-ウェブマスター日記 2020/1-2

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2020/2/24
昨年秋の紅葉の時期、丹波篠山の寺院ツーリングにご一緒した方に誘われたのでグループツーリングに参加します。隣町・尼崎市の梅が綺麗な公園と神社が目的地です。隣町・宝塚の方からなので、うちの近所のコンビニ10時集合です。「里山VTR250」を出して、9:39「セブンイレブン伊丹瑞ケ丘店」。何も買わないと申し訳ないので、「ひとくち歌舞伎揚108円」購入。バイクに戻りリアボックスに入れていると、誘ってくれたRPさんが来られました。「今日は2台ですか?」「いいえ、前回・前々回同様NQさんも来られます」。前回同様、僕のヘルメットにRPさんがインカムを着けてくださいました。すぐにインカムが繋がりました。NQさんが来られたので、RPさんとインカムを繋げています。
昼食の場所を聞くと、まだ決まっていないということだったので、新西宮YHを提案しました。農業公園〜神社〜YHというルートが決まりました。尼崎をよく知っているNQさんが先頭で出発。r331を南下し、R171を南に渡りr332。左折してr334で阪急伊丹駅北側を東へ。猪名川手前で右折し、猪名川右岸土手道を南下します。突き当りを左折し、「上園橋」を渡って、猪名川と藻川の中洲に入ります。
10:27「農業公園」。猪名川土手が見える所に、梅林が有り、淡いピンクの梅が沢山咲いていました。たまに濃いピンクの梅があり、種類の多さは緑ヶ丘公園梅林に軍配が上がります。緑ヶ丘公園はその時期になるとそれなりの人を集める無料観光梅林でしたが、葉の病気で全部伐られてしまい桜の小山になっています。残念。他に、バラ・ボタン・花菖蒲のエリアがあり、その時期になると綺麗に咲くのでしょう。寒椿も咲いていました。
r13に戻り南下し、名神高速をくぐり、JR山陽本線を越えて右折し西進。左折しr142で南下し、11:37「熊野神社」。
『史跡・伝・難波の梅の宮・熊野神社
史跡・傅・難波の梅
難波の梅の由来を尋ぬるに、上古の昔、難波の地一帯は有名なる梅林にして人皇15代廳神天皇時代には、最も盛んでありし事が左の古記により伺われる。
 なにはの梅古記(古版木による)
なにはの梅の所以を尋るに、人皇15代応神天皇の御時、なには津にこの花咲き四方に香ほり高し。是聖代の嘉祥にして、16代仁徳天皇々子なりし御時、自然とこの花の瑞徳ましますを、百済の王聞きゐすなり難波津に咲くやこの花のことば是也。却も難波の京と定まりて、賓治87歳をしろしめし給へる目出たきためし此の梅に本ずけり此花江南。所無之記せし辨慶の執筆も、此梅也今あやまりて梅の制札といへるは此がこと也。すなはち江南所無之は梅の名をいふ。誠に応神帝は自愛の其樹なれば、花のよぞつ香ひとし万本にすくれんぞ一枝にても折るものは、神のとがめ目の当り也。文治の頃の制札またむべなるかな。
熊野神社御由緒
御祭神:伊弉冊尊(伊邪那美命)縁結の大神・天照大神の御母神
当熊野神社は、天平年中行基僧正が聖武天皇の勅命により、摂津の国内に数箇所の熊野神社を再興し其の第一の社とされ、其の本宮は和歌山県紀伊国本宮村鎮座・熊野座神社(現在熊野本宮大社)と称せられ、古来霊験最も著しとせられ皇室の崇敬参詣、又庶民これを倣ひ争ふて参詣し所謂蟻の熊野詣の語を産んだ、往昔の熊野詣は四国より摂津の難波(尼崎大阪)を南に和泉国紀伊路、又は海路尼崎大阪より紀伊熊野川、音無川を上り山中の難路を遠く熊野奥山に達するのであった。その路々には高貴の人々にては凡そ1ヶ月にも及ぶ程行程であった。その御道には要所要所に多くの熊野神社を祭った。これが皆臨幸の際の御休所なりしと伝へられる。
又吉野川・紀の川を下り、難波の海に出で紀伊と四国の海峡より、即ち外洋より来る潮流に随ひ尼崎陸地の正北南地に着岸し、それより三国川(神崎川)を河船にて淀川本流に出で、遂に京都に入るを捷路とされたようである。この尼崎市難波の熊野神社は旅中の一休所の第一の社であったと伝へられる。
平安朝延喜時代には、元社務所の北方空地には、且って観音堂のありしところと伝へられ、元明覚寺の鎮守社奥の院熊野大護現社であって、往時は社僧が守りし或る時は、修験者の住みしこともあると伝へられ、以後明覚寺の構は廃仏葉樺と共に消滅した。
熊野の神は妄語の罪を駛し、政禁の穢を糾すとて烏の舊稱を出すを、民間これに依って正邪を糾すと伝えられ今も烏の巣があり多くの烏がいる。尚、当社は大東亜戦争により戦災を被り社殿其の他全部破壊され、現在社殿及諸建造物は終戦後に御復興御造営されたものである。以て当神社の由来は相当古き時代より祭祀されたものと推知し得るものなり。明治6年(1873)村社に列せらる。
境内神社 八幡神社:御祭神・廳神天皇・大正4年当社に合祀せらる 春日神社:御祭神・天児屋根命・武雷命・経律主命・大正4年当社に合祀せらる 厳島神社(辨天社):御祭神・一杵島姫命・・大正4年当社に合祀せらる 松尾神社:御祭神・大山祇命
御例祭日 本社御例祭・7月28日 八幡神社例祭・春日神社例祭・厳島神社例祭・松尾神社例祭・10月7日 難波稲荷大社例祭・4月7日
祭事 元旦祭・節分祭・ドンドン祭 諸御祈祷・祈願祭・七五三詣(11月15日)
各出張祭神式葬祭
摂津難波稲荷大社 通称・がんのいなり。がんかけいなり。
御祭神:大日留姫命(おおひろひめみこと・天照大神)・豊受大明神・松尾大明神・伏見大明神・外4社
難波の稲荷社は去る文化年間以前は、非常に盛大に祭事が行われて、その名も広く摂津の雄逸の稲荷として、京阪神の者の参詣の絶間がなく殷賑(いんしん)を極めたと伝へられる。戦災にて消失していましたが、稲荷崇敬者及神社関係者の熱意に依りて御再興に成り現在に至る。
例祭・4月7日(護摩焚神事)初牛祭
行者堂・みそぎ粛場
往昔、熊野本宮へ参詣者、修験者が旅中この一休所の第一の社である。当熊野神社で身を清められた。禊の斎場に祀られた小祠である。戦災にて、小祠は破壊されたが、御しるし石は現在社務所南庭のお滝の積石の最上に安置されてあり、現在の禊場である。
熊野神社神道這苑・みずごの塔
尼崎市営弥生ヶ丘墓地内に建立されてあるこのお祠は、一般民家の家でお墓が無く、お骨を抱えてお困りのお方のお骨を預る蜃苑であり、又みずごの塔は母親が水子を下し、其の為に不幸な目に合はれるお方が多いとのことで、その水子の霊を祭祀しお慰め奉るお祠、供養塔であり年一・二回供養のお祭が挙行されている。
現在御霊112柱合祀。
御霊祭日・春の彼岸・秋の彼岸中
参拝の栞
「日本記に曰く、欽明天皇元年幸難波、祝津宮古梅当村農家の軒にあり、北のほとり難波の梅と賞す」。尼ヶ崎難波村に難波の梅と称する古木あり、其の傍に鶯宿水(梅の水とも)いふ井あり仁徳帝の御字、落花に浮んで薫じて味ひかろくしかも濁る事なし。落花の頃鶯井逡を去やらず依之鶯宿水の水の名ありとぞ。
ある泰平の御代に、老若男女が梅の木蔭を清めて舞を舞っていたと言う。これは王仁と木華咲耶姫との霊が現れ、先づ姫が舞ひ王仁も様々の舞曲を奏して、萬歳の御世を讃へるのであると、梅は百花の魁をなす花であり、難波の梅は王仁の詠と云はれる歌によって有名であり、又これは梅の精とも云われている。
御歌
難波津に咲くやこの花冬籠り 今を春べと咲くやこの花
難波の春も幾久し 雪にも梅の冬籠り 今は春べの気色かな
梅祭:毎年梅花満開時(3月7日前後)』
境内には梅が咲き、藤棚もありました。さすが神社、農業公園のようにただ植えてあるだけではなく、梅が見栄え良く植えられています。見頃の時期は過ぎていますが、多く激写しました。枝垂れ梅が目を惹きました。
拝殿に参った後、横にあった稲荷神社も参りました。境内の高いポールに日の丸が揚がっていた。前日日曜日の天皇誕生日には自宅に日の丸を揚げましたが、この日は振替休日なので日の丸を揚げませんでした。祝日の振替日にも掲げるようにしようかな〜。梅林と言えばメジロ、メジロがチョコチョコ梅を渡り歩いていました。
「難波の梅」石碑に佐藤栄作と書かれていました。元総理大臣の書いた「難波の梅」が石碑になったのだと思いますが、何故?佐藤栄作さんとこの神社の繋がりは?疑問が湧きますが、答えは何処にも書いてありませんでした。
僕を先頭に、新西宮YHに向かいます。南下して左折してR2を少し東に走り、右折して南下し、「阪神出屋敷駅」横を通り、右折してR43で西進します。武庫川を渡り、阪神甲子園球場横を通過し、左折して「西宮大橋」を渡って、12:44「新西宮ヨットハーバー」。
1Fカフェで昼食にしました。いつものように食事が出てくるのが遅いのもありますが、3人で話が弾み、ゆっくり出来ました。14:39「Friandise」で「牡蠣フライ1518円」を食べました。フリードリンク付きなので、オレンジ・グループ・アップルジュースを次々に飲みました。以前は食後にドリンクを持ってきてくれ、おかわり自由のシステムだったはずなのに、ホットorコールドフリードリンク付きのシステムに変わったようです。ここが初めてのお二人は、ハーバー会員以外は入れないと思っておられたようで、お得したと言っておられました。
また僕が先頭になって、帰路に着きました。R43を渡り、R171で北西へ。伊丹まで戻り、コンビニで解散しました。ここでインカムをヘルメットから外して返しました。
まだ時間が早いので、オイル交換に行きましょう。「バイクワールド伊丹店」でメンテナンスの待ち時間を聞くと、「今ならすぐ出来ます」ということなのでお願いしました。16:09「オイル交換(MOTUL100%合成オイル190円×21=3990円+キタコオイルエレメント2090円+工賃660円×2=1200円)7730円」。今回の「里山VTR250」点検は、ホンダドリームで24ヶ月点検して頂きました。オイル交換は、バイクワールドで1年間使って良かったMOTUL100%合成を、経年劣化で寿命を指摘されたリアタイヤもバイクワールドで新品にしました。これでVTR250のメンテナンス終了。


2020/2/23
晴れ予報なので、家内から「走りに行ってきたら」と言われていましたが、前日「追いコン」で遅く帰って来たのと、前日雨に降られたからか鼻水が出るので自重しました。8時過ぎに車で家内の用事に付き合い、フルセイルを読みながら1時間待ちました。
家内を乗せ、スーパーで買物して一旦帰宅し冷蔵庫に食材を仕舞って、ワークマンに向かいました。僕は指なし手袋を買い、家内は仕事用の靴を買いました。カフェ「珈の香」で家内と2時間近くお喋りしてしまいました。ケーキセットで2時間は難儀なお客さんですね。家内はお喋りでも話好きでもありませんが、聞き上手です。家内といると、特に話題もないのにとても気持ち良く居心地が良いです。
帰宅して、amazonPrimeビデオを観て1日を終えました。


2020/2/22
コーチしている大学ヨット部の4回生卒業式です。俗に言う「追い出しコンパ(追いコン)」です。18時から京都のホテルで開催されるので、午後になってOB・OGさんにお配りする資料を作成し始めました。4回生たちの目標としてきた最後の大会、昨年のインカレ4日間の僕の日記をモディファイしました。僕から見た視点なので客観的ではありませんが、それ故より臨場感を感じて頂けると思います。
この作業に思いの外時間を取られてしまいました。出席者ほぼ100名で、若手OB・OGを除くと39名ということだったので40部コピーし、16時を過ぎ、慌てて出発しました。最寄り駅に通勤リード110を停め、16:31JR「尼崎駅セブンイレブン」で「ミルクティー500ml120円」購入。JR新快速で京都へ。京都駅から地下鉄に乗り換え、丸太町駅へ。
地上に出ると雨が降っていました。自宅も一時雨が降りましたが、天気予報では夕方から晴れで、自宅を出た時は雨降る感じはなかったのに・・・。傘を売ってるコンビニなどなく、仕方なく濡れながら歩きました。いつも素敵だな〜と思ってる「大丸ヴィラ」「平安女学院」「護王神社」「ホテルガーデンパレス」「KBS京都」前を通り過ぎ、少し降りが楽になったところで、会場である「御所西都平安ホテル」に着きました。
開会18時の15分前に着きました。ホテルに入ると、ずらりと左右に部員たちが並び、「こんにちは」部員たちに「2Fです」と言われ上がり、宴会会場前にも部員たちが左右に並んでいました。受付で、会費1万円を部員に渡し受付終了。ショルダーバッグから資料を出して、2回生S君とTさんを呼んで、「年配OBさんに配る資料持ってきたから渡して欲しいんだ。10ページ表裏5枚あるかりページナンバーを振ってあるから、5枚まとめてホッチキスで留めて」とお願いしました。会場に入りコートをコート掛けへ。受付に戻ると、2回生O君も手伝ってくれていました。バイトでこういう作業をしているようで、彼の手際がスムーズで素晴らしい。
会場に入ると、I監督に呼ばれ、Y部長を紹介された。「Y君がヨット部長に就任したんですよ」と。Y君は大学助教職だそうで、I監督・僕の次男の代の1つか2つ下の学年です。「お久しぶりです」。監督もヨット部担当部長先生も、僕のコーチングした子になっちゃいました。僕は、クラブ実行部隊の最年長でもあるので、ますます役職の上下を認識しながら、頭が高くならないようにしなきゃ。
学生たちに紛れてワイワイやろうと思っていましたが、OB会副理事Kさんが呼びに来て、「ここに座って」と長老テーブルに座らされてしまいました。資金等お世話になっているので、いろいろお喋り。
3回生W君の司会で始まりました。Y部長の挨拶で卒業式が始まりました。OB会理事長がOB会から卒業生に記念品が贈呈されました。OB会長Hさんのスピーチ&乾杯の音頭。歓談時間があり、理事長からの挨拶の後、僕が指名されスピーチしました。
「卒業生たちの学年皆で、クラブ内競争が有りながらも、学業や自分の人生設計を犠牲にすることなくヨットと向き合い、楽しいクラブの雰囲気をより向上させることで、インカレ総合5位・S級優勝という結果を出しました。これを自信に、ヨット部を卒業し次のステップに上がっても、「楽しいで結果を出した」を胸に人生を歩んでいって欲しい。阪神淡路大震災で体験し感じた学生の素晴らしさを紹介しながら、若者の能力の高さを褒めてスピーチを終えました。
3回生現キャプテンF君のスピーチ、4回生全員のスピーチ。ジュースを取りに学生テーブル方面に遠征し、若者とお喋りします。去年卒業したマネさん5人全員が来てくれています。今回も東京からSさんが来ており、「またついでに来たの?」って声を掛けます。京都でまだ勉強している同期のプレイヤーとカップルなので、この3連休を一緒に過ごすのでしょう。いいな〜。5人ともますます綺麗になっています。
下級生から4回生への記念品&花束贈呈。I監督の閉会の言葉の後、テーブルを片付け、円陣を組んでエール&応援歌&琵琶湖周航の歌を歌います。1回生エール係N君のエールが様になってきました。
21時に解散です。受付を見ると、恒例の卒業生からの言葉集フルセイルが積んであったので、学生に断り1冊頂きました。ヨットでの生活・感謝の気持ち・下級生へ伝えたいこと・・・自由に書いています。とても面白いです。過去最高の分厚さで498ページもあります。卒業生が10人なので、平均すると1人A4・50ページ、書いたね〜。次男が卒業した時は、圧倒的に次男のページが占めていました。学生たちは、4回生に連れられ、翌朝まで京都をグループに別れ練り歩きます。
ホテルを出ると雨は上がっており、丸太町駅まで歩きました。途中、神社の写真を取っていると、I監督他がやってきました。「あれ、今日は電車ですか?」「そうなんだよね。雨降ったから返って良かった」。I監督などは学生の2次会に参加するそうです。
電車に乗り、フルセイルを読みながら帰宅しました。解散後、卒業するSさん・Mさん、2人のマネさんを両手に華にして写真撮ってもらったりラッキーしちゃいました。


2020/2/12
長男のお嫁さんから、家族LINEに投稿がありました。次男の長男お〜ちゃん生後100日の初宮参り帰省の写真やビデオを家族LINEに、僕や次男のお嫁さんが投稿していました。その流れです。
お〜ちゃんおめでとうと、すみれちゃん3才の写真やビデオにこうちゃん3才が釘付けになって見ていたとの報告がありました。同じ年齢なので、夏に両家が帰省した時は、いつも一緒に遊んでいました。手を繋いで歩いていたし。
次男がまだ独り身の時、次男・長男一家と僕らで東大寺大仏・二月堂・春日大社・興福寺を巡ったことがありました。2才だったりょうくんは、鹿せんべいを食べようとグイグイ来るのに驚き、パパ抱っこに避難していました。お嫁さんは、そんなかつてを思い出したようです。
会社の社報に載った写真を送ってくれました。海外で発売されたり、日本国内で発売された現在の稼ぎ頭や、今年来年の稼ぎ頭3品目の関係社員100人程が一同に会した写真でした。長男は何処にいるのかと探したら、最前列の左端にいました。ポジティブシンキングでなんでも積極的な性格なので、前列に並んだのでしょう。
僕は人に推されない限り後方にいる性格なので、彼の積極姿勢が羨ましい。流石に最前列中央付近は年長者なので、そこまでは食い込めなかったようです。大人の対応です。屋外の芝生の上ですが、背景を見ると東京のような気がします。ロンドン駐在後もアメリカ在住時同様世界中を飛び回っているので、しっかり者のお嫁さんがいてこそ出来ることです。3人の子を育てながら家庭を守るお嫁さんに感謝感謝です。
長男の上にりょうくん7才・こうちゃん3才・ルーカスくん1才が重なって寝ている写真は笑いました。みな楽しそうで何よりです。ビデオでは、ルーカスくんがりょうくんとそのイギリス人の友達とかくれんぼで遊んでいます。鬼になったルーカスくんがお兄ちゃんたちを見つけ「いた」と言うと、お友達が「found」と言ってまた逃げていきました。いつもりょうくんの友達に遊んでもらっているようです。子供同士に言葉の壁なんてないね。
こうちゃんは昨秋から幼稚園に通い出しました。3才なので年少さんなのですが、日本やアメリカより1年早く小学校に入学するイギリスでは年中さんに入園しました。イギリスで人生初幼稚園でしたが、もうすっかり慣れて喜んで通っています。
週1回、宿題を持って帰ってくるようになったそうです。今年の秋は年長さんに上がります。日本と学制システムが違い、アメリカ同様年長さんは小学校入学前準備学年として小学校附属幼稚園に入学します。りょうくんの通う地域で最も評判の良い公立小学校の附属幼稚園への入園が許可されたようで、張り切って宿題をこなしていました。
果物や動物の絵とそれを表す文字を線で結ぶや、星や四角が並んでいるのを数え該当する数字に丸をするような宿題でした。ワン・ツー・スリーと声に出して数えています。既に僕とは発音が違います。間違ったら、お嫁さんに「もう一度落ち着いて数えてごらん」と言われ、OKayって答えていました。年長さんからお勉強が始まるので、年長組に上がる準備として宿題を出してくれているようです。
イギリスは公立小学校でも日本のような最近小学校ではなく、校区内の多くの小学校があり、その中で入学希望を出し許可を得て入学します。自ずとランキングが出来るようですが、「いじめ」などで学校に行けなくなった子がいても、親が学校を選べるこのシステムなら公立校内で転校でき良いシステムだな〜と思います。小中で公立校1校のみしか選択できなければ、つまずくとずっと我慢を強いられたり、不登校になってしまいます。
アメリカの幼稚園では、年齢=学年ではなく、親が我が子の到達度に合った学年を選択して入学させるシステムでした。だから6才だけど年少さんに入園したり、あえてもう一度年中さんに通ったりできます。発達度合いは子供それぞれです。世間体を気にする方の多い日本人は「落第」と感じますが、あくまで我が子中心のアメリカでは「今、我が子に最適な」を選択する意識が高いようです。
以前、アメリカで子育て生活を送ったお母さんの書いた本を読んだことがありますが、そこにはアメリカの少年野球のことが書かれていました。地域に小学校単位のチームが有り、もっとやりたい子や抜きん出た子が通う練習量やコーチングがもっと充実した広域上部チームもあります。更に州単位のもっと上部のチームがあり、それぞれのリーグ戦があるので、所属チームを変えることでその子に最も適した野球が楽しめるようになっていました。だからガンガンにやりたい子も、片手間にやりたい子も、勝利を手にすることが出来ます。
僕が最も好きな映画は、アメリカ映画の「ジョーイ」(Something for Joey)です。全米アメリカンフットボール最優秀選手ハイズマントロフィーを獲得した次男ジョンキャパレティのいる家庭を描いた作品で、彼の5人兄弟の一番下の弟がジョーイです。ジョーイは白血病と戦っています。ジョーイにとってジョンはヒーローで大好きな存在です。時には母に代わって病院に付き添ってくれます。この物語は、長男のお嫁さんの語りで進行します。
父親は家具職人で、平凡な生活を送っています。妻に優しく、子どもたちに平等に接しています。「病気だからスポーツが出来ない。だけど野球をしてみたい」という希望を持ったジョーイには、自分がチームのコーチになって体調の良い時は毎週野球に付き合っています。毎度の三振・エラーにも「どんまい」と声を掛けジョーイに自信をつけさせようとします。ある試合の最終回、大きなチャンスにジョーイに打順が回ってきます。「どうせダメだ」とチームメイトが諦めている中、父親だけは「行ける」とジョーイを打席に送り出します。そしてヒット!これで逆転勝利を収め、大歓迎のチームメイトに迎えられるジョーイ。そして毎週ジョーイ含む家族を車に乗せ、ジョンの大学リーグ戦の試合の応援に向かう。この映画を観て、「あんな父親になりたい」と思い、「豚もおだてりゃ空を飛ぶ」を心情に一度も怒らない子育てを実践してきました。
ハイズマントロフィーを獲得したジョンが、ニューヨーク・ヒルトンホテルで行われるプライズギビングパーティーに向かいます。もちろん父親は家族を伴ってパーティーへ。ジョンを称えるスピーチが続きました。そしてハイズマントロフィーの授与。そしてジョンのスピーチが始まりました。まず、チームメイトとコーチへの感謝。最後に家族の事へ。自室で練習していた長兄が書いた原稿に書き加えられていました。
「ハイズマントロフィーの授与は、運動選手にとって大変光栄なことです。家族とともに喜びます。まず父と母。母は僕のがに股を直してくれ、お陰で歩け走れます。父は地味な人です。僕は父を尊敬しています。そして兄弟は常に僕を支えてくれました。最後は一番下の弟ジョーイ。彼は病気です、白血病です。ジョーイが喜ぶならこの賞を受けた甲斐があります。僕が戦うのはフットボール中だけですが、ジョーイは常に闘っています、一時も休まずに。この賞はジョーイに譲ります。僕はジョーイに教えられました。Thank you」
スピーチ後、会場は総立ちになり拍手が止みません。ジョーイのことを話す頃から泣いてしまっていたジョンは、ジョーイに歩み寄り抱き上げます。僕はもちろん大泣きしてしまいました。
僕が4回生の時1977年の作品で、アメリカンフットボールが中学から校技だったので、試合を観に行っていました。ヨット部でも甲子園ボウルなどに何度も母校の応援に行っていました。そんな大好きなアメリカンフットボールの映画なので、気楽な気持ちで観に行ったのですが、大感動でした。横には結婚前の家内がいました。
https://www.youtube.com/watch?v=Voopj4pqFDA
学業もスポーツも、それぞれの楽しみ・能力・発達速度に合わせた環境を選択できるアメリカやイギリスの制度は素晴らしいなと思います。今、長男の海外生活を通じて、その実際を感じることが出来ています。


2020/2/11
昨日、次男一家はUSJに行きました。僕は10時頃駅まで送り、仕事場に戻りました。仕事から帰った20時過ぎでもまだ帰っておらず、すみれちゃんがノリノリで楽しんでいるんだな〜と思いました。LINEに、「夕食食べて帰るから、駅からタクシーにする」のメッセージが入っていました。「何時でも良いから連絡頂戴、駅まで迎えに行きます」と返信し、夕食・風呂などいつものルーチンをして、21時過ぎ床に入り、最後のLINEチェックをすると、「21:30駅」との連絡が入っていました。「え、あと15分しか無い」と慌てて着替え、迎えに行きました。すみれちゃんもお〜ちゃんも寝ており、「あ〜疲れた〜」と次男がすみれちゃんを座席に横たえました。
そして11日、紀元節・建国記念日です。上天気なので気持ちが良い。玄関に「日の丸」を掲げました。その作業をしていると、お向かいさんがゴミ収集箱の片付けに出て来られました。うちとお向かいさんの2軒だけで収集箱を管理しています。ゴミ箱の日頃の管理を我が家がして、朝ゴミ箱を所定場所に出すのがうちの仕事です。日中うちは仕事でいないので、お向かいさんが収集後のゴミ箱をうちの庭に片付けてくれます。
喋り好きな奥さんなので、あ〜だこ〜だ。「水仙なくなったのですね」「次男一家が初宮参り帰省するので、僕が電動草刈機で切っちゃいました。布団が干せないから・・・」。夫婦2人の時は使っていない庭の物干し竿の下に、水仙が咲きます。水仙は群生するし、12月から2月まで楽しませてくれるので良いのですが、今年は秋に草刈り機したのがいけなかったのか、全く花を咲かせませんでした。来年に期待です。僕は庭仕事が下手なので、柚子も今年は不作でした。彼岸花と雑草だだけは、毎年威勢が良いです。
10:30前、弟がやってきました。すみれちゃんはいろいろプレゼントを貰っていました。弟の長女は受験生で、奈良女子大が第一志望だったけど、センター試験がイマイチだったらしく、国公立は熊本大学を受験するそうです。私立はお母さんと同じ武庫川女子大を受験し、合格したそうです。受験もあと少し、頑張ってね。
10:30になり、氏神様の天満宮に参ります。すみれちゃんは歩くのが遅いので、弟の車に乗せてもらいます。僕ら夫婦はお手々繋いで歩きます。いつも「お手々繋いで」をしているので、ご近所さんに「仲の良いこと・・・」なんて家内は言われているようです。家内の手が柔らかく、いつも僕から手を繋ぎに行きます。社務所に入ると、10:30からの先約さんがおられました。うちは11時からです。申込書などに記入し、弟がLINE・TV電話掛けて、長女と顔を見ながら皆が会話します。「合格おめでとう、熊本受けるのスゴ〜い」なんてあ〜だこ〜だ。
宮司さんが社務所に戻って来られ、お〜ちゃんの初宮参りです。拝殿に上がり本殿の鏡に向かって祝詞が始まります。怪しい雰囲気を感じたのか、お〜ちゃんが泣き出します。前列中央の席でお〜ちゃんを抱っこしてる家内があやしています。途中で泣き止み、一連の行事が滞りなく済みました。これで孫5人、全てこのお宮で初宮参りをさせて頂きました。
拝殿前で記念写真です。お〜ちゃんを皆が順番に抱っこして写真に収まります。弟も写真に収まりごきげんです。すみれちゃんに、「モデルさんだよ〜」と声を掛けると、足をクロスし顎を引きポーズを取ってくれます。何処で覚えたんだろう。生まれながらに女子しています。次男とお嫁さんの会社のウェブサイトにモデルとしてデビューしました。建築の会社なので、幸せ家族のシーンとして夫婦とすみれちゃんがモデルになりました。お〜ちゃんは、小さすぎてモデルデビューは延期です。
帰宅し12時になると、音羽寿司さんが「お食い初め」料理を運んで来てくれました。お嫁さんが注文してくれました。まあ、前日のUSJの軍資金も家内が渡していたので、この費用も嫁と姑で「ここはうちが・・・」とやるのでしょう。
我が家は「お食い初め」をしたことがありません。お嫁さん実家は、こういう儀式を大切にする家庭で、大安吉日なども大切にされます。うちは寺社参りや墓参りは欠かしませんが、子供の成長に関しては、初宮参り・七五三・成人式ぐらいかな〜。
座敷のテーブル主席に座布団が敷かれ、紋付袴のお〜ちゃんが寝かされ、手足をバタバタしています。この紋付袴は、産婦人科で誕生祝いで頂いたそうです。ロンパースになっています。「こんなのあるのか〜」と驚きました。その横に、五月人形の鎧兜を出して組み立てました。
2/7が生まれて100日目なので、お食い初めの儀式です。お嫁さんによると、「年齢順に・・・」ということで、家内がお〜ちゃんを抱っこし、尾頭付きの鯛を天満宮の初宮参りで頂いた「お食い初めの」で少しつまみ、お〜ちゃんの口にちょんちょん。続いて僕・弟・次男・お嫁さん、最後にすみれちゃんがちょんちょん。皆で、お寿司やサンドウィッチを食べます。
食事を終え、我が家恒例の儀式です。僕が生まれた時に両親が買ってくれた幼児用椅子にお〜ちゃんを座らせます。僕の長男が生まれた時、長男を座らせ、歴代の主の名前(僕・弟)を油性マジックで書きました。次に次男、弟の長男・長女、長男の子(りょうくん・こうちゃん・ルーカスくん)、そして次男の長女すみれちゃん、今回次男の長男お〜ちゃんの番です。次男がお〜ちゃんの名前を椅子の脚に書きました。
15時になり、次男一家の帰る時間です。弟に礼を言いました。「ありがとうね」長女が受験なのに顔を出してくれました。家内と2人で次男一家を駅まで送ります。駅で降ろし、さようなら。気をつけて帰ってね。新幹線で東京まで帰りますが、4000円も安いこだま号で帰るので、4時間掛かります。


2020/2/9
前日の土曜日、正月に帰省しなかった次男一家4人が帰省しました。2/11(火)の紀元節・建国記念日に、10/30に生まれた長男の初宮参りを我が家の氏宮で行うからです。次男は、初宮参り・七五三に加え、命名さえもここの宮司さんにお世話になっています。両親に授けてもらった僕の名前の一字を我が子に授けたくて、僕の小学校時代の同級生のお父さんでもある宮司さんにお願いしました。10ほど候補を出して頂き、僕が選びました。長男も次男も同じです。そんなこんなで、長男も次男も子どもたちの初宮参りは全てここにお願いしています。月曜日に有給を取り、4日間帰省です。
土曜日は、14時に僕が駅まで迎えに行き、夕食を6人でお寿司を囲みました。「スシロー」にテイクアウト予約し、僕が取りに行きました。大人4人+すみれちゃん3才+おうちゃん0才で、セットメニューの他にサイドメニューも取ったのに、1人1000円行きませんでした。安いな〜。お嫁さんは2人のお母さんになり、落ち着きと自信が加わり、ますます綺麗になっていました。
12月、お〜ちゃんに会いに埼玉に行った時、次男に案内してもらった次男が設計しお嫁さんがスタッフを採用し11月に開業したロードサイドカプセルホテルの横に、12月にレディースカプセルホテルが開業し、この日にファミリー用カプセルホテルが開業したそうです。ファミリー第1号が宿泊しているようで、次男は気になっていました。ファミリー1室で12000円なんだって、4人なら1人3000円で安いです。
日曜日は、6人でお出かけです。初宮参りを紀元節・建国記念日にするのだから、2680年前に初代神武天皇が日本を建国した地に建つ橿原神宮に報告しなきゃと目的地が決まりました。お嫁さんは埼玉に生まれ育ったから、関西と言えは京都で奈良に疎遠です。そこで奈良の代名詞・東大寺大仏と春日大社に参ることにしました。
8時過ぎに出発し、R171〜中央環状線〜近畿道〜第2阪奈道で奈良へ。r1〜R369で9:4
「氷室神社P」に車を入れました。いつも置いてる東大寺Pに入れようと思ったけど、バス専用になっていました。
お〜ちゃんはお嫁さんの抱っこ紐の中に包まれ、お嫁さんの胸に。寒いです。家内はすみれちゃんの手を引き、僕と次男はカメラマンです。まずは、せんとくんとツーショット。奈良公園横を車で通った時、名物の鹿を何頭も見ましたが、ここには歩道にも車道にも鹿が我が物顔で歩いています。人を怖がっていないので、すみれちゃんもナデナデ出来ました。
南大門の左右に大きな仁王様が守護していました。
『谷川喜六(きろく)建立慰霊碑
奈良の仏教篤信者である谷川喜六氏が、明治10年(1877)西南の役戦没者、明治25年(1892)瀬戸内海に沈没した軍艦千島の殉職者、及び喜六氏の父の50回忌の慰霊法要を、明治26年4月8日(潅仏会)に私財を投じて大仏殿で盛大に営んだ。この石碑はそれを記念して建立された慰霊碑である。
表面の上部の「義勇奉公」の題額は小松宮彰仁親王、「西南役陣亡」「陸海軍人之碑」「千島艦水没」は伏見宮文秀女王の筆によるものである。
裏面の文章は、当時の奈良県知事の古沢滋氏によるもので、筆者は能筆家の日下部東作氏(号・鳴鶴)である。日下部嗚鶴は明治政府の近代化路線を推進する指導者の1人として活躍するが、独自の書風を確立して書聖と称えられ、厳谷一六、長三州とともに「明治の三筆」と称せられた。』
『會津八一歌碑
おほらかに もろてのゆびを ひらかせて おほきほとけは あまたらしたり會津八一が「東大寺にて」と題して大仏を詠んだ歌で、歌集「南京新唱」に所収されている。 「大らかに両手の指をお開きになって、大いなる仏は天空に満ち満ちていらっしゃいます」という意。
奈良の大仏即ち毘盧遮那仏は、「大方広仏華厳経」に「宇宙の中心にあって智慧と慈悲の光明をあまねく照す仏」と説かれていて、全宇宙の真実の仏とされている。昭和25年、會津八一の古稀を祝う事業のひとつとして建立され、書は八一の自筆、彫りは喜多枡太郎による薬研彫りの手彫りである。
昭和25年10月12日除幕 碑石高さ2.8m・幅70cm 北木島(岡山県笠岡市)産花崗岩
会津八一(1881〜1956)号は秋峠道人 大正・昭和期の歌人・書家・美術史家。早稲田大学教授。歌集「鹿嗚集」「南京新唱」など』
『天然記念物・東大寺鏡池棲息ワタカ 昭和52年5月20日指定
ワタカは、琵琶湖およびこれに接続する淀川水系に産するコイ科の淡水産硬骨魚で、体は細長く側扁する。腹びれ基底から肛門までの腹縁部は竜骨状の隆起縁を形成する。頭は小さく眼は大きい。口は眼より前方にあり、やや上に向く。胸びれ・背びれ・尻びれの前縁部は概して長い。体色は銀白色で、背部は緑青色である。体の側線は完全で下方に強く湾曲する。成熟した雄では、穎粒状の追星(おいぼし)が頭部・背面・胸びれにあらわれる。ヨシ場を主な生息場所とし、琵琶湖では湖南、湖東の沿岸や内湖に生息する。河川では下流域の「わんど」(入江)や、流れのほとんどない水路に多い。水草を主体とする雑食性である。
産卵期は6月〜8月で日本産コイ科魚類のなかでは最も高い22〜25℃の水温で、主として降雨後の夜間に産卵する。雌雄とも2年で成熟する。奈良県下では、東大寺鏡池のほか、石上神宮の鏡池に棲息する。』
『東大寺の大伽藍は、聖武天皇の発願になる盧遮那大仏が大和国分寺の本尊として造立されたのが契機となって成立した。大仏開眼供養塔が営まれたのは天平勝宝4年(752)。開基は良弁僧正。
東大寺では、天下太平万民豊楽が祈られるとともに、華厳教学を中心に仏教全般にわたる教理研究が行われた。 その後、2度も兵火に遭ったが、創建期や鎌倉復興期の建物や仏像などの優れた文化財、修二会(しゅにえ・お水取り)に代表される広汎な信仰活動を今に伝えている。』
すみれちゃんが、鹿に触るのが楽しくて遅いので、僕が先に歩き「拝観料600円×4」購入。大仏殿は、何度見ても迫力があります。入ると、盧遮那仏は大迫力です。すみれちゃんが、盧遮那仏の印相を真似しています。
すみれちゃんに「柱穴くぐり」をさせようと思いましたが、逃げちゃいました。我が子に逃げられた次男は、なんと自分がチャレンジ。すみれちゃんの出てくるのを撮ろうと出口でカメラを構えていた僕は、「詰まったら引っ張たげるよ」と構えました。案の定次男が詰まってしまいましたが、僕が出口側から引っ張ると何とか抜けれました。それまで何人か大人の男がチャレンジして詰まって断念していたので、抜け出したらギャラリーから拍手が沸き立ちました。
10:46、「エッチングマグネット160円北斎富士富嶽三十六景神奈川沖浪裏」を自分へのお土産に購入しました。続いて「二月堂」〜「春日大社」に向かう予定でしたが、「寒い」ということでキャンセルになってしまいました。「大仏プリン」を買い昼食を取ろうと、車に向かいました。
屋台で「鹿せんべい200円」を買うと、店前に屯していた鹿が僕に迫って来ます。上空で次男に渡し、迫っている鹿に手のひらを広げ「無いよ」の合図。受け取った次男が大変です。小さく割ってすみれちゃんに渡し、すぐに鹿集団を引き連れて離れます。家内にガードされたすみれちゃんは、初回だけ鹿に手渡しできましたが、その後は怖くて手を話して地面に落ちたせんべいを鹿が食べるのを見ています。数年前、長男の長男りょうくんは、怖くて長男に抱っこされないと迫ってくる鹿を見ることも無理でした。すみれちゃんは度胸があります。
大仏プリンを買おうと「夢風ひろば」に寄りました。11:17「まほろば大仏プリン本舗」で、「プリンロール1600円+大カスタード800円+保冷バッグ小400円=3032円」を購入。ここのPが2時間無料になるようで、ここで昼食を食べることにして、氷室神社に停めた車を移動させます。9:41〜11:39「氷室神社P」1000円。
「夢風ひろば」に車を移動し家族を探すと、モンベルのお店にいました。「TEN.TEN.CAFE」で昼食にしました。次男夫婦は「特製キーマカレー935円+大1210円」、すみれちゃんは「ちびっこオムライス549円」、僕ら夫婦は「とろけるオムライス1080円」、「セットアイスティーレモン329円」「セットアイスコーヒー329円」を注文しました。とても美味しかったです。「酒と泪と男とぜんざい780円」というメニューがあり、どっかで聞いたな〜と思いメニューを読んだら、河島英五のヒット曲「酒と泪と男と女」由来で、彼の家族が経営しているお店でした。
『氷室神社の奈良一番桜(若桜)
由緒:奈良に春を告げる一春桜で知られる「氷室神社」境内にある樹齢100年の枝垂れ桜、その桜の種子から育てられた若桜を分け頂いたものです。
氷室神社は、興福寺の東山鎮守で、奈良時代には宮中に氷を献上する氷池や氷室(製氷施設や冷蔵庫)の守り神でした。
品種:エドヒガン』
車に乗り、R369を西進。JR大和路線をくぐり、左折してR24を南下しました。JR桜井線をくぐり、左折してR165を東進。右折してr125。「神武天皇陵」前を通過し、13:54「橿原神宮」。
『祭神:神武天皇、皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命
由緒:神武天皇は、天孫降臨の地・日向を発して大和に入られ、国内を統一して畝傍山の東南橿原の地に皇居を営み、即位の礼を執り行い日本建国の基礎を築かれた。 明治の時代になり、神武天皇の御聖徳を景仰して、この橿原の旧蹟に橿原神宮創建の請願が民間有志から起こり、明治天皇にはこれを御嘉納になり、明治23年4月2日御鎮護になった。
社殿:創建に際し、明治天皇の思召により、本殿として京都御所の賢所・拝殿(現在の神楽殿)として神嘉殿の献進があり、現在本殿は重要文化財となっている。 昭和15年紀元2600年記念事業として、宮城整備拡張事業が行われ、幣殿・外拝殿・廻廊その他附属建物が新たに造営され、現在に至った。
神苑:境内地は、50万平方メートル(15万余坪)からなり、表参道北側の森林植物園その他緑苑は、紀元2600年当時、全国各地から奉献された樹木約8万本が植栽され、延120万人の勤労奉仕隊によって造成された。
祭典:紀元祭・例祭・2月11日建国記念日 祈年祭・2月17日 春季大祭・御鎮座記念祭4月2日・神武天皇祭4月3日 秋季大祭・10月3日 新嘗祭・11月23日 月次祭・毎月1日11日21日』
大鳥居をくぐります。参道脇道に「勅使館・斎館」と書かれており、規制線とガードマンで警備されていました。2日後に紀元節・建国記念日を控え、天皇陛下からの勅使を迎える準備が進められているのでしょう。
「外拝殿」内側が入れなくなっており、内拝殿までの間の中庭境内に大テントが数張り。その下に椅子が並んでいます。紀元節式典でしょう。勅使は必ず最前列に並ぶだろうし、総理大臣の来訪や少なくとも代理の方は来られるでしょう。御記帳台があったので、紀元節には来れないので記帳しました。靖国神社では日常ですが、ここ橿原神宮も紀元節の日は右翼街宣車が大量に出張って来るでしょう。僕は保守で大の日本好き・天皇陛下好きですが、街宣車で乗り付ける方々は怖い。もっと静かに落ち着いて建国を祝いたいです。
13:54〜14:55「橿原神宮P」500円。r125〜R24〜南阪奈道路〜近畿道〜中央環状線〜R171で帰宅。
夕食は、「和食さと」の金券があったので外食しました。20:02「和食さと」。「にぎやか海老天丼セット1152円+ちく玉天丼セット1042円+生ビール中602円+具だくさんの山海五穀雑炊1042円+とんかつ877円+とろろごはん327円+チョコレートパフェ503円+お子様バニラアイス165円+ミニ抹茶パフェ283円=6378円−2000円=4378円」。


2020/2/3
1回生クルージング2日目です。8時に家を出て、R171を走って信号で止まった時にスマホを開くと、LINEに着信が入っていました。参加予定のF君からで、「体調を崩したので参加を見合わせます。すみません」とのこと。「了解」と返事し、JR西宮駅前着。3人集まり出発し、阪神西宮駅で2人ピックアップし、9:28YH着。天気予報では良い風が入るはずですが、前日同様無風です。
出艇準備をして、桟橋から離れます。YHを出て沖を見るが、鏡のような海面で霞んでいます。セイリングは出来そうにないので、芦屋マリーナを見学し、大阪湾に出るべく機走で走ります。ステアリングは部員に託し、順に体験してもらいます。赤白灯台の沖に出てもセイリングは難しそうなので、六甲アイランドに沿って、南岸を西進します。コンテナ船が停まり、積み下ろし作業をしています。
ここで南から風が入ってきました。メインセイルをアップし、ジェノアも展開してセイリング開始。六甲アイランドの端まで来て南に向きを変え、航路を進みます。大型本船は脚が速いので、邪魔にならないように進路を指示します。ポートアイランド南端に出て、ポーアイと神戸空港の間を西に進み、神戸港を目指しましょう。西風なので、クローズホールドでタッキングを繰り返します。
6m/sから8m/sの白波バンバンになってきて、学生はワイワイ騒いでいます。ブローが入りヒールが入ると、ステアリングがウエザーヘルムで持っていかれるので、当て舵しないと真っすぐ進みません。「当て舵パワーすげー」と叫んでいます。クルーザー素人ばかり乗せており、女子マネージャーがステアリングの時もあるので、ジェノアを2ポイントリーフし、メインセイルもワンポイントリーフします。
空港連絡橋が迫って来たので、エンジンを掛け、風上に向かってまっすぐ橋をくぐり、再びエンジンを切って帆走で進みます。ここで、「トイレ借りていいですか?」とマネさんから。「このタイミングで、酔うよ」と一応伝え、トイレの使い方をレクチャーして、はいどうぞ。予想通り、トイレを出てきてグロッキー・・・と思いきや、船内でゴソゴソやっています。小学校の時、遠足バスで何度も酔った経験のある僕は、航海中にドッグハウスに入ることを出来るだけしないようにしています。女子は強いな〜。
神戸港に入り波が収まりました。風もマシになり、軽快にメリケン波止場へ。モザイク前で方向転換し、川崎重工業の潜水艦を見て帰路に着きます。空港島との間の水道は、ランニングなので一気に通過しました。帰路は沖をセイリングを楽しみながら帰れると思っていましたが、女子2人が船酔いでダウン気味です。ここに来てトイレの呪いが炸裂しました。
仕方なく、往路同様のコースを指示します。ポートアイランド・六甲アイランド沿いに走るので、風はあっても波は小さくなります。女子2人が復活しました。コンテナ作業や通過する本船を避けながらジャイブを繰り返し、尼崎西宮港内へ。ハーバー前でセイルダウンし、桟橋着艇。荷物を桟橋に降ろし、桟橋から伸ばしたホースで水を掛けながらデッキブラシで掃除します。
センターハウスに戻り、「レストラン・カフェFriandise」でお茶します。僕はケーキセット。連日のお運びなので、「毎度ありがとうございます」。「珈琲430円+ケーキセット370円+ウインナー珈琲600円+柚子ティー560円+キャラメル珈琲620円×2=1240円+ヘーゼルナッツ珈琲620円=4202円」。運ばれてくる間に、ショップを覗きます。ノースの店長Kさんを紹介します。これから3年間、毎年インカレ本戦でお世話になります。今年は加えて、7大学戦でもお世話になるはずです。
9:28〜17:14・800円でYHPを出て、JR西宮駅に向かいます。この日は前日と反対に全員JR西宮駅から帰るそうです。皆を降ろし帰宅して、仕事に復帰しました。

ロンドン在住の長男のお嫁さんから、LINEが入りました。まずは、次男とこの長男Oくん3ヶ月が、大きくなりイケメンになってきたことを褒めていました。お嫁さんが誕生日プレゼントしたアメリカ土産のラルフローレンを着てくれてて嬉しいとのこと。赤ちゃんからラルフローレンとは贅沢な。長男夫婦はラルフローレンが好きで、子どもたちも含めよくポロロゴ上着を着ています。
車で2時間かけて、ドーバー海峡の「チョークの崖」を見に行ってきたようです。寒かったようです。「チョークの崖が続く景色は圧巻」と書かれており、写真を見ると平坦な緑の大地が垂直に切られて海になっています。白い崖が見事です。なぜ白いのか調べたら、石灰岩だからでした。石灰岩の大地が続いているということは、地下には鍾乳洞が・・・なんて想像しました。「こりゃ凄い」と素直に思える映像でした。
りょうくん7才が学校から表彰されたようです。「よっしゃ〜」。
「KINDNESS This certificate has been awarded to Ryo・・・-Birch
for Always playing kindly with his friends and being considerate to others - well done!」
各クラス2人ずつ、周りのお友達を思いやって優しくできる子が選ばれたそうです。アメリカでも「人に対する優しさ」が評価され、りょうくんは向こうでも評価されていました。保護者会やパーティーとかでお母さん方と会うと、「りょうくんには声を掛けてもらい助かってます」とお礼を言われるそうです。「イジメ対策なのか?」と感じているようです。
日本のように、差別のない階級のない社会は世界広しと言えど、比較できる国はありません。こういう取り組みが日本よりとても多い気がするとのこと。日本なら当たり前で空気のようなことが、国の違いで違いますね。
友達に優しく出来るということは、自分の学校生活に余裕があるということです。3才からアメリカ生活で、その続きのロンドン生活だから、彼にとっては日本より馴染みのある生活で、ロンドン生活5ヶ月だけど馴染んだようです。周囲の反応に合わせ微調整するのも賢さの1つです。
こういう資質は、親から自然に学んだということ。つまり親がそういう生活をしていることで、大きくは日本人がそうしてきたから。日本の自然が育んだことです。きっと、江戸時代末期、ヨーロッパやアメリカでも絶賛された武士も同じ資質にも相通じることがあるのでしょう。りょうくんのクラスメイトにとっては、「日本人=りょうくん」です。僕も何度か日本人の先輩の行いが日本人の良い印象を与え、そのお陰を感じたことがある。その印象を下げないように、精一杯行動した。りょうくんもチビながら日本人の好印象を周りに与えているでしょう。素晴らしいです。りょうくんが表彰されたのですが、長男や彼が選んだお嫁さんが褒められたように感じ、長男を育てた家内が褒められたように感じました。Good job Ryo!
こうちゃん3才のビデオがありました。前屈のビデオで、床に座り足を真っ直ぐ揃えて前に伸ばし、その上にペタンと胸と手を揃えてピッタリつけています。次に両足を左右に広げて、胸と手をペタンと床へ。柔軟性抜群です。僕もちびの時は足の親指を舐めるのが好きで、身体が柔らかでしたが、こうちゃんには負けていたような気がします。凄いや!


2020/2/2
コーチしている大学ヨット部1回生のクルージング体験の日です。9時に駅でピックアップし、10時出艇、15時ハーバーバックの予定です。2日間連続で、ヨット部に入って1年、ほとんどの部員がヨット自体初体験してから1年。ヨット部で乗った1人乗り・2人乗り以外のヨットを知り、その奥深さを体験し、卒業後も広がる大きな世界を俯瞰しながらヨット部で技術を磨いて欲しいと思っています。毎年、この時期行っています。
四輪で出発し、8:11近所のセブンで、「ひねり揚げ100円+フレッシュバナナ3本200円+フルーツオーレ500ml93円=393円」購入。R171でJR西宮駅前のファミリーマートで待ちます。この日の予定者6人全員、ここにやってきます。9時5分前に5人あつまりましたが、1人足りません。部員が連絡すると、「阪神西宮駅」に向かったそうです。
9:10阪神西宮駅でNくんピックアップして、ホームポートに向かいます。女子部員はNagさん1人ですが、5人分喋るので皆楽しそうです。9:16YH着。
カードキーで桟橋に入り船へ。電源コードを桟橋に置き桟橋から離れ、GS桟橋に移動し20L現金給油。軽油20L・2900円。
東出入口からハーバーを出て、尼崎西宮港外を目指します。沖では母校KGが練習をしていました。風がなく鏡のような海面です。セイリングで楽しめないので、神戸港にでも行きましょう。メインセイルを部員に指示し上げていたので、エンジンストップしても走れるようになりました。12人乗りクルーザーで学生が乗ってるディンギーもセイルが大きなだけでシステムは同じです。僕のドライブは、YHを出た所で学生に交代しました。オートパイロットシステムを説明・実行し、勝手にステアリングが動いてコンパス角度を保つのが珍しいようで、楽しそう。神戸沖の埋立地を過ぎ、神戸港の方にバウを向けると、南からのブローが入ってきました。フルセイルでヒールし始め、学生が楽しそう。神戸空港島への橋をくぐり、神戸港に入ります。
カワサキワールド前にある「BE KOBE」前まで行き激写。メリケン波止場側に進み、スケートリンク前から帰路に着きます。川崎造船前に行くと、X翼潜水艦が係留されていました。「おやしお型」最新潜水艦のようです。定期点検なのでしょう。
帰路も、空港連絡橋の下を走り、尼崎西宮港内へ。神戸空港から発着する旅客機やヘリコプターを見て、他愛もない話に花が咲き、楽しい時間になりました。ハーバー前でセイルを降ろし、芦屋マリーナに入ります。関西?西日本一の係留料のハーバーなので、大きな船が並んでいます。和歌山沖まで走り、カジキなどを狙うフィッシングクルーザーが凄い。桟橋付き住宅が並び、マイボートに家から行けます。学生の脳に潜在意識として植え付け、将来僕を招待してもらおう。
桟橋に戻り、船を片付け、センターハウスへ。「レストラン・カフェFriandise」でお茶します。「珈琲430円×2+ケーキセット370円×2+キャラメル珈琲620円+コーラフロート650円+珈琲フロート650円+アールグレイ560円+紅茶セイロン430円=4961円」、僕はケーキセットにしました。ここでも、あ〜だこ〜だお喋り。
ハーバーP・9:16〜17:42・800円を出て帰路に着きます。全員、阪神西宮から帰るようなので全員降ろし、帰宅しました。


2020/1/26
朝、家内を車で送り、ツーリングに出ることにしました。目的地を東大阪の「石切さん」にしました。9:10、「里山VTR250」で出発。R171〜中央環状線〜近畿道沿い・r2を南下します。大阪モノレール沢良宣駅で左折し、r143〜r14〜r19で淀川を渡りました。R1をくぐり、R170を越え枝道に入り、9:48「成田山不動尊」。
関西で走ってる車についてる交通安全札の最多数は、ここ「成田山」です。成田山で新車の安全祈願をする方が多いです。僕は初めての訪問です。最初、車の安全祈願所を見に行きました。広い祈祷用Pがあり、その正面が祈祷所になっています。不動明王を崇拝する修験道行者のような出で立ちの祈祷者が、横の建物から出てきて、その方を脇に主祈祷師が祈祷所の前に並んだドライバーに向かってど安全祈願祈祷を始めました。大音量で流石に迫力があります。
横の建物に入ると、車の祈祷受付でした。申し込みカウンターお長く、担当者がすぐやってきて手助けしています。凄いな〜。生駒山系最北部のなだらかな麓の位置にあり、淀川河畔の平野が見下ろせます。
正面に回ると、山門前左右に高い竹数本を組んだ門松が立っていた。『成田山開運大門松(左:黒松・・男性を表す) 高さ13m・重さ13トン 向かって右の女性を表す赤松との2本の松は夫婦和合を、片側13本の竹は家族を表し、家庭円満を象徴しています。輝かしい新年をお迎えし皆様の開運をお祈りしております』
『成田山不動尊 交通安全のお不動産として人々に親しまれている成田山明王院は、新義真言宗智山派のお寺で、千葉県成田山新勝寺の大阪別院です。昭和9年(1934)に成田山の御分霊を勧請して建立されました。明王院の名称は、和歌山県の新義真言宗総本山根来寺大伝法院の塔頭明王院をここに移したところからそのように呼ばれています。
このお寺は、五大明王の中尊である不動明王(不動尊)を本尊としてお祀りし、商都大阪の表鬼門(北東)、仏都京都の裏鬼門(南西)にあたる位置に建立されています。現在では、交通安全はもとより、開運厄除・繁栄隆昌などの祈願道場としても広く知られています。
成田山不動尊は、昭和61年(1986)市制施行35周年を記念して市民の郷土愛を深めるために制定された「寝屋川八景」に指定されています』
「美容界・景仰之碑」が立っていた。『香里百年桜 明治43年、当地において京阪電気鉄道は、第1回の菊人形を開催した。「香里遊園地」を開園、同時にこの地を桜の名所にしたいとの思いを込めて、一帯に桜を植えると共に地名の「郡」を「香里」と代えて駅名にし開業しました。またこの地は、昭和9年に成田山大阪別院をお迎えした京阪電気鉄道ゆかりの地です。
このゆかりの地に開業百周年を記念して、成田山大阪別院との共同事業として桜百本を植樹し、先人の思いを再現し将来に伝えるものであります』
鮮やかに彩色された本堂にお参りし、寺務所を覗きます。御守などいろいろな授け物が並んでいました。裏に回ると、絵馬掛けがあり、「大黒天堂」「お稲荷さん」があり、「奥之院」への案内板がありました。そちらに石段で下っていくと、「北山門」がありました。「大峰大権現」が祀られていました。
奥之院というお堂が建っていると思いましたが、洞窟というかトンネルがあり、扉が開いていました。その前に寺務所があり、ろうそくなどの販売がされていました。「奥之院十二支守ご本尊(八体仏)」が中に祀られているようです。トンネルを覗くと不動明王が仕える大日如来が奥に、手前から左右に不動明王・阿弥陀如来、勢至菩薩・大日如来、文殊菩薩・普賢菩薩、千手観世音菩薩・虚空蔵菩薩が左右に並んでおられます。この寺院は信心深い方が多いようで、小銭を持ち、各仏様に祈っておられる方が数名おられました。ロウソクのみの明かりに照らされる仏様に何かを感じます。
その横に、お滝行する場がありました。滝の横に不動明王がおられました。本殿横に戻ると、「建勲の碑」がありました。建勲と言えば、織田信長を想像します。なぜに建勲?節分には、僕も毎朝楽しみに見ているNHK朝ドラ「スカーレット」の出演者、戸田恵梨香・大島優子・林遣都・松下洸平さんが来られるそうです。流石、参詣者の多い人気のお寺だけあります。
バイクに戻り、次へ。R170〜R163〜r20で「二月堂灯籠」。
『二月堂灯籠 ここ東高野街道沿いにあります2つの石灯籠の内、左側の大きな灯寵は、花崗岩で組み立てられ、高さ約3mを測ります。脚部の正面に「二月堂」と刻まれ、側面には今(1992年)から約150年前の「天保14年」(1843)の年号が刻まれています。
「二月堂」は、奈良東大寺二月堂を指すのでしょう。詳しいことはわかりませんが、古老の話によれば、当地には「柳谷・二月堂観音講」が百数十年前からあって、現在でも、3月のお水取りの頃には、東大寺二月堂に参詣するといいます。また、右側の石灯龍は「八幡宮」と刻まれ、江戸時代中期の明和3年(1766)の年号が刻まれています。これは、国守神社が八幡宮と呼ばれていた頃に氏子の人々によって寄進されたものです』
枝道に逸れ「国守神社」。無名の神社ですが、名前に惹かれ、何かあるんじゃないかと参りました。r20に戻り、JR学研都市線「忍ヶ丘」駅横を通り、R163側道を少し走り「龍尾(りゅうび)寺」。
『権現川沿い、御机神社と相対する懸崖上にたつ龍尾寺は、行基開山と伝えられる古寺院で、龍尾と称するものがあって寺宝とされています。1m余の渦状で、末尾に剣に似たものがあります。寺伝によれば、「天平年間、旱魃あって里民大いに苦しむ。行基これを憐みて山間に立ち、読経す。一天陰鬱して雲起こり、大雨浦然となる。為に里民愁眉を開き、翌日野に出れば、龍尾の落ちて竹藪に懸れるあり、依って行基これを収めて一庵を創建したりと。」とあります』
禅宗(曹洞宗)の寺院でした。左右に曲がりながら石段を上がっていくと、四條畷から茨木に向かって、目を左にすると大阪中心部のビル群も見えてきました。
『龍尾寺の伝説 奈良時代の有名なお坊さまに行基という方がいらっしゃいます。全国を巡って稲作のための溜池をつくったことで知られる高僧です。ある夏のこと、当地では日照りが続き、村をあげて雨乞いしても一塊の雲も呼ぶことが出来ませんでした。そこへ通りかかった行基は、村人を助けようと立ち上がり、「雨降らせたまえ」とお経を唱えながら一心不乱に龍王に祈りました。そうしたらあら不思議、一天にわかにかき曇り、たちまち大粒の雨が大地に降り注ぎ始めたのです。
恵みの雨が上がって山の彼方を見晴らした里人は、頭と胴と尾の3つにちぎれて木に引っかかっている龍を見出したのでした。龍は我が身を裂いてまで民衆の苦しみを救ったのでしょうか。人々は頭の落ちた所に龍光寺(りゅうこうじ)、胴体の所に龍間寺(たつまでら)、尾の所に龍尾寺を建て、龍王の霊を弔いました。大東市の龍間にある龍光寺と龍間寺、当市の権現寺・室池への入口、標高70mの所にある起雲山龍尾寺は、こんな謂れを持つ古い古いお寺です』
『元禄2年(1689)に当地を旅行した貝原益軒は、「飯盛の東北、龍鼻山に観音有。里民はなはだ尊信す」と記し、龍尾寺住職慶道は寛文3年(1663)8月22日付記録で「観音山の旧地は人煙遠く距るにより、現在地に移し、禅宗に転じた」と書きしるす。
御机神社と相対する懸崖上に建つ龍尾寺は、桜・紅葉の名所としても著名。縁起書の語る観音山旧地は、現在地より更に500m程山系へと踏み分けた地を指すが、人煙遠く距るにょり、江戸初期に現在地へ転じたもの。
京都相楽郡加茂町の古刹、真言宗海住山寺の大般若波羅蜜多経600巻のうち、奥書を記す経巻の大半は、当地龍尾寺の経典を、寛治5・6・7年(1090年代)に筆写したものである。「河内国讃良郡滝尾供養了。滝尾山持経。滝尾寺の本。書写願主滝尾寺範誉」等と記してあることから見ると、平安末期には「滝尾寺」を称し、大般若経600巻を持つ寺院として、寺運隆々たるものがあったものであろう。奈良期の寺院は人里の中に建てられるが、平安期ともなれば、修行道場として山岳寺院へ移行する。このことから、平安初期に遡る古寺院であることは確である。滝尾寺の滝が、本字の瀧↓龍となって、龍尾寺を称するに至ったものであろう。
瀧尾寺がら龍尾寺へ転じた時に、龍王感応伝説が生まれる。1200年前の天平の昔、旱魃あって里人大いに苦しむ。行基菩薩これを憐れんで山間に立ち、法華経を唱すれば大雨はい然たり。龍王は身を裂いて里民の窮状を救ったものであろう。身は三分されて天空より落下した。住民深く感謝し、頭の所に龍光寺、胴体の所に龍間寺、尾の所に龍尾寺を建てて、その霊を弔った。前二者は大東市龍間に、後者が当市の龍尾寺となって、法灯を現在に伝える。京都の古刹・真言宗海住山寺と密接な関係にあることより見て、高野山金剛峯寺に倣い、人煙遠く距った観音山に真言宗として建立され、滝尾寺と称し、鎌倉時代に起雲山龍尾寺へ名称は定着、江戸初期に現在地へ転じた時、禅宗の曹洞宗へ改まった』
『高原の陸地に蓮華を生ぜず、卑湿(ひしつ)の於泥(おてい)に蓮華を生ず。 −維摩経−』
『龍尾寺で雨乞いをする里の人 天平の世、旱魃あって里民大いに苦しむ。雨乞いすれば大雨が降り、龍は身を裂いて里人を救った。三分された尾の部分の霊を弔っている』
本堂に上がってみると、正面横壁に龍の絵が描かれていた。鐘楼があり、小さな木箱があったのでお賽銭し、ゴーンと鐘を撞いて手を合わせた。
沢が流れる谷にある道路に下り、バイクを通り過ぎて谷を挟んだ山に上がっていく「御机神社」に石段を上がって行きます。
『農作祈願 わが町に3つあり 式内社  920年に成る延喜式に載る古社が、南北2000mに岡山の津鉾(忍陵)神社・清滝の国中神社・南野の御机(みつくえ)神社と3つある。水稲耕作の先人たちが豊作を祈った』
『御机神社由緒 御祭神:素蓋鳴尊
当社は延喜式神名帳(905〜927年)に載る古社で起源は奈良朝時代に鎮座されていたものと推測される。永禄3年(1560)三好長慶が飯盛山に居城した頃には飯盛城鎮護の神として崇敬も厚かった。御机神社古案内文には「・・・古くは現在地の東方字宮地に有ったが文禄年間(1592〜1596年)に字城の堂山に移し更に元禄13年(1700)にこの地に移転したものである」と記されている。現在の社殿は明治14年に建てかえられたものである。
御神徳:学問・疫病除け・縁結び
末社:神明社・御祭神・天照皇大神 稲田社・御祭神・稲田姫命 水神社・御祭神・水波能売命 藤木社・御祭神・玉津辨財天』
本殿に上がると、壁に虎の絵馬や彫刻絵馬数枚が掲げられていた。彫刻絵馬は素晴らしく、一見の価値有りです。本殿横に神明社・稲田社が建っており、こちらの彫刻も立体的で見どころでした。覆屋と網で保存されたいたが、僕のような見学者には網が邪魔でした。絵馬と共通したものを感じるので、彫刻製作者や棟梁が誰だったのか気になります。
バイクに戻りました。沢筋を下って、R170に出て南下し、12:03「四條畷神社」。
『御祭神:楠木正行(まさつら)(小楠公)はじめ25柱
小楠公は、大阪府千早赤阪村に生まれた。南北朝時代、不利を覚悟で正統の天皇を守り、明治維新の思想的原動力ともなった楠木正成公(大楠公、神戸湊川神社に祭る)の嫡男である。
御鎮座:明治23年4月5日鎮座。旧別格官幣社(国家の忠臣を祭る特別の神社)
小楠公墓所:(参道を下り約1km突き当り)その名も高き四條畷の決戦は、天平3年1月5日(1348)当地において展開された。敵将高師直(こうもろなお)は6万の精兵を率い万全の構えで待ち構えた。正行公は死を決し、吉野の如意輪堂に行き一族143名の名を留め、鏃を以って板壁に「帰らじを、かねて思えば梓弓無き、数に入る名をぞ留むる」と辞世の句を記して出陣された。
多勢に無勢、遂に正行公は大東市字ハラキリで討死されたが、御遺体は現在地に移され小碑を建て、両脇に楠の若木を植えて墓とした。(成長して1株の如く合した楠は、大阪府指定天然記念物・樹齢約550年)
小楠公の首塚は、京都嵐山宝筐院にあり、(釈迦堂左隣)足利義詮は、正行公を尊敬し、遺言により墓は小楠公首塚の横に造られた。
桜井の別れ:大楠公は死を覚悟の兵庫出陣に当たり、桜井駅(大阪府島本町、当地の北15km)において、11才の正行公に「父の教えを守って正統の天皇に仕える様訓された。(子別れの碑は、この話に感激した英国公使パークスが最初に建てた)
赤十字精神:成人した小楠公は、度々敵を破る。瓜生野(うりゅうの)の戦で敗走する多数の敵兵が渡辺橋(現天満橋付近)から落ちて極寒の中溺れるのを助け上げ、傷の手当をし、衣食を与えて京都に返してやった。(ナイチンゲールに先立つ事500年)』
『有源招魂社由緒
飯盛山の東峰に霊妙な有源山があります。かつてその所に成人数学研修所があり、内外古今の先哲先人の御霊が合祀されて、研修諸生の崇敬の的であります。過般当四條畷神社境内に新しく神殿を奉献。平成19年4月7日有源招魂社と称して御鎮座になりました。
本社には、南朝の忠臣・楠正行公と母堂・久子刀自命が奉祀され、更には菅原道真公を奉祀する楠天神社があります。この度、有源山の諸分神があわせ奉祀されるに及び、文武の両道と知人雄の三徳が弥造した尊崇されますよう謹んで祈念いたす次第であります』
『四條畷神社由緒記
御祭神:贈従二位楠木正行卿・贈正四位楠木正時卿・贈従四位和田賢秀・外殉節将士24柱
鎮座地:大阪府四條畷市南野(飯盛山麓)
創立:明治天皇の思召により明治22年、別格官幣社に列格抑下され翌年鎮座
摂社:御妣(みおや)神社 正行公御母
楠正行公は楠正成公の嫡男であり、正成公の大楠公に対して小楠公と申し上げる。卿は延元元年(1336)湊川へ出陣をさせられる父君と櫻井の駅にて決別されたが、時に御年11才以来母君に孝養を尽くして臥薪嘗胆・読書錬武に励み、報恩の至情を捧げた正平2年(1347)12月後村上天皇に拝謁。国難に殉せん事を誓い、如意輪堂の扉に鏃をもって決死の和歌を遺された。
翌年正月、敵将高師直の軍勢、八幡に発し河内に至るや、正行卿一族は寡兵よくこれを迎え撃ち、獅子奮闘せられたが満身に創を受け、遂に殉節せられた。時に御年22才の青年であった。この正義に燃えたる小楠公の事績と吉野朝廷史の一齣は、四條畷に永く留められ、万古に変らぬ飯盛山は青少年の徳義昂揚を叫び老松は史蹟を語っている』
拝殿でいつものように手を合わせました。拝殿内を覗くと、昭和期・平成期の「弊饌料御下賜」の札が多数掲げられていました。「万国博覧会行幸啓 昭和45年7月13日」「全国植樹祭大阪府行幸 昭和61年5月10日」「世界陸上大阪大会行幸啓の節 平成19年8月25日」「なみはや国体行幸啓の節 平成9年10月25日」・・・天皇陛下・皇后陛下が大阪に行幸啓される度に弊饌が下賜されているのかもしれません。因みに、行幸は天皇陛下、行啓は皇后陛下、両陛下なら行幸啓になります。
隣に「御妣神社」がありました。
『西側のお社は、御妣(みおや)神社と言います。正行公の母上をお祀りし、正成公亡き後、御兄弟を南朝の忠臣として育て上げた女性で、賢母の誉れ高く、安産の神、子育ての神として、崇敬されております。御本社に引続き、お詣り下さい』
境内には、「桜井の別れ」で有名な楠親子の像がありました。
『桜井の別れ 楠木正成公、死を覚悟の兵庫出陣に当たり、桜井駅(三島郡島本町)において、11才の我が子正行公との別れに「父の死後は足利氏の天下になるだろうが、どこまでも正統の天皇を御守りせよ。それが父への孝行となるのだ」と諭し、天皇から賜った短刀を与え、身も心も我が子に伝えて出陣された』
絵馬掛けに多くの絵馬が下がっていました。地域の多くの方々が参っているのがわかります。
寺務所に寄り、勇ましく鮮やかな色彩の装束の武者絵馬を賜りました。入ってきた時見た時は可愛い巫女さんだったがおらず、神職装束の男性が相対してくださった。僕が他の絵馬ではなくこの柄のを選んだので、「この絵柄は戦前の絵本・講談社の絵本・楠正行からのものです」と教えてくれた。「戦前の絵本が復刻されているのですか?」と聞くと、新版はなくアマゾンで旧絵本を購入したそうです。「帰宅したら探してみます」と答えました。自分の勤めるお社の主祭神だから・・・とも言えるが、そこまでするということは、ご実家かもしれません。
バイクに戻り、R170に下り南下しました。12:46「大龍禅寺」。山門前に「不許葷酒入山門」、禅宗の黄檗宗らしい毎度おなじみの石柱です。
『当寺は住古瑞雲山厳松寺(ずいうんざんげんしょうじ)と称し、推古6年厩戸皇子が創建し、応仁の乱で一切が消失したのち江戸時代に再興され、延宝年中には東西48間・南北55間の地を賜り、天和元年(1681)に京都の臨済宗南禅寺派光雲寺の末寺、貞享3年(1686)大龍寺と改め、ついで黄檗宗万福寺末となったといわれています。
現伽藍は別伝和尚から寺を譲り受けた泰宗元雄禅師(たいしゅうげんゆうぜんじ)が天王寺屋林吉兵衛浄悦居士を大檀那として造営に着手し、大宝山法雲寺(美原町)開山の慧極道明禅師(えぎょくどうめいぜんじ)を請じて開堂しました。
棟札により仏殿は元禄13年(1700)、斎堂は同8年(1695)、総門は同13年の建立と知られます。現在境内には仏殿・斎堂・開山堂・総門があり、黄檗伽藍の主要堂字として仏殿と鼎立した禅堂は移築され、現在その位置に開山堂が建っています。また、禅堂跡の西側に鐘楼、仏殿の北側に開山堂の旧基壇や礎石の一部が確認でき、こうした旧伽藍の様子は「河内名所図会」によっても知られます。
黄葉様式の整った伽藍配置を残し、しかも建築には万福寺大工棟梁秋篠の関与が知られることから、仏殿・斎堂・総門・開山堂は市の文化財に指定されています』
「斎堂」に、大きな懸魚が下がっていた。バイクに戻り、R170に降らず、更に山を上り、住宅地を縫うように狭い道を南下します。ゴソゴソ走っている間にかなり高度を稼いだようで、山降りの視界の開けた道路に出たら眼下に都市の町並みが広がっていました。
R170に下り、13:12「ファミリーマートきしざわ新石切北店」。トイレを拝借し、「バナナ3本228円+フルーツミックス100円+かっぱえびせん108円=436円」を購入し、バナナを1本イートインしました。今回、バナナを購入の1/3、ミックスジュースを1/10ほど店内で飲みましたが、全て税額8%。10%払うとしたらバナナ1/3+ジュース1/10の2%を追加支払いするのかな?こんなことコンビニの店員さんが「すみません、あと2%下さい」なんて言えないよね。軽減税率は国民泣かせの税金です。
更にR170で南下し、第2阪奈道路側道を東に入り、13:27「石切劔箭神社」。バイクを置いて神門まで歩いていくと、その横にPがあった。四輪は側道まで長蛇の列が出来ていましたが、バイク自転車二輪は空き空きでした。
神門左右を「随神」が守護していました。絵馬殿にもなっていました。
『本社の御鎮座は、今から700年前、足利時代の末に兵火にかかり、社殿及び宝庫が灰と化したため明瞭ではありませんが、「延喜式神名帳」(約1080年前)の中にすでに記載されており、又「三代実録」という書物には貞観7年(約1140年前)9月に、本社の社格が正六位から従五位に昇格されたことが記されています。
また、天文5年(約460年前)に記述されたもので、木積氏の祖先藤原行春大人の「遺書伝来記」には、神武天皇紀元2年(約2660年前)宮山に「上之社」が建てられ、崇神天皇の御代に「下之社(本社)」に可美真手命が祀られたとあります。
本社の祭祀は代々木積家が司ってきましたが、「木積」という姓は本来「穂積」といい、饒速日尊の第7代目に当る伊香色雄命がこの穂積姓を始めて名のられ、それ以来物部氏の一統として一氏族をつくり、大和を中心として八方にその部族が増大していきました。その祖先である饒速日尊、可美真手命を御祭神と仰ぎ、ここ「石切」の地に御魂代を奉祀し、本社鎮座となったのであります。木積家は代々神職として朝夕、皇室の安泰・国家の興隆・崇敬者の無事繁栄を御祈祷し、御加護をお願いしてまいりました』
『五社明神社
祭神:恵比須大神・大国主大神・住吉神社・稲荷神社・八幡大神
例祭:5月2日
御五柱の神々を合わせて、お祈り申し上げているところから、「五社明神社」の社名を頂いております。商売繁盛はもとより、大漁成就・五穀豊穣・産業隆盛など様々なご商売を営まれる方々から篤い信仰を集めています。
神武社
祭神:神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと・神式天皇)
例祭:4月3日
神式天皇が蹴り上げた「石」を御霊代としてお祈りしています。この石は御東征のみぎり、高天原の神々に武運を祈り、蹴り上げたと伝わるものです。日本一運勢の強い開運の神であり、延命長寿の神として信仰されています』
拝殿でいつものように手を合わせました。寺務所を覗くと、大勢の方が並んで守護などを手に取られていました。絵馬掛け・御神籤結びも賑やかだったが、千羽鶴納所がありびっくりしました。広島原爆ドームのように何か謂れがあるのかな?
『乾明神社
祭神:應壅乾幸護(おうよういぬいさちもり)大明神
主神:伊嘉登気幸護彦(いかとけさちもりひこ) 妻:乎乃曽比真幸津女(をのそひまさちつめ) 子:にぎ波太太智雄(にぎはただちお) 子:万志に弟和加恵(ましにをとわかえ)
例祭:10月2日
江戸時代中期、この地の信望厚い庄屋で、飢饉と重税にあえぐ人々の代表となり、直訴したかどで極刑に処せられた方が、後に代官小堀家により、應壅乾幸護大明神として祀られました。生前、学問に優れ数々の難問を解決された為に、祀られて後もこの徳を慕い、御礼参りの方が絶えることはなかったようです。
天明7月12月に、時の神祇伯資延王に勧請が認められ、この地にお祀りされることとなりました。明治以降、学問の神として多くの崇敬を集めております』
『水神社
祭神:罔象女神(みつはのめのかみ)・天水分神(あめのみくまりのかみ)
例祭:7月2日
水を司る2柱の神をお祀りしております。豊かな稲穂を実らせた河内の農業にとって、雨は大切なものであり、祈雨祈晴を願う祈りが絶えることはありませんでした。天水分神は、「みくまり」が「みこもり(御子守)」に通じることから、安産・子育ての神としても信仰されるようになりました。現在においても、人が健康に過ごす為に欠かすことのできない水や、水の恵みへの感謝と信仰は変わることなく、多くの崇敬を集めております』
神社から、近鉄奈良線・石切駅に向かって緩やかな参道を登って行きます。両側にお店が並んでいます。お食事処・いちご大福など売ってるお店・・・一番多くあったのは占いのお店でした。お若い女性がいろんなお店に入っており、占い銀座なのにどこも流行っていました。
「石切不動明王」〜「日本で3番目・名所石切大仏」がお店の間にあります。
『恵日山・光堂・千手寺
真言宗の古刹千手寺は、河内平野を一望できる高台に位置し、修験道の開祖役行者が不思議な神光の導きによってこの地に一寺を建立し、その後焼失した堂宇を在原業平が中興したと伝えます。光堂と呼ばれる本堂を中心に、中世には修験道の霊場として、また西方に夕陽を望み極楽に往生を願う迎接堂(光堂)として信仰を集めました。
寺の本尊は、大阪府の文化財に指定されている木造千手観音立像です。カヤ材寄木造う、像高190cmの大きな仏像であり、平成3年に行われた修理により、胎内に「正平12年丁酉9月6日、南都大仏師・法眼康成(ほうげんこうせい)・子息康乗(しそくこうじょう)・舎弟円賢(しゃていえんけん)」の墨書、頭部内面にも「故法眼康俊(ほうげんこうしゅん)・興福寺法眼康成・南都大佛師・子康乗・同円賢 延文2年11月18日」などの墨書が発見され、運慶・快慶ら慶派の流れをくむ終末期の作品であることが判明しました。また造立年には、同じ年である南朝の元号「正平12年」と北朝の元号「延文2年」(ともに1357年)とが併用されており、南北朝時代の微妙な政治情勢を表わしています。
このほか寺には、生駒宝山寺の湛海律師作になる江戸時代の木造不動明王像2体(ともに大阪府指定文化財)や青不動と両脇士を描いた江戸時代の絹本著色不動明王画像、鎌倉〜室町時代の密教法具(いずれも東大阪市指定文化財)などの多くの文化財が保存されています』
近鉄・石切駅まで上がって来ました。『右:大聖歓喜天鷲尾山興法寺・十丁、左大非観世音光堂千手寺1丁』の標柱が立っていた。高架をくぐり山の方向10丁=約1000mの山登りは遠いなと引き返すことにしました。
14:35バイクに戻り、帰路に着きます。阪神高速・東大阪線「水走IC」から高速道路に乗り、東大阪JCTで近畿道に乗り換え、「吹田IC」で下車し、中央環状線〜R171で、15:13帰宅。


2020/1/19
センター試験2日目です。僕の次世代(息子2人・姪3人・甥2人)の最後・弟の長女の受験日です。第一志望校に合格できるよう「北野天満宮」にお願いに行きましょう。母方の先祖は室町時代まで遡れます。「美作菅家党」の城持ちで、菅原三穂太郎満佐の末です。我が家の庭に三穂太郎を祀った三穂神社を勧請しました。菅原道真公の末が美作国守護に任命され美作国に下り、武装化したのが美作菅家党です。小さな頃から、母に連れられ天満宮に参る度に、「あなたの先祖は・・・」と言われ続けられました。
我が家の氏宮は近所の菅原道真公を祀る天満宮で、息子たちの初宮参り・七五三など皆天満宮でご祈祷頂きました。孫5人のうち4人、来月5人目も初宮参りでお世話になります。僕も子供たちに母から聞いたことを話していたので、東京やアメリカから、初宮参りだけのためにやってきます。そんなこんなで、姪の大学受験と孫たちの今後の学業成就のお願いに行くことにしました。
倉庫から、「招き猫CB400SB」を出し8:34出発。R171〜中央環状線。8:45「中環豊中SSエネジェット」で給油しました。138km/6.63L=20.8km/L。「吹田IC」から名神高速に乗り、「桂PA」でトイレ休憩し、「京都南IC」で下車。
R1で北上し、「東寺」のとこで右折し「八条通」共用を走り、左折してR1をさらに北上し「堀川通」、右折して「四条通」を東進しました。1年前の正月、四条を歩いた時気に入った「芸者人形」を買うために来ました。1年間、京都には何度も来ましたが、微妙に間が合わず、何度目かのチャレンジです。
鴨川を渡り、「ここら辺だったな〜」と思い出しながら左側をゆっくり走りましたが見つけられませんでした。商店街の多くのお店のシャッターが閉まっていたので、10時開店のお店が多いようです。
仕方なく、突き当りの「八坂神社」で左折し「東大路通」。京大の横まで来て、家内に言われていた「京大・頭脳パン買ってきて」を思い出し、体育館にバイクを停めました。生協さんは土日祝日閉店なので、また残念でした。
「百万遍」交差点で左折し、「今出川通」を西進し、北野天満宮に向かいます。ナビに登録していたポイントが目に入ってきたので寄り道します。鴨川を渡る手前で右折し「川端通」に入り、バイクの向きを南に変えて10:11「常林寺」。幕末、勝海舟が定宿としていた寺院です。
『光明山摂取院常林寺と号する浄土宗の寺院である。天正元年(1573)、念仏専修僧、魯道(ろどう)によって開創され、当時は、寺町荒神口(上京区)に建てられていた。創建時より、知恩院とゆかりが深く、本末制度が確立したときには、総本山知恩院の役番としての地位を占めていた。しかし、寛文11年(1671)には、寺町の大火により類焼し、堂宇を悉く焼失した。その後、現在の地に移転し、元禄11年(1698)、英誉(えいよ)上人によって本堂が再建された。幕末の頃当寺は、勝海舟が京の常宿として利用し、勝海舟を訪ね来寺した中岡慎太郎と坂本龍馬は本堂に宿泊したとされる。
本堂には本尊の阿弥陀三尊像や岸竹堂作の釈迦三尊画が安置され、地蔵堂には若狭街道を往来する人々の信仰を集めた世継子育(よつぎこそだて)地蔵尊が祀られている。
また、当寺は、通称、「萩(はぎ)の寺」の名で人々に親しまれており、初秋には、紅白の萩の花が、境内一面に咲き乱れる』
京都舞台の映画やドラマで、ロケの定番スポット「鴨川の飛び石」を見て、「竹谷山正定院」を見学しバイクに戻り、「丸太町通」で「鴨川」を西に渡り、右折して「河原町通」で少し北上し、「賀茂川」右岸沿いを北上し、「光明寺」。そしてお隣の「阿弥陀寺」。浄土宗の寺院で、山門前に「織田信長公本廟」と刻まれた石柱が立っています。
『蓮台山と号する浄土宗の寺院で、本尊は丈六の阿弥陀如来である。当寺は天文年間(1532〜1554)清玉上人の開創になり、当初は西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に八町四方の境内と塔頭11ヶ寺を構えていた。また当時、正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに、当寺を勅願所とされた。
清玉上人は織田家と深い親交があり、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の折、本能寺等に駆けつけ、織田信長・信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を当寺に埋葬したと言われる。
本堂には、織田信長・信忠父子の木像などが安置され、墓地には信長・信忠の本能寺の変討死衆の墓、儒者皆川淇園(みながわきえん)、俳人蝶夢の墓などがある。京都48願寺巡拝の16番札所でもある当寺は、天正15年(1587)蓮台野からこの地に移された』
『信長をはじめ、正親町(おおぎまち)天皇や多くの武将らが帰依しました。信長らの尽力により、今出川大宮付近に13の塔頭を擁する大伽藍が建設されましたが、後に豊臣秀吉の命令により現在地に移転しました。
阿弥陀寺開山の清玉上人は、織田家と深い縁を持ち、信長とは別懇の間柄だったそうです。寺伝によると、本能寺の変が起こった時に清玉上人は僧徒を引き連れ駆け付けましたが、信長は既に亡くなっていたため、その場で火葬し遺骨を法衣に包んで持ち帰ったとされています。後に現在地に移転する際に信長をはじめとする120余名の墓も移したと伝わり、大正6年に行われた宮内庁の調査で織田信長の廟所であると認められました』
「織田信長公本廟所」の案内板に従って本堂の裏に回ると、周囲が家々に囲まれた京都市街地なのに、びっくりするほど大きな墓地が広がっていました。ですが木々が全く無いし、周囲の道から全く見えないので、まさか墓地があるとは一見さんではわからないでしょう。
本能寺の変の時二条城で抵抗・自刃した嫡男・織田信忠の墓石と並んで信長の墓石があった。たくさん並んだご塔婆には、変の時に信長を守り共に命を落とした武将の名が見える。墓石の横には、森蘭丸・坊丸・力丸の墓石が並んでいた。「おお〜、こんな所に森可成の子たちが・・・」。
森可成は、信長の最も古い配下武将で、最も信頼されていた。信長が石山本願寺攻めしながら、毛利・浅井朝倉・室町将軍家・武田などに包囲されていた危機の時、浅井朝倉軍が琵琶湖湖西を急遽南下し挟み撃ちになりそうだった。その時湖西・宇佐山城から出陣し、寡勢ながら奮戦し、信長が逃げる時間を稼いだ。武運届かず討ち死にした。嫡男・可隆は朝倉攻めで、三男蘭丸・四男坊丸・五男力丸は信長の小姓として本能寺の変で、そして次男長可はその後秀吉方として家康と戦った「小牧・長久手の戦い」で討ち死にした。そんな親信長の武将一家でした。父から名付けられた僕の名が、森家の父親の名に因んだもので、僕も次男に森家の家督を継ぎ、徳川時代美作の封建領主となった忠政に因んだ名を授けた。そんな我家に取って因縁のある森家の男子が3人も眠っていました。信長の墓はいくつか見たが、「ここが本物だな」と直感した。
細長い大きな墓地だったが、端まで行けなかった。隣の寺院のお墓でした。バイクに戻ります。ここは「寺町通」で、四条まで続いています。秀吉が京都市街地を囲む築地を整備した時に、この道沿いに多くの寺院を強制的に移動させた。
隣の「十念寺」へ。『華宮山宝樹院と号し、浄土宗西山光明寺派に属する寺である。永享3年(1431)に後亀山天皇の皇子真阿(しんな)上人が、室町幕府将軍足利義教の帰依を受け、元誓願寺通小川にあった誓願寺無いに一坊を建てたのが始まりで、天正19年(1591)に豊臣秀吉によってこの地に移された。
本堂は、建築家としても知られる一心寺(大阪市)の住職の設計により、平成5年(1993)に建立された近代的な寺院建築で、東山の旧雲居寺(うんきょじ)にあった平安時代のものといわれる阿弥陀如来坐像が安置されている。
寺宝として、室町時代の説話絵である仏鬼軍絵巻1巻(重要文化財)などを所蔵している。
寺内には、足利義教をはじめ、後陽成天皇の皇子・高雲院宮、医者として活躍した曲直瀬道三、施薬院全宗、鋳造師・金座銀座両家、徳大寺公城等の墓がある』
医師・曲直瀬道三の墓もあるとのことだったが、見つからず残念。平成の新築寺院は、コンクリート打ちっぱなし&屋根瓦で、かなり目立つ建物でした。ここの墓地は広くなく、まだ南に墓地が広がっています。
バイクに戻り、隣の「仏陀寺」へ。
『大蔵院仏陀寺と号し、朱雀・村上天皇を開基とする勅願所の古刹で、西山浄土宗に属す。
平安朝の昔、朱雀天皇が天慶9年(946)ご譲位の後、醍醐天皇の菩提のために日蔵道賢上人を戒師として落飾し、法名を仏陀寺と号し朱雀大路の仙洞に遷られ天暦6年(952)崩御された。よって村上天皇はその仙洞朱雀院を改めて寺とし、先帝の遺志を継いで別殿大蔵院を建立し、また法号に因んで仏陀寺と称せられたのが当寺の興りで、村上天皇も晩年日蔵上人について落飾し、覚貞法皇となられた。中世室町時代、堂塔は萬里小路春日の北(今の御所御苑東南)にあったが、文正2年(1467)応仁の乱で焼失したため、暁堂邦錬上人が後土御門天皇の帰依をうけ文明8年(1476)土御門西洞院(今の上長者町西洞院)の地に中興して以来、勅願所となり新たに浄土門西山西谷流を伝える寺となった。
法錬は、当代浄土門を代表する法器で、動乱相次ぐ京洛を中心に畿内各地を隈なく巡り、盛んに法輪を諭じ、庶民の帰依を一身に集めたが、その獅子吼の説法は雲上にも轟き内裏に居並ぶ殿上人を随喜感動せしめたほどで、西三条実隆公記には「法味神妙篤く可し」と、また「弁説火を吐き感涙を催す」と記されている。
一条烏丸の地より現在の地に移ったのは天正19年、秀吉の御土居築造の頃で、当寺の建造物は万治4年(1661)と天明8年(1788)との再度の大火に類焼したため、現在の堂宇は総てその後の造営である。
山門脇には朱雀天皇の守護仏であり平安京の守護仏である王城地祭地蔵を安置している。
本堂の本尊阿弥陀如来座像(重文)は温和で端正な尊像で、衣文の写実なところから平安時代の造顕といわれ、寄木造金箔押、高さは約90cmで、中品中生の説法印を結ぶ』
門前に、「王城地祭地蔵尊」のお宮が祀られていた。本殿裏の墓地に入ると、こちらは大きくはなく、更に南に墓地エリアが広がっている。
更に隣の「本満寺」へ。境内に入ると、こちらはかなり大きく、枝垂れ桜が見事だった。本殿横を通ると、境内正面があった。僕が入って来たのは搦手門だった。墓地に入ってみます。「寺町通」に並ぶ4つの寺院の裏に広がっていた墓地エリアの南の端でした。
墓地門を入ってすぐ、六地蔵が並んでいた。『六地蔵由来碑 地蔵が六道を輪廻転生する衆生を救済するということから、6つの分身を考えて六地蔵として信仰するものです。
六地蔵尊:地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道
六地蔵菩薩の御利益:釈尊の滅後、末法濁悪の世に於いて、衆生を済度せよとの大任を釈尊から受け継がれた仏様である。今現に六道能化の仏として大いに化益し給う。延命地蔵経には、地蔵菩薩を拝するものは十種の福を得る。
女人安産・身根具足・諸病悉除・寿命長遠・聡明智慧・財宝豊・衆人の愛敬・五穀豊穣・神明の加護・大菩薩を悟る
これ皆地蔵菩薩の恩徳である』
『日蓮宗本山。応永17年(1410)近衛関白道嗣の嫡子、玉洞妙院日秀が今出川新町に朝廷より敷地三万坪を与えられて創建。広宣流布山、本願満足寺と号す。天文5年(1536)の天文法華の乱後、12世日重の代、天文8年(1539)関白近衛尚道の外護により現在の地に移り、後奈良天皇の勅願所となる。宝暦元年(175)35世日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈り、以来、将軍家の祈願所ともなった。本尊は十界大曼陀羅。又、尚道奉安の祖師像は、芹生村山麓より発見されたものでその山中より法華経読誦の声が上がったという有名な説がある。境内墓地には山中鹿之介の墓、本堂脇には徳川家康二男秀康の正室、蓮乗院の石廟がある。伝太子筆紺紙・金泥一字宝塔法華経並普賢経は重要文化財。宗祖日蓮大聖人真蹟十界大曼荼羅御本尊ニ幅、狩野元信筆の祖師像はじめ寺宝多数。尚、重要文化財は京都博物館・預け』
山中鹿之助の墓があった。鹿之助は、美作上月城で籠城し、尼子家再興のため毛利家と戦って捉えられ、備中高松城連行中に斬首されたので、ここが本廟ではないでしょう。
『境内整備計画・墓地調査7年の期間を完了しました。立教開宗750年慶讃事業として当山全墓地の整備に着手します。依ってこの墓地・墓石は合祀します。当墓地・墓石に関するお問い合わせは早急に本山寺務所へお申出ください』
の札が下がった墓石がいくつもありました。7年間も連絡がないということは、無縁仏になっているのでしょう。750年の歴史のある寺院なんだから、過去何度墓地整備・無縁仏整理したのだろう。
バイクに乗り、「出町座商店街」を横切り、「今出川通」に出て西進し、右折して枝道に入り、11:46「出雲路幸神社」へ。
『主祭神:猿田彦大神 相殿神:天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・天照大神・瓊瓊杵尊・少彦名神・可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)・大國主命・事代主命・天鈿女命
日本最古の縁結びの神として知られる当社の祭祀は、遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年(661)に御再興され、平安京創建時(794)桓武天皇により、皇都の東北の鬼門除け守護神として御造営されました。平安京造営時には社名を「出雲路道祖神」と云い、江戸時代の初め現在の地に御遷座された際「幸神社」と改められました。
主祭神に祀られる猿田彦大神は、当社に伝わる道祖神信仰と習合せられ、これより霊験あらたかな縁結びの神として崇められています。そして、相殿神に祀られる天細女命は、神代随一の踊り手で芸能の始祖として知られ、また歌舞伎の創始者である出雲の阿国(おくに)が当社の稚児、巫女として仕えた故実により、芸能上達を願う人々の崇敬を集めています。
本殿東側の壁に祀る三番叟(さんばそう、御弊を担ぐ猿の神像)は、御所内裏の東北隅の猿ヶ辻に祀られる猿の神像と共に皇都を護っています。表鬼門で東北の空を雲上にて眺望し、疫神・悪鬼・邪気等の侵入を防ぐ姿を表しています。
御神徳:縁結び・芸能上達・鬼門除け・旅行安全』
バイクに戻り、枝道を西進したら正面に「同志社女子中高」、左折したら正面に「同志社幼稚園」があり、「今出川通」が見えてきた民家が立ち並んだ枝道に、「湯川秀樹一家寓居跡」と彫られた石柱が立っていた。そのもう一面には「此付近・西郷隆盛邸跡」と彫られていた。バイクを止め、何処かな?と周囲を探すも石柱以外にそれらしき建物はなかった。P利用空き地に湯川先生が住まわれていたのかもしれない。更にもう一面には、「従是西北・相国寺七重塔跡」と彫られている。
『当地(上京区下塔之段町)付近は古く「愛宕郡出雲郷(おたぎごおりいずもごう)と呼ばれていた。平安京の北郊にあたるため、遷都当初からの市街地ではなかった。
しかし建久6年(1195)、平親範(たいらのちかのり)によって付近に毘沙門堂が建立され(「毘沙門町」が遺称)、鎌倉時代初期には開発が始まっている(「平親範置文」。毘沙門堂は寛文元年(1661)に洛東山科安詳寺(あんしょうじ)下寺旧跡地(現山科区安朱稲荷山町)に移転)。
室町時代前期、足利義満によって相国寺が創建されると、応永6年(1399)、境外である当地付近に七重塔が建立された(「薩戒記(さっかいき)」)。塔の高さは360尺(約109m)と言われ、これが事実なら日本建築史上、最も高い木造の塔である。応永10年、落雷によって焼失し(「兼宣公記」)、そののちは当地に再建されず、長く基壇が残されていた。下塔之段町の地名は北側の上塔之段町とともにその名残りである。
徳川時代に入ると大名屋敷が設置される。備中松山候池田長常邸(「寛永14年(1637)洛中絵図」)や、讃岐高松候松平頼常(水戸光圀の長男)邸(「元禄4年(1691)京大絵図」)などである。
徳川末期、薩摩島津家臣の西郷隆盛が、二本松薩摩屋敷そばの「塔之段」に2階建ての邸宅を営んだ(「元帥公爵大山巌伝」)。ここで西郷は従道(つぐみち)ら3人の弟、2人の甥、大山巌ほか6名の食客、学僕(がくぼう)の徳之島仲祐(なかゆう)と同居していた(「大西郷兄弟」)。慶応2年(1866)1月初旬、「薩長同盟」のため上洛した長州毛利家臣木戸孝允一行はまず当邸に入り、その後鞍馬口通室町の御花畑屋敷(小松帯刀寓居)に移った(「品川弥二郎述懐談」、「公爵山県有朋伝」)。当邸は慶応3年12月の王政復古クーデターの頃にも使用していた(「品川子爵伝」)。
当該碑の所在する円覚寺(真宗大谷派)は、豊臣・徳川移行期の慶長年間(1596〜1615)に、僧順西によって創建された(「京都坊目誌」)。明治41年(1908)5月、京都帝国大学文科大学地理学教室に、初代教授として着任したばかりの小川琢治とその家族が住まいました。三男で、のちのノーベル物理学賞受賞者湯川秀樹は、当時数え2歳であった。長兄でのちの冶金学者小川芳樹、次兄の同じく東洋史学者貝塚茂樹らとともに1年ほど滞在した(「旅人-湯川秀樹自伝」)』
「今出川通」に出て、同志社大学と京都御所の間を西進し、左折して「堀川通」を南進し12:06「安倍晴明神社」。
『晴明神社は、平安時代中期の天文学者である安倍晴明公をお祀する神社です。創建は、寛弘4(1007)年。晴明公の偉業を讃えた一条天皇の命により、そのみたまを鎮めるために、晴明公の屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられました。古い資料によれば、創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通という広大なものであったとされています。ところが、応仁の乱の後、豊臣秀吉による都の造営や度重なる戦火によって、その規模は縮小。古書、宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続きました。
その後、式年祭の度に、氏子が中心となって整備・改修が行われ、昭和25(1950)年には、多年の宿望であった堀川通に面する境内地が拡張されるなど、晴明公の御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の真心によって復興が進められました。
近年は、文芸、漫画、映画などを通じて晴明公の存在は広く知られ、全国にその崇敬者を集めるようになりました。平成15(2003)年には、御鎮座壱千年祭が斎行されました。
晴明神社由緒 御祭神:安倍晴明御霊神
安倍晴明公(920-1005)は、孝元帝(こうげんてい)の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の御後胤で、幼児より御聰明で陰陽の道を極められて長じて、陰陽寮天文博士として朱雀村上冷泉円融花山一条の6代の天皇に仕え、幾多の御功績をたてられた。朝廷の祭政、生活の規範を陰陽の理を以て定められ今日の我々の年中行事、占法等々に多くの影響を与えられている。
一条帝の御代、寛弘2年(1005)9月 26日、御年85にてお亡くなりになると、帝の御鎮霊の勅旨をもって晴明公邸跡に寛弘4年(1007)に神社として祀られ現在に至る。
御神徳:晴明公は稲荷神の御分霊との信仰もあり、魔除・厄除・病気平癒・火除・方除の崇敬を集めている。
晴明桔梗印:当神社御神紋は、桔梗印もしくは五芒星と呼ばれ、晴明公の創められた祈祷呪符の一で魔除の印である天地五行(木・火・土・金・水)を象とり西洋諸国でも用いられる』
五芒星・ソロモン王に代表されるユダヤを示すマークが鳥居に扁額のように飾られている特徴ある神社です。天文学博士らしい家紋?です。境内に入ると、「一条戻橋」が移築されていた。『旧一条戻橋 この欄干親柱は、実際に使用されていたものです。御祭神安倍晴明公ともゆかり深い橋ゆえ、境内に復元しました。現在の戻橋は、神社から南へ100mの処に架かっています』
五芒星紋のある井戸があった。『清明井 御祭神晴明公邸に古より湧き出ていた洛中名水の一で、諸病平癒の信仰が篤い流水口が、本年の恵方を向いており吉祥水が得られる。なお此処は茶道三千家の祖、千利休終焉の地で、太閤秀吉に振舞ったり、最期に自服した茶もこの聖水で点てたものであろう』
厄除桃が置いてあった。『厄除桃 古事記・日本書紀・桃太郎伝説にあるように、古来陰陽道では桃は魔除厄除の果物とされています。厄年の方に限らず、自身の厄をこの桃に撫で付けてください。なお、桃の実をあしらった厄除守をお分けしております』
拝殿に参り、いつものお願いをします。
『御祭神・安倍晴明公の伝説の一部を神前に掲げて顕彰します。
安倍晴明公は、実在の人物であるが、化生の者であるという伝説がある。晴明公の母親は、和泉国信太の森の狐である。母は、晴明公が幼い頃、狐の姿を見られたために、和歌を遺して、行方をくらましてしまう。後、晴明公は、信太の森を訪れて母と再会する。
晴明公の好敵手として知られているのが蘆屋道満である。晴明公と道満は、何れの法力が優れているかを競い合った。夏蜜柑16個を長持の中に入れて蓋をして、中を言いあてるというものである。道満が夏蜜柑であるというと、晴明公は、鼠が16匹という。皆が晴明公負れたりと思い中をあけると、術の力で、中は鼠にかえられていた。
藤原道長が物忌みめ時、観修僧正、晴明公、医者の丹波忠明、武士の源義家の4人がお仕えしていた。奈良から早瓜が献上されたが、晴明公が占なったところ、その中の1個に毒があるという。観修が祈祷をすると、瓜はゆらゆら動いた。忠明は毒を抜くようにいわれたので2ヶ所に針を刺し、義家が刀で割ると小蛇がとぐろを巻き針は蛇の目に命中していた。
藤原道長が法成寺を建立したのち、御堂へ参る時、いつも白い犬を連れていた。ある日いつものように、門に入ろうとしている時、この犬がたちふさがるように吠える。車から降りて入ろうとすると、御衣の裾をくわえて引き留める。晴明公が呼ばれ占うと、道に呪いのものが埋めてあるという。掘ってみると素焼きの土器を2つに合わせ十文字にからげてある。調べると道満の仕業だった。
花山院は、冷泉院の第一皇子として天皇の位につかれ、小野の宮の娘を女御とされた。入内なさって弘徽殿にお住みになったので、弘徽殿の女御と申しあげた。しかしほどなく女御がなくなり、帝は悲しまれた。花山院は在位わずか2年で出家された。出家された夜、晴明公の屋敷の前を通られると、晴明公は、帝座の星に兆しを見、帝が譲位なさると声をあげたという。
晴明公が、広沢の僧正の御坊に参って話している間に、他の貴族が「式神をお使いになるなら、人を殺せますか」という。「生かす方法を知らぬのでたやすく殺せぬ」と晴明公がいうと、「蛙を殺してみよ」という。草の葉を投げると、蛙はまったいらにひしゃげた。
花山帝が頭痛で苦しんでおられた。いかなる治療をほどこしても治らない。そこで、晴明公の登場である。帝の前世は尊い行者であるが、前世の髑髏が大峰で、岩と岩との間にはさまっているために、頭痛がするという。髑髏を取り出したら、治るというので、その通りにしたところ、頭痛が治られたという。
晴明公の屋敷に、老僧が10歳ぐらいの童2人を連れてやって来た。晴明公の陰陽道について習いたいという。この男、童と見せかけて、式神を使っていた。晴明公は、呪を用いて、式神を隠すと「どうして人の供を隠すのか」と問うと、「私を試そうとしたからだ」と、晴明公に諭される。しばらくして童2人現れ、「式神など隠せるとは」と、老僧は弟子入りを乞うた。
三井寺の智興が病で死にかけた。そこで、晴明公が、「誰か身代わりになるものはないか」とたずねると、弟子の証空が自分の命を差し出すという。晴明公は、泰山府君の法を修した。すると、智興に生気が戻り、証空が苦しみだしたが、日ごろ信心していた不動明王に助けられて、2人とも命を取り留めた。
渡辺綱は一条戻橋の上で美女に声をかけられる。女は送ってくれというが、途中で鬼女に姿をかえ、綱の髪をとって空をとぶ。綱は腕を切り落とすと鬼は愛宕山に去る。綱は晴明公を呼んで相談した。物忌みをすすめられた綱は、鬼の腕に封印する。その後鬼は綱の母の姿で腕をとり戻しにくるが、綱は仁王経によって救われる。
桔梗苑 顕彰板 晴明神社御鎮座壱千年記念奉納 剱鉾会』
平安時代の天才に肖ろうと、五芒星絵馬1000円と陰陽師五芒星ステッカー150円を授かってきた。
「堀川通」を北上し、左折して「今出川通」を西進し、右折して「智恵光院通」に入ります。以前から訪問したいと思っていた「首途(かどで)八幡宮」。
『祭神:応神天皇・比売大神・神功皇后
9月14日:宵宮祭 15日:例祭
由緒:王朝華やかなり頃、桃園親王の旧跡として知られ境内地も広く、池あり築山あり桃の木多く花爛漫と咲き。、稚児舞の奉納などあり、その情景は絵巻物の感あり、諸人の崇敬厚く神験も広く、及び古来神威盛んな神社として神徳を讃えられている。
高倉天皇承安4年(1174)3月3日、源九郎義経が征途の首途にあたり鞍馬山から当社に参拝し、旅の安全と武勇の上達を願い、宇佐八幡宮の神霊を勧請鎮められたのを創始として首途八幡宮と称する』
『宇佐神宮(大分県宇佐市にある八幡宮の総本宮)から八幡大神を勧請したのが始まりと伝えられ、誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)・比売大神・息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)を祭神とする。
もとの名を「内野八幡宮」といい、平安京の大内裏(皇居や官庁があった場所)の北東に位置したため、王城鎮護の神とされた。
かつて、この地には奥州(東北地方)で産出される金を京で商うことを生業としていた金売吉次の屋敷があったと伝えられ、源義経(牛若丸)は奥州平泉に赴く際に、吉次の助けを得で、ここで道中の安全を祈願して出発したといわれている。「首途」とは「出発」を意味し、この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。このことから、特に旅立ち、旅行安全の神として信仰を集めている』
『源義経(牛若丸)奥州へ旅立ちの地 旅行安全・交通安全・厄除の首途八幡宮もとの名を「内野八幡宮」と呼び、宇佐八幡宮より御神霊を勧請し祀られた社である。今から約830年前、高倉天皇承安4年(1174)3月3日未明に、源九郎義経は、牛若丸時代、金売吉次の屋敷であったこの地で、鞍馬山を抜け出して吉次と落ち合い、屋敷近くにあった「内野八幡宮」に奥州平泉の藤原秀衡のもとへ出発するにあたり、道中安全を祈願して出立したという。「首途(かどで)」とは「出発」の意味で、以来この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。
社伝によると、この地は古く平安京乾(いぬい)の隅、御所の北東の隅に位置し、当時より皇城鎮護の社として重んぜられ、皇后方の尊崇も厚く、源氏物語にも登場する桃園親王の旧跡としても知られていた。境内は広く、池・築山をめぐらし、春、桃の木が爛漫と花咲く頃、桃花祭が執り行なわれた。社頭には数多くの参拝者で満ち、稚児舞の奉納等が行なわれる情景は、あたかも絵巻物を見る感がある、と伝えている。
その御神徳深遠で、崇敬者は広く畿内外に及び、日々参拝者で盛んな賑わいであった。其後、度々の兵火にあい、特に天明の災害により当宮の社殿、宝物類に至るまで悉く灰燼に帰しか、との事である。
御神徳:古くより神威盛んな社として、その御神徳がたたえられ、崇敬が厚い。旅行安全・交通安全・・・源義経の首途に、道中安全を祈願して出立した由緒で旅立ち、旅行安全、海外旅行安全の守護神としての、信仰が特に厚い。
厄除・勝運・必勝の祈願
小児の虫封じ、安産の神との崇敬を集めている。
三種の御守 鳩御守/旅行安全・交通安全 鈴御守/開運厄除 繭御守/開運招福
御祭神:三柱 誉田別尊(ほんだわけのみこと・応神天皇)・比売大神・息長帯姫命(神功皇后)
御祭礼:例祭(9月15日)』
『武勇と仁義に誉れ高き英雄、源九郎義経(幼名牛若丸)は高倉天皇の時、承安4年(1174)3月3日夜明け、鞍馬山からここ首途八幡宮に参詣し旅の安全と武勇の上達を願い、奥州の商人・金売橘次に伴われ奥州平泉の藤原秀衡のもとへと首途(旅立ち)した。この地に橘次の屋敷があったと伝えられ、この由緒により元「内野八幡宮」は「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。
時に源義経16才であった。
源義経が奥州へ首途して以来830年を記念し碑を建立する』
以前前を通って知っていたが、こじんまりした社でした。社務所兼自宅と思われる宮司さん宅には茶室があり、ちょうどお稽古をされていた。本殿に参り、いつもの感謝の言葉と小さなお願いをした。八幡宮のトレードマークである鳩の「旅行安全・交通安全ステッカー」と「白鳩の開運絵馬」が脇に置いてあったので、所定の初穂料を賽銭箱にチャリーン。平家物語を読んで興味を持った「金売吉次」とともに、参りたかったお宮です。金売吉次は、奥州産の金を京で一手に売りさばきながら、奥州平泉の藤原秀衡の命を受け、義経を連れ出すスパイだった。秀衡の遺言を守らず、源頼朝に屈して義経一統を成敗したために、頼朝から攻められ奥州藤原氏は滅亡した。義経の軍才で、何度も京に逆らい征夷大将軍を向けられた奥州の優秀な軍勢と馬、金産出の豊富な資金力を動かしていたら、後の歴史は変わっていたろうと思う。
奥州は、それ以前に清原氏や藤原氏の反逆、義経以降室町時代への移行期の南朝方・北畠顕家軍の破竹の進撃、戦国期の伊達政宗の無敵を誇った騎馬鉄砲隊など、何度も天下に号令するチャンスを逃してきた。厳しい天候から育つのか不屈の兵と、幕末期に一敗地に塗れた不屈の闘志は、素晴らしいと思う。現代にもその気質が脈々と続き、東日本大震災でも感じさせてくれた。
バイクを少し北上させ、「本隆寺」。
『当山は慧光山本隆寺といい、長享2年(1488)4月28日、開祖常不軽院日真大和尚が京都四条大宮西に堂宇を建立し、「慧光無量山本妙興隆寺」と公称したに始まる。天文5年(1536)に起こった「天文の法乱」によって堂宇を失い、泉州堺に避難し留まること6年、天文11年(1542)の春、旧跡は幕府の収るところとなり、現在地に再建。この間、京都洛中を焼け尽くした承応3年(1654)の大火による類焼によって堂宇悉く焼失。時の住職第10世日遵上人は12年の歳月を経て明暦3年(1657)堂宇を再建。
その後、享保15年(1730)、天明8年(1788)の2度にわたる洛中を焼け尽くす大火に見舞われたが、当山に祀る鬼子母神の加護により奇跡的に難を免れ今日に至っている。爾来、当山の鬼子母神は「火伏せの鬼子母神」と称され信仰を集めている。この歴史的背景をもつ本堂・祖師堂の文化的価値は高く昭和61年(1986)に京都府文化財に指定された』
『法華経真門流の総本山で、正しくは慧光無量山本妙興隆寺という。法華経京都八本山の1つである。
開山は中山大納言親通卿の子・日信で、後に後柏原天皇により日蓮上人の正当な流れであることを証する大和尚の称号が下賜された。当寺は、長享2年(1488)に四条大宮に創建されたが、4代日映のとき、天文法蘭乱により焼失し、天文11年(1542)に名匠坂上作左衛門が再建した。
享保15年(1730)と天明8年(1788)の2度の大火では、西陣一帯が焼野原となったが、当寺の本堂と祖師堂は、奉祀している鬼子母神の霊験によって焼失を免れ、それ以降「不焼寺(やけずのてら)」と呼ばれるようになった。
3300坪の境内には、西陣五井の1つの名井「千代野井」や、松葉を枕の下に敷くと、子どもの夜泣きが止むと言われる「夜泣止の松」がある。本堂・祖師堂・客殿・番神堂・鐘楼・経蔵・宝蔵・南門・塔頭8ヶ寺等の諸堂を有し、宝物として、日蓮上人真筆大曼荼羅・法華玄論・六羅漢絵像・名器三管・法華経七万字版木など収蔵している』
山門前に「平成の大改修」の看板があり、山門は閉じられていましたが、開いていた脇門から入ってみた。春は見事だろう姿形の良い枝垂れ桜と銀杏の大木があった。本堂は「平成の大改修」ということで拝見できなかったが、覆いの外の写真で見せてくれていた。
『夜泣止松の由来 大永4年(1532)元旦の朝、當山5世日諦、看經のため昇堂するや、一婦人、嬰子を上人に託し養育を乞う。夜中に嬰子の母を慕って泣くこと屡々なり。上人抱いてこの松樹の周囲を巡るに、不思議なるかな。夜泣きたちまち止む。世人呼んで、「夜泣止松」という。嬰子長じて 知恵抜群、学識一世に高し。後に當山7世の名僧日脩となる。天正8年(1580)、正親町天皇より「法印」の称号を受く』
西進して「千本通」に出て右折し「石像寺」。「釘抜地蔵尊」とも書かれていた。『正しくは、家隆山光明遍照院石像寺(かりゅうざんこうみょうへんじょういんしゃくぞうじ)という浄土宗の寺院で「釘抜地蔵」「くぎぬきさん」として親しまれている。
弘法大師(空海)の開基と伝えられ、もと真言宗であったが、重源上人が中興してから浄土宗となった。弘仁10年(819)建立。地蔵堂に安置する石造地蔵菩薩立像は弘法大師の作と伝えられ、もとは諸々の苦しみを抜き取る信仰から「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれていたが、それがなまって「釘抜(くぎぬき)地蔵」となった。一説には、手の病気に苦しむ商人の夢に地蔵菩薩が現れ、手に刺さった2本の恨みの釘を抜いて救ったことから釘抜地蔵と呼ばれるようになったとも伝えられる。
1556年頃、油小路通上長者町のあたりに紀の国屋道林という人がいた。当時の京都では有数の大商人であったが、40才の時に何事もないのに両手が非常に痛み、色々と治療を尽くしたが、その効果が少しもなく苦しんでいた。その時、当寺の地蔵尊が霊験あらたかというのを聞き、願をかけて祈っていたところ、満願の夕べに夢の中で地蔵尊がこう言った。「汝この度の痛みは常の病にあらず。前世に人を恨み、仮の人形を造り、その両手に八寸の釘を打ち呪いたることあり、その罪かえりし汝が身にその苦しみを受く、汝幸に吾に残報を祈る。故に吾神力をもってかの昔の怨み釘を抜き取れり。これを見よ」。道林は夢から覚めてみると両手の痛みはたちどころに治っていた。
急ぎ当寺に来て寺僧に乞いて御厨子の前に進んで伏して拝みたてまつれば、不思議なことに尊像の前に朱に染まった2本の釘があった。道林をはじめその他の人たちはみな身の毛もよだつばかり驚いた。道林はそれより百日を期して日参し、その恩の万分の一にもと奉謝したと伝えられる。その時より本地蔵尊を釘抜地蔵尊という。
地蔵堂背後の阿弥陀三尊像(重要文化財)は、鎌倉初期の傑作で、中尊の阿弥陀如来像は高さ1.2mで、1224年に伊勢権守佐伯朝臣為家によって彫られ、翌年開眼供養した銘がある。観音堂には行基の作と伝えられる観世音菩薩を祀っている。境内には、弘法大師三井(さんせい)の1つという加持水(かじすい)がある。
この地は鎌倉時代初期の歌人・藤原定家、家隆が住んだ所とも言われており、定家らの墓と伝えるものがある』
『あなたの心の悩みを話してみませんか?住職が聞かせていただきます。共に道を探してみましょう。そうすれば、お地蔵様からもきっと良いお智慧がいただけることと思います。どのようなことでもどうぞお気軽にお越しください』
入口は狭かったが、石畳の参道を入ると中央に大きな釘抜きもモニュメントが立っていた。本堂に参ろうとすると、親子連れが竹串を持って本堂を回っていた。4歳ぐらいの女の子が両手いっぱいに持ちすぎてコロコロ落としてお父さんに、「持ちすぎだよ」と言われていた。女の子は笑いながら拾って、歩いては落としていた。本堂の壁面は、多数の釘抜きで覆われていた。多くの参拝者が奉納しているのでしょう。
千本通〜寺之内通〜七本松通で、13:18「千本釈迦堂大報恩寺」。本堂拝観料600円で入ってみた。
『瑞応山と号する真言宗智山派の寺院で、千本釈迦堂の名で知られている。承久3年(1221)藤原秀衡の孫、義空上人が猫間中納言光隆の家卒・岸高より寄進を受けたこの地に、小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起こりと言われている。当初、倶舎・天台・真言の3宗の霊場として、堂塔伽藍も整い、壮麗を極めたが、応仁の乱をはじめ、度々の災火のため本堂(釈迦堂)は、本市に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されている。堂内には、行快作の本尊釈迦如来座像を安置、また霊宝殿内には快慶作の十大弟子像をはじめ、六観音菩薩像・千手観音立像・銅像釈迦誕生仏立像など数多くの文化財を所蔵している。また、毎年2月にはおかめ福節分会、7月には陶器供養、8月には六道まいり、12月には大根炊きなど多彩な行事が営まれ、多くの人々で賑わう』
『瑞応山千本釈迦堂大幸艮恩寺と称し、真言宗に属す。鎌倉初期義空上人の開創。本堂は今から約800年前、貞応2年(1223)に者エ、安貞元年(1227)に上棟の京都最古の国宝建造物である。境内諸伽藍完工のころと思われる嘉禎元年(1235)に倶舎、天台、真言の三宗兼学の道場として朝廷より許されている。往時は釈迦念仏の道場としても隆盛を極め、兼好法師のころは一層にぎやかで徒然草227、237段にも記述され、現在に伝えられている。応仁・文明の乱には、京洛はほとんど灰塵と化したが、当寺本堂だけは奇跡的に焼けのこり、貴重な遺構として、建築学上からも重要視されている。鎌倉美術の粋をあつめた当山の国宝・重要文化財の多くは、本堂左側の霊宝殿に、宝蔵され、末永く後世に伝えんとしている。本堂建立に功労があり「おかめの物語」として伝承されている「おかめ塚」は境内東側にあり、その福徳をうけんとする一般信者並びに、建設業界の信仰を一心に集めている』
『京洛最古の国宝建造物 千本釈迦堂大報恩寺
沿革:千本釈迦堂大報恩寺は今から約800年前、鎌倉初期安貞元年(1227)義空上人によって開創された寺である。本堂は創建時そのままのものであり、応仁・文明の乱にも両陣営から手厚き保護をうけ、奇跡的にも災火をまぬがれた京洛最古の建造物として国宝に指定されている。義空上人は、藤原秀衡の孫にあたり、19才で叡山澄憲僧都に師事、拾数年ののちこの千本の地を得て、苦難の末本堂をはじめ諸伽藍を建立した。
この造営について寺の縁起に次のような物語が記されている。
……大御堂造営の途上、大光柱がみつからず、工事は停頓していた。同じ時摂津の富有の材木商「成金」の一夜の夢に金色白眉の老憎が現れ、「洛中に一大精舎が建立されんとしている。汝のもつ巨材中に大光柱にすべきものおり、是非とも提供願いたい」との申出に成金が応じたところ、老僧は直ちに巨本の頭に大報恩寺の刻印を打って帰って行った。成金夢さめ、余りの不思議に材木をしらべたところ、正にその刻印を発見、翌日寺を訪れたところ、夢の老僧は仮堂安置の迦葉尊者であり、成金大いに感激し早速材木を寄進した。……とある。この縁起によっても、大報恩寺の伽藍造営が大工事であったことがうかがわれる。
当山では開創以来の法灯をまもり、多くの伝統行事と文化財を今日に伝えている。おかめ塚:本堂の前、東の塀ぎわにある宝篋印塔がそれである。本堂の造営の際、棟梁である高次が、かけ替えのない柱の寸法を切り誤って心憂していたのを見た妻の「おかめ」は「いっそ枡組(ますぐみ)をほどこせば……」というひと言。この着想が、結果として成功をおさめた。
安貞元年12月26日、厳粛な上棟式が行われたが、この日をまたずして、妻は自ら自刃して果したのである。女の提言によって棟梁としての大任を果し得たということが、世間にもれ聞えては……。「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と。
口碑によれば高次は、亡き妻おかめの名に因んだ福面を扇御幣につけて飾り、妻の冥福と大堂の無事完成、永久を祈ったと云われている。
今日、上棟式に上げられるおかめ御幣は、おかめの徳を偲び、永久堅固、繁栄を祈るためだと云われている。
当山の本堂は建立以来約800年、その昔、度重なる兵乱にも又、応仁の乱にては奇跡的に焼難を免れた唯一、京洛最古の国宝建造物になっている。おかぬ信仰は、今日も、災難消除、招福祈願のため、参詣者が後をたゝない』
本堂横の宝物館には、国宝・重要文化財指定された仏像が多数並べられていた。その出来栄えは見事で、とても鎌倉時代からの風雪を凌いできたとは思えない痛みの無さで驚いた。数度の修理が成された結果なのか、その辺のことは説明文には記されていなかった。
境内は拝観無料で、国宝本堂だって外観は見れるので、拝観料を払って見学する方が少ないのだろう。受付の方がやる気無さそう。これだけの国宝が手を伸ばせば触れる近さにあるのに、拝観者がとても少ない。僕が入った時、同時に先客ご夫婦が出て行かれ、男性が1人おられるだけだった。まもなくその方も出て行かれ、しばらくの間僕一人静かでトーンダウンした光の中でじっくり見学させて頂いた。ここは拝観料のコストパフォーマンスが最高に良かった。
本堂内の脇小部屋で、おかめ展が開かれていた。多くのおかめの像の他に、現代人・子供のおかめ作品が並んでいた。中にはちょっとエロチックなおかめと男性シンボルの像もあり楽しめた。「おかめ」伝説の発信地に偶然たどり着き、これだから京都寺社巡りは止められないと思った。
奥州藤原秀衡との縁がまたあった。奥州に花開いた仏教文化は、源頼朝の手によって滅ぼされた。最栄華期を作った秀衡の孫が、秀衡の奥州栄華を保つため源義経を奥州に迎えるため鞍馬山を脱出し奥州に旅立った京の地に奥州栄華を再現すべく建立した寺院。それが戦火を逃れ、今に至るまで一度も焼けずに京都最古の寺として現在に残っているなんて、何かの縁を感じてしまう。
境内釈迦堂前に、見事な枝垂れ桜が植えられていた。京都市内の寺院内には、見事な枝垂れ桜の大木が多く存在する。桜の季節になると多くの桜の名所に観光客が訪問するが、まだまだ穴場がたくさんありそうです。
釈迦堂前脇に、「おかめ塚」があった。おかめのふくよかで大きな像が鎮座していた。
『鎌倉時代の初め、西洞院一條上がるの辺りで長井飛騨守高次という洛中洛外に名の聞こえた棟梁と、その妻阿亀が住んでいました。
その頃義空上人(藤原秀衡の孫)が千本釈迦堂の本堂を建立することになり、高次が総棟梁に選ばれ造営工事は着々と進んでいきましたが、高次ほどの名人も「千慮の一失」というべきか信徒寄進の4天柱の1本をあやまって短く切り落としてしまったのです。心優の毎日を過ごしている夫の姿を見た妻の阿亀は、古い記録を思い出し「いっそときょうをほどこせば」という一言。この着想が結果として成功を収め、見事な大堂の骨組みが出来上がったのです。
安貞元年12月26日、厳粛な上棟式が行われたのがこの日を待たずして、おかめは自ら自刃して果てたのです。女の提言により棟梁としての大任を果たし得たという事が世間にも漏れ聞こえは・・・「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と決意したのです。
高次は上棟の日亡き妻の面を御幣につけて飾り、冥福と大堂の無事完成を祈ったと言われ、またこの阿亀の話を伝え聞いた人々は、貞淑で才智にたけた阿亀の最期に同情の涙を流して、菩提を弔うため境内に宝篋印塔を建立し、誰言うとなくこれを「おかめ塚」と呼ぶようになったのです。
現在京都を中心として使用されているおかめの面の上棟御幣に阿亀の徳により、「家宅の火災除け」家内安全と繁栄を祈って始められたものです。またおかめの徳は「災いを転じて福となす」というところから、建築成就工事安全、女一代厄難消滅、商人の商売繁盛などの招福信仰として、全国を風靡するところとなっています。なお昭和54年の春、有志によりおかめの大像が建立され、福徳の像として祀られ「おかめの信仰」の輪が一層広がっております』
境内に、「山名陸奥大守氏清之碑」があった。南北朝時代、南朝方から北朝に降参し山名氏の守護国を安堵され、丹波・和泉・山城・但馬の守護をした方です。「応仁の乱」西軍総大将・山名宗全の祖父です。乱の時代、山名氏の本陣があったのが西陣ですぐ近くです。そんなことに関係しているのかな〜と、碑を見ながらいろいろ想像の翼を広げた。
『北野経王堂願成就寺 このお堂は、足利三代将軍義満の時、明徳2年(1391)11ヶ国の大領主陸奥大守山名氏清が将軍家に叛いて挙兵しました。「明徳の乱」に於いて逆に義満により「内野の原」にて討滅されてしまった。その翌年に将軍義満は叛いたとは言え、氏清とその一族のかつての功労武勲を重んじ、あるいは戦に倒れた敵、味方の兵士達の追福の為、1100人の僧侶を集めて供養し、引続き応永8年(1401)に北野社の社頭に東山三十三間堂の倍半という大堂を建立し「北野経王堂願成就寺」と名付け、毎年10月、10日間に亘って万部経会並びに経典写経などの仏事を行い供養していた。この行事は「北野経会」と呼ばれて京洛最大の行事となり、代々の幕府により引継がれていた。
尚、応永期には大部の経典、「北野社一切経5500余巻」(重要文化財)が書写奉納された。観世謡曲「輪蔵」はこの一切経の「輪蔵」を謠ったものである。この大堂も江戸期に入り荒廃甚だしく、遂に寛文11年(1671)に解体縮小されて小堂となり、仏像及び一切経5000余巻、義満筆による「経王堂額」什宝遺品の一部が本寺である当山に移され現在霊宝殿に保存されています。
又、解体された遺構の木材は、当山に運ばれて縮小復元されたのがこのお堂であります。お堂の右前には、山名氏清の武勲を讃え碑が建てられています』
『普賢象ざくら 室町時代から知られている有名な桜で、花の中から2つの変わり葉が出ていて、それが普賢菩薩の乗った象の鼻に似ていることから、この名がつけられたという』
七本松通〜寺之内通〜千本通に戻り「引接寺えんま堂」。
『千本ゑんま堂縁起
百人一首の歌人として知られる小野篁卿(802〜853)は、この世とあの世を行き来する神通力を有したとされており、昼は宮中に赴き、夜は閻魔之廰に仕 えたとの伝説を残しています。篁卿は、閻魔法王より現世浄化のため、塔婆を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える供養法で、後に我が国の伝統習慣である「盂蘭盆会(お盆行事)」へと融合発展する法儀「精霊迎えの法」を授かりました。その根本道場として、朱雀大路(現・千本通り)の北側に篁卿自ら閻魔法王の姿 を刻み建立した祠が当ゑんま堂の開基です。
また、この地は「化野」「鳥辺野」と並び、篁卿が定めたと伝わる平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたり、現在も周辺からは多くの石仏群が出土します。ゑんま堂から蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、この辺りには何本も無数にあったことから「千本」の地名が残ったといわれています。篁卿の後、寛仁元年(1017)、藤原道長の後援を得た比叡山恵心僧都源信の門弟・定覚上人が、ここを「諸人化導引接仏道」の道場とすべく「光明山歓喜院引接寺」と命名し、仏教寺院として開山しました。「引接」とは「引導」と同義語です。「引接寺」という正式名称より、「通称の千本ゑんま堂」としてより親しまれているのは、この地が開山以前から、人々にそう呼ばれ、神仏や宗旨宗派を越えた信仰を集めていたからにほかなりません』
小野篁は、地上と地獄を行き来できた平安貴族で、昼の勤めを終え自宅に戻り地獄の閻魔大王の元に下ったという入口を見たことがあります。この地は京都市街地の北部で東側。篁の自宅、地獄と地上を繋げる入口は東山に近い。現在なら車ですぐですが、当時は遠かったと思う。
小野篁の口を見た時、東すぐに東山を望み、現在京都女子大や秀吉の墓(豊国廟)のある「鳥辺野」の西なので、そこに葬られた多くの死者と閻魔大王を想像した。「鳥辺野」は、山の高い所にある岩の上に死者を置き鳥葬したことからの言葉と聞く。
ところがこの千本の地は、風葬の地だったそうだ。こんな記述を見つけた。
『「千本ゑんま堂」は、あの世とこの世が交わるところ。京都が都となって50年ほど経過した西暦850年ごろ。朱雀大路(現・千本通り)の北側は、生者と死者の境となる平安京3大墓地のひとつ「蓮台野(れんだいの)」と呼ばれていた。当時の平民には墓はなく、風葬(野ざらし)が一般的で現代では想像し難い光景が広がっていた。
この状態を憂いたのが百人一首にも登場する小野篁(おののたかむら)。あの世とこの世を行き来し、昼はこの世で朝廷に、夜はあの世に渡り閻魔法王に仕えていたといわれる人物だ。
篁は死者を埋葬するように改めた。神の住む都京都では、仏教儀式を行えなかったため、研究を重ね神道と仏道の間の思想「十王思想」に目をつける。人間界の裁きを司る閻魔像を作り、供養する儀式を始めた。この世とあの世で魂の入れ替えを行う儀式は、「精霊流し」などお盆の風習として今に残っている』
小野篁は、昼は朝廷、夜は閻魔大王に仕えるスーパー貴族だと思っていたが、昼の研究テーマが葬送だったようです。仏教は日本に入ってくるまで葬儀には関係ない修行で悟りを拓く宗教でした。神道が穢れを嫌うので、仏教が死者を葬る分野に棲み分けすることで、菩提寺として共存している。密教として祈祷し祈願寺としても日本に根を張っている。そんな捉え方をしていたが、仏教が日本の中心で菩提寺として根を張る最初が小野篁から始まっているとは知らなかった。精霊流しの起源が小野篁にあったなんて・・・。
小野篁は、「土葬をしても魂は浮き上がってくるため石を置いた」のがお地蔵様の始まりです。シナ大陸のお地蔵様は、地獄の閻魔様と同一とされ、人々の様子を見て裁いたり、救済したりする仏だった。日本ではシナとは少し違った方向に発展し、お地蔵様は、辻に立つ道案内と習合し道祖神になり、子供を守る地蔵の意味合いが濃くなっている。今や小野篁の提唱から大きく変容して、他の仏様と結びついたりしてバリエーションが広がっていますが、日本のお地蔵様の起源が小野篁卿です。
小野篁は、小野氏の系統を引く貴族。小野氏は小野妹子でメジャーデビューし、小野道風は菓子業界のドンとなり、絶世の美女・小野小町を出し、藤原純友の乱では小野好古が大将軍として平定した。源氏として新田義貞や吉良上野介も小野氏の末裔です。
各地に残る小野小町の跡を探索したり、小野道風の墓や小野道風神社に参ったり、小野篁の流刑地を隠岐の島まで見に行ったこともある。小野篁の業績を知り、「得した〜」と思いながら境内を散策した。閻魔様の像はもとより、本堂裏に多宝石塔があったり、面白かった。
本尊閻魔様は、撮影不可だった。本殿横には小鳥ゲージがあり、20羽ほどの錦華鳥(きんかちょう)がさえずっていた。裏に回ると、小さな精霊流し池がありました。お盆には、地獄に落ちた霊も地上に戻るようです。
『お精霊迎え 御霊(みたま)の藪入りが、京のお盆。御先祖さま方を懐かしの我が家へお迎えし供養します。引接寺では、「お塔婆流し」水向供養とお迎え鐘で、大切な御先祖さまをお迎えいただきます。
「お塔婆流し」つて、どうするの? 「お塔婆流し」に決まった作法はありません。亡き方のお姿をお塔婆という形にして供養する「お塔婆流し」をすることは、御先祖さまのための大きな功徳であり、御自身の信仰を深めていただくこととなるからです。 しかしながら、水の中に投げ入れるのは、抵抗がありますね。お塔婆の流し方の一例をご紹介いたしますので、御参考にしてください』
「紫式部供養塔」が立っていた。
『紫式部供養石塔 重要文化財の多層石塔 一重目は、円形の基礎石の表面に14体の地蔵小像をきざみ、その上の軸部に槃帥如来(東面)・弥勒菩薩(南面)・定印阿弥陀如来(西面)・釈迦如来(北面)の四仏座像をあらわし、像の横に至徳3年(1386)8月22日に、僧円阿の勧進によって建立された旨の銘がある。
二重目は、四隅に柱を立て、その中に鳥居を刻んだ円柱の軸部を置いている。その上には、9個の笠石を置いて、十重の塔としている。これは二重の宝塔と十三重塔の残欠の2つを組み合わせた珍しい偶数の塔で、古来より紫式部の供養塔と伝えられている』
この石塔を紹介する新聞記事が貼ってありました。茶釜塚もありました。千本通〜今出川通で、やっとこの日の目的地14:14「北野天満宮」。日曜日だけど梅の季節にはまだ早いので、境内参道脇のPは満車ではなかった。「バイク置き場ありますか?」と聞くと、四輪Pの隙間になる樹木の間を指定された。未舗装だったが地面が固く問題なかった。参道にはテキ屋の屋台が出ており、朝から何も口にしていないので、チョコバナナを所望した。300円。
『全国天満宮総本社 北野天満宮
菅原道真公を(菅公)を祀る全国約12000社に及ぶ天満宮・天神社の総本社。「和魂漢才」の精神を提唱された菅公は、後に「文道大祖風月本主」と称えられ、学業成就や厄除、技芸上達の神として信仰を集めている。
村上天皇天暦元年(947)、平安京の北西(天門)に創祀され、天徳3年(959)藤原師輔(もろすけ)卿が御社殿を造営、以来朝野の崇敬篤く、殊に一條天皇には「北野天満大自在天神」の神号を賜り、格別の尊崇を受け、「天神さま」として全国に伝播した。
また、天正年間には豊臣秀吉公が境内一帯の北野松原で北野大茶湯を催し、慶長年間には出雲阿国が京において初めてややこ踊り(歌舞伎踊り)を演じるなど、日本文化発信の中心地として強く意識されてきた。
現在の御本殿(国宝)は、豊臣秀頼公が、慶長12年(1607)に造営されたもので八棟造と称し、権現造の原型となった桃山建築の代表的遺構である。また、中門は三光門と呼ばれ、後西天皇御宸筆(ごしんぴつ)の勅額「天満宮」を掲げている。
宝物としては、紙本著色北野天神縁起絵巻・承久本(国宝)をはじめ、貴重な文化財を多数蔵している。
毎月25日の御縁日(天神さんの日)には多くの参拝者で賑わう』
左右に武者が守護する神門をくぐり境内に入ると、菅原氏の家紋の梅がたくさん植えられています。まだ梅の時期には早いけど、ちらほら咲いている枝もありました。
『昭憲皇太后御献進紅梅 世継の梅 ご幼少の頃より、当宮の崇敬厚く慶応3年御入内御納定に付き、同年9月御参詣の上、御邸内の梅樹を御献進遊ばされ、然る処先年樹齢尽きたる為、京都御所より拝受致し世継の梅として永く世に伝える』
『織部形石灯籠 茶人好みの石灯籠形式の1つにて、古田織部正重然(元和元年6月11日没)の基にあるものの形に因んで名付けらる。マリア像の彫刻あるにより、俗にマリア灯籠・切支丹灯籠とも言う』
内神門をくぐって内境内に入ると、渡辺綱灯籠があった。
『重要美術品 渡辺綱の灯籠 渡辺綱は、平安時代中期の武将、源頼光の四天王の1人。大江山の酒呑童子退治、一条戻橋での鬼との戦いはつとに有名。
本灯籠の由来は、この一条戻り橋の鬼退治の話に遡る。「渡辺綱が所用で夜半一条戻り橋にさしかかると、若く美しい女性に深夜のこととて家まで送ってほしいと頼まれる。しばらく行くとその女性は恐ろしい鬼の姿となり、綱を捕らえて舞い上がり、愛宕山へ連れ去ろう北野天満宮上空にさしかかる。その時、綱は太刀を抜き放ち、綱を掴んでいた鬼の片腕を切り落とし難を逃れる」
後日、綱はこれも北野天満宮の大神のおかげと神恩を感謝し、この石燈籠を寄進したという』
本殿裏に歩いていくと、保育園の子供たちが先生に連れられて遊んでいた。
『末社・文子(あやこ)天満宮
祭神:菅原大神(菅原道真公) 神徳:入試・学徳成就 例祭日:4月第2木曜・神幸祭 4月第3日曜・還幸祭
道真公が太宰府で生涯を閉じられて40年を経た天慶5年(942)、右京七条二坊(現在の京都市下京区千本通り七条辺)に住む巫女多治比文子(たじひのあやこ)に菅公の神霊より、わが魂を右近馬場(現境内地)に祭れとのお告げかあり、文子はとりあえず自宅に菅公の御霊をお祭りした。これが北野天満宮の発祥である。その後、他の霊能者にも同じご神託が相つぎ、天暦元年(947)天満宮は現在地に移された。文子の住所跡は神殿につくり改め文子天満官と称えられてきたが、やがて西の京に移され、さらに明治6年この場所に遷座された』
『摂社・地主神社 祭神:天神地祇(てんじんちぎ) (相殿):敦実(あつみ)
親王・斎世(ときよ)親王・源英明朝臣(みなもとひであきらあそん)
神徳:招福・交通安全・諸願成就 例祭日:4月16日
当宮は、「続日本後紀」に「承和3年(836、菅公ご誕生の9年前)2月1日、遣唐使のために天神地祇を北野に祭る」と記録されている通り、天満宮創建以前よりこの地に鎮座していた神社である。
主祭神の天神地祇とは、日本国内60余国に祭られた全ての神々のことであり、共に祭られる3人の皇子はいずれも道真公のご血縁など、特に公とゆかりの深い方々である。現社殿は豊臣秀頼公の造営になり、由緒・規模とも天満宮第一の摂社である』
『御后三柱(ごこうのみはしら) 祭神:天穂日命・菅原清公(きよきみ)卿・菅原是善(これよし)卿 神徳:学徳成就
天穂日命は、道真公の遠い祖先の神、菅原清公卿は菅公の祖父、是善卿は菅公の父である。清公卿は若くして遣唐使に任ぜられ、空海・最澄や橘逸勢(たちばなのはやなり)らと入唐。その成果をもって、朝廷儀式の改革に努められた。後に菅原氏として初めて公卿に列せられる。是善卿は、11才の時嵯峨天皇の御前で書を読み詩を作られた俊才で、大学頭(だいがくのかみ)・勘解由(かげゆ)長官等の要職を歴任された後、政治の最高機関である太政官の重職「参議」に列せられた。両人とも文章博士(もんじょうはかせ・古代の大学で詩文と歴史を教授した教官)を勤め、清公卿は学問所「文章院」を創設、また是善卿は「菅家廊下」なる私塾の充実に力を注ぎ、ともに優れた人材を多数育成されるなど、実践的教育者として大きな業績を残された』
『末社・老松社 祭神:島田忠臣(ただおき)翁 神徳:植林・林業の神 祭神の島田忠臣は、菅公の家臣と伝えられ、また一説には公の岳父(夫人の父)ともいわれる。忠臣は、菅公が配流先の大宰府で、自らの無実を天の神々に訴えるため天拝山(てんぱいざん)に登られた時、公の笏(しゃく)を預かってお供をした人物で、後に菅公は忠臣に松の種を持たせ当地に撒くように託された。道真公の御神霊がこの地に降臨される時、多数の松が一夜にして生じたという伝説は、この事績に基づくものと言われる』
『牛社 一つのお願い事が必ず叶えられる、一願成就所
北野天満宮は平安京の乾に位置し、古くより天のエネルギー、パワーの働く神の鎮座するところ、乾天神と呼ばれています。また平安京の大極殿真北に位置し、三光門の真上に北極星が輝き、天子様が北極星を拝する聖なる社でした。牛社はその天満宮の乾にあり、古くから一つのお願い事が必ず叶う一願成就所の信仰があります。全国天満の総本社、天満宮の牛社に祈願絵馬を奉納、入試合格、学業成就、技芸上達、心願成就・・・を祈願しましょう。きっと願いは叶うはずです』
秀吉が京都全体を守るために築いた御土居に来ました。
『豊臣秀吉公の都市遺構 史跡・御土居
御土居とは天正19年(1591)豊臣秀吉公が、長い戦乱で荒れ果てた京の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として市内四囲約23kmにわたり築いた土塁のことです。御土居は当宮を含め9か所、史跡として指定されていますが、特に北野天満宮境内の御土居は平安京の北西(乾)にあたる最も重要な箇所とされ、「切石組暗渠(あんきょ)」が残存するなど、その歴史的重要性が指摘されています。
千有余年の昔、平安京の大内裏が現在の千本丸太町にあった頃、北野天満宮東側には西大宮川(松葉川)が流れており、その水は大宮御所の御用水として使用されていたことから、北野は特に清浄の地とされました。
天正19年、秀吉公は御土居を築くにあたり、この清浄なる境内に水が溜まらないように、洛中で唯一この地だけに御土居を貫通する約20mもの暗渠(悪水抜き)を造り、境内神域を守りました。
昭和40年に「史跡」の指定を受け、悠久千年の都・京都の都市計画の重要な遺構として受け継がれてきた御土居は、四季を通じて魅せる紙屋川の美しい景観とともに境内西側に広がっています』
社務所で、鉛筆6本入り+守護3+交通安全マグネットステッカー2を授かりました。嫡孫が1/17誕生日だったので、本とキーホルダーに加えてイギリスに贈ろうと思っています。
『摂社・福部社 祭神:十川能福(そごうのうふく) 神徳:開運招福の神 例祭日:3月12日
祭神十川能福は、菅公に仕えた舎人(牛車を引く牛の世話役)であるが、その祭神名や社名より、いつの頃よりか金運と開運招福を司る「福の神」として崇敬を集めるようになった。
毎年節分の日に、茂山千五郎社中により奉納される追撫(ついむ)狂言「福の神」は、この社の祭神を主人公にした創作もので、天満宮参詣の人々に悪事を働く鬼を福の神か退治する筋立てが上演される』
『摂社・火之御子社 祭神:火雷神(からいしん) 神徳:雷除け・五穀豊穣の神 例祭日:6月1日
御祭神・火雷神は、天満宮鎮座の天暦元年(947)以前に、この地に「北野雷公」と称え祭られ、雷電・火難・豊作などの守護神として、広く人々の崇敬を集めた。古い記録によれば、元慶年中(880年頃)太政大臣藤原基経が、五穀豊穣を祈願するため、この北野雷公をお祭りしたとあり、以来毎年丁重なる祭典が続けられてきた。現在午前4時に当社前にて、古式にのっとり火鑽式(ひきりしき)を行い、その斎火(いみび・聖火)を点じて「雷除守札」に祈願を込め、その後参拝の人々に授与されている。平安時代、朝廷では主として雷神に雨を祈り豊作を祈願したが、雷の多い年は豊作である反面、その害も少なくないため、五穀豊穣とあわせて雷害のないことを祭神に祈願するようになった。それが時代とともに雷除けが主となり現在に至っている』
『摂社・白太夫社 祭神:度会春彦翁 神徳:子授けの神 例祭日:1月9日
文章博士・菅原是善卿は、世継ぎの誕生を伊勢神宮の青年神官渡奏春彦に託して豊受大神宮(外宮)に祈願された。そしてお生まれになったのが、道真公である。それ以来、数十年にわたって守役として、菅公に仕え、忠誠を尺くした翁は若い頃より鬘が白く人々より白太夫と呼ばれた。各地の天満宮に白太夫と称えて、必ず翁を祭るのはこのようないわれによる』
絵馬殿には、お正月明けらしく多くの書き初めが貼られていた。絵馬殿を見上げると、歴史を感じる絵馬が多数下がっていた。
バイクに戻り、朝振られた四条のお店に人形を買いに向かいます。今出川通〜烏丸通〜四条通で、15:15「興市兵衛(よいちべえ)」。芸者さんが三味線を弾いてる「みやび人形」を購入しました。
東大路通〜九条通〜R1。「京都南IC」から名神高速に乗り、「吹田IC」で下車し中央環状線〜R171で自宅付近へ。家内がホテルでの新年会で遅くなるので、「食べてきてね」と言われているので、16:29「そば太鼓亭」で「玉子あんかけ大590円+大海老天250円+ほっけ天120円=1056円」で夕食完了。本日1食目です。元々食に関心が薄いのもありますが、ソロツーリングだと食は二の次になっちゃいます。空腹感が出ればそれを満たすだけでOKです。
帰宅後ゴソゴソし、この日から始まったNHK大河ドラマ「麒麟がくる」を見ました。僕の好きな戦国武将ダントツNo1は「長尾景虎=上杉謙信」ですが、2番目が「明智光秀」です。世間一般では、本能寺で主君・織田信長を討った裏切り者&誰も味方せず「3日天下」で散った武将というイメージですが、僕にとっては織田信長を討ったヒーローです。
もし部下に対しても猜疑心が強く、配下から次々に裏切りが出た織田信長が天下を取っていたら、過酷な風潮が日本を覆ったと思っています。配下を信頼し戦闘でも双方に死者を出さないよう配慮し天下人となった豊臣秀吉や、本好きで滅ぼした武田方武将を次々に配下に加え人望を得て250年の平和の基礎を築いた徳川家康が天下を統べ、今に続く日本人気質を作った時代が生まれなかったかもしれません。特に徳川家康は、皇室はもちろん封建領主にも本を贈り、読書好き・学問好きの基礎を作ったと思います。
日本の歴史に対してのヒーローは、明智光秀ではなかったかと思います。光秀は信長より年上だったので、信長天下が続き、秀吉・家康とて信長とさほど年齢が変わらないので、歴史に残っているあれほどの功績は残せず消えていたでしょう。明智光秀好きなので、光秀が生まれた地という明智城を訪問したことがあります。生誕地を自称する城は2つあり、両方訪問しました。NHK・TVでは、1つしか紹介していませんでしたが、もう一つあります。光秀の菩提寺「最明寺」は琵琶湖畔で近いので数度訪問しています。側室を持たず愛した妻・煕子さんのお墓に手を合わせたこともあります。もちろん今は京都市内の小さな碑だけになっている光秀討ち死の地や首塚も京都市内・丹波の寺院と訪ねています。
去年は大河ドラマとしては大冒険だった「オリンピック物語」でしたが、やはりこの時間帯は戦国物が似合います。完全フィクションのお若い女性が登場し、少し違和感がありましたが、医者とのコンビで少し離れた目で見ていくのでしょう。
光秀20才の頃を描いた1話目は、主人公がお若い俳優ではなく「二十歳?」と思っちゃいましたがナイスでした。これから楽しみです。


2020/1/13
参加しているツーリングクラブのツーリングに参加します。祝日だけど月曜日なので、参加者はリーダーさんと僕のみの2台です。最初、原付二種ツーリングクラブと中型バイクツーリングクラブに参加しましたが、大人気で会員さんが増え、毎回20名ぐらい参加するのが当たり前になり、数日で満員御礼締め切り御免になるのが常です。僕はクラウドに圧倒され気後れしてしまうので、参加する気にならなくなりました。
今回参加するのは、同じクラブのツーリングで知り合い、ドロップ・アウトして設立されたクラブです。このクラブは、原付二種と車検の有る中型バイクが参加出来るレギュレーションで、今回はどちらで参加してもOKです。
倉庫から「招き猫CB400SB」を出して、8:01出発。R171〜中央環状道路で、8:12「エネジェット中環豊中SS」で給油。269km/11.07L=24.3km/L。近畿道の側道r2を走り、r143〜r14〜r19で淀川を渡り、左折してR1。R170〜r13で淀川の左岸を北上します。三川合流部を通過し、石清水八幡宮横を通りr22。R1で木津川を北に渡り、集合場所の「ローソン久御山工業団地前店」到着。9:29「つな揚げ108円」を購入しトイレを拝借。
10時前になりリーダーさん登場。「お久しぶり」の挨拶をしていると、バイクが入ってきて、リーダーさんのバイクの横に停まりました。その方がやってきて、「TGさん、おられますか?」。原付二種クラブに参加されている方で、TGさんに会いに来られたようです。バイクは、ZZR250で、「4気筒ですか?」と聞くと「2気筒なんです」とのこと。今年カワサキが250cc4気筒を発売するようで、250・4気筒サウンドが帰ってくるようで、興味津々です。僕の最も好きなバイク音は、ホンダホーネット250・4気筒です。次に好きなのがCB400なので、ホンダが4気筒250を復活させれば、VTR250から乗り換えるかもしれません。
Shiさんの登場で遅れましたが、10:23リーダーさんと2台で出発。最初の目的地は、蕎麦屋さんです。リーダーさんは「狸谷山不動院」が好きで、1年前の2019初ツーリングの目的地もここでした。お参りしてから、蕎麦屋さんと思っていましたが、人気店のようで、先にお腹を満たすルートだそうです。
「第2京阪道路」側道「洛南道路」を北上し、京都市街地に向かいます。朝出発する時、家内に「京都に行くの?成人式だから振り袖の女の子でいっぱいいそうね。それを観に行くのでしょう?」って言われちゃいました。その目的じゃないけど、女性の着物姿は華やかで好きです。たくさんいると良いな〜。
東海道線を「京都駅」西でくぐり、「西本願寺」横を通過し、道なりに「堀川通」に入り「二条城」横を北上し、右折し加茂川を渡り「北山通」に乗り、「府立植物園」を通過し、11:12「よしむら北山楼」着。四輪Pはいっぱいで、軽用Pに2台停めました。リーダーさんは僕より大きな650ccバイクをお持ちですが、PCXで来られています。「狸谷山不動院」の一番上のPが平坦でないからでしょう。
店内に入り、「2名です」と伝えると、「こちらへ」と案内されました。「北山膳えび天丼1346円」を注文しました。ざるそば+海老天丼+香の物+レモンティーが内容です。リーダーさんは、3つのそばを味わえるセットを注文していました。美味しいお蕎麦で、店員さんの目が行き届き、席の感覚が広めで、テーブルで相対する僕らの横の席が空いてるのにお待ちの方を通さず、ゆっくり食べれるように店主さんが指導しているんだな〜と、繁盛店の極意を感じました。
12:14出発。会計しようと入口にあるレジに来ると、意外に数組がお待ちでした。お食事席から見えないようになっており、ここにも「ゆっくりくつろいで食べて」を感じました。
「北山通」に戻り、「ノートルダム女子大」横を通りました。僕は学生時代、ヨット部でシーズンオフにスキーツアーを出しており、お客さん集めに、京阪神の女子大の殆どでビラ配りしました。バス1台満席にすると20万ほど儲かり、クリスマスとお正月で数台ずつ出していたので、この収益でレーシングヨットを1隻購入していました。人件費無料だから儲かるよね。
スキーが好きになり、SIAのゴールドメダルまで取っちゃいました。ヨット部引退後の4回生冬は、仲間とスキーツアー会社を設立して、僕の家はレンタルスキーとレンタル靴で埋まりました。他ツアーにも貸し出し、これでも儲けました。バススキーツアーの奔りの時期で、同時期に始めた中高大の同級生やそのお兄さんなど、就職せずに本業にしちゃった奴もいます。今でも2つのツアー(ホワイトベアーズとサミー)が大手として生き残っており、旅行代理店でそれらのツアーのパンフレットを見る度、懐かしく感じています。京都の女子大から参加してくれた女子大生で、最も美的可愛さレベルが高かったのがノートルダムで、以来ここを通ると思い出しちゃいます。
右折して「白川通」を南下し、左折して「曼殊院通」で比叡山山麓を登ります。宮本武蔵と吉岡一門が決闘した「一乗寺下り松」を通り、戦勝祈願ゆかりの「八大神社」、「詩仙堂」を通過し、12:33「狸谷山不動院」。
長い階段を上がって行きます。今回で4度目かな?慣れてくると、なんだか階段数が減ったように感じ、初めての時は「キツイな〜」と感じたが、今回はあっという間でした。新しい「交通安全祈祷ステッカー」を見つけたので、車用の大きな800円と、二輪用300円を授かった。
『300年の祈りの法灯
1787年刊行の「拾遣都名所図会」の中に「狸谷石不動」という一節があります。それは、「一乗寺村天王より艮十町余にあり 行路嶮岨なり高さ二丈深さ二丈許の石窟あり 中に石像の不動尊を安置す長五尺許 木食正禅の立る所なり 窟の口に扉あり 高さ四尺許厚さ一尺余 表に木食正禅朋厚と錆す 霊験いちじるしくてつねに詣人多し 此地四隣哨壁にして谷深し 樹林聶勧として白日を蔵す」と。樹木鬱蒼とした3つの峰に囲まれた狸谷霊山。木食正禅朋厚は、その深い谷に二丈四方の石窟を発見し、木食行実践の為その石窟(現在の本堂内陣)に入山します。時、享保3年(1718)。その谷の名は「狸谷」。
そして入山まもなくして、木食正禅朋厚は現世利益のために、その石窟に狸谷不動明王を安置したのです(京都奉行所へは享保8年正式に安置届出)。それ以来、この霊験著しい狸谷不動明王への祈りの法灯が現在に至るまで絶え間なく続き、平成30年(2018)、狸谷霊山開創300年を迎えました。
しかし、この300年という時間の中で、昭和19年(1944)に狸谷山不動院中第一世貫主亮栄和上が入山するまでの約230年間は、ほとんど人の手が入らず、石窟に安置された狸谷山不動明王への祈りだけが脈々と継承されてきました。その祈りは、親から子へ、人から人へと繋がる「心の繋がり」であり、この膨大な時間が途切れることなく、その「祈り」だけが時代を越えて継承されてきたことに大きな意義を感じさせるを得ません。
狸山霊山は、「祈り」という宗教的生命が生き続けるお山です。狸谷不動明王は数々の「霊験伝説」を生み出し、その「祈り」を捧げる皆様方に新たな道をひらけてこられました。
狸谷不動明王に向き合うことで、心の基底にある普遍的な「祈りのこころ」と「神仏対峙」の意義を発信してまいりたく存じます』
ここは、宮本武蔵が滝に打たれ精神を鍛え戦勝祈願した修験道場です。今は真言宗系の修験道場のようです。比叡山の谷には、修験道の行場やお堂がたくさんあります。天台宗系修験道の修行の最高は、「千日回峰行」です。現存する千日回峰行者が何人も琵琶湖側の谷にあるお堂に住み、そんなお堂を訪問したことがあります。「狸谷山不動院」は、多くの信者が参拝し世俗化されていますが、琵琶湖側は千日回峰行者がらみ以外参拝者もなく、世俗化されていません。雰囲気満点です。
バイクまで降りてきて、13:19出発。「曼殊院通」を下り、「白川通」を南下。右折して「丸太町通」で西進。鴨川まで来て、「川端通」を南下。五条まで下り、右折して「五条通」を西進。14:10「小川珈琲本店」着。
先に入店されていた女性メンバーMさんと、ここで合流。珈琲店なのに「いちごパフェ1010円」を注文。ファミレスと違い甘すぎず、丁度良い甘さで好感が持てました。あ〜だこ〜だお喋りし、ここで解散です。お二人はR171で帰るようで、R171下道ではつまらないし、まだ陽があるので亀岡回りで帰ることにしました。
R9に出て桂川を渡り、今年の「NHK大河ドラマ」で話題になるだろう「老ノ坂峠」を越え、亀岡市に入り左折して、15:45「村山神社」。境内で「どんと焼き」していました。古い御札の回収ダンボールがテント下に種類別にいくつも置かれており、御札や破魔矢が沢山入っていました。
摂社に、「百太夫社 習い事、特に芸能に御利益があるという」という初めて目にするお社がありました。小さなお宮なのに、社務所の御守・破魔矢などの授け所が広く、近隣の方に親しまれているのだな〜と感じました。成人の日だから、お宮参りする若者を狙っているのかな?
参道奥に弁天池があり、左右に石段が登っていました。さらにもう一段上がると、2つ並列した本殿がありました。
『亀岡の名木・村山神社のモッコク 常緑高木。関東南部以西・四国・九州・朝鮮南部・中国及び東南アジアに分布するこの木。モッコクとしては市内一の高木で京都府下において、これに勝るものは数少ない。庭木の王様と言われるほど気高い。枝ぶり・葉の様子は優しく繊細である。材は建築・器材に用い。樹枝は茶系統染料となる。秋には果実がなり、赤い種子が見える。
胸高幹周:2.63m 樹高:15m』
『厄除祈祷木頒布について 氏子崇敬者の皆様へ
皆様方が氏神様と仰ぐ八幡様は、全国で4万余社の多きを数えます。その八幡様に奉仕する神職有志にて組織する全国八幡宮連合では、毎年総本部所在の京部男山に鎮座の石清水八幡宮神域で総会を開き、神職相互の親睦と研鑽を重ねております。 その連合総会の当日夕刻「鎮護八幡神火祭」を斎行し、国家鎮護・世界平和と皆様の御安泰を祈念致しております。
就きましては、主旨にご賛同の皆様は頒布致しました「厄除祈祷木」に、左記の願意・氏名・年令をご記入の上、取扱神職にお渡し下さい。
全国八幡宮連合総本部 氏子・崇敬者各位
記 厄除開運・家内安全・交通安全・心願成就・海上安全・商売繁昌・病気平癒・旅行安全・五穀豊穣・その他』
本殿横に、「天皇社」「広田社」があった。西宮の廣田神社の分霊かと思ったら、「江戸時代に、今の広田区から遷されたと記録にある」と書かれていた。
『台風で全壊した社殿を建て直すためご協力をお願いします 村山神社
台風21号直撃によって境内の大木が数十本なぎ倒され、村山八幡宮本殿(向かって左側の社殿)と拝所が全壊し、土塀や境内社(小さなお宮さん)等も含め甚大な被害を被りました。
本殿の再建は、新築する場合は途方もなく費用がかかるうえに、江戸時代(220年前)の建物のため、文化財保護の立場からも、倒壊した材木の約8割を再利用して再建することにしました。
まずは旧来よりの氏子中が中心となって募金を進めていますが、損壊箇所が多く、ご参拝の皆様、近隣をはじめ多くの方々のお力添えなくしては到底復興することはできないのが現状です。
勝手なお願いで誠に申し訳ありませんが、台風で壊れた社殿などを元の姿にもどすため、みなさまのご理解と暖かいご支援をお寄せくださいますようどうかよろしくお願い申し上げます。
事業費:約55,000,000円(概算) 義損金:金額にかかわらず拝受申し上げます(5,000円以上で御芳名板を掲示いたします)
ご連絡賜りましたら、総代・役員・宮司がお伺いさせていただきます。または義損金封筒などをご利用になり、神社の募金箱か社務所受付にお納めください。
村山神社復興奉賛会 村山神社社務所』
昨年の台風の強い風は、関空連絡橋に本船を激突させ一時不通になったのを筆頭に、近畿各地に大きな被害をもたらせました。少し多くのお賽銭を賽銭箱に投入し、いつものお礼の言葉で僕のこれまでの人生に感謝しました。
京都府道r6に出て南下し、r46〜r733〜R423で池田に出て、17:12帰宅しました。


2020/1/12
コーチしている大学ヨット部の卒業生クルージングの日です。9時に駅で部員をピックアップし、日没前まで海で遊ぶ予定です。
駅に向かって車を運転していると、電話が鳴りました。運転中なので路肩に止めて、リダイヤルしました。Su君からで、「寝坊したから遅れるので先に行って下さい。10時頃ハーバーに着きます」とのこと。8:44、JR西宮駅前ファミマ前に停めて、「とろけるカフェオレ163円+バナナ3本228円=391円」。9時5分前までJR西宮で待つもののTsu君が来ません。「おかしいな」と思いキャプテンに電話すると、「Tsuは阪神西宮に来ると今朝連絡がありました。伝えるのを忘れていました」「了解」。
次のピックアップポイント・9:15阪神西宮駅に向かいます。10分ほどで待ち合わせ場所に着くと、キャプテンとMマネさんがいました。すぐに、S級チーフとマネボスさんがやってきました。ほぼ9時ジャストのタイミングでTsuくんがやってきて、ハーバーに向かいました。
9:25ハーバーPに入れて、家から持ってきた防寒用カッパ2バッグを部員に持ってもらいます。センターハウスに入ると、京都から車組が待っていました。出艇申告とトイレを済ませ、船に向かいます。
カードキーで桟橋エリアに入り、船に乗って出艇の準備をします。エンジン始動し、桟橋から引っ張ってる電源コードを外します。ラットのオーニングなどを外し、あっという間に準備完了。女子マネージャー2名を含め、卒業生全員10名が集まり、僕は指図するだけです。
遅れているSuくんがまだなので、給油桟橋に船を移動しました。ここでTsuくんを降ろし、Suくんの迎えに出します。カードキーがないとここまで入ってこれません。10:09、10L・1470円。軽油なのに一般GSのレギュラーガソリン並のお値段です。軽油なので一般GSで購入し、ポリタンクで運んでくれば良いのですが、面倒なのでハーバーGSを御用達にしています。ガソリンや軽油には「道路税」が付加されています。海で使うなら道路は使わないので、申請すれば道路税部分をカットできます。でも年間でかなりの燃料を使わないと対象にならないので、ヨットのように帆走メインの船では対象にならない船がほとんどです。
給油を終え、SuくんとTsuくんを乗せるために、横の桟橋に移動し始めたところで2人がやってきました。桟橋に着けて彼らを乗せ出発。西出入口からハーバーを出て、尼崎西宮港出入口の赤白灯台を目指します。弱い北風なので機走のまま、セイルを上げません。ヘルムスをS級リーダーと交代し、僕はお役御免。部員たちで適当にヘルムスを交代してもらいます。
良い風があれば、淡路島とか明石とか須磨、関空方面に行きたいところですが、近場の神戸港を目指すことにしました。神戸空港島東まで沖出しして、空港島モノレール橋の下をくぐり、神戸港に入ります。何度通過しても橋の下は、マストが当たるように見えてドキドキします。1回生の時のクルージングは、湾内セイリングを楽しんだので、橋の下くぐりは初めてで「当たるんじゃないの〜」と歓声を上げています。
神戸港に入り、女子大前を通りましたが、綺麗どころは全くいませんでした。カワサキワールド前の「BE KOBE」沖で船を停め、集合写真を撮りました。勿論僕がカメラマンです。メリケン波止場前に移動し、モザイクやスケートリンクを沖から見学し、カワサキ造船前に停泊していた潜水艦の真横まで行きます。+舵なので「おやしお型」のようです。最新の「そうりゅう型」はX舵なので、一見してすぐに分かります。+舵は上下一組で左右の動きを担当し、1枚壊れれば運動性能が1/2になります。X舵は4枚で上下左右の動きを担当するので、1枚壊れても3/4にしかなりません。加えて桟橋係留時は横舵が、沈底する時は下舵が邪魔になるので、大きく出来ません。でもX舵ならまだ大きく出来ます。舵が大きければ運動性能が更に上がります。
海軍能力は、第2次世界大戦までは戦艦能力でしたが、太平洋戦争初戦で空母を中心に周りに海上艦船で囲む空母機動部隊の威力を日本連合艦隊が鮮やかに見せ、以降はアメリカ一強の空母機動部隊能力とイコールしていました。核兵器能力全盛になって、居場所が軍事衛星やレーダーから見えない核搭載潜水艦や、空母を攻撃する能力の高い攻撃潜水艦が海軍力に直結するようになって来ています。日米軍事演習でも、攻撃型潜水艦能力の高い海上自衛隊が艦隊決戦でも米機動部隊を負かすこともあり、日本は世界一の潜水艦攻撃能力を持っています。それら潜水艦を建造しているのが神戸の川崎造船や三菱造船です。
潜水艦船首には日章旗、後部には日本海軍旗・旭日旗がひるがえっていました。横には「JAMSTEC・海洋研究開発機構」の船が停泊していました。以前神戸港で、同じ研究開発機構の地球深部探査船「ちきゅう」を見たことがあります。中央部に垂直に立った高い鉄塔が特徴的で、GPSを駆使し、波があっても船の位置を保持し、真っ直ぐにパイプを継ぎ足し継ぎ足し深海海底から更に深く地球深部にパイプを打ち込みます。
弱い南風に風向は変わり、セイルを上げて機帆走で帰路に着きます。モノレールが走っている神戸空港橋の下を再びくぐり、帰路は六甲アイランドまで航路水路を北上し、六甲アイランドのコンテナキリンを横目に東進し、西宮港白灯台まで戻り、ハーバー西出入口手前でセイルを降ろし、芦屋YHに入りました。関西で最も係留費の高いハーバーで豪華モーターボートがたくさん係留されています。桟橋付きハウスもあり、部員の頭に焼き付けます。将来、僕をこんな船や家に招待してくれ〜。
新西宮YH係留バースに戻りました。少し遅くなったのでデッキ洗いを省略しました。後日洗いに来なきゃ。センターハウス1Fの「Friandise」でお茶します。「ケーキセット370円×9=3330円+珈琲430円×9=3870円+紅茶セイロン430円×2=860円=8866円」。16:47、トイレに行くついでに会計し、あ〜だこ〜だ話します。
この時期の卒業生の話題は、1ヶ月後に迫った追い出しコンパの相談です。監督・コーチ・OBさんなどを含めた正式な追いコンは京都市内のホテルで行いますが、その後翌朝まで、4回生が下級生を連れて京都市内を飲み歩きます。未成年部員もいるので、大酒を飲むというより、マジックスナックのようなイベント物など、何でもありです。今年は4回生10人を5グループに分け、各10名ほどの下級生を連れて、楽しませるようです。最後にクラブで上回生として偉そうなことを言ってきた罪滅ぼしをして卒業する趣旨かもしれません。この費用捻出のため、バイトを頑張っています。翌朝再び全員集合し解散がいつもの流れです。
車に戻ります。P「9:25〜17:39・800円」。阪神西宮〜JR西宮に部員を降ろし、帰路に着きました。新年会で姫路のホテルに行っていた家内はまだだと思ったら、既に家に明かりが灯っていました。


2020/1/4
天気が良いので、2020初ツーリングに出ることにしました。漠然と兵庫県丹波篠山市と京都府福知山市の間にある丹波市の寺社を巡ることにして、9:00「招き猫CB400SB」を倉庫から出し出発しました。
R176ルートで北上しましょう。「宝塚IC」から中国道に乗り、舞鶴道に乗り換え、「丹南篠山口IC」で下車し、R176を北上しました。9:56「追手神社」に寄り道しました。
『歴史と自然の宝庫・追手神社界隈
追手神社:祭神・大山祇命。創立年不詳ですが、柏原町小倉の苅野神社に関連する伝説や大山荘園の成り立ち等から推論して1000年は経過しています。小宮は稲荷社・秋葉社・恵比寿社・愛宕社で明治41年村内にあったものを移した。
先年もみと夫婦いちょう:神社境内にある「千年もみ」は日本一で平成元年12月12日に兵庫県郷土記念物に指定され、無病息災・長寿神木として訪れる人も多く、「夫婦いちょう」は、推定樹齢350年。夫婦円満の木として親しまれ、晩秋には実を拾う人が絶えません。
アズマイチゲの群生:日本最西端の自生地で、2〜3月にかけて開花します。昭和35年1月18日丹南町天然記念物に指定されました。他に、セツブン草・雪ワリイチゲ・ニリン草の自生も見られます。
和泉式部の墓と伝説:金井畑坪で村のお年寄りによって祀り継がれた和泉式部の墓は、昭和60年の圃場整備で部落共同墓地へ移転されました。村には和泉式部にからむ伝説や地名も残っています。この地は山陰京都を結ぶ街道の要所でありました。
明智光秀の金山城址:標高537mの多紀・氷上を一望出来る金山頂上にあります。織田信長が天下統一のため、丹波攻めの拠点として、氷上勢の八上城への援軍を遮断する目的を持った前進基地として、明智光秀が天正6年(1567)9月上旬に築城・遺構として本丸・二の丸・小切丸・馬場などの跡があります。石垣は本格的な「穴太積み」と言われています。昭和57年2月24日、丹南町史跡文化財に指定されました。
天下の奇岩・鬼の架橋:金山頂上の城址の西にあります。江戸の浮世絵師・安藤広重も描いた天下の奇岩です。文安5年(1449)の丹波地震で出来たという記録があります。他にも軍艦岩・天狗岩等の巨岩が群がり岩上からは、氷上郡が遠望できます。城址ともに約40分で登れる格好のハイキングコースです』
『国指定天然記念物・追手神社のモミ
所在地・篠山市大山宮 指定年月日・平成6年(1994)3月23日
モミはマツ科の常緑針葉樹で、本州から九州の山地に分布している。幹は直立し、枝は太く水平に広がり高木となる。追手神社のモミは旧街道沿いにある追手神社の境内に位置する。「千年もみ」とも呼ばれ、鎮守の森として地域住民に大切に保護されてきた。胸高直径7.68m・樹高35.58mであり、平成元年度(1989)の調査によって、わが国で最大級の規模を持つモミであることが判明している。平成25年度(2013)に詳細調査が実施され、樹幹内部の空洞化、樹幹基部の亀裂が見つかり、倒壊の危険性が明らかとなった。追手神社のモミの保護のために、平成26・27年度に、支柱の設置工事が行われた』
有名でもなく、参拝客の多い神社でもありませんが、境内の鎮守の巨木は見事です。特に紅葉の時期に来ると、銀杏の巨木の黄色が素晴らしい。加えて本殿の木鼻や蟇股・脇障子の彫刻も素晴らしい見ごたえのある神社です。
バイクに乗り、枝道を走り出すとすぐ、「大乗寺」の道案内があったので寄り道します。10:09「大乗寺の山門」。両側に仁王像が睨んでおり、彫刻も緻密でした。更にバイクで少し走って「大乗寺」へ。大寺ではありませんが、コンパクトにアイテムが揃っており好感が持てました。鐘楼があったので、手を合わせゴーン。
枝道を少し進むと、「金山城跡登山口」がありました。「2020年NHK大河ドラマ・麒麟がくる 明智光秀ゆかりの地・金山城跡」「本能寺の変の謎は丹波篠山にあり」と染め抜かれた幟が林立していました。
『市指定史跡・金山城跡
金山城は明智光秀による丹波攻めの際に八上城を攻略するための陣城として築かれました。多紀郡(篠山市)と氷上郡(現丹波市)の境に位置する金山(標高約530m)の山頂付近に曲輪が築かれ、主郭部には石垣が一部残っています。
大正3年(1575)、織田信長の命を受けた明智光秀によって、荻野(赤井)氏の居城であった黒井城攻めが行われました。当初、八上城の波多野氏は明智側につきましたが、天正4年1月、荻野氏側に寝返り、背後を突かれた明智軍は敗走しました。大正5年、再び明智軍は丹波に攻め入り、天正6年3月に八上城を包囲し、激戦の末、大正7年6月に八上城は落城、黒井城も同年8月に落城しました。
光秀が金山城を築いたのは八上城を包囲した後のことで、氷上郡を見渡せる金山に陣城を築いたのは、黒井城からの支援を絶つためであったと考えられています。金山城跡は丹波攻めの様相を今に伝える遺跡として大変貴重な城跡です』
少し進むと、10:31「追入神社」。『追入神社子ども三番叟 子ども三番叟は追入神社の秋祭りに奉納されます。3人の子どもが面をつけずに一番叟・二番叟・三番叟まで舞い、続いて白い翁面と黒い翁面を着けた子どもが、天下泰平・家内安全など多くの願いが込められた舞を奉納します』
拝殿の蟇股の彫刻がナイスでした。本殿の脇障子・木鼻の彫刻もナイス。R176・旧道を進み、10:42「鐘ヶ坂・昭和トンネル」。鐘ヶ坂トンネルは、上から、明治・昭和・平成のトンネルが重なっています。明治と昭和トンネルは使われていません。トンネル横には、明治トンネルに上がって行く未舗装・獣避けフェンス付き道が登っています。
『鐘ヶ坂明治トンネル
このトンネルは、明治13年から約3年間かけて造られた日本最古のレンガ造りトンネルです(トンネルとしては5番目)。概要は、(長さ)268.5m・(幅)3.3m・(高さ)5.5m。掘りながらレンガを張る新しい工法で、使用したレンガは38万2500枚、柏原上小倉に3基の焼窯を造り、鹿見島から呼び寄せた職人たちがレンガを焼き、牛車や馬車や天秤棒で運び上げる過酷な仕事でした。
総労働者は63000人・総費は4万円(国1万円・地元3万円)。発起人は、多紀郡長園田多佑・氷上郡長田艇吉。地元住民や篤志家たちの大きな支えで完成されたトンネルです。トンネルの扁額には、多紀郡側・有栖川宮親王の「事成自同」、氷上郡側・三条実美の「金山化居」が架かり、開通式には西郷従道が篠山から馬車で駆けつけました。
尚、この鐘ヶ坂峠は、1つの峠に明治・昭和・平成と3つものトンネルが有る、非常に珍しい峠です』
バイクでR176現道に戻り、鐘ヶ坂平成トンネルを抜け、柏原市街地に入り、10:52「新町高灯籠」。
『市指定文化財・新町高灯寵・1基 指定年月日・昭和53年10月18日 所有者・新町区
本灯籠は天保7年(1836)に柏原下町の田村重三郎の発意と柏原藩領内の民衆の寄進により、伊勢神宮の内外両宮を遥拝献灯するために建立されたもので、全高5.30mと市内でも最大の石造建造物である。ここは、江戸時代「京口」と呼ばれていた旧柏原城下町の東関門の外側にあたる。
大新屋の石工・初代難波金兵衛による本灯寵は、大阪の泉南地方を産地とする和泉砂岩製で宝珠の先端や請花の反り、笠石の四隅の反りなど極めて鋭角的であり、火袋の隅柱や竿石のくびれも細く、請花の装飾も端正で全体的に精緻に仕上げられている』
11:03「JR福知山線・柏原駅」。r290〜r291を走り、11:11「石見神社(いわみじんじゃ)」。『祭神は、隣村との長年の紛争を解決した谷垣石見守です。新山(石戸)は永正6年(1509)に米百俵・銭百貫を代償として大新屋他4ヵ村の領有となりますが、以後100年にわたって山争いが絶えず、これを元和年間に石見守が囲碁の勝負で解決したと伝えられます。
郷人はこれに感謝し、文化5年(1808)新井神社の境内に石見大明神として祀ったのが石見神社の始まりです。 その後、大正3年(1914)現在地に移されました。平成4年(1992)に日本一の石造り大碁盤が奉納されました』
隣接する「新井神社」の摂社のような小さな境内ですが、中央にどーんと石造り碁盤が置かれている。谷垣の名が出てくるのに驚きました。自転車事故で自民党総裁から転落し、総理大臣の目を失った谷垣さんの地元は、隣接する京都府福知山市です。山口の安倍総理大臣、奈良の高市総務大臣もそうですが、古くから続く地元の名家出身です。苗字の威力は素晴らしい。夫婦別姓になると、苗字を根拠にする家族の繋がり・一族の絆が切れてしまいます。大昔から続く夫婦同姓が日本国の根幹です。
『欽明朝(6世紀)の創建といわれ「延喜式」に記載されている市内式内社17社の1つです。 もともとの祭神は天地創造の神、高皇産霊神とされますが、江戸時代の初めに比叡山延暦寺の守護神である「日吉大社」の分霊が祀られました。日吉大社は俗に「山王権現」とも呼ばれ、山王の使者が猿であるところから、本殿(県指定文化財)には中井権次正貞の作による一対の猿の木彫像があります。 また、「境内の御神木三本杉の根もとをまたいで子授けをお願いするとよく聞き入れられる」という信仰から参拝に来る人も多いです』
本殿が葺きたての茅葺屋根で、檜皮葺のように綺麗で目立ちます。外壁面に、明治11年に奉納された色彩豊かな絵馬が飾られています。木鼻・蟇股・脇障子の彫刻もナイスです。正面左右柱には新しい榊が飾られ、お正月を祝っています。手水舎横に南天の赤が彩られ、その後ろに三叉鎮守杉が立っていた。子授けを願う女性がまたげるように、階段が掛かっていた。子供は神様からの授かりものだけど、親にとって祖父母にとって親族にとって大きな喜びを与えてくれる。それも長い間・・・僕なんて、息子たちの成長が眩しく、それに一助出来る自分が誇らしかった。彼らが社会に出て喜ばしい仕事で結果を出し続け、親は何もしないのに素敵なお嫁さんを連れてきて、やがて次の世代が生まれ、また大きな喜びをくれている。僕に我が子をプレゼントしてくれた家内には大感謝だし、全ての子を望む家庭に子が授かればいいな〜と思う。
『県指定文化財・新井神社本殿 指定年月日・平成3年3月30日 所有者・管理者・新井神社
大新屋(おおにや)字湯の森に鎮座。欽明天皇在位の頃(6世紀)の創建といわれ、昔から、崇敬があつい。 もとの本殿は今の神社より約500m奥の滝ケ谷に祀られていたが、天正7年(1579)明智光秀の高見城攻めの時、兵火にかかって焼失、後に再建されたものが現存する本殿である。 本殿は茅葺で、建築様式から推測して、江戸時代中期の建築と思われる。 本殿両側に中井権次正貞作の一対の猿の木彫像がある』
本殿左右にお宝を意味する桃と御幣を持った大きめの猿の彫刻が置かれていた。立体的で躍動感有る宮彫刻を生み出す中井権次一党の作品でした。日光東照宮や江戸城の彫刻にも携わったようです。
バイクを置いた石見神社前まで戻ると、石見神社囲い塀の外に、「谷垣巻400年碑」と彫られた新しい五輪塔が立っていた。その横には小さな祠があり、谷垣氏への感謝が深いのを更に感じた。
r291に出て、11:31「三宝寺」。瓦の大屋根の本堂が山門正面に建っていたが、仏様は見れなかった。臨済宗妙心寺派の寺院なので、禅宗寺院ゆえ観光寺院ではなく修行寺院の姿そのままでした。入口上の彫刻の龍は躍動感があり見事でした。鐘楼があったので、手を合わせてゴーン。
r291〜R176で北上していると、「これは中世の山城跡」ってひと目で分かる山頂が見えてきました。今まで何度か目にしていましたが、時間の関係でパスしていました。目視しながら野生の勘で走ると、r7になり、丹波私立東小学校に着いた。この小学校の裏山のようです。登城口が何処に有るのかスマホで調べると、小学校北側の山際にある稲荷神社にあるようで、NTT電波塔脇から登ればすぐらしい。R175の「城山トンネル」の上です。
バイクを動かし、12:04朱鳥居下のPに置く。鳥居目指して登ると、鳥居・NTT電波塔へ続く階段のある場所になった。NTT小屋があり、ここに四輪でも1〜2台なら置けそうです。獣フェンスを開閉して入る山道もあったが、その横に、「10分で山頂198m 城山登山口」と書かれた看板が立っていた。ここからも山道だったので、往路はNTT階段から上がってみることにした。
「株式会社NTTドコモ関西・向山無線中継所・登り口」の看板が立ってる階段を登りだすとすぐ、忠魂碑が見えてきた。階段は疲れるので、2度も階段に座って休憩して「氷上町水道管理者・向山排水池」に着いた。池といっても野池ではなく、コンクリートタンクでした。排水池フェンスに沿って上がっている階段を上がります。池の上にNTT電波塔が立っていた。
電波塔フェンス横を上がると、12:22「ガンジョウジ城跡」に着きました。休憩・激写時間を除いても10分では登れませんでした。段郭などはなくシンプルな整地され平坦化された本丸郭一郭のみの山城でした。「城山(向山)198m」「権現山・行者山」「石生三角点」の道標が立っていた。
『城山(198.0m) この城山は、氷上郡を東西に分ける山脈で、それも由良川と加古川の分水界をなす稜線の南端に位置し、分水嶺最南端の四等三角点があります。 山頂は、東小学校の裏にあたり昔は本丸がありました。 向山とも呼ばれ、ガンジョウジ城趾、カマジョウジ山の古称もあり、幻の氷上城が城山か霧山かの2説があります。 城山展望所は「地域のシンボル」として整備しました。石生駅周辺はもちろん氷上工業団地、成松方面、春日・柏原方面が一望できます』
登っていく時に小雨が降っていたが、眼下を見下ろしていると、虹が出ていた。家族LINEに写真を送っておいた。
12:38下山します。配水池上部から道が分岐しており、登って来た道とは別の道を下りましょう。階段の道ではなく、森の中の山道です。12:46NTT階段下の小屋まで降りてきました。忠魂碑と稲荷神社を見学し、バイクに戻りました。
r7で少し北上し、左折してR175。右折してr7で西進し、右折してr109で北上し、枝道に入り、13:04「粟嶋神社」。『粟嶋大明神(少彦名命)をお祀りしています。女性の守護神として病気平癒・良縁結び・安産・商売繁盛の神様です。特に、夜尿症や不妊にご利益があります。女性の願いなら、その一つは必ず叶えて下さいます』
本殿前に、禅寺のように「禁葷酒」と彫られた石柱が立っていた。本殿に上がる石段横にお寺にあるような石仏などが並んでいた。そこに石柱が立ち「法眼寺誌」が書かれていた。
並びにあった「一の宮神社」に参ります。緩やかに石段が上っており、途中に獣避けフェンスがありました。開閉して参ります。
『一の宮神社と霧島つつじ 一の宮神社は、上成松四方の京尾山の麓に鎮座します。ゆるやかな坂道と石段を上がると正面に本殿、真向に舞堂があります。「境内に鐘楼あり、建築も又甚だ優雅である」と記されているように、本殿周りの彫刻は、実に美しく質素の中に豪華さがただよっています。また、昔より多くの人々に親しまれている樹齢300年を超える霧島つつじの古木が、社殿を取り囲んでいます。5月初旬には、霧島つつじが花開き、その壮観さは静閑雅鏡のことばがぴったりです』
本殿前に鐘楼があり、撞いてみたら鐘が小ぶりなので高い音だった。ここの本殿の彫刻も中々です。新しい榊が本殿左右に飾られ、お正月気分を感じました。近在の氏子さんの努力の賜物です。本殿に続く石段は森の中なので苔むしており、滑らないように中央の手すりを持ちながら下りました。
r78〜r109〜r78。13:29「西宮分霊蛭子神社」。西隣の石段を上がる「大護神社」に先に参ります。石垣が見上げるように高く積み上げられており、とても立派です。
『氷上郡指定文化財・大護(おおもり)神社社殿 指定年月日・平成元年9月25日 所有者・管理者・大護神社
天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)を祀る。創立沿革の詳細については不明であるが、元禄12年(1699)に再建され、天保9年9月(1838) に京の長谷川佐多郎(棟梁)と柏原の中井権次(彫物師)によって改築されたものである。社殿の全体細部に透彫り・籠彫り等による数々の彫刻を施し、欄間・向拝虹梁等に龍の彫刻を配している。また、向拝水引虹梁には蟇股を入れず、老松の透彫りを全面に充当している。
屋根は入母屋造で軒先は出唐破風となり、獅子面の彫刻がある。天井には躍動的な龍の彫刻が施されている』
小山の麓にあり、丹波市氷上町市街地が眼下に見渡せる。本殿は彫刻の塊のように各所に施されており、しかも詳細で素晴らしい。やはり中井権次作でした。西宮蛭子神社に参ります。丹波市中央小学校のプールが眼下に見えます。r78に出て、「植野記念美術館」を見学しようと思ったが、閉館中でした。お正月休みなのでしょう。
13:52「高山寺」。立派な仁王門があり、仁王様の後ろや天井に彩色された天女羽衣絵が描かれており、山門天井には龍の絵があり、見どころいっぱいです。新しそうな山門です。山門からまっすぐに参道石畳が続いており、左右の石灯籠がズラリと並び整っています。
『安全堂 この堂宇は、高山寺の背後にそびえる安全山に因み「安全堂」と申します。堂内には安全守護の不動明王が安置され、仏前で火を燃やして祈祷する護摩供養が行われます。
不動尊はその名の通り、揺るぎない心(不動心)をもって一切衆生を導かれます。その姿は悪業煩悩を打ち砕く忿怒の形相をされ、あらゆる苦悩や災難を焼き尽くす炎で、私たちをお救いくださる仏様です。
また、西国札所33体観音像も併せて安置され、お参りされますと西国巡社と同じ功徳が得られます。 皆様も不動明王・観世音菩薩の御両尊に、安全で幸せな日々が過ごせますようお参りください。
不動明王真言:のうまくさまんだばざらだんかん
観世音菩薩真言:おんあろりきやそわか
ご利益:家内安全・交通安全・道中安全・工事安全など万事安全』
安全山は、山頂までボロボロの舗装ですが、「里山VTR250」で登りました。山頂に小さな祠があった記憶があります。あれが安全堂で、それの分霊をここに安置しているのかな?と帰宅して調べたら、「安全地蔵」の小さな祠が山頂にありました。この安全堂とは関係がないようです。安全堂内部を覗くと、護摩祈祷台がありました。
参道横に小さめの鐘楼がありました。『明智光秀と高山寺城の鐘 高山寺は昭和33年(1958)に現在地に移築されるまでは、弘浪山(520m)の山中に建っていました。南北朝時代には荻野氏・赤井氏らにより山城として利用され、そのことは「太平記」にも記されています。
この高山寺城も天正7年(1578)に明智光秀の丹波攻めによって落城しました。その時に光秀は軍資金のため「高山寺より金を取ってこい」と命じました。しかし家臣は聞き間違えて「鐘」を取ってきました。そこで柏原八幡宮(丹波市柏原町)に鐘を奉納したと伝わります。現在も柏原八幡宮の厄除けの鐘には「高山寺」と銘が書かれています。 なお現在の釣り鐘は戦後に鋳造されたものです』
鐘を撞きました。反対側にお地蔵さんがいました。『手切地蔵菩薩 この地蔵尊は右手が切れています。皆様も悪習・悪因・悪縁と「手を切る」と念じてお参りください。 ご真言:オン カカカ ビサンマエイ ソワカ』
『真言宗大覚寺派・弘浪山・高山寺 御本尊:十一面観世音菩薩(脇士不動明王、毘沙門天)
高山寺の旧境内は、現在地から南東約3kmにそびえる弘浪山(520m)の山中にありました。 天平宝字5年(761)、法道仙人が弘浪山において十一面観世音菩薩を感得し、堂宇を建立したのが開基と伝わります。
その後の仁平3年(1153)の兵火で消失しましたが、文治5年(1189)に源頼朝の命を受けた重源聖人によって中興されました。当時は山麓に11の末寺を構え、後鳥羽天皇勅願所ともなりましたが、南北朝時代以降は荻野氏などによって城塞とされ、相次ぐ戦乱によって寺門は再び荒廃しました。
慶長5年(1600)に日向国の僧・開長上人によって再興され、境内の基盤が整い、内尾神社別当職として隆盛を迎えます。しかし明治の神仏分離、廃仏毀釈による末寺の荒廃や、台風災害などによって山上での護持が困難となり、昭和33年(1958)に本堂・山門・庫裏を現在地へと移築しました。
当寺の十一面観世音菩薩は白龍に座したお姿で、33年ごとにご開帳されます。法道仙人:天竺より飛来したとされる伝説的行者。播磨国法華山を中心に活躍し、神通力で鉄鉢を自在に飛ばしたことから「空鉢仙人」とも称される。 播磨・丹波・但馬各地には、法道仙人開基を伝える霊場が多い。
重源:1121〜1206。東大寺再建に活躍した鎌倉初期の勧進僧。俊乗房、南無阿弥陀仏とも称す。なお、高山寺旧本堂の礎石や阿弥陀如来像(鎌倉末期、県重文)は重源聖人の再建の遺跡とされる。
内尾神社:法道仙人開基を伝える葛野庄18ヶ村の総社(町内三原区鎮座)。神仏分離まで高山寺は別当職として当社、及び村内各神社を管理していた』
「護持保全志納金300円 寺院の護持、もみじの保全のために賽銭箱へお納め下さい 住職・檀家一同拝」。「靴のままでご自由に堂内をお参り下さい」と本堂前の柱に貼ってあったので、上がらしてもらいました。賽銭箱の奥に「紅葉すずお守り500円」と「高山寺オリジナル紅葉お守り500円」が置いてありました。「紅葉すず」が鈴の音が気持ち良かったので、授かりました。開運招福お願い。お賽銭箱にチャリン。堂内にびんつるさんがおられたので、頭・膝・腰などをさすりました。
『高山寺ご本尊様と源頼朝との約束 永歴元年(1160)、13才の源頼朝は父親の義朝が平治の乱で敗北したことで、平清盛により伊豆に流されました。復権を願う頼朝は三島明神に毎夜参拝していました。ある日の帰りに一休みをしていると、夢の中で不思議な様子の翁に出会いました。そこで翁は「汝はいずれ将軍となって天下を収めることを約束する。その時は我が住む丹波国氷上の高山寺を復興するようお願いする」と告げて飛び去りました。夢から覚めた頼朝は大いに喜んだそうです。
その後に天下を収めた頼朝ですが、前の約束をすっかり忘れていました。ある夜に翁が再び夢に現れ、早く果たすようにと告げました。目覚めた頼朝は大いに恥じ入りました。また同時に頼朝が深く帰依していた俊乗房重源上人と、鎌倉幕府の執権である北条時政の夢にも、先の翁が現れ、頼朝による高山寺復興に協力するように告げました。3人はこの不思議な出来事を話し合い、お互いの協力によって高山寺の復興が無事になされました。
夢に現れた不思議な翁の正体は、高山寺の御本尊である十一面観世音菩薩様でした。 このように源頼朝の将軍職就任を約束した高山寺の御本尊様には、出世開運の御利益がございます』
「大聖歓喜天王 夫婦円満・招福開運」と書かれており、覗き窓から覗くと歓喜天像がおられました。ちょっとエロチックな歓喜天が好きです。堂内にお坊さんの絵馬が数枚掛かっていました。他に閻魔大王他の絵が描かれた屏風があり、別の一面を見ると有り難いお坊さんの絵が2面描かれていました。
14:11、帰路に着きます。r109〜r7〜R176で南下。r308〜r49〜r68〜r33〜r325〜長尾山トンネルをくぐり、16:10帰宅しました。


2020/1/3
お正月は毎年のように行ってる丹波篠山に行くことにしました。長男が生まれた1年目のお正月、潯陽楼という料理旅館に泊まり、ぼたん鍋を食べました。目の前に猪肉屋があり、朝仕留めた猪が店前に寝かされていました。その時初めて猪を触りました。長男にも触らせました。以来、毎年、猪鍋&撃たれてすぐの猪を見に、触りにお正月は丹波篠山が定番になりました。両親と一緒に猪鍋を食べに来たことも何度もあります。お店の人に声を掛け、息子たちを抱っこして軽く猪に乗せたりしました。息子たちが結婚し、猪を食べたことがないお嫁さんたちを連れて篠山に猪鍋を食べに来たこともあるし、猪肉屋で肉を買ってきて、家で猪鍋をしたこともあります。
今年は息子たち一家が帰省しませんが、何となくお正月は丹波篠山へ・・・となりました。舞鶴道で行こうと思いましたが、ICまでの道が混んでおり、仕方なく長尾山トンネル〜r325〜r12〜r68〜R176で北上し、篠山市街地に入りました。「丹波篠山のお菓子の里」で昼食にしました。
ここで、長男一家から届いたエアーメイルを読みました。「hello2020」と書かれた写真はがきで、りょうくん6才の小学校制服写真・ストーンヘンジ前で撮った家族写真・その他孫達写真が並んでいました。
宛名などが書かれた表面には、りょうくんの「おじいちゃん、おばあちゃん、またイギリスにあそびにきてね」の言葉がありました。お嫁さんの「ロンドンにも是非遊びに来て下さい。アメリカとはまた違って楽しいです。今年もよろしくお願いします」も書かれていました。家内に「返事書いといてね」と言われ、LINEで返事をしました。
1.35パウンズ+20ペンスの2枚の切手が貼られていました。ポンド円ルートを見ると141.48円だったので、219.294円がはがき郵送費でした。表面に受付印「Royal Mail supporting youth mental health with ACTINO FOR CHILDREN」が押されています。日本の年賀状で言う寄付金付きはがきではないかと思い調べてみました。
『ロイヤルメールグループ
Action for Childrenは、Royal Mailとの新たなパートナーシップを結んでいます。2017年6月から、ロイヤルメールとの新しいパートナーシップは、英国全土の13〜19歳の予防的で学校ベースのメンタルヘルスプログラムのために200万ポンドを調達することを目指します。私たちは、うつ病やその他のメンタルヘルスの問題を発症する危険にさらされている数千人の若者に働きかけ、彼らが必要な助けを確実に得られるように願っています。
アクション・フォー・チルドレンの最高経営責任者であるトニー・ホークヘッドirは次のように述べています。
「平均して、英国のすべての教室には、診断可能な精神衛生疾患を持つ3人の子供がいます。早期に行動すれば、これらの病気が残りの生涯にわたって壊滅的な影響を与えることを防ぐことができます。 Royal Mail Groupの新しいチャリティーパートナーに選ばれました。
「私たちのパートナーシップにより、全国の地域社会で予防学校プログラムを実施できるようになり、数千人の若者が予防可能な長期の精神疾患を経験するのを防ぐことができます。
成人期(認知症を除く)の精神的健康問題の半分以上は14歳までに発生することを知っています。それにもかかわらず、公共支出は、早期の介入よりも危機に対処することに焦点を合わせています。若者のメンタルヘルス問題への取り組みは、英国全体で大きなニーズです。
私たちのプログラムは、6週間にわたって8人の若者のグループで集中的に機能します。スタッフは認知行動療法のテクニックを使用します。スタッフは、若者が直面する現在および将来の課題に対処するためのツールを提供します。
地元の学校や大学に拠点を置く私たちのパートナーシップは、最も必要としている若者を支援することに焦点を当てています。
Royal Mail GroupのCR&Community Investmentの責任者であるLily Heinemannは次のように述べています。
「精神疾患は、今日私たちが直面している最も深刻で困難な健康問題の1つです。各教室の約3人の若者が診断可能な精神衛生問題に苦しんでおり、自傷による病院への入場者は約70人増加していますだからこそ、Royal Mailが今後3年間Actionfor Childrenと提携し、若者がうつ病やその他の精神的健康問題を発症しないように協力することを発表できることを誇りに思います』
やはり、チャリティー付きでした。アメリカ在住時も、小児がんチャリティーマラソンに家族で参加していました。欧米キリスト教圏は、チャリティー文化です。「郷に入れば郷に従え」ですね。
「りょうくんの字が、上手に綺麗になった」と、家内が誉めていました。
帰宅後、長男のお嫁さんからLINEが入りました。次男宅から1日遅れで届いたので、「無事にカード届いて良かったです」と。「りょうくんは何も言わないと何でも英語で書くようになっているので、日本語もしっかり定着するよう努力の日々です」だそうです。ウィークデイは現地小学校2年生に通っているので、家を出ると英語生活の中で育っています。日曜日だけ日本人学校1年生に通っています。日本語も英語に負けないように上手に読み書き読解出来るようになって欲しい。
この日も「箱根駅伝」を車の中で聞いていました。帰宅後は、昨日同様読売TV見て、優勝校インタビューなどを見ました。


2020/1/2
朝食を食べながら読売TVを点けると、箱根駅伝番組が始まっていました。8時スタートなのに盛り上がっています。昨年の御代替わりで天皇皇后両陛下が、ご報告に上った橿原神宮に参ることにしました。僕は子供の頃両親に連れられて参った以来で、家内は初めてです。遠い伊勢神宮は何度も参っているのに・・・。
8:11、近所の御用達SSで給油。R171〜中央環状線〜近畿道〜南阪奈道路〜R169で「橿原神宮」。混んでいるかと思ったら、9:24神宮内の無料Pに駐車できました。参道両側に沢山並んでいるテキ屋で、ミカサを食べました。つぶ餡の他にクリームなどいろんな物が挟まれており、いろいろ選べます。家内と別の物を注文し、食べ比べしました。
神門を入ると、「紀元2680年に因み2680膳の延寿箸を無料授与致します」の行列が目に留まり、2人で並びました。可愛い巫女さんから授かりました。きっとアルバイトなのでしょう、「しっかり目を見て渡してね」が徹底されており、「ようお参りいただきました」の言葉と視線にちょっとドキリとしてしまいました。広い境内にテントが張られており、中を覗くと「神武天皇御一代記御絵巻/上中下之巻/作者谷本蘇牛」がパネルになって貼られていました。内神紋をくぐると、内境内があり、拝殿以外は皆社務所の御守・破魔矢・御札などの授与所でした。参拝の方が多いのでしょう。交通安全八咫烏ステッカー・木製御札・肌守護を授かりました。ステッカーはバイクに、御札は屋敷祠に、肌守護は今年大学受験する姪に贈ろうと思います。帰りにトイレに行くと、その建物の奥に広い池がありました。
車に戻り、近鉄岡寺駅へ。10:44、駅前にあった「牟佐坐(むさにます)神社」に参ります。『祭神:高皇産霊命・孝元天皇 日本書紀天武天皇紀は、安康天皇の御代 牟佐村(現見瀬町)村主・青の経営であった。当時の祭神は生雷神(即ち雷公)であり、江戸初期まで榊原(境原)天神と称されていた。享保の頃に菅原道真公を祭神とした。明治に至り、古道再び明らかにと天津神である高皇産霊命を奉祀して今日に至る。境内は孝元天皇の即位された宮地と伝えられている』
10:56「岩椋神社」。地形的に古墳の上に建てられた神社ではないかと思う。『鳥屋町南西、船付山集落の西に鎮座。もと倭 彦命身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)墓の上にあったが、明治20 年(1887)の陵墓治定により、現社地にあった八王子社の社地に移して八王子社を境内社と した。祭神は石椋孫命・天児屋根命・倭彦命。旧村社。一説に「延喜式」神名帳高市郡の「巨勢山 坐石椋孫神社」にあて、「大和志」には「巨勢山坐石椋孫神社在鳥屋村東南、今称巨勢春日」とみえるが、 巨勢と称した地域は、南方の旧葛上・高市郡境 の巨勢谷一帯をさすと考えられている』
再び「橿原神宮」周辺を走ると、渋滞が発生していました。出発が1時間遅かったら渋滞にはまっていました。11:39「神武天皇陵」。初代天皇陵としてとても重要な天皇ですが、他の天皇陵同様駐車場が小さく10台分しかありません。10台あるだけで希少価値ですが・・・。天皇陵の参拝者は少ないので、きっとここに置いて隣にある橿原神宮参拝に行かれているのでしょう。天皇陵なんて、見るべき所はほとんどなく、ただ手を合わせるだけだから・・・。僕の母方の先祖は遠く遡れ、天皇家から遠い先祖で繋がっているとわかっているので、天皇陵があると参りたくなります。ただ日本人の殆どは、先祖を辿れば源平藤橘に繋がるらしいので、殆どの日本人の遠い先祖が天皇家で、遠い本家とも言えます。こういうことを知るたびに、天皇継承は遠い過去から綿々と続けられている男系継承で続いて欲しいと思っています。
天皇陵は内堀に守られ、神明式の立派な鳥居がドンと稜に向かって正面しています。正月三ヶ日特別拝観として、外門が開かれ、内鳥居間近まで入れました。敷き詰められた砂利が整然と砂紋のように掃かれており、気持ち良く参れました。宮内庁職員さんの日頃の努力を感じます。
帰路に着きます。13:14、自宅近所のヨット部先輩のお店・太鼓亭で昼食にしました。かつては讃岐うどんセルフスタイルのお店でしたが、うどんも少しありますが、讃岐うどんスタイルのお蕎麦のお店「そば太鼓亭」に変わりました。僕は「玉子あんかけ490円+かき揚げ150円」+家内は「肉もり590円」=1353円。お腹いっぱいになりました。
車の中でずっと箱根駅伝のNHKラジオ放送を聞いていました。帰宅して、トップフィニッシュした後でしたが、読売放送TVを見て1日が終わりました。


2020/1/1
元日の朝を迎えました。4時過ぎに目を覚まし、自室でゴソゴソして6時過ぎに階下に降りました。既に家内が家事をしており、ダイニング・キッチンのドアを開けて、「あけまして、おめでとうございます。今年も宜しくお願いします」の挨拶をして新年が始まりました。家内はお化粧中で、「初詣行くよ」。「行く行く、何処?臂岡天満宮?」「うん、帰りにコンビニで食べて帰りたい」「わかった」。慌てて着替えて、外に出ました。我が家の氏宮・天満宮は、初詣の混雑は解消したようで、混んでいませんでした。過去一度、子供たちが小学校の時、両親を加え6人で夜中0時に詣でたことがあります。参拝行列の列が長く出来ており、10分以上並びました。
お参りを済ませ、近所のローソンに向かいました。「マチカフェ」看板が上がっていましたが、もう一回り広いもう一つのセブンコンビニに入ることにしました。8:17セブンに入り、「薄皮ふじりんごカスタード156円+こだわりたまごサンド220円+カフェ高級キリマンジャロホット102円=516円」購入し、イートインしました。椅子に座って食べながら、「消費税10%になるんじゃないの?」と家内から。レシートを見ると8%でした。「あと2%下さい」なんて言えないでしょう。どうなるか放っておこうとそのままにしていると、やはりスルーでした。お店の人だって、あとから「2%下さい」なんて税務署の片棒担いでお客さんから不評を買うことなんてしないでしょう。
帰宅して、家内の要望「オムライス食べたい」に応え車に乗って「新名神・宝塚SA」に向かいました。ウェルカムゲートから入り、フードコートに向かいます。家内がオムライスの食券を買いに言ってる間、僕はお茶を2つ用意しました。オムライスのお店は開店前のようで、家内は残念がっていました。9時からだって。家内の好きな「ふわっふわオムライス」の店に行ってら良かった。
9時になりお店は開きましたが、お茶で満腹になったようで、「もういい」だって。この新しいSAは、宝塚というちょっとおしゃれな響きがあるからか、売店に並ぶお土産の品揃えがナイスで好きです。24Hオープンのようなので、コーチしてるヨット部の練習に参加する時、ここまで来て女子マネさんへのお土産買ってから行くことにしましょう。7時以降に名神走る時は、桂PAでお土産買って行くのですが、品揃えが少なくバラエティーに富まずイマイチでした。
帰宅して、届いた年賀状の整理をしました。未発送の方に追い発送して、住所変更の訂正もしました。DVD映画「はなみずき」を2人で観て、夕方お風呂に入りお昼寝しようと布団に入ったらしっかり寝てしまい次起きたらもう2日になっていました。

家族LINEのやり取りがありました。
僕が、「天満宮に初詣しました。2月のお〜ちゃんの初宮参りの日程決まったら教えてね。予約します。リスボンからロンドンに戻ったかな?」と入れたら、次男のお嫁さんから、「初宮参りは次男と相談して連絡します」の返事がありました。10/30に生まれた次男の長男の初宮参りは、自宅のある埼玉でするのかな?と思い、「そっちでするなら2人で行きます」と以前連絡したら、「お正月は帰省せずに、2月に伊丹に帰省して氏宮でする」と次男から返事をもらっていました。
「昨日、お兄さん家族から可愛いポストカードが届きました。すーちゃんがとっても喜んでいました」とのこと。ロンドンからクリスマスカードが届いたようです。
写真も添付されており、車に乗っている家族写真で、木更津に向かっているようです。東京湾横断道で横浜と結ばれた千葉県の地ですね。何をしに行くのかな?長男のお嫁さんからも、LINE写真が届きました。カードは我が家向けにも出したようで、数日中には届きそう、楽しみです。クリスマスイブに、アメリカから会社の先輩家族が来て、2日間ロンドン観光、その後みんなでポルトガル旅行し、大晦日にロンドンに戻ったようです。
「ポルトガルはロンドンとはまた全然違う雰囲気で、街全体がとても素敵でした。日本との繋がりも深いので、親日の人が多く、優しくしてもらえていい旅になりました。りょうくん6才・こうちゃん3才は、先輩の子2年生といつも一緒にはしゃぎ、すごく楽しかったようです」とのこと。
写真を見ると、レトロな可愛い路面電車が走り、レンタルバイクの横に同じ赤いカラーのキックスクーターが並んでいました。レンタルキックスクーターがあるのか〜と驚きました。ルーカスくん1才がしっかり歩いており、お盆に帰省し初宮参りした時会った時から、すっかり大きくなっています。高台から見るリスボンの景色は、屋根色が煉瓦色に統一されておりとても綺麗です。長男夫婦のツーショット写真がありました。横で子供たちが3人遊んでいますが、ベストカップルだな〜。先月次男宅にお〜ちゃんに会いに行った時も感じましたが、お嫁さん達はますます綺麗になっています。配偶者と家族を持ち、子を生み家族を大きくし皆の生活環境や食事を整えている自分への自信が、表情や行動に余裕を持たせ、幸福感から内面の美しさを表に感じさせているのでしょう。お嫁さんや子供たちを笑顔いっぱいにさせている息子たちも立派なものです。お嫁さんたちの楽しそうな笑顔を見ると、こちらまで嬉しくなっちゃいます。
ホテルのバルコニーで撮った写真は、芝生の広がる広い庭がバックで、ゴルフ場なのかな?と思うほどです。長男はゴルフ好きなので、先輩と2人で朝ゴルフするためにこのホテルに宿泊したのかもしれません。大聖堂をバックにしたり、中からの写真は、ヨーロッパと言う感じです。
地面に世界地図が描かれ、日本の場所に1541と書かれています。ポルトガル人宣教師初来日?ポルトガル商船の種子島への鉄砲伝来?と直感したが、ポルトガルの日本発見の年号だそうです。港にある巨大帆船モニュメントは、かつて世界の海を席巻したポルトガルの栄光を誇っているようでナイスでした。帆船に乗っている男たちにはザビエルもいるそうです。
調べたら、リスボンにある「発見のモニュメント(Padrao dos Descobrimentos)」でした。船を模した帆船モニュメントには30名のポルトガル人像が乗っており、フランシスコ・ザビエルの他に、エンリケ航海王子やインド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマなども乗っているようです。
同じくリスボンの「ベレンの塔」をバックにした写真もありました。Google mapで見ると、「ベリンの塔」と「発見のモニュメント」は近くにありました。孫が幼児の頃から世界のいろんな場所を見聞出来てとても嬉しいです。長男に、「せっかくの海外勤務だから、盆正月に日本に帰省なんてせず、いろいろ見聞したらいいよ」と言った甲斐があります。
りょうくんとこうちゃんの首には、弟の娘から夏にもらったカメラが下がり、自由にカメラに収めているようです。どんな写真を写しているのか興味津々です。ポルトガル旅行は、リスボンとポルト2つの港町を巡ったそうで、どちらもとても綺麗な街並みで、子供たちもパシャパシャ写真を撮っていたようです。気温はロンドンに比べるとだいぶ暖かく、最高気温18℃くらいで、ロンドンと違い快晴だったのが感激だったようです。こうちゃんが、「なんでお空が青いの?」とお嫁さんに聞いてきたそうで、毎日白い空のロンドンとは大違いだったそうです。お嫁さんは新潟市出身なので「白い空でも快晴」が慣れているのでしょうが、阪神間で生まれ育った僕には「白い空は曇り」です。次男が学生時代オランダで冬の1〜2ヶ月過ごしましたが、帰宅して第一声が「オランダは毎日曇りで、青い空を見なかった。レンブラントの生家にも寄ったが、レンブラントやフェルメールの絵画のタッチはこの天候故だとわかった」でした。ゴッホのやけに明るい色彩も、この天気の国で育ったがために南フランスやスペインの陽光の煌めきをより以上に感じる感性から来たのでしょう。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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