-ウェブマスター日記 2019/5-6

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2019/6/30
家内も休みなので、映画に誘いました。「何、観に行くの?」「今日も嫌がらせ弁当」「知ってる、TVで宣伝やってた」。「地元伊丹でやってなくて、西宮まで行くんだけど、今日することは?」「え〜とね、阪急百貨店にお中元手続きに行くことと子供服売り場を見に行くこと」。「映画観て帰ってきてから、川西能勢口阪急に行こうか?」「西宮ガーデンズに行くんでしょ。あそこにも阪急あるよ」「そう、なら朝一番に阪急に行ってお中元済ませ、それから映画に行こうか。11:25からだから、それまでに百貨店終わるでしょ」「OK」。という流れが決定しました。
家内から誘われる映画はいつも当たりですが、今回はどうかな?僕はラブストーリーやハートフル物が好きで、今回はハートフル物です。八丈島が舞台で、シングルマザーのお母さんがお嬢さんの高校3年間ずっと、「キャラ弁」を作った物語です。以下のように紹介されていました。
『嫌がる娘への毎日のキャラ弁作りをブログにつづり、エッセイ化されるやシリーズ累計20万部を突破した親子の物語を、篠原涼子主演で映画化。東京の八丈島を舞台に、反抗期の娘へのキャラ弁作りに勤しむシングルマザーと、完食することで抵抗を続ける娘との高校生活3年間の物語が描かれる。反抗期の娘を芳根京子が演じる』
『映画のストーリー 自然と人情が豊かな八丈島で、次女の双葉(芳根京子)と暮らしているシングルマザーのかおり(篠原涼子)。だが高校生となった双葉は反抗期に突入。生意気な態度で何を聞いても返事すらしない。かおりは娘の嫌がる“キャラ弁”を作り続けて逆襲するが、やがてそのお弁当は、母から娘への大切なメッセージへと変わっていく。一方、双葉もまた「ウザい」とぼやきながらも、何かを受け取るように毎日一口も残さず食べ続けるのだった……』
天気予報をチェックすると「曇」が続くようだったので、駐車が簡単なバイクタンデムで向かうつもりでしたが、朝のお勤めをして聞こえてくる外の様子は、風がやたら強いです。ザーっと強い雨が一時降り、四輪で向かうことにしました。百貨店オープン10時頃入店を目指し、9:30に身支度を整えると、家内がオシャレに出来上がっていました。「うわ〜良いわ。今日も美人だわ」と抱きつくと、「あ〜顔にくっついちゃダメ、お化粧が落ちる」と言われ、顔以外で満足することにしました。
雨模様なのに「阪急西宮ガーデンズ」に向かう車が多く、駐車場に車を置くのにも時間がかかり、10:30頃百貨店に入店しました。1F食料品売場を物色します。10:42「プリオッシュりんご155円+ミネラル麦茶81円=236円+Tax」を購入し、お昼ご飯にします。同じ階の催物会場で行われていたお中元コーナーに向かいます。整理番号29番でしたが、どんどん呼ばれて待ち時間5分でした。
4F子供服売り場に移動し、お店を見て回ります。お盆に孫が4人もやってくるので、お洋服のプレゼントを考えているようです。ファミリア・ミキハウス・ラルフローレン・・・僕はノースフェイスのラッシュガードと半ズボンがカッコいいなと思いました。
阪急から脱出し、同じ階にある映画館に移動します。屋上屋外を歩かねばならず、雨が降っているのがわかりました。「11:25〜今日も嫌がらせ弁当」、いつものように夫婦割引でチケット購入しました。
いつものようにだいたい中央部の席に座ります。次々に席が埋まっていき、満席というわけではなく半分ぐらいの席が埋まりました。伊丹の映画館を定席としているので、これはかなり多いです。「人気があるんだな〜」と思って良いのかわかりませんが、映画はとても面白かったです。題名にある「嫌がらせ」は、意地悪してる感じではなく、母親に「感謝の気持ち」も「挨拶」もしない、というより会話さえなくなった母娘の関係を修復しようと、母親が学校でクールが売りの娘のお弁当に「キャラ弁」を持たせ、「クールイメージをぶち壊してやろう」と実行し始めたのが始まりです。
八丈島という過疎の学校故、小学校からずっと一緒のクラスメイトから注目され期待されて開けるお弁当時間・・・娘は母親の意地悪に負けまいと完食を続けます。種が尽きてきたキャラ弁にメッセージ性が加わりパワーアップして行きます。世間様に見てもらおうとネットにアップしたのがきっかけで、メッセージが届くようになります。娘たちが幼い頃、ご主人を交通事故で失ったシングルマザー。ある時幼い息子のお弁当作りに困った東京都に住むシングルファーザーの男性から「ご教授願いたい」のメッセージが届き、やり甲斐も出てくる。
そして・・・高3になった娘と母の関係は・・・教え子?のシングルファーザーさんと顔を合わせることがあるのか・・・、湿っぽくなくあくまでも明るく生きている母親と2人の娘・・・観終わった時、とても良い気持ちになりました。
私の隣の席は、この映画の主人公親子と同年代の母娘さんでした。娘さんに発達障害があるようで、少しオーバーアクションで感情を表されていましたが、周りの方の映画鑑賞を妨げるでもなく、僕にはむしろ「良い関係の親子さんだな〜」と感じました。このお二人の存在も、この映画の印象を更に良くさせました。
家内と「良かったね〜」と感想を話しながら、車に戻ります。ここの駐車場は数ヶ所あり、入庫する時にぐるぐる道が回るので、自分の車の位置がこの巨大ショッピングモールのどの位置かわからなくなります。前回もそうでしたが、今回も自分の車が何処にあるのかわからなくなりました。運良く清掃員さんがおられ、駐車チケットを見せるとおおよその位置を教えて下さいました。ここの駐車場は鬼門だわ〜。これで無事に帰れます。「ブラブラして帰る」という家内を伊丹駅近くで降ろし、帰宅しました。

帰宅し夕方が近づく頃、『オリンピックのセーリング観戦チケット当たったけど、行く?? 2020年7/31金と8/3月に各3人分。 どっちかを家族で行くけど、どっちかを、僕・お父さん・お母さんとどうかな?? 陸から見るだけやから、ヨットOBと話したり会場の雰囲気楽しむぐらいかもやけど』とのLINEが次男から入りました。
『よく当たったね。「当たらなかった」の話はたくさん聞くけど、セイリングはマイナー競技だから競争率が低いんだろうね。相談してみるわ』と返事しました。ダフ行為防止のため、観戦する方の名前を事前登録しなければいけないそうで、8/3にしました。
両日とも、場所は「江の島ヨットハーバー」で、時間は「12:00〜18:00」です。僕は高校大学とヨット部で、次男は小3からジュニアレーシングヨットを始め、高校大学はヨット部でした。ヨット競技は、陸から見えないはるか沖でレースをするので、観客はほとんどいません。これでは競技をアピールできないので、オリンピックは岸に近い海面でレースをします。最終レースは、それまでのトップ10のみが出場できるメダルレースで、これは更に近い所でやります。陸上には、ヘリコプターやドローンの空撮影像がリアルタイムで放映される大型スクリーンが設置されます。解説もあります。現地で見るとどんな感じなんだろう。
次男がジュニアからヨットをやったので、ここ数回のオリンピック日本代表選手は、知り合いが出ています。ジュニアは親のサポートがないと競技できないので、親御さんも知り合いです。一緒にレース運営した方がたくさんいます。競技人口が少ないので、「知り合いばかり」と言っても過言ではありません。「・・くん」や「・・ちゃん」と呼んでいた子達がまた数人オリンピックに出るでしょう。そんな子達を応援できたら良いな。
そんなことを考えていたら、『購入したよ。直前でもメンバー変えれるみたいやから臨機応変に変更するね。 ちなみに、開会式とか陸上とかテニスとかメジャーなやつは全部外れて、セーリングだけ当たった』とのことでした。お嫁さんも小学生の頃からテニスをやっていた選手で、小学生では神奈川県代表で全国大会にチャレンジした子です。テニスのチケットが当たったら良かったのにな。孫はまだ3才なので、テニスの方がまだわかるはずです。


2019/6/29
コーチしてる大学ヨット部のコーチング日です。大阪でG20サミットが開催されるので、大阪近郊はざわついています。近所の陸上自衛隊基地に飛来するヘリコプターが増え、27日はアメリカ大統領トランプさんの乗ったエアフォースワンがこれまた近所の伊丹空港に飛来したと、ご近所さんからも話が出るぐらいです。それ以降、7:30〜21:00の伊丹空港離着陸時間の制限が解除されたようで、朝6時?5時?から夜は僕が寝てしまう22時を越えて飛行音が聞こえています。
「阪神高速は通行禁止」「大阪への車の乗り入れはしないように」とTVで言ってるので、名神高速は大丈夫でしょうが、雨が降るの可能性もあり、電車で琵琶湖に行くことにしました。朝4時に目を覚ましたのでゴソゴソしてから用意し、6時に出発しました。キックスクーターを持って行けば、駅とYH・合宿所との往復が楽だと考えましたが、最終天気予報をチェックすると、帰宅時間が2ミリ/hのしっかりした雨なので徒歩にしました。
最寄り駅まで、通勤リード110で移動し、6:16「セブンイレブン・ハートインJR尼崎駅西口改札内店」で、「小岩井ミルクとコーヒー150円+味付け海苔エビマヨネーズ135円=285円」を購入しました。YH最寄「大津京」駅で降りると、男子部員1・女子部員2・監督も一緒の電車でした。ちょうど家から2時間、バイクなら高速利用で1時間なので、やはり車やバイクが便利です。
皆に挨拶し、コーチボート係留桟橋で、朝ごはんを食べます。この日は、大学広報部からカメラマンとライター合計1人来られており、大学広報ウェブページでヨット部を紹介する取材日です。体育会は、アメリカンフットボール部・相撲部・居合道部に続いて4つ目のクラブです。
いつものように、出艇前ブリーフィングで、監督からの話に続き、「1週間前に感じた自分の長所・不得手を練習で伸ばし克服しよう」「軽風予報なので、じっくりチューニング出来るから、他艇に比べアドバンテージが取れるよう取り組むこと」を話しました。そして「ヨットを楽しもう」はいつものように。若手OBからの話に続き、円陣で気合を入れて出艇です。
コーチボートに、取材班を乗せ、主に監督がヨットが進む原理をホワイトボードで説明しています。僕は、気付いたことを選手にマイクを使って伝えます。「優しい言葉でコーチングさせるのですね」と言われました。ヨットは体力勝負ではなく、テクニックとその時の風と波・潮の流れに合わせたチューニング技術、風の強弱を予想し目で見て判断しコースを選択する頭脳スポーツの面が強いこと。体重別はなく、男女別のレースもほとんどないスポーツで、日本が過去オリンピックメダルを2個獲得した470級は、全日本歴代チャンピオンの中に3回女子ペアがいることを話し驚かれました。半日キャプテンもコーチボートに乗り取材を受け、S級の練習を見て写真・ビデオを撮ってもらいました。練習最後30分だけ、取材陣の1人がSチームリーダーN君とヨットに乗り、その写真やビデオも撮りました。
12時ハーバーバック。歩いて合宿所に戻ります。美味しい昼食時間です。合宿所に戻ると、取材班がここの浜の前で練習し戻ってきた1回生部員にインタビューし写真を撮っていました。取材陣も一緒にごはんを食べます。昼食後、合宿所からハーバーに戻り、女子選手2名のインタビューが始まりました。部員全員の集合写真も。キャプテンや女子部員のインタビューは、更に別日を用意されているようです。13:15出艇。体操・ブリーフィング・円陣・出艇の流れはいつも通りです。
午後は監督もキャプテンもヨットに乗るので、僕が取材陣に説明します。今度は470を追いかけ、女子ペアの写真やビデオをたくさん撮ってもらいました。14:30にコーチボートだけハーバーバックし、取材陣を降ろします。僕も桟橋に降り、お礼を言い、部員を上手に紹介してくれるようお願いしました。
練習海面に戻り、マークを打ち、スタート&コース練習です。16:30になったので練習終了。ホイッスルで全艇集め、ハーババックを指示。マークを拾ってコーチボートもハーバーバックします。
また歩いて合宿所に戻ります。17:29「セブンイレブン大津鏡が浜店」で、「赤城ガリガリ君ソーダ75円」を購入し糖分補給します。全体ミーティング〜クラス別ミーティング〜美味しい夕食〜掃除まで少々ダベリングタイムをS級リーダーNくんとして帰路に着きます。
駅まで歩き、電車とバイクで帰宅しました。電車は走り出したら早く快適なのですが、待ち時間と徒歩時間を含めるとやはり2時間でした。やっぱりキックスクーターを持っていったら良かった。徒歩時間が1/4ぐらいになったと思われます。


2019/6/26
天気予報で翌日から雨が続き、やっと関西も梅雨入りすると聞いたので、乗り納めツーリングに出ることにしました。午後から職場復帰しようと、半日休みを貰いました。「招き猫CB400SB」を倉庫から出し、7:18出発。兵庫県道r13〜R173〜R477〜r4で、7:58「野間大けやき」。この近くは通っていますが、立ち寄るのは久しぶりです。梟の営巣が終わり、アオバズクが営巣している時期だと思いますが、バズーカ一眼レフおじさん達がいないし、特に見上げませんでした。紫陽花が綺麗に咲いています。
トイレを拝借し、バイクに戻っていると、『大けやきへお越しの皆様へ フクロウ・アオバズクの子育て終了までの間、大けやき周辺での三脚の使用禁止(1脚は可)させていただきますので、ご理解とご協力お願いいたします』の立て札が立っていました。こんな規制がされるようになったんだ。バズーカ一眼レフおじさんはガッカリですね。
以前から気になっていた道標にある寺院を観に行こう。8:10「高嶽山今養寺」。『日蓮宗・高嶽山・今養寺 草創はは当野間西山の西方高嶽の山腹にあって、人々はその場所を今の堂床よ呼び伝えている。惜しくも今はゴルフ場に造成されたが、寺跡は山腹よりも高所で、舌状に押し出した広い段状で東方にひらけ、村里を指呼するいわば山岳仏教のありし姿を偲ぶにふさわしい好所であった。
西山家由来書などによって本寺の縁由をたどると、承保3年(1076)3月15日従五位下近江守源仲信によって、高尾に堂(高尾堂)を開基し、本尊釈迦仏を安置して建立するとある。はるか平安の時代に仏法弘通の教線がここに開かれたのである。
下って大治2年(1127)西山近江守信勝が、荘厳優美な大日如来及び千手観音を勧請し、高獄山月光寺と改めて開基建立した。おそらく当地方屈指の真言密教の名刹であったと考えられる。しかし戦国の乱世下、元亀2年(1571)月光寺は郷内の大寺とともに兵火に遭う寺運をたどったが、天正2年(1574)郷民の厚い心願のもと、在所の現在地に移築移築された。
その後、領主・能勢頼次は自領内を日蓮宗に改宗せしめたことにより、月光寺も慶長10年(1605)9月18日、日蓮宗に改宗し3度寺号は変転して今養寺となった。さらに慶長11年(1606)ふたたび月光寺(今養寺)再建とあり、この頃ほぼ往時の姿に復興されたものと思われる。
幾多の寺運を越えてきた疲れか、無住荒廃の歳月をあったが、文化年中(1804〜18)領主・能勢頼直が釈迦堂再建を発心し、以後地域住民をはじめ近郷の厚い尊信を得て、平安から平成への長い道のりであったが、揺るぎなく法灯は護持されてきたのである。更に、平成9年地元野間西山区と木野の人々によって寺域の大改修が行われて見事に完成、同年12月15日、竣工落慶法要が盛大に勤修された。木造・千手観音立像(平安時代初期) 像高173.5cm 頭部に十一面(一面欠失)を頂き42臀にあらわした通形の千手観音である。本像は面奥・体奥とも深く、一材から木取りしたらしいずん胴スタイル、また翻波式衣文などから平安初期的要素がみられる。檜材の一本造りで、臀より足元まで彫り出した技法は地方仏とはいえ、優れた彫技で平安時代前期と推定される。
木造・大日如来坐像 平安時代後期 経深作 像高117.0cm 螺髪を結い、宝冠台をつけて智拳印を結んで坐す金剛界の大日如来である。檜材・漆箔・彫眼像である。温雅な像容と作仏の技法はまさに平安後期の特色をよく示している。なお光背が当初のままに残しているのも貴重である。さらに本像胎内に「経深」と墨書名があり、湧泉寺の多宝如来の墨書名とも同じで平安彫刻史に在銘像を加えることの意義は大きい。
木造・釈迦如来坐像 鎌倉時代初期 像高213.5cm 本寺釈迦堂の本尊で、堂内は目を見張るばかりの大きさである。通常のごとく偏担右肩に衲衣(のうえ)を着し、右手施無畏印(せむいいん)、左手は与願印(よがんいん)を結び左足を前にして結跏趺坐(けっかふざ)している。檜材・寄木造り・彫眼・螺髪刻出・光背は後補である。像全体に清新さと充実感がみなぎり気力のみなぎった風格と安定感は、鎌倉時代初期の府下でも数少ない大像である』
清和源氏嫡流の流れをくむ能勢氏が長く領した大きくはない盆地の少し高台に位置したこの寺に、泰然としたものを感じた。謂れ板によると現在はこの地だが、以前は更に標高の高い山塊の舌部上にあったとのことで、まさにこの盆地を見下ろしていたのではないだろうか?盆地の北側には能勢氏本城があり、盆地を挟んだ反対側・東側には同じく能勢氏の詰城があった現能勢妙見山がある。
先週、蛍狩りに来た野間川支流脇の農道を走り、R477に合流しました。国道を北上開始です。「本梅」集落に入り、左折してr731。8:37「出雲神社」に到着。いきなり大きな岩が目に入りました。この磐座が、御神体なのかも・・・。
『亀岡の名木 出雲神社のシキミ 樹種:シキミ(マツブサ科) 常緑小高木。本州(宮城県・石川県以西)・四国・九州・沖縄・中国・台湾・済州島に分布する。葉・実・茎共に一種の香気があり、葉は乾燥させて抹香・線香の材料として用いられる。仏事に用いるため寺院などに多く植栽が見られるなど身近な植物であるが、花・葉・実・幹・根にいたる全てにおいて有毒で、取扱いに際しては十分注意が必要である。 根元周:2.7m 樹高:14.3m』
立派な大木が並び立ち、鎮守の森を形成していた。バイクに戻り、r731〜R477で更に北上します。R372手前で左折し、旧山陰道に乗ります。細く曲がりくねった田舎道なので、慎重に走ります。現在の国道は平野に直線を描いて走っているが、旧街道の多くは川の側やかつて田園だった平野を避け、少し標高のある山の麓を縫うように走っている。
現代のように河川治水や土木技術が未熟だった時代、大雨が降ると冠水して通れなくなったり、流されて道がなくなる場所に幹線道路が作れなかったからだ。日本は水田で米を栽培し食の中心にして発展した国家だから、水田に適した標高の低い川の側の湿地は水田用地です。旧街道を走ると、旧家や寺社が沿道にあり、水田だった標高の低い平野が見下ろせ、気持ちの良い道です。
8:58「宮川神社」。「半国山」へのハイキングコースの1つでした。獣避けゲートを開閉して登って行くようです。ここから5km・・・ゲートの向こうの道は荒れており僕には無理そうです。
『宮川神社(延喜式内社)宮前町宮川 祭神に伊賀古夜姫命、誉田別命を祀る。当社の創建は文武天皇大宝年間(701〜708)山上に伊賀 古夜姫命を鎮めたのが起源とされ古くは神野山と称し 延喜式にいう神野神社に比定される。また、誉田別命 (八幡大神)は欽明天皇32年(571)に宇佐八幡宮 より神野山山中に遷し祀られたと伝えられ今に社地を 八幡平という。天正5年(1577)明智光秀と波多野秀治 の合戦の際両社とも焼失し、その後落雷不作が続いた ので、正保4年(1647)山麓の現在地に社殿を移し 二神をあわせ祀り。名称も宮川神社と改めたと伝えら れる。伊賀古夜姫命は京都下賀茂神社の祭神玉依 姫命の母神であり、下賀茂神社と関係深く葵祭の 行列に氏子青年が奉仕に参加している』
旧山陰道に戻り西進していたら、謂れ板が見えて来ました。緊急停止します。
『浄光寺 曹洞宗日面山浄光寺は、普済寺の末寺で開基開山は浄室永潤和尚の時で創建年号は不明である。寺に所蔵されているものは、大般若経(600巻)府指定文化財の木製懸彿3体(釈迦如来・十一面観音・大日如来)等があり元弘元年(1331)と記されている。又鐘棲の釣鐘には十字と印字が刻まれ世界平和を唱えている。本堂南側庭園には三尊石や心字池が作られている』
謂れ板は道の山側に立っていましたが、南側に溜池があり、そこに置かれた大きな岩に、『山陰道 野口駅跡』と刻まれていた。この場所に、旧道の駅があったようです。かつては早馬が飼葉を食んでいたのかも・・・って、当時の情景が脳内に想像された。
これは行かねば・・・、枝道を入り、9:21「浄光寺」。『不許葷酒入山門』と刻まれた石柱が山門前に立っている。禅宗系の寺院のようです。住職のお住まいだと思われる住居が境内に建っていた。東北地方に多い典型的な「曲り家」で、珍しいなと思いました。銅板葺きの大きな家ですが、銅板の下は茅葺き屋根が隠されていそうです。父の実家が茅葺屋根の農家で、銅板葺き屋根で覆い、従兄弟の代になって現代風に建て替えました。職人が減り維持費の高騰で仕方ないのでしょうが、外観もそうですが室内から見上げる屋根構造物や茅葺が格好良く、囲炉裏を囲む風情が子供心に「いいな〜」と感じていました。
旧山陰道を更に西へ。蛇が道路でくつろいでおり、慌てて避けたら首をもたげて来ました。バイクを停めカメラを向けて迫りましたが、全く動きません。炎天下でグロッキーになってるのでしょうか?車に踏まれた形跡はないのに・・・。更に西に進み、9:34『埴生城』。『戦国時代(1500年代)の山城(砦)で織田信長の命により明智光秀の丹波政略の節、八上城主(篠山市)の波多野秀治との仲を取り持つ活躍をした野々口西蔵坊の居城と云われている。又城山の麓には野々口氏の居住した館跡が残っている』
R372に出て東進します。左折してr73。9:47「佐々尾神社」。狛犬が小ぶりで見上げる形状をしており珍しかった。風化により表情が鮮明でなく、年代を感じた。いつ造られたものだろう・・・。絵馬殿を覗くと、風化してよくわからない絵馬が下がり、これまた歴史を感じさせる。
『佐々尾神社 祭神:天照皇大神・応神天皇・天児屋根命 祭典:1月1日新年祭(歳旦祭) 3月17日祈年祭 7月31日水無月祭 10月17日秋季例祭 11月23日新穀感謝祭
当社の創祀時期については不明ですが、元は笹尾というところに鎮座していました。室町時代の末期、応仁の乱の兵乱に際して本殿が荒廃したため、谷ノ奥に遷座され、さらに江戸時代中期の正徳5年(1715)現在地に本殿が造営され、現在に至っています。
境内には、大山祇命社・素盞嗚命社・市杵島姫社・天満宮・仁徳天皇社の5社が末社として祀られています。その内、仁徳天白覆は、「乳の神様」として産後の婦人の崇敬が篤い社です。また、大山祇命社は「山の神」として、当地が古くより良質の砥石の産地として名高く、多くの砥石山岡係者や林業関係に崇敬されています。
さらに、当社の境内には、明治初年まで神宮寺として伝赦大師最澄の開山と伝える天台宗の神護山慈眼寺がありました。こ心で祀られていた平安時代後期の木造阿弥陀如来や薬師如来・釈迦如来は、現在当社の東300mのところにある曹渓山宝林寺に安置されています』
「砥石採掘坑跡」という案内板を見つけたので探しに行きます。10:04「砥石採掘坑跡・砥石加工場跡」。山を囲う獣避けフェンスに、写真付きパネルが貼ってあるのみで、現場が何処にあるのかわからずパスしました。この山に入っても藪化しているだけのようにも思うし・・・。r73に戻り、亀岡盆地へ。京都縦貫道をくぐり、左折してR9に乗って北上します。右折してR477。桂川を渡り、すぐ左折してr25を北へ。10:23「久留守神社」。r25を戻り、水田地帯にポツンと残った小さな鎮守の森へ。10:40「小川月神社」。
『小川月神社 祭神:月読命 例祭:10月16日 祈年祭4月2日
由緒:当神社は昔から月読神社とも言われている。「延喜式」神名部に、丹波の国桑田郡(今の亀岡市及び北桑田郡)19座の中の大社2座の1つで桑田郡第2の大社とあり、また古記録は、伊勢の内宮・外宮が今の地に遷座される前の末社であり、神代から当地に祀られていたと伝えている。
この神社は大堰川に比較的近く、応仁の頃に兵乱と大洪水のため、神域のほとんどが流出、現在はやや狭少な神域となっているが、この神社を中心とした約1.3haの田地が「月読」として現存し、この田地が昔の神域で。あったのではないかと思われる。
その昔、北条時頼が諸国巡礼をし、小川月神社参拝の節、その家臣・人見次郎貞村にこの神社の守護を命じた。以後人見家が30代にわたって連綿と守護をし、その後は氏子総代が神社の維持運営にあたっている。現在は出世の神・五穀豊饒・商売繁昌の神とあがめられ、遠近より参拝者が多い』
10:49「日吉神社」。『祭神に大山祇神を祀る。当社は明治以前は、山王大権現と呼ばれ、室町年間嘉吉3年(1443)江州坂本から山王権現を勧請したと伝えられ、室町期にはすでに宮座(長桟)を組織した記録も残っている。天正年間、明智光秀の丹波攻めの際、社殿や宝物は焼失し、その後数度改築が行われ、文化11年(1814)造営されたのが現在の社殿とみられ、二間社流造の立派な建築物である。境内入口の石鳥居は、寛延3年(1750)に建てかえられたもので、そこにかかる「日吉社」の額は宝暦2年(1752)時の領主・武田氏の寄進によるものである。境内の欅の木は当社創建以来のものとみられ、御神木として神猿を形取っている。春の例祭(花祭)は4月14日に行われ、桜花の献花、氏子有志による生花が多数供えられる。また10月21日の秋祭には大正6年組織された敬神組によって神輿が巡行される』
『亀岡の名木 日吉神社のケヤキ 落葉高木。北海道を除く日本・朝鮮半島・中国に分布する温帯から暖帯の植物。山地や山麓の川岸に生え、社寺の境内にもよく植えられる。昔から重要な木材で建築・家具・船舶・車輌・薪炭に利用されたこの木は、「京都府案内誌丹波之部」に「天に中するの霊木なり」として紹介されている。根本にはこぶがあり神猿の現れといわれ参拝者に親しまれている。
胸高幹周:5.4m 樹高:22m』
絵馬殿には経年劣化で板に返りつつあるものが多かったが数掛けられ、本殿は大きくはないが、凝った彫刻が成された見ごたえのあるものでした。蟇股の彫刻は、果樹を背負った猿に声を掛けている鋤を背負った羽が生えた神様でした。初めて見る造形で珍しいので目が止まりました。境内の神木が立派に天に向かって伸びていました。
東に走り、突き当りを右折しr25に乗ります。11:08「愛宕神社」。『ムササビの生息する愛宕神社の森 この森は、ムササビが長い年月にわたり生息している貴重な森として、地域の人々に親しまれている場所です。またムササビの生息する愛宕神社の森として「京都の自然200選」にも選ばれています。
ムササビの/紹介 ムササビ:齧歯目(げっしもく)リス科の哺乳類
別名:バンドリ・ノブスマ・ヨブスマ・マモなど
特徴:北毎道を除く日本各地と鮮半島及び中国(四川省・雲南省など)の大木の茂る森林に棲息する夜行性の動物。ムササビは、目が大きく、鋭いかぎづめをもっている。また、皮膚がのびてできた飛膜を持ち、この膜を使って木々の間を滑空することがあり、地上におりず樹上で活動する。主に、木の葉や果実などを食べる大型のリスの一種。体色は、全体的に赤褐色または黒褐色で、腹部は白色、ほおから目の上にかけて白斑の模様がある』
『亀岡・愛宕神社(元愛宕)
この社は京都市・愛宕山頂の愛宕神社がこの場所から遷座していったと伝え、元愛宕とも呼ばれる。しかし背後の山は牛松山と呼ばれ、ここから愛宕山を望むことはできない。
「日本三代実録」等によると、愛当護神(あたごのかみ)と鎮座地である「愛当護山」は、古代において丹波国に属していたことが記録されている。この事実から、愛宕山は現在のように京都市(山城)側を表とするのではなく、本来は亀岡市(丹波)側からみた風景が本来の姿であったと考えられよう。そうであるならば山麓に元愛宕が鎮座する牛松山までが、古代の愛宕山に含まれた可能性がある。いくつもの山襞が重なった「愛宕山塊」とでも言うべき雄大な姿が、丹波の神のすまう霊山であったかもしれない。平安遷都によって山城側の人口が増加したことにより次第に信仰の中心が移動し、古代における丹波の神としての性格は、忘れ去られていったようである。
古代の愛宕山が神体山であったとすれば、元愛宕は本来拝殿、あるいは里宮のような役割を果たした存在であったと考えられる。丹波の神であった愛当護神の原初的な形態を、現在に伝える貴重な史跡と言えよう。なお本殿は鎌倉時代の建立と考えられ、重要文化財に指定されている』
本殿は瓦葺きの立派な覆屋に護られていた。覆屋の中に入り二重桧皮葺きの屋根を見上げる。ここに来て謂れ板を読んで知ったのだが、あの愛宕山愛宕神社の元宮という歴史に裏打ちされた本殿だけあって、しっかり作られている。長い歴史を刻んでいるが、手入れがされ続けているのだろう古さをあまり感じない本殿だった。境内を掃除されておられる御仁がおられ、社務所もそれなりで守護者がいる強みです。
帰ろうと覆屋から出ると、掃除されていた御仁が普段着のまま社務所に座っておられました。社務所に寄ろうと歩いていくと、「どちらからですか?遠くからですか?」の質問?挨拶?があった。「遠くはないです、兵庫県の伊丹からです」に始まり、いろんなことを教えてもらった。
立派な覆屋のことを話すと、「あれがないと檜皮葺屋根がすぐ傷んじゃうから」「職人さんも少ないでしょうからね」「7000万掛かるんですよ」。この宮司さんは「うちのもう一つの神社」と表現されておられたが、そちらを4000万掛けて修理しているそうです。「僕も氏宮から寄付が回ってくると寄付していますが、氏子さんへの寄付のお願いが大変でしょう」と聞くと、寄付を募らず自己資金でやったそうです。「篤志家ですね」と聞くと、「府道が通った時に神社の土地を提供したから、プールしてたそのお金を使ったんです。うちがお金持ってるの皆知ってるから、寄付なんて言い出すと怒られますよ」とのこと。まさに篤志家です。母の実家の本家も元庄屋で財産家だったので、江戸・明治の御代は地域の橋や道の整備にお金を出していました。それをしないと村人に白い目で見られ、庄屋として立ち行かなくなります。貧富の差が大きかったそういう時代の知恵です。「俺が俺が」の自己中な人や家は、自然淘汰されるのが日本の姿でした。
業者が桧皮を取りに来るそうです。全部皮を剥いだら木が死んでしまうので少しだけ剥ぎ、10年経ったらまた剥ぎに来るのだそうです。もう一つの神社の修理の話題に移りました。前回修理で、檜皮葺を剥がし銅板葺に変えたのだけど、雨漏りで垂木にまで痛みが進み、修理することになったそうです。垂木とは屋根を支える神社建築の重要部分なので大工事です。文化財指定されているので、できるだけ元の部材を使わねばならず、専門業者で丁寧な仕事をされているようです。
30分以上貴重な話を伺い、知識の上乗せが出来ました。本殿でのお賽銭10円では足らないので「交通安全御守護500円」を授かり、お聞きした宮司さんのもう一つのお宮に向かうことにしました。「保津町の端にある駐在所隣の八幡神社」・・・r25沿いのあそこじゃないかな?と頭に浮かびました。手動消防ポンプ車が置かれていました。父の実家も庄屋で、戦国時代に宮司だった本家から分かれた分家とわかっています。遠い先祖は、この住職さんのように代々お宮を守護する生活を続けていたのでしょう。バイクに戻っていると、「牛松山」と書かれた道標がありました。この神社の脇から牛松山に上る道が続いているようです。細いですが舗装されており、スカイスポーツのテイクオフポイントがある山です。探検心が湧きましたが、お昼に帰る予定なのに30分も宮司さんと喋ったからもうタイムリミットです。
宮司さんと話し、謂れ板で「愛宕神社元宮」だったと知り、この周囲に何故寺社が多いのか理解しました。背後の牛松山から京都盆地にかけての山塊が愛宕信仰の山として、桂川の豊な恵みを得た亀岡盆地に住む人々の自然崇拝の対象となっていたのでしょう。故にこの「愛宕神社元宮」を中心に寺社が自然に集まったと想像される。山は田畑から食べ物を生み出す水の源です。これなしには人は生きていけません。
r25旧道に下り南下します。r25現道に合流して。11:40「保津八幡宮社」。やはり僕の頭に浮かんでいた2度ほど訪問したことのあるお宮でした。工事中の覆いシートに包まれており一部しか見えませんが、現場と彩色も成された完成写真が披露されており、朱色が鮮やかでした。鳥居前横に葵が綺麗に咲いていました。
r25に出て、帰路に着きます。すぐに「保津川」(桂川)を渡ります。右前に建設中の「京セラ亀岡パープルサンガスタジアム」が見えています。元J1なのにここ数年J2から上ってきません。新スタジアムが起爆剤になって、J1に上って来て欲しいな。R9を渡り、11:52「矢田天満宮」。
『矢田天満宮 亀山城下の矢田口から鍬山神社への参道にあたる一の鳥居を越えた上矢田町の中程に鎮座する矢田天満宮は、「威徳山」の扁額を掲げた山門が示すように、かつてこの地にあった真言宗の蔵林寺の鎮守社として祀られたもので、「矢田の天神さん」として崇敬されています。
当社の由緒は、菅原道真が藤原時平の讒言により大宰府へ左遷される道中の山城国久世村の村長が道真公に親切にしたことを大変喜ばれ、後日の礼として菅公の御影の軸が届けられたのを機に、社殿が造営されました。その後、南北朝の戦乱を避けて、村長の子孫が当地に逃れ奉祭していたところ、蔵林寺の別当宣興が神のお告げを受けて、現在地に社殿を造営して祀ったと伝えられます。
また、この天神さんは、後陽成天皇の雷除けに霊験あらたかであったことから、「天満自在天神」の御宸筆を下賜されました。さらに、亀山藩主・菅沼定昭が疱瘡に罹った時に、当天神に祈願したところ忽ち平癒しました。それ以後、当社は、雷除けや疱瘡・子供の病気・災難除けに霊験が有るとして遠方からも参詣人が後を絶えないということです』
「鍬山神社」に突き当たり、左折してr6に乗り南下します。r46〜r733〜R423〜R173で池田まで帰ってきました。R176〜兵庫県道r13で、12:57帰宅しました。予定より1時間遅れましたが、PMはお仕事しました。


2019/6/23
今週末は、コーチしてる大学ヨット部のレース日です。前日土曜日とこの日、2日間のレースです。全日本インカレ個人戦地区予選です。京都府・滋賀県・福井県・石川県・富山県の大学から、2クラス各クラス上位6艇のみに、インカレ個人戦への出場権が与えられます。
当方の最終目標は、11月にある全日本インカレ団体戦2クラス総合6位入賞で、そのためにもこの予選でできるだけ多くのペアを6位以内に入賞させ、全国トップレベルの選手の中の自分の位置を確認する必要があります。当方の各クラスAチーム3艇計6艇が全日本に進めるよう期待しています。1週間前の団体戦予選プレ大会は強風の2日間で、2クラス合計で5艇が各クラストップ6に入れました。
今週末は1週間前と様変わりの軽風・微風コンディションになる予報です。土曜日の初日は天気予報通りの軽風で、470はD社3・Rits2・当方1、S級はD社1・Rits1・京産1・当方3がトップ6で、当方470は7・10。18位、当方S級は13・14・16位にもいます。相変わらず当方が地区内最大フリートで、470は7・S級9出場しています。2日目最終日の走りが楽しみです。
琵琶湖のヨットバーバーには8時に行けばいいので、バイクで寺社巡りしてから行くことにしました。4時前に目を覚まし、天気予報をチェックし、倉庫から「招き猫CB400SB」を出します。
コーチングセット(風見・ホイッスル・日焼け止め)などいろんなグッズ満載のベストを着込み、日焼け予防のつば広ハット・サングラスも必須です。レースコーチンググッズを積み込みます。ハンドマイク・双眼鏡も必須で、濡れることはないと思うけど念の為カッパもリアボックスに入れます。夏用メッシュバイクウエア上下の上からライフジャケットを着込み、5:15出発。
このライフジャケットは水に落ちても4日間人を沈ませない国際基準を通過しているスグレモノでディンギー乗り必須アイテムですが、バイクに乗る時はコケても胸と背中を護るジャケットにもなり、ハードプロテクター入りバイクジャケットに加えて守られている感が半端ないです。
R171〜中央環状線〜吹田から名神高速〜京滋バイパス・宇治西IC下車。ここまでは、先週日曜日の宇治カフェの会のミーティングと同じです。R24に乗り北上します。右折してr245に乗り東進し、宇治川を渡ります。1週間前に訪問した「許波多神社」前を通過し、京阪宇治線・JR奈良線を渡り、左折してr7で北上します。「六地蔵」駅前を右折し、r36で北上。右折してr127。
6:11「萱尾神社」。この神社は、現在は別々になっている「法界寺」の守護宮です。ここを探している間に間違って近くにある「法界寺」の方に行っちゃいました。法界寺は藤原氏傍流・日野氏の氏寺で、「日野薬師」とも呼ばれている。この地は「京都市伏見区日野」です。
日野氏は歴史に大きな影響を及ぼしました。浄土真宗を起こした親鸞の出自は日野氏でこの寺で生まれました。親鸞が産湯を使った井戸も残されています。近くに宗祖親鸞を奉った「本願寺日野誕生院」という寺院もあります。
また、日野氏といえばやはりこの地に生まれた日野富子がいます。室町幕府8代将軍・足利義政の正室に収まります。商才に長けており、京都周辺には数々の財政難に陥った室町幕府を支えたエピソードが残っています。そんなこんなで幕府内で大きな影響力をも持つようになります。でも女の子ばかり出産し、将軍お世継ぎの男の子に恵まれませんでした。義政は実弟で仏門に入っていた弟を還俗させ、細川勝元を後見に将軍後継者に指名します。ところがその後富子は男の子を出産し、息子を溺愛する富子は、山名宗全と実家・日野家を後見に将軍後継者を争うようになります。財政力のある富子のゴリ押しと、細川勝元と山名宗全のライバル心、室町幕府管領職だった斯波氏・畠山氏の家督相続争いもあり、東西両軍に分かれて京都を舞台に10年も戦った「応仁の乱」の主原因になります。富子の商才は際限なく、戦乱時も東西両軍に資金を貸付け暴利を貪ったとのことです。中世の豪快女性です。
『京都市指定有形文化財 萱尾神社本殿
萱尾神社は、大己貴命(大国主命)を祭り、日野村の産土神として崇敬を集めるとともに、法界寺の北東に位置し、江戸時代まではその鎮守社ともなっていた。現在の本殿は、法界寺坊中、在所年寄、近在の氏子などによって慶安5年(1652)に再建されたものであり、その後も屋根葺替や彩色等の修理が繰り返されてきたことが、当社所蔵の多数の棟札からわかる。
建物は大型の一間社流造である。極彩色が施されるなど彩色装飾が豊かで、醍醐寺清滝宮本殿(重要文化財)に相通じる雰囲気を持っている。この本殿は建築年代がはっきりしており、さらに造営以後の修理についてもほぼ明らかで、近世日野の建築活動を知るうえで貴重である』
本殿は、極彩色で彩られ、最近塗替え修復されたようです。年代物の渋い魅力の社殿も良いが、こういう建造当時を想像させるカラーリングの社殿も良いです。東南アジアの仏教寺院との共通点を感じ、古くは明日香の高松塚古墳の石室壁画を思い出しました。日本人が持っている色彩感覚なのではないでしょうか。
社殿裏手横手の鎮守の森に、伐採され短く刻まれた木々が残されていました。この神社に来た時声を掛けられたワンちゃん散歩の方の言葉を思い出しました。鳥居前の鎮守の森の木だったと思われる大木が切り株になっていました。その方には「これはクスノキの大木のようですね。こんな大きな切り株の木はそうはないよ」と驚いておられました。その他にも何本も伐られており、みな伐り口が新しいので去年の大風台風の影響を感じました。京都の多くの寺社で、惨状を見たし、そんな木を伐っている現場も見ました。
r127からr36に戻り、再び北上。旧奈良街道に入り北上し、6:28街道沿いにあった善願寺。『腹帯地蔵善願寺 奈良時代、光明皇后の発願により「女人を難産の苦しみから救わん」と僧・行基に命じて、安産にご利益のある地蔵尊を本尊として創建された寺と伝える。その後、所在が不明になっていたのを縁あって比叡山延暦寺の恵心僧都「源信」が長保年間(999〜1003年)に当地に再興した。
現存する地蔵菩薩(重要文化財)は寺伝によれば、平清盛が五男の「重衡」の安産を祈願して、七条仏所の仏師により造立し奉納されたと伝える。そのご尊像は丈の座像で「地蔵大仏」といわれ、尊像の腹部に裳の結び目があり、これが腹帯に似るところから「腹帯地蔵」として親しまれて今も安産祈願の人が絶えない。また重衡の夫人が近くの日野に住み、夫人の安産を祈願して堂宇を寄進したと伝える。
現存する本堂は第19世、慈円上人(浄土宗西山派の僧)によって弘化3年(1846)に再興さたもので、堂内の天井には岸派(岸良)による華麗な天井画がある。また、境内には「榧」の大木があり小野小町ゆかりの「小町がや」といわれ、その表皮をめくり生木に不動尊像が彫られている。仏師・西村公朝(こうちょう)師の作で有名となっている』
次男のお嫁さんが妊娠中なので、しっかり安産お願いをしました。旧奈良街道を北に走り、再度r36。右折して、「醍醐天皇後山科陵」。r36を更に北上し、名神高速をくぐる手前を右折し、6:53「歓喜光寺」。
『紫台山河原院歓喜光寺 歓喜光寺は、六条道場「紫台山河原院」と号して、時宗六条派本山である。もとは京都府下八幡にあって善導寺と称していた。この寺は一遍上人の従弟・聖戎上人が開いたところで、上人に深く帰依した九条忠教が正安元年(1299)京都六条河原の源融公邸跡の400m四方の土地を寺に寄進し、堂舎を造営して移らせ、河原院「歓喜光寺」としたのである。
天正年間(1573〜)豊臣秀吉が都市計画を進めるにあたり、寺院を今の京都市内ノ内と寺町に集めることになり、「歓喜光寺」も寺町錦小路東入ル(現在の四条新京極)に移転することとなる。
元治元年(1864)兵火による大火で一度寺は炎上している。しかし直ちに再建された。明治5年、神仏分離によって歓喜光寺内にあった社は独立することとなり、「錦天満宮」となった。なお天満宮の末社・塩釜社(源融を祀っている)も元六条河原の歓喜光寺境内にあったものであるが、ここに移す事となる。明治40年5月東山五条にあった法国寺と合併、寺基をここに移した。昭和50年(1975)現在の地に移転、本堂及び地蔵堂は解体復元する』
『時宗の修行道場 歓喜光寺
はじめ京都府八幡にあった「善導寺」と称し、一遍上人の従弟・聖戎上人が開きました。1299年、京都六条河原の土地を得て移り、「六条道場河原院歓喜光寺」としたのが歓喜光寺の始まりです。その後1573年、寺院を寺町(現四条新京極錦)に移し、1907年、東山五条にあった法国寺本堂で、豊臣秀頼の母・淀君が現世と来世を幸せに過ごせるよう祈願して桃山時代に建立されたもので、時宗式本堂として類例の少ない貴重なものであり、京都府指定文化財となっています。
時宗と一遍上人
「時宗」は、鎌倉時代浄土宗の流れを受け継ぎ、「一遍上人」が創開された念仏宗です。「一遍上人」は、伊予道後(現愛媛県)で生まれ10才で出家、摂津国(現神戸市)で没するまで、生涯を費やし日本全国を念仏遊行(僧や聖職者などが修行のため諸国を巡り歩く)したことから、「遊行上人」とも言われています』
7:08「岩屋神社」。『天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、栲幡千千姫命(たぐはたちちひめのみこと)の夫婦二柱と、その皇子饒速日命(にぎはやひのみこと)の親子三柱を祭神する。本殿背後の山腹に陰厳・陽厳と称する一対の巨岩があり、そこに神が降臨すると考えられている古代に、これを磐座として祀ったことが始まりと伝えられている。社伝によれば、仁徳天皇31年(343)の発祥とされ、境内から奈良時代以前の土器が出土している。後年、宇多天皇の寛平年間(889〜898)に陽巌に天忍穂耳命を、隠巌に栲幡千千姫命を、また岩の前の小社に付近の大宅氏の祖神として饒速日命を祀った。社殿は小承年間(1177〜1181)に円城寺僧徒により焼失されたが、弘長2年(1262)に再建され、今日に至っている。現在、山科東北部における産土神である』
『奥之院、または岩屋殿と呼ばれる本殿背後の山腹に座す陰陽の両巨岩を根源としています。これは、現在のような定まった社殿でなかった時代の磐座信仰の姿をとどめています。奥之院に続く参道等の整備に伴い、10基の鳥居が奉納されました。
祭祀 4月29日春祭(例祭) 11月第3日曜日秋祭・御神幸祭
磐座信仰とは、巨岩に対する日本に古くからある自然崇拝の1つです。中世、山科盆地には、東・西・上の「岩屋三社」と呼ばれた神社があり、山科地区住民の鎮守神的信仰を集めていました。岩屋神社は東に当たる神社であり、西は山科神社です。上は現在の所不明』。ここが山科一宮でした。
2つの磐座を観に行こうと歩いて登ったが、案内板をロストしたのか見つけられませんでした。川崎大師京都別院である笠原寺を見つけました。7時を回ったのでバイクに戻り、今朝の寺社探索を終了しYHに向かいます。r35〜R1〜湖西道路で、7:46YH着。
ディンギーヤードに歩いていくと、他大学も含めて「おはようございます」の挨拶が飛んできます。もちろん僕からも「おはよう」。当方部員みんなに挨拶し艇庫前へ。バイク装束を脱ぐスペースがなく、コーチボートが係留している桟橋に行き、装束を脱ぎます。
今年卒業したS君が復帰していました。卒業を間近にトラブルが起き、時間がなくヨット部卒業文集も書けずにヨット部卒業パーティー(追いコン)にも欠席して勉学に励んでいました。卒業したしM1に通っているのですが、一連おトラブルのショックでヨット部にご無沙汰していました。2ヶ月遅れで卒業文集も書き上げ、卒業生全員の文章が整い製本なった文集も出来上がりました。ずっと気になって、同期がクラブにやってくる度に「S、どうなってる?元気か?」なんて近況を聞いていました。
学生時代の4年間一緒した仲間から1人でも掛けると、「あいつどうなったのかな〜」なんて気になります。仲間を失う本人が最も残念なことは、同じ環境を過ごしその後を知っている僕には痛いほどわかります。今、あいつを仲間から離さず、無理強いはしないが「来いよ」と声を掛け続けるのが仲間というもの。縁のあったコーチの仕事だと思っていました。
Sくんから、「ご心配掛けました。次の週末からクラブに復帰します」とメールをもらって安心していましたが、顔を見て以前と変わらぬ話しぶりにホッとしました。この日、最も嬉しかったことです。
体操の時間になり、レース前ブリーフィングです。監督に続いて僕が指名され、「楽しくレースに臨もう」「1日目の順位で守りに入らず、いつもどおり思いっきりレースをしよう」「でも冷静に、スタート時間を頭に入れてスタートラインから離れ過ぎないよう練習しよう」を伝えました。続いてコーチ陣からアドバイスがありエンジンを組んで気合を入れます。1回生が多く入部してくれたのでパワーを感じます。
軽量コンビや軽風得意選手に、肩を叩いたりして「得意な風やな」とか軽口を叩きリラックスさせます。陸上本部ポールに470D旗が揚がり、一斉にレース艇が出ていきます。コーチボート横の桟橋に並んだ1回生から、大声のエールがあり、名前を呼ばれた選手はレース艇の上に立ち、「ありがとうございます」。大好きな雰囲気です。僕もエールに加わり、名前を叫び、手拍子をします。
続いてS級が出艇して行きます。コーチボートも桟橋を離れます。I監督と話しました。「Sがクラブに復帰したんですよ」「次の週末から復帰すると、メール貰ったんだ。今朝話し変わってなくてホッとしたよ」。同回生に様子を聞きながら、あえて仕事を与えようと、470コーチに就任させたようです。「流石、監督だな〜。そういう気遣いが大切だよね」と大いに褒めました。彼が監督で僕がコーチという立場だけど、彼は次男の同期で、彼が選手の時も僕がコーチをしていたので面白い間柄になっています。コーチ歴が長いので、監督さんは4人目です。
土曜日の初日4レースの成績は、全日本インカレ個選への出場枠6艇に入る470上位6は、D社3・Rits2・当方1です。S級は、D社1・Rits1・京産1・当方3。470は7・10位に当方がいるので、3艇権利をとって貰いたい。
R5が6ノットで始まりました。470トップ艇のスピンが当方で、コーチボートが盛り上がります。監督・若手コーチ3人の他に、1回生マネMさんと1回生女子プレイヤーNさんがコーチボートに乗っています。レースの流れなど気付いたことを都度教えます。少しでも早く一人前になってもらわないと、学生スポーツは4年間しかないので、毎年メンバーの1/4が入れ替わります。S級がスタートし、レース海面の外側を一緒に上っていきます。当方チームリーダーとキャプテンのペアが第1風上マークをトップ回航しました。幸先が良いです。
470はそのまま2位を更に離してトップフィニッシュしました。3位も当方です。23艇がトップ艇フィニッシュから10分以内にフィニッシュできずなどで横文字が付きこのレースの得点45点食らっちゃいました。S級は惜しくも2位でしたが、3・6・10と4艇がトップ10/全39艇でフィニッシュしました。
続くR6のスタートで、さっきトップフィニッシュしたエース艇がスタートミスして、逃げのタックをしています、ああ〜。S級がスタートし、また一緒に第1上マークに向かいながら、レース展開を見ます。右海面に出していた当方の前日5位だったF君艇が、左海面から風が入り不利になったところで大きく左海面に船をチェンジします。負けタックでレース前半で他艇のスターンを切り続けるのは負けパターンです。もう一度右海面に戻せと期待しながら見ていましたが、そのまま左に突っ込んでいきました。同じような位置にいたD社2艇は、次の右からの風に期待し、左海面艇に大きく負けながらも、しぶとく右で頑張っています。僕の予想通り、左からの風の勢いが収まり、右海面にいた艇が復活していきます。Fくんは実力に程遠いビリ数番という順位で1上マークを回りましたが、D社2艇は10番代で回りました。Fくんのクルーは1回生でまだ気持ちが弱いかな〜、でもこれからです。当方Bチーム艇がトップ回航していきます。このまま下剋上してくれるとチーム内競争がより激しくなり、チーム力が上がります。
470は失敗スタートしたエース艇が3位まで挽回し1上を回航し、フィニッシュはトップでした。3・4・8位も当方でトップ10に4艇入りました。S級は、6・8位です。2位フィニッシュしたD社T女史が、「すいません、トイレ借りていいですか?」とやって来ました。「いいよ、おいで」。D社コーチボートにはトイレがついていません。コーチボートにレース艇を横付けし、飛び乗ってきます。「Tさん調子いいね、もう優勝は決まりだね」と声を掛けると、「いいえ、いいえ」とはにかんでいます。女の子は可愛いな。待っているクルーの男の子と話します。Tさんがトイレから出てきて、「ありがとうございます」「頑張れよ、応援してるよ」と声を掛けて、レース艇を押し出します。Tさんは、大昔僕が大学卒業後作ったジュニアヨットクラブ出身です。次男の後輩になります。D社現監督もそうで、小学生だった彼を僕がコーチングしました。他大学ですが、その後の活躍が嬉しい。
R7スタート前に、風が上ってきました。いい感じです。少し第1上マークまでの距離を伸ばしスタートシークエンスに入ります。ところがスタートアウターボートのアンカーが利いておらず流されてしまいました。すぐ戻しましたが、AP旗でスタートを延期し、再度1からスタートシークエンスに入ります。
風が落ちてきて、14時以降スタートしない規定になっているので、このレースが最終になりそう。またS級と一緒に第1上マークに向かいます。470は3・5・6位でフィニッシュ。ギリギリ14時スタートが無理そうになり、フィニッシュ途中にAP/A旗で本日のレース終了です。S級は、2・4・5・9位でフィニッシュし、インカレ個選予選終了です。S級エース艇は2位フィニッシュで、優勝争いをしている総合トップD社が12位フィニッシュなので優勝の目が出てきました。点数計算すると同点のようです。トップフィニッシュした回数がトップD社が2回で当方が1回なので、同点2位のようです。ルール違反失格したけど、D社艇はもう1回トップフィニッシュしているので、実力は向こうの方が上です。
プロテストしている艇やされている艇がいるので、それら3艇を2艇のコーチボートで引っ張って先にハーバーバックします。それらをハーバー前で離して、再度レース海面へ。適当な風が入っており、曳航する必要はなさそうです。そのままコーチングしながらハーバーバック。
プロテストの審問があり、長い待ち時間に入ります。15:30からクラス別ミーティングです。レースに出場していない1回生を集め、ヨット部員必須の時計に必要な機能や、暑くなって着た時の服装などをレクチャーしました。
出場全校のフラッグを先頭に全校部員が整列し、プライズ・ギブン・セレモニーが始まりました。470はD社3・当方2・Rits1、S級はD社2・当方2・京産2が、全日本インカレ個人戦への出場権を得ました。当方は、去年より1チーム多く出場します。また一歩前進です。
合宿所に戻ろうとバイクで荷造りしていると、琵琶湖ジュニアのお母さんから声を掛けられました。「関西選手権に兵庫ジュニアが参加して下さいました」。次男がOPやってた頃は、他に大阪・宮津・和歌山・伊丹が出場していたのに、大阪と和歌山が消えちゃったそうです。ジュニアがもっと盛り上がるといいのにな〜。熱心な親がいれば盛り上がるが、いなくなるとすぐ消えちゃいます。マイナースポーツの宿命ですね。
合宿所に戻り、全体ミーティング。まず全日本への権利を得た選手を讃えます。次に気付いたことを話します。クラス別ミーティングで出たことで、全員に共有したいことを各リーダーから。最後に、若手コーチから差し入れのことが・・・「冷蔵庫にハーゲンダッツあるから食べてね。70個あれば足りるよね」「うお〜」。この日は夕食がなく、掃除の時間となり帰路に着きます。冷蔵庫を開けると、美味しそうなハーゲンダッツがずらりと並んでいます。「あ〜、ハーゲンダッツが頭に入っちゃったから、帰りのPAでアイス食べなきゃ」「コーチのもありますから食べてってくださいよ」「いや、いいよ。みんなで食べなよ」と笑いながら嘆いて、バイク装束を着ます。
湖西道路〜名神高速。18:41「桂PA」で「ガリガリ君ソーダ75円」で糖分補給。19時台に帰宅すると、仕事で土曜日お泊まりだった家内が帰っていました。仕事の全国大会が神戸であり、兵庫県が担当でした。ゲストに招いたジャズシンガーの綾戸智恵さんに花束を渡す役をして来ました。家内はまだまだ美人さんのスマートさんで、中高放送部だったので、仕事関係のパーティーがあると、プレゼンターや司会をよくやります。なんだかんだで、土曜夜帰ってくる予定でしたが、帰らせてくれなかったようです。美人は人気だものな〜


2019/6/16
カフェの会で11:30宇治集合です。4時に目が覚めたので、ゴソゴソしていました。前日、次男のお嫁さんから「父の日プレゼント」が届きました。岐阜県恵那市の冷菓のようで、「冷蔵庫で冷やして召し上がる」んだって。
昨日家内が「お父さんは琵琶湖に行ってる」とお礼してくれているけど、お嫁さんにLINEでお礼しました。LINEには、すみれちゃんからの「父の日プレゼント」の写真が投稿されており、次男がクレヨンでネクタイ型画用紙に書かれたネクタイを首に当ててご機嫌の顔をしています。
そんなパパを覗き込んで、すみれちゃんが何か言っています。女の子は口が達者なので、パパがタジタジになっているのかな?
夕方帰宅後またチェックすると、お嫁さんから「すーちゃんは、言葉のチョイスがおませで、表情が豊かで、いつもたーくんや私を笑わせてくれています」だって。3才は親にとって最も可愛い頃です。僕も息子たち相手に、小学生になるまでの数年間楽しい時間を過ごせました。

朝食を取り、「里山VTR250」を倉庫から出し8:04出発。R171〜中央環状線〜吹田ICから名神高速に乗り、大山崎JCTから京滋バイパスに乗り換えます。宇治西ICで下車し、宇治川土手r241を走り、JR奈良線を渡ります。r7で宇治川を渡り、渡ってすぐ右折し宇治川沿いのr247を川上に向かいます。両側にお店屋さんが並び、山側は寺社銀座になっています。2度、宇治界隈を探索したことがありますが、まだまだ訪問できていない寺社が残っています。
寺社銀座が終わり、これ以上この道を走ったことなかったので、この先を探索することにしました。8:57「天ヶ瀬ダム」。煉瓦色の水力発電所が景色に溶け込み、良い感じです。
ダム下流で宇治川を渡り左岸道路を下ります。吊橋がありました。『天ヶ瀬吊橋は、昭和17年4月に架けられました。このあたりの渓谷は宇治川ラインと呼ばれ、桜と紅葉の名所として有名です。天ヶ瀬は、古くは「甘樫ノ浜」と言われ、宇治田原から搬出される薪を筏に組んで田原川に流し、このあたりから船で伏見や大阪へ運んだと言われています。ここより500m上流には天ヶ瀬ダムがあり、その東側にバードウォッチングや森林浴が楽しめる天ヶ瀬森林公園があります』
r3に出て少し戻り、「白山神社」。『白山神社と金色院 白山神社は延暦9年(790)疱瘡が流行した時、その治療を願って建てられ、藤原頼通の娘で後冷泉天皇の皇后・寛子(かんし)の建立した金色院の鎮守社となった。祭神は伊邪那岐命で、平安時代後期の木造坐像を祀っています。康和4年(1102)に建立された金色院は、7間4面の本堂のほか、多くの堂塔や坊舎を誇り、堂塔には金がちりばめられていた。現在では白山神社と惣門、寛子の供養塔と言われる九重石塔が残るのみですが、同じ白川の地蔵院に保存されている数々の宝物や文化財から、往時を偲ぶことが出来ます』
『白川地区の茶畑 白川は江戸時代から茶栽培が盛んなところで、現在も谷のあちこちで茶園が営まれています。茶摘み期に茶園を覆う覆下栽培によるてん茶生産が主流で、ワラやヨシズを使う伝統的な覆い方も継承されています』
『白山神社 当地・白川は、藤原頼通が山荘を設けたところで、娘・四条宮寛子はここに、康和4年(1102)金色院を造営した。当社は久安2年(1146)に創建された金色院の鎮守社である。本殿は1間社流造檜皮葺で、堂内には伊邪那美尊坐像(重文・藤原)を安置している。拝殿(重文・鎌倉)は、宇治離宮の遺構とも言われ、方3間単層4注造茅葺で、鎌倉中期の様式を示しており、腰高障子を立て住宅風の古建築である。社宝として、十一面観音像(重文・藤原)がある』
沢を渡り、長い石段を上がると、拝殿の茅葺きに草が生えており、ひっそりと佇んでいた。『白山神社拝殿 この神社の創立は詳かではないが、堀河帝の時造立された金色院別坐寺の鎮守として建築されたものと言う。この拝殿は、久安2年の創建と伝え、棟札によれば建治2年に補修をしたことを記しているが、構造形式から考えるとこの時に再建したものと思われる。明治43年8月特別保護建造物に指定された。このような文化財は、わが国の歴史文化等の正しい理解のため、また将来の文化の向上発展の基礎をなすものであることを認識すると共に、貴重な国民的財産であることを自覚し、これを公共のために大切に保存せなければならない』
本殿前に盛砂があり、「紀元2600年記念」と彫られた石柱横に砲弾が2つ置かれていた。
少し戻って「地蔵院」。『白川金色院 後冷泉天皇の皇后・四条宮寛子(宇治平等院を建てた関白藤原頼通の娘)が、康和4年(1102)に創建した寺と伝えられている。この白川の里にはその名の通り、金色まばゆい伽藍が並び建ち、天治元年(1124)落成した奥州平泉の中尊寺金色堂のモデルともなったと言われますが、長禄4年(1460)の火災に焼失し、金色院の優美な佇まいは失われてしまいました。現在ではその鎮守社であった白山神社に寄棟造茅葺拝殿(鎌倉)があり、この地蔵院には奈良時代の銅造阿闍如来立像・釈迦如来坐像などをはじめ、平安時代の銅造・木像の仏像・板彫両界曼荼羅、あるいは建武2年(1335)鋳造の梵鐘、平安・鎌倉期の大般若経など金色院の遺宝とされる多くの文化財が収められています』
梵鐘を見ると、「建武6年2月」と彫られていた。大東亜戦争末期の金属供出を免れたようです。『宇治市指定文化財 大般若経 563巻 時代:平安〜江戸時代 形式:巻子改装折本 法量:縦24cm横9.4cm
この大般若経は、江戸時代以来金色院の鎮守白山大権現に奉納されたもので、590余巻が伝えられている。構成内容は、平安末期写経352巻、鎌倉時代版本149巻、室町から江戸時代の補写本93巻からなっている。平安の書写経には久安6年(1150)、仁安3年(1168)等の年号がみられ、これらの奥書には、大宅末恒女、藤原忠兼女大江氏らが願主となって発願した旨が記されている。鎌倉時代の版本は春日版で、そのうち60数巻の表紙の見返しに騎獅文殊像の版画がある。また、第163巻などには、西大寺の僧叡尊が聖朝安穏と仏法久住を祈って弘安2年(1279)3月25日に平岡社(大阪府枚岡市の枚岡神社)に奉納した旨を記し、「願主西大寺沙門叡尊」と奥書がなされ、「平岡宮」の朱額印が巻首、巻尾に捺されている。
宇治橋を再興し、浮島十三重塔を建てるなど宇治にゆかりの深い叡尊の伝記資料として注目される。巻第600の巻末に観応元年(1350)12月5日宇治田原町の観音寺に施入した旨が記され、その後白川にもたらされたものと考えられる。平安時代の写経を多く含み、叡尊の自筆奥書がみられること、その伝来の特異性などから貴重な文化財である』
『地蔵院は、弘治年間(1555〜58)に創建され、藤原頼通の娘・四条宮寛子(1036〜1127)が康和4年(1102)に建立し、のちに廃絶したと伝えられる白川金色院の遺宝を多数所蔵しています。白鳳時代の阿しゅく如来立像と釈迦如来坐像などをはじめ平安時代の銅造・木造の仏像のほか、板彫両界曼荼羅、建武2年(1335)の年号と金色院の名が刻まれた梵鐘、また大般若経563巻、紺紙金泥法華経などがあります』
『藤川市左衛門邸 水原房次郎 蔵美術館 次回の開館10/25〜11/9 宇治十帖源氏物語スタンプラリーと合わせてお立ち寄り下さい。古風な門前の柿採り体験、ゆずの直販などもあります』
バイクに戻り、「天ヶ瀬ダム」経由で宇治川右岸に渡り直し、宇治平等院の対岸まで戻って、9:47「興聖寺」。バイクを置き、『石門(総門)慶安元年(1648)建立』をくぐって「琴坂」のゆるい坂を上っていきます。中国風の山門をくぐり、境内に入ります。
『興聖寺は、正式には佛徳山観音導利院興聖宝林禅寺と申します。その発祥は1233年にさかのぼり、中国から帰朝された道元禅師が、伏見深草に日本で初めて開かれた禅宗寺院です。現在、日本に14000以上ある日本最大の仏教京派、曹洞宗において最古の寺院です。その後、紆余曲折を経て、1649年に、宇治に再興され、現在にいたっております。曹洞宗初開道場として、日々国土安穏、万邦和楽、正法興隆、修道無難を願い、只管打坐、眼横鼻直に勤めております』
『淀藩主・永井尚政が1648年に建立した曹洞宗の名刹。宇治7名園の1つ朝日園の跡に建つ。毎年10月第1日曜日に開催される宇治茶まつりの時、本堂で茶壺口切りの儀式や境内の茶筅塚で茶筅供養が行われます』
『塔の島 十三重塔 旧相輪 京都府立宇治公園、塔の島に建つ「十三重石塔」は高さ約15cm、現存する日本最大の最古の石塔です。鎌倉時代弘安9年(1286)、奈良西大寺の僧叡尊(えいそん)によって、宇治橋の架け替えに際し供養塔として建立されました。その後、洪水や地震などで何度も倒壊、再建が繰り返されましたが、江戸時代初期には興聖寺開基・永井尚政によって修理されています。現在の宇治川中の島の塔は、明治41年(1908)に再建されたものです。破損のため使用されなかった旧相輪と九重目の笠石は永井尚政公ゆかりの興聖寺の庭に移されています』
拝観料300円をお支払いし、鐘楼・大書院・法堂・祠堂殿・天竺殿・開山堂・僧堂・薬医門を巡った。拝観料は自販機でチケットを買うシステムで、そのチケットを受付のお姉さんに渡すと、案内図などを渡され説明を受けた。「写真はOKです」と。大書院で、お抹茶500円を頂けるようです。
大書院に行くと、素敵なお庭に面して緋毛氈が敷かれ、座椅子+テーブルが置かれていた。祠堂殿は白壁の宝物殿のような感じで、中に入ると永井家歴代の位牌が並んで供養されていた。永井家系図があり、宇治市指定文化財の「聖観音菩薩立像」があった。『像高166.7cm(5尺5寸)桧材漆箔の堂々たる等身像で、平安時代中期の本格的彫像。寺伝では、小野篁の作と言われている』。こんなところで、小野篁作に出会うとは。小野篁も仏像を彫っていたとは知りませんでした。
『興聖寺再興の所以と永井氏 曹洞宗の開祖とされる道元禅師が伏見深草にて開堂された興聖寺は約350年もの間、廃絶となっていましたが、慶安2年(1649)淀藩主・永井尚政(1587〜1668)により、宇治に場所を移し再興されました。
永井尚政が興聖寺を再興した理由は、曹洞宗に帰依していたといわれる、父の永井直勝(1563〜1625)とその妻の菩提を弔うと共に、自らの菩提寺とするためでした。また再興に関して、こんな逸話があります。徳川方の将であった直勝が、天正12年(1584)小牧長久手の戦いにおいて相手方の勇将、池田恒興の首級をあげたので、その菩提を弔うために興聖寺を再興したというものです。直勝に討たれた恒興は織田信長の乳母の子で、織田家の武将の中で最上位のひとりに数えられたほどの人物でした。後年、恒興の次男で、徳川家康の娘婿にあたる池田輝政は、直勝と雑談におよんだおり、ふと「その方の禄はいかほどか?」と尋ねたことがあった。直勝が※7千石だと答えると、輝政は「我が父ともあろう人の首にしては、安いものよのう」と冗談まじりにこぼしたという話が伝わっています。※徳川将軍家で400万石、息子の尚政は10万石』
「天竺殿」に入ると、住職さんが観光客に説明をされていた。しばらく聞きましたが、先に退出します。こちらにも永井家の位牌が並んでいました。「僧堂」に行くと、「只今坐禅中につきお静かに」の立て札が立っており緊張してゆっくり廊下に入りました。廊下にも座禅座布団が並んでいましたが、座禅されている方はおられませんでした。扉のない室内にも座禅座布団が見えましたが座禅修行者はおらず、誰も座禅を組まれていませんでした。
『興聖寺の名は、曹洞宗の開祖・道元禅師が伏見深草に開いた由緒ある寺に因み、慶安元年(1648)に淀城主・永井尚政がそれを宇治の地に再興しました。本堂は伏見城の遺材で造ったとも云われており、境内は禅寺にふさわしい威厳と静寂に満ちています。また、山門に至る参道は琴坂と呼ばれ、紅葉の名所として知られています。境内に安置されている平安時代後期の木造聖観音立像は、かつては源氏物語宇治十帖の古跡のひとつ、手習いの杜に祀られていたことから「手習観音」の呼び名で親しまれています』
バイクに戻り、少し走って「恵心院」。『宇治市指定文化財 木造十一面観音立像 像高:91.5cm 平安時代 恵心院は寺伝によれば、弘仁13年(822)空海の創建になるという。初め寺名は唐の青龍寺に似ているところから龍泉寺と呼ばれたが、平安時代中期の寛弘年間(1004〜1011)に恵心僧都が再興して、以降寺号を恵心院と称するようになった。その後、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受けて諸伽藍の整備が行われたと伝える。現在は本堂・表門のみを残している。
木造十一面観音立像は、恵心院の本尊である。ほぼ直立に近い姿で、太い頚、脇を締めた体型などやや重厚な感じを残している点や、衣文の数が少なく簡素な表現を示しているあたりに、10世紀頃の典型的な作風を見る事ができる。宇治に残る数少ない10世紀の作例として貴重である』
『恵心院 当時の始まりは、弘仁12年(821)に真言宗の開祖・弘法大師によって開かれた古刹龍泉寺と伝えられていますが、やがて「往生要集」の編者として名高い恵心僧都源信によって再興され、恵心院と称するようになったと伝えられています。源信は、宇治川に入水した源氏物語宇治十帖のヒロイン浮舟を助け、新たな道を歩ませることとなった横川の僧都のモデルともいわれています。近世に入ると、春日局との縁故もあり、宇治茶師上林一門の後援を受けました。本堂には平安時代後期の木造十一面観音立像が安置されています』
本堂に手を合わせ、寺社参りの定番お礼をします。先月から「次男のお嫁さんの無事出産と男の子希望」のお願いを加えています。高台に境内が有るので、宇治川の流れの向こうに平等院が遠望できます。本堂の屋根が修理中のようで、覆いを被っていました。蓮池に元気の良い葉が伸び、来月は蓮の花で綺麗そうです。
r247に下り、下流に向かって少し歩くと訪問したことのある「宇治神社」がありました。『宇治神社は、日本書紀に「応神天皇の皇子で、兄である仁徳天皇との皇位を巡る葛藤から宇治で自殺した」と記されている悲運の皇太子・菟道稚郎子(うじのわきいらつめ)の等身大の坐像を祀っており、付近は菟道稚郎子が造営した桐原日桁宮跡(きりはらのひげたのみや)と伝えられています。また、明治維新までは、宇治上神社と二社一体で、それぞれ離宮上社・離宮下社と名付けられていました。
現在の本殿及び外陣の狛犬は鎌倉時代につくられたもので、狛犬は開口する獅子(阿形)と一角を持つ狛犬(吽形)で一対とされ、格調高い作品として極めて貴重なものです。
当社の祭礼である離宮祭は、田楽などの芸能が催され、平安後期から鎌倉時代には多くの人々が集まり大いに賑わいました』
更に下流に少し歩くと、「源氏物語宇治十帖」像があり、「宇治茶道場・匠の館」があった。『宇治市指定文化財 宇治茶手もみ製法 保持団体:宇治市宇治又振17の1 宇治茶製法技術保存協会 昭和61年4月25日指定
観在私達が飲用している煎茶は、元文3年(1738)宇治田原町湯谷の永谷宗七郎(宗円)によって創案されたものと伝える。それまでは、中国の流れをくむ釜炒茶(黒製)というもので、茶の芽を釜で炒り、ムシロの上で手足によってもみ、日光で乾燥させる製法であったが、永谷宗円はこの製法を改良し、蒸した茶の芽を焙炉(はいろ)で乾燥しながら手でもむ青製煎茶製法(宇治製法)を創案した。この製法による煎茶は、色が青く、香・味ともにすばらしいもので、江戸を中心に各地で喜ばれた。その後、多くの人々により正しく伝授され、また技術の改良が加えられ、今日の宇治茶手もみ製法が完成をみたのである。現在各地に伝承されている手もみ技術は、すべてこの宇治製法の流れをくむものとされている。茶製法の機械化が進んでいる現状において、手もみ製法は貴重な伝承技術といわれ、宇治市の生活文化史上から価値が高いものとして、宇治市指定無形文化財に指定、保持団体として宇治茶製法技術保存協会(社団法人京都府茶業会議所内)が認定された。
毎年7月白川にある府立茶業研究所内の宇治茶手もみ工場で、宇治茶手もみ製法の研修会が関係者によって行われ、保存に務めている』
「京都府茶業会館」「正覚院」前を通過し、「橋寺放生院」。『宇治橋の守り寺と呼ばれる橋寺は、推古12年(604)に聖徳太子の発願により秦河勝(はたのかわかつ)が建立したと伝えられています。宇治橋はしばしば流出し、弘安9年(1286)には西大寺の僧・興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)によって再興されますが、叡尊は宇治川の中洲に十三重石塔を建立すると共に、当寺で大放生会を営んだことから、橋寺は放生院とも呼ばれるようになりました。本尊として鎌倉中期の地蔵菩薩が安置されています。また、当寺には宇治橋がはじめて架けられたことを記念した石碑がありますが、上の1/3ほどがわが国の碑文の中で最も古いもので、宇治橋断碑(うじばしだんぴ)と言われています』
山門脇門をくぐり、石段を上がり境内に入りました。『菊桜 1つの桜に花弁が300枚を超え、ちょうど菊の花のように咲き落花の時は花柄ごと落ちる。花の色は濃い紅から薄紅、落花が近くなると白に近い色に変わる。開花期は4月中旬から5月中旬頃』
『摩尼(まに)車 「摩尼」とは摩尼宝珠とも、如意宝珠とも言われ、意のままに宝を出すと言われる珠のことです。仏様の徳にたとえたり、お経の功徳にたとえたりします。これを1回まわせば、お経を1巻読んだのと同じ功徳が得られると言われています。摩尼車に軽く手を当て、手前に回して下さい。その時、左の経文を唱えて下さい』
11:10「イタリア料理TRE VERDI」。本日の「カフェの会」開催場所です。「集合時間の11:30mには、早すぎるな」と思ってたら、リーダーJさんが手を振っています。お隣の十割蕎麦のお店の前に行列ができています。そのお隣のお蕎麦のお店にも行列です。
お店の前は道が狭く、お隣の行列もあり、お店の隣の駐車場の前に移動して駄弁ってたら、Kさんがやってきました。僕と同じバイクかと思ったら、京阪電車で来られたそうです。CO女史さんとK女史さんがやってきて、「放生院」探索に行かれました。S女史さんが来られ、ここに最も近いCさんが到着。あとはお初のY女史さんだけで、お店の前に行くとおられました。小柄で上品な方でした。
11:30開店時間になり、店内の予約席に案内されます。注文済みのパスタランチ1600円で、多少選べるので、僕だけ+300円の短めパスタにしました。美味しくいただき、13時頃お店を出ます。10円玉で有名な「宇治平等院」に向かいます。遠足の定番なので皆さん知っておられると思ったら、初の方や小学校以来の方もおられました。橋を渡り、門前商店街を通ります。
てっきり拝観するものと思っていたけど、スルーしてカフェでのんびりお喋りするようです。門前のお店で、8人も席が空いてるお店はなく、Jさんが「いつも空いてる」お店に行きます。平等院の裏の宇治川土手道を歩くと、平等院の美しい姿が木々の間から見えます。激写タイム・・・
「宇治抹茶館福寿園」という空いてるお店に入りました。土手の木々でお店の全容が見えず、土手から下って1Fに入る構造になっているのが穴場になる原因かも知れません。1Fレジで注文・セルフで、2F席に上ってノンビリタイムです。
13:26「宇治抹茶ソフト378円」を注文しました。眼下に宇治川が流れ、宇治川鵜飼い船の船着き場横の立地でした。楽しい時間を過ごし、ここで解散です。鵜飼船乗り場横を歩き、赤橋を渡って中の島へ。
『通年運行の遊覧船は、大人600円乗船時間15分 遊覧船(10名以上)食事持込800円乗船時間30分 1500円60分 2000円90分』『鵜飼遊覧船(貸切)10人乗27500円・15人41250円・20人55000円 乗合船大人2000円小人1000円』
中の島には、鵜飼いで使う鵜のゲージがあり、多数の鵜が飼育されていました。今夜も出動するのかな?帰宅後調べると、7〜9月がシーズンだそうです。
『ウミウ(海鵜)と鵜飼 カツオドリ目ウ科に分類される鳥類で、シベリアなどに生息し、秋から冬にかけて越冬のため日本列島に飛来する渡り鳥です。体長約90cm、体重約2〜3kgで、鋭いくちばしと爪を持っています。
鵜飼とは、鵜を使い魚を捕る漁法で、日本では1000年以上前から行われています。日本の鵜飼は、茨城県日立市で捕獲されたウミウが使われています。鵜匠(鵜飼で鵜を操る人)は、鵜飼シーズン中はもちろん、年間通して鵜の世話を行い、鵜飼ができる鵜に育てていきます』
Y女史さんとKさんで話しながら歩いて、中の島から右岸に渡る橋に上ったところでY女史さんがいないのに気が付きました。KさんとY女史さんは共に京阪宇治に向かうのに・・・Kさんと話が弾みすぎて女性への注意を怠っていました。橋の上から探すと、左岸に戻る橋の上をY女史さんが歩いています。遠くて声も届きそうにないです。仕方ない・・・
右岸に渡り、Kさんと別れました。バイク装束を着て出発。r247を下ると、C女史さんが1人で歩いていました。「さようなら」と声を掛け通り過ぎましたが、「皆さん左岸の平等院Pに駐車されたはず。ひょっとして帰る道を迷っているのかな?」と思い、UターンしてCさんのもとへ。Cさんの車はこちら側に駐車したようで、単に探索しているだけのようです。車の運転好きの方なので、「この道を上流に走って行くと何処に行きますか?」なんて質問されました。「天ヶ瀬ダムまで行けます。そこで左岸に渡れます」と教えてあげました。
r7に出て右折し、「三室戸寺」に向かいますが、車が多く歩いている方も多くて、紫陽花で有名なお寺なのでこの時期は避けることにしました。右折しr244に乗り、15:29「黄檗山萬福寺」。
『由緒 中国福建省福州府の黄檗山萬福寺の往持であった隠元禅師が、わが国に渡来したのは承応3年(1654)である。萬治2年(1659)4代将軍家綱公よりこの地を賜り、寛文元年(1661)新しい寺の建立を始め、元を忘れないため黄檗山萬福寺と命名した。以来黄檗宗の本山として黄檗禅挙揚の源となっている。歴代往持の内16人が中国僧であるのみならず、山内到る処中国色濃厚な事を特色としている』
山門や扁額はまさに中国風で、ちょっと違う感じがしました。南禅寺に負けないような三門をくぐり、拝観料500円を払って境内へ。綺麗な蓮池があり、来月は楽しませてくれそうです。開山堂に続く参道には、蓮の小鉢がずらりと並んでいます。蓮の花は、最も美しい花だと思います。まさに極楽浄土に向かう道に見えそう。舎利殿〜合山鐘〜天王殿。
『寺の玄関として設けられています。中国では一般的な建て方で、布袋尊(弥勒菩薩の化身)・韋駄天像・四天王をお祀りしています。当山は日本最古都七福神「布袋尊」の寺です』。他の寺院の布袋さんとは趣が違い、お腹が張り出た上半身裸で半笑いの像で中国風なのでしょう。
僧坊に続く参道が独特で、『石條 境内に縦横に走っている参道は、正方形の平石を菱形に敷き、両側を石條で挟んだ特殊な形式であり、龍の背の鱗をモチーフ化したものです。中国では龍文は天子・皇帝の位を表し、黄檗山では大力量の禅僧を龍像にたとえるので、菱形の石の上立てるのは住持のみです』。天王殿内の四天王像はとても立派で躍動感があり、一見の価値があります。
巨大な「魚板」が下がっていました。本堂である「大雄宝殿」に入ってみます。『大雄宝殿(重要文化財) 本堂です。中央は釈迦牟尼仏、向かって右が迦葉尊者(かしょうそんじゃ)、左は阿難(あなん)尊者、両側は十八羅漢。ともに明
朝時代の彫刻家・范道生(はんどうせい)の作です。用材は全て鉄梨木(チーク)が使用されており、表の蛇腹の天井挑戸など中国式の特異なものです。朝暮の勤行は明音(みんおん)を用い現在中国で行われているのとほとんど同じです。
大雄宝殿の額:開山隠元禅師筆、萬徳尊の額:2代木庵禅師筆、堂内の扁:開山・木庵・悦山筆、堂外の扁:即非禅師及び高泉禅師筆、共に重要文化財。真空の額:明治天皇御宸筆』。堂内に並ぶ「尊者像」は豊かな動きで彫られており、これまた一見の価値ありで
す。自らのお腹を両手で開き、胎内像を見せていたり・・・。大阪ミナミ通天閣で有名な「賓頭盧尊者」もおられます。
『禅堂(重要文化財) 座禅するところ。斎堂・浴場とともに三黙道場といわれています。中央の観世音菩薩像は、開山禅師が母からの手紙を張り込めておつくらせになったと伝えられています。両側の高い所を単といい、座禅も起き伏しもこの畳一畳で修行します。
「選仏場」の額は開山禅師筆。扁は木庵禅師筆、内部の扁は開山禅師筆、共に重要文化財。表中央に掛けてある牌(はい)は表「止静」裏「放参」とあります』
『祖師堂(重要文化財) 中央に達磨大師像、左右に当山歴代住職の位牌。達磨大師は釈尊から28代目。中国に渡って禅を伝え、禅宗の初祖となる。柱扁額は、2代木庵禅師筆で重要文化財です』
『鼓楼(重要文化財) 階上に大きな太鼓があります。儀式の時には向かい側の梵鐘とこの太鼓を交互に打ち鳴らします。一趣荘厳な雰囲気が境内一円にみなぎります』。僧坊の建物や屋根には、中国風はそれほど感じませんでした。
バイクに戻り、r244〜r7〜r245で、16:12「許波多神社」。『許波多神社略記 御祭神:瓊々杵尊・天忍穂耳尊・神日本磐余彦尊・神武天皇
当神社は孝徳天皇大化元年(645)勅願に皇祖の御神霊を奉祀するため創建せられ、延喜式神名帳(927)所載の大社である。永禄12年(1569)9月正一位の神階を宣叙せられた。明治8年旧大和村柳山境域3万6千余坪擁し、鎮座の故に柳大明神と称し奉った。
寛永17年(1640)の秋五ケ庄及び近在に牛馬疫流行。信尋公が牛馬疫と心労で病める人々の平癒祈願をこめて、次の和歌を御献詠になったところさしも激しかった疫病も急に治まったという(山城名勝志にも記載)
燐をたるる柳の神ならば 死ぬるをうし思ひやはせぬ
延宝6年(1678)社殿営繕のおり宮中より金品を賜わった。天和2年(1685)遷宮のおり、神祇管領吉田兼連卿、御参向近衛家より正副奉幣帛を供進せられた。累例祭遷宮祭等には、近衛家より奉幣使が参向されるが恒例となった。明治9年柳山境内地が、陸軍火薬庫用地に上地仰付けられ旧園屋村の神社御旅所だった現在地に移転、柳神社を現名称に復した。
重要文化財:本殿(附)厨子二基棟札、半舌鐙(附)長舌鐙。府指定有形文化財男女神像二躯』
『氏神様にお参りしませんか(神社の参拝の仕方) 許波多神社は、大化元年(645)に旧柳山(現在の黄葉公園)に中臣鎌足によって創建されました。天照大御神(アマテラスオオミカミ)がお生みになった天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)を主祭神とします。歴史的には大社格のお社でございます。
今は、明治時代に旧日本軍によって移転させられました旧御旅所の杜に御鎮座されていますが、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に際して戦勝を祈願され、近衛信尋公が地域に流行した病気平癒のために和歌を御献詠されるなどの古事を有する、御神徳あらたかな、皆様の「氏神さま」です。
お正月にお参りいただく方は多いと思いますが、神様はいつでもここにおられます。日ごろの生活の中で、気持ちを整理したい、何かに取り組みたい…そんなときに、心を清浄にし、神様に誓いを立ててみませんか?』
『許波多神社と神馬 神馬とは、神様がお乗りになる馬のことです。許波多神社が創建された飛鳥時代のような昔には、神様に祈願する際、願い事が成就するように、馬を神馬として奉納されることがありました。許波多神社においても、昔には神馬が奉納され、祭礼が行われたと考えられています。
江戸時代以前、柳山(現在の宇治市黄檗公園)に鎮座していた頃は、社前から西の大池(巨椋池)に達する東西一直線の馬場道があり、北部・南部分かれた氏子地域によって、祭礼が執り行われていたという伝承が残されています。
社宝として現存する2つの鞍と鐙(あぶみ)は、2頭の神馬が馬場道を荘厳に駆けていた様子を想起させます』
r245を戻り、京阪宇治線・JR奈良線を渡りr7に出て北上し、左折してr243。16:30「許波多神社」。『京都府指定登録文化財 許波多神社本殿 本殿は元禄13年(1700)の墨書があり、虹梁の細部意匠からもこの頃の建築と背首出来る。一間社流造で流造の典型的構造を採るが、腰長押を枕捌きに内部へ引き込む点や海老虹梁の柱側へ戻る袖切の絵模様など独特な意匠を持つ』
『勝運が授かるお休み石 大海人皇子(天武天皇)が当神社の前をお通りになった時、大きな石に腰掛けてお休みになられました。この石はその後本殿前に安置されました。腰掛けて願えば、勝運が授かります』
『京都府暫定登録文化財 許波多神社田中神社本殿 木槌に元文元年(1736)の墨書がある。元は字正中にあった木幡北部の産土神である。柱上に絵様枠肘を載せ、妻飾は虹梁大瓶束で、虹梁・笈形などには複雑な絵様を彫る意匠華やかな建築である』
境内に、「宇治陵 宮内庁」と石柱の立ち、石柱玉垣に囲まれた小さな陵墓があった。埋葬者はわからないが、ちょっと得した気持ちになった。
『由緒 許波多神社 祭神:正哉吾勝々速日天忍穗耳尊・天照大御神・天津日子根命
許波多神社の創建は皇極天皇の御代(642-645)、天皇は夢の中で「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」との大神の御告げを受けて、藤原鎌足に命じて木幡荘に神殿を造営し、大化元年(645)9月16日に奉遷したのが始まり。
天智天皇10年(672)10月、大海人皇子(後の天武天皇)は天智天皇と意見の相違が生じて、大津宮から吉野へ向かわれる途中、当神社前で馬が進まず、鞭として使っていた柳の枝を瑞垣の土に挿しこみ、神明の助けを祈願したところ、馬が急に進み無事に吉野に到着することができた。
その後、大海人皇子は「壬申の乱」に勝利し、天武天皇2年(673)2月に飛鳥浄御原宮で即位。瑞垣に挿した柳の枝もそのまま大きくなり、これもひとえに神の御加護として正一位の神階を与え、「柳大明神」と称するようになった。
以後代々の天皇より勅使参向、奉幣や官幣など度々あり、社殿の造営、修理も数度にわたり行われた。明治41年(1908)1月、田中神社を合祀して今日に至る。境内には「狐塚」と呼ばれる宇治陵第36号墳墓があり、藤原基経の墓と伝えられている』
r7に出て、「六地蔵」から「観月橋」〜r7〜R171〜大山崎ICから名神高速に乗りました。吹田ICで降り、中央環状〜R171。17:49「伊丹産業セルフ北村SS」で給油。230km/7.51L=30.6km/L。17:55帰宅。

帰宅後、じっくりレース2日目(最終日)結果を見ました。470はD社に及ばず2位でRitsには勝てました。去年旧チームで全国準優勝で「古豪復活」と専門誌でもてはやされたS級は、D社の1艇が失格したこともあり、ダブルスコアで勝利しました。昨年のこの大会は、最終レースでD社まさかの3艇全艇失格で優勝が転がり込んできたが、今年は強風のガチンコ勝負に勝利し好調を維持しています。
昨日懸念していたS級エース艇(クラスリーダー/キャプテンコンビ)は、チューニングのされていないぶっつけ本番マストで、いつものようにトップに絡むスピードが出なかったようで、彼らコンビにとっては不本意な8・11位の着順でした。加えてS級はBチームも良く、3位龍谷に続いて僅差の4位に入り、5位RitsBチームに大差をつけていました。
来週末は、全日本インカレ個人戦地区予選です。今回の成績を当てはめれば、470はD社3・当方2・Rits1、S級はD社3・当方3です。来週の予報は強風ではなさそうなので、果たして結果はどうか・・・軽風での現在の実力もわかります。楽しみです。


2019/6/15
コーチしてる大学ヨット部のレース日です。学連の近畿北陸ブロック団体戦予選のプレ大会です。ヨット部の最終目標「全日本団体戦」に出場するためには、地区予選9月中旬で3位以内に入らなくてはなりません。その3ヶ月前の現状を見る意味でも重要な大会です。
本番は、各大学各クラス3艇のみの大会になりますが、今回はプレ大会なので、各大学3艇1チームとして複数チーム申し込んでもOKです。部員の多い当方にはありがたい。スポーツセレクションのない大学なので、ほとんどの部員が1回生の時に初めてヨットを体験します。それから練習を重ねて行くので、レース経験を得られるので有り難い。
天気予報は、土曜日・雨・強風、日曜日・曇・強風になっており、エキサイティングなレースになりそうです。多数のレース艇が出場するので、レスキュー活動が必要になるでしょう。レスキュー活動が必要過ぎて、少し低い風域でノーレースになることも考えられます。
4時に目覚め、職場に行き仕事をゴソゴソ、倉庫から「里山VTR250」を出して出発します。雨予報なので四輪で行こうと思っていましたが、意外にも当日朝の天気予報では改善されており、夕方に傘マークがあるだけになっていました。R171〜中央縦貫。5:59「Enejet中環豊中SS」で給油。204km/6.61L=30.9km/L。6:04、隣接のセブンイレブンで、「口溶けチョコのオールドファッション100円+レーズンロールマーガリン4個116円+クリームパン100円+カフェオレ500ml116円=432円」購入。
「吹田IC」から名神高速に乗ります。朝から強風が吹いており、定番の80km/hでは横風を受ける所では厳しく、70〜75km/hで走るようにしました。高速道路なので200kgと車重が50kg重い「招き猫CB400SB」の方が良いのだけど、雨に濡れるのが必須なのでこちらにしました。
「桂川PA」で休憩し、「京都東IC」で下車し、湖西道路を使ってハーバー着。名神のこの区間は集中工事中で、朝6時まで通行止めでした。それにより渋滞が発生した時を考え、渋滞に強いバイクを選択しましたが、交通量は多くなく四輪でも良かったです。
朝のお勤めを済ませハーバーに入ると、富山・金沢など北陸から遠征している大学もおり、いつもより賑やかです。集合時間になり、気象担当2回生Tさんが練習日に毎朝出す天気予報報告では、「E最大19m/s」です。艤装開始。
9時開会式。スキッパーズミーティングでのレース委員長の話では、強風が予想され安全第一を考えたレース運営をする旨説明された。艇庫前に戻りブリーフィング。沖からの風と波がスロープに入っているので、出艇に注意することと、強風予想なのでプレーニングを楽しんでレースをしよう。ヨットはプレーニングが最高に楽しいから、ニコニコ笑いながらレースを楽しもう。どんな順位であっても、次のレースに切り替えて次・次と淡々とレースをこなそう。そのために、フィニッシュ後コーチボートに寄ってきて、冗談でもいいかな何か話し気持ちの切り替えに努めようと話しました。若手コーチから、「強風はハイクアウトしてなんぼ」のレースになるから思い切ってレースに臨もうとの話がありました。
レース艇の最終チェックをしていると、「午後から雷予報があり、午後はレースしないということも考えている」とのレース委員会の裏情報がレース運営に行っているマネさんから入りました。
9:40、「470級D旗」が上がり、レース艇が一斉に出艇して行きます。強い向かい風の出艇なので、部員が手伝ってレース艇を1艇1艇出していきます。レースに出場しない1回生部員が桟橋に並び、レースに向かっていく部員の個人名を出してエールします。僕もコーチボート上で立ってエールに加わります。何度やっても気持ちの良い光景です。
副監督・若手コーチ2・ドライブする4回生マネMさん・1回生マネOさんと一緒にコーチボートも桟橋を離れます。1回生部員を2人ほど乗せたかったが、レスキュー大勢に入ると人数が多すぎてもダメ出し、救助者を乗せることもあるので、定員10人に対し6人乗船は妥当なところです。
10:50、本部船設置完了のオレンジフラッグがマストに上がりました。いよいよです。当方の特異な風域は軽風ですが、強風域で何処まで戦えるでしょう、楽しみです。3月は水域王者D社には軽風・順風では戦えても、強風では難しかったので、何処まで差を詰められているでしょうか?
11:00に470旗が上がり、スタートシークエンス開始。4分前に「U旗」が上がり、リコール(フライング)すれば即失格です。スタート1声ホーンでしたが、リコール(フライング)艇ありの「X旗」が本部船に上っている。「ん?」と思ったら遅れてホーン1声、更に遅れてホーン1声、第一代表旗「ゼネラルリコール」(スタートやり直し)になりました。
次のスタートも「U旗」で、一斉にスタートして行きました。第1マークを、1・3位で当方が回航しました。幸先良いですが、トップ艇はスタートでリコールしたようでトップフィニッシュしても失格なので残念。でもこの風でD社より前にマーク回航し強風での艇速は伸びているようです。
当方Aチームはフィニッシュ1・3・6位で、2・4・8位=14点のD社を上回りました。トップ艇が失格なので成績は失格61点になり68点でしたが、D社に近づくことが出来たと手応えを感じました。トップフィニッシュしたTくん/Yくんコンビは、フィニッシュラインを横切ったのにトップホーンが鳴らず、2位艇でホーンが鳴ったのでリコールを自覚したでしょうが、コーチボートに寄ってくる時も苦笑いしてリラックスしており問題なしです。「走ってるよ、その調子で次も行こう」と短く声を掛けました。
最初のスタートのやり直しは、U旗なのにX旗を上げてしまった本部船に乗っていた当方1回生部員のミスが原因だったようです。「マジで怒られました」と夕方合宿所に戻って来て話していました。
このレースのフィニッシュもグダグダで、本来のフィニッシュ本部船が固定しようとアンカーを落としたら、そのラインの端を船に固定しておらず、単に琵琶湖にアンカーを放っただけになったようです。慌てて小さな運営艇に、フィニッシュを示すブルーフラッグを渡し、そのボートがアンカーを落としましたが、強風でアンカーごと流され、どっちからフィニッシュして良いかわからず困った艇が出ました。当方3回生艇がわからずに2つのマークの近くを通過しただけでフィニッシングラインを横切らず、DNF失格になってしまいました。まるで素人・・・がっかりです。フィニッシュボートも、流されているのがわかっているのだからエンジン掛けて元に位置に戻ればいいものを・・・とこれまたがっかりでした。後で聞いたら、レースがわかっていない女子マネさんばかりが乗っていたようでした。S級もいい感じで、Aチームは3・4・5位でD社の上でした。
更に風が上がり、第2レースがスタートしました。470の2回生女子部員艇がスタートラインに残っています。見に行くと、「走れそうにないのでリタイヤします」「OK、運営艇にリタイヤの旨を伝えたかな?」「いいえ」「風が落ちるのを期待して次のレースまで待つか?」「いいえ」「じゃあ、セインセイルを降ろしてゆっくり帰れ。ハーバーに戻ったら、リタイヤしたことを書面でレース委員会に提出してね」「はい」戻っていきます。レース海面では沈艇があちこちに出ており、コーチングを諦め要救助艇を探します。レース委員会からの無線で、「AP/H旗」(以降のレースは延期しハーバーバック、次の信号は陸上で上げる)を上げる予定とのこと。
2レース目も当方は上位を走っています。強風では、D社・当方・Rits3校の争いになりそう。470フィニッシュ後フラッグが上がり、各校コーチボートも一斉にレース海面に入り、要救助艇を次々に声を掛けレスキューします。S級は「N旗」でレース中止になりました。フィニッシュした当方艇に、後続艇を待たずにメインセイルを降ろしてゆっくりハーバーバックするよう指示する。
当方は2クラスで16艇参加している最大フリートなので、陸上と連絡を取り合って、当方艇がハーバーに上がる度にLINEに情報を上げてもらいます。
走れなくなっている他校艇に近づき、次々にマイクで指示しヘルプします。セイルははらんでいないのに、マストだけでヒールし、2人で倒れないように反っています。「センターボードを半分上げろ」と支持し、センターを上げるとヒールがぐっとマシになりクルーが船の中に入れるようになりました。次に「メインセイルを降ろせ」でメインセイルが降りるともう安心。「ゆっくり帰れ」で一丁上がりです。
横倒しになっている艇には、「その状態でメインセイルを降ろせ」。メインセイルが降りたら、船を立ててももうひっくり返らないので、ジブセイルのみで帰れます。数艇レスキューして、他のレスキューボートのサポートがない最も遅い艇と共にハーバーに向かいます。
エリ(漁網)に引っかかっている艇がいます。ハードボートがレスキューしていますが、漁網を破ると大事なので、それ以上近づけません。当方インフレータブル(ゴム)ボートの到着を待ち、彼らに救助を任せます。ラインをレース艇に結び、それを引っ張って漁網から出します。ラダー(舵)が抜けており、それがコントロールを失った原因のようです。
全艇無事にハーバーバックしました。470の第2レースは、6・11・12位。S級は1・6・8位。そのまま初日レース終了で、470は2位、S級トップです。曇り空ながらまだ雨が降っていませんが、水しぶきでカッパ着ていなかったらずぶ濡れです。比叡山に怪しい黒雲が掛かっているので降ってくるかも?と思い、合宿所に戻ります。
キッチンに顔を出すと、去年卒業したKマネさんが揚げ物をしていました。助っ人で来てくれたようです。コーチボートにも今年卒業したFマネさんが乗ってくれていました。卒業しても愛着を感じてくれているということは、4年間のクラブが楽しかった証拠ですね。成績もさることながら、コーチとしてはこういうのが最も嬉しいです。コーチの語源は、西部開拓の幌馬車。乗客を安全・快適に目的地まで運ぶことです。彼らのクラブなので、彼ら彼女らが楽しめないとクラブじゃないです。Kマネさんから「・・さ〜ん」と手を振られました。「お〜手伝ってくれているんだ、ありがとうね」。横に行き、「今何処にいるの?」とか世間話と、レースの様子を話しました。漁網に引っかかった艇を見ていたようで、サバイバルになったレースが気になっていたようです。
数艇トラブルが出た艇がハーバーで整備中で、キャプテンなしの全体ミーティングになりました。サバイバルになった時の注意として、センターボードのコントロールの話をしました。何度もミーティングで話しているので当方にはいませんでしたが、他校ではフルセンターボードで苦しんでいる艇が多数ありました。フィニッシングラインが流れた時の対処なども話しました。続いてクラス別ミーティング・・・ハーバーから整備を終えた部員が戻ってきます。S級エース艇(チームリーダーとキャプテンが乗っている)のマストが曲がってしまい、マスト交換したので明日のスピードが心配です。チューニングなしのぶっつけ本番になります。
美味しい夕食を食べ、帰路に着きました。朝、1回生部員たちに時計のことを話しました。電波時計でカウントダウンタイマー付きの安価な腕時計を購入するよう勧めました。カシオの良さそうなのを見つけたので、僕も購入しました。自分で使ってみて、欠点がなければ良いのですが・・・。
まだ家内が起きている20時に帰宅出来ました。雨が降ったのは、合宿所に戻った後の17:30頃で土砂降りの夕立という感じでした。帰路も降られましたが、カッパを着ているのでノープロブレムです。


2019/6/9
次男のお嫁さんからLINEが入りました。土曜日に家族で検診に行ったようで、胎児の写真とビデオでした。
体長が11cmになりました。順調に育っているようで、手足を動かしていました。お医者さんが「ついてそうだね、でも確定は次回の検診の時かな?」と1ヶ月後に性別がわかるようです。
去年、長男とこの3番目がアメリカで生まれました。アメリカは妊娠したら遺伝子検査を受けるのが標準で保険適用です。よって、妊娠しているのがわかったら血液検査・遺伝子検査があり、すぐに性別がわかっちゃいます。長男のお嫁さんは、「男の子かな〜女の子かな〜」の楽しみ期間がなく、「え、もうわかっちゃったの」とびっくりしたそうです。
次男のお嫁さんの第2子の妊娠を知ってから、毎週のように神社に参りました。数十の神社に「母子ともに無事の出産」と「男の子」をお願いしてきました。どうやら僕の願いが通じたようです。次男はお嫁さんの実家に「マスオさん」状態で住んでいます。結婚前からお父さんに気に入られて、長女が1才になり、「一緒に住もうと言われているんだけど、どう思う?」って次男から相談を受け、「大賛成」しました。
僕は僕の実家の隣の家に住み子育てしましたが、信頼できる両親が隣に住んでいることで余裕があり、時々子どもを預け夫婦でカフェとか東京一泊とかしていました。両親も内孫がいるので、リタイヤ後の人生を楽しんでいました。更に子どもたちは、あっちの家こっちの家と渡り歩き、平日夕方でもお爺ちゃんにいろいろ連れて行ってもらっていました。小学校の先生に「ご両親が近くに住んでおられますか?」と見破られたぐらいです。多くのお子さんを接している先生には、大家族で住んでいる子は「ゆったりしている」のがはっきりわかるそうです。そんなこんなで3世代同居や近くに住むのに大賛成です。
お嫁さん自身、近くに祖父母の家があり、毎日のようにお婆ちゃんが家にやってきていたようです。次男夫婦は同じような環境で育ちました。加えて、お嫁さんの実家は、お嫁さんの親が持っている土地にお父さんが家を建てて住んでいます。つまりお父さん自身「マスオさん」状態で暮らしてこられた方で、次男が一緒に住んでもその心境をわかっておられます。
建築士である次男が設計し、費用は次男が借金して増改築して住んでいます。お嫁さんのお父さんが費用を出すと次男の立場が弱くなるので、その辺もよく考えて下さいました。ありがたいことです。
話はもとに戻り、「付いてるようだね」のお医者さんの言葉に、「え、もう分かるんですか?」「ここがそうだよ」とビデオに映るお股の部分を指し教えてもらっていました。次男はとても喜んでおり、次男も僕同様男なので、男の子と遊びたいのだと思います。お嫁さんも初めての男の子に喜んでいますが、それより「異常はありませんか?」と五体満足の方が気になっているようです。性別よりまずこっちが重要だからね。
僕は幼稚園・小学校低学年時代、よくモテました。学級委員長の選挙などで何故か僕に投票する女の子が多く、毎年1学期は委員長をやっていました。僕はおとなしく小柄ですが勉強が出来たのと、イジメが許せずいじめっ子に喧嘩する任侠心があったからだと思っています。いつも近所の女の子と一緒に登校していました。放課後その娘の家に寄り、ままごと遊びの相手をさせられました。これがつまらなくて、我が子は何人生まれても男の子が良いと思っていました。
希望通り、弟、長男・次男、長男の長男・次男と5連発で男の子でした。次男の長女で男の子伝説は途切れましたが、この伝説は生きていたようです。幼稚園の時神父さんにおねだりしてもらった蛍光マリア様に「男の子をお願いします」の毎日お祈りを続けなきゃ。
お嫁さんの実家もお嫁さん・妹と姉妹なので、男の子なら喜んでくれるでしょう。お嫁さんの妹さんが昨年長男を産んだので、2連続男の子でしばらくすると「やんちゃ」で困られるでしょう。
長男お嫁さんから、「男の子かも?ってことかな??楽しみ〜」ってLINEが入りました。すみれちゃんは、従兄弟の間で紅一点、女王様になりそうです。
僕は、次男お嫁さんがつわりが酷くて会社を休んでいると聞き、前回胎児ビデオで先生が「元気に動いているね」と言ったことから家内に「絶対、男の子だよ」と確信していました。予想的中のようです。
次男お嫁さんからLINEが入りました。「16wの検診では、らしきものが見えたようですが、断定は出来ないので、性別は次回のようです?? 私も前回の悪阻と違っていたりしたので…なんとなく男の子じゃないかと思っていました??」だって。

家内もお休みだったので自宅でのんびりし、18時に車で家を出ます。伊丹市街地に出て用事を済ませ、北摂に向かいます。r12を北上し、18:44「猪名川パークタウンファミリーマート」で、「エビだし旨味塩ひねり揚108円+ノアール237円+ピーナッツクリームパン100円+コッペパンいちごマーガリン120円=1045円」を購入。r603で「阿古谷川」沿いを北上します。「明神橋ポイント」では既に2台停まっています。
「上阿古谷橋ポイント」で車を停め、パンを食べながら暗くなるのを待ちます。既に2台先客がいました。如何にも「蛍狩り」の四輪が低速でウロウロし、数台加わりました。7時半過ぎに子供連れが出てきて川沿いで遊んでいます。8時になり暗くなりましたがたった1匹しか見つからず、「こりゃ待ってても一緒だな」と諦め、R173に出て帰路に着きました。来週またリベンジです。


2019/6/8
コーチしてる大学ヨット部の練習日に参加します。3時台に目を覚ましたので、練習前に湖東を寺社探索したいところですが、生憎名神高速がリフレッシュ工事中で6時まで通行止めです。
5時過ぎに「里山VTR250」で出発。R171〜中環で、5:19「中環豊中SS」で給油。232km/7.16L=32.4km/L。敷地内にあるコンビニで、カフェオレとパンを購入して出発。r14〜R171、大山崎を過ぎいつものように観月橋・六地蔵経由で行こうかと思いましたが、まだ混んでいないだろうから久しぶりに京都市に経由ルートにしました。東寺五重塔は相変わらずでかい。九条通〜東大路通〜五条通〜R1で山科に入り、湖西道路で7時ヨットハーバー着。
ハーバーでは既にOP級ヨットが数艇セイルを上げています。バイクを停めていると、ハーバー開門を待っているOPを載せた車が数台います。選手と思われる子供数人とお父さんが2人、車から降ろしたOPをトロリーに載せてやって来ました。「レースですか?」「関西選手権です」「どちらのクラブですか?」「兵庫です」「僕も元兵庫OPの親です。クラブを作ったのは僕です」「え〜そうですか、Uさんとかと一緒に作ったのですか?」「そうです、Uさんの長男とウチの次男が同じ学年でした」。
お母さん方もやってきて、兵庫ジュニアのユニフォームを着ています。「カッコいいですね」・・・って話が弾みました。7:30を過ぎ、ハーバーの門が開き、車を入れて次々にOP級ヨットを降ろし始めました。コーチしてる大学ヨット部員たちも合宿所からやってきて、艇庫前に移動しました。「おはよう」。
SW・三井寺からの良い風が入っています。再度ハーバー事務所前のテーブルの所で朝食を食べていると、兵庫のお母さん方がやってきてレースを待っている間の場所取りです。なんだかんだお話します。「是非、OPにもコーチに来てくださいよ」なんて頼まれちゃいました。美人さんに頼まれると弱いな〜。OP艇の艤装を見て回り、子供用のヨットらしくベーシックで殆どフィッティングが変わっていません。
「伊丹」と書かれた札を下げたトロリーがあったので、そこにいた親子に声を掛けました。「伊丹からですか?」「僕がジュニアクラブを作ったんですよ」と言うと、驚いていました。「伊丹ジュニア」からは1艇だけの参加のようです。まだヨットを始めたばかりで、2回目のレースだそうです。大学時代、国体選手に金一封頂けるということで伊丹市長室に呼ばれた時、「スポーツに力を入れているんだけど、伊丹の池でヨット出来ないかな?」「出来ますよ」「じゃあ、作ってよ」から始まり、伊丹在住のKGヨット部先輩数人とで「伊丹ジュニアヨットクラブ」を作りました。次男が入部し、5人の同級生の親と意気投合し、「全日本上位に行くためには海で練習しなければ」と兵庫県セーリング連盟に働き掛け、「兵庫ジュニア」を姉妹クラブとして作りました。自分が作ったクラブが、選手が変わりながらも続いているのは嬉しいことです。
他に和歌山や高松からも参加者がおり、全部で50艇ほどのレース艇が並んでいました。9時前になり、艇庫前に行き、体操・ブリーフィング・円陣して出艇。NWの予報でしたがSW〜Wの風のまま良い風が入り、良い練習になりました。S級は後半スタート練習をしました。長めのスタートラインをセットし、5分間隔でスタートを繰り返し、来週から始まるレースに供えます。ホイッスルの音が聞こえる横では、フリート王者・D社が同じようにスタート練習を繰り返していました。
12時にハーバーバックし昼食へ。僕も合宿所に帰ろうとバイクの所に来たら、兵庫ジュニアのお母さん方が数名お喋りされていたので、その輪に加わっちゃいました。名刺を渡し、あ〜だこ〜だ。2レース目が風が落ちてキャンセルになったようで、午前中観覧船に乗っておられたお母さんが2人帰って来られました。琵琶湖ジュニアのお母さんが、「兵庫さんは午後から4名を聞いていますが変更はないですか?」と確認に来られました。僕は大学ヨット部員に「昼ごはん要らんわ」ってマネージャーに伝えといてもらい、お母さん方と午後の練習までお喋りしていました。
午後の練習開始です。体操・ブリーフィング後出艇。コーチのNくんはスナイプにつくインフレータブルに乗り、僕は470コーチボートに乗ります。昼に監督がやって来たので、470コーチボートに一緒に乗ります。昼に風が落ちましたが、予報通りNWの風が入りだしました。予報ではMAX11m/sなのでエキサイティングなセイリングが期待できます。
5分休憩に入り、ほぼ全艇がサイドステイのピンダウンなどの強風用セッティングをしていた時、アクシデントが起こりました。マストトップに黒球を付けているので完沈しないはずなのに、1艇完沈しています。「あれ、おかしいな?」とすぐに近づくと、船は逆さまになっているのに、マストが横を向いています。「ありゃ〜」、サイドピンダウンする時、風下側サイドピンを一旦抜いてセットし直します。その時タックなどしてしまいマストを折ったか抜けたのでしょう。「抜けただけでいて欲しい」との願いも虚しく折ってしまったようです。ガーン、マスト1本20万円が〜。このコーチボートはハードボートで小回りが利かないので、S級コーチングをしていたインフレータブルボートを呼び戻します。
マストを折ることは殆ど無いので、皆経験がありません。僕も自艇のマストを折った経験はありませんが、レスキューした経験はあります。僕もインフレータブルに乗り移り、「マスト・ブーム・セイルをインフラータブルに上げて回収し、ヨットはベアハルにしてハーバーバックせよ」と、ドライバー女子マネMさん・コーチNくん・2回生部員Jくんに伝え、それぞれの作業を確認します。
沈艇に、「横倒しまで船を立てて」と伝え、随時作業を伝えながら手分けして作業します。メインセイルを下ろそうと支持するが、マスト内部でハリヤードが干渉したようで降りません。「マストをインフレータブルに上げて、セイル側のシャックルを外そう」と次の手を指示し、僕がシャックルを外しました。ヨット側の2人には、「センター上げて一緒に流れよう。マストを抜いてこちらに乗せるから、ロープなど外してね」。ジブセイルを回収し、フォアステイを抜いてジブを巻きます。メインセイルが降りたので、ブームごと回収し、メインセイルを巻きます。マストも回収し、全てスターボード(右舷)側の僕の膝の上に置きます。「バウアイに負荷を掛けたくないので、横抱きして帰るよ。JDくん頑張ってくれ。Nくんはバウアイにインフレターブルのバウロープを通し、離れすぎないようにしてね。シートは固定せず、波のショックをシートの出し入れで吸収して」と準備が整いました。「じゃあ行くよ。Mさんドライブ頼んだよ」で出発します。
予想以上に安定しており、超鈍足を覚悟していましたが、割合早くハーバーに戻れました。ハーバー前まで来て、「ラダーを半分上げて、スカリングで帰ってね」と470を離し、インフレータブルを桟橋に付け、マストなど全て降ろします。選手2人には、「マストは折れたのでダメだけど、それ以外は大丈夫だから陸上に残り外せるものは全て外して」と指示し、インフレータブルで練習海面に戻りました。僕はインフレータブルからハードコーチボートに戻ります。
良い風が続いており、強風の良い練習になりました。こんな良い風だったのに、練習終わりが近づく16:30になると落ちてしまいました。16:40ハーバーバックの合図を出します。レース艇を数艇曳航してハーバーに戻りました。
19時から地元から蛍狩りに出るので、17:30にハーバーを出ます。Nキャプテンにマストを折った顛末・レスキュー作業の顛末を大まかに伝え、ミーティングで部員全員に共有するよう伝えました。ピンダウンする時、何度も言っていましたが、センターを上げていなかったのがマストを折った原因です。いずれにしても部員に怪我がなく幸いでした。
バイクに乗り帰路に着きます。湖西道路〜名神で、17:55「桂川PA」で特製やきそばドッグ208円を買って休憩がてら腹ごしらえ。中環〜R176で18:45阪急山本駅北のファミリーマートに到着。ここでNQさんと待ち合わせています。
トイレ休憩しお買い物してバイクに戻ろうとすると、NQさんが到着。19時になり出発しました。長尾山トンネルを抜け、r325〜r33〜r323〜r37で「高売布神社」横を通過し、羽束川沿いを北上します。ホタルポイント数ヶ所に止まるも、まだ明るくホタルはまだです。
「三田市野外活動センター」横から「小柿渓谷」をゆっくり走ります。8時で暗くなり羽ムシが沢山飛んでいます。何度か止めてライトを消しますが、ホタルは飛んでいません。「後川下」交差点を通過し、ホタルポイントに着くと、数台の四輪が停まっています。流石にここはホタルが飛んでいますが、例年よりまだ少ない。どうやら1週間先の方が良さそうです。
NQさんが定点動画を撮っていますが、とても難しいホタル撮影なので僕は諦めています。r12を渡り、羽束川最高のホタルポイントに着くと、ここにも数台の四輪がいました。更に多く飛んでいますが、やはりまだ少ない。続いて「篭坊温泉」まで走り羽束川を覗くが飛んでいません。
ここから帰路に着きました。R173に出て池田まで一気に南下しました。後ろを走っていたNQさんが手を振りながら「多田」の交差点からr12旧道方面に別れます。ここはいつも悩みどころです。R173を池田まで抜けてからr12にチェンジした方が早いのか、ここからr12か?最近はR173ルートの方が早いと感じています。R173を南下し、R176にチェンジしてr12の交差点からr12に乗り南下しました。しばらくするとNQさんが後ろから追いついて来ました。「やはりR173の方が早いんだ」。10時過ぎに帰宅しました。家内は夢の中で、風呂に入りヨーグルト持って自室に上がりおやすみ〜。


2019/6/2
コーチしてる大学ヨット部のコーチング日です。8時に琵琶湖に行けばいいので、早朝ツーリングしてから行きましょう。3時台に目覚めたのでゴソゴソし、「招き猫CB400SB」を倉庫から出し、4:29出発。4:34「ローソン」で「キリン小岩井ミルクとコーヒー500ml150円+手巻エビマヨネーズ150円=300円」を購入。
R171〜中央環状線で、吹田ICから名神高速に乗ります。5:10「桂PA」でトイレ休憩すると、「ん?事故車?廃車?」って感じの素敵にデコレートされた車を見つけました。所有者が見つからなかったけど、思わず激写しちゃった。きっと喜ぶ人種の方でしょう。車にいろんなものがくっついています。タイヤが見えないハウスに覆われ、パンクしたらどうやってタイヤ交換するんだろう?正面に向かってレーザー兵器のようなものが装備されているし・・・素敵すぎます。
5:17出発、「ロータス7」が抜いて行きます。オープンが気持ち良さそう。「瀬田西・石山IC」で下車し、左折してr57を北に向かいます。R1〜r26で、5:40「龍宮神社」。湖東の田園と交通の要衝の地に何故「龍宮」なのか気になるところですが、祝詞を刻んだ石碑はあったが謂れ板がなく謎のままになりました。この日の1社目なので、いつものように僕のこれまでの人生を守って下さったことに感謝し、素敵な妻と息子たち、彼らが連れてきたお嫁さんたち、加えて4人の孫たちをお恵み下さったことに感謝し、彼らのこれからの幸せな人生もお願いしました。そしてそして、次男のお嫁さんのお腹の中ですくすく育っているまだ見ぬ5人目の孫の無事の誕生をお願いしました。
r26を更に北上し、5:58「石津寺本堂」。『重要文化財・石津寺本堂 最澄の建立した寺で、天台宗であったが真言宗に改宗した。本尊は薬師如来。現在の本堂は、延文4年(1359)足利義詮が再建した。建物様式がその時代の特質を表している。形式は正面の柱間数が五間であることから五間堂と呼び、屋根は県内では類例の少ない寄棟造の本瓦葺。外陣出入口上の虹梁構え、頭貫木鼻の図案など、この時代特有の様式を持った優れた密教仏堂である』。一見して、奈良によく見る屋根だなあと思いました。
6:07「鞭崎神社御旅所」。東海道で琵琶湖を渡る時、「瀬田の唐橋」を渡るより船で楽にショートカット出来る「矢島の渡」は交通の要衝でした。以前訪問した近くにある「鞭崎神社」の御旅所がここにありました。「渡し」として栄えていたころは、盛大な渡御の祭りが行われていたのでしょう。
「矢島公園」がありました。かつてあった石積桟橋が再現されていましたが、水のない公園にあるので臨場感がありません。でも周囲を見ると、石積の岸が続きその上に民家が建っているので、かつての面影を偲ぶことは出来ました。
『菜の花や みな出はらひし 矢走舟 蕪村
石場へ渡ろうと矢走街道を港まできた。船の発着時はたいそう騒がしい矢走港も、昼の今は渡し船がみな出はらっていて静かである。港の周辺は一面の菜の花畑で、春風につつまれている。菜の花の黄色と白帆を浮かべた湖の青さが、靄のかかった背後の山々とよく調和して、まことにのとかな港の風景であることよ。 季語=菜の花(春)
作者紹介:与謝蕪村(1716〜1783)俳人・画家。姓は谷口、のち与謝と名乗る。享保元年(1716)摂津国東城郡毛馬村に生まれたが出自は不詳。22才の秋、芭風の伝統を継ぐ夜半亭宗阿(やはんていそうあ・早野巴人はやのはじん)に入門した。明和3年(1766)炭太祗(たんたいぎ)らと共に俳壇に新風を巻き起こし、同7年2世夜半を継いで宗匠となってからは、句作に情熱を燃やし63才で没するまでその俳風を発展させた』
『矢橋の帰帆(原画 中神良太氏提溥)
矢橋港は伯母川と狼川の三角州間にあって、琵琶湖が最も湾入した地点に所在する。南は近江最大の港津・大津に面し、西は比叡山の門前町坂本およびその外港にあたる坂本三港に面している。また東は矢橋道を経由して、東海道に通じ、宿場町草津に達する。
本港の古代における様相は、明らかでないが、中世には志那、山田両港とならぶ軍事的要港として重視されたことが「源平盛衰記」他の文献から推測される。そして近世に至って、草津宿の興隆、東海道の交通量の増大に伴って、本港の重要性は一段とたかまった。天正6年(1578)、織田信長は安土水害視察に際し、その往復路を松本津と矢橋港の湖上水路をとり、徳川家康も慶長5年(1600)の関ヶ原戦、慶長19年大阪冬の陣、元和元年(1615)大阪夏の陣にあたって、本港を利用するなど、大津への短捷路として、湖南における主要な渡し場となった。
しかし、本港も近現代の交通体系の変革や琵琶湖の水位低下等が起因となって衰退し、その旧状を失うに至った。ところが昭和57年〜昭和58年にかけて、発掘調査をするに及び江戸時代の本港の実態が解明されるに至った。すなわち本港は、奥行約90m・幅約65mの規模で琵琶湖に開口するもので、港内に湖中へ突き出す2基の石積突堤と港湾南端から湖岸に平行して築かれた石積突堤1基を配し、各石積突堤間を船着場、船入、船溜などに当てている、また港湾北側の石積台場上に常夜灯を建て、航行する船の便宜を図っている。
以上の矢橋港の旧状がすべて整えられたのは、「膳所領郡方日記」、常夜灯刻銘より弘化3年(1846)と推測されるが、「近江の海は湊80あり、いづくにか君が船舶て草結びけむ」と万葉歌に詠まれた近江の諸港が今やほほ消滅にある現状を省りみれば、本港の遺構は古代より展開されてきた琵琶湖の水運と近江八景「八橋の帰帆」の歴史を凝集した唯一のものであり、歴史的価値の高い史跡と思われる』
沖に人工島が造られ、水路のようになった水面に面していた。大津など琵琶湖の対岸が直接見れないので当時の人が見た風景を体験できなかった。船を預かる施設があり、人工島との水路に面しているので台風被害など受けにくく返って良いのかも?と思いました。
r26に戻り、R42で東進し、道なりにr18に乗りました。「鞭崎神社分社」の祠が小さな児童公園内にあり、寄り道しました。南草津の鞭崎神社の崇敬の高さをまた感じました。
『猿田彦神社 御鎮座:草津市野路町川の下 御祭神:猿田彦命 例祭:5月3日 境内摂社:臼命神社 境内末社:稲荷神社
猿田彦命は、上古天孫瓊瓊杵尊降臨の節、天孫の御先導をつとめたという名高い神で、昔から街道や旅人を護る神とされ、また土木・建築の神としても崇められた神である。
ここ「川の下」は栗太郎の古道の1つで、瀬田南大萱・南笠・矢倉を結ぶ街道と、江戸時代の重要な天下の公道「矢橋街道」の分岐点にあり、交通上の要地であった。このような位置関係から、交通安全の神、村の護り神としてふさわしい猿田彦命を、伊勢国浦田の里の猿田彦神社から勧請し奉って、当地の鎮守の神としてお祀りしたもので、時に寛永2年(1625)である。
古くは檜皮葺の一間流造の社殿であったが、度重なる修繕に耐えかね、昭和47年7月、銅板葺に改められたものである。境内摂社・臼命神社、同末社・稲荷神社は、当地に近隣から人々が移り住んで村を開いた頃、五穀豊穣・子孫繁栄を願ってお祀りし、以来人々の尊崇を受けてきたのである。
当猿田彦神社は、江戸時代膳所藩主の尊崇を受けたが、今も本殿の玉垣・水屋の軒丸瓦に「立葵」の紋章を残して、その名残りを示している』
6:47「正光寺」。『草津歴史街道 矢橋道 矢橋道は、近江八景矢橋帰帆で著名な矢橋の渡しへの道で、東海道の脇道であった。勢田橋経由の陸路にくらべ、矢橋港から湖上50町ほど(5.5km)の大津への航路は、「勢多へ回れば三里の回りござれ矢橋の舟にのろ」とうたわれたように、先を急ぐ旅人が重用するところとなり、これにつれて矢橋道も大津への短捷路として往来か激しくなった。道は、東海道筋の矢倉蛯ケ餅屋角で東海道と分かれ、大塚・川ノ下を経て矢橋に至った。
なお、草津名物蛯1ケ餅屋は明治以降移転し、名勝矢橋帰帆の絶景も一変したか、蛯ケ餅屋旧地には寛政10年(1798)建立の道標か現存、一方矢橋港跡にも弘化3年(1846)建立の常夜灯か現存するほか、矢橋には源頼朝の伝説ゆかりの鞭崎八幡宮、僧最澄創建で足利義詮再建の寺伝を有す石津寺、川ノ下には若宮権現(猿田彦)、大塚には正光寺などの古社寺がある』
6:59「若宮八幡宮」。『矢倉村と若宮八幡宮 矢倉は、宿場町草津に列なる東海道沿いの街道集落であり、また大津への短捷路である矢橋道が分岐する交通の結節点でもあった。享保6年(1792)の矢倉村明細帳によれば、当時家数144・人数749と数えるまでに発展していたが、もとは街道より西方300m余り離れた当若宮八幡宮周辺に戸数30戸余りからなる小集落であったという。
その小集落が慶長19年(1614)、膳所藩主戸田氏鉄による草津宿の拡張・整備を目的とした、矢倉村の東海道沿いへの移住策が図られ、街道集落としての形態が整ったのである。全国的に著名な草津名物の姥ヶ餅屋も、当時は矢橋道との交点で店先を構え、旅人相手に繁昌を極めたことは多くの浮世絵で周知のとおりである。一方、矢倉の故地には現在、応神天皇を祀る若宮八幡宮が残るのみで旧状を窺うべくもないが、矢倉村の村名起源に因む若宮八幡宮は、応神天皇が東国順按の時、この地に兵庫を建て、武器を蔵したことにより、兵庫村(後に、矢倉村と改称)と称したという縁起を伝える武神祭祀の古社である。
加えて、当宮南側の宇古屋敷においては、昭和53・54年に実施された発掘調査の結果、鎌倉時代から安土桃山時代にわたる建物跡・井戸跡等の旧矢倉村の遺構が確認されたほか、若宮八幡宮が鎮座する基壇も一辺25mを測り、横穴石室を有する古墳で、かつて円筒埴輪が出土したと伝えられる。さらに、近年の草津川新川用地内における発掘調査に伴い、古墳時代から奈良・平安・鎌倉時代におよぶ大規模な集落跡の実態も判明、矢倉が古代から開発の進んだ地域であったことが解明されつつある。
なお、旧矢倉村から移住した家人達は、今も「居住組」と唱え、「サンヤレ踊り」と呼ばれる囃子物を継承し、若宮八幡宮の祭事を取りおこない、矢倉の伝統を守りつづけている。』
r42に出て南下します。道なりにr18になりました。「近江大橋」を渡り、浜大津から道なりにR161になり、7:26朝のお勤めを済ませハーバー着。
みんなに挨拶し、いつものように体操・ブリーフィングしてAM練習に入りました。いつも乗ってるハードコーチボートがメンテナンス中なので、4月に進水式をしたばかりのインフレータブルボートに乗ってコーチングしました。もう1艇のインフレータブルボートは、1回生の1人乗り練習のレスキュー艇なので、2クラスを1つのコーチボートで把握します。2〜4m/sのチューニングチェックするのに最適な風だったので、ロング帆走練習しながら艇速の伸びない艇にアドバイスしながら、セイルセットを変更し艇速を伸ばします。試行錯誤の繰り返しですが、日々の繰り返しが、レースで艇速にアドバンテージがない時での素早い対応に繋がります。
「ダブチックレガッタ」に部員2人と今年卒業したOB1人が参戦しています。「京都ヨットクラブ」主催のレースで、参加賞の割に賞品が良く食事も出るので美味しいレースです。次男もOP時代参加したことがあります。琵琶湖湖畔にクラブハウスがあり、木々に覆われているのでちょっと隔離されている感があり素敵でした。かつてドラゴン級ヨットが1艇置かれていたが、いまだ健在なのかな?
12時にハーバーバックし、合宿所に戻り美味しい昼食。再度艇庫に戻り、体操・ブリーフィング後出艇してPM練習。コーチボートに乗っていると、AM同様S級リーダーが乗ってこようとします。「あれ〜、PMも上がるの?」「ええ、クルーが就活でいないので・・・」「クルーなんて、合宿所に戻ればいくらでもいるじゃん。1回生全員1人乗りに乗れないから、わからないなりにこちらに乗せればいいじゃん」「ああそうか、じゃあそうします」と、S級・470級ともにクルーを確保してもう1艇ずつ少し遅れて出てくることになりました。
良い風なので、スタート練習とショートレース練習もすることになりました。470級にスキッパーとして乗った高校ヨット部経験者1回生が2位フィニッシュしたり、楽しい練習になりました。急遽乗った1回生2人も楽しそうに乗っています。16:30まで練習予定でしたが、15:30小雨が降った後に風がなくなり、ついに鏡のような湖面になってしまいました。周囲を見ても風が何処にもなく、少し早いけどハーバーバックすることにしました。
直接合宿所の方に帰る3艇を除き全艇10艇を曳航して帰ります。新規導入したインフレータブルは40馬力ながら力強く、難なく引っ張ることが出来ました。
17:04「セブン大津鏡が浜店」で、「ブラックサンダーアイス140円」を購入し糖分補給します。合宿所に戻ると、ダブチックレガッタのレース運営をしていた去年卒業したキャプテンS君がいました。「ウチの部員はどうだった?」「Mくんが優勝しましたよ」「賞品は何だった?」「セイルバックをゲットしていました」。
キッチンに顔を出すと、爪楊枝に付けた小さな紙にS級マークなどを書いています。「あ〜、お子様ランチだ、美味しそう」。クラス別ミーティングの前に、コーチの話です。僕が指名され気づいたことを話しました。続いてOBのSくんが話しました。積極的に学連以外のレース・琵琶湖以外のレースに参加することを勧めていました。「人って知らない世界は想像できないじゃない。かつてのウチはこの状態で、想像力の幅が狭かった。少し前から積極的に地域外・学連外レースに参加しいろんな世界を体験し、そこで知り合った人と話すことで更に世界が広がり、その結果目標とする学連レースの成績も上っている」と、まさに僕が何年も言い続けてきたことを喋ってくれました。
クラス別ミーティングでは、470クルーチームのミーティングに参加しました。乗った1回生も1人参加しており、熱心に聞いていました。夕食時間です。お子様ランチは「たこカットされたウインナー」も載っており、素晴らしく美味しかった。みんなに大好評でした。
全体ミーティングで、言い忘れたことを話し、掃除時間となったので、このタイミングで帰路に着きました。湖西道路〜名神〜中央環状線〜R171で、21:52「伊丹産業セルフ北村SS」で給油しました。264km/10.73L=24.6km/L。


2019/6/1
前週に続き、母校ヨット部の定期戦の応援船のドライバーを頼まれました。9時出艇なので8時ブリーフィングでしょうから、7:30にハーバーに行けば良いでしょう。
4時頃目を覚まし、仕事場に行ってあれやこれや。倉庫から「通勤リード110」を出して浜に向かいます。6:44「セブンイレブン」で「カフェオレ500ml116円+ひねり揚108円+レーズンロールマーガリン4個116円+イチゴジャムパン100円+たっぷりクリームパン100円=540円」を購入。R171を西宮に向かいだしたこころで、帽子を忘れたことに気付きます。「ああ〜」、Uターンして戻り、再び出発。
R171に乗り、7:30前にハーバー着。係留艇に行き、主電源をONしイグニッションON、快調にエンジンが回りこれでOK。母校マネさんにハーバー着・準備OKを知らせようとLINEを打ち込んでいたら、マネボスさんから電話が入りました。「ちょうど連絡しようと思ってたんだ、船に着いています」「あの〜・・さん申し訳ないのですが、応援船をお願いしていたのですが、1回生全員レースに出れることになり必要なくなりました。・・さんには是非コーチボートに乗っていただきたいのですが・・・」「わかりました、じゃあコーチボートに乗せてもらうわ、8時前に艇庫前に行くね」「お願いします」。
係留艇のメインスイッチを切り、戸締まりしてディンギーヤードの母校艇庫へ。部員たちが円陣を組んで、部員だけのブリーフィングをしています。K監督・Mヘッドコーチがやってきました。「・・さんですか?Hです」と現キャプテンのお父さんから声を掛けられました。Hくん父もKGヨット部員で僕の後輩です。3年前、長男がアメリカ勤務になり、3才と0才の孫の日本語力・英語力・学力がどうなるか心配だった頃、母校応援艇で入部したばかりのHくんから、いろんな情報を得ました。Hくんは中東ドバイ勤務で、Hくんは小学生低学年で帰国しました。弟は小学校上がる時に帰国しました。2人のその後の英語力なども教えてもらいました。そのことをHくん父に話し、お礼を言いました。
お隣の艇庫のO大GMさんがやってきたのであ〜だこ〜だ話し、同じく外部コーチ さんとも話しました。母校マネさんが走ってきて、「・・さん、開会式の挨拶をお願いできないでしょうか?OB会長にお願いしようと思っていたのですが来れなくなったそうで・・・」「ええそうなの?何も考えて来てないけどいいよ」と伝えるとホッとした顔になっていました。連絡ミスしたのでしょうね。OB会長は僕の3つ上の先輩で、喜んで穴埋めさせてもらいます。現役が困っているので一肌脱がないと・・・ね。
開会式が始まり、最初に「KGOB会長代理」と紹介され僕が関関戦の伝統や関西水域を引っ張っていく両校の重要さを話しました。選手宣誓としてKG主将Hくんが片手を挙げ宣誓、それを正面で僕が受けます。これで代役としての僕の役目は終了。
レース委員長から両校キャプテン他にレースの説明があり、予定通り9時にD旗が挙がりレース艇が出艇して行きます。S級は両校3艇ずつ6艇ですが、470級は関大がメンバー不足で、KGがエースクルーを関大艇に出すことで練習レースという形になりました。よってKGは1回生を含め全員選手・レースう運営要員として参加する形となり、応援船の需要がなくなりました。KG5vs関大3という変則的なレースです。
僕はHくんと一緒にKG監督KくんのドライブするKGコーチボートに乗ることになりました。KGはその他に2艇コーチボートを出しており、そちらにコーチが乗り選手への指示・コーチングやメンバー交代の作戦を採ります。この日の監督艇は観覧船です。
SW3〜5m/sの良い風で、1週間前の関関同立戦の結果と同じでKGの圧勝で予定の12レース消化すべく進みます。K大コーチボートがやって来ました。T総監督とKコーチが乗っています。昼でKコーチが仕事に戻るそうで、KG艇に「1人こちらに乗ってくれませんか?」の要望です。監督が移るわけに行かず、Hくんは海外勤務が長くT総監督とつながりが殆ど無いので、「じゃあ、僕が移りますわ」。
僕が大学卒業後、地元市の市長さんに頼まれジュニアヨットクラブを市内の池に作りました。次男がそのクラブに入部して、次男のジュニア卒業が近づき新人部員をリクルートしていた時に、T総監督(当時は監督)に声を掛けました。「お子さん、いくつになったの?」「・・・」「ジュニアを始めるのに丁度よい年齢だね、やらない?」と誘ったのが縁で、T監督のお子さん2人がヨットを始めました。
その2人が共に日本代表として世界選手権に参加し、長男くんはうちの子の後を追いかけるように同じ中学を受験し、その高校ヨット部を卒業し大学ヨット部でも活躍しました。妹さんは今大学生で日本最強クラブのエースです。2人共東京オリンピック選考レースにも参戦しています。そんなこんなで、T総監督と僕の関係は続いています。全日本インカレでも、別々のコーチと監督として、Tさんは選手父兄として会います。
T総監督は一時体調を崩したそうで、その関係でコーチボートに1人が不安でサポートを願ったようですが、話していても全く以前と変わらず、「ほんまかいな?」って感じです。単に話し相手が欲しかっただけでしょう。
レースが進み、フィニッシュする度にK大艇がコーチボートに戻ってきます。総監督がアドバイスし、僕にも助言を求めるので、気づいたことを話します。昨年は部員不足で470チームしか編成できず、4回生が卒業し部員6人で春が始まりました。1回生が入部し、やっと両クラスが揃いました。そんな若いチームなので、KGに勝利することは出来ませんが、貪欲な吸収力を感じます。KGからのレンタルクルーがK大のレベルより相当高く、彼が乗る艇だけがKGに対抗できています。マーク回航ごとに試合巧者KGに抜かれますが、K大総監督が大喜びで彼をレースごとに他の艇に乗り代わる指示をして、部員全員のレベルを高めようとしています。KGのエースクルーも、KG艇からの厳しい攻撃に「KGは嫌いだ」なんて笑って楽しんでいます。
OPジュニアが練習していたので、それを見に行きます。僕らKGヨット部OBが作ったジュニアクラブは、兵庫県連と僕を含めた当時のジュニア父兄と協力し、海に姉妹クラブを設立しました。次男もこのクラブのOBです。練習艇が6艇で少なく、うちの子達、T総監督の子たちが在籍していた頃の人数から見ると寂しく感じます。
全部で11レースをこなし、16:30に1日目のレースを終了しました。T総監督から、お嬢さんの通うW大ヨット部の様子を聞きました。昨年は僕のコーチする大学が2位でしたが、優勝は王者W大。ジュニア出身の有望選手をリクルートし、凄まじい練習で強く磨いている実態をより知ることが出来ました。
ハーバーへの帰路、レースしていたJ70艇団も戻っていました。その1艇にT総監督の通った九州の大学のOBたちが乗っており、それに声を掛けました。僕がジュニア協会の理事時代、お世話になった親御さんの息子さんも乗っていました。学生のレースでは大活躍していたメンバーですが、クルーザーレースでコテンパンに負かされたようです。こちらも経験が必要ですね。
W大同様、一旦ハーバーに帰着し、レース委員会に帰着申告をしてから再び出艇します。T総監督は体調のこともありここで降り、僕があと30分の指導を頼まれました。レース運営艇に乗っていたK大監督さんが、ハーバーでこちらに乗ってこられ、2人で選手を指導します。気づいたことをレース艇の真横・真後ろからアドバイスします。
30分練習しハーバーバックし、KGから借りたライフジャケットを返しに行こうとディンギーヤードに行くと、T総監督から声を掛けられ、「一言お願いできませんか?」。K大ミーティングで紹介され、レースで気づいたことの他に、若いチームの成長を願う言葉を部員みんなに掛けました。
KGにライジャケを返し、帰路に着きました。ああ、面白かった。21時に床に入ると、一瞬で夢の中でした。


2019/5/26
全日に続き、母校KGの応援です。この日の艇長はK先輩です。また早朝からゴソゴソし、「通勤リード110」に乗って出発。7:13「セブンイレブン」で「カフェオレ500ml116円+味附海苔エビマヨネーズ130円+味附海苔辛子明太子150円=396円」を購入。7:30過ぎにハーバーに着き、係留艇のチェックをします。
Kさんはまだですが、8時になったのでディンギーヤードへ。D社監督S君がいたのであ〜だこ〜だ。「西宮の風は難しいですわ」。母校艇庫のお隣、コーチしている大学ヨット部が西宮遠征する度にお世話になっているO大も出艇作業に忙しくしています。O大GMで、GWクルージングでご一緒したKさんがいたので挨拶。新たにO大コーチに就任された滋賀大OBのSさんもいました。頑張ってるな〜、春の時点では当方が上でしたが、うかうかしていると負けちゃいます。7月は7大学戦で勝負です。Kさん・Sさんに挨拶していると、O大ブリーフィングが始まり、そちらに行かれました。
KGのK監督がやってきて、「今日は僕も乗せてもらいます」「え、コーチボートじゃないの?」「優秀のコーチ陣が来てくれているので、僕がいない方が良いと思って」。K先輩がまだなので電話してみると、「9時に行くわ。今弁当買ってるから」「了解」。
レース前スキッパーズブリーフィングがあり、風はまだ弱いが風向が海風の南に既に変わっているので、予定通り出艇するようです。9時になり、ホーンと共にD旗が上がりレース艇は出艇して行きます。K先輩からKGマネさんに電話が入り、「船に着いたから」。部員たちと共に係留艇へ。
部旗を艇庫から持ってくるのを忘れたようで、1回生1人が取りに戻る間、しばし待ちます。「来週土曜日は、僕がこの船の艇長だから」と、3回生女子マネMさんに僕の電話番号を伝えます。「コールしますね」、「リリリリーン」僕のスマホが鳴り登録終了。「LINEも交換しとこうか」と僕のスマホをMさんに渡し、作業を丸投げしました。「これが私です」と僕のスマホを戻してくれました。また乙女のLINEゲットです。
皆で乗り込み、Kさんがステアリングするので僕がKG1回生部員達に指示し、桟橋から離れます。すぐに部旗をマストに掲げます。KさんがMさんを呼び、ドライバー交代です。「え〜、こんな大きな船を運転するの初めてです」っておっかなびっくり。Kさんは海を指差し、「何処にも当たるものがないから大丈夫」。「じゃあスピードアップして、本部船を目指そうか」と僕が指示し、スロットルレバーをプラスへ。
470旗が上がり、スタートシークエンスに入ります。K監督が、「じゃあ代わろうか」とステアリング交代。「好きなように動かしますよ」。2〜3m/sの弱い風だった第1レース、風上第1マークをワンツーで回航したKGが、3位D社をグングン離していきます。圧倒的なスピード差で、これにはD社監督もショックでしょう。風下に向かう時使う3枚目のセイル・スピンのスピードが違いすぎます。
僕もショックで、「打倒D社」を掲げて練習して来ましたが、本来琵琶湖勢が得意なはずの微軽風のお株をKGが奪っちゃっています。そのことをK監督に聞くと、「D社とウチとは、違うカットのスピンを使っています。ウチのは浅くて難しいのですが、より角度を持って走る時は速いんですよ。随分と使い方がわかってきました」「なるほど・・・」。ロンドン・リオデジャネイロオリンピックキャンペーンをやっていた現役レーサーでも有るKGヘッドコーチが試行錯誤しているようです。メインセイルも彼の好きなカットのものを1艇使っており、データを取っているようです。
兵庫医大が練習しており、僕が2回生の時のキャプテンKさんがコーチボートでレース観戦しに来ました。「Kさん」と声を掛けると、「お〜、GWに奥村ボートに行ってたやろ。ベルチャーの船見たんだって?Yくんから聞いたよ」と返ってきて、海上ながら数分お喋りをしました。去年、西日本医大戦で初優勝して喜んでおられるようです。KGヨット部卒業生は、いろんな学校と縁があります。僕が大学卒業後先輩数人と作ったジュニアクラブから、現D社監督はじめ、D社選手・KG選手・W選手・・・いろんな大学のエースを輩出しています。これも、世間への恩返しです。
横の海面では、3人乗りドラゴン級ヨットの月1ポイントレースをしていました。元僕が乗っていたチームも参戦しています。レース観戦で上マークに向かっていると、ドラゴンのトップ艇にミートしました。この艇もKGOB3人が乗っています。K監督の同期と監督の弟、加えて若手OBでチームを組んでいます。K監督の弟は、僕がKGコーチ時代の選手でした。手を振ると、向こうもすぐ気付き、「どないですか?」と母校のレースが気になっているようです。
レースの方はKG牙城はこの日も崩れず、優勝安全圏に2位を離していきます。14時終了まで5レースでき、全部で11レースのシリーズになりました。最終レースはKGに余裕ができ、レギュラーが上がり2軍を出していました。
ハーバーバックします。部旗を片付け、1回生部員に手順を説明し、桟橋着艇前に監督からK先輩にステアリングを交代し帰着。桟橋には昨日ステアリングしたS先輩がいました。「どうやった?」「昨日と同じで、レースごとに差が広がり最終レースは2軍を出していました」。「・・くん(僕)もショックちゃう」「そうなんです、打倒D社でやってきて、そのD社が圧倒され、全日本入賞が少し遠のいた気分です」。「そうか、うち(KG)は琵琶湖勢を撃破したから、関東がターゲットや。KOが強そうやな」「ええ、S級はWや日大が強いと思いますが、KO470はかなり強力です。470は日経とガチンコ勝負になりそうです」。
KG部員に指示し、桟橋からホースを引っ張り船を洗います。これで解散、ご苦労さま。「ありがとうございました」。いつもながら、体育会の学生が気持ちが良いです。S先輩と共に、陸置きヤードに向かいます。S監督の同期と弟が乗るドラゴン級が1艇戻っており、母校のレースについてあ〜だこ〜だ。
僕だけ陸置きヤード艇の上架桟橋に向かい、KGOB会長Iさん艇に声を掛けます。一昨年までこの艇に乗ってレースをしていました。K大OB・Oさんと日大OB・Hさんが乗っていました。「最終レースのスタート前に、ジブが突然落ちてきてぼろぼろやったわ。それでも1艇抜いたんだけど、抜きかえされたわ」と大笑いです。
レース艇が上架クレーンに乗せられ陸上に上って行くタイミングで帰路に着きました。Iさんが関関同立閉会式の挨拶をするので、片付けを急がねば・・・。2日間、母校の強さを見せてもらい、楽しい週末でした。


2019/5/25
関関同立大学ヨット定期戦の手伝いを頼まれました。母校が幹事校ということもありますが、基本的には母校応援船としてクルーザーを出して欲しいとの要望がありました。来週末は関関戦で、2週連続の手伝いです。船のドライバー&責任者としての僕の担当は来週土曜日ですが、母校でもあるし、近畿北陸ブロックから遠征するD社・Ritsと母校KGとの現在の実力差を知る上からも、応援船に乗ることにしました。コーチしてる大学ヨット部と同じブロックのD社・Ritsが、3月のレースで感じたKGの強さとどんな具合なのか興味津々です。
4時過ぎに目を覚ましたので、職場に行きゴソゴソしていました。「通勤リード110」に乗って出発です。7:00「セブンイレブン」で、「ひねり揚108円+カフェオレ500ml116円+味付海苔エビマヨネーズ130円=354円」を購入し、R171で浜に向かいます。
30分弱で新西宮YHに到着し、船の具合を見に行きます。セキュリティーゲートを開け桟橋を歩いていると、この日の責任者・S先輩が既に船に乗っておられます。「早いな〜」。「おはようございます」「おはよう」、「船をディンギー桟橋の方に移動させますか?」「いや、ええやろ。学生にこっちまでこさせようや」「了解です」。エンジン始動を確かめ、「ほな、艇庫に行こか」。
ディンギーヤードに行くと、D社・Ritsの遠征艇が並べられており、選手がセッティングしていた。KG艇庫2Fに上がり、レース運営ブリーフィングに加わった。単なる応援船なので、聞いていただけです。かつては、レース委員長や事務局長として全日本など大きな大会を動かしていたが、次世代にバトンタッチしてもう長い。今回は、若手OBが初レース委員長としてデビューするようで、何かとK監督にアドバイスや了承を求めていたが、次世代を育てようとあえて口出しをしない姿勢だった。少し上のOBがいるので、彼らに任せているようだった。いい感じで、クラブ運営が続いており好感が持てました。
開会式・スキッパーズミーティングの時間になったがすることがないので、艇庫2Fからそれを見ていた。主催者側として、S先輩が挨拶をしていた。Sさんと同じ代のIさんが現在のOB会長です。この代のキャプテンだったSさんは、新設したGM(ゼネラルマネージャー)に就任し、OB会長をサポートしています。社長業を引きサンデー毎日になったので、監督のサポートもされており、学校での監督会議など対外的活動もされ、今年買ったインフレータブル400万円の資金も集めました。クラブにとってなくてはならない存在です。
レース委員長から初日8レース・2日目7レースの予定が発表された。レースはとても面白く、遠征組としても数多くのレースを、今年・来年の全日本学生選手権の地で経験したいだろう。
若手OBのFくんとHくんがおり、名刺交換しました。両名の名はKGウェブサイトやレース結果、ヨットウェブサイトで知っていましたが、話すのは初めてです。Fくんは、スナイプ・470のビルダーとして伸びてきているピアソンボート勤務で、Hくんは470レーサーとしてヤマハに入社し、現在はマリン部門で働いているそうです。
まだ風向が東で風が弱いので、しばらく陸上風待ちになりそうです。艇庫前に降りるとD社S監督がやってきて、KGK監督・Sさんであ〜だこ〜だ。Sさんから「立って話しているのも何やから、船で待っていようや」に従い、係留艇に戻ります。KGマネさんに聞くと、この日のゲストはRits1回生女子2・KG3回生マネ+午後からKG1回生数人だそうです。1回生はTOEICのテストを学校で受けているそうで、ハーバーに帰って来次第インフレータブルで海上まで運んでくるそうです。
9時出艇予定でしたが、予想通り風待ちになり、11時頃まで船でS先輩とあ〜だこ〜だ。この船でクルージングしたGWの様子を聞きました。GW中も、「今何処ですか?」なんて電話を掛けましたが、詳しい様子を聞きながらあれやこれや。GW後半の僕のクルージングを話し、能島の祭りのことを話すと、「それ、おもろそうやな。来年は一緒に参加したいな」と言われたので、O大Kさんにその旨伝えておくことにしました。来年は2艇が沼島で合流になりそうです。
神戸大が練習で出艇して行き、大阪大も出艇して行きました。マネさんからS先輩に電話が入り、「11時D旗(レース艇出艇)」だそうです。レース艇が出艇して行き、Ritsの男の子2名を連れてKGマネ2人がやってきました。
マネ1・Rits2を乗せて桟橋から離れます。S先輩がステアリングで、僕がRits2人に指示しハーバーを出ます。メインハリヤードを使って部旗をマストに掲げます。コクピットに座り、自己紹介タイムをしました。2人共1回生なので、時計係を指名しカウントダウンさせたりしてヨット選手としてのイロハを教えます。次男がお世話になった中高ヨット部のN顧問先生が、1人でその高校のレスキューを出して観戦していました。その船に近づき「N先生」と声を掛けます。「お〜・・さん」。S先輩と同じ学年で、同じS級のエース対決をしていました。「・・・」「・・・」、こういう関係が続くのは良いです。
午後になり、KG1回生が数人乗ってきました。自己紹介タイムを始めました。ライバル大学ですが、同じ学年、相通じるものがあるはずです。4年間、毎年定期戦で顔を合わすので、互いに切磋琢磨しあって成長して行って欲しい。
レースの方は、近畿北陸ブロックの絶対王者・D社をKGが凌いでおり、第1レースからトップKGが揺るがず、少しづつ差が広がって行きます。470は2位D社で、S級は京滋4大学戦の結果同様2位Ritsで、初日6レースを消化して終わりました。ハーバーバックし、まずは部旗を降下します。「部旗は部員の拠り所、国旗日の丸同様丁寧に畳むように」。桟橋係留後、部員たちに指示して後片付けし解散です。
S先輩とともにディンギーヤードには戻らず、センターハウスへ。ショックコードを購入するため、S先輩と別れノースショップに寄り道しました。店長のK大出身Kさんがおり、あ〜だこ〜だお喋りが始まりました。「レース、どうでした?」「D社よりKGの方が上みたい」、近畿北陸ブロックの雄と関西ブロックの雄のガチンコ対決です。全日本インカレ優勝は、関東と九州ブロックに加え、この2ブロックです。3月のDウィーク、春の関東インカレの結果を総合すると、関東の470はKOが強く、S級はWと日大が強い。この5校の間で総合優勝が争われそうです。
次男の出身中学に入学し、同じくヨット部に入ったKさんの息子さんは、中3ながら今年の兵庫県代表として国体に出れそうです。競技人口が少ないヨットなので、ほぼ決まりのようです。R171で帰路に着きました。


2019/5/19
コーチしている大学ヨット部の合宿所で、5時前に目が覚めました。窓の外は少し明るくなっており、バイクで走り出すのにはちょうど良いです。コミネ夏用メッシュジャケット・パンツに着替え外に出ると、5:14湖東の空から朝日のオレンジが差し込んでいました。R161に出て湖西岸を北上し、道なりにr558に乗り、5:35「那波加荒魂神社」。
『那波加神社
那波加神社(下社):天智天皇7年(668)境内社・龍神社・夷社・宇賀社・大将軍社 那波加荒魂社(上社):平城天皇大同2年(807)境内社・大炊社・愛宕社・須古社
由緒 御祭神「天太玉命」は、古よりこの地に降臨し、天智天皇7年(668)に神社を創建、垂仁天皇の皇子小槻氏の始祖「於知別宮」を配祀し、平城天皇大同2年(807)には荒魂社を創建し別宮としたと伝えられています。
地名の由来も「老翁となった天太玉命の農事を鹿が助け、苗(稲)を鹿が背負って運んだ」ことから、苗鹿となったと伝えられています。
この地域を治め朝廷の事務を司る小槻氏の崇敬を受け、延喜式神名帳に名を列ねる式内社となり、建武2年(1355)には、天皇より勅使が差遣され、天下太平祈願の奉幣の記録も残っています。
比叡山延暦寺との関係も深く、円仁が横川中堂を建立したとき、苗鹿明神が内陣柱を奉加したことから、天台宗の根本法華経を守る30番神29日目の守護神として全国著名大社の神々に並び崇敬されています。
元亀2年(1571)の兵火により社殿等を焼失し、慶長12年(1607)氏子崇敬者が一致協力して社殿他を再建し神社を護持しました。
明治9年村社、明治28年郷社、明治35年(1902)に県社となっています。現在、下の宮に一問社流造の本殿の他、境内に龍神社・夷社・宇賀社・大将軍社を祀り、上の宮には荒鬼社本殿の他、大炊社・愛宕社・須古社の境内社をお祀りしています』
r558に戻り北上し、5:54「日本キリスト教団堅田教会」。r558に戻り北上し、右折してR477。「琵琶湖大橋」で琵琶湖を東に渡ります。小銭の在り処を脳内で確認していると、遅ればせながらETCが導入されていました。料金を帰宅後チェックすると、バイク100円でETC利用20%引き80円だそうです。
大橋を渡ってすぐの交差点を左折しr559(湖岸道路)を北上します。右折して、湖東の広大な野洲川平坦地の穀倉地に突っ込みます。360度平坦なので風が強い。昨日に続き強風が吹いています。ブローが入ると、バイクを斜めに傾けないと真っ直ぐ走れない感じで、自然にスピードが落ちます。
2回右折してR477に乗り、6:11「大水口神社」。R477を北上し、6:17「矢放神社」。『県指定典籍 大般若波羅蜜多経 所有者:矢放神社 製作期:平安時代〜鎌倉時代 大般若経は、中国唐代の僧・三蔵法師玄奘が漢訳した鎮護国家の妙典、人天の大宝とすべき旨を示した、六百巻からなる大部な経典である。
本経は、石山寺一切経の再編勧進を行った念西の経巻残欠に、承久の変(1221)の翌年、貞応元年から3年にかけて覚西という人物が願主となって補写・補経したもので、524巻が残存している。この勧進には、近江一円から南都北嶺に及ぶ100人をこえる結縁者が動員されており、日本写経史上貴重な資料である』
社殿に、「自転車で御朱印巡り」の新聞記事が貼ってあった。
R477に戻り、「法専坊」。山門前の石柱に、「准如上人御旧跡」と彫られていた。続いて少々走り「法性寺」。三河神社〜矢取神社にお参りし、r48を渡りr155に乗り、6:56「錦織寺」。
『お念仏のふる里 「真宗木辺派」本山錦織寺は、天安年間(857〜858)比叡山の慈覚大師円仁が創建した天安堂(毘沙門堂)に、親鸞聖人が関東から京都に帰る途中に寄寓したことから始まる。この天安堂に奉安されている毘沙門堂は平安時代の作と言われる。親鸞聖人のあと愚拙・慈空兄弟お守りし慈空のあとを、親鸞聖人の玄孫・存覚上人、その子慈観上人(綱厳)が入寺し寺基を固めた』
山門前に、「門主継職式〜法灯継承〜 5月19日午前10時」と書かれていた。3時間後、門主さんの交代式があるようです。境内に入ると、法要の声が流れていた。朝のお勤めなのか、継職式の一連行事なのか・・・気持ちが良いです。
『滋賀県指定有形文化財 錦織寺表門 所在地:野洲市大字木部 一間薬医門・切妻造・本瓦葺、江戸時代(18世紀前期)。当寺は、南北朝時代には真宗寺院として存在し、天正年間(1573〜91)には真宗と浄土宗の二宗兼学となったが、その後亨保11年(1726)に再び真宗となり、延享2年(1745)には真宗錦織寺派と称し、現在は真宗木辺派の本山となっている。
元禄7年(1694)の大火災後、元禄14年に現在の御影堂が、文政8年(1825)には阿弥陀堂が上棟され、真宗の本山寺院としての伽藍配置となった。
表門は、建立年代を明確にする資料を欠くが、板蟇股や虹梁・男梁などの様式や手法から18世紀前期頃と考えられる。建立後の修理は、文久元年(1861)・大正6年・平成7年に屋根葺替が行われている。
虹梁・男梁・女梁の絵様彫刻や、板蟇股・大塀束の形状などには、時代の特色がよく表れており、梁の架構は近世らしい見応えのある構造で、男梁の先端に絵様肘木を組む等変化に富んだ意匠である。この門は、二宗兼学時代に建築された建物として、当時の寺観を知る上からも貴重である』
『御影堂 親鸞聖人影像(満足の御影) 創建不詳・元禄14年(1701)再建 浄土真宗の祖師・親鸞聖人は、29才で叡山を出て法然上人の弟子になられましたが、南都北嶺の奉聞により念仏禁止の弾圧が加えられ、承元元年(1207)法然上人は土佐(高知県)へ、親鸞聖人は越後(新潟県)へ流罪の身となられました。5年後、ご赦免。しかし法然上人の御遷化を聞かれた親鸞聖人は、妻子と共に関東に向かわれ常陸国(茨城県)稲田に一宇の草庵を結ばれ、念仏の勧化弘通、人々をご化導なさいました。
木部ご滞在中、嘉禎3年(1237)4月中旬、親鸞聖人軍生の主著・教行信証6巻のうち、真仏土巻と化身土巻の2軸を著述されました。完成の記念として、弟子善性房の志を鑑みられ、自ら真向きの影像をお描きになられました。これを「満足の美影」と申し上げております』
『阿弥陀堂 本尊:阿弥陀如来像 創建不詳:天保2年(1831)再建 嘉禎元年(1235)4月、親鸞聖人が関東から帰洛の途次、この地・木部に滞在されました。その折、霞ヶ浦で感得せられた1尺8寸(54cm)の阿弥陀如来端座の木像を当山の御本尊として本壇に安置されました。
一山が灰燼となった元禄7年(1694)の失火によりいたましいお姿であります。暦に元年(1238)7月6日の夜、楽の音、霊光異香と共に童子・天女が蓮の糸で機を織っていました。夜明けには、その姿はなく紫紅の錦が供えられ、仏徳を賛嘆するという不思議なことがあり、この錦を朝廷に献上したところ、時の帝・四条天皇より「天神護法錦織之寺」の勅願を賜りました。これが錦織寺の寺号の由来です』
『天安堂 本尊:毘沙門天王 創建:天安2年(858) この堂は、延暦寺第3代座主・円仁、後の慈覚大師が弟子・園智を遣わされ、この地に一宇を建立し、比叡山から毘沙門天王を移して本尊とさあれ以来、約380年の間、天台宗の霊場でありました。
後年、親鸞聖人が関東から京都へ帰洛の途次、美濃(岐阜県)正蓮寺で止宿せられた夜、毘沙門天王の霊告を得られ、そのお告げによって、この木部の地を訪ねられ、しばらくこの堂にご滞在になって仏法を弘められたのが錦織寺の基となったのであります。
現在の堂は、文久元年(1861)に再建され、また平成19年(2007)には大改修が行われました。初期の堂は、天正の火災によって焼失したと伝えられています』
バイクに戻り、「菅原神社」。『滋賀県指定有形文化財 菅原神社神門 明治に現在の神社名に改称されたが、もとは天満天神社と呼ばれ江部荘の産土神で、菅原道真を祭神に祀る。神門の建造年代を明らかにする資料はないが、板蟇股や化粧棟木下の花肘木・実肘木などの彫刻が室町時代後期の様式を示し、この頃に建てられたと考えられる。棟中央に丸束をたて組物を積み上げる特異な構造手法を取り入れた華やかな意匠を示している。全体に柱や梁の木割が太く、大型で雄大な四脚門である』
『永原天神 菅原神社略記 創立:文禄元年の天神社記によれば、文治2年(今から812年の昔)源頼朝公の勧請創立と記されているが、創立は古く遥か遡るとされ、康保年間(今から1034年の昔)と伝えられる。因みに境内の各所から、白鳳時代(1300年の昔)の布目瓦が出土する。
文化遺産:中世から近代に渡る連歌・永原千句が現存する。それは、文学上貴重な資料であり、今川義元も千句会を奉納し、俳諧の巨匠・宗祇も千句会に参加している。氏子出身の江戸時代の文学者・北村季吟の書簡も現存する。
神仏習合:明治の神仏分離まで、境内に季梅山長栄寺と呼ばれた寺坊があり、叡山天台の法師が往職していた。天治元年作の土面観音像が天神像と供に祀られ、神仏の霊威を参拝者に授けておられる。現在も習合の神社である。
朱印状:慶長8年(1603)家康公が社領を寄進。慶安8年(1656)家光公が朱印状の中に「社中門前の竹木諸役免除」と記している。その故を得て、他の社寺には無い桧の老木が残された。樹齢500年の桧に神威を覚える。
神輿2基:慶安2年(1650)の作で宝暦と天保に修理が行われ、今般平成御大典記念に大修理を行う』
『寛文2年北村季吟献詠 社頭梅之碑 氏子・北村出身の国学者。将軍の和歌指南役でもあった北村季吟先生が、帰省参詣の時に詠まれた和歌で、氏神様を誇り慕う気持ちが込められています。
神垣や ここも北野の 名にし負わば 栄うる梅の影も変らじ』
バイクに戻り、近くの「永原御殿跡」に向かうと、田んぼの縁が石垣になっており、一見して「水堀跡」とわかりました。
『永原御殿跡 永原御殿は、徳川将軍が上洛する際に使った休憩、宿泊用の城館です。御茶屋御殿とも言います。この地は、天正14年(1586)に豊臣秀吉が徳川家康に与えた在京賄料に由来します。記録によると、慶長6年(1601)10月の家康下向時を初見とし、慶長19年(1614)の大坂冬の陣や翌年の夏の陣、家光の将軍宣下に伴う上洛時などに、家康・秀忠・家光らが駐留しました。
寛永11年(1634)、家光の御代替の上洛に伴い、それまでの御殿の約6倍の規模に大改修します。膳所藩主・菅沼定芳と芦浦観音寺を普請奉行として、大工頭中井家の作事によって建物の新造と改修をおこない、併せて三の丸を拡張したうえで米蔵や馬屋を新設しました。しかし御殿の使用はこれが最後となりました。
現在も本丸跡の土塁や石垣、二の丸跡の掘割などが随所に遺り、当時の面影をうかがい知ることができます。野洲市北の浄専寺には、御殿からの移築と伝える表門もあります』
見学しようと思いましたが、あぜ道にロープが掛かり入れず残念でした。
『土安神社 今から800年ほど前、江部の荘(現在の永原の北)の庄司で橘時長の娘・妓王と妓女(姉妹は都に出て平清盛に仕えていたある時、妓王はふる里の用水不足の嘆きを清盛公に申し上げたところ、早速三上山の麓・野洲川より分水して水路を開通せしめた。工事の途中で蹉跌した時、夢に現れた一童子が工事の手法を授けたことによって完成したもので、上流を妓王井川の下流を童子川と名付け、この童子を土安神社に祀ったのであります』
r32に出て、7:35「貴布禰神社」〜祇王寺。平清盛に寵愛された白拍子・祇王にまつわる物語は、平家物語から派生した悲しい物語です。京都嵐山にも祇王姉妹・母子、妓王を追い寵愛を得たが同じ運命に至った仏御前が共に住んだ祇王寺がある。ここの祇王寺は、妓王の生誕地です。
バイクに戻り、r32〜r48で「蓮長寺」。r32〜r48で「円徳寺」「国主神社」。
『第46代・孝謙天皇天平勝宝8年(756)小南字池田に白鳥現れ御神社を告げて白く「吾是地に鎮座する」と宣給うて、小祠を建て里人奉祀せり。第66代一条天皇、永延3年3月5日(989)現在の里の内に大宮・二ノ宮・三ノ宮を造営し、池田小祠より産土神として遷座。村民挙げて国主大明神を崇奉する。
保元3年(1158)相殿・天満大日大神は、滋賀郡比良天神社より、また玉依比売命は京都下賀茂神社より分霊と奉祀せん。日子穂々出見命、瓊々杵命もこの年に勧請された。文治2年、創建以来の社殿が修造されたが、文永年間に火災に遭って、社殿は灰尽に帰した。健治2年、仮社殿を造営、足利尊氏の頃に社殿造営、社領が回復された。応永17年には、再び社殿が修造されている。天正4年、この地に入部した佐久間甚九郎信栄が当社に、武運長久、諸願成就を祈願、社領30石を寄進された。嘉永三年社殿造替、現在に至る』
r48〜R477で、JR東海道本線を渡ります。8:15、渡ったところにあった「上野神社」に寄り道。境内で昨日買ったおにぎりを食べ朝食にします。コーチしている大学ヨット部LINEをチェックすると、全日に続き琵琶湖も吹いているようで、エキサイティングなレースになりそうです。
R477で東に向かい、右折してR8。8:39「鏡神社」。『重要文化財 鏡神社本殿 明治34年8月2日指定 神社の創立は古代にさかのぼると伝えられ、祭神は天日槍命を祀る。現在の本殿は、室町中期に建てられたもので、滋賀県に遺構の多い前室付三間社本殿。蟇股を多用し、屋根勾配をゆるくみせる外観は優美である。
重要文化財 鏡神社宝箇印塔 昭和35年2月9日指定 宝篋印塔は、この境内より西南方約500mの山裾、西光寺址といわれる林の中に建っている。鎌倉時代中期に建てられたもので、軸石の四隅に鳥形を造りだした形態の優れた作品である。重要文化財 石灯籠 昭和37年6月21日指定 応永28年8月8日(1421)の銘がある。 昭和63年3月 滋賀県教育委員会』
『源義経 烏帽子掛けの松 承安4年(1174)3月3日、鏡の宿で元服した牛若丸は、この松枝に烏帽子を掛け、鏡神社へ参拝し源九郎義経と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願したのであった。明治6年(1873)10月3日、台風により折損したため幹の部分を残して保存し後世に伝えるものなり』
『謡曲「烏帽子折」と鏡神杜 謡曲「烏帽子析」は、義経記などの牛若丸(源義経)伝説から創作された。前段は鞍馬山を抜け出した牛若が、金売り吉次と奥州に向かう途中、追手が迫ったので、鏡の里宿で元服して姿を変えた物語。後段は、この後赤坂宿で盗賊の熊坂長範に襲われ、奮闘して退治した武勇伝。
鏡の里宿は当地で、鏡神社は牛若が元服の際、源氏再興を祈願した神杜とされ、鳥帽子を掛けた「鳥帽子掛け松」や「元服の池」などがある。元服に使ったたらいも神杜に保管されている。今や一片の板切れとなっでいるが、その木くずば戦時中、出征兵士のお守りとして役立ったという。大願成就、家内安全に御利益のある神社である』
『鏡神社 由緒
主祭神:天日槍尊(アメノヒボコ)「記紀」に登場する人物で、垂仁天皇の御代に渡来した新羅王子とされる
配祀神:天津彦根命(アマツヒコネ)スサノオとアマテラスの誓約で生まれた男神の一柱 天目一箇命(アメノマヒトツ)「日本神話」に登場する神で、製鉄・鍛冶の神であるとされる
当神社の創祀年代は不詳であるが、主祭神 天日槍尊(アメノヒボコ)は「日本書紀」による新羅國の王子にして垂仁天皇3年の御世(BC.31)に来朝し、多くの技術集団(陶物師・医師・薬師・弓削師・鏡作師・鋳物師など)を供に近江の国へ入り集団を成し、吾国は育み文化を広めた祖神を祀る古社である。天日槍は持ち来たる神宝の日鏡を この地に納めたことから「鏡」の地名が生まれ、書紀にも「近江鏡の谷の陶人は、すなわち天日槍の従人なり」と記されている。鏡山の麓は渡来集団に関わる地名も多く、須恵器を焼いた古窯跡群も広く現存する。
延喜の御世には大嘗会に鏡餅を献上した火鑚の里であり、鏡路は鏡山と共に万葉の歌枕として150余首詠まれ、宮廷巫女の歌人・額田王や鏡王女にも所縁の地である。現社殿は室町時代に再建された三間社流れ造りにして、屋根は「こけら葺き」の貴重な建築様式は国の重要文化財である。
承安4年(1174年)、牛若丸こと源氏の遮那王は京都鞍馬から奥州へ旅路、この鏡の宿に泊まり、境内宮山の岩清水を盥(たらい)に汲み、自ら烏帽子を着けて元服した。鏡神社へ参拝した16歳の若者は「吾こそは源九郎義経なり」と名乗りをあげ、源氏の再興と武運長久を祈願した武将元服の地である。以後、岩清水は源義経元服池と称し、現在も清水を湛えている。義経公を偲ぶ「とがらい祭り」は11月2日の夕刻に男児を主役に斎行される。
大正6年、当地宮城一帯における特別大演習を大正天皇御統監のみぎり、鏡神社宮山に行幸あそばされ、御親拝の栄に浴す。以後宮山を御幸山と称し、自然公園として管理される。飛地境内の鏡山は山頂に近江の総社・龍王宮を祀り、7月10日を例祭とする』
『御幸山 大正天皇が、大正6年11月14日に陸軍大演習をこの宮山より統監される。当時の知事・池松時和が、このことを記念して御幸山と命名する』
『遺跡散策ルート 鏡山古窯址群(鏡神社遺跡他) 鏡山古窯址群の窯跡の分布は、竜王町・野洲市・湖南市の2市1町にまたがる鏡山一帯にひろがっており、竜王町側では、今日までの分布調査などの調査から6つの支群から構成されていることがわかり、操業していた時期は採取した須恵器の年代から、6世紀末から8世紀はじめまでと考えられます』
『重要文化財 鏡神社本殿 三間社流造柿葺で、母屋に前室を設け、さらに向拝をつけた流造本殿の典型的なものです。詳細な建立年代は不明ですが、墓股の様式から室町時代中頃(約600年前)のものと考えられます。
本殿の祭神は天日槍とされ、飛鳥時代から奈良時代にかけて編纂された「日本書紀」垂仁天皇三年条にある、「近江国の鏡村の谷の陶人は、天日槍(新羅国王子)の従人なり」との天日槍伝承の記述と、この神社周辺域を含む、竜王町と野洲市の境に位置する鏡山一帯に、古墳時代後期から飛鳥・奈良時代(1,500〜1,300年前)にかけて焼かれた「須恵器」という焼物の窯跡が数多く存在する事との深い関わりが推測されます。
天日槍伝承に書かれている「陶」は、「須恵」という同じ器の意味を表しており、鏡山で見つかる窯跡や、近くに「須恵」という地名もあることから、この鏡地域周辺は、古くから渡来人と関わり、いち早くその知識・技術を取り入れた先進地域であったことを示します』
境内には「祓戸の神」を祀る場もあり、気持ちの良い場所でした。いつものように拝殿で手を合わせ、「これまで幸せに生きてこれた御礼」と「息子達の家族の幸せな将来をお願い」しました。あまりに気持ちが良いので絵馬殿の縁側に座って休憩しました。
LINEでレース状況を確認していると、「幼稚園同窓生LINE」にもメッセージが入っていました。チェックするとHくんが愛知県の実家からの帰りだと言う話題でした。お父さんが亡くなり、高齢の母親を千葉の家に引き取り、主のいなくなった実家に月1で帰っているようです。その様子を母親に伝えると安心するのだとか・・・。優しいな。
先月、そのお母さんの写真をKINEに載せており、面影を感じました。僕が通った幼稚園は、当時では非常に珍しかった3年保育で、羽仁もと子さんという教育研究家の経営する園でした。昼食やおやつを親が交代で作り、クリスマスプレゼントも子供の描いた絵のぬいぐるみなど親の手作りでした。園に親が集まり、製作を皆で学ぶ親教室でもありました。
4才児の1年目の2週目から、子供が1人で園に通います。特徴ある園なので遠方から通う園児ばかりで、みな電車やバスを乗り継いでやってきます。僕も駅まで歩き、首から下げた定期券を見せて改札を通り、1回乗り換えて着いた最寄り駅でバスに乗り換え、最寄りバス停から園まで歩きました。
そんな幼稚園で、1学年1クラス15人という小さな園ということもあり、親も含めて仲良しです。海の近くに住んでいた友達の家に、海水浴でお邪魔したり、記憶に残っている時間を多く過ごしました。それぞれの親を皆知っており、卒業してからも縁が続き、その後愛知県に引っ越したHくんの実家に同窓会でお邪魔したこともあります。
LINEには他のメンバーからの書き込みも続いており、僕も「源義経が元服した鏡神社Now」のメッセージと写真を送りました。バイクに戻り、近くにある「道の駅・竜王かがみの里」にバイクを入れます。
「西光寺遺跡」「星ヶ崎古墳・星ヶ崎城跡」「宝篋印塔(重要文化財)・石灯籠(重要文化財)・仁王尊この先100m」の案内板が立っています。獣避けフェンスを開閉し、鏡山山域に入っていきます。すぐに「西光寺跡」に入りました。
『西光寺跡
西光寺跡は、竜王田と野洲市の西境を南北に走る竜王山系の北端星ヶ峰(標高222.6m)の東山麓に寺域が展開され、古代における東山道、近世における中山道の近くに位置する。伝承では最澄の開基で、嵯峨天皇の勅願所となって僧坊300を擁する大寺院であり、鎌倉時代から室町時代にかけて将軍などの宿陣は当寺でおこなわれることが多かったという。
寺跡の現状は、平坦面としては、瑶。重要文化財石燈龍と重要文化財宝医印塔が置かれている場所が最も広く、仁王堂のある周辺まで平坦面が続いているが、寺域とされる範囲の南北方向へ続く山麓部には目立った遺構はなく、基本的には自然地形である。重要文化財宝篋印塔の解体修理に伴う調査から、14世紀代の骨蔵器の四耳壷等が出土しており、その状況から往時の西光寺を垣間見ることか出来る。しかし、現在みられる平坦面についても後世の造成によるものである可能性も考えられることから、寺跡の実態ははっきりしていない』
『重要文化財(工芸品)昭和37年6月21日指定 石燈寵 鏡神社
この石燈籠は、全高282.4cmで、形状は総八角形である。材質は、花嵐岩で近江八幡市の瓶割山周辺で産出されたものと推定される。
燈籠の特徴は、竿の部分が八角柱状で、普通の燈籠よりも著しく高く、一面に「応永28年8月8日願主敬白」の銘文が刻まれており、火袋の部分には火口の面と仏像の面が4面ずつ交互に配置されている。火口の面は上・中・下の三段に分かれ、上段は4面のうち2面に花菱文を2個並べ、他の2面は一面散り蓮華を刻し下段に格狭間が設けられている。仏像を刻した4面は上段に花菱文を2個横に並べ、下に各一帯ずつ蓮華座上に立つ仏像が高彫りに彫られている。
当初は、星が峰の中腹の若宮王子神社本殿前にあったと伝えられ、長年その地に位置していたが、周囲の地盤が傾斜しているなど、保存環境がよくないことから、文化庁・滋賀県教育委員会の指導を受け、平成12年度補助事業で石燈籠の保存修理及び防災施設(覆屋)設置を行い、終了後現在の位置に移した』
『遺跡散策ルート 星ヶ崎城跡
星ヶ崎城跡は、鏡山から派生する丘陵先端尾根頂上部に位置し、長さ35m・高さ1〜2mで3〜5段の石垣と、反対側に少しの石垣が尾根の南西部上に残っています。周囲の地形状況から、この石垣が残っている所は、城の「主郭」部分にあたり規模は現状から、幅約20m×縦約35mと推測されています。(城跡は、これより25分のところにあります』
『遺跡散策ルート 星ヶ崎古墳
星ヶ崎古墳は、鏡山から派生する丘陵先端尾根頂上部に位置し、星ヶ崎城跡の西方の尾根上に築造された前方後円墳です。古墳の大きさは、全長約27m・後円部径約16m・高さ約3m、前方部長さ約10.5m・幅9.5m・高さ約2mをはかり、小規模な前方後円墳です。また、周辺からの遺物などが確認されていないため古墳の築造時期は不詳です。(古墳は、これより20分のところにあります)』
奥に向かって地道が登っており、「星ヶ崎城跡」の矢印があった。30分あれば登れるので行きたかったが、この日の目的は林道なので残念ながらパスしました。立派で歴史を刻んでいそうな宝篋印塔があった。
『重要文化財 昭和35年2月9日指定 宝篋印塔 鏡神社
この搭は、総高210cm余(相輪上部欠)の堂々とした宝篋印塔で、2段の基壇を築き、その上に孔雀の向かい合っている格狭間を彫った基盤を置き、塔身・笠・相輪を績み重ねている。基盤の格狭間に孔雀文を刻出する例はあるが、この塔の孔雀文の姿態の優美さは他に勝るとも劣らすとされている。更に、最も珍しいのは塔身の四隅に刻った鳥の彫刻である。
この鳥は梟の属と考えられており、その遺例は我が国でも極めて数が少ない。その源流は、呉越王銭弘叔が阿育王(あしゅうがおう)の造塔にちなんで、84000基を造立したという銅造小塔(金塗塔)から来ているとされ、仏教美術上或は仏教図像学上将又造形美術の上から頗る興味深き遺例であろう』
道の駅に入りました。義経と思われる絵画が飾られていました。9:32「岡喜コロッケ3個470円」を購入しました。
バイクに戻り、R8を北に向かいます。9:47、r14との交点にあった「ファミリーマート近江八幡六枚橋店」に立ち寄り、「スマホ単3電池式充電器980円」を購入。せっかく単3電池式を買ったのに充電できず、ケーブル部分だけを使って、USB充電することになりました。
r14で東に進み、9:54「馬見岡神社」。r14を東進し、右折してr166に乗り「川守城跡」。『近代弓道発祥の地 明応年間(1492〜1501)日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)が当地を訪れ、川守(かわもり)城主・吉田出雲守重賢(しげたか)に弓の奥義を伝授したと伝わる。吉田氏は代々蒲生一帯を治めた佐々木六角氏の武将で弓馬の武功に名高い一族であった。吉田家からは代々弓の名人が輩出し、日置弾正と吉田氏の名を併せた「日置吉田流」は新流と呼ばれ日本各地に広まる。重賢から数えて5代目、近隣の葛巻(かずらまき)から出た吉田源八郎重氏(しげうじ)は日置流印西派を興し、徳川将軍家の弓術指南役となり後に「日置当流(へきとうりゅう)」の名を授かることで流派を大成させた。日置吉田流の伝統は全国の津々浦々で継承され、今日の弓道の基礎となっている。近代弓道の発祥の地となったのは、ここ竜王町川守の地なのである。小祠八幡神社は川守城の一角であった場所にあり、境内には土塁がわずかに残る』
r166〜r14をちょこっと走り枝道に入り、10:17「龍王寺」。『竜王町指定文化財 昭和56年3月26日指定 木造薬師如来坐像 この像は、竜王寺の主尊で、秘仏とされ、つねに厨子内に安置されている。螺髪(らほつ)は切付け、偏袒右肩(へいたんうけん)の衣をまとい、結跏趺坐(けっかふざ)して左手に薬壷をもつ通形の薬師如来像である。寄木内刳り・彫眼・漆箔・頭体の根幹部を桧一材から作り出し、内刳りを施し背板を当てる。
これに左肩から地付まで側面材、右手は肩・肘・手首で矧いで右腰脇に三角材を施けて膝前(横一材)を矧付け、更に裳先など矧いでいる。平安後期の一般的なもので、表現も穏やかで、整った像容をなしている。近世に修理がなされ、漆箔が厚くほどこされ、衣の衣摺も手が加えられたのは残念である』
『重要文化財 明治44年8月9日指定 木造十二神将立像 この十二神将像一具は、竜王・寺本尊薬師如来像の護法像で、本堂須弥壇上に本尊を囲んで安置されている。各像は像高79.2〜94.77cm、甲冑に身をかためた武将の姿であらわされ、いずれも寄木造りで、玉眼を嵌入した彩色像である。
頭上には、十二支をつけていて、それぞれの姿態に変化があり、鎌倉盛期彫刻が固型化した鎌倉末期の作品である』
『竜王町指定文化財 昭和58年3月26日指定 木造聖観音立像・木造地蔵菩薩立像 両像は、竜王寺本堂須弥壇の本尊薬師如来厨子両側に安置されている。像高は、聖観音立像が153.0cm、地蔵菩薩立像が144.0cmで、両像とも桧材の一木造り、いずれも頭体を通して根幹部を一材よりつくり出し、背刳りを施して背板をあてる。聖観音は両肩・左肘・左手首で矧ぎ、地蔵菩薩は両肩・袖口部・両手首でそれぞれ矧ぎ付け、両像とも両足先を矧いでいる。何れも頭部や胸は穏やかな肉づけを行ない、衣文は浅く平安後期の典型的な彫刻である。しかし、近世の修理で内身部に金泥、衣部に漆箔が厚手に施され、像容を損っているのは残念である』
『重要文化財 昭和50年6月12日指定 梵鐘 この梵鐘は、総高116.1cmで、上帯・下帯に文様の鋳出がなく、乳は5列4段で簡素につくり、懸垂装置の竜頭は二頭の竜首がたてがみを立て、大きく開口して鐘身の上面を噛んではいるか、鋭さよりも優美な姿を見せ、撞座(つきざ)も位置が高く蓮弁がなくて子房のみである。その形は身の高さに比較して口径が小さく、胴張りはあまり目立たず、痩身で、瀟灑(しょうしゃ)な軽快な感じを示す。無銘ながら奈良時代の数少ない名鐘の1つである。この梵鐘については説話もある』
『滋賀県指定史跡 雪野寺跡 雪野寺跡は、雪野山南西側山裾の比較的平坦地で、西と南に日野川を望めるところに位置し、周囲には6世紀末から7世紀初めにつくられた天神山古墳群や龍王寺北古墳群があります。
現在みられる寺院遺構は、13m四方を測る乱石積み基壇の塔跡のみですが、発掘調査の結果から東に塔、西に金堂を置く法起寺式の伽藍配置であると考えられています。また、塑像をはじめとして瓦・土器・陶器類など多くの遺物が出土していることから、雪野寺は白鳳時代に創建された奈良時代に隆盛したと考えられています』
境内を共通する隣の神社に行こうと、木々の間を抜けようとすると無縫塔群があった。歴代ご住職のお墓のようです。
『遺跡散策ルート 雪野山古墳 雪野山古墳は、竜王町・近江八幡市・東近江市にまたがる標高308.8mの雪野山山頂に位置しています。古墳の現状の大きさは、全長70m、後円部径40m・高さ4.5m以上、前方部長30m・高さ2.5m以上を測ります。主体部は、南北10.6m・東西7.0mの二段堀の墳廣中に、湖東流紋岩の割石で竪穴式石室が築かれています。古墳の築造年代は、主体部から出土した遺物(銅鏡、武器・武具類など)より、4世紀前葉とわかりました。(古墳は、これより30分のところにあります)』
天神社に入ります。『御祭神 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 御祭神・天御中主神様は、天地初発の時、高天原になりませた造化の首神として奉られる神様である。当神社の創祀年代は詳らかでないが、付近の山を天神山と称し、社傍に古代豪族の遺跡と思われる2個の太古墳が所在することから。此の墳の祭壇として祀られたものと推測される。明治9年、大字川守の氏神として村社に列せられた』
r14に戻り、名神高速をくぐり、左折してr13。r176〜道なりにR477。r41に乗り、GSに寄りましたがお休みでした。10:51「高木神社」。
『あれから1300年 そしてこれからの1300年のために」 岡本区民のこころ豊かな生活を願って
元亀2年(1571)、(高木神社の境内には、まだ圓通寺があったかもしれません)このころ、尾張(現在の愛知県西部)から全国平定を目指した類い稀な武将・織田信長はこの近江国にも攻めてきました。長年、守護職・佐々木氏の所領であった平穏な近江国も、比叡山延暦寺の焼き討ちを知り、近μの人々は非常に不安な日々であったと思われます。そこで、行く末どうなるかわからないと感じたであろう当時の圓通寺の住職・正恵和尚は霊亀元年(715)に作成された行基法性国師謹書(ぎょうきほうじょうこくしきんしょ)を書き写すとともに、この岡本を含む麻生庄(あそのしょう、当時の名称は近江国蒲生郡日野麻生庄)の歴史を克明に書き記しました。
平成14年11月、蒲生町の支撒のもと、「岡本わがまち夢プラン策定委員会」を発足しました。委員会では1年半にわたり、集落の歴史を調査し、区民アンケートを実施し、将来の計画を策定してまいりました。
今後さまざまな課題を克服するにあたり、この重要な歴史を後世に残しながら、末永く岡本区民が心豊かな生活を送れることを祈念して、表題の理念を掲げ、区民の心を1つにまとめ、夢プランが現実になるよう願うものです。
平成17年1月吉日 岡本わがまち夢プラン策定委員会
日吉神社本殿 永正9年(1512)建立 国指定重要文化財(大正4年指定)
高木神社石灯籠 正和4年(1315)建立 国指定重要文化財(昭和三十七年指定)
高木神社本殿 永正9年(1512)建立 国指定重要文化財(大正四年指定)
おもな年中行事 1月初旬:初神楽 2月3日:節分祭 3月初旬:祈年祭 4月初旬:日吉神社祭礼 4月第4日曜日:高木神社祭礼(ケンケト・帯掛祭り) 7月初旬:八幡神社祭礼 12月中旬:新嘗祭・大祓祭』
ノーマークの神社でしたが、檜皮葺の社殿が並ぶナイスなお宮でした。
r41〜r175、左折してR477。「近江鉄道本線」を渡ります。11:11「エネジェットスーパーセルフ307日野2」で給油。130km/4.56L=28.5km/L。R477を更に東に走り、枝道に入り「井林神社」。
『井林神社は「北の山王さん」と呼ばれている。天文3年(1534)に日野城ができた頃より、大窪町の中央通りより北側が氏子となリ日吉山王権現がこの地にまつられた。燈籠のすべてが明治以前に寄進されたもので、特に津藩士内海氏の寄進燈籠は江戸時代の歴史を探る上で貴重な遺品である。祭礼は4月12日。各町内より奉納される美しい「ほいのぼリ」はふる里日野の風物詩の1つである』
『世神社(せじんじゃ) この石の祠を世神社といい、椀づくりの木地師や漆物を業とした塗師(ぬし)たちが、あがめた神社で惟喬(これたか)親王を祭神としている。その昔、日野の町の特産として日野椀という木椀が大量に生産され、双六町を中心にたくさんの塗師が住んでいた。その人たちが惟喬親王画像を共有で伝え、岡本町にあったという祠をここへ遷し、生業の神として祀り伝えてきた社である。現在日野椀の生産も全く絶え、この社を崇敬する職人も少なくなった』
少し走り、「正明寺」。『第33番 松尾 禅宗黄檗・法輪山正明寺 開基:聖徳太子・中興後水尾院法皇勅建 創立:正保2年 開山:帝師龍渓大禅師 立像:十一面千手千眼観世音菩薩の御詠歌に まつのをの、つきせぬみどり、のりのわの、みつせをてらす、みあかしのやま』
『黄檗宗法輪山正明寺 略縁起
聖徳太子創建の伝承を持つ正明寺は、勅建寺の由緒を誇る日野渓屈指の名刹である。戦国の兵火に焼失後、僅かな霊佛のみが守護されていたのを、江戸初期に郷人頓宮宗兵右衛門が古刹再興を発願して奔走、時の大本山永源寺管長であった一絲文守国師に法援を懇請し、その旨が後水尾法皇に奏上されて叡慮を動かした。時あたかも改築中であった禁裡御所の一棟と白銀が下賜され、正保4年(1647)の頃に正明寺再建が成就、直ちに黄檗禅の大徳龍渓大和尚を開山禅師として迎え、以後、檀信徒を始め近江日野商人達の篤き帰依を得つつ、黄檗専門道場の寺格を整え、近江に於ける黄檗宗の中心寺院として歴史を刻み、数多くの名僧を輩出してきた。
桃山建築の粋を凝らした檜皮葺本堂と、本尊千手観音菩薩像および二脇侍像が国の重要文化財に指定され、禅堂安置の大日如来像が県指定文化財であるなど、江戸時代初期に於ける黄檗禅の弘法と、その心を伝える数々の文化財を蔵し、佛法興隆の法燈を絶ゆることなく輝かせている』
『正明寺は江戸時代の初め、後水尾上皇の勅願によって再建されたという古い歴史を持つ寺である。本堂は桧皮ぶきで、時の京都御所の一棟が移されたもので、正面の唐破風造りの向拝が美しい。本尊は鎌倉彫刻の十一面千手観音で、右脇不動明王・左脇毘沙門天三体は共に重要文化財に指定されている。境内の建物は正面右に鐘楼・禅堂・その奥に開山堂がある。正明寺は黄檗宗の専修道場として名が高く禅の心を求めて訪れる人が多い』
『重要文化財 正明寺本堂 桁行5間・梁間4間・一重・寄棟造・向拝一間・軒唐破風造・背面下屋附属・檜皮葺 江戸時代
正明寺の開基は聖徳太子と伝えられ、一時は天台宗の寺院として栄え、子院93を数えるほどの大寺であったが、桃山時代には堂宇の殆どを失ったと云う。その後、正保2年(1645)頃に永源寺の一糸和尚の尽力により後水尾上皇から内裏の建物を賜って現在の本堂が再建され、寛文4年(1664)には黄檗宗龍渓(りゅうけい)和尚が中興開山となって、ついで2代寂宗(じゃくしゅう)和尚、3代晦翁(かいおう)和尚が寺観を整えたと伝える。
この本堂は寺記にあるように、内裏の建物の主要な部材を用いて再建されたものと認められる。この時に内陣や唐破風造の向拝などを設けて仏堂建築としたものである。正面の蔀戸(しとみど)、側面の舞良戸(まいらど)、疎垂木小舞打ち(まばらたるきこまいうち)の軒などの意匠から内裏の建物であったことが偲ばれる』
『正明寺経蔵 経蔵は、黄檗僧・鉄眼道光(てつげんどうこう)から後水尾上皇に献上された鉄眼版一切経(てつげんばんいっさいきょう)が正明寺に施入(せにゅう)されたことによリ建造された。内部には四天柱(してんばしら)で支えられた180個の引き出しが入る造り付けの棚が設けられ、中に鉄眼版一切経が納められている。
元禄9年(1696)の竣工から現在まで、当初の材料、形態をよく残している。県内でも類例の少ない建築として貴重であり、県の文化財に指定されている。経蔵は、内部の一切経と一体となることでさらに価値を高めている』
『鉄眼版一切経(初刷禁裏献上本) 鉄眼版の名は、諸国を巡り募金を集めて一切経の開版(出版・木版時代の語)を進めた、黄檗僧・鉄眼道光(1630〜1682)に由来する。
天和元年(1681)に完成し、日本で初めて大部数が印刷された整版一切経として、諸国の経典の普及に空前の役割を果たした。その初刷本が禁裏(朝廷)に献上され、経蔵に現存している。本経は料紙や刷写技術が優れており、日本仏教史、印刷文化史上極めて貴重であり、県の文化財に指定されている』
R477に戻り東進し、すぐに左折してr508。11:50「長寸神社」。『中之郷の鎮守社である長寸神社は古代社格の高かった式内社であったとも伝えられ、山崎宮と称した神社であった。祭神等は社記板に記された通りであり、奈良時代の宝亀3年(772)創建されたと古記にある。桜谷の歴史と共に里人に崇敬された数々の貴重な史料を残している。特に文和4年(1355)の棟札や応永28年(1421)刻銘の鰐口などは有名である。杉杣郷の大屋神社との関連も深く、4月17日の祭礼には、両社の間を渡御行列が往還する』
r508で北上し、r189を経てR421に出ます。そこに「歳苗神社」があったので、寄り道します。「愛知川」沿いを、東進します。「永源寺」を左に見て、訪問済なので通過。永源寺ダムで出来た永源寺湖を横目に走ります。ここは更に強風でスピードダウン。幸い、後続四輪がいなかったので迷惑を掛けず良かったです。橋で愛知川右岸に渡り、少し走って左折し、この日のメインディッシュr34に入ります。12:27、ここでバイクを停め、御池川が愛知川に合流する所を橋から下に見ながら昼食にします。河原に家族連れが遊んでいます。風が強く木々が激しく揺れているので大変そう。
「洗い越し」をメインディッシュにr34を進みましょう。12:42「光徳寺」。檜皮葺屋根が目についたので見に行くと、「八幡神社」がありました。『八幡神社と政所 当社の祭神は誉田別命であるが、一説には木地師の元祖惟喬親王が、この地に幽棲のみぎり勧請せられたともいわれ、御霊社には現在も惟喬親王が登祀されている。また正面左手の丘上には、コセチ千軒跡から移された親王の墓と伝えられる宝篋印塔があり、小椋千軒跡・藤川千軒跡・木地山・皇園の段など木地師んちなむ旧跡が多い。
本社の重宝物の古能面や能衣裳は、室町末期から近世初期のものが殆どで、その由緒や演能記録が失われて不詳であるが、政所の地名が古代の小椋荘政所、中世の荘園政所などに由来する事とも併せ、古くから高い文化を保持した事が伺われる。
有名な政所茶は、永源禅寺5世、越渓秀格禅師がこの地に伝えたものと言われ、かつて本居宣長が玉勝聞にも紹介し、彦根藩が高額の運上銭を課するなど注目せられ、当地を中心に六ヶ畑で1万貫に達した事もあった』
『祭神:誉田別命 御陵社祭神:惟喬親王 この御社は今から380年余前の慶長年間に、火災に遭い惜しくもお社を始め神宝書物等悉く灰燼に。当地に最も縁故の深い惟喬親王の御叡慮により、現在の御社が建立されたる次第なり』
r34を進みます。13:00「惟喬親王御陵」。こんなところに惟喬親王の御陵があったとは・・・。r34のメインディッシュ「洗い越し」を13:14渡り、「犬上ダム」横を通過し、13:42「林道御池線」との分岐着。この日のメインディッシュ「御池線」に入ります。グングン標高を上げ、790mまで上って下りに入りました。峠手前から、一気に気温が下がり、雨まで降ってきました。鈴鹿山脈最高峰「1247m御池岳」を中心に、「1130m鈴ヶ岳」「1144m藤原岳」への登山道最寄り林道です。高峰への展望が広がる場所が数ヶ所あり、天気が良ければ最高です。14:42「林道瀬川線」への分岐がありました。林道を御池川沿いを下り、r34に合流。
r34を下ります。往路見た「木地師資料館・入館料300円」に入ってみようとバイクを停めました。『筒井神社と筒井公文所 縁起所に、「惟喬親王、貞観7年11月8日筒井峠に八幡宮を勧請す」とありる。藤原一門の全盛により、母方が紀家であった親王は都を追われ、筒井峠の山中に幽棲、剃髪して素覚と号し、常に法華経を読踊され、ロクロを発明して木地師の元祖とされる。
宇佐八幡と惟喬親王を祭る筒井神社は、筒井公文所と共に明治年間までは、北方の山中筒井峠に、筒井千軒の遺跡と供にあった。筒井公文所は古来全国木地師の総支配所であり、木地師免許・諸国関所往来手形・山入リ免許状などを常に発行していた。
全国各地への氏子狩は古く、永禄年間始まるが、正保4年〜明治15年の氏名駆け帳(町指定文化財)には、諸国の木地師名5万余人が収録され、巡国ク先北は羽前・羽後・陸前・盤城・岩代から、中部・近畿・四国、更に豊前・肥後・日向の46ヶ国と全国にまたがり、現在も各地より参詣者が後を絶たない』
『貞観7年(848)11月、人皇55代・文徳天皇第一子・惟喬親王は、此の地より約二粁北にあたる筒井峠に、宇佐八幡宮を勧請せられて、筒井八幡宮を創建された。其の後、筒井峠は轆轤(ろくろ)発祥の地木地都市として栄え、筒井千軒の豪華さを謳われるようになった。また後世迄全国津々浦々にわたってロクロ師に免許を与え、且これらを支配してきた公文所(政所)を設けられていた。近代工業発展の今日に至っても轆轤師の業挽物関係の工業を継ぐ者は当神社を崇敬し、遠隔をとわず常に参拝者が後を絶えない状況である。
因みに昭和55年4月、木地屋民芸品資料展示館が文化庁の助成に依り建設され、民俗学上貴重な資料とされている氏子駈帳其の他重要な文献並びに作品が数多く展示されている。
尚、現在の神社は、明治初年管理の都合上筒井峠から現在地に遷宮されたものである』
筒井神社は老朽化のためか、規制ロープが張られており見学できず残念だった。横に「臨済宗永源寺派・龍応山帰雲庵」があったので、境内に入ってみる。そこに「木地屋民芸品展示資料館」があった。入ろうとしたが、鍵がかかっており断念。
r34を下り、R421で西進し、「永源寺ダム湖」横を走ります。左折し、「日野東部広域農道」に乗り換え、南下します。16:16、「ファミリーマート蒲生鈴店」でトイレを拝借。「ザチョコミントアイスバー140円」を購入し、イートインしながら休憩しました。
16:30「八坂神社」。『御祭神:素盞鳴尊 配祀神:櫛稲田比売神・八王子神 御神紋:五瓜
御由緒:社伝によると、天暦元年忌部仲廣の勧請によるといわれている。宮川と山之上は古くは京都の祗園神社感神院の領地であった。承徳2年堀河天皇が祗園神社に寄附されその社領となった。故に勧請はそれ以後となる。祭礼は昔は4月3日であったが、明治以後5月3日となる。神輿を奉じ渡御し、薙刀振、山鉾、手踊等を行う、明治維新以前は午頭天王社と称したが、維新後八坂神社と改称す。明治9年村社に列す。承応2年3月太田角兵衛の奉納の絵馬1面と棟礼は文政12年社殿、天保8年拝殿建立のものと存す。明治43年神饌幣帛料供進指定。
本殿:三間社流造・間口二間・奥行二間 拝殿:入母屋造・間口二間三尺・奥行二間三尺 境内社(摂社・末社):八幡神社・春日神社・天神社』
17:03「小田神社」。『主祭神:大山咋神(別称:山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)と呼び、五穀豊穣の守護神 父神・大年神(おおとしのかみ)素戔嗚尊の孫 母神・天知迦流美豆比売(あめのしるかるみずひめ)で、淡海(滋賀)・山城(京都)一帯の地を守護する神
配祀神:罔象女神(みずはのめのかみ)・若雷神(わけいかづちのかみ)・八上比賣命(やがみひめのみこと)・大国主命・須佐之男命
摂社:氷解(ひどき)神社・若宮神社
神紋:左三つ巴
例祭:4月第1・2の土日
本殿:三間社流造・間口三間・奥行二間
幣殿:三間社流造・間口三間・奥行二間・寄棟
拝殿:入母屋造・間口四間・奥行四間
その他主たる建物:楼門(重文)・手水舎・宝物庫・神輿庫・社務所
境内地:3000坪
氏子:小田町・江頭町・十王町
主たる神事:春季大祭(宵宮祭、大祭、還幸祭)毎年4月第2土日頃、月次祭、祈年祭、五月休祭、草木祭、還暦厄除祭、七五三、勧学祭、大祓、神嘗祭
重文:楼門・三間一戸楼門・入母屋造檜皮葺・大日如来座像(一躯)
社宝:大般若経六百巻・蕨(わらび)手・十禪師権現画幅・十六善神画幅・大黒
天神像・涅槃像・傳教大師像・劔(兼吉作)・鰐口・不動明王像
由緒:邇保惣社式内小田大明神と称し、その昔、第11代垂仁天皇(前29〜70)の時代に皇女である倭姫尊が、天皇の代理としてお伊勢さん(伊勢皇大神宮)に献る稲米の耕作を司る土地をお探しになったとき、益須ヶ嶽(やすがたけ・現在の三上山)の麓を経て、北に向かって邇保荘(にほのしょう・現在の北里学区)に入られ、ここに留められて水辺にさざ波が立ち、湖の幸を求めて湖畔に住みついていた里人に農業開田の事を教えられた遺跡で、その神徳に酬いる為創立された社と伝えられています。
地名の小田は、倭姫尊の業績をたたえて伊勢神宮に奉献する神饌米を作られた田「神田」として、これを御田と呼び、後に小田となりました。(上古末期)これが地名の源です。
楼門は、入母屋造檜皮葺で、南北朝の建造ということで重要文化財の指定を受けています。また、重文「美術工芸」として大日如来座像を飛地境内地(十王町地先)に収蔵庫を設け、十王町「大日講」の講社によって奉賛されています。
このように私たちの先祖の「小田」は稲作の中心であり、豊かな稔りの願いと祈りをささげた「社」が小田神社であり、豊作の喜びの庭でありました。この神社のご祭神は「大山咋神」であり、別称を「山末之大主神」ともいいます。父神は「大年神」、母神は「天知迦流美豆比売」で、淡海・山城一帯の地を守護された神です。この近江の国は、湖岸平野より山間部にかけて、この神のご威光は輝き渡ったものです。神社のある一帯の地名を「小田町字大山」といいますが、これは「大山咋神」の大山であり、比叡山の総称の山主であり、「咋」は「組む」又は「芽ぐみ」のくむが転じて、醸すを表した意味の表現で、全ての農作物を作り出す意味を含んでいます。
この「邇保荘」(北里学区)を流れる「日野川」は、綿向山(日野川)を源として1市3町を蛇行する佐久良川といい、この下流にある北里学区は「仁保川」と呼んでいますが、この水が田畑を潤し、豊かな稔りをもたらすと共に住民の飲み水として生命の源を司ったものです。この養水の便を得た社徳を崇祀して奉られた「社」が氷解神社で、ご祭神は「罔象女神」であり、「水這う」か「水走る」かもしくは「水生ふ」という意味をもっているものと思われます』
ショートカットしてr599(湖岸道路)に出て、右折しR477に乗り、「琵琶湖大橋」を渡りました。左折してr558〜R161で、18:07「セブンイレブン大津鏡が浜店」で休憩します。アイスで糖分補給しようとアイクコーナーを見ていると、「女性に大人気」とキャッチフレーズが書いてあった「ブラックサンダーアイス140円」を購入。イートインします。表を見ながら食べていると、コーチしている大学ヨット部員2回生グループで通り過ぎました。レースが終わり、解散になったようです。
帰路に着きます。18:26「セブンイレブンハートインJR大津京駅前店」でトイレ休憩し、「ひねり揚108円」を購入し帰ろうとしたら、3回生ヨット部員Kくんがやって来ました。帰宅するようです。本日のレースの様子を聞きます。昨日走れずリタイヤした2回生ペアも、もっと風域が上ったのに2レースともフィニッシュできたようです。昨日の僕のアドバイスの効果があったのか、強風に慣れたのか、いずれにしても実力が上ったようです。
湖西道路〜京都東ICから名神高速に乗り、吹田ICで下車し、中央環状道〜R171で、19:30帰宅。


2019/5/18
コーチしてる大学ヨット部のレース日です。9:55、第1レースなので9時に行けばOKですが、いつものように8時に間に合うように行きましょう。夜明けも早くなり、年間で最も夜明けが早い時期になってきました。レース前に湖東の神社巡りしようかな〜と思って寝ましたが、3時前に目を覚ましたので二度寝したら、次目覚めた時は窓の外が明るくなっており、時計を見たら5:30でした。
慌てて身繕いをして、前日用意しておいたバッグを持って「いってきま〜す」。土曜日は艇庫に泊まらせてもらい、日曜日は湖東鈴鹿山中の廃村や舗装林道を徘徊するつもりなので、倉庫から「里山VTR250」を出します。空気圧をチェック・・・キャップを「エアチェックバルブ」に変更しているので、グリーンが見えているのでOK。
R171〜中央環状線。6:57「中環豊中SS」で給油。222km/6.72L=33.0km/L。ここはコンビニ併設なおので便利です。07:01「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、「味附海苔エビマヨネーズ130円+味附海苔辛子明太子150円+プレミアムカフェオレ500ml116円=396円」を購入。
吹田ICから名神高速に乗り、「桂川PA」でトイレ休憩しました。先着の「地上最速バイク・スズキ隼」さんがトイレから帰ってきた時もおられたので、「どちらに行かれるのですか?」と声を掛けます。グループで、「飛騨高山」まで行かれるそうです。鳥取県若桜鉄道「隼駅」での「隼祭り」に毎年行かれるそうです。数百台どころは数千台集まるそうです。驚きです!「舗装林道好き」であるので、このCB400の200kgが限界であることを話すと、若い頃からバイクに乗っておられ(現在アラ60と思われる)、隼に乗るようになってから細道を走らなくなったそうです。高速道路が楽なので、遠方ツーリング派になったとか。ものすごいスピードで走っておられるようです。
「お気をつけて」のバイカー同士の常套句で別れ、「京都東IC」で下車し湖西道路を経てヨットハーバーへ。朝のお勤め中スマホをチェックすると、「8時集合」でした。あと数分なので、あわてて艇庫前に向かいます。体操を終え部員が円陣になり、クラスリーダーがブリーフィングしているところで、走って円陣へ。「コーチ・OBさんに挨拶を伺います」のキャプテンの言葉に続いて「・・コーチ」。「はい、ちょっと遅刻してしまいました、申し訳ない」と話し始め、「良い風が入りそうなので・・・、・・君がニコニコしながらパンピングしている姿が見えます。・・・レースを楽しみましょう。以上です」と話しました。桟橋に向かって強風が入る出艇・帰着が難しいシチュエーションなので、そのことも注意しました。インフレータブルには、レース艇の出艇トラブルに対応するよう指示しました。
昨日、ワークマンで購入した「ワークマンシーマスタージャケット2982円+シーマスタービブパンツ2675円=5657円」を、4回生マネMさんに渡します。「これ、マネさんにプレゼントね。この生地は水を通さないから、波を被るシチュエーションでは最高だよ。ただ、夏は蒸れて暑いからね」。「え〜、良いんですか?」「いつも美味しいごはん食べさせてもらってるので、少しはお返ししないと・・・ね」「早速使わせて頂いて良いですか?」「もちろん。値札などハサミで切ってね」。「じゃあ、・・ちゃんこれ着て」と、インフレータブルに乗る1回生新人マネさんに渡していました。
コーチボートに行き、マネさんと話しながら荷物を置きます。8:50になり、他艇に先立ち当方が随時出艇していきます。マネさんに大会本部から電話が入り、9時にD旗が挙がるから、それまで出艇を待ってとのこと。しばらく出艇を延期し、D旗を待ち全艇無事に出艇しました。
持ってきた双眼鏡とハンドマイクを出し、若手コーチに渡しレース艇へのアドバイスに利用してもらいました。帆走練習を追いかけながらマネさんに時刻を聞きます。9:40になったので、ホイッスル吹いてスタートラインに戻るよう指示します。レース前練習は重要だけど、スタートに間に合わないと最悪です。マーク設定されていないので、スタート延期になりそうですが、スタート予定時刻10分前にはスタートラインに戻り、レースマニューバリングに入らなければ余裕がなくなります。
風が落ち始め、当方は戻れましたが、更に風上で練習していたRitsさんが間に合わないと慌て、インフレータブルでレース艇を接舷しながら引っ張っています。ますます風が落ち、長い風待ちになってしまいました。
12時を過ぎ、北風が入りだし、それを呼び水に天気予報通りの東からの強風が入ってきて、6〜10m/sのエキサイティングなレースになりました。沈艇が出るので随時レース海面に入り、当方か確認します。3レースで、470は3回生T君/4回生Y君ペアが3レース目にトップフィニッシュ/全54艇しました。S級も全46艇のビッグフリートレースを楽しめました。ヨットに乗り始めて1年の2回生S級女子ペアにはハードだったのか、2レースをリタイヤしました。他の2回生にもハードだったでしょうが、みなフィニッシュでき上出来です。
16時に終了しハーバーバック。後から戻ってきたインフレータブルから降りてきた新人マネさんは、「全く濡れませんでした。ありがとうございました。助かりました」って御礼を言ってくれた。嬉しいな。合宿所に戻り、台所を覗くと、フルーツポンチが鍋いっぱいにあり、その缶詰にはシロップがたくさん残っています。「シロップ入れないの?」と聞くと、「ソーダ水を入れるので、要らないんです」「飲んで良い?」「良いですよ、捨てるだけですから」。果物系の缶詰シロップは、大甘ですが大好きです。ゴクゴク、美味しゅうございました。
ミーティングの最初に、コーチ・OBからの話。気づいたことをアドバイスします。クラス別ミーティングでは、最初スナイプ、後半470の2回生スキッパーにアドバイスします。夕食時間となり、デザートのフルーツポンチはソーダが利いており美味しゅうございました。
OB部屋で、若手OBたちとお喋りしました。今年卒業したNくんに、「KくんとMさん、またくっつけようと思ってる」と話すと、「復活しましたよ。1週間でまたくっついて、あいつらなにやってんだと思いましたよ」と、嬉しい答えが帰ってきました。2週間前、Mさんから「別れた。私から振っちゃったんです」と聞き、僕の失恋話を話し、「男は精神年齢が低いし、ある部分では勝っていても、女性に比べれば総合的には劣っているし、欠陥が多いから、暴力を振るう・ギャンブル好き・嘘をつくなどなければ、多目に見てあげてよ。Kくんはリーダーとして優秀だから勿体無いよ。学生時代は、周りにいる同世代に恵まれているよ。社会に出ればいろんな人がいるから、意外に気の合う異性は少ないよ」と、僕の経験を話しました。この後、Mちゃんと話す機会はありませんでしたが、カップルが復活しメデタシメデタシです。キャプテンと1回生下のマネージャーカップル、昨年の全日本インカレで準優勝し、銀メダルを皆の前で彼女の首に掛け記念写真に収まりました。照れもせずこんなことしてくれる男子って、そうはいないです。男前過ぎる・・・。
僕も「Kはカッコいい」とあの時思いました。僕もやらされました。「Kは結婚する」と言ってるんです。N君も1回生下のS現マネリーダーとカップルです。こちらは順調で、Sさんは細身で家内に雰囲気が似ています。2カップルともお似合いなので、「家庭を持ってくれたらな」と思っています。
いつもここで泊まる時は10時消灯前に寝ちゃうのですが、この日は10時過ぎに夢の中に入りました。


2019/5/12
4時に起き、家内が起きてくるのを待って、「譲渡するバイクに乗って琵琶湖に行っても良い?」って許可を得ました。5:25、近所のローソンで「サントリーボスカフェオレ500ml162円+手巻エビマヨネーズ150円=312円」購入し、R171〜中央環状で吹田まで走ります。r14〜R171で大山崎へ。r204〜r13〜r79で観月橋。六地蔵から外環状〜R1〜湖西道路〜7:20YH。
皆に挨拶し、桟橋で家から持ってきたパンを桟橋で食べます。マネさんたちに、前日夜のミーティングで出した桟橋カドッコタイヤプロテクトのことと、レスキューボートカドッコプロテクトお風呂マット作戦を伝授します。
ブリーフィングして再度レースに臨む積極的な姿勢を伝えます。特に下級生は失敗を恐れては上達しません。1回生について大会本部に行き、運営艇ミーティングに参加します。レース委員長やS監督に挨拶します。スキッパーズミーティングにも参加し、注意事項を聞きます。スピーディーなレース運営をするとのことで、スタートラインから離れないよう気をつけねば・・・
風がなく陸上待機です。しばらく出そうもないので、1回生マネさんのボート運転練習をします。4回生Sさん・Mさん・2回生Jさん3人の上回生マネさんと一緒に2人のマネさんを乗せ、Mさんの特訓です。前進・後進、目標を定めてスピードを出して練習。一旦ハーバーバックし、マークを1つ積んで、マークを落としてマーク回収練習。2時間近く練習できました。
ハーバーバックし、整備してる部員にボートコンディションについて聞きます。1人乗りで練習している1回生練習に付き合っていたインフレータブルが戻り、3人の1回生女子マネさんが揃ったので話しました。何気なくスマホをチェックすると、次男から家族LINEに写真とムービーが投稿されていました。家族で産婦人科に行ったようで、お嫁さんのお腹にいる胎児君(4ヶ月)の写真と活発に動いているムービーです。マネさん達にそれを見せ、「女性は素晴らしい」と話が広がりました。突然、ホーンが鳴りました。陸上本部を見るとD旗が挙がっています。
慌てて出艇します。1年前に卒業したT君・K君470滋賀県国体コンビ、今年卒業したインカレ団体戦2位だったN君が、コーチボートに乗ってくれました。私物で持ってきたメガホンを渡し、スナイプ・470艇を追いかけながら、注意点をアドバイスします。
470はまだ練習したそうだったが、風が無くなることが予想されるのでスタートラインから離れすぎないように、ホイッスルを吹いてスタートラインを指示します。これを見てもっと風上に離れていたRits470を、Ritsコーチボートが横抱きにして全速力で戻していました。
スタートフラッグが挙がり、スタートシークエンスに入ります。この時点でスタートラインにいなければ、焦ってしまって良い成績が収められません。第1レーススタート。前日TOEICテストでいなかった470エース艇が下1スタートを決め、即タックして前艇の前を切っていきます。トップコースですね。
1上をトップ回航し、トップ5はD社と当方のデッドヒートです。やはりフリーのボートスピードに勝るD社がポロポロと当方を抜いて、トップは死守しましたがトータルでは少し負けです。T君K君がスピード差の原因を分析しています。最終レーススタートが13:30で、470は全艇フィニッシュ後すぐに最終レースのスタートシークエンスに入り、7レース目もスタートできました。S級も7レース消化でき、風が弱い2日間でしたがスピーディーな運営で7レース消化できナイスな大会になりました。
全艇ハーバーバックし、船を片付けます。閉会式までそれを見ながら待ちます。1回生は動きがわからないので、時々声を掛け船の片付けを手伝わせました。一通り片付いたところでミーティング。「レースご苦労さま」、2回生以上の選手は全員出場し、いろんなことを学んだでしょう。470Aチームは5レースで1艇出場せずの最下位+1点叩いたのに3位をキープしており、実力的に去年よりD社に近づきました。S級Aチームは3位で、ここ数年の王者D社の前にRitsAチームが入り、去年の全日本インカレの結果を見ても、とてもレベルの高い水域になっているようです。今回Bチームに席を置いたエース艇が個人成績1位でナイスです。トップフィニッシュは出来ませんでしたが、ボートスピードが上っているのがわかります。
続いてクラス別ミーティング。それぞれ気づいたことを発表し、アドバイスを受けたりして改善策を学びます。その途中で講義をしていた艇のスキッパーが帰ってきて、相手艇を失格にさせたとのこと。
まだ閉会式まで時間があったのでスマホの電源を入れてチェックしたら、次男のお嫁さんのエコー写真とムービーが送られて来ていました。2人目を妊娠中なので、定期検査に家族3人で行ってきたようです。エコー写真は、4ヶ月なのに既に顔がわかります。ちょうど起きている時間だったようで活発に動いています。まだわからないのでしょうが、一瞬おちんちんが見えたような気がして、次は男の子のようだなと確信しました。「よく動いて元気だね」とお医者さんに言われているし・・・。
16時、閉会式が始まりました。後ろで、Rits監督Kさんと話していると、小学校の時僕がコーチしてたジュニアヨットクラブに入ってきてヨットを学んだかつての教え子D社監督Sさんがやって来て話に加わります。Rits監督さんから、当方のクラブの選手がマークタッチのルール違反をしたのにペナルティー解消720度回転せずにスルーしたことを指摘されました。全く知らなかったので、有難かった。名前を出して指摘などしませんが、ミーティングでルール遵守を出さねば。閉会式が終了し、滋賀大レース委員長・監督さんも来られあ〜だこ〜だ。スピーディーな運営に感謝しました。良いレースになりました。
S監督が抜けるタイミングで僕も抜けて帰路に着きます。乗ってきた「アドレスV125G」は譲渡したので、帰りは徒歩です。信号待ちしていたらS監督が来られ、大阪までご一緒することにしました。両校それぞれの動きを公開して情報交換です。琵琶湖で「井の中の蛙」していても、圧倒的に校数の多い関東フリートの牙城は崩せません。琵琶湖全体のレベルを上げねば・・・。
今年から、プロテスト前の予備審査が入るようになるらしく、その時点で非を認めたら出場艇数×30%ペナルティーで済むそうです。上位70%以内でフィニッシュした艇なら、プロテストで失格(出場艇数+1点)するより点数が低くお得です。上位艇同士の審問が減り、真夜中まで審問待ちすることは減るでしょう。全日本インカレでは、出場艇数が72艇なので、上位校が1艇でも失格すると、大きく点数を稼いでしまい取り戻せなくなります。それが30%ペナルティーで済むのなら、実力のあるチームにより有利になります。良い傾向に向かう改正だと思います。当方はたまたま昨年全国2位になりましたが、まだまだ強豪校とは言えないけど、僕は歓迎です。速いのに1回の失格で沈む悲哀を何度も現役時代体験しました。日頃鍛えより実力を伸ばしたチームが、良い結果を残すのは当たり前に思えるからです。
大津京からJRに乗り、山科で快速に乗り換え、大阪でS監督と別れ、尼崎駅で乗り換え最寄り駅へ。ここから20分歩き19時過ぎに帰宅しました。家内とあ〜だこ〜だ話しながら片付けし、風呂を沸かしながらNHK「ダーウィンが来た」を見ていると、パスタが出てきました。2日間で初めての家庭料理です。美味しゅうございました。風呂に入り、ヨーグルト食べたら、すぐにまぶたが閉じてしまいました。


2019/5/11
大学ヨット部のレースコーチ日です。琵琶湖水域のかつての強豪4大学の定期戦です。王者D社に、強豪Rits、最近伸びてきた当方はそれにチャレンジする立場です。レース主催の滋賀は一時部員不足で低迷してしまい、増えて来ましたが各クラス3艇揃えられず、2クラス4艇での参加で、少々寂しいです。僕が現役の頃、近畿北陸水域から全日本に駒を進めてくる大学は、この4校のうちの3校で、。何処が出てきても強く強敵でしたので、滋賀の部員不足は残念でなりません。
5:51近所のローソンで、「カフェラテ500ml150円+手巻エビマヨネーズ150円+手巻辛子明太子150円=450円」購入。「招き猫CB400SB」のリアボックスに詰めて出発です。R171〜中央環状線〜吹田ICから名神に乗り、桂川PAで休憩しました。
バイク置き場には先客のハヤブサさんがおり、トイレから帰ってから、「どちらに行かれるのですか?」と声を掛けました。「飛騨高山」にグループで行かれるそうで、ここが集合場所のようです。僕のバイク200kgに対し、260kgオーバーの最速バイクで、高速道路は楽そうです。10代からバイクに乗っておられる50大と思われる方で、はやぶさを買ってから山道は走らなくなったそうです。高速道路を使った遠方ツーリングこそ、このバイクの強みですものね。
「お気をつけて」のバイク乗りでは定番のお別れ言葉で「さようなら」しました。京都東ICで下車し、湖西道路をつかったヨットハーバー着。近くのPトイレを拝借し、朝のお勤めに励みます。
ハーバーに入ると、部員たちがやってくるタイミングで「おはよう」。他大学の部員たちとも朝の挨拶をします。体育会は、挨拶が気持ちが良いので好きです。コーチボート脇の桟橋で朝食としておにぎりを頬張ります。
出艇前に体操・ブリーフィングをし、ボートスピードを水域トップ艇と比べ、チューニングをするよう。下級生はスタートで遅れないよう積極的に第一線スタートを狙うようアドバイスしました。
開会式とスキッパーズミーティングがありました。レース委員長から、「チームレースではあるが、同チームでのミートの場面のみOKで、その他のチームレース規則は除外する」旨の説明がありました。
風がなく、しばらく陸上待機になりそうです。コーチボートにいると、係留ロープを新調するようで、シート材質についてアドバイスを求められました。出来るだけヨット用シートにするようにアドバイスしました。材質が固くならないし丈夫で伸びず長寿命なので、結局お得になります。コイル買いすると割安で、わりあい安く提供してくれるユーコーマリンを勧めておきました。
昼前にD旗が揚がり出艇です。北寄りのイマイチな風速でしたが、レース海面に着くとレースできる風速になり、「途中で風がなくなりノーレースかな?」と思いながらも、スタートフラッグが揚がりスタートシークエンスに入りました。
第1レース1上マーク470は、当方がダントツで回航します。楽勝かと思いましたが王者D社は速く、1下マークで追いつかれます。何とか先に回り、四苦八苦しながら2上・2下もトップ回航し、フィニッシュはトップホーンでした。後続も1上からフリーのボートスピードに勝るD社に追い上げられたり抜かれたりしながら、クラス別2位の力があるようです。この日は4回生エース艇がTOEICのテストで参加出来ないので3艇トータルではイマイチです。
この日は15:30まででしたが、全5レース出来ました。コースを短くしたもありますが、スピーディーなフラッグ掲揚で好感が持てました。当方は、470もS級もトップホーン各1回で、もう1回ずつ取れればな〜と・・・打倒D社の今年の目標にあと一歩です。
4回生M君から、京都の原付二種ナンバープレートと自賠責保険を受け取りました。家内のアドレスV125Gを譲渡したので、明日ナンバープレートを付けて乗ってきましょう。
合宿所に戻ります。今年卒業したFマネさんが当方の4月進水したインフレータブルボートのドライバーとして沖に出て運営艇をしていました。彼女が戻ってきました。現役マネさんと「久しぶりです〜」と抱き合っています。卒業してバッチリお化粧さんになり、美女度を上げています。
ミーティング、クラス別ミーティングで気づいたことを話します。新人が入ってきたので、レスキューを着ける桟橋のタイヤプロテクトを指示しました。ヨットをコーチボートに着ける時のコースや、離れる時しっかりバックして離れてからセイルを張って前進するよう支持しました。
夕食は2回生クルーO君と1回生4人のテーブルで食べました。Oくんから沢山質問を受け、1回生たちにはGWのクルージングの話や、学生時代恋愛もしっかりしておくようアドバイスもしました。10年後には半分は家庭を持っているでしょう。異性は人生でとても重要です。
帰路に着きます。湖西道路〜名神〜中央環状〜R171で帰宅。22時頃になっちゃいました。家内は夢の中なので、明日また琵琶湖に行くことは翌朝話すことにします。おやすみ〜


2019/5/10
18:30から「二金会」(学連ヨット部卒業生の集まり)でした。事務局さんから、D社同期のHくんのレストランで開催との連絡を受けました。GWに一緒にクルージングしたO大GM・Kさんからもお誘いを受け出席することにしました。これで3回連続の出席です。
18時過ぎにお店に着くと、既に4名のメンバーさんが席についておられました。会費5000円を払ってジュースをいただきました。飲み放題ですが、アルコールが飲めないので、いつも割り勘負けします。
10名のメンバーと飛び入り前半1時間だけおられたD社OGさんで話が盛り上がりました。OGさんは墓石メインの石材屋さんで、法政OBの京都の仏壇屋さんとの話が面白かった。席が近くのKさん・Hくん・法政さん・京産さんで、いろいろお話をしました。
GWの行動発表会になり、Kさんの瀬戸内海クルージング、僕がコーチングしている大学ヨット部OB会長さんがまだ九州クルージング中だという話、滋賀大監督に就任されるSさんの就任お祝いなど、楽しい時間になりました。
明日からの週末は、京滋4大学戦という定期戦なので、Sさんとはまた明日も一緒です。21時にお開きとなりました。JR・阪急方面に帰られる方々と駅に向かい、僕は地下街でJR東西線・北新地駅方面に折れ「さようなら」。22時頃帰宅しました。


2019/5/5
家内と、「ららぽーと甲子園」に行きます。目的は、新しく開店した「ワークマンプラス」のお店探索です。僕はワークマンが好きです。日頃履いている靴はつま先にハードコアが入っている作業靴で、バイクに乗る時ペダルチェンジに便利です。普段着ている速乾アンダーウエアもワークマンで、丸首シャツや靴下などいろいろワークマン用品を普段に使っています。プロ仕様で丈夫で安価というところに惚れています。月1は定期訪問して、新作チェックをしています。
そんなワークマンから、基本機能はそのままでデザインお洒落なブランドがいくつか立ち上がっています。ワークマンプラスという店舗は、そんなプロ相手ではない一般客相手に展開し出した店舗です。女性用も充実しているようで、そちらにも興味があります。
「通勤リード110」にタンデムして出かけます。R171〜武庫川土手道を南下し、甲子園を経て「ららぽーと甲子園」着。家内がお腹が減ったというので、まずは腹ごしらえにドーナツを食べます。
10:56「クリスピー・クリーム・ドーナツ」。「ダブルコンボ宇治抹茶クリーム&ストロベリー230円+ストロベリーチョコスプリンクル180円+オールドファッションチョコレート180円+ほうじ茶オールドファッション230円+ハウスブレンドS270円+アイスコーヒーT320円-140円=1270円」。ミスタードーナツが好きなので、同じような食感だと思っていたらクリーム入りのしっとり食感で、ミスタードーナツのサクサク食感ではありませんでした。オールドファッションのようなベーシックなドーナツがなく、僕ら夫婦にはイマイチでした。
「ホリスター」「H&M]「ZARA」などウインドウショッピングして、目的の「ワークマンプラス」へ。このお店は混んでいました。スペースがロードサイドにある「ワークマン」ほど大きくないので、ニューブランドを中心にした展開でした。11:51「CORDURAユティリティーベストLLミッドブルー3900円(13マルチポケット+防水ポケット)+3本指ハーフカットグローブ980円=4800円」を購入して退店。
家内を伊丹市内に送り、帰宅しました。バイクで走っても良かったのですが、中途半端な時間しかなく、自宅であ〜だこ〜だしていたら1日が終わってしまいました。六甲山にでも走りに行ったら良かったかな?


2019/5/4
3:10、目が覚めてしまいました。朝のお勤めを道の駅トイレで済ませ、道の駅周辺を探索します。道の駅は車中泊している車が多く、意外に千客万来状態でした。観潮船と沢山の星が見え、激写。ソニーミラーレス一眼のセンサーは素晴らしく、殆ど光のない世界でもしっかりと映像を再現します。
船の戻ると、NHKカップルさんが船を降りられる所でした。女性をサポートして桟橋に降ろします。潮が引いており、桟橋が船のデッキより高くなっており、押し上げが必要です。二度寝して目を覚ますと、Kさんが起きていました。着替えてドッグハウスから出ると、「早いけど行きましょうか」と誰かが起きてくるのを待っていたようです。
5:14、Kさんヘルムスで桟橋を離れます。僕がロープなどその他作業が出来るので、ヨット乗り2人いれば出着艇は簡単です。家内と昼食を食べた国民宿舎が山の上に見え、朝日を浴びています。東の山の稜線がオレンジ色でくっきり。鳴門海峡大橋が遠ざかっていきます。次の目的地は「沼島」です。古事記によると、伊邪那岐・伊邪那美の神が国生みしたのはこの沼島からです。伝説に包まれた島なので、初上陸が楽しみです。5:26稜線より朝日が差しました。
5:49、福良を離れ一路沼島に向けて走っているバウでロープの片付けをしていると、アカクラゲの大群エリアに突っ込んだようです。よくこのクラゲの大群を見かけます。
6:54、沼島港に入ります。港の手前でKさんにステアリングを交代し、僕はロープを持って係留作業に就きます。セーリングクルーザーが3隻停泊しており、岸壁係留場所がないので、「正真丸」に横抱きします。Kさんは数十年毎年祭の時に通っているので、多くの知り合いがおり、その一人だそうです。今回も一升瓶を持って挨拶に行く家だそうです。
一段落していると、先着された船に乗って来られた方がやってきました。大阪北港からの船で、Kさんの知り合いでした。「正真丸」船長が軽四トラックでやってきて、「お〜、今年も来たな。必要なら前の箱に入っている氷はいくらでも持っていけ」と漁師の豪快さと優しさに包まれた会話です。「いいもの見せてやろう」と船の生簀から立派な伊勢海老を出してくれました。料理屋も兼業しているようで、その食材を船に取りに来たようです。若い衆と一緒でした。目ぼしい魚をトロ箱に入れ、前のボックスから氷をバサー。
上陸し、淡路島土生港との連絡船乗り場にトイレを拝借に行きました。『沼島の八幡神杜 永享8年(1436)梶原俊景の時代に京都の岩清水八幡宮の分霊を勧請したと伝えられる。祭神は足仲津彦尊(仲哀天皇)父、誉田別尊(応神天皇)第15代、息長足姫命(神功皇后)母。
石清水八幡宮は、860年宇佐神宮を勧請した。旧8月15日に川辺で魚鳥を放ち施餓鬼を行い、天皇及び将軍の幸福と天下泰平を祈願したとあり、八幡宮の祭礼の趣旨は放生会である。
沼島も石清水八幡宮の祭礼に因んで、旧8月15日を祭礼日として放生会を実施してきた。然しその頃は台風発生の時期に当り祭礼やできない事が多く、明治中期頃旧5月15日に改めた。また、島外者の来島を望み、昭和44年より5月の連休を利用し、3日宵宮・4日本祭りを実施している』
『沼島の祭り(北傍示の檀尻) 文化10年前後には「沼島千軒金の島」と言われた時代である。当時の実力者・海部屋一族が君臨していた。北榜示では弁財天を新築し(御神体の台座に文化9年の墨書きがある)、北網中は八幡神社の男ざかを新築している(記念石に北網中の刻名を見る)。祭礼日の神輿は弁財天へ御旅(お渡り)のお供をするため、北傍示は初代曳檀尻を新調した。
正面の飾りは、笹に5色の短冊を付け、屋根には狸狸緋(しょうじょうひ)の羅紗地(らしゃじ)に「八幡宮」と金糸で縫い取りした幟を左右に立て、台座・檜笠・三ツ頭・塩瀬の吹き流しなどを飾り立て、二階の幔幕(まんまく)に海人族(あまぞく)との関係の深い玉依姫が海中より玉を捧げる図柄を狸狸緋の羅紗地に金糸で刺繍したものを飾り、後側に大太鼓・右に中太鼓・左に小太鼓を絡み、3台の太鼓を一斉に打ち鳴らす音響は、心身共に奮い立たせる程の素晴しいものである。昔、戦場に於て出陣太鼓または攻め太鼓として伝えられている。
屋根の上では、若衆組の代表6名(現在4名)は、新調の長襦袢を着て、5色の采配(采の棒)を振り、綱先との連携を執る老若男子総出で壇尻を曳き、神輿のお供をして伊勢音頭を唄い流し、大賑わいをしたのは文化13年(1816)と記像にある。展示の彫物は、明治中期に伊藤菊松棟梁に依って造られ2代目の壇尻の彫物である。
現在祭りに使用している壇尻は、彫物の町として有名な富山県井波市で昭和47年、その頃日展審査員であった横山一夢氏に依り造られた3代目である』
横に立派な彫刻がガラス棚に載って展示されていた。この日は祭日なので2代目の彫り物かな?港を見ると、連絡船しまちどりが着いたところで、カメラを下げた観光客が降りて来ていた。船の戻るとイワシ?の集団が周囲に集まっている。話していると、その集団が海面を飛んでいる。イワシを狙った大きな魚に追いかけられているのだろう。港の対岸にも鳥居が見えている。神明神社のようです。原付スクーターがよく走っているが、誰もヘルメットを被っていない。高校生の時、北軽井沢の叔父さんのやってた牧場でバイトした時を思い出す。叔父さんにいきなり車のキーを渡され、「牧草をサイロに運んで」と言われた。高校生なので車の運転免許を持っていないと言うと、「高校生にもなって運転もできないのか?」と呆れられ、小学4年生の従兄弟の運転するトラックの助手席に座った。「この辺では小学生になると皆運転して、家業を手伝う。警察だって、そうしないと食えないのを知っているので、検挙するなんて野暮なことはしないと教えてもらった。叔父さんはアメリカの大学に畜産留学した人で、英語がペラペラで町が外人を招く時は通訳として駆り出されていた。従兄弟もその後アメリカ留学した。
8時になったので、行動開始です。八幡宮に参りに行く。隣に寺院があった。
『神宮寺 元慶4年(880)に開基された由緒あるお寺です。宮寺であるのでこの寺の僧が、神官とともに八幡さんの守護にあたりました。梶原一族の菩提寺となっています。
裏庭には、桃山式枯山水の庭園があり、庭師の関心をよせています。本堂の前の白槙(びゃくしん)の大木は、樹齢数百年と言われています。寺には、県重要文化財の指定を受けた、尊勝法華曼荼羅(そんしようほっけまんだら)や紺紙金銀字入大乗論(こんしきんぎんじにゅうだいじょうろん)などの貴重な宝物が保存されています』
『県指定文化財 尊勝法華曼荼羅 指定:昭和52年3月29日 所有者:神宮寺画面を二等分し、上部に尊勝曼荼羅、下部に法華曼荼羅を描き、各尊を種子であらわす種子曼荼羅である。この曼荼羅は、力強い種子の筆致、調和のとれた美しい色彩の配合、精緻な截金文など、全体として引き締まった画面を構成している。鎌倉時代後期の秀作ということができる。〔絹本著色縦81.8cm横34.0cm〕
県指定文化財 紺紙金銀字入大乗論 指定:昭和55年3月25日 所有者:神宮寺本書は銀泥の界線を引く紺紙に金字銀字で一行ごと交互に経文を書写する紺紙金銀交書教と呼ばれるものである。この二巻は、奥州藤原氏の初代清衡の発願により書写された一切経、5300巻余りのうちの2巻と考えられる。これらは大治元年(1126)に中尊寺建立供養に際し奉納され、中尊寺経の名でよく知られる。その多くは桃山時代に高野山に移されたが、当寺への伝来について詳しいことは分からない』
沼島と梶原景時が関係するとは驚きました。しかも景時のお墓まであるとは・・・。梶原景時は、源頼朝が平家打倒の兵を挙げた時、討伐側であった。初戦に破れた頼朝が洞窟に潜んでいるのを見つけたが見逃し、頼朝の恩人となる。九死に一生を得た頼朝軍が勢力を盛り返した時、頼朝の与力として活躍した武将です。頼朝には絶対の信頼を得、平氏追討軍である義経軍の軍監として帯同し、多くの戦に参戦し多くの手柄を立てた。軍務事務能力に優れ、頼朝に戦の詳細を報告した。奇襲作戦を多用する義経とは相いれず、常に対立し義経追い落としの急先鋒となる。頼朝と義経を不仲にした張本人と言われている。
好かれる性格の義経に対し、性格的に人に好かれず、頼朝が亡くなると鎌倉幕府から追放され、討伐軍を向けられ景時以下全滅・離散の憂き目に遭う。平氏追討時代の瀬戸水軍との関わりからここ沼島に逃れた梶原一族もいたようで、梶原沼島水軍として戦国末期まで沼島を本拠地に活躍したようです。
八幡宮前に、飾られた山車が出ており、八幡宮の長い階段を上がって本殿に参りました。源氏を物語る「巴紋」が腹に描かれた神馬像があった。梶原氏は坂東平氏をルーツとしているが、全国区に躍進したのは源氏の棟梁・頼朝との縁だから、家紋を授かったのかもしれない。梶原氏の家紋は、「丸に並び矢筈」です。階段を中間まで登ると神門があり、左右に武者像が守護していた。
境内まで登ると拝殿があり、その前に御神輿が置かれていた。沼島の祭はこの神社のお祭で、迎えの山車が階段下に勢揃いすると、この神輿が下り、それを山車が先導し、港前の弁財天神社まで渡御する祭です。
神輿は大きくはないが、金箔が貼られ、屋根には鳳凰が乗り立派です。拝殿前には弓矢・刀・槍など祭時用武具が並んでいます。拝殿に登ると、色鮮やかな絵馬が多数飾られ、島民の篤い信仰を集めているお宮だとわかります。
『なんで正面に「賤ヶ岳合戦」の絵馬があるの? 「沼島」と「賤ヶ岳」、一見かけ離れた感じのする絵馬ですが、実は沼島は歴史上ずっと海路の重要拠点として名を残してきた証となる出来事なのです。
沼島は古くは国生み神話の舞台となり、「おのころ島」として古代大和朝廷の時代から表舞台に登場してきます。奈良・京都・大阪は古くから都であり、海や川は最も大切な交通手段でした。大阪湾全体が、その時々の権力者にとって重要な海路であったかおわかりいただけると思います。
源平の時代にも、平家には瀬戸内を守る村上水軍がいたからこそ、その権力を手中に出来たのです。近畿地方を鳥瞰図で見ると、紀伊水道に入ってきた海流は、沼島に当たり東に行くと大阪湾に入り、西に行くと鳴門海峡を通って瀬戸内海に流れ込みます。
時は戦国、後の豊臣秀吉は明智光秀を討ち、先輩格の柴田勝家と雌雄を決する戦となります。秀吉にとって生涯一番の大戦でした。この時子飼いの若い武将たちが大活躍しました。それが後に「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれるようになったのです。この絵馬の主人公・脇坂甚内安治もその1人です。この合戦で勝利を収めた秀吉は、安治を「淡路守」に任じます。「淡路守」は淡路を領有しますが、一番の役目は奈良・京都・大阪を守るために大阪湾という海路を見張る役目です。そのために淡路の出入口にあたる沼島を大切にする必要がありました。沼島の人々は、昔から常に漁師として働き、時には「沼島水軍」として海路を守る役割も担っていました。
秀吉は晩年、「朝鮮半島出兵」という暴挙を全国に命じます。仕方なく各大名は出兵し、安治も沼島水軍とともに朝鮮半島に渡ります。7年間もの長い戦でしたが、安治は命ながらえ帰国しました。安治は無事に戻れたのも「沼島水軍」のお陰と感謝したそうです。
沼島水軍として東シナ海を見てきた人々は、後々「よそいき」と言われる船団を組んで、一大漁業を展開する基礎を築きました。後に「沼島千軒金の島」と呼ばれるほど豊かなる島になったことは、この脇坂甚内安治公のお陰でもあり、「沼島底曳網組」が代々この正面絵馬の奉納を続けています』
「楠公桜井の別れ」「くじら船聞書」「国生み神話」などの絵馬も色鮮やかで、定期的に新しい絵馬が奉納されていることが伺えました。
階段を下り、山車をじっくり観察します。岸和田の檀尻は沼島のそれが元と言われているようで、岸和田程大きくはないが織物・彫刻など垂涎の品です。5つの地区からそれぞれ山車や神輿が出されるそうです。港のスロープには、海中からピンク旗を立てた旗竿が数本出ています。その理由を聞くと、山車が海に突っ込む時、「ここから深いよ」の目印だそうです。
9:01、島内唯一のスーパーと言うにはイマイチな小さな商店で、ぽち袋を購入100円。そこに僕の1万円を入れ、Kさんについて、毎年お世話になっている家に向かい挨拶し祝袋を渡します。その家に前もって送っていた一升瓶ケースから酒を出して、数軒を巡り挨拶しながら一升瓶を置いていく。何処の家でも「今年も来たんか」と大歓迎され、島の人の人情を感じる。
船に戻ると、大阪北港から来ていたクルーザーから人がやってきて、「Kさん、あれ〜Hさんじゃないの?」と知己再会で盛り上がりました。Kさんとはこの祭の常連として、Hさんとは元北港ヨットハーバーディンギー乗りとして。10:11お囃子を賑やかせた山車が前を通り過ぎて行きました。遠くからお囃子の音が聞こえて来て、そろそろお祭り本番のようです。港に向かいます。
山車の後ろに「年行事」と書かれ3〜4人の名前が書かれています。山車に乗る若者の名のようで、山車の采配を振るうのだそうです。山車内には子供が数人乗っており、コンチキチンの鐘と太鼓の音頭を奏でています。後ろに大太鼓、左右脇に中太鼓がはまり、法被姿のカッコいい男女の若者が叩いています。
お酒を配った地区のテントに向かいます。横に置いてある冷やした缶ビールやジュースは飲み放題だそうです。長老さんが、いろんなことを教えてくれます。テント前にスタンバイしていた山車の順番が巡ってきて、港前を曳きます。他の地区に続き3番目です。1地区ずつ山車曳きを披露するようです。「曳いてくれりゃ」と促され、曳き手に混じりロープを持ちます。鐘太鼓の音頭が賑やかで、年行事からの掛け声も勇ましい。ロープの前に全体を管理する統率者がおり、「止まれ」「回せ」「進め」など差配しています。制服警官が数人、事故の内容重要ポイントに陣取っています。
港前を弁天神社まで行ってUターン。ここで港のスロープにに前が向き、スロープの坂を利用しスピードアップしてスロープ下部から上部に戻ります。残念ながら潮が引いているが、満ちていれば山車自体が海に突っ込む祭最大の見せ場です。PMは潮が満ちるのでツッコミが見れるそうです。祭りの最後は、ストレートに海に突っ込むそうです。八幡神社に向かうストレートは港前の左右道路に直角に繋がっています。そこまでは山車を止めて車輪をテコを使って動かし方向転換するのですが、このカーブだけは全速力のまま曳き綱を強引に引っ張って山車を曲げます。岸和田の檀尻と同じです。ここは素人には危ないので、僕ら3人は綱から離れます。ビデオを撮ろうとカーブ前列に陣取ったが、真っ直ぐ向かってくる山車におののき、突っ込まれるかとビビりました。
八幡神社前のストレートに山車を停めると、次の山車の出番です。Kさんに促され、八幡神社境内まで上がります。境内には天狗のお面を胸にした天狗役の方がいました。Kさんの知り合いのようで、「また今年も天狗ですか?」と話しています。天狗は一枚刃下駄で、高さもあり歩き難そうです。でもベテランなのか、平気で歩いています。天狗を先頭に、宮司・巫女・神輿・武具を従えて長い石段を降らねばなりません。この役は体格も必要で、なり手はそうそういないのかも知れません。巫女さんは中学生ぐらいで皆若く、緊張している風です。山車を担いだり太鼓を叩いていた乙女は皆綺麗どころだったのに、こちらは島の少女という風です。曳き手は島の人口減で集まらず、アルバイトを募っているそうです。曳き手・太鼓叩き手の祭り装束も板についていた美女たちは、岸和田の檀尻娘なのかも知れません。
神輿が担がれ、一群が石段を下りだします。事故のないよう取締役が、大声で「後ろもっと下げ〜」「危ないぞ、肩を抜け入れろ」と差配しています。神門の脇に宮司の自宅がありました。
『沼島八幡神社神馬像由来 港を上がり、正面八幡神社の鳥居を仰ぎ見た時、その左側に、気高く勇ましい神馬像を見る事ができます。この銅像は、先に大阪在住の沼島出身者が、「大阪沼島会」を結成していましたが、敬神の真心と深い郷土愛から、会員120数名が昭和5年から5円・10円と積立てて、目標額700円に達した時、昭和8年に献納されたものです。それも支那事変から太平洋戦争へ・・・、戦争遂行上、国の要請によって、家庭の金物類から公共の物品まで、砲身に弾丸にと総て徴用されました。
この神馬像も、寺の釣鐘などと共に昭和19年軍用に徴用されてゆき、その台座が石組だけの寂しさをとどめて今日に至っております。戦後、幾度か神馬像再建の話が出ていましたが、この度40数年を経て、ようやく氏子総代の発起と在島在外氏子皆様方の熱意が集結して、元の台座に雄々しくいななく美しい姿の神馬像が再建されたものであります。この神馬像を見る時、神話の島での豊かな生活と、幾久しい平和を祈るものであります』
神輿が先頭に弁天神社に向かいました。続いて山車1つずつが向きを変え、それに続きます。12:50、全ての山車が弁天神社前の所定位置に停まり、それぞれの山車前にブルーシートやムシロが広げられます。それぞれの地区の住民がそれに座り、寿司や飲み物が出て来ました。もちろん食べ放題・飲み放題です。僕ら島外者3人の横に一升瓶を配った長老さん2家族が座り、話の輪が開きました。現在は3重になっている港の防波堤ですが、以前は1重しかなく、伊勢湾台風で潮が上がり、港の前にあった小中学校でさえ流されたそうです。それで小中学校はもう少し高台に再建したそうです。南海トラフ地震対策で、住居に続く道に防潮扉が整備されつつあるそうです。
僕らに何かと良くして下さる長老さんは、僕の1才年下でした。横で食べている奥さんとの馴れ初めを聞くと、「名古屋の大府の出で、そこまでもらいに行ったんや」とのこと。沼島対岸の淡路島土生港のある海岸道路は、水仙郷で有名ですが、当時は道が狭く車がすれ違えなかったそうです。嫁入道具と共に嫁も載せたトラックが対向車に出合うと、「こちらは嫁入りなのでバックできへんのや」と相手にバックしてもらったそうです。バックするとで戻っちゃうものね。その甲斐あってか、夫婦仲が良さそうです。豪快な漁師の旦那さんと妻・・・良い感じです。
お腹を満たし14時前、記念写真を撮って、そろそろ御暇することになりました。「これで失礼します。ありがとうございました」「じゃあ、オイラも送りに行くで」と船までご一緒しました。漁師を引退され家におられたお爺さんお婆さんも、船のところに出てこられ、ここでも記念写真を撮りました。
14:09、港を離れます。楽しい島の1日でした。「おのころ島」なので神話スポットはまだまだあるので、再訪したい島です。天気予報では良い風が入るとのことでしたが、相変わらずの無風なので機走で和歌山大崎に向かいます。途中、風が入っているところでジブを出して機帆走しましたが、常時6ノット強でした。大崎の目印は、和歌山関電2本のポールと、その南の白いタンク群の間の4つタンクです。最初北に流され気味でしたが、紀伊半島との中間から反対に南に流され気味でした。
16:59、大崎港に入りました。先に本船の着く岸壁に横付けし、荷物を降ろします。沖係留なので、僕は荷物番に残り、勝手知ったる御二人でオランダ人オーナーの僚船に横付けし、オランダ人さんと一緒に係留作業していました。
岸壁では釣り人がベラなどを釣っていました。猟具をトラックで取りに来た漁師さんと話したり、適当に時間を過ごしました。Kさんの車がやってきて、荷物を載せて帰路に着きます。Kさんのお宅は大阪平野だそうで、そこまで乗せていってくれるそうです。
r167〜R42〜海南ICから阪和道を北上します。Kさんのドライブ武勇伝を聞かせて頂き、「やるな〜」と感心しました。20時前にJR平野駅でKさんとお別れしました。お店に帰るH君と、天王寺〜京橋〜東西線とご一緒し、Hくんは北新地駅で降りていきました。僕は尼崎で乗り換え、北伊丹駅から歩いて21時に帰宅しました。家内はまだ起きており、TV見ている家内と片付けながら話しました。風呂に入りヨーグルト持って自室に上がり、コテンと寝てしまいました。クルージング2泊2日間が終わりました。


2019/5/3
前夜が遅く寝たので、起床は5:30でした。朝の散歩に出ます。海の方に歩いていくと、Kさんと学生達が乗ってきたクルーザーを見つけました。更に歩いていくと、車が並んでいます。「何かな?」と思ったら、「的形海水浴潮干狩り場」でした。8時のオープンを待っているようです。砂浜の沖にボートが作業をしています。きっと潮干狩用の貝を蒔いているのでしょう。「大人1400円・子供800円」。僕も息子たちがちびの時、ここや新舞子という兵庫県の潮干狩り場で遊びました。子どもたちは必ずお尻を水に浸けてしまいパンツの着替えが必須でした。懐かしいな。トイレやBBQコンロも用意されており、家族やグループと来て1日遊んで帰るのでしょう。
Oボートの川を挟んだ対岸に鳥居が見えます。調べたら「住吉神社」でした。さすが海岸に近い神社、漁師などの信仰が篤いのでしょう。Oボートは現社長が7代目らしく、元は和船製造をしたそうで、江戸末期に洋式帆船が入ってきた頃、その腕を見込まれ西洋人にそれも造って提供するようになり、現在はボートヤード業とディンギー製造業をやっているそうです。代々、住吉神社の氏子でしょう。
Oボートを通り過ぎて歩いていくと、「HUMMOCK Cafe Coffee Lavel 9:00-19:00」がありました。コンテナを縦に2段載せ鉄骨で増築した簡素な外観です。動態保存では無さそうなDATSUNが2台置かれており、店内は無骨な外観に似合わずお洒落なのかもしれません。
Oボートの陸置きボートヤードを探検してみました。昨夜話のあった昨年エンジントラブルでテトラポットに挫傷し大破したクルーザーのバウに大穴が開いていました。潮干狩り待ちの車列の向こうに太陽発電パネルエリアが広がっていました。
6:36、Oボート2Fに戻ると、皆さん起きており、寝床の片付け・部屋の掃除をしていました。僕が寝た寝袋も片付けられており、申し訳ない。分別されたゴミを所定の置き場に片付けました。
荷物を船に移動させ、Kさんが2人の学生を駅まで送り、二日酔いの学生1名を置いて、7:30過ぎに出港しました。Kさんが船上から電話で、Oボート社長に学生が1人寝ていることを伝えていました。
昨日は牛窓から良い風で快走したそうですが、風がなく機走6ノット強で一路淡路島・福良港を目指します。明石海峡以上に潮の流れが強い鳴門海峡を通過するので、14時の転流時間帯に通過すべく早めに海峡に近づきます。あまりに早く着いてしまうと、連れ潮ながら渦潮に突入するので、途中エンジンを止めジブだけのセイリングでのんびりの時間帯を挟みます。
13:27、鳴門海峡少し北の「南あわじウインドファーム」の風車群がはっきり見えてきました。全部の風車が止まっています。13:36までヘルムスをして、初めて大橋を潜るので、代わってもらいバウに行って写真を撮ります。ちょうど14時に渦潮突入です。巨大吊橋の2本の柱の中央部は潮流が強いので、淡路島側の鉄柱と淡路島の間を通過します。まだ潮がガンガン流れており渦が巻いていましたが、ラダーを大きく取られることもなく平穏な通過となりました。
またヘルムス担当となり、福良港を目指します。昨年夏は次男一家と乗った観潮船停泊桟橋の横の桟橋に泊めるそうです。牛窓からやってくるO大OB会長Hさんのクルーザーは既に福良港入りしており、Kさんはその情報を電話で得ていました。当方に先行する2艇のセーリングクルーザーがおり、すぐ後ろにも1艇います。もやえるのかな?
養殖筏が沢山浮いています。3年物トラフグ・鯛・ハマチを養殖しているそうです。観潮船の日本丸と咸臨丸が桟橋に停泊中でした。その横の桟橋は大入りで、桟橋東側に2艇、西側に3艇停泊中で直接桟橋にもやうスペースがなく、先着しているOB会長さんの船に、14:42横抱きさせてもらいました。メンバーは3人ですが、勝手知ったる作業なのでスムーズでした。
牛窓組3名と挨拶し、ネームカードを渡します。Oボートでもネームカードを渡すことが出来、忘れなくて良かった。15:16上陸し「道の駅・福良」へ。特に何もなくトイレのみ拝借。Kさんの高校時代の友人で元NHK職員のカップルとも挨拶。道の駅隣の人形浄瑠璃を観てきたそうです。そのお二人とH君・僕とで夕食の鍋の食材を買いに出ます。Kさんの財布は、財布を忘れてきた学生が途中下船し帰宅する電車賃など想定外出費が重なり既に空っぽです。Hくんも数千円だけの財布だったので、僕はスポンサーです。16:51、道の駅近所の「菊川ストアー」で5238円。
8人でH会長船上で鍋夕食です。Hくんはレストランオーナーシェフなので、買い物から料理までお任せです。夕食後は、Kさん艇内でコーヒータイムです。H会長は、牛窓のオリーブ園をやっており、地元の名士さんです。学生卒業後すぐの就職話や、親がやっている鉱山への転職での雪の中での極寒作業など、面白い話が次々に出てきて楽しい時間でした。
四国巡礼を歩きで2巡されているそうで、スペインのサンチアゴ巡礼も夫婦で経験されています。流石地元名士らしく、世界中のいろんな場所を知っておられました。特に造詣が深いスペインは、本職のオリーブ栽培との関係だそうです。牛窓オリーブはもう小豆島に負けないそうですが、やはり地中海のオリーブは品質が良いそうです。
クルーに高校教師さんがおり、元防衛大学校に入学し1年でケツを割ったことなど、こちらも興味深い話でした。もうひとりはKさん・H会長と同じO大ヨット部OBさんでした。
NHK元職員さんは、元ディレクターで製作された番組の裏話が面白く、女性の方は会計総務畑の方で、お二人とも歴史や他分野に渡って知識が豊富で、僕の知的興味をくすぐられる話し相手でした。もしもっと少人数だったら、もっともっと突っ込んだ会話になったと思われ、たった一晩の交わりだけなので少々残念な思いが残りました。22時頃に床に就きます。NHKカップルは、GWを使って車中泊しながら、名古屋から紀伊半島海岸沿いを走って来たそうです。女性は初めての伊勢神宮を堪能され、熊野三山も巡ったそうです。男性はO大卒ではなく、次男と同じK大卒でした。
この夜は船中泊で、女性が扉の有るバルクヘッドで1人、僕とHくんがドッグハウス両サイド、KさんとNHKさんがコクピットで寝袋泊です。ドッグハウスの扉は開けっ放しなので、女性以外は外で寝ているのと同じです。床に入るとすぐにあの嫌な蚊の羽音が耳に届き出し、何故海なのに蚊・・・とがっかり。Hくんに声を掛け、ドッグハウスにあった蚊取り線香を出動させました。この効果は抜群で、蚊は寄り付かなくなりました。


2019/5/2
D社大ヨット部の同期H君に誘われたクルージング日です。彼は僕も存じ上げているO大ヨット部のK先輩と共にクルージングするので来ないかと・・・。先輩と共同所有しているクルージング艇は、前週末から瀬戸内海クルージングに出ており、ちょうど良かったので、乗せてもらうことにしました。
K先輩は、先週末からO大卒業生を乗せて卒業クルージングに出ています。5/2に姫路的形港に帰ってくるので、そこで合流します。5/2・15:00的形〜5/3的形8:00〜15:00福良or沼島〜5/4沼島13:30〜17:00和歌山大崎という日程です。的形のOボート造船所にヨットが入停泊するので、適当な時間に行こうと思っていましたが、Hくんから電話が入り「15:30大阪発新快速姫路行先頭車両に乗るから、一緒に行こう」と同行を誘われ、15:36JR尼崎駅発に間に合うよう家を出発することにしました。
11:44、「もち吉」で1620円+2160円2つのお使い物せんべい缶を購入しました。よく「もち吉」を利用するので、100円でカードを作りました。トータル3800円。お世話になるOボート社長と、船のオーナーO大ヨット部OBのKさんに渡すつもりです。日本にはちょっとしたプレゼント習慣があり、これだけで人当たりがまろやかに進みます。好きな習慣です。
いつもなら駅までバイクで行くのですが、3日間置きっぱなしになるので歩いて行くことにしました。14:30に仕事から戻り、用意していたバッグを担いで出発。最寄りJR駅まで20分ほど歩きました。ICOCAチャージ5000円して電車に乗り込み本を読み出し、JR尼崎駅へ。
15:12「セブンイレブンハートインJR尼崎駅西口改札内店」で、「レーズンロールマーガリン4個116円+小岩井ミルクとコーヒー500ml150円=266円」を購入。駅ホームで本を読んでいると電話が鳴り、「お〜い、何処にいる?」と大阪駅から。「尼崎駅にいるよ」「OK、じゃあ先頭車両で」。新快速に乗り込む合流し、他愛もない話で盛り上がります。何故か嫁さんの話になり、お互いの趣味を尊重し休日は別行動の彼と、何かと絡みたがる僕の違いをあ〜だこ〜だ。
彼の奥さんは、このGWに独身のお嬢さんと一緒にオーストリア・ドイツ旅行に行ってるそうです。「GWの海外旅行は高額になるやろ?」と聞くと、5/1出発なら意外に高くならないそうです。連休中日の穴場かもしれません。
僕のように、歩く時手を繋いだり、毎日隙あらば抱きついている夫婦は異常だと笑われました。家内が異常なのではなく、僕の一方的な欲求をただ受け入れているだけです。未だに新婚時代と変わらず大好きな僕は自分でも特異体質だと思っています。息子のお嫁さんたちには「お父さんたちのように」とラブラブぶりを褒められているが、息子たちには「バカップル」と言われています。
お互いの子どもたちのことも話題にのぼり、あ〜だこ〜だ。僕はお嫁さんたちにも恵まれ、幸せの生活をしていると、これまた親ばか振りを披露しました。JR明石駅で山陽電車に乗り換えましたが、直通特急に乗ってしまったようで、的形駅を通り過ぎてしまい飾磨駅でバックする羽目になりました。
的形駅で下車し、タクシーに乗ろうと思いましたが、駅前にタクシー乗り場がないというより、駅前がない駅だったので歩きました。Oボートには学生時代にレース艇の建造でお邪魔しただけで、それ以来なので心躍りながらの訪問です。コーチしてるヨット部は、去年ここが製造したレース艇を2艇購入しました。
17:23造船所に到着し、学生やKさんと合流しました。Oボート社長は腰痛治療のため整骨院に行っているようで不在でした。夕食のバーベキューの用意中で、庭の芝生エリアのテーブルに食材や食器を運ぶのを手伝います。O大学生は今年学部を卒業したばかりなので、合同合宿なので僕を知ってくれているので気楽です。運び終えたタイミングで社長などが帰ってきたので、BBQ開始です。ところが炭に火が点かず新しい炭を買いに行って下さいました。新しい炭は素晴らしく、すぐに火が起こりBBQ開始。3人の学生がBBQ番を順番にしてくれ、焼けた食材を食器に乗せてみんなが座っている横のテーブルに運んできてくれます。
クルージング前半は、2人のOGが乗っていたのですが、前日の牛窓で降りたようです。ここで3人も降り、明日からはおっさん3人でのクルージングになるようです。O社長とは同期なので、4回生の時のインカレなどの話題で盛り上がりました。
Oボート・アドバイザーという肩書を持っているAさんは、兵庫県3番目の受験校6中高の物理の先生でした。僕が中学受験で最後まで迷った学校だし、次男が中学受験した学校です。次男は合格したが、大阪のヨット部の有るS中に進学したので縁がありませんでした。僕のコーチしてる大学ヨット部にも6校から入部した子が2人おり、一気に打ち解けました。A先生はO大造船学部出身で、O造船のレース艇の設計アドバイスや水流実験に協力しているそうです。FD級を芦屋海洋体育館の持っており、ディンギーレーサーでもあります。
「いいもの見せてあげようか?」と、製作中のAUSベルチャー・ライアンチームの新艇を見せてもらいました。秘密保護のため写真撮影禁止です。バウハッチが開いており、内部の補強ポイントを指摘すると、「流石ですね」と速いレース艇を造るポイントを教えて下さいました。
来年以降、2人のアドバイスとアイデアの入った新しいモールで製造したボートを学連仕様にして販売するそうです。辻堂やピアソンが、Oボートの独壇場だったS級や470級メーカー牙城に挑んできています。取られたシェアへの巻き返しを始めたようです。今後の展開が楽しみです。
O大学生からいろんな質問を受けました。去年準優勝したので、僕の話を聞きたいようです。僕は風通しの良い環境創り、将来展望を含めたクラブ強化に力を貸しているだけで、素晴らしい成績の大部分は学生自身の努力の賜物なんですが・・・。当方のクラブ員は多く、楽しんでやっているのが強みです。
新西宮のクルーザーレースから帰ってきたYさんが加わりました。プロヨットコーチで、西宮のK大のコーチングをされています。K大は女子部員の方が多いのに、近年素晴らしい成績を残し続けています。去年の全日本インカレでの470級ワンツーフィニッシュを思い出します。オリンピック代表チームのコーチングなど、ご自身のレースを含めコーチング実績も抜群です。お互い現役のコーチなので、いろんな話ができ充実した夜になりました。
BBQ終了後もOボート2Fでの二次会で、Yさんと更に突っ込んだ話をしました。ジュニアのOPからオリンピックまで精通されておられるので、大いに学ばせていただきました。去年のインカレでは当方の快進撃を目の当たりにされており、僕がどのようにシリーズレースをコーディネートしたかに興味を持たれているようでした。
Yさんが帰宅し、寝床を確保して三次会が始まりました。僕はもうとっくにオネムの時間帯でしたが学生が3人もいて、僕と話したいというので付き合いました。僕はいつものようにアルコールではなくジュースで付き合っているので、眠いだけで平気ですが、彼らは深酒にならないと良いが・・・。予定ではBBQ後に帰宅でしたが、オリンピックで前々回ゴールド・前回シルバーメダルを獲得している470トップレーサーの2020東京オリンピックで乗る新艇を見た興奮などもあり、翌日朝に帰宅を先伸ばししました。
12時になりお開きになりました。僕は横に床で寝袋にくるまってコテンと寝てしまい朝まで起きませんでしたが、学生の1人が深酒で大変だったそうです。皆が介抱する中僕は夢の中で、小学生時代隣の家のボヤ騒ぎで消防車が3台も来たのに起きなかった能天気は健在のようです。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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