-ウェブマスター日記 2019/7-8

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2019/8/26
長男のお嫁さんから、家族LINEが入りました。ロンドンに来て1週間、寒くて早速長袖を買いに行ったけど、最高気温32℃に戻ったようです。ロンドンの天気予報をチェックしていますが、概ね大阪から−5〜−10℃で推移しています。6月まで住んでいたアメリカNJ州も概ね−5℃だったので、さほど差は感じないのかも知れませんが、大阪は最強です。
今度の家は、ロンドン市内で、バッキンガム宮殿に隣接するケンジントン宮殿まで直線距離で5km程の住宅地です。長男の勤める会社の方が郊外なので、「もっと緑の多い場所に住んだらいいのに」と思っていたのですが、終末通う日本語学校が郊外になく、そこを選択したそうです。ウィークデイ通う現地校は何処にでもあるのでしょうが、日本語学校となると1校でしょう。
道路側には緑は街路樹程度ですが、裏には庭があり木も植わっています。想像していたより緑が沢山で、大きな公園も近所に色々あるそうです。学校が始まるまで、公園めぐりをしていたら、公園で日本人ママ友&子供友が出来たそうです。ロンドン生活のイロハが聞けてありがたいね。
大量の引っ越し荷物が届き、毎日片付けに追われているようです。国が変わって子供の学校や幼稚園の手続きもあり大変そう。こうちゃん3才から、「今日からおしっこ教える宣言」があり、ほとんど失敗もなくなったので、オムツが取れそうなんだって。りょうくん6才は、新しい生活になり、3年前アメリカに行った時同様、少々荒れ気味だそうです。学校が始まれば同年代の友だちができて落ち着くのに・・・。
イギリスがアメリカと微妙に学制が違い、9月からいきなり2年生に通うようです。アメリカでは現地校が6月まで年長さんで、日本語学校が4月から1年生でした。イギリスでは現地校が9月から2年生で、日本語学校は1年生のままです。この時期の祖父母からの定番プレゼントはランドセルです。そのことをお盆に帰省した長男に聞くと、「ランドセルがあるってこと知らないので、買えってうるさくなるかも知れないから内緒にしてる」とのこと。アメリカでもイギリスでも、ランドセルのような定番の通学カバンはなく、それぞれだそうです。
ルーカスくんはぐんぐん成長し、1才1ヶ月の7月に初めて歩いたのに、最近はハイハイをしなくなり、よちよち歩いて移動しているそうです。


2019/8/25
夕方、京都でコーチしてる大学ヨット部の決起集会があります。毎年、インカレ予選前に部員の気持ちを盛り上げ1つにするために行っている飲み会行事ですが、僕が参加するのは初めてです。恒例の「琵琶湖周航」に協力した流れで、2回生のO君から「来てください」と誘われました。
それまでの時間を舗装林道ツーリングで楽しむことにしました。前日走ろうと思ってた「雪彦峰山林道」「段ヶ峰林道」「氷ノ山林道」が、最初の「雪彦峰山林道」の通行止めで断念してしまったので、林道走行熱が冷めなかったからです。目的地は、滋賀県三重県境を形成する鈴鹿山脈にある「杉」「保月」という廃村があるので、それを訪問することにしました。r139という県道が通っていますが、山中林道が予想されます。
「里山VTR250」を倉庫から出し、6:29出発。R171〜中央環状線で、6:41「エネジェット中環豊中SS」で給油。249km/7.31L=34.1km/L。隣接の「セブンイレブン」で、ドーナツとパンを購入。ドーナツはその場で食べました。「吹田IC」から名神高速に乗り、「桂川PA」でトイレ休憩。「京都東IC」で下車し、湖西道路を北上し、「真野ランプ」まで走りました。
R477に乗り、琵琶湖大橋を渡り、左折しr559で湖岸道路を北上します。r25に乗り、8:25「長命寺港」。ここまで何台も見かけたロードバイクが2台休憩しています。セーリングクルーザーが数隻係留されていました。
『琵琶湖周航の歌 大正7年 小口太郎作詞・吉田千秋作曲
1 われは海の子さすらいの 旅にしあればしみじみと のぼる狭霧やさざなみの 志賀の都よいざさらば
6 西国十番長命寺 汚れの現世遠くさりて 黄金の波にいざ漕がん 語れ我が友熱き心』
周航の歌が刻まれた碑があった。コーチしてるヨット部も琵琶湖で活動しているので、毎年何度も歌っています。僕が学生の頃は、全国的に大ヒットし、琵琶湖で活動していなかった母校ヨット部でも、レースの度にイベントの度に歌っていました。今の学生は、この歌を知りません。作詞者はボート部でしたが、そこから派生したヨット部で活動しており、作詞者が作詞した舞台「琵琶湖周航」を続けているクラブだよと伝えると、皆驚きます。
2週間前に、琵琶湖周航をしました。夕方にある決起集会で、この歌に出てくる「長命寺」の御札をプレゼントしましょう。長命寺の参道は、見上げるような長い石段でゲンナリ。『本堂まで808段 参拝時間:8時開門〜17時閉門』
『琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産 人々は、琵琶湖の水や山からの湧き水を生活の中に巧みに取り入れ、水を汚さないように工夫をしながら生活を営んできました。また、水を神として敬い、信仰の対象としてきました。さらに、湖辺の集落では、湖魚を用いた独自の食生活や伝統的な漁法が育まれ、独自の景観を生み出てきました。滋賀では、このような水と人との関わりが今も息づき、大切に受け継がれています。
長命寺 湖岸の側から808段といわれる長い石段を登ると、諸堂の屋根の線が美しく重なり合っています。千手観音を本尊とし、聖観音・十一面観音・毘沙門天など多くの国指定の重要文化財が安置されており、その他、建造物の全てが国あるいは県の指定文化財になっているという由緒ある寺院です、日本遺産にも認定されています』
石段脇の「日吉神社」に参ります。『日吉神社 鎮座地:近江八幡市長命寺町13番地 主祭神:大山咋命・大年神の御子、近江国比叡山を主宰し給う神なり。 境内社:行司神社・祭神・高皇産霊神、厨子之宮・祭神・豊受姫神 境外社:巌島神社・祭神・市杵島姫命、金毘羅神社・祭神・大物主命、津島神社・祭神・須佐之男命、山之神・祭神・大山津見命
由緒 創祀された年代は不詳であるが、建長5年6月長命寺文書に「濱十禅師に五節供燈明等神役不可被解怠云々」とあり、その以前より当神社が鎮座していたことを知ることが出来る。 承和3年野洲郡仁保郷僧頼智が長命寺を再興せし時より、比叡山延暦寺西塔院領となりし事から、延暦寺と坂本の日吉大社の如く、長命寺と当神社とは古くより密接なるものがあったものと推察される』
『長命寺真静院 宗派:天台宗 開基:推古天皇の時代(592-628)聖徳太子当寺往古の祖師、年月祥ならずと雖も、長命寺伝によれば、33代推古天皇の御代(在位 592-628)、聖徳太子御臨幸の時、本堂をはじめ坊舎を御建立。 38代天智天皇(645〜671の27年間)大津宮より行幸ありて天下泰平の勅願所と定め給う。 承和3年(836)、頼知法橋が檀越を勧進し堂宇を再興。元暦元年(1184)に佐々木定綱40余カ所の僧坊を再興。 永正13年(1516)8月、伊庭氏の乱により一山の堂塔悉く灰燼す。住僧等が再興を企て、翌14年勧進に着手し、以来6年を経て大永2年(1522)8月諸堂坊舎を再興。第5世澄尊を中興として今日に及べる』
808段の石段は辛いので、バイクで急坂を上がります。途中2台の四輪とすれ違いました。細道で急坂ターンが続く道なので、すれ違うタイミングによっては離合困難になりそうです。バイクだから平気だけど、四輪同士ではドライビングテクニックが必要な時がありそうです。
上のPに駐輪。下から登ってくる階段最上部脇にあります。階段に出てすぐ上の山門があり境内へ。琵琶湖の景色が気持ち良い。
『重要文化財長命寺三重塔は、昭和40年の解体修理の後48年が経過し、こけら葺屋根全面に苔の繁茂がみられ、経年による腐朽が屋根全体に及び耐用年限に達していることから、再生活用事業を実施することとなりました。 再生活用事業は、屋根(こけら葺)葺替修理の「再生」にともない、積極的に修理現場の公開「活用」に取り組む事業です。 このため、重要文化財長命寺三重塔再生活用事業では、常時参拝者の方々に屋根(こけら葺)を見学して頂けるように、屋根近くに見学用通路を設けました。 50年に1度のまたとない機会です。多くのご参拝者の方々に、是非ご見学いただきますようご案内いたします。 なお、この事業は国・滋賀県・近江八幡市の補助を受けて実施しています。
こけら葺とは、厚み2.4〜3.6ミリ程度の割板で葺いた屋根のことです。長命寺三重塔は、更に厚い3.8ミリの板で葺き替え工事を行っています。
重要文化財・長命寺三重塔 三間三重塔婆・こけら葺 慶長2年(1597)建立長命寺および三重塔の沿革 長命寺は西に琵琶湖を望む長命寺山の山腹に位置する寺院です。山号を姨綺耶山(いきやさん)といい、本尊は木造千手観音立像・十一面観音立像・聖観音立像(いずれも重要文化財)で、西国31番の札所となっています。寺の創建については聖徳太子の開基と伝えられています。琵琶湖畔から続く長い石段を登ると東西に広がる境内に到着します。
長命寺は永正13年(1516)に兵火を受けており、現在の伽藍はそれ以降に建てられたものです。境内は三重塔と同じく重要文化財の本堂・鐘楼・護摩堂、また県指定の三仏堂・護法権現社拝殿および渡廊下が建ち並んでいます。鐘楼からみる建築物群の檜皮葺屋根の重なりあった景観は美しく、壮観な跳めとなっています。三重塔は境内束端の一段商くなったところに建っており、墨書銘や陳札、寺蔵の古記録から天正17年(1589)に工事に着手し、約8ヵ年をかけて慶長2年(1597)に再建されたことがわかります。建物は三間三重塔婆、こけら葺で、各層とも高欄付の縁を設け、外部を丹塗りとし、組物は各層とも三手先としています。全国でも数少ない桃山時代建立の三重塔として貴重です。三重塔は、昭和40年(1965)に解体修理を行った後、48年が経遇して屋根こけら葺の腐朽が著しく雨漏りを生じている簡所があることから、全面葺替修理を行うこととなりました』
『重要文化財 長命寺護摩堂
護摩堂は本尊不動明王、古来、天下泰平宝祚延長長寿開運諸願成就を護摩祈祷する道場であり、慶長11年(1606)に三重塔に続いて再建されたことが、露盤に銘打たれている。再建後間もなくの屋根葺替えで二重軒付(のきづけ)に変更されたが、昭和49年(1974)の半解体修理で一重軒付に復原された。
桁行3間、梁間3間(4.863m)の宝形造・檜皮葺・丹塗の建築で、内部は北面中央間の側柱前に角柱2本を立て、その中に仏壇を設けている。なお、寛政5年(1793)にこの仏壇上に壇(漆塗り)を重ねてその上に作り付けの厨子(塗装なし)を新造している。
三間四方の正面中央は桟唐戸、正面左右は連子窓で、側面中央は板扉または板戸・側面前方は連子窓で、他は板壁という簡素な造りである。また、柱は全て角柱で、絵様大斗肘木(えようだいとひじき)に軒先は疎垂木木舞打(まばらたるきこまいうち)という軽やかな姿である』
『重要文化財 長命寺三重塔
三重塔は元応2年(1320)に竣功の式が執り行なわれ、佐々木時信がこれを祝して馬1疋を奉加した。永正13年(1516)の焼失後、天正17年(1589)から慶長2年(1597)にかけて再建されたことが、昭和39年(1964)の解体修理により判明している。
三間三重塔婆・?葺で、各重とも高欄付の縁を廻し(初重四隅のみ擬宝珠付(ぎぼしつき))、外部は総丹塗である。高さは24.35mで、県内に現存する三重塔7基の内、2番目の高さを誇る。初重内部は四天柱で内外陣に分けられ、四天柱内一杯に須弥壇が築かれており、本尊の大日如来坐像・四天王立像(全て市指定文化財)が安置されている。
塔全体で余裕ある形態を持ち、比較的遺構の少ない桃山時代の塔として貴重な遺構である』
バイクに戻り下山します。ロードバイクが続々上ってきました。スタンディングでまだまだ元気に足が回っており、健脚の方でした。r25に出て、先に進むと、ナビに神社が現れたので寄り道します。9:23「大嶋奥津嶋神社」境内に入ると、『大君にささけしむべは、古き代のためしをしたふ、民のまごころ 滋賀縣令・龍手田安定』
『式内・大嶋神社:大国主命 奥津嶋神社:奥津嶋比賣命
境内社:日觸神社・應神天皇、日吉神社・大山咋命、四宮神社・彦火々出見命、喜佐伊神社・須佐之男命、行司神社・高皇産霊命
国指定重要文化財:御祭神・木造大国主命座像(平安)、菊花螺鈿鞍・黒漆鞍・黒漆鎧(平安〜鎌倉)、古文書・徳政の木札(鎌倉〜江戸)
由緒 当神社の勧請年紀は第13代成務天皇滋賀高穴穂宮に御即位の年(131)武内宿弥に勅して祀らしめ給うと伝えられます。 天智天皇蒲生野に御遊猟の砌、奥之島に行幸になり、この地に産する(むべ)を賞味され、年々皇室に供御すべきと仰せられました。 延喜式宮内省諸国例貢御贄にも記されており、今も毎年11月天智天皇を御祭神とする近江神宮へ献納しております。
延喜式(927)神名帳には蒲生郡十一座の内に大嶋神社、 奥津嶋神社(名神大)両社とも記されており、さらに三代実録に、貞観7年(864)元興寺(奈良)僧賢和の奉請により当神社の神宮寺として阿弥陀寺が開基せらるとあります。往時は蒲生野北部一帯の産土神として斎祀されておりました。大正4年11月(1915)由緒正しき神社として県社に昇格、昭和55年(1980)には創祀1850年記念大祭を斎行、今日尚氏子崇敬者には御神威を奉持し御神徳を 戴いている処であります』
境内でパンを食べ、バイクに戻りました。r25に戻り、川を渡りr26、左折してr526。〜r194〜r52〜r2で、9:57「稲倉神社」。r2を北上し、右折してr205、左折してR8、右折してr528。「近江鉄道・東近江線」の下をくぐると、道なりにr224。名神高速の下をくぐり、「近江鉄道・彦根多賀大社線」の「多賀大社駅」横を走り、左折してR306。右折して枝道に入ってすぐ、10:26「市杵島姫神社」。周囲は田畑で開けているけど、「鎮守の森」の大樹が天を突いていました。近江国らしく大津絵の絵馬が下がっていました。
道なりにr17になりました。芹川沿いを山に向かいます。10:50「河内風穴」。駐車場スペースは多くなく、20台というところでしょうか。バイク置き場は、芹川を渡った民家の脇にありました。P200円、時間無制限だそうです。バイクを置き、芹川を見ると、とても綺麗な水が流れています。
鳥居があったのでお参りします。八幡神社でした。「河内風穴」に入ってみます。大人500円。「河内風穴内部見取図」がありました。『この風穴は、霊仙山塊のカルスト地帯にできた石灰岩の洞窟で、関西でも有数の鍾乳洞である。この生成は55万年以前だと言われている。人類歴史の比ではない。入口は小さく、人がやっとかがんで入れるくらいですが、内部規模は雄大で、1階1190平方メートル・2階215平方メートル・3階33平方メートル・4階116平方メートルであり、その総延長ははっきりしないが、犬を入れたら三重県側へ出たという言い伝えがあるくらいである』
『山の大神 芹川左岸(通称大上)に宮前の守神の木として受け継がれて来たケヤキ、樹齢800年・幹周9m・樹高20mの県下まれに見る巨木があったが、よる年波には勝てず樹齢の限界を見、また県道多賀〜醒ヶ井線道路改築工事に伴い、道路法線上支障となるため伐採された。
この御神木が無くなるにあたり、800年間風雪に耐えて宮前を見守って頂いたこご苦労に感謝しつつ、今後もこの碑を宮前の守神として場所をこの地に移し後世に伝える』
芹川支流脇道の遊歩道を歩いていきます。急な階段を上がると、風穴の入口があった。冷風が風穴から吹き出ており、天然のクーラーにホッとする。入口はとても小さかった。「よくこんなとこ見つけたな」と思うほど小さな穴で、「誰もこんな穴に入りたくない」と思えるほどでした。いきなり急坂を下り、狭い通路を歩くと、広い空間が広がった。赤い照明の具合か、あちこちに見える観光客が20人ほどの大きさから感じる広さと、歩いて感じる広さが合わず、広いのかそうでもないのか感覚が麻痺した。
大広間を抜けると、道は再び階段で上りになり、次の小さな間があった。ここが観光客の行き止まりで、その先は格子で行けなくなっていた。何処まで続いているのだろう。帰り道は、往路同様の道で戻ります。出入口に向かって上がる階段も1本で、観光客同士が忖度して数人ずつ交互に「上り下り」しています。Pの数といい、この階段1本といい、最盛期でもそれほど観光客が多くないように感じました。
カルスト地形の鍾乳洞ですが、定番の「鍾乳柱」がなく、他とはちょっと違うなと感じました。「風穴」という命名がナイスです。芹川まで戻ると、僕の前に停まっていたバイク集団が、川沿いの屋根の下のテーブルで屯していた。
「かき氷」の看板に惹かれ、「奥山の癒し処・風緑 手打ち多賀そば・河内の天然水手作りみつのかき氷」で、休憩することにした。「摘みたていちごかき氷」、ふわふわかき氷だったが、蜜は別容器に入っていました。「芹川」が見えるアウトドア席でクーリングした。自分で蜜をかけるので、その度にかき氷の嵩が減る。ちょっと損した気分。美味しかった〜。
バイクに戻り、r17に出て更に奥に進みます。「谷神社」「地蔵堂」への分岐に、小さな廃倉庫小屋が多数並んでいました。この日のメインディッシュ「荒廃集落廃屋」の序章です。先にこの道を入って行っていたカップルバイクが戻ってきました。僕と同じ「廃」好きの血が流れているようです。
11:49「落合神社」。廃集落気味にある神社なので、それなりの佇まいでしたが
境内の鎮守の森には巨大杉が林立し天を突いています。「廃」成分を満喫しました。ここから先の林道は通行止めでした。左折する道もあり、地図では「名神高速・米原JCT」に抜けるはずですが、「通行止め」になっていました。残念・・・
r17を戻ります。11:59「雲仙山・今畑登山口」。「熊に注意」「山岳遭難多数」「登山届出しましたか?」の看板が立っていました。登山届箱を覗くと、多数の届出書が入っていました。この周辺に多数建っている廃倉庫は、何が入っていたのだろう?目的がよくわからない。
12:17「調宮神社」。芹川の水がとても綺麗で、護岸に石段が下って直接芹川に入れるように「親水公園」のようになっていた。浮き袋などがいくつも置きっぱなしになっており、ご近所の民家のお子さんが遊んでいるのかな?境内に入ったら、大きなテントが建っており、お友達なのか20人ほどの親子が昼食を取っていた。ここのお子さん達が芹川で遊んでいるようです。
『調宮神社 御祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命 御祭日:春祭3月3日・秋祭9月15日 御神紋:左三ツ巴
御由緒:神代の昔、伊邪那岐大神は杉坂山にご降臨され、次いでこの栗栖の里にて暫くお休みになられたことが当社の創祀とされる。のち多賀宮にお鎮まりになった大神は、毎年4月の多賀大社古例大祭に先ず当神社へ渡御されて、神輿鳳輩に境内の富の水を飾り、灯籠を経て大社に還幸される。これはご鎮座の昔を再現する神事と言われる。なお、11月15日の大宮祭にも大社より神幸がある。 多賀大社宮司・櫻井勝之進謹誌。
本殿・境内建物 本殿:一間社流造・間口一間・奥行一間三尺 拝殿:切妻造・間口三間・奥行二間』
境内に鎮守の森があり、しめ縄を張った巨岩があった。アミニズムの巨岩信仰のようで、神社の歴史を感じます。r139で山に入って行く。四輪同士の離合が困難な細道・中央苔の急坂を登って行きました。1台のカップルバイクが下ってきて驚いた。まさか、こんな道で対向車が来るとは・・・。
12:40「杉坂峠」。『杉坂の御神木 昔、伊邪那岐の神様がこの地に降り立ち、この峠を下って芹川の上流・栗栖の里に鎮まられました。 道中、村人に柏の葉に盛られた栗飯をだされ、たいそう喜んで召し上がられたそうです。 その時に地面にさされたお箸がやがて芽吹き、現在の御神木になったといわれています。 県指定木』
周辺には巨木が林立しており、「この峠は凄い」を感じました。峠を下って行くと、オフロードバイクが数台上ってきました。
12:48廃村「杉集落」。『村内を散策される方へ 防犯および犯罪防止のため、監視装置が作動し最寄りの警察署に通報される場合があります。したがって自己の責任において行動してください。 杉区長』
『碑文 この地は、明治44年3月29日大火災にあい、その後再建された光明寺本堂の跡地で、以前は堂谷にあった。 大火の後村民は本堂再建を優先し、我が家の焼失も顧みず一致団結して事に当たり、造作中失火にも落胆することなく、大正5〜6年にかけ当時の金で総工費1700余円で再建された。以前は天台宗に属していたが、元亀天正初期時代信長と本願寺の争いの時には、法蔵寺河瀬の法蔵坊に属し、江戸になって浄土真宗本願寺派にならった。
歴代住職も那須実明・滝得成・藤沢行音・和田無染・徳厳師と変わり、昭和初期に大阪から築林大禅師を迎え、師は五十有余年に渡り布教活動と村へ尽力され大きな功績を残した。
当社も昭和40年頃から燃料革命や木材不振により過疎が進み、大禅師の助言で再建移転を決意した師からは、過分の浄財を受けた。昭和52年に光明寺は木曽団地へ移転完了した。ここに先代達の偉業遺徳を偲びつつ碑を建立する。 平成5年10月10日』
13:04「保月の地蔵杉」。小さな峠に、目立って立派な杉が数本立っており、それらを鎮守杉とするように囲まれるように、小さな祠が建っていた。
13:11廃村「保月」。こちらは、如何にも廃村だった「杉」集落と違い、多くの廃屋の中に数軒現役を感じさせる建物もあった。「町立脇ヶ畑小学校跡」の石柱が立っていた。最盛期でも生徒の少ない小さな小学校だったのだろうけど、過疎の集落に暮らす子をも大切に教育する日本という国は凄いな〜と思いました。ここからの道は幾分広くなり、緑センターラインもなくなりました。「保月」集落へのルートは、こちらからのようです。
13:20、沢を渡る橋がありました。ここで小休止。13:26、沢を渡る橋で別の林道に突き当たった。橋の欄干に「アサハギ谷林道」と書かれていた。2つの廃村までr139でしたが、そこから「アサハギ谷林道」だったようです。突き当りの林道を左折すれば、「河内風穴」に抜けられます。右折します。地図では繋がってるR306まで行けるのでしょうか?
水溜りが舗装全面覆ってる場所や、泥の乗ってる場所があります。下手にスピード出して突っ込むとヌルっと前輪が滑る。よって、しっかりスピード落として走らないと・・・。こんなとこでコケて動けなくなってヘルプ頼んでも、随分待つことになりそう。ロードバイクが登ってきました。R306から登って来たのでしょう。林道・廃村を抜け湖東穀倉地へ戻るアドベンチャーコースにチャレンジされているのでしょう。林道は落石が多いので、パンクしやすいロードバイクにとってチャレンジングです。
林道が開けた所から、緑の山と青い空が見える。道の真ん中に、「蛇の抜け殻」が落ちていた。子供の頃は、家の近所でいくつでも転がっていたけど・・・13:59「白山神社」。橋の欄干に「あかねトンボ」が止まっていた。「あかねトンボ」は属名「赤とんぼ」で、初夏平地の水田などでヤゴから羽化し、高温に弱いので体力がついたら気温の低い高地に移動する。秋になり気温が下がってくると、茜色だった体色を真っ赤に変色させ、群れを成して平地に戻ります。あかねトンボの群れを見る場所により、秋の気配を感じる事が出来ます。
「惟喬(これたか)親王行在伝承地」と彫られた石柱が立っていた。この鈴鹿の山間地には、惟喬親王ゆかりの地が多い。また発見しちゃた。惟喬親王は55代・文徳天皇の第1子でしたが、母親の出自が身分低く、異母弟の第4王子・清和天皇に天皇位が渡り、争いを避けるため鈴鹿の山間部に隠棲し、木地師に慕われた。境内の鎮守の森には、杉の巨木が林立している。親王ゆかりの地を大事にしてきた地元の方の気持ちが伝わってきます。
14:31「ファミリーマート多賀大社駅前店」で、「コッペパンコロッケたまご138円+ブルガリアヨーグルトブルーベリー145円=283円」を購入してイートインしました。横は、「近江鉄道・彦根多賀大社線」の「多賀大社駅」です。背後に、天孫降臨したとされる地もある鈴鹿山地を頂き、東近江の大穀倉地への恵みに感謝すべき地を感じる。
r224で「名神高速道路」「東海道新幹線」をくぐり、道なりにr528になり、「近江鉄道」をくぐり、R8を渡ります。琵琶湖畔道路r25に出て左折。15:04、鳥居が見えてきたので寄り道「木和田神社」。
『鎮座地:滋賀県彦根市八坂町1088 主祭神:仲哀天皇 境内社:稲荷神社 神紋:梅鉢 例祭:5月3日 秋祭:11月3日
御由緒:創祀年代は不詳であるが、徃古は彦根市大学八坂琵琶湖岸80ヶ浦字三海(現在の水産試験場付近)に鎮座していたが、享保年間の大水害のため、社殿が流失し、社地は荒廃したため現在の木和田の森に奉遷し、以来「木和田神社」と称す。
本神社には、暴風及び農業の守り神として崇められているスサノウノミコトと第14代天皇である仲哀天皇が奉斎されている。現在の建築物で境内の鳥居は往古に建設され、社殿・社務所は明治15年に、拝殿は明治41年に建築された。
明治9年10月村社に列し、明治43年3月神饌幣帛料供進指定となる。
本殿・境内建物 本殿:一間社流造・間口一間・奥行一間 拝殿:入母屋造・間口三間・奥行二間三尺』
少し移動し、隣接する「滋賀大」にも寄り道しました。
r25を「琵琶湖大橋」方面へ。「長命寺」麓を走り、道なりにr559に乗り、右折しR477に乗り、「琵琶湖大橋」を渡りました。左折してr558を南下しました。16:46「セブンイレブン大津鏡が浜店」で、「ガリガリ君ソーダ75円」を購入しイートインし休憩。京都市内に向かおうとバイクに戻ると、3・4回生ヨット部員5人がやってきて、「やあやあ」。
r558〜湖西道路〜三条道路r143で京都市内に入りました。三条で加茂川を渡り高瀬川沿いの道に入り、18:02「先斗町バイクP」。決起集会の場所「台所てんや」は、すぐ近くでお店を確認。まだ早いので「高瀬川」界隈を徘徊しました。
集合時間19時の20分前にお店に入り、お姉さんに「3Fです」と言われ上ってみると、僕が一番乗りでした。数分後、2回生のこの宴会の幹事Oくんがやってきて、部員やOBが次々にやってきます。昨年卒業した院生Kくんが入ってきて、「真野をバイクで走ってたでしょ。僕の車の横をすり抜けて行ってました。あっ、コーチだ」とすぐ分かりました。
19時になり、いきなりOくんから「最初にコーチから、お言葉を頂きます」と突然の指名を受け、「スピーチさせられるかな?」と考えていたことを喋りました。ヨット部の部歌のように頻繁に歌ってる「琵琶湖周航の歌」の歌詞に出てくる「長命寺」に必勝祈願してきたことを話し、授かった「御札」と「飛び出し坊や形交通安全守護」を披露しました。「琵琶湖周航イベント」で1回生がチームゲームで競った「飛び出し坊や探し」をしたばかりだったし、交通安全御守が必要な奴もいるので受けました。
加えて、西宮遠征に参加した1回生Nくんが、レース終了後、「1回生は閉会式に出ずに帰っていいよ」と言われたのに、「いや、それは違うと思うので、僕は残ります」と言ったのが頭に残り、KGヨット部の部訓を披露しました。
『如何なる闘にもたじろぐなかれ 但し偶然の利益は如何なるものでも騎士的に潔く棄てよ 最強の相手を求め彼を汝の友とせよ
威張らず誇りをもって勝て 言い訳をせず品位をもって負けよ 勝利より大切なのはこの態度なのだ
汝を打ち破った者に最初の幸福を 汝が打ち負かした者に最初の感激を与えよ 汝自身と汝のチームに対して願うべきはただ一つ 常に最善の者が勝つことを
汝の身体を精神をそして心構えを 常に清潔にたもて 汝自身の汝のクラブのそして汝の国の名誉をけがすなかれ』
監督の言葉と乾杯の音頭があり、必勝会が始まりました。下級生にはアルコール禁酒のお達しが出ていますので、飲み放題と言えどソフトドリンク系が多く出ていました。マネリーダー4回生Sさんが指名され、マネさん達がコツコツと作った選手皆へのプレゼントがありました。恒例の千羽鶴は、1年間コツコツ作り続けたのでしょう。コーチボートに下げてインカレ予選に臨むことになりそうです。これまた恒例の「ミサンガ」が全員にプレゼントされ、僕も頂きました。足首に歴代ミサンガを巻いている部員もいます。個人ネームが書かれたキーホルダーが手作りなのにカッコよく、「いいな〜」と思いました。
3回生男子とお喋りしていました。僕はソフトドリンクですが、皆にアルコールが入って来て、シモネタ話まで発展しあれやこれや笑い合って楽しい時間でした
1回生たちも公式戦初レースの2日間が終わった後なので、より盛り上がっていたようでした。あっと言う間の2時間でした。締めはキャプテンのスピーチで、1ヶ月後のインカレ予選に向け気合を入れ直しました。
お開きになり、外に出ました。相談を受けていたS級リーダーNくんがやってきて、高瀬川にかかる橋の上で話しました。メールで僕の回答は伝えていたけど、やはり話さないとね。多くの部員がゾロゾロとやってきました。上回生に連れられて2次会に行くのでしょう。僕はここで離脱です。
18:02〜21:25先斗町バイクP350円。四条通に出て東進し、東大路通を南下し、八条通〜R1を南下し、22:00「エネジェット京都南」で給油。263km/8.73L=30.1km/L。名神〜吹田ICで下車し、中央環状線〜R171で帰宅しました。


2019/8/24
兵庫県北部小代集落を縫うR482が全線開通したらしい。これは、福井富山県鏡を繋ぐR416の未開通区間開通と共に、今年の「走ってみたい舗装林道」の2大トピックでした。国道とは名ばかりの山岳林道R482を走破しに行くことにしました。帰路は夕闇が迫るだろうからR29〜中国道でいいが、往路は避暑を兼ね標高の高い山岳林道を縫って走る計画を立てました。
ところがです、2度寝して目を覚ましたら7時を過ぎており驚きました。2度寝しても5時台には目を覚ますのがいつもだったからです。特に疲れているわけでもないので、「これは季節の変わり目」だからでしょう。僕はひ弱だった子供時代を克服するため「早寝早起き」に努めていたので、目覚まし時計というものを使う必要がないようになりました。騒音で強制的に目を覚ましても眠いのに、睡眠サイクルで自然に目が覚めたら眠くはありません。それが気持ち良く、ずっと自然に眠り自然に目を覚ますリズムになっています。
これを励行していると、夜明けが早くなると目覚めも早くなり、季節の変わり目は目覚めが遅くなる人本来の睡眠リズムを感じるようになりました。仕事から帰る時間帯にコオロギが鳴き始め、秋がそこまでやってきているようです。
遅く起きたので、通常通り朝食を済ませ、「行ける所まで行ければいいや」と気持ちを切り替え、「里山VTR250」で出発しました。ところがです、ムービーをナビに通電していないようです。おかしいなと、電圧計を前照灯から取っているシガーソケットに突っ込みチェックすると、ちゃんと動作します。ここまでは電気が来ているようです。タンクバックの中に入れている2ソケット・2USBをチェックすると反応なし。どうやらこの器具がお釈迦になったようです。
予定を変更し、10時開店のオートバックスで新調することにしました。10:04「オートバックス宝塚山本店」で、「セパレート2ソケット2USB・1618円」を購入。ところがです、Pで繋いでも通電しません。「おかしいな〜」。バイクワールドで見てもらうことにしました。あと1つ曲がればお店という所で信号待ちしている間にもう一度ナビを繋ぐと通電しました。ムービーも通電して問題なし。
バイクワールド行きを止め、林道に向かうことにします。もう一つ「おかしいな〜」と思った所がありました。倉庫ではニュートラルで保管しているのですが、通常はローギアに入れて駐輪します。ニュートラルだとバイクが動いてコケたりして危険だからです。エンジン始動の時は、クラッチレバーを握ってイグニッションを回して始動しますが、その方法ではエンジンが掛からなくなりました。「キルスイッチ」「サイドスタンド」などいつもと同じです。ニュートラルにするとセルが回りエンジン始動します。「バッテリーが弱ってるのかな〜」、バイク屋さんに持っていき見てもらわないと・・・。
「宝塚IC」から中国道に乗ります。11:02「赤松PA」のコンビニ「デイリー山崎」で、「クリームパン4個135円+ぶどうカルピス500ml151円=286円」購入。11:42「加西SA」で小休憩。「福崎IC」で下車し、r23で西進。一級河川・市川を渡り、走っていると「夢前スマートIC」というのが出来ていました。SAやPAはないのに、スマートICだけ設置したようです。
右折しr67に乗り北上。ナビ画面に現れてきた寺院に寄り道します。12:28「満願寺」。横に鳥居も見えます。「一隅を照らす」と書かれているので天台宗のようです。ならば期待できそう。山門の扁額を見上げると、消えかけて見えにくいが「雪彦山満願寺」とあります。当地方の名山、夢前川の源流でもある「雪彦山」を山名に頂くということは、古刹のようです。
本堂前に鐘楼門があります。本堂に参拝し、次男の長男誕生の母子健康を願います。帰りに鐘楼門を抜けると、「貧乏神と黄金塚」という紙芝居(板芝居)が嵌め込まれていました。
『むかしむかし、夢前の菅生郷に、乙比古という若者が貧乏な暮らしをしていました。
そこへ旅の若い女がやってきて、食べるものを分け合うて暮らすうちに、2人は夫婦になりました。2人共よう働いたので、暮らしも楽になりました。
ある夜、屋根裏で泣き声がするので上ってみると、貧乏神が「あんたらがよう働くさかい、福の神と入れ替わらなならんのや」。「長いこと家を守ってくれたんや、入れ替わらんでもええで」と夫婦は慰めました。
福の神が来て、「はよ出ていけ」「いいや、主人におってくれと頼まれてるんや」と争っていましたが、夫婦も力を貸し、福の神をこづき出しました。福の神は、打ち出の小槌を忘れて行ってしまいました。
貧乏神は大喜びで、「米」「こがね」「蔵」と打ち振ると、米・黄金が出、蔵が建って乙比古はみるみる長者になりました。幸せに暮らした乙比古も亡くなり、なきがらと黄金を埋めて塚を作り、「黄金塚」と呼びました。
「朝日よし夕日なおよし西山の、山のきれとの黄金塚」と言い伝えられています。
おわり』
山門を出て鳥居の方に歩いていくと、「大東亜戦争・記念碑」がありました。後ろには多くの神式墓石が並んでいました。先の大戦で日本国を守るため命を惜しまなかった多くの将兵が眠っています。子供の頃、父の実家・母の実家に盆正月に帰ると、墓地の前に並んだ戦士した将兵の墓石から線香を上げるよう祖父母に言われ、そうしていました。家内の実家の古い墓地は、同じように墓地前面に神式の墓石が並び、息子たちにも同じようにさせました。子供には面白く、僕が火をつけた線香の束を持って、1本ずつ墓石の前に先を争って置いていました。世代を経てもいつまでも続くと良いなと思います。
大きな石鳥居は、「円山神社」でした。鳥居横に、『新庄の力石 江戸時代から昭和15年頃まで、庶民のレクリエーションとして多くの集落で行われていたのに、「力石」を用いた力比べ(力持ち)である。人々のコミュニケーションの中心となり、庶民のささやかな楽しみとしての「力石」であるが、種々の娯楽が増えると共に力仕事が人力から機械に移るなどの要因により、次第に「力石」の必要性が失われていった。現在「力石」の意味はもちろん、その存在すら忘れ去られようとしている。ここにあるこの石は、当時の「力石」であり、以後永く保存していきたい。 平成6年6月吉日』
4つの大きな丸い石が横に並んでおり、僕にはとても持ち上げられそうにないので、チャレンジもしませんでした。
『円山神社は円が山程 家庭円満・夫婦円満・円満成就・円満解決、円が山程でお金も貯まる』。横の倉庫には、竹箒が数十本入っていた。集落が集まり、石段を掃除する時がありそう。
長い石段が続いており、チャレンジすることにする。途中から辛い階段をエスケープし、階段の無い坂を登っていく。『円山神社 本社は平成7年12月4日に、夢前町文化財として指定した由来のある神社である。村の翁夜話集に、氏宮が遠く参拝が困難なので、雪彦山の権現賀野神社の分霊を勧請して、現在地に瓦葺拝殿・瓦葺幣殿・檜皮葺流造の神殿を建立したとある。当社建築の特徴は、妻飾・手狭・蟇股・木鼻などで、現在殿は、昭和の初年に改築されたもので、祭神は天照大神・伊弉諾神・伊弉冊神である』
境内に、「古天神社」という菅原道真公を祀る摂社があった。武者が守護する神門もある。さすが、雪彦山を頂く「賀野神社」の分霊を祀る神社です。階段を下り、「第1号館・農家の四季」と書かれた建物を覗いた。農家の作業を再現した人形の館だった。電気は点いていなく、夜は入れない怪しい展示館でした。
r67に戻り、雪彦山に向かって北上します。r411からr504へ。「時のレストラン野」というお洒落なお店が有りました。帰宅後調べたら、ランチ1250円・1000円、デザートも安価でした。お店の外にメニューやお値段を出しておいたら、千客万来になりそうですが、むしろお客様を制限しているのでしょう。
13:21「兵主神社」。『史跡名勝・雪彦山 日本百景並に日本三彦山の一つである雪彦山は、洞ヶ岳・鉾立山・三辻山の三山の総称である。中でも洞ヶ岳は岩肌をあらわに見せて険しく聳え立ち、玄常上人以来の修験者の道場となっている。
賀野神社の由緒は古く応神天皇諸国巡幸の際、夢のお告げによリ鉾立山頂上に伊井諾神・伊井冊神・保食神を杞られたが中せに今の地に移された。明治元年(1868)神仏分離令により、雪彦山金剛鎮護寺を廃し、賀野神社に高産霊神・神産霊神・誉田天皇(応神天皇)の三神を分祀して現在に至る。慶応4年(1864)改築の本殿は実に素晴らしいものである。
洞ケ岳コースの所要時間は約4時間。外山の比較的やさしい尾根伝いを経て大天井岳に到る。晴天の日は瀬戸内海も望める。下山道は渓谷を下るがその涼しさ清らかさはまた格別。渓谷の流れを渡り、賀野神社廻リのコースもある。神社より洞ケ岳を観岳すれば、一層荘厳雄大の様相を見ることが出来る。また洞ヶ岳はロッククライミングの絶好の場でもある。
鉾立山一帯は落葉樹に覆われ、秋の紅葉は最高。また北方に915mの三辻山が聳え、この辺一帯は峰山を合わせて県立自然公園に指定されている』
更に進むと、道なりに「雪彦峰山林道」になり、一段と上り基調になりました。いきなりぐんと気温が下がりました。谷川の森が開け、播州の名山「雪彦山」が拝めるポイントがあったので激写タイム。「雪彦山展望駅」でした。
13:33「賀野神社」。境内からは雪彦山が正面に望めました。雄大です。菅原道真公を想像させる牛の像、腹に源氏を想像させる「巴紋」の入った神馬像が境内にあった。玉眼の入った蟇股の龍や木鼻の象の彫刻が素敵だった。
奉納絵馬『故元衆議院議員・法学博士・従二位勲一等旭日桐花大綬章・清瀬一郎氏は、播州の産なり。昭和42年6月27日83才にて薨ず。氏は清兼孤高の議会政治家として衆人の尊敬を集め、政界の浄化に一生を捧げ、また法学の拳斗として正義を貫き、大東亜戦争における日本の敗戦にともなう国際裁判にて日本側弁護団長として、生命を賭して堂々の論陣を張り、敗戦国民の士気を鼓舞す。実に播州における偉大なる功績と徳を慕い相寄り相図り、氏の命日を期して、氏並びに氏の同僚名士の墨跡を刻み、之を奉納す。
奉納者 兵庫県知事・坂井時忠 元清瀬一郎秘書・戸井田三郎・・・』
13:44「展望台」。山並みが素晴らしい。やはり夏は林道です。風に吹かれるとむしろ涼しい。13:51「通行止」の看板で全面封鎖されていました。仕方なく、Uターンです。13:57「史跡・船堀」。『北に1km余の山頂にあり、元弘3年(1333)に後醍醐天皇が、隠岐から京都に帰還される際、安全を計り設けられた忍びの御所をお守りするため、旗を掲げて掘った塹壕と言われ、船堀と呼ばれている』
14:00「史跡・王地段」。『元弘の変(1331)によって隠岐の島に流された後醍醐天皇が、元弘3年(1333)隠岐の島を脱出され、京都に帰還される途中、敵の襲撃を避ける為、一時忍びの御所として山中を選ばれたと言われる』
14:04「展望台」まで下って来ました。ここは雪彦山への登山口の1つのようで、登山道地図が掲示されていた。下の「登山口」(標高280m)から山頂「大天井岳」(915m)まで100分となっていました。ここから(503m)だと、少し近道のようです。その割に下の登山口には車が多かったけど、ここにはゼロでした。
道なりにr504に入ると、雪彦山登山口なので、登山した方々が車に戻っていました。r411との交差点に位置する「時のレストラン野」から、r411に出て、r411の奥を探索しに行きました。14:33「馬頭観音(若宮明神)」。『このお社は、正面に若宮社(馬頭観音)が、右に稲荷大明神が祀ってあります。建立の時期はわかりませんが、神社名が馬頭観音であることから部落名も「馬頭」と言い伝えられています。かつては境内に杉の大木が生い茂っておりましたが、永年の風雪に耐えられず、現在の状態になりました。切株の年輪を見ると約250年を数えることができます。私達氏子は一願成就の神様と敬い礼拝しておりますが、遠い所からもお参りがあり願い事がかなえられています。 馬頭自治会』
境内に立派な御神木が数本立っており、歴史を感じました。道は左右に分岐しており、左の道に入っていきました。「真楽寺」で行き止まりになっていました。横を流れる細い沢は、とても綺麗な水が流れていました。手と顔を洗い、クールダウンしました。
「馬頭観音」まで戻り、今度は右の道を探索します。路上に「蛇の抜け殻」がありました。こちらの道は、「姫路市水道局」のフェンスで行き止まりました。水源地を守護しているようです。
また「馬頭観音」まで戻り、r411に乗り、「小畑隧道」という趣のあるトンネルがありました。抜けると、反対側の出口は雨が降っているように、水のカーテンが出来ていました。地下水が壁から出ているパイプから流れ出ていました。手と顔を洗いクールダウンしました。「冷た〜い」。少し走ると、峠のお地蔵さんがおり、しっかりした祠で護られていました。避難所にもなるのでしょう。
峠を下り、谷に下って、右折して奥を探索しに行きました。また「姫路市水道局」フェンスで行き止まりました。戻ってr411に復帰し、沢道を下ります。15:34「菅生ダム・明神湖」。『菅生ダムの貯水池名・明神湖は、播磨の名山・明神山(668m)の麓にあることに因んで名付けられました。明神山については、宝暦10年(1760)に書かれた「播磨鑑」に「明神が嶽は播州の高山で、その姿が大変美しいので旅人馬上よりかえり見、海ゆく人は船上より眺め尽くしました。昔、この山の頂上には嶽大明神が祀られていたので、「明神が嶽」と呼ばれています。しかし、山頂のお社は参拝するのに道も険しく不便なので、中世の麓の神種というところに移し祀られました」と記されています。塩田温泉郷・前之庄辺りからの明神山の佇まいは、山々を従えて王者の風格を備えています』
『洪水満水位EL221.0m・総貯水容量195万立方メートル 治水容量130万立方メートル 常時満水位EL207.0m 不特定容量40万立方メートル 推砂量25万立方メートル』
『菅生ダム諸元 ダム:総面積8.7平方キロメートル・地質流紋岩質擬灰角礫岩・形式直線重力式コンクリートダム・堤高55m・堤頂長157m・堤体積95800立方メートル 貯水池:湛水面積0.13平方キロメートル・常時満水位207m・洪水満水位221m・堤頂高223m・総貯水容量195万立方メートル・有効貯水容量170万立方メートル・推砂容量25万立方メートル 竣工:昭和53年3月』
15:45「神元神社」。『第21代・雄略天皇の時に創立と伝わる。祭神は伊邪那岐尊・伊邪那美尊・国常立命。川内明神・神元大明神とも呼ばれた。随神門は変形の八脚門で、本殿とともに文化元年(1804)の再建』
立派な神門があり、武者が守護していた。拝殿は絵馬殿になっており、武者絵馬など良い感じの古い絵馬が下がっていた。『若一神社 境内農村舞台 この舞台は、明和9年(1764)藩に願い出て建てられたものです。もとは藁葺きであったが昭和18年(1943)頃、瓦葺きに替えられました。 農業は天候や災害に左右されることから、神慮を休めるため、氏神の祭礼行事として歌舞・演劇などを行うのに建てられたものです。 公には神事とし、内々は年一度の歌舞・演劇をこの舞台で楽しんだのであろうと思われます』
「野畑公民館」があった。農業舞台は、説明がなければスルーしちゃう佇まいでした。神社前に建てられているところを見ると、集落の楽しみはいつも神社前だったのでしょう。現代の公民館・集会場として、神社は機能していたのだと思います。
r411を南下していると、ナビに鳥居マークが見えてきたので寄り道しようと、右折してr80。西進すると、「二百余神社」の案内板があった。『二百余神社は、寛和2年(986)巨智延昌が多門寺(本誓寺の前身)の鎮守社として創建し、鎮守権現と呼ばれていた。 後醍醐天皇が隠岐島の還幸の途中、多門寺で護摩を修せられ、天神地祇12代、神行64神、播磨174座を合ひされたので「二百余社」と称された。 境内薬師堂には、薬師如来と脇仏として大日如来がまつられている』
急な坂道に石鳥居があり、そこを潜って行き、16:17「二百余神社」。石段を上っていくと、「瑞雲山多聞寺跡」がありました。『元弘3年(1333)後醍醐天皇の隠岐より還幸の途中、鎮守社に二百余社を合祀し、賊軍平定・国家安隠を祈願し、同時に真言宗多聞帝に於いて7日、護摩を修める。その際、舞を瑞雲山多聞護持寺、鍋倉村と護持村を勅号された。本誓寺の前身である』
本殿に上がると、「二つ引紋」が刻まれていた。
r80に戻り東進し、16:38「弥勒寺」。『性空上人隠棲地・花山法皇勅願所・安産祈願所 重要文化財 夢前町弥勒寺』と書かれていた。天台宗の高僧・性空上人が最後に住んだ場所でした。
『長徳3年(997)性空上人は書写山を延照に任せ(円教寺縁起等事)、長保2年(1000)当時国街領であった当地、飾磨郡菅生郷に隠棲したと伝える。性空上人に帰依する花山法皇は長保4年(1002)に重ねての結縁を求めて御幸、7日間参龍して結縁を果たした(峯相記)。法皇は播磨大橡延昌に守護堂・護摩堂の建造を命じ(悉地伝)、これを弥勒寺起源としている。
弥勒寺(天台宗、山号通宝山)には数多くの文化財が保存される。現「本堂」は室町幕府重臣で播磨・備前・美作3国守護となる赤松義則が康暦2年(1380)に再建したもので国重文。細工を施す内陣の折上小組格天井など南北朝時代の建築様式の標本といわれる。「開山堂」は享保年間(1716〜36)の建立で市指定、「開山堂厨子」は扉隅金物に慶長16年(1611)の打出し銘があり県指定。繊細な細工が施されている「護法堂」は宝永8年(1711)建立で市指定。搭身正面の梵字に扉を線刻する珍しい「宝搭」と元弘2年(1332)刻字の「石幢」は市指定。
本尊の「木造弥勒仏及両脇侍像」は国重文、弥勒仏に長保元年(999)仏師安鎮の作を示す銘があり、弥勒寺開創期のものである』
祈祷受付所に、『努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る』と語られていた。『弥勒寺本堂(国指定重要文化財) この本堂は康暦2年(1380)赤松義則の再興である。建築様式は南北朝時代の典型的な様式をそなえている。特に墓股彫刻、本堂内天井は見事である。
弥勒仏、両脇侍仏(国指定重要文化財) 本尊弥勒仏は長保元年(999)10月5日の造像銘を持つ仏像である。造像銘を持つ仏像では兵庫県域最古の仏像である。石幔(姫路市指定重要文化財) 第4面に元弘2年(1332)壬申卯月日の造立銘がある。昭和62年山内墓地より本堂内に移動する』
『文化財 通宝山弥勒寺本堂 本堂は、天授6年(北朝康歴2年1380)播磨・備前・美作3ヶ国の守護・赤松義則が再建寄進したもので、外陣正面蟇股・須弥壇の格狭間(こうざま)などに、赤松家の家紋が施されている。建物の各部各所の形式、手法は南北朝時代の好個の標本と言われている。国の重要文化財指定』
『護法堂 建築様式 造2棟 梁行90cm 桁行90cm
弥勒寺護法堂乙若両天童子を安置する。護法とは、仏法を守護し又三宝作持の為に行者を擁護し又は、霊地を守護するという。 弥勒寺護法堂は、規模は小さいが建築物の細工は繊細である』
「性空上人供養塔(鎌倉時代)」が小さな木造祠に護られていた。御墓はないのかな?
『開山堂 建築様式 方形造り1棟 梁行4.5m 桁行4.5m
弥勒寺開山堂は、弥勒寺開基性空上人を安置する。性空上人を安置する厨子に奉寄進皇太神宮権大僧都法印祐園阿間梨、3000日の行者慶長16年12月2日とある。しかるに開山堂の建立は慶長16年(1611)前後の建立とみられる。
開山堂厨子 性空上人を安置する厨子で、四方の金具に慶長16年12月12日銘3000日の行者権大僧都法第祐園阿閲梨銘有』
r80に戻り東進していると、以前城攻めした「置塩城跡」の大看板が見えた。17:04「夢街道farm67」。いちご農園が営むカフェで、美味しいかき氷で有名です。クールダウンしようと思ったが、営業時間17時までだったので残念。
17:22「田川神社」。『郷社 式内田川神社 祭神は、「息長足姫命」、「大年神」と伝えられています。境内には山神社、竹生島神社も別に祀ってあります。石の大鳥居と灯籠が奥須加院東端に位置し、一の鳥居から社殿までが相当離れており、現在は昔の参道の面影は無くなっているが、距離から見ても、往時の勢力が分かる神域の広さである。
そして、境内入口にある石作りの高い門柱は一の鳥居と正対していると云われております。境内の北方にある欅の木は香寺町内随一の巨樹で、1号樹と2号樹があり、推定樹齢600年を経て幹の周囲5.6m・高さ37.7mと樹勢が今なお極めて盛んである。旧香寺町より「香寺町天然記念物」の指定を受けております。また、境内横を流れている須加院川には蛍が多く生息しており、毎年5月下旬〜6月上旬には蛍の優雅な乱舞が見られ、訪れる人の心を和ませています』
『式内田川神社 この社は、神功皇后(269年前頃)にまつわる神社で、いろいろの伝説があるが、記録に出てくるところによれば、永正3年(1507)赤松一族がこの付近を治め、天正6年(1579)には、赤松氏の代官として、馬杉五郎衛門が代っておさめていた時、本殿屋根の修理をしたとあるが(本殿造営の年は不明)、拝殿は永禄8年(1565)に建てたこととされ、現在の田川神社となっているものです』
絵馬殿に、武者絵馬が多数奉納されていた。
17:36「常福寺」。『瑞雲山常福寺(香寺町須加院) この寺は元禄(1688〜1704)の頃、隠元(いんげん)の弟子・実伝和尚が、平安時代創建と伝わる極楽寺跡に再興した黄檗宗の寺院です。 本堂には平瓦が敷かれて座禅できるようになっており、中国風の楼門も貴重な建物で、庭園に立つキリシタン灯籠は、市の文化財です。 極楽寺は、播磨国守の藤原資業(すけなり)が氏寺として建てた天台宗寺院です。その孫・禅恵(ぜんけい)が、天養元年(1144)に埋納した瓦経・阿弥陀坐像・地蔵菩薩坐像などは、寛政11年(1799)に裏山山頂から出土し、現在国の重要文化財に指定され、国立博物館に保管されています』
禅宗「黄檗宗」ゆえ、「不許葷酒入山門」と彫られた石柱が立っていました。修行の禅宗寺院だからか境内に入れなかった。道を隔ててあった鳥居をくぐり「八幡神社」境内へ。
『八幡神社 由緒 「兵庫県神社誌」に「応神天皇の車が、播磨国神崎郡に行幸有らせられた時、的部里(いくはべのさと)錬金山を経て当社鎮座地に御駐輦の事あり」とあり、その跡に応神天皇を祀ったと伝える。 当初の社殿は現在の社殿より南にあったという。江戸時代は常福寺の境内であり、住職が社僧を務めていたが、明治7年、その支配を離れ、村社に列せられる。 八幡信仰では厄除の神として、仲哀天皇の皇后(神功皇后)と、その御子の応神天皇を祀っており、母子神でもあるので、安産の神としても崇敬されている。
祭神 応神天皇(おうじんてんのう)別称は誉田別尊(ほんだわけのみこと) 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)別称は足中彦尊(たらしなかつひこのみこと) 神功皇后(じんぐうこうごう)別称は息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
建造物 本殿・銅葺流造・1坪9合 幣殿(祝司舎)・瓦葺入母屋造・5坪 拝殿・瓦葺入母屋造・7坪4勺 境内社・金毘羅社・大物主神 弁財天神(竹生島神社)市杵島姫神 若宮神社・明治41年、字森ノ元から合併移転する 稲荷大明神・大将軍稲荷大明神、千八百(ちはや)大明神、明治40年、字錬金から合併移転する。
年中行事 厄年祓い1月2日 トンド祭1月14日 節分祭2月3日 大将軍稲荷大明神祭・千八百稲荷大明神祭2月28日・7月28日 金毘羅祭4月10日 湯立て(夏祭り)7月15日 例祭(秋祭り)10月14日(現在は体育の日曜日)
石造物 石灯籠・寛政10年(1798)建立・笠が撥型の石灯籠 石灯籠・天保7年(1836)建立(稲荷神社前)火袋は四角形、笠は下ぶくれの円柱、中台と台座が六角形という変わった形 手洗石・寛政3年(1791)建立、扇形のくりぬきが珍しい 狛犬・明治38年(1904)建立、青年会が日露戦争記念に奉納したものだが、氏名は判読できない』
こちらも、古い絵馬が多く掲げられていました。
17:51「田野城跡」。『田野城跡(香寺町田野) 田野城は、西方500mの城山(220m)の山頂にありました。「播磨鑑」には、東西20間・南北5間、西の丸東西23間・南北6間と記されています。 14世紀初めの頃、赤松円心の旗下であった堀氏5代の常光が田野城を築きました。当時は今部城と呼ばれ、天正5年(1577)2月、秀吉の中国征伐によって、恒屋城・矢田部城と共に、落城しました。 時の城主の堀出雲守満則は、落城後、清瀬氏と改め、大庄屋職を務めました。北東に見える田野の法琳寺は、堀氏の居館があったところです』
「高野神社」、r80に出て東進、JR播但線を渡り、香呂駅に寄り道。ここからr81になり、播但道をくぐります。r117に乗り、突き当りを右折しr23に乗って東進。北条鉄道の北条駅前を通過し、左折してr24で東進します。「加西IC」から中国道に乗りました。すぐに雨がポツポツ落ちてきて、タイミング良くあったバス停にバイクを停め、車載カメラやナビを撤収しました。雨は程なく止みましたが、18:51「中国道社PAセブンイレブン」で「ガリガリ君巨峰108円」を購入し、糖分補給。帰路に着きました。


2019/8/18
レース2日目です。予報では前日より風が弱く、吹き出しも11時ぐらいからなので、陸上待機になりそうですが、スタートが30分早いので、7時前に「通勤リード110」に乗って家を出ます。R171を西へ。6時台は車がまだ少なく走りやすいです。
7:30前にYHに着いて、センターハウス前の駐輪場に駐めます。ここは学生が沢山活動しているディンギーヤード前とは違い空いています。カードキーでディンギーヤードに入り、部員に挨拶。神戸OB・Tさんがレース運営で来られていました。前日、「久しぶりです」と声を掛けると、僕が母校外のコーチをしているのを知っておられ、次男がその学校に入学して縁ができたことも知っておられました。前日走っていた甲南やKGのレース艇を見に行きます。どんなマテリアルを使っているのだろう?変わった艤装をしていないかな?
バースに戻って部員とウダウダやってると、O大GM・Kさんが来られ、「今日も運営ですか?」「スタート・アウターやねん」「アウターやったら、スタートしたら自由に動けますやん」「それがな、次のスタートまですることないけど、動いたら怒られますねん」と笑っておられました。KD総監督とRits監督が一緒に来られました。KDさんのマンションに泊まっておられたのかも?
時計合わせ・体操の後、ブリーフィングです。「前日より少し風速が落ちるかも知れないが、むしろこちらの方が11月本番のこの場所で多い風とも言えるので、風の傾向を感じてきて欲しい」と伝えました。
スキッパーズ・ミーティングで、先にスタートする470がスターティングエリアに入っている時、後発のS級が入っているのを数件見かけたので、「邪魔だと思ったら、470からS級艇へプロテストしてもいいよ」とのお達しがありました。本部船から見て悪質に見えた艇がいたのかもしれません。
8:30になりましたが、出艇を許可するD旗は上がりません。南の安定する風向から風は入っていますが、軽風なので様子を見ているようです。真夏の炎天下で、長く海上に居させたくないのでしょう。即レースできるコンディションまで待ちそう。
9:30に、9:45D旗との情報が流れてきました。フラッグが上がり、次々に出艇して行きます。関西水域の学校は、全日本予選が1ヶ月後に迫り、勝ちに来ているので気迫を感じます。当方は水域外オープン参加なので、メンバーを交代しながら経験値を積む段階です。
S級が出艇して行ったので、トイレ前に向かいます。和歌山大の子はボートに乗るようで、この日は岡山大の3人だけです。1人はメンバー交代しています。桟橋からクルーザーを出します。給油桟橋に向かい、10:17軽油10L・1410円で現金購入しました。
東出入口からハーバーを出て、ドライバーを交代します。レース海面はSWのそこそこ良い風が入っており、昨日のコンディションとさほど変わりません。風速の上下はあるものの昨日より少し風が落ちているので、うちの船でもレース艇においていかれることはなく、S級スタート後トップ艇のラインとともに一緒に第1マークに向かって走れました。岡山大学の子の持ってるスマホのバッテリーが大丈夫そうなので、スタート1分前から第1上マーク付近までのビデオを撮らせました。僕がレース展開を見ながら、気づいたことを話すので、それもビデオに入れました。「何故そこでタックするのか?」「何故ここで動いてはいけないのか?」「スキッパーの動作チェック」など、パフォーマンスの良いKG艇が上1・2即タックして近くを走ってくれたので、良い解説が出来たように思います。
3レースして、終了の13時前になりハーバーバック。東出入口が混みそうなので、西出入口からハーバーに入りました。桟橋に着け、学生さんにデッキブラシを掛けてもらいました。
ディンギーヤード・トイレ前に戻り、ここで解散。「2日間、ありがとうね」。遠征してきている当方・和歌山・岡山は、マストからステイなどを抜き、トラックに積み込む支度をしています。大阪北港からの遠征組は、海を走ってでも曳航してでも帰れます。
朝は曇っていたのにカンカン照りです。家から持ってきた魔法瓶の麦茶は、海から上がった桟橋で飲み尽きました。水道から魔法瓶に満たした水も消費し、自販機で「愛のスコール」を買って魔法瓶に入れちゃいました。
プロテストが多いのか、閉会式がなかなか始まりません。岡山大の船を積み込んだトラックが出ていき、和歌山大は学生が2トンロングを運転して出ていきます。最後に当方が、6艇積んだトラックとインフレータブルを積んだトラックが出て行きました。
17:40から閉会式が始まりました。個人では2クラスともKGが優勝。クラス別総合では470はKG・甲南・当方・神戸・Rits、S級ではRits・甲南・KG・当方・KDでした。S級のトップ3校は8点差の中に3校ひしめき、1レースでひっくり返る接戦でした。当方も全レースベストメンバーで行ったら優勝の目もありました。470は第1レースのエース艇の失格が響きました。1位フィニッシュが失格55点になっちゃったので、あれがなければ悠々の優勝でした。470は、今日出場した3回生女子スキッパーも他の2人の3回生スキッパーに遜色なく走り、いや部内2位を3レースとも続け4艇目も計算できるようになって来ました。
これで解散です。合宿所まで3台の車で帰る組、バス〜電車で帰る組も数人いました。車で来てあげたら電車の駅まで送れたのに可哀想なことをしました。バイクに乗り、バス停で待ってる部員に手を振り、家路に就きました。18:27、近所の「エネオスセルフ緑ヶ丘SS」で給油。180km/4.36L=41.3km/L。仕事場に行きゴソゴソしてから帰宅すると、家内の方が先に帰っていました。


2019/8/17
コーチしてる大学ヨット部が、今年の全日本インカレ開催地の新西宮ヨットハーバーに遠征しています。土日が、「関西学連夏季選手権」で、オープン参加します。そのレース観戦に行きます。
帰省していた息子たち一家が14日に帰って行った日、17時に長男の転勤の関係で家族の新たな生活を始まるロンドンに長男一家を伊丹空港に送り帰宅後、すぐに「通勤リード110」に乗って「新西YH」に向かいました。既に台風対策が万全にしてあり、何もせず帰宅しました。15日に台風が最接近しそうなので、係留艇の台風対策をしに行くためです。台風は山口県を縦断し日本海に抜けました。16日の昼休みに、船の様子を見に行きました。無事だったので今回もホッとしました。その時センターハウスのショップを覗いてると、部員に出くわしました。部員達と遠征しているレース艇の所に行き、あ〜だこ〜だしました。
朝ゴソゴソし、朝食取って7時過ぎに「通勤リード110」に乗って出発しました。水筒に氷と麦茶を入れ暑さ水分対策はOK。最寄りのセブンイレブンで昼食用にバナナを購入して、R171で8:30頃YH着。
部員たちに挨拶し、陸上で暇するメンバーがいないか聞きました。今回の遠征は3・4回生+2回生少しだけです。陸上待機部員はいるが、全員本番の全日本の動きをシュミレーションするため、用事が割り振っているようで乗る部員はいませんでした。母校KGも、全員レース運営します。ここまでは前日に確認済みです。
陸上本部に、観覧船の申請に行きました。申し込み書類に記入し、グリーンフラッグとパウチパネルを頂きました。KDに聞きに行くが、「うちは部員が少ないから余裕ないですよ」と総監督。そこに同じく琵琶湖から遠征して来ているRits監督Kさんが来られたので、「乗る部員いますか?」と聞くもレギュラー部員だけのようでいません。KDコーチKさんを含め4人であ〜だこ〜だお喋りしていました。KDもRitsもD社も、来年セレで有望新人が入部する予定だそうで、セレのない当方はますます頑張らなきゃ。チャンジ心が湧いてきました。
他の遠征大学に声を掛けます。岡山大学と和歌山大学に乗りたい部員がいたので、「S級が出艇したら、トイレ前に集合」としました。朝からマゼの良い風が入っています。出艇前ブリーフィングで、「この風は当方の得意な風なので成績も期待していますが、これから本番まで何度もここで乗る機会があると思うけど、風の傾向を学ぼう」と話しました。
9時にDフラッグ上がり、470・S級が随時スロープから出て行きます。トイレ前に和歌山の1回生1+岡山2回生2・3回生1の4人がやってきました。係留艇に行き桟橋を離れます。みなクルーザーは初めてのようで、いろんな仕事を割り振ると楽しそうにやってくれました。
西出入口からハーバーを出て、レース本部艇までアビームなのでジェノアのみフルセイルに出し、ステアリングを岡山2回生女子部員Sonさんと交代し、クルーザーセイリングを少し味わってもらいました。レース海面に着いたのでジェノアをファーリングして機走にします。1レースごとにステアリングを交代することにしました。全員、大学からヨットを始めた子で、まだヨットのヨの字をかじった程度です。これからもずっと、ヨットを楽しんで欲しいと思います。
予定通り10時に470第1レーススタート。1回ゼネリコして、再スタートは出ていきました。続いてS級も。当方は6艇ともグッドスタートです。470の1上トップに当方スピンが上がりました。1下になるとダントツになっていました。そのままダントツフィニッシュ。当方は1・8・10位でした。S級もレグごとに順位を上げています。2・13・21位フィニッシュ。470は全54艇、S級は57艇の大きなフリートレースになりました。
4〜5m/sの良い風が入っているのに、第2レースがスタートしません。Why?470、11:30スタートするもゼネリコ。再スタートは、リコール(フライング)即失格のブラックフラッグで出て行きました。S級もスタート。470級1上、2・3・4位回航でベリーナイス。2・4・5位フィニッシュで連続トップには届きませんでした。S級は4・15・19位。AP/Hフラッグが上がり、12:20熱中症対策もあり一度ハーバーバックします。僕らもハーバーバックし、桟橋係留しトイレ前まで戻り、一旦解散。当方バースに戻ります。部員数名から「ええ〜」の声。「何?」って聞くと、第1レーストップMくんがUFD(フライング)失格で得点1点から71点になっちゃいました。これで、3艇総合トップから8位に転落です。
次の出艇が13:50予定なので、ふわふわアイスを食べに行きます。センターハウスに入ると、2回生KatさんとKawさんがPCでカタカタやっていました。陸上得点集計係のようです。「かき氷食べる?」「いいんですか?」「いいよ、一緒に食べようよ」。1Fカフェ・Friandiseに座り、3人でお喋りしながら、ふわふわかき氷を食べました。ここのかき氷はフワッフワで大好きです。僕はいちご、彼女たちはマンゴーとチョコ、全3品目注文になりました。
13:47、スノーアイス650円×3=1950円精算し、僕だけディンギーヤードに戻ります。彼女たちには、「もう少し座ってな。冷たいお水もらえるよ」と。13:50Dが上がり出艇。S級が出艇していくのを見てトイレ前に行きます。AMと同じメンバーで出艇します。レース海面までセイリングし、また和歌山大1回生Sakくんに時計係をやってもらいました。
PMは当方S級は2艇メンバー交代です。ここからがクラブの真価を問われます。インカレで6位入賞するためには3艇目が走らなければなりません。各校2艇はトップフィニッシュできる船が揃うのですが、3艇目が厳しい。昨年の当方S級の強さは、3艇共にトップフィニッシュできる実力を持っていたからです。現在当方は2艇は計算できるが3艇目が課題です。トップ3艇の他に3艇それなりに走るペアがいるので、その底上げがインカレの成績に直結します。
14:35、470スタート。S級もスタート。第1レース失格で皆にいじられていたMくんペアが1上2位回航。470級1下、1位KG・KG・当方・甲南・当方・甲南・・・18当方。2上1位当方・甲南・KG・KG・当方・・・。470もS級も母校KGは上位回航艇が多く、総合力では抜きん出ている感じです。フィニッシュ、1位当方・甲南・KG・KG・当方・・・。当方470エース艇は、1失格・2位・1位と爆走しています。
熱中症対策で、お昼に一度陸上に上がりましたが、こういうのは初めてで、関西は今年からこういうのを始めたのかな?と思っていたら、1週間前に救急車騒ぎがあったようです。流石に2週連続はまずいので、こういう対策をしたようです。15:40、470第4レーススタート。続いてS級も。フルトラピーズの良い風が少し落ち、S級のスタート後、右海面をトップ艇のラインとともに上がっていきました。
上1・上2即タックしたKG2艇が、レグ3/4でスターボに返し、中央まで寄せる前にポート艇にバウを切られるシチュエーションでもないのにタックし、もう一度右海面に寄せてきました。スタート後スターボで伸ばした左海面艇が伸びて来ず、ノーケアになったのでしょう。風の落ちる南西の風16時のシチュエーションでも右海面が良いようです。
470フィニッシュ時に、AP/Aフラッグが上がったようで、この日のレースは終わりです。レース艇とともにハーバーバックし、桟橋で係留作業していると、KDとRits監督さんが船から降りて桟橋を歩いて来ました。「走ってるね〜」と言われたので、「3R以降メンバー交代したのでイマイチでした。も少し次世代のレベルを上げないと・・・」と答えると、「余裕あるな〜」とRitsさんから。
ディンギーヤードのトイレまで戻り解散しました。ブリーフィングで気づいたことを話し、帰路に着きました。仕事場に戻り、仕事して20時に帰宅しました。


2019/8/14
息子たちの帰省もこの日で終りです。8時からの朝食を終えた孫が呼びに来たので、また朝蝉取りをしました。りょうくんはコツを掴んだのか、セミを4匹も捕まえることが出来ました。こうちゃんは木下の方にいるセミが少なく、2度失敗してゲットできませんでした。すみれちゃんは虫かご当番で肩から紐を下げて持つ姿が、ハンドバックを持つレディー然として様になっています。
家に持ち帰りママたちに見せてから庭で逃しました。僕が1匹カゴから出すと、こうちゃんが「僕が出す」とカゴに手を入れセミを掴んで逃しました。2匹目を掴んで逃がそうとしたら、セミが指から離れず僕に取ってくれとヘルプが来ました。
11:30「お盆法要」、13:00「ルーカスくん初宮参り」、15:00「次男一家帰宅」、17:00「長男一家帰宅」の予定です。法要から初宮参りまで時間が詰まってるので、法要の前に昼食の素麺を用意するとのこと。9時にスーパーが開店するので、家内と車で買い物に行きました。
帰宅後、家内はおさんどん開始です。お嫁さんたちも頼めば手伝ってくれますが、「日頃、小さな子を抱えて大変なので、せめてお盆ぐらいは少しでも楽を・・・」だそうです。
実家の2Fから座椅子を仏壇の部屋に下ろして並べていると、「鯉のぼりする」の合唱が始まりました。「台風で風が強いのに大丈夫かな?」と思いながら、「次はこうちゃんの青いの取って」などと孫たちに手伝ってもらいながら、鯉のぼりを泳がせました。
長男が、「鯉のぼりをバックに集合写真写そう」と言い出し、皆でパチリ。写真を撮ってる時に、お寺さんがスクーターでやってきました。11:30の予定が11:00です。予定外だけど、昼食時間が長く取れるのでむしろ歓迎です。まだ弟一家が着いていないので、次男が電話しています。長男は、お寺さんとお喋りして間を繋いでくれています。僕の出番はないね。住職さん自身が、長男の通った中高
先輩なので、アメリカ在住中もお寺さんは長男のことを気にしてくれていました。僕は冷蔵庫から麦茶を出して、家内が用意してくれていた「茶飲み茶碗」に入れて、次男のお嫁さんに「お寺さんに出して。僕が出すよりずっと喜ぶから」と手渡します。5分ほどで弟一家が到着し、すぐにお盆法要が始まりました。りょうくんは大丈夫だとしても、こうちゃん・すみれちゃんも神妙に聞いており、ルーカスくんもグズらずナイスでした。表までお寺さんを見送りし、「お気をつけて、またお願いします」。
自宅から実家へ、お素麺を運びます。海老の天ぷらや酢豚、パーティーセットのようなちょっとしたつまみものを運びます。お嫁さんたちがテーブルに並べ、皆が適当に座ってお食事タイムです。すみれちゃんは、弟の長女りっちゃんからもらったエプロンセットが気に入り、エプロンと三角巾をしてご機嫌です。
たまたま2Fに上がったタイミングで、窓の外から鯉のぼりがラインごと飛ばされる瞬間を見てしまいました。「こりゃ大変」、慌ててベランダから3匹の鯉を回収し、電信柱支柱に引っかかったラインと鯉を救出すべく外に出ようとしていると、鯉の回収しているのを見た長男が、「虫取り網で外せるかも?」と。僕は庭に出てラインの一部を回収し、次は電信柱だと見上げた所で、虫取り網を使って電信柱に引っかかったラインを長男が外してくれました。無事回収・・・。
12:30になったので、僕の遠い先祖である菅原道真公を祀った氏宮様に向かいます。いつも歩いて行くのですが、チビが3人もいて暑いので、車で行くことにしました。僕は「通勤リード110」なので先に着き、天満宮の社務所のベルを押します。前宮司さんが拝殿から出てこられました。準備してくれていたようです。りょうくんの時は前宮司さんでしたが、こうちゃんとすみれちゃんの時は、前宮司さんの息子さんの現宮司さんでした。現宮司さんは、4月の選挙で市会議員になったから?お盆で奥さんの実家へ?お留守のようです。前宮司さんは、僕の小学校のクラスメイトの女の子のお姉さんです。
皆がやってきて、社務所でクーリング。長男が社務所で、住所氏名を記入します。拝殿に上がり、祝詞を上げてくださいました。何度経験しても心に優しい、家族の成長を感じる幸せな時間です。真っ白なスーツ姿の家内は、ルーカスくんを膝に載せニコニコしています。僕は半袖シャツにネクタイを締め、僕ら夫婦が一番の正装です。新しい命を授かり、日本の土着の神様に報告して幸せを祈願する一族のイベントですが、祖父母が最も喜んでいるんじゃないのかな?
帰宅して着替えます。真夏の初宮参りは暑いけど、台風の影響でちょっとだけマシでした。家内の母親が長男誕生の時に作ってくれた青い着物を羽織った主役・ルーカスくんは、2台の扇風機のおかげでグズらず、静かに宮参りが出来ました。すみれちゃんとこうちゃんは、テーブルの下の家に入り、おままごとの続きです。15時になったので、次男一家が帰ります。僕だけバイクで、他は車に乗り「JR伊丹駅」まで送りに行きます。しばらくしたら、お嫁さんからLINEが入り、「早めに新大阪に着いたのでカフェでお茶しています」とのこと。
17時になったので、長男一家が帰ります。というか行きます。長男一家は東京羽田のホテルで2日泊まり、そのままロンドンに向かいます。着いたら新生活のため引っ越し荷物の荷解きです。空港送迎レーンでバイバイ。僕らは、というか家内は、これから後片付けでもうひと頑張りするでしょう。
しばらくしたら、お嫁さんから、「私たちも空港でご飯食べながら飛行機を待ってます。久しぶりに会え、すーちゃんともせっかく仲良くなったのに残念だけど、ロンドンでお待ちしてます。出産頑張ってね」だって。また時間作って、夫婦でプリンストンの時のようにロンドンに行こうかな?
後片付けしながら、PCでフライト情報見ていると、無事に飛び立ちました。台風が来ているので、宮崎便を筆頭に九州方面に欠航が出ています。
一通りの後片付けを終えた家内と、ぶどう食べてビスケット食べて夜になりました。次男のお嫁さんからLINEが入りました。「無事にお家に着いて、ごはんを食べて寝るところです。子供がいっぱいいると賑やかで明るくなります。優しいお兄さん2人に甘えまくりのすーちゃんでした。たくさん可愛がってもらって感謝です。ロンドンでの生活、楽しんでくださいね。日本に帰ることがあれば、ぜひうちに寄ってください。次回こうして会える日を楽しみにしています。11月の出産頑張ります。ありがとうございました」だって。
20時過ぎになり、「おやすみ〜」。これでお盆帰省お終いです。


2019/8/13
お盆正月、年1〜2回会ってる家内の姉一家と会う日です。僕ら夫婦が知り合った学生時代、4才年上の姉はすでに結婚し浜松に住んでいました。姉夫婦は京都の大学の写真部で知り合った同級生です。兄は卒業と同時に別の大学を受験し進学しました。学生結婚し、姉夫婦は兄の進学した浜松の大学の近所のアパートで新婚生活を始めました。兄の実家は裕福ではなかったので、学費は国立だったので安かったものの勉強が大変でアルバイト出来ないから、生活費を姉が乳飲み子を抱えながら働き稼ぎました。家内の実家は、あれやこれや生活物資の援助をしており、そんな物資を届けるために僕らカップルは、浜松までのドライブデートを何度かしました。
僕は「いいな」と思う女性がいたらすぐにお相手の家を訪問し、親御さんやご兄弟と話し、家の雰囲気を感じに行きます。ヨット部の先輩から、「女性は母親に似るから、いい子がいたらお母さんと話せ。そのお母さんは25年後のその子だから、お母さんに「いいな」と感じたら結婚してもうまくいくよ」と教えてもらったからです。家内のお母さんや実家がいいなと思い、お姉さん夫婦と話すと楽しく、親戚めぐりドライブを何度かして、親戚も気に入りました。反対に僕も親戚方に気に入ってもらったようで、「あいつはいいよ」と親戚中の評判が上がり、2ヶ月後の僕のプロポーズに「いいよ」と即答してくれました。ドライブデートで墓参りや親戚めぐりを提案実行する男なんてそういないから、誠実さを感じてくれたのだと思います。
僕らも結婚し、お互いに子供が生まれ、2家族でキャンプに行ったり、果物狩に行ったり、ずっと交流を続けました。我が家のお正月スキーに、子どもたちが参加してくれたこともあります。そんなこんなで、息子たちと従兄弟達はずっと仲良しです。今や我が子2人・従兄弟3人、それぞれ子どもを授かり、その交流に発展しています。
「神戸でお昼ごはん一緒に食べよう」「その後カラオケしよう」と家内とお姉さんの話が決まり、11:30「神戸の姉夫婦の高齢者マンション」集合ということになりました。
4時に目を覚まし、ゴソゴソやって朝ごはんを食べて、家内の作った皆の朝食運びなどします。8時の朝食を終えたこうちゃんが、「おじいちゃん、遊ぼ〜」とやってきました。昨日に続き散歩です。次男が僕が数日前に買ったボールを持って、家の前の道でサッカーです。ボール蹴りが初めてというすみれちゃんが意外に上手く、僕がサイドで蹴ったボールを正面に移動し、空振りもせず蹴って真っ直ぐ僕に戻せました。「これは上手」と皆で拍手し、こうちゃんが加わり遊びます。隣の公園に移動し、りょうくん・こうちゃん・すみれちゃん・僕・次男でボール蹴り・ボール投げです。
長男が、虫取り網と籠を持って出てきました。りょうくんが網を持ち、こうちゃんが籠をたすき掛けセミを探します。公園の木にはセミが一杯で、低いところにも止まっています。長男がセミを捕まえ、僕が網から出してこうちゃんの籠に入れます。すみれちゃんが興味深く見ています。
長男が、「りょうくん、やってみる」とセミ取りの極意を伝えセミ取りに挑戦です。3度目にセミを網に入れる事が出来大喜びです。僕らも大拍手。こうちゃんもやってみることになり、すみれちゃんに籠を渡します。長男3匹・りょうくん2匹・こうちゃん1匹捕まえることが出来ました。りょうくんもこうちゃんも、蝉取りは初めてだったようで、興奮しています。
「ママに見せに行こう」と家に戻りました。ママたちはビックリで、次男のお嫁さんはスポーツウーマンなのに、セミは苦手のようで腰が引けています。庭に出て、逃してあげました。
「長ズボンで来てね」という姉からのLINEがありました。長男が持ってきていないので、ユニクロに買いに行くことになりました。10時に家を出発し、近くのユニクロへ。僕だけあぶれてまたバイクなので、車を先導します。姉夫婦が週末だけ使っているマンションは、高齢者向けタワーマンションです。ビル内にスポーツジムやプール、ビリヤードや卓球・シアタールームもあります。最上階のレストランだけゆるいドレスコードがあるようです。
ユニクロで気に入っているパンツがあるようで、それを長男夫婦が買いました。僕はそれを見届け、先に出ます。R171で西宮に出て、阪神高速に乗ろうと高架に上がったらETCゲート前渋滞が出来ていて、再びR43に降りて神戸に向かいました。11:30マンション着。クロークに行き、バイク駐輪場を聞いたら、四輪Pの二輪停まってるスペースに置いたのでそれでいいとのこと。クロークから姉の部屋に連絡が上がったようで、エレベーターを待っていたら姉が降りてきました。「人数的にあぶれて、僕はバイクで来ました。四輪は、長男が長ズボンを買ったのでもう少し後です」。
姉夫婦の部屋に上がると、姪2人の家族がいました。1人の旦那さんもバイクに乗っているようで、車種を聞いたら「ニンジャ1000」だそうです。12時前になったので、最上階レストランに移動しようと思ったら、マンション前の僕のバイク横Pスペースにうちの車が止まりました。皆で1Fに降ります。一度姉の部屋に戻って荷物を置き、すぐレストランへ。
人数が多いので個室を用意してくれていたようで、我が家10人+姉関係8人がわいわいがやがや楽しい食事になりました。姉の長男一家が上の子3才の風邪でお休みなのが残念です。孫たちは神戸の海や六甲山、豆粒のような車が走る高速道路を見ながらはしゃいでいます。食事を終え、13時から1階下のラウンジに移動しました。
長男は、お兄さんからアメリカ暮らしのこと等を聞かれ、ずっと話しています。「ロンドンって暑いの?」「いいえ、たま〜に暑い日があって、それを日本のTVや新聞が報道するから、世界中が暑くなってるように思うけど・・・」「だよね、ロンドンもパリもエアコンなんてないから、たまの暑さで人が死んじゃうんだよね」なんて、兄も良く知っています。兄んとこの長男が、最近海外出張が多いので、そっちから情報が入っているのかな?日本の地球温暖化報道は、決めつけが激しすぎます。日本以外の国はそれほど暑くなってなく、フロリダだってカリフォルニアだって東京ほど暑くないです。学会の一部意見の「地球温暖化」を決めつけちゃって、それに沿うデータが出た時だけ報道する姿勢はどうかと思います。僕は学会同様、双方の意見を聞き、現在圧倒的優勢な「むしろ長期的な寒冷化が心配」に組しています。
住んでいた町・プリンストンのことや、ご近所さんのことを聞かれて、りょうくんと大の仲良しだった中国系の子や、こうちゃんのGFさんがインド系で、お隣さんもインド系で子どもたちが家を行き来して親しく付き合っていたことを話していました。インド系や中国系は、子供の教育のために教育水準の高いプリンストンに引越してくる事が多く、将来はインド系と中国系が台頭し、世界を席巻するんじゃないかと予想していました。
家内はケーキセット、僕はジュース、あとからアイスコーヒーを注文し、あれやこれやお話しました。姉んとこの長女が、姉んとこの長男のお嫁さんの要望に応え、LINEのTV電話を使って、風邪で来れなかった一家と皆をつないでワイワイやっています。風邪をひいた子は3才で、うちのこうちゃん・すみれちゃんと同じ学年です。さらにその下に今年生まれた男の子がおり、うちの孫たちと年齢が近いので会えるのを楽しみにしていました。
一旦部屋に戻ります。移動中、こうちゃんは同級生のすみれちゃんと手をつなぎ、「写真撮るよ」と言うとすみれちゃんの方に腕を回しています。さすがアメリカ育ち、アメリカンスタイルなのでしょう。16時からの2時間カラオケに備えます。長男夫婦は姉夫婦にお土産を買って来ていました。僕ら夫婦へのプレゼントと同じ「プリンストン・ユニバーシティー・Tシャツ」です。アメリカの家の近くにあるプリンストン大学の生協で買ったそうです。兄がとても喜んでいます。兄は、我が家の子達に我が子のように接してくれ好いてくれています。次男一家とは毎年会っていますが、3年ぶりに日本に帰ってきた長男一家と会えて楽しそうです。
姉の長女(姪)の第2子・長男は「滝川高校」に通っており、第1子・長女は「滝川第2」です。「滝川第2」はスポーツに力を入れており、最近頭角を現して来た「安田祐香」(大学生18才)さんが、卒業生で高校内で超有名だったそうです。フランスエビアン選手権でベストアマチュアになり、続けて「全英オープン」にも挑戦しました。「安田祐香ちゃんは、細くてすごくスマートだよ」と長男が話し始めました。「え、何で知ってるの?」「ゴルフが好きだから、全英オープン観に行ったらいてた。握手もしたよ」「ええ〜、私なんて一緒の学校だったのに、姿も見ていないのに」。「全英オープンって、渋野さんが優勝したやつ?」と兄から。「そう、渋野さんと写真撮ってもらったよ。またTVに映ったんだ〜」と長男。長男は何度も日本のTVのスポーツニュースに映っています。最初はイチローのメジャー3000本安打達成目前の試合で、スタンドで観戦している長男が「報道ステーション」のスポーツニュースコーナーに映りました。楽しそうに応援している日本人としてカメラマンに見つけてもらったようです。
ゴルフの宮里藍選手が最後の全米オープンに参加した時は、「宮里藍最後の全米」として注目されており、長男とりょうくんが日本のゴルフ中継に映っていました。何でも全力のところがあり、仕事も思いっきりする子ですが、オフもしっかりオフする子です。兄に、「またTVに映ったの〜」と驚かれていました。
姉の次女一家が帰路に着きます。明日から仕事のようです。兄の最新アレルギーのミニ講演を聞きました。次男のお嫁さんが妊娠中なので、食事のことなどいろいろ教えてくれました。
16時になり、カラオケルームに移動です。5分ほど早く、休憩室で無料コーヒーなどを飲む人もいました。僕はルーカスくん1才がカラオケ機器に触らないようガードする役目で床に座ります。ルーカスくんは、床が絨毯でフラットなので、「ハイハイ〜立ち上がりゆっくり歩き」を繰り返していました。皆は椅子に座り、交代で歌を歌います。姉から誘われ家内も姉と一緒に「ペギー葉山」などの懐メロを歌いました。「ペギー葉山って誰?」と姪や姪の子達に笑われています。お喋り出来ないルーカスくんを除き、孫3人は「NHKみんなの歌パプリカ米津玄師」を2度も歌いご機嫌です。長男は、17時から会社のTV会議のようで中座して18時終了間際に戻ってきました。ロンドンと国際電話会議していたようです。きっと部屋に戻り、PCで会議していたのでしょう。
18時になったのでカラオケルームを退散し、再び最上階レストランへ。夕食までご馳走になっちゃいました。19時に「さよなら」し、帰宅しました。僕はバイクなのでどんどん先行しましたが、阪神高速西宮出口から僕の前に降りてきたのが僕の車でした。すぐに横並びになり、R171ではまた僕が先行し、先に帰宅しました。
庭に水の入ったバケツを用意し、椅子を並べ、ライターを準備します。そう「花火」を楽しみます。これまたワイワイガヤガヤ・・・これで「おやすみ〜」になりました。孫たちは3人で一緒にお風呂に入りました。明日は最終日です。


2019/8/12
3時台に目を覚まし、4時からゴソゴソし始めました。倉庫に行きゴソゴソして、6:23バイクで近所のファミリーマートで、油性マジック・ハイマッキー黒146円を購入しました。7時過ぎ家内から電話が入りました。「キックバイクの空気入れある?」「あるよ、今から持っていくわ」と、通勤リード110に載せて帰宅しました。
家の前の道に、次男とすみれちゃんがおり、すみれちゃんがキックバイクにまたがっていました。「空気入れあったわ」。自宅の空気入れでも入れられたようです。次男もキックバイクを買ってあげたようですが、すみれちゃんは乗らなかったそうです。サドルに座り、足で地面を歩きよちよち進ませていましたが、キックバイク自体がまだ重いようで飽きちゃいました。
僕が実家の玄関から、2輪キックスクーターを出してきて、スーッと走ります。「すみれちゃん、一緒に乗る?」「ううん」、「お父さんと乗る?」「うん」。次男に渡すと次男もスーッ。大人用サイズのキックスクーターなので、すみれちゃんを前に乗せてもスムーズに走ります。これが気に入ったようで、「もう1回やる」と何度も繰り返していました。
それを持ってお散歩することになり、隣の公園や廃寺で、アリンコを見つけたり、松ぼっくりや松の葉を触ったりしてお散歩しました。コンクリートの細い縁があり、その上をすみれちゃんが両手を広げて歩きます。体操教室に通っているそうで、様になっています。
実家に戻り、買ってきたハイマッキーを長男に渡します。我が家の恒例行事に、子ども用椅子に名前を書くことがあります。僕が親に買ってもらった木製の幼児椅子が弟が使い、息子たちが使い、弟の長男・長女が使いました。続いて、長男の長男りょうくん・次男こうちゃん、次男の長女すみれちゃんが使いました。そして今回、長男の三男ルーカスくんが座りました。歴代使用者の名前を足に、その年と名前をマジックで記入しています。長男が名前を書くため、「油性マジックない?」って昨夜聞きに来ましたが、なかったので買いました。
鯉のぼりを揚げます。長男の子達も起きており、3人がベランダに上がってきて、手伝ってくれました。「最初は、たいせいくんのブルーを取って」と言うと、「鯉のぼり入れ」から「はい」ってりょうくんが取り出してくれました。「次はすみれちゃんのオレンジ」とリクエストすると、「これすーちゃんの」とオレンジ色の鯉のぼりをすみれちゃんが渡してくれます。「次はこうちゃんのブルー」・・・「次はお母さんのピンクの」と言うと、すみれちゃんが「私もピンクが良かった〜」なんて言います。「次はお父さんの黒」と言うと、りょうくんが「僕も黒がいい」って長男と同じ黒好きが分かりました。
前日プレゼントしたヘリーハンセン・フルジップラッシュガードにも、「こうちゃん、カッコいい」とこうちゃんの濃紺ラッシュガードの方が好きそうに言っていました。りょうくんのはライトブルーでした。すみれちゃんはピンク好きだと知っているのでピンクにしました。鯉のぼりもピンクが良いなと思ったのですが、鯉のぼりやさんに聞いたら、「女のお子さんはオレンジが良いかと」と同じシリーズの女の子用はオレンジしかありませんでした。楽しい時間です。これも、家内が僕を選んでくれたことから始まり、息子たちを生み育て、息子たちにも素敵なお嫁さんが来てくれたことでここにたどり着きました。「子は宝」と言いますが、まさにその通り、子を産み育てることが出来る女性は偉大です。
すみれちゃんの髪の色は真っ黒じゃなく、家内と同じ赤髪が混じっているのか、少しライトです。顔も可愛く、将来恐ろしいほどモテそう。「どうぞ」と皆にお皿を渡したり、すでに女子しています。お母さんを真似ているのでしょう。長男とこのりょうくん・こうちゃんも、「ありがとう」「サンキュウー」「OK」という言葉をよく言います。これも両親を真似ているのでしょう。お嫁さんが子供に対しても「ありがとう」を沢山行ってあげているのだと思います。
2人共幼稚園や学校で人気者なのは、その辺にエッセンスが隠されているのでしょう。りょうくんはお友達に対してとても優しく、仲間に入れないでいる子を仲間に引き入れるよう声掛けや行動しているようです。こうちゃんは人当たりがよく、いつもにこにこしているので、幼稚園でもすぐ人気者になったそうです。2人共言葉の壁を簡単に乗り越えました。素晴らしいお嫁さんと縁がありました。
8時になったので、家内が作った朝食を実家に運ぶ役をしました。子どもたちを先に2家族が楽しく賑やかな食卓を囲んでいます。お嫁さん同士も仲が良く、僕が食べ終わった子どもたちと、「黒ひげ危機一発」してる横で、テーブルに座り食べながら、アメリカ生活のあれやこれやを話しています。
9時を過ぎ「お墓参り」に出発します。車を運転する長男が登録してナビ出来たのを確認し、バイク用プロテクターメッシュ上下を着て「まねきねこCB400SB」に乗って出発しました。孫たちが、「お爺ちゃん、カッコいい」。9:43「出光セルフ176」で給油。243km/9.45L=25.7km/L。
阪急山本駅〜長尾山トンネル〜r325〜r33〜r319〜r12で我が家のお墓。車より10分以上早く着いちゃいました。孫たちは水遊びの延長で、墓石に柄杓で水を掛け、ブラシでゴシゴシし綺麗にしてくれます。僕は線香に火を付け、皆渡してそれぞれが手を合わせ「ありがとうございます」。息子たちと同じように、お墓参りの習慣を孫たちにも。長男は、ロンドンから帰国後、お嫁さんの実家に泊まりながら、新潟のお墓を家族で2つ巡って手を合わして来たそうです。次男のお嫁さん宅も先祖や一族を大切にするので、孫たちはお墓参りに慣れています。「お墓参り=水かけ」が楽しいようです。
バイクと車で自宅に戻ります。僕は往路と同じルートで帰宅し、バイクを「通勤リード110」に乗り換え、「伊丹市民プール」と「西猪名公園ウォーターランド」の様子を見に行きます。市民プールは空いており、ウォーターランドは混んでいます。市民プールは競泳用プール・子供プール・幼児プールがあり、ウォーターランドはプールと言うより水遊び場なので、長い滑り台があり浅い幼児に安全な水が流れる水遊び場のある施設です。トンネルや噴水・水吹出口・シャワー滝がいくつもあり幼児には楽しい場所です。
帰宅すると車が到着し、それぞれで撮った写真を家族LINEに流します。車組は、途中で買ったパンで昼食時間になりました。僕も呼ばれて皆でパクパク。着替えてプールに出発です。孫たちは家内がプレゼントしたヘリーハンセン・ラッシュガードを着てお揃いです。僕と家内も自宅に戻り着替えます。家内は黒のロングタイツにひらひらスカート+ピンクのサイクリングジャージで可愛い。お洒落だわ。僕はヘリーハンセンの海水パンツに黄色長袖シャツで日焼け防止しました。家内を自宅に置いて、僕が皆を乗せて「市民プール」前を通過し「ウォーターランド」へ。次男が中高時代歩いて通学していた「JR北伊丹駅」ロータリーで車を停め、皆が駅前にある「ウォーターランド」に向かいます。長男お嫁さんに、「市民プールの方が良かったら帰ってきて」と伝えてあるので車の中で待つこと2分。家族LINEに、「ここで遊ぶことにします」が入り、僕が自宅に戻り、バイクに家内を乗せ再び「ウォーターランド」へ。次男が玄関に忘れた着替えも一緒に持っていきます。
入場料は、「4才以上300円」です。こうちゃん・すみれちゃん・ルーカスくんは無料だったようです。帰りに「コーナン」で買ったという「サンシェードワンタッチテント」を立てて長男お嫁さんとルーカスくんがいました。すぐに家内が皆を探しに出ましたが、「見つからなかった」と戻ってきました。僕がかき氷200円を買って戻り、お嫁さんに渡します。次男お嫁さんも戻ってきたので、家から持ってきたキャンプ椅子を勧めます。妊娠中なので一番大事にしなきゃ。またかき氷を買ってきて、次男お嫁さんに渡します。
長男や次男が孫たちを連れて戻ってきたりまた行ったり、楽しそうに遊んでいます。小さなすべり台で滑った時擦りむいちゃったようで、りょうくんは「滑り台しない」とのこと。長い滑り台は、7才以上しか滑れないので残念。僕は3つ目のかき氷を買い、やっと冷たいものにありつきました。家内やお嫁さんたちは、孫たちとかき氷を共有しています。一番チビのルーカスくん1才が意外にかき氷を食べ次を要求しているのに驚きました。
次男のお嫁さんも30代になりました。2人のお嫁さんは更に美しくなっています。家内もそうでしたが、30台女性が色んな面で総合的な女子力が最高になるように思います。息子達は素敵なお嫁さんにめぐり逢い、幸せな人生間違いなしです。「ウォーターランド」は時間無制限のようで、何時までいても良いですが、散々遊んで帰路に着きます。
次男が大学ヨット部同期の現ヨット部監督I君と京都で飲むそうです。シャワーを浴び着替えて、JR北伊丹駅から京都に向かいます。僕はバイクで帰宅し、車に乗り換え駅前ロータリーで皆を待ちます。真上を伊丹空港に着陸する飛行機が低空で滑空して行きます。ここは丁度飛行ルートの真下なので、機影が真横を通り面白い。
皆を乗せ帰宅し、孫たちと室内で遊び、暗くなってきたので鯉のぼりを収納し帰宅します。おやすみ〜


2019/8/11
長男一家・次男一家がお盆帰省します。これから4日間、我が家は2人から10人の大家族になります。家内は2家族が泊まる隣の僕の実家の掃除や食材補充に余年がありません。僕も1週間前から、垣根の手入れ・庭の雑草手入れ・玄関掃除・雨戸掃除などエクステリア関係の掃除をしました。
朝起きて、次男一家の到着時間がわからないので家族LINEで聞いたら、6時半なのに次男の自宅最寄り駅にいる写真が送られてきました。「今、蕨駅。電車に乗って大阪に向かいます。大阪見物してから行くわ」とのこと。長男一家は16:55着の新潟からの便で伊丹空港に着くので、それまでまだ時間があります。
家内は実家で、大人4人のパジャマなどを準備し、最後の仕上げ掃除を頑張っています。僕は家内の司令に従い、布団をシーツに入れ、それぞれの泊まる部屋に移動させます。スーパーに買物に行きます。車を洗車して、チャイルドシートをセットします。鯉のぼりを泳がせます。
5月に去年生まれたルーカスくんのを購入したのに続き、すみれちゃん用に女の子用のオレンジ鯉を新たに購入しました。2.5mの吹き流し・お父さんお母さん鯉、1.5mの子供用鯉4匹が泳ぎだしました。息子たちの頃は、ベランダにポールを立て、屋根上のTVアンテナに引っかからないように泳がせていました。町内で一番高く泳いでいたと自負しています。孫のりょうくん6才が生まれてからは、2軒の家にロープを張って泳がせています。このロープを張る作業が難しく、2Fベランダからもう一方の2F部屋の窓めがけて投げるコントロールが要求されます。今回の家内に手伝ってもらい、ナイスキャッチしてもらいました。
一通り準備を終え、お風呂に入りTV見ながらゴロンとしていると、長男のお嫁さんから「出発が遅れています。20分ほど遅延のようです」とのLINEが入りました。新潟空港にいるようです。家内と2人で16:30頃出発を考えていましたが、17時出発で良さそうです。15:30「16:01伊丹駅に来れる?」と、次男からLINEが入りました。「今何時?」と家内が慌て始めました。まだお風呂に入っていません。仕方なく、僕一人で駅に迎えに行くことになりました。15分前に駅に着きましたが、「うんちしたので、16:16着に変更」とのLINEが入りました。すみれちゃんのおトイレ遅延になっちゃった。快便で何よりです。
3人+アルファを連れて家に戻ります。11月出産予定のお嫁さんは、妊婦さんと分かるお腹になっていました。今回は男の子らしく、つわりも強かったようですが、今の体調はすこぶる快調だそうです。顔色も良く、安心しました。家内が庭から「いらっしゃい」と出てきました。仏壇に手を合わせ、2Fの泊まる部屋に荷物を置きます。
「あ〜疲れた〜」と次男がゴロンとしました。でもすぐ空港に向かわないといけません。家内が自宅に残ることになりました。我が家の車は8人乗りですが、長男一家5人が加わったら10人になっちゃって定員オーバーです。僕が運転手で次男一家に到着ロビーお迎えになりました。17:15着予定なのに、自宅を出たのが17:10。空港が近いので楽です。
送迎レーンで次男一家を降ろし、僕はP周回道路で時間待ちです。17:40頃、「もうすぐ送迎レーンに着くよ」と次男からのLINEが入り、送迎レーンに向かいます。伊丹空港は去年から改修が進み、送迎レーンでの駐車は5分間に制限されました。長男一家を乗せて出発。助手席の長男とお喋りします。勤務先のロンドンから9日に帰国し、お嫁さんの実家・新潟で数日過ごしたようです。新しく決めたロンドンの住まいは、会社が郊外なので、自宅の方がロンドン市街地に近いそうです。会社が郊外なのだから自宅もその近くにしたらいいと言うと、「日本語学校に通えるようむしろ市街地に近くにしたんだ」とのことです。りょうくんは、アメリカ同様現地校と日本語学校のWスクールなのでしょう。イギリスの小学校は何処に住んでも通える距離にあるだろうけど、日本語学校は無いものね。
りょうくんの日本語会話力は、新潟に帰ってきて上達したそうです。それでも同年代の子と比べると劣るのだとか。僕が喋った感じでは変わらないように思うのだけど・・・。こうちゃんも、「moonがある」とは言うけど、「月」という日本語は知らなかったようです。
また家内が庭から「いらっしゃい」と出てきました。一通り挨拶し、家内は自宅に戻り夕食の注文電話をしています。30分後、僕と家内が注文品を取りに行きます。回転寿司屋さんで大人セット6人前と子供セット3人前、餃子の王将で唐揚げと餃子2人前をテイクアウトして帰宅。
楽しい夕食の始まりです。りょうくんとこうちゃんは、次男夫婦にプレゼントしてもらったガンダム剣?ではしゃいでいます。その他に、りょうくんはラコステの腕時計を、こうちゃんはトイカメラを貰っていました。「カッコいい」とこれまた大喜びです。お寿司の子供セットにはおもちゃが付いており、すみれちゃんにはお絵かきセット、男の子2人にはプルバックカーでした。2人は、「プルバックカーだ」とはしゃぎ、「レースしよう」「スタート」と、ネイティブな発音をナチュラルに口から出していました。「お〜アメリカン」。唯一アメリカ国籍を持ってるルーカスくんは、やっと歩き始めたばかりでネイティブイングリッシュとは程遠いです。
子どもたちは食べ終わるとおもちゃ遊びタイムです。すみれちゃんは、「お絵かきをするよ」と僕を呼びます。保育園でもリーダー格だし、お喋りも同じ3才の「こうちゃん」より達者ですが、2人の男の子のパワーに押され気味です。「こうちゃん」が見つけた「黒ひげ危機一発」をやり始めると、すみれちゃんも入ってきて剣を樽に刺し喜んでいます。「こうちゃん」が黒ひげ危機一発を知ってるわけは、僕がアメリカに持っていきプレゼントしたからです。
長男お嫁さんが、ルーカスくんと一緒にお風呂に入ります。続いてこうちゃんも。ワイワイ楽しい時間を過ごして、僕らは自宅に退散しました。明日は8時朝食予定です。


2019/8/10
夜明け頃目を覚ましました。疲れていたのか、窓を締め切って暑い中寝たのに、バタンキューと昨夜は寝ちゃいました。5:01、朝もやがいい感じで、近くで釣りをしている方がいます。
r2を南下し、5:41「春日神社」。『鎮座地:彦根市松原町 祭神:天児屋根命・菅原道真公・誉田別命 人皇7代孝霊天皇の御宇5年亥の年に、虚空より鹿が来て千々(松原町一帯を「千々の松原」という)の境内を駆けまわって死んだ。諸人これを異とし恐懼した。その夜白髪の老翁の霊夢の告げるところによって、この地に一宇を建立したのだという。その後、人皇第12代景行天皇の御宇41年辛亥の年に日本武尊が伊吹山の悪神を退治した時、この里に立ち寄って、吾常に千々の里には霊告の蒙ありとて、神体一函を納められた云々ともいう。
当社は天神社(菅公)と八幡社(誉田別尊)を配祀しているが、この天神社は「流れ天神」と称し、古えこの浜に漂着した神像を祀ったものである。一説によれば、この天神こそ上古彦根山に祀られた天津彦根命であるという。八幡社は彦根藩家老の木俣常閑が祭祀した神という。その場所が木俣氏の別墅の所在地であることによる。享保12年(1727)6月、井伊家普請奉行によって今の地に移転し、明治17年9月、神殿の新築が成って三社を一社殿内にまとめ、春日神社と称した。明治9年10月村社に加列。また別に末社として稲荷神社があるが、これははじめ井伊家の倉所に鎮座していたのを明治維新後、当社内に移したものである』
彦根城横を走り、道なりにr25になり、6:02「神明神社」。『鎮座地:彦根市大藪町寄洲1818 御祭神:天照大神 神明という御社名が祭神を語る当社はその昔大藪村大野1644の地にあり、地元村の村民の氏神として厚く崇敬されて小社乍ら、其霊験奇端ゆえに近郷近在からも参詣者絶えなかったと言う。
往時を偲ぶべき古文書の消失いため子細は知り得ない。明治に入り敬神厚い村人は先明治15年金色燦然たる神輿を寄進し社の充実隆盛の一歩を築いた。こうした氏子熱意努力が明治40年村社に昇格といふ喜となって結実したのである。同43年11月尊社にふさわしくすべく火野の地に遷座せし、本殿及付属建物を神境にふさわしい芹川南西に太湖、東に鈴鹿の連山を眺めの現在地に移社させた。其の後境内の整備がなされ、昭和11年石造鳥居が翌12年外郭石玉垣が建立され、荘厳さ神々しさを兼備した社が完成されたのである。
一時当社の鐘及釣燈籠等が大東亜戦に供出を余儀なくされたが、戦後再び氏子の心の糧として当社充実に意を注がれ、昭和52年御旅所が寄渕1967の地より、現在地川原1523に整備移転され、同年4月子供神輿が購入され、同54年固定式幟棹二基建設、同年7月釣燈籠三對寄進された、この社歴碑の建立は時に昭和56年6月である』
素敵な彫刻のお宮でした。6:39「セブンイレブン彦根中屋敷店」で、「ブルガリアヨーグルトイチゴ180g145円+プレミアムヨーグルト400g=290円」を購入し、イートインしました。
6:59「磯崎神社」。『磯崎神社と磯武者行列 磯崎神社の祭神として祭られている大和武尊は武勇誉れ高いことから、江戸時代に井伊氏が彦根城に入ると、城北の守護神として歴代城主から厚く崇敬されることになりました。
毎年5月3日には磯崎神社の例祭として「磯武者行列」が実施されています。7・8才の子供達が鎧武者や稚児の姿をしてお渡りが盛大に行われます。これは大和武尊の熊襲討伐を模したものと言われています』
『磯崎神社の武者行列 祭礼日:毎年5月3日 大和武尊が東征の帰途、伊吹山の荒ぶる神を討ちに出かけるが、逆に神の使いである白猪(はくと)の毒気に当てられる。ようやく居醒の清水で正気を取り戻し尾張に向かうが、伊勢の地で亡くなり、白鳥となって大和へ飛び立ったことが記紀に記されている。
ところで磯崎神社の縁起によると、大和武尊が亡くなったのは磯の地であり、そこに御陵を築いたとある。その後、聖武天皇の勅命により社殿が建立され、これを磯崎大明神と号したのが磯崎神社の起こりと伝えている。現在の社殿は彦根藩主井伊家によって再建されたものである。
この磯崎神社の祭礼行事として行われているのが、武者行列である。祭神の大和武尊は武神として崇敬され、氏子はその勇猛にあやかるため、女児は熊襲征伐の武尊の稚児姿に、男児は鎧武者姿で御旅所より磯崎神社まで渡御する。その行列絵巻は春の湖岸を彩る風物詩となっている』
『礒崎神社 由緒略記 人皇第12代・景行天皇御子・曰本武尊、伊吹の悪神を退治給ふ時、御足を害し醒ヶ井に於いて熱を醒され都への帰途病つのり、この地に崩し給ふ。依って礒崎に御陵を築き、厚く葬る人皇第45代聖武天皇勅命に依り、御陵に宮殿を建立、尊の像を安置し行基菩薩開眼勅して、礒崎大明神と称す。人皇第57代・陽成天皇宮殿を修復守護のため、都より武内少貳式部を遺し給ふ。丼伊公彦根藩主となるに及び代々修築を行い、祭料を賜ふる尊は武神として、その崇敬厚く、氏子は尊の熊襲征伐の勇猛にあやかる。可く毎年5月3曰の春の大祭には勇壮なる若衆の3基の大太鼓の乱打の響のもとに、女子は尊の当時の稚子姿(20名)男子は鎧武者姿(20名)で、御旅所より礒崎神社まで渡御し、神事が厳粛にとり行なはれ皐の三大祭として、古より称されております。
吾殉づれば磯崎の社より平和を祈る。吾年若くして國難を救うに召され、社前にひざまづいて武運を祈る。異国の地にて平和の礎、男児の本懐、天明なり。帰らじと我が懐かしき烏帽子岩、沙々波の音を背に故郷を経つ。
故郷に還り、招魂杜にまつられ、社前にて肉親友と会い、境内よりの月の光は我が友の如く、琵琶の湖の沙々波寄せ続く限り、長しなえに日本の平和を祈る。 谷傅一
「解説」 作者は米原町長山川茂氏と同期で、旧県立彦根中学校を卒業後漢文学を志て上京・詩を通じ平和愛好家として活躍。恩師より将来を期待する詩人と高く評価されておりましたが、当時戦雲急を告げ国難に召され、故郷を出発する直前に社務所の宮司に筆を借りて、胴友を代表し曰本国の平和の礎を覚悟の元に作詩された遺作詩であります。
戦後息師により、「戦中に秘められた一平和愛好家」として新聞に随筆されたとこ全国各地より、平和の尊さを称賛感激の投稿が寄せられ、時の内閣総理大臣・吉田茂氏より故人の遺志を称え、この詩を国民に永久に伝導するため、曰本詩吟芸術院に継承され愛好者により吟詠されております。昭和40年3月27曰、曰本国天皇より叙勲内閣総理大臣・佐藤栄作氏より伝達の余栄を賜る。
作者は、第2次大戦に戦車第9連隊に配属、グアム島に転進、昭和19年9月20曰「我れ身を以て太平洋の防波堤となる」と遺し、第31軍司令官・小畑英良中将以下全員玉砕す。
礒崎の社より平和を柝る詩文継承会 曰本青少年吟道育成会坂田支部 代表:谷良詠』
ここに、大和武尊が亡くなった場所があったとは・・・、まあ大和武尊が亡くなったとされる地に立つ謂れ板は数ヶ所知ってるけど・・・。また見つけちゃった。「上妙寺」に戻り、起きている学生たちに挨拶し、顔を洗います。2回生が朝食を持ってきてくれたので、美味しく頂きました。また歯磨きします。2回生の一部メンバーが、テントなどを積んで先発しました。
1回生が4チームに別れ、レース(ゲーム)が始まりました。「4回生のメンバーをフルネームで答えよ」「2回生部員の高校生の時のクラブは何?」・・・。滋賀県は「飛び出し坊や」発祥の地です。15分間でより多くの「飛び出し坊や」を見つけスマホで写メせよ。
レースが終わり、「長浜観光」に出発します。2回生マネZちゃんを助手席に乗せ、6名1回生を後ろに乗せ、琵琶湖湖岸道路r2を北上します。「長浜城」を横に見て、「黒壁スクエア」すぐ西にある「お旅P」に駐車します。
まずは、「かき氷食べない?」と大蔵省マネさんにねだると、「みんなで涼みましょうか」と決定。イートインスペースが奥にあり、涼しい場所で良かった。「周航期間中はインド人でいること」というKくんがいるので、かき氷が辛いです。溶け出すのをストローで吸っていました。女子2人MさんとNさんは冷たいのが苦手なのか食べるのが遅い。
「黒壁5号館」向かいの「黒壁ガラス館」に入ってみます。他チームも中で涼んでいました。2回生この周航キャプテンのOくんが、壁掛け時計8500円を購入していました。
「海洋堂フィギュアミュージアム」に入りました。さすが世界の海洋堂、クオリティーが高いです。「美少女フィギュア」が可愛かったが、学生のいる所では買えないよね。女子は、ペンギンさんが可愛いと人気でした。
商店街を、昼食場所に向かって歩きます。課題「お化粧」のNくんは、意外に観光客に溶け込んで浮いていません。カツラやスカートまで行かないと弱いね、来年に期待です。「ムシキング」Nくんは網と虫かごを下げていません。これプロテストじゃないの?「オムライスの蘭亭」に入ると満席でした。ヨット部の別チームに先を越されました。30分後に空くとのことで、また町中を散策。美味しいオムライスでした。予算が余ったのか、Zマネさんから「自販機ジュース1本いいよ」との言葉が。
車に戻り、湖東から湖西へ移動します。R8を北上し、R303で琵琶湖の北を西に走り、マキノから湖岸道路に出て、「今津浜水泳場」着。我が家が寄付したテント2張が立派に建っています。テントが2人用の小さな2張を含め全部で5つなので、2回生の言ってた「テントありがとうございます」がその通りでした。フライシートが2張建っており、この1つも我が家のでした。
2回生は素麺を作っている者、素麺流し樋を準備する者、1回生と水に入り遊んでいる者などそれぞれです。僕はそれを見ながら、水泳場に建ってるカフェの店主さんと話しました。TVを砂浜に持ち出して甲子園の高校野球を見ておられます。「騒がしくてすいません」と声を掛けて会話が始まり、「椅子に座ってよ」と椅子を勧められました。
この水泳場は管理人がおらず、夜は隣の家(会社保養所)に勝手に人が入り住んでいたこともあったそうです。定年後、別荘として作ったのですが物騒なので住んじゃったそうです。水上バイクが入ってきたりするので、警察に電話したりするそうです。
素麺タイムになりました。夕食が終わり、また4チームに別れ、イントロクイズです。「難しいのかな?」と聞いたら、「虎太郎イントロクイズ」という特殊版で、3回生Kくんがハミングする歌の題名当てです。Kくんの歌唱力の問題で、「超難しい」でした。続いて「パンスト相撲」。各チームから1人選抜し、2つのパンストの足で結び、それぞれが頭に被ります。左右に引き合って抜けた方が負け。
ここで僕の役目はお終いで、帰路に着きます。翌日は、息子たちが家族で帰省するので、今夜自宅に帰らなければ。R161〜京都東ICから名神高速、20:52「桂川PA」で「ガリガリ君ソーダ75円」購入し糖分補給。吹田ICで下車し中央環状〜R171で帰宅しました。


2019/8/9
コーチしてる大学ヨット部恒例の「びわこ周航」初日です。サポート隊の車が少ないので、2日間手伝います。8時出発に間に合えば良いのですが、いつものように4時に目覚めちゃったし、6時に朝食を取り出発しました。R171〜中央環状〜吹田ICから名神高速〜京都東ICから湖西道路で、7時過ぎ合宿所着。
皆に挨拶し、琵琶湖周航イベント2日目の始まりです。初日、開会式後「琵琶湖花火大会」を皆で浜から見物したようです。主催する2回生メインで持ち場に散り、3回生以上は手伝いです。3・4回生はオフなので、北海道ツーリングに行ってるやつもいます。
8時過ぎに、「陸上観光コース」の1台として、1回生4・2回生2を乗せ出発。ヨット4隻・レスキュー1の海上コースだけでは1回生全員乗れないので、陸上観光コースと並行して琵琶湖周航します。r558で湖西を北に上がります。助手席の周航トップのOくんの電話が鳴りました。ヨットに伴走するレスキューがギア抜けして動かくなかったようです。しばらくすると普通に動くようになり、自力でヤマハにチェックしてもらいに行ったけど問題ないようです。エンジン始動してしばらくに「ギア抜け」が発生するようです。
もうすぐR477との交差点で、右折すれば「琵琶湖大橋」を渡るというところで、助手席の周航トップのOくんに、ヤマハメンテナンスからの状況が報告され、「すいません、止まってください」とのこと。話を聞きながらこうなりそうなので、車を止める場所を探していました。「レスキューとして心配なので、ヨット無しで全員陸上移動にします。3・4回生のヘルプはなしで」という結論を出し、各方面に流しました。先頭車は琵琶湖大橋を渡りきっていたので、また通行料が発生します。残念・・・
合宿所に戻ります。2回生がクラブのLINEを駆使し、1回生ヨットレースをこの日に組み込みました。艇庫から470とS級各2艇を出し、インフレータブルボート2艇も出して合宿所沖でレースが始まりました。この周航期間中、いろんな種目のレースが毎日開催され期間中の点数を競います。期間中の「個人課題」も課せられ、「お化粧して過ごす」「ナンパする」「毎日歌とモノマネを披露する」など、面白いです。中には「毎日おむつ」で過ごすなんてのもあり、「ムシキング」は網とカゴを渡され、毎日違う虫を捕まえなければなりません。かつては、「上半身裸で過ごす」という課題を課せられ、町中観光の時は皆に「俺、こいつの仲間ちゃうで」みたいに離れられていました。
12:34「セブンイレブン大津鏡が浜店」で、「明治ブルガリアヨーグルトブルーベリー145円+プレミアムヨーグルト400g145円=290円」を購入し、昼食にします。レースが終わり、1回生で着替えなどのカバンがない第一陣は、濡れたまま僕の車に乗り出発です。r558を北上し、15:49「セブンイレブン大津苗鹿店」で、皆にアイスをおごります。「ガリガリ君シークエイサー127円+井村屋輪切りパインアイス118円+グリコアイスの実151円×2+ロッテクーリッシュバニラ135円+ロッテBIGクーリッシュサイダー169円×2+グリコパピコチョココーヒー151円-54円=1161円」。
今回は1回生のみ7人を乗せています。後ろの席では、スマホでミュージックが鳴ってお喋りの花が咲いています。助手席のN君とお喋りしながら、琵琶湖大橋を渡ります。後ろに座っていた地元滋賀県出身のNanくんが、メロディーラインがあることを教えてくれ、「琵琶湖周航の歌」がタイヤから聞こえてきました。
橋を渡ってすぐ、r559〜r25で彦根城横を走り、「上妙寺」到着。今年もここの本堂に泊まらせて頂くようです。現住職の奥さんのお爺さんが住職の時代、周航中に強風に襲われ、ここの砂浜に緊急避難し困っている所に住職さんが通りかかり、一夜の宿をお借りしました。それ以来の縁で、現在に至っています。現住職の奥さんが子供の頃の話で、毎年やってくる学生に遊んでもらったそうです。その住職の奥さんも既に良いお年です。多くの方に支えられ助けられて琵琶湖周航の歴史が刻まれています。
先着2回生がいろいろ用意をしてくれており、本堂に自分の荷物を見つけた1回生は着替えます。2回生の指示で、すぐに「極楽湯彦根店」に向かいます。スーパー銭湯で、電気風呂等を堪能しました。そこで第2陣・第3陣と会いました。
「上妙寺」に戻ると、恒例の「肝試し」タイムです。1回生を乗せて「湯谷神社」に向かいます。助手席の2回生Kさんに聞くと、肝試しに良さそうな神社やお寺を探したそうです。僕は皆を降ろして「上妙寺」に戻り、第2陣を乗せて「湯谷神社」へ。予め決まっているA・B・C・D4チーム内で2人1組を作ります。女子は必ず男子と。一番奥の所まで行きスマホでツーショット写真を撮って戻ってくるのだそうです。NarくんがMorさんと並んで戻って来ました。Narくんはニコニコしており、何か良いことあったのかな?
第1陣全員が戻ってきたので、皆を乗せ「上妙寺」に帰ります。美味しいカレー夕食が待っていました。「怪しい光を見た」「いやそんなのなかった」だの1回生が盛り上がっています。ここで僕はお役御免になり、車を湖岸に移動させ「おやすみ〜」。


2019/8/4
5時頃目を覚ましました。窓から朝の明るさが既に入っています。半ズボンを履き、寝ていたOBルームの扉を開けると、大部屋はクーラーが利きとても涼しい。部員が夢の中です。起こさないようゆっくり大部屋を脱出し、5:27「セブンイレブン大津鏡が浜店」へ。「プレーンヨーグルト400g145円+明治ブルガリアヨーグルトブルーベリー145円=290円」を購入し、イートインしました。
合宿所に戻ると、1回生O女史マネさんが顔を洗っています。「おはようございます」と小さく声を掛け、バイクから持ってきたPCを開け、あれやこれやチェックしました。Oさんの雰囲気を見て、家内と同じ「すっぴんを見られたくない女子」だなと感じました。後で「家内と一緒だから・・・」とそれを指摘すると、「分かります、そうなんです」。家内とは大学4回生の時に知り合ったが、Oさんはまだ大学1回生・18才・・・既にそうなんだ。
大部屋に全員集合し、OB・OGデイのリーダーFくんから、全体の流れの説明がありました。前日同様、D社主催の「合同練習レース」に6艇参加し、1回生練習も並行して行います。
8時ハーバー艇庫集合で動き、貸していた電動ノコギリ・延長ロープも持って、そちらに移動しました。レース参加艇が順次出ていきます。艇庫内に受付テーブルが設置され、ブルーシート・ゴザ・ジュース・スナックなど受け入れ準備完了。
9時を過ぎ、OB会世話役のYさん筆頭に、OBさんが来られます。OB会長Hさんが奥さんと来られました。学連ヨット部OBの集まりでH会長から聞いた九州一周クルージングのことを奥さんに話すと、喜んでおられました。
11時頃、元OB会長、2回生部員の父でありOBでもあるMさんご夫婦が来られ、OB所有のクルーザーが桟橋に着き、A先生とその娘さんとお孫さん(4才・1才)が降りてきました。12時になり昼食時間です。戻ってきた所で、部員も含め記念写真を撮り、クルーザーに乗られる方と小型艇に乗られる方に別れました。
僕はコーチボートに乗り、1回生自主練習のコーチングをしました。まだまだ荒削りですが、それなりに2回生スキッパーと並んで走る場面も有り、将来有望です。4〜5m/sのフルバランスの風が入っているので、「もっとお尻だしてハイクアウト〜」とか「メインシートをもっと引っ張れ」とかコーチングし、コーチボートに乗っている1回生がそれを記録していました。2回生も2人乗っているので、アドバイスしていました。
1回生の乗員乗り換え、2回生ペアにしての模範など、いろんなメニューで16:15まで練習しました。1回生マネージャーのコーチボート練習日でも有り、3回生Sさんがサポートして運転しました。練習を終えた帰路、エリという仕掛け網への対応や練習艇が岸に帰着するまで、誰かを指名してケアすることなどイロハを教えました。ハーバー桟橋への着岸もスムーズで、覚えが早いように思います。
ハーバーバックし、帰路に着きます。バイク装束を着て、湖西道路〜名神高速に乗ります。流石に炎天下で船に揺られたせいかアクビが出ます。暑すぎるからかな〜。17:18「桂川PA」で「バニラソフト151円」を購入し、日陰でクールダウン。
「吹田IC」で下車し、中央環状線〜R171で近所のお好み焼き屋「のんきや」さんに入り「かき氷」を所望しますが、メニューになく「アイスクリーム」にします。濃厚なアイスで糖分補給にナイスです。クーラーが利いていて最高です。小一時間お喋りして帰宅しました。


2019/8/3
コーチしている大学ヨット部の「ファミリーデイ」の日です。部員の親御さんや兄弟・祖父母などをヨット部に招待し、どのような環境で、どんな仲間たちと活動しているのか知ってもらうイベントです。そして翌日は、「OB・OGデイ」です。ヨット部最大の応援団は、親でありOB・OGなので、ここは協力せねば・・・。
5:30に「まねきねこCB400SB」に荷物を積んで出発しました。R171〜中央環状線で吹田まで。大阪府道r14で茨木へ。「茨木IC」から「名神高速」に乗り、「大山崎IC」で降りました。R171〜京都府道r204〜宇治川土手道〜R1〜r188で「六地蔵」へ。
「アニメ・けいおん」を製作した「京都アニメーション」が放火され、多くの犠牲者が出たのは先月。手を合わせました。R1〜湖西道路を経て、いつもの場所で「朝のお勤め」。7:29「セブンイレブン大津鏡が浜店」で、「プレーンヨーグルト400g145円+明治ブルガリアヨーグルトブルーベリー145円=290円」をイートインしました。店の前を部員が歩いていたり、朝食を購入するために店に入ってきたり、朝から賑やかでした。
部員は8時集合で、掃除などをしていました。僕は持ってきた資料を来られた親御さん達に配れるよう部員に依頼したり、合宿所前に野ざらしになってるかつてのレース艇の解体状況を見たりして過ごしました。
11時から開始なので、10:30ぐらいから「最寄り駅」に送迎車を出します。10:30になり、車で来られた1回生Sくんのご両親が来られました。次々到着する方々に挨拶し、11時に自分の席に戻りました。
11時、3回生T女史の司会で始まりました。最初にI監督の挨拶・乾杯、部員の半分は未成年なので冷たい麦茶乾杯です。マネさん中心に作ったカレーライスと野菜サラダを頬張ります。僕が指名され挨拶。昨年のインカレ予選の日記をモデファイしたA4・4頁と「ドロシー・ロー・ノルト」さんの有名な詩「子は親の鏡」を受付でお配りしていました。ドロシー・ロー・ノルト著「子供が育つ魔法の言葉」で知ったこの詩を、現今上陛下が皇太子時代、ご自身の誕生日会見で披露され驚きました。
『けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる
分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ
やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる』
この気持ちを持ちながらコーチングしていることを披露させて頂きました。翌日、親御さんが来られた1回生部員に、親御さんの見られたヨット部の感想を聞くと、1人の部員が「紹介された詩を理想に子育てしてきた」と言っていました。こういう気持ちで我が子や部下・家族に接する人が1人でも増えると、世の中はもっと明るく楽しいものになるように思います。
ライフジャケットとハットを被って話しました。「これを着ていれば、4日間浮いていられます。船に乗る時は全員必須で着るので、安全なスポーツです」とヨットを紹介しました。日焼け防止も大切で帽子・サングラスも重要です。
続いてNキャプテンの挨拶、2回生による映像によるヨット部紹介と続きました。なかなか上手なプレゼンテーションでした。
最後に全員の集合写真を撮って、第1陣がヨットハーバーに移動します。僕もバイクで移動し、親御さん達とコーチボートに乗って沖に出ます。インフレータブルボート乗り移ってもらい、我が子とヨットに乗ったり、インフレータブルボートの疾走感を味わってもらったり楽しんでもらいました。第2陣・第3陣と親御さんがYHに来られ、3〜4m/sほどの丁度良い風に恵まれ楽しんで頂きました。ヨット体験後、流れ解散です。親御さんなどが来られている部員は、一緒に帰ります。ある者は下宿に向かい、九州など遠くから来られた方はついでに京都観光されます。
僕は合宿所に戻ります。16:11「セブンイレブン」で「ガリガリ君ソーダ67円」を購入し涼を取り、2週間前に僕が持ってきて貸していた電動ノコギリで、合宿所前の廃船の切り刻み作業開始です。先々週の僕の作業後からだいぶ小さくなっていますが、まだまだ先は長いです。1人でコツコツ切っていると、2回生部員が3人やってきて、「僕らが代わります」。「手伝ってくれるか、ありがとう。でもマスク・メガネなど対策しないと駄目」と言うと、即効でマスク男子に変身し作業を代わってくれました。横でスナイプを蘇らす作業をしていた2回生3人に加わり、あ〜だこ〜だ作業を見ながらお喋りしました。解体作業は殊の外スムーズに進み、なんと廃船解体が1隻完了です。解体屋3人は達成感で満足そうです。真夏のカンカン照りの1日だったので、大いに汗をかきました。部員はみなシャワーを浴びますが、僕は風呂でないと・・・。3回生Kくんに最寄りの風呂屋を聞きました。「大津湯」を贔屓にしていたのですが、前回「しばらく休業」となっていました。「もっと近い近江湯」を教えてもらい、バイクで向かいました。
昔ながらの番台のお風呂屋さんで、もんもんの入った背中を見せて洗っている男性などがおられました。最近、「入れ墨の方入浴禁止」が広がり、「一度入れたら消せないのに、そこまで爪弾きしなくても・・・」と思っていたので、昔ながらの銭湯風景でゆったり出来ました。
20:20「和食処サガミ」で、「天韃靼そばと石焼そば1717円」を夕食にして合宿所に戻り、洗面して21時過ぎに床につきました。横になったらすぐに夢の中になっちゃいました。


2019/8/1
夕方まで休みを取り、気になっていた京都府・滋賀県・三重県県境林道「三国越林道」のツーリングに出ました。かつては、山城国・近江国・伊勢国の3カ国の国境を越える道として有名だったのでしょう。明智光秀の「本能寺の変」の時、織田信長に呼ばれ堺観光していた徳川家康主従が伊賀者に導かれ、命からがら人知れず伊勢に抜け、海路本拠地・岡崎に逃れた道です。
林道ツーリングなので、「里山VTR250」で6時に出発しました。R171〜中央環状道で、いつものGSに給油しようと立ち寄りタンクを開けると満タンでした。前回給油の時ログメーターをゼロにするのを忘れたようです。6:15、隣接する「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「苺ジャムマーガリン118円+口溶けチョコオールドファッション100円+プレミアムカフェオレ500ml116円=334円」を購入しました。オールドファッションをその場で食べ、小腹を満たしました。
「吹田IC」を越え、近畿道側道も兼ねるr2・中央縦貫道を南下します。摂津の新幹線車庫が見えてきて、不意に「新幹線公園に行ってみよう」と頭に浮かび枝道に逸れました。新幹線高架の南側を走る道を逃しに走り、r15で高架下を北に抜け、野生の勘で「安威川」堤防道を西に入りました。右は安威川で左はJR貨物列車車庫でした。途中地道になったりしました。
6:50公園のような木陰で、水分補給休憩しました。安威川がざわついていると目をやったら、「鯉の産卵かな?」と思うほど鯉が集まっており、しきりに動いています。鯉の恋の季節は春〜初夏の早朝なので、産卵ではないのかな?といろんなことを想像しながらしばらく見ていました。そこにあった看板を見ると、ここが新幹線公園でした。子どもたちや撮り鉄の方が楽しめるよう新幹線車庫を見下ろせる建物や展望台があるものと想像していました。バイクに跨り走り出すと、電気機関車EF15型と初代新幹線ゼ0系が置いてありました。展示車両の内部公開が、毎月第2・4日曜日のAM10〜12とPM2〜4されているようです。
『EF15 120号機の経歴 製造:昭和29年9月7日 メーカー:新三菱重工業 配置区:昭和29年9月9日新鶴見機関区・昭和33年3月8日宇都宮機関区・昭和43年9月14日新鶴見機関区・昭和45年3月13日竜華機関区 走行距離:2336446km 廃車:昭和58年1月29日
電動機関車主要数値表EF15形式 車輪配置1CC1 重量105.92トン 全長17000ミリ・幅2800ミリ・高さ3970ミリ・先輪(径)860ミリ・動輪(径)1250ミリ パンタグラフ形式PS14 出力1600kw(1200馬力)牽引力15100kg(1200トン) 歯車比4.15 最高速度75km/h 主電動機MT41
電動発電機:電動機MH49A回転数1800・発電機DM28A電圧100V 発動送風機:電動機MH50回転数1800 電動空気圧縮機:電動機MH57 圧縮機AK4空気量1/m1375 電動機数6 先台車LT125 換算輌数10.5』
『新幹線公園マメ知識 平成19年8月7日、O系が機械遺産として認定をうけました。 機械遺産とは!日本機械学会創立110周年を記念して、歴史に残る機械技術関連遺産を次世代に伝えるため、日本国内の機械技術面で歴史的意義のあるものを認定する制度を設けました。第1回として、25件が認定されました』
『東海道新幹線について 東海道新幹線は昭和39年10月1日に開業し、東京から新大阪まで552kmを「ひかり」と「こだま」が東京〜新大阪間を往復していましたが、今では山陽新幹線が開業してから博多まで直通する列車や岡山、広島行きも運転されています。「ひかり」は東京〜新大阪間を3時間10分で走っていました。ここに展示している新幹線車輌は、0系車両で16両編成の先頭車両として昭和44年7月23日に作られ。昭和59年10月27日まで東海道新幹線、山陽新幹線を5321591km(地球を133周する距離)を走っていました。
新幹線の運転席にはブレーキ弁、主幹制御器など運転操作に必要な機器やスイッチがとりつけられています。運転台の計器盤には、圧力計・速度計・事故表示灯などの計器類があります。
展示車両概要 編成:こだま・・・K16両編成 車体長さ25m・車体幅3.38m・走行速度210km/h 定員75名 号車1号車 車体高さ3.98m・車体重量57.6トン・線路幅1.435m』
『大阪ミュージアム構想 新幹線公園 この公園は、昭和58年に「新在家緑地」として整備され、EF15型機関車が展示されました。昭和60年には、新幹線を展示するようになり『新幹線公園』と名づけられました。
新幹線・初代新幹線0系 昭和44年に製造され、16両編成の先頭車両として、東京・大阪・博多間を昭和59年10月27日まで、約532万km(地球を約133周する距離)を走り活躍していました。平成19年8月7日にO系が機械遺産に認定されました。
EF15型電気機関車 代表的な機関車で、最も多く製造された車輌です。昭和29年に製造され、東海道本線・高崎線で貨物用として働き、昭和45年より昭和58年1月に廃車されるまで、阪和線・紀勢線で紀州特産みかんの輸送用に活躍していました』
内部公開には早すぎる時間なので、ガラス越しに内部を覗き、激写しました。r2を南下します。左折してR163に乗り換える時に歩道に乗り上げ、水分補給です。走っていると、メッシュジャケットから入ってくる風で汗が乾き気持ちが良いですが、ヘルメット内部は蒸し風呂です。ジェットヘルでこうなんだから、フルフェイスは厳しそう。加えてエンジンの熱量が半端ない大型バイクは股間から熱風が上がってくるので、夏はお休みなんだろうな。左右のハンドルミラーをプラスドライバーで増し締めしました。
R163で東進します。「清滝トンネル」を抜け生駒市〜木津市に入ります。枝道に逸れ、8:08「田中神社」。『昭和48年、日本住宅公団は木津東部に木津ニュータウン建設計画を発表し、土地所有者に買収価格を示して協力を要請して参りました。岡田神社他2社の社有地もその中に含まれ、面積69885平方メートルを昭和49年11月、73789万円を以って売却し、この時農地補償8000万円を農家に支払いました。残額65789万円とその利息を以って、3社の造営に当たり昭和58年10月ほぼ当初の造営計画を竣功しました。ここに当初よりの責任役員総代の芳名を記します』
R163に戻り、8:25「岡田国神社」。ここも同じ住宅公団への売却益で新社殿になったようです。手水舎で手水を洗い、顔も洗って少し涼しくしました。『舌代 この手水舎の手水鉢石は、下にあった手水舎のものを再用しました。この石には慶安5年(1652)の銘があり、今日まで約330余年使われたことになります。今後も数百年使われる事になりましょう。又この建物の柱石は、井関川堤に建てられていました。鐘楼の柱石で転用致しました。これもまた数百年前のものです。
この背後の天神山は、慶長9年(1604)9月、徳川公より寄進を受けましたもので、今日尚4万坪ございます。昭和48年頃より、松食虫の被害を受け枯れました。実はこの板はその松から作りました。松が枯れてその後に桧杉苗65000本を植えました。この直後の山の上の松は、実生の松で苗松採取の神聖松です』
R163に戻り、木津川を渡り「上狛環濠集落」。環濠を見つけようとしましたが、見つけられませんでした。『日本遺産 上狛茶問屋街(かみこまちゃとんやがい) この地域の茶の栽培は、室町時代に遡り、江戸時代末の神戸港開港による茶の輸出により、生産が飛躍的に増大しました。この地は、山城とその周辺地域で摘まれた茶が運ばれ、茶商の手により加工精製され、上狛浜から木津川と淀川を経て、神戸港から海外へ輸出されたことから、茶問屋街として栄え、現代に至っています。上狛浜が神戸港とつながる地であった表れとして「東神戸」と呼ぼれ地元では「今神戸」という言葉も伝えられています』
『中国から伝来した茶は、室町時代には山城各地で栽培され、やがて近江大和伊賀伊勢へと伝播した。江戸時代末の神戸港開港によって、山城宇治茶の輸出は急激に増加し、山城と近隣諸国の生産は飛躍的に増大した。
古来から木津川は、人と物資の交流によって海外と我国を結ぶ大動脈であった。茶の道もまた木津川をおいて語る事はできない。各地で摘まれた茶は川と街道によって山城の地に運ばれ、加工精製されて、ここ上狛浜から木津川と淀川を経て神戸に至ったのである。
茶の集散地としてこの地は、東神戸今神戸とも呼ばれた明治の輸出茶の時代から、大正昭和の国内需要の時代に至る永い歴史の時間を発展し繁栄してきた。明治17年、この地の茶業者によって組織された相楽郡茶業組織に始まる山城茶業組合は、今日創立120周年を迎えるに当たり、その歴史を記念し、山城茶問屋ストリートの新たな発展の礎として、山城茶業の碑を建立するものである』
道を突き当たりまで入っていくと、木津川の土手が見えます。「王龍山・泉橋寺」、横には中型の石仏が建っていた。『泉橋寺は、奈良時代の高僧・行基によって木津川に架けられた泉大橋を守護管理するために建立された寺院である。その門前にある地蔵石仏は、永仁3年(1295)に石材が切り始められて、その13年後の徳治3年(1308)に地蔵堂が上棟、供養されたもので、またその願主は般若寺の真円上人であった。その時、地蔵石仏本体は、ほぼ完成していたと見られるが、台座と光背は、その後に完成が目指されたもので、この地蔵石仏の造立が如何に大掛かりなものであったかが偲ばれる。
1470年頃から応仁の乱の影響が南山城地域にも及び、文明3年(1471)に大内政弘の軍勢が大津や上狛を攻めて焼き払った際に、泉橋寺地蔵堂も焼かれて石仏の焼損、それ以来、地蔵石仏は露座のままとなっている。現在見る地蔵石仏の頭部と両腕は、元禄3年(1690)に補われたものである』
『泉橋寺縁起 天平12年(740)僧行基の開創にかかり、3代実録(910)には、行基の五畿内(大和・山城・摂津・河内・和泉地方の中央部)に建立せる49院の1院である。また、行基年譜に記されている行基建立寺院の中にも、天平12年泉橋院(山城国相楽郡大狛)とあり、行基73才の頃である。
建立当時の配置図によれば、金堂・講堂・三重塔など七堂伽藍立ち並び、誠に盛んであったようで、天平13年3月「聖武天皇、泉橋寺に行幸し給い、終日清談され、金封100戸を施す」とある。その後、治承4年(1181)平重衡の乱により焼失(東大寺・興福寺も焼失)し、後に再建されたが、元弘の乱(1331〜1333)により、再び焼失し、今は往時の繁栄を偲ぶよすがもない。
泉橋寺地蔵石仏(山城町指定文化財) 高さ1丈6尺(4.58m)の丸彫石仏であるが、周囲の礎石からみて、もと堂内に安置されていたものであるが、堂宇は焼失して今はなく、右手に錫杖、左手に宝珠を持って蓮座上に跌座されている。天平13年(741)勅を奉じて行基の造立するところと伝えられている。
古老の伝によると、東大寺大仏殿建立の際の木材の多くは、木津川の流れを利用して木津に陸揚げされ、奈良まで運ばれたというが、木津川の流れの中に一大巨厳があり、上流から流す木材を向こう岸から、この厳石に網を張り渡して、食い止めたものである。ある日のこと、水流の加減からか、笠置あたりで木材が停滞して水が流れて来ないので、行基が祈祷したところ、丁度結願の日に大水が一時に奔流して押し寄せ、巌上で作業していた人々は不意をつかれて押し流され死んだという。これらの水死者の霊を供養するため、行基がくだんの巌石を刻んで地蔵石仏を造立したと伝えられている。
太平記の元弘元年8月、後醍醐天皇、南都行幸の一節にも、「古津の石地蔵を過ぎさせ給いける時、夜は早ほのぼのと明けにけり、ここにて朝餉の供御を進申て、先ず南都、東南院へ入れ給う」と述べている。古津とは、現在の木津のことであるが、この地蔵石仏は、当時世に知られたもので、往返の人々に信仰されたことに、ゆかしさを覚えるものである。今も7月23日と24日の地蔵祭りには、「お地蔵さん」の周りに提灯があげられ、近在近郷の人々で賑わいを見せている。
泉橋寺五輪塔(国の重要文化財) 五輪塔は、宇宙を形成する根本要素である「空・風・火・水・地」の5大5輪を宝珠形(空)・半円形(風)・三角形(火)・円形(水)・方形(地)を積み重ねて象徴的にあらわした供養塔である。泉橋寺五輪塔は、聖武天皇の御后である光明皇后の御遺髪を御祀りするため建立されたと伝えられている。花崗岩製で、格狭間を作った立派な壇上積の基盤の上に、雄麗な蓮華を刻み出した反花座を据え、その上に五輪塔を安置してあり、五輪塔としては最高の荘厳を施しており、素朴な作りの中に、いつまでも人を惹き付ける不思議な魅力をそなえている。(昭和9年9月重要美術品に、昭和32年2月には重要文化財に指定されている)
泉橋寺表門(山城町指定文化財) 泉橋寺の表門は、もとは奈良・春日大社の若宮にある拝殿のものだった。ところが元禄2年(1689)奈良興福寺の子院・知足坊がこの古材を使って門を建てた。そして200年近く下った明治7年(1874)、知足坊の廃絶に伴い、門は泉橋寺に移って来たのである。更に、札(表門の屋根裏から出てきた)や古文書によると、檀家からの寄付で門をもらいうけた事、知足坊の僧数人と共に運ばれた門を再建したことなど分かる。表門は、切妻造で、特に装飾細部がよく、妻飾りの板かえる股の絵様や冠木上中央の扇の彫刻、また各木鼻を含め、絵様の渦が細かいことなど、達者で洗練されたものである』
R163を木津川に沿って東進します。枝道に逸れ、8:59「高麗寺跡」。『高麗寺跡 国史跡(飛鳥時代)昭和15年指定 高麗寺は、7世紀初頭(飛鳥時代)に創建された我国最古の仏教寺院のひとつです。この地がかつての相楽郡大狛郷に属することから、朝鮮三国のうちのひとつ高句麗からの渡来系氏族・狛氏との関わりが指摘されており、文献資料からは、天平年中(奈良時代)に存在したことが「日本霊異記」に記されています。
伽藍は木津川を見下ろす台地上に南面して立地し、西に金堂、東に塔を持つ法記寺式の伽藍配置となります。塔・金堂・講堂は整美な瓦積基壇を外装としており、講堂の両翼から伸びた回廊は塔・金堂を囲んで中門に接続します。寺域は東西200m・南北190mの規模を持ち、その周辺には、諸堂塔に葺かれた瓦を生産した高麗寺瓦窯や高井手瓦窯が存在し、北方には高麗寺造営氏族のものと考えられる大規模な居館跡(上狛東遺跡)が発見されています』
R163に戻り、少し西進して枝道に入り、急坂を登って行きます。9:19「海住山寺」。バイクを置き、急な石段を上がり、「入山料100円」と山門に書かれていました。こんな山中に五重塔がありました。謂れ板が立っていたので読もうと思ったら英語でした。まずは、日本語が必要でしょう。
鎌倉時代の「文殊堂」がありました。同じく鎌倉時代の「岩風呂」が野ざらしで置いてありました。「賓頭盧様」がおられたので、全身をなでておきました。朝買ったパンを食べました。
R163に戻り、r5〜r62から、本日のメインデッシュ「林道三国越線」に入ります。この林道はこの地域の主産業「茶業」を振興するために通された林道なので、緑の葉が美しい茶畑が広がる山腹を縫って走っており、時折素敵な景色が目に入ります。
10:16「南山城横断林道開通記念」石碑が立つ小さな広場着。水分補給します。
『笠置有市の茶畑・索道台跡 ここ有市地区では昭和30年代から40年代の茶葉生産拡大期に、1200mにも及ぶ索道を設け、条件不利な山腹の茶園から、茶葉の運搬などを行っていた。現在は索道台の基礎のみが残っているが、当時の茶葉生産意欲を物語る重要な資産である』
10:45「野殿」。山の中のまばらに集落の有る交差点です。道幅の狭い舗装林道が森の中を走り、スピードは出せませんがのんびり平地より涼しい空気の中を走って来ました。林道は「島ヶ原」に向かっています。右折すればR163で、左折すれば「童仙房8・9番」です。「高麗寺」という立派なお寺の写真が案内板に載っています。帰路は別の林道からここに戻ってくる予定なので、その時「高麗寺」を訪問してみよう。ハングル文字の案内板も立ってるので、朝鮮寺のようです。「うえだブルーベリー畑 直進300m」はちょっと興味あり。「六所神社」の案内板もありました。帰宅後調べたら、山中とは思えないほど立派な茅葺き屋根を持った神社でした。寄り道すれば良かった。
11:00「三国越展望台」。伊賀盆地が眼下に広がっていました。小さな東屋が建っていたので、水分補給の小休止をしました。夏の空気なので、少し靄がかかったように遠くまではっきりとは見通せませんが、気持ち良く休憩できました。ツーリングマップルに載っている「正月堂」にナビをセットしました。林道の終点近くで枝道に逸れ、11:16「観菩提寺・正月堂」。『ここ島ヶ原にある観菩提寺は、俗に正月堂と称し(山号普門山)、天平勝宝3年(751)奈良東大寺の実忠和尚により開創された由緒のある寺院、また本国における最も有名な古刹の1つである。
奈良東大寺二月堂のお水取り(修二会)に先駆けて行われることで知られ、ここ正月堂の修二会こそ発祥の地ともいわれている。年のはじめにあたる2月11日は大餅を奉納する「大餅練り込み」村内に伝わる「頭屋」が掛け声とともにぶつかり合い、餅の成り花を揺らしながら、堂内に入るという勇ましいもので、2日目12日は祓えの乱打の音と、火と水の荒行で、有名な「韃靼(だったん)行法」力強い春の息吹が体中に伝わってくる儀式である。
この正月堂には、国指定重要文化財はじめ多くの文化財がある。中でも重要文化財で本尊十一面観世音像は、秘仏で33年目に一度の開帳が許されている。また本堂の裏山観音山には、西国33ヶ所本尊の石仏が祀られている。約30分あれば回ることが出来る。一汗流すのもご利益がある。
国指定重要文化財:木造十一面観音立像・観菩提寺本堂・観菩提寺楼門 県指定文化財:正月堂の修二会・鰐口・木造聖観音立像・木造十一面観音立像・木造多聞天立像・木造広目天立像 市指定文化財:梵天帝釈天像・十一面観音立像・金剛力士像・賓頭盧尊者寄木造半迦坐像・本尊厨子・六斉念仏供養四角型石灯』
檜皮葺の山門には仁王像が左右に睨みを利かせていた。本殿も桧皮葺で綺麗だった。『観菩提寺・正月堂 この観菩提寺は俗に正月堂(山号は普門山)と称し、天平勝宝3年(751)に、聖武天皇の勅願寺として創建され、奈良東大寺の実忠和尚により開創されたという由緒ある寺院で、本国における最も有名な古刹の1つである。秘仏十一面観音は33年に1度の開帳が許され、木造立像で、高さ205.2cmである。本堂・楼門・本尊十一面観音立像はそれぞれ重要文化財に指定され、2月11日・12日の修正会は県の無形民俗文化財に指定されている』
帰路に着きます。三重県道r138で山中を帰り道にします。「御斉峠」がありました。「多羅尾御斉の杜」で小休止。展望所に続く階段が上がっているので、行ってみましょう。伊賀上野盆地が眼下に広がっています。
左折して「多羅尾林道」に入ります。未舗装にならないか心配でしたが、「三国越林道」同様、ほとんど交通量のない道をゆっくり進み、「右:多羅尾集落、左:三国越林道」交差点に出ました。「多羅尾集落」も気になりましたが、スルーし「三国越林道」に出ました。「野殿」交差点に出て、「高麗寺」方面に向かいました。
12:35「高麗寺」。鮮やかに彩色された本堂「大雄殿」がありました。近づいていくと、中からお経が聞こえています。日本の寺院とはちょっと違う雰囲気で、周囲に鎮守の森がなく、侘び寂びを感じません。極彩色の鐘楼があり、大きな鐘がかなり下に下がっており、鐘撞き棒が左右2本とても低い位置にありました。鐘には「世界人類平和祈願鐘」と彫られていました。どんな音がするのか興味小さく撞いてみました。
ナビを自宅にセットし出発。「野殿」に戻り、「三国越林道」を西に走り、「童仙房」交差点から林道を外れ、R163方面に下りました。この林道も長くなかなかナイスで楽しかった。R163に出て、13:17「ローソン笠置切山店」で「ガリガリ君ソーダ75円」を手にしました。冷蔵庫にガリガリ君が在庫1つになっており、ガリガリ君頭になっていたので良かったです。
木津川沿いを西進し、木津川を渡りショートカットしてまたR163。ここから少しずつ交通量が増えて来ましたが、渋滞知らずのバイクの特典を使いながら帰路を急ぎます。帰宅予定時間15時前。「清滝トンネル」を抜け四條畷に入ると、怪しい黒雲の底面が見えます。まだ夕立には早いけど降ってくるかも・・・と、生駒さんの麓から早く離れようと西進を急ぎます。ポツポツと大きめの雨が数滴落ちてきて、カウルを濡らしました。
夏の季節の夕立というものは日中の直射日光により急激に暖められた陸地の気温上昇によって出来た優勢な積乱雲からの雨なので、海岸線に向かうほどマシになります。大阪平野の暖められた空気が上昇するのを埋めるため、大阪湾から海風が入ります。それで運ばれた積乱雲が、生駒山系に当たってより上昇気流が高まり、生駒山系の西側麓に雨を降らせます。和歌山方面から大阪平野の最北部にある我が家に帰宅する時、雷雨に遭うのは八尾・東大阪です。
生駒山系を抜け、四條畷を通過し、西の平野市に入ったので、これで大丈夫かなと一安心しました。近畿道の側道r2を北上し、摂津市に入り、「あと少し吹田市になれば」と思いながら走って、高架橋で信号待ち渋滞した所で、雷鳴が轟きました。「これはやばい。車載カメラ・ナビ・ヒップバッグ・タンクバッグを片付けなきゃ」と思うけど、高架橋の上りで止ったままで、側道さえありません。「早く動け〜」と念を送りましたが、「ザザー」っと強烈な雨が落ちてきました。前方の景色が雨で見えなくなります。渋滞は少しずつしか動きません。突然の夕立で、皆さん「スピードは控えめに」なってるのでしょう。
やっとこさ高架橋を下り、即効で路肩にバイクを動かす、装備を次々にリアボックスに入れていきます。僕の身体はずぶ濡れで、パンツさえ浸水中です。30分もすれば止むでしょうが、既にずぶ濡れなのでまた走り出しました。
予想通り、摂津市を過ぎ、南茨木のカーブを曲がり道なりに西に向かうと雨は止み、吹田IC附近からは、道路さえ濡れていません。「暑い夏」が続いていました。中央環状からR171で、15:00最寄りの「エネジェット・セルフ北村」で給油。211km/6.89L=30.6km/L。
15時過ぎに帰宅しました。リアボックスから濡れたものを出します。ずぶ濡れになったバイクジャケット・パンツ、下着も皆脱いで風呂に直行です。家内の朝風呂のままですが、丁度良い湯加減?水加減です。僕は昼休みに帰宅して昼食し、昼風呂を楽しみます。春秋はスルーですが、寒い冬と暑い夏は必須で楽しんでいます。
新しいパンツに履き替え、物干しから毛布を撤収します。念の為洗濯物も取り込んで、濡れたバイクジャケット・パンツ・グローブを干しました。ヨーグルト食べて日常に戻り、仕事に復帰しました。


2019/7/28
7月最後の日曜日です。梅雨が明け、仕事帰りの20時でさえムッとしている真夏の季節となりました。次の週末は、コーチしてる大学ヨット部の「親の会」と「OBOG会」が琵琶湖であるので、その次の週にやって来る息子たち一家を迎えるお買い物に夫婦で行ける最後の日です。この日は、母校ヨット部の「OBOG会」なんだけど、パスしました。
息子一家2家族の宿になる僕の実家のリビングの敷布を変えたいそうなので、「ニトリ」と「ホームセンター」に行く予定をしています。3年ぶりに日本に帰国した長男一家5人と次男一家3人が泊まるので、4組あるお客様用布団では足りません。2組追加購入することになりました。家内から要望を聞いていたので、数日前の昼休みに偵察して来ました。僕なりに「これが良いんじゃないのかな?」の目星はついています。
4時頃目が覚め、ごそごそしていました。10時開店に合わせ、家内と四輪で「ニトリ」に向かいます。布団売り場に直行しようとすると、「子ども用食器が足らないから」と目についた食器コーナーで物色しました。日清チキンラーメンカラーの「ご飯茶碗・おかずトレイセット」を2セット、子供用に用意していましたが、昨年純伶ちゃんが気に入ったので、1セット次男一家にあげちゃいました。今回は、6才・3才・3才・1才とチビさんが4人もいるので、落としても割れないちょっとお洒落なのを追加しました。
10:57、布団6点セット(敷布団・掛け布団・枕+それぞれのカバー)、子供用食器ご飯茶碗おかずプレートをレジで精算しました。「あ、バスマット忘れた」と家内が言うので、僕だけ購入したものをでかいカートに載せて駐車場まで運び、リアゲートを上げて車に入れます。売り場に戻ると、家内が「これ、気になってたの」と指差すのが「珪藻土マット」。これはTVで見たことがあります。従来の布製ではなく、硬いプレートです。お風呂上がりにそのプレートに載ると、珪藻土が水分を一気に吸収します。11:14「バスマット+スタンド」購入。
靴屋さんに寄り、家内の夏用靴を買いました。ちょっとカジュアルなのを買いたいらしく、お店イチオシの「スケッチャーズ」に釘付けになっていました。購入。帰宅し、買ったものを家に置きます。そうめん昼食を食べ、再び外出です。7/29は「すみれちゃん3才」の誕生日です。そのプレゼントを買いに行きます。僕からのプレゼントは、「岩波こども絵本」なので、そのシリーズから数冊選べば終わりです。家内からは洋服が多く、前回映画を観に行った「西宮ガーデンズ」で見た「ラッシュガード」にするそうです。阪急百貨店の「ノースフェイス」コーナーで可愛い子供用が売っていました。海好き故、僕が見つけ「イチオシ」しました。家内はスルーし、いろいろ探したそうですが、ラッシュガードにするそうです。
同じく西宮ガーデンズにある「白洋舎」に、甥っ子の息子の七五三に貸し出す白長襦袢のしみ抜きに出すそうです。家内が電話したら、着物は取り扱っていないそうで、着物屋さんに出すことを勧められました。
阪急伊丹駅舎の着物屋さんに相談に行くことになり、買ったばかりの新しい靴を履き更にお洒落になった家内を、「通勤リード110」に乗せ出かけました。次男の七五三以来使っていなかったので、頑固なシミになっちゃってるそうで、しみ抜き出来るかどうかわからないので、着物屋さん繋がりの専門家に見てもらい見積もり出してもらうことになりました。店員さんの話では、鮮やかな着物の下に着るので目立たないし、シミ自体一見してわからないので、「そのまま使ったら」のアドバイスを受けました。
この着物は、家内の母親がウチの長男の誕生に喜んで新調してくれたものです。着道楽で着物を山のように持っていました。ご贔屓の親戚の着物屋さんで上等なのを買ってくれたと思われます。男の子らしい鮮やかで素晴らしい色合いの着物で、初めての男の子の孫なので奮発してくれました。
翌年、今度貸し出す男の子が家内の姉の家に誕生し、その子も使い、翌年はウチの次男が使いました。初宮参りや七五三、この3人は同じ着物を着て祝ってもらいました。ウチの長男の2人の孫も初宮参りでこの着物を着て、甥っ子の長男もこれを着ました。孫たちに好かれた家内の母親の形見なので、「できればそれを着たい」と皆思い、誰も新調しません。
駅で、「西宮まで電車で行き。僕はバイクで行くから」と言うと、「お父さんも一緒に電車で行こうよ」と帰ってきましたが、バイクを路上駐車のまま放っておくのはイマイチです。家内は電車で、僕はバイクに乗り西宮に向いました。
「西宮ガーデンズ」バイクPに入れ、阪急百貨店3Fに上がり子供服売り場に向かいます。「あれ?ないぞ」・・・4Fでした。「3Fのノースショップ前」を待ち合わせ場所にしたので、家内が見つけられず困ってると思い、スマホの電源を入れました。エスカレーターで4Fに上がったら、家内が歩いてきました。「今着いたの」「僕も」と、スマホの力を借りずに済みました。
ノースショップでラッシュガードを見て、「ヘリーハンセン」も見つけました。「ミキハウス」や「ディーゼル」など他のお店も覗き、「これだ」とピンと来るアイテムに出会わず、もとに戻りました。お盆にやって来る時に「お誕生日プレゼント」を渡すのに、長男とこ3人に何もないのもアレなので、「ヘリーハンセン」の「ラッシュガード」の色違いを4つ買っちゃいました。たいせいくん1才90cm・すみれちゃん3才100cm・こうちゃん3才110cm・りょうくん6才130cmです。お店のお姉さんと相談しながら、来年も着れるように、「すみれちゃんの今の身長が90cm」という情報から、少し大き目を買ったつもりです。
それぞれをプレゼント包みしてもらい、帰りはタンデムでR171を使って帰りました。帰宅してすみれちゃん誕生日ように「岩波こども絵本」の「ひとまねこざる」シリーズから3冊をネット注文しました。この「岩波こども絵本」は僕自身・弟、次世代の長男・次男も読んだ絵本で、物語性が有り大好きです。我が家には2世代の絵本がまだ残っています。装丁や配色が僕が幼児だった頃から全く変わっておらず、まるでレゴです。
更に、鯉のぼりの女の子用鯉も追加注文しました。我が子の時は「京都島津」さんの店舗が伊丹空港近くにあったので、そこで購入していましたが、実店舗がなくなり、りょうくんが生まれた年に「岡山県和気」のお店から購入しました。
「和気」といえば「和気清麻呂」。僧・道鏡が称徳天皇をたぶらかし、天皇位に就こうとしたのを妨げた天皇家・日本国の大恩人です。ここで道鏡が天皇位に就いていたら、天照大神・神武天皇から続く万世一系が途切れる所でした。当時の大権力者・道鏡なら、次の天皇を称徳天皇との間に出来た子に継がせたろうから、権力と権威が同一になり、シナ大陸やヨーロッパ大陸の王族と同じになり、とっくの昔に皇統は消えていたでしょう。
「権力」と「権威=天皇」が違うことで、天皇という中心を失わずまとまったまま日本国は続き、圧倒的世界一の長寿国になりました。そんなこんなで、「和気清麻呂」好きです。「吉備真備」も好きだし、「武内宿禰」「菅原道真」も好きです。歴史のバイプレイヤーですね。
電話して、「女の子用の鯉のぼりありますか?」と聞きました。ピンクと燈色があり、今まで買っていたシリーズに合うのは燈色とのことなので、それにしました。「鯉のぼり燈色1.5m4500円」。3年ぶりに日本に帰ってくる長男の男の子達は、鯉のぼりを見たことが無いでしょう。りょうくんは3才で渡米したので我が家の鯉のぼりを見たことがありますが記憶になさそう。0才こうちゃんはもちろん、昨年アメリカで生まれたルーカスくんは写真でしか知らない。よって、お盆なのに鯉のぼりを揚げます。唯一の女の子すみれちゃんが、「私のは?」って聞くだろうから、すみれちゃん用に新調しました。すみれちゃんには11月の弟が生まれる予定なので、また来年買わなきゃ。嬉しい悲鳴です。


2019/7/21
産経新聞月間正論主催の講演会「大東亜戦争を語り継ぐ会」の日です。講演会場は大阪中之島公会堂で受付開始12時・講演開始13時、スピーカーは元海軍中尉・加藤昇氏をゲストに、司会・井上和彦を中心に、大高未貴さんと葛城奈海さん、シンガーとして山口采希さんです。
8時過ぎに、お出かけする家内を最寄り駅に送り、一旦帰宅してごそごそします。10時過ぎに「通勤リード110」で出発。r2〜加島交差点〜十三を経由して中之島。中央公会堂最寄りの二輪Pに駐輪します。日曜日だからか市役所より東の中之島区域に入る道路は皆進入禁止になっており、北からの1本だけが侵入可能でした。その道も半分バリケードが設置されており、西側のビジネス街は別にして中之島界隈への歩行者天国化に導いているようです。バイクPもガラガラでした。
受付まで1時間ほどあるので、大川沿いに並べられた椅子とテーブルに座って、PCを開き前日の日記を書きました。水上観覧船が時々大川を走っていきます。キックバイクに乗った小さな女の子が歩きのお母さんと一緒にやってきて、あっちに行ったりこっちに来たり楽しそうです。ご近所にお住まいの方かな?
受付開始の12時になったのでPCを撤収し、中の島公会堂に向かったら、長蛇の列が出来ていました。10分ほど並び公会堂内へ。トイレを済ませ1F席に着きます。1000人ほど入れます。外観同様アンティークな内装で、日銀・大阪市役所・図書館など他の建物の外観を含め、中之島の風情を作っています。
椅子に座り、受付で頂いた資料に目を通します。受付では、産経新聞お試し購読受付、月間正論受付、スピーカーの各種著作本などの販売をしていました。資料には、各種パンフレットに加え、昭和天皇の英米に対する「大東亜戦争宣戦の詔勅」と「終結に関する詔勅」のコピーが入っていた。原文の他に現代語文もあり、興味深く読ませて頂きました。
13時になり講演会が始まりました。女性司会者に促され登壇した井上和彦さんが、メインゲストの加藤昇さんを紹介します。大正11年生まれ97才という年齢からして車椅子で登場かな?と思ったら、客席最前列から杖をついているものの階段を上がって登壇され、その元気さに驚きました。僕の亡き父は大正14年生まれで、82才の時天に召されましたが、最後は僕の顔さえ判別不能でした。
井上さんの軽妙なインタビューで、加藤さんが体験した大東亜戦争の実態が語られました。加藤さんは、大学を繰り上げ卒業し、海軍を選択されました。零式水上偵察機搭乗員として、航空巡洋艦「最上」に乗艦しました。
最上は世界で初めて航空母艦を作り、いち早く飛行機の戦闘力の高さを認識していた日本海軍が、世界で初めてそして今でも日本海軍しか作っていない後部甲板の副砲を撤去し、飛行甲板を設置したハイブリッド巡洋艦でした。海軍に入ってわかったのですが、陸軍に比べ将兵の少ない海軍は給料が良く、乗艦中は使うことがないので、給料が貯まるばかりだったそうです。
レイテ沖海戦に参戦しました。西村艦隊7隻のうち、2隻の旧式戦艦(扶桑・山城)が真っ二つになったり、逆立ちしたりして沈んでいくのを目の当たりに見たそうです。機関を損傷し、最速巡洋艦の「最上」の速力が落ち、戦線を離脱して帰投中、友軍駆逐艦によって最後は雷撃処分されました。
大きな損傷を受けた戦闘時、加藤さんは船長などとともに連絡員として指揮艦橋にいたのですが、伝令命令を受け階段を下っている時に、指揮艦橋に直撃弾を受けました。慌てて戻ったが誰一人生きてはいませんでした。「人は僕のことを、歴戦の勇者とか言うけど、本当は大正生まれの運の良い男だということです」の言葉に、父から聞いた父の大東亜戦争体験と似たものを感じました。
ボルネオ島に向かう船団が次々に米潜水艦の雷撃により撃沈されて行く中、父の乗った輸送船は生き延びました。ボルネオ島で米戦車が来るという情報のもと、自らその通り道に穴を堀り、爆弾を抱いてその穴に入ります。真上を戦車が通ったら自ら爆弾もろとも吹っ飛ぶ作戦を受けた時も、運よく戦車が真上を通りませんでした。部下30人を率いて翌朝出撃するという日、マラリアで40℃を超える高熱を発し、出撃できなかった。父を残し出撃したその部隊で帰ってきたのは2〜3人だったそうです。父の背中には銃痕があります。幸い内蔵をかすめたので生き残りました。父はリタイヤ後、毎年のように戦友会主催の遺骨収集団に参加し、ボルネオ島に行っていました。「運が良かっただけだからな〜」が口癖でした。
零式水上偵察機の最上からの離陸ビデオが流されました。こんな短い発射台で飛び立てるのか?と思うほどでしたが、高度を落とすこともなく離陸していく姿に、当時の技術力の高さを感じました。
母艦を失った加藤氏は、台湾航空隊に所属し、水上爆撃機「瑞雲」搭乗員として、米軍輸送船の爆撃に何度も出撃したそうです。護衛の駆逐艦からの対空砲火は凄まじく、でも高度500mでは目標に爆弾を当てることが出来ないので、200m・100mの高度まで突っ込んで爆撃したそうです。上手く爆撃し、水平飛行・上昇して離脱する時、自ら放った爆弾によって惨事に陥っている米艦船を見ながら、彼らにも親子兄弟がいるだろうに・・・と思ったそうです。毎回出撃する度に死の恐怖に包まれ、最上に乗っていた頃は、多くの乗組員がいるので戦闘が始まっても、死なばもろともだったので恐怖がなかったのに、大きな違いを感じたそうです。
続いて特攻要員となり、出撃の日を待つようになったが、ついにその日が来ずに飛行教官となり終戦を迎えたそうです。特攻命令を下す上官も苦しく、面と向かって命令できず、朝掲示板に張り紙をしてさっと自室に戻ることを繰り返していたそうです。毎日掲示板を見に行き、「また1日生きれる」と思ったそうです。毎日、同じ飛行学校で学んだ見知った戦友が出撃して行きました。どんちゃん騒ぎして最後の夜を過ごす者、静かに遺書を書く者、いろいろ最後の姿を見ましたが、隣のベッドの戦友が、さめざめと泣いている姿が最も心に残っているそうです。井上さんのインタビューに答える形で体験談を語られますが、毎回席から立ち上がってマイクを持って喋られます。「座っているのは、皆さんに失礼に感じて・・・」とのことでした。でも、講演1時間前に私がここに着いた時、車椅子に乗った方が会場に入って行かれました。その時並んでいた方々が皆拍手を送っておられたのを見ています。戦前の教育を受けた日本人の気高さを感じます。
講演慣れしているのかと疑うほど、悲惨な状況でも場が暗くならないよう極力明るく、そして苦しくなさそうに語られます。「歴戦の勇士と人は言いますが、僕は大正生まれの運の良かった男に過ぎません」を繰り返されます。その度に会場から笑い声が出ていました。ただ、「君が代」「ふるさと」「蛍の光」「海行かば」など歌われている時は、涙が頬を伝っておられました。僕だって、これらの歌を口ずさみながら涙が溢れました。戦後10年経って生まれた僕ですが、まだまだこれらの曲が日常に溢れていました。
15分休憩を挟み、井上さんの司会進行で、大高未貴さん・葛城奈海さんのパネリストとのトークが始まりました。親日国ポーランドの話。第1次世界大戦でシベリアで戦災孤児になったポーランド孤児を、諸外国は全てソッポを向く中、陸軍の命令一過救出し、神戸で保護します。身体と心の傷を癒やし、栄養失調を回復した孤児はインド経由でポーランドに帰ります。その時、母国に帰っても両親はいないこともあり、「このまま日本人になって神戸に残りたい」と希望する子ばかりだったそうです。
「命のビザ」で有名な杉原千畝さんは実は駐在武官経験もある軍人だったことが、諸外国では自明の理なのに日本では巧妙に隠されていること。友軍だったドイツから、「ユダヤ人を助けるな」との強硬論を受けながら、「日本はドイツの属国ではない」と突っぱねた樋口季一郎・満州ハルビン特務機関長だった陸軍少佐の話。満州国境まで逃げてきたユダヤ人がいるが、友好国ドイツとの関係で入国を渋っていた満州国のことを知り、満鉄総裁・松岡洋右に直談判し、国境を開きユダヤ人を入れた。職を賭す覚悟で行った行為に対し、ドイツから痛烈な抗議があり、関東軍総参謀長・東条英機中将に呼び出されたが持論を展開すると、不問に付された。その後、再三に渡るドイツからの抗議に対し、東条英機は「人道上当然な行為だ」と突っぱねた。この樋口ルートで命を永らえたユダヤ人は数万人という。それらユダヤ人難民が日本以外に上海租界に着き、そこから犬塚維茂海軍大佐の尽力で宿舎を得た。ドイツと戦闘状態にあったヨーロッパ諸国でさえユダヤ人難民に対してはソッポを向いており、アメリカはユダヤ人に対するビザ発給を非常に制限し、赤十字資金を凍結した。それに対し日本は、凍結した英米系預金からユダヤ人難民に対する寄付だけ凍結解除して救済に使った。
杉原・樋口の名は、イスラエルのゴールデンブックに掲載され、長く顕彰されている。犬塚の名はないが、これは「私より天皇陛下の名を」と辞退したからだそうです。大高さんが非公開のゴールデンブックに執念を見せ、写真に撮ってこられた。その貴重な写真が映し出されていた。これらの日本人は、全て軍人だったことを知った。戦前日本・戦前日本軍を貶めるために、巧妙に隠されていると知りました。
「どんぐりコロコロ」「汽車ポッポ」が軍歌だったことが紹介され、軍歌として山口さんが歌われた。「ふるさと」「蛍の光」など、山口さんに誘導で会場全体で歌われ、最後に「海ゆかば」の合唱で講演会が終了しました。とても有意義な講演会でした。父の戦歴・家内の父親の戦歴・僕の母方祖父の戦歴を調べてみたいなと思いました。こんな講演会がたった2000円なんて、凄いな産経新聞。帰路に着きます。11:07〜16:31「エコステーション21なにわ橋バイクP・400円」。十三〜加島交差点〜r2〜R171で、17:30帰宅。
この日は、次男のお嫁さんのバースデーでした。朝イチで家内から、我が家・長男家・次男家3家族LINEに、「ありがとう」メッセージが入っていました。お嫁さんから、「次男とすみれちゃんのおかげで毎日楽しく過ごしています。今は、新しい家族が元気に生まれてきてくれることだけを願ってます」だって。11月に2人目出産予定なので、母子ともに無事を願うばかりです。
前日土曜日は、2人が勤める会社がスポンサーしているJ1の試合の応援に行ったそうです。そして今日は、韓国料理レストランでお祝いしてもらったようです。同居しているご両親も一緒に行ったのでしょう。
長男からもメッセージが入っていました。いつもは長男のお嫁さんが長男夫婦を代表して投稿するのだけど、お嫁さんと子どもたちは新潟の実家で久しぶりの日本生活を楽しんでおり、長男だけがロンドンに単身赴任中なので寂しいのでしょう。「すみれちゃん、めっちゃかわいいなぁ。やっぱ女の子はいいね」だって。
僕の「面食い」な性質が息子たちにも受け継がれている。よって、家内もお嫁さんたちも皆美人さん揃いで、当然孫娘は「可愛い」。翌朝、長男のこの投稿を見た家内は、「お父さんの投稿だと思った」そうです。似てるね・・・


2019/7/20
コーチしてる大学ヨット部の練習に参加します。1週間前は「7大学定期戦」で九州博多に遠征していました。僕は帯同せず、LINEでチェックしていました。Q大が9連覇中で、去年は勝てると思っていたが、開催地の北海道が2日間無風でレースがキャンセルされてしまいました。今年こそ勝てると思っていましたが、初日はリードしたものの2日目最終日に逆転されてまた準優勝に甘んじてしまいました。来年こそ・・・
この日は四輪で向かいました。テント・スーパー買い物籠・電動のこぎり・延長コードを積むためです。8月お盆前に「琵琶湖周航」というイベントがあります。2回生が主催し、1回生を連れて琵琶湖をヨットで一周します。ヨット部の前進ボート部伝統の行事で、歌にも歌われているほどですが、近年はヨット部がその伝統を繋いでいます。そこで使うテントが足らないようなので、長男が大学生になってから使っていないテントを寄付することにしました。スーパーの買い物かごが使い勝手が良いそうなので、我が家で余ってるのを10個ほど寄付しました。
R171〜名神〜湖西道路経由で、7時過ぎに合宿所に着き、テントとカゴを降ろしました。電動ノコギリを延長コードを使って、合宿所前で朽ち果てている470・2艇の解体を始めます。一般ごみとして捨てられるサイズへ。ブロックなどまだ使えるものはボデーィー毎小さく外します。後でゆっくり外して資源化したらいいよね。
ヨットハーバー艇庫前集合時間8時が迫ってきたので、車でYHへ移動。ブリーフィングを終え、それぞれの持場へ。1回生は翌日がクラス分けなので、それぞれの希望のクラスの艤装を手伝います。今練習で乗っているシングルハンド艇より複雑な艤装のダブルハンド艇なので、それらの艤装も勘案しながら希望クラスを決めてもらいます。
艤装を終えるタイミングで、1回生のみ集めて、「電動ノコ」ブリーフィングをしました。使い方などを教え、靴を履く・メガネ・手袋など安全面での注意も伝えます。これから数日掛けて、470解体ショーをしてもらいましょう。車に戻り、Pに入れます。
体操・ブリーフィング後、AM練習に入ります。1週間前の7大学戦のご苦労さまとQ大が当方を上回った結果を真摯に受け止め、更に上を目指そうと話しました。軽風予報なので、チューニングしてスピードを増すに丁度よいと、ボートスピードアップへの取り組みを話しました。
Sクラスの1艇に、ニューセイルをセットしました。これはUKセイルさんの売り込みで、サンプルセイルを使わせて頂くことになりました。僕も学生時代、セイルメーカーさんとタイアップしてセイル開発に協力した経験があります。全国制覇を狙える学校にしかこういう声掛けはありません。そういうレベルに成長していたということです。有り難いな。
セイルバッグメーカーの傍ら、UKセイルの西日本代理店をやっておられるHさんは、僕の2才下のトン学の選手でした。学生時代はスナイプ乗りで同じレースに出場したようです。2年後のインカレ個人戦で、KG後輩のUくんがS級で優勝しましたが、その時2位だったそうです。共に京都M高校出身だったので、同じ高校出身者がワンツーを獲得したということ、これは凄い。
僕が出場したインカレ個人戦江ノ島大会で、ど強風の初日、風を見に行くと沖に出ていったS級が1艇いました。ずっと日大のOくんだと思っていましたが、今年GWで本人に会い問うと、「あれは僕じゃないよ、トンガクだよ」と間違っていたことを知りました。このトンガクの髭スナイパーのクルーがこの社長さんでした。その時の「怖かったですよ、死ぬかと思いましたよ」との感想を、懐かしく話しました。「・・さんって、あの・・さんですか?」と、僕のスキッパーやその上のスキッパーの名前も覚えておられました。ヨットの世界は狭いです。
僕は470追っかけのコーチボートに、HさんはS級の追っかけのインフレータブルに乗り込み出艇。2m/sほどの軽風ながら、ボートスピードの遅い艇にメインセイルのリーチの形状などを伝え、「ここをこうしたらどうかな?」なんてアドバイスします。アドバイスの後にいつも伝えている「遅くなったらもとに戻しや」を加えます。
僕はコーチだけど、僕の感覚で、「僕ならこうするかな?」を口にしているだけです。スキッパーそれぞれに「速い」感覚が違いますし、いろんなセッティングでボートは速くなり、固有のヒールアングルなど好きなポイントがあります。自分固有の「好きなポイント」を大切にして欲しいと思っています。練習ではコーチからのアドバイスがあるけど、レースではそれがあれば即失格なので、ペアで考えるしかありません。自分の個性を大事にして欲しいのです。
朝UKさんと話していて、同じことを口にされていました。セイルメーカーから出しているチューニングデータは、1つの目安であり、ある特定選手のデータでしかありません。それをベースに、それぞれ工夫して個性を出していった欲しいと言っていました。これは僕が常に口にしていることで、「僕の私の速い」が正義で正解です。
12時にハーバーバックし、「コンビニでパンでも買ってくる」と言っていたUセイルさんを合宿所の昼食に誘いました。マネさんに「1人ぐらい追加出来るよね」「もちろんOKですよ」と、昼食担当に連絡をしてくれました。
2人で合宿所まで歩きます。バッグやキャップなどのグッズを衣装ケース1つ分持ってこられているので、それを運びます。キャプテンがそれを見つけ、「2回生に運ばせます。置いておいて下さい」と声がかかり、楽になりました。
いつものように昼食を取り、グッズを部員に見てもらっていました。僕もサンブレラクロスのベージュ&ブルーベルトのショルダーバッグを購入しました。数千円値引きしてくれ、キャップをおまけで下さいました。ラッキー。お盆に息子たちに取られちゃうかも知れないけど、家内にも似合いそうです。
また2人で歩いてハーバーへ。HさんはUKセイルを購入してくれた膳所高校へ。僕はPM練習へ。いつものように体操・ブリーフィング後、PM練習に入ります。PMはS級につきます。UKセイルをセットした2回生Mくん艇は、綺麗にメインセイルのトップバテン後方がツイストし、良いシルエットです。少し離れて横から艇団を見ていると、他艇に比べてバウが出ていきます。「これはいい」と直感しました。ただ他艇はみな、2017以前のセイルを使っており、使用頻度の少ない2018ノースと比べないと優劣がわかりません。
僕含め数代前からKGが、当時の470の趨勢とは違うマリンクラフトセイルのアドバイザーをして、僕の時は明らかにボートスピードにアドバンテージを持ってレースに臨めていたことを思い出しました。2ヶ月借りられるので、じっくり比較し速い方を購入したら良いように思います。なんだか、マテリアルから今シーズン後半に向けての爆発が見えてきました。
470も加わって、スタート練習・レース練習を繰り返しました。17時にハーバーバックし、合宿所へ。470解体が進んでいました。でもまだ1艇の1/3程です。まだ先は長そう。
OB部屋に入って、OB達とあ〜だこ〜だ。バカ話で笑い合いました。監督と今年卒業した470Kくんがいきなりビールをやってる横で、コンビニで買ってきたプレーンヨーグルトとブルーベリーヨーグルトを出したら、「Wヨーグルトですか?」ってKくんに呆れられました。「毎日食べてるから、僕の体の殆どはヨーグルト製です」なんて言ったら、更に驚かれました。
全体ミーティングで気付いたことを喋りました。1回生には、7大学戦で作った他大学同期などの友情を大切にすることを話し、そんな繋がりの延長にある姿として、先週参加した学連ヨット部卒業者の集まりの話をしました。
クラス別ミーティングでは、S級に参加し、UKセイルの感想を聞きました。僕の感想も話し、2018セイルとの比較が重要だと話しました。470チームも全日本インカレ予選に向けてのスピン選択を考えています。2019ニューセイルというマテリアルで、どんな風に成績がジャンプアップするのか楽しみです。
美味しい夕食時間となり、ワイワイお喋りして帰路に着きました。帰宅が22時ぐらいになったので家内は夢の中でした。風呂を上がり、Wヨーグルト持って寝室に上がり、いつものように夢の中に落ちました。


2019/7/14
家内もお休みです。少々雨が降るという天気予報なので、「映画でも」と調べましたが、僕の好きなラブストーリー物・ハートフル物はありません。先々週は、「どっちにしようかな〜」と選択して「今日も嫌がらせ弁当」を観に行ったのに。「いい映画やってないわ」と言うと、「じゃあ、新しく出来た三田の道の駅に行かない?」との提案があり決定。
道の駅が目的地なので、10時開店を予想し、9時出発に決めました。まだ3時間ほどあるので、ゴソゴソ。9時になったので、四輪で出発しました。阪急山本駅〜長尾山トンネル〜r325〜r33〜r68で北摂里山地帯を抜け、JR新三田駅横を通ります。新三田駅は、次男が中1の時、迎えに来た思い出の駅です。小学校6年間中5年間学年で一番チビだった次男が、大きなカバンを背負い最寄り駅まで歩き、大阪天王寺の学校までの通学が始まりました。通学に少し慣れた頃、帰りの電車で眠ってしまい、福知山駅まで寝過ごしてしまいました。反対向きの電車に乗り自宅方向に向かいましたが、ここ新三田駅で電車がなくなり、ヘルプ電話を受けてこの駅まで車を走らせました。子育てにまだ父親が必要だった楽しい頃でした。
目的の道の駅は、KG三田キャンパスの近くなので、KGの道案内に従って行きました。10:27「道の駅・三田まほろばブレッザ」到着。店内に入り、僕はコーヒー1Lパック、家内は「卵かけご飯用醤油」などを物色し購入。ガラス張りスタジオがあり、KissFMの公開収録などをやっているようです。レストランがまだオープン前なので、KGキャンパスを観に行きます。
以前バイクで1人で訪問したことがあります。家内と2人手をつないで、誰もいない休日のキャンパスを散策します。懐かしい校章と、懐かしい上ヶ原キャンパスと同じデザイン・カラーリングの校舎は清潔感があり素敵です。上ヶ原キャンパスのシンボルだった時計台のようなランドマークはありませんが、道路を隔てて建っている県立三田祥雲館高校に時計台がありました。こちらもKGと同一デザインなので素敵です。
このデザインは、開学当時のヴォーリス設計の延長です。最新式のシュッとしたデザインではなく、一見公立が悪そうですが、「学びの場」は都会の真ん中に林立するビルより、一時代前の落ち着いた環境の方が良いように思います。「日本で最も美しいキャンパス」に選ばれたこともあるKGの思想が、このまま続いて欲しいと思います。
長男一家が3年間住んでいたアメリカ・ニュージャージー州プリンストンは、アイビーリーグの1校「プリンストン大学」のキャンパスタウンです。一昨年1週間ほど夫婦で滞在し、プリンストン大学を2度ほど見学しました。アインシュタイン筆頭に名だたるノーベル賞学者が長鞭を取り学んだ学び舎は、一時代前どころか中世のカテドラルを想像させる重厚感のある素敵な建築物でした。芝生・中庭・木々の広いキャンパスに、それらデザインの統一された建築物が点在し、そこここに大型のリスを見かけます。こういうキャンパスこそ、豊かな想像力を育むように思います。
カフェやレストランの案内があったのでそちらに向かいましたが、上ケ原キャンパスと違い休日休業で残念でした。運動場まで足を運びましたが、ラクロス部が活動しているのみでした。女子ラクロス部員の黄色い声がグラウンドに響いていました。学部は理工学部と総合政策学部の2学部だけで学生数が多くなく、運動部の活動は上ヶ原中心なのでしょう。
11時を回ったので、食事にしようと道の駅に戻ります。レストラン「ブレッツァ」で僕は「明太かまたまパスタ」、家内は「親子丼」で共に700円。注文の時「単品ですか?」聞かれ、意味がわからず「はい」と答えたけど、セットメニュー550円で、コーヒー・ライス・ドリンク・サラダなどお変わり自由になるようです。お店を出る頃は満席で、セットメニュー目当てに流行っているようです。
12:12精算し、道の駅を出ました。小雨ですが降って来ました。往路同様のルートで伊丹に戻り、「オアシスタウン」に寄り道しました。「ABCマート」で、家内の靴や子供用靴を見て、「可愛いね〜」と孫たちの履く姿を想像します。「結ばなくても良い靴紐980円」を買ってみました。使えるのかな?「ユニクロ」で、お盆に帰省してくれる長男・次男一家のために、お嫁さん用パジャマを2セット購入しました。これで帰宅し、あとはダラダラして過ごしました。ご近所の農家さんから頂いたサクランボが、2日目にして無くなっちゃいました。プロの農家さんの作ったサクランボで美味しく、「2日以内に食べてね、味が落ちるから」のアドバイスに従って、家内が出してくれました。


2019/7/12
大学ヨット部OB・OGの集まりに参加しました。18時から僕のホームポートのヨットハーバーのセンターハウス3Fにあるカフェで行われるので、仕事を早引きし1時間前に出発しました。いつもなら渋滞知らずの「通勤リード110」なのですが、参加者20名でアルコール有りの集まりなので、帰路の足になろうと四輪で向かいました。
「あ〜混んでる」、30分以内に着くのに、ハーバー着が20分前になっちゃいました。Pから歩いていると、D社Fさん・Aさんが歩いておられお声がけしました。お二人とも年齢が上なので、名前を名乗りましたが、今回参加者中最年長であろうFさんも僕の名前を覚えていてくださいました。KG先輩のNさんと親しく、「お〜・・」といつも可愛がって下さっていました。以前はこの会の重鎮でしたが、年齢が進みこの会では初の顔合わせでした。相変わらず「お〜・・」と僕の顔を見て名前を呼んで下さいました。KGとD社は長年のライバル校ですが、レースを終えればノーサイドです。僕も学生時代からD社同期と遊び、シーズンオフでは一緒にスキーに行ったりしていました。アベックのメッカ六甲山に車で向かい、車の中から神戸の夜景を見てロマンチックしているカップルに悪さしたのはもう時効ですよね。
カフェに着くと、既に10人弱集まっておられました。O大Kさんに会費6000円を渡し、大きな胸に下げる名札を貰います。K大Oさんがやって来ました。この会には初参加だそうです。この日の演題は、僕のコーチしてる大学ヨット部のOB会長Hさんの40日間九州一周クルージング報告だから、それを聞きに来られたのかもしれません。僕の名前が参加者としてメールで出ていたから参加されたのかな?顔の広いOさんなら、この会関係無しで知り合いは多いはずです。
Oさんの隣の席に座り話を聞くと、来年のA級全日本がここ開催で、主催がOさんの母校K大だからのようです。A級全日本には皆勤賞のように毎年参加されているので、Oさんメインに準備されているのでしょう。その話をするようです。
今年のGWクルージングで、姫路のヨットハーバーで会ったKさんが来られました。飛び入り参加のようです。学連OBではなく、O大造船学部出身のヨット乗りなので、そんな繋がりで声がかかり参加されたのでしょう。声を掛けて僕の隣の席に招きました。
18時になり、O大Oさん進行で会が始まりました。会長のD社Aさんが挨拶され、乾杯の音頭は僕がコーチしてる大学ヨット部OBのAさんが指名されました。今回は奥さん同行です。それに刺激されてか、O大Oさんも夫婦で参加です。ビッフェ形式で、お喋りしながらお腹を満たします。
OB会長Hさんのクルージング資料が配られ、コースや暗岩にコツンとやり、念のため近くのYHに緊急寄港し、上架して船底をチェックしたこと。ここに参加の方数名も行程の一部同乗したこと(参加人数のべ17人・10〜75才)。電動自転車を借りて山登りサイクリングしたこと。訪問した長崎のキリスト教会などの話。長崎沖のイルカ観覧船の近くに行ったら、イルカが伴走してくれた写真がありました。シイラはじめケンケン船釣りでの釣果。宮崎沖は北太平洋からの波が大きく、全行程同行して下さった奥様が喋らなくなり厳しかったことなど、盛りだくさんのお話でした。
皆さんから、「1ヶ月以上も夫婦で小さな船の上の生活なんて、異常だ」「いや、夫婦仲がいい証拠だ」「いや、うちなんて俺がいない方が喜ぶのに、どう考えても変だろう〜」なんて、奥さんが同行したことに対する遠慮ない批判や羨ましさへの妬みの声が湧いていました。
続いて、参加各人の最近の動向紹介の時間になりました。いろんな話が出ました。夫婦で長期クルージングした話に刺激され、奥さんとヨットに乗っていた頃の話をされた方がいました。あるクルーザーレースで、快調にトップを走っている時、ブローが入りブローチング(横倒し)したそうです。セイリングクルーザーなので、ボトムの下にぶら下がってるキール(重り)の効果で、しばらくすると自動的に船は元に戻ったのですが、自分とヨット乗りのクルーたちは、「やばかったな〜」と笑いあったそうです。奥さんは恐ろしかったのか無言になり、「船が横倒しになってあんなに怖かったのに、笑ってる人とはもう一緒に乗れない」と、それ以来ヨットに乗ってくれなくなったそうです。
進行役O大Oさんの奥さんの番になりました。19才の乙女だった頃、従兄弟に誘われて参加したO大ヨット部試乗会の話になりました。風が強く怖かったが出艇し、沖でひっくり返って海に投げ出されたそうです。「もう死ぬ、お父さんお母さんご免なさい」と倒れたヨットのガンネル(縁)に掴まっていたら、レスキューボートがやってきて拾い上げてくれたそうです。
その時、19才の乙女の背中の後ろからズボンを掴み一気に船の上に引き上げられ、乱暴なので驚いたそうです(水に濡れて重くなるので、1人では上がれないので、大抵船上の者がこうして引き上げます)。更に情けなかったのは、靴が海に流れてしまい、トイレのスリッパのようなサンダルを履いて、繁華街の梅田を通って自宅まで帰ったことです。恥ずかしくて恥ずかしくて・・・。翌日、その日乗せてくれたヨット部員の方が電話を掛けてきて、「ちょっと会えないか」・・・で、現在に至る・・・とご夫婦の馴れ初めをご披露頂きました。沈して怖い思いをさせた張本人が、最悪の立場ながらめげずにデートに誘うというOさんの大逆転めげない生き方を知りました。Oさん本人は、多くの罵声の中照れて照れて・・・。
この素晴らしいスピーチの後がA先生でした。A先生は私がコーチしている大学ヨット部のOBで、医学部を卒業された後、母校・滋賀医大・京都女子大などで教鞭を取られていました。今回奥様と同伴なので、直前にあんな見事なスピーチを聞かされ、「馴れ初めエピソード」を期待する声を逸らすため四苦八苦されておられました。
次が僕で、現役のコーチしている関係で、今年・来年ここで開催されるインカレでの好成績へ頑張ってることを話しました。数人前に、同じ大学出身者が、「僕の現役時代、ここで準優勝した。縁起の良い開催地だ」エピソードが話されたからです。次に、長男一家がアメリカ勤務からロンドン勤務になり、家族が一時帰国している新潟までバイクで600km走ったことを話しました。2日間で往復1200km走破し、自信を持ったことを話しました。流れで嫁さんとの馴れ初めなどを所望されると参いるな〜と思っていましたが、A先生がその流れを断ったようでホッとしました。
バイキングを取りに行っていると、関東のH大出身のOさんから、「・・さん、関東でも有名だよ」と声を掛けられました。僕が1月?11月?にこの会でメインスピーカーだった時話したレジュメを、後輩や現役ヨット部コーチなどに渡したそうです。もちろん「渡してもいいか?」と前もって話がありました。
去年の準優勝で、「古豪復活」とヨット雑誌に私の言葉も紹介されました。日本ヨットの世界で最もホットなウェブサイトでは、毎年好評の「今年のヨットばか」No1に当方ヨット部が輝きました。そんなこんなで、「Oさん、・・さんの話を直接聞いたの?」と羨ましがられたそうです。
私の話やレジュメに書いたことが、俗にいう「体育会」的な根性・ハードワークとは大きく違い、「楽しく」「追い込まない」「欠点の指摘より、出来たことを褒める」「自分で考える」「女子マネージャーの力」「スポーツセレクションのない大学でのアプローチ」「ビリでもいいからできるだけ多くのレースを下級生のときから経験する」など、ちょっと違うことだったからかもしれません。
そのコーチングスタイルの根底にあるのは、僕の性格もありますが、ジュニアヨットの指導者を長く経験したことです。小学生をヨット好きにさせる方法を、そのまま大学ヨット部指導にも応用しているだけです。そんなこんなが、新しい風として一部に注目されているのかもしれません。
2時間半でお開きになり、帰路に着きます。アルコールが飲めない僕は、先輩方を7人乗せ「阪神西宮」まで送りました。その後R171で21時過ぎに帰宅しました。ああ楽しかった。


2019/7/6
コーチしてる大学ヨット部のレース日です。今回のレースは、470・スナイプクラスの全日本選手権地区予選です。学生全日本ではなく、真の日本一を決める一般の全日本なので、学生だけでなく社会人も出場します。中学生や小学生だって出場できます。
8時に琵琶湖に行けばいいので、いつものように朝の寺社・歴史巡りも考えましたが、新潟行(2日で往復1200kmオーバー)を敢行してからまだ数日なので、体を休めるために自重しました。
2度寝して5時台に目覚め用意をします。通常の練習コーチンググッズに加え、双眼鏡などのレース備品も加えます。この双眼鏡はもう10年以上使っているプロ仕様です。アメリカ沿岸警備隊が使用しているフジノン製で7万ほどのお値段です。世界の海軍や商船で使っている双眼鏡のトップシェアは日本製です。揺れる海上でも見やすい8倍望遠で、コンパス内蔵です。完全防水なので、波が入り水没状態になるインフレータブルボートの床で海水に浸かっていても平気です。首掛けストラップが浮力体になっているので、海に落としても沈みません。
25年前に次男がジュニアヨットを始めたのを機に購入した1代目のニコン製も壊れませんでしたが、遠征先で亡くしてしまいました。即買ったのが2代目のこいつで、毎年入部している部員が初めて使うと、いつも「うわ〜すごく見やすい」と驚きの声を上げます。
下着の上にパンツ&シャツを着て、コミネ・バイク用夏用プロテクターメッシュジャケット&パンツを重ね、その上にライフジャケットを着込みます。昼間は暑いけど、朝晩なら夏でも腕は涼しく胸は暖かで丁度良いです。
倉庫から「招き猫CB400SB」を出して出発。R171〜中央環状線を走り、6:15「エネジェット中環豊中SS」で給油。192km/6.32L=30.4km/L。ここで新潟行の総走行距離が確定しました。245km/8.86L=27.7km/L+251km/9.27L=27.1km/L+222km/9.5L=23.4km/L+235km/8.1L=29.0km/L+125km/5.6L=22.3km/L+192km/6.32L=30.4km/L=1270km/47.65L=26・65km/L。高速道路主体だったので、燃費が良いです。
6:20、GS敷地内に隣接する「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「バナナ3本213円+カフェオレ500ml116円=329円」を朝食・昼食用に購入。「吹田IC」から名神高速に乗り、「桂川PA」でトイレ休憩。カッコ良いと思ってる黄色の「スズキVストローム250」が先客でいました。トイレから戻ると既に先客さんはヘルメットを被り出発準備中なので、「何処まで行くのですか?」と声を掛けるタイミングを逸しました。
名神に戻り、「京都東IC」で降り、湖西道路へ向かう信号で止っている車列をバイクの恩恵を受け横をすり抜けると、中間にVストロームさんがいました。湖西を走るようです。
7時台に程なくヨットハーバー着。ちょうど学生たちが合宿所からやってくるタイミングでした。「おはようございます」。他校の部員たちにも声を掛けます。ずっとやってるので、僕を見つけた学生たちは、「おはよございます」と先に声を掛けてくれます。体育会の学生は気持ちが良いです。
僕も高校生になりヨット部に入部した時、先輩から「ヨットハーバー内では、他校ヨット部関係者でも挨拶しろ。ヨット部関係でない人にでも挨拶しろ」と教えられました。それを実行していると、話したことない他校関係者や単なる散歩の常連さんでも、僕が気づかないでいると先に声を掛けてくれるようになりました。
これが癖になり、自宅前を犬の散歩や通勤で歩く方など皆さんに挨拶するようになり、これをきっかけに話すようになったご近所さんもいます。就職した時も、このスタイルなので、「君は挨拶できるね」と驚かれました。最近の新人は慣れないと挨拶出来ないとか・・・これで見覚えが良くなったのか、ホテルの宴会場で行われた1ヶ月後の全社新人歓迎会では、新人代表者に指名され、挨拶をし歌を披露することになりました。
結婚してもこのスタイルで、家内とは「おはよう」「頂きます」「ごちそうさま、美味しかったわ」から「お休み」まで、毎日挨拶を何度交わすだろう。家内からも同じで朝一番の「おはよう」で、気持ち良く1日が始まる生活を続けています。家内の姉夫婦も同じで、甥の結婚式の挨拶をした義理兄のスピーチに、「私達夫婦は、たとえ夫婦喧嘩中でも挨拶だけは欠かさないでおこう」と2人で決めて夫婦生活を始めました。息子たち夫婦も、そんな家庭であって欲しいと願っていますとありました。義理姉夫婦も我が家同様学生時代からのカップルで、友達会話夫婦です。いつも仲が良く、夫婦間でも互いに相手を褒めることが自然で、一緒にいて居心地の良いカップルです。
「挨拶をする」を体に叩き込まれたヨット部に感謝しています。その原点がヨットハーバーなので、学生よりだいぶ年上だけど、まだ挨拶が身についていない新人にもこの習慣をつけて欲しいと、積極的にこちらから声を掛けるようにしています。「挨拶」が身につけば生涯のお得です。極端な話をすれば、挨拶さえ出来れば生きていけます。
コーチボート係留中の桟橋に向かい、プロテクター上下を脱ぎ、バナナを1本食べます。470チーフY君中心に時計合わせ・天気予報確認・注意事項確認で集まり、ブリーフィング。S級全日本がインカレ全日本団体戦の1週間前なので、移動のことや現地練習の関係で、当方ヨット部としては参加しない選択をしました。よってキャプテン・S級チーフ含め6名が江ノ島遠征をしています。強豪校の多い関東と速い社会人に揉まれてくる武者修行です。
OB艇が2艇出場します。関東から休みを取ってやってきた今春結婚したばかりのA君と2代前にキャプテンだったM2学生S君は、B大から船を借りたので、チューニングを大幅チェンジしています。マストがナチュラルに逆ベンドしており、これは厳しそう。マストステップ位置から変更しています。女子ペアからチューニングが出ないとヘルプが入りました。3人であ〜だこ〜だ考え、数値を測りながらセットアップして行きます。
柔軟体操が始まり、体操後レース前ミーテングタイムになったので、僕はそちらに抜けて、軽風コンディションが予想されるので、ボートチューニングに最適な風です。もしスピードが乗らなかったても、チューニングをして次のレースにはスピードアップできるようチューニングスキルを磨くよう指示します。同じコンデションは2度とありません。短時間にトップスピードを出せるボートにチューンナップする技術がシリーズレースで総合成績を上げるコツです。2回生スキッパーには、ビッグフリートでのスタート技術を高めて欲しい。
円陣を組んで出艇。女子ペアとOB艇1艇が出艇に間に合わないので、インフレータブルボートに、いつでも曳航してレース海面に向かえるよう指示します。もう僕が言わなくても、マネージャーチームが陸上待機の1回生に指示して連絡するよう手配していますが・・・。
桟橋では1回生がエールを切っていますが、女子ペア艇チューニングにギリギリまで付き合いました。コーチボートに乗って出ます。4回生マネボスSさん・3回生マネSさん・470チーフY君・1回生女子プレイヤーKさんとNさん・1回生男子プレイヤー4名と僕で定員リミットです。
軽風でレース初日が始まりました。S級のスタートがゼネラルリコールでやり直しになっている間に、先にスタートした470が1上マークを回航しました。1〜4位まで当方で、OB艇が1艇含まれているものの、常勝D社を抑えて快挙です。6位以下10位までにも2艇おり、当方がこのレースを席巻しているようです。全37艇・当方8艇+OB1艇。
S級はその後も気負って早すぎるスタートをする艇が多く、ゼネリコを繰り返します。コーチボートに乗っている1回生たちにレースの勝ち方を教えるべく、S級スタート後トップ艇のラインの延長線上にコーチボートを置くようドライブするボスマネSさんに指示していましたが、スタート出来ず残念です。
とうとう470フィニッシュと重なってしまい、本部船に「AP旗」が上がり、スタート延期になってしまいました。470のフィニッシュを観に行きます。1回生に双眼鏡で着順を見させ、別の1回生が記録します。レース運営・レースサポートの仕事を教えるのも大切です。その他、時計係に指名されていたN女史さん。彼女は僕の指示通りスタート5分前から20秒間隔で時計コールし、1分前から1秒毎にカウントダウンしています。元気いっぱいの彼女の声はよく通り、ナイスです。半年後には、1回生選手全員が今練習している1人乗りヨットから2人乗りに転向し、レースに出ます。各艇で時計コールしなければなりません。その練習でもあります。
470は、トップはD社に取られたものの、2・3・6・7・9・10位でフィニッシュしました。上出来です。3回生女子スキッパーOさん艇が9位で、朝チューニングが出ず苦労した女子コンビの2回生スキッパーTさんが6位でした。上出来です。去年のOさん同様、ヨット始めて1年目のこの時期からキラリ光る成績を出すようになってきました。ヨット初めて半年、2人乗りに転向して1ヶ月の去年9月、1・2回生のみ出場できる新人戦で、1レースだけですが2位フィニッシュし非凡なものを感じています。秋の「全日本女子インカレ」への出場権を得ているので、夏休みに乗り込んでコンスタントにこれぐらいの成績を出せるよう上達して欲しい。やっとS級がスタートしましたが、470が何時スタートするかわからないので、長い待ち時間となりました。
470第2レーススタートしましたが、今度はS級フィニッシュがあり、またレース展開を観に行けません。トップ3艇がいない当方S級はイマイチで、トップ10に1艇も入れませんでした。全41艇・当方6+OB2艇。
470、第2レース1上マークで、また当方がトップ回航しました。S級がスタートし、470がフィニッシュします。当方3回生N君/F君ペアがトップフィニッシュ。トップ10に、あと2艇3・8位が入りました。2週間前インカレ個選地区予選で2位だった4回生エースM君ペアが10・12位とイマイチです。
S級第2レースも、当方でトップ10がいません。470、第3レースは、1・2・3・6・10位フィニッシュ。やっとエースが2位に来ました。トップは3回生N君ペアで連続トップです。S級第3レースは1上からずっと、4回生T君/3回生O君ペアがトップを快走していましたが、フィニッシュまであと少しの最終マークでRitsにに抜かれ2位。
470第4レースは、2・3・4位とコンスタントに上位フィニッシュを続けていた当方OBのT君/K君ペアが第1マークからダントツで、他を圧倒してトップフィニッシュ。連続トップは途切れましたがよく走っている3回生N君ペアが8位フィニッシュしました。
トップ艇フィニッシュ後、「AP/A旗」が揚がりこの日のレースは終了です。総合トップは当方OBペアで、2位が3回生N君、6位3回生T君ペア、8位4回生エースペアで1日目終了です。S級第4レースは、3回生M君ペアが6位フィニッシュで、総合でトップ10入りはなく、12位が最高でした。
コーチボートのトイレが大繁盛で、当方女子部員はもちろん、個選予選で優勝したD社Tさんがいつものように「トイレ貸してください」とやってきて、本部船に乗って運営やってた当方OGのHさん(旧姓Mさん)もやってきました。こんな日なのに、トイレットペーパーが水没しウエットティッシュになっており、「わお〜」でした。Hさん(旧姓Mさん)は、令和元年5/1に入籍した新婚さんです。朝開会式で司会してたので手を振ったら、開会式後やってきて、「メールありがとうございます」とニコニコしていました。彼女が結婚したことを部員から聞き、すぐにメールで祝福しておきました。すぐ返事が来てあ〜だこ〜だ。結婚式や披露宴は後日だそうです。旦那さんはRitsOBで、ヨット部繋がりカップルです。この日のレースにも参加しており、総合4位でした。トイレにやって来た時、「旦那調子良いんですよ」とニコニコしていました。
ハーバーバックし、合宿所に戻ります。キッチンの片隅では、マネさんと1回生部員1名が、PCで成績表を作っていました。この日もレース終了後すぐに集計し、コーチボートのマネスマホに成績を送ってくれ、重宝しました。18:40からミーティング開始。まず僕から。1回生部員へあ〜だこ〜だ。次にレースを見て感じたことを話します。スタートのこと、ボートスピードのこと、1回だけトップ艇ライン横を伴走し見れた470最終レースでの当方OB艇のコース取りについて。フレッシュウインドで走ることの重要さを話しました。
続いてクラス別ミーティング。470とS級それぞれの輪に入り、バズった話題で気付いたことがある場合、言葉を挟みました。そして美味しい夕食タイムです。食べながら部員たちとお喋りし、帰路に着きました。
湖西道路〜京都東ICから名神。20:28「桂川PA」で「エスキモーパルムチョコ151円」で糖分補給。このアイスは初めてでしたが、粘りのあるバニラ味クリームをチョコでコーティングされた棒アイスで、ナイスでした。
吹田ICで下車し、中央環状〜R171で21時に帰宅しました。まだ家内は起きており、お喋りしてお休み、風呂に入りプレーンヨーグルト450g持って寝室に上がり完食して夢の中となりました。


2019/7/3
3時過ぎに目覚めたので、帰路に着くことにします。バイク装束に着替えて、3:29カウンターへ行き精算します。「滞在時間6:54深夜8時間パック(フルフラット席)1512円-151円+入会金無料=1361円」。ハッ・・・たった1300円?最初にお部屋料金や利用時間による料金などの説明を受けましたが、滞在時間により自動的に最も割安になるよう計算されるので、考える必要がありません。僕の場合、「深夜8時間パック-1時間」という計算になったようです。帰るだけで眠かったので利用しなかったが、シャワーも無料だから、「ただ寝るだけ」なら予約も要らないナットカフェはナイスな選択のようです。ただ、多少うるさくてもどこでも寝れる人向けです。アイマスクと耳栓持参の方が更に良いでしょうし、カウンターで売ったら売れそうだなと思いました。
「桜木インター」から、R8「新潟バイパス」に乗り、程なく「新潟西IC」から「北陸道」に乗りました。4:29「栄PA」で休憩。5:06「西山IC」を下車し、r23〜R166で、5:50「二田物部神社」。
『連綿たる歴史と格式を誇る 二田物部神社は延喜式内社で大和朝廷より越後の国に弥彦の神様とともに使わされた二田天物部命を祀る古い神社であります。越後二の宮の称号を与えられるなど江戸時代には越後18社の1つに数えられ越後の人々の信仰を集めてきた。特に戦国時代から江戸時代にかけて幕府や武将の厚い信仰を受けた。又起請文(神仏に自分の言動に偽りのないことを誓ったもの)にも弥彦神社とともにその名がよくみられる。今から2000余年前の大崎浦に社殿を建てた時から今日まで連綿として歴史を刻んでおります。
主な宝物 五部大乗経157巻(版本軸物) 大般若経443巻(書写本):大般若経波羅密多経第466巻(写本巻末に「千時応永戌子9月後9日慶尊」と文字がある) 経文函奉納・施主・道徳:応永15戌子6月1日の奉納 鞍置馬・一木製:桓武天皇延歴14乙亥年坂上田村磨東夷征討の途中武運長久を祈り奉納と伝えられている。 太刀一振無銘:国主上杉景勝公より6ヶ村1070石を賜わり祈願のため白鞘太刀一口奉納 御酒壷1対本製高天参寸:椎谷藩6代堀直恒が奥方・慶寿院真諦妙観大姉の奉納 朱印状10通:慶長15年(1610)国主・松平忠輝は執事大久保長安を奉行として越後の検地をし、当社へ社領50石を寄進した。これがもととなって、慶安元年将軍・徳川家光は50石の社領寄進の朱印状を寄せた。 狛犬1対木彫:(県指定文化財。昭和48年3月室町時代の作。桂材製である) 神社絵巻図・明徳5年(1394)』
『木造狛犬(一対) 昭和48年3月県指定 当社に伝えられる木造狛犬は桂材製で阿形(あぎょう)像は全高62cm、吽形(うんぎょう)像は全高60cmである。表現に誇張がなく、彫りの堅実な作品である。咽喉(のど)元が長く伸び、胸の張りが小さく、顔の幅が広いことから室町時代の作と思われ、材質や構造から見てこの地方の作であろう。
物部神社本殿 三間社流造 桟瓦葺 15世紀後期 昭和60年3月県指定 式内小社、天仁元年(1108)亀岡山頂から遷座したと伝える。現状は前面に幣殿を連接し、旧向拝の開放部分に板塀等を建込んでいるが、元は三間社流造の独立社殿であった。三間の向拝角柱は細い頭貫で上端をつなぎ、両端柱のみ海老虹梁を受けるが、建築様式より後補。虹梁絵様が来迎寺愛宕愛宕堂(十日町市・1713)とよく似るので向拝はその頃の改造であろう。旧状は主屋両端柱の長押下方より水平に虹梁が渡っている。主屋には三方縁が廻り脇障子を立てる。妻飾りは当初の形式を良く残し、虹梁大瓶東笈形付で、虹梁は直線上の袖きりのみで絵様なし、大瓶東は結綿を持たず笈形も大ぶりで古風である』
紫陽花が綺麗に咲いていた。御宝物庫があり、天明義民の碑が立っていた。『天明義民を偲ぶ 230年前、不安呵責あらゆる虐待を敢てせられ、吾郷土31ヶ村幾千の領民を身を挺して守った天明義民の侠勇義魂に対して敬意と感謝をささげるものであります。その秀霊を慕い、その偉績をたたえ感謝の念を永劫に伝えることは当然の義務であり、今後とも慰霊と顕徳の高揚に努めるものであります。
(銘の通解) 日本の北方日本海の海辺は、大きな波がうねって青々としている。また、その海のみぎわには、白い砂がはてしなく続いており、そうした海岸に向いあって荒れた田んぼがひろびろと続いている。
中央政府の幕府には程追いこの北越の避地では椎谷の役人達は、役所で領民に対して梁上の君子のように何かうまいことがないかとにらんでいるが、片田舎の領民は楽しみのない苦しみの連続である。さてさて、このすばらしい男だての気前の持主たちは、悪ものどもには容易に屈しない熱意と勇気とをもって貪欲飽くことのない狼どもを幕府の最高裁判所で公然と、しかもみごとに退治することに成功した。
後の世の人たちよ、このような昔の出来事を忘れないで、将来もしも災難の前兆が見えた時は、敢然と一身をまっさきにして、その災難の芽を根絶しなければならないことを銘記すべきである』
ここの境内も芝生が張られているように緑の絨毯が美しい。雪国故ガラスの覆いに囲まれた拝殿の彫刻が見事です。アマガエルが一匹ガラス覆いの内側に入り込んでおり、梅雨を楽しんでいるようでした。
バイクに戻り、r393経由で北陸道に乗ります。前日同様、青空が見えているのですが、ブライトな光が地上に届いているのではなく、薄雲が掛かった北陸特有の天気です。「柏崎IC」で下車し、R252〜r37〜R352で、5:50「石井神社」。狛犬が茶色で、変わっているなと思って触ったら金属製でした。石鳥居の石版扁額を見上げると、「陸軍大将・鈴木荘六敬書」と彫られていた。帰宅後調べたら、越後三条出身で日露戦争で活躍した将軍でした。
本殿は雪よけの覆屋を被っていた。境内の社殿を覗くと、獅子舞や御神輿が展示されていた。
バイクに戻り、R352〜R8〜R353で、6:01「村社・鵜川神社」。拝殿前に「知恵の輪くぐり」があった。『1.知恵の輪の前で一礼します。2.茅の輪をくぐり、最初は左にまわります。3.茅の輪の前で一礼して、次は右にまわります。4.茅の輪の前で一礼して、次は左にまわります。5.最後に拝殿で一礼します。
茅の輪くぐりの由来
昔ある村に蘇民将来(そみんしょうらい)、巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟が住んでいました。ある日、武塔天神(ぶとうてんじん)という神さまが旅の途中、村に立ち寄り、裕福な巨且将来に一夜の宿を求めましたが断られてしまいました。次に兄の蘇民将来に一夜の宿を求めたところ、貧しいにも関わらずできる限りのもてなしをしました。
翌朝、宿を借りた武塔天神は、「われはスサノオの神なり」と名乗り、[もし疫病が流行した時には、蘇民将来とその子孫は茅を以って輪を作り腰に付けておれば免れるであろう」と言い残し去っていきました。
そして疫病が流行したときに、巨旦将来の家族は病に倒れましたが、蘇民将来とその家族は茅の輪のおかげて助かったそうです。この言い伝えから流行病や食中毒が多くなり、体調をくずしやすい夏に、茅の輪をくぐって無病息災をいのる行事が古くから行われるようになりました』
ここも彫刻が良かった。木鼻は、象と獅子だった。『おみくじを引いた後、よく木の枝に結びつけることがありますが、それは木々から湧き出る生命力にあやかり、願い事がしっかり結ばれますようにという祈りを込めるという意味があります。
しかしそのために木の育成が悪くなったり、痛めたりということがあり、各神社では2本の木の間にひもをはリ、そこに結んでもらっています。ちなみに凶のおみくじを利き手の反対の手で結びつければ、困難な行いを達成したということで凶が吉に転ずるという説もあるようです』
『延喜式内社 宗教法人「鵜川神社」由緒 主祭神:御祭神:鵜草葺不合尊(九州宮崎県鵜戸神宮より)・品田和気命(九州福岡県苫崎宮より)
琵琶嶋城の二の丸があった。式内社・鵜川神社の論社。嵯峨天皇の御宇、八條殿が当国介に任ぜられ、近江国から赴任した時、生国である筑前国の箱崎八幡宮の分霊を受け、中世には八幡宮と称されており、琵琶嶋城鬼門守護神として崇敬された神社。天明二年(1782)、吉田家より鵜川神社の社号使用の許可を受けたらしいので江戸後期から現在の社号なのだろう。八幡宮であったはずだが、拝殿には梅紋があった。
社伝によれば、祭神2柱は嵯峨天皇御宇、八條 殿當國介に任ぜられ、近江國より赴任の時、生國筑前國那 珂郡箱崎八幡宮の分霊を受け、弘仁2年(811)8月22日遷座、是より本社を2殿とし、八社大神、八幡大神と 併稱した。當社境内は枇杷島城二ノ丸で、天文2年(1533)上杉定憲に焼かれたが、同年10月26日、春日山城 主長尾爲景當社に祈願文を納めて社頭造営を誓つている。同3年の再建の時2二殿を1社に合祀した。
永禄7年(1564)琵琶島城主宇佐美駿河守定満没し同 家断絶してより社運衰退した。天明2年(1782)6月、 吉田家より鵜川神社の社号許可をうけた。元文4年(1739)正月22日社殿焼失、文化7年(1810)再建。當村の産土神として明治6年11月、第6大区2小区の 村社に列した』
『平安時代初期・弘仁2年(811)8月22日遷座以来、当地の産土神として厚く信仰される。戦国時代は武将の守りの神として崇敬され、特に上杉氏(宇佐美)とは深い関わりを持ち、一時は衰退した社の修復も進んだ。
その後、度重なる兵火や落雷などにより幾度も被害を受けたが、吉田神道の庇護のもと松平家の尽力、更に地元民の熱意により、文化6年(1810)に本殿、翌年には拝殿が完成し、2社を合併して鵜川神社となった。今ここに栄えある1200年の記念祭典を迎える』
『市指定文化財・民俗資料(昭和50年10月9日指定)鵜川神社船絵馬 安永7年(1778)閏7月の奉納。蛇腹のたい垣立だけの古い型のもので16反帆の8人乗り、およそ500石の船である。越後名屋町(納屋町)の名が記された唯一の船絵馬で、沖船頭をはじめとした三役連名による住吉大社祈願のためのものであり、背景(左上部)に住吉大社と日の出を描いている。また、帆の内側を示す形も珍しく初期北前絵馬に共通しておおらかな画風を見せている。舳先の弥帆をおろして弥帆柱だけになる画風は、新しい様式への移行を示している』
6:15「琵琶島城跡」。「柏崎総合高校」敷地内にあった。塀がなく、自由に入れる感じだった。立地は、2級河川の鵜川とそれに流れ込む小川2本に三方を囲まれた平城だった。中学生の時毎回欠かさず見ていたNHK大河ドラマ「天と地と」でカッコ良かった長尾景虎(上杉謙信)の師匠・宇佐美の居城「琵琶島城」にやっと来れた。元は長尾家と敵対していたが、負け戦の時の退却の鮮やかさに若き上杉謙信が惚れた。あのドラマのイメージでは湖に浮かぶ島だったが、そのイメージがない。「琵琶島城」の名からして、築城された時は島だったのでしょう。現状の高低差のない低い土地を見ると、当時は鵜川の中洲だったのではないかと想像した。
宇佐美役をされた宇野重吉が格好良くて、その後宇野さんのファンになった。ついでに上杉謙信役をされた石坂浩二さんのファンにもなった。このドラマ以来、「最も好きな戦国武将」が上杉謙信になった。ドラマの原作を読み、作者・海音寺潮五郎のファンになり、「史伝」という小説様式が好きになった。
『指定文化財・史跡 琵琶島城跡
鵜川は、昭和30年代の河川改修の実施までは、この辺りでは大きく蛇行を繰り返していた。横山川等の支流の合流点でもあり、周辺の水田も土地改良前には大変な深田であった。琵琶島城は、これらの地形を上手く活かして築かれた平城である。
琵琶島城の本丸跡は、江戸時代の記録(白河風土記)に東西40間・南北60間とあり、ここに農業高校が建設されるまで、周囲を囲う高さ2〜3m・基底部4〜5mほどの大土塁、東に大手・西に搦手の虎口などの遺構が残っていた。地元では、この本丸を勝島と呼び、二の丸を福島、金曲輪(三の丸)を琵琶島と伝えている。
城主については、江戸時代に宇佐美定祐が書いた「越後軍記」等の軍記物によって、「宇佐美駿河守定満が上杉謙信の軍師」とする説が広く喧伝され、NHK大河ドラマ「天と地と」によって今や定着した感がある。
ここに城が築かれた起源は不明だが、中世越後有数の港湾「柏崎湊」と「柏崎町」の支配と防衛のために、上杉−長尾家の直領として、その一族や重臣が城主として派遣されていたと考えられる。
資料で描かれる城主としては、永禄〜天正初年(1558〜1573)は「琵琶嶋(越後侍衆等儀太刀次第写)」、能登出身の「琵琶嶋弥七郎(越国諸士)」の名が見え、天正12年(1584)には御館の乱の褒賞として「桐沢但馬守具繁」が就任している』
6:25「三島神社」。『市指定文化財・史跡(昭和48年8月1日指定) 三島神社 社伝によれば、伊予国越智郡一宮の三島大明神の分霊を祭った社であり、天平13年(741)の創建と伝えられている。「延喜式神明帳」(927)には、三島郡6座の1つとして登載されており、式内社(「延喜式神明帳」に記載のある神社)であるとする説が有力である。
室町時代には宇佐美氏、その後長尾為景、上杉景勝、堀秀治及び高田歴代藩主の崇敬保護を受けたとされ、このことは同社にある堀直政の田地寄進状(1658)等の古文書からも伺い知ることができる。明治6年(1873)に県社となるが、その後の火災や台風によってその頃の面影を失っている。現在の社殿は昭和6年(1931)の再建である』
『延喜式内社 三島神社の由緒 祭神:大山祇命 当社は、奈良時代の天平13年(741)、愛媛県愛智郡の三嶋大明神、現在の大三島の大山祗神社の別幣帛を勧請したに淵源し、延喜式(927年撰上)に三島神社と記録されている。往古、刈羽郡は三島郡と呼称したが、その郷社として、郡民権門・武将らに篤く崇敬されてきた。明治6年、県社となり、戦後の変遷を経て、今に栄える』
境内に特徴的な石造太鼓橋があった。「寄進主・林文左衛門 明治33年秋8月」と彫られた石柱が立っていた。
『鴨丸の剣 天平13年(741)愛媛大山祇神社より分祀された三島神社には、神宝の1つとして剣が祀られていました。保安4年(1123)この剣が盗まれたが、盗賊は神罰により逃げる途中、南にある延命池で溺れてしまいました。1羽の鴨がこの池の底から剣をくわえて飛び立ち、南東の丘に落としました。剣は地中深く沈み、それ以来、「延命池」を「鴨くぐり」と呼び、剣が沈んだ所に「鴨八幡宮」を祀り、この辺を「剣野」と呼ぶようになりました』
6:39「鵜川神社」。境内中央に御神木の大欅(けやき)がありました。これは存在感抜群です。御神木の周りに苔の芝生が地面を覆っており、それを痛めないように木製の遊歩道が整備されていた。大きくなく目立たない神社だけど、雰囲気は抜群でした。
『国指定文化財 記念物・天然記念物(昭和5年2月28日指定) 鵜川神社大欅この大ケヤキの樹齢は約1000年といわれ、根まわり約14m・目通り約11.5m・高さ約20mで、地上約3m付近で大きな4本の枝に分かれている。直立した主幹の上の部分があったが、現在は、枯れて、腐食したためなくなっている。記録によると大正元年9月23日と昭和63年の暴風によって、かなりの枝が折られた。調査によれば、全国のケヤキの中でその大きさが第8位にランクされているという。
昭和22年10月に昭和天皇が新潟県を巡幸したおり、10日から12日にかけて向かいの飯塚邸(秋幸苑と行在所)を宿泊所とされ、この大ケヤキをご覧になられた』
6:49「史跡・飯塚邸」。『市指定文化財・史跡(昭和48年8月1日指定) 秋幸苑と行在所 昭和22年10月8日から12日までの間、昭和天皇が新潟県を巡行の折、10日から12日にかけて、柏崎に滞在された。その時天皇の宿泊所(行在所)となったのが、ここ飯塚知信邸である。後に飯塚邸の庭に宮内省より、「秋幸苑」の名を賜った。行在所の御在所は、新中間2階10畳の間、御寝所は御在所に向かって左側10畳、御化粧室は2階6畳、新聞御縦覧所は、御在所の右側6畳の間となっている。この巡航は、市民あげての大行事となり、後に地区の人達は、天皇の散策した道順に沿って、12基の石碑を建てている』
『入館料430円・小中学生210円 午前9〜午後5時 4/1〜11/30 休館日:毎週月曜日』
R363〜r522〜R8〜R252で、「柏崎IC」から「北陸道」に乗りました。7:21「米山SA」で休憩します。7:36「米山SA宇佐美」でガソリン補給。222km/9.5L=23.4km/L。「柿崎IC」で下車しR8へ。
7:52「浄善寺」。仏教寺院ですが、キリスト教のチャペルのような建物で特徴があります。『花は誰のために咲くのか 昼間はどなたも本堂へ入れます』
R8〜「柿崎IC」から「北陸道」に乗り、「上越IC」で下車し、R18〜r186〜r198を走ります。左右は田んぼばかりで、この季節緑の絨毯を突っ切っている感じで気持ち良い。
8:39「菅原神社」。『上越市指定文化財 史跡 黒保遺跡出土炉跡 本区馬屋地内黒保(くろぼ)は縄文時代の遺跡として、早くからこの地方で注目されていたが、明治43年7月に、当時の東京大学教授「坪井正五郎」博士が来校され、地元の愛好家梅山寿三郎氏等と、ともに黒保を調査され、多数の土器や、その破片と、ともに発掘されたのがこの2基の炉跡である。この炉跡は、当時の日本で最初の発掘という重要な遺構で、黒保からここに移したものである。
炉は住居の中の火たき場で焼土・灰・木炭粒・土器片が多くある。なお、その前面に敷き均めてある「石だたみ」は、昭和4年に発掘された、本区岡野町諏訪古墳の石棺の底部をここに移したものである』
鉄柵に囲まれたエリアに、移設された炉の遺構があった。高床式の立派な社殿が建っている。『菅原神社の由来 菅原神社は、上越市清里区菅原字天神林に在って、老針葉樹の繁る境内は、2ヘクタールの面積と、新潟県内では希少な前方後円墳を有し、社殿は本殿・幣殿・拝殿とも神明造である。
創始は、天武天皇3年(575年大和時代)にして、延喜式神名帳に越後國頚城郡13座の1つとして記載され、産土神として崇敬を集めた。貞治5年(1366年南北朝時代)領主・上杉左近将監より黒印地200石が付与されたが、天正年間の雷火により印状を焼失し廃社となった。余地高14石と社人持高31石、諸役免除をもって再建。領主代々の祈願所で祭典時には、奉幣史差遣・幣帛料が献納された。所蔵の堀・松平家からの古文書より、菅原天神として崇敬を得ていたことが窺い知れる。明治5年3月に社殿が炎上し再建、明治38年、高田出身の日本銀行建築技師・長野宇平治博士の設計による、現本殿・幣殿の改築に着手。上越地方に現存する長野博士設計の貴重な建築物である。昭和14年8月、拝殿を改築、同18年8月7日県社に列す。
御祭神は、天照大御神の御子・天穂日命(名義は、高天が原直系の稲穂の霊力)である。後に菅原道真朝臣並びにその御子・道雄卿を配祀(道真公の遠祖が、天穂日命)。更に岡嶺新田、元熊野神社祭神を明治41年6月24日に、荒牧元十二社祭神、元八社祭神を大正元年11月19日に合祀した。
主祭神:天穂日命 元熊野神社祭神:伊邪那岐尊 元十二社祭神:天津神五代・国津神七代 元八社祭神:高皇産霊神・生産霊神・神皇産霊神・足産霊神・玉置産霊神・御膳神・大宮之売神・事代主神 配祀祭神:菅原道具朝臣・菅原道雄卿 例大祭日:8月18・19日』
『新潟県指定文化財 史跡:菅原古墳 指定:昭和27年12月10日
当地岡嶺丘陵の東側斜面に、南北約1.5kmにわたり、古くから150基前後の大・小古墳が群集していた。菅原古墳群の最南端の丘上に、ただ一基成立している「前方後円」式の墳丘である。全長30m・後円部の直径18m・高さ1.8mで、6世紀前後に造られたものとみられている。
6世紀頃、大和地方の中央から、この地方を開発し、新しい文化を普及するため、派遣された豪族の首長か、あるいはこれに比敵するような地方豪族の首長の有力墓とされている。西蒲原郡巻町の菖蒲塚(あやめづか)古墳とともに、県内できわめて貴重な古墳である』
r30〜r198〜r186。田んぼの中に鎮守の森のような高木に囲まれた「砺波の散居村」のような農家があったので激写しました。〜R18〜r13で、9:13「直江八幡宮」。
『式内社 越後國頸城郡・江野神社 旧村社 御祭神:誉田別命・息長帶姫命・玉依姫命 配祀:田紀理姫命・奧津嶋姫命・市寸嶋姫命・武内宿禰命 創祀年代:不詳
康平の頃(1058頃)、源義家が奥州安倍貞任貞任征討の際に社屋を再建。文治の頃(1185頃)、源義経が奥州からの帰路に鎧を奉納、兜を境内の池に投じて武運長久を祈願したという。
天正6年(1578)兵火に罹り焼失したが、慶長3年(1598)上杉景勝により再建。慶長13年、堀秀治が社殿を修復した。後、慶長17年、松平忠輝が高田に築城の際、早苗村より、現在地へ遷座してしまったもの。つまり、もとは直江津の早苗村(上越市佐内町)に鎮座しており、式内社・江野神社の論社と言われている古社。ただし、資料によると名立町・江野神社の神主の舎弟が当社へ奉仕のおり、江野神社祭神を相殿に祀ったようで、当社が式内社であるという証はないらしい。「平成祭データ」によると、配祀神として田紀理姫命・奧津嶋姫命・市寸嶋姫命の名が載っているが、宗像三女神の組み合わせとしては不自然。「日本書紀」の一書では、市寸嶋姫命が遠瀛(沖津宮)の神とあり、奥津嶋姫命と思われる祭神の別名を列記したものかもしれないし、ひょっとすると「平成祭データ」の誤記かもしれない。
社殿の左手に、石祠が並んでいるが詳細は不明。境内に入った右手に、稲荷神社が西向きに鎮座している。社殿の屋根に、桐紋が付いていた。
直江八幡宮御由緒碑 式内社江野神社は、往古頚城郡福島村直江津に在り、按ずるに、延喜式内社にして、江川辺り則ち江川と新川と合う地に鎮座し是れなり。
祭神は誉田別命外六神にして、康年中八幡太郎義家勅を奉じて阿部貞任等を征討す。すなわち反乱を平らげ八幡宮の社殿を新たに建て、兜の中に所蔵する八幡宮の像を納め、以て神馬をも合わせ祠る。文治中源義経奥州下りの途次着する鎧を八幡宮に納め、又兜を境内の池に投じ以て武運を祈る、従って国人曰く八幡宮の兜池という。
天正6年春日山の役により、廟宇兵燹にあい所蔵する什宝概ね烏有に帰し、僅かに存する有るは義経が納めし守護神の像及び義経奉納の鎧のみ。慶長中上杉景勝深く帰依して社殿を修築し、歳時に幣帛を捧げて武門の長久を祈る。
堀左衛門督秀治も之を崇敬し、同17年松平忠輝高田城を築き社地を納むるにおよび、以て藩中の総社と為す。寛永3年の後松平中将光長領内の守護総社となし、又城内の矢場を撰びて直江八幡宮を分霊して遷祭し、国人矢場宮と稱するは是なり。享和八年輪王宮親しく書して江野神社の號を此の宮に納める。余、人の請を容れ其の梗概を書しは斯の如し』
バイクに戻り、r579〜r38で9:35「高田城」Pへ。『高田公園は、徳川家康の六男・松平忠輝が築城した高田城の跡に作られた公園で、全体が、新潟県の史跡に指定されています。現在の公園の地形は、陸軍第13師団が入城する際、明治40年(1907)に土塁の大半を崩して堀を埋める工事が行われたことによって出来たものとされています。公園の面積は約50haあり、市街地の中心部に位置する公園としては、全国的にも有数の規模を誇っています。園内には、復元された高田城三重櫓や総合博物館・小林古径記念美術館・高田図書館・小川未明文学館(高田図書館内)などの文化施設・陸上競技場・野球場等のスポーツ施設・ブロンズ像を配置した遊歩道・岩野勇三ブロンズコーナー・外堀をめぐる遊歩道があり、市民の散策や憩いの場となっています。また、日本画の大家・小林古径の邸宅や、本丸と二の丸を結ぶ極楽橋も復元されています。
高田公園の桜は、陸軍第13師団の入城を記念して明治42年(1909)に在郷軍人会によって2200本の桜が植えられたのが始まりです。現在は公園や、その周辺を含めて約4 000本の桜があるといわれています。夜になると三重櫓と桜がぼんぼりの明かりに映え、お堀の水面に写る様は日本三大夜桜の1つにも数えられ、より一層の華やかさに包まれています。毎年開催される観桜会では、春を待ちかねた市民はもとより各地から花見に訪れる人たちで賑わいます。
高田公園のハスは、戊辰戦争や凶作により貧窮した高田藩の財政を立て直すため、外堀にハスを植えレンコンを育てたことがはじまりです。外堀を埋め尽くすハスは、美しさ・規模ともに東洋一とうたわれています。見ごろは7月下旬から8月上旬で、毎年上越ハスまつりを開催しています。
高田城や陸軍第十三師団の面影 このマップが立っている辺りは高田城があった当時、柳門(中ノ門、御門、黒金門ともいう)が建っていた場所に位置しています。柳門は三の丸から二の丸に渡る柳橋を渡った二の丸側にあり、橋は現在の左手テニスコート辺りにかかっていたと推察されます。現在、この柳門の土台となった御影石が総合博物館の入口横で見ることができます。このほかに公園内では、高田城の土塁や陸軍第13師団が建般した赤門など当時の面彫を感じることができます』
『高田公園ゆかりの周辺施設のご案内
旧師団長官舎 上越市大町2丁目3-30 休館日:月曜(月曜が祝日の場合は、その翌日)/祝日の翌日 12/29から翌年1/3 025-526・5903
明治41年、当時の高田町が誘致した陸軍第13師団の師団長の官舎です。この建物は、陸軍第13師団第3代師団長長岡外史中将が明治43年(1910)「師団長官舎」として建てたもので、移築前は上越市南城町3丁目(高田高校西隣)にありまし史料によると、設計者は陸軍経理部技手・加藤栄太郎、施工者は旧西頚城郡能生町(現糸魚川市)高鳥組(高鳥順作)、工事費は当時の金額で13300円(当時、米一升が12銭)といわれています。着工は同年7月中旬、柱立は8月14日、上棟式は9月12日、落成は11月2日でした。長岡外史中将はヨーロッパでの生活経験を生かし、それを股計に反映させ、当時の高田日報の記事(明治43年11月2日付)ではその詳細を報道し、最後に「其美観実に見物なり」と結んでいます。師団長官舎は、その後、旅団長官舎として使用されたりと、幾多の変遷を経て、昭和20年(1945)の終戦を迎えました。終戦後は米軍が駐留し、自衛隊が高田に駐屯してからは、平成3年まで幹部宿舎として使用されていました。現在の建物は、明治の貴重な洋風建築の保存のため現在地へ移築し復原したもので、その場所は旧市長公舎跡地で、陸軍第13師団の初代と2代の師団長が居を構えていた場所とされています。
町家交流館高田小町 上越市本町16丁目3番4号 休館日:第4月曜日(休日の場合は、その翌日) 12/29から翌年1/3 025-526-8103
今もなお城下町の面影を残す本町周辺には江戸から昭和初潮にかけての歴史的な建物が多く残されています。この歴史を感じる町並み散策にお勧めの施設が町家交流館高田小町です。高田小町は、明治時代に建築された商家の町家を再生・活用した交流施設で、各種の催し会場のほか、城下町高田の町中散策の休館・案内所としてもご利用いただけます。
金谷山公園 金谷山は、明治44年(1911)オーストリア・ハンガリー帝国のテオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐によって日本に初めてスキー術が伝えられた地です。金谷山には、当時の資料を展示する日本スキー発祥記念館、日本スキー発祥記念碑のほか、レルヒ少佐の銅像があり、多くの人に親しまれています。また、山頂からの眺望も良く高田平野の彼方には名峰・米山が日本海にその姿を映し、はるか遠い波間には佐渡島を望むことができます。冬のスキーはもちろん、春から秋のハイキング・BMXコース・スーパーボブスレーと四季を通じて子供から大人まで広く観しまれています。レルヒ少佐はわが国の軍事視察を目的として来日し、1年1ヶ月余りを高田で過ごしました。この間、陸軍第13師団の長岡外史師団長ら良き理解者に恵まれ、スキーの指導にも無心に力を注ぎました。日本スキー発祥記念館はスキー発祥80周年を記念して建設され、平成4年4月にオープンしました。更に長野オリンピックの開催に向け、日本スキー発祥の地「上越市」を全国にアピールするため、増築工事を行い、併せて展示内容の充実を図り、平成9年2月に新装オープンしました。当記念館は、スキーが伝わった当時の貴重な資料やレルヒ少佐の遺品などを展示し、上越はもとより、県外からも多くの皆さんが訪れています。
寺町 上越市寺町界隈 親鸞聖人ゆかりの寺、国指定重要文化財「浄興寺」をはじめ寺町には多くの寺が建ち並んでいます。高田城築城当時の寺町には寺が2列に並べられ、忠輝の菩提寺(洞仙庵)以外は全てここにおかれました。おそらく寺町はいざという時に領内の兵が集合する場所、あるいは宿泊する所にあてるつもりであったのではないかと推測されます。寺町は現在も2列に並んでいますが、築城当時は寺町通りを挟んで、寺と寺とが向かいあっていました。現在の寺町3丁目に寺はなく、後に仲町裏にあった寺町の寺を裏寺町に移した際に、下寺町(寺町3丁目)ができたとされています。戊辰戦争では、会津の降伏人1742人を高田藩が預かることになり、一同を寺町に収容し、約1年半預かったとされています』
外堀には噴水が上がり、周りにベンチがあり、憩いの場になっているようです。外堀を渡ると、城内角に「三重櫓」が見えてきた。再建かもしれないが、この規模の櫓から想像する天守閣が失われているのが残念です。外堀を渡ると「高田藩の歴史」が掲示されていた。
『高田城三重櫓は、本丸南西隅の土塁上に構築され、当時は「御三階櫓」と呼ばれて天守閣にかわる城の象徴になっていましたが、廃城後、明治19年(1886)頃取り壊されました。平成5年に復元されたこの三重櫓は、資料調査と発掘調査の成果を充分にふまえて再建されたものです。内容は三層三階で、東西5間(約9.1m)、南北6間(約10.9m)を基底とし、高さ15m程で外観は御殿風造りを基調としています。屋根は1層・3層が入母屋、2層が寄棟形式で、1層・3層に切妻屋根の出張りを付けています。1階・2階は展示室で、3階は展望室になっています。櫓の東側に付随して50m程の塀も同時に再建されました』
バイクに戻り、10:01「榊神社」。『榊神社の創建は明治4年(1871)、廃藩置県により高田藩(藩庁:高田城)が廃藩になると旧藩士達が榊原高田藩祖、榊原康政(徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる徳川家康の側近の1人。
榊原家の地位を確固たるものとしたことから藩祖として信仰されました)を祀る榊神社設立の機運が高まり明治8年(1875)にその許可が下りました。旧藩士の勇志達が広く募金を募り翌、明治9年(1876)に現在地(当地は旧藩主別邸の対面所跡地とされます)に社殿を造営し、康政公の御霊を勧請し榊神社としました。
榊神社は明治39年(1906)に県社に昇格し、康政公以降の名君とうたわれた3代忠次公(康政の孫、大須賀忠政の長男で横須賀藩主でしたが康勝の養子となりました。幕府の老職などを歴任し、領内整備にも尽力した)、11代政令公(産綬事業の推奨、赤倉温泉の開発、人材育成に尽力した)、14代政敬公(第二次長州征討では長州藩に敗退。戊辰戦争では新政府軍に組し各地を転戦しています)が順じ合祀されています。神器として康政公の鎧、冑、刀剣など榊原家縁の品を多数所有しています。毎年5月に行われる春季例祭では居合や神楽、舞踊が奉納されます。榊神社の拝殿は切妻・銅板葺・平入・桁行4間・梁間4間・正面1間切妻向拝付。
本殿は一間社神明造り、銅板葺。
ご幇神御遺徳 藩祖・康政公 公、15才より家康公に伺候以来、誠忠比類なく、剛勇・智謀兼備にして数々の武功を挙げるとともに無私・公正にして敵味方の別なき信望を集め、徳川政権樹立に貢献、「徳川四天王」と称さる。立藩の地、館林にありては、城下整備・民生安定に優れた事績を残すとともに、「尚武勧学」の気風醸成に努め、その遺風は榊原家藩風として転封の地、白河・姫路・村上・高田へと受け継がる。
3代・忠次公 公、襲封の地、要衝白河・姫路においては武備怠らざる一方、広く古今和歌収集・著名学者招聘など学問・文芸振興に努め、「文治時代」を先導するとともに「愛民」の志に基づく民福優先の徳行と清廉にして温和な人柄とが相まってあまねく領民の敬慕を集む。
11代・政令公 公、高田転封時、貢祖不足の上、相次ぐ自然災害によって極端に逼迫した財政再建のため、藩士給禄借り上げ・諸産物に対する新規課税・領民からの借金など非常手段を取らざるを得なかった9代・10代藩主時代の路線を継承、さらに「藩士の内職許可」など「体面にとらわれない緊縮策」を推進する一方、山間高冷地開拓・赤倉温泉開湯など殖産興業にも意を用い、財政建て直しの曙光を見るに至る。
14代・政敬公 公、長州戦争に再度出兵、戊辰戦争勃発後の急変した政局に処して藩論を「哀訴諌靜」に集約、折衝するも、新政府による「不審藩」の疑念払拭容易ならざる上、東征軍先鋒に任ぜられて各地に転戦、更には戦後、会津降伏人多数を預けられるなどの苦難を克服す。廃藩置県後、城址売却の巨費を旧藩士子弟育英基金に下賜されるなどの事後を刻む。
祭日 例祭:5/13・14慶長11年5/14康政公ご逝去の日に因んで 新年祭:1/1 秋祭:9/13・14 七五三祭:11/15 月例祭:毎月1日・15日』
神明式の鳥居でした。神殿も神明式がベースです。
バイクに戻り、r38〜r198で、10:14「旧師団長官舎」。『この建物は、旧陸軍第13師団の第3代師団長・長岡外史中将が「師団長官舎」として明治43年に建てたものです。旧所在地は、南城町3丁目(高田高校の西隣)でしたが、老朽化したため、初代と2代目の師団長が居を構えていたといわれている「旧市長公舎跡地」に移築・復原したものです。
解体・移転・復原に際しては、古記録・古写真・痕跡等により、できるだけ建設当初に近い形にすることをめざし、門柱および建具の一部や家具・カーテン・洋室の照明器具等も当時の写真によって再現しました。また、外壁の塗装色も科学的分析により、最初に塗られたペンキの色を採用しました。アプローチ・前庭・後庭の珍しい下がり池などによって構成される廻遊式庭園とも調和したこの「旧師団長官舎」は、市内に残る数少ない明治期の洋風木造建造物であり、貴重な歴史的遺産として保存・活用し、市民の「明治期のアルバム」として後世に残すことにいたしました』
『この胸像は、明治43年6月から2年7か月の間、当時の旧陸軍第13師団の師団長を在任し、また、上越市が日本のスキー発祥の地となった基を築いた「長岡外史中将」の像です。明治44年1月、中将は、この地を訪れた当時のオーストこの地で始まりました。これが後に「日本のスキー発祥の地上越市」を全国的に決定付ける歴史的瞬間でありました。その後、軍隊だけではなく、広く民間に普及させるため、日本スキー倶楽部を上越市に創設し、さらに、全国に支部を設けるなどスキーの普及と発展に努めました。
また、中将は、桜をこよなく愛し、その育成に努めました。桜の名所100選の地に選ぱれ、日本三大夜桜ともいわれる高田公園の桜。この美しい景観の礎も中将が築きました。胸像は、本山白雲の作で、ご遺族からご寄贈いただきました。これを受け、有志の方々が中将の業績を永く伝えようと、昭和50年10月13日、高田公園内に設置されました。その後、旧師団長官舎の移築、復原に伴い、ここに移設したものです』
木造洋館瓦葺の感じの良い建物でした。無料入館出来るようで、入ってみました。
『第4師団長・秋山好古
第13師団の第4代師団長 大正2年(1913)1月、陸軍中将・秋山好古が第13師団の代4代師団長に就任します。秋山の前任者は陸軍へのスキー導入や航空界の振興・啓蒙に尽力した長岡外史でした。秋山好古は、安政6年(1859)1月7日に伊予松山藩士・秋山久敬(ひさたか)の3男として誕生します。明治9年(1876)7月に大阪師範学校を卒業後、名古屋師範附属小学校の訓導を経て、翌明治10年に陸軍士官学校へ入学。明治12年に陸軍士官学校を卒業、陸軍騎兵少尉に任じられます。その後、陸軍大学校(1期)・参謀本部への出仕を経て、明治20年7月から同24年12月までフランスへ留学、軍事研究や騎兵戦術の習得に精励しました。
日本騎兵の父 秋山好古は、フランス留学から帰国すると明治25年(1892)に騎兵少佐となります。明治27年の日清戦争では、騎兵第1大隊長として出征し、旅順攻略などで戦功を立てました。日清戦争後は陸軍乗馬学校長・騎兵実施学校長を歴任し、騎兵部隊の発展に尽力します。明治35年に陸軍少将となり、明治37年からの日露戦争を騎兵第1旅団長として迎えます。日露戦争では、当時世界最強と言われたコサック騎兵と激突した黒溝台(こっこうだい)会戦や奉天会戦などで騎馬戦術を駆使して力戦しました。日露戦争後の明治39年には騎兵監となり、騎兵科の充実に心血を注ぎます。数々の戦功と騎兵教育を確立した秋山は「騎兵の秋山」「日本騎兵の父」などと称されました。なお、秋山好古の実弟には、バルチック艦隊を撃破した日本海海戦における海軍の作戦参謀であった秋山真之がいます。
第13師団長時代のエピソード 秋山好古は、明治42年(1909)には陸軍中将へ昇任、大正2年(1913)1月28日に第13師団長として高田へ赴任しました。日本騎兵の父と称される秋山については、第13師団長時代のエピソードも伝えられています(秋山好古大将伝記刊行会「秋山好古」)。
赴任直後、秋山は旅装を解くこともなく、満州駐屯の命を受けた第13師団各隊の巡視を行います。この巡視の際、折からの大雪のため秋山の乗車する列車が鉢崎(はっさき)駅で立ち往生しました。一行は列車内で夜を徹し、待ち合わせの菓子で空腹を凌ぎます。翌日になっても開通の見込みが立たない中、師団長一行の立ち往生のことが近在に伝えられ、在郷軍人らが酒徳利を持参し見舞いに来ました。しかし、秋山らの空腹を満たす飯を持参した者は1人もなく、一行はみな顔を見合わせて苦笑するばかりだったといいます。無類の酒好きとして知られる秋山好古らしいエピソードと言えます。
秋山は大正4年2月に近衛師団長として転補します。第13師団長は2年余り務めますが、満州駐屯もあり高田滞在は数ヶ月でした。その後、大正5年に陸軍大将へ昇任、大正12年に予備役となり、同13年から昭和5年まで郷里松山で中学校校長となりました。昭和5年11月4日に逝去。墓所は松山市の鷺谷墓地にあります』
好きな秋山兄弟の話が読め嬉しかった。司馬遼太郎「坂の上の雲」の世界です。
『レルヒ少佐の来日
明治44年(1911)1月5日、オーストリア・ハンガリー帝国のテオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐が第13師団に着任しました。日本の近代スキーの父と言われるレルヒの来日は、大国ロシアと戦った日本軍の調査・研究という軍事視察を目的としたものでした。またレルヒ自身も、個人的に日本と日本軍への高い関心を持ち日本行きを希望します。レルヒは明治45年1月24日までの1年1ヶ月ほど高田に滞在しました。
日本最初のスキー講習
明治43年(1910)12月27日、陸軍省はレルヒの高田派遣とレルヒが大変スキーが上手く、スキーと書籍を送るので適切な方法で実験すること、などを第13師団に通知しました。陸軍省としては、明治35年の八甲田山遭難事件を念頭に、レルヒ来日をスキー導入の好機と捉えたのかもしれません。第13師団長の長岡外史は、直ちに高田スキー研究委員会を組織、歩兵第58連隊長の堀内文次郎を委員長としてスキー研究を始めます。研究委員会は、スキーとソリとの比較、軍用スキーとしての利用、一般の交通具や体育に適するか、というスキー研究の目的をまとめます。これは、雪国の「文明発展」・国民の体育へのスキー利用を志向した長岡師団長のスキー観を反映したものでした。
明治44年1月12日、レルヒによる日本最初の本格的なスキー講習会が行われます。約2ヶ月・34回に及ぶ講習会は、練兵場や金谷山付近においてスキーの着脱・平地行進・滑降訓練から射撃訓練・スキー登山など軍用スキーの演習まで行われました。師団は、軍事上の利用よりもむしろ民間用の交通や体育への活用が有効、と報告書にまとめました。
レルヒは、講習中の2月10日付で母国にいるスキーの師マティアス・ツダルスキー宛に絵葉書を送っています。金谷山で第13師団の将校とともに写っている絵葉書では、「日本最初のスキー教師」として自身を伝えつつ、下に毛皮を着ているため肥満体に見えることを侘びて弁明しています。レルヒは肥満をしていない姿を証明するため、毛皮を脱いだ服装の絵葉書も送付しており、誇らしげに写っているレルヒの内面を伺うエピソードと言えます。
スキーの普及・発展 そして100周年
レルヒの伝えたスキーは、明治44年(1911)2月19日に発会する高田スキー倶楽部や新聞によるスキーの紹介などを通じて、新潟県内から広く全国まで普及していきます。明治45年1月21日には日本最初の競技大会が高田で開催され、翌大正2年(1913)には全国スキー大会も行われました。その後も、全国的なスキー熱の高まりとともにスキー生産をはじめとするスキー産業や、スキー民謡などのスキー文化が発展していき、スキーはウインタースポーツとして全国的に親しまれまれるようになります。平成23年(2011)、長岡外史とレルヒの偶然の出会いにより高田が近代スキー発祥の地となってから100周年を迎えます』
2F窓から、手入れはイマイチだったが裏庭が見えた。
『第13師団長・長岡外史
長岡外史・第3代師団長に就任
明治43年(1910)6月1日、第13師団の第3代師団長として陸軍中将・長岡外史が就任しました。長岡外史は、陸軍へのスキー導入や初期の航空界の振興・啓蒙で知られ、白髭と馬車の愛用でも有名な明治・大正期の陸軍軍人・政治家です。長岡外史は、安政5年(1858)5月13日周防国都濃郡末武村(現在の山口県下松市)の大庄屋の堀家に生まれ、幼名は忠蔵といいます。明治2年徳山藩士長岡南陽の養子となり、明治8年に陸軍士官学校へ入学後、西南戦争の従軍・陸軍大学校(1期)を経て、参謀本部へ出仕、明治27年の日清戦争では臨時混成旅団(大島旅団)の参謀になります。ついで、欧州視察を経験、明治37年の日露戦争では参謀次長として旅順攻略などで指導的役割を果たしました。そして、明治42年陸軍中将に昇任、明治43年6月15日から大正2年(1913)1月までの約2年半を師団長として高田で居住しました。
師団長官舎落成
明治43年(1910)11月28日、長岡外史の邸宅となる第13師団長の新官舎が南城町3丁目に落成しました。官舎の建築は同年7月に着工され、総面積1330坪・建坪80坪・物置34坪・経費は13300円でした。陸軍の建築技手・加藤英太郎が設計しましたが、その多くは長岡外史の指示によるものでした。官舎は瓦葺の2階建てで、1階は洋風・2階は床の間付の座敷など和風の構造です。和洋折衷の構造が長岡式と呼ばれた師団長官舎は、平成5年(1993)に大町2丁目に移築復原され、往事を偲ばせる貴重な文化財になっています。平成22年(2010)に落成してから100年をむかえました。
長岡外史は、大正4年(1915)8月8日予備役に編入され、12月に国民飛行会の会長となります。昭和7年(1932)の「飛行講演日誌」には、長岡が大正4年から昭和7年までに行った航空機に関する講演の年月日・場所・聴衆概算などが記されており、総計で448ヶ所・聴衆は約20万人を数えます。聴衆は政府・官庁役人から全国の小中学生に及びました。また、大正12年の関東大震災に際しては、民間の飛行家を結集して東京・大阪間の郵便飛行に尽力しました。大正13年には衆議院議員に当選し、議会で航空行政に関する質問演説を行っています。
プロペラ髭の師団長
航空界の振興・啓蒙に後半生を懸けた長岡外史の代名詞ともいえるのが、プロペラ髭と言われる見事な白髭です。長岡が74才の時(昭和6年1931)に撮影された写真では、白髭は頬から先まで25cmの長さを誇っています。写真に写る長岡外史の年齢は、髭の長さと色合いで大体の見当がつくと言われています。長岡外史は昭和8年4月21日に逝去、東京都港区の青山墓地に眠っています』
『まちのにぎわい 師団の年中行事・朝市
師団の人々
第13師団の高田入城は、高田の町に人口増加をもたらし、写真屋・洋服屋など多くの商店を誕生させます。入城時の師団の人員は、将校280人・下士兵卒3328人でした。高田の人々は、歓迎歌や旗を振るなどして、市中を行動する各隊を迎えました。当時の人口は24385人でしたが、大正2年(1913)には29296人に増加しました。
下士や兵卒は兵営内で生活しましたが、日曜日は夕方5時半までは外出許可が出たため、日曜下宿(宿舎の外に部屋を借りてそこでくつろぐこと)を行う者が多く見られました。歩兵第58連隊の営舎に近い南本町では、兵隊やその家族を対象とする飲食店・居酒屋・旅館・土産物屋・洋服屋・写真屋・靴屋などが続々と誕生し、軍隊町と呼ばれました。
朝市
第13師団による野菜の定期市場設営の要請をきっかけにして、2と7がつく日に開催する「二・七の市」が、明治43年(1910)10月7日に高田横町(現本町2)で開設されます。市場には周辺の農村から納入された野菜・果物のほか、古着・生魚・ひもの・荒物・雑貨が並びました。更に大正9年(1920)には高田須賀町(現本町2)で「四・九の市」が開かれます。「四・九の市」は大正11年頃自然消滅しますが、大正13年夏に復活しました。
軍隊の年中行事〜観兵式・軍旗祭〜
師団の入城後、観兵式・軍旗祭・招魂祭などの軍隊特有の行事が大いに町を賑やかにします。1月8日の陸軍初めと天長節祝日(天皇誕生日)には練兵場で観兵式が行われました。明治44年(1911)11月の観兵式には、新発田・村松・松本に駐屯する第13師団の部隊も集合し、会場では学校生徒・婦人団・一般観覧者の場所も用意され、各隊のパレードを見学しています。
軍旗のある歩兵第58連隊や騎兵17連隊では、天皇から授けられた日に軍旗祭を行いました。軍旗祭の日は、歩兵連隊が8月8日(のち4月8日)、騎兵連隊が4月15日でした。軍旗祭では、飾り付けられた営舎の内部が一般に公開され、軍旗入場・敬礼・行進などの儀式ののち、演習や運動会などが行われました。歩兵連隊では模擬戦・相撲大会や銃剣術試合などの催しが、騎兵連隊では騎馬競争など騎兵特有の余興が行われました。人々は余興を楽しみ、会場に設けられた模擬店で飲食しました。
また、兵営の入営・除隊なども軍隊の行事のひとつとして、町は見送りの幟や出迎える家族・同郷の者で賑わいました』
r198〜r199〜10:38「善導寺」。立派な仁王様が山門を守護していた。門には、大きな下駄が沢山下げられており、仁王様に奉納されたのでしょう。
『「龍神井」伝説
当山は、室町中期・文明7年(1475)布教の為、京から下向された蓮開上人によって、光明寺の名で今町(直江津)の西浜に開基創建された。奇しくも海中出現の善導大師(唐の聖僧)の尊像にめぐりあうという仏縁により、これを本尊とし、「善導寺」と改称された。慶長19年(1614)松平忠輝の高田開府と共に、この地に移転、十二間四面の豪壮荘厳な堂の落成をみた。
その落慶を祝う記念行事として江戸から幡髄意上人(ばんずいんしょうにん)を招き、「百日説法」を厳修。その間1日も欠かすことなく日参して熱心に聴聞している気品高き人物がおり、退去した後の座席の畳がいつも濡れていた。満願(百日目)になり、その人が上人に向い「私は櫛池村(清里区)の「青柳の池」に棲む龍神であるが、未熟の者で得道できずに悩んでいる。どうか成仏の道を教えてください」と嘆願した。
上人は、その熱意に感銘して高弟の髄波坊(ずいはぼう)を青柳へ遣わし「一年血脈の奥義」を1対1の対座で伝授させ、得道させることができた。歓喜感激の龍神は、直ちに善導寺に参向し、礼の品として「龍玉」「龍燈」「龍水」を寄進献上して立ち去ったという。
その「龍水」が、この「龍神井」であり、どんな旱天(かんてん・ひでり)でも丼戸水がかれないことから、池底より水がこんこんと湧き続けて水位が通年変わらない青柳の池の水と神通力により水脈が繋がっていると言われている。この一連の物語は、「杢太将監曼陀羅(もくたしょうげんまんだら)」(絵巻物)として今に寺に伝わっている。
当山参詣の善男善女人の皆さん、願わくはこの龍神の霊にあやかって、共励互助相携えて、法義を悟り、仏恩に報いたいものであります』
『小栗美作の偉業をたたえて
小栗家は、越前松平家に仕え、大坂夏の陣で真田幸村勢ら75人を討ち取るほどの殊勲を立てる名門です。小栗美作守正矩(まさのり)は高田藩家老職・小栗五郎左衛門正重の長男として寛永3年(1626)高田で生まれました。正重は善政を施し殖産興業に努め、繁栄を図りましたが、寛文5年(1665)の高田大地震により城内で圧死しました。美作は父の跡を継ぐとすぐさま江戸幕府へ申請して、米3000俵を見舞いとして受け取り、被災者に与え、同時に5万両の大金を借りて城の修理と災害復興資金に充てました。今日の高田の市街区画整理が、このとき造成されました。
人生不惑の域に達した美作は、優れた頭脳を持ち、父の遺志を受け継ぎ殖産興業に尽力しました。直江津港の補修、関川の浚渫、中江・西中江用水の開削、魚沼の銀山採掘、大潟・保倉谷新田の開発など多くの事業を推進しました。特に野尻湖に源流を求めた延長6里18町(26km)の中江用水開削は、300年以上経た今もその恩恵を受けています。これは頚城の大開発期とも呼べる時代で、それを推進した小栗美作は、まさに上越地方振興の偉大な先駆者でありました。
このように「万代不易」の功績を残した美作でありましたが、高田藩内で起こった藩主・松平光長の跡継ぎをめぐる争い、いわゆる越後騒動のため、その張本人として悪名を着せられ、5代将軍・徳川綱吉親裁のもとに、天和元年(1681)6月22日、子の掃部(かもん)大六とともに切腹を命ぜられ果てました。美作56才、掃部18才の生涯でした。美作が我が子掃部を藩主光長の嗣子として、跡継ぎにしようとしたという越後騒動の通説は、まったく事実無根のことであります。
ともあれ、美作の偉業により完成した中江用水は、今日なお美田を潤し、水力発電の源となり、農業を始め頚城の地の産業発展に寄与されている功績はまさに不滅であります。組合員一同その功績をたたえ、心からご冥福をお祈りいたします。 昭和61年6月設置・平成24年6月改修 関川水系土地改良区』
10:51「称念寺」。時宗の寺院でした。『国指定重要文化財 木造 一鎮上人倚像(いっちんしょうにんいぞう)一体 南北朝時代
称念寺の開基とされる一鎮(1277〜1355)は越後国妻有庄(つまりのしょう・現在の十日町市)の出身で、時宗の開祖一遍から数えて6代目の遊行上人である。木像は寄せ木による等身の木彫像で、合掌する姿は時宗の上人像の特徴を示す。京都長楽寺の重要文化財7件などが伝来しているが、倚像(椅子に腰掛けた像)である点、類例はきわめて少ない。写実性豊かな頭部の表現から、仏師運慶の技法を継承した京都七条仏所による制作と判断され、慶派の肖像彫刻として、県内唯一の貴重な遣品である。称念寺は元来、直江津の国府にあったが、高田開府とともにこの寺町に移った。本像は彫刻史上の価値とともに、今はない中世越後国府の謎を多く物語っている。 平成11年6月7日 文部大臣指定 時宗・称念寺』
10:54「浄興寺」。『浄興寺は浄土真宗の宗祖・親鸞聖人によって創設された寺院です。聖人は承元元年(1207)念仏禁止令により越後の国、国府(旧直江津市)に流罪となられましたが、越後滞在7年の後、妻子と共に常陸国(茨城県)へ移られ、笠間郡稲田郷(笠間市稲田町)に稲田禅坊を開かれました。
聖人は農民や下層武士を主とする民衆に布教されるとともに、自己の信仰を深められ、真宗の根本聖典である教行信証を著わされました。そのお喜びのお気持ちを山号・寺号に顕され、この禅坊を歓喜踊躍(かんきゆやく)山浄土真宗興行寺、略して浄興寺と名づけられました。ときに元仁元年(1224)本願寺の創建より48年前のことでした。
聖人は浄興寺にとどまるところ10余年、京都へお帰りになり弘長2年(1262)90才で入滅されました。聖人の御頂骨ならびに遺宝物は御遺命に従い当山第2世善性上人(後鳥羽天皇皇子)によって一宗開闘の地、稲田浄興寺に安置されました。後に稲田浄興寺は戦火をうけて灰燼となり、寺領のある信濃国水内郡太田庄長沼へ移りました。
以後、およそ300年間長沼にありましたが永禄4年(1561)川中島合戦の兵火をあびて堂宇炎上し、永禄10年(1567)上杉謙信公の招きにより春日山城下に移り堂宇を建立し上杉家の紋章を拝領しました。
慶長12年(1607)上杉家会津移封のあとをうけた堀氏が福島(旧直江津市古城)に築城すると福島城下へ転じ、さらに松平忠輝公の高田築城と共に高田へ移り、寛文5年(1665)の地震により堂宇崩壊したので、時の藩主・松平光長公の市街復興計画に従い現在の地に堂宇建立し300余年の年月を経て、現在に至ります。尚、平成元年には本堂が国の重要文化財に指定されました』
r63〜r180で、上杉謙信の居城「春日山城」に向かいます。『史跡・春日山城跡 頚城平野の西北に位置する春日山上にあって、上杉謙信公の居城地であった。この山上に本丸を構え、二の丸・三の丸をその下に配し、土塁濠を重ねて比隣に勢威を示した。春日山は別名・名峰が峰と称し、眺望に富み付近の属城を充分に監視する事が出来た。本丸の後方、一番低い所に大井戸はあって夏でも水の枯れることがなく、その北方に毘沙門堂及び御花畑があった。また西方には鐘楼跡や景勝屋敷跡等があって、南方の二の丸・三の丸方面に家臣の屋敷跡が点在し、規模は極めて雄大である』
更に春日山城に向かうと、「大手道」口がありました。『この道は、江戸時代に描かれた春日山城の古絵図に大手道と記載されていたことから、当時の人々もここを春日山城の正面玄関と考えていたことがわかる。ここから春日山城に入ると、最初に視野が開ける場所が番所である。番所からは正面に本丸が望め、城があった頃は入城する人々を威圧したと想像される。道は南三の丸や柿崎屋敷など春日山城の主要な屋敷を経て本丸に至る』
本来、ここから城に登って行ったのでしょう。近くにPがあり、数台の車が停まっています。登山口にあるようなボックスがあり、中に「春日山城跡めぐり」のパンフレットが入っていた。
『春日山城と上杉謙信公ミニガイド
戦国の名将・上杉謙信公の居城として今も天下にその名をとどろかせている春日山城は、越後守護上杉氏が戦時のために築いた城で、今の県庁にあたる守護所(直江津駅南)から約4kmの位置にあり、関東・信濃・北陸への往来が一目で監視でき、守護代長尾氏が守護と連繋して守っていました。
春日山城は、石垣がなく、自然の地形と土木工事により巡らせた空堀や土塁などによって多くの曲輪を守っていました。また天守閣を持たず、周囲の山々に砦を築いて、より大きな城としての機能をもたせていました。こうした城の造りは、戦国時代の山城としての特徴をよく表しています。
天正7年(1579)に養子の上杉景勝に、慶長3年(1598)には景勝の会津移封に伴って堀秀治に引き継がれました。しかし、堀氏が慶長12年(1607)直江津港近くに福島城を新築して移ると、城としての使命を終えました。春日山城跡は、城としての歴史だけでなく、自然の宝庫として、四季折々の豊かな表情を訪れる人々に見せてくれます。
戦国の名将謙信公は享禄3年(1530)、越後守護代長尾為景の末子として生まれ、7歳のとき林泉寺に入り、名僧・天室光育から厳しく文武の道を習っています。14歳で元服して長尾景虎と名乗り、19歳で兄・晴景に代わって越後守護代になりました。以後、越後統一、信濃・関東・北陸への出兵が生涯続きます。永禄4年(1561)に鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉姓と関東管領職を上杉憲政から譲られ、上杉氏を名乗ることになります。
天文22年(1553)と永禄2年(1559)の2度にわたって上洛し、天皇や将軍に拝謁して、厚い信頼を寄せられました。武田信玄と5度も川中島で戦っていながら、かえって信玄に救援の塩を送ったり、また領土的野心で戦をしたことは一度も無かったといわれるほど「義」に篤い武将でした。天正6年(1578)、関東出兵を前にして、突然、49歳の生涯をとじました』
11:29「春日山城」P。2度目の春日山城です。中学生の頃上杉謙信が好きになって、ずっとここに来たかった。数年前に城攻めしようと一度来ましたが、信州ツーリング2日目の午後で疲れていたので、山頂の城跡を遠望しながら、不本意ながら撤退しました。「今日は必ず登るぞ」。バイク装束を脱いで軽装に着替えます。眼の前に長い石段を登り、「春日山神社」にお参りします。社名の彫られた石柱横に「元帥大勲位伯爵 東郷平八郎 書込」と彫られていた。境内に神輿殿がありました。
『謙信公みこしの由来 謙信公みこしは、上杉謙信公の遺徳を偲び、公の義の精神により社会の平和と繁栄を念願し奉納されました。総ケヤキ造りで重量約1.2トンあります。初代滝川美堂作上杉謙信公像が奉安された春日山城下の人々の寄進により平成3年8月4日入魂式を行い毎年8月の謙信公祭に春日区の全町内を巡行し、総勢300人近い担ぎ手によって渡御されています。 春日山毘龍会』
神輿殿を覗くと、素敵な神輿が置かれていた。『この下方に「御屋敷」と名付ける大きな郭(60×110m)があり、城主の館跡とされている。御屋敷の上下に右近屋敷その他大小の郭があって「根小屋」を形づくっている。その下に黒金門や蓮池があり、この口が府内口で、春日山神社のある郭への道が通じている』
11:37、城攻め開始。『本丸600m・直江屋敷400m』。三脚に載ったカメラが道に向かって設置されていた。『調査中です。カメラに触らないで下さい。 上越教育大学・理科・中村研究室』。獣の調査なのでしょうか?
『千貫門 春日山城の古絵図に必ず描かれている門が千貫門である。それは、この門が古くから知られていたことを物語っている。今でも門が建っていたと考えられる部分のみ、土塁が分断されていて、春日山神社側からクランク状の道がここに通じている。三方が土塁と土手に囲まれ、左に2本、一見道と思われる切り通しがある。実は、これは空堀の底で、侵入者を空堀から急嵯な崖下に落とそうとしたものであろう。周到に計画された普請は、本丸と千貫門の外とを区画する重要な地点であったことをうかがわせる』
『空堀 千貫門の内側に連続する2本の堀が造られており、門の位置からは道のように見える。空堀は通常尾根を分断するように造られるが、ここでは堀の形に見せながらも、門から侵入した敵を沢に落とすように巧妙に仕組まれた道のように思われる』
『空堀 ここは通称搦手(からめて)、あるいは附内口で、春日山神社の郭を経て謙信の銅像の裏から登る道がここに通じています。それを断ち切るのがこの空堀で、平素は橋が架かっていました』
『虎口 城に入る玄関にあたる所を「虎口」という。この虎口は、敵が城内に直進できなくするため、図のような食い違いになるよう工夫されている。春日山城は、謙信公の頃に拡大され、壮大な城郭になったと考えられている。かってここまでが城の範囲であったと推測される』
ここで視界がひらけ、山頂の主郭が見えた。『帯郭 山城によく見られるもので、郭のまわりにある斜面の中程を水平な帯状に削り出した平坦面をいう。特に重要な郭を防御するために造られたと考えられ、春日山城では本丸周辺と、直江屋敷を取り巻くように造られている』
谷越しに、山頂の本丸郭の周囲を守備する多数の郭が見えます。11:51「直江山城守宅跡」。ここまで標高を上げると、山並みが見えてきました。『直江屋敷 上杉家の重臣・直江家の屋敷跡と伝えられ、お花畑から千貫門までの間に上下3段の郭が造られている。現在は遊歩道があって使われなくなっているが、郭と郭をつなぐ古道も残っている。直江家は上杉謙信公の父為景の代から重臣として仕え、山城守兼続は謙信公の跡目を継いだ景勝の家老として活躍したことがよく知られている。景勝が会津へ国替えになった時に同行し、米沢藩30万石の城主になったことでもその活躍が偲ばれる』
「直江屋敷」の上の郭が「御花畑」郭があった。『直江屋敷20m・本丸150m』。その上の郭に「毘沙門堂」があった。上杉謙信の物語には、戦の前には謙信が籠もって瞑想し戦勝祈願するのがこの毘沙門堂。旗印には「毘」。これに影響され、僕も四天王の中で最も好きなのが毘沙門天になった。とうとう来ました。側近でさえ、謙信が籠もっている時は入れなかった毘沙門堂が、こんなに本丸に近いとは意外でした。
『毘沙門堂
この御堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像(青銅製、約50cm)が安置されている。尊像は景勝公のとき会津を経て米沢に移ったが、嘉永2年(1849)の火災で被害を受けた。昭和3年(1928)に束京美術学校に修理を依頼し、名匠高村光雲氏が修理した。そのさい、ご分身が作られ、尊像の欠け損じたのをその体内に収め同5年3月に完成し、その後当市(当時春日村)に寄進され、この祠堂に奉安した。
毘沙門天は悪魔を降す神であり、謙信公は自らの軍を降魔の軍とみなし、「毘」の旗を陣頭にかざし、また事あるときはこの堂前で諸将に誓いを立てさせた。毘沙門天は四天王のうち、北方を守る多聞天でもある。この尊像は多聞天の姿であり、城の北方を守る意気をもっていたものと思われる』
ここまで上がると、外界の平野・日本海まで見渡せた。『護摩堂 謙信公が出陣前に毘沙門堂に寵ったことはよく知られているが、護摩を焚いて戦勝や息災を祈祷したのがこの護摩堂である。護摩の修法は、毘沙門天の信仰とともに謙信公が真言密教を深く信仰しくていたことを如実に物語っている』
12:05「本丸郭」到着。『史跡・春日山城跡 頚城平野の西北に位置する春日山上にあって、上杉輝虎(謙信)の居城地であった。この山上に本丸・椿丸・二の丸・三の丸をその下に配し、土塁・濠を重ねて比隣に勢威を示した。頂上は蜂ヶ峰と称し、眺望に富み附近の属城を充分に監視することが出来た。本丸跡の後方、一段低い所に大井戸があって、夏でも水の枯れることがなく、その北方に毘沙門丸及び御花畑があった。また西方には鐘楼堂や景勝屋敷跡等があって、南方の二の丸・三の丸方面には、家臣の屋敷跡があった。規模は極めて雄大である』
『本丸 南隣の天守台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれたところ。標高180mの本丸からは、かっての越後府中(直江津)と周辺の山々の支城跡や日本海が一望できる。関川右岸に広がる、林に囲まれた村落が点在する風景は、慶長2年(1597)の「越後国絵図」に描かれた中世の景観とほとんど変わらない』
ここまで写真を写しながらゆっくり上ってきました。最初前を歩いていたのですが、高齢で両方の手に持ったストックを支えに上って来られたご夫婦に途中で追いつき、会話を交わしながら上がりました。「どちらからですか?」と聞かれたので「兵庫県からです」と答えると、「遠くまで春日山城の名前が届いているのですね」と喜んでおられた。ご夫婦は地元の方で長年麓に住んでおられるそうです。小学生の頃から上杉謙信公の遺訓や生き様を学んできたそうで、定期的にこの城に登っているそうです。「今日も登れたね」という感じで、旦那さんが奥様を労っている感じが見え、「こうありたいな」と感じさせるご夫婦でした。
ここで、スマホで写真を撮り、家内にLINEで送りました。「とうとう、上杉謙信の春日山城に登れました」とのメッセージと共に。この旅の目的の1つが「春日山城に登ること」と伝えていたので、「良かったね・・・」の返信が嬉しかった。「お先に失礼します」と先ほどのご夫婦に挨拶して、下山を始めました。
『二の丸 本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成している。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられている。古絵図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っていることも、当時の二の丸における生活を知る手掛かりとなっている』
『謙信公の財政を支えた「青苧」(あおそ) 古くから「越後上布」の原料として珍重された青苧。上杉謙信公も、青苧商人や港に出入りする船から税を徴収して、米・金銀と共に軍事と財政力を支えていました。ここに植えてあるイラクサ科のカラムシの茎から採れる繊維が青苧です。カラムシは、雨が多く、湿度が高い場所、そして風の弱い土地を好むため、越後(新潟県)は上質な青苧の産地でした』
『三の丸 謙信公の養子「三郎景虎屋敷跡」や「米蔵跡」などを総称して「三の丸屋敷」と呼ぶ。それぞれの屋敷は段違いに造られて区分され、「景虎屋敷跡」の東端に入口が設けられ今も道が残っている。三郎景虎公は、小田原の北条氏康の7男であり上杉氏と北条氏の同盟締結の際に謙信公の養子となった武将。謙信公が自らの名を与えるなど破格の待遇を受けていたが、謙信公の死後跡目を争った「御館の乱」で敗れ悲運の死を遂げた。「米蔵跡」の名が示すように、城機能の中核施設が置かれた場所として考えられており、春日山城跡で最も良好な状態で残っている土塁はこの三の丸の防御の役割を果たしていた。当時はこのような土塁が各郭に築かれ、春日山城の守備をいっそう強固にしていたと想像される』
12:39、春日山神社と同じ標高にある「上杉謙信像」まで降りてきました。
『春日山城 上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、今から約600年程前の南北朝時代に築かれたといわれており、越後府中(直江津)を守る拠占であった。その後、謙信公の父為景・謙信・景勝の3代にわたり普請に努め、現在見られる大城郭になったと考えられている。
春日山城の特徴は、標高180mの本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、裾野に巡らされた総延長1200mの総構え(通称監物堀)である。関東管領として、関東・北陸に覇を唱えた戦国大名の居城にふさわしい大城郭といえる。
謙信公銅像 上越市内を見下ろす謙信公の銅像は、昭和44年に滝川美一によって制作された。像高305cm・重量約800kg』
『春日山神社のご案内
本殿正面にお祭りしている神様:春日山城主・上杉謙信公童話作家・小川未明の父・小川澄晴が昔のままに謙信公にお住まい願おうと建立しました。若い人達に競技の神様、縁結びの神様として人気があります。
本殿に併せてお祭りしている神様:菅原道真公(学問の神様)・岩屋大黒天(商売繁盛の神様)
境内の石のお宮にお祭りしている神様:北海稲荷大明神(商売繁盛の神様)
ご祭礼:5月5日みたま祭り(春祭)・8月中旬謙信公祭(秋祭)
神社建築と境内の施設
本殿と拝殿:宮大工・江崎長三郎の作で明治34年の建立です。長三郎は国分寺の三重の塔を始め、小丸山別院や京都東本願寺の大門なども造った郷土の名工です。春日山神社記念館:上杉謙信公の宝物室 謙信公の毘・龍・曰の丸の軍旗・阿字観本尊・漢字手本などを展示しています。
小川泰明の童話室:童話作家未明の揮毫や童話集のコレクションを展示しています。
春日山神社社務所:童話作家小川未明の両親が住み、未明も毎年帰省した未明の実家です。境内には未明の詩碑、未明の両親のお墓もあります』
新潟県?上越市?の観光協会の出店が出ており、並んでいたパンフレットを手に取ると、「登りますか?」と声を掛けられました。「登ってきました」。「どちらからですか?」「兵庫県からです」。「遠くからありがとうございます。インターネットの影響で、遠くから来て頂ける方が増えているんですよね」。「戦国武将の中でダントツで上杉謙信が好きで、長年春日山城を攻め上りたかったんです。中世の山城が好きなんです」と話すと、僕の歴史好き・山城好きを感じたのか、「穴場を教えますよ」と室内に入って新たなパンフレットやA4用紙を出してこられ、春日山城を中心とした砦群の位置やエピソードを教えてくれました。歴史好きを絵に描いたような方で、生き生きといろんなことを教えてくださいました。
春日山神社境内にある社務所も兼ねた売店で、扇子・交通安全ステッカー・御守500円3・絵馬500円を購入しました。前回来た時は、上杉謙信公金属製坐像を購入し、屋敷祠の守護をしてもらっている。アイスをベンチで食べて糖分補給し、石段を降りてバイクへ。バイク装束に着替え、r180へ。
13:17「林泉寺」。『林泉寺 明応6年(1497)、上杉謙信公の祖父越後守護代長尾能景公が、父重景公の17回忌にあたり、越府鎮護の古寺址を浄め、長尾氏の菩提所として建立された、曹洞宗の名刹。開山は名僧・曇英恵応禅師。以来その法嗣が代々相続して行き、謙信公は6代天室光育、7代益翁宗謙に学んで、帰依あつく、隆盛を極めました。
春日山は越府の要害として長尾氏が居館を構えて守り、山下のここ林泉寺は、府内守護上杉氏の菩提所至徳寺(臨済宗)と並んで、共に栄えたが、林泉寺は法灯絶えることなく、今にその歴史を語りかけています』
拝観料500円で境内に入ります。『林泉寺の歴史 明応6年(1497)、越後国守護代長尾能景公が亡父重景公の17回忌にあたり、長尾家の菩提所として創建されました。ご開山は曇英恵応(どんえいえおう)禅師。それから40年後、能景公の孫上杉謙信公は6世天室光育(てんしつこういく)大和尚に学問をまなび、さらに7世・益翁宗謙(やくおうしょうけん)大和尚について禅のおしえをまなび、さとりを開きました。
あとを継いだ景勝公のとき、上杉家が会津に移封となり、かわって越後領主となった堀家、高田城主・松平越後守家、榊原家の菩提所となり、また代々から「禁制状」を下され、あつく保護されました。また徳川2代将軍秀忠公以来、御朱印地の寺領を拝領し、「下馬・下乗」の札を立てる特遇をも許されるなどの歴史を重ねて、現在に至っています。
上杉謙信公の御墓 天正6年(1578)3月、49才で春日山城内で亡くなられた。山門 上杉謙信公建立の山門は江戸末に地震によって焼失。大正時代に再建されて右の2面の大額が再び掲げられている』
『上杉謙信公と林泉寺 謙信公は享禄3年(1530)、春日山城で越後守護代であった父長尾為景公と母虎御前の間に生まれました。七歳から当寺を学問所として、6世天室光育大和尚のもとで厳しい薫陶を受けられました。19才で春日山城主となり、その後弾正少弼に任ぜられ、上杉家を相続、関東管領職を継がれて、武将として確固たる地位を確立されました。
謙信公は7世益翁宗謙大和尚から「第一義」の真意を学ばれて二階造りの山門を寄進、更に山号「春日山」、「第一義」の大額を揮毫され掲げられました。また宗謙大和尚の一字を戴き謙信と改め、生涯をとおして修学修禅に励まれ、常に自己を見つめて精進されたと伝えられています。数々の行績を残されて人々に惜しまれつつ、49才で永遠の眠りにつかれ、当寺に葬られました』
山門をくぐると、天井に見事な龍の絵が描かれていました。『戦後が生んだ戦国時代の名将・上杉謙信公は、享禄3年(1530)に春日山城で生まれた。7才からここ林泉寺6世・天室光育(てんしつこういく)のもとで学問を修め、修養を積んだ。19才の時病弱の兄に替って春日山城主となって、4年にして勅使来たり、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任ぜられ上洛。天皇から乱世を鎮めるよう詔(詔)を賜った。以来、関東・信濃・北陸諸将の救援要請に応じて兵を進め、その武威を16ヶ国に及ぼした。戦いの間仏教を深く究め、特に禅を7世益翁宗謙に学んで仏心による仁政をはかった。和歌や書に秀で茶道や能楽、琵琶笛などの風雅を愛した。人々は名君として敬慕したが、惜しくも天正6年(1578)、49才でその生涯を城中で閉じた。没後390年、今なお香る遺徳を偲び、高田市大手町貝川正治氏が賛歌を作って、これを巨岩に顕彰し、菩提所に納められたことは誠に快挙であり、これを喜び伝えるものである』
宝物館に入ります。お喋り好きなご住職がおられ、ウィークデイなので観光客が少ないからか、先客が去られ僕1人になったタイミングで、展示品をいろいろ説明していただいた。上杉氏以来、上越の為政者代々の菩提寺故、一般人は入れなかった寺院だったようです。
歴代為政者の墓所エリアを観に行きました。長尾家・上杉家の他に、堀家・松平家・榊原家。上杉謙信公の御墓の横に、川中島戦死者の供養塔が立っていた。戦国の世に戦場を駆け巡っていた上杉謙信と堀秀政の墓所が同じ寺院に葬られているとは・・・。
13:50「春日神社」。3台のバイクがPから出てきました。『春日神社は、今から1020年前の天徳2年(958)の創建、越後国府々内全域鎮護の神として、奈良春日大社の分霊を勧請し、鉢ヶ峰上に祀りました。以降、この山を春日山と称するようになりました。永徳年間(1381)守護代長尾高景が、春日山城築城に際し現在地に移し、春日山鬼門鎮護の神として、当地方の鎮守の神として祀りました。慶長16年(1611)徳川幕府より50石寄進の墨書を受け、以来神領として朱印地50石は明治まで続けられました。祭神は、藤原氏の祖神、天児屋根神・武御雷命・布津主命と女神比売神を合わせ祀ってあります』
r180〜r63〜r43〜R18〜北陸道で帰路に着きます。15:12「蓮台寺PA」で休憩し、「ボスとろけるビター162円」で糖分補給しました。「越中鏡PA」で休憩。『1つの家に遊女も寝たり萩と月 松尾芭蕉 「奥の細道」所収の句の中でも異色の物語的場面。「元禄2年7月12日(1689年8月26日)」越後の港町市振の宿(ここより東へ5km)で、たまたま伊勢参りの2人の遊女と同宿する。壁を隔てて聞こえてくる見送りの男と遊女の会話はことに哀れ深い。翌朝、彼女らから道連れにして欲しいと涙ながらに頼まれるが、心を鬼にして断って去る。しかし今では、この短章は芭蕉の創作だろうとするのが定説。古典作品の成立事情は意外なほど興趣に富む』
17:11「呉羽PA」で、「チェリオ・バニラ151円」を購入し水分補給します。17:48「小矢部川SAエネオス」で給油。235km/8.1L=29.0km/L。「安宅PA」で休憩していると、突然の爆音。小松空港から戦闘機がスクランブル発進したようです。我が家の近所に大阪伊丹空港があり、毎日旅客機の離発着音を聞いていますが、戦闘機の爆音は、柄が小さいのに迫力満点です。ここまで幸い雨に降られませんでしたが、流石にこれ以降は雨が降りそうなので、ナビをタンクバックに退避させ、車載カメラを撤収しました。上だけ着ていたカッパに加え下も着て、雨対策を万全にしました。高速道路なので、雨が落ちてきてもすぐにカッパを着れないからです。
20:34「南条SA」で休憩。「三国鉱油出光」で最後の給油をしました。125km/5.6L=22.3km/L。予想通り、雨が落ちてきて、「舞鶴若狭道」〜「三方五湖PA」で休憩。ファミリーマートでアイスを購入し、イートインしながら休憩しました。
この高速道路は片側1車線で、追い越し車線のある部分が少ないです。毎度ですが、僕は遅いので高速車が追いついてくると、ICなどの広がる部分で何度も抜いて貰っていました。ところが、車間距離を必要以上に詰めてくるトラックが来て、「やばい」と思ってブレーキランプを何度も点滅させて「怖い、車間距離空けて」を伝えましたが、そのままでした。ちょうどそこに「三方五湖PA」が現れたので、迷わず退避しました。「あ〜怖かった」。
「小浜IC」で下車し、R162で暗い道をゆっくり走りました。「美山」から、r19に乗り換え、「日吉ダム」まで山間部を抜けました。この間、鹿3頭・イタチ?狸に出くわしたり、道路を渡ったり、野生の王国になっていました。
「道の駅・京都新光悦村」でトイレ休憩し、R9を渡り、「新世紀トンネル」を抜けR477。南下して、大阪府道r106〜兵庫県道r604〜R173で池田に抜け、日付が変わる頃帰宅しました。


2019/7/2
アメリカ東海岸に赴任していた長男が、3年間の勤務を終え、ロンドンに転勤になりました。6月りょうくんの学校終了を待って、アメリカの家を引き払い、会社が用意したリムジンに家族全員が乗り、NY・JFK空港へ。全員JALのビジネスクラスに乗り日本に帰国しました。
以前住んでいたマンションは賃貸だったので住む家がなく、お嫁さんお実家・新潟の家に落ち着きました。家財道具は会社が手配した倉庫に行っているのでしょう。ロンドンの家が決まり次第、ロンドンに運ばれるのだと思います。長男は1週間ほどの休暇の後、新しい赴任地ロンドンに向かいました。
お盆になれば長男が帰国し、家族を連れて我が家に帰省します。お盆後、家族とともにロンドンに戻り、アメリカ同様家族とのロンドン生活が始まります。去年6月にアメリカで生まれたルーカスくんにまだ会えていないので、直江津「春日山城」訪問ついでに新潟市まで足を伸ばし、お嫁さん・孫3人に会いに行くことにしました。ルーカスくん誕生時、2ヶ月もお世話のためにアメリカに行ってくださったお嫁さん両親にお礼も言いたいし・・・。
仕事に都合をつけ、初日直江津(上越市)周辺寺社・山城巡り、2日目新潟で孫達と遊ぶ、3日目帰路というザックリりと予定を立てました。4時前に目を覚ましたので、出発することにしました。天気予報では、新潟は3日間とも雨はふらなそうです。道中の富山県・福井県も含めると、怪しいのは3日目だけ。降られてもカッパ着てゆっくり走れば、ヨットで濡れなれているので平気です。
倉庫から、「招き猫CB400SB」を出し、2月に買った「GIVI43Lリアボックス」をセットします。r13に出て、4:30「伊丹産業セルフ川西エネオスSS」で給油。242km/9.97L=24.3km/L。池田からR173〜R477で北上し、5:30「園部」市街地。空も明るくなったので、ここで車載カメラをON。夜雨が降っていたようで、道路が濡れています。これから美山を通って福井県小浜まで抜ける山岳地帯があるので、雨に降られそうです。京都府道r19に出て、5:35「道の駅・京都新光悦村」でトイレ休憩しました。
ここから美山目指し、ひたすらr19で北上します。この道は信号が少なく景色も良く、快適な田舎の快走路です。時折追いついてくる快速車に左ウインカーで道を譲りながら、靄のかかっている山を見ながら快走します。
r368〜r12を経て、R162で小浜まで分水嶺を越え北上します。分水嶺「堀越トンネル」を抜け、福井県側に下ります。右折してR27を少し走り、「小浜IC」から「舞鶴若狭道」に乗りました。7:41「三方五湖PA」で休憩します。7:46「ファミリーマート三方五湖PA店」で、「フルーツミックス100円+なめらかクリームパン5個100円+いちごサンドケーキ138円=338円」を購入しました。
『三方五湖とは、福井県南部にある三方上中郡若狭町と三方郡美浜町にまたがる三方湖・水月湖・菅湖・日向湖・久々子湖の5湖の総称です。矢筈山西麓を南北に走る三方断層によって落ちた西側の陥没地にあり、国指定の名勝で若狭湾国定公園に属します。
また「固有の魚類の種や科の相当な割合を支えている湿地」「魚類の重要な食物源であり、または産卵場・稚魚の生育場」という基準に該当し、また湖全体が若狭湾国定公園の特別地域として自然環境の保全が図られていることから、平成17年(2005)に、ラムサール条約登録湿地となりました』
『水月湖年縞 三方五湖の中で最も大きな湖が水月湖です。水月湖の底には7万年もの歳月をかけて約45mも積み重なってできた「年縞」と呼ばれる縞模様の堆積物が形成されています。年縞には木の葉や花粉、火山灰や黄砂などが含まれており、1年で1対、年平均0.7mmの薄さの縞模様となります。それらを分析することで過去の気温や水温、気候などの自然環境を復元することができます。世界標準のものさし 水月湖年縞の研究成果は、「世界標準のものさし」として考古学や地質学における年代測定の精度を従来より飛躍的に向上させました。水月湖年縞は世界的にも高く評価される「福井の宝」です。
水月湖年縞に残される自然環境の様子 年縞には厚く積もったところや、色が違うところがありますが、これらは地震や洪水などの痕跡です。
姶良大噴火の痕跡 右の写真は、3万年前に鹿児島県で起こった姶良(アイラ)大噴火の痕跡です。水月湖は噴出源から600km以上離れていますが、それでも厚さ30cmを越える火山灰層がたまっています。
年縞形成の好条件 左の写真は降雨後のものですが、三方湖は泥水が流れ込み茶色く濁りますが、右上の水月湖は変化がみられません。年縞が乱れることなく形成される好条件が見えます。
年縞を詳しく学べる施設 若狭三方縄文博物館、福井県年縞博物館』
「敦賀JCT」で、「北陸道」に合流します。
8:34「杉津PA」で休憩。『杉津駅周辺の車窓風景は、その眺望の美しさで知られ、田山花袋の小説「北国街道」でも取り上げられています。敦賀〜今庄間の旧北陸本線は、隨道と急勾配の連続する難所でした。特に、隨道内は窓を閉め切っても車内に煤煙が入り込み、目は煤で痛くなり、鼻の中は煤や煙で真っ黒になり、煙でむせぶ乗客も多くいました。そうした苦しみから一瞬解放され、眼下に広がる風景は乗客にひときわ美しく映ったに違いありません』
『恋人の聖地 北陸自動車道/杉津パーキングエリア下り線 NEXCO中日本が運営する北陸自動車道のパーキングエリアです。日本海へ沈んでいく夕日は美しく、展望台は「ゆうひのアトリエ」と呼ばれカップルたちには外せないデートスポットになっています。昼間はきらきらと輝く海面、夜はイカ釣り船の漁火が美しく、また日本海らしい迫力にあふれた荒々しい風景も格別。大正天皇が行幸の折りに、その美しさにしばらく汽車を止めてご寛になったという逸話が残る景観です』
9:40「女形谷PA」でトイレ休憩。10:31「尼御前SAエネオス」で給油。245km/8.86L=27.7km/L。11:05「徳光SA」ハイウェイショップで、「味わいソフトバニラチョコ150円」で糖分補給しました。
東海北陸道への分岐を越えると、田園美で有名な「砺波平野の敷居村」が見えてきました。今の季節、広い砺波平野一面に広がる田んぼの緑にポツポツと立派な家屋が点在しています。その家屋を広い平野を吹き渡る強い風から守るため、鎮守の森と見紛う木々が囲んでいます。このミックスが素晴らしく、見惚れてしまいました。
12:13「呉羽PA」で休憩。13:52、「糸魚川IC」で下車し、R148に乗って北上し海岸方面に向かいます。日本海に突き当たり、右折してR8に乗ります。14:04「奴奈川神社」。鳥居をくぐるとスモモが成っていた。完熟してたくさん地面に落ちていた。その裏には何とJR北陸本線が走っていた。帰宅して調べると、現在は元JR北陸本線・現「えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン」でした。その線路を陸橋で渡って境内に入っていきます。
境内に児童公園があった。近所の子供達の遊び場になっているのでしょう。境内はよく手入れされており、芝生のグラウンドのように草が短く切られ、鎮守の森で日差しを遮り気持ちが良い。そこに殿舎が建っている長い歴史を持っていそうなナイスな神社です。
立派な拝殿があり、蟇股の龍の彫刻が素晴らしい。木鼻の獅子の彫刻も手が込んでおり、黄色のしめ縄もカッコいい。ここは歴史がありそう。脇に旗が立てかけてあった。お祭りが近いのかな?拝殿に上がると、確かにお祭りの準備中のようでいろんな物が出されている。虫干しなのかな?などと想像しながら覗き、いつものようにお賽銭〜鈴〜そして礼2回・柏手2回後、これまで幸せに恵まれ生きてこれた僕の人生に感謝し、これからの我が家の子孫の幸せと繁栄をお願いし、最後に僕の次の人生は是非僕の子孫に生まれさせて・・・という厚かましいお願いを、頭を垂れ瞳を閉じて脳内で唱えていると、後ろから誰かがやってくる気配です。最後に一礼して離れようとしたら、「どちらからですか?」と声を掛けられました。
振り返ると普段着の年配の男性で、「兵庫県からです」と答えると、「遠くから・・・最近はインターネットでお知りになった方が遠方から来られるようになりました。でも私がいつもいるわけではないので、お話が出来なくて・・・」と言われました。「お祭りですか?」と問うと、「七夕まつり」の準備だそうです。そうか、今週末日曜日は7月7日です。「氏子さんの集まりの関係で、七夕近くの日曜日に行うのです」。「準備中で整っていませんがどうぞ」と賽銭箱内側に招かれ、畳敷の奥へ。
拝殿の奥に祝詞殿があり、その奥に本殿がある構造です。かつては拝殿・祝詞殿・本殿がそれぞれ独立した建物だったようで、祝詞殿の上に立派な屋根が載っている。現在は拝殿から続く屋根が祝詞殿の屋根の覆屋のようになり本殿に続いている。先代はお父さまが宮司さんだったようで、伊勢皇学館大学を卒業後、伊勢神宮の神官を長くされていたそうです。いろんな話が出来有意義な時間をありがとうございました。境内の蔵が開いており、中を覗くと金色が眩しいお神輿が輝いていた。
謂れ板がなかったので、帰宅後調べてみた。『奴奈川神社旧郷社・式内社 祭神:奴奈川比賣命・大日女命(天照大神の別名)・八千矛命 例祭:4月24日・10月24日 神紋:榊九葉 本殿:流造7.5坪 境内:1528坪 氏子:180戸 崇敬者:1000人
由緒沿革:成務天皇の御宇に市入命が越後国の国造となって当地に来り、奴奈川姫命の子・建沼河男命の裔長比売命を娶り、奴奈川姫命の社を建て神田神戸を寄附したという。又延暦22年市入命の後胤国造藤好当社を崇敬する こと厚く、神田神戸を増附した。弘安4年蒙古来襲の時、異賊退治御祈願のため奉幣あり。 寛永年中には松平越後守光長厚く崇敬し鏡一面を奉納した。式内社・奴奈川神社の論社で、明治6年12月村社に列し、大正8年郷社に昇格した』
R8を直江津に向かって走ります。山が迫る海岸線を走る道なので、海の景色が素晴らしい。
14:53「道の駅能生」。「もずくラーメン700円」を昼食にした。海に向かう窓際で食べたが、そこには「恋人の鐘」?があり、お若い女性たちがカメラに収めていた。気持ちの良い公園が広がっており、親子連れが遊んでいた。
R8を直江津に向かって走り、「道の駅うみてらす名立」手前を右折し新潟県道r245に入り、15:42「江野神社」。『祇園祭 上越市文化財指定無第308号 式内社という古くから格式を誇る江野神社の夏祭りで300年からの伝統がある。7月7日の朝に、神輿は白足袋とハッピ姿の若衆に担がれ、この前を色鮮やかな山車が、また子供達は幟や榊をもって気勢をあげて走る。夕日が沈む頃、神輿は御旅所に安置され、13日深夜、社に送られる』
石段を上がり小高い丘に上がると、海が見下ろせました。漁師の風見櫓の役割も担っていた場所じゃないかな〜と想像しました。風が弱いので回っていませんでしたが、風力発電風車が1基道の駅に立っていました。
ここの本殿の彫刻も立派でした。新潟県は彫刻が素晴らしいのがデフォルトかもしれないと感じました。隣県・富山の高岡や井波が日本一の彫刻の町だから、彫刻需要が北陸に高いのだと思います。木鼻の彫刻は、菅笠と扇子をかざした恵比寿様に見え、木鼻は象なんだろうけど、耳が鯛になってる。やはり海の安全の守り神を祀っているようです。別の木鼻は伊勢海老です。
『江野神社禊所の前に注連縄を張り巡らした大きな御神木がありますが、この木は平成5年秋の大風により直径50cmの枝が折れてしまいました。ところが、この御神木の枝に陰と陽の形をした自然木があり、これは神様の霊験のあらわれに違いないと思い、ここに奉納することとした。 平成7年4月吉日 新井町・池田伊之助』
謂れ板がないので、帰宅後調べました。『式内社 越後國頸城郡・江野神社 旧県社 御祭神:建御名方命・事代主命・大己貴命・素佐能男命・稻田比賣命・屋主忍男武雄心命・影姫命・武内宿禰命 合祀:産土神 例祭:4月5日・10月23日 神紋:三つ巴 本殿:流破風造5坪・境内2207坪 末社:一社 氏子:270戸 崇敬者:1742人
創祀年代は不詳。一説には、人皇五代孝照天皇の御宇、江野御崎に、大己貴命・事代主命・建御名方命を勧請したのが始め。その後、景行天皇の御宇、武内宿禰が勅使によって下向し、当地に滞在して、当社に祈願したという。あるいは、姓氏録に「江沼臣、石川同氏建内宿禰男若子宿禰之後也」とある江沼氏が当地に至り、祖神を祀った神社。もとは、鳥ケ首岬の崖上、竹の内という地に鎮座していたという。かつては諏訪大明神と称していたが、式内社・江野神社であるとして江戸時代に社号を復したという。里人大己貴命、建御名方命の遺徳を追慕し、之に建御名方の長兄中主命を合せ3神を合祀して大宮と称し、之が当社の創立である。景行天皇25年武内宿禰北陸諸国巡察の途次国土平安を祈願したと伝える。鎮座地は崇神天皇の御宇久比岐国造御矛命の居を構えられた遺跡であるといわれている。昭和9年県社に列す』
「明日訪問して良いか?」お嫁さんに確認しようとLINEしたら、何と明日は子どもたちを連れて友達と会う約束になっているという。明後日以降なら家にいるとのこと。これはまずいです。電話して、「今、上越市にいるから、今から寄せてもらって良いか?」と伝えると、「大歓迎です」と快諾もらいました。上越市の神社訪問はお預けにして、一気に新潟市まで走りましょう。
R8に戻り、「名立谷浜IC」から「北陸道」に乗りました。16:44「米山SA」で休憩し、お嫁さんの実家への手土産として「富山築地の調べ1080円」を購入。16:52「米山SA宇佐美」で給油、251km/9.27L=27.1km/L。17:34「栄PA」で休憩。「新潟亀田IC」で下車し、18:20にお嫁さんの実家に着きました。バイクが家の裏の駐車場に近づくと、音に気づいたのかお父さんが顔を見せました。掃き出しの応接間の窓が開き、孫と妹さんのお子さんの3人が顔を出して「幽霊〜」と叫んでいます。何故かな?
3台の車が入ったPの前にバイクを置きました。新潟市内ですが、車は必須なので3台の車を持っておられました。娘たち3人が皆嫁いだので、今は2台ですが、妹さんが来ているので3台になっています。バイクを置き玄関に回り、「お邪魔します」。1人はハイハイですが、男の子4人(6才・3才・3才・1才)が走り回っています。夕食時にお邪魔してしまったので、夕食を食べに来たような感じになっちゃった。
初めて対面するルーカスくんは、「知らない人が来たぞ」と僕に興味津々です。まだ人見知り前のようで、僕に手の平を出して来るのでハイタッチしてやると喜んでいます。こうちゃんのように足が太いです。こうちゃん3才は運動神経が良く足が早いので、同じようになりそう。く運動神経が良い?りょうくんより積極的で、ジャングルジムでもすぐ登っちゃう。りょうくんは慎重なので、まず人がやってるのを観察し、大丈夫そうと判断してから登り出します。ルーカスくんの顔は、りょうくん似でカッコいい。こうちゃんは、八の字眉で親しさを感じるので、人から好かれると思います。
りょうくんとこうちゃんが、アメリカでの写真を持ってきて、いろいろ教えてくれた。お嫁さんに「好きな子は誰だっけ?」と問われ、恥ずかしながら写真に写った女の子を指さして名前を教えてくれた。りょうくんはブロンドさんで、こうちゃんはインド系の美少女でした。2人共僕の遺伝子を受け継いでいるようで、美人好きのようです。これは良い・・・。名前を教えて貰った時、その発音がネイティブだった。それを言うと、お嫁さんが「りょうくんは、私の発音も直してくれるんです」と笑っています。お嫁さんは結婚前から世界を飛び回って英語を使う仕事してたから、1週間アメリカで暮らした時に聞いた英語は、僕には綺麗な英語に聞こえるんだけど・・・。
りょうくんは日本語で話しかけたら日本語で返し、英語なら英語で返すそうです。たまにお嫁さんがりょうくんの英語を聞きたくて、英語で話しかけていると、「あれ〜おかしいよ、ママは日本語じゃないと〜」と言われちゃうそうです。日本人がりょうくんしかいない現地校キンダーガーテンでも、クラスの人気者だそうで、女の子に一番人気だそうです。「誰にでも優しい」のが人気の秘密だそうで、お友達のママ数人から「Ryoはナイスボーイだ。娘が助けてもらった」とありがたがられたようです。長男同様リーダータイプで、おしゃべりだから、友達の輪の中心になることが多いそうです。そんな時、輪に入れず1人でポツンとしてる子を見つけると、声を掛け輪に入れるようにするそうです。男の子同士の喧嘩も何度か仲裁したそうで、お友達のママから、「Ryoに助けてもらった」と感謝されたそうです。このことを帰宅後家内に話すと、「お父さんと一緒やん、血は争えないね」と僕を褒めてくれた。僕は弱い者いじめを見ると我慢出来ず、小学生時代は何度もいじめっ子と喧嘩しました。いじめられっ子に声を掛ける子だったので、女の子に一番人気でした。小学生時代にモテても、関係ないけど・・・。
りょうくんのクラスの先生は黒人の太っちょさんです。2年間通った私立幼稚園から、キンダーガーテン(年長さんクラス)がないので小学校附属の公立幼稚園に転校したので、初めての黒人先生です。長男が、「隣のクラスの先生(ブロンドでスマートな美人)の方が可愛いね」と言ったら、「僕のクラスの先生も可愛いよ」と、良い所を見れる子のようです。
ウィークデイはキンダーガーテンに通い、日曜日は日本語学校に通っています。日本語学校は1週間に1日だけで、その1日で日本の小学校の1週間の勉強をするので、宿題が山のように出るそうです。だから、夏休みの宿題も山のように出ており、毎日宿題をやってるそうです。見せてもらったら、意外に文字が綺麗です。長男はそれほど綺麗ではなく、次男が綺麗でした。文字はお嫁さんと次男に似て良かったです。
お嫁さんは、「りょうくんはパパと同じ理科系のようです。算数が得意なんです」と言っていました。隣に座っていたりょうくんが、九九を暗証していました。「まだ6才なのに・・・」とちょっと驚きましたが、計算しているのではなく丸暗記のようです。先生にも算数が得意だと言われているのだとか・・・。
僕が発注した絵本が、この日配達されたようです。「宿題が多過ぎて、絵本を持って帰れなかったので助かりました」とのことでした。僕からのプレゼントは、「岩波こどもの絵本」シリーズが定番です。この絵本、僕も弟も、長男次男も読みました。最近の絵本は物語性があまりありません。母に読み聞かせしてもらっていた時も面白かったし、息子たちに読み聞かせするようになってから、ストーリーのない本は読む方がつまらないので読まなくなるということを知りました。よって物語性のある岩波が好きです。
8月お盆過ぎから住む家は、まだ現在検討中だそうです。夫婦で、不動産屋サイトをチェックし、長男が仕事の合間に見に行っているようです。会社のイギリス支店はスコットランドだけでした。「何故、ロンドン勤務なのかな〜」と思っていたので聞いたら、ロンドン支店の立ち上げメンバーの1人だそうです。スコットランドから数人、アメリカから長男、日本から数人集まり、皆で立ち上げるようです。長男・次男は、お嫁さんや子供は褒めるのに、自分の業績は人に言わないタイプです。よってお嫁さんたちに聞きます。
長男は子供の頃からずっとリーダーで、会社でも出世頭のようなので、ロンドンでもリーダーさせてもらっているのかもしれません。アメリカでもプロジェクトリーダーをさせてもらい、個室を与えられていました。本社経営室にも席がある最若手なので、将来の会社の不沈は長男の頑張りに掛かっています。プレッシャーはあるのでしょうが、お喋りで能天気な性格なので、密かに頑張るでしょうし、そういうのが好きで意気に感じるタイプです。失敗しても落ち込んでしまうことはなく、それを取り戻そうと猛烈に頑張る子でした。優秀なイギリス人を雇うことになり、部下にイギリス人を持つのが楽しみでもあり、不安でもあるそうです。知っているイギリス人社員もいますが、総じてイギリス人はアメリカ人より細かいからだそうです。
お嫁さんは、「他の日本企業勤務の方で、ロンドンからプリンストンに転勤して来られた奥さんとの話では、ロンドンは楽しい」と、新天地が楽しみなようです。ヨーロッパ大陸と近いので、お休みの日に訪問したい地はいくらでもあるそうです。曇りが多いドンヨリな気候だけど、新潟に似ているから平気なようです。今回の家族での帰国に際し、お父さんがレンタカーを借りて成田空港まで迎えに行ったそうです。以前は8人乗りのワゴン車を持っていましたが、3人娘が嫁いだので、5人乗りに乗り換えていました。
家内から託されたお嫁さんへのお化粧品プレゼントと、僕から「終身教科書低学年用・渡部昇一監修」を渡しました。りょうくんが小1になったので、戦前の終身教科書をプレゼントしました。教育勅語に書かれている「親・家族を大切に」「友達と仲良く」「しっかり勉強して世のため人のために」を実践した日本人や外国人の偉人の業績が短く紹介されており、これを読むだけで笑顔になります。これからの長い人生の真髄として欲しいと思ってのプレゼントです。
三女さんと息子くんが里帰りしているのは、旦那さんが夜勤だからです。新潟県警にお勤めで、「G20大阪サミット」には応援に行かなかったけど、職員が減るので仕事量が増え帰れない日が増えているそうです。
美味しい夕食を賑やかに頂き、20:34に「今夜の寝床探しに行きます」と御暇しました。皆さんに見送られ、「快活クラブ新潟桜木インター店」に向かいます。次男が仕事でカプセルホテルの設計をしたので、カプセルホテルやインターネットカフェなど安価に宿泊できる所がどんなところなのか経験したくなりました。「予約してないんだけどいいのかな〜」なんて、Pにバイクを停めカウンターに向かうと、店員さんが丁寧に教えてくれました。「会員限定なので会員になっていただきます。300円ほど。次回からは無料で全国何処の快活クラブでも利用できます」。免許証を渡して会員になりました。部屋が数種類あり、フルフラットの床の部屋にしました。
部屋に案内されます。ファミリーレストランにあるフリードリンクマシンが並んでおり、「ドリンクは無料です」。隣にソフトクリームマシンがあり、「これも無料です」。毛布と枕置き場があり、「ご自由にお使い下さい」。部屋は、大きなワンルームを間仕切りしただけのもので、天井までは間仕切りされておらず、2mも身長のある方なら部屋内部を覗けそうです。
案内された部屋の床は、クッション敷になっており、靴を脱いで上がるスタイルです。正面デスク上には電源の入ったPCが載っており、下の引き出しを手前に引けばキーボードが出てきます。デスク上には鍵のかかる貴重品ボックスがあり、クッション敷の上にはリクライニングする座椅子があるだけの簡素な部屋です。床に立つと顔が間仕切りとほぼ同じになり背伸びすればお隣さんを覗けそうです。大部屋に来る途中、レディースルームもありました。女性でも安心ですね。バイクに戻り、フロントディスクブレーキに鍵をセットし、リアボックスを外し防水リュックをリアシートから外し背負います。これを持って部屋に戻る時、背中のリュックが通路の幅ギリギリです。それだけ大部屋を細かく間仕切りしています。毛布と枕を持って部屋に入り、試しに寝てみると僕の身長170cmでギリギリです。大柄な外人さんには厳しい部屋の大きさです。
プロテクター上下を脱いで、リラックススタイルに着替え、ドリンクバーでジュースを頂いてきました。PCで天気予報を確認し、ニュースを少し読んで10分ほどで横になりました。天井には淡いライトが点いています。別の部屋からタイピングする音が聞こえ、イビキが聞こえてきます。静かとは言えませんが、アイマスクと耳栓したら平気そう。僕はどこでも寝ちゃうタイプなので、すぐ夢の中に落ちちゃいました。ソフトクリームを楽しもうと思っていたのに・・・。夜中、2度ほど目覚めました。カラオケの歌が聞こえていたりしましたが、「うるさい」とも感じず、すぐ夢の中に戻りました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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