-ウェブマスター日記 2018/7-8

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2018/8/25
25・26日、コーチしている大学ヨット部の新人戦で、そのコーチングで琵琶湖に行きます。8:50出艇とのことなので、その前に大津周辺の神社巡りをしましょう。対象の神社は、「近江一の宮・建部神社」縁のお宮です。4時前に目を覚まし、天気をチェックしました。概ね曇りで、風向SW・風速6〜8m/s。1回生にとっては、少々厳しいコンディションでしょうが、良い練習になりそう。
倉庫から、「招き猫CB400SB」を出し、4:20近所のローソンで、助六寿司399円購入。R171を東に向かって走り出します。中央環状線に乗り換え、4:36エッソSSで給油。253km/9.51L=26.6km/L。吹田ICから名神高速に乗り、大山崎JCTから京滋バイパスに乗り換え、「南郷IC」で下車しようと思ったら、乗り専用ICでした。長い「宇治トンネル」を出てすぐにある「笠取IC」で降りるべきでした。笠取と南郷で2つで1つのICでした。
「石山IC」で下車し、5:23「戸隠神社」。鎮守の森がすぐにそれと分かり、歴史の長い由緒ある神社であることがすぐわかった。『祭神:天手力雄命 後冷泉天皇・康平年間(1058〜1065)、信濃国上水内郡戸隠山鎮座戸隠大明神を勧請。明応6年(1497)再建・永禄6年(1563)再建・明暦3年(1657)奉改・正徳4年(1714)修造・延了3年(1746)再建・天保14年(1843)立替、現今社殿。
元和4年(1618)12月膳所城主・本多縫殿助康俊、神領として田1反5畝25歩寄進。慶安5年(1652)9月本多下総守俊次、神領田の外境内東西60間・南北30間を、更に寄進以来明治初年本多康穣まで、歴代膳所城主神領他の外境内地を寄進。創立当時より平津村の産土神として村民篤く尊栄。又明治初年より赤尾村の村民も氏子になる。
大正11年5月6日、指定村社に列せられる。昭和53年12月、神社本庁より第2期モデル神社に指定。祭祀:例祭5月5日。境内神社:多度神社・宇気母智神社(稲荷神社)』
小高い丘の上にある鎮守の森に囲まれた静かな神社でした。R422に出て、瀬田川を「南郷洗堰」で左岸に渡る。r29を下り、5:47「新茂智神社」。境内中央の折上格子天井の絵馬殿は、雪を被った富士山の絵馬が掛かっていた。
『天平宝字5年(761)5月創祀で建部神社の若宮である。萬寿2年正一位を授けられ、領主・本多家累代の崇敬篤く社領3石を安堵せらる。明治9年10月村社に列し、明治41年4月29日新撰弊帛料共進神社に指定さらる』
『御祭神:稲依別命・少彦名命・大巳貴神 御神紋:三本杉 天平宝字五年勅を以て稲依別命並に少彦名命の2神を奉じて田上54嶽下津磐根にご遷座し、新餠大明神と号し、建部若宮と称したことが見える。明治9年村社に列格。明治41年宮幣大社建部神社飛地境内神社となったが、後大正7年分離し村社に復旧する。社宝として社記一巻、神領寄進状十二通、宝暦八年の36歌仙額、薗中納言希尹郷筆、狩野一門画
本殿・境内建物:〔本殿〕三間社流造向拝一間・間口二間・奥行一間三尺 〔拝殿〕入母屋造・間口二間三尺・奥行二間三尺 〔その他〕神門 神輿庫 手水舎 社務所 境内社(摂社・末社):若宮八幡神社 長船神社 十明神社 三十万里神社 西宮神社 金刀毘羅神社 主な祭礼:餠立祭・田植祭・千灯祭・厄除祭』
彫刻が良い感じでした。
5:52、これまた珍しい社名を持った「毛知比神社」。『祭神:日本武尊・保食命(うけもちのみこと) 神事:草木祭1/9・例大祭5/5・早穀祭10/9
近江一の宮・建部神社の別宮として奈良朝の天平宝字元年(757)に造営され、2年にご遷座されたのが創り。日本武尊は武徳・厄除の神として。また保食命は五穀を司る神としてお祀りされており、もちひの宮と称するのは、保食命から名付けられたものと伝えられている。
現在の社殿は、延宝4年(1676)に再建され今日に至っている』
新茂智神社と同じ天平宝字年間の建立でした。建部神社境内の摂社が、田畑の広がりによりこちらに遷座されてきたのかな?建部神社境内に掲げられていた日本武尊の征西・東征・伊吹山の神との戦・白鳥伝説のパネルが設置されていた。戦後、戦前の明治維新以来西洋列強に屈さないよう天皇陛下を中心に中央集権・富国強兵していった国造りが全否定された。戦前の指導者はじめ、各界の思想的支柱がGHQの日本弱体化計画のもと公職追放され、そのポジションに共産主義系の者が着いた。この結果、どの国にもある愛国心・国旗への敬愛でさえ否定され、日本古来の精神性支柱・行動的規範がぼやけてしまった。こういう小学校で教えなくなった日本神話や天皇家のことを、いろんな場所で啓蒙して行って欲しいと思います。全国に地域の崇敬を受けている神社があり、啓蒙する舞台としてとても良いと思います。近江の神社はナイスです。
本殿を囲う玉垣の扉が開いており、日本武尊を祀る本殿横に、瓊瓊杵尊・大国主命・天照大神を祀る摂社が並んでいた。これほどオープンな神社は珍しいな。本殿の彫刻も立派だし、参拝者への信頼を感じ嬉しい。境内には、水神社・琴平神社・愛宕神社の摂社が祀られていた。神輿が入っているのか、特徴ある玄関屋根の蔵が建っており、神社の歴史を感じさせる。奉納神馬の腹に、揚羽蝶の紋様が入っていた。
r108〜r29、瀬田川を渡り、石山IC近くに戻り、6:23「新宮神社」。この神社も、本殿玉垣内に入れるようになっていた。
R422に出て、瀬田川沿いを上り、石山寺横を過ぎ、6:42「御霊神社」。『御祭神:弘文天皇 御神紋:三ツ割の菊 御由緒:壬申の乱後3年目の白鳳4年大友皇子の第2子・興多王の指図により、隠山に皇子の神霊を奉斎し大友宮または御霊宮と称した。これが当社の創祀とされている。その後寿永3年の木曽義仲と源範頼の戦斗・承久3年の鳥羽上皇軍と北条時房軍の戦い、建武3年の後醍醐天皇軍と足利尊氏軍の戦い、応仁の乱などたびたびの戦いの都度社殿および社務所並びに旧記などは兵火に罹り、元禄年間にも社殿を改築し竣工間もなく焼失しているので古い文書等の存するものなく創建鎮座など上代の詳細については不明である。徳川時代には膳所藩よりも格別の崇敬があり神領田を賜わり現在城門が移設されている。又、大友皇子がこの地で崩御された忌日が旧暦の7月23日であったのでこれは新暦の8月24日に当るのでこの日に青年会が中心となり千灯祭を斎行している。
本殿・境内建物:〔本殿〕一間社流造・間口2間4尺・奥行3間 〔拝殿〕入母屋造・間口4間4尺・奥行4間4尺 〔その他〕祝詞殿・神門・神輿庫・手水舎・神饌所・千灯舎・絵馬堂・社務所 境内社(摂社・末社):奥神社・八幡神社・大土神社・綿津見神社・稲荷神社』
境内に「大友宮」の扁額の掛かった石鳥居があった。壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)軍が大友皇子朝廷軍を、瀬田の戦いで大勝し、大友皇子は自刃したので、それへの弔いの形かな?と感じた。
『高麗門 構造:両軸袖に頑強なる扉を備え、木造瓦葺古風豊である。間口3間1分・奥行2間6分 明治4年、膳所藩廃止に伴う城解体の際、藩主よりお倉門と呼ばれたものを寄付せられ、ここに移した。 慶長年間、膳所城造営当時の古建築で文化財』
r16で「瀬田の唐橋」を左岸に渡り、6:54橋のすぐ下流の「勢田橋離宮秀郷社」。ボート部学生が早朝練習をしている。瀬田の唐橋には、俵藤太秀郷のムカデ退治の絵が設置されていた。
『瀬田橋を制するものは天下を制する
古代の瀬田橋 672年:壬申の乱・近江朝廷軍(大友皇子)、大海人皇子軍に瀬田橋の戦いに敗れる。 764年:膝原仲麻呂の乱・仲麻呂軍が近江国府に入るのを防ぐため、孝謙上皇軍が瀬田橋を焼く。 1988年:唐橋下流80mの川底から壬申の乱にまで遡ると思われる橋脚台(基礎)を発見。 940年頃:俵藤太伝説(雲住寺伝承の「俵藤太略縁起」より)膝原秀郷による百足退治中世の瀬田橋 1184年:源範頼・義経軍、瀬田・宇治にて木曾義仲軍と戦う。木曾義仲・今井兼平戦死。 1221年:承久の乱・後烏羽上皇が鎌倉幕府と戦う。 1582年:本能寺の変・瀬田城主山岡景隆が瀬田橋を焼き、明智光秀の安土城進撃を一時阻止する。
瀬田の唐橋唐金擬宝珠(からがねぎぼし)水に映るは膳所の城』
『伝説・俵藤太ムカデ退治の勢田橋龍宮秀郷社 祭神:瀬田川龍神・俵藤太秀郷 神代の古から、此の大川に鎮座す龍神で瀬田川と唐橋の守り神です。俵藤太が龍神の頼みにより、大ムカデを平らげた伝説は広く知られています。江戸時代には殿上人の信仰篤く霊験あらたかな龍神であります。
むかで射し昔語りを旅人の、いいつき渡る勢田の長橋/大江匡房』
『伝説・俵藤太百足退治の瀬田橋龍宮縁起 瀬田川唐橋鎮守・龍宮宮秀郷社 祭神:大神霊龍王・藤原秀郷公
勢多之唐橋・龍宮 古来瀬田川には龍神が御座ると言われて、昔は橋を社とした。唐橋中央に特殊な橋くいが打ち込んであって、是を龍神の御御代とし舟はこの神坐を通るのを恐れた。唐橋は神橋の転化である。1440年頃、佐々木近江守が鶯谷に在った此の社が設けられた。以来幾度か橋架替え大修理の都度、龍神を権殿に遷座する慣例が行われた。時代の推移はいつしか権殿が本宮になった。
秀郷社 藤原秀郷公を祀る、創祀年代明らかならず。元是より東南数丁字舎人堂に在りたるを、寛永10年蒲生忠知、龍宮の傍に移すとある。
百足退治の伝説 秀郷、京都府宇治田原郷に住し、俵藤太と称す。天資剛勇にして弓術に長す。鎮守将軍・藤原秀郷公、勢多橋を過る時橋上に大蛇横たわる、公恐れず跨ぎ通る。暫し行きたるところ呼び止める者あり、青衣を着せる女人「我は勢田橋水底に棲む龍神である、大蛇の姿になり橋上に横臥せり、未だ御仁ほど豪勇の人を見ず、年来我に仇するムカデあり、願わくば我が為に寇を討て」、秀郷橋に戻る。
日没し東方より、巨大な両眼を光らせ百足山(三上山)を七巻半する大ムカデ迫りくる。公一矢二矢更に効なし、ムカデは人のツバキをきらうと言う、三射目の矢尻に唾液を附して左眼を射抜き之を討せり。龍神大いに喜び、公に砂金俵・巻絹・鐘・種々宝物を賜う、秀郷衣装身に余り財宝庫に満ちたり。これが広く人口に謳われた伝説である。
伝説の真意 朱雀天皇姜平15年(935)将門の反乱。平将門が関東八州を七州半まで侵し、百官具足ムカデの足ほど多くの軍勢を引き連れ、都(京都)へ攻め上らんとす。秀郷朝命に依り是を討伐、将門の左眼を射抜き誅せり。これ勢多橋龍神の冥祐加護に困ると畏こみ、朝廷より当龍神に貢物を献ぜられたる事は古歌に記されている』
隣に、「龍光山雲住寺」があった。お地蔵さんがあった。『橋守地蔵縁起 御本尊は、昭和51年1月26日に、撤去工事中の唐橋の中央橋脚の基礎の地下から出現された石仏でありまして、同時に真鍮製の花筒と御仏飯の器が揃って出てきました。高さ38cm、彫りの深い立派な石仏で、専門家の鑑定によると、室町末期の作で、腕のよい石工が彫った珍しい石仏だそうであります。何時誰が何のために唐橋の下に安置したものか知る由もないが、400年以上も川底で、唐橋を守り続けて来られた石仏であります。
唐橋下より何か出現されると予言していた霊能者によると、この石仏は実は霊験灼然な薬師如来である、橋守社のところへ唐橋の中央に向け小堂を建て、祀ってあげるとよいというので、県当局にその旨を述べ、一般の人々に解りやすく親しみ易いよう通称を、橋守地蔵としてお祀りすることになりました。
依って有志相謀りこの地に地蔵堂を建立し、唐橋下より出現の26日を縁日としてお祀り申し上げ、永く唐橋の安泰と瀬田川並びに唐橋上の交通安全を祈願する』7時になったので神社巡りを切り上げ、R422〜r102〜r18〜R161で、7:30ヨットハーバー着。
皆に挨拶し、ずっと福岡遠征に行ってるSチームをサポートしていた4回生女子マネSさんがいたので、家内から「持っていく?」と渡されたクッキーを「女子マネさんへプレゼント」として渡した。2人乗り初レースになる1回生スキッパーを中心に声を掛けた。緊張しているだろうけど、レースはゲーム感覚で大いに楽しんで欲しい。
桟橋で、「助六寿司」を朝食用に半分食べていると、女子マネさん達が来て、開会式が面白いと教えてもらった。部員が仮装してオープニング・セレモニーに臨むそうです。1回生が着替えて来ました。真っ赤なチャイナドレス・ミニスカートメイド・馬の被り物は暑そう・パンツを頭から被ってるやつ・ハート柄の赤パン&赤ブラ・猫耳ついてるパンイチ、脱いだら良いってもんじゃないだろうけど、笑いを誘います。女子プレイヤーはたまごの被り物を着てとっても可愛い。
8時「オープニングセレモニー」。レース委員長は当方の3回生G君がしています。選手宣誓は当方の1回生M君。ショッカーの着ぐるみ着て、語尾にキーって奇声を入れながらの選手宣誓。面白いな。
予定通り、D旗がアガり470から出艇。続いてS級。コーチボートに乗って沖に出ます。SSWの風・3〜4m/s、最も走りやすい風です。YH到着時は雲がかかり、雨降るかな?と思ってた比叡山の雲が切れています。Rits ・D社・当方が上位で回航します。1レース毎乗り換えながら、3レース目の乗り換えの頃から、予報通り8m/sの風が入ってきました。全面白波のレース海面になってきました。ここで、AP/H旗が上がり、レース延期/ハーバーバックになりました。
この日は16時までレース時間があるので、6レースぐらいできそうだなと思っていたのですが、新人が出場しているので、レース委員会は安全策を取ったようです。ハーバーに戻り、昼食を食べ、2時間ほど風が収まるのを待ち、14時前に再出艇。レース海面に着くまでに1艇沈。1・2回生だけで11艇出場しているので、コーチボート兼レスキューボートなので目配りが大事。
レースが始まり、一番体の小さな1回生女子選手Tさん470が気になっていましたが、レース中に沈してしまいました。信頼できる2回生クルーと乗っているのですが、なかなか船が立たず、体力の限界を予想し選手交代を決断しました。同じく1回生男子スキッパーにI君に交代です。レース中支援を受けたのでDNFになり着順は着きませんが、練習だと思ってレースに参加させました。2回生スキッパーは安定して走っており、練習ではまだまだだな〜と見えていた2回生スキッパー艇が、頼もしく見えます。
サングラス掛けてるので表情がよくわかりませんが、交代で上がってきたTさんに声を掛けます。いつもWさん(2回生クルー)と組むと迷惑かけるので申し訳なくって・・・と涙が頬を伝いました。「Wくんも1年前は上回生スキッパーに迷惑掛けていたんだから気にしなくていいよ。そんなこと気にする部員はいないから」「Oさんも軽風では走るけど、強風になったらいっぺんに遅くなっていたよ。春は強風になると全然走れなかったのに、半年で安心して見られるようになったよ。経験を積めば必ず乗りこなせるようになるから」などと話します。フェンシングをやっていた子なので、練習を積めば走る子だと予想しています。体重が軽いので中風以下なら有利です。
第4レース前、S級M君艇のジブセイルが少し破れ応急処置してレース海面に戻っていきました。4レース終了で16時を越え、本日のレース終了です。良い風が吹いたので、良い練習になりました。S級の1回生女子スキッパーKさんは、先週の練習でも良いセンスのスタートを連発しており、強風でも一生懸命ハイクアウトしてよく走っています。安定しているね。2年連続で女子選手が入部し、この2学年の子たちが走ると女子インカレの常連校になれます。
S級M君のジブセイルは何とかフィニッシュまで保ちました。ジブセイルを巻いて、メインセイルのみで帰るよう指示しました。16時頃から風が落ちはじめ、4m/sほどでハーバーバックしました。
バイクで合宿所に戻り、キッチンで食事当番女子マネさんたちと話します。美味しそうな匂いに惹かれるね。レース成績を陸上PCで集計する担当の4回生マネSさんがお風呂から上がってきて、他愛もないお喋り。次々に選手が戻ってきて、話の輪が広がります。
18:40ミーティング開始。19時から僕の話。気づいたことを話します。1回生向けの話を多めにします。スキッパーのお尻の位置、ハイクアウトする時足を揃えること。1日中、4回生ボスマネージャーYさんがコーチボートを運転していましたが、強風の桟橋への着艇でスクリューを上手に使っていたのでそれを褒め、マネージャーでその技術を共有するようアドバイスしました。
19:30夕食の時間。いつもながら美味しい。掃除時間前に退散しました。湖西道路〜名神。20:37「桂川PA」で、「ガリガリ君ソーダ75円」で糖分補給しました。この日学生に聞いた情報では、ドン・キホーテではガリガリ君が45円で売ってるそうです。期限近しの非売れ筋品を大量仕入れして安価販売しているんだって。200円弁当とか、いろいろ掘り出し物があるんだって。
21時に帰宅し、バイクを片付け玄関に入ると、既に家内は夢の中でした。風呂に入り、ヨーグルト持って2F自室に上がり、食べ終わったらすぐ寝ちゃいました。
翌日、レースの様子が刻々とライブでヨット部共有サイトに伝えられ、楽しい時間を持ちました。強風故沈して選手交代した1回生Tさんが、2位フィニッシュしました。2回生はトップフィニッシュを数回しましたが、1回生は別にも2位フィニッシュした子がおり、レベルが高いです。頼もしいし、将来が楽しみです。


2018/8/19
コーチしている大学ヨット部のコーチング日です。3・4回生の主力チームは、博多と江ノ島に遠征中なので、1・2回生中心の練習です。4時前に目覚めましたが、前日丹後半島ツーリングに出ていたので、早朝歴史探索ツーリングは止めて、自宅でグズグズしていました。近江一の宮・瀬田の建部神社周辺の神社探索は次回まわしです。
倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、クラブへの差し入れのお煎餅を積み込みます。なんとかリアボックスに収まりました。6時前に出発。R171〜中央環状〜吹田ICから名神。桂PAでトイレ休憩し、京都東ICで下車し、湖西道路経由で7:30頃ヨットハーバー着。
みんなに挨拶し、バイク装束を脱いで軽装になりました。柔軟体操・ブリーフィング後、出艇しました。来月に迫ったインカレ団体戦予選に向けての1・2回生の心構えを話しました。現在遠征中のメンバーを主力に戦いますが、レース当日の体調・セイリングの調子・風の気まぐれ・・・いろんなことで最期のレースになるかもしれない4回生は自信が揺らいだりします。そんな時、気楽な立場で臨め、実力を積み上げている2回生のスーパーサブがいると、ワンポイントやシリーズ通して大きな活躍が望めます。チーム総合力は下級生の頑張りに掛かっています。インカレ予選でも結果を残せる実力を積める時期は、この夏休み期間です。そんな気持ちで練習に臨んで欲しいと思い、少し長めのブリーフィングを取りました。1・2回生だけでも、10艇出艇できる人数は嬉しい。
AMは、4回生マネ2・1回生マネ2・3回生・1回生と一緒にコーチボートに乗りました。3回生スナイパーS君は、前日まで博多遠征していました。遠征前半を終え、交代で帰ってきました。「高速バスで帰ってきたの?」と問うと、なんと「ヒッチハイク」だそうです。1人目で高速道路SAに着き、2人目で一気に今朝京都に着いたそうです。オドロキ・・・
7月の北海道でのレース後もヒッチハイク帰宅したそうで、「国内旅行はお金要らない」と豪語するヒッチハイカーのプロ級の腕を持つツワモノでした。これに刺激されてか、前半組3回生3人共別々にヒッチハイク・バックしてきたそうで、皆無事に今朝帰ってきていました。1人は合宿所で寝ているし、1人は神戸の自宅に帰省したそうです。
ロング帆走練習〜スタート練習・レースス練習をしました。1回生スキッパーの艇はまだまだですが、これからが楽しみです。12時ハーバーバック。合宿所に戻り昼食。オムライスのケチャップで絵が描かれています。僕のはアンパンマンでした。美味しい・・・部員が食べている中、ホワイトボードを使って、AM気づいた点をブリーフィングしました。
PMハーバーに戻ると、今年卒業したM君がいました。「アレレ〜」、コーチボートに乗ってくれるそうです。ブリーフィングでM君がとても大切な「ノートすること」を伝えてくれました。4回生ボスマネ1・3回生マネ1・1回生マネ1・2回生1・1回生1と僕でコーチボートにの乗りました。ロング帆走練習〜スタート練習・レース練習をしました。
1回生は、明らかにAMよりスタートが上達しており将来有望です。未経験で1年前に入部ながら実力でレギュラースキッパー入りし、現在江ノ島遠征中の選手もいます。チャンスは無限大です。
17時にハーバーバックし、合宿所に戻ります。M君・4回生マネFさんと3人で話します。2人は学連メンバーで、レース運営などクラブ外の仕事をしています。去年は、全日本インカレが水域内の福井県で行われ、その運営を主力で頑張りました。そのメンバー内の恋バナなどあれやこれや、楽しい話が聞けました。
18:30から全体ミーティング。Mくんに続き、話します。今朝、お煎餅と共に持ってきた2冊のハンドブック「熱中症対策」「スポーツ指導者に求められること」を寄付しました。7月のスポーツ指導者資格更新講習会で頂いたものです。夏場や大量に汗をかいた時の栄養補給、日大アメリカンなど一連の運動部指導者の極端な上意下達姿勢への警笛が、文部科学省として書かれています。
改めて、1・2回生の1ヶ月後に迫るインカレ予選に向けての姿勢を話し、PM練習で気づいたことを伝えました。19:30から夕食。チーズハムフライが美味しかった。20:10からの全員掃除前に帰路に着きました。湖西道路〜名神高速で、いつもの桂PAアイスクリームを省略し一気帰りしたら、天王山トンネルを越えてから眠くなってきました。2日連続のバイクと、船に揺られていたからでしょう。
このまま単調な高速道路ではダメだと思い、吹田ICで下車し、中央環状〜R171で21:30頃帰宅しました。バイクを片付け自宅に入ると、家内は既に夢の中でした。荷物を片付け、風呂に入り、ヨーグルト持って自室に上がり、TV見ながら至福の時間を持ちました。以前家内と観に行った「君の膵臓をたべたい」をやっていました。ヨーグルトを食べ終わり、映画はまだ終わりませんでしたが、布団に横になると一瞬で夢の中に落ちました。


2018/8/18
丹後半島中心部にある「細川ガラシャ夫人幽閉地」を目的地として、丹後半島の屋根を縦走する「丹後縦貫林道」を走りに行きます。「里山VTR250」のジャンルなのですが、チェーンオイル切れの感じがするので「招き猫CB400SB」を倉庫から出します。
5:18出発、長尾山トンネル温度計が18℃でした。数日前では考えられない気温で、下着+夏用メッシュバイクジャケット・パンツの装束では少々寒いです。r325〜r33に道なりに走り、「検見橋」のところでバイクを停め、カッパの上をジャケットの上から着ました。これから高速道路にも乗るので、寒いのはいけません。r319〜r12に乗り換え、西峠を越えて篠山盆地へ。r543〜r702でR173に出て北上します。R173の「天王トンネル」北の土砂崩れは、そろそろ1年になります。難儀な遠回りです。7:00「ローソン京丹後和田店」で「セレクトチョコクリームパン5コ100円」を購入し朝食としてイートインしました。
「京丹波みずほIC」から京都縦貫道に乗り、「綾部JCT」を経て「与謝天橋立IC」で下車し、R176〜r2〜r615でR178。8:19「籠神社」。『籠(この)神社 古称・吉佐宮(よさのみや) 御祭神:彦火明る命 相殿:豊受大神・天照大神・海神・天水分神 神代の昔より、奥宮眞名井原に豊受大神をお祀りしてきましたが、そのご縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつリになり、之を吉佐宮と申し、豊受大神と共に4年間お祀り致しました。
その後、天照大神は垂仁天皇の御代に、また豊受大神は雄略天皇の御代に、それぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って当杜は元伊勢と云われております。両大神がおうつりの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社、又丹後国一之宮として朝野の崇敬を集めてきました』
天照大神の神力の強さを畏れ、大和から丹波丹後はじめ畿内各地を転々と移動しながら最適な地を求めた。伊勢の次に最適な地は、元伊勢の多い丹波丹後だったのでしょう。和歌山の元伊勢を参拝したこともあります。神門内の境内は撮影禁止でした。来年中学受験する姪用に「合格鉛筆600円」と、「絵馬500円」「淡いピンクの守護800円」、屋敷内祠用に「鈴800円」を授かりました。
R178を少し戻ります。枝道を入り、8:48「丹後国分寺跡」。隣に「丹後郷土資料館」がありました。国分寺跡が礎石が遺るだけですが、周辺が綺麗に手入れされ、その緩やかな斜面の向こうに天橋立が見えナイスでした。
『史跡・丹後国分寺跡 天平13年(741)、聖武天皇は国分寺建立の詔(みことのり)を発し、仏教を取り入れて国家の安泰を願いました。これを受け建立された丹後国分寺は、天橋立を一望できる台地上に位置し、まさに詔という国華にふさわしい好処が選ばれました。
奈良時代の丹後国分寺については、付近に残る地名や採取された瓦片によってその存在をうかがい知る程度で、詳しいことはわかっていません。現在、塔跡・金堂跡・中門跡の3ヶ所に、礎石が整然と並んでいます。これらは建武年間(14世紀前半)再建された伽藍に伴うものとみられます。雪舟筆「天橋立図」には、建武再建の後、約170年を経た丹後国分寺の姿が克明に描き出されています』
その枝道を更に登っていきます。成相山成相寺Pで、1人500円拝観料を払う。地図では、この道が丹波縦貫林道に続いているのでそのことを聞くと、崖くずれで通行止になっているという。1本西の県道が起点なので、そちらから入れるとのことでした。
『日本遺産 成相寺(なりあいじ) 慶雲元年(704年)に文武天皇の勅願寺として真応上人が創建したと伝えられ、本尊は身代わり観音、美人観音として名高い聖観世音菩薩である。
西国33所巡礼の観音霊場28番札所で、平安時代後期の「梁塵秘抄」・「今昔物語」にも登場する。江戸時代の宮津藩は、丹後ちりめんの生産地であるとともに、流通の拠点として商業・港湾都市として多くの人々が訪れたといわれており、この成相寺も民謡「宮津節」にも唄われるほど賑わった』
『一願一言の地蔵さん この地蔵さんは、唯一願を一言でお願いすれば、どんな事でも必ず叶えて下さると伝えられている大変あらたかな地蔵さんです。安楽ぽっくりの往生も叶えられると伝承されています。約620年前に創られた大変古いお地蔵さんです』
『鉄湯船 重要文化財(工芸品) 鎌倉時代正応3年(1290) 鋳物師:山河貞清 当山の湯屋にて湯船として使用していたもので、直接入るのではなく湯釜で沸かした湯を入れ、かかり湯をするために用いられたと思われる。後に薬湯を沸かして怪我や病気の人を治療したとも伝えられています』
本堂周りを見学し、下っていくと鐘楼がありました。『撞かずの鐘由来 慶長14年(1609)、山主賢長は、古い梵鐘にかえ新しい鐘を鋳造する為、近郷近在に浄財を求め喜捨を募った。1回・2回と鋳造に失敗し、3回目の寄進を募った時、裕福そうな女房が、「子供は沢山おるがお寺へ寄附するお金はない」と険しい目の色で断った。
やがて鐘鋳造の日、大勢の人の中に例の女房も乳呑み児を抱いて見物していた。そして銅湯となったルツボの中に誤って乳呑み児を落としてしまった。此の様な悲劇を秘めて出来上がった鐘を撞くと山々に美しい音色を響かせていた。しかし耳をすますと子供の泣き声、母親を呼ぶ声、聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って、一切この鐘を撞く事をやめ、撞かずの鐘となった』
バイクに戻り、メインディッシュの「丹後縦貫林道」走破のため県道に向かいます。R178に下り、右折してr53に乗りました。林道入口があるはずなので、注意しながら走ります。右にそれらしき道を見つけGO!いきなり「通行止」看板が路肩に置かれており、残念な気持ちになりながら、行ける所まで行こうと前進します。土砂崩れを片付けた土色跡を数ヶ所通過し、標高が上がって下界の素敵な景色が見えてきた所で、道が突然全面土砂に埋まっていました。道路自体は崩れている感じではないので、土砂を除けば通れそうですが、法面補修しないで一般車両を通す事ができないのでそのままになっているのでしょう。
Uターンしてr53に戻り、西に進みます。低い峠を越えてから、気持ちの良い里山の中をゆっくり走ります。道なりにr75になり、標高を上げていきます。沢道になり、細い山道になり、「金剛童子山」登山口。
『役小角(えんのおずぬ)と金剛童子山 役小角は7〜8世紀に大和国葛城山にいた実在の人物であるが、後世修験道の祖として信仰を集め、役行者とも呼ばれている。全国各地には役小角が登ったと伝えられている山がたくさんあり、高下駄を履き鬼神を従え、独特の風貌をした像も多数残されている。
「丹か府志(たんかふし)」によると、役小角が金剛童子山を「業場」として、開いたとされている。また金剛童子山への道筋に「休堂」「かねかけの業場」「御手洗の池」「行者堂」「西の業場」等があるとしている。現在それらの全てを確認することはできないが金剛童子山周辺が、修行の場であったことは確かであろう。地元では金剛童子山を熊野山、行者山ともぎ呼んでおり、往時は七堂伽藍が存在していたと伝えられている。上山寺(京丹後市丹後町上山)は、明法上人開基を伝えるが、「丹か府志」には役小角が金剛童子山を開いた際に、庵を結んだところといわれている』
登山口から少し入ると、ヌタ場があり「猪檻」が設置されていた。ヌタ場なので確実に猪は来るだろうが、気持ち良く泥浴出来ないね。更に少し舗装路を登ると、11:09「細川ガラシャ夫人幽閉地」に着きました。ずっと前から来たかった場所です。手入れはされていますが、歴史的遺産なのに四輪で来るのは離合困難な道なので、2020年大河ドラマ「麒麟が来る」で父・明智光秀が脚光を浴びるまで待たねばならないようです。正式には「味土野女城跡」と言うそうです。谷を隔てて「男城」があったようで、ガラシャ夫人の警護侍が駐屯していたようです。
『細川ガラシヤ略伝 細川忠興の妻・玉子(玉)。永禄6年(1563)明智光秀の3女として生まれる。天正6年、16才の時織田信長の命により後に丹後田辺城(現舞鶴市)の城主となる細川幽斎の嫡子忠興に嫁いだ。天正10年6月本能寺の変により、父光秀が信長に謀反を起こした。光秀は忠興を味方に誘ったが、忠興はこれを聞かず玉子を離別幽閉し自分は羽柴秀吉軍として出陣し、光秀と山崎で戦った。玉子の実父光秀の死後、家臣は自害をすすめたが「私は忠興の妻、主人の命を聞かずして事を決することは婦道にそむくことです」とこれを聞き入れず、愁思のうちに2年の月日をこの地で過ごすこととなった。秀吉はこれを憐み忠興は再び妻として玉子を迎えた。
その後キリスト教に入信し、「ガラシヤ」の洗礼名を受けた玉子は、忠隆・忠秋他三子を授かった。しかし、平穏な日々も束の間、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、徳川家康に従い東征についた夫・忠興の留守に大阪細川邸にあった玉子は石田三成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城へ入城を迫られたが「私が人質として入城すれば堅武士の夫・忠興の足手まといとなります」と自ら邸宅に火を放ち壮烈な最期をとげた。享年38才夏のことである。辞世の句は有名である。
「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」
数奇な運命に彩られ、夫・忠興のため殉じて果てた玉子の生涯は戦国の世に咲いた一輪の花として現在に語り伝えられている。
「身をかくす里は吉野の奥ながら 花なき峰に呼子鳥啼く 玉子」』
目的地をクリアしたので下ります。r655〜r75で下り、r57で登っていくと「丹後縦貫林道」に突き当たりました。右折し、11:45「スイス村スキー場」。更に少し登って「風の学校・京都」と言う施設にお昼ご飯食べようと寄りましたが、車ゼロでお客さんがいなさそうでレストランが3Fで上がるのが面倒でパスしました。でも丹後半島の最高標高部に近いのでしょう東から北に掛けての海が一望でした。気持ち良かった。
林道を北に向かって走り、12:10「碇高原」。レストランがあったので入ったらステーキハウスでしたのでスルー。おまけに半島北側に下る林道が全面通行止めになっており、「丹後縦貫林道」は大雨の影響でズタズタのようです。「世屋高原」まで行けるのかどうかわかりませんが、林道で南下してみましょう。半島の東側の海への展望が時折開け、ナイスな景色が見下ろせました。
民家が見えだし、世屋高原に着いたことが分かりました。r75に突き当たり宮津湾に下ります。R178に突き当たり、右折して宮津湾を左手に見ながら海岸道路を気持ち良く走ります。次男が小中学生の時、ジュニアヨットのレースで毎年遠征に来ていました。親も子も水の綺麗さに感動し、子供たちは風待ちやハーバーバック後ライジャケを着て飛び込んでいました。懐かしいな。
13:28「天橋立ワイナリー」。少し走り、「お菓子の館はしだて」に寄り道しました。少し走り、右折してr53。道なりに登って行き、「丹後縦貫林道」の南地区入口発見。無常にも、「通行止」看板が中央にドカンと立っていたが全面封鎖ではないので、行ける所まで走ろうとGO! 標高を上げ、「阿蘇海」が見えてきます。数ヶ所、レッドコーンで囲まれている崩れた場所がありました。山菜採りの方が数組いましたが、バイクなら平気でした。
r651と交差し、右折してr651を走ることにしました。京都縦貫道の下をくぐり、田園が広がる里山の小川にかかる小さな橋の上で小休憩。アオサギが気持ち良さそうに飛んでいました。r655に突き当たり、左折し南下すると、R312に突き当り左折。
R176を渡り、次の林道ターゲットのr16「中ノ峠」に向かおうととしたら、GSを見つけて給油。14:32「与謝野町石川エネオス」239km/9.5L=25.2km/L。r16に入り峠を登っていきます。残念ながらこの峠も通行止でUターン。R176に下り、「与謝天橋立IC」から「京都縦貫道」に乗ります。「由良川PA」でトイレ休憩。「京丹波みずほIC」で下車し、R173に乗ります。
15:57、R9との交差点にある「ローソン京丹波・和田山店」で、「UCもち食感ロール・295円」購入し、遅い昼食をイートイン。R173をぐんぐん南下し、「道の駅・瑞穂の里さらびき」横を通過し、篠山市に入り、r702〜r543〜r12で、R173通行止区間を回避します。r319〜r33〜r325〜長尾山トンネルを抜け、17:30帰宅しました。


2018/8/16
次男一家が東京に帰る日です。4日も帰省してくれてありがたい。長男一家がアメリカ勤務で、帰省できないので私達親に気を使ってくれているのでしょう。すみれちゃんはとても可愛く、無邪気によくお喋りし幸せを感じる数日でした。「1日は3人で・・・」ということだったので、次男たちとは別行動の予定でしたが、生憎の天気予報で、結局夕方の飛行機まで家で過ごしました。朝、家内を伊丹市街地にバイクで送りました。少々仕事場に顔を出し帰宅すると、次男がすみれちゃんと「朝ごはん貰いに来たよ」と勝手口から入ってきました。
家内が作ってくれていた朝食を渡し、TV見ながらグズグズしていると、「神社と公園に行くけど、一緒に行く?」とのお誘いで、4人で歩いて臂岡天満宮に向かいました。葉っぱを拾い、アリさんを観察し、飛行機の音に「飛行機!」と言いながら空を探し、すみれちゃんは話題を振りまいてくれます。
10:34「臂岡天満宮」。大好きな手水でしっかり遊び、お賽銭・ガラガラ・手合わせし、「いつもありがとうございます」としっかりと言えます。小さな頃から寺社に手を合わせ感謝の言葉が言えるから、立派な日本人になりそうです。狛犬が好きなようで次男に抱っこされながら触っています。天満宮といえば牛なので、牛さんも触っています。
帰りは、公園経由ルートを取りました。大きな邸宅の庭から大きな犬に吠えられ、怖かったようで唇を噛んでしまいました。下池には睡蓮が花を咲かせています。ここでパラパラと雨が落ちてきました。小雨ですぐ止みました。
広い公園に出て、滑り台に向かって走り出しました。低い幼児用の滑り台はラクラクで、高い子供用すべり台も平気で滑ります。バランス感覚が良く、頭が遅れるようなこともなく、ちゃんと座って高速で滑り降ります。でもブランコは嫌いなようで、私の膝の上に乗せてもすぐ降りると言います。私も小さな頃経験がありますが、なんとも言えない降られ感が好きになれないのでしょう。
シーソーにも乗りました。次男が一方に乗り、私が落ちないように横に付きました。次男がスピードや衝撃を調整していることもあり、ご機嫌でした。また雨が落ちてきて、今度は少し大粒なので帰宅することにしました。
そのまま、ママとすみれちゃんはお昼寝。帰ってきていた家内と、TV見ながらあれやこれや。13:30になり、17:20の飛行機には早いけど、空港に向かいました。僕は皆を空港に下ろし、車で帰宅し「通勤リード110」に乗り換えて空港に向かいます。13:42二輪Pへ。
次男に電話して何処にいるのか聞くと、1Fピザ屋さんということで、そちらに向かいます。車の中で、家内に「適当に注文しといて」と言っておきましたが、家が近いのでまだカウンターで注文中でした。みんなでピザを3枚食べ、4Fに上がります。
「アクタス」という家具のお店の子供フロアを散策します。長男がアメリカで使ってる座面を上下出来る子供用木製イスがありました。北欧家具なのか、木製の子供ベッド・子供机・・・いろいろ楽しいものがありました。ちょっとお高めです。14:56「よしもとエンタメショップ」で、次男達がお土産を買っていました。大阪らしいお土産ですね。「面白い恋人」が人気のようで、山積みされていました。
「NMB48」のショップが併設されており、NMBは吉本興業所属なのかな?NMBメンバーの等身大パネルがあったので、家内と一緒に写そうとしたら、「何見比べるの!」とダメ出しを喰らいました。
隣の「ボーネルンド」に次男一家3人が入ります。子供本人30分・600円で、準備時間として5分無料です。延長料金は10分・100円で、いろんな遊具があります。靴を脱いで入り、屋外にはジャングルジムや水遊びエリアもありました。長男の子・りょうくん5才が、誕生日会をするプレイ施設の小型版です。多くの子が、楽しそうに遊んでいます。
僕らは、「アクタス」の大人家具フロアを探索し、約束の15:45に「ボーネルンド」前に行きましたが、まだ遊んでいるようなので、スカイブリッジに出て飛行機の発着を見ていました。次男から電話が入り、「既に出て、2Fコクミンドラッグ前にいる」とのこと。家内と手をつなぎながらぼちぼち歩き、お店を探していると、すみれちゃんが走ってきました。
お店を散策しましたが、すみれちゃんが眠くなったのか機嫌が悪くなってきたので、早めにボーディングエリアに入り昼寝することになりました。搭乗口まで行き、ここでお別れ、また今度ね。
僕らは、僕の要望でカフェに入ることにしました。16:22「HOTDOG STEAK CAFE「NICK STOCK」」と言うお店で、ベリーベリーパンケーキ1180円と苺クリームパフェ680円を半分こしながら食べました。結局これが夕食になりました。
二輪Pまで歩き、13:42〜17:06伊丹空港P200円。帰宅し、昼寝モードに入っちゃいました。家内は隣の実家に行き、後片付けを始めたのに。目を覚まし、少し手伝い、風呂に入り20時に寝てしまいました。


2018/8/15
7:15、近所の御用達GSで満タンに給油しました。昨夜、次男と相談し、日本三景「天橋立」に行く予定にしていました。天気予報がイマイチで、日本三景に行くなら晴れの日が良いと思い、天気に関係ない「高野山」はどうかな?と思い、混雑状況を調べてみました。夏は避暑も兼ね高野山が最も人気のある季節ですが、「通常通り」とのことです。普通の日曜日よりマシで、平日並みだそうです。息子たちが帰省するのは、盆と正月のみ。正月は雪で危ないし、お盆しか行く機会がありません。息子たち一家と一緒に参れる機会はそうないなと思い変更しました。
7:30、出発。車に次男達が乗ってきてから、「天気がイマイチだから、高野山でも良い?」って提案すると、「世界遺産の高野山?いいよ」と二つ返事で賛成してくれました。近所のコンビニで、朝食を購入。ローソンのアイスカフェラテが美味しいとの次男夫婦の勧めで、家内が買ってきました。
R171〜豊中ICから中国道〜近畿道〜南阪奈道路に乗り、羽曳野ICで下車し、R170で南下します。雨がポツポツ。R310〜R371にチェンジします。南海高野線に沿うようになると峠越えがもうすぐです。「紀見峠」を越え、紀の川側に下り、紀の川を渡ってR370へ。真田昌幸・幸村・大助幸昌3代が幽閉された「九度山」を過ぎて登りに入ります。高野山・標高800mまで登ります。普通の日曜日でもここから混みだすので、お盆はさらに・・・と思っていましたが、「高野山混雑予想」サイトの予想通り、「普通」でウィークデイ並でした。
順調に山上に上がり、大門横を通過し、Pを探します。高野山の多くのPは、無料です。「金堂・根本中堂」エリアから奥の院まで歩くのが王道のコースだと思いますが、道の混み具合から簡単に見つかると思っていたPが満車でした。「金剛峰寺」横に停車して、家族を下ろします。僕だけ車に乗って、Pを探しながら奥の院近くの「中の橋」に向かいます。「中の橋P」手前の道脇に無料Pが並び、10:30その一角に駐車しました。
家内にLINEフォンするが連絡つかず、次男に電話してそちらに向かって歩いていることを告げます。「刈萱堂」前にいるそうです。奥の院参道口を通過すると、家族が見えてきました。無事合流し、奥の院口から武将さんのお墓を見ながら杉の大木の小道を歩きます。すみれちゃん・2才が楽しく歩いてくれるので、ただ歩いているだけで笑いがあり楽しい。
嫡孫命名で長男が一字頂いた「司馬遼太郎文学碑」。次男命名の拝借した津山藩祖「森忠政公の墓」、父は森可成で私の名。源氏の祖「多田満仲公の墓」。「武田信玄・勝頼の墓」。それを見下ろすように建つ檜皮葺小堂「上杉謙信公の墓」。「石田三成公の墓」。「明智光秀公の墓」。次男命名の時拝借した播州姫路藩主「本多忠政公の墓」、その父・徳川家康四天王「本多忠勝公の墓」。「崇源院(徳川2代・秀忠夫人)お江の墓」。前田利長(前田利家嫡男)とその夫人の墓が参道を挟んで建っている。長男命名の時拝借した摂津尼崎藩主「青山幸成公の墓」、因みにその父は徳川家康家臣の切れ者・青山忠成で、丹波篠山藩祖であり、次男命名の時拝借させてもらった。歴史好きの僕は、私自身父に戦国武将の名をもらったので、息子たちにもそれを贈った。比叡山焼き討ちし、次のターゲットがここ高野山だったという織田信長の墓は、参道から外れた地に小さくひっそりとしている。
12:15、撮影禁止の弘法大師御廟前に到着し、御朱印をいただく。御廟に参拝し、「中の橋P」前のお土産物屋さんで、昼食にしました。13:59、食事を終え、帰路に着きます。すみれちゃんは、石畳の参道をしっかり歩けました。いっぱい笑ってくれ、笑う時の口が可愛く、「JRクリスマス・エキスプレスCM」の女優さんの口に似ているなと思いました。
僕だけ車に戻り、レストラン前で家族をピックアップし、r53〜R480〜R370で下ります。「紀の川フルーツライン」という道が出来ており、九度山をパスして早く紀の川を渡るR371の橋まで行けますが、今回は旧道・九度山経由しました。R371に乗り、紀の川を渡りました。「紀見トンネル」を抜け、R170〜R309経由で「美原南IC」から阪和道〜近畿道経由で帰宅しました。
自宅で休憩し、夕食は皆で近所の回転寿司屋さんに行きました。家内が支払おうとしたら、「最後の夕食だから、私達が払います」とお嫁さんから提案され、ゴチしました。次男夫婦は、いつも最後の夕食をおごってくれます。僕ら夫婦にとってはいつまでも子供だけど、自分で家族を養い立派に育ちました。


2018/8/14
お寺さんがお盆法要に来られる日です。11〜12時の予定です。朝暇なので庭の草引きをしていると、次男とすみれちゃんが出てきて、あれやこれや庭でしていました。家内は昼食の素麺を茹で始めました。次男一家は、伊丹空港スカイパークに飛行機の離発着を見に行きました。
風呂に入り、10時になったので実家に行き、座椅子を仏壇の部屋に用意したり、ぼんぼりをコンセントに繋ぎ明りを付けます。以前はクルクル回っていたのに、回転が遅くなりました。ノートPCを持ってきて、弟一家に見せる準備をしていると、弟一家4人が来ました。甥(大学2年)も久しぶりにやってきました。前日に京都の下宿から帰ってきたんだって。浪人してから、来なくなっていました。
11時にお坊さんが来られました。次男さんが高槻に入学したようで、うちの長男の後輩になりました。これでお坊さんところも中学受験が終わり、ホット一息ですね。あとは学校と本人に任せておけば、勝手に育ちます。今年は時間に余裕があるようで、去年より長めのお経をいただきました。
お寺さんをお見送りして、僕らは昼食にしました。素麺と焼鳥・コロッケ・・・副食材で満腹になりました。すみれちゃんが皆の笑顔の元を作ってくれて、笑い声が絶えませんでした。子供は宝物ですね。
14時前になり、お墓参りに出ました。先に弟一家が出発し、お花を買っといてもらうことにしました。r13〜r12でお墓到着。すみれちゃんが寝てしまったので、僕が車で待つことにしました。僕はまた1人でお参りしましょう。草が伸びていたようで、汗だくになって掃除したそうです。僕はクーラーの利いた車の中で楽しちゃいました。
霊園で弟一家と解散しました。今まではずっとお盆ハイキングしていましたが、2年前に弟が心筋梗塞してからハイキングを止めました。またやりたいな。弟は以前に増して元気そうなんだけど・・・
帰りに、「道の駅いながわ」に寄り道し、お茶することにしました。でもすみれちゃんが起きず、また僕が車内で待つことにしました。気持ち良さそうに眠る寝顔が最高です。可愛いので、中学生ぐらいになるとモデルさんにスカウトされそう。次男夫婦はすみれちゃん抜きの時間が久しぶりのようで、3人で1時間近くお喋りしていました。帰ってきた家内が、「お父さんも、なんか食べておいで」と言ってくれましたが、すみれちゃんの寝顔で満腹なので、そのまま帰宅しました。夕食は別々にしました。そのまま1日終了。


2018/8/13
朝9:30に次男一家が伊丹空港に降り立ちます。昨日に続き、家内は隣の実家の準備に余念がありません。それに引き換え僕は、ぐーたら。9時過ぎに車で家を出てお迎えへ。P満車を覚悟していましたが、少し空いており、9:17にPへ。ぶらぶら歩いて中央のJAL・ANA到着フロアへ。以前のように椅子が多く置いておらず、待つのにはイマイチです。周囲にカフェなどがあるので、そちらでということなのでしょう。
次男一家3人が出てきて、すみれちゃんがキョトンとしています。飛行機を下りてからも大はしゃぎしていたのに、僕らの顔を見て大人しくなったようです。もう人見知りという感じではありませんが、はじめから全開がいいな。
9:17〜10:09大阪国際空港P400円。自宅に戻り、荷物を下ろして着替えを待ち、30分後に神戸に向けて出発。家内の姉一家が神戸の高級シニア住宅に集合するので、僕らも誘われました。義理兄が姉が1人になった時に住む用に購入しました。一戸建てと有馬温泉のマンションを売り、明石に自宅マンションとここを購入しました。
R171を西宮に向かいました。そこまでは順調でしたが、阪神高速神戸線が渋滞15kmなので、側道のR43で神戸に向かいました。新在家付近から混みだしたので、海側の道を適当に走り、約束の12時に15分遅刻して到着。
受付で兄の名を言い、訪問者ナンバーカードをもらいます。上階のレストランの場所を聞き、エレベーターで上がります。レストランで名前を言うと、兄たちの席に案内してもらいました。姉夫婦・その長男一家3人・長女一家3人がいました。長女の旦那さんは仕事だそうです。次女一家は中学受験なのでお休みです。和食・洋食・麺類の3種類のメニューだったので、僕は和食を選択しました。僕以外全員洋食でした。和食には餃子も入っていました。餃子って和食か?で盛り上がりました。すみれちゃんと同級生のけん君がおり、少しお姉ちゃんのすみれちゃんが興味津々です。
昼食を終え、部屋に戻り、お兄さん実家が作ったスイカを食べました。2つももらったそうで、朝から2人で切っていたようです。「私ら2人では食べきれないから、みんな食べて」と姉はガンガン皆のお皿に載せていきます。
14時から2時間、カラオケルームを予約したそうで、そちらに移動しました。カラオケルームが2部屋あり、どちらかな?と予約表を見て、ルーム1の扉を開けると姪が歌っていました。完全防音で全く外には音が漏れません。カラオケに入ったことないのでわかりませんが、最近のカラオケはこんなのかな?
すみれちゃん用に、ABCの歌・ドラえもん・赤とんぼなどを、姪の長女(中3)が入れてくれました。姪・姪の長女・次男が代わる代わる歌います。お嫁さんも次男に促されデュエットしました。人数分椅子がなかったので椅子を持ってきてもらい、楽しい2時間が終わりました。16時ジャストに外に出ると、年配のご夫婦が入っていかれました。
ここは介護付き高齢者マンションで、兄が購入した後に入居基準が変わり、70才以上でしか入居できなくなりました。兄夫婦はそれに達していないので、最も若い入居者です。前回兄と勝負したビリヤード、囲碁、将棋、映画シアター、図書ルーム・ダンスフロア・・・いろんな部屋があり、クラブもあるようです。
姪一家は夕食も食べて帰るようですが、僕らは御暇しました。R43〜R171で帰宅しました。僕は家内に頼まれていた買い物です。今朝トイレの電球が切れました。17:45ジョーシン川西店で購入。LEDもありましたが、従来の蛍光灯電球にしました。LEDは暗いもの。更に明日のお素麺用食材を購入するため、家内とスーパーに走りました。
夕食は近所の回転寿司さんに注文したようで、18:30に取りに行きました。皆で実家で夕食です。20時に解散し、おやすみ。


2018/8/11
19時から、大学ヨット部1回上の大阪梅田での同期会に呼ばれています。それまでツーリングに出ることにしました。歴史・寺社・林道探索エリアは綾部〜大飯町〜南丹町にしました。京都府道r1・R162につながる山中でエンドになる林道が気になります。
4時前に目覚め、バイク装束に着替え倉庫から「里山VTR250」を出しました。4:30に出発し、北を目指します。長尾山トンネルを抜け、r325〜r33〜r319〜r12に入り、「後川」で休憩。夜明けが遅くなり、5時になって朝の気配がしだし、5:30になって漸く明るくなりました。ここで、ドライブレコーダーON。
城東トンネルを抜け篠山盆地に下ります。R372に突き当たり、ガソリン補給しようとGSに寄ろうと近づくが開店前。R372を西に進み、右折してr304、篠山川を渡ってr305。田んぼの広がる地帯に入ると、篠山名物の朝霧が濃くなって来たので停車し激写。更に進むと、「古墳」を想像させる小山と水堀が見えてきたので停車し激写。
登ってみようと寄り道し、小山を一周しました。適当な場所を見つけ、小山に登ってみましたが、古墳や中世の城の遺構は見つけられませんでした。r305に戻り先に進みます。右折してr300に乗り、多岐アルプスを登っていきます。
5:58「大乢」。「フォレストアドベンチャー丹波篠山」を見て回ります。バイクに戻り、多岐アルプス北側に下り、r300に合流し左折。「本郷」でr97を渡り、r710に乗り北上します。
R9に合流し、6:43「ローソン福知山三和町店」により、「牛肉入りコロッケたまごロール150円」をイートインしました。R9を北上し、右折してr522に入り、7:05「生野神社」。『延喜式式内社・生野神社記(御弊神社) 式内社とは、延長5年(927)藤原忠平によって調査され、延喜式目に選上録された中央政府にも相当名の知られた神社のことで、当市内に4座ある。
祭神は、天鈿女命(あまのうずめのみこと)で平和な舞踊や音楽を愛好されると共に、九州から伊勢まで男神を無事送り届けられたという勇ましい女神様でもある。
徳川時代の参勤交代には、当地方の領主・綾部藩の九鬼氏をはじめ、福知山・舞鶴・宮津・峰山・豊岡・和田山などの大名が行列美々しくこの道を通る時は、必ず参拝して長途旅行の安全を祈願し、神前の榊の枝葉を戴いて御守とし、帰途これを返納したので以来、旅行・出張・転勤・外遊等の生活と道中安全の神様として有名である。
社殿は、慶長年間(1600)関ヶ原の頃、社殿の改築があり、更に元禄年間(1700)忠臣蔵討入の頃、神祇管領より正一位を授けられているが社殿は後の山上にあった。
明治6年(1873)生野神社と改称、昭和4年(1929)拝殿新築、昭和8年(1933)社務所を建てた。
御幣神社、鎌倉時代(1200)から江戸末期(1800)までは、みてぐらはんと称えていた。これは、綾部藩主・九鬼氏が生野に倉庫を建て上納米を取立てていたが、毎年当神社へ御供米を奉献していたので、御幣(みてぐら)と呼ぶようになったという。
祭日は、春季大祭4月11日で、子供相撲や剣道大会が奉納され、秋季大祭は10月10日で市内随一の重量1125kgで、80人の氏子が奉仕する金色燦然たる御神輿と、子供樽御神輿や御幣太鼓3基が綾部藩奉納の武具行列と共に、勇壮な奴毛槍道中が繰りひろけられるのも名高い。
氏子は、三俣・池田・堀越・正後寺・坂室の約250戸で、全地域を御神輿が巡行し、各区の御旅所で休憩するが、江戸中期には、下六人部学区の多保市の西和田ノ前という所に6m四方位の岩塚があり、その付近が、中六人部学区の一宮神社の御神輿と、上六人部学区の御幣神社の御神輿と、立会祭礼の御旅所であったともいう。
御加護。いづれにしても地域社会の発展と商売繁盛・家内安全・学業成就・歌舞音曲の上達や旅行道中交通安全の神様として、御加護は素晴らしいものがある』
社殿には、素晴らしい彫刻が施されていました。
r522に戻り、「平石峠」を越え、「由良川」に下る予定でしたが、土砂崩れ通行止で得意のUターンになってしまいました。R9に戻り南下。左折してr59に乗り東進し、左折してr709に入った所にあった「渋谷神社」に寄り道。地域の何処にでもあるような神社ですが、細かな彫刻されており、この地域の特徴かな?と思いました。
r709を北上し峠を登っていくと、「大型車通行止」看板が道路に置かれていました。またUターンかも?と思いましたが、「長宮峠」を越えることが出来ました。この峠にも、先月の大雨土砂崩れの爪痕が何ヶ所も残っていました。綾部側に下り、8:06「若宮神社」に寄り道しました。
石段を上り境内に入ると、多くの地元の方がお掃除中でした。畳まで干しています。ここも拝殿の彫刻が見事です。若宮神社の主祭神は、八幡の神「応神天皇」の若宮「仁徳天皇」。
r709に戻り、綾部駅横でJR山陰線を渡り、8:29「グンゼ本社」前。広い駐車場がありました。東の高城山山頂に中世の山城「位田城」跡が見える。
『波多野先生遺徳碑 正二位勲一等伯爵清浦奎吾題額 丹波八上城にして従三位を贈らる。波多野君、諱は秀治。尊王事跡として汗青(史書記録)を照らす。其の後裔にして中上林に居る者を鶴堂先生と日う。先生諱は鶴吉、本姓は羽室、波多野氏を冒す。人と為り、誠忽(まごころがあついこと)謹直にして創始の才あり。夙に済世の志を抱き、以て我国富の源は蚕糸貿易に在りと為す。年、未だ壮ならざるに蚕業一筋に志し、其の企画するところを喩ず(変えない)。闇然たれども日に章かとなる。
明治19年、何鹿郡蚕糸業組合を創めて、其の長となる。31年、蚕糸同業組合と改称し、長と為るは故の如し。又京都府蚕糸同業聯合会組長を兼ぬ。大正5年3月、皆、之を辞して専ら、郡是製糸株式会社を経営す。先生は府郡の蚕業を統ぶること30余年、農家に勧めて、養蚕の法を改め、製糸家を督して治糸の術を究む。伝習所、講習所を設けて、人材を教育し以って指導に任に当らしむ。道徳に経済に薫化行わるるは此れ其の誠が之を動かす者なり。昭和7年4月、官は法を改め、蚕糸同業組合を廃す。惜しいかな先生の遺業は一隅に、忽ちその名を亡ぜんとす。然れども、其の実は既に府下に遍く、何ぞ必ずしも区区たる何鹿郡と謂わんや。先生、那是会社に長たること亦、久し矣。大正6年11月、皇后陛下行啓され功績を嘉賞され、七宝香虚を賜う。宵に光栄と謂うべきなり。7年、2月23日、急に長逝、朝野椀惜(悲しみ惜しむ)す。是より先、緑綬褒章を賜い正六位に叙せられる。
没後、大日本蚕糸会総裁裁仁親王、恩賜賞を追贈するは亦、以って其の誠の感ずる所を見る可し(矣)。
初めに先生、郡是会社を創むるや、曰く、以って何鹿一郡の蚕繭を治むるを得れば則ち足れりと而るに今や、工場は30余を置き、綿として(連なるさま)本土・九州・朝鮮に施及(広く及ぶさま)す。其の生糸は本邦輸出の1/10を優占し以って、国家に貢献す。此の期せずして自ら至りし者は惟うに先生の至誠、能く之を成したるなり。先生、夙にキリスト教を以って会社に訓え、後に川合信水先生に請いて、自ら学びて後に人を治めんと欲し、弟子の礼を執る。天道の説全きを聞くや、面目を新らたにして射を以って範を示めし大事業を教化す。没せんとする日、在郷軍人会に抵りて日本魂の義を論じ、糠慨激越して疾俄かに発して終に立たず。嗚呼、先生の尊王済世の志業は死に至りても口に絶たず。能く先徳に匹敵する者と謂うべきなり。
頃者(近ごろ)前組長小雲君嘉一郎等、碑を建て、以って、先生の遺徳を勒せんと欲し、予に文を請う。囚りて見聞する所を略叙す。銘に曰く。
天の命ずる所、篤く信じて疑わず。師の教うる所楽しみて以って之を行う。道義を根と為し、枝を分ち、滋蔓、四疆す(四つに分れて)。養蚕桑繭絲は斉家の本にして富国の基。扶桑(日本)樺域(朝鮮)遍く光輝を見る。皇后行啓され紫惟に賜す。恩栄、前に光る。遺業は隆として四雄(尾)山麓、由良川の岸に及ぶ。功徳をしるす大いなる石に深く刻む。徳聾以って広まるを。
波多野翁頌徳碑移転の記 この碑は昭和7年8月、何鹿郡蚕糸同業組合が解散の記念に、同組合ならびに郡是製糸株式会社の創設者・波多野鶴吉翁の遺徳を偲び、並松町の波多野記念館(現市民センター)前に建立されたものであります。今回グンゼ創立80周年を機会に波多野翁顕彰公とグンゼ南丘会の要望をもとに関係者の賛同を得て、翁にゆかりのこの地に移設し、永くその偉容をとどめることといたしました。
題額・伯爵:清浦奎吾閣下・内田又一郎先生・小川鶴斉先生
昭和51年11月 綾部市長:羽室清 グンゼ株式公社収締役会長:小林實 元何鹿郡蚕糸連合会会長:山口武右衛門』
バイクに戻り、「J-Quest綾部店」で給油。218km/6.87L=31.7km/L。r77からR27に出て、由良川沿いを東に走ります。r1との分岐を過ぎ、左折して9:21「広瀬八幡宮」。特に由緒ある神社ではありませんが、彫刻が素晴らしい。武家が主権していた時代の綾部の経済力の高さを感じます。
9:31「山家城跡」。『谷出羽守衛友が天正10年秀吉より1万6千石をもって、美濃国から封ぜられた谷藩政中心の地。衛友の父は、大膳亮衛好といい織田信長に仕え、天正4年・大坂本願寺攻めに軍功を上げ家紋「揚羽蝶」を賜るが、天正7年播州三木城別所長治攻めで討死し、三木如意山金剛寺に祀る。
山家初代藩主出羽守衛友は、父・衛好と共に三木城攻めに加わり、父討死の時、その屍を奪い返し仇を討ち取る。この時の勇戦の感状を、秀吉から家紋「五三の桐」を受け本領(山家)加増され、山家に封ぜられた。
城址内の灯籠には、こうした史実を止める「揚羽蝶」と「五三の桐」の紋が残されている。こうした歴史を秘める山家城跡は21300平方メートルを有し、城址内に藩主の祖霊を祀る。「谷霊神社」や背後の山腹には式内社の1つである「伊也神社」がある。この城址は、春は梅と桜、夏は色濃い緑に上林川の瀬音、秋はもみじの紅葉と、広く市民が憩う風光明媚な地として親しまれている』
『この城は、由良川本流と上林川の合流点の突端部の断崖を利用して構築されたものであるが、このあたりは傾斜がゆるやかで、上林川方面からの敵の侵入を招きやすい。そこでこの部分に二重の竪(たて)堀と横堀をめぐらし、さらに内側に石垣を積み上げて侵入を阻止したもので、山城から平城への過渡期の姿をとどめている。
天正10年(1582)、谷衛友がこの地に築城した時期に構築されたものと考えられ、当時の緊張した様子をうかがう事ができる。城内の井戸とともに数少ない近世城郭遺構である。 石垣の高さ:5m 東西の長さ:119m 南北の長さ:70m』
復元城門には、「揚羽蝶」家紋が掲げられていた。揚羽蝶と言えば平家の家紋で有名です。平家以外でこの家紋を持つ一族は少ないので嬉しかった。城跡を一周しました。立派に整備したようですが、訪問する城好き観光客は少なく、朽ち果てつつあります。井戸跡がありました。
城門を出て、目の前にある神社への道を登ります。『延喜式内・伊也神社 鎮座:広瀬町城山 境内:694坪 祭神:大日霊貴尊・素盞嗚命・月夜見尊 縁起:崇神天皇の御代、丹波道主命、この地に先臨し給い、甲ヶ峰の麓に宮を築き祀られたのが初で、後「伊也神社」を勧進し何鹿郡延喜式12座の1に数えられている。天正年間中、火災により焼失。その跡を御社と呼び、文化7年(1810)10月従二位清原宣光公願成就により、現在地盤座の清地に御本殿を移転・新築された社である。明治3年類焼、翌年再建、昭和55年修復す』
『甲ヶ峯城跡(左衛門屋敷跡)ここより471m 照福寺跡:甲ヶ峯城跡より116m』
伊也神社まで登りましたが、それ以上の城址や山寺跡には登らずバイクに戻りました。R27に下り、右折してr1に乗り福井県高浜方面に向かいます。この道は最高に気持ちが良い。
10:19「上林城址」。以前より県道の右側に見えていた山城です。『上林城は、戦国時代の土豪・上林下総守の居城であっt所で、慶長6年(1601)からは藤懸永勝が陣屋を置きました。藤懸氏はこれから明治廃藩(1869)まで、上林地域を中心に何鹿郡内22ヶ村を支配しました。陣屋下には小さい城下町ができ、上林川には大手橋が架けられました。
今回、自然休養村事業の実施にともない、昭和53年から55年にかけ、中世山城遺跡として全面調査を行いました。その結果、建物遺構や石垣・堀などと土師質の皿・陶磁器・石製品・金属製品が数多く出土しました。これらにより、中世山城の様子や当時の暮らしぶりを偲ぶことが出来ます。遺構の大部分は埋め戻されましたが、出土品の一部は管理センターに展示してあります。私達は、文化財を大切にし、永く後世に伝えるように努めましょう』
コンクリート丸材の階段で山頂まで登れました。小さな祠・東屋が建ち、比高は小さいながら独立峰なので、周囲を見渡せました。独立峰故、大軍で攻められると逃げ場がないので、降参が早まりそうです。次戦の必勝を願って、一時撤退・徹底抗戦は難しそう。
『古城山の名が残るこの丘陵上には、かつて上林氏の居城が築かれていた。上林谷のほぼ中央に位置するこの独立丘陵上に構えられた城は、上林城あるいは生貫山(せいかんさん)城、蝸牛(かたつむり)ヶ城とも呼称される。
上林氏は、丹波氷上郡の土豪赤井氏の一族で、足利尊氏に従って功を立てた赤井秀家がこの地・何鹿郡上林庄に住み、初めて上林姓を称したという。天文2年(1533)の光明寺再建奉加帳には上林氏一族11名が有力施主として名を連ねていることから、この頃までには上林氏が上林城を拠点に上林谷一帯を治める大きな存在となっていたようだ。
上林城跡は昭和53〜56年度に発掘調査され、城の規模や構造が明らかになった。城は、丘陵頂部の本丸を中心として東西南北に廓を配している。発掘で検出された石垣など数々の遺構から、この城が高度な築城技術による本格的な居館であったことが判明した。また、多量の出土遺物からは、この城の最盛期が16世紀前半であることもわかった。
16世紀後半、明智光秀勢の上林侵攻などにより、上林氏の勢力は弱まり、天正元年(1573)以降、上林氏一族はその発祥の地・上林からの退転を余儀なくされていく。一族は各地に転出していくが、そのうちの一派は宇治で茶業を始めて成功し、宇治の茶舗・上林家として有名になった。
上林氏退転後、慶長6年(1601)に藤懸永勝が上林に入り6千石を領した。藤懸氏は先の上林城の麓に陣屋を築き、明治になるまでこの地を治めた』
麓に下ると、城址の館のような長屋門のある家がありました。地元の名士でしょう。r1に戻り、先に進みます。右折して、沢沿いに「鳥垣渓谷」方面に入っていきます。美しい渓谷を見たかったのですが、未舗装になり撤退。地図には白線の道が「シデ山」まで続いており、楽しみにしていたのに・・・
r1に戻ると、往路と別の道を選択したら、10:58「坂尾呂神社」があり寄り道しました。ここの彫刻も素晴らしく、綾部の神社は彫刻が良いです。蟇股に兎の彫刻があり珍しい。再建した江戸時代の技術者の優秀さを感じます。『祭神:須佐之男尊 本殿は寛政6年(1789)、領主の許可を受け再建に着手。6年後、若狭日置村の彦兵衛の手によって落成。古文書に、「若狭日置村彦兵衛此人宮宅普請巧者大工故頼被申候 作料高・銀四貫五百匁・米二十石・相極候」と記されている』
「板尾呂の里」というのがあり、丘の上に登って見ると、比高はあまりないが気持ちの良い景色が広がっていた。
バイクに戻り、r51に出ました。r51「草壁川」沿いを山に登って行きます。地図の道は点線になりますが、「洞峠」を越えるとR162に繋がります。開通するといいな。
水が横断したりしていますが、割合綺麗な道が続いています。気持ち良く走っていると、「車両通行止」看板が現れ、道が半分塞がれています。ここで踏ん切りが付きUターン。
11:22「大岩の滝」。『60mほどの天空から流れ落ちる清流は、幾重にも姿を変え草壁川に吸い込まれる。清流は、草壁川から上林川を経て由良川へと導かれ、やがて日本海にたどり着きます。「上流は下流を思い、下流は上流に感謝する」の思いをのせて・・・』
r51を下り、r1に戻り先に進みます。小学校廃校?があり寄り道しました。r1をさらに進み、r771へ右折して田舎県道を楽しみます。沢沿いの交通量のない道を、のんびり流していると、穴凹が空いていたり、落石があったりで道が荒れてきました。12時を過ぎたので、Uターンして帰路に着きます。
r1に戻り、R27にチェンジし、由良川沿いを遡ります。12:56「道の駅・和」に寄り、牛肉コロッケ250円(コロッケ3個)を昼食にします。最も暑い時間帯なので、クーラーの部屋でゆっくり食べました。
バイクに戻り、R27を更に進み、r60〜R27〜R9〜r702〜r453で「中山峠」を越え、R372を渡りr54で「るり渓」を通過し、R173に出ました。R173は昨年秋から通行止区間が解消されておらず、細い・交通量が少ない楽しい県道を縫いました。R173秋の通行止区間はr54との合流点以北だったのに、「はらがたわトンネル」の南でも通行止めになっており、旧道に迂回しました。
R173に合流し、14:27「ファミリーマート能勢町栗栖店」で、「ガリガリ君ソーダ・75円」でクールダウンしました。R173を南下し15時過ぎに帰宅しました。バイクを倉庫に片付け、風呂に入り汗を流し、ヨーグルトを食べ、大阪に出かける用意をしました。17:30に「通勤リード110」で家を出て、北伊丹駅バイクPに200円で停め、JRで大阪に向かいました。19時「K'sスクエアB1F個室居酒屋辻屋大阪梅田店・遥」に大学ヨット部の1学年上の代5人が集まるので、それに参加します。30分ほど前にお店に到着しましたが、僕がトップでした。この日、クルージングに先輩方を誘いましたが、皆さん用事があるようで実現しませんでした。僕の代2名を加え7名でワイワイやりました。学生時代の話などいろいろ。2時間ほどいて、北海道在住で京都帰省ついでに参加したM先輩が宿を取っている新阪急ホテルのバーで、2次会をしました。ここでもワイワイ、僕はアルコールが飲めないのに楽しい時間を持ちました。
お開きになり、同じ市内に在住するKさんと一緒にJRに乗りました。Kさんとは小学校が一緒で、中学受験するための家庭教師先生も一緒。中学に入学しサッカー部に入ったら、そこでも一緒。高校に進学しヨット部に入ったらまたまた一緒、そして大学ヨット部では2年間コンビを組みました。何という縁でしょう。あまりにお喋りに熱中しすぎて、JR尼崎駅を乗り過ごし、JR芦屋駅まで行ってしまいました。結局12時近くの帰宅になってしまいました。


2018/8/5
コーチしてる大学ヨット部のOB・OGデーです。昨日に続き連続の琵琶湖行きです。
9:30新艇進水式なので、9時までに琵琶湖に着けば良いでしょう。以前からずっと気になっていた大津の「建部大社」に参拝しましょう。「大社」と名がつく通り、由緒ある神社で、近江一の宮です。最初に訪問しておかねば行けない神社なのに、琵琶湖に近いからついつい後回しになっていました。
6月の夏至を過ぎ、7月はそれほど気にならなかったけど、8月に入ると「夜明けが遅くなったな〜」と感じるようになりました。4時を過ぎると夜明けの雰囲気が出てきて、4:30はもう夜明けで明るかったのに、最近は30分は遅れました。夜明けを感じる5時頃活動を開始し、5:30に「招き猫CB400SB」を倉庫から出して出発しました。
R171〜中央環状道〜吹田ICから名神高速に乗り、大山崎JCTから京滋バイパスにチェンジし、「笠取IC」で下車しました。r3に出て瀬田川沿いを琵琶湖に向かって走ります。最初の目的地は「佐久奈度神社」。R422にチェンジし、すぐr783。
ここで少々迷い、「大石緑地」でトイレ休憩しました。6:15「佐久奈度神社」。
『平成31年 佐久奈度神社御鎮座1350年祭 当、佐久奈度神社は、天智天皇8年(669)勅願により、瀬田川の急流のこの地において祓(はらえ)を行い、社殿を設けて祓戸大神四柱をお祀りしたのが始まりです。爾来、天下の祓所として朝野の崇敬厚く、大七瀬の祓所のひとつとしても著名であります。また現境内地は昭和39年に下流の天ヶ瀬ダム建設に伴い移転したものであります。
この御鎮座より、来る平成31年に1350年の大きな節目の年を迎えます。また平成26年は御遷座50周年の年にあたります。この正しき由緒と長さ歴史に鑑み、2つの大きな節目の年を記念して、御鎮座1350年祭が斎行されます。今般この大祭を奉祝すべく奉賛会を設立し、本殿拝殿の改修・塗り替え工事をはじめとして境内緒施設の改修を記念事業として奉納し崇敬の誠を捧げるべく奉賛活動を行っております。
ご参詣の皆様方におかれましても、ご趣旨ご理解の上、ご協賛賜リますようお願い申し上げます』
瀬田川の瀬に面しています。巨岩がゴロゴロしており景勝の地だったかもしれません。早朝の空が青く、気持ちが良い。謂れ板にあるように、旧社地が、下流に天ヶ瀬ダムが建設されるのに伴い移転したとのことですが、眼の前の瀬田川はダム湖ではなく、旧地を偲ばせる瀬のままです。木々に覆われた境内から瀬田川が見えるように小さな展望桟敷が作られており、お祓いの地を感じることが出来ました。
1350年祭とは悠久の歴史を刻んだ神社でした。天智天皇が明日香の地から大津京に遷都し、周囲に神の地を整備していくなかで勅命されたのでしょう。社務所に絵馬や御守・大祓詞などが並んでいた。祓戸四神の御札も並んでおり、好きな瀬織津姫の御札800円が欲しかったが、まだ閉まっていたので残念でした。バイクに戻ると再び鳥居をくぐったら、鳥居の下に盛塩されていた。入った時はなかったのに、毎朝盛塩される方がいるようです。
r783〜R422〜r29、6:32「大石義民碑」。『大石義民=彦治・源吾の史実と背景 1600年代前半の徳川幕府初期、大石村(当時は富川・東・中・淀・竃門の5ヶ村)の統治は、膳所藩(戸田氏)に属していた。当時の大石村村民の暮らしぶりは、これといった生産物のない中、自然の恵みによる山の産品(薪・柴・木炭等)の商いをすることで何とか生計を維持していた。また、これら商品の運搬手段は、人馬で膳所藩が管理するこの地・佐馬野峠(通称・沢野峠・関の津峠)を越え、関の津浜から舟で大津・京都に運ばれていた。佐馬野峠を利用せざる得なかった理由は、関の津浜以下の瀬田川の下流は、水の勢いが激しく舟運の妨げとなっていて、人馬を使った峠越えが唯一の交通として重要な役割を胆っていた。(857年天安の三関の1つ)問題は、この峠を人馬で越すことや、浜を利用するため課税が大変重く、商いは難渋を極めたことである。こうした窮状を藩主にも訴え善処を求めたが、聞き入れられず村民の生活の窮状は、増すばかりで困窮を橿めていた。
こうした状況を憂い、当時富川村庄屋「彦治」と、その弟「源吾」の兄弟が、村民の窮状を救うべく幕府巡検使に直接訴え出たのである(1613年11月)。当時は、幕府への直訴は固く禁じられており、その罪で兄弟はこの地沢野峠において極刑(傑の刑)に処せられたのである(慶長19年1614年2月24日)。これら兄弟の身を挺した必死の訴えが幕府に伝わり、税の減免を含む管理の改善が図られ、大石村村民の生活を救い人生に希望を与えたのである。
私たちは、お二人の尊い行動と犠牲の上に、大石学区民の今日の生活あることを忘れてはならず、感謝と追悼の念を新たにするため、毎年の命日(2月24日)に「大石義民祭」を学区民あげて催行することにしている』
この地・大石は忠臣蔵で有名な大石内蔵助を出した大石家のルーツです。峠を北に下り、6:39「諏訪神社」に寄り道。更に下り、瀬田川沿いを北上し、瀬田の唐橋東詰交差点を右折しr16。
6:58「近江一の宮・建部大社」。鳥居前にバイクを止め激写タイムしていると、地元の方に声を掛けられました。「神戸から来られたのですか?わざわざ遠くから」。8/17の「納涼船幸祭」について詳しく教えていただきました。稚児行列、大社から神輿行列、瀬田の唐橋から神輿が船に乗り、南郷洗堰まで往復するそうです。花火大会も催され、8/7の琵琶湖花火大会ほどの規模ではありませんが、とても綺麗だそうです。氏子の方でしょうか、建部大社大好きが伝わってきました。
『御神徳 日本武尊:開運・出世・必勝・厄除・災難除 大己貴命(大国主神):緑結び・商売繁栄・家内安全・病気平穏・醸造
景行天皇46年(316)御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が神崎郡建部の郷(御名代の地)に大和武尊の神霊を祀られたのが始まりとされ、天武天皇白鳳4年に、近江国の中心である瀬田の地へと遷し祀られました。
古来、「唐橋(日本三大古橋の一つ)を制する者は天下を制す」といわれてきたように、瀬田川を扶んでの戦が数多く、当社も幾度となく戦火に見舞われていますが、その度に再建され現在にいたっています。
御祭神・日本武尊は九州の熊襲(くまそ)族・東国の蝦夷(えみし)を平定され、日本の基を作られた英雄です。武勇必勝の神・厄除け開運の神として篤い崇敬を集めています』
バイクで鳥居をくぐり参道を少し入ったところにあったPに駐輪。『景行天皇46年(316)4月神崎郡建部郷千草嶽に、日本武尊の御神火を建部大神としてお祀りしたのが創りである。天武天皇白鳳4年(675)4月に近江国府のあった瀬田の地にお遷し、この国の守護神として仰ぎ奉られるようになった。天平勝宝7年(755)には、孝徳天皇の勅により大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請し、権殿に奉斎され現在に至る』
参道を歩いていると、「ヤマトタケル神話」がパネルになって貼られていた。『1 ヤマトタケルの西征 ヤマトタケルノミコトは、父(12代景行天皇)の御子・小碓命(オウスノミコト)として生まれます。父はオウスノミコトに朝廷に従わない西国の九州(クマソタケル)兄弟を征伐するよう命じました。クマソタケル兄弟の館を見つけたミコトは、女装して宴に紛れ込み、熊襲兄弟が酔ったところで忍ばせていた短剣で熊襲兄弟を討ちました。熊襲兄弟を討ったことから強者の称号である「タケル」をもらい、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と呼ばれるようになった。
2 日本武尊と草薙の剣 西国征伐から戻ったヤマトタケルノミコトに景行天皇は、東国征伐を命じます。途中、伊勢神宮に立ち寄り叔母のヤマトヒメから神剣・天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)と、火打具を授かりました。駿河国に達したミコトに国造(クニノミヤツコ)たちは「沼に住む荒ぶる神に困っております」と、野に誘い出され四方から火を放たれました。退路を断たれたミコトは、ヤマトヒメから授かった神剣で草をなぎ払い、火打具でむかい火を放って野火から脱出します。後に火で焼いたことからこの地を焼津(やいず)/静岡県と言い、草を薙ぎ払った神剣は草薙の剣(クサナギノツルギ)と呼ばれるようになりました。
3 后・オトタチバナヒメの入水 更に東へ進んだヤマトタケルノミコトは、次に相模国から船で海路を進み上総国へ渡ろうとしました。しかし、海が荒れ船を進めることが出来ずにいると、同行していたオトタチバナヒメが、「私が海に入って海の神を鎮めましょう」と言って自ら荒波に身を投じたのです。すると、たちまち荒れ狂っていた海は静まり、無事に対岸に着くことができました。
4 ヤマトタケルと伊吹山の神 東国を平定し尾張国に戻ってくると、今度は伊吹山に悪い神がいると聞きつけたヤマトタケルノミコトは、神剣・草薙の剣をミヤズヒメに預けて征伐に向かいました。伊吹山を登る途中、牛ほどの大きな白い猪に出会い「これは山の神の使いだな!帰り道で相手になってやろう」と大きな声で威嚇してやり過ごしました。すると突然激しく雹(ひょう)が降り出し行く手をはばまれます。実は白い猪は山の神の使いではなく、山の神だったのです。怒りを買い雹(ひょう)に打たれて衰弱したミコトは、やっとの思いで山を脱出し故郷の大和国を目指します。
5 ヤマトタケルと白鳥伝説 大和国を目指し歩き続けたヤマトタケルノミコトは、「足が三重(みえ)に曲がり固い餅のようだ」と嘆いた事からその地を三重(みえ)といわれるようになりました。更に体調を悪くしたミコトは国しのびの歌を詠みます。「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる倭しうるはし」と詠み、伊勢の野褒野(三重県鈴鹿市)でついに力尽き息を引き取ります・・・妻や子供たちが駆けつけると、ミコトの魂は白鳥となり能褒野から河内の志紀(大阪羽曳野)へと飛び立ちました。今も白鳥伝説として語り継がれています』
社門は檜皮葺で落ち着いています。『近江一の宮・建部大社を讃う 三杉の神木蒼穹(そうきゅう)に聳(そび)え 千古の宮居(みやい)恵風満つ 太平恩沢悠久のこと 建部の弥栄(いやさか)敬虔(けいけん)崇し 大島紀之(国紀)作』
『大神正盈(まさみつ)翁碑 (解説)官幣大社建部神社宮司、正六位、大神正盈君、明治37年12月4日に歿す。年71。君、大社に奉職するこ29年。功績、顕著に有り。
今茲(ここ)に、大正8年、大社陛格(しょうかく)20周記念祭典を修むるに方(あた)り、有志肯謀(あいはか)り、碑を建て、以て君を不朽に伝えんと欲し、余に文を嘱(しょく)す。因(よ)りて行実(ぎょうじつ)を按ずるに、大神氏の祖、紀是尚、白鳳4年、近江国矢橋八幡宮祠官(しかん)と為(な)り、世々(せぜ)相伝えて君に至ること実に39世なり。
君、幼名は武萬呂、括嚢と号す。少壮にして京師(けいし)に遊学し、博学多才にして、尤も国典に通ず。文久元年、父の後を襲ぎ、鞭寄(むちざき)八幡宮祠官に補せられ、従五位下に叙せられ、土佐守に任せられる。元治・慶応の際、同志の公卿・志士と相交わり、王事に勤労し、匪躬(ひきゅう)の節を尽くす。維新の初め、長谷信篤卿、江・若総督に任ぜられるに、君を抜擢し副参謀とし、新政に参与せしむ。幾ばくも亡くして宮を辞し、専ら神道を講ず。明治9年、職を建部神仕に奉ずるや、君、慨然として力を昇格に尽くす。18年官幣中社となり、32年更に大社に列す。今日の興隆を見ること、実に君の力多きに居る。君、資性温厚、篤実にして苟(いやしく)も名利に従わず。夙(つと)に神道の教職に任じ、遂に推されて滋賀県神道分局長、皇典講究分所長、神官取締役長となる。経営・統督、皆それ宜し。牧氏を配し、三男三女を生む。長・正道、家を嗣ぐ。現に神職と為る。次・正秋、工学士と為る。李・正李、出でて周防氏を嗣ぐ。三女、皆嫁ぐ。子孫、各その志を成す。蓋し積善の余慶なりと謂うべけんや』
神門に、七五三プランや琵琶湖大津観光ガイドが置いてあった。大津市のゆるキャラ「おおつ光君」フィギュアもいた。摂社が境内に整然と祀られていた。「料理の神:蔵人頭神社」「日本武尊家臣・吉備臣武彦・大伴連武日:行事神社」「日本武尊の御母・皇后・播磨稲日太郎姫命:大政所神社」「日本武尊の御父・景行天皇:聖宮神社」と、他の神社では見かけない珍しい社名の摂社がある。「願い石」と「お食い初め石」として、白い石が積まれた一角があった。「願い石」は願いを書いて奉納する。『願い石 当社に古くから伝承されている霊験あらたかな白石を持ち帰り、願い事を石に書き朝夕、願掛けをしてください。無事願い事が叶ったならば、石は神様にお返しください。本殿にお供えし貴家の安泰をご祈願させていただきます。初穂料1000円』
『お食初め お子様が一生食べ物に困らないよう生後100日に行われる儀式で、歯固めの石と称し、丈夫な歯が生えてきますようにと言う願いを込めて「お食い初めの石」を添えます。当社では「福石」と称し無料でお分けしております。願い石の周りにございますのでお持ち帰りください』
本殿横を歩いていると、『特別天然記念物・菊花石 自然の力によって菊の紋様が入った鑑賞石の最高峰。神聖な力を感じさせます』『建部大社伝承古壺・菊紋壺 菊紋入の信楽焼古壺。伝承の由来・年代の記録は残されていませんが、社宝として永く大切にされています』の立て札があった。本殿裏に、それらが置いてあり、板玉垣の隙間から見ることが出来ました。本殿を板玉垣の間から覗き込みます。脇障子の彫刻が見事です。檜皮葺の屋根に見事な彫刻の本殿で下がり灯籠などが金色で日本古来の美意識でナイスでした。
境内に、瓢箪棚があり、小さな瓢箪が下がっていました。鎌倉時代の重文・石灯籠があった。ヨーロッパ史跡同様、石造のものは永くその姿を保ちますね。絵馬掛け殿がありました。絵馬も無人授与しています。500円。日本武尊絵馬を授かろうと思うが、社門脇に社務所があったのであちらで授かろう。
『皇太子殿下・皇太子妃殿下・行啓記念樹』お手植えだそうです。摂社「日本武尊の御妃・布多遅比売命:藤宮神社」「日本武尊の御子・建部稲依別命:若宮神社」「日本武尊の家臣・弟彦公:弓取神社」「日本武尊の家臣・石占横立・田子之稲置・乳近之稲置:箭取(せんとり)神社」が並んでいました。
『琵琶湖とその水辺景観・祈りと暮らしの水遺産 人々は、琵琶湖の水や山からの湧き水を生活に取り入れ、水を汚さない工夫をしながら生活を営んでいました。また水を神として敬い、信仰の対象としてきました。湖辺の集落では、湖魚を用いた独自の食生活や伝統的な漁法が育まれ、独自の景観を生み出してきました。滋賀では、このような水と人との関わりが今も息づき、大切に受け継がれています。
建部大社は1300年の歴史を有し、御祭神は日本武尊をお祀りしています。社宝として平安時代作の木造女神像と、鎌倉時代建立の石灯籠が重要文化財に指定されています。また毎年8月に行われる船幸祭は大津三大祭の1つとして、瀬田川の安全と水の恵みに感謝する祭儀として知られている』
宝物殿(200円)があったが、開館前でした。少し大きな摂社『諸願成就の神:八柱神社』がありました。『家内安全・商売繁盛・稲倉魂命:武富稲荷神社』
『結びの神・草野姫命:大野神社』『山の神・大山祇命:桧山神社』
社務所に向かいましたが、まだ開いていないようです。御守などを覗き込んでいると、何処で気づいたのか「はい、お待たせしました」と神官さんが出てこられました。「交通安全シール(500円)と絵馬(500円)をいただきたい」と言うと、「絵馬はここにないのであちらでどうぞ」とのこと。初穂料1000円お渡しし、ステッカーを受け取り絵馬殿に向かい授かりました。
古い使われなくなった祠が置いてありました。これ頂けないかな〜。Pに戻ります。周囲に、ここから近いお宮が写真入りパネルになって掲げられていました。神社好きな僕にはピッタリで、これは良い。場所を下調べして、ナビに登録しておきましょう。僕のナビは訪問ポイントが、いくら訪問しても増えるばかりです。7:42、まだ時間があるけど、YHに向かいます。r16で瀬田の唐橋を渡り、右折してR422。瀬田川沿いを北上します。r102〜r18〜R161。8:08「セブンイレブン大津松山町店」で、「プレミアムフレッシュバナナ213円」を購入。
8時にYHに到着し、軽装を持って更衣室で着替えました。みんなに挨拶し、桟橋で朝食としてバナナを1本食べました。部員が続々と到着し、ヨットの艤装を始めます。艇庫前に今日進水式をする新艇が出されました。4回生Ka君が乗ります。進水式で出艇するメンバーを聞くと、3回生スキッパーのクルーを務める470リーダーが乗るそうです。
9時を回り、OB・OGさん達が集まりだしました。僕が作ったジュニアヨットクラブに所属しヨットを続けるNukさん母娘がやってきました。お母さんはこのクラブ出身で、選手として活躍しました。他大学ですが、同じくヨット部出身の旦那さんと結婚し、お嬢さん2人ともジュニアヨットをしています。やってきたお姉さんは、ジュニアワールド選手で、高校生になりシングルハンドで国体に出場しています。妹さんは現在シングルハンドヨットの世界選手権で、スペインにお父さんと共に遠征中です。2回生2人・1回生3人と、女子選手が2年連続で入部したので、たまにでも良いから選手OGとしてお母さんに話をしてもらいに来て欲しい。メールでそうお願いしていました。これをきっかけに来てくれたら。
9:30になり、進水式開始。監督に続き私に挨拶の指名があり、適当に僕が4回生で新艇を入れた時の喜びと、そのレース艇で走りまくった思い出を話しました。僕の生涯の思い出です。今年は、S級にも新艇が入り、今年に掛けるものがあります。是非良い結果を・・・
新艇をスロープに出して、4回生マネージャーリーダーYagさんがシャンパンをバウデッキに掛けます。4回生2人が乗り込み出ていきます。風が弱いですが、ハーバー前を一周して戻ってきました。
続いて、OB・OGが乗るヨットが出ていきます。OB・OGさんが着替え、Nukさん母娘を現役女子部員に紹介します。興味津々でお母さんの大学生時代の思い出やアドバイスを聞いていました。OGが少なく、練習をコーチングしに来てくれるOGはゼロなので、貴重な時間です。自分の将来像を描けたらいいな。
前半組・後半組がハーバーに戻ってきて、お昼ご飯を食べに行かれました。このクラブの現役選手にOBがいる同じハーバー内で練習する高校生ヨット部員が2名参加しています。このクラブのOBのお孫さんと友達です。大学生の少し大きなヨットに乗れ、楽しんだようです。
OB・OGさんの試乗が一段落し、部員たちは練習に出ます。僕は新艇の2ボート・チューニングに付き合うことにしました。N3〜4m/sの良い風に恵まれ、良いチューニングが出来ました。随時、コーチボート上から見える2ボートの違いをアドバイスしました。乗っている者が、スピード・アドバンテージを敏感に感じるので、いろんなチューニングを試し、速いボートを作るのも選手の能力です。
17時にハーバーバックし、帰路に着きます。また更衣室でバイク装束に着替え、湖西道路〜名神高速。交通量が多く、停滞はしないけど、渋滞で10〜40km/hが京都南ICの中間ぐらいまで続きました。17:40「桂川PA」とお決まりの「バニラソフト140円」で糖分補給。中国道・豊中ICで下車し、18:24御用達の「セルフ北村SS」で給油。254km/8.93L=28.4km/L。


2018/8/4
コーチしているヨット部のファミリーデーです。選手の親御さんたちを招待して、合宿所・艇庫・ヨットハーバーなど日頃暮らしている施設をお見せし、練習海面に出てヨットに乗ってもらいます。選手たちにとって最もお世話になってるのが家族です。
10:30受付・11時開始というとこで、それまで寺社・歴史探索しようと思いました。7:30に「招き猫CB400SB」を倉庫から出し、R171〜中央縦貫道〜吹田から名神高速。8:15「桂川PA」で「ガリガリ君ソーダ75円」休憩。相変わらず暑いです。京都東で下車し、少し戻って山科探索という計画でしたが、京都南IC手前から渋滞していました。2ヶ所ある登板車線を使って、フルに渋滞に捕まることはありませんでしたが、車が多いです。
歴史探索気分が失せて、京都東IC〜湖西道路で9時頃艇庫着。みんなが掃除しています。2Fに上がり、クーラーの利いたオープンフロアでくつろぐ。10時前になったので1Fに降りて、受付準備してるのを見ながらお喋り。車で来られる方は駐車場がわかりにくいので、ダンボールに書いて道路に出て持っていたらどうだと提案する。「いいですね、新歓に使うヨット部の幟があるので、それを道路に立てることにします。暇な1回生も確保します」だって。
10:30前になって、親御さん達が来始めました。父方・母方双方のお爺さんおばあさん4人が来られた愛され度120%の部員もいました。1・2回生の親御さんがメインで、3・4回生の親御さんもちらほら。50名ほど集まってくださいました。参加費大人2000円・高校生以下無料です。今年初めて参加費を設定しました。親は2000円で参加を取りやめることなんてしないね。活動費を稼ごうとする魂胆です。2Fフロアにテーブルが置かれ、適当に親御さん達が座ります。該当選手がそのテーブルに着き、その他部員がサポート役で、11時から食事が運ばれてきました。監督挨拶&キャプテン「今日の献立は」本日の担当マネージャー「カレーライス・?うどん・お野菜です」キャプテン「いただきます」。でお食事タイムになりました。
続いてビンゴタイム。部員が用意した賞品争奪戦です。「使い捨てカイロ20枚」いつのや〜、トイレットペーパー2重12ロール、鼻セレブティッシュペーパー3箱組、ハット、アクエリアス粉、サバスプロテイン粉末缶、低反発枕・・・全13。何故か最後まで残ったのがハットでした。
2回生がモニターにPC画面を写し、ヨット部紹介をビデオを使いながら話しました。キャプテン挨拶。そして僕の挨拶です。20分も時間がありましたが、10分で切り上げました。
13時から半数の方をヨットハーバーに誘導します。ヨットに乗ってもらいます。僕は合宿所で残りの方と適当に雑談。4回生マネSさんのお母さんがSさんと共にやってきました。Sさんは午前中授業だったようです。15時になり、後半組もヨットハーバーに向かいました。歩いて5分ですが、部員の車の送迎付きです。キャプテンの挨拶で、「ヨット部で作ってるセイルバッグなど買ってください」の泣きが利いて多くの親御さんが買ってくださいました。このタイミングで、帰路に着きます。湖西道路〜名神。15:26「桂川PA」で「バニラソフト140円」クールダウンタイム。帰宅し、速攻で風呂に入り、ヨーグルトタイムで至福の時を。家内が昨日に引き続き「町内会盆踊り」の手伝いに出発しました。
昨夜、仕事後盆踊りに行き、家内から金券もらって「焼きそば200円」と「かき氷100円」を夕食にしました。寄付してるからタダ券があります。僕の提灯もぶら下がっています。親父から続いてる我が家の提灯。古くなったら何も言わず更新されるので、寄付しないわけには行きません。
家内は、かき氷当番をしていました。注文聞いて100円お代金精算係です。かき氷の機械が2台あり、カップに入れる掛かりと、シロップを掛ける掛かりが黙々と働いていました。


2018/8/2
次男からアメリカの長男宅に送ったルーカスくん誕生プレゼントが届いたようです。はじめての靴を送ったようです。嫡孫りょうくんの靴はこちらに帰省した時、デパートに行って僕がアシックス製をプレゼントしました。2人目こうちゃんのは、アメリカでナイキのを買ったようです。3人目ルーカスくんはお古の予定でしたが、おニューになって良かったね。アディダスなど他のブランドもあるので、何を送ったのかな?数ヶ月後ビデオで見れるでしょう。
ついでに、りょうくんへは日本地図マグネットパズル、こうちゃんへなリュックバッグをプレゼントしたようです。りょうくんへのリュックをプレゼントしており、プリスクールへ毎日背負っています。こうちゃんも、「これがあればプリスクールに行けるね」と意気込んでいるようです。こうちゃんは今2才で、1年後の9月からプリスクール年少組が始まります。来年4月で長男がアメリカ転勤して3年。もしかしたらイギリスへ転勤するかもしれません。こうちゃんのプリスクールデビューは、どの国かな?
お嫁さんように、日本の食品・お菓子も送ったようです。向こうで手に入らなそうなものを送ったのでしょう。息子たちのお嫁さんたちが仲が良く、とても嬉しいです。男兄弟は用事の時以外は、それほど濃く付き合わないのが常で、家族同士の親密な関係はお嫁さんたちに掛かっています。2人共夫婦仲の良い温和な家庭で育っており、上手にやってくれています。今回のプレゼントも、お嫁さん主体でプレゼント選びをしたのでしょう。
こうちゃんは相当おしゃべりするようになって、相手するのが大変になってきたようです。ビデオで次男夫婦にお礼を言っていますが、こうちゃんの方が大きな声で「ありがとう」を言っています。
これに対し次男のお嫁さんからLINEが入りました。次男夫婦はEMSで送ったようです。予想より早く長男一家に届き、アメリカを近く感じるのだとか・・・。りょうくんが連続3回も、都道府県マグネットパズルしたので、すぐに都道府県覚えちゃいそうだと喜んでいます。相変わらずこうちゃんのおっとりした話し方に優しさを感じ「癒し系」だとの感想をもらしていました。去年1週間アメリカで遊んだ時も、積極的ながら穏やかさを感じました。兄弟なのに、りょうくんとは違います。むしろすーちゃんの方が、少し強めだと次男お嫁さんは感じているようです。
ルーカスくんにプレゼントした「ファーストシューズ」は、すーちゃんに買ってはかせやすかった同じものを選んだそうです。という事は、靴下と一体化した靴を贈ったようです。1年後にはこれを履いて、よちよちしだしますね。


2018/7/31
8月はバイクの6ヶ月点検月間です。「里山VTR250」は年1回点検ですが、他の2台は半年定期点検を続けています。点検はがきが来てお店からも電話が来たので、少し早いけど7/29「ホンダドリーム」さんに相談に行きました。そして7/30の予約を取り、「通勤リード110」と「招き猫CB400SB」の6ヶ月点検をしました。通勤リードは前払い4回点検が2月で終わったので、メンテナンスパック4T(6ヶ月点検2+12ヶ月点検+24ヶ月点検)26800円に入りました。バイクは問題なく追加整備はありませんでした。6ヶ月毎のオイル交換も無料でついています。ただ後輪が、「溝は残ってるがひび割れが目立ってきたので、そろそろ交換を考えたら・・・」とのアドバイスを受けました。前回交換は4年前でした。もう少し使いましょう。
「招き猫CB400SB」も機関的な問題はありませんでした。ギアチェンジが軽く、クラッチレバー握らなくてもコンコン足技だけで入ります。このバイク、ほんとに素晴らしいバイクです。もう少し前傾が緩ければ100点満点です。
半年前にバイク知り合いさんに、「もう溝が少ししか残っていないので、そろそろ交換したら」と勧められたけど、ドリームさんには何も言われませんでした。僕の走行距離からして、「あと半年は大丈夫でしょう」という感じでした。
それが今回は、「溝が殆ど無いです、ひび割れも出てきたので交換ですね」+「前輪も溝がもう少しでなくなります」とセット交換を勧められました。見積もりしてもらいました。いろんな種類のタイヤがあるけど、制限速度+10の会員で寺社巡りがバイクを使う目的で、ゆっくり景色を楽しみながらのバイクなので、ツーリングタイヤで見積もってもらいました。
A:ダンロップD204(フロント22000円+工賃3800円+エアバルブ330円+廃タイヤ600円=26730円&リア33800円+工賃4300円+エアバルブ330円+廃タイヤ600円=39030円)=65760円
B:PIRELLI・AngelST(フロント23900円+工賃+エアバルブ+廃タイヤ-キャンペーン割引4780円=23850円&リア36100円+工賃+エアバルブ+廃タイヤ-キャンペーン割引7220円=34110円)=57960円
C:ブリジストンBT023(フロント19400円+工賃+エアバルブ+廃タイヤ=24130円&リア29900円+工賃+エアバルブ+廃タイヤ=35130円)=59260円半年前にバイクワールドで見積もりしてもらった時はセット交換でタイヤ代3万円弱総額35000円ほどだった記憶があるので、注文せずに帰りました。タイヤの在庫はないので、注文後交換日を決めて持っていく流れです。
ホンダドリームからの帰り、バイクワールドに寄りました。2ヶ月ほど前からリアタイヤの空気の減りが増えました。フロントは今までどおりですが、リアは新車半年後に釘が刺さってパンク修理してもらいました。その影響かな〜と思います。いずれにしても、「交換せなあかん」と言われたので今週中にも交換せねば。店頭に、120/60-17ZR17&160/60ZR17セットは、ピレリとダンロップが並んでいました。日本メーカーが良いので、ダンロップで見積もってもらいました。ダンロップ・ロードスマート2前後セット26800円+工賃4900円+バルブ463円×2+廃タイヤ300円×2=33226円でした。ホンダドリームより2万円も安いので、財布にあった1万円を前金として注文し、7/31に交換することにしました。
7/31・10:30開店なので、11時前にお店に行きました。「1時間半待ちです」「ガ〜ン、そんなに混んでいるのか」。ちょうどタイヤ交換が開店と同時に数台入ったそうです。むしろ開店直後が混むのかも・・・。バイクを置いて徒歩で帰りました。仕事していると昼頃、「出来ました」と電話が入り、引き取りに行きました。フロントタイヤは前回交換2014/8・13925km、それから4年で26045km。大体13000km交換のようです。リアは2012/2新車納品されてから初めてのタイヤ交換でした。ピカピカのタイヤは見た目がグッドです。バイク屋さんに「最初滑るから気をつけて」と言われましたが、林道でない限り僕の走りではタイヤが滑ったことはありません。気持ち良く走りますよ。
ホンダドリームで点検待ちしている時、「モンキー125」の試乗しようと思いました。そしたら入ってないんだって。ドリームさんは、車検のあるバイクメインの取扱店になるようで、ドリーム店以外のホンダ取扱店と棲み分けするようです。何だか今後値引き幅が少なくなりそう。
「モンキー50」は、高校生の時初めて乗ったバイクで、何処で見かけても「可愛らしさ」に胸キュンしてきました。免許がないので、ヨット部艇庫前の砂浜でダックスホンダなど大学生が置いていったバイクを借りて、夜中走り回っていました。同期が1人、公道に出て行き早速警察のお世話になっていました。彼は大学生になる春休みに僕同様四輪免許を取りに行きましたが、免許交付後即免停という衝撃のデビューをしました。今でも笑い草です。
そう言えば長男も、大学1回生の四輪免許教習中に大学構内でGFさんの原付50ccに乗ってお縄になりました。2ケツで乗ったまま正門前のコンビニに行きお縄になりました。50cc・2ケツ・ヘルメット無しだもの一発だね。仕事中、「お父さん、身元引受人になってくれる?僕と彼女の・・・」と笑い出しそうなお願いをされました。喜んで引き受け、菓子折り持って警察署に行ったら、収賄になるらしく受け取り拒否されました。
バイクと2人を車に載せ、彼女の自宅に向かい、親御さんの帰りを待とうとしましたが、「お父さん有り難いけど帰って。ここは1人で謝る」と成長した姿を見せてくれました。そんな縁のあった彼女が、今や弁護士さんです。触れて欲しくない汚点でしょう。人生面白いね。


2018/7/29
次男の娘・すみれちゃんの2才の誕生日です。7/21は次男のお嫁さんの誕生日で、ヨットハーバーのショップでヘリーハンセンのTシャツをプレゼント用に購入しました。孫には基本絵本をプレゼントしていましたが、今回すみれちゃんには童謡DVDをプレゼントすることにしました。今年からお嫁さん実家を2世帯住宅に改築して住んでいるので、お盆に帰省する時にプレゼントを渡します。
家族LINEに、ローソクに火が灯されたバースデーケーキとの写真などを載せてくれました。人生初の美容室に行き、一人前にカット&シャンプー&トリートメントをしてもらったそうです。遊園地にある遊技の車に座り、横におもちゃが置かれた運転席に座ってカットされていました。嬉しかったようで、終始ご機嫌でったそうです。次男も写真に写っていたので、家族3人で伺ったようです。お嫁さんもカットしたようで、初カット記念で、2人のカットした髪を貼ったカードをもらっていました。3人の写真も貼られ、年月日と美容師さんの名前も入っていました。美容室ってこんなサービスがあるのですね。お若い女性美容師さんは、子供をあやすのも上手で、手際も良くスタジオアリスのようだったそうです。
長男のお嫁さんから、「おめでとうメッセージ」が入りました。向こうは男の子3人なので、全員お嫁さんがカットしてきたそうです。最近は長男のカットもしているそうで、随分腕を上げているようです。

長男のお嫁さんも、写真をアップしてくれました。地元野球チームの開幕戦だったので、会社のアメリカ人の方たちと観に行ったそうです。地元野球チームは、昨年ドジャース・ダルビッシュが先発する試合に連れて行ってもらったフィラデルフィア・フィリーズではなく、独立リーグの野球チームの試合でした。サマセット・ペイトリオッツというチームで、プリンストンの隣町の野球チームのようです。それでもフィリーズスタジアムには敵わないまでも、立派な野球場で、テラス席で食事しながら観戦していました。チームマスコットと一緒に家族で写真に収まっていました。
りょうくんのプリスクールでは、仲良しだったSaraちゃんとのお別れの日で、カードを渡してハグしていました。涙を流していたようで、長男同様感動屋さんのようです。ハグが当たり前の環境なので、りょうくんは弟のこうちゃんやルーカスくんにもハグしたり、ほっぺにキスしたりします。それが当たり前だと思い帰国後学校でやらかすと白い目で見られそう。クラスで流行らすぐらいやれる子だった大したものだけど・・・。


2018/7/29
台風一過でした。前日仕事からの帰りは、風は強くなってきたものの雨は降っていませんでした。太平洋上に発生した台風が小笠原〜伊豆の海上から、関東地方に上陸する予報でした。偏西風に逆らって、西向きに列島上を山口県に向かうとのこと。帰宅後TVニュースを見ると、あれれ進路が東向きになり、上陸予想が三重県津になっています。965hPaと更に勢力を増しており、予想進路は大阪〜明石海峡ルートです。我が家の上を通過するコースで驚きました。船の台風対策をしていません。やばいと思いましたが既に夜で、外はポツポツ雨が降り出し、夜中の1人の桟橋作業は危険です。運を天に任せることにしました。ハーバー職員さんは全艇チェックしてくれるし・・・
夜中3時に目が覚めました。雨と風の音に起こされた面もありますが、日頃3〜4時に目が覚めるので特に眠くはありません。天気予報をチェックすると、ちょうど台風が我が家の上空にあり、雨雲の動きを見ると、今がピークのようです。窓を締め二度寝に入りました。
次に目が覚めたのが6時前、そして3回目が8時過ぎでした。家内が勉強会にお出かけのようで、「今日遅くなるから」とのことです。「何時に出発するの?」「着替えたらすぐ」「じゃあ、送っていく」。速攻で着替え、家内をJRの駅まで送りました。
オシャレな家内のこの日の装束は、オフホワイトと言うのか少し黄色が入った白のスカートスーツです。膝上丈のスカートにノースリーブ、その上から7分袖のジャケットを着ています。車の助手席に座っていると、膝上丈が更に上がりミニスカートになってる。「素敵な眺めだわ」と指差すと、「何言ってるの」を微笑んでる。朝から良いものを見せてもらい、「僕は幸せだな〜」な気分です。
帰宅後、自宅の台風被害をチェックしましたが、特に問題ありません。朝ごはんを食べ、バイク装束に着替え、倉庫もチェックしましたが問題なし。
「里山VTR250」を倉庫から出し、ヨットハーバーに向かいます。R171を西に走り、10:41ハーバー着。セキュリティーカードで桟橋に入り、係留艇をチェック。いつも通り浮かんでおり台風被害なしです。桟橋の数艇にオーナーさんが来られており、1人の方はホースで船を洗っていました。夏のONシーズンなのでクルージングに出るのか、女子を伴ってガヤガヤ楽しそうな船もあります。いいな・・・コクピットに乗り、ドッグハウスを開け、水漏れチェック。バッテリーONし、エンジン始動。冷却水OK。何も問題なく、今回のセーフ。北摂の方に走りに行こうと桟橋を戻っていると、ポツポツ雨が落ちてきました。あ〜仕方ない、しばらく雨宿りです。学連ヨット部つながりのKさんが、いつものようにヨットショップの店頭にいます。台風一過で今日は暇でしょう。
向こうも僕に気づき、「こんにちは」「台風、結構風が強かったよね」に始まり、あ〜だこ〜だ1時間は喋っていたと思います。外の雨はしっかりした雨になり、やがて上がり陽が差してきました。「ありがとうね」「良い話が出来ました。こちらこそありがとうございました」でさようなら。
バイクに乗り北上し、R43〜r82で六甲山を登っていきます。鷲林寺の中央分離帯大岩が健在でした。この大岩は2つに別れているので夫婦岩とも呼ばれ、少し下った所にある越木岩神社の甑岩同様古代の磐座だったそうです。道路を通すため取り除こうとしたこと数度、いずれも工事責任者が急死したり急病になったりして、そのまま道路の方が避けて中央分離帯大岩のまま健在です。甑岩にも同様の言い伝えが残っている。越木岩神社は、更に下った所にある廣田神社と関係があり、廣田神社は古代六甲全山を境内にする巨大神社で、「西宮」(都から見たら西にある宮)の地名の由来でもある。
西宮北有料道路に入り、六甲山の下をくぐるトンネル突入。トンネルを抜け、r51を渡ってしまいました。「あれれ、料金所がなくなり無料になってる」。並行して走るr82は、土日祝日はバイク通行禁止なので、強制的に料金を取られるのが嫌で、大きく迂回する時もありました。r82のこの区間はアップダウンのあるワインディングで、木々の切れ目から大阪平野北部が見下ろせナイスな道です。夜景を見に来たこともあります。
有馬側を下り、r98有馬川沿いを走ってR176。有馬川沿いを北上し、r17にチェンジ。r141にチェンジし北上。「御霊神社」の案内板を見つけ寄り道しましょう。枝道に入り、13:20「御霊神社」。車両通行禁止の参道があったり、意外に大きな神社で謂れが気になる。
『本殿:国指定重要文化財 文明2年(1470)貴志の村人たちによって再建された。このいきさつは旧殿前扉板裏に墨書され当時の様子がわかる。
社殿は三間社入母屋造、屋根は檜皮葺で入母屋の妻側の庇を伸ばし角柱を立て向拝としている。身舎正側面・向拝虹梁上に6つの蟇股を配し、透彫給模様の中に珍しいものがある。身舎上の牡丹に唐獅子・戎大黒他特に見るべきものに当時の神仏習合を表したものとして向拝上の種子キヤ(十一面観音)がある。
尚この地区の神事講は永禄年(1558〜)より書き留められて来て巻子本として残り、今もなお続いている』
『夜泣き石 この石は昔から茶臼石と言っていた。いつの時代か九鬼の殿様に献上して庭石としたが、夜になると「貴志へ帰りたい」と泣くので、貴志へ持ち帰った。茶臼石というのは酒船石であって、御霊神社の祭礼に用いる神酒は全て、清浄なこの石によって作られた。これと同じ形の酒船石が大和にも2〜3残っており、御霊神社の古いことを物語っている』
近くに古墳群もあり、この地が古くから拓かれ、長い歴史を刻んだ神社のようです。破風屋根にはいくつもの彫刻が下がり、珍しい造作になっている。拝殿には『敬神生活の綱領 1.神の恵みと先祖の恩とに感謝し、明き清き誠を以て、祭祀に勤しむこと 1.世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして、世を作り固め成すこと 1.大御心をいただきむつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること』が掲げられていた。教育勅語の要旨ですね。戦前の修身教育を復活し、教育勅語を諳んじる子を育てるようにすれば、日本国の乱れは止まるように思うし、明治天皇も乱れ始めた教育の立て直そうと勅語された。
r141に戻り北上を続けます。道なりにr92になり、舞鶴道・三田西IC方向に曲がり、13:43「MORITA三田工場」。MORITAは、消化器で事業所や家庭でお馴染みですが、消防自動車のトップメーカーでもあります。なんと日本国なシェアは50%、ガリバー企業です。
r92からr141に下り、更に北上。右折してr309に乗り、JR相野駅横を東に走りr308。青野川沿いを北上し、母子でUターンしてr49。永澤寺横を南下し、永澤寺峠に登って行く時雨が強くなり車載カメラを収納します。峠を越え、14:30「虎亀」で雨宿り。いつものピラフセット900円で遅くなったけど、お腹を満たします。雨が上がり、陽が差して来たので、15:30帰路に着きます。r49を南下します。「志手原」で左折し、r37を東進。r323を東進し、「波豆川」で右折し、僕の定点観測ポイント・八坂神社前を南下し、r68を渡り、西谷農協大池交差点にある「レストラン大池」でかき氷400円を食べクールダウン。
r33〜r325〜長尾山トンネルを抜けて大阪平野に下ります。オートバックスに寄り道し、17:06僕の御用達「ワークマン川西加茂店」で、クールストームベンチレーションハーフパンツ780円&ウレタン背抜き手袋99円を購入し帰宅しました。


2018/7/24
とうとう僕も「スマホ持ち」になりました。出歩かない仕事なので、携帯電話を使うのは休日のみです。日頃はPC・固定電話が手元にあるので困りません。こうなると電源を入れるのを忘れて、たまに電源ONしたら電池が残り少なく困ったなんて日もあり、結局1ヶ月間全く電源を入れなかったことまでありました。
お泊りツーリングでネットにつながらないのが困る時があるので、タブレット端末を買って、ドコモ携帯&タブレットで運用していました。両方共最安値契約で、月間2500円ほどでした。先日家内がスマホが必要になり、家内もあまり使わないので、「格安スマホ」を購入しました。僕のタブレットと同じ「IIJmio」にしました。スマホ本体(SonyVAIOPhoneA)とセットの「こみこみセット」を買いしました。3G/月込で初年度1880円/月・2年目2880円・3年目以降2200円です。これを使いだして3ヶ月、不具合もなく請求も謳い文句どおりなので、僕もスマホにすることにしました。ガラケー&タブレットより安くなります。「コミコミセット」を注文しようと思いましたが、5.7インチ中国ファーウェイ製と5.2インチASUS製本体しか選べませんでした。少しでも大きい方が良いので5.5インチは欲しい。ファーウェイは中国共産党軍幹部がトップの企業で、得られるいろんなデータが中国共産党に筒抜けになるので、アメリカでは販売禁止です。オーストラリアも販売中止になるようで、なぜ尖閣諸島を取られようとしている日本で販売しているのか疑問です。
仕方なく、コミコミセットではありませんが、台湾製ASUSの「ZenFoneMaxPlus(M1)」本体とSIMを買いました。1・2年目3400円・3年以降2200円。5.7インチなのでより大きそう。これでずっとお世話になっていたドコモさんとの縁が切れました。IIJのタブレットSIMを返還しました。
無事、電話・メールが使えるようになり、文字サイズ拡大出来ました。電話番号・メールアドレスなどコツコツ入れていきます。
Baycom11ch「福丸がゆく」という番組で、桂福丸さんが我が家を訪問しました。NHKがやってる「鶴瓶の家族に乾杯」のような街歩き番組で、キャスターがぶっつけ本番で街にやってきて一般の方との交流を放送する番組です。近所の子供の頃からの友達である自転車屋さんの紹介でやってきました。
「何事か?」と表に出ると、浴衣の落語家さんがおり、カメラとマイクが落語家さんと僕を向いています。自転車屋さんが近所の面白いものとして、最寄りの池に浮かぶヨットを紹介したようです。ウィークデイなのでヨットはやっていないので、そのヨットクラブを作った僕を紹介したようです。
僕が大学4回生の時の国体時に市長さんに頼まれて、大学卒業後に市の水源地の池を無償提供されジュニアヨットクラブを作ったことを話しました。次男が入部してから、当時の部員の親御さんと協力して芦屋の海にも姉妹クラブを作りました。
その次男がジュニア卒業後もヨット競技を続け、南米選手権に出場し、私も日本ジュニアヨット協会の理事として、選手を海外レースに引率したことも話しました。大学ヨット部に入った次男から声を掛けられ、そのクラブのコーチになり、次男はとっくに卒業したのに私はまだ卒業できずにコーチを続けていることも話しました。
ヨットの魅力を聞かれたので、「失敗しても海に落ちるだけで、ライフジャケットを着ているので泳げなくても沈む心配がなく、擦り傷さえしない安全性」を話しました。また「私自身、今でも全日本選手権に出場するなど現役を続けられる息の長いスポーツである」ことも話しました。
「写真ないの?」と聞かれたが、PCにはたくさん入ってるけどプリントしたものがなく困ってると、家内が次男の高校生の時の写真を出してきました。収録終了後、ヨットの写真やビデオを送ることになりました。果たしてどんな番組になるのやら・・・
次男がジュニアヨットクラブ時代は、子供たちを盛り上げるため、全日本選手権や海外レース出場をネタに市長室に売り込みに行ったことがあります。秘書さんと打ち合わせ、市長さんと子供たちの時間を持ちました。地域の有線放送に売り込んだこともあります。キャスターはヨットのことは知らないので、僕がキャスターの質問まで考え番組に関わったことがあります。子供たちがインタビューを受け、将来の夢を語り、良い時間が持てました。


2018/7/22
「カフェクラブ」の集まりが、神戸中央区の「ToothTooth15th」というカフェレストランであります。11時からなので、ツーリング散歩してから神戸市街地に突っ込むことにしました。
6時前に倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、あれこれ準備して出発します。特に探索エリアや目的地は決めていませんが、暑い時期なので少しでも涼しいだろう六甲山の北側・神戸北区を目指すことにしました。
長尾山トンネルを抜け北摂里山地帯に入り、r325〜r33を走りながら、気の向くまま「川下川ダム」への沢道へハンドルを切りました。6:41「玉瀬」。稲の緑に降り注ぐ朝の太陽が気持ち良くで激写。ゆっくり涼しく沢道を走り、6:49「川下川ダム」。貯水量が減っており、大災害を起こした数日続いた大雨後さっぱり降らなくなった雨がこのままだったら、今度は渇水のニュースが賑わいそうです。武庫川沿いに下り、r327。この道は大雨で武庫川が増水すると水没する県道で、少し下流の武田尾温泉付近に被害が出た後走ると、道の脇の木々にビニール袋などがたくさん引っかかっておりビックリします。道より2mほどの位置に水流があるようです。6:56激写。
道なりに右岸に渡り、7:06「JR道場駅」。駅前コンビニで朝ごはんを買おうと思ったけど、めちゃ寂れているのでパス。山登りスタイルの方が駅前で待ち合わせていました。千刈ダム〜大岩岳、鎌倉峡〜百丈岩、2つのコースの拠点です。JR駅と神戸電鉄駅から集まって来られるみたい。
7:13「春日神社」。藤原氏の荘園だったのかな?ヤブ蚊が多かったが、彫刻も立派な森に包まれたお社でした。8:39「鎌倉峡・百丈岩P」。『ようこそ鎌倉峡・百丈川原へいらっしゃいました。美しい大自然に包まれてのんびり楽しい1日をお過ごしください。姜しい自然は、神様からの贈り物です。私達みんなの財産です。私達のちょっとした心使いで美しい自然は守られます。可愛い子や孫たちのために汚さないように大切に守ってゆきましょう』
『江戸時代の「摂津名所図会」には、この鎌倉谷を「かもしか谷」のなまったものだと記するとともに、百丈岩については「高さ数十丈、岩上には百畳を敷けるより名とす」と述べている。室町時代より、有馬温泉を訪れた文人や高僧たちは、競ってこの地を訪れ、奇勝景観の美を絶賛した詩歌や紀行文をものすることを風流とした』
『最明寺入道・北条時頼公遺跡 百丈岩鎌倉大権現参道』
『トイレの使用について ようこそ鎌倉峡へいらっしゃいました。鎌倉峡で楽しい1日を過ごしていただくために、トイレを水洗にしました。しかし、ここには水道がありません。谷川をせいてトイレの水を確保しています。雨が降らなかったり、夏の渇水期になるとトイレが使えなくなります。そのために井戸を掘って、いつでも安心してトイレを使えるようにしたいと考えています。そこで、皆様にお願いがあります。トイレをご使用になられる方は、トイレ基金にご協力ください。お気持ちで結構です。多いほど結構です』
鎌倉幕府5代執権・北条時頼が引退後、この地を愛し滞在した。「鎌倉峡」の名はその名残りで、北摂には「最明寺川」という名も遺っている。因みに最明寺は、時頼の出家名です。
r327〜r17で、7:54「ファミリーマート鹿の子台店」で「チョコバリ140円」でクールダウンしました。r17を西に向かって走っていると鳥居発見。8:08「熊野神社(下上津)」。『創建年月は不詳。天保15年(1844年)11月に再興され、伊邪那岐命・伊邪那美命を祭神として祭り、昭和7年8月7日、拝殿・幣殿・附属建物の改築工事が竣工した。五穀豊穣を祈願しての秋祭りには、江戸時代初期より約300年の伝承を続けている「神楽・獅子舞」が、いまも神楽保存会会員により引き継がれ奉納されています。この神楽・獅子舞は、平成9年10月に神戸市「無形民俗文化財」に認定され、「人と和と協力によって心がかようまちづくり」に貢献しています。 「神楽・獅子舞」奉納 10月体育の日の前日の日曜日』
8:16「大歳神社(上上津)」。『創建年月は不詳だが、永正年間(1504)に社殿を修繕すとの記録が残る。祭神は大歳御祖命、素盞嗚命と大山祗神の娘神との御子神で農耕に関れる神と云われている。
秋祭りには曳きだんじりと子供みこしが練り歩き、景品付き餅まきなどで、その神事を盛り上げている。境内には、素盞嗚命・八幡大神・神明大神・金毘羅宮神・愛宕大神等をお祭りしている』
石段を上がると、境内は予想外に広かった。秋祭りにだんじりが出るお宮なので、これぐらいのスペースが必要なのでしょう。r17に戻り、西進すると、中国道と六甲北有料道路をくぐった。そこに「めんたいパーク神戸三田」という施設があったので寄り道しよう。開店前でスルー。
r82〜r73で「道の駅フルーツフラワーパーク大沢」でトイレ休憩。r73〜r82〜r15で阪神高速7号・五社IC。横を通り過ぎ、r15で神戸電鉄有馬線に沿って南下します。R428に合流し、更に南下。平野で神戸市街地に出て、JR山陽本線をくぐって神戸港西側に入り、川崎造船ドッグ見て、モザイク・エリアへ。「アンパンマンミュージアム」は開店前でしたが長蛇の列が出来ていました。
「ホテルオークラ」前の「メリケンパーク駐車場」に入れます。二輪は1回(1日)時間無制限100円です。四輪は、30分200円(20〜8時上限800円)。P内トイレでバイク装束を着替え、旧居留地に向かって、10:17、2号線を渡ります。日曜日なのでオフィスのビジネスパーソンは少なく、ディオールなどのブランドショップが点在しており、歩いているだけでも気持ちが良い。
そのまま北に歩いて行ったら「神戸南京町」の南門が見えてきました。目的のレストランは何度か前を歩いた事があるので場所は簡単にわかると思っていたが、「ここから東、2号線より1本北の東西の道」と記憶していただけで、同じような格子状の道が交差しておりわからなくなっちゃった。携帯電話もタブレットも忘れたから、お店屋さんに入り教えてもらいました。10:39到着。
『旧神戸居留地十五番館(国指定重要文化財)指定年月日:平成元年5月19日 慶応3年12月7日(1868.1.1)の兵庫開港により、126区画・25.8haの外国人居留地が開設され、商館を中心として領事館やホテル、教会などがつぎつぎに建てられました。15番地のこの場所に、明治14年頃に建築されたこの建物は、神戸市内に残された異人館としては最も古い建物で、木骨煉瓦造2階建、寄棟造、桟瓦茸で2階は南側両端にペジメントをつけ、コロニアルスタイルの開放されたベランダを持ち、外観は石造風意匠となっています。
神戸の旧居留地に現存する唯一の遺構として平成元年に重要文化財に指定され、平成2年7月から5年3月にかけて行われた修理工事により明治の面影を取り戻していましたが、平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大地震により全壊してしまいました。
地震により液状化現象が生じた旧居留地内ではこの建物以外にも、20棟を超すビルが全壊しており、いかに激しい地震であったか窺い知ることができます。全壊した十五番館でしたが、震災後部材を回収することからはじまった復旧工事は、約3年の月日と関係者の努力と様々な人々の協力により、震災前の姿を取り戻すことができました。
最新の耐震技術である免震工法を採用したわが国最初の文化財建造物として蘇ったこの十五番館は、今後の地震に対して充分耐えられるだけの耐震性能を持ち、今後も旧居留地の歴史を伝える唯一の建物として私たちに明治の面影の画影を伝えてくれることでしょう』
この重要文化財が、レストラン「ToothTooth15th」として営業しています。11:00、参加しているカフェクラブの方8人が集まり、お喋りしながらランチをしました。僕といつも車移動の北摂Kさん以外、皆さん電車でした。主催者Jさんが駅で待ち合わせ引率して来られました。いつも車の京都Cさんも電車で、新快速で1時間だったそうです。奈良Kaさんは相変わらずお喋りが上手。
13時にお店を出て、用事のあるお初のMeさん以外、2次会へ。カエル趣味のKeさんとMeさんは旦那さんが九州の高校同級生とのことで、驚きました。単なる趣味の集まりで、遠く離れた関西でこんな関係の人と会うなんてビックリ。
ぶらぶら北上していると、「パティシエToothTooth」というお店があり、女性陣がお土産を買っておられました。JR・阪急線を越えて北上し、「GREEN HOUSEsilva」というカフェで2次会をしました。道路に面して雑木が植わり、直接お店が見えません。3F建てのスクエアなお店で、100%20代中心のお若いグループがお客さんでした。こんなカフェ、よく知ってるな〜。「神戸・カフェ」で検索すると上位ヒットする人気店だそうです。
15:30で2次会もお開きになり、JR三宮駅に戻り、PさんJさんCさんとバイバイ。「高架下に行きたい」という希望があり、僕もバイクに戻るついででついていきました。学生時代はよくこの高架下商店街を利用しました。掘り出し物があり、米軍流出物があり、かっこいいサングラス・・・一味違う商店街です。Keさんがご両親を連れて、ゆっくり散策・物色したいと言っていました。
JR元町駅に至り、「JRはココから乗れますよ」と伝えると、「せっかくだから南京町にも」とのことで、これまたバイクへの道の途中なので案内しました。東西のメインストリートをお店に寄りながら歩き、中央広場まで戻った所で皆さんは、豚まん発祥の地「老祥記」の行列に並びました。
僕は「かき氷を食べに行きます」と別れ、メインストリートで目についたお店でクールダウンしました。台湾風かき氷で、ふわふわです。バイクに戻りバイク装束に着替え、R43〜R171で帰宅しました。
帰路、土曜日に新西宮YHで目にしたTシャツを買おうと思っていましたが、神戸出発が17時になったのでパスしました。7月は、次男のお嫁さんと娘の誕生日です。そのプレゼントと思って・・・
2日後の昼休みに買いに行きました。センターハウス入ってすぐにあったお店がなくなっており、一点鐘でサマーセールで2646円になっていたヘリーハンセンのTシャツ(レディースM)を買いました。閉店したお店は子供用も売っていたので重宝していましたが、一点鐘に聞くと閉店したお店も一点鐘経営だったそうです。

2018/7/21
大学ヨット部の先輩の散骨式です。90才を越えた大先輩で、去年のOB総会に出席された最年長の先輩が亡くなりました。10時集合・10:30出艇です。先輩と共同所有しているクルーザーも出すので、8:45自宅を出発し、9:15ハーバー着。船の始業をしようと早めに着きましたが、センターハウス内に幹事の先輩がおり、既に別の先輩が船に行っているのでOKとのことで、タイムスケジュール表と配艇表を渡されました。大体の流れを頭に入れました。私はうちの船ではなく、母校ヨット部のレスキュー艇です。82才筆頭に大先輩3名のお守りをするのが仕事です。参加OBの中で2番目に若く、最若手はOG7年目の元マネージャーさんです。
10時になり、僕の担当先輩1人キャンセルで、僕の担当先輩1名を除き集合。電話するとハーバー手前の大橋を歩いて渡ったとのことで、直接学生のディンギーヤードに向かってもらうことにして、先輩とディンギーヤードへ。レスキュー艇には誰もおらず、母校艇庫に顔を出すと学生が整備中で、一緒に乗る3名はスタンバイしていました。
レスキューに戻ると、学生がかけてきて、遅れていた先輩も到着。頭から手ぬぐいを被っていた。いつもスマートな先輩なので、誰かわからなかった。学生は4回生女子選手2名と男子選手1名でした。女子2人は、去年全日本女子インカレで同点トップだったが、トップフィニッシュ回数の少なさで2位になったペアです。今年は最終学年なので、優勝して欲しいな。
沖で、他の2艇を見つけ近づきました。散骨水域に到着しました。多くの先輩方の遺骨も散骨されています。3艇が円になりエンジン停止。御遺族を代表して長女さんの挨拶。続いて遺族による散骨。全員で献花します。菊の花を各自5輪ほど散骨された場所に。御遺族が、お酒を手向ける。エンジン始動し、散骨水域をフォグホーンを合図に半時計回りで3周しました。3周終了後、フォグホーン長音3声を合図に御遺骨に別れを告げ、ハーバーバックしました。
13時から「偲ぶ会」です。ハーバーセンターハウス会議室を借り、ハーバー内のお店にドリンク飲み放題・バイキング形式お食事を用意してもらいました。僕の3つ上の先輩が司会になり、御遺族挨拶・82才先輩の献杯・歓談・・・。僕は他大学のコーチとして春に母校と練習・レースした縁もあり、初めての散骨で居場所が掴めない学生3人と一緒のテーブルに着きました。
若手OGもこのテーブルに来たので、ここだけ華やいでいます。長女さんの挨拶で、故人が散骨を希望していたので、故人の電話帳から82才の先輩に電話を掛け、生前の希望が実現できた喜びを話されました。長女さんは僕と同じ年齢で、なんと大学まで同じでした。僕と彼女と家内が、それぞれ別の学部だったけど、同じ時にキャンパスを闊歩していたということで驚きました。
OB会長である3つ上の先輩が挨拶しました。学生からもお礼をしたそうですが、御遺族から故人の遺志として、レース艇1セットの寄付のお礼と、生前の交流の話がありました。数年前のA級全日本に故人が出場を願い、クルーとの合計169才と言う最高齢コンビで出場したそうです。初日ひっくり返ったので2日目は来られないかと思ったら、「出る」とやってきてレースに出場したそうです。
僕が美女3人を独占してお喋りしていたので、先輩から「お前な〜こそっとええポジションに座りやがって」と文句言われたりしながら、楽しい時間を持てました。お姉さんとは同じ学年ということもあり、いろいろ話しました。
最後に妹さんが挨拶され、全員で校歌「空の翼」を遺影に向かって歌いました。そして集合写真で解散しました。僕は仕事があるので帰宅しましたが、船に戻って酒盛りの続きをする先輩が大多数でした。
ハーバーからの帰り、パトカブが追いかけてきて笛を吹かれました。「横に寄ってください」。一旦停止しなかった容疑とのこと。「確かに停止線を越えたが、片足ついて停まった。警官の見ていた場所は交差点の右なので、反対側の左足をついたのを確認したのか」と抗議した。いつも「すんません」とサインするけど、あまりに厳しいので納得できず、「広い歩道のある見通しの良い交差点で、暑い日中で歩く人もいない一時停止で、少々停止線を越えた程度で違反切符切るのはやり過ぎではないか」と譲らないでいると、「今回は警告指導しておきます」と無罪放免になった。止まって左右まで確認したのに、やり過ぎだと思いました。

2018/7/14
スポーツ指導者資格更新講習会で神戸に行ってきました。家内のバイク「アドレスV125」で走り、会場について正面に定番スポンサーの大塚製薬がポカリスウェットを用意してくれており、ありがたくご相伴に預かりました。「甘いから口の中が粘ったら困るな」と思いながら口にしましたが、「イオンウォーター」なのか、ポカリを思いっきり薄めていたのか、丁度良い感じでした。講習では3人の先生(大学准教授・大塚製薬・歯科医師)が登壇した。みっちり4時間勉強になりました。
大塚製薬は、スポーツ時の汗をかく事で水分・塩分減少による事故。そして主力製品ポカリスウェットの糖分・塩分補給能力を話された。僕も感じていた「甘すぎる」ことはメーカーも自覚しており、甘さ控えめな「イオンウォーター」にも力を入れています。でも、スポーツ中失ったエネルギー・塩分・ミネラル分を最短時間で補給するためにはポカリスウェットのような糖分濃度6%前後のドリンクが良く、継続して高いパフォーマンスを維持できる。ポカリを飲んだ後、お口直しで水を飲むことを勧めていました。
汗をかくと塩分も一緒に排出され体内の塩分濃度が低くなるので、それを補う必要があります。 汗を大量にかいたとき、水分はよく補給しますが、塩分補給が十分でないと、体内の塩分濃度がさらに低くなります。低い塩分濃度に合わせるために、水分をたくさん排出しようとします(自発的脱水)。そのため、体内の水分は更に不足し、脱水症状や熱中症などが起こります。
僕も、汗をかく夏のレース中はポカリと麦茶を持っていき両方飲んでいました。コーチしてる大学ヨット部員にも両方持って行きている者がおり、理にかなっていました。
歯科医師さんは、スポーツ時に骨折・切断欠落・陥没・抜歯などの事故が起きた時の応急処置・適切な行動・予後を話された。実際の事故時・経過・予後写真を見ながらの講義でしたので、リアル感満載でした。
歯を取り巻く事故の予防としてマウスガードの効用を説明されました。既成品もあるが、自分の歯型に合ったオーダーメイドとの予防率の差が大きく、歯科医師でのオーダーメイドを勧めていました。5000〜2万円が相場のようで、寿命1年だそうです。大塚製薬さんが帰ったことを確認し、「ポカリ飲んですぐマウスガードすると虫歯になるよ」と教えてくれました。スポーツ中に飲むドリンクなので、必然的にそうなるから、ポカリ飲んだ後水飲んで洗うと良いと。
准教授さんの話は、日大アメリカンフットボール部で話題になった旧態依然とした上意下達・体罰・罵声方式での指導方法の長期的成長に対する弱点でした。現在は学校単位でのスクールスポーツが主力ですが、顧問教師のハードスケジュールや短期間(3年)での結果を求めるマイナス面により、いずれ欧米型地域密着スポーツクラブ方式に移っていくだろうと予想されていました。
これは、中学サッカー部・高校ヨット部・大学ヨット部で育った僕も感じていることです。小さな狭い社会になりがちな学校スポーツ現場では、体罰・罵声が起こりやすく、社会人になってから関わりだしたジュニアヨットでの地域クラブスポーツの体験とは大違いでした。
親が子供のスポーツにより関わるが、親子の楽しみになり、多くの目がありいろんなスポーツへの関わり方があり、体罰や罵声とは無縁でした。そして、オリンピック選手などまで自分を高めていく子の殆どが、ジュニア経験者ということでその優位性が実証されている。
スポーツ時の体温上昇などの体の変化、汗で失われる水分・塩分・ミネラル分補給の大切さの説明もあった。激しいスポーツでは、休憩中や練習試合後のクールダウンも重要で、氷を入れたプールに入ることで体温を下げパフォーマンスと取り戻すことが広がっている現状が紹介された。「鈴鹿8耐」では、選手交代後速攻で走り終えた選手は氷水プールに浸かっている光景が見られる。あれですね。

2018/7/15
家内がデパートにお中元申込みに行くというので、僕はツーリングに出ることにしました。1週間前、映画を観た後お中元でデパートに行くと言って別れたのに、ウインドウショッピングだけで帰ってきたんだって。デパート好きの家内なので、僕が横にいない気ままな時間も大切ですね。
「千ヶ峰」「笠形山」周辺の舗装林道探索することにしました。どんな道かわからないので、安全のため「里山VTR250」の出動です。4時に目を覚ましましたがまだ真っ暗なので1時間ゴソゴソ。4:30には明るくなってきましたが、30分も無駄しました。朝の気温が上がらない時間帯により探索したかったのに・・・日曜日の早朝でしたが、近所の陸上自衛隊基地に、2機のヘリコプターが相次いで着陸していきました。豪雨災害以来、また自衛隊活動が活発になっています。広島県・岡山県はここの総監が管轄しているので、「災害派遣」の横断幕を下げた車両が行き交っています。実に頼もしい。
5:22、「エネオスR176宝塚山本SS」で給油。263km/9.66L=27.2km/L。長尾山トンネルを抜け北摂里山地帯に突入します。r325〜r33で北に向かい、r68にチェンジして西に方向を変え、JR新三田駅下をくぐり、r141〜r92経由で、三田西ICから舞鶴若狭道に乗りました。若狭道に乗る手前に「モリタ三田工場」があります。国内消防車50%のシェアを持つトップメーカーで、この工場で生産出荷している。横目で消防車を見ながら通過。
「西紀SA」で最初の休憩をします。トイレを拝借し、高速道路ツーリングの定番「朝カレー」を食べました。海水浴に行くのか、数組の家族連れが「おはようございます」と挨拶していました。ここを待ち合わせ場所にしていたのでしょう。子供たちがチビの時、日本海の海水浴場によく行きました。海が圧倒的に綺麗で、瀬戸内海の海水浴場に行く気にならなくなりました。シュノーケル・ゴーグル・ライフジャケットが家族の海水浴定番で、家族4人出てをつなぎ海にプカプカ浮かびながら、海中の自然水族館を泳ぐ魚やタコ・イカを眺め楽しみました。カナヅチの家内でも沈まないので、ライジャケの安心感は抜群でした。
春日ICで下車し、無料の高速道路「春日和田山道路」に乗り換えました。この道路、70km/h制限ですが1車線なので高速四輪が追いついてくるので気を使います。「どかんかい」と言わんばかりに車間距離を詰めてくる四輪が必ずおり、安全そうな広い路肩があれば左ウインカーで抜いてもらいます。追い越し車線を短くていいから数多くして欲しいな。低速者からのお願いです。
青垣ICで下車し、r7〜R427で西に向かっていると、7:13良い感じの石鳥居と鎮守の森が見えてきたので寄り道します。「延喜式内社・佐地神社」。水堀に囲まれた由緒の有りそうな神社です。社頭の謂れ板は経年劣化が激しく、文字判別不能でしたので、帰宅後調べた情報を載せておきます。
『傳へいふ天明天皇和銅3年7月、坂上田村磨神勅を奉じ其子刈田磨をして社殿を造営せしめたるに創まる。往古は田地五十石・山林等を所有せしも、現今民有に歸し僅に土地の字に神樂田、宮ケ谷として其面影を傳ふるのみ。聖武天皇の御代五畿七道の諸國に中臣齊部両氏を分遺して天神地祇3132座に幣を班ち給ひし時の一社なりと云、初め宮ケ谷の中腹に鎭座す。 /兵庫県神社史』
『神楽大明神、延喜式内社、佐治の神社なり。神楽谷九ヶ村の産土神にして小倉村森に建つ。3社は2間に3間半、末社多し。北西に御手洗池の泉流あり。神前に欄干橋、大鳥居あリ。境内およそ1町四方、除地に斎田あり。村老曰く、この神、但馬境の大稗、小稗の峯に鎮座。ここを恩ヶ嶽(岳)または天ヶ嶽(岳)といい、峯に御神体の石あり。惣持村の猟師に託して背負い奉りて山より下るに御神体は重く、両村の尾の上の「鍵掛」で休み、更に小稗口の「下り松」で休んで神楽谷を下る。檜倉村の口の田の中に少しの森あり。これらを古跡とするが、それより小倉村に下りて後は動き給わず。この所に奉斎す。神楽谷9ヶ村は、檜倉、大名草、大稗、小稗、惣持、文至、稲土、市原、森。 /社頭掲示板』
『佐地神社の創建は和銅3年(710)、当時の丹波守坂上田村磨が神勅を受け勧請し子息である刈田麻呂が社殿を造営したのが始まりとされます。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社で、神楽谷9ヶ村(檜倉、大名草、大稗、小稗、惣持、文室、稲土、市原、森)の総社として信仰されました。明治5年に郷社、明治45年に神饌幣帛料供進社に指定、大正11年に県社に列しました。 丹波市観光旅行見所ナビ』
蟇股は力士が持ち上げている彫刻で、鳳凰や龍の彫刻も素晴らしい。本殿の木鼻彫刻も細かく、屋根を支える柱の木鼻に獅子?の彫刻がありなかなかのものでした。本殿裏にまわると、本殿は砂岩の上に建立されているようで、神が宿る磐に見えていたのかも?なんて想像の翼を広げてみました。
バイクに戻り、道標に書いてある「浄丸の滝」が気になり、また寄り道します。加古川を渡り、「稲土川」沿いの枝道を遡って行きます。山際に気になる鳥居と大木に惹かれ「八幡神社」に寄り道。バイクに戻り更に遡ると、浄丸神社の大幟が道の左右に立っていました。期待大。横に「ほたるの里・清流館」というのがあり、ヒメホタルが6月下旬から7月上旬に乱舞するそうです。
更に進むと、獣ゲートがありました。いつものように開閉し山側に侵入。道が悪くなりだしましたが、一応舗装されています。7:46「浄丸神社」。「浄丸の滝」があり、東屋・お不動さんが祀ってありました。水がとても綺麗で、顔を洗い頭からザブンと被りたい。
奥に続く林道はまだ舗装されており、地図でチェックすると粟鹿山(950m)山頂直下まで道が続いています。探索しましょう。沢道を登っていくと、釣り人がいてドキリ。獣避け扉開閉林道で人に会うのは稀です。つづら折れで高度を上げ登って行くと、路面落石が多くなりオンロードバイクでの限界が見えてきたので、Uターンしました。帰宅後調べたら、もう少し登ったとこでNTTゲートがありそれ以上登ることが出来ないようです。
r276を経てR427に戻り、西に向かいます。8:19「常瀧寺」。石段を上り境内に上がり謂れ板を読んでいると、ご住職の奥様かお母様か、80才を越えていそうな女性がゴミ袋を持ち、「お早いですね、どちらからお越しですか?」と声を掛けてくださいました。「兵庫県伊丹市、大阪空港の近くからです」と答えると、「遠くから・・・お車で?」「いえ、バイクで・・・」。癌封じになるから本尊に詣って行くよう勧められた。
『常瀧寺は、養老年間(717〜724)に法道仙人が開基した寺です。当時の寺は現在の寺の裏山(愛宕山)の中腹にあり、七堂伽藍を完備していましたが、明智光秀の丹波攻めで堂宇ことごとく焼失しました。しかし大公孫樹だけは戦火を免れ今も枯れずに残っています。
現在の寺は、天和年間(1681〜1683)に光覚法印が中興しました。光覚法印は法験に優れ、紀州家殿様の側室の病気平癒の命を受け8千万枚の護摩を修法してこれに応じました。その功績により、側室の念持仏であった大日如来坐像を下賜されます。江戸時代初期の優美なお姿で、台座に葵の紋が散りばめてあり、以来常瀧寺の本尊として大切に祀られてきました。現在の本堂は明治2年焼失し、明治7年再建されました。
大公孫樹 法道仙人お手植え 樹齢1300年 兵庫県天然記念物 数本の木が生えているように見えるが、全て1本の木です。枝から垂れた瘤が地中に潜りまた新しい幹を形成しています。全国的に珍しい貴重な公孫樹です』
『「愛宕権現」と「錫杖岩」伝説 この岩の後方に流れる谷川の上流、堰堤の向こうの南の山中に、錫杖岩と云われる大きな岩があります。江戸時代に、この岩の上に鎮守愛宕権現の社が祀られていました。
京都の愛宕社へ運上物を差じ出していましたが、何時の頃からか中断となっていたのです。それで京都より使者が来て御神体を持ち帰ることとなりました。社の扉を開けて御神体を出そうとすると強い光が射し、忽ちに辺りが見えなくなったので、神罰を恐れた使者は京都へ引き返し、以来運上は中止となりました。その御神体は、鎧兜を着けた白馬に乗った高さ8寸程と云われています。また、これより4丁上った所に、鳥居と毘沙門堂があったと云われます』。
鐘楼があったので、鐘をゴーン。本堂に向かいます。『うなずき地蔵の由来 このお地蔵さんはお賃銭を入れるとうなずくので、うなずき地蔵と呼ばれています。江戸時代のからくり人形を作っていた仏師が作ったもので、日本に3体しかないめずらしいお地蔵さんです。最近はお疲れのようで、ちょっとうなずきが悪いようです。お顔を見ながら祈願してお賽銭を入れてみてください。一瞬ですが、うなずけば運があります。うなずかなくてもご利益がないわけではありませんので悪しからず・・・合掌』
お賽銭を入れると、小さくうなずいてくれた。2回目もうなずいてくれた。ご利益間違いなしです。大銀杏を観に行きたいが、旧境内まで徒歩しないといけないのでパス。バイクに戻り、山を下りR429に入ります。センターラインのある道から、勾配を増すとセンターラインが消え林道区間に入ります。
8:41「青垣峠」。丹波市から朝来市へ。「黒川温泉」への枝道に入る。正面に見えてきた「黒川ダム」は、好きなロックフィル式ダムでした。「黒川ダム湖」周回道路に入ります。堤に上がると、「通行止め」の拝み看板で道の半分がクローズされていました。更に進むと全面バリケート・クローズになっており、「多々良木ダム」方面に下れませんでした。
R429に戻り、生野銀山方面に下ります。枝道分岐に、「平家塚」の案内板があり寄り道することにしました。こういう行き当たりばったりが出来るのが、ソロツーリングの良いところです。僕の場合これが多すぎて、訪問予定地コンプリート出来ないのが定番になってますけど。
沢道をのんびり走っていると、鹿が道の真中に倒れていました。交通事故でしょう、可哀想に。冬に落ちた角が伸びてきていたオスでした。舗装が切れる最奥地まで進みましたが、結局「平家塚」は見つけられませんでした。
Uターンして帰り道、往路で気になっていた枝道に入ったとこにある鳥居に寄り道。「日吉神社」でした。沢の土手にシマヘビがいました。林道に突っ込むと、野生動物に会いますね。
R429に戻り、「日本ハンザキ研究所」前を通過。この研究所は、オオサンショウウオの研究所です。銀山湖横を走り、生野ダムで激写タイム。「がまかつカップ」開催中のようです。道に面した「不動尊」でお祭りの準備をしていました。生野銀山への分岐を通過し、r367に入りました。
沢道で標高を稼ぎ、10:27白口地区墓地。以前からあった「熊出没注意」看板が小さくなっていました。以前より気になっていた「白綾の瀧」を観に行きましょう。ここからの支流沿いの枝道は未舗装なので徒歩で向かいます。距離や所要時間が書いてないのがいささか不安。
沢道を歩き出します。清流が勢いよく流れとても気持ちが良い。頭からザブンと水を浴びたいが、タオルがないので顔だけ冷たい水で洗う。暑い季節に最高・・・生き返ります。更にブラブラ歩いていたら、なんと四輪が入ってきた。まさかこんな道に入り物好きが僕以外にいるとは・・・。僕を追い越す時窓が開き、「滝を観に来られたのですか?」「はい」「もう少しですよ」。あとどのくらい歩くのか不安になっていた時だったので、この一言は助かった。
抜いていった車が数十メートル先で停まった。その車を僕が追い越す時、「あっちだよ」と前方を指さされた。ここで橋を渡る道もあったが、荒れているので間違わないと思うけど。運転手さんは荷物を降ろされていた。釣り?沢登り?カメラ?
沢横の道は山道となり、足跡が沢沿いと山を登っていくのとに別れている。僕は沢沿いを選択する。すぐに支流が右から合流し、その支流の先に滝が見えた。予想外の立派な滝で水量も多い。山側に滝見東屋があり、山に向かっていた道はそこに続いているのでしょう。
支流の対岸に渡り、沢を登って行き「白綾の瀧」直下。お不動さんが2体、岩盤を削った天然の祠に祀られていた。修験道修行者が訪問してそう。東屋の方に四輪の方が来られた。写真ですね。
下から見上げた写真を撮ったので、沢を渡り東屋に登ってみる。「写真ですか?」と声を掛けると、「ギターを弾こうかと思って」。三脚に載っていたのはカメラではなく、リニアPCMレコーダーでした。傍らにギターもある。「素敵なBGMをバックに良いですね」。
僕と同年輩or少々上と思われる方で、登山を趣味にされているらしい。TVクルーの案内をしたり、滝趣味の方に登山者でないと知らない山奥の滝を紹介されたりしているらしい。僕が「中世の山城」趣味だと言うと、「山城跡は無数にありますね。山歩きしていると突然郭や堀切が見えてきて・・・」中世のロマンに浸るらしい。「中世の山城本」を購入し、「山城巡り」を趣味にしている友人に教えているようです。
和田山・竹田城の話になり、この方も今のように観光化される前の竹田城をご存知で、お互いもう行かなくなったということで意見が合った。以前は秋の雲海シーズンになると数回写真を撮りに早朝出かけていたが、山頂までの道路が早朝でも上がれなくなり難儀なことになりました。
この支流が合流する本流の上流にも数条の滝があるそうです。またその本流が流れ込む県道脇の沢にある滝も紹介してもらった。ココに来る時、小さな看板が出ていた所のようです。県道直下で直接見えるけど、覗き込む滝なので車で走りながらは見れないそうです。
バイクに戻り、r367を少し戻り「乙女の滝」。夏で植物繁茂激しく、全体像が見れなかった。r367を先に進みましょう。「白綾の滝」入口を通過し峠を登っていきます。峠を越え、越知川に下り、越知川沿いを登り、「不動の滝」ビューポイントで激写タイム。
11:56「千ヶ峰登山道・水谷コース」への分岐。ここから標高770mの峠越え「林道水谷線」です。予想外に路面の荒れていない舗装林道で、四輪離合も問題ない広さです。この林道を使って植林された杉森が続きます。間伐され山に放置された木材が目に付きます。大風で倒れた杉も目に付きました。杉は背の高さの割に根が深くなく、横の広がりも少ないので、根こそぎ倒れた杉の根回りはとても薄っぺらい。これなら山の保水力が小さく、斜面を保持する能力も小さく、土砂崩れしそうです。土砂崩れで間伐材や大木が流され橋に引っかかりそこから堤防をあふれる災害は人災の面も多いように思います。
12:12、峠着。ちょうど下山して着替えておられる男性がいたので、山頂までの所要時間を聞きました。2km・1時間だそうです。「僕で1時間だから、普通1.5時間あれば。往復でも休憩入れて4時間かな?」とのこと。「尾根伝いなので、勾配もゆるそうですね」と聞くと、「2kmで250m上がるかな。山頂直下だけ急で、そこまではなだらかです。木段が入っているので歩きやすいですよ。今日は時間がないからここからだけど、日頃は三谷口から2時間で上がります。山頂は360度展望が広がり、午後になると雲が出てくるけど、午前中なら絶景ですよ」と親切に教えてくれた。家内を誘ってみよう。
東側に下ります。林道を出てR427に出る手前、鎮守の森があったので寄り道。「熊野神社」でした。謂れ板がなく由緒は不明ですが、なかなか立派なお宮でした。R427に出て、地図にある「棚田百選・岩座神の棚田」を見るために再び山に登っていく。
12:59「岩座神の棚田」。綺麗な石積みの棚田でした。「御霊神社」というのがあり寄り道。氏子さん3人が文明の利器を使って草刈りしていました。R427に下り、13:30「Aコープかみ店」でクーラー・クールダウン。「飲むヨーグルトブルーベリープルーン208円+ほろ甘和み大福餅188円」を購入。
Aコープから見えた神社で食べよう。『荒田神社(あらたじんじゃ)は、兵庫県多可郡多可町加美区的場にある神社。二宮荒田神社とも。御祭神は少彦名命、木花開耶姫命、素盞嗚命。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 播磨国 多可郡「荒田神社」に比定される式内社(小社)の論社。播磨国二宮で、近代社格では県社。
社伝によれば、天平勝宝元年(749年)5月7日、少彦名命が女体唐人束帯赤衣で村内の福原字神丘に降臨し、その夜、村内に大雨が降った。降臨したのは女神、とも伝わる。村人は雨があがるのを祈ったところ願いがかない、これに感激して村内字野尻に小社を建て、現社号を称したと伝えられている。あるいは、『播磨国風土記』にみえる天目一箇命、道主日女命を祀った社が当社であるともいわれている。
また、平安時代には坂上田村麿の崇敬を受けたと伝えられているのをはじめ、延暦13年(794年)には勅使として大納言道広の参向があり、播州二宮正一位荒田大明神との宣下があったという。播磨国二宮として、多くの崇敬を集めてきた。しかし、元亀(1570年-1573年)・天正(1573年-1593年)の頃の兵乱で荒廃。慶長年間(1596年-1615年)、安楽田の東端道路北方にあったが、寛文8年(1668年)9月、荒田町大火の際、当社をはじめ別当であった大乗寺などが焼失した。そこで、往古の貝野村氏神大歳神社の境内を拡張して、この地に合祀したと伝えられている。安楽田には現在も当社および式内同名神社があり、式内社「荒田神社」の論社。
江戸期に入り、明石藩主の崇敬などもあって、復興。延宝5年(1677年)の荒田町検地には大歳神社境内社と掲げられている。弘化元年(1844)4月に御鎮座千年祭が行われている。明治7年(1875年)2月に郷社に、大正3年(1914年)12月に県社に昇格した。大正5年(1916年)4月11日、神饌幣帛料供進神社の指定を受けた。
建物は、檜皮葺流造の本殿と檜皮葺入母屋造の拝殿があり、宝物として剣、古刀、宝鏡などがある。県指定の天然記念物「勅使の杉」があったが、昭和40年(1965年)の台風23号の襲来によって倒伏した。境内社に、八幡神社(太和氣命)、春日神社(天児屋根命)、秋葉神社(迦具土神)、愛宕神社(迦具突智神)、天満神社(菅原道真)、蛭子神社(蛭子命)、太神宮社(豊受大神)がある。
【ご利益】厄除け、身体健全、安産など
荒田神社(多可町) - 少彦名命が降臨して村人を救った式内の古社、坂上田村麻呂ゆかり』
ただ寄り道しただけだが、「播磨二の宮」でした。「播磨一の宮」の宍粟市、中国道の北だから、播磨は海のイメージですが、平安時代はもっと山が中心の国だったのかな?
r8に出て西へ。高坂トンネルの旧道「高坂峠」へ。トンネル脇に峠道入口があることが多いのでトンネルまで走りましたが、そこには分岐がなく旧道ガードレールがトンネルの上を走っていました。
峠道を戻り、旧道分岐発見。そこから突っ込みます。通行止めでないことを願うのみ。意外に良い道で、道幅はないものの舗装はまだしっかりしていた。交通量があるのか、落石・落葉・落枝もあまりなく快適な旧道でした。14:13、高坂峠で激写タイムして、トンネルの西側r8に合流した。こちら側には「獣避けゲート」があり、開閉して通過した。
笠形山周辺を東西に走る数本の県道を尾根伝いに南北に串刺して結ぶ「広域基幹林道・笠形線」を走る予定でしたが、日の長い夏とは言え15時から突っ込むのは危険だと思い次回まわしにして帰路に着くことにしました。この手の林道は交通量がほぼ無く、トラブったら日のある内に山から出るのが困難です。君子危うきに近寄らず。
「高坂トンネル」を抜け、湧水「高か井の水」横を通り、「広域基幹林道・笠形線・北工区終点」横を抜けました。機会を待って、必ずこの林道を走破しよう。山を下り、右折してr143で南下。いきなりコンクリート舗装の急勾配枝道に入り、14:44「金蔵寺」。『金蔵山金蔵寺 高野山真言宗 本尊:薬師如来 当山は、その昔、笠形山に湧出した一寸八分の黄金仏薬師如来が熊野権現と共に当山に移られ大木の上に止まっておられたのを、役行者が感得し、開山されました。天平2年(730)には行基菩薩が来山、自ら等身大の仏像を刻んで、その胸に黄金仏を安置して本尊とし、仏殿を創建され、その後平安時代になって、慈覚大師が来山再興されたと伝えられています。正徳2年(1712)には宥尊(うそん)上人が堂宇を建立して中興されましたが、そのうち本堂は、天保13年(1842)に焼失。同年、西宮甲山の神呪寺より薬師如来像の寄付を受け、これが現在の本尊となりました。また、現在の本堂は、安政2年(1855)に経勝上人によって再建されたものです。
境内には、本堂・庫裡・鐘楼堂・籠り堂・弁天堂・権現堂・奥の院・八角堂などの建造物のほか、大杉・行場・護摩場・四国八十八ヶ所霊場などがあり、昭和3年に多可八景、昭和26年に多可十景、昭和42年には兵庫県観光百選に選定されています』
古代仏教の流れのまま、山岳修行の地として開かれた山寺、その後も修験道の行者が守ってきたのでしょう。現代修験道は、天台宗系と真言宗系に分かれているが、明治の神仏分離令以前の神仏習合の形が残る修験道は、これで1つの宗教として独立した方がわかりやすいように思う。この手の寺院に僕は惹かれる。本堂などの彫刻が素晴らしく、山岳の巨木に囲まれ、その緑が奥深さを感じる。きっとここを拠点にする修行場が周囲の深山幽谷に点在しているのだろう。
r143に下り、少し南下し、「ツーリングまっぷる地図」にある「広域基幹林道・笠形線北工区」アプローチ道に入ってみた。「滝野カントリー倶楽部・八千代コース」への道でした。道なりに走ると、カントリー倶楽部のゲートに入ってしまった。
その手前に分岐があり、そこを入っていくと獣避けゲートがありました。開閉できることを確認し、時間も遅いので入るのは自重しました。カントリークラブのグリーンに鹿がいたので、バイクを止め「飲むヨーグルト」飲みながら小休止しました。
r143に下り、r143〜r295〜R427で西脇市街地。R175にチェンジし、滝野社ICから中国道に乗りました。16:01、「中国道社PA・セブンイレブン」で「赤城ガリガリ君梨75円」でクールダウン&糖分補給しました。宝塚ICで下車し、16:52「エッソセルフ口谷SS」で給油。285km/9.84L=29.0km/L。
帰宅すると家内が、「お中元の手続きにデパートに行ってくるわ」とのこと。「じゃあ、車で行こうか?」と、速攻で風呂に入り着替え、四輪に乗り換え「川西阪急デパート」に行き、お中元の手続きをしました。長男のお嫁さんが3人目をアメリカで生んだので、ご両親が手伝いに行ってくれています。1ヶ月予定でしたのでそろそろ帰国するはずですがまだなので、他のお中元も伸び伸びにしていました。お中元が届き出し、長男お嫁さん実家以外お中元手続きをしました。家内の生まれた「播州素麺・揖保乃糸・麺つゆ付き」で暑い夏を乗り切っていただきましょう。
その帰りに、Cafe「珈乃香」でお茶しました。家内はサンドウィッチ、僕は今年初の「かき氷」を楽しみました。

2018/7/8
今週末は、大学ヨット部のコーチ業はお休みです。前日は連日の豪雨で練習が取りやめになり、本日はAM1回生のクラス分け試乗会・PMマネージャー感謝デーです。1回生は入部後2ヶ月、1人乗りヨットでヨットの動きを学び、先週末のレースに出ました。スナイプ級・470級、更にスキッパー・クルーと4つの部門に分かれて行きます。2ヶ月ヨットに乗り、自らの特性や得意なことを感じ、更に本日乗り比べて自らの希望でいずれかのポジションを選びます。
マネージャー感謝デーは何をするのか把握していませんが、マネージャードライブでヨットに乗りレースをするのかもしれません。日頃マネージャーが担当するレスキュードライブや食事作りをプレイヤーが担当し、マネージャーに感謝する日です。
次男のお嫁さんから、父の日にシネマギフトカードをもらったので、家内と映画を観に行くことにしました。明け方まで雨が続いていました。梅雨前線が日本海に北上し、典型的な梅雨の終わりを感じていた先々週、関東に「梅雨開け宣言」が出たのにおかしいな?と思っていたら、九州北部をかすめ日本海で温帯低気圧になった台風が梅雨前線と合体し、最後の長雨をもたらしました。九州北部・四国・中国・近畿・中部に記録的な大雨をもたらし、死者100人以上の甚大な被害を置き土産にしました。雨量の多い日本列島は、自然被害の大きな国ですが、同時に素晴らしく豊かな自然と豊富な魚介類に恵まれた国でもあります。助け合って乗り越えねば・・・
9:15頃、「通勤リード110」タンデムで出発し、ショッピングセンターに着きました。最上階のシネマに上がろうと外エスカレーターに向かうと、先日の震度5弱の地震で1〜2階が故障していました。9:40「ハン・ソロ」。スター・ウォーズのサイドストーリーです。スターウォーズ第1作で主人公ルーク・スカイウォーカーを助けるアウトローな存在として登場するハン・ソロの少年時代から、奴隷・脱出・宇宙飛行船パイロットへの道が描かれている。
奴隷として働きながら、機転を利かせ高価な燃料を盗んで、恋人キーラとともに奴隷から脱出しようとする。宇宙船港で、その燃料を賄賂にして脱出しようとするが失敗し、キーラが兵士に捉えられ、「必ず迎えに来る」と言って1人で逃亡し、宇宙船パイロットになろうと帝国軍の兵士になる。しかし兵隊としてこき使われながら、なかなかパイロットになれない。兵隊の上官が盗賊団の首領だと知り、パイロットとして雇わないかと自薦してなんとか仲間に加わることが出来た。が、いきなり裏切られ「野獣に食わせてしまえ」と牢屋に放り込まれる、その野獣こそ力持ちのチューバッカで、死闘を演じながら、一緒に脱走しようと仲間に引き入れ、脱出に成功した。
舞い戻ってきたハン・ソロの根性に脱帽し、盗賊団に入ることが出来脱出する。盗賊団とともに燃料を盗み出す寸前まで行ったが、宿敵盗賊団に盗まれそうになり燃料を失ってしまう。
盗賊団の雇い主に詫びを入れに行ったら、そこで奴隷時代の恋人で一緒に逃亡中、「必ず迎えに来るから」と離れてしまった恋人・キーラと再会する。キーラは雇い主の副官になっていた。燃料採掘所を襲い、奪った燃料原料を精製して渡すことでチャラにするという条件で、最後のチャンスをもらう。
この計画にお目付け役としてキーラが付けられ、盗賊団+キーラの盗賊作戦が始まる。まず燃料運搬のため宇宙最速の宇宙船を得るべく、イカサマ賭博師ランド・ガルシアに会いにゆく。ここで、ガルシアが精魂込めて改造した宇宙最速船「ミレニアム・ファルコン号」と出会う。
ファルコン号を得て、採掘所を襲い燃料原料を手に入れることができた。しかしそこで働かされていたチューバッカと同じ種族を助けるため、チューバッカと別れる時が来た。しかしハン・ソロがピンチの時、チューバッカが現れ救われる。ハン・ソロは奴隷だったのでただ「ハン」と呼ばれていただけだった。奴隷星から脱出する時フルネームが必要になり、自分が誰から生まれたさえもわからない天涯孤独だったので「ハン・ソロ」と命名された。
精製所で燃料が完成した時、また宿敵盗賊団が現れまた戦いが始まると思われたが、盗賊団のボスが仮面を取ると、なんと女だった。数々の盗賊団の元締めをコントロールしているのが帝国軍で、宇宙制覇を狙っている。自分たちはレジスタンスに燃料を提供しようとしていると大義を説明し燃料を引き渡せと要求してきた。
盗賊団元締めに燃料を渡さず、副官のキーラを元締めから取り戻す作戦が始まった。元締めボスを殺しキーラを取り戻したと思ったが、帝国軍の恐ろしさを知っているキーラは副官として残り、帝国軍トップと連絡を取り、元締め宇宙船に乗って去っていった。
宿敵盗賊団は燃料を手に入れ、ハン・ソロとチューバッカは、既に去りアジトに戻っていた博打打ちランドの元に急ぎ、手に入れていた燃料の一部とミレニアム・ファルコン号を賭けて勝負する。そして勝負に勝ち、ファルコン号を手に入れチューバッカを相棒に密輸業を始める。
スターウォーズファンにはたまらなく楽しいストーリーが展開されました。上映終了後、「めちゃ、面白かったね〜」と家内に振ると、「何のことかさっぱりわからなかった」と不満顔です。家内はこういう早い展開のストーリーに付いて来れません。まして男の子でないのでそれほど興味のない戦闘物・宇宙物なので半分予想していましたが、バッサリ切り捨てられました。まあ、スターウォーズ全作観ている僕に免じて許してください。
家内はお中元でデパートに行くので、ここでお別れしました。電車で川西能勢口に行き、阪急デパートで手続きするそうです。僕は近所の自転車屋さんにバイクの修理を頼み、自宅に戻りました。バイク置き場から、「里山VTR250」を出して北摂ツーリングに出ます。夕方バイクを引き取りに行きます。
「通勤リード110」の修理は、右ブレーキ一式を交換したことで、前輪ブレーキの効き始め位置が随分手前になり、危ない感じがするのでその調整です。
長尾山トンネル〜r325〜r33で、13:33波豆川口「八坂神社定点観測ポイント」で休憩。アオサギが田んぼ上空を飛び、いつもの広い空が広がっています。途中の県道は、水が出ている場所があるが、地震と大雨の被害は無さそうです。
r323〜r37で、13:58「羽束川・小柿渓谷」で激写タイム。思った通り、羽束川が道路に溢れた跡があり、山側から流れる清水が道路横断しています。「後川奥」から永澤寺に向け後川奥林道を上がろうとすると、14:03後川の対岸が「がけ崩れ」していました。14:06「母子方面車両通行止め」バリケードで、後川奥林道が封鎖されていました。
「バイカーズカフェ虎亀」で遅い昼食を取ろうと思っていたのに・・・。篠山に出て、r49を北から永澤寺に登ることにしました。後川奥から近道「曽地奥林道」で曽地に抜けようと思いましたが、大雨で地盤が緩んでいるので自重しました。交通量皆無に近い道なので、自損してもヘルプされないかも・・・と。
「後川」からr12で、「城東トンネル」を抜けR372旧道(旧山陰道)に出ました。14:24「伊能忠敬篠山領測量の道石碑」。『文化11年(1814)2月11日曇 伊能忠敬測量隊10名は、早朝より131人の労役村民を従えて、篠山城下下二階町から京都街道を八上新村まで測量。大庄屋波部六兵衛宅で昼食。右に入り込んだ』。下が板塀で上がベンガラ入りなのでしょうピンクのかぶき武士風土塀が囲む建物でした。
R372現道に出て西進し、「木枕」交差点を左折しr49に乗ろうとしたら、「住民以外通行禁止」の拝み看板で半分道路が封鎖されています。バイクなので永沢寺まで上がれそうですが、道標に従って自重。
更にR372を西進し、道標に誘われ栗栖野地区に入り、14:39「若林寺」。「不許葷酒入山門」の山門前に書かれていたので、禅宗のお寺のようです。神宮寺なのか、守護宮なのか「大歳神社」が山側にあった。苔むした石鳥居に架かる扁額が素敵です。鎮守の森には、苔むした巨木が林立し、石灯籠も貫禄十分の大きさで自然石をあまり削らず作った篠山でよく見かける形式でした。狛犬は新しいが雰囲気がある。摂社がいくつも境内にあり、それなりの歴史を感じるが謂れ板がないので残念。「栗栖野の残石」と書かれたパンフレットがビニールシートに挟まれ掲示されていたが判別不能の部分があり残念。
R372に戻り更に西進し、14:50「栗栖野城公園」。『この石垣は、篠山城の石垣構築の残石を利用して造られており、一部の角石を除き、全て来栖野地範より採石したものです。来栖野集落は築城・慶長14年(1609)時の採石地で矢印で指している山上(標高500m強)がその場所です。地質系統調査によれば岩体質は、火山性の流紋岩で、丹波層群(古代ペルム紀・石炭紀)に属し中生代白亜紀の篠山層群より古く、ここより南西方面当野・波賀野・波賀野新田古市・油井・古森・草野へ延びておりこれら一帯から篠山城石垣構築石材が供されました。
搬石ルート及び方法はほぼこの公園前の国道372号線(通称デカンショ街道)を北上”コロ”又は”特殊な搬石車”によったものと想定されますが、一説には向い谷の国道176号線(通称丹波の森街道)に添って南北に貫通している武庫川〜田松川〜篠山川の水路により運搬されたともいわれているが、何れも物的証拠もなく推論で定かではありません。
さて、この石垣には15個の石に次の8種類の符号が刻印されております。広場の2個の石のうち1個の石に2ヶ所の同符号があります。従って当公園内には、合計17ヶの符号がありこの符号の推定所属藩侯の絵解きを試みておりますが解明しておりません。ちなみに篠山城は西国15ヶ国・大名数20侯に扶役が命ぜられ、8万人が工事に参画した壮大な規模の徳川天下普請で、1年足らずで完成されたと伝えられています。5万坪の面積に、総数約6万個の石が使われ、約250種類約2000個の符号石を確認、大坂城・名古屋城は別格として、日本一と言われています。篠山城見学の際、旧本丸の石垣を探索していただけでは、ここと同じ符号を数多く見ることができます。
来栖野地範には符号付残石がこの石垣を含め23種類56個現在、貯水池の堤防や平地化の石垣・灰小屋・庭石・神社の灯籠・各種構築物の礎石等多岐な用途に使われています。一文字一星二、蛇の目、一文字一星等の○印のついた符号が56個のうち半数以上占めており、大大名の毛利の家紋が一文字三ツ星であるところから推定の域は出ないが栗栖野は毛利の関与が大きかったのではないかと、郷土史家は推量しています。如何なる理由で符号が刻まれたか諸説があるが、何れにせよ小さく浅く刻まれているものの400年近くの歳月を経ても読みとることができます。何を吾々に伝えようとしているのかいささか感動を覚えます。縁あって栗栖野の残石の一部が篠山町西野々・原山口の国道372号交差点横の公園に使われています』
武庫川沿いのフェバリット・ロードでR176に抜け、南下し〜JR藍本を通過し、「波田橋」で左折しこれまたフェバリット・ロードr310で新三田方面に下り、r308で「青野ダム」。ダム堤上を走り、千丈寺湖南岸道路〜r49〜r68〜「西谷農協大池」交差点〜r33〜r325〜長尾山トンネルを抜けて帰宅しました。
家内は既に帰宅しており、通勤リード110を引き取り、お昼ご飯としてプレーン・ヨーグルト(400g)を食べ、昼寝タイムになりました。20時になり、ヨット部コーチングで見れなかった「西郷どん」を見ようと思ったら、特別番組が始まっちゃいました。これから登場する西郷隆盛を囲む面々の紹介番組でした。その番組を見終えて風呂に入り「おやすみなさい」。

2018/7/1
大学ヨット部コーチング日です。8時出艇なので、短いけどそれまでの時間歴史探索すべく、京都大山崎町エリアの寺社・史跡をピックアップしナビ登録しました。
3時過ぎに目を覚まし、あまりに早いので二度寝したら寝坊してしまい、4:30に目が覚めました。速攻で着替え、天王山の急坂を考え「里山VTR250」で出発しました。4:56ローソンで、「助六寿司399円+ローソンセレクト麦茶100円=499円」購入。
R171〜中央縦貫〜豊中ICから中国道に乗り、名神に乗り換え、「大山崎IC」で下車し、R171で戻り旧西国街道で旧石清水八幡宮「離宮八幡宮」横を通り、JR山崎駅。5:35「山崎院跡」。
『行基と山崎院 奈良時代の高僧行基は聖武天皇の命で東大寺の建立に尽力しました。また、畿内に49の寺院を建立し、橋を架けたり堤を築いたり池を穿ったりしたといわれます。行基は神亀2(725)年に大山崎に至り、淀川に山崎橋を架橋、その後、橋を管理し行基の教えを広める道場として天平3(731)年に山崎院を建立しました。
1989年・1999年に行った発掘調査で、奈良時代の唐草文彩色壁画片、半丈6(8尺)の如来形などの塑肴片、せん仏、人名を刻んだ瓦、緑釉陶器火舎と釜など、院に係わる多くの遺物が出土しました。
とりわけ唐草文彩色壁画片は、発掘調査出土品としては米子市の上淀廃寺に次ぎ国内2例目のもので、山崎院の堂内が色鮮やかな壁画で装飾されていたことを物語る貴重な資料となりました』
続いてサントリー山崎工場の上にある神社を目指したが、JRを渡ると道を挟んで左右にサントリー工場があるので、中央の道は入れない。ならば迂回路を考え探るが無理で、最後の手段ナビに案内をお願いした。なんと、サントリー工場の中央の道を案内する。「いいのか?」と思いながら「工場正門?」と思われる所でストップすると、「この道は一般道」と書いてある。そのまま突っ込むと、5:49その道の正面に「椎尾神社」神社があった。
『天平18(746)年聖武天皇の帰依仏である観音像を奉じて行基により開かれた。寛弘年間に焼失し、仁平4(1154)年、河内の豪族八戸重忠によって再興されました。江戸時代の初めには、JR西谷踏切までのこの谷一帯が寺域でたくさんの伽藍を有していましたが次第に衰退していきました。
明治時代になると政府の神仏分離令により、椎尾大明神として寺院より神社となり現在に至っています。現在の椎尾神社の祭神は、素盞嗚命・聖武天皇・後鳥羽天皇となっています』
天王山の森に鎮座し、とても雰囲気が良い。横を流れる小川の水を見て、サントリー山崎蒸溜所を立ち上げ、ニッカウイスキーを創業した竹鶴政孝は、「ここだ」と思ったのでしょう。本殿に参り中を覗くと、「WHISKY DISTILLERY YAMAZAKI POT STILL PURE MALT WHISKY 1995」と書かれた樽が奉納されていた。「長龍」銘柄の日本酒樽も奉納されていた。
『カエンタケに注意 赤色もしくは少し茶色かかった、人の指のような形をしたキノコです。猛毒をもっており、食べると危険であることはもちろんですが、触るだけでも炎症などの症状が出るとされています。見かけても食べたり、触ったりしないようご注意<ださい』
西国街道に戻り、6:05「水無瀬神宮」。神社ではなく神宮なので、格上の官幣大社と思われる。誰が祀られ、どんな謂れがあるのだろう?楽しみ。
『水無瀬神宮が造営されたのは、後鳥羽上皇を弔うため、生前こよなく愛された水無瀬離宮の跡に建てられた御影堂が始まり。当神宮には似絵の名手・藤原信実による国宝「後鳥羽天皇像」をはしめ、数多くの絵画・文書類が所蔵されている。建造物では、豊臣秀吉が家臣・福島正則に造営を命じ寄進した客殿や、後水尾天皇が愛好された茶室が国の重要文化財に指定されている。
また、境内より湧き出る「離宮の水」は、全国名水百選として大阪府下唯一環境庁より選ばれています』
『島本町指定文化財第一号 水無瀬駒関連資料 小将棋「八十二才」銘漆書一揃、中将棋「八十六才」銘墨書一揃、中将棋(残欠四枚)漆書、象戯圖(二巻)、将暴馬日記一冊。
後鳥羽上皇・土御門天皇・順徳天皇を祭る水無瀬神宮に能書家と知られた13代水無瀬兼成(1514〜1602)の優雅な筆跡を「水無瀬駒」「象戯圖」に見ることができます』
『水無瀬駒について 島本町においては、長い歴史の中で受け継がれてきた数多くの文化財を保存し、後世に伝えるために島本町文化財保護条例が、平成20年7月1日に施行されました。その記念すべき第1号に「水無瀬駒」が指定されました。「水無瀬駒」は、水無瀬家で作られた将棋駒の呼び方で、約400年以上前安土桃山時代の水無瀬家13代能筆であった水無瀬兼成卿が駒の文字を書き、89才で亡くなるまでに、中象戯(駒数92枚)・大象戯(駒数108枚)・摩可大々象戯(駒数192枚)の他に、駒数実に354枚に及ぶ大将泰等々737組の駒を製作しました。駒の譲渡先には後陽成天皇、正親町上皇、関白豊臣秀次、将軍足利義昭、公家、大名、高名な武将など、徳川家康には53組もの駒が納められました。
駒は高級材質で知られる黄楊で作られ、先が細く薄く、手前が肉厚幅広な現在の駒の形のルーツとして兼成卿が確立させ、作者と製作年が特定できる最古の将棋駒であり、以後高級な駒の形はこれに倣っています。
その後何時の頃にか、これらの将棋を取捨整理して創案されたのが小将棋と呼ばれ、今日愛好されている将棋であります。 31代・水無瀬忠成』
境内に入ろうと思ったら、お参りをされて出てこられた女性が「あらあら」と地面でハサミを広げているザリガニを持ち、細い水堀に帰しておられた。久しぶりのザリガニでした。さすがお年を召した女性はたくましく、平気でザリガニを持っておられた。持ち方もソツがなく、子供の頃よく川で遊んだのでしょう。
『当宮は、御祭神後鳥羽上皇が御造営になった水無瀬離宮の跡で、往時は桜・山吹・菊の名所として知られ、上皇もたびたび行幸、歌合せ・蹴鞠・狩猟・刀剣鍛作等も行われた。
その後承久の変により、後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐(後に阿波)に遷御、それぞれの地で崩御。後鳥羽上皇は崩御になる前、この離宮をお守りしてひたすらその還幸の日をお待ちしていた水無瀬信成・親成父子に左右の御手掌を捺した御置文を下され、永く後生の菩提を弔うべく仰せ下されたので、この離宮跡に聖廟を建て、上皇の御影を奉安して、御慰霊申し上げた。世に「水無瀬御影堂」と称し、明治の初年迄仏式混淆の行事が行われていたが明治6年改めて、三上皇を合祀、官幣中社に列せられ、昭和14年官幣大社に昇格、神宮号を賜った。戦後は神社本庁所属の別表神社として今日に至る。
例祭:12月7日 後鳥羽天皇祭:4月4日 土御門天皇祭:11月13日 順徳天皇祭:10月14日 秋季講社大祭:10月第3日曜 月次祭:毎月1日・22日』
『水無瀬神宮の御神水』というのがあり、ポリタンクを持って並んでおられた。汲みやすいように蛇口ひねれば良いようになっていた。願い事が書かれた短冊が下がる風鈴が多数下がっている。
『風鈴のお願い 日本夏の風物詩風鈴が街中で見かけなくなり、風鈴を知らない子供も増えているように聞きます。さわやかな風鈴の音も街中では生活騒音といわれることがあり、日本の古き良き伝統がまた一つ無くなってしまうかもしれません。
是非ご自宅でも風鈴を出してみてください。出せなかったり、使わない風鈴がありましたら是非ご奉納ください。神社で保管し、毎年夏の時期に掛けさせていただいます。(破損などは処分しますがご了承ください)』
『水無瀬神宮は島本町に所在し、後鳥羽上皇の造宮した水無瀬離宮の跡地に境内を構える神社です。客殿と茶室は大正15年に重要文化財に指定されています。境内に残る歴史的な建物5件が新たに国の登録有形文化財に登録されました。
本殿(江戸前期) 明生天皇の内待所を移築した。簡素ながら風格のある意匠を備える社殿です。江戸前期に遡る宮殿建築に由来する建物として登録基準「造形の規範となっているもの」に該当すると評価された。
拝殿及び幣殿(昭和4年) 官幣大社昇格を機に昭和4年に造営された。雄大で落ち着いた雰囲気の入母屋造の拝殿に、独特な意匠の木鼻と伸びやかな曲線の蟇股を飾り、設計者である内務省技師・角南隆の特徴が表れています。登録基準「造形の規範となっているもの」に該当すると評価された。
神庫(大正期) 寄棟造2階建の土蔵。大正期に建てられたもので、境内景観に寄与するものとして、登録基準「国土の歴史的景観に寄与しているもの」に該当すると評価された。
手水舎(大正期) 入母屋造の本格的な形式をもつ建物です。大正期に建てられたもので、境内景観に寄与するものとして、登録基準「国土の歴史的景観に寄与しているもの」に該当するものと評価されました。
神門及び築地塀(江戸前期) 神門は参道の突き当たりに構えた門で、門の両脇に築地塀を備えています。本殿と同様江戸前期に遡る、離宮跡地に相応しい格式を示すものとして、登録基準「国土の歴史的景観に寄与しているもの」に該当するものと評価されました』
『夏越しの大祓 境内にある茅野輪をくぐり、「人形」(人の形に切り抜いた紙)に自分自身・ご家族の氏名を記入しお祓いすることにより「厄除招福」「無病息災」「健康長寿」のご利益がある神事です。毎年多くの方が参加され、賑やかに行われております。人形は社務所受付にあります』
『御神塩 初穂料200円 この御神塩は毎朝御神前にお供えされた御塩のお下がりです。神様の御神徳が込められた御神塩を受けられてお清めや盛塩、食事などにお使い頂き、神様とのご縁をお結びください。初穂料は、お賽銭箱にお納めください』
本殿内に、清酒「英勲」が奉納さられていた。『都忘れの菊 順徳天皇は承久の変にて佐渡に遷され、こよなく水無瀬の里を愛され殊の外菊花を好まれた父君・後鳥羽上皇を偲び、行在所に咲く可憐な野菊を「都忘れの菊」と命名し佐渡より移植したものです。 いかにして 契りおきけん白菊を 都忘れと名づくるもうし』
白い紫陽花が咲いていた。社務所はまだ開いていませんが、窓越しにいろんな御守を物色した。
『風鈴短冊500円(2枚まで) 感謝の思いを短冊へ 恋人同士・夫婦・家族など相手への感謝、自分への感謝、自然や食べ物など感謝の気持ちで癒やされてください。ご記入後はご自身で好きな場所の風鈴へ掛けてください』
茶室絵馬(500円)という良い感じの絵馬があった。社務所が開いていたら初穂料をお納めしたでしょう。僕は絵馬は好きで、庭の木の枝にぶら下げたり、屋敷祠に下げたりしている。
『ご祈祷(7000円〜)お宮参り・安産・厄除・家内安全・交通安全など。地鎮祭・清祓・結婚式などはご相談ください。燈心席(重要文化財)事前ご予約5名以上500円(1人)』重文の茶室を2500円で拝観できるようです。
西国街道でJR山崎駅の方に少し戻り、水無瀬川を渡って左折し、JR東海道線をくぐりr734へ。水無瀬川沿いを上り、橋で右岸に渡り直し、6:29「若山神社」。
『大宝元年(701)僧行基の創建とされ、素蘆噫尊を祀っています、社伝によると、「古木が繁り、鶴が巣を作っている清らかな地があり、そこの巨木で神体を刻んで祀れ」との御託宣があり、この地の巨木を切り御神体を彫り社殿を建てたと伝えられます。
当社は西八王子社・牛頭天王社・西天王社・上の宮・広瀬神社とも呼ばれ、明治時代になり若山神社と改められました。社宝として聖徳太子の座像があります。作者は不明ですが、貞観時代(859〜877)の非常に優秀な作品の1つです』
長い石段を上がっていくと左に分岐する道があり、その先に「小鳥神社」が見えます。境内郭に上がると、左右に摂社が並んでいる。
『若山神社大阪府自然環境保全地域 大阪に残された貴重な自然を大阪府自然環境保全条例に基づいて指定し守るものです。
この森林は樹齢200年を越すツブラジイを主体とする府下でも有数のシイ林です。このシイ林の周囲をカシ林が取り巻くように生育しています。これは土壌・地形などの立地条件によって、シイ林とカシ林が棲み分けた結果と考えられます。都市近郊にあってこのように立派なシイ林がみられることは珍しく、府民にとって貴重な自然とのふれあいの場となっています』
『太閤道ハイキングコース 3河川合流 淀川・男山・宇治方面パノラマ 西天王山・若山神社〜40分〜四ツ辻〜45分〜金龍寺跡〜25分〜高槻市磐手橋成合 悠久1300年超の森 ツブラジイ巨木(天然記念物)所要時間2時間』
『若山神社の境内にはツブラジイの巨樹か自生しています。幹周りが2.5mを超える42本が大阪府により平成14年1月天然記念物に指定されました。大阪府自然環境保全地域に指定された当社の西側に広がるツブラジイ林は、自然林であるため幹周りが2mを超えるものは余り見られません。これに対し境内の天然記念物に指定されたものは、人の手によって大切に守り育てられ大きく生育したものと思われ、保全地域のそれと対比できる貴重なものです。
また、このほか境内の池では梅雨の頃にモリアオガエルの卵がたくさん見られるなど、豊かな自然が残されています。この貴重な環境を後世まで大切に守り伝えていきましよう』
『島本町指定文化財第2号平成22年 神像(伝聖徳太子7歳像) 平安時代後期・有形文化財・美術工芸品(彫刻) 本町の鎮守社として、住民の厚い信仰を集めてきた若山神社に「聖徳太子像」として祀られてきました。首をすくめた拱手の姿勢、大振りの衣文は平安時代前期的ですが、彫りは浅く、製作は平安時代後期と思われます。町の最古級の神像として非常に貴重です』
『厄除祈祷ご案内(厄年祓の方には神矢・身体お守を授与します) 男は42才・25才、女は33才・19才の厄年を中にして、その前の年を前厄、後の年を後厄と申しそれぞれ3ヶ年厄年が続きます。この厄年には病気やわずらわしいことが起って心身ともに苦労の多い時期とされていますので特に言動をつつしみ、神様にご加護を祈って災難をのがれ、後厄の翌年には感謝の気持ちでお礼参りをするのが古くからのならわしになっています。
当神社では、厄年に当られる皆様のために、厄除安全のご祈祷を執行いたしております。何卒ご参詣下さって厄祓いをなさいますようご案内申し上げます』
『夏越祭(夏越の大祓)6月30日 「茅の輪神事」 みな月のなごしの祓 する人は千年の命 のぶといふなり 「茅の輪を腰に着けて疫病の難を免れよ」と御祭神・素盞嗚命の故事により、茅の輪を3回(左・右・左)8の字にくぐり無病息災を祈る神事です。参拝後、茅の輪を持ち帰り、軒先に吊るし、1年後お納めください。参列は自由にお詣り出来ます』
拝殿に参ると、ここにもサントリー樽が奉納されていた。寺社に日本酒が奉納されているのは定番ですが、ウイスキー樽は珍しい。サントリーさんは地域の自然に感謝し、欠かさず奉納しているのでしょう。社務所が開いており、御守を物色しました。パンフレットがあったので頂いて来ました。
『御祭神:素蓋嗚尊(スサノオノミコト)別名(牛頭天王) 当社は、西天王山(若山)の中腹に位置し、地元島本町の広瀬・東大寺・桜井の各地区、高槻市の神内地区を含む4ヶ郷の氏神として、「天王さん」の通称で知られ、篤い崇敬をうけております。
当神社の創建は古く、文武天皇の御代・大宝元年(701)に行基僧正が勅命にて勧請したのが始まりであります。22社の1社にも数えられ、官幣の制にも連なったと伝えられます。
社伝によると、南北朝時代、桜井の里にて楠木正成が子の正行との訣別の際に代参を遣わしたとあり、その後、戦乱の時代を経て近世には江戸幕府より社領安堵状を受ける。明治に入り神仏分離令により西八王子社・牛頭天王社の名を若山の地名をとり若山神社と称し今日に至る。
境内より3河川(木津川・宇治川・桂川)を合流す淀川を隔て、向かいに男山(八幡)笠置方面を望む景勝の地で、神域は1000年以上森の中にあり、「みどりの百選」に選ばれ、保全地域とされ、中でもツブラジイの大樹42本は府の天然記念物に指定。社有地は山林約4万坪を有す。
御社殿の創建年代は詳しい資料が残っておらず不詳。現在の御本殿は文化4年(1807)の改築と記録に記されてあり、6年の造営になるものです。
宝物には、聖徳太子7歳像(貞観時代・9世紀中期)・御神体4体(鎌倉・室町期)・絵馬(江戸期後期)3枚のうち天保2年(1831)のお蔭踊り図絵馬は府内でも珍しく貴重なもので、府の登録文化財に指定。他に江戸期の神輿2基と獅子頭や古文書も多数保存す』
淀川3川合流部・男山が眺望でき、少し霞んでいたがナイスでした。バイクに戻り、山を下ってR171に出て京都方面へ。「大山崎IC」から名神高速に乗り、「京都東IC」で下車し、湖西道路を経て7:29ヨットハーバー着。
部員みんなに挨拶し、桟橋に行って「助六寿司」の朝食を取ります。9時にミーティング後出艇しました。1回生マネ2・マネ2・選手2とともにコーチボートに乗りました。SWの予報でしたが、Nからの風で練習開始。だんだん風速が上がり気持ち良く練習出来ます。風が落ち、SEから新たな風が入ってきました。S級はマークを打って回航練習に移り、470はスタート練習します。短めラインに続き、長めラインでスタートし、みな早めにスタートラインに並び、前後艇との駆け引きを楽しんでいます。
12時にハーバーバックし、合宿所に帰って美味しい昼食です。マネージャーさん、ありがとう。1回生選手は、シーホッパーとレーザーで初レースに挑んでいます。草津ヨットクラブ主催「サマーカップレース」です。まだ沖で練習していた1レース目、ひっくり返ってる1回生艇をケアしたりしながら練習していました。ひっくり返ってる他の艇もケアし、レスキュー艇が出ていないD社下級生470にアドバイスして起こさせました。
風が強くなり、しっかりハイクアウト出来ずにセイルから風を抜き気味に走ってる1回生に、「それ〜」と2回大声を上げ激励しました。ヨットはバランスのスポーツで、横に吹き倒そうとする風の力と、倒れないように風上に身体を出す左右バランスが大切です。風が強くなればなるほど、風上に身体を出さなければなりません。やじろべえ同様、左右の力が大きいほど左右に伸びた腕が長いことになり安定します。風を怖がって身体を中に入れれば腕が短くなりバランスが悪くなりひっくり返りやすくなります。だから「それ〜(ハイクアウトせよ)」と身体をより風上に出すことをさせます。そうすると風上にひっくり返ってしまうのでよりセイルを引いて風のパワーを増しバランスを取ろうとします。結果的にバランスも良くなり、速くなります。
食べながら湖面を見ていると、更に風が上がっており8m/sを越えるブローが入っているようで、流石に1回生では厳しそうです。食べ終わった者からハーバーに戻り、レスキューにいつでも行ける体制を取りました。僕がハーバーに戻ると、コーチボートが出ていく時でした。1回生のレスキューしてる2回生インフレータブルボートからヘルプが来たようです。
15時からD社大と合同練習予定です。コーチボートがレースに出ていた1回生を乗せて桟橋に戻って来ました。1レース目はフィニッシュできたが、2レース目は全4艇何度も沈したので、2回生レスキューからの指示でリタイヤし離れないようまとまり湖上でヘルプを待っていたようです。
上がってきた選手たちに体調や怪我の有無など聞いたが、みな「大丈夫です」とケロッとしていました。1人でレース艇に乗りながらも、サポート体制がしっかりしていたので不安がなかったのでしょう。ホッとしました。
それから上回生の練習艇が出艇して行きます。波が静かな琵琶湖のヨットハーバー故防波堤が無く、SE側に開いています。琵琶湖では珍しいSEの風で波が直接出艇スロープに入るので、1艇ずつ出艇して行きます。少々全艇出艇に時間が掛かりましたが、沖に出て練習開始。ウォーミングアップを終え、D社が練習している海面に向かい、レース練習に混ぜてもらいます。
470・S級が3分ごとにスタートを繰り返すスピーディーな練習でした。僕も風が強くない時はこれをしていましたが、まだハンドリングが不安な2回生スキッパーもいるので風が上がってくると5分毎に落としていました。D社はこのインターバルについて来れない艇は、もう1挺のレスキューがついて排除していました。上に合わせるスタイルを感じました。スタート練習を3回して、次3回レース練習して16:30になり合同練習が終わりました。最初にD社本部船に「お願いします」、そして最後に「ありがとうございました」の挨拶をしました。僕がジュニアヨットクラブでヨットのヨの字から教えたD社監督が乗っていました。レースの合間などではプライベートな会話をしますが、それぞれの大学を代表しているので、公式な挨拶のみです。
D社はハーバーバックして行きましたが、当方は良い風が入っているので、あと30分練習してハーバーバックしました。午後の練習で2艇トラブりました。8〜10m/sの風が吹いているので、早くメインセイルも下ろしてマストへの負担を下げ、インフレータブルボートで引っ張るようにしました。コーチボートをドライブしてる4回生Fマネージャーがしっかりしているので、僕のアドバイスを的確にマイクで伝え事なきを得ました。マスト折ったら大変な出費です。
合宿所に帰ると、ハチ駆除業者が来ており4回生Wマネさんと話していました。アシナガバチとススメバチの巣が出来ていました。昼間は活動が活発で、今駆除しても出先から帰ってきた働きバチがこの周囲を屯するので、駆除は夜が良いようです。ハチの目が良すぎ夜盲症気味なので、夜は外に出ないそうです。次の週末合宿までの夜に、一網打尽駆除するそうです。
ミーティングで気づいたことを話します。1回生は良い経験になったでしょう。やはり他校との合同練習は緊張感があり、良い勉強になります。僕の話がいつも以上に長くなり、8時から夕食になりました。自分の夕食を持ってそれぞれの場所に座り始めた時、女子マネさんがデザート的なものを持って来ました。「お誕生日、おめでとう」。今月の誕生日は3人のようです。「因みに、僕明日です」とG君が大喜びしています。買ってきたケーキとかではなく、食材をケーキ風にデコレートした手作りでした。マネージャーの愛情たっぷりだね。
美味しく夕食を食べ、帰路に着きます。湖西道路〜名神に乗り、20:56「桂川PA」で「バニラソフト140円」を食べて糖分補給しました。21時半頃帰宅しましたが、家内は夢の中で風呂に入りヨーグルト持って自室に上がりオヤスミ〜。楽しい1日でした。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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