-ウェブマスター日記 2019/11-12

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2019/12/30
高校ヨット部同期を中心に、KGJH・KGH同級生を加えた年末恒例の忘年会でした。18時から、阪急西宮駅北にある「アクタ西館」にある中華料理屋さんに集まりました。17時過ぎに仕事場を離れ、「通勤リード110」で向かいました。30分前に着き、3時間無料Pにバイクを置きお店に入りました。僕が1番着で5分ほど待っていたらお店の予約をしてくれたO君がやってきました。
お店に入る前アクタ内を探索しましたが、駅前再開発で地上げされた地権者のお店が集まっている風でした。各地によくある再開発後に出来た商業施設です。高校ヨット部の同期3人、高校サッカー部センターフォワードO君、Sくんの5人が集まりました。僕だけが大学でも体育会に入りスポーツをしていましたが、他はウインドサーフィン・ディスコなどの遊び仲間です。
今年秋に亡くなったヨット部キャプテンSくん&この集まりの一員で2年前に亡くなった高校野球部キャプテンYくんを追悼する献杯から、忘年会を始めました。同期2人は東京から今日帰省してきたそうです。Oくんは商社子会社社長さんですがアルコール好きでグルメです。僕の門外漢のウイスキーや日本酒の話題が、Oくんと僕と組んで国体に出場したYくんがリードしてあ〜だこ〜だ。
元サッカー部Oくんは走ってなんぼのスポーツなので、今でも走るのが好きです。「膝に来ないの?」と聞くと、「もうボロボロや」だそうです。丹波篠山で今秋見た兵庫県高校駅伝大会の話の続きで、亡くなったYくんとよくマラソン大会に出場していたSくんに「まだ走ってるの?」と振ると、10kmぐらい走るのだとか。マスターズマラソンのベストタイムを持ってる人は、皆50才以降に走り出した方で、マラソンは始めて10年まではタイムが伸びるのだとか。だから、僕のように走らない人が始めると「速くなるよ」と勧められた。僕は、「マラソンは膝に来るからロードバイクにしたら?」と自転車を勧めたのに、反対にマラソンを勧められてしまいました。
20時にお開きになり、2次会に流れた。次のお店に入るまでついて行こうとしたが、なかなか決まらなかったので、アルコールが飲めない僕は退散しました。バイクに戻り、R171で21時頃帰宅しました。


2019/12/29
家内もお休みなので、映画を観に行くことにしましたが、良さそうなラブストーリーやハートウォーミングストーリーがありません。クリスマス時期なのにな〜。でもスターウォーズ最新版の上映が始まっています。これは観に行かねば・・・ところが家内はパスとのこと。第1作は、主人公ルーク・スカイウォーカーが宇宙征服を目指す帝国軍に対抗するレジスタンス軍の戦士として、帝国軍の野望を潰す簡単なストーリーでしたが、その後帝国軍の誕生に遡ったり、ルーク以降のストーリーだったりするので、流れがよく掴めなくなったようです。
スター・ウォーズは前作観ています。長男も好きで、彼の三男・僕の孫くんにルーカスというミドルネームも付けています。仕方なく、僕1人で観に行くことにしました。11:50から上映なので、その前にお正月のお墓参りに行くことにしました。
6:30に車で家を出て、家内の実家のお墓参りしました。山陽道で戻り、新名神に入り、初めて武庫川上流上の新名神を走りました。北宝塚SA併設のスマートICで下車し、r33〜r319〜r12で我が家のお墓へ。ここで、正月明けに墓参りに来るであろう弟と息子たち夫婦と組んでる我が家グループLINEに写真と「お墓参り中」のメッセージを流しました。
帰宅して、「通勤リード110」に乗り換え、家内を乗せ街中へ。家内は買い物などいろいろするそうです。僕はそのまま映画館に向かい、11:50〜「スターウォーズ9/スカイウォーカーの夜明け・字幕」を観ました。チケット購入機械に向かって愕然としました。なんと、最前列とその次の列しか空いていません。大入りのようです。
前作で、主人公ルーク・スカイウォーカーが、同じジェダイ能力を持つ血を引く暗黒面に落ちたカイロレンに破れ命を落とします。もうひとりのジェダイ能力者レイがジェダイ能力を開花させレジスタンス反乱軍の星となります。
この2人の兄弟による暗闘に加え、破れた帝国軍が先頭大船団を密かに構築し帝国による宇宙の植民地化情報を得た反乱軍が立ち向かう姿が描かれていた。相変わらず面白く、もう慣れてしまった奇抜なキャラクターや戦闘シーンの音響やスピード感がワクワクさせた。ラブシーンはないのに、それを感じさせるハートウォーミングなストーリーが入り涙させます。
https://www.youtube.com/watch?v=VSBrQZVReT4
僕が家内を初めて見たのは、大学1回生の春でした。学食入口がヨット部昼休みトレーニング集合場所でした。学生男子が集まるとやってくる女子の品定めを始めるのが定番です。「今のは良だな」「いや優でしょう、良の上かな」なんて。いつも2人でやってくる女の子がいました。2人共髪が長く、1人はお尻まで、もう1人は腰までのストレートで、こんなに髪の長い2人組は珍しく目立っていました。家内は腰までの方で、とても可愛く僕の評価は「マル優」でした。
同期が彼女たちを知っており、「うちの学部の同じ1回生だよ」と教えてくれました。僕とは別の学部でしたが、「マル優」さんは学部一可愛い子だそうです。僕はすぐに同じ学部一可愛い子と付き合うようになり、紆余曲折ありました。4回生の夏、資格試験受験講座に「マル優」さんも受講していました。「あの娘だ」とわかり、数日目の昼休みに、「一緒に御飯食べない?」って誘いました。
話を聞くと、お尻まで長い髪の娘が僕の中高の同級生と付き合っており、もうひとりの同じ英語クラスの女子がヨット部のマネージャーでした。その子から「紹介してあげようか?」と言われた事があり、その相手がこの娘でした。こんな偶然は「運命」とか「赤い糸」しかないでしょう。「親に一度も叱られたことがない」「3世代で住んでいる」など、「いいな〜」と思うことばかりで、2週間後彼女を実家まで送ってお母さんに挨拶しました。お肉料理で歓待されたこともあり、ドライブデートで彼女の親戚巡りしたりして外堀を埋めていき、2ヶ月後にはプロポーズしていました。
この映画は、いくつものラブストーリーがクリスマスイブに向かってオムニバス風に重なっており、その1つに遠距離恋愛カップル物語があります。僕が就職してすぐに東京勤務になり、僕らも遠距離を1年間やりました。いろんな思いが蘇って来るとても良い映画です。
観終わって、14:52GSで給油し、厚手のカーゴパンツを買おうとワークマンに寄りましたが、ピンとくるものがなく帰宅しました。家内が既に帰宅しており、もらってきたパンフレットを見ながら、見つけた情報をあれこれ教えてくれました。クリスマス的ハートな映画が観れなかったんで、数年前のクリスマス時期に観た映画「すべては君に逢えたから」DVDを、一緒に観ました。一度観たはずなのに家内も僕も見入り、改めて家内に逢えてよかった〜&声を掛けて良かった〜気分に浸りました。
次の予定は、万博公園でのクリスマスイルミネーション鑑賞です。予定の17時に30分遅れたけど、再びバイクにタンデムして出かけました。モノレール「柴原阪大前駅」にバイクを置いてモノレールで万博公園に向かう予定でしたが、50cc以下しか置くところがなく、家内を降ろし家内はモノレールで、僕は直接万博公園に向かいました。2人でそのままバイクで向かう方が簡単なんだけど、「もし何かあれば」を考えできるだけ家内をバイクに乗せる時間を少なくしています。「ららぽーとEXPOCITY」Pに駐輪し、「万博記念公園駅」に着くと同時に、「今着いた」と家内が改札から出て来ました。エキスポシティー・ニフレル前も電飾されており綺麗です。
中国道を陸橋で渡り、エキスポランド中央口から入ります。大人260円の入園料でした。太陽の塔前の広場が電飾されとても綺麗。家内と塔の裏まで歩き、中央口に戻ってきました。塔の裏のお祭り広場では、路上パフォーマンスや屋台がたくさん出て、大きな人だかりが出来ていました。素敵な時間になりました。僕らは夜が苦手なので帰路に着きます。家内は、暗い多車線中央環状線を走るのが怖いと言うので、モノレール〜阪急電車蛍池〜川西能勢口〜バスで帰ることになり、僕はバイクで一気帰りしました。車で来れば良かった〜。


2019/12/28
天気が良いので、丹波市方面の寺社巡りをすることにしました。倉庫から「里山VTR250」を出して、9:14出発。阪急山本駅下をくぐり、長尾山トンネル〜r325〜r33で「西谷農協大池」。北上し、r323で西進し、「半鐘の家」を右折し、r37で北上。「高売布神社」前を通過し、r309を少し走り、再びr37に合流し「小柿渓谷」を北上し「後川下」。通行止めだった林道が通れるようになっており、「永澤寺」に抜けました。r49で「美濃坂峠」を越えて篠山盆地に下りました。
r306の南に並行する枝道を西進し、舞鶴道側道を北上し、r36を経てR176に突き当り、右折して北上。「大山下」で左折しr77に乗り西進しました。以前走った時に気がついた青い建物のカフェに初めて入ってみました。「ちょっと温まっていこう」。
11:44「Route77」。入ってすぐバイクジャケットを脱ぎながら「紅茶ありますか?」と聞くと、「どれになさいますか?」とメニューを開いて下さいました。数種選択でき、ダージリンのレモンティー400円を頂きました。ランチメニューやカレー、ケーキやアイスなどのスウィーツがあり、飲み物とセットすると100円引きのようです。モーニングもありました。室内の席数が多くなく、フリースペースが広く落ち着きました。ティーポットにはカップ4杯分入っており、飲みながら店内にあった絶景紹介雑誌を読み、行ったことない気になった場所をスマホにメモしました。帰宅後、ナビに登録しよう。僕の他に、バイク乗りさんが2人組&ソロさんがおられ、ソロさんは常連さんのようで女性店長さん?とずっと喋っておられました。年内最終営業日だそうで、今年春にOLから転職されて開業されたようです。
「ごちそうさまでした」で外に出て、バイクのエンジンをONすると店長さんが出てこられ見送って下さいました。先に出られたソロさんが去っていく時も出られたので、そうされているのでしょう。
篠山川沿い・r77を西進し、「川代トンネル」2本を抜けました。前回も走ったような気がするが、去年はまだ工事中だったはずです。川沿いの景色の良い道をパスする道で、時間短縮は大きそう。トンネルを出る時に旧道との合流部を見ると太いコーンが並べられており、歩行者・自転車用と書かれていたように思う。東側の合流部にはコーンはなかったので、車両通行禁止区間は全区間では無さそうですが、バイクで通り抜けられないのは残念。
「下滝駅」前を通過し、r77で道なりに篠山川を渡り、12:01「慧日寺」。『国登録有形文化財・慧日寺経蔵 登録年月日・平成26年12月19日 この経蔵は、土蔵で一部二階建・切妻造・桟瓦葺で、切石積基壇上に西面して建っている。南寄りの方四間部分は経蔵、残りの部分は二階建に造り物置とする。経蔵部分は前後二分して、後部を須弥壇に造り厨子状の経箱を置く。
出入口は経蔵部分に設け、四段の石段を備え、入母屋造桧皮葺の化粧屋根を設ける。内部は床板張り、内壁は経蔵部を漆喰壁、物置部を板張りとし、外部は腰板付の漆喰壁とする。経箱は正面一間、側面一間の大型禅宗様厨子の形式を持ち、桧皮葺である。
建立年代は不明である。外見上はかなり新しく見えるが使用されている釘は和釘であり、近代初期を降らないものであることがわかる。寺蔵文書によると文政8年(1825)に一切経を買い求めており、嘉永7年(1854)の境内絵図にも経蔵が描かれていることから、19世紀前期頃に建てられたものと推定できる』
『国登録有形文化財・慧日寺鐘楼 登録年月日・平成26年12月19日 鐘楼は袴腰付で入母屋造、桧皮葺で乱石積基壇上に南面して建っている。腰組は二手先で、雲紋彫付の桁支輪を備える。高欄は擬宝珠付の組高欄とする。 柱見え掛りは円柱に仕上げ、頭貫・台輪と重ね、絵様実肘木付の三ツ斗組にて丸桁を受ける。柱見え隠れは八角形で、貫で繋ぐ、中備は本墓股を配している。軒は二軒繁垂木、妻飾りは木連格子・破風板・鰭付懸魚を備えている。
建立年代は、棟札により元治元年(1864)3月から造り始めて慶応3年(1867)4月に完成したこと、上棟供養を明治元年(1867)10月21日に行ったことがわかる。 この建物は年代が明らかで、なおかつ実肘木や木鼻・墓股・支輪等に絵様彫刻が施されているため、境内建物の年代判定指標として重要である』
『国登録有形文化財・慧日寺方丈(本堂) 登録年月日・平成26年12月19日 江戸時代後期の茅葺入母屋造建造物で、東面して建っている。北側面前端に玄関を構え、南側前端に仏殿へ連絡する吹放し廊橋が接続する。
平面は六間取の前面には広縁、側面に入側縁を設け、その周囲に濡縁をめぐらし、禅宗大型方丈の典型を示している。内陣が近年改造されている他は当初の形式をよく残しており、室中と左右の口の間の蟻壁長押を一連のものとしている。軒は一軒疎垂木小舞竹、妻飾りは木連格子・破風板・拝み懸魚を備えている。玄関は本来切妻造・平入のつなぎ廊下的なものであったが、明治元年の改修によって正面に入母屋造・妻入の式台を付加している。
廊橋は2ヶ所あり、方丈〜仏殿間の南側廊橋は吹放し廊橋で、高欄付きで切妻造、桟瓦葺(北側一部柿葺)。方丈南側前端と仏殿西側中央を連絡している。方丈〜庫裏間の北側廊橋は、高欄付きで吹放し廊橋、切妻造、鉄板葺。方丈北側後端と庫裏東端を連絡する。屋根は鉄板葺下地に海面が残っている』
『国登録有形文化財・慧日寺庫裏 登録年月日・平成26年12月19日 入母屋造、妻入、茅葺の大型庫裏で東面して建っている。平面は方丈柱筋により前後に大別される。すなわち前半部は土間を中心とした空間、後半部は居室部である。前半部は8畳間2室(12畳大の中二階あり)、広庭、典座に三分される。広庭は式台を備えた玄関土間、典座は勝手口を備えた台所土間で、元は側面に浴室が接続していた。
一方後半部は周囲半間幅の庇を廻縁としており、縁外に戸を設ける。内部は南北に大別でき、南側は接客などの公的空間、北側は日常生活空間と考えられる。南側奥室は付書院と床を備えた書院で、中庭および背面の庭園を鑑賞できる。南面には同じく幅広の腰障子をたてこむ。広庭から進んで行く状況は古様を残している。軒はせがい造り・一軒疎垂木、後半部の庇は一軒疎垂木とする。妻飾りは木連格子・破風板を備えている。
寛政2年(1790)および嘉永7年(1854)の境内絵図に描かれた庫裏は、方丈と同じように堂々と描かれており、安永2年(1773)から寛政2年(1790)までの間に建てられたものと推定できる』
『国登録有形文化財・慧日寺裏門 登録年月日・平成26年12月19日 薬医門で、切妻造、銅板葺で東面して建っている。親柱は矩形、前後の控え柱は方柱で、ともに礎石上に建つ。親柱間は冠木で繋ぎ楯および地覆を配しこれらの間に内開き板扉を藁座吊り込みとする。後方の控え柱は頭貫で繋ぎ、梁間方向は梁と頭貫を相欠組とし、内法貫および腰貫を通す。前方の控え柱は梁を直接受ける。梁は桁行柱間の中間にも配し、棟真位置に立てて化粧垂木を受ける。梁先端には繰り形を施し、頭貫鼻には絵様を施す。軒は一軒疎垂木で、垂木上には化粧小舞を打つ。妻飾りには破風板と懸魚を備えている。
屋根は本来桧皮葺であったと思われ、近年の修理で妻飾りとともに改められたと考えられる。建立年代は不明であるが、柱に弘化2年(1845)、文化3年(1806)の札が打ち付けられており、文化3年は降らないことがわかる。また、頭貫の絵様から判断すると享保頃まで遡るとみてよい。享保元年(1716)から文化3年までの間に建てられたと推定できる。境内建物の中で最も古い可能性もある』
森の中の参道を登っていくと、小さいけど瓦葺屋根の山門がありました。『山南町有形文化財 町指定 昭和54年3月13日
絹本着色・仏光国師像1幅 絹本着色・仏国国師像1幅 絹本着色・夢窓国師像1幅 絹本着色・仏印心伝禅師像1幅 木造仏印心伝禅師座像1躯 紙本墨書朱印状7通 山門1棟』
「八百姫髪塚」がありました。謂れ板が立っていなかったので、若狭に伝説が残る人魚を食べて不死になった「八百比丘尼」を連想するだけでした。帰宅して知らべたら、八百比丘尼に関係していました。『八百比丘尼は故郷若狭の空印寺の岩窟に入定したはずの八百姫ですが、丹波の山里慧日寺で天寿を終えたと伝えます。諸国遍歴の折に訪ねた慧日寺中興(寛永19年慶安年間1642-52)の別心和尚のもとに、もう一度参じて訓を受けたいと若狭を旅立ち、慧日寺に在ること数年・椿の花の咲くころ同寺で安らかに天寿を終えました。其の仏心を憐れみ・遺骸を遠く若狭常光寺へ葬送したが、比丘尼が持っていた若き日に仏門に入る為剃髪した際の黒髪を、慧日寺の三門前に埋めたのが八百姫髪脱離墳と伝えられます』
これを読んで、訪問したことのある空印寺の八百比丘尼の墓と直結し、ニヤリとしちゃいました。八百姫髪塚の横に「脱離墳」と書かれた石碑の写真を見ながら、「これか〜」と・・・。八百比丘尼伝説では800年生きたそうです。そこまで生きたとは思えませんが、100才超えとか長寿だったのではないかと想像しています。西洋ヨーロッパでは長寿は魔女の専売特許ですが、金さん銀さんのように意外に人気のあった女性ではないかな〜といろいろ想像が膨らみ、僕の中ではランドマーク的な女性です。
『萬松山慧日寺(えにちじ)略縁起 当寺は、永和元年(1375)特峯妙奇禅師(勅謐佛印心伝禅師)によって開創された。 特峯禅師は仏国国師(高峰顕日:後嵯峨天皇の子で那須雲巌寺開山)の法嗣であり、天龍寺開山夢窓国師とは兄弟弟子である。その為天龍寺とも盛んに往来があった。当時は18ヶ寺の塔頭寺院(山内寺院)と46ヶ寺の末寺が有り中本山として栄え、修行僧が雲集したと云われている。 開基は管領細川頼之・頼元親子である。
天正3年、明智光秀の丹波攻めの兵火に遇いほぼ全焼し、寛永元年より大愚禅師(初中興)によって復興にかかったが、同19年京都妙心寺より別心禅師(中興)が入山され完成する。この頃より、妙心寺の末寺となる。寛文7年、再度堂塔を全焼する。現在の堂塔は、寛文12年より元禄15年頃にかけて建てられたものである。
佛殿及び仏光国師・仏国国師・夢窓国師・特峯禅師の頂相(画像)が県の重要文化財に指定されている』
『市指定文化財・慧日寺山門 指定年月日・昭和54年3月13日 慧日寺は、室町幕府の管領であった細川頼之とその子頼元を開基とする。多くの塔頭寺院・脇寺院があったが、天正3年(1575)、織田信長の丹波攻略に伴い明智光秀率いる軍勢の兵火で焼失した。江戸時代になって、妙心寺の別心禅師により、寛永年間(1624〜44)と慶安年間(1648〜52)に、堂宇再建の事業が進められた。さらに寛文7年(1667)に火災にあうか、翌年妙心寺の生鉄禅師がこの地を訪れ、再建に全力を注いだ。
山門は、桁行14.25尺・梁間11尺の四脚門で、切妻造・桟瓦葺で東面して建つ。親柱・控桂とも円柱で木製礎盤の上に建つ。
軸部、組物の一部等その骨格は16世紀後半のものがのこるが、後世大きな改変を受けたと考えられ、屋根瓦の獅子口にある文政9年(1826)の箆書(へらがき)がその時期に該当すると思われる』
山門をくぐると、檜皮葺屋根の立派な建物が数棟(仏殿・鐘楼・庫裏)建っており、ここは当たりだ〜と喜んじゃいました。
『県指定文化財・慧日寺仏殿 指定年月日・昭和60年3月26日 慧日寺は、永和元年(1375)細川頼之が建立し、その弟特峯(とくほう)禅師を開山とする。 
仏殿は、石積の基壇に立つ桁行1間・梁間1間・一重裳階(もこし)付・桧皮葺の建物で、元禄15年(1702)3月に再建上棟された。
身舎の組物は禅宗様式三手先(みてさき)の詰組で、二軒扇垂木としている。扉は桟唐戸でその左右に花頭窓がついている。 内部の天井は、内陣が鏡天井で古かんの作と伝える龍の絵が張りつけられ、周囲は化粧屋根である。須弥壇も禅宗様式で、釈迦三尊像(室町時代と推定)を安置し、床は土間でせん敷になっている』
バイクに戻り、12:20「大歳神社」。「慧日寺」と近いけど、3度目日4度目の訪問です。石鳥居の下で地元の方が、門松などお正月飾りをしておられました。何度見ても立派でカッコ良い檜皮葺き屋根の本殿です。
r77を走り、12:31「常勝寺」。長い石段が続いています。これはちょい寄りではダメだな〜、困ったぞ〜。アッパを催しちゃって、先にそっちをスッキリさせることにしました。駅に行けばトイレはあるだろうと、JR加古川線・久下村駅に向かいましたが、プラットホームだけで駅舎がなく、勿論トイレもありませんでした。隣の「谷川駅」に向かい、12:53お腹をスッキリさせました。
13:09、再び「常勝寺」。石段を上り、朱色の山門へ。左右に阿行吽形の仁王像が守護していました。更に長い階段が目の前に続いています。『竹林山・常勝寺 当山は孝徳天皇の大化年間(645〜650)インドより渡来した法道仙人によって開基された。永保年問(1081〜1084)天災を被り、諸堂宇悉く焼失した。その後、泉州槙尾山の浄意上人が来山して、本堂はじめ諸堂を建立されたがその年月は不詳。往古は120余の堂房蔓をつらね、善美を尽くしたが、天正3年(1575)兵火にかかり、堂宇残らず焼失した。慶長13年(1608)の記録には、慈眼院をはじめ10箇坊の名を記している。当山住僧智光法印堂宇中興造営のところ、中途で遷化。その後、時運至らず空しく星霜を重ね、大塔中堂は中絶し、ご本尊等は山麓の里坂本の小宇に安置し、里人がこれを護持した。後元禄10年(1697)良海法印により再興。丈久元年(1861)まで慈眼院ほか4箇院の名がみえるが、以後は慈眼院のみで、現在に至る。
国指定重要文化財:千手観世音菩薩立像(銅像)・薬師如来坐像(木像)
市指定文化財:敷曼茶羅2枚・追難(鬼こそ)用具一式
鬼こそ:2月11日
御詠歌:利生常に勝るる寺の観世音 二世の願いを満ててたまわれ』
長い石段の左右に苔むした小さな石祠が並び、祠の中には石像が安置されていた。南天の赤い実に彩られた石祠もあり、苔と鮮やかな赤い実が室町侘び寂びの素敵な配色に感じました。日蓮宗タッチ文字の南無阿弥陀仏が刻まれた石碑があった
本殿郭まで上がると、朱色の本殿が正面に建っていた。蟇股や木鼻の彫刻が細かく刻まれていた。参拝しようと賽銭箱を見ると、パンフレット100円・絵馬300円が自由に授かれるようになっていた。お賽銭を400円にして両方とも授かった。絵馬には、「赤鬼青鬼七難即滅七福即生鬼こその寺」と書かれていた。
本殿横に弁天池があり、梵鐘が下がっていたのでボ〜ンと煩悩を払わせて頂きました。境内の奥にチョロチョロ水が流れ出す所があり、小さな祠の中に不動明王がおられた。ただ不動明王の怒鬼面ではなく可愛く、素戔嗚命にも見える。石段を下っていくと、上りでは気づかなかった大銀杏があった。秋色に染まる黄葉を想像してみた。
帰路に着きます。r77で篠山盆地に戻り、r97〜r36〜r299〜r306。r49で「美濃坂峠」を越えて三田市に入り、r308で青野川沿いを下り、千丈寺湖畔を走りr49〜r68〜r33〜r325で長尾山トンネルを抜け、大阪平野に戻り、15:40帰宅しました。


2019/12/27
母校ヨット部の1学年上の忘年会です。最寄り駅でICOCA2000円追加し、大阪駅に出て、16:30。梅田東通り商店街にあるお店に着きました。「開店準備中」の看板が下がり、「おかしいな〜」と思い、17時に開店したので「ごめんください」と入っていったが、「予約を聞いていません」とのことで愕然としました。お店を間違えたと思い、メールくれた同期に電話すると、「19時からやで〜、もう着いたん、グハハ」と笑われちゃいました。
2時間あれば帰宅して出直せますが、阪急梅田駅1Fの紀伊國屋書店で時間を潰すことにしました。「スポーツコーナー」が目に入ったので、平積みを見ていると、青山学院陸上競技長距離部監督・原さんの著書「フツーの会社員だった僕が、青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉/原晋」に惹かれ、手に取りました。隣に、奥様の著書「フツーの主婦が、弱かった青山学院大学陸上競技部の寮母になって箱根駅伝で常連校になるまでを支えた39の言葉/原美穂」も平積みになっていました。
競技は違えど、僕も大学体育会運動部のコーチをしているので、なにかヒントになればと立ち読みを始めちゃいました。これがツボにはまり、読むのが止まらなくなっちゃいました。
長距離陸上部の名門・広島世羅高校を卒業した原さんは、高校駅伝2位の実績で中央大学に進学しました。でもやる気がイマイチ出ず、インカレ5000m3位のご自身にとっては不本意な成績で卒業されます。スポーツ実績で就職した中部電力陸上部でも怠け癖が出て、5年でクビになり、仕事メインの生活になります。
最初は入社から仕事していた同期に当然ながら遅れを取り、次々に左遷されクビ一歩手前まで落ちていったそうです。ここで営業が花開き、部署トップ・社内トップの営業成績で次々に栄転して行きました。
そんなこんなで自分への自信を取り戻した頃、青山学院から「陸上競技部長距離部門の監督」依頼が舞い込みました。迷ったが、「3年後に箱根駅伝出場」を条件に転職に至ったそうです。でも3年では条件を満たせず、学校幹部にプレゼンテーションして更に1年の猶予をもらったそうです。
ここまで読んで、時間となりました。原監督さんは箱根駅伝を4連覇し、コメンテイターとしてTVでよく見るようになりました。そのコメントが、かつての体育会の「しごき」「上意下達」のイメージを払拭するもので、「選手自身・部員自身が自ら試行錯誤して目標を目指す」という僕のコーチング姿勢と同じで心地良く、一気に読んでしまいました。続きは家に帰って読もうと読みかけのその本を持ってレジに向かうと、30人は並んでるんじゃないの?と思えるような長蛇の列で、他の場所にあるレジも同じで購入を諦めました。我が家の御用達書店にお願いすることにしました。
東通商店街のお店に戻り、ヨット部の忘年会に参加しました。1つ上の学年の年2回の集まりですが、僕の学年7年のうち5人が揃いました。上の学年6人のうち5人。更に1つ上の学年から1人。隣の艇庫だったKon大の1つ上の代2人の総勢13人で、昔ばなしから今話まで盛り上がりました。KonのNogさんは卒業後ヨット部監督を長くされており、僕の母校コーチ時代と重なっていました。僕はヨット雑誌を持参し、同期や先輩方に見せて「今年の優勝」を宣伝し、半ば強引に祝って頂きました。
2時間経過しお店はお開きになり、1学年上のMさんが宿泊している新阪急ホテルのラウンジに移動しました。僕はアルコールを飲めないので失礼し、12時頃帰宅しました。


2019/12/22
ホームポートで、3人乗りレーシングヨットのマスト倒し作業&忘年会の日です。朝何時に集合のようなことはありませんが、9時ごろから作業が始まるのが恒例です。このヨットには、大学ヨット部の先輩方とチームを組んで乗っていましたが、2年前に別の先輩のチームと合併してからチームを離れ乗っていません。同じ先輩方とクルージング艇を共同運用しているので、メンバーが足らなくなれば声がかかります。
8時に家を出て、家内を病院に送ります。膝が痛いと時々尼崎の整形外科に通っています。そのまま南下して、阪神高速神戸線の高架下道路R43を西宮に向かいます。一番外側の車線を走っていると、1つ内側の車線をバイクが3台走っていました。先頭車のライダーがサンタさんの服装でした。信号で共に先頭車として止まりました。
彼のバイクなどを興味深く見ていると、彼がこちらを向いたので思いっきりの笑顔を向けました。そしたら、左手の親指で「Good」サインを送ってきました。それに呼応して窓を開け、「クリスマスプレゼントの配達中ですか?」って声を掛けました。背負っているリュックを指差しながら「いや〜、残念ながらプレゼントは入っていないんですよ〜」。「僕もバイクに乗るので・・・」とかいろいろお喋りし、信号が青になったので走り出し、僕が左折したので別れました。
9時頃ハーバーの陸置きバースに着くと、Oonさんと時々メンテナンスしてもらっているMatsuさんがレース艇のカバーを外していました。僕も脚立でレース艇に上がり、あれやこれや手伝いました。来春までのシーズンオフ期間、マストを倒して冬眠に入ります。毎年やってる作業なので皆さん慣れたものです。隣のJPN28も同じ作業中です。
こちらの方が先にマストを倒す準備が出来たので、ステイを全て抜いてマスト倒し櫓をデッキ上にセットします。さあこれからという時に、いきなり隣の艇のマストが倒れてきました。「倒れる、支えろ」の大声が響き、下にいた数人が隣の艇に上りマストが倒れないように支えます。僕も脚立で下の降りて隣に上がりマストを持ちます。
「マスト折れた」の声がマスト下部を持ってる方から聞こえてきます。マストは3方からの支えワイヤーを外しても、ステップがボトムにあり、デッキの細い穴を貫いているので倒れるはずがないので不思議です。「何処で折れたの?何故?」。当方のマスト側に倒れて来ましたが、幸い接触はなかった。
当方のマスト倒し櫓を急遽移し替えて、ゆっくり折れたマストを抜いて地上に降ろします。デッキの高さでポッキリ折れていました。切り口を見ると、長年使っていたので経年劣化でクラックが入っていたようです。左右のサイドステイで強いテンションで引っ張ってマストをまっすぐ立てていたからか、左のテンションを抜いた時点で右のテンションが強く右にマストを引張り、デッキのマストサポートの穴を支点に右に引っ張られて折れたようです。「あ〜、仕方ないね、新品フルセットを買えば80万で、この艇種のビルダーはヨーロッパにしか無いので、輸送費や税金を含めると120万ほど掛かるそうです。オーナーはどうするのかゆっくり考えるとのことですが、中にアルミの素管をいれてリベット固定する方法もあります。当方の1つ前のマストもこの方法で直して使っていました。
当方のマストを倒し、作業終了。S先輩と僕は、係留艇の年末大掃除に向かいました。船からケルヒャー高圧洗浄機を出して、ボトムやデッキを掃除しました。デッキブラシも使いゴシゴシ。レースメンバーである日大OB・Hさんがやってきて、S先輩と共に船内の掃除をしています。救急箱の薬が期限切れになっており、「頼むわ」と廃棄・補充が僕の仕事になりました。
MatsuOさん、母校後輩のSawaくんもやってきて、お鍋を出して忘年会の準備を始めました。ShigetomさんからHさんに電話が入り、野菜・調味料・皿・鍋の具材を買いに行ってくれました。OB会長・I先輩と母校GM・S先輩が、同期の2人がハーバーに来られたようで、センターハウスで話し合いに出て行かれました。母校ヨット部の運営の話でしょう。当方ヨット部の幹部連です。
3人になり、Sくんのお嬢さんの話が出ました。僕の孫娘3才の可愛らしさを話しSくんに話を振ると、父娘のお食事会に、「もう一人連れて行ってもいい?」と言われ、BFさんと3人で食べたのだとか。「娘はあれとしても、なんでアイツに飯おごらなあかんねん」とキレ気味・・・。これが年頃の娘を持つ父親の正当な姿なのかも・・・。僕はお嫁さんたちから「父の日プレゼントを頂く幸せ」しか知りません。
ライバル校OB・Oonさんがやってきて、奥さんの母校・神戸女学院にある学校公認の「仲人システム?会」の紹介がありました。中高大の学校ですが、多くが別の大学に進学します。Sくんの奥さんも神戸女学院のようで、その「?会」のスタッフをやってるそうです。「?会」は、「お嬢さんのご結婚は?」なんて電話を掛けて、ええとこのボンを紹介するんだって。Oさんのお嬢さんが通った聖心にも同じようなシステムがあり、良い後縁があるのだって。
総勢9人集まり、鴨鍋忘年会の始まりです。ヨットの話を中心に、あれやこれや話が弾みました。15時過ぎから天気予報通り、雨が落ちてきましたが、17時過ぎのお開きまで、楽しい時間を持ちました。カッパを持ってきていましたが、それを着るほどのこともなく、土日駐禁OKのハーバー前の道に停めた車まで歩き、R171で帰宅しました。
帰宅すると家内がTVを見ていました。それぞれの今日の出来事をいつものように笑いながら話し1日が終わりました。


2019/12/15
10/30に生まれた5人目の孫・おうちゃんに会いに行く日です。新大阪8:03発〜、東京駅20:20発なので長い1日になりそうです。金曜日は1時就寝・土曜日は21時帰宅と遅くなったので、朝起きれるか不安でしたが、4時前に目が覚めました。
速攻で着替え、4:30に荷物を載せ、家内と「通勤リード110」にタンデムして出発。最寄りのJR駅〜JR尼崎〜JR新大阪。ホームでおにぎりを買い、6:03発のぞみに乗ります。少しでも寝れるよう往路のみグリーン車にしました。リクライニングが深めで、足置きがある。そしてコンセントが座席ごとにあることが違うかな。家内は、早速スマホを充電しています。僕は、スマホをチェックしただけで、また電源を切りました。寝ようと思っていましたが、名古屋まで家内となんだかんだ話して過ごし、家内が寝たので本を読んでいたら寝落ちしました。
8:26、東京駅に着き、駅内をウロウロし、それから京浜東北線に乗り、次男に「今、東京駅から京浜東北線に乗った」と伝えると、「蕨駅に何時に着く?」と聞かれましたが、そんなの調べていません。駅に着いて改札に行くと、次男とすみれちゃんが待っていました。
「久しぶり〜元気だった?」って半年ぶりにすみれちゃんに声を掛けたが、恥ずかしがっています。「あれ〜、何で喋らなくなっちゃの〜」と次男。次男の車に乗せてもらい、9:30次男の家へ。お嫁さんの実家を2世帯住宅に改築して、玄関一緒・1F両親・2F次男宅で住んでいます。前回は、改築後訪問しましたが、その時はエクステリアが完成していませんでした。今回はエクステリアも完成し、建築士らしいかっこいい玄関になっていました。楓の木を植えたそうで、少し朱くなった葉が揺れていました。1週間前は綺麗だったんだけどね、だって。庭の芝生にゴルフボールが集められており、肩の手術をしたお父さんはゴルフが出来るまで回復したようです。玄関ポーチの下に浅い鉢が置いてあり、メダカが泳いでいました。玄関には、クリスマスリース。お洒落な家になっています。
ご両親に挨拶し、2Fに上がります。2Fリビングで家族揃って会話する予定でしたが、お母さんがお風邪を召されたそうで、ご両親はパスになっちゃいました。生後2ヶ月のお〜ちゃんがいるので仕方ありません。お母さんはマスク姿になっていました。お大事に・・・。昼食のお寿司もパスになり、外食になりました。
お〜ちゃんはご機嫌のようで眼をパチパチしながら、僕らを見ています。家内から2人に洋服+ご祝儀、僕からは「岩波こどもの絵本シリーズ」から2冊+絵馬+光るおもちゃをプレゼントします。「スカートをはきたい」すみれちゃんは、早速着替えちゃいました。家内が抱っこし、僕も抱っこ。最初ムズっていましたが、あやしていたら数分で慣れてくれました。すみれちゃんも慣れて、お気に入りのシルバニアファミリーの家を見せて説明してくれました。
「お〜ちゃん命名の儀」を行いました。筆ペンを出してきて命名書に名前を次男が書きますが、「細いんじゃない〜」「そうだね〜」と皆でワイワイしながらあ〜だこ〜だ。お父さんが、「新しいの買ってくるよ」と出て行かれ、買ってきてくださった筆ペンで次男が挑戦しますが、誕生日「年月日」を書くとこに「令和」を書こうと一筆入れた時に、僕が「令和元って書ける?」「あ〜、3文字だった〜」で終了。命名書セットは3枚セットになっています。残るは1枚で、お嫁さんが挑戦し、お嫁さんの字の方が綺麗で勝利。神棚に置く方が決まりました。僕らは破れた次男の書を持って帰り、我が家の仏壇に置くことにします。「ふりがな」書かなきゃと言うと、「私、ひらがなは苦手だから書いて」と次男に振り、次男が書き込みました。「合作完成」と喜んでいますが、これはお嫁さんからのプレゼントですね。小学生時代習字を習っていたお嫁さんの方が上手でしょう。
お嫁さんが入れてくれた珈琲も煎茶も美味しく、カップ&ソーサーもお洒落です。すみれちゃんは上品なお嬢様に育ちそう。お〜ちゃんのおむつを交換し、家内が哺乳瓶でミルクを飲ませました。さすが男の子、グイグイ飲みます。こうちゃんに初めて会った時、グビグビ音を出しながらミルクを飲んでいた時ほど凄くはないですが、食が細いすみれちゃんとは大違いだそうです。僕はすみれちゃんの時どうだったか忘れちゃった。
荷物を持って食事に行きます。ご両親に挨拶して次男の車に乗ります。近くのお蕎麦屋さんでお昼ごはんを食べました。僕は天ぷらセット(天ぷら・香の物・ご飯・お蕎麦)を美味しく頂きました。お〜ちゃんは、騒がしい店内にもかかわらず、スヤスヤ寝ています。チビちゃんなので、お隣さんなどが「いくつ?」「かわいいね〜」と声を掛けて下さいました。
家内が「じゃあ、会計してくるね」と言うと、お嫁さんが「ここは、うちで」となんだかんだやっています。次男夫婦に奢ってもらったようです。
そのまま車で高速に乗り、次男の会社のある千葉県へ。14:30、次男が設計したカプセルホテル(男性専用)へ。先月オープンしたばかりです。その横に女性専用のカプセルホテルが今月完成するそうです。でも今は土台のみで、建物は工場で製作中だそうです。一般建築物とは異なる構造なので、土台も大いに変わっています。
敷地の道路側に、建築基準法による掲示が立っており、設計者・工事監理者・管理主任技術者・資格者証の欄に次男の名前が書いてあります。家内が喜んで、「写真に撮っといてね」と僕に。一級建築施工管理技士という資格があるんだなと知りました。
隣で営業中のホテルに入ってみます。お嫁さんが採用したホテルマンが働いていました。すみれちゃんは、自分で靴を履き脱ぎしています。時間は掛かるけど、2人はゆっくり見ており良い親だな〜と思いました。フロントに鍵を返すボックスが2つあり、「満足」と「不満足」に分かれています。ノウハウを積まないとね。キー付き下駄箱・フリードリンク機械・ゴミ箱・ソフトドリンク機械がコンパクトに揃っています。2Fに上がると、ドミトリータイプの部屋が数字キーになっています。小さなリビングには、壁掛けのTVもありました。電子レンジ・手拭き・台拭きペーパー・ウェットティッシュ・箸etc。カプセルホテルはドアに鍵がかかるとダメなので、カーテンの部屋やブラインドアコーディオンカーテンで目隠しになっています。シャワールームや洗面台・トイレ、スッキリしています。次男は子供の頃からセンスが良く、シュッとしているデザインが好きです。自分の部屋を年に何度も模様替えする男子なので、性格に合ってる仕事だな〜と思いました。
外に出たら、隣の建築スペースに車が停まっており、次男のチームの子が仕事をしていました。「あれ、僕が書いた設計図だよ」と指差した先の車のダッシュボード上に設計図の束が広げてありました。
車で走り、14:45次男が設計した新本社へ。次男が「開けてくるわ」と裏手に回り、中から正面玄関を開けてくれました。大ホールに入ります。会社で使わない時は、外部にも貸すんだって。すみれちゃんが走り回っています。舞台には司会者台が置かれています。次男とお嫁さんの出会いは、会社の創立記念パーティーでの司会とアシスタントの関係から始まりました。グランドピアノも置いてありました。会長からの個人寄付らしい。1200万円だって・・・。創業者利益だね。脇に音響・照明コントロール台もありました。2Fに上がり、火災の際の排煙システムを見せてもらいました。駅近なので、良い立地です。
同じ敷地内にある会長の仕事部屋に向かいます。会長の趣味だそうで、中国風の大きな陶磁器の縦長の大瓶と江戸時代の大きな灯籠が置いてありました。次男がピピピッと開けて中へ。会長の・・・なのにいいのかな〜。会長の競走馬のG1レースを、会長のお供で一緒に応援観戦するぐらいだから、信頼されているのでしょう。ここも次男が設計したようです。
中に入ると、エレベーターへ。トイレを拝借。「MAX3人だから、先に行って」と、僕と家内・すみれちゃんで上がります。週イチで会長とここで飲んでるらしいです。大きなワンルームが会長の仕事部屋で、旧本社にもあるそうです。デスクの他にマッサージベッドが置いてあり、会長付きの社員のデスクが並んでいます。会長は創業者なので、現役の設計者だそうです。マッサージベッドに寝転がりながらスマホで電話し、横のデスクにいる社員の電話が鳴り、声を出せば聞こえるとこにいる社員と仕事の話をスマホでするような茶目っ気のある方らしい。次男の結婚式でお話させて頂いた息子さんである社長さんも、話好きで笑顔の多い若手社員が周りに集まって笑ってる方でした。
コピー機や趣味の陶磁器が並んでおり、別の部屋を開けると、バーになっていました。カウンター席とテーブル席が3つ、バーカウンターの壁に置いてある高いお酒の棚にはそれなりの時だけ使うそうで、日頃はバーカウンター角に置いてある酒を飲むそうです。こちらは誰でも自由に飲めるそうです。壁には、会長所有の競走馬の写真が掛かっていました。G3優勝の記念写真の会長さんが誇らしげです。
次男がカーテンを開けると、テラスがあり利根川外土手が真下にありました。遠くに利根川内土手があり、江戸時代は遊水地として内土手と外土手の二重土手で洪水を防ぐ治水です。日頃乾いてる内外土手の間は、無税や低い税で利用されていました。その代わり、洪水で定期的に流されます。会長が、この敷地を手に入れた時、「ここは俺の・・・」と土手に面した角地を会長棟建築場所に指定したんだって。趣味の壺とか置いてあるけど、すみれちゃんは女の子だからか、走るけどそういうものに手を出すことがありません。我が子達がチビの時は、目を見張ってないと危ない場所です。
車に戻り道に出ようとすると、前の道を1台の車が止まりました。「あ〜、・・君や」。お嫁さんと同期の男女カップルだそうです。次男も道に車を出し、車を降りて「ヤーヤー」。僕も挨拶しようと車を出ます。4人共同じ会社なので、「え〜なんで〜」と笑っています。互いの子供を紹介して笑っています。車に戻ると、次男が「・・ちゃん、会社と全然違った」「でしょう、顔は置いてきた」と言ってたよ。僕から見れば、普通の若い奥さんなのに、会社ではどんだけ化粧を駆使しているのだろう。まつげが3倍とか・・・。
高速道路に乗り、浅草へ。家内が、寒い時期でお〜ちゃんが風邪引くといけないから、早めに帰ろう」と提案があり、「スカイツリーに上がる」などいろんな案が出ましたが、「浅草寺&仲見世に行くから、適当な駅に降ろして」と次男に伝えたら、次男たちも行くことにしたようです。浅草はお嫁さんのお父さんの実家で、お父さん自身今の次男同様、マスオさん状態でした。お父さんは浅草好きで、お嫁さんは子供の頃から浅草っ子だったそうです。
段々、スカイツリーが近づいて来ます。すみれちゃんが「スカイツリー」と、喜んでいます。何度も来ているんだな〜。高速を降り、浅草に近づくと、ビルの合間からスカイツリーが見え、写真をパシャリ。16:33、「かっぱ橋道具街」でP。ウィークデイは有料駐車帯があり、日曜日は無料なんだって。元地元のお父さんからの情報です。
歩いて浅草寺に向かいます。「花やしき」がありました。子供の頃、押上に嫁入りした母の姉の家を訪問した時、何度かこの遊園地で遊びました。行列ができているので何かな?と思ったら「ASAKUSA KAGEKIJO」でした。「宝塚歌劇」に対抗しているのでしょうか?浅草寺境内に横から入ります。「都重宝・浅草寺六角堂」がライトアップされて綺麗です。「影向堂」にお参りします。「浅草寺本堂」に参ります。すみれちゃんにお賽銭を渡し、何を願ったのかな?僕はいつものように、「これまでの人生をありがとうございます」です。加えて「子孫みんなの繁栄」です。
ライトアップされた「五重塔」が綺麗。着物の女性が目に付き、その事を聞くと京都のように貸衣装が流行ってるそうです。お堂の向こうにライトアップされたスカイツリーが見え、絵になります。
「宝蔵門」に、浅草寺名物の大きな提灯が下がっています。「仲見世」商店街に入り、お嫁さんがいつも買うという「あげまんじゅう」を「浅草九重」というお店で買いました。僕は「カスタードクリーム」入りを美味しく食べました。お嫁さんはいつも食べるそうです。「伝法院通」が交差していました。おせんべいも名物らしく、「浅草名物・焼きたてせんべい」で焼きたてせんべいを海苔で巻いてもらってすみれちゃんが食べています。これが好物で、仲見世に来るといつも食べるんだって。熱くないのかな?
本道を少し外れた所に、「爆笑似顔絵総本店」というお店がありました。次男たちは描いてもらったことがあったそうで、特徴をクローズアップさせすぎて、「これって誰」ってなるそうです。普通の似顔絵とは違うスタイルだそうな・・・。
似顔絵屋と「仲見世通り」の間の脇道沿いのショーウインドウに、扇子・葛飾北斎などの版画絵が飾られています。そこに、「No eating or drinking」と書かれています。浅草寺と言えば「雷門」の大提灯(松下電器提供)のとこに来て、17:17集合写真撮って次男一家と別れました。
浅草からメトロに乗って神田に出て、JRに乗り換え東京駅。新幹線は20:20発なので、時間がたっぷりあります。浅草の似顔絵屋に戻って、描いてもらったら良かったかな〜。休憩できるとこを探しましたが、お上りさんの僕は人が一杯で圧倒されます。B1に降りて、お土産を探します。定番の「東京ばなな」はもう飽きちゃった。バタークッキー、「喫茶店に恋して」という素敵なネーミングのクリームビュレタルトも良さそう。売上No1と売り子さんが声を張り上げ、行列が出来ていた「チーズチョコレートバーガー/マイキャプテンチーズTOKYO」にしました。来月大学受験する姪・弟の長女は、長男・次男の子たちにいつも素敵なプレゼントを用意してくれます。良く気がつく優しい子です。分家ではなく長男に嫁いで、家を切り盛りして行きたいと公言しています。今どきの女の子は、姑のいる家など敬遠しがちですが真反対です。
新幹線ホームに上がり、待合室で待って、11時前に新大阪に着き、12時頃帰宅しました。ああ楽しかった。


2019/12/14
母校KGヨット部の忘年会が、18:00から北新地でありました。前日同様、「通勤リード110」でJR最寄り駅まで走り、JR東西線に乗って北新地で下車。スマホにお店をナビ案内させ、17:30頃着きました。僕が1番でした。本を読んで待ってると、幹事の2学年上のH先輩が登場し、「会費はいつ払うのですか?」と言うと、「最初に集めるわ、今いいかな?」「もちろん」。僕の同期が4人集まり最年少で、一番年上は僕が高1でヨット部に入部した時の大学4回生の先輩で15名ほど集まりました。
ワイワイガヤガヤ、2時間ほどでお開きです。僕は翌朝6時の新幹線で東京に行くので帰路に着きましたが、2次会に行く先輩も多くいました。

長男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。長男はロンドン市内の家から郊外の会社まで車通勤しています。アメリカ勤務時同様、会社から車1台は支給されているのでしょうが、お嫁さんの子供達の送り迎えや買い物などの車がないので、アメリカ在住時同様車を買ったのかな?と聞いていました。
やはりお嫁さんように車を買ったようです。アメリカ時は「アメリカに住んでいるんだからアメ車を買うわ」とグランドチェロキーに乗っていたように、イギリス車に乗るのかな?と、グランドチェロキー同様のスタイルのレンジローバーを予想していました。答えはメルセデスのB170という2ボックス小型ワゴンにしたようです。イギリス車ではなく、ヨーロッパに住んでいるんだからヨーロッパ車という風になったようです。
次男も、アウディの2ボックスワゴンに乗っています。僕も長男が生まれた時に、スカイラインセダンからブルーバード2ボックスバンに乗り換えました。リアゲートがあり、子供用の増えた荷物や子供自体を乗せるのに、リアゲートは便利ですし、セダンより物理的に室内スペースが増えて良いです。僕は次男が生まれた時に、定員5人では辛いと思い8人乗りハイエースワゴンに乗り換えました。これは更に便利で、次男がジュニアヨット始めた時はヨットを室内に突っ込んで移動することも出来ました。物理的に室内の広い定員の多い車は、使い勝手が良いです。我が子達も、いずれはもっと多くが乗れる車に乗り出すんじゃないかな?
イギリスは、道路に縦列駐車する社会だそうで、フルサイズの車は前後スペースが狭い所に駐車するのが辛く、丁度良いサイズ感なんだそうです。
こうちゃん3才の幼稚園のクリスマスパーティーに、りょうくん6才・ルーカスくん1才と一緒に行ってきたそうです。アメリカ同様、学校のパーティーでも親や兄弟も参加して一緒に楽しむスタイルのようです。パーティー中、常にこうちゃんの側にいる女の子がいるなぁと思ったら、その子のお母さんから、「毎日家に帰ってくると、こうちゃんの話をするの!だから今日一緒に写真を撮りたいと思って!」と声を掛けられたそうです。写真撮影時、まさかのチューをしてくれました。お嫁さんはうれし泣きだったようですが、こうちゃんはその有り難みを全く理解していないようだったそうです。
学校で他学年の女の子からキャーキャー言われてるりょうくん同様、次男のこうちゃんもブロンド娘にモテてて、親は最高だね。僕も昼休みに帰宅したら、小5ぐらいだった長男がクラスメイトの女の子と僕の布団に入りTV見てて、びっくりするとともに「我が子もやるな〜」と喜びました。
息子2人共、ずっとガールフレンドがいる感じで、自宅に連れてきた子は「私より可愛い」と家内が興奮して報告してくれました。同性の友も大事ですが、よりハードルの高い異性の友が小さな頃からいることは、男の子にとってとっても重要です。

2019/12/13
忘年会の季節になってきました。僕がコーチしてる大学ヨット部と同じ水域にあるかつてのライバル校S大の忘年会に、ゲストスピーカーとして呼ばれました。18:30から、大学ヨット部時代定期戦を戦っていたライバル校だったD社ヨット部同期のHくんの経営するレストランを貸し切って開催されます。Hくん自身ヨット部出身なので、関西のヨット部OBの集まりがよく行われます。閉店時間に無理が効くので、使い勝手が良いからです。
17:00、仕事を中途で切り上げ、駅まで「通勤リード110」で向かいます。JR東西線で「北新地」駅で下車。地下街を歩いてHくんの店に、18時過ぎに到着。店の前で、スマホの電源を入れて、LINEやメールをチェックして振り向くと、S大のSさんがおられました。
「お招きいただき、ありがとうございます」「よく来て下さいました」。で入店すると、学生・OBさんなどほとんどの参加者が既に集まっており、大歓迎されました。S大は公立大学です。忘年会ゲストスピーカーとして、同じくスポーツセレクション推薦入学がない大学のコーチをしているD社OB・Mさんと、別の大学のコーチ私にいろいろ聞こうという趣向のようです。
Mさんは母校D社監督後、O大ヘッドコーチを今年までされていました。コーチ就任の数年前は部員5人のクラブ消滅の危機でしたが、今年は両クラス地区予選を突破し、全日本に駒を進めました。僕は、同じ近畿北陸ブロックに所属する大学を、去年全日本でクラス別準優勝・今年優勝させたコーチということを評価されたようです。僕なんて、部員を楽しませ、笑顔あふれるクラブにすることに注力していただけで、レース成績は部員の努力の賜物なのに・・・。
今年から監督に就任されたSさんの司会で18:30に忘年会が始まりました。OB会関西支部長Kさんの挨拶、2人のゲストスピーカー紹介。乾杯の音頭は最長老のShiさんで、86才だそうです。でも言葉がはっきりし、頭の回転も衰えておらず素晴らしい。続いて現役学生の挨拶。お題が「ヨット部で何を学びたいか?」。キャプテン・副キャプテン・・・皆簡潔で明瞭で素晴らしい。
食事後、ゲストスピーカーに対してキャプテンが質問し、それに答える形でコーチングを披露しました。それが2時間ほどあり、このレストランオーナーのHくんから一言があり、締めの言葉。エール・集合写真で1部会がお開きになりました。これで学生が滋賀県に帰って行きました。その後は、OB・コーチさんからのフリートーク時間で、コーチからの質問に答えて時間が進み、12時にお開きになりました。東西線北新地駅からJRで1時頃帰宅しました。ああ、遅くなっちゃった〜


2019/12/8
14時から京都駅南の京阪ホテルでコーチしてる大学ヨット部の祝勝会があります。家内が朝から神戸にお出かけなので、それまでの時間、京都西山の寺社をツーリングすることにしました。
寒くなり、春夏のような早朝ツーリングは凍結が怖くなって来たので、7時過ぎ「里山VTR250」にジャケット・パンツ・革靴を載せて出発しました。R171〜中央環状道。7:57「セブン豊中緑丘2丁目店」で「プレミアムカフェオレ500ml・108円」購入。
「吹田IC」から名神高速に乗り、「大山崎IC」で下車。R171〜京都府道r211〜r204で、8:34「小倉神社」。『祭神:建甕槌命・天兒屋根命・斎主命・比売大神 當神社は、第44代元正天皇養老貳年今を距てる壱千貳百有余年前の創建にして、延喜式の大社として、正一位小倉大明神と朝野の崇敬を聚め、桓武天皇京都に奠都し給ひし時、御所の鬼門除として祈願あらせられ年二度の厚き奉幣あり。天正年間、豊臣秀吉山崎合戦の節、宝寺に本陣を構えし時、特に當社に戦捷幸運の祈願をこめ、其本懐を達したるを以て家臣片桐祐作・脇坂陣内を使者として来参、千俵の寄進在り。其後徳川時代に至り、御朱印地として山地二十余町を賜りたり。如斯往古より格別の由緒を以て、民衆の崇敬もきわめて篤く、社殿は結構素朴幽邃の淨地に鎮りまし、社側一条の渓流は清冽掬すべく、賽者のこの水に浴して祈願を籠むるもの古より尠からず。参道二基の大鳥居、何れも元禄年間に創建せられたるものにして、これに奉掲する神額は小野道風の筆と云う』
参道を入ると、右に幼稚園があった。小倉神社が経営しているのかわからないが、運動場に面する裏門が参道に開いているので、そうだろうと思われる。
『歴史街道と大山崎について 古代から近代に至る近畿地方の貴重な歴史観光資源を紹介していくため、歴史街道計画では図のようなルートを設定しました。 このルートの中で大山崎町は、戦国〜江戸時代ゾーンに当たります。応仁の乱以降、信長の登場まで長期に渡る下剋上の世が続き、当地ではこの後世に知られる「天下分け目の天王山」山崎の合戦が羽柴秀吉と明智光秀との間で戦われ、勝利した秀吉は直後に天王山に城を築き城下には千利休が屋敷を構え、茶室「待庵」を建てたと言われます。大山崎町は歴史ロマンあふれる戦国絵巻の町です』
『小倉神社 平安時代に編纂された延喜式神明帳に収載される古社で、今日も長岡京市を含む広い範囲に氏子を持っています。小倉山の麓、久保川の谷奥に位置していることから、古来、神が宿りくる神聖な地と考えられ、神社が生まれたのではないかと伝えられています。また、神社の境内の北東に4世紀末に築造された鳥居前古墳があり、その被葬者は小泉川流域を広く支配し、大きな力を持っていたと思われ、やがて神格化され、小倉神社となって、長い歴史を刻むことになったとも言われています』
謂れ板に書かれてあった元禄時代の石鳥居が参道をまたいでおり、小野道風筆という扁額も下がっていた。「古いのかな?」と想像していたが、綺麗な状態の扁額で、筆だけが道風のものでした。
神楽安置所は宝物館かと思われる丈夫な耐火蔵でした。摂社の「龍王神社」「稲荷大神」「若宮神社」「天満宮」を巡って、天満宮の鳥居の奉納者を見ると、「下海印寺」と書かれており、かっこいい名前だな〜と思いました。我が家の旧町名は「良蓮寺」。法隆寺と同時代の古代寺院があったとのことで、将来の再建を目論見、道を隔てた隣の敷地から国が買い上げを進めています。現在の町名は全国何処にでもある歴史を感じさせない地名なので、旧地名に戻して欲しいと願っています。
『小倉神社 奈良時代である養老2年(718)に創建されたと伝えられる。延長5年(927)に完成した「延喜式」神名帳の乙訓郡19座のうち「小倉神社」として登場する。「京都御役所向大概覚書」には「氏子村々」として円明幸村・下植野村・調子村・友岡村・下海印寺村・金ケ原村・神足村・古市村・勝竜寺村・久貝村が記されており、現在の大山崎町・長岡京市の一部が対象となっている。
本殿は、前庇を伸ばす三間社流造で、切妻屋根は檜皮葺きである。正面の向拝にある木鼻や蟇股には、くりぬきの手法が使われている。また、側面にある妻飾り部分の虹梁大瓶束には、滝と菊花の彫り物が施されている。棟札によれば、本殿は文化8年(1811)8月5日の建立で、当時の神主は小泉土佐守(藤原房信)であったという。本殿は、平成29年度に、京都府暫定登録文化財に登録された。
安永9年(1780)に編纂された「都名所図会」には、玉垣に囲まれた本社のほか、茅葺の拝殿・能舞台・楽屋が描かれており、かつては祭礼時に能が奉じられた。現在、割拝殿には、文政10年(1827)正月に鱗形音吉が奉納した相撲の絵馬が残っている(近年補彩)』
拝殿前に中央が参道になる絵馬殿があり、そこに掛かる絵馬が、前述の相撲絵馬と小倉神社に参拝する人馬の武士行列でした。彩色も鮮やかでナイスでした。境内右手に、不動明王像があり山から引かれた水に打たれる滝行場があった。小さかったけど、京都盆地周囲の山際や山中に点在する修験道の行場がここにもありました。
絵馬殿に続き、拝殿前に舞台殿があった。絵馬も掛かっていないけど、日の丸が下がっており、さすが日本国の国名に直結する「日出ずる国」にふさわしい「国旗」だな〜と素晴らしいデザイン性に日本人のセンスを感じました。拝殿で、チャリン・ガラガラしていつもの感謝を神様に伝えました。
ここは谷筋になっており、この神社も水の恵みに感謝し、個人に独占されたり乱開発されないように神域を張ったのだろうなと容易に想像できた。近年、日本の自然や綺麗な水に憧れ独占しようとする隣国からの土地購入が問題になっているが、日本はそういう多くの民とその子孫に益をもたらす重要地に神様を祭り、結界を張り禁足地にする知恵を出し、無税にして後世にまで益をもたらし続けている。神道の知恵を口にする知識人はいませんが、僕のような自社好き・謂れ板読み好きには、容易に想像できる。
谷筋の沢を渡る橋が境内から伸びており、渡ってみると「天応山山頂へ90分」という案内板が立っていた。天王山への登山道のようでした。山頂経由でJR大山崎駅に下れるのでしょう。「天王山登頂証明書を発行します」との大山崎駅側にある「宝積寺」からの案内がありました。100円だって。
『熊出没注意 令和元年9月11日AM6時、府道734号大字東大寺107番地付近(水無瀬川左岸指手橋上流)でクマを目撃したと情報がありました。近隣住民の皆さんや登山をされる方は十分注意を払って下さい』
天王山には一度登ってみたいと思っているので、いつかこの道を登ってみたい。JR大山崎駅側は登りが急なので、こっちの方が勾配が楽なら、登りはこっちだな。境内が両側が迫る深い谷の出口にあるので、鎮守の森というより、山頂まで続く森の、でも境内地ゆえ、燃料の主力が木材だった大伐採時代を乗り切った大木が林立していました。
舞台殿の裏に、平安絵巻のような人馬の絵馬が掛けてありました。「小倉神社・例祭御神之図」と書かれていました。
バイクに戻り、r204を少し北上し、丘陵地に広がる住宅地の最上部にある「長岡京土御門天皇金原陵」。ここだと思っていた場所になく、森の裾野を探索しました。そこは日本有数のたけのこ産地の京都西山の竹林でした。振り返ると、京都の盆地が広がっていました。
スマホで検索すると、住宅地内の道を1筋間違っていたようです。バイクで少し移動し、天皇陵らしい綺麗に刈り込んだ低い植栽垣根を見つけ、9:35ビンゴ!でした。
『土御門天皇金原陵 長岡京市金ヶ原金源寺
土御門天皇(1195〜1231)は、後鳥羽天皇の第1皇子で建久9年(1196)3月、僅か4歳で83代天皇に即位しましたが、承元4年(1210)に在位13年で順徳天皇に位を譲りました。
承久3年(1221)の鎌倉幕府討幕計画(承久の乱)に関与しなかったので幕府から咎められることはありませんでしたが、父の後鳥羽天皇は隠岐に、弟の順徳天皇は佐渡に配流されました。土御門上皇は、「ひとり都に留まるに忍びない」と、この年土佐に移りましたが、「都に返せないまでも、せめて都に近いところへ」との鎌倉幕府の配慮で、翌年阿波に移りました。
その後、11年がぎた寛喜3年(1231)10月、御年37で亡くなり、阿波で火葬(現在、阿波池谷村陵とよばれる火葬塚がある)に付された後、ここ金が原に安置されました。
天皇の塚の上には母の承明門院によって金原御堂(法華堂)が建てられ、天福元年(1231)に落慶供養が行われました。のちに金原御堂の維持、管理のため金原寺が営まれた(山陵考)といわれていますが、江戸時代の初めには名ばかりを残す状況となっていました。地元にある地蔵院は金原寺の別院とされ、本尊阿弥陀如来像(平安時代作)の台座には「本山金原寺当仏」の墨書があります。
この天皇陵は、仁治3年(1242)後嵯峨天皇の即位にともない天皇の即位を報告する山陵使の派遣先の1つに加えられました。また、寛元3年(1245)には天皇自筆の書状を献じる山陵使が、文永5年(1268)には蒙古襲来による国家的な事件を報告する山陵使が派遣されるなど、鎌倉時代には重要な山陵の1つとされていました』
宮内庁がきちんと整えている天皇陵は、いつ何処に行っても気持ちが良いです。ほとんどの稜で観光客がいないところも好きです。寺社をお参りする時いつも手を合わせて感謝してる言葉を、ここでも手を合わせ感謝しました。バイクに戻ると、「御陵道」を命名されていました。
r204で丘を下り、r79に乗り換え、再び山登りして高槻市方面に向かいます。「柳谷観音」はr79の崎ですが、「大仏乗願寺」への枝道との分かれ目でストップ。「大阪御花講」の石碑、「弥勒谷十三仏・御花講」の石碑が立っていた。枝道を入って9:57「大仏乗願寺」。
横に「御谷神社」。鎮守社のようです。落ち葉が箒で山のように集められています。『乗願寺 西山浄土宗光明寺の末寺。西山の大仏とも言う。 寺縁起によれば、天延年中(973〜976)に恵心僧都(えしんそうず)がこの地で修行中に阿弥陀仏の来降を拝み、その姿を写して仏像を刻み草庵を結んだのが同寺の始まりと言う。
この浄土谷一帯は、平安時代以前に開かれたらしく、「観音檀」からは9世紀の千手観音立像が出土した。そのほか式内社(御谷神社)があり、「釈迦ん谷」・「たいこん堂」・「欄杵房(なんかぶ)」などの地名も残っている。「本朝新修往生伝」には、平安時代末の阿弥陀信仰者の姿が伝えられ、往時の浄土信仰の様子がうかがえる。
本尊の阿弥陀如来座像は平安時代後期の作で、丈六(高さ2.8m)の巨像で大仏と言われ、京都府の指定文化財になっている』
本堂には丈六の大仏が鎮座されているのでしょうが、障子が締まり中から住職のお経が聞こえている。この障子を開けるのはお邪魔になりそう。僕より一足早く靴を脱いで上がられた男性が、本堂脇の寺務所で「すいません、昨日電話したものですが・・・」と声を掛けました。するとお経が止まり、堂内から「は〜い」とご住職が障子を開けられました。「御朱印ですね」と御朱印帳を持って入られました。きっと中で御朱印されているのでしょう。
障子は開いたままで、大きな金箔の大仏様顔が拝めました。じっくり覗いていると、座っておられたおばあさんが、「立派でしょう」と声を掛けて下さいました。「寄り道しただけなのですが、これほど立派な仏像がおられるとはビックリでした」などと僕の本音を話しました。「どちらから来られたの?」から始まり、お話して別れました。
バイクでr79に戻り、10:13「柳谷観音楊谷寺」。大きなPがあるこの地域の大寺でした。参道に「茶量・玉家」というカフェがありました。「京都西山三山/善峯寺・光明寺・楊谷寺」。「紅葉ウィーク・11/2〜12/8(9〜16時)入山料300円、上書院・寺宝庫の特別公開 拝観料共通チケット(中学生以下全て無料) 入山料・上書院・寺宝庫(入山料のみの方は300円)共通券1000円(通常1100円)上書院は共通券が必要です」。
『西の清水 柳谷観音楊谷寺
柳谷観音は、古来より眼病平癒の祈願所として、天皇家公家の方々を初め、人々の厚い信仰と治癒された方々によって支えられてきた寺院です。 開創は大同元年(806)平安時代。清水寺を開山された延鎮僧都が夢のお告げによりこの西山に入り、柳生い茂る渓谷の岩上に生身の観音様(十一面千手千眼観世音菩薩)を見つけられました。延鎮僧都は喜び、堂宇を建て観音様をお祀りし、「楊谷寺」としました。
811年。乙訓寺の別当を命じられた弘法大師空海がたびたび当山を参詣されていました。その際、お堂の傍の溜まり水で子猿のつぶれた眼を洗っている親猿を発見し、祈祷を施したところ満願の日に子猿の眼が開いたそうです。空海はさらに祈祷を施し、眼病に悩む人々のために霊水「独鈷水」にしたと伝えられています。多くの人々の眼病を治癒してきた楊谷寺は「やなぎださん」と呼ばれ、信仰と祈りの場として、現在でも全国からの参拝が絶えません。
境内お堂のそばには鎮守社があり、古来からの神仏習合の名残が残る全国でも数少ない寺院のひとつでもあります。 1200年続く信仰と伝統は、山深い自然に守られ、時代を超えて今もここに息づいています。
ご利益巡り 本堂・ご本尊:眼病平癒 びんづるさん:なでぼとけ 浄土苑:十三仏 奥之院:子授け・安産・恋愛成就 正一位眼力稲荷社:鎮守 愛染堂:縁結びの神様 正一位眼力稲荷社:先見の明・おしごと守護 淀殿弁天堂:美顔・美心・芸技上達 地蔵堂:親子の絆 阿弥陀堂:淀殿寄進のお厨子 弘法大師お砂ふみ:健脚 独鈷水:顔病諸病平癒の霊水
柳谷観音花ごよみ 3月下句〜:桜・五色八重椿 4月下旬〜11月中旬:青葉 ゴールデンウィーク:ツツジ 6月下旬〜:紫陽花 11月中句〜:紅葉
写経写仏 書院・10〜15時・1000円
楊谷寺第31世住職・日下俊英 楊谷観音は古来、眼病平癒の霊験あり、として多くの人々をお救いされてきた観音様です。お寺に存在している全てのものには人々の願いが詰まっています。永い歴史や過去の人々の想いを感じて頂きたく存じます。参拝された皆様に心の落ち着き、平安がもたらされ、願いが成就されますことを日夜祈念しております。合掌
心を癒す祈りの聖地と12のご利益巡り
本堂とご本尊 新西国霊場第17番札所 本堂は江戸時代前期の建立で、土足のまま観音様を拝める珍しい形態になっています。古来より眼病に霊験あらたかな十一面千手千眼観世音菩薩をご本尊とし、京都府の重要文化財に指定されています。ご縁日の毎月17・18日のみ開帳し、観音様のお姿を拝むことが出来ます。
奥之院(中御門天皇ゆかりの子宝寺) 洛西観音霊場第10番札所 江戸時代、第113代東山天皇の皇妃が当山御本尊に出産の無事を祈願され、114代中御門天皇をお産みになられました。奥之院の観音様は、ご両親の追善菩薩として中御門天皇自らが創られた「子授け・安産の観音様」といわれております。向かって左側には観音様の眷属(けんぞく)二十八部衆、右側には歴代天皇の位牌を安置しています。上書院/書院/浄土苑 京都府指定名勝庭園 浄土苑は江戸時代中期作庭、京都府指定の文化財とされ、三層に分かれた景色は日本でも類まれなる眺望とされ、重森三玲氏の「古都百庭」にも選ばれています。書院と上書院からでは全く違う景色となり、上書院からの美しい景色は、かつては限られた方のみの特権とされていました。 上書院は毎月17日午前中、イベント時のみの限定公開となっております
弘法大師の独鈷水 眼病平癒の霊水 811年弘法大師が眼病平癒の霊水に成就され、多くの眼病に悩む方々を支えてきた霊水です。112代霊元天皇が眼病を治癒された事より、明治まで天皇家に独鈷水を献上していたと伝えられています。決して粗末に扱わず、一度観音様にお供えしてから持ち帰るのがここの慣わしとなっています。
心の眼をひらいて。五感で観じる柳谷観音
境内全体が山に覆われた柳谷観音は、日本古来の祈りの形、神仏習合が今でも残る全国でも数少ない寺院です。ここでは小鳥のさえずりや木の葉の揺れる音、土の香りに包まれて、神々と仏の共存するあたたかな気配を五感で観じてみてください。都会の喧騒や日々の日常を忘れ、心を解き放つ時間をゆっくりとお過ごしください。
上書院から眺める名勝庭園(特別公開) 明治時代後期の建物で、特別な方をお通しする茶室です。ここからの眺めはとても素晴らしく、近年では映画撮影などにも使用されています。毎月17日の午前中のみ上書院を特別公開しています。拝観料500円
寺宝展 毎月月替わりで書画を書院に展示しています。
縁日(毎月17日) 毎月17・18日には秘仏である御本尊を開帳し、親しく拝んでいただけます。又、17日にはご緑日として、般若心経・緑日説法・百万遍大数珠繰りを行います。ご自由に参加し仏教に親しんでいただけます。
季節の押し花朱印 境内の草花を使用した押し花朱印を、期間限定で授与しております。四季の草花をあしらった押し花朱印は、大変美しく人気です。 オリジナルの押し花朱印の作成講座も不定期開催中。
ご祈祷 当山では、眼病や様々な病気の平癒、願い事の成就をご本尊十一面千手千眼観世音菩薩に祈願し、1日2回時間を定めて。ご祈祷を行います。 祈祷期間は1ヶ月から1年までご自由に選んでいただけます。
限病平癒・眼病封じ:白内障・緑内障・網膜剥離・飛蚊症・黄斑変性症など
諸病平癒:癌(ガン)など
諸願成就:子授け・安産・恋愛・夫婦円満・家内安全・学業・交通安全・良縁・合格・幸福・縁切り・心願成就など
特別開帳祈祷 普段観音様は、秘仏のため幕が下りていますが、特別に開帳いたしまして、本堂で本人(代理人でも可)のご祈祷を行う特別開帳祈祷もございます。【事前予約優先】
※特別開帳祈祷の受付時間は、午前9時から午後3時となります。
※志納金:特別開帳祈祷〈壱萬円也〉預り祈祷〈1ヶ月4千円也〉』
本堂郭に上がる参道階段脇に、大日如来の化身・不動明王がおられ、その脇に滝修行出来る小さな水落があった。まさかここで修行はないと思うが、さすが修行の山です。浄土宗・浄土真宗以降の平安仏教以前の天台宗・真言密教は、日本に仏教を伝えたシナの仏教通りの人の内面を厳しい修行で磨き悟る仏教本来の姿の名残が見えます。
精神宗教の仏教さえも、日本人の改良好きの餌食になり、「お願いを聞いてくれる祈願寺」や「先祖のお墓の墓守をする菩提寺」に変化して、日本に根付きました。中国での仏教本来の姿は、日本古来の神道と結びついて神仏習合した修験道に最も濃く残っているように思います。修験道は明治政府の神仏分離令によりカテゴリーがなくなり、生き残り策として天台宗系と真言密教系に分かれて綿々と続いています。
近畿圏で修験道修行者を日常見れるのは、奈良南部吉野山〜大峰山〜南紀熊野に至る山岳地域のみです。あと天台宗系は、京都盆地と琵琶湖の間にそびえる比叡山周辺の谷に庵を結び活動しています。千日回峰行はその修行者の頂点、きっとこの日も山中を歩き走り回っておられるでしょう。山中トレイルランニングの王者です。
僕は勿論1000円でフル参拝&鑑賞です。本殿に入り、本尊がおられるであろう立派な金箔厨子他をさっと見て通過。集団解説が始まるのか上書院に急ぐよう受付で言われたからです。外廊下を渡っている時、水鉢にもみじの葉が綺麗に並べられ。インスタ映えポイントがありました。勅使玄関がありました。勅使・皇族以外の来訪には使わない玄関です。華麗ではなく質素でしたが、これもインスタ映えを狙ってか、カラフルな和傘が置かれていました。お若い女性がプロデューサーしているのかな?これだけで、妙齢の女性参拝者は増えるでしょう。
庭園は山水が見事で、外廊下の内の畳に緋毛氈が敷かれ、そこに座って鑑賞している女性グループがお喋りで楽しそうです。また水鉢があり、同じ色のもみじを使って別のデザインで素晴らしいです。
目的の「上書院」は、山水脇の書院から回廊階段を上がった場所にありました。廊下から書院や池を眺めると、このアングルも良い感じです。「上書院」入口でチケット確認がありました。この上書院は、勅使・皇族のみの使用する建物だったそうで、勅使の訪問がなくなって久しく倉庫として使っていたけど、期間限定で特別拝観するようになったようです。
飾られている写真パネルを見ると、掃き出し窓からの紅葉した「もみじ」が見事でした。それに比べると、紅葉が散り半分以下になったこの日の景色はイマイチですが、それでもとても綺麗な景色が広がっていました。映画「日本のいちばん長い日」のロケ地としてこの書院が使われたそうです。写真パネルで紹介されていました。ここには花鉢が置かれていて、とても素敵でした。
建物自体は質素でしたが、障子を見ると家紋「下り藤」の透かし柄が素敵です。2Fに上がると、畳部分に緋毛氈が敷かれ、全面掃き出し窓からの景色が素敵です。飾り棚に置かれた水差しに大きく「下がり藤」家紋が描かれ、お客さんが少ないのでじっくり見ていると、ルイビトンなどのバッグに描かれたマークが重なって見えてきました。家紋=ブランドマークですね。いろいろ解説して頂き、楽しい拝観になりました。
『名勝庭園「浄土苑」と上書院
名勝庭園「浄土苑」京都府指定名勝 江戸時代中期の作品で、池泉回遊式の庭園であり、崖の山腹にドウダンツツジ・仏などに見立てた石(十三仏)が祀られている。1942年発刊の「古都百選」重森三玲著にも選ばれている。京都の浄土宗の寺院では、このような形の庭を有しすいるのは少ない。
書院 上書院の1階から見える江戸時代後期の建物。写経・写仏・法要を行う場所で、近年は、ドラマや映画に使用されることが多い。また、ここからは、名勝庭園の第1層部分である池・鯉・ドウダンツツジ・石仏などを眺めることができる。
上書院 毎月17日の午前中のみ公開 明治時代の建物で、天皇家・公家など特別なお客様をお通しするお茶室である。昭和44年の大阪万博の日本館で使用された西山ヒノキで建てられている。1階部分は、映画「日本のいちばん長い日」の陸軍官舎として使用され、総ヒノキの机・軸・飾り棚などがそのまま映画に映しこまれていた。ここからは、名勝庭園第2層となるもみじの景色が楽しめる。
上書院2階 ここからは、名勝庭園第3層の景色を眺めることができる。空を背景にもみじ・瓦・庫裏・本堂・煙出しなど、パノラマの雄大なそして、心癒される空間を楽しむことができる。眺める場所によって全く違う景色がみられる日本でも数少ないお庭である。またウイーク期間は、特別に寺宝が展示される。
*定期的にGokan+京都柳谷観音上書院「美心眼セラピー」を開催しています。また、時間外特別公開の受付も承ることができます』
本殿に戻り、厨子をじっくり拝見します。境内の手水舎の水に様々な花が浮かび、とても綺麗なので、カメラを構えている方が多いです。
『楊谷寺(柳谷観音)
当寺は立願山楊谷寺といい、西山浄土宗光明寺に属する。 寺伝によると大同元年(806)洛東清水寺の開祖延鎮は、ある夜のこと霊夢を見られこの地に尋ね来たるところ、楊樹茂る谷間に十一面千手千眼観世音の尊容を拝すことができた。僧都はたいへん喜び、この地に草庵を建て、菩薩像を安置したのが当寺の開創と伝えられている。
慶長19年(1614)志筌禅師は七間四面の本堂を建立したと伝えられている。現在の本堂は元禄年中(1688〜1703)の修復によるものである。 本堂には本尊十一面千手千眼観世音菩薩像が安置してある。また、御本尊を収めた厨子は淀君寄進のもので桃山時代の豪華絢爛たるものである。寺宝に中御門天皇御寄附の御鏡などがある。
独鈷水(おこう水)
弘仁2年(811)弘法大師が当寺に参詣された時、岩屋からしたたり落ちる清水で、小猿の目を洗う母猿の姿を見て、ケモノにも霊験のある水であれば、人間にもきくのではないかと、17日間の熱心な加持祈祷を続け獨鈷で清水をかき回し祈ったと言われている。 それより、柳谷の獨鈷水として全国に知られることになった』
『弘法大師像前の足跡は、大師の足形です。その下には四国八十八霊場のお砂が敷いてあります。足腰が丈夫になるよう履物を脱いで上がり、南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう・二十一返)を唱えご利益を頂きましょう』
僕と家内の足腰のために、靴を脱いで手を合わせました。
『獨鈷水は弘法大師が加持祈祷されたと言われる、眼病諸病平癒に霊験あらたかなる霊水でございます。就きましては、粗末な扱いをされませんよう宜しくお願い申し上げます』
獨鈷水が飲めるよう、柄杓とコップが用意されていました。
『獨鈷水を頂く心得
容器は獨鈷水でゆすがぬ事。お賽銭を獨鈷水の中へ投げ入れぬ事。汲み終わった後、蓋をする事。一度に大量のお持ち帰りはご遠慮下さい。なお、特別な事情や、代表の方で必要な場合は、受付にお申し出下さい』
寺務所に寄りました。絵馬(美心絵馬・眼力絵馬)、茶(メグスリノキ茶・千眼茶・美人茶)、御朱印(愛力・美人・・・)、いろんな種類が置いてあり特徴がありました。勅使門を外からカメラに収めました。傘がとても上手に飾られ、素敵でした。
奥之院に上がっていきます。『弁財天・淀殿 弁財天は、古代インド(天竺)でサラスバティーといい、また日本の七福神の中で唯一の女神様です。 当山の祀り方は、珍しい形態で、弁財天の前立ちとして、淀殿がおられます。これは、淀殿が当山の観音様と信仰され、阿弥陀堂の御厨子も寄進して頂いたという故事に基づき信者さんが寄進されたものです。 有職御人形師12世伊東久重氏によるものです』
更に石段を上がっていくと、「正一位親眼力稲荷社」。『御百度参り 当山の鎮守(守り神)眼力稲荷大明神は京都伏見稲荷大社より勧請されました。古来より、学問に霊験あらたかなりと伝えられ、特に先見の明(心眼・こころの眼)を授けて下さると言われております。眼力とは、激動の世に生きる、素直な心を持った全ての人々に最善の方向を指し示す力であります。人生の選択を迫られた時、仕事上などでどちらの方向に進めば良いか迷った時、眼力稲荷に心からお祈りすれば必ず良き方向が指し示されましょう』
モリアオガエルの生息地がありました。「奥之院」に上がっていくと、背もたれにハートがくり抜かれたベンチがあり、女性グループが写真に撮っておられました。パワースポットブームで、お若い女性の拝観が増えているのでそれを狙っているベンチデザインなのでしょうが、寺院では古来から「猪目」として使われていたデザインというのを最近知りました。もみじの落ち葉が道にたくさん落ちており、それを集めハート型に置かれており、それも激写スポットになっていました。
「奥之院」本堂に入ってみます。「中御門天皇・勅刻尊像」の扁額があり、その奥にある厨子の中におられるのでしょう。秘仏のようで扉が閉ざされていました。先程の上書院からはもみじの紅葉が最盛期を過ぎていましたが、こちらの周囲はまだ見頃でした。「愛染堂」があります。
下って、「寺宝庫」を見学しました。「皇室下賜品特別展示」と書かれています。「昭憲皇太后から賜った銀菊文高杯」「後桃園天皇遺物寄進の御紋御褥・錫御華生・袈裟地金襴」・・・、江戸時代の下賜品が多かったが、デザイン・彩色など華麗に過ぎず質素過ぎず日本人好みのシックで上品な賜品が展示されていました。撮影禁止だったのが残念でした。
バイクに戻り、r79を下り、11:44「走田神社」。『はしりだじんじゃ 奥海印寺(おくかいいんじ)・長法寺両村の産土神。式内社で、「延喜式」にのる乙訓19座の1つである。祭神は天児屋根命・武甕槌(たけみかづち)神・経津主(ふつぬし)神・姫大神の春日四柱を祀る。
かつては「妙見社」と言われ寂照院の鎮守であったが、明治以後、正式に「走田神社」と呼ばれるようになった。社名の「走田」は初穂をつくる田を指し、早稲田の守護神であったであろう。なお、正月13日には御千度詣りや弓講が行われる。また、明治初め頃まで同じ祭神を祀る小倉神社(大山崎町円明寺)の御輿がこの社まで渡御し、その道がまだ古老たちによって語り継がれている』
石段を上がって境内へ。石段の左右の木々が伐り倒されていました。昨年の強風台風で倒れたのを処理したのかな?と想像しましたが、切り口を見るとそれ以前に伐られたような感じです。朱鉄柱鳥居にしめ縄が張られ、旧式の枝下げしめ縄でした。本殿は覆屋で守られ、覗いたら檜皮葺屋根の本殿のようでした。
バイクに戻ろうと振り返ると、京都盆地が眼下に広がっていました。r79を東進し、阪急長岡天神駅横の踏切を渡り、JR東海道線をくぐり、左折してR171を北上しました。「久世橋」を渡り、道なりに「九条通」になり、「東寺」南を通り、12:40「京都駅八条口P」。
このPは、「京都アバンティ」の地下にあり、エレベーターを上がり地上に出ると、真横にコーチしてる大学ヨット部の祝勝会会場である「ホテル京阪京都グランデ」がありました。玄関前に部員たちが集まっていました。ここが集合場所なのでしょう。
皆に挨拶し、会場の場所を聞きます。2Fだそうです。エスカレーターで2Fに上り、会場の部屋に入ろうとするとまだ鍵が掛かっていました。開場前クロークの机は用意されていましたが誰もいません。トイレに入り、バイク装束からジャケット・パンツ・ネクタイに着替えます。
13:30、会場に入れるようになったので、室内をチェックし、脱いだバイク装束をハンガーに掛けました。主催するOB会担当者が受付テーブルに店を広げ始めました。受付担当の女子マネ数名が受付テーブルに、部旗担当部員は室内で部旗や優勝旗を飾ります。他の多くの部員は、ホテル入口・2Fに繋がるエスカレーター乗り場・会場前で、親御さんやOB/OGさんを出迎えています。
アウェー感が最も強いだろう部員の親御さんが来られたら、積極的に声を掛け会場内親御さんテーブルに案内しました。マイク前の中央に親御さんテーブルと長老OB/OGさんテーブルが用意されていました。
14:00から、OB会副理事長の司会でパーティーが始まりました。まずは、副監督からの成績発表。続いてOB会会長挨拶。来賓・大学副学長乾杯&挨拶。そして歓談です。親御さんテーブルに座って、インカレレース観覧に参加されなかったお二人を中心に会話を弾ませます。
先月ヨット部を卒業し、来年学部卒業する26年ぶりにインカレ総合5位・37年ぶりS級優勝した代の主将・各クラスリーダー・マネージャーリーダーの挨拶。続いて指導者挨拶になり、監督が喋った後、インタビュー形式でまず僕に「今年の好成績に至った施策・原因は?」との問。数年前にOB会が資金を掛け、合宿所をリニューアルし練習環境を整えたこと、クラブ全体の明るく楽しい雰囲気、女子マネージャーの奮闘、そして去年2位から今年優勝に躍進できたのは親御さん応援船がプラスされたこと、と感じていることを話しました。続いて、470・S級コーチへのインタビューに続きます。
現役挨拶として、新主将・各クラスリーダー挨拶。次がエール、2回生エール係N君がリードしました。OB会副会長の閉会の辞があり、最後に集合写真でお開きになりました。
OBの方々に挨拶し、親御さんたちに感謝の言葉を伝え、トイレに入りバイク装束に着替えました。「京都駅八条口P」13:23〜17:07・500円。九条通〜R1〜名神高速〜中央環状線〜R171で、18:08「伊丹産業セルフ北村」で給油。223km/8.03L=27.8km/L。嗚呼、楽しかった。


2019/12/1
朝、神戸にお出かけの家内を駅まで送り、帰宅してからお出かけしました。倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、R171で西宮に向かい、R43を西進し、10:20「芦屋マリンセンター」。兵庫県が国体開催のために作った県営ヨットハーバーです。僕が伊丹市長に頼まれ、伊丹市在住の先輩と伊丹市内に作った「ジュニアヨットクラブ」に次男がクラブ員として入部し数年経った頃、クラブの親御さんたちと更に子どもたちの競技力をアップする為に、このハーバー内に姉妹クラブを作りました。その甲斐あって、我が子の同学年5人中4人は海外遠征出来るまでに上達しました。
以来、ジュニアヨットの日本ナショナルチームを毎年輩出する有力チームが続いています。僕の今年の大学ヨット部コーチもインカレクラス優勝で区切りが付き、シーズンオフに入ったので、久しぶりに次男の後輩たちを見に来ました。
ハーバー内に10艇ほどOP級が並び、沖には4艇が練習しています。生憎風が弱いので、西宮芦屋沖まで出ていないです。桟橋に行くと、インフレータブルボートが4艇並んでいます。OPの親御さん達が燃料補給などをされています。コーチしてる大学ヨット部のホームポートにレースで遠征に来ている親御さん達と話した時、「また遊びに来て下さい」なんて誘われていました。
1週間前に全日本が鹿児島であり、3名がワールド最終予選トップ40位に残ったそうです。全日本に遠征していた主力はお休みの子が多く、沖で練習している4艇は主力チームだそうです。今年ヨットを始めた子が多く、1艇はまだ数回乗っただけだそうです。準備ができ、皆出艇して行きました。
残ったお母さん1人と次男と同期のUくんのお父さんと話をしていました。お母さんは5人のお子さんをお持ちで、一番上は既に社会人になっています。一番下が今OPをやっているとのことで、日本の少子化に1人で歯止めしていて素晴らしい。そこにこのクラブのOBのお父さんでもあるUTさんがやってきました。輸入ボート販売などの仕事をされています。昨年のインカレで、ここからインフレータブルボートをレンタルし、今年は、コーチしてる大学ヨット部が1艇購入しました。お世話になっている方です。ボートメンテナンスで来られているそうです。
Uさんはお子さんが卒業後もずっとコーチをされており、生き字引になっています。我が子が最初に乗ったクラブ艇がまだ現役で、そのエアタンクのハッチ修理をされていました。作業を見ながら、少し手伝いながらいろいろお話しました。12時になり、皆さんがハーバーバックしてきました。親子で子どもたちだけで思い思いに昼食を取っています。「僕も、かつてはこうだったな〜」とわが子とのかけがえのない日々を思い出しました。
13時過ぎに出艇して行きました。主力4艇は、風が弱いので午後は練習しないようで、船を洗っています。Uさんも1艇直したので、コーチとしてインフレータブルに乗り込んで出ていかれました。それを見送り、バイクで芦屋埋立地の先にある公園に行きました。芦屋ヨットハーバーの先で、釣りをしている家族をぼんやり見ていると、OPがインフレータブルに曳航されて出てきました。沖の防波堤付近にブローがありますが、やがてそれも消え、西宮YH沖で練習を始めました。それを見て帰路に着きます。芦屋埋立地内をウロウロし、新しくできたショッピングセンターなどを見て、阪神高速湾岸線側道を走って甲子園まで東進し、そこから僕が生まれた甲子園〜武庫川土手道〜R171で帰宅しました。
20時頃、家内からLINEでお迎え依頼が届き、駅まで迎えに行きました。膝上ミニスカートから細い足が伸び、わが妻ながらとても可愛いし美人さんです。この人と歩くと、すれ違う男性からの妻への視線をよく感じます。嫉妬というより自慢でこちらまで嬉しくなります。孫を5人も授かり、家内との縁は僕の人生の幸福を運んでくれています。
そんなこんなで起きた翌朝、NHK朝ドラ〜あさイチを見ながら朝食を取っていると、「卒婚」と言うテーマでいろんな事例を紹介していました。離婚ではなく卒婚、別居ではなく家庭内別居で、食事を一緒に取らない、生活費も別・・・僕はこんなことに耐えられそうにありません。朝風呂から上った家内にそっと近づき、「見ていないから」と目をつぶって抱きつくのが習慣になってるほどのストーカー体質ですから・・・。


2019/11/24
コーチしてる大学ヨット部のコーチ日です。11月はじめにインカレでクラス全国制覇し旧チームが終了し、代替わりした新チームでの初レースです。そして今年最終戦で、シーズン終了日でもあります。来年2月までシーズンオフになります。
7時前に、「里山VTR250」に乗り出発。R171〜中央環状線、「エネジェット中環豊中SS」で給油。263km/8.12L=32.4km/L。SS併設のセブンイレブンで、「具たっぷり味付ツナマヨネーズ115円+味付海苔辛子明太子140円=275円」を購入。吹田IC〜名神高速〜京都東ICで下車し、湖西道路で8時前にYH着。バイク装束を脱ぎ、皆に挨拶します。風が弱いのでAP旗(出艇延期)と予想しましたが、前日の初日風がなくレースが出来なかったからか、予定通り8:20D旗(出艇)が掲揚されました。
ドライブの2回生マネJさん・1回生マネOさん・S級コーチA君・副監督T君と一緒にS級コーチボートに乗って沖に出ます。北風の軽風でマークを打ち、10:46、470級第1レーススタート。風が落ちていき、ノーレースになりそうだなと思いながら見ていると、本部船からの無線で、S級スタート後N旗(ノーレース)を揚げる予定と流れて来ました。S級スタートはリコール(フライング)する船が多く第一代表旗(ゼネラルリコール・スタートやり直し)。このタイミングでレース中止になりました。このタイミングで、コーチボートだけハーバーバックし、1回生マネMさんを乗せてレース海面に戻りました。
長い風待ち後、310度に風向が入ったり落ちたりしながら、天気予報どおりの三井寺(南西)の優勢な風が入ってきました。11:30、470第1レーススタート、10:37S級スタート。S級スタート後、トップ艇のラインの延長線上にコーチボートを走らせ、右海面に展開している本部線寄りスタート・即タックしたトップ艇Ritsと当方の3艇を中心にマネさんにビデオを撮ってもらいながら、横でレース展開の解説や予想、タッキングポイントの良し悪しを解説しました。
三井寺の定説通り、右海面からブローが入り、Ritsが1上トップ回航、2位が3回生レギュラークルーK君が良いコースを引いた1回生スキッパーN君が回航しました。これは自信になるでしょう。フィニッシュも5位で高いポテンシャルを持っているようです。途中から中央に入り、囲まれてしまった3回生スキッパーMくんは10位台に沈んでしまいました。もう1艇はレギュラースキッパーと1回生女子クルーコンビで、こちらも1上10位前後でしたが、フィニッシュは2位まで上げました。
470は、1上から1位470リーダーT君・2位N君回航し、トップ10に5艇入ってレースが進み、フィニッシュは3回生スキッパー3艇で組んだAチームが1・2・5位Oさんフィニッシュ/39艇(当方全7艇)で上々の出だしです。470全日本が江ノ島で開催されており、水域トップ選手が数名参加していませんが、ナイスな出来です。S級は、2位2回生スキッパーM君・3位2回生スキッパーO君・5位1回生スキッパーN君/31艇(当方全10艇)。
続いて第2レース。470は、2N君・3位T君。S級は3位M君・5位F君・6位I君。両クラスともAチームは優勝争いしています。
470最終艇フィニッシュが13:38だったので、スタートタイムリミットの14時まで時間が有り、続いて第3レースがスタート。ところが風が落ちてきて、470は第一上マーク回航後、S級は第一上マーク回航前にノーレースになっちゃいました。470コーチボートが、プロテストする3回生K君艇を引っ張って急いでハーバーバック。よりハーバーから遠い470全艇を引っ張って僕の乗ったS級コーチボートがハーバーバックします。ハーバー前でレース艇を離し、レース海面に戻りS級を引っ張ろうと思ったが、適当な風が入っており引っ張らずにハーバーバックしました。長い待ち時間後、17:30閉会式。470は優勝D社・2位当方Aチーム・3位当方Bチーム・・・。S級は優勝当方Aチーム・2位Rits・3位D社・4位当方Bチーム・5位京産・6位当方Cチーム・・・、総合優勝当方Aチーム・2位D社・3位Rits・4位当方Bチーム・・・。
18:10、合宿所に戻りミーティング。気づいたことを話しました。レースストラテジー・下マーク回航・オフ中1回生クルージング・・・。掃除時間となり退散します。バイク装束に着替え、19:30倉庫にバイクを戻し、NHK「ダーウィンが来た」の時間に帰宅しました。プレプレで、総合優勝したのは何年ぶりだろう?これで今年のコーチングは終了です。


2019/11/23
ほぼ1年前に参加したグループツーリングに、再び誘われたので参加しました。10時に「阪急山本ファミリーマート集合」して、篠山の寺院紅葉めぐりをしましょうとのこと。「里山VTR250」で出発し、9:41「ファミリーマート宝塚山本駅前店」に着き、「ボスとろけるカフェオレ500ml163円」を購入しました。私以外の3人(前回ご一緒したRPさん・NQさん、初見のISさん)の参加者は既に到着されていました。
朝から素晴らしい晴天で、真っ青な秋晴れで、気温もこの時期にしては暖かで、ネックウォーマーとベストを脱ぎました。素敵なツーリングになりそう。RPさんからインカムを貸してもらいました。僕の持ってるインカムは、「デイトナCOOLROBO EasyTalk withZigBee ワイヤレスインターコム 2台1セット」で、この2台でしか繋がりません。最近のインカムは、いろんなインカムと繋がるタイプが主流です。他の3人は新しいインカムを持っておられました。RPさん主導で僕が貸してもらったインカムも含め繋がてくれました。ただ4台となると繋がりにくいようで、結局2台ずつしか繋がりませんでした。30分遅れで出発。
僕が先頭に指名され、「宇土観音・弘誓寺」に向かいます。ルートはお任せだったので、僕の好きな「佐曽利カルデラ」内の里山を縫う道を選択します。「長尾山トンネル」を抜け、r325〜r33で西谷農協大池〜西谷中学を北上し、r68を渡り波豆川沿いを北上し、「八坂神社」前で激写タイムします。北摂里山はまさに秋の紅葉鮮やかで素晴らしい景色を見せてくれました。全山紅葉の低山里山があちこちに観られました。
10分ほど休憩し出発。r323で西進し、r37に合流し、r49で北上します。「美濃坂峠」を越えて篠山盆地に下る道は、昨年の台風で崩れたところが復旧していました。「木枕」交差点でR372を渡り、左折してr306で西進。
12:23、「ローソン篠山野中店」でトイレ休憩。RPさんがベンダーコーヒーを奢ってくれました。コーヒー大好き人間なんだって。ISさんは夜勤だそうで、ここでお別れです。R176で帰るそうです。ヤマハR150に乗っておられました。YZF-R1・R3・R25・R125は知ってたけど、150ccがあるとは知りませんでした。インドネシア生産の輸入車だそうです。
r306を更に西進し、右折して枝道に入り、12:27「宇土観音・弘誓寺」着。
『宇土観音・略縁起
当山は、今より約1360余年前、孝徳天皇白雉年間(650〜654)に法道仙人の草創せられた古刹である。はじめは天地山極楽寺と称し、ご本尊は仙人一刀三礼の御作、面貌円満威徳殊勝の聖観世音菩薩である。当時は、槙が峰一帯に僧坊が軒をつらね、今に「槙が峰千軒坊」と伝えられる仏法繁盛の霊地であった。
ところが寿永3年(1184)源平の兵乱に際し、源氏の大将源義経が、平氏を追って槙が峰にさしかかった時、千軒坊に平氏の伏兵ありと見て、夜間火を放たしめた。折しも風烈しく、全山一時に焼尽したが、ご本尊は無事滝の水底に難を逃れられた。その後、近村のある人が、観世音菩薩の霊夢により危うい命を助かり、夢のおつげに従って、滝の水底より菩薩をさがしあてた。これがまぎれもなく極楽寺のご本尊であったので、直ちに庵を結んで安座し奉った。
その後、中興開山亀翁松鶴大阿闇梨によって中興され、また文明5年(1473)玉山良石禅師が米られ、伝法開山として伽藍を再建し、清滝山弘誓寺と改めた。こうして千軒の道場も世の有為転変にならって事変をまぬがれなかったが、ご本尊宇土観世音菩薩のご霊験は時とともにいよいよあらたかであり、菩薩の威神力を仰ぐ人々はこの地に参詣して今も絶えることがない、まことに霊験顕著の観音霊場である』
再訪問ですが、今回は境内中央にドーンと鎮座する大銀杏が黄葉しており、見事です。1週間後が最高に綺麗でしょう。お若いカップルが、それぞれカメラを構えており、自由にお好みのアングルで楽しんでおられました。樹勢も良く、篠山盆地でも有数な大銀杏ではないでしょうか。
『市指定文化財 木造阿弥陀如来坐像
来迎印(らいごういん)を結ぶ阿弥陀像で、頭部は大ぶりで肉髻(にっけい)に、細かい格子状の螺髪(螺髪)を刻む。目は伏し目がちに彫られ重厚で神秘的な面持ちである。全体に量感豊かで首の三道(さんどう)、肩部の衣紋(えもん)の彫りも深く、平安時代の仏像表現がなされている。材質はヒノキ材で、体幹を前後に割る割矧造(わりはぎづくり)と呼ばれる技法が用いられている。
来迎印:手の形で仏の種類や特徴を表現する印相の1つで死者を極楽浄土に迎えるときのもの。
肉髻(にくけい):仏の特徴である32相の1つで、頭頂部の隆起した部分を指し、悟りの象徴とされる。
螺髪(らほつ):仏の特徴である32相の1つで頭髪のこと。右巻になっているのが特徴で、知恵の象徴とされる。
三道:悟りに至る過程である見道・修道・無学道のこと。仏像の首の3本のしわが三道を表現している』
本殿木鼻・蟇股の彫刻が素晴らしい。バイクに戻り、r299〜R176〜R372で「今田」に向かって西進しました。左折してr292。13:27「卵かけご飯・玉の助」着。久しぶりの卵かけご飯「卵かけご飯定食495円」を美味しく頂きました。1人卵5個まで無料だそうで、テーブル中央に山盛りになっています。僕は2個が限界で、それ以上になると気持ち悪くなるのですが、RPさんは3個・NQさんはリミットの5個食べておられました。卵だけでも食べられるそうで、精力絶倫になりそう。
r292を戻り、すぐに左折し「和田寺」。森に入り、コンクリート細道が少しずつ勾配が増し、インカムで繋がってるRPさんから悲鳴が聞こえます。僕はむしろ好みで楽しいけど、前傾が急なセパレートハンドルのCBR250RRに乗っておられるので、細道や急勾配道は厳しいのでしょう。下にもPがあるが、一番上の本堂Pまでバイクで登りました。
14:00「和田寺・本堂」。『和田寺(わでんじ)本堂 和田寺は当初、和田寺山山頂にあり、日照山東光寺と号したが、寿永3年(1184)に源義経の軍勢が三草山の平家を追討した際の兵火によって焼失したとされ、翌年文治元年(1185)に播磨清水寺の僧・二臈理円(にろうりえん)により再建され、二臈山東光寺と改称された。しかし、嘉慶3年(1389)に僧良海が堂塔坊舎を和田谷に移し、明徳3年(1392)に二臈(老)山和田寺と改称して、播磨清水寺末寺となった。(和田寺文書「良海筆和田寺縁起」)。
和田寺本堂は、正面5間に半間の後陣を付ける。宮殿は唐様を示し、半間ほど前へ出る。寺伝では桃山時代の建立と伝えているが、細部の手法からみて、江戸後期の建立と考えられる。
本尊は、千手観音菩薩立像で、須弥壇内の厨子に安置されており、昭和63年に厨子とともに町指定文化財となっている。昭和の修理の際に像内より写経と板札が発見され、「仏師奈良方法橋祐円」により建武4年(1337)3月3日に像立されたことが確認された。
また、本堂正面にある鰐口は銅製で、直径22.5cm「康正二丙子年(1456)11月吉日、奉願主慶弥之」の銘がある。昭和63年に町指定文化財となった』
『和田寺の自然 和田寺の裏山では、モミやツブラジイ、ケヤキなどの大木が多く見られます。また、緩斜面地には、スギなどの大きく成長した人工林が分布しています。この人工林では、照葉樹林の自然林のような自然性の高い環境が形成され、湿潤に保たれた林内には「着生ラン」をはじめとする珍しい植物が多く生育しています』
山寺で僕は良かったが、「紅葉ツーリング」の趣旨では「ハズレだったね」とRPさんが言っていました。バイクで下ります。またRPさんから、「急勾配の下りはセパレートハンドルだからお尻の方が高くて怖い〜」と悲鳴が聞こえます。森から抜けて悲鳴が消えました。r292に下り、RPさんと先頭を交代し北上しました。右折してR372を東進し、左折してR176を北上します。「篠山口」を通過し、左折してr36。
14:44「大国寺」。紅葉で有名で観光バスがやってくる寺院なので、ガードマンが多数配置され交通整理されています。鐘楼の後ろにP。『大化年間(飛鳥時代)の頃、空鉢仙人が国家安泰を祈願されて、自作の薬師寺如来様を安置し、開創されたと伝えられています。
正和の頃(鎌倉時代末期)、花園天皇のご帰依により本堂を再建、また「安泰山大国寺」の称号を賜りました。唐様と和様の折衷で、当時の最新技法であったようです。以来広く地元住民に親しまれ崇敬されて今日に至っております。昭和42年、兵庫県観光百選に指定され、また、新丹波七福神大国天霊場としても、たくさんの参拝者を迎えております。
本堂:室町時代初期に建てられた、唐様と和様の折衷様式。昭和36年国指定重要文化財に指定。
仏像:薬師如来坐像・大日如来坐像・阿弥陀如来坐像・持国天立像・増長天立像。5体とも、藤原時代作、大正11年国指定重要文化財に指定』
『樹木礼讃 森や山の樹木は、私たち人間やこの世に生存する多くの動物や植物たちにとって、大きな役割を果たしているかけがえのない大切なものです。
樹木は空気を浄化し、水を蓄え、土を肥やし、動植物の住み家を作ってくれます。さらに、すばらしいことは四季のうつろいに合わせた葉や花の色彩の変化が、私たちに感動とやすらぎを与えるのです。そこから絵画や音楽などの芸術や文学が創造され、潤いのある生活環境を創出してくれます。
ここに、この樹木たちに感謝し、周辺の樹名を表記し、地域の自然環境の保全と意識高揚の一助となるよう念じています』
入山料300円(本堂内拝観800円)で入山。この日も多くのコスプレイヤーがいました。前回1人で来た時は本堂内拝観をして、歴史や意匠など住職の奥様から詳しく説明を頂きました。波多野秀治公のお墓の場所も教えて頂きました。
まず本堂をお参りします。賓頭盧尊者坐像がおられたので、足腰をさすっておきました。「和田寺」と大違いで「大国寺」の紅葉は見事でした。
15:29、バイクに戻って出発。r36に出てR176で南下します。「篠山口」手前で左折し、r94〜r299〜r306〜r77〜R372で東進。右折してr12で南下開始。相変わらず気持ちの良い道です。「城東トンネル」を抜け、「後川」を通過し、「西峠」を越え「杉生」交差点を通過し、「ローソン猪名川町笹尾店」でトイレ・コーヒーブレイク休憩しました。僕は持っているカフェオレで良いと言ったのですが、またRPさんがベンダーコーヒーを奢ってくれました。
r319〜r33〜r325で「長尾山トンネル」を抜け、「阪急中山寺駅」方面に下るお2人と別れ、「阪急山本駅」に下り帰宅しました。


2019/11/16
2週間前、全日本インカレ団体戦をもって、僕の大学ヨット部コーチング期間は終了しました。1週間前、合宿所であった「代交代式」に参加し、新キャプテンから「もう1年僕らをコーチングお願いします」と頼まれ、気持ち良く引き受けました。帰宅して家内に話すと、「いいよ、頑張って」と激励され、後日送られてきたメールでの正式依頼に正式にOKの返事をしました。
そしてこの日が、僕の新チームコーチング初日です。8時に琵琶湖のハーバーに着くべく、7時に「招き猫CB400SB」に乗って出発しました。近所のローソンで、「バナナ4本266円+サントリーボスとろけるカフェオレ500ml140円=406円」を購入。R171〜中央環状線〜吹田ICから名神高速に乗って、一気に「京都東IC」まで休憩せずに走り、湖西道路で8時15分ほど前にYH着。名神リニューアル工事で、「11/11〜19・西宮IC〜吹田IC区間・20〜6時通行止」の影響で、吹田IC入口&吹田〜京都南間が混んでいました。
週末練習初日なので、8時YH集合9時出艇だったので、皆が来るのとほぼ同じタイミングでした。代交代したので、少し練習ルーチンが変わっていました。AM練習前にクラス別ブリーフィングがあり、練習内容をもっと細かく決めていました。ハード・コーチボートが修理されて帰って来たけど、バッテリー上がりで充電することになり、2艇のインフレータブルボートでのコーチングとなりました。
三井寺の風・4〜6m/sが入っており、基本練習・スタート練習・コース練習の良い練習が出来ました。470について、気づいた点を声に出し続けました。マイクが水没してお釈迦になったそうで、また声が枯れそう。12時に合宿所に戻り、美味しい昼食を頂き、13時過ぎにPMの練習に入りました。AM同様、PMの練習内容をクラス別でブリーフィングし出艇。PMはS級について声を枯らしました。
16:30ハーバーバックし、17:02「エネオス近江神宮前SS」で給油。246km/10.74L=22.9km/L。合宿所に戻り、合同ミーティングで僕を筆頭にコーチからの話、続いてクラス別ミーティング。美味しい夕食を食べ、全体ミーティングでクラス別ミーティングで出た共有部を話し、掃除の時間になり、家路に着きました。
往路同様のいつものルートで21時過ぎに帰宅しました。それを待っていたかのように、家内が「おかえり〜&おやすみ〜」。


2019/11/9
17時から、コーチしてる大学ヨット部の代交代式です。それまでツーリングしようと思い、遅い時間に「招き猫CB400SB」を倉庫から出し、出発しました。9:59、ご近所の御用達「エネジェットセルフ北村SS」で給油。286km/11.13L=25.7km/L。R171〜中央縦貫道を走り、10:17「セブン」で「プレミアムカフェオレ200ml108円+薄皮プリン風味クリームパン5個156円=285円」購入。
「吹田IC」から名神高速に乗り、「瀬田西・石山IC」で下車し、r57〜r16で大戸川沿いを東進します。11:43「関西電力・大戸川水力発電所」で休憩。r16東進し、左折しr12で北上すると、「新名神高速道路」の下をくぐりました。r12からかなり比高のあるところを高速道路が走っています。バイクを停め、真下から見上げると、巨大建築物に圧倒されました。
12:02「道の駅こんぜの里りっとう」。トイレ休憩し、「干しぶどう・540円」を購入。林道に入り、12:24「金勝寺」。
『金勝寺の由来 当寺は天平5年(733)聖武天皇の勅願により、奈良の都(平城京)の東北鬼門を守る国家鎮護の祈願寺として、東大寺の初代別当の良弁僧正が開基し、8世紀の中頃までに近江の25別院を総括する金勝山大菩提寺として法相宗興福寺の仏教道場でありました。(興福寺官務牒疏)
弘仁6年(815)嵯峨天皇の勅願をうけ、興福寺の高僧願安が、伽雌を整愉し、天長10年(833)仁明天皇により、鎮護国家の僧侶を育成する官寺である「定額寺」に列せられ、金光明最勝王経の金勝陀羅尼品の「金勝」が勅願の題字であり、金勝山金勝寺となりました。(続日本書紀)
寛平9年(897)宇多天皇により、国費支給による学業僧である年分度者2人を、金勝寺で6年開山を降りず、専修することを認可されました。(太政官符) 6年間の専修後、さらに6年間、金勝寺の四所名神である甲賀郡飯道名神・坂田郡山津照名神に1人、野洲郡兵主名神・野洲郡三上名神に一人派遣し、国家鎮護を祈願する神宮寺的性格をそなえた寺院でもありました。
文治元年(1185)11月15日、金勝寺は失火し、時の住職正心上人が再興し、大講堂・常行堂・法華堂・二月堂が建立されたと「金勝寺大菩提寺流記」に記されており、平安時代後期には天台宗に転宗していたと考えられます。
その後、江戸時代に至る問、金勝寺は歴代の天皇、武家将軍から、論旨・下知状・朱印状を賜り、保護され仏供田30石を領していました。
天文18年(1549)大火により、諸堂悉く焼失したため、後奈良天皇は再建の論旨を下され、慶長14年(1599)住職竜王院清賢法印は、徳川家康に請願したが、再建までに至らず、現在の本堂は約400年前の仮堂であり、排水を考えた山型配石の参道の石垣は、延宝2年(1674)に修復されたものであり、大講堂跡・三重塔跡は左高台に残っています。
金廃寺の文化財 現在の本堂(仮堂)には本尊の木造釈迦如来坐像(重文・平安時代・12世紀)を安置している。檜材の寄木造りで後補であるが漆箔が施されている。平安時代後期の穏やかな作風を持つ仏師定朝様式の作品である。不動明王立像(室町時代・14世紀)良弁坐像(桃山時代・16世紀)願安坐像(桃山時代・16世紀)を安置している。
二月堂には木造軍荼利明王立像(重文・平安時代・10世紀)を安置している。頭髪を逆立て炎髪とし、上歯列で下唇を噛んで怒らした目で睨み付ける一面八腎の巨像で、檜の一材で掘り出されている。
昭和に新しく建立した虚空蔵堂には、木造虚空蔵菩薩半腹像(重文・平安時代・10世紀)を安置している。知恵を授ける十三参りの仏様として名高く、藤原手法の優れた古像の一作である。虚空蔵菩薩像の両脇には木造毘沙門天立像(重文・平安時代・10世紀)と、木造地蔵菩薩像(重文・平安時代・12世紀)を安置している。
御香水館の清水は、加持修法をし、明治3年(1870)まで毎年正月15日、九重御祝小豆粥の水として、京都御所へ献上していました』
拝観料500円を払おうと思ったら、誰もおられません。「只今、境内・諸堂の見回りをしております。・・・」と立て札が立っており、セルフで箱に1000円札置いてお釣りを500円頂きました。この500円で、「金持ちに成れる」御守護を授かりました。2週間前のインカレ本戦で、2回生S君と話して、彼の人生の目標を聞き、応援したくなりました。
「仁王門」をくぐります。左右の仁王像は立派で、素晴らしい。続いて「二月堂」。『重要文化財・軍茶利明王立像(平安時代10世紀) 髪を逆立てて目をむき、上歯で下唇を噛み締める憤怒の形相を見せる。二臂を前胸で交差させ、他の六臂に様々な武器を持つ。上体の大きさに対し、天衣を張ることによって全体の均衡を保っている。像高3.6mの巨像であるが、ヒノキの一木から掘り出され、背面から内刳りを行う。当初から独尊像としてまつられていた可能性が高い』
『息災・治病・延命を願う・軍荼利明王・日本で最古かつ最大の御作例五大明王の内のひとつで、宝生如来の怒りの化身です。 サンスクリット語の「クンダリ」(とぐろを巻いた蛇)の音訳です。煩悩の象徴である蛇を手足に巻き付けていましたが、修復の際に傷みがひどく取り除かれました。息災・治病・延命などを祈願して行う密教祈祷「軍荼利法」の本尊です。印相は、両手を胸の前で交叉させる「大瞑(だいしん)印」を結びます』
本堂へ。『重要文化財・釈迦如来坐像・平安時代12世紀 像高2.2m、周尺に基づく丈六仏である。正・背面とも2材を寄せて根幹部を造り、両脚部も前後に2材を矧ぐ。誇張のない静謐な御姿で、平安時代後期に一世風靡した定朝様を踏襲する。螺髪の粒が細かく並び、目鼻立ちが繊細であること、衣文が浅く平行に並ぶことから定朝様からある程度時代を経た12世紀半ばから後半の作とみられる』
『願安(がんあん)坐像・桃山時代(16世紀) 平安時代のはじめ、興福寺の僧願安は金勝寺の伽藍を建立した。願安は伝燈大法師位という高い僧位をもち、承和5年(838)には宮中清涼殿の仏名会で導師を勤めた。願安坐像はヒノキの一木から彫られ前後に割り矧ぐ。顕にした胸の肋骨、首筋の表現など、金勝寺に伝わる僧形神像に通じるものがある』
『良弁僧正坐像・桃山時代(16世紀) 金勝寺は天平5年(733)聖武天皇の勅願により良弁が開基したと伝える。東大寺初代別当である良弁は石山寺を創建するなど近江とのかかわりが深い。良弁僧正像は法衣の上に袈裟を着け、禅定印を結んで端座する。ヒノキ材を用い幹部に2材、両体側部に各1材・両足部に横木1材を矧ぎ、内刳りする』
『煩悩を馬のように食い尽くす・馬頭銃沓菩薩 馬頭観音菩薩は、頭上に馬の頭をつけているのが最大の特徴です。煩悩を食い尽くすとされ、畜生道に落ちた人びとを救う菩薩とされます。恐ろしい憤怒の形相で悪を打ち砕くと云われます。髪は燃え上がる「焔髪(えんぱつ)」で、額には第3の目が備わります。印相は、馬の口をかたどった「馬口(ばこう)印」を結びます』
『不動明王立像・鎌倉時代(13世紀) 旧山口寺に伝来していた不動明王立像。根幹部はヒノキの一木から彫り出し、頭・体を割り矧ぎ内刳りを施す。両腰脇には別材を寄せる。髪は総髪でしゃけいを結び左肩に弁髪を垂らす。両眼は天地眼(右目で天、左目で地を睨む)で、牙は右を上、左を下に出している。金勝寺文化圏における鎌倉時代の作として貴重である』
『不動護摩祈祷とは 供物を火に投げ入れて、祈願するという意味のサンスクリット語(ホーマ)の音写です。
インドのバラモン教の火天(アグニ)を御本尊とし、供養を奉修し魔をのぞき、福を求めるために行われた献供儀を、仏教に取り入れたものです。
護摩木を積み、墟で燃やし、五穀・五香を投じ、香油を注ぎ供養することにより、願主の煩悩を焼き尽くし、祈願の成就を御祈願する祈祷です』
「御香水館」がありました。『御香水 当山は朝廷の祈願寺として、毎年正月15日の九重の小豆粥の水を、当山の清水を加持し、京都御所に持参する古例があり、明治3年献上物廃止令により途絶えました』
大講堂跡に行ってみました。『金勝寺遺跡 当遺跡はかつて金勝山大菩提寺と称した山林寺院跡である。 当地点は昭和60年の遺跡所在調査によって梁行5間・桁行9間(推定)の規模をもった堂舎跡であることが確認された。遺存する楚石は12ヵ所以上で花崗岩を用い、径約58cmの円座を造り出している。
近隣地調査では9世紀後半の土器が出土しており、この堂舎もこの時期に遡る可能性が高い。また占地や壮大な建物規模から、「金勝寺寺領膀示絵図」に見られる大講堂跡に比定される。 現在露出展示する礎石は整備に伴って復元したものである』
「虚空蔵堂」に行ってみます。『地獄に落ちた人々を救済する・地蔵菩薩 釈迦如来が入滅してから、56億7千万年後に弥勒如来が現れるまでの間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)の6つの世界を巡り、苦しむ人びとを導きます。「大地の蔵する力」を象徴します。 菩薩で唯一、僧形で表現されています。 多くは左手に宝珠を持ち、右手は錫杖を持つか、与願印を結んでいます』
『重要文化財・地蔵菩薩坐像(旧山口寺蔵)・平安時代(12世紀) かつて金勝寺への参道沿いにあった山口寺の旧本尊。ほぼ等身大で、根幹部はヒノキの一木から造り、背面から内刳りを行い背面材を当てる。左手掌に宝珠を乗せ、右手は第一・三・四指を捻じ錫杖は持たない。衣文の数を省略した簡素な彫法で身体の輿行きは深くない。構造は古様であるが起伏が少ない作風から12世紀末に近いころの制作とみられる』
『優れた智慧と、強力な記憶力を授ける「虚空蔵菩薩」 人びとを救済する力が虚空(広大な世界)のように広大な菩薩です。 虚空蔵菩薩を信じて、その名を唱えることにより、強力な記憶力を得るとされます。平安期以降、学業成就の菩薩として信仰を集めてきました。 持物や印相は、様々です。当山の虚空蔵菩薩は、施無畏(せむい)印・与願印を結びます』
『重要文化財・虚空蔵菩薩半跏像(こくうぞうぼさつはんかぞう)・平安時代(10世紀) 計り知れない知恵と福徳を蔵した虚空蔵菩薩は、記憶力の増進を図る求聞持法(ぐもんじほう)の本尊として信仰される。左手を与願印、右手掌を前にして立て、右足を踏み下げて座す。一般的な虚空蔵菩薩とは左右の手が逆で、大講堂の右脇侍としてまつられていたことによると考えられる。坐高2m近い像で、一木を割矧いで造る。衣文には翻波(ほんぱ)式の名残がみられる』
『財宝修徳と戦闘の神「毘沙門天」 四天王のひとつで、仏教世界の北方を守護する多聞天別名です。四天王としてではなく、独尊としてまつる場合、毘沙門天と呼ばれます。 もとは、生産と財宝をもたらすインド神話の神が源流であるため、福徳神として信仰を集め、日本では七福神の一神となっています。右手に宝塔を、左手に宝棒、戟(げき)などを持ちます』
『重要文化財・毘沙門天立像(平安時代10世紀) 根幹部をヒノキの一材から造るほぼ等身大の像である。背面から内刳りし2枚の蓋板をあてる。左手に宝塔、右手に戟をもち、目は大きく見開き口を固く結ぶ。下半身は重厚に造られており、腰は左にひねり躍動感をだす。天暦5年の造立である六波羅密寺四天王像との比較から10世紀後半の作とみられる。金勝寺に伝わる彫像の中では1番の古像である』
「寺務所・本坊」の前に来ると、『金勝寺へようこそ 本日は生姜湯・抹茶くず湯をふるまっております。どうぞお立ち寄りください』の拝み看板が立っていました。「よくお参り頂きました。休憩して行かれませんか?」と若奥さんに声を掛けられ、緋毛氈に腰掛け、抹茶くず湯を頂きました。美味しく、温まりました。
13:28、バイクに戻り出発。林道を更に奥に進むと、「狛坂磨崖仏」があります。観に行きたいけど、山道ハイキングコースの途中にあり、徒歩30分必要ということでパスしちゃいました。林道を戻ります。途中の分岐で、別の林道を走り、同じr12ですが、更に北側に合流しました。
13:37「浄土宗・金胎寺」。「国指定文化財・木造阿弥陀如来及両脇侍像/木造四天王像」「町指定・金銅製不動明王懸仏」の看板があり、期待が高まりました。
『市指定文化財・懸仏 金胎寺 昭和50年10月1日・栗東市指定第46号
興福寺官務牒疏によれば、当寺はもと金勝寺25別院の1つで、天智天皇の叡願により僧義淵が開基したと伝えられる。本尊阿弥陀三尊像(重要文化財)中尊には永治2年(1142)5月造像の銘があり、また阿弥陀三尊像を護持する四天王像(重要文化財)の内、当寺には持国天・増長天のみ安置されているが、その二躯にもそれぞれ造像銘がある。これらの銘から造像の結縁者は僧俗、男女を選ばない念仏集団をなしており、当時の民衆の中に広く念仏が広まったことをうかがい知ることが出来る。市指定文化の懸仏は神仏習合によりさかんに制作されたもので、鎮守社である熊野権現の御正体で銅板に2個の吊かん座を造り出し、不動明王を線刻であらわした鎌倉時代のものである』
期待したのですが、ご住職がお出かけ中ということで、拝観できませんでした。本堂をガラス越しに覗くと、素敵な装飾がなされた堂内でした。
再びr12に戻り、枝道に逸れ、13:47「春日神社」。『重要文化財・春日神社表門 大野神社の御旅所で金勝寺の護法神であると伝え、祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌神(たけみかずちのかみ)・天兒屋根命・姫大神を祀る。 この門は小屋内部の墨書の年号によって慶長18年(1612)に建てられたことが知られる。 円形本柱の前後に4本の控柱が建つことから、門の形式を四脚門と呼ぶ。屋根は切妻造の檜皮葺。繊細で優美な桃山時代の四脚門の好例。両側面には築地塀の取り付いたあとが残り往時が忍ばれる』
13:53「大野神社」。先の「春日神社」の謂れ板によれば、金勝寺の鎮守社で春日神社を含め、金勝寺文化圏のようです。社務所に行くと、アイドルグループ「嵐」のリーダー大野智さんの写真など関連グッズが飾られていました。社名に肖って記念品として販売されているのかな?と思ったら、参拝者より奉納されたグッズを飾っているのだそうです。
『金勝の庄・総社・大野神社由緒略記 御社名:大野神社(旧社格郷社)鎮座地:滋賀県栗泉市荒張896番地 本社:本殿 祭神:菅原道真公 境内摂社:三社殿(出雲社)祭神=出雲大神・恵比寿大神・八幡大神 境内末社:水分社祭神天之水分神(里の神)
*金勝山の分水嶺である龍王山山頂の古祠(天之水分神を祀る)は当神社のご本神(山の神)である。後に年代は不詳であるが、現在のこの場所に「里の神」として同神のご分霊を祀ることとなる。今日も5月の例大祭前にはご本山に上がり龍神祭を斎行している。
境外末社(氏子地域内)社名=春日神社(東坂地域)・松倉神社(中村地域)・中山神社(蔵町地域)・白山神社(観音寺地域) 兼務社:春日神社(荒張地域)御由来 創祀年代不詳であるが、社殿に天徳3年(959)勧請とあり、また古典・所伝によると、元慶6年(882)以前より社のあったことが伺える。聖武天皇の勅願により、奈良の都の北東(鬼門)の方角に位置する地に国家鎮護の霊山として金勝寺を建立した際、この地は大野神社の元の名所である天神社[祭神=天之水分神(水の神竜神)]の統領座す地であったことから好むと好まざるに関わらず仏教主導の宗教政策の大波に呑み込まれ、明治2年の「神仏分離令」をうけ、社名を大野神社と改めるまで神・仏ともに共生し歩むこととなる。
右記の天神社はのちに狛坂天神・於之宮天神等と名称は変えられて来ているが、現在境内末社である水分社がその天神社である。
又、寛平9年(897)、権大納言菅原道真公が勅使として、金勝寺に参向された折、当神社に滞在された由縁や、道真公歿後の天神信仰を受け、天徳3年於之宮天神(天之水分神)の社横に於之宮天満宮祭神=菅原道真公を祀った社が創建された。これが今日の大野神社であり本殿・拝殿・楼門は天満宮としての建造物である。この天満宮創建の後、創建は不詳であるが出雲大神・恵比寿大神・八幡大神の三神が一体となった社が新たに祀られる事となり現在に至る。今日でも「学問の神」・「農耕の神」・「天候を司る神」・「勝負事の神」などとして信仰を色濃く残し古来から残る祭祀を大切に受け継いでいる。
文化財 国の重要文化財:楼門 構造・年代=正面に建つ入母屋造・屋根は檜皮葺の三間一戸で、平安時代末期の様式を残した鎌倉時代の初期のもので、県内社寺の楼門中で最古の木造建造物である。
栗東市指定文化財:三社殿(出雲社) 構造・年代=一問社流見世棚造で小規模ながら均整のとれた室町時代の木造建造物である。
栗東市文化財:十一面観音立像・脇仏二体 本尊=十一面観音立像(平安末期) 脇仏=毘沙門天立像(室町時代) 脇仏=不動明王立像(江戸時代)
神仏習合時代の本地仏で、神主の屋敷内にあったが為に明治2年の神仏分離令や廃仏毀釈にも免れ、後に現在地に移した三仏像は栗東市文化財に指定されている。昭和56年(1981)に約7ヶ月かけて解体修理を施し現在に至る。
本地仏について 神仏習合のこの時代、仏教思想からすると神道の神と仏教の仏は一体視され特に仏教主導の政策のため、絶対的な存在である仏(本地)が日本の神々の姿をとってこの世に現れ(垂迹)人々を救うと考えられた「本地垂迹説」により当神社の十一面観音立像は主祭神菅原道真公として祀られたものと思われる。
栗泉市文化財:鰐口一口(大永6年の作) 観音堂の正面軒下につるす金属製の音響具(金鼓)。
宝物:木造狛犬一対 飾太刀一振(伊賀守藤原金道作)
1月1日:歳旦祭 2月上旬:厄除祭 4月上旬:祈年祭・勧学祭 4月下旬:厄年奉納祭 5月3日:龍神祭(山の神) 5月5日:例大祭 6月上旬:湯ノ花神事(植付湯) 7月上旬:湯ノ花神事(御田湯) 8月第一土曜日:献灯祭 8月下旬:百灯祭 11月中:七五三祈願 十12月上旬:新嘗祭』
その他多数のグッズが販売・授けられており、賑やかで楽しそうな神社でした。「達磨」押しのようで、達磨御神籤などありました。本殿にいつもの「これまでの良い人生をありがとうございます」と「先月授かった次男の長男への感謝」を胸に手を合わせました。七五三の神事をしていました。鎮守の森の高木や手入れされた境内を持った気持ちの良いお宮でした。
来月、先月末に生まれた5人目の孫に会いに行くので、そのお姉ちゃんすみれちゃん3才へのプレゼントに良いものが並んでいたので、それを手に取り社務所に向かいました。絵馬も手に取り授かろうとすると、巫女さんが「お待ち下さい」と裏へ。宮司さん?神職さんが出てこられ、「これは七五三宮参りの方へのプレゼントで販売はしていません。差し上げますよ」「これはすいません。孫にプレゼントしようと思って」「良いんですよ、差し上げます」とニコニコ手渡して下さいました。
r12に戻り、右折してr113。14:18「長寿寺」。拝観料500円を払って境内へ。子宝・安産・長寿のご利益があるそうです。鎮守社であろう「白山神社」を拝見。
『重要文化財・白山神社拝殿 昭和34年6月27日指定
白山神社は、古来よにり長寿寺の鎮守社であって、祭神は白山比め神を祀る。 現在の拝殿は、様式しよって室町時代後期の作品と認められる。 建物の形式は、正面3間・梁間3間の方形平面に屋根は入母屋造の桧皮葺。柱上に舟肘木をのせ、垂木は一軒疎割りとした構造は簡素。各柱間は開放にする類例が多いが、格子戸を備えるのは珍らしい。建物の高さと屋根の形が調和のとれた軽快な拝殿で、本県の拝殿の中では、重要文化財御上神社拝殿(野洲町)に次いで古い。 かつては拝殿内に掲げられた県指定有形文化財「板絵36歌仙扁額」の裏面には、永享8年(1436)の銘がある』
「聖武天皇ゆかりの古寺・三重塔跡(礎石有り)」の案内板があったので、森の中を登っていきました。木々の間から塔のようなものが見えるような見えないような感じで期待したのですが、下草に覆われた道になり、下草が腰まで来るようになったので「危ないな」と撤退しました。「礎石有り」と書かれていたので、礎石だけなのかもしれません。
「長寿寺」境内に戻る。『創建 聖武犬皇の天平年中(729〜748)良弁僧正によって建立された勅願寺であり、現在国宝に指定されている。その昔、聖武天皇は大仏造営のため、一時信楽宮に遷都されたが、世継がなかったので良弁に祈請せしめたところ、良弁は阿星山中の瀑布に龍って祈った結果、間もなく降誕をみるに至った。そこで天皇は信楽宮より鬼門に当る東寺に七堂伽藍、廿四坊の寺を建立し、皇女生誕にちなむ子安地蔵尊を行基菩薩に刻ませて本尊とし、皇女の長寿を願い長寿寺という寺号をおくったことに始まる。後貞観年中に焼失、同年間復元、現在に至る。中世に頼朝、足利氏らの祈願所になっていたが、天正の頃信長の手によって三重塔は自分の居城である安土城へ、楼門は栗東市の連台寺へ移築し、主要建物を失った。現在、国宝の本堂、重文の弁天堂、重文の丈六阿弥陀如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像、十六羅漢図等が残されている。
本堂(国宝) 天平年中創建し貞観年中焼失、同貞観年中復元、現在に至る。桁行(正面)五間、梁間(側面)五間、屋根一重寄棟造、向拝三間檜皮葺、四面廻廊と、天台伽藍には珍しい建築である。中央三間は桟唐戸の入口、左右には連子窓、内部は正堂と礼堂とに分れ、奥行の深い堂を構成し、化粧屋根裏や、雄大な虹梁、その上の板薔股等、藤原時代の雰囲気を残し、建立年代が相当古いことを物語っている。本堂内の厨子は本尊子安地蔵尊で脇士は聖観音と毘沙門天を安置し、厨子は春日厨子で国宝に指定され内部墨書により、文明12年の建立とみられる。
弁天堂(重文) 桁行一間、梁間一間、屋根一重入母屋造、唐破風付檜皮葺のほぼ真四角な堂で、小さいが本格的な構造である。建立年代は詳らかでないが、内部より刷毛書の墨書が発見され、それに十六、十二月とあり、肝心の年号の部分がぬりつぶされているが、建物の様式、地中から発見された瓦に「文明六年」という銘があることや、「天文十九年三月手間参百人云々」という修理銘が見出されていることから、これは文明16年の建立とみるべきだというのが建築史家の結論である。
「仏像の部」
春日厨子(国宝) 正堂内陣にある春日厨子は、中の中央に秘宝のご本尊「子安地蔵尊」、脇士に「観世音菩薩」と「毘沙門天」を安置しています。秘仏のため、ご開帳は50年に1度だけです。
阿弥陀如来坐像(重文) 藤原時代、皆金色、1m42、寄木造、定印、二重敷茄子の立派な蓮座に坐し、美しい唐草をきりすかした二重円光を負う。
釈迦如来坐像(重文) 藤原時代、皆金色、寄木造、1m77。
丈六阿弥陀如来坐像(重文) 藤原時代、皆金色、約3m。裳懸座上に定印を結んでいる。寄木造坐像。
半丈六地蔵菩薩坐像 鎌倉時代、皆金色、寄木造。
聖観世音菩薩立像(県指定) 藤原時代、皆金色、寄木造。
「絵画の部」
十六羅漢図(重文) 鎌倉初期、絹本著色、十六頓の板額装、古様をふまえた伝統的な仏画の手法がみられ、この種の羅漢像の中では出色の出来といえよう。観経変相図(県指定) 鎌倉時代、絹本著色、全体におだやかで、やわらいだ像容は古様をとどめており、この時代の作品でも佳作に入ろう。
観経変相図(県指定) 南北朝時代、絹本著色、画幅を一回り大きくし金泥切金を多用し、彩色も明快なものとしているところから、南北朝時代のものと思われる。聖観音曼陀羅(県指定) 鎌倉時代、絹本著色、鎌倉時代から室町時代にかけて多く描かれた異種の曼荼羅の遺品として貴重な作例である。
三重塔趾 近江の主要な天台系伽藍には、かならず三重塔を配するのが堂塔配置の常である。長寿寺の三重塔は本堂に向って左後方の叢林中に在ったが天正3年頃織田信長の手によって、安土城山中の信長の菩提寺である「そう見寺」に移築された。地中より鉄刀子、鎮壇具に用いられたと思われる素焼の壷が発掘された。蓋は室町時代とみられる菊花双鶴文鏡が用いられ、鏡の製作年代から推定して享徳ごろ塔が建立されたものと思われる。
長寿寺制札(県指定) 寺内への軍勢などの「乱入狼藉」を禁止した足利高氏の制札で、元弘3年5月25日の日付からみると、この戦乱中の禁制は数例知られているが制札では、長寿寺と金剛心院(京都)の2例だけである。
石造多宝塔(市指定) 聖武天皇の菩提を弔う為に鎌倉時代に建立した多宝塔。今は相輪が欠けているが、この種の石造多宝塔の遺例は極めて少ない。
「年中行事」
1月中旬:修正会(鬼はしり) 2月3日:節分護摩 7月下旬:紫雲の滝不動護摩 3月・10月:大般若 8月:寺宝虫干』
「重要文化財・丈六阿弥陀如来坐像」の案内板がありました。国宝の本堂に靴を脱いで上がると、「住職のお話が始まります」と案内されたので、本堂の椅子に腰掛け待ちました。ご住職のお話が始まりました。
まずは国宝である本堂の説明、続いて厨子の中に秘仏としておられる「本尊・子安地蔵尊」の説明。お姿は見れませんが、写真や絵が飾ってあるので、雰囲気はわかりました。
続いて、寺院には2種類(菩提寺と祈願寺)あり、菩提寺は先祖のお墓を守り檀家からの収入があるが、祈願寺は仏様にお願いする時に発生する金銭によって維持している。祈願寺には得意分野が有り、ここは子安地蔵が本尊なので、子宝・安産・長寿の願いが叶う。
多くの妊娠中の奥様が、旦那様やご両親とお越しになる場面をよく見る。その時の願いは、「この子が無事・健康に生まれますように」ほぼこれ一択です。ところが、その子が成長して行くと、初心を忘れ「勉強しろ」「ゲームばかりして」・・・なんて小言が多くなる。再びこの寺を訪問し、私の話を聞くと初心を思い出し、優しく家族円満になろうと改心される。
こんなお話を面白おかしく慣れた口調で喋られ、とても面白かった。どうやらバス団体のお客様が来られたからお喋りになったようで、京都鈴虫寺のように常時お喋りになっておられないようです。
「丈六阿弥陀如来坐像」も撮影禁止でしたが、立派で貫禄があり、間近で見れてナイスでした。「湖南三山」の1つ「長寿寺」の拝観終了。
バイクに戻り、r119に出て、15:13「湖南三山」の2つ目「天台宗阿星山常楽寺」。「OPEN10:00〜15:30」閉店ガラガラ直前でした。
『縁起 阿星山の北麓にある当寺は、和銅年間(708〜715)元明天皇の勅命により、良弁が開基した阿星寺5000坊の中心寺院として、また紫香楽宮(742〜745)の鬼門鎮護として栄えた。平安〜鎌倉時代には、皇室の帰依を受けて寺運は隆盛。延暦年間(782〜805)天台宗に改められたという。延文5年(1360)火災で全焼したが、同年、観慶らによって再興された。桁行7間・梁間6間・向拝3間・入母屋造・檜皮葺の本堂は、明治31年国宝(旧法)に指定。明治35〜6年改修工事が行われ、昭和16年には大規模修理の解体工事が行われる。新法(文化財保護法)により昭和28年国宝に再指定されました。
風神・雷神二十八部衆 木造・ヒノキの寄木造り76.6cm〜100.5cm 本尊・千手観音(重文)の親族・脊属。 延文5年(1360)火災にあい諸堂は全焼し、本尊も焼失しましたが、風神・雷神・二十八部衆は多くの僧侶により持ち出され、難を逃れました。しかし、昭和56年、無住職時代に風神・阿修羅王・摩喉羅迦王の3体が盗難に遭います。その後、昭和60年に阿修羅王は見つかり戻ってきました。 昭和56年頃からは一般公開しておりませんでしたが、平成17年11月に湖南三山を立ち上げてから内陣、下陣を公開しております。
三重塔(国宝) 旧法・明治21年12月28日指定 新法・昭和28年3月31日指定 応永7年(1400)室町時代再建 3間四方(5m)瓦葺高さ22.8m 釈迦如来坐像 木造を安置来迎壁に釈迦説法図が描かれている。 塔は本来仏舎利を安置する建物ですが、天台宗では法舎利(釈迦の根本教典の法華経を仏舎利の替わり)を安置して法華経の功徳による国家安穏・護国豊穣を願った。
釈迦如来(重文)平安時代 木造(ヒノキ寄木造り)139.1cm 施無畏印(せむいいん)・与願印を結び結跏趺坐(けっかふざ)をしている』
『湖南三山 滋賀県の南東部に位置し、南に亜星山系、北に岩根山系、中央には琵琶湖に注ぐ最大の河川である野洲川が流れる湖南市は、石部町と甲西町が合併し平成16年10月1日に誕生しました。この湖南市に奈良時代に建立された天台寺院で国宝に指定された建築物が3ヶ寺(常楽寺・長寿寺・善水寺)あることから翌年「湖南三山」と称することとしました』
「国宝三重塔」は、本堂裏の階段を上った丘に建っていました。『三重塔 国宝 旧法・明治31年12月28日指定 新法・昭和28年3月31日指定 応永7年(1400)室町時代再建 三間四方(5m)瓦葺 高さ22.8m 釈迦如来坐像木造を安置 来迎壁に釈迦説法図が描かれている。
塔は本来仏舎利を安置する建物ですが、天台宗では法舎利(釈迦の根本教典の法華経を仏舎利の替わり)を安置して法華経の功徳による国家安穏・護国豊穣を願った』
バイクに戻り、r119に戻り、r113に出て北に進みます。JR草津線を渡り、r4を渡りr22。野洲川を渡り、左折してR1に乗って一気に大津市まで戻り、r56〜r18〜r558で17時直前に合宿所に着きました。
1Fでバイク装束を脱いでいると、主役の4回生が数人入ってきました。「今来たの?」「はい」「社長出勤だね」。着替えて2Fに上がると、部員が皆揃っており挨拶。4回生数人がまだだそうで、彼らを待って数分遅れて代交代式が始まりました。
今年卒業したM1N君が司会で開会。37年ぶりのクラス優勝で寄付が多く集まったようで、その紹介がありました。最高額寄付が、なんと次男でした。掃除機ダイソンとフードプロセッサーを購入したそうです。監督の挨拶&乾杯で宴が始まりました。僕はカメラマンとしてパチリパチリ。
しばらくお腹を満たし、4回生の挨拶。色んな話が聞けて、面白かった。僕が指名され、スピーチしました。続いて送り出す3回生の贈る言葉と、次年度への意気込みが続きました。次はエールと思いきや、4回生をフューチャーした送り出しビデオを全員でワイワイしながら鑑賞し、エール。そして集合写真でお終いになりました。新キャプテン3回生Fくんがやってきて、「また来年もコーチをお願いします」「OK」で、もう1年コーチをすることになりました。翌日、監督をCCにしたキャプテンからの文章でのコーチ依頼がありました。
バイク装束に着替え、名神高速で帰宅しました。1年の成果が「クラス優勝」「全国制覇」という形になりました。もう1年また1から頑張ろう。

家族LINEに、次男から写真が投稿されました。競馬場を上から見た写真です。長男が、競馬好きだからです。中学生の友達のお父さんに競馬場に連れてから好きになったようです。高校生になると、友達とサングラス掛けて大人に変装し、子供だけで競馬場に入り、少額で馬券を買っていました。今では頻繁に競馬に行くことはありませんが、年1〜2回家族で競馬場に遊びに行きます。ギャンブラーではなく、芝生の広がりや馬体の美しさを観に行くピクニック気分のようです。日本よりギャンブル色の少ないアメリカ在住時も、競馬場での家族を送ってくれていました。
『会長の競走馬がが明日のエリザベス女王杯に出るから、会長と一緒に京都競馬場に来たよ。馬主席で観戦』との説明がありました。会社を創業した会長さんは数頭競走馬を持っており、賞金もしっかり稼ぎ、儲かってるそうです。G1馬なんだから立派なものです。長男から、「馬主席から観戦できるのは羨ましい」とのLINEが入りました。
父も、僕が幼児の頃、社長の持ってる競走馬が阪神や京都競馬場に遠征する時は、その馬の様子を見に行くために競馬場に足を運んでいました。社長と親戚なので、言いやすく業務命令のようなものだったのでしょう。
でも父は競馬は好きにならなかったようで、僕ら家族を競馬場に連れて行くことはしませんでした。今の時代と父の時代は、ギャンブル色が大きく違い、競馬場に女性や子供がいるのは稀だったんじゃないかな?今は競馬場の芝生で家族でシートを敷き、子供が走り回る時代です。長男は、「入場料無料が100円ぐらいだし、馬券なんて買わなくても1日遊べるよ」と教えてくれます。
次男は、会長さんや社長さんに可愛がられ、父から隔世遺伝で長男同様、競走馬と縁があるようです。

翌日、次男から家族LINEにエリザベス女王杯のメッセージと写真が入りました。結果は当たり馬券に絡めませんでしたが、4コーナー直線までは上位で走り、何度もアナウンサーに名前を呼ばれていました。馬主特権でパドックの中まで入れたようで、嬉しそうに写真に収まっていました。
りょうくんの作文を褒めていました。『事実と感情とその理由が簡潔にまとまってて、文字制限もぴったり。誰の指導もなくこれ書けたらすごい!』とべた褒めです。長男は小学生の頃、作文コンクールで学校代表になり、作文が阪神大会に出場しました。その表彰状が、今でも家内の部屋に飾られています。次男もわかりやすい文章を書きます。
これは、母が僕にしてくれたことに習って、僕が毎日読み聞かせをして寝かせたからだと思っています。僕も読解力に困らなかったし、趣味=読書になり、文字を書くことが楽しいと感じ、今でも毎日文字を書いています。息子たちも同じで、暇さえあれば本を読んでおり、孫にもその影響があると思います。


2019/11/10
家内の部屋のTVの調子が悪くなってきました。突然ブラックアウトして、短くて15秒・長くて1分ほどすると、再び映ります。数日に1回の症状が毎日になり、15〜30分に1回になってきたので、TVはそんなに見ないのですが、このままでは映らなくなりそうです。
長男が結婚した時、お嫁さんのマンションのTVの方が新しく大きかったので、「使わないから」と実家に送ってきました。ソニーのデジタルTV26型です。家内の部屋のTVがブラウン管だったので、このTVに替えました。2010年に結婚したので、あれから約10年です。僕の部屋のTVはまだブラウン管ですが、問題なく使えるのでそのまま使っているのに、新しいデジタルTVの方が先に駄目になって何だか残念。
先月末、我が家御用達のご近所電気店に蛍光灯を修理してもらいました。直管を替えても、豆球を替えても点かなくなったので、器具ごと交換してもらいました。既に蛍光灯は時代遅れになっており、器具はLEDのみになっているのだとか。LED器具に交換してもらっている時、蛍光灯の話を聞きました。旧蛍光灯器具でも豆球の付いてる器具ならLED直管が使えるらしい。我が家には蛍光灯直管がまだ数本残っているので、しばらくそれを交換するが、無くなったらLED直管を買っていけば良いそうです。
TVの調子が悪いことを話すと、「月末からの秋のセールで32型の売出しをしますよ」と勧められました。月末にLED器具&直管&取付費用の支払いに伺うと、三菱32型が置いてありました。このお店は三菱ショップなので、白物家電は三菱です。我が家の白物家電は、ほとんどが三菱で、僕の部屋の長生きブラウン管TVも三菱で、三菱には好感を持っています。お値段は3.4万円ですがデカくて置けるかわからないので、1サイズ小さなものにしようかと思いましたが、26型TVはもう作られておらず、24型になるそうです。しかも、32型より高く4万円だって。カタログもらって帰宅し、カタログ寸法を見ながらメジャーしてみると、家内の両親の遺影を拝む小仏壇を少し移動すると置けます。家内に相談すると、「片付けるから32型に買い換える」ことになりました。
「32型買います。急がないので、暇な時にお願いします」と電話で電気屋さんに注文しながら、リサイクル費のことを聞きました。意外に高額で、篠山や亀岡などの国道沿いで見たことがある「不用品無料置き場」のことを思い出しました。「家電リサイクル法」が成立し、それまで買い替え店で無料で引き取ってくれていたのに、この法律成立後費用が消費者に発生することになり、野山への不法投棄が一気に増えました。僕はバイクで林道を走るのが好きなので、この法律成立後、不法投棄防止のために林道封鎖や不細工な網で景観が遮られたり監視カーが走ったり、不法投棄物を回収したり、大きな費用が田舎の地方自治体にのしかかりました。天下の悪法だと思っています。
その対策として、自治体が街中の交通の便利な所に、「不用品置き場」を設置しだしました。不法投棄回収費用を考えれば、安いものです。「まだあるかな〜」と場所とTV置いていっていいのか確認ツーリングをすることにしました。
8:23、「里山VTR250」で出発しました。r13〜R173〜R423で亀岡目指して北上しました。亀岡盆地に下り、「京都縦貫道」をくぐり、R372。この道沿いにあったはずの不用品置き場がなくなっていました。右折してR9で北に向かい、「道の駅ガレリア亀岡」でトイレ休憩し、R9を更に北上し、10:02「エネオスセルフ千代川インターSS」で給油。214km/6.63L=32.3km/L。
r73で西進し、R372に突き当り右折して丹波篠山中心地に向かいます。「安田交差点ローソン」にバイクがいっぱいです。そこで左から合流したR173に、右折して乗り直し福知山方面・北に向かいます。
10:40、「細工所」交差点で、警察官も出て先行車が止められて説明を受けています。サンドイッチマンスタイルのオフィシャルの胸と背中に、「高校駅伝」と書かれており、通行止めの原因がわかりました。30分ほど、R173を北に上がれないようです。
駅伝観戦なんて経験がないので、横のコンビニPにバイクを置き、観戦することにしました。「全国高校駅伝(都大路)兵庫県予選会・兵庫県高校駅伝競走大会」。男女優勝校は、クリスマス時期に都大路を走る全国高校駅伝の出場権を得ます。加えて男子はタイムによっては2位でも出場できる可能性があるそうです。上位10位までは、11/24淡路島で開催される「近畿高校駅伝競争大会」への出場権を得ます。
往路、篠山市街地方面(西)からr702をやってきた男子が、「細工所交差点」で北に進路を変え、R173を北上し、「福井交差点」で右折しr702で「鳳鳴カントリークラブ」への緩い坂道を登り、折り返して復路、篠山市街地のゴールに向かいます。
「細工所交差点」西のr702沿い「ハートピアセンター」前の沿道で待っていると、オフィシャルカーがやってきて、「第74回兵庫県高等学校駅伝競走大会、10:10大正ロマン館前をスタートしました。まもなく男子2区の先頭走者がやってまいります。道路から離れての暖かい声援、ご協力よろしくお願いいたします」とアナウンスしていました。ちょっと手前に「第1中継所」があり、たすきを受けたばかりのフレッシュな第2走者がやってきました。2台の白バイの回転赤色灯を先頭に、トップ・西脇工業でした。既に後続2位と離れており、独走体制に入っています。
僕が陣取ったのは、高校駅伝関係者と思われる2人の近くです。駅伝中継ラジオを聞いておられ、状況がわかります。お二人の会話から、2位でも都大路を走れるだとか、上位10校が淡路島での近畿大会への出場権を得るなどの情報を得ることが出来ました。
2位は「姫路商業」で、都大路でいつも上位争いをする兵庫県勢(西脇工業・報徳学園・須磨学園)3強ではない学校で驚きました。新勢力が躍進し下剋上があればあれほど、県勢は強くなるでしょう。3位報徳。3位と4位がかなり離れています。
4位にやってきたのは、胸の「T」マークが目立つ龍野高校。次々にランナーが前を通り過ぎて行きます。家内の母校「加古川東」は男女ともに地区予選を勝ち抜き、この大会に出場しています。14位で通過し、僕の母校KGは24位でした。全部で男子40校なので、それでも中間なのですが、トップの西脇工業ランナーとの走りの差は歴然としていました。ラスト2ランナーが通過し、オフィシャルカーが最後に走り去って行きました。
R173北行きは開放されましたが、10分後にスタートした女子も見ようと留まりました。男子の最後尾に追いつくように先頭が走ってくるはずなのになかなか来ません。おかしいな?と思ったら、ほんの少し手前が折り返し点になっており、女子は5区駅伝だそうです。大きなマットレスを抱えた高校生が数人西から歩いてきて、「ハートピアセンター」に停まってるバスに乗り込んで去っていきました。疲労困憊してダウンしたランナーを寝かせるマットレスだったようです。
仕方なく、男子の復路を見ようと更に留まりました。クラブのマネージャーと思われる女子高校生数人がメガホンと学校名を書いた幟を持ってお喋りしています。
しばらくすると、復路の選手が戻ってきました。オフィシャルカーが、「第74回兵庫県高等学校駅伝競走大会、10:10大正ロマン館前をスタートしました。まもなく男子5区の先頭走者がやってまいります。道路から離れての暖かい声援、ご協力よろしくお願いいたします」とアナウンスしながら通過していきました。
中継車に続く2台の白バイに守られ、先頭の西脇工業がやってきました。2位との差が更に広がっていました。2位にやってきたのは兵庫男子3強の1つ「報徳学園」で、西脇工業が出てくるまでは、兵庫駅伝の雄でした。すぐ後ろを報道カメラサイドカーが従い通過していきました。続いてやってきたのが「姫路商業」、4位に兵庫3強の1つ「須磨学園」が上がってきました。ラジオから聞こえる女子は、1区から須磨学園が区間賞の連発でダントツです。「姫路商業」は女子も3位で、男子3強・女子2強(須磨学園・西脇工業)に追いつく実力を持ってきたようです。
「加古川東」は少し順位を上げているようです。白パンツにスクールカラーのブルーシャツ、胸には三日月の「KG」も少し上げたかな?ラストランナーが、R173を南下して来ました。後ろにパトカーを従えており、その後ろに一般車やバイクが連なっています。「細工所交差点」を曲がってこちらに来ました。ひときわ大きな歓声と拍手の中、「豊岡高校」ランナーが通過して行きました。すぐ後ろにパトカー、オフィシャル医務カーを従え、大名行列です。
12:06バイクに戻り、R173を北上します。南下する反対車線は大渋滞中。その中に2台、走り終わった選手をフィニッシュ地点に運ぶバスがいました。駅伝コースでは右折して「山コース&折り返し点」に入っていく「福井交差点」を通過。更に北上し、「道の駅・瑞穂の里さらびき」でトイレ休憩しました。
12:29「みかんバー140円」を食べながら、細工師さんが開いているお店を眺めると、アルミ缶風車が多数回っていました。「令和祝賀記念・半額280円」と書かれていたので、じっくり見に行きました。長男が勤務するキリングループのビール缶を細工したものがあり購入、加えて針金細工自転車キーホルダーも購入。財布を開けると1万円札と1000円札しかなく困ったなと思ったら、1000円以下だったので買うことが出来ました。
R173を折り返します。主目的の「不用品置き場」は見つかっておらず、TVは電気屋さんに引き取ってもらうことになりそう。「細工所交差点」「安田交差点」を通過し、「天王トンネル」を抜けて、左折してr731〜r54で南下。道なりにr104を南下し、左折してr4〜r106〜r604〜r4で東進し、野間峠を越えてR423に突き当り、右折して南下。
沿道沿いにある「Bikers in TRUST」に寄り道しました。R423〜R173で池田に下り、帰宅しました。


2019/11/8
学連ヨット部を卒業した関西在住のOB・OGが2ヶ月に1回集まる会が、僕のD社の同期H君の経営する大阪堂島のカフェレストランで開催る日です。1週間前のインカレ団体戦レース期間中、法政などのOBさんから、「今月の会に来るの?」と声を掛けられました。最終日、当方の37年ぶりの優勝が決まった後は、「絶対来なあかんで」と言われていました。
世話役のD社OBさんが入院中らしく、O大OB・Kさんからメールが届き、「優勝した当方の学生も数人誘ってよ」と書かれていました。学生に呼びかけ、選手3人+女子マネージャーリーダー1人が参加することになりました。キャプテンは就職する会社の行事で東京にいるらしく不参加でしたが、優勝したS級リーダーが参加することになり良かった。
18:30開始なので、18時に大阪集合にしました。JR大阪駅は大きすぎて迷いやすいので、「ヒルトンホテル大阪」の玄関にしました。スマホ地図でも位置が確認でき、エントリーは1ヶ所なので間違うことはないでしょう。
17時に仕事場を離れ、「通勤リード110」で最寄りJR駅へ。バイクを預け200円、プラットホームに上がると、運良く北新地経由の各駅停車がやってきました。尼崎駅で乗り換える必要がなく、北新地駅で下車し、地上に出てホテル前へ。まだ時間があるので、ホテルのロビーのソファーに座り、本を読んでいました。
電車の中でも読んでいたので、「この命ギに捧ぐ 門田隆将」を読み終えました。第二次世界大戦後、シナ大陸では国共戦争の時代になっていました。国府軍は負け続け、本拠地の長江南部に追い詰められ、更に台湾に追い詰められます。
ここで蒋介石を救うべく立ち上がったのが、根本博陸軍中将。終戦時は、モンゴル駐留日本軍司令官で、玉音放送後武装解除降伏の命令を受け、個人的付き合いがあり信用できる国府軍司令官に降伏することにする。
しかし国府軍の到着前に、信用できず残虐なソ連軍の方が早いと判断し、数万のモンゴル在住日本人を守るため命令に従わず、在留日本人全員の北京移動を終えたあと駐留軍とともに引揚げ、そこで武装解除する。
この判断により、即時ソ連軍に降伏し武装解除された満州守備隊関東軍の多くがシベリア抑留され、在留邦人の多くが残虐な被害を受け、多くのレイプ被害を出したのとは大違いに、より日本から遠く、よりソ連に近い位置にあるにも関わらず、モンゴル在住邦人・軍人に被害を出さなかった。
国府軍の寛大な措置に感謝し、終戦時の戦勝国会議で、日本への寛大な措置を表明した蒋介石の恩に一日本人として報いるため、共に死のうと渡台を企てる。台湾への渡航は密航です。私財を現金に変え資金を作っているところに、北京で武装解除を受けた信義のあつい国府軍司令官からの使いだという青年が2人やってきた。元台湾総統・明石元二郎の長男の助力もあり、延岡から通訳や元部下数人とともに小さな漁船で、何度も死にかけながら渡台に成功した。
ところが台湾で待っていたのは、密航容疑での逮捕でした。蒋介石には話が通じておらず、2人の青年は台湾を助けたい一心で根本の元にやってきていたのだ。やがて蒋介石の耳に入り、軍事顧問として根本は活躍しだした。最前線司令官・湯恩伯の軍事顧問に就任する。住民が少なく長期籠城戦になっても守れると判断した根本が進言し、金門島を最前線とし、共産党軍を迎え撃つ作戦を立て準備をする。海軍力は国府軍の方が上ですが、シナ大陸本土から大砲でも届く近さなので、一度金門島に第一陣を上陸させ、船を全て焼き討ちし、2陣以降の上陸手段を無くし、優勢な戦車を全面にして殲滅する作戦でした。これも採用され、上陸共産軍2万人の殆どを殲滅捕虜にし、国府軍被害は2000人・住民被害は殆どなかった。
この大勝利後、金門海峡を挟んで小康状態になった時、朝鮮戦争が始まり米軍が封鎖したことから台湾の安全が保たれ、現在に至っている。長く旧帝国軍人の顧問団がいたことは秘されていた。
この根本博氏の生き方をドキュメンタリー作家・門田隆将氏が感動的に描く書で、何度も目頭を熱くした。
18時になり学生がやってきて、店に向かった。既に数人の方が店におられ、18:30になると20名ほどの出席者になり、当方の優勝を祝しての乾杯していただいた。この会の会長・D社Hさんの挨拶・乾杯後、僕が指名され優勝のお礼を述べた。司会のO大Kさんに当方の学生たちが紹介され、1人ずつ喋らされた。僕のお礼の言葉の中で、「実は1上マークをビリ72位で回航したのがあったがノーレースで助けられ、優勝は神様の気まぐれでありプレゼントでした・・・」なんてのを披露したので、ビリ回航した本人I君が大人気でした。
470優勝・総合優勝したKOのOB・Nさんが指名され挨拶、続いて全員がいつものように近況などを披露しました。1時間ほどして、明治のSさんが初参加されました。お子さんが僕の作ったジュニアクラブの後輩で、更に次男と同じ中学に入学していました。司会Kさんとインカレではアウターに乗っておられ、4日間オフィシャルとして運営頂いた方です。会費5000円(学生は無料)で飲んだり食ったり、21時まで楽しい時間を持ちました。
お開きになり、Sさんと学生とともに家路に着きました。僕とS君が北新地から電車に乗ります。他はJR大阪駅へ。当方男子学生2人に、マネリーダーSさんを無事家に届けるよう指示しておきました。
近畿北陸フリートのS大の忘年会にスピーカーとして呼ばれています。今回の優勝で、去年に続き僕の周辺が慌ただしくなっています。あちこちに出向いて、お礼を言わなきゃ。


2019/11/4
レース最終日です。まだ2レースしか成立していないので、あと1レース成立しないと大会そのものが成立せず、成績なしになっちゃいます。当方は、470級13位・S級3位・総合7位のままで、1年間目標としてきた「総合6位入賞」が今年も未達成になっちゃう。達成できれば、26年ぶりの復活です。一昨年から目標達成が現実に見えてきたのに、8位・7位と2年間足踏みしました。今年こそは・・・あと一歩です。
4時に目を覚まし、ゴソゴソ。4輪に乗って出発し、5:45近所の「セブン」で、「完熟ブドウオーレ500ml103円」購入。ホテルに向かいます。6:30に主に1回生7人を乗せハーバーに向かいます。折り返して、7:10第2便を乗せてハーバーへ。また「西宮ボートパーク」係留艇に向かうメンバーだったので、ハーバーで燃料タンクなどを積み、ボートパークへ。
7:42ハーバーP。OB・OGさんが続々やってきました。初日来られOB観覧船に乗られた同じお仕事の3回生W君お母さんと2回生M君お母さんが来られました。早いな。でもレース前準備してるお子さんの姿こそ見て欲しいし、親としてはそれを含めて真剣な我が子の姿を見てみたいものだと思います。僕もかつて選手親だった頃は、できるだけ早く行って見ていました。
オーナーAさんは京都の方なので、来月船を琵琶湖に移動させ琵琶湖で楽しむそうです。また親観覧船として借りれたら良いな。
8:15になり、コーチボートがスロープから降ろされ、当方も出艇して行きました。本日は前日同様、私の仕事は親御さん観覧船担当です。朝から3日間同様北風ですが、本日の天気予報はずっと北なので、レースはあるでしょう。
8:35・0°・3〜4m/sの報告がコーチボートから入りました。8:40・40°・5〜6m/s。親御さん観覧船担当IS君が、皆さんを連れてきました。お母様から、「これは父兄からです」と「アンリ・シャルパンティエ」の菓子折りを頂きました。1つはオーナー様へ、1つは私へとのこと。思いがけないプレゼントで恐縮です。
お友達のW君母+M君母は、16人乗りのOB観覧船に乗ってもらいます。その担当マネさんも決まっています。他は前日と同じメンバーで、僕とIS君が同乗します。
8:50、470D旗。親御さんたちと共に、選手の出艇を見ます。府大応援団と阪大応援団に挟まれた場所で、当方1回生が選手にエールを送っています。両方のチアさん達に囲まれ、当方も応援されているみたいだと、お母さん方が喜んでいました。
S級が出艇して行ったので、船に向かいます。センターハウスでトイレを済ませ、カードキーで桟橋扉を開けて船へ。オーナーAさん・友人E君がいました。IS君に謝金を渡させ、お母さんからアンリを渡してもらい、「本日もよろしくお願いいたします」。
9:51桟橋を離れます。北風なので、本日は上マーク付近で観戦することにします。また僕の指示でE君がドライブしてくれます。上マーク運営艇が上に向かって動き出し、9:55上マークを355°・0.6マイルで上マークを投下し設定しました。鈍足な当方はレース海面に取り残され、全速力で上マークの上海面に離脱します。10:05、ゼネラルリコール(早すぎるスタート艇が多すぎてフライングした艇が特定できない)でスタートやり直しになりました。
10:08・470旗〜10:09・U旗〜470・R3が、355°・10ノットで、10:13スタートしました。続いてS級も1回ゼネリコした後、10:37スタート。「全艇良いスタートです」とのLINEが入り、期待できそう。左海面に来てくれると良いけど。フルトラピーズでグングン上マークに迫ってくる470に親御さんたちは、「速いですね」。タッキングする選手たちを見て、「かっこいいでしょ」と彼らのかっこよさを押し売ります。
西宮の鉄則通り、「北風は左」からブローが入りました。左海面からポートアプローチしてくる艇が上位に来ます。当方は10番台・20番台・60番台で回航して行きました。「う〜むトータル100点付近」なので順位は現状維持だな〜。当方470ビリを追いかけて、サイド上マークに並走します。速度的に追いつかないので、S旧トップ艇回航に間に合うように上マークに戻ります。
S級がやってきました。2回生コンビM/Kコンビと4回生コンビI/Kコンビが5位前後で、エース4回生コンビN/Nコンビが20番前後で回航。トータル30点、これは良いです。上位艇を見ても、当方ほどまとまって上位にいる大学はいません。1位Wも2位KOもトータル100点ほどで走っているので、これは3位から一気に抜き去ってトップになりそう。
10:48、470トップフィニッシュ・11:03ビリ72位フィニッシュ。当方は14・25・59=98点でやっと3桁から脱出しました。アベレージ100点は10位ぐらいの成績なので、13位から1つぐらい上がったかもしれません。72艇も一斉スタートするので、1位と72位との点差は71点・3艇合計なので、1レースで大きく点数変動があります。
S級はフィニッシュ5・7・17位=29点で、去年見たような点数です。3艇合計45点平均で優勝です。トップWは1艇リコール(スタートフライング)失格で73点を取ったので、127点荒稼ぎして24点当方が逆転しました。2位D社83点で51点逆転しました。当方170点・2位W194点・3位日大218点・4位D社221点・4位広島230点・4位九州248点・6位KO263点・・・。S級はレベルが拮抗しているようで、乱戦気味です。
ただM君が2つプロテストを出しているようで、反対プロテストがあるかもしれないので、その結果如何で大きく点数が違います。S級暫定トップを親御さんたちに伝えると、皆さん大喜びです。
11:30・470旗O旗〜11:35・R4355°・10ノットでスタート。途中経過で当方エース艇トップ目。風が振れているので、順位変動は沢山ありそう。最後は左ブローを信じて、迷ったら左海面を選択して欲しい。
470がぶっ飛んで上マークに来ました。当方は20番台2艇・30番台1艇でマアマアです。この順位を維持できれば、また1つぐらい順位が上がるかも?
S級がやってきた。鉄則の左からエースN/Nコンビがトップ目でやってきた。期待で声援を上げましたが、ブローが左右から入り、中央部で両方を下で押さえる位置にいたN/Nコンビは左右に飲まれてしまった。でも10番前後に2艇おり安堵。でも3艇目がなかなか来ません。なんと60番ぐらいでがっかり、トータル80点なら耐えるかも、微妙。救いは5艇ほど前にWがいることと隣に日大もいること。4位D社が10番台2+20番台1なので、グンとジャンプアップしそうで怖いけど、50点差あるので耐えるかも・・・。
12:17、470トップフィニッシュ。当方は、23・24・37=84点でマアマア。S級第2上マーク回航を応援して、ハーバーバックします。S級フィニッシュは、2・9・60=71点で耐えてそう。プロテストがなければ優勝かも・・・。
桟橋につけて、センターハウスでトイレして、バースに戻ります。KOコーチボートが470着艇の最後を飾るように、マストトップにKOフラッグを掲げた470先頭に3艇曳航して凱旋してきました。470は2レースともKOが爆発したので、日大を逆転したのはわかっていました。総合もKOが優勝でした。
それに続き、スナイプの帰着が続いているが、当方が全然入って来ない。東出入口を見ていると、防波堤の上にマストに当方フラッグを掲げたのが入ってきている。点数計算では優勝なので、凱旋ですね。僕が提案して作らせた凱旋フラッグが、初年度から使われた。何ということ・・・。
桟橋の先端まで走っていき、コーチボートに引っ張られながら入ってくるレース艇に、「おめでとう」と大声で叫びます。皆立ち上がり、両手を広げています。「写真撮るぞ〜」「お〜」。コーチボートも激写。ビデオに切り替え、スロープに着くまで撮ります。スロープにはサポート部員が拍手して出迎えています。2回生スキッパーM君は、レースに出番がなかった4回生S君に交代しています。仲間思いの良い光景です。レース艇から下りた選手がサポート部員に抱きついて行きます。抱き合って、肩を叩きあって、こちらの目からも涙が・・・、苦節15年、とうとうやってくれました。横ではお父さんがカメラを撮っています。
最終結果は、数時間後のプロテスト結果を入れて、470級優勝KO95点・2日大120点・3W252点・4関西265点・5D社271点・6明治278点・・・11当方406点・・・24長崎835点。S級優勝当方241点・2D社275点・3W279点・4九州291点・5KO326点・6広島338点・・・24香川753点。総合は、1KO421点・2日大477点・3W531点・4D社・5当方647点・6明治648点・・・17北海道1206点。
これからが大変です。当方は37年ぶりのクラス優勝、26年ぶりの総合入賞なので、お祭り騒ぎです。キャプテンやS級リーダー・監督は、ヨット雑誌やヨットウェブマガジンのインタビューです。バースでは胴上げが始まっています。次男と同期の監督が胴上げされているのを見て、また涙が頬を伝わりました。
ディンギーヤードでは、1番のD社が船を積み込んでいます。7番目だという当方までだいぶ掛かりそう。プライズギビング・閉会式が行われるセンターハウス前に移動しましょう。
15:35、センターハウスへ。1Fカフェで親御さん方がお茶していました。センターハウス前の据え付け長椅子に行くと、470エースM君のお父さんが座っておられました。「S級、優勝しました。おめでとうございます」「おめでとうございます。ありがとうございます」と話していると、同じ椅子に腰掛けておられた綺麗な奥さんが気になり、「選手のご父兄ですか?」と声を掛けました。「はい」「どちらの大学ですか?」「早稲田の・・の母です」「こちらは・・大の470エーススキッパーのお父さんです」と紹介し合い、あ〜だこ〜だヨット知ってる僕主導でお喋りしました。しばらくするとお父さんも来られ、益々あ〜だこ〜だ。
16時閉会式予定がプロテストが多かったようで、17時に伸びてしまいました。WのHさんご両親は、「どうしよう、帰ろうか?自由席ですけど新幹線で帰るもので」「新大阪から21時が最終です。ここから1時間なので、20時まで大丈夫でしょう。お子さんの姿見て帰って上げて下さい」と引き止めました。息子さんが、「これ持って帰って」と来られました。お母さんが僕を紹介するので、「WのMちゃんの出身の兵庫ジュニアヨットクラブを作ったんです。MちゃんとS君2人共、兵庫ジュニア出身ですよ」とお喋りしちゃいました。
16:45になり、学生達が並び出したので、「楽しい時間をありがとうございました」と別れました。お母さんが美人なので、息子さんもイケメンでした。モテそう。
ここから激写タイムです。九大女子部員はブレザーにお揃いのスカーフで、フライトアテンダントみたいで超可愛い。他大学もみな、ジャケットやスカート・パンツ・パンプス・革靴で揃っています。当方だけ、校風そのままにジャケットじゃなくユニフォームジャンパーでバラバラのズボンと靴です。「もうちょっと揃えようぜ」との意見も聞きますが、大勢に至らないところが我が道を行く校風ですね。
17時に成績発表と、表彰状・トロフィー・優勝旗授与などがあり、続いて重鎮の挨拶などの閉会式。ひな壇の重鎮に、KGの3つ上で一緒にセイリングクルーザーを運用してる先輩がいました。S級優勝は表彰状2・優勝旗・トロフィーと4人ひな壇に並びました。4回生S級屋が満面の笑みです。総合入賞5位は2人で、1人は女子マネージャーリーダーでした。マネージャーチームを代表しています。他校で女子マネージャーをひな壇に出すのはなかったので、当方男子部員の優しさを感じます。良い男です。

17:38終了。全部員の集合写真を撮りましたが、フラッシュ無いと厳しい暗さになっちゃいました。当方は大会垂れ幕の前で集合写真を撮りました。ウェブマガジンのカメラマンの激写があり、即日でウェブアップされていました。
バースに戻ります。17:53センターハウスの陸側前の明るいところで、表彰状持ったマネさんを見つけ、「3人並んで表彰状持って」と要望し激写しました。1人は今年卒業したFさんですが、綺麗どころは絵になります。
バースに戻り、ブリーフィング。監督と僕が指名され、おめでとうの言葉で祝福し、帰路に着きました。7:42〜18:16新西YH・P900円。ああ、楽しかった。良い経験をさせてもらったな。

仕事場に戻りメールを開くと、KGヨット部の1年先輩のMさんから「おめでとう」メッセージが届いていました。リアルタイムでKGを応援しておられたのか・・・。
『Mさん、ありがとうございます。
まさか当日に祝福のメールを頂くとは・・・ビックリです。
2年連続の「神様のいたずら」で「よいしょ」されました。
15年前、最初にコーチになった時は、夏休みなど長期休みには女子マネージャーは帰省していないし、フィニッシュ後レース艇はコーチボートに来ないし、チームじゃないなと感じました。
ウォータークーラーに冷たい麦茶を入れ、「美味しい麦茶があるから、飲みにおいで」から始めました。
可愛い女の子から麦茶もらう方が良いに決まってるし、男なんて単純だから、それだけで走るよとマネージャーを説得して、次に船舶免許取って練習の時ドライブしてくれると、それだけで選手が1人練習できるから・・・なんて誘って、選手と同じように練習に参加してくれるようになりました。
今は、レース中上マーク待機してるボートから常に風情報をコーチボートに入れ、着順を取り、レース終了後即陸上待機PC部隊から暫定ですが正確な得点計算がコーチボートに届き、常に最新の得点を頭に入れながらレースをするトップ校並みの動きが出来るようになりました。
親の力を引き込むため、数年前から「ファミリーデイ」を開催するようになり、今年からは私が手配した親御さん用観覧船を出すことにしました。
みなKG他上位常連校のものまねですが、親御さんたちのパワーも頂けたのかな〜と思います。
クラス優勝は、私が卒業した2〜3年後が最後なので、まさに古豪復活の瞬間、そのチームにいれた喜びを味わいました。
部旗をマストトップに揚げて凱旋入港し、陸上待機部員全員が大歓迎で迎える姿を見て・・・選手がサポートメンバーに抱きついて肩を叩き合ってる姿を見て・・・監督が胴上げされている姿を見て、私ももらい泣きをしてしまいました。』
と返信しました。
家族LINEに、フラッグ掲げて凱旋する写真や、トロフィーや表彰状・優勝旗を掲げた集合写真などを載せました。次男の出身大学ヨット部の快挙なので共有したくなりました。僕をヨット部のコーチに推薦したのは次男です。子供の頃から父子でヨットの遠征を続けていたとは言え、親を自分の所属する大学体育会運動部のコーチに推薦するなんて、信頼がなければ出来ません。次男からの信頼に答えようとやってきました。次男に「ありがとう」と「おめでとう」をこの写真とビデオ・LINEメッセージに込めました。


2019/11/3
レース3日目です。4時に起き仕事場でゴソゴソ。日曜日なのでお休みですが、4日間も連続で休むので、あれやこれやしなければ。4輪で出発し、5:45近所の「セブン」で、「バナナ3本200円」購入。2日間、コーチボートを離れ、親御さん観覧船に乗り、ヨット部とヨットレースの解説者になります。
ホテルに着いて、本「教室の感動を実況中継 先生、日本ってすごいね 公立中学校教諭・服部剛」を持ってロビーへ。読んでいると、6:30組が集まってきたので出発。ハーバーに部員を降ろし、ホテルに戻ります。7:10に第2便がロビーに集まり出発。
7:27にYH・Pへ。前日の回転寿司の様子を聞いたら、「テーブルは5人だったんですけど、75皿食べました」「いいね〜、監督の言葉なんてへっちゃらで食べないとね」。
バースに行くと、若手OB・OGがたくさん応援に来ていました。ありがたいね。もちろんもっと上のOBさんたちもいます。元監督M君父親も来られており、選手たちと歓談中。親御さんが来られるので、風があってほしいけど、なんだかイマイチな感じがします。上天気なんだけど・・・。
当方大ヨット部OGのNさんが、前日に続きおられました。お嬢さんは高3、母親の母校入学を目指して勉強中です。彼女は、兵庫ジュニアでヨットを始め、次男の後輩です。OPワールド選手でもあり、入学すればピカイチ新人です。去年の「ファミリーデイ」にお母さんとともに呼んで、クラブの雰囲気が気に入ったようです。470に乗るだろうから、強力チームになりそう。でも、「夏休みにレース2つ出て勉強が・・・このままでは無理なんですよ〜。来年駄目でも浪人しても再受験を考えている」とか・・・、夏休み以降でも猛勉強すれば入試合格を得られる偏差値の高い優秀な学校に通っているので、意外になんとかなるのではないかな?
8:30にコーチボート2艇が出ていきます。キャプテンから親御さん観覧専用のグリーン・フラッグと学校名を書いたプレートを渡されます。これを船の見える場所に貼らねばなりません。親御さん達担当のIS君に、観覧船用礼金などの入ったビニール紙袋を渡されました。親御さん参加が6人から7人になったので、IS君は上マーク担当船に続けて乗り、風情報を送るそうです。
親御さん達(Nキャプテンご両親・M470エースご両親・Yスナイプリーダーご両親・次期キャプテンF君母親)が揃い、バースやハーバーを案内します。「風が弱いので、出艇延期になりそうです」。9:05、AP旗が揚がり、陸上待機になりました。9:18、470コーチボートがトイレ着艇し、9:47出艇していきます。沖からは、10:18・80°・2ノットの情報。10:46、470コーチボート着艇し、選手の「沖飯」を選手に配っています。10:56・出艇。
11:01、待望のシーブリーズ海風が200°から2ノットで入ってきたとの情報。11:30、220°・3.5ノット。「シーブリーズが入り、上がってきたので出そうです」と親御さんに伝えると、11:50「12:10に470D」という情報が入りました。親御さん達を連れて船まで移動します。センターハウスでトイレを済ませ、カードキーで桟橋ゲートを開け、船へ。中学・高校のクラスメイトE君と、彼に間に入って借りてもらったAさんのクルーザーに乗ります。
親御さんたちを船に乗せ、ライフジャケットを着てもらいます。12:09AP旗ダウン・12:10470・D旗アップの号砲を桟橋で聞き、出艇しました。他のOB観覧船もぞろぞろ出ていきます。
12:54、280°〜12:57、325°、あれ〜おかしいぞ、西から北まで風が振っちゃった。スタートラインの下でレース観戦します。ヨットレースのスタートラインの説明から、コース図まであれやこれや話します。1:01、275°で上マークが打たれました。1:05・470旗アップ〜1:06・U旗〜1:11・470スタート。続いてS級スタート。
S級と一緒に上マークに向かいます。1上470、7位M/W・10位T/Y・50位N/F、トータル67点で上々です。Mご両親・Yご両親・Fさんお母さんが乗っているので、楽しそうに応援しています。その応援が届いたのか、N/Fペアが第1下マークで20番ほど順位を上げています。トータル47点は良いぞ。
ところがS級で、ジュニアからヨット乗ってる2回生M君がまさかの72位ビリ回航です。はあ〜。現在3位のS級は最悪・・・。ご両親が乗ってるキャプテンN君艇は上位回航しているのですが、僕の気持ちは複雑。お母さんが楽しそうに応援していますが・・・。
風速が落ちてきて、13:39・470C旗(マーク変更)、13:51・S級C旗。更に風が落ち、13:52・N旗、両クラスレース中止です。470は残念だったけど、S級は助かりました。すぐに多くのコーチボートがレース海面に入り、自チームのレース艇を引っ張ってスタートエリアに戻ります。
北から風が入ってきたので、本部船がL旗(我に続け)を掲げ南に移動して行きます。僕らも移動。オーナーAさんに謝礼を渡します。14:18・上マーク付近50°〜14:22・60°。でも本部船付近は240°の風が入っており、レース海面で北東風と南西風が喧嘩しているようです。14:32上マーク70°、本部船240°。こりゃダメそう。
14:49・Nダウン〜14:50・AP/A(この日のレースはこれ以上しません)アップ。あ〜ノーレースになっちゃった。ハーバーバックします。レースが成立せず残念でしたが、親御さんとの話は盛り上がり、それなりに楽しんで頂けたと思います。オーナーAさんとE君にお礼を言って船を降り、センターハウスでトイレして、バースに戻ります。ここで、本日は解散とします。また明日です。明日は良い北風が吹く予報ですので、レースは大丈夫でしょう。
船を片付け、ブリーフィングして、ホテルに帰ります。7:27〜16:44新西YH・P900円。部員を乗せてホテルに帰り、「コロワ甲子園」Pへ。本を持ってロビーに行くと、お弁当配り係が数人いました。彼らとお喋りしたり本を読んだりしてたら、お弁当配りが終わりました。横で寝ていた2回生S君が起きたので、ミーティングまでお喋り。いろんな話をしました。
ミーティングでは、「明日は最終日なので、しっかり寝て最後の日を元気よく迎えること」を話しました。帰路に着きます。P500円。


2019/11/2
レース2日目です。4時に起きゴソゴソ。5:47、4輪に乗って近所の「セブン」で「プレミアムフルーツカフェオレ500ml93円+7Pずっしりつぶあん4個123円+苺ジャム&マーガリン110円=357円」購入。
7:10ホテルロビー集合には早いけど、もう行っちゃいます。6:30前にホテル正面玄関前に車を止め、整理していると1回生3人がホテルを出ていきました。コンビニにでも行くのかな?本を持ってロビーに入ろうとしたら、1回生S君が出てきました。「早いね」「電車と歩きなので、このぐらいに出ます」「さっき3人出ていったけど・・・」「彼らが徒歩でハーバーに向かいます」「え〜、どれぐらい掛かるの?」「1時間ほどです」「え〜、1時間歩いてるの?」「はい、昨日も歩いて帰ってきました」と平気な顔しています。若者はエネルギーの塊です。
速攻で、「車送迎のない子で、6:30までにロビーに来たら、送っていくよ。7名まで」とLINEしました。要望がないのか、6:30過ぎてしまいスルー。7:10集合の僕の車メンバーがやっていたので、「明日・明後日も6:30第1便出してあげるから、メンバー作っといて」と言っときました。
この日のメンバーは、「西宮ボートパーク」係留艇に乗るメンバーで、一旦ハーバーに寄り荷物を載せ、ボートパークへ送り、7:41ハーバーPへ。連休の土曜日になったので、OBやOGが増えました。他校も同じで、父兄も増え賑やかです。初日同様、8:45にコーチボートを降ろし、そのまま出艇。北風です。潮を測ります。ハーバー前に戻り、レース艇が出てくるのを待ちます。天気が良いので、いずれ11時シーブリーズが入ると思われるけど・・・。
風が弱いのでAPで風待ちになり、コーチボートは東出入口沖で待ちます。10時にD旗が揚がり、470レース艇が出艇してきます。当方は、出艇が5番グループなので遅いと思ったら、意外に早く出てきました。470のレース艇3艇と共にスタート海面まで下っていきます。北風なので、練習している左右に大きく出しているクローズホールドの艇を見ていると、やはり左海面からのブローが良さそうです。僕なら左海面を使うなと、同乗のコーチや選手と話します。怖いのは、北風の風速が落ちずに東廻りで南風に変わるパターンです。その時間帯は何時なのか?
10:55、470スタート。スタート数分前に、風が右にシフトしました。本部船寄りから出た10艇ほどが良いブローに乗ってバウを出して行きます。我慢して走っていたアウター寄りから出た艇が、右からのブローが収まったタイミングでタックを返し、前半リードした右トップ集団にアプローチして来ます。
トップは右海面艇ですが、上位1/4が回航して更に風が落ち、左有利になって来ました。続いてスタートしたS級は、更に右にシフトした為ぐんぐんスターボが上り、上マークまで1本コース気味になってきました。これは酷いな・・・11:10、N旗が上がりノーレースです。両クラス?Sだけ?両クラスNでレース中止でした。レースの許容範囲を越えて風のシフトがあったため、レース中止です。
ここから長い風待ちになりました。晴れた日の11時シーブリーズ海風(南西)定期便の入りが遅く、北寄りの風が復活したり気まぐれです。11:18・120°・5.8ノット〜11:30・140°・7.3ノット〜11:40・130°・8ノット〜11:50・150°・6.4ノット。晴れの日の定番、海風のは入りが弱く、180°までなかなか回りません。
1:07・250°・2.6ノット、やっと安定する南西に回りましたが、風速が落ちてしまいました。1:11・240°・4.4ノット〜1:21230°・5.9ノット〜1:50・230°・6.2ノット〜2:20・240°・5ノット〜2:40・270°・5.9ノット。南西に回ったので、これでレースするだろうと思っていましたが、風速が足らないのか、N旗が揚がったままです。
そしてついに14:55、AP/A旗が揚がり、「本日はこれ以上レースをしません」になっちゃいました。S級コーチボートがエンジンから異音がするということで、ハーバー内のヤマハに点検してもらうためにハーバーバックしました。470は練習して帰るということでそのままにし、S級3艇引っ張ってハーバー東出入口前まで帰り、そこで離して470に戻りました。最初それなりに走っていたのですが風が更に落ちて、スピンがときおり潰れる感じになっていました。1艇は運営艇に引っ張られて帰っています。残り2艇を曳航してハーバーバックしました。
他校のコーチや監督と情報交換し、片付けして16:30ブリーフィングしてホテルに帰ります。S級コーチボートは大丈夫のようです。キャプテンN君が、ヨットウェブサイトのインタビューを受けています。大会4日間、毎日数校ずつキャプテンインタビューをウェブに載ります。470のMW艇の前日のプロテストの再審がありましたが、判決変わらずでした。
7:41〜16:47新西YHP900円。若手OBの現役慰労会が回転寿司で20:20からあるようで、ミーティングが18時からになりました。監督が、「部員全員に、OBから回転寿司をごちそうします。ただし条件がある。夕食用に買ったコンビニお弁当は完食してくること。これがないと破産するほど食べるから、節度を守れ」と笑わせていました。ホテル横の「コロワ甲子園」Pに車を入れ、監督の部屋に上がりました。18時からホテルロビーでミーティング、気づいたことを話しました。19:30前に終了し、帰路に着きます。P500円、1日最大500円なので使いやすい。20時前に仕事場に戻り、仕事して帰宅。


2019/11/1
コーチしている大学ヨット部の最終戦・「全日本インカレ団体戦」初日です。いつものように4時過ぎに目を覚まし、ゴソゴソ仕事。仕事場からの帰りに、5:48「ローソン」で「ツナ揚げ108円+サントリーボスとろけるカフェオレ500ml162円+手巻ツナマヨネーズ150円=420円」を購入。
四輪に乗り換え、6:30出発。部員の泊まっている甲子園のホテルへ。7:10「ホテルヒューイット甲子園」。以前は「ノボテル甲子園」でした。経営者が変わったのかな?ヒューイットホテルチェーン入りしたのかな?母校OB総会などでよく使う馴染みのホテルです。車の出入口がややこしく、間違えなかったけど最初は迷って間違いそう。
ロビーで送迎する部員と合流し、大会会場の僕のホームポート新西宮ヨットハーバーに向かいます。7:38にPに入り、さあ大会初日です。開会式は前日の夕方終わっています。当方のクラブの艇置き場は、ディンギーヤードのゲート外の駐車場です。トイレはゲート内なので、カードキーが必要な人用ゲートを通らないといけません。僕は会員なのでカードキーがあり平気ですが、外から入ろうとする部員達は中の人に声を掛け面倒です。
8:00集合し、天気・時計合わせ・連絡事項。8:15にハーバーのガードマンがやってきて、ゲートオープン。各校のコーチボートが列を成して中に入っていき、そのままスロープから着水。470コーチボートを押していると、ゲートで選手のお母さんや他校選手・コーチに会いました。
バースに戻ると当方部員M君とW君のお母さんがいました。4日目最終日に親観覧船に乗り観戦予定で、初日も応援に来てくださったようです。僕は他校OBで、ジュニアから大学生まで、いろんなヨットの世界を知ってるので、いろいろ改革して来ました。数年前に「ファミリーデイ」という親をクラブに呼んで、ヨットに乗ってもらったりしてお子さんのやってるヨット部を体験してもらうことを始めました(他校の真似ですけど)。今年から「親観覧船」を用意して、更に応援の力を増そうと目論んでいます。3日目6人・4日目8人と予約盛況で、初年度は上々の滑り出しです。僕のようにヨット部出身親なら違和感がないですが、ヨットを知らない親が大半なので、OBと同船なら萎縮されてしまいイマイチ楽しめないと思いました。
2人のお母さんは、偶然同じ職種(京都の英語ガイド)で偶然息子が同じクラブにいることを知り友達になったそうです。お二人を案内します。W君のクラブでの活躍を話します。Mくんは僕がこのクラブのコーチになって2年後に監督になられたMさん(このクラブ出身)の奥さんで、僕が誘ってジュニアヨットを始め、ずっと高校もヨット部なので、お母さんはヨットのことをある程度知っています。
コーチボートを降ろし、そのまま出艇。北風が吹いています。レース海面までかっ飛ばし、数ヶ所で潮の流れチェック。風が弱いので、9:10予定のD旗(レース艇出艇)が揚がらず、選手は陸上風待ちになりました。ハーバー東出入口ですることなく、同乗してる部員や若手コーチと話しながらブラブラ。レース艇144+コーチボート30〜40艇が出入りするので、出入口規制があり自由に入れません。今の時間帯は出ていくレース艇専用で、緊急時(トイレなど)だけ入るのが認められています。
もう一度潮を測りに行きます。あまりに暇で、11時に南風(シーブリーズ)が入ってくるまで出てこないのが予想され、西出入口まで走りそちらから入港することにしました。ゲストバースには、OB会長が姫路から回航したOB観覧船がいたので、横抱きしてもらいました。
470コーチボートドライブしてるマネボスのSさんと一緒に、3・4日に借りるセイリングクルーザーを見に行きました。カードキーで扉を開け桟橋を歩き、船の横まで行き写真を撮りました。
歩いてディンギーバースに戻ると、「うわあ〜チアリーダーがいる」。カラフルなミニスカートのチアは違和感バリバリで目立ちます。彼女たちも出艇しないので暇そうです。「これは声を掛けねば」。「何処の大学?」「D社です」。日頃は野球やアメリカンフットボールの試合の応援してるなど、10分ほど話しました。D社チアリーダー6人は皆可愛い。
バースに戻り、「D社チア可愛いぞ」と言うと、「見てこよう」と数人が行きました。すぐに帰ってきたので、「あれ、話しかけなかったの?」「ナンパなんて出来ませんよ」「え、反対に失礼でしょ」。最近の若者は、僕の時代より中間点が草食系に振っているようです。
「府大チアの方が可愛いですよ」という意見が出て、そっちを観に行きました。「ああ、あそこにいる」と近づこうとしたら、MさんWさんお母さんが防波堤に座ってお喋りしておられたので、僕も加わって、更にお喋りしました。ご両人のお子さんとも、3回生・2回生なので、来年以降のヨット部親の核になって頂こうと・・・。
風が南に変わり、「そろそろ、D旗が揚がり出艇しますよ」。コーチボートのあるゲスト桟橋に向かいます。「12:40、D旗掲揚予定」のLINEが入りました。OB会長艇から、「お昼ごはん、どうですか?」とお皿に盛ったお昼を渡されました。そしたら「ブー」、陸上本部にL旗(新しい掲示されました。見に来てね)が揚がり、出艇時刻が予報されたようです。
これからレース海面まで走るのだけど、断るのもアレなので食べながら出ました。レース海面まで出て、また潮を測り、東出入口まで飛ばし、470が出てくるのを待ちます。風が弱いので、470を引っ張ってレース海面に向かいます。13:40、470第1レーススタート。230度SW(南西)3〜4m/s風なので、右海面が有利になるでしょう。スタート後、470トップ艇ラインと共に上がっていきます。右からブローが入り、予想通り右に出した艇が左の艇より有利にレースを展開しました。当方470は1艇も右におらず残念。14:25トップ艇フィニッシュ、14:38ビリフィニッシュ。2上で日大を逆転した母校KGが最初にフィニッシングラインを横切ったが、トップホーンが鳴りませんでした。2位の日大にホーンが鳴り、日大トップでKGはリコール(早すぎるスタート)失格のようです。残念!
お母さんが来ていたエースM/W艇は1上12位でしたが、2上レグで左に出て10番マイナスし、19位フィニッシュ。19+33+50=3艇トータルで102点、う〜んイマイチ。6位入賞するためには最低2桁、80点ぐらいに押さえたい。
S級は、エースNN艇が1上3位・フィニッシュ2位でした。N君は昨年2回・一昨年1回この大会でトップフィニッシュしています。でも3番艇が65位を叩き、2+11+65=78点でマアマア。S級コーチが3番艇のメンバーチェンジをしました。3回生F君/1回生N君頑張れ。S級コーチは決断が早いね、好判断だと思います。僕なら470チームも交代だけど、全体コーチなので口を挟みません。S級チームは右海面を使ってレースをしたようです。
同じような風向風速240度3〜4m/sで、14:55、470第2レーススタート。また右海面が良く、15:36トップ艇フィニッシュ・15:44ビリフィニッシュ。また右海面に当方はスタート失敗した1艇がおらず、33+39+50=122点、また100点オーバーでトータル224点。日没時間の関係もあり、15時以降のスタートはしないので、初日470は13位で終了です。
S級は、11+20+32=63点、トータル141点でクラス3位。総合7位です。15:37、AP/A旗(この日はこれ以上レースをしません)が上がりハーバーバックします。東出入口混雑を避けるため、3艇揃った大学から入港許可が出ます。面倒だけど、仕方ないね。
470エースM/W艇が上下で接触があったようで、甲南にプロテストします。このプロテストは当方の勝ちで、甲南が失格になりました。
船を片付け、ブリーフィングして部員を乗せホテルへ。ハーバーでは、他校監督などと会う度軽く情報交換。7:38〜17:42新西YHP900円。ミーティングが20時からですが、一旦仕事場に戻りお仕事します。「通勤リード110」に乗り換え、20:30ホテルへ。部門ミーティング〜全体ミーティングで、気づいたことを話しました。OB観覧船(フィニッシュ担当)から、順位が遠くて取りにくいから「双眼鏡貸して」要望があり、快くOKしました。
21:30に終わり、自宅近所まで帰ってきて22:04給油。帰宅してバタンキュー。レース初日終了。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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