-ウェブマスター日記 2018/9-10

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2018/10/28
5時を過ぎて目覚めました。1日海に出て疲れたのでしょう、いつもより目覚めが遅い。それに引き換え、エンジン落下という緊急時、ヨットに乗って練習していたのにもかかわらず、勇んで出ていく男の子達には無限の体力を感じました。RIBドライバーを除いて女子部員達を先に陸上に上げる男の子の強さと優しさを感じました。決して彼女の責任ではないのに、エンジンを落としてしまいしょげているインフレータブルをドライブしていた女子マネさんを気遣って、笑い話をして笑顔にさせようとする男の子達は、正に女性に優しい体育会系で益々好きになりました。僕もこうだったのかな?そんなところを感じて、家内は僕を選んでくれたのかな?
5:42、YHを出発し、また「ファミリーマート蒲郡大塚店」で「なめらかクリームパン100円+ブルガリアヨーグルトブルーベリー137円=237円」を購入。イートインで朝食を取り、YHに戻り公園のトイレへ。近くの宿に泊まっていたのか、何処かの大学ヨット部員が公園に向かって散歩していました。海まで行き、体操を始めました。僕も学生時代はこうでした。5時起床で、ランニング・体操などして身体を目覚めさせていました。
東の稜線がオレンジ色です。朝日が顔を出しとても綺麗。車に戻り、6:42「海陽中等教育学校」。続いて「天然温泉ラグーナの湯」。「7:00〜22:30 大人1030円小学生520円 保護者同伴に限り、小学生未満のお子様のご利用は無料。料金にバスタオル・フェイスタオルの貸出料を含みます」。横で大きなホテルが建設中でした。「HOTEL LAGUNA HILL」というのがありました。更に「casa Mediterranean Restaurant & Bar」というお洒落そうなレストランがありました。「準備中 I wait a second・・・ Lunch 11:00-15:00(Lo/14:00) Dinner 17:00-22:00(Lo/21:00)」。ラグナマリーナより高いので、ハーバーを見下ろす感じで見えます。レースを終えて、のんびり夕食したいね。
6:57「フェスティバル・マーケット」着。ラグナシアの横にあるショッピング施設です。「駐車料金 最初の1時間無料 その後20分毎に100円 フェスティバルマーケット内のお買い物2000円以上で合計3時間無料 入庫7:30〜21:40まで可能 出庫22:00まで可能」。トイレを拝借しました。ウォシュレット完備で素晴らしい。
7:15ヨットハーバーに戻ってきました。合宿所に行くと朝食中でした。7:30にハーバーオープンするので、食べ終わった部員からバラバラとハーバーへ。多くの大学がセッティング中です。9時になり出艇。6m/s・NWの昨日同様水道から吹く良い風です。
インフレータブルが無くなったので、RIBにマネさん2人乗り交代で運転です。レース本番まで、このボートの運転に慣れておかないと。470が1艇、他校のレース艇計測のため出ません。学連委員はレース運営にも関わるので大変です。
12時にハーバーバックし、タッパウエアお弁当昼食。午後から当方主催のレースなので、参加校運営員が集まり、コースなど説明を当方キャプテンがします。ホーンとフラッグの一部を他校から借り、当方が用意したものを差し替えます。14時スタートです。7月に北海道大学主催で行われた7大学定期戦が、風がなく1レースも出来ずに流れたので、7大学戦参考大会でもあります。両クラス全日本に出場して来たのが北海道・九州と当方だけだけど・・・。
13時に出艇し、レース海面に出ます。当方RIBが本部船なので、スタート中央に位置します。まずアンカーを打ち、固定しているのを確認しポールにオレンジフラッグを掲げます。運営艇との連絡はLINEです。陸上でレースLINEグループを作りました。左右にスタートラインになる両サイドの運営艇がセットされ、上マークと下マークをセットしました。
レース艇が、バラバラと集まってきて、「・・大です、お願いします」「はい」。14時になりレーススタートマニューバリング開始。470スタート5分前・4分前・1分前・スタート&S級スタート5分前・4分前・1分前・スタート。スタート準備信号はU旗です。
1レース30分のレースを2本して、15時になったので終了。全体的には法政大学が上位に来ていました。2レース目のS級で当方は1・2で下マークまで行きましたが、フィニッシュは1・5でした。470も含めマアマアです。7大学戦参考の方は、九州と当方同じぐらいかな?2レース目から参加する大学もあり、「すいません、・・大ですが参加しても良いですか」「いいよ、次・・時スタート、コースはこの図の通り、マークは・・・」とホワイトボードを見せながら説明します。各クラス10校前後30艇オーバーのレースになりました。
「・・大です、ありがとうございました」、体育会は気持ちが良いね。ニュースを見ていると、東京新宿はハロウィンで大変なことになっているらしい。トラックを倒したり、自販機を潰したり、まるで暴動です。アメリカでは、小学校低学年までの子が仮装してバケツ持って家を回り、お菓子もらうお祭りなのに、日本では若者の馬鹿騒ぎ日になっています。体育会の若者はこんなことやらない。上下関係・挨拶・お礼が出来る気持ちの良い若者に育ちます。就職した時、「君はしっかり挨拶できるね」と入社初日に褒められた記憶があります。挨拶なんて基本中の基本です。自分をキチンと持っていない若者が集団になると気持ちが大きくなり、集団心理で「悪いこと」をすることに平気になります。
16時にハーバーバックし、解装して17時過ぎに合宿所でミーティング。気付いたことを話します。「優勝は3艇合計で1レース平均45点、6位入賞ならその倍90点なので、決して僕らには高すぎる目標ではない。失格は1艇で73点なので、注意して臨もう。日頃の力を出せれば可能です。4日間全レース終了後、皆で笑おう」。掃除してクラスミーティングして解散です。明日1日のオフ日に京都に帰る人は半分ぐらいで、他はそのまま来週末のレース終了までここにいるのかな?
僕は帰路につきます。17:41YH発。R23〜伊勢湾岸道〜東名阪道。19:25「御在所SA」着。トイレ休憩して、19:41御在所SA出発。新名神に乗り換え、20:36「名神高速・草津PA」で休憩。「バニラソフト140円」を購入して糖分補給。20:58出発して、京滋バイパス〜名神高速〜吹田ICで下車し、中央縦貫〜R171で御用達GSで満タンにして、22:03自宅着。
家内はもう夢の中のようなので、静かに片付け、風呂に入りヨーグルト食べて夢の中に落ちました。2日間、ああ楽しかった。


2018/10/27
コーチしてる大学ヨット部の最終戦「全日本インカレ団体戦」本番1週間前になりました。「レギュラー+αチーム」は、今月初めからレース海面・「海陽ヨットハーバー」入りして練習しています。僕は先月このレース海面で行われた「女子インカレ」遠征チームのサポートで、久しぶりのここの海面(風向・風速・ブローの入り具合など)を見ることが出来たので、今月は居残り琵琶湖チームのコーチングに行っていました。
今週末は一泊で海陽遠征チームに合流してコーチングします。10/26、仕事から帰宅し用意していた一式を車に積み込んで、21:06自宅を出発しました。R171〜中央環状〜吹田ICから名神高速に乗ります。雨が降っています。
21:56、「大津SA」着。ぶらぶら売店を見ながら休憩。レストラン・メニューを見ると、ブラックバス料理も健在でした。家内と食べたことがあり、淡白な白身でアジのフライに似た美味しさでした。各地で外来魚の大繁殖による在来種の駆逐が心配されていますが、食べちゃえばいいのにと思いました。陸上での鹿の大繁殖にも言えますが、駆除なんて感覚では減らないように思います。「駆除」という言葉には「悪者」イメージがあり、きっと太古の昔から食べてきた「食材」としてのイメージを流布しないと・・・と思います。まあ、鹿肉は猪と違い硬いので、料理方法の工夫をしないといけないでしょうが・・・。
22:12出発し、草津から「新名神」に乗り換え、22:45「新名神土山SA」着。「セブンイレブン土山SA店」で、「ブルガリアヨーグルト甘橘ミックス180g138円+明治ブルガリアヨーグルトブルーベリー138円+コッペパンいちごジャム&マーガリン118円+プレミアムひねり揚108円=502円」を購入。
コンビニは400gプレーンヨーグルトを売ってないお店もあるのでイマイチです。半分容量の「ブルガリアヨーグルト」では量が少ないし、甘すぎます。僕は毎晩プレーンヨーグルトにブルーベリージャムを少し入れて、晩酌のように晩ヨーグルトを食べて寝るのを習慣にしています。僕はお腹が弱く、生後4ヶ月の時、腸重積症という小腸が大腸の中に入り込む大病をしました。致死率が80%にもなる大病で、緊急手術するという小児科から、医学知識のある母が「手術に成功しても体力が持たない」と強引に僕を引っ張り合って取り戻し、阪神間基幹病院にタクシーで走りました。その時お医者さんに「人殺し」と罵倒されたそうです。
朝から痛くて泣き続け、泣く力も弱くなって限界に近づいていた僕は、基幹病院に夕方滑り込みました。幸運にも、仕事を終え帰宅準備していた小児科医長先生がまだ病院におられ、僕を見た小児科医が「これは大事」と医長先生を呼ばれました。
僕の腸重積症は間欠性で、入り込んだままではなく、時々抜けるようでした。抜けると痛くないので泣くのが止まります。「これは間欠性なので、手術しないでも治る」と判断した医長先生は、高圧浣腸装置が用意されました。
ブリタニカによると、『太いネラトンカテーテルを直腸内に深く挿入し,約 1mの高さに保持したイリゲータから 300〜1000mlの微温生理食塩水を注入する浣腸の方法。小児の腸重積症の初期治療に重要なもので,これだけで整復できることがある。成人でも,大腸検査の前処置,頑固な便秘,軽度の腸閉塞症状などに用いる』とあります。
ここで研修中のインターン学生達を至急呼び集め、珍しい大病「腸重積症」の僕を生きた見本としてお腹を触診させました。僕が泣き出すと、医長先生が触診し、「今入ってる、触って確認してみろ」とインターン学生達を代わる代わる触らせたそうです。小腸が大腸の中に入り込むとゴリゴリしこりが出来るそうです。消化器系未発達で生まれてきた乳児・幼児が患者のほとんどなので腹筋がなく、触診してその存在がわかるそうです。それを見ている母は、「早くなんとかして〜」と心の中で叫び、気が気でなかったそうです。
そして、高圧浣腸ドーン。肛門から高圧浣腸生理食塩液が注入され、盲腸部分で入り込んでいる小腸を上部・胃十二指腸側に押し出します。抜けると僕は泣き止み、また「ほら、抜けた。触って見て違いを感じろ」と、またインターン学生達が入れ代わり立ち代わり。入れば高圧浣腸でポンと押し出すこと数回。その晩含め数日入院しましたが、その日以降腸重積を起こすことがなく現在に至っています。
僕はお腹が弱く、強くしようと牛乳を飲ませようとしましたが、カゼインを上手く消化吸収出来ないようですぐに下します。そこで母は、宅配牛乳に僕用にヨーグルト注文し、毎日食べさせました。
それ以降もよくお腹が痛くなり、高温40℃以上の熱が出る弱い子でしたが、小学校で出る給食の牛乳1本は飲めるようになりました。でも体調の悪い日はダメで、よく友達に上げていました。
小学生時代の目標は「1ヶ月皆勤賞」で、よく学校を「お腹痛&発熱」で休みました。小児科で必ず打たれるブドウ糖注射が嫌でたまりませんでした。3・4年生の時、慢性腎炎になりスポーツは2年間ドクターストップになりました。体育の時間は見学で、とてもつまらない時間でした。
父は中学の時、剣道と駅伝の選手で、母は小学校〜女学校まで、短距離で学校代表として県大会に出るランナーでした。その遺伝なのか、僕は走るのが早く、小学校時代はサッカー部と家庭科部で楽しみました。
中学受験当日も「お腹痛&高温発熱」になり、母は「休んだら良い」と言いましたが、猛勉強してきたのにチャレンジも出来ないのが嫌で、僕は「受験する」と言い張り試験会場に臨みました。2日目の体育試験では、垂直ジャンプも遠投も全然ダメでショックでした。でもペーパーテストの方は上手くいき、得意な算数は2日間とも100点満点で、合格出来ました。
中学に入っても身体は弱く、2年1学期終了直後の学校が所有している瀬戸内海の無人島キャンプに参加できませんでした。楽しみで、枕元に用意したリュック一式を置いて寝たのに、朝目が回っており、またお腹痛と40℃超え高熱発熱で歩くことさえママなりません。とても残念な思い出です。今でも中学の仲間と会うと話題に出る無人島キャンプですが、僕は話題に入れません。大人になって、学校からヨットを教えて欲しいと大学ヨット部OB会に依頼があり、勇んで出かけました。私語以外の公式会話は全て英語で、朝礼・食事前のお祈り・キャンプファイヤーなど、頑張って英語を使う中学生を頼もしく見ました。
この時は虫垂炎の痛みと熱で、手術することになりました。夏だったので腹膜炎が併発する危険があり、薬で痛みを散らせました。9月に入り気温が下がったところで人生初の手術に臨みました。お医者さんから、「見るかい?」と言われ「はい」。お腹だけの局部麻酔で頭はしっかりしています。手術台の上の鏡で切られていく僕のお腹を見ながら手術を受けました。貴重な体験をしました。暴れん坊なので、小中学生時代に、目の上・脇の下・スネと3ヶ所も怪我をして縫っています。スネの時は骨が見えており、うお〜と思いました。それを見た友達は怖くてすぐに帰りましたが、僕は平気で母に「怪我をした、骨が見えてる」と泣きもせず冷静に伝えることが出来ました。
やはり腹膜炎を併発し、1ヶ月の入院になりました。2週間ベッドから起き上がることも禁止され、歩いてトイレに行って良い許可が出て歩きだそうとした時、足の筋力が落ちて立つことさえできなくなっていることに愕然としました。毎日僕の病室を見舞い、学校の勉強ノートを置いていってくれた級友・小菅くんは、今大学教授をしています。これは助かりました。復学しても、なんとか勉強についていけたのは、ベッドで勉強出来たからです。彼には今でも感謝しています。
この虫垂炎手術長期入院が、身体が弱い僕の最終章で、それ以降病気をしない子になりました。「身体が弱い」が僕の代名詞だったので、大人の会話から「二十歳まで生きられるかな〜」「結婚なんて出来るんだろうか?」と漠然と感じていました。
スポーツ好きで割合なんでもこなすのですが、虫垂炎腹膜炎併発により、また1年間スポーツをドクターストップさせられました。入部したサッカー部も退部することになり帰宅部をして過ごしました。
高校でサッカー部に入ろうと思ったけど、中学で一緒に入部した友達は皆上手くなっており、変わったクラブに入ろうと思いピックアップしたのが、馬術部とヨット部です。最初にヨット部の部室を昼休みに訪問すると、地元のプロテスタント教会で日曜礼拝で一緒になっていた市内の先輩が3人もいました。小学校の時の家庭教師が一緒だった門脇さんもいました。
ヨットなんてする子は少なく、次は馬術部の部室を訪ねようと思っていたのに、4時限目終了すぐにヨット部員が僕の教室前に待機しており、僕を拉致してヨット部室行きの毎日になりました。ヨットが走る原理・ルールなど教えてもらい、授業終了後はまた拉致されバスに乗りヨットハーバー近くで下車し、ハーバーまで走る毎日になりました。
初めて乗ったヨットは、エンジン音もなく滑るように水面を走り出し大感動しました。入部届を出し母に報告すると、「あんたは甲子園浜に散歩したら、沖を走る白い帆をずっと見て動かなかったから。三つ子の魂百までもだね」と笑っていました。僕は甲子園にあった父の勤める会社の社宅で生まれました。幼児時代のお散歩コースで気に入ったところが2つあり、国鉄甲子園口駅と甲子園浜でした。甲子園口駅では蒸気機関車がお気に入りで、ポポーの汽笛や、白い蒸気を横に出している姿を見つけると動かなくなったそうです。幼稚園のマークに選んだのがSLで、母から見ると「やっぱり」だったそうです。恐ろしや三つ子の魂。
脱線した話を元に戻しましょう。身体が弱かった僕は、お野菜たっぷり・お肉よりお魚食・早寝早起きを強制されている間に習慣になり、大学ヨット部時代の合宿生活(21時消灯・5時起床)がONされ、同じく早寝早起き家内が重なり、今や21〜22時就寝・4時ウェイクアップがデフォルトになっています。
更に話を元に戻し、「ヨーグルト」。幼児から習慣になったヨーグルトを食べないと1日が終わりません。冷蔵庫には常時ヨーグルトが在庫されており、多い時は15個で、0になると「緊急事態」です。学生時代から家内と付き合い、僕が訪問する時や泊まる時はお母さんが冷蔵庫に用意してくれていました。こんなヨーグルトとの長い付き合いのお話でした。
2・3列目をフルフラットにして、布団を敷き中に入ります。屋根を叩く雨音と、トラックのエンジン音が気になり時々目覚めちゃうかな〜と思ったのですが、朝まで起きませんでした。10/27、3時に目覚めました。いつものようです。トイレを拝借し、3:16出発。
新名神から東名阪道に乗り換え、伊勢湾岸道にチェンジし、「豊明IC」下車。R23バイパスに乗り蒲郡を目指します。一般道ですが、高架部分が多く信号も少なく、高速道路のように走れます。終点・蒲郡ICで下車し、5:06YH着。
もう少し寝ようかと寝床に入りましたが、眠くなく寝れません。5:53出発し、5:56「サンクス大塚海岸店ファミリーマート」がリニューアル中で、5:55「ファミリーマート蒲郡大塚店」に移動。「コッペパンWピーナツ120円+チョコクリームパン5個入り100円+とろけるカフェオレ153円=383円」を購入。コッペパンをイートインしながら、天気や風などチェックします。外はまだ少し雨が降っており、風が強い。
6:39「ファミリーマート」を出発し、YH駐車場へ。眼の前の「変なホテル」に入ってみます。30分に1本、JR蒲郡駅とシャトルバスで結んでいます。「STEAK AND GRILL CHEF'S TRY TABLE」というレストランがあり、朝食(7〜9時)・昼食(11〜14:30)1800円・夕食(18〜21)コース3800円パスタ単品1200円〜だって。フロントに恐竜がいます。「変なホテル」はロボットが多用されているホテルです。声を掛ければ反応するのかな?人は誰もいません。ロビー中央に男の子大好きティラノザウルスがいます。ハロウィンのかぼちゃや三角ハット・マントがディスプレイされています。「日本初!ルームサービスロボットを使ってみませんか?」。恐竜セットやオリジナル饅頭・オリジナルパンなど、お土産を部屋まで運んでくれるようです。宿泊客が出ていきます。全員中国人で、こんなところにも・・・。
車に戻り、お散歩に出ます。YH横の広い海浜公園「大塚海浜緑地」に歩いていきます。案内板を見ると、ラグナマリーナの東に「ラグーナの湯」、更に東に「海陽中等教育学校」がありました。数年前、全寮制中高一貫私立学校として華々しく話題になったので、見に行こう。ランニングコースが明示されており、大会でも開かれそう。
「LAGUNA BEACH 管理事務所」があり、そこのトイレを拝借し朝のお勤め。ウォシュレットは付いていませんでした。管理棟横で、業者さんが屋台の準備をしていました。
「Laguna Beach SEASIDE MAGIC Cafe & Lounge BBQ OPEN MAY-OCTOBER Lunch 11:00-15:00 / Dinner 17:00-21:00」がありました。オープンエアで座席の上にテントを開閉するシステムで、天気の良い日はここで食事は良さそう。
一旦車に戻り、7:54艇庫へ。車が入って来て降りてきたのは当方部員達でした。5時に琵琶湖を出発してきたんだって。名工大・名古屋大・名城大・愛知大・南山大・愛知学院大ヨット部の艇庫が並んでいました。今回合宿所として居候させてもらっています。まだ綺麗な建物で快適そう。部屋から海側も山側も見えます。学生と一緒にYHへ。北海道・慶応・早稲田・金沢・同志社・母校KG・・・主な大学が揃っています。早稲田470を見ると、今年から解禁されたスーパースパーで揃えています。
レスキュー体制は、琵琶湖から持ってきたインフレータブルとレンタルボート(XS RIBS)の2隻体制です。次男がジュニアヨットクラブ時代、僕ら親は協力して作った姉妹クラブの後輩として入部してきた内田さんが脱サラして開業されたBayTrip社からレンタルしました。昨年の福井インカレで久しぶりに会いました。RIBのレンタルボート事業もしており、3艇のボートを各大学にレンタルし引き取りに来られたとのことでした。そこで、RIB新艇の価格やレンタルボート料金を聞きました。それを学生に伝えており、今回縁を持ちました。
キーが有る場所・バッテリー・エンジンチルトスイッチ・使用方法など、同じ船を使っている他大学学生に聞き、大まかなことを頭に入れてスロープから海に降ろしました。以前、VSRをドライブしたことがありますが忘れていました。
雨は上がり、良い風が入っています。NWの風で島との間の水道から吹いており、ここの海面でのデフォルトの風です。次男が中1の時の全日本OP選手権レース会場がここで、初日4レース終えて4位だった時の風です。この風が吹くと右海面有利が多く、僕同様本部船寄りスタートが得意だったので、片手フィニッシュを連発し、クラブ全員の「今年はやれる」自信がつきました。だって、1年前88位だった選手ですから。中学受験を終え、再び日曜日フルで練習できるようになり、受験を頑張ったご褒美にレース艇一式をプレゼントしました。受験終了後の冬からの練習で成績が上がり、その集大成の大会でした。
8時になり体操・ブリーフィング後出艇。沖に出ると、6m/sほど吹いていました。RIBは快適で、それほど大きなエンジンではないのに船型の良さからか快調に飛ばせます。ドライブする2回生Tマネさんが楽しそう。次インフレータブルボートを買う時はこれだね。
12時にハーバーバックすると、陸上食事当番だった2回生マネSさんと4回生マネWさんの作ったお弁当をタッパウエアで配っています。皆がバースで車座になって食べながらお喋り。昼食用に買ったパンを取りに車に戻ろうと歩きだすと、「コーチ、お弁当をどうぞ」だって。僕の分まで作ってくれていました。タッパウエアには個人名を書いたガムテープが貼られており、Fくんのでした。自分の食べたい量に合わせたタッパウエアを渡しているそうです。
13時出艇。徐々に風が上がり、出艇した頃は8m/sほどでしたが、10m/sオーバーになってきました。ブローは12m/sオーバーでしょう。スピード練習後マークを打ってコース練習始めると、ブローで470の2艇がスピンランのジャイブで沈。有力大学はそのまま練習していますが、当方はこれぐらいが限界のようで、大会を次週に控えレース艇を壊すリスクも考え、練習中止を決断しました。
マネさんにレース艇前を走らせ、ホイッスル連呼でハーバーバックを伝えます。470の1艇が起き、ハーバーバックして行きます。もう1艇は、スピンがマストに絡みつきなかなか起きません。クルー4回生Yくんがシートを外したので船を起こします。スピンはマストに絡みついたままですが、問題なくハーバーバックしていきます。
僕らはマークを回収しハーバーバックしている所に緊急事態の連絡が入りました。先にレース艇と共にハーバーバックしたインフレータブルが、再びハーバーから出てきてこちらが見つけられずハーバーに戻ろうとしたところで、エンジンがトランサムボードから外れて海に落ち、船からぶら下がったままだそうです。自走できずアンカーを打って浮いている状態です。
最終艇がハーバーに入り、僕らは桟橋に着けて詳しく状況を聞き、インフレータブルの交代要員としてRIBに数人乗せインフレータブルを探しに出ます。僕は4人がかりでないと上がらないエンジンなので無理だろうと諦め陸上に上がりました。陸上から双眼鏡で、レスキュー状況を見ます。RIBがインフレータブルに着けて疲れている部員と交代させ、女子部員などを乗せて帰ってきました。
また元気な男の子部員を乗せ桟橋を離れ現場海面へ。アンカーでエンジン下を引っ掛け引っ張り上げるという作戦のようです。双眼鏡で見ていたら、ほどなくインフレータブルボートを引っ張ってRIBが帰りだしました。「エンジン落ちたね」と直感し、桟橋に行き待ちます。やはり水没したようで、蛍の光でも歌って送り出したかったね。出ていっていたキャプテンが、監督に報告すべく事情を各部員に聞いています。
ヨットハーバーは17時クローズなので、17時過ぎに合宿所でミーティング。キャプテンが皆にエンジン水没状況を説明します。僕が気付いたことを話し、美味しい夕食時間。クラス別ミーティングを終え、僕は車に退散しました。
19:16、合宿所の外に出ると、ラグナシアのルミナリエが綺麗でした。車で「ファミリーマート」に向かい、19:26「ノアール237円+フルーツミックス100円=337円」を購入。19:36「ラグーナの湯」着。「クーポンお持ちですか?」「いいえ」「1080円です」。
ゆっくり温まり天国です。やはり風呂は良いね。温泉らしいけど、別に温かく広い湯船ならOKです。20:05出発。橋からの夜景が綺麗です。月が綺麗で、ラグナマリーナ側を見るとラグナシアの観覧車も綺麗でした。そのままファミリーマートに向かい、20:06「ブルガリアヨーグルトブルーベリー137円+コッペパンコロッケ&たまご138円=275円」を購入しました。
20:35、YH駐車場着。布団を敷いて「おやすみ」。


2018/10/21
11時から「カフェの会」のBBQの日です。家内のカレンダーに用事が書いてあったので申し込んだのですが、キャンセルになったんだって。1人にして悪いから、BBQから帰宅後映画でも観ようかと思い、「早く帰れると思うから、映画に行く?」「今から映画に行こうと思ってたの」「なに観に行くの?」「コーヒーが冷めないうちに」「僕もそれが良いかな〜と思ってたんだけど、楽しんできてね」「うん」。
8:31、倉庫から「招き猫CB400SB」を出して出発。長尾山トンネル〜r325〜r33〜r319〜r12〜9:31我が家の墓到着。秋のお彼岸に家内の実家のお墓のお参りはしましたが、うちの方にお参りする機会を逃してしまいました。家内だけは参ったのですが僕がまだだったので気になっていました。年4回のお墓参りをずっと続けていたので、もう習慣化されています。
私立巨大霊園なので墓守さんがおられ、枯れたお花は片付けてくれるし最悪の状態になりませんが、やはり両親の眠っているお墓は自分で手入れしたい。いつも咲いている彼岸花はもちろん茎だけになっていました。隣の弟一家の墓には彼岸花の茎が2本。いつも弟の方が元気なんだよね。これも母が真っ赤な彼岸花が嫌いだったからかな〜。お水を掛け掃除して、お線香あげてお終い。メンテナンスの業者さんが入っており、たくさんのお花を持って墓石を掃除されていました。更に管理費を積めば、盆正月・お彼岸のお花までしてくれます。雲ひとつない空でとても気持ちが良い。ここまで、春秋装束(夏用メッシュプロテクター上下+ダイワフィッシングスーツ)で来ましたが、暑くなったのでフィッシングスーツをPで脱ぎました。
r12で西峠を越え、「後川」からr309で「篭坊温泉」。羽束川沿いの道で気持ちが良いので、ゆっくり走ります。交通量が少ないから好きです。鄙びた篠山の隠れ家「篭坊温泉」を通り過ぎ、道なりにr601。早朝走ると鹿と出会う確率の高い県道です。
「天王」交差点からR173にチェンジして北上。昨年秋から土砂崩れで通行止になっていたR173「天王峠」ですが、ここまで何処にもその案内が出ておらず開通しているのかな?
「天王トンネル」手前の旧道への分岐に、ローディーが3台休憩していました。バリケードが開いており、「里山VTR250」なら突っ込んでもいいけど、CBは厳しそう。ほぼ廃道状態だからね。天王トンネルを抜けた所ががけ崩れ現場でした。借り復旧しており、すぐにもう1ヶ所土砂止めされて仮復旧された箇所がありました。今年に入ってまた崩れたからね。
福住交差点から「山陰道R372旧道」に入ります。数日前の「NHK篠山旅」でベッキーさんが1人旅で紹介されていました。僕はベッキーさんが好きです。目が大きくお肌が綺麗で色白、さらにちょっとブルーアイ。日本人にちょっとハーフっぽいところがプラスされています。僕はお肌の綺麗な女性が好きで、今まで会った女性の中で最も綺麗だったのが家内です。
大学1回生の時一目惚れして、彼女と同じ学部に学ぶ同期ヨット部員から学部情報を得、ヨット部マネージャーが彼女と同じ英語クラスであることを知りました。学部生活の最後4回生になり学校外の資格試験講習会で彼女と一緒になり、やっと声を掛けることが出来ました。「一緒にお昼ご飯食べない?」。
今でこそ若い子のヘアカラーが盛んですが、当時「ヘアカラーは白髪染め」の時代で、彼女の明るい髪色は目立っていました。髪色の明るいのはタカラジェンヌぐらいでした。色素が薄いようで色白でブラウンアイ。「絶対ハーフかクォーター」だと思っていたので聞くと、「よく聞かれるけど純和製」との答えでした。女子中学時代は先生に何度も注意されたそうです。彼女を最初に家に連れて帰った時、母は「フランス人形さんみたい」とその美しさに驚いていました。学部一の美人さんでした。
ベッキーさんはそんな外見にプラスしてとても明るいキャラクターで、「いいな」とずっと思っていました。昨年妻子持ちミュージシャンとの不倫騒動でマスコミに叩かれTV画面から消えました。人気者だったので、ベッキーさんの方が叩かれましたが、「男なら自分が全面に出て、女性を守り切れよ」と思いました。家内に話すと、「そんなカッコいい男の人ばかりじゃないよ」と一蹴されましたが、たとえ自分の家庭が崩壊しようとも、そうする方がプラスに働き高感度が上がります。ベッキーさんへのアゲインストの風を少しでも遮ったら、奥様だって頼もしく思うかも知れない。僕に逃げ回っているだけの男は「カッコ悪〜」としか見えなかった。そんなこんなのベッキーさん好きで、2日連続の「ベッキーさん篠山一人旅」軌跡巡りになりました。
10:27「住吉神社」。『篠山市指定文化財(建造物)住吉神社鐘楼 天正5年(1577)明智光秀の丹波攻めの際に焼失したが、江戸時代に入り、篠山藩4代藩主・松平康信の寄進により再建された。
境内には神仏習合の名残から鐘楼が所在している。鐘楼にかかる梵鐘は寛文2年(1662)の銘があるが、棟札から現在の鐘楼は享和元年(1801)建立であることが分かっている。鐘楼の南側には手水舎があり、建築様式や吊り金具の痕跡から、元の鐘楼が改造されたものであると考えられている』
手を合わせ梵鐘を撞かせてもらった。「ゴーン」、良い響きです。摂社を巡ります。「招魂社 福住校区出身の戦没者の英霊128柱を祀る」。銀杏の独特の香りが漂って来ます。「鰹木殿 伊勢神宮より鰹木を拝領し建立(昭和6年)」「仮殿 一次避難の仮殿」「松尾大社 酒造りの神様」「大神神社 農業振興・商売繁昌の神様」「稲荷神社 農業振興・商売繁昌の神様」「貴船神社 水の神様」「厳島神社 海上安全の神様」「八幡神社 厄除け開運の神様」「天神社 学問の神様」。
ご住職の家と思われる庭に枯山水がありました。茅葺屋根なのか、銅板の覆屋が厚かった。江戸時代の再建らしく、本殿の工法が巧妙で素晴らしい。屋根の上の千木が左右+中央と3つあり、鰹木も3本でした。
『市指定無形民俗文化財 水無月祭の祭礼と打込囃子
住吉神社 篠山市川原に所在し、永保元年(1081)に、住吉大社の分霊を勧請したことが始まりであると伝わる。氏子は川原・本明谷・福住上・福住中・福住下・袱木・安田の7集落である。
水無月祭 もとは旧暦6月晦日の祭礼であったが、近代になって7月30・31日に変わった。平成28年(2016)時点では、7月最終金曜日に宵宮が、土曜日に本宮が行われている。祭礼では氏子集落による山車の巡行が行われる。山車の創建は江戸時代の後期で、かつては6基の山車があったが、現在は5基の山車が巡行している。
道中囃子と打込囃子 水無月祭では道中囃子と打込囃子という2種類の囃子が行われる。道中囃子は山車巡行の際に乗り子の子どもたちによって鉦(二丁鉦)や太鼓・笛が演奏される。
打込囃子は宮入後に境内で奉納されるもので、締太鼓・小鼓・三味線・胡弓・笛などの楽器が演奏される。打込囃子は、明治30年代に福住村の遠山宗九郎が各集落の山車ごとに作詞作曲したことが始まりであると伝えられている。曲には打込囃子の競演が祭礼の大きな見どころの1つとなっている。
各集落の山車の名称 川原:菊水山 本明谷:鳳凰山 福住上:鶴寿山 福住中:獅子王山 福住下:亀甲山 (うと木:竜水山)』
拝殿正面左右に、山車の写真が貼られていた。四輪の立派なものです。お囃子に乗りながら集落を曳かれて行くのでしょう。
『住吉神社 平安時代の永保元年(1081)、丹波国司・大江匡房(まさふさ)が堺の住吉神社から御分霊を勧請したものと伝えられ、現在大阪の住吉大社は、国家鎮護・航海守護・和歌の神として広く崇敬されています。
川筋に出来た村の繁栄を水の神に祈り、匡房画家人でもあり、お祀りしたと思われる。都から一品(いっぽん)式部卿邦高親王が参詣したのをはじめ、二木城主・籾井城主や歴代の篠山城主も深く尊崇しました。第4代城主・松平康信は、総欅造りの鐘楼(町指定)を寄進しています』
時間がなくなりました、急ぎましょう。R372に出て東進し、「天引トンネル」を抜けます。ベッキーさんは一人旅でこのトンネルの上を走る旧道を歩いていました。四輪が入れないよう道路を数本の鉄柱で塞いでいますが、二輪なら楽々抜けられます。以前から走りたいと思っているが、スルーばかりしていたら閉鎖されそう。走りたかったが、時間がないのでパス。
「るり渓口」からr54で南下開始。「るり渓」を通過し、標高を稼いでいると、鹿が飛び出しました。それほど交通量の少ない県道ではないのに、珍しいな。ワインディングを楽しみ、10:59「るり渓温泉」着。Pに停めるが、BBQの場所がわからない。案内板がないのはイマイチだな〜。
案内地図を見て目星を付けて歩いて行くと、Cさんの車が前を通り過ぎていった。僕同様ギリギリの時間だから焦ってそう。後で聞いたら、通天湖Pに駐めてたんだって。奥のPに入って行ったので、僕はそのままBBQに向かった。受付に行くとリーダーさんから声を掛けられた。「こっち、こっち」、テント下のBBQテーブルに付いていくと、Kさんとお友達、KOAさんがおられた。すぐにCさんが合流しました。
1人3500円のコースなので、リーダーJさんにお支払い。係の方が食材セットを持ってきてくれ、炭に火をつけてくれます。11:14から網に食材を並べ、焼き始めます。僕は初めてのBBQです。家内にはしっかり体験し、息子一家といつか出来るように・・・とのお達しを受けています。Kさんのお友達Aさんが、お野菜から網の上に置いて行きます。火を通さないと危ないお肉から焼くのかな?と思ってたので意外でした。お肉はすぐに焼けるから後からでも良いそうです。この集まりに初めて参加のmさんとお友達が少し遅れるそうです。
途中で僕が焼き役を変わります。自分でやってみないとね。お喋りが弾みます。遅れてmさんお二人が到着。交通違反でPさんに止められたんだって。でも女子力×2の魅力か、セーフしてもらったんだって。Aさんが単品でマシュマロを買いに行きました。炭火で炙って食べられ「美味しい」、皆さんに一口ずつプレゼントして下さいました。
場所代や炭台は無料で、食材だけ買えば良いんだって。後片付けをする必要もなく、楽ちんBBQです。制限時間は2時間です。ここで第一時解散。集合写真パチリ。mさんとお友達は記念写真を撮っておられます。
6人でベーカリカフェに向かいます。「モンキーパズルの木」というのがありました。初めて見る木です。池には、蓮に似せたオブジェ。ベーカリカフェで「ケーキセット702円」を食べました。話が弾みます。14:19終了。Pに戻ります。Jさんはかつて釣りキチだったらしく、イワナ釣りの話を聞かせていただきました。この日はJさんと僕だけが男で、女性6人でした。「参加どうしようかな〜」と申込み最終日数日前に見たら男はJさんのみだったので、参加申請しました。
14:39、バイク装束を着て出発。r54〜r104〜r4〜r602でr12に出て南下開始。r319〜r33〜r325〜長尾山トンネルを抜け、16:06帰宅。倉庫にバイクを片付け、玄関を開けると家内が既に帰っていました。「映画良かった〜」「観なかった、17:50からも上映するから」「え〜、一緒に行ってくれるの」「うん、いいよ」。一気にテンションが上がりました。急いで装束を着替え、持っていったものを片付けます。「通勤リード110」に乗り換え、タンデムで映画館に向かいます。チケットを次男一家から頂いた「映画ギフトカード」で購入しました。
17:50「コーヒーが冷めないうちに」上映開始。4回泣けるというオムニバス風映画でしたが、泣き虫の僕を泣かすことは出来ませんでした。20時に上映終了し帰宅。僕はBBQでお腹いっぱいなので夕食をパスしました。家内の夕食中入浴し、映画の話をあれやこれや話し21時過ぎにおやすみ〜。


2018/10/20
バイクで丹後半島の竹野までツーリングすることにしました。オール下道で、寺社や林道を往路復路で巡ります。TVで紹介された寺社や、かつて調べたポイントをナビに記憶されています。そのポイントフラッグを目指しながら、いつものように目に入った鎮守の杜・鳥居・道標に寄り道しましょう。
4時に目が覚めました。真っ暗で天気がどうなのかわかりません。チェックすると、日本海側の天気はイマイチ。近畿南部の天気は良さそうなので、和歌山R425方面にチェンジしようかと思いましたが、それほど降らないだろうと初心貫徹に決定。
倉庫から「里山VTR250」を出します。5:30に出発しました。長尾山トンネル〜r325〜r33〜r319〜r12で篠山へ。長尾山トンネルの温度計は、13℃でした。朝霧が出ているかな?と期待してトンネルを抜け、切畑に下っていきましたが、昨夜の晴天が何処に行ったのか、曇り空が見えてきました。こりゃ、篠山でも朝霧は無理そう。
6:02、R372からr77にチェンジする時、交差点にあった「ローソン篠山八上下店」で休憩します。「サントリーBOSとろけるカフェオレ500ml162円+セレクトミニクリームパン5個100円=262円」。イートインしながら、天気予報をチェックしました。今にも雨が落ちてきそうな雲が流れていますが、篠山の現在も今後も「晴れ」マークが並んでいます。すぐに晴れそうだな。
バイクに戻ると、スクリーンに雨粒が落ちていました。夜が明けてから「雨が降りそうな曇だ」と思っていましたが、「あれ〜聞いてないよ」って感じです。山晴れ」だったのに。
6:30「篠山陸軍墓地」。天気が良い和歌山に変更しなかったのは、篠山に来たかったから。昨夜NHKの旅番組で、ベッキーさんが亀岡・篠山を旅していました。見知った場所がいくつか紹介され、また行きたくなっちゃいました。
『遺芳殿 昭和18年、忠霊殿として創建され、元神戸連隊区八市3郡の戦没英霊32000余柱が祀られています。戦後、遺芳殿と改称し、毎年5月9日慰霊祭が行われていました。
下の広場にある立派な建物は、昭和61年に完成した遺族会館です。館内には敗戦のとき、当時の駐屯地・宮崎県で、軍の解隊とともに焼却されたといわれていた、元篠山歩兵第70連隊の軍旗の一部分(市文)と軍旗日誌が保管されています。これらは、わが国で唯一のものです。 篠山市』
忠魂碑が立っています。階段を上がっていくと遺族会館がありました。国立なのか、防衛省管轄なのか、あるいは篠山市が管理しているのか、周囲は雑草が刈られ綺麗の整えられています。先日訪問した高槻陸軍墓地とは大きく違いました。遺族会館から一段下がった曲輪に墓石が並んでいました。墓石のサイズ・敷地が一定で並んでいます。整理されていますが墓石が30ほど並んでいます。大きな鎮魂碑や遺族会館の割には少ないな。
r544で北上し、r301を西に進んでいると、鳥居が見えてきたので寄り道。6:48「新宮神社」。鳥居をくぐると、「新宮古墳」の謂れ板が立っていました。『市指定史跡・新宮古墳 新宮古墳は、篠山市群家に所在し、古墳時代中期(5世紀)後半に築かれた円墳である。新宮神社の背後に位置し、墳丘の規模は直径約52.5m、高さ約7mであり、篠山盆地に築かれた円墳としては最大の規模を有する。古墳の周囲には周濠が巡っており、その規模は径約87.5m、幅約18.5mである。
貞享4年(1687)に編纂された『篠山領地志』いう地誌本によると、神社の社殿はかつて墳丘上にあり、墳丘を掘削したところ石室内には甲冑や大刀があったという。新宮神社には2枚の板石が保存されており、石室に関係するものと考えられている。
新宮古墳はその規模から、当時の篠山盆地における有力者の墓である可能性が高く、時代が下り郡家周辺に設置されたと推定されている多紀郡衛との歴史的なつながりを考える上で重要な史跡である』
本殿裏に墳丘が有りました。こういうのが整備もされずそのまま残っているのが良いです。僕は西宮市上甲子園・JR甲子園駅近所で生まれ、幼稚園〜小1まで伊丹市新伊丹で育ちました。近所に「御願塚古墳」というのがあり、友達とよく遊びに行きました。夏休みは、蝉がものすごく、木やお宮の塀にびっしり止まっており怖いぐらいでした。周囲に水濠が巡っている墳丘で、楽しい遊び場でした。現在は綺麗に整備され、遊歩道が巡っています。大人には良いのでしょうが、子供には残念な遊び場です。雑木林や原っぱが良い遊び場です。
r140〜R176に乗り、7:09「神田神社」。横に「コミカフェ・あもっち」というのがありました。屋根の下に自販機が並んでおり、おじさん2人が喋っていました。神姫バスのバス停「大山上」がありました。R176側は神社の裏のようで、獣道を直登します。手入れが放置された荒れ気味のお宮で、脇障子の珍しい彫刻に惹かれました。本殿のその他の彫刻も細かく、手入れがイマイチなのが残念でした。石段を降りると広い広場があり、宮司さんの自宅?や神輿が入っているのか?倉庫が2棟建っています。更に石段を下ると、大きな石鳥居があり社格の高さを感じます。
道を隔てたお宅が目に付きました。「庄屋さん?」と思われる大きな邸宅です。
『西尾武陵 1766年、丹波国多紀郡大山上村庄屋の西尾家に生まれました。武陵は、家業のかたわら、風流を好み、俳諧の道を究めました。西尾家は主屋と茶室、蔵などが国の登録有形文化財となっていて、武陵の俳諧資料や調度品とともに、当時の様子を感じる貴重な文化財として保存されています』
お〜文化財指定されてるのね。集落の掲示板に、「伊能忠敬フォーラム&伊能忠敬篠山領測量の道を巡るバスツアー」の案内が出ていました。1名様500円(当日徴収)は安いな〜。
本殿に登ると、更に少し上に上がる道があり、登ってみると祠がありました。下の民家を見ると意外に高い。集落の者が立てこもる小さな山城用途にも使えそう。帰宅後気になり調べました。『祭神:大己貴命 創建は大宝2年(702年)。もと現在地より北側に鎮座していたが応保2年(1162年)現在地に遷座した。近世は「一宮神田大明神」と称していた。
天正6年(1578年)明智光秀の大山城攻撃により焼失した。神宮寺として神宮寺(宗派不明)があった、神宮寺の仏像等は近隣の高蔵寺(丹波市)に移されている。明治12年郷社指定。昭和3年県社指定。例祭では当社近くの二宮神社(丹波市)で神輿渡御がある』
R176を少し戻り、枝道で東に入り、7:28「宝橋高蔵寺」。立派な山門がありました。良い保存状態で、期待が膨らみます。駐車場が2ヶ所ありました。バスPもあり、多くの観光客が来られる人気のお寺のようです。参拝料300円と書かれた徴収ボックスがありましたが、クローズだったのでスルーしました。車道が奥まで続いているので突っ込みます。
「阿弥陀堂」横を進み、「本堂」前まで行きます。石段を上がると鐘楼がありました。本堂は修理中のようで、幕は覆っていなかったけど、床まで足場が組んでありました。本堂屋根はしっかりしていましたが、外壁などやつれ気味でした。手入れしながらも経年劣化には勝てず・・・というのではなく、放ったらかし気味劣化という感じに見え、天台宗古刹に感じる「枯れた」感じがしませんでした。側にある「文殊堂」「小宮社」も同じ感じで、観光バスがやってくる寺院にしてはイマイチな印象を受けました。坊主は掃除・清掃も修行・お勤めのうちなのに・・・
『兵庫県篠山市高倉(旧多紀郡丹南町高倉)は高蔵寺。
天台宗。宝橋山。宝性院。本尊 十一面観音。
寺院背後に夏栗山がある。
創建は大化2年(646年)、開基は法道。最盛期には20以上の僧坊を有し、中世には中沢氏の菩提寺であった。天正7年(1579年)明智光秀の大山城攻撃により伽藍を消失した。
境内に観音水がある、夏栗の冷水とも呼ばれる霊水である。
新丹波七福神霊場。鎌倉時代の高蔵寺絹本著色釈迦八相涅槃図は兵庫県指定文化財。高蔵寺木造天神坐像、高蔵寺木造弁財天坐像、高蔵寺鰐口は篠山市指定文化財。鰐口は天文17年(1548年)の銘がある』
「観音水」水場があった。『名水・観音水 この水は古の昔より「黒頭の名水」「夏栗の冷水」として知られ、「観音水」として親しまれております。
清くせせらぐ観音水を一滴口にすれば、実にその味は神秘の味わいをもたらすのであります。何時の時も岩間から湧きいづる真水は、「長寿の水」「美貌の水」として地元では重宝がられており、実に自然の恩恵に感謝しているところであります。
みなさんも、この「観音水」を口中にし感謝の気持ちを清らかな気分にひたって頂きたいものです』
更に雨が強くなり、これ以上北上しても雨ばかりな気がして帰路につくことにしました。バイクに戻り、R176に出て南下開始しましたが、このままR176を走るのも単調なので、r289〜r97〜r140〜r299。
8:01「島姫神社」があったので寄り道。「稲山建蔵寿像」がありました。この人はどんな方だったのかな?と帰宅後調べましたが、わかりませんでした。神社自体はとても小さく、祠1つでした。
R176に出て新三田まで南下し、ここから交通量が多くなるので、r570〜r68〜r33〜r325〜長尾山トンネルを抜けて帰宅。
夏用プロテクター上下の上に、DAIWAフィッシングスーツを着ていたのですが、上着のウォータプルーフが終わったようで、染みてプロテクターの下まで少し濡れていました。風邪を引いてはいけないので、風呂に入り温まりました。温かい湯船に浸かると手もジーンとしており、メッシュグローブから当然雨が染みており、そんな季節になって来たんだなと実感しました。朝の長尾山トンネルで13℃だったし、帰路の西谷農協大池交差点で19℃でした。
11:30になり、「通勤リード110」に乗り、係留艇の整備に向かいました。12:06ヨットハーバー。ゲスト桟橋が賑やかで、フローティング・ボートショー開催中でした。船検の時期限切れを指摘された「火せん」を船に置きます。両舷灯の設置を修正しようと作業しましたが、配線部品がなく中途半端な整備に終わりました。また来なきゃ。先輩方に現状を伝えるため、写真を撮りました。
桟橋を戻り、ボートショー会場の方へ。13:38電気自動車「TESLA」が展示されていました。ガル・ウイングドアがカッコいい。前方ボンネット下のエンジンルームにエンジンがないので、トランクルームになっていました。
ゲスト桟橋に入り、スズキ250馬力ボート・ヤンマーフィッシングボートなど、コーチボートとして使えそうなエンジンボートを見てから、セイリングボートに乗船します。デヘラーヨット社のデヘラー34ftでした。ツインステアリングでトランサム幅が広く居住性が良さそう。マスト・ブームなどのリグはSELDEN社製です。ウインチはLEWMAR。コンパスはGARMIN。計器類はB&Gでした。ドッグハウス内に入り、最新艇の内装を見て回ります。船名が付いており、個人所有品もちらほら目に入ったので、販売進水した最新艇をレンタル展示しているのでしょう。このハーバーの係留艇かな?陸上に戻り、テント出店しているお店を巡ります。中古艇も展示販売されていました。
13:55、YHを出発し帰宅。


2018/10/18
大学ヨット部の先輩方と共同運用している係留艇の船検日です。今回の立会は僕。11:30に小型船舶検査機構の検査員の方が来られるので、船で待ちます。1時間ほど前に船に行き、ライフジャケット12・信号紅炎など必須備品を出し、ラジオ・灯火類のチェックをします。2回昼休みを潰して、期限切れの備品を新調(信号紅炎・消火器)したりしていたのでバッチリです。
検査員の方が来られ、リストに沿って点検していかれます。バッチリだと自負していたのに、「火せん」期限入れ・両舷灯設置不備を指摘されました。写真を撮って検査機構にメール添付して送らねばなりません。
「火せん」とはロケット花火のようなもので、救助機に自分の位置を教えるものです。後日新調しました。両舷灯は、2隻の船が真っ暗な夜すれ違っても、相手艇がどちら側に向かっているのか認識できるよう、バウ(船首)左側は赤灯・右側が緑灯を点灯しながら走らなければなりません。右側から近づく船が優先なので、赤が見えたら避けなければなりません。緑が見えたらそのままの進路を保ちます。それが5°ほど内側にずれているという指摘です。
「ではこれで検査終了ですので、修正写真を送付して貰えば、新船検証を発送します。船検査書と検査手帳を預かって帰ります。新しいものが届くまでは乗らないように」ということで、検査証を渡そうとチャートテーブルを開けたら、なんとそれがありません。「ええ〜」盲点でした。古い検査証はありましたが、現役の検査証がないとは・・・最悪。「では、それも送って下さい」「紛失していたらどうしたら良いでしょうか?」「検査機構のウェブサイトから、再交付申請書をダウンロードし、所定事項を記入し検査機構に提出ください」・・・イマイチなことになっちゃいました。
後日、検査証は先輩が自宅保管していることが解りました。両舷灯の整備に来なくちゃ。


2018/10/14
コーチしている大学ヨット部の練習に参加します。大学ヨット部の集大成、全国のヨット部員が目標にする全日本インカレ団体戦まであと半年。レギュラーチームは現地蒲郡入りして練習しています。居残り組の下級生がびわ湖で練習しているので、こちらにお邪魔しました。僕は9月に蒲郡開催の女子インカレで3日間現地入りしたので、今月最後の週末とレース本番に僕も蒲郡入りするつもりです。いよいよ今年のチームもあと2週間、悔いのないようにレースに向けた練習に励んでは欲しい。
草津周辺を早朝寺社巡りするつもりでしたが、二度寝して目を覚ましたら窓の外が夜明けを向かえ6時前になっていました。「こりゃダメだ」。バイク装束に着替え、往復高速道路メインの日になるので、倉庫から「招き猫CB400SB」を出しました。
R171〜中央縦貫道〜吹田ICから名神高速。桂川PAでトイレ休憩し、京都東IC下車して湖西道路。7:24「セブンイレブン大津松山町店」で、「レーズンロールマーガリン116円+コッペパン苺ジャムマーガリン118円+プレミアムフルーツオーレ100円=334円」購入。
バイク・リアボックスに買い物を入れていると、ボスマネさんが横を通り「おはようございます」。ヨットハーバーに駐輪し、皆に挨拶して桟橋で朝ごはんを食べました。1週間前蒲郡練習に参加していたマネさん数人がいたので、風の具合・波の具合などを聞きました。
練習開始の8時前になったので、体操などしましたが、風がなくて会場練習は延期になりました。470チームは整備、Sチームはトレーニング。470のトラブル箇所の修理相談に乗ったり、コーチボートのポールセットに改良を加えたりしました。加えて、ドライバー飲みやすい所に新たな風見をセットしました。金鋸でゴリゴリ切ったり、ペンチで針金ハンガーを切ったり曲げたり・・・。
30分ほどしてそよそろ入ってきたので、ブリーフィング後出艇。トラブっていた470・1艇のラダージョイント部分が破損し、コーチボートで引っ張ってハーバーバック。再度沖に出て練習しますが、風がなくなり早めにハーバーバックすることにしました。合宿所に連絡すると、昼食の用意は30分早めることが出来るとのこと。
無風になったので、S級チームはハイクアウト練習開始。1分間フルハイクアウト&30秒休憩の繰り返しです。風もないのにハイクアウトだけは辛いので、選手から「音楽掛けて〜」の要望が有り、コーチボートのマイクにスマホからミュージックを流します。僕の全く知らないフォーリンムージックで世代の差を感じます。
11時に全艇ハーバーバック。11:30に合宿所で昼食を食べました。急いで作ってくれたのにとても美味しい。ありがたいね。12:30にハーバーで午後の練習ブリーフィングになり、僕はAMで気づいたことを伝えます。でもAM入り始めていた風がまた落ちて、再び出艇延期。4回生のSマネさんからコーチボートの修理箇所を見てくれるよう相談され、アドバイスをしました。AMに作った風見を見て、AMご飯を作ってくれていたMマネさんが驚いて褒めてくれました。女の子に褒められたら舞い上がっちゃうよね。
またそよそよ入ってきたので練習開始。470は1艇整備になり、2艇の練習になりました。S級は5艇で練習。風が弱いので470はラダーレス練習をしました。ラダー(舵)がないので、2つのセイル・ダガーボード・体重移動によるヒールトリムによりまっすぐ走らせる練習です。ラダーは船の方向を決めるマテリアルですが、船尾からまっすぐ下、水に入っているので抵抗になります。少しでも少なく使って抵抗を減らす方がスピードアップに繋がります。今船が行きたがっているのはどっちか?を体で感じる練習として有意義です。
最初ぐるぐる回ってばかりいたのが船の動きに慣れるに繋がり、いろいろ工夫して真っ直ぐ走るようになるのですが、まだまだです。1回生の艇に「少しダガーボードを上げてごらん」とヒントを与えるとまっすぐ走り出します。2回生艇はまだぐるぐる。差が付いたのでそちらにも同じアドバイス。
北からの風が少しずつ強くなるようなので、ラダーレス練習終了。S級練習は気持ち良くフルハイクアウトしています。先週蒲郡練習に参加していた4回生Sマネさんがコーチボートドライブしてて、「今日が最後のコーチボート運転かもしれません」というので、「そんな季節になったな」と・・・感慨深いです。コーチボートに乗っていた選手たちに伝え、「写真撮ってあげて」というと、喜んでたくさん写真を撮っていました。
彼女は、去年の福井県でのど強風全日本を一緒の船に乗り体験しました。レース艇がたくさんひっくり返り、数艇艇体放棄して乗員のみ助けることになりました。レスキューボートも2艇ひっくり返り、海上保安庁のヘリがやってきたりしたレースです。当方に損害はなく大丈夫でしたが、レース艇がハーバーバックしてもレスキュー活動に荒天の海に留まりました。
その時ドライブしていたのが彼女です。僕はレスキューのためのシートロープなどしていました。大波が間断なく襲い大きく上下する船で、精神的にいっぱいいっぱいになったら交代するつもりでしたが、彼女はドライバー席から大雨で見えない海面に目を凝らし、同乗していたOB数人に「右海面をお願いします」「左を・・・」と的確な指示を出していました。とても立派でした。その思い出を話すと、S嬢は「あの時、どんな状況になったら脱出するか」を考えていたそうです。
もう一つ、びわ湖でのレース中。他校のレース艇がひっくり返り再帆走不可能になり、それを引っ張ってレース艇が走っているレースレーンを横切らせたことを話しました。「大丈夫、行けるから」と僕が横に付き、「今だスピード上げて」と横切らせた後、「スピード落としていいよ。良くやった。出来るじゃん」と彼女に労いの言葉を掛けた時、彼女の頬に涙が伝っていたのを見てしまいました。その時は「ちょっとハードルが高かったかな?」と反省しました。彼女は僕より鮮明にその時を覚えており、「1回生の最後3月のDウィークでした」とレースまで覚えていました。体力消耗している選手をピックアップスべく、コーチボートに乗っていた控え選手を1人沈艇の風上に落としました。流石にその作業は難しいので、僕は彼女からドライブを交代し、部員に指示しながらその操船を彼女に見せていたようです。
「風上から船首を風下に向けて近づくのか」など、勉強になったそうです。その後体力消耗していた選手をピックアップし、沈艇を曳航してハーバーバックするタイミングで彼女にドライブを交代したようです。ハーバー方向にはレースコースが有り、次々にレース艇が走ってきます。「あそこを突っ切るぞ」「今だ」・・・って、レース艇の邪魔をしてしまったら一大事なので不安いっぱいの彼女を「出来るから」と鼓舞したようです。船首にいたOBからも、「行ける、行ける」と声を掛けられやり遂げた。
「いろんな場面をなんとかクリアしたのに、私はコーチからミーティングで皆の前で褒めてもらいました」と、少しずつ自信を持っていったようです。
毎年たくさんの部員が、4年間を精一杯ヨット部で過ごし卒業して行きます。全ての部員に思い出があります。僕の覚えている思い出など小さく何度も体験してきたことで、若い部員の初めてをたくさん体験させてあげたのだと、彼女と思い出を話しながら改めて思いました。
16:30ハーバーバック。僕はホームセンターに向かいました。17:03「アヤハディオ西大津店」で、「カラー針金379円+バスコーク468円=847円」購入。合宿所に戻り、Sマネさんに買ってきたものを渡し、「マネさんたちで作ってね」と。
部員が戻ってきて、3食+おかわりでも足らない選手が、おにぎりに手を出します。「今日のは形がいいな〜、綺麗な三角だ〜」と誰かが言ったら、「それ私が握ったの〜、褒めてくれると嬉しいわ〜」と3回生Tマネさんが嬉しそうです。
全体ミーティング開始。僕の話からです。午後の練習で気付いたことを話します。続いてクラス別個別ミーティング。続いて美味しい夕食。この日の2食はとても美味しいメニューで、大当たりの日に来たようです。
続く全体ミーティング前に、バイク装束に着替え帰路に着きました。湖西道路〜京都東ICから名神高速。19:28「桂川PA」で「バニラソフト140円」を購入して糖分補給しました。「吹田IC」で下車し、中央縦貫道〜R171で帰宅。
バイクを片付け玄関に入り「ただいま〜」。「早かったね〜、まだ21時前よ」。家内とあれやこれや話し、お風呂に入り「おやすみ〜」。楽しい1日でした。


2018/10/8
3:30に目が覚めました。秋になり夜明けが遅いのが苦痛な季節になっています。「早寝早起き」習慣が大学ヨット部合宿「21時消灯・8時間睡眠・5時起床・」で身に染み付き、以来ずっとこんなものです。徹夜なんて人生で2度ぐらいしか経験がありません。夜頑張って何かをした充実感があるものの、翌日日中は最悪で1日棒に振っちゃいます。仕事に就く時、夜規則正しく休める職業が重要でした。部員たちはまだ夢の中なので起こしては悪いから、二度寝を試みましたが無理。近所にコンビニがあるので、そこに移動することにしました。春夏なら明るくなるのが早いので、バイクで寺社歴史探索に出れるのだけど・・・。4:01「セブンイレブン」で「ブルガリアヨーグルトりんご&白桃138円+7プレミアムプレーンヨーグルト400g138円=276円」購入。イートインスペースに移動し、スマホ見ながらお腹を満たします。
5時になり夜明けを感じてきたので出発します。R161〜r18で近江大橋を渡り、そのままr18を走り、5:25「鞭崎神社」。余り期待していませんでしたが、宮司さんのお宅と思われる境内直結のお家が大きく雰囲気がありナイスです。裏石鳥居から入ったようですが、表石鳥居に続く寺門が膳所城からの移築ではないかと思われる雰囲気満点です。膳所城城門移築崎は、膳所神社・御霊神社・新宮神社と巡りましたが、ここが最も大きいんじゃないかな?謂れ板が立っているが読めるほどまだ明るくないので後回し。
しかし、このソニーミラーレス一眼レフC3の暗視撮影感度は抜群です。望遠専門で使おうとその後購入したパナソニック一眼レフG2は、撮影素子4/3LiveMOSがソニーCMOSに劣っており、ソニーのように肉眼同様の明るさで撮影は出来ません。ソニーC3は外付けフラッシュなのですが、常備しているけど撮影本番で使ったことがありません。流石に肉眼で見えなければノイズで綺麗に撮影できませんが、肉眼で見えるならシャッタースピードが遅くなるけど、フルオートでほぼ失敗無しで写ります。購入後最初に体験した時は、その感度の良さに驚きました。フラッシュを使うと、ライトの当たっているところとそうでない所の差が大きく、自然な感じ写りません。最初数回使っただけで、あとはただ持っているだけ。
ソニーのカメラ事業はミノルタカメラ事業部を買収して始まったが、ソニーのデジタルCMOS技術をミノルタのレンズなどトータルカメラ技術に導入したことで大成功を収めているように思う。CMOS技術は日本メーカー筆頭にいろんなメーカーが持っていますが、オリンパス/パナソニック共同開発したLiveMOSとは運での差で良いです。トップシェアを維持し続けているのは、実製品の限界技術差を見たら納得できます。
社務所には、「鞭崎八幡宮」と書かれています。応神天皇が主祭神なのかな〜。境内中央に舞台があり、本殿正面玉垣に向かいお賽銭チャリン、2礼2拍手・・・いつものようにこれまで生かせて頂いたことへの感謝、家内・2人の息子に恵まれたことへの感謝、家族全員大きな不幸なく暮らせてこれたことへの感謝、最後に出来れば家内・息子たち一家の益々の反映を願った。
本殿はかなり大きく、檜皮葺でとても立派です。玉垣を一周し側面・背面からも激写。奉納絵馬像が境内にあり、腹の社紋は「三本杉」で珍しい。会釈したら、お参りのご夫婦と話しておられた男性が話しかけて来られました。「どちらからですか?」「兵庫県の伊丹からです。今日は大学ヨット部の合宿所からです」。「カメラで写りますか?」「ええ、小さいけど一眼レフで、ソニーミラーレス一眼と言うんです。ソニーのイメージセンサー感度が良いので、肉眼同様に写ります」。
「私はこの神社の管理を任されている者で、毎日来ているんですよ。熱心に写真を撮られていましたね」「ええ、歴史好きで、特に神社が好きなんです」。「本殿、立派でしょ。建部神社に行かれました?」「ええ、近江一の宮さんですよね。今年訪問しました」「ここの本殿、田舎町に似合わない大きさでしょ。建部神社本殿の移築なんですよ」「道理で・・・大きくて立派だと思ってました」。
この辺で僕は悪さする人間ではないと確信されたようで、いろいろ教えてくれました。というより、先導して説明して下さいました。「社門は膳所城からの移築です」「やはりそうですか。膳所神社や御霊神社など、膳所城移築門をいくつか見ましたが、最も立派に見えました」。
謂れ板、移築社門前まで先導して謂れ板、表石鳥居まで歩き、そこの謂れ板の場所も教えてくれました。宮司さんは41代目の「大神」という苗字の方で、「大神」なんて苗字驚くでしょうと、話が盛り上がりました。織田信長家系が越前の神社の神主の出であり、そのお宮を数年前に訪問したことや、うちの父方先祖も神主だった事も話しました。歴史好きは稀有な存在で、こういう話ができる方はとても少ないので、お互い楽しい時間となりました。
「大神」さんは体調を崩しておられるようで、その代理で見回りをされているのでしょう。夜明け前からバイクでやってくる男は、不審な匂いプンプンですよね。僕がバイクを停めた時、境内に入っていかれた方で、ずっと境内におられました。きっと僕が悪さするかも?と見張っていたのだと思います。正面石鳥居で別れ、そのまま帰って行かれました。時には掃除をし、時には説明をし、毎日数度見回っているのでしょう。こういう熱心な方の努力によって、多くの神社は、24Hオープンでウェルカムを続けて来れるのですね。ご苦労さまです。
『鞭崎八幡宮 祭神:聖母大神・住吉大神・高良大神・応神天皇
白鳳4年(676)、40代天武天皇の命により大中臣清麿が創建し、4町四方を社地とし八橋八幡宮神主・紀是尚をして宝祚(ほうそ)延長を祈願せしめた。以来歴代天皇の尊崇厚く特に孝明天皇・明治天皇・今上天皇よりは、幣帛供進代参御撫物(おんりゅつもの)下附等度々あった。
東海北陸地方より京洛に至る交通の要衝であるため、鉄道開通までは人馬の往来激しく、古来歴史上の著名人の多くはこの地通過の節参拝した。源頼朝が平氏を滅ぼし天下平定して鎌倉幕府を創立・建久元年(1190)10月、上洛の途当地を通過し馬上よりムチ(鞭)のサキ(崎)を八幡宮に向けて村人に尋ねたので「鞭崎八幡宮」と云う様になった。頼朝はこの翌年、神領を寄進し殿舎を再建した。天保8年神殿改造の節、仙洞御所より御寄付があった。
表門は国宝重要文化財である。旧膳所藩の城門で、明治4年廃藩置県の際に当時の大名であった本多康穣主膳正が寄付した。神職は紀氏で、現在はその41代大神正徳氏が奉仕しておられる』
白鳳4年から宮司を世襲してきたなんて、驚きの神社でした。仙洞御所は内裏同様、天皇や上皇の住まいだった所で、江戸時代の孝明天皇から今上天皇まで現役天皇からも幣帛を受ける神社とは、更に驚きました。この地の重要さと社格の高さを感じました。
『矢橋道 近江八景矢橋帰帆で有名な矢橋の渡しへの道で、東海道の脇道であった。瀬田橋経由の陸路に比べ、矢橋港から湖上50町ほど(5.5km)の大津への航路は、「勢多へ回れば三里の回りござれ矢橋の船にのろ」と歌われたように、先を急ぐ旅人が重用するところとなり、これにつれて矢橋道も大津への短縮路として往来が激しくなった。道は、草津名物姥ヶ餅屋角で東海道と分かれ、大塚、川ノ下を経て矢橋に至った。
なお、草津名物姥ヶ餅屋は明治以降移転し、名勝矢橋帰帆の絶景も一変したが、姥ヶ餅屋旧地には寛政10年(1798)建立の道標が現存、一方矢橋港跡にも弘化3年(1846)建立の常夜灯が現存するほか、矢橋には源頼朝の伝説ゆかりの鞭崎八幡宮、僧最澄創建で足利義詮再建の寺伝を有する石津寺、川ノ下には若宮権現(猿田彦神社)、大塚には正光寺などの古寺社がある』
『鞭崎神社表門 明治4年の廃藩置県に際し、膳所城より移築されたもので、昭和52年の屋根の葺替工事によって、元は膳所城南大手門であったことが明らかとなった。門右手には潜戸を設け、控柱は外八双に開く。まら、屋根は本柱通りに切妻を掛け、控えにはそれより低い切妻屋根をのせる。屋根には膳所城主本多家の家紋である立葵を飾った軒丸瓦や鬼瓦を飾る他、柱・扉などの要所に鉄板を鋲打するなど重厚堅固な意匠となっている』
バイクに戻り帰路に着きます。6時になり、やっと朝日を浴びたオレンジ色の朝になりました。旧庄屋宅を思わせる越し屋根(煙抜き)が屋根に載る豪邸があった。白壁・黒屋根瓦で、周囲を屋根塀が囲っている。表門から覗くと、メルセデスやジャガーの旧外車が屋根下に置かれ、日常の足と思われる三菱の軽自動車がその前にあった。
r18に戻り、6:13「エッソセルフ近江大橋」で給油。222km/8.85L=25.1km/L。近江大橋を西に渡り、R161を経て合宿所着。Pで朝の湖畔写真を写していると、P隣の家から人が出てきました。車に乗って通勤かな?と思ったら、なんと2回生部員M君でした。「ええ〜」と思い、「なんであの家から?」と聞いたら、「僕のお爺ちゃんの家なんです」。大学に入学し、たまたまヨット部試乗会に来たら、まさかのお爺ちゃん家の隣が合宿所だったというわけです。何という偶然、ヨット部に入らないという選択はないですね。運命・・・
マネさんが用意してくれた朝食を食べ、出艇まで時間があるので、7:18「柳ヶ崎湖畔公園」。久しぶりに「びわ湖大津館」へ。浜大津に移転するまで、「琵琶湖ホテル」だった建物で、10月から始まったNHK朝ドラで主人公が勤めるホテルとしてロケ地になってる「旧甲子園ホテル」同様、素敵な外観を持つ建物です。学生時代から「琵琶湖ホテル」として営業しており、琵琶湖にレースに来る度、素敵な外観に見惚れていました。湖側からだと、砂浜〜芝生〜レトロなホテルという感じで、何度も食事したりカフェしたりしました。琵琶湖ホテルが浜大津に移転後、大津市所有になってからご無沙汰でした。ホテル横を出艇・着艇しているので、週末の日常に見えているのですが、改めてやってきて「やっぱり良いな」と再認識しました。
朝早いので入館できませんが、玄関には「レストラン&カフェ」「ウェディング」「スーベニアショップ」などがあると紹介されています。「イングリッシュ・ガーデン」があり、大人320円でした。
『びわ湖大津館の建物は、昭和9年(1934)滋賀県初の国際観光ホテルとして建設された「琵琶湖ホテル」本館です。桃山風破風造りの優雅な建物は、東京銀座歌舞伎座や大阪中之島中央公会堂などを設計した岡田建築事務所によるものです。
「湖国の迎賓館」と呼ばれ、昭和天皇はじめ、ヘレン・ケラー女史、マラソンのアベベ選手、俳優のジョン・ウェイン氏らその時代を彩った各界の名士をお迎えしました。平成10年(1998)同ホテルが浜大津に営業移転した後、建物を譲り受けた大津市が復元改修し、平成14年(2002)多目的に利用できる公園施設「びわ湖大津館」として新たに開館しました。 平成12年(2000)大津市指定有形文化財 平成19年(2007)経済産業省指定近代化産業遺跡群』
びわ湖遊覧船ミシガンが着岸する桟橋に時刻表を見に行く。「大津港」発10:00・11:40・13:30・15:10で、「におの浜港」に寄りここに着岸し、出発するのが1時間後、その20分後に「大津港」に戻るようです。子供たちがチビの時、最近は5年毎に遊覧船に乗っていますが、全て北湖の方まで行くロングクルージングコースでした。
ハーバーに入り、練習開始時間になってきましたが、昨日同様風が入りません。練習時間になりましたが出艇はせず、トレーニング・ルール勉強タイムになりました。僕はコーチボートに行き、ポール設置・ボートフックを制作することにしました。
以前ちゃんとしたボートフックをプレゼントしたのですが、数年後2分割になり、そして行方不明になりました。折れたアルミポールに艇庫で折れていた傘の持つ所のJだけくっつけ、ボートフックを作ります。グラインダで傘のJ部分だけ取り出しました。
結束バンドが必要なので、ホームセンター「アヤハ」に買いに行きます。9:31「結束バンド・リピートタイプ10本入り128円×2」購入。ハーバーに戻ると、相変わらず無風に近いですが、470級は1回生練習のため出艇することになったそうです。
結束バンドと傘の柄をコーチボートに載せ、出艇。練習を見ながら、ボートフックとポールセットシステムを製作しました。11時に近づき、北からのブローが湖面に入りだし、マネさんから陸上にライン連絡してもらいました。S級も出てきます。スピード練習・ショートマークラウンディングして練習終了。
ハーバーバックし、合宿所で昼食を取り、PM練習に入ります。4m/sの北風が入っています。AM練習に加えスタート練習・レース練習をしました。昨日よりスタートが良くなりました。昨夜のミーティングでいろいろ話したことも参考にしてくれていればありがたい。
16:30ハーバーバックし、僕は先に合宿所へ。この日は体育の日の振替休日ですが、女子マネさんが通う京女は授業があります。この学校は土曜日にも授業が有り、よく勉強させる良い学校です。
船を片付け終えた部員が帰ってきて、ミーティングが始まります。僕の話から始まり、クラス別ミーティング。ここで僕は帰路に着きます。4回生で午後からの授業だけの子がカレーを作って行ってくれました。食べたいですが、家内が寝る前に帰宅しましょう。
湖西道路〜名神高速、いつもより早い時間帯なのでスムーズに動いておらず、たまに止まりながら40km/hで動いています。「京都南IC」手前からスムーズになり、いつもなら休憩する「桂川PA」をパスし、19時過ぎに帰宅。楽しく充実した2日間でした。


2018/10/7
コーチしてる大学ヨット部のコーチング日です。今回は、トップチームが今月末から始まるインカレ団体戦に向けレース開催地入りしているので、下級生だけということもあり1泊2日間コーチです。
3:30に目が覚めたので活動開始。いつも+お泊りグッズを「里山VTR250」リアボックスに入れ、4:30に家を出ました。R171〜中央環状線〜大阪府道r14〜R171で大山崎。京都府道r204で桂川を渡り、r124〜r79で観月橋。六地蔵から北上し、山科でR1に合流します。いつもなら湖西道路に乗るのですが、分岐を通り過ぎ、「逢坂峠」を越えて大津に下りました。R161にチェンジし、5:53大津旧市街地ど真ん中にある「天孫神社」。
この日は「宵山」で、明日は「山建て」という曳山がある「大津祭」当日です。大津祭って、近江一の宮「建部神社」のお祭りだと思っていたら、大津市京町にある「天孫神社」のお祭りだそうです。江戸時代に始まった京都祇園祭に似た豪華な山車が町内を曳かれるお祭りだそうです。
時間調節のため下道で来たのに、まだ薄暗く境内にテキ屋の屋台の灯があるのみです。屋台へのいたずら防止なのか、石鳥居に掛けられた網で境内に入れずお参りが出来ませんでした。市街地にあるお宮なので境内は広くなく、屋台に埋め尽くされている感じです。
『祭神:彦火々出見尊・国常立尊・大己貴命・帯中津日子尊 例祭:歳旦祭・1/1 月次祭・毎月10日 例祭・10/10
人皇50代桓武天皇の勅命により其地鎮護の神として四座の神を仰ぎ奉らせたもう今の四宮の社である。歴代国司の崇敬を受け、文禄4年10月近江守源朝臣高次よい当郷の内30石の地を寄付され、元亀中の遷宮につき佐々木家より造営寄進あり。豊臣秀吉公の大津城築城以来、全城下の鎮護神として当時の摂家たる近衛家の崇敬篤く文政13年庚寅年6月拝殿拝所の造営に預かった。
例祭を10月10日にして、曳山13本祭礼の行粧として綾羅綿繍の惟帳を垂れ笛鐘鼓を以って囃し数々の木偶人を載せて機械の巧を為し、所望と云えて機者に乞うことあれば傀儡をなし、氏子の町々を巡行するその美観壮観は大津祭と称し湖国一の大祭である。
当社は元四宮神社、または天孫第四宮大明神とも奉称され、明治維新の際「天孫神社」と改称した。 昭和47年9月 記:宮司・滋賀行明』
道路を隔てた斜め向かいが「滋賀県庁」で、戦前の重厚な建物が目を引きました。『本館は、総工費200万円で昭和12年より改築に着手、同14年5月に竣工しました。設計は早稲田大学大隈講堂、群馬県庁等を設計したことで知られる佐藤功一氏です。鉄筋コンクリートの4階建で中央には塔屋がそびえ、左右に事務室、そして正面玄関には大きく車寄せを配したその容姿は、ルネサンス様式らしい格調高い存在感を放っており、本県を代表する近代建築の一つとされています』
僕の通った中学は、メンソレータムで有名な近江兄弟社を創業した建築家ヴォーリス設計でした。大正から昭和30年代まで活躍した建築家で、戦前の重厚な建物と広い廊下、踊り場のある広く緩やかな階段が人の営みに調和し、温かささえ感じる素晴らしい建物、そして今も現役である生命力のある建物でした。一見斬新で素晴らしく目を引くが「耐震」がどうのこうのとかで取り壊し再建される戦後即席ビルとは思想の違いを感じる。
曳山を探しに、コンチキチンの鐘の音が華やかな裏道にバイクで入ると、すぐに見つかりました。男たちが曳山の組立作業中で、前日の雨を避けるためかシートに包まれた曳山をお披露目していました。子供たちが曳山2Fに載り鐘でリズムを刻んでいます。
東西を走りその路地は通行止になっており、他の曳山も見えました。曳山のカバーには町名が書かれており、横の町家2Fと曳山2Fが即席通路で繋がっています。次々に飾り物が運ばれ、曳山がどんどん豪華になっていきます。前日から道路を封鎖し、曳山を出して組み上げ、今朝から飾り付けを始めるのかな?
この道を西に向かって歩いてみました。曳山が時々置いてあり、男たちが朝から忙しく飾り付けをしています。横の町家は昨夜から徹夜でもしていたかのように、灯りがつき、町内の曳山本拠地になっています。商店には家紋と家名を染め抜いた帳が下り、あるいは下げ始めており、祭スタイルの装飾を窓越しに見せているお店もあります。朝イチから祭が始まっています。
中央大通りを渡るところに、「大津祭曳山展示館」の常設道標が設置されていました。こんなに街に溶け込んだ文化だったのに、毎月大津の琵琶湖に来ているのに知らなかったとは・・・歴史好きとして不覚でした。
太鼓を叩いて祭気分を盛り上げている曳山がありました。大津祭の曳山の動輪仕様が同じで、前輪1つ・後輪2つの3輪車です。背丈ほどの大きな車輪で引くのと回転が少しは楽そうです。飾りが豪華で天井裏の絵・柱の色・飾り板の彫刻が目を引きます。人形が乗っている曳山もあります。全曳山に共通しているのは、前方に松の生木が前向きに取り付けられていることと、豪華刺繍の大きな帳が下げられていることです。
アーケードが覆う「丸屋町商店街」に入ると、ここにも曳山がありました。着物を着た人形が載っており、雨対策のためアーケードの下なのかもしれません。商店街内にある「永順寺」でUターンします。『蝉に聞いてみた 土中の7年間、地上の7日間、どちらが良かったかと。 蝉が答えた そんな違いがあったのか!?と 当院住職』
ここで6:15、カメラを持った観光の方が数人見えだしました。曳山は京都の祇園祭ほど大きくはないけど、こちらの方がずっと観光客が少なそうで見学するならこちらかな?
「コンチキチン」、最初の曳山まで戻ってきました。人形が2体載っています。『湯立山 寛永3丙寅年作製 本年により336年の昔 最初孟宗山と称し、寛文年中湯立山に替る。之はこの山にて天孫神社の祭神に湯を奉ると云う事になっている。即ち、その建物は拝殿を型取り周りの様式は天孫神社の回廊を模したるものなり。昔より、この湯を掛けられたるものは五穀成就・病気平癒・商売繁昌などのの縁起がある。
所望:祢宜が祓いを成し、巫女が笹葉にて湯を奉るところなり
飾り物:胴幕の絵は円山応挙の筆なり。欄間の彫り物四神旗・青龍・朱雀・玄亀・白虎の彫刻は左甚五郎の作なり』
飾り付けに熱心な男衆の背中には揃いの「湯」がプリントされている。次の曳山の覆いが片付けられており、「神宮皇后山」となっていた。
バイクに戻り、6:44「浜大津なぎさ公園」。朝一番から釣りしている方が多い。朝は釣れるからね。「大津港旅客ターミナル」の方に歩いていくと、お祭りのテントが並んでいる。線路が広場に敷かれている。ちびっこが乗れる汽車などが走るのだろう。大津祭に合わせ、大津中心部はお祭りで盛り上がっているようです。数時間後昨夜合宿所に泊まっていたヨット部員に聞いたら、花火が上がっていたとのこと。
銅像が建っている。『顕彰の碑 山田富三郎氏は昭和55年6月、大津市長に就任して以来、6期24年間、「市民の心を心とした市民本位の市政」を信条とし、「ふるさと都市大津」のまちづくりに尽力した。人工急増の中、都市基盤整備に強い信念と情熱を持って取り組み、中核市「大津」の礎を築いた。
なかでも、22年の歳月を経て、平成10年に完成した「なぎさ公園」は、琵琶湖と触れ合える広大な水辺公園として、市民に潤いと安らぎを与え、湖都大津のシンボルともなっている。
また、庶民的な人柄から「豊さん」の愛称で親しまれ、その笑顔とともに、労を惜しまず汗を流す姿は、私達大津市民の心に強く刻まれている。没後2年、広く市民のご厚志により、ここに銅像を建立し、永くその功績を称える』
なぎさ公園の道路脇に「ガス灯」が立っている。『ガスの生い立ち 1640年オランダの化学者ヴァン・ヘルモントが石炭を蒸し焼きにしていた時に燃える気体に気付き、英語で「GAS」ドイツ語で「GEIST」(霊・精気)と名付けました。これが「ガス」の始まりです。
日本で初めてガスを使ったのは、鹿児島の島津斉彬という殿様で、1857年に石炭を乾留しガスを発生させて庭の石灯篭に火をつけました。また、ガス事業は1872年に横浜の高島嘉右衛門という人によって起こされ、彼はガス灯を作り事業を始める計画を立て、いろいろ苦心の末、横浜市内に10数基のガス灯を灯す事に成功しました。それはまさに新しい時代を告げる「文明開化のあかり」でした。
このように「ガス」は照明用として始まり大正末期に電灯が改良されてからは「あかり」としての役目を電気に譲り、もっぱら「燃料」としての新しい分野に進み、現在では「燃料は都市ガス」と決まり言葉になっております。
本市のガス事業は、昭和12年3月に民間会社から譲り受け、以来、市営ガスとして供給区域の拡張と保安の確保に努めてきた結果、今日では行政区域の約7割にガス供給を行うに至っております。
このガス灯は、本市ガス事業50周年を記念すると共に「ふるさと都市大津」を創造する「風格あるまちづくり」の一環として今は懐かしい大正ロマンの灯りで、湖畔を訪れる人々のやすらぎの場として、大津市企業局が設置したものです』
この掲示板横に、黄色い自転車が2台並んでいた。『ofo自転車シェアリング・専用ステーション』
バイクに乗り、ヨットハーバーに向かいます。R161で湖岸を北上します。7:08「セブンイレブン大津松山町店」で、「7Pレーズンロールマーガリン4個116円+コッペパン苺ジャム&マーガリン118円=234円」を購入。
YHに着きましたが、部員が合宿所から来るまでには少し余裕があります。ですが、ハーバー内はレーザー級ヨット(1人乗り)がたくさんスタンバイしていました。レースのようです。リアボックスから着替えを出し、コーチボートが係留されている桟橋まで行き、そこでコッペパンを朝食として食べました。
朝食を終えた部員たちがパラパラとやってきました。「おはよう」。レース日なのでハーバー職員も早めに来られたのか、少し早めに艇庫が開いたので、着替えを持って更衣室へ。レーザーの出場者と思われる方が着替えていました。「レーザーのレースですか?」「はい、昨日・今日2日間です」。「どちらから?」「浜名湖からです」「ビーチスマリーナ?」「はいそうです」「高橋さんとこね。あそこは良い風が吹くし、アットホームで良いハーバーですね」。「はい、高橋さんをご存知ですか?」「はい、470のレーサーの時、世界選手権やオリンピック目指してよくレースをしました。長女さんと息子が同じ学年で、ジュニアのレースで何度もお邪魔しました」「え〜そうですか、うちも娘もOPやってるんですよ」「面白いですよね、子供を餌に親も遊べるから」「ええ、でも娘のサポートばかりで、自分のレースになかなか出れないからその点は残念です」。
「どちらのジュニアクラブですか?「兵庫県の・・。あのクラブをAさん他数人で立ち上げたんです」「Aさん知ってますよ、まだコーチされていますよね」「僕は息子が卒業してから全国理事をして、今は大学ヨット部のコーチをしています」「私はDと申します」「わたしはKです。お嬢さんの成績をチェックしておきますね。よろしくお願いします。では」。ヨット乗りは絶滅危惧種で狭い世界だから、声を掛ければ何処かで繋がっています。
出艇時間になっても無風なので、キャプテンはトップチームで全日本会場で遠征中なので、3回生の居残り組仮キャプテンに、「1回生マネ操船練習させてもいい?」とOK取って、1回生マネさん3人+4回ボスマネ1+2回マネ1と一緒に沖に出ました。4回マネさんが横に付き、新人マネさんの離岸・着岸訓練が始まりました。3人が交代し、ボスマネさんから教えてもらいながら練習します。
ボスマネさんは、上手くない操船で桟橋に上手に接岸できない状況になってもデッドライン直前まで自由に操船させ、最後指示を出していました。沖では何度も操船していますが、離岸着岸の方がずっと難しいので練習自体初めてです。今まで上回生マネさんが操船しているのを見て学んだだけの知識だけです。
ついつい手取り足取り失敗しないように口出ししたくなりますが、自分なりの考えでやってみるのが大事です。失敗を重ね修正して行くのが、最も早く技術を身につける方法です。さすがボスマネとして4回生5人の中から選ばれただけあります。人を育てるコツを知っています。接岸後、改善点などを身振り手振りで笑顔で教えています。良いお母さんになりそう。
晴れているので、11時になれば北風が入ると予想した通り、10:30頃北の琵琶湖大橋の方にブローが見えだしました。晴れて陸地が温度上昇し上昇気流が発生します。その薄くなった空気を補うため、日中夜間の温度変化の少ない海から陸に向かって風が吹きます。練習している琵琶湖南湖は、犬の尻尾程度に東西の幅が狭く、圧倒的に巨大な北湖から海風が入ります。
マネさんに陸上に連絡してもらいました。練習に出てきます。その前にハーバーバックする予定でしたが、レーザーもレース出来ると判断したようで、レース艇が続々出艇して来るので、沖で待つことにしました。動作練習とショートラウンディングマーク練習して終了。ハーバーバック〜合宿所で昼食後、午後のトレーニングしてブリーフィング後出艇。動作練習とスタート練習・ショートレース練習。
16:30にハーバーバックし、僕は先に合宿所に引き上げました。AM・PMとも1回生マネさんが離岸接岸ドライブデビューしました。ミーティングが始まりました。今合宿の仮キャプテンは、1ヶ月後就任するだろう次期キャプテンです。3回生で決めたのだろう次期の構想を実践しています。コーチ(この日は僕だけ)の話〜クラス別ミーティング〜全体ミーティング〜夕食〜全員掃除〜自由時間〜消灯の流れでした。今季までは、全体〜夕食〜掃除〜クラス別〜自由時間〜消灯でした。
夕食を終え、掃除時間になったのでバイクに戻りました。部員に聞いた風呂屋に向かいます。「大津湯」と聞いていたのでスマホ検索したらヒットせず、「近江湯」でした。スーパー銭湯が大流行ですが、料金が安い従来型風呂屋はいいね。学生時代は合宿が多かったので、家の風呂より風呂屋により多くお世話になりました。圧倒的に家風呂より温まるので、家族を持ってからも日曜日は家族全員で風呂屋に行っていました。息子2人とお風呂でいろいろやりました。人のいない時は水泳教室やったり・・・。部員は皆合宿所シャワーです。
20:21「セブンイレブン大津松山町店」で、「ブレンディ挽きたてカフェオレ500ml169円+明治ブルガリアヨーグルトブルーベリー138円=307円」を購入し、合宿所に戻りいつものヨーグルトタイム。1回生マネさんの「ねえ、BFさん紹介してよ〜」に応えるべく、スマホで友人写真を出して「こいつはな〜」なんてやってます。若者の恋バナは、聞いているだけで楽しいね。
OBルームに入りベッドに横たわり、1人消灯し「おやすみ〜」。2段ベッドで4人寝れます。部員全員いる時は芋洗い状態なので一緒に夜を過ごす気はないが、半分いないので余裕があり、OBルームは僕1人でした。


2018/9/24
レース最終日です。4時に目覚めスマホをチェックしたが、充電されていない。去年買ったコンビニ充電器は壊れたかな?4:55「サンクス大塚海岸店」で、「多摩Ad用コンセント2.4A1598円+ブラウンモバイルシェーブ2160円+ファミコレフルーツミックス500ml100円=3858円」購入。Pにて、車のUSBから充電するとOK。ハーバーPに戻り、また朝のお散歩。昨日(日曜)の夜は、今日も振替休日なのに静かでした。やはり土曜の晩なのかな?6:30に「ホテルAZ」に行き、またフロント食堂で待ってると、2人組がスーツケースをゴロゴロ言わせながらハーバーに向かって歩いて行きました。「乗せてあげるよ」と声を掛けようと思ったけど・・・。
7:15AZ出発。「8:15〜ブリーフィング、9:30〜第1レース、11:31以降スタートしない」のスケジューリングですが、470が4レース、S級2レースしか消化できていないので、「12:01以降スタートしない」に変更されました。
昨日同様風がなく、AP旗でスタート延期・陸上待機です。9:30鳥の大群が編隊を組んで渡っていきます。夏を日本で過ごした渡り鳥が帰っていくのでしょう。朝、ジュニア上がりで親御さんと年賀状交換して親しくしている九州出身の日本経済大卒のKGコーチM君にばったり会いました。昨日まで西宮で男子のコーチをしていて、今朝こちらに駆けつけたそうです。
KGサポートボートに乗れるかKGバースに聞きに行くと、「大丈夫ですよ」とあっさり。470トップ艇の親御さんが1組帰られたので、6人乗りの小さめのボートが親御さん観覧艇になるそうです。マネージャー1人と家族2組だけなので、僕が部とヨットを知ってるから、マネージャーに指示を出す役目のようです。OB会関東支部の先輩方面々とあ〜だこ〜だお話しました。
バースに戻ると、バウハッチを開け、水を出しています。何度出してもスポンジはたっぷり水を含んで出てきます。「めっちゃ、水が入ってるんですよ。何処から入ってきたんでしょう」「そうか、陸上でハッチを開けていなかったのか」。過去何度も、「レースフィニッシュ後スポンジで水を出すこと」「艇庫ではエアタンクのハッチを開けておくこと」を伝えたのだけれど、それを怠っていたようです。デッキとボトムの継ぎ目を視覚と触覚で確かめましたが亀裂もクラックもなかったので、沈の時入ったのでしょう。迂闊でした。これはコーチとしての私のミスです。昨日のレースもドライコンディションで出させていれば、1上11位から23位まで順位を下げなかったろうし、次の27位もなかったように思う。両方共10番は着順が良かったのではないか。「あ〜失敗した」。まさか、こんな初歩的なことを・・・
昨日同様、11時になりSWの風(2つの島と沖の半島の間の太平洋へと続く湾の開口部)が入りだし、10:50D旗。次々に出艇して行きます。僕は桟橋に向かいます。時間的に1レースでしょうが、できるだけ多く全国レベルの大会を経験して欲しい。
11:40スタート。本部船寄り・2線スタートでした。スターボで出て早めにタックは定石通り。そのまま右海面に向かうと思いきや、何故か少し走っただけでタックし、ポート艇のスターンを切って左海面に出ていきます。最もやってはいけないパターンのスタートで、これでは1上30番以上は望めない。がっくりです。ところがです。1上トップ回航。遠くでよく分からず、似たスピンが上がったのは視認していたが、まさかあのスタートで・・・と思い、「上がらないな〜、何処行っちゃたんだろう」と見ていました。帰着後聞いたら、ほとんどの艇が2日間右海面が良かったので右に行き、「ダメダメスタートだったので、チャレンジしてみた」とのことでした。確かに2度目のタックをしてスターボになった時、ほとんどの艇はポートタックで走っていました。よって、スターンを交わしていったけど、通常左右に分かれるレースではない位に、全艇のスターンを交わし切り、早めにフレッシュウインドを受けるようになったようだ。帰着後KG選手に聞いたら、1艇だけ左に大きく出していたとの事でした。スタート時より少し風速が上がったので、沖からのブローで風速が上がったのでしょう。これは1ヶ月後の全日本インカレに向けて好材料です。
KGはレース待機中もコーチボートを沖に出しており、ウインドコンディションの変化と共に、カレントコンディションデータも取っています。潮の流れは、陸(N)からと島(W)から強めだったそうです。西宮の干満差が1mなのに、ここは大潮で2mあり、土日がちょうど大潮でした。干潮11:31〜満潮17:50なので、255°の風向も相まって影響したのかもしれないが、まだゆっくりな流れだからそれほど影響しなかったのかも知れない。レースの鉄則では、「先に潮に向かえ」です。
12:04、上マークから1下へアプローチ中の470を双眼鏡で確認すると、9位を走っています。まさか・・・「どんだけ走ってるねん。末恐ろしい2回生女子」。12:20、2上6位回航。バウの水を抜いただけで、レベルの高いシングル順位で更に順位を上げてくるとは・・・。スキッパーOさんは、昨日走ってて「バウが重いな〜」と感じたそうです。それでハッチを開けてみたらこの状態だったそう。重いと感じるセンスが素晴らしいです。最終マークも6位回航しましたが、フィニッシングラインまでのアビームランでスピンがはらまず、やっとはらんだときには7位甲南艇に風上側にオーバーラップされており、フィニッシングライン直前で抜かれてしまいました。
トップ艇フィニッシュ後AP/A旗が揚がり、本日のレースはこれで終了です。12:01以降スタートできない規定なので当然です。まだ良い風が吹いており、ちょっと残念。当方470(Oさん/Tさん組)はそのままハーバーバックして行きます。トップフィニッシュしたKG艇はその場に残り、メインセイルを降ろし始めました。2艇目も残ります。ウイニングランをするのでしょう。3艇目もフィニッシュしそれに続きます。
コーチボートに曳航ロープを渡し、部旗をもらっています。部旗をメインセイルハリヤードにつなぎ、マストトップにKGフラッグが揚がります。2艇目・3艇目がトップ艇の後に曳航され、S級のフィニッシュを待ちます。
S級トップ艇が1上24位回航だったので、そのままなら総合優勝に黄信号です。12位まで順位を上げてフィニッシュしました。優勝争いをすると思っていた日大は、2位だった1レース目で、トップだったKGとケースを起こし、それを解消しなかったので失格したので圏外に消え去りました。法政はKGより後でフィニッシュし問題外、最終レースをトップフィニッシュした明海大学が問題でしたが、2日目の時点で20点ほど差があったのでこれにも勝利。S級は3位に落ちましたが、総合優勝も勝ち取りました。
コーチボートがS級も呼び、曳航し始めます。僕の乗る観覧船も呼ばれ、S級トップ艇にこの観覧船が掲げていた部旗を渡します。S級トップ艇マストトップにも部旗が揚がり、2艇目もそれに繋がり、ウイニングラン開始です。
全艇が帰着したハーバーに向け、コーチボートが5艇を引っ張って入場です。KG校歌「空の翼」を選手たちが声を合わせて歌い始めました。歌い終わると、コーチボート・観覧船の全員から拍手喝采!女子コーチのKさんも大喜びしています。彼女もジュニア出身で、僕がジュニア理事をしている時、お父さんにたくさん協力してもらいました。KGに入学し、女子インカレS級2連覇をしました。
ハーバーに戻り、船の積み込みです。僕は用がないので、積込みの様子を見たり、クロージングセレモニー会場で、賞品のダイヤモンド・エメラルド・ルビーのネックレスを見たり、優勝したKG監督やコーチを労ったり、同期のY君とあれやこれや駄弁ったりして過ごしました。
積み込みを終え、トラックを見送った4人とともに車に戻り、車の中で正装に着替えさせました。きっとセンターハウス内のトイレやシャワールーム・着替えスペースは大混雑でしょう。
16:30、クロージングセレモニー(表彰式・レセプション・パーティー)。大屋根の下に、部旗を先頭に各校選手サポーター達が並びます。皆正装ですが、揃って黒のスーツ姿で、女の子なのだからもう少し華やいでもいいのにな・・・と思いました。
聞き慣れたNHKオリンピックのテーマソングが流れ、入賞した選手たちが一列に並んで入場してきました。オフィシャルの挨拶の後に表彰式。1・2・3位の表彰台にそれぞれの選手がアナウンスされて立ちます。
470クラス優勝KGからです。優勝旗・表彰状・トロフィー、そしてダイヤモンドのネックレス授与。スナイプクラスは立命館が優勝、KGは3位でした。総合は、2位以下をダブルスコアで圧倒したKGが優勝。最後に最優秀選手賞で、女子学生連盟トップとして尽力し、この大会でも5位入賞した早稲田の選手が選ばれました。17:15、クロージングセレモニーが終了し、パーティーです。テント下周囲に料理が並んでいます。選手達はお皿を持って好きなものを乗せ、適当に置かれたテーブルを囲んで親交を深めています。
中部学生主催の余興が始まりました。第して「スターボ選手権」。数組の選手が出てきて「スターボ」と叫びます。シチュエーションの設定が個性的で、「遠くから聞こえだし過ぎ去っていくスターボ」「どうする?と2人で話し合いながら意を決して叫ぶスターボ」など、とても面白い。更に面白く盛り上げようと、中部学生たちの男の子の司会や盛り上げ方が上手い。
しばらくしてケーキが出てきて、それがアナウンスされると皆駆け出しました。さすが女子・・・
僕はセンターハウスの大階段の所からそれを眺めていました。時々パーティー会場に入り、当方の選手やマネージャーの写真を撮りました。大階段には蚊がおり、それを撃退しながら楽しそうな会場を見ていました。
18:30、パーティーはお開きになり大会終了。4人を集め、優勝旗などの前で写真を撮りました。ハーバーを後にします。蒲郡までラグーナから無料バス、名古屋までJR、京都まで高速バスという帰路予定だったので、JR蒲郡まで送りました。R23を走り、18:54JR蒲郡駅に着くと、駅前にアメリカスカップのニッポンチャレンジのレース艇が飾られていました。でかい・・・ラグーナにもあったはずです。どちらかが「韋駄天」で「阿修羅」でしょう。
ここで4人を降ろし、解散です。19:03「Jクエストオレンジロード蒲郡SS」で20L給油。「音羽蒲郡IC」から東名高速に乗り、伊勢湾岸道に乗り換え、「刈谷ハイウェイオアシス」で休憩。「大きつねきしめん」を食べました。意外に量が多く、お腹いっぱいになりました。巨大大橋が連なるこの道は壮観です。「ナガシマスパーランド」が電飾されて綺麗。凄いジェットコースターです。
伊勢湾岸道から「東名阪道」に乗り換えなければならないのに、未開通の「新名神」の方に入ってしまい、終点「東員IC」で下車しミスっちゃいました。21:13「御在所SA・ファミリーマート」で「ブルーベリーヨーグルト118円」を買い休憩。東名阪道〜新名神道で、22:27名神との交点にある「草津PA」で「ガリガリ君ソーダ75円」で糖分補給。名神〜中国道「豊中IC」下車し23:30頃帰宅。ああ楽しかった〜


2018/9/23
真っ暗な4時に目が覚め、お散歩しました。夜中、無料Pなので何台か車が入ってきて、カップルがお散歩に出ていく話し声が聞こえました。過ぎ行く夏を惜しんで・・・人生のラブな最盛期ですね。大いに結構。ただ僕は夜中のドライブデートはしたことないけど。女の子を真夜中連れ回したり出来ないわ。きっと一人暮らしなんだろうね。
6:04「サンクス大塚海岸店」で、「ブルガリアヨーグルト味わい苺137円+こだわり栽培バナナパック3本228円=365円」購入。バナナ1本&ヨーグルトで朝食にして、「ホテルAZ」Pに入れ、フロントで待ちます。またKGの女の子たちが先に出発のようで、挨拶しながら出て車に乗り込んでいきます。
7:15、4人を載せAZ発。ハーバーで女の子たちを降ろし、着替えて車を出ると、母校監督と女子コーチにバッタリ。気になる今年から470ビルダーとして参入したピアソンボートのレース艇と、これまた今年から許可されたスーパースパーマストについて聞きました。ビルダーにOBが入社したKGと日大は、これからピアソンを積極的に買っていくようです。
当方の支援体制のことなども話していると、「乗る船有りますの?」「いいや、昨日は山の上から見てたんだ」「うち、まだ乗れると思うので乗りますか?」「いいの、無理せんといてよ」「大丈夫やと思います。マネージャーに言うときますわ。出艇したら桟橋に来てください」「ありがとう」。彼の弟が現役部員の時、僕がコーチしてたりしたのでいつも便宜を図ってくれます。ありがたい。体育会の先輩後輩関係は、生涯続くね。
8:15スキッパーズ・ブリーフィング。9:30第1レースの予定でしたが、風がなくAP旗で延期。ジュニアヨットクラブの次男の後輩で初日3位の子とその両親と話す。相変わらず仲の良い夫婦で、子供の応援を楽しんでいます。当方のバースに戻ると、中部学生連盟所属のヨット部員達がやってきて、「あの〜・・大学さんですよね。マネ飯のブログ見てます。真似させてもらっています」と、当方部員とあ〜だこ〜だ話しています。
「・・ですか」と中部の選手がやってきて、全日本に進むための練習方法などを僕に聞いてきました。あ〜だこ〜だ話しました。ヨットを楽しんでくれたらいいね。千客万来になり、去年最優秀選手賞を取った長男の母校O大学のAちゃんがやってきました。「僕のビデオ参考になった?」「はい、京都からA君に持ってきてもらい、大阪で3時間ぐらいそれを見ながら話しました」。ふ〜ん、あれで3時間もヨットレースのことで話せるかな?・・・な関係ではないの?要らん想像をしました。
SWの風がそよそよ入ってきたので、10:45D旗で470出艇。桟橋に行くと、KG父兄観覧艇に乗せてくれました。さすが優勝経験が何度も有り、今大会も優勝狙いのKGは、コーチボート・父兄観覧船・OB観覧船の3艇体制でした。
OB観覧船は、OB関東支部がチャーターした船で、5〜6人乗っておられました。その中になんと僕と同期のYくんもいました。「やあやあ、久しぶり」。就職して関東に行き、海外勤務などもしていたので、会うのは学生以来かもしれません。それでもすぐ解り、外見は僕同様変貌していましたが、声は全く同じでした。懐かしいな。
父兄は、3組のご両親でした。マネージャー2・プレイヤー1の合計10名です。広島ジュニア出身の親もおり、ジュニア含めいろんな話で盛り上がりました。大学からヨットを始めた子の親御さんはヨットレースのことを知らないので、あれやこれや説明しながら一緒に観戦を楽しみます。去年2位だったHさんの両親は、「今年こそ」と期待しているでしょう。子を出汁に親が楽しまなければ・・・親が応援に来てくれると、やはり嬉しいものです。
見慣れないライジャケを来ている子が乗っていました。そのことを聞くと、マイライジャケだそうです。芦屋の山手に住んでいるとか・・・3人の女の子達が美人さんばかりだし、これは楽しそう。
11:30、470第3レーススタート。1上16位回航。得意な軽風とは言え、上出来。ところが昨日は強風を恵んでくれた海ですが、今日は微笑まず風が落ちてしまいました。12:20N旗が上がりノーレース。12:34AP/H旗が上がり陸上待機になりました。KG艇を曳航してハーバーバックします。当方の艇はオフィシャルボートに曳航されているのでOK。
ハーバーバック中、SWの風がまた入り出しましたが、一旦AP/Hを上げたので、ハーバーで全艇帰着を確認しないと再出艇できません。良い風なのに残念。帰着しバースに戻り、「帰着申告のチェックを終えたら、すぐ出ると思うよ」と気持ちを切らさないようにしました。
13:15D旗で470出艇。またKG観覧船に乗せてもらいました。14:00Goodスタートでスターボを伸ばし、タックしてスターボ艇のバウをどんどん切っている。これは上マーク期待できそう。14:14、1上11位回航。後半でスタート後右に出した艇にバウを切られたようで、右海面の方が良かったようです。
14:28、2上24位。ここまで順位を落とすとは想定外でした。3m/sの得意な風なのに・・・。14:58、23位フィニッシュ。KGは、470で2位、S級トップフィニッシュを決めていました。
最初の規定では、「15:31以降スタートしない」となっていましたが、初日S級のレース成立がゼロだったので、「16:01以降スタートしない」に変更されています。
15:10、R4スタート。今度はスタートがダメで、1上24位回航。このコンビは軽風でスピードがあるが、スタートがまだダメです。2上26位。25位前後の実力的に定位置なのかな?強風30位・軽風20位と予想していたんだけど・・・もう少しやれるはずなんだけど・・・27位フィニッシュ。KGは470トップで、日大10位・法政16位と崩したので、KGが2日間暫定でトップに立ちました。S級5位でした。両クラス優勝争いですね。総合でも優勝争いです。
父兄観覧船は、KG470チーム3艇を引っ張ってハーバーバック。バースに戻り、1上11位回航した2人の選手を褒めまくった。女子だけの大会だけど、KGや日大などのジュニア・高校ヨット部経験者で更にインターハイや国体で活躍した実績のある選手も多数いる全日本で、11位回航するというのは上出来です。
最終レーススタート時間を30分遅らせたので、ハーバーを出るのが昨日より30分遅いです。4人をホテルに届け、19時に夕食を食べに行く約束をして別れました。18:23「サンクス大塚海岸店」で「大人なガリガリ君マスカット108円+ファミコレフルーツミックス500ml100円+ダブルチョコオールドファッションドーナツ118円+FDK富士通プレミアム単3・4P484円=810円」を購入。
ホテルPにてガリガリ君で糖分補給します。KGの女の子たちが出ていきます。「夕食かい?」と聞くと、「OBさん達の招待です」。KGヨット部OB関東部会からの激励ですね。OBだって、うら若き女の子が大勢、楽しいものね。5艇出場してるから選手10人と交代要員やサポートマネージャーで20人弱来ているはずです。19時になり、向かいの「とんかつ香楽大塚店」に入りました。僕は「魚フライ定食」を注文。2人は「とんかつと魚フライ定食」で1人は「ハンバーグステーキ」。外見はいまいちだけど、ここもとても美味しくお腹いっぱいになりました。海の近くだけあって、この辺のお店は海産物が美味いのかな?
コンビニに行く彼女たちと別れ、ハーバーPへ。単3電池式でスマホに充電しながらおやすみ〜。


2018/9/22
先週末、全日本インカレ地区予選を両クラス2位突破したところです。そして今週末は、久しぶりに参加する「女子インカレ」です。女子選手が2回生2名・1回生3名います。2年連続して女子選手が入部してくれたので、この流れを途切れさせないためにも、ヨットの楽しさを体験して欲しい。大学に入ってヨットに初めて乗った2回生部員ですが、それなりに走れるようになり、レース経験も1年になりました。頑張って欲しいなとサポート体制をキャプテンに聞きました。
選手2名+2回生女子マネージャー2名体制で、車なし・コーチボートなしです。有力チームは、監督・コーチまで繰り出し、支援艇を複数用意する体制なので、せっかくの大会なのに肩身の狭い思いをするかもと思い、急遽コーチングすることにしました。有力校は、他校の支援体制を見ているもので、その体制を見て、1ヶ月後に迫る「全日本インカレ団体選手権」のライバルを値踏みする。これからのし上がっていこうとしているので、色んな面で対抗し、選手に経験させ、有力校と並ぶような結果が出るのが当たり前と思うようにならねば勝てません。
9/21、金曜日の仕事を終え、布団を車に積み21時に出発。21:03近所のローソンで、「キリン小岩井ミルクとコーヒー500ml162円+手巻き熟成辛子明太子140円手巻き熟成焼きたらこ140円=442円」購入。R171〜吹田ICから名神高速〜京滋バイパス経由で再び名神に合流し、22:07「草津PAセブンイレブン」で「プレミアムたっぷりクリームパン100円+プレミアムひねり揚108円=208円」。
新名神に乗り換え、亀山JCTから「東名阪道」に乗り、23:13「御在所SA」着。ここで寝ます。2・3列目シートを倒しフルフラットにして、布団を敷いてゴロン。
9/22(土)3:30出発。伊勢湾岸道〜東名高速に乗り、「音羽蒲郡IC」下車。愛知県道r73〜R247で、6:01「豊田自動織機蒲郡ヨットハーバー」着。前回来てから数年経っていますが、トヨタのネーミングライツが付いた程度で、相変わらず嬉しい無料24HオープンP完備です。大会期間中はここで寝ましょう。
コーチボートがないので、ここでオフィシャル側としてジュニアのOP級全日本などを事務局長として開催した時、お母さん方が言ってた山の上から見たポイントを探しに行きます。三谷温泉の旅館・ホテルが建つエリアに登っていきます。野生の勘で走り、2ヶ所見つけました。6:10「巨大弘法大師像」。下から見えていた観音様は弘法大師でした。大きくはないですが、展望台もあります。もう1ヶ所もP無料です。弘法大師像横には、「日本一の喫茶店」と自称する「HILL TOP」という景色の良さそうなカフェがありました。ここで観戦しながらお茶するのも良いね。
ハーバーPに戻り、サポートマネさんに電話します。大会実施要項では、「9:45〜スキッパーズ・ブリーフィング、11:00〜開会式、13:00〜第1レース」となっているので、YH開門の8:00には入るのかな?と。
9:00YH着を予定し、8:30宿を出るとのこと。宿名を聞き、「車でピックアップしに行くよ」と伝えると大喜びし、8:50ピックアップに決まりました。8:10に4人が泊まっているR23沿いの「AZホテル」着。1F玄関を入ってすぐ食堂&フロントがあり、トイレは客室内のみでした。全国チェーンのようで、「1泊シングル4800円」で朝食付きです。アメリカのBBのように、ロードサイドにこういう安価なホテルが出来ていくと良いなと思いました。
食堂に入ると、母校KGの子達数人が食後のおしゃべり中で、客室に引き上げ外に出ていき車に乗り込んでいきます。僕をOBだと知ってる子は挨拶して行き、夏に先輩の散骨で一緒の船に乗った2人に、「頑張りよ」と声をかけました。470のKさん・Hさんコンビで、3回生だった去年同点で2位でした。今年こそは・・・優勝候補の一角です。
8:50当方の選手達が降りて来たので、彼女らを乗せてハーバーへ。和歌山マリーナシティー同様、傍にリゾート施設「ラグーナテンボス」があり、少し華やいだ雰囲気を持っています。9時にハーバーに着くと、4人を降ろし、僕は着替えてセンターハウスなどを見て回ります。以前と全然変わっていません。相変わらず505級が置いてあります。OPも、数艇練習の準備をしています。
昨夜から降っていた雨が上がりどんよりしています。果たして風は・・・。当方部員の艤装も進んでおり、ここでの経験による風の傾向を話し、フレッシュウインドの中をできるだけ長く走るようアドバイスする。もう、耳タコだけど。彼女たちは、このレースを経験することで一回り大きくなるはずです。レースは1レースで10日分ぐらいの練習に匹敵します。多くを学び、多くの友達を作って欲しい。他校の艤装風景を見に行きます。母校KGの選手たちに声を掛け、コーチ陣のことを聞く。K監督とK女子コーチが昼頃来るそうだ。470級のピアソン艇やスーパースパーマストを探しに来たが、有力校にはちらほら入っているはずだが、日大の1番艇リコールNO.12だけのようです。KGは持ってきていないそうです。
スキッパーズ・ミーティングに続き、オープニングセレモニーが大屋根の下で始まりました。当方は持ってきていませんが、各校部旗を先頭に並んでいます。皆、参加賞で頂いたピンクの大会ロゴ入りTシャツを着ていますが、「聞いてないよ〜宿に置いてきちゃった〜」と当方4人。目立たないよう、他校の後に並んでいます。
12:10、運営艇要員に招集アナウンスが入り、選手は船をスロープに移動させます。12:20、470/D旗が揚がり次々にレース艇が出艇して行きます。Oさん/Tさんコンビは、初の全国大会で「緊張する」と言いながら、元気よく出艇して行きました。スナイプも出ていきます。
陸上本部の公式掲示板をチェックし、何もなかったので車に戻り、マネージャー2人と一緒に山を上がります。かなりの急坂で、その途中に1ヶ月後の宿が建っていました。「うわ〜、坂凄い〜」と、次の時は歩きになるのでビビっています。でも宿からでもレースが見れるんじゃないかな?
12:52、展望台。ヨットハーバーから見える保養施設横です。西の風で、2つの島と本州との間に打たれた第1上マークは見えませんが、その他のマークは眼下に一望できます。全面白波のコンディションとなり、アベレージ8m/s・MAX10m/sオーバーの風が入り良いレースになりました。当方には少々辛いレベルですが・・・第1マーク回航、なんとなんと当方9位回航。強風になると怖くてセイルが引ききれず一気に遅くなってしまう不得意風域なのに素晴らしい。この夏の練習やレースで、とても上達したようです。3人で歓喜の声を上げました。すぐにマネージャーがLINEやツイッターで琵琶湖にいる部員と共有します。
ところがです。僕も双眼鏡を覗いていたマネTさんが、「あ〜沈しました」という無常の報告。近くを走っていたKG艇も沈したそうです。ブローが入ったのでしょう。帰着後、スキッパーが下側に座れないような風の時の2人の座る位置をアドバイスしました。
何度か沈を繰り返しやっと沈が起きましたが、スタートラインに向かっている間に2レース目がスタートし、第2レースもリタイヤしハーバーバックする雰囲気です。山からハーバーへバックします。
14:17、平均22ノット(11m/s)が一定時間拭き続けたので、規定によりスナイプは第1レースの2上直前でノーレースになりました。優勝候補・大阪のAちゃんがトップ走ってたのに残念。
14:43、当方が風を抜きながら帰ってきました。無事で何より。このレースを経験したことで、大きなものを得たはずです。争っていた下艇がブローのウエザーヘルムで上ってきたので、それに合わせようとしたらブローチング沈したようです。「1上9位で回航したんですよ〜」と残念がる2人に、「良くやった、良くやった。20番で回れれば素晴らしいと思ってたよ。上出来、上出来。セイルは大丈夫?スピンは?」とマテリアルの消耗を問うと、問題ないようです。
470は、第3レースもスタートしたが、風が更に強くなりノーレース・ハーバーバックになりました。女子だけの規定かな?2年前の大会もここで開催され、全校マスト1本以上折れるという大惨事になりました。まあ、人的被害はゼロだったので、問題ありません。レース後のマストの手配が、来ている業者さんの在庫がそこまでなく緊急輸送になりました。
15:31以降スタートしない規定になってるので、これでレース初日終了。日大と法政が、1・2位と2・1位でトップ。次男の後輩のジュニアヨットクラブ出身の九大に行ってる子が3・4位で3位。4位が母校の去年2位だったKさん/Hさんコンビで、6位・3位の着順。
片付けて、16:56ハーバーを後にしてホテルAZに4人を送ります。僕は竹島観光に向かいます。R23を西に走り、17:27「八百富神社」。明治時代風、木造洋館建築の「海辺の文学記念館」の周りの公園を散策し、予想より暗くなったので、急ぎ足で島に渡りましょう。
橋を渡りだすと、ちょうど西の山に夕日が落ちるタイミングでした。東に目をやると、その夕日をホテルや旅館の白い建物が浴び浮き出ていました。振り返ると、歩いてきた橋の延長にある丘の上に建つ「蒲郡クラシックホテル」が綺麗です。竹島の上空を鷲が数羽飛んでいます。「八百富神社」の鳥居をくぐり島に上陸。『天然記念物・八百富神社社叢 竹島は、対岸から約400mの海上に浮かぶ面積1.9haの小島である。基盤は花崗岩質で、表土は浅く、海岸は岩盤が露出して断崖を成している。
島全体が八百富神社の境内であり、対岸と異なる植物相が自然植生の状態で群生しており、東海地方では他に見られない代表的な暖帯林である。昭和28年7月から20数回の調査によってシダ植物・裸子植物・双子植物・単子葉植物など合計238種の高等植物が自生していることが判明。植物分布上特に注目スべきものに「キノクニスゲ」「カゴノキ」「サカキカズラ」などがある』
社殿に上がってみる。『市指定有形文化財・木造弁財天像 本像は、檜の一材から丸彫りした古色、彫眼の小像で、やや下脹れした表情や、鎬立ったくせのある衣文の表現などから、室町時代(16世紀)の製作と認められる。高さ16.8cm・像底に江戸時代に記されたと見られる寄進銘(無年紀)がある。
弁財天十五童子像 本画は、中央に弁財天像、その下に大黒天と毘沙門天の二天像が描かれ、それらの下方にさまざまの供物を持った十五童子が描かれている。このような構図はめずらしく、室町時代(15世紀中期)の作と思われ貴重である。絹本着色・縦59.2cm・横33cm。
俊成卿画像 90才の賀に後鳥羽上皇より賜った鳩杖を右にすえた藤原俊成の姿を描く。江戸時代の作で、作者は土佐派の土佐光芳となっている。俊成分翁姿はめずらしい。絹本着色・縦98.5cm・横33cm。
五條三位俊成卿筆加賀切 元真集の断簡である。加賀金沢の藩主であった前田家に伝えられていたが、大正15年に名古屋で分割されて、加賀切と名付けられた。本書は、そのうち248首から253首の和歌6首で、昭和6年11月18日、竹島の千歳神社鎮座の時に、冷泉為系伯より寄進されたものである。
竹島参詣滑稽鄙栗毛 本書は、江戸時代後期の弘化2年(1845)初秋の作で、十返舎一九の東海道中膝栗毛を模したものである。当時の竹島の御開帳参詣の様子がおもしろく表現されている』
社殿から向こう側に下り、海岸に出て島の周回道路で戻りました。東の空に月が上がっています。橋に戻ると欄干に灯が入り、別の美しさがありました。
『冷泉為系伯御歌 竹志まの 緑久しく 茂らなむ 宇烈にひとの 其の名もろとも』
『竹島弁財天 八百富神社の御祭神は天照大神の神子天真名井の3女神の1神・市杵島姫命である。この市杵島姫命は弁天様として人々に親しまれ、当社も古くから竹島弁財天の名で有名である。
社宝の「弁財天十五童子画像」は室町時代の作であり、元文元年当地の領主・松平氏の家臣・小田藤太夫の著した竹島縁起に「八百富神社と申し奉るは、皇太后太夫藤原俊成江州竹島弁財天勧請也」とあり、その歴史の古さを物語っている。この竹島弁財天は、全国的に名を知られ、日本七弁財天の1つである。近郷では三河弁財天の1つでもあり、参詣の人々の多いことで知られている』
『篠津遥拝所・石の鳥居由来記 宝永2年(1705)の水飢饉の折、西ノ郷(蒲郡市)の領主・松平義堯(よしたか)は篠津遥拝所(竹島八百富神社遥拝所)で雨乞いの祈願をしました。その甲斐あって恵みの雨が降り豊作となりました。また後年、元文3年(1738)石の鳥居を寄進しました。我ら厄年にあたり、この由緒ある石の鳥居に謹んで額(竹生島神社名誉宮司・生嶋竹雄書)を奉納いたします』
『八百富神社由来略記 神社名:正しくは八百富神社、通俗に竹島弁天 祭神:市杵島姫命 開運の神、縁結び安産の神
養和元年3月18日、藤原俊成卿がこの地方開発のため、江州竹生島から勧請奉斎されたもの。徳川家康公は当社に参拝され、朱印4石8斗を寄進された。領主・松平氏の崇敬は、累代鄭重をきわめ鳥居その他数々の品を奉納された。
祭日:例祭10月第3土日 月次祭毎月18日
境内神社:宇賀神社・宇賀御魂神・商売繁盛 大国神社・大国主命・福の神 千歳神社・藤原俊成卿・長寿芸能の神 八大龍神社・豊玉彦命・厄除神
竹島は総面積18800平方メートル(5800坪)、島高24m、周囲680m、架けられた橋は387.3m。鬱蒼たる林叢は暖地性植物200余種が茂り、文部省より天然記念物に指定されり、農林省より魚類を集めるに必要だとのことで魚つき保安林に指定されている』
R23で4人の泊まっている「ホテルAZ」Pに車を入れ、フロント食堂で待ちます。待ち合わせの18:30に4人が降りてきて、夕食を食べに出ます。マネNさん情報「国道を渡った所に美味しいとんかつ屋さんがある」に従い店の前へ。「とんかつ香楽大塚店」の店構えはイマイチで、店頭の商品サンプルが無茶くたびれており値段なし・・・Tさんが扉を開けた所で、「あっちに行こう」ということになりました。その並びに「和風レストラン」があり、店構えが良いです。
「和風レストラン浜路」のメニューサンプルはまともでした。僕は「きすフライ定食1200円」。とても美味しく、みんなお腹いっぱいになり大満足。6000円ほどお支払しました。翌日のお昼を買いにいくというので、歩いてコンビニへ。19:33「ファミリーマート蒲郡大塚店」で、「フルーツミックス100円+サクレレモン129円=229円」購入。国道を渡り、Pで解散しました。翌朝は7:15ピックアップです。
19:47にハーバーPに戻りました。ラグーナはリゾートタウンなので華やかで、神戸ルミナリエのように電飾されていました。布団を敷き寝る体制に入った所、20:00花火の音で起こされました。起き上がり、車内から花火見物。それが終わりゴロンとすると、再びドカンドカン。準備なのか少しの休憩を挟み、4回花火が上がりました。車外に出て、近くで観ました。ナイスでした。
ハーバー前の「変なホテル」に入ってみます。このホテルのフロントは、恐竜ロボットです。横の建物の壁には懐かしいインベーダーゲームが映されています。遊園地内のイベントでしょうか?観覧車も回っています。22時ぐらいまで開園しているのかな?おやすみなさい・・・


2018/9/17
大学ヨット部団体戦の地区予選最終日です。2日間で7レース消化し、あと3レースです。琵琶湖の予報では、北からの安定した4m/s前後の風が入るとなっているので、当方には吉報です。初日は470級4位・S級2位で、2日目終了時点で両クラスとも2位になりましたが、初日苦戦した影響で470級は3位と1点差・4位と5点差の大接戦です。1レースでこんな点差はひっくり返ります。
8時に琵琶湖に行けば良いので、早朝寺社巡りツーリングする余裕がありますが、早めに選手達の様子を見たくて5時過ぎに出発しました。曇りの天気予報だったので、「招き猫CB400SB」を出します。また下道で向かいましょう。
R171〜中央縦貫〜大阪府道r14〜名神・茨木IC付近のR171に合流。大山崎までR171。前日の「大山崎カフェ・大山崎山荘ミーティング」で走ったそのままです。大山崎JCT下を抜け、右折して京都府道r204で桂川を渡ります。r13〜r79で宇治川沿いを走り、観月橋〜六地蔵から京都外環状線で北上。
6:39「天穂日命神社」。『延喜式神名帳に載る天穂日命神社に比定されており、天穂日命を祭る。現在の本殿は天明3年(1783)の造営で、造営当時は天照太神と日吉山王を祭り、田中神社と呼ばれていた。屋根は檜皮葺で、身舎正面の柱間が2間という、京都市内にはほとんど例のない二間社流造形式の建物である。柱間は正面に蔀戸、東側面前方に板扉を構え、他は板壁である。内部は棟通りに板扉を設けて、手前の外陣と奥寄りの内陣に分ける。細部に装飾的要素が見られるが、彫刻がおとなしく、派手なものではない。かなり早い時期から覆屋に入っていたようで、保存状態は良好である。平成15年4月1日、京都市登録有形文化財に登録された。
境内は「万葉集」などで和歌の名所として知られた「石田の杜」に比定される。本殿以下の建物が樹林の中に建ち、良好な環境を保っており、本殿の登録と同時に文化財環境保全地区に指定された』
鳥居をくぐり境内に入ると、社叢の木々が悲惨な状態になっていました。先日の台風21号の影響でしょう。枝や幹が折れた木があり、危ないのでチェーンソーで切った枝や道が参道を避けて置かれています。お参りしようと拝殿に上がろうとすると、石玉垣の一部が崩れていました。高槻を中心に起こった地震の影響かもしれません。ブルーシートが掛けてありました。
拝殿脇に、木製の謂れ板、反対側に勅撰歌集が書かれていました。この地で詠まれた歌なのでしょう。保存状態の良い本殿を拝見しようとしましたが、正面が目の細かな網で覆われよく見えませんでした。保存する意味は解りますが、現在生きている一般人にももう少し披露して欲しいな。
R1まで北上し、R1経由で湖西道路に乗り、皇子山ランプで下車し、7:15「セブンイレブン大津松山町店」で「プレミアムフレッシュバナナ213円」を購入。7:27ヨットハーバーに着き、皆に挨拶してコーチボートのある桟橋でバイク装束を脱ぎバナナを1本。3回生Mマネさんがやってきたのであ〜だこ〜だ。三井寺の風が吹いています。
北風が吹き出して、10:35陸上大会本部にD旗掲揚され、一斉にレース艇がレース海面に向けて出艇して行きます。この日もボスマネの他にマネージャーはゼロで、陸上・他の支援艇に分散乗艇しています。
沖に出ると弱かった北のブローが強まり、これなら行ける。前日後半、この風になり470が3艇合計18点を取って2位に上がりました。スタートマニューバリングに入るものの風向が大きく変化し、11:19AP旗でスタート延期。
風は落ち、2m/sほどになりましたが、11:29AP旗ダウンでスタートマニューバリングが始まる。11:35、470第8レーススタート。2回生スキッパーN艇スタート失敗している、ああ〜。逃げのタックをしているが上がって来れるのか・・・。昨日調子の上がらない1番艇K君が控えの2回生と1レースだけ交代したりなどして、何とか2位まで上げたのに、1艇の失敗が致命傷になる。
他の2艇の位置を双眼鏡で追いながらレース展開している。昨日後半から復活してきた1番艇が良い位置を走っている。「5位以内かな?」と想像し、監督・若手コーチとワイワイやっていると、ドライブしていたボスマネさんから、11:39「LINE連絡来てる。UFD・リコールナンバー4番」・・・「4番ってKじゃないの?」・・・当方1番艇が早すぎるスタートで失格したようです。これだけで30点、他の2艇が1・2フィニシュしてなんとか。片手フィニッシュしても40点コースで、4位との5点差はギリギリ。N艇はスタート失敗したし・・・コーチボート上はお通夜状態になり誰も言葉を発しません。ただS級のスタートや470のレース展開を遠望しているのみ。
第1マークの風上海面のブローが止まったようで鏡のようになっています。こうなれば神頼みです。「マークの風上に風あるか?」と僕の双眼鏡を託したOコーチに声を掛けます。「ありません」の言葉に、少しみんなの会話が復活しました。そして待ちに待ったN旗(ノーレース・レース中止)が揚がり、コーチボート上に歓喜が弾けました。
S級のNを確認し、レース海面に入り、470を曳航しに行きます。早くスタートラインに戻し、次のスタートに備えなければ・・・。コーチボートをお通夜にした張本人K君とY君に、UFDだったことを伝えると「ええ〜」って驚き、ノーレースだったので笑っています。他のレース艇メンバーからも手荒い笑いのネタにされています。
この2人、2回生の同じ大会ではヒーローでした。3回生エースが同じく早すぎるスタートで失格し4位に落ちてしまいました。調子を落としていた4回生エース艇からスキッパー4回生T君とクルー2回生E君2人共上がり、交代したのが2回生K君・S君コンビ。スピードはあるもののレース経験がまだ少なく未知数の抜擢です。ここでKくんはしっかり走り9位フィニッシュ。これで全日本枠の3位に上がりました。Kくんの頑張りを見ていたエースT君が気力復活し、支援艇から呼んだのが2回生Y君。最終レース、大抜擢K君・S君ペアと交代し、最終レースを3位フィニッシュし悠々3位を守りました。
この時はS級もピンチで、4回生1艇が調子を落とし、3番艇を2回生ペアに託す苦しい状態でした。だけどしっかり抜擢に答え、最終レースまでコンスタントに良い成績を刻み続けました。最終レースでは本来のレギュラーコンビと交代し、コーチボートに上がってきて、470の抜擢に応えた2人とともに、エース艇クルーとして落ち込んでいたE君も交え、お祭り状態のコーチボートで最終レースを応援しました。K君とY君は、ここで神様にあの時の借りを返さなくても・・・余裕のあるS級は、レギュラー全員上がり、3回生スキッパー3人に交代しました。クルーも含め6名全員3回生になりました。S級もちょこちょこ交代していたので、多くの選手がこの大会に出ました。ここから、長い待ち時間になりました。最終日は閉会式や遠征組の船の積み込みなどがあるため、14時以降のスタートはありません。北や東からそよそよの風が時折入るものの安定せず、13:45「AP/A」旗。本日は、これ以上のレースはありません。
レース艇6艇全艇曳航し、ハーバーバックします。僕はバイクで一旦合宿所に戻り、嵩張るバイク装束とライフジャケットを置きます。ハーバーに戻り、15:00クロージング・セレモニー。両クラス2位・総合2位です。昨年の成績よりまた上に行きました。クラス別・総合の各成績発表があり、両クラス2位・総合2位です。昨年の成績よりまた上がりました。「1〜3位の大学は各2名前へ」と呼ばれ、クラスリーダーやキャプテンが前に出ますが、もうひとりは4回生女子マネージャーでした。表彰状は選手がもらい、トロフィーはマネージャーが受け取っていました。
ひょっとするとコーチボート上ではしゃぐ監督やコーチを見ながら、冷静に「470UFD・リコールナンバー4番」と言い放つボスマネの姿のように、4回生の力関係からなのかも知れないが、女子に優しく男前な選手たちです。セレモニーが終わり、トロフィーを嬉しそうに持つ3人の女子マネさんが揃って歩いているのを見ながら、良いクラブだなあと思いました。こんなクラブに関われて、僕は幸せです。
合宿所に戻り、16:30今春卒業した学年が仕切る祝勝会です。Tくん司会で、まずは監督の挨拶と乾杯の音頭で始まりました。17時を過ぎ、OB会長さんの挨拶に続き僕にお鉢が回ってきました。「おめでとうございます」で始まり、終わりもそれでした。いつもより話が短いので、「えっ」と思ってる部員もいました。でも数分は喋ったよ。4回生全員の挨拶もあるので、忖度しました。
17:26、第1レースはスタートでルール違反の邪魔をされ凹みましたが、以降淡々と成績を刻んだ4回生Nくんから。次の人を指名する流れで全員が話しました。部員からのツッコミもあり、笑いが絶えません。特に本日のハラハラ・ドキドキの張本人Kくんの話すときが盛り上がりました。
再び歓談タイムになったので、御暇することにしました。OB会長さんに挨拶し、バイク装束を持って階下へ。トイレに下りた部員と去年1人女子マネでマネージャー陣を統率したKさんがワイワイやってたので、それに取り込まれながら装束を整えます。楽しい時間が持てました。
湖西道路〜名神を走り、18:55「桂川PA」で定番の「バニラソフト140円」で糖分補給。19:45「セルフ北村SS」で給油。256km/10.82L=23.7km/L。20時前に帰宅し、バイクを片付け家内とあれやこれや。「どうだったの?」「両クラス2位で総合も2位」「D社が勝ったの?」「うん、今年は前哨戦には勝てたので、また一歩前したよ」。


2018/9/16
カフェ巡りクラブの「大山崎カフェ&大山崎山荘」の日です。天気予報が曇りなので、途中を「通勤リード110」で寺社巡りしながら向かいましょう。8時過ぎに家を出て、R171〜中央縦貫〜大阪府道r14〜R171が最短コースですが、r14は混むのでスクーターの気軽さもあり万博周回道を利用してみました。結局距離が長くなりダメでした。R171に出て高槻に向けて走っていると、ナビのチェックポイントが画面に現れたので、右折しそこに向かいます。
9:02「総持寺」。阪急の駅名にもなってる有名な寺院ですが、未訪問でした。山門前に亀の上に乗る形の石柱があり、寺名の他に「高野山真言宗準別格本山」と「日本包丁道祖藤原山蔭卿菩提寺」と彫られています。包丁道とは・・・何?
『茨木市指定文化財・建造物第2号 総持寺 (本堂・薬師金堂・仁王門・如来荒神堂・宝蔵・鎮守社・東門・庫裏・鐘楼・附棟札、宮殿形厨子2基)
総持寺は境内に数多くの近世建築物を残す寺院として府内屈指で、「承応元年絵図」(1652)や『摂津名所図会』(1798)等から近世伽藍の移り変わりをたどることができます。
本堂は元禄12年(1699)の再建当初に復元でき、内内陣をもつなど中世的な平面形式を伝え、仁王門は均整のとれた外観の楼門で、周辺では勝尾寺(箕面市)と久安寺(池田市)のみに見られます。
当寺院は古代における天皇行幸や貴族、天台高僧の参詣等があり、江戸時代になると境内で相撲や能興行が行われます。また、明治28年(1895)の大阪府第4尋常中学校(現大阪府立茨木高等学校)の開校は、当寺院の庫裏で行われ本市の近代中等教育においてその舞台となるなど、総持寺の建築物は地域の歴史と文化を語る上で欠くことのできないものとして指定されました』
『茨木市指定文化財(有形文化財建造物) 山門(仁王門) 江戸時代中期(18世紀初頭)
三間一戸、入母屋造、本瓦葺の楼門である。建立年代についてはこれを明らかにする史料は無く、『摂津名所図会』(刊行:1796〜1798年)に現在の門と同形式の楼門が描かれており、遅くとも18世紀後半には存在していたことがわかる。建築技法などから18世紀初頭の建立と推測される。仁王門は総持寺では山門とよび、寺の正門として象徴的な建築物である。左右に金剛力士像を祀り、この門から先が聖なる場所であることを表している。楼門形式の門としては、北摂地方ではわずかに勝尾寺(箕面市)、久安寺(池田市)と総持寺の3棟のみが現存する』
金剛力士像(右:阿形、左:吽形)南北朝時代(14世紀)
阿形像は高さ227.5cm、吽形像は高さ226.7cmで山門内にて左右一対で祀られる金剛力士像である。両像ともヒノキとみられる針葉樹材による寄木造で、目には玉眼を用い、表面には彩色が施されていた痕跡が残る。頭部の大きめなプロポーションや、肩を怒らせ四角張った上半身、分厚い下半身の表現は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての作例の特色である』
『総持寺の定紋 桔梗 竹に雀(仙台笹)
総持寺には定紋(一般家庭においては家紋にあたる)が2つ定められています。「桔梗」は総持寺を開かれた、従三位中納言藤原山蔭卿の家紋と伝わります。「竹に雀(仙台笹)」は奥州仙台藩・伊達家の家紋です。
仙台伊達家の初代・伊達朝宗公は藤原山蔭卿の子孫と伝わり、藤原山蔭卿は伊達家において始祖とされています。江戸時代、仙台藩伊達家は始祖・藤原山蔭卿の菩提寺である総持寺に帰依され、仙台藩第3代・綱宗公の代に開山堂に祀られる藤原山蔭卿尊像を寄進されました。またその後も山蔭卿御廟所の修築・堂宇の修繕に、仙台藩より寄進を受けました。
竹に雀(仙台笹)の紋も、伊達家より総持寺に寺の定紋として賜ったもので、本尊厨子の珱珞、飾り金具、仏具、僧侶の袈裟、提灯など様々なところに現在まで大切に使用されています』
立派な歴史のありそうな仁王門をくぐり境内に入ります。正面の本堂の瓦が一部壊れています。地震により落ちたのでしょう。崩れた瓦の下は規制線が張られています。
事務所に入ってみます。永代供養永代納骨パンフ・謂れパンフを頂き、絵馬700円を授かりました。カラフルな薬師如来像・脇侍日光月光像が描かれています。永代供養は奉安位牌建牌・供養料30万円、永代納骨は永代供養料1霊10万円。
『亀の恩返し
総持寺開山・藤原山蔭卿は幼き日に船から淀川に落ちた際、山蔭卿の父・高房卿が観音様の縁日に助けた大亀に救われたことから、総持寺の建立を発願しました。総持寺の縁起は、今昔物語集に「亀の報恩」というお話として登場します。この仏縁により総持寺の御本尊は亀の背に乗っておられます。また境内中央の池にいるたくさんの亀は山蔭卿と亀との縁起によるものです。
本尊千于観世音は秘仏で、毎年4月15日から21日までの一週間のみ御開扉されます。また、西国霊場の御砂踏も開壇され、西国巡礼の功徳を授かることが出来ます。
藤原山蔭卿と仙台藩主伊達公
総持寺の開山は中納言・藤原山蔭卿(824〜888)です。山蔭卿は総持寺本尊造立の時、仏師に千日間毎日違う料理を饗し、「中納言の千日料理」として知られています。また平安時代に宮中料理の諸作法を整えたことから、山蔭卿は我が国の庖丁道の祖とされ、全国の訓理師から信仰を集めています。仙台藩主伊達政宗公に代表される伊達家は、山蔭卿の末裔とされています。伊達公は江戸時代、一族の祖である山蔭卿ゆかりの総持寺に信仰を寄せ、現在開山堂に奉安されている山蔭卿の尊像は、正保4年(1647)、伊達公により寄進されたものと伝えられています。総持寺の定紋は「桔梗」と「竹に雀」と定められています。「桔梗」は藤原山蔭卿の家紋。「竹に雀」は仙台伊達公の家紋であり、伊達公の総持寺と家祖・山蔭卿への崇敬により、寺紋として賜ったものとされています。
山蔭流庖丁式(毎年4月18日)
藤原山蔭卿が日本庖丁道の祖であることから、毎年4月18日に、古式に則り「山蔭流庖丁式」が執行されています。現在「庖丁道山蔭流」を継承する全国の調理師により、山蔭卿の菩提所である総持寺において、庖丁式が奉納されています。庖丁式では、山蔭流免許の許し状が総持寺より授与されています』
『茨木市指定文化財 歴史資料第2号 総持寺瓦窯跡
1号窯と2号窯はほぼ同じ構造で、有淋(畦)式平窯である。手前の炊口につづいて燃焼室があり、そこで生じた焔は奥側の3つの分焔孔を介して長方形箱型の焼成室に導かれる。焼成室は燃焼室よりも一段高くなっており、床面には2条の畦(桟道)を設ける。畦と畦、側壁と畦の間に分焔孔が対応しており、熱を導く役割をもつ。この畦の上面の高さに合わせて、両側の側壁に段が作り出しており、畦や段の上に瓦を並べて用いられた。有淋式平窯は奈良時代に登場するが、平安時代以降にしだいに小型化することが知られている。本例は、小型化が進み、畦が2条にまで減少しており、これらの点から室町時代を中心とする時期に位置つけることができる。
平成5〜6年にかけて総持寺の納径所建築に伴う事前調査において、室町時代の鋳造遺構などとともにこの瓦窯が発見された。調査後、保存をはかるため、発見された場所から約15m西北西に移して展示している。
1号窯全長2.65m・焼成室幅1.10m(右)、2号窯全長2.80m・焼成室幅0.90m(左)』
『茨木市指定文化財(有形文化財建造物)
金堂(薬師堂)附宮殿形厨子1基・棟札1枚 慶安2年(1649)
正面3間・側面4間・向拝1間、寄棟造、本瓦葺の御堂。総持寺の近世伽藍を知る重要な史料である承応元年(1651)の伽藍絵図には金堂として描かれる。一般的な寺院の総本堂としての金堂ではなく、薬師如来を祀る御堂として金堂と称したと想われる。寺内では薬師堂と称されている。金堂は小規模ながら中世的な密教仏堂の平面形式を伝え、当初材を多く残している。棟札から慶安2年(1649)に四天王寺の大工により建てられたことが判明した。細部の様式から棟札の年代に合致し、様式的編年の指標となる点て重要な建造物である。内陣の宮殿型厨子(くうでんがたずし)も当初のもので、和様を基調とする端正な厨子である。
金堂本尊・薬師如来 木造・彩色・截金・玉眼・像高55.5cm 鎌倉〜南北朝時代(14世紀)
金堂(薬師堂)の本尊で、左手に薬壷をとり、右手に施無畏印を結び、左足を上にして結珈践坐ある姿で表される。内陣須弥壇上の厨子内に日光・月光両菩薩を脇侍として安置される。また厨子の左右には薬師如来の巻属である十二神将が安置されるが、両脇侍菩薩と十二神将は江戸時代以降の補作である』
本堂からほら貝の音が流れてきました。白装束のご夫婦が前後に並んで般若心経を唱えておられました。西国巡礼中なのでしょう。この雰囲気は、四国はもちろん全国の空海縁の地巡礼をされておられる感じがします。
『茨木市指定文化財(有形文化財建造物)鐘楼 江戸時代(18世紀)
桁行一間・梁間一間・入母屋造・本瓦葺の建物。江戸時代中期の形式を継承し、当時一般的な方一間吹き放し形式の鐘楼である。現在の梵鐘は平成26年に高野山開創1200年を記念して新造されたものであるが、かつて納められていた永享6年(1434)の銘を有する梵鐘は、片桐且元陣中の鐘と伝えられ、現在は納経所にて展示保存されている』
撞かせていただいた。開祖・藤原山蔭卿を助けたとされる縁起で亀がいるだろう池を覗いたら、亀は見当たらないが立派な錦鯉が沢山寄ってきた。餌はないよ・・・。「不動堂」には、「6月の地震で被災し、不動明王など堂内仏像を本堂に仮安置し、毎月28日の護摩法要を一時休止」との説明が貼られていた。境内脇にに数社の神様が祀ってある。
『荒神社(如来荒神堂)寛永20年(1643)
一間社春日造、こけら葺の建物で、墓股の無い素木の装飾性を抑えた社殿であるが、中世的な海老虹梁尻の納め方など伝統的な手法を伝えている。このような形式の社殿は摂津地方では数少ない貴重な例である。
昭和60年(1985)の解体修理時、内陣御神体遷座に際して、御神体を納める櫃に「遷宮導師権大僧都法印隆慶 于時寛永廿発未歳三月口口 再興之瑚敬白 以下真言等梵字 (以下略)」と記す墨書が発見された。この墨書により荒神社が寛永20年(1643)に総持寺中興法印隆慶により造営されたことが判明した。建築様式的に見て、現存する社殿の建立年代を、墨書に記される寛永20年と認めることができる。
荒神は台所・竃(かまど)の神として信仰される。また総持寺では仏法僧の三宝を守護する三宝荒神として祀られている。荒神は仏教では如来の姿で表され、「如来荒神」と呼ばれる。当荒神社にも如来荒神が祀られる。頭には宝冠をいただき、6本の手には様々な密教法具や宝塔などを持ち、蓮華座に座する姿で描かれた、「如来荒神画像」が伝来しているが、現在は収蔵庫にて保存されている』
『宝蔵(旧御朱印蔵・経蔵)寛永20年(1643)
方一間・寄棟造・校倉、本瓦葺の建物である。建物の構造が全国でも例の少ない校倉造(あぜくらづくり)で、また我が国最小の木造校倉造とも云われる。総持寺の宝蔵では断面が五角形の校木が正面と側面で交互に組まれており(互組という)、正倉院宝庫に類する古代的な組み方といえる。
古代では校木の断面は六角形であるが、慶長期以降は五角形の断面が見られる。また入口が正面中央ではなく左に偏していることは他に類例が無い。当宝蔵は近世的な校木を用いつつ、古代的な互組による建築物で、近世的校倉への過渡的遺構といえよう。
宝蔵の建立年代であるが、承応元年(1651)の伽藍絵図には本堂前方に東側に「御朱印蔵」として校倉造の蔵が描かれる。また明治7年(1874)の境内絵図には「宝蔵 寛永廿未年再建現住隆慶」と記される。昭和60年(1985)に宝蔵の解体修理が行われた際、建立年代を判定する資料は発見されなかった。しかし部材の経年度合からみて寛永20年(1643)の建立とみて問題ない。
全国的にも数少ない校倉造の遺構であるが、大阪府下においては大阪市・四天王寺宝蔵(文化7年・1810)が知られるのみである。現在、宝蔵は経典を納める「経蔵」であり、本尊は智慧を司る文殊菩薩である』
バイクに乗り、9:40、R171に戻る間にある「疣水磯良神社」を訪問します。社名から、イボ取り・癌封じのご利益がある湧水が想像されます。境内に入ると、「霊水・玉の井」があり、それを汲むためにペットボトルなどを持った数人が並んでおり想像通りでした。
摂社に「稲荷神社」がありました。農耕の神であるお稲荷信仰は、全国どこにでも広がっているね。元庄屋だった父の実家の裏庭にも、商家だった母の実家の縁側横にもお稲荷さんの祠があり、帰省する度にお参りさせられた。父の実家のそれは、広い敷地の林の中にあり昼尚暗くちょっと怖かった。毎朝お供えを持って行くのが子供の仕事で、同年齢の本家の従兄弟とその役をよくさせられた。伯母さんに渡されたお供えを置くと、一目散に駆け戻ったことを思い出す。大人になって見たら、どうってことない林でした。
しめ縄が張られた「御神水・疣水拝受所」と大層な名前が付いた湧水持ち帰り場があります。人は水なしでは生きられず、清潔で綺麗な湧水はまさに天の恵みです。その場所を汚染から防ぎ、乱開発や個人所有にならないよう「神様の居られる地」として未来永劫子々孫々にまで伝えて行こうとする知恵が、神域であり禁足地であり、その目印が鳥居であったように想像する。先人の知恵により、自然災害が多いとは言え多雨で動植物が豊富な列島が残り、現代に生きる日本人は清潔な水に恵まれている。ありがたいことです。きっと毎週のように御神水を授かりに並んでおられるのだろうこの方々の行為は、太古からこの地にあった人々の姿に見える。
『御神水「良水」の受け方
・先に手水所(建物右端)で手水をすませる。
・御神水口より持参の容器又は備付のコップに御神水を受ける。御神水で容器・コップを洗わぬこと。コップの洗浄は手水鉢左横の水栓を利用のこと。
・受けた御神水はすべて本殿前の御神水台にふたをあけ供える。初めての祈願の方ぱ受付でご祈祷をお申し込み下さい。
・参拝後御神水を持ち帰る。(いただく)』
R171との交差点に神社があったので参拝。9:51、境内に入ろうと正面に来てびっくり。拝殿に続く参道が落枝・落ち幹で見えない。拝殿さえ見えない。台風21号の被害なのか、社叢が酷いことになっている。
『新屋坐天照御魂神社 主祭神:天照御魂神(天照国照彦火明命) 祭日:1月1日歳旦祭、5月10日春祭、10月15日例祭
由緒:延喜式神名帳(927成立)に記載された古社である。当地西河原の周辺はその昔新屋郷といわれ、遥か古代やら天照御魂神がお鎮まりになった。名神大社の中でも相嘗祭に朝廷から幣帛を奉られた式内社最高の社格で、府下には数社あるにすぎたい。
天正(1573〜92)の頃までは神域広大、神事も盛んに行われ、近隣7ヵ村の産土神として崇敬として崇敬された。しかし戦国争乱等により衰運に傾き、寛文9年(1669)社殿は旧神域の西北隅にあたる今の社地に移り、同12年現社殿が新しく造営された。
現在、本社には主祭神のほか天兒屋根命・建御名方命を相殿に祀り、境内社には八幡神・住吉神・磯良神を祀る東之神社・速素素盞嗚尊を祀る須佐神社、宇賀御魂神を祀る稲荷神社がある』
先程訪問した「疣水磯良神社」も、この社の摂社だったようです。西宮の地名の起こりである「廣田神社」の摂社「えびす神社」が、今や廣田神社を凌ぐ知名度があるように、神社にも盛衰がつきものです。
参道脇を拝殿に向かうと、崩れた石鳥居が折れ落ちた枝・幹の下に隠れていた。屋根の瓦も落ちており、こちらは茨木・高槻など大阪北部を震源とした地震に由るものと思われる。
R171で高槻・島本町を通過し、JR大山崎駅へ。ここらでバイク置き場を考えます。ちょうどそこに、カフェの集まりでご一緒するKさんが来られた。JRで来たのかと思ったが阪急で来られ、散策されていたようです。JR踏切横にあるPに四輪を駐車したことがあったのでそちらに行くと、四輪のみのPでした。ガードマンさんがおられたので「バイク置き場」を聞くと、「大山崎山荘に行くの?」「カフェで食事してから行きます」「じゃあ、そこに置いておきな」とガードマンさん達のバイクの横に置かせてもらうことになった。大山崎山荘のガードマンさんかもしれない。
Kさんがタバコを吸い終わり、一緒に阪急大山崎駅前の「ハーミットグリーンカフェ」に向かった。晴れてきて暑いので、阪急の日陰に移動し話していると、Sさん穣が来られました。お初の方なので、自己紹介しました。このクラブのリーダーJさんが来られ、Kさん穣も登場。
お店のオープン時間11時になったので移動して店内に入ると、Cさん穣とKRさん穣が先に入っておられました。メニューを見ながら注文を考えていると、KSさん穣が「電車が遅れた」と登場。これで全員です。
僕はパスタランチを注文し、食後にマンゴージュースを頼みました。台風の風害のお話、家族のお話、次のこのクラブの集まるカフェのリクエスト・・・いろんなお話を楽しく2時間。パスタランチセット(前菜・スープ・サラダ)1250円+ドリンク300円=1550円也。
続いて大山崎山荘まで歩きます。JRの踏切を渡り、ここから急坂です。13:11「大山崎山荘」。山荘正面まで来ると、写生されている方が10人ほどおられました。僕は写真ですが、写生の方がずっとカッコいいな。数年前、NHK朝ドラに誘発され家内と訪問した時はおられなかったので、グループで来られているのかもしれない?
入館料900円で中へ。『大山崎山荘の歴史 大山崎山荘は、大正から昭和初期に、実業家・加賀正太郎が別荘として自ら設計した英国風の山荘です。その後、加賀家の手を離れた山荘は、平成に入ってとり壊しの危機にあい、心ある人々からその保存が切に望まれていました。アサヒビール株式会社は、貴重な文化財を後世に伝え、その保全・活用を通じて豊かな社会を創出するため、京都府、大山崎町と協力して山荘の復元整備を行いました。こうして大山崎山荘は、1996年春、「アサヒビール大山崎山荘美術館」としてよみがえりました。
加賀正太郎(1888-1954) 加賀は、証券業をはじめ多方面で活躍した実業家である一方、蘭栽培をてがけ、植物図譜《蘭花譜(らんかふ)》を刊行するなど、趣味人としても大きな業績を遺しました。加賀は、ニッカウヰスキーの創業にも参画し、晩年には同社の株を、深い親交があったアサヒビール初代社長一山本凧三郎に託しました。この縁が、現在の美術館へと受け継がれています。
本館:加賀正太郎設計(監修) 地中館:安藤忠雄設計 山手館:安藤忠雄設計建築家・安藤忠雄による「地中の宝石箱」は、緑豊かな周囲の景観に溶けこむよう、地中に埋めこまれています。円柱形のギャラリーでは、クロード・モネ《睡蓮》を展示しています』
『山本コレクションと民芸運動 当館所蔵品の中核を成すのが、美術館開館に際して寄贈された、朝日麦酒株式会社(現アサヒビール株式会社)初代社長・山本焉三郎(1893-1966)によるコレクションです。山本は芸術や文化活動に対する理解が深く、とりわけ「民芸運動」を篤く支援しました。民芸運動とは、昭和初期に柳宗悦らによって提唱され、健やかな無事の美を宿す民衆的工芸を再評価した芸術運動です。
コレクションには、山本との交友から生まれた河井寛次郎・演田庄司・バーナードリーチ・芹沢鐘介・黒田辰秋らの作品をはじめ、国内外の工芸の名品が含まれています。
庭園の睡蓮池のかたわらにたたずむ地中館「地中の宝石箱」には、印象派の巨匠クロード・モネによる《睡蓮》連作が展示されています。
「三國荘」:三國荘とは、民芸運動初期に御大礼記念国産振興東京博覧会の展示館として、1928年、東京に作られ、のちに大阪の山本鴬三郎邸内に移築された建物です。そこでは、民芸運動がめざす、住宅と器物が一体となった総合的な美が示されました。山本コレクションには、三國荘での生活をいろどった器や調度品が多く含まれています。
黒田辰秋:樫拭漆テーブルセット 青田五良:紬座布団』
「谷崎潤一郎文学の着物を見る」展が開催されており、代表作「細雪」が映像化された時、三姉妹が身につけていた着物が多数展示されていた。常設の展示物・調度品・ゆったりした山荘内部建築を楽しみ優雅な気分になりました。
2Fに上がり、混んでいるかな?とカフェに早めに入る。ベランダからの桂川・男山の景色が良い。1テーブル(4脚)席が空いておりそこを確保しながら、店員さんに「8人です。もう一つテーブルを」とお願いした。皆さんが来られるまで場所取りします。Kさん・Jさんが来られ、「もう1テーブルお願いしている」と伝えた。
「ケーキセットモネの庭アイスコーヒー950円」を注文した。外の1テーブル席が空いたので片付けしだした店員さんにこの席の確保をお願いすると、「予約があります」とのことで確認してもらうと僕の予約のことで確保!ちょうど女性陣が来られたので、クーラーの利いた店内席もあるけど・・・」と言うと、景色が良いのでこちらで良いと。
14:46に精算し、地下の安藤忠雄設計のコンクリート打ちっぱなし美術館に入り、モネの睡蓮を楽しみ、山荘を後にしました。道に出るとちょうど「山荘無料バス」の時間なのでそれに乗ることにした。JR大山崎・阪急大山崎とここを結んでいます。JR駅で降り、「妙喜庵」を訪問しようとしたら、予約が必要でした。残念。『妙喜庵 臨済宗束福寺派 開基:春嶽禅師 文化財:(国宝)茶室・(重文)書院
庵は江戸時代末期までこの地にあった地蔵寺の塔頭であったといい、明応年問(1492〜1500)に俳人であり連歌師でもあった山崎宗鑑が隠居所として建立したと伝える。
同庵には2棟の国指定文化財があり、1つは千利休が山崎合戦(1582)直後に建立した草庵風茶室の代表的な遺構の待庵である。その規模は2帖で隅に炉を切り、塗りまわしの洞床を用い、それぞれ異なった大きさの迪子窓、下地窓を開くという変化に富んだ構成を見せている。我国の数奇屋建築の根本と言われる建物で、後の数々の茶屋に多大な影響を与えた。今1つの建物は、茶室から続く書院で、室町末期の文明年問(1469〜87)頃に佐立されたものと思われ、桁行2間・梁間3間・一重切妻造・こけら葺という室町期の優美さが漂う建造物である』
振り返るとCさん穣もおられ、JRで帰られました。僕はバイクに向かい、他の方は皆そのままバスに乗って阪急へ。
r67・西国街道で帰路に着きます。高槻市に入り、15:38「畑山神社(梶原寺跡)」。
『畑山神社は、天児屋根命と菅原道真を祀る。元亀年間(1570年代)、金仙寺の鎮守である三十番神を合祀して、殿舎や二重宝塔を建て、永福寺と名付けられた。慶長年間に火災で焼火。宝永3年(1706)、現在の社殿や多宝塔などが再興され、文化4年(1807)編修の「山崎通分間延絵図」には、神社と寺院の混在する様子が描かれている。
明治元年(1868)の神仏分離令により、同5年(1872)、畑山神社と称するようになった。昭和35年に永福寺の名残を伝えていた多宝塔が、埼玉県のユネスコ村に移築されたが、今も神仏習合時代の建物配置を偲ばす童重な神社である。
当社が造営される以前の7世紀後半頃には、この地に、市内最古の寺院の1つである梶原寺が創建されていたとみられ、瓦などが出土している。大門や四方院、末房などの小字名から、山陽道(西国街道)に南面して建てられ、延暦11年(792)には僧寺と尼寺があったことが「類聚国史」(るいじゅうこくし)に記されている。
また山麓の斜面には、7〜8世紀頃の瓦窯跡がある。奈良正倉院文書には、天平勝宝8年(756)、東大寺の造営にあたっていた造東大寺司が、梶原寺に6000枚の瓦を発注したとの記録が残っている。当地で焼かれた瓦は、淀川沿岸まで運ばれて舟積みされ、淀川から木津川を経て東大寺に納められたとみられる』
境内は、台風の被害がそこここに残っていた。大木が根こそぎ倒れている。幹が折れ、社殿の屋根に被さっている。
『梶原寺跡の礎石 これは白鳳時代(7世紀後半)に創建された梶原寺の礎石です。金堂などの主要建物の柱を支えたとみられ、畑山神社北東側の旧家で見つかりました。
花崗岩で、柱を据える柱坐が上・下二面に彫りだされた、めずらしい礎石です。
上面の柱座は直径約50cm・下面は一回り大きく直径約70cmあり、建て替えの時に再利用されたと推測されます。
梶原寺は、奈良時代の「正倉院文書」や平安時代の「今昔物語」にも登場する著名な寺院です。ここに展示している礎石は、梶原寺の伽藍の実際をいまに伝える、大変貴重な資料です』
『伝・林丹波守の五輪塔 畑山神社の前身・永満寺(永福寺)は、「林丹波守」によって建立されたと伝わります。この人物は、徳川家康の旗本・林正利とみられます。正利は小早川秀秋の家臣として関ヶ原合戦で活躍し、秀秋没後、家康に仕えました。慶長13年(1608)、領地がある美濃(岐阜県)で亡くなり、梶原の永満寺に葬られました。
五輪塔は「寛永13年(1636)」の年紀や正利の法名が彫られていたと記録にあることから、供養塔と推定されます。隣の宝篋印塔の由来は明らかではありません』
r67で高槻市街地の山側を走り、16:00「高槻陸軍墓地」。隣接する「霊松寺墓地」と間違ったが、その一段高い所に松に囲まれてあった。この松数本が、台風21号の風害で根こそぎ倒されており悲惨な状態だった。規制線が張られていたがどうしても見たくなって入っていくと、墓石そのものは無事だった。
『旧陸軍工兵之墓 当所は、旧陸軍工兵第4大隊が明治42年に高槻に衛戍(えいじゅ)してから、日華事変までの間に公務傷病死した将兵の墓地である』
この地に本拠地を置いた工兵第4大隊の方だけのお墓でした。大東亜戦争の戦死者から思えば意外に少なくビックリしたが、こういう由来だったのですね。
16:20、「阿久刀神社」。神社の裏側・芥川の土手から境内に降りると、ちょっとかわいそうな姿になっている御神木があった。
『御神木とは、古神道における神雛(ひもろぎ)としての木や森を指し御神体、神域、結界の意味も内包する木を指す。神雛(ひもろぎ)は神の宿る場所としての神域、本神木は本霊が宿るとの伝えがあり、安産、子宝、学力向上、諸々の病い、苦難等に霊験あらたかです。現世にとって禍や厄難を招くものが、簡単に行き来できない様に結界として本神木に注連縄を張っている。
高さ約15m・幹周り最大5.2mのムクノキ(ニレ科ムクノキ属)。樹齢800年と言われている。平成元年3月30日に高槻市から保護樹木に指定されました』
『弁財天・小島神社 祭神:市杵島姫命 元あった場所:芥川4丁目(土井仲町)小島神社は明治維新後、神社整理に基づいて芥川村に散在する神社(無格社)を阿久刀神社の末社として明治10年2月18日付で、他の6社とともに移設されたものです。
従って、当小島神社は土井仲町にあったもので、地域の地神(守護神)のようであったように思われます。現代に生きとし生けるものの祖先の思いを受け継ぐことに意義があると信じています。「徳は自らにあり」』
『夫婦梅 本樹は紅色の八重で1花の内に2本の雌しべが在り、果実は2本の雌しべが実を結ぶ珍種である。果実は完全に分離せず側面で癒着しているのが特徴で学術上も非常に価値があり貴重である。品種名は鴛翁(えんおう)梅で1花で2果が実ることで品質特性が見られる。鴛翁(えんおう)はオシドリを指し、夫婦円満・良縁成就すると伝えられている。
栃木県日光市の東照宮では、天然記念物に指定されている』
表に回ると、石灯籠が倒れていた。これも地震によるものでしょう。『阿久刀神社 阿久刀神社は、10世紀に編纂された『延喜式神名帳』記載の式内社で、住吉大神を祀り、住吉神社ともいわれる。創建の年代は不詳であるが、永禄年間(16世紀)に三好・松永氏の兵火で消失。その後再建され、明治維新(1866)後、近在の諏訪神社、大将軍社等が境内社として当地に移転された。
社名は、『新撰姓氏録』(814年編纂)にある阿刀連によるという説があり、芥川の地名もこれに因むといわれている。落ち着いた境内から、盛時が忍ばれる』
西国街道に戻り西進するとすぐに、「今城古代歴史館」があった。今城古墳の横にあります。今城古墳は、26代継体天皇が眠っています。
この天皇は、超過激で有名な25代武烈天皇が子を残さず崩御したので、天皇の後継者がいなくなり、臣籍降下で皇族を離れて久しい越前の地方豪族であった男子に白羽の矢が立ちました。男系男子は15代応神天皇まで遡り、その5世孫の男子が後の継体天皇です。
そんな経過から、朝廷内での反対派も多く、50代というより60才手前で天皇位に着いてから、都に入ったのが80代(90才前)という数奇な運命を辿った天皇です。この天皇は、実は血統が切れているとも言われており、現天皇に続く新天皇の祖ではないかとも言われている。とても興味深く、高島の生誕地を訪問し、臍帯塚も見に行きました。
日本史・天皇家の歴史では、とても重要な天皇ですが、一般的には有名ではありません。その割に古墳は整備され、こんな立派な施設まで整えられています。天皇家・宮内庁の力の入れようを感じます。
何度かここを訪問しましたが、いつも早朝や夕方帰りの時間帯で、探索したことがありません。本日ももう閉館が近い時間帯なのでパスしました。
更に西進すると、鎮守の杜が見えてきたので寄り道しました。16:36「春日神社」。「宮田遺跡」の謂れ板が立っていました。
『宮田遺跡 女瀬川の自然堤防上にある。ここには、平安時代後期から鎌倉時代に営まれた農村があった。
春日神社の東側では、条里に沿った屋敷地が見つかっている。それぞれは溝や柵で約20m四方に区画されており、それが東西にいくつか並んで、1つの村を作っていたと考えられる。
東の屋敷地は、中庭を囲んで母屋と副屋、井戸が配置されていた。西隣は柵でさらに区切られ、各2、3棟の小さい建物と井戸があった。これらの屋敷には一つずつ、初代の先祖を祀る特別な墓(屋敷墓)がある。
また屋敷や川からは、多くの土器や陶磁器、木製品が出土した。椀や皿・しゃもじ・下駄・織物やムシロ編みの道具などに、当時の生活がしのばれる。それらの多くは商人を通じて手に入れたと思われ、なかには中国製の青磁や白磁などの貿易品も含まれていた。
宮田遺跡は、発掘調査によって、中世の農村のなりたちや暮らしが具体的に復元される貴重な集落遺跡である』
これで探索を終了し、R171〜r14〜中央環状線〜R171で帰宅しました。


2018/9/15
この日から3日間、大学ヨット部1年の集大成であるインカレ近畿北陸地区予選が始まります。2クラス上位各3校のみがインカレ本選に進めます。4位以下になれば4回生は引退、次世代に代替わりです。当方も目標は本選での6位入賞ですが、予選を通過しなければお終いです。
琵琶湖は生憎の雨予報だったので、バイクを止め四輪で向かうことにしました。8時に着けば良いので朝の時間は余裕ですが、四輪では気楽に寺社巡りできないので早朝観光なしにしました。それでも4時には目が覚めて暇なので、高速利用を止め下道で行くことにしました。
5:47、近所のローソンで「助六寿司・399円」を購入し、2時間かかると思ってナビをオンしたら1.5時間表示でした。R171〜中央縦貫〜大阪府道r14〜R171。高槻〜大山崎を過ぎて、右折し京都府道r204に乗り桂川を渡り、r13〜r79で観月橋〜六地蔵〜r35で名神京都東手前の山科でR1の乗り、湖西道路に乗りました。皇子山ランプで下車し、7:39ヨットハーバー着。途中、京都手前で雨に降られました。
9:55第1レーススタートなので、9:10にはハーバーでD旗が上がり、470級が出艇して行きます。選手とニューセイルのボートスピード具合を聞いたりします。皆落ち着いており、良い感じでレースに入れそうです。横には富山大遠征チームが艤装しており、ハーバー内はレースの雰囲気に染まっています。
キャプテンとレース・スケジュールなどを話し、大学の応援団が来ていることを教えてもらいました。学ランの応援団部員が太鼓・トランペット2本・スーザホンを持ち込んで来ました。それ以上に嬉しかったのは、チアリーダーが4人も来てくれたことです。あのコスキュームは最高だわ。
他校の部員も注目する中、当方部員が艇庫前に並び、それに向かってチアを前列に応援団が整列します。応援が始まりました。団長の上げるボードに従って楽曲が変わり、チアの振り付けも揃って華やかな応援です。「優勝、優勝、・・大」「フレーフレー・・(選手個人名)」のエールが、団長の指示の下、楽曲の間に挟まりテンポ良い素晴らしい応援でした。出艇時も本格的な応援をしてくれるということでしたが、あいにく風が上がらず陸上待機です。11時までスケジュールに余裕があるので待機してくれましたが、11時になり再び向かい合って整列しお礼と激励で別れました。10時頃からレースできる三井寺の風が入っていたのにな〜残念。
11:30、北からの風が入りだし陸上大会本部にD旗が揚がり、当方トップに次々にレース艇がスロープを下りて出艇して行きます。コーチボートが泊まっている桟橋から、下級生達が選手個人名を叫び整然と応援して送り出します。選手は船を止め起立して「ありがとうございました!」。何度見ても気持ちの良い学生の試合です。
ボスマネ1人・若手コーチ・交代選手・私・監督の布陣でコーチボートが出ました。支援艇が他に2艇おり、風上の風データ収集やOBさんの観戦に使います。レース海面に着くまで、帆走練習しているレース艇に伴走し、気づいたことを選手に伝えます。
気合十分でしたが、風が落ちてしまい長い風待ちになりました。やっと北から2m/sの弱い風が入り、13:50、470級第1レーススタート。3艇とも良いスタートを切って出ていきます。続いてS級もスタート。口を酸っぱくして言っていた「横文字(英語)をもらうな」がスタートではクリアです。
早すぎるスタートなどでルール違反して横文字が付くと、ビリ艇+1点の得点になります。優勝するためには毎レース3艇合計で15点、3位通過の目安はその倍の30点を重ねる必要があります。3日間全10レースが公示されているので、最終ターゲットはトータル150点です。失格すると1艇で30点稼いでしまい、優勝はないです。
14:03、風が更に落ちN旗が揚がりノーレースです。第1マーク直前まで走り、3艇とも5位以内に入っていた470達は皆悔しがっていました。でも僕は、「4m/s以上の風が吹けば大丈夫、怖いのは微風レースで神様の気まぐれカーム(風のない海面)に捕まってしまうこと」と思っていたので、この微風でこの順位を走るスピードがあるなら穴はないなと安心しました。
14:35、470第1レーススタート。片手(5位まで)に1、両手(10位まで)1、15位前後1と30点コースでレースが進みフィニッシュ。優勝候補D社は20点。S級は当方キャプテンが第1マークよりトップで、フィニッシュは30艇身ほどの差を付けてダントツフィニッシュ。横綱相撲ですが、個人戦水域6位以内の2枚看板の1枚がスタート時にルール違反した艇に絡まれスタートが遅れ、まさかの18位。抜擢の2回生スキッパーの3番艇が7位フィニッシュしてくれ30点コースを何とかクリアしました。
16:00、470第2レーススタート。抜擢の2回生3番艇が2位フィニッシュしましたが、水域個人戦6位以内の2枚看板が共に10番代後半で沈みトータル40点で撃沈しました。S級の方は、2枚看板が3・4位で、2回生22位をカバーし30点以内をクリア。
470はトータル4位で、2〜5位が点差10点内にひしめき合っています。4校ほぼ横並びの大接戦です。D社は30点で横綱優勝コース。S級はD35点・当方55点・3位67点・4位68点で、何とか2位。
コーチボート上に女子マネ1人体制は厳しく、ボートドライブ、マーク回航順位・記録・連絡、各支援艇との連絡、支援艇から次々に入り回航順位・風情報の記録、そしてホワイトボード・画用紙ノートに書く。それら客観的データを掲示しながら、レースフィニッシュ後選手にコーチがアドバイス・話し合う。そんな忙しいボート上です。
日頃、マネージャーが手分けしていた作業を若手OBに振り分け、ついレース展開に夢中になってしまう男を冷静にコントロールする女子は、やはりボスマネでないとね。
17:15車をハーバーPより出して合宿所へ。300円。帰ってくる若手OBとワイワイ話し、18時からミーティング。気づいたことを話します。特に470級メンバーに対しては、日頃見られないようなコース引きがあり、気負い過ぎでリラックスして・・・と話しました。団体戦は総合力だからレースに出ている者・出ていないもの関係なく自分の持ち場で精一杯やること。普通にやれば予選通過は出来るので、日頃のように・・・と皆をリラックスさせるよう心がけました。
車に乗り、湖西道路〜名神〜中央縦貫〜R171で20時に帰宅しました。「どうだった?」と家内から。「S級は2位だけど、470は2〜5位の団子状態で4位」「またDが1番?」「うん、まあ」。7月の水域団体戦前哨戦ではDに勝ったのだけど・・・


2018/9/2
土日は、コーチしてる大学ヨット部のレース日です。1週間前は「近畿北陸ブロック内新人戦」でしたが、今度はハーバー内ショップ主催レースです。賞品レースのようです。1週間前、2人乗りレースに初参加した大学からヨットを始めた部員の1人が、1つのレースで2位を取りました。コーチングした土曜日、風が強すぎてひっくり返り、レース中に僕の指示で同じ1回生男の子に交代してコーチボートに上がってきた女子部員Tさんが、自分の不甲斐なさに涙していました。その子が翌日2位を取ったのです。2回生女子部員と同じように、軽風ではセンス良くスピード良く走れるようです。将来有望です。
1・2回生のみしか出場資格がないレースであっても、未経験者がヨット歴4ヶ月で5位以内は奇跡に近いです。他大学にはスポーツセレクションで、高校時代国体やインターハイで活躍した選手が何人もいます。「雨のち快晴」で、きっと「私にも出来る」と大きな自信を持ったでしょう。1回生内で最高成績を叩き出しました。拍手して、褒めてあげなきゃ。握手してもらおうかな・・・
10時第1レース・8時出艇ということなので、早朝ツーリングしましょう。3:30に目覚め、天気予報をチェックしました。琵琶湖南湖の風は、E~SE・4m/sで新人には丁度良い風です。風向Eは風が安定しないので、まぐれで5位以内でフィニッシュする1回生が出るかもしれません。12〜15時が小雨かもしれませんが、朝は大丈夫そうで早朝ツーリングには支障ありません。
「里山VTR250」のチェーンにオイル差してメンテしたので、雨でバイクが濡れるだろうからこれで行きます。ラッシュガード上下+バイク用メッシュプロテクター上下で出発。4:31近所のローソンで、朝昼食用に「助六寿司399円」購入。R171〜中央環状線で東進。4:45「中環豊中エッソSS」で給油。166km/4.18L=39.7km/L。吹田ICから名神に乗り、大山崎JCTから「京滋バイパス」に乗り換え、「石山IC」下車。ここまで1週間前と同じです。
R422に出て、瀬田川沿いを北上します。右折してr16・「瀬田の唐橋」で瀬田川を左岸へ。枝道に入り、近江一の宮「建部大社」鎮守の森を左に見て、5:34「桧山神社」。謂れ板がなかったので詳細はわかりませんが、近江一の宮「建部大社」に隣接している小丘にある摂社でしょう。
5:47「近江国庁跡」。『史跡・近江国庁跡・「木製外装基壇」遺構 国庁の東側の区域には、築地塀で囲まれた区画があり、その中の中心的な建物が、この場所に建てられていました。発掘調査で確認された建物基壇の痕跡から推定すると、東西23.9m、南北13.3mの範囲に土を積み上げ、その周りに板を立て並べて建物の基壇を築くという、全国的にも類例の少ない工法が用いられています。この「木製外装基壇」の上に、瓦葺きの大型建物が建でられていたようです』
律令制の上国「近江国」の国庁遺跡だけあって、広く国有地化され歴史を時代に伝えています。築地塀跡が復元され、土塀も復元されていました。
『国庁は律令という中国の法律制度にならって、天皇を中心とする統一国家を作ろうとしたところに、全国68ヶ国にそれぞれ設置された役所で、近江国庁は奈良時代前半(1300年前)に置かれ、平安時代後半(800年前)まで存続した。
ここでは都から派遣された国司(現在の知事のような役職)を中心として、徴税・裁判・軍事など今でいう県庁・警察署・裁判所・税務署として近江国の統治と都との連絡にあたっていました。
国庁は、前殿・後殿と東西の脇殿という建物を中心に、門や築地などからなり、東西2町(約216m)・南北3町(約324m)の区画をいいます。また、その外側には9町(約972m)四方の広がりをもつ規格化された街路が広がっています。これを国府と言い、役所の所在する市街地にあたるものです。
近江国庁は日本で初めて、古代の地方政治の中心地である国庁の全容が明らかになった遺跡です』
6:04「御霊神社」。『祭神 本殿:弘文天皇(大友皇子命)・相殿:住野大明神・権殿:白髭大明神 境内社:野上神社(国常立尊)・稲荷神社(天龍大明神)当神社は近江神宮の御祭神である38代天智天皇の御子・大友皇子を主祭神とする由緒あるお宮です。大友皇子は幼少の頃より文武両道に優れ前途を期待されたが、壬申の乱(672年)のため戦死、戦後貴臣・地元の人々が皇子のご遺徳を敬慕し霊を慰めた。彦坐王命野第4世にあたる治田連の子孫が、大友皇子の神霊を祭祀したのが創祀。
古くは御霊ヶ原小字荘山に鎮座されていたが、元和2年(1682)の秋暴風雨のため倒壊し、その後小字七の社の地に遷されたが明和5年(1768)古来からの御旅所住野神社(現在地)に移遷され以来、当地の氏神として崇められている』
6:20「若松神社」。地域のお社だろうと訪問しましたが、境内は清掃が行き届き、社殿も立派です。由緒が知りたくて謂れ板を探すが見つからない。とぐろを巻いた蛇の石像の下に、この縁起が書いてあった。『白蛇の縁起 今から約950年前、瀬田に江ノ侍従という貧しいけれど心の優しい信仰心の深い女官が住んでいた。ある夜、嵐が起こり夜中に目を覚ますと、外に神々しい気高い女性が雨に濡れて立っていた。気の毒に思い招き入れ、一夜の宿を貸すと嵐はたちまち止んだ。
その女性が申すには、「私は貴女の好意に感謝し、必ず貴女などを守り子孫7代の幸運を授けましょう。その証は夜が明ければわかります」と言って、たちまち6寸の白蛇となった。夜が明けると庭に1本の若松が生えており、侍従はその白蛇の霊を崇め社殿を建立、以来若松宇賀大明神として祭祀している』
『祭神:若松大明神(経津主神) 創立:第30代・欽明天皇の御代に勧請 祭日:5月5日神輿渡御 今から1000年ほど前に瀬田に江侍従という貧しいけれど心だての優しい信仰心の深い女官が住んでいた。ある夜大嵐が起こり、夜中に目を覚ますと、雨戸の外に神々しいまでに気高い女性が、子供らに傘さしかけ雨に濡れて立っていた。気の毒に思い招き入れ、一夜の宿を貸されると嵐はたちまちに止んだ。
その女性が申されるには、「私の住居は西北にあるが貴女の行為に感謝し、貴女の父を守り子孫を7代の末まで幸福と富貴を授けましょう。その証は夜が明けたら分かります」と言って6寸の白蛇となった。
夜が明けると庭に緑滴る若松が生えているので、侍従は身を清めて鄭重に拝まれ信仰されると、その父や子孫は次第に栄え、自分も立派な女性歌人として天下に知られるようになりました。
またこれより先、宝亀8年琵琶湖の水が涸れて、国民が喝に苦しんだ時、斎王命が当時の天皇の夢に現れ、満珠を授けて降雨予告し翌年春大雨が降り五穀が穣したので、勅命を降ろして斎王命のために社殿を造営せられた。
若松神社は、かかる尊い由緒により幸福の白蛇の御霊と斎王命をお祀りしてあるので、昔から開運・厄除・商売繁盛・家内安全の守護神としての信仰が厚く、12年に1度の巳年には年間を通じて祈願者が多く、また正月や5月の例祭には遠方より参拝者が絶えない。毎年若松神社で祈祷を受け、また神社から授与している勧請縄・お札・お守りなどを受けると大変ご利益を授かると言われているのも、この尊い神社様の固いお誓いによるものでありましょう』
R1に出て少し東進し、r26で東海道線をくぐり、6:37「萱野神社」。『祭神:第9代・開化天皇 創立:第21代・雄略天皇6年 社号:萱野神社・旧社号:九帝王宮 祭礼:5月5日 社歴:当社は彦坐王命の第4世に当る治田連が淡海の国造としてこの地に居住し、専ら粟田一円の墾田拓地の事に当り土地の開発と人民の生息の基を開き、治田一族の遠祖となる開化天皇の神霊をこの里の守護神として仰ぎ奉った。その後祭神・開化天皇・彦坐王命(開化天皇皇子)・観松姫命(開化天皇皇女)・武豊葦判別命(開化天皇皇子)・大筒城真若王子命(彦坐王命皇女)の5柱を祀った。社号も古来「九帝王宮」または「九帝王神社」と称せられたが、明治2年「萱野神社」と改称された。
ご紋所・亀は古来長寿の象徴と称せられる目出度い動物であり万年の齢を経たりという。亀卜といって宮廷で重要な行事であった。和銅8年天下旱魃にて作物成長せず、農民皆雨乞祈願をした。その時、里の山中の洞穴より霊亀這い出して大雨沛然と降り作物は蘇生した。この亀は左目白く首赤く背三に分れ、七星の紋ありという、亀のいでたる処を大亀川、又は老上川、現在は狼川という。
当神社は古来より広域に亘る氏子を始め各時代の武将及び代々の膳所城主の崇敬も篤く、境内地一町四方と高五石五反歩の寄進があった。境内地は壱町四方のうっそうとした森林の神域であったが明治21年国鉄東海道本線の設置により境内地を二分に斜断されて参道も半分となり社殿その他の建物を移築した。さらに昭和44年に国鉄復々線の増設と瀬田駅の新設に伴ない末社及び神輿庫などを移築したので益々狭い境内地となり対面の森林も駅前広場となって全く昔の面影を失ってしまった』
『祖霊社 祭神:南大萱開拓祖霊神 例祭:5月5日・御輿渡御の斎行 日本民族は生活習慣に於いて祖先を敬い・偲ぶことが最も大切としてまいりました。祖霊祀は、元来神道信仰の根本要素であり、この信仰なくして日本人の精神生活が成り立たないと思われます。神道では、人は現代身を隠した後の御霊は鎮守の杜に帰るとされています。
南大萱を開村されたご先祖は、琵琶湖の畔を定住の地としてより、代々開拓を成し今の繁栄の基を築かれました。その祖先のご恩に感謝し御霊を鎮め祀る社です』
境内には、「市杵島姫神社」「西浦神社」「天満神社」などの摂社が祀られ、立派な神馬像が空を飛躍する姿を見せていた。
神馬の腹に彫られた神紋は、なんと亀。実に珍しい。初めて見ました。謂れ板に記されていた旱魃を救った亀の故事に因んだ神紋のようです。9代・開化天皇の第3皇子「彦坐王」が臣籍降下し、淡海連としてこの地に住み着き開拓した。
「御霊神社」の謂れにも記されていたように、壬申の乱で破れた天智天皇皇子・大友皇子を祀る神社を建てたり、絶大な地力を長くこの地に保っていたことが伺えた。地元開拓者の先祖を祀る神社であるので、生活者としての視線が目立つ神社で好ましい。
バイクに戻り、再びJR東海道線をくぐり、R1に出て少し東進し、6:56「八坂神社」。
『祭神:素盞嗚尊 境内社:多賀大社・稲荷大社・竜王神社・山之神社・開発祖社(開発六人衆) 神紋:祇園木瓜 例大祭:5月3日
月輪は延宝年間に京都在住の六人衆(長野宗兵衛、長野治右衛門、清水平兵衛、長野助右衛門、清水興兵衛、辻吉兵衛)が膳所藩より大萱地先の土地の払い下げを受け、延賓4年(1678)田・畑・屋敷合計33町4反8畝9分(約33.1ha)の新田開発を完了させて、戸数51戸で大萱山内新田村として発足しました。その折氏神は開発者が京都出身者であったので、月輪より西の方角の天神ノ森に、京都祇園社より午頭天王を分身として社を建て氏神として祀りました。
京都の祇園社は古くは神仏習合の思想によって中の座の祭神は午頭天皇またの名は武塔天神とされていましたが、明治元年神仏分離に際して祇園社(または祇園感神院とも称す)は八坂神社と改められ、御祭神も中御座の御祭神は素蓋鴫尊とされました。
明治9年(1876)、当神社も素盞嗚尊を御祭神に八坂神社として村社に列せられました。又この時に稲荷社に他の神々を合祀して境内社としてお祀りしています。昭和27年(1952)2月29日神社本庁より、宗教法人・八坂神社として承認されて以降、宮司や責任役員を備え、月輪・栗林両自治会の全ての会員が氏子として加わり、氏子総代を選出して八坂神社年間行事をもとに盛大にお祀りしています』
8時出艇予定なのでここでタイムアップ、バイクに戻りYHに向かいます。
7:30にYH着しましたが、部員の自転車やバイクが1台もない。「おかしいな」と思いながら、桟橋に行ってバイク装束を脱ぎます。助六寿司を出して朝食。「本日の風の具合はどうかな?」と思いながらのんびりしていると、部員がやってきてレース艇の艤装を始めました。
女子マネージャーがやってきて、レギュラーチームに帯同して福岡や江ノ島・東京若洲に行っていた時の話をしてくれました。レースには出ないけど、他大学から「マネージャーが3人も来てるの」と部員が羨ましがられたり、少人数での遠征なので仲がより密になり楽しかった事など、嬉しそうに話してくれました。ひょっとすると、この遠征がきっかけで生涯の伴侶を得たかもね。
選手のところに向かい、2回目の公式戦に臨む1回生選手中心に声を掛け、リラックスさせるように心がけます。先週土曜日に強風に翻弄され涙した女子Tさんが、翌日日曜日に2位フィニッシュしたことを大いに褒めます。失いかけた自信を10倍にして取り戻せたでしょう。成績が容赦なく数字で出るレースなので、自分への自信が最重要です。
3回生次期主将がやってきて、「9時第1レースではなく、10時第1レースのままでした。すいません」。土曜日、数レース出来たから、その日の最初のレーススタート時間を前倒ししなかったのでしょう。そんなのよくあることで平気です。
全日本に出場して、今週から部に復帰した選手たちとあ〜だこ〜だ。8:30になり、時刻合わせ・柔軟体操。連絡事項・ブリーフィング。下級生には、「積極的にレースに臨むこと」。そして「ヨットレースを楽しむこと」を伝えました。
陸で風待ちになりました。富山大の子達がいたので話しかけました。部員数を聞くと、1回生が20人も入部してくれたようです。2週間後のインカレ団体戦予選に向けて、こちらにレース艇を持ってきて合宿しているそうです。やる気満々です。富山はレースに来るだけの部でしたが、これから強くなりそう。1回生女子マネージャーが1人乗るので、彼女のレスキュー運転練習をします。桟橋から離れる時と、桟橋に着ける時が難しいので、それを繰り返します。
そしてレース艇出艇。レース海面で帆走練習していると、本部船・レースコミティーボートが出てきました。S級がそれを見ながらも、遠くに帆走練習しに行くので、コーチボートで追いかけホイッスル吹いて、本部船にバックさせます。風なんて水物で、何時なくなるかわかりません。本日の第1レース予定時刻は過ぎているので、何時スタートマニューバリングが始まるかわかりません。スタートエリアから離れないようにするのがレースの鉄則です。
15時まで、順調にレースが消化されました。東寄りの風予報でしたが、北寄りの風2〜4m/sでした。Sクラス3回生がトップ引いたり、3人のSクラススキッパー艇が競うように上位フィニッシュします。S級優勝は、全日本帰りの当方4回生N/Aコンビでした。若洲でインカレ個人選手権開催中なので、両クラストップ6がいません。一般全日本地区予選5位で6位以内に入り、一般全日本に行けたのに、学生だけのインカレ個人戦予選では7位で出場権を得られませんでした。実力派地区トップクラスなので、横綱相撲ですね。470の方もD社の「何故行けなかったの?」選手が勝ちました。
交代で乗って行く1回生部員に、レース展開を見ながらレースの鉄則・勝ち方をレクチャーします。レースの勝ち方をわかっている艇は、僕の予想通りのレース展開をするので面白い。少しでも、参考になったかな?
全レースが終了しそうな頃、東の草津方面に大雨になりました。海からもそうですが、水の上は障害物がないので空がとても広いです。琵琶湖周囲の陸地の上空が広くクリアに見えるので、天気の変化がすぐ分かります。草津市街地のビルが全く見えないぐらいの夕立です。「あの雨雲が、来なければ良いがな〜」。
北風なので東から雲が流れて来ることはありませんが、雷雲から豪雨が落ちてくる時は雨とともに風もダウンバーストして、雨雲を中心に四方に広がるので、いつ風向が変わってもおかしくないです。フィニッシュする頃は風が落ち、フィニッシュしたS級艇をコーチボートに次々につなぎ曳航を始めます。
西にあるYHに向かって走っていると、草津の雨雲が湖面に出てきました。注視していると、だんだん近づいてきます。東風を感じた所で、ドライバーマネージャーに、「風速が急に上がるかもしれないので、曳航を外します。風上に船首を向けて」と指示すると、元の北風の風向に船首を向けようとするので、「東に向けて」と指示します。こういうのは慣れが必要なので、わからないのは仕方ないです。「急激なブローが入るかもしれないので曳航終了。全艇急いでロープを外せ」とレース艇に伝えます。選手は心得たもので、ササッと外され、全艇がブローに乗ってガンガン走り出しました。
「豪雨になるかもしれないよ」と言うと、コーチボート上の1回生マネさんがカッパ着て完全武装になりました。何とか雨の前にハーバーバックでき、僕はバイクに乗って合宿所に引き上げます。雨に降られずセーフ。
合宿所2Fに上がると、女子マネさん達がラダーケースを新調していました。鮮やかなブルーのキルティング・クロスをカットし縫い合わせています。今年進水した新艇2艇を加えた6艇のレース艇用のラダーケースです。それぞれの艇体ナンバーをカットしたクロスをそれに縫い合わせ、とても格好いい。女子部屋が開いており、ミシンで別のマネージャーが快調に縫っていました。「コーチボートに乗るマネージャーが少ないな」と思っていたら、こんな作業をしていたんだ・・・
「インカレ壮行会でサプライズ・プレゼントするんです。内緒ですよ」と念を押されました。女の子にこんな事されたら、僕なんてイチコロです。僕は口が軽いから、念押しがなければ喋っちゃうね。窓の外では雨が降っています。合宿所前に戻ってきた1・2回生の乗るレース艇が3艇。選手たちが濡れながら改装しているのに、マネさんたちは平気で作業中です。選手が上がってくる音がしたら、体を張って見られないようにするそうです。大部屋に広げていた作業を、少しずつ女子部屋に移動させています。お喋りしながらその作業を見ていると、突然扉が開き、マネさん達が「ワーワー」。
すぐに目を塞がれ、部屋に入るのを阻止されました。2回生選手F君が上がってきたようです。大部屋にある自分の荷物から必要な物を取りに来たようです。Fくんはマネさんに阻止されているから、必要な物を伝え、マネさんが探して渡しました。やがて全て女子部屋に撤退し、選手たちがバラバラと戻ってきました。
ミーティング開始。2週間後は、インカレ団体戦予選です。ここで3位以内に入らなければ、4回生は引退です。3・4回生の主力メンバーの半分はいないけど、1・2回生の出来ることを精一杯やるよう僕の4回生の時の経験談を交えながら話します。
楽しい夕食になりました。僕の4人テーブルには、4・3・2回生+1回生女子マネさんが1人ずつ座りました。毎回のようにメンバーが変わり、決まった席などないので楽しい話の輪が広がります。食べ終わった後も話し、全員掃除予定時間少し前に帰路に着きました。
バイク装束を着て、止んだ雨に濡れたシートを拭き、湖西道路〜名神で、19:37「桂川PA」で定番の「バニラソフト140円」で糖分補給。吹田ICで下車し、中央縦貫〜R171で8:30帰宅。家内はまだ起きていました。「雨に降られた?」「降ったけど、ギリギリ濡れなかった」。風呂に入り、アロエヨーグルトとプレーン・ヨーグルト400g持って2F自室に上がり就寝。楽しい1日が終わりました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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