-ウェブマスター日記 2018/5-6

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
感想をいただけるとありがたいです→webmaster

2018/6/30
長男のお嫁さんから「家族LINE」に着信がありました。写真・スマホビデオ付きです。
りょうくんのプリスクール卒業式でした。ちょうどお嫁さんが3人目・ルーカス君の出産をしたばかりで、その手伝いにご両親がいるので、大成くんを預けてお嫁さんも出席したようです。こういう節目に両親が出席できると、我が子の成長が見れて嬉しいものです。本人も両親揃った姿を見ると、「どんなもんだい」と自分に自信が付きます。
出し物のセリフもしっかり言え、将来の夢スーパーマンも堂々と発表したようです。写真を見ると、お友達と公民館のような舞台に立ち衣装を着て何かやってる。ソロで舞台に立ち、自分で描いたスーパーマンの絵のボードを持ち、先生にマイクを向けられスピーチしていました。
成長に感動しつつも、なんだかさみしくもあり、色んな感情が溢れて涙したようです。お嫁さん以上に涙もろい長男も横で涙していたでしょう。控室の様子がビデオに映っていました。椅子に座り、「Say goodby to you・・・」とかみんなより大きな声でお喋りし踊っています。出し物のセリフだったのかもしれません。先生からダンキンドーナツを配られ、食べようとして口を開けた所で思いとどまい、「Can I eat it?」と先生に質問し、「Wait・・・」と先生から返って来たら、もうひとくち食べちゃったお隣の男の子と目と口を大きく開けて驚き合い「Jack eat it」なんて笑い合っています。
日本にいる時も、公園で年齢が上の子でも平気で「遊ぼう」と声を掛ける子なので、英語の世界に行ってもすぐ慣れるだろうと思っていましたが、今やクラスの中心の人気者です。「シャイな日本人」はりょうくんには当てはまりません。まあ長男がチビの頃からどこでもリーダーやってたので、父親似ということです。お友達もたくさんでき、皆から慕われて、お嫁さんも安心しています。というより英語力の上達が凄まじく、頼もしささえ感じています。長男が撮った長いビデオは、ドロップボックスかグーグルドライブで共有してくれるそうです。
こうちゃんはルーカスくんが生まれたと同時にイヤイヤ期?に突入し、何でも「やーだ!」が続いているようで、甘えているのかな?でも「たいしぇいくんかわいいー」と毎日毎日可愛がってくれているようです。まだまだ夜寝不足の日々ですが、3人の子供たちに囲まれて、日々幸せを感じているそうな。お嫁さんの幸せな様子ほど旦那の値打ちを決めるものはありません。
「CONGRATULATIONS GODDARD GRADUATE!」の拝み看板を家の前で持った家族写真があったので、「学校からもらってきたの?」「生徒全員にもらえるの?」と質問してみました。すると、「卒業ボードが式の前日に家の前にサプライズで設置してありました!」との返事でした。卒業生全員の家をまわって設置したようで、こういう話は聞いたことがないので、アメリカの習慣ではなくスクール独自でやっていると思うとのことでした。
式典での男性校長先生の衣装がピエロのようで式典に臨むスクールの姿勢が伺えます。女性の先生方も思い思いの衣装で素敵です。りょうくんは日本で3年保育幼稚園に通う予定をキャンセルし、初めての集団生活がいきなりアメリカでした。私も家内と伺いましたが、この2年間とても良くしてもらいました。お嫁さん主体ながた長男夫婦で決めたプリスクールですが、大正解だったようです。9月からは義務教育の小学校併設幼稚園に通います。日本語学校とサッカースクールにも通っています。大いにアメリカを楽しんで欲しい。

2018/6/24
家内がお出かけしてしまいました。つまらないので、近所の自転車屋さんに向かいます。「通勤リード110」の後付カウル(デイトナ・エアロショートスクリーン)の右のジョイント・ボルトが折れてしまい、修理の相談をしていました。折れたボルトを買おうとデイトナに電話すると、「不良品」かもといろいろ質問されました。もう7年も使ってるし、車載カメラセットのために部品を噛ませているのでボルトがバイク本体のバックミラーネジ穴に入る長さが短くしたので経年劣化です。それでも無料で2本送ってくれました。
これの交換だけなら、元々自分でセットしたので簡単なのですが、折れたボルトの下部がバックミラーネジ穴に入ったままで取れないんです。しかもネジ入れ不足から水が入ったのかサビが進んで癒着しています。プロでもどうしようもなく、右ブレーキごと全取っ替えになってしまいました。
昨日、ブレーキは入荷した連絡を受けたので、ボルトとバイク持って行きます。バックミラーがないので押して行きました。100mほどですけどね。組み上がりが14時以降ということで、夕方まで走りに行くことにしました。
倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、11:52「セルフ北村SS」で給油。237km/9.44L=25.1km/L。僕のホームグランド北摂里山地帯に向かいます。長尾山トンネルを抜け、r325〜r33、川下川沿いの林道を走り、川下川ダム横から武庫川に向け降下。r327で武庫川沿いを走ります。上空を新名神高速道路が通り、車が走っているのが見えます。この工事が始まる前は、鷲の営巣地がありバズーカ一眼レフが上空を狙っていました。早朝や夕方走るとうり坊に時々出くわしました。狸だったりキジだったり、時には山鳥など何度もびっくりしました。2頭のうり坊に追いかけられた時が一番ケッサクでした。そんな野生動物あふれる道は遠い昔になってしまいました。
JR道場横を抜け、R176に出て、r17〜r141で立杭に向かって北上開始。13:07鳥居が見えたので寄り道しました。「大歳神社」というお宮で拝殿には、『敬神生活の綱領 1.神の恵みと先祖の恩とに感謝し、明るき清き誠を以て祭祀に勤しむこと 1.世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして、世をつくり固め成すこと 1.大恩心をいただきて、むつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること』の額が下がっていた。教育勅語のエッセンスですね。こういう戦前の道徳教育が復活し、神道を中心に置いた日本人の心の芯を再び立てて欲しい。r141を北上し、JR相野駅を過ぎr75へ。13:29道標に導かれ「観音寺」に寄り道。墓地も探索したが、区画整理されており、これといっためぼしい物はなかった。
13:41「住吉神社」。境内に登る石段手前に「重文・住吉神社本殿」の石碑が立っている。期待が膨らみます。境内に上がると、檜皮葺の拝殿が正面にあり、その奥に同じく檜皮葺が美しい本殿が建っている。境内右手前に茅葺きの能舞台が、瓦葺きの渡り廊下を伴ってある。これはなかなかの掘り出し物です。
『住吉神社 本殿:国指定重要文化財 舞殿:県指定重要文化財社殿は、三間社流造、屋根は檜皮葺の伝統的なエ法で、鎌倉期の建策様式を残しています。建築後いくたびかの補修再建が繰返されてきました。昭和47年(1972)に半解体修理が行なわれました。その時社殿の基壇石組は創建当初に復元されました。
建築された年代は、大工日原氏が建てたとする棟札写などによって、文永2年(1265)の建立である考えられていました。文化財の修理工事の調査報告では、古文書に見える貞治4年(1365)の上棟をとるべきであるとの見解が示されました。三田市内に現存する最古の神社本殿の建築であるとともに、14世紀中ごろの流造の遺構としても全国的にみても貴重な本殿である。
舞殿は近世初期のもので、今は能楽堂となっているが、北来は拝殿であったものをこのように改造されたものである。
舞殿は、桁行1間、梁間2間の入母屋づくリ茅葺である。寛文頃(1661〜)から毎年奉納能が行なわれ、折々に藩主たちが観能に訪れました。現代は10年毎に能楽を奉納しています』
ナイスな神社でした。神社横の道を北に走ります。参拝からバイクに帰ってきた時、バイクが1台奥に向かって走って行ったので、どこからに通じているのかもしれません。地図では、東条川の大瀬川ダム湖の右岸道路です。途中左岸に渡る橋があり、そちらがメインのようですが、あえて左岸にこだわりましょう。道が細くなり林道になりました。いつ未舗装路になり、ジエンドになるかわからないけど突っ込みます。勾配がゆるい「梅木峠」という峠を北に抜け、民家が見えてきました。
東西に走るr311に抜けました。右折し走っていると鎮守の森を発見し突っ込むが民家でした。素晴らしい。r311に戻ると鳥居発見。14:08「木津住吉神社」。「津」は港のことだから、「木津」は木の斬り出し港があった名残の地名です。住吉神は水の神様なので、林業の守り神として祀ったのでしょう。
『木津(こつ)住吉神社の田楽10月9日の宵宮と10日の昼振舞の後、神社の舞堂で行われる。昭和36年までは9月に奉納されていたが、昭和37年以降途絶え、昭和56年に木津住吉神社田楽踊り保存会が結成され復活した。
田楽には、幣(しで)かたげ・ササラ・太鼓・笛の役があり、保存会の手により演じられている。踊り子は浅葱(あさねぎ)色の裃(かみしも)に仙台平の袴・白足袋の装束で踊り、巫女の舞・田楽・跳び(トートイチ)の順番で奉納される。木津住吉神社の田楽の由来等については、資料・伝承がないため明かでないが、天明4年(1784)の宮当規式定書には「踊りならし」という記載がみられることから、この時期にはすでに行われていたことがわかる』
バイクに戻り、r311〜r141〜R372で東進し篠山方面へ。今田町に入り国道沿いに鳥居を見つけた。帰宅後調べると、ここも「住吉神社」でした。この地域に住吉神社が集中しすぎているので、八幡さまを守り神とする源氏の荘園のように、住吉の神様を守り神とする豪族の影響かな?なんて思い更に調べてみた。今田の住吉神社の謂れを見つけた。
『古市の町並みから西へ約500メートルで国道372号は不来坂峠にかかる。頂きは丹南町と今田町の境に当たる。坂道を下った右手のこんもりとした「蛙の森」に鳥居が見え、急な石段を登ると住吉神社がある。右に春日神社、左には八幡神社と稲荷神社が相殿として祭られている。
現在の今田町域は古くは住吉大社の播磨国賀茂郡椅鹿(はしか)山神領に含まれる御杣(おそま)山(用材供給の山)であり、平安初期には大社の小野原荘となった。
「東大寺文書」の天喜3(1055)年の文中には「多紀郡西県住吉御領小野原御庄」とあり、国役が免除されていた。その後、御獄山清水寺との境界論争もあったが、荘園が成立するとともに建てられた小野原住吉神社は終始、地域の総氏神であった。
境内西の山林の中に「かくれ杉」という神木がある。その昔、住吉神がお越しになった時、杉の木の後ろにお隠れになったので、その名がついたという。この杉の木の下には盤座(神が鎮座するところ)として使った石組みの遺構が残っている。それを「かくれ宮」と呼ぶことから、杉の大木と磐座が住吉神社の始まりだろう。
この神社は通称「蛙の宮さん」と言われている。10月4・5日の例祭の神舞には鶴と亀を白く染め抜いた素袍(すおう)を着た踊り手が、5人がビンザサラ(竹製の打楽器)、3人は締め太鼓を持って登場する。互いに跳び交う時に、足拍子を合わすための「ヘイッ、ヘイッ、カエロ、カエロ」という掛け声からとも、跳ぶ姿が蛙に似ているからとも、また、森が蛙のように見えるからともいう。
この祭りは中世より荘官の下司(一般事務)、公文(収納、訴訟)、田所(田畑の管理)の3職を中心に当人(世話役)たちが奉納し治めた一種の田楽である。
奇祭として多数の参けい者でにぎわう』
平安時代、住吉大社の荘園だった名残りのようだ。
更に東に走り、JR福知山線を渡る。14:38、かつての交通の要衝「古市」地区に入ってみる。『右はりま道・左大坂はりま』と彫られた道標が立っている。「古市」の名の通り、古くから「市」が立っていたのでしょう。「市場」は人々の生活に無くてはならない場所で、それぞれの生産物を持ち寄りよりよい生活のために交換していました。
「不破数右衛門ゆかりの地・宗玄寺」の案内板を見つけ見学することにする。境内に上がる石段横に「蛭子神社」があった。続いて「不破数右衛門ゆかりの地・宗玄寺 全国忠臣蔵サミット加入」に上がってみる。
『源義経が京から鸚越に向かう途中に古市を通ったという伝承が残されるように、古来より交通の要衝でした。古市は宿場町として、最盛期は宿屋6軒を始め、馬宿・米屋・酒造屋などほとんどの業種が集まり、にぎやかに栄えていました。
街道のほぼ中央にある宗玄寺は、赤穂浪士四十七士のひとり不破数右衛門ゆかりのお寺で、毎年12月14日には義士祭が行われます』
写真を撮っていると、裏で庭仕事をされていたのかご住職が出てこられ、「どちらからですか?」と会話が始まった。「伊丹から」だと言うと、ご住職もかつて伊丹に住んでおられたようで、しかも「御願塚」という僕も小1まで住んだ地名がお住まいだったようで、一気に話が盛り上がった。
不破数右衛門さんとの縁をお聞きし、昭和の時代のかつての古市の賑わいもお聞きした。古市駅を中心に街道沿いのここらは商店街で、あらゆる商店が軒を連ねたようです。30分ほど本殿の階段に腰掛けてお話し、写真を撮った。貴重なお話を聞かせてもらいお礼を含めてお賽銭を奮発しようかと思ったが賽銭箱がありません。奥にあった「日限地蔵尊」を覗くと絵馬が置いてあったので、それを授かることにした。ご住職に声を掛けそこの賽銭箱に500円チャリン。「心願成就・日限地蔵尊・丹波古市」と焼印されていた。
『当初、丹波の酒井荘として4つの城で統治されていたが、明智光秀の丹波責めにより次々と落城していった中に、油井城主酒井秀正の子である酒井秀朝が後に仏門に入り誓珍と称し、1597年に草案を創設。その後、1676年(延宝4年)に、真宗大谷派に属し宗玄寺と改称した。
忠臣蔵で有名な赤穂浪士の中に、「不破数右衛門正種」という武士がいました。数右衛門の父は播州の人で、岡野治太夫といい、治太夫の妹「熊」が古市の大庄屋であった「鍵屋」へ嫁に来ていました。年老いた治太夫夫婦は鍵屋の縁寺であるこの宗玄寺に身を寄せていた。
数右衛門は槍の名手として元赤穂藩馬廻り役百石で浅野内匠頭に仕えていたが、故あって主家を去り、浪々の身となっていた時、松の廊下の刀情事件が起こりました。いよいよ吉良邸に討ち入りが決まり、三々五々江戸へ下向する際、数右衛門は不来坂峠に立ち寄り、長男長女を母に託し、母との永別をしました。
母は討ち入り決行を悟り、「母とともに本懐を遂げるよう」と自分の長襦袢を託しました。女物の襦袢を着る数右衛門からその訳を聞いた大高源吾が、武士の心として墨跡鮮やかに白居易の詩の一節を襦袢の背中に記しました。
「松樹千年遂是朽 槿花(きんか)一朝自為栄」
数右衛門切腹後、遺品として2人の遺児に刀と襦袢が届けられましたが、明治になって鍵屋の没落による混乱に当たって行方がわからなくなりました。現在はそのレプリカが保存されています。
長男大五郎は、父の冥福追善のため出家し大雄と称し、下野国古河城下の禅宗永昌寺に入りました。長女の鶴女は御影の照明寺へ嫁しました。また治太夫夫婦は宗玄寺で亡くなり、宗玄寺墓地にお祀りされています。境内の大きな碑は討ち入り230年を記念して昭和7年に多くの人の寄付で建てられたものです。毎年12月14日は義士祭が行われ、子供義士行列が街中を練り歩きます』
『赤穂義士の一人、不破正種の実の父、岡野治太夫は共に赤穂藩士であったが、赤穂藩藩主の浅野長矩が高家旗本の吉良義央に対し遺恨から殿中刃傷に及び、後に切腹処分となり家臣たちの離散後、一時播州亀山(現・姫路市)に居住していたが、治太夫の妹のおさよ(通称:熊)が古市の鍵屋という酒造家の酒井三郎右衛門に嫁いでいたことから、治太夫は正種の子2人(大五郎とお鶴)を連れ妻とともに、熊の嫁ぎ先に一時身を寄せ、しばらくして宗玄寺に寄寓することとなった。不破正種は江戸での刃傷事件が起こった時にはすでに事情があって赤穂藩を浪人しており江戸に浪々の身を置いていたという。しかし、同志に加えられる事が許され、討ち入り(赤穂事件)を前にして、正種は密かに両親や子供に別れの言葉をかけるため宗玄寺に立ち寄った。正種の母はこの時、自分の白無垢の下着の裾を切り取り、男の襦袢に縫いなおして餞別にしたが、討ち入り決行の夜には大高忠雄がその襦袢に白居易の詩(浄頼光跡目論 五 白居易放言の一部)である「松樹千年遂是朽、僅花一朝自為栄」と書き記した。赤穂義士47名は、1702年(元禄15)12月14日夜半に吉良邸に突入、本懐を遂げたが、後に正種の短刀や襦袢等の遺品は篠山城主松平氏を通して、宗玄寺に返送されたという。 大五郎は篠山の禅宗大膳寺にて仏門に入り、26歳になって三河の国の永昌寺へ移ったがその後の消息は不明ある。娘「つる」は長じて神戸東灘の真宗寺院に嫁ぎ、後年、その娘が宗玄寺に嫁してきた。
境内には正種の大きな顕彰碑が建つほか、少し離れた宗玄寺墓地には治太夫夫妻の墓石が、また境内の一部には、期限までに願いをかなえるとされる村の「日限地蔵」が祀られ、寺院のすぐ脇の蛭子神社には精緻な彫刻を楽しむことができる』
ご住職の話では、この子供義士行列も地域の子供の減少によりあと3年の継続が決まっているだけだそうです。
先程見た道標と同じものが立っていた。平成25年に交通事故で壊れた道標を修復したもので、現在道路に立っているのはレプリカだそうです。
『古市の日限地蔵様は、別名延命地蔵様とも呼ばれ、日限を切って願掛けをすると願いが叶うと、遠方からも口伝てに聞く方のお参りが絶えません。
天保14年(1843)頃には、久しく村の蛭子神社は廃絶され、町の賑わいも衰えていました。同年、旧7月24日に、当時の村役であった横屋休兵衛・加茂屋長三郎・磯志屋太助・住屋治左衛門の4人が、播州吉川熊谷村(現・三木市吉川町富岡)に鎮座まします日限地蔵尊を勧請して、古市にお祀りすることにしました。
以後毎年7月24日には、町内会が競い合って「造り物」(一式飾り)を造り、その出来映えを競い合い、「古市の地蔵盆」として大層な評判を得て、町の経済も大いに潤いました。祭りの当日の街道筋は、人混みで歩く事もままならなかったのは昭和30年頃まで続きました。
昭和40年代に入り、社会の経済の仕組みも大きく変わり、今では開店するお店が極めて少なくなりました。家族の形態も変わり、少子高齢化の波に飲み込まれて「古市の地蔵盆」も往時の姿を見ることはなくなりましたが、日限地蔵尊への信仰は今もたくさんの方に伝わっています。そして細々ながら地蔵盆は今も街道筋で続けられています』
R372に出て東へ。r49へ右折し南下開始。「美濃坂峠」を越え、「永澤寺」横を通り「永澤寺峠」を越えて、15:44「バイカーズカフェ虎亀」。16:41お店を出て帰路に着きます。r49を南下し、r68に乗り換え東進。
〜r33〜r325〜長尾山トンネルを通って、17:34帰宅。修理に預けた「通勤リード110」を引き取りに、近所の自転車屋さんに向かいます。小学生時代からの遊び友達がやってるので気楽です。修理費は、ブレーキ部品代が22000円もしたそうで、工賃3000円プラスで25000円でした。意外に高額になってしまいがっかりです。スクリーン本体セット14000円だったのに、折れたボルトを交換するのに25000円とは・・・
後日談・・・
翌日少し走ったら、スクリーンの揺れがあり、また5年ほどしたらボルトが折れるかもしれないので、車載カメラセット用部品を外し、「アドレスV125」と同じようにバイク本体に直接ポン付けすることにしました。ところがこのボルト、バックミラー穴ピッチと違いポン付けできません。アドレスV125でホームセンターにボルトを買いに行ったのですが、バイクミラー用ネジピッチは一般用とは違うようで合うのがありません。
ならばバイク用品店と思い「バイクワールド」に行ったが、なんと「棚卸し」で「夕方から営業します」だって。帰宅し仕方なく「MonotaRO」でネット注文しました。「大阪魂/六角ボルト全ねじ(ステンレス) M8×60・1.25ピッチ 1パック(10個)¥529」。更に翌日ボルトが配送され、めでたくガッチリスクリーンで復活しました。

2018/6/23
コーチしてる大学ヨット部のレース日です。インカレ個人戦予選です。2つのクラスの上位6艇のみがインカレ個人戦に挑戦できます。大学ヨット部の最終目標はインカレ団体戦ですが、全国の速い学生レーサーの実力を肌で感じることが出来ます。卒業後の思い出にもなるので、レギュラー3艇×2クラス=6艇が予選通過できたら最高です。最低各2艇、当面の目標各2艇です。
9時に出艇のようなので、早朝ツーリング出来そうです。天気予報は日中雨だけど、〜AM10+PM4〜=曇りという最低限のバイクツーリング可なので、四輪で行く選択を消し、「里山VTR250」で出発しました。
4:33、近所のローソンで、「キリン小岩井ミルクトコーヒー162円」を購入。R171〜中央縦貫〜近畿道側道r2〜r14〜r19で淀川を渡る。R1で北上を開始し、R307で東進しr71で南下。5:42木津川沿いにある「祝園(ほうその)神社」着。
『御祭神/天児屋根命・武御雷命・経津主命 延喜式内社で、48代修徳天皇の勅命により悪病平癒・家内安全・農商工業の発展を祈願するため神護景雲4年1月21日に創祀されたお宮。 1月いごもり祭/無形民族文化財・11/3例祭・12月御神祭』
r71に戻り、木津川を東に渡り、R24からJR奈良線の東にある「大塚山古墳」横を通り、6:02「松尾神社」。横に「TK Race Way」という小さなサーキットがあった。カートの練習場かな?個人が持っていそう。
『京都府登録文化財/松尾神社拝殿・表門・境内社御霊神社本殿(桃山江戸時代)天武天皇が吉野山より東国へ向かう時、この地で大山祇神の化身であるという樺井翁と軍議を談じ、翁が姿を消したあとに残された宝珠をこの地の後の鎮めとし、のち大宝元年(701)に秦都理が霊夢によってこの宝珠を得て、これを神体として宮殿を創建したのがはじまり。
近世以前は、御霊神社が「下の宮」と呼ばれたのに対し、「上の宮」と呼ばれ、ともに椿井から上狛にかけての人々の信仰を集めていた。拝殿棟木に墨書銘があり、現在の拝殿が慶長15年(1610)に再建されたこととともに、有力農民の代表である。「十二番頭」や、南村(上狛)と北村(椿井)の宮座一老・松尾社・御霊社の神主などの名が記されている。また宮座に残されていた遷宮神事を行う時の絵図にも、狛野荘の荘官である下司・公文・トネの席や、有力名主によって構成されていた中老座・ばく老座の席、能や狂言を演ずる舞台や楽座、はしがかりなどが描かれていて、これらから中世の村政を司った組織と松尾神社との関わりが伺える。なを表門も拝殿とほぼ同時期の桃山時代の造立である。本殿は文化5年(1808)に奈良春日社若宮本殿を移築したものであり、東隣の御霊神社本殿は、春日社三ノ宮を文政6年(1823)に「下の宮」に移築し、さらに明治13年に神社併合により、ここに移築されたものである。中世村落における神社の面影を留める建物群である』
6:16「玉台寺」。『狛弁財天社 弁財天は元来インドにおいて川を神格化したもので、日本でも竹生島など水に関係する地によく祭られている。
狛弁財天は、室町時代初め頃に上狛から椿井にかけて広がっていた興福寺領狛野荘の利水や水害に関連して創建されたものと考えられています。15世紀中頃から後年には、興福寺大乗院や一乗院から門跡が参詣し、拝殿造営のための奉加帳が興福寺内で回覧されている記録が確認されている。
狛弁財天社は、狛氏の守護神であるとされ、狛山城守秀はその当時狛野荘の荘官(下司)を勤めていたことから、互いの密接なつながりが伺えます。その後、16世紀後半頃に大規模な再建がなされたと考えられ、天正6年(1578)に木造弁財天坐像及びその眷属(けんぞく)である十五童子像が南都寺院の宿院仏師・源三郎らによって製作され、天正8年には拝殿が再建されています。こうした一連の事業は西福寺に肖像画を残す狛左馬進秀綱が中心で実施したと考えられている。なお現在の本殿や拝殿は近世後期に再建されたもので、隣接する玉台寺は弁財天社の宮寺として建立されたものと考えられている』
この地は、興福寺領庄官だった「狛氏」が支配した地で、狛氏が領したからか、「狛」という地名ゆえ「狛氏」と名乗ったからかどちらが先かわからない。たぶん他の多くと同じように後者だと思う。「狛」という氏名は珍しい。狛犬の「狛」であり、現在多くの神社の正面を守護する狛犬の起源は、エジプトのスフィンクスやインドのライオンで、中国や朝鮮半島を経て琉球や日本本土に伝わった。琉球ではよりライオンに近い「シーサー」となり各戸の玄関を守護し、日本本土では日本の想像上の動物「狛犬」として神社正面にいる。
「狛」の語源は、「高麗」から来ており、日本本土へは高麗人が伝えたと容易に推察できる。この地の地名「狛」も「高麗」が起源のように思われ、朝鮮半島「高麗」からの渡来人が住み着いた地と想像する。狛氏自体も、渡来人の末かもしれない。いろんな想像をしながら、狛氏の守護神である狛弁財天やその神宮寺である玉台寺を、そんな謂れがないかと探したが見つからなかった。
ずっと以前から「狛」という日本離れした地名の不思議が気になっており、高麗からの渡来人の痕跡や朝鮮式のお墓の存在が見つかるのでは?と思って来た。それもあり、「大塚山古墳」を狛最初の訪問地にしたが、あまりに道が細い傾斜地ゆえバイクが停められなかったのが残念。近くに「高麗寺跡」があるので、高麗渡来人が住んだ地には違いないと思うが・・・
弁財天があるのかも?と玉台寺の境内に入って行ったが、弁財天は境内内の下の方にあった。弁財天は水の神様なので、地形的に川ではなく湧水水源を守っているのでしょう。境内を突き当たりまで行くと、狛の地を見下ろせる景色の良い所に出た。ここに鳥居が立っており、神仏習合の痕跡を感じた。
バイクに戻り、JR奈良線「上狛」駅からR163に出ました。木津川に沿う道で、6:40「恭仁宮太極殿跡」。トイレを拝借しました。
『史跡・恭仁宮跡(山城国分寺跡) 恭仁宮は、奈良時代に聖武天皇によって造られた都です。当時、たびたび疫病や戦乱に見舞われ、世情不安の中、こうした事態を打開するためか、聖武天皇は、奈良の平城宮を離れ、各地を転々とした後、天平12年(740)に現在の加茂町瓶原の地を中心に新都を定めました。しかし、恭仁京は天平16年(744)にわずか4年あまりで廃都されてしまう。
その後、宮域は大極殿を中心に、山城国分寺跡は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北三町(330m)東西二町半(275m)の広大な寺域を持つ寺でした。山城国分寺跡(恭仁宮跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地表に残されています。皆さんの立っている場所は、塔跡の正面になります。周囲を塀に囲まれた塔は、残されている基壇跡や礎石跡から考えて七重塔であったと推定されます』
横には、「山城国分寺跡」の広大な芝地があった。国有地でしょう。こういう史跡を民間によって乱開発されないよう国として管理し後世に伝えていく姿勢に敬意を表する。教科書には出てくるが、ほとんど観光客も訪れない地がこういう形でしっかり遺されているから、僕のような歴史好きが生まれるのだと思う。歴史好きは郷土好きで、家族好き・親族好き・国家好きに繋がるように思う。
R163に戻る。「海住山寺」への案内板があった。拝観時間前なのでパス。r5に入り、高級宇治茶生産地「和束町」のど真ん中を走る。7:02「弥勒磨崖仏」。r62にチェンジし、7:07「安積親王陵墓」。「聖武天皇皇子・安積親王和束墓」。聖武天皇の第2皇子で、長男が死去したので皇太子最有力候補だったが、聖武天皇内親王(母・光明皇后)安倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子された。その後、17才の若さで死去した。その死があまりに急であったため藤原仲麻呂による毒殺説があるそうだ。
r62を進むと道がいきなり細くなり山道になりました。7:19「八王子神社」。期待していたほど大きくなく、歴史がありそうになくこんなもんかな。瀬田川に突き当たり、r3になり瀬田川沿いを大津に向かいます。道なりにR422になりました。r102〜r18〜R161で、8:25「セブンイレブン大津松山町店」で、「助六寿司398円」を購入しヨットハーバ着。早朝ツーリング終了。
インカレ個人戦予選のコーチングです。9:30に出艇し、North3〜4m/sで1レースしました。上マークが近く、トップ艇フィニッシュが30分以内の短いレースでした。各クラストップ6艇が全日本に進めます。当方は3/12艇がトップ6に入りこれからです。AP(延期)フラッグで上マークを遠くに移動させている間に、雨が落ちだすとともに風が落ち、AP/Hフラッグが揚がりハーバーバックになりました。ここから延々風待ちになりました。1回生の男子選手・女子選手・女子マネージャーの4人でお喋りしていました。これから始まる大学生活のいろんなことも話しました。女子選手は、2〜9才までオーストラリア・メルボルンに住んだ帰国子女なので、アメリカ生活中の孫たちのこともありいろいろ聞かせてもらいました。
雨は降っているものの弱いですが風があるので、僕がレース委員長ならレースするな〜と思いながら待ちました。14時を過ぎAP/Aフラッグ揚がり、本日のレースは終了になっちゃいました。なんじゃそりゃ、雨だから出るのが嫌だっただけじゃないの?レースは面白いから、どんどんやろうよ。
合宿所に戻り、全体ミーティングです。気づいたことを話しました。レースに関しては、ペナルティー履行場所や、レースストラテジー、混んだ状況での上マークへのアプローチなどを話しました。1回生の超ポジティブ練習、2回生の半年後に迫ったインカレ団体戦予選本番への取り組みも話しました。
クラス別ミーティング後、美味しい夕食を頂き帰路に着きました。湖西道路〜名神高速〜中国道〜R171で、19:41「エッソ伊丹北村SS」で給油。263km/8.97L=29.4km/L。
コーチボート上で、4回生の子と3回生の女子マネさんに、「色白保ってるね〜」と軽口を叩いたら、「コーチも綺麗な顔されていますよ。ツヤツヤしてるよね〜」と嬉しいことを言ってくれました。単に脂ぎってるだけだろうけど・・・

2018/6/17
「道の駅・神戸フルーツフラワーパーク大沢」へ家内と一緒に行きます。お盆に次男一家が帰省した時、一緒に行く場所候補に家内が上げたので、2日前の早朝ツーリングで下見に行きました。果樹園があり、桃・ぶどう・なし・などの果物狩りが出来ます。お盆なので、アクセスや混み具合・2才の子が楽しめるか?などが気になりました。駐車場が広く、遊園地があり、道の駅とは思えないほど敷地が広い。ホテル・プール・芝生広場など、遊ぶところは充実しています。
駐車場は24hオープンで、奥のホテルも24hオープンだからいつでも行けますが、遊園地オープンが10時なので、その時間到着予定で、9時頃家を出ようと予定していました。4時頃目を覚まし自室でゴソゴソし、8時前に階下に降りると家内がお化粧中でした。着替えも終えており、「もう行けるよ」とのこと。お腹が空いたのでバターごはんを食べ、着替えて8時過ぎに出発しました。
R176で宝塚中心部を抜け、r51ワインディングロードで有馬温泉に入りました。時間があるので、前回買えなかった「有馬サイダー」を購入しようと。温泉街の朝は遅いので、路上駐車して「銀泉」前のサイダー専門店に行こうと思っていましたが、9時では遅すぎました。前回6時はガラガラだったのですが、日曜日朝9時は多くの人です。目ざとく「サイダー」の幟を見つけ、家内が買ってきてくれました。今用に1本と、次男夫婦用に2本。
r506〜r82〜r78で、フルーツフラワーパークの果樹園に車を入れます。観光果樹園には入れなさそうですが、ゴーカートが数台走っています。楽しそう。10:15「フルーツフラワーパーク」到着。駐車場は1/2以上車で埋まっていました。神戸市の後押しで「KK神戸ワイン」が運営していたけど、お客さんの入りがイマイチだったのでしょう運営が変わったテーマパークなので、平日はガラガラ、日曜日だって駐車場は満車にならないと予想していたのですが大人気のようです。お盆は駐車場待ち行列ができそう。
「ファームサーカス」を見て、入園料が無料なので「遊園地・神戸おとぎの国」に入りました。「空中散歩スワンサイクル」「観覧車」「メリーゴーランド」「ジェットコースター」「水の上をボールに入って散歩するアクアボール」「ミニトレイン」・・・2才児が乗れる乗り物調査です。いろんな表示が薄くなり少しくたびれていますが、小さな子〜小学生が楽しめる遊具が多くGood!
ホテルに向かいます。向かって右側の回廊を歩きましょう。売店で、「果実バー」と言う棒アイス発見。1本320円という観光地価格ですが、お盆には食べようかな。BBQテラスを見て、左右回廊の中に広がる噴水庭園で家内を激写。すでにBBQを始めているお客さんがいます。
「わんぱく広場」から果樹園の方に下って行きましたが、結局今回も果樹園入口が見つけられませんでした。その季節になったらわかるでしょう。長い滑り台を滑ろうと思っていましたが、「ペンキ塗りたて」なのかクローズでした。10;49「ゴーカート乗り場」。混んではいませんが、ぼつぼつゴーカートが出発して行きます。コースが長いので楽しそう。
ホテル裏側に、SLルックな園内バスが置いてあり、「観光農園」営業中乗せていってくれそうです。こちらもペンキがハゲ気味で、やつれ感が昭和しています。前進は1993年(平成5年)開業だけど。JR三田駅行き送迎バスが出発していきました。ホテルに入ります。売店一番人気のお土産は、「ぶどうクレープケーキ」でした。お昼を食べましょう。ホテルレストランのバイキングは2000円ですが、それほどお腹が空いていないので元が取れそうになくパス。中華のお店は、ラーメンやチャーハンの単品もあり良かったが、「サンフラワーカフェ」に入りました。僕は「クリームパスタードパスタ690円+ドリンクセット150円」、家内は「シーフードパスタ840円+ドリンクセット150円」。11:29に精算して出ます。入口にパンが陳列されており、それとドリンクのお客さんも多かった。パフェなどもメニューに有りGood!お昼の時間でもBBQは空いていました。
「神戸モンキーズ劇場」をじっくり見ました。冷暖房完備で、入場料は無料です。ギャランティー(投げ銭)システムで、所属12チームで上位4位までが出演できるそうです。11時に開演しており、次が13時で入りませんでした。所属チームのお猿さんたちが出演したTVや映画の宣伝がされていました。
家内も「何あの木?」って「けむりの木」に気づきました。赤い哺乳瓶ブラシのような「ブラシの木」が咲いていました。「ファームサーカス」まで戻り、観光バスのお客さんが入っており混雑していた売店に入ります。「神戸サイダー」が売っていました。
12:30道の駅を後にして、「大沢IC」から「神戸北有料道路」に乗り、「神戸北JCT」で山陽道〜中国道・宝塚ICで下車し帰宅。16時まで「そこまで言って委員会」見ながら昼寝し、学生時代のヨット部ライバル校D社同期H君がやってるレストランの30周年パーティー(17〜20時)に出発するまでゴロゴロ。
気のおけない友人でドレスコードもないので何でも良さそうですが、「リーガロイヤルホテル大阪」開催なので、ジャケット+コーチしてる大学ヨット部公式ヨットネクタイにします。バイクPもあると確認しているので、「通勤リード110」に乗り出発。r13〜R2で16:29ホテル着。
ロビーなどの写真を撮りながら、2F「ペリドット」へ。受付が始まっており会費1万円を払いG席とのこと。受付にはお若い女性2人・男性1人いました。娘さんたちと旦那さんかな?Hくんとこは女の子2人だったはず。受付を終えるとHくんの和服の似合う奥さんが「Hの家内です」と挨拶してくださいました。「うちは女ばかりで肩身が狭いわ」なんてHくんは日頃こぼしていたけど、あれは嘘だね。綺麗な奥様なので、お嬢さんたちも綺麗。
16:52、席に着きました。10人ほどの円卓で、D社ヨット部関係者席でアウェー感たっぷりでした。周りのあと2つのテーブルがヨット関係者で、1つのテーブルがH君家族+従業員席でした。僕のテーブルがD社ヨット部OB内で若い者からの席のようで、最年少はD社OBじゃないけど、D社OBと組んでロンドンオリンピックに出称したU君で、次がD社現監督S君でした。S君とは先週まで3週連続レースだったので、毎週顔を合わせていました。
春にコーチしてる大学ヨット部の西宮遠征でお世話になった大阪大ヨット部GMさんの司会でパーティーが始まりました。Hくんが挨拶します。40名ほどのパーティーを予定していたのが、130名になっちゃったそうです。趣味の詩吟関係、かつてやってたダンス関係、ビジネス街にあるのでお客さん電通や富士通のエライサン・・・それぞれの挨拶や詩吟・ダンス・ピアノ演奏・・・で楽しい時間になりました。
左隣が、D社ヨット部運営委員長Yさん(H2卒)。よく琵琶湖のレースでレース委員長をしておられます。その隣が西宮YHでうちの先輩とクルーザーに乗っておられる方夫婦。息子さんが僕の母校KG卒だって。右隣が僕と同期のD社OBのO君。学生以来で全くわかりませんでした。僕が自己紹介したら、「あれ〜同期じゃん、Kくんか〜顔は忘れたけど名前は覚えてるよ〜」僕と同じ状態です。その隣が僕の1回生下が2人。当時の話で盛り上がりました。
S監督隣にUくんが座っていたのでその席に行き3人であ〜だこ〜だ。Uくんはオリンピック出場後、西宮の酒造メーカーの娘さんと結婚し西宮に住んでいます。ちょうどこの日このホテルで、奥さんの妹さんの結婚式があったそうで、向こうを中座してきたようです。なんという掛け持ち。ヨットには乗っていないようなので、コーチしてる大学ヨット部へのコーチングを依頼しました。「いやいや、まずはD社に来てよ」とSくんが。Uさんと組んでたM君は、次男がお世話になった中高ヨット部の先輩で、息子が中学生の時高校生でした。そんな関係で息子のこともレースで何度も一緒になってるので、反対に「息子さん、どうしてますか?」と聞かれました。
次男が中高ヨット部時代にお世話になった僕の3回生上のD社OB先生に挨拶しに行き、僕含め地元伊丹市出身KGヨット部OBで作ったジュニアヨット部から先生の高校に上がった子が2人今年の1回生としてD社・KG・早稲田ヨット部に進学したので、彼らそれぞれの将来性などを聞きました。
プロセーラーとして紹介され挨拶したこれまたオリンピック選手Hさんに挨拶しました。D社コーチでもあり、去年何度もハーバーで会いました。膳所高ヨット部OBで、スナイプ協会や滋賀県ヨット連盟でも中心人物です。今年春D社ウィーク前に、コーチしてる大学ヨット部の練習に混じってくれました。Hさんにも「・・君どうしてます?」と琵琶湖水域で対戦相手としてよく走った息子のことを覚えていてくれ気にかけてくれていました。ありがたいことです。
締めの時間になりました。20:03、D社ヨット部応援歌とエールを、僕の1回生下のエール係Y君の指揮にて。さすがエール係、振り付けを覚えていますね。現役時代何回やったのだろう。その後も近い代の結婚式などで駆り出されたのだろうな。
Hくん家族が前に出て、Hくんがお礼の挨拶を短く。「いつまで出来るかわからないけど、お客さんが来ていただける間は続けようと思いますんで来てや」。続いて長女さんの挨拶。女性なのに弁が立ち、おじさんたちの笑いを取っています。Hくんはパパなんて呼ばれていました。「家では最低なパパでしたが、今日ちょっとパパの株が上がりました」「フライパンを毎日振っていたパパのおかげで、私達はここまで成長出来ました」「明日もレストランは営業しますのでご贔屓に」・・・お母さんは花束を、Hくんは記念品をお子さんたちからもらっていました。
お開きになり、テーブルの皆さんに挨拶します。出口で挨拶してるH君一家への挨拶行列ができていたので、D社監督S君とあ〜だこ〜だ話します。S君は僕らKGOBが作った伊丹ジュニアヨットクラブに入部した子で、ヨットのヨの字から教えました。教えてた小学生低学年だった子が昨年全国制覇した大学ヨット部の監督だって・・・僕はもう生きる化石になってきたね。
「ジュニアヨット協会50週年誌が立派で、過去成績データが充実してる」と驚いていたので、現理事長は僕が理事を辞める時、次に出てもらった人だよと教えてやりました。Sくん後輩のお母さんです。僕が協会理事だった頃、広報委員長や全日本選手権・世界選手権選考会で事務局長などしてた時、手伝ってもらいました。最初はクラブ主催レースのアシスタントをしてもらいましたが、仕事が早く熱心で出来る女性でした。大学ヨット部OGでもありうってつけの人材です。僕が持ってた過去成績データもみな提供しました。
「50周年記念パーティー」も今日でした。昼間で誘われていましたが、会場が東京だったのでパスしました。H君レストランパーティーに先に誘われており、残念でした。日程がずれていればな〜
D社OB連中は、これから夜の街に繰り出すのか、ホテルで飲むのか、適当に分かれて過ごすのでしょう。僕は帰路に着きます。「なにわ筋」〜R176〜十三筋。加島交差点からr10に乗り換え、阪神高速下を北上し、21:13「セルフ北村SS」で給油。180km/3.85L=46.8km/L。

2018/6/16
コーチしてる大学ヨット部の練習に参加します。先週は前日雨で早朝ツーリングを諦めましたが、今週はGO!です。前回走った「大峰山林道」の南にある「鷲峰山林道」を探索します。3:30に目を覚まし、「里山VTR250」に乗り出発。4:05近所の「ローソン」で「キリン小岩井ミルクコーヒー162円+助六寿司399円=561円」購入。御用達GSで満タンにしようと思ったらまだ開店前でした。セルフなのに朝閉まっているんだ。
R171〜中央縦貫道で、4:20「エッソ中環豊中SS」で給油。150km/4.72L=31.8km/L。吹田ICから名神に乗り、大山崎JCTで京滋バイパスに乗り換えます。宇治西ICで下車し、r241で宇治川土手を走ります。r3にチェンジし、世界遺産「宇治平等院」横を通り、宇治川渓谷を気持ち良く走ります。「天ヶ瀬ダム」横を通り、r62にチェンジし宇治川沿いを離れ支流沿いを遡ります。
R307にチェンジし、枝道でショートカットして再びr62に合流し、5:25「御栗栖神社」。『御栗栖神社(みくるすじんじゃ) 「御栗栖神社の大杉」が天然記念物。 南地区に鎮座する旧郷社で、祭神は天津彦根命、現在は南地域の氏神「一の宮」として「田原祭(三社祭)」を構成する三社のひとつです。
弘安6年(1283年)6月、荒木の大宮神社から分祀されたのを起こりとされていますが、それより古い時代に豪族が土地を寄進した記録もあり、正確な創建年代は定かではありません。周辺の栗林から産する栗は、古来より、その光沢と味の良さによって知られており、「宇治拾遺物語」に登場する天武天皇の煮栗焼栗伝承に由来するといわれます。その栗は、毎年11月15日禁裏御所に献上する習わしで、明治20年まで続けられました。社名である御栗栖は、こうした朝献の栗林が、次第に人々の信仰を集めるうちに定着したものではないかと言われていますが、この栗林も現在は茶畑にかわり、昔日の面影はありません。
社殿は一間社流れ造りで、末社として天照大神、天満宮、皇森社の三社があります。境内はスギ・カシ・カエデなどを中心に多くの樹木が生い茂り、大木も多いため、野生動物も多く見られるなど、良好な自然環境が保全されています。境内でもひときわ大きな杉の神木は、町内でも最大級の樹木で、町指定文化財(天然記念物)に指定されています』
R307まで戻り、「鷲峰林道」に続く枝道に入ります。5:48「大道寺」。『奈良時代に山岳修験の道場として開かれた金胎寺の北側登山口として、早くから聞かれた地に天平勝宝8年(756)大納言三品湯原王(施表皇子の御子)の発願により、鷲峰山中興の越知泰澄大師が開基。大伽藍も配置されていたが、その後衰退していたのを嘉承元年(1106年)11月、藤原忠実の帰依により再興し、それより大御堂と称したという。その後にその子頼長に伝領されたが保元の乱後、没宮領として田原庄など諸国の頼長領と共に後院領に入れられた。その後、平治の乱で殺された信西の所領となっていた。大道寺の南端にこの信西を供養した宝篋印塔が立つ。信西は俗名を藤原通憲と称し、「本朝世紀」「法曹頻林」などが著した学者であったが、平清盛と結んで権勢を誇った。清盛の熊野参詣中、対立者の源義朝は兵を挙げ、信西は信楽に逃れようとして宇冶田原まで来たが、この地で自害したと言われている。いわゆにる平治の乱である。
「百錬抄」平治元年(1159)12月17日に「少納言入道信西首、廷尉於川原請取、波大路懸西獄門前樹、件信面於志加良木山自害、前出雲守光保所尋出也」とある。
「平治物語」古活字本には都を追われた折に「宇治路にかかり、田原が奥、大道寺といふ所領にぞゆきにける」と記されている。一説には、自害した屍は胴のみ近くの寺に納めて胴塚として祀られ、首は都でさらされていたのを大道寺の領民がもらいうけて、この地に塚を築いたといわれ、近くに信西首洗いの池と称する小池もある。大道寺はその後も修験系の寺院として栄えたが、以後400年もの間興亡を繰り返し、ついに戦国末期に、織田信長による寺領没収に会って滅亡に近い寺院になったと伝えられる。とくに昭和28年の山城水害には裏山より土砂が崩れ落ち、寺は潰滅した5体の仏橡のみかろうじて難と逃れ、以前書庫とされていた御堂に安置されていたがその建物も近年老巧化はげしく、平成16年10月に現在の建物を新築し、本尊不動明王をばじめとする仏像を安置する』
近くに「大道神社」があった。扁額には「天神社」と掲げられている。神仏習合時代、大道寺の守護宮だったのかな?石段を上がり境内へ。「本殿」と「木造男神立像」は、宇治田原町文化財に指定されているようです。彩色された綺麗な本殿でした。道路に戻り、「信西入道塚」がありました。『宇治田原町指定文化財・信西入道塚 藤原信西(通憲)は平治元年(11599 )、源義朝らのクーデターを知り、田原の領地に逃げ込んだが追ってきた源氏の軍兵に殺害される。大道寺の領民はこの場所に塚を築いてその菩提を弔ったと言われている。大正5年8月に有志により供養塔が建てられ今に至る』
「いざ、林道へ」と思いその道を登って行きましたが、山は見えているのに下ったり民家が増えてきたりで、ロストしちゃった。途中に「鷲峰山」と書かれた枝道もありましたが未舗装で入れませんでした。地図を見ると、「大道寺」前の分岐が正解だったようで、もう一本の道に行くことにします。これもロストしちゃった。
R307に下り、また「大道寺」への枝道に入り、今度は林道への枝道に入れました。キジのメスを前方に発見し、飛んでいくまで待機。森の中の道になり、「鷲峰林道」に入ったようです。「林道・御林山線」との分岐がありました。6:37「地福谷」。「鷲峰山ハイキングコース」になっているようで、案内地図が立っていました。「密漁禁止・メジロを取らないで」の表示も。
コンクリート舗装のガタゴト道になり、しばらく登っていくとバリケードが道の中央に出現し、少し広い舗装林道に突き当たりました。走ってきた道は、車が入らないよう封鎖されていたようです。舗装林道を少し走ると、金胎寺入山口があり、300mで鷲峰山山頂との表示がされていました。山頂の山寺ですね。
鷲峰山林道を、北から登ってきたので、東向きに下ります。南向きに下る道もあり、この山は舗装林道で山頂直下までいろいろなルートで上下できます。東に下りながら、北に下っていく舗装林道の分岐もありました。この分岐にはバリケートはなく、登ってきた道が最も道の悪いルートだったようです。
交通量のない舗装林道を気持ち良く走りました。木々の切れ間がたまにあるものの、外界を見下ろせほどでもなくサイトシーイングはイマイチでした。r283に出ました。ここは「穀池峠」で、和束町と宇治田原町との境の峠です。r283を北に下り、R307に出ました。R307を東に走り、長いトンネルを抜け、左折してR422を北上します。旧道への入口があちこちに開いているので、GPSの鳥居マークに惹かれ適当に入ると枝道を入り、7:32「大宮神社」。境内を守る鎮守の森に巨大杉が林立し、社殿の手入れはイマイチですが、雰囲気があります。
R422に復帰し、旧道に入ったり戻ったりして、7:43「琴平神社」。境内に入るところにロープが張られ社殿は朽ち果てそうですが、大杉は半端なく霊気さえ感じるお宮でした。
R422に戻り北上し、「富川磨崖仏」に寄り道しましたが、山を登っていかねばならず時間切れ断念。R422〜r29で瀬田川左岸を走り、「瀬田の唐橋」で右岸に荷りR422。道なりにr102〜r18で浜大津〜R161でヨットハーバー着。
コーチしてる大学ヨット部員みんなに挨拶し、桟橋に行って「助六寿司」で朝食にします。9時になりブリーフィング後出艇し、帆走練習・マーク回航練習。ブームセンターの位置・メインセイルリーチの開き・リーチリボンの流れ・ジブリーチの開き・下マーク回航の詰め方・・・気づいたことをアドバイスしました。午後の練習は、全艇でスタート練習したり、強制的に半数をスタート3分前にラインに入らせたり、本番のレーススタート同様の混んだ状況を作りました。北からの良い風にも恵まれ、良い練習になったと思います。
17:30にハーバーバックし、先に合宿所に戻ります。夕食を作り終えた女子マネさん達が、PCであれやこれややっていました。持参したタブレットを出し、ヨット部LINEに登録してもらいました。前週、「私とお友達になり、私が招待しますよ」と言ってくれた2回生Nさんがいなかったので、4回生のSさんが「私とお友達でいいですか?」と、サクサク登録してくれました。
ミーティング前、横にいた3回生Nくんがバッグから雪肌精(コーセーのお化粧水)を出して顔にパタパタしていました。シャワーで日焼け止めを落としさっぱりした後のお手入れです。「雪肌精か、良いのを使ってるね」と言うと、「実家に帰ると、母親から「汚い顔して」と言われ「お手入れしなさい」と渡されるんです。僕はマメに手入れしていますよ」。「そうか、うちの家内も同じで、息子には3000円の日焼け止めを帰省するたびに渡していたんだ。僕には何もないのに・・・」「僕もですよ、ほら」と、資生堂アネッサの日焼け止めが出てきました。どこのご家庭も、母親にとっては息子が一番の恋人ですね。
気づいたことをミーティングで話し、美味しい夕食をみんなと食べ、帰路に着きました。いつものように男子部員にも女子部員にも、背中を叩いたりお礼を言ったりしながら出口に向かい、湖西道路〜名神高速〜中央縦貫〜R171。
20:48「エッソセルフ北村」で給油。174km/7.49L=23.2km/L。

2018/6/10
法事の日です。家内の父親の23回忌・母親の13回忌です。うちも再来年父の13回忌になります。月日の経つのは早いです。家内の姉がメインとして動きました。家内の実家のお墓の横に、兄の実家の神様の墓を移設し、1週間前に開眼供養したところです。
ご仏前に供える果物の調達を家内が頼まれました。川西阪急百貨店に入っている果物屋さんに注文し、金曜日に僕が取りに行きました。アメリカに住む長男・関東の次男は参列しませんが、彼らそれぞれのご仏前(コーヒーとお茶)も家内が注文しました。姉・姉の子3人と被らないように、姉妹でやり取りしていました。11時に実家近くのお寺さんで法要があり、10:30にそのお寺さんが「位牌堂」を建立したそうで、それを見学します。兄の家は神道で、家内の家は浄土宗でした。姉妹2人でともにお嫁に出ているので、先祖から続いた家内の実家は絶えます。姉が実家の墓・位牌を守ってきましたが、姉が亡くなれば跡継ぎがいないので、位牌をこの位牌堂に預け、永代供養してもらいます。お墓は神道の墓を守っていく姉の長男が、隣という気楽さもあり引き続き守っていきます。家内も両親や先祖の位牌が眠る場所を見たいので、10:30までに到着せねば。
8:30に家を出ました。「宝塚IC」から中国道に乗りました。これまでの日曜日のこの時間帯なら「宝塚東トンネル・西行渋滞」が発生しているのですが、新名神が開通したおかげで、交通量は多いものの渋滞なしでした。「こりゃ、早く着いちゃうな」。
阪神高速7号に入ります。「FARM CIRCUS」書かれた観光バスに追いつきました。リアに、稲穂・酒などの絵が書かれ、中央にサーカスのテントが書かれています。観光バス会社にしては変だし〜と考えながら追い抜くと、「フルーツパーク大沢」とサイドに書いてありました。神戸北区大沢町にある道の駅で、遊園地や果樹園・ホテル・プールも併設している施設です。今年の夏、次男一家が帰省したら「みんなで行きたい」と家内が希望している施設です。神戸駅〜フルーツパーク間を結ぶバスのようです。帰りに下調べに寄ってみることにしました。天気予報では台風の影響で雨が降ることになってるけど、天気が持ってくれたら良いな。
第二神明〜加古川バイパス経由でr718(旧R250)に乗り、加古川の家内の実家跡へ。家を取り壊し駐車場になっています。子どもたちがチビの時、毎月のように来ていた頃、2軒隣の散髪屋さんで散髪するのが恒例でした。眼の前の病院がなくなっていました。息子さんを家内が家庭教師していましたが、医学部に進学しなかったのかな?
10:07、長年お世話になってる「長田寺」さん到着。Pには車がなく、うちが一番のようです。本堂の扉が開いており奥さんが掃除している感じなので、積んできた果物などを運ぶことにしました。リアゲートを上げて作業していると、お兄さん夫婦の車が入ってきました。ほぼ同時ですね。面倒見が良くおしゃべりのお姉さんと家内は喋っていますが、僕は挨拶後黙々と荷物運びに往復します。
お兄さん夫婦もお寺に入ってきました。僕は境内の謂れ板を写そうと車に戻ると、そこにお兄さんの家を継ぐ甥一家の車が入ってきました。境内の写真を写します。
『尾上構居址 長田寺付近は、中世の城館である尾上構居跡と考えられています。構居とは、中世の土豪の居館のことで、城と比べ規模の小さいものを意味しています。尾上構居について詳しいことはわかりませんが、三木合戦(1578〜80)のときに三木城方についたことが伝えられています。
尾上構居址 長田庄 領主八尾上丹波守 別所ノ幕下(播磨鑑)
尾上構主 加古瀧十郎盈斎(赤松氏範末孫なり)居す
居尾上丹波守三木落亡武功あり(播諸城交替連綿記)』
本堂裏の「位牌堂」を奥さんに見せてもらいました。姉が嫁ぎ、妹である家内が跡取り娘になったのに、僕が取っちゃった。「私、家の跡を取らないと・・・」と言っていたが、僕のプロポーズに「うん、いいよ」と即答してくれた。僕は長男だから家を継ぐのを当たり前のように育ってきたけど、弟がいるので家内の実家に入ってもいいかな〜とも思っていた。僕の決断で、1つの家が消えちゃう・・・。
家内の実家は、播磨の戦国が描かれたNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場する志方城内にあった。黒田官兵衛の正室の実家です。その跡取りだった家内のお父さんが、尾上に引っ越してきた。だから姉の代になるまでは、志方城近くにお墓があり、毎年お参りに行っていた。昭和の時代まで元城内に家があったということは、家老などそれなりの身分の武士だったのでしょう。
お父さんは家業?である職業軍人になり、大東亜戦争では部隊を率い中国戦線に奮戦した。戦後数年シベリア抑留を経て舞鶴に帰国した。「加古川・・(家内実家の苗字)部隊」として播州一勇猛な部隊として何度も新聞を賑わせていたようです。戦後すぐ帰国していたら戦犯になっていたかもしれません。その部隊の帰国が新聞に載り、「独身」だということを知り、姫路の名家だったお母さんの実家を継ぐお爺さんがお見合いを申し込み家内姉妹が生まれた。
人生いろいろ、歴史好きの僕には、家内の実家が絶えてしまうのは残念だけど・・・。このお寺の家も、滅んだ土豪の子孫でしょう。宗教法人で無税なので、相続が発生しても代々継いで来たのだと思う。今まで何度も訪問しているのに、謂れ板に気づいたのは初めてでした。豪族の城跡だと播州の歴史本で知ってはいたけど、その面影は家の前に小川が流れていることぐらいで、うちの父の実家のように土塁も皆消滅している。
長女一家・次女一家もやってきて賑やかになり、11時からの法事も無事終えました。仏壇前に置いた果物やなんだかんだ、皆が持ち寄ったご仏前を全部うちの車に運びます。ワンボックスワゴンはリアゲートを上げたらたくさんはいるので楽でいいです。
12:09、お兄さん夫婦の職場を見に行きました。外装を塗り直したそうです。絵が上手な次女の美的センスに従って、「クリーム色の壁」に「オレンジ入りのアクセント」、そして「ライトグリーンの屋根」で可愛い。内装もやり替え、玄関を入った所に飛行機の壁紙の評判が良いそうです。
続いてお墓参りです。先頭がお兄さん車で最後尾が僕の車なので、前3台がお兄さん職場駐車場を出た後、甥の車がが出るのを待っていましたが、1才の子がいるので遅れナビ設定しているようで更に遅れ、待っていた前3台は先に行っちゃいました。
甥に続き2台で前3台とは反対方向に出ます。ナビ誘導ならこちらのあのですが、地元のお兄さんはなぜ反対方向に行ったのだろう。加古川土手左岸道路r18を北上し、右岸に渡り土手から下って日光山墓苑に向かいます。土手から下る道はいくつかあるのですが、ナビ誘導運転を間違ったようで、狭い道をきついVターンするために躊躇しています。後ろの窓が開き、奥さんが「ここ行くの〜」って目で見ています。「行けると思うけど」「え〜ほんとに〜」という車内夫婦間会話が聞こえるようです。もっと先の道でも行けるので、車を降りて「前へ」とジェスチャーしました。
12:40頃お墓について参ります。てっきり僕ら2台の方が早いと思っていたのに、既にお墓を掃除していました。加古川に新しい南北縦断道が出来たそうです。お花を入れ替え、お線香を・・・。隣にお兄さん実家の真新しい神道式お墓が立っています。お兄さんは次男なので本来跡取りではないのですが、長男さんが東京に出たまま、お嫁さんとお母さんとの不仲ゆえ里帰りもしなくなり、お兄さんの結婚式・姪甥の結婚式にも姿を見せません。会社の経営者で裕福なのに、なんだかな〜と思っちゃいます。それで、お兄さんが自分の実家と2つの家のお墓の面倒を見てきました。
お兄さんは妹さんとは仲が良いですが、義理とはいえ男兄弟は僕だけみたいになり、実の兄弟のように何かと良くしてくれます。子どもたちがチビの時、キャンプ・海水浴・スキー・果物狩りなど、2家族でよく行動したので、そのまま子どもたちの仲が続いています。
小宴のため、近所の「白雲谷温泉ゆぴか」に移動しました。姉夫婦は低山登りが趣味で、ここの駐車場に車を置き、「小野アルプス」を歩いています。帰りに風呂に入ったり、食事したりお茶して帰ります。
13時から「特別室」というのを2時間借り切ったそうで、軽い懐石料理を和気あいあいお喋りしながら食べました。長男のLINE乗っ取られ事件の詳細を話し、姪たちに対処法を聞き、家内のスマホを預けみんなやってもらいました。姉も姪達もスマホで連絡しあってるそうで、家内もそれに加えてもらいました。姉のスマホも「貸して、やったげる」と姪は頼もしいです。
15時になりタイムアップで特別室から出て、地元産品を売ってる施設に、「珈琲飲んでいこか」と促され入りました。甥の息子1才もみんなに慣れ、小中学生の従兄弟たちと遊び始めました。「お金あるよ」と兄が小銭をたくさん出して来て、自販機珈琲や自販機アイスを口にしながら1時間ぐらい駄弁りました。
駐車場でそれぞれの車に別れる時、「そういえば写真撮ってないな」と兄が言い出し、カメラと三脚を車から出してきました。駐車場で集合写真を撮りました。
特別室で食事後、家内と姉・銘がご仏前などを分けました。家内が大きめの袋を人数分持ってきておりスムーズでした。それで出たダンボールや包紙などのゴミは、我が家が持って帰ることになり、それらを車に載せ「さようなら」。次は帰省する次男一家を交えお盆かな?
「三木小野IC」から山陽道に乗り、「三木SA」でトイレ休憩しました。「道の駅フルーツパーク大沢」目指して走り出すと雨が落ちてきました。降りるICを間違えスルーしてしまい、フルーツパークの下調べもパスしちゃいました。
そのまま帰宅し、後片付けをしてから自室に上がったら、そのまま寝てしまいました。次に起きたのは夜中24時前、風呂に入っていないけど面倒なのでパスし、面倒でないヨーグルトを食べて至福の時間を過ごし、そのまま寝てしまいました。

2018/6/9
コーチしてる大学ヨット部のレース日です。これで3週連続レースです。今回は、学連の公式レースで、インカレ団体戦予選の前哨戦です。9月のインカレ団体戦予選に向け、12月と6月に団体戦があります。その他に個人戦もあり、対抗戦などの定期戦、そして各クラス全日本予選・国体予選などのインカレの縛りのない一般レースがあります。
大学ヨット部としてのレース活動はたくさんありますが、全国の大学ヨット部員が一番に目指すのは「インカレ団体戦」で、9月の予選前の前哨戦だからとても重要です。9月の予選本番同様、各大学1チーム(3艇)×2クラスで争うのが本来ですが、多くのヨット部員を抱える大学もあり、下級生の実力アップや楽しみを増やす目的で、BチームやCチームの参加も認められています。昨年参加した全日本インカレで最大部員数を誇った当方は、今年も近畿北陸ブロックで最大数なので、470はA・B6艇、S級はA・B・C9艇エントリーしました。
9:30第1レース・8:30出艇ということなので、先週に続き早朝ツーリングで「鷲峰山林道」を中心に、宇治田原町・和束町界隈を探索しようと計画しました。しかし前日金曜日にしっかりした雨が振り、朝まで残る予報だったのでパスしました。朝4時に目を覚ましゴソゴソしてから、下着の上に涼感スパッツ・zhikショートパンツ・涼感アイスアーマー、その上からバイク用メッシュプロテクター上下を着て、「招き猫CB400SB」で出発しました。
6:21、近所のローソンで、「キリン小岩井ミルクコーヒー500ml162円+助六寿司399円」を朝昼食用に購入。R171〜中央縦貫〜豊中ICから中国道〜名神高速に乗り、7:03「桂川PA」でトイレ休憩し、「いちごチョコ大福540円」を買いました。「京都東IC」で下車し、湖西道路を経て7:30ヨットハーバー着。
まず大会本部に上がって、規則変更などないかチェックします。当方・他校関係なく、多くの部員から挨拶され、こちらからも挨拶します。気持ちの良い朝です。Cチームまで出ている大学は当方のみで、Bチームも3艇フルエントリーしているチームは、470のD社・S級Ritsだけでした。
レース運営・ジュリー審判要員として当方OBが数人来ていました。ジュニア時代に海外レースを引率した他大出身のNくんも来ていました。僕を見つけ「おはようございます」と寄ってきて、近況を話してくれました。京都の老舗菓子屋さんを支えている縁の下の力持ち的な仕事を代々されています。上賀茂神社近所の家に住んでいるそうで、とても羨ましく思いました。ヨットの方は、クルーザーレース活動を僕のホームポートを中心にやっており、そちらで会ったこともあります。運営会議が始まり、そのまま聞いてから艇庫前に戻りました。みんなに挨拶し、コーチボートに荷物を置き、桟橋に座って助六寿司を半分食べました。
体操ストレッチ・出艇前ブリーフィング後、8:30円陣を組み気合を入れ出艇。コーチボートは先に出艇したので、1回生のエールは聞けませんでした。今年&昨年卒業したコーチ陣が3名・女子マネージャーが各学年1人計4名・交代プレイヤーが1名と僕が乗り込みました。
9:30に470がスタートし、S級は1回ゼネリコ後スタートして行きました。このタイミングで、女子寮住まいの1回生マネージャー1名を桟橋に迎えに戻ります。この日は振れはあるものの北寄りの安定した3〜4m/sの風が入り、6レース消化できました。
当方は安定して走り、上位で多くフィニッシュできたものの、トップホーンがS級キャプテンに1回だけで少々不満でした。両クラスで3回ぐらいを期待していました。着順だけ比較すると、両Aクラスは2位でしたが、470に2回ルール違反失格が出たので4位でした。初日の成績は、4位+2位で総合2位です。
フライング失格した艇もフィニッシュ後はコーチボートに寄ってきて、コーチ陣と話し気持ちを切り替えリラックスしてレースに臨めたと思います。トップホーン艇乗員にポーズを取らせ、上位フィニッシュした下級生に拍手し、終始笑顔でレース出来ました。
昨年全国制覇した覇者D社は相変わらず強く、今一歩というところです。しかしながら、470で2レース、S級で1レース3艇合計で勝つことが出来、射程距離内です。レギュラー6艇で、ジュニア上がりのスーパールーキー1人を除き、5名は大学からヨットを始めた子ばかりなので、スポーツセレクションでジュニアからや高校ヨット部で全国区選手が経常的にいる私立強豪校に対抗している当方はよくやっています。
「16時以降のスタートをしない規定」で16時過ぎにハーバーバックしました。マネージャーの1人が、「逆光の中走るヨットは綺麗ですね。私好きです」と言っていましたが、絵になります。僕もこの光景が好きで、この日も写真に残しました。
バイクで合宿所に戻り、夕食を作り終え、成績表制作に余念のない女子マネさんたちとあ〜だこ〜だやっていました。お若い女の子と喋っているのはとても楽しい。
コーチボートでは、本部線からの無線情報、陸上本部にスタンバイしているマネージャーからの情報、そしてこの合宿所でのPC作業などの情報を駆使し、フィニッシュ後戻ってくる選手たちに色んな情報を提供している。
集計した途中経過をボードに書き、各選手のフィニッシュ順位・総合成績などを伝えていますが、写真を取りLINEにも流し、OBたちとも共有しています。そのことをマネージャーさんたちに聞くと、「息子さんも入られているので、コーチも入ってくださいよ〜」と2回生マネNさんに誘われ、その気になっちゃいました。「私とお友達になり、ヨット部LINEに私が招待しますよ」と微笑まれると、男なんてコロリですね。スマホを持っていないのでタブレットでも良いのですが、タイミングの悪いことに忘れていました。次回持っていこう。
その流れで、2日前家内のスマホLINEに「なりすまし長男」から「オレオレ詐欺メッセージが届いた事件」のことを話しました。「え〜、初めて聞きました〜」と驚いていました。長男がLINEアカウントを乗っ取られ、なりすましLINEが、ほうぼうに発信されたようです。「今時間ある?」「ちょっと手伝って欲しいんだけど」「コンビニに行って、5万円のweb moneyを買って、裏の番号を写真にとって送って」と家内宛に届きました。
家内は長男が困っていると慌て、僕に買ってきてと。「怪しいな〜」と思いながら家内のスマホを持ちコンビニに急ぎ、駐車場で長男にLINE電話しようとしましたがどうやって使うかわからず、gmailしようとしましたがこちらもわからず、帰宅し自分のPCから真意を問い合わせることにしました。コンビニに入り、店員さんに経過を伝えると、最近はやってる詐欺だそうで、このコンビニでも1件あったそうです。「息子さんに別の手段で問い合わせた方が良いですよ」とアドバイスをいただきました。
家内に詐欺である旨を伝え、帰宅してPCメールで長男に問い合わせました。長男はアメリカに住んでおり、時差の関係で真夜中なので即返信は期待できません。LINEをチェックすると、次男から「お兄ちゃんのLINEアドレス乗っ取られているようなので、騙されないように注意してね」とのメッセージと、届いたLINE画面のハードコピーが添付されていました。次男からも長男にメッセージを送ったようです。若者の次男からのメッセージは説得力があるはずです。
夜20時(長男現地時間7時)に、長男から「LINEアドレス乗っ取られた〜、友人に同じなりすましメッセージが届いたみたい」とのメッセージが届き、LINEの長男アドレスへの対処が書かれていました。一件落着です。
ミーティングが始まり、気づいたことを話しました。470の王者D社と比べたクローズボートスピードとランニングボートスピードについて。マネージャーにトップ艇のラインの横を維持し、ラインと共に上マークに近づいて行きました。ビデオを回したので、トップ艇ライン上での各艇の動きがクリアに見えます。タックのタイミングと考え方、ミート艇が来た時の対処法を喋りました。
美味しい夕食時間です。僕が例題として挙げた艇の2人が同じテーブルに座り、ホワイトボードに書いた図を見ながら、食べながらバズりました。より具体的に話せてとても良かった。
夕食を終え、バズも一段落し、19時を過ぎたので帰路に着きました。大部屋で食器洗い順が回ってくるまでくつろいでいる部員の肩を叩きながら、「今日はありがとうね」「帰るわ」「ご飯美味しかったよ」など言いながら踊り場に向かい、そこでバイク装束を着ます。
部の運営は上下関係が弱く、みんな自分の食器は自分で洗います。毎日決められた掃除時間に、ルーレットで掃除場所を決め、それに従い全員で掃除してから、クラス別個別ミーティングしてからフリータイム〜就寝へと向かいます。
湖西道路に乗りました。いつもこの時間帯になると空いているので、快調に名神高速京都東ICに向け走っていました。バックミラーに映る後続のライトは遠く、前方にも車が走っていません。元有料道路で自動車専用道路並に道が良く気持ち良く走れるので、制限速度は70km/hです。終点前の大きなRに差し掛かり前方遠くが見えなくなったところで、なんかいつもと違う違和感がありました。Rの外側の壁がなんだか赤いような・・・
Rが終わり直線になるあたりで、前方に事故車両が見えだしました。走行車線に1台、追い越し車線にまたがってもう1台。アクセルを戻し、ゆっくりブレーキを掛けました。追い越し車線にバンパーが落ちています。その横をすり抜けると、次に走行車線側に止まっている車。右前方がへしゃげている。続いて車線をまたがって斜めに止まっている車で、前輪がパンクしバンパーが落ち、動けそうにない。
直線の先で、右車線は名神高速とR1京都へ、左車線はR1大津方面に別れます。僕もそうですが、走行車線を走ってきた車の多くが、この直進区間で追い越し車線に移動します。この移動中の事故のように思いました。両者ともクラウンタイプの高級セダンで、社外に出て携帯電話してる方々は若く、スピードオーバーだったのではないかと思いました。
僕はバイクなので難なくクリアできましたが、後続の四輪は相当スピードを落とさないとクリアは無理でしょう。発生したばかりの事故で、警察も救急車も来ていません。僕も70〜80km/hで走る区間で、追い越す車より数倍追い越される車が多い高速区間なので、カーブで前方が見えにくい状況での渋滞に突っ込む二次災害が気になりました。
湖西道路〜名神高速〜中央縦貫道〜R171の定番コースで帰宅しました。家内が夕食中で、「ただいま〜」。風呂に入り、翌日の法事の出発時間を決めヨーグルト持って2F自室に上がり「おやすみタイム」となりました。
翌日は法事で僕はいませんでしたが、2日間トータルで470級3位・S級優勝・総合2位でした。とうとう片クラスだけですが、昨年全国制覇のD社に勝利することが出来ました。新人戦以外買ったことがなかったので、みんなの喜びはひとしおでしょう。これで練習に更に熱が入りそう。

2018/6/3
家内の用事は、デパートに行って法事のお使い物を用意することだけなので、映画〜宝塚北SA〜デパートコースで移動することになりました。朝4時前に目が覚めたので、ゴソゴソ。前日の「宇治田原町の大峰山林道〜琵琶湖」の日記を書きました。
8時から朝食に前日の残りのバナナを食べ、着替え、8:45に「通勤リード110」にタンデムし、映画館に向かいました。9:30上映開始「恋は雨上がりのように」。1週間前、家内と吉田羊さん主演の「ラブ×ドック」を観た時予告編でやっていて家内からのリクエストです。僕も良さそうだなと思っていました。
高校陸上部100mで11.45の記録を出した女子高生(小松菜奈さん)が、練習中アキレス腱断裂してしまい失意のどん底に落ち、楽しかった陸上競技をやめてしまい根無し草になってしまう。松葉杖をついていた病院帰りの雨の日、雨宿りに立ち寄ったファミレスで、店長(大泉洋さん)の1杯のコーヒーとともに発した言葉「もうすぐ雨が止みますよ」の優しさに触れ、そのファミレスでバイトすることにした。お客様に謝ってばかりの店長、スタッフの冴えないと言われている店長に恋をしてしまった。
女子高生から恋を打ち明けられ、45才バツ1店長はドギマギし戸惑ってしまう。胸に飛び込んでくる女子高生の背中に躊躇しながら手を回すシーンで、隣で観ている家内の背中の柔らかさを思い出した。ゆっくり首を横に向け家内の表情を見たが、スクリーンに集中していました。横顔が素敵です。
女子高生に恋をされ、店長は夢である小説家への道をまた歩みだす。やんわり「バイトではなく、再び輝いていた陸上への道に戻るよう勧める」店長の優しさや、自分を破ることを目標に中学から上がってきたライバルからの「なんで走らへんのですか?」という挑戦状、そして一緒の陸上部で楽しんでいた幼馴染からの「いつもでも待ってる」によって、再び陸上部に戻っていく女子高生。そんなベストセラー漫画の映画でした。
小松菜奈さんを観た前回作品は「坂道のアポロン」で、その時も今回も好演でした。外観のクールなイメージが、この作品の主人公女子高生にぴったりでした。るシーンが綺麗で、陸上競技をやっていたのかな?と思いました。そのシーンを観ながら、高校生のある日を思い出した。
国体選手に選ばれると、兵庫県大会の開会式の行進に参加しなければならず、嫌々ながら神戸王子の陸上競技場に足を運んだ。お勤めを終え、スタンドで食べなら何気なくフィールドを見ていると、女子の陸上競技が始まった。長田高校?の女子選手の走る姿、フィニッシュして歩いている姿も綺麗で、声を掛けたくなり背番号を覚えた。結局声を掛ける勇気がなかったけど、数ヶ月後にまで、いや今でも心の片隅に「一歩踏み出さなかった後悔」が残っている。
そういえば、大学1回生の春、初めて学生会館前で腰まで伸びた髪を緩やかに揺らしながら歩いていた女子大生の歩く姿の優美さに恋をした。それから、昼休みに食べに来る彼女を観るのが楽しみになった。ヨット部同期から、彼女の学部も聞いてわかっていたけど声を掛ける勇気がなかった。もう忘れかけていた4回生の夏、生きていくための資格試験の講習会で会ってしまった。
「あっ、あの時の・・・」とドキドキしながら、「一緒にお昼食べない?」と声を掛けたのが家内です。魅力的な歩く姿は、お茶とお華を子供の頃から習い免許皆伝者になった故をわかった。僕は走ったり歩いたりする姿に惚れちゃうみたい。もうひとり惹かれる人が出演していた。「清野菜名」さんで、女子高生の幼なじみ役を演じていた。NHK朝ドラ「半分、青い」にも出演しており、主人公が勤める漫画家のアシスタント仲間の役です。清原果耶さんとともに、「清」若手女優として注目している。清原さんより清野さんの方が表情が豊かで、芸幅が広いように感じる。ついでに書けば「飯豊まりえ」さんにも注目している。いつか大ブレイクすると思っているんだけど・・・
大泉洋さんの映画は、いつも外れがありません。家内は大泉さんのファンで、こういうマッチョではない外観、押しの強くない人が好きです。僕もそういうタイプかも。
バイクで「宝塚北SA」に向かいます。TVでこのSAの特集紹介を見たようで、これも家内からのリクエストです。阪急山本駅をくぐり、長尾山トンネル〜r33で12:36着。ホタルが飛び、「新宝塚CC」に向かう車程度しか交通量のない切畑〜武田尾の道が2車線道路になり風情がなくなってしまっていた。SAウェルカムゲート狙いのバイクや車が走っていた。
r33からのアプローチ道で、四輪がP待ちで10台ほど渋滞していた。バイクなのでパスし、また数台待ちが出来ていたP前でもスルーし、ウェルカムゲートPに入れた。10台程度と思っていたウェルカムPは意外に広く50台分はありそうです。SAに入っていくと、ウェルカムゲート側にロードバイクを停めるバーが設置されており、市場調査されているなと思いました。r33は里山アップダウンを楽しむローダーが多いです。
建物は、宝塚大劇場と同じ色合いで、僕ら夫婦の母校KGとも似ているので、竹中工務店の設計施工かもしれません。建物の中はさすが最新鋭SAだけあって、綺麗で機能的な配置になっている。家内が「まずトイレを見に行く」というので、僕イレに行こうと思ったら、女性用トイレの方に入ってしまった。「これはおかしい」とUターンしましたが、とても広く仕切りありの個鏡がずらりと並ぶパウダールームが素敵でした。独立した多機能トイレエリアがあり、他にファミリートイレエリアもありました。
食べようと思ってたフードコートは満席で、待ち行列が出来ていました。タリーズコーヒーや友人がやってるパン屋さんがありました。宝塚らしく、手塚治虫原作の「鉄腕アトム」や「リボンの騎士」フィギュア、宝塚歌劇を想像させる展示がありました。
12:56「柿の葉すしMIX5個・800円」を買って外に出ました。外にある多数のテーブルベンチはなんとなくふさがっており、広いサブトイレ棟を覗くと、トイレ前のベンチがガラガラでした。そこに座って食べました。高速道路案内が電光掲示されており、トンネル内照明が、トンネル火災などで入ると危険な時は赤い照明になり、落下物などで危険な時は黄色になるそうです。トンネルに突っ込む時トンネル入口が赤く見えたり黄色に見えたりしてわかりやすいなと思いました。外にはカレー屋・ケバブー屋などの屋台カーが数台並んでおり、他のSA同様にファストフードショップもあります。おさるの曲芸ショーをやるようで、お兄さんとお猿さんがスタンバイしていました。
電光掲示されている「パンケーキ食べたいな」というので、13:04「タリーズコーヒー宝塚北SA店」に入りました。席が空いてないので、家内は「エッグサラダサンド350円」、僕は「ブラウニーウィルナッツドーナツ260円+モチ大麦のシュガードーナツ260円=870円」を買い、またサブトイレベンチに座って食べました。
電光掲示で、各店舗の夜の営業時間が出ていて、麺処などは24H営業でした。パン屋は7〜21時、屋内のその他のお店は、10〜22、11〜23時営業でした。
13:26、SAを後にしました。r33で大阪平野に戻り、家内を「川西阪急百貨店」に下ろしました。来週は家内の母親の13回忌法要です。息子たちの名でコーヒーとお漬物をご仏前に供えるそうです。うちから何をするのか知りませんが、姉から果物も頼まれているそうです。週末前に僕が車で取りに来ることになるんだって。14:54「ワークマン川西加茂店」で、「涼快メッシュ先丸ソックス・4足780円+ICE ARMOURパンツ・980円+S-THREE長袖シャツ・1500円+Gニュー匠の手ウレタン手袋・99円=3359円」を購入しました。夏用のクール素材ばかりです。ヨットコーチング時、少しでも快適に過ごしましょう。
そのまま、近所のESSOに向かいます。前回給油した時、スピードパスよりさらにお安くなるスピードパスプラス+ESSOカードを勧められサインしてしまいました。新しいスピードパスプラススティックに、2000円チャージしてもらい、ガソリン軽油10円引き/Lチケットを6枚ももらっちゃいました。期限無制限なので、四輪給油の時使いましょう。JCBシナジーカードが届いたので、スピードパスプラススティックと繋げてもらいに行きました。これで使えます。使っていたスピードパススティックは、半年使わなければブロックされるそうですが、廃止手続きも簡単だそうです。請われて作らされた家内用シナジーカードは即廃止するので、その手続方法も聞きました。
帰宅しウダウダやってると家内が帰宅しました。しばらくすると、「あ〜直して〜」とスマホを持って来ました。「ウイルスが入ったかも」と困り顔です。見ると、「危険です」とウイルスアプリをインストールせよとなっていました。あれこれ、LINEスタンプアプリをインストールしてたら、「メモリが足らない、クリーナーアプリをインストールせよ」となり、インストールしてから「ウイルスが入ってる」とかいろいろなメッセージが頻繁に出るようになり、LINE画面にしてもロック解除画面に切り替わって使えなくなっちゃったようです。
現在画面は、「ハングアウトアプリをインストールせよ」となっています。僕も知識がないので、PCで同じ症状の対処法を探し、あれやこれややってみました。インストールしたアプリを1つ1つ削除し、知らないうちに掛かってしまった「LINEパスコードロック」と「アンドロイドパスコードロック」を解除しました。1時間以上掛かりましたが、元の状態に戻りラッキーでした。
修復調べで知った「余計なアプリはインストールしないこと」、「メモリ足らない・ウイルスが入った」メッセージは嘘のことがほとんどで、まるでグーグルが検索したように表示されるのに騙されずウイルスプロテクターアプリをインストールしないことを家内に話しました。
家内は壊したとがっかりしていましたが、こういうことは誰でもやっちゃうことで、僕もPC触りはじめの頃いろいろやらかしました。そんなこんな話をすると、少し表情が明るくなりました。ちょっと点数を稼げたようです。
NHK大河ドラマ「西郷どん」を見て、おやすみ〜。

2018/6/2
大学ヨット部のレースコーチングです。470・S級両クラスの全日本選手権予選です。上位6位まで全日本に行ける切符を獲得できます。10:30スタートなので、9:30出艇だそうで、それまでに琵琶湖に行けばいいです。
この日は、A級全日本も琵琶湖の同じヨットハーバー開催です。先輩から「出場しないか?考えといて」とLINEで打診されていましたが、スルーしていました。A級は僕が高校生になる前年にFJ級に変更され、翌年大学生の種目から消え470級にかわりました。遊びや練習で乗ったことはありますが、レースで乗ったことがなく、カッコいいとは思わないので正式オファーが来なければいいのに・・・と思ってました。幸いメンバーが揃ったようで、声が掛かりませんでした。
早朝ツーリングの目的地を南山城・琵琶湖の南・宇治田原町界隈にしました。宇治川の南に「大峰山」という修験道の山を想像させるネーミングの山があります。この山中に林道が走っているので、絶景が堪能できるかもしれません。
5時前に、怪しい林道に突っ込むかもしれないので、「里山VTR250」で出発します。上はラッシュガード&半袖、下はレギンス&半ズボン、その上に夏用プロテクターメッシュジャケット・パンツの装束です。リアボックスには、レース観戦用品のアメリカ沿岸警備隊仕様7倍双眼鏡&ソニーNEXミラーレスカメラ&パナソニックG2望遠レンズ装着一眼レフを入れました。
R171〜中央縦貫道。いつものように吹田から名神に乗ろうと思ったら、なんと工事封鎖されており乗れません。「聞いてないよ〜、中国豊中ICから乗れば良かった〜」。仕方なく近畿道側道r2に乗り、摂津北ICから近畿道に乗り、第2京阪道にチェンジします。枚方学園ICで下車し、R1を少し走り、右折してR307に乗ります。木津川を渡り、宇治田原町に入りr62を経て「大峰林道」に乗りました。
地図では枝道があり迷いそうでしたが、一本道の舗装路で、中央グリーン苔ラインはなく落葉落枝道でもなく、四輪離合に気を使う細道ですがバイクにはナイスな林道でした。ぐんぐん標高を稼ぎ、阿弥陀寺付近を通過し、6:12外界の見通しが良くなった所で激写タイムにしました。
「神明神社」に寄り道しました。標高のある山に渡ってくるホトトギスが囀っていました。恋の季節のようです。「近畿スポーツランド」がありました。ミニバイク専用サーキットのようです。
更に登っていくと、山頂への分岐がありました。ここの標高が475m。山頂が507mなので行きたかったが、チェーンバリケードされていました。ここから下りです。
6:48「猿丸神社」。『平安時代の末期、既に山城国綴喜郡・曾束荘(現在の滋賀県大津市大石曾東町)に狼丸大夫の墓があったとされ、永年の山境の境界論争により、江戸時代初期にほぼ現在地に近い場所に遷し祀ったものと思われ、その霊廟の上に神社を創建したのが起源です。
鎌倉時代前期の歌人・鴨長明は、『無名抄』に「田上のしもの曾束といふ所に、猿丸大夫の墓があり、庄のさかひにて、そこの券に書きのせたれば、みな知るところなり」と記し、また著名な随筆『方丈記』には「気分が良く遠出をもよおすときは、炭山・笠取を経て岩間寺や石山寺に詣で、「田上河をわたりて狼丸大夫が墓をたづぬ」と書き留めています。
神社に残された正保二年(1645)の絵馬には、禅定寺の氏子中が社殿を建立したとあります。その頃、当社を拝した伏見・深草の日蓮宗の高僧・元政上人は、『扶桑隠逸伝』に「有猿丸祠。此亦大夫遊處之地。而村民奉祠也」と、村人の尊信を今に伝えています。
猿丸大夫は古来、歌道の神として崇められ、その徳を慕う多くの文人墨客がこの地を尋ねています。
また近世に入ってからは、瘤・でき物や身体の腫物の病気を癒やす霊験があるとして、「こぶ取りの神」と篤く信仰されるようになりました。明治21年の由来記には、「今来神功大ニ顕レ殊ニ瘤症・瘍症・カサ・オコリノ類ノ如キハ其神願成就セズト伝フコトナク、神験オ蒙リタル者多数アリ」とあって、多くの人々が霊験を授かり、その御神徳の近在に及んでいたことを知ることができます。
御本殿に供えられている本のコブは、瘤を取って癒していただいた人や種々の病気が治っておかげを受けた人々が、御礼の意味で奉納したものです。今日では、南山城地方を中心に遠方よりも広く篤い信仰を集め、家内安全・無病息災・交通安全・厄除け、更に勉学・受験合格の守護神として、親しみを込めて、「猿丸さん」の呼称で信仰されて、毎月13日の月次祭にはその霊験を慕う人々の参詣で賑わいます。
猿丸大神(猿丸大夫) 狼丸神社の御祭神・猿丸大夫は、その出生来歴については不詳ながら、早くは『古今和歌集』の「真名序」にその名が見え、平安時代中期には36歌仙の1人に数えられ、その後藤原定家の『小倉百人一首』にも撰ばれて広く世に知られるようになりました。
「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋はかなしき」』
宮司さんが境内の掃除をされており、謂れ板がなかったので、神社の由来を聞いてみました。丁寧に教えて頂き、社務所から謂れが載ったパンフレットを出してくださいました。
r738に出て、7:20「禅定寺」。『東大寺別当であった平崇上人が平安時代中期に建立した華厳宗寺院で、藤原摂関家の庇護を受け発展しました。戦国時代に荒廃しましたが、江戸時代前期・延宝8年(1680)月舟禅師によって曹洞宗寺院として中興された。藤原時代の木造十一面観音立像をはじめ9体の仏像や禅定寺文書など、国指定重要文化財がある』
仁王門をくぐると、南北朝時代の五輪塔があった。本殿は重厚な茅葺屋根の建物で、境内に小さな池がある。手入れの行き届いたナイスな寺院でした。仏像も見てみたかったが、拝観時間前でしたので次に向かいます。
r738に戻り、「建藤神社」。本殿(江戸時代)が、京都府登録文化財になっていた。本殿の彩色が綺麗で、何度かリメイクされているのでしょう。
r738に戻り、7:41「雙栗(さぐり)天神社」。謂れ板がなく由緒がわからなかったが、本殿の蟇股の彫刻が牛であるので、社名通り菅原道真公を主祭神とした神社のようです。鎮守の森には立派な杉が林立し、地域の信仰を集めているのがわかる。奥の院参道が山に向かっており、竹の長さの揃った杖が傘立てに挿してあった。
境内を下ると、地元のおじさん2人が草刈り道具を手にだべっていた。「おはようございます」と挨拶すると、「ようお参り、好きかね〜」と声を掛けられた。伊丹市から来たことや、寺社巡りが趣味であることを話した。奥の院への参拝を勧められたが、「時間がないのでパスですわ」と答えた。「またお越し」の声に押されバイクに戻った。
帰宅後調べた。『宇治田原町大字岩山に鎮座し、祭神は、天穂日尊(あめのほひのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)・大蔵命(神)(おおとしのみこと)で、のちに菅原道真を合祀しました。なお、末社として戸隠社、稲荷社、白山社、山王社(日吉神社)、皇大神宮、貴船社を祀っています。
「社伝記」によると、宣化天皇3年(538)9月7日、山城国東県綴喜郡雙栗田原郷の大岩本の頂に瑞祥があって、霊神が岩上に降り、座して光明を放たれたと伝えられています。その時当郷の住人、雙栗忌寸宿祢、和邇部茨彦がこの瑞祥を見て、その大岩の下に宮柱を建て、斎き祀ったといわれ、ここから岩本の地名も起こったとされています。現在も、雙栗天神社の背後の山(大岩獄という)を200m程登った処に7〜8m位もある大岩石が在り、岩の下に一祠が祀られており、これが奥の院と称されています。
光仁天皇の宝亀元年(770)6月の勅命によって同年9月9日、荒木の里大宮の地に3神が遷宮され、荒木の産土神として大宮の社を称しました。
平治元年(1159)12月8日、平治の乱が起こり、この戦のために岩本の本宮、大宮神社をはじめ荒木村の全部、山滝寺、雙栗寺、岩本のことごとくが炎上烏有に帰しました。その後、建久4年(1193)に本社を造営しますが、桃園天皇宝暦11年(1761)2月4日、村内より出火(岩本の大火)し、社殿、古記録一切が焼失。また、孝明天皇の嘉永元年(1848)4月4日、社殿が焼失するが、同年5月再建。この再建は岩本が生んだ名匠柴田新八郎が行いました。
社殿の構造は一間流れ造りで前面に向拝がつき、極力控えめにした清楚堅実な造りの中に、柱、梁、飾り付けは桃山期あるいはそれ以前を思わせます』
長い歴史のある神社でした。バイクですぐ近くにある「厳松院」へ。石鳥居があり、神仏習合時代を感じさせる。鳥居をくぐらず、案内板に従って横の急坂のコンクリート道を登っていく。途中から地道になり、土塀の崩れ加減がいい感じです。境内に上がるとご住職さんが庭の手入れをされていた。仏教では、こういうのが修行なんですね。
鐘楼に立派な鐘が下がっていた。ご住職に挨拶して琵琶湖を目指します。r783から瀬田川に出て、瀬田川に沿ってr3を大津に向かう。R422で左岸に渡ってr29。山を越え、瀬田川左岸道路になり、京滋バイパス・名神高速をくぐり、瀬田唐橋を右岸に渡り、R422に乗る。
道なりにr102〜r18と走り浜大津へ。r18に入ると、前からも後ろからも赤色灯を回したパトカーが走り、「何かあったのかな?」と思いながら走った。帰宅後、家内から「安倍さんに会った?」と聞かれ、「???」。安倍首相が、大津プリンスホテルに来てたんだって。精力的ですね。
第一次安倍政権の時、「美しい日本を取り戻す」をキャッチフレーズに応援してたけど、体を壊して腰砕けになってしまった。でも、「ゆとり教育」からの脱却を図り、大きな仕事をした。「ゆとり教育」で教科書を薄くし、授業時間を削り、明治維新も大東亜戦争後の急速な復活も皆日本人の教育水準が高かったことがベースにあった。その強みを削って、「日本を沈没させたいのか」と義憤に感じた。その政策をもとに戻したのは大きい。そして今回、一度失敗した総理の座だからと守りに入らず、好きなように積極的に動いているように思う。それぞれの政策には賛成できない所もあるが、世界に誇れるリーダーだと思う。頑張ってもらいたい。首相車とすれ違えれば良かったな。
道なりにR161になり、8:55「ESSO浜大津SS」で給油。228km/7.15L=31.9km/L。9:02「セブンイレブン大津松山町店」で、「ブレンディ挽きたてカフェオレ500ml・169円+プレミアムフレッシュバナナ・213円=382円」を朝昼食用として購入。
9時前にヨットハーバーに着くと、A級全日本参加艇が出艇して行くところでした。先輩が来ているかな?と見に行くが、母校艇は見つからなかった。大学艇庫前に行き、みんなに挨拶。風がないので、APレース延期濃厚です。
しばらく始まりそうにないので、2人いた1回生女子マネージャーさんのレスキュー艇ドライブ講習をすることにして、レスキューだけ出艇。一度もドライブしたことがないKさんは、だんだん慣れて良い感じでした。全艇練習のために出艇するというので一旦ハーバーバックし、再度出艇しました。僕と4・3・2回生マネージャー各1人+1回生マネージャー2人のコーチボートの陣容でした。
N2m/sほどの弱い風だったので、1回生マネージャーSさんドライブ練習しました。練習艇との間隔を詰めさせたり、別の艇の真後ろに位置を変えたりいろいろ指示して、ビデオ撮りしながらドライブ練習しました。
陸上から、「10:30AP降下した」情報が入り、ここからレースモードです。上回生マネージャーにドライブを交代し、各艇にAP降下情報を伝えます。運営艇が出てきてレースモードに入りました。天気予報は風向SW予報で、一旦風が落ち、またAPスタート延期になりましたが、SWの風が入りだし、470級2・S級1レース消化できました。S級はゼネラルリコールを3連発したので、1レース少なくなりました。
470の2レース目、1上マーク1・2・3位で回航しました。素晴らしい。ところが上〜下レグで風が落ち、ノーレースになると勿体無いなと思っていると、トップ艇のみに風が入り動き出す。トップホーンはうちでした。タイムリミット20分内にフィニッシュできたのは12艇のみで、残り26艇はDNFが付いてしまいました。39点は痛いです。当方は5艇フィニッシュ出来、この5艇は有利になりました。このレースの470級トップ10が、全日本470選手権の出場権を得ます。S級は5艇がS級全日本に出場できます。
ハーバーバックします。当方は全17艇なので、まず半分引っ張って帰りました。沖に戻り次を引っ張ろうと思ったら、レース運営艇が引っ張り始めていました。残った3艇は少し出てきた風に乗り、自力帆走し始めています。運営艇からレース艇の曳航を変わろうと後ろに回ると、運営艇から白い煙が出ています・・・エンジンがやばいかも?運営艇が止まり、レース艇の曳航を代わり、運営艇を曳航しにもう一度出てくると告げてハーバーバックしました。
またハーバー手前で曳航を離し、運営艇を引っ張りに戻ります。曳航ロープを受け取り、ハーバーバックします。2回生マネNさんドライブで、こんなの初めてで緊張しているようです。何処の桟橋に係留するのか後ろの艇に聞き、ハーバーに電話させ部員を桟橋に待機させます。
桟橋かなり手前から減速し、この艇との間隔が詰まらないようにします。後ろのボートはエンジンが逝かれているので減速も出来ません。最悪なのは惰性でこの船を追い抜いて行くことです。後ろもしっかり減速させて、ゆっくり桟橋に近づき、上手く桟橋に後ろのボートを横付けさせる事ができました。
ドライバーNさんは上手くボートをコントロール出来ました。思わず拍手しちゃいました。Nさんは「涙が出そうです」と上手く行った自分に100点満点を上げているようでした。また自信をつけたね。
合宿所に戻ります。いつもなら部員たちより早いのに、第1・2陣で戻った艇は片付けを終えており、最後に戻った3艇を皆で改装しているので早いです。みんなと同じぐらいになりました。
ミーティングで、軽風のきつい上〜サイドのコース取りとスピン・ランチャーワークで気づいたことを話しました。これは強い潮の海面でのレースに共通することなので、そのことも交えて話しました。
みんな楽しみ夕食時間になり、この日も美味しく頂きました。19:20から掃除なのでその時間まで、久しぶりのOBイガラシくんを交えた4人で話しました。就職が決まり、気持ちも楽にヨットに乗れたそうです。
プロテクターメッシュ上下を着込んで、湖西道路〜名神〜中央縦貫〜R171で帰宅しました。家内がまだ起きており、翌日の予定を決めました。朝一上映時間の映画を観に行き、新しく出来た新名神「宝塚北SA」でお昼ご飯を食べます。楽しみだな。

2018/5/27
コーチしてる大学ヨット部のレースコーチングの日です。琵琶湖で活動している4つの大学の定期戦です。この大会の歴史は古く、僕が学生時代も存在していました。今月、関学日大という大学アメリカンフットボール界の東西両雄が対決する長い歴史のある定期戦で、日大がフェアプレイに反する行為をして問題になっていますが、ライバル校が定期戦をして現在の技量を比べながら本番に向けて練習していきます。定期戦は、日頃の交流でもあり、特に同学年同士は良い友になっていきます。僕もライバル校・D社の同学年との交流が始まり、オフはうちが主催するスキーツアーに参加してもらったり、個人的に一緒にスキーに行ったり、ドライブしたり楽しく交流しました。
4時に目を覚まし林道探索も考えましたが、前述のアメリカンフットボール部の事件により、大学体育会指導方法が問題視されているので、前々日の日大学長会見と前日あったKG監督・GM会見をユーチューブで検索しフルバージョンを見ていました。TVニュースでは一部を切り取りコメンテイターがコメントしますが、世論誘導に繋がりかねず、ノーカット・フルバージョンがアップされるユーチューブの効用は計り知れないです。ニュートラルな目で見て、耳で聞き自分なりの見解を持ち学生コーチングに役立てねばなりません。
見ていて驚いた。『月刊FACTA:それで関西学院大学はその大事な試合の前に、聖書を朗読したり、堂々と勝つ、堂々と負けよというような詩を朗読したりしているというのを側聞したことがあるんですが、その意味を教えてください。
小野KGアメリカンフットボール部ディレクター:もうご存じのとおり関西学院大学はキリスト教教育に基づいて、創設者がアメリカのキリスト教の宣教師、プロテスタントの宣教師が建てた大学ですので、われわれの大学の中にそういうことは自然に入っておりまして、われわれの中で試合の直前にはお祈りをするということは普通に入っているということになります。それから今お話しした、この堂々と勝ち、堂々と負けよというのは、ドイツの哲学者のカールダイムという哲学者で、これはオリンピックが始まるときのクーベルタン男爵の親友である哲学者が書いた詩をわれわれは本当に大きな試合のときに朗読をします。そのうちの一番最初の節でありまして、われわれのチームの在り方を確認をするといいますか、まさしく関学のスピリットと、FIGHTERSのスピリットとしてそれを記してあります。
もともとは関学のヨット部の先輩がドイツに行かれたときに、それを持ってこられて、ヨット部の中に記されていたものを、われわれのクラブも一緒に使わせて
いただいているという形になります。それでいいでしょうか。FACTA:ありがとうございます。』
なんと僕が育ったヨット部の部訓を紹介されました。学生時代、総監督をしていただいたK先輩がローマオリンピックの時、ヨーロッパ遠征してヨットクラブに書かれていた言葉に感動して持ち帰りました。それを和訳したものです。ヨット部艇庫・合宿所の壁に大書され、ことあるごとにみんなで読みました。くたびれてくると書き直していましたが、今では艇庫に額に入って壁の一角を占めています。
1週間前、この事件がマスコミを賑わした時、「これは体育会全体にアゲインストだ」と感じ、新入生が入部したばかりということもあり、週末の練習に参加し、夜のミーティングで部員全員に「フェアプレイの大切さ」を話しました。
その時、この母校部訓と、皇太子さまがご自身お誕生日に紹介されたドロシー・ロー・ノルトの詩「子は親の鏡」を紹介し、新入生部員全員にコピーして渡しました。

『●関西学院大学ヨット部 部訓
如何なる闘いにもたじろぐなかれ
但し偶然の利益には 如何なるものでも騎士的に潔く棄てよ
最強の相手を求め、彼を汝の友とせよ
威張らず,誇りをもって勝て
言い訳をせず品位をもって負けよ 勝利より大切なのはこの態度なのだ
汝を打ち破った者に最初の幸福を
汝が打ち負かした者には最初の感激を与えよ
汝と汝のチームに対して願うべきはただ一つ 常に最善の者が勝つことを
汝の身体と精神をそして心構えを常に清潔に保て
汝自身の汝のクラブのそして汝の国の名誉をけがすなかれ

●子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
「子は親の鏡」
けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる
分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ
やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる』

8月の「ファミリーデイ」にも出席し、親御さんの前でもしゃべらないといけないなと思っています。大切なお子さんを預かっているのですから、明るく楽しくこれからの長い人生に大きなプラスになる時間を提供したいと思っています。この問題は、対戦相手に対してだけではありません。体育会ではどうしても先輩の方が技術的に高いので、後輩との関係が一般的な関係を越える時があります。これは自分以外の人へのリスペクトが足らない事から起こります。
身近な所で、我が子とのことを話しました。次男がジュニアヨットを始めてから、大学ヨット部を卒業するまでのことを、ウェブマスターをしていたジュニアヨットクラブのウェブサイトで紹介しています。ヨットに興味を持った親御さんが読んで、「これなら安心かな?どんな将来があるのかな?」なんて疑問に事実を持って答えるためです。そんな「親バカエッセイ」をコピーして置いてきました。興味を持ったら読んだら良いと思って。
小野ディレクターの言葉を聞き、「来た〜」と思いました。KGヨット部の部訓が全国区になるかもしれません。
「招き猫CB400SB」を出し、R171〜中央縦貫〜名神。7:42「桂川PA」で「助六寿司389円」を朝食・昼食用に購入。京都東IC下車し、湖西道路を走りヨットハーバー着。
大会本部に向かい、既に知ってるけど初日・土曜日のレース結果、今日の公告を確認します。部員がストレッチしている艇庫前に行き、出艇前ブリーフィングをします。8:30に出艇し、桟橋からは1回生部員達が選手一人ひとりにエールを送ります。僕も横に立ってエールを送ります。気持ちの良い学生スポーツです。
SW三井寺の風で本日の第1レースがスタートしました。軽〜中風で3レース行い、規定の13時を回ったのでレース終了です。3艇1チームで、当方は470で2チーム、S級で3チームエントリーしました。4校で各クラス8チームがエントリーし、3・4位と3・4・6位でした。早すぎるスタートで失格した艇が多く出て、全チームでトータル2〜3回失格してしまいました。優勝チームはそれがゼロで、改めて失格の総合得点に占めるインパクトの大きさを選手は感じたでしょう。
14時前にハーバーバック後、レース艇をある程度片付けた所でミーティングをしました。気づいたことを話します。加えて、コーチボートのトイレがトイレットペーパーの詰まりで使えなかったことを指摘しました。女子部員も増え、これはレース備品でもあります。ライバルD社の女の子が「トイレ貸してください」と来たのに使えませんでした。
コーチボートに乗ってきたのに、トイレ確認した部員が「すいません、詰まっていて使えないんです」を申し訳なさそう。再びレース海面に戻っていきました。彼女は辛いだろうし、他の女子の需要もあるからトイレの詰まりを見に行くと、トイレットペーパーが詰まってるだけみたい。シュポシュポはないようなので、手を突っ込んでペーパーを引っ張り出し、水流ボタンを押すとちゃんと流れ難なく使えるようになりました。ドライバーのマネさんに直ったことを伝え、練習してるD社470艇に近づき呼びます。すぐやってきて用を済ませ、スタート前にレース海面に戻すことが出来ました。良かった〜。「次のレースも頑張りな〜」と声をけて送り出すと、クルーと2人で「ありがとうございました」、気持ちの良い応対です。体育会の子達は、明るくさっぱりしていて大好きです。
彼女はライバル校の選手ですが、僕が作ったジュニアヨットクラブ出身で、次男の後輩です。確かお父さんも高校ヨット部出身だったはず。小学生でヨットを始め、大学生まで続けている。僕は子どもたちを教えている時、「ヨットを大好きにさせ、大学卒業までヨット部で楽しめる子にする」を目標に接しました。この子にはジュニア時代も直接関わっていないけど、嬉しいな。
ミーティングで、単純に手を突っ込んで詰まりを取り除いたら解消したことを話しました。ペーパー使う時、水をもっと流すようアドバイスしました。
次週のA級ディンギー全日本に向け整備されているOBさんと話しました。閉会式のエール合戦を見て、帰路に着きました。
湖西道路〜名神。16:35「桂川PA」で定番の「バニラソフト140円」で糖分補給し、帰宅しました。町内会の掃除に参加した家内が、「竹をノコギリで伐り腰が痛い」と湿布を貼っていました。
「モヤモヤさま〜ず」が次男の住む埼玉県だったので見て、「西郷どん」見てお休みしました。不思議とお腹が空かず、ヨーグルトのみの夕食でした。

2018/5/26
所属している「カフェの会」の集まりの日です。ランチ後、奈良県橿原市の環濠集落「今井町」を散策します。他宗や戦国武将などと抗争していた本願寺門徒が周囲に堀を築き自治していた町で、歴史遺産として建物などがたくさん遺っているらしい。奈良県の環濠集落はいくつか見学しましたが、今井町はダントツに大きいです。
11時に今井町のお店集合なので、それまで周辺を探索しようとツーリングマップルを手に取りました。1週間前に四輪だったので断念した室生寺〜仏隆寺の林道が気になり、そこを走ってみることにしました。
4:30に目覚め活動を開始。倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、5:22近所の「ローソン」で、「キリン小岩井ミルクコーヒー500ml・162円+田辺農園バナナ1本・108円=270円」を朝食用に購入しました。R171〜中央縦貫道〜吹田から近畿道〜南阪奈道〜大和高田バイパスで橿原市今井町。R165で桜井市〜R166〜r198で宇陀市。〜R370で榛原。R369にチェンジし、宇陀川沿いの林道に入りました。7:14気持ちの良い景色の中を走ります。
室生ダム湖岸道路になり、7:21「赤人橋」。バイクを停め、橋の中央部まで歩き、朝食のバナナを食べました。静寂に包まれ、湖面が鏡になっており気持ち良く食べることが出来ました。7:45、「室生ダム」。
室生川沿いを走り、r28に出ました。並行して走るR165を走るより時間がかかるけど、川沿いの道の方が楽しいな。室生川沿い・r28を走り「室生寺」横を通り、本日もメインディッシュ・仏隆寺に抜ける「室生古道」に入ります。林道に入り坂を登って行くと、8:01「西光寺」。
小さな境内でしたが、「城之山桜(枝垂れ桜)樹齢400年」が緑の葉をたくさん下げていました。ソメイヨシノは寿命が短いけど、山桜系は長いので老木の威厳があります。『西光が天正8年開基。融通念仏宗。本堂は四間四面の入母屋造り。屋根は茅葺きで、亜鉛並板で覆っている。現存する位牌などには、近亨元年・室町・元禄3年・安永・亨保の年号が刻されている。境内にある城之山枝垂桜は、樹齢400年。4月には薄紅色の美しい花が咲き競います』
融通念仏宗は、大阪平野区「大念仏寺」総本山の踊り念仏の宗派だったはず。訪問したことがあります。平野区が本拠地だった坂上田村麻呂の子が建立した寺院が前身です。
先に進むと、庄屋か豪族の末裔の家を想像させる白土塀の家があり、激写タイムしました。獣避けゲートを開閉し先に進みます。荒れた道を想像していましたが、時折コンクリート舗装になるものの「緑の中央線」にはならず、舗装も及第点でした。
8:22「室生古道」の峠。標高670。古道は舗装路から外れ、山の中に下っていました。東屋があったが、眺望はありません。バイクを置いて「仏隆寺」側に歩いていくと、山並みが広がる眺望が広がっていました。
バイクに戻り、仏隆寺側に下りだしてすぐ、また眺望が広がる場所に出たので激写タイム。そこに、仏隆寺側からご夫婦が登って来られました。絶景をおかずに休憩されるようで、ブルーシートを広げ始めました。お話すると、仏隆寺までタクシーで来られ、歩いて室生寺に抜けるそうです。そこからはバスだそうで、ナイスなハイキングコースですね。森の中の室生古道を歩いても良さそう。
8:37「仏隆寺」。拝観料300円だったのでパスしました。前回仏隆寺を訪問した時見つけられなかった「千本杉」を探しに行きましょう。道標に気をつけながら探しましたが、道を行ったり来たり。道標がきちんと設置されておらず迷いましたが、とうとう見つけました。
インパクト抜群で、地上1mほどで多数の幹に枝分かれし、それぞれが天目指して伸び、妖怪のような曲がりくねった枝が無数に出ています。「ここは屋久島か?」と屋久島千年杉を想像させます。散々迷った甲斐がありました。林道を下り、R369を渡ります。県道や国道をナビは案内しますが、田舎道を走りましょう。良い感じの田舎道に入ると、「文袮麻呂墓」と書かれた道標が目に入りました。気になったので寄り道します。9:30、枝尾根先に素敵な神社が見えてきました。「五社神社」。
『祭神:天照皇大神・天太玉命・天手力男命・天児屋根命・品陀和気命 「天太玉命・手力男命、往古より祭りし所、伊勢国に座す天照皇大神、大和国添上郡春日に座す天児屋根命、豊前国宇佐郡に座す品陀和気命を、この里の氏神として崇め祭り来る」と明治24年「神社明細帳」に記載されている。創祀の時期は明らかではないが、文明6年(1474)の棟札が所蔵されている。
社殿:拝殿の北側に瑞玉垣を巡らした内に、本殿が南面している。東側に社務所、西側に太鼓庫を配する現在の社務所は、元観音堂で神仏集合の時代が伺われる。古来より伊勢神宮に習い20年毎式年造営事業が氏子の寄進によって執り行われる。天神祠:祭神菅原道真朝臣命、祓戸之神祠:瀬織津比売神・速開都比売神・気吹主神・速佐須良比売神。
御例祭(秋季大祭)11月3日神賑行事として太鼓台巡行、月次祭毎月中旬祭神関連説明:天照皇大神を岩戸隠れから出すため、思兼神の策で良いのか太占を行った神が天太玉命と天児屋根命で、天照皇大神を岩戸から引きずり出した神が天手力男命。三神とも天孫降臨の際邇邇藝命に従って天下った神。品陀和気命は応神天皇の別名で八幡さまと呼ばれる』
その先は工事中で、「文祢麻呂墓」まで行けませんでした。徒歩で向かおうかと思いましたが、地図を見ると1km弱ありそうで断念しました。
9:46「沢城跡」。城址は900m北にある里山の山頂のようで、ここは「沢城の館・馬場跡」。伊勢国司「北畠氏」配下の沢氏の城で、松永久秀によって追われた後、高山氏が入城し、右近が生まれた。右近は摂津・高槻に移るまで居城にしていた。高山右近の摂津高山城跡を探索した時、こちらから移ってきた事は知っていたが、ここだったんだ。高山城跡近くに、母マリアのお墓なども遺っており、キリシタン大名の代表です。
r218に出て、R166にチェンジし、「道の駅・宇陀路大宇陀」前を通過し、枝道に入り10:18「又兵衛桜」。いつか見に来たかった後藤又兵衛の館跡の枝垂桜の巨樹。桜の花の季節ではないけど、十分その迫力を感じることが出来ました。「大坂夏の陣・道明寺の戦い」で討ち死にしたと言われている後藤又兵衛が、ここに隠れ住んだとも言われている。その屋敷跡の巨大枝垂桜。又兵衛の子孫が代々ここを耕していたのだろうか?
R166に戻り南下し、道なりにR370になり、右折して林道に入っていきます。宮奥ダム横を走り、大峠トンネル・八井内トンネルを出るとr37との交差点で、それを渡ってr155に乗ります。この道は「談山神社」への道です。飛鳥時代、中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足がクーデター(大化の改新)の密談をした多武峰にある古代史で大変重要な地です。
談山神社横を通り、峠を越えて明日香側に下ります。下った所にあるのが、天皇に代わり権勢を振るった蘇我氏再隆盛期を築いた蘇我馬子の墓と推定せれている「石舞台古墳」です。その横を通り、右に「川原寺跡」左に「橘寺」を見ながら走ります。橘寺は聖徳太子が生誕した地で、川原寺はかつて明日香4大寺の1つ。橘寺の命名は、イエス・キリストと同じ時代を生きた11代・垂仁天皇が不老長寿の果実を探しに出した田道間守が大陸から持ち帰った橘に因んだもの。往古の物語の舞台があちこちにある好きな地です。
R169に出て北上し、今井町。JR桜井線畝傍駅・近鉄橿原線西畝傍駅近くにあるCafe・Hackberryに11時直前に着きました。皆さんとの待ち合わせ時間ジャスト。お店はオープン前で、11時開店と同時に入店し、「Today’s PASTA エビと旬野菜のトマトクリームパスタ980円」を頂きました。流行りの古民家改装カフェで、落ち着いた時間を過ごしました。
12:23精算してから、皆さんと中世の環濠集落・今井町探索をします。お店のPに入れていたので別の場所に移動し、嵩張るバイクジャケット・パンツはCさんの車に置いてもらいました。今井町は、一向宗門徒が開いた道場「称念寺」の寺内町で、自治され莫大な富を集めました。堺などに進出した今井宗久などが有名で、石山本願寺・堺衆とともに織田信長に対抗しました。
奈良には環濠集落がいくつか遺っており、いろいろ訪問しましたが、ここは規模が大きかった。町並み保存資金が行政から出ているのだろうが、江戸時代の町並みがよく遺っていました。
通路に置かれた瓶に亀が飼われていました。「ミシシッピーアカミミガメ(幼名:ミドリガメ)」。噛みつきそうで怖い亀に成長していました。お薬屋さんも郵便局も、町並みに溶け込むような外観をしています。白土塀と灰色の甍が揃った路地は、タイムスリップしているようです。豆腐屋さんの横に、豆腐の自販機がありました。おあげ・こんにゃく・ところてん・わらびもちも自販機に入っていました。
「珈琲さとう」というお店があり、中を覗くと良い感じ。「生流茶庭・ふる伊青」というカフェもありました。「旧西町生活広場」を見学し、「珈琲さとう」さんに戻りおやつ時間。僕は「ケーキセット」を頂きました。あ〜だこ〜だ、いろんな話で盛り上がり、次の集まりの場所候補がいろいろ出ました。
「今井まちや館」に入り館内を見ていると、「称念寺」見学を勧められました。修理解体中で、めったに見られない重要文化財建物構造が見れるのだとか。「称念寺」に入ります。ヘルメットを被り内部見学出来るようになっていますが誰も入らなそう。めちゃ興味があるので、急いで巡ろうと名前を書いて入場。激写しながら駆け足で解体修理(現在は組み上げ中)現場を巡りだすと、女性陣が数人巡りだして落ち着いて見ることが出来ました。
古材をそのまま使った梁や、新しくした柱など現場を見ながら、修理前の姿がパネル写真で展示されている。鬼瓦・飾瓦などが降ろされたままで、間近に見れました。今井町はこの寺を中心に発達した。宝塚の小浜宿のようだな〜と思いました。小浜も一向宗門徒が城塞化した環濠集落で、見どころいっぱいです。
「旧米谷家」住宅に入ってみると、天井が竹で珍しい。夏は涼しそうで、煙が簡単に天井から抜けていきそう。4つも大きな釜が炊けるかまどがありました。使用人が多かったようです。「蔵前座敷」という珍しい造りの建物があり、白土塀の蔵にくっついた建物で、「ご隠居さんが住んでいた」との説明がありました。蔵の見張り番兼用ですね。
ツバメの巣があり、幼鳥が3羽賑やかにしていました。親鳥がすばやく飛んできて、餌をやっていました。15:24「Cafe・Hackberry」まで戻り、解散になりました。Cさんの車からバイクジャケット・パンツを出しお礼を言いさようなら。
R166〜大和高田バイパス〜南阪奈道〜近畿道〜中国道。豊中ICで下車し、16:48「伊丹産業北村SS」で給油。344km/13.64L=25.2km/L。

2018/5/19
コーチしてる大学ヨット部のコーチングの日です。今回は、日大アメリカンフットボール部ディフェンス選手が、KGファイターズQBに対して行った後方からのレイトタックル事件があったので、資料をいろいろ用意しました。
僕は体育会ヨット部出身で、スポーツ好き大学スポーツ好きなので、アメリカンという別競技だけれど、親も含め学生の体育会への嫌悪感・恐怖感を誘発するのではないかと心配しています。当方クラブは、お陰様で「楽しそうだね」と他クラブから言われるほど和気あいあいとしているので、そんな懸念はありませんが、コーチを拝命している以上、他山の石とせずタイムリーに学生に話しておかねばなりません。僕だって聞くも話すのも嫌だけど、我慢してもらいましょう。ちょうど新1回生が入部したばかりなので、良い機会です。
僕はあのビデオを見て、「これは酷い」と思いました。僕は中学部からKGで、校技であるアメリカンフットボールを、中高の授業でやっていました。もちろん素人なのでタックルはナシで、背中にタッチすればボールデッドになる「タッチフットボール」でしたが、その他のルールは同じです。このボールゲームはとても面白く、4回の攻撃以内で10ヤード進めば、10ヤード進んだ時点からまた4回の攻撃権が与えられます。ラグビー同様後ろの選手にパスするのは何回してもOKですが、前パスは1回だけです。1回の攻撃ごとに作戦会議して、「ロングパスするからA君真っすぐ全速で走って3秒で振り向いて」とか「後ろのランニングバックに中央突破させるから、ライン中央の2人はディフェンスラインを左右に開いて走路を開けて」なんて決めます。
ディフェンス側も「左右からQBに突っ込むよ」とか「ロングパスだろうから、後ろを警戒し後ろ警戒の人数を増やすよ」なんて、ディフェンス的攻撃をします。ディフェンスの予想が当たれば、オフェンスはゲインどころはマイナスヤードになってしまい攻撃権がこちらに移ります。オフェンスの作戦がディフェンスを欺けば、まんまと独走タッチダウンだって出来ます。僕は体育の授業でアメリカンになることを最も望んでいました。
走るのが早いけどヒョロヒョロ体重の僕は、タイトエンドが定位置で、いろんな所に走ってQBからのパスを受けたり、RBのオープン攻撃レーンを確保するためにディフェンス選手をブロックしていました。
ある程度レールが判っている僕が見ても、あまりにひどい反則で、一発退場になっても仕方ないし、打ちどころが悪ければ大怪我に繋がるラフプレーです。大学時代オフシーズンの冬バイトしてた毎日新聞で、一緒にバイトしていた1学年下のS君がQBをしており、中高とアメリカンで高校生の時全国制覇してる子でした。僕が4回生になった時、3回生S君が僕らの同期QBよりうまく、スターターQBに抜擢されました。期待していましたが、後方から背中へのハードタックルで半身不随になってしまいました。それ以来車椅子生活になりましたが、クラブは辞めずOBになってもコーチとしてクラブに貢献していました。
今回の日大選手のタックルは、ボールデッド後のQBがパスミスで気を抜いて天を仰いでいる時に、腰ではなく脚を巻くようにハードヒットしました。加えて一回転しており、脚を強く巻いていたら足を捻って靭帯損傷する大怪我になる悪質な反則行為です。同世代日本代表に選ばれるほど能力の高いディフェンス選手だからこそ出来た反則技です。もし脊椎にヘルメットからホードヒットしていたら半身不随以上間違いなしの殺人タックルでした。アメリカンの選手なら、誰だってわかります。日大は昨年度全国制覇したチームなので、みんな判っていたはずです。
僕も大学生体育会クラブの指導をしているのでわかりますが、よっぽど対象選手に個人的恨みがないと、こんなの選手が独断でするはずありません。KG選手はライン外の選手でさえ数人、咄嗟に指さして抗議してるのに、反則を繰り返すのを見ている日大選手が無反応だったのを見ても、監督・コーチ指導者からの指示が明白です。今の大学生は、こんな悪いことをする選手はいません。僕らの頃よりずっと優しく紳士の子が多いです。
なのに責任者である監督が、謝りにも行かず、世間の抗議の盛り上がりを受けてコーチと当該選手だけで謝りに行かせ雲隠れなんて、教育者としてありえません。この監督、日大の理事とのことで、教育機関で働く資格なんてないです。学校は生きる力を教える場所で、不正・暴力などに手を染めないよう指導管理し、その利のなさを教える場所でもあります。それが学校経営陣から、不正・暴力してどうするの。
反則を犯した自らの指導する当該選手に罪をなすりつけ知らぬ顔なんてありえません。自らの命令で当該選手が反則をしたと認め、当該選手の罪を軽減してあげなければ、自死しちゃうよ。定年近くまで働いたのだから、監督・学校経営陣からも退くのが妥当です。
日大フェニックスの長年の活躍が、日大ブランドを高めました。スポーツセレクションで優秀な選手のリクルート出来、学校の知名度を上げ受験生を増やし経営に大きくプラスしたと思います。今回の件で、早期対応しなかったことで、フェニックスのブランドは地に落ちました。
監督が早く謝り、自らの指示を認め当該選手の将来を少しでも守る姿勢を示すことが傷口が少しでも広がりません。当該選手は同世代ナショナルチームに選ばれるほど優秀だったので、大学卒業後も実業団に引っ張りだこになるだろうし、それなりの一流企業に就職できたでしょう。それが一瞬で水泡に帰しました。退部は当然ですし、針のむしろの大学に居座ることもかなりの試練です。中退するかもしれないなと思います。最悪は自死です。親御さんは、我が子が心配でならなでしょう。お母さんは目を離すと危険と思っているに違いありません。きっと寄り添っていると思うし、事件のほとぼりが冷めても手元に置いておきたいと思うのが正常な親心です。
今回の事件の落ち着き先としては、監督辞任ではなく解任、部員は退部、クラブは1年間対外試合禁止というところでしょうか。多くの部員が退部するでしょうし、来年度からのリクルートも苦戦するでしょうが、これが最も早く復活するルートに思われます。
関東学連や全国学連の処分が出る前に、日大として自らを処分し謹慎姿勢を見せないと事態は収まらないように思います。関東リーグの他大学から見れば、日大と試合なんてしたくありません。オープン戦である春を謹慎しても、本番である秋のリーグ戦に日大フェニックスが出場してきたら、「あれは何だったんだ、ノーペナルティーかよ」という気持ちになります。
ヨットの世界なら「公正な帆走」違反として、「フェアプレイ違反」という競技ルールの一段高いルール違反69条違反で提訴でき、永久追放だってあり得ます。各国協会がその裁定を下せば、国際協会に報告する義務があり、国際協会は全世界にそれを公表する義務を負います。故に何処の国に行ってもプレイできません。アメリカンのルールは知りませんが、アメリカで出来たスポーツなのでこんなルールだってあるんじゃないかと思います。
日大がのらりくらりやってたら、KGや被害者が刑事告訴するよ。我が子を痛めつけられて黙ってる父親なんていないでしょう。そんな親の姿を見て子は育ちます。警察や司法が入らないと自浄できないほど、日大は情けない学校なのかな?1回生向けに、ルールブックの「公正な帆走」「ルール69」を20部コピーしました。僕が高校生で入部した時から艇庫壁に貼ってあり、時々全員で唱和したフェアプレイを謳った「KGヨット部部訓」と、皇太子殿下が自らの誕生日の時、病気で苦しむ皇太子殿下を気遣って紹介した詩「ドロシー・ロー・ノルト/子は親の鏡」も20部コピーしました。
相手へのリスペクトのなさが今回の事件の根底にあると思うので、「誰にだって親がいる」ことを再認識してもらおうと、次男が僕の作ったジュニアヨットクラブに入部してきた小3から大学卒業までの軌跡を、親目線で書いたジュニアヨットクラブにアップしてる駄文をコピーしました。これは、興味のある者が読めばいいかと。69条違反事例として僕の作ったジュニアクラブが被害者になった事件をコピーしました。こちらも興味がある者が読めば良い。
6時に倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、リアボックスに資料を詰め込んで出発。6:51「エッソセルフ北村SS」で給油。246km/10.3L=23.9km/L。R171〜中央縦貫〜名神で、桂PAで休憩しました。トイレから戻ってくると、BMWの3ボックス旅バイクがいました。ライダーさんがツーリングマップルを見ています。テントも積んでありキャンプに行くようです。リアボックスには北海道やいろんな所のステッカーが貼ってあり、あれやこれや話しました。
「では気をつけて」でお別れし、京都東ICで下車し湖西道路を使って皇子山ランプ下車。7:58「セブンイレブン大津松山町店」で、「ボスとろけるカフェオレ500ml・161円」を購入し、ヨットハーバーへ。
みんなと挨拶し、キャプテンに「日大アメリカン事件で少し話したい」と伝えておきました。9時に出艇。AMの練習は最初三井寺の風4〜5m/sでしたが、風速が落ちないまま北風にシフトし、8m/sの良い風に恵まれました。気づいたことをコーチボートからマイクでアドバイスします。女子マネさんがノートにしており、僕の言った意味がわからない時は聞きに来るので、音節を切って書いやすいように話します。夜のクラス別ミーティングの材料になります。
12時にハーバーバックし、合宿所に戻って昼食。この前の浜から1人乗りに乗って練習している1回生も加わります。またバーバーに戻り、13:15出艇。また注意点をブリーフィングで話します。午後の練習は、コース練習です。来週4大学戦なので、レース型式練習です。キャプテンに聞くと、両クラス3艇ずつA・B・C3チーム出して、公式戦といえど下級生にもレース経験を積ませるようです。いいね!全員で36名もレースに出ます。1回生の高校ヨット部経験者を含め全員出場ですね。
15:50、コーチボートのみハーバーバックします。学校の広報誌の取材があり、カメラマンを乗せに帰りました。ハーバーがわからないようで迷っているらしく10分後に出艇。監督も乗っているので、主に僕がカメラマンに「良いアングル」をアドバイスし、ヨットに接近するのでドライブをマネさんから監督に交代して、よりエキサイティングな写真が撮れるよう誘導します。
6〜8m/sベースで、時折10m/sブローが入るので、ヨットがかっ飛んでいます。僕が見てもカッコいいなと思います。愛媛出身のMさんという1回生マネさんが乗っており、上回生マネさんがレース仕事を教えていました。ヨットが良い風を受け高速で湖面を疾走するので、追いかけるコーチボートの方も波をボンボン飛んでかっとびます。船酔いが心配でしたが、平気なようで頼もしい。
17時にハーバーバックし、キャプテンはインタビューを受けていました。僕は気になった選手にアドバイスし、トラブル艇を手伝います。「・・君、カメラ目線だったよね」とか「意識してたやろ」と軽口を叩きます。選手たちも強風を楽しんだようで皆笑顔で、「そりゃ意識しますよ」「ボツ写真でもいいから、写真データもらいたいな〜」と、すげー高そうなカメラで写してもらった写真が欲しそうです。僕もカメラ持ってくれば良かった、この日に限って忘れちゃった〜。いつものようにデータをあげられるのに。
合宿所に戻り、1回生の様子を見ます。みんな楽しかったようで、ひっくり返りもしただろうけど、笑顔です。女子選手を中心に、今日学んだことをノートしていました。女子がいると、男の子も真面目にノートするね。
18:10から全体ミーティングです。トラブルなどあったので、監督コーチの話まで時間を使っちゃいました。息子と同期だったI監督が話しました。学校職員なので、卒業・入学シーズンは大忙しで、やっと時間が出来たそうです。1回生とはほぼ初めてなのでいろいろ。続いて僕で、本日の練習のことを話す時間がなくカットし、用意して来た資料をもとにフェアプレイとリスペクトについて話します。ドロシー・ロー・ノルトの詩を読み上げた時は、皆真剣に聞いてくれていました。笑いを誘うとことでは皆笑ってくれて、暗い話題でも明るく良い話ができたように思います。漫才師のように笑わせながら話せると、心の奥に届くから。僕の話が終わり、待ちに待った夕食です。「いただきます」と同時にお代わりに皆走ります。和気あいあいとした良いクラブです。これを続けられたら強くなるよね。
19:20から全員で掃除なので、10分ほど前に帰路に着きます。大部屋の床に座りリラックスしてる部員の間を「帰るわ」「また来週」、マネさんには「夕食おいしかったわ、ごちそうさま」と肩を叩きながら、ふいに脚で挟んでスキンシップしながら通り抜けます。みんな「ありがとうございました」って大きな声で応えてくれ、清々しい若者たちです。
湖西道路〜名神〜中央縦貫〜R171で帰宅。21時を回っていましたが、家内がまだ起きていました。「おかえり〜」「まだ起きてたの」「うん、ロイヤルウェディング見てたの」。「どれどれ〜」と言いながらちょっとハードなスキンシップで得意の・・を。「もう、触らないでよ〜」なんて笑ってる。我が家も気持ちの良い笑い声があります。
風呂入って、ヨーグルト持って自室に上りオヤスミ〜。

2018/5/13
次男が、今春からお嫁さんのご両親と一緒に住むようになりました。実家を改装し、2世帯住宅に作り変えました。庭が広いので、我が家のように庭に新築して住む選択もあったそうですが、広い庭は残したくて、2世帯住宅を選択したそうです。次男は建築士なので、図面を自分で引き、仕事繋がりのある施工業者にお願いしました。新築と同じぐらいの費用を掛け、返済生活に入ります。
結婚前からお父さんに気に入られ、しょっちゅう伺っており、お嫁さんは女兄弟の長女なので、「一緒に住まないか?」は自然な流れでした。第一子が生まれ正式に言われ、私に相談して来ました。私は大賛成しました。お嫁さんは、家内同様働きたい人で、子育てするのに親が一緒にいる、あるいは近くにいる環境は何かと楽で安心です。
建物ができ、門などエクステリアは未完成ですが、引っ越し荷物を片付いたので「見に来い」とのリクエストがあったので応えました。引っ越し中、完全リタイヤしたお父さんが庭仕事で肩を痛め右手が使えなくなりました。早速庭仕事など男手が必要なことは、みな次男がやっているようです。
いつもなら、新幹線自由席で行き当たりばったり行くのですが、兄から「東京ブックマーク」で「新幹線+宿が、新幹線代ぐらいで手に入る」のでいつも利用していると聞いていたので、ウェブサイトにアクセスしてみました。日帰りなので対象外だろうと思っていたら、「0泊」というのがありました。クリックすると、近畿日本ツーリストの商品サイトに飛び、往復2万円(正規運賃なら3万円)でした。
1ヶ月前から売り出すとのことで、次男とお嫁さんに都合をメールで聞きました。2日ほど音沙汰が無いので、サイド問い合わせると「ゴメン、忘れてた。5/13でOK」との返事を受け、予約しに再びサイトを開きました。そしたら、既に往路一般指定席は売り切れており、仕方なくグリーン車利用にしました。往路グリーン車でも2人で往復43200円とお得でした。新幹線車内販売コーヒータダ券2枚+東京駅一番街お買い物券1000円×2+東京メトロ24hチケット×2がおまけで付いているので、それも現金換算したら更にお得になります。
朝3時に目覚めてしまいました。前日1日中船に乗っていたので起きられるか心配で、家内に「4時に起こして」と言っていましたが、僕の方が早く起きちゃいました。二度寝すると起きられないと思い、倉庫に行きゴソゴソし始めました。「通勤リード110」に家内のヘルメットとカッパを入れたリアボックスを付け、用意万端整えました。天気予報は、「伊丹:12〜21雨」「埼玉:夕方から雨」で、うまくいくと自宅〜駅は雨に降られないかも知れません。
北伊丹5:25〜5:49新大阪。6:16新幹線のぞみに乗れました。グリーン車は2+2座席で椅子幅が広いだけで、特に値段差以上の良いなは感じませんでした。おしぼり出てくるし、足置きあるし、車内販売も多く回ってくるけど、そんなのどっちでも良いです。
6:43「JR東海パッセンジャーズホットコーヒー320円」をタダ券で家内が注文し、ぶどうパンを食べていました。僕は家内が用意してくれたファミリーマート・ドーナツ4個パックを朝食にしましたが、甘すぎてミスタードーナツのドーナツとは大違いでした。毎回期待している富士山は、生憎の曇り空でしたが、一瞬頂きを見せてくれました。かなり雪が溶けており、最も美しい感じからは少なすぎました。
8:43東京駅。8:48JR中央線に乗り遅れ、御茶ノ水〜総武線〜9:05JR飯田橋。ここのホームで家内は待ち、僕は人生初めての靖国神社参りです。徒歩10分だそうですが、迷いそうなのでタクシーに乗りました。靖国神社・田安門まで490円。
大鳥居をくぐります。『靖国神社は、明治2年6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年に「靖國神社」と改称されて今に至っています。靖国神社は、国家のために尊い命を捧げられた人々の「御霊」を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
靖国神社には、寛永6年(1853)以降、幕末・明治維新・西南の役など近代国家に尊い命を捧げられた神霊、日清・日露・第一次世界大戦、満州・支那事変、大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して国を守るため亡くなられた神霊246万6千余柱が祀られています。身分や男女の区別なく、祖国に殉じた尊い神霊として等しく祀られています。
正式参拝:靖國神社では本殿の奥深くに昇殿し、参拝する事ができます。戦歿者の慰霊と共に、厄祓い、初宮などの祈願参拝も受け付けております。ご希望の方は、参集殿受付にお申し出下さい。受付を済ませた後、神職が本殿までご案内いたします。
遊就館:館内には、靖國神社に鎖まる英霊の遺書や遺品をはじめ、英霊のまごころやそのご事績を今に伝える貴重な史・資料が展示されています。10万点に及ぶ収蔵品の中には、絵画や美術品・武具甲冑・武器類なども数多く含まれています』
長い参道を歩き大村益次郎像。『文政7年(1824)、周防国鋳銭司村(現・山口県山口市)の医者の家に生まれ、村田蔵六と言った。広瀬淡窓について儒学、緒方洪庵に蘭学を学び、寛永のはじめ宇和島藩に仕え西洋式軍艦を設計建造。江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、幕府の講武所教授などを勤め、蘭学者・蘭方医・兵学者として名を高めた。桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応2年第2次長州征伐の折、石州口の戦を指揮し幕府軍を破り武術家として脚光を浴びた。戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。兵部大輔に任じられ、建議して軍政を洋式に改めることを主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治2年(1869)9月、不平士族に襲われ重傷を被り、同年11月5日大阪にて没した。46才。
明治2年6月、戊辰戦争の戦没者を祀る東京招魂社(現・靖国神社)の創建に際し、社地選定のため同月12日この地を視察し、創建者として功績は大きく、明治15年伯爵山田顕義らにより銅像建立が発議され、宮内庁から御下賜金の沙汰もあり、彫刻師・大熊氏廣に鋳型製作が委譲された。
大熊氏廣は明治9年、工部美術学校開設と同時に彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザの薫陶を受け、同15年主席で卒業する。工部省に入り、皇居造営の彫刻制作に従事、明治18年大村益次郎の銅像製作を委譲されると、彫刻研究のため欧州うに留学する。パリ美術学校ではファルギエルにつき、ローマ美術学校ではアレグレッティ、さらに巨匠モンテヴェルデに入門した。帰朝後明治26年にいたり、この地に我が国最初の西洋式銅像が建立された。大熊は、キヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたった。陣羽織を付けた左手に双眼鏡を持ち、東北の方を望む姿は、上野東叡山に立てこもる彰義隊討伐の時の様子と言われる。後に、有栖川宮熾仁親王・小松宮彰仁親王などの彫像を製作し、文部省美術展覧会審査委員を勤めた』
横を見ると、「二松学舎大学・九段3号館」がありました。参道を歩き、道路を渡り鳥居をくぐって、大神門をくぐり、本殿に参拝しました。社務所で、マグネット交通安全メダルを購入。
靖国神社遊就館に入り、拝観料1000円。「零式艦上戦闘機52型」「泰緬鉄道C56型」「89式十五センチカノン砲」「96式15センチ榴弾砲」が最初の部屋に展示されていた。
『零式艦上戦闘機・通称ゼロ戦は、昭和15年(1940)から造られた日本海軍主力戦闘機で、当時最高の性能を保持した日本が世界に誇る歴史遺産である。昭和20年(1945)8月まで1万機造られたが、現存しているゼロ戦は20機に過ぎない。その優れた性能と優美な機体は、現在でも世界中の多くの人々に愛好され、対戦国であったアメリカでもスミソニアン博物館・アメリカ空軍博物館・太平洋航空博物館パールハーバーなどに5機が展示されている。
この機体は、昭和18年(1944)11月に三菱重工名古屋大江工場で製造された後期モデルの52型で、エンジンは1140馬力・最高速度は550キロであった。
戦後、各地に残されたゼロ戦を含む兵器は全て廃棄処分となったが、南洋方面では飛行可能な航空機は連合軍の連絡用として、機体は白色・日の丸は黒十時に塗られて使用された。こうした機体も後に目本の整備兵が帰還し、或いは部品が無くなった時点で次々と解体放棄されていった。
昭和20年、南洋最大の航空基地であったニューギニアーラバウルにおいても飛行可能な機体は4機あったが、そのうちの2機はオーストラリアなどに送られ戦争博物館に保管された。残った2機は解体されて滑走路付近に放置されていたが、昭和49年(1974)に回収され、翌年漸く日本に里帰りした。
昭和55年(1980)、この機体を入手しヤップ島など南洋諸島から回収したエンジンや部品等を揃えて復元を開始したが、機体の劣化は想像以上に著しく、また戦後既に45年が経遇して、ゼロ戦に関係した技術者も少なくなっていた中での復元は困難を極めた。修復を始めて20年の歳月を要して、平成11年(1999)にこの零式艦上戦闘機の復元を完成した。平成14年、靖國神社御創立130年の記念すべき年にあたり、大空に散華された英霊の鎖魂を祈りこの復元機を奉納するものである。 平成14年7月 復元製作者・原田信雄』
『昭和15年すなわち紀元2600年に制式採用された「零式艦上戦闘機11型」は、ゼロ戦の愛称で親しまれる。初陣は昭和15年9月。中国重慶においてソ連製中国軍機との空中戦で、敵の大半を撃墜。味方には損害なしという空前の戦果を上げ、その格闘性能と航続力で世界最強を誇った。
ここに展示されている52型は、初期型より主翼の先端を短く円形に整形されている。発動機の栄21型エンジンに、推力式単排気管を採用して速度がかなり向上し、零式戦闘機の中で最も多く生産された。
兵装:プロペラの回転と機銃の発射間隔との同調装置を備えた96式艦戦以来の97式7.7ミリ機銃(弾倉600発)2挺に加え、99式20ミリ機銃(125発)2挺が、空飛ぶ機銃座としての威力を発揮した。また、燃料の投下式増設タンク(300リットル)を使用すると、零戦の大きな特徴の1つである航続距離は、初期の21型で約3000kmを超えた。
21型 発動機:栄21型・940馬力 全幅12m・全長9.05m・主翼面積22.44平方メートル・重量2421kg 最大速度533km・実用上昇限度10300m・最大航続距離3110km
52型 発動機:栄21型・1130馬力 全幅11m・全長9.121m 主翼面積21.3平方メートル・重量2733kg 最大時速565km・実用上昇限度11740m・最大航続距離1920km』
順路に沿って、2F展示室に上がった。フルの120分コースを駆け足で巡ります。天井から特攻していく桜花が下がっていた。一式陸攻に吊られて編隊飛行しているジオラマも展示されていた。
『ロケット特攻機「桜花11型」 大東亜戦争末期において海軍が開発した特攻機。母機である一式陸上攻撃機の爆弾倉に懸吊された状態で目標近くまで運ばれる。この間に桜花操縦士は母機搭乗員との打ち合わせを済ませ、桜花に椎乗し待機する。桜花の搭乗席と母機との間にはモールス信号の装置があり、準備完了後「・・・―・」の合図と同時に投下される。
桜花は機首を下げながら暫時加速し、高度が1000m落ちたあたりで、最良滑空速度(最も遠くまで飛べる速度の250〜260ノットに達する。その後、飛行距離の延伸・増速などの必要に応じて尾部の火薬ロケットに点火して噴進し(燃焼時間9秒のロケットが3本)、敵艦の吃水線あたりを狙って操縦士もろとも突入する。
弾頭の300kg徹甲弾は戦艦や航空母艦の装甲を貫いて艦体内部で爆発するように極端な遅動信管が装備されており、一発でこれらの大型艦船を撃沈できるとされていた。尚、実戦使用にはいたらなかった「桜花43型」では、ジェットエンジンも採用された』
『熱田21型発動機 この発動機は当時、世界最高水準を誇ったドイツのダイムラーベンツ社の液冷エンジンDB601を、愛知時計電気が国産化したもの。戦局の悪化にともない工作機械の加工精度の低下等の問題があり、技術陣は対処を重ねて、昭和18年12月高速艦上爆撃機「彗星」に搭載して世に送り出した。戦争末期のことで、戦況においてはこの性能を充分に発揮できなかったが、彗星はこの発動機の優れた高速性を誇った』
『回天4型は、回天1型の速度向上と航続距離の延長など、性能改善を目指して造られた特攻兵器である。その外殻は回天1型よりも一回り大きく、横断面の直径で約35cm大型化している。大東亜戦争の終戦時には6艇が完成していたが、実戦で使用される前に終戦を迎えた。戦後、完成した6艇と関係部品は海中投棄や解体を余儀なくされた。この4型胴体も戦後放置されていたが、回天4型勇姿の永久保存の目的を以て、回天関係者から靖國神社に奉納されたものである。
全長76.5m・直径1.35m・重量18.17t・搭乗員1名・頭部炸薬量1.8t
水中速力と航続距離:20ノット(時速約37.0km)−62km、30ノット(時速約55.6km)−38km、40ノット(時速約74.1km)−27km
※水防眼鏡2型改7(潜望鏡)は複製である』
『艦上爆撃機「彗星11型」 昭和18年(1943)12月制式化した日本海軍最後の艦上爆撃機で、終戦までに2157機生産された。戦局の進展から爆撃機として用いられるよりも戦闘機あるいは特攻機として、その多くが失われた。
腱示している「彗星11型」は、昭和47年(1972)中部太平洋西カロリン諸島ヤップ島の旧滑走路脇のジャングルで遠藤信彦氏によって発見され、昭和55年(1980)日本テレビ放送網の協力により日本への里帰りが実現した。
同年「彗星」ゆかりの陸上自衛隊木更津基地で飛行機研究家・田中祥一氏をリーダーとして復元され、昭和56年(1981)4月5日靖國神社に奉納された。
全幅11.5m・全長10.22m・重量2.5t・搭乗員2名・発動機熱田21型・離昇出力1200馬力 最大速度550km/時 武装:7.7ミリ固定機銃2・7.7ミリ旋回機銃1・爆弾250kgまたは500kg×1、30kgまたは50kg×2』
『93式魚雷3型 日本海軍が世界に先駆けて開発した「酸素魚雷」。昭和8年(皇紀2593)に制式化され「93式魚雷」と呼ばれ、主に巡洋艦・駆逐艦に搭載された。従来の魚雷は圧縮空気を用いていたので航走中に気泡による「雷跡」が発見されやかったが、この酸素魚雷は高速で長い射程と強大な爆発力を持ち、しかも無航跡であり世界水準を超えるものであった。のちに人間魚雷「回天」の動力としてこの魚雷の機関が使用された。
酸素魚雷:エンジンの燃焼力を高め、無航跡を実現する酸素魚雷の研究は各国が行なったが、いずれも純酸素を用いると走行開始直後に大爆発を起こす危険が高く、技術的に困難で実用出来なかった。しかし日本は、始動時に通常空気を使用し徐々に純酸素に切り替える技術を開発し、実用化に成功した。この事は極秘とされた。
全長9m・直径0.61m・全重量2.8t・頭部炸薬量490kg
航続距離36ノット(40,000m)・42ノット(30,000m)・48ノット(22,000m)』
『戦艦陸奥装備副砲・50口径3年式14センチ砲 海軍が研究を重ねて開発し、大正3年(1914)制式化し、「陸奥」の副砲として搭載された。陸奥は昭和18年(1943)6月8日瀬戸内海柱島の艦隊警戒泊地で主砲火薬庫の原因不明の爆発により沈没した。
ここに展示してある副砲は、昭和48年(1973)、遺骨収集の際に引き上げられ、艦とともに殉職した乗組員1122柱の英霊を奉慰し、遺徳を顕彰するために軍艦陸奥引揚促進期成会・同遺族会、同生存者会により、昭和56年(1981)6月8日、靖国神社に奉納された』
ショーウインドウに、軍艦のプラモデルが多数並べられ、解説が付けられていた。『一等駆逐艦「清霜」 昭和19年5月、新鋭艦として神奈川県の浦賀船渠にて竣工した。竣工後まもなく、レイテ沖海戦の激戦を戦い、戦艦「武蔵」が被弾沈没の際、僚艦「浜風」と共に武蔵乗員救助に活躍、これをマニラに移送した。続いて12月、フィリピンーミンドロ島サンホセ泊地突入の「礼号作戦」に参加、米陸軍機の爆撃により2番煙突に直撃弾を受け、更に魚雷艇の雷撃を受けミンドロ島南方水域にて沈没した』
『伊号第36潜水艦 昭和17年9月横須賀海軍工廠にて竣工。この潜水艦の特徴は、艦橋前の大型格納筒で、そこには小型水上偵察機がおさめられた。そして前甲板の殆どを占めるカタパルトに象徴される航空機搭載能力がある。しかし、大東亜戦争中期に後甲板の備砲を撤去し人間魚雷「回天」4基を搭載、第一次玄作戦ウルシー攻撃を成功させた。後に前甲板の航空施設を撤去し回天2基を増備し、数多くの回天作戦に従事した。戦後、米軍によって長崎県五島列島沖にて爆破処分された。同型艦は20隻が建造されたが本艦を除いて全て戦没した』
『回天1型改1 回天は、世界で初めて日本が開発に成功した酸素魚雷(93式3型魚雷)を活用することから研究が進められた。一撃でも巨艦を轟沈する特攻兵器として開発され、大東亜戦争末期の昭和19年(1944)8月海軍が制式兵器として採用した。
「天を回らし戦局を逆転させる」という意で命名されたこの必死の兵器により、身を挺して祖国を護ろうと百余人の若人達が次々と南冥に散っていった。
ここに展示している回天は、終戦後ハワイの米陸軍博物館で保管されていたが、当局のご好意と回天会の多大なるご尽力により、昭和54年(1979)10月、同博物館から靖國神杜に永久貸与されたものである。
回天上部に装備した水防眼鏡2型改5(潜望鏡)と展示の水防眼鏡2型改6は、平成21年(2009)広島県呉市在住の長田研司氏から奉納されたものである。
全長14.75m・直径1m・重量8.3t・搭乗員1名 頭部炸薬量1.55t・推進装置93式3型魚雷・燃料灯油酸素・出力550馬力
水中速力と航続距離 12ノット(時速約22.3km)− 78km、20ノット(時速約37.0km)−43km、30ノット(時速約55.6km)−23km
※波切りの「菊水の紋」は、一部の艇には記されていたが、実戦用の艇では敵に発見されにくいように殆ど描かれることは無かった。
※1型を改良した改1は、安全性や操作性向上のため一部構造変更がなされた。外観は、波切りと整流板が簡略化した形状となった』
『戦艦「大和」(縮尺200分の1) 艦名の「大和」は、「大和国」に由来し、昭和16年12月16日に呉海軍工廠にて建造された、当時の最先端技術を投じた史上最大の戦艦で、竣工後直ちに連合艦隊に編入された。「大和」の初代艦長には高柳儀八海軍大佐が着任した。
昭和17年2月には、連合艦隊旗艦となり山本五十六連合艦隊司令長官の将旗を掲げ、同年5月のミッドウェー作戦では主力部隊の中核として初陣を飾った。その後は、マリアナ沖海戦、比島沖海戦などの戦いに参加するも、対空戦闘に終始したため、「大和」の主砲46センチ砲3基9門が威力を発揮することはなかった。
しかし唯一、比島沖海戦中、サマール島沖で米護衛空母部隊と交戦した際に敵艦に対して砲撃が行われ、この時が、大和が敵艦に放った最初で最後の主砲攻撃となった。
昭和20年4月5日には、「大和」に沖縄への海上特攻作戦の命令が下り、6日に第2艦隊旗艦として軽巡洋艦「矢矧」率いる第2水雷戦隊を従えて徳山沖を出撃、翌7日には敵機動部隊艦載機による攻撃を受け奮戦するも、伊藤整一司令長官・有賀幸作艦長以下多くの将兵と共に、九州坊の岬沖90浬にて短い生涯を閉じた。
この模型は、沖縄への海上特攻作戦時の勇姿を忠実に縮小、再現したものである』
『海軍3年式8センチ高角砲 在来の3センチ艦砲を改良した日本海軍の対空砲で、大東亜戦争中基地防空の主役として、また対艦船用に広く使用された。ここに展示してある高角砲は、東部ニューギニアのサラモアにおいて基地防空に活躍した火砲である。
昭和44年秋、東部ニューギニア戦友会の遺骨収集において坦現地政府の許可を得て日本へ持ち帰り、昭和46年(1971)4月、同戦友会から靖国神社に奉納された。
口径76.2ミリ・砲身長304.8cm・重量2300kg
最大射程7,200m・最大射高5,400m』
『8式7.5センチ野戦高射砲 折りたたみ式の砲床と車輪を持つ移動式高射砲で、陸軍野戦防空の主力火器として活躍した。この高射砲は東部ニューギニア・ウエワクで活躍した。
東部ニューギニアでは、糧食・弾薬の補給が途絶した中、困苦と病魔を克服して最後まで戦闘を継続した、戦史上稀に見る難戦であった。昭和46年(1971)1月、全戦争受難者慰霊協会が実施した遺骨収集において、現地政府の許可を得て持ち帰り、昭和47年(1972)8月、同協会から靖国神社に奉納された』
『97式中戦車 日本陸軍の代表的戦車。展示してある戦車は、戦車第9連隊に所属し、昭和19年(1944)4月、満州からサイパンに進出し、太平洋の防波堤として米軍の猛攻を迎え撃ったが7月7日玉砕した。
日本軍戦車は道路状況の悪い大陸で、歩兵とともに戦い、その前進を妨害する敵の機関銃などを撲滅することを目的として開発されたもので、小型軽量で米軍のM4戦車との戦いは苦戦を免れなかった。
戦後、連隊の生存者が私費を投じて発掘し故国に持ち帰り、サイパン島戦没戦友の慰霊と戦車兵団戦没者顕彰の象徴として昭和50年(1975)8月12日、靖国神社に奉納された。
重量15.8t・全幅2.32m・全長5.5m・全高2.38m・装甲前面25ミリ・側面20ミリ
乗員4名・武装97式57ミリ戦車砲・97式7.7ミリ車載機関銃2
機関空冷V型12気筒170馬力・最高速度38km・行動距離210km』
『41式山砲 日露戦争が終わって明治41年(1908)制式化された砲身後座式の国産山砲。分解して馬に積載するが、人力でも運搬可能であり山岳地や障害の多い地域で使うのに便利であった。砲兵部隊のほか、歩兵部隊の「連隊砲」として広く用いられた。
ここに展示の砲は大東亜戦争において宇都宮の野砲兵第14連隊(基2807部隊)が東部ニューギニアの戦闘で使用した歴戦の火砲で、昭和51年(1976)4月、基07会戦友会から靖国神社に奉納された。
口径75mm・砲身長130cm・重量540kg
最大射程6300m・発射速度10発/分・弾種:榴弾・榴散弾・銑製榴弾』
『95式軽戦車展望塔部分 九五式軽戦車は、昭和10年(皇紀2595)に制式化された3人乗りの戦車で、機動性に富み、被弾時の発火防禦や戦地での冷却水の補充・凍結にも配慮した空冷式ディーゼル・エンジンを積載していた。
硫黄島では西竹一陸軍中佐が指揮した戦車第26連隊の主力として獅子奮迅の活躍をした。この展望塔部分は硫黄島で収集され、平成15年8月13日に財団法人偕行社から奉納されたものである』
『4式20センチ噴進砲 この砲は硫黄島で玉砕した小笠原兵団(兵団長・栗林忠道中将)に配属された噴進砲中隊(長・横山義雄大尉)の装備・4式20センチ噴進砲。
噴進砲中隊は、昭和20年2月19日上陸した敵に対し、甚大な損害を与え一時その侵攻を食い止めた。全弾撃ち尽くした後も、鹵獲した銃によって粘り強く持久戦を続け遂に全員散華された。
噴進砲は、砲と名付けられているが実は噴進榴弾(ロケット)発射装置である。噴進榴弾は自身の固形燃料で飛翔し、しかも自体の推力調節により飛距離の調整が出来たので、一般の火砲と比べ飛距離・命中精度は落ちるが、簡単な構造で運搬・移動が容易であった。この砲は戦後長期問その戦跡に放置され腐朽寸前であったが、玉砕された硫黄島将兵の慰霊顕彰の象徴とするため、各方面各位の協賛と奉仕により送還・復元され、靖國神社に奉納された。
4式20センチ噴進榴弾:全長1019ミリ・重量83.7kg・最大速度175m/s・最大射程2400m
4式20センチ噴進砲:砲身長1923ミリ・重量95km
噴進砲中隊:編成昭和19年6月陸軍野戦砲兵学校・中隊長横山義雄大尉・隊員130名・装備噴進砲46門・噴進榴弾434発』
『96式25ミリ連装機銃 フランス・ホチキス社が設計し、昭和11年日本が国産化した。陸海軍艦船や陸上基地などで対空防御用として使用された。展示物は昭和43年ブーゲンビル島ファウロ島遺骨収集団全国派遣団がラバウル海軍防空台で収集したもの』
『4年式15センチ榴弾砲の砲弾及び薬筒 この砲弾はサイパン島にて玉砕した野戦重砲兵第9連隊黒木大隊の陣地跡より発見され、祖国に持ち帰られたものである。薬筒は火砲に装填されたまま発見され、現地人の協力のもと火砲を海中に沈め爆薬により火薬を摘出したので、一部変形している』
『92式重機関銃 日露戦争後に機関銃の重要性を認識した日本が、独自開発を進めた陸軍の代表的重機関銃。弾丸の発射速度が比較的遅く、銃本体と専用の銃架を含むと500kgもの重さになり、運搬には4人がかりとなった。しかし命中精度は高く、難点を補って余りある働きで、支那事変・大東亜戦争に活躍し、前線の歩兵を援護する力強い兵器だった』
『重巡洋艦「摩耶」 昭和7年6月、神戸の川崎造船所で竣工。「高雄型」の4番艦で大東亜戦争開戦当時から活躍した。様々な海戦に参加したが.ラバウルで敵機による襲撃を受け、これを機に改装し3番主砲を撤去して、対空兵装の増強に重点を置いた。昭和19年10月のレイテ沖海戦で、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した』
『防空駆逐艦「秋月」 防空駆逐艦「月型」の1番艦として、軽巡洋艦に匹敵する排水量と航続力を持つ。空母を直衛して、高い防空能力を持つ長砲身65口径10センチ高角砲を前後に2群づつ装備し、マリアナからフィリピンにいたる数多くの激戦を戦った』
『防空駆逐艦「初月」 防空駆逐艦「月型」の4番艦で、防空駆逐艦として昭和17年竣工後、空母直衛部隊に編入され、常に空母部隊の直衛にあたった。マリアナ沖海戦では空母「瑞鶴」を直衛して戦ったが、レイテ沖海戦のエンガノ岬沖海戦で「瑞鶴」が沈没後、周囲の海面で漂流者を救助しつつ、近づいてきた米艦隊に只1隻で反撃に出た。16対1の奮戦後、遂にフィリピンの海底深く、壮烈なる沈没を遂げた』
『重巡洋艦「青葉」 昭和2年9月、三菱重工長崎造船所で竣工。主砲の20センチ砲は、発射速度や防御の上からも有利な連装砲塔であり、対空兵装も12センチ高角砲を装備した。偵察機用のカタパルトを持つなど近代化巡洋艦の花形であった。大東亜戦争開戦時は南洋群島を攻略するなど数多くの海戦に参加し、昭和20年7月呉軍港で空襲を受けて被弾し、海底に着底した』
『重巡洋艦「高雄」模型(1/100) 昭和7年5月、横須賀海軍工廠で竣工。「高雄型」の1番艦で大東亜戦争開戦時、第2艦隊の旗艦などを務め、様々な海戦に参加したが特に第3次ソロモン海戦ではアメリカの戦艦「サウスダコタ」を撃破する戦果を挙げた。昭和19年10月のレイテ沖海戦で、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け中破しシンガポールにて終戦を迎えた』
『航空母艦「翔鶴」模型(1/50) 昭和16年8月横須賀海軍工廠で竣工した。「翔鶴」は大東亜戦争開戦劈頭の真珠湾攻撃を始めとして主要海戦、作戦に参加し勇戦奮闘したが、昭和19年6月のマリアナ沖海戦で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没、約1200人もの乗員が艦と運命を共にした。
この「翔鶴」模型は、東京ソリッド・モデル・クラブが2年間かけて製作。「翔鶴」に乗り組み、祖国に殉じた御祭神を奉慰し、遺徳を顕彰する為に奉納された』
『特殊潜航艇「海龍」 2人乗りの有翼潜航艇で、機首に600kg炸薬を装着し、艇外の可動式発射筒に収納された2本の魚雷を持ち、局地防禦のため本土決戦用に開発された特攻兵器である。この有翼艇は昭和18年3月頃、海軍中佐浅野卯一郎らが飛行磯にヒットを得て考案し、その後昭和19年9月頃から右記の兵装をはじめ内部に大改造を加え兵器として採用されるに至った。艇は初久里浜の工作学校で、さらに昭和20年4月頃から横須賀海軍工廠を中心に全力を挙げて製造され、終戦までの完成艇数は236隻に達した。一方搭乗員・整備員の教育は、横須賀航海学校及び機関学校の施設を用い、また前線基地を油壷・江の浦・下田・小名浜などに設営し、百隻近くの艇を展開したところで終戦を迎えた』
『震洋 昭和19年4月軍令部から戦局の劣勢を挽回する為提案された1〜9までの特殊兵器の1つで、6の回天とともに実用されたのが4の震洋である。1人乗りの1型改1は艇首に爆弾250kgを搭載して全速で敵艦船に衝突自爆しようとするモーターボートである。
全長6m・幅1.65m・喫水0.6m・排水量1.35t・速力23ノット・航続距離250海里・12センチ噴進砲2基を装備した。主機関は自動車のエンジン1基を使用した。同年8月、第一次震洋艇隊50隻が長浦(横須賀)での訓練後、父島に配備された。以降九州川棚警備隊と江田島江の浦で訓練を行い、フィリピン・南西諸島・本土各地・伊豆諸島・小笠原諸島・支那沿岸・東南アジアなどに配備され敵の来攻に備えた。
搭乗員は、海軍兵学校や予備学生出身の青年士官が隊長となり各艇隊は予備練出身者であった。なお5型の全長6.5m・幅1.86m・排水量2.4t・速力25ノット・航続距離275海里で、自動車エンジンを2基搭載、乗員数2であった』
『水上特攻艇「震洋」 合板で造られた小型艇で、船首内に250kg炸薬を搭載し、敵艦に体当たり攻撃を加える目的で開発された特攻艇である。昭和19年4月から金物船外機付き衝撃艇として試作が始まり、同年8月震洋と称して正式兵器に採用。その後改良が加えられ、噴進砲を搭載した1型(改1)や2人乗りで機関銃搭載した5型など、6200隻が量産された。
昭和19年から小笠原諸島父島はじめフィリピン方面・沖縄、更に本土決戦に備えて太平洋側の要所を中心に約4000隻の配備が進められ、米国巡洋艦1隻・駆逐艦2隻・輸送船2隻を撃沈破(日本側記録)する戦果を挙げた。
一方、空襲や事故による爆発、あるいは配備される前に輸送船ごと敵の魚雷攻撃によって沈められた艇も多く、多くの搭乗員や整備員の命が失われた。終戦までに震洋隊の戦没者は2500名に上る。
展示している震洋1型(複製)は、広島県呉市の野村哲郎氏(平成19年逝去)が、同士在住のま長田研司氏はじめ地元有志の協力を得て10年の歳月を費やして複製したもの。野村氏は、生前多くの船舶を自作されてきたが、特にこの震洋については尊い命を祖国に捧げられた多くの若者たちの鎮魂のために精魂込めて造り上げ「この震洋が靖国神社遊就館に展示されたらいいな」と周囲の人達に言い残されていた。平成21年3月20日、こうした御尊父の遺志を継承された野村氏のご子息達から、震洋1型の複製が遊就館に奉納された』
『陸軍海上挺進戦隊(連絡艇レ) 昭和19年2月、戦局は米軍のマリアナ諸島・ニューギニア西部への進出によりフィリピンも敵目前にさらされ、沖縄侵攻も予測されるなど極めて日本は憂慮すべき状況にあった。
戦局の劣勢を挽回すべく船舶特別候補生を主体に、全陸軍より選抜された下士官・将校を以て陸軍海上挺身隊が同年9月以降順次編成され、以降フィリピン・沖縄・台湾の各戦場で活躍した。
その任務は予め敵の予想上陸正面に配置し、艇は奇襲によって上陸船団を側背から攻撃するもので、250kg爆雷を後部に装着した長さ5.6m・喫水0.26m・満載排水量1.5t・最大速力20〜24ノット・航続時間3.5時間のベニヤ板製モーターボートで、秘匿名称「連絡艇レ」と称した。
陸軍海上挺身隊は、短期間の訓練後、不慣れな海上において無防備の特攻艇を操るという不利な条件下で、戦果を挙げた』
これは展示物の一部で、その他多くの展示場が写真不可となっていた。多くの戦死者のお写真が飾られ、特攻隊員の遺書も展示され、目頭が熱くなる展示もあった。
頂いたパンフレットに、インドと占冠島の戦いのことが書いてあった。『インド国民軍退役軍人から 「日本はインドにとっては良い国だと思います。日本はチャンドラ・ホースと共にインドの独立のため戦ってくれました。これは、はっきりいえます。
インドは日本軍の犠牲により独立することが出来たのです。もしあんなに犠牲者を出さず、又INA(インド国民軍)に協力しないでインドに進出した場合、インドの軍(イギリス軍インド部隊)は自分たちの方針を変えなかったでしょう。25万のインドの軍が方針を変え、チャンドラ・ボースの軍になったことによりイギリスから独立することが出来たのです。」
「私たちは常に日本に対し感謝の気持ちを持っています。」
「最後にもう一度、有難うございました。」 ーデロン中佐の言葉−』
『太陽の光がこの地上を照すかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。 P・N・Lekhi(インド最高裁弁護士)』
『われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するために共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対してもっとも深甚なる敬意を表わします。インド国民は大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまでけっして忘れません。我々はこの勇士たちの霊を慰め、御冥福をお祈り申し上げます。 1998年1月20日 於:ニューデリー インド国民軍大尉S.S.ヤダバ(インド国民軍全国在郷軍人会代表)』
『〈占守島の戦いとは〉 日本が終戦を迎えた昭和20年8月15日から3日経った8月18日に、天皇の詔勅に従い武装解除を進めていた、千島列島最北端の島『占守島』の日本軍に対し、ソ連軍が突然上陸、攻撃をかけてきた戦いのことです。
日本軍は一度解除準備を進めていた武装を改めて行い、峻烈な激戦の末にソ連軍を水際に追いっめ、まさに殲滅しようとした時に「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行すべし」との方面軍命令があり、日本軍は命令に従い、軍使の派遣・停戦交渉・武器引渡し交渉の末、再度の武装解除を行い、戦いは21日に終結し、ソ連軍の南下は24日以降になりました。
ソ連は日本のポツダム宣言受諾、降伏を知りながら、なぜ終戦後3日も経ってから戦争を仕掛けてきたのでしょうか?それは当時のソ連の首相であったスターリンの領土拡張方針に基づく北海道北部の占領計画上にあったと思われます。「占守島は一日で占領する」と豪語していたソ連軍を占守島の日本軍は一週間も足止めし、ソ連軍の南下を遅らせ北海道北部の占領計画を阻止した結果にもつながったのです。
わたしたちは、家族と国を思う純粋な心と信念をもって、終戦三日後に戦って逝った占守島の若者たちのご冥福を祈るとともに、彼らのことを決して忘れることは出来ません。
〈占守島の戦いの経過〉 「幌菰海峡周辺地区及び占守島の要域確保」を命じられていた第5方面軍第91師団は、数倍の米軍を想定し、かの敵に強靭・執拗な戦闘を挑むべく、陸海軍あわせて25000名の配備を行っていました。
占守島の電波状態は極めて悪く、8月15日の天皇陛下の終戦の詔勅を多くの部隊では聞くことは出来ませんでしたが、翌16日に師団参謀立会いの下に終戦が伝えられ、17日から日本軍は武装解除の準備に取りかかっていました。
戦車部隊でも車載銃砲や無線機の取り外し、爆砕と車両の海没の準備まで進めていました。
しかし8月18日の未明に、対岸のロパトカ岬のソ連軍から長射程重砲の砲撃が始まり、国端崎の監視所からも「海上にエンジン音聞ゆ」と至急の連絡も入ってきました。降伏に関する軍使ならば夜中に来ることはありません。「これは危ない」と判断した日本軍は、島一面が濃霧に包まれた中、急ぎ戦闘配備を整えました。その間にも「敵輸送船団らしきものを発見」「敵上陸用舟艇を発見」「敵上陸、兵力数千人」と相次いで急報が入ってきました。
米軍ではなくソ連軍が竹田浜に強襲上陸をして来ました。
敵の上陸を察知した日本軍は国端崎の砲兵、竹田岬と小泊崎の速射砲・大隊砲か協力して反撃し、叉陸海軍航空機の決死の反撃および重砲の活躍などによりソ連軍の指揮系統は大混乱に陥りました。しかしソ連軍の一部は艦砲射撃の支援を受けながら18日の6時ごろには四嶺山に進出して、激しい戦闘が展開されました。
日本軍は戦車連隊の参加もあり、次第に敵ソ連軍を圧迫し海岸付近に釘付けして、一歩も内陸に前進させず、一挙にソ連軍を殲滅する体制を整えました。しかしこの戦闘のなかで戦車連隊長、同連隊指揮班長をけじめとして各中隊長以下多くの戦死者も出ました。その頃に「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行」との第5方面軍からの命令が届き、占守島の第91師団は、ソ連軍の攻撃はまだ続いていましたが軍使派遣、停戦交渉と進め、8月21日に漸く戦いは終わりました。その後、武装解除が23日と24日に行われました。
この激闘で一説には日本軍の死傷者は700〜800名におよび、ソ連軍は3000名以上の死傷者を出したと伝えられ、ロシア研究者のボリスースラヅインスキーの著書によれば日本側死傷者は1018名、ソ連側死傷者は1567名となっています。ソ連政府機関紙のイズペスチアは「占守島の戦いは満州、朝鮮における戦闘よりもはるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連人民にとって悲しみの日である」と述べているのです。
〈占守島第91師団の心遣い〉 終戦の時に、占守島には日魯漁業の従業員の方が2500人ほどいました。この大たちは国民の食糧確保の為に悪い戦局を承知で、缶詰工場で働いていましたが、その中には約400人の若い女子工員も混じっていました。終戦を迎え、内地からの迎えの船が来れば真っ先に彼女たちを送り返す手筈を整えているところへのソ連軍の攻撃でした。
参謀長と世話役の大尉は「このままでは必ずソ連軍に陵辱される被害者がでる。なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返そう」と相談し、当時島にあった独航船20数隻に約400人を分乗させ、霧に覆われた港から北海道に向けて出港させました。ソ連機の爆撃が続く中、日本軍も高射砲の一斉射撃で必死の援護を行い無事に出港させることが出来たのです。
「全員、無事に北海道に着いた」との電報が島に届いたのは、それから5日後でした。
停戦後に上陸してきたソ連軍は女性を捜し回ったそうですが、あとの祭りでした。もし、彼女たちがいち早く島を出ることが出来なかったことを想像すると、占守島の第91師団の心遣いが人ごとでなく心にしみます。
東京都大田区東椛谷四−三−四  士魂会事務局編
【参考文献】 青木磐著マンガ版「占守島の戦い!!」 中公文庫・中山隆志著「1945年夏・最後の日ソ戦」 ポリス・スラヴィンスキー著・加藤幸廣訳「千島占領・1945年夏」(共同通信社・1993年)』
館内に「金鵄勲章」が飾られていた。僕の母方祖父は日露戦争に従軍し、近衛騎馬兵団隊長としてこの勲章を頂きました。母の実家の宝物として、子供の頃何度か見せてもらい触らせてもらいました。戦後生まれの僕にはピンと来ませんでしたが、戦前を知る両親は天皇陛下から頂いたのだと恭しく扱い、僕などには及びもしない気持ちでそれを触り、親族の誇りとしていました。
駆け足ですべてを巡り、外に出たら10:08だった。家内との待ち合わせは10:10。急いでタクシーを拾うべく道路に向かいます。ちょうどお客様を下ろしたタクシーがおり、それに乗せてもらった。右翼街宣車が数台停まっており、それに対応するため警官も出張っていた。右翼も左翼も、過激思想・行動を伴っており、どうも与したくない。愛国の多くの一般市民、国に殉じた方々の御霊に手を合わせようとする市民を、左翼は右翼思想として攻撃するが、先程見た戦死なさった方の写真一覧を繰っている方はそのような方ではない。先祖を肉親を親族を探している風だった。
敗戦後のGHQの日本解体統治下で、当たり前のようにある自らの属する国家に親しみ、それを守ろうとする自然な思考を悪視する教育が施された。日本は行き過ぎた左傾化に陥り、中央に戻そうと愛国者が若者を中心に増えてきている。母はゼロ戦の翼を造っていたし、米艦載機の攻撃も受けた。父はボルネオ島で餓死と戦いながら生き延びた。でも一言も当時の日本を責める言葉を聞かなかった。地方自治体の首長を長年勤めた祖父は、3男の父以上の戦地に赴き生き延びた息子たちをいつも主席で飯を食わせた。僕もその子として他の従兄弟とは別の主席で食事が用意された。敗戦であったが「立派に戦って日本の面目を保ってくれた」と、僕の前で父を褒めていた。
そんな環境で育ったので、亡き父に習って祝日には日の丸を門扉に掲げている。今や近隣では我が家のみになったが、死ぬまで続けていこうと思っている。戦犯の合祀以降天皇陛下が靖国神社に参らなくなったので、それに習って今まで参って来なかったが、先の人生が見えてきたので初訪問した。次男は、初めての子を授かり、靖国神社で安産祈願してもらったのをきっかけに参ろうと決め、やっと機会を得た。今回家内は、時間に余裕がないので僕の足手まといになると思い駅で待つと言ってくれた。次は家内と余裕を持って巡ろう。
タクシーを拾い、JR飯田橋駅に戻りました。730円。予定していた10:15総武線津田沼行には乗れなかったけど、1本遅れだけでした。JR秋葉原で京浜東北線に乗り換え、11:01川口着。次男一家と11時に駅で待ち合わせでしたが遅れちゃいました。秋葉原でLINEしていたから了解済です。
2Fに改札があり、待ち合わせの東口に出たのにいないから1Fに降りたらいない。電話したらやはり2Fでした。次男とすみれちゃんが出迎えてくれましたが、こちらのこちらのお爺ちゃん・お婆ちゃんではないのでキョトンとしています。歩いて、長男が東京勤務時代お世話になた上司の方の開いたコーヒーショップを訪問します。小さなお店ですが、店内席でケーキセットを頂きました。次男と家内はコーヒーだけ。脱サラして好きだったコーヒー専門店を開店されました。長男がお世話になったお礼を申し上げると、アメリカ勤務のこともみな知っておられ、懇意にして頂いたのがわかります。
いろんな産地の豆を仕入れておられ、店内でローストされて販売されています。次々お客様が来られています。まだ開店1〜2年のはずですが、流行っていて何よりです。次男は建築士と若者らしい発想で、スポットライトの使い方とレジがアイパットで今風の省エネ・低コスト経営だなと感想を述べていました。新店舗開店の時は、ぜひ次男を使って下さい。良い仕事しますよ。12:12「AMBER DROP COFFEE ROASTERS 川口市幸町 カフェオレ590円+コーヒー540円+ケーキセット900円」でレジを済ませ、車に向かいます。
前回結婚前に訪問させていただいた時は、お寿司や尾頭付きなどで大歓待されましたが、今回はお嫁さんが手作りするそうで、鋭意料理中だそうです。次男が乗り換えたAudiに初めて乗せてもらいました。ドイツ車らしくドアの密着度が高い。標準が扁平タイヤで車高が低く、この点はイマイチかな。ワゴンスタイルなので、バックドアに重宝しているようです。ナンバーがすみれちゃんの誕生日で、次男も僕に負けない親ばかだね。お嫁さんの希望で赤ですが、かなり鮮やかです。僕も長男が生まれた記念に5ドアバンに乗り換え便利でした。それに味をしめ、次男が生まれた記念で両親・弟と一緒には乗れないので、8人乗りワンボックスに乗り換えました。以来、この便利さから抜けられません。
すみれちゃんのチャイルドシートは、長男からもらったものでした。アメリカに行く時、車CX7もいるか?と言われていましたが、チャイルドシートだけもらっていました。すぐに家に着きました。バックギアに入れたら、ナビ画面がバックモニターに変わり安全確認できて便利だそうです。標準でついてる車が多くなっているのでしょうね。
家の壁の色まで変わっていました。でも、次男の表札がまだガムテープでした。「エクステリア解装がまだなんだ。門も変わるよ」とのことでした。玄関でご両親とお嫁さんが出迎えてくれました。ガレージに赤いバラが咲いており、バラで覆う算段のようです。次男の自信作のようですが、棘があるから妹さん一家も含めあと10〜15年は小さな子供がいるのだから玄関横にバラは危険な感じがしました。
玄関もご両親の領分の1F居間も台所も変わっていました。設計者の次男の説明では、梁の下に天井を張る従来工法だったのを、梁を出して天井をその横の高さまで上げて天井を高くし、より広く感じるようにしたそうです。キッチンと居間を一体化させ、部屋の広がりも大きくしたそうです。
お風呂の窓を大きくし明るくし、壁を木目風にしたのはお父さんの自信作だそうです。仕事柄次男は色んな素材を知ってるので、タイル壁から脱したようです。天井も木目で、サウナ風呂のようです。客間に僕がプレゼントした淡路島七福神掛け軸を下げてくれていました。気持ちが嬉しいです。我が家も出来るだけのことをしているつもりですが、お嫁さんたちのご両親は気持ちの優しい方で、付き合っていて気持ちが良いです。
続いて、次男夫婦の新居・2Fに上がります。こちらもリビングとキッチンが一体化されており、1F同様のコンセプトで梁を露出させ天井をその横まで上げて、より広く感じる空間を作っています。
洗面・トイレ。ベッドルームは元お嫁さん姉妹の独立した2部屋を1つにしていました。2人目が生まれ大きくなったら、また2つにするそうです。次男の書斎は次男らしくシュッとしています。長男と違い、男の子なのに整理整頓出来る子で、良いもの使うものだけ置いてゴチャゴチャさせない性格です。照明はスタジオのように移動・方向変えが簡単なスポット照明になっています。
お嫁さんが用意してくれた昼食を、2Fリビングテーブルを皆で囲んで食べました。うな丼・しじみのお吸い物・香の物などいろいろ。とても美味しいです。
家の話、お父さんの肩の話、妹さんの出産の話(6月中旬予定日でしたが、下がってきているようで5月中かも?)、長男一家のアメリカ生活の話・・・。もちろん主役のすみれちゃんの話も盛り上がり、あっという間の2時間でした。
14:30になり、すみれちゃんの保育園を見に行きます。15:13、次男夫婦の勤める会社への通勤途中駅ビル内にあります。新設企業保育園で、外からガラス張りで中が見えます。
続いて次男が設計した野菜工場併設の野菜販売店舗&ロッカールーム管理業務棟です。2Fに会社の支店でもありましたが、2週間前に次男設計の東京支店に移動したそうです。次男も知ってる女子社員さんが1人で店番していました。ロッカールームの契約者が来られるようです。最も新しい設計の東京支店も見に行きたかったが、日曜日なので社員がおらずクローズしてるそうです。職場復帰したお嫁さんの話では、使い勝手が良く、社員の評判が良いそうです。並行して本社ビル設計もしているので、オープンしたら見に来なきゃ。保育園併設するので、すみれちゃんは園児第1期生になる予定です。お父さんの設計した保育園に通うなんていいね。このために保育士資格まで取っちゃったから、ヘルプでお父さんがやってきたら面白いな。
15:55、以前住んでいた近くのショッピングセンター内の本屋さん(蔦屋)に入ります。あいにくの雨なので、すみれちゃんは外で遊べません。いつもここの外にある公園で遊んでいたようです。ファストフードを注文すれば、棚の本を持って席に座り読んでもOKだそうです。
続いて会長の持ってる農園。社員が集まり苗を植えたりしており、何度かその様子を映した写真を見ています。続いてお勧めのカレー屋さん。ネパール人のカレー屋さんで、いろんな種類のカレー・辛さも選べます。僕は辛さ普通のライスセットにしました。飲み物は飲むヨーグルトみたいなラッシー。
駅まで送ってもらい、19:30東京に戻りました。20:20新幹線出発まで時間があるので、2000円タダ券がある「東京駅一番街」でお土産を買おうとしたけど、食べ物屋さんが多くお土産屋さんが見つからずパスしました。
のぞみに乗り、22:07アイスコーヒーをタダ券で飲み新大阪に戻り、23:10発新三田行普通に乗り、23:41北伊丹に戻りました。たくさん雨が降ったようで、通勤リード110がかなり濡れていました。タオルで拭いて帰宅しました。風呂に入って速攻で床に入りました。いつもより大幅に就寝時間が遅れました。明日起きられるかな?
次男は、配偶者を持ち子供も出来、借金は出来たけど家を持ち、根無し草から地に根を張った生活になりました。次男夫婦といろいろ話し、会社の現状も知りました。利益が伸び、東京支店が拡張され、自前土地に新本社がもうすぐ建ちます。地元トップ企業になり、会社の食堂がすべて無料になったそうです。
結婚式で会った社員達は若く明るく、その輪の中に積極的に入っていく社長、社長を囲んでワイワイやってる様子を見て、良い会社だな〜と思いました。女子社員の容姿はかなり高く、社内結婚が多いそうです。出産を経て職場復帰する女子社員が多いのも、働きやすさの現れです。女子社員に残業を強いたりせず、宿泊出張をさせないという方針も、女性を大切にする企業風土を感じます。
こういう所に古来からの日本的な考えを感じます。「美しい日本を取り戻す」のキャッチフレーズで登場した第一次安倍政権は倒れましたが、現安倍政権にもそれを感じ、経済運営がうまく行きマクロ的に国民の収入が増えています。
靖国神社を訪問し、天皇陛下を中心に長い歴史を持つ日本を、先人は命を掛けて守ろうとしました。グローバル化の名の下、こんな素晴らしい日本を壊そうとする勢力があります。乗っ取ろうとする勢力があります。僕は微力ながら、それを跳ね返し子孫に美しい日本を残すよう行動したいと思っています。

2018/5/12
コーチしてる大学ヨット部のコーチング日です。9時出艇なので、8:30に琵琶湖のヨットハーバーい行けばよく、4時に家を出発すれば、5〜8時3時間ほど京都・滋賀県界隈を探索できます。宇治周辺の林道・寺社探索することに決め寝たのに、目覚めたら5:30を回っていました。「はあ〜」、こんなに遅く目覚めることはないのに・・・残念。
早朝探索は諦めました。自宅で朝食を取り、「里山VTR250」を出して出発。大半高速道路を走るルートなので、「招き猫CB400SB」を出すのですが、今回は部員へのお土産があるので、VTRにしました。新潟から「亀田製菓・訳ありおかき」を1.2kg購入しました。18L缶サイズのダンボールに個包装されたハッピーターンがビニール袋に入りドーンと入っているだけの商品です。激安で、商品代と送料が同じぐらいです。VTR250のバイク便リアボックスに、このダンボールがポンと入るのでこいつを選びました。
6:36「セルフ北村SS」で給油。200km/6.35L=31.5km/L。R171〜中央縦貫道〜吹田ICから名神高速〜桂川PAでトイレ休憩しました。バイクのグループツーリングが2チーム集まっていました。京都東ICで下車し、湖西道をに乗り「皇子山ランプ」で下車し、7:59「セブンイレブン大津松山町店」で、「ブレンディ挽きたてカフェオレ500ml・169円」を購入。
ハーバーに着き、4校定期戦のために遠征に来ている母校ヨット部を陣中見舞します。監督と話し、大会本部で公式掲示板を見ます。目新しい情報はありませんでした。このレースに影響しない海面で練習しなきゃ。関西エリアトップと近畿北陸エリアトップの直接対決です。今年のレースシーンを占えます。
当方のクラブエリアに行き、みんなに挨拶します。この日から、1回生新入部員が合宿参加です。2回生の1回生担当が、ヨットやレスキューボートのところで、説明やシートの結び方などの実技をして教えています。20名ほどの中に、マネージャー含め8人も女子がいるので華やかです。キャプテンと話し、この日のレスキュー担当女子マネさんと話します。新人マネ2名を乗せるようです。お土産のことをマネさんに話し、バイク便ボックスから下ろしてきたダンボールを託します。1回生担当の2回生が合宿所に持って帰ってくれることになりました。
先週息子が乗ったレース艇のマストステップ位置を変えたので、部員とともにフォア・サイドステイのテンションやレーキを計測し、セールをセットしていきます。風が弱いので、出艇延期しチューニングの時間になりました。1回生部員は合宿所に帰り、そちらから1人乗りヨットで初日の練習に入ります。
レースの方も出艇延期フラッグが上がっています。10時になり、天気予報とは逆ですが北からそよそよと風が入りだしたので出艇します。北風の軽風で練習開始しました。今年卒業したばかりの470級エースT君が乗っていたので、470級艇団を追いかけながら的確なアドバイスが適宜飛び、濃い練習ができました。
11時前になると、風が安定しなくなり、南西三井寺からの風と、北風の残りとが練習海面で入り乱れはじめました。すかさず、5分間休憩を指示しました。11時になり、天気予報通りのSW(三井寺)からの風4〜6m/sが入り、フルセイル・フルハイキングの気持ちの良い練習ができました。
12時ハーバーバック。合宿所に戻り、お昼ご飯。もりもり元気になり、1:15出艇します。午前同様、出艇前ブリーフィングで注意点を話しました。相変わらず、SWの風が続いています。風向・風速の変化はありますが、常にブローが入ります。スナイプ艇隊帆走練習後、上マークを打って、スタート練習・レース練習をします。470も混じり、怒涛の連続スタート練習でレースシーズンに備えます。
1回生マネさんにも、あれこれ仕事を伝え、目まぐるしく動いていました。美肌の大敵・紫外線対策をしっかりするよう伝えました。一緒に乗っていたのが2回生マネNo1の美肌死守Tさんだったので、去年夏の彼女の「アラビアのロレンス」スタイルを話しました。Tさんは、水分補給の大切さを話していました。
17時ハーバーバック。遠目にレースの様子を見ていましたら、予想通りKGとD社が争っているようです。早めに合宿所に戻りました。キッチンに顔を出すと、マネさんがダンボールを開け、「はあ〜」と大量の内容物に驚いていました。
18:10ミーティング開始。いつものように、トラブルやケースを発表し部員全員で共有します。470級でスタート前に接触があり、大事を取り先にハーバーバックした艇がありました。予想より軽症でしたが、しっかり原因や対処法を話し合いました。連絡事項の報告は、主に1回生に向けた合宿所生活に関するものでした。
僕は、練習中に湖面で適時アドバイスしていたので、1回生向けの話をしました。OBのT君から、細かいセイリングアドバイスがあり、参考になったでしょう。待ちに待った夕食タイムです。食事当番のマネージャーさんから献立紹介があり、おやつに冷蔵庫内にーゼリーがあることと、僕からのハッピーターンを食後に・・・との話がありました。「頂きます」の声と同時に、いつものように部員が一斉にお代わりの列を作ります。春巻きがあったので、これ狙いでしょう。
19:20から、毎日恒例の全員で合宿所の掃除タイムです。これに合わせるように帰路に着きます。プロテクター上下を着込み、湖西道路〜名神〜R171で帰宅しました。さっさと倉庫にバイクを片付け、自宅に戻り風呂に入り、床につきます。明日は次男の家の改築祝に、朝一番から家内とともに埼玉に向かいます。

2018/5/6
琵琶湖で行われるレース(5/5・6、2日間)に、コーチしてる大学が出場するのでそのコーチングです。次男も東京からやってきて参戦します。2年ぶりのレースでしょうか?次男が来るとなると俄然張り切りだすのが家内で、「応援に行くから連れてって」と言われていました。ところが、前日朝熱を出し夜まで下がりませんでした。翌週東京の次男の家を訪問する予定があるので、「大事を取って行かない」と言い出しました。お嫁さんや孫すみれちゃん1才にも会えるし、お嫁さん実家を増築して同居するので、もちろんご両親がおられます。
ということで、四輪で向かう予定を、1人になったのでバイクで行くことに変更しました。地元伊丹は17時から、琵琶湖は21時から雨という予定でしたが、最終レーススタート15時なので、上手く行けば雨の前に帰れるかも知れません。4時頃目を覚まし、少々ゴソゴソし、5時を回ってから準備をします。ほとんど高速道路走行なので、倉庫から「招き猫CB400SB」を出します。5:52「ローソン伊丹緑ヶ丘1丁目店」で、「ミルククリームパン5個100円+助六寿司399円=499円」を購入。R171〜中央縦貫〜吹田ICから名神高速を走ります。GW最終日で、渋滞対策もありバイクにしましたが、拍子抜けするほどいつもの日曜日と同じでした。京都東ICで下車し、湖西道路を皇子山ランプまで走り、7時前にヨットハーバー着。まだ早いので、R大ヨット部員が艤装しているだけでした。当方のヨット部員は誰も来ておらず、桟橋のコーチボート上でプロテクタージャケット・パンツを脱ぎ、助六寿司で朝食にしました。
みんながやってきて、キャプテンがコーチボートにやってきました。「おはようございます。宜しくお願いいたします」。みんなとあ〜だこ〜だ。お正月以来の息子とあ〜だこ〜だ。息子とコンビを組んで出場する監督とも、あ〜だこ〜だ。大学2回生の時のコンビ復活です。
出艇予定時間の8時を過ぎても風は弱く、大会本部にAP旗(レース延期)が揚がり、しばらく陸上待機です。息子が乗るのは以前からスピードが出ない艇で、そのスピードアップのために話しました。前日乗った感想から、「マストステップ位置を変えるとか根本的な変更が必要だろう」と話すと、「ステップを2つ後ろにしたい」との意見で、早速変更し始めました。それに伴う他の変更があり、1つステップを後ろに変えていました。
北風が入り、10:26出艇。天気予報は南風なので、出艇してもまた止みそう。僕はコーチボートに乗り出艇しました。交代選手2名と女子マネージャー4人乗っています。レース海面に着く頃までに予想通り風が落ち、ゆっくり東に弱い風ながら風軸が移動して行きます。本格的な南風が入って来ても、さらに優勢な北風が入りまた風速が落ちるというレース運営泣かせのコンディションです。
やっと南の風が勝ち、12時半からスタートマニューバリングに入ります。2度早すぎるスタート艇が多くスタートやり直しがあり、13時にこの日の第1レーススタート。6〜8m/sの良い風です。選手交代した第2レースは14時にスタートマニューバリングに入りましたが、またスタートやり直しがあり、14:10頃スタートして行きました。15時以降のスタートはしないので、これでレース終了となりました。
両クラス上位2艇は安定して上位を走っています。問題の3艇目は、470級2回生スキッパー艇が2艇上位に絡み始めて来ました。さらにもう1艇最終レースで絡んだし、まだ安定感はありませんが、夏には来るでしょう。良い傾向です。総合成績で、7・8・9・15・19でした。女子コンビは軽風では速いのですが、この風になると非力は否めません。42位/全54艇。交代でコーチボートに上がってきたクルーによると、風が上がってくると、怖くてスタートでの位置取りで追い出されてしまうようです。いろいろアドバイスしました。
社会人や学部OB選手を除く現役大学生コンビ3艇総合では、昨年全日本を制したD大に続き2番手の実力を維持しているようです。D社2番手(総合5位)にジュニアヨットクラブの息子の後輩の女子が入りました。僕がジュニア親の時、親が話し合い頑張って作ったクラブなので嬉しいな。
S級は4回生2艇(6・8位)を脅かす下級生艇はなく、少し物足りなかった。19位に3回生が来ましたが、20位/全53艇が新人の1回生です。この新人は琵琶湖ジュニア出身なので、息子が入部した時同様即戦力ですが、2・3回生がもっと絡んで欲しかったな。
ハーバーバックする為、当方から出場したS級9艇を確認していると、1艇トラブルを起こしていました。そのままでも走れますが、セイルが痛むので曳航して帰ります。
ハーバーに上り、470の4回生とD社との差をどう詰めるかいろいろ話します。女子マネージャーとレース中のビデオ撮りの位置などを話します。この日は僕がドライバーに「こういう位置取りで」「こう走って」と指示し、「ここからのアングルで撮って」「上手いあの艇を撮って」とビデオ担当マネージャーに指示し、解説する僕の声が入るよう大きな声で話しました。ビデオを見て、ミーティングで選手間バズが膨らむと良いです。
息子と話し、マストステップ移動での感触を聞きました。やはり1つバックさせた方が良いそうで、もう1つバックさせたいと言っていました。レース運営で来ていた今春卒業したOBが2人が暇そうにしていたので、息子が着替えに行ってる間に彼らを使ってステップ位置をもう1つ後ろに移動させました。
レース艇の解装があらかた終わったタイミングで、僕のミーティングをさせてもらいました。レース中気づいたこと、頭角を表してきた下級生を褒め上げ、下級生のステップアップの事などを話しました。
雨が振りそうなので、ここで帰路に着きます。バイクに戻ると、雨がパラパラ落ちてきました。あ〜、暑いけどカッパも着なきゃ。湖西道路〜名神〜中国道を一気に走り、豊中IC下車R171で17時過ぎに帰宅しました。雨は湖西では降ってたけど京都に入ると上っており、予想通り豊中丘陵に当たる斜面ではまた降り、平野に降りると止んでいました。もろ地形で降るとこ・降らないとこの地域差が出ます。やはり雲が山や丘に当たる場所が降ります。
雨に当たったバイクは、平野部走りで乾き、倉庫にバイクを片付け帰宅すると、家内から「おかえり〜、早かったね」の声が掛かりました。ご飯を食べ、風呂に入り、一緒に「モヤモヤさま〜ず」見ているうちに眠くなり、「西郷どん」は半分寝ていました。2F自室に上りオヤスミ〜。

2018/5/5
3週連続で三重県の林道を走りに行こうと思っていましたが、所属してるツーリンググループにツーリングの案内が出たので、そちらに参加することにしました。園部〜r78持越峠〜R162「美山ふれあい広場」〜r38佐々里峠〜鞍馬〜r107持越峠〜R162「ウッディー京北」という京北周遊林道ツーリングです。r78持越峠のみ走ってみたいと思いながら未体験で、興味津々な道です。
集合時間が11時なので、それまで地図にチェック済の京丹波町の未走林道を走りましょう。倉庫から「里山VTR250」を出し、4:46「ファミリーマート」で「ボスとろけるカフェオレ163円+オールドファッションダブルチョコ118円×2=236円+オールドファッション108円=507円」を購入します。
長尾山トンネルを抜け、いつもの北摂里山エリアに入りました。r325〜r33〜r319〜r12で、西峠を登ります。気温6℃掲示・・・5月なのに気温の低い朝でした。夏用プロテクタージャケット&パンツ+DAIWAフィッシングスーツのいつもの春秋ウエアを着てきましたので、全く寒くありません。冬場の定番「テーブルクロス・ナックルガード」をそろそろ外そうかと思っていたけど、メッシュグローブだったので外さなくて良かったです。なければ直接風が当たり流石に寒かったでしょう。
西峠を越え「篠山市」に入り、城東トンネルを抜け篠山川に向け下ります。R372に突き当たり左折し、すぐに右折してr304。篠山川を渡る所で休憩します。朝の気持ちの良い景色の中で、ドーナツを1つパクリして、朝食にします。
篠山川を渡り、r305を北上します。カヤの巨木が道にはみ出して残っている場所で激写タイム。カヤを眺めていると、里山をバックに鳥居があるのを見つけました。良い感じで時間に余裕があるので、寄り道しましょう。
6:04「熊按神社」。『熊按神社(延喜式内社) 千百年以上も前に創建され、全国唯一の名を持つ神社。春日江村は、正慶年間(1332〜34)に奈良の春日大社のご分霊を勧請したことにより村名を改めた。すでにその頃、熊野神社がここにあって、春日神社が合祀され、熊野の野の草書体が書き間違われたのかも知れません。所在地が不明確でしたが、享保の頃に村役が届出ていること、明治3年の調査や昭和12年の県神社誌によって、ここが鎮座所とされた』
鎮守の森も大木で、脇障子や蟇股・木鼻の彫刻も素晴らしくナイスな神社だった。篠山は歴史が古く、こんな無名の神社がゴロゴロあるな。先に進むと、水を張った水田や田植えが済んだばかりの水田が朝日を浴びて、農村人工美の美しさを見せてくれる。
r301にチェンジし、北上し多紀連山に突っ込んでいく。少し走ると登山口(火打岩乗合タクシー待合所)。『多紀連山は、平安時代末期から中世にかけて修験道行場として栄えました。「大峰山」よりも栄えていましたが対立し、1482年焼き払われました。
近年になって、山麓の谷筋にクリンソウの大群落が見られるようになりました。クリンソウは湿地に自生するサクラソウの一種で、5月初旬から6月初旬にかけて仏塔の先端にある九輪に似た花を咲かせます』
『篠山盆地の北方に連なる標高600〜800mの雄大な連峰で,古くから丹波修験道の地として知られています。主峰の三嶽(御嶽)を中心として、酉ヶ嶽・小金ヶ嶽・八ヶ尾山・三尾山の山々が連なる多紀連山は別名・多紀アルプスとも呼ばれ、多くの登山者やハイカーに親しまれています。秋の紅葉と晩秋の雲海は特に美しく、訪れた人々の心を魅了します。
大売神社:主祭神は大宮売命という女神で、歴代の篠山藩主はこの神社を崇敬し、神田の寄進や社殿の再建をおこなったとあります。本殿の西側にある笠鷺稲荷神社は、おでき解除のご利益があると有名です。毎年10月11日の例祭は荘厳華麗で、多くの参拝者が集まります。
丹波与作誕生の地:その昔、この地で生まれた与作は百姓仕事のかたわら馬追いをして文武両道の修行に励み、ついには江戸で立派な武士になったといわれています。その後、京都の役者嵐三右衛門が物語で演じて好評となり、近松門在右衛門が浄瑠璃に取り上げて大評判になりました』
6:46「多紀連山の峠・大タワ」標高510m。連山尾根走破口でPとトイレが完備されている。「小金ヶ嶽1.5km」とお気軽ハイクできます。その登山口の横に、「フォレストアドベンチャー丹波篠山」があった。更衣室や休憩所も完備された進化形フィールドアスレチック施設です。森の中に林業で使うワイヤーを張り、それを滑空するムササビ・アイテムで人気です。
『多紀連山は多紀アルプスとも呼ばれ、南方に緩やか、北方に急峻となっており、京都府から篠山市、更に丹波市にかけて、高い岸壁状に500m〜700mの山々が連なっています。また、水系については日本海に注ぐ由良川水系と、瀬戸内海に注ぐ加古川水系とに分かれる中央分水嶺です。多紀連山では、鼓峠が一番標高の低い分水嶺となっています。
これらの山々は、平安時代末期から中世にかけ修験道行場として栄えましたが、文明14年(1482)大峰山の僧兵が来襲し、寺院はすべて焼失しました。今も、大岳寺跡、福泉寺跡、水飲場などをみることができます。
現在は、県立自然公園に指定されており、高山植物・山野草・鳥獣も多く登山道も整備されています。春には新緑の中シャクナゲ、ヒカゲツツジ、秋には全山が紅葉に染まり、よく晴れた日には、山頂から雲海を見ることができ、四季を通じて登山家の目を楽しませてくれます。
この大乢の西側には主峰の御嶽(793m)・西ヶ嶽(727m)が、東側には小金ヶ嶽(725m)がそびえ、山頂からは、神戸の六甲山・淡路島までが展望できます。また、乢とは、撓む(たわむ)の当て字で、山の稜線のくぼんだ所を言います』
『御嶽(三嶽みたけ793m) 主峰で古くは藍婆ヶ峰と呼ばれ、頂上は東西2つの峰があり、西側が最高峰で三角点があり、東側に石室がある。南側直下に修験道場の本山新金峰山大伽藍大岳寺の跡がある。四方の遠望は素晴らしい。
小金ヶ嶽(725m) 岩肌には荒い珪石質の奇岩露出、視界広く、展望良く、古くは蔵王堂があったことから、蔵王ヶ岳と呼ばれ修験道場の山である。
西ヶ嶽(727m) 山形は雄大で南に多くの尾根を有し、北面は山頂から絶壁で大小無数の岩場があって、岩に咲くシャクナゲの花とのコントラストが美しい。
筱見四十八滝(ささみ) 多紀連山の東端に位置し、始終水が枯れることがない滝が8つあることからこの名がある。下流から手洗い滝・弁天滝・肩ヶ滝・長滝・シャレ滝・大滝・二の滝・一の滝で、その昔修験道行者達は、この滝で水行して出発した。春は桜・夏は渓流・秋は紅葉、キャンプも出来る憩いの場。
鍔市ダム(つばいち) 農業灌漑用水として昭和46年に総工費56千万円かけて完成。周囲3km・面積9.1ha・高さ34.5mのダムで、周囲道路には桜・カエデが植樹され、湖には魚が生息し釣り人を楽しませている。
栗柄 この地には、御嶽修験道場の最終の行「水行」をした滝壷があり、ここに「倶利迦羅不動明王」が祀られている。また、この近くには昔から伝えられている手織木綿の「丹波木綿」を織っている創作館がある。東へ2km行けば、田の水が、日本海と瀬戸内海とに分かれる中央分水嶺になっている鼓峠がある』
『四十八滝〜栗柄(全山縦走・健脚向きコース) 筱見四十八滝の滝めぐりを経て、尾根にでる。稜線を左にとって進み、起伏を越えて、川阪峠(小倉乢)484mの鞍部に下る。再び稜線を上り、小金ヶ嶽頂上に着く。展望はよく、視界が広がる。
西に主峰御嶽を見ながら下ると岩場に出る。岩場の北側を過ぎ、雑木林を一気に下り、杉林を抜けると、最大の鞍部である大乢に着く。
大乢より急な登山道を登るとすぐ御嶽の頂上に着く。かつては行者堂があったが、今は岩室がある。頂上は2つの峰からなり、南へ下る道は、大岳寺跡を経て火打岩・瀬利・丸山に出られる正面道である。西の峰を通り西に向かい下ると、西ヶ嶽と栗柄への分岐点に着く。西ヶ嶽頂上の展望もよい。下る道は「愛染窟」の洞を経て、茶畑を通って栗柄の里に出る。
火打岩〜御嶽(御嶽正面コース) 火打岩停留所より道路を少し北上すると左手に登山道の入口が見える。民家の問を抜け、あぜ道を通り、植林へ入ると階段が続き、やがて雑木林になる。しばらく急坂を登ると瀬利、丸山から来る道と合流、さらに尾根道を進むと、鳥居堂跡に着く。正面に御嶽、右に小金ヶ嶽を眺めながら少し登ると、昔の行者が渇いた喉を潤した水飲場がある。
すぐ上に大伽藍大岳寺跡の礎石が今も点在する。この辺より急坂となり、岩場の石仏に昔を偲びながらすぐ頂上に着く。
火打岩〜小金ヶ嶽(小金ヶ嶽正面コース) 小金口停留所より右に入り、渓流沿いに登ると、やがて福泉寺跡に着く。当時の面影がはっきりと礎石に点在する。松林を通り尾根に出ると、木立の間より露岩の多い小金ヶ嶽が眼前にせまり、修験道場にふさわしい岩場の急な山道で、一歩ごとに高くなり頂上に近づく。
鍔市ダム〜川坂峠(小倉乢コース) 鍔市ダムの周回道路を奥に行き、杉林を抜けて谷川沿いに進み、橋を過ぎると分岐点に出る。左に登ると小金ヶ嶽直下の鞍部に通じる。右に進むと川阪峠で、やかで小倉乢に出る。ここから向側に下ると川阪、右は筱見四十八滝、左は小金ヶ嶽に通じる。
その他のコース 栗柄〜西ヶ嶽コース 丸山〜御嶽コース』
大タワを北側に降ります。r300に突き当たり、右折。景色の良い所があり休憩。藤坂峠を越え、左折し本日2本目の林道に入ります。緩やかな「弓谷峠」を越え、北側に緩やかに下って行きます。r711に突き当たりました。ここに、「土師川」が流れていました。
左折し西に向かい、7:30GPSに載っていた「春日神社」。『鎌谷中春日神社(一ノ宮) 梅田春日神社・長谷川博文宮司より提供 鎮座地:瑞穂町字鎌谷中 祭神:武甕槌神・経津主神・天児屋根神・毘売神 例祭:10月15日由緒:創建等:永享3年(1432)9月5日春日大社旧社家富田3位御分霊を奉祀する。文政3年(1821)火災に羅り社記一切が鳥有に帰した。文政10年再建。古来より鎌谷4部落の一ノ宮と称して崇家されて今日に至った。大正5年神饌幣帛料供進・会計法適用神社の指定を受ける。
旧社格:指定村社 境内坪数:1479坪 社殿:流造7坪8合・上屋18坪 境内神社:無し 氏子戸数:90戸 その他:例祭の式典後鎌谷二ノ宮と共に三ノ宮まで神幸式を行い、庁舎において三ノ宮古例の儀式に参例する慣習現在も行われている。初期建設は、永享3年9月5日(1432) 文政3年3月1日(1821)火災で消失 文政10年(1831)再建されました。2017年で585年前となり、火災後再建からしても186年前の神社となります』
ここも彫刻が立派でした。蟇股の龍・木鼻の象と獅子・脇障子の鹿、立体的で見入っちゃいます。
Uターンし、r711を東進。3本目の林道がある兜山近くに来たので、右折しアプローチ道を探します。兜山の西側を走ったがそれらしき道が見つからず、今度は南面を走る道へ。
7:47「日吉神社」。いい感じの神社が見えてきたので寄り道。ここも彫刻が立派でした。兜山の方を見ながら、林道入口を探しますがピンとくる道が見つかりません。R9に突き当り、信号待ちしている時、「これかな?」という道を見つけました。
R9をちょっと走り、さっきの道の下をトンネルでくぐり、山に入っていきます。細いけど舗装されてる道が低山のウネウネ道になりました。森を抜け、r711から曲がった道が正面に見えて来ました。ウネウネ道の途中で分岐があったので、Uターンしてその道を走りに行きます。
林道を楽しみ、r711に出ました。R9に突き当り、右折して少し走り、左折してr477に入り、また野生の勘で林道を探します。京都縦貫道をくぐる手前で枝道に入りましたが林道ではなく空振りし、R173に出ました。
右折して南下しましたが、「京丹波みずほIC」が見えてきてしまい目的のエリアは反対だったので、Uターンして少し走り、右折してまたr477。ピンと来た道を見つけ右折して枝道へ。本日4本目の林道を楽しみ、R9を渡り、京都縦貫道をくぐったとこでR173。南下します。
8:46「道の駅瑞穂の里さらびき」。トイレを拝借し、ベンチに座ってドーナツを1つ頬張ります。鯉のぼりが勢い良く泳いでいます。我が家も、例年同様鯉のぼりを揚げています。長男が生まれた時新調した鯉のぼりから、初孫が生まれた5年前にまた新調しました。2年前、長男の2人目が生まれ鯉のぼりを追加しました。同じ年の7月に次男の初めての子が生まれたけど女の子だったので更に追加はありませんでしたが、来月長男の3人目も男の子のようで、また追加出来ます。嬉しい限りです。
おじさん3人グループがおられました。250ホーネット・125グロム、そしてグロムの系譜の始まりダックスホンダでした。高校生の時、ヨットハーバーの砂浜で大学生ヨット部員に貸してもらい初体験したバイクがモンキーでした。それで慣れ、少し大きなダックスも貸してもらい、夏休みの夜中遊んでいたのを思い出します。無免許だったので、公道には出ませんでしたが、大いに楽しみました。ダックスを見ることは殆ど無いので、写真を撮らせて頂きました。
R173を南下し、旧道に入り5つ目の林道を探しに枝道に入ります。意外に中央白線の2車線の綺麗な道が続いており、峠を越えてしまった。峠を下り、次の峠に登る所で怪しい枝道があり、「峠を越える旧道」との野生の勘に従って入っていきましたが、あえなく未舗装路になり、Uターン。
新しい「穂垂トンネル」を抜け、下っていくと道路横断中の蛇発見。バイクを停め、轢かれないよう蛇追いをしました。横断中の毛虫も発見しました。5月は、毛虫の横断がとても多いですね、何故なんだろう?
r702に出て右折。左折してr453に乗ります。中山峠を越え、京丹波町から南丹市に入ります。r54にチェンジし園部川と並走し、道なりにR477、R9との交差点にあった出光GSで給油し、R9を渡りr19。10:07グループツーリングの集合地「道の駅京都新光悦村」到着。まだ1時間あるわ。
11時前に、リーダーTさんとJさん登場。参加予定でなかったJbさんと偶然会いました。女性参加者が遅れているということで、11時を回っても待ちます。4人共何度も会っている仲なので、あ〜だこ〜だ話が弾みます。
女性の方は次の休憩所で合流するとのことで、11:37出発。r19を美山に向けて走り出します。「日吉ダム」横を通過し、初めて走るr364に入ります。林道になり「持越峠」を越え、中央白線道の広い道になり、r365にチェンジします。このエリアの道は、交通量が少ないので気持ち良く走れます。
右折してr443に入り、突き当りを左折しR162に乗り、北上します。12:38「道の駅・美山ふれあい広場」。バイクも車もいっぱいです。手前に「Joy's Bikers」というオープンなカフェが出来ていました。道の駅と国道を挟ん打場所に、カフェ「Heart Country Stove」・Cafe&Restaurant「美渓」が出来ていました。
女性お二人が、先着していました。僕も参加している「原付二種ツーリングクラブ」とともにここまで来られて、ここで乗り換えだそうです。これで参加者全員揃いました。男性2人は、ジェラートなどを食べて休憩していましたが、僕は観光案内施設でパンフレットを漁っていました。良さげなツーリング先の寺社・史跡が載っているかな?
r38を走ります。「美山かやぶきの里」前を通過し、「ヴィレッジライン」との分岐を過ぎ、「芦生京大演習林」との分岐を過ぎ、「佐々里峠」も通過。ここで、京丹波市から京都市左京区に入ります。「広河原スキー場」前を通過し、R477にチェンジします。
花背峠を過ぎ、百井別れを過ぎ、r38単独道に。鞍馬寺前を通過し、貴船神社への分岐を過ぎ、叡山鉄道鞍馬線を渡り、14:49「ローソン」で休憩しました。ここまで休憩がなく長かった。ソロなら、かやぶきの里・佐々里峠・百井別れで、激写タイム休憩を入れていたでしょう。
r38を西に進み、r61にチェンジしてまた林道を目指します。r107にチェンジし、持越峠を越えR162に下ります。右折してR162を北上します。15:52「ウッディー京北」で休憩。併設喫茶コーナーで、ティータイムです。ちょうど、僕もメンバーになっている「原付二種ツーリングクラブ」の面々と一緒になりました。僕らと入れ替わりに、喫茶室を出て行かれました。16:25ケーキセット(マロンケーキ+アイスコーヒー)640円を精算。
16:32、ここで解散になりました。皆さん帰路は、同じR477を西に走るコースですが、僕は遅いので先行する皆さんに時々待っていただいていたから、解散になると遅れる申し訳無さから開放され気楽に走れラッキーです。
R477を西進し、「廻り田池」を通過し、桂川土手を走り、r73で桂川を渡りました。JR山陰線を渡り、R372に突き当たり、R477に右折して南下しました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
inserted by FC2 system