-ウェブマスター日記 2019/1-2

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2019/2/24
4時前に目を覚まし、寝床でゴソゴソ。暇なので仕事場に行きゴソゴソ。本日の予定は、11時に甥っ子宅を訪問し、第2子誕生祝いを届ける。18時にコーチしている大学ヨット部の卒業式(追いコン)に出席するために京都のホテルへ。
PCで僕の日記をチェックし、2週間前のヨット部OB・OGカップルの結婚式をワードにコピーする。少々推敲し、仮名を実名に置き換えたりして完成したものを、現役マネかずちゃんへのメールに添付して送る。かずちゃんも将来部内カップルとしてゴールインすると良いな。
10時前になったので出発します。R171〜中央環状〜吹田から大阪府道r14で北上し、再びR171。11時ちょっと前に甥っ子のマンションな前に到着しました。電話して着いたことを伝える。高槻駅前のタワーマンションで、敷地内の来客用Pに入るために門を開けてもらわないといけません。
門が開いて、甥っ子が長男の手を引いて門の外に登場。お正月に会えなかったので、お盆以来の顔合わせです。長男けんとくんは僕らに人見知りしています。来月で2才なので人見知り時期です。
マンションの32Fに住んでいますが、42F建てでビルです。直方体のビル・マンションで、周囲に部屋があり、中央がエレベーター式立体Pで、来客Pは玄関前にあります。上半分用エレベーターが3基、下半分用エレベーターが3基ありました。32Fに上り北側を見下ろすと、先週走った北摂の山が見えます。兄が務めていた高槻病院が真下に見えます。この甥っ子がチビだったその頃、よく一家が住むこの界隈にあったマンションに遊びに来ました。従兄弟が5人、今でも仲良しです。
「こんにちは」、お嫁さんが次男りくとくんを抱っこしてお出迎え。3週間前に出産したところだけど、血色など以前と変わりません。相変わらず色白で元気そう。エレベーターに乗っている間、甥っ子に出産の時のお嫁さんの様子を聞きましたが、1人目の時より楽だったそうです。女性にとって出産は、生死を掛けた大事業です。これから子育てもありますが、「無事出産、母子ともに元気」が何よりの朗報です。
甥っ子の部屋は南側で、JR高槻駅のすぐ東の線路が真下に見え、電車好きのけんとくんはよく見ているようです。出産祝いのナチュラルムーニーS1箱を置くと、「これって、高級な方ですよね」とお嫁さんが家内へ。「うん、こっちの方が良いと思って」。続いて、家内から「これ出産祝いね。うちからとうちの長男夫婦と次男夫婦から」とポチ袋を手渡します。アメリカと東京に住んでいるので、LINEで「お祝いしとくよ」と連絡しただけです。こういうのは皆家内にお任せです。僕がやったら、絶対忘れます。
「それから、これがお着物。それに、「紐銭」。お金に困らないように、1000円札1枚入れて初宮参りの時にお着物に下げます。これも家内だから忘れなかったことで、僕なら確実に忘れています。紐銭が多いほど、多くの方に護られている感があります。
「はい、お父さん、これ自分で渡したら」と、僕からの絵本を包んだプレゼントをけんとくんに渡します。まだ人見知りで、お父さんの懐から手を伸ばしません。「じゃあ、ここに置いておくよ」。お父さんに取り上げてもらったら、「何かな?」と開けたそう。2冊入っており、得意の「岩波こども絵本」シリーズの「きかんしゃやえもん」と「かにむかし」です。けんとくんとりくとくんに1冊ずつ。
お嫁さんがコーヒーを入れてくれ、テーブルに座って雑談開始です。けんとくんは「きかんしゃやえもん」のページを捲って、機関車を指さしてなんだかんだ喋っています。「お父さんやお母さんに、いっぱい読んでもらいね」。いっぱい本を読んでもらうと、本好きになりいずれ自分で読むようになり、読解力が上がって勉強好きな子になります。僕も、この「きかんしゃやえもん」を母親に読んでもらい育ち、我が子達もこの本を数え切れないほど読み聞かせしました。幼児の記憶力は想像以上で、文字も読めないのにページを捲ってそのページに書いてある言葉を一字一句違わず声に出す長男に「こいつは天才だ」と喜びました。次男も同じ様になったので、幼児には誰にでも備わっている能力のようです。
甥っ子は、海外勤務希望を出しているようです。元々「アメリカ会計を学ぶ」と言っていた会計士です。去年は選抜されなかったようですが、今年はどうかな?アメリカ会計は特殊なようで、行けるとしても別の地域かも?と言っていました。グローバルにビジネスを展開する日本企業が進出している先に仕事があり、現地法人の会計サポートをして日本本社と会計上のすり合わせをするそうです。だから、長男ところのように、現地子会社の経営ではなく、世界中に仕事場があるそうです。期間は3年間らしく、いずれ家族で海外生活を送ることになりそうです。
12時になり、御暇しました。大阪梅田のデパートに行くという家内を「JR高槻駅」に送り、R171〜r14〜中央環状〜R171で帰宅しました。TV見ながらヨーグルト食べて昼食とします。
まだ15時過ぎだけど、暇なので京都に向かうことにしました。ジャケット&ネクタイ&コートに着替えて、「通勤リード110」でJR最寄り駅へ。JRで京都駅〜地下鉄に乗り換え「丸太町駅」下車。地上に出て、16:01御所南西角「大丸ヴィラ」。相変わらず、町のど真ん中に洋風のお屋敷が素敵です。
「ヨット部卒業式」開始が18時、受付開始17:30なので時間が有りすぎです。「下売立御門」前に、「播磨屋本店」がありました。兵庫県の「おかき製造販売会社」ですが、「播磨屋本店」の店舗が京都の御所横にあると、「ここが本店かな?」と思うよね。
16:09、「菅原院天満宮神社」。ここは菅原道真公誕生の地で、2年ぶりぐらいです。『祭神:菅原道真公・菅原是善卿・菅原清公卿 例祭日:7月25日 従四位・下治部卿菅原古人朝臣。次は従三位・清公卿。次は参議是善卿の3世、子々相伝えて棲み給ひし邸宅の趾にて。やがて是善卿の御子・道真公の誕生し給ひし霊地なり。
古人朝臣は、桓武天皇に仕へて侍読となり。清公卿は嵯峨。淳和・仁明の2帝に歴任し是善卿は文徳・清和の2帝に奉仕して、倶に侍読の栄職におはせしかば此邸宅をも受継ぎ住み給ひしより、世には菅原院と呼びたりとぞ。拾芥抄を案ずるに菅原院は勘解由小路(下立売通)烏丸の西一町(室町迄)菅贈太政大臣の御所、或は云く参議是善卿の家なりと。当時、歓喜光寺と号し、北野祭の日神氏氏此所に来りて枇杷を取りて神に供すと。又京城の古圓には烏丸・西室町・下立売・南の間を菅原院と記せり。往古は領域の広大なりしを知る可きなり。また袋草子国宝北野縁起(藤原信実朝臣筆)菅原録によれば、菅原院は是善卿の旧邸宅にして菅公はこの所に於いてご誕生あらせられし以来、菅公また襲ひて邸宅とし給ひついで菅家のために、この地に歓喜光寺を創建せられしが後、故ありて六條道場に移せし由見えたり。然ればそのかみ此地に社殿を存し菅原道真公を本座とし、相殿に御父・是善卿を奉祀して古より断ゆること無く今に至れり。実に是れ菅公御発祥の霊地にして聖蹟五拝の第一にして、今も尚産湯の井及び天満宮御遺愛の石燈籠一基を存せり』
小ぶりな境内に入ると、梅が咲いています。菅原道真と言えば、「梅鉢紋」。同じ京都の北野天満宮は梅林で有名です。手水は龍ではなく、勿論牛。道真公と言えば「牛」ですものね。僕の先祖は「美作菅家党」なので道真公の末の端くれです。我が家の氏宮もそうですが、道真公を祀る神社に詣るたびに、母から「あなたは道真さんの血を引いているのだから、勉強が出来るよ。頑張りなさい」と言われたことを思い出します。いつしか僕も我が子達に、「道真公は先祖だよ」と伝えています。
おみくじが枝にくくられています。梅の花を模したおみくじもありました。『菅公御産湯の井』と彫られた石碑があり、井戸は今も現役のようです。京都盆地はなだらかに北から南に向かって標高が下がっており、洛北の山々からの水を集めた鴨川が南に流れて行くように、地下水もそう流れているそうです。だから何処を掘っても井戸水が出るのだとか。「絵馬掛け」にたくさんの絵馬が下がっています。道真公の絵馬と今年2019年の干支イノシシの絵馬が下がっています。学問の神様に願いを込めた「・・大学合格」なんて書かれた絵馬が多いのでしょう。お賽銭ちゃりん、いつものようにここまで幸せに生きてこられた幸運に感謝しました。新たにバイク用リアボックスを買ったので、それ用に「交通安全ステッカー500円」を授かりました。
16:16「平安女学院」の素敵なレンガ造りのチャペルが見えてきました。「日本聖公会・聖アグネス教会 京都教区主教座聖堂」。『大阪の照暗女学院が明治28年(1895)に京都に移り平安女学院と改称された時、その礼拝堂として、アメリカ人・JMガーディナー設計により、明治31年に建築されたものである。この建物はさらに、日本聖公会京都教区の大聖堂としての役割も果たし、聖31大聖堂とも呼ばれていた。現在は、京都教区の大聖堂と聖アグナス教会の聖堂を兼ねている。建物は、三廊式バシリカ型平面で、南西隅に八角平面の洗礼室、北東隅に三層の鐘塔、南東隅に司祭室を設けている。意匠的には、外観はやや重厚であるのに対し、内部は柱や小屋組の部材が比較的細く簡素なものとなっている。
この聖堂は、煉瓦造の教会堂としては古い方に属し、ガーディナー設計の初期の教会堂作品としても貴重であり、昭和60年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された』
『平安女学院大学有栖舘(有栖川宮旧邸)
移築年:1891年(明治24年) 敷地面積:約2,150平方メートル(約650坪) 建物:約392平方メートル(約119坪) 構造:木造瓦茸き平屋建て
有栖川旧邸 有栖川宮家は1625年(寛永2)に創設され約300年続きましたが、1913年(大正2)の10代威仁(たけひと)親王薨去(こうきょ)の後、その祭祀は同年に創設された高松宮家に継承されました。
京都御所建礼門の前に建てられていた有栖川宮邸は1873年(明治6)より一時京都裁判所の仮庁舎として使用された後。1891年(朋治24)3月この地に移築され、2007年(平成19)まで京都地方裁判所所官舎として使用されていました。本学院はこの文化価値の高い有栖川宮旧邸を保存し、伝統文化の教育や文化活動の拠点として活用するため、2008年(平成20)8月に取得しました。
書院造り様式を備えた屋敷には、「床の間」と付書院を備えた「上段の問」や15畳の板張りの「能舞台の間」などがあり、幕末から大正にかけての公家屋敷や高級官僚官舎の様相を今に伝えています。
青天門 屋敷の表門として銅板と真鍮板で葺かれた豪壮な趣のある平唐門です。1912年(大正元年)三井家の総長・三井高保氏邸の表門として新築され、その後、別の地に移した表門を1952年(昭和27)現在の地に移築しています。同年の仲秋の名月の夜、歌人・吉井勇氏が李白の詩より「青天門」と名付けました。
長屋門 近世諸大名の武家屋敷門として江戸時代に多く建てられています。門の両側が長屋となっており、門番部屋として、家臣・使用人の居所などに利用されていました。南側の下立売通にある白い漆喰塗りのこの門は、長屋門形式としては最上級の構えといわれています。
しだれ桜 邸内にあるしだれ桜は、1952年(昭和27)堂本印象画伯の発案により、醍醐寺三宝院内の実生(みしょう)の桜を移植したもので、太閤秀吉が「醍醐の宴」を催した当時の桜の孫にあたる。』
『平安女学院建学の精神 知性を広げ望みを高くし、感受性を豊かにしそして神を知らせる
平安女学院の沿革 1875(明治8)年、来聖公会宣教師C.M.ウィリアムズ主教の要請に応じ来日したミス.エレン.G.エディによって、大阪の川口居留地につくられた生徒3名の「エディの学校」から始まります。以来、キリスト教の精神に基づく女子教有の100年以上の歴史と伝統を持ち、豊かな教養や国際感覚を持った女性育成と特色ある学校づくりに取り組んでいます』
「ザ・パレスサイドホテル」前を通過し、「山川友一装束店」前を通過。「ワタナベウェディング」店があり、見事な和装着物が飾ってあった。
16:24「護王神社」。『いのしし神社のおはなし 奈良時代・称徳天皇の御代、去皇となって権勢をふるっていた弓削道鏡は、天皇の位をわが物にしようと、「自分を皇位につかせたなら天下は太平になると宇佐八幡より御神託(神様のお告げ)があった」とウソをつきました。
天皇から御神託か本当かどうかを確かめてくるよう命を受けた和気清麻呂公は、九州の宇佐八幡へ行き、御神前に「真意を示したまえ」と叫びました。すると光の中から宇佐の大神か現れ、「天皇の後継者には必ず皇族の者を立てなさい。無道の者は、早く追放してしまいなさい」と御神託を下されました。
都へ帰った清麻呂公は、このことを天皇に報告し、道鏡の野望を暴きました。道鏡の怒りを買った清麻呂公は、大隅国(鹿児島県)に流されることになり、その旅の途中、道鏡の放った刺客に襲われ、足の筋を切られてしまいました。それでも清麻呂公は、皇室の安泰を守られたことを感謝するため、宇佐八幡へ立ち寄ることにしました。
そして一行が豊前国(福岡県東部)にさしかかった時、どこからともなく300頭ものイノシシが現れ、清麻呂公の輿の周りを護リながら10里(約四十km)の道のりを案内してくれたのです。イノシシたちは宇佐八幡に着くと、またどこかへ去って行きました。清麻呂公を悩ませていた足の痛みも不思議と治っていました。
一年後、称徳天皇の崩御により道鏡は失脚すると、清麻呂公は都へ呼び戻され、晩年まで世のため人のために尽くしました。清麻呂公の立派な人柄とともに、彼を護ったイノシシのお話は、後世まで語り継がれることとなりました。
清麻呂公を祀る護王神社には、狛犬の代わりに狛いのししが建てられ、今も清麻呂公を護り続けています』
神社の板塀に、和気清麻呂公や護王神社が使われた紙幣のアップが飾られていました。「甲10円券・明治32年(1899)発行」「乙10円券・大正4年(1915)発行」「丙10円券・昭和5年(1930)発行」。
初代・神武天皇以来125代、万世一系として男系血筋を通してきた天皇家最大の危機を回避したのが和気清麻呂。明治以来の紙幣に度々登場する重要人物でした。その真贋は別にして、このような古代〜中世に掛けて日本国を救った重要人物が紙幣の顔に選ばれにくくなって来ているのが少し悲しい。
『桓武天皇の遷都を進言し、平安京の都造りを推し進めた和気清麻呂とその姉・広虫を祭神とする神社。もとは、神護寺境内にあったが明治19年(1886)この地に移された。
広虫は慈悲深く、京中の孤児を養育したことにより子育て明神と呼ばれ、育児の神として信仰される。
拝殿の前に狛犬のかわりに猪像があるが、これは清麻呂を猪が守護したという故事にちなむ。11月1日に亥子祭がある』
神門を入って行きます。
『護王神社の主神・和気清麻呂と広虫 古代の社会福祉の先駆者 京都大学名誉教授・上田正昭
794年(延暦13)の10月、都は長岡京から平安京に遷されましたが、平安遷都の実質的な推進者は和気清麻呂でした。それは清麻呂がなくなったおりの薨伝に、長岡の新京が10年を経ても完成をみず、厖大な費用がかかりすぎているとして、桓武天皇に葛野への遷都を「ひそかに奏す」と述べられているのにうかがわれます(日本後紀)。
その和気清麻呂の姉・和気広虫です。和気氏の家伝では、その祖先を磐梨別と伝えていますが、和気氏は備前の東部・美作の東南部の有力な豪族でした。広虫と清麻呂の父は和気乎麻呂で、広虫は天平末年ないしは750年(天平勝宝2)のころに、葛木戸主と結婚しました。しかし760年(天平宝字4)のころに戸主がこの世を去って、広虫は30歳あまりの若さで未亡人となりました。
葛木戸主夫妻は社会の福祉につとめ、平城京内の孤児をあつめて養育し、756年(天平勝宝8)には、成人となった男9人、女1人を養子としました。759年(天平宝字3)3月19日に、葛木戸主が東大寺正倉院の薬物を施薬院に分与することを請願いた文書が、現在も正倉院文書のなかにあります。
広虫は孝謙上皇の側近の女官になり、上皇が仏門に帰依したおりには、出家して法均尼となります。764年(天平宝字8)には、藤原仲麻呂の乱で孤児となった83人を保育し、葛木首の姓を与えられたその全員を養子としました。そればかりではありません。仲麻呂の乱に連座した375人の助命減刑を上申して、その願いが認められています。
古代において孤児の養育にあたった人物はほかにもありますが、広虫のように長期にわたっていくたびも孤児などの救済にあたった例はきわめてまれです。広虫は799年(延暦18)正月20日、70歳をもってこの世を去リましたが、その生涯は社会の福祉や保育の先駆者ともいうべき慈悲の人生でした。
清麻呂の学識と勇気ある行動の背景に姉の力が大きな光りを与えています。広虫の薨伝には「貞順にして節操かわることなく、こと清麻呂の語中にあらわる」とあり、広虫の逝去後1ヵ月のちにあの世へ旅立った清麻呂の薨伝には、桓武天皇の「いまたかつて法均(広虫)、他人の過を語るを聞かず」の言葉が載っています。護王神社の主神は清麻呂公と広虫姫命です』
『和気清麻呂公と霊猪 この護王神社にお祀りされている和気清麻呂公は、神護景雲3年(769)怪僧・弓削道鏡が皇位を奪おうとしたとき、宇佐八幡宮の御神託によってその野望を挫かれた。そのため公は道鏡の怒りを買い、大隅国(現在の鹿児島県)へ追いやられたが、その途中、万世一系の皇統をお守りできたことに感謝するため、豊前国の宇佐八幡へお礼参りに向かわれた。
その時、どこからともなく300頭もの猪が現れ、公の周りを囲んで宇佐八幡までの10里の道のりを無事に御案内した。そして公が悩んでおられた足萎えも不思議に治ったという。(日本後紀・巻8)
当神社では、公を救った猪を霊猪と讃え、拝殿前には公の随神として雌雄一対の猪が相対峙している。そのおかげで、足の病気や怪我に悩む人々をはじめ、旅行安全や災難除けを願う人々から厚く崇敬されている』
境内に入ります。ここの手水舎は、イノシシです。境内、いたるところにイノシシがおり、流石和気清麻呂を祭神と仰ぐ神社です。境内中央にある絵馬殿に、「重巡洋艦・高雄」の絵馬が下がっていた。あまりに綺麗なのでよく見ると、「奉納・神武紀元2676年10月29日」と書かれており、西暦2016年に奉納されたばかりのようです。
『「忠烈」の額 軍艦「高雄」=の名前を聞いて、回顧の念を懐く方は少なくはないだろうと思うが、軍艦「高雄」と護王神社との関係は、昭和7年、当時の乗組員の請願により、護王神社の御分霊が、その艦内に祀られたことに始まる。「高雄」は御祭神の御加護によリ、武運に恵まれて、沈没する事なく、その任を全うした旧日本海軍の数少ない艦艇の1つでもあリ、当時は乗組員が幾度となく護王神社に参拝し、祈願した事も資料に見られる』
『足腰御守』と彫られた碑が立っており、横には「足型」。足腰が気になる方が、手を合わせておられました。
『御神木・招魂樹 座立亥串(くらたていぐし)』と書かれた柱が立っており、多くの串が地面に刺さっていた。
社務所で、「絵馬500円」「交通安全ステッカー500円」を授かった。表に出て更に「烏丸通」を北上しようとすると、北側の板塀には、「護王神社 御祭神:和気清麻呂命・和気広虫姫命 絵巻」の一連のパネルが貼られていた。
16:40、目的地の「京都ガーデンパレスホテル」。烏丸通を隔てたところは「新在家御門(蛤御門)」です。1864年、禁裏を襲い天皇を拉致し、一気に大勢逆転を狙った長州軍が、守備する薩摩・会津軍に敗退した場所です。梅の花が綺麗に咲いています。
『土御門烏丸邸の沿革 平安京左京一条三坊九町にあたるこの地(北は上長者町通、南は下長者町通、東は烏丸通、西は室町通)は、10世紀頃に村上天皇の皇子・具平親王の邸宅が造営され、12世紀に至って、曾孫・源師時の邸宅・土御門第となった。白河院近臣の権勢者・藤原顕隆(あきたか)は、この地を買得して内裏を模した最初の里内裏(さとだいり)を営み、鳥羽天皇から崇徳・近衛と続く3代・24年もの間、天皇の御所となったこの里内裏も、保元元年(1156)の乱によって廃絶した。
鎌倉・室町時代には清浄華院(しょうじょうけいいん)が移ってきたが、のち豊臣秀吉により寺町に移され、そのあとには黄金塗瓦葺きの大名屋敷が建ち並んだものの、これも秀吉の伏見城造営に際して伏見に移された。
江戸時代の寛永12年(1636)になって水戸藩邸が営まれたが、幕末の文久4年(1864)、烏丸通を鋏んで東向かいある蛤御門(禁門)で起こった戦火により全焼した。現存する水戸彰孝館所蔵史料の多くは、この藩邸で蒐集されたものである。
明治時代に入った後は、転々と所有者が変わり、平成8年その一部が「京都ガーデンパレス」となった。
早いけどホテル内に入っていくと、ほとんどの部員が既にいました。部員に聞くと、1時間前の17時集合だそうです。会場は2Fの宴会場でした。ホテル内ロビーのある1F、宴会場のある2Fは、何となく京都を感じるデザインが成されていました。
会場である「葵の間」前に、「・・大学ヨット部・第83代卒業生歓送会御席」の案内板が立っていました。そこのロビーにある椅子に部員たちが座っている。コートを脱いで、部屋の前の臨時受付机横にあるコート掛けへ。部屋に入ってみると、新4回生部員が準備をしていました。ヨット部オリジナルグッズをテーブルに並べています。部旗を壁に貼っています。去年より大きな会場で、近年卒業生が増えた関係で、直接今年の卒業生を知っている若手OB・OGが、院生として京都にいるからでしょう。一緒にクラブを楽しんだ後輩の晴れの舞台には駆けつけねば・・・ね。
女子マネさん達が集まり、受付テーブルの準備を始めました。僕が前日にお願いした配布プリントも到着していたので、受付後すぐ渡せるように、4種類のプリントを1部ずつまとめ始めました。マネさんが「やりますよ」と4人がかりで、全40セット作りました。それを挟むべき、卒業生小冊子が1名体調不良でまだ製本されておらず、渡すものが私からのコピーだけになっちゃいました。
1年前に卒業したT助監督がやって来ました。若手OBTくんが来たので、「T君が1番で受付しようか」と促し、芳名帳〜会費1万円〜式次第&コピー受け取りの流れへ。僕も受付を済ませました。卒業生小冊子がないので、お詫びとQRコードが印刷されたA4を1枚渡されました。QRコードを読むと、グーグルドライブに飛んで、体調不良の卒業生1名以外の部員の言葉が読めます。紙媒体希望の方は、後日郵送するするそうです。僕も紙媒体が欲しいけど、郵送料が勿体無いので、合宿所に置いといてもらうことにしました。
部屋に入り荷物を置いて、OB・OG達とお喋りします。18時になったので「ヨット部卒業式」の始まりです。新4回生S君が司会です。ヨット部OBで大学教授でもあるM部長の「開会の辞」。OB会長のHさんの乾杯&挨拶で歓談・会食開始です。しばらくして、OB会理事長Yさんの挨拶に続いて僕が指名され、スピーチをさせていただきました。まず、私が用意した「インカレ予選」「女子インカレ」「インカレ本戦」の私の日記をコピーしたもの、古豪復活とクローズアップして頂いたヨット雑誌「舵」の「インカレ本戦記事」をゆっくり読んでいただくと、この1年の卒業生の活動が分かっていただけると伝える。
私が感じた今年の卒業生の中の5人の女子マネージャーの活躍を話しました。2回生になった頃のやっとボート運転に慣れた頃と、その1年半後の前線通過サバイバル海象での冷静で大胆な運転への上達力。レース中のデータ更新と集計による下準備の上にコーチングや選手の判断が築かれたこと。それと何と行っても、日頃の合宿生活での美味しい食事。
それに対し、好成績で表彰状や盾・トロフィーを頂けるクロージングセレモニーで、晴れの舞台に女子マネージャーを伴い前に出て、彼女たちにトロフィーを受け取らす選手たちの姿。良いチームだな〜と感動したことを話しました。インカレ本戦では、銀メダルを彼女たちに掛け、共に写真を撮る姿がとても自然でした。これでまた歓談&食事タイム。
続いて、3名の退任するコーチの挨拶です。1人は次男・監督と同期のS君。会社から2年間留学してもいいよと言われ、アメリカの大学を物色中だそうだ。他はM2を卒業する2人の若手コーチです。
また会食タイム。現キャプテンN君による「送辞」。そして、お待ちかね、本日のメインイベント「卒業生挨拶」です。体調不良の1名を除く12名が、ヨット部での思い出や感謝の気持ちを述べます。
壇上で現役部員からの「記念品&花束贈呈」です。その中に「パネル」が入っており、それぞれが乗っていたセールナンバーが書かれたレース艇が書かれた壁掛けです。「寄せ書き」もありました。Y理事長から、デザインを新しくした「ネクタイ」を男子部員へ、女子部員には「スカーフ」の贈呈がありました。それぞれに、学生たちが乗っていたレース艇の刺繍が入っています。
席に戻り、卒業生を囲んだ記念撮影があちこちで始まりました。男子部員に比べ女子部員の人気はすごく、当たり前ですね。
「閉会の辞」を、次男と同期の監督からあり締めです。参加者全員が段上に上がり、「集合写真」の撮影です。恒例の円陣になってのエールです。「第3応援歌」と最後は「琵琶湖周航の歌」の斉唱でした。「コーチ、私達と一緒に写真を取りましょう」と卒業する女子マネさんに言われ、「これは飛び上がるほど嬉しかった」です。僕のカメラをOBに渡し、撮ってもらいました。
20:30、これでお終い。新2回生部員のお父さんであり、このヨット部のOBでもあり元監督でもあるMさんと立ち話して、OB会長さんなどの重鎮さんに挨拶し帰路に着きました。ホテル前にはタクシーが並んでいます。これから朝5時まで、卒業生が現役部員を引き連れて、京都の夜を楽しみます。今年はどんな所に行くのでしょう。どんなハプニングがあるのでしょう。
若手OB・OGと監督が、飲みに行くようです。僕も誘われましたが、飲めないのでパス。「丸太町」駅から地下鉄に乗り、JR京都駅へ。快速電車に乗り、尼崎駅で乗り換え最寄り駅で、またICOCAチャージ2000円して、最後は「通勤リード110」に乗り22時頃帰宅しました。あ〜楽しかった〜。


2019/2/23
コーチしている大学ヨット部の練習に参加します。2月の学年末試験が終了し、1週間前の週末から今年の練習が始まりました。試験が終わると4月の進級後の初授業まで春休みです。春の琵琶湖は強風が吹くことが多いので、走れる風域を上げるために良い練習になります。
4時過ぎに目が覚め、仕事場に行ってあれこれやっていました。倉庫から「里山VTR250」を乗り出し自宅前へ。先週、家内が法事に行ったことで頂いた香典返しをリアボックスに積みました。家内の母親の実家で、姫路卸売市場内で果物商を手広くやっているので、デコポンみかん1箱と静岡三ヶ日みかん1箱でした。デコポン箱は温州みかん同様の大きさなので、とてもバイクに詰めません。三ヶ日みかんはその半分ぐらいの大きさで最高級品質なんて書いてあるので、これは美味いだろうと差し入れすることにしました。我が家は夫婦2人だけなので、とても食べきれません。
ヨット用カッパ上下+ヨット用ライフジャケットという出で立ちで、6時に出発しました。中央環状〜吹田ICから名神高速に乗ります。桂川PAでトイレ休憩し、京都東ICで下車し、湖西道路を北上し、7時前にヨットハーバー着。まだ部員は誰も来ていないので、合宿所の方に移動しました。途中、ハーバーの方に移動する部員たちとすれ違い、挨拶を交わし「まだマネージャーいる?」と聞きながら、合宿所に入ります。2回生女子マネージャーSさんが最後の点検をしており、おミカンの差し入れをしました。
それに加え、翌日の「4回生ヨット部卒業式」(俗に言う追い出しコンパ)で、参加されるOBに配るプリントを渡しました。私はコーチなので、今年の活動を伝えるために最近は毎年用意しています。今回は、「インカレ予選4ページ」・「女子インカレ8P」・「インカレ本戦6P」の私の日記と、「ヨット雑誌舵の全日本記事6P」のコピーを40部用意しました。1週間前の集計では34人のOBが参集するそうです。卒業する4回生が、自分の4年間の記録や思い・後輩へのアドバイスを製本して配る小冊子に挟んでもらいます。「こういう風にホッチキスで留めて、明日ホテルに持っていって欲しいんだ」「はい、わかりました」。
ハーバーに戻り、皆に挨拶。荷物をコーチボートに置きに行きます。今年初めてなので、コーチボートの外装をチェック。皆の所に戻り、お喋りしながらレース艇や練習艇をチェック。Nキャプテンの「集合」の言葉に全員円陣に集まります。いつものように体操、各チームリーダーから午前中練習内容の説明。僕のブリーフィング。肩を組んでNキャプテンの「ガンガン行こうぜ」の発声に合わせ気合を入れ8時出艇。今年も始まりました。
軽風コンディションで、S級はマーク4つ打ってサークリング。470は帆走練習。Sは8艇、470は6艇です。ビデオ撮ったり、気づいたことをマイクでアドバイスしたり。北から良い風が入りだし、練習後半はトラピーズに乗る風になりました。今年初めてだそうです。1回生女子マネさんがコーチボートをドライブしている時間帯で、ヨットに乗る部員交代やマーク打ち・回収などしたので、ドライブの良い練習になったと思います。
12時にハーバーバックし合宿所へ。せっかく出してくれた年賀状が、我が家の住所変更で戻っていたので、それを受け取る。同じく、「第84代ヨット部便り」も頂く。昼食の「大根おろし牛丼」が美味い。メニューはリクエスト受付されているので、「美味いわ〜、リクエスト書いとこう」とすぐホワイトボードに書いてるヤツががいた。
13時、体操・ブリーフィングの後に出艇。午前中気づいたことを、全員に話します。練習中に伝えたことも、部員全員で共有して欲しいのでもう一度話しました。470用とS級用に、マークを2つずつ打ち練習開始。
更に風速が上がり、マークラウンディングの良い練習になるはずでしたが、アベレージが10m/sを越え、1艇沈。春の練習なのでボロいセイルを使っていることもあり、470の1艇のジブが裂けてハーバーバック。S級にも同じトラブルの艇が出て1艇ハーバーバック。上がってコーチボートに乗っていたS級リーダーのN君と、「良い練習になるのにな〜」「あ〜走りたい。練習出来ますかね〜」「慣れるから出来ると思うよ。良い練習になるはず」と会話。アビームで、数艇がパンピングしながらプレーニングしてかっ飛んでる。「ああ〜楽しそう」。
更に強いブローで3艇沈。風上の北の湖面見ると、まだまだブローが続きそう。「こりゃダメだな」と判断し、「練習中止します」と全員に声を掛け、「練習艇の風上に向かって」とドライバーに指示。「ピーピピピピー」とホイッスルを連続して、ジェスチャーでハーバーバックを指示します。
沈した2艇はすぐ起きましたが、1艇は3回一旦立ったが、乗員が乗る前に再沈しなかなか起きません。水の冷たい時期なので、「メインセイルを降ろせ」と指示。コーチボート上部員に、「曳航用ロープを用意」と指示。ジブだけになって立ったS級1艇がジブだけでハーバーバックし始めた風上横にコーチボートを接近させ、曳航ロープを投げて曳航して帰りました。北の海面では龍谷大も沈艇を数艇出し、サバイバルしています。「アレの救助にまた出るかもしれないから、龍谷の様子を見ておこう」と部員に指示。更に北で練習しているD社は、まだ練習をやっている感じです。「う〜ん、流石この水域No1」。
ハーバーバックし、帰着している龍谷の部員に声を掛けると、龍谷も全艇無事のようでコーチボートの再出艇はせずに済みました。「15時まで様子を見ます」とキャプテンやリーダーから支持が出て、風が落ちればいつでも出艇できるよう準備します。残念ながら、息はあるものの白波は収まらず、練習中止。
合宿所に戻ります。キャプテンが食事当番マネさんに、「食事何時に出来る?できるだけ早くして欲しい」とリクエストしている。4回生マネかずちゃんに、「前キャプテンと、付き合ってるの?」と聞くと「え、なんでわかったんですか?」「去年の全日本で、彼が獲得した準優勝メダルを首に掛けてもらって2人で写真に写ってたじゃん」「あ〜そうか」。
「2週間前にA君の結婚式に行ってきたよ。次はかずちゃんだね」「そうなれば良いのですが・・・」と照れています。この子はいつもニコニコしていて、とても話しやすい。お肌が綺麗でほっぺたを人差し指で押してみたい子です。全部員の前で照れもせず女の子にメダルを掛けてやり、肩を組んだ写真を撮ってもらう男って素晴らしい。A君同様、選手&マネカップルは、応援したくなります。「Aさんの結婚式って、どんなだったかコーチに聞きたいと思っていたんですよ」「そう、なら僕の日記を見せてあげようか。かずちゃんのメールにワードを添付してあげるよ」。
大部屋に座り、持ってきたタブレットPCを立ち上げたが合宿所Wifiが繋がらない。部員に「WifiのアクセスNo変わった?」と聞くと、「料金不払いで止まっちゃったんですよ。復活申請中なんです」との返事。僕の日記にアクセス出来ず残念。
全体ミーティングで僕の話、続いてクラス別ミーティング。S級スキッパーミーティングに加わり、リーダーNくんの進行が上手いなと思いました。Nくんは去年までクルーをしていました。高校時代からスーパークルーで、去年2回、一昨年1回、計3回全日本インカレでトップを引いています。今年からスキッパーに転向し、学ぶことがいっぱい有りとても楽しそうです。1回生スキッパーとして全日本に出場し、トータル部内トップ成績を上げたM君が、独特の擬音語・擬態語を連発しながら、楽しそうに喋っている。擬音語・擬態語の多さで、皆が笑いとても場が和んでいる。とても良い雰囲気です。
美味しい夕食の時間を楽しみ、掃除時間になったので帰路に着きました。湖西道路〜京都東ICから名神〜吹田ICで下車し、中央環状〜R171で、19:43「セルフ北村SS」で給油。274km/9.83L=27.9km/L。帰宅すると、家内から「今日、風強かったでしょう。こっちは風が強くて寒かったよ」と言われました。


2019/2/17
家内もお休みでしたが、前日土曜日に法事があり、スカート履いて寒かったので家で大人しくしているとのこと。「では、バイクで走ってくるわ」、ということで「里山VTR250」を準備します。定期点検で、オイルをいつもの純正G1(鉱物油)からMOTUL(100%合成)に変更したので、ギアチェンジの変化を体験して来よう。
VTRは乗りやすくとても気に入っているが、CB400SBを買ってから、シフトチェンジギアがCBより重いことに気づきました。「そういえば、初めてのオイルチェンジの時、もっとギアが入りやすかったような・・・」という遠い記憶を頼りに、「100%合成オイルに替えたら、ギア入りやすくなるの?」とホンダドリームさんで聞いたら「多少マシになる」とのこと。それでMOTULに交換しました。CBは、ロー〜セカンドにシフトアップする時以外、クラッチレバーを握る必要がなく、簡単にスコンスコンとギアチェンジできます。だから一旦動き出したら、シフトレバーを握る必要がありません。「そこまでは軽くならないのはわかってるけど、少しでも軽くなると良いな〜」。
10:19、ナビに登録してある寺社・史跡ポイントを見ながら、大まかにルートを決めて出発しました。中央環状道〜茨木〜亀岡です。R171を東に進み、中央環状道を東進。名神吹田ICを過ぎてから、大阪府道r14で北上し、再びR171に合流し少し東進して、r46に乗りました。この道を北上しながらポイントしてる寺社を訪問しましょう。
枝道に逸れ、10:52「阿為神社」。鳥居横の石段を上がると「浄土宗安威山善法院六念寺」があります。神仏習合時代の名残で、かつては同じ境内にあったのかな?「六念寺」の方を先に訪問しましょう。
石段を上がっていると、「藤原鎌足公古墳道」と彫られた石柱が立っていました。r46隔てた阿武山に、鎌足公の古墳はあるけど、こんな遠い所から道が繋がっているのかな?僕の先祖は「美作菅家党」で、その祖・三歩太郎は菅原道真の子孫に嫁いできた藤原氏の娘から生まれた。よって僕にもその血が繋がっています。これは調べてみなければ・・・。
山門をくぐり境内に入ると、立派なコンクリート造の本堂には、「上り藤」の家紋が入っていました。藤原氏ゆかりの寺院のようです。中臣(藤原)鎌足縁の地を感じます。本堂横に墓地があり、本堂の軒下にたくさんの瓦が並べられていました。境内にはブルーシートに覆われた倒れた建物があります。この建物の屋根に載っていた瓦なのでしょう。去年の地震&台風被害でしょう。高槻・茨木を中心に被災しました。
あの時は、水道が止まった甥っ子一家に水を届けました。高層マンションに住んでいるので、1才の赤ん坊を抱え大変でした。今月2人目が生まれ、来週またお宮参りの着物などを渡しに行きます。家内の実家が、初めて産まれた男の子の孫であるうちの長男に、綺麗なブルー系の着物をプレゼントしてくれました。長男、その後次男のお宮参りにも使いました。家内の姉の息子である甥っ子も、この着物を着てお宮参りしました。そして、甥っ子の長男も、今度は次男も。買えば良いのでしょうが、こういう物はより多くの人の気持ちが籠もったものの方が良いと思います。家内の姉もそういう方なので、親戚としてとても気持ちよく付き合え、この縁にいつも感謝しています。
お隣の「阿為神社」へ。一旦バイクのところまで降りて再び参道を上がりましたが、境内は六念寺に繋がっていました。立派な神社で、摂社が本殿を囲むように山中に点在している。『出雲神社 速素盞嗚命を祀る。出雲の出雲大社より勧請した。 例祭:7月第一日曜日』『秋葉神社 火明命を祀る。火の祖神。火産霊神様を祀るので、秋葉神社と名がついた』。
山中を巡る小道から、台風の被害と思われる倒木や途中で折れた痛々しい幹が見える。壊れた祠もある。稲荷神社の石鳥居が中央で折れ、扁額が落ちたようで、大切にくるまれ鳥居横に置いてあった。小高い丘なので、茨木市街地が広く見渡せる。『天満菅原神社 菅原道真公 学問の神様 例祭:2月25日』『大歳神社 大歳神を祀る。穀物守護の神様。子宝に恵まれる神様。 例祭:成人の日の前の日曜日「餅まき」が行われる』。
本殿に戻り、お賽銭チャリン・ガランガランで、いつものように「これまで生きてこれた幸運に感謝し、素敵な家内と素晴らしい息子たち、更にお嫁さんたち孫たちに恵まれたこと」に感謝する。加えて、子孫繁栄も厚かましくお願いする。
『稲荷神社祭 4月5日午前11時〜花火・福引き』。
本殿横に『神ここに 蹴鞠の庭の 照紅い葉』と彫られた石碑が立っていました。阿為神社は、中臣鎌足が勧請した祖神を祀った神社という謂れを持ちます。秋に蹴鞠が境内で催されるようです。近隣に阿武山古墳(鎌足の葬られた古墳)・大念寺(鎌足の長子・定慧開基)・阿為神社(藤原氏祖神)・大織冠神社(鎌足古廟)など、鎌足縁の地が多数あります。
『金山彦神社 金山及び刀・鋤・鍬を鍛える金物を主宰する神様。 例祭:1月10日』『稲那神社 保食神社 保食神を祀る。食物を主宰する神様』『市杵島姫神社 市杵島姫命を祀る。水の女神様。厳島神社の御祭神である』『鹿島神社 武甕槌(たけみかずち)大神を祀る。国家鎮護の神様。陸奥国・鹿島神社より勧請。 例祭:1月10日』『八幡神社 応神天皇を祀る。明治41年に宇山光山(山西)の八幡神社を合祀する。 例祭:9月第3月曜日』
r46に戻り北上。少し道に迷ったけど、11:38「神峯山大門寺」到着。Pから上っていくと、スイセンの群生と梅の花のピンクが素敵な景色が広がっていた。「あやめが咲いてる?」、あやめの季節ではないので「寒咲文目(かんざきあやめ)」でしょう。塀は傷み気味で雰囲気が良い。山門をくぐると地震と台風で受けた被害が広がっていた。山のてっぺんにあるので、風害をモロに受けたようです。業者さんが入っていました。
バイクに戻りましょう。バイクまでの道は未舗装ですが、瓦が縦に密度濃く埋められていたり、見た目の良いコンクリートブロックが埋められており、土流れもそれほど大きくなく温かな感じがしました。
r46に戻り北上を続けます。r1に乗り換え、「忍頂寺」方面へ。また枝道に逸れ、11:59「皇大神宮」。比高はありませんが、道から見上げる勾配で続く石段の上にありました。「神社」ではなく「神宮」という名を関した神社なので謂れが気になりますが、謂れ板がなく不明。見た目は普通の神社。隣接して「法林寺」という寺院があり、これまた神仏習合の名残りを感じます。
明治の神仏分離令により、多くの寺院が近隣民衆から打ちこわしに遭いました。私の一般人としての感覚では、明治政府が「寺院を打ち壊せ」なんて言っていないので、江戸時代行政組織に組み込まれ、近隣住民の自由な移動を阻んでいたことや、その執行が高圧的だったことから来る反動だろうと想像しています。地域によって、激しい打ちこわしを後世に伝える謂れ板が立っている地区や、境内に塀を新設して神仏分離しただけの地域もあります。これらを見て温度差を感じての想像です。茨木地域は寺院が強権的でなかったから、今も共存しているように思えます。
加えて、戦国末期、高山右近というキリシタン大名の支配したことで、一神教のキリスト教布教のため、多くの寺社はキリスト教信者によって打ち壊しに被害に遭いました。更に、キリシタン大名はスペイン・ポルトガルなどのキリスト教を尖兵にした侵略・植民地化を図った西洋諸国と、滅ぼした近隣国の住民を奴隷として西洋諸国に売り飛ばすことをしました。スペイン・ポルトガルは、硝煙をキリシタン大名に売ることで商売し、それを得たことで戦力有利になったキリシタン大名が近隣諸国を攻め獲得した日本人奴隷を購入し奴隷貿易でも利を得た。これらのキリシタン信者・大名の行動を知った豊臣秀吉が「バテレン追放令」「キリシタン禁止令」を出してキリシタン布教を抑えようとした。徳川幕府もそれに習い、結果的には日本の植民地化を阻んだ。江戸時代の「島原の乱」の平定によりキリシタン勢力を駆逐した。最も早くキリシタンの被害に遭った地ゆえ、旧勢力である寺社と民衆の繋がりが強くなったのかもしれない。
r1に戻り、忍頂寺方面へ。ウネウネのアップダウンの多い道を楽しく走り、12:13「浄土宗知恩院派萬年山浄福寺」。鐘楼の鐘が寂しそうだったので、10円置いてゴーン。手を合わさせて頂きました。最近の寺院は、鐘楼に賽銭箱が置いてあったり、鐘撞き料金が明示されていたりするので、表示がなければ遠慮して撞かない方が多いように思う。僕は子供の頃、お寺に行くと鐘を撞くのが楽しみで、今でも遠慮なく鐘を撞いている。子供の頃、年越しが迫ると響いてくる除夜の鐘を撞いている寺院が自転車で行ける距離にありました。小学校の校区内ということもあり、その近所に友だちがいるし、テキ屋が常時出ていて面白いので、よく行っていました。ご住職は、子供へ鐘撞きを勧める方で、チビな子がいると手伝ってくれました。そんな子供の頃の経験が影響していると思います。神社や寺院が好きなのは、その影響からかも知れません。
枝道をほんの少し走って、12:18「忍頂寺寿命院」。『およそ1100年の昔、貞観年中に三澄が国家の安寧を祈願するために建てた寺院で、寺号は清和天皇から賜った。織田信長の保護を受けたが、高山右近がキリシタン伝播のため寺院を焼いて寺領を没収した。現在はその寺院の一坊であった寿命院が残っている。堂後に元亨元年(1321)7月14日に建立された五輪塔がある。この五輪塔は、昭和53年8月1日付で、大阪府文化財に指定されたもので、高さ2.3mで花崗岩製であり保存状態がよく、造立年代の明らかな五輪塔として貴重なものである』
「大阪みどりの百選 竜王山と忍頂寺」と彫られた石柱が立っていました。境内に入ると、本堂の屋根の一部がブルーシートに覆われていました。ここにも地震と台風の被害が・・・。本堂裏を覗いてみると、大小様々な五輪塔が並んでいました。新しいのも年季の入ったのもあり、無縫塔がなかったので歴代住職の墓石かも知れません。
その墓地を見下ろすような位置にひときわ大きな五輪塔が立っています。謂れ板で紹介されていた五輪塔はこれのようです。早速上がってみましょう。下から一見できますが、その後も前も木々が倒れたようで、伐採後が残っていたり、折れたままの幹が無残な姿を見せていたりします。
『五輪塔は、供養塔や墓標として用いられ、その形は物質構成の要素である五大にかたどった5つの部分からなり、下から地(方)・水(円)・火(三角)・風(半月)・空(宝珠)の形をしています。
この五輪塔は、高さ1.8mの完全なもので、反花座には特色のある複弁が施され、少し低めの地輪に対して水輪はやや高めに出来ている。火輪は軒が両端で特に厚みを加えているので、軒のそりがはっきりとわかり、重厚さを増しています。地輪には、「元亨辛酉7月15日 金剛佛子 定盛」の銘が刻まれており、完全な形であることと合わせて、時代判定の基準となる貴重なもので、大阪府指定文化財になっている』
隣に「八所神社」と扁額の上がった鳥居があり、石段が山を登っていた。かつては栄えたのだろうが、現在はその一坊しか残っていない小堂の鎮護社と思って上りましたが、境内は意外に広く「どんと焼」の跡?かと思われる焼き跡が中央に残っていた。「御大展記念」と彫られた石碑が立っており、石碑の新しさから平成の御大展記念と思われるが、「新天皇即位の礼+大嘗祭」という一連の慶事に対しこれほど立派な石碑が立てられる経済力に感心してしまった。
車で上ってこれる別の道で下り始めると、「至 竜王山山頂 竜王山自然歩道 茨木」と書かれた木柱が立っていた。バイクを置いた道に戻ると、「火の用心 竜王山自然歩道 茨木市」と書かれた木柱が立っていました。
r1に戻り先に進むとすぐに、「忍頂寺交差点」。ここを左折してr43へ。アップダウン・ワインディングの田舎道を楽しみ、交差点に出て右折しr110へ。しばらく走り、次の目的地ポイント「磨崖仏」を探しに枝道に逸れます。すぐに六地蔵のあるそれらしき場所を発見し停車。
12:43、六地蔵前から入っていくと、かつての墓地と思われる小丘があった。墓石は小さく、半分埋まっていたり倒れていたりで、江戸時代現役だった墓場が想像された。壊れた造作の中に、「摂化十方」となんとか読める墨跡が残る木柱が地面から立っていた。帰宅して調べたら、「浄土宗大辞典」というところに、「阿弥陀仏は自身が発した誓願において、その光明により、名号を称える十方の衆生を救済するということ」と解説されていた。更に丘を登っていくと、てっぺんに現役の真新しい墓石が立っていた。他は子孫が絶えたか、別の墓地に移動し振り返られることのなくなった仏様が眠っているのでしょう。やがて自然に飲み込まれ、その存在すらわからなくなっていくのでしょう。南無阿弥陀仏・・・
バイクに戻ると、「右:多留見峠 左:銭原 山脈自然歩道 茨木市」と書かれた木柱が立っていた。「上鳥羽消防車庫・見山分団」と書かれた建物があった。広めの駐車場が完備され、公民館・消防団詰所なのでしょう。遊具の備わった小さな児童公園があり、面している府道には、「倶楽部前」という阪急バスのバス停があった。
バイクに戻り、更にこの枝道を入ってみよう。一本道を入っていくと交差点があり、正面に磨崖仏の案内板を発見。12:53上鳥羽磨崖仏。
『茨木市指定文化財 彫刻第2号 天正二年銘磨崖仏 能勢妙見街道沿いの上鳥羽にあるこの磨崖仏は、幅約6mの自然石の一部を平らにし、上下2段にわけて、計28体の立像を線刻に近い方法で彫っています。上段右より円相内に「宗祐」の文字を入れ、その下部に2体の小立像、この左に蓮台をともなう大形の立像が彫られ、像下に「法印」・「宗承」の2行が認められます。その左に2体の立像、さらに頭光と放光をもつ蓮台上の立像の左右に1行ずつ割書きで「甲、天正2年、戌、11月15日」と刻んでいます。下段は右に少し離れて4体が枠内に、続いて左に16体が彫られています。これらの立像は、いずれも円形の面貌と長方形の休躯の輪郭を彫り、目鼻口と合掌手を表現しています。市内で唯一の磨崖仏ですが、豊能町の山あいにかけて多数見つかっています。磨崖仏は、死後の救済を願い、生きているうちに自らを供養する逆修(ぎゃくしゅう)を目的として造られたと考えられています。 茨木市教育委員会』
r110に戻り、田舎道ワインディングを暫く走り、13:06「走落神社」。境内は広く、良い感じ。本殿には、「欲深き人の心と降る雪は、積もるに連れて道を失う 高橋泥船」と書かれていました。「泥舟・でいしゅう」と名乗る作者から、それまでの人生から学んだ深い言葉のように思いました。
r110を更に進み、R423に突き当たったので右折し亀岡方面へ。「大型車通行止め」の案内表示があり、数ヶ所で土砂崩れ復旧工事をしており、片側通行になっていました。亀岡盆地に下り、右折して京都縦貫道側道・R372に乗って少し北上し、枝道にはいり、13:37「走田神社」。
鳥居の横に、茅葺きの素敵なお屋敷があり、社務所でした。『走田神社は、社伝等によると和銅4年(711)に創祀された。平安時代の書物である「延喜式」の「神名帳」に記載されている丹波国桑田郡19座の1社です。祭神は、彦火火出見尊(山幸彦)・豊玉姫尊・ウブヤフキアエズ尊(神武天皇)の3柱。この彦火火出見は、神話「海幸彦・山幸彦」に登場する山幸彦。豊玉姫尊は、山幸彦が海幸彦の釣針を探しに行かれた龍宮に住む海神の娘で、彦火火出見尊の妃となった。ウブヤフキアエズ尊は、この2神の御子です。
昔、社殿に掛けられていた絵馬から馬が毎夜抜け出て草を食べ歩き、やがてその蹄の跡が窪地となり川となった。この川は増水の時でも川音を立てないことから「不鳴川」とも呼ばれます。この川は干ばつの時でも枯れることがなく、近隣の田畑を潤しました。また、この川の改修や浚渫(泥さらえ)等をする時は、故事に従ってその日には馬の好物である青豆を供えて祈願する風習が、今も続いています。
境内に、「垂乳味池」と呼ばれる清水があり、次のような話が伝わっています。豊玉姫尊がフキアエズ尊を出産した後、御子を残し龍宮へ帰ってしまいました。そこで残されたフキアエズ尊は豊玉姫尊の妹である玉依姫により、養育されることになりました。玉依姫はこの清水の水で粥を作り乳の代わりとしました。これより「垂乳味池」と呼ばれるようになりました。後に、この清水は乳の出の悪い婦人がこの清水で作った粥を食べると、乳がたくさん出るようになったと言われています』
この清水のお話は、R423沿いにあった「乳の泉」に似ています。あそこの水を飲むと「乳の出が良くなる」と謂れ板に書かれていました。ひょっとすると、この泉の上流にあの泉があるのかも知れません。向こうは「市杵島姫」が祀られています。いずれにしても、弁天様として神仏習合し、長く日本人の心を潤す女神です。現在の天皇家に続く神話の始まりである天照大神も女神で、こういう女神神話を大切に伝承して来たことが、日本の女性を大切にする文化に繋がっているように思います。
広い境内に入っていくと、鎮守の森であったろう地が大きな被害に遭っていました。一面木々が倒れ、幹が折れたのでしょう。重機が入り、後片付けの途中でした。根を見せて倒れた幹の1本がチェーンソーアートされていました。
『チェンソーアート(台風被害の風化対策) 平成30年9月に上陸した台風21号の暴風で境内の多くの木々が倒れました。倒れた大木の中でも大きな樹齢:約280年の木を利用してチェンソーで「馬」を制作いたしました。今回「馬」にした理由としては由来を参考に致しました。
発注者:走田神社総代会 制作者:渋谷菜津子
社号「走田」の由来について 当社に奉納されたたいそう立派な絵馬から夜な夜な馬が草を喰みに抜け出し、その蹄の跡が川となり田を潤したからという伝説を持つ』
社殿に、台風被害の写真が貼られていました。『稲荷社・弁財天社の再建、参道の整備、植樹など、復旧には時間を要するところではありますが、どうぞご理解頂ますようお願いいたします。多くの皆様方のご尽力により、新年を迎えられましたこと、心より御礼申し上げます。 走田神社』
この社殿横に、謂れ板が片付けられていました。『亀岡の銘木 走田神社のナギ 樹種;ナギ(マキ科) 常緑高木。本州(和歌山県・山口県)・四国・九州・琉球・台湾に分布する。暖地では神社の境内に植え、民家の庭木としても利用される。亀岡には自生しないが、数本植栽されたものが確認されている。その中でもこの木が一番の大木である。材は年輪が不明瞭。黄褐色で緻密。家具材・器具材・彫刻材などに用いられる。果期は10月中旬。調査日「1995年11月14日 胸高幹周1.40m、樹高16m』
何処にあった木なのか帰宅後調べてみました。本殿への石段脇の樹で、根こそぎ倒れてはいませんが、幹+数本の太い枝を残すのみで、他は無残に伐られていました。5mほどしかありません。御神木ゆえ根本からの伐採はせずに、自然復活を願っているようです。その他昨年夏までの走田神社の写真を見ると、現在とは大きく違って、鬱蒼とした鎮守の森でした。
「時代劇の風景 ロケ地探訪」というサイトには、「暴れん坊将軍」「子連れ狼」「竜馬がゆく」「三匹の侍」「鬼平犯科帳」「必殺仕事人」など、多くの映画やドラマのロケ地になったことが伝えられていました。雰囲気の良い社務所も、数々のロケ地として使われたそうです。
本殿の木鼻や蟇股の彫刻は素敵でした。「垂乳味池」は清水が境内外から流れ込んで流れ出ていました。ですが、「弁財天社修復中」となっていました。
京都r406で「穴田寺」前を通過し、道なりにr407になり、14:05「セブンイレブン亀岡運動公園前店」で、「レーズンロールマーガリン4個116円+ひとくち歌舞伎揚108円=224円」を購入。R372を西進し篠山方面へ。14:08ドレスアップされた「バス停」を激写。園部町に入り旧山陰道に乗り換えて、14:21「普済寺」。
道の右に目につく仏殿があり、左にも石段が上がっており、道で分断される形で左右に別れているようです。まずは、石段を上がっていきます。広く整った境内がありました。白い土塀に囲まれており、山門の方に歩いていくと鐘楼門でした。鐘楼門を出ていくと、参道が繋がっており、その外に門がありました。「重要文化財・普済寺仏殿(観音堂)」の立て札が立っていました。「禁葷酒」と彫られた石柱が立っており、禅宗系の寺院のようです。山門に戻っていくと、門柱に「大慈山曹洞宗・普済寺」と書かれていました。バイクを通り過ぎて、仏殿の方に行きます。
『普済寺仏殿(重要文化財) 普済寺は、平安時代に天台宗寺院として創建されたとも、足利尊氏が夢想国師を開山とし、その弟子となっていた千種姫(尊氏の妹)を開基として創建したとも伝えられている。その後荒廃したが、江戸時代になって、寛永11年(1634)に亀山(現亀岡)城主・菅沼織部正定芳が天外梵舜禅師を招いて復興し、曹洞宗に改めた。
仏殿の建立年代は南北朝時代と考えられ、大きく反り上がる軒、中火が盛り上がる火灯(花頭)形の窓や波状の連子が入る弓欄間など、典型的な禅宗様の仏殿として貴重な建物である。
形式:仏殿・桁行2間・梁間3間・一重・入母屋造・檜皮葺
指定:仏殿・重要文化財(大正4年1915) 鰐口・京都府指定文化財(平成9年1997) 千種姫像・園部町指定文化財(昭和45年1970)
仏殿の構造 仏殿は、昭和7年まで、茅葺であったが、同年の解体修理の結果、創建当時は檜皮葺・瓦棟であったことが判明し、現在の姿に改まった。
建物は、方三間・単層・檜皮葺で軒は二重の扇垂木とし、四隅は大きく反り上がる。組物は、二手先詰組で小堂であるにもかかわらず四面に28組の斗きょうを組む。柱は、比較的細く全て円形で台輸を載せ、二重に貫を通し地覆を廻す。柱の上下には粽(ちまき)を付け礎盤を置く。藁座付桟唐戸や火灯(花頭)窓。波状連子をはめた弓欄間を設ける。台輪や尾垂木の先端は鋭く繰られている。妻飾・破風には鰭付(ひれつき)の三ッ花懸魚、桁隠(けたかくし)をつけ、三斗組(みつどくみ)付の太瓶束(たいへいつか)、大虹梁(だいこうりょう)下は三斗で受ける。右両側面は、桟唐戸片開、背面中央は両開の桟唐戸を設ける。内部は、鏡天井で、床は禅宗様寺院では、瓦の四半敷が通例であるが、この仏殿は板張りで、中央に須弥壇を置く』
このような歴史のある仏殿の周囲を巡りました。四隅に反りのある檜皮葺の屋根が素敵で、見事だな〜と見ていました。普通こういう仏殿は鎮守の森に守られるようにひっそりしているものなのに、側まで田畑が迫り、反対側は梅畑になっている。ピンクの花が咲いて綺麗だが、これで後世に状態の良いまま伝えられるのか不安になった。歴史好きの僕が観ても観ても観きれないほど遺っているのは、先人が信心して守護し、修理を繰り返し良い状態を保ってきたからです。また多く遺っているから、机上の空論ではなく現地拝観できることが歴史好きを増やしているように思う。
仏殿の扉にハートマークを見つけました。「インスタ映え」することで参拝者を増やしている宇治田原市の寺院で知った知識ですが、「猪目」といって昔から寺院で使われていたデザインだそうです。一人で「インスタ映え」だと何枚も写真を撮って喜んでいました。
旧山陰道に戻り、逆に東進しました。14:44「日慈谷神社」。『半国山の東麓、旧山陰道沿いに鎮座する日慈谷神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命の2柱をお祀りしています。当社の創祀は不詳ですが、鎌倉時代の寛元元年(1243)に本殿を造営した。江戸時代の亨保7年(1722)に時の神祇官卜部兼敬が天皇に奏上して、「正一位日慈谷大明神」との神階を賜っています。
現在の本殿は、江戸時代後期に建立された一間社・流造・?葺の建物です。また元禄17年(1703)に境内社として八幡宮が建立されました。さらに本殿の三方を囲む様に12の自然石が立てられていますが、これらは春日神社・神武天皇・金比羅神社・八坂神社・秋葉神社・出雲神社・北野神社・大原神社・稲荷神社・愛宕神社・天照皇大神宮を勧請しお祀りしたものです』
14:54「富家稲荷神社」。『富家稲荷神社 祭神に五穀豊穣・商売繁盛・長寿延命・交通安全を掌る宇迦之御魂大神・佐田彦大神・大宮能売大神・田中大神・四大神の五社をお祀りする富家稲荷神社は、稲荷大神を崇敬する近郷の人々により創祀建立されました。
当社本殿・拝殿などの建築に際しては、造成に当たり巨岩が出てきたり、篠山街道の改修工事が重なったりして困難を極めたようで、竣工が11ヶ月ほど遅れたと言うことです。
明治36年9月には、冷泉為記伊勢神宮大宮司が玉串料献納されるなど近郷の人々だけでなく多くの人々の崇敬をも集めています』
石段を上がって境内に入ると、稲荷神社にしては立派な社殿が出迎えてくれました。木鼻・蟇股の彫刻が素晴らしく、現在は篠山盆地の端にあるお宮ですが、さすが旧山陰道沿いに建立されたお宮でした。
R477に出て南下します。r731に入り、15:09「加舎神社」。『加舎神社(本梅町西加舎) 当神社は、平安時代の長徳2年9月(996)に北条の「フケ」に神明社として創祀されました。御祭神は、天照大神・誉田別尊(応神天皇)・神産霊尊(神代最初の神)。
その後、戦国時代の天正5・6年(1578)明智光秀の丹波平定の際、兵火に罹り焼失しました。徳川時代となり世の中が安定した正徳2年(1716)に現在地に遷して再建されました。その後文政2年(1819)に市内でも有数の大型の一問社流造本殿として改築されました。
本殿を現在地に遷した徳川中期には幕府の方針により神仏混合で当神社も大梵天王(淫欲を離れ清浄潔白な仏様)と称していましたが、明治の新政府となり神と仏は分離されて、明治3年「神社改め」によって、地名(賀舎荘)を取って加舎神社となり明治6年村社に列格され国の保護をうけました。
例祭は10月10日前後の両日で立派な神輿が青年達によって担がれ勇壮です』
枝道に逸れ、15:30「法常寺」。車止めがあり、参道が山を上っています。見えてきた寺は、石垣で護られ急な石段が上がっている「山寺」でした。「不許葷酒入山門」の石柱が立つ禅寺でした。
森に建つ山寺なので、石段は苔に覆われ良い感じです。苔道を上がっていくと、苔に覆われた小さな石橋があり、沢の谷を渡っていた。縄文杉に似た老杉が魅力的でしたが、本堂の方に入ろうとしたら「立入禁止」になっていました。坐禅中なのでしょうか?禅寺は、修行寺のイメージがあります。葷酒でさえ入山禁止なのだから、女性なんて当然修行を狂わすのでダメだったのでしょう。僧侶一家が住んでいるのであろう住居から、棚田や谷を隔てた山が見えていました。住居の横に車があり、何処から上って来れるのだろう?と裏に歩いて行くと、細いですが舗装路が通っていました。
バイクに戻り、帰路に着きます。r731を西進し、r54で南下し、R173を少し走って大阪府道r602に乗り西進します。兵庫県道r12で南下し、r319〜r33〜r325で長尾山トンネルを抜け、16:47「オートバックス」。「ヘルメットに枯葉マークを付けると車間距離を詰められたりしなくて良いよ」と教えてもらったので、真似してみようと思います。マークステッカーはあったけど、四輪車用で大きすぎてパスしました。


2019/2/10
父の13回忌です。13時からいつものお寺さんで。父母が北関東出身で、関西に親戚がいないので、次男一家と我が家だけで法事を行います。ちょうど、長男が日本に出張中で、東京からやって来ます。僕も長男だからその気持ちよくわかります。
朝家内は、翌日が「建国記念日(紀元節)」で祝日なので、長男が家に泊まるかも知れないので、せっせとお掃除したりトイレットペーパーを替えたりしていました。お嫁さんは来ないから気にしなくていいのに・・・と思うけど・・・。
10:40着の飛行機でやって来るので、僕一人で空港まで迎えに行き、一旦帰宅して、荷物を積んで3人でお寺さんに向かう予定で動いていました。我が家から空港まで10分ほどなので、到着予定時間に家を出ても間に合います。
のんびりしていたら、家内が「用意できた」と喪服に着替えて部屋の前に立っていました。「私も行く。お腹空いていたら、カフェにでも寄ってから行こうよ」「ええ〜、ならば荷物を車に積まなきゃ」。慌てて、喪服に着替え、ご仏前や返礼品、遺影や位牌を積みます。
特急で車に乗り自宅を出発しました。10:35に空港Pに入れ、急ぎ足で到着ロビーに着くと10:40。ものの数分で長男が出てきました。荷物は手提げかばん1つで、Gパン姿にコートの軽装です。
「おもちゃ屋さんないかな〜」というリクエストで、エディオン併設のおもちゃ売り場ネバーランドに向かいました。ウルトラマンやウルトラ怪獣の簡単なフィギュアをカゴに入れていました。りょうくんとこうちゃんがハマっている「ベイブレードもあるよ」とそのコーナーを指差すと、「それはアメリカが本場だから向かうで買えるからいい」とのこと。向こうで売っていないウルトラマンの方が貴重だそうです。「買ってあげようか」と家内が支払いました。11:30、2590円也。
お寺さん近くの「タリーズコーヒー」に行くことにしました。車内で、家内が用意した3人へのTシャツ、僕からの絵本3冊+3人目ルーカスくん無事誕生お礼参りした元伊勢神社の御守と絵馬を、長男に渡していました。長男から、アメリカから持ってきた僕と家内へのマグカップを貰いました。
タリーズでドーナツとドリンク飲んでお腹の足しにします。隣の白雪さんの「蔵祭り」にバッティングしており、周辺は大変な賑わいです。お寺さんに電話して駐車場2台分残ってあるか確認し、僕は車を運転してお寺に向かいます。長男と家内は徒歩で。僕がお寺さん前に着くと、既に2人は着いており、Pに入れようとしたらP前のコンクリートバーより車の屋根が高く入れられません。もとのPに逆戻りしました。長男と家内に車まで来てもらい、3人で荷物を運びます。無料の利き酒に行列が出きており、かき分けかき分け進みました。
次男一家(姪っ子含め3人、大学生の甥っ子は学年末テスト中でパス)が着いていました。遺影・位牌・ご仏前などを並べ、12:55全員揃ったので法事が始まりました。30分ほど、父の霊に頭を垂れました。次は近所のロードサイド店「和食さと」に向かいます。長男が、17:20の飛行機で東京に帰るので、お墓参りは出来ません。
「和食さと」で6人であ〜だこ〜だ、お喋りしました。姪は高2なので来年は受験生です。栄養科志望だそうで、何処の学校に行くのかな?中高一環女子校に通っているので男女共学大学を勧めるが、栄養科は女子大に多いので選択肢が少ないそうです。府大や市大にはあるそうですが、学力的に・・・と言っていました。
女子大に行っても、共学大学の体育会クラブのマネージャーをすれば良いとまた勧める。前日、僕がコーチしている大学ヨット部の男子選手と女子マネージャーの結婚式に参列した。女子マネージャーは女子大の子です。こういう出会いもアリだと思います。
ここで解散し、僕らは一旦自宅に戻ります。長男に、実家の両親の「遺品をもっと片付けたら?」とか、「お父さんの本が多いよね」なんて、暗に断捨離を勧められました。これまた、跡取り長男ゆえの発言です。
空港に送りに行こうと家を出た時に、家内のふくらはぎがつってしまいリタイヤ。僕だけで長男を送りました。りょうくん6才は、とっさに出る言葉は英語ばかりで、通り過ぎたをPass aweyではなく、Passed aweyと何も考えずに現在形と過去形を使い分けており、「根本的ベースが僕と違う」と冷静に分析していました。
こうちゃん2才も、家庭以外(家庭内でもTVは別)英語の世界にどっぷりなので、喋れないけどヒアリングはある程度出来ているようで、日本語と英語をどちらの言葉とわからずちゃんぽんで口から出ているとのことです。会社から子供の教育費が3才から支給されるので、4月で3才になるから、5月から幼稚園に通わせようかな?と考えているそうです。
今年はアメリカ4年目に入るので、転勤するかもしれないそうで、次も海外かも?と言っていました。英語圏なら次の3年でこうちゃんも現在のりょうくん並になります。というより、生後4ヶ月からアメリカ暮らしなので、こうちゃんにとってアメリカがホームで日本がアウェイです。りょうくんは小学校低学年まで英語圏で過ごすことになり、もう英語を忘れないでしょう。アメリカ人であるルーカスくんが最も英語に縁がなくなるかも?
長男に「英語で考えているの?」と聞いたら、ほぼ同時に英語で会話しているけど、日本語で考え英語翻訳して喋っているとのことです。日本語の方が英語より表現が豊富で難しい言葉だから、日本語ベースの方がお得なように思うけど・・・。こうちゃんはどちらがベースになるのか興味があります。
ほぼ3年ぶりに帰省した長男から、いろんなことが聞けた1日でした。


2019/2/9
コーチしてる大学ヨット部の元部員の結婚式の日です。新郎は社会人になって1年目で、新婦は学部4年で就職したので職歴は少し長い元ヨット部マネージャーで、部内カップルです。彼女が先に東京で就職し、新郎は院卒後東京で就職しました。昨年秋にメール・電話があり、参列+スピーチ要請がありました。誘われるうちが華なので、喜んで快諾。実家が大阪と兵庫県にあるからか、2人が出会った京都で挙式を挙げることにしたようです。
「11:00挙式・東山高台寺近くのThe SODOH Higashiyama Kyoto」なので、界隈の寺社巡りして会場に入ろうかと思っていましたが、前日に職場で被害に遭ったので朝イチで警察に電話しました。8:30に警官がやってきて現場検証などがあり、ギリギリ9:30まで相手をしました。あとは任せて京都に向かいました。
通勤リード110で駅に向かい、JR尼崎駅から新快速に乗り換えて急ぎました。焦りすぎたので、スピーチ内容をざっと書いたメモを忘れ、眼鏡も忘れちゃいました。メガネがないので本が読めず、ぼーっと窓の外を眺めながら京都へ。
阪急線で京都に向かう予定でしたが、より速いJR線を選択したので、JR京都駅から高台寺まで遠くて歩けません。会場のシャトルバスもありますが、より早く着くであろうタクシーを利用しました。運転手さんはよく喋られる方で、楽しい時間を持つことが出来ました。東大路通を北上するルートだと思ったら、裏道利用で渋滞無しで1330円でした。
観光タクシー歴が長かったそうで、その話が面白かった。修学旅行で京都にやって来る学校は、観光バスで団体移動するのではなく、観光タクシーに申し込むのが多く、先生はタクシーに乗せたら夕方宿に返ってくるまで生徒から手が離れるそうです。先生より京都に詳しいタクシー運転手の方が生徒も生べますし、それぞれのグループで1日貸し切ったタクシーに乗り、希望の場所を巡れるので楽しいようです。ただ運転手さんの方は、運転するだけじゃなく、長い階段を上がって寺社を見学し、説明も必要なので体力勝負になるそうです。それで年齢が上がってきたので観光タクシーを引退されたそうです。
10:45に着きました。高台寺・清水寺・八坂の塔・霊山護国神社などを訪問する時よく前を通る「ここは何があるのだろう?」って思ってた場所でした。趣のある門が開いており、タクシー運転手さんからの情報では、元は有名な画家の家だったそうで、現在はイタリアンレストラン&ウェディングを生業にしているそうです。門の前に、「画家・竹内栖鳳邸跡」と刻まれた石柱が立っていました。「どなた様のお式ですか?」と聞かれ、その会場に案内してくれました。日本家屋が数棟、木々の間に並び、ガーデンウェディングが想像されます。
そこで受付。ヨット部OB・OG達の顔がそこここに見えます。並んでいると、後ろに監督がやってきました。部員に聞いたら、京都で有名な結婚式披露宴会場&レストランだそうです。
受付を終え、元部員たちとお喋りしていると、結婚式場への案内が始まりました。式場は別になっており、11:04結婚式場へ。半地下のチャペル形式の式場でしたが、クルスは下がっていません。スタッフの方から、「新郎新婦の希望で、人前結婚式場である」旨を伝えられました。場所柄周辺の寺社に赴いて、神前か仏前かと思っていましたが予想が外れました。
11:22、新郎が入場してきました。式場は、正面を向いてバージンロードを挟んで長椅子が並んでおり、新郎がバージンロードを正面に向かって歩いてくる間に、バージンロード側の席の人が新郎に白い花を一輪渡します。ちょうど僕がバージンロード側だったので、新郎に花を渡しました。受け取った花が束になり、向き直って新婦の登場を待ちます。
11:23、新婦を伴ってお父さん入場。娘を育てたお父さんの晴れの舞台ですね。残念ながら我が家は息子2人だったので、その機会には恵まれませんでした。BGMではなく、ピアノとヴァイオリンの生演奏でなかなか良いです。学部1〜2回生の時付き合っていた子はピアノとオルガンが弾ける子だったので、アルバイトで結婚式で演奏していました。僕は観に行ったことはないけど、そのことを思い出しました。
新郎がお父さんより新婦をバトンタッチされ、花束を渡し、一輪だけ自分の胸に挿しました。東京駅をバックに、新郎が新婦にポロポーズするシーンを写した大きなパネルが登場しました。パネル裏に書かれたそれぞれの誓いの言葉(約束3か条)を読み上げ、司会者が「この結婚に意義のない方は拍手を・・・」に促され満場一致で盛大な拍手が起きます。
新婦の甥っ子1〜2才が、お父さんである新婦のお兄さんにサポートされながら愛車トーマスに乗ってバージンロードを進んできます。結婚指輪を載せており、新郎がマイカーの前でそれを受け取ります。結婚指輪をお互いにはめ、新郎が新婦にキスをしてます。
パネル裏に、新郎新婦がサインし、列席者代表各1名がサインしました。同期の選手とマネージャーが代表でした。同期マネージャーさんは故郷佐賀県に戻っており、この春に結婚するそうです。11:40、新郎新婦が退場して式終了。
しばらく式場で待ち、スタッフに誘導され披露宴会場に移動します。僕の席は新郎新婦正面の中央席で、最も新婦に近い席でした。右隣に監督、左隣に新郎新婦先輩のこれまたヨット部カップルM夫婦でした。新郎新婦席のバックの窓から、八坂の塔が見えます。スタッフがやってきて、「乾杯の挨拶を・・・」と指名されました。「そうなんですか、スピーチは頼まれていましたが、でも喜んでやらせてもらいます。スピーチしても良いですか?」「はい、勿論。ご紹介の方はいかが致しましょうか?」なんて打ち合わせがありました。
12:02、披露宴は新郎の製作したビデオで始まりました。現在の仕事もCM製作だそうで、かなりのクオリティーでした。現役部員の時も、クラブの新人勧誘ビデオなどを作っており、好きな分野に進んだようです。
12:03、新郎新婦入場。新婦はスタイルが良いので、純白のドレスがとても似合っています。大きく開いた背中がセクシーです。コーチなのですが、どうしても目が入っちゃいます。
先程のスタッフの方が司会者でした。「お二人が出会われたヨット部のコーチで・・・」なんて紹介され、僕の挨拶&乾杯発声で、披露宴がスタートしました。披露宴を含め、スピーチは何度も経験しましたが、乾杯の発声は仲間の飲み会以外では人生初体験でした。勤務地東京から離れていることもあるのでしょう、主賓の定番・会社の上司さん偉いさんがおられず、どうやら僕が主賓のようです。会社の部下が結婚した時に続き、披露宴主賓は人生2度目です。
四角いケーキにチョコレートで新婦がヨットの絵を描き、新郎のレース艇セイルナンバーも描きます。それにケーキ入刀。新郎新婦の横に両家ご両親も並び、まずはじめに見本を見せる口実で、ご両親がケーキを互いに食べさせます。続いて新郎新婦。
同期でペアを組んでいたT君からお祝いのメッセージ。2人共大阪の実家から通っているので、部の帰りはいつも一緒だったそうです。ところが2回生になったある日、「俺、ちょっとトイレに行くから先に帰って」「え、京都駅のトイレの方が綺麗で」「いやここのトイレがいいねん・・・」「そうか?じゃあまた・・・」。部内ではお喋りでムードメーカーだけど、男子校出身ということもあり女子部員とも話せないヤツだったのに・・・このカップルが誕生した瞬間でした。となりそめを公開してくれました。新婦は彼のことを入部当初から気に入っており、積極的にアプローチしたのは新婦だったようです。こんな女子免疫の無いやつには、この流れの方が良いですね。こんな美人にアプローチされ、幸せ者です。
新婦の会社同期からメッセージ・・・、新婦の2人の兄からメッセージ、その流れで2人の兄にエスコートされて新婦はお色直しのため退場。しばらくして新郎お母さんのメッセージがあり、その流れでお色直しで、新郎がお母さんを伴って退場。家内が息子たちの結婚披露宴で、満面の笑顔で2人で退場する姿を思い出しました。
2人が腕を組んで再入場してきました。新婦はピンクのドレスになっており、新郎が選んだと司会者が伝えていました。スタイルが良いので、これまたよく似合っています。
宴のお開きが近づいてきました。13:50部旗が入場し、ヨット部員披露宴恒例のエールです。全員席を立ち、エール係がレース前などに部員を鼓舞するために披露する定番の口上を謳い上げます。口上の後半は、ヨット部員が次々に一節を大声で述べ上げます。続いてヨット部応援歌の合唱になりました。ヨット部員だけがいつものように左右にリズムを取っていますが、「ここはいつものように円陣でしょう」と思い、「皆さん、お隣の方と肩を組んで円陣になりましょう」と大声を張り上げました。主賓のようなので、こんな勝手な不規則発声は許されるでしょう。僕が隣の元マネージャー女史の肩を組み、それが少しずつ広がります。続いて、僕がこの宴の最初にクラブ紹介で披露した「琵琶湖周航の歌」を肩を組んで大円陣になり全員で歌います。
続いて、新郎新婦ご両家へのエールです。エール係が段取りを短く説明し、「フレーフレー・・(新郎)」、全員で「ヨー、フレーフレー・・(新郎)」。同期女子マネージャーが両腕を大きく開いて、「フレーフレー・・(新婦)」全員で「ヨー、フレーフレー・・(新婦)」。「フレーフレー・・家」・・・と続きます。
14:12、新婦がは親への感謝メッセージ読み上げる。新婦からの言葉は良いね、ちょっとウルッと来ちゃいました。勿論新婦自身も、自分で書いた手紙を読みながら涙声になっていました。両親への花束贈呈。新郎父親が挨拶しました。僕も2度この大役の経験があります。体育会系エールの披露宴が初めてのようで、喜んでおられました。最後は新郎挨拶。親への思い、友への思い・・・新郎が涙声になっていました。長男の結婚式で、僕に似て感動屋の長男が何度も涙をこぼして顔を真赤にしていたのを思い出します。
新郎新婦・ご両親が退出され、14:29お開きになりました。皆楽しすぎて席を立つのが名残惜しそうで、14:41僕が先頭で外へ出ました。ご両親・新郎新婦にお招きに預かったお礼を述べ、祝福の言葉を贈ります。新婦には、「綺麗やわ、握手したかったんや」と言ったら、ぎゅうぎゅうたくさん握手してくれました。お土産はバスケットから使い捨てカイロでした。新婦から、「コーチ、温まって帰ってください」だって。
2次会は京都三条で、50名ほど集まるそうです。ワイワイ盛り上がりそうです。14:44建物を退出し、お庭を写真に収めます。木々越しの「八坂の塔」が素敵です。清水寺の方に少し歩き、「八坂の塔」を正面に見るフォトポイント「八坂道」で東大路通に下ります。京都市路線バスが3台連なっています。「清水寺バス停」で最後の3台目のバスに乗ったら席に座れました。
15:16、「JR京都駅」で新快速待ちしていたら、長い貨物列車が2編成通り過ぎて行きました。経済成長が増し、貨物量が増えたのかトラックだけでは追いつかず列車貨物量も増えているのかもしれません。
新快速4人席に座ると、残り3人は同じ制服同じ制コートの中学生風の生徒さんでした。隣の4人席の3人も彼らで、スマホや携帯でワイワイやっています。高槻で停まり、次の新大阪駅で前の1人がスマホを修了し胸のポケットに仕舞いました。
このタイミングで彼に「洛南中学?」と声を掛けました。「楽なんだったら・・大狙ってるよね」。「私はその・・大ヨット部でコーチしてるんだ。今は、そのクラブで知り合ったカップルの結婚式の帰りなんだ」。「うちの息子もそこでヨットやってたんだ。その大学に入ったら、ヨット部の試乗会においで。ヨットは大学から競技をするこの多いスポーツで、去年全国2位だったんだよ」と宣伝しました。周りの子も興味を引いたようで、「しんどいですか?」「全国で何人ぐらい選手がいますか?」など質問攻めに合いました。「近畿北陸ブロックで8校・平均1学年5=40人・全国でその6〜8倍=300人ほどかな」といろいろ教えました。
仕事場に戻り仕事に復帰しました。引き出物に「洋梨のタルト」があり、おやつタイムしました。楽しい幸せを感じる日になりました。


2019/2/3
家内もお休みなので、映画を観に行くことにしました。「マスカレード・ホテル」に続き今年2本目です。仕事場に行き、ゴソゴソやった後帰宅し、家内を乗せて四輪で出発。「マスカレード・ホテル」がキムタク人気?で伊丹にしては観客が多かったので、いつもなら上映15分前ぐらいに着くよう行くのだが、更に30分余裕を見ました。
9:40上映開始「雪の華」。中島美嘉がヒットさせた歌のイメージで作られた作品です。中島美嘉さんの歌は僕の心に響くものが多く、大好きな歌手の1人です。お気に入りのプロモーションビデオがいくつかあり、何度も見たことを思い出します。その中で「桜色舞うころ」が最も好きで、桜の木の下で知り合った男の子と共に成長していく少女の物語で、久しぶりに見ようと思ったら、シュートバージョンしか残っていませんでした。主演した「NANA」という映画で、中島美嘉を知り、ライバルとして共演していた伊藤由奈さんのファンにもなりました。伊藤さんは後に、映画「海猿」の主題歌も歌っていました。中島さんは、耳の病気でライブでは音程が外れるようになり、歌手活動をセーブされているのが残念ですが、抜群に相手の心に届く歌声が素晴らしいと思います。
TV宣伝見て、「これは観に行かねば」と決め、下調べしました。主演女優さんがモデル出身の方で可愛いので二重丸。映像を作るスタッフの技量が上がり、演技がイマイチでも上手に仕上げられるようになりました。ならば、容姿の良い方が僕は好みです。お父さんがイギリス人ということで、長男が転勤するかも知れないイギリス繋がりもあり、更に観に行きたくなりました。加えて、フィンランドのオーロラもロケ地のようで、甥っ子が新婚旅行でフィンランドにオーロラを観に行った繋がりもありました。
素敵なラブストーリーで、鑑賞後の家内のお喋りから想像すると、家内の点数をかなり稼いだ模様です。僕の感想は、「マスカレード・ホテル」は満点の★3つでしたが、この作品は★2つというところかな。
12:11「ミスタードーナツ行く?」と声を掛けてくれ、2人で食べに入りました。「ミスタードーナツ山葡萄スカッシュ194円+ブレンドコーヒー270円+エンゼルクリーム129円+オールドファッション108円+ストロベリーファッション129円+オールドファッションシナモン129円+ココナツチョコレート129円+エンゼルフレンチ140円=1228円」購入。僕は4つも食べてしまいました。家内は油ものが苦手になってきているので、ミスタードーナツ好きの僕の為に誘ってくれました。
次の日曜日の父の13回忌に合わせやってくる長男に持たせるために、家内が「サッカーTシャツ」を買いに行くというので、車に乗り宝塚中山寺を目指していると、「あ〜ムカムカしてきた〜」と早くも油もの苦手サインが出てきました。
「JR中山寺駅」近くの「スポーツデポ」で、ミズノのスポーツTシャツを2サイズ購入しました。長男に持って帰らせるのですが、出張で東京に10日間ほど来ているだけなので、アメリカに帰る荷物を大きく重くさせては申し訳ない。だから軽く薄いTシャツにしました。
法事のお遣い物として、我が家からとして「もち吉」でおかきを買いました。長男・次男からのお供えものとして、洋菓子店に寄り、ウリのバウムクーヘンのセットを買いました。
これで帰宅し、あとは自宅でゴロゴロしていました。


2019/2/2
ツーリングクラブの「京都・狸谷山不動院」へのツーリング日です。集合が「10:00久御山ローソン」なので、男山界隈の寺社巡りすることにしました。明るくなる6時頃から探索したかったけど、朝の気温0℃以下予報なので自重し、7:07自宅を出発しました。この日のお供は「招き猫CB400SB」です。目的地が京都で下道を多く走るので「里山VTR250」の方が良いですが、今回参加のクラブは「原付二種&250ccを除く中型バイク」なのでCBにしました。
R171〜中央環状線で吹田まで出て、r14で北上し、r129〜r139で東進します。7:33「茨木神社・天石門別神社」。『茨木城搦手門 建武年間(1334〜1336)に楠正成が築いたと伝えられ、城主はしばしば交代し、特に有名な人物は中川清秀と片桐且元である。城郭の位置は、現在の茨木小学校付近に本丸があり城郭の跡は残っていないが、わずかに茨木神社東門が茨木城の「搦手門」を移築したものとされている。その他、大手門・殿町・本丸などの地名や町並みに残るT字路が、かつて城下町であったことをあらわしている』
バイクに戻り商店街の方を見ると、「割烹片桐」の看板があった。豊臣秀吉直参の猛将で、秀吉亡き後秀頼を支え迎えた「大坂の陣」で、豊臣方と徳川家康との板挟みにあい、泣く泣く大坂城から追い出され家康方に味方することになった武将です。その且元の本拠地がここ茨木城でした。
その横には、日本維新の会の足立康史議員のポスターが貼ってあった。隣の選挙区の辻元清美議員と犬猿の仲で、辻元さんの不正を声高に叫び、自らの主張を国会で堂々と言葉にし、貴重な存在です。与党:自民党に対して、野党は何でも反対の構図ですが、維新の会や足立さんのような対案を出して与党案を追求し、修正を得て賛成する姿に、野党のあるべき姿を見ている。頑張って欲しい。
朝の店開き前の中央商店街に突っ込み、南に抜けr139に戻りました。東進し、「阪急茨木市駅」前を通過し、「芥川」を渡り、外環状道路に乗り換え「淀川」を渡ります。渡った所で左折して、淀川に沿って北上します。京阪本線に沿って走り、京阪樟葉駅の高架下を抜け、r18に乗り換え東進し、「鏡伝道」と命名されていた枝道を入り、8:31椎葉中学の裏にバイクを停めます。
『交野天神社 桓武天皇は、延暦6年(787)長岡京の南郷の地を選び、郊祀壇を設けて、父光仁天皇を天神として祀りました。これは、中国の皇帝が毎年冬至に、都の南に天壇を設け、天帝を祀る例にならったもので、当社の起源はこの郊祀壇にあるといわれます。
交野天神社本殿は、一間社流造、檜皮葺で、鎌倉時代の嘉禎4年(1238)、室町時代の応永8年(1401)に修理されました。全体の外観は、雄大な手法で鎌倉時代の様式を残し、蟇股などの彫刻は、繊細で美しいものが多く、室町時代初期の特色を備えています。末社八幡神社本殿は、造営年代は天神社と同じですが、小規模で簡素な造りになっています。構造や形状は天神社に等しく、向拝の蟇股や欄間の透彫に見るべきものがあります。共に昭和25年、国の重要文化財に指定されました』
天神社にお参りし、周囲を周っていると、「椎葉宮旧跡・貴船神社 この先50m」の立て札を見つけました。森に入って行きます。昨年の台風で倒れたと思われる鎮守の森の木々がチェーンソーで短く整えられ片付け中でした。根こそぎ倒れた痕跡を残している樹もあり、風害の大きかったことを感じる。
『継体天皇樟葉宮跡伝承地 大阪府指定史跡 武烈天皇の死後、大連大伴金村らによって越前の三国(福井県)から迎えられた男大迫(おとど)王は、507年樟葉で即位したとされます。このとき王の知己であった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が密使として活躍しており、即位には、北河内を本拠地とする馬飼部(うまかいべ)の大きな貢献があったと考えられます。
継体天皇は、5年後に山背国筒城(やましろのくにつつき・京田辺市付近)、12年後に弟国(おとくに・長岡京市付近)に移りましたが、大和国に入ったのは20年後のことです。 以上は『日本書紀』によりますが、『古事記』は、樟葉宮以降については何も記していません。
樟葉官跡と伝えられるのは、枚方市指定文化財となっている貴船神社のある小丘のあたりです。
なお、関白左大臣一条実経(さねつね・1223〜84)は、次の歌を詠んでいます。くもらじな ますみの鏡 かげそふる くずはの宮の 春の夜の月(続古今和歌集)』
最奥に石段が伸び、上がっていくと小丘の上に小ぢんまりしたお宮があった。これが「貴船神社」のようです。
『大阪府指定史跡 交野天神社 継体天皇樟葉宮跡伝承地 「日本書紀」継体天皇元年正月甲申の条に「天皇行至樟葉宮」と見え、そこに即位せられた樟葉宮が樟葉と呼ばれたこの地域に営まれたと考えられており、交野天神社境内の東北方に当たる小高い丘にある貴船神社の付近が継体天皇樟葉宮跡と伝えられている。村の産土神で穂掛神社とも呼ばれた貴船神社は、現交野神社社殿のあたりにあったものを樟葉宮跡とせられていた丘に移したものと伝承されている』
白塀・瓦屋根玉垣で囲まれたお宮は、小さいながら檜皮葺で、地域の方に大切に扱われて来たことを物語っている。本来は鎮守の森で守られていただろうに、背後の松が風害で無残に折られており、まだ後始末前のようです。
バイクに戻る時、別のルートを選んだ。そこにあった石鳥居横に謂れ板が立っていた。
『樟葉宮跡の杜 「日本書紀」によると、越前の三国(福井県)から迎えられた継体天皇は、507年樟葉で即位したとされます。石灯籠が並ぶ参道を進み左に曲がって、木造の鳥居をくぐると、拝殿の向こうに室町時代に修復された一間社流造で桧皮葺の本殿が見えます。拝殿の右に森の中を奥へ進む道があり、これが貴船神社への参道です。つきあたりの右手に自然石の階段があり、この小丘のあたりは継体天皇が即位した樟葉宮跡と伝えられています。
また、桓武天皇は延暦6年(787)、長岡京の南郊の地を選び、郊祀壇を設けて、父・光仁天皇を天神として祀りました。これが交野天神社の起源とされています。そうした聖域だけに、大昔から原生林の姿を残し、かすかな木漏れ日は、訪ねる人を遠く古代に誘い込みます。
鏡伝池は、ここから南へ徒歩2分の「市民の森」にあり、古来観月の名所で、鷹狩りのあと鷹の姿をこの池水に映すのが慣わしだったといわれています』
9:11、「セブンイレブン京阪橋本駅南店」で、「レーズンロールマーガリン4個116円」購入し、イートインしました。道を隔てて向かいにある「久修園院」目指して来たので見学。
『天王山木津寺・久修園院 宗派は真言律宗、本山は奈良西大寺、その別格本山です。本尊は釈迦如来。縁起によれば霊亀2年(716)僧行基による開基で、神亀2年(725)に落慶したとされています。七堂伽藍と多くの塔頭を持つ広大な寺院でしたが、大坂夏の陣(元和元年・1615)の兵火で大半を失いました。
のち、江戸時代(延宝年間)に、宗覚律師(1639〜1720)が再建しました。宗覚は久修園院の中興の祖といわれ、宗教活動はもとより、多芸多才で、宗教学・地理学・医学・天文学・絵画・工芸・音楽・武術などを極め、後世に残した業績ははかりしれません。
寺所蔵の天球儀(渾天儀・こんてんぎ)と地球儀は、ともに宗覚の製作(元禄15年1702頃)で、枚方市指定文化財です』
r13〜r22で、淀川〜木津川沿いを走り、第二京阪道沿いのR1に乗り換え北上します。ツーリンググループの集合時間10分前・9:50に、「ローソン久御山店」に到着。リーダーTGさん・お初のTKさんは既に着いておられました。
もう一人の紅一点Mさんは、目的地の「狸谷山不動院」に直接行かれるそうです。参加者に挨拶し、リーダーからのブリーフィング後、10:10出発。R1を北上します。右折して「九条通」で東進し、道なりに「東大路通」に入り北上。「吉田神社」の参道に続く「東一条通」が歩行者天国になっていました。「節分祭」のようです。
右折してr30・「御蔭通」で東進し、左折して「白川通」で北上。11:18「狸谷山不動院」到着。Pに入れたら、Mさんが真後ろに着けており全員集合。白川通との交差点にあるコンビニで待っていたそうです。
『大本山・狸谷山不動院 木喰行を体得するために高野山に登った木食正禅朋厚(後に木食養阿上人・貞享4年・1687〜宝暦13年・1763)は、享保3年(1718)、自らの修行地として樹木誉蒼とした一乗寺狸谷の地に高さ・深さ共に二丈からなる洞窟に入山し、そこに身の丈五尺の石像「狸谷不動明王」を安置する。それ以来狸谷不動明王信仰が始まり、途中廃仏毀釈などで嘆かわしい事態が続いたが、その祈りの法灯を護持継承する為、昭和19年(1944)第1世貫主亮栄和尚が入山し、自然の地形を最大限に生かした現在の森林伽藍を築き上げ、真言宗修験道大本山狸谷山不動院として再興したのである。現在の懸崖造りの本堂内陣がその洞窟にあたる。
また、朋厚法師は他の宗教活動として六墓五三昧の念佛行、真如堂阿弥陀如来像建立、五条坂安祥院再興などがあり、東海道の最後の難所である「日ノ岡峠」改修工事などの社会事業にも携わり、京都に多大なる功績を残している』
250段の階段を上がって、本殿に参る。絵馬を500円で授かる。バイクに戻り、12:04出発。「白川通」を北上し、道なりにR367になり、左折して「宝ヶ池通」に入って西進し、12:21「カフェレストラン・マックさんの家」着。「左京区岩倉幡枝町 定休日水曜日」。マック定食850円+ドリンクセット250円アイスコーヒーで昼食。皆さんとあ〜だこ〜だお喋りし、ここで解散です。
13:50出発し、すぐ近くの「総本山妙満寺」。『顕本法華宗総本山妙満寺は、日什大正師が、叡山3000の学僧を導く学頭の身にあって深く日蓮聖人の教えを感悟信受し66才にして宗を改め、康慶元年室町六條に創建せるものなり。後、豊臣秀吉の時寺町二條に移転し、元治元年兵火にあい、明治14年、宗祖六百遠忌の際再建したるも、昭和20年第二次世界大戦の強制疎開の為、塔頭4ヶ寺院とその境内地を失いたり。しかも残存諸堂の老朽を環境の俗情喧塵日に著しくなりし為、昭和42年宗内僧俗一結して一山の移転復興を決し、新たに清浄の聖境をここに比叡山麓金剛地に定め堂塔を建立し、日蓮聖人の法水を直々に信受相承せられた什祖不抜の掟「経巻相承法水直受」の法統を高く掲げ、根本道場として霊容を整えたり』
『中川の井(遺構) 寺町二条時代の境内地にあった井筒の遺構を移したもの。室町幕府第8大将軍・足利義政の同朋衆で茶人でもあった能阿弥(1397〜1471)の定めた京都七名水の1つ。中川は今の寺町筋にあった川で鴨川(往昔はもっと東側を流れていた)と桂川の中間に位置することから名付けられた。中川の井はその伏流水と言われている』
『仏舎利大塔建立由来 妙満寺仏舎利大塔は、宗祖日蓮聖人のみ教えそのままに、法華経に明かされた久遠本仏釈迦牟尼仏の実在を信じ、そのご精神に帰れという妙満寺の信仰を象徴するものとして昭和48年(1973)インド・ブッダガヤ大塔をかたどって建立されました。
ブッタガヤ大塔は、お釈迦様が悟りを開かれた地に立つ高さ52mの大塔でその原型は紀元前3世紀にアショカ王によって建てられました。全世界の仏教徒にとって最高の聖地であり、全人類にとってもかけがえのないものとしてユネスコの世界文化遺産にも登録されております。
この最上階には当山に古くから伝わる仏舎利をまつり、1階に日蓮聖人の顕された御本尊と久遠本仏釈迦牟尼仏の御尊像を祀ります。またこの塔は全国檀信徒の納骨堂になっており、豊田佐吉翁以来の豊田家一門を始めとする多くの篤信者の遺骨が安置されています。
当山では建立33周年にあたる平成18年(2006)から3年をかけ、全国の末寺並びに檀信徒の寄進により外壁にお釈迦様の仏像486体を奉安し、併せて内外の荘厳を整えました』
巨大な塔には、金色の仏像などが飾られていた。背の高いてっぺんが水平に切られた四角錐の塔で、日本ではあまり見かけない形でした。豊田章一郎・豊田章男さん連名の植樹の碑が立っていました。
14:15「円通寺」。『元幡枝離宮。大悲山勅願所御幸御殿円通院と称し、臨済宗妙心寺派の寺である。円光院文英尼公(円通院殿瑞雲文英尼大師)は園基任の女、後水尾天皇御生母中和門院に侍した方で、帰洛して後、延宝6年(1678)輪王寺守澄法親王の尽力を得て一宇を興し、妙心寺龍泉庵の祖・景川宗隆(本如実性善師)を勧請開山とされた。
尼大師が変相普門品(観音経)を印造して中国の寺院に贈ったことは有名である。また、東山天皇の御宇に33所の観音・一宇の堂・潮音堂の名を賜り、後水尾天皇は大悲山号円通寺の勅額を賜い、霊元天皇は勅願寺と定め梵鐘を納進し、しばしば御幸になった。なお、霊元天皇宸翰御消息は重要文化財に指定されている。庭園は比叡山を借景とした枯山水平庭で趣があり、後水尾院の幡枝離宮の庭をそのまま今に伝え、国の名勝にも指定されている』
松の枝にエナガの一群が姦しく群がっていた。エナガはオナガのような尻尾の長い野鳥で、より小さい。見かける野鳥の中では最も小さな種類に属するが、集団でちょこちょこ短く飛び回って行動するので、割合見かけやすい。僕の好きな野鳥です。「可愛いな〜」としばらく見上げていました。京都はより生存環境が良いのか、僕からそう離れていない低い枝なのに、僕を気にせず飛び回っており長い間楽しめました。「拝観時間10〜16時・拝観料500円・小中学生300円・抹茶400円」。拝観しようと思ったが、内部撮影禁止だったのでパスしました。
r103で西進し、「大田神社」「上賀茂神社」前を通過し、賀茂川を渡り、右折してr38で北上。14:43「神光院」着。謂れ板が読めなかったのでWikiを引用します。
『神光院(じんこういん) 真言宗系の単立寺院。山号は放光山。本尊は弘法大師(空海)像で、「厄除け大師」として信仰されている。東寺(教王護国寺)、仁和寺と並ぶ京都三大弘法として有名であり、地元では「西賀茂の弘法さん」の愛称で親しまれる。毎年7月下旬には、空海がキュウリに疫病を封じて病気平癒を祈願したことにちなみ、厄病除けの祈祷「きゅうり封じ」(きうり加持)が行われる。
静かな境内を舞台に、『銭形平次』や『御家人斬九郎』、『暴れん坊将軍』を始めとする、時代劇の撮影がたびたび行われてきた。四季を通して多様な花木が境内に咲き、白い八重のサザンカは、当院にのみ存在する珍しい品種である。
1217年(建保5年)、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の神職松下能久が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、大和国から慶円を招いて寺を建立したという。寺名はこの由緒にちなみ、「神光院」と名づけられた。創建される前には、京都御所に奉納する瓦職人の宿に用いられており、「瓦屋寺」と呼ばれていた。空海が42歳の時に、当院で90日間の修行を行ったとされる。修行を終えて寺を去る際に、境内の池に映る自らの姿を見て木像を彫り、厄除を祈願したといわれている。この木像は本堂に安置されている。同時に彼が眼病治癒の祈祷をしていたことから、眼病に利益のある寺としても広く知られるようになった。
その後は密教の道場としても栄えたが、 天保年間(1830年 - 1843年)に堂宇を焼失している。幕末の女流歌人で陶芸家の大田垣蓮月は、晩年の75歳から当院に隠棲していた。境内には「蓮月尼旧栖之茶所」と刻まれた石碑とともに、茶室(蓮月庵)が残されている。蓮月隠棲中の明治初期に、廃仏毀釈運動を受けて一旦は廃寺となったが、蓮月没後の1878年(明治11年)に僧侶、和田月心により再興された』
境内本堂裏の樹木の多くが倒れたようで、多くの人がそれを伐り、短くしてリアカーで運び出していた。
バイクに戻り、14:53「大将軍神社」。『推古天皇17年(約1300年前)この西賀茂にあった瓦窯で働いていた人々の瓦屋寺の鎮守様として建立されたと伝えられ、桓武天皇平安遷都(約1200年前)の時、皇都の四囲に大将軍神社を祀られて、当神社を北方の守護神とされたと伝えられております。その後今日迄この土地の氏神様として鎮座されている。非常に古く由緒ある神社です。御祭神は主祭神として磐長姫命(いわながひめのみこと)でご家族でお祀りしてあります。寿命長寿の神様であり方除の神様です。大将軍神社の境内末社には、次の神様がお祀りしてあります。
東側 片岡神社(事代主神・お祓い) 貴船神社(高竈神・水) 稲荷神社(宇気母智神・商売繁盛) 角社(素盞嗚命・疫病)
西側 愛宕神社(火之迦具土神・火) 松尾神社(大山祇神・醸造) 八幡神社(応神天皇・厄除) 春日神社(天兒屋根命・藤原氏氏神) 山王神社(大山祇命・山)
御宝物 御本殿 天正19年(1590)賀茂別雷神社片岡社の御神殿として造営 寛永6年(1630)賀茂社御造営のおり大将軍社 今日まで大将軍神社御本殿としてお祀り 賀茂下・上社の現存する御神殿の中で最も古い
鉄燈籠 天正の年号刻印があり、御本殿と同時期に受領したもの』
15:02「西方寺」。『大船院西方寺 来迎山と号する浄土宗の寺である。承和年間(834〜848)に円仁(えんにん・慈覚大師)が創建したと伝え、もとは天台宗山門派に属していたが、正和年間(1312〜16)に道空上人が中興して浄土宗に改められ、以降、六斎念仏弘通の寺として知られている。
毎年8月16日には、五山送り火の一つである船形万燈龍が点火され、終了後、境内で六斎念仏が行われる。当寺の六斎念仏は、鉦や太鼓を使って念仏を唱える極めて古風なもので、六斎念仏の古態を今に伝えるものとして知られており、昭和58年に重要無形民俗文化財に指定されている。
境内には、皇室制度や神道史の研究家として知られるイギリス人リチャードーポンソンビーの碑が建てられている。また、背後の小谷墓地には、幕末の歌人太田垣蓮月尼や上賀茂神社の祠官賀茂季鷹、また著名な料理人で陶芸家でもある北大路魯山人の墓がある』
西方寺境内を見学し、小谷墓地に足を向ける。この墓地は寺院が整備された霊園ではなく、昔ながらの森を切り開いた秩序のない墓場でした。世界で最も人気のある観光都市・京都、世界的企業を多く輩出する京都、いろんな顔を持つ大都市京都の中心地からわずか車で15分の距離にある地にこんな墓地が残っていることに驚いた。京都盆地を中心に、東にも西にも長い歴史を持つ墓場地域があるが、ここは北の墓場として無秩序に埋葬されて来たのでしょう。
北大路魯山人のお墓を探そうと、小さな池の右側を奥に進むが、それなりの案内板もお墓も発見できなかった。スマホで検索し場所を見つけ、とうとう発見。魯山人個人墓ではなく、北大路家のお墓だった。魯山人の生家跡などには石碑が立っていたのに、お墓は観光化されていなかった。
15:29「正伝寺」。上賀茂神社から賀茂川を渡った西賀茂の寺社を巡っていますが、この地区は意外に田舎で、洛北の山の入口です。竹林があり、鎮守の森というより森の中の参道を歩き、庫裏に至った。外人さんカップルが楽しくやっていた。「拝観料大人400円・中学生300円・小学生200円 9:00〜17:00」と書かれていますがカーテンが閉まっている。「拝観二打」と書かれた鐘が下がっていたが退散することにしました。山城跡のようで、周囲の郭を見上げてみる。隣にゴルフ場があるようです。
15:40バイクに戻り、帰路につきます。r38で賀茂川沿いを南下し、「堀川通」に入り更に南下。五条通〜大宮通〜九条通〜R1〜名神高速に乗りました。
17:07「セルフ北村SS」で給油。261km/11.78L=22.2km/L。17:14帰宅しました。


2019/1/20
バイクツーリングクラブへの参加予定日でした。でも午前中が雨予報で中止になりました。そのツーリング前後の時間を有効利用しようと、八幡市・京都市の寺社・史跡訪問先をピックアップしていましたが、スルーになってしまいました。
家内は、昼過ぎから仕事関係の新年会なので、午前中デートできます。9:50上映開始の「マスカレード・ホテル」を観に行くことにしました。東野圭吾の小説の映画化で、数年前に読んで面白かった作品です。主演がキムタクさんで、彼の雰囲気が好きなのできっと大当たりの映画になるでしょう。
家内は、映画を観に行った流れで2人でお昼ご飯食べてお出かけするのがスムーズかなと提案するが、一旦帰宅したとのことでした。バッチリお化粧や気合の入ったお洒落の格好で映画はしんどいとのことです。結婚前は僕と会う時だって気合い入れていただろうに、夫婦も長くなると旦那は完全に身内です。
小雨が降っていたので四輪で映画館に向かいます。9時台なのでショッピングセンターの混雑が始まっておらず、スムーズに屋上のPに入れることが出来、最上階にあるシアターに入ることが出来ました。日曜朝の映画館は空いてるのですが、いつもと違ってお客さんが多いです。20代のお若い女性が多いような感じがしました。
機械でチケットを購入しようと思ったら、好きな中央部後方の通路側席が埋まっており、中央より前の通路側席を確保しました。上映開始3日目でキムタク映画だから人気です。
連続殺人事件の暗号を解いた警察が、予告殺人場所として特定されたホテルに侵入捜査するストーリーです。多くの刑事がホテルマンに扮装し、暗号を解いた主人公の敏腕刑事がホテルフロントマンに変装します。ホテル側としては、そんな状況でもホテルの評判を落とさないように最高の接客品質を保とうと、刑事を教育しながらの営業です。
主人公の刑事の教育係になった女性ホテルパーソンから、ホテルのイロハを聞きながら、あちこちで対立する。でもお互いのプロとしての視線や行動からいろんなものを学び合って行く。
ミステリーだけど、おかしさがあり、「こういう人いるかも?」と思われるわがまま満点のお客さんとの暗闘を楽しめました。今年最初の映画は★3つの最高点でした。
映画館を出たら雨は上がっており、帰宅後TV見ながら昼食を食べていたら、家内の仕度が出来上がりました。黒白のスカートスーツがお洒落でかっこよく、「いや〜いいね〜」といつものようにウエストを両手で抱えたら、「触らないで・・・髪の毛触っちゃ駄目・・・」とこれまたいつものように小言を言われちゃいました。
出来上がるまで、「寒いから2枚履かなきゃ」と、黒の下に肌色のストッキングを履いたりしているので、「パンツで行ったら良いんじゃないの?」と言うと「新年会だから寒くてもスカートで行かないと・・・」なんて男にはよく理解できない理屈があるようです。
お洒落な女性は良いです。車の助手席に乗ると、膝上スタートが更に短くなり、真っ直ぐな細い脚が綺麗に伸び、目の保養をさせてもらいました。JR尼崎駅まで送りました。何処かのホテルに行くようです。
帰宅後バイクで走りに行くことも考えましたが、路面が濡れているしパスしました。冬は日が短いのですぐ暗くなっちゃいます。仕事のことなどいろいろやってたら夕方になっちゃいました。ホームセンターで買った「マグネッたセンサーライト」を玄関ドア前と2F踊り場に設置しました。
2年ほど前に、隣の実家の勝手口に設置したものと同じで、風雨にさらされても壊れません。以前は夜なら懐中電灯で照らさないと手探りでしか見つけられなかった鍵穴が、僕を感知して点灯するので便利になりました。
同じものを買いに行ったら、改良されているのだろうがほとんど同じ物が売ってありました。ロングセラーなんでしょう。単3乾電池3つの配線要らずのところも簡単で良いです。
これで夜明け前にツーリングに出る時や、夜帰宅した時鍵穴を探ることなく、ドアの開閉が出来ます。夜寝る時は、まだ21時台なのに家内は寝ているので、僕が台所や戸締まりなど最終チェックして、2Fの寝室に上がります。1Fの電気を消して真っ暗の中階段を上がるのが少し不安でした。踊り場の電気を点ければ良いのですが、ヨーグルトとスプーンを持って上がるのでスイッチを点けにくいことと、踊り場から自室に入りヨーグルトをテーブルに置いてから電灯を消すために踊り場に戻るのが面倒で、真っ暗な階段を壁に触りながら上っていました。それがセンサーライトで解消できます。勝手に消えるのがグッドです。1780円で安いし。これを買いに行った時、横に防犯カメラコーナーがあり、電池式センサーカメラが4500円で並んでいました。センサー感知し、ライトが点灯し録画開始します。内臓SDカードに録画されるので、システムが簡単なので壊れるリスクも少なそうです。次これを買っちゃいそうな予感です。
家内からお迎えの電話が入るのを待ちながらTVを見ていました。自宅電話が入ったので出てみると「バスで帰るわ」とのこと。あ〜がっかりです。ヨーグルトのジャムがなくなったので、バス停の向こうにあるコンビニまで歩いて行くことにしました。ちょうどバス停に着いた頃、駅からの阪急バスがやってきたのでラッキーと見ているが停まらずにスルーしちゃいました。
コンビニに入ろうとした時市バスがやってきて、中を見ると家内が座っていました。慌ててジャムを探すがありませんでした。バス停で降りたであろう家内に追いつくべく一目散に駆け出しましたが、自宅近くでやっと追い付きました。「振り返るかな〜」と期待しながら近づくと、自宅門扉に入ってしまいました。
僕も続いて入ると、「あ〜お父さんだったの、声を掛けてよ。女性は夜道を歩くの怖いんだから」と、手にした防犯ブザーを見せました。
「おかえり〜」と弱々しく答え、「ゴメン、人が近づいて来るのに気づいたら振り返ると思って・・・」と言い訳して、何度も謝りました。LINEで「電車に乗ったこと」と「駅までお迎えお願い」の連絡を入れてくれていましたが、スマホはジャンパーのポケットに入ったまま玄関に下げていたので気づきませんでした。電話なら気づいたのに・・・
あ〜怖がらせちゃった〜


2019/1/14
グループツーリング日です。以前はよく参加していた中型バイクのグループですが、大人気で参加者が多くいつも20人ぐらいのツーリングになり、どうも大人数が苦手な僕は申し込めずにいました。寒い時期だからか、メンバーの多い大阪から遠い伊勢が目的地だからか参加申込者が少なく僕を含め7名でした。
集合場所は「針テラス」で、奈良盆地東の山間地に点在する訪問したい寺社を観ながら集合場所に向かおうと思っていたが、夜明けが遅く凍結路面も心配で、ゆっくり家を出る事にしました。果たして、遠い三重県と苦手な高速道路でくたびれないのか不安を持ちながらの出発です。
7:33、近所のローソンで、朝ごはん用に「助六寿司399円+キリン小岩井ミルクとコーヒー500ml162円=561円」を購入。御用達の「北村SS」で給油。103km/4.61L=22.3km/L。
R171〜近畿道、吹田ICから近畿道に乗り南下。西名阪道に乗り換え、生駒山系を東に越え奈良盆地へ。「香芝SA」でトイレ休憩したら、寒いのにツーリングバイクグループが2組いました。天気が良いから、寒くても出て来るのですね。人のことは言えないけど・・・。
8:34、集合場所の「針テラス」到着。出発が10時なので一番乗りだと思ったら、リーダーMさんがおられました。7人の予定が、2人体調不良でキャンセルされ、既に3人到着済でした。朝ごはんに買った「助六寿司」を持って室内に入りパクパク。ドタ参Cさんを加え、ツーリングは6人(リーダーMさん・Jさん・Cさん・Aさん・mさん・僕)+お見送り1人集まりました。
9:30には全員集まったので、ブリーフィングして、9:51スタート。名阪国道を東進します。三重県に入り、伊勢道に乗り換えて南下し、「久居IC」で下車。R165を東進し、R23に乗り換え南下します。11:14「ローソン松阪松ヶ島東店」でトイレ休憩。どなたも何も買わない雰囲気で、トイレだけ借りるのは恐縮なので、「つな揚げ108円」を購入しました。
R42に左折し、12:07「伊勢夫婦岩ふれあい水族館シーパラダイス」到着。バイクを置いて「夫婦岩」を観に行きます。天気は良いが、良い海風が吹いており寒い。
『二見興玉神社境内社・龍宮社 祭神:大錦津見神 祭神:大錦津見神は海の守護神として崇められ、当神社は全国の漁業船舶関係の方の信仰があつく、龍宮さんとして不可思議な霊験により、一般信者の方々に尊ばれ心願成就・開運・商売繁盛・海上交通安全・大漁満足などのご利益のある神様であります。
郷中施 龍神をお祀りした起源は寛政4年(1792)旧暦5月15日大津波のため、二見郷江村の民家の大半が流失、無難の家はわずか5・6軒という災害が発生し、村人たちは隣人相助け合い他人に同情を寄せたり、精神的・物質的な援助を行い、郷(村)中施が立ち直り、以来犠牲者の菩提供養、また今後再び水難に遭遇せぬよう海の安全を祈願して五十鈴川江の河口に龍神を勧請した。
今の地に遷るまでは、大江寺の住職が祭祀を捧げると共に、村人の祈念により村内平癒に今日まで至った。
この龍神社は、五十鈴川河口の埋め立てや護岸工事のため、昭和13年、当社境内の一隅に遷され龍神社と称し、昭和26年二見興玉神社の承認を得て、同年6月18日龍宮社と奉称、昭和46年12月20日現在の社殿が造営された』
『二見浦と浜参宮 夫婦岩(立岩)沖には、現在は海中に没していますが、神様が寄り付く岩・興玉神石があり、この周辺の立石浜は、神々のいる常世の国から寄せる波が最初に届く聖なる浜と信じられてきた。
神仏に参拝する時、水を浴びて身心を清めることを垢離(こり)と言いますが、古来立石浜は伊勢神宮の禊場(みそぎば・垢離場)として人々の信仰を集めて来たのです。神領氏は勿論、全国から来られた方々も、外宮から内宮へ廻る神宮参拝や神事に参加する前に、この浜で禊をするのが慣わしです。このように事前に禊のために立石浜を訪れてお祓いを受けることを「浜参宮」と言います。
本来は実際に海水に浸かって禊をするのですが、現在では二見興玉神社に参拝し、興玉神石より採取した無垢塩草で身を清めるお祓いを受ける浜参宮が一般的です。
第62回神宮式年遷宮浜参宮受入委員会』
2年ぶりの「夫婦岩」で、皆さんと集合写真を撮ります。『夫婦岩は、「日の大神(太陽)」と夫婦岩沖合の「興玉神石」を拝む鳥居の役目をしております。大注連縄(5本)長さ35m・重さ40kg・太さ10cm』
絵馬掛けを見ると、ブルーカラーの海をベースに夫婦岩が描かれたデザインでなかなか良い。それを今年の干支・猪が見ている多分今年限定デザインのも下がっていた。社務所で、オリジナルの方の絵馬を授かった。500円。
12:48、「四季の海鮮・魚々味」に到着し、2組待ちましたが昼食。4人席と2人席に別れて座り、僕は「海鮮丼1300円」を頂きました。僕は2人席に座り、Cさんと座りました。Cさんは、ご自身の分の他に、「鯛のあら炊き」も注文され、「どうぞ食べて」と。心遣いの出来る方だな〜と思いました。お子さんの話などで楽しい会話が出来ました。
次は、「伊勢神宮内宮」に向かいます。R42〜伊勢二見鳥羽ライン〜R23で、14:26「伊勢神宮内宮」到着。四輪は駐車場に入るのが大変そうでしたが、二輪は五十鈴川を渡る大鳥居・大橋の最も近い場所に余裕で駐められました。
『皇大神宮(内宮) 御祭神:天照大御神 御鎮座:垂仁天皇26年 天照大御神は皇室の御祖神であり、歴代天皇が厚くご崇敬になられています。また私達の総氏神でもあります。約2000年前の崇神天皇の御代に皇居をお出になり、各地を巡られたのち、この五十鈴川の辺りにお鎮まりになりました。
20年に1度神殿をお建て替えする式年遷宮は、1300年余り続けられ、平成25年10月2日に第62回式年遷宮が行われました』
鳥居に頭を下げてくぐり、五十鈴川を渡る橋から川を眺めました。寒いけど静かで、何かを感じます。内宮から五十鈴川を挟んだ対岸に、国旗がなびいています。皆さんと話しながら参拝路を歩き、五十鈴川の禊場で指先の穢れを祓いました。鎮守の森を歩き、石段を上がり「正宮・皇大神宮」に参りました。Cさんの話では、それなりの奉納をすると内部を案内してもらえるらしい。
五十鈴川を渡り、「おかげ横丁」を歩きます。お客さんが多く、すごい賑わいです。お土産を買ったりしながら「赤福本店」まで歩き、カフェに入ろうとしましたが、満席でした。諦めて戻っていると、入れるカフェがありアイスコーヒーで一服しました。15:51、おかげ横丁の内宮側入口近くにある「赤福内宮前支店」で、「赤福餅8個入760円」をお土産に買いました。
バイクに戻り、皆さんの帰路を聞くと、僕とJさんは伊賀上野で名阪国道を離脱しR163、Mさんもここで離脱、その他の方は「針テラス」まで戻るそうです。16:01、一旦ここで解散になりました。
R23〜r32〜伊勢西ICから伊勢道に乗り西進しました。伊勢神宮を出た所で先行のAさんから遅れ、以降後続のmさんと2台で走りました。ガソリンメーターが1メモリになり寂しくなって来たので、「安濃SA」に入りました。きっと先行グループも入っているだろうと探すとビンゴ!16:52、「伊勢自動車道安濃SAエネオス」で給油。281km/12.6L=22.3km/L。
ここで再び合流し、揃って出発。名阪国道にチェンジし、「上野IC」で4台下車。MさんがR163接続部まで誘導してくれ、ここからJさんと2台でR163を西進しました。木津川市まで来て、Jさんは「京奈和道」に乗るので別れました。僕は更にR163で西進し、近畿道側道のr2で北上し、中央環状線〜R171で、19:46帰宅しました。


2019/1/12
「スポーツ指導者資格」の講習会の日です。僕は大学ヨット部のコーチをしていますが、プロサッカーの指導者のように資格が必要でもないので、ほとんどのコーチはスポーツ指導者の教育・試験・資格取得を経ずに、出身母校のコーチをしています。僕は、ジュニアのコーチ時代に他所様のお子さんをコーチする責任を感じ、文部科学省が創設したばかりの競技横断型の統一資格を取得しました。それをベースに、当該スポーツに特化した指導者資格も得ました。
資格の有効期限は3年で更新しないと資格失効になります。この更新は、決められた講習を受講する事が義務です。ヨットはこの程度ですが、テニスやサッカー・スポーツドクターなどは、もっと多くの講習などを受講しないといけません。この講習会は、スポーツドクター・メンタルトレーニング講師・トップアスリート・トップコーチなど、講師の幅が広く興味深い講習がいろいろあります。全国各地で講習会が開かれており、ヨット競技は3年間に1回講習を受講すれば良いのですが、学ぶ事が多いので、平均1年に1回以上参加しています。
今回は、武庫川女子大学で行われる講習会に参加申し込みをしました。内容は、コンプライアンス講習/弁護士30分、武庫川女子大学の取り組み/スポーツ科学科講師30分、成長期における心の発達と支援/国立スポーツ科学センター臨床心理士30分、元テニスプレイヤー沢松奈生子さん1時間、パネリストによるシンポジウム1時間です。
半年ぶりの参加です。前回も、日大アメリカンフットボール部部員による悪質タックル問題から始まった一連のコンプライアンスがメインテーマでしたが、今回も一部含まれています。これが許されてしまっては、スポーツをする意義が失われます。今回のメインテーマは、「小中高大学生時代の女性アスリートの心と体に対するケア」です。
通勤リード110で出かけ、講習1時間前の12:30に会場に着きました。正門を伺うと講習会担当の方がおられたので、バイクの駐車場を聞くと、学校の守衛さんが教えてくれました。正門内に入ると、女子大ではマンモスな部類に入るので、大きな大学だな〜という印象を持ちました。道路を挟んでキャンパスが並んでいるところでは、屋外エスカレーターが動いており、女子大独特の気配りも感じました。
建物内に入るが、受付がまだ始まっていなかったのですが、講習会場の講堂内で待つよう促された。とても大きな講堂で正面にステージがあり、裕福な印象を受けました。弟のお嫁さんがこの学校出身です。
受付開始時間になり、番号順に区分けされた机で、講習費2000円を払い、講習票を見せテキストを頂く。そして講堂内へ。
定刻になり講習会開始。今回は関西広域講習会なので、受講者がとても多い。初めのコンプライアンス/弁護士は、「スポーツ指導における体罰・ハラスメントの責任問題と防止策」と題して、ここ数年でマスコミを賑わした事例を上げ、具体的な話をされた。具体的指導例を出し、「体罰か指導の一環か」法律的な分かれ目が説明され、年々厳しくなっている現状が理解できた。
次の武庫川女子大での取り組みでは、体操部監督コーチでもある教諭が話された。男子と違って女子が集まると必ずグループに別れるので、それぞれのグループと対等に付き合う術と苦労話が興味深かった。
国立スポーツ科学センター研究員の臨床心理士の先生の話で、「500人が集まる大会なら、100〜200人は生理中である」という分かっていながら男には実感が湧かない現実に、今更ながら認識を新たにした。海外で活躍するメダリストのトップアスリートを対象にした施設なので、多くのトップ女性アスリートの悩み相談を受け、一緒に寄り添い克服していくる立場ゆえの事例から、いろいろな学びがあった。
女子選手は特に、アスリートの低年齢化が進み、体操・陸上など体重制限とスポーツとの関係が強くなり、それによる無月経の問題や、食事制限から来るカルシウム不足による骨折も深刻になっているそうだ。駅伝の女子選手が疲労骨折しながらも次の選手にタスキを繋いだ件で、各界より様々な反応があったが、当該チーム監督から「リタイヤ要請」があったが、オフィシャルが「次に繋げたい」という選手の強い意志により競技続行させたことが具体例として出された。どちらも美談だが、選手生命が絶たれる事態も考えられ、これからは大会としての基準を設ける必要も出てきそうだ。
沢松奈生子さんは、多くの講演経験からか、とても話が面白く、とても興味深かった。初めの話が、中学校の先生とのエピソードで、とても面白く生徒に人気の先生でしたが、学校の廊下ですれ違った時冗談で「ノースリーブから太もも出すな」と言われたそうです。今の年齢45才なら冗談として受け流すのですが、中学生の女の子に胸にドスンと響く言葉で、それ以来現在に至るまでノースリーブを着ていないそうです。「この会場にその先生が来られていると思うので、ここで明かさせて頂き、ここでトラウマを除きこれからノースリーブを着るようにしますと笑いを取られた。その先生が僕の2列前の斜め前に座っていられ、一緒に来られたお仲間さんに冷やかされていた。
お父様の仕事の関係でドイツで生活している5才からテニスを始め、10才までドイツのテニス指導で基本を学んだ。シュテフィ・グラフやボリス・ベッカーなどが世界に羽ばたいていく成長期のドイツテニス指導の中で育った。ドイツ及び欧米のテニス指導は、長所を褒めて伸ばすのが基本で、得意だったフォアハンドをよく褒められ、不得手だったバックハンドのミスをあまり注意されなかった。気持ち良くスポーツをさせるのがドイツ流だった。
中学生で帰国し、長所は良しとして短所を克服する指導に戸惑ったが、どちらが良いとは言い切れない。引退する最後の試合はモニカ・セレシュ選手で、「私は引退するから、最後に聞かせて」と、日本人選手との対戦をどう思ったか聞いたそうです。
「日本人選手は弱点がないのでやりにくが、怖さはなかった」と答えたそうです。良いボールで攻めてもラリーが返ってきて持久戦になり勝ちでイライラするが、強烈なショットがないので負けるとは思わなかったそうです。ここに、欧米と日本の指導法の違いを感じたそうです。
中学生でジュニア全日本を制し、そのご褒美で出場した全日本も優勝してしまった。流石に全日本では負けると思い、毎試合宿舎のホテルをキャンセルしスーツケースを持って試合会場入りし、勝利してまた同じホテルに戻る生活で、決勝戦まで進んだ。ここまでは無欲だったが、決勝戦を前に「勝った時のスピーチ」を考えたりいろいろ欲が出た。同じようにホテルを精算して会場に向かい、験担ぎで同じルーチンで試合に臨んだが、ファーストセットは簡単に取られてしまう。コーチから「身体がカチカチになってるよ」と言われ自分を取り戻し、「負けてもいいや」と開き直ったことで盛り返し、逆転で優勝した。
2018年に、大坂なおみ選手のコーチになったサーシャさんは、コーチの経験がなく、女子トップ選手のヒッティングパートナーをしていました。大坂側がコーチ就任を打診し引き受けたことから、一気に全米オープン制覇まで上っていきます。強烈サーブを持ちながら、ムラがありイマイチトップには迫れなかった大坂選手へのアドバイスが的確で、大化けさせた。錦織選手のコーチである4大タイトルをアジア人として唯一制覇したマイケル・チャンとの出会いも素晴らしく、テニスではほとんどの時間を共にするコーチの存在がとても大きい。コーチの一言はとても重要です。
スランプの時、コーチに頼っては成長しない。目標を低くして自分で克服すると、前の自分より強くなって返ってくることを多く経験した。具体例は、中学生で全日本を取ってからの1年で、学校でも道端でも私を指差し噂する光景が周りに溢れ出し、「勝たなければ」と思えば思うほど勝てなくなった。
夢と目標の2つを持つようにしている。夢は到達したい場所で、具体的には「ウインブルドン優勝」を掲げていた。でもこれを目標にしてしまうと、目標が遠すぎて目標への道を見失い疲れてしまう。そこで、少し努力すれば達成できそうな所に具体的目標を持つようにしていた。
テニス選手は、試合の順位で獲得するポイントの過去1年間のトータルでランキングされる。世界2000番までランキングがある。最高がシングルス14位でしたが、常に自分のランキングより少し上に目標を定め、それを達成する喜びを重ねプロテニスツアーを戦っていた。
全日本制覇後勝てなくなって、目標を低くして、相手コートに布団を敷いて、打ち返す時にその布団に当てることをしていった。目標が達成できたら布団を少しずつ小さくして、最後はコート隅に置いた珈琲缶を続けざまに当てれるように復活していき、スランプを克服した。
ツアーで息の長い選手の特徴は、怪我をしないことはもちろん、夢と目標の2つを持っていること。
世界で長く戦っていると、スポーツを通して民族や国籍の違いを感じる。ソ連選手には常にKGBのガードマンが付いており、亡命しないようにしていた。その選手と話そうとしてもすぐにガードマンに遮られる。
南アの白人選手と戦った時、試合後の握手を拒否されたことがあった。審判に促され握手したが、ただ自分の手に指を触れただけだった。アパルトヘイトの人種差別政策転換後に、その選手と親しくなり聞くと、生まれてから白人以外の人と触れたことがなく、どうして良いかわからなかったそうです。
「自分にしか咲かない花を、咲かせてみようよ」が口癖で、この言葉を最後に公演が終わった。
続いて、5人のパネリストと司会者によるシンポジウムで、登壇された方々に加え、日本スポーツ協会公認スポーツドクターの女医さんと、男子バレーボール監督を経て女子ナショナルチーム監督に就任し、ロンドンオリンピック銅メダル獲得に貢献した眞鍋政義さんが加わった。
女子アスリートに関する話題がテーマで、「女子選手は同年代の男子選手より精神的に大人で、相手の名前を見て勝手に勝敗を決めてしまいことが多い」。「幼児期、公園に連れていき、目の前に水たまりがありその向こうに好きなブランコがあるシチュエーションでは、男の子は水たまりを物ともせずまっすぐにブランコに向かうのに、女の子は水たまりを避けて迂回しブランコに向かう」。「コーチには自分を見て欲しいという願望が強く、上手なコーチは全女子選手に「自分を見てくれている」と思わせる行動を取る」など、新たな視点を提供してくださった。
17:30まで、5〜10分の休憩を挟みながら有意義な時間を過ごした。講習票と引き換えに修了証を頂いて講堂を出た。外は既に暗く、武庫川河川敷を使って帰宅した。
スポーツドクターさんが紹介された小冊子を、国立スポーツ科学センターのウェブサイトからダウンロードし、読み始めました。「Heaith Management forFemale Athletes」のVer2とVer3で、女性の身体とスポーツに関する科学的考察が書かれているようだ。


2019/1/11
2日前、大学ヨット部時代の好敵手であったD社大ヨット部同期H君から電話がありました。「二金会」って知ってる?「知ってるよ。関西在住の大学ヨット部OBさんたちが毎月第二金曜日に集まってるやつたろ、参加したことないけど」「その二金会がうちの店であるねん。今度の金曜日やねんけど、参加せえへん?」「え〜、僕らより10歳ぐらい上の方々が、酒のんでうだうだやってるやつやろ、僕はアルコールがあかんし、先輩に誘われたら二次会とかで遅くなりそうで、夜の弱い僕には荷が重いわ」「いやいや、僕らぐらいの年齢の方も増えてきて、若返りを図らなあかんと改革中やねん、O大のKさんともここで知り合ったし、おもろいで」「せっかく電話もらったから、ほな行くわ」。
ということでスポット参加することになりました。18:30にH君がやってる大阪のレストランです。カレンダーに書き込んでいるとまた電話が鳴り、「あんな、毎回1人が話すことになってるねん。二金会会長さんに言うたら、じゃあ喋ってもらえということで、なんか喋ってえな」「え〜、諸先輩方の前で喋るの〜、かなわんな〜」「インカレでお前んとこがあんだけ走って、うちなんか全然及ばなかったから、その辺の強化方法とか喋ってもらえとのことやねん」「え〜しゃあないなあ。何分ぐらい?」「30分ぐらい。PC持ち込んでスライドする方もいるし、レジュメ作ってくる方もいるんや」「しゃあない、何か喋るわ」。
電話を切って、「あ〜はめられた」と思いました。雑誌に古豪復活と大きく取り上げられ、多くのヨット関係者が見ているヨットウェブニュースのヨットオブ・ザ・イヤーに僕がコーチしてる大学が選ばれ、話題になってるから、コーチである僕に喋らそうとはめたに違いありません。
慌ててレジュメ(A4で10ページ)を用意し、参加者20名ほどということなので25部コピーして向かいました。質問された時のために、PCもカバンに詰めました。18時にお店に着くと、「本日貸し切りにつき・・・」なんて看板が出ていました。既に2人の方がおられました。名刺を渡し、自己紹介。続々と入店され、Hくんの先輩である会長さんに挨拶し、会費6000円を渡しました。コーチしてるヨット部の知己のOBさんも2人お見えになりました。
定刻になったので話し出そうとしたら、会長さんから「まあ、お腹をこなしてから」ということで15分ほど、お喋り&パクパク。会長さんに促され、会長さんとH君から紹介され僕の話す番になりました。レジュメをお渡しし、40分ほどお喋りし、僕の仕事が終わりました。「こんなに真剣にみなさんが聞いてたのは珍しいぞ」とHくんが褒めてくれました。「さよか」。
また食べながらお喋り。新年最初の会なので、1人ずつ今年の抱負を発表することになりました。皆さんからいろんな話が聞け、参考になりました。特に頭に残ったのは、法政OB長老さんの話でした。貿易会社をされていた方で、社長の給料の他に年金を受け取るようになり、年金を積み立て、母校にレース艇を通算5艇寄付された御年91才の方です。
大東亜戦争に従軍された方で、台湾生まれで敗戦引け上げるまで台湾で暮らしておられた方です。台湾在住の日本人は、食べられなくなると内地に引き上げになるようで、日本人の浮浪者などは皆無だったそうです。ところが敗戦後内地に引き上げてみると、日本人浮浪者がウヨウヨおり、とてもショックを受けたそうです。日本人としてのプライドがズタズタになったそうです。
台湾で日本軍が引き上げ、中華民国軍がやってきた時、友人と見に行ったそうです。台湾人の友人は、日本軍に勝った同胞が大陸からやって来るというので期待していたが、見慣れた統率の取れた日本軍に対し、先頭数人だけが軍服姿でその他大勢は天秤棒に鍋釜を下げ、ボロボロでバラバラの服の軍隊でした。その時友人は、「あ〜情けない。これからどうなるんだろう」と言葉にしたそうです。
大学を卒業し、海外との仕事をしました。今問題になっている韓国の日本との「条約破棄問題」に言及し、「日本人は、自分たちと同じ考え方を世界中の方が持っていると思っていることが間違い」と言われました。中国や朝鮮とも仕事をしましたが、約束破りなんて日常茶飯事で、社長同士が面と向かって契約書を取り交わしても、平気で反故にするのが当たり前の民族です。役人さんは自分の懐で商売していないからわかっていない。商売人の方が、切った張ったで何度も痛い目に合ってるから本質がわかってる。とのことでした。
僕も一度中国人と仕事して懲り懲りしたし、知り合いから聞いたところでは、中小企業をやってる友人が中国進出し、大きな痛手を被った話も聞いています。世界にはいろんな国があり、公平・公正・正義なんて通用しない民族が多いことをお聞きしました。


2019/1/3
お墓参りの日です。11時に弟一家と合流します。すみれちゃんがいるので、昼食を自宅で取ることにして、スーパー開店の9時に向け家内と家を出ます。握り寿司や巻き寿司、その他パーティーメニューを購入します。
10時前に皆で出発します。r12で北上し11時前にお墓着。寒いので、すみれちゃんがいるので次男夫婦が車に残り、弟一家と一緒に来るようにし、家内とお墓に行き掃除を始めました。しぐれ雲が流れてきて、小雨が落ちてきました。すぐに弟一家と次男一家がやってきて、皆でお線香を上げます。
家に引き上げます。実家で皆で昼食にします。PCを持っていき、長男一家のビデオや写真を見せます。すみれちゃんの保育園でのクリスマス発表会のビデオも見せます。弟夫婦も、センターのすみれちゃんをべた褒め。長男の子のりょうせい君の日本語学校での主役劇も褒めてもらいました。
次男が、会社報を披露してくれました。表紙に新本社完成披露パーティーでの集合写真です。200人ほどが左右20〜40人・前後5〜7列に並び、中央中心に次男がおり、社長と会長に肩を組まれ挟まれています。新本社建築プロジェクトのリーダー設計者を次男がしていたのでセンターのようです。新本社の披露パーティーでは次男が挨拶したそうで、お嫁さんによるととても上手だったそうです。その挨拶ビデオのコピーが欲しいとお嫁さんに頼みました。きっと社長会長さんに慰労されたのでしょう。社内無料保育園設計のため、次男は保育士の資格も取りました。コツコツ手を抜かない次男らしい行動です。でも、意外に社内アンケートで社内保育園入園希望者が多くなく、この計画はポシャったそうです。次男は「無料やのに〜」と悔しがっていました。ページを捲ると、新本社披露会でエプロン姿のお嫁さんが写っていました。
別のページに、社員皆でサッカースタジアムで応援している姿が写っていました。次男とお嫁さんの会社は、Jリーグチームのスタジアムをネーミングライツしています。会社名を冠した応援デイの様子で、社長と次男一家3人の写真があります。良い記念になりました。これを置いていってくれるそうです。
弟の長女が来年大学受験だそうです。すみれちゃんと上手に遊んでくれます。良いお母さんになりそうです。大学2回生の長男は、正月明けに試験だそうで、京都の下宿から帰って来ていないそうです。15時になり、解散です。弟一家が帰っていきます。
片付けをして、次男一家を車に乗せ、新大阪駅に送ります。R171〜中央環状で東進し、新御堂筋を南下し新大阪駅。降車レーンに入れず、道路上で次男一家を降ろします。家内が手伝い、歩道まで荷物を運びます。これで4日間の次男一家との時間のお終いです。自宅に戻り、家内がすぐに実家の掃除を始めました。ああ、楽しかった。


2019/1/2
家内の姉一家と集まる日です。神戸にある「有料老人タワーマンション」に集まります。週末のみここを利用しています。六甲山山歩き基地として、ビリヤードを楽しんだりしています。9時に自宅を出て、近所の氏神「臂岡天満宮」に参ります。長男の子達もすみれちゃんも、ここで初宮参りしています。
お気に入りのリュックを背負い、元気に歩き出したのですが、途中から抱っこになっちゃいました。9:17天満宮到着。初詣を済ませ、社務所で「交通安全御守ステッカー」500円を授かりました。次男夫婦も御守を授かっていました。
帰宅し車に乗り、神戸に向かいます。R171〜R43で神戸に入り、10時過ぎに着きました。電話して姉に迎えられ、エントランスで名前を書いて入館証を頂き上着にセット。まず兄夫婦の部屋に入り、兄に年賀の挨拶。荷物を置いて、お年玉の交換。ここに来れない長男の子3人、姉の次女と長男の子へのお年玉が飛び交います。我が家から送った「ポンカン」が美味しかったようで、姉が用意してくれました。すみれちゃんが動き回り、場を和ませてくれました。すみれちゃんの保育園でのクリスマス発表会の歌とダンスを見てもらいます。すみれちゃんが最も上手にダンスが出来ているのでセンターです。お兄さん・お姉さんが、「すみれちゃんしか出来てない。何もしない子もいるし・・・」と、すみれちゃんを褒めてくれました。
10:45になったので、34Fレストランに上がります。和・洋・麺3種類から選びます。明石からやってくる長女一家はまだ須磨の向こうで渋滞中だそうです。30分は遅れそう。窓側の席が用意されており、神戸港から神戸空港まで眼下に見えます。何度もここで食事をしていますが、いつも兄夫婦の奢りなのでいくらするのか聞いてみたら、なんと居住者は700円、ビジターは+200円だそうです。朝食はもっと安く、料理のクオリティーからすれば、2〜3000円だと思ってました。昔のスターやKGグリークラブのコンサートや独演会がウィークデーに催されるようです。いくら昔のスタートは言え、全国のこの法人が建てた有料老人ホームを巡っているようで、費用はどうしているのかな?と思ったら、ここを終の棲家とされた身寄りのないご老人が遺産を寄付されるそうです。これもビジネスモデルですね。
長女一家4人が合流し、あ〜だこ〜だ。中1になった長男が、テニス部に入ったそうです。お父さんも中学時代はテニス部だったらしく、2人で練習に行くそうです。食後テーブルテニスをするので、勇んで来たんだって。
12:51、食事を終え席を立つ。13:00から卓球ルームを予約しています。1F卓球ルームに移動し、長女の旦那さんと息子との親子対決からゴング。勝った方が交代します。お父さんが負けたので残り、僕が対戦相手になります。接戦を僕が制し、次々に交代します。小学生の時軟式テニスの選手で埼玉県代表になったお嫁さんが上手です。夫婦対決は何とか次男が勝ちました。聞いたら、温泉などに行ったときなど2人でやってるそうです。最も運動神経がダメそうな家内とお姉さんの姉妹対決を勧めますが、お姉さんは前日お兄さんとやった時ダメダメで、「試合にならないから駄目だよ〜」と笑っています。そこで、お嫁さんと長女の息子が助っ人に入りゴング。
卓球ルームは1時間・14時までなので、部屋に戻ります。ポンカン、次男が持ってきたお菓子などポリポリ食べながら、皆であ〜だこ〜だ。14:30からカラオケルームとビリヤードを予約しているので、そちらに移動します。
僕らはここでサヨナラします。1/4が「仕事始め」で、それに間に合うよう1/3着宅急便で次男宅に荷物を送らなければなりません。帰宅し、ダンボールにお嫁さんが荷を積め、僕ら夫婦で宅急便センターに持ち込みました。
次男のリクエストで、「お好み焼き」が出て、数年前長男一家と行った「一休さん」というお店に行きました。すみれちゃんがいたからか、席の鉄板が熱すぎなくとても美味しく食べられました。


2019/1/1
次男夫婦と、「京都にでも行こうか」と言うことになり、次男から「美味しい一番人気抹茶カフェ」と「伏見稲荷」の提案がありました。8:30過ぎに自宅を出発し、R171〜中央環状〜名神高速で「京都南IC」下車。R1を北上し、「九条通」に右折すると、京都の代名詞「東寺・五重塔」がどどーん。道なりに「東大路通」を北上し、四条・八坂神社交差点から9:49「京都市円山駐車場」へ入り駐車。
10:05「四条東大路」交差点。ここから四条通を河原町まで歩きます。安価で素敵な日本人形のお店がありました。「ようじや特製カプチーノ」の看板を出したカフェがありました。「ようじや」さんのカフェなのかな?「西利」の漬け物屋さんがあり、「南座」では松竹新喜劇公演の呼び込みをしていました。鴨川を渡るとき北を見ると、北の山に雪が積もっていました。お気に入りの高瀬川を渡り、四条河原町交差点まで来て、北に折れます。「坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋がこの道沿いにあるんだよ」なんてお嫁さんに話をしていると、10:31「中岡慎太郎寓居の跡」という石碑が見えてきました。ここが目指すお店「抹茶館MACCHA HOUSE 天保7年創業京都森半宇治抹茶使用」でした。
「すぐに入店待ち行列が出来る」のようですが、10時開店なので早いからかすんなり入れそうでドアを開けると、ガードレール側に3組ほどの待ちが出来ているので待ちました。すみれちゃんとお嫁さんは寒いので、店内の席で待たせてもらいました。
店員さんがメニューを持って来てくれましたが、その彼女がなんと僕がコーチしてる大学ヨット部2回生部員でした。「あれ〜・・ちゃん、ここでバイトしてるの」「はい」・・・偶然すぎてびっくり。次男を「先輩だよ」と紹介すると、あ〜だこ〜だ。何注文しようかな?
順番が来て、1Fカウンターで注文します。2Fに5つほどテーブルがある小さなお店でした。「宇治抹茶ティラミス・ドリンクセット850円」「抹茶ほうじ茶ラテ650円」「抹茶館パフェ990円」、みんなでシェアしながら楽しく食べました。「ごちそうさま」してお店を出ると、10組以上並んでいました。11:23「高瀬川」に出て、次男とお嫁さんの会社が建てた物件を見に行きました。閉校した立誠小学校が「立誠図書館」として利用されていたのですが、リニューアル工事するので校庭に仮建物を建築しそちらに移動して開館していました。すみれちゃんが、大晦日にサンタさんから頂いたプレゼントの「キティーちゃんお正月着物バージョンマスコットホルダー」を気に入り、お気に入りのリュックに下げてくれています。可愛いな。
往路立ち寄った「梅」のお店に入り、お土産を購入しました。次男夫婦も、「梅ジュース」を会社へのお土産にしていました。重いから、帰宅後我が家から宅急便で送ります。
12:25「八坂神社」に戻り、初詣に向かいます。ところが参拝の方が多すぎて行列が進みません。諦めて車に戻ります。「京都市円山駐車場9:49〜12:40・1500円」。次に向かう予定だった「伏見稲荷」は関西トップの初詣スポットなので諦め、お嫁さんが「インスタ映えスポット」で有名だという正寿院に向かいます。京都に向かう高速道路で走っている時、お嫁さんが「ハートの窓がある京都のお寺に行きたいな」と言い出した時、「あそこだ」と数ヶ月前訪問した正寿院を思い出しました。「行ったことあるよ。女子受けするお寺で、バイクで1人で行ったからアウェイ感が半端なかったわ。場所わかるよ」。
「東大路通」は、清水寺最寄りの「清水五条」まで混んでいました。R24で南下し、「阪神高速京都線」に乗り、「久御山JCT」で京滋バイパスに乗り換え、「宇治西IC」で下車し、r241で宇治へ。道なりにr3に乗り、平等院横を抜けて、宇治川沿いを大津方面へ。「宵待橋」からr62で南下し、R307で東進し、枝道で山に入り「正寿院」着。せっかく来たのに、年末年始はお休みでした。
残念ながら、R307でお昼ご飯を食べるお店を探しながら西進します。木津川を渡り京田辺市に入り、「和食さと」でお昼にしました。近くに「一休寺」があるので寄ることにしました。
15:30「一休寺」。一休さんの板人形がいたので、すみれちゃんがご機嫌です。家内が拝観料を払い、皆で入ります。一休禅師の御廟に参り、「酬恩庵」に入ります。アニメ「一休さん」の「とんち話」に出てくる「虎の衝立絵」がありました。庭園に面した廊下を走り回るすみれちゃん。虎の衝立の前に戻り、お嫁さんが入る時お願いしていた御朱印を受け取り境内に出ます。
本堂、宝物殿に入ります。一休禅師が愛用していた尺八髑髏面を拝見。一休禅師の姿が描かれた掛け軸や、一休禅師筆の肖像画などが展示されていた。京都国体の採火地が境内に有りました。池には鴨が多数休憩し、「このはし渡るべからず」の高札が立った橋があった。迷わず中央を渡り、羅漢さんの道を歩き、佐々木承禎や観世音音阿弥などのお墓を巡り、16:23車に戻りました。
R307〜R1から近畿道に乗り、中国道の乗り継ぎ、18:05帰宅しました。大晦日に食べれなかった「年越しそば」を夕食にします。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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