-ウェブマスター日記 2019/3-4

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2019/4/28
日曜日で家内も休みなので映画を誘ったのですがパスとのこと。「走ってきたら」と言われたので、ツーリングに出ることにしました。朝、時差-13時間のアメリカ東部時間を考え、家族LINEに「ハッピーバースデー」を書き込みました。4/27は、長男の誕生日です。企業の働き盛り30代後半なので、最も仕事に脂が乗っている時期です。7月からロンドン勤務になるので、また新しい世界を切り開くでしょう。明るい性格なので、家族5人とアメリカ同様楽しくクラス姿が見えてきます。英語を日常使いする仕事をしていたお嫁さんがいるので、家庭のことは任せられるのが彼の強みです。送信すると「ピコン」と家内のスマホが鳴り、それを見た家内が、「あ〜また先にした〜」と恨み言を言っています。
10:20、「招き猫CB400SB」で出発します。長尾山トンネル〜r325〜r33〜r319〜r12で「後川」へ。ここを右折し、r309で篭坊温泉前を通過し、r538〜r601でR173に出ました。篠山側に下り、右折してr309に入り、エンドまで行きます。r309は分断道路です。1km弱つながっていないだけで、これが繋がると篠山側からの篭坊温泉のアクセスが良くなります。「r309早期完工」の看板があちこちに立ってるので進捗状況を見に来ましたが、工事している感じはなく、以前同様全く動いていないようです。
UターンしてR173に戻ります。左折して、「ベルグリーンCC」へ登っていきます。地域の経済と雇用を作るゴルフ場なので、地元自治体のアクセス道への投資が進むので、交通量が少ないのに割合広く路面も良いです。ワインディングを楽しんでいると、バックステップの付いたスーパーバイクがいい音を鳴らしながら下ってきました。内膝が開かれており、サーキットのような走りがチラリと見えました。カッコいいな。沿道に八重桜が植えられ、綺麗なピンクが美しいです。
峠に有るゴルフ場への分岐を越え、北側に下って行きます。11:54、篠山川沿いの静かな田舎道を流していると、自転車に乗ったカカシが目に入りました。休憩します。走り出し次の橋でまたストップ。「水車の里」と書いてあり、小さな水車があぜ道沿いの農業用水路で稼働していました。『京都府立工業高校・機械プランニング科 マイクロ水力発電機 水車:開放周流形水車胸掛け方式・水車直径900ミリ 発電機:インナーローター・ダイレクトドライブ方式 発電能力:定格40W 製作者:・・・ 寄贈日:平成27年11月20日』
「市野々バス停」でまた休憩。僕の好きなベンガラ色の漆喰で囲まれた「歌舞伎者屋敷」がある所です。室町戦国時代の豪族の屋敷を想像しています。家を見ているとお若い方と年配の男性が出てきて、バス停横の草刈りをされたり畑仕事をされているようです。「立派なお宅ですね」と声を掛けると、「いやあ〜」とのこと。以前、このお屋敷のことを書いたら、多分どちらかの方から「この屋敷の者です。見学されますか?」とメールを頂いたことがあります。
坂を上がれば「久昌寺」(禅寺)があります。一度訪問したことのあるお寺なので、パスします。この寺も僕の予想が当たっていれば、この歌舞伎者屋敷の親類縁者でしょう。畳の上で死ねない運命の豪族は、必ず一族の弔いのために一族の誰かを出家させ坊主にするものです。昼食のおにぎりを頬張ります。その横を先程ゴルフ場ワインディングを飛ばしていたバイクが通り過ぎました。
r303を走り、道なりにr702になり、R173に突き当たり右折して北上します。12:58「道の駅・瑞穂の里さらびき」でトイレ休憩。フィールドホッケーを一押ししているようです。
『フィールドホッケーの起源は、古代エジプト(BC2000年)と言われており、また、近代ホッケーの起源はイギリスと言われています。ホッケー競技は、1908年にオリンピック競技に採用されました。東京2020では、日本代表が男女アベックで出場。男子は、「さむらいJapan」。女子は、「さくらjapan」の愛称で呼ばれ、今後の活躍が注目されます。
日本ホッケーは、1906(明治39)年に、英国人が東京の大学で教えたことがきっかけとされています。1923(大正12)年のロサンゼルス・オリンピックには男子ホッケーチームが初出場を果たし、銅メダルを獲得しました。女子については、2004年アテネオリンピック(8位)に出場して以降、2008年北京オリンピック(10位)、2012ロンドンオリンピック(9位)、2016リオデジャネイロオリンピック(10位)と4大会連続で出場を果たしています。
ホッケー競技は、11人制で行います。ただし、国内ではジュニア育成のため、小学・中学にあっては6人制で試合を行います。グリーンランドみずほホッケーグラウンドの白いラインは11人制コート1面、青のラインは6人制コートで4面敷設されています。ボールは野球の硬球より硬いものを使用し、選手はスティックを使ってボールをコントロールします。スティックは、平らな面のみ使用ができ、丸みをおびた面でボールをコントロールすることはできません。ホッケーコートにはゴール前にサークルというシューティングエリアが設けられています。ロングシュートはありません。サークルの中でシュートを打ちゴールに入った場合に得点となります。
ホッケー競技は、11人制の場合、縦91.44m(100ヤード)×横54.86m(60ヤード)の大きさのコートを使用します。公式戦のほとんどが人工芝コートで行われます。グリーンランドみずほホッケーグラウンドでは、週末、社会人リーグや大学リーグ、全国大会出場をかけた京都予選など多くの試合を行っています。是非、会場にお越しいただき、ご観覧ください』
R173を更に北上します。山内一豊を出した山内家の持ち城「三宮城址」近くの交差点を左折し、13:26「酒治志神社」。『当社は延喜式内社で近隣では数少ない歴史的神社である。創建は火災による古文書焼失のため審らかでないが天保4年に創建1000年祭執行の記録が残されている。古くから五穀豊穣安産守護の神と して崇敬厚く古風な社殿境内の老 杉等が歴史の深さを物語っている。創建祝賀大祭は50年毎に行われており、近くは昭和58年に1150年祭が盛大に執行された。社名は近接の質志の里や「シュチシ」はアイヌ語の「山麓」の意か らとの説もある』
彫刻が素晴らしい。流石、歴史のある延喜式内社です。r26に乗り、田舎道をのんびり走っていると、「ロゴス神学院」という立派な教会がありました。山の中にポツンとあり、修道院という風情です。
r26を更に進みます。「質美八幡宮」の枝道に入るところで、タヌキを発見しました。ゆっくり近づきバイクを停めて、カメラを持って近づきましたが、「死んだふり」しているのかうずくまり動かなくなりました。背中の後ろ半分の毛が抜けています。どうしたのかな?
14:00「質美八幡宮」第2P。2度目の訪問です。前回は府道沿いから杉林が並ぶ参道を歩いて来ましたが、今回は裏から。山を登るといきなり内鳥居へ。銅板覆いを被った茅葺き屋根の「産子参集所」。昭和6年の軍艦絵馬が掲げてありました。この時代の強軍の象徴は軍艦ですね。帝国海軍一等兵曹の方が個人で奉納したようです。艦名はありませんでしたが、重巡洋艦・妙高型のようです。調べて見ると、妙高型は4艦就役し、妙高以外の3艦は米艦載機による攻撃や潜水艦魚雷により沈没しており、妙高は終戦後沈没処分されています。この絵馬を奉納された方は、息子の武運長久を願った親族と思われるが、御本人は無事帰還したのだろうか?いずれにしても、命をかけたこのような方々の死力により、日本人の胆力を世界に知らしめ現在の尊敬を集めている。そして子孫である私達現代の日本人の目に見えない自信に繋がっている。ありがとうございました。
石段を上り本殿にお参りし、気持ちの良い参拝を終え下っていくと、上る前に挨拶した神社のお手入れをなさっておられた地元の方がおられたので、「素晴らしいお宮ですね。参集所や本殿は室町時代ですか?」と声を掛けると、「こんなものしかありませんけど・・・」と謂れが書かれたパンフレットを手渡して下さった。熱心に覗き込み写真を写している僕のために、パンフレットを取りに行って下さったようです。あれやこれやお話し、山車が登場する10/10の秋祭りについても教えて下さいました。山道参道を下って府道まで下ろせるのかな?と質問したら、集落の人数が少なくなったので、府道まで下ろせなくなったそうです。山車に乗った稚児が踊り、大人が笛を吹くお祭りのようです。謂れ板が立っていなかったので、パンフレットを頂けラッキーでした。
『由緒 御祭神 誉田分尊
創立年代は明らかでないが安永の初年(1772年)に焼失し、同5年に再建す。明治6年6月12日村社に列し、同40年3月1日神饌幣帛供進の神社に指定せらる。質美一村の崇敬神社にして215戸の氏神たり。当八幡宮は長い馬場と広い境内をもち、文化財的なものとしては祭礼の時の山車(曳山)や屋台及び蔵もあり、又本殿は下の広場に面してある産子集合所は大きな五間堂でもとは宮寺の本堂だったかと思われる。建立の年代は不明であるが垂木の反りや材の風飾からみて江戸時代初期の頃のものではないかとみられる本殿はおそらく江戸末期の建立かと思われる。正面五間とも桟唐戸とする仏堂的な構えになる。装飾は妻飾りなどあまりなく斗柱がやや大きくなるほど複合的傾向がみられる。
年中行事
1月1日:歳旦祭 1月19日:厄除祭、古神札焼納神事 2月11日:紀元節、祈年祭 3月1日:月次祭、社頭の儀 4月1日:月次祭、社頭の儀 5月1日:月次祭、社頭の儀 6月30日:大祓祭(6月夏越の祓)茅の輪 7月1日:田植竟祭 8月1日:月次祭、社頭の儀 9月15日:八朔祭 10月15日(毎年15日に近い日曜日):氏神祭、渡御之儀 11月15日:七・五・三、参祝祭 11月23日:新嘗祭 12月31日:大祓祭、守符神札遷霊、人形流し
御神徳(ごりやく):家内安全・家業繁栄・安産・厄除厄払い・病気平癒・交通安全・旅行安全・学業成就・その他祈願成就
境内土地建物
境内地:14000平方メートル 本殿:流造り銅板葺(京都府文化財指定) 拝殿:入母屋造り瓦葺 神饌所:入母屋造り瓦葺 曳山庫:切妻瓦葺 千水舎:切妻杉皮葺 社務所:入母屋瓦葺 産子集合所:堂造り鉄板葺(京都府文化財指定) 鳥居:第一明神木造 烏居:第二明神木造 狛犬:二基石造 燈篭:六基石造 社標:壹基石造 神橋壹:木造欄干付 神橋式石造
境内ご鎮座の神々
本殿
御祭神 誉田分命 古代文献によると応神天皇(第15代の天皇)名は誉田分尊または大鞆和気(おおともわけ)の尊仲哀天皇の子、母は神功皇后、内外政治に大御心を用い給い学問・文化・殖産・興業・交通・経済等凡ゆる面に御治績を垂れ給ふ広大な応神陵(大阪羽曳市)によってその英雄的な形姿と専制的な権威とを推測することが出来る。
武内宿禰社
御祭神 武内宿禰 大和朝廷の初期に活躍したという伝説の人物孝元天皇の曽孫で景行天皇のとき生れ、景行・成務・仲哀・神功・応神の諸朝に仕えたことに景行天皇の蝦夷討伐、神功皇后の新羅遠征をたすけ、皇后が生まれた応神天皇の皇位継承に尽力された。その子孫として蘇我、葛(かつらぎ)・巨勢(ごせ)・平都(へぐり)諸氏がある。
厄除神社
御祭神 八衝彦神・八衝姫神夫婦神、久那斗神 3祭神で街衛にいて四方に通じる道の岐れる所を掌り外部から侵入する邪神・鬼魅・魁畑(ばけもの)などの魔もの類を防ぐ神として、又久那斗の神(賽の神)道神として祀られる。(男子42才・女子32才になって在住の人は勿論、遠くにお住いの人も1月19日には必ずお詣りされご神徳をお受けになっている)
高良神社
御祭神 高良玉垂命 国幣人社高良神社の祭神。「延喜式」には高良玉垂神社とあり、神名をもって社名となし、「文徳実録」以下国史には高良玉垂命として神階を奉られたことを載す。然るにこの神の事蹟に就き後世諸説がある。即ち奮説の一に武内宿禰となし、また武内宿禰に荒木田襲津彦を配祀せるといひまた月天子とも、神功皇后征韓の時の人、藤大臣とも、藤大臣は中臣烏賊津臣命とも、藤大臣連保のこととも、住吉明神の化身であるともいひ、物部氏の遠祖、物部朧咋連ともいふ。これ等諸説の外に(1)玉垂命は比売許曾神で、高良山では玉垂命と稀へ、香春岑では香春神として祀るといひ、また(2)高良玉垂命は蓋し阿曇連の祖、綿津見神で、神功皇后韓国を伐ち給ふ時、この神大いに威烈を耀かし、千満二珠を皇后に授けて新羅を攻め順はしめ給うた、この神は太古筑紫地方に勢あった故に、後此所に祀ったのは故あることであるといひ、また一説に(3)玉垂命は天津日高日子穂穂手見命(あまつひだかひこほほでみのみこと)で、そは干満両珠の故事と、妃神豊玉比売命の「赤玉は緒さへ光れど白玉の、君か装ひし尊とくありけり」と詠ぜられた歌とによって、玉照命と尊競を奉り、照、垂が訓読の通ふままに玉垂命と稀へたとし、また(4)「文徳実録」天安2年5月に彦神(高良玉垂命のこと)本位従三位、今授正三位比売神(豊比売命のこと、高良山鎮座の神、式内、名神大社、現在本社の摂社)本位従五位下、今授従四位下とある彦神を彦火火出見尊、比売神即ち豊比売命を妃豊玉比売命となし、この両神を夫婦の神であるとし、更にまた(5)武内宿禰と玉垂命とを一體異名であるとなす説があるが、所々の八幡宮の末社に高良と武内とを分けて祀っているより見れば別神たるは明かであらう。
松尾神社
御祭神 大山咋命 古事記に大年神の御子神の系譜に次に大山咋神亦名は山末之大主神と平安京皇城鎮護の神として祀る。又酒造の神として京都右京区嵐山にある松尾大社は全国松尾神社の総本社である。
荒神社
御祭神 荒振神 荒振神が祀られ神域あまって結果として災を起す邪神とみなされる神の意。神代紀に螢火なすと見える邪神。日本武尊が征服された気吹山神等もその類である。
稲荷神社
御祭神 倉稲魂命 稲霊の神格化、農耕民族にとって稲は最も大切な食物であり、稲をはじめ五穀を守護する神の存在が考えられるわけであり。延喜式の大殿祭の祝詞の内に「豊宇気姫命、是稲霊也 俗謂宇賀能美多麻」とあるが注目される。京都の伏見稲荷大社をはじめとする稲荷神社の祭神である。
若宮神社
御祭神 仁徳天皇 第16代天皇名は大鷦鷯命(おおささぎのみこと)。応神天皇
の皇子、母は皇后ナカツヒメ、天皇の代難波に都し大いに池講を修築したことを伝えるがちょうど大和朝廷の最盛期にあたり大陸半島より文物の流入がめざましい時代であったから、その事実が記紀に投影されているのであろう。大阪府堺市にある陵は世界最大の陵墓である。(仁徳陵)
大川神社
御祭神 建御雷之男命 皇孫の天降りに先立って出雲国に出かけ首尾を果し常陸の国鹿島郡の鹿島神宮の祭神として奉祀さる』
『祭について
日本は祭の国である。「祭る」という事は「待つ」と言う言葉と同意義で、人の来るのをまつのと神の降臨(神様が地上におりてこられること)をまつのと、同じ心持なのである。神が天上の神の国からこの地上の人間の世界に降臨されん事を希う儀式が「祭る」である。また「まつはる」と言う言葉もある。
然らば神の降臨を待って、何をするのか、と言うと、それはそこに降臨された神神に願い事を申上げる場合もあろうが、多くの場合は、神に感謝の意を表わすだめに、神の御意(お考え)を迎えようとするのである。御酒を供え、御饌を奉り、山の幸、海の幸、野の幸を献じて、神の御意を迎え、更に音曲を奏で、歌舞を演じ、以て神慮(神様の御心)を慰め奉ろうとする、それが「祭り」の意義でもあるし「祭る」の目的でもあるし、祭りそのものである。そして日本は太古の昔から当代の今に到るまで、一日として祭を欠かした事も、1年として祭を怠った事もない祭の国である。どんな山賤の野辺でも、どんな漁夫の浜辺でも、祭りのない所は決して無い。
初宮参り
人間がこの世に生まれていちばん最初のめでたい「節」。それが初宮まいりです。忌みの明けるのを待って赤ちゃんにお湯を使わせ、まごころこめて仕立てました産着をきせて、氏神さまに参拝いたします。「神さま。可愛いみどり子をお授けくださいまして、ありがとうございます。長い一生をしあわせに暮らせますように、どうかお守りくださいませ」。生まれたばかりの赤ちゃんが氏の親神さまに初の対面をいたす儀式です。男児は30日目、女児は31日目にする例が多い様です。
七五三参り
3才・5才・7才の子どもを連れて、お宮まいりをする儀式で、記憶力のいちばん盛んな時期に、正しい知恵と知識をタップリと吸収させてやりましょう。「神さま。子どもが3つになりました。一番ものおぼえのよい盛りでございます。正しいことをおぼえてすくすくと伸びますように・・・」「わたしの男の子は5つになりました。いたずら盛りでございます。交通事故などにあいませんように・・・」。モミジのような両手をあわせて、親子もろともにカシワ手をうちましょう、愛情につつまれた拝礼は子どもにとって美しい想い出の種となります。この時、生涯の情操教育の根がしっかりとおろされるのです。11月15日はおおむね氏神さまの祭り日にあたりますので、この日を選んでおまいりをします。
成人の祝(成人式)
公私ともに一人前に成人したことを祝う儀礼です。1月15日の「成人の日」は国民の祝日であり、当日は各地において祝賀の行事が催されます。私達は、両親から身体を、神様から心をいただいてこの世に生まれ、そして両親の愛と神様のお守りをいただき、さらに家族やまわりの人々によってはぐくまれ、成長して来たということに対して、心から感謝しなければなりません。成人の日に、こうしたことへの感謝と奉告をするために、氏神様にお参りしましょう。この謙虚な感謝の気持と、明日から成人であるという自覚をもってこそ、真の成人になり得ると申せましょう。
厄祓い(厄年のおはらい)
「厄」というのは災難を言い、「厄年」というのは、災難の起る年として慎しむべき一定の年令を指して言います。女は33才、男は42才が厄祓いの年齢です。「厄年なんて、科学が発達しなかった時代の、たわいもない迷信さ」とかるくあしらわれる方がありますが、現代、「厄年」が科学的にきわめて理にかなっていることが最近の医学で証明されて来ています。男の更年期障害、男の働き盛りで35才〜40才にかけての勤め人の死亡率がきわめてふえて来ています。又、一家の主婦として地歩をかためてまいりましたご婦人の33才前後も同じで、人生の働き盛りを迎え突然の不幸に見舞われないように、深く神様のお守りをいのり自分自身の心をしっかりと引きしめ、前もって災難をはらうのが厄祓いです。この外に、女19才・37才、男25才・60才があります。
年祝
「年祝」は、年寿・年賀・算賀などともいいます。古くは、40から10年ごとに50の祝・60の祝・70の祝・80の祝・90の祝・100の祝と区切る年令で祝ったのですが、現代行なわれ良く知られているのは
61の祝・・・還暦の祝といい、生まれ年の干支に帰る年(干支が60年に一巡する)であるので「還暦」とも、また本罫がえりともいいます。
70の祝・・・古稀の祝といい、中国の詩人杜甫の詩「人生七十古来稀なり」の句からとったものです。
77の祝・・喜寿の祝といい、「喜」の草書体が77に近い書き方になることに因んだものです。
88の祝・・・米寿の祝といい、「米」の字が八十八と書くことによります。
99の祝・・・白寿の祝といい、「百」の字から一をとると「白」という字になることによります。
があります。年祝いは、子や孫など、まわりの人達が行なうもので、老人の各年の働きに感謝し、今後の長寿を祝福し老人を慰めるための行事です。
国を愛する心にめざめ、祝祭日には国旗を掲げましょう』
バイクに戻り、r26を東進します。JR山陰線を渡り、「下山駅」横を通過します。r80に乗り換え、R27を経由し、14:44「大福光寺」。
『真言宗御室派 雲晴山 大福光寺 創建:延暦年間(782〜806年)現在地から北方の空山(深山)中腹に鞍馬寺の中興・法印釈峰延大法師大徳が建立した。
国重要文化財 本堂(毘沙門堂)
建立:足利尊氏公により嘉暦2年(1327)この地に移し建てられる
様式:方五間単層入母屋造桧友葺
特徴:菱柵間格子戸等鎌倉時代の様式を残す。内陣は土問で、外陣の後方を廻れない等日本でも数少ない特徴を持つ
明治37年:特別保護建造物に指定 昭和4年:国宝に指定 昭和25年:重要文化財に指定現在に至る
国重要文化財 多宝塔(塔婆)
建立:足利尊氏公により暦応2年(1339)に建立と伝えられる
様式:方三問二層桧皮葺
特徴:鎌倉、室町時代の様式を伝える外側に蛙股12枚(内4枚は江戸時代の後補)がはめこまれている
明治37年:特別保護建造物に指定 昭和4年:国宝に指定 昭和25年:重要文化財に指定、現在に至る
その他宝物
方丈記:国重要文化財 王編:国重要文化財 毘沙門天王像(本尊):京都府指定文化財 禁制礼:京都府指定文化財 竹虎の図:京都府指定文化財 懸仏:京都府登録文化財・町指定文化財 仁王像:町指定文化財』
『国指定重要文化財
大福光寺は、真言宗御室派の末寺です。延暦年中の創建で、鞍馬寺の中興法印釈法延が建立しました。当時は、現在地より北方の空山(深山)に建てられ栄えましたが、足利尊氏公の信仰により嘉暦2年10月に、この地に移し建立されました。天正年間の兵火により多くのお堂は焼失しましたが、本堂と多宝塔は、今も当時の姿を残しています。
国指定重要文化財(建造物) 大福光寺本堂(明治38年2月18日指定) 大福光寺多宝塔(明治38年2月18日指定)
(書跡典箱) 紙本墨書方丈記(大正15年4月15日指定) 玉篇第24断簡(昭和24年2月18日指定)
京都府指定文化財(彫刻) 木造毘沙門天立像(昭和59年4月14日指定)
(古文書) 制札(昭和63年4月15日指定)
(絵図) 板絵著色竹虎図(平成2年4月17日指定)
京都府登録文化財・丹波町指定文化財(工芸品) 懸仏附懸仏残欠 15面8個(昭和63年4月15日府指定)(平成2年4月16町指定)』
とても立派な本堂・多宝塔が建っています。境内には椿と八重桜が満開で、とても素敵です。少し離れたところに現役の「大福光寺」が見えます。白塀に囲まれた広い敷地で、大屋根の本堂が立派です。バイクに戻る時、『丹波広域基幹林道 林道丹波美山1号線(起点) 林道区分:自動車道1級(森林基幹道) 延長:16156.5m 幅員:5.0m』の道標を見つけました。林道探索している時、何度か遭遇した丹波広域林道の起点を発見しました。走れるかどうかわからないけど、突っ込みましょう。
「渡辺家住宅」を観に行きました。拝観料を払えば内覧できると思っていたら、現役の個人宅のようで、敷地内立入禁止で残念でした。バイクに戻り、基幹林道にワクワクしながら起点に行きましたが、扉が施錠されており入れませんでした。R9に戻り南下し、園部で右折しR477に乗り、道なりにr54に乗り、15:36「龍隠寺」。禅寺のようで、本堂には大きな懸魚が下がっていた。本堂裏の墓地に上がると、多くの年代のもの墓石が整理されて並んでいた。その一画に無縫塔が並ぶエリアがあり、最も新しい無縫塔には33世と刻まれていた。33×25年=825年。2019年−825年=1194年。「いいくにつくろう鎌倉幕府」成立の頃から続く寺院のようです。
本堂前に小さな祠があり、薬師堂でした。中の覗くと中央に薬師如来、左右に日光・月光像が並んでいました。本堂境内に続く参道を覆う「もみじ」が瑞々しい若葉が素晴らしい。駐車場に1台あった車に乗って来られたのか、カメラを構えた男女お二人が熱心にシャッターを切っておられた。
バイクに戻り、坂を下ってr54。少し戻ってr453〜r452で南下し、R372に出て少し南東に走り、R477で南下します。R173に合流し、17:14「エネジェットセルフ北村SS」で給油。295km/13.12L=22.5km/L。
帰宅したら、長男のお嫁さんからLINEが入っていました。3人の孫たちの写真とビデオも送ってくれていました。ビデオでは、「りょうくん6才」が初自転車に乗っていました。日本ではキックバイクに乗って両足歩行しながらバランス感覚を養い、2輪走行出来るようになるのが最近の流れですが、アメリカに住んでいるので、2年前から三輪キックスクーターに乗り出して、この4月から二輪キックスクーターに昇格しました。三輪の方は次男の「こうちゃん3才」にお下がりました。りょうくんはたった1ヶ月2輪キックスクーターに乗っただけなのに、買ってもらったカッコいい自転車にいきなり乗れていました。
お嫁さんが初自転車ビデオを撮ろうと構えている前で、長男がりょうくんの乗った自転車の後ろを持って走り押ししながら、「こいでこいで」と声を掛け、りょうくんがペダルをこいでスピードが乗ったところで長男が手を離すと、そのまま走ってしまいました。長男は「りょうくん、すご〜い」、お嫁さんは「何も練習しないのに乗れるじゃない」と驚きの声を上げていました。キックスクーターからの自転車上達法があるのですね。僕が自転車に乗り出した時は、三輪車からの昇格で、補助輪を両サイドにセットしバランス感覚を養ったものです。息子たちも僕と同じ方法で自転車に乗ることを覚えさせました。こんなにあっさり乗れてしまうとは、驚きです。
次男のお嫁さんは、2人目懐妊でつわりが酷く、会社も休んでいるようです。長男一家の帰国に合わせて、我が家にやってくるようです。まずは長男一家のロンドン生活開始までのスケジュールに合わせて、いろんな日程が決まって行きます。


2019/4/27
コーチしてる大学ヨット部のコーチング日です。3月最終週から4月3週目まで、週末の土日は新人勧誘期間でした。ウィークデイは学校でビラを配り勧誘して、週末は興味を示した新入生をヨット試乗体験させてクラブの説明をしていました。2回生が主導権を握って上階生がその指示に従い行動しています。今年はプレイヤー・マネージャー合わせて25名ほどの新人が入部し、まだ増える勢いです。新人勧誘隊長のK2回生女子プレイヤー筆頭に、素晴らしい結果を出しています。家内のアドレスV125Gを手放すことになり、ヨット部員LINEに紹介するとすぐ数名から反応があり、4回生M君に絞られました。彼にバイクを見てもらうために、このバイクで琵琶湖に向かいます。
5:43近所のローソンで、「サントリーボスカフェオレ162円+手巻辛子明太子150円+手巻エビマヨネーズ150円」を購入。R171〜中国道側道の中央環状線。5:58エネジェット中環豊中SSで給油。大阪府道r14〜R171〜大山崎からR478〜京都府道r13〜r188で六地蔵〜r117〜三条通〜湖西道路ルートでYH着。準備をしているとハットを忘れたのに気づいて、7:39「セブンイレブン大津松山店」に行き、クロッシュハット1058円購入しました。バイク倉庫まで被っていたのに、ヘルメットを被る時脱いでそのまま忘れてきたようです。空は曇ってるけど、天気予報は午後から晴れだし、日焼けすると厳しいので余分な出費でしたが仕方ありません。
艇庫に行くとまだ開いておらず、4回生ボスマネSさんが寒そうにうずくまっていました。前日とは様変わりの寒さで、往路の国道気温計は12℃でした。「おはよう、寒いね」で会話が始まり、あ〜だこ〜だ喋っていると部員がやってきました。彼女はスマートで、色気を感じます。去年の全日本インカレの旅館でのミーティングで、浴衣姿で参加しており、悩殺されました。正座から足を崩した姿は目のやり場に困りました。それを男子部員に言うと、みな同感でした。男の本性は年齢に関係ないね。1回上の卒業した部員と付き合っており、ずっと続くと良いなと思っています。彼は爽やかな好青年で、男の僕から見ても惚れちゃうキャラでした。
この日から通常練習開始です。1回生部員が20名ほど合宿所に泊まっていたようで、世話役担当の2回生が2グループに分けて、ロープワークとか教えていました。9時になったので、体操・ブリーフィングでして出艇します。5名の通常練習見学希望者が来ており、彼らを乗せてコーチボートを出しました。
6m/sほどのNからの良い風が入っており、観測棟の方に走って行くと、琵琶湖大橋から次々にブローが入り、アベレージが8m/s〜10m/s〜12m/sと上がって行きました。沈艇が出だして、S級の1艇がジブセイルを破損しハーバーバックを指示します。ドライブしているボスマネS女史から、12〜15時と更に上る予報を聞いていたので、10:30過ぎにハーバーバックを指示しました。
470は全艇帰着し、下級生艇を減らして最出艇しました。S級は2艇バックし、彼らを乗せて再度コーチボートを出し、湖上に残って練習していた艇に乗り換えて練習を続けました。通常練習見学者は、エキサイティングにカッ飛ぶヨットを見てカッコいいと言ってくれるし、沈しても自分で起こし再帆走するヨットの安全性も感じてくれたでしょう。
インフレータブルに乗っていた2回生マネJさんが濡れ寒いので、コーチボートに移ってきました。毛布に包まり、運転席横にいるようアドバイスしましたが、どうもまだ体調がイマイチのようなので、濡れている下着以外の衣類を脱ぎ、乾いている衣類を着るよう、僕の着ていた衣類を脱いで渡しました。それに着替え少しマシになったようです。
12時にハーバーバックし、見学者はここで解散です。担当2回生がアフターフォローします。バイクを買ってくれるM君にハーバー内で乗ってもらいます。気に入ったようです。2008年製なので新しくはないけど、トータル11000kmしか走っておらず問題ない車輌です。合宿所に戻り昼食、13時に午後の出艇ですが、風は更に上がっており、15時まで出艇見合わせになりました。
午前中もそうでしたが、冬の時雨雲が掛かるように、時折小雨を伴った雲がやってきて、小雨と更なるブローが湖面を覆います。このパターンが収まる気配がないので、一足先に合宿所に引き上げます。1回生担当2回生部員が、2班に分けてヨットの艤装実技とレース運営座学をしています。
AM濡れてダウンしていた2回生マネさんが温かいシャワーを浴びて復活しており、「ありがとうございました」と僕の衣類を返してくれました。「ありがとう」と言うのは僕の方で、乙女の香りに包まれて幸せ気分になれそうです。
16時過ぎから全体ミーティングです。テーマは、新歓期間中遠征した西宮・蒲郡・江ノ島組からの報告です。気づいたことや学んできたことを全員で共有します。17時からクラス別ミーティングになりました。そして夕食、みんな大好きカレーでした。1回生が増えたので各テーブルツメツメです。僕のテーブルは、S級リーダーN君・3回生・1回生・1回生マネさん2人です。僕がいるので1回生は遠慮するので、手招きして1回生を招きました。
食事しながらお喋りします。1回生部員は帰国子女君で、小学生時代をアメリカ中東部で過ごしたそうです。長男がアメリカに住んでいることを話し、話を盛り上げました。1回生女子マネさんの1人のウェーブの掛かった長い髪を褒めました。「綺麗なウェーブだね」と言うと天然パーマだそうです。でも頭頂部などはパーマ掛かっていないのでそれを話すと、毎朝ストレートに伸ばしているそうです。僕も軽い天パで、伸ばすとモジャ男になるのに、腰上までの長い髪を手入れして素晴らしいです。PM食事作りをしたそうで、食事前の恒例キャプテンからの「今日の食事は?」に「お肉たっぷりカレーと・・・です」と答えていました。上回生マネさんから、大きな声で答えるように言われたのでしょう。
もう一人の1回生女子マネさんは、寮生のようで、「朝8時以降でなきゃ外出できないでしょう」と知ってることを話しました。そしたら「7:50まで仏教礼拝がある」と教えてくれました。今まで「女坂」にある智積院の学校だと思っていましたが、西本願寺の経営する学校だと知りました。龍谷と同じです。
夕食後全体ミーティングとなり、1回生への歓迎、今日の練習で気づいたこと、GW開けのレースで注意することを話しました。20時、掃除の時間となり、ここで帰路に着きます。
帰りは湖西道路を使わず、大津回りで帰ることにした。R161〜r558〜R1〜r117〜r118〜r13〜R478。21:10「ファミリーマート大山崎インター店」でトイレを拝借し、「海苔だし旨塩ひねり揚108円」を購入。〜R171〜r13〜中央環状線〜R171で22時に帰宅。帰りは薄着だったため体が冷えました。ゆっくり風呂に浸かり温め、せっかく温めたのに誘惑には勝てず、プレーンヨーグルト400gを食べて夢の中に落ちました。


2019/4/21
前日土曜日、1日中波に揺られていたため疲れたのか、ぐっすり一度も起きずに朝を迎えました。目が覚めたら窓の外が明るくなっており、久々にこういう朝を迎えました。4月に入り、ぐっと夜明けが早くなった感じがします。大好きな野鳥と若い緑の季節になりました。
学生の多くがまだ寝ているので、起こさないように静かに合宿所を抜け出し、6:44「セブン大津鏡が浜店」で、「明治ブルガリアヨーグルト145円+プレミアプレーンヨーグルト400g145円+味付附海エビマヨネーズ130円+味附海苔辛子明太子150円=570円」購入。ヨーグルト2種は混合し、イートインしました。
食べながらスマホチェックしたら、昨夜「合宿所に泊まります」と送った返事が来ていました。「了解です」スタンプで、スタンプなどいろいろ学習して使っているようです。僕は面倒なので、全く使っていません。気まぐれに自宅に帰らなかったので、下着に着替えを持ってきていないから、7:15「Agデオ24ロールオン無香料40ml・1026円」を購入しました。ただでさえおじさん臭がすると思うし、臭覚昨日の敏感な女子学生が多いので気を使わなきゃ。
臭覚といえば、僕の同級生のはずなのに、家内と僕では臭覚の感度に明らかな違いがあります。僕は何も感じないのに、「何か臭う」と原因を突き止めてしまいます。子を生む能力を備えているからか、母体を守る機能が優秀なんだと思います。
9:40大学発琵琶湖行きの仕事があるので、ゆっくり余裕を持って京都に向けて、三条通コースで向かい、8:45に校庭に入りました。1時間以内は無料です。その後は30分200円でそれを含めてもお安いです。ただ学校に関係する方でないと入れません。
続々やってくる新入生とおしゃべりし、また第3便として6人乗せて琵琶湖に向けて出発しました。三条コースで10:10艇庫へ。また土曜日同様、第2陣と共にコーチボートに乗り、新歓の手伝いをします。またまた2便目から良い風が入り、最高の試乗会日和になりました。この日も40名弱の新人がやってきてくれました。2度目・3度目の新入生もおり、夕食での入部宣言に期待が持てます。女子プレイヤー・女子マネージャーがまだゼロなので、特にここに期待したい。
この土日は暖かく、女子大生の服装が薄着になり気味なので、ちょっとウキウキです。ハーネスやライフジャケットなど、大切な装備をきちんと身体に着せねばなりませんから・・・。
16時過ぎに終了。一応今年の新歓試乗会はこの日で終了です。10:10〜16:23YHP300円。合宿所に戻ります。鍋の美味しい匂いに誘われ、キッチンに入り買ったおにぎりを食べます。部員が手伝いながら、女子マネさんの指揮でおにぎりを結んでいます。本日は鶏鍋+おにぎりのメニューです。
「コーチ、私別れちゃったんです」と女子マネさんから告白されました。「え〜、いい感じだったのに〜」「私から振っちゃったんです」「あいつ、グループをまとめる素質を持ってるのにな〜。まあ、女性から見たら男なんて未熟だからアラが目立つからな〜。あいつ落ち込んでいだろう」「そうでもないように見えましたが・・・」「いや、男はプライドがあるから平気な顔するけど、影で落ち込んでいるよ」と、僕が大学1年の春から2年のクリスマスイブまで付き合ってた子とのことを話しました。
いい感じだったので僕が高をくくっていたのが原因だと思います。ヨット部の練習で土日や休日が潰れてしまうので、デートはウィークデイの放課後以降が相場でした。「寂しい」と言われたけど、学部一の美人さんが僕を好きだと言ってくれてたし、山の家に連れて行った時は「奥さんになったみたい」と喜んでくれたし、彼女のご両親やお兄さんとも普通に話をしていたので、まさか振られるなんて思ってもいませんでした。僕が買ってあげた4℃の指輪だって薬指にはめてくれていたのに・・・
それが、1ヶ月前に神戸のイタリアレストランで食事して気に入り、クリスマスイブ・ディナー・ペアーチケットを購入しました。それを楽しみにしていたクリスマス・イブイブの夜、電話が入り「明日行けなくなった、これからは親しい友人として・・・」と言われ、途方に暮れました。僕と一緒の時は、いつも楽しそうだったから、中高から一緒だった同じ学部の親しい友人から、「お前別れたの?彼女、別の男と手を繋いでたよ」と報告があった時も、「彼女と同じクラブの人じゃないかな?男なら手を繋ぎたいでしょう」と意にも介しませんでした。むしろ、それぐらいモテる女性の方が僕は好きですし、男と上手に付き合える女性だなと思いました。
暇になったクリスマスイブの日、彼女が来ないのがわかっていながら待ち合わせ時間に待ち合わせ場所にいました。行き交うカップルを見送りながら、「あ〜あ」といろんなことを反省しました。人生で初めてしっかりお付き合いし、卒業後の結婚も考えていた好きな子に振られ、いろいろ学びました。
デートに誘い一緒にいるのだから好きに決まっているのに、「私のこと好き?」って聞かれたことがありました。きちんと言葉に出さないとダメということを学びました。2人で歩く時は、積極的に手を繋いだりしないとダメなことも学びました。
お別れした女子マネさんの他に、3回生と2回生の男子部員2人・2回生女子マネ
人が聞いていました。何かを感じたかな?みな、好青年で可愛い子なので、異性にモテそうです。これからもいろいろ異性とのあれこれが有るでしょう。
夕食が始まり、前日同様あ〜だこ〜だ。1回生自己紹介が盛り上がり、PVに歓声が上がり、キャプテンの挨拶で終了です。20時から、新人7人を乗せ京都市内の学校まで送りました。それから帰路に着き22時前に帰宅しました。家内は既に夢の中で、風呂に入りヨーグルト食べて夢の中へ・・・


2019/4/20
1週間前に続き、コーチしている大学ヨット部の新人勧誘ヨット試乗会の手伝いです。先週は午前2回大学からヨットハーバー、試乗会終了後大学まで1回でしたが、今週末は午前1回・終了後1回の2回の手伝いです。9:30大学発です。
朝起きて、車の車内をクリーニングしました。2・3列目のマットを水洗いして、7時過ぎに自宅を出発し、中央環状〜吹田ICから名神高速に乗り、7:44「桂川PA」で「助六寿司399円+ミネラル麦茶140円=539円」購入しました。京都南ICで下車しました。時間に余裕があるので、久しぶりに四条通を走り、あのお店に寄ろうと思い、R1〜九条通〜河原町通で四条通を走るルートにしました。ところが、四条通の交通規制があり、四条通への右折が出来ませんでした。
仕方なく、「三条通」を走り、「東大路通」を北上して大学へ。8:30過ぎに校内に入り、担当部員と集まっていた新入生とおしゃべりします。9時の第1便が出発し、僕の担当する第3便を9:30に出します。担当部員が、琵琶湖のハーバーから「山中越」で来る途中で、原付バイクと四輪との事故があったようで、今週も三条通ルートで琵琶湖のハーバーに向かうことにしました。車内では同じ1回生同士で話が弾んでいます。4月に体育会やサークルの新人勧誘期間なので、皆いろんな所に参加し、その情報を交換し合っています。それらで知り合った新人同士がまたここで一緒になったようで、和気藹々に近いコミュニケーションが始まっており、聞いていて気持ちが良い。
10:08にハーバーPに入り、新入生を艇庫に誘導します。上天気で、風が弱めですが試乗会日和です。先週はエンジンオイル交換で出していなかったハードコーチボートも試乗会に参戦しているので、僕も乗ることにしました。第2便を沖に出すために戻ってきたコーチボートに新入生と共に乗り込みます。
トラピーズハーネスを着せ、ライジャケの着用を確認し、いろんな話をして楽しませようとします。2便目から風が上がり、3〜4m/sの試乗会で最適な風になりました。昼頃少し休憩して午後も同じ流れが続き、16時過ぎに終了。
僕は一足先に合宿所に戻ります。10:08〜16:28、YHP300円。OB部屋に入り昼寝をします。新人勧誘は2回生が全てを取り仕切り動いていますが、今年の新歓隊長は女子部員です。彼女を中心に、新歓運営幹部がOB部屋に入ってきて、夕食会の席配置を入部感触の良い新入生には上手にクラブのことを伝えられる部員を横の席に配置しています。ハーバー艇庫での感触・ヨット試乗中の感触・レスキューボート上での感触・・・いろんな感想が出て、聞いているだけで楽しそう。
18時から「手巻き海苔」夕食が始まりました。自分で海苔にご飯や具を載せて手巻きして食べるスタイルです。こういうのは初めてです。女子マネさんは色々考えるね。
歓談が20分ほどあり、僕が指名されました。新入生に話します。僕の大学ヨット部卒業後のヨット活動を話しました。ヨット部が高校にある学校は稀で、ほとんどの部員が初めてヨットに触れて入部して来ます。ヨット部に入ることで広がるこれからの世界を伝えたつもりです。
恒例の1回生自己紹介がいつものように盛り上がり、プロモーションビデオを見てもらい、主将挨拶で締めくくりました。京都に帰る車便の説明があり、僕も大学正門前まで7人を送りました。ここから帰路に着くのですが、翌日も新人勧誘の手伝いなので、合宿所に引き返しました。
セブンイレブン大津鏡が浜店で、「明治ブルガリアヨーグルト145円+プレミアプレーンヨーグルト400g145円」を購入し、イートインしました。合宿所横に車を停め、OB部屋に戻り床に就きます。大部屋では、翌日のために部員ミーティングをやっていましたが、いつの間にか夢の世界に落ちていました。


2019/4/14
コーチしている大学ヨット部の新人勧誘の手伝い日です。8:50と10:20、京都の大学から琵琶湖のハーバーまで、2回新入生を運びます。全ての行事を終えた20時に新入生を乗せ京都の学校まで戻します。その他の時間はフリー。密かに期待していた女子マネ勧誘のための京都女子大便への指名はありませんでした。早寝早起き・快眠・快便の僕が、先週から便のリズムがおかしくなり、最終手段として前夜便秘薬を飲んで寝ました。このようなお薬を飲んだ記憶がないので効きすぎて、3時から4時までトイレの前で産みの苦しみで七転八倒していました。唸ってる僕に気づいて家内が起きてきました。心配ないと言ったのですが、まだ心配なようで京都まで同行することになりました。申し訳ない。
7時に出発するつもりでしたが、産みの苦しみで睡眠不足になったのか、目を覚ましたら7時でした。「こりゃいかん」と慌てて着替え7:30、車に乗って出発。近所のコンビニで、レーズンバターロール+クリームパン5個+BOSSとろけるカフェオレを購入。R171〜中央環状線〜豊中ICから中国道〜名神を走り、京都南ICで下車し、R1〜東大路通で8:25大学構内へ。駐車料金は、1時間無料です。
東寺五重塔横を走っている時、家内のスマホが鳴ったのに気づきました。長男のお嫁さんからのLINEビデオ電話の記録が4回も残っていました。「どうしよう」と言うので、「20分後に電話する」とLINEしました。大学について正門の「くすのき」前でお嫁さんにLINEビデオ電話しました。孫のりょうくん・こうちゃん・ルーカスくん、お嫁さんも元気そうで、ワイワイ顔を見ながら話をしました。便利ですね。なんせ相手は、アメリカ東海岸にいるんだから。
家内はそのまま京都観光しに行き、僕はヨット部の旗の前で、3回生F君と集まってくれた新入生とお話しました。8:50になり女子1名・男子6名乗せて出発。山中越が最短ですが、市内もあまり混んでい無さそうなので南回りで琵琶湖に向かうことにしました。東大路通を南下し、岡崎の疎水沿いを走り、「ここ屋形船が走るんだよ。まだ桜が綺麗だね」などどプチ京都観光して、インクライン〜蹴上〜三条通〜山科〜湖西道路〜ハーバールートで約30分。
新入生を艇庫に届け、部員にバトンタッチしまた京都に戻ります。同じルートを大学まで戻り、また学内へ。続く10:20便は、4名の予定でしたがキャンセルがあり男子2名になっちゃいました。午後から雨の予報でしたが、走り出したらポツポツ来ました。同じルートで艇庫の向かい、10:54ハーバーPへ。
インフレータブルボートが2艇沖に出ており、ハードボート1艇は係留中です。エンジンルームが開けているので、見に行きました。ヨット部の先輩がオイル交換しながら、メンテナンスのアドバイスをレスキュー担当部員3名にしています。有り難いことです。こういう作業がお好きなようで、持参の工具を使いながら、丁寧に説明されていました。
艇庫で新人にハーネスやライジャケを着せる作業を手伝いました。次々にやってくる新人と艇庫内で話す部員とのやり取りを聞きながら、若者の今を感じます。最近GFさんが出来た部員がイジられています。自虐ネタに近いです。
最終便が終わり、先にヨット試乗を終え合宿所に戻っていた新人の中で希望者が2度目の試乗にやってきました。低庫内のくつろぎスペースを撤収するタイミングで、ハーバーを後にしました。10:54〜15:27ハーバーP300円。合宿所に行き、台所で部員たちとあ〜だこ〜だやっていると、京都女子大の新入生が帰るということで、「大津京駅」まで送るお仕事がやってきました。
彼女を駅に送り届け、16:46エネオス近江神宮前SSで給油しました。エネオスカードもお財布も忘れていることに気づき、小銭入れを探ってあった900円分だけ給油しました。ついでに、オイル交換した時の廃油のことを聞いてみました。ハーバー最寄りのGSなので、うちの燃料は全てここで購入しています。「いつでもどうぞ」と快諾を得ました。レスキュー担当の女子マネTさんに伝えておかねば。
カレー鍋で夕食タイムが始まりました。僕もテーブルで一緒に食べるよう席も指定されました。何度も使っている写真を家から持って来たので、その説明をしようと司会2回生Kくんに申し出て少し時間をもらい話しました。予定では最後に話すことになっていたようです。
新人の自己紹介タイムがいつものように大いに盛り上がり、プロモーションビデオを皆で見て、キャプテンの挨拶、そしてお開きとなりました。20時、最後のお仕事です。女子4人男子3人を大学ヘ送ります。同じルートで大学に戻りました。助手席に座った男子から、ヨット部についていろいろ質問を受け丁寧に答えました。この日の新人挨拶での入部宣言は1名で、80%と85%が各1名いました。既に数名入部してくれているので5名ぐらいでしょうか?女子マネさんの入部がないので困りものです。女子選手も数名確保したいです。
東大路通〜九条通〜R1〜名神〜中国道で、22時前に帰宅しました。風呂に入り、ヨーグルト持って自室に上がり、美味しく頂いたらコテンと夢の世界に吸い込まれました。ああ楽しかった。


2019/4/13
「カフェの会」の集まりの日です。隣町・宝塚市中心部・宝塚ホテル近所のカフェ「月地亭」でランチ〜街歩き「手塚治虫記念館」コースです。11:30「月地亭」前集合なので、バイクで行くなら10:30に出ればOKです。駐輪場のことや、周辺を見たくて、「通勤リード110」に乗り10時に家を出ました。
朝、青空が広がり六甲山がクリアに見えるので暖かくなるだろうと、ウインドブレーカーを着ずに出ました。トレーナーから風が入り、走り出しは快適でしたが、「こりゃ、ちょっと寒いかも?」と感じになり、最近寄っていなかった「ワークマン」に寄り道しました。10:11「サノラックレインジャー2500円」を購入し、レジで値札などを切ってもらい、その場で着て店を出ました。
R176で宝塚へ。宝塚歌劇場横を通ると、Pにバスが数台停まっており、出待ちの妙齢女子が数十人出口付近に群がっていました。いつもながら凄い人気です。10:36「月地亭」に行きバイクPがあるのを確認しました。「BASE宝塚」という看板を見つけ、「何かな?」と探索。「Coworking Space」だそうで、Free WifiとFree Drinkだそうです。小規模事業主向けのレンタルスペースのようです。武庫川に面しており、気持ちよく仕事ができそう。
駅と武庫川の間の路地を探索し、「がんこ宝塚店」横からR176に復帰し、左折しr337で橋を渡って武庫川左岸へ。ウイルキンソン工場があったエリアから武庫川沿いを南下します。
10:52ウイルキンソン工場外観を模した小さな建物を見つけ寄り道。公民館のようです。11:22、「月地亭」に戻ってくると、クラブ主催のJさんがいました。電車で来ようと思ったけど、思い直して車で来られたようです。北摂のワインディング田舎道が気に入ったようで、「バイク出来たら良かった」と悔やんでいました。宝塚の雰囲気が気に入ったようで、宝塚方面のカフェを開拓したいそうです。「宝塚は女子率が高いでしょ」とお勧めしておきました。
KJさんが来られました。阪急電車今津線で来られたようです。お初のYちゃんさんが来られました。なんとお着物です。小型二輪ツーリングクラブに参加されているようで、僕の名前だけ知っておられました。「はじめまして」の挨拶。Tさんが来られました。このクラブで一度ご一緒した方です。Cさんがいつものように車で来られました。山科から高速利用だと45分で早すぎるので、下道で近畿道摂津北まで出て、あとは高速で来られたそうです。六地蔵〜R1ルートでしょう。車の運転が好きですね。
11:30、お店が開店したので入店します。すぐにSさんが来られ7名全員集合。リーダーが注文してくれていた「月地亭ランチコース2500円」の内容セレクトをします。ドリンクは?パスタの味付けは?
13:34、会計を済ませます。美味しゅうございました。武庫川を渡り、13:53「手塚治虫記念館」に入館しました。スタッフが、「JAF会員証などお持ちですか?」と割引になることを教えてくれました。僕&もう一人が持っていたので、1割引630円になりました。1会員証で5人まで割引になるそうです。
リボンの騎士等身大フィギュアがお出迎えです。鉄腕アトムグッズなどいろいろあります。
『ぼくは宝塚という町で育ちました.幼少年期をそこで過ごしたわけですが「いじめられっ子」でしたし、戦争にも突入したしすべてよいことばかりだったなんてとても言えません。だから決して昔に戻りたいとは思いません。
けれども、いまから思うと、まわりに自然があふれていたことはありがたいことでした。幼いころ、駆けずりまわった山川や野原、夢中になった昆虫採集は、忘れられない懐かしさと輝きを、ぽくの心と体の奥深くに植えつけてくれたのです。ぼくのペンネームの「治虫(おさむ)」も甲虫のオサムシになぞらえたものです。
子供の頃の自然のすばらしさ、豊かさはいまでも鮮やかに蘇ります。ほんの少し以前まではどんな小さな町にも雑木林とか原っぱがあって、ガキ大将といっしょに日暮れまで走りまわって遊べる幻想の王国でした。そこには宇宙基地でもあり、探検隊の行く秘境でもあって、空想がどこまでも広がっていく無限の場所だったのです。
ちっぽけでも、あったかい家のすぐかたわらに、そんな場所があって、そこから子どもの夢は縦横にはばたき、まっすぐ宇宙めざして飛び出していくことができたのだと思います。林の向こうに真っ赤に大きく揺らめきながら沈んでいく夕日や、風のざわめき、青い空に高く流れる白い雲、そんな自然にふれたとき、たとえ幼くても、ぼくはいつもやさしい気持ちになっている自分を感じていました。大人になったいまだって、それは同じ。きっとみんなそうだろうと思います。人間がどのように進化しようと、物質文明が進もうと、自然の一部であることには変わりはないし、どんな科学の進歩も、自然を否定することはできません。それはまさに自分自身=人間そのものの否定になってしまうのですから。
マンガの中で未来社会をずいぶん描いてきましたが、それはぼくの中の「自然」が土壌となって、宇宙の彼方にも飛んでいく、あるいは小さな虫の中にも入りこんでいく想像力を育んでくれたからこそだと考えています。 「ガラスの地球を教え」より』
医師免許証と医学学位記が展示されていました。「鉄腕アトム」「千夜一夜物語」「ジャングル大帝」「火の鳥」・・・色んな作品が紹介されています。海外で出版されたものも展示されています。
『マンガの神様・手塚治虫 日本の「ストーリーマンガ」の生みの親と言われる手塚治虫は、1928年大阪に生まれました。映画好きだった父は幼い手塚に多くの外国映画を見せ、演劇ファンだった母は、男役も含め女性が全ての役を演じる、女性だけで構成された宝塚歌劇をよく観に連れて行きました。少年時代に第2次世界大戦が勃発。
1945年に終戦を迎えると、マンガ家に憧れていた若さ手塚は、尊い全ての生命と平和を何としても守らなくてはいけないと確信します。その瞬間から、熱く燃えるヒューマニズムの精神は手塚マンガの土台となり、あらゆるマンガのジャンルを越え、老若男女全ての読者層を魅了してゆきます。約50年続いた輝かしいキャリアの中で、一説によると15万枚以上の原稿を描いたという手塚治虫。多種多様な作品群を展開させ、壮大で一貫した世界観を構築し、多くの有名キャラクターを世に送り出しました。手塚の偉業はその後に続く多くの作家の模範となり、マンガ史の礎を築いたのです。「マンガの神様」とまで呼ばれるようになったのはそのためです。
「マンガの神様」という表現は、西洋の世界では誤解を生むこともあります。というのも、ユダヤ教・キリスト教の一神教の西洋文化では、神と聞くと全能の唯一の神、創造主である神を思い浮かべがちだからです。しかし、仏教と神道が土台にある日本では、神々は人々に恩恵を与え、影響力を持つ存在と認識されています。ですから手塚は、ある一つの媒体(例えばある一つの産業)の創造主としての全能の神ではなく、ある市場の開花に寄り添い、マンガというジャンルの評価を高めてくれた守護聖人と言えるのではないでしょうか。マンガが秘める可能性を少年の頃から確信し、マンガを描きたいと強く望み、マンガを通して深いヒューマニズムのメツセ一ジを伝えようとした作家手塚治虫の不屈の志は今でも私達を圧倒し続けています』
鉄腕アトムの原稿が展示されています。まだ荒書きの状態です。懐かしいな。ジャングル大帝もよくTVアニメで見ました。その後ミュージカル「ライオンキング」を知り見て、「ジャングル大帝だよね」と思いました。手塚治の遺族が、「ディズニーに盗用されたのなら、むしろ名誉」と答えるはずだとして不問にしています。何でもお金にする社会と、文化の広がりに喜びを見つける人の違いですね。
『歴史との出会い 次世代に遺す遺産:1972年〜1989年
手塚は歴史マンガよりもSFのジャンルでより腕をふるっていたとは言うものの、早くから歴史をテーマにした作品を手がけ、1950年には「平原太平記」を発表しました。しかしながら、歴史的出来事は長い間ストーリーの背景としてのみ使われていました。意識的に史実とは距離を置いて、人類に対する主観的な視点と自らの意見を延べる表現方法を用いました。「奇子」もその一つで、敗戦後の日本で農村住民の都市への流出が激しくなる中で、戦後の農業改革が社会構造にどのような影響をもたらしたかが背景に描かれています。
1970年代に入ると、手塚は歴史そのものを語ることに集中するようになり、またそうした作品を複数並行して描きました。1981年の「陽だまりの樹」では価値の優劣が大きく変化し、歴史的背景そのものがストーリーの中心的存在となりました。それ以降、手塚は強靭なヒーローを描くことはなく、主人公達は特に目立った個性がないごく普通の人間で、偶然にも、そして不幸にも、歴史の歩みに翻弄されてしまった人々という描かれ方をしています。こうした考えのもと、1983年、手塚の大傑作の一つとなる「アドルフに告ぐ」に着手します。「ヒトラーがユダヤ人の血を引く」と書かれた文書の発見をきっかけに、アドルフという名の2人の幼なじみの運命が翻弄されてゆくストーリーです。その頃、マンガはかつてないほどの人気を集めていました。「AKIRA」(1982)の大友克洋、「ドラゴンボール」(1984)の鳥山明など、これまでのマンガの文法やスタイルを刷新する多くの新しいスターが登場していました。絵がますます洗練されてゆく中、手塚は逆方向に歩き出します。デビュー以来初めて、時代の流れに逆行し、次々と出現する新しい発明に競争を挑むことはなくなりました。また、手塚にしては珍しく、自分の衰えを露呈することもありました。マンガのスタイルが大きく揺れ動くこの時代、手塚は作品のテーマを掘り下げる作業に全力を尽くし、絵の簡素化を通して自らの文法をくつがえしました』
作品を自由に読めるコーナーが有りました。小学生の子も多数、熱心に読んでいました。デジタル検索するPCは全て子供でふさがっていました。この子たちにとっては2世代も前の作品なのに・・・。
成長年代別に手塚の生涯が展示されていました。8才の時描いたマンガ絵は既に素晴らしい出来です。10才の頃はカラーになり、1940〜1945(11〜16才)の蝶の標本は・・・いや標本ではなく詳細な絵でした。母に買ってもらった牧野富太郎図鑑の挿絵を思い出しました。ファーブル昆虫記のフンコロガシの挿絵もこんなでした。当時は写真ではなく、詳細挿絵の本が多くありました。今なら写真の方が安く出来上がるのでしょうね。
「リボンの騎士プロジェクト・宝塚市観光大使・第9期生募集」のポスターが貼ってありました。すみれちゃんがこちらにいるなら応募したいぞ。アニメが小劇場で始まったので、皆さんと観ました。
14:56、外に出て宝塚大劇場前「花のみち」を歩きます。桜はまだ咲いています。八重系はまだ見頃です。小林一三翁の像が立っていました。
『逸翁の多方面にわたる業績は、天下に普きところ。夙に当地に嘱目され明治40年箕面〜有馬電気軌道株式会社を創立して開発に着手せられ、独創的なる少女歌劇並に動植物園を設立し以て、今日の殷盛を基礎つけられれた。本市産みの親とも言うべく、ここに宝塚市民は在りし日の温容を朝倉文夫先生に嘱し、胸像を鋳して永久にその偉業を讃えんとするものである』
15:16、カフェ「華」に入りました。カーテンボード奥の席が丁度空いたところでラッキーでした。CMがたくさん放映され話題の「ハズキルーペ」の話が出て、老眼の話題になりました。翌日新人勧誘の手伝いに行く予定になっているヨット部の学生たちとは、決してならない話題です。
ここで解散し、お車組お二人と一緒に戻り、帰路に着きました。帰って家内と、「老眼の話題になった〜」と笑い合いました。


2019/4/7
家内とのハイキングの日です。天気は良く最高。ところが、前日コーチしてる大学ヨット部の合宿所前の草刈りを頑張りすぎたので、太ももが筋肉痛です。前日の夜は腰も痛かったのですが、変な歩き方をしている僕を見て、「湿布貼っやげようか?」と腰に2枚貼ってくれたので、朝には腰痛が解消していました。
選挙投票日ですが、投票は後回しにして出発します。もう少し早めに出発する予定でしたが、「これなら朝選挙に行けたね」と家内に言われたぐらい遅れ、7:10「通勤リード110」にタンデムして出発しました。阪急伊丹駅近所の駐輪場にバイクを預け(200円)、駅改札前のasnasというコンビニで補給食と昼食を購入します。7:36、「特上どら焼き140円+フルーツパウンド108円+手巻きおにぎりツナマヨ115円+クリーム玄米ブラン162円+紅鮭いっぱいおにぎり140円=665円」。阪急電車に乗り、塚口〜新開地まで。時間はあるので、のんびり各駅停車で神戸に向かいました。新開地駅で神戸電鉄に乗り換えです。初めての新開地での乗り換えでしたが、ホームから出ることもなくスムーズでした。
また各駅停車を選択し、のんびり「鈴蘭台駅」を目指します。選択したハイキングルートは、「鈴蘭台駅・標高280m〜神戸心な女子大330m〜鈴蘭台東口290m・1.4km〜410m〜再度公園・修法ヶ原池・神戸市立外国人墓地390m・3.5km〜再度山峠410m〜太龍寺330m・4.4km〜生田川出合250m・5.5km〜五本松ダム220m・6.8km〜布引の滝雄滝175m・7.5km〜展望台120m〜新神戸駅60m・8km」です。
前日の夜は、僕の体調&家内の「もっと短いのはないの?」発言により、「新神戸駅〜ロープウェイ山頂駅〜ハーブ園〜布引の滝〜新神戸駅」という短縮ルートに決めていましたが、今朝の晴れ上がった空を見て、家内が「最初お父さんの言ってたルートでいいよ」の言葉が出て、当初のルートに再変更しました。
阪急電車内で、家内が「お誕生日おめでとうしよう」とスマホのLINEにメッセージを打ち始めたので、僕もLINEを開き、「こうちゃん、お誕生日おめでとう」と先回りしました。ピコン、家内のスマホが鳴り、「あ〜、お父さん先に送るなんてずるい」と笑い合いました。家内はもっと長い文章を送っていました。4/6は、長男とこの次男こうちゃんが3才の誕生日です。アメリカ東海岸に住んでいるので、日本との時差が−13時間だから、日本時間4/7・12時までに送ればアメリカ時間の4/6当日です。
神戸電鉄の途中の駅名に「鵯越」がありました。平家物語の源平一の谷合戦の時、義経軍が平家軍の背後をついた奇襲作戦の見せ場「鵯越の逆落とし」の場所です。当時はこの神戸電鉄ルートで義経軍が進軍しました。
8:52「鈴蘭台駅」。9:02地上に降りて、ハイキング開始です。バスも走っている車道の歩道を登っていきます。9:15、標高のピークに「神戸親和女子大」がありました。今度は神戸から北上している国道428に向かって下ります。9:31R428との交差点「鈴蘭台東口」。ここから山道ルートです。「再度公園」の案内柱が立っており間違えませんでした。
ここで最初の休憩をしました。家から持ってきた麦茶を飲んでいると、スマホをチェックしていた家内から、「さやかさん(長男のお嫁さん)からTV電話来てたわ」と。え〜とスマホを見ると、着信が4回ありました。電車に乗っていた時間帯でした。
ビデオも届いていました。さやかさん手作りのいちごクリームケーキに立てたローソクに火が灯り、「ハッピーバースデー」を歌っているようです。もう1本は、3才の誕生日を迎えた次男「こうちゃん」が僕らに話しかけています。2本とも電波事情が悪い山の掛かりなので、帰宅後Wifiで見ることにしました。
9:51「宗教法人・興隆寺 神戸聖地霊園」。ここから、四輪のすれ違いが厳しい道になりました。二股に別れており、「どっちかな?」と頭を巡らし始めた時、「再度公園・修法ヶ原」の道案内柱が立っていました。ここから舗装がなくなり地道です。怪しいブルーシートに包まれた物体が道の左右に並んでいます。「桑の木工房」という木工所でした。「おはようございます」工房内の外で2人の男性が話しており、中では機械で木を削っていました。ブルーシートの中身は建築廃材で、まだ使える木材を削ってドレスアップして再販しているようです。
10:00、木工所を過ぎるともう車が入れない山道になります。いよいよ本格的な山道の始まりです。「おはようございます」後から上がってきた男性に抜かれ、「あの方についていったらいいね」と話していたら徐々に距離が離れ、階段を登ってピークを越え下って行かれて見えなくなっちゃいました。
10:10階段の一番上に腰掛け、ここで2回目の休憩です。家内は「お腹が空いた」とおにぎりを食べ始めました。僕は水分補給のみ。ここは別の山道との交差点でもあり、そっちから男性が走って来ました。「こんにちは」、僕らにもとても無理なトレイルランニングを楽しんでおられるようです。
ヤマツツジが綺麗に咲いています。10:20次の山道交差点。「再度公園(修法ヶ原)弘法大師行場」「鍋蓋山・六甲全山縦走路」「洞川湖〜学習の森・有馬街道〜鈴蘭台」方面の交差点です。「少花粉スギを植林しています」だって。花粉生産量が従来杉の1%以下だそうです。
下っていくと鳥居が見えてきて、ベンチとテーブルが並んでいます。「弘法大師修法の地」だそうです。『修法ヶ原・大師堂 延暦23年(804)、空海(弘法大師)が入唐求法(ぐほう)の旅に出られる前に当地に来られ、航海無事並びに新しい仏法修得を祈願されました。願いが叶ったか無事中国に渡られ、唐の都・長安の青龍寺にて、恵果和尚より真言密教を修得し、2年後に当地に再度登られ、無魔成満(むまじょうまん)の御礼参りをされました。よってこの地を修法ヶ原と呼ぶようになりました。
後世の人、空海が修法された場所に堂宇を建立し、修法ヶ原・大師堂と名付けました。旧大師堂は老朽化の為、昭和52年に井上仁性大龍寺住職が再建し、今日に至っています』
修法ヶ原池が見えており、売店らしき建物・トイレなどがありそう。アスファルト舗装路があり、神戸から車で来れるようです。案内板に「外国人墓地」が載っているので、それを見に行きましょう。家内はここで休憩しているそうです。
『神戸の外国人墓地の歴史は、兵庫開港に先立つ慶応3年(1867年)5月の欧米外交団と日本政府との合意書調印に始まります。その年のクリスマスに、フラワーロード(旧生田川尻)の東側、小野浜(中央区浜辺通り付近)で最初の埋葬が行われ小野浜墓地が誕生しました。
翌明治元年(1868年)元旦には兵庫の港が開かれ、外国人居留地が設けられました。その後、明治31年(1898年)に墓地の埋葬地に余地がなくなり、青谷付近の春日野(篭池通4丁目・旧上春日野町)に新たな外国人墓地が設けられました。その後、神戸の発展に伴い、市街地にある墓地の郊外移転が始まり、昭和5年(1930年)に小野浜、春日野両墓地をここ修法ヶ原に移転する計画が出されましたが、昭和13年(1938年)の阪神大水害や第2次世界大戦などで完成が遅れ、昭和27年(1952年)5月から8月にかけて、ようやく小野浜墓地(墓石666基、歴史的記念碑、樹木など)が移されました。また、昭和35年(1960年)10月から翌年10月に墓地移転にあたっては、28基の墓が、横浜など神戸以外の土地に移されています。
現在、この墓地には、明治以来日本とかかわりをもった外国人やその日本人妻など約2,900名が埋葬されています。その中には、初代神戸港長のマーシャルさん、造船など近代産業の発展に功績のあったハンターさん、神戸の洋菓子・パンで有名なモロゾフさん、フロインドリーブさん、私学振興に尽くしたタルカットさん、ラッバスさん、外国人スポーツクラブKR&ACを創り近代スポーツの振興に尽<したシムさんなど、多くの著名人も異国での眠りについています。
概要:面積14ha 墓碑数2300基 慰霊碑3基 記念碑2基』
『神戸市立外国人墓地公開のご案内
公開方法 申込方法:ハガキによる申込み(参加無料) 公開方法:案内員が付添い解説します
公開日時 4月から11月の毎月・第4日曜日 午前の部10:20〜定員30名 午後の部13:20分〜定員30名 所要時間:1時間30分程度
申込み方法 往復ハガキで、参加希望月の1日から10日までに申込み ハガキには下記の事項を記入(送付先:下記問合せ先まで)代表者の住所・氏名・電話番号、参加される方全員の氏名、希望される時間帯(午前の部か午後の部を明記)団体での申込について 随時受付 10名以上30名程度までの団体を対象 希望日の2か月前までに、右記問合せ先までお電話ください 〒651-1102 神戸市北区山田町下谷上字中一里山4-1 神戸市建設局公園部森林整備事務所・外国人墓地 078-341-5200(平日の9時から17時まで)』
正面の門扉は閉じられていました。『神戸市外国人墓地の墓参日時は以下の通りです。 1/4〜12/28 9:00〜16:30 親族とその関係者以外の入園は出来ません。一般の方は、展望台から園内を見学できます』
展望台に上がってみました。整備された庭園墓地という感じで、緑の多い公園内に舗装された遊歩道が走り、墓標が並んでいます。自然の起伏に沿い、上手く設計されています。
『神戸市立外国人墓地の概要 この外国人墓地は、1867年(慶応3年)小野浜(現在の中央区浜辺通り付近)に兵庫港開港と同時に日本政府により設置されました。更に1899年(明治32年)春日野(現在の中央区寵池通4丁目付近)にも設置されました。しかし、両墓地がいっぱいになり1952年(昭和27年)この地に移転されたものであります。この自然に囲まれた約14haの聖地に世界60ヶ国約2800柱有余の墓碑が、宗教別に整然と配置されています。年間を通じて遺族の方や遠く日本を離れた本国からも墓参の人が絶えません』
『勇士の慰霊塔 この像は、第1次世界大戦のとき阪神間に住んでいた、英国人及び仏国人が祖国のために出征し戦死された19名の慰霊碑であります。なお、この像は神戸外国人団体により出征勇士の慰霊のため1921年(大正10年)8月春日野墓地に建てられたものを19611年(昭和36年)ここに移設したものです』
10:55修法ヶ池に戻り家内と合流しました。ベンチに座り「どら焼き」を補給食にしました。
次は「大龍寺」に向かいます。再度山の西ルートと東ルートがあり、東は神戸市街地を目指す川沿いに走るのでなだらかな下りで、西ルートは再度山の尾根を越える山道ルートです。西を選択します。「太龍寺0.5km・諏訪山公園3.8km・新神戸駅4.2km」、ここが全ルートの中間地点です。
『森を育てよう 昔このあたりの山々は、太龍寺の境内林を除くと白い岩肌が露出した禿山だった。その山に20世紀の初めから大規模な植林が始められた。マツ・スギ・ヒノキに加えてサクラやモミジなど色どりを添える広葉樹やシイノキ・カジノキなどこのあたりの安定した山に生える木々も植えられて、緑の山を育てる努力が今も続けられている。
森林は、災害や環境汚染の防止などに重要な役割を果している。またレクリエーションの場として私たちに楽しみを与え、そこで生産される木材は建築用材やパルプとして生活に欠<ことの出来ないものとなっている。森林を育てるためには苗木を植えたあとも草刈りをしたり肥料をやる作業が続けられ、50年から100年以上かかって森林が育っていく。色々な樹木が混り合った森林は小島や昆虫・ケモノたちのよい棲み家となる。きょう森林の中を歩いたのを機会に、君たちも大切に森林を護り育てる気持を養って欲しい』
峠に案内板が立っていました。「太龍寺0.3km・諏訪山公園3.6km・新神戸駅4km」「修法ケ原池0.2km・再度公園0.3km」。下りになります。道の上に鳥居が見えてきたので、僕はよじ登ってみます。山門があり、「近畿36不動尊霊場第9番」「摂津西国第6番札所」「ぼけなし観音第8番」「摂津国82番霊場」と書かれていました。玉垣に「赤松克助」「赤松大三郎」の名が見えます。神戸・播磨に来ると「赤松」は室町時代から隆盛した赤松氏の本拠ゆえ、一族の名が見えだすようです。
大龍寺境内には、「毎日登山・壱萬回塔」の石碑が立っていました。10000/365日=27.4年。下に30名ほどの名前が刻まれており、素晴らしい記念碑です。
『神戸ヒヨコ登山会と発祥の地・善太郎茶屋について
100年余りも前から神戸の生活文化とて定着している「毎朝(日)登山」は、ここ大龍寺山門下にあった吉岡善助・善太郎兄弟が営む山の茶店から背山の山筋に広がって行った。長男善助か営む茶店は、貿易商を営む外国人を中心に貿易関係の日本人が加わって活況を呈していた。片や末弟・善太郎が営んでいた門前茶屋(善太郎茶屋)は大龍寺に参詣する人々や毎朝登山で訪れる神戸市民が大半のお客様であった為、如何にも日本的な雰囲気を漂わせた茶店であった。
大正11年10月5日、この善太郎茶屋に集結した僅か10名の先人によって立ち上げられた私達の登山会は、戦災や震災など数々の苦難を乗り越えて本年目出度く創立90周年を迎えたのである。とかく神戸の「毎日登山」は、国際色豊かな善助茶屋のみが発祥の地として脚光を浴び、茶店が廃墟と化した跡地には、私達も含めた「善助茶屋を保存する会」によって昭和53年10月に毎日登山発祥の地の碑が建立されているが、善太郎茶屋のことはあまり話題に上がらなかったのが事実であった。私達会員は、毎日登山や例会登山に参加することによって精神肉体の健康を維持できている日々に感謝し、併せて益々強い絆で結ばれていくことを折念すると同時に、創立95周年を迎えた証しとして、ここに「ヒョコ登山会発祥の地・記念レリーフ」を建立するものである。 昭和29年7月23日 神戸ヒヨコ登山会・会長・吉野宏、役員一同』
「市ケ原1.3km・新神戸駅3.6km」「再度公園0.7km・鍋蓋山1.4km・菊水山3.4km」「善助茶屋跡0.1km・二本松1km・市章山2km」。下っていくと立派な山門があり、そこが奥再度ドライブウェイ・太龍寺バス停でした。
ドライブウェイを渡って川沿いに舗装路を下ります。「高尾山山頂1km」という案内柱が立っていました。「高尾山ってよく聞くよね」と家内、「う〜んそれは武蔵の高尾山だね。あれは関東だからここじゃないよ」「ああ、そうか。ぜんぜん違うね。滋賀県の草津に1人で行った時、「近くに草津温泉があるんだ」と思ったのと同じだ」と家内が笑っています。家内のこういうところが可愛くて仕方ない。学業優秀なのに、女性特有の空間認知力不足ゆえ、とんでもなく遠い場所と間違う。関東に住む次男一家がドライブした草津温泉が、滋賀県にあるなんて男は思わないものね。性差で、得手不得手がそれぞれあって面白い。僕も、「なんでそんな事できないの?」って感じで不器用にこなす細かい作業を見られて、お互い笑っている。
川を渡っている橋の向こうにゲートでふさがっている謎のトンネルがある。なんだろう?「これより進入禁止 神戸市中部建設事務所」と書かれた案内板が建っていた。川に根こそぎ流されて来たような大木が横たわっている。そこに獣檻も引っかかっている。大雨で流されて来たのだろう。大雨が降ると、かなりの水量の水が急流となって流れ下りそうです。そのため砂防ダムとかいろいろ災害対策されています。
12:02生田川との合流部に来ました。広場になっており、多くの方が昼食を取っています。お湯を沸かしてラーメンの方もおり羨ましい。六甲全山縦走路で、案内板には「市ケ原」と書かれていました。「太龍寺1km・再度公園1.7km・鍋蓋山2.6km」「市ヶ原トイレ0.1km・新神戸駅2.4km・摩耶山4.3km」「高尾山1km・分水嶺越1.7km」。
生田川を渡る橋は、丸太に横板を並べただけの簡易的なものでした。地図で橋の存在はわかっていたけど、あまりの簡易さに驚きました。それを渡って、河岸をつづら折れで登っていきます。
12:07「櫻茶屋」。ビール・コーヒー・おでん・フランクフルト・アメリカンドッグ・白玉ぜんざい・鶏のから揚げ・・・、公衆電話もあり山の中の便利ステーションです。トイレもあります。「市ケ原」は夏は川遊びの方も加わりそうで、売上が安定していそう。ここのベンチでまた休憩をしました。
「迂回路」の看板があったので見ると、六甲山を南北に走る「トゥエンティークロス」コース脳回路のようです。この場所の北側が崩落しているらしく、「市ケ原」経由で更に北に合流するコースを紹介されていました。この道は、森林植物園経由で真北に六甲を下り、神戸電鉄「谷上駅」に至ります。「市ケ原」から見れば、西に向かうのが僕らの歩いてきたハイキング道で、真北に向かうのが「トゥエンティークロス」です。
生田川沿いを下ります。緑の大型ゴミ箱がたくさん並んでいます。「神戸投輪連名本部」「布引投輪クラブ」の看板の下がった建物があります。廃墟になった茶店を利用しているようですが、このクラブ自体活動しているのか怪しい。更に下ると廃墟となった「曙茶屋」がありました。朽ち果てるに任せています。「市ケ原」からハイキングのお客さんが増えました。スカートの方もいるぐらい気楽な山道のようです。続いて「紅葉茶屋」がありました。こちらは盛業中です。
ここで、川沿いに下っていく道もありました。本道「神戸布引ハーブ園0.9km・新神戸駅2km」、振り返る道「市ケ原0.3km・再度公園2.1km・摩耶山4.5km」、下っていく道「布引貯水池0.5km・布引の滝1.7km・新神戸駅2km」。
下っていきましょう。つづら折れを下ると、「神戸市水道局・布引貯水場」裏門がありました。定時になると閉まるのだろうか?『分水堰堤(ぶんすいえんてい)・分水堰堤附属橋 分水堰堤とその附属施設の役割は、布引ダムに流れる水量を調整したり、土砂がダムに流れ込むのを防ぐことです。分水堰堤で水を堰き止め、棋台(きょうだい)から流入した水を、分水堰堤隠道を通して布引ダムに送っています。にごった水や必要以上の水は、棋台の弁が閉まり、分水堰堤を越えて放水路に流れ、ダムには流入しないようになっています。
分水堰堤は、切石をアーチ形に積み上げ、水圧に耐えるように設計されています。棋台に架かる附属橋は、鉄筋コンクリート製のアーチ橋で、床の鉄筋を格子状に組む、モニエ式と呼ばれる先駆的な技術で作られています』
道路脇に、業務用ちりとりと竹箒が置かれていました。定期的に遊歩道を掃除しているのでしょう。
『アベマキとコナラ林 写真と実物の木を見比べて下さい。向かいの斜面の木立は、主にアベマキとコナラです。いずれも六甲山の林をつくる主要な樹木です。木を見分けるポイントは、花・葉・樹皮などですが、木の枝ぶり(樹形)で見分けることも大切です。どちらもブナ科の木ですが、見分けられますか?』
「市ヶ原0.7km・再度公園2.5km」「布引ハーブ園0.6km・新神戸駅1.7km」「布引の滝1.3km・新神戸駅1.6km」。「布引の滝」方面に下ります。貯水池が見えてきて、「廣助稲荷大明神」の鳥居とお社があった。家内がお参りに行きました。孫たちの順調な成長に感謝しに行ったのでしょう。
『NOTICE The water in this reservoir and river is used for drinking. so
please ofserve the following.
・Keep out of the fenced area.
・No swimming or No fishing.
・Help us keep this area clean. Kobe City Water works Bureau』
ここのベンチで休憩。貯水池の「五本松ダム」の向こうに、ロープウェイが見えます。ひっきりなしに上下しており、お客さんが多そうです。湖面に浮かぶカイツブリが、何度も潜って魚を探しています。
12:51ダム関係の建物。「布引ハーブ園0.3km」「市ケ原1.1km・再度公園2.9km」「布引の滝0.9km・新神戸駅1.2km」。鳥居の横に「ご利益がございますのでお参りして下さい」と書かれていましたが、鳥居裏から急階段が続いているので遠慮しました。
『布引断層 貯水池のフェンスまで下がって前の崖を見て下さい。岩石が縦に深く掘り込まれていますね。これが断層です。断層は大地がずれ動いた時、岩石が押しつぶされて出来た裂け目です。何度も繰り返され、岩石は粘土化してしまいました。ところで、この断層はどちらの方向に続いているかわかりますか?反対の方向を向いて見ましょう。池の向こうに谷が見えますね。水の侵食に弱い断層が削られて出来た谷です。もし、あなたが崖の断層と谷を結ぶ線上に立つならば、この布引断層の真上にいるわけです』
橋を渡り「五本松ダム」の堰堤。水道の蛇口と水飲み蛇口がありました。珍しくなっちゃったな。以前は何処の公園にもあって便利だったのに。この施設がなくなり、自販機が置かれるようになりました。説明が流れるボタンがあったので押してみます。ダムの説明が始まりました。コンクリート重力式ダムで、表面に石タイルが貼られ趣があります。
つづら折れで下り、「五本松隠れ滝」がありました。水量の多い時は2筋のようだが、今は1筋です。『五本松かくれ滝 平成18年7月5日に、布引水源地の水道施設が国の重要文化財の指定を受けました。みなさまに知っていただき、また、布引貯水池周辺のすばらしい自然環境に親しんでいただくため、布引五本松堰堤(ダム)が完成した当時にダムの放水路としてできた滝の愛称を募集し、平成19年6月に「五本松かくれ滝」を愛称に決定いたしました。滝の周辺は、昔から「五本松」と呼ばれており、ダムがオーバーフローした時だけ流れる滝であることからのネーミングです』
「布引貯水池0.2km・市ケ原1.4km・再度公園3.2km」「布引の滝0.6km・新神戸駅0.9km」。「見晴台(市民トイレ)0.3km」。『六甲山を作っている2つの花崗岩 六甲山は、この2つの花こう岩で出来ています。右うしろの2つの岩を比べて下さい。全体に黒い鉱物の多い花こう岩が布引花こう閃緑岩で、白っぽい長石、ガラススのような石英、はがれやすい黒雲母と鉛筆の芯のよこうな黒い柱状の角閃石から出来ています。六甲花崗岩は角閃石が少なく、石英や長石、黒雲母の他にピンク色のカリ長石の多いのが目立ちます。どちらも地下でマグマがゆっくり冷やされて出来た深成岩です』
『谷川橋 鉄筋コンクリート製の橋で、2本のアーチ形の桁が特徴的です。この橋桁に使われている鉄筋は、折り曲げるなど工夫がなされており、当時としては新しい技術が使われています』
『猿のかずら橋 森林を育てる作業を保育と言い、保育が行き届かないと樹木の生育環境が悪化して、樹木が枯れたり、病害虫が発生する危険にさらされます。また林の緑を覆うツル植物は林内環境を保護する役目も果たしますが、繁殖しすぎると樹木の生育を妨げるため、ある程度ツル植物を取り除く事が必要になります。平成18年、六甲山の瀬戸内海国立公園編入50周年記念に、取り除いたサルナシのツルを有効利用して、六甲山に関心のある市民を中心に「祖谷のかずら橋」に似せた装飾を行い「猿のかずら橋」と名付けました。
装飾初期より、ハイカーや観光客の方には好評を頂いておりましたが、老朽化が進んだためこの度取り替えを行いました。引き続き、皆様に親しまれると同時に、森の将来について考えて頂く契機になればと期待しております。なお装飾作業にあたっては、平成18年、並びに今回の作業のいずれも「祖谷のかずら橋」の経験者である兵庫区在住の藤澤海市氏に指導と多大な協力をいただきました』
この「かずら橋」を渡れば、「滝山城跡碑・再度ドライブウェイ」に行けるそうです。家内が渡ってみました。祖谷のかずら橋は、ワイヤーで補強しているだけで揺れるし底板の間隔も広くスリル満点ですが、この橋はしっかりした橋にカズラを巻いているので全く揺れず安心です。
13:14、神戸の町並みが眼下に見下ろせるようになりました。水源地の門?があり、それを抜けると横に「見晴台」がありました。ここで休憩します。
『後鳥羽院御製
 布引のたきのしらいとうちはへて たれ山かぜにかけてほすらむ
 蛍とぶあしやの浦のあまのたく 一夜もはれぬ五月雨のそら
後鳥羽院(治承4年1180〜延応元年1239)、第82代天皇。歴代天皇の中で和歌に最も熱心な方であり、新古今集撰集の業にはその第一線に立たれ、撰者達を指揮された。即ち新古今集は院の親撰である。
鎌倉幕府妥当の事ならず隠岐に配流の身となられたが、遠島においても専ら和歌に心を寄せられ、王者の風格と気品に満ちた詠草を遺されている。この2首共に最勝四天王院障子和歌で、布引の滝と芦屋の里を題したものである』
「布引の滝0.2km・新神戸駅0.5km」「布引貯水池0.6km・市ケ原1.9km・再度公園3.5km」。
『六甲山と大阪湾の生い立ち 六甲山は、50万年前ごろから急速に高くなってきた若い山です。そのころから東西方向の圧力が強まり、土地がうねるように変形しはじめました。そのうねりの山が六甲山で、谷が眼の前にひろがる大阪湾です。圧力が非常に強くなると岩石が破壊されて断層ができ、隆起と沈降の差はますます大きく、そのたびに六甲山は高くなりました。今あなたの立っているこの場所は、隆起側の山に入ったばかりのところです。
山地の隆起と堆積盆の沈降 100万年間に六甲山地は数百メートル隆起し、大阪湾は数百メートル沈降した。古い大阪層群で山とともに山地と盆地の境は、断層で断ち切られている場合が多い』
山小屋風の建物に、「神戸ヒヨコ登山会署名所」の看板が下がり、その下に入山届箱があった。毎朝、ここで署名し集計するのでしょうね。「ヒヨコ」との名前にしては、強い脚力と継続する心の強さがありますね。
『未来への手紙 1995年(平成7年)1月17日午前5時46分、阪神地方を襲ったマグニチュード7.2の直下型地震は、死者6308名・負傷者41527名・焼失家屋7608棟・焼失面積659402平方メートル・倒壊家屋236617棟の大きな被害をもたらしました。私達はこの震災から得た体験を後世に伝えるため、多くの市民から寄せられたメッセージをここに収納しました。 1996年4月13日』
見晴台から、新神戸駅近くのANAホテルが見え、東に目をやると家内の姉夫婦が休日に住んでいる高層マンションが見えます。補給食として買った最後のフループパウンドを食べました。はんぶんこしようと思ったけど、家内は要らないんだって。トイレ休憩して下ります。
13:46「布引の滝」を望むオープンな茶店の横を通り、つづら折れを下って滝の下へ。途中からも素敵な滝が見えナイスでした。この滝に来たのは初めてで、意外に高低差があり素敵な滝でした。
『六甲山の隆起と雄滝 この滝は大地のどんな仕組みで出来たのでしょうか?川の流れが増水時に運ぶ石が川底を削る働き(掃流)もありますが、六甲山の上昇による影響も考えてみましょう。この滝の両側の山を見ると、山はここから急に高くなっているのがわかります。これは滝の上流側の山が下流側に比べ大きく上昇したためです。生田川がその境目に掛かってできたのがこの雄滝です』
神戸の街中からすぐなのに、生田川は魅力的な深い淵を作って急激に下っています。それに沿って遊歩道があり、のんびり下ります。ところどころ、多くの歌人の歌とその人生が紹介されています。
『紀貫之 松の音 琴に調ぶる山風は 滝の糸をやすげて弾くらむ
紀貫之(?〜天慶8年945)平安朝歌人。官吏としては木工権守が最後であったが、歌人としては最初の勅撰集・古今集撰進の第一人者であり、平安朝和歌の基礎を築くと共に、古今集序や土佐日記によって仮名文学の道を開いた。数多い屏風歌を詠んだのも特徴である。この歌も屏風歌で、延喜17年(917)敦慶親王(宇多皇子)家の屏風の(松山の)滝を画いた大和絵の画賛の歌である。松風が琴の音のように響いてくる、滝水の糸を張っての琴であろうよ、と松瀬と滝音とが調和している風情を思いやって詠んでいるのである』
長い下り階段になった。これを登りで見たら「ガッカリ」しそうな長さです。14:09階段の下まで降りたら、上に向かって「雄滝まで270m」水平な道に向かって「雌滝まで100m」と書いてあった。きっと雄滝より小ぶりな雌滝があるのだろうが、長い階段を下った後なので見学を諦めた。8kmとは言え山道をアップダウンしてきたので、そろそろ足の方が限界に近づいています。前日の1日中草刈りが効いています。
新神戸駅から上がってくる方にとって、「布引の滝・布引ハーブ」と「布引ハーブ園」の分岐がありました。布引の滝を経由しない方が長い階段がないぶん楽かな〜。
『布引水路橋(砂子橋) 明治33年 砂子橋はレンガ積みの水路橋です。完成当時、雌滝と鼓ヶ滝でくみ上げた水を、この橋の中に通された直径8インチ(約20cm)と24インチ(約60cm)の水道管によって、奥平野浄水場や北野浄水場などに送るために作られました。昭和51年の改修により、欄干にレンガが増し積みされて現在の姿になりました』
『断層に沿って流れる川 橋のまん中へ行つてみましよう。この橋の下の川は西から東へ流れています。上流は右(北)に曲かっています。なぜ流れがこんなに急に変わっているのでしょうか。下をのぞいてみましょう。水の流れているところは少し掘り込まれています。これは大地かずれ動いてできた断層です。岩がつぶされてやわらかくなり、水にけずりとられやすいからです。上流ではこの東西方向の断層と、雌滝を通る南北方向の断層が交わり、そこでは流れが大きく北に変わっています』
「北野異人館街1100m・みなと見晴台950m」の案内板がありました。新神戸駅を経由せずに山側を直接異人館街に行けるようです。新神戸駅の建物が間近に迫ってくると、なんだか良い匂いと賑やかがお喋りが聞こえてきました。何処からかな?と生田川の方を覗くと、眼下に大勢の人がいました。ブルーシート・テーブルが並び、お揃いのTシャツを着た男女がお店を開いているようです。駅の真下を生田川が抜けており、そこを利用していました。夏でも駅下の入れば涼しそうです。
駅の高架下を抜けます。「市ヶ原3.7km・布引の滝0.4km」。14:17、新神戸駅ビルに到着し、8kmハイキングのゴールになりました。神戸地下鉄に乗り三宮に移動し、阪急電車で帰路に着きました。家内と一緒だったので、お喋りしながら休憩取りながらのんびりゆっくり楽しめました。


2019/4/6
コーチしている大学ヨット部の新人勧誘日です。車が足りているようなので僕の出番はありませんが、合宿所前の草刈りとレスキューボートのトイレの灯りを設置するために向かいます。
車に、電動草刈り機・電動刈払機・ゴミ袋・乾電池式センサーライト・長靴等を入れて出発します。R171〜中央環状線を走り、5:04「セブンイレブン豊中緑ヶ丘2丁目店」で、「プレミアムカフェオレ500ml116円+コッペパンいちごジャム&マーガリン118円+レーズンロールマーガリン4個116円=350円」を購入。
吹田ICから名神高速に乗り、京都東IC下車。湖西道路を北上し6時前に合宿所着。朝ごはんを食べていると、大学に新入生を迎えに行く部員が車の準備に降りてきました。彼を見送って、合宿所からコンセントと延長コードを拝借し、作業開始。草刈機では切れない太さの草もあり、自宅では垣根を整える時に使っている刈払機の方が使えました。適当に切るとポリボックスに入れて、建物外のゴミ箱横に草を運びます。この連続です。起きてきた部員が数人手伝ってくれだし、8時になったのでハーバー艇庫に部員をいるということなので、単3電池を入れてライトが点くことを確認したセンサーライトを持ってハーバーに向かいます。
女子マネを乗せて買い出しに行く3回生部員Nくんの車に便乗し送ってもらいます。スバルBRZというスポーツカーで、座席がとても低いです。長男が学生時代乗ってたトヨタセリカと同じようなポジションで、おじさんには辛いかも・・・。長男のお嫁さんのお父さんは、同型のトヨタ86を買われましたが、座席の低さに閉口し1年で乗り換えました。
このNくんを見ていると、なんだかかつての僕に似ており親近感があります。ヨットに掛ける熱さをそれほど感じず、ひょうひょうと乗っています。同じ470に乗っており、風速が上がってくると水を得た魚のようにパンピングを繰り返し、プレーニングしカットぶ470をとても楽しんでいます。
僕も学生時代、ブルーバードSSSというスポーツカーに乗っており、それほどお喋りな方ではありませんでした。高校生までの友人の僕への感想は「おとなしい」でしたが、ヨット部での生活で否応なく喋る機会が毎日のようにあり、今やいつ指名されても適当にスピーチできるようになりました。
艇庫前で部員たちに挨拶します。まだ大学から新入生第1弾が着いていないようです。レスキューボートのトイレルームに入り、あれやこれや設置場所と設置方法を考えます。4回生Nくんにボンドを頼みました。
それを待っている間に第1弾が到着し、ハーネスやライジャケを着せる手伝いをします。トイレに籠もり作業開始していると、新入生を乗せて沖に出る時間になり、僕も一緒に出ます。小一時間奮闘しましたが、接着剤の接着力が弱くダメ。ドリルで壁に穴を開けて設置しようと新人勧誘の流れで桟橋に戻りましたが、ビスの抜けた穴が別にあり、それを利用することにしました。ライト付属のビスがいい具合で大丈夫そうです。外れた時のために、ライトが床に落下しないようにシートで別の部分に結びました。果たして持つのかな?ライトは暗くなるとセンサーが働き、動きを察知すると点灯し15秒で消灯します。電源が単3乾電池3本で、電気工事なしなので修理しやすいと思います。お値段も2000円ほどだし。
昼ごろまで、ハーバーで部員や新入生とあ〜だこ〜だし、合宿所に戻って草刈りの続きをしました。新入生全員が戻ってくる18時までみっちり作業して、合宿所前はかなり広くなりました。来月からは、新入生がここを利用し1人乗りヨットを出して、ヨットのいろはを学びます。
片付けて合宿所2Fに上がり、オレンジジュースを頂きます。いよいよ鍋で1年生を交えて楽しい時間が始まります。見ていきたいのは山々ですが、翌日家内と神戸をハイキングする約束があるので、早く寝るために帰路に着きました。19時過ぎに帰宅し、20時台に夢の中になりました。草刈りを1日したので足に負担が掛かっています。明日、歩けるのかな?


2019/4/2
京都亀岡・南丹市の寺社&北山の林道ツーリングに出ました。5:32「里山VTR250」で出発し、r13に出て、5:39「伊丹産業セルフ川西SS」で給油。185km/4.48L=41.3km/L。r13を北上し、R176経由で5:48「ローソン池田新町店」。「ミニクリームパン5個100円+サントリーボスカフェオレ500ml162円=262円」を購入。R173〜R423で北上します。
池田から山区間に入ると、山の上の方が白い・・・4月なのに雪が積もっています。昨日の雨がここらでは雪だったようです。6:25、亀岡盆地に下り朝霧の残りを激写しました。あ〜気持ち良い。道なりにR372に乗り、R9を渡りr403。JR亀岡駅近くを走り、右折してr25で保津川を渡り北上します。亀岡名物の朝霧が立ち込めて来ました。
6:55「宗神社」。R477に乗り、枝道に入り、7:11「松尾神社御旅所」。更に山に向かって枝道に入ります。舗装が切れ地道になり、獣避けゲートを開閉し山側に入ると7:17「松尾神社」。『京都府登録文化財 松尾神社・本殿(室町時代) 松尾神社文化財環境保全地区・神社の森一体』
バイクを置いて山に向かう階段を上がっていきます。境内に上がると、絵馬殿があり、Z旗を掲げた日露戦争時の戦艦三笠艦橋を思わせる絵柄の絵馬が掛かっていた。
『松尾神社(旭町) 三郎ヶ岳の山麓に住置する当社は、大山咋今と市杵嶋姫命の2柱を祭神として祭る。社伝等によると、泰川勝が聖徳太子の命を受けて、佳処である当地に祀ったことに始まるといわれ、平安時代の書物である「延喜式」にも記載された古い社である。
古昔は、近村も含めた氏神として境内にも多くの建物があったと伝えるが、天正年間(1573〜1592)の明智光秀の丹波進攻による兵火により焼失し、わずかに現本殿だけが難をのがれたという。
本殿は、一間社流造檜皮蒼の建物で、明応7年(1498)頃に建てられたものである。身舎組物は三斗組とし、頭貫瑞を肘本状につくり三斗を受ける。側面は2間で妻飾りを又首組とする。なお向拝の桁より下と縁廻りが江戸時代以降の改変によるが、他は軒まわりも含めて室町時代の姿をよくとどめている。
昭和60年に本殿が府登録文化財に、また境内及びその周辺が府文化財環境保全地区に決定された』
室町時代に作られた本殿は、流石に良い雰囲気です。山の麓なので、何処までが鎮守の森かわからないですが、高かったろう杉がバッサリ幹が伐られ、古社ゆえ風害でお社に被害が無いよう地域の方に大事にされて来たように感じました。R477に戻り、それを渡ってr408を少し走って、7:46「真神禅寺」。
山門の前に、薄ピンクのコブシが満開でした。臨済宗でした。境内に入ると、赤い椿が咲いており、下に赤い絨毯が広がるように花が落ちており、その花を受け止めるためか透明ビニールシートが敷いてあった。
r408で、8:00「幡日佐神社・氷室神社」。8:21「瑞雲禅寺」。山号が「氷室山」となっていました。この周辺は氷室で有名だったのでしょう。
『瑞雲寺 山号を「氷室山」と称し、京都花園正法山妙心寺を大本山と仰ぎ、釈尊の正法を相承された。達磨大師を初祖に、宗祖臨済禅師さらに妙心寺開山・無相大師に及ぶ一流の禅、即ち臨済宗を宗旨とする。
開創由緒 寛永年中は嵯峨天龍寺末であったが、年来魚住で捨て置かれていた為、其の訳を本寺へお願い申し上げた処、直に聞き届の上、延宝4年(1676)山城国葛野郡花園村妙心寺末と成り、塔頭龍華院開創竺印祖門和尚の分法を得、同年8月瑞雲寺の再建が成った。竺印和尚を以って開山とするも、実際の入山は竺印和尚の弟子・無相道忠和尚の法を嗣ぐ西河宗和尚である。
本堂 寛政5年(1793)春、第4世祇林全恩和尚の時、印地村氷所村総壇中に再造立された。本尊に釈迦牟尼佛を批、大工は播州三木の香河清兵衛方孝である。
観音堂 安永年中(1772〜1781)造立され、三十三観世音を造り、本尊は白衣観音を頂く、更に地蔵菩薩不動明王が合祀されている。川東三十三ヶ所霊場の第32番札所である』
8:31「天照皇大神社」。バイクを置いて鳥居をくぐり参道を歩いていくと、獣避けファンスがありました。開閉して境内に入ります。石段を上がって行くと、良い感じのお宮でした。
r408に戻り、R477で北山の山に入っていきます。ここから、道の左右に雪が現れました。昨夜はかなり雪が降ったようです。8:52ストップして、山の雪を激写しました。8:57「神吉池廻池」。ここで朝食としてパンを食べました。温度計は3℃でした。
R477を進むと、「通行止め」の看板が立っていました。R162に出れるか不安でしたが、行けるところまで行くことにします。9:20、r363との交点で、R477前方に車止めが出来ていました。ではr363に行こうと思ったら、バリケードはありませんが、こちらにも「通行止め」看板が道の端に立っています。行けるかどうかわかりませんが、行けるところまで行きましょう。バイクなので、何とか行けるかな?と甘い考えで行きます。
r363は、雨に濡れており、道路を覆う木々からも雨粒が落ちてくるコンディションでしたが、崩落箇所などはなく通常通り集落まで降りてこれました。そのまま走り、R162に出て南下しました。地図にある沢道を走ってみようと、止まって入口を確認していると、散歩しているおじさんがやってきて、「どこいくの?」「こんにちは、それを決めようと思って」。「美山が良いよ。周山街道が良いよ」とか「今朝は雪が3cm積もったよ」とか教えて下さいました。
「余野川沿い林道」に入っていきます。前方にダンプが現れ、やがて現場に入っていきました。新しい林道を作っているのかな?9:49「京都グローリーチャーチ」というのがあり、激写タイム。峠を越え、良い感じの急勾配で下りました。全舗装されており、ナイスな林道でした。R162に突き当たり、南下開始。
左折してr31に入り、10:34「道風神社」。「道風神社」の名を地図で見つけ、小野道風に関係あるのかな?と思ってやって来ましたが、なんと「小野道風之廟」と彫られた石柱が立っていて驚きました。こんな所にお墓が・・・。
以前、琵琶湖の湖西「小野」地区に、「小野妹子」の古墳を見に行ったことがありました。古墳の側に「小野道風神社」がありました。小野地区は、平安貴族・小野氏の本拠地です。僕は「小野氏」が結構好きです。絶世の美女・小野小町を輩出したこともありますが、権力のメインストリートではありませんが、歴史のバイプレイヤーとして重要な人物を出しています。
小野道風は、小野妹子の子孫で、小野篁の孫です。小野篁は、数度の失敗後遣唐使派遣を断って左遷されたり、隠岐の島に島流しされたり、晩年は夜間、閻魔大王の手下として働いていると言われた魅力的な人物です。小野道風は、小野好古の弟でもあります。
好古は、平安時代関八州で独立した平将門の乱とほぼ同時期に、伊予を本拠地に瀬戸内海海賊を率い、あわや平安朝廷が京から逃げ出す寸前まで追い詰めた藤原純友の乱を鎮めた平定軍主将です。好古の名は、日露戦争で騎馬隊将として勝利に大貢献した秋山好古に継がれました。秋山好古の名を授けたお父さんに、学問の素養を感じます。
小野道風は、藤原佐理・藤原行成と共に「三蹟」呼ばれた書家として有名です。また、お菓子の体型を創造したことで「匠守」の称号を賜り、その功績者に「匠」「司」の称号を授与することを勅許されていた人物です。現在お菓子の認定制度はありませんが、現在でも御菓子処に「・・匠」や「・・司」の屋号が使われているのが名残として残っています。
小野妹子古墳、小野篁隠岐の島流刑地・閻魔大王に会うために通った地獄の入口、小野妹子生誕地・晩年居住地など巡った小野氏好きの僕にとって、小野道風廟の文字に小躍りしながら神社訪問しました。
『小野道風(894〜966)を祭神とする神社で、道風武大明神(どうふうたけのだいみょうじん)ともいい、延喜20年(920)の創建とされる。書道の歴史は古いが、道風公は書道の巨擘(きょはく)、能筆家でことに草書は堪能であった。藤原佐理(すけまさ)・藤原行成(ゆきなり)とともに、平安中期の三蹟(さんせき)の1人として有名である。村上・朱雀両天皇の大嘗会(だいじょうえ)に悠紀主基(ゆきすき)屏風の色紙形を清書したのをはじめ、願文(がんもん)や門額の揮毫(きごう)など、当代随一の能書として目覚ましい活躍を遂げた。豊麗で柔軟な筆法は、「源氏物語」の「絵合(えあわせ)」に「今めかしう」と評されるように、独自の新様式を加味したものであった。後続の佐理・行成を経て完成された、いわゆる和洋の書の基礎を築いた功績は大きい。道風公が杉坂、産土神和香社(うぶすながみわこうしゃ)から湧き出る霊水で墨を磨って書の修行をし栄達した。その縁により氏神に斎い祀られた。
遺品には唐鏡・硯(すずり)・唐筆・硯屏(けんびょう)・卦算(けさん・文筆)等があり、社宝とされている。また境内には、禁中御修法(みしほ・天皇家の作法や日常生活における習い事)用に献上された和香水と呼ばれる名水がある』
『和香水碑文 杉阪の峰より霊泉が湧き出した。これこそ、神がここに臨まれてその高い徳をほどこされたのである。これによって、ひでりをおさえ、そので泉のうねりをうねうねと、いつまでもうねらせて千年の後にまで及んでも、その恩沢は長々と続いている。
諸侯がこの水を汲んで、うやうやしく、またほしいままにしているが、いくら汲んでも尽きることがなく、万億年さらにその10倍の年までも尽きることがないだろう』
尽きない泉など、いろいろ見ましたが、残念ながら小野道風の御廟は見つけられませんでした。「ここかな?」と思える場所はありましたが、確信がありませんでした。
バイクに戻ります。r31を更に南下します。「京見峠」で左折し、枝道林道に入ります。11:06「氷室神社」。r31に戻り、11:20「cafe山の実はせがわ」というお店がありました。開いていれば入店したね。
11:23「奥長谷林道」入口を見つけ、入って行こうとしましたが、「私有地立入禁止」看板が道脇に立っており断念しました。R162に戻り、北上を続けます。11:39「笠トンネル」手前で、「笠峠」に登っていく旧道に入ろうと思ったけど、「立入禁止」看板が立っていたので断念しました。「笠トンネル」を北に抜け、右折して11:42もう一方の「笠峠への林道」入口を見つけましたが、こちらもゲートで塞がれていて断念。
R162に戻り、更に北上。「京北トンネル」を北に抜け、11:57「道の駅ウッディー京北」で休憩しました。「よもぎ餅2個300円」購入し、家内へのお土産にしました。
R162を更に北上し、r443に入りました。峠に差し掛かると、また雨が落ちてきました。峠を下りr78に突き当たり左折。道なりにr19。12:34「多治神社」。
『由来:神社誌によれば、奈良時代前期の慶雲年間(702〜7)に天智天皇・第3王子・田原左大臣により創祀された。神階:正一位 延喜式内社(国史所載)
祭神:大山昨命・天太玉命
文化財:本殿(京都府登録文化財) 本殿はこれまで4度建て替えられており、現在の本殿は江戸時代の宝暦5年(1775)、播州の宮大工室田仁左衛門の手による建築様式は二間社流造りで、この種のものでは丹波地区で最大級である。御輿2基(日吉町文化財) 江戸時代後期の弘化2年(1845)、氏子の寄進で京の大工・吉野家甚之丞の手により製作された(費用45両)。
民俗芸能「田原の御田」(国重要無形民俗文化財) 鎌倉時代後期の徳治2年(1306)、豊作祈願の奉納神事として始まる。毎年5月3日祭典執行後奉納される。民俗芸能「カッコスリ」(京都府無形民俗文化財) 室町時代初期の応永21年(1414)、豊作感謝の奉納神事として始まる。毎年10月15日までの近い土曜日の宵宮祭直後と翌日の例祭直後、および神輿渡御の間2回奉納される』
走ることの多いr19沿いの古社なので何度も立ち寄った神社ですが、何度見ても良い感じの凝った彫刻が素晴らしい。
r19を走り出します。田原川に沿う気持ちよく走れる府道で、ここらは雨が降った形跡がありません。交通量の少ない川沿いを左右にバイクを振りながら南下し、桂川に突き当たり、桂川沿いを走ります。
左折しr25を走っていると、「京都帝釈天」の案内板があったので、登り口までバイクで探索しました。r25に戻り、右折してr408に乗り、13:19「舩井神社」。「腕森社かいなもりしゃ」という摂社がありました。
『腕森社には、「前九年の役」で源頼義・義家親子に討たれた安倍貞任の腕を祀っている。奥の五輪塔は「腕(かいな)守」と呼ばれ、貞任の腕が埋まっている。貞任の魂が、自分の体を取り戻そうとすると、青い尾を引いた人魂(ひとだま)が東の方へ飛んでいく。腕の痛みに効くとされ、昔は農作業で腕を痛めた人が、よくお参りに来ていた。源氏の勢力が強かった旧船井郡内には怨霊鎮魂を目的としたいくつかの貞任の身体を祀る場所がある。
丹波の山並みを縫うようにして、ゆったり流れる桂川。その中流辺り、京都市右京区京北から南丹市八木町にかけて、桂川の流れに沿うように、はるか奥州の地の豪族・阿部貞任(あべのさだとう・1019〜1062)にまつわる伝説が残っている。平安時代後期、朝廷は自分たちから独立した勢力を持っていた奥州の豪族・安倍氏の征伐を源頼義らに命じた。11年間に及ぶ戦い「前九年の役」(1051〜1062)の末、一族の長だった安倍貞任は「厨川(くりやがわ)の戦い」で戦死し、安倍氏は滅亡した。
貞任の亡骸は朝廷に送られ、都の陰陽師の進言により「東西南北に川のある地」である「有頭(うつ)の地」(現・京都市右京区京北下宇津)に埋められた。しかし翌朝、日の出とともに貞任は生き返り、たたりを成した。そこで体を二分・三分としたが、やはり生き返る。最後は体を7つに分けて埋め、下宇津八幡宮に貞任の霊を祭り、ようやくたたりは静まった。
亡骸を7つに切ったところが「切畑」、首を埋めたのが「貞任峠」。他にも両肩と胴体は「高谷」、腰と両足は「人尾(ひとのお)峠」、足と手を埋めた「両手谷」など、下宇津周辺には貞任伝説にまつわる地名が残っている。中でも貞任峠にある「貞任の首塚」は、歯痛封じの御利益があるとして、古くから地元で信仰を集めている。
下宇津から桂川を下ること20km、南丹市八木町にはここ舩井神社のほかにも、頭を埋めた「久留守(くるす)神社」(同市刑部)は頭痛に効く、などの伝承が有る』
『創立立と沿革
神功皇后の三韓征伐の時、住吉明神に守護を祈られたところ、住吉明神が現れて御船を守護し、海路つつがなく航海出来た上、三韓征伐も成功したので、凱旋後、神功皇后はこの地に住吉明神(舩井神社)に祀った。(『和名抄』)とある。ここより北西500mの地、二十町堰道近くに「オコノモリ」と称える塚ある。「滅居の社」「太古の森」とも書く。ここは曾て大樹が繁り、舩井神社前身の住吉神社が鎮座していたと伝えられている。
舩井神社の「船井」の名称は、大堰川を用材を積んで京へと下る船の停泊地であるという「船居」に由来する。(「舩井神社・・・・凡船舶之所謂之船居」『大日本史神祇志』)旧郡名の「船井郡」も、この神社に由来すると言われている。
大堰川の清流近く舟運の守り神として祀られるとともに、船枝村・清谷村・室橋村・美津村・畑中村・諸木村・野条村の産土神でもあった。大堰川の氾濫により、丈武天皇の御宇、慶雲2年(705)に此の地「鹿野森」へ遷宮と伝える。仁和3年(880)大地震のため、社殿崩壊し、安和2年(970)社殿を営殿す。その後、崇徳天皇の御宇、保安元年(1120)丹波国司三条宰相藤原家保卿、南都より春日4座の神を勧請してこの社に合祀される。
この頃、200町歩もの田地や山林を所有し、境内も広大なもので、崇敬者は3000余戸あったという。寛政6年(1794)に拝殿再建される。本殿は天保3年(1832)に焼失、天保6年(1835)に再建されたものである。平成17年(2005)、遷座1300年祭典を斎行する。
境内の大杉や大公孫樹に悠久の時の流れを、総欅造り・一間社流造の千鳥破風付き、向拝に唐破風を設けた、立派な彫刻で飾られている神殿や拝殿に奉納されている左甚五郎作の金網に覆われた絵馬をはじめ多くの絵馬等に、古米新庄の郷の産土神としての敬神崇祖の篤い思いの歴史を感じさせられる。
式内社(延喜式神名帳−927年−に記載されている神社)、旧郷社祭神と御神徳
本殿:住吉神(底筒之男・中筒之男・表筒之男)、春日神(式甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神) 神徳・・・航海安全、陸上交通・航空安全、旅行安全、五穀豊穣、殖産興業、学業成就、試験合格、芸能上達、武道・競技・政治必勝成就、出世開運招福、厄除け、災難除け、縁結び、安産、夫婦和合、延命長寿、諸願成就摂社:天満宮(菅原道真)・・・雷神、農業の守護神、学問・書道の神。 稲荷社(宇迦之御魂大神)・・・五穀豊穣、産業興隆、商売繁盛、家内安全、芸能上達、心願成就。 伊邪那岐神・伊邪那美社・・・人類の起源神、創造神、延命長寿、縁結び、夫婦和合、安産、子育て、産業繁栄、商売繁盛、出世開運、豊作・大漁、無病息災、病気平癒。 若宮社(天押雲根命)・・・水徳の神、万民の安楽。 八幡社(誉田別尊)・・・国家鎮護、殖産興業、家運隆昌、成功勝利、教育、交通安全、悪病災難除け、諸願成就
遥拝所:伊勢神宮(内宮・外宮) 天照大神(太陽神・皇祖神)・・・日本の総氏神、あらゆる神徳を発揮する万能神、何事にも打ち勝つ勇気や生きる力(精神的エネルギー)を授与。 豊受大神(食物神・穀霊神)・・・農業・漁業・衣食住の産業の守護、五穀豊穣、開運招福、災難厄除け。
神域
参道:鳥居前200m余の桜並木道となっている。染井吉野や幾種の八重桜の樹の下にはツツジが植えられていて4月から5月にかけて、参拝者の目を楽しませてくれる。かつてはこの参道で流鏑馬や早駆けが行われたのであろう。「馬場」という地名が残っている。
樹木:境内には、神木の大杉・大公孫樹・大柾・大槙・古梅・榊・棒・楠・木科・百日紅・楓・山茶花・多羅葉・御玉木・椿・皐・ツツジ・南天等多種の木々がある。
左甚五郎作:「金網に覆われた馬の絵馬」拝殿奥右上の奉納絵馬・・・この馬は夜毎に絵馬から抜け出し、近くの池に水を飲みに行っていたが、首に鈴をつけていたので、この音がやかましくて村の人が困ったそうだ。そこで、みんなで相談して、馬が抜け出さないように彫刻に網をはることにした。それからは、馬が夜中に水を飲みに出ることがなくなったので、鈴の音もやみ、静かになったそうだ。
左甚五郎:江戸初期に活躍したとされる伝説的な彫刻の名人。日光東照宮の「眠り猫」、京都知恩院の「忘れ傘」等の作品や逸話で知られる。落語(「竹の水仙」、「ねずみ」)や講談にもなっている。左甚五郎作と伝えられる作品は各地にある』
『奉祝 天皇陛下 御即位30年 奉祝記帳』の記帳ノートがあったので、喜んで記帳させて頂いた。今年で「平成」が終わります。長い間ご苦労さまです。日本は天皇陛下が古より中央に芯のように続いているからこそ、国民融和されている良い国です。有り難いな。絵馬殿には、多くの古い絵馬が沢山下がっていました。拝殿には、謂れ板に書かれていた金網に覆われた左甚五郎作の馬の彫刻が下がっていた。蟇股や木鼻・脇障子には細かな彫刻が施されていました。
13:52「池上院」。『十一面観世音菩薩の由来 五台山大日寺池上院(天台宗)は、万寿年中(1024〜1028)に天台密教の中興の祖と言われる皇慶阿闍梨が創建した古刹である。本堂南側に隣接した観音堂に安置されている内陣左側の聖観立像は、榧(かや)の一本造りで右手は施無畏(せむい)の印を結び、左手は末敷蓮華を取り穏やかな相好を示している。一方右側の十一面観音立像は、同じく榧(かや)の一本造りの彫眼であり腰を左に捻り動きのある姿である。この2体は、いずれも平安時代(11世紀末から12世紀前半)の特徴を示した尊像として、八木町の文化財に指定されている』
r25に戻り、14:10「文覚堂」。平安期の僧・文覚を想像させる名を案内板に見つけたので寄り道した。『通り堂は、用水路の上に建ち、水路に架かる石橋と一体の堂で、室橋の地名の由来となったとも言われています。神護寺(京都市右京区)の復興に尽力した僧・文覚(1139〜1203)がこの場所から水路の流れを検分したという伝承から、文覚堂の名前でも親しまれています。現在の建物は、平成20年(2008)に再建されたものです。
明治12年(1879)の室橋村の「村誌」によると文覚上人が、治承年中(1177〜81)に当地を訪れた際、用水不足に苦しむ人々を見て深く憐れみ、村の西方の敵地を指して用水池の築造を説き、村中が一致協力して築造に取り掛かり、用水池が完成しました。この池は文覚池と呼ばれ、村民は文覚上人の恩を忘れないため、石橋の上にお堂を建立し、文覚地蔵と称する地蔵を祀って、5月には初笛を供えたと伝えられています。この地蔵は現在は通り堂の西に位置する観音堂(福安寺)の境内に安置されています』
r408を西進します。14:18「荒井神社」。絵馬殿に古い絵馬が多数下がっています。拝殿には、「アライグマ対策のため、格子戸を閉めています 荒井神社氏子総代」と掲示されていました。隣接した「西光蜜寺」と彫られた石柱を見ると、その上に「高倉天皇勅願寺・文覚上人得度地」と彫られています。文覚上人はここで得度されたのか・・・これは寄らねば。
文覚上人は、平家物語のバイプレイヤーの1人です。摂津渡辺党の武士で、上皇を守護する北面の武士時代、平清盛と同僚として既知を得た。出家し、清盛との関係もあり大きな影響力を持ち、何度も京から流されるが、伊豆配流中源頼朝との知遇を得たり、神護寺を再建したり大きな足跡を遺した。僧・明恵の師匠筋でもある。
『南丹市指定文化財 西光寺阿弥陀堂(本堂) 当寺は、奈良東大寺を開創した高僧・良弁によって、天平勝宝8年(756)に創建されたと伝えられる。本堂は、亀腹基壇(かめはらきだん)上に建ち、入母屋造・桟瓦葺(さんかわらぶき)・入妻で正面には唐破風の好拝を付け、擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)付の切目縁(きりめえん)を巡らしている。几帳面付角柱の向拝屋根は銅板葺である。向拝の虹梁(こうりょう)や木鼻には装飾彫刻が豊富である。上部に粽(ちまき)を付けた身舎(もや)柱は欅(けやき)の円柱で、前より二間通りで外陣と内陣とに区別される。京都府無形民俗文化財に指定されている六斎念仏が行われる外陣は、畳敷詰で天井は折上げの小組格天井、内陣は板敷で、天井は小組格天井である。堂内欄間には、欅材で精巧な龍の彫刻がある。また、文化元年(1804)3月28日に上棟されたことが棟札によってわかる』
彫刻が素晴らしかった。r408に出て京都縦貫道くぐり、R9渡りJR山陰本線を渡りr454に乗りました。「口人(くちうど)」交差点で左折し、R477で南下します。いつものショートカット旧道コースに入ろうとしたら、「植木伐採中に付き通行止め」看板で封鎖されており、仕方なくR372との交差点へ。この信号が長く、随分待たされた。後続で待っていた1台の車輌が業を煮やし先頭で待っていた僕の横まで出てきて、青信号になったらダッシュして出ていきました。5分ぐらい待っていた感覚があり、腹が立つのもわかります。信号が壊れているのかと思いました。
R372〜R477〜大阪府道r106〜兵庫r604〜R173に出ました。r12へショートカットしようと思ったら、猪名川教会で通行止めになっており、新名神高速側道として新しく出来たr721で、r12へ移動しました。r13で帰宅しました。


2019/3/31
家内もお休みなので、お墓参りがてら僕の趣味の寺社巡りドライブに行くことにしていました。
3時台に目を覚ましたけど、二度寝して次目覚めたのは何と8時です。僕にしてはとんでもない寝坊ですが、これには理由があります。昨夜「NHK土曜ドラマ」を最後まで見てしまったからです。カズオ・イシグロ原作「浮世の画家」。夕食を食べながら見ていたら始まっただけなんだけど、原作者カズオ・イシグロを見て、「おっ、ノーベル文学賞の方だ」と、お風呂を先延ばしして、少し見てみる気になりました。
大東亜戦争を鼓舞するような勇ましい絵を描いていた画家の生涯を描いた作品です。戦後すぐ、まだGHQ統制下の日本で、自ら画家の仕事から身を引いている主人公と、嫁いだ長女と孫がやってきて、結婚適齢期を迎えた次女との生活の場面から始まる。
孫は、「お父さんから絵の世界から身を引かざる得なかったお爺ちゃんの絵が見たい」とせがまれるが、「何処かにあるよ」と曖昧な答えをする。弟子たちは、保守思想を持った教師・政治家・公務員が次々に公職を追われ、反体制派だった者がそれに入れ替わって行く時代に、主人公との関わりを隠し断とうとする。次女の縁談も、そんなこんなで頓挫してしまう。
次の縁談は、知り合いの画壇評論家の息子との縁。これを壊したくなく、両家の顔合わせの席で、自らの画風が誤りだったと頭を下げる主人公に対し、評論家一家は縁談相手の弟を除いて、「自らを卑下しすぎだ」と擁護する。
この作品に引き込まれ、最後まで見てしまった。僕以上に早寝早起きの家内まで、それに付き合ってくれた。家内の父親は、職業軍人で中国戦線で戦った元将校です。自分の部隊に自らの名前が付いた播州では有名な部隊を率いていた。勇猛果敢で戦歴豊富ゆえ、戦後戦犯に問われても不思議ではなかった方です。シベリア抑留を経て数年後の帰国となったことで、東京裁判は終わっており難を逃れたのかもしれない。
そんな人物の帰国を新聞で知った家内の母方のお爺さんが、「こいつは娘を託せる奴だ」と縁談を進め家内の両親は結婚した。僕は軍人が国家の威信を背負い、存続を掛けた戦に勇敢に戦うことに何の違和感もない。体育会で育った僕には、手強い相手に対して持つリスペクトに近い感情を抱く。スポーツではなく国家の意思に沿った存亡を掛けた戦いゆえ、お互いに死者は出るが、それを残酷とか殺人とか思わない。何故ならば、遠くは鎌倉時代の元寇に始まる戦いに怯んでいては、今の日本が保てなかったから。
日清戦争前だって、強力な海軍を先に整えた清国は、長崎に北洋艦隊の一部を入れて恫喝、死者まで出す横暴をした。日本国が抗議すると、反対に賠償金を迫る。更に北洋艦隊の最新鋭戦艦6隻をもって、アメリカのペリーに習って東京湾に入り威嚇する。
これに対し危機感を持った明治政府は最新鋭艦を配備しようとするがお金がない。そこで手を上げたのが明治天皇で、自らの資金を拠出した。これに端を発し、日本国民の多くから寄付が集まり海軍が整えられていった。
あれがなければ、必ず清国は日本を侵略したであろう。朝鮮半島の問題で日清戦争に発展し、返り討ちにした。これが日本人です。
大東亜戦争で日本はアメリカ軍に敗戦したが、肌の色の違いでずっと蔑まれていた有色人種の日本人が立ち上がった功績は大きい。日本は日露戦争で白人に勝利し、大東亜戦争でもイギリス・オランダ・フランス軍に勝利し、唯一アメリカ軍に負けただけだ。この戦いによって、白人国家の植民地となり搾取されていた多くの有色人種国家が、自らの自信にして次々に独立して行き今の世界がある。ドラマの殆どが、「先の大戦は悪」「軍人は悪」「共産主義者の破壊工作を取り締まり治安を保った憲兵は悪」の思想で表現されているが、僕はそうは思わない。戦争当事者であった父も母も、戦争に対して文句を言っているのを聞いたことがない。首長だった爺ちゃんは、戦場に行った父を誇りに思っていた。敗戦したが「一矢報いてくれた」と軍人さんを尊敬し、お墓参りの時はいつも、「先に戦争で命を落とされた方々に線香を上げ手を合わせてこい」と僕ら子供に促した。このカズオ・イシグロの作品には、そんな思いが流れていた。主人公は、戦後自らの戦争絵を自らの手で焼いていた。その時代に渦巻いた様々な人々の思いを描きながら、戦前の政府の意に沿う作品を手がけた主人公への温かな視線が漂っていた。見ていて、とても気持ちが良かった。
これを見ながら、「何故カズオ・イシグロがノーベル文学賞に選ばれたのか?」の疑問への答えを得た。村上春樹さんが何故かもてはやされ、日本人ノーベル文学賞最有力候補とされていますが、僕には村上さんの作品に良さを感じない。何が言いたいのかわからず、代表作を読んだことがありますが、つまらなくて途中でさじを投げました。思想的に反日を感じ、日本人であろうとするより世界人たろうとする姿勢を感じる。自らのアイデンティティーをしっかり持っていないと根無し草になってしまうように感じる。カズオ・イシグロさんは長くイギリス在住ですが、この作品を見て「日本人としてのアイデンティティーを強く持っている」と感じました。ノーベル賞は、文学賞や平和賞に対し強い思想を感じる。それぞれの国で、それぞれの国を強く感じさせる作家が選ばれているように思う。僕は村上さんよりイシグロさんの作品の方が好みです。
前置きが長くなったが、8時に階下に降りると、家内はすでに着替えていた。「おはよう」の後の言葉が「たーくん良かったね」。「??」、「何か良いことあったの?」。「LINE見てないの?」「うん」「じゃあ、お楽しみに」。朝食を食べながら頭を巡らし、「社長になった」より当たりそうな「子供が出来たの?」と聞くと「当たり〜」。「まだ6mmやけど、心臓の音がちゃんと聞こえたんだって」。「予定日、いつだと思う?」「11月13日」「ブブー11/21だって」。
11/13は僕の誕生日です。「僕がそれまでに死んだら、11/13に生まれてくるから、彼は僕の生まれ変わりだと思って」と家内に伝えておいた。朝から嬉しい知らせで、テンション上がりまくりです。無事出産を願って、安産祈願巡りしなきゃ。
また京都の松尾大社摂社「月読神社」に行かなきゃ。神功皇后が三韓征伐の時、応神天皇が出産するのを遅らせるために腹にくくった石がある。その周りに社務所から授かる石に名前と願いを書き奉納すると願いが叶う。出産の神社です。すみれちゃんの時祈願したので、同じことをしに行こう。
即効で身だしなみを整え着替え家内を見ると、お化粧の仕上げや髪の手入れをやっており、「あと10分待って」とのこと。8:59、給油しにGSへ向かい、タイヤに空気も入れてきました。9:25家内を乗せて出発しました。風が強いですが、数日前に咲き出したソメイヨシノはまだ大丈夫でしょう。花見ドライブになればいいな。
長尾山トンネルで10℃でした。寒の戻りってやつで寒いです。r325〜r33〜r319〜r12のルートで、10:07霊園着。お彼岸に家内の実家のお墓参りしたので、今回は我が家の方です。僕は数日前に参ったけど、家内も報告に参りたいそうです。そう、次男の第二子懐妊報告です。子孫が生まれることほどの人生の喜びはないでしょう。
10:17お墓を出発し、r12を北上し、西峠〜「城東トンネル」を抜け篠山盆地へ下ります。西峠は9℃でした。R372交差点手前の「日置東」で右折し、R372を渡ってr543。「桜酒造」横を通過し、r702に乗って東進。家内が「お腹が空いた」と言うので「ハートピアセンター」に立ち寄るが、パンの種類も少なく気に入って無さそう。「コンビニも近くいなるよ、そっちに行こうか?」「うん」、と言うことで何も買わずに出発。
R173との交差点にある「ミニストップ」で買い物しました。11:14、「ミニストップ」を出発し、R173を北上します。「篠山川」沿いの土手の桜並木が続いています。残念ながら、まだ蕾で素敵な眺めには至っていません。次の週の篠山は、最高でしょう。
「道の駅・瑞穂の里さらびき」横を通過し、右折してR9へ。11:34「九手神社」。横を山に向かって走る道に、「子安権現・不動明王 参道」の石柱が立っていました。バイクで僕一人なら、奥に進んでいきたい。
鎮守の大杉が見事です。『九手神社の由緒 鎮座地:丹波町字豊田小字九手125番地 祭神:大山祇命 例祭:10月17日
山城国・松尾大社より勧請、長元2年9月21日社殿造営。このときの棟札は栗材に墨あと鮮やかに書かれており、今に保存されている。明応7年3月3日再建。天正10年8月17日、松尾大社の神輿を受納した。御室御所から安政4年3月九手大明神の鳥居額を御染筆お納めになり、同5月菊御紋章付燈1対を御寄付になった。
明治6年、村社に列せられたことがある。大正10年4月30日、文部省告示第352号を以って古社寺保存法第4条により、特別保護建造物の資格あるものと認められ、昭和25年8月29日を以って文化財保護法第115条により重要文化財に指定され、昭和61年1月22日文部省告示第4号により、棟札2枚追加指定された。昭和10年4月本殿解体大修理が行われ、遷座祭及び奉祝祭を奉仕した。これが現在の社殿である。当神社の南約4町に旧山陰街道があり、この街道筋に古昔の九手大明神一の鳥居跡がある。この辺を小字烏居野という。毎年7社の神輿が集合したと伝えられる。中納言・大江匡房の詠進歌に、「たころにそ色は見えけり朝日影 匂へる梅は紅の里」とある』
R9〜r444で、11:52「何鹿(いつしか)神社」。『鎮座地:京都府船井郡丹波町曽根小字竿代29番地 祭神:大山祇命 山の守護・野の守護・田畑の作り物延命長寿・産業発展の守り神 御神徳:品陀別命(健康・厄除け・家内安全の守り神)・彦狭知命(建築・技能・芸能の守り神)
年中行事:歳旦祭1月1日。元始祭。交通安全祈願祭1月3日。祈年祭。新入学児童修学祈願祭3月中旬。春季例祭(誕生祭)4月26日。さなぶり祭。大祓式6月下旬。
秋季例祭10月17日。新嘗祭。七五三詣り11月下旬。大祓式12月下旬。
氏子:曽根・森・安井・塩田谷・院内・幸野・144戸
境内神社:春日神社・大原神社。 境内地2325.71平方メートル
由緒その他:天武12年すでに社があってと伝えられ、大宝2年(702)から出石鹿部神社、正和4年(1315)から何鹿神社と呼称している。
永禄12年(1569)再建、弘化5年(1848)再建。
貞和5年(1349)に書かれたと認められる大般若経が、明治6年(1873) まで社内に存在していた。天正の頃(1573〜1591)まで中丹波山内荘7社の神輿が当社に集まり祭礼式を執行した。
本社は山内の荘の一の宮とされ、昔から荘内の人々が尊崇し、神輿の存在中は例祭日に右7社の神輿をかついできて、御旅祭礼があったと伝えられる。
平成11年5月12日、不審火により全焼した本殿は弘化五年二月再建のもので、三間社流造桧皮葺(50平方メートル)軒唐破風の向拝を一間に造る形式、端正な中に柔らかな味を漂わせ江戸末期の特徴をよく現した建物で、その上に覆屋銅板葺(82平方メートル)があった。
現在の社殿は、(中略)平成13年10月完成。(中略)その規模形式は三間社流造銅板葺神饌所を併設し約60平方メートルである』
r444から枝道に入り、11:57廃校になった「須知小学校」。r444経由で、12:20京都縦貫道SA「道の駅・京丹波味夢の里」。催し物テント下で、BMW認定中古車販売をしていた。昼食にしました。
13:19出発し、r444〜須知小学校前を通過し、13:25「導観稲荷神社」。お稲荷さんなので狛犬は「狛狐」でしたが、何故か金網で覆われていました。
『導観稲荷神社 倉稲魂命
鎮座地:京都府船井郡丹波町字須知小字岩清水20番地
祭神:本社・奥社ともに、祭神は「倉稲魂命」。俗に導観稲荷大神と称し奉り相殿に、観政稲荷大神・観月稲荷大神を祭祀している。
例祭:本社5月3日 奥社9月10日
由緒:創立の由来及び年代は、定かでないが、古来茶ノ木山中腹の岩窟に跨りたる所に社殿を建立奉斎していた。弘化年間本殿拝殿兼用の社殿に改築。大正9年其の筋の許可を経て現在の地に、境内地を整備し、本殿拝殿を新築し大正10年5月5日遷座祭を行った。昭和56年に御遷座60年祭を執行し、社務所の改築境内の整備大小鳥居の建替えを行った。其の後中小鳥居の建替えは、平成3年及び平成15年に行われ現在に至っている。末社には、八坂神社・天満宮・大神宮・秋葉宮・金比羅宮等。
御神徳:本社は穀物養蚕に御神威顕箸なりと農民の崇敬篤く、山腹に鎮座の頃は龍り舎を建て遠隔地の崇敬者が徹宵祈願したと言う。又、古伝記に寛政(1780年)頃、力士須知山導観が他の力士7人と共に江戸の土俵で大勝し、篠山藩主・青山下野守より恩賞を与えられた。この力士達は皆稲荷を信仰し、その神社の名をつけていたので藩主は自ら諸社を巡拝し、御神徳を仰いで幟一流を献納した。爾来導観稲荷を信仰すれば何事にも必勝すると伝える。
祈願:安全息災・五穀豊穣・商売繁盛・必勝祈願・招福厄除・学業成就の神として信仰が深い。
大杉:境内に樹齢400年といわれる杉の巨木があり、ひとつの幹より3本立ち並び「京都200選」に選定されている。この杉の本よりこんこんと湧き出る水は「導観さんの岩清水」として、船井6選の筆頭格に挙げられ、多くの人々に重宝がられ、今もかなり遠方からこの水を汲みに来る人か多い。
奥の宮:奥社は、参道口から山上へ1000m(約20分)樹齢150年の杉のある茶の木山の中腹に祭られてある』
京都縦貫道をくぐる時、その下に謂れ板が立っていた。元町長の居宅跡だそうです。r444を東進し、R9を渡ってr80で東進を続けます。枝道に入り、13:54「志波加神社」。
『式内社 志波加神社
由緒:飛鳥末期・慶雲2年(705)創杞と伝わります。平安中期・延長5年(927)に完成した延喜式「行政細則書」全50巻の内2巻を神名帳と称され、当時全国の2861社が延喜式内社として登載されました。現在、旧船井郡内では10社が式内社として祀られています。
御祭神:月読命(つきよみのみこと) 天照大御神の弟神で五穀豊穣を司る農耕の神様です。
建築様式:本殿は一間社流造、拝殿は入母屋造です。境内社は、本殿右に春日神社・天照大神宮・八幡神社。左に多賀神社・住吉神社・稲荷神社・天満宮。東側に金毘羅神社・諏訪神社。西北斜面に天川権現を祀っています。
石段下燈罷・鳥居:灯籠一対は、江戸初期・寛文12年(1672)石垣整備に伴い奉納されたものです。鳥居は江戸中期・享保4年(1719)2月氏子中建立の明神鳥居です。
御神木大杉:樹高約35m、幹部が石垣裏にあり2本の幹が伸び上がっています。「縁結びの相生杉」と崇められ、樹齢は凡そ700年以上と推定しています。
京都府暫定登録有形文化財:平成29年12月27日付告示で本殿・拝殿・境内社天満宮が登録され、平成30年度京都府・南丹市補助金及び氏子・崇敬者各位の御浄財により境内7社修繕が完成しました。今後とも保存・防災等に努め貴重な文化財を護持します』
『1300有余年に亘り御霊鎮まる志波加神社の由緒
志波加神社の歴史:古代には現在の西組奥、ヘナミ谷の東「宮ケ谷」にあったとされ、その後、清水寺跡辺りで祀られたとの説があります。今でも森ヶ坪など、2〜3ヶ所お旅所跡と言われる地名が残っています。この清水寺跡には鎌倉時代作の宝篋印塔が現存しています。清水寺は江戸中期(延享2年1745)創建であることから、その以前の古代から神仏習合の信仰地であったことが伺えます。
創祀は、飛鳥(あすか)時代末期・慶雲(けいうん)2年(705)創祀の貴重な存在です。現在地への遷宮時期は文献がないため不詳です。今から1100余年前の平安中期・延喜(えんぎ)13年(913)醍醐天皇御代に延喜式(行政規則書)50巻が編纂されました。その内2巻が神名帳(じんみょうちょう)です。全国に8万数社ある中で2861社を式内社とされ、旧船井郡で10社、日古町では多治神杜と2社が延喜式に登載された貴重な神社です。
寛保(かんぽう)3年(1743)9月、杜殿再建の際、棟札(むなふだ)に延喜式内社志波加神社と明記されていました。文政11年(1828)の宝庫焼失し文献が焼失しましたが、明治4年(1871)の太政官布告による全国神社調査により、明治6年(1863)6月、村社と認められ、明治10年(1677)6月、式内社の認証書が府知事から下附(交付)されました。
社名の志波加は、アイヌ語で志はまこと、波加は水の意味で、谷々から湧き出る清水に「まことの水」に感謝する意味です。平安時代に訛(なま)って志和賀の村名とされたようです。古文書「丹波の荘園」154頁、室町時代初期・暦応(れきおう)2年(1339)、志和賀村地頭職は足利尊氏が寄進したとあります。今日まで1300有余年に亘り、先祖伝来によって悠久の土地が守られてきました。お社に御霊が鎮まり氏子・崇敬者を温かく加護しています。
鎮座地:京都府南丹市日吉町志和賀宮ノ岡50番地
社格:式内社(村杜)志波加神社
祭神:月読命(つきよみのみこと) 奈良時代初期・和佩5年(712)編纂の我が国最古の歴史書・古典「占事記」に出てくる神さま伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から逃げ帰り、筑紫の口向の橘の阿波岐原の水中で禊祓(みそぎはらえ)で左の御目を洗ったとき生まれた神が、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、右の御目を洗った時に生まれた神が月読命です。次に御鼻を洗りた時に生まれた神が、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)です。月読命は、字義のとおり月齢を読む暦神で、五穀豊穣を司る農神です。
京都府暫登録有形文化財の登録:平成30年1月15日、本殿・拝殿・境内社天満宮が、京都府暫定登録文化財として登録されました。
祭典:1月元始祭、3月祈年祭、6月早苗・大祓祭、10月大祭、11月新嘗祭、12月大祓祭、随時祈祷(初宮参りなど)』
r80に戻り、JR山陰本線を渡りr50の乗りました。14:12「成就院」。塔頭が2寺建っていた。『真言宗神明山平尾寺は、不動尊を本尊とし東寺の末寺として、万寿元年丹波国上世木村、現在の日吉町字天若小字中島に、村が一望できる高台に建立され966年余りその信仰を集めてきた。日吉ダム建設に伴い、天若地域が水没移転することこなり、昭和63年7月ここ殿田・日ノ谷墓園の一郭に遷座したものである』。成就院の塔頭ではなく、移転してきた一寺でした。
r19に乗り帰路へ。道の駅「京都新光悦村」横を走り、京都縦貫道くぐる。枝道に入り、R9を渡って、14:39「生身天満宮」。梅と枝垂れ桜が一緒に咲いていました。絵馬殿に絵馬が沢山下がっていました。
弁天さんがありました。『厳島神社(弁天さん) 御祭神:狭依姫命(一杵島姫命) 建立:承和12年(845)
生身天満宮より古くから、当地の地主神として祭祀されていました。宮寺福量寺僧侶瑞全による「弁財天縁起写」が現存。天女のご真言通り、竹生島より尊像をお迎えし、お祀りしたとあります。
ご神徳は、水神・勝運・開運招福・芸能・女性守護と多大。女の子がお詣りすると美人になる(美人祈願)と伝わります。
例祭(弁天祭り)は、8月1日夕刻斎行。万灯会を開催、地元小桜会様にょり露店も出され賑わいます。60年毎に式年祭を斎行します。前回平成元年執行の際には、社殿が修復整備されました』。孫・すみれちゃんのますますの器量良しを願って、しっかりお参りしました。
『伊勢神宮遥拝所(正面)大神宮 御祭神:天照大御神・豊受大御神天照大御神は、皇室の御祖神であり、私達の総氏神でもあります。豊受大御神は、お米をはじめ衣食住の恵みをお与え下さる神様です。共に我が国に平和と繁栄をもたらして下さいます。
大神宮は、神社には滅多にない西向きに座しています。これは、神宮を遥拝するため。ここに参拝すると、遥か伊勢の神宮に向かってお詣りしていることとなります。平成25年第62回式年遷宮の折、当大神宮においても覆屋根改修事業を行いました。皆様に深謝御礼申し上げます』
『京都府登録文化財(右階段上) 秋葉愛宕神社 御祭神:秋葉神社(静岡)火之迦具土大神・愛宕神社(京都)愛宕大権現 建立:宝永6年(1709)かつて、この境内が火災に遭った時、その火がこの社の前で止まって消えたと伝わるご神威あらたかな神様です。
例祭は、生身天満宮秋季例祭前日に斎行。秋祭り限定で、火の幸を恵み悪火を鎮める「火災除御神札」を授与します。
建物は、福量寺仏堂の旧聖天堂です。福量寺は、生身天満宮宮寺の真言宗寺院・延命院のお寺です。獏の彫刻があり、虹梁には若葉や梅が描かれています』
拝殿でお参りしました。白と黄色のスイセンが簡易な花瓶に生けてありました。パンフレットが多数置いてありました。お約束の牛の像がありました。
『使いの牛 御祭神・菅原道真公の使者である使いの牛。古くより、傷や病気の箇所を擦ると回復するとの言い伝えがあります。また頭を撫でると知恵を授かり賢くなるとも。自分の頭や体と交互に優しく触ります。
台座には、安政7年(1860)奉納の文字と本町若中15軒の屋号名前が彫られています。長い間、願い人に安らぎを与えてきたのです。大神様のご加護を届きますよう静かに、見守って下さいます』
お若い綺麗な巫女さんがいる社務所は、絵馬や御守が綺麗に並べられ、見やすいように壁にも説明付きで飾られていました。境内で、男女2人が焚き火を囲んで話していました。神職の女性の同級生男子がやって来た感じの会話で、とても打ち解けていました。久しぶりに会ったようで、お互いの近況を報告していました。男性は業界の厳しさを話し、神職さんは365日24Hオープンの神社ゆえに日曜日が休めず、スポーツをする子供達の試合に付き添えない残念さを話していました。それぞれの人生を歩み、互いに伴侶を持ち幸せに暮らしているのがわかりました。「ありがとうね」「久しぶりに会えて良かったよ」で話が終わり、僕が御守を選んでいる横に来て、目的の御守を授かり階段を下って行かれました。
新しい命を授かった次男のお嫁さんのために「安産御守」「天晴れる」「絵馬」3点2400円で授かりました。巫女さんは、境内図・月間社報・当社パンフレットを渡してくれました。僕が拝殿で熱心にパンフを見ていたのか、お渡しするように言われているのか丁寧な対応で、とても気持ち良く詣れました。
『千年の時を越える宮司武部源蔵に託された思い 日本最古の天満宮日本三大歌舞伎「菅原伝授手習鑑」に登場する武部源蔵は、生身天満宮最初の宮司です。もう、千年以上も昔のこと。現在の宮司は、38代目。今も武部の姓を継ぎ、生身天満宮をお守りしています。「天神さん」と親しまれる天満宮は、全国に約12000社あり、菅原道真公をお祀りしています。その天満宮の中で、菅原道真公が生きておられる時からお祀りしたのは、唯一生身天満宮だけです。これが、日本最古の「生身(いきみ)天満宮」と称される由来です。
延喜元年(901)、菅原道真公は太宰府に左遷を命ぜられました。当時、京都・園部の役人であった源蔵は、菅公から8男の慶能君をかくまい育てるように頼まれました。引き受けた源蔵は、園部の地で慶能君と共に菅公の無事の帰りを待つこととなります。
源蔵は、ひそかに祠を建て、自ら彫った菅公の御木像を安置し、生祠(いきほこら)としてお祀りします。菅公と仰ぎ、日夜ご安泰を祈り崇敬の誠を尽くしました。しかしその甲斐なく2年の後、菅公は太宰府でお亡くなりになるのです。それから源蔵は、この生祠を霊廟として途絶えることなく礼拝しました。後、神社と改め「生身(いきみ)天満宮」と称し、千年の時を越えて現在に至ります。
グーグル検索1位「しごとのお守り」 TV・新聞で紹介「天晴れる」
しごとのお守り「天晴れる」は、「天まで晴れわたる」爽快な人生を送れますように願いを込めたお守りです。「天晴れる」を受けるため、全国各地からの参拝が跡を絶ちません。また、手作りのとんぼ玉にちりめん製の紐を付けた、色柄形が全て違う、世界にひとつだけの「とんぼ玉合格お守り」。こちらも多くの受験生から高い人気を集めています。
試験日の朝戴くご神徳 合格梅
「合格梅」は、境内産の梅で神職が手作りしたもの。「心願成就」の祈りを込めご祈祷を行い、お祓いをしています。収穫量に左右され数量は限定ですが、合格祈願のご祈祷やお守りを受けられた方に無料で差し上げています。「上の子が「合格梅」を戴いたお陰で試験に受かったんです。ぜひ下の子の分も戴きたくて。」など、遠方からわざわざお参りされる方も多いです。「合格梅」をお渡しする際には、「試験日当日の朝に戴いて下さい」とご案内しています』
このパンフを読んで、先程の同級生さんがこの「天晴れる」を授かりに来られたのだなとピンときました。僕も買ったし・・・
道なりにR477に乗り、R372渡って、15:25「薮田神社」。『藪田神社は、和銅4年(711)に建立されたが、数度火災に遭って現在に至っている。今2社が祀られていて、正面の社は月読命又左奥には猿田彦命が祀られ、丹波4社の1つに数えられる有名な神社である。古文書によると現在の2社の他に37社も小宮があって広く亀岡・園部・篠山方面の39ヶ村が持ち帰って祀っている。昔この地を藪田の庄と云い、字を志田樋(したひ)と云っていたので志田樋神社と呼んでいたが藪田の庄の総本社であったため、後に薮田神社と呼ぶようになり現在に至っている』
旧山陰道〜R477で南下します。r106〜r604〜R173〜R176〜r13で、16:54伊丹市昆陽池北側に出来たカフェ「MIYABI」で休憩しました。家内は「ドリップコーヒーHOT(S)250円+ふわふわ桜ロール280円」+僕は「オレンジジュース(S)350円+濃厚チョコレートケーキ430円=1310円」を美味しく頂きました。


2019/3/24
母校KGレース2日目です。「アドレスV125」に乗って、R171経由で8時前にハーバーに着きました。セッティングしている部員とお喋りしながらKG艇庫前を見ると、机にロガーが沢山並べられています。全艇に載せ、GPSデータを楽しめるのかも?
一昨年まで出場していたD級のレースでは、毎回ロガーを載せ、帰宅後にPCでレース展開を見て楽しんでいました。業者さんが、袋に入れたりしています。声を掛け、ネームカードを渡してお聞きします。「tractrac」という「どこでもヨット」の進化版だそうです。「どこでもヨット」は、レース艇の動き・艇速を見るアプリケーションでしたが、「tractrac」は各レグ毎の平均速度・最高速度・VMGなど細かいデータも数字で出るそうです。ロガー1台25000円+ソフト使用量が必要で、イベントごとにレンタルも出来るようです。
当方OBさんに、僕が提案しているのが、このGPSロガーを利用した「目で見るヨットレース」でのトレーニングです。「ドローンでの空撮」が良いのでは?と提案されているOBさんもいます。ドローンの難点は、空撮時間の短さです。
「tractrac」はデンマーク?だったか、ヨーロッパの会社が運営しており、その日本総代理店だそうです。もとは、トレイルランなどの競技から始まったそうです。ロガー持って走ったら、ショートカットなどのズルは出来ないね。選手がリアルタイムで何処にいるか確認できるので安全ですし。
それがヨット競技にも使われだし、データ解析の細かさから、日本のヨットレースで発達した「どこでもヨット」を駆逐する勢いのようです。国体やナショナル選手権レースで使われだし、和歌山のナショナルトレーニングセンターでは、一式導入して使っているようです。
今回のレースは両クラス合計で60艇以上いるので、25000円×60艇=150万円也。いくつか防水ボックスに入れておられ、それは何処に使うのか聞くと、マークに付けるそうです。水没するとGPS機能が失われるそうなので、海に落ちても浮くように防水ボックスに入れているのだとか。
O大前で、3大学470チームのブリーフィングです。O大副キャプテンに指名され、予報の南西風での風の入り方の傾向を話しました。その後、隣のKG監督やコーチ陣とあ〜だこ〜だ喋っていると、レース前ブリーフィング時間となりました。KG監督が「tractrac」を使用することを伝え、業者さんを指名します。「何が出来るか」などを話した後、「質問ありますか?」。誰も質問しなかったので僕が手を上げ、「ロガーは船の何処に置いたら良いですか?」。「それを言うのを忘れていました。どこでも良いのでなくさない場所に。ライジャケのポケットでOKです」。
ミーティングが終わったので、ブリーフィングできなかったS級チームを集めてブリーフィングしました。470同様、予想される風向での傾向を話しました。「六甲アイランド(右)からのブローが入ると、大きくスターボが上る展開があり、クルーは注意していること」と。
9時になり、レース艇が出艇して行きます。SW(南西)・3〜6m/sの風が続き、470が5、S級が4レース出来ました。前日夕方のコーチミーティングで、O大コーチMさんが懸念していた470チームの副将がトップフィニッシュを1回決めました。当方も各クラス1回ずつトップフィニッシュを決め、とても良い練習になりました。
そろそろレース終了時間の目安・15時という頃、私が前日に続き乗せてもらっていたO大インフレータブルボートがエンジンストップしました。何とガス欠です。O大ハードボートに牽引されハーバーバックし、燃料補給しようと思ったら、レース艇が帰ってきました。レースの方も終了したようです。
KG監督・コーチにレース運営のお礼を言い、選手の片付けを見ていると、KG9艇が自衛隊車両のように、綺麗に3艇×4列で整然と並べられていました。さすが関西フリートの雄・KGです。僕はこういう事を強いたりしませんが、当方部員も何かを感じたでしょう。遠征すると、毎回学びがあります。
17:00からKGコーチ・ジュリーによる「ルール講習会」がKG艇庫2Fで始まりました。去年獲得した「女子インカレ優勝旗」が置いてあります。「tractrac」さんから、本日のレースのロガーデータ解析がプリントされ配られ、解説されました。続いて、ジュリーから今シーズンからの変更点などの「ルール説明」。KGコーチMくんとS級社会人による講習。
講習会が終わり、17:51恒例の3大学「集合写真」。「3大学定期戦」の結果発表があり、470・S・総合全て当方が優勝しました。艇庫に戻り、O大では470・K大ではS級ミーティングです。僕はS級ミーティングに参加し、気づいたことを話しました。
当方と同じく琵琶湖から遠征していたRitsは、昼までレースに参加し、午後から船を積み込み帰り支度でした。昨年は当方も同じスケジュールでしたが、午後のレースが勿体無いので、1日帰る日を遅らせました。月曜日の午前中合同練習し、午後帰り支度です。
ミーティング後、帰路に着きました。翌日の昼休み、「もち吉」に寄ってお使いもののおかきを3つ購入し、ハーバーに走りました。昼にハーバーバックしてきたO大に行き、1週間お世話になったお礼を述べて1つ渡しました。もう一つは「K大に渡しといて」と言付けました。船を洗っている当方部員にも1つ、キャプテンに渡して帰りました。


2019/3/23
コーチしている大学ヨット部が、僕のホームポートに遠征しています。この週末は、母校主催の練習レースです。毎年、この時期に開催してくれており、1週間前の「Dウィーク」同様、2月の後期試験明けから始まった練習の成果を判断する好材料になっています。昨年同様、良い風に恵まれるといいな。
仕事場に行き、なんだかんだ仕事して、6時に帰宅し、着替えて出発しました。今回のお供は、「アドレスV125」。6:52、近所の「セブンイレブン」で、「プレミアムカフェオレ500ml116円+バナナ3本213円=329円」購入。R171で西宮に向け走り、25分ほどでハーバー着。
まずは、ボトムの掃除をしてもらった係留艇を見に行きます。コーチングで乗る船がなければ、こいつを出しましょう。ディンギーヤードに行くとまだ早すぎて、当方の部員は誰もいません。スロープに腰掛けて、朝食のバナナを1本頬張ります。バナナは簡単に食べられ、腹持ちも良くナイスな食品です。バナナが自生する南方の島々は、船で海の幸を取り、いくらでも成るバナナを主食にしていればそれでOKです。怠け者にする果物でもあります。
当方の船をチェックすると、470が2艇しかありません。1艇はマストが倒されている。「何故?」と周囲を見ると、ブルーのゴミ袋でスターン角が覆われている。「嫌な予感・・・」。ゴミ袋の上から触っても凹んでいるのがわかります。めくって見ると、見事に凹んでいる。
部員がやって来たのでその事を聞くと、同じく琵琶湖から遠征しているRits艇に突っ込まれたようです。この艇のドライブをしていたスキッパーTくん本人に状況を聞きました。当方は、470・S両クラス3艇ずつ船を持って来ており、他に2艇ずつ借りて全10艇で遠征しています。他の部員は琵琶湖居残り組として、並行して練習しています。
土日のこの大会を利用し、縁の深い3大学(琵琶湖遠征当方+このハーバーで活動する2校)定期戦としています。当方部員は、この2校の合宿所に居候しています。琵琶湖でのレースには反対に宿を提供しており、お互い様です。より深い付き合いになり、こういう交流はとても良いです。
470クラスとSクラスに別れ、3校合同で行動しています。当方は居候なので、お世話になっている大学のルーティンに従っています。470が居候しているO大の体操が始まり、続いてブリーフィング。キャプテン不在なので代行しているO大副将から指名され、私が喋りました。ライフル射撃部でしたが、長男はこの大学の卒業生で親しみがあります。
続いて、KG艇庫前に移動。監督やコーチが集まっていたので、挨拶に行く。KGレースのミーティングが監督の司会で運営方法などの説明がありました。あくまで練習レースということで、多少の風の強弱や振れは無視してレースを行い、終了時間も15時頃というだけで、できるだけ多くレース数をこなしたいとのことでした。レースは面白いので大歓迎です。僕がレース運営していた頃も、こういう方針でやっていました。
定刻9時になり、レース艇が出ていきます。僕は、O大インフレータブルボートに乗せてもらえることになりました。ハードボトムですが、喫水の低いゴムボートなので濡れるの覚悟です。揺れが大きいから、カメラを撮るのは無理そう。
O大4回生女子マネージャーさんと桟橋に向かいます。当方470部員2名も同乗します。1艇壊れたから、2名余っちゃいました。レース海面に向かいます。2〜3m/s・Nの風コンデションです。同乗している2人の部員に、「この風は左海面のハーバー側からブローが時々入るシチュエーションで、それが入ったら圧倒的にポートタックが上るので、クルーはそれをケアしながらレース運びするのがセオリーだよ。左からのブローが入らなければ、右海面有利の場合が多いが、左ブローのように圧倒的に右が有利になることはない」と伝える。
470のスタートマニューバリングが始まり、スタートするがリコール(早すぎるスタート)する艇が多くゼネラルリコール(スタートやり直し)が3回続き、良い風がなくなってしまいました。大きく右に風が振れたので、しばらくAP旗(延期)で待ちます。KGは本部船と運営艇2艇で運営ですが、1艇まだ出てきていないので、風上マークを打ち替えに行こうかと本部船に提案しました。監督から、「お願いします」と言われ走り出したら、もう1艇の運営艇が出てきたのでそちらに任せました。
南から海風が入るかな?と沖の海面を見るがその兆候はありません。僕の乗っているクルーザーも所属しているKYC(関西ヨットクラブ)のジョイントカーニバルレースが防波堤沖でやっており、参考になります。
結局、また元の風向に振れ戻し、上マークはまた打ち替えスタートマニューバリングに入りました。僕の予想通り、左からのブローが時々入り、圧倒的に左有利になったり戻ったりです。風が無くなることはなく、5レース出来ました。当方は、各クラス1回ずつトップフィニッシュ出来ました。
2レース終了後、O大コーチであるD社OBさんをハーバーまで迎えに行き、一緒にコーチングをしました。インフレータブルに乗っていた2名は、4・5レースに交代で出場しました。30艇ほどのフリートレースを5つも出来、大きな学びになりました。陸上やコーチボート上で予想した北風の傾向は不変で、左海面のハーバー側からのブローが入ると、圧倒的に左有利になる傾向があり、部員も体で体験でき良かったです。
3時過ぎにハーバーバックしました。KG艇庫前で、監督・コーチ陣に素晴らしいレースを運営してくれたことへの感謝を伝えました。当方は僕1人なのに、母校KGはレース運営ということもあるが、監督に加えコーチも数人出張って来ており、層の厚さが羨ましい。でも、反対にやり甲斐があるし、そこを何とか逆転すべく頭をひねり言葉を選ぶのが楽しみでもあります。
RitsのK監督が関大コーチボートに乗っていました。トイレに行く時ちょうどおられたので、「Ritsの走り良かったですね」と伝えました。大学別成績ではRitsがトップでしょう。2位がKG、次が当方かな?なんだかんだ、話が続きました。
レースボートの片付けが大方終わった所で、O大艇庫前でブリーフィング。O大Mコーチの話に続いて僕が指名され、気づいたことを話しました。新しくO大サポーター(実質コーチ)に加わる琵琶湖フリートの滋賀大OBさんの話が続きます。僕とMさんが話すということで、滋賀大さんも来られたようです。
ここでクラブから抜け、3人で話します。僕は、O大ブリーフィングに加わらなかった当方S級メンバーを集め、今日感じたこと・北風の傾向をブリーフィングしました。少し待ってもらったお二人と共にハーバーを後にして、「星乃珈琲」に移動しました。
いろんな取り組みを互いに披露し、情報交換をしました。19:05、お開きになりました。僕はビーフオムライス800円。コーヒー屋さんなんだけど、サンドイッチなどの軽食だけではなく、軽くファミレスのようなメニューで、美味しく頂きました。
R171で、19:30頃帰宅し、家内となんだかんだ話して、風呂に入って「おやすみ」時間となりました。1日海上で揺られていたので、21時前に夢の中でした。


2019/3/17
長男のお嫁さんから、LINEが入りました。長男りょうくんの日本語学校の卒園式だったようです。現地幼稚園キンダーガーデンは6月卒業・9月新学期のリズムなので、卒園式はまだ先ですが、日本語学校は日本国内同様、3月卒業・4月入学のリズムのようです。来月から、いよいよ日本語学校1年生です!現在6才、3才からアメリカに住んでいるので、思考も行動もアメリカンでしょう。一昨年、長男の家に夫婦で1週間お世話になった時でさえ、家内の「日本とアメリカ、どっちが良い?」の質問に、速攻で「アメリカ」と答えていました。
卒園式の写真やビデオを見ると、りょうくんはブレザー・ネクタイ・ハーフパンツ・長靴下の出で立ちで、ヘアーもお父さんのジェルを使っているのかいつもよりしっかりセットされていました。胸ポケットに赤いバラが刺さり、凛々しいです。
プリンストンは、総人口28000人の小さな田舎町です。そこに学生数8000人のプリンストン大学があり、平均年齢が25才という若い街です。そんな小さな町に日本語学校がある事自体驚きですが、卒園者が19人もいておれまた驚きました。人口の1/3が学生という典型的な学研都市で、プリンストン大学がハーバードやイェールと並んで、アイビーリーグを代表するというより世界を代表する大学なので、その知を求めて進出する日本企業が多いのでしょう。
19人の内、ハーフや白人さんと思われるブロンドヘアーやシュッとした顔立ちの男の子や女の子も3人いて、日本国内のアメリカンスクール同様、日本語学校と言えど日本人ばかりじゃないようです。プリンストンは白人比率80%で、アフリカ系・アジア系・ヒスパニック系がそれぞれ7%で拮抗しています。でも、長男の住む住宅地で目立ったインドと思われるアーリア系の顔立ちの子やアフリカ系が想像される子はいませんでした。いずれにしても、幼児時代に多彩な人種が混ざって暮らす所で過ごしたことは、人生に大きな影響を及ぼすでしょう。
「ハーフの子も多いの?」と質問すると、「ハーフの子が半分ぐらいいる」との答えでした。日本語が上手な子もそうでない子もおり、小学校1年生から日本語能力の違いでクラス分けされるようです。ウィークデイは現地公立幼稚園に通っているので、土曜日だけですが日本の風習などに触れることが出来ます。
卒業証書授与式では、名前を呼ばれると「はい」と大きな声で応え、しっかり演壇前まで歩き、きちんと手を伸ばし受け取れました。みんなで連話する挨拶の言葉のトップバッターがりょうくんで、ハキハキ喋れていました。「1年生になったら友達100人出来るかな?」の歌とお踊りでも、ダンスを一番しっかりやっていました。長男同様、「何でも一生懸命やる」の性格が現れており、頼もしく感じました。父が分家して出来た我が家も、僕を経て次々世代までしっかり続けていけそうです。
4月で3才になる次男・こうちゃんは、明日から午前中のみプリスクールに通うことになり、来月からは朝から夕方まで通うそうです。初めてお母さんと離れるので、最初は泣くだろうし、オール英語なので戸惑うでしょうが、生後4ヶ月からアメリカで暮らしているので、TVアニメ含め英語シャワーの中で馴染んでいるからある程度理解できているので、りょうくん以上に英語への戸惑いは少ないでしょう。加えて大らかな性格なので、りょうくん同様すぐに慣れてしまいそうです。母親と遊ぶより同世代のお友達と遊ぶ方が楽しいに決めっているので、「行きたい病」になっちゃいそうです。
次男夫婦にプレゼントしてもらったリュックがお気に入りで、それを背負ってスクールに通うそうです。お兄ちゃんが通っていたので、お迎えで毎日のように行ってたスクールで、誕生会・クリスマス会などの行事では弟の参加も出来、りょうくんの友達に遊んでもらっていたので、楽しみでもあるのでしょう、夜でもリュックを背負っているそうです。りょうくんも、次男夫婦にもらったリュックでずっと通園しました。良いプレゼントをしましたね。
3男・ルーカスくんは、ハイハイが上手になりました。ハイハイからのお座り、その逆もスムーズで、順調に育っています。長男が家族のために頑張るのは当たり前ですが、お嫁さんがしっかり楽しそうに家族の土台を支えてくれている笑顔には、感謝感謝です。一昨年、長男宅に居候していた時も、いつも自然な笑顔でゆったりやってるお嫁さんの日頃を見て、素晴らしいお嫁さんと縁があったな〜と、改めて長男の人生の幸運を感じました。


2019/3/17
朝4時に目覚めました。早起きの僕なのでもう目が塞がりません。ぐっすり寝ている部員の間を踏まないように慎重に抜けて階下へ。4:22「セブンイレブン大津松山店」で、「コッペパンジャム&マーガリン118円+レーズンマーガリン4個116円+明治ブルガリアヨーグルトプレーン400g168円+明治ブルガリア低糖ヨーグルト118円=520円」購入。イートインしようと思ったら店内に飲食スペースがありませんでした。仕方なく、車内でヨーグルトを食べます。プレーンに低糖を混ぜて超薄味です。これがまた美味いんだよね。
合宿所に戻り、起床の6時までお散歩&1F艇庫でPCチェック。天気予報では昼頃雨予報は変わりません。朝ごはんを皆で食べて7:34ハーバーに向かいます。雨が降ってきたので、雨のかからないスペースに移動し体操&ブリーフィング。また皆に積極的に行く効用を伝えました。特に下級生には、この大フリートレースで何かを掴んでもらいたい。
スキッパーズミーティングとなり、風がないのでまた風待ちとなりました。艇庫前で喋っていると雨が降ってきました。少し小ぶりになったので、マネさんのレスキュードライブ練習をします。数回、桟橋着岸練習した後風が出てきたので、レース体制に戻します。
時刻は11時なので、残り2レース十分できます。全艇出艇しレース艇と共にレース海面に向かうが、途中で風が落ちてしまい海上風待ちになりました。13時になり安定した北風が入ってきたので、レースがスタートします。
470の風上第1マーク回航は、なんと当方が1・3・5・6位です。なんと、大爆発です。ここまで5レース、社会人のDくんが全てトップフィニッシュなので、その牙城を当方が崩すのか・・・。第2マークまでに、2・4位だった社会人が1・2に上がり、当方は3・4位に後退です。第3下マークも同じで、次の第4マークまでの途中で風が落ち振れて、途中経過では再び当方がトップを取り戻し1・2状態になりましたが、元の風下マーク側から反対の風が入りだし、ノーレースになってしまいました。
時刻は13:35、「14時以降のスタートはしない」と公示されているので、もうレースは出来ません。上位に当方がズラリと並ぶ圧巻のレースだったので残念ですが仕方ありません。
ハーバーバックし、レース艇を片付け、閉会式です。この大会は、スナイプ級ジュニアワールド選考会でもあり、当方の新2回生Mくん/3回生Oくんコンビが優勝して、南米ブラジル・ジュニアワールド大会への切符を手にしました。
車で合宿所に向かいます。7:34〜16:18P300円。ミーティングの最初に僕が話し、続いてのクラス別ミーティングのタイミングで帰路に着きました。湖西道路〜名神〜中央環状〜R171で19時過ぎに帰宅。片付けして、家内と話し、風呂に入って21時前に床に入りました。ああ楽しかった。


2019/3/16
コーチしている大学ヨット部の今年はじめてのレースです。470・S両クラス142艇参加の大フリートレースです。この1ヶ月の練習成果が自覚できるレースです。土日2日間とも参加すべく、「車に布団積んでいくから」とキャプテンに伝えると、「寝床OB部屋に空けますから大丈夫ですよ」との返事。ならばバイクで行く事にしました。
朝起きて2日間の天気予報を最終チェックすると、2日とも昼頃雨の予報が出ていました。5時頃外に出ると、路面はしっかり濡れており、今にも雨が落ちてきそうです。「やっぱ、車で行こう」と変更し、布団を車に積み込んで、6時頃家を出ました。
R171〜中央環状〜吹田ICから名神〜京都東ICで下車し、湖西道路を経て、6:52「セブンイレブン大津松山店」に入り、「バナナ3本213円+ボスとろけるカフェオレ500ml161円+ひねり揚108円=482円」購入。
7:08ハーバーPに入れ、ハーバー内を徘徊します。まだ部員は来ていませんが、関西フリートから遠征している甲南大などがいます。母校のお隣さんなので声を掛け、トイレが当方コーチボートに付いているから借りに来てもいいよと伝えます。1週間前、甲南OBさんと話した時、女子部員が半分以上と言ってたので金の卵・女子部員増加のためにも、大切な情報は伝えておきましょう。この大学、僕の学生時代から女子の器量良しが多く、学生時代がウハウハしていました。同級生に元ヨット部女子マネージャーと結婚した奴もいます。
学生がやって来て挨拶している間に、このレース主宰するD社OB・Mさんがやってきて、椅子に座ってなんだかんだお喋りします。Mさんはこのレースに参加するO大のコーチをしている方なので、そのコーチングかな?と思ったら、母校からオフィシャル艇のレンタル要請されたBヨットクラブから「うちの船を貸すから、ドライブ頼みます」と依頼されたそうです。MさんはBヨットクラブの会員でもあります。僕も会員にならないかと誘われたことがありますが、コーチングもあるのでヨットクラブのヨットに乗ることはないかな?とお断りしました。O大OBさんも来られ3人であ〜だこ〜だ。そこに甲南の女子マネさんがやってきたので、彼女たちも加えてなんだかんだ。
クラブに戻り、艤装しているレース艇をチェックします。体操・ブリーフィングです。遠征し当方艇庫で合同合宿しながら練習していた中部のA大もいます。スキッパーズミーティングの時間となりました。雨が落ちてきたので屋内スペースに移動し見ていると、D社OBのIくんから「ああ、・・さんじゃないですか、お久しぶりです」と声を掛けられました。大会実行委員長を仰せつかっているそうです。Iくんが、本日のレースの注意事項など選手みんなに伝えます。
Iくんは次男の1つ下の学年で、ジュニアヨット時代からのライバルです。D社に入ってからもライバルが続き、全日本学生個人戦で佐賀県唐津に遠征する時は、僕が次男1艇・D社2艇をトレーラーに載せ、僕の車のヒッチメンバーにつなぎ往復運転したことがあります。あの時は、車を置いて新幹線で帰宅し、仕事してレース終了日に合わせてまた九州に向かいました。今度は始発新幹線では昼頃ハーバー着なので、夜行バスで博多まで走り、朝電車で唐津に向かいました。
風がないので、しばらくハーバー待機を指示されました。雨が止むと風が出てきて出艇し、16時まで5レース楽しみました。当方は大学最大フリートで、両クラス合わせて18艇参加です。北は北海道・南は福岡県から参加しており、関東強豪はKOが6艇参加していました。結果470トップ3は招待選手含め社会人で、4〜6位がKOで実力の高さを感じます。関東のレース結果の指標はKOですね。KOが関東で何処まで結果を出すのか?W・日大の上に行くのか後塵を拝するのか?
レースが終わり、車で合宿所に向かいます。7:08〜16:53P300円。レース運営やレースに参加したOBが数人います。卒業旅行で香港マカオに行って、カジノで儲けたOBくんはカジノにハマってしまうかも?深追いせず、ディラーが勝ちだしたらさらばし、負けだしたら参加するという冷静な判断を下したようです。彼の勝ちに乗ろうと、見ず知らずの外人さんが彼のエントリーに乗り、彼はヒーローになったようです。まあ、春から社会人だからおいそれとは行けないでしょう。結婚するまでの独身貴族を楽しんでね。
ミーティングで気づいたことを話し、美味しい夕食を食べお風呂です。OBたちは近場の風呂屋に向かいましたが、僕は少し遠い前回行った風呂屋に行きました。ところがなんと「当分の間休業します」との無情な張り紙がされておりガッカリです。別の風呂屋も考えましたが、面倒だし1日ぐらい風呂に入らずとも死ぬことはないのでパスする事にしました。
合宿所への帰り、21:34「セブンイレブン大津鏡が浜店」に寄って、「ミルクスティック4本108円+くるくるレーズンカスタード148円+ひねり揚スモークチーズ風味108円=364円」を購入。OB部屋でなんだかんだ話し、22時消灯。


2019/3/8
夕方から、「二金会」(隔月第2金曜日定例会)という関西在住のヨット部学連卒業生の集まりに参加してきました。今回は、「大阪倶楽部」という大阪財界・関西財界の社交クラブの建物として大正時代に建設された由緒ある建物が会場です。歴史好きの僕としては、「これは是非参加せねば」と参加しました。
前回1月の会合で、僕がコーチするヨット部の躍進について話すようオファーをくれたD社大同期のHくんから、また連絡がありました。「前回のお前の話が良かったので、今回はD社監督Sくんが話すことになったぞ。行かへんか?会場は大阪倶楽部やねん、知ってる?」。Sくんは、僕らKGヨット部卒の数名が集まり、伊丹市長からオファーを受け設立したジュニアヨットクラブに入ってきたクラブ員です。かつて可愛かった小学生が、ずっとヨットを続けてくれ、現在大学ヨット部の監督をしています。これは彼への応援のためにも参加せねば・・・。加えて「大阪倶楽部」は、部外者にはなかなか入れない場所なので、歴史好きには外したくないチャンスです。
仕事を早めに切り上げ、速攻で帰宅し、「大阪倶楽部に行くのなら、やはりネクタイしなきゃ」とジャケットに着替え、カメラを持って「通勤リード110」に乗り駅まで急ぎます。JR最寄り駅のホームで待っていると、うまい具合に東西線経由の車両が来ました。東海道線経由京都方面行きなら、尼崎で乗り換えなければいけませんが、ダイレクトに行けます。
JR「北浜」駅で下車し、「地下鉄東西線」に乗り換え、「肥後橋」下車で地上に出ます。肥後橋と淀屋橋の中間に「大阪倶楽部」があり、17:31運良く一発でたどり着きました。
大阪市街地にポツポツ遺っている煉瓦作り外観の趣のある建物です。大正時代の建物なので、装飾がナイスです。狛犬のように2頭のライオンが窓枠の上に鎮座しています。玄関を見ると、2mほどの歩道にアーチ型のテント屋根が伸び、タクシーから降りた方が、雨の日でも傘なしで良いようになっています。これもお洒落。
『大阪倶楽部沿革概要 欧米で見られる紳士の社交場であるクラブは、明治中期に首都東京において隆盛を極めた。我が大阪には旧来のお茶屋・料亭しかなく、純然たる社交場の設立が強く望まれた。
設立発起(大正元年1912) 住友第3代総理事・鈴木馬左也を中心に設立企画が進められ、8月には大阪商業会議所中興の祖・第7代会頭・土居通夫をはじめ「綿の王」と呼ばれた大阪合同繊維社長・谷口房蔵、高山圭三、竹尾治右衛門、田中太七郎、中橋徳五郎、植村俊平、平田護衛などの大阪財界の諸氏が、英国に範を求めて、「大大阪」にふさわしい高い風格の倶楽部設立を発起する。
大阪倶楽部設立(大正元年1912年11月26日) 資本金:20万円 発起人:204名・株主数206名(住友吉左衛門200株筆頭、総株数2000株、内法人:大阪商船株式会社・宇治川電気株式会社の2社)
会館建設(大正2年1913年10月〜大正3年1914年9月) 大正元年12月30日、大阪市東区今橋5丁目11番地の角屋敷の用地買収(日本銀行大阪支店開業地)を完了し、大阪2年10月に着工、翌3年9月竣工。設計は当時、住友の建築技師であった野口孫市・長谷部鋭吉による。現在では、写真でしか偲ぶことが出来ないがハーフティンバー様式の船底天井の3階食堂は、工夫をこらしたものであったと言われている(概要は右記参照)。会館竣工を機に、現在も使われている倶楽部章(OとCの組み合わせ)が決まる。株主の他に、一般会員を募集(入会金100円)し、総会員数369名を数える。
会館焼失(大正11年1922年7月24日) 3階からの思いがけない出火によって会館は消滅した。ただちに会館を再建すべく、谷口房蔵委員長をはじめ財務委員諸氏(岩井勝次郎・小林一三・安宅弥吉)の努力により、70万円の社債を発行する。
現会館の建設(大正12年1923年1月19日〜大正13年1924年5月19日) 新進気鋭の安井武雄の設計、大林組施工で工事が進められた、建設途上に発生した関東大震災の災禍から、当初設計に再検討が加えられ防災を重視した構造となる(概要は右記参照)。 内装については、部屋ごとに異なる梁とハンチの装飾文様が異彩を放つ。玄関ホールの壁面は、国会議事堂2階廊下壁面に使われているのと同じ千歳石、床の市松模様の黒、白の大理石をはじめ革張りのソファーなど什器備品も当時最高級のものが海外から調達された。
大阪大空襲下の会館の徴用(昭和20年1945年3月15日) 大阪大空襲(昭和20年3月13日夜)の翌日、帝国海軍から「明け渡し命令」を受けて退去させられる。殆ど凡ての什器備品まで徴用されるに至った。 社員・加賀正太郎(当倶楽部創立時株主・ニッカウイスキー創業者)から東区高麗橋の邸宅を借用し、1日も倶楽部活動を停止することなく運営が続けられた。当倶楽部は爆弾の直撃を免れ、窓に設けた鉄製シャッターの効果により延焼被害を受けることなく建設時の姿を保つことが出来たものの、終戦に伴い当会館はGHQに接収される。
会館の荒廃と戦後復興改修工事 昭和27年4月、会館の接収は解除されたものの、内部施設は倶楽部として到底使用に耐えない状態であった。 堀・新理事長をはじめ、役員及び各委員諸氏は、敗戦の悲哀をかこつ間もなく、懸命に倶楽部復興に取り組んだ。在阪企業の寄付金提供や倶楽部債の発行で復興資金を調達。社員・竹腰建造の設計監督、大林組、竹中工務店の応援により同年秋、ようやく復興改修工事を終え、往時の壮容に近づけることができた。
社員の支援による会館維持と倶楽部運営 当会館は、平成9年1997年5月文化庁の登録有形文化財(第27-0015号)平成16年6月には大阪市指定景観形成物、平成21年2月には経済産業省の近代化産業遺産、平成21年4月に大阪市指定文化財となる。昭和37年に創立50周年を迎え、平成24年11月26日に創立100周年を迎える。 この銘板は、創立100周年を記念して社員の寄付金により設置するものである。
旧会館 大阪倶楽部会館建設:大正2年(1913年10月〜大正3年1914年9月) 設計:野口孫市(現大阪府中之島図書館設計)・長谷部鋭吉(現三井住友銀行大阪本店設計)・延坪395坪 施工:大林組 構造:木造3階建て
現会館 大正12年(1923年1月19日〜大正13年1924年5月19日) 設計:安井武雄 施工:大林組 構造:鉄筋コンクリート4階建て・地下1階・延坪1043坪・洋瓦葺き・外壁瀬戸産素焼きタイル 特徴:南欧風様式に東洋風手法を配した建築は、安井武雄の自由様式の代表例とされる。内装は、部屋ごとに異なる梁とハンチの装飾文様』
とにかく外見が素敵でした。近代建築は、シュッとして無駄がなく格好良いし、建築技術や素材の多様性・堅牢性が高まり、あっと驚くような設計の奇抜デザインがあったりで面白いが、こういう手仕事の巧みさと温かみを感じる建物も素敵です。何より重厚感が感じられて好きです。玄関横の壁には、「近代化産業遺産」と「生きた建築ミュージアム」のプレートが掲示されていました。
斜め前に、煉瓦壁柄の建物があったので、そちらも激写。お隣に、「御菓子司・鶴屋八幡」本店がありました。まだ時間があるので、周囲を歩いてみました。「淀屋橋」まで歩き、大川越しに中之島にある「大阪市役所」「日本銀行大阪支店」の建物を見て、「ANA CROWNE PLAZA」、学生時代何度かコンサートを観に行った「festival hall」、「住友銀行本店」(現三井住友銀行大阪本店)も写真に収めました。住友銀行は、学部4回生の時「うちに来ないか」と誘われた縁のある企業です。住友は体育会出身者を多数採用する企業で、ヨット部先輩も数人いました。別の業界に行きたかったので縁はありませんでしたが、こちらも素敵な昭和初期の建物です。
17:51、大阪倶楽部に戻ってきました。「大阪倶楽部通用門」があり、ちょっと絵になるなと思ってパシャリ。会館に入ります。「3F2号室」ね。興味津々で写真を撮り、エレベーターもあったけどあえて階段で上がろうと思って受付前を通ったら、受付女史さんから「ご案内致しましょうか?」と声を掛けられました。それには及ばず、階段を上がります。もっと何かがある階段かと思いましたが、学んだヴォーリス設計の中学の方が重厚な階段と装飾でした。トイレを拝借して3Fに上がりました。
部屋に入ると、二金会の事務局長・D社Tさんがおられました。僕が第1号でした。「KGのNさんが来られますよ」と教えて下さいました。僕と同じ伊丹在住の方で、ジュニアヨットクラブを作った時の頭でした。N先輩は病気でクルーザーに来られなくなっていたので、元気になられたのかな?コートを脱いでハンガーに掛け、会費5000円を払います。部屋には2列の長テーブルが並び、ナイフ・フォーク・プレートなどが整えられていました。
続いて、甲南大OBさんが入って来られました。来年のA級全日本が甲南主催のようで、そのお願いもあり東京から日帰りでやって来たそうです。この日のスピーカーSくんがやってきました。前回の僕の話の原稿を読んだそうで、「前回の読ませてもらいました。あんな話の後はプレッシャー掛かりますわ」と、お世辞を頂きました。
「部旗持ってきたの?」と思うような荷物だったので聞いたら、PC・プロジェクター・スクリーン持参でした。早速スクリーンを広げ、延長コードを借りて、スピーチの準備をし始めました。次々に会員が入ってこられました。
「二金会」は、関西学連卒業生に限らず、全国の大学ヨット部卒業生(北海道大〜九州大)が広く参加されます。今回は、前回もご一緒した関西在住の慶応・法政のOBさんが来られていました。40名弱かな?
18:30、事務局Tさんの進行で始まり、初めにA級副会長のAさんから、今年と来年のA級全日本の話がありました。A級ヨットは、僕が高校1年生の時まで大学学連で競技に使われていた艇種で、僕は遊びでしか乗ったことがありません。高2の時、A級から470級に代わり僕はそれに乗っていました。現在までそれが続き、長くオリンピック種目に採用されています。競技人口が多いし軽量有利な種目なので、唯一日本人が世界と伍して戦える種目です。オリンピックで女子銀メダル・男子銅メダルを獲得した種目で、ヨット競技での日本のメダル獲得はこの2つのみです。
続いて30分ほど、現同志社大学ヨット部監督・Sくんの話を聞きました。プロジェクターを使って、これまでのヨット人生とD社ヨット部のことを話してくれました。「日本一のマネージャー陣を持っている」と言われ、女子マネージャーの活躍と重要性を、自らの学生時代と比べて話されました。ヨットをするようになったきっかけで、Nさんと僕が設立したジュニアヨットクラブが紹介され、気恥ずかしかったです。スライドは写真可ということで、パチパチ撮りました。
その後、夕食が運ばれて来て自由歓談時間となりました。長くこの会の中心であったN先輩は、「あんたも、こんなとこで役に立っていたんだな〜」と、N先輩に近い世代の方々にからかわれていました。
前菜・メインディッシュはお肉・パン・ケーキ・コーヒーは、とても美味しくスタッフさんに聞くと、僕でも名を知っている大阪のレストランチェーンが、この会館内に会員限定レストランを運営しているそうです。
21時になりお開きです。集合写真に続き、スピーカーSくんから「3人での写真を撮っていただきたいのですが・・・」のリクエストがあり、彼と彼の恩師?N先輩と僕の写真を撮りました。「来週のD社主催レースDウィーク前日のプラクティスレースにも参加してくださいよ」と、僕のコーチしてる大学ヨット部を誘ってくれました。
帰路に着きます。夜の住友銀行を写真に収め、地下鉄・肥後橋〜JR北新地〜尼崎と往路の逆に帰宅しました。ああ、楽しかった。


2019/3/3
家内がお買い物にお出かけし、何時に帰るかわからないというので、ウインドウショッピングなどを楽しんで来るのでしょう。前日土曜日の帰宅が21時を過ぎたので、仕事の電話を10時にしたが相手様がおられず、仕事場であれやこれや。11時に再度電話したら通じて、仕事お終い。
夜から雨予報なので、夕方早くまでの数時間ですが、ナビを開いたら篠山方面のチェックポイントが少し残っています。拡大したら、チェックした「中世山城」いくつかなので、「丹波篠山/中世山城探索ツーリング」に出かけることにしました。
「里山VTR250」を倉庫から出して自宅へ。100%化学合成オイルに交換して、クラッチが入りやすくなったが、ハンドルミラーが微妙に動く症状が気になります。僕が購入してから10年、新車から15年なので、バックミラーの調節部分が甘くなって来ているように思います。ネジ締めしてミラーをステイに固定するタイプではなく、手で動かして合わせるタイプなので、ここが甘くなって来たら交換するしか改善方法がありません。1日走ると、2〜3回走りながら動かす必要があるので、交換するかな〜。銀クロームメッキなので、次はブラックにしたいな。
11:57出発。「阪急・山本駅」〜「長尾山トンネル」。気温10℃でした。フロントスクリーン・ナックルガード・冬用バイク装束なので、全く寒くありません。気になるのは、どんより曇り空だけです。r325〜r33。「西谷農協」からr68に向かって北上するルート途中から枝道に入って、「千刈ダム」手前でr68に合流しました。「志手原交差点」手前から枝道を使ってr49へ。お昼を過ぎているので、篠山手前の「バイカーズカフェ・虎亀」で昼食を目論みます。
「花山院」前を通過し、気持ちの良い道をのんびり走ります。山道ルートに入り、旧ハーレー前を通過し、お店Pに入ろうかと思ったら、なんと臨時休業でした。「日曜日なのに珍しいな」。もしやお爺さんが・・・。そうでないことを願うばかりです。
お腹が「お昼ご飯モード」になっていたので、お腹が残念と言っています。山ルートに入ってから、雨が落ちてきました。「永澤寺峠」に標高を稼いでいくと、少しずつ雨が強くなって行きます。まあ、カッパを着るほどのことでもないけど・・・。標高が高いから降っているだけで、篠山盆地が止んでいることを期待したい。峠を下り「永澤寺」前を通過します。次の峠「美濃坂峠」に向かっての登り口に、「大型車通行止」看板が立っています。やはりまだ道は復旧中のようです。峠手前の「ふきのとう休憩所」で、カワサキの大型バイクが休憩していました。「美濃坂峠」を越えて篠山盆地側に下ります。相変わらず、道幅1mの箇所が2ヶ所あります。重機が置いてありますが、完全復旧は当分先のようです。
R372との「小枕」交差点手前でバイクを停め、チェックポイントの1つにナビ誘導させます。R372を渡りました。r77との交差点まで北上し、右折しようと思ったらコーンが並んでおり、警察官から「直進右折出来ないよ」の合図が来たので、仕方なく左折しました。「篠山ABCマラソン」でした。朝TVで東京マラソンをやっていました。r77で篠山城の南を東から西に抜け、2つ目の信号を右折して北上し、二階町との交差点でまた右折し、二階町を東に進みます。「篠山商工会館」の交差点から先は通行止めになっており、左折して北に向かうと、歩道をゼッケンを付けたランナーが走ったり歩いたりしていました。レースコースのようでスタッフが交通整理しており、レース中のようです。とても本気のランナーでは無さそうな傘を差して歩いている方もいます。
次の信号のない大きめの交差点でコースを横切るように右折しました。スタッフが交通整理をしていました。突き当りを右折して南下し、「特産館ささやま」交差点を左折し東に向かい、13:24「セブンイレブン篠山黒岡店」。「コッペパンいちごジャム&マーガリン118円」を購入しました。
沢田交差点を左折して北に曲がると、目的地の「小林寺」が正面に見えてきました。雨は美濃坂峠付近よりマシですが、小雨コンディションです。カッパを着るほどではありません。
13:29「小林寺・沢田城」。『玄奘(げんじょう)三蔵法師聖骨塔 三蔵法師は、お釈迦様の生まれ変わりと言われ、仏教中興の祖として尊敬されている唐の高僧で、664年63才で亡くなられた。
長安の都に葬られていましたが、昭和17年、日本軍南京守備隊が偶然に発掘しました。聖骨は、世界中で9ヶ所に分譲のうえ、我が国には、6ヶ所に奉安されています。
そのうちの1つとして、昭和40年、当所に聖骨2粒を奉迎し、三蔵法師奉賛会が、背後の見晴らしの良い丘陵に立派な聖骨塔を建立しました』
正面に形の良い鐘楼門を構える寺院でした。門前に「不許葷酒入山門」の石碑が立っている。禅宗のようです。「沢田城跡」の石碑も立っている。
『沢田山小林寺(曹洞宗) 元沢田城主及びに先祖の菩提寺。天正年間(1573〜91)に、小林平左衛門長治が、父・近江守長任(ながとう)を開基として雑林庵を創立。のち、沢田城跡に移築し、小林寺と解消されました。
下って、亨保14年(1729)、寺の階位を改め法地とし、曹洞宗洞光寺の24世春国万世栄大和尚を迎えて開山としました。
本尊:十一面観音菩薩。毘沙門天像(町文):68cm。背後の小山全体が沢田城跡で、容易に登れます』
鐘楼門をくぐると、紐が下がっており、帰りに手を合わせボーンしました。境内に入り本堂など見るが、立派だが趣はイマイチ。「玄奘三蔵法師聖骨塔参道・沢田城址」の案内板が立っていた。早速上がってみます。本堂横の渡廊下の下をくぐって本堂裏に出て、丘に向かって伸びる石段を上がっていきます。横の墓地を見ると、「小林家」のお墓が数基目についた。墓地には、江戸時代やそれ以前と思われる墓石が並んでいた。
聖骨塔に上がります。『玄奘三蔵法師聖骨塔累縁起 玄奘三蔵法師は、孫悟空らと旅をする「西遊記」で世界中に知られる中国唐代の高僧です。般若心経などたくさんのお経を中国へ伝えられました。
三蔵法師の墓所は、初め中国長安にありましたが、度々の内乱で所在が不明でありました。昭和17年南京郊外で石棺に収められた聖骨が発掘され、その一部を全日本仏教会に分譲、まず国内5ヶ所に祀られました。そのまた一部の分譲を受けた篠山玄奘三蔵法師奉賛会は、奉祀の場所を眺望絶佳の地・小林寺裏山に決し、昭和40年聖骨塔が建立されました。現在国内7ヶ所ならびに中国・台湾に祀られています』
その裏の地道を緩やかに上がり、「沢田城址」。『澤田城は戦国の昔、八上城主・波多野秀治の命令で、小林氏がこの地・滝山に築造したものです。小林氏は澤田及び、現在の黒岡・郡家の1100石あまりを領していた。
歴代城主:小林近江守長任・澤田平左衛門尉長治・小林修理之進時道・小林平左衛門重範
事項:初代城主天文年間(1540年頃)澤田城を造営、小林寺殿勅岩祐元大居士。晩年入道して雑林を号し、一宇を建つ。小林寺の創である。天正年間、柏原八幡山で戦死。澤田城落城。』
山城成分(土橋・堀切など)は目立たず、山城素人の僕には、案内板が立っていなければ中世の山城とはわからなかっただろう。山を下り、山門でボーンしてバイクに戻りました。
小林寺を西に走り、農道交差点を右折して北上、「篠山市立城北小学校」に突き当たり左折し、南北に走るr544との交差点を右折しr544を北上します。r301との「城北交差点」を斜め左に入りr544。適当に農道を左折〜右折し「篠山東浜谷城」。ここは前回パスした山城で、その比高を見ながら、「雨降ってるし止めた」とまたパス。次の目的地を目指すことにしました。
農道を左折して南下し、r301に戻りました。右折してr301を西に向かいます。「郡家」交差点を通過し、「篠山警察」前を通過。道なりにr140になり西進、r97との交差点を抜け、舞鶴道高架が見えてきた交差点を右折・北上し、以前訪問した「川内多多奴比神社」を横目で見ながら通過し、14:17「天満神社」。
勇んで山に上がって行くも、神社はあるけど、裏山にあるはずの「板井城跡」への道はありません。諦めて下ると、『伊能忠敬笹山領測量の地』と彫られた石柱が立っていた。『文化11年(1814)2月5日曇 伊能忠敬測量隊10名は、早朝より131人の労役村民を従えて、北野新村から京都街道を測量して宮田村に入り、国料村へ通じる分岐点に「丹印杭」を撃ち込む』
『これより北上、丹後の成相寺に向かう巡礼道の街道筋にあたる板井村、左に川内多々奴比神社、小坂村まで測量し、丹印杭より京都街道に戻り笹山城下へ向かう』
バイクに戻り、道なりにr289になり、少し北上し、天満神社裏山にある「板井城跡」のある里山を下から見上げます。更に北上し、14:31「明月神社」を再訪問。
『祭神:月夜見命 後鳥羽天皇文治4年(1188)の創立にして古来明月大明神または単に明神様と称す。延宝4年正月社殿を再建し、明治6年10月村社に列せられる。神社後方は絶壁状の岩山で、一瞬の地盤沈下で裂かれた岩が鏡のようになったことから断層鏡肌と呼ばれるものです。裂かれた岩の片側は神社の下にあると云われています』
本殿の脇障子の彫刻が見事です。Uターンします。「川内多多奴比神社」横を走り、r140に出て右折し舞鶴道の高架下をくぐりました。すぐの交差点を左折・南下し、14:41「西紀SA」へ従業員通用門から入って、おトイレ拝借しました。
側道を南下右折し、r77に出て西進。R176との交差点を直進し、右折して農道に入り14:55「大山城」。
『中世荘園大山荘ゆかりの地 大山城跡 大山城は、大山川西岸の河岸段丘の南端に築かれた城です。川に挟まれた天然の要塞で守りに優れていることから、この地が選ばれたのでしょう。大山城は空堀などによって7つの郭に分かれています。城主は、承久の乱後、新補地頭として大山荘に派遣された関東御家人中沢基政の末裔であると考えられています。地頭としての中沢氏の館は大山荘西部の殿垣内にあったと考えられています。荘園支配のための地頭館とは異なり、大山城は荘園外の勢力から守るためのもので、八上城を拠点に多紀郡内に勢力を伸ばしていた波多野氏を意識した城であると考えられます。
大山城は中沢氏と波多野氏が対立した15紀末から16世紀初頭に築かれたと考えられています』
山城ではなく、平城でした。川が釣り針形に曲がっている地形を利用し、小さな渓谷のように削られた釣り針の内側を上手く使い東と南に渓谷川で守備し、現在の北と西は畑が広がっていた。当時は違った地形だったのでしょうが、想像しながら周囲を歩き回りました。
帰路に着きます。R176に出て南下開始。篠山口付近まで南下した所で、小雨が止まないのでドライブレコーダーを撤収しました。「JR新三田」駅まで南下し、左折してr570〜志手原交差点からr68〜r33〜r325〜長尾山トンネルを抜け、16時頃帰宅しました。


2019/3/2
コーチしている大学ヨット部の練習に参加しました。いつものように8時出艇なので、6時出発しましょう。夜明けがまだ遅いので、練習前の早朝ツーリングがまだできません。
「招き猫CB400SB」を出します。6:13、近所のローソンで、「キリン小岩井ミルクとコーヒー500ml162円・ミニクリームパン5個100円=262円」を購入。R171〜中央縦貫道〜吹田ICから名神に乗ります。いつものように「桂川PA」でトイレ休憩し、京都東IC下車して「湖西道路」を経由し8時過ぎにヨットハーバー着。
皆に挨拶します。先週の練習では、ハードコーチボートだけのレスキュー体制で、イザって時にヨットに横付けしてもヨットを傷めないインフレータブル(ゴム)レスキューボートがないのが不安でした。常に2艇体制でレスキュー・コーチング・サポートしていましたが、去年11月の全日本インカレ1週間前に、インフレータブルの船外機を海に落としてしまいました。
インカレ前の点検で業者に出したら、船尾にエンジンを固定する鉄板が傷んでいるので交換されました。この鉄板には通常なら縁周囲に出っ張りがあり、エンジンを固定するネジが緩んでエンジンが動いても縁の出っ張りに当たって脱落しないようになっています。この縁のない単なるL字鋼で代用されたので、波の大きな海面で固定ネジが緩み脱落してしまいました。
インフレータブルボート自体が長年使い込んだ物だったので、学校が予算措置をしてくれ、新しいインフレータブルボート(RIB)が購入できました。来月初めに進水式をする予定です。ありがたいです。今までのインフレータブルでは琵琶湖仕様の馬力と大きさなので、海で風波が上がってくると危ない代物でした。ここ数年古豪復活で、全日本など海でのレースが増え、いずれ海でもしっかり部員の安全を担保できるレスキューボートが必要だと思って動いていました。具体的に、僕が作り次男も部員だったジュニアヨットクラブの後輩のお父さんが脱サラして設立したインフレータブル輸入販売レンタル会社に声を掛けていました。昨年の全日本でレンタルを実現させ、何とか全日本でのサポートが出来ました。見積もりを勉強してもらい、学校にOKを貰うことができました。
さてエンジンを失ったインフレータブルのことです。ずっとハーバーで無用の長物を化していましたが、中古エンジンを購入し、この日から復活しました。レスキュー3艇体制が必要な時は出艇させ、琵琶湖でのレースの時いつも貸していたので、レース委員会にこれを貸し出します。レースの時でも常時コーチ・支援・レスキュー2艇体制にグレードアップし心強いです。
レスキュー2艇体制に戻り少し安心ですが、せっかく購入したエンジンを落とさないよう、午前中支援艇に乗る女子マネさんを集め、「何故エンジンが脱落したのか」と「必ず改善すること」を話しました。学生素人仕事では心もとないので、改造はプロに任せるようにアドバイスしました。
8時になり、体操〜ブリーフィングです。僕からは、4月になれば新入部員獲得で忙しくなるので、じっくり練習できる3月は大切な月なので、ボートスピードを上げられるよう、ハンドリングの他に風速・波の大きさに応じたチューニングを試行錯誤することを話しました。それといつものように「楽しく練習するように」。スポーツは楽しめないと上達しません。目尻を釣り上げたって、ミスを指摘しあって険悪な雰囲気になったら、素直な気持ちになれず練習効率が落ちてしまいますし、マイナスになります。
4〜5m/sの「三井寺の風」が入っており、気持ち良く練習できました。でも天気予報は「北風」なので、10時になる前に風が落ちてしまい、無風〜微風練習になってしまいました。「こりゃあかん、昼食早めに出来ないかな〜?」とリクエストすると、コーチボートにいるマネさんが陸上と連絡を取り、昼食を30分早めてもらうことにしました。11:30ハーバーバックし、合宿所で美味しい昼食で元気になり、午後も30分早い12:30出艇になりました。
出艇時はまだ風はなかったので、次の風で少しでも早く練習できるよう、北の海面に練習艇を引っ張っていきました。やがて北風が入りだし、スタート練習・レース練習、最後にロングレース練習と有意義な練習になりました。
キャプテンの指示通り、16:30ハーバーバックでコーチボートは練習を切り上げましたが、両クラスチームリーダーから「もう少し練習します」と声が掛かり、リーダーのホイッスルでロング帆走練習を+30分しました。強風が吹くはずの春合宿ですが、今の所軽風が多く、部員は皆走りたくてウズウズしていました。「水を得た魚」のごとく、皆気持ちよさそうです。レスキューに乗っていた選手2人も「あ〜乗りて〜」と羨ましそうでした。
僕は体の片付けをしないので、先に合宿所に戻り、ワールドカップのビデオなどを持っていったタブレットPCで探しました。準備を終え、ご飯が炊けるのを待っていた1回生TMマネさんがやって来て、「午後は風ありましたか?」に始まっていろいろ話をしました。僕のPCが待受画面を1分ごと変化し、家族写真ばかりなので、「これ何処ですか?」「これ、僕の長男のお嫁さんとその子達」・・・楽しい時間でした。
選手たちも戻り、シャワーで温まって着替え、時間になったのでミーティング開始。最初に僕から気づいたことを話しました。続いてクラス別ミーティングで、先週S級だったので、この日は470に加わりました。次が待望の夕食です。昼食は「マネさんと同じぐらいの量で」とリクエストしたので適量でしたが、今度は云うの忘れたので「大学生男の子サイズ」で多かった。僕と同じ4人掛けテーブルに座った1回生くんは、いきなりご飯増量・しらたき増量を持ってきていました。マネさんの「今日の夕食は・・です」、キャプテンの「いただきます」の号令に合わせて「いただきます」。
僕のテーブルは、3・2・1回生男子で、1回も合コンしたことがない1回生に、「したら良いのに、僕らの時は合コンなんてなかったから羨ましいよ」と勧めたことや、「合コンって、女性陣それぞれのデータ前もって連絡があるの?」って聞いたら、あれやこれや教えてくれました。最後に、参加者それぞれのLINE交換があるようで、その後気になった相手にLINEするそうです。
部員の「・・主催のはやばい」とかいろいろ盛り上がりました。「コーチの時代は友達の紹介ですか?」「まあ、それもあるけど僕はシャイなので、グループはどうも・・・、だから1対1だよ」と言うと、速攻で「いやいやいやいや、それは嘘でしょ」って、むしろ僕の方から話しかけることも多いので、「シャイな僕」はあり得ないそうです。
「その1対1が難しいんじゃないですか、どうしてたんですか」「だから僕はシャイだから、学校で歩いてる感じの良い子がいたら声かけたり・・・、・・・で声かけたり・・・」「それナンパですよね」って大笑いされました。そう言えば、交際した人は、ほとんど皆1人でいるところに近づき声を掛けました。部員によると、「ナンパは警戒される」そうですが、同じ学生であったり、家内とは同じ資格試験の講習会だし、駅前で声を掛けているんじゃないんだけどな〜。
全員ミーティングの時間になり、連絡事項などを共有し、掃除時間になりました。このタイミングで帰路に着くことにしました。去年11月の練習で艇庫に忘れた装束をもらい、21:30に帰宅しました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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