社に列せられ、爾来近郷の総氏神として崇敬されている。
当神社は五穀豊饒(穂赤熟)の神としても名高く、豊富庄を中心とした十三地区民の崇敬をあつめ、雨乞の練込みは今もって我々の記憶に新である。
丹波忠重朝臣の和歌 大江山昔のあとの絶えせぬは 天照神もあわれとや見む』
本殿を巡って境内奥に行くと土手になっており、「和久川」が流れていた。
バイクに戻り、R429を渡り、広域農道のような気持ちの良い道を走ります。沿道に「福知山淑徳高」がありました。13:45「荒木神社」。石段を上がること10分、やっと境内にたどり着きました。斜度は急ではありませんでしたが、休憩を1回入れないと辛い距離でした。
『俗に「荒木の権現さん」と敬愛される当社は、延喜式内社として名高く(延喜式とは貞観元年(1859)に日本国内の神社を調べたと「日本三代実録 」にあり)。また背景の山を神奈備山とも呼ばれて( 神並山・神南山)と親しまれたが、中古この山に真言宗の寺院を建立当時30か寺と伝えられ、天神7代・地神5代を十二所権現として栄えた。
その後、室町末期には仁木義尹が荒木一学と策して篭城し、細川・内藤・波多野らと戦い、また永禄元年(1558)荒木勢と丹波の赤井悪右衛門との戦いで度々兵火にかかり、神殿や寺坊を全焼した。
その後、徳川時代・寛文9年(1669)福地山藩の寺社奉行・中目権兵衛盛治が、朽木稙昌候に従い土浦から赴任した際に、古記を調べて荒木神社を再興した。また拝殿は昭和7年に再建された。
例祭は4月16日である。
「常盤なる神なび山の榊葉を さしてぞ祈るよろずよの為」と藤原義忠は、千載集(1036)に詠んでいるが、 後朱雀天皇即位大嘗会の際神遊歌として有名である。 −参道案内板−
『荒木神社御由緒 延喜内社 田村社
丹波誌天正年中、兵火に懸り焼失す云々。其の後久しく廃される寛文年中、福知山藩士・中目権兵衛盛治と云ふ人古記を考へ再興すると云ふ。天津神座故に神並山と云ふ。
後朱雀院長元9年大嘗会神遨の歌 丹波国神並山詠・常磐なる神なひ山の榊葉をさして祈る万代の為安徳天皇寿永元年大嘗会神楽の歌・みしま木綿かたに取掛神なひの山賢木をかさにそする(権中納言兼光)ニ首とも千載集に見へたり
勧請年紀不詳
貞観元年5月4日、荒木神社宮社に列すると三代実録にあり』
『文化財について
社宝としてはヒヨンの玉があり、昔は何に使ったのかよく知られなかったが、最近に至り、これは祭祀用に使う楽器の笛ではなかろうかと言われ、この玉は姥女樫(うあばめがし・ブナ科の常緑樹)に寄生するコブが風に吹かれてヒューヒューと鳴りわたるのを聞いたという人もいた。
またこの地に、藩主・朽木綱貞候の自作「神馬」の図や石灯籠の蓋も残っているが、その文字は次のとおり書かれている。
丹波天田郡曽我井庄、荒木山旧物皆失う。石灯籠の蓋僅かに残るのみ。仍って之を補う。 天和元年(1681)3月吉辰。
奥州(福島県)会津、佐原十郎義連(よしつら)末葉、中目権兵衛尉・平盛治(もりはる) 昭和60年春(1985)福林政雄識す』
広域農道ルックな道を戻り、高校野球で時々京都府代表で甲子園に出場する「福知山成美高校」横を通り、14:15「福知山陸軍墓地」。今回のメインディッシュです。先日訪問した日本で一番大きな陸軍墓地「真田山陸軍墓地」は、高台にずらりと墓標が立っていたが、ここは斜面墓地なので、帯曲輪が棚田のようになっており、横一列に墓標が並んでいた。「航空機操縦中、所沢飛行場ニ於テ殉職」と刻られていた墓標もあった。
慰霊塔に向かって真っ直ぐ石段が上がっており、その左右に帯墓地が整備されている。振り返ると、石段の先の住宅地にも真っ直ぐ道がついており、その先に福知山城が見えていた。なるほど、この景色を見てこの墓地を設計したんだなと設計者の意図を感じた。
「福知山成美高校」横を走り、JR福知山線沿いを走り、R175。14:45「清薗寺」。
『県指定文化財 清薗寺石造灯籠
指定:昭和38年8月24日 所有者・管理者:清薗寺
この石造灯籠は竿石の銘により、貞和3年(1347)に左衛門尉平顕信(あきのぶ)が奉納したものであることがわかる。
各所の格狭間(こうざま)、竿石の珠文帯(じゅもんたい)、火袋石と蓮花座と種子文(金剛界種子)など、細部手法によく南北朝時代の特色を示している。総高2.73m、二段の泥石上にたち、夜久野石様の砂岩で造られており、意匠もすぐれていて、均斉のとれた姿は優美である。
刻銘には「右志者為天下泰平 六道四生一切普利」とあり、六道思想がうかがわれ、文化史上興味深いものがある。 平成4年11月 兵庫県教育委員会』
山門が仁王門で、左右に玉眼の入った朱の仁王像が守護していた。本堂後ろの巨杉が目立ちます。
『鬼伝説ゆかりの寺 鎌倉山清薗寺(せいおんじ・真言宗) ご本尊:薬師瑠璃光如来
用明天皇の時代(586年)、丹後与謝の大岳(大江山)に鬼人ありて人民を悩まし、国中に災いすること少なからず。ここに用明天皇第3皇子「麻呂子親王(まろこしんのう)」を大将として、悪鬼退治の勅命を下す。親王は、河田・久手(くて)・共庄(ぐじょう)・岩田の4勇士を始め軍勢1万騎を従えて、千東・萩原・六人部を通り、当地に下向し給う。
今に1万坂の地名を留めるは、之に由来するもの也。その道すがら伊勢大廟より神剣を授けられ、イナナキの里(亀岡篠町馬堀)にては俊足の名馬を獲給う。しかしながら、悪鬼は隠現自在にして空を翔け雲を起こし、変幻自在にして人力を持ってはいかんともならず。親王かくなるうえは神仏の加護によるほかなしと、元より厚く信仰し守り本尊とする薬師如来尊像を、御自ら七体彫みて丹誠を込めて祈念し、之を兜に納めて進軍し給う。
麻呂子親王、薬師如来の不思議の加護をこうむり給い、首尾よく悪鬼を退治す。よって奉思謝徳の御為にと、七ヶ所に伽藍を建立し薬師如来を安置し給う。そのなかの一山を鎌倉山清薗寺と名付け、塔頭寺院四ヶ寺を有す。
当時、親王御詠と伝えられる御歌に 「雲はれて みどりに晴るゝ 空みれば るりの光の 月ぞさやけき」と。
御本尊・薬師瑠璃光如来は12の大願を本誓とし、薬壺を開いては心身両面の疾病を除き、寿命長生と人格の完成を旨とし、病に応じて薬を与え利益を施し給うこと大願の肝心なり。
清薗寺御詠歌に 「ふしおがむ 心も清き 薗の寺 なぞかめぐみの なからざるべき」と。
現在、1400年の星霜を経て清薗寺も、総門・仁王門・本堂・塔頭寺院(親王院)一坊を残すのみとなる。この間、貞和3年(1347)に平顕信は、天下泰平の為に石灯籠を奉納し、寛永年間(1624年〜)左甚五郎は総門の建築に力をそそぐと伝えられる』
本堂を覗くと、素敵な絵馬がいくつも掲げられていた。
『清薗寺の大杉 樹齢500年(推定) 市島市指定天然記念物
薬師堂の傍らにあることにより、落雷から御堂を守ってくれる御神木である。高さ30mあったが、ここ50年間に3度の落雷に遭い、現在は高さ23mとなっている(幹周り6m)。昭和28年、薬師堂屋根葺替えの財源として売却されるも、伐採を惜しむ声が上がり、有志によって「大杉保存会」が結成され、買い戻して現在に至る。
近年、杉の木の痛みがひどく、薬師堂の方へ倒壊の恐れも出て来たので、三竹田協力のもと、樹木医の治療を受けた。落雷により幹の内部がほとんど空洞で、腐朽部の治療と雨水の入らないよう樹脂で治療した。また、枝が薬師堂の方に多いため間引きと、風のため落下防止にケプラロープで中吊りにした。また、薬師堂の方の土壌が固結していたので膨張工事をし、肥料を投入した。
(治療期間1999年11月中旬〜12月中旬)願わくば、この大杉は21世紀も地域のシンボルとして元気な姿を留めてもらいたい。
平成12年12月吉祥日 上・中・下三竹田一同、清薗寺壇中一同』
『市指定文化財・清薗寺薬師堂
指定:昭和54年3月19日 所有者:清薗寺
清薗寺は、大江山の鬼退治をした用明天皇第3皇子の麻呂子(まろこ)親王が、薬師如来像を安置するために建立した7ヶ所の寺院の1つと伝えられる。本堂である薬師堂は、五間四面の瓦葺、宝形造(ほうぎょうずくり)で、江戸時代前期の貞享3年(1686)に再建された。本尊の薬師如来像は33年に1度、御開帳される。内部は、前方二間を外陣(げじん)、後方三間を内陣とする。また、外陣正面には市指定文化財で貞亨5年(1688)に竹田の三ヶ村を願主として奉納された麻呂子親王鬼退治絵馬がかけられている。
清薗寺の伽藍配置すなわち主要建物の配置は、総門一仁王門一燈寵一本堂と一直線上に位置するもので、古い形式をとどめている。
平成22年3月 丹波市教育委員会』
15:03「伊都伎神社」。ピンクの梅が満開です。石段を上がると広い境内になりました。四方が低いので、小高い丘の上にあるようです。周囲は、「竹田川」の恵みを受けた田園が広がっており、鎮守の大杉が境内周囲を囲むように生えており、夏場は日差しを凌げる憩いの場になりそう。黄色水仙が綺麗に咲いていました。
『御祭神:淤母陀流神(おもだるのかみ)・妹阿夜訶志古泥命(あやかしこねのみこと) 配祀神:誉田別命(ホンダワケノミコト) 例祭日:10月9日
由緒:大日本史第115、神祇17、神社23に氷上郡伊都伎神社、今、中竹田西海士(さいかせ)の地。とあり。神名記山陰道の部に、伊都伎神社、大伊之伎命とあり。伝記に、第31代用明天皇の御宇、麻呂子親王丹波与佐、大山の賊を退治せんため、当地を通らる。その時の軍勢一万騎。今も一万坂の地名に残る。将兵排便のあとをフドコロという。皇子賊徒の速滅を祈りて七体の薬師仏を造り、その一体をこの地に祀らる。
清薗寺の本尊これなり。皇子、塩津峠の石上に憩われしところ俄に足痛起こり将兵また足を痛め起つ能わず。一老人あり。曰く、この地に伊都伎の神あり。この神をまつらば即ち癒ゆべしと。皇子、老人の言に従い、祭祀を行うことを誓いて祈るや頓に癒ゆ。よって神事を行いてこれを謝すとある。
創立年不詳。 明治6年(1873)、村社に列せられる』
JR福知山線を渡り、R175を南に走り、3:15「石像寺」。梅林がありました。満開の梅が綺麗。山茱萸の黄色い花も満開で綺麗。本殿のある境内に上がると、枯山水の石庭が4面整っていました。「四神相応」と呼ばれる石庭で、「青龍、白虎、朱雀、玄武」が東西南北に配されているそうです。4つの石庭に配されている大岩を島とし、それに寄せる波が小石で表現されていますが、大岩の角に寄せる波が大きく表現されており、海を知ってるな〜と感心しました。これまで多くの石庭を見てきましたが、ここまで細やかによりリアルに表現されている石庭はありませんでした。船活動している僕としては「ナイス!」って親指を立てたくなりました。他の植木もよく整えられており、観光客を呼びそうな寺院でした。週末の午後なのに僕以外誰もおらず、独り占めさせてもらいラッキーでした。
R175に戻り南下し、右折して兵庫県道r282に乗り西進します。15:36「折杉神社」。
『折杉神社
御祭神:伊弉諾命・伊弉冊命(社格・旧村社)
合祀神社:明治43年 三宮神社(豊岩間戸命・天照大神・櫛磐間戸命)・若宮神社(少名彦命)・八幡神社(誉田別命)・八坂神社(須佐之男命)・愛宕神社(加具土命)・稲荷神社(稲倉魂命)・山口神社(大物主命)・荒神社(奥津彦命・奥津姫命)
祭儀:2月3日節分祭・管試祭(粥占い・丹波市民俗無形文化財) 10月体育の日例祭
御由来:正和5年(1316)創立、明治6年(1873)村社に列せらる。
正和の初頭、1人の猟師、此の地に来たところ、2・3間四方に雪積もらず、鳥獣も見当たらぬのに犬、此のところを教えて頻りに尾を振り頭を上げて動かず、猟師不審に思い、ここに神慮あるべし、この杉の枝がついたなら神をお迎えして崇め申し上げようと祈誓をして杉の枝を挿したところ、不思議や間もなく芽を出し成長したという故事によって折杉大明神と申して勧請したということである。この猟師を後世、聖道華と尊称したとのことである。
古儀旧慣:節分祭当日、管試すなわち筒粥祭を斎行。境内一区画に注連縄を張り篭火をたき、粥汁を煮、米と共に鍋中にいれた13本の竹管に入り込んだ粥粒の多少によって穀類その他農作物の豊凶を占う。また、樫の木の駒(一寸五分方位の大きさ)12個を篭火の上に並べ燃やし其の残った灰色の明暗によって、その年内の晴雨天候を伺った。いずれも霊験著しく、近隣に名を馳せた神事として今に伝わっている』
15:48「大原神社・参道入口」。奥宮まで歩いて上がろうと思いましたが、参道坂道に獣避けフェンスが設置されており、その先も怪しい道になっていました。手前にあった奥宮への車道で上がることにしました。車道に入ってすぐ、獣避けフェンスがありました。開閉して先に進みます。
15:55「大原神社」。道路事情が不安でしたが、綺麗で狭くない舗装路でした。
『主祭神:大年命(オオトシノミコト)
配祀神:伊邪那美命・須佐之男命
由緒:和銅6年の創立と伝わる。斉明天皇5年己未の春、当社の霊地なることを聞し食され行啓あらせらる。元明天皇和銅6年(713)道智上人、当社に詣で参籠すること数十日、狼の雌雄来たりて上人に奉仕す。天正の頃、当地領主余田左馬頭春家、氏神として崇敬す。天正10年(1582)6月、明智光秀丹波攻めの兵火に罹り古文書等悉く焼失す。太閤秀吉検地の時、当社の神威を恐み横60間竪350間の土地を寄進せらる。現在の基本財産はその内なり。
明暦2年(1656)権大僧都隆尊、当社を再興し略天正の古に復し、当社の名声大いに揚がる。天明寛政の頃、勅旨により九曜星尊像を9年間に亘り下賜せられ御代安泰を祈願せしめらる。嘉永5年(1852)、領主藤堂秉之亟本社を再建す。これ現今の社殿なり。大正15年(1926)、村社に列せられる』
バイクに戻り、坂道を下ります。再び獣避けフェンスを開閉し脱出。r282に戻り、16:16「宗福寺」。この寺院の裏山に中世の山城「誉田城」があるようです。その登城道を発見できれば良いなと。
「誉田城」は、『余田氏によって築かれた。元弘3年(1333)足利尊氏が丹波国篠村で兵を挙げると、余田氏もこれに馳せ参じた。天正2年(1574)黒井城主荻野直正に攻められ落城しその軍門に降った。天正6年(1578)明智光秀が丹波国へ侵攻し、明智光春の軍勢に攻められ落城。城主余田為家は黒井城目指して城を脱出したが果たせず、自刃して果てた』
寺紋は、「梅鉢紋」でした。梵鐘があったので、ボーン、良い音です。残念ながら、登城道は見つけられませんでした。
バイクに戻り、r282〜R175で南下し、左折してr59。舞鶴若狭道をくぐり東進します。右折してR9で南下し、右折してr97。交通量の少ない、気持ちの良く走れます。左折してr300。右折してR173に乗り、どーんと南下します。
17:23「エネオス丹波篠山市塩岡多紀SS」で給油。293km/12.8L=22.9km/L。R173を南下し、18:33帰宅しました。


2020/3/22
コーチしてる大学ヨット部の練習に、今年初めて参加しました。3月初めに始動しようかと思っていましたが、ウイルス関係で学校からの練習2週間自粛要請などで行けませんでした。一時ハーバーが3月中使用不可になりましたが、2週間で解除になり動き出しました。
加えて、この日から東京オリンピック代表を狙って活動していたIくんの3日間臨時コーチが始まります。Iくんは次男の2才下で、ジュニア時代からの知り合いです。僕がOP(ジュニア)ヨット協会の理事だった頃、特にお母さんに何度も協力を頂きました。
4年前に次男がIくんに母校ヨット部の臨時コーチを要請し、快く応えてくれました。クルーのHくんと共に来てくれ、Hくんは元スナイパーだったので両クラスとも良い刺激を受けました。Iくんは僕の大学ヨット部の後輩でもあり、応援していましたが東京オリンピックは残念でした。でもウイルスが世界的に広がっており、延期になるかもしれません。
6:10、「招き猫CB400SB」で出発しました。前日の福知山ツーリングで「春秋バイク装束」にしましたが、全く寒くなかったので、同じ装束にしました。阪急山本からr325〜r33で北上し、「新名神・宝塚北SA・スマートIC」から「宝塚北SA」に入ります。6:37「桜ひねり餅648円・10個入り」をお土産に購入します。新名神〜高槻JCTで名神を走り、京都東ICで下車し湖西道路を北上し、7:40にYH着。ちょうど部員たちと同じになりました。
部員たちに挨拶し、キャプテンからタイムスケジュールを聞きます。I君は12:30にYHにやってくるようです。マネボスSIさんに、「いつも美味しいご飯をありがとう」と、朝買ったお土産を渡します。バイク装束を脱い身支度を整えると、カメラとドローン持ってOBのNくん・SさんカップルとAくんが来ました。ヨット部の新人勧誘プロモーションビデオの素材撮影のようです。Aくんは元マネージャーと昨年結婚しました。綺麗な子だったのでAくんに、「あれ奥さんは?」「僕だけです」「え〜奥さんの方が良かった〜」。
集合して時計合わせなどします。Iくんの予定に合わせ、AM練習を早めに切り上げ、11:30昼食になりました。S級は今年度の計測のために練習せずに、全艇計測項目に沿って軽量・メジャーリーグします。470のみ出艇しました。僕はハードコーチボートに乗り、カメラ組はインフレータブルボートに乗って出艇。インフレータブルボートが近づいて来て、「コーチも取りますから、いつものように笑ってばかりは駄目ですよ。ピリッとかっこよく頼みますよ」なんて笑っています。結婚式の披露宴の時、奥さんを持ち上げ旦那の値打ちを下げたスピーチをしたので復讐かも。
3時間ほどの短い時間でしたが、良い風が入り良い練習が出来ました。時々、ドローンがまるでハエのように練習艇の周辺を飛んでいます。どんな映像になるのか興味津々。でも残念なことがありました。練習を見ていると、何かが湖面に落ちました。ヨットの部品が落ちたのかと拾いに行きましたが、浮いていたのがゆっくり沈んでいき、手が届きませんでした。「何だったんだ〜」と思っていたら、インフレータブルボートが急いでやってきて、「ドローンが落ちた」とのこと。「拾った?」「沈んでいった〜」。インフレータブルはしばらくその場にいました。
11:30にハーバーバックし、合宿所に戻りました。2人のカメラクルーも帰ってきて、ヨットに近づき過ぎてセイルにぶつかって落ちたそうです。Nくんによると、ドローンオーナーAくんはドローンが湖底に沈んだので一瞬落ち込んだが、すぐ立ち直り新しいドローンをボートの上から注文したそうです。立ち直り、早〜。
470チームはIくんがコーチングで来てくれるので、早めに食べてハーバーに戻りました。僕は、Nくんカップルと昼食です。去年のマネージャーボスSさんに、「身長160cmだったよね〜、45kgないよね〜、42kgかな?」「なんで分かるんですか〜ぴったりです」「よっしゃ〜、家内が158cm・40kgだから、そこから推測して。僕は女性に興味があるから、意外にいろいろ考えてるんだよね〜」。「良く教えてくれたね〜、家内なんて絶対言わないし、僕の前で体重計に乗ることないから、後ろから抱えて僕ごと体重計に乗ったんだよ。めちゃ暴れるから大変だったんだ〜」と言うと、ゲラゲラ笑われました。こういう会話は、現役部員の時は言いませんでした。OGになれば良いだろうと・・・、このカップルNくんは明るいし、Sさんはマネボスするぐらいしっかりしてて良いカップルだと思います。Sさんの就職先は京都市内でマンションの引っ越しもないから、院生Nくんは下宿を引き払って転がり込んだらいいのに・・・なんて。うちの長男の同様、そのまま結婚して・・・ってなりそう。女性は男の胃袋を掴めばカップル成立です。
ハーバーに着くと、Iくんがいました。挨拶に行き、「こんなご時世だけど、握手してもいいのかな?」と3日間のお礼を言いました。「息子さんにも連絡したんですよ」と。「東京オリンピックが延期になるかもしれないね」と話すと、「ヨット競技の日本選手の選考は終わりましたが、まだ国別枠が全部決まっていないんですよね。今月の世界選手権で全部決まる予定でしたが、レースがキャンセルになったからまだなんです」とのこと。ヨットの選考は、1年前の世界選手権から成績上位の国から、オリンピックに参加できる国が決まって行きます。その後のワールドカップで少しずつ決まっていき、最終の世界選手権で出場枠全部が決まります。まず国別出場枠を獲得しないと、その国の選手は参加できません。各国内選考は、それぞれの国の選考基準で決めます。これを聞くと、オリンピック開催はなかなか厳しそう。
出艇前ブリーフィング。Iくんが紹介され、「コーチボートから見て、一緒に乗ってアドバイスする」というメニューを披露していました。Sさんドライブでインフレータブルが、Iくん他を乗せて出ていきました。僕は、ハードコーチボートでNくん他と乗って出ます。
三井寺の良い風が入っていましたが、風が落ちました。北からブローが入り、軽い前線の通過のようで、通過時だけ軽い小雨を伴いました。強弱バラエティーに富んだ練習になりました。470チームからの要望の多かったランニングレグの走らせ方を中心にコーチングしてもらいました。数艇の部員と乗り換えてIくんが実際に走り合わせをしてくれました。流石にセイルの使い方が上手く、少しずつ前に出ていきます。さすが・・・去年はワールドカップで2位?入賞し表彰台に上がっただけの実力です。前日土曜日に進水式をしたばかりの新艇のチューニングをしたり、いろいろなことをしてくれました。
17時にハーバーバックしました。最後は再び風が落ちてしまい、曳航してハーバーに戻りました。合宿所に引き上げます。クラス別ミーティング〜食事〜全体ミーティングの流れのようです。最初に僕が指名され、皆に「今年もよろしく」「Iくんに何でも聞こう」&練習で感じたことを話します。
続いてクラス別ミーティングに入り、470はIくんが用意してきてくれたナショナルチームやNZ・ESPなど他国のトップ選手のビデオを見せながら、ダウンウインドセイリングの極意を教えてくれます。質問が次々に出て活発なミーティングになりました。
続いて夕食。2つのテーブルをくっつけ、Iくんを中心に質問の続き。S級メンバーもやってきて、「質問にいいですか?」と、Iくんは食べられません。続いて全体ミーティング。伝達事項やトラブル報告、S級・470級・マネ各チームから要望や改善点が出て皆で共有します。キャプテンの「他にありませんか?」に手を上げ指名されました。昼休みや夕食の時読んで読み終えた「フツーの主婦が、弱かった青山学院大学陸上競技部の寮母になって箱根駅伝で常連校になるまでを支えた39の言葉 著者:原美穂」を紹介し、クラブに寄贈しました。
Iくんに握手し、「僕は今日だけだから、あと2日間宜しく」。次男の「会社のウェブサイトのCMに家族で載ったんだ」と言うと、スマホですぐにチェックし、「ホントだ〜」と驚いていました。僕はバイク装束に着替えながらでしたが、Iくんは話し相手になってくれました。
バイクに乗り出発すると、すぐ後ろをIくんを乗せた車が続きます。湖西道路〜京都東IC〜名神〜吹田IC〜中央環状道〜R171で帰宅しました。


2020/3/15
朝から家内とゴソゴソやっていましたが、あまりに天気が良いのでツーリングに出ることにしました。9:30前に、「里山VTR250」で家を出ました。
R171〜r10で阪神高速空港線下を南下しました。「加島」交差点を左折し、r41で「十三」。右折してR176で「十三大橋」で淀川を渡り、「中津」から「天神橋6丁目」に向かいます。
10:15、「大阪北霊園」。ナビにチェックされているので、軍墓地があると思って歩きましたが、ここには無いようです。個人の「故陸軍上等兵・・墓」のような神式墓石は沢山ありました。場所柄、近隣の大店の創業・中興の祖かな?と想像する立派なお墓もありました。名前からして日本人と思われるのにアルファベット表記されているお墓、六角柱の墓石、「・・大人」「・・刀自」「・・奥城」と表記された神式墓石もありました。歴史の古いお墓のようで、敷地整備などされておらず、面積もバラバラ、何処に道があるのかわからないように適当に墓石が並んでいました。
「天神橋筋」を南下し、中之島を渡ります。右折して「阪神高速13号東大阪線」の下「中央大通」を西進します。左折して枝道に入り、10:50「摂津一の宮・坐摩(いかすり)神社」。
『摂津国一之宮・坐摩(いかすり)神社(旧官幣中社)
御祭神:坐摩大神(5柱の神の総称)生井神(いくいのかみ)・福井神(さくいのかみ)・綱長井神(つながいのかみ)・波比岐神(はひきのかみ)・阿須波神(あすはのかみ)
神功皇后新羅より御帰還の折、淀川南岸の大江田蓑島、後の渡辺の地(現在の天満橋の西方・石町附近)に奉祀されたことに始まる。
延喜式神名帳には攝津國西成郡の唯一の大社と記され、往古より産土神として今日に至る。
坐摩の語源は、土地又は居住地を守り給う意の居所知(いかしり)が転じたものと伝わる。
天正10年(1582)豊臣秀吉の大坂築城の際替地を命ぜられ、寛永年間現在地に遷座。現在の鎮座地名を渡辺と称するのは、元の地名が移されたことによる。故に、全国の渡辺・渡部等の姓の発祥の地とされる。
明治天皇御降誕に際し、宮中より御安産の御祈祷を仰せつかり、秋季大祭当日(旧暦9月22日)皇子無事降誕あらせられる。明治元年、明治天皇大阪行幸の折、当社に御親拝になり、境内での相撲を天覧遊ばされる。
昭和11年(1936)官幣中社に列せられる』
元宮・行宮本殿社務所改築工事をするそうで、ご奉賛のお願い看板が立てられていました。何故かライオンの像が置いてあった。「算額顕彰碑」があった。
『江戸時代「算額」は、全国各地の神社仏閣を公開場所として数多く奉納されていた。
「算額」とは、数学の問題を額に掲げ出題したもので、それをお互いに解きあい、技術の向上に努めた。その一方で、難問が解けたことを神仏に感謝するなど、社会全体で数学を楽しむことが当時の一般的な習慣であった。
船場3社(坐摩神社・難波神社・御霊神社)も例外ではなく、「算額」が数多く奉納されていたものの、現在では消失して残っていない。
「算額」に裏付けられた和算の普及が、幕末維新の近代日本を支え、現在の我が国の発展に大きく貢献したことは周知の事実である。
本学園の創立地である船場、そこに鎮座される3社に、この「算額顕彰碑」を奉納し、歴史的な教育活動の一端を末永く記憶に留め、先人の功績を讃えたい。船場創立の順天堂塾(天保5年8月26日南本町4丁目・創立者福田理軒)は和算塾として開塾した。維新後には東京に活動の拠点を移したが、船場出身の多くの私塾の中で、唯一現在まで存続している順天学園(東京都北区王子本町)が、創立180周年記念事業の1つとして、ここに「算額顕彰碑」を奉納する』
以前、何処かの神社で奉納された算額を見たことがあります。それを初めて見た時、解こうとしましたが難しく、平和になった江戸時代、こんな算数の問題が奉納され、それを解く楽しみが庶民にあったということに驚きました。時代劇では虐げられ空腹にあえぐ農民というのが定番ですが、父の実家もそうですが、「あの山までがうちの敷地だった」なんて言葉に驚いたように、真面目に働き算術に長けた農民は皆から推されてまとめ役の庄屋になり、そうでないと降ろされるという事実があった。
算額を見た時も、こんな難しい問題があちこちに神社に奉納されるということは、農民がそれ以下の現代の小中学校レベルの問題を解く人が大勢いたことと庶民の生活レベルを感じた。当時は現代のような西洋式ではなく和算でしたが、インドのインド式算術同様日本にも独自に発展した算術が高度に発展していたことが知れ、日本人の子孫として嬉しくなる。
これを奉納した「順天堂塾」は、あの順天堂大学の経営法人かな?と思って帰宅して調べたが、別法人でした。「順天中学・高等学校」を経営しているそうです。拝殿でお賽銭していつもの感謝の言葉とお願いをした。拝殿内を覗くと、「幣饌料下賜」の額が多数下がっていた。天皇陛下が大阪に行幸する時に賜っているようです。
境内を巡っていると、「上方落語寄席発祥の地」の碑が立っていた。
『中興の祖・初代桂文治
初代桂文治は、寛永年間(1789〜1800)坐摩神社境内に大阪では初めて寄席を建て、抜群の話芸で名人と称され上方落語繁栄の基礎を築いた。
それまで大道芸に近い芸能だった落語を、室内の高座で演ずる現在につながる興行形式にあらためたのである。 ために、文治は上方落語の中興と仰がれている。文治の名跡は、3代目以降が江戸に移ったが、7代目文治の名が一旦大阪に戻り、初代文治を租とする桂派の流れは、大阪と江戸の両地で大きな勢力となって、東西落語界の興隆を支えて今日に至っている。 大阪芸能懇話会・肥田晧三天満天神繁昌亭への継承
江戸時代後期、ここ坐摩神社において初代桂文治が開いた噺の席が、上方落語の寄席興行の始まりです。以降、幕末から明治・大正にかけて多くの落語の席が誕生し、上方落語は飛躍的な発展をとげました。
昭和に入り、戦災などによって落語は定席を失いましたが、平成18年9月「天満天神繁昌亭」が開場。約60年ぶりに落語専門が復活しました。
ここに感謝と継承の思いを込め、初代桂文治の業績を顕彰し、原点の証として「上方落語寄席発祥の地」の碑を建立します。 上方落語協会・桂三枝』
好きなアセビが満開に咲いていました。変わった灯籠があるな〜とその先の摂社を見たら「火防・陶器神社』でした。
『全市せともの祭 7月23日より26日まで 主催:大阪府陶磁器商業協同組合古くから伝えられる陶器造り人形を各所に奉納し、全市組合員は1年の感謝の意を込めて協賛売出しに参加開催されます』
『火防・陶器神社 祭神:大陶祇神(おおすえつかみのかみ)・迦具突智神(かぐつちのかみ)
嘉永の頃、憂岩山将軍地蔵を祀ると伝えられ火防の神として崇敬厚く、特に陶器商人は守護神と仰ぎ、7月23日の大祭には、陶器造り人形を各戸競って作り奉納し、地域会と共に盛んでした。当初は靭南通1丁目に鎮座ましましたが、明治40年市内電車敷設のため、坐摩神社に移転・合祀されました。祭壇には、瓢の水を次て火を防ぐとの故事により、陶製瓢と火の要鎮のお礼を笹に結び付け、参詣者に授与し、また陶磁器の端物を贈呈したのが祭の起源とされ、北は筋違橋から南は四ツ橋までの両側二百数十店が軒を並べていたものです。その後、昭和20年戦災に遭い26年6月西横堀浜筋に再建、せともの祭と共に復興いたしました。然し46年阪神高速道路敷設により、再度立ち退きのやむなきとなり、ここに崇敬者の浄財と名地陶芸作家諸先生の賛助により、陶器神社の名にふさわしく、陶器の宮として当所に御造営の上、同年11月遷宮鎮座し奉りました』
横に、摂社・稲荷神社がありました。その提灯に、5円玉裏の稲に似たデザインが描かれていました。
バイクに戻り次へ。「中央大通」に戻り東進。御堂筋を渡り、堺筋を渡り、右折して「谷町筋」を南下。左折して「長堀通」。
11:25「真田山陸軍墓地」。北側に児童公園があり、親子が遊んでいました。墓地の格子門が閉まっていましたが、格子門の人が通る小さな扉が開いていたので中に入ります。「この墓地は、財務省近畿財務局から大阪市建設局が貸付を受け、管理しています。許可なく、墓石の建て替え、工作物の設置を行うことは禁じられています」。
『真田山陸軍墓地
本墓地は、明治2年(1869)から1870年にかけて我国陸軍の中枢機関が次々と大阪に創設されたことに伴って、明治4年(1871)に日本で最初に設置された陸軍墓地で、現在の面積は約15090平方メートルあります。
このようなエイク軍墓地は戦前、全国で80ヶ所以上つくられましたが、それらの中で最も大きな規模を持つ真田山陸軍墓地は終戦当時の景観をよく残していると言われています。
終戦に伴い昭和20年(1945)12月陸軍省が廃止され、大蔵省の所管する国有財産となりましたが、昭和21年(1946)8月に大蔵省との国有財産鉦償貸付契約により、貸付を受けた大阪市が管理をし今日に至っています。
墓地内には、明治6年(1873)の徴兵令施行以前に属する兵士の墓碑にはじまり、西南戦争や日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を経て、先の大戦終結後に設置された墓碑を含め、約5100基の個人墓碑、日露戦争・満州事変戦病没将兵合葬碑並びにアジア太平洋戦争の戦病没将兵約8200人の遺骨等を納めた納骨堂があります。また、軍役夫や日本軍の捕虜となった清国兵、ドイツ兵の墓碑、及び兵役従事中の平時病死者の墓碑もあることがこの墓地の特徴となっています。
これまで、2回にわたり研究者による大掛かりな墓碑や納骨堂をはじぬとする当墓地に関する学術調査が行われ、多くの貴重な事実が判明いたしました。
当墓地では、大阪市と締結した確認書に基づき公益財団法人真田山陸軍墓地維持会が、毎年10月に埋葬・納骨せる戦没者の慰霊祭を行うほか、特定非営利活動法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会による当墓地に関する調査・研究、史料の公開や見学者に対する案内等、多くのボランティアの皆様に支えられながら、墓地の除草・清掃を行い環境維持活動や傷んだ墓碑の修復・保存のための事業を行っています。
ここを訪れる方々は、整然と並んだ多くの将兵の墓碑にまず圧倒され、そしてそこに刻まれた文字を読み取るとき、必ずや平和の尊さを実感されるものと存じます。
平成26年(2014)3月 公益財団法人真田山陸軍墓地維持会・理事長吉川秀隆この案内板は、管理者である大阪市の承認を受け、右の法人が設置しています』
『毎月第4日曜日・午後1時30分より 当陸軍墓地を案内します。ご自由にご参加下さい』
『旧真田山陸軍墓地の配置図
各ブロックごとの墓石配置
A軍役夫934基 B兵卒1260基 C下士官247基 D下士官154基 E兵卒707基 F兵卒1413基 G将校155基 H野田村遺族会建立169基 I破損墓碑塚260以上 合計5299基以上
上にまとめたのはすべて個人墓碑です。Gブロックの将校墓碑以外はすべて軍によって墓碑の大きさ・形が定められています。また、時代とともに碑文の記述が簡略化されているなど、ゆっくり回られて、一人一人の墓碑が語りかけてくるものに耳を傾けてください。そして軍隊と兵士やその家族のことに思いを寄せてください。
また、旧真田山陸軍墓地にはこうした個人墓碑のほか、日露戦争と満州事変での死亡者の合葬墓碑が計5基、そして4万3千余といわれるアジア太平洋戦争期の遺骨などを納めている納骨堂があります。
現在墓地は国有地で、大阪市が管理し、祭祀は財団法人真田山陸軍墓地維持会が担当しています。本会は、この墓地の歴史的意義を考え保存を願うところから有志が自発的に集まって出来たものです。
旧真田山陸軍墓地について
この墓地は、明冶4年(1871)当時の兵部省か設置し、昭和20年(1945)の終戦に至るまで陸軍が管理していた旧真田山陸軍墓地です。
この墓地は、戦前80以上作られた日本各地の陸軍墓地の中で最古の歴史を持ち、戦時・平時を問わず、この地で、あるいは戦地でなくなった将校・下士官・兵卒・軍役夫など5299基以上の墓石群と4万3千余と言われる遺骨を収めた納骨堂「昭和18年(1943)建立」から成り立っています。
墓碑は、規則によって大きさや形が定められ、階級ごとに区画された区域に整然と立ち並んでいます。個々の墓石には時期によって刻まれる文章に違いがあります。少数とはいえ、敵として戦い、俘虜となってこの地で亡くなった中国人やドイツ人の墓碑も立っています。
旧陸軍墓地は、戦時に戦病死し、戦前は軍によって、戦後は靖国神社によって「英霊」と認められた死者の霊のみを神として祭る靖国神社とは別のものです。旧真田山陸軍墓地は、いまや近代における軍国日本の歴史と文化を現在および将来に伝える歴史的な遺跡・遺物でもあります。また、遺族が今もお参りする墓地であり、一方ではその落ち着いた広い空間が周辺の神社や公園などとあいまって市民に憩いの場を与える公共的な役割も果たしています。戦後60年を鰹た今日、このように戦前の姿をよく残している陸軍墓地はもうほとんど存在しておらず、いまでは現存する各地の旧陸軍墓地の中で最大の規模をもつものとなっています。
軍都だった大販
明治2年、兵部大輔だった大村益次郎は、日本陸軍の創設を大阪から始めようと考えました。明治3年には兵部省の首脳が大阪に詰め、兵学寮・兵隊屯所・造兵寮(後の砲兵工廠)・軍事病院などが次々と大阪城を中心に作られ、明治4年には最初の徴兵も行われました。大阪は陸軍発祥の地となっていたのです。真田山の埋葬地も、こうした流れの中でつくられていきました。当然日本最古の陸軍墓地ともなったものです。いま、大阪のこのような歴史を語るものは多くが失われています。旧真田山陸軍墓地はこのような意味からも重要な遺跡なのです。
特定非営利活動法人・旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会
事務局 〒572-8530寝屋川市初町18番8号 大阪電気通信大学小田研究室』
整然と、同じ規格の墓石が整然と並んでいます。隅に「空堀地蔵尊」の祠が祀られていましたので、そちらを参拝してから墓地を巡ります。
「軍役職・・・明治28年11月4日於広島陸軍・・死」。定形の文字が刻まれています。その横に「清国・・・明治28年11月・・・」と日本人以外の方の墓標。明治28年は日清戦争ですね。「陸軍会計卒・・・」「故陸軍騎兵二等兵・・・墓」。母方の祖父が日露戦争でシベリア出兵していた近衛騎兵隊長で、金鵄勲章を賜っているので、今はもうないだろう「騎兵」の文字を見ると反応してしまう。
ひときわ大きな碑が立っているエリアに行きます。「明治37・8年戦役将校同相当官戦病死者合葬碑」、将校だけこういう大きな碑が立つのかな?と思ったら、「明治37・8年戦役准士官戦病死者合葬碑」「明治37・8戦役下士戦病死者合葬碑」「明治37・8年戦役兵卒合葬碑」、やはりそれぞれの階級ごとに碑がたっていた。明治37・8年戦役は日露戦争で、祖父はどのような働きで賜ったかわからないが勲章を得ましたが、大陸の寒さにより腎臓を悪くして帰国後亡くなりました。それぞれの合葬碑に手を合わせました。
「満州事変撰病没将兵合葬碑」「陸軍少将今井兼利墓」「陸軍歩兵少佐・正六位勲五等味岡義一之墓」「陸軍歩兵大佐・正五位勲三等藤谷覚三郎墓」「陸軍砲兵大佐・正六位西川経武之墓」「陸軍歩兵中佐矢上義芳墓」「陸軍軍医監従四位勲三等堀内利国之墓」、これらの個人の大きな墓石がこの墓地に立てられた由来は何なのだろう?
「真田山旧陸軍墓地の由来
真田山旧陸軍墓地は、大阪市天王寺区玉造本町にあり、明治4年8月我が国最初の鎮台(後の陸軍第4師団)が大阪に置かれて、この地、真田山が陸軍墓地となりました。
因みに、真田山は大坂城の出丸で真田幸村が陣地を構えて、徳川の大軍を迎え撃った古戦場であります。敷地は5359坪(17685平方メートル)あり、墓地には西南の役以来、日清・日露及び今次第2次世界大戦に至る間における、戦没英霊の御冥福を祈念し、4800余柱と清国及び独逸人戦病没者10柱の墓標が建立されており、尚霊堂(納骨堂)には43000余柱の遺骨が奉安されてあります。
戦後、陸軍省廃止と共に国家が維持及び祭祀を行う事が出来なくなり、大蔵省よりの大阪府又は大阪市の宗教団体、遺族会などにより、維持管理を行うべしとの通牒に基づき、財団法人大阪靖国霊場維持会が創立され、以来祭祀については靖国霊場維持会他有志多数の奉仕により行われております。 平成7年12月建立 社団法人・日本郷友連盟大阪府支部他有志』
3月なので、まだ芽吹いていませんが、木々が適当に植えられており、遺族や子孫が先祖を偲んでのんびり過ごす木陰も春以降は提供しているのだと思います。11:51、陸軍墓地の横にある「三光神社」。ここは後の真田山陸軍墓地を含め、大坂冬の陣の時、大坂方真田幸村が「真田丸」を即席に築き、徳川軍に何度も苦渋を飲ませ、大坂方圧勝のまま遂に守りきった砦が建っていた場所です。地形的には、大坂城の南に広がる平坦な地形に、最初にある小高い丘がここで、ここの南に徳川方が大損害を出した「篠山」という丘があり、南に離れて「徳川秀忠」が本陣を敷いた「岡山」があり、南西に「徳川家康」が本陣を置いた「茶臼山」という丘があります。
『大坂冬の陣 慶長19年(1614)
太閤秀吉は大坂城築城の際、東に猫間川、西に東横堀川、北に天満川と三方が河川に面する天嶮の利かあることから、城の南に当たる三の丸の外に空堀を設けた。慶長19年(1614)、真田幸村公は、手薄な城南へ徳川方が一斉に侵攻する事を察知して、わすか1ヶ月余りで朧月(えんげつ)城(真田丸)と呼ばれる砦を設け、大坂城から砦まで通じる地下の暗道(抜け穴)を作ったと言い伝えられている。この抜け穴跡が三光宮鎮座の階下に今も残されている。
慶長19年(1614)11月の冬の陣では、鉄砲隊を配備した真田軍が大勝、その勇名を天下に轟かせた。同年12月に和議が成立すると幸村公は一夜の内に砦の全てを本城に運び去るという電光石火の早業で人々を驚かせた』
『三光神社は玉造の南の小高い丘陵(旧姫山)に鎮座し、ご祭神は天照大神・月読尊・素妻嗚尊の3柱で古くから中風除の神として知られ、毎年6月1日を祈願の初日として、7日間中風除祈願大祭が執り行われている。
又、末社の武内宿禰は富貴長寿の神として祀られ、大阪七福神巡りの一つ寿老紳として参拝者が絶えない。
昭和20年6月1日に、空襲によって各社殿など建物一切を焼失したが、戦後氏子崇敬者の尽力により今の姿となる。
この地は真田丸の一部と考えられ「真田の抜け穴」と呼ばれる、大坂城までの地下道が設けられていたと伝えられている。現在もその痕跡が残っており、普段は入り口を鉄門で封鎖している。
采配を高々と上げている真田幸村像は、昭和62年5月5日に建立された。
その台座は信州上田、真田家の菩提寺「長谷寺」より取り出した石(真田石)である』
「史跡真田の抜け穴跡」が社殿の下に開いていた。鉄格子戸で閉じられていたが、中を覗くと石組みで左右天井が囲まれた立派な出来でした。ただ這って歩くような狭さでした。
横には真田幸村の像が立っています。真田幸村は、2度も徳川軍と戦い、2度とも居城「上田城」で撃退した武田信玄の家臣後独立し、周辺の大大名(北条氏・徳川氏・織田氏・上杉氏)の間にあって巧みに領地を守護した勇将でした。幸村はその次男で、父の将として実戦で活躍したが、父のような実績の無さから「大阪の陣」の時はまだその才能が首脳の心を掴みきれなかった。もし、幸村が全大坂方を掌握し自由に動かせていれば、勝敗は変わっていたかも知れない。幸村は、家康本陣にツッコミ、一時家康に自刃を覚悟させたが討ち死した。戦後、徳川方も含め武勇が轟き、遺された娘は縁談に困らなかった。
拝殿で、いつもの感謝の気持ちを伝え、社務所で、「真田丸参拝記念絵馬」600円を授かった。表には真田氏の家紋「六文銭」と馬に乗る真田幸村のシルエットが描かれ、裏には「慶長19年大阪冬の陣、真田幸村公が此の丘陵に偃月(えんげつ)城と名付ける砦を設け、唯一戦勝した由緒ある地です」と書かれていた。
『遠く生駒金剛の連山を見晴るかす景勝のこの地に、永くその由緒ある三光神社の御門として誇っていた鳥居を過ぐる。第二次世界大戦の戦火を被り、その片柱のみをとどめた。
我々は、これに世界の平和と国家の安泰を祈願して、残すこととする。
更に今般、有志が相寄り新たにこの鳥居を奉納し、由緒ある三光の大宮の御門とする次第である。 昭和47年7月 三光神社奉賛会』
『願かける又くわんほどく真田山、穴のあくまで神をいのらん 白縁斉
小狐のかくれ睨なる、野菊哉 蕪村
雉子なくや宰相山の、朝ほらけ 六々閑人
摂津名所国会大成巻之三より』
『三光神社 由緒略記
創建は、第18代反正天皇の御宇にして、以降神職として武内宿禰の苗裔たる武川氏が、86代に渉って奉仕された。当社は古来より、日本全国で唯一の中風病除の神として知られ、崇敬者は全国に存在し、6月1日から7日まで祈願大祭あり。又、七福神の1つ・寿老人(武内宿禰)を祀り、毎月7日は大阪七福神巡りが盛んなり。此地は、もと大坂城の出城(偃月城)の在りし処にして慶長・元和の大坂合戦の頃、真田幸村茲に陣し、本城より此処に至るまで地下に暗道を設け、今尚其の痕跡を本殿階下に止むるより、世俗に真田山の三光と称するに至れり。
境内をはじめ宰相山公園一帯は、桜の名所にて春は宰相山公園愛護会による三光桜まつりあり。
奉賛会のあゆみ
昭和20年6月1日の大空襲で、社殿を始め各種建物一切と同時に氏子全域が被害を蒙り、復興不可能の状態であった。しかし、戦後間もなく、復興のため三光神社奉賛会を設立し、第1期に本殿、第2期に社務所、第3期に拝殿、第4期には本社正面大鳥居、第5期に末社。北参道大鳥居等と奉賛会役員をはじめ、氏子崇敬者の総意と清き浄財により、全て完成された。
昭和56年5月吉日 宮司:小田富五郎 奉賛会会長:飯田弥三郎 裏面に第5期復興寄付者御芳名を刻む』
「長堀通」に出て西進し、左折して「谷町筋」に出て少し南下し、右折して、12:13「高津宮」。北側が公園になっており、そこから高石垣が積まれた上に神社があった。石段を上がると西側の道路に向かって物見兼用の「絵馬殿」が造られていた。「高津宮」は、最も天皇に権威があった時代と想像する(仲哀天皇・神功皇后〜応神天皇〜仁徳天皇)の時代、仁徳天皇が「難波高津宮」に遷都した。「難波高津宮」の場所は特定されておらず、現在の「高津高校敷地内」と比定されています。その場所から豊臣秀吉がこの地に遷座させた。仁徳天皇と言えば、「民の竈」。
民家の竈から煙が立っていないのを見て、3年間税金を免除した。3年後、民の竈から煙が立つようになったのを見て、「私は富んだ」と満足し、既に宮殿の建物はボロボロでしたが、更に3年間税を免除した。これに民が痛く感謝し、部材と道具を持ち寄り、宮殿を新調してしまった、というお話。仁徳天皇陵は世界一の大きさの墳墓であり、「おうみたから」と人々を称する歴代天皇の中の天皇として「聖帝」とも呼ばれている。父・応神天皇の長子ではないが、父の崩御後、優秀ゆえ兄から天皇位を譲られた。しかしこれを受けなかった。皇太子だった兄の突然の死により天皇位に就いた天皇でもある。兄は弟に天皇位を譲るため自死したとも言われている。
小高い「高津宮」に上がり、絵馬殿から外を見た時、今はビルで周囲はそれほど遠くまで見えないけど、仁徳天皇の「民の竈」を想像してみた。ここまでの道を走りながら、上本町大地のアップダウンを感じていた。それらを脳内で組み合わさり、ビルなどがなければ、意外に遠くまで見通せたのかもしれないと思った。今は街なかの起伏のある上の方と感じる四天王寺でも、西に大阪湾が見えたという。ここからも、そのような光景が見えたのかもしれない。当時の上本町大地は、大地ではなく西の大阪湾と東側を北に向かい北側で大阪湾に注ぐ大和から流れ込む大和川とに挟まれた半島でした。蘇我氏の母を持つ聖徳太子が、物部氏を攻めた時、この半島の先端にあった物部氏の本拠地を攻め落とした。そんな歴史深い場所です。
『大阪市歌
1高津の宮の昔より、よよの栄を重ね来て、民のかまどに立つ煙、にぎわいまさる大阪市、にぎわいまさる大阪市
2なにわの春のあさぼらけ、生気ちまたにみなぎりて、物みな動くなりわいの、力ぞ強き大阪市、力ぞ強き大阪市
3東洋一の商工地、咲くやこの花さきがけて、よもに香りを送るべき、務ぞ重き大阪市、務ぞ重き大阪市 竹泉書』
『高津宮絵馬殿
高津宮の御祭神である仁徳天皇が往古、高津宮(皇居)より民の家々を望み「高き屋にのぼりて見れば・・・」と詠われた高殿をイメージした建物が絵馬殿である。昭和30年代頃までは、ここから大阪の市中を一望でき、よく晴れた日には大阪湾や六甲の山並を見る事ができた。江戸時代には茶店があり、雪見の名所として知られていた。
また、この頃は遠眼鏡屋なる商いがあり、「千里ひとめの遠眼鏡これじゃこれじゃ」(東海道中膝栗毛より)と賑わっていた。(現在の絵馬殿は昭和28年建設、平成11年修復)
奉納絵馬
・絵馬殿表向かって右:3代目中村雁治郎改め4代目坂田藤十郎襲名記念として奉納。藤十郎が襲名披露公演「夏祭浪花鑑」で演じた団七の山場を絵馬とした。・絵馬殿表向かって左:中村翫雀(かんじゃく)改め4代目中村雁治郎襲名記念として奉納。鴈治郎が襲名披露公演「廓文章/吉田屋」の主人公伊左衛門を演じた絵馬である。
・絵馬殿内向かって右:高津宮(高津神社)が舞台となった上方落語や芝居でおなじみの「高津の富」をテーマとしてイラストレーターの成瀬國晴氏が描いている。
・絵馬殿内向かって中央:大阪の日本画家菅楯彦作の「高津宮絵馬堂図」(当所所蔵の掛軸)にもとづき奉納絵馬とした。画面中央に江戸時代繁盛していた遠眼鏡屋なる人物・茶みせで一服する人々、当時の賑わいが偲ばれる。
・絵馬殿内向かって左:高津宮の御祭神である仁徳天皇が、皇居(高津宮)の高き屋より国見をし、民のかまどに煙が立ち上る故事を描く。洋画家の小灘一紀氏作』
絵馬殿には、「稔久丸」という千石船が奉納されていた。「日本一船匠・野田房吉」作となっていた。
『鯨のひげ:鯨のヒゲは約80種いる鯨類のヒゲクジラ類11種の口の中にある器官。
オキアミなどを濾し取るフィルターの役割を果たし、形状は様々だが、細長い三角型の薄い板状で、上顎に400〜800枚程度備わっている。柔軟性に富むため石油製品が登場するまでは、幅広く利用されていた。
例:武具や馬具、からくり人形のゼンマイ、釣り竿の穂先、婦人用コルセットの芯材
贈:日本クジラ文化協会』
『千石船 1石=10斗=160kg 米2500俵=150t積み 乗務員16人
船頭(船長) 船方三役:舵取り(機関士)かじとり・親仁(水夫長)おやじ・賄い(事務長)まかない・水主(水夫)かこ・炊(水夫見習)かしき
和船 何石積み=10立方尺 材木=16立方尺
奉納 平成13年3月吉日 田中稔久株式会社 社長田中稔一』
『北前千石船
この船は、桃山時代及び江戸時代より大正初期まで使用されたもので、北前というのは、越中・加賀・能登・越前・因幡・長州萩、この船の航路が北海道から日本海・瀬戸内海を経て、大阪に至る間を航行していたので名付けられたものです。その集荷は米、帰路の集荷はニシン・昆布・数の子でありました。大正元年には、全国でなお3隻の北前船が残っておりましたが、今日では実物はなく、僅かに船の絵馬や当時の書物に描かれたものがあるに過ぎません。
この模型は、復元縮尺1/10のものであり、船の著しい特徴は、左右の舷側に波除のあることです。この波除は、出船の時に青竹に取り替えるので、船の絵馬などには、常に青く描かれています。
帆は、風の強弱によって、各反の間が広くなったり狭くなったりするように工夫されています。
この模型は、今日では「まぼろしの船」とさえ言われている北前船の在りし昔の姿を再現したものであります。 日本一船匠・野田房吉』
境内を歩きます。
『5代目桂文枝の碑
桂文枝一周忌にあたる平成18年3月に建立された。文枝師匠は平成12年より平成17年まで、高津の富亭に欠かさず出演し、平成17年1月10日のとんど祭りが最後の高座となった。このような経緯により、5代目桂文枝を顕彰する碑が建立された。石碑の題字は長年の盟友であった3代目桂春団治師匠の筆による』
『高台之頌碑(たかきやのしょうひ)
仁徳天皇が高き屋より国見をして詠まれたとされている「高き屋に、のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」の歌が冒頭にあり、仁徳天皇の人となりや御事績が漢文で綴られている。
撰者は京都の芥煥彦章(かいかんげんしょう)=芥川丹邱(たんきゅう)、書は大阪の牟純平介(ぼうじゅんへいかい)で、1772年に建立された』
「郡戸王子 推定地」の石碑が立っていた。「・・王子」は、熊野詣休憩場所ですね。
『熊野詣と梛(なぎ)
平成16年4月、5代目桂文枝師匠は創作落語「熊野詣」を初演した。梛の葉に熊野権現のありがたいお告げがあらわれるという話。
梛は紀州熊野三社(本宮・速玉・那智)の神木で神の宿る木、熊野詣のお守り、参詣の証として珍重された。熊野速玉大社には、日本一の梛(国の天然記念物)がそびえている。
高津宮は熊野参詣の第3番目の郡戸(こうと)王子の推定地であり、文枝師匠の最後の高座となった所でもある。
このような御縁が幾重にも重なり、このたび熊野速玉大社の梛の苗木が記念植樹された次第である。
平成23年7月17日 高津宮宮司・小谷真功 熊野速玉大社宮司・上野顕 5代目桂文枝門弟』
横に梛の若木が植えられていた。梛の葉は榊同様、見事に左右対称の緑の葉で、榊と違い葉脈が見えずとても綺麗。光が当たっていない葉は黄色になっています。
『木谷蓬吟(ほうぎん)・千種顕彰碑
北に蓬吟は本名・正之助。明治10年(1877)5代竹本弥太郎の次男として北堀江に生まれる。実業家で美術パトロンの芝川照吉は実兄。大阪市立商業学校を卒業後、就職した日本貿易銀行をもじって「蓬吟」と号した。浄瑠璃研究の第一人者で、「大近松全集」全16巻や「郷土趣味大阪人」を刊行、昭和9年(1934)に近松研究会を創立した。著書は「文楽今昔譚」「道頓堀の三百年」など多数。昭和25年(1950)没。
木谷千種は旧姓吉岡、本名は英子。明治28年(1895)に堂島に生まれ、府立清水谷高等女学校在学中から日本画に関心を寄せ、深田直城・池田蕉園に師事後、北野恒富・野田九浦にも学んだ。大正9年(1920)に蓬吟と結婚。文部省美術展覧会、帝国美術院展覧会で活躍し、八千草会を設立して女性画家育成にも尽力した。昭和22年(1947)没。
大阪を愛し、郷土の文化芸術に貢献した2人の碑は、近松研究会が、近松門左衛門の墓所で、同研究会が開かれた谷町8丁目の法妙寺に建立したが、谷町筋拡張による移転で近くの本政寺で保管され、平成18年4月、高津宮に移された。碑の文字は菅楯彦の書。
協力 文案:橋爪節也 製作:株式会社山本金属製作所』
摂社があった。
『比売古曽神社 祭神:下照姫命・子授けの神延喜式内の神にして、古くより高津宮社地に奉斎されていたが、高津宮が大坂城築城により現在地に遷座以来、高津宮の地主の大神として奉斎されている。
例祭日:6月11日・11月11日』
「仁徳庭園」があったので入ってみます。本殿裏が庭園になっていました。裏を抜けると、摂社「高倉稲荷神社」がありました。拝殿に入ると、占い師の常設のお店がありました。生憎「本日はお休みさせていただきます」でした。
『商売繁盛・芸能・技能の上達の神として祀られる。「高倉稲荷大神」を崇敬する方の集いが「高倉稲荷講」です。
「稲荷講」では、4月の初午祭、11月1日の御火ぼん祭の祭典に、ご参加いただいております。講員には4月の初午祭で「富くじ」を始め、ぜんざい・お土産券を授与、年1回の講員対象の日帰り旅行を催行しております。
年間講費2000円』
拝殿・本殿覆屋内に、多くの神様が祀られていた。「倉福大神」「樫本大神」「高峯大神」「岡崎大神」「春姫大神」「国繁大神」「末吉大神」「高重大神」。階段を降りて行く所にも、摂社がありました。
『谷末社:階下突き当りの三神を祀る祠。白菊社(草野姫命・かやねひめみこと)野の神・千年社(大市姫命おおいちひめみこと)市場を主催する神・常高社(大山祇命)山の神
陰陽石:階段中程左手の自然石、奥に陰石、手前に陽石(女陰や男根に似た自然石は、生命の繁栄の象徴と同時に豊穣祈願・商売繁盛祈願の対象として崇拝されている)』
本殿正面境前に、「井戸掘削中」の幟が数本立っていました。ちょうど昼休み中でしたが、ボランティアが集まって手掘りで井戸を掘っているようです。
拝殿に入ると、朱色の手形が飾られていた。『昭和44年大相撲大阪場所優勝者・大関琴櫻他5名の力士の手形サイン(玉乃島・豊山・柏戸・大鵬・北の富士・琴桜) 奉納:池田方彩氏勇将社』
「市川染五郎」と「桐竹勘十郎」の色紙が飾られていた。
『御祭神 本社 左座:仲哀天皇・応神天皇・神功皇后 本座:仁徳天皇 右座:葦姫皇后・履中天皇 摂末社:比売古曽神社(下照姫命)・高倉稲荷神社(宇賀御魂神)・安井稲荷神社(宇賀御魂神)・白菊神社(草野姫命)・千年神社(大市姫命)・常高神社(大山祇命)
由緒:当宮は浪速の地を皇都(高津宮)と定められ、大阪隆昌の基を築かれた仁徳天皇を主神と仰ぐ神社であります。ある日、高殿に昇られて人家の炊煙の乏しいのを見られて、その窮乏を察し、直ちに諸税を止めて庶民を救済されました。御仁政はあまねく、国民の敬慕する処であります。
高き屋に昇りて見れば煙立つ、民のかまどは賑ひにけり
その御仁徳を慕い、平安期の初期・清和天皇の貞観8年(866)勅命(天皇の命令)によって、旧都の遺跡を探索して社地を定め社殿を築いて、お祭りしたのを創始といたします。以後、世々皇室を始め、時の幕府等の度々の御造営寄進を重ねて、浪速津の守護神と仰がれ、御神威輝き渡ったのでありますが、その後約700年を経た正親町天皇の天正11年(1583)豊臣秀吉が大阪城の築城に際し、比売古曽社の現在地に御遷座(神社の御神体が移ること)になって今日に及んでおります。
昭和20年3月第2次世界大戦の戦火を浴び、神輿庫1つを残して、社殿悉く鳥有に帰しましたが、戦後氏子を初め崇敬者の厚い奉賛に依り、昭和36年10月社殿以下悉く復興完成を見ました。
明治5年大阪府社列格同39年神饌幣帛料供進神社に指定。昭和34年神社本庁別表社に可列。
特殊神事
例祭(夏祭) 7月17日宵祭・18日本祭:当宮祭典中最も重く、いわゆる大阪の夏祭り一環をなす。古伝に基づき神饌には、「ごさいは」を敷き又水を献る往古より「高津の居祭」として知られていたが、黒門市場の熱意が実り、「子供みこし」の渡御が行われる。
秋祭 10月17日宵祭・18日本祭:夏祭に次ぐ大祭。氏子崇敬者の家内安全長久を祈ると共に、氏子の70才以上の老人を招き、敬老祭を併せ行う。
献梅祭 2月15日:往古博士王仁(渡来人)が、梅花に和歌を添えて奉り、御仁徳を称えた古事に倣い、梅ケ辻(谷町9丁目)より梅花を捧げ持って参進神前に奉献する。
天皇陛下(徳仁天皇)誕生祭 2月13日:昭和35年、陛下御誕生御命名に当り、仁徳天皇の御事跡を朗唱せられ、御名を「徳仁」と御命名されたゆえんを畏み、陛下の弥栄を祈念し御神符を献上する。尚当日寿きの意を以って、弓道の「的祭」を斎行する。
高倉稲荷神社初午祭(講社大祭) 4月初午の日:御祭神稲荷大神御鎮座の佳日に因み、当宮では4月初午の日に信奉者で組織する講社の人々を中心に、桜花爛漫の中で種々の神賑行事を行う』
拝殿横の掲示板に、『奉祝・天皇陛下御即位 譲位:江戸時代後期の光格天皇以来、200年ぶりに天皇の御位をお譲りになります。 践祚(せんそ):皇嗣(こうし)が天皇の御位に即くこと』
平成から令和に御代替わりする時、マスコミでは「退位&即位」で統一されていたが、歴史好きの僕には「退位」に馴染みがなく、「譲位だろう」と違和感を覚えていました。先の美智子皇后陛下(現皇太后陛下)も、お言葉では常に「譲位」の言葉を使っておられ、マスコミの皇室の権威を下げる意図を感じていました。負けないぞ、「譲位」!ってこの掲示板を読みながら嬉しくなりました。
「高津の富亭」というのがありました。現役の落語亭のようで、毎月第1日曜日午後2時開演でした。北側の搦手口から上がってきましたが、南側の大手口の方も階段で下っており、東西も坂です。現在は住宅地に囲まれており、かつては上本町半島の上の小さな丘・高台だったと想像出来ました。
バイクに戻り、まっすぐ南下しようと思いましたが行けずに、南下して左折してr30。Uターンしようと思ったが、Uターン禁止だったので右折してr702・谷町筋を少し南下し左折2回してr30に戻り西進し、左折して枝道に入り、12:54、「難波大社生国魂(いくくにたま)神社」。
本殿は東向きで、鳥居が東に向いており、参道は東に緩やかに下っていた。まず拝殿にお参りに行きます。お参りして社務所を覗くと、摂社の絵馬も並んでいました。境内見取り図案内板が立っており、「鴫野神社」「精鎮社」「源九郎稲荷神社」・・・多数の摂社がありました。
摂社を巡ってみます。『精鎮社(せいちんしゃ) 御祭神:事代主神(えびす)・比売大神(べんてん) 祭日:4月7日・10月1日 御神徳:商売繁盛・豊漁満足・海上安全 往古、表参道蓮池に祀られていた弁財天社(明治初年精鎮社と改称)で、特に鮮魚を取り扱う商人・漁師や釣り人の信仰が篤い』
『稲荷神社 御祭神:倉稲御魂神(くらうがのみたまのかみ) 例祭日:3月初午日・9月21日 御神徳:佐賀県の祐徳稲荷の御分霊で、鍋島藩とその蔵屋敷出入りの商家が篤く崇敬したと伝えられ、五穀豊穣・商売繁盛・除災招福の願望を叶えられます』
『源九郎稲荷神社 御祭神:源九郎稲荷大明神・八兵衛大明神 例祭日:3月初午日 御神徳:源九郎稲荷大明神 五穀豊穣・商売繁昌の神 奈良県吉野の源九郎稲荷の御分霊と伝えられています』
『鴫野(しぎの)神社 御祭神:市寸島比売神・大宮売神・淀姫神 例祭日:4月巳の日・10月巳の日 縁日まいり:毎月巳の日 御由緒:女性として栄華を極めた淀姫(淀君)ゆかりの神社である。鴫野神社はその昔「鴫野の弁天さん」として、大阪城東側(現在の大阪市城東区)に祀られていた。淀姫が大阪城からこの弁天社に足繁く通ったことから、後の世には淀姫自身も弁天社に併せ祀られた。
爾来(じらい)、女性の守護神と仰がれ、心願成就と縁(えにし・縁結び・悪魔切り)の神様として霊験あらたかとの評判が広まり、お参りする人が群れをなしたと伝わる』
『城方向(きたむき)八幡宮 御祭神:誉田別命(こんだわけのみこと)・気長足媛命(おきながたらしひめのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと) 例祭日:9月15日 御神徳:大阪城鬼門の守護神として鎮祭されたから、城方向(北向)と称します。 方除・厄除・勝運の神として、篤く崇敬されています』
『鞴(ふいご)神社 御祭神:天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・香具土神(かぐつちのかみ) 例祭日:11月8日 御神徳:鞴とは、火起こしの道具のこと、鍛冶の神で、製鉄・製鋼・鋳金また機械工具等を商う金物業界の守護神として、篤く崇敬されています』
『家運隆昌・家造祖神社 御祭神:手置帆負神(たおきほおいのみこと)・彦狭知神(ひこさしりのかみ) 例祭日:4月11日 御神徳:家造りの祖神で土木建築の守護神とされています。特に建設業界に篤く崇敬されております』
『祈願・芸能上達 浄瑠璃神社(生玉社の段) 御祭神:近松門左衛門を始めとした文楽の先賢を祀る 例祭日:春分・秋分の日 御由緒:御鎮座の年は不詳であるが、記録によれば明治9年に竹本春太夫・鶴沢清七等と共に、三業(太夫・三味線・人形)の先師38柱の御霊を生國魂神社の境内に社殿を整え合祀したのが始まりである。
爾来、この浄瑠璃神社で毎年春秋の2季に例祭を斎行し、物故された方々を合祀する。
文楽の道の御祖神として文楽関係者はもとより、広く日本舞踊や琴など諸芸上達の守護神として篤い信仰がある。
因みに「曽根崎心中−生玉社の段−」は、生國魂神社境内が舞台である』
『2つ緒の八雲の琴に神の世の、しらべを移し伝え来にけり中山琴主は愛媛の人、文政年間出雲大社に参籠し、神託を得て完成したと伝えられる。琴は二弦で「八雲琴」と称する』
織田作之助の銅像が立っていた。
『織田作之助 大正2年(1913)10月23日生
大阪を愛し、33年の生涯は太くて短かった。有名な「夫婦善哉」など多くの小説は、庶民の生活を題材にした。井原西鶴を師と仰ぎ、ジュリアン・ソレルを友として、上方文化の発展に大いに寄与された。 生誕百年を祝して顕彰する。
「・・・生國魂神社の境内の巳さんの棲んでいると言われて、怖くて近寄れなかった樟の老木があったり・・・」 「木の都」より
平成23年(2013)10月26日 寄贈:オダサク倶楽部 会員・石田英治』
境内に、「拝服席・お玉茶屋 季節の和菓子・お抹茶 拝服料800円 お気軽に、お越しください」。植木に囲まれ、良さそうな雰囲気のお店だったが、1人だったのでパスしました。
雨がパラパラ落ちてきたので、帰路に着きます。r702に出て西進、右折してr29。「阪神野田駅」横をくぐり、R2になり淀川を渡りました。「歌島橋」交差点で右折しr10。阪神高速空港線下を北上し、「伊丹空港」横を通過し、左折してR171。14:15「エネジェットセルフ北村SS」で給油。203km8.04L=25.2km/L。


2020/3/8
雨です。家内も休みなので、映画を観に行くことにしました。5時頃起きたのですが8時過ぎまでゴソゴソし、慌てて朝食・身支度をします。車に乗って映画館へ。10分前に着いたので、9:40「Fukushima50」チケットを購入しました。
2011年に起こった東日本大震災による津波によって、福島第一原発の電源が水没し、メルトダウン〜大爆発でチェルノブイリのように周囲数十キロ立入禁止の危機に、最悪の状態にならないよう原発内で戦った原発所長以下技術員を描いたノンフィクション作品です。現実に起こった事件を描いた映画でも、ところどころフィクションが交じるのが常ですが、この映画の原作者が徹底的に関係者にインタビューして一人称で文章にする門田隆将さんなので、当時の原発内の生の姿が映像化されているとのことです。その大地震を大きな揺れで体験した僕としては、ぜひ観ておかねば・・・。
門田隆将さんの作品を多く読んでいるので、この作品も上市されてすぐに購入し、現場で陣頭指揮をした吉田所長と原発1・2号機伊崎当直長に感動した。その期待に応える技術員の行動力と意思の強さが、実際に大爆発を制御しました。それに引き換え、東電首脳や日本政府首脳の現場を知らないのに現場を信頼して任せられない身勝手さに残念な思いをしました。
映画が始まると、いきなり大きな揺れが始まりました。原作を読んでいたので次の転回はわかっているのですが、やはり映像の力は凄く、一気にクライマックスまで進んでしまいました。データでは2時間2分の大作でしたが、手に汗握る転回でとても短く感じました。
まさに現場は試行錯誤の連続で、首相の横槍から出た東電本部からの指示だったとは言え、職員の命を危険にさらす失敗の時、所長は素直に即座に頭を下げ謝りました。この姿に、「これが日本人だよな〜」と思いました。頭を下げられた方も、「まあ、仕方ないよね〜」で攻めることより一緒に最善を尽くすよう気持ちを切り替える。西洋やシナ大陸式の「謝ったら負け」だから「こちらに非があっても謝ってはいけない」文化とは一線を画します。
世界50ヶ国での上映が決まっているようです。多くの国は、あの原発メルトダウン事故の真実と、それに対応した日本人現場作業員の奮闘を見て何かを感じて欲しい。日本人の底辺を支え、日本国を支えているのは、現場の市井の人間だな〜と改めて感じました。
一旦帰宅し、午後になって家内と再び「ワークマン」にお出かけし、「3本指なしグローブ」他を買って帰りました。現在気に入って使っている「スポーツ用靴中敷き」に似た商品を見つけました。中敷きがヘタったら、次はこれを買おう。


2020/3/7
朝ご飯を食べながら「NHKウィークエンド関西」を見ていると、「淀の河津桜」と「奈良県宇陀市松山の町並み&葛&紙漉き」が紹介されていたので、ツーリングに出ることにしました。雨が心配でしたが、本日夜から翌日昼までとのことでした。
「招き猫CB400SB」を出して、9:25出発。R171〜中央環状道を走り、9:38「エネジェット中環豊中SS」で給油。173km/8.47L=20.4km/L。9:41、お隣の「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「ひねり揚100円+カフェオレ500ml108円=224円」を購入。
「吹田IC」から名神高速道に乗り、「大山崎IC」で下車。R171〜京都府道r204〜r125〜r126で、10:23「淀河津桜」。すぐ下で「桂川」と合流する「宇治川」をバイパスする小川沿いに河津桜が並び、小さな公園になっていました。パラパラと人が来られており、一眼レフ&三脚の方も数人おられました。この日の朝のNHKの紹介によると、ご近所の方が1本1本植えてこれまでの並木になったそうです。まだまだ植えるそうです。ソメイヨシノよりピンクが強く、僕はこちらの方が好みです。梅も咲いていました。宇治川土手に上がってみました。宇治川を見ると、河の中に灌木が立ち、対岸の土手まで土砂が広がっていました。河土が沢山取れそう。
バイクに戻り、「宇陀松山」にナビをセットしスタート。12:30に着くとのこと。r126に戻り、左折して府道を走り出すと、すぐ人の沢山いる場所になりました。先程の「河津桜」並木の小川を渡る橋の左右から、別の「河津桜」並木が広がっていました。屋台まで出ています。バイクの機動力で邪魔にならない場所に駐輪し激写タイム。
r15に出て南下し、「宇治川」を南に渡ります。「京滋バイパス」をくぐり、R1を渡り、しばらく走り、右折してR24。南下し、R24バイパスに乗るはずがミスってしまいました。R24下道で南下しようと走っていると、ナビにチェックした「観光マーク」が出てきたので、寄り道することにしました。r252〜r251で、11:44「荒見神社」。
『荒見神社本殿・一棟・重要文化財
境内社御霊社・1棟・京都府登録文化財
荒見神社文化財環境保全地区
旧富野村の産土神。社伝によれば、もと五社ケ谷にあったが、室町時代(15世紀ころ)に現在地に移ったという。当社は、祭神が多い(5柱)のが特徴。社叢は水田の中に立つ森で、アラカシ・シイ・クスが繁茂している。
周囲には堀割がめぐる。南面の鳥居をくぐると薬医門があって神社としてはめずらしい、神仏習合時代のおもかげを残している。
境内に入ると西面して本殿が立つ。富野の有力大工の手になるもので、桃山期建築の特徴をよく示す。本殿は慶長9年(1604)の棟札をもつ三問社流造・檜皮葺。本殿右側の境内社御霊社は、一問社流造、檜皮葺の小規模な建物。建立時期について、蟇股は本殿のものより古い室町後期頃の特徴をもつが、組物・木鼻は近世のもので本殿と共通する。 城陽市教育委員会』
隣に大きなスーパーがある平坦な城陽市の平地にあり、周囲は住宅が立ち並んでいます。そんな地にあるのに、R24という主要国道から大きな広がりで社叢が見える神社でした。如何にも長い歴史を持つ神社であるとわかる。神門には、「五七桐紋」と「菊紋」の扁額が掲げられていた。境内に入ると、車のお祓いをしていた。新車を買われたのでしょう。朱色も鮮やかな檜皮葺屋根の本殿が建っていました。拝殿でいつもの感謝の言葉と、小さなお願いをしました。境内でお祓いを受けていた車がいなくなり、お祓いに使う祓串だけが置かれていた。
『京都府登録文化財・荒見神社・境内社御霊社(桃山時代) 荒見神社文化財環境保全地区・神社の森一帯』
境内を水濠が囲んでいた。かつては、もっと広い水濠が囲んでいたのだと思います。
R24に戻り南下し、R307を渡り、「木津川」土手を走ります。また「観光マーク」が出てきたので、信号待ちの時にチェックすると「橘諸兄墓」。左折して、12:16「橘諸兄公旧蹟」。近隣は竹林です。たけのこ生産地でしょう。
『公は天武13年(684)生。父・美努王、母・県犬養三千代、敏達天皇5世の孫、光明皇后の異父兄である。本の名は葛城王、のち母の氏を賜って橘諸兄、井手に住して井手左大臣と号す。天平10年(738)より右大臣、同15年(743)左大臣となり、天平勝宝8年(756)致仕するまで奈良時代の全盛期を首班として生きた大官である。この間に聖武天皇の相楽別業(諸兄の井手にあった別荘)・玉井頓宮への行幸・恭仁京遷都・大仏建立・開眼供養などがあった。
また、この地には別業のほか、井堤寺を建立。清涼な玉川を愛し山吹を植え続けたので、多くの文学に見える「名所井手の里」を生み出した。聖武上皇崩御翌年の天平勝宝9年(757)正月6日薨す。齢74』
「橘諸兄供養塔」が立っていた。バイクに戻り、Uターンして走り出すとすぐ案内板「井手火山灰層」が立っていた。バイクを停め、その層に行ってみました。脆い白い地層で、「これが火山灰なのか」と指で崩しました。バイクで走り、「道標」に書いてあった「弥勒石仏」へ。
「道標」に従って枝道を入っていくとすぐ舗装が切れました。そこにバイクを置き、竹林の小径を歩いて登ります。野鳥が竹林の枝に止まりながら、気忙しく飛び回りさえずっています。
12:34「弥勒石仏」。『花崗岩に線刻されたこの三体仏は、言い伝えによれば、奈良時代橘諸兄の館建立に際し、鬼門よけとして刻まれたものという。
しかし、実際は鎌倉〜室町時代にかけて戦乱に明け暮れる武士の支配体制に苦しみ、その日暮らしがやっとであった農民達が心の拠り所として刻んだものである』
道の案内板から竹林の山を入っていった。道に折れた竹が倒れており、くぐり乗り越え数分入ると、倒れかけの「弥勒磨崖仏」の案内板があり、線刻磨崖仏があった。ただ長年風雨にさらされ、明確な輪郭は視認できなかった。
「道標」に戻り、『小町塚600m・玉津岡神社800m』に向かうことにします。バイクを走らせると、「河津桜」が多数咲いている公園がありました。バイクを停め、激写タイム。
「国史跡 井手町教育委員会」の案内板が出ていたので、興味を引いて向かいます。歩いていくと、「椿坂」という案内板もあります。椿の木を探しますが、周囲には無さそう。かつては椿が咲き誇る坂だったのでしょう。石積みがあり、それで作られた曲輪が「大安寺旧境内附石橋瓦窯跡」なのかな?
河津桜並木を観ながらバイクに戻ります。ミツバチが沢山花を飛び回っています。数本先の木を見ると、野鳥が集団でやってきています。小型の野鳥で、何かな?と凝視しますが、ちょこちょこ飛び回るので確認できません。メジロのように見えるけど、全体が黒っぽいので別の鳥かな?尾は長くないので、エナガでもないし・・・。
バイクで走り出し、道が突き当たり、右折してr321。すぐに道標が有りました。「大正池4400m・玉水駅1450m・橘諸兄公旧跡1000m・玉津岡神社・地蔵禅院250m」、小野小町墓の場所はわからないけど、寺社を先に見に行こう。
矢印の道は細いので、バイクを置いて徒歩で向かいます。13:04「小野小町之墓」がありました。
『小野小町塚
小野小町は、平安時代前期の歌人で、六歌仙・36歌仙の1人として知られています。しかし、仁明天皇(在位833〜850)の時代に宮廷に仕えた歌人である事は確かですが、その生涯は謎に包まれ、終焉の地は、ここ井手町以外に京都市他・秋田県・山口県など全国各地に散在しています。
「冷泉家記」によると、「小町69才井手寺に於いて死す」とあり、また「百人一首抄」にも「小野小町のおはりける所は山城の井手の里なりとなん」と記されており、古来「大妹塚」と称されてきた井手の「小町塚」は、中でも信憑性のあるものとされています。
世に伝えられる小町の晩年の零落の姿は、絶世の美人であったが故に語られた伝説で、歌枕として数多くの歌に詠まれるここ井手の里で、山吹の咲きこぼれる玉川堤を散策しながら、穏やかな余生を過ごした事と思われます』
神社に向かってまっすぐ登っている細道の脇に河津桜が咲いていました。梅も咲いており、水仙も咲いていました。春だね〜。まだ花は咲いていないけど、枝振りの良い枝垂れ桜の大木が見えます。
13:10、「玉津岡神社」の鳥居脇から「地蔵禅院」に入れました。「京都府指定天然記念物・名勝しだれ桜」と書かれています。登ってくる時見た枝垂れ桜がこれのようです。桜の古木が数本目に止まります。駐車場が有り、数台の車が停まっています。ここまで上がって来れるんだ〜。
「手を合わす親の姿に子が学び」「何事も言う前に、もう一度考えて言うように」「1日1日の積み重ねが現在の姿である。今を精一杯生きよう」の標語が、地蔵禅院の掲示板に貼られていました。
地蔵禅院境内に入ると、眼下に広大な景色が広がり、とても気持ちが良いです。小ぶりの境内には、枝垂れ梅などの植木が良く手入れされています。
『曹洞宗・地蔵禅院・縁起
山号・玉峯山 本尊・地蔵菩薩 開基・肇建上人 開創・1627年 城南西国第27番札所
当院の歴史は古く白鳳年間(1200年前)井手左大臣・橘諸兄公によって草創され、当時は華厳宗に属していました。貞享元年(1684)の雍州府志(ようしゅうふし)によると、当院十一面千手千眼観世音菩薩は、井手左大臣・橘諸兄公の持仏であったと伝えられています。
他宗などに改宗を重ね、曹洞宗としては江戸時代初・寛永年間1627年、関東天王院の至心考察和尚(当院2世)が、当院の本寺である曹洞宗・東長寺の外麟和尚を当院開山に拝請してから数百年、今に至っております。現在の建物は、安政3年に当院8世寶山俊棟和尚によって中興され、また平成7年に再中興されたものです。江戸中期には末寺18ヶ寺を有する中本山格の寺院であり、曹洞禅を鼓吹していました。
地蔵院に残る古文書には、西側と南側門前に、今は寺となっていますが、他宗の寺院(密教系寺院)が隣接していた、と残されています。当院の南南東の方角小高い山には井手城址(山城)があり、当院に伝わる文献によると、その昔お城の関係者が地蔵禅院にて出したと記録されています。
井手の山 登り登りて 上もなき 道に入れとの 教えなるべし(門前・永福寺)』
『橘観世音菩薩 建立由来
橘の姓は、諸兄の母・懸犬養三千代(藤原不比等の妻・光明皇后の母)、朝廷への功労により授けられました。その家名を継いだ諸兄左為の兄弟は、多くの子孫を残して居ります。 有名な楠正成を始めとし、戦国時代の武将に橘氏の流れを汲む者は多くいます。
この度、橘一族元亡之諸霊位、並びに今日まで井手町に住まわれていました先住霊位、この町にまつわる一切之初霊位をお救い頂き、これからの町の繁栄と平和を祈り、この町に住む方々が安心して暮らすことが出来ますように、との願いを込めてこの観世音菩薩を建立させて頂きました。
山吹きの 花愛でし君 うつくしく ゆかりの里に み仏ぞ建つ 観世奉賛会世話人・後藤田みどり』
『京都府指定 天然記念物 「地蔵院しだれ桜」
この桜は、樹齢約300年の老木のため、いたわりが必要です。近年の大気汚染と異常気象等により傷みも顕著であり、通年の手入れを行っています。また立ち入り制限により樹下の根部分の保護を図り、樹勢回復を見守っています。これまで皆様のご浄財によって治療(土壌改良・苔等の除去ほか)等の手だてを施してまいりました。後世に長くこの桜を残すため、今後ともご協力のほどお願い申し上げます。いくらでも結構です。ご浄財箱にお入れ下さい』
『地蔵院のシダレザクラ 京都府指定天然記念物 綴喜郡井手町東垣内
曹洞宗地蔵院は、明治16年の綴喜郡寺院明細帳によると、創立は不詳どしながらも、もと南都東大寺華厳宗の旧趾也とし、寛永5年(1628)に、関東天王院至心孝察和尚が、同じく千葉県東長寺物外麟応和尚を、当院の開祖として勧請し、禅宗(曹洞宗)に改められたことが記されています。又貞享元年(1684)の雍州府志によると、本尊地蔵菩薩は、井手左大臣橘諸兄公(684〜757)の持仏であったと伝えられています。
現在のシダレザクラは、享保12年(1727)に植樹されました。昭和22年に枯死した円山公園の初代のシダレザクラは当院の先代の親桜から株分けしたもので、母樹を同じくする古木であります。幹周2m40cm余、樹高約10m、地上約1mの部分で南へ支幹が分岐し、さらに、主幹は二分して東側の一支幹はほぼ水平に南方へのびだしています。京都百景にふさわしく、木津川の流れを遠望出来る景勝の地であり、小鳥のさえずるなかで、遠くには、生駒・信貴・葛城・金剛の連峰を望むことが出来ます。南山城地域で、他に例のないシダレザクラは、その優雅さに魅せられて訪れる人々の心をなごませてくれます。 玉峰山・地蔵院』
「子授け地蔵・水子地蔵」がありました。神社に向かいます。
『玉津岡大神略誌
下照比売命(したてるひめのみこと) 欽明天皇元年8月庚寅(540)、兎手玉津岡の南峰に降臨され、聖武天皇天平3年9月庚午、井手左大臣橘諸兄公、現在の地(下津岩根)に遷座し、今日に及ぶ歌道女徳を養い、家内の和合を守らせ給う御神なり。
天児屋根命・元春日社 少彦名命・元田中社 素戔嗚命・元八阪社 味祖高彦根命・元天神社 明治11年10月、八王子社殿(玉岡の社)に合祭し、明治12年12月玉津岡神社と改称す。
菅原道真公・元有王天満宮 明治23年4月本社に合祀す。
祭神・下照比売命は、欽明天皇元年(540)8月に玉津岡の南峰に降臨され、そこに宮社を建ててお祀りしたのが「玉岡の社」であり、玉津岡神社の始まりである。その後、「玉岡の社」は「玉岡春日社」江戸時代には「八王子社」と称号を変え、明治に6社を合祀し、現在の玉津岡神社となる』
鳥居をくぐり、石段を上がっていきます。境内に上がりました。絵馬殿・神馬像・稲荷社の主鳥居が更に登っています。檜皮葺舞台を中央に、同じく檜皮葺本殿と社務所・手水舎がありました。絵馬殿に入ると、古い絵馬が掲げられいましたが、それ以上に多く掲げられていたのが手形でした。子どもにしては大きいなと思ったら、総てに「奉納 祝米寿」と書かれていた。この地域は、米寿になると手形を取って奉納する習慣があるようです。
神馬像を見に行きます。『初代神馬 山川房吉氏により、昭和5年8月に奉納され、神域の守護として敬慕されてきたが、大東亜戦争末期の昭和19年に、戦時物資統制令により徴用された』
神馬像の土台を見ると、「奉納 平成2年10月吉日 ・・・」と書かれていた。徴用された像を個人が復活させたようです。神馬像には、菊水紋が描かれていた。『京都府登録文化財 玉津岡神社 本殿・末社大神宮社(江戸時代) 京都府教育委員会』
バイクに戻り、「大正池」に向かいます。すぐに、県道横にある公園の向こうを流れる木々が大きく揺れているのに気づきました。すぐに「猿の群れ?」を想像し急停止。やはり猿の群れがおり、木の上に座って何かやっています。葉っぱを食べているようです。
「玉川」沿いを走るr321を登っていきます。ロードバイクを抜いたり、すれ違ったりします。ローディーのトライロードのようです。「大正池」道標に従って枝道に入ります。初めての大正池なので楽しみです。「大正池グリーンパーク」があり、枝道を更に入ってみると、バンガローが数棟と管理棟が建っていました。枝道に戻り、更に奥に入って行きます。道脇に、キャンプスペースやベンチ・トイレが建っています。池沿いの道になると思っていたら、その前に通行止めになりました。14:03、バイクを置いて、徒歩で池に向かいます。
『ワタキューの森づくり ワタキューグループではCRS活動の一環として、2008年から森とふれあい自然環境を守るため、森林保全支援活動を行っています。このエリアでは、次の五者によって「森林の利用保全に関する協定」が締結されています。
ワタキューセイモア株式会社・公益社団法人京都モデルフォレスト協会・井手町
豊かな緑と清流を守る協議会・井手町・京都府 WATAKYU SEIMOA』
この看板を見て驚きました。ワタキューセイモアは、綿久が社名変更した会社です。元社長村田さんは、父と同じ年齢で、終戦直後親戚のやっていた商社の大阪支店長として大阪にやってきた若造の父は、業容回復のため関西圏の布・衣料関係の会社を回った。大阪支店はウエスという布を集め、船舶エンジンの油を拭く布として販売することで大きな利益を上げ、戦前の業容を急速に回復した。
その時の取引先が綿久さん。馬が合うので取引先ながら、もうひとりの方と共に3人で友達付き合いをしていた。そんな関係で、僕の中学以降の保証人をもうひとりの方にして頂き、僕の結婚の時の仲人・媒酌人を村田さんにしていただいた。
綿久さんが手形を落とせず、明日倒産という時に、その窮状を聞いた父が即日会社のお金でその手形を落とした。この時倒産していたら現在のワタキューセイモアはない。村田さんは亡くなるまで父への感謝を忘れず、僕と家内がここ井手町のご自宅に村田さんご夫婦を訪ねた時、若造の僕を下にも置かない態度で父への感謝を教え、僕にさえ頭を下げられた。
手形が落ちなかった時の救世主の話と共に教えてもらったのが、綿久の業績が急拡大した理由。父が業績を上げ過ぎて、東京本社より利益を上げるようになったので、親戚故に社長の目障りになった。社長の息子さんと同年代で、優秀な父に会社を乗っ取られる恐怖から、父を雇い止めにした。
大阪支店の社員は、父と共に会社を止めて、新たな商社を立ち上げようとしたが、父は理不尽な首切りを受けたとは言え、親戚の会社と真っ向対立する会社を創業することを避けた。当時、我が家に毎日のように多くの部下がやってきていた。当時の僕はその意味がわからなかったけど、父が全員の再就職を斡旋した。父は元部下全員の再就職が決まるまで、自分の就職に動かなかった。その時、最も多くの元部下を引き受けてくれたのが綿久さんでした。当時の綿久の業容では無理な引き受けだったけど、元商社マンなので自分の給料は自分が探してくる自立型だったから、彼らが綿久の業績を急拡大させた。
父も村田さんから、「一緒にやろう」と綿久に誘われたが、新規に雇った社員が自立で稼がなければ、綿久の負担になり倒産するかも知れない大冒険を決断した村田さんに自分まで甘えられないと辞退した。結果は大成功で、病院レンタル寝具事業で日本一の会社になり、バブル経済の頃は、「政商」として新聞に名前が出るほどになった。僕が就職する時も、「いつでもOK」と言われ、父も村田さんが亡くなっても父が亡くなるまで、ワタキューセイモアの社員旅行に誘われついていっていた。
父を切ったことで、会社の稼ぎ頭だった多くの大阪支店社員を失った宗川産業は、その後倒産しました。まず大阪支店の壊滅を埋めるため、業績を回復しようとした社長の息子さんが心労で倒れ、それにショックを受けたのか後を追うように社長もこの世を去った。遺された社長の奥様は、亡くなった息子さんのお嫁さんと同居だったが、財産を生前贈与していたのですぐにお嫁さんに放り出されてしまった。この現実を親戚故に細部まで知り、僕の中に「恩の大切さ」「実るほどに頭を垂れる稲穂かな」の現実を子供心に知った。以来、僕は「宗川産業」と「綿久」から学んだことを忘れないように生きているつもりです。家内を選ぶ時もそんな目線であったし、子どもたちにもこの心を伝えようとしてきたつもりです。
『大正池は、昭和28年8月15日の南山城水害により決壊した旧大正池と旧ニノ谷池の2つの池を、旧ニノ谷池跡地に再構築したもので、昭和35年に完成しました。平成6年度から京都府営事業として地域用水環境整備事業をはじめ3事業により大正池及び周辺整備が行われ、平成16年度には町営林業経営構造対策事業によってバンガローやキャンプ場が整備され、井手町野外活動センター「大正池グリーンパーク」としてオープンしました。
この大正池は、京都府内の農業用ため池として唯一のコンクリートダムであり、堤体の高さ26.5m、総貯水量23万トン、満水面積4haは、府内最大級のものです。池の周囲は約2kmの散策路が整備され、願いのかけ橋や浮御堂があります』
歩いて湖岸で出てみました。京都府内最大ですが農業用溜池なので、それほど大きな池とは感じませんでした。キャンプ地なので、家族で散策するのが良さそうです。
『願架橋(ねがいのかけはし)
大正池は、昭和28年の南山城水害で決壊した旧大正池と旧二ノ谷池のうち、旧二ノ谷池の跡地に復旧されたものです。 手のひらの形をした湖面に架かる吊橋には、永遠の幸せを願うエンゲージリングがイメージされています。
また近くの有王(ありおう)集落には、江戸時代後期の漢方医・中神琴渓(なかがみきんけい)が眠っています。師は、「私の墓に参ったものには、ひとつだけ願いをかなえてやろう」という言葉をを言い残したと伝えられています。 「願いのかけはし」は、このような意味を込めて名付けられたものです』
「大正池グリーンパーク」事務所エリアに戻ってきました。木造バンガローが数棟建っており、半分には横に車が停まっているのでレンタル中のようです。今晩一晩泊まり明日日曜日遊んで帰るのでしょう。料金表などの載ったパンフレットあるかな?と事務所棟に入ってみましたが、誰もいませんでした。空いているバンガローを覗いてみました。板敷きの1Fに長テーブルと2段ベッド、ロフトに上がる階段があります。エアコンも設置されており、掃除も行き届き清潔で良さそう。
r321を下り、木津川に出てr70。JR奈良線沿いに北上し、14:50「ワタキューセイモア株式会社本社」。僕が子供の頃は、ここに村田さん一家が住み、家業として綿など布地を扱っていたのに、今は病院レンタル寝具トップ企業、未だにここが本社だとは思っていませんでした。木造の建物が2棟建っており、奥にはリネン物流施設があり、トラックが出入りしています。立派な建物が建っているのでそれが本社棟かもしれません。
門番さんに名刺を渡し、僕の素性を話しました。「実は仲人さんが先代社長村田さんで・・・」「ではこちらでお勤めでしたか?」と問われたので、父と村田さんの関係を話しました。「木造の建物は、村田さんに実家ですか?」「そうですよ、現社長の息子さんは近所にお住みですけど、昔のままです」「少し中を見学してもいいですか?」「村田さんご夫婦の銅像も建ってますので、見学下さい」。
『創業140周年記念 中興の祖・村田清次・エミ子夫人像 2012.9.11』
『心 創業140周年記念事業の一環として、創業者村田清次・エミ子ご夫妻の銅像を製作するとともに、ワタキューグループの未来永劫の発展を祈念するものである』
『ワタキューグループ基本方針
私達は創業時の原点に還り、
お客様には仕事をさせて頂いている。
会社の皆様方はお互いに働いて頂いている。
仕入先には売って頂いている。
外注・配送その他関連先には仕事をして頂いている。
という感謝の気持ちと謙虚な姿勢で、何事にも接する社風を醸成すると共に、誰もが思いやりの心を持ち、互いに協力し、人に誇れる立派な会社に勤めて良かったと思えるグループにする。
以上を礎としてワタキューグループの強固な石垣を構築するため、
社是を「心」とする』
村田さんご夫婦の銅像は、ご本人に良く似ていました。その横に祠があり、社是を刻んだプレートが立っていました。ここで働く社員は毎日、他の場所で働く社員は本社訪問時にこれを読むのでしょう。村田さんはとても腰が低く、恩義を忘れずずっと繋がりを大切になさる方です。社員を惹き付け、笑顔でいれば眠っていた才能が自然に開花し、その総合力が今の大発展に繋がっているのでしょう。
門番さんにお礼を言って、「村田さんは腰の低い方でした」と昔ばなしをすると、「この会社には労働組合が無いんですよ。以前お世話になっていた会社は、いろいろ労働争議が有りましたが、この会社にお世話になって、先代村田社長さんの頭の低さに驚きました。毎日、「おはようございます」で出社され、「後は頼みますね」と必ずおっしゃって帰られます。社員にみなそうするので、不満なんて無いから労働組合の必要が無いんです。現社長の息子さんも同じですよ」と教えて下さいました。
バイクに戻り、R307に出て木津川を渡り西進しました。近鉄奈良線やJR学研都市線を越え、京奈和自動車道をくぐり、r71を経由してR307に戻り、R1〜r19〜r14〜r143で近畿道下まで来て、右折してr2〜中央環状道〜R171で、16:45帰宅しました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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