-ウェブマスター日記 2018/3-4

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2018/4/29
家内に、「大台ケ原ハイキング」を提案しましたが、1週間後次男のレースを応援しに行くのと、その次の週末次男の家を見に東京に行くので、美容院に行くとのことです。10時開店に間に合うよう、車で阪急中山寺まで送りました。
帰宅後、あれやこれや。鯉のぼりを揚げたり、庭の草刈りをしたりで過ごしました。お昼を過ぎ家内が帰ってきました。18:10から映画を観に行こうと誘い、昼寝したりなんだかんだの続きをば。
17時前、「通勤リード110」にタンデムし映画館に向かいます。腹ごしらえに、17:16「イオンモール伊丹・ミスタードーナツ」で、オールドファッションシナモン129円+チョコファッション129円+ココナツチョコレート129円+ストロベリーリング129円=516円購入。映画館に上り、18:10「ちはやふる・結び」チケットを購入し、ロビーに座ってドーナツを食べます。僕はドーナツが好きです。一時、勤務中おやつタイムに同僚女子に近所のミスタードーナツでドーナツを買ってきてもらい、毎日1個食べていた時期がありました。パワハラではありません。スポンサーは僕なので、喜んで買いに行ってくれました。
「映画ちはやふる」は、高校生の競技かるたの世界を描いた漫画の映画化です。主演の広瀬すずさん目的に昨年上映された「上の句」「下の句」を観ました。すずさんは相変わらず可愛かったし、それ以上に体育会的な部分も気に入り、それに競技かるたの聖地が僕が通っている琵琶湖のヨットハーバー近くの近江神宮だったことも加わり、とても楽しめました。そして今回の「結び」の章です。
同じ先生の門下生だった幼馴染の競技かるた仲間3人の内2人が同じ高校に入学し、かるた部を作り、全国大会に出場するストーリーが昨年でした。その1年後が今回の「結び」です。4月の新人勧誘を頑張り、新たな仲間を得て更にたくましくなり、昨年逃した全国優勝を目指し邁進します。離れ離れになっていたサラブレッドなもうひとりの幼馴染が、2人に刺激され高校かるた部を作り、地方予選を勝ち抜き全日本でも勝ち進み、決勝戦で対決します。
スポ根物では、意地悪さんがいたりしますが、「ちはやふる」では大したことなく、みんな良いやつです。こういうところが最近の若者の世界に受けるのだろう。僕も体育会でバリバリやってきて、ライバルは沢山いたが、みんな良いやつでレース以外の時はむしろ遊び仲間だったりしたので、ここまでヨットをやってきました。
僕の琴線にも触れ、応援したくなり、涙を誘われ、秀作でした。

2018/4/28
1週間前の三重県13年ぶり開通県道ツーリングで、三重県の山が気に入り、まだ走り足りないので連続で行くことにしました。4時過ぎに目覚め、着替えて倉庫から「里山VTR250」を出しました。予定している林道が3〜4本あり、何本走れるかわからないけど、林道三昧しようと念の為軽い250ccを選択しました。
4:46「伊丹産業セルフ緑ヶ丘SS」で給油。192km/7.05L=27.2km/L。4:51「ローソン」で、「キリン小岩井ミルクコーヒー162円+田辺農園バナナパック3本266円=428円」を購入。
R171〜中央縦貫道。吹田ICから近畿道に乗ります。一気に南下し、「南阪奈道路」にチェンジし、大阪府と奈良県を隔てる生駒山系を東に抜けます。道なりに「大和高田バイパス」になり、ほぼ高速道路ですが最高速が60km/hになるのでメーター読みで70km/hを超えないようにスピードダウンします。日本車はハッピーメーターなので、+10を守ればスピード違反にはなりませんし、道路規格・周辺環境に合った設定になってる最高速制限なので咄嗟のことがあっても安全に走れると思っています。
橿原市で高架道路を降り、R165で東進を続けます。右折しr37に入りすぐ、6:14「等弥(とみ)神社」到着。帰路に時間があれば寄ろうと思ってたけど、おトイレを借りたかったので先に寄りました。
『当神社背後に位置する標高245mのなだらかな鳥見山は、初代神武天皇が橿原宮に即位され、神武4年2月に「わが皇祖の神霊は天より降りて、私の身体を照らし助けた。諸々の賊を平定し海内(くにのうち)は事件とてないほどよく治まっている。そこで天神を祭って大孝(おやにしたがうこと)の志を告げ申し、お礼を致したい」と、鳥見山中に霊じ(まつりのにわ)を設け国で採れた新穀・産物を供えられ、自ら皇祖天津神々を祭り、大和平定と建国の大孝を申べ給うた大嘗会の起源。我が国建国の聖地である。
その西の麓に鎮座する等弥神社は、10世紀前半に制定された「延喜式」神名帳に記載があり、祈年祭の幣帛に預かった古社。昭和15年・紀元2600年、旧村社から県社に列せられ、以来地元桜井は元より、全国から崇敬に預かる県下有数の名社となる。下社には「八幡」「春日」の大神を祀る』
鳥居の横に「第62回式年遷宮 旧内宮鳥居 中重鳥居」の札が立っていた。式年遷宮により移設されたもののようです。全国にこういう社殿や鳥居がたくさんある。伊勢参りできない方々も、伊勢を日本の成り立ちを味わうことができる。ありがたいことです。
この宮の裏山で、神武天皇が最初の新嘗祭を行われたのですね。知らなかった。社名の珍しさから訪問地に選んだけど、大当たりのようです。石段を上がると参道が伸び、地元の方が掃き掃除をされている。参拝者が来られる前の朝早い時間にご苦労様です。
鎮守の森に守られた参道を奥に入っていくと、神殿の提灯に灯が入って雰囲気抜群です。まだ明るくなりきらない時間帯故より厳かな感じを受ける。参拝させていただき、「鳥見山霊じ」への参道を上ってみます。
『鳥見山観光散策路(往復2km) 鳥見山は標高245m・面積50haのなだらかな山容で、登るにつれ北に三輪山・南に音羽山系・東に外鎌山・初瀬谷などながめながら頂上に至ります。途中、霊じ拝所(これより160m)・庭殿(650m)・白庭(890m)など通り山頂(1000m)に至る。
古より多くの方々が登下山された道で、広葉樹林では春の新緑・秋の紅葉など四季折々の自然を満喫していただける散策路です。また万葉歌碑など古代のロマンを味わっていただけます』
「霊じ拝所」まで登ってみた。『うかねらふ、跡見山雪のいちしろく、恋ひば妹が名、人知らむかも・・・鳥見山に降り積もった白雪のように、はっきりと人目につくような恋の態度を示したら、人々は私の恋人の名を知ってしまうだろうか』
新緑に覆われた山道と境内でした。陽がまだ弱い朝ですが、もう少し陽が昇るともっと鮮やかに若緑を見せてくれるだろう。
鳥居手前まで下り、「神武天皇・聖跡顕彰碑」を見に行ってみる。ふむふむ・・・。ここの立地は、橿原の神武天皇陵の東に藤原宮跡、その東に隣接する小山・天香久山、その東にあるのがこの地です。この東は山の連なりになり、三重県境に至ります。天香久山は、明日香の北の防備のような位置にあり、ここから見れば低山を経て南東に明日香が位置します。神武天皇がここで、天の恵み・秋の収穫に感謝する新嘗祭を、ご自身の天皇就任に際し始めたのが立地的にも腑に落ちた。山は収穫の源・水の流れだす地であり、東から上る太陽がここから昇って来るように見えたのだろう。2678年前・皇紀元年・・・
バイクに戻り、R165に復帰します。R166に右折し、6:47「茶臼山古墳」。『史跡・桜井茶臼山古墳 鳥見山北麓の屋根を利用した大型前方後円墳(全長207m・後円部径110m・前方部幅61m・葺石を施す)で、墳形・副葬品などから4世紀前半を下らない時期に造営されたわが国最古の大規模古墳の1つ。
昭和24〜25年、橿原考古学研究所が発掘調査し、後円部中央に底部穿孔の壺形土師器を並べた長方形の檀とその内側に竪穴式石室を検出した。石室は偏平な割石を架したもので、内法長さ6.8m・幅1.1m・高さ1.6mである。室内にはトガの巨木で造ったくり抜き式木棺が遺存していた。盗掘を受けていたが、鏡片・勾玉・剣・銅ぞくなどの武器類・車輪石・鍬形石などの腕飾類、玉杖・玉葉などの特異な碧玉製品が出土している』
フェンスで囲んであったが、「十分注意して見学ください」と書いてあったので、入れるところがあったのだろうか?
R166を更に進んで、6:57「舒明天皇陵」。『舒明天皇・押坂内陵、敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子妃・糠手姫皇女・押坂墓 宮内庁』。この時代の陵墓は、よく母親と一緒に眠っていますね。ここも母親と一緒のようです。
お参りし、一旦下り細道を、少し見える別の墳墓の方に進みます。謂れ板が立っていました。『舒明天皇陵(段ノ塚古墳) 舒明天皇陵は、古墳時代の終末期にあたる7世紀中頃に造られ現在「舒明天皇陵」として、宮内庁で管理されています。舒明天皇は、忍阪ゆかりの押坂彦人大兄皇子の息子で、初めて遣唐使を派遣し、また、我が国初の国家寺院である百済大寺を建てた天皇として知られています。
皇后は、斉明天皇で、2人の間の子供たちは、後の天智天皇、天武天皇、孝徳天皇妃となった間人皇女、と飛鳥時代は舒明ファミリーが皇統の主流にのぼりつめた時代といえるでしょう。
日本書紀によると、舒明天皇は641年(舒明13年)に崩御し、その2年後にここ「押坂内陵に改葬されました。尚、母親の田村皇女はその20年後の天智3年に亡くなったことが記されていますが、墓の所在は明らかにされていません。平安時代に作られた「延喜式」には、その所在が舒明天皇陵内とされていることから、舒明天皇と合葬されている可能性が高いとされています。今から約150年前の文久年間に墳丘の一部が崩壊し石室の一部が露出しました。
その際、2基の石棺がみられ、手前の石棺は縦に、奥の石棺は横に置かれていたという村人の話が伝わっていることから、研究者の間でも被葬者は、舒明天皇と、母親の田村皇女ではないかといわれています。
この古墳の最大の特徴は、なんといっても我が国初の八角墳であることです。それは八角形をした天皇の玉座「高御座」にも流れをみることができます。背景には諸説があり確定はできませんが、万葉集巻1-3間人連老(はしひとのむらじおゆ)の歌に舒明天皇を讃えた歌が詠まれています。「八隅知之 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ・・・」とあり、我が大君にかかる「やすみしし」から、八角形は「国土の隅々迄おさめる」事の思想の表れであり、それはまさに八角墳の出現時期と重なる事から、国家統一的な形にしたのではという学説に興味をそそられます』
34代・舒明天皇は、29代・欽明天皇のひ孫世代で、30代敏達天皇の孫です。敏達天皇の兄弟に、31代・用明天皇・32代・崇峻天皇・33代・推古天皇(初の女帝)がおり、穴穂部間人皇女と異母兄・用明天皇の子に聖徳太子がいる。舒明天皇の子に38代天智天皇・40代天武天皇がいる、まさにロイヤル街道真っ只中の天皇です。
この道は、「忍坂街道」と呼ばれている古道のようです。雰囲気の良い道で、時間があれば歩いて行きたい。
『鏡王女・万葉歌碑 鏡王女(かがみのおほきみ)の和(こた)へ奉(まつ)れる御歌一首「秋山の樹の下隠り 逝く水の 吾こそ益さめ 御念(みおも)ひよりは』
秋山の樹の下に隠れて、流れていく水のように果てしなく、「吾こそ益さめ御念よりは」私こそあなたさまが思ってくださる思いよりも、もっと深く思っております。<犬養孝『私の萬葉百首・上巻・1993年12月』
この歌は、皇太子であった中大兄皇子(のちの天智天皇)が鏡王女に送った歌「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」(巻2-91)に答えた一首であるといわれています。
鏡王女は、天智天皇と藤原鎌足それぞれと相聞歌を取り交わしており、額田王との唱和の歌も作っています。万葉集には5首を残していて、その一つがこの歌碑に詠われているものです。わずか31文字の中に、内に秘めた女心を見事に詠いあげています。
桜井市の企画によって今から40年前の昭和47年(1972)に市内の由緒ある場所に万葉歌碑を建てることになり、元・桜井市議・忍阪区長の杉本五良兵衛翁は、この歌碑は是非この場所に・・・ということで、毎年生徒さんを引率されて女王墓を参られていた当時・大阪大学名誉教授の犬養孝先生と面識があったことからこの歌の碑文は、ぜひとも犬養先生にと、なったと述べられています。(昭和62年10月1日「かたらい」より)
歌碑の石材探し、そして置かれているこの場所の選定は、杉本翁の熱き想いと鏡王女がこの歌に託した想いとが重なって数多くある万葉歌碑の中でも、これほど歌詞と歌碑の佇まいが見事に合っている歌碑はない・・・と言われています。小川のせせらぎの音を浴びながら、つつましく佇んでいます。この歌碑あたりから谷に向っては視界か開け、小鳥の嘲りだけの万葉の世界にいざなわれます。その目の先には鏡王女墓がひっそりと佇んでいます。鏡王女は黄泉の世界から、どんな思いでこの歌碑を眺めているのてしょうね』
道の奥に見えていたのが「鏡皇女忍坂墓」で、さらにその奥に「大伴皇女・押坂内墓」がありました。
R166を少し走り、7:15「天王山古墳」。『東南方から北西方にのびる屋根上に営まれた方墳で、この屋根上には他にも多数の小古墳が散在している。墳丘の一辺は45m・高さ9m、うちに家形石棺を蔵する雄大な横穴式石室が南に開口している。石室は巨大な花岡岩を架構したもので、玄室の長さ8.5m・幅3m・高さ4.2m・羨道の長さ8.5m・幅1.8m・高さ2mである。玄室の中央には、棺身の長き2.4m・幅1.2m身・蓋を合わせた高さ1.8mの巨大な刳貫式の家形石棺が置かれている。なおこの棺身の羨道に面した側の上辺中央に方形小孔が彫り込まれている。副葬品については明らかではないが、石室や石棺の型式から6世紀後半に築造されたものと推定される。
この古墳はそり名の示すごとく、江戸時代には崇峻天皇稜に擬せられていたもので、墳丘や石室の規模からも、大化前代の支配者層の墳墓と考えられる。近畿地方における古墳時代後期の代表的な方墳として著名である』
32代崇峻天皇は、崇仏派・蘇我氏と廃仏派・物部氏が対立均衡してた政情の中、31代用明天皇が崩御したタイミングで起こった両派の皇統争いに勝利した蘇我馬子によって天皇位に登ったが、実権が馬子にあることに不満を持ち、馬子に暗殺されてしまう悲劇の天皇です。この事件により急虚天皇位に着いたのが天皇家初の女帝・推古天皇で、その皇太子が聖徳太子で、初の「遣隋使」で中国と互いを認め合い、「冠位十二階」制定で血統重視から能力重視の政府役人登用とその任命者を天皇にしたことから天皇中心政治への改革、「十七条憲法」で豪族・臣下の心構えや天皇中心・仏教中心主義政治を確立した。政権内部の内乱を経て、推古天皇・聖徳太子体制で、大和朝廷天皇中心主義が整った。
獣避けゲートから古墳に入ってみる。周囲に丘が点在し、古墳がアチコチにありそうな景色です。墳丘を覆う森に入っていくと、すぐに南に開口した石室があった。中を覗くが暗くて見えない。獣道のような道を辿って頂上に上ってみるが、これと言った見どころはなかった。
R166に戻り少し進み、7:29「粟原寺跡」。寺院跡と思われる古い石垣に囲まれた郭に上がると、「天満宮」があった。牛の像など天満宮的要素が境内に揃っていた。社名は「粟原天満神社」らしい。鎮守の森の高木に囲まれ、長い歴史を感じさせる。ジャガの花が綺麗に咲いていた。
天満神社の裏に「粟原寺跡」があった。『粟原寺跡(国指定史跡) 粟原集落南端の天満神社境内及び、隣接地に、塔跡・金堂跡が残り、標高260m前後に位置する。
この粟原寺建立のいきさつを刻んだ三重塔の伏鉢は、談山神社蔵(国宝)として残っている。その銘文によると、中臣大島が草壁皇子のために発願し、比売朝臣額田が持統天皇8年(694)から造営を始め、和銅8年(715)に完成したことがわかる』
『この地には、万葉の女流・額田王終焉の地という伝承が遺されている。さすれば、国宝・粟原寺三重塔露盤の銘文にある比売朝臣額田が、その人かもしれません。これは史的考証ではなく、詩的確信です。数奇な運命を辿った彼女は、天武帝崩御後の複雑な立場の拠り所をこの地に求めたと思われる。
天武帝の子・弓削皇子も、壬申の乱後の微妙な立場を生きました。持統女帝の吉野行幸に随行した皇子は、離宮の井戸の上を鳴き渡っていったホトトギスの声に託して、密かな懐旧追慕の情を額田に訴え、これを受けた額田は、我が心と体のうちそとを通り過ぎて行った人々の懐旧追慕の悲しみを詠いました。
この贈答歌は、お二人の心情が伝わりますし、その舞台はただ虚しい時間と風だけが吹き過ぎて行くこの山峡が最もふさわしいと感じます。
この地を愛し、この歌に惹かれた篤学の人・金本朝一氏の御遺志によって、この碑は建立されました』
跡地には大小の礎石が残り、往時を忍ばせます。一番大きな礎石に遺された柱穴を見ると、大きな建物が建っていたんだなと想像できます。役行者と思われる像があり、かつて修験道行者が寝起きしていたのかも?と想像の翼が頭の中で広がりました。小さな墳丘のようなものがあり、これにも想像が広がりました。バイクへの帰り、跡地横の道を歩くと、想像以上に鎮守の森に大木が多いことに気づいた。フクロウが営巣に使いそうな穴が空いた大木もあり、しばし見ていました。
R166に戻り、r217〜r31で、7:55「八咫烏神社」。アメリカ在住長男の子・嫡孫君5才がサッカースクールに入ったそうなので、サッカーと言えば日本代表、日本代表チームと言えは八咫烏です。御守あるかな?と思って寄り道しました。ジジバカですね。
『武角身命(建角身命)を祭神とする八咫烏神社は、「続曰本紀」に慶雲2年(705)9月、八咫烏の社を大倭国字太郡に置いて祭らせたことがみえ、これが当社の創祀となっています。江戸時代(文政年間1818〜1830)には、これまで石神殿であったものが春曰造りの社殿となりました。その後、紀元2600年を記念して社域を拡張・整備し、現在に至っています。
「古事記」「曰本書紀」によると神武天皇が熊野から大和へと入ろうとしたときに道案内し、重要な役割をつとめたのが八咫烏(武角身命の化身)です。八咫烏は、中国の陽鳥としての考え方が影響しているようです。八咫烏伝承は、もともと宇陀の在地氏族に伝承されていたと思われますが、8世紀以降、山城の賀茂県主が有力となってからは、賀茂氏が祖とする武角身命が八咫烏となったようです』
社務所に伺ったが誰もおらず、「御用のある方は・・・」と宮司さんの家が案内されていた。拝殿に向かいこれまでの人生に感謝した。宮司さんの家に伺い、「スポーツ守護・700円」を授かった。
バイクに戻り、r31〜r217から枝道に入ると、旧街道の町並みが左右の家々に。8:30、「春日神社」。『春日門跡 松山城下町の出入口にあたる西口関門から続く大手筋正面に位置している。門跡には虎口(出入口)を構築する東西2つの石垣積の櫓台が残っている。東櫓は東西4m以上・南北10m以上・高さ6mの規模を持つ櫓台。その南西隅に一段低く、東西4m・南北7m・高さ2mの櫓台が取り付きます。西櫓台は東西6m・南北11m以上・高さ4m。
春日門の築造は16世紀末から17世紀初頭にあり、松山城下の建設時に町人地と武家屋敷・城館とを分かつ虎口として造られた事が明らかとなりました。現存する櫓台は、17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の向屋敷・上屋敷(藩屋敷)造営に伴う再構築である。
築造当初の春日門は、現在と異なり南北10.5m・東西4m以上の東櫓台南端の西へ付櫓がつく構造です。西櫓台については、現在と同様規模・構造。門は、東櫓(付櫓)と西櫓の間と、櫓間を通り抜け、左折れした所の2ヶ所に位置すると考えられる。
この段階の春日門東櫓は、大手筋を貫いた視線が集中する位置にあり、櫓台の規模の大きさからして、松山城下町の象徴的な建造物であったでしょう』
石畳の参道を上がってみると、鎮守の森の巨杉群が天に真っ直ぐ向かっていた。途中に「松山城跡」への登城口がありました。『春日神社水鉢(江戸時代・元禄6年1693)宇陀市指定文化財 表に「奉寄進」、裏に「元禄6年葵酉12月荻野五郎左衛門」とある。寄進した荻野五郎左衛門は、織田家宇陀松山藩4代藩主信武時代の用心である。元禄年間は奉納的石造物が集中的に造られた時期であり、本品もその歴史の流れの中にある。
翌元禄7年(1694)秋には、藩主織田信武が重臣である田中五郎兵衛・生駒三左右衛門を処し、自害するという事件が起こる。これが原因で、翌元禄8年に織田家は丹波国柏原に所替えとなる(宇陀崩れ)。織田家宇陀松山藩時代最後の時期の遺品として貴重である』
「春日大明神」と書かれた扁額の下がった大きな木製鳥居をくぐった郭から更に石段を上がった郭に社殿がある。そこに登ろうと左右を見ると、左右の狛犬がどちらも阿行の狛犬でした・・・珍しい。
『春日神社由来 祭神:天之児屋根命・武甕槌命(たけみかずち)・経津主命(ふつすし)・比売神 宇陀郡内には興福寺大乗院門跡管領の春日大社領が多く存在し、当地も中世の春日庄(応永13年(1406)作「宇陀郡田地帳案」(春日大社文書))に位置することから、奈良春日大社を勧進したものと考えられる。宇陀松山城と城下町の縄張りを示した「阿紀山城図」(文禄3年1594)絵図に「春日社」として社地が表されている。絵図に示された松山城へ向かう大手道は、西口関門から春日門を経て春日神社に入る。神社から城へ向かう構造を取る。つまり春日神社は城郭の郭としての機能を併せ持っていた』
『霊宝石由来 宇陀旧事記に「春日神社には天児屋根命を祀り、阿貴山の峰に神楽石麓に天のヌボコに称する長さ拾余石の霊宝石あり」と挙げられている。恐らく古代祭祀用に供せられた神聖なる霊石と考証される』
玉垣から本殿を覗くと、蟇股の彫刻が春日神社らしく鹿でした。横には八幡神社がありその本殿も造りは春日神社本殿に似ていた。巨杉に囲まれ、壮観な神社でした。
横道に入ると森に遮られ陽が届かない所に山に向かい摂社があった。『伊太祁曽(いだきそ)神社由来 祭神:五十猛命(いたけるのみこと・須佐男命の御子)・大屋津比売命(妹神)・都麻津比売命(妹神) この神は紀州に座して、木の種を筑紫より始めて、我が国全土に播種植林せられたもうた。歳月を経るに従い、国内は緑の山を成し、遂に山青く水清き森林美となる。その根源を培養せられたことにより、神代の昔から「木の神」と称せられる。農林・殖産・特に木材関係者の尊崇するところである』
祭壇のみで社殿はなく、祭壇の後ろの二股巨杉が祭神と思われる。そこから山城への道に合流し、森の中をえっちらおっちら登っていく。廃屋がある。勾配が急になり、木組みで土流れを防いでいる階段を上がる。春日神社から10分ほどで、森が開け、コンクリート舗装道路が来ていた。数台停められるPもあり、「なんだ〜」と脱力した。そこに説明板が立っていた。
『史跡宇陀松山城跡 宇陀松山城は、天正13年(1585)以後に入部した豊臣家配下の大名により改修を受け、元和元年(1615)に取り壊されました。現在見られる城郭プランの大半はこの織豊期から江戸初期にかけてのもです。その構造は、主郭部(天守郭・本丸・帯郭・虎口郭・大御殿郭)とニノ丸で構成される中心郭群と、中心郭群の外側下を取り囲むように配される外縁部の郭群(御定番郭・御加番郭など)に大きく分かれます。
中心郭群は総石垣で築かれ、大規模かつ巧緻な枡形虎口の構築、多聞櫓や本丸御殿などの礎石建物群、桐・菊紋瓦等の大量の瓦の使用など、織豊系城郭の特徴を良好に残しています。外縁部の郭群の外側に設けた横堀と堀切によって画された城域は、東西約400m、南北約250mの規模をもち、西側の城下町からの比高は120〜130mを測ります。
また、宇陀松山城跡は、元和元年の城割の具体的状況が観察でき、幕府の城郭統制や中世から近世にかけての宇陀地域の城郭と下のあり方を考えていく上で重要な城郭跡と言えます。最後になりましたが、調杏開始からご理解とご協力を賜りました土地所有者の松尾家、並びに関係各位に厚くお礼申しあげます』
ここから郭群が見えます。深い堀切など城郭土木の様が見え、石垣遺構も遺っています。ここは中世山城の晩年期のもののようで、高取山のような石垣で囲まれていたのかもしれません。
『南西虎口部(雀門跡)は、中心郭群と城外との結節部を構成する要の位置を占めている。本丸前面に設けた虎口郭を軸に本丸・本丸西側下の御加番郭・帯郭・城外縁部の4方向へ通路が続く。文禄3年(1594)写の『阿紀山城図』には雀門と記される。その構造は、城外郭の石垣線の折れと門とを組み合わせることで大規模な外枡形の虎口空間をつくり、さらにその内側上部に設けた虎口郭を第二の枡形空間とする複合的なあり方を示している。石垣裾から出土した大量の投棄瓦から類推して櫓台上には多門櫓や隅櫓が構築されていたと考えられる。
雀門は、間口5.4m(18尺)・奥行1.8m(6尺)規模を測る。門柱の礎石は、北西側と南東側に2石が残る。間口と奥行の規模等から考えて、高麗門の可能性が高い』
「ここは当たりだな〜」と激写を繰り返しながら眺めていると、人の気配が・・・なんと山城観光の方がいました。山城で人に会うなんてめったにないことで、むしろ驚いた。そして「この方も好きだな〜」と同好の士に嬉しくなり声を掛けた。思いの外反応が良く、30分ぐらい話した。
家内の出身地・加古川の方で、大阪で大学生活を送っている息子さんたちを迎えに来たそうです。その前の寄り道だそうです。息子さんも娘さんも加古川一の進学校・東高で、これまた家内と一緒です。「竹田城」が大ブームで気軽に登れなくなったどうのこうの、「高取城」に登りました?なんてことでも話が合いました。登りたいと思いながら「地盤崩落の危険で登れなくなった佐用町の「利神城」にそれ以前に登ったことがあるとか。あまりの辛さに断念した山崎の「長水城」にも登られていました。健脚です。
車で来られているのに、上の駐車場に車がなかったことを聞くと、道の駅からここへの道があったけど土砂崩れ通行止めで徒歩でも通れないらしい。道の駅に車を停め、僕同様春日神社から登ってきたそうです。バイクで来たので神社前に停めていることを話すと、以前バイクに乗っていたことを教えてくれた。駐車場を気にせずどこでも停められるバイクの話で盛り上がったが、盗まれて乗らなくなったそうです。残念なことです。話している間に、2人も山城ファンが登ってこられました。人気があるようです。
お別れしてから、名刺を渡すのを忘れたと急いで渡しに走り声を掛けました。主郭に登ります。一気に360度展望が広がり、素晴らしいロケーションでした。
『本丸 本丸は東西50m、南北45mの広さを有する城内最大の郭である。西辺の中央に15mX10mの張り出しをもつ。本丸上には対面・接客などの儀礼空間としての本丸御殿(表向御殿)が建つ。本丸御殿は「広間」を中心に「遠侍」、「家臣溜」、「書院」、「台所」の5棟の殿舎からなり、全体の規模は1間=6尺5寸(197cm)で東西20間半、南北12間半を測る。
城割時に投棄された瓦の出土状況から、本丸御殿は桧皮ないしは柿葺きと推定される。また、本丸周囲の石垣沿いには瓦葺きの多門櫓が連なる。北西隅の部分を除いて全周し、途中西虎口・南東虎口の2つの門とも繋がり、強固な防御ラインを形成する。天守郭への虎口は2ヶ所確認されている。そのうち北側の虎口は石垣積の付櫓を構築する格式あるものとなっている』
『大峰山脈が一望できる宇陀松山城跡 南北朝時代に宇陀郡を領分する有力国人の秋山氏の居城(秋山城)として築かれたのに始まり、大坂夏の陣の元和元年(1615)に廃城となった。この城跡からは周りの山々を見通すことが出来る』
『天守郭 東西40m、南北12〜20mの規模があり、南・北辺の中央東寄りに幅7〜12mの張り出し部をもつ。
天守郭上には、いわゆる「天守」に相当する多重の建造物が存在したと思われる。その場所は、南北の張り出し部から東側の方形区画と考えられる。この方形区画部分は、復元規模が南北12m(間口6間)・東西10〜11m(奥行5間〜5間半)を測り、小規模な天守(三重天守等)には相応した広さを有する。
また、南北の張り出し部上には「天守」との連絡が可能な付櫓が建ち、その西側には城主の日常の居所空間である「奥向御殿」の建物群が構えられていたと思われる』
城を下ります。11:02バイクに戻りました。山城探索に2時間も使っちゃったので、三重県の舗装林道探索は諦めました。近場の歴史探索に切り替えましょう。11:04「神楽岡神社」。お参りし、バイクに戻りR166に出ます。
r218に入り、11:19「宇陀水分神社」。おトイレを拝借し、r218に戻り、11:44「見田・大澤古墳群」。『最古級の古墳群 見田・大渾古墳群 当町の見田・大澤両地方にまたがる標高370mの尾根の古墳です。昭和56年、県立橿原考古学研究所によって発掘が行われ、古墳時代初期(4世紀前後)につくられたことがわかりました。
4基の方墳群前方後円墳で四獣鏡一面が出土しています。これは、わが国の四獣鏡の発見が5世紀以降に限られていた通説を破る結果となり、最古級の古墳群として、又、古墳発祥の謎を解明する資料として、昭和58年、国の史跡に指定されました』
墳丘に上り探索します。国の史跡だけあって、下草が刈られ歩きやすい。バイクに戻り、r218の先に進み、12:03「平井大師山石仏群」。最後二輪でも離合が難しい急坂細道を、一気に駆け上がったが、横を見るとPがあった。素直に「Pこっち」に誘導されていれば良かった。「八十八箇所石仏巡り」になっていた。1番から少し石仏を巡り戻りました。シャクナゲが綺麗に咲いていた。
バイクに戻り、r218〜r31〜R166〜r31で、12:26「惣社水分神社」。そのまま先に進み、峠を越え「東吉野町」に入りました。r251との分岐を過ぎ、暫く走ると何故か数台の車が停まっている。「カフェ月うさぎ」とあった。流行りの田舎古民家カフェのようです。こんな立地にカフェが成り立っているのに驚きました。r28に突き当たり、左折してすぐに12:46「白馬寺」「投石の滝」がありました。地図に載っていた「白馬寺」目当てだったのですが、お寺はイマイチだったけど、「投石の滝」は落差もあり見事でした。「弘法大師の衣掛け杉・樹齢千年」がありました。弘法大師の衣を掛けた岩や杉など、吉野地方にはたくさんあります。r28を南下します。13:08「水分上社」。ここはイマイチでしたが、シャクナゲが綺麗に咲いていた。シャクナゲは花が集まり大きく見え、この時期目立ちます。帰路に着きます。r28を北上し、「投石の滝」横を過ぎ、R369に突き当たりチェンジして西進。「滝谷不動尊」の道標に反応に寄り道します。好きな沢道だけど、いくら走っても次の道標がない。林業の木材搬出の土砂崩れで進めないところまで来て諦めてUターンしました。失意で戻っていると、左下の沢に建物が見え、13:39「滝谷不動尊」到着。静かな場所にある素敵な滝でした。滝打ち修行出来るような施設はないけど、修験道修行場の雰囲気がプンプンしていました。清水に浸かるのかな?
R369に復帰し、西進します。14:00「仏隆寺・千年桜」。Pに無人売店があり、古代米や鹿の角が売っていました。『真言宗・室生寺派末寺で、室生寺の南門として摩尼山光明が岳の麓に位置する。嘉祥3年(850)空海の高弟・堅恵が創建した。一説には、これより先に興福寺別当・修円僧都が開いたとも言われている。
境内には、石造十三重の塔・堅恵の石窟・仏隆寺の桜・本尊十一面観音像・不動明王像・堅恵像・弘法大師像・茶臼など重宝が多い。
地蔵菩薩像石段は鎌倉時代、鐘楼堂は江戸時代、本堂・求聞持堂は昭和になってから改築されたものである。寺観整い、榛原から当寺を経て室生寺への経路は、風物にも優れ美しいところである』
『天然記念物 仏隆寺のサクラの巨樹 仏隆寺のヤマザクラとして指定(昭和53年3月28日)されていたこのサクラは、開花期に鑑定を受けたところ、ヤマザクラとエドヒガシの雑種であるモチヅキザクラの一型であることは判明した。しかし、このモチヅキザクラは花柱に毛がなく、筒の膨らみが円筒形楕円型をして長いなど、ヤマザクラの形質をも供えている点、学術上貴重な巨樹である。
このサワラは、根囲7.7mに及び、根株から2mのところで大小11本に分岐し、分岐枝の最大のものは幹周囲1.2mで四方に枝を拡げ、樹勢は衰えておらず、県下で最大最古の株とされ、貴重な存在でもある』
とてもサクラに見えない巨木で、樹齢千年というサクラにしては長寿過ぎる年齢を納得させる雰囲気満点でした。R369に戻りましょう。途中で「赤埴の千体仏」の道標を見つけ寄り道しました。
『子授けに霊験あらたかな地蔵菩薩の千体仏です。16世紀前半、赤埴家の養子となった越中守安正が、生地の美濃国から背負って来た仏像が始まりで、元は観音寺にあった。
内陣中央の厨子に、総高46cmの地蔵様が、頭光をいただき、左掌に宝珠を載せ、右手は垂下して与願印を示して立っている。錫杖を持つ姿よりの古い様式です。美しく彩色され、上部は白い綿にくるまれた優しいお姿です。厨子の下・三段の木箱に、24cmほどの同じ様式の地蔵が2体ずつ計6体が安置され、その左右の6段の棚には、260体の木製無彩色の小地蔵が並んでいる。
地蔵菩薩は、釈迦没後弥勒出世までの無仏と言われる中間に濁った世の人々を救済してくださる仏です。そのお姿から子授け子育ての仏とて信仰され、このお堂にも近在はもとより遠国からも参詣されています。この欲しい人は、願を掛け1体を戴いて帰り、出産後新たに1体を刻んで2体として納めるという民俗学的にも貴重な文化財でもあります』
堂内を覗くと、たくさんのお地蔵様が整然と並んでおられました。子授けに預かりたいと思ったら、何処に連絡すれば良いのだろう?
R369に下りましたが、地図に書いてある「千本杉」を見つけられませんでした。再度山道を登ります。「旧道・伊勢本街道」があったので、そちらに突っ込んでみました。
結局見つけられず、R369に戻り西進。榛原からR165になり西進し、桜井に戻りr15に入り、15:08「安倍文殊堂」。陰陽道・安倍晴明の生誕地です。本堂(抹茶菓子付き)700円+浮御堂700円=共通拝観券1200円。まず抹茶とお菓子の接待を受け、本堂に入り説明(20分毎)を受けました。
本尊の獅子に乗った文殊菩薩像は金色に輝き、脇侍4体も綺麗で立派です。全て鎌倉時代の仏師・快慶作で国宝。寺務所で、スポーツ上達御守500円を授かりました。サッカースクールに通い始めた孫5才へのプレゼントです。本堂の説明されていた「ご利益巡り巡礼衣/長谷寺・室生寺・岡寺・安倍文殊院」も授かりました。衣自体は無料ですが、御朱印に300円必要です。これを着て、残り3寺を巡りましょう。
境内に古墳の口が開いていた。『「特別史跡」文殊院西古墳 「願掛け不動」安置 現在、国の指定史跡は1694ありますが、その中で日本文化の象徴と評価される特に重要なものを「特別史跡」とされている。国宝・重要文化財に匹敵します。特別史跡は全国で61しかなく、古墳で指定されているのは7です。
この古墳は、1360余年前の645年頃築造され、古墳内部の石材は築造当時のまま保存されている。見事な切石の様は、あまりに美しく、誰もが現代に作ったレプリカと疑うほどです。加工技術の美しさから「日本一美しい古墳」の定評がある。全国7特別史跡古墳の中で奈良県にあるのは他に、石舞台古墳・高松塚古墳・キトラ古墳・巣山古墳です』
浮御堂へ。説明を受け、外周を7回周り都度1枚ずつ半券を箱に入れます。その後御堂内に入ります。周囲の厨子の御開帳は、明日4/29からだった。お財布に入れておく浮御堂守護を授かった。
『この石仏群は、江戸時代に当山の安倍山境内地にひらかれた四国八十八ヶ所・西国三十三ヶ所の各霊場御本尊仏としてまつられていた石仏さまを、この地に一同に安置したものです。
江戸時代の庶民は、四国・西国の霊場を巡拝したくても現実には遠方すぎて困難なため、だれもが気軽にお参り出来るようにと、当山に石仏の霊場がひらかれたものである。従ってこの石仏さまにお参りする者は、四国八十八ヶ所・西国三十三ヶ所霊場を巡拝したのと同じ功徳を得る訳で、今でも先祖供養・家内安全・諸願成就の願かけをする熱心な信者があとを絶ちません』。ズラリと石仏が並んでいた。
『閼伽井古墳(東古墳)飛島時代 この古墳は「関伽井の窟」とも呼ばれ、羨道の中程に昔から枯れる事無くこんこんと湧き出る泉があります。この泉に湧く水は「閼伽水」(別名智恵の水)と呼ばれています。閼伽水とは「仏様に御供えする為の清浄かつ神聖な水」の意味です。古来より「関伽井の窟」を参拝すると智恵が湧くことで知られ参拝者が後を絶ちません』
『文殊院東古墳(県指定史跡) この古墳は、「実隆公記」によれば、室町時代にはすでに開口していた。墳丘は、方墳の可能性が強いが、墳丘の形状は不明である。内部構造は南南西に開口する横穴式石室で、石室規模は全長13m・玄室長さ4.69m・幅は奥壁部2.29m・玄門部2.67m・高さ2.6m。羨道長さ8.31m・幅は玄門部1.75m・羨門部2.04m。石室石材は、玄室はほとんど加工されていない自然石で、羨道は切石の花崗岩である。羨道・玄室とも遠近感を強調するため入口部より奥を狭くしている』
絵馬掛けがある。ここの絵馬は大きめです。「恋愛成就・良縁成就・縁結び大神・白山堂(室町時代・国重要文化財)」があった。
『白山堂は加賀国(石川県)の霊峰「白山」を御神体とする白山神社の末社です。ご祭神は全ての祖神といわれる白山比め大神と申し、別名・菊理媛神(くくりひめのかみ)とも申されます。この菊理姫は日本神話において国造りをされた伊邪那岐尊と伊邪那美尊の縁を取り持たれた神様です。「菊理姫」(くくりひめ)の「くく」とは糸をくくり整えるように男女の縁を取り持つ縁結びの神様として古来より厚く信仰されています。
その為現代でも全国から恋愛成就・良縁成就を始め「人間関係における良い縁」を頂くために参拝される方が後を絶ちません。一方、この白山堂が室町時代に当山に建立された由来は、霊峰「白山」がわが国修験陰陽道の大霊地として厚く信仰されてきたことにあります。当山は平安時代の大陰陽師・安倍晴明公が出生された寺院で陰陽道発祥源流の寺です。その為、晴明公と霊峰白山は古来より深く結びつき信仰されてきました。こうした訳で、霊峰白山の末社が当地に勧請され、以来縁結びはもとより安倍晴明公に因み、方位災難除けなどを祈願する人も多く訪れます』
『国宝騎獅文殊菩薩像 文殊菩薩は、獅子に乗るお姿で、総高は7メートルと現存する我が国の文殊さま最大を誇ります。
そのお姿は獅子に乗る文殊菩薩を中心として、左側で優填王(うてんおう)が獅子の手綱を執り、右側に仏陀波利三蔵(須菩提)と最勝老人(維摩居士)が前後に侍し、この一群を、善財童子が先導する。いわゆる渡海文殊の群像です』
安倍晴明堂がある。『占いの開祖・平安時代の陰陽師・安倍晴明公・晴明堂 この晴明堂は、日本に於け占いの開祖として名高い平安時代の陰陽師・安倍晴明公をまつるお堂です。晴明公は当山出身の「天の原ふりさけ見れは春日なる三笠の山にいでし月かも」の歌で有名な安倍仲麻呂公と同じく、当山出身の安倍一族の1人てす。
この展望台の場所は、晴明公が天文観測を行い、吉凶を占った地として古来より伝承されています。晴明公はその秘術があまりにも超能力者であったために、昔から魔除け、災難除けの主神として全国でまつられています。現代でも大安・仏滅や鬼門・恵方などの方位、十二支の千支、人相・家相や易等々、私達の日常生活の中で極めて深く密着している吉凶の判断は、すべて陰陽道から生まれたものです。当山には古来より晴明公のご遺徳を偲ぶ晴明堂がありましたが、幾星霜を経て廃絶してしまいました。
この度、西暦2004年に晴明公一千回忌を迎えるにあたり、200年ぶりに晴明堂の再建が成されました。晴明堂の正面には「如意宝珠」の玉石が据えられています。この「如意宝珠」とは、仏教の経典において説かれた玉で、あらゆる願いを自在に叶えて下さるありがたい玉の事です。この玉石を、当山に秘伝として伝来してきた方位除災のまつり方を模刻した石版の上に安置し、御参拝の皆様に触れていただき、諸願の成就を祈念していただきたいと念じております』
『如意宝珠 この玉をご自身の手で撫でて下さい。魔除け方位除けの大きなご加護が受けられます』
安倍晴明天体観測地に上がると、ウォーナー博士供養塔が立っていた。どなた様かな?『ウォーナー博士は、1881年アメリカのニューイングランドに生まれ、ハーバード大学出身の東洋芸術史家で日本美術の偉大なる権威者です。第2次世界大戦において、日米の風雲急なるやその親友ハル国務長官を訪ねて戦争防止を進言されました。不幸開戦となるや、アメリカの政府と軍の上層部に辛抱強く奈良と京都を初めとする古都の文化的価値の説得に成功されたおかげで、アメリカ軍の日本本土空襲の時にも空爆リストから外されました。この地に立つウォーナー報恩塔はこのウォーナー博士の功績に大変感動した桜井市の一市民であった中川伊太郎さんが、日本人が博士へ寄せる感謝の気持ちを永久に残したいという気持ちから自費で建立されました。因みに中川さんは当事、失業対策事業で働く日雇い労務者と言う大変苦しい生活を送っていたにもかかわらず、こつこつと貯えた10万円の全財産を出して昭和34年5月に建立されたものです。この建立の相談を受けた当時の市長及び桜井市仏教協会と当山住職はこの美徳を称えたいとの思いから場所の提供をはじめとして毎年6月9日のウォーナー博士の命日に報恩感謝の供養を厳修することとし、以来桜井仏教会主催によって6月9日の博士の命日に法要が行われています』
16:18、さあ一気に帰りましょう。R165を西進し、道なりに「大和高田バイパス」に乗り、南阪奈道・「太子IC料金所」でバナナ休憩し、近畿道〜中国道、豊中IC下車し、中央縦貫〜R171で帰宅しました。17:40「伊丹産業北園SS」で給油。251km/7.43L=33.8km/L。

2018/4/22
コーチしてる大学ヨット部の新人勧誘のお手伝いです。今年は京都の大学から琵琶湖の艇庫まで新入生を運ぶ車が足りているので、直接10時に艇庫に行けばOKです。朝、近隣寺社巡りが出来るけど、前日400kmもバイクで走ったので体を休めるために自重しました。
車が必要ないのでバイクで行こうと、倉庫から「招き猫CB400SB」を出します。ここ数日、4月とは思えない暖かさが続いています。前日もすぐ暑くなり春秋装束のカッパを脱いだので、最初からDAIWAフィッシングスーツをリアボックスに入れるだけにして、夏用メッシュプロテクター上下で出発しました。
R171〜中央縦貫道〜吹田ICから名神高速に乗り、8:20「桂川PA」でトイレ休憩し、「いちごチョコ大福540円」を購入しました。「京都南IC」で下車し、R1を北上〜東寺角で右折し「九条通」を東進し、道なりに「東大路通」に乗ります。七条との交差点を右折し、女坂をゆっくり上がっていきます。女子マネージャーの供給元「京都女子大」で部員がピックアップしてるかな?と思って。
まだピックアップ時間ではないようで、女坂を下がり、東大路通を北上します。8:45大学正門横のバイク置き場に入れ、いつもの「クスノキ下」に向かおうとバイクを降りようとしたら、3回生QP君が「おはようございます」とやってきました。僕がここに来ることなんて言ってなかったし、ヘルメット姿で誰かわからないはずなので、「おはよう、よくわかったね」と言うと、「だってヨット用ライフジャケット着てる人は目立ちますよ。バイクに乗る時、プロテクターとして着てるのですか?」と反対に聞かれちゃいました。「いいや、載せるの面倒だから」。3回生I君がここの担当で、新入生の女の子2人・男の子3人が既にいました。新入生とあれこれ話します。9時になりQP君ドライブで第1陣が出発しました。新入生が1人、また1人とやってきて、9:10第2陣出発します。第2陣ドライバーが4回生K君でした。僕もこのタイミングで琵琶湖に向かいます。
白河通りを北上し、「山中越」で比叡山を越えます。滋賀県と京都府の県境は、比叡山山頂を通っていますが、山頂より南を越えるこの道では、峠の手前京都府側にあります。それを過ぎ暫く走ると、「山中越」と書かれた舗装細道が左に分岐しています。これが京都への往来の古道の1つです。いつか歩いてみたいと思っている峠道です。滋賀県側車道のドンツキは「崇福寺跡」(標高260m)で峠が460mここが310mです。また横目で確認しただけで通過。
現山中越の峠370mにある「比叡山ドライブウェイ」入口を過ぎ、琵琶湖側に下ります。上り坂はアクセルオフでなんとかなりますが、下り坂はカーブ手前でしっかりブレーキングしないと飛び出してしまいそうで緊張します。カーブをクリアしてもアクセルオンしなくてもスピードが上がっていくのでそのままにしてスピードが上がっていくのを待つのが僕のドライブスタイルです。ここで後続車に追いしまうので、2台ほどパスしてもらいました。
9:40頃ヨットハーバー着。他大学も試乗会をしており、バーベキューの用意をしているところや、新入生に着せるウエアをハンガーに吊り下げていたり、いつものハーバーの雰囲気と違っています。
他大学の部員と「おはよう」の挨拶しながら艇庫前へ。部員達とも挨拶します。バイク装束を脱ぎ、レスキューボートに荷物を置き艇庫内へ。第1弾で来た子達が艇庫内のゴザの上に部員たちと座りリラックスしていました。
試乗艇は出艇したようで、「そろそろ行こうか」の声に促され、濡れても良い服装の上にハーネスやライフジャケットを着始めます。ここは役得で、女子のフィッティングを手伝います。試乗会用の靴を履き、一緒にレスキューボートへ。2回生部員のW君・4回生女子マネSさんと僕がレスキューボート担当です。新人女子には手を貸して船に乗せます。
マネージャードライブで沖に出し、僕はこれからしてもらうことや注意点を話します。先に出艇していたインフレータブルボートに新入生を乗せ換えます。インフレータブルボートは、試乗ヨットに走り、各艇に1人ずつ乗せて行きます。レスキューボートはハーバーに戻り、第2陣を乗せて再び沖に・・・の繰り返しがお昼まで続きました。
新入生にいろんな話をし、時には運転席に座らせ、体験運転をさせ楽しませます。この日が試乗会最終日なので、2度目・3度目の新入生がおり、「今日、入部宣言します」と嬉しいことを言ってくれる子もいます。
インフレータブルに乗せて、発進しカーブした所でロープに捕まっておくよう言ってたのに甘く見て油断してた新入生が1人ドボンしました。すぐにインフレータブルが引き上げ、僕らは大笑いです。ドライブしてたマネージャーが「ごめんなさい」と平謝りしています。暖かいというより暑いので、ドボンしたぐらいがちょうど良いのでは・・・。
昼休みに大学からの新入生供給が予定通りストップし、艇庫でおにぎりを頂きます。入部から1年ですっかり馴染んでしまった2回生マネNさんが素敵な笑顔で、「コーチ、おにぎりいくつ食べますか?」なんて聞いてくれます。
13時を過ぎ、午後便が到着しました。試乗艇が出艇し、インフレータブルが出艇します。午後第1陣の着替え、ハーネス・ライフジャケット着用を手伝い、彼らを乗せてレスキュー艇も出艇。これからやることを新入生に話し、午後からは「インフレータブルに気をつけろ」という言葉を付け加えます。「犠牲者が1人出ているので、彼らは凶暴だ」と。
インフレータブルのドライバーが、3回生女子マネージャーM嬢から2回生部員Tに代わって高速で飛ばして来ました。前に乗るM嬢はキャーキャー言いながら到着。「やばい」と思いながら、乗る時に「気をつけろ」と念を押します。しかし、あっさり2人目の犠牲者が出ました。急旋回とともにドボン。
これを見て、T君の優しさを感じたのは僕だけでしょうか?僕が毎回、「このボートが最も凶暴だ」と言って乗せるので、M嬢が笑いながらですが「もうしないから」と恐縮していました。1人責め苦を負うM嬢を庇い連帯責任を取るために「僕も同罪に」とT君は思っての行動だ・・・と底意を感じました。
京女在籍のマネージャー志望の女の子2人が、なんと高校ヨット部出身者でした。彼女たちが入部してくれたら新しい展開になります。高校同期の進学先などいろいろ話しました。レース中のビデオ撮影や撮影ポイントなど、レース経験者故の位置取りが期待できそうです。
数チーム後、またドボン!試乗予定者全員の試乗を終え、2回目希望者が乗ってきます。その中にヨットからの落水を3回もやらかした猛者が出ました。更に新入生を楽しませるためにやってたアトラクション中に急に風が変わり沈。当然3人全員水の中です。加えて、「僕ら飛び込んでいいですか?」なんて言ってくる新入生がいて、レスキューを止めライジャケを確認し、マネージャーがビデオを構え終わるのを待って「いいよ」と言うと、寸劇の後ドボン!ドボン!ドボン!の3連発でした。「こっちから上がれ」と促し、サイドデッキに引っ張り上げました。同じ高校出身者でした。
16時に試乗会を終え、全艇ハーバーバック。2m/s〜5m/sまでいろんな風が入り、上天気で暖かな試乗会最終日になりました。ドボンした新入生は陸上に上がって、シャワーを浴びて体を温め着替えました。順次部員が誘導して合宿所に帰り、ドッジボールやゲームで楽しみます。
17:30になり、合宿所2Fで鍋を囲みます。例年、僕は後ろで楽しんでいる姿を見て、指名されれば話をしていましたが、今年は第1テーブルに席が作られていました。新入生ばかりが固まらないよう部員を等分に配置し、友達が固まらないよう席決めして、表に張り出されます。
司会者から「乾杯の前に挨拶を」と指名されました。「え〜、みんな腹を減らしているのに」と声に出すと、同じテーブルにいた4回生K君が「短めにお願いします、10分で」と笑いながら言ってきます。「そりゃ無理や、私を指名した時点でアウトだね」と切り替えします。
司会者2回生T嬢が、「今日は来てくれてありがとう。では最初にコーチの・・・」と指名され、5分ほどのバージョンで話しました。家から持ってきたヨット部イベント写真ファイルを見せながら紹介し、学部生時代は学業が最も大事だけど、それ以外に別の居場所を作ることに大切さを伝えたつもりです。いろんなサークルがあるが、大学の校歌を歌い、大学名を胸に、部旗を前面に打ち立て学校の名誉のために切磋琢磨する体育会を勧めました。体育会は卒業後の人生にも繋がり、人生を豊かにするはずです。僕のクラブ先輩と組んで活動するレース写真・家族クルージングなど実例を紹介しました。
全員お茶やジュースで乾杯し、歓談が始まりました。30分ほどして恒例の自己紹介タイムです。昨年の司会者3回生G君が指名され、自己紹介の見本を見せます。名前・出身高校・ヨットに乗った感想など。第1テーブルから指名された新入生が挨拶を始めます。男子部員から、服装を野次られ、出身校には「お〜名門や〜」など訳のわからない基準での野次が飛び交います。笑いで自己紹介の言葉が聞こえず、司会者が「静かに、聞いて」などなだめますが、すぐに元の木阿弥です。
自己紹介が終わり、鍋には締めの麺類が投入され、再び歓談。20時前にお開きとなりました。写真を回収し、メッシュプロテクター上下を着て、帰路に着きます。
湖西道路〜名神高速を走り、吹田ICで下車し、中央縦貫〜R171で9時過ぎに帰宅しました。出来るだけ音を立てないように荷物を玄関前に下ろし、バイクを倉庫に入れます。玄関に戻りドアに鍵を突っ込むと開いていました。家内がまだ起きているようです。
「ただいま〜」と入ると「おかえり〜」。「まだ起きていたんだ」「うん、LINEに返事を書いていたら失敗したりして・・・」。長男の子りょうくん5才が、日曜日だけ日本語学校に通うようになり、サッカー教室にも通うことになりました。地元の私立プリスクールに通っているのですが、2年で卒業です。日本の年長さんクラスは、エレメンタリースクール(小学校)内組み込まれる学制になっており、その付属の幼稚園に代わります。
6月でプリスクールを卒業し、9月に年長組が始まります。アメリカ人のお子さんばかりの幼稚園なので英語はグングン上達しましたが、日本語の方が親と話すだけなのでいろいろと不安です。週1で日本語学校に通い、現地駐在日本人の子と共に日本の言葉や習慣などを学びます。去年のサマースクールは水泳とサッカーをしましたが、サッカーを気に入ったようで通年でサッカースクールに通います。両方の1回目の写真が、お嫁さんからLINEで送られて来ました。その返事です。風呂に入り、ヨーグルト持って寝室に上がり、1日が終了。

長男のお嫁さんから、LINEで嫡孫りょうくん5才の写真が送られて来ました。新たに通いだした日本語学校とサッカー教室の1回目の写真です。どちらも初回からとっても楽しんだようで、一安心しています。
日本語学校は、「幼稚部ばら組」となっていました。20人ほどのクラスで、最前列に座り先生の話を聞いていました。日本式で、毎回宿題があるようで、毎日少しずつ頑張っているようです。昨年9月に訪問した時は、しまじろうの「ひらがな在宅学習」にすぐ飽きて、簡単でスクールでも教えてもらってるアルファベットのドリルの方をしようとしてお嫁さんが困っていました。長男も「心配していたネイティブばかりのプリスクールにあっさり慣れ、友達を遊べない休みの日が残念そうにしているぐらいになり、むしろ日本語の方が心配」と贅沢なことを言っていました。長男同様社交的な子なので、何処に行ってもすぐ慣れちゃうでしょう。
深めの芝生のグランドで、一人前のサッカーウエアでボールを追いかけているりょうくんがかっこいいです。2本ラインの入ったソックス・ブルーのサッカーパンツ・長袖のラッシュガードの上にナイキのでかいマークが胸に入ったライトグリーンTシャツです。先生の動作を見て真似しています。
他の子は長袖長ズボンが多く、ダウンジャケットを羽織っている子もいます。ニューヨークの南の町だからまだ寒いようです。芝生の上に座った先生の周りに生徒が集まり、説明を聞いています。白人の他にインド系と思われる子、アメリカに多い中国系の子と明らかに日本人と思われるのはりょうくんだけです。ブロンドの長い髪の女の子もいます。
サッカー教室の後、プリスクールのお友達のバースデーパーティーに行ったようースデーパーティー用の施設があり、テーブルでケーキを食べた後、遊具室に移動し遊び回るのがアメリカンスタンダードです。りょうくんはサッカーの衣装のままで、顔にペイントしてもらって参加しています。ペイントが気に入ってるようで、将来日本ではアウトローと見られてしまう入れ墨君にならないかと、心配。
911のポリスカーに乗り、デーブルでピザとケーキを食べながら親指を立ててGood!を表現しています。テーブルのメイン席に座ってケーキを食べている主役はブロンドでパーマ・アップ髪の可愛い女の子でした。

2018/4/21
『険道 / 13年ぶりの正式開通・・・三重県道603号大杉谷海山線』というのを知り、走ってみたくなりました。僕は国道より県道、県道より林道・沢道好きです。このr603、県道ですがこれだけ長い間不通なら主要幹線ではなく実質林道です。別に走れなくても代用できる道です。不通期間が長いということは山道・崖道で、僕の大好きな道です。こういう道のほとんどが絶景が望めます。
一筆書きルートを引く(R166〜r306〜R477〜R169)と距離が300kmオーバーになり、寄り道を含めると400kmに近い(帰宅後計算すると420km)です。朝早く出なくちゃ。4時に目を覚まし急いで着替え(秋冬定番装束コミネ上下夏用メッシュテクタージャケット・パンツ+DAIWAフィッシングスーツ)、倉庫から「招き猫CB400SB」を出しました。
4:30に出発し、R171〜中央縦貫道〜吹田ICから近畿道〜南阪奈道〜大和高田バイパス経由で橿原市に入りました。R165で東進し、R166に乗り換えます。国道を走っても良かったが、r217〜r31に浮気し田舎道を楽しみます。r217とr31の交点の所に「八咫烏神社」という魅力的な社名の神社がナビに見えたが、案内道標が出ていなかったのでパスしました。
R166に復帰する手前に、6:05最初の目的地「宇太水分神社」がありました。「水分神社」がこの地域に3社あり、社名から農業に最も大切な水を大事に、争いをなくすためのお宮だと想像され気になりました。
前情報なしに訪問しましたが、鳥居の前に来た時点で、鎮守の森の深さと木々の高さが見え当たりだと思いました。『国宝の見学や写真撮影はあとにして、まず参詣しましょう』と書かれた立て札が立ち、「国宝があるのか」とますます期待が膨らみます。『頼朝杉(2代目) 源頼朝が幼少の時、当社に詣で、この杉苗が大きく育つことがあれば、自分も天下を治める大将軍になることが出来るであろうと、占うため植えさせたのが初代。「水分の神の誓いを植え置き、後に栄えの老杉を見む」と詠む』
境内の中央部に板玉垣で囲まれた小さな一角があり、その中の鎮守杉も立派に年輪を刻んだ大木でした。『祓戸神社 身の清めに詣る。一柱の大神の神社。 稲荷神社 主に商売繁盛などを願う神社』。椿の下に花がたくさん落ちており、小さな花の絨毯になっている。
拝殿の裏に鎮守の森の巨大杉が林立しています。歴史の古い長年大きな信仰を集めてきた神社であることが一目瞭然です。『文化財愛護 重要文化財 域内に国宝3棟・重要文化財2棟あり、たばこ・焚火・その他火気は厳禁されています』
開いていないけど窓から社務所を覗きます。神棚・破魔矢・御守が揃っています。開いていたら授かりたい。拝殿裏に回ります。
『夫婦杉 この二股に分かれた老杉は、夫婦になぞらえて「夫婦杉」と呼ばれております。根元は夫婦の和合を表しているようで、大変めでたい木です。10月の第3日曜日の例大祭には、この御神木の根元で惣社水分神社の女神様が神輿にお乗りになって来られ、当社の男神様とお逢いになられます。このことから国宝の本殿に詣でた後縁結びを願う人、また夫婦円満や家内安全子孫繁栄を祈願する方々の姿がございます』
夫婦杉の横に国宝三社が並んでいました。大きな社ではありませんが、檜皮葺屋根のカーブが美しく、お見事です。朝早く誰もいない時間に僕だけが独占です。千木が垂直切りで鰹木が千木にくっついて2本あるだけです。三社は同じ形をしるようです。
『延喜式の宇陀郡17座の第一の大社 本殿向かって右より、国宝第1殿祭神:天水分神、国宝第2殿祭神:速秋津彦命、国宝第3殿祭神:国水分神 重要文化財:日神社・宗像神社 境内社:恵比寿神社・金比羅神社 鎮座地:宇陀市菟田野区古市場245 崇神天皇7年2月の勅祭の大社で、水の配分の守護神として、大和四周東西南北に祀られた東に当たる神社で、本殿は鎌倉時代の元応2年建造であることが棟木墨銘により判っております。
なお永禄元年以降に施された彩色が、平成16年に復元になりました。10月第3日曜日の例大祭は、平安時代から伝わる神輿渡御祭で、惣社水分神社から姫神様がお渡りになります』
『国宝 宇太水分神社本殿三棟 鎌倉時代1318年創建』
『昭和35年5月13日 高松宮殿下御手植の銀杏跡 木の成長に伴い視界が妨げられるため、向かって右末社金比羅神社横へ移植す。 平成10年11月』
『重要文化財 境内春日神社社殿 室町時代』『重要文化財 境内社宗像神社社殿 室町時代』
国宝と重文が板玉垣内に横一列に並んで建っている姿はなかなかのものです。全てが焼失せず、修理されながら遺っているのが地元の方々の信仰心を物語ります。れらを引いて俯瞰すると、社殿の奥に鎮守の大杉群が林立し守護しているように見えます。素晴らしかった。
R166に合流し、そのまま走っても良かったが、国道より県道嗜好なのでr31にチェンジし、また細めの田舎道に入っていきます。「芳野川」という小川沿いの田舎道で気持ちが良い。
鎮守の森がないかキョロキョロしながらゆっくり走っていると鳥居を見つけたので止まると、6:33「惣社水分神社」だった。水分神社の例大祭に、この惣社から姫神様が宇太まで渡御するようです。渡御道を走ってきたようです。
鳥居をくぐります。『参道や境内は神聖なところです。犬の散歩はご遠慮下さい』『鎮座地:奈良県宇陀郡菟田野町大字上芳野 祭神:天水分神・国水分神・速秋津比古命・天之児屋根命・誉田別命・他数神 由緒:大和朝廷時代の飛鳥を中心として、四周の東方にあたる宇陀地方の水の守り神として、ここ芳野川(淀川の源流)に創祀され、一郷(現在の榛原町・大宇陀町・菟田野町)の惣社として崇敬されている。宇陀水分三社(芳野・古市場・下井足)の上の宮である。
建造物:本殿:大正2年隣接する八幡社を合祀し、当社の本殿(明治2年建築)とした。懸魚・蟇股などの彫刻は幕末の名工・安本亀八作 宝物:神輿(重要文化財)一基:南北朝時代 瓶子一対:「貞和2年芳野本水分宮」銘あり 鞍及鐙一具:「永禄5年」銘あり』
『惣社水分神社御神輿(鳳輦(ほうれん)みこし・重要文化財) 南北朝の頃に建造されたもので、今から600年前のもの。その形態は清楚で典雅のおもむきを備え、木造漆塗で細部の技風も卓抜している。
屋根は、宝形造りでふっくらした照起りとなっており、屋上に鳳凰をいただき、各隅木の木鼻が伸び、屋根全体をひきしめている。軒は、吊り金物細工で飾られ、その姿は壮厳である。保存がよく建造当初の姿をよく残しており、鳳凰も当初のもので全国にその類をみない鳳輦みこしである。鳳輦みこしとは、屋形の上に鳳凰を付けた御輿で、天皇の乗物の美称である。
秋まつり(10月21日)の「御渡り」には、この「みこし」を中心として時代行列を整え、古市場に鎮座する宇太水分神社へ渡る。古式ゆたかな祭礼の行列が延々と続く情景は、正に優雅な豪華絵巻をみる想いであり、近郷近在屈指のお祭りである。昭和31年(1956)国の重要文化財に指定された』
この渡御は、当社の女神(速開津比売命/速秋津姫命)が、夫である速秋津彦命に1年に1度会うため、速秋津彦命を祀る古市場の中社までお渡りする祭だそうで、七夕伝説に似ている。この七夕伝説は、アジア各地に同じような伝説が伝えられており、日本国内でもその起こった謂れはいろいろある。
僕が最も好むのは、祓戸の神とされている瀬織津姫の物語です。天照大神は女神が通り相場ですが、本当は男神だった。その妻が絶世の美女・瀬織津姫。天智天皇(中大兄皇子)が藤原(中臣)鎌足と陰謀したクーデター645年「大化の改新」で蘇我入鹿を暗殺した。それに腹を立てた入鹿の父・蝦夷は自邸に火をかけ自害した。この時邸内に保管されていた朝廷歴史書まで燃えてしまった。
壬申の乱を経て、兄・天智天皇の子から皇位を奪った天武天皇は、歴史書の編纂を命じた。天武天皇の皇后は後の持統天皇です。持統天皇は天智天皇の娘で、壬申の乱を企てたのは持統天皇だった説があるぐらい政治好きで、二人三脚で政治を行った。
天武天皇の妻は、持統天皇だけではなく、天智天皇の4人の娘が嫁いでいる。それらに子が出来ライバル心バリバリです。天武天皇即位後に持統天皇が皇后になり、天武天皇は妻や皇子たちを呼び、互いに争うなと抱擁した。妹の子・大津皇子の方が優秀だったが、なんとか皇太子に我が子・草壁皇子が指名された。人生の勝ち組です。大津皇子の母が既に他界していたことで後ろ盾がおらず、持統天皇・草壁皇子側にアドバンテージがあった。しかしながら、天武天皇は優秀な大津皇子の方を好みかわいがっていたので、まだ安心できない。
天武天皇が亡くなった翌日、大津皇子を次の天皇に押す一派に先制攻撃することになった「大津皇子クーデター計画発覚事件」があり、自殺に追い込んでいる。最大のライバルが消え安心したのもつかの間、2年という一連の葬儀中、草壁皇子が亡くなってしまった。
持統天皇はめげず、草壁皇子の子・軽皇子(7才文武天皇)を皇位につけるため、自分がピンチヒッターとして皇位に着く。天皇位は男系男子が本流で、男系ながら女性である自分に正当性を持たせるため、編纂中の古事記・日本書紀の天照大神を男神から女神に変更する大胆な作戦に出た。
女神なら妻は必要なく、割を食ってしまう瀬織津姫を祓い神筆頭にしてその霊をなだめようとした。七夕伝説の織姫のモデルにし、夫・天照と年に1回逢瀬を続ける清い神にした。この七夕伝説の謂れが歴史好きの僕の心を捉えている。この芳野川の水分神社に残る渡御祭が、大和朝廷の水に伝わり、瀬織津姫と天照の七夕伝説に繋がり、脳内妄想を膨らませた。
石段を上り境内に上がってみた。『御神水分処』の札が立ち、湧水がパイプから流れ出ていた。きっと湧水の地を争奪戦から守るため神域に定め水分神社が建てられたのだろうと、これまた脳内妄想が働いた。
社殿はそれほど古い造りではなかった。拝殿に手を合わせると、『どなた様もご自由に御札をお持ち帰り下さい』と御札が置いてあった。それに見合うお賽銭に増額し賽銭箱に入れ、ありがたく頂いた。『芳野鎮座惣社水分神社神霊』。
横にコンクリート造りの宝物保存庫があった。『重要文化財:黒漆金銅装神輿(昭和32年2月19日指定)・重要文化財:黒漆瓶子(平成12年6月27日指定) 惣社水分神社は、天水分神・国水分神・天児屋根命・速秋津比古命・誉田別命などを祭神とし、南北朝時代の製作とされる神輿(黒漆金銅装神輿)、黒漆瓶子などを所蔵しています。
黒漆金銅装神輿は、保存状態が良く当初の姿を残しています。秋祭りでは、惣社水分神社から宇太水分神社(古市場)までの「お渡り」(渡御祭)に使用されていました。
一対の瓶子は、神饌具として神前に供えられた酒器で、胴部の朱漆銘に「御供酒瓶子」とあります。貞和2年(1346)の北朝の年号が記されており、数少ない中漆器のなかで、南北朝時代の年号がある漆器の1つであることがわかります。部に「芳野本水分宮」とあり、当初から当社に伝来したことがわかり、由緒の確かな現存最古の紀年銘瓶子です』
r31芳野川沿いを東に走り、道は直角に南に進路を変えます。6:49ここに「正覚寺」がありました。「菟田野小学校スクールバス乗り場」があり、鯉のぼりがたくさん吊られた綱が芳野川を渡っている。集会所のような建物があり、その雨戸に「全品半額」と書かれている。何かな?と思ったら、表皮を加工された丸太だった。ちょうど椅子に丁度よい大きさで、お値段は200円・500円・700円とかなり安価だった。持っていき放題の無人販売風になっており、代金箱を探したがなかった。正覚寺に参ろうと思って止まったが、外観に目を引くものがなくパス。
道なりに南に曲り、川沿いの道から峠を越える山道になる。トコトコと山を登り、細道カーブを注意しながら曲がっていると、6:57目の前に鹿。道路のど真ん中でこちを見ているので緊急停止、睨めっこしました。
峠を越え南側に下って行きます。r251との分岐があり、より細いr251を選択しました。ナイスな舗装林道で山を抜け、R166・旧道に合流し、7:16「八坂神社」。ここも鎮守の森の大杉が林立する雰囲気の良い神社です。
『木津八坂神社 この神社の創建は定かではありませんが、東吉野村史によると、山城国(京都府)八坂神社より勧請されたと伝えられており、現存する棟札によれば、天正10年(1582)、宝暦10年(1760)、明治13年(1880)、昭和59年(1984)、そして平成24年(2012)に社殿の造替えを行っています。
境内地の巨木の杉は目通り周囲3〜5m、高さ30〜50m程で、樹齢は430年〜500年と言われ、御神木として古くから親しまれています。 私たちの故郷・木津の大切な財産を、未来に受け継いでいきましょう』
造替えからまだ6年なので、社門も神殿も朱塗りが美しい。緑のバックにとても映えています。R166現道に合流し、長い「高見山トンネル」を抜け三重県に入ります。ループをクリアし坂を下ります。栃谷川沿いを加杖坂峠に登る林道に入ります。
7:37鳥居を見つけ緊急停止。栃谷川を渡ると「栃谷神社」でした。どうってことない地域の鎮守様でしたが、掲示板に昨年の例祭の寄付者と金額が張り出されており、『過ぎし1年を顧み、何とか無事に栃谷神社例祭を迎えられたことに心より感謝する老人の独り言、ありがとうございました』と書かれていた。主体的にこの神社のお世話をされている方の存在を感じます。
八重桜が満開です。水車が回っているのでそちらを見に行くと、「炭焼窯」と書かれていました。扉が開いたままで、笑門と書かれたお正月しめ縄飾りが下がっています。『無人販売 竹酢液・炭など窯元特価 ごゆっくり休憩を 山里の駅・栃谷 駅長福本馨』
『幸を感じる水車 澄んだ水と美しい空気、大切な郷土に水車を思いつきました。この話を耳にした四日市で鉄工所を経営される栃谷村出身の福堀幸敏氏。生まれ育った郷里に深い愛着を感じられ、故郷の皆さんが益々元気になるよう水車建設に大きな力を注いでくださいました。誠にありがたく感謝を重ねながら設置いたしました。この地で暮らす人たちや、この山里を訪ねられた皆様のご健勝を念じます』
木で組んだ水路で引かれた水が水車をゴトゴト回していました。八重桜を見に行くと、栃本足跡橋という橋があり、名前に微笑んでしまいました。少し上流には、栃本川を渡るように床が設けられており、夏は足下の流れを見ながら素麺でもみんなで食べたら美味しそうです。福本さんが地域の憩いの場をコツコツ造られているのかな?
「休憩していって下さい」に誘われ、無人販売所に入ってみます。壁には周辺の写真が貼られ、横の部屋の壁には薪が積み上げられ、木材加工作業場に使っていそう。休憩所中央に薪ストーブが置かれ、上に鍋。周囲を囲むように木材テーブルが作られている。「全国大会出場 飯高ジュニア スポーツ少年団・三重県代表バレーボールクラブ」が写真入りで紹介されている。特報記事には、全国大会出場三重高サッカー部悲願の初出場、三重高バレー部2年ぶり2回目出場の新聞切り抜きが貼られていた。
「幸せな人はだれでも、他の人をも幸せにするでしょう」「何かを達成したという実感なしに、幸せはありえない」「ほとんど毎日、幸せな瞬間なら、少なくとも一度はある」・・・幸せをテーマに標語が並んで貼られている。福本さんのお人柄が忍ばれる。
8:01「加杖坂トンネル」。1980年9月竣工、長さ260m・幅5m・高さ4.5m。トンネル脇から峠に登っていくコンクリート舗装旧道がありました。バリケードが1つ置いてありますが、簡単に移動できるので峠好きが突っ込んで行っているでしょう。
小さな祠がありました。『加杖坂峠地蔵菩薩と道祖神 紀州和歌山街道筋から離れた栃谷と青田の境界、通称・加杖坂峠に古来より安置されたお地蔵様は、両地区の安泰と繁栄、さらに往来する村人達の道祖神として長年守護下さいました。昭和35年トンネルの開通により旧峠道を往来する人がなくなった今、賑やかなこの地に感謝と真心を込めてお祀り申し上げます』
祠横に『修験道・行者信仰の理念、世界平和・国家安泰、万物万象の立命祈願 修験節律根本道場・大和国大峰蛇之倉七尾山』と書かれていました。大峰山の七尾山道場は知ってる。
トンネルを抜け下りに入ります。8:11舗装林道「林道木屋谷線」が分岐していた。山が深い地域なので、沢沿いに林道が分岐している。先にどんな絶景が待っているのだろう?
しばらくして対向車が来た。そう言えば林道に入ってから対向車に出合っただろうか?こういう道が大好きです。右手に「奥香肌湖」が見えてきました。対岸に渡る橋があったのでバイクを停めて渡ってみたが、足下が格子状になっており湖面が見えてて脚がゾワゾワして、とても耐えきれず数メートルで撤退。
道なりにr569になります。8:28「蓮ダム」。ビューティフルに晴れ上がった青い空に静かな湖面。そんな世界に誰もいない僕だけの世界・・・良いなあ。
そのまま下り、またR166に合流しました。国道だけで来たら早いのですが、せっかくの山をスルーなんてもったいなさ過ぎます。すぐにr569単独道に右折し、R166に沿って走ります。そしてR422に合流。
ここからR422を走ります。国道だけどセンターラインのない四輪離合するのにスピードをしっかり落とさないといけない好みの道です。もちろん交通量も少ない。ワインディングを左右に曲りながら走っていると、また道路に小動物。狸?猪?アライグマ?鼻が長いのでアナグマのようです。ちょうどそこに林道入口があり、「林道・野止好線」となっていた。
8:52「湯谷トンネル」。松阪市飯高町から、大台町に入ります。奈良県側から見れば、大台ケ原の裏側の町です。8:55「湯谷不動明王」。川のせせらぎの音が聞こえるので、修験道の滝修行場でもあったのかもしれません。猿の鳴き声のようなものが聞こえています。野鳥ではなさそうです。これからの時期、渡り鳥も多く飛来し、日本で産卵・子育てするので、山に入るといろんな鳴き声が聞こえてきます。楽しい季節です。
林道チックなR422ワインディングをのんびり下ると、緑色の案内板に書かれた「・・滝」が目に付き、ストップして地図を見ると以前チェックした滝でした。
ピストンではなく、県道に続く林道で、県道でR422の先に戻ってこれるので寄り道することにしました。舗装が切れないか気にしながら森の中を走っていくと、また滝の案内板があり、沢に沿う枝道に入り、9:16「水呑不動尊」。
『昔、この地に炭焼きを業とする木こりが住んでいた。ある春の一日、滝の付近で仕事の疲れをいやすうち、いつしか夢路をたどっていた。ところが、この木こりの夢の中に白蛇が現れ、「われは不動明王である。この滝に祀れば、長く里人の家内安全を護るであろう」との託宣があった。喜んだ木こりは村人と計って、滝の傍に小堂を建て、日ごろから信心を怠らなかった。
当不動尊は倶利伽羅明王とも呼ばれ、直立する降魔の剣を絶大な霊力を持つ龍がしっかりと巻いている姿で表されている。
この不動尊の傍らを通る山道は、尾放し峠道と言われ、昔から飯高町宮前と栗谷を結ぶ重要な通路であり、天正の昔、若武者達が北畠具教の首級を三瀬館から飯高町野々口に運んだ道筋でもある。
この不動尊の境内には、樹齢500年ほどの古木が鬱蒼と茂っており、発祥の古いことを物語っている。命日は旧暦1月28日で、霊験あらたかな不動さん、また土地の守護神としてねんごろな祭が行われている』
道が広くなっているPにバイクを置き、未舗装路をさらに少し歩くと素朴な鳥居があり、それをくぐり沢を橋で渡ると小屋があり、その横に小さな滝がありました。拍子抜けするほど小さな滝ですが、鳥居や小屋など修験道者が修業の場としているのか、地元の方の信仰が篤いのか大切にされているのがわかりました。バイクに戻り、林道を先に進みます。9:37「龍仏の滝」。林道沿いの沢にある滝でこれもショボい。森の中の沢道は静かで最高です。「洗い越し」がありました。水量が少なく、チョロチョロ道を渡っているだけですが、これも林道のイベントです。「ちょうしノ滝」「かまどの滝」、落差1〜2mの小さな滝群ですが、水が綺麗で飲みたいぐらいです。
9:50「浦谷オートキャンプ場」。夏の山を楽しむキャンプ場のようです。沢道を下って行くと久しぶりの民家、そしてr31に突き当たりました。右折し、少し交通量が増えたけど田舎道を快適に走り、R422に合流し寄り道からプロパールートに戻りました。期待してた滝ではなかったけど、森の道は楽しかった。
陽光を浴び、広くなったけど相変わらず交通量の少ない道を気持ち良く走ります。10:29、道が広くなり数台の車が停まっているところがあったので休憩。「からすき谷公園」でした。小さな建物があり、更衣室やトイレがあるようです。「古ヶ丸尾根コース4.8km」「大熊三山登山道コース」の地図看板が立ってる。ここでR422に沿って流れる宮川に合流する支流沿いに山に上がっていく舗装路があり、「古ヶ丸登山口・レンガ滝コース」と書かれている。車止めされているので行けないけど・・・。
また気持ちの良い道を宮川沿いに下り、10:47「定神社」。11:12「宮川ダム」。『沿革:宮川は海抜1695メートルの日ノ出岳を有する大台ヶ原山系にその源を発し、東流すること約91km、その間にいくつかの支流を合せ、流域面積約920平方キロメートルとなり、白砂青松の伊勢湾にそそぐ県下随一の大河川です。上流域は年間最大雨量5900ミリにも及ぶ我が国有数の多雨地域で、ひとたび降雨を見ると、大小無数の渓谷より流れる水はどっと本流宮川を下り、清流は濁流となって下流一帯を洪水の災禍にまき込み、又干ばつともなると流量は急激に減少し、その上河床の低い中流域では利用されずに河水は流失し、河口はそれにともなう排砂作用によってデルタを形成し、河口港の役割も果たしていない状態でした。
このため宮川の洪水調節、不特定かんがい用水の供給、発電等開発を目的として、『宮川総合開発事業』が計画され、昭和27年7月起工、36億9千万円の巨費を投じて昭和32年5月に宮川ダムを完成しました。その後、維持放流水の環境配慮への要望が高まる中、平成18年に下流河川への影響軽減を目的とした選択取水設備を完成しました。
洪水調節:基本高水流量(ダムに流れ込んでくる洪水の量で100年に一度の規模を想定)3100立方メートル/sの内1600立方メートル/sを調節(ダムに貯留)して大台町から伊勢市までの下流域での水害軽減に効果を発揮しています。
不特定かんがい用水の供給(農業用水):伊勢市他4町約4700ヘクタールの耕地に不特定かんがい用水をダムから供給しています。かんがい期間中は750万立方メートルを上限として供給し、最大462立方メートルの水を放流することが可能です。
発電:宮川ダムに貯水された水は水力発電所に供給され、宮川第1発電所、第2発電所で最大54200キロワットの電力を生み出しています。また、宮川ダムでは常時0.5立方メートル/s(河川維持)の放流を行っており、この水は宮川ダム維持放流発電設備(ダム直下)により有効利用され、最大220キロワットの電力を生み出しています。
観光:吉野熊野国立公園地域でも最も勝れた景勝地である大杉谷渓谷は宮川貯水池の出現によって更に景色を加え、交通路の開設によって大台ヶ原山系及び大杉谷渓谷は観光地として発展を期待されています。
選択取水設備:6段の筒状ゲートが伸縮みし、水面(上限EL.2766m)からEL.250mまでの範囲において下流河川環境に配慮した層の水を選択して取水(放流)することができる設備です。通常は、下流河川の水質と同程度である層の水を選択取水(放流)しています。
所在地:三重県多気郡大台町久豆地内
形式:直線重力式コンクリートダム造
貯水容量:総貯水容量7050立方メートル・有効貯水容量5650立方メートル・洪水調整容量2450立方メートル
寸法:堤高88.5m・堤頂長231m・堤体積3885830立方メートル・流域面積125.6km・満水位標高EL.280m・湛水面積2.0平方キロメートル
水力発電機:出力220KVA・使用水量0.5立方メートル/s』
11:21「大杉谷登山センター自然の家」。マイクロバスが止まっており、山登りスタイルの中高年男女がトイレタイム&入山届タイムをしています。交番があり、警察官が登山届を預かっています。『ようこそ大杉谷へ 大杉谷林間キャンプ村・大杉神木・大台ケ原登山口』と書かれています。大杉谷の名の由来になった御神木を観に行こう。枝道を登って行き、11:27「大杉神社」。
『大杉神社の神木・大杉 昭和30年4月7日三重県天然記念物指定。樹高40m・幹回り9.2m(地上1.5m)・樹齢1200年。大杉谷(旧村)がひらけ始めた頃、すでに生木していたので、この大杉にちなんで大杉谷の名がつけられ、木の元の神である久久能智神(くくのちのかみ・古事記)を祀っている。
樹齢から推定すると、、この神木は天平時代(729〜748)第45代聖武天皇の御代に、この地に根ざしたものと思われます。またこの地方では、伊勢神宮の御柚山として、往古神宮の御遷宮に何回か御用材が切り出されました。大きい木ばかりで樹海のようであったと伝えられています。
古くから、この大杉神社を大杉明神とも申します。大杉明神も大杉神社も同じで、縁起によると天狗のような変わった形の神様が、この大杉に降臨され、悪い病気を追い払ったり、水難から救い助け、また不漁のとき、おまつりすると大漁になることから、地元の他、紀州の漁師など海上の安全と大漁を祈願するためにお参りされました。
修験道(やまぶしなど)は、この神木にお祈りすると白蛇が乗り移るとも言われ、神木・霊木として信仰されている。古文書によると、大杉谷の大神木といって、他の県までも有名で、お参りする人々が絶えなかったそうです。この神木の左の方に杉の生き株がありますが、この株は「大杉神社の旧社」といって、今もまつられています』
誰もいないと思ったら、バイクが2台もありました。ちょうどお一人が帰ってこられ、「何処から来られましたか?」なんて話が弾みました。名古屋から来られた方で、大杉谷から大台ケ原コースに入られ、昨夜はコース上の山小屋で一泊されたそうです。アメリカンバイクに、日本一周してそうな荷物を積んでおられました。r53のエンドから続く道のどこまでバイクで登れるか聞きましたが、徒歩のみとのことで地図に出ている滝を観に行くことを断念しました。「バイクde登山」の方のようです。大台画から山頂まで2泊だそうです。猛者です。僕もバイク自体の走りを楽しむ派ではないので、「バイクde寺社史跡巡り」あるいは「バイクde絶景山城巡り」に分類されるでしょう。
「ではお気をつけて」のバイク乗り定番の言葉で別れた後、鳥居をくぐり沢沿いに歩きます。すぐに橋が渡っており、渡るとすぐ階段が登っており、2つ目の鳥居をくぐると今度は下り階段になり社殿がありました。上から社殿に見えた建物は、単なる屋根のみで、屋根の下に門扉があり、正面に御神木がドーンと天に伸びていました。手水場があり、乾いたタオルが下げてありました。こんな山の中なのに毎日手入れされているようです。
r53に下り、「大杉谷登山センター自然の家」。ここは「乗船チケット販売所」にもなっており、ダム湖巡りがあるようだ。大台ケ原までの大杉谷登山コース看板が設置されており、登山期間が「4月中旬〜11月下旬」と書かれている。登山ルートが解禁されたばかりのようです。
『伊勢平野南部を流れる宮川の最上部にある大杉谷渓谷のうち、565haの国有林で、標高1300〜1400mの間は、上部が暖温帯性常緑広葉樹林であり、本州南部における代表的な原始林として極めて貴重である。範囲は、大杉谷渓谷のうち、上は粟谷川との合流点から、下は水越谷川との合流点の間の両岸流域の国有林です。宮川村は、環境条例を制定し、村の貴重な自然を保護しています。動植物の乱獲は自然を破壊し、犯罪になります。ご協力・ご注意お願いします』
11:58「新大杉橋」。r53はこの橋を渡り対岸で大杉谷に入り、大台ケ原登山口に向かいます。登山口から2泊3日で大台ケ原に登るルートが有ります。地図では県道の延長にたくさん滝の存在が書かれています。白線がバイクで上がれるなら見て回ろうと思ってたけど断念しました。「六十尋滝4km」の道標が立っていたので観に行こうと思ったけど、この橋は足下の鉄板がスケスケで湖面が見えます。歩いて様子を見に行きましたが、足がすくんでとても渡れそうにありません。ましてバイクでなんか無理なので、これも断念しました。
ここからr603です。本日のメインディシュ。13年間災害復旧工事で不通だった県道です。崩れた場所がわかるかな?12:27水呑トンネル。三重県大台町から紀北町への境です。標高700m。トンネル手前の道の広がりに車が数台停まっていました。山登りの方でしょう。青空が広がり暑すぎず、最高の登山日和ですね。
トンネルを抜け、伊勢湾側に下ります。青い空に新緑の山がとても綺麗。グングン下り、車1台・バイク1台・自転車1台の対向車があっただけで平地に降り、13:08、R42に出合いました。
r603を走るという目的を達したので帰路に着きます。R425で西に走り奈良県に入り、R169を北上して帰りましょう。去年「備後橋」が不通だったけど、今年は通れるようになっているのかな?出たとこ勝負です。
R42を南下します。13:29「熊野古道紀北SS・豊漁石油」274km/11.76L=23.3km/L。ここまで自宅から200km。400km/日ツーリングになりそう。13:38「主婦の店・相賀店」で「サンドダブルバナナ103円+助六298円」を購入。
R42を南下し、r760で「魚跳渓」。巨岩がゴロゴロ転がってる渓谷美を見ながらお昼ご飯にします。助六寿司が美味い。14:09、R425との交点に到着。ここで残念なお知らせを目にしました。「八幡トンネル」が通行止めのようで、奈良県に抜けることが出来ません。「あ〜、更に南に下って大回りしなきゃ」。
R425を奈良とは逆に、東に走ります。R42に出て自宅から離れる方向・南に進みます。ショートカット道に右折すると、好きな森の中の細道となり、R309に合流できました。ここから紀伊半島中央部を延々と北上します。R425との交点を越え、「池原ダム湖」沿いを左右にワインディングしながら快調に走ります。ただ僕は「+10の会」だし速くも走れないので、多少交通量が増えたから、バックミラーをチェックし後続車が追いついてくると左ウインカーで抜いてもらいます。
16:03「道の駅吉野路上北山店ヤマザキショップ」で、アイス150円で糖分補給。「道の駅・杉の湯川上」を通過し、吉野まで北上しました。R169と共に吉野川に沿って西進、右折し、高取町・明日香村を通過し橿原市。
ここで左折し、大和高田バイパス〜南阪奈道〜近畿道〜中央縦貫道〜R171。18:56「伊丹産業セルフ北村SS」で給油。212km/7.02L=30.2km/L。

2018/4/16
前日・日曜日のニュースで、「南海電鉄・浜寺公園駅」が紹介されていました。登録有形文化財で、現存する私鉄駅では日本最古の駅舎だそうです。また「福知山市・威光寺の本尊40年ぶり御開帳」も流されました。「両方共観に行かなきゃ」の第一弾、急遽休みを取って「威光寺」に向かいます。
40年ぶりの御開帳で姿を表わすのは室町時代作の薬師如来像で、TVでは開かれた厨子の中に金箔がほとんど落ちずに輝いていました。よっぽど大切に保存されていたのでしょう。福知山は大きな経済力を持った地で、戦国の争いが激しかったし、信長軍団の尖兵・明智光秀が当地の豪族を次々に倒し、新たな領地経営に乗り出した光秀本拠地です。戦火に遭わず残ったのも奇跡でしょう。御開帳期間は「火曜日の14時まで」というたった3日しかありません。
たった3日の秘仏御開帳なんて見たことがなく、ニュースで知ったのも何かの縁だからと観に行くことにしました。日曜の夜、福知山のまだ巡っていない寺社史跡をいくつかピックアップして準備万端。仕事場に出て、お休みすることの承諾を得ました。
倉庫から「招き猫CB400SB」を出して、8:27遅い出発。r13〜r12〜r12・旧道でR173に出ました。「一庫ダム」周遊道路r604に乗り換え北上します。道なりにr106になり、ここから大阪府能勢町です。道なりにR477に合流し、昔摂津と丹波の国境があった「ひいらぎ峠」を越えると、京都府亀岡市に入ります。
R372まで下り、共用区間を経て再びR477単独道に右折し、新世紀トンネルを経て園部。「生身天満宮」前を通過します。この天満宮は、日本各地にある「最初の天満宮」の1つです。かつてこの地は菅原氏の知行地で、代官・武部源蔵が道真の8男・慶能を養育を頼まれた。菅原邸内に祠を建て、密かに道真の像を安置したのが始まりです。現在の宮司も源蔵の子孫です。
この史実をモディファイしたのが日本三大歌舞伎「菅原伝授手習鑑」になっている。『菅家の屋敷を預かる忠義心のあつい家来、白太夫がいました。この白太夫に三つ子の息子、梅王丸・松王丸・桜丸が生まれます。菅丞相からの「三つ子は天子の守りとなる」との仰せにより、3人それぞれ、梅王丸は菅丞相、松王丸は藤原時平、桜丸は斎世親王の家来に引立てられます。兄弟は菅丞相に並々ならぬ恩を感じていました。
菅丞相の左遷後、その子実子菅秀才をゆだねられた忠臣武部源蔵は、現在の京北町芹生に隠棲します。菅丞相の筆法の秘技を受け継ぐ唯一の弟子であった武部源蔵は、筆法を伝授するため夫婦で寺子屋を開きます。そうしながら菅秀才を我が子と偽り匿い暮らしていました。それを嗅ぎつけた藤原時平が、菅秀才の首を討つよう迫ります。
武部源蔵は、窮余の一策で、新しく寺入りしてきたばかりの小太郎の首を討ち、菅秀才として検視役の松王丸に差し出します。顔を知っているはずの松王丸は、なぜかその首を菅秀才と認め帰っていきます。再び白装束で松王丸が寺子屋に現れ、小太郎は我が子であり、自分は藤原時平の家来でありながらも菅丞相の恩に報いるため、菅秀才の身代わりとなるよう寺入りさせたことを打ち明けるのです。武部源蔵夫婦にとっては命掛けの偽首、松王丸にとっては犠牲になった自分の子を見届けなけらばならない、緊迫した最も盛り上がる見せ場が「寺子屋の段」です』
R9を渡り、r19に乗り、園部ICから京都縦貫道に乗ります。9:54「京丹波味夢の里SA」で休憩します。トイレに行こうと思ったら、5〜6台の観光バスから中学生団体が降りてトイレに殺到していたのでパスし、建物裏に行くと「塩谷古墳公園」の案内板がありました。下を見下ろすと小山が伐採整地され、古墳の丘が数基見えます。草木が全て取り払われ裸状態になっているので、今いる僕らは見やすいが、50年もすれば風雨で土が流され、後の時代の人への保存はどうなんだろう?と疑問の目で見ました。
『京丹波町史跡塩谷古墳群 塩谷古墳群は、5世紀末から6世紀前半のもので、小高い丘の上に築かれた直径8メートルから最大15.5メートルの12基の大小の古墳で形成されています。丘陵最頂部に位置し規模も最大である5号古墳から、全国でも貴重な巫女の形をした人物埴輪2体が出土しました。
古墳群の保存(現在11基)をするために、自然環境と歴史的環境を整備し、身近に歴史にふれあってもらう場として「塩谷古墳公園」として整備してあります。巫女埴輪は、京都府指定文化財に指定され、現在、公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センターに保管されています』
トイレを拝借し建物に戻ると、神社や茅葺屋根の家の精巧なミニチュアが飾られていました。作家名も書かれています。この作家や古墳の資料・近在の史跡パンフがありそうなので、観光協会職員?持ち場の周りの机の上や棚のパンフを物色します。数枚のパンフを頂こうとしていると、「どちらからですか?」「兵庫県の伊丹からです」。「今お時間ございませんか?古墳の先生が来られているので、説明を受けませんか?」・・・と観光協会職員?の女性から声を掛けられました。すぐ近くにおられた男性が振り向き、30分ほど説明を受けることにしました。何も言わなければ無料だったのでしょうが、パンフに「古墳教室・40分300円・資料お茶付き」と書かれていたのを見ていたので、「300円ここでお払いすれば良いですか」と財布から300円出しました。
先程の古墳に行きます。SAより下に下り、再び登って古墳丘頂上へ。秦氏と関係のある豪族の古墳群だそうです。盆地が広がっているような多くの人を養える地形ではなく、埴輪古墳という当時の有力者の真似が出来る経済力は日本海と畿内との交易の要衝の地としての存在感から成されたものと考えられているとのこと。埴輪は、僕の先祖・菅原氏の先祖・土師氏が出雲から天皇家に伝えたもので、身近に感じる。大和朝廷最盛期の藤井寺古墳群は、土師氏がプロデュースしたもので、菅原道真の叔母がその地の土師氏縁の尼寺「道明寺」にいたことから、大宰府に流される時、道真公は立ち寄っている。
土師氏一族の古墳設計者がこの地に招聘され、地元民とともに製作した古墳なのでしょう。これから向かう西北にある福知山は、土師氏縁の地名や川名が遺っている。土師氏の祖・野見宿禰が、垂仁天皇に力自慢を請われて出雲から畿内に上った道だったはずです。力自慢の当麻蹴速との相撲勝負に勝利し、当麻の地を得た。垂仁天皇の正室・日葉酢媛命の葬儀の際、殉死に代用する埴輪を案出・採用され、古墳製作を一手に引き受けることになった。その製作集団として出雲族の土師氏一族を呼び寄せた。土師専門職能集団としてその周辺に定住しながら移動したのでしょう。土師なので、土木職能集団として河川治水など国作りに才能を発揮したはずです。
相手が専門家なので、それらの話を楽しく出来ました。この古墳は周囲より高い地で、この豪族集団の居住地から川を挟んだ地にあるそうです。居住地に向いて古墳が造られているそうです。今はSAの方が高いが、この丘は周囲より高かったそうです。SAは全て盛土だそうで、トンネル工事で出た土を運び入れたようです。この土の量は膨大で、谷を埋めその上に高速道路を通し、広いSA敷地も人工的に造ったそうです。
30分はあっという間で、SA建物に戻りました。ペットボトルお茶とお菓子を頂きました。これも縁ですね、楽しい時間を過ごせました。「この方が詳しくて、反対に勉強させてもらいました」なんて、観光協会の女性に僕を持ち上げて下さいましたが、僕の祖先の話だから知っていただけです。僕が土師氏を出すと、福知山の土師川のことも知っておられ、奈良の桜井の「出雲」は出雲族の住んだ地の名残の地名であることや、その隣接地・長谷寺の「長谷」は土師の音の変化した地名の名残。長谷寺に隣接して日本最古の天満宮と自称している「與喜天満神社」があるのは、土師氏支族の出世頭・菅原道真を身内に感じる土師氏の末が多く住む地であるから・・・など、2人で大いに盛り上がりました。歴史好きの方は少なく、下手に話すと煙たがられるので、僕にとってありがたい時間となりました。バイクに戻り、「京丹波みずほ福知山IC」で下車し、R173で北上します。質志鍾乳洞を通過し、由良川を北に渡り、R27〜r77。r77は由良川を西に渡り、再び北に渡る手前で県道とは別れ、由良川の南側を川に沿って西進する。北に渡り、r74に乗り換えてまた西進。
11:46「醍醐寺」。八重桜が見事に咲き誇っています。『醍醐寺 福知山市文化財:三光国師像図・木造薬師如来坐像・醍醐寺額下書き 醍醐寺は南北朝時代(1340年頃)に後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏が創建した寺で、多くの文化財が残されています。
三光国師像図は、寺伝では室町時代中期の画家土佐光信の筆と伝えられています。木造薬師如来坐像は、桃山時代屈指の仏師である康正が元亀2年(1571)に作ったものです。額下書きは、足利6代将軍・義教が祈願寺と定めた時自書したものです。いずれの文化財も、菩提寺が室町幕府と密接な関係を持ち栄えたことを物語る貴重な資料です』
『丹波半僧坊大権現 半僧坊の縁起については、鎌倉建長寺の場合や、浜松の方広寺の鎮守として人気のある奥山半僧坊が大勢の参拝客を集め有名ですが、いずれも臨済宗の禅師に仕えた「半ば僧にして僧に非ず」と、半僧坊として入門し、禅師と寺を守護すると共に衆生の苦難を救ったといわれています。
醍醐寺の半僧坊は明治17・8年ごろ荻野・天野・天藤諸氏等が、当時の松田正覚和尚(7世)に事の由を話されたところ、和尚は痛く心を打たれ遠州の本山から半僧坊を勧請して、明治23年4月当山の鎮守として鬼城山麓、古木・老杉の繁るこの地に奥山半僧坊より分霊して祀られました。当時は一人一事は成功させる「一願成就」の力があると、積極的な神通力を発揮したそうです。
時の過ぎるままに、庶民の願いも変化して、商売繁盛・五穀豊穣から時代の要請というか反映か、明治の末期から大正時代にかけて「兵役逃れ」「クジ逃れ」の権現様として庶民に親しまれています。
やがて、軍国主義化により、官憲の注目するところとなり、終戦により神仏共によりどころをなくした混沌とした時代を「一願成就」だけは細々と生きてきた中で、高度成長時代を過ぎ、現在の広瀬住職になり昭和59年書院の落慶と共に大祭準備に入り粗飯の代わりにうどん接待となって、昭和60年大祭を再興しました。さて、今の時代。異常気象のみならず、テロが横行し、世界中が物騒となり、内から外から不安が押し寄せる中、ここ丹波半僧坊の御社が安心・安全を願う「パワースポット」となることを願っています』
「三段池公園」でトイレ休憩し、12:12「養泉禅寺」。『養泉寺(丹波萩寺) 臨済宗南禅寺派。開創は暦応2年(1339)弧峯覚明(こほうかくみょう、後に三光国師)開場の最初の道場。後醍醐天皇の信仰篤く、隠岐島より船上山に逃れ給いし時、出雲より召されて禅学を講じ、御帰洛後も禁裏に待講、南禅寺に住せんとされしも、名刹を好まず病と偽って養泉寺に帰らる。現在の本堂・山門・講堂は明治37年再建。
観音堂:当村山中に大仙寺(真言宗)という七堂伽藍を有する寺があったが、室町時代に廃寺となり、この堂一宇だけが残った。元禄4年、願主の下知により当寺に移築、嘉永元年に修築された。堂内の格子天井は、福知山城舞殿にあったもので、81枚の板に百花百鳥が色鮮やかに描かれている。
光明寺尊像図:近くにあった久法寺に伝えられたもので、永正年中に廃寺となり、一時檀家に安置されていた。天文20年(1551)養泉寺に寄進された。画風から見て室町時代初期の作品で、地合は蓮の糸で織られたもの。
萩:ハギの名は「生え芽」(古い株から多数の芽を出す)に由来する』
12:26「猪崎城跡」。天文年間(1532〜55)に築かれた塩見氏の城で、天正7年(1579)織田信長の武将・明智光秀が丹波に攻め込み、塩見氏の城は次々に落とされた。
『眼下に由良川・福知山市街地を望む小さな丘の上にある猪崎城跡は、今も「猪崎の城山」と呼ばれる中世の山城です。鳥ヶ岳・鬼ヶ城などの山々から由良川・土師川の合流部近くまで長く伸びた裾野の先端にあります。
城の周囲は東西150m・南北160mのほぼ円形のこの丘全域にある。主郭は東西45m・南北50m、主郭の北西隅に矢倉台らしき盛土も残っている。主郭から1段下がった周囲三方(北・東・南)には、高さ0.5〜3.5mの土塁があり、主郭との間は15mほどの空堀となっている。通路を兼ね、武者溜りにも利用できる空堀は、福知山地方最大規模を誇っている。
その周囲には、10ヶ所あまりの曲輪を裾に向かって階段状に付属させている。これら空堀様式や曲輪の配置は、畿内では天文〜永禄年間(1532〜1569)盛んに造られたことから、福知山地方で最も新しいタイプの中世城郭の1つと考えられる。天正7年(1579)、明智光秀は丹波を平定し、近世城郭・福知山城を築造する。その直前の姿を今に伝える』
適当に木々が除かれ、保存状態も良いので、山城成分の主郭・帯曲輪・土塁などがよく分かる。
バイクに戻り、r55で由良川を福知山市街地側に渡り、R9で北西に進む。R426にチェンジし、13:04「威光寺」。本日のメインディッシュ、40年ぶりに御開帳された本尊「薬師瑠璃光如来坐像」(江戸時代初期)を拝みに参りました。
細く急勾配の山道だし、対向車が来そうなので下のPでバイクを停め、徒歩で上ります。谷を挟んだ山に棚田が見えます。夏に向かう山村ののどかな風景が美しい。谷川の水と樋で引き、ザルに入れたわさびを冷やしています。横にはスイセンがまだ咲いている。
鮮やかな垂れ幕でお化粧された山門が迎えてくれる。その前にピンク色の満開の八重桜が美しい。垂れ幕をくぐると仁王門だった。左右に阿吽仁王像が邪気を入れまいとしている。
『木造金剛力士像・一対 威光寺の所有する「威光寺文書」によると、威光寺は鎌倉時代には既に真言宗の寺院として存在していた。16世紀末、明智光秀は反抗する寺院の多くを破却したが、当寺は住持が光秀と同郷であったため命脈を保った。
金剛力士像は、仁王(二王)像とも呼ばれ仏法を守護する目的で寺門の左右に配置されており、向かって右側の像を阿形像、左側を吽形像と言います。木造金剛力士像は福知山市内に5対ありますが、威光寺の像は像高が222cmあり、怒りを表した顔の表現に特徴があります。作風は運慶(鎌倉時代の有名な仏師)の流れを汲んでおり、作成年代は室町時代前期と推測されている』
境内に上がると、庫裏の玄関前で奥様が、お茶とお菓子の接待をされておられました。40年ぶりの本尊御開帳なので、多くの仏像好きさんが来られているのでしょう。接待を受けておられる方が数人おり、境内を写真に収めておられる方が数人、本堂も含めれば10人以上の方がおられると思います。
見頃の八重桜などを写真に収めながら本堂へ。靴を脱いで上がると、ご本尊のおられる厨子以外の堂内も素晴らしい。仏像が並び、本尊が見れなくても十分楽しませてくれます。失礼ながら人口の少ない地域の山寺なので・・・という想像で来ましたが、良い方向に裏切られました。
厨子の正面に座り、僕のこれまでの人生に感謝し手を合わせます。御本尊は金色に光っています。金箔が少しも剥落せず、新しくさえ見えます。40年間厨子に隠れ、開帳されてもたった3日、これまで400年経ちましたが、これからの400年もこのままの姿を保ちそうです。兵火に遭っていない故の保存状態の良さでしょう。堂内には常に5〜6人入れ代わり立ち代わりおられ人気です。MHK・TVで紹介されたからかなあ〜。
お若い新住職さんが、知り合いさんにお母様から紹介されています。ご住職に「金箔がそのままで、見事ですね〜」と声を掛けました。あ〜だこ〜だ。ご住職自身も初めて目にするのか、まるで観光客のような言葉で感嘆されていました。拝観料無料に恐縮し、「御守木札・1000円」を授かりました。この木札は大きめで、他の寺社なら2000円はします。授かろうと即決したのは、梵字の下に「奉開扉御本尊薬師如来秘法・心願成就・如意円満・守護」と書かれていたからです。御開帳特別札です。帰宅後袋を開けると、小ぶりの御札がさらに2札入っていました。これだけで500円×2するでしょう。
境内を帰っていると、「お茶、飲んでいって下さい」と、お菓子とお茶を用意してくださいました。ありがたくよばれました。お隣に座っておられた男性とお喋りしていると、知り合いの方が来られ、奥様が御開帳以来のフィーバーを話していました。なんと、ニュースで見て翌朝始発の新幹線に飛び乗り、はるばる東京からやってこられたご夫婦がいたそうです。山村の山寺の本尊御開帳にも、広い地域から人が集まるのは日本が平和故、豊か故でしょう。この時代が長く長く続いて欲しいものです。
お礼を述べ、帰路に着きます。R426〜R9〜福知山ICから舞鶴若狭道に乗り、14:31西紀SAで「デカいちごチョコバー135円」で糖分補給。エネオスで給油。297km/11.65L=25.5km/L。中国道・宝塚ICで下車し、15:38帰宅。すぐに仕事場に急ぎました。

2018/4/8
コーチしてる大学ヨット部の新人勧誘月間が始まりました。毎週末、ヨット試乗会が行われます。京都の学校から琵琶湖の艇庫まで新入生を運ぶ車が足らず、例年日曜日に手伝っているのですが、お声が掛かりませんでした。部員が増え、車が足りているようです。
そこで家内に「京都に桜を見に行こう」と前日誘ったのですが、「寒いから〜」と断られました。朝4時前に目覚め、バイクで1人で行こうとリストアップしていました。6時頃家内から「やっぱり桜観に行く」と嬉しい知らせが。
ご近所の奥様から勧められた桜の穴場「原谷苑」をリストアップしていました。近所に桜が綺麗な公園があり、そこに続く小川沿いの桜並木も綺麗です。その小路に面した家に住んでおられ、ソメイヨシノが満開の時、家から桜に向けてライトアップされご近所さんに喜ばれています。
ご主人が僕ら夫婦の先輩KG出身で、奥様が神戸女学院出身のカップルです。学校の最寄り駅が隣の駅で、両方共ヴォーリス設計校舎という縁もあり、僕の中学からの友人やその子にも両校のカップルが多いです。僕も中学の時朝の通学でお喋りする子がいましたが、振られました。
そんな関係もあり、会えばお話する仲です。数年前の桜の季節、「是非にと」お誘いを受けお宅にお邪魔し、ワインを飲みながら桜鑑賞しました。奥様は料理研究家で、交流が幅広く市長さんなども訪問するお宅です。グランドピアノが床に半分埋め込まれ、ピアノの上面がテーブルになった掘りごたつ式の部屋から鑑賞しました。その時、京都の桜の穴場として「原谷苑」のことをお聞きしました。
原谷苑は、京都市街地の北部に位置し、金閣寺の裏山にあるそうで、標高がある分市街地より花の時期が後ろにずれます。それを思い出し、我が家近所の桜の見頃から1週間経った時期でも観れるかなと思いました。
ここは道が細くPもないので、バスかタクシーでしか行けません。「寒いけど、バイクでもいい?」と家内に聞くとOKとの返事で、バイクで行くことになりました。通勤リードにタンデムして家を出て、8:16「伊丹産業・セルフ北村SS」で給油。144km/3.58L=40.2km/L。
家内をJR最寄り駅に下ろしバイバイ。R171を一路京都に向けて走り、待ち合わせのJR京都駅北側・京都タワー側のバス案内所に入ります。先に着いているはずの家内がいないので電話してみると、駅の反対側八条口にいるそうです。「前回待ち合わせたバス停で」を前々回待ち合わせた八条口側と間違えたようです。八条口側が整備され待ち合わせしにくくなったことと、北口のバス案内所なら夏は冷房・冬は暖房が入り快適なので変更しました。もう一言確かめておくべきでした。「あ〜反対側だ、ごめんごめんすぐ行くからそこで待ってて」と電話を切り、慌ててそちらに向かいました。相変わらず京都は大人気で、いろんな国の声が聞こえます。トラベルバッグをゴロゴロさせた観光客が多いです。
風が強く気温も平年並に下がったので、家内にカッパを着てもらいました。堀川通に出て、西本願寺・二条城を横目に北上します。北大路通を西進し、大徳寺前を通り金閣寺を過ぎた交差点で右折し、裏山に上がって行きます。つづら折れがある急な坂で一気に標高を稼ぎ、眼下に京都の町が見えます。タクシーが多くなったのは、きっと「原谷苑」目当てでしょう。予想よりタクシーが多く感じますが、その分先導役に出来ます。ところが信号で僕を先頭に止まっちゃいました。仕方なくGPS見ながら道を進むと、後続のタクシーがガードマンの立ってる交差点で曲がっちゃった。まさか、原谷苑のガードマンなのか・・・もはや穴場ではない・・・。民家の間から下が見下ろせ、そこから「はい、こっちに来て〜」なんて交通整理の声が響いていました。
Uターンしてそこに行くと、ガードマンに「はい、バイクはそこ」と指さされました。一般乗用車には容赦なく、「Pないよ、先に進んで」。10:41バイクを指定場所に停めて苑に近づくと、ガードマンではなく「YASAKA」と背中に染められたお揃いのジャンパーを着ているのでヤサカ交通の方のようです。京都を中心に幅広くタクシー事業をしています。急坂があり道が狭いので、交通手段が公共交通手段のみで路線バスは2本/hで、シャトルバスとタクシーのみのタクシー会社にとってはドル箱観光地です。交通のプロで、同業者に対する仲間言葉で的確迅速大声で交通整理の指示を出しています。
入園料1500円×2を払い入園しました。枝垂れ桜が迎えてくれます。密度濃く植えられているので、桜のトンネルになっています。その他にアセビ・ユキヤナギなど白い花の他に黄色や赤の花がたくさん咲いています。
「穴場?」なのに外人さんも多く、もう穴場ではなくなっているようです。地上近くから花が咲く御室桜も植えられていました。確かにこれは綺麗だわ。御室桜は開花が遅く、この後仁和寺の御室桜を観に行こうと思ってました。桜が密度が濃いので、白の後ろに濃いピンクが咲いていたりして素晴らしい眺めです。桜の景色としては、今までで一番かも?
激写に夢中になっていると、家内から「お嫁さんがいる」と。そちらを見ると、この寒空に純白のウェディングドレスとタキシードのカップルがいます。カメラマンと助手3人おり、結婚記念写真を撮ってるようです。中国人カップルのようで、言葉が中国語のようです。「コングラチュエーション」の言葉をアチコチで浴びていました。僕もその言葉を込めて後ろ姿だけ激写。
「ここは素晴らしい」と山を園内をアチコチ歩いていると、お着物カップルがいました。着物はいいね!全面ガラス窓の建物があり、中のテーブルにはお弁当が並んでいます。団体さんの予約でしょう。
家内に「スマホで写真撮って、家族LINEに上げよう」と提案しました。撮った写真を上げるのは初めてなので、2人であ〜だこ〜だ。なんとかアップできました。家内がコメントを打ち出しました。「なんて書こう?」と聞くので、「いま京都桜の名所「原谷苑」にいます。」でいいんじゃないの?と言うと、一生懸命打ち込んでいました。
紅白の椿が綺麗。石楠花が綺麗。石楠花の群生地はしばしば山の中の名所になりますが、この花が群生していたら見事でしょう。
バイクに戻り坂を下ります。タクシーとシャトルバスが2/3ですが、それでも急坂前で渋滞しており、野生の勘で枝道に入り四輪とすれ違えない細道に出ましたが、世界遺産通まで降りてこれました。
12:01「ファミリーマート・立命館大学前店」で小腹を満たします。僕は「モッチドーナツチョコ118円&オールドファッションドーナツ108円」、家内は「卵焼きサンド248円&ブレンドS100円」=574円。イートインスペースで食べます。西に走り、12:28「仁和寺」。お盆の時期はガラ空きだったのに、さすが桜の季節は観光客がいっぱいでした。京都は桜の季節と紅葉の季節が最も混みます。「御殿」の拝観所も列ができていましたが、「御室桜」も大人気で行列ができていました。「もういいんじゃない」との家内からの提案でパス。
お気に入りの京大カフェに行こうと今出川通を御所北を走っていると「相国寺」の案内板が見えて来ました。「相国寺に寄ろう」と寄り道します。足利3代将軍義満が建立した臨済宗相国寺派総本山で、同じく義満が建立した金閣寺と同じく7代義政が建立した銀閣寺は、この相国寺の塔頭です。金閣寺・銀閣寺は何度も訪問しましたが、相国寺は初めてです。「本能寺の変」の時、相国寺塔頭の僧が駆けつけ遺体を背負って離脱し織田信長の墓があると記憶して見に来たのですが記憶間違いで、帰宅後調べたら信長の墓のある「阿弥陀寺」は相国寺の塔頭ではありませんでした。織田家の中で育った阿弥陀寺の僧が駆けつけ、明智軍の探索から逃れたようです。
拝観料800円で入ってみます。お坊さんに促され、まずは本堂。こちらにもお坊さんがおられ、「今日はお釈迦様の誕生日4/8です。まずは本尊正面でお参り下さい。天井の睨み龍は、どの方向から見ても見ておられます。睨んでいるのではなく、あなたを守っておられるのです。お参り後に鳴き龍の下の指定場所に立ち、手を叩いて下さい。鳴き声を発せられます」との説明を受けました。
確かにどの方向から見上げても天上の龍は睨んでいます。守られているようには見えず、睨まれてるね。指定場所に立ち手をたたくと、ビーンと響く音が聞こえます。どういう原理でそう聞こえるのかわかりませんが、物理法則に従っているのでしょう。いろんな鳴き龍体験をしましたが、ここははっきり聞こえます。
続いて「方丈」。本殿同様、襖絵など内部はNGだけど、お庭などはカメラOKだそうです。室内観音菩薩絵のコピーが縁側に置かれていました。筆で書かれた絵ですが、寄って見ると一筆で描かれているのではなく、ミリ単位のお経が無数に書かれ1本の線になっていました。これを筆先で書くとは・・・。
『こちらが室内掛け軸の拡大画面です 全てお経の文字(漢字)で描かれた「文字絵」の観音様! 法華観音図 加藤信清(遠塵斎えんじんさい)筆 亨保19年(1734)〜文化7年(1810) 「方丈」室中の問に掛かっている観音菩薩は、江戸時代文化年間(1804〜1818年)に活躍した江戸の人・加藤信清(遠塵斎)によって描かれたもので、全て法華経の普門品第25(観音経)の経文によって描かれている。文字を連ねて像の輪郭を象る「文字絵」の起源は古いものであるが、信清の絵はさらに色面までもが文字で埋め尽くされており、その緻密さと完成度の高さにおいて、彼は孤高の存在であった』
江戸時代の白象図が襖絵として描かれていました。現代なら幼児でも象の姿を知っていますが、江戸時代なら龍や獏同様、頭の中の世界にあった動物でしょう。方丈の表庭園は石庭ですが、裏は緑豊かで枯山水の谷に紅葉が掛かる感じで、気に入りました。谷に掛かる紅葉で有名な東福寺の谷が、頭に浮かびました。
『表方丈庭園(京都市指定名勝) 表方方丈園とは対照的に、手前を谷川に見立てて掘り下げ、対岸には築山を設け、市中にいながら深山幽谷の雰囲気を感じさせる庭であり、悟りの内容の豊かさを表現している』
信長の墓かな?と思って見に来たのは、「後水尾天皇髪歯塚」でした。宮内庁の札が立っています。僕の歯や髪は何の値打ちも無いのに。巨大な鐘が下がっていました。
『日中両相国寺友好記念の碑と天響楼(てんきょうろう) 日本の相国寺は、明徳3年(1392)に開山夢窓国師・開基足利義満公により創建され、正式名称を万年山相国承天禅寺(まんねんざんしょうこくじょうてんぜんじ)という。寺号由来の一つに義満公が禅の師匠である春屋妙葩禅師(相国寺第2世)に、新しい寺の名称を相談したところ「現在あなたは左大臣の位にあり中国ではこれを相国といいます。相国寺とつけては如何か」また「中国の開封に大相国寺(唐・延和元年712)という寺があり、まさに恰好の名前ではないか」と進言したことによる。
時は流れ平成4年(1992)11月、開封大相国寺の本尊開眼、真禅住織晋山式に参列するため、当時の梶谷宗忍相国寺派管長を団長に訪中、併せて日中両相国寺友好寺院の締結調印が行われた。このことは日中の佛教寺院交流史上初のことである。
平成6年(1994)に友好を謳った記念の石碑が日中両相国寺境内に建立された。石碑はインド産黒御影石で当時の梶谷管長及び趙撲初中国仏教協会会長の書で碑文が刻まれた。
平成23年(2011)8月中国大相国寺(釋心廣住職)より、梵鐘が日本相国寺(有馬頼底住職)へ寄進された。鐘楼は天響楼と名付けられ日中両相国寺の未来永劫にわたる友好の証しとして現在に至っている』
日本で一般的な梵鐘と形が少し違うのは、中国からの贈り物だからのようです。相国寺西門から出ると、14:04同志社大学のすぐ北でした。日曜もやってる大学カフェは確かこの辺。バイクを押して烏丸通を西に渡るとビンゴ!「Hamac de Paradis 寒梅館」でした。
家内を誘ってお茶しました。僕はランチが大学らしく5〜600円でリーズナブルです。ディナーメニューも900円まででした。家内は「ベイクドチーズケーキ450円」、僕は「ソフトクリームパフェ600円」にしました。いつものように味見させてあげようとスプーン2つ持ってきましたが、冷たいからNOということでした。僕は家内が残してくれたケーキを少しもらいました。京大カフェ同様、学生半分・一般客半分でした。
14:35店を出て、帰路に着きます。「お店をブラブラする」という家内を河原町四条で下ろし、河原町通を南下し、九条通を西進し、そのままR171に乗り一気に帰宅しました。
バイクを自宅前に出したまま自宅に入ると、玄関脇に生協さんの宅配食材が届いていました。お風呂のスイッチを入れ、着替えてそれを片付けようとしたら家内が帰ってきました。「あれ、早いね」「うん、良いのがなかった」。バイクを倉庫に入れ、楽しいデートの1日は終了。

2018/4/1
4時前に目覚めました。あ〜だこ〜だやってるうちに二度寝してしまい、次に目を覚ましたら7時を回っていました。階下に降りると家内はお化粧中です。「あれ、どっか出かけるんだったっけ?」、美人さんが出来上がっている。「ううんあ」「そうか、日曜日だよね。二度寝する前はわかっていたのに、ウィークデイと勘違いしちゃった」。
家内とデートです。嬉しいな。TV見ながら朝食。NHKで北海道・利尻島の自然をやっていました。クマゲラは大きいな。頭が赤くて、見つけたら興奮しそうだ。「自然のアルバム」などの、この手の番組が好きです。
家内が、「OJICO」から届いたDMを見せてくれました。また阪急電車とのタイアップショップが開店するようだ。「またアステ川西でイベントショップするんだって、ここに行く」「それと、すみれちゃんの保育園入園祝カードを買って、コメダ珈琲でシロノワール食べたい」と本日のメニューをば。
去年、家内が阪急電車の無料小冊子で見つけた「阪急電車の絵柄」の入ったTシャツを孫へのプレゼントに買うというので買いに行ったことがあった。なぜDMが我が家に届いたのか不思議なので聞いたら、「アンケート好きなお父さんが名前書いたんでしょ」と言われた。そうだったっけ〜。
電車好きの嫡孫が東京在住なのに「阪急電車が一番好き」と言うので、帰省した時に阪急電車を見に行った。僕には当たり前に走っている電車だけど、孫にはシックなマローンカラーがかっこいいようです。「あ、阪急電車〜」と興奮していた。結局、ドクターイエローの新幹線Tシャツを買い、秋に転勤で引っ越した長男一家の住むアメリカプリンストンを訪問した時に持っていった。
「川西阪急の開店は10時からだろうから、まだ早いね」ということで、近所の公園に桜を観に行くことにしました。8:43公園に続く小川沿いの小径を歩く。花吹雪がピンクの絨毯を作っていた。数日前はもう一歩だった枝垂れが満開になっており、ソメイヨシノよりピンクが濃いのに、家内は「素敵だね〜」と喜んでいた。ソメイヨシノは花吹雪に入っており、見頃はこの日で終りのようです。
黄色い水仙がみな一方を向いていた。これもとても綺麗です。水仙花壇に、葉っぱは水仙と同じだけど、バラのように花弁が多い花をつけているのがあった。家内は「葉っぱが同じだから、水仙の一種なんじゃないの?」と言うが確信が持てないので帰宅後調べてみた。「八重咲き水仙」という名だった。我家の庭の水仙は全て普通の水仙なので、この水仙も植えてみようかな?
水仙の一角に、すずらんが咲いていた。可憐な花で好きです。家内も好きで、結婚した時義理父が植えたすずらんを実家から持ってきて庭に植えました。毎年花を付けていましたが、いつしか咲かなくなった。僕が雑草だと思い芽を摘んでしまったのかもしれない。これも植えたいな。
ついでに春になっても木の勢いが戻らない庭のアセビのことも調べてみました。去年はたくさん花を付けたのに、だんだん葉っぱが変色し、みすぼらしいので落としました。いつ咲いたんだっけ?と思ったら、2〜4月が花期と書いてありました。昨日、山寺に向かって歩いていてアセビが咲いているのを見つけ焦りました。この木は、初めて女の子の孫が生まれたので、その記念に植えたものです。「枯れてしまったのかな〜」、なんとか勢いを取り戻すべくいろいろやってみなければ・・・。買った植木屋さんに相談し、栄養も撒いたのにな〜。困った、困った。残念だったのは、池の周りの遊歩道に規制線が張られて歩けなかったことです。昨年、近くの渡り鳥の飛来地・昆陽池で鳥インフルエンザにより死んだカラスが発見されたからです。いつまで規制線は張られるのだろう?
ブラブラ家に戻ります。家内が「これもあの花?」と言うので見ると、「木蓮」でした。「木蓮だよ。ハクモクレンと色違い」「ピンクでこっちの方が綺麗ね」と言う。「白木蓮の方が目立つけどね」。これも帰宅後調べたら、ハクモクレンのように高木に成らず、灌木状に低い位置から枝が伸びるらしい。庭が狭いので、高木になると困るので敬遠していたが、こっちは低いんだと驚いた。ハクモクレンは既に花を落としているので、木蓮の方が花期が少し遅いのかもしれない。帰宅し、バイクにタンデムし出発。r13で「川西能勢口」に到着。「お腹が減った〜」とのか内のリクエストで、まず「コメダ珈琲」を目指します。r13側の路面店だと思っていたら、「駅の2Fにあると思うの」と言う。でも能勢口駅とアステは別のビルで、アステビルにコメダの看板が下がっているのでアステにあるはずです。アステビルに入り、案内図を見ると4F飲食店街にありました。
エレベーターで3Fに上がりましたが、多くのお店にシャッターが下り、店員さんがおられるお店も、準備中ばかりです。9:39、1F中央・催し物広場に面して「コメダ珈琲」を発見しました。でもまだ開店前で残念。
催物会場を見下ろすと、家内の目的「OJICO」の臨時ショップが開店していた。そちらを先に行こうと1Fまで降りましたが、既にスタンバイ済みの催物会場各店制線が囲っていました。「あらら、こちらも開店前」のようです。
仕方なく、面している川西阪急百貨店ショーウインドウを覗きに行きました。「Laura Ashley」の花柄の食器が目についたので、家内にこのブランドのことを聞いてみる。僕は知らなかったけど、家内は知っていた。家内はブランドを良く知っている。
こちらも開店前で、お店の前にたくさん並んでいる長椅子に座って待つことにした。家内が「こういう時、スマホは時間つぶしに便利ね」とピコピコやり始めた。LINEに届いた息子たちの奥さんたちからの写真を見ながらあ〜だこ〜だ。家内の横書を見ながら、「いつまでも美人だな〜」といつものイタリアーノな発言。「こればっかりは、しょうがないわ」と猫も食わない会話を楽しんだ。
10時になったので「先コメダにする?」と聞いてみたら、「ううん、OJICO」が先で良いとのこと。4月から保育園に通い出す次男の娘・すみれちゃんへの入園祝いにするそうです。先日「LINE」の「家族グループ」に長男のお嫁さんが、メキシコ・カンクンへの家族旅行写真を投稿してくれた。それに、ドクターイエローTシャツをお揃いで着ている孫たちの写真があった。「次男の娘にも、お揃いをプレゼントするの」と楽しそうです。
阪急電車・飛行機・新幹線・消防車・お魚・パンダ・・・いろんな柄のTシャツが並んでいた。電車物は女の子だからな〜とイマイチのようです。消防車もお魚も可愛いけど、僕は「ボーイング737」と思われるTシャツが良いと思った。家内は「もっと女の子らしいのが良いな〜」と探している。続いて、「きかんしゃトーマス」の白Tシャツを見つけ、可愛いと思ったので推薦。家内は赤の方が良いとのことでそれに決定しました。男性若者店員さんに「1才9ヶ月の女の子」のサイズを聞くと、一番小さなサイズが良いと勧めてくれた。多くのデザインでこのサイズがないそうですが、トーマスにはあった。それに決定。
僕はその横に並んでいた柄が新幹線のスプーンが気に入りました。赤・緑・黄色3色のを1つずつ買うことにした。赤は秋田新幹線、緑は東北新幹線、黄色は新幹線保線担当のドクターイエローです。先月、東大阪市の司馬遼太郎記念館を訪問した時に買った司馬遼太郎手帳を嫡孫りょうくんに贈ろうと思っています。ついでに僕のプレゼントの定番の「岩波子ども絵本シリーズ」2冊を2番目の孫こうちゃん用に、そしてお嫁さん用に池川明著「ママを守るために、生まれてきたよ!」を送ります。
この本は産婦人科開業医さんが書かれた本で、日々の臨床から得た不思議は母子の結びつきのことが書かれています。言葉を話し始める頃の幼児には、胎内記憶を持っている子がいます。つまりお母さんのお腹の中にいた頃の記憶があるのです。その子達は、その頃の記憶があるのが当たり前だと思い、ポロリと母親にその頃の記憶を喋ることがあるそうです。
独特な品揃えで気に入って、10年以上前から贔屓にしているJR伊丹近くの「ブックランド・フレンズ」の棚で目についたので買った本です。この本を読みながら、母から聞いた話を思い出しました。「あんたがね、狭いトンネルを通って出てきたと言ったことがあったのよ、びっくりしたの」と小学生の頃聞きました。幼児が出産時ことを覚えているはずないと、記憶の外に置いていました。「僕が聞いた母の言葉は本当だったのかも?」と今更ながらびっくりしました。
このドクターは、全国の多くのお母さんから届くお子さんから聞いた胎内記憶やそれ以前の「雲の上に浮かんでいて、この人がいいとお母さんを決めて生まれてきた」などの体験談を集め、それを題材に全国で講演されているそうです。そんな読書感想とお嫁さんたちにプレゼントすると、「LINE家族グループ」に流したら、長男のお嫁さんから「その本、私も気になっていました。日本から送ってくださるなんて楽しみです」と返信がありました。
このスプーンは、その荷物に同送しましょう。お嫁さんは3人目を妊娠中で、6月出産予定です。また男の子なので、3人お揃いで新幹線スプーンを使ってもらいましょう。
お会計してプレゼント包装してもらっている間、OJICOサイズ表を見ていて、「来年着れないのではないか?」と不安になり、レジの女性店員さんに尋ねてみました。月齢を伝えると、3才のお嬢さんをお持ちのお母さんで、もう一つ大きめサイズを着ているそうです。「来年の夏は3才になるから、今年の夏だけになるから、大きめにした方が良い」とアドバイスを下さいました。「今年大きければ下に長袖シャツを着て重ね着すると良い」と重ねてアドバイス。サイズ変更してもらいました。
とても良い買い物を済ませ、「コメダ珈琲」に上がりました。催物会場を見下ろす席に座りました。シロノワールの期間限定品?「ニューヨーク・チーズケーキ・シロノワール750円」と、家内は「ブレンドコーヒー420円」、僕は「たっぷりアイスコーヒー520円」を注文しました。開店〜11時までは、モーニングが無料で付けられるようなので、それも注文しました。マーガリンかジャムのトースト&スクランブルエッグです。食べられるかしら?
桜撮影の為のカメラをぶら下げたままだったので、それで写真を撮ろうとのリクエストで家内を入れた写真を撮りました。家内の許可を得れば家族LINEに載せて良いとのことです。他愛もない夫婦会話が弾みます。家内は良い買い物が出来たので、いつもより饒舌です。ニコニコしながら話す家内を見ながら、「嫌いな人だな〜僕はラッキー」と思いました。またイタリアーノな発言をしましたが、家内はいつものことなのでスルー。
テーブルの上にアンケート用紙がありました。店の清潔感や店員さんの態度などの5段階評価に丸をつけます。要望のところに、「開店時間がもっと早ければ・・・」と記入しました。11:13、1690円お支払いして店を出ます。
ビルの外に出て、能勢口駅ビルの更に北にあるセイユーまで歩きます。3Fで僕のパンツを買い、祝入学カードを買う予定でしたが、店内改装のため、3F以上は閉店中で紳士パンツ売場がなくなっていました。僕はトランクスではなくブリーフ派で、速乾性素材ブリーフはなかなかありません。
川西阪急百貨店に戻り、3F婦人服売場で家内の春物コートを物色し、4F子供服・玩具フロアでカードを探しましたが、1Fステーショナリー・コーナーにあるとのこと。そこに降り、あれこれ物色し決定。幼稚園バス・カードにしたようです。続いて家内の「タートルネックシャツ」を買いに、伊丹荒牧のユニクロを目指します。その道中で、僕の定期的訪問店「ワークマン川西店」に寄ります。12:50タートルネックの「アーチパワーアシストシャツ1280円」と「クロスワーク立体靴下・3足セット980円」「撥水サファリハット780円」を買いました。
「アーチパワーアシストシャツ」は家内用で、男性用のようですが弾力のある繊維と引き締めクロス効果編みされており細身です。家内でも十分使えそうです。気に入らなければ僕用になりそう。「クロスワーク立体靴下」は僕用で、いつも使ってるワークマン靴下がいつもカカトに穴が開いてボツになるので、カカト強化のを初めて買います。
「撥水サファリハット」も僕用で、外出時はよく使ってる赤のPUMAハットの代わりです。ヨットショップで5000円ほどで購入し、外周にピアノ線を縫い込んで、ヨット乗船時でも強風にめくれないようにしています。家内とペアなのもお気に入りですが、僕のは使いまくっているので赤色があせでみすぼらしくなっていました。
買い物を終え帰宅します。家内を降ろし、お腹は満腹のままなので、倉庫にバイクを戻しに行ったまましばらくおトイレに籠もって本を読み、PCに写真を取り込んだりあれやこれややりました。
14時過ぎに帰宅し、TV見ながらハット外周にピアノ線を糸で固定しました。家内が食卓から移動してきて、「これ見てる?変えても良い?」って、なでしこJAPANの国際試合から、路線バス旅番組に変えました。作業が終わったので、ヨーグルトを食べながら池上彰さんの番組を見て、お風呂から出てきたら、「ダーウィンが来た」になっていました。
夕食を食べ、「NHK大河ドラマ特別番組」の途中で眠くなってきたので、ヨーグルト持って自室に上がり食べながら特別番組を見ておやすみ・・・となりました。

2018/3/31
1週間前、コーチしてる大学ヨット部が僕のホームポートをホームとしている大学ヨット部(大阪・神戸)にお世話になり、合同練習をしました。水曜日にトラックに船を積んで移動し午後から練習開始し、金曜まで朝から夕方まで同じタイムスケジュールで海上練習し、食事も日没後のミーティングもご一緒しました。最後の土日2日間は、僕の母校KGが主催するレースに参加しました。
僕は土日のみ参加しました。私自身が他大学にお世話になるのに、その前に時間がなく手ぶらで参加してしまいました。僕の不義理は、クラブの不義理に繋がるので、数日前に「もち吉」でおかき詰合せを3つ購入しました。缶入りなので、食べ終わった後何かに使えそうです。
朝の出艇前にヨットハーバーに寄り、お礼を言ってからツーリングに行くことにしました。7:31、「里山VTR250」に乗り自宅出発。雨は降らない予報なので、リアのバイク便ボックスからカッパを降ろすと、おかき缶3つしっかり入っちゃいました。ネットで括ろうと思っていたのにラッキー。
この日から春秋装束に変更しました。下着の上にタートルネックとタイツを履いて、夏用メッシュプロテクター上下を着ます。その上にDAIWA釣りスーツです。防水スーツだし防寒だし、薄いので軽くお気に入りです。バイク用レインスーツのように細身でないのが嬉しいです。寒ければ中に色々着れます。
R171を西進し、7:54YH着。カードキーでディンギーヤードに入り、学生の艇庫に向かいます。神戸・大阪は開いており、フィッティングした艇が艇庫前スロープに並んでいます。神戸艇庫前では練習に出艇するようで、部員が集まりだしています。
「すいません、先週お世話になった・・・」と声を掛け、キャプテンにお使い物を渡し、今後の交流をお願いし頭を下げます。続いて大阪。部員はスロープにおらず、艇庫内にもいないので、2Fドアをノック。返事がないので「ごめんください」とゆっくり開ける。「先週お世話になった・・・」。出艇前のリラックス時間だったようで、キャプテンにお礼を言いお使い物を渡し失礼します。
階段を降りていると、女子部員が追いかけてきて「・・君(当方の男子部員)と電話で話していたら、・・さん(私)からのレースビデオ解説がとっても良くて参考になったと言われたのですが、どんなことをお話になったのですか?」。「私が撮ったレースビデオに写っている動作やコース取りについて、私なりのコメントをメールに書いて部員みんなに送っただけだよ。一言では話せないから、・・君から私が送ったビデオとメールを送ってもらったらいいよ。ビデオと写真はグーグルドライブにアップしてるから、アドレスを教えてもらえればダウンロードできるよ」と伝えました。「いいんですか?」「もちろん、参考になれるといいけど・・・」。
続いてKG艇庫に行くが開いていません。ドアにキャプテンやマネージャーの電話番号が書いてあったので、キャプテンに電話してみました。寝ぼけた声で出てきたキャプテンに、本日の練習の有無を聞いたら、予想通り練習休みでした。4月は新人勧誘習慣に入り、次週から新歓試乗会が始まるそうです。仕方ないのでお使い物を持ち帰ることにしました。
バイクに戻り、リアボックスに入れ、8:27YH出発。湾岸線側道を東進します。橋を上がった所から海側を見ると、変わった線形の船がいたので緊急停止し激写。こんな斬新でラグジュアリーなヨットがここにいるなんて・・・個人所有・会社所有であっても創業者オーナーの鶴の一声が想像され、日本人オーナーは想像しにくい。ビル・ゲイツとかアメリカの世界トップの資産家所有を想像した。帰宅後調べたが、情報はありませんでした。
R43にチェンジし神戸へ。新神戸駅から阪神高速32号新神戸トンネルに入り、箕谷に抜けR428。枝道に逸れ、9:20「天津彦根神社」。満開のソメイヨシノが境内を彩っていた。境内は、「平野八王子市民公園」として広場になっており、蟇股の彫刻が素敵な本殿が建っていた。脇障子にも鳳凰?と鷲の彫刻が彫られている。正面柱の花箱には新鮮そうな榊が添えられており、周辺住民の信仰の篤さを感じる。谷が開けたばかりの地形ですが、農村風景が広がり神の自然からの恵みに感謝して命を繋いできたのだろう。
暑くなってきたので、DAIWA釣りスーツのジャケットを脱いでバイクに戻った。R428に戻って西進し、9:41「六條八幡神社」。志染川の恵みを受けた丘陵田園地で「山田」と呼ばれる地区です。この神社の参道が広く、木々の間から多宝塔が見える。地域の大社に神仏習合時代の痕跡である寺院のシンボル多宝塔・・・「これは凄いかも」、機体に胸が膨らむ。
「山田町遊歩道マップ」が立っており、寺社がたくさん存在する。古くから拓けた地でしょう。「八幡神社及びその周辺」と書かれた観光案内板には、本殿の横に三重塔が書かれている。『御祭神:応神天皇 摂津丹生山田六條八幡宮縁起によれば、古くは若宮八幡宮と称せられ、昔、神功皇后紀伊の水門より難波の浦(大阪湾)務古の水門に御舟を留め給いし時、この山田の地にしばらく行宮を営み給う所となりと伝えられている。
後、人皇60代一條院の御代に周防國大嶋郡の基燈法師(きとうほうし)がこの地に来て、長徳元年(995)5月、黒木の賓殿一宇を建立し、八幡三所の神霊を勧請した。更に、人皇74代鳥羽院の御代保安4年4月(1123)、六條判官源為義がこの山田庄の領主であった時、夢想の霊感によって六條左女牛(さめがい)の八幡大神を京より勧請合祀し、いにしえよりの八幡宮を再造した。これよりふたたび神徳あらわれて多くの人が崇敬し、為義の称号をとって六條八幡宮と申し奉るようになった。
なお、室町期における神佛混淆の名残りで、今も境内に三重の塔(文正元年・1466年建立)があり、重要文化財の指定を受けている。
八幡宮の所在する東大寺領山田荘は、平清盛領越前國大蔵荘と、永万頃(1165〜1166年)交換、一時、平清盛領となるが、平家没後、源頼朝が接収し、京都六條の左女牛若宮に寄進されるなど、源氏平家ゆかりの地と伝えられている。
境内社 稲荷神社:宇賀魂命(うがみたまもみこと) 住吉神社:住吉三神・神功皇后 山王神社:大山祇命 大歳神社:大歳神・高良大神 猿田彦神社:猿田彦大神
祭日 1月19日:厄除祭:引目神事 9月第3日曜日:神幸祭:神輿渡御 10月第2日曜日:例祭:流鏑馬神事(神戸市登録・無形民族文化財)』
流鏑馬神事があるので、参道が広いのですね。境内にイチョウの巨木があった。拝殿前舞台は絵馬殿にもなっており、古そうな絵馬が下がっている。木製ですが神馬が奉納されており、その厩もあった。
絵馬掛けには、「大願成就」「合格祈願」「開運招福」の絵馬が下がっていた。「世界へ」と書かれたものや、「神戸にシリコンバレーをつくる。イノベーターとして牽引する」と大きな夢が書かれた絵馬が目に付き、この地の大きな目標を持った若者が多いことを感じる。そして「命名・・」と書かれた絵馬も下がってる。僕も息子2人に氏宮宮司から名前を授かったが、そんな古風な伝統が続いている地も感じる。この絵馬を見ていて、この地がちょっと好きになった。
ソメイヨシノがちょうど満開で、我が家近在より内陸に入るだけあって、少し遅いようです。椿の赤い花がたくさん落ち、地面を彩っていた。左右のソメイヨシノの向こうに鎮守の大木に守られるように三重塔が佇んでいる。
『八幡神社三重塔 重要文化財指定・大正3年4月 檜皮葺・初重内部来迎柱後退 山田の歴史は、神社を中心に発展したところで、多くの文化遺産を残している。この塔は、500年前の文正元年(1466)神社の世話役であり、地方の有力者であった鷲尾綱定によって建てられた。
縁の木々を背景に、柔らかな檜皮葺(桧の皮で屋根をふく)と上層を区切る細縁の手すりなど優美な姿を見せている。軒先の強い反りや上層になる程小さくなる形に室町中期の特徴が見られる。
仏教建築である塔が神社にあるのは、神仏は一体であるとの考えの現れでが、明治以降は区別され、神社にあった塔の多くは姿を消しました。いま全国で18、県下で3ヶ所残っているが、その1つです』
拝殿にお参りしたら、「丹生山田の里だより」という「ご自由にお取り下さいパンフレット」が置いてあった。源義経〜鵯越の道、相撲と山田、お不動様、義経と三草山などの項目で解説されており、以前訪問した「朝光寺多宝塔」が写真入りで紹介されていた。上谷上天満神社の農村歌舞伎舞台の茅葺屋根の葺き替えも紹介されていた。訪問してみたい場所がまた増えた。
本殿の左エリアを巡っている間、社務所の会話が何となく耳に入っていた。氏子さんらしい年配の男性とその娘さんらしい女性が社務所を訪問した。誰もいないので呼び鈴を押して、インターホン越しに会話している。
社務所に出てきた方に、「お願いしていたご祈祷をお願いしに来ました」「え〜と」と応えたのは宮司さんの奥様らしい。しばらくして出てきた宮司さんは困惑気味で、予定になかった風。「今日の何時でした?」「・・・」「また出直して来ましょうか?」「いえ、15分ほどで準備できますので・・・」。本殿の方に歩いていかれ、拝殿前で男女が待っている。
そんな光景が僕の後ろで動いていた。一段落したのを見計らって社務所を覗いた。数種類の絵馬が下がっていたので、それに興味があった。また誰もいなくなったと思っていたら奥様がいた。縁結びの御守りの柄が、男女が向き合う柄で珍しかったので授かった、600円。
バイクに戻り、枝道を山に登って行き、10:13「無動寺」。『無動寺 真言宗 高野山の高僧、真源和尚が郷里の荒廃した寺院の再興を発願し、半生を捧げて村人と共に復興(宝暦2年・1752)したのが今の無動寺です。
古い確実な記録はありませんが、仏像が平安期のものであり、鎖守社であった若王子神社に永仁5年(1297)の棟札があることなど、古くて大きな寺院であったことを示しています。
仏像五躯:いずれも平安末期の仏像として、国の重要文化財に指定されています。木造大日如来坐像:巨大な丈六仏(立てば一丈六尺)で、如来でありながら宝冠や装飾品をつけ、独特の手印を結んで広大無辺の慈悲を表しています。顔は面長で奥行があり、腰はしぼられ、下半身は大きく作られています。彩色されない素地像や地方作が多くなるのはこの時代からで、この像もその一つと見られています。木造釈迦如来坐像:量感があり、意力に満ち、前方を見つめる眼、頭部の盛り上がりと地髪との境がはっきりしないこと、螺髪(らほつ)が大きいことなどは平安初期の仏像に見られる特徴ですが。彫法が浅く鋭い切味を消している点で後期の作と見られる。
木造阿弥陀如来坐像:極楽浄土の主として広く信仰されています。他の4像が檜材であるのに対し、この仏像は杉材で造られていて、時期もやや下がるのではないかと見られています。
木造十一面観音立像:頭上に十一面をいただく観音で、お顔は端正で気品があります。柄紋中央の渦紋(かもん)、裳すそが足首より上にあるなど古い形式が見れます。
木造不動明王坐像:火焔を背に剣を持ち、眼を見開いたお姿は、大日如来の力を現したものです。内部は見事にくりぬかれており、中央仏師によって造られたと見られています。光背の火焔は江戸時代の作です』
鐘楼があったので、寄付箱にお賽銭して手を合わせゴーン。良い響き・・・。定番の弘法大師像が境内にある。謂れ板に書いてあった仏様を拝みに本堂に入ると、女性の方がおられた。ご住職の奥様を話されているようです。拝観料300円をご住職に渡すと、縁起パンフレットがいただけた。「グルリと一周できますので・・・」。本尊正面に座り、手を合わせいつものように、これまでの僕の人生の平穏な来し方に感謝の言葉を述べた。
山寺であるためか兵火に遭っていないようで、仏像は素晴らしかった。彩色されず木地そのままの本尊は珍しい。そして意外に大きかった。説明板で、これら数体の仏像が、大きなお厨子に入っているのがわかった。土蔵が本堂後ろにピッタリくっつき、大きな土蔵扉が本堂内に向かって開いている感じです。これまた珍しい。この構造なら、火災発生時でも、巨大厨子の扉を閉じれば仏像への延焼を食い止められそうです。民家は土蔵を使った工夫がいろいろされて来たのに、寺院では本堂内お厨子に本尊がおられても、お厨子が木製だったりで、火災に対しては無防備だったように思う。
パンフレットには、『推古天皇の時代、聖徳太子が物部大臣守屋を討たんとして、鞍作為(為仏師)に命じ、本尊大日如来及び諸尊を刻ましめて戦勝をご祈願されたところ、忽ち大軍を征破することができたので、七堂伽藍を建立して普救寺(福寺)と名付けられたのに始まります。
その後幾度か盛衰の変遷があり、記録等は散逸して、多くを知ることができません。縁起(慈雲尊者真筆)によれば、現在の堂宇は中興開山池源阿闇梨か帰省の折、当寺の荒廃を見て、復興の悲願を発願され、二十数年の勧進努力の結果、宝暦2年(1752)3月、再建されたものであります。
明治8年廃仏毀釈により、末寺と統合して現在に至っております。中興開山員源阿闇梨(1689〜1758)は北区山田町中の出身で、高野山成蓮院に住し、左学頭にまで昇補された高僧です。
本堂・奥殿:指定文化財が安置されております。いずれも平安時代。国指定重要文化財 大日如来座像:桧材一木造:像高2.7m 釈迦如来座像:桧材一木造1.2m 阿弥陀如来座像:杉材一木造1.2m 不動明王座像:桧材寄木造0.84m 十一面観音立像:桧材一木造1.5m  県指定重要文化財 阿弥陀如来座像:桧材寄木造1.2m
若王子神社本殿(国重文) 無動寺の鎮守社で、若一王子権現を祭祀し、永仁5年(1297)および応永15年(1408)の棟札があります。三間社流造の社殿で、屋根に竪板葺を残しているのは珍しく貴重です』
境内の片隅に石鳥居があり、そこから石段が上がっている。上がっていくと覆い屋に守られ本殿があった。ここらは、明治維新の廃仏毀釈の嵐が穏やかだったようで、それ以前の神仏習合の姿がそのまま遺っているようです。
『若王子神社本殿 重要文化財(国指定大正3年) 神社建築に多い三間社流造の社殿。棟札により、室町初期・応永15年(1408)に建てられたものとわかる。無動寺(昔は福寺)の鎮守社として建てられた。570年の長い年月を経ていますが、当時の姿をよく残し、この時代の建築様式を知る上で貴重なもの。 屋根を厚板で葺いている。 側面(妻)上にある破風板は、曲線の一枚板。 破風の出会っている所の棟木の飾板(懸魚)もなだらかな曲線で彫られている』
うぐいすが綺麗に鳴いている。我が家にも例年通りうぐいすが鳴き、夜が明けるとそれが聞こえてきて、春の訪れを告げてくれています。
バイクに戻り、山を下りr85に出て西進。10:56「ローソン神戸山田町坂本店」で、「ミニクリームパン100円+ボスとろけるカフェオレ162円=262円」を購入。
11:05「呑吐ダムP」に到着。先客バイクが4台いた。座ってパンを食べ昼食。皆さんはそれぞれのバイクの周りを見ながらあ〜だこ〜だ。11:16に出発し、r85をさらに西進〜北進しr38に突き当り、左折してr38を西進します。
11:26、「志染の石室」。Pに入れ、山に入る所に獣避けフェンスがあり、開閉して山に入り遊歩道を歩いて行きます。山側に桜が咲いている。『志染の石室は、二皇子が隠れ住んだ所と伝えられています。皇子はやがて23代顕宗天皇(次男:弘計王)・24代仁賢天皇(長男:億計王)として即位されました。二皇子ゆかりの26代継体天皇お手植えの桜が岐阜県本巣市根尾谷に樹齢1500余年の老桜樹「淡墨桜」として今も咲き続けています。
本市に伝わる「二皇子物語」と縁のある「根尾の地」より苗木を譲り受け、市の発展と伝説の桜がこの地に根付き、更に次の世代へと花開き夢拓くことを願い市制50周年を記念しここに植樹する』
小川沿いの遊歩道が二手に分かれている。野生の勘で下りの道を選択して進むと、志染の石室があった。『志染の石室・金水 高さ2.7m・幅14.5m・奥行7.2mの石室で、中は一年中湧き水をたたえています。「日本書紀」によると飛鳥時代、後の顕宗天皇と仁賢天皇が幼少の頃、政変の難を逃れて隠れた石室といわれます。その中の湧き水は、天然記念物の「ひかり藻」の作用により、12月下句〜3月初句には色を変えることがあるため「窟屋の金水」とも呼ばれています』
『窟屋の金水は、志染の石室の中に湧く水が、ここに生息している「ひかり藻」の作用で春には溜まり水が金色になるなど、四季折々に色を変えることから、こう呼ばれています。ただし、最近では溜まり水が金色に変色することは稀になっている』
志染の石室は、地層の断面に出来た奥行きのない洞窟で、上から湧水が常に落ち、内部に池ができている。確かに緑の藻が表層の一部を覆っている。これが光藻なんだろうか?冬に来ると金色に光っているのが見れる時があるのか・・・。その前が広場になっており、石仏が並ぶエリアがある。広場の中央に東屋があり、ここが紹介された新聞記事などのスクラップが壁に貼られていた。
広場を隔てて緩やかな流れの川がある。遊歩道が続いており、それを山に上ると、更に二手に分かれていた。小高い丘を周遊しているように見える。奥の道を選択してもPに戻ると思ったけど、鋭角に曲がる方に進路を取ります。もと来た道になりP。
r38を見下ろすように並走する枝道を東進します。11:51「御坂サイフォン」の上を渡る地。播磨の大穀倉地を支えているのは水です。日本有数の溜池の多い地域ですが、明治時代イギリスの技術者を招き、三木市の北の地域から、丘陵地の起伏を上り下りしながら播磨南部に水を運ぶ大運河パイプトンネルを完成させました。以来何度か更新されながら、現在に至っています。ここから、パイプと共に淡河川を渡るアーチ式石橋や淡河川に向かって北の丘陵地から下るパイプ、そして反対に南の丘陵地を登っていくパイプが見える。大土木工事の一端が見える現役でもあるが歴史史跡でもある「御坂サイフォン」の全貌が見渡せます。
『神戸市北区淡河町木津の川から引かれたこの疎水は、総延長26.3kmの水路です。明治24年に完成した水路には、28ヶ所の隧道があり難工事であった。中でも芥子山(けしやま)隧道は、土質が崩れやすく湧水が多いため請負人の手に負えず、県の直営工事に改められた。3年4ヶ月を要した隧道が明治25年に完成し、新田を潤した。しかし豪雨によって築堤が崩壊し、明治27年復旧完成した』
ふと見ると、近くの民家の枝垂れ桜が満開になっており、見物の方が数人いた。そちらに移動して見よう。見事に満開の姿を見せており、そのおうちの一家がテーブルと椅子を庭に出して自宅花見を楽しんでおられました。
r38に合流し東進して、12:06「淡河八幡神社」。淡河を領した有馬氏縁の神社で、何度か訪問しているが、満開の桜に惹かれての寄り道です。
『有馬氏 八幡神社本殿造立(増立) ご存知、中央競馬暮れのグランプリ『有馬記念』は農林大臣有馬頼寧(よりやす)氏の数々の功績を称え、記念して出来たレース。この有馬頼寧氏の先祖が有馬則頼(のりより)・豊氏(とようじ)父子で、則頼は三津田(満田)城で生まれ、後に淡河城主・淡河氏を滅ぼして淡河城主となる。ここに誕生したのが豊氏。有馬氏は八幡神社を祈願所として崇敬し、ご本殿をさらに大きく造立した。
後に有馬豊氏は、豊臣秀吉の勢力拡大に多くの功を残し、秀吉の恩恵を受け久留米21万石の大名となり、益々の発展を見たのである。
淡河氏は鎌倉時代に淡河城を築き、淡河の城下を整備。八幡神社は淡河氏の崇敬祈願所でもありました。淡河一族は今なお、全国各地で名士として活躍されています。
ご祭神 本殿 奈良時代末期より:表筒男命(うわつつのおのみこと) 平安時代中期より:安閑天皇(あんかん) 鎌倉時代初期より:応神天皇末社(裏参道):武内宿祢命 末社(裏参道):大山津見神遥拝所(裏参道):天満宮 遥拝所(境内上):伊勢神宮銅像(境内上):神馬一体 句碑(表参道):坂井県知事・杜山悠(3年連続直木賞候補)』
『東播磨国・淡河郷鎮守・八幡神社 奈良時代末期・宝亀10年(779)住吉の神「表筒男命」を、次いで平安時代中期・仁平年間(1151-1154)吉野の神「安閑天皇」を祀る。
鎌倉時代の初め・貞応2年(1223)相州鶴岡八幡宮より「応神天皇」の御霊を迎えて社号を若宮八幡宮と称し、その神域を八幡の社と呼んだ。
創建以来、淡河郡(庄)一円の総鎮守と仰がれ、淡河氏・有馬氏・明石藩歴代の崇敬祈願所ともなった(明石藩・黒印高5石)』
『淡河八幡神社御弓神事(県指定重要無形民俗文化財) 御弓神事とは、一年の除災招福を祈る行事の1つで、毎年2月11日に社前で行われます。鳥居下の大的に宮司が「鬼」と墨書し、すぐ塗りつぶし、災害の根源を封じ込めます。次に氏子から選ばれた正副4人の射手が神前から矢を放ち、この的を射て、根源の悪霊を鎮圧し、的の中心を射た矢は神前に供えられます。古式をとどめた厳格な作法が守られており、その起源は相当古いものと思われます』
境内の奉納神馬の腹に、「五七桐紋」が描かれていました。摂津有馬氏は巴紋、肥前有馬氏は木瓜紋、淡河氏でもありませんでした。江戸時代この地を領した明石藩歴代藩主は、小笠原〜松平〜大久保〜松平〜本多〜松平と続いていた。菊紋と並ぶ天皇家の家紋で、武家を懐柔するため有力武家に使用を許した。有馬氏は豊臣秀吉の登用によって家勢を上げたので、秀吉から有馬氏が賜ったのかもしれないし、秀吉縁として使用されているのかもしれません。勝手に僕の想像の翼が広がって行きます。
バイクに戻り、r38を東進し、R428との交差点を左折しR428を北上します。淡河町北僧尾地区に入り枝道に逸れ、12:22「北僧尾農村歌舞伎舞台」。『北僧尾農村歌舞技舞台 県指定重要有形文化財 江戸時代の末頃から明治にかけて全国各地で建てられた農村歌舞伎舞台の1つです。この建物は、安永6年(1777)の墨書があり、現存する舞台の中で最も古いものとして注目されています。
一般に舞台は神社境内に建てられることが多く、奉納芸能であったことがわかります。神社には長床と言って神事のために使われる建物がありますが、この舞台はそれと舞台を併用した形に作られています。正面右端の突出部は、「チョボ床」と言われ義太夫・三味線の座で、舞台用に造られたもの。木組みで当初からあった事が解ります。正面下部にある横板は「バッタリ」と言われ、平素は雨戸として使い、上演の時は前方に倒し、舞台を広く使えるように「ちょうつがい」で結合されています。この装置は、この地区にあった15棟の農村舞台の特徴でもあります』
「ちょぼ床」があまりに小さく、ここに三味線奏者が入るとは辛い仕事だなと想像しました。「バッタリ」も確認でき、バッタリの下に前に倒すと出てくる脚が一定間隔でついていました。舞台を広く使う時、脚がないと安定しないものね。でもまあ、もっと脚を太くするとか多くしないと、出演者全員が前に来ると脚が折れそうです。綺麗に葺かれた茅葺屋根が厚く、とてもいい感じです。今でも秋祭りの時などに、使われていそうです。
細かな起伏が連なる農村地に点在する鎮守の森を視認してバイクで走ります。12:32「厳島神社」。手水舎の上に謂れ板が下がっていました。『獅子舞の由緒 永正の頃より南僧尾村に在住していた能の一派・福王氏が天正の頃に創設したもので、松尾神社や厳島神社に奉納したものが伝えられたもので、類例の少ない雄獅子です。9/12に松尾神社・13日当社で奉納されている』
12:36「曹洞宗・高雲寺」。見るべきものはなかったが、更に暑くなったので、下のDAIWA釣りパンツも脱いだ。下にロングタイツ・タートルシャツを着ていますが、真夏バイク装束にあと1枚です。外観は、真夏です。
12:42「南僧尾観音堂」。『県指定文化財 南僧尾観音堂 当観音堂は、承和7年(840)の草創と伝えられる新善寺の本堂であった建物である。正面3間、側面4間で、正面及び両側面に各1間の縁庇(えんぴ)を設けた簡素なつくりとなっている。建築年代は明らかではないが、仏壇内から発見された「堂頭日記」に延徳元年(1489)から天正12年(1584)までの御頭行事の記事があり、それ以前の建築と考えられている。内部の客殿は仏壇上に立つ一間厨子で、仏壇とともに和様と唐様の折衷様であり、建物と同時代のものと思われる』
この南僧尾・北僧尾地区には、寺社がたくさんあり、まだ新しい茅葺き屋根であったり生きている感じがしました。地域のつながりが強い感じを受けます。濃い同族意識があるのか、血縁濃い人々が累代をつなげているのか興味深いです。R428に戻り少し北上したところにあった、12:55「薬師堂」。更に北上し、r355へ左折し西進。GPSで「毘沙門堂」が近づいてきたので、毘沙門天好きの僕は期待したが、イマイチの外観でスルーしました。
枝道に折れ、細道を山を登って13:09「法輪寺」。舗装されているけど四輪離合が厳しい細道をグングン登ってきたので山寺の雰囲気プンプンです。観光客はまず来ないでしょう。
掲示板に、映画「空海」のポスターが貼ってありました。真言宗でしょう。庫裏周辺を見学し、本堂へ。白い椿が綺麗な花を付けていました。我が家の椿は花を落としているので、平地より気温が低いからでしょう。
『交通安全の守護佛馬頭観世音菩薩のご利益 当山法輪寺は、37代孝徳天皇の白雉2年法道仙人がお開きになった寺で、ご本尊は馬頭観世音菩薩であり、当時は4ヶ寺16坊と7堂伽藍ことごとく備わり、東播の名刹でした。しかるに天正の兵火に罹り、ことごとく焼失したことはまことに遺憾であります。
その後慶長8年、明石領主・池田輝政公が当山の本尊馬頭観世音菩薩を尊信し、永代灯明料として米5石を代々の領主から寄進され、明治維新に至るまでは明石領主の祈願所として、その武運長久、五穀豊穣を祈りました。今なお小川谷部落の祈祷寺として、初午の縁日には大般若経の転続紫燈護摩の秘法を修行して各家の家運長久、緒願成就を祈願しています。
当寺の本尊馬頭観世音菩薩は、多くの観音さまのうちでは風変わりな仏様で、そのお姿も憤怒の表情を現し、大変力強さを感じます。経典によれば、この観音様は、信者を苦しめるあらゆる障害を食い尽くし、人々のいろいろの恐怖をうちくだき、一切の障害を信者の身辺に近づけないようにすることを誓願としていると説いています。ことに日本では馬頭観世音菩薩は、長い困難な道中を安全に帰着することを祈る本尊として、長く信仰されてきました。今日でも山岳地帯の方々の道路のかたわらに、石仏馬頭観世音菩薩が安置されているのをよく見かけますが、道中安全すなわち交通安全をお祈りした証拠といえるでしょう。現在の社会において、我々の身辺をとりまく障害が沢山ありますが、その最大なものの一つといえば交通事故ではないでしょうか。
当山では、この障害から守っていただき、日々の生活が全うされるようご本尊馬頭観世音菩薩にお祈りした交通安全ご守護のお守りを信者のみなさんにおさづけすることにいたしました。当寺の本尊馬頭観世音菩薩のお守りを身につけて信仰されるならば、交通安全のご利益を得られるものと信じ、お勧めする次第であります』
空海像があり、鐘楼があったので、また手を合わせてゴーン。ありがたい鐘の響き・・・。立派な軒の長い大屋根の乗った本堂でした。赤い賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)がありました。境内の隅に鎮守社の祠があった。護摩修行場があり、行の跡があった。真言宗系修験道者の修行場なのかもしれない。山寺に上がると、修験道の香りがしてくるので好きです。
山を下り、r355を西へ。突き当りを右折しr20を北上。「藤原惺窩生誕地」の案内板に惹かれて枝道へ。美嚢川を渡ってすぐに大きな一本杉があったので、13:35寄り道。「大雄寺」の道標に惹かれ、13:39「大雄寺」。見るべきものはなかった。13:42「藤原惺窩生誕地」。
この方の名前は存じなかったが、公家・藤原氏一門の誰かが、難を逃れて自らの荘園に下っていた時に生まれたのだろうと想像していた。出自は冷泉家で、豊臣秀吉や徳川家康にも講義した儒学者で、江戸時代徳川幕府統治の基本になった儒学・朱子学思想を広げたパイオニア的な方でした。
現代日本人の上下関係を大切にする儒教的思想のベースは、武士の思想・行動からの流れから来るものと言われています。江戸時代は、主君の先祖も含めこれまでの恩に報いるため、よっぽどのことがない限り仕官先を変えませんが、戦国時代以前は自らの働きに見合った実入りがないと判断すれば、自らを売り込み仕官先を変えていました。
現代でも儒教原理主義で生きる朝鮮半島ではなく、日本江戸幕府は儒教をモディファイしいいとこ取りした朱子学で統治しました。その日本的朱子学が確立した戦国末期〜江戸時代に登場したのが藤原惺窩でした。
生誕地は広場になっており、藤原惺窩の像が立っていた。側に台北市からの訪問者が記念に植樹した樹が2本あり、儒学つながりの訪問者と想像しました。
『近世儒学(朱子学)の開祖と仰ブれた藤原惺窩は、永禄4年(1561)冷泉参議藤原為純卿の第3子として此の地に生れた。7、8才の頃より、竜野の景雲寺において禅僧として修業中、父為純は別所長治の急襲を受けて討死した。凶報に接した惺窩は、母や弟妹を伴い京都にのがれ相国寺に入った。彼が18才の時である。
以来、学ぶところ幅広く、深く研錯を積み、ついに儒者となり、書において通ぜざるなしと天下に認められるに至った。その後、朝鮮出兵の捕虜として抑留された儒学者・姜はん(かんはん)との出会いで感化を受け、徳川家康には知遇を得て江戸にも招かれ治国の道を説き、度々儒学を伝授している。家康には、2千石の高禄を以って招かれたが、学問の自由を守って仕官を好まず、自らは清貧に甘んじ、洛北市原に山荘をかまえ悠々自適、学研に励んだ。
元和5年(1619)9月12日、59才の生涯を終った。門弟、林羅山・松永尺五(せきご)・那波活所(なわかっしょ)・堀杏庵(きょうあん)は、その四天王といわれ多士済々である。忠・孝・義を基本として礼節を尊び、大義名分を大切にした惺窩の学説(朱子)は、形式面においては、羅山により徳川幕府の官学として継承された。内容面は京都における尺五らに伝えられ、京学(けいがく)派として豊かな高い人間性を推進する本格的な学問として我が国の道徳、思想形成の上に大きく貢献した。心学五倫書・仮名性理(かなしょうり)・仮名性理竹馬抄・惺窩文集は数多い著書の代表作と言われている。墓は京都相国寺にある』
『藤原惺窩先生ゆかりの冷泉家 関白・藤原道長の第6子・長家を祖としている。当初は御子左家(みこひだりけ)と称した歌道の名門である。平安時代末頃、俊成は千載集を著わした。その功により歌所の所領として細川の庄(細川町)を朝廷より賜り子孫に伝えた。その子・定家も新古今集を著わすなど我国随一の歌人と仰がれた高名な人であった。
為家の死後、長男・為氏は二条家を、次男・為教は京極家を、異母弟・為相(ためすけ)は冷泉家を興した。この時為氏と為相とに細川の庄の領有をめぐって相続争いが起こった。為相の母・阿仏尼(あぶつに)は鎌倉幕府に訴えるため、関東に下った。有名な「十六夜日記」(いざよいにっき)は、この時の紀行文である。訴訟の結果、細川の庄は冷泉家の領有となった。
室町時代の中頃、冷泉家は故あって2つに分かれた。此の頃の家系は二条家と絡み合って複雑ではあるが、水上にあった方を上冷泉、水下にあった方を下冷泉と区別して呼ぶようになった。そして細川の庄は、下冷泉家に引き継がれた。
やがて、応仁の乱により、京都が焼け野原となったため、政為の頃から領国である此の地に住まわれ、時折、御所に伺候(しこう)された。惺窩はこの下冷泉家に輩出した。天正6年別所長治の不意打ちを受け為純長子・為勝は討ち死にして、下冷泉家は廃絶したが、惺窩の子・為景は後光明天皇より下冷泉家の再興を許され公卿として代々朝廷に仕えた』
あまり知らなかった日本の朱子学の流れを知れ、有意義な寄り道だった。やはり藤原氏流れの人でした。r20に戻り北上。道なりに東に方角を変え、枝道に逸れ美嚢川を渡り、14:01「衣笠神社」。
社名に惹かれて寄り道しました。社門には左右に武者が座り、いろんな部分がくたびれていますが、格と歴史を持った神社が想像されます。長屋式拝殿で、左右に拝所があります。向かって左側拝殿には、武甕槌命(たけみかづちのみこと)・天穂日命(あめのほひのみこと )・甕速日命(みかはやひのみこと)、右側拝殿には、住吉三神(表筒男命(うわつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・底筒男命(そこつつのおのみこと)が祀られていました。
本殿横には、屋根瓦が崩れ扉数枚が落ちた三社祠がありました。手水舎に手ぬぐいもなく、氏子が散逸したのか荒れるままに任せている印象です。本殿は覆屋で守られ、後ろの斜面に祠がいくつか見え、かつての賑わいを感じます。信心深い氏子が現れるのを願いたい。
更に奥に進み、山を上っていくと、14:11「蓮華寺」がありました。多宝塔を目指して走ったら、墓地の上にPがありました。バイクを置いて立派な多宝塔を観に行くと、満開のソメイヨシノと塔の写真が絵になります。その下に石段があり境内が見えたので下りました。山寺の大寺の風格満点の本堂がありました。更に下ると鎮守社があり、東播磨全域が神仏分離令の破壊を免れたように思えます。立派な鐘楼があったので、また手を合わせてゴーン。
バイクに戻り、下って庫裏前でP。『蓮華寺 真言宗大覚寺派 大化元年(645)法道仙人の開基と伝えられ、弘法大師が修行された地とも伝えられています。天暦8年(954)村上天皇の勅命で中興され、蓮花寺と称するようになりました。一時は、18院33坊を容する大寺院として栄えましたが、天正7年(1579)羽柴秀吉の三木城攻めに際し、兵火によって全山灰塵となりました。
その後再興され、今は7堂伽藍が配されています。本堂には十一百観世音菩薩立像が、奥の院には十一面観世音菩薩座像が、本尊として安置されています。鐘楼には、貞和2年(1346)の銘の入った室町時代初期の古鐘があり、装飾的要素を最小限にとどめたすぐれた名鐘で、県の重要文化財に指定されています。
2月の節分には鬼の面をかぶり、タイマツをふりかざして踊る豪壮な追難式の行事が知られ、秋には紅葉の名勝として知られています』
東播磨〜摂津北部には、法道仙人開基の寺院が多いです。バイクに戻り山を下りr20に戻り東進し、左折してr144で北上しました。右折してr75で東進し、東条川沿いに走ります。東条公民館・とどろき荘横を走ります。中国道をくぐり北に出て、枝道に逸れます。
14:51、鳥居が見えてきました、「一之宮神社」。伊勢神宮遥拝所がありました。境内を出て、あぜ道に続く小さなソメイヨシノ並木を写真に収めていると、向かいの「東条会館」から出てきた軽四トラックのおじさんが、「良い写真撮れましたか?満開だよね」と声を掛けてくれました。「篠山城お堀沿いの桜」「東条川沿いの桜」など、桜の見所を教えてくれました。「それ、一眼レフ?」と、僕のソニーNEXC3にも興味を示されていました。カメラ好きの方でしょう。
更に奥に進みます。15:02「日の神教団・瑞宝苑」案内柱前にP。「高野山真言宗・南蔵院」を観に行きます。境内に弘法大師像が立っています。本殿の唐破風の彫刻は見事でした。木鼻の獏・獅子、蟇股の獅子・鷲にも玉眼が入っていました。掲示板に、『足るを知れば安らぎが、足るを知らねば苦しみが』の標語が墨されていました。蟇股に龍の彫刻が入った鐘楼があり、またゴーン。ここでも桜をたくさん撮りました。
バイクに戻り、更に奥に山道を入り、15:15「掎鹿寺(はしかじ)」&「大乗院」。周辺図看板を見ると、近畿自然歩道「三草山の源平古戦場を訪ねるみち」コース案内図があり、源平古戦場「三草山」との位置関係が書かれていた。「義経道」と彫られた大きな石があり、眼の前の道が三草山で勝利した義経軍が「一の谷」に向かった道だったようです。
「大乗院」に入ってみます。庫裏は「無量寿殿」となっていました。本堂や新しく造られたと思われる山門を見学。小さいながら仁王さんがおられました。アセビが白い花を満開に付けていた。そう言えば我が家のアセビ・・・葉を落としたままです。枯れちゃったのかな〜、山野の木陰でも花をつけている強い木なのに・・・。復活させなきゃ。白い「ユキヤナギ」も満開でとても綺麗。「無量寿殿」前に鉢植えされた「すみれ」が咲いている。綺麗だな。
大乗院の隣にある山門をくぐり「掎鹿寺納経所」を観に行きます。茅葺屋根の茶室?があった。道を渡り、掎鹿寺本堂へ。雑草が刈られた境内にポツンと本堂がありました。蟇股の龍に玉眼が入っています。木鼻の獏にも玉眼が入っています。大乗院は、もとは掎鹿寺の塔頭の1つだったように思います。山寺であることから歴史は古いですが、交通の便が良くないので、葬式・墓地収入のある仏教需要は麓の寺が受け、学問や修行により、豪族や公家・皇室などの大スポンサーから大きな収入を得るというビジネスモデルが成立しなくなり、兵火で焼かれた後の再建は進まず衰退したままです。ビジネスに長けた塔頭が本寺を凌ぐ典型を見たような気がしました。
バイクに戻り里に下ります。r75を更に進み、左折してr313に乗ってすぐ、15:36「若宮八幡宮」がありました。神門内左右に武者が守っており、歴史がありそう。境内の中央に舞台殿がある。
『重要文化財 若宮八幡宮本殿 当社の創建は詳らかではない。現本殿は内陣板壁の墨書から、永禄7年(1564)の再建であることが明らかである。祭神は誉田別尊である。
桁行・梁間とも三間、前の一間を向拝、後の二間を身舎(もや)とし、内陣と外陣に仕切られ、三方に回縁がつけられている。柱上の組物は簡素な出三斗(でみつと)組で中備はない。側面の妻組は二重の虹梁(こうりょう)をかけ大瓶束(たいへいづか)を立てた形式になっている。屋根の形は正面に長く流れ、軒先に唐破風をつける流造唐破風付という形式になっている。唐破風の桁は向拝から身舎へ登りに架かつており、このように流造りで登桁(のぼりけた)を用いた唐破風造りの神社建築は、全国でも少ない。屋根は柿葺である。
向拝虹梁や身舎頭貫(かしらぬき)の木鼻の万年青(おもと)、菖蒲等の彫刻、特に柏の葉と毛筆の彫刻は珍しい。向拝手狭の菊・鯉・鶴・亀など多彩な彫刻が美しく、龍鼻・象鼻にも時代の秀でた手法がみられる。この種の彫刻は大阪府・和歌山県北部にかけて見られる系統のもので、輪郭内いっぱいに薄肉彫を充填する特徴がある。
昭和43年(1968)9月末日、解体修理が完了し、一部後補の変更部も旧に復元された。その後、平成20年度事業として屋根の葺替工事を実施し、平成21年(2009)3月に完成した。
なお、境内前の馬場先で毎年8月16日に行われる「柱祭」は、平成24年3月28日に加東市無形民俗文化財に指定された』
拝殿蟇股の龍の彫刻が細かく立体的で見事です。重文の本殿は拝殿越しにしか見えず、謂れ板に書かれている詳細が十分見れなかったのが残念でした。訪問した時、3人の小さなお嬢さんを遊ばせているお母さんがおられた。神社の境内は子供の遊び場というのが相場で、安全な遊具が少し置いてあった。
ただ回り物やブランコなど動く遊具がなく、最近の児童公園のそれの典型でした。小さな事故を100%なくそうとするのではなく、多少危険がある方がスリルがあり、子供同士でより小さな子に気を配って遊ぶより大きな子の気遣いなどが学習できる環境がどんどんなくなっているように思う。人生は冒険で、家族や一族、大きくは国を体を張って守ることを男がやらなくなると、最先端の文明を持っていた南米アステカなどがあっという間に野蛮なヨーロッパ人に滅ぼされたのと同じ運命しか待っていないと思う。
r313〜r75〜r17で「ひょうご東条IC」から中国道に乗りました。新名神が先月全線開通したからか、宝塚トンネル渋滞はなかった。高速道路上にあった電光掲示板には、新名神に新しく出来た「宝塚北SA」が満車となっていた。大人気のようです。新しいSAだから、設備も充実していそう。スマートIC付きだから、きっと高速外からでもSAにアクセスできるように思う。行ってみよう。16:33に帰宅しました。

20180325
西宮KGレース2日目です。ヨット部同期のD社Hくんも来るので、ハーバー送り迎えがあるかと思い車で出動します。行きは大阪Kさんに駅でピックアップされると言ってたけど、帰りはわかりません。
7:26、「セブンイレブン」で「味付け海苔海老マヨネーズ130円手巻き辛子明太子140円=270円」を昼食用に購入しました。定番の「助六」は売り切れていて残念。
R171を西進し、8時にYH着。Hくんに電話したけど応答なしでした。部員に挨拶し、KG監督やジュニアから知ってる子でKGコーチになったM君と話しました。M君は1週間前のD社主催レース(65艇出場)で優勝しています。現役レーサーなので、身体の動かし方について質問しいろいろ教えてもらいました。
8:30になり、KG監督がレース前スキッパーズミーティングで挨拶・レース運営の説明をします。この日は、KGのOBであるジュリー(審判)2名が参加し、オン・ザ・ウォーター・ジャッジしてくれるので、風が弱いこともあり1時間ほど、審判から見た注意点を話してくれました。
風が入ってきたので全艇出艇。大阪Kさんが、コーチボート上で集合写真を撮ってくれました。D社H君は喋りなので、「KGとの定期戦ではコテンパンに負けたけど、全日本インカレでは2位やったんや」や、「こいつ学生個人No1スキッパーやったんや」と僕の学生時代のことも披露してくれました。京都2と大阪2合計4人も、うら若い女子マネさんと同船なのに、テンションが上っています。こんな世界に毎月数度通っている僕が羨ましいだろう。男はいくつになっても女子に弱いです。一旦風が落ちましたが、10:30を回って沖からブローが下りてきて、11時470第1レース・スタート。京都は、14時に船の積み込みがあるので、13時以降スタートのレースには参加せずハーバーバックします。その時間まで6m/sほどの良い風の中、3レース出来ました。S級最終レースでトップフィニッシュしました。470も第2レースで2・3位でした。
S級のフィニッシュ後、女子マネをS級レース艇が迎えに来る予定でしたが、GM・Kさんが「濡れるから、ハーバーまで帰るよ」とのご厚意に甘えさせていただきました。Hくんも船を降りて帰るとのこと。僕は降りても解装を手伝う必要がないので、再びレース海面に戻りました。
15時前にレース終了しハーバーバック。ハーバーに戻ると部員は1台の大型トラックにレース艇6艇を積み込んでいました。それを見送った後、この日気づいたことを10分ほどブリーフィングしました。
帰路に着きます。新西宮ヨットハーバー7:56〜16:45・900円。帰宅後家内とあれやこれやお喋り。1日中自宅にいたそうで、申し訳なかった。

20180324
コーチしてる大学ヨット部が、水曜日から日曜日まで、僕のホームポート新西宮ヨットハーバーに春休みを利用して遠征しています。神戸大学と大阪大学の艇庫に分散宿泊させてもらい遠征費を助けてもらいました。全部員が宿泊するのは無理なので、今週クラブは3つに別れ活動しています。主力&新2回生選抜チームが西宮、スナイプ新3回生チームが江ノ島遠征、新2回生が主力の残りが地元琵琶湖です。
僕は、西宮合宿土日に参戦する母校KG主催レースのコーチングに行きます。前日、D社同期H君が大阪大ヨット部を手伝ってるというのを思い出し、「明日行くの?僕は行くよ」とメールしてみました。「行かない」との返信で、ちょっと残念でした。
朝ゴソゴソし、6時から出発準備を始めます。朝ごはん食べて、通勤リード110で出発しました。7:15「セブンイレブン」で、助六寿司とブレンディ挽きたてカフェオレを購入。
R171を西進し、7:45にYH着。ディンギーヤードに入ると、レース艇がズラリと並んでいます。近大・関大・社会人2艇も参加するようです。部員と挨拶しているとキャプテンがやってきて、あ〜だこ〜だ。キャプテンが乗っていたニューポートが練習中接触して傷んだそうで、神戸から艇を借りて出場するそうです。
1週間前、琵琶湖でのD社主催レースに遠征して来ていた母校コーチKくんがいました。レース委員長をするようで、「たくさんレースをする予定なので、宜しくお願いします」とのことで、こちらこそ望むところなので、「バンバンやってよ」と頼みました。彼のお父さんは、僕が4回生の時、高校3年生だったヨット部後輩です。KGは当時高校と大学が一緒に練習していたので、良く知っていました。僕は社会人になりジュニアヨットクラブを立ち上げ、数年後次男がそのクラブ員になりました。部員を一本釣りすべく、彼のお父さんに声を掛け彼もヨットを始めました。チビの時から知ってる子が社会人になり、ヨットの世界を盛り立てているのを見るのは大きな喜びです。
お世話になっている大阪大ヨット部監督さんなどがおられたので挨拶していると、8:15「京阪神ヨット大会」の開会式が始まりました。3日間一緒に練習して、その成果をKGレースで試します。その成績から、各校×6艇抽出して競う大会で賞状さえないローカルレースです。開会式と言ってもブリーフィングのようなもので、大阪大の先輩に続き私も指名され、長男が大阪大のライフル射撃部所属だったエピソードを交え、両校への感謝の気持ちを伝えました。
8:30、KGレースの開会式です。こちらもローカルレースなので、スキッパーズミーティングの拡大のようなブリーフィングで、コースなど簡単な取り決めをレース委員長Kくんが説明し終了。
東からの風が消え、南からの海風に変わりました。セイルを上げ、各艇出艇して行きます。僕は大阪大のレスキューボート「摩耶」に乗せてもらいました。安定した海風が入るSWの風向ではなく、摩耶は上マーク設定担当なので、本部船より南の海面に大きく出して準備しますが、しばらく風待ちです。
ご一緒した大阪大ヨット部GM・Kさんは、僕のD社同期H君と知り合いで、時々Kさんのクルーザーに乗っているそうです。このセーリング・クルーザーは、弁護士のあの中坊さんがいろんな流れで購入したそうです。一緒に組んでいた弁護士さんが浪費家で、まとまった収入があった時、物に変えておかなければ飲み代に消えてしまうと思った中坊さんが手に入れたそうです。でも中坊さんはヨットに乗ったことがなく、その管理運用をするようになったそうです。その他、いろんな話をしました。同じ学連上がりヨット乗りで、長年同じヨットハーバーで学生時代を送った仲なので、学年は違えど話が弾みました。僕の同期の大阪ヨット部員をKさんは知っており、その反対もです。既にリタイヤされており、ヨット部GMとして手伝っているそうです。
神戸大の女子マネージャー・大阪大男子部員・うちの女子マネージャーも乗っており、なんだかんだ暇に任せ話します。若い子と話していると、昔話ではなく、輝かしい将来への話が主になり楽しいね。神戸女子マネさんは、文学部スペイン語学科だそうで、新4回生なので就活で語学を生かせる旅行社や航空会社を狙っているそうです。
長男のお嫁さんが航空会社なので、その流れからアメリカに一家で住んでいる話をしたら、Kさんもシカゴ勤務が長かったそうで、−20℃の生活など話がまた盛り上がりました。「商社も語学が生かせるのに・・・」と勧めると、それはパスだそうです。
11時が近づき、SWの風が入ってきました。本部船から指示があり、マークを設置しレース開始です。3m/sほどの風の中、レース艇が続々と風上マークを回航して行きます。フィニッシュしたら次のレースコールがあり、良い練習になります。12:30になると、6m/sほどに風が上がり、ピークで8m/sでした。16時にスナイプ級・第7レースがスタートし、フィニッシュ後レース艇がハーバーバックしたのは16:30を回りました。11時から良い風が入り、ガンガンレース出来、とても良い練習になりました。470級で2回・S級で1回トップホーンを鳴らすことが出来ました。関西水域の雄KGとレースが出来、それとの差を感じることが出来ました。7レース総合で、470級は1・2・3とKGでしたが、その次のグループに4回生2艇が入れました。S級は、1・2とうちが続き上出来でした。自信を持ったでしょう。
470・S級ともに3回生スキッパーは来ておらず、新2回生が各2艇参戦しました。高校ヨット部出身スキッパーが1名ずつ出場しましたが、ヨットを始めて1年のスキッパー艇もそれに遜色なく走り、僕はとても嬉しかった。みんな、しっかり練習出来ています。
ハーバーに上がり、大阪大GM・Kさんから「明日もおいでよ、D社H君来るよ」と誘われました。予定では1日のみでしたが、朝家内から「2日間行ってきたらいいのに」と言われていたこともあり、明日もお世話になることにしました。日中、H君からKさんに電話が入り、「良い風吹いてるよ」と誘っていました。
「レース艇解装〜食事〜470とSチームに別れ3大学合同クラス別ミーティング」というタイムスケジュールなので、解装中に時間を取ってもらい、レースで気づいたことをブリーフィングしました。
そして帰路に着きました。帰宅後仕事をして1日お終い。

2018/3/18
久しぶりに家内とデートです。楽しみ〜。いつものように4時頃目を覚まし、デートプランを考えます。「観てよかった映画ランキング」で気になった映画が2本。以前のチェックで気になった「祈りの幕が下りる時」。好きな阿部寛主演です。
もう一本が「坂道のアポロン」。『病院に勤め、忙しい毎日を送る医師・西見薫(知念侑李)のデスクに飾られている1枚の写真。笑顔で写る3人の高校生。それは、10年前の夏、二度と戻らない“特別なあの頃”の写真だった……。あの夏、転校先の高校で、薫は“札付きの不良”と恐れられるクラスメイト・川渕千太郎(中川大志)と運命的な出会いを果たす。二人は音楽で繋がれ、荒っぽい千太郎に薫は不思議と惹かれていくのだった。ピアノとドラムでセッションし、千太郎の幼なじみで町のレコード屋の娘・迎律子(小松菜奈)と3人で過ごす日々。やがて薫は律子に恋心を抱くが、律子の想い人は千太郎だと知ってしまう。そんな切ない三角関係ながら、千太郎と二人で奏でる音楽はいつも最高だった。だがある日突然、千太郎は二人の前から姿を消してしまう……。』と紹介されており、小学館漫画賞受賞作品が原作だそうです。映画の良し悪しは原作に大きく左右されるので、良さそう。ジャズというところにも惹かれましたが、家内の反応はどうだろう?
そう言えば、家内との初デートは、神戸のジャズ喫茶でした。日が暮れるとジャズバーになるだろう佇まいのお店で、初デートにしては暗かったかな。一緒に受けていた資格試験講習会の昼ごはんだったから、近いお店という選択肢しかなく、ぶらりと入ったお店でした。
上映2週目なのに、12:20・14:50・17:30・20:10と午後からの上映しかありません。お客さんの入りが寂しそう。春のお彼岸期間にはいったので、お墓参りの都合もあり、全ての上映開始時間をメモし財布に入れます。
7:30頃階下におり台所を覗くと、家内の服装が整いお化粧中でした。「どこ行くの?」「お墓参りに行かないと・・・仏壇のお花買ってきてくれる?お墓のお花も買ってきていいよ」。慌てて朝食を取り、身だしなみを整え、9時オープンのホームセンターに、家内のアドレスV125でお花を買いに行きます。
帰宅後、倉庫にスクーターを置き、家内が空気の入れ替えをしていた隣の実家の仏壇にお花を供えてくれます。僕はそのお尻について行き、チーン。戸締まりして帰宅し、朝のお勤めを済ませ、家内と車に乗って我が家のお墓に向かいます。r12を北上しますが、いつもより交通量が多い気がします。バイクも多く見かけます。晴れの天気と暖かな気温に誘われ、バイカーが湧いてきたようです。
「道の駅いながわ」でお花を買おうと思ったけど、良さそうな墓花は売り切れのようです。霊園に着き事務所で買います。21日春分の日を挟んで今週と来週の週末は、多くのお墓参りの方が来るだろうから、職員を増やして対応しています。お墓に上がります。墓石左右の毎年彼岸花が咲くスペースに緑が戻っていました。細かく薄く敷かれた玉砂利の隙間から雑草の緑が顔を見せていますが、引き抜き過ぎちゃってお墓が寂しくなったことがあったので、そのままにしておきます。家内が花立てを洗いに行きます。僕は墓石・墓碑に水を掛けブラシでゴシゴシ。それを終えお線香に火を付けます。ジェット式ライターが威力満点で、風が強い日でも簡単に点火できます。これは優れものです。
続いて家内の実家のお墓参りです。高速道路が混むので、朝一番にお参りに行くことが多いですが、新名神開通日なので、魔の宝塚トンネル東向き渋滞はないでしょう。夕方までに帰宅できるだろうから、渋滞発生前でもあるし・・・新名神開通初日を走ろうと目論みましたが、往路「川西IC」近所を通ったのに、それなりの看板が目に入らなかった。「宝塚北SA」に出来る「スマートIC」から入ろうと、r319〜r33で向かったが、SAが近づくと「3/18・15時開通」の看板が目に入った。「はあ〜、15時なのか〜」。r325〜長尾山トンネル〜中山経由で、「宝塚IC」から中国道に乗りました。
家内がガラケーから乗り換えたスマホであれこれやっています。お姉さんに電話しようと思ったが、電話番号を移し替えておらず、ガラケーも持ってきていないのでわからない。僕のガラケーに登録していあるので、それで調べスマホで電話したらいいと渡すが、面倒だと僕のガラケーから電話しました。「今からお墓行くよ。まだ行ってないよね」と報告してる。お花がダブっちゃうといけないから。お姉さん夫婦は、21日に参るようです。
13:02「山陽道・三木SA」でトイレ休憩。「切り落とし蜂蜜カステラ・360円」を買い、2人の昼食にしました。SAでお墓に供えるお花を探しましたがありませんでした。家内に「あ〜ん」してもらい食べながら走ります。「三木小野IC」で下車し、墓苑到着。事務所棟に行くが、お花売ってないよ。墓苑近くの石材店でお花を購入。
お墓の掃除をして、お線香を上げお終い。中国道に戻り、一気に帰宅しました。17:30上映に間に合うよう17時前に出発することにして、僕は倉庫に行き通勤リード110もバッテリー交換しました。2008年に3700km走行中古で購入し、最初のバッテリー交換は2014年。6年持ちましたが、今回は4年でお終いにします。何となく弱ってきてるなと感じており、通勤車・ご近所の足として大活躍車両なので、早めの交換です。GSユアサ党から宗旨変えし、こいつもAZバッテリーにしました。「ATX7L-BS」3736円です。前回が17000円だったので、大幅プライスダウンです。増し充電していたので万全でしょう。リード110のバッテリーは、ハンドル下・フロントカウルの中にあります。金曜日に、取扱説明書を見ながらカウルを外すところまでやっていました。更に取扱説明書の図を見ながら、いくつかネジを外しバッテリーを外します。バッテリー抑え金具を外すのに難儀しましたがなんとか外せました。
新しいバッテリーを載せます。最初の難関バッテリー抑えをはめるのに時間がかかると思っていましたが、すんなりセットでき、あとはネジ留めだけです。ここでミスっちゃいました。10号の六角ソケットを落としてしまいました。バイクの下に落ちると思ったら落ちておらず、バイクを揺すってもコロンとも音がしません。手探りしても見つからず、諦めることにしました。走行中に勢いよく段差を越える時にでも出てくればいいかと・・・
カウルを付け、前籠を付けます。ここで、小さなネジ2個余ることに気づきました。「はあ〜、どこのネジ〜」、カウルを付けるネジと同じ大きさで、ネジが前2・後2のはずです。外す時と2日間開いたので忘れちゃった。前籠をセット終了後、残った2つのネジを見ながらリード110を倉庫から出し乗り出そうとした時、後ろ側の上から2番目のネジ穴が見えました。膝の位置にあるネジも外していました。フロントカウルには関係ないネジでしたが、フロント下のネジが見つけられず、ここが利いてると思って外したことを思い出しました。
それをセットし、自宅に戻ります。16:30過ぎに家内とタンデムして映画館に向かいます。新しいスマホ「SonyVAIO・PhoneA」に合うカバーを探すことを忘れていました。映画館はショッピングセンターの最上階にあり、同じフロアにドコモがあるので、家内はケースを見に行きました。僕はチケットを買いに行きます。買い終えてドコモに向かおうとすると、家内がやってきました。「どうしたの?」「だって、店員さんが話しかけてくるもの」「見てるだけって言えばいいじゃない」「ちょっとしかないし、ドコモじゃないし」・・・
まだ時間があるので、下の階の「無印良品」と「100円ショップ」を覗きました。まさか・・・100円ショップにスマホケースがあり驚きました。アイフォン用ばかりだったけど・・・。
映画は、素晴らしいものでした。青春映画であり、ジャズであり、文化祭があり、当然恋の物語でもあり、ビンゴでした。一昔前は、大ヒットした「私をスキーに連れてって」でも、役者のスキーシーンは酷いもので、素人感が否めませんでしたが、最近の映画は素人目にはプロと変わらなく見せる作り込みが素晴らしいです。ジャズピアノ・ドラムの速弾き・早打ちに唸っちゃいました。エンディングに小田和正の歌声が流れてきて、ナイス!でした。
バイクを倉庫に片付け、帰宅したら20時でした。家内が作ってくれた夕食を食べながら、「西郷どん」を見て1日が終わりました。

2018/3/17
「同志社ウィーク」という同志社大学ヨット部主催レースは3/17・18琵琶湖で行われます。その初日のコーチングをしに行きます。1週間前の当初の天気予報はイマイチでしたが、前倒しになり前日が雨でこの日は晴れました。ヨットレースは晴れ以上に風の具合が気になりますが、予報は終日北寄りの風2m/sで微風・軽風レースになりそうです。
朝食食べて、「招き猫アラレちゃんCB400SB」を倉庫から出します。バッテリーを新品に自分で変えたばかりなので、少々心配。イグニッションが回りエンジンスタートGood!しかし、ナビもドライブレコーダーも反応なし。タンクバッグ内のシガーソケットに電気が来ていません。シガーソケットの電源はバッテリー直ではなく、リアランプからなので、バッテリー交換とは関係ないはずだけど・・・自分なりにあれこれ探ってみたがわからず諦めました。ホンダドリームさんに行かなきゃ。
6:47「伊丹産業セルフ伊丹緑ヶ丘SS」で給油。156km/7.89L=19.8km/L。R171〜中央環状線〜吹田ICから名神高速。7:45「桂川PA」でトイレ休憩します。売店が開いていたのでうろうろしてると、「いちごチョコ大福・540円」が目に入り、女子マネージャーさんへのお土産にします。いつも美味しいご飯を食べさせてもらっているので・・・お昼ご飯ように「午後の紅茶ミルクティー・151円と助六寿司・389円=540円」も購入しました。
8時過ぎに大学ヨット部合宿所に行き、お土産をマネージャーに渡そうとしましたが、全員ハーバーに出た後のようで誰もいませんでした。8:15ハーバー着。バイク装束を脱ぎ、海仕様に着替えライフジャケット着て艇庫前へ。
部員に挨拶し、女子マネさんがいたので、「これお土産、マネージャーで食べて」と「いちごチョコ大福」を渡しました。ハーバーを見渡すと、母校ヨット部も遠征に来ていました。後輩のK監督、ジュニア時代から知ってるジュニア出身K夫婦コーチ、僕同様他大学出身Mコーチがいます。彼もジュニア出身で、「お父さんとお母さん元気?」と声を掛けあ〜だこ〜だお喋り。彼らの親御さんとは、年賀状やり取りが続いています。いろんな情報を教えてもらいます。
今年から470級学連仕様ビルダーが国内1社体制から2社体制になり、新たに導入されるピアソン(デンマーク)の出来が気になります。学生に聞くと、スナイプでもシェアを伸ばしているピアソンは人気らしく、納期半年〜9ヶ月先だとか。
それ以上に、ピアソン標準装備のスーパースパー社製マスト・ブームの影響がありそうです。オクムラ標準装備マストは硬いけど、世界的にトップレーサーの多くが使ってるスーパースパーはそれより柔らかい。昔のエルブストロームほどグニャグニャじゃないけど、選択するセイルでパフォーマンスに差が出るのは当たり前です。僕の時代は、学生レースではヤマハ艇・硬いヤマハマストでしたが、一般レースではヴァンガード・パーカー・ヤマハスペシャル艇などに、プロクターやエルブのマスト仕様に乗っていました。
エルブマストは、強風になるとマストトップがサイドベンドし、適当に風を逃してくれるので楽でしたが、もう少しパワーが欲しい強風手前から曲りだすので、乗りなれているヤマハマストに変えたくなったものです。マストステップ形状が違い、ステップ交換すると強度面が心配でやらなかったけど。
M君はこの大会の招待選手でもあるようで、母校学生クルーを乗せてレースに出場するそうです。オリンピックキャンペーンをやってた現役のトップセーラーなので、有意義な話をありがとう。小学生の頃から親子で知ってる仲で、僕がジュニア理事で広報委員長や全日本選手権・ナショナル最終チーム選考会で事務局長をやってた頃、お母さんにはよくお世話になりました。他クラブだったけど、世話したチビだった子が大きく成長しヨットを楽しんでいる姿を見ると、少しでもこの子の役に立ったかな〜と嬉しく思います。
「来週、うちが西宮遠征するようだけど、合同練習したってください」とお願いすると、「土日とKG主催レースをするので、それに入ってください。日曜はジュリーもお願いしてますから」と監督から。「全日本でも良く走ってましたよね、こちらこそ練習になります」と褒めてくれた。「うちのコーチボートにトイレあるから、いつでも来ていいよ」と言うと、「私も行っていいですか?」とK奥様から。「もちろん、おいで。お父さん元気にしてる?」「相変わらずです」。と楽しい会話になりました。
隣のバースに「KOR99」がいました。彼らのお世話してる日本人がいたのでお喋り。韓国の大学個人選手権で優勝すると、日本遠征がプレゼントされるそうです。韓国セイリング連盟から費用が出るので、モチベーションになってるようです。お世話してる方と英語で話しており、「何時になったら出艇していいの?」と聞いていたので、「約10分後にDフラッグが揚がるから、その後出艇OKだよ」って教えてあげました。去年この大会に来たチームは、総合2位だったので、今年も注目です。
10時第1レーススタート予定で、9:15にD旗が揚がりました。両クラスとも同時出艇です。140艇が一斉にレース海面に向かいます。僕もコーチボートに乗ってレース海面に向かいます。
2m/sほど吹いていた風がだんだん落ち、レース海面に着く頃にはレースが出来そうにない風速に落ちてしまいました。しばらく待っていましたが、本部船にAP/H旗が揚がりました。レース延期・ハーバーバックの指示です。「あれれ、諦めが早いな」、明日の方が風が期待できないので、できるだけ多く今日レースをやっておきたいだろうに・・・。
レース艇を引っぱってハーバーに戻ります。KORはコーチボートがないので、誰も引っぱりに行かなければ行こうと思っていたら、運営艇が引っ張りに行きました。ところが皮肉なことに風が復活し、「これなら出来るよ」って雰囲気になりました。AP旗だけで海上待機なら、今頃スタートマニューバリングに入れたのに・・・。
ハーバーに戻り、少し早いけど昼食を食べます。一旦AP/Hを揚げたら、帰着申告の提出があり、全艇の帰着確認しなければなりません。大会本部にL旗が揚がり、クラブ代表などが本部に急ぎアナウンスを聞きに行きます。「すぐにDフラッグが揚がる」との案内でした。
昼食を食べる選手が多いようで、ハーバーの上空にトビが2羽回っています。近くにいたマネージャーさんに「狙ってるね、アイスクリーム取られないようにね」と軽口を叩きます。昨年の全日本前合宿で、アイスクリームを取られた子がいました。
半分はその事件を知ってて、あと半分走りませんでした。「何ですか?それ」と聞くので、3回生マネージャーFさんが概要を話します。そこに取られた本人がやってきました。「あかりん、トビが舞ってるよ」「あ〜、アイス取られないようにしなくちゃ」。そんな会話をニコニコ聞いてたら、僕が知らないと思い本人が説明してくれました。
ハーバーでみんな出艇した後、合宿所に戻る時、電車に乗り過ごしちゃったので時刻表を見ると、次の電車がなんと2時間後でした。1駅隣に合宿所があるのですが、歩いて行く方が早いので国道沿いを歩いていました。ちょうどコンビニが有り、暑いのでアイスを買いました。ラップを取り、スマホ見ながら食べようと思ったら、手に持ったアイスが姿を消していました。一瞬前に頭が重くなり、バサバサ音が・・・何が起こったのか理解できず、「あれ?」っと思って空を見上げるとトビが去っていき、アイスをくわえて近くの電柱に止まる。「あ〜、まだ一口の食べていないのに〜」。あかりんさんは、僕が知らないと思って優しいね。僕は昨年本人から聞きましたが、ウンウンとうなずきながら聞いていました。そしたらFさんが、「コーチ、知ってるのに知らないふりして頷いて、やさしい〜」と褒めてくれました。あかりんさんは、説明しながら思い出し笑いして笑顔笑顔です。可愛いな〜
Dフラッグが揚がり出艇。4レース消化しました。スナイプ級の第1レースで、3回生I君ペアが2位フィニッシュしました。470は、母校KGスピンが上位を席巻しています。意外にD社が前に来ません。
レースの合間に、KGコーチボートがやってきました。「トイレ借りていいですか?」とK君奥様、「お〜もちろん、1人でいいの?」「こいつらもお願いしますわ」と監督からコーチボートに乗ってた2人の女子プレイヤーも。
「KGが席巻してるね」「それがね〜、このレースの3位と6位はまだ高校生ですわ」「今年セレで入った子達なの?レギュラー総入れ替えしなきゃ。今年も安泰だね」「新人にこれだけは知られると、頭が痛いですわ。ピカイチセレは皆早稲田に行きますけどね」・・・
しばらくして主催D社のコーチボートが寄ってきました。「・・さん(私)お久しぶりです。今度僕が監督になりました。これからも、よろしくおねがいします」「そうなの、こちらこそ宜しく」。彼は伊丹出身の子で、僕が先輩と一緒に市内の池で作ったジュニアヨットクラブに小3で入部し、ヨットを始めました。そのジュニアクラブから初めてナショナルチーム入りした選手です。ヨーロッパ選手権だったかな?その後D社に進学しヨットを続けました。数年前までは、西宮の海で3人乗りヨットのポイントレースや全日本で競い合ったライバルです。
4レース終了後、17:00頃ハーバーバックになりました。ハーバーに上がった後、先に合宿所に戻りました。女子マネ2人が夕食を作っていました。餃子・チャーハン・つみれ汁がメニューです。台所に入り浸って、お喋りしていました。明るい子達なので、話していて飽きません。向こうも僕に慣れてくれているので、気を使わず気楽に話してくれます。
18:30ミーティング。気づいたことを話します。軽風ではしっかり上位を走れていることを褒め、「スピンシートを垂らしながら走っている」「船の中をできるだけドライにする」など、更に上を目指すための細かな気付きを話し、更なるボートスピードアップを目指そうと話す。ビッグフリート・レースで上位を走る鉄則を伝える。
他のOBも話し、夕食もぐもぐタイムです。選手たちが自分の食事を持ってテーブルに付き、最後に女子マネージャーが空いてる席に付きます。4人がけこたつテーブルに6人ぐらい座って「もぐもぐタイム」です。
僕の隣に、「トビ、アイスクリーム事件」のあかりんさんがやってきました。キャプテンから、「全員座った?」「はい」「今日の夕食メニューは?」、夕食当番だったマネージャーさんからメニュー紹介があります。キャプテンの「いただきます」の号令で一斉に食べ始めますが、男子選手の多くはいきなりだ台所へダッシュし、食べてもいないのにおかわりの列を作り、いきなり大盛にします。
僕は食べながらあかりんさんに、「女優さんか、モデルさんの飯豊まりえさんって知ってる?」「知りません」。「こないだTVに出てて、顔とか仕草とか何処かで見たなと考えてて、あかりんさんい似てるとわかったんだ、似てるって言われない?」「え〜」。
すぐにスマホ出して検索し出し、「え〜私こんな綺麗な人じゃないです。人生で最大に褒められました、ありがとうございます」。「どれどれ見せて」「うん、そう言われると似てるかな〜」「どれどれ・・・」と同じ席の男子選手にスマホを取られ、見比べられています。
みんなに、スマホのカバーや保護フィルムについていろいろ聞きました。僕は保護フィルムを貼ったが、ガラスフィルムの方が分厚くて保護力があるようです。割れてもガラス保護フィルムが破れて、本体の液晶画面は無傷になるそうです。カバーのことも教えてもらいました。ゴムケースのような専用ケースは、液晶画面より少し高くて、落としても画面に直接地面が当たらないようで、意外に保護力が高いのだそう。ブック型の保護ケースについても教えてくれましたが、殆どの子はフィルム+保護ケースでブック型の子は少なかった。どうやらフィルムを買い直した方が良さそうです。
20:10から全員で合宿所の掃除して、その後クラス別ミーティングです。僕は掃除のタイミングで帰路に着きます。バイク装束を着て、湖西道路〜名神高速〜中央縦貫道〜R171で21時過ぎに帰宅しました。家内は既に夢の中で、風呂入ってヨーグルト持って自室に上がり1日が終わりました。

2018/3/11
家内と映画に行こうと調べていたのですが、神戸にお出かけするらしくアウト。7:30時に家内を駅まで送りました。帰宅後、朝食タイム。久しぶりに食パントーストを3枚食べました。
地図で京都北部を巡ることにして、ルート上のめぼしい寺社をナビで探します。ナビに表示される寺社をPCで調べ、面白そうなとこをナビに登録して行きます。用意ができたので、9:10倉庫から「里山VTR250」を出して出発します。亀岡〜保津川沿い〜嵐山〜R162旧道や沢道探索〜亀岡というルートに決定です。
池田からR423を北上します。豊能町に入り、右折してr109、茨木市に入りr43に突き当たり左折して北上します。久しぶりに清阪峠を越え、京都府亀岡市に入ります。r46に突き当たり、左折して北上。r6に突き当たり、左折して北上。
R9に突き当たり、右折してR9を少し走り、左折してr25。桂川(保津川)を渡り、「請田神社」経由で嵐山まで保津川沿いの道を行こうと思ったけど、通行止めでした。バイクだから、通行できる時もあるけど自重しました。
r25に戻り北上。田園が広がり空の大きな気持ちの良い道を走っていると、前から気になっていた「国分寺」の案内板に惹かれ、寄り道しました。田んぼの舗装されたあぜ道を進み、10:34「丹波国分寺跡」。小さな鎮守の森があり、小さな山門が見えています。その前の何もない広がりに謂われ板が立っている。
『史跡丹波国分寺・八幡神社跡 丹波国分寺跡は、現在の国分寺境内に塔跡の礎石がすべて残り、またその鎮守社と考えられる八幡神社の跡があることなどから、貴重な遺跡であるとして、昭和3年(1928)2月17日に国の史跡(面積約25,000u)に指定されました。その後、発掘調査等の成果を得、平成18年(2008)にはほぼ寺域全域(面積約74,000u)が追加指定されました。
これまでの発掘調査等により、伽藍配置や各建物の規模等は概ね解明されていることから、国分寺の往時の姿を多くの人たちに感じていただき、知つていただくため、現在環境整備工事を進めています』
鎮守の森に近づくと、『亀岡の名木 丹波国分寺のイヌマキ 常緑高木。関東以西の太平洋側・四国・九州・琉球の海岸に近い山地に生え、台湾・中国大陸に分布する。庭園樹や生垣に広く利用される。材は腐りにくく白蟻の被害に遭いやすい琉球の島々では貴重な建築材とした。風呂桶・土木・器具材に用いる。亀岡の名木の中に4本のイヌマキが指定されているが、その中で最も樹形が整い、庭木らしい木である。晩秋、熟した実は食べられる。胸高幹周2.2m・樹高8m』
この木だなと境内を覗いたら、巨大な礎石が8つ感覚近く苔むしていた。相当大きな建物があったようだ。
風雪に耐えた山門を入ると、左右の塀が壊れている。これがまた歴史を感じさせる。
『国分寺(千歳町) 奈良時代に建立された国分寺は中世以降、一時衰退しましたが、元禄年間(1688〜1704)に再興され、現在の本堂は、安永3年(1774)に護雄比丘(ごゆうびく)が近在の村はもちろんのこと、全国的に浄財を集めて建立しました。
本堂は、正面向拝を唐破風造とした入母屋造、妻入の建物で、城下紺屋町の木村藤四郎玄信が大工棟梁として、花野九兵衛が瓦工として関わっています。内部の格天井には四季折々の花鳥風月が描かれるなど、彫刻や絵様に見られる匠技は見事です。また、山門や鐘楼も本堂と同時期に建てられたもので、丹波国分寺の歴史を今に伝える重要な建物として、亀岡市指定文化財になっています。
本尊の薬師如来坐像は平安時代後期の作で、国の重要文化財に指定されています。また、後堀河上皇が北国の天変を心配して、この薬師如来に祈願したところ宮廷に米が降ったということから、「飯薬師(めしやくし)」と呼ばれています。さらにイチョウ、カゴノキ、ムクノキは亀岡市指定文化財となっています。
なお、本堂等を再建した護勇比丘の墓所は、山門南方130mの竹やぶの中にあります』
山門左右に荒い彫刻の仁王像が睨みを効かせています。『亀岡の名木 丹波国分寺跡のオハツキイチョウ(雌) 雌雄異株の落葉高木。垂れ下がった気根(俗に乳という)に触れると母乳がよく出るといい、「チチイチョウ」と呼ばれ信仰されてきた。オハツキイチョウは、「お葉つき銀杏」の意で、葉の先にも実(正しくは種子)がつくことから名付けられた。これは稀に現れる奇形である。亀岡市の天然記念物に指定(昭和61年3月31日)され、京都自然200選にも選ばれている』
『天上の木 亀岡市千歳町丹波国分寺跡のイチョウ』
『亀岡の名木 丹波国分寺跡のカゴノキ(雄) 雌雄異株の常緑高木。京都府下に稀に自生する暖帯・亜熱帯性の樹木で、主に渓流脇の岩の多い斜面に生え、神社の境内でしばしば見るが、寺院跡にあるのは珍しい。
府下では3指に入る大きさを誇る。和名は幹に生じる鹿の子まだら模様に由来する。天保時代の書「盥魚庭落葉(たらいのうおにわのおちば)」の国分寺の境内図にオハツキイチョウを並んで描かれている。花期9月、果実は翌年の夏に熟す』
それぞれの樹は、寺院の荒廃にかかわらずひっそりながら立派な樹勢を張っている。
本堂は、唐破風屋根を持ち、瓦の上に左右から龍が睨んでいた。小ぶりな堂宇ですが、再建された江戸時代の雰囲気が伝わってきて飽きない。今後の国分寺周囲再建のためか周囲に何もない広がりの中に、小ぶりな鎮守の森に包まれて堂宇が残り、惹かれるものがあった。
西に向かって参道が続いている。南遠くに竹やぶがあり、比丘尼の墓を見に行ってみる。
『護勇比丘は65歳の時、現在の国分寺本堂・山門・鐘楼を再建したことから、護国山国分寺の中興開山とされています。護勇比丘は宝永6年(1709)に、八田笹尾村(現京丹波町)の一谷家に生まれ、同村の庄屋も勤めた方でしたが、後に出家し、僧名を護勇と呼ばれました。
その後、荒廃していた丹波国分寺の再興の大願をもって諸国を行脚し、浄財を集め、安永3年(1774)の本堂に始まり、山門・鐘楼を再建し、大願成就を果たしました。
護勇比丘は、厳しい修行を重ね、悟りを開き仏への道を歩むために、即身成仏の行を行いました。すなわち、現在、五輪塔が建っている所に生きながらに入り、「鉦が鳴り止んだら、土をかぶせて欲しい」と頼んで、読経を続け、やがて鉦の音が消えたので、人々が土をかけて葬ったと伝えられています。五輪塔は地輪(基礎)の銘文から、寛政11年(1799)に建てられたものです。
護勇比丘が亡くなった天明7年(1788)の翌年、寛政元年(1789)には、木像が京師幸町松原下ル町・大仏師竹内右門によって制作されており、その像によって、護勇比丘の容姿を知ることができます。
また、五輪塔に向かって左側にある行者尊(山門前から移築)の基礎には、「八田笹尾村・一谷氏・護勇春國」と刻まれています』
中央に大きめ五輪塔が立ち左に小さめ五輪塔、土とともに手のひら大の石が多数散らばっている。その前左側に比丘尼石像、右に石仏が立っている。周囲の竹やぶに囲まれ、自らが人生の後半をかけて再建に取り組んだ国分寺が見えるようになっていた。地元の方・有縁者の比丘尼に対する気持ちが感じられた。冬枯れの季節は直接見渡せるが、穀倉の季節は前の田に生命が息吹き、また別の顔を見せてくれるのだろう。
r25に戻り北上を続け、水鳥の池で右折し、西に向かい始めると、紅白の吹き流しが目についた。11:03「バーズ・パラグライダー・スクール」。道端のポストにパンフレットが置いてあります。「パラグライダー体験 タンデムコース:三郎ヶ岳580mからフライト。熟練パイロットと2人で60分・12000円 プチチャレンジ:2回ほどの練習で1回浮遊に挑戦・30〜40分・4500円 チャレンジ:地上練習・斜面練習後、90分いっぱい何度でも浮遊・7000円 入門コース:1人で飛んでみたい。2時間×5回実技講習。緩斜面・高度30mからテイクオフ。コース終了後JPAパラライセンス取得・21600円」
時々、この地で見かけるパラグライダーのフライトスクールでした。やってみたいけど、高所恐怖症なので僕には無理そう。R477に突き当たり、右折して北山杉の森地域に沢を沿って入っていきます。何度も通行止めになる「廻り田池」への最後の上り区間が開通していました。あえてそこを避け、「そば処・まつばら」の看板に惹かれて右折し、r25に出る。お店はr25との交差点より右だと記憶していたが間違いで、r25交差点にある「まつばら」の案内板は左折を促している。案内板に従って左折し、下っていくといつも気になる茅葺きの立派な民家があり写真タイム。
さらに下って、11:27「越畑フレンドパークまつばら」。手打ちそばのお店で、「おろしそば大盛1380円」で昼食にしました。まだ寒い時期ですが、お客さんは多く、ほぼ満席でした。ローディー4人グループ、ソロが2人食べておられました。初めての訪問でしたが、レジでスタンプカードを頂いた。
r50で嵐山に向け南下開始。標高500mの最高部を経て、長い下り基調に入る。12:12、標高400m付近に「愛宕谷林道」入口があった。ゲートが開いていたので緊急停止。亀岡の桂川を渡った所r25に下りますが、下からの林道入口にゲートがあります。自転車ならすり抜け可能ですが、いつも閉まっている上のゲートが開いているということは下も開いているのかな?林業関係者など地権者が開けているだけかな?
思案を巡らしていると、歩きながら上がっていったローディーさんが戻ってきて、「この先はまだまだ上り坂が続きますか?」と聞かれた。「まだ続きますね」。「この林道は亀岡まで下れますか?」「下れますよ、舗装されています。下のゲートはいつも閉まっていますが、自転車ならすり抜けできますよ」。「ここのゲート、いつも閉まっていますよね」「そうです、僕も開いているのが珍しくて止まりました」。「ありがとうございます、下ってみます」「お気をつけて」と別れた。上りにお疲れ気味でしたので、ショートカットはナイスな判断だと思います。僕も一度走ってみたい道です。ここは「神明峠」です。
嵯峨水尾の柚子畑が見えてきて、すぐに清和天皇陵。斜面をゆるく下った所に天皇陵があります。清和源氏が子孫に出た有名な天皇ですが、墳丘は質素で武士政権を握った清和源氏の祖とは思えない扱いになっています。
更に下っていくと道が広くなり、12:33「JR山陰線・保津峡駅」。ここは全国的に珍しい橋の上にある駅です。保津川を渡る鉄橋の左右はトンネルなので、ここにしか駅が作れなかったからでしょう。
「越畑フレンドパークまつばら」で一緒だったローディー4人組さんと一緒になった。無人改札を抜け、駅に上がってみます。バイクに戻ると電車がやってきた。汽笛の音が聞こえてきます。「ん?」トロッコ列車のようです。慌てて駅に走り、ムービーしました。
r50に戻り、保津川沿いを南下します。12:44「トロッコ保津峡駅」。時刻表を見ると、1時間に1本の運行だから、30分に1本列車が来ます。橋を渡って対岸にある駅に行きます。「保津川下り観光船」は季節的にまだだと思ったら、いつもの場所に三脚に載ったカメラがスタンバイしていました。橋を渡った駅下にはおじさんが薪で暖を取っていました。カメラマンのおじさんかな?ここで撮った写真を、観光船の終着点・嵐山で下船時に記念として売っています。デジタル回線を駆使していますね。調べてみると、3/10〜12/9までが営業期間で、今シーズン始まったばかりのようです。土日祝日は、随時運行なので待たずに乗れます。
駅に上がると、線路脇を猟犬を伴った猟師さんが歩いてきました。肩には当然ライフルが・・・発砲音も聞こえるので、イノシシを狙って猟師が数人入っているのでしょう。オレンジ色の猟師らしいジャケットを着ていました。
r50は、ここから保津川沿いの平坦路となります。トンネルを抜け、清滝川合流部を過ぎ、「六丁峠」上りのつづら折れに入り、峠を越え嵐山側に下り、13:02「鳥居本」交差点。朱塗りの鳥居横に、茅葺屋根の料理茶屋「鮎茶屋」があります。「まつばら」で一緒だったローディー4人組さんは、ここでお茶タイムにするようです。会食などのお食事のみだと思っていたら、コーヒーなどもあるようです。
鳥居を挟んで下り側にある同じく茅葺屋根の料理旅館「鮎の宿・つたや」も写真に収める。ここから下は、一方通行のため下って行けない。バイクに戻り、「清滝トンネル」方面に道を上り、13:05「愛宕念仏寺」。ここは五百羅漢で有名な寺院です。
拝観料300円。『愛宕念仏寿(おたぎねんぶつじ) 奈良時代の764年から770年頃、稱徳(しょうとく)天皇により、東山区松原通大和大路東入(旧愛宕郡)の地に建立された愛宕寿に始まる。平安時代の初め、鴨川の洪水により堂宇が流失したため、比叡山の僧・阿閣梨伝燈大法師千観内供(あじゃりでんとうだいほうしせんかんないぐ)によって中興され、等覚山愛宕院(とうかくざんおたぎいん)と号する天台宗延暦寿の末寺となった。大正11年(1922)、本堂の保存のためにこの地に移築された。
境内には、参拝者によって彫られた1200体に及ぶ羅漢の石像が表情豊かに建ち並び、和やかな雰囲気を漂わせている。
本堂(重要文化財)は、方五間・単層入母屋造で、度々移建され、補修を加えられているが、鎌倉時代中期の和様建築の代表的遺構である。堂内には、本尊の千手観音像が祀られている。
また、地蔵堂には、火之要慎(ひのようじん)のお札で知られる火除地蔵菩薩坐像が安置されている。これは、火伏せの神として信仰されている愛宕山の本地仏が地蔵菩薩であることに由来する』
いきなりユニークな表情の石像に迎えられた。石段を上がっていくと、あちこちに羅漢石像が置かれている。ユニークな鐘撞堂があった。軽めの鐘が三角形に3つ下がり、中央に円盤状の鐘撞棒が下がっている。1つの鐘撞棒で3つの鐘を鳴らすようになっている。試しに鳴らしてみると、高めの鐘の音が響いた。
本堂に入り、今日までの人生の幸福に感謝した。できれば息子たち一家の今後の幸せな人生もお願いした。境内の羅漢さんの表情は千差万別で、泣いているようなお顔があり、天を指差す羅漢、子を抱え2人でバンザイしている羅漢、子を抱え慈愛に満ちたお顔の羅漢、俵を抱える羅漢、大口を開け笑っている羅漢、歯をむき出して笑っている羅漢、シェー!している羅漢、両手でピースサインしている羅漢さんもいる。閻魔大王さん顔の羅漢も・・・
表情を見て回るだけで楽しい。お若いカップルが、楽しそうに巡っている。羅漢さんの楽しそうな表情がカップルさんをより近づけたように、とても楽しそうだ。人生の幸せな絶頂期かもしれない。
「ふれ愛観音堂」があり、観音様の全身に触れ、五体満足で今後も暮らしてゆきたいと願う。ふと下の羅漢洞の建物を見ると、屋根の上に象の置物が載っていた。バイクに戻り、JR嵯峨嵐山駅方面に南下します。13:40「宝筐院・小楠公菩提寺」。
『善入山(ぜんにゅうざん)と号する臨済宗の寺院。平安時代に白河天皇により創建され、当初善入山と称した。南北朝時代に夢窓疎石の高弟・黙庵(もくあん)が入寺し、室町幕府2代将軍・足利義詮の保護を得て、伽藍が復興された。義詮没後、その院号「宝筐院」に因んで改められた。以降足利氏歴代の崇敬を得て栄えたが、室町幕府の衰亡と共に衰微していった。
現在の堂宇は、明治時代以降に再興されたもので、本堂には十一面千手観世音菩薩を安置している。境内には、貞和4年(正平3年1348)四條畷合戦で戦死した楠木正行(くすのきまさつら・楠木正成の子)の首塚と伝えられる五輪塔、及び義詮の墓と伝えられる三層石塔がある』
大寺「清涼寺」の隣にある質素な山門なので目立たず、観光客はあまり来なさそうな寺院ですが、楠木正行の首塚を目的に来ました。足利義詮の墓もあるとはビックリです。父と涙の別れをした正行は、父の遺命のまま南朝方として散々北朝方を苦しめました。しかし及ばず、足利尊氏の片腕・高師直軍に討ち取られます。
父と別れた「桜井の別れ」、楠木正成が孤軍奮闘し鎌倉幕府軍を消耗させ、幕府瓦解のきっかけになった河内にある3つの城、神戸湊川自刃の地・・・太平記に登場する楠木正成関係の地をいろいろ巡りました。正行の首塚に参れる幸せを感じます。首実検後に葬られたのでしょう。葬られた地が敵対した北朝・足利氏縁の地とは、中世の戦闘の敵対すれど正々堂々戦った武将をリスペクトする風潮そのままが現れているように思う。
参拝料500円。境内に入ると、庫裏に「佐賀御流・いけばな教室」の札が下がっていた。すぐに大きくはないが手入れの行き届いた庭園が広がっていた。明治以降の再建だけあって僧坊に惹かれるものはなかったが、この庭園はなかなかなものです。庭園や花木で人を呼んでいるように思える。白砂を水に例え、庭園中央を渡る石畳み左右に枯山水を形作っている。
庭園奥に、正行の首塚があった。義詮の墓と並び、石玉垣が囲っている。正面扉には、足利氏の「2つ引き紋」と楠木氏の「菊水紋」が仲良く並んでいた。首塚と墓も並んでおり、南北朝に分かれるまでは、共に鎌倉幕府軍と戦った足利氏と楠木氏なので、ノーサイドということのようで清々しい。
お隣の「清涼寺」へ。人力車が止まり山門をバックに写真を撮っている。立派な山門を入っていく。『清凉寺(せいりょうじ・嵯峨釈迦堂) 五台山と号する浄土宗の古刹。この地には「源氏物語」の主人公・光源氏のモデル・源融(みなもととおる)の山荘・棲霞観(せいかかん)があり、没後「棲霞寺」としたのが当寺の始まり。天慶8年(945)等身大の釈迦像が安置され、これが通称の由来。その後インド・中国・日本の三国伝来となる釈迦如来立像を持って宋から帰国した「ちょう然上人」が、その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立て「大清凉寺」建立を計画したが、志半ばで没したため、弟子・盛算(じょうさん)が建立し像を安置した。
昭和28年(1953)背中に蓋が発見され、中に内蔵を模した絹製の五臓六腑などが納められていたことから、生身のお釈迦様とも呼ばれている。
本堂は、元禄14年(1701)徳川五代将軍・綱吉、その母桂昌院らの発起により再建されたもので、本尊の釈迦如来立像(国宝)を安置しており、霊宝館には阿弥陀三尊像(国宝)・文殊菩薩騎獅像(重文)など、多数の文化財が祀られている。このほか、境内には、ちょう然上人・源融・嵯峨天皇・檀林皇后の墓などがある』
多宝塔があり、その前に綺麗に梅が咲いていた。経蔵があった。『お釈迦様がお説きになった一切法(経典)が収められている経蔵です。この経蔵には、唐紙製の明板本5408巻の大部が収められています。この法輪を1回転すれば一切経を読んだありがたい功徳が得られます。明るく正しい人生道を歩んでください。 輪蔵:正面・善彗大士坐像、両脇・普浄・普現像、四隅・四天王像』
拝観料100円収め、経蔵を回しました。『お経をおがむ心で静かにお廻しください』。彩色が残り、立派な八角輪蔵でした。テープですが、お経が流れいい感じで経蔵を廻しました。動かし始めは重かったけど、動き出したら楽に廻りました。拝観料400円で本堂に入ります。撮影禁止でしたが、本堂内はヒンヤリとした厳かな雰囲気で、お宝がズラリでした。本堂裏扉を開けると庭園につながっていました。渡り廊下で庫裏につながり、弁天池を中心にお庭がよく整えられていました。弁天池を橋で渡る弁天堂は、かなり本格的な建築で、とても立派でした。小堀遠州作の枯山水庭園もありました。「・・家・・家控室」と書いた間があった。法要のようです。
阿弥陀堂。『源氏物語ゆかりの地 棲霞観(せいかかん)跡(清涼寺) 嵯峨天皇皇子で皇族賜姓の源融(822〜895)が、9世紀後半に嵯峨に営んだ山荘。融は晩年に写経や造仏に着手したが業なかばで他界したので、子供たちが完成させて棲(栖)霞寺とした。永延元年(987)、ちょう然は宋より請来した釈迦如来像ほかを棲霞寺境内に安置し、宗の五台山清涼寺に倣った寺院の建立を目ざしたが果たせず、遺志を継いだ弟子によって棲霞寺の一郭に釈迦堂として発足しだのが清涼寺である。かつて棲霞寺にあった阿弥陀三尊像(国宝)は現在、清涼寺の霊宝館に安置されている。
『源氏物語・松風』に、光源氏が造営した「嵯峨の御堂」は大覚寺の南に所在したとあり、棲霞観の場所と一致する。河原院が六条院のモデルということと共に、源融が光源氏のモデルとされるゆえんである』
阿弥陀堂前の八重の白梅が満開で、綺麗な白い花で彩っていた。皆さん写真を撮っていました。『光源氏のモデル・河原の左大臣・源融の別荘「棲霞観」の名残のお堂で、源融のお墓が境内にある。霊宝館には、融公が自分の顔を彫らせた国宝・阿弥陀三尊がいらっしゃる』
秀頼公の首塚があった。その前には、大阪の陣・諸霊供養碑が立っていた。多宝塔横には、源融の墓、嵯峨天皇・檀林皇后の宝塔がありました。山門を出る前に、暑くなってきたのでセーターとベストを脱ぎました。脱ぎ着していると、赤い和傘をかざした和服の男性と、鮮やかな振袖姿の女性が山門を入ってきました。後ろにカメラマンと助手さんがおり、撮影をしているようです。ご結婚前のお写真かな?多宝塔前の満開の梅のところでカメラに収まっています。一生の記念ですね。
バイクに戻り、冬用グローブも暑いので、普通のアクリル手袋に変更しました。r29を東に走り、大覚寺道を北へ。一度道を間違ったけど、15:02「嵯峨天皇陵」。バイクを置き、陵墓に参ります。
15:39「直指(じきし)庵」。『祥鳳山(しょうほうざん)と号する浄土宗の寺。元は黄檗宗に属し、正保3年(1646)に日本黄檗宗の開祖・隠元(いんげん)禅師の法灯を継ぐ独照禅師が、この地に没しょう庵という草庵を営んだのが起こり。以降、諸堂が整えられ大寺となったが、禅の「直指人心」の教えに従って、寺名を定めず「直指庵」と称した。
その後、次第に寿は荒廃したが、幕末の頃、近衛家の老女・村岡局によって再興された。局は、近衛恵煕(ただひろ)に仕え、勤王の志士たちと近衛家及びその他の公卿との連絡に当たっていたが、安政の大獄に連座し、江戸に送られた。後に、許されて帰洛し、嵯峨の地に隠栖し、付近の子女の教育に努めた。本堂北の竹林の中に局の墓がある。諸堂は、明治13年(1880)に焼失したが、有志の人々の手によって再建された。
本堂には、本尊・阿弥陀如来像を安置し、開山堂には、独照禅師の本像を祀る円塔がある』
嵯峨野の最も北にある草庵で、庭園は手入れが行き届き落ち着いている。境内に「愛逢い地蔵 縁結び・恋愛成就」と書かれたカップル石像があった。その前に置かれた小皿に五円玉を中心にコインがたくさん置かれていた。この日一日のお賽銭だと思うとかなりです。縁結びでは有名な寺院なのかな?
モリアオガエルの小さな池があった。もう少し経つと、小池の上に張り出している枝に卵が産み付けられるのかな?『初夏から夏にかけ、池の周囲の樹木に白い泡状の卵を産み付ける。その中に約400個も詰まっている。別名延命小袋といい、一見すると寿命が延びると言われている』
この草庵を再建した津崎村岡局のお墓があった。『勤王の女傑・村岡局(津崎矩子1786〜1873) 天明6年(1786)大覚寺宮の家来・津崎左京の娘として生まれた。矩子は幼年より事理にさとく利発さゆえに13才(8才の説もある)の時に近衛家に仕え、当主忠煕の信頼を受け「陽明家(近衛家)の清少納言」と言われた。近衛家では、村岡と呼ばれ、後には老女の地位に昇った。
村岡局は、安政6年尊皇攘夷を主義とする志士の申し出を主人である左大臣近衛忠煕に取次便宜をはかったとの罪で江戸に投獄された。世に言う安政の大獄である。
村岡局は、かつて島津斉彬の養女・篤姫が13代将軍・徳川家定の正室として江戸に向かった時、その養母となって江戸城に行き、将軍や諸大名の面前で七汁二十二菜のご馳走を平らげ、「願いのものを何なりと与えよう」との将軍の言葉に対し「わが主家・近衛家の柱臣を将軍家の側に置かれたい」と述べて一同を驚嘆させた。その時に頂戴した三つ葉葵の紋を散らした打掛を着て評定所の白砂に座ったのであるから、安政の大獄の苛酷になれた奉行も村岡局の扱いに困った。74才の時である。禁錮30日に処されて永謹慎を言い渡され、嵯峨に帰り、直指庵に入って近衛家代々の冥福を祈りながら風月を友とし、里の人々の教養に努めた。
老女・村岡局は、明治天皇から年々20石を下賜され、明治6年8月23日に88才で寂した。村岡局自筆で津崎氏村岡矩子之墓と刻んである。生前無位の女性に対する死後の贈位で最高位の従四位が明治24年明治天皇より贈られた』
歴代ご住職の無縫塔まで来たら、立派な茅葺屋根の庫裏が見えてきた。茅葺屋根の厚さが相当なものだった。素敵な草庵だった。
バイクに戻り、15:58「後宇多天皇陵」。お参りし、バイクに戻り、帰路につきます。大沢池横を走り、r29に出て嵐山〜渡月橋を渡り、そのままr29で桂川の右岸〜阪急嵐山線沿いを走り、右折しR9に乗り、沓掛ICから京都縦貫道に乗りました。
亀岡ICで下車し、R423に乗りました。何気なく走っていたら、左にレーダーと警官がいました。「あちゃ、ネズミ取り!」と思いスピードメーターみたら50km/h。いつも通り「+10の会」で走っていたのでセーフ。
17:32「伊丹産業セルフ川西SS」で給油。241km/7.65L=31.5km/L。17:41帰宅。

2018/3/10
コーチしてる大学ヨット部の卒業式に出席します。京都市内のホテルで18時から始まります。今年も挨拶を仰せつかったので、ドタキャンや遅れるわけには行きません。
朝食と朝の身だしなみをしていると、新聞読んでた家内から「お父さん、大変。京都の交差点でこたつに入ってた学生が捜査されてるんだって。今日大丈夫なの?」と大騒ぎし始めました。記事を読むと、『午後5時頃、交差点の真ん中にこたつを置いてまったりしている人がいると110番があり、警官が駆けつけた。交差点中央にこたつを置き、鍋をつついている学生男女4人を発見した。注意したら、こたつをリヤカーに積み込み立ち去った。ヘルメット姿で拡声器を持ち演説する者もいた。翌日午後8時頃にも110番があり、警官が駆けつけたがすでに撤収した後だった。道路交通法違反で操作中』というものだった。
家内が何故、この記事に反応したかと言えば、ヨット部卒業式(俗に言う「追いコン」)後、卒業生が下級生部員を数組に分けて引き連れ、一晩中京都の街を楽しむのが恒例になっています。数年前の卒業生がリアカーにこたつとみかんを積み、下級生を4人乗せ、人力車体験させていた奴がいました。真夜中に「リヤカーこたつみかん車」が道路を走っているのは、不審者この上なく、警官に職務質問されたそうです。
このことを僕が面白おかしく話していたからです。彼は、清水寺界隈で人力車バイトをトレーニングと実利を兼ねてずっとしており、どこからかリヤカーとこたつを調達したようです。家内には、「こたつ」「リヤカー」「道路」=ヨット部なので、てっきりヨット部員がやらかしたと思ったそうです。
僕に何も連絡がないので、ヨット部員ではないと思ったし、体育会系学生は反体制や社会に迷惑を掛けるこういう行為はしません。OB・OG・学校から毎年大きな資金援助をもらいながら活動しているので、それへの感謝の気持ちは常に口にしています。
9:30に「招き猫CB400SB」で出発します。9:39「伊丹産業セルフ川西SS」で給油。249km/10.58L=23.5km/L。キーONしたまま、後部座席の招き猫のシートベルトを直していたら、バッテリーを上げちゃいました。ライトだけじゃなく、ナビ・ドライブレコーダーも通電してるから、安心してたらアカンね。今まではこれぐらい平気でしたが、バッテリーが弱っているのでしょう。セルは回れどエンジン始動せずが3回あり、セルも回らなくなりました。GSマンに「10分待たせて」と断わり、10分後に「そろそろ復活したかな?」と再挑戦したら、気持ちよくセルが回りエンジン始動しました。
先月に続きまた上がっちゃった。幸い両方共10分間休憩で復活しましたが、そろそろ寿命のようです。春になれば・・・キーオンしたらすぐエンジンを掛けるようにしたら・・・まだ持つと思いますが、そわそわしながら乗るのもアレなので、新調しなきゃ。
「里山VTR250」に乗り換えようと一旦帰宅し、バッテリー寿命のことを検索します。キーON時・セル中・エンジン始動後をシガーソケットに突っ込むだけの簡易温度電圧計で測った計測値に照らすと、まだ限界でもなさそう。先月12ヶ月点検に出したホンダドリームさんからも、バッテリーのことは何も言われなかったし・・・もう少し使うかな?ロングツーリングの時は、ジャンプスターターを積んでいけばいいし・・・
11:30、バイクを代えず「招き猫CB400SB」で出発。池田からR423で北上開始です。R477で京都北部に出て、洛北の寺社・史跡を気の向くままに訪問しましょう。青空が広がり、気持ち良い。
亀岡市街地からr25で桂川(保津川)を渡ります。「保津川下り」はまだシーズンオフのようで乗り場桟橋には誰もいない。川下り船も対岸の入江に係留中や陸上に上げられています。
r25で亀岡盆地の東縁を北上します。寺社が多く、歴史好きにとって魅力的なエリアです。観光バスが1台停まっていました。観光バスが巡るエリアでもあります。水鳥池で右折し、R477にぶつかりそれに乗り東へ。ここから沢沿い山岳エリアで、北山杉の森が続きます。
長い間通行止めだった「廻り田池」手前の道が開通しており、すんなり池に上がりました。北山杉の深い森に入ってそのまま周山まで行こうかと思ったが、朝トラブって出発が遅れたので、r363にチェンジしてR162周山街道へショートカットします。
13:08森の中の沢を渡るところで休憩。交通量はなく、沢を流れる水音だけ、森の中は気持ちが良い。出発すると、ヘリの音が聞こえてきた。森林伐採の仕事関係のようで、飛び去るのではなく、近場で飛んでいるようだ。
r362との合流を過ぎ、少し走ったところでバイクに追いつかれる。道を譲ると、札幌ナンバーだった。札幌はまだ雪でバイクが走れなさそう。フェリーで本州に走りに来ているのかな?
「笠トンネル」を通過し、出たところの温度計は5℃でした。「岩戸秋葉神社」の道に入り、13:32その先にある「龍澤寺」。『円通山・龍澤寺(りょうたくじ) 臨済宗妙心寺派に属する禅寺。本尊は宝冠観世音菩薩(室町時代後期1500年頃)を祀り、本尊右側には善光寺本尊・阿弥陀如来立像、左側に地蔵菩薩半跏坐像を祀る。
創立年不詳、寛永元年(1624)鉄叔宗愚禅師(てつしゅくそうぐぜんじ・本山塔頭・長慶院3世)を中興の祖として再建された。江戸時代末期桜本寺を、明治12年5月浄土宗善光寺を吸収合併し、現在に至る。
境内に樹齢250年を超える枝垂れ桜(山桜)樹齢180年を超えるシャクナゲ、5本のイロハモミジがあり、区民誇りの木に指定されている。当寺に合併された桜本寺の本尊・聖観世音菩薩立像(平安時代後期1100年頃)は、京都市有形文化財指定されている』
石段は苔に覆われ、とてもいい感じです。僧坊は特に目を引くものはなかった。バイクに戻り、久しぶりに「岩戸落葉神社」に寄った。銀杏の大木があり、秋に来ると素晴らしい自然の光景を見せてくれる。観光客が少なく、景色を独り占め出来、自由にカメラのアングルを変え堪能できます。
『祭神は、天御衣織女稚姫神(あめのみそおりめわかひめのかみ)・弥都波能売神(みづはのめのかみ)・瀬織津比売神(せおりつひめかみ)。落葉姫命を御祭神とする御霊社(本殿右)を摂社とする。
当神社の創建年代は不詳。乍ら平安時代前期には已に祀られており、岩戸社は元の天津石門別稚姫(あまついわとわけわかひめ)神社、落葉社は元の堕川神社で共に延喜式内社であったが、元和年間に岩戸社が火災に遭い、落葉社に合祀され岩戸落葉神社となった。
この地、小野郷は清滝川の上流に位置し、平安京遷都に当たっては主要な調木地の1つに選ばれ、寛仁の御世には賀茂別雷神社の神領となり、次いで天領(天皇家の御領)となった。因に、源氏物語のモデルとなった落葉姫の名はこの里を閑居の地とされた事に依る』
瀬織津姫は祓戸四神ですが、他の二神はよくわからない。文字から「織物の神様」と「水の神様」と想像したがビンゴでした。水の神様の方は、井戸・雨乞い・洪水止の神様で、これはイザナミの尿から生まれたという所を読んで、ああ知ってたわでした。
R162に戻り南下します。雲ヶ畑に向かうため、r31に左折し、更にr107へ。標高400mの持越峠を越え西側に下り、r61に突き当たり、左折して沢道を北上してまた標高を上げていく。
小さなお地蔵さんを見つけ小休止。「福蔵院」という寺院でした。『帰命山無量寿寺福蔵院と号し、浄土宗に属する。延暦11年(792)伝教大師最澄門弟・空忍(くうにん橘軍氏)が、当地で法華三昧修行中、雲ヶ畑の山上に弥陀三尊を感得し、本尊を刻み堂宇を建立安置したのが起こりで、比叡山三千坊の1つと数えられていた。文明5年(1473)将軍足利義尚の命により、浄土宗に改められた。現在の本堂は、安政元年(1854)再建されたもので、堂内に阿弥陀如来像を祀る。観音堂には、もと石清水八幡宮の豊蔵坊にあった豊臣秀吉の守護仏・十一面観音像を安置している。
境内に、「南殿の桜」と呼ばれる老桜がある。これは、紫宸殿の南庭にあった桜の実を後桜町天皇から下賜され育てられたものである』
バイクに戻り北上するとすぐに「岩屋橋」があり、沢に沿って直進がr61で、左折が目指す「志明院」です。ここでも小休止して、料理旅館「洛雲荘」を写真に収めました。週末ですがお客様のいる感じはせず、まだ冬の冬眠中のようです。岩屋橋を渡り、更に細い沢沿いの道を北上する。14:30「志明院」。『志明院(しみょういん・金光峯寺きんこうほうじ) 岩屋山と号し、真言宗単立寺院。一般に岩屋不動と呼ばれている。白雉元年(650)役行者が開山し、天長6年(829)弘法大師が淳和天皇の命により創建した。以来皇室の勅願所として崇敬深く、天下平和の祈願のため諸堂開扉の勅があり、「志明院」の勅願を天皇から賜る。度々兵火や火災に遭い、現在の主要建物は明治以降の再建である。
本堂に空海開眼の不動明王を安置し、奥院・根本中堂には菅原道真の手彫り眼力不動明王を安置する。境内には歌舞伎「鳴神」で有名な鳴神上人が龍神を閉じ込めた護摩洞窟など修験道に因む伝承地が多い。付近一帯は、京都市の天然記念物・石楠花(しゃくなげ)が多く、4月下旬に開花して美しい』
『来山の皆様へ 桟敷ヶ岳は、山城・丹波両国に誇る標高896mの山で、比叡山より48m高い。古来この山は、惟喬(これたか)親王の幾多の伝説があり、山名の桟敷も親王が山上に高楼を構え都を眺めたからと言われ、角力の土俵場の跡と伝えられている。古来からこの辺一帯は都の文化と歴史の顔・鴨川の水源地を祀る山々として自然環境が重要視されてきた。森林の持つ公益的機能は私達の生命を育んでくれている。民有地内の山道であることを理解し、山歩きする人々も自然への敬愛を育み、マナーを守って楽しく歩きましょう』
期待せずに訪問したが、大ヒットの寺院だった。拝観料300円。奥様から地図を見せられ、拝観ルートの説明を受ける。山奥に不釣り合いな立派な山門からは撮影禁止だったのが残念ですが、弘法大師が鴨川の源流を守護するため祈願・修行した洞窟など、修験道修行地を想像させる山紫水明・幽玄の世界が広がっていた。鴨川は、ここ志明院が源流ということを知った。横の沢・志明院川〜加茂川〜高野川と合流して鴨川〜桂川に注ぎ〜宇治川・木津川と合流し淀川〜大阪湾という流れのようです。r61に合流し、r107の合流部を過ぎ、少し下ったところに「ぜーもんカフェ」というお店がありました。屋根から煙が上がり休憩しようと思ったが、営業時間が10〜15時で終わっていました。残念・・・
下っていくと、鳥居が見えてきたので寄り道。『厳島神社 平安時代中期に編纂された律令の施行細則「延喜式」に「天津石門別稚姫神社」と記載される神社と考えられている。
この地周辺の雲ヶ畑中畑町・中津川町は、平安時代以前からの集落で、平安京造営の際に用材を伐り出した地域であるとも言われ、当社は産土神として信仰されてきた。
祭神の天津石門別椎姫が出現したという石門岩が本社後ろの山麓にあり、約5mの2つの巨岩が15mほど離れてそびえ立っている。祭神・天津石門別稚姫が女神のため、弁財天(知恵や音楽を司る女神)信仰が生じ、明治以前は石門別弁財天・雲ヶ畑弁財天と称したが、明治の初め廃仏毀釈の際、弁財天のままでは廃止されるため厳島神社と改称した。
境内には、中畑町・中津川町の各所にあった宮が集められ、小宮として祀られている』
お宮の裏に巨岩が2つ並び、確かに周囲の風景と違う雰囲気が伝わってきた。バイクに戻ろうとすると、下の県道をランドナーで登っていく方が過ぎ去っていった。最新式の軽いロードバイクも良いが、こういう渋い旅バイクにも大人のかっこ良さを感じる。ここに雲ヶ畑自治会館があり、京都市北消防署・雲ヶ畑分団詰所も兼ねていた。
少し下ると、「雲ヶ畑小学校」と「中学校」が並んで建っていた。運動場が共有で、地域の子供達の仲間意識が自然に醸成されるんだろうなと思った。
少し下り「高雲寺」。『九龍山と号し、臨済宗永源寺派。文徳天皇の第一王子惟喬親王(これたかしんのう)が閑居された高雲宮跡。貞観11年(869)親王はここで落飾され当寺を創建した。真言宗の祈祷所として栄え、祈祷の際には村役人・里人が集まり、謡曲「田村」を奉納したり、寺に柩を近づけないなどの風習があった。
寺宝には、惟喬親王が書写した大般若経(惟喬般若)600巻のほか、近郷の人々がこれを拝むとすぐ病が治ったと伝える大般若経説相図、貞観時代(859〜877)作の薬師如来像・山越如来像などがある。
また当寺のある中畑町及び出谷町では、毎年8/24に愛宕山の献灯行事として「松上げ」が行われる』
枝道に逸れ「洞谷寺(とうこくじ)」。『龍雲山瑠璃光王院洞谷禅寺。曹洞宗の寺で、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を本尊とする。天正10年(1582)に始まり、もとは現在の墓地となっている境内奥に建立され、そこが谷の東に当たったことから東谷庵と称した。当時は薬師如来(別名:瑠璃光仏)を本尊としたことから瑠璃光王院とも呼ばれた。
墓地の奥に「父母のしきりにこひし雉子の声」と彫られた松尾芭蕉の句碑が建っている。芭蕉が父母の位牌を納めた高野山に詣でた時に詠んだ「キジの声を聞いていると、父母がしきりに恋しいと鳴いているように聞こえる」という意味が込められている』
r61に戻り、京都市街地に向かって下ります。r38に合流し、京産大グランド脇に出て市街地に突入。賀茂川沿いの道になり、賀茂川を渡って南下し、左折して「北山通」を東進し、再び賀茂川を渡り、地下鉄烏丸線「松ヶ崎駅」近くのコンビニにP。道を渡り16:21「京都ノーザン・チャーチ北山教会」、道を渡り直し「北山ル・アルジェ教会」。ともに結婚式披露宴のお客様が出て来ていました。ノーザン・チャーチ前の道にはロールスロイスが停まっていました。新郎新婦を乗せていくのかな?
「北山通」を西進し、ノートルダム女子大の角を左折し南下。右折して「今出川通」で西進し、京都御所の北辺を西に通過し、16:46御所に西面した「平安会館ホテル」に到着。
ここで、コーチしてる大学ヨット部の卒業式があります。ずっと背負ってきたPCリュックとリアボックスから靴を出して、ホテルに入ります。現役部員は1時間前集合のようで、ちょうどみんながやってくる時間と重なりました。宴会場前で受付を用意してる女子マネージャーたちに挨拶し、3回生A君に「荷物置いといてね」と言付け、バイクジャケットを置きます。荷物持ってトイレに行き、着替えました。
宴会場前に戻り、バイクパンツと靴を置き、受付をします。1万円と引き換えに、卒業生文集と式次第をいただきます。家でコピーしてきた卒業生キャプテンが、全日本インカレ後にヨット部ウェブサイトに投稿した文章を、卒業生文集に挟むよう女子マネージャーにお願いします。
現役部員や次々やってくるOB・OGたちとあ〜だこ〜だお喋り。会場内に誘導され、ホテルのお姉さんにお水を一杯いただき喉を潤わせます。18時に卒業式(追いコン)が始まりました。最初に卒業生入場。監督がヨット部長からのメッセージを代読します。OB会長あいさつ・乾杯後、歓談時間となりチャーハン・スパゲティ・・・バイキング形式で食べます。朝ごはんしか食べてなかったのでお腹が空きました。OB会長や理事長の席で食べながら、あ〜だこ〜だお喋り。
祝辞の時間となり、OB会理事長挨拶・大先輩OBさん挨拶、そして僕の挨拶の番です。最初に、京都交差点内こたつ事件で家内が大騒ぎし、無事始まるのか心配だったことで笑いを取り、文集冊子に挟んでもらった卒業生キャプテンメッセージを読み感動してもらいます。現役には、その時の思いを思い出してもらいます。メッセージには書かれていなかったが、サバイバルど強風・大波の中、平然とレスキュー艇をドライブした女子マネージャーの頑張りと、それを統括し磨き上げた卒業生女子マネージャーKさんに賛辞の言葉を送りました。
そしたら、大先輩OB席から「前に出て〜」とリクエストが起こり、Kさんが引っ張り出されました。彼女はこの学年唯一の女子マネージャーで、本当によく頑張ってくれました。OBさんたちから大声援を送られ感動したのか涙声になりながら、しっかり挨拶をしました。最後に、僕のカメラで撮った卒業生数名の写真をプレゼントしてお終い。
席に戻り、むしゃむしゃ食べていると、「挨拶が上手ですね」とか「やはり現役部員と過ごす時間が長いから、心に響くネタが豊富ですね」とか褒められました。次男と同期のコーチが挨拶し、今年で院を卒業し就職するので退任する若手コーチの挨拶。続いて、「贈る言葉」として現キャプテンが卒業していく先輩方にメッセージを。卒業生一人一人、演台に出て卒業挨拶します。締めは前キャプテンです。記念品贈呈があり、最後に監督が閉会の辞を。
ホテルのカメラマンが、集合写真を撮りました。監督が中心で最前列が卒業生なのですが、横幅が足らないようで、僕が前に座れと指名されました。まだ席が空いているので、女性に座って貰おうとOGたちを指名しました。彼女らも僕がコーチした子達なので、僕の指名は断れません。
いつものように「トリ」は、エールです。円陣になり、エール係と部旗係が中央に出てパフォーマンス。卒業生一人一人の名前を呼んでエールで送り出します。応援歌を歌い、最後は全員で肩を組んで「琵琶湖周航の歌」を斉唱します。これでお開きになりました。3時間ぐらいだったかな?
OBの方々に挨拶し、宴会場を出て着替えます。バイク装束に着替え、駐輪場に行きバイクに積み込んでいると、若手OBを引き連れた監督がやってきて、「バイクですか〜、僕らは僕らでこれから飲みに行きます」。「やたらタクシーがホテル前に停まっているな」と思ったら、卒業生と現役はこれで街に繰り出すようです。卒業生は引退後のバイトで貯めたお金を一晩で散財します。いくつかのグループに別れ、現役部員を引き連れ、京都の夜の街を堪能し、翌朝5時に全員集合し安否を確認し合い解散するのが、ヨット部追いコンの恒例です。去る者が入れば、入ってくる者がいる。来月には新入生獲得の新人勧誘が始まります。
名神〜中央縦貫道で一気に帰宅しました。もちろん家内が寝ているので、静かに風呂に入り、ヨーグルト持って寝室に上がり、盛り沢山だった1日が終わりました。

2018/3/4
コーチしてる大学ヨット部の練習が、後期試験の終わった先月末から始まりました。今年初めての練習参加です。8時出艇なので、7時到着を目安に琵琶湖に向かいます。天気予報では、日中終日風速0〜1m/sなので陸上風待ち待機の1日になるかもしれません。
4時に目覚めごそごそし、5:30になった階下に降ります。5時から家内の音が聞こえていましたが、すでにお出かけ服装になっておりびっくりしました。「どこに行くの?」「「うん、わかんない、ブラブラ。何時に帰ってくるの?遅いでしょ」「うん、練習後のミーティング後に帰ってくるから21時かなあ〜。用事がある?」「ううん、ないよ。早く帰ってくるなら、気になるだけ」
6時に一緒に家を出ました。家内はそのまま駅まで歩くそうです。僕は倉庫でバイクを出します。車ではなくバイク置き場に行くのを見て、「なんだバイクで行くんだ」と・・・僕はバッチリ、コミネ冬用バイク装束上下なのにわからないんだな。日中気温20℃予想なので、今年初めて春秋装束にしようかと迷いましたが、朝晩を考え冬用にしました。でも、一番暖かい白ジャケットではなく、標準の黒ジャケットを選択しました。白はCB400SBホワイト・シルバーツートンに合わせて買ったのですが、カラーコディネート・保温はバッチリですが、重いです。真冬でも標準冬用黒ジャケットで十分なので、こちらを選択する方が多くなっています。冬でも日中気温があがったり、寺社探索で歩く時間を長くなると暑すぎて、途中でインナーを外すことになります。バイクパンツの下にカーゴパンツ、ジャケットの下にモンベルのフリースです。風が弱く気温も上がりそうなので、ウインドブレーカーさえ必要ないと考えました。
山探索なしの高速道路往復なので、「招き猫CB400SB」を出します。勝手知ったる道なので、車載カメラもナビもなし。R171〜中央縦貫〜吹田ICから名神高速に乗ります。東の空低く朝日があり美しい。天気も上々です。桂川PAもパスし、一気走りです。京都東ICで下車し、湖西道路を走り「皇子山ランプ」下車。「JR大津京駅」下をくぐりR161に出ます。皇子山陸上競技場スタート・ゴールの「琵琶湖毎日マラソン」当日なので、交通規制が気になります。
7:13「セブンイレブン大津松山町店」で、朝食用に「助六寿司398円」+「ブレンディ挽きたてカフェオレ500ml169円」=567円を購入。ヨットハーバーに入っていくと、ちょうど学生たちの到着時間と重なりました。「おはようございます」、いつもながら気持の良い挨拶を交わされる朝です。キャプテンに首都大学東京ヨット部が来ていることと、朝の出艇待ちがあるかもしれないと知らされる。この時期、寒くてまだ練習できない東北・北海道の大学ヨット部の遠征はあるが、首都圏からの遠征は初めてです。金曜日から月曜日まで4日間の合同練習で、昨日土曜日と今日は風が弱い予報で、月曜日が雨で温暖前線通過強風予想で、「申し訳ない」とキャプテンが恐縮していました。帰宅後天気図を見ると、停滞前線が通過するようです。寒冷前線のような急激な気温低下や暴風雨を伴うことはないので、安心しました。
首都大学ヨット部キャプテンと話しました。部員15名で12名が今遠征に参加しているようです。数年前まで部員が少なくスナイプ級のみでしたが、470級が復活し、昨年は関東地区全日本インカレ予選決勝に残ったそうです。今年はさらなる飛躍を求め、去年の博多遠征に続き、今年は琵琶湖武者修行にやってきたようです。
ホームポートを尋ねると、江ノ島だそうです。首都大学だから横浜八景島を予想していましたが意外でした。学校所在地を尋ねると八王子だそうです。首都大学なのに田舎にあるんだとまたびっくり。江ノ島まで電車で1.5時間ということで、大学からチャリでここまで来る奴も常にいるうちの環境の良さを感じる。
レスキューボート前の桟橋で、助六寿司を食べてお腹を満たす。湖面は薄く霞み風が吹く感じがしない。予想通り8時出艇は延期になり、8:30集合になる。自艇の整備をする者が多い。女子マネージャーさん数人がやってきて、インフレータブルボートの整備をしだす。来月は新人勧誘があるので、剥がれたライフラインを直している。1年前はお客様状態だった1回生マネージャーが楽しそうにあれやこれややってる。
再度9時出艇に延期され、9時になるとスナイプ級選手たちはトレーニングになる。470は出艇し、僕はコーチボートへ。1m/sでミニラウンディングマーク・スタートライン把握練習などをする。トップバテン・サギング・コントロールロープ・・・いろんな気づいた点を指摘する。
無風になりハーバーバック。首都大学の470乗りとブライダルのことなど、セールセッティングのことなどを話す。裏のスナイプ・トレーニングを見に行く。和気あいあい笑顔ながら、トレーニング係がハードトレーニングを課し、良い汗を流していました。
12時に合宿所に戻る。バイクで交差点まで出ると、R161にコーンが並べられている。ちょうど警官がいたので、マラソン規制時間を聞く。「30分後はどうですか?」「う〜ん、ちょうど規制中だろうね」。
合宿所で昼食を食べながら、キャプテンと話す。「風がないのでミーティングでもしようかと」「マラソンで交通規制中時間帯だから、バイク組が歩きでハーバーに戻らないといけないのでちょうどいいよ。ライフジャケットの法規改正のことを話すよ」「じゃあお願いします」。
2/1から新法規が施行され、プレジャーボート乗員に「桜マーク」ライフジャケット着用が義務付けられました。ヨット部員はライフジャケット着用必須なので変わらないのですが、桜マークライフジャケットは日本独自の基準で、スポーツとしての機能がイマイチで、ヨット乗りはもっと機能的な世界標準ライジャケを着用しています。そこでJSAF(日本セイリング連盟)が国交省と交渉し、JSAF加盟団体・加盟クラス・加盟艇での規制除外を得てきました。
2月に交渉した担当者が全国を巡り説明したので、その講習会に参加した僕が伝えます。幹部部員は人づてに知っており、レスキュー艇用の桜マークライジャケを追加購入していました。朝から数名の部員に聞いたところ、理解がバラバラだったので情報共有することにしました。
配られた資料をバイクから持ってきて、食事しながら法学部部員を呼び、法律条文を渡し詳しく読み込み六法全書に照らしみんなに解説できるように宿題を出します。昼食後、僕が20分ほど説明します。全ての資料を置いて帰ることにしました。
少し風が出てきたので、13:30出艇予定で動きます。バイクでR161に出るとコーンは全て片付けられ、警官もいません。帰宅後調べたら、往路12:30〜12:40、復路14:20〜15:00が規制対象時間帯でした。
1〜3m/sの風で練習しました。スナイプクラス9艇の練習に付き合い、帆走練習・スタート練習で密度濃い練習をし、都度アドバイスしました。16:30ハーバーバックし、合宿所に戻るとハンバーグを作っていました。美味しそうな匂いに惹かれてキッチンに入ると、「つまみ食いOKのがありますよ」とつまませてもらいました。パン生地が少なく柔らかすぎて失敗作ということでしたが、味はとても美味しくラッキーでした。
片付けを終えた部員が戻ってきて、2Fに上がる階段に置いてあった「桜色おにぎり」を頬張りながら上がってきました。桜色をどのようにして付けるのか聞きましたが、「誰でも知ってるよ」という感じで、前日のひな祭りで余った食材を使ったそうです。選手にとって「お母さん」のような優しさを感じます。素晴らしい奥さんになりそうです。
18:30からミーティング。感じたことをいろいろアドバイスし、19時から夕食。いつもながらとても美味しい。19:45から掃除〜クラス別ミーティングで、その前に帰路につきました。くつろいでるみんなの肩を叩きながら、「今日はありがとうね、帰るわ」と階段に向かうと、キャプテン・首都大学キャプテンなどがついてきて、本日のお礼と次の予定。次週末の「追いコン」司会者が、挨拶を要請されました。快くOK。基本、声を掛けられたらOKするようにしています。
R161〜湖西道路〜京都東ICから名神。桂川PAをパスし、吹田IC下車〜中央環状〜R171で21時過ぎに帰宅しました。家内はすでに夢の中で、冷蔵庫には夕食が入っていましたが、お腹いっぱいなのでパスし、風呂に入りヨーグルト持って自室に上がり夢の中に落ちました。ああ、楽しかった。

2018/3/3
日が短い冬の近場ツーリングとして、河内寺社史跡ツーリングです。生駒山の麓・石切さん界隈探索3回目です。3回目なのに、まだ本丸の石切さん訪問出来ていません。今回は石切さんのお膝元「東大阪市」の寺社を下調べし、ナビに登録して出発です。
9:48自宅出発。R171〜r2・中央環状線を東進し、吹田ICから近畿道に乗ります。東大阪北ICで下車し、側道のr2をUターンし少しr168に乗り東へ。10:24「鴻池新田会所」。残念ながら3/1〜9補修閉館中でした。
r168を戻り、近畿道をくぐります。r2を南下し、東西に走る「阪神高速・東大阪線」の側道R308に乗って西へ。西堤東交差点を左折し南下して、10:44「西堤神社」。
『西堤神社うろこ殿 神社境内の池に祀られている水神社は、鱗殿ともよばれています。河内地方中央部にあたるこの辺りは、土地が低く、排水が悪いため、雨が降ると田畑に水がたまりました。また、日照りが続くと逆に旱害に悩まされました。そのため、付近の農民たちは、よく雨乞いをしました。西堤では、村人が神社に集まり、水神社の扉から水神様を出し、水を一杯にはったタライの中にお祀りします。その後ろに「内介淵蛇退治古図」(大通寺蔵)をかけて、村人は般若心経を唱えました。
鱗殿について1つの伝説があります。昔、長田から大東市諸福にかけて広がっていた新開池には、大蛇がいると伝えられていました。長田のある家の男衆(主に家の中の作業をするために雇われた人)で内介という人が、ある晩、あまり長く風呂に入って居るので、主人があやしんで見にいくと、大蛇の姿になって火を吹いていました。内介は自分の姿を見られたので逃げて池に入りました。それで、この辺りを内介淵というようになりました。その後、この大蛇が西堤の水神様をのもうとしましたが、のみこめなかったので、鱗を一枚残して去ったと伝えています。また、井原西鶴の『西鶴諸国はなし』(1658年刊)には鯉と内介にまつわる話が載っています』。境内に楠の大木があり御神木のようです。
バイクに戻り南下します。右折しr702。「東高井田」を左折し南下し、11:04「長栄寺」。『正法律根本道場・高井田百済山長栄律寺道』。境内内に小ぶりな仁王門があった。『禁入葷酒肉門内』と彫られた石碑が立ち、禅寺を示している。
『史跡・長栄寺境内 当寺は聖徳太子の開創した後荒廃久しかったものを、近世の高徳、梵学の碩学慈雲尊者27才の時・延享元年(1744)止住し、正法律の復興を唱え、その道場とした。
その後、尊者は有馬・長尾の滝・京都河南高貴寺などに転住されたが、大坂における説法は、当寺で行われるのが常であった。
かつて尊者が修禅のため生駒山中長尾の滝に建立された「雙龍庵」遺構の1つ禅那台は、その後当寺境内に移され厳存している』
『長栄寺・木造十一面観音立像 平安時代後期の作と考えられる高さ106.6cmの檜材一木造の直立像で、普段は本堂の厨子内に秘仏としてまつられています。片脚を遊ばせ、腰をひねること通例の像容であり、左手に宝瓶、右手に錫杖を執るいわゆる長谷寺式の十一面観音像です。ところどころに顔料が残ることから、元来は彩色であったと認められますが、ほとんど剥落し、衣紋の隅に僅かな胡粉の色を留めるばかりです。像体は風化し、素地の木目があらわれています。つけ加えられた台座・光背などからみると、江戸時代に修理が行なわれたものと思われます。
その際に、頭部および衣紋以外の身部を整え、これを漆塗りとするとともに、顔面では胡粉で両眼白毫を、丹塗りで口唇を彩っています。化仏の全てと持物の宝瓶や台座、光背などは後に補われたものです。
頭部と衣紋の表現に藤原様式をよく残すことから、昭和45年2月、大阪府の文化財(彫刻)に指定されました』
僧・慈雲は、信濃に遊び、禅も学ぶ。延享元年(1744)河内国長栄寺に住してはじめて戒律を講じ、鑑真以来一定していなかった授戒の作法に規律を定めて正法律(しようぼうりつ)と称した。のち摂津国有馬桂林寺に転じたが、この間もさかんに正法律を提唱し、講演著述に専念したそうです。
本堂脇に籠が下がっていた。いつまで現役で使われていたのだろう?由緒ある寺院なので、裏の墓地に掘り出し物の墓石などがあるかと探索したが、特になかった。
11:20、隣にあった「鴨高田神社」。こちらの境内にも御神木の巨楠が堂々と天をついていた。『祭神:速須佐之男命(素戔鳴命)・大鴨積命(大賀茂都美命)・神功九号(息長脚姫尊)・應神天皇(品陀別命) 当社は延喜式内社で、延喜式神名帳によれば、渋川郡六座の筆頭に市する官幣小社であった。
当社の創建は往古鴨氏が居住してその祖神を祀ったに始まり社名はそれに由来すると言われていて、遠く白鳳2年(673)と伝えられる。中世に至り、岩清水文書保元3年(1158)宣旨には岩清水八幡宮領として河内国高井田庄の名が見えており、後『河内誌』には当社について『在高井田村今若江郡也山州八幡神祭料因称八幡宮』と記し、当社が岩清水八幡宮領となり、八幡宮と称される由縁である。この付近一帯が戦場となった大阪夏の陣・元和元年(1645)兵火に罹り社殿ことごとく烏有に帰し後数年を経て再建されている。
『河内名所図会』に、当社の隣、長栄寺の鎮守となり、今八幡と称するとある。祭神については『神名帳考証』は、大鴨積命なりと記し、『大阪府全誌』『大阪府史蹟名勝天然記念物』には素戔鳴命であるとしている。
又社記によれば醍醐天皇の延喜十八年当地方大洪水により、五穀実らず諸民当社に気ゴンをこめて霊験あり、百姓大いに喜べりとある。又安永年間、悪疫流行するや、時の神職久佐衛門1月9日より10日間断食して悪疫祓除の祈祷を執行し、然村その役を免れたとある。
なほ、拝殿西側にある樹は、樹齢約1000年といわれるが、今は枯れ死して幹が少し残っている程度である。通称『お駒樟』。昔、お駒狐が棲みたりと、又お駒なる女性が、この木に呪詛の釘を打ち込み、願が叶へられたによりこの名ありと伝へられる』
『平安時代の『延喜式』にのせられた古社で、『大阪府全誌』には速須佐之男命、社の由緒書には大鴨積命・神功皇后・応神天皇を加えた4神を祭神としています。
別名「八幡社」とも呼ばれていましたが、これは保元3年(1158)銘の『石清水八幡宮文書』に、「河内国高井田庄」の名がみえることに由来すると考えられます。しかし、大坂夏の陣によって社殿がことごとく焼失し、その後数年をかけて再建されたといわれています。当神社には、神事に参加する村人たちによって宮座が構成されており、戦前まで久左衛門講・信座講・灯明講の3つの宮座がありました。
境内には、「八幡宮高井田村」と刻む享保13年(1728)銘の石燈籠一対や「常夜燈八幡宮御宮前」の文字を縁どりで彫る安永3年(1774)銘の石燈龍、「河州新喜多新田」の名を刻む寛保2年(1742)銘の石燈龍、寛政9年(1797)銘の狛犬一対など多数の石造物が残されています』。11:25、更に隣接する「鴨稲荷大明神」。
バイクに戻り、r702で今度は東に向かいます。r2に戻り南下。近鉄奈良線「八戸ノ里」をくぐります。11:43「司馬遼太郎記念館」。入館料500円を自販機で購入して入館。館の外に係の方がおり、丁寧にシステムを教えてくれる。館内だけ写真禁止だそうです。庭をじっくり拝見していると、「ケラ(粗鋼)」が置いてあった。すぐに著書「街道をゆく・砂鉄のみち」の記念品だとわかりました。興味津々で読み、和鋼と中国山地の深い森を見に、奥出雲ソロ・ツーリングに出ました。和鋼記念館・日本一の山林王宅・たたら・鉄分で赤くなった山間地の沢・・・素晴らしいツーリングになりました。
幼児の時、毎日本読みしてあげた息子たちは本好きになり、長男は司馬遼太郎好きになりました。初めて生まれた孫に、司馬遼太郎が司馬遷からペンネームを拝借したように、司馬遼太郎から名前を拝借しました。その名を長男から聞いた時、「司馬遼太郎」を直感しました。長男は、「ゴルフの石川遼からじゃないよ」と言いましたが、「わかってるって、親子だもの」。
館内の蔵書の迫力に圧倒されました。吹き抜けの壁全面に蔵書が並び、それを取るための階段状の台車が置かれていました。館内員も適正配置で、入り続ける印税の大きさを感じました。12:12「司馬遼太郎記念館ポケット手帳・800円」を、その孫へのプレゼントとして購入しました。まだ4才でアメリカ在住だから、次行くことや荷物を送ることがあれば、その機会に同送しましょう。本人は、「何これ?」でしょうね。
r2に出て、更に南下しました。12:27「弥刀神社」。r2に戻り、今度は北上です。また近大前を通過し、右折してr24に乗り東進。12:48「若江鏡神社」。『若江鏡神社は、延喜式に載っている古社の1つで大雷大神(おおいかずちおおかみ)・足仲彦命(あしなかひこのみこと)・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)の3神を祀っています。「文徳実録」の斉衡元年(854)4月条には「授河内国大雷火明命従五位下」と記されています。
本殿は、銅板葺三間社流造りですが、実際は、一間社流造を2棟つないだもので、中の間は板壁で囲まれた相殿となり御神体は祀られていません。本殿は文致11年(1828)に再建されたものと考えられます。なお、当社には、市指定大化財として大般若経600巻もあります』
地域の信仰を集めている立派なお社でした。バイクに戻り、少し北上したr24との交差点角に、12:59「若江城跡」がありました。『600数十年前、畠山一族築城後の三好左京大夫吉継居城のおり、戦乱相次ぎ織田信長の攻撃を受け、壮絶なる戦いに破れ自刃せり。時は天正元年12月16日。その後織田信長の居城・静養所となり、大坂石山本願寺攻略拠点となる。その後、信長本能寺にて亡ぶや、豊臣秀吉大坂築城に際し、当城の重宝石垣などを利用され廃城の運命となる』
歴史好きの僕は、何度も何度もこの城を巡る攻防戦を、様々な本で読んだ。やっと目にした現地だったが、まさに平城、跡形もなく城の痕跡はなく、石碑のみが往時を偲ばせるのみである。
r24を東進し、r21で北上。近鉄奈良線・若江岩田駅横を北に走り、右折してr15。「花園ラグビー場」横を通ったけど、バイクPが見つけられず、外周を巡ったけど工事中で入れそうになくパス。近鉄奈良線「東花園駅」前を通過し、R170・大阪外環状線に出て南下。左折してr24を東進。13:33「東大阪市立埋蔵文化財センター発掘ふれあい館」。
たまたま交差点の正面にあったので寄り道しただけですが、この日最高の訪問場所でした。銅鐸の製造方法、鋳型は砂製で再利用不可だったこと、その他埋蔵文化財の宝庫・東大阪市内の実際の遺跡発掘現場の写真をふんだんに使った文化財発掘方法。
劇的に精度の上がった年代分析「C14分析法」や最新年代分析法「プラントオパール分析法」が紹介されていた。この解析方法の精度が上がったおかげで、日本の縄文文明が、世界4大文明(メソポタミア・エジプト・インダス・黄河)より古いことがわかり衝撃が走っている。
これにより、大陸から移動してきた弥生人が、安定的に食料を確保できるコメ栽培により人口を増やし、不安定で移動する狩猟の縄文人を駆逐したという日本の生い立ちそのものが間違っているというのが定説になってきた。
縄文人も焼き畑や水稲でコメを栽培しており、ずっと多くの集落・人口を擁しており、弥生人自体が大陸からの渡来者ではなく、縄文人からの発展系であったこと。氷河期が終わり、アフリカから移動したホモ・サピエンスが、まだまだ寒かったユーラシア大陸中央部からより早く、海の影響でより暖かな大陸沿岸部やインドネシア・フィリピン・台湾・南西諸島ルートで日本列島に、朝鮮半島より早く住み着いたことがわかってきた。
朝鮮半島南部の遺跡が日本のそれと類似するのは、日本列島から渡った縄文人が住み始めたからだとの結論にほぼ至っている。DNA分析によっても、朝鮮人・中国人と日本人に類似するところが少ないので、大量の大陸人・半島人の移入があったとの従来の考えは間違っているとなってきた。
その後大陸の人口増加・黄河揚子江文明の発達により、相互に影響しながらも、より発達した大陸からの文化・技術移入が多くなり、最新知識を持った渡来人の流入が仏教文化以降の日本を動かしていたようだ。
子どもたちが多く来ており、学芸員の指導により、埋蔵文化財の洗浄を体験していた。どろんこ遊びしているような光景でしたが、目を輝かせて作業している子達をみていると、埋蔵文化財の宝庫・東大阪市の取り組みの素晴らしさを感じた。学芸員の指導で、火を起こしている子もいました。この子達が長じて、更に日本の古代史を明らかにしてくれるのでしょう。
子どもたちが作業している隣の部屋には、整然と棚が並び、所狭しと埋蔵文化財の壺などが置かれていた。年代別に整理され、自由に電気をつけて見学できます。細かな説明はありませんが、いくらでも触れる状態です。流石に手を伸ばすことはしませんでしたが、「これいいの?本物だよね?」と驚きました。この手の縄文土器や弥生物が、東大阪市ではそれほど特別ではないのかもしれません。これが無料で・・・恐るべし東大阪市・・・
R170旧道を南下します。六萬寺への枝道に入り、「二本松古墳」を探すが見つかりませんでした。宅地化が進み、古墳らしい雰囲気の場所が見えず、バイクを置いて歩き回ったけど不明。バイクに戻り、14:12「往生院六萬寺」。境内撮影禁止という閉鎖的な寺院で、山門も拝観時間中なのに閉じられ撤退。下界の景色は素晴らしかった。
R170旧道に戻り北上し、ややこしい住宅地内の道を走り、14:32「瓢箪山稲荷神社」。『瓢箪山稲荷神社は、旧四条村字大塚にあり、山麓に群集して築造された山畑古墳群中、最も古い6世紀初め頃に造られた最大の古墳「通称・瓢箪山古墳(双円墳)」の西斜面に、西面する社殿が建てられています。稲荷神すなわち保食神を祭神として祀り、辻占の総本社として知られています。
社伝によると、天正11年(1583)に豊臣秀吉が大坂城築城に当たり、巽(東南)の方向3里の聖地に「ふくべ稲荷」を鎮護神として祀り、金瓢を埋め、尊崇篤かったといわれています。
江戸時代の貞享5年(1688)の村絵図には、「古跡大塚」と記す瓢形の山が描かれ、「いなり」と書かれて江戸時代の早い頃から稲荷社がまつられていたこと、享和元年(1801)刊行の『河内名所図会』には「如卜(じょぼく)」として、すでに東高野街道で辻占が行なわれたことを記しています。
幕末の頃から明治・大正時代にかけて、神社から東高野街道までの参道両側には、たくさんの旅館・茶店がならんで大いに繁盛し、大阪堂島の米相場の上り下りも、この辻占によって占われました。
街道西側の、通称「みこの辻」は神霊の降るところといい、辻占の占場となっていたところで、古くから往来者の言動・持物などで事を占っていました。現在は東参道へ移されています』
『日本三稲荷の1つ。辻占総本社。創建は豊臣秀吉が大阪築城に当たり、巽の方3里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請した。
江戸時代より、門前の東「高野街道」沿いにおいて「辻占い」の風習があり、明治初年、宮司・山畑阿良美が「辻占」を創始するに及び、「淡路島かよふ千鳥の河内ひょうたん山」恋の辻占として全国津々浦々に知られている。今の本殿は慶応2年に建てられた。
社をまつる小丘はこの地一帯にある山畑古墳群の中でも最古最大に属する6世紀末古墳時代後期の双円墳であり、瓢箪山と称する由来である』
ここが辻占い発祥の地とは知りませんでした。本殿を一周すると、数々の摂社と古墳が見えました。
『瓢箪山古墳(山畑52号墳) 鬼塚と大塚からなる双円墳で瓢箪の形に似ているところから瓢箪山と称する由縁である。これより東、山手側に展開する山畑古墳群(約60余基)の西端に存し、最古最大の古墳である。墳丘の南北の主軸の長さは50m・高さ4mで本殿に向って右側を鬼塚、左側を大塚という。大塚の横穴式石室の玄室は巾2m・長さ約3m、羨道は巾4m・長さ5mで後期古墳時代、前期(6世紀初め)の古墳である。この大塚は狐塚と呼ばれるように似前に神狐が住まわれていた。鬼塚南端には羨道入口の天丼石が露出している』
社務所があったので、「稲荷鳥居型絵馬800円」と「交通安全ステッカー500円」を賜った。「瓢千流」の変わった表札の上がった古風な作りの家があった。茶道の家元なのかな?辻占の家元かな?帰宅後調べたがわからず。
バイクに戻り、生駒山の麓の細道を登る。勾配は急だが、住宅地が並んでいる。景色は良いだろうが、急勾配細道だから、何かと怖いね。途中でPして歩いて、14:53「東大阪市立郷土博物館」。入館料50円。
僕の生まれた昭和の時代の暮らしの調度品(レトロTV・洗濯機・ちゃぶ台)・ブリキのおもちゃ・・・、東大阪市のある律令制で定められた「河内」の前氷河期からの地歴(大陸から離れた〜氷河期は海岸線が前進し瀬戸内海はなく陸だった〜大阪湾の奥に河内湾が広がっていた〜上本町半島〜陸地化)、それに伴う人の暮らしと土器・鏃などの出土した道具などが展示されていました。50円でかなり学習出来ました。
一帯は「山畑古墳群」で、徒歩で数基の古墳を見て回りました。景色が良く、大坂中心市街地のビル群が見える標高100mほどの立地ですが、勾配のある地形にもかかわらず住宅が広がっており、多くの古墳が破壊されたり埋もれたままになっていることでしょう。
『山畑22号墳 円形の墳丘を東西に2つならべた「双円墳」と呼ばれる、6世紀後半につくられた古墳です。
東側の墳丘はすでに壊され、現在では片袖式の横穴式石室をもつ直径約15mを測る西墳丘だけになっています。横穴式石室は、生駒山で採れる石を積み上げて壁をつくり、床面には石を敷き詰めています。床面からは木棺に使用した鉄釘とともに、須恵器の装飾壷・土師器の椀をはじめとする土器類、直刀・耳環・子持ち勾玉などの副葬品が出土しています。これらの副莽品のつくりかたの特徴から山畑22号墳では、6世紀後半頃に埋葬が2回おこなわれたと推定できます』
『山畑38〜41号墳 東大阪市立郷土博物館の敷地内には、市の文化財に指定されている山畑22号墳とともに昭和46年に発見された山畑38〜41号墳の5基の古墳が残っています。
このうち38〜41号墳の4基は、直径8〜11mを測る円墳で山畑古墳群のなかで小規模な古墳です。古墳の内部にある横穴式石室は、馬頭大の自然石を積み上げて構築しており、木棺に納めた被葬者を安置する玄室と石室の出入口をつなぐ羨道部が同じ幅で作られた無袖式の平面形を呈しています。
昭和46年の発掘調査では、39・40合墳から全属製の耳飾りや鉄釘が見つかっています。このような横穴式石室の形や大きさ・出土遺物なとから山畑38〜41号墳はいずれも7世紀初め頃に山細古墳群の中で最後につくられた古墳と推定できます』
バイクに戻り、R170まで下り北上します。r15を西進し、近畿道側道r2を北上し、「東大阪北IC」から近畿道に乗ります。「吹田IC」で下車し、中央環状〜R171を経て、16:16帰宅しました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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