-ウェブマスター日記 2018/11-12

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
感想をいただけるとありがたいです→webmaster

2018/12/31
次男一家が帰省する日です。7:40JAL便で羽田から飛んでくるので、それまでに空港に行っておかねばなりません。4時過ぎに起き、ヨーグルト食べながら、あれやこれややりました。7時になったのでチャイルドシートを車にセットし、空港に向かいます。Pに駐車し、到着フロア前で待ちます。到着便としては2本目で、7:30着ANA羽田便の次がこのJAL便です。到着便案内を見ると、8時台に10本到着します。出発便を含めると、20本を超える飛行機が飛び交う過密さでした。
5分遅れの到着でした。以降の羽田便は5分遅れの到着予定に変更されていきます。ですが宮崎便などの九州などは5〜10分到着が早い予定になっていきます。西風が強いのかな?羽田空港が混んでるのかな?なんていろいろ想像しました。次男からLINEが入り、「今、荷物待ち」。ガラス窓から中を覗くと、次男一家がいました。「見えてるよ」とKINEを返しました。家族LINEなので、家内にもリアルタイムで伝わっているでしょう。荷物を受け取りお嫁さんが僕を見つけ手を振ってくれました。乳母車に乗ったすみれちゃん2才も一緒に出てきて「いらっしゃい」。なぜ乳母車に乗ってるのかな?と思ったら、靴を忘れちゃったんだって。「前も忘れちゃったんだよね」「また買いに行かなきゃ、5足目になっちゃいました」と、2人で笑っています。車に戻り、7:22〜8:15大阪国際空港400円。
8:41「タリーズコーヒー伊丹店」で朝食を取ります。すみれちゃんは、「キッズフルーツスクイーズ190円」と持ってきたパン・お嫁さんのサンドウィッチを食べます。僕は「チョコファッション280円+Sラテ360円」。次男は「ドッグプレーン320円+Sコーヒー320円-モーニングセット120円」。お嫁さんは「オリジナルエッグサラダサンド350円+Tラテ410円-モーニングセット100円」。
一旦帰宅し、荷物を置いて、ダイヤモンドシティ昆陽店に靴を買いに行きます。1Fの「H&M」で靴を探しますが、丁度よいサイズの靴がなくパス。子供服や靴まで売ってるのですね。上階に上がり、くるぶし上まである靴を買えました。ゲームスペースに入り、11:24「アミューズメント・コーナー」幼児+大人1人600円に次男とすみれちゃんが入り、ボールプールで遊び、砂粘土で遊びます。お嫁さんと僕は外壁からそれを見たり、写真撮ったり。椅子や壁などダンボールで出来ていてびっくりしました。
帰宅し、家内も車に乗せ、最寄りのコンビニで昼食を買って、食べながら1970年千里大阪万博公園に向かいます。混んでいるかな?と思ったけど、渋滞なくPに入れました。「三井ららぽーと」を通過し、13:33大観覧車が見えました。ガンダムの戦闘像が格好良い。家内が「ニフレル」の入場券を買いに行きましたが、主役のすみれちゃんが寝てしまったので、13:41「ニフレル」出口にあるお土産ショップに入り、ホワイトタイガーぬいぐるみなどを見ます。「Welcome toOsaka English Village」に入ると、「Happy Holidays」となっていました。
ららぽーとに戻り、次男一家と別れ別行動で家内とショップを見ます。僕は午前中お嫁さんから教えてもらった長男のお嫁さんからのLINEを見るために椅子に座ってチェック。1日前に長男から送られてきたLINEも確認します。来年でアメリカ3年目ですが、転勤するみたい。クリスマス休暇でワシントンDCに行ったみたいで、写真をアップしてくれていました。
14:19「ニフレル・1900円」に入店します。水族館の大阪海遊館の姉妹館で水族館メインです。エビ・熱帯魚の水槽が並んでいます。大晦日だからか、それほど混んでおらず、すみれちゃんに丁度よい。「美人さん喧嘩のときは容赦ないバイカラードッティーバック」などそれぞれの説明板があり、「ピンク/イエロー」ツートンカラーの熱帯魚がいます。「名付け親・皇后陛下の美智子様・アケボノハゼ熱帯」。「クマノミ」ニモがいます。
次の部屋に入ると、「イソギンチャク」がおり、飼育員さんが餌を上げるタイミングで、マイクで説明しながら餌を入れ、「ここに口があるよ」など大人も楽しい。カレイ・トビハゼ・エイ。ナポレオンフィッシュがでかくて迫力がある。すみれちゃんが怖がらず、水槽に顔をくっつけ見ています。好きな「タツノオトシゴ」がいます。クラゲも素敵です。
次の部屋に入ると、吹き抜けの天井から球体が下がり、その表面に映像が現れます。それが床に投影され、暗い部屋が不思議な幻想的空間になり、すみれちゃんが嬉しくて走り回っています。映像やカラーが変化し、すみれちゃんの一番のお気に入りになりました。次の部屋になかなか移動せず長い時間楽しみました。次の部屋に入ると、ウミガメがいました。ニフレル入場券の写真がこの亀で、これまで何度もすみれちゃんが「カメ・かめ」と教えてくれていました。すみれちゃんが「カメ〜」とお気に入りです。
ウーパールーパー・水玉模様のエイ、2Fに上がると先程の球体が横から見える部屋があり、すみれちゃんが大喜び。次の部屋に、ホワイトタイガーがいました。歩いている所を下から見れます。ワニがいて、ミニカバがいます。相変わらずすみれちゃんは平気で頼もしい。
次の部屋は、猿・オオハシ・ペリカン・ビーバー・ペンギンが、間近にいます。ただ水路を隔てただけの場所にいますが、なぜが人のいるこちらに来ません。飼育員さんが餌をやったり、お客さんに説明ししていたりして、特徴ある水族館?動物園?です。すみれちゃんは、そこもで近づいても平気?と思うほど平気で度胸あるわ。りょうくん5才が2才の頃「神戸どうぶつ王国」に行った時は、長男の足の後ろから覗いていたのに。
次の部屋はまた球体の部屋で、僕と一緒に球体を1周回ってママのところに帰る遊びを2回繰り返しました。1Fにエレベーターで降り、ベビーカーを取りに行って表に出ます。ここがホワイトタイガーぬいぐるみのスーベニアショップで、手に判子を押してもらうと、何度でも入り直せます。
車に戻り、帰宅します。自宅に入り、プレゼントを白い大きな袋に入れます。次にサンタさんに着替え、実家のベルを鳴らします。ピンポーン。お嫁さんが玄関を開けると、すみれちゃんがキョトンとしています。でも怖がらず、サンタさんが白い袋から出したプレゼントの袋に手を出しています。サンタさんはバイバイして玄関から「さようなら」。
帰宅して着替えて、勝手口から実家に入ります。すみれちゃんがプレゼントにもらった絵本を僕に渡し、「読んで〜」。前回もそうだったが、絵本が好きです。キティーちゃんの大きなキーホルダーをお嫁さんにリュックに付けてもらい、ご機嫌で背負っています。
「車に忘れていたよ」と渡した空気鉄砲を「開けて」とせがむので、僕が遊び方を教え、大喜びしています。僕が勝手口からおでんを運び入れ、おでんを運んできた家内も含め、みんなで夕食を囲みました。19時過ぎに帰宅し、風呂に入って寝てしまいました。


2018/12/30
高校ヨット部忘年会の日です。毎度おなじみ、キャプテンS君の家に15時に集合です。
朝から家内に指示され、実家の掃除をしました。12/31〜1/3まで次男一家が帰省するので、その用意です。玄関扉・雨戸などの外見をホースで水をかけ雑巾で拭きます。庭の落ち葉を箒で掃き通り道を整えます。
その途中に、おでんの具の買い忘れを頼まれスーパーまでバイクで走り、保湿機+電気湯沸かしポットを買いに電気屋さんに走りました。孫に風邪を引かせては行けない、いつでもコーヒーを気軽に飲めるようにとの家内の配慮です。帰宅して箱を開け、すぐ使えるようにチェックします。家内はそれを実家に持って行き、所定の位置にセットしています。
ホームセンターでは、仏壇花も買いました。家内が実家の仏壇を整えてくれています。庭からスイセンを調達し、仏壇と庭祠に供えてくれました。僕一人じゃ、ここまで頭が回りません。僕の実家なのに、有り難い。仏壇の影から両親に、「お嫁さんに感謝せにゃあかんよ」と言われているだろう。
13:30になったので風呂に入り、「通勤リード110」でSくんの家に向かいます。12:30頃Sくんの家に到着し、ピンポーン。奥さんが出てきて、「お久しぶり〜」。女子大出身の同学年夫婦です。学生の頃から付き合っており、学生時代からなんだかんだS君と一緒にいました。Sくんの家で集合するのは、奥さんも参加できるからです。
「お招きいただき、ありがとう」と、地元のお菓子屋さん・スーリールでこの日購入したバウムクーヘンを渡しました。応接間に通されると、Sくんがいました。50代で体調を崩し、すでにリタイヤしています。元気そうで何よりでした。パーテーション越しに隣接したダイニングキッチンにお嬢さんとお子さんがおり、5才と2才の孫ちゃんが応接間にもやってきます。2才の男の子が無邪気で、ちょいと遊んでやるとじゃれついてくる。5才のお嬢さんはお洒落で美人さんです。
家から持っていったヨット雑誌で取り上げられた僕の記事をSくんに見せます。「これ読んで、褒めてくれ〜」と強要する。奥さんも「・・さんが載ってるの?」と読んでくれました。僕以外は大学ではヨット部に入らなかったので、こんな専門誌は読みません。同期Kくんが到着し、中高サッカー部センターフォワードだったOくんもやってきました。皆にも雑誌を読ませました。あ〜だこ〜だ2時間ほど楽しい時間を過ごしました。
15時過ぎに帰宅し、2度目の風呂で冷えた体を温めました。家内のお手伝いをして、3度目の風呂に入り、明日に備え早めに寝ました。


2018/12/24
18時に、D社ヨット部元監督Mさんとファミレスで会う日です。今月初め、D社同期のHくんのレストランで世界一周ヨット乗り2人を囲む会で会いました。Mさんは母校監督を辞めた後、僕がコーチングしている大学と似た環境の大学ヨット部で、僕同様外部コーチをされています。部員不足で片クラスのみ活動まで縮小してしまった部を立て直そうと頑張っておられます。僕のコーチングしている大学も、同じような部員不足を経験したが現在復活し、今年全日本2位まで躍進したので、ノウハウを聞きたいとのことでした。
待ち合わせのファミレスが近いので、「通勤リード110」に乗り15分ほどでファミレスに到着し、ドリンクバーを注文し、ジュニアヨット理事時代の同僚さんから送られてきたばかりのジュニアヨット50年史を読んでいました。
ほぼジャストに来られたMさんは、なんとご自身の畑で収穫した野菜持参です。「有難うございます」。脱サラして農業とは素晴らしい。大阪府に就農助成制度があるようです。ラッピングされた素晴らしい野菜で、まさにプロでした。お互いのコーチしてるクラブの過去・現状・未来への思いを披露し、お互いに意見を出し合いました。話していて思ったのが、Mさんと僕には共通点が多いということ。体育会上がりのコーチは、意外に井の中の蛙で、他のヨット(クルーザーやジュニア、学連で採用されていない艇種)の経験が少ない方が多い。
僕もMさんもそうだけど、高校ヨット部でヨットに出会い、大学ヨット部を卒業するとともにヨットから卒業し、母校コーチをメインにヨット活動している人が多い。大学を卒業すると、当然メインは仕事をして家族を養うことになるので、大学時代のようにヨット活動できない。
幸い僕は、地元行政機関に頼まれてジュニアヨットクラブを作り、コーチングすることから学連のレーシングヨット以外の経験が始まった。息子がジュニアヨットの世界に入ってきたので、選手の親としてジュニアヨットに関わり、ステージパパの立場も経験した。その延長でジュニアの理事として全国のことや、ナショナルチームを引率したり、世界へ出ていくナショナルチームの裏方事務も経験できた。並行して、自分の選手としてのヨットレース活動や、いくつかのウェブサイトを立ち上げ・運用し、選手集めのノウハウを身につけることができた。
ほとんどの学連ヨット部コーチは、母校のコーチをするので、コーチ資格を何も持っていない。僕は他所様の子供さんを教えるので、文科省のスポーツ指導者資格を取り、資格更新のため定期的に講習を受けています。
そんな学連以外の経験から見た学連は閉鎖的です。母校の応援に集中し、結果が全てで見ている方が多い。オリンピックメダリストの80%がジュニア上がりというヨットの潮流は日本でも同じで、日本代表選手スキッパーのほぼ100%がジュニア上がりです。僕のようにジュニアの世界を知っている人にはそれが見えるが、そうでないと全然見えない。
ジュニアのレベルが上っているので、学連に入っているトップ選手に占めるジュニア上がりの割合が増えている。彼ら彼女らは、世界を見ている選手なので、シゴキや罵声などの旧態依然とした体育会体質のバカさ加減を肌で知っている。
ジュニアでそんなコーチングするコーチはいないし、世界のジュニアトップ選手やコーチ・その親は、家庭的な環境で笑顔を持って選手を育てている。ヨットという道具を使うスポーツ・風という自然に左右されるスポーツ・風を見る予想する頭脳スポーツと言う特性上、男女の差がとても少ない。ほとんどのレースは男女混合で、男子は女子インカレには出場できないが、女子は全てのレースに出場できる。今年優勝したWのエースは、次男のジュニアクラブの後輩の女子選手でした。女子比率の高いジュニアから上ってくる女子選手を受け入れる環境整備に目を向けない部分がある。
母校コーチを辞め、息子のサポートとジュニアコーチに専念してから見えてきたこのような部分を母校コーチ陣に話すと、異端児に見られた。最近はジュニア出身選手が母校にも数多く入部し、彼らがコーチ陣に名を連ねるようになり、こういうのをわかっている陣容になっているが、まだまだその実態をわからない重鎮が多い。
その点Mさんは、僕と同じ資格を持っておられ、僕に似た感想をお持ちで、「インカレ優勝は目標ではなく、人格形成の手段だ」との考えでとても共感できた。僕はヨットレースが大好きですが、ヨットをやってくれた息子をヨットだけの人間にしたくはなかった。バランスの良い人にならないと、男の本分である家族を養い事ができない。しっかり仕事ししっかり稼げる人になってもらわないと、親である僕や家内にも影響する。
ジュニア全日本の時、学校を休んで1週間とか10日前から現地入りする親がいた。うちのクラブにもせめて1〜2日前に現地入りしようという意見が出た。でも僕は「うちはそんな事しません。学校の方が大事です」ときっぱり断った。大学入学の時も、高校ヨット部顧問先生からスポーツセレクションの話が出たが、僕は断った。大学は自分の好きな学問を学び、将来の仕事につながる学びの場です。趣味としてのヨットは大いに応援しますが、学力に合わない大学に入る意味はない。猛勉強して入学してきた同級生に対してコンプレックスを持っていては大学生活がつまらなくなるし、ヨットを逃げ道にしてしまう。
ヨットではなく陸上部だった長男に対しても同じで、「学業での推薦入学の申込みをしようか思ってるんだけど、どう思う?」と長男が言ってきた時、「自分の実力はそこの学校で良いのか?猛勉強して自分の入りたい学校にチャレンジした方が悔いが残らないよ」とアドバイスし、一般入試で入学した。
Mさんは、D社ヨット部がやっているイギリス・オックスフォード大学との定期戦が部員に大きな利益をもたらすことを知っており、コーチし始めた大学ヨット部にたまたま入学してきた台湾の子との関係を太くして台湾の大学との定期戦を創設された。台湾の私立大学は喜んで関西にやってきて、ヨットレースの他に部員の家にホームステイしながら、京都や大阪・奈良を堪能するだろう。台湾に遠征する時はその反対です。
僕は息子たちを「子ども英会話教室」に通わせました。僕の小学校の先生が近くでやってた学研教室に長男が通い出し、その教室の横でやってた「こども英会話教室」に通いたいと長男が言い出したからですが、外人コンプレックスを減らしたいと思ったからです。
長男は、大学で「ライフル射撃部」に入部し、日本ナショナルコーチのチェコ人が大阪に来た時、1週間ほどそのドライバーを買って出て、英語会話上達と競技技術上達を図った。結果、最終予選で破れたが、ジュニアオリンピック代表(20才以下)寸前まで上達し、今でもクラブの歴代記録トップに名が載っている。
次男にも、ヨットでの海外遠征で外国人との交流の場を作った。大学生になると、ヨット部に入部してきたスウェーデン人留学生の通訳を買って出て、いつも2人で行動していた。兄弟2人共旅行や研鑽で海外に出ていき、外人コンプレックスは僕とは比べるまでもなく殆ど無い。
国内で外国語をいくら習っていても、海外に出て会話することがないとコンプレックスは無くならない。ヨット部として、こういう交流行事をする意義は大きいように思う。Mさんの取り組みは、素晴らしい。
そんなこんなで話が弾み、夕食&ドリンクバーで4時間もファミレスで喋ってしまった。瞼が重くなった状態で22時過ぎに帰宅すると、当然家内は寝ており、速攻でお風呂に入り夢の中に落ちた。
Mさんにも有意義だったのか、「また話をしましょう」「次はMさんがコーチしている大学の監督とコーチも同席させてください」と、次の日の早朝にメールが入った。今年春にパワハラで話題になった日大アメリカンフットボール部監督とは対局にある指導方法が、少しでも広がればいいなと思いました。


2018/12/23
コーチしてるヨット部の11月の全日本インカレで引退した卒業生の「卒業生クルージング」の日です。参加者は選手7名・女子マネージャー2名、合計9名でした。9時「阪神西宮駅」で4名ピックアップします。
家内に、「一緒に乗る?」と誘ったのですが、断られました。自慢したかったんだけど・・・「駅まで乗せていって」と言われたので、8時に家を出発し、R171で西宮に向かい、「阪急西宮北口」で下ろしました。
西宮市は、「日本で一番住みたい町No1」だそうです。西宮〜芦屋〜神戸東灘区にかけての六甲山山の手は、高級住宅地でお洒落です。お洒落なパン屋さん・カフェ・ケーキ屋さんがあり、ハイソサエティーな奥様やお嬢様が高級車でやってこられます。僕は小学校以外、幼稚園3年間+中学高校大学10年間、西宮に通いました。
8:30、待ち合わせ場所の「阪神西宮駅東口バス停」近くの駅の高架下道路に車を止め待っていました。ところが9時になりましたが、誰も来ない。「電話しよう」と携帯を取り出したら電話が鳴りました。Aくんからです。「東口にいるのですが、どこですか?」。数分してやってきました。阪神電車西宮駅東口と勘違いしていたようです。去年の1回生はわかったんだけどな。
道を真っ直ぐ南下し、9:15「セブンイレブン西宮マリナパーク店」で「コッペパンいちごジャム&マーガリン118円」購入。ハーバーPに入り、センターハウスで出艇申告とトイレを済ませ、船に向かいます。桟橋ゲートをカーでキーで開け、桟橋を歩いて係留艇へ。出艇準備し、10時前になったのでAくんにカードキーを預け、センターハウスに前日神戸大学クルージング部と練習していた5人を迎えに行ってもらいます。前日は、六甲アイランドに有る部員のYくん実家に泊まったようです。
全員揃い、10時過ぎ桟橋を離れます。SWの弱い風で、セイリングはゆっくりしか進まないので機走のままメインセイルだけ上げます。ステアリングを部員に交代し、オートパイロットをセットして自動操縦を見せます。すぐにマニュアルに戻し、ハンドリングを楽しんでもらいます。六甲アイランド・コンテナ埠頭沖を西に進み、防波堤をクリアして南に進路を変え、神戸空港連絡橋の下をくぐり、神戸港に入っていきます。神戸港に入ると、海上保安庁船溜まり前に帆船が見えます。それに向かって走ると、「練習帆船・日本丸」でした。
日本国が所有する練習帆船は、日本丸と海王丸の2隻で、定期的に神戸港や大阪港に入港している。フルセイルで沖を走る姿は迫力があって綺麗ですが、マストだけになって港に佇む姿もなかなか素晴らしい。バウには、女神像が鎮座していた。船は女性名詞なので定番ですね。モザイク前に移動したら、水圧で空を飛ぶ「フライボード」をやっていました。楽しそう。岸壁に向かって手を振ると、あちこちから手を振り返してくれました。スケートリンクが今年もオープンしていました。観覧車横のポールに国際信号旗が掲げられており、フラッグリストでその意味を見ると、「ウェルカム神戸」でした。
川崎重工業のドッグを見ると、潜水艦が見える。艦橋に「510」と書いてあったので、帰宅後調べて見ると「SS-510そうりゅう」でした。「しょうりゅう型潜水艦10番艦」で、就役は2019年3月という就役前の新艦でした。スターリングエンジン搭載艦で、世界一静寂なエンジン音技術を持つので、アメリカ海軍との模擬海戦ではこの見つけにくい潜水艦に軍配が上がるという。原子力潜水艦は、ずっと浮上しないで潜行したまま走れますが、音が大きく位置が特定されやすいので水雷戦では弱いです。現在世界最強の潜水艦です。SWの風が出てきたので、神戸港の赤灯台を交わしたところでメインセイルに風を受け、速度が高まった。ジェノアセイルを展開し、更にスピードアップして西宮港に向かう。西宮尼崎港の赤白灯台の間を抜けると、六甲アイランド南の吹き抜けから良い風があり、帰港は遅れるけどフルセイルでのクローズホールドを楽しんだ。アイランドと防波堤の間をタックしながら西に進み、30度程ヒールするのでワーワー言いながら楽しみました。
1回生の時のクルージングに参加しなかった部員もいたので、芦屋YHに寄り道しました。豪華なボートを桟橋付きハウスに驚嘆していました。1回生の時のクルージングの思い出が話題になりました。朝センターハウスで集まっていると、他の艇から「レースなんだけど、クルー足らないの。レースに出ない?」と誘われました。クルーザーレース体験出来るので、当時1回生だった部員に大いに勧め、4人をレースにレンタルし、残りでクルージングを楽しみました。その日は強風が吹いており、レース艇組はブローチングで横倒しを経験したり、エキサイティングな1日でした。クルージング組の方が先にハーバーバックし、お茶しながら待っていると、びしょ濡れの部員が帰ってきました。シャワーでスッキリしに行ったりで、いきなりクルーザーレースの大迫力の洗礼を受けました。それを聞きながら、「あの時の代だったんだ」と記憶が蘇りました。
ハーバー桟橋に帰着し、デッキをブラッシングしていると暗くなっちゃいました。お茶無しで帰ることにし、センターハウス内ショップで、女子マネさんが買い物していました。
「P9:17〜17:19・800円」。阪神西宮駅に下ろし、R171で帰宅しました。帰宅すると家内がおり、お互いの本日の出来事をあ〜だこ〜だ話し、「フィギュアスケート全日本女子」をTV観戦しました。去年の全日本で、とても明るい感じでファンになった神戸の坂本さんが逆転優勝した。4連覇し、SPでミスのない演技でトップ発進だった宮原さんは1回だけジャンプミスしたが、思っていたほど点数が伸びず3位になってしまった。家内と共通する感想は、「もっと楽しそうにニコニコしたらいいのに」・・・性格だから仕方ないけど・・・。浅田真央さんの次の世代の可愛い部門トップの紀平さんは、完璧なフリーで一気に2位まで浮上した。もう一人の可愛い部門の本田真凜さんは15位と、とっても残念な結果だった。ジュニアワールド優勝でシニアに上ってきた新世代筆頭だったのに、どうしちゃったんだろう・・・
それにしても、伊藤みどりさんや渡部絵美さんの時代と違い、女子フィギュア選手のスタイルがとても良くなり、見惚れてしまう。


2018/12/22
コーチしてる大学ヨット部1回生を、クルーザーセイリングに招待する日です。12月に入り、大学ヨット部はシーズンオフに入りました。2月にある学年末試験に向けてしっかり単位を取ってもらわないと・・・学生の本分は勉学4・研究の方です。今回の参加者は5人で、9時にJR西宮駅でピックアップし、10時出艇、昼食は海上、15時帰着のスケジュールです。渋滞にはまると難儀なので早めに出発し、R171で西宮に向かい、8:18「ファミリーマートJR西宮駅北口店」で、「なめらかクリームパン100円+ボスとろけるカフェオレ163円=263円」を購入。
ここが集合場所で早く着き過ぎたので、車の中で本を読みました。今読んでいる本は、御用達の本屋さんで見つけた『日本からあわストーリーが始まります ユダヤアークの秘密の蓋を開いて 香川宣子』。徳島の女医さんが多くの資料と現地取材を交えて書かれた『卑弥呼=日巫子』、『邪馬台国=四国=大和朝廷=ユダヤの宝刀アークを携え徳島に流れてきたユダヤ十二使徒の一族』、『失われたアークが剣山山頂に隠されている』説の本。
僕の好きな徳島の神社が多数登場し、大和にある地名や神社名の多くが徳島に有ることが、神武天皇徳島誕生、神武東征は紀淡海峡渡海などの根拠で、古事記に書かれている伊邪那岐・伊邪那美の創造が淡路島から始まるのは、本拠地・四国徳島の周囲から従えていった物語そのままということ。読み進めると、「確かに」と思えるようになり、素晴らしい古代史研究家だなあと思いました。
9時前に1回生たちがやってきて、2人昼食を買いにコンビニに入り、それを待ってハーバーに向かいます。新西宮YHのPに入ったのが9:05でした。肩掛けバッグに財布やカメラを入れ、部員が寒いといけないので家にあるカッパを4セット入れたバッグをキャリアーに載せてゴロゴロ。天気は、何とか雨は上がりましたが、いつ降ってきてもおかしくない空模様です。予報では午後晴れ間も出るそうで、好転するのを願うのみです。冬は低気圧通過後北西からの風が強くなるのが定番なので、エキサイティングなセイリングが楽しめるかも?
センターハウスに入り、出艇申告をします。桟橋ゲートをカードキーで開け、桟橋を歩き係留艇へ。スタンション・ゲートを開け船に乗り、ドックハウスを開け、荷物をハウス内に置きます。ウィンドウ・カーテンを開けハウス内に光を入れます。メインバッテリーをONにします。部員たちに指示し、ライフジャケット・電源コード外し・ステアリングカバー外し・メインセイルカバー外し・係留ロープの開放などして、エンジンON。一発始動で気持ちが良い。燃料も入っており問題なし。
ゆっくり桟橋から離れます。西出入口からハーバー外に出ると、E5〜6m/sの良い風が入っています。風位に立て、部員に指示しメインセイルを上げます。全員クルーザーは初めてなので、ワンポイント・リーフしてメインセイルを少し小さくします。K女史にステアリングを交代し、エンジンを切ります。セイリング開始です。ファーラーラインを開放し、ジブシートを引いてジェノアセイルを開きます。こちらも少しセイルを小さく展開し、ヒールを小さくしますが、スピードが増します。ヒールやスピードに、部員たちはあ〜だこ〜だワイワイ騒いでいます。
ステアリングが安定してきたので、「クローズ走るよ」と号令し、K女史がステアリングをクローズへ。「メインシート引け」「ジブシート、もっと引いて」と、あれこれ言い合っています。ステアリング担当のヘルムスマンを順次交代し、クローズを走り、タックしてワイワイ騒いでいます。桟橋を歩いている時、出艇用意をしていたレース艇「BLACK」が出てきました。真っ黒な船体に黒目のカーボンセイルでカッコいい。圧倒的なスピードで下っていき、しばらくするとクローズホールドで上ってきます。スピードも上り角度も違いすぎるので、風下をスーッと抜いていきます。続いて白いジェネカーを開いて、ランニングレグの練習に入っていきます。
琵琶湖のYHでヨット用品ショップを開いているMさんと、桟橋ゲートで会い部員が驚いていました。母校KGのコーチしているジュニア上がりのMくんとも、センターハウスですれ違いました。声を掛けると、練習だそうです。
この日は、先月ヨット部を引退した4回生が、来年3月にある学生クルーザーレース出場に向け、西宮沖で練習しているはずです。部員に電話させると、神戸大学桟橋から出艇したところのようです。現神戸大学海洋学部は、私が学生の頃は「神戸商船大学」でした。学校が海に面しており、直接海に出てきます。神戸大学と合併後は、ヨット部とクルーザー部があり、クルーザー部だけが海洋学部から直接出艇して練習しています。
ランニングにして、海洋学部沖を目指します。この途中で風が落ちてきました。フルセイルまでメインを上げ、ジェノアもフルオープンにしますが、無情にも無風まで落ちてしまい、仕方なくエンジン始動。4回生達が乗るJ24を見つけ近づきました。無風なので練習にならず、ただ漂っているだけです。お互い写真を取り合いお喋りして別れます。海上自衛隊阪神基地に向かい、船尾に旭日旗を掲げる掃海艇を見て、部員たちがはしゃいでいます。
六甲アイランドの新門司港との定期航路を走る阪九フェリーと名門大洋フェリーの巨大船体、自動車運搬船が六甲アイランドに横付けしていました。六甲アイランドの南側に回り、コンテナ作業中の巨大クレーン作業を見て、そのスピードにあ〜だこ〜だ。西大和出身のOくんは、まさに目の前の岸壁で高校時代デートをしたそうです。お相手は、同じ学校に通う同級生の女の子で神戸大に進学したそうです。お友達に戻っているようで、彼女に今撮った写真を送っていました。すぐに返信が来て、海からの写真に驚いていたようです。「振られてばかりで、ぼっちクリスマスだ〜」と嘆いていました。そこから恋バナになり、僕が先輩部員間の「AくんとBさんは・・・」なんて話すと、「コーチ、それは遅れてるわ。入部してからですよ〜」なんて突っ込まれました。
神戸空港連絡橋の下をくぐり、Uターン。神戸港に入ってみたかったけど時間切れです。相変わらずセイリング出来るような風にはならず、ジェノアをファーリングしたまま機帆走でハーバーに向かいます。天気は予報通り晴れになりましたが、また雨が降りそうな空に戻りました。
ハーバー沖に戻ると、4回生が微風の中練習していました。ハーバー手前でメインセイルをダウンし、ステアリングを交代し、西日本一高級な「芦屋YH」に入ります。桟橋付き邸宅を近くで拝見し、和歌山沖にカジキマグロ釣りに行く大きなボートなどの豪華さに驚いています。彼らには稼いでもらって、こういう船で楽しめるようになって欲しい。ハーバーバックし、桟橋に船を止め、クルージング終了。桟橋をセンターハウスに向かって歩いていくと、綺麗な夕焼けです。絵になります。
センターハウス内のフリアンディーズでお茶します。みんなでケーキセットを注文し、あ〜だこ〜だお喋りします。僕はコーチなので、部員選手との垣根を下げるべく、出来るだけ声を掛けるようにしています。こういう練習を離れた交流はとても大切です。部員に「ヨット部LINE2019」に招待してもらいました。そこには、九州遠征している2艇・4名からの出艇・帰着連絡が入っていました。九州大学のクリスマス合宿に参加しています。
1回生は今から神戸観光に行くそうです。明日はUSJに行くとか・・・。若者はクリスマスを大いに遊ばなくちゃ。ヨットショップを覗き解散です。ハーバーもクリスマス電飾されており、ちょっと素敵でした。車でJR西宮駅まで送ります。新西宮YH9:05〜17:25、800円。楽しい1日でした。


2018/12/16
町内会の掃除の日です。8:30:近所の公園にある公民館の倉庫から箒などの掃除用品を廃寺まで移動させる。10:00:廃寺周辺の清掃・落ち葉拾い。10:00:倉庫回りの清掃の為に市から支給されるゴミ袋・軍手を自治会担当奥さんより受け取る&うちの担当の5人組に配る&清掃のスケジュールです。
8時から自宅の垣根を電動刈払機で丸く整えました。その途中に家内は公園に向かって出ていきました。しばらくすると、清掃用品を載せたであろう車が2台自宅前を走って行き、戻ってきた家内が「そのまま清掃始めるんだって」と廃寺の方に行きました。
9:45になったので道路に刈った枝葉が散乱したままですが、倉庫に向かいました。掃除を始めようとした所で、担当奥さんがやってきて軍手とゴミ袋を受け取りました。我が家分だけだったので他の方の分は?と尋ねると、我が家担当5人組の家のポストに入れてくれたそうです。あ〜5分遅かった。「どうもすいません」と謝りましたが、僕の小学生の頃からの遊び仲間の自転車屋さんの奥さんなので笑っています。
倉庫前の道路に吐瀉物が2ヶ所落ちていました。土曜の夜に飲みすぎて我慢できなかったのでしょう。こんな事が数年に1回ぐらいあります。自宅に戻りホースを持ってきて、外の蛇口に繋ぎ先ず吐瀉物を清掃します。続いて周囲の雑草を引っこ抜き、伸びた枝をカットするために植木鋏を自宅から持ってきてチョッキン。
倉庫周辺の清掃を終え自宅に戻り、枝葉の清掃をします。先ず箒で側溝に全部落とし、小さな熊手で側溝を掃除しながらゴミ袋に枝葉を詰めます。自宅周囲を綺麗にし、仕事場に行き残っていた仕事を片付けます。終了目標は13時です。13時から「甲子園ボウル」が始まります。
12:50に、すべてを終え自宅に戻ると家内が戻っていました。「お父さん、どこに居たの?倉庫に行ったけどシャッターが閉まってたよ」「仕事してた」。「甲子園ボウルvs早稲田」を観ようと思ったら、NHK/BS放送だったので観ることが出来ませんでした。「西日本代表決定戦vsRits」はNHK総合で中継したてのに・・・残念。
廃寺の清掃で頂いたという「巻き寿司」をお昼ご飯として食べ、家内がお遣い物を送ると言うので、車で川西阪急百貨店に向かいました。お歳暮コーナーで姉にオレンジを送ったそうです。姉から「りんご」が送られて来たのでそのお返しです。随分前に、姉の方から「お中元・お歳暮は止めよう」と言われ中止してたのに、ここ数年姉から送られてきます。家内姉妹の母親の実家が姫路で卸売市場を経営しているので、その付き合いのようです。
阪急百貨店が入るビルに「アステ川西」という大型集合商業店舗があり、14:22そこに入店している「ミスタードーナツ川西能勢口ショップ」に行きました。僕はミスタードーナツ好きです。かつてバイトの女の子に買いに行ってもらい、皆でミスタードーナツおやつタイムをしていたこともあります。
「何にしようかな?」と棚を見ると、「7個セット700円」というのがあり、トレイに各種7つ載っています。110〜130円するのでこれはお得だとこのトレイをゲット。「オールドファッション・オールドファッションハニー・ハニーデップ・ボンデリング・ココナツチョコレート・ゴールデンチョコレート・フレンチルーラーセット700円+ブレンドコーヒー270円+メロンソーダ194円=1164円」。
家内とお喋りしながらドーナツを2個ずつ食べました。スマホで甲子園ボウル経過をツイッターで確認しました。「KGファイターズ」ウェブサイトからリンクしています。随時経過が投稿されており、文字情報とともに写真やムービーも投稿されます。
コイントスは早稲田が勝ち、後半をチョイスします。第1QのKGファーストドライブでタッチダウン、次の早稲田のドライブでタッチダウンで、7-7の同点。1Qは10-7でリードして終了。その後はKGが優勢で、少しずつ点差が広がり、前半第2Q終了時点で27-7でリードでした。食べている間に次々に投稿され、第3Qも順調に得点を重ねていきます。
「勝ったな」と思いながら、ミスタードーナツを出ました。家内はまだ買い物があるようでここで別れ、僕だけ帰宅しました。帰る途中、フロントガラスに水滴が落ちてきていたので、自宅からLINEで「雨降ってきたよ、迎えに行くから」と家内に連絡しダラダラしていました。
16時前に家内が帰宅しました。「雨降っていたでしょ」「ううん、止んでたよ」「迎えに行くとLINEしたの見た?」「見なかった、有難う。でも大丈夫だったから」。NHKスペシャル3連発を見て学習し、DVD映画を観ることにしました。大好きなニコラス・スパークスのラブストーリーです。「セイフ・ヘイブン」。映画化された11本全部DVDで持っています。小説もほとんど読んでいます。ラブストーリーを観ると、家内がもっと好きになります。家内もそうであって欲しいな。
スパークスさん定番のノースカロライナの海辺の田舎町にある雑貨屋さん。その店にはGSが併設され、長距離バスが給油のために立ち寄ります。バス乗客が降りてきて雑貨屋さんで買い物し、トイレを済ませます。
そのバスの乗客に若い美人のお客さんケイティがおり、のんびりしたここが気に入り途中下車します。浜辺のレストランのウエイトレスの職を見つけ、人との接触を避けるように森の中の一軒家を借りて住み始めます。
ボロい家だったので入居初日に居間の床を踏み抜いてしまいます。自分で修理をして、床の色を明るくしようと雑貨屋さんに行きます。店番をしていたのは可愛い小学校低学年ほどの女の子で、彼女と友達になります。このお店の主人はケイティより少しだけお兄さんぐらいの年齢の男性アレックスで、女の子と小学校中学年ほどのお兄ちゃんのお父さん。奥さんは病気で数年前に亡くなり、一時ふさぎ込んでいました。その彼がケイティを見て少し話し、久しぶりにときめいたようです。
ケイティが帰ってくると、見知らぬ女性がケイティの家を覗いています。「どなた?」「ごめんなさい、隣に住んでいるの。静かな所で気に入ってるのだけど、時には話したくなって。また来ても良い?」「もちろん。隣と言っても隣に家はないけど」「ここでの隣は遠いわね」。
ケイティが注文していた床を塗るペンキを取りに来ます。下地塗料や刷毛などをアレックスがプレゼントします。「車で送ろうか?」と申し出にケイティは「大丈夫、歩いて帰る」・・・でも10mも歩かないうちに両手が重くなり、雑貨店を振り返る。それを見ていたアレックスはニッコリして車で送る。
その日の晩、屋外の怪しい物音に起き、恐怖の一晩を過ごす。翌朝起きると、家の前に自転車が1台、前かごにはメッセージ。雑貨店主人の仕業だと確信し、自転車を返しに行く。「余計なことしないで」「悪かった、もうしない」。帰宅すると謎の隣人がいた。彼女からの「南部は情に厚いから、サンキューと言って受け取ればいいのよ。悪気はないわ」の言葉に改心し、雑貨店に謝りに行く。その時、長男が桟橋から落ちるのを見た。「大変」と走っていくケイティとアレックス。アレックスが飛び込み、ケイティは女の子を抱きしめ経過を見つめる。アレックスは息子が落ちたのを見つけてくれたケイティに「ありがとう」と言い仲直りする。
ケイティを送り車から降りる時に、ケイティから「床が塗り終わったの、寄っていく?」。アレックスが居間に入ると、また床を踏み抜いてしまう。「直したんだけど・・・」。
働いているレストランに警察官が来たので、ケイティは固まってしまう。「なにか変だぞ」。ケイティの夫は警察官で、DVを受け続けていた。暴力をされている最中、夢中で夫の脇腹をナイフで刺してしまい、夫から逃げ出したのだ。警察官の特権を使い、必ず自分を見つけ出すだろう。そんな事情を話したのは、謎の隣人女性だけ。
アレックスからカヌーを誘われ、遠くの沼に2人で行く。朝は晴れていたのに急に雨が降り出し、レストランで雨宿りして遅くなる。「友達が迎えに来てくれるから」と待っていると、レストランの外にパトカーがやってくる。緊張するケイティ。でも警察官がアレックスの友達だった。家まで送られ、そこで初めてキスをする。
遅く帰ると、子供たちは起きていた。雑貨店はアレックスの叔父さんの店で、ここが気に入り子供ができた時にこの環境で育てたいと引っ越して来ていた。妻が亡くなり、隣に建てた自宅に住みながら、叔父さんとともに子育てしている。アレックスは自宅2Fの妻の部屋に入り、引き出しを開ける。そこには「息子が成人した時に渡す手紙」「娘が結婚した時に渡す手紙」など、数通の手紙が入っていた。母親の分まで育てられるのか不安になり、この手紙を見ていたのだ。それを見つけ入ってきた長男が、「ここは母さんの思い出の詰まった部屋だ、出て行け」と怒る。妹はケイティが好きだが、母親が亡くなった時を覚えている長男は、別の女性に対して敵対的だ。
アレックスが町の花火大会の打ち合わせで友達の警察官を尋ねた時、掲示板に貼られていた手配書にケイティの写真を見つけてしまう。レストランが終わりケイティが片付けをしている時、アレックスが手配書を持って来る。「これは何だ、第一級殺人容疑者と書いてある」「ごめんなさい、あなたには言えなくて。DV夫から逃れて。警察官だからいつか見つかるわ。あなたやあなたの家族に迷惑を掛けられない」「出て行け、僕の家族の前から消えてくれ」。
悲しい結末を迎えたケイティは、引っ越しの用意をしている。謎の隣人がいて、「逃げてばかりじゃ何も変わらないわ。真正面から受け止めないと。アレックスは力になってくれるわ」と説得する。旅立つため船に乗ろうと並んでいる所にアレックスがやってくる。「悪かった言い過ぎた。僕の本心じゃないんだ。僕は君と一緒に歩んでいきたい。行かないでくれ」と仲直りする。
そして花火の日、ケイティの居場所を突き止めた夫がやってくる。夫は警察署長から呼び出される。ケイティの手配書はデタラメで、第一級殺人容疑者ではないのにウソの手配書を全国に流布していた。「君の持ち歩いている飲み物は何だ」「水です」「出してみろ」、中身はアルコールだった。「自宅謹慎しろ、処分は追って通知する」と言い渡された所だった。
レストランにやってきた夫は八つ当たりで柵を壊す。お祭りでアレックスと楽しくやってるケイティを見つけ嫉妬する。謎の隣人がそれを見ていて、ケイティに「彼が来たわ、注意して」と声を掛ける。
その晩の花火大会中、アレックスはボートに乗って沖に出て花火を打ち上げている。ケイティは娘と雑貨店2Fで怯えながら留守番をしている。娘を2Fに置き、自分は1Fで見張りをしようと降りていくと、そこに夫がいた。「見つけたぞ、一緒に家に帰ろう」「いやよ」「俺以上に君を愛せ幸せにできる男はいない」「いやよ帰って」「わかった、きっと後悔するぞ」。
夫は雑貨店にガソリンを撒き始めた。それを見つけたケイティは「わかったわ、一緒に帰るから止めて」と安心させ、酔っている夫を海に突き落とす。運悪く、花火の火種がガソリンに落ち、雑貨店が燃え始める。娘を助け出そうとするケイティに海から上ってきた夫が襲いかかる。「殺してやる」と拳銃をケイティに向けもみ合う。
雑貨店が燃えだしたのに気づいたアレックスはボートを走らせ娘を助け出した所で、格闘しているケイティに気づく。「バーン」無常にも銃声が・・・格闘中暴発した銃弾は夫を貫いた。ケイティは助かった。彼女を抱きしめたアレックスは、「ごめんなさい、お店が燃えちゃった」「君が無事ならいいさ、また一から立て直すさ」。
階段を残し燃え尽きた敷地に再建の業者が入っている。アレックスが自宅で、妻からの手紙をケイティに渡す。「僕は子供たちと外にいるよ」。「あなたがこれを読んでいるということは、アレックスがあなたを愛し、あなたと新しい生活に踏み出そうとしていることね。アレックスは良い人よ・・・」。棚に置かれた家族写真に映る妻は、あの隣人女性だった。
素敵な映画でした。僕は原作を読んでストーリーを知っていたが、家内には知らない風にした。「素敵な映画だったね」と家内が気に入ってくれた。「やった〜!」甲子園ボウル勝利と、映画を2人で観れたとても良い日でした。


2018/12/9
家内が神戸で用事です。8時に最寄り駅まで送っていき帰宅。PCで映画を調べたら「かぞくいろ―RAILWAYS わたしたちの出発―」の最終が15:10なので、家内が帰宅するのが間に合いそうにないので、帰宅後の「映画デート」を諦めました。ならば、3回も見つけられずにいる「篠山・波多野秀治公のお墓」探索に行こう。9:49、倉庫から「里山VTR250」を出して出発。長尾山トンネル〜r325〜r33。r68で西進し、r49で北上。千丈寺湖沿いを走り、r309に出て西進し、青野川を渡ります。「須磨田交差点」を右折し、武庫川沿いを北へ走り、道なりにr110。右折してR176に乗って北上し、丹波篠山を目指します。
篠山市に入り、JR「篠山口」駅付近を左に折れ、枝道を走りr36。右折して再び枝道に入り、11:13「御霊神社」。獣フェンスを開けて山に入って行きます。この神社は、戦国時代、八上城主として丹波篠山を治め、織田軍の山陰平定を行った明智光秀を散々苦しめたが諮られ葬られた「波多野秀治」公を祀ったお宮です。ところがここで想定外の出来事が・・・境内から波多野秀治公お墓に通じる道がありませんでした。森を出てバイクに戻り、スマホでお墓の場所を調べます。
「御霊神社から峠を越えた所にある」との情報を得て、地形を見ながら野生の勘でゆっくり走ります。11:38「波多野秀治」墓の道標発見。獣避けゲートを開閉し、山側に入ります。立派な五輪塔には、『天正6戊寅年 大雄院殿英山玄功大居士 6月10日戦死」と彫られていた。横には「追任従三位 故正四位下侍従波多野秀治之墓』と彫られた石柱が立っていた。
墓碑と思った石碑に、辞世の句が書かれていた。『丹波八上城主・波多野秀治公辞世 よわりける心の闇に迷はねば いで物見せん後の世にこそ 載骸香蓮 将開眼三天  秀治弟・秀尚公辞世 おほけなき空の恵みも尽きしかど いかで忘れん仇し人をば 天正7年6月11日』
辞世の碑裏を見ると、『昭和59年9月吉日 波多野俊二・芳野建立』と彫られていた。子孫本家でしょう。五輪塔の裏を見ると、『波多野右衛門太夫中務之丞 甲斐守・秀治』と彫られていた。石柱の裏にも、建立された波多野一族の名が刻まれていた。
秀治公の横に並んでいる墓石は、お参りされる方もあまりいない感じで、良い感じで土に帰ろうとしています。墓石を見て回ると、「波多野・・・」ばかりで、公の子孫の墓所のようです。秀治公の次男が、この地区・味間の「文保寺」に逃れ僧籍に入ります。成人して還俗し、この味間地区を開拓します。更に子孫分派は「今田」地区も開発したそうだ。最近までその本家が味間地区で続いていたが、子なくお婆さんが亡くなり、その立派な家は別の方が住んでいるようです。これは、近くの「大国寺」ご住職の奥様から聞いた話です。
r36に戻り、R176に出て北上。右折してr36に入り東進します。舞鶴道の下をくぐり、左折して篠山盆地内をまっすぐ北上します。r77を渡り、寺社の有りそうな鎮守の森や田園に残った丘を探します。「KYOEI」さんの角を右折し枝道に入ります。
12:06「春日神社」。ここは2度目ですが、相変わらず素晴らしい彫刻が、木鼻・蟇股・脇障子などに施されています。木鼻の像にはカラーの玉眼が入っていました。本殿の額に「八柱神社大神・稲荷神社大神・春日神社大神・八幡神社大神・秋葉神社大神・志貴神社大神」が書かれており、多くの神様が祀られているようです。脇障子の彫刻は、春日神社らしく「鹿」です。鎮守も森から参道に出ると、『町木-樫の木 春日神社 創立不詳にして、明治6年10月村社に列せられる。 講当祭:2/15・12/15 夏祭:7/18 新穀奉献祭:9月下旬 例祭:10/9 日待祭:10/13』と掲げられていました。ここは、大きく広がる平地の田園地帯にポツンと残る鎮守の森で目立ちます。かつては広く緑に囲まれていたのでしょうが、人口の拡大とともに耕作地に変わったのでしょう。でも最小限の鎮守の森を残し産土神を鎮守する日本人の心を感じます。
南下し、r77に出て東進。右折してr36に乗り篠山川を南に渡ります。12:22「清瀧山・弘誓寺」。「禁葷酒」と彫られた石碑が立っています。禅宗のようです。
『清瀧山・弘誓寺 曹洞宗 開基:法道仙人 創建:大化年間 (645年前後) 本尊:聖観世音菩薩(秘仏) 兵庫県篠山市宇土611 079-594-0039 拝観料:無料 朱印:300円 拝観時間:自由
縁起:「うどかんのん」「宇土の観音さん」として親しまれているお寺です。大化・白雉年間に法道仙人によって開かれ、天地山極楽寺と言われていたとされています。背景の山は槙が峰の頂上で、「槙が峰千軒坊」と言われ、多くのお堂が建ち並んでいたとされますが、寿永3年(1184)平家を追う源氏の軍により全山焼失。ご本尊は滝に難をのがれて無事であったので再建され、文明5年(1473)曹洞宗に改宗、清瀧山弘誓寺(せいりゅうざんぐぜいじ)と寺名を改められました』
階段を上っていくと、犬の吠える声が境内から聞こえてくる。仁王門があり、大きな草鞋が下がっていた。仁王門の木鼻にも彫刻されています。境内に上がると参道右側に大銀杏の樹が立っており、2週間ほど前は見事だったでしょう。左側には立派な多宝塔が建っていました。本堂の蟇股に、素晴らしい龍の彫刻が施されている。木鼻の獅子や像の彫刻も素晴らしい。
バイクに戻り、県道には下らず、山際の小高い地に走る枝道を東進します。右折し、12:40「城南学校前」。観光案内板が立っていたので激写したが、目新しい寺社などはなかった。
そのまま南下し、R372を渡り、道なりにr49になり南下しました。「美濃坂峠」を越え、右折してr308を少し走り、「母子そば座敷いまたき」横の農道を北に入って行きました。分岐があり前回と違う道に入り、舗装路が切れるところまで行きバイクを駐めました。山道を入っていきます。
13:00、篠山側から愛宕山に登るハイキング道はここかな?このハイキング道の途中から、篠山盆地が望めるそうです。標高640mもある愛宕山だから、篠山盆地の朝霧雲海が望めるはずです。以前からその好場所を求めて数度、この界隈に来ています。この山道は尽きてしまいました。仕方なくバイクに戻ります。鹿の糞があったり、藤の実が下がっていたり、ススキ原が広がる休耕田がありました。バイクに戻り分岐まで戻ります。別の道に入っていきます。
13:17「近畿自然歩道」の看板前で、舗装路が切れました。更に入っていく道がまっすぐ走っています。やはりこの道しかないなと思いました。昼食を食べに行きます。r308〜r49で「永澤寺峠」を越え、13:34「バイカーズカフェ虎亀」着。また同じ「ピラフセット900円」を注文し、あれやこれや話しました。
14:21、帰路に着きます。r49を南下します。r37〜r323で東進し、羽豆川口から枝道で南下し、r68を渡り、r33〜r325〜長尾山トンネルを抜け、15:17「出光SS」で給油。247km/7.66L=32.2km/L。15:27帰宅しました。
倉庫にバイクを片付け、ゴソゴソしてから家内に「駅に着いたら迎えに行くよ」とLINEすると、「もう家にいる」との返事でした。慌てて帰宅し家内とお喋り。昼過ぎに帰宅したそうで、15:10から上映された「かぞくいろ―RAILWAYS わたしたちの出発―」が観に行けたなと残念でした。


2018/12/2
家内は仕事関係の忘年会で神戸にお出かけです。会合・勉強して、中華料理食べるんだって。8時過ぎに家内を最寄り駅まで送り、帰宅してゴソゴソし、バイクで篠山に行くことにしました。目的は、「波多野秀治のお墓探し」。大体の場所はわかっているので、今まで2度断念していますが、今回はたどり着けるでしょう。丹波篠山盆地の北側の寺社巡りしながら目的地を目指しましょう。
10:34、倉庫から「里山VTR250」を出し出発。10:41「出光セルフ宝塚176」で給油。172km/5.56L=30.9km/L。その隣に移動し、10:45「ファミリーマート宝塚山本野里店」で、「チョコクリームパン5個100円」購入。
長尾山トンネルを抜け北摂里山地帯に入り、r325〜r33〜r68、枝道に入り11:26「神戸三田アウトドアビレッジTEMIL」に到着。ここは、「旧伊丹市立野外活動センター」で、僕が小学校の時お泊り勉強した施設です。近くに「KG千刈キャンプ場」があります。KG中に入学した時に宿泊オリエンテーリングした場所です。今でも記憶に残っている思い出深い地域です。
全山紅葉に近い素晴らしい景色が広がっていました。r323に出てr37にチェンジし北上。11:40「高売布神社」。大船山も綺麗に紅葉していました。
『古代から祀られ、平安時代の『延喜式』に記載された式内社。中世には多田源氏の高平地域の惣社とされ、近世には摂津麻田藩領になり藩主・青木氏の祈願所とされた。
拝殿上の京都宝鏡寺門跡尼より寄進された社号額には「正一位荷月大明神」と書かれており崇敬を集めていたが、江戸時代中頃幕府寺社奉行の命を受け延喜式内社を調べた儒学者・並川誠所により誤りが訂正され、鳥居横に「高売布社」と刻まれた新社号が建つ。
本殿は桧皮葺一間社流造(国重文)、永正10年(1513)に再興上棟。草花を主題にした優れた彫刻装飾のある貴重な建築物。木造狛犬(国重文)はカヤの一本造で永仁5年(1297)の墨書がある。拝殿に奉納された絵馬は保存状態よく、36歌仙絵額、神功皇后遠征図、遷宮図など多彩である』
r309に合流し、再びr37。羽束川の「小柿渓谷」を走り、11:57休憩。「熊出没にご注意下さい」の看板が立っていました。「平成30年7月17日午前7時頃、小柿地区内に出没」だって。
「後川」からr12にチェンジし北上し、城東トンネルを抜け篠山盆地へ。R372で西進し、r304〜r702から枝道に入り、何処に続くのか細道を北上すると、12:24「稲荷大明神」。農業用溜池に隣接する雰囲気の良いお宮でした。謂れ板がないので由緒はわかりませんが、朽ち果てていきそうなお宮ながら本殿の蟇股に立派な龍の彫刻が施されており、木鼻の獅子や像もしっかりしています。珍しい兎の木鼻もあるし、牛に乗り横笛を吹く天女の彫刻された脇障子も施されていました。黄葉したモミジの葉を通し陽光が入り綺麗です。狛犬はもちろんお狐さんです。その奥に、茅葺きに覆屋が施された小屋がありました。
12:39「佐佐婆神社」。『佐佐婆神社例祭 畑まつりといわれる佐佐婆神社祭礼は、毎年10月第1土・日に行われます。宵宮祭には、各集落から10基の山車と、太鼓御輿7基が次々と宮入し、境内を練り回ります。
本宮祭では、ハイライトに「流鏑馬」の行事が行われます。境内と参道の3ヵ所に設けられた的に馬上から3本の矢が射られます。「流鏑馬」は平安末期から鎌倉時代に盛んに行われましたが、ここでは1625年頃から始まったと言われています。それ以来毎年行われてきましたが、1944年に一時中断し、1987年に復活しました』
『延喜式内佐佐婆(楽楽庭)神社由緒(旧県社)
祭神 天忍穂耳尊、応神天皇、後鳥羽天皇、春日大神、住吉大神、天児屋根命、表筒男命、中筒男命、底筒男命
鎮座地 兵庫県篠山市畑宮澤下の坪377
沿革 第7代皇霊天皇の勅命によりて創立すと伝えられる古社にして、延喜式内神社となり、古来皇室の崇敬篤く崇神天皇の御代丹波国平定し給へる日子坐王の長子佐佐君の祖神志夫美宿弥一族の奉斎せられたる社である。
・神輿3社造立 萬治2年、延宝7年 松平若狭守康信
・鳥居再建 元文5年 松平紀伊守信岑(現在の烏居で市内最古の木造建築であり、現在迄に10数回根継修理)
・社殿再建 明和3年 青山下野守忠高(現在の本殿)
・拝殿再建 安永8年 青山下野守忠高(現在の舞堂)
・社坊再建 嘉永5年 青山下野守忠良(現在の社務所)
・村社に列す 明治6年10月、県社に昇格 大正10年7月・拝殿建立 昭和14年(現在の拝殿) 赤当拝所以下附属新建物は、人皇第7代皇霊天皇の当神社御仰祭より、御享200年を迎へまつる昭和14年の弐年大祭を奉祝まつり、当社の氏人の建立しまつるところなり。
・丹波太神宮(幣殿) 明治維新の制、政府が三丹州鎮祭のために、皇大神宮より御分霊申し上げた天照大御神を始めまつり、国内諸神社の御分霊、氏子歴代の御祖霊、元篠山忠霊殿神祭の和魂を移管奉斎する御由緒正しき御杜柄におはします。
祭典 1月1日・元旦祭 2月3日・節分祭(厄除祭) 3月21日・祖霊祭 4月1日・春祭 6月30日・大祓 8月14日・夏祭 9月23日・祖霊祭 10月5・6日・御例祭 11月15日・七五三祭 11月23日・新嘗祭 12月5日・冬祭 12月31日・大祓・除夜祭』
『垂乳根(たらちね)の公孫樹(ぎんなん)(天然記念物)
樹齢千年ともいわれ、上方の太い幹や枝に乳房のような気根が重れ下がり、古来、垂乳根、乳の木ともいわれ、育児や長寿を祈る御神木と仰がれています。
(ギンナンは白果といわれ、漢方薬として、セキ止や夕ンをとったりする作用があり、又昔から夜尿症に効く云われている。イチョウ葉のエキスには、薬用効果があり、動脈硬化を防ぎ、血液の循環を促進し、めまい、耳鳴り、記憶力や集中力、思考力の低下などに効果があり、持にボケや腰の痛み、疲れやすい、などの症状には効くとされている。更に入浴剤、養毛剤、イチョウ茶として発売もされている)』
銀杏の大木がありますが、葉は全て落ちています。地面が黄色に染まっています。
『祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 (相殿)天宇受女帝(神楽神)、建速素盞嗚命(農業・貿易・植林・渡海神)、志夫美宿弥王(開祖神)、応神天皇(武神厄除神)、後鳥羽天皇、天満大神(学問神)、春日大神(武神)、住吉大神(航海神)
由緒 当神社は第7代皇霊天皇の勅命により創立すと伝えられる古社にして、延喜式内神社となり、古来、皇室の崇敬篤く、崇神天皇(第10代)の御代、丹波国平定し給へる日子坐王(ひこいますのみこと)の長子・佐佐君の祖神志夫美宿弥王(しぶみのすくねのみこと)一族の奉齋せられたる社である。
御神徳 御祭神の正哉吾勝勝速日天忍穂耳命は、天照皇大神の第1皇子であらせられ、その御名から知られるように、吾れ勝ち負ける事がない、なお、勝つ事の速いこと日の昇が如しで家内の繁栄、商売の繁昌、家内安全、延命息災、厄除入学、就職、結婚、病気平癒、諸難、抜除など特にガン封じボケ封じなどに非常に霊験があらたかで、今や崇敬者は津々浦々に及び、奉納寄進されるものがあり、現世利益の貴神、神験即現の霊神として篤い崇敬を受け、参拝者は日に日に増加しつつあります』
『流鏑馬 往古、奥畑村民始め行う。寛永2年(1625)より7村更々に行う1村1人にて3年を限る。元禄8年(1695)に事故あり、以来15才未満の騎馬童子をのらしむべしとなり、この時より神酒持乙女も七才以上の女子に持たしむ。騎射5回、3度は国家安全、天下泰平、五穀豊饒を祈るが為にす。当った的は氏子、参拝者が取り合い持ち帰り、家の入口に祭ると無病息災の御守となるといわれている』
北上し、r301で西進し、北に枝道に入ります。左の山頂に、「八百里城跡」があります。一度城攻めしましたが、比高が有りすぎて断念しました。山に入っていく枝道がなく、r301に合流。名もない神社があり寄り道しました。
13:05「明鏡山・金照寺」。浄土真宗・西本願寺派の寺院でした。何処にでもありそうな寺院でしたが、本殿の蟇股の彫刻が素晴らしかった。境内には、開祖・親鸞聖人と中興の祖・蓮如上人稚児の旅僧像が並んでいた。
写真を撮っていると、和尚の奥様がおられたので会釈すると、「どちらから?」とお声がかかりました。「伊丹からです」「遠くから、ようお参り」。見事な大輪の菊の鉢が並んでいたのでそれを褒めると、篠山城での菊花祭出品作品を並べておられるようです。花が終わると持ち主に返し、また秋になるとここに戻ってくるそうで、「何も手入れしていません」とのこと。
篠山城主の名を息子に拝借したことを伝えると、「丹波篠山がお好きなのね」ととても喜ばれ、「銀杏の黄葉は終わっちゃったけど、銀杏がたくさん有るから少し持って帰って」とお裾分けを頂きました。かつて篠山城の何処かに載っていた鯱が置かれていました。
r301に戻り、「古墳?」に見える丘を見つけ、北に枝道を入っていく。登り口を見つけバイクを停め、古墳の痕跡を見つけようと入っていくと、六地蔵があった。古墳跡を山城に使ったかな?と期待が膨らむ。山頂曲輪に上がると、生け垣で区切られた墓地でした。線香筒はいくつも立っているが墓石はなく、半分土に覆われた自然石が雑然と並んでいる。現役の墓地では無さそうだが、生け垣は綺麗に刈られ手入れはされています。この地区の先祖のお墓であることは確実なようです。「兵どもの夢の跡」であれば、想像が膨らみます。
r301に戻り少し進むと鳥居が見えてきた。12:32「轟八幡神社」。『篠山の三大奇祭 篠山には三大奇祭と呼ばれる祭があります。沢田八幡神社の「鱧切祭」、小野原住吉神社の「蛙おどり」、新荘轟八幡神社の「もち祭」です。「懇切祭」は、大蛇退治を模した神事です。柳田国男の『日本の祭』にも奇祭として取り上げられています。「蛙おどり」は、笛や太鼓に合せて祈願の舞が演じられます。口伝えにより200余年の間、代々継承されている貴重な民俗芸能です。「もち祭」は、当番の家が大小様々なもちをつき、翌日当家から宮入して氏子に分けられます』
参道を入っていくと、境内に杉の巨木が天に向かって伸びています。御神木でしょう。ご神木は3本杉でした。根本が隣接し、遠目には1本の巨大杉に見えたわけです。地中で二股・三股になっているのかもしれません。2本なら「夫婦杉」などの名称が付きそうです。3本だから「家族杉」かな?
こちらの本殿にも「脇障子」があり彫刻が刻まれていました。謂れ板がなかったので帰宅後調べてしました。
『祭神:応神天皇 配祀神:大国主神・事代主神
由緒:鎌倉時代、北条時政の家人倉垣治郎が主君の命により、元久元年(1204)、鶴ケ岡八幡宮を日置荘轟ノ岡に勧請して一社を創立。
寛文13年(1673)、本殿を再建。 嘉永5年(1852)、霊代を装ひ奉る。 明治6年(1873)、村社に列せられる』
田園をほぼ升目状に走る農道を縫い、田園の中に残る緑の丘に社寺がないかとキョロキョロしながら走ると、鳥居を見つけ寄り道しました。
13:50「沢田八幡神社」。『祭神は、八幡大神・春日大神・事代主命・国土開発国魂神及び同姫神・沢田城主小林近江守長任(ながとう)の神霊。境内の不動堂に、文治元年(1186)護摩堂再建の棟札があり、平安時代の創建と考えられる。後に沢田城主・小林氏が源氏の氏神・八幡大神を勧請し現在の社号となった。毎年10月16日の祭礼には当地方を開拓した祖神様を称えて、大蛇に模した鱧を切る神事・奇祭「鱧切祭」(町文)があります』
本殿の龍の彫刻が見事で、この神社への崇拝の高さを感じた。もちろん脇障子にも彫刻が刻まれていた。いつも思うが、現代のように3DプリンターやCADのない時代手作業で100年以上劣化しない精密な彫刻を刻む職人の腕の確かさに驚愕を覚える。現代なら「・・名人」として皇室から「褒章」を賜る立派な職人さんが各地にたくさんいたのでしょう。この腕は、現在の日本人のロボット技術や精緻技術の素に繋がっているように思う。
この田園に囲まれた丘は、室町時代に八上城波多野氏の家臣だった小林氏が籠もった沢田城があった城域です。城攻めしようかと思ったが、当初の予定は味間の波多野秀治の墓を探すことだったので断念する。
r544に出て北上し、r301を渡り、篠山鳳鳴高校を激写。この高校は旧篠山藩藩校の流れをくむ歴史が刻まれており、県内有数の古い高校です。少し走り「法蔵寺」。14:17「大売(おおひるめ)神社」。『大売神社は延喜式神名帳(927年成立)に記載されている式内社の1つで、市内有数の古社である。拝殿東側には2件の指定文化財か所在する。
礎石一基 市指定文化財(歴史資料) 多紀連山にあったとされ石知足廃寺から当地に移されたと伝えられている。元は鳥居の袴石または宝塔の真柱の礎石であったとされる。中世寺院の歴史を物語る貴重な資料である。
石製狛犬一対 市指定文化財(工芸品) 室町時代後期の製作と考えられており篠山市内で最も古い狛犬の一つである。保存状態かよく、当時の狛犬の様子が分かる貴重な文化財である』
『配神:素盞嗚命・大歳命・応神天皇・武応槌命・大山主命・経津主命・天児屋根命・姫大神・鷲尾十郎 神紋:合せ柏
由緒:延喜式内社に所載さられ、元禄元亀天生の間は領主・丹波八上城主・波多野秀治の祈願所にして、崇敬篤く慶安2年松平信康以降5世信岑(のぶみね)に至るまで深く当社を崇敬した。亨保18年後西天皇の姫宮たち宝鏡寺門跡は正一位大売神社の神額を染筆遊ばさる。明治6年村社に列し、同41年城北村9ヶ村の村社6社無格社10社計16社を合祀し、元北の庄内の総社となる大正10年郷社に列し、昭和4年縣社に昇格す』
『稲荷神社 祭神:大己貴命・宇賀魂命 由緒:当社は一名笠鷺稲荷神社と称し篠山城主・松平若狭守康信の祈願所として崇敬せられ、家内安全商売繁盛おでき解除の祭神として広く県下一円に崇敬せられている。旧初午の日に初午祭を執行している』
『篠山町指定文化財 大売神社石造狛犬一対 室町時代後期の製作と考えられる雌雄一対の狛犬で、砂岩で造られています。高さ35cmと小さいながら保存状態は良く、郡内の古い狛犬の作例として貴重な資料です』
r544を奥に走って行くと、14:33「丸山集落」に着きました。『丸山集落は、1794年に畑地区の奥畑から城の水守として移住してきたのが始まりで、約260年の歴史を持ちます。過疎と高齢化が進み12戸のうち7件が空き家になっていたところ、2007年から古民家改修が行われ、民泊やレストランとして利用されるようになりました。地元住民がNPOなどの支援を受け、地域再生のモデル事業として展開しています』
一棟貸し切り宿泊メインで、レストランが2件ある施設として生まれ変わった集落のようです。レストランPには数台の車が停まっており、フレンチを楽しんでいるようです。
更に道を奥まで進むと、三嶽登山口で終了しました。『丸山水源地0.1km・三嶽山頂3.6km』。ここから山頂に向かってハイキングするのも良さそうです。
バイクに戻り、時間的に「波多野秀治のお墓探し」は断念しました。r544を戻り、途中に樹上の家が見えたので激写。続いてナビにプロットしていた「東浜谷城跡」に向かいます。バイクを停め目指す山頂を確認し取り付き場所を探します。山に向かって石段が上っておりそれに従うと墓地でした。山側に獣フェンスがあります。その扉から登っていくのが良さそうですが、獣道さえありません。これは無理と思い断念。山葡萄が成っており、久しぶりに食べてみました。
r301に出て東進、右折して篠山市街地に入り、二階町通を渡って篠山城手前で左折しr77。r12で帰ろうと思っていたのをr49で帰ることに変更し、r306に合流して右折し西進しました。左折し南下して、R372に突き当たり、右折してすぐ「小枕」で左折しr49に乗りました。
がけ崩れにより道路幅1mの所をクリアし、「美濃坂峠」を越え、「永澤寺」横を通過し、r68〜r33〜r325〜長尾山トンネルを抜け、16:29帰宅しました。


2018/12/1
バイクムービーにコメントした同じ市内に住むNBさん(ジグサー)から連絡があり、ツーリングをご一緒することになりました。同じくコメントしたことのあるお隣の街に住むRさん(CBR250RR)とツーリングするようで、「一緒にどうですか?」とのお誘いです。喜んで参加することにしました。行き先は丹波篠山の寺院の紅葉見物だそうです。
Rさんの奥様が同じCB400SBに乗っているので、奥様もご一緒かなと思い「招き猫CB400SB」を出しました。10時に「阪急山本駅」北側のファミリーマート集合です。5分前に着きましたが、お二人は既に着いておられました。お二人とも家が近いので集合時間直前に来られるだろうと思っていたので、お待たせしちゃいました。ジグサーは125ccだと思っていたら白ナンバーだったので、150ccのようです。大きめのスクリーンが付いており、聞くと前の原付二種スクーターのスクリーンを移植されたようです。
ご挨拶をして、10:18僕を先頭に出発。篠山盆地まで僕が先頭を走ることになりました。お二人は数度一緒にツーリングしたことがあり、インカムをセットされお喋りしながらツーリングなさいます。「長尾山トンネル」を抜け、r325〜r33〜r319〜r12と北上して行きます。北摂里山地帯の紅葉は進み、全山紅葉に近い山もありとても綺麗でした。
「西峠」を越え、「後川」で僕が遅いので行列になっていた後続バイクに抜いてもらいました。R372に突き当たり左折した所でRさんに先頭交代しました。すぐに右折しr304。篠山川を渡る橋の手前で休憩しました。
橋を渡り右折してr762に入り、先頭になったRさんがいい音を出しかっ飛びました。さすが250ccのSSバイク。一気に加速して行きます。「CBR250RR」が発売された時は、250cc4気筒の復活かと思ったのですが、「CBR250R」と同じ単気筒でがっかりしましたが、ノーマルマフラーでとても良い音です。僕がCB400SBを追加したのは、音が良いからです。乗っていて気持ちが良いです。最も好きな音がするバイクは、4気筒の「ホーネット250」なので、あの音を出すエンジンの復活を願いたい。
11:30「洞光寺」。『宝鏡山・洞光寺(曹洞宗) 南北朝時代の文中・応安7年(1374)に天庸祖祐(てんようそゆう)大和尚が、多紀・氷上郡最初に曹洞宗寺院として創建しました。足利将軍家や丹波守護細川氏の支持を受け、丹波三寺の一となり、江戸時代には十万石の格式を与えられ、末寺が53ヶ寺にも及びました。天正年間以降、度々火災にあい、待望の本堂は、昭和49年に再建されたものです。昔を偲ぶ参道や菖蒲池・楼門・宝鏡岩などがあり、寺内の覆う多くのモミジの老木は大変見事であります』
『洞光寺ともみじまつり 東本荘の北部山麓にある曹洞宗の寺院で、境内は杉やカシの大木におおわれ、秋の紅葉の素晴らしさは格別です。寺伝によれば南北朝時代後期の1374年に天鷹祖祐禅師によって創建されたといいます。洞光寺は多紀・氷上郡最初の曹洞宗寺院で、足利将軍家や丹波守護細川氏の崇敬を集め丹波3寺の1となりました』
山門の前に真っ赤に紅葉したモミジがありました。山門横に「不許葷酒入山門」と書かれた石柱が立っていました。この文字を見ると禅寺だな〜とわかります。池の周りの境内に観光客が10人ほどおられ、以前来た時の寂れた山寺のイメージが変わりました。Rさんが1週間前に来られた時の写真を見せてもらいましたが、見事な紅葉でした。
石段を上って目を引く楼門をくぐり次の曲輪になりました。鐘楼があり立派な梵鐘が下がっています。ボーンと一撞きしようかと思いましたが、「早鐘を撞かないように」との札が下がっていたので遠慮しました。
「立春大吉」「鎮防火燭」の御札が貼られています。これも禅寺に多いかな?紅葉の季節は過ぎ、落ち葉になっていますが、まだ残っている木々もあります。駐車場に戻ると、ドラッグスター乗りの方がおられました。聞くと、青森大間まで北上し、そこから下って来られた旅バイクの方でした。しばらくお話し、出発しました。r601に出て東進し、R173に出て南下し、12:22、R372の「安田交差点」にある「農業レストラン福楽里」で昼食にしました。
「ゆずジャム550円」が売られていたので購入。数年前このお店が出来ていたのは知っていましたが、入店するのは初めてです。パンフレットがありました。
『お弁当500円3種類、1000円要予約、1500円要予約、オードブル要予約。ふらり定食(土日)900円、日替わり定食700円、カレーライス野菜添え700円、うどん定食700円、今日のうどん500円、おかあちゃんの一品100円、コーヒー・紅茶300円、サービスコーヒー・紅茶(定食利用の方)100円』。
Rさんが、「ふらり定食(土日)900円+サービスコーヒー100円」で良いですよねと言われ、同意し3人分注文しました。あ〜だこ〜だお話し、精算して出ようと思ったら、既にRさんが精算されていました。
R173を南下します。崩れた場所はまだ1車線通行で、「天王トンネル」を抜け、右折してr601に入り羽束川沿いを西進しました。13:28「篭坊温泉・渓山閣」。暖簾が下がっておらず、お休みのようです。手前の旅館に暖簾が下がっていたのでそちらに向かいます。「浪花館」に入り、日帰り入浴できるか聞くと「5分待てばOK」とのこと、1000円だそうです。バイクにタオルを取りに戻り、旅館に戻るとお二人はまだ。ご主人が「入れますよ」と声を掛けてくれたので、3人分お支払する。
泉質は知らないが、川西〜宝塚〜有馬と炭酸泉なので、こちらもそうでしょう。鉄分を感じさせる赤銅色が湯船の岩に付着していました。お湯加減は良い感じで温まりました。
14:48出発し、僕が先頭でr538を東進して、r601で「泉峠」を越えr12に合流。ここで先頭をNBさんに交代します。r12を南下し、r319にチェンジし、r33で「西谷農協大池」交差点。15:13「レストラン大池」で喫茶します。お二人はホットコーヒーで、僕は温泉で温もったのでオレンジジュースにしました。ここでもあ〜だこ〜だお喋りの花が咲きました。ここはNBさんの奢りでした。
16:45、ここで解散し出発。r33〜r325〜長尾山トンネルを抜け、17:19帰宅。久しぶりにグループで走る楽しいツーリングになりました。
出先でスマホで気付いていたメールに、PCから返信しました。送られてきたメールの表題は、「結婚式のご招待」でした。コーチしている大学ヨット部卒業生A君が修士を終了し、今年就職しました。ヨット部マネージャーSさんと今年2月に入籍し東京で所帯を持ち、来年2月に2人が学生生活を送り出会った京都で結婚式を挙げる。その時のスピーチの依頼でした。つきましては電話したいので、今日如何ですか?と言う文面でした。
とても嬉しい知らせで、快諾しすぐ返信しました。しばらくしたらAくんから電話が入り、「べっぴんさんを嫁さんにもらったな〜」などと軽口を叩き、代わったSさんとA君以上に長くお喋りしました。学生時代から付き合っていたそうで、学部卒でSさんが先に東京に就職し、今年になってA君が就職して東京にやってきたそうです。
2月に入籍して住み始めたということは、AくんがSさんの家に転がり込んだというか、2人で新居を決めいきなり一緒に住み始めたのでしょう。家内の姉夫婦は学生時代から、うちの長男は就職してすぐから・・・同じ夫婦への流れのようです。
僕も家内と大学で知り合い、僕が東京に就職したので1年間遠距離恋愛をしましたが、24才で結婚しました。学生時代からの知り合いなら、就職先とか給料額とかと関係なく、より相手の性格などその人の本質が好きでくっつくので、長く続くように思います。うちの夫婦を例にすると、夫婦になっても友達のままだから、いつも対等に付き合えます。お互いに相手を尊重し尊敬しています。ヨット部内カップルの結婚式に呼ばれスピーチしたことが何度もありますが、ヨット部員が多く出席し体育会的な余興が披露され、より宴が盛り上がる感じがします。彼の家は、近い代のヨット部員の溜まり場になりそうです。Happy Wedding!


2018/11/25
コーチしている大学ヨット部の最初のレース(土日)のコーチングです。両日とも風予報は弱く、レース出来るのか?でしたが、土曜日は午前中に軽風の中2レース成立したそうです。前チームは、ここ数年地区学生レース常勝だったD社に、最終日3艇失格が出たことで、7月に1度だけ勝てました。他校が5年以上前にD社に勝ったことがありますが、当方に限っては15年ほど勝ったことが無いと思います。現チームでは複数回勝てればいいなと思っています。それが実現すれば、全日本優勝回数を重ねているD社の実力を考えれば、全日本インカレでも6位入賞圏が見えます。
2レースだけですが、土曜日のレース結果は、当方がルール違反したD社にプロテストして1艇失格させたことで、Aチームが470トップ・S僅差の4位でした。D社の失格がなくてもほぼイーブンなフィニッシュ順位で現在の実力は肉薄しているようです。
4時過ぎに目を覚ましゴソゴソ。6時過ぎに階下に降りて支度を始めました。倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、7:01近所のローソンで、「キリン小岩井ミルクとコーヒー500ml162円+手巻熟成辛子明太子140円+手巻エビマヨネーズ140円=442円」購入。
R171〜中央環状〜吹田ICから名神〜京都東で降りて湖西道路を経て8時前にヨットハーバー着。みんなに挨拶し、大会本部で成績などをチェック。レスキュー桟橋に戻り、おにぎりを食べました。9:10出艇予定なのでレース艇を見て回りながら部員とあ〜だこ〜だ。
持っていった雑誌「舵」をみんなに見せます。1週間前、練習後の合宿所ミーティングに来られたM先輩が、この雑誌に書かれていた早稲田コーチKさんの記事について話して下さいました。「最新12月号の舵を読んだ奴いるか?」の質問に誰も手が上がらず、僕だけがMさんの後ろで手を挙げました。僕は学生時代から定期購読しており、数十年分の雑誌が家にあります。
部でも定期購読していたので、艇庫に昨年分は揃っていますが、購入担当部員が退部してからそのままになっているようです。風がなく出艇延期になり、部員が回し読みし始めました。K氏のコーチング方法など、それぞれが気になる記事を読んでいます。僕は卒業した4回生に卒業クルージングを、1回生に初クルージングを誘いました。大きなヨットに乗る体験をして、これからのヨット活動に繋げて欲しい。
結局、最終スタート信号14時に間に合う出艇時間13時前までにまともな風が入りそうになく、13時前に出艇することもなくレース終了フラッグが挙がりました。
自然相手なので仕方ないですが残念。13:50に閉会式があり、当方の470優勝・総合優勝となりました。地区大会ですが総合優勝なんて何年ぶりだろう?新チームは上々の滑り出しです。優勝が全日本インカレで2位になったS級ではなく、目標だった総合入賞に届かなかった470チームだったことが朗報でした。更に加えると、Aチームではなく4番艇だった2回生女子が、チーム内トップ成績で、層の厚さも感じました。良い手応えです。
そのまま帰路に着き、往路同様のルートで、15:14「エネジェットセルフ北村」で給油。229km/9.89L=23.2km/L。倉庫にバイクを片付け帰宅すると、家内がいました。カレンダーを買いに行くとのことで、車で市中心部に出ました。帰宅して風呂に入り、ご飯食べて、家内が見たいと言う「さんまさんの特集番組」を見ました。
数時間の長い番組で、たくさん笑わせて頂きました。大竹しのぶさんとの結婚生活はたった4年だったそうです。もう少し長かったと思っていましたが、「仕事を辞めて家庭に入って欲しい」さんまさんの希望と、「女優業をしたくなった」大竹さんの希望がずれてしまった短い結婚生活でした。僕は自分が子供の頃身体が弱かったことと、母が僕が小2になってから仕事に復帰してずっとフルタイムで働いていたので、結婚するなら仕事をしている女性の方が希望でした。
さんまさんも、今ならお子さんが成人し、仕事を持つ奥さんでも平気な気がします。どうせ誰もいない家に帰るなら、奥さんがいる時もある方が楽しいと思います。2人の離婚会見の時も、同じ控室で雑談しながら過ごし、大竹さんがアイロンを掛けてくれたシャツで会見に臨み、その後入れ替わりに大竹さんが離婚会見したそうです。相手を嫌いになったわけではなく、今でも大竹さんの芝居は必ず観に行くそうで、また結婚すれば良いと思います。いずれ身体の問題で仕事を少なくしたりしなくなる老後という時期が来ます。この時、1人より2人の方が良いと思うけど・・・
こんな夫婦は多いと思います。離婚後再婚しても、「やっぱりあの人が良かった」という元夫婦もいると思います。同じ相手と2度結婚するという先例を作って欲しいな・・・と思いました。


2018/11/18
家内が勉強会にお出かけしました。僕も仕事場に行き、あ〜だこ〜だやってからバイクで三田・篠山をぶらっとすることにしました。家内からは、「帰りが遅くなるから」と言われています。
11:15、「招き猫CB400SB」で出発します。今シーズン初めて冬服装にしました。コミネの冬用プロテクター上下を着ます。夏用メッシュに比べ重いです。こんなに重かったっけ?でも着てしまえばあまり重さを感じません。結局この真冬装備が暑すぎて、冬用でも薄めの方で十分でした。
11:18「出光セルフ宝塚176」で給油。247km/9.38L=26.3km/L。阪急山本駅から「長尾山トンネル」を抜け、r325〜r33。「西谷農協大池」交差点から北上し、西谷中学を経て、r68を渡り「波豆川」沿いを北上し、「八坂神社」前の定点観測ポイント」。
激写休憩し、r323で西進。「半鐘の家」を過ぎ、r37に合流し、右折してr49で北上。12:23「バイカーズカフェ虎亀」着。お昼時なので混んでいます。いつもの「ピラフセット」を頂き、カウンターでご一緒した方々とあ〜だこ〜だ。壁に飾ってある銃は、BB弾を発射するモデルガンだって。マスターさんがハチや蛇をこれで退治するそうで、現役で活躍中のようです。
13:38出発、r49を北上し「永澤寺」前を通過し・・・「カフェ・シュガー」が久しぶりにOPENしていました。いよいよ虎亀で聞いたがけ崩れ現場です。「美濃坂峠」手前にバリケードが設置されていますが、「自転車・バイク(車幅1.0m以下)車両通行可」と書かれています。「美濃坂峠」を越えてゆっくり下ります。「小枕」交差点で、R372を渡る。「小枕口」を左折し、右に県道を見ながら西進。「岩崎」集落」に入り、14:08「春日神社」。境内の銀杏が色づき黄色の絨毯が綺麗。
枝道を西進し、舞鶴道手前でr299を渡り、舞鶴道側道を北上。左折して舞鶴道をくぐりr94に乗り、R176に突き当たり、それを渡って「味間」地区に入りました。14:31「文保寺・二村神社鳥居前」。紅葉の時期には訪問したことがないので訪問しようかと思ったが、まだたどり着いていない「波多野秀治公の墓」を探しに行くことにする。
「大国寺」まで後少しの枝道で、バス離合渋滞が発生していました。フルサイズ観光バス同士が離合しようとしています。訪問したことのある寺院ですが、紅葉狩りの時期になると、こんなにお客さんがいっぱいになるのですね。バイクなので山門前横の鐘楼のところに駐輪させてくれた。
14:41「大国寺」。ご移住職が、鐘楼前で多くの観光客向けに話をされていた。次々にやってくる観光バス団体さんがいるので、休む暇もなさそう。
『国重要文化財 安泰山大国寺 当寺は、大化年間(645〜650)に、空鉢仙人(法道仙人)が国家安泰を祈願して、自作の薬師如来を安置し開創した。その後、天暦の項(947〜956)に兵火で焼失し、正和年間(1312〜1317)に花園天皇の帰依により再興され、安泰山大国寺の寺号を賜り、以来広く地域住民に親しまれ崇敬されて今日に至っています。昭和42年(1967)、兵庫県観光百選に指定され、また新丹波七福神大黒天霊場としても、多数の参拝者を迎えています。
文化財 本堂:鎌倉時代末期に建てられた、唐様と和様の折衷様式。国指定重要文化財。 仏像:薬師如来像・大日如来像・阿弥陀如来像・持国天像・増長天像。5体とも藤原時代作。国指定重要文化財』
『樹木礼讃 森や山の樹木は、私たち人間やこの世に生存する多くの動物や植物たちにとって、大きな役割を果たしているかけがえのない大切なものです。樹木は空気を浄化し、水を蓄え、土を肥やし、動植物の住み家を作ってくれます。さらに、すばらしいことは四季のうつろいに合わせた葉や花の色彩の変化が、私たちに感動とやすらぎを与えるのです。そこから絵画や音楽などの芸術や文学が創造され、潤いのある生活環境を創出してくれます。
ここに、この樹木たちに感謝し、周辺の樹名を表記し、地域の自然環境の保全と意識高揚の一助となるよう念じています。 篠山ロータリークラブ』
「拝観料300円・本堂拝観800円」と書かれていたので、迷わず「本堂拝観、大人1人」と言うと、「え〜と、ちょっと待ってくださいよ。案内付きで、住職か奥さんが対応しておりますので、空いてるかな〜」。受付の方が、別の方に奥さんを呼ぶよう対応している間に、「・・・さんですか」と私を呼ぶ声がしました。「はい」・・・以前数度バイクツーリンググループでご一緒したSさんでした。「今からですか?」「はい」「私は、高蔵寺に寄り、こちらに来ました。次「文保寺」に行く予定です」「すぐ拝観して来ませんで、私もご一緒出来ませんか?」「良いですよ」。受付の方に「300円の拝観の方で良いです」「本堂拝観出来ますから、少しお待ち下さい」。「う〜ん、どうしよう」「本堂を見てくるので少しお時間を頂きますが、私もご一緒できませんか?」「良いですよ」「すいません」。
奥さんが来られ、本堂を拝観しました。本堂は、鎌倉時代に建てられたもので、室内柱に特徴ある様式が残っていた。「明智光秀の丹波攻めで兵火に遭わなかったのですか」「はい」。この寺院裏の山中に、光秀の丹波攻めに対抗し、一度は討ち死寸前まで追い込んだ波多野秀治公のお墓がある地です。
本尊・薬師如来を中心に5体とも平安時代藤原期作で、重要文化財指定されているそうです。内陣まで入れて頂き、間近で重文仏像を見ました。傷みが目立たず、一刀彫の天像2体とも虫食い穴さえありません。これだけ綺麗な状態で遺っている5体の仏像で平安期作なら国宝でもおかしくないのでそれを聞くと、仏師がわからないので重文止まりだそうです。いずれ国宝になりそうです。
長い歴史の間には、兵火・落雷、いろんな災が襲ったでしょう。仏像を担いで避難させたこともあったのではないかな?そんなことを聞くと、避雷針などで保護しているので本堂に落雷したことは無いそうですが、寺務所などには落雷したことがあり、雷鳴が聞こえると慌ててTVのコンセントやアンテナ線を抜くそうです。本堂拝観者は僕だけで、マンツーマン拝観させて頂きました。外から沢山の観光客が中を覗いており、初宮参りのようです。素晴らしいものを見せて頂き、本尊写真もOKで値打ちがありました。
境内にはコスプレイヤーが数人いました。住職がコスプレに理解があり、むしろ誘致しているようです。本堂内で奥様に、これだけの本堂・仏像の維持管理のことを尋ねた時の話の中に、「檀家がいないお寺なので、皆様からの拝観収入で・・・」というのがありました。無い袖は振れず、試行錯誤されているのでしょう。本堂拝観を終了し、急いで受付に戻ります。「まだ待っておられるかな〜」と不安な視線を向けると、待っていて下さいました。僕のわがままに付き合わせてしまい申し訳ない。
2台で出発。枝道を走って、15:14「文保寺P」。『市指定文化財(建造物)文保寺楼門 鎌倉の建長寺を模して建立されたと伝わるが、当初の門は天正年間(1573〜92)の戦乱の際に焼失したとされる。現在に伝わる門は再建されたもので、時期は明確ではないが天正末期と考えられている。下層部は大正14年に改修されているが、上層部には彩色の痕跡が見られるなど、再建時の部材が残されている。
三間一戸の楼門で、屋根は入母屋造、銅板葺で、肘木は禅宗様であるが全体として和様を基調としている。室町時代末期の様式を現在によく伝えており、篠山市内の楼門では最も古い時代の建築物として大変貴重な文化財である』
まずは楼門すぐ奥にある二村神社へ。『二村神社祭礼 二村神社は、もともと古市地区の見内にあり、その氏子は、かつて篠山市西部の広い範囲に及んでいました。1482年、神事の座席争いからご神像争いへと発展し、真南条村と味間村には新たにそれぞれ二村神社が建てられました。味間では10月第2日曜に山車と太鼓御輿が、真南条では10月第1日曜日に太鼓御輿が繰り出され、祭礼が行われます』
『二村神社由緒 当社は味間地区7ヶ村の惣社として古来より氏子の崇敬を集めている。室町時代・文明14年(1482)、延喜式内社である見内の二村神社で座争いが起こった際、神宝・神器が周辺各村に持ち帰られ、味間には御神体が神輿によって運ばれた。御神体はまず西古佐村字イミノ木に仮社を築いて安置されたが、後に味間村字松本に社殿を築き永年の鎮座地にした。当神社には、その時御神体を運んだ神輿が今も遺され、西古佐のイミノ木はこれを契機に神輿谷と称された。二村の社名は、この座争いの神宝分散の経緯により見内の二村神社に則ったもので、味間二村神社の歴史はここに発する。当神社の主神は、伊弉諾尊である。明治41年には、御霊神社ほか5社が合祀され、全部で19神にわたる神々を祀っている。
特記すべきは、明暦2年(1656)境内地に祀られた波多野秀治の御霊神社である。秀治は明智光秀が丹波を攻めた際、八上城に籠城して戦った勇猛果敢で名が知られた戦国大名である。永禄・元亀頃秀治が当二村神社を崇敬し、落城に際し秀治の遺子が味間に逃れ来た。何れにせよ、当社と秀治とは因縁浅からぬものがある』
拝観料300円収めて、文保寺本堂までつらつら上がっていきます。塔頭が数寺ありますが、かつては多くの塔頭が建っていた大寺です。明智光秀に落とされ逃げ出した波多野秀治の遺児は、ここで髪を下ろし僧籍に入った。後に還俗し、本家は代々大国寺少し下にあった。先代で子がなく、本家は絶え現在は別の方が住んでおられるそうだ。このことは、大国寺の奥様に波多野秀治公の墓の場所を訪ねた時、教えてもらった。大国寺本堂内に、波多野秀治公の木像が安置されていた。代々子孫が先祖を慕い祈って来たのでしょう。子孫は繁栄し、大臣を出したり、日本を代表する繊維会社グンゼを創業したりした。
『松尾山文保寺 文保寺は、大化元年(645)に法道仙人によって開かれ、自作の聖観世音菩薩を本尊として安置し、聖備山長流寺と称されていました。法道仙人は、印度より中国を経て日本に仏教を伝えたと云われ、瀬戸内海を経て加古川上流域の播磨・丹波地方を中心に200ヶ寺以上の多くの山岳寺院を開かれており、特に天台真言系の寺院が多くなっています。
文保寺は、最盛期には堂舎21坊を数えたと云われ、元禄6年(1693)の寺社改帳には、自光院・龍花院・真如院・観明院・源智坊・行定坊・一乗院・吉祥坊・西教坊・常光坊・中蔵坊・教蔵坊・善光坊・宝住坊・本性坊・本仙坊・泉蔵坊・山本坊・極楽坊・持正坊・理教坊の5院16坊があったと記されています。
開基より聖備山長流寺と称されていましたが、天暦の乱(947)に堂舎悉く焼失し、荒廃の極みに至ります。正和年間(1573〜1592)花園天皇の御代に慈覚大師作という千手観世音菩薩を安置し再興されました。文保年間(1317〜1319)宝鏡寺の宮門跡一品親王真筆の勅額を下賜されて以後、「文保寺」と称します。その後、堂舎も整備され、往時の状態に復したようですが、戦国時代末の天正年間(1573〜1592)に明智光秀の丹波攻めに遭い、再び全山悉く灰燼に帰しました。江戸時代中頃になって復興、真如院・大勝院・観明院・本覚院・林城院・慈明院の6院となり、現在は、真如院・大勝院・観明院の3院となっています』
16:07出発し、R176で南下開始。Sさんは「盤滝トンネル」を抜けて帰るようなので、新三田までご一緒します。16:42新三田からr570。志手原からr68〜r33〜r325〜長尾山トンネルを抜けて、17:34帰宅。
18:37家内が帰宅しました。いつものように夕食を食べながら、今日あったことを楽しく話しました。突然Sさんに声を掛けられ嬉しかったし、数度しかご一緒していないのに僕の名前を覚えている記憶力の高さに驚いたことも話しました。


2018/11/17
コーチしてる大学ヨット部のコーチングに琵琶湖に向かいます。11/4の全日本インカレ団体戦最終日をもって、前キャプテンから頼まれた僕のコーチング業も終了いたしました。翌週の11/10、代交代式に呼ばれ卒業のメッセージをしたのが最後の仕事になりました。その数日後、新キャプテンからメールが届き、キャプテン、470・S級両リーダー、女子ボスマネさんからの1年間の感謝と、更にもう1年のコーチング依頼がありました。学生レーシングヨットが好きなので、気持ち良く受けました。来年11月までまた頑張りましょう。次男が入部して1年後、当時のキャプテンから依頼を受け、とっくに次男は卒業しているのに、僕は毎年更新を繰り返しもう15年ほどになります。次男は70代キャプテンでしたが、新しい代は84代です。頼まれているうちが花です。精一杯、部員の笑顔を増やせるよう努力しましょう。
コーチング初日です。4時過ぎに目を覚まし、「里山VTR250」で出発しました。5:16、近所のローソンで「手巻熟成辛子明太子140円+手巻エビマヨネーズ140円+サントリーボスとろけるカフェオレ500ml162円=442円」購入。
R171〜中央環状線〜吹田ICから名神高速に乗り、京滋バイパスにチェンジし6:04「笠取IC」で降りました。この季節の日の出は6:30頃なので6時にならないと明るくならない。6時に笠取IC下車の予定通りでしたが、まだ暗いです。朝の気配はありますが、曇っており切れ間が少し明るいだけでした。これから林道に突っ込むので、森の中は更に暗そう。動物と衝突しないよう気をつけなきゃ。
高速道路の下を抜け南に出て、京都府道r242。r3に出て、「曽束大橋」で瀬田川を南に渡ります。勝手に命名「京阪CC西林道」入口を野生の勘で発見し突入します。落ち葉いっぱいの道でしたが、バイクなら問題ない道幅があり、ゆっくり走れば平気な舗装状態でした。やれた穴凹舗装路・時には未舗装路を覚悟して来たので、滋賀県道r783に出た時には、「もう終わり?」って感じでした。ゴルフ場の工事&メンテナンス道でもあるので、定期的に整備されているのでしょう。ガードレールが割合続いていたのは予想外でした。
r783を東に走り、次の林道へ。勝手に命名「宇治田原CC西林道」に突入します。京阪CCの林道より荒れており、落ち葉に加え小石が多く落ちており、踏んでしまうとハンドルを大きく取られます。ガードレールなどなく、より林道に雰囲気が出てきました。
8:48、森から開けた林道交差点に出ました。地図を見ると、京都府と滋賀県の県境林道交差点でした。京都府側の森に入っていき二股交差点に着きました。R307は直進だが、右折していく道が気になり寄り道。道を登っていくと「南京都変電所」がありました。
三叉路に戻り南下を続けます。6:45宇治茶畑が広がった所で激写タイム。道なりに走り、R307に出ました。R307を東に進み次の林道へ。遍照院への交差点過ぎ、「奥山田集落」の枝道に入ります。裏白峠林道への入口は閉鎖されており、一旦R307に戻り、r283に入り、裏白峠珍道へ。
落ち葉たっぷりでも舗装されているので良いのですが、落ち葉の下に泥が堆積しているところがあり、ここに突っ込むと前輪が取られコケます。慎重に走ります。林道交差点で左折し、長い林道でR422に抜ける予定でしたが、誰も走らない不人気林道のようで、落ち葉体積が凄く路面が見えそうにない。落ち葉の少ない季節に再チャレンジすることにしました。
R307に降りてきて、東進します。3つの林道で、鹿1頭に遭遇しました。もう少し遭遇すると思っていたけど。
右折してR422に乗り北上開始。信楽川沿いの旧道・枝道に入り、お参りしたことがある「大宮神社」横を抜け、再びR422。2つ目の信楽川沿い道に入り、またR422に戻る。3つ目の信楽川沿いの枝道は長く、数度R422下をくぐり、あるいは交差して渡り、7:28「春日神社」到着。集落から離れた信楽川沿いにありました。境内から独立した立派な宝物蔵?があり、期待が膨らみます。本殿は立派な檜皮葺です。
『重要文化財・春日神社本殿
久寿元年(1154)、二条蔵人助藤原重友が奈良春日社の分霊を勧請したと伝えられ、祭神に建御雷神ほか三神を祀る。
現在の本殿は、棟木に「文保3年2月18日奉造之御殿事・・・」(1319)とあり、鎌倉時代後期の作風を示す。形式は二間社に向拝を付け屋根入母屋造の桧皮葺。後世の改造が少なく、各部の彫刻も優秀で特に柱間の中央に飾られた墓股の輪郭線は美しい。二間社で入母屋造の形式は全国的にも類別が少なく貴重な本殿である』
二条蔵人助・藤原重友なる人物はどのような人物だったのかわからないので、帰宅後調べてみました。結果「わからず」。二条藤原家の者で、蔵人助という官職に就いていた者が勧請したことは想像でき、平安時代の当時この地が二条藤原家の所領であったことも想像できる。この地は自らが頂いた地なのか、官の租税に苦しむ地元民が、その税を逃れるために免税であった公家・二条藤原家に寄進したのもか・・・。想像の域でしかない。
春日神社は、藤原氏の祖・中臣鎌足が、大化の改新成った褒美として、天智天皇より過去一例しか無い「大鐵冠」の恩賞とともに「藤原」姓を賜り、その子藤原不比等以降名乗った。中臣鎌足は、中臣家の本職・神官として鹿島神社宮司をしていた縁で、鹿島神社よりその祭神「建御雷神」を春日神社に勧請した。以降全国に増えていった藤原氏の荘園に、次々に春日神社が勧請されていった。
信楽川がもたらす豊穣の地とは言え、山間の狭い土地なのにこのような立派な社を建立するこの地の信仰心と経済力を思い知った。境内に神輿蔵があった。さぞ立派でしょう。本殿に手を合わせ、我が人生のこれまでの幸運に感謝し、本殿を激写していたら、「キュイーン」。鹿の警戒声が聞こえた。
R422に戻った。「県立ライフル射撃場」横を通過した。長男は大学時代「ライフル射撃部」で、自宅にライフル銃が鍵の掛かった銃保管庫に入っており、毎年警察官が保管状況を確認しに来た。銃射撃場は少なく、県で1〜2箇所が相場です。きっとこの射撃場にも試合や練習で来たことがあるのだろう。
瀬田川に近づき、r29にチェンジして瀬田川の東の峠を北に越えます。瀬田川沿いの道になります。r16「瀬田唐橋」で瀬田川を渡り、京阪電鉄・石山坂本線を「唐橋前駅」横で渡り、r16をトレースして、京阪石山駅&JR石山駅横を抜けてR1に乗りました。r103〜r18〜R161で8:18ヨットハーバー着。
みんなに挨拶し、艇庫で夏用バイクプロテクター上下を脱ぎます。9時出艇予定なので、桟橋で朝ごはんにおにぎりを2つ頬張ります。体操・ブリーフィング後出艇。新チーム最初の練習が始まりました。4回生の顔がなくなり3学年になりましたが、S級9艇・470級6艇の練習が始まりました。
風速に合わせ、基本練習とショートラウンディングマーク練習をしました。練習後半、風速が4〜5m/sに上がった所でホイッスル吹いて、470級に10〜15回連続タックを2クールさせました。特にクルーはヘトヘトになったでしょう。12時にハーバーバック。
合宿所に戻り、昼食。13:30に午後の練習開始。ブリーフィングで午前中気付いたことを話しました。午前の後半北からの良い風が入っていたので、それが続くと思いきや風が落ちてしまい、2〜4m/sの練習になりました。インフレータブルのレスキュー・ボートが全日本でのエンジンロストで、ハードボート1艇のみでのコーチングになりました。例年強風が吹き、雪解け水が入り冷たくなる湖水での練習が、少し心配です。ハードボートではヨットに接触してのレスキュー活動が出来ません。学校やOB会と相談していると思いますが、早急に改善しなければ最も大切な安全面が手薄です。
16時ハーバーバックで練習終了。合宿所に戻ると、誰かからの差し入れのクッキーがありました。「1人1枚」なので、1枚頂きました。17:30からミーティング、まず私の話です。全日本インカレで気付いたマテリアル面のことを話しました。午後の練習で気付いたことなどを話しました。ミーティング前に僕より2歳下のOB・Mさんが来られていたので、続いてMさんのお話。12月号のヨット雑誌「舵」の記事のことでした。
続いてクラス別ミーティング。私はMさんのお相手をしていました。Mさんが帰られ、クラス別ミーテングに加わり終了。次がみんな楽しみ夕ご飯ですが、僕は御暇しました。19時を回っており、バイク装束を着て湖西道路〜名神〜中央縦貫〜R171で20:30帰宅。家内が夕食中で、ご飯を頂きました。
風呂に入り本日終了。また1年間のコーチングが始まりました。来週末は地方ブロックのインカレ新チームのレースです。自分たちの実力がどんなものか確認できます。楽しみです。


2018/11/11
4時過ぎに目覚めゴソゴソして7時前、階下の家内から「お父さん、今日は何時に出るの?」「何処にも行かないよ」と答えると、「じゃあ映画観に行かない『あいあい傘』9:05に始まるの、間に合う?」。階下に飛んで降り、「行く、一緒に行こう。カレンダーに予定が書いてあったけど行かないの?」「うん、止めたの」「1時間あるかや、余裕だわ」「西宮よ」「え、そうなの。でも大丈夫、すぐ着替えるから」。
速攻で着替え、ひげそりなども速攻でして、7:10に家を出ました。R171を走り、8:30過ぎに「西宮ガーデンズ」到着。通勤リード110にタンデムして来たので速いし、駐車場並びの列もパスしてすぐP出来ました。
最上階に上がり、券売機でチケットをゲット。家内がトイレに行っている間に、8:46「ホットドッグ500円」を購入し、ロビーの椅子に座り家内と半分こしました。
9:05「あいあい傘」上映開始。倉科カナ・市原隼人主演。僕の好きな原田知世さんがキーパーソンとして出演しており、素晴らしい映画でした。今年のベスト級です。同名小説の映画化で、25年前の企業事件で、「自殺してくれ、妻子の面倒は見るから」と詰め腹を切らされた企業戦士が、死に場所を探して信州の田舎にやってきたことから始まる。
その異様な姿が気になった妊娠中の母・原田知世が彼を助け、何も聞かず一緒に暮らし始める。原田知世は神社参道の茶屋を経営している女将。彼は女将の自宅で塾をして暮らしを立てている。そんな田舎町に、年1回のお祭りの日が近づいてきた。例年同様、祭りのテキ屋家業の若いもんが集まり、女将の店の2Fに仮住まいし始める。
傘売りテキ屋の市原隼人もそんな1人。車を止め、女将の主人と電話で話しているところに通りすがったのが主人公・倉科カナ。大声で話す相手の名前にピンと来た倉科は、「あの〜何処かで会ったことありません?」と市原に声を掛ける。モテたことのない市原は舞い上がってしまい町・神社・祭りの案内を買って出る。倉科は取材カメラマンとして振る舞うが、門前茶屋の女将や主人のことを聞きたがる。「恋園神社前の茶屋でおしるこを一緒に食べたら恋が成就する」という伝説があり繁盛してるんや」「伝説の始まりは、女将と主人がおしるこを食べて一緒になったからなんだ。でも、籍は入れておらず苗字が違うんや。あの主人はあかんわ」。
倉科は横浜から、父親は25年前に亡くなったと母に言われ続けてきた父親の消息を掴み、どんな暮らしをしているのか、そして連れて帰ろうとやってきたのだ。描き方によっては、とてもドロドロした展開になりそうな設定ですが、出演者が明るく、皆がとてもハートフルで素敵にストーリーが展開されていく。
僕の好きな俳優の1人である市原隼人の演技が素晴らしく、ハードボイルド物の出演も多いが、こういうストーリーにこそピッタリだなと思いました。倉科は新しい人生を得て幸福そうに暮らしている父の内面に苦しんでいる姿を見て・・・、実は女将が主人を苦しみから開放すべく、主人の家族に会わせ、家族の元に帰らせようと情報を提供したことで自分がここに導かれたことを知り・・・、父と再開し言葉を交わし、でもそのままにして横浜に帰っていく。
ハッピーエンドの展開が見えてきた時、1つだけ気になったのがいい感じだった「市原と倉科2人のこれから」でした。エンドロールが近づく最後のカットで、市原が車で駅まで倉科を送り、「じゃあ」ということでダッシュボードの上に置いてあった小さな傘を彼女に渡す。「ありがとうございました」と手を振り、ふとその傘を見て、幼い頃迷子になり泣いている自分を助けてくれた男の子に同じ傘をもらったことを思い出す。「あ、待って〜」と振り返るが、市原の乗る車は後ろ姿を残したまま遠くに走り去って行った。
何ともお洒落な終わり方ではないか。劇中で何度も涙が頬を伝ったが、この終わり方に更に心を打たれた。陽気でハートフルなテキ屋の兄ちゃんと言えば「寅さん」。渥美清より数倍二枚目な市原の続編が始まったりして・・・。そんな風にシリーズ化、あるいは続編が見たいと思う映画でした。
映画のエンドロールが流れても誰も立ちませんでした。エンドロールが流れている間、今観た映画の余韻に浸りながら、「俳優さんの名前」「監督さんは誰なのかな?」「エンドロールに流れる音楽あ?劇中歌は?」「ロケ地は何処かな?」などデータを確認し、気持ちがクールダウンし現実の世界へ戻る作業をします。それぞれがそんな作業をしている間に、せっかちな方は席を立ち、次の行動を始められます。いろんな事情があるにせよ、一緒に静かに観ていた「袖擦り合うも多生の縁」の方々の余韻を壊してしまう方がおられます。年数本ですが映画館で映画を見るのが好きなので、イマイチな映画ほど、そんな方が出没し増えます。この映画はゼロでした。日頃観ている地元・伊丹市がせっかちで西宮市が文化的なのかもしれませんが、それがなく皆さんも大きな感動を得られたんだなと思いました。
劇場が明るくなり、身支度する僕らの横を「袖擦り合うも多生の縁」の方々が出ていかれます。「年齢層が高いね」と家内から、「うん、僕らが若手だ」なんて冗談を交え答えながら、「おじさん1人の方も多いな」と感じました。僕同様、「男なのにラブストーリー・ハートフル好きな男性も多いな」と仲間を感じました。
劇場を出てロビーに出たところで、「すごく良かったね」と家内から。「うんとても良かった。誘ってくれる映画はいつもいいわ」と答え、「伊丹より若い子が多いね」と中高生と思われる年齢層の方が多く屯していることを話した。町が若く、収入の平均が高く、文化都市であるからでしょう。僕は西宮市で生まれ、小学校以外すべて西宮市に通って学んだので、実感としてそう思う。
西宮ガーデンズをウインドウショッピングしようかと思っていたが、「お腹がすいた。関学に行って食べる?」との提案を受け、バイクに向かった。見慣れた阪急今津線沿いを北上し、駅横の踏切を渡りました。「この駅わかる?」「門戸厄神、私は時々来るよ」「正解」。家内がお休みで僕が出かけている時の定番訪問先は、ここと中山さんです。「この駅は何処でしょう」「甲東園」「正解」。なんて会話をしながら丘を登って行きます。
関学正面の直線道路まで登ってくると、真正面に関学の象徴時計台が見えてきました。僕らはこの学校で出会い、この学校のチャペルで結婚式を挙げました。牧師さんは僕の中学校の校長先生の自宅に2人で伺いお願いしました。
正門前を左折し中学部の方に向かい、途中で右折し学生会館の方に向かいます。駐車場と駐輪場がありますが、自転車か50cc以下しか駐めれません。ここにも警備員が立っていたので、原付二種スクーターの駐輪場所を尋ねたが、「正門の方に行って聞いてください」とのこと。正門まで戻り尋ねたが、ここも駄目でした。
この日は資格試験の受験会場になっているようで、一般の警備員さんが沢山いました。正門詰め所の関学職員の警備員さんなら、「卒業生です」とでも言えば「ここに置いて」なんて便宜を図ってくれたかも・・・。「私が変なこと言ったからゴメンね」と家内から言葉がありましたが、僕だってこんな映画を観た後は、僕らの出会いの場所で懐かしみたかったよ。
仁川駅に下り、競馬場横を北上し、「丸亀製麺宝塚店」に入りました。僕は「かけ大390円+メンチカツ190円+野菜かき揚げ130円」、家内は「おろし醤油並380円+れんこん天110円」でお腹を落ち着けました。お腹パンパンになったのに2人で1200円は安いな。隣の席に座っていたおじさんから、家内は「うどん札」を貰いました。美人は得だな。「うどん1杯で1枚、3枚でトッピング1つ無料、期限11月末日」と書かれていました。ぼくらの分2枚あるから3枚貯まりまったけど、期限までに来ることはないかな・・・。
お腹いっぱいになリ過ぎたので、お散歩しようと清荒神に行くことにしました。宝塚歌劇場横を過ぎた交差点で信号待ちになりました。横の駐車場には大型バスがたくさん停まっています。「こんなに多くの方が大劇場に入れるのかな?」と家内と話し見ていると、女性客ばかり降りていたので、やはりヅカファンのバスのようです。母がヅカファンで、幼少の頃母に連れられ何度レビューを観たことか・・・僕にはつまらなかったけど、今は良い思い出です。横の歩道を金髪に近い色に髪をお団子にまとめた美少女が歩いていました。
いかにも劇団員です。10年も通った今津線の先頭車両は、音楽学校の生徒・劇団員さんの指定席で、必ずこの車両に乗っていました。制服に身を包み清楚を絵に書いたような生徒さんと、当時若い女性の髪色が黒ばかりだった時代に金髪で異彩を放っていた劇団員さんがこの車両に溢れ、身近でした。クラスメイトのお姉さんが生徒や劇団員だった子もいました。規律が厳しく、立ち居振る舞いに清楚と気品が溢れ、見ていて気持ちの良い女性達でした。
清荒神駐車場に到着しました。久しぶりです。前回は次男一家と来たかな?家内とサイクリングで駅から参道を登って上がったこともありました。駅からの参道は門前店が並び、テキ屋が店を広げ楽しいお散歩になります。テキ屋は暴力団との関係で、お祭りなどから閉め出される傾向にあり、廃業された方も多いと思う。我が町内会の盆踊りも、子供の頃はテキ屋が店を並べ面白かったのに、最近は自治会開催でイマイチになっちゃいました。剃り込み入れたお兄ちゃんやド派手な服装のお姉さんが店頭に立ち、これも含めてお祭りだったのにな〜。
駐車場からテキ屋さんの店頭を覗きながら歩きました。清荒神さんは火の神様・かまどの神様で、相変わらず賑わっていました。何度もお参りした本堂はパスし、不動滝を観に行きました。多くの山歩き服装の方がいます。不動滝に中山への登山口があるのかと思ったけど、滝で行き止まりになっており、別にルートがあるようでした。
「コーヒー買ってくるわ」と家内が言いましたが、自販機にはプルトップ式缶入りばかりで、開けたら飲み干さねばならずパスしていました。「家に帰ってでいいわ」。ということで帰路に着きました。
その後昼寝したり、2人でTV見たりして過ごしました。僕は家内と過ごすのが好きです。喋りすぎず、穏やかな気持ちになれます。最高の伴侶を得た喜びに毎回浸れます。歩く時手をつなぎに行ったり、抱きつきは日常茶飯事なストーカー体質なので家内は大変でしょうが・・・。


2018/11/10
17時からコーチしてる大学ヨット部の代交代式です。それまでバイクで林道を走ることにしました。先週・全日本学生選手権、先々週・その練習で蒲郡に行っていたので、3週間ぶりのバイクです。紅葉が進むツーリングの季節ですが、早朝ツーリングにも出ませんでした。
4時頃目覚めましたが、外は真っ暗でグズグズして、6時半頃階下に降り出発準備を始めました。倉庫から「里山VTR250」を出します。7:28「伊丹産業セルフ北村SS」で給油。202km/6.01L=33.6km/L。R171〜中央縦貫道〜r2でモノレール沢良宜駅まで走り、r143にチェンジして東進します。道なりにr15〜r16を経て、r19で淀川を渡りました。
R1〜R307で東進し、r22で北上して、8:48「甘南備寺(かんなびじ)」。『黄檗宗の寺院で山号を医王山と称する。大和吉野下市にあった黄檗僧・鉄堂道融(てつどうどうゆう・1630〜1702)が、貞享2年(1685)に山城に行脚した際に薪村庄屋の吉川氏に会い、請われて翌年この地に復興された甘南備寺の開山となった。鉄堂が没した元禄15年(1702)9月に弟子の南嶺元勲(なんれいげんくん・1666〜1735)が更に吉川宗顕の要望を受け住持となった。南嶺は「甘南備南嶺百八道歌」を編んだことが知られ、また南嶺について出家した終南浄寿は著名な江戸の書家・伊藤華岡(かこう)の弟で池大雅(いけたいが)をはじめ多くの文人との交流が知られている。
吉川氏が復興した寺「甘南備寺」の創建は古く、西方に秀麗を見せる甘南備山に鎮座する神南備神社の神宮寺として知られ、平安時代末の「今昔物語集」にこの寺の薬師如来像の物語が登場する古刹であった。しかし時代の変遷とともに衰退し残っていた諸仏がここに移設されたが寺名は継承された。
薬師如来坐像と両脇侍像は旧甘南備寺から移設された尊像であるが、特に薬師如来坐像は、頭と体部は一材で造られていていて平安時代前期10世紀の作と考えられ、「今昔物語集」に登場する像とされ、両脇侍は鎌倉末から南北朝時代の作とみなされる。耳の病に効く「薬師さん」として信仰が続いていて本堂の壁面に穴の開いた石が吊るされている』
「不許葷酒入山門」・・・禅宗寺院のようです。得意な寺名を持っているので期待して来たが、独特な寺門にはカーテン柵が引かれており、境内に入る事ができませんでした。謂れ板に書かれているように禅宗の黄檗宗ですが、真言宗の歴史が長く、西方に位置する甘南備山に長い歴史を刻む延喜式神社「甘南備神社」の神宮寺であったようです。
r22の東に位置する甘南備寺から、ナビで更に東にある鳥居マークに行ってみる。9:00「棚倉孫(たなくらひこ)神社」。切通の道の先にバイクを駐め、振り返る位置にある参道の坂を登ると左右に常夜石灯が立っていた。丘の左右を川が流れ、切通を人工の天井川が渡っていた。神社境内が下にあり、川の流れの方がかなり高く不思議な地形です。人工の水路に見える。
境内へ下る階段を御婦人が掃除されていた。神主さんの奥様だろう。「おはようございます」と訪問の挨拶をする。『鎮座地:京都府京田辺市田辺棚倉49御祭神:天香古山命(あまのかごやまのみこと、別名:高倉下命(たかくらじのみこと))、神剣・フツノミタマを献上し熊野で荒ぶる神の毒気にあたって気絶していた神武天皇とその軍勢を救った神。
由緒:相楽郡の棚倉ノ庄から推古天皇31年に勧請したとされる高倉下命を祀ったことによる。
御本殿:京都府登録文化財
絵馬殿:円山派の西村楠亭(なんてい)・長沢盧鳳(ろほう)・岸派の岸岱(がんたい)・淡路出身の白川芝山(しざん)など江戸時代の奉納絵馬を掲示。長寿に感謝:粘札(88歳)にマスカケを奉納、絵馬殿横に70人分掲示。
田辺小学校発祥の地:明治5年の学制発布により田辺小学校開設準備が始まりその間松寿院(現社務所)が仮校舎として使用される。
瑞饋神輿:展示中。当社の例祭10月15日に合わせてずいき・とうがらし・きんかん・千日紅・白米・豆類等を使用してずいきみこしを製作する。大人用は隔年製作で10月体育の日氏子地域を巡行する。子供用は平成16年から毎年製作』
『京田辺の未来に継ぐ古木・希木 クロガネモチ(黒鉄稿)モチノキ科 常緑高木 推定樹齢250年 花期は5〜6月、果期は11月〜12月。葉の腋から花序(かじょ・茎に花がつく状態)を出し、紫がかった小さな花をつける。赤い実が美しい。葉柄(ようへい・葉と茎をつなぐ部分)が黒いのでクロガネといい、樹皮からトリモチを作ったのでモチという』
『棚倉孫(たなくらひこ)神社と瑞饋(ずいき)神輿 京田辺市田辺棚倉49番地天香古山命(別名高倉下命・手栗彦命(たなくりひこのみこと))をまつる式内社で、大社に位置づけられていた。「日本三代実録」の貞観元年(859)正月従五位上に叙せられた諸神に「棚倉孫神」と記されている。
現在の本殿(京都府登録文化財)は桃山時代の再建で、一間社流造、屋根は檜皮葺である。本殿脇に天正2年(1574)の銘をもつ石灯龍がある。
元禄15年(1702)には、淀藩主・石川憲之から、石鳥居・石段・石橋の奉納があり、毎年御供料の寄進を得た。広い境内には拝殿、絵馬殿、宮寺(現社務所)など江戸時代の建物がよく残り、絵馬殿には多くの絵馬が掲げられている。瑞饋神輿(京田辺市指定文化財)
秋に収穫される26種類ほどの野菜や穀類で飾られる神輿で、屋根は瑞饋(サトイモの葉柄)で葺かれる。明治時代の中ごろから造られるようになった。昭和4年(1929)で中断していたが、昭和50年(1975)に一部の模型を製作。昭和53年に「瑞饋神輿保存会」結成、以後は隔年で製作、10月体育の日に田辺区域内を巡行する』
『ケヤキ(槻・棒) ニレ科 落葉高木 推定樹齢300年以上 花も実も小さく
て目立だない。枝がほうき状に広がり、春の新緑と秋の紅葉が美しく、名は「けやけき木」すなわち顕著に目立つ木という意味に由来していると言われている』
意外に立派な神社で、社務所横には神宮寺がかつてあったようです。『松寿院跡 京田辺市田辺棚倉15番地 本寺は天満神社を祀る式内棚倉孫神社・神宮寺として建てられ、真言宗に属し智積院の管下にあった。設立された年代は明らかでないが、寛文年間(1661〜1673)あるいは享保年間(1716〜1736)の記録が残っている。淀城主の鳥居寄進についての古文書に宛名が社僧松寿院と記録されている。当時は天満宮を松寿院が管理していたことがわかる。
本院は、天保14年(1843)現在のものに建てかえられた、安政5年(1858)から明治4年(1871)まで寺小屋として子どもの教育の場に使用され、明治5年の学制発布により田辺小学校開設準備が始まり、その間、本院が田辺小学校の仮校舎として使用され、明治6年5月、田辺小学校校舎が田辺島本102番地に新築完成と同時に本院は棚倉孫神社の社務所となった』
境内にはオープンな社殿があり神輿が展示されていた。あまりにオープンで不届き者のいたずらが心配になった。殿舎には「田辺町無形文化財・瑞饋(ずいき)神輿」と書かれていた。神輿は甘美や芸術的な物ではなく素朴な感じがするが、屋根に鳳凰が載っている。巡行の写真やまつりに参加した方々の集合写真がたくさん飾られ、盛大な祭のようだ。
絵馬殿には多くの絵馬が飾られていた。本殿は桃山時代のもので、檜皮葺屋根が載っているが、千木や鰹木がのっていない。棟に棟瓦が載り、見慣れた神社の屋根様式からすれば、なにか物足りない感じがした。
『ツガ(栂)マツ科常緑高木 推定樹齢270年以上 別名トガ ツガは,マツ科ツガ属に分類される常緑性の針葉樹で、太平洋側の雨量の多い温暖地に多く群生し、枝の先端に2〜3cmほどのマツボックリの実をつける。花期は6月、実は秋に熟すと花柄が曲がって下を向く。種子には翼があり、風によって散布される』
『サザンカ(山茶花) ツバキ科 常緑小高木 推定樹齢150年以上 暖地の山地に自生するが、園芸品種が多く庭木や生け垣に利用されている。花期は10〜12月。花色は本来は白花だが、園芸品種には赤色やピンク色がある。ツバキと違って花が平開し、雄しべが筒状にならない。また花びらがばらばらに散るのも違いの1つ』
ここの本殿も、檜皮葺屋根に千木・鰹木が載らず、棟瓦でした。
r22に戻ると、そのままr22を渡り西に入ると「一休寺」があった。お揃いのハッピを着た方々が門前に机を出しておられる前を通り過ぎ、GPSナビにある鳥居マークに行ってみる。
9:21、『薪神社 京田辺市薪里ノ内1番地 明治40年(1907)、この地にあった天神社と南東150mにあった八幡社を合祀し、薪神社とした。このためそれぞれの祭神であった天津彦根命(天照大神の子)と応神天皇を祭神としている。
現在の本殿は東に面する一間社流造の建物で、屋・根は銅板葺である。拝殿の南東側には、かつて甘南備山山頂にあり、月読命が依り付いたと伝えられる影向石(ようごういし)がある。天神社には神宮寺として光通寺があったが、明治初めの神仏分離令により廃寺となり、十一面観音立像などの仏像などは近くの西光寺に移された。 末社:武内神社・住吉神社・金比羅神社・猿田彦神社・くさ神』
境内に『能楽発祥の碑』が立っている。能楽は大陸からの渡来人が伝えた日本最古の芸能で、猿楽・狂言・白拍子・歌舞伎へと多岐に分岐し人々を楽しませた。発祥は山城の秦氏はじめ多くの氏族が関わり、山城から大和にかけていろんな所で「能楽発祥の地」を見てきた。
9:38「一休寺」。この寺院訪問のため、拝観時間9:00〜合わせ7:30に家を出ました。いつもの事ながら、寄り道してしまい30分遅れの訪問になりました。
『酬恩庵・一休寺の沿革 当寺の元の名は「妙勝寺」。臨済宗の高僧・大応国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をこの地に建てたのが始めである。然るにその後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを、6代の孫に当たる一休禅師が康正年中(1455〜6)宗祖の道風を慕って堂宇を再興し、師恩に師恩に酬いる意味で「酬恩庵」と令名した。禅師はここで後半生の生涯を送り81歳で大徳寺住職となった時もこの寺より通われた。文明13年(1481)11月21日、88歳の高齢を以て当寺において示寂され、遺骨を当所に葬られたのである。このように禅師が晩年を過ごされたことにより「一休寺」の通称で知られるに至った。
建造物としては、足利義教公寄進の本堂(永享年間)、慶安3年加賀城主・前田利常公の寄進による方丈庫裏・唐門・鐘楼・浴室・東司など、また一休禅師が住まわれた虎丘庵、墓所である御廟所があります。
庭園としては、虎丘庭園(室町時代)方丈庭園(江戸時代)があり、ともに禅院枯山水の庭で名勝指定を受けている。
墓地には、能楽観世流3代・音阿弥、15代・元章、19代・清興、観音寺城主・佐々木承禎、茶人・寸松庵などの墳墓がある。
方丈と方丈枯山水庭園(名勝指定) 当寺方丈は1650年に加賀三代目の大名前田利常公により寄進をされたもので、国の重要文化財に指定されている。正面奥の室中には一休禅師をご本尊としておまつりし、内部襖絵は江戸時代の絵師・狩野探幽の筆による。方丈周囲には庭園がひろがり石川丈山・松花堂昭乗・佐川田喜六昌俊の三名合作といわれる江戸初期の禅院枯山水庭園である。北庭は枯瀧落水の様子を表現した蓬莱庭園、東庭は十六羅漢の庭、南庭はサツキの刈込と白砂の庭として北・東・南三面の庭よりなる』
一旦山門を出て、正面から見てみる。『薪能・金春芝旧跡』の碑が立っている。『薪能金春芝跡 京田辺市薪里ノ内 この付近で、金春禅竹(こんぱるぜんちく)が一休禅師に猿楽の能を演じ、観覧に供した。金春禅竹(1405〜1470)は、室町時代の能役者・能作者で、大和四座のひとつ円満井座(えんまいざ・金春座)の太夫・金春弥三郎の子である。
能楽の大成者・世阿弥の娘婿となり、世阿弥の能を発展させ、金春流隆盛の基礎を固めた。「六輪一露之記」(1455年成立)などの芸術論がある。
応仁の乱(1467〜1477)の際、一休が酬恩庵に難を避けていた間、禅竹も薪の多福庵に移り、2人の間に交流があった。一休も禅竹の影響で能に関心を示し、謡曲の「山姥」「江口」は一休の作と伝えられる』
『一休とんちロード JR「京田辺駅」や近鉄「新田辺駅」と一休寺を結ぶ1.2kmの道の一部を「一休とんちロード」として、道中15ヶ所の電柱に「一休かるた」を活用した案内板を掲げています。
一休さんにまつわるエピソードやとんち話を楽しみながら、ぶらぶら歩いてみませんか?全ての案内板を見つけたら、すっかりとんち王になっているかも!?。一休さん 一と休みせず 米寿まで』
これらを読んでいたら、一休禅師のとんちは能楽との関係があるように感じてきた。ここから謡曲のように歌の方に発展したもの、狂言のように笑いの方に発達したもの、能・歌舞伎のように舞踊の方に進んだもの、いろいろな芸能の元であるので、当初はいろんな要素を含んでいた様に想像される。
山門をくぐり直し参道を進んで見る。もみじが色づき始めており、あと2週間ぐらいが最高でしょう。『諸悪莫作(しょあくまくさ・諸悪を作すことなかれ)・衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう・衆の善を奉行せよ) これは一休和尚の筆になる七仏通戒(しちぶつつうかい)のげの中の詞白でお釈迦様の弟子である阿難尊者(あなんそんじゃ)の作といわれ、意味は数々の悪行をすることなく、多くの善行をすれば、自然に清く美しくなるというお釈迦様の教えです。(京都真珠庵所蔵墨跡より)』
参道の奥脇に『重要文化財・酬恩庵 浴室・鐘楼 1650年建立』があった。浴室と鐘楼が兼用になっているようです。奥に三本杉があった。『三本杉は、一休禅師手植の杉として500年の緑を湛え、一休寺の名物の1つである。一説には一休禅師と蜷川新右衛門と蓮如上人とが1本ずつ植えたとも言われている。ところが、次第に寿命尽きて衰色を現したので、惜しくも昭和40年秋にこれを切りとり、跡に二世を植樹した』
参道突き当りに拝観受付があり500円。突き当り右に一休禅師の御廟所があった。『一休禅師は文明13年(1481)11月21日、88歳で当寺で示寂されたが、これに先立ち文明7年ここに寿塔を建立し、平素敬慕されていた宋の慈明・楊岐両禅師の名をとって慈揚塔と名付けられた。
今日の建物は法華堂と改称され、内に卵塔がある。前面の庭は茶祖・村田珠光の作と伝えられ禅院式枯山水の様式で、室町時代の古風をよく存している。
一休禅師は、人皇100代後小松天皇の皇子であるので、この一画は宮内庁の御陵墓として管理している。門扉に菊花の章があるのもこのためです』
墓所の前を奥に進むと、中央の石畳の外は苔むした細い庭が続いており、緑の地面に紅いもみじが美しい。『後小松天皇皇子・宗純王墓』が掲示されている。拝観順路に従って、『方丈庭園(枯山水)』『重要文化財・酬恩庵 方丈・庫裏・玄関・東司 1650年建立』へ。御廟所の横に立つ「虎丘庵」は優しいカーブの檜皮葺で寄棟の大棟が瓦でした。
靴を脱いで方丈に入ります。枯山水の庭園があり、お母様がホットパンツを履いた年頃のお嬢さんをモデルに、枯山水をバックに写真を撮っています。「お見合い写真かな?」なんて、余計な想像を働かせてしまいました。家内も結婚してからも時々お母さんと神戸でお買い物していたように思う。母娘って、友達みたいな関係で良いな。息子に取って父は、倒すべき・超えるべき存在でしかないように思う。
一休禅師が使用していた輿があった。81才で大徳寺の住職になった時も、この輿で大徳寺まで通われたのだとか。狩野派の襖絵が部屋に落ち着きを与えている。『「それでは、私が虎を捕まえるので、ここから追い出して下さい」というのは、有名な一休さんのとんちばなし。しかし残念ながら、これは一休さんの死後、江戸時代に作られた創作で、「一休とんち噺」によるもの。今こちらにある屏風の画は、藤井雅一氏によるもの。あなたなら、このとんちにどう答えますか?』
合格守500円を授かりました。
方丈前の参道に戻り、奥の『重要文化財・酬恩庵本堂・1450年建立』に向かいます。無料拝観中の『宝物殿』に入ってみます。一休さんが使用されていた袈裟や尺八が展示されていた。とんち絵や室町時代の肖像画も下がっている。
池があり、小川が流れていた。『このはし、わたるべからず』の立て札が立っていたので、堂々と中央を渡ってみる。まだ覚えてるね。いろんなお顔の羅漢石仏が、苔むした庭に点在し、大げさで愛嬌あるお顔を見ながら笑みがこぼれた。ここは家族と来たいな。
墓標が並ぶ墓地があったが意外に小さい。ここに期待していた佐々木承禎の墓を見つけた。『能楽観世流 3代・音阿弥、15代・元章、19代・清興の墓 能楽の発展は、観世流の観阿弥・世阿弥父子と室町幕府3代将軍・足利義満の力によるところが大きい。2代・世阿弥は、6代将軍・足利義教により追放され、義教の寵愛を受けた世阿弥の甥の音阿弥が3代目の観世太夫となった。音阿弥は「稀代の上手」と言われ名人の名が高い。深く一休に帰依していたという。応仁元年(1467)に亡くなった。墓石は19代・清興が文化2年(1815)に建立した。中央に音阿弥、右に元章、左に清興と3基並んでいる。
近江源氏・佐々木承禎の墓 戦国時代の武将で南近江の守護・六角義賢とも云う。観音寺城主。上洛を目指す織田信長の侵攻を受け、永禄11年(1568)観音寺城を退去し流浪の身となった。慶長3年(1598)宇治田原で病死。承禎以外にも息子の義治など一族の墓もある』
室町期の墓石は意外に小さい。墓石が大きくなったのは平和に成った江戸時代以降で、横に並んでいた茶人・寸松庵之墓は江戸時代没なので数倍大きな墓石だった。
『有漏無漏の路
有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ 帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け 一休宗純
有漏路は煩悩のこの世をあらわす 無漏路は煩悩のない悟りのあの世をあらわす人生というものは、この世からあの世へと向かうほんの一休み。雨が降ろうが風が吹こうが、気にしない気にしない』
バイクに戻り、次の目的地である加河川沿い林道の入口・R422富川橋にナビをセットします。R307に戻り東へ。11:07「ローソン宇治田原工業団地店」で、「セレクトミニクリームパン5個入り100円」を購入し、早めのお昼ご飯。
『徳川家康が伊賀越えの時休んだ遍照院』の案内板に反応し、寄り道することにしました。枝道に逸れ、急勾配の細道を登って行きます。GPSが遍照院に近づいて行くと、この道の先にポイントしている「正寿院」が地図に現れてきた。先に「正寿院」に行こう。
11:30「正寿院」。僧坊も見当たらない山間の小さななのに、駐車場がありタクシーが数台停まっている。駐車場前の僧坊には見えない建物から着物を着たお若いカップルが出てくる。そこをバックに写真を撮っているのは皆女性。??。
『ようおまいり まずは本堂横にある拝観受付へお越しください。 正寿院拝観順路 拝観受付〜本堂お参り(お茶・お菓子付)〜客殿・則天の間(猪目窓・天井画)』に従い、本堂へ。『宇治田原町指定文化財 正寿院・木造十一面観音菩薩立像 像高58.7cm 正壽院の御本尊で、50年に1度しかご開帳されていないという秘仏である。本像は、一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)。左手に華瓶を持ち、右手は垂下させる通形の十一面観音菩薩立像。表面に彩色や金箔押しを行わず、素地に截金(きりかね)文様を施す檀像風の作例。引き締まった面相、腰を捻った身の構えも自然で、過不足ない着衣の衣文(襞ひだ)の彫法も賞され、頭上面の表情にも生彩が感じられる。室町時代後期の制作と目され、この時期の作品としては群を抜いた出来映えであり、中世彫刻史上、特筆すべき存在で大変貴重な像である』
境内はそれほど大きくないが、日向ぼっこでも出来るように緋毛氈が敷かれた平長椅子が置かれている。京都のお茶屋さんのようです。瓦葺きの本堂があり、境内に面した縁側に女性たちが座り、茶菓子を食べながら談笑している。男1人の僕は、完全にアウェイ。
境内に飾り紐が無数に掛けられた地蔵堂がありました。『昔から「お地蔵さん」と呼ばれ、地蔵の「地」は大地「蔵」は胎内を意味している。大地のような広い大きな慈悲の心で包み込み、あらゆる苦しみを救うことから「地蔵」と名付けられた。特に水子供養・子育て・子供の成長を願う人々を救って下さることから、「子供の守り仏」として信仰されている』
『本堂・猪目窓・天井画拝観受付 大人(中学生以上)500円・子供300円(お茶・お菓子・散華・叶紐付き)』
本堂玄関に入り、拝観料500円を払うと、ティアドロップ型散華を頂いた。御本尊は50年に1回の開帳なので、厨子の中におられる。「厨子から組紐が引かれ、それを持って願いを心の中で唱えると叶う」と受付で教えてもらった。畳間に上がると、畳の上に敷かれた緋毛氈に案内され、お茶とお菓子が頂けた。
緋毛氈上には、本尊お参りの手順・散華・叶紐のことが書かれたパウチが置かれていた。『正寿院は、約800年前に創建と伝わります。いま皆様が座ってお茶を飲んで下さっている建物・本堂は約250年前に建てられました。寮銭箱の前に1枚の座布団が敷いてあります。そこに垂れ下がっている紐は「結いの紐」といいます。結いの紐を辿っていきますと正面奥に扉が見えます。この扉の中に、当院のご本尊十一面観音さまという仏さまがおられ、その指(中指と薬指)へと結いの紐が結ばれています。なぜ結いの紐と指が結ばれているかというと、正面奥の扉が開きますのが代々50年に1度と伝わっており、前回は平成2年に開けられました。ですからお姿が中々見て頂けないかわりに、十一面観音さまとご縁を結ぶ為に結いの紐があります。十一面観音さまは、書いて字のごとくお顔が十一面あります。これは全ての方向を見て、悩む人や苦しむ人、願いを叶えたい人をすぐに見つける為です。』
カップルや女性グループがお菓子を楽しみながら写真を撮っている。御本尊お参りのため女性数人が一列に並んでいる。この後ろに並ぶのもアウェイ感たっぷりなので遠慮し、靴を履いて客殿に回ります。
先程着物カップルが出てきた駐車場前にある客殿に入ると、受付で散華に日付スタンプをポン。これが入場券です。パウチされた冊子を渡されました。
『猪目窓について ハート型のことを「猪目(いのめ)」と言います。猪目とは、1400年前から日本に伝わる伝統文様でハート型に類似しており、昔から災難除けの意として灯龍や柱にある釘隠し、窓や屋根にある懸魚(けぎょ)など建築装飾としてたくさん使われています。寺社仏閣にお参りされましたら、ぜひ猪目(ハート型)を探して見て下さい。
猪目という文様が、なぜハート型なのかは諸説があり、猪の目がハート型に似ているから、また仏教にゆかりがある菩提樹(ぼだいじゅ)の葉がハート型だからとも云われています。
昔から猪や獣の目は災いを除くと信仰され、菩提樹の木はとても縁起が良いとされてきましたので、その教えが建築装飾にも反映されたと云われています。1400年前のモノが無い時代においても、人々の幸せや建物の安全を願う気持ちは現代と変わりません。先人たちの知恵と願いがこの猪目(ハート型)に込められています。当院でも、人々の幸せまたは建物の安全を願うために猪目窓を設けています。
四季によって、春(ピンク)夏(緑)秋(赤)冬(白)へと窓からの景色や色が変化していくので、季節に応じお茶会も催されます。心静かに季節の移ろいを感じると共に、川や鳥の声などの音も愉しみ、五感で自然を感じて下さい。
この部屋は「則天(そくてん)の間」と名付けられています。則天とは、則天去私(そくてんきょし)という言葉のー言で、自然に身を委ね、私たち人間も川や鳥のさえずり、そして木や緑と同じ自然の一部ということに気づき、我を忘れるということです。
※写真撮影可能です。 ※三脚類・飲食は禁止です。
※結界より先へは立札入り厳禁です。
※皆さまお一人お一人が心地よくおまいりできるように、写真撮影や話し声など他の人への譲り合いにご協力お願い致します。
この冊子、お帰りの際、受付にお返し下さい』
『天井画について 花と日本を感じる風景をテーマに描かれた160枚の天井画。20代〜70代までの日本画家約90名の協力を得て6年かけて完成しました。画材は杉板と岩絵の具。直接杉板に描かれており、下地には胡粉(ごふん)という貝殻を焼いて作られた白い顔料が塗られています。
この天井画は、本堂にある江戸時代の天井画の復興という形で始まりました。本堂の天井は1枚1枚に梵字と蓮が描かれ、仏さまの世界を表現しています。これを「曼荼羅(マンダラ)」といいます。曼茶羅の教えとは、一人一人は違う存在ですが、それぞれに役割があり、お互いを尊重し、お互いを支え合い、いのちを生かし合うという教えです。
この天井画でも曼荼羅の教えを説くということから、出来る限りたくさんの日本画家の先生方に携わって頂きました。同じ花を描いても年代も性別も違えば色彩も感じ方も違うけど、どれも間違いではないこと、また1枚1枚の画として見ても素晴らしい中で、160枚を1枚の画としても見ることもできる。画がお互いを尊重し、お互いを支え合い、いのちを生かす曼荼羅の教えを160枚の天井画で表現しています。
160枚の中には、京都らしい日本を感じる風景とのことから、春夏秋冬の舞妓画が隠れており、四隅には守護神として、東に青龍・西に白虎・南に朱雀・北に玄武の四神が配されています』
畳に寝転がって天井画を見上げるのが良いそうで奨励されていました。若い女性が女友達とキャアキャア言いながら寝転がっているので、僕は遠慮します。ハート型の猪目窓から庭の灯籠と紅葉した木々が見えています。これが大当たりしているのでしょう。昨今のパワースポット・良縁願いブームに乗って参拝者を増やしているようです。ここには家内とまた来たいな。
遍照院の方に戻ります。11:57「遍照院」。『徳川家康が伊賀越えの時休んだ遍照院 天正10年(1572)6月2日未明、京都本能寺に止宿中の織田信長が、家臣・明智光秀に襲われ自刃した(本能寺の変)。この時家康は信長のすすめで堺見物をしていたがそれも終わり引き返そうとしていた矢先、本能寺の変の急報を受けた。驚いた家康は、とにかく本国三河へ帰る事にし、危険は多いが伊賀越えの道を選んだ。
守口・枚方と不眠の行動で尊延寺を経て草内で木津川を渡り郷之口の山口城へ入った。ここで昼食を取り、案内人を得て物見の者と連絡をとりながら進み、街道沿いの遍照院へ着いた。ここで新しい案内人も出来、朝宮を通る頃には日もとっぷり暮れていたが無事多羅尾へ着いた。
ここで夕食を取り一睡の上伊勢の白子浜をめざして出発した。このあたりから守りの人も増え白子浜に安着した。ここから船で三河へ帰った。6月4日であった。家康が伊賀越えの時立ち寄った真言宗遍照院は元亀元年(1570)の建立である。境内に紅梅の古木があり、花の咲く頃には訪れる人も多く、また境内の上方の墓地の傍に槇の枯木と鎌倉時代の作とも言われている無縫塔(町指定文化財)があり見学者も多い』
梵鐘が下がっていたので、静かにボ〜ン。墓地に上がって無縫塔を見たら、一般的な無縫塔を違い、五輪塔とミックスされたような初めて見る形だった。バイクに戻ろうと坂道をゆっくり下っていると、サワガニは目の前を横断中だった。小学生の頃は、近所の公園の秘密のスポットに行けばサワガニが必ずいたのに、最近は見かけなくなりました。R307に戻り、更に東進します。R422に乗り換え、大津瀬田に向かって北上開始。この道も交通量が少なく快適です。
「富川橋」を見つけ、「ここかな?」と野生の勘を働かせ加河川沿いの枝道に入っていきます。勝手に命名「加河川林道」。少し走ると12:30馬がいました。小さな牧場があり、緊急激写タイム。やがて山に入って行き林道になりました。心配していた舗装は切れずに、これまた心配だった土砂崩れ通行止めもなく走れました。落ち葉が多く、花吹雪のように降る落ち葉の中を走る場面もあり、嬉しくなりました。交通量は意外にあり、数台の対向車がありました。
峠を越え東側に下っていると、まだ県道ではないのに、突然中央白破線のある道に突き当たりました。右折し、南に下る道を選択して走っていると、ビックリしたことに「MIHO美学院中等教育学校」がありました。「MIHOミュージアム」と同じ「MIHO」を冠しており、繋がりが気になりました。
帰宅後調べると、ミュージアムと中等教育学校は、ともに「神慈秀明会(しんじしゅうめいかい)」という新興宗教団体の経営する施設でした。隣接地に広大な神域と称する土地を所有する宗教団体代表が所有する美術品を一般開放しているのがミュージアムで、教団の思想を教育方針にした学校が中等教育学校でした。中高一貫校で、全寮制、1学年48名の生徒数。教祖が東京の羽仁もと子主催の独立学園で学んだ体験をもとに、同じ全寮制の教育を行っている。進学実績などは公開されておらず、公開されている中学受験問題は割合簡単で、有名大学へ進学実績の有る私立中高一貫校と比べるべくもなかった。かつてよく目にしていた駅前で手かざしして「除霊活動」している宗教団体がこの教団でした。税金がかからないし、寄付を得やすい心の問題をネタにしているので、莫大な資金が集まっているのだろう。かつて、寄付などで得た教団資金を教祖が個人所有としたことで、追徴課税されていました。これを読み、この日のその後山中の道沿いに点在している巨大な駐車場の存在の意味が解りました。
12:55「天満宮」。僕の先祖であるらしい菅原道真公を祀っているのだろうから参らねば。参道階段を上がると、境内に神輿が収められていそうな倉庫があった。小高い境内から見る景色の広がりは、そこかしこに秋色が点在し、気持ち良く休憩できた。
田舎道になっていたのに、また中央破線の有る道r522に広がった。13:10「信楽CC」内にある「信楽高原ホテル」。r522に下り、更に北上したところでr12に突き当たったので右折。「今峠」を越えて東側に下り、13:29R307合流手前にあった「新宮神社」。ここは陶器の里「信楽」です。
「鎮座1300年祭」の立て札が上がる古社です。『新宮神社御霊木・神鈴柿・樹齢300年』。柿の木って長生きなんだなあ。参道を歩き境内に至ると、本殿横奥に色づいた銀杏の大木が目立つ。この時期の銀杏の黄色は目立ちますし、僕が一番好きな紅葉は黄葉です。
『八雲神詠 素盞嗚命御歌 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
御祭神:素盞嗚命・稲田姫命・大山津見神
新宮神社は奈良時代の霊亀元年(715)9月に創建されました。それ以来、信楽町大字長野・神山・江田・小川の「産土神(氏神)」として広く人々から尊び崇められ社号を「新宮大明神」と呼ばれていました。これまでに近衛関白家を始め、近江の守護・佐々貴氏などに篤く信仰され、代々当社に坑内神領などの寄進がありました。
南北朝の戦(1336年)の兵火にて焼失して再建されたが、その後大風の為、本殿が大破し、寛文3年(1663)11月に現在の本殿が再建されました。
明治9年(1876)10月「村社」に、大正2年(1913)4月「神饌幣帛料供進神社」に指定、大正4年(1915)5月、長野字西出と字川東の2箇所に「山神社」として「大山津見神」を祀られていたのを、当社に合祀されました。大正13年(1924)には「郷社」に昇格。現代は「紫香楽一乃宮」として篤く崇敬されております』
『お陰さま 人は年齢今重ねることで成長していきます。私達が日々を重ね、年齢を重ねられる事は、大神様の目に見えない『お陰』があってこそです。日々の感謝を心静かに祈念しましょう』
境内に、信楽の代名詞「たぬきの焼き物」がハート型に置かれていました。インスタ映え目的で置かれたのかな?
信楽焼き物街を走り、信楽鉄道を渡ってストップ。13:49線路を写真に収めます。13:53「秋葉山玉桂寺」。梵鐘が下がっていたので、ぼ〜ん。賽銭箱が置かれていたのでチャリン。本堂に入り、お参り。本尊弘法大師を中心に、左右に不動明王と愛染明王。ボケ封じの護摩堂にも参った。不動明王が中心におられた。「家内や子供たちに迷惑を掛けないよう、ボケたらさっさとあの世に連れて行って下さいな。そして、新たな生を受け、僕の子孫に生まれさせてくださいな」。
『玉桂寺の文化財
高野山真言宗に属する古刹で、3件の甲賀市指定有形文化財を有する他、境内には滋賀県指定天然記念物の「玉桂寺コウヤマキ」がある。
甲賀市指定・木造阿弥陀如来坐像・平安時代 阿弥陀堂の本尊で、漆箔の像高142cmをはかる半丈六の坐像。穏やかに整った像容は定朝様を示すが、衣紋は深く刻まれ、12世紀もさほど降らぬ時期の造像と考えられる。
甲賀市指定・木造五劫思惟阿弥陀如来坐像・室町時代 阿弥陀堂に祀られる漆箔の像高99.3cmをはかる坐像。巨大な頭髪をいただく特異な姿は、きわめて長い時間思惟をめぐらす間に伸びた頭髪を表す。胎内銘文の書体から室町時代の造像を考えられる。
甲賀市指定・石造五輪塔・鎌倉時代 阿弥陀堂の左手に建つ総高158.4cmの基壇を含めた六尺塔として建立。花崗岩製。各部は梵字を刻まず素面。基壇は反花式の大和様式。基壇側面に「沙弥 正和5年9月日」の刻銘があり、正和5年(1316)の造立で、滋賀県内の在銘五輪塔では5番目に古い』
阿弥陀堂にお参りする。横には「玉桂寺八十八ヶ所霊場札所めぐり入口」があった。
バイクに戻り、307に戻り北上し、r16交差点の手前で本日2つ目の林道に突入。この林道沿いに「ミホ・ミュージアム」があり、その地名が田代だから、勝手に名付けて「田代林道」。この林道は舗装がイマイチで、穴凹があちこちに開いており注意しないとはまる。でもそれはまだマシで、峠を越えミュージアム側へ下り出して5〜6分未舗装路だった。
突然、中央白線の道路に出て林道が終了し、ミュージアムの方に登って行く。すぐに駐車場になり、ガードマンに指示され14:36P。噂に聞いていた山の中のミュージアム。バス停があり、専用バスが停まっていた。帝産バスも巡回しているようです。レセプション棟があり、ここでチケットを購入するようです。中に売店やレストランがあります。
屋外には、展示塔に向かう広い舗装路が出ており、車両進入禁止だから、一度に多くの方が出入りできそう。案内によると、トンネルを抜け展示棟に至るようだ。日本・中国・西アジア・南アジア・エジプトなどの教祖が収集した美術品が展示されているようです。
時間がないので下見だけでバイクに戻ります。林道との交差点を西に下り、r12に出て北上します。r16との交差点に来たので、左折してr16で西進。「大戸川」沿いを快調に下っていると、対岸にレンガ造りの建物が見えてきた。緊急停止し渡ってみる。
15:01「関西電力・大戸川発電所」。大戸川本流にダムはなく、発電所上の山の斜面を太いパイプが発電所目掛けて下っている。上に別のダムが有るのかと地図を見るが、それなりの施設はなさそうです。発電所から大戸川へは、すこぶる勢いの良い水が流れ出している。この水は何処から?
どういう仕組で水が流れて来るのが源流が気になって、帰宅後調べました。
『大戸川発電所諸元 歴史 所有:京都電燈(牧発電所)〜関西配電〜関西電力(現在) 明治44年(1911)1月運用開始
発電の区分 種別:一般水力 発電形式(落差を得る方法):水路式 発電方式(水の利用方法):流込み式
出力 認可最大出力:1600kW 常時出力:1165kW
水量 最大使用水量:2.783立方メートル毎秒
落差 有効落差:74.21m
設備 水車:横軸フランシス水車×2台 総出力2164kW 発電機:横軸三相交流同期発電機×2台 導水路:総延長4096.2m、主要導水路幅3.17m×高2.10m、延長3408.6m 上部水槽:縦22.30m×横12.60m×高3.60m 水圧鉄管:内径1400〜762mm、板厚6〜10mm、延長150.19m×1条 分岐管:Y分岐 条管:2条 入口弁:バタフライバルブ 放水路:幅4.50m×高3.00m、総延長37.5m
標高 取水位標高:200.30m 放水位標高:123.30m
面積 流域面積:148.0平方キロメートル
河川 取水:大戸川 放水:大戸川』
諸元から読み解くと、江戸川上流標高200mの所から取水し、4km導水して、発電所上部まで引いて、そこから一気に導管で水流に勢いをつけ発電水車を回し、位置エネルギーを電気エネルギーに変換し、標高123mの発電所のあるこの場所で大戸川に水を戻しているようです。
明治44年の土木技術なので、現代のような落差の有る巨大ダム建設が出来ず、人力でも可能なシステムにしたのですね。他にもこの発電所関連のデータが見つかりました。このレンガ造り発電所は、明治44年当時のままだそうです。
上流からここに至る水の導線4kmを歩いた方がおられ、写真付きで解説されていた。多くの導線は当時のままで、導線を渡る数本の見事な石積アーチ橋や隧道橋梁の写真を載せておられた。魅力的だが、発電所の真上に急勾配で走るパイプ横を歩いておられ、僕には厳しそうでした。
r16を更に下り、瀬田までr16で走りました。瀬田川を渡り、瀬田川沿いをR422で北上し、道なりにr102。r18との交差点から枝道に入り、15:31「和田神社」。
『祭神:高おかみの神 創建:白鳳4年5月勧請(紀元675年) 社殿:本殿(重要文化財)一間社流造軒唐破風附 建物:拝殿・神饌殿・収納庫・社務所・表門・石鳥居 境内社:五社ノ社・祭神天照大神・菅原道真公・稲荷社・祭神倉稲魂命(天保5年3月勧請)・山神社・大山祇神 境内:743坪
縁起:特統帝の朱鳥元年頃(686)から八大龍王社と呼ばれ、仁明帝の承和2年(825)から正おかみ天王社と改称され、明治維新の際膳所藩主の令達により、和田神社と改称さる。現在の本殿は、鎌倉時代の建築様式と代表する他に比類稀な特色を誇り、古代建築技術を保存するものとして著名である。明治35年国宝の指定を受け、その後昭和39年文化財保護法第115条の規定により重要文化財となった』
境内に不思議な形の屋根を持った蔵があった。レンガの壁があった。『昭和12年12月建、延長30間 寄進西田久兵衛』と銘板が貼られていた。大銀杏があった。『大津市指定文化財 天然記念物・和田神社のいちょう このイチョウ(公孫樹)は滋賀県下において、他に例を見ないほどの巨木で、樹高24m目通り周囲4.4mあります。樹齢は600年を経ていると推定され、多数の気根(地上の幹から出て空気中に露出した根)を垂れています。樹勢もすこぶる盛んで枝葉が密生し、樹形も均斉のよく取れた美しい姿を保つなど貴重な名木です。
また、このイチョウは和田神社の神木として、更に琵琶湖上から和田の浜の目標樹となっていたと思われます。石田三成が関ヶ原合戦後、捕われて京に護送される途中、休止の際につながれた樹でもあると伝わっています。
昭和51年12月に大津市保護樹木に、昭和53年月に大津市の指定文化財となりました』
本殿は檜皮葺で、千木・鰹木はなく、棟瓦でした。唐破風付きの屋根の棟瓦付きでした。『重要文化財・和田神社本殿 一間社流造の小さな社殿で、東面して建てられ、屋根は檜皮葺です。また正面には軒唐破風をつけるという県内では奇しい建築様式を持っています。この建物には、後世の補修の跡も多く認められますが、側面にあるすっきりとした美しい蟇股などの細部については、鎌倉時代の様式をよく残しています。
檜皮葺の屋根の棟から前後の軒先へ流れるような線は、檜皮の持つ柔らかさと相まって美しく、建物の特色の1つとなっています。明治35年7月31日に国の指定文化財となりました』
15:47「真宗大谷派・春台山響忍寺」。特徴は長屋門で、元家老屋敷だったそうです。黒板塀・白漆喰・瓦屋根の重厚な門で、これを見に来ました。
r18に戻り、R161を経て、16:08「セブンイレブン大津鏡が浜店」で、「明治ブルガリアヨーグルトブルーベリー138円+Wクリーム&チョコチップのパン138円+コッペパンいちごジャム&マーガリン118円=394円」を購入し、昼食としてイートインしました。
消費税がアップしたら、食料品軽減税率適用で、店内で食べると10%・持ち帰ると8%になるそうだ。なんか変な苦し紛れ感を感じる。こういうややこしいのはいずれ抜け道が出来て瓦解するでしょう。こういう小手先法案を持ち出さないと通らないような消費税アップ法案は、いずれ潰れそうです。
もう一つ、レジ袋をお客様負担にする法案も変な法案だ。資源消費を減らすのが目的なのに、レジ袋は石油製品の残り滓から作っているという。元々燃やしていたものを「勿体無い精神」で商品化し利益につなげたもの。
更にレジ袋って単に捨てるだけのものだろうか?我が家ではレジ袋入れがあり、しょっちゅうそこから出して再利用している。メインゴミ箱以外の部屋に置いてある小さなゴミ箱にはレジ袋がセットしてあり、ゴミ箱や手が汚れるのを防いでいる。箱のゴミ箱もレジ袋で、溜まったらそのままポイしている。
さらに言えば、かつてはレジ袋でゴミを捨てていた。大きなゴミ袋を使うほどではない、あるいはこまめにゴミを出す家庭は利用していた。レジ袋でのごみ捨て禁止になってから、ゴミ袋の消費量が飛躍的に伸びた。ゴミ袋はそのためだけの専用品で使い捨てです。レジ袋のように2次・3次・・・利用後の最後のご奉仕ではない。どちらが資源を大切にしているのか・・・
イートインしていると、ヨット部2回生女子部員が入ってきた。女子インカレで4日間一緒に過ごした子達です。僕か彼女たちの方を向きながら堂々とその動向を見ているのに、彼女たちは僕に気づかずに色んな商品を手に持ち笑い合っている。レジを終え出ていくときに僕に気づき、「こんにちは」って笑っていた。
17時から「代交代式」が始まった。僕より少し下の年齢のOB・Mさんが来られていた。リタイヤされて、ここから車で15分の雄琴に住んでおられる方です。今年卒業したTくん司会で始まった。大学院に進学する子が多いので、学部卒業したての若手OB・OGが沢山来ている。OB・OGが会費3000円で現役慰安の場です。テーブルには寿司・ビール・ソフトドリンク・フライド・チキン・・・いろいろ並び歓談。1回生470代表・スナイプ代表・女子マネージャー代表計3人が贈る言葉、2回生代表3人から。卒業していく4回生が一人ずつ、最後に彼らと最も長く同じ釜の飯を食った3回生が一人ずつ。休憩を挟みながら、笑いあり涙ありの時間でした。僕もスピーチさせられました。
最後に卒業生一人ずつに対してエールを切り、応援歌を歌い、恒例の琵琶湖周航の歌を全員で肩を組んで歌い上げます。応援歌を一番後ろで聞いていましたが、肩を組む時になって前にいた2人のOGが手を広げ「入ってくださいよ」と肩を組まれ、皆と供に唱和しました。両手に華で役得というもの。集合写真でお開きとなりました。
21時を回って終了し、多くの部員はそのまま合宿所に泊まるので、これから飲み明かすのでしょう。監督もOB部屋から日本酒を出してきて、テーブルを回りながら楽しそうでした。
バイク装束を着て帰路につきます。湖西道路〜名神〜吹田から中央縦貫道〜R171で、22:41「伊丹産業セルフ北村SS」で給油。198km/6.46L=30.7km/L。家内は夢の中なのでそっと自宅に忍び込み、風呂入って1日を終えました。ああ、楽しかった。


2018/11/4
4時過ぎに目を覚ましました。布団を片付け朝ごはんへ。4:28「ファミリーマート蒲郡大塚店」で「コッペパンいちご&マーガリン120円+コッペパンハムカツ125円=245円」を購入。車の中で食べました。4:52帰路につき、ハーバーPへ。恒例の海浜公園お散歩&朝のお勤め。
5:17旅館に向かいます。ロビーでスマホなどチェックしていたら、D社ヘッドコーチのNさんが降りて来られた。「朝のお散歩は観音様ですか?」と聞くと、数年前のインカレで同じ旅館に泊まった時、朝1人で観音様に散歩したそうです。翌日の散歩には現役選手が1人ついて来て、彼がその日トップホーンを鳴らしたそうです。それが縁起担ぎになったそうです。その翌日、誘っても出て来なかった選手が、最終マークまでトップを走っていたのに、沈して大きく順位を落としてしまい「観音様の呪い」になったという恒例の観音様行事の謂れを教えてくれた。そこに僕がジュニア時代コーチしたS監督や、次男がジュニア時代好敵手だった琵琶湖ジュニアのN選手の弟Nコーチがやってきて、2日目の連続トップやWとトップ争いしてる当方の話になり、急成長を褒められた。こそばゆいばかりだ。D社は優勝を諦め、同じ琵琶湖勢の当方に負けないよう逆転を狙うのだそうです。まあ点差が開いているので、当方が大叩きしなければ大丈夫なセーフティーリードです。
D社さんが朝のお散歩に出た後、6:29旅館海陽閣で家内へのお土産に「蒲郡みかんしっとり蒸しケーキ・650円」を購入。美味しいかな?
7:10、部員を乗せてヨットハーバーへ。いよいよ最終日です。小松さんが向こうからやってきたので、「総合優勝決まりですね」と挨拶。学生時代のナショナルチームでのつながり、ヤマハチームに誘っていただいたり、OP協会理事の時はジュニアナショナルチーム合宿担当理事として小松コーチを招聘した。次男がナショナルチーム当落線上だった頃、何度も他チームコーチとして参加されていた小松さんと会いました。目標の総合優勝をほぼ手中にし、柔和な顔になっておられました。「今はどちらで・・・」と聞かれたので、名刺を出しコーチしてる大学名を伝えました。
珍しいNEですが良い風が入っており、レースは出来そうです。いつものようにレース艇出艇前にレース海面に出て海象データを取ります。ハーバー沖に戻り、レース艇が出て来るのを待ちます。D旗が揚がり一斉にレース艇がハーバーから出てきました。470を少し追いかけまた戻り、S級が出て来るのを待ち、3艇引っ張ってレース海面に向かいます。
スタートが迫る10時前、風が落ちてしまいました。「これはAP(延期)旗だな」と予想しましたが、470スタートマニューバリングは予定通り始まりました。当方はスタートラインの右・左・中央とバラけてスタート。右(南)海面の風がなくなり、左が良さそうです。ところが、南から優勢なブローが降りてきて、右に出していた当方3番艇がトップを伺う勢いで走り出しました。まあ、この大きな振れはノーレースでしょう。予想通り本部船にN旗が揚がりノーレース。スタートやり直しです。
本部船にL旗が揚がり移動し出したので、スタートラインから離れている470を曳航します。小雨が落ちてきて風向NW300°・6ノットで、10:59スタート。続いてS級スタート。第8レースは、470が42・49・47位=138点、S級が12・21・5位=38点とまたまた優勝ターゲット得点45点を下回りました。S級フィニッシュ時N/Aが揚がりこれ以上のスタートはありません。S級の全日本インカレは終了です。Wの成績如何ですが、更にトップWに迫ったと思われる。支援艇・陸上からの連携で、差を32点詰め9点差まで迫りました。
470がフィニッシュした時、もう次のスタートはないと下マーク・フィニッシュ付近にいた支援艇がハーバーバックしました。マストに掲げていた部旗をコーチボートがもらいました。逆転優勝すればマストに揚げさせよう。
2位だったけど、フラッグをスナイプチーム・キャプテン艇に渡し、3艇6人にガッツポーズさせ写真に収めます。470が10ノットNWコンディションで、最終スタートリミットジャストの12:00にスタートしたので、S級と共にハーバーバックできないのが残念です。ついて行けたら、マストトップに部旗を掲げてハーバーに凱旋しようと思っていました。ハーバーに着いたら部旗をマストトップに掲げ、バースまで帰るよう指示しました。
470最終レースは、57・55・34位=146点で後半6レース連続で3ケタ得点で更に順位を下げ、最終クラス別15位でした。総合は6位から8位に下がり、総合6位入賞の目標は達成できませんでした。残念。
470と共にハーバーバックしました。きっともう少しやれると思っていたはず、僕もクラス入賞争いは出来ると思っていました。細かい雨が降り続いています。車に戻り、カッパを脱ぎユニフォームに着替えます。リアゲートを上げ、その下で昼食用のパンを食べます。D社同期のHくんがちょうど通り、あ〜だこ〜だ。閉会式まで残っているなら一緒に帰ろうかと大会前に話していましたが、先にD社先輩の車に便乗して帰るとのこと。
ハーバー2Fに上がり、マテリアルの補充用にノースショップを訪問。学連つながりの知り合いKさんが、毎年開催ハーバーで臨時開店してくれています。また、あ〜だこ〜だ。
レース艇のトラックへの積み込みが始まっています。当方のそれを見ていたら、横で日経チームが積み込んでいました。自家用車にヒッチメンバーをセットし、ラックを引っ張って移動するお気軽スタイルです。三船監督がテキパキと指示しています。
クロージングセレモニーが始まりました。当方S級レギュラー6人が、銀メダルを掛けてもらっています。もちろん僕は写真班です。写真班を離脱し後方に移動すると、三船さんがいました。
「優勝おめでとうございます」と声を掛け、ニューバージョンの名刺を渡します。ヨット好きの三船さんだけあり、「お宅んとこの紺色のボートに乗ってる子は乗り方が良いね。彼がスナイプリーダー艇?」と聞かれたので、「いえ彼はまだ1回生です。ジュニア・高校ヨット部上がりです」「まだ3年あるんだ。将来有望で芯になるね。スナイプ良く走ったよね」。「いやあまぐれです」と答えると、「ヨットはまぐれじゃ走らないよ。良い練習しているね」と褒められたり、あ〜だこ〜だ。
インフレータブルRIBをレンタルした会社のU社長さんが、去年同様ハイエースでやってきました。ノースのKさんと話している所に加わり、当方インフレータブルのエンジンを海中に没してしまったので、「新艇や中古艇を買うかも?よろしく」と声を掛けておきました。Uさんは次男のジュニアヨットクラブの後輩のお父さんで、脱サラして会社を立ち上げました。去年の全日本最終日に会い、レンタル費用など聞いて今年のレンタルに繋がりました。
九州大学が4回生を胴上げしています。それを遠巻きに見ていたエリちゃんのご両親に声を掛けます。お嬢さんも今年で卒業、きっと胴上げされたのでしょう。「何処にいてたの、OP時代お世話になったので挨拶したいと、鹿児島のお母さんが探してたのよ」とお母さんに言われちゃいました。
最後のミーティングを終え、部員全員の帰路を確認し、チームは解散しました。来週土曜日は、4回生から3回生への代交代式です。
17:10、雨の中帰路につきます。17:29「オレンジロード蒲郡SS」で10Lガソリン補給。R23バイパスに乗り西進し、「豊明IC」から伊勢湾岸道に乗り、東名阪に乗り換え、18:44「御在所SA」でトイレ休憩。「ファミリーマート御在所SA」店で、「Wコーン北海道ミルク194円+バニラクリームサンド108円=302円」を購入し、アイスを食べ糖分補給。
19:12出発し、亀山JCTから新名神に乗り換え、草津JCTから名神。名神は大津に向かって渋滞しており、「京滋バイパス」に逃れ、大山崎JCTから名神に戻り、中国道にチェンジし、「豊中IC」から中央縦貫〜R171で、21:04帰宅。「ただいま〜」、家内がまだ起きていました。「どうだった?」「2位だったよ」「そう、凄いね」。いつものように後片付けして、風呂に入りヨーグルト持って自室に上がりおやすみ〜。楽しく充実した4日間でした。


2018/11/3
4時半過ぎに目を覚まし、布団を片付け朝ごはん調達に車を走らせます。4:53「ファミリーマート」で「ブルガリアヨーグルトプレーン168円+ブルガリアヨーグルトブルーベリー137円=305円」を購入し、車内で食べました。ヨットハーバーPに戻り、朝のお散歩に海浜公園に出ます。ついでに朝のお勤め。
6:31、部員の泊まっている宿に向かい、ロビーでスマホで天気予報・風予報サイト(Windy)をチェックしながら、現在の風向と実際の海面への風の入り方を確認します。Nの陸地から吹く風なので、地形の影響を受けやすいので要注意です。ブローポイントを的確に走れるかが勝負の分かれ道です。D社・KGの選手やコーチ監督が朝の散歩に出ていきます。僕も学生時代は第1レースに最大のパフォーマンスを発揮すべく、逆算してスケジュール管理していました。
1日の内最高のパフォーマンスを発揮できる時間帯は起床後4時間。朝起きたら朝日を浴びて睡眠物質を消し、活動物質をみなぎらせます。10時第1レースなので、6時に朝の散歩に出て身体を目覚めさせるのは、生理学的に理にかなっている。7:25、部員を乗せハーバーへ。この日も風・潮の流れを見るため、レース艇出艇前にコーチボートで出る予定でしたが、風が弱くAP(延期)旗が上がりそうなので待機することになりました。大学ヨット部同期の山崎くんが、女子インに続き東京から来ていました。ハーバーで会い、あ〜だこ〜だ。3回上の先輩方も来ているはずですが、出身校の応援クルーザーの方で船を出せず屯しているそうです。「そっちに行かないの?」と問うと、「学生の顔を見ている方がいいから」とのこと。
僕も毎月定期購読しているヨット雑誌「舵」の取材が当方にありました。昨日の連続トップのインパクトは大したものです。スナイプリーダーA君 ・トップホーン2連発のKキャプテン・そのクルーN君。I監督の他に僕までインタビューされました。大会事務局長をしたOP全日本選手権の観戦記を頼まれて以来の雑誌登場があるかもしれません。続いてヨットウェブ雑誌・「バルクヘッドマガジン」の取材がありました。カメラマンが、なんと早稲田470スキッパーみさきちゃん。次男のジュニアクラブの後輩です。早稲田の470スキッパー3人の内2人は当クラブ出身です。「バルクヘッドに就職したの?」と冗談を飛ばすと、「アルバイトです」と冗談で笑って返してくれました。しばらく風が入りそうにないので、完全にリラックスムードです。
九大4回生470スキッパーえりちゃんのご両親と話しました。レース前に沖に出て観測していることを話すと、お父さんから蒲郡沖のカレントサイトを見せてもらった。コーチボートに行くと、桟橋上で関大監督のTさんに会った。TさんはWのみさきちゃんのお父さんで、この日はレースがない雰囲気なので、Wが総合優勝に近づいたことを祝福した。そしたら、前日の当方のスナイプ連続トップの話題が、色んなとこで話されているようで、ノーマークの当方がWに続き2位と大健闘なので驚いているという。
長い待ち時間が続き、タイムリミットが近づく13時過ぎ、OPが練習に出ていったのに続き、大会運営から「運営艇を出します。運営スタッフは集合ください」のアナウンスが流れた。これを機に各大学が動き出した。最も早く動いたのが当方で、スロープの先頭にレース艇3艇を並べた。それに遅れまいと各校が続き、スロープは470レース艇で埋まった。
でも、出艇開始のD旗が揚がらず、再びダラダラし始めた。ついに15時前になりAP/Aが揚がり、本日のレース終了。片付け時間となりました。15:21、部員を乗せ宿へ。レースメンバーミーティング、クラス別ミーティングを終え、この日から増えた若手OBが部員たちを食事に連れて行くという。S級と470と別れて出た。僕は前日S級のクラス別ミーティングに出たので、この日は470に出た。
その流れで、部員をインド・ネパールレストランまで送っていくことを、車が足らないので頼まれた。17:55宿を出てレストランに送り、18:10レストランと道を隔てたコンビニ「セブンイレブン蒲郡八百富町店」で、「プレミアムプレーンヨーグルト400g138円+明治ブルガリアヨーグルトブルーベリー138円+プレミアムつぶあんパン4個100円+コッペパンいちごジャム&マーガリン118円+味付け海苔エビマヨネーズ130円+手巻おにぎり辛子明太子140円=764円」を購入。
何処かに食べに行く事も考えたが、またここに戻って来ないといけないので、広いPでおにぎりを食べ夕食にした。スマホを見ると、D社の僕の同期Hくんからの着信履歴が残っており、コールバックした。「コーチボートで沖に出ることもあるので、電話を車に置いたままで電話あったのわからんかったわ」「お〜、今宴会中や。おまえんとこ凄いやんか。やったな!連続トップと2位が酒の肴になってるで」と嬉しい話が聞けた。
20:11、部員たちを乗せ旅館へ。監督・コーチ部屋であ〜だこ〜だ。21:37、旅館を出てハーバーPへ。すぐ寝てしまいました。


2018/11/2
目を覚まし、3:52「ファミリーマート蒲郡大塚店」で「ブルガリアヨーグルトプレーン168円+ブルガリアヨーグルトブルーベリー137円=307円」購入し、イートインしました。ハーバーPに戻り、海浜公園を朝の散歩しました。車に戻り、携帯電源に繋いだPCで天気などの情報を確認しました。風向NWで8ノット、琵琶湖セイラーの得意な軽風です。さあ、上位進出しましょう。
6:06、部員の泊まっている宿に向かいます。6:10同志社チームが朝の散歩に出て行きました。丘の上の観音像にお参りに行くのでしょう。ロビーでPC使おうと思ったら、無料無線LANはモバイルのみで繋がりませんでした。
7:36部員を乗せ出発し、7:39ハーバー着。レース2日目が始まります。前日同様の動きでコーチボートに乗りハーバー沖で待機していると、D旗が上がり470レース艇が出てきました。当方3艇が一番にハーバーから出てきて、6m/s(12ノット)の風を受け、スピンランでアビームですっ飛んでいきます。少しついていきハーバー沖に戻ります。S級が出てきました。こちらも当方がトップで、選手の気合を感じます。
10:52、470級この第1レース(第4レース)スタート。続いてS級スタート。風速が少し落ち6ノットで、南西にあるブローラインを使った艇の方が良いようです。470は33・48・5位=86点、やっとノルマの90点を切ることが出来ました。S級は13・36・3位=52点で上出来です。
11:55、第5レーススタート。風速は少し上がり9ノット。470級は40・57・11位=108点、S級は22・11・10位=43点、優勝争いできる低得点です。13:07、8ノットで第6レーススタート。470級48・43・21位=112点、S級1・7・16位=24点。優勝ラインの1レース45点を2回連続でクリアしました。3・4・5・6レースと4回連続優勝ライン前後の得点が続きました。他大学の得点にもよりますが、これはかなり上位に上がった模様です。現役部員やOBが乗る他の2艇の支援艇クルーザーから、上マーク・下マーク回航順位が続々LINEで入り、フィニッシュ暫定データを陸上PCで集計して暫定順位がLINEに入ります。
本来この日も3レースの予定でしたが、明日の風速がイマイチなので、次のレースのマニューバリングに入りました。14:25、第7レーススタート。更に風速が落ち6ノットです。470級33・53・44位=130点、S級1・52・8位=61点。15:42、N/A旗が揚がりこの日のレース終了。本日S級は大爆発し、一気にトップ早稲田に急接近し、2位に大躍進しました。近年にない快挙です。
ハーバーに上がると、他校のコーチや監督から「凄かったね〜連続トップじゃない」と祝福されました。「いや〜まぐれまぐれ。こんなことないから、コーチボートで大はしゃぎしましたよ。選手とバンザイバンザイですわ」なんて謙遜しながら、選手のお陰で気分上々です。
前日同様の動きでハーバークローズの17時直前に出て、17:20「セブンイレブン蒲郡三谷北通1丁目店」で、「Wクリーム&チョコチップのパン138円+プレミアムフルーツオーレ500ml100円+明治ブルガリアヨーグルトプレーン168円+ワッフルコーンミルクバニラ192円+手巻おにぎりツナマヨネーズ115円+手巻おにぎり辛子明太子140円+ケイエスびっくりどら焼108円+ブルガリアヨーグルトりんご&白桃138円+コッペパンいちごジャム&マーガリン118円×2=236円=1335円」購入。乗せた女子マネさんのリクエストで、最寄りではないコンビニに来ました。コピーしたいので、コピー機があるのと、D社・KG・明海と同宿なので最寄りコンビニは品薄気味なのでこちらの方が良いそうです。
17:41宿に戻り、前日同様の動きでミーティングしました。21:30宿を退散し、21:34ハーバーPにで「おやすみ」。


2018/11/1
コーチしてる大学ヨット部の今年の集大成・1年間目標にしてきたレース・全日本インカレ団体選手権です。11/1〜4まで愛知県の蒲郡ヨットハーバーで行われます。全国の大学ヨット部がこの大会を制するために1年間頑張ってきました。楽しみです。
10/31の仕事を終え、20時に帰宅し、車に乗って出発。積み込むものは朝積みました。20:59近所に新しくオープンした「セブンイレブン」へ。家内に「これ欲しい」と言われていた食パンが無料でもらえるチラシを持たされました。「プレミアムひねり揚108円+プレミアムフルーツオーレ500ml100円+厚切ハムカツパン198円+コッペパンいちごジャム&マーガリン118円×2=236円値引き-180円=552円」を購入し、住所氏名を書き込んだチラシと引き換えに食パンを頂きました。そう言えばそのまま行くから、家内に渡せるのは4日後です。
R171〜中央縦貫〜吹田ICから名神高速。大山崎JCTから京滋バイパスに乗ろうかと考えましたが、期間がはっきり見えなかったが「集中工事で通行止め」と案内が出ていたのでそのまま名神で京都を通過し、草津から新名神に乗り換えました。新名神は路肩が広く走りやすい。トンネルも大きく広く気持ちが良いです。トンネル内火災など起きても退避しやすいようにしているのでしょう。路肩にもう1車線作れそうです。22:26「甲南PA」でトイレ休憩。
22:34出発し、東名阪道に乗り換えると渋滞しており、四日市まで続くのかとがっくりしましたが、事故渋滞で1車線しか通れなくなっていました。23:27「御在所SA」に到着し、トイレ拝借後車に戻り2・3列目座席を倒し布団を敷いて「おやすみなさい」。
翌11/1は2時に目覚めました。2時間半しか寝てないけど出発することにします。四日市から伊勢湾岸道に乗り換え、豊明ICで下車し、R23バイパスで蒲郡を目指します。終点・蒲郡ICまで乗り、南下してR247で3:24「海陽YH」着。再び「おやすみ」。
5:30に目を覚ましました。これでトータル4時間半睡眠。大塚海浜緑地公園を散歩がてら朝のお勤め。6:16に部員たちが宿泊している旅館「海陽閣」に移動し、海の様子を見ます。大会初日の風向はNW・10ノット・島と本州の間の水道からの風です。
ロビーで部員たちが降りてくるのを待ち、7:24部員を乗せ出発。ハーバーに着くと、各大学が来ていて艤装・チューニングに盛り上がっている。学生スポーツのこの一戦に掛ける喧騒が好きです。バースを一巡りします。総合優勝候補・早稲田のバースには小松コーチがいる。
3回生の時の全日本470で1上ダントツトップ回航した時、2位回航が小松さんんでした。30艇身ほど離していたのに、ブローで沈してしまいました。横を小松艇が抜いて行く時、「頑張れよ」と声を掛けていただきました。オリンピック選手で日本トップセイラーだった方に声を掛けて頂き嬉しかった。
このレースで走り、学生で唯一ナショナルチーム入りし、ナショナルチーム合宿でも一緒だった。その合宿で、小松さんのヤマハチームに来ないかとヤマハに就職することを誘われた。ヨットばかりの人生は違うと思い縁がなかったが、あの時ヤマハチームに入っていたらどんな人生だったろう。その後、ジュニアヨット理事の時、小松さんにコーチングに来ていただいたこともあった。合宿中、ずっと同じ部屋に泊まり昔話をしました。
470クラス優勝候補・日本経済大のバースには、三船監督がいる。ナショナルチーム合宿で、同じ選手でありながら丁寧に教えてくれたのが三船さんでした。小松さんを破りモスクワオリンピック代表になりましたが、日本のオリンピックボイコットにより幻となった方です。
その後、次男がジュニアヨット時代、全日本で「お宅のクラブに、良い女子選手がいるらしいね」と声を掛けてくれました。日経の監督になり、「オリンピック選手を出したい」という大学理事長の希望により、有望な女子中学生選手を探していた。次男と同じ学年の子に白羽の矢が当たり、高校から福岡にヨット留学し、ロンドンオリンピック代表になりました。彼女は次の東京オリンピック目指して活動しています。懐かしいな。
10:05、470級第1レーススタートで、その40分前9:25にD旗(出艇)に揚がり、一斉にレース艇がハーバーから出ていく。その後スナイプ級も出艇する。レース艇出艇中はコーチボートなど支援艇は出艇禁止なので、9時にコーチボートを出しました。僕は大会期間中ずっとコーチボートです。ドライバーの女子マネ2名・交代選手2名・若手コーチ2名と一緒です。ボートはレンタルしたインフレータブルボートのRIBです。琵琶湖から持ってきたインフレータブルは、1週間前の練習中にエンジンを海に落としてしまい使用不能です。RIBを借りてて良かった。
当クラブの目標は、6位入賞なので、1レース3艇合計で90点以内です。コーチボートを出す前のブリーフィングで、横文字失格すると1艇で73点を叩いてしまうのでそれへの注意と、「レースを楽しもう」と話した。良い成績の時も悪い時も、フィニッシュ後は淡々と次のレースに向けて準備をし、笑顔を絶やさず「この大会に出場できた喜び」を忘れないようにと。スポーツは真剣に楽しむことが技術を伸ばします。
NW13ノットのコンディションで、第1レースがスタートしました。470は15・36・46=97点、S級は50・30・32位=112点。両クラス90点以内は行けると思っていましたがレベルが高く厳しいスタートとなりました。第2レースは470が23・38・35=96点、S級が30・29・21=80点。やっとS級がノルマの90点以下を出せました。
この日の最終第3レースは、7ノットまで風が落ち得意の風域になりました。470は39・50・18=107点、ああ3桁得点しちゃった。初日クラス別12位です。でもS級が13・5・9=27点という驚異の低スコアにまとめ、一気にS旧クラス別6位入賞圏内に入って来ました。
14:11予定通り3レース終了しハーバーバック。スピーディーに片付けます。部員が九州大学に続いて多く70名弱なので、少しは楽でしょう。陸上部隊・女子マネージャー部隊が走り回っています。ハーバーが17時クローズなので、各大学その直前に門を出ます。
部員を車に乗せ、17:05「ファミリーマート三谷店」で、「コッペパンいちご&マーガリン120円+コッペパンコロッケ&たまご138円+ブルガリアヨーグルト低糖118円+ブルガリアヨーグルトいちご137円+助六寿司398円+窯焚風いなり寿司3個200円=1111円」買い込みました。1回生女子マネ2人が何も買わないので、「もう明日の分買ってあるの?」と聞くと、旅館でPC使って成績集計作業している同回生女子マネさんがいるので、終わってから皆で行くとのこと。
宿に戻り、監督部屋に入ってあ〜だこ〜だ。レギュラー選手+サブ選手+サポートリーダーのミーティングが4回生部屋で始まりました。気付いたことを話しました。キャプテンが、朝も話した「特別なことはしなくていいから、いつものことをいつも通りに」と締めました。風呂に入り、ハーバーPに戻って布団を敷き21時過ぎに夢の中。1人なので気楽で、静かなので自分の時間で過ごせます。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
inserted by FC2 system