-ウェブマスター日記 2017/11-12

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2017/12/31
京都にお墓参りです。我が家のお墓は1つですが、家内の実家はお墓の他にお寺さんの本山「浄土宗禅林寺永観堂」さんに分骨しています。僕らも将来分骨しようかと思っているので、次男夫婦にどういうものか、どういう所か知っといてもらわないと・・・と思って。我が家のお寺さんの本山は、「浄土宗・百万遍知恩寺」です。そちらでもいいですが、お寺さんに聞くと、知恩院でも他の浄土宗のお寺でも構わないということなので、家内の先祖と一緒に埋葬されるのも良いかと思い永観堂を希望しています。まあ、息子たち、特に長男の良いようにしてくれたらいいですが、希望を伝えています。
4時前に目を覚ましゴソゴソし、8時過ぎに出発しました。R171〜中央縦貫〜豊中ICより中国道〜名神高速「京都南IC」で下車します。R1を北上し、川端筋を北上〜三条通を東進し、南禅寺に着きました。ところが駐車場がなく、コイン駐車場が400円/15分と破格のバカ高料金なのでパスしました。
永観堂の駐車場に入れ、永観堂と南禅寺を参拝することにしました。9:20永観堂P。ここは無料ですが、山門をくぐって入るPなので知らない方にはハードルが高く、混んでいたことは一度もありません。家内はすみれちゃんと手を繋いで歩き、僕は先に入口へ。拝観料大人600円ですが、我が家はお墓参りなので、「お墓参りです」と言えばフリーになります。いつもノートに寺院名と名前住所を書きます。ところがこの日は「どうぞ」とのこと。「名前など書かなくてもいいのですか?」「前回書いておられるなら、いいです」とのこと。
すみれちゃんは、前日同様うろうろ気ままに歩き回り、とても可愛い。9:30講堂に上がります。お嫁さんはまた御朱印帳を忘れたようで、家内が新たな御朱印帳を買ってプレゼントしていました。「すいません、御朱印集めが御朱印帳集めになっています」と笑っています。
室内は貴重な襖絵などがあり撮影禁止ですが、庭や勅使門などを写真に収めます。お正月をお迎えするバージョンになっていますが、観光客は普段の日曜日より少なく、大晦日の京都は穴場かもしれません。一夜明けたら・・・というよりこの日の夜から激混みになるでしょう。廊下から見る多宝塔もなかなか良いです。廊下続きの釈迦堂・御影堂などを巡ります。家内の両親を分骨する時の素晴らしい法要を思い出します。車椅子に乗って法主さんが来られ、20人ほどのお坊さんが声を合わせ読経してくれました。声明の響きに似て、とても良い気持ちになりました。
講堂を出て境内を奥に進みます。外人さんにすみれちゃんが人気です。よちよち歩き、手を振られると振り返すので、皆さんニコニコです。幼児の可愛らしさは、世界共通ですね。
勅使門前を過ぎ、多宝塔を見上げ、永観堂幼稚園を経て石段を上り、本尊「見返り阿弥陀像」の安置されている本堂「阿弥陀堂」前、更に奥に進み墓地の下の納骨堂へ。チンして手を合わせます。お嫁さんとすみれちゃんのお披露目です。池を渡る橋の上で、すみれちゃんは鯉と鴨を見つけ欄干から動かなくなりました。興味深いのか親が「行こう」と声を掛けても動きません。
やっと動き出しても、砂利を拾って僕の手のひらに載せるのを何度も繰り返します。これもまた面白いようで、動きません。
駐車場に戻り、僕が南禅寺前で車に乗って待つことにして南禅寺へ。南禅寺前ですみれちゃんがバナナを食べ終わるのを待ちます。手で持って1本食べちゃいました。乗用車5台ほどのスペースが有る「南禅寺第1駐車場」に運良く停められました。10:45「三門」、大泥棒・石川五右衛門が「絶景かな」という名セリフを残した場所です。
『伊勢伊賀領主「藤堂高虎」が大阪夏の陣で戦没した藩士の霊を弔うため。寛永5年(1628)建立寄進した。楼上には宝冠釈迦如来坐像を本尊に、脇に月蓋長者・善財童子、左右に十六羅漢を配置、本光国師・徳川家康公・藤堂高虎公の木造を中心として一門の重臣の位牌、戦没藩士の位牌が安置されており、毎年法要が行われています』
三門をくぐると法堂があります。龍の天井絵が睨んでいます。続いて水路閣。こちらの方が観光客が多く人気です。僕も次男が就職し、家内に「子育てご苦労様」の区切りとしてメッセージを刻んだ「クリスタルりんご」を、ここでプレゼントしました。
御朱印を貰おうと思いましたが、三門同様12/28〜12/31までお休みでした。『臨済宗南禅寺派大本山で、西応4年(1291)亀山法皇の離宮の地を賜り、無関普門(大明国師)規庵祖円(南院国師)によって創建された。以来歴朝の勅願所として、中世五山最高位に列せられ天下の尊崇を得た。勅使門・三門は重要文化財で、大方丈(清涼殿)小方丈は国宝指定され、内部襖絵の多くは、重文指定されている。方丈前庭は小堀遠州作「虎の子渡し」といい、代表的な枯山水庭園として有名である』
駐車場は無料でした。お休み期間だからかもしれません。
11:37下鴨神社P。牛車は大炊殿横のいつもの所に置かれていました。きっとこの神社のお祭「葵祭」の時に使われるのでしょう。
下鴨神社は、「玉依姫命」を祀っており、女性の参拝客が多いパワースポットです。御守のデザインが豊富で、お授け所では女性が並んでいます。葵祭の主役「斎王代」は京都生まれの独身女性で、費用数千万円を負担できる家から選ばれる超セレブです。
玉依姫は、天孫降臨した天照大神の孫ニニギの尊の妻「木花咲耶姫」が産んだ子「山幸彦」が海底の龍宮城で見初めた豊玉姫の妹です。豊玉姫が身ごもり、陸地に産屋を建て出産するが、「決して見てはならない」の約束を破って見てしまった山幸彦に腹を立て、我が子を置いて海底に帰ってしまった。豊玉姫の正体はサメだったのです。
困ってしまった山幸彦を助け、姉の代わりに子育てしたのが玉依姫で、やがて成長した神武天皇の妻になった。
そんなこんなで、厄除け・良縁・安産・子育て・交通安全のご利益があります。すみれちゃんにも良縁・安産・子育てのご利益がありますように。
干支別の摂社が建ち、すみれちゃんにもパチパチさせました。お嫁さん(辰)とすみれちゃん(申)は同じ摂社でした。御朱印をいただき、「水みくじ」を引きに行きます。すみれちゃん人生初の御神籤です。棚から自分で選び、御手洗川に浸けると文字が浮かび上がって来ました。よく分かっていない本人は、水遊びモードに入っています。さて結果は・・・「大吉!」お〜。良縁など素敵な人生になりそうです。
十二単の顔出しボードなどで写真を楽しみ、境内を出て摂社へ。縁結びの神様として下鴨神社以上に大人気の「相生社」。たくさんお女性が参っています。ここは奮発して100円をすみれちゃんに渡し、上手にガランガランして手を合わすことが出来ました。朱鳥居手前には、今夜の「初詣」に合わせて炊かれるのだろう薪がたくさん準備されています。
糺の森参道左右には「テキ屋」が並んでいます。殆どのお店がまだ準備中で、今夜から始まる「初詣」客にターゲットを定めているようです。「さざれ石」の横を通り過ぎ、「河合社」。
『女性守護 日本一美麗の神 河合神社 鴨長明ゆかりの社「方丈の庵」公開中』
『祭神:玉依姫命 神武天皇の母として日本建国に貢献された。内助の功の功績は、日本婦人の鑑として仰がれている。また全ての女性が一層美しくなりたいと言う願望と安産・育児・縁結びなどを叶えてくださる神として広く知られている。ご鎮座は古く、神武天皇の頃と伝えられている。本宮の式年遷宮に合わせて造営されてきた。現在の社殿は、延宝7年(1699)式年遷宮の古殿舎を修造したものです。
美人の神様:玉依姫様の美麗により、ご自身のお顔を絵馬に託して奉納し祈願していただきます。末社「任部社」には、サッカーの神様「八咫烏様」が祀られている。昭和6年八咫烏神が日本サッカー協会のシンボルマークになりました。河合神社と鴨長明:「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という丈で始まる「方丈記」の作者・鴨長明は、当社の禰宜(神職)の家系でした。年少より和歌に優れ、後鳥羽院に見出され御和歌所の寄人となり宮廷家人として活躍した。「石川や瀬見の小川の清ければ、月も流れをたずねてぞすむ 長明」』
境内に入り、手鏡型の絵馬を求めます。表は鮮やかに彩色され、裏は眉・目・鼻・口だけ印刷されているだけです。色鉛筆やマジックが用意されているので、椅子に座り塗り絵します。お嫁さんとすみれちゃんが色を塗ります。すみれちゃんは線を描けるだけですが、楽しくなって色鉛筆を離さず一心に楽しんでいます。出来上がったので、絵馬掛けに掛けに行きます。たくさんの絵馬が並んでいました。
糺の森を戻ります。神宮寺跡と池跡がありました。『献木・旧制第三高等学校同窓生』と書かれた木がある。そこに真新しい小さな社殿があります。扁額には「雑太社」(さわたしゃ)と書かれ、ラグビーボール型の絵馬が多数下がっています。『祭神:神魂命(かみたまのみこと) 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 元は鴨社神館御所内の雑太という字地に御所の鎮守社として祀られていた。応仁・文明の乱の兵火で焼かれ文明2年(1470)この地に動座された。明治43年(1910)社前の馬場にて、ご祭神の神「魂」命は「球」に通じるとして、糺の森で日本初のラグビーの練習が第三高等学校と慶應義塾大学生の間で名勝負が展開された。昭和44年、その歴史を後世に伝えるため「第一蹴の地」の聖地として記念碑が建立された』
茶屋があった。「申餅」というお餅が名物のようです。車に戻ります。「11:37〜13:05下鴨神社西駐車場1:28 600円」。今宮神社(玉の輿神社)に向かう途中、「くら寿司」があったので昼食にします。すみれちゃんは寝ちゃったので、次男がおんぶして昼食。ぐっすり眠っており全く起きません。安心しきってるね。お腹いっぱい食べましたが、4人で3700円・・・コストパフォーマンスが良いな。
主役が寝てしまったので、今宮神社は次回にパスし、帰路に着きます。R1〜名神高速~中国道・豊中IC〜中央縦貫〜R171で帰宅。次男達はすみれちゃんとともにお昼寝タイム。
18:30になったので着替えます。家内に次男たちの様子を見てきてもらうと、すみれちゃんも起きてるとのこと。GO!玄関で黒い長靴を履きます。ピンポーン実家のインターホンを鳴らします。「どなたさまですか?」のお嫁さんの声。ガチャリと玄関の鍵の開く音と「どうぞ」「誰かな〜」の声。ゆっくり玄関を開けると、ちゃんがキョトンとした目で見ています。でもりょうくんのように怖がりません。
ゆっくり背中に背負った白い袋からプレゼントを出し、すみれちゃんに手渡しします。「あれれ、すみれちゃんにプレゼントみたいよ」のお嫁さんの声に促され、恐る恐る手を出します。横で次男がビデオを撮っています。任務をコンプリート出来たので、バイバイするとすみれちゃんもバイバイしてくれました。
一目散に隣の家に帰宅し、衣装を脱ぎました。実家の勝手口から入っていくと、すみれちゃんが「きかんしゃやえもん」の絵本をめくっています。ページを捲りとても気に入っているようです。お嫁さんの「すみれちゃん、誰にもらったの〜」に答え、「お〜お〜」言いながら玄関の方を指差します。「そう、良かったね〜」と言うと、僕にわからない言葉で説明してくれます。その間も絵本を離さず、「ちびくろさんぼ三部作」ももらったと教えてくれます。可愛いな〜
家内が「年越しそば」作って持ってくるね。美味しくいただきました。あ〜だこ〜だ話し、20:30頃退散しました。風呂に入り、紅白歌合戦見て、21時過ぎにおやすみしました。ああ、楽しかった。

2017/12/30
次男一家と須磨水族園に行きました。朝4時に起きゴソゴソ、9:40出発しました。昨日お盆以来久しぶりのすみれちゃんは、初め人見知りで僕に警戒していました。お盆の時は30分ぐらいで慣れてくれたので期待しながら運転します。R171〜西宮から阪神高速で西進。神戸まで混んでいました。神戸「京橋IC」を過ぎ「若宮IC」までは快調に走れました。
須磨水族園の前を通過し、R2をUターンして須磨ヨットハーバーPに車を入れます。須磨水族園Pがあるのですが、「初めの1時間400円・以降1時間200円」です。昼食も含めのんびりすると思うので、上限600円のYHのPの方が得だと思いました。11:02「須磨水族園」に入場します。大人1300円で、2・3・4人券が自販機で購入でき、一気に複数人数買えるので便利でした。入館後すぐに次男がベビーカーを借りに行きます。最近は貸してくれる施設が多いので楽ですね。有料200円のイルカ・アザラシタッチとペンギン餌やり体験があったので、アザラシタッチ券を買いました。
すみれちゃんの反応が未知数でしたが、大水槽の大きなお魚(サメ・エイ・・・)に興奮気味で、指差してオーオー言っています。腰をかがめすみれちゃん視線で声を掛けていると、すぐ僕に慣れてくれました。ここから歩き回りだし、ベビーカーは必要ありません。乗せても降ろせと指示し、他の水槽を回っている時も、ベビーカーを押す方が面白いようで、少しの坂を押しながら進みます。僕がベビーカーの進行方向コントロールをしましたが、押すのはすみれちゃんの力だけで、小さいながらパワーがあります。水槽に寄り指差したり、それほど混んでいないので自由に歩き回れ助かりました。
本館3Fでは亀にさわれるコーナーが有り、僕が甲羅に触ると真似して指を伸ばし、怖がらず触っていました。動物園デビューした時も怖がらず餌をやれたそうで、度胸が良いようです。長男とこの嫡孫君は1・2才時は手を引っ込め、慎重派だったのに。屋上では人手などにさわれます。大きなウミガメに餌をやれるコーナーが有り、僕が100円で餌を買ってやると、次男に教えられ餌やりをしていました。自分が水面に落とした餌をパクリと食べるのが面白いようで、なくなったらまた買えと、買った所に歩いていきます。また買ってあげると、それを持ってスタスタ亀コーナーに・・・見ているだけで面白いです。自分ができたらハイタッチするのがマイブームのようで、パクリと食べたら振り返り、手を開いてタッチを求めて来ます。次男たちにもタッチを求めごきげんです。
下に降り、暖かなアマゾン館が気持ち良かった。ペンギン館を見て、12:30からの「アザラシタッチ」に並びます。次男が付き添ってすみれちゃんがタッチし、お嫁さんが写真に収めていました。遊園地プレイランド横の売店で、焼きそば・カレー・ポテトなどを買い、テント下のテーブルでお昼ごはんにしました。すみれちゃんは持参のパンと焼きそばをパクパク食べていました。
歩きそうなので、僕が特急でカレーを食べ付き添いました。椅子から下ろしてもらいご機嫌で歩き回ります。アンパンマンが好きなようで、アンパンマンのポップコーン自販機が気になります。年齢が少し上のお友達がポップコーンを取り出すのに興味津々です。その子がポップコーンを食べながら一部を鳩に上げています。鳩が集まってきたので、オーオー指差しながら追いかけています。プリクラ自販機のカーテンが面白く、僕がバーとしてやると笑っています。
「イルカショー」の案内放送があったので観に行きます。水のかかった跡を見て、前から5列目を選択しました。4列目までは水しぶきの洗礼を受けましたが僕らはセーフでした。シューが始まるまで暇で、すみれちゃんは階段を登り降りしたり動き回ります。次男が付いて歩きます。僕はお嫁さんとお喋りします。9月に行ったアメリカの長男の家の様子やその旅行に興味があるようで、長男から「僕らがアメリカにいる間においでよ。航空券はマイルでプレゼントするよ」と言われているので行きたそうです。6月に3人目が生まれるので、秋ぐらいに会いに行けるといいけど・・・。次男とこも人生の出産期なので、先の予定はどうなることやら・・・。メキシコ・カリブ海に面したリゾート地・カンクンへの新婚旅行をジカ熱騒ぎでキャンセルしちゃったので、新婚旅行として行ければいいなと思っています。
ショーは楽しく、すみれちゃんも驚いていました。ショーが終わりベビーカーに乗せました。おとなしいなと覗き込むと、速攻でお昼寝モードになっていました。大道芸のパフォーマンスを見て、ペンギンの園内ウォークを見て帰路に着きました。
10:48〜15:00「須磨ヨットハーバーP」600円。4時間12分もいたので、付属Pなら1200円でした。阪神高速〜R171で帰宅し、17:30にネット予約注文していたお寿司を取りに「スシロー」に行きました。
実家で皆で夕食です。全てサビ抜きのキッズセット(4人前32貫)というのを注文し、唐揚げやかっぱ巻きも追加注文しました。チンジャオロースーやニューメンなども用意していましたが、1人8貫では少なかったようで、一気に完食しちゃいました。
お嫁さんはすみれちゃんがちびちゃんだと気にしており、もっと食べてほしそうです。1900gで生まれ、以降ずっと月齢体重平均の加減少し上のままです。お嫁さんは161cmでスマート、次男も平均身長・平均体重なので、いずれすみれちゃんも平均付近に落ち着くのでしょうが、1人目なので気になるようです。
「たまご」と「にゅーめん」をよく食べていました。それと驚いたのが、お風呂に浮かべて貰おうと庭の柚子を5個取ってきたのですが、「食べるんじゃないの?レモンも食べちゃうし」というので、柚子を食べさせてみました。僕でも酸っぱいのに、すみれちゃんは平気な顔して食べちゃいました。結局1個全部食べちゃいました。家内によると、男女で味覚が違うのだそうです。
家内は主婦なので、あれこれ動き回り、「落ち着いて食べられなかった」と我が家に帰宅後、食卓でゆっくり食べていました。
僕は風呂に入り、家内が寝室に来るまでTV見て、家内がおやすみモードで入ってきたので、電気を消し自室に戻りました。20時過ぎにお休みしちゃいました。

2017/12/29
18:30から、高校ヨット部同期4名を中心にした同級生の会の忘年会でした。キャプテンの家が駅から近く大きな家で居心地や良かったので、たまり場になっていました。1人は高校から入学しましたが、残り3人は中高大と10年間も同じ学校にお世話になりました。僕だけが大学でもヨット部を続けましたが、卒業後も忘年会やお盆の時期に集まったり、腐れ縁的なつながりになっています。
この集まりのメンバーで、高校から同級生になり野球部キャプテンをしたY君が、先月亡くなりました。インカレ中に奥さんから家内を通じて連絡が入り、ショックを受けました。六甲山縦走・六甲山ランニング登山・フルマラソンと、最も元気だったやつだったので、「まさか」と思いました。
インカレレース中で福井県にいたので対応できず、キャプテンに連絡し、みんなに情報を流しました。何故僕に連絡が来たかというと、大学時代ヨット部オフ期間にY君とスキーツアーの会社を立ち上げ稼いでいたからです。ヨット部では部の運営費稼ぎのために、クリスマスとお正月にスキーツアーをやっていました。当時バス1台満席にすると20万円利益が出たので、冬期間中やったらもっと稼げると思い、旅行社に掛け合い、旅行社内にデスク・電話・事務員を確保し営業しました。
僕とY君は、スキー同好会に声を掛け、「タダでスキーに連れて行ったるから、スキーレッスンコーチしてくれ」。芸術系大学のイラスト専攻の女の子に「タダでスキーツアーに連れて行ったるから、パンフレットのイラスト書いて」。などの言葉で誘い学生スタッフを集めました。オフシーズンに信州のスキー場を巡り、宿を確保し、観光バス会社手配は旅行社にお願いしました。授業を終えると大阪の旅行社に出勤する日々を送りました。我が家が、貸しスキー板・靴の倉庫になり、他のツアーにもレンタルして稼ぎました。
兵庫・大阪・京都の大学正門でパンフレットを配りました。女子大の場所は今でも覚えています。高速の厳しい女子大では門衛さんがうるさく、追い返されたりしたこともあります。そんな大学は、ライバルスキーツアーが来ないので逆にチャンスだから、女の子に声を掛けバックマージンを交渉し、パンフレットを渡して大学内で配ってもらいました。
スキーツアーでは責任者として、スキーコーチ・雪上運動会・ダンスパーティーの企画・交渉・司会として奮戦し、楽しい時間を持ちました。スキー場でスキーの上手いやつが5割増しでいい男に見えるようで、当時バレンタインデーでチョコが20〜40個ゲットしていました。友チョコ・自分チョコはもちろん義理チョコの習慣もない当時、女の子から電話が掛かってきてチョコを渡される瞬間は夢の時間でした。全て本命チョコでした。
僕は「自分からアプローチしないと・・・」の人間だし、GFさんがいたので「お断り」になりましたが、良い時代でした。Y君は顔が良く、優しいのでよくモテていました。
インカレレース終了して帰宅後、葬儀に供花しようと皆に声を掛けお花を出させてもらいました。何度か奥さんから電話をもらい、寂しい気持ちの喋り相手になりました。
葬儀の時、奥様・ご子息・ご兄弟と話し、弟さんとの話の中でこの同級生の会のことを話しました。「機会があれば、出席させていただき、皆さんに挨拶したい」ということだったので、僕が窓口になり、今回弟さんと妹さんを招待しました。
16時を過ぎた頃、僕が昼休みの休憩をしている時間帯に、そのメンバーO君から電話が入りました。職場に戻ると伝言が書いてあり、コールバックすると予約してた武庫之荘のお店から電話で、オーナーシェフがインフルエンザに罹り臨時休業するとのことです。
僕が中心で、O君にお店の選定を任せていたので「どうしよう」ということでした。東京から実家の様子見兼ねてやってくる奴もいるのでキャンセルできません。Oくんも他の店を当たってくれています。僕も伊丹のお店を当たろうとネット検索し始め、駅ビルに適当なお店を見つけました。Oくんが不首尾だったら、こちらにしましょう。
20分ほどでO君から電話があり、塚口で次のお店を見つけ予約したとのことで、胸をなで下ろしました。みんなにメールし、15分して了解の返信がない奴に電話をしました。最後まで残ったのが、東京からやってくる奴で、塚口と武庫之荘は1駅なので、最悪武庫之荘に先回りして捕まえればいいやと、17時にバイクで出発しようと準備に入りました。
そのタイミングで、元キャプテンS君から電話が入り、「連絡ついたよ」。ホッとして、バイクで家を出ました。Y君弟・妹を駅で待つつもりです。17:30に駅に着き改札前で待ちます。メンバーがやってきますが、Y君弟・妹がまだです。18:15Y君妹から電話が入り、「店の前にいる」とのこと。仲間と離していてスルーしちゃったようです。仲間に先に行ってもらうことにしました。
更に待っていると、仲間が3人来ました。8:25Y君弟から電話が入り「店の前にいます」。早く着いたので、界隈をウロウロしていたようです。僕らも店に向かい、定刻に全員揃いました。駅から徒歩1分のお店だから楽ですね。
僕が献杯の挨拶をして、Y君弟は初めてで、妹は学生時代に数度ウインドサーフィンで遊んだだけなので、僕が順番に指名し、挨拶やYくんの思い出を語ってもらいました。ワイワイ・ガヤガヤ、あっという間の2時間でした。
O君・S君が会計取りまとめのようで、飲んでいない僕は2000円で、アルコールを飲んだ人は3000円通しです。Y君弟・妹の分もメンバーで割った計算を立てたようで、Y家両名を奢りました。
「次の機会を楽しみに」ということで解散し、家内のアドレスV125で帰宅しました。風呂に入り、21時過ぎに床につきました。

2017/12/24
家内もお休みなので、「映画を観に行きませんか?」と誘いました。「いいよ〜何時?」「洋画、吹替版もあるけど字幕版でいい?」「いいよ」「じゃあ9:20上映開始だから、9時前に家を出る」「うんわかった。何観に行きの?」「スターウォーズ最新作」。「その後デパートに行くわ」「大阪?」「ううん、川西阪急」「だったら一緒に行こうか?」「いいよ、1人で行けるから、どっかに行ってきたら?」
いつものように朝早く目覚めゴソゴソやってると、7:30頃「ねえ、映画館の下のイオンが8時開店だって。そこにあるパン屋さんのイートインでモーニングしたいから行かない?」との階下からの声で、慌てて行動開始しました。
家内は既に着替え、仕上げのお化粧中でした。「おはよう、今日も綺麗だわ〜」と毎朝恒例のイタリアーノな言葉とともに後ろから抱きついて、家内のいい匂いをたっぷり吸い込みました。
超特急で用意し外に出ると良い天気です。「バイクでもいい?」「いいよ」。通勤リード110にリアボックスをセットし、8時に家を出ました。イオンに入ると、店員さんが商品出しをしていました。目的のパン屋さんも同様で、パンの棚には1/3ほど並んでいるだけでした。レジには「しばらくお待ちください」の札が置かれています。「まだじゃん、お腹減った〜」。1Fのミスタードーナツ・2Fのコメダも開店前で、イオンに戻り8:26「オカノ半熟たまごBOX429円+ヨーロピアン熟練ブレンド100円=529円」を買って最上階の映画館に上がりました。
チケットを買い、フロアの椅子に腰掛け朝ごはんにします。売店を覗くと、スター・ウォーズ関係の品がたくさん並んでいました。29日にやってくる次男の子は女の子なので、イマイチ楽しまないかな〜。日曜日の朝一番上映はお客さんが少ないけど、さすがクリスマスイブいつもの倍以上人がいます。人気のスターウォーズなので、いつもの中央横通路から3列後ろまではおおかた席が埋まっています。仕方なく通路より3列前の縦通路横の席を取りました。
10分前に劇場に入り、9:20から予告編が始まります。いつもこれが長く本編は何時に始まるのか時計を見ていると、9:27でした。予告編を7分間もやってるのですね。前作から版権がディズニーに移っても、ジョージ・ルーカスのプロデュースは変わらず、「スターウォーズ最新作・最後のジェダイ」も相変わらず面白い。あっという間にエンディングになっちゃいました。家内を駅に送りバイクに戻って時計を見ると12:30だったので、2時間半ぐらいあったかもしれません。
1作目で若きヒーローになったルークは、かつてオビワンなど最長老に教えてもらったように、若きレイに眠った才能フォースを教え覚醒させる。1作目から登場しているハン・ソロ船長は前作で、ルークの妹レイア姫との間に生まれたフォースの遺伝子を受け継ぎ暗黒面に落ちてしまった息子カイロ・レンに殺されてしまった。レイア姫は、今作ではフォースの力を持つスノーク率いる悪の帝国ファースト・オーダーに抵抗するレジスタンスの将軍として活躍するが、レイア役のキャリー・フィッシャー自身が1年前に亡くなった。そして映画の最後に、子供3人が登場し、そのリーダー格の男の子が何やらフォースの継承者として次作以降活躍しそうだ。この手の映画は、やはり男の子が主役でなくちゃ。この子は、ルークとどう血のつながりを持っているのだろう。
半年後、ハン・ソロの生い立ちのサイドストーリーが封切られそうだし、レイから始まった原作にない新たなストーリーが大きく展開されそうだ。僕は1〜6作までDVDで持っています。今からハン・ソロサイドストーリーと、スター・ウォーズ9が楽しみです。
自宅に戻り、風呂に入って温まり、TV見ながらヨーグルトを食べました。高校駅伝をしていました。北摂里山も凍結はなさそうなので、朝の凍結を恐れ遠ざかっていたが、久しぶりにホームグランドを走りに行こう。
「里山VTR250」を出して、13:33走り出します。長尾山トンネル〜r325〜r33〜西谷農協を北上しr323〜r37〜49で14:29「バイカーズカフェ虎亀」。駐車場横でお爺さんがロクロを回して作品を製作中でした。入院されていたが元気になったようで何より。
あ〜だこ〜だお喋りしました。ピラフセットを食べながら、マスターやカウンターのお客さんとあ〜だこ〜だ話しました。お爺さんの体調不良で仕事と看病で忙しくなったお母さんを手伝うためお店を手伝い始めたお嬢さんは、また働きだされたようです。
17時から雨の天気予報だったので、15:28に店を出て帰路に着きました。長尾山トンネルを抜け大阪平野に戻り、帰宅する直前に雨が落ちてきました。16:20帰宅し、バイク倉庫横でPCをピコピコして18時になったので家内の携帯に電話すると、既に帰宅しているという。雨のお迎えは要らなかった。
すぐに帰宅すると、冷蔵庫からショート・ケーキが出てきました。「帰ってくるんもが遅いから私食べちゃったよ」と・・・クリスマスケーキを食卓で家内とお喋りしながら食べました。

2017/12/23
バイクで、神戸福原・兵庫・和田の泊界隈の「平清盛」史跡巡りに行きました。凍結が怖いので、早朝ツーリングは12月に入ってから封印しています。ホームフィールドの北摂の里山地帯も標高が高いので敬遠気味です。
9時に「里山VTR250」の空気圧を点検します。前後輪共1名乗車で2.0BAR、2名乗車で2.25BARが規定値なので、2.5BAR入れました。
9:17御用達GSで給油。184km/5.96L=30.9km/L。ずっと2気圧以下で走っていたようで、それで最近燃費が悪いのかもしれない。乗り出してから9年間のトータル燃費が、32km/Lを切り、31.8km/Lになっちゃいました。数年前の冬季にアイドリングを上げてもらったのも影響しているように思う。
R171を西に走り、R2で神戸を目指します。9:49「本住吉神社」。神功皇后三韓征伐縁の大阪の「住吉大社」は、ここから遷宮しました。鳥居をくぐると、社庫があり少し扉が開いています。中を覗くと、立派なお神輿がメンテナンス中でした。白髪の職人さんが、黙々と作業をしています。良いものを見せてもらいました。
拝殿でお参りします。拝殿横にも大きな社庫があり、地区別の扉が7つ並んでいます。地区の神輿が格納されているのでしょう。さすが格の高い立派な神社です。
摂社を巡ります。「大山祗社(山の神)」「猿田彦社(邪気払いの神)」「塞之神(邪気ふさぎの神)」「大海社(海神と御子)」「天満ノ神(勧学の神)」「高良神(長寿の神)」「木花咲也姫(一願授徳の神)」「綿津見神(海の神)」「天水分神(祈雨の神)」「大山祇命(造酒の神)」「大物主命(金毘羅の神)」「大国主命(国土経営の神)」。独立した摂社として「大日女社(天照皇大神)」と「菟原稲荷大神」。
社務所に寄って「本住吉神社紀」を授かりました。初穂料は500円。拝殿に宣伝されていたので見ずに授かりましたが、50ページほどでこの神社の由来紀のみではなく、古代からの日本の歴史を古事記を参照しながら解説されており、年表や摂津全体の守護などの出来事が整理され、古地図も印刷されています。なかなかの値打ち物で、永久保存版になりそうです。
『御鎮座の捷
仲哀天皇崩御の明年春2月、皇后穴門の豊浦官に移ります。即ち天皇の喪を収めて海路より京に向(いでま)す。皇后の船は、直に難波を指す。時に皇后の船、海中に廻りて、進むこと能わず。更に務古水門(むこのみなと)に還りまして、ト(うらな)えたまう。天照大神、我が荒魂をば、御心広田国に居らしむべし、稚日女尊、吾は、活田長峡国(いくたながをのくに)に居らむ、事代主尊、吾を御心長田国に祠れ、亦(また)
表筒男(うわつつのを)・中筒男(なかつつのを)・底筒男(そこつつのを)三神(みはしらのかみ)、吾が和魂(にぎみたま)をば宜しく大津停中倉長峡(おおつのぬなくらのながせ)に居くべし。因りて往来う船を看(み)んとをしえて日わく。是に於て、神教の随に鎮坐さしむ。即ち・平に海を渡ることを得たまう。是年は太歳辛巳(おおとしかのとみ)。即ち摂政元年(まつりごとふさねおさめたまうはじめのとし)と為す。日本書紀・巻第9(摂政元年-紀の年立てでは201年)』
『鎮座地名と御社名
『住吉神』を御領祭の『大津停中倉長峡』の地名は『広田』『生田』『長田』にようにはそのままのこらず『住吉郷-住吉村-住吉町』となってしまい、『書紀』の言う『大津ぬなくらのながを』は当地か、大阪南かと、先学の人たちが主に字義の解釈と地形の想像とによって論考されたが、『ぬなくら長峡』のとき『長峡』を『長岡』と解し、『活田長峡』は『地のさまによる』(日本書紀通釈)と解する如く決定的ではない。宣長翁も記伝6で『大阪』と考えたのを古事記伝30に至って『本住吉』のある菟原郡住吉(当地)と改められている。
「住吉神社」は各地に多いが、当社を『本住吉神社』と称する所以を解明する資料は当社になく、かって当社領の上級領主であった勝尾寺の文書の中に残存していた。
『本住吉神人等、依領家之仰可存知旨申請了。(下略)』
この宝治元年丁未(1247)の『請文案』(箕面市史勝尾寺文書178、社領の項参照)に津守為弘以下10人の津守姓の人達が連署している。鎌倉時代、当社には津守氏(住吉神の神主家)一族が奉仕しており、『住吉神』遷祀の歴史的最終地大阪南に隨い移った津守氏が『大阪へ遷すもとの住吉』の意をもって、『もと住吉』といい『本』の字を宛て用いたものであろう。そしてこの文書から、書紀の伝える神功皇后の住吉神御領祭地『大津ぬなくらのながを』は当社の地であったと推論して間違いないであろう』
住吉三神(イザナミがイザナミに会いたくて黄泉の国まで行ったが腐乱したイザナミを見て怖くなり逃げ帰り禊した時生まれた神)と三韓征伐をした神功皇后を祀っている。神功皇后は北九州に戻り、応神天皇を産んだ後機内への帰路、播磨灘で風波に妨げられ難儀した。遠く北摂の大船山を望んだとも言う。
伊勢神宮の元宮「元伊勢」同様、難波の「住吉大社」の遷宮前の地「元住吉」がこの宮です。R2沿いの繁華な地にあるので目立たないが、住吉・生田・長田・広田など現代に続く地名が古事記成立の時代から脈々と続いているのが嬉しくなった。
大宝律令や延喜式令制に従い、租・庸・調を神社に納める「神戸」があったことを示す平安後期保安元年(1120)の資料も書かれていた。「神戸」は律令制が緩み実を失い、荘園・社領という形態に代わって行く。
荘園を守護した武家の勢力拡大に伴う社領強奪を防ぐため、勅願寺である箕面勝尾寺を上級領主を仰ぎ、その保護を受けていたようです。しかし室町幕府武家政権成立後、殆どの社領は崩壊した。太閤検地により全社領を没収し、新規所領を安堵した。その後徳川時代、藩主により社領が寄進された。しかし、平安の荘園時代に比べると極めて少なくなったのだそうだ。
宗教勢力といえど経済抜きに生活運営出来ないので、こういう経済的なことが書かれている資料にとても惹かれる。
R2を西進し、10:51僕と家内の母校・関西学院発祥の地。当時「原田の森」と呼ばれていた地に到着。道を挟んで「横尾忠則現代美術館」「原田の森ギャラリー」があります。横尾忠則は、兵庫県というより日本の真ん中・ヘソにある西脇町出身のイラストレーター・版画家です。西脇に行く列車「JR加古川線」には、横尾忠則デザインのラッピング列車が走っています。
関西学院創設者ランバス先生が明治時代に建てた「旧・関西学院チャペル」が、現役の「神戸文学館」として使われています。瀟洒なレンガ造りの建物で、中学部に入学してから、何度も見た姿です。でも一度の入ったことがなかったので敷地内に入っていくと、掲示板に「常設展示・神戸ゆかりの作家たち」の掲示がされ、「入館無料」となっていました。
『原田の森の記憶 神戸文学館 明治22年に宣教師ランバスにより原田の森に創設された関西学院。その礼拝堂として同37年に建てられました。建設費を寄付した実業家の名を取り「ブランチ・メモリアル・チャベル」として学院生の信仰の拠り所となりました。昭和4年の学院の西宮移転後、戦災にもあいましたが戦後は神戸市が買収し長らく王子図書館として使われていました。平成5年、戦災で失われた鐘塔を復元するなどして市民ギャラリーとして親しまれてきましたが、平成18年に神戸ゆかりの文学作品や文学者の遺品その他の資料を展示する「神戸文学館」として生まれ変わりました。明治の洋風教会建築では、市内最古のものです』
北に王子動物園の特徴ある建物が見える。帰宅後調べると「カワウソ」がいる建物のようです。神戸文学館前には、綺麗に手入れされた椿が赤い花を付けていた。我が家の庭の椿も満開ですが、手入れするとこんなに見栄えが良いのかと思いました。そう言えば庭師さんが、他の作業をしていた。
玄関ポーチへ。『開館時間10a.m~5p.m. 休館日/毎週水曜日、12/28〜1/4 入館料/無料 館内禁煙』『神戸市指定 景観形成重要建築物 神戸文学館(旧関西学院チャベル) 設計:M.ウィグノール 竣工:明治37年(1904) 元関西学院付属の教会で、王子公園の南西島に位置し、公園を背景に大きなヒマラヤ杉と共に、文教地区にふさわしいランドマークを形成しています。平面はL字型で、L字の入隅部の塔は近年の改修で復元されました。西と南の切妻に石造の大きな尖頭アーチがあり、その中に三連の尖頭アーチのトレーサリー、その上に元バラ窓であったと思われる円型窓が付いています。屋根は急勾配で、璧の所々に太いバットレスの付<ゴシック風の外観となっています』『登録有形文化財 第28-0303号 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁』
高い玄関ポーチの天井から灯りが下がっています。ポーチ上部に窓ガラスがはめられ、天井も自然光で明るい。重厚感のある洋式の扉を開けて中に入ります。
『関西学院は、アメリカ・南メソジスト監督教会の宣教師ウォルター・ラッセル・ランバスにより、1889(明治22)年9/28、この地「原田の森」に設立されました。その後1929(昭和4)年に西宮市上ケ原へ移転するまで40年間、優れた卒業生をまず多く世に送り出すとともに、神戸の新しい文化活動の中心的役割を担ってきた。
この建物は、1904(明治37)年10/24に礼拝堂として竣工し、アメリカ・ヴァージニア州リッチモンドの銀行家ジョン・ブランチ氏の寄付をもとに建てられたことから、「ブランチ・メモリアル・チャペル」と称された。当時は礼拝堂兼講堂として使用され、関西学院のシンボルと言える建物であった。
関西学院の移転に伴い神戸市の所有するところとなったが、神戸大空襲のためレンガ壁のみを残して焼失した。しかしその後、尖塔部分を除いて復旧され、以来神戸博の展示館、市民美術教室、アメリカ文化センター、王子図書館として使用された。まら1993(平成5)年4月には尖塔部分も完全に復元し、王子市民ギャラリーとして神戸市民に親しまれてきた。
このたび、あの阪神淡路大震災も乗り越えた、市内に現存する最古のレンガ造教会建築物が、神戸にゆかりのある文学者たちの息吹を今に伝える神戸文学館として生まれ変わることとなった。 2006(平成18)年12月』
撮影禁止でした。常設展示ゾーンには、阿久悠・井上靖・遠藤周作・今東光・椎名麟三・志賀直哉・司馬遼太郎・島崎藤村・白洲正子・高浜虚子・中島らも・松本清張・吉川英治・森鴎外・山崎豊子・山本周五郎・横溝正史・正岡子規・灰谷健次郎・・・など名だたる作家の書籍・略歴・神戸生活時代の写真などが展示されていた。
僕の好きな竹久夢二も神戸に縁があったようで、母校先輩・山田耕筰作曲と組んだ作詞家・北原白秋も神戸に縁があったようだ。少ないですがお客さんがおり、サロンでは喫茶も出来るようです。知っている著名作家の神戸時代を読めて、楽しい時間でした。外に出ると、関学の建学の精神「Mastery for service」と校章新月が刻まれた記念碑があった。家内は4年ですが、僕は10年もお世話になった学校なので、愛着が違います。
11:24「横尾忠則現代美術館」に入ってみました。入館料700円。1Fがフロントと売店で、2〜3Fが展示室で、4Fが資料室です。独特の世界が描かれたポスターや版画が多数展示されています。
『HANGA ポスター? 版画? 横尾の版画制作の軌跡は、常に版画の枠を超える創作の道のりといえるでしょう。デザィナー時代の横尾忠則は、自分自身を最も表現できる形式がポスタ一で、版画のようなファインアートは、はじめから自由すぎてむしろ不自由だと考えていました。ポスターを依頼されたら、その一枚のなかて音楽や映画、絵画、文学的なことを試みることが創作の欲求を満たし、自分を表現することでした。
こうした創作姿勢を直接的に具現化した仕事が、1960年代後半に制作した土方巽や唐十郎、寺山修司らの舞台ポスターでした。消費社会の申し子であるポップアートのけばけばしさと日本の土着性とを混ぜ合わせた、総天然色の印刷による衝撃的な内容で、小部数制作かつ封切直前完成というポスターの常識をはるかに超えた、ほとんどファインアートと呼べる作品でした。
さらに、同時期に横尾は、グラフィック・デザイナーによるグループ展「ペルソナ展」に《TADANORI YOKOO(自主制作)》(no.233)などのクライアントを持たない作品を出品したり、《終りの美学(発狂社)》(no.236)や《切断断された小指に捧げるバラード(八九三書房)》(no.237)など架空の出版社名を刷りこんだポスターを制作しています。
これらはポスターという形式を借りて、自分を表現するために制作したファインアートといえます。
本展で「版画を超える版画」という意味を与えて展覧会名に冠した「HANGA」の原点は、これらポスターの形式で制作された作品=HANGAにあります。これらをHANGAのなかのHANGAとして捉えることは、横尾の印刷(刷り)作品の分野・領域について再考することを問題提起することとなるはずです。さらにコマーシャルアートとファインアートをめぐる表現と歴史、今後の現代版画のあり方に示唆を与えることでしょう』
小さな切手刷りを組み合わせて大きな人物を浮き上がらせた切手のようにした刷り作品、写真と見紛うようなデザイン画、漫画雑誌「少年マガジン」の表紙となった「星飛雄馬」や「あしたのジョー」・・・飽きませんでした。
4Fに上がると、未整理の作品棚があり、奥は撮影中の黒幕が下りていた。北側の窓から六甲山を奥にして、神戸海星女子の校舎が見え、手前には先程入った神戸文学館のレンガ旧教会が見える。その西には王子動物園の観覧車が回っている。
11:45、「原田の森ギャラリー」に入ります。拝観無料で、「12/20〜24 第53回・主体美術協会・主体展神戸展」という絵画展が、1・2Fで催されていました。
僕は小学生の時、水彩画でクラス代表〜学年代表〜学校代表になって、伊丹市小学生絵画展・阪神小学生絵画展に出品されたことがあります。母は勉強もスポーツも出来た上に、書道も絵画も県表彰を受けました。リタイヤ後は油絵を習い、伊丹市展に何度も出品していました。長男は絵画は得意ではなかったけど、作文が得意で学校代表になったことがあります。次男は写真と間違うほど精密画が得意で、建築士・プロダクトデザインの仕事に着いています。
僕は絵画が好きで、今は混むのであまり展覧会に行かなくなりましたが、中高生の時は土曜授業終わりの午後、よく京都の博物館や美術館まで足を伸ばし、有名画伯の絵画展を観に行っていました。
大きなサイズの絵画が並び、食い入るように観てしまいました。12:04「王子動物園」。孫たちを連れて来る場所候補なので下見です。15才以上は600円で、それ以下は無料です。中学生も無料なんて太っ腹です。最新式アトラクションがないからお安く、お客さんは小さな子を連れている家族連れが多い。こういう遊園地が好きです。大学生の時、デートで動物園や水族館に行ったことがあります。落ち着くんだよね〜こういう施設は。小さな子は、動きを見ているだけで面白いし・・・。
12:19、南に下り海岸の「なぎさ公園」近くの高齢者マンション。兄夫婦が買ったマンションで、お正月に息子・娘たち一家・僕ら・次男一家に披露してくれるそうです。最上階にレストランが有り、食事しようということになっています。
兄夫婦は僕ら同様大学の同級生カップルなので、姉が1人残された後、医療・介護などが充実したここに住めばいいと終活しました。有馬温泉マンションと自宅を売って、長女一家が住む近くのマンションに移り、1人になった時の終の棲家をここにしました。田舎での老人だけの暮らしは大変なので、都会暮らしです。何階を買ったのか知りませんが、34F建てだったかな?
エントランスを入ると、右手にロビーが有り、左手にフロントがありました。フロントのお姉さんが「見学ですか?ご予約は?」と聞いてきます。「いえ、兄が買ったので、どんなところかと思い・・・」。トレーニングルームやプール、AVルーム・クラブルーム・ビリヤード・ヘアサロンもあり、小さな町です。近くに大手電気屋さん・総合病院・ショッピングセンターがあり、駅まで5分です。
パンフレットがあったのでもらい、分譲中か聞きます。南向きは完売に近く、東向きは2/3、西向き1/2、北向き1/5が売れている状況のようです。パンフレットの写真にマンション最上階から見た「なぎさ公園」方面があり、なぎさ公園に桟橋が見えます。
なぎさ公園前には何度か船で来たことがありますが、こんな桟橋あったっけ?先輩は、なぎさ公園岸壁に船を着け、食事して銭湯に入ったと言っていました。お姉さんに「この桟橋に船が着けられるか、知ってますか?」とダメ元で聞いてみました。当然知りませんでした。
12:36、それを確かめに「なぎさ公園」。桟橋はありましたが、部外者使用禁止でした。当然だね・・・ここに停泊できれば、利用価値大ですが・・・。寄り道が長くなったけど、本日のメインディッシュ平清盛ゆかりの地巡りをしましょう。
12:55「竹尾稲荷神社」。『祭神:宇迦御魂大神(うかのみたまおおかみ) 神徳:商売繁盛・家内交通安全・老人性諸病平癒健康守護、特に縁結びにご利益あり 創立:文化10年(1813)・文政元年(1818)刻記のある石灯籠が現存高田屋嘉兵衛翁略伝 生誕:明和6年(1769)元旦、現津名郡五色町都志 寛政3年(1790)22才で兵庫に移り樽廻船の船子、同年船頭、7年に独立1500石積み辰悦丸を建造。北前船に参入し経済的地位を高め蝦夷地に着目し、以降経営の飛躍的発展を遂げ巨富を得て豪商となる。
御用船頭となり、幕府の蝦夷地政策に協力、択捉島を開拓し、優れた航海技術を発揮、漁場を開拓し、享和元年(1801)名字帯刀を御免さる。険しくなったロシアとの紛争に一身を投げ打ち解決し、両国の賞賛を受ける。
文政元年(1818)郷里都志村に隠居、近隣の港湾改修などの協力、文政10年4/5(1827)当地にて59才の生涯を閉じ、同村多聞寺に葬られる。
巨富を得るも常々質素を旨とし少しも奢らず、野人の風格を身上とし、公共の事業とあらば万金をも惜しまず、信仰厚く翁の献上せる西出町鎮守稲荷の灯籠は今もその境内に現存す』
当地で頭角を現し飛翔した高田屋嘉兵衛顕彰碑が立っている。
13:05「来迎寺」(築島寺)。予想に反し、鉄筋コンクリート寺院でしたが、清盛の蝶紋でした。平家紋として有名な横向き紋ではなく、正面紋でした。横向きの方がかっこいいな。
『珪化木のいわれ 日本の地質の古い部分は、今から10億年前のものといわれています。考古学者・色川大吉先生の説によれば、3億年ぐらい前から海底で火山の爆発がしきりに起こり、浮いたり沈んだりしながら、5千万年前頃になってだんだんと日本列島の形が出来上がったといわれております。
この化石は洪積世氷河期も過ぎて紀元前約千万年前に、地殻の変動によって土中に埋もれた樹木が、長い間表面が炭化し内部が珪酸と交代して化石となったものです』
一見するとコンクリート製の木の幹ですが、化石だそうです。ビックリして感触を確かめました。
『松王小児入海之碑 二条天皇の御代、平清盛公はわが国の貿易の中心地はこの兵庫であるとの確信をもって、良港を築くため海岸線を埋め立てるエ事に着手した。しかし、潮流が早く非常な難工事で、完成目前に押し流されることが2度に及んだ。時の陰陽師は「これは竜神の怒りである。30人の人柱と一切経を書写した石を沈めると成就するであろう」と言上した。
そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構え通行の旅人を捕えさせたが、肉親の非歎は大きかった。このとき、清盛の侍童で香川の城主・田井民部の嫡男・松王17才が「人柱のことは罪が深い。わたしひとりを身代りに沈めて下さい」と申し出た。応保元年(1161)7/13、千僧読経のうちに松王は海底に沈み経ヶ島造営は完成した。
現在の神戸港の生い立ちである。天皇は大いに感動されて、松王の菩提を永く弔うため当寺を建立し、念仏の道場とされた。依て経島山来迎寺不断院と号し、通称築島寺の縁起である』
平家物語にかかれている有名なエピソードです。本日のメインは、この碑を見つけ手を合わせることでした。任務終了。お気に入り童子の入水に心打たれた清盛は、以降生贄を改め、経文を書いた小石を投げ入れることにした。
『妓王妓女の塔 妓王と妓女は姉妹でともに京堀川の白拍子であった。清盛の寵愛を得て優雅な日々を追っていたが、清盛の心が仏御前に傾くに及び世の無常を欺き、嵯峨野に庵(いまの妓王寺)を結び仏門に入った。その後、平家が壇の浦で破れたため、平家ゆかりの兵庫の八棟寺(当寺の末寺)に住持して一門の菩提を弔った』
これまた平家物語の涙を誘うエピソードです。美女ゆえ、清盛の寵愛を一身に受け栄華の頂点に昇ったが、自分が清盛に目合わせした白拍子・仏御前に寵愛の座を奪われ、嵯峨野に隠居する。そこに寵愛を失った仏御前が訪ねてきて、共に暮らすようになる。
この謂れ板にある「八棟寺に往時して平家一門の菩提を弔った」は平家物語に書かれていないと記憶しているが、兵庫に移り住んだのかもしれない。小さな五輪塔が2つ並んでいた。
最近、散骨や樹木葬が流行って来ているが、墓石や墓碑・慰霊碑があればこそ歴史が伝わるので、生きた証として形あるものがこの世に残ることは大切なように思います。両親に墓参りに連れられ、先祖の歴史を両親や祖父母に教えられ、先祖の歴史に興味を持った僕が、遠い遠い先祖の墓地を訪ねている。僕の人生はもうすぐ終わりだけで、僕同様先祖の奇跡に興味を持った子孫が先祖を知る手がかりに出来るよう墓は残したいと思っている。
築島というぐらいだから埋立地なのかもしれないし、目の前の運河を隔てた海側が平安時代以降に埋め立てられた地かもしれない。目の前の狭い海を見ながら物思いにふけった。すぐ横に水門があり、神戸市中央卸売市場の建物が見える。
次の目的地に向かおうとバイクを走らせてすぐ、謂れ板を伴った巨石が見えた。
『古代大輪田泊の石椋 ごの花崗岩巨石は昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、重量4Tの巨石20数個と一定の間隔で打込まれた松杭とともに発見された一石です。当時は、平清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていました。
この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、平成15年度に確認調査された。古代の港湾施設と考えられる奈良時代後半〜平安時代中頃の大構と建物の一部と考えられる遺構が発見されました。このことにより石材が発見された場所は、当時海中であったと考えられ、出土した石材は、古代大輪川泊の石椋の石材であったと推定されました。
最近では、江戸時代に描かれた絵図と照らし合わせると入江の護岸施設で使用された石椋であった可能性も考えられる。石椋とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などであったと考えられます。残念ながら発掘調査によって発見された石材ではないので、築造された時代は不明です。発見時の状況から、その構造は巨石を3〜4段積み上げ、松杭で補強し、堤を構築していたものと推定される。
古代から近世に至るまで、兵庫津周辺は複雑な入り組んだ入江が多く存在していたことが、これまでの調査や江戸時代に描かれた絵図で判明して参りました。この巨石も、そういった入江などの護岸施設や、港湾施設の一部であった可能性があります』
13:21「金光寺(兵庫薬師)」。『「兵庫の薬師さん」の名で知られる金光寺は、承安3年(1173)隆善法師の開基といわれ、寺名にまつわる次のような伝説があます。経ヶ島築造のとき、清盛の枕元に童子が現れ「兵庫の海中に霊仏があるので探し出すよう」夢告しました。さっそく大輪田の海に網を下ろしたところ、海中から金色の光まばゆい黄金薬師尊が出現したことから、金光寺と名づけられました。この時、海中から出現した本尊は、薬師如来の胎内に納められていると伝えられます』
13:27「神明神社」。『祭神:天照大神・豊受大神・猿田彦大神 当社の御祭神は伊勢神宮から勧請し古くから兵庫の町の守護神として神明町に鎮座し祀られていた。その起源は丈献上残って無いので不明であるが、兵庫津の7社の1であり、かなり古くから此の地に鎮座していた。
元禄5年(1692)の寺社改帳では、神明の官2社即ち、1東の方社・外宮、2西の方社・内宮と記され、伊勢神宮と同じ形式の2社が祀られていた。
兵庫は、平清盛公によって大輪田の泊か大改修されて以来、瀬戸内の要港として多数の海運業者が集まるようになり、現在合祀されている海上安全の守護神、「猿田彦大神」が合祀されたのもこの項であると推測される。
江戸時代には能福寺とも関係があり、寛永年間(1624〜44)には同寺が宮守として奉仕していたとの記録もある』
13:30「将軍平清盛公募所・平相国廟」「伝統三大仏・兵庫大佛」「兵庫七福神・能福寺・毘沙門天」「清盛七弁天」。『明治維新神戸事件・瀧善八郎正信の碑 きのう見し、夢は今さらひきかえて、神戸の浦に、名をやあげなむ 善三郎辞世の句 瀧善三郎・切腹の図・カネテツデリカフーズ株式会社所蔵
開港問もない神戸で起きた外国との粉争で、発足後最初の外交問題で苦境に立たされた明治新政府を救い、日本が外国に植民化されるのを未然に防いだのが神戸事件の瀧善三郎正信の死であった。
慶応4年(1868)1/11、西宮警備を命令された備前藩兵が大砲を引いて西国街道を通過中、三宮神社前で行列を横切ろうとしたフランス水兵を槍で以って刺傷させた「神戸事件」が起り神戸の町は一時、外国兵によって、占拠されるありさまであった。
この事件は明治新政府の素早い方針転換声明と、備前藩責任者の処罰によって決着がついた。全責任を負って同年2/9兵庫津・永福寺(現カネテツデリカフーズ株)で外国人代表ら立ち会いの面前で切腹した瀧善三郎正信(32才)の最後は、識者の涙を誘った。その跡地に碑を立て、市民はこの事件に一番の役割を果たした彼に、心から感謝の意を表し、その功績を永く讃えてきた。
昭和8年、今迄あった木碑に代えて立派な石碑が建立された。昭和20年戦災で寺は焼失したが、碑は無事に残り境内跡地に出来た「カネテツデリカフーズ株」構内に祭られ供養が続けられていた。その後昭和44年、地元有志並びにカネテツデリカフーズ株により、この能福寺の聖域に移設された』
境内正面に、大きな野外大仏が鎮座している。まず、瀧善三郎正信顕彰碑に手を合わせる。平相国廟にも手を合わせる。こちらも正面から見た蝶の紋だ。
『平安の末期(養和元年1181)平清盛公の逝去によって能福寺の寺領内にあった大平山八棟寺に公の墓所・平相国廟が造立された。しかし平家滅亡と同時にことごとく破壊され、能福寺を灰燼に帰した。以降廟は再建されることなくその存在すら忘れられていた。百余年後の弘安9年(1286)2月、平家一門の栄華盛衰を哀れんだ時の執権北条貞時公は、その近くに一基の石塔を建て、清盛公の霊を弔った、と能福寺の古文書に見える。
現在に伝わる清盛塚十三重塔(県指定重文)がそれである。今、諸々の古記録文献には「京・愛宕山にて火葬荼毘に付し、「大輪田の法華堂に納め・・・」または「能福寺の東北に埋骨・・・」云々とあるところから、遷都をも決断したほど兵庫の地を愛した清盛公の遺言により全骨を福原に持ち帰ったことが史実ならば、歴史上真の墓は、かつて平安期、能福寺寺領内にあった平相国廟と考えられる。奇しくも本年清盛公の八百回大遠忌を迎えるにあたり、平家物語類書にも有名な平相国廟を建立復興し、併せて圓実法眼宝篋印塔、忠快法印塔を合祀した。
現在わが国最大の国際貿易港として、繁栄せる神戸港湾の基礎を造った根元としての平清盛公に対して今、報恩謝徳の意を込めて、ここに安らかにお眠りになる廟を造り奉る。
願わくば日本の国土と民衆を兵庫県民を神戸市民を守護したまえ 昭和55年2月 能福寺第24世貫主・弘善識』
境内に「当勝稲荷大明神」があった。『当勝稲荷(とうかついなり) 岡山県由縁の最上位経王大菩薩を本尊とする。五穀豊穣・商売繁盛・開運など多くの福徳を備える。「当勝」は訓読では「まさに勝つべし」となり勝運に通ずる。
おみくじ 平安時代の天台僧・慈恵大師良源が観世音菩薩に祈念して得たお告げを江戸時代になり、南光坊天海が人々の困難を救う処方箋として民衆に開示した。これが「おみくじ」の起源と言われる』
「汽船・豊瑞丸沈没死者追悼記念碑」があった。調べてみたら、1856年イギリス製で、薩摩藩が1864年購入命名した。慶應4年(1868)2月「孟春丸」「雄飛丸」とともに、日本初の艦隊行動を行い、大阪から横浜まで兵員輸送した。1868年は明治元年なので、江戸城攻略戦のロジスティクスとして使用されたようです。
1868年、東出町の薩摩屋が薩摩藩から借り受け、神戸〜鹿児島航路に使用し、後に台湾航路に使用された。明治29年(1896)6/13広島県大久野島灯台付近で、汽船河野浦丸と衝突し16人死亡だそうです。
高貴な装飾が成されている本堂は「月輪影殿」で、『歴代天皇陛下参拝 九條公爵家拝殿 元在・京都東山「月輪御殿」 明治16年(1883)建造 昭和28年(1953)御下賜移築・施工株奥谷組 平成9年(1997)12月解体修理・監修考証・施工・株金剛組』
日本一(世界一?)長い歴史を刻んでいる会社・金剛組ですね。『本殿は、もと京都東山の歴代皇族の墓陵「月輪御陵」にありました九條公爵家(大正天皇の御妃貞明皇后きまのお里方)の拝殿で明治、大正、昭和の歴代天皇陛下が京都に行幸された際には必すご参拝あそばされたといわれる最も由緒高き歴史建造物であります。
特に明治陛下がご参拝あそばされた際には、きらびやかに正装した女官数十人が本殿に侍り、陛下をお迎えした光景はさながら一幅の絵巻物のようであったと伝えられております。
奇しくも昭和28年(1953)宮内省と九條家より能福寺に特別に御下喝され、移築されました。去る平成7年1月、阪神大震災により大破致しましたが、同9年12月、檀信徒の総力を結集して旧姿に復しました。 重要建造物震災修復補助金交付認定建造物』
『京都・青蓮院門跡・旧院家(いんげ) 能福寺は、京都五箇室門跡の一つ、栗田の青蓮院門跡の旧院家である。
青蓮院は門跡寺院の中でも最も格式の高い「宮門跡」として歴史上その名を知られる。門跡は鎌倉時代より天皇及び親王(皇子、現今の皇太子)が門跡に就任されるが、親王はご幼年でなされることが多い。このような幼少の御門主に礼儀作法、学問、文芸等の教養を教授して差し上げる師範役を「院家」と公称し、朝廷公認の役職である。(現在の学習院教授に相当)又、幕府に対して公然と対応できる地位にあった。院家は内裏(宮中)との折衝役を務め、御門主不在(ご病気、空位)の時は門跡公式代理を務めた。
能福寺は、院家職が明治維新に皇室典範の制定により廃止になる迄、江戸時代初期以来二百数十年にわたって高貴な要職を務めた京都以西では唯一ケ寺「旧院家」の格式を今に留める寺である』
何故こんな本堂の移築が許されたか不思議だったが、こんな格式を持った寺院でした。
『本堂・月輪影殿祠堂 本尊:阿弥陀如来坐像 脇侍:観世音菩薩立像・大勢至菩薩立像 全て藤原時代後期・木彫 播州・太山寺請来』
『ジョセフ・ヒコの英文碑 我が国新聞の父として、アメリカ・リンカーン大統領と握手した唯一の日本人として、下田の港で開国を迫ったペルリ提督の通訳として有名なジョセフ・ヒコ(浜田彦造)の手になる英文。神戸港に着いた外人客が神戸のマスコットであった「兵庫大仏」に多数参拝に来たところから、19世住職・加藤慈晃師が依頼して、寺の縁起を英文で紹介したものがこの碑である(明治25年頃)我が国最初の英文碑と言われている』
『兵庫の豪商・北風正造顕彰碑 兵庫廻船問屋 兵庫新川開発発起人 明治元年、鳥羽伏見の戦いの時、有栖川宮が東征総督として征途につかれた際、駿馬と3000両を軍に献上した。姫路藩が官軍の攻撃を受け城下町が戦場になろうとした時、仲裁に入り軍需金15万両と引きかえに紛争を解決させた巨人。現在日本一のお城「白鷺城」が無傷で現存するのは、この人のお陰である。明治元年3月、兵庫裁判所御用掛、商法司判事、権大属などを歴任。同7年新川社を起こし、兵庫新川開発事業に関係し、米商会所、第七三国立銀行などを創立し頭取となった他、神戸製茶改良会社、神戸船橋会社の創立など、実業界に貢献した兵庫きっての豪商であり、神戸発展の功労者である。明治28年12/5没・62才。当能福寺檀徒。この碑の文字は伊藤博文、明治29年兵庫県知事・周布公平建立』
大仏を拝みに行く。
『兵庫大沸尊像 明治初年、大政官布告により神仏分離令が発せられ、廃仏毀釈により仏教界は壊滅状態だった。この時兵庫の豪商南条荘兵衛の一大発願により兵庫の民衆はもとより仏教界全宗派を挙げて巨大な盧舎那大仏が建立された。以来、奈良・鎌倉とともに日本三大仏に数えられる。その後この兵庫一帯は大いに栄えて神戸一の繁華街を誇り、香の絶ゆる間なく内外の参詣者で賑わった。映画解説者の淀川長治氏は、この境内の活動写真を愛され、漫才の故砂川捨丸師匠・松竹新喜劇の故渋谷天外師匠の初舞台もごの境内の掛小屋だと、自ら語っておられました。今次大戦の敗色濃い昭和19年5月金属回収令により悲しみに沈む多数の市民に見送られ出征された。平成3年5月多くの市民の強い要望により、市内の有力企業多数の協賛を得て、実に47年ぶりに再建された真の「民衆立」の信仰大仏である。
身丈11m・耳の長さ2.1m・蓮台3m・台座4m、地上よりの総高18m・重さ(蓮台とも)60T』
『天台宗 能福護国密寺 開基:伝教大師最澄上人・延暦24年(805) 本尊:伝教大師御作・薬師如来立像 御前立:弥陀三尊仏(藤原時代後期の優作)・十一面観世音菩薩立像(弘仁年間の秀作)国指定文化財 今から千年以上も昔、延暦23年(804)桓武天皇の勅命を受けて支那に留学せられた伝教大師は、その帰途兵庫和田岬に上陸、庶民大いに大師を歓待し、堂を建立して教化を請うた。大師は御自作の薬師如来像を御堂に安置して国の安泰、庶民の幸福を祈願して自ら能福護国密寺と称された。即ち伝教大師の我が国最初の教化霊場である。平清盛公福原遷都の時(治承4年1180)平家一門の帰依あり、小川忠快法印(平清盛公の甥)七堂伽藍を完備して、兵庫随一の勢力を誇り、福原京五山の第一に居し依って通称「福原寺」と称した。寺の壮大な外観から「八棟寺」とも称された。平家滅亡後、暦応4年(1341)震災により全焼、慶長4年(1599)明智光秀の臣、長盛法印堂宇を再建した。本朝編年集に曰く「仁安3年(1168)11月平清盛、能福寺に於いて剃髪入道す。養和元年(1181)2/4京西八条に於いて死去・64才。翌日火葬とし、圓実法眼全骨を福原に持ち来たり。能福寺の東北に埋むめ。これは清盛公の遺言によるものである。圓実法眼は当時の住職にして徳大寺家祖・左大臣・実能公を父とする出虚正しき人物である』
三大大仏ということだが、戦時に金属供出してしまったので、他の2像に比べ見劣りする。でも、謂れでその歴史を知り、今や想像できないほどですが、この大仏が人を呼び繁栄を極めた兵庫の歴史を知ることになった。今や神戸の中心はJR・阪急・阪神鉄道駅のある三宮ですが、栄華盛衰を感じました。
バイクに戻ろうとしたら、「アンケートお願いします」と声を掛けられた。神戸市観光協会のアンケートのようで、一問一答形式で用紙にチェックを入れていました。これに5分ほど費やしましたが、こういうアンケートに応じる方は少ないし、観光客そのものが少ないので感謝され、小中学生女子が好むようなファンシー経ボールペンを3つももらった。
14:14「医王山・薬仙寺」「萱の御所跡碑」(平清盛が後醍醐天皇を例風幽閉した地)・「福原西国第一番霊場」。兵庫七福神(寿老人)。『薬仙寺(時宗) この地は奈良時代行基菩薩が開いたと伝えられる大輪田の湊に接し、平安時代にはたびたび千僧供養が行われたところである。承元元年(1207)法然上人が讃岐へ下る時、ここへ立ち寄り大衆を教化され、文久元年(1861)には、英国初代公使オールコックの一行が兵庫開港予定地を視察するため宿泊した由緒ある寺院である。 重要文化財 木造薬師如来坐像・絹本着色施餓鬼図』
『花山法皇歌碑 第65代花山天皇(968〜1008)は若くして妻を失い、藤原氏の策謀で譲位、19才で出家し三田市花山院に隠棲した。こよなく大輪田の海を愛し、しばしばこの寺に滞留したと伝えられる。その縁によっていつの頃からこの歌碑が建立された。古碑のため判読しにくい。 「有馬富士ふもとの霧は海に以て 波かと聞けば小野の松風」』
『詠歌踊り念彿連名 右:萬延元年碑(1860) 左:嘉永5年碑(1852) 時宗開祖一遍上人は踊り念仏とお札くばりを(南無阿弥陀仏のお札を配って歩く)布教の中心として全国を遊行した。そして正応2年(1289)この兵庫の地で没した。この関係で兵庫津では踊り念仏が盛んであった。また江戸時代から福原西国霊場巡拝もさかんとなり、御詠歌と踊り念仏をミックスした娯楽的な兵庫の庶民的芸能が生まれた。この連名には兵庫津の有力町人や夫人たちの名が記され踊りが盛んであった様子がうかがわれる。民間芸能研究の貴重な資料の1つとされる』
六地蔵があった。『大施餓鬼会日本最初之道場』。『萱の御所蹟碑 「牢(楼)の御所」ともいい、平清盛が後白河法皇を幽閉した建物で、3間四方の粗末な造りであったという。(平家物語)伊豆国に流された際に源頼朝と出会った文覚上人は、後にこの御所も忍び入り平家追討の院宣(上皇及び法皇の命を奉じて出す文書)を賜ったと伝えられている。ここより北東方向100mの地点にあったが、昭和29年の新川運河拡張工事によって水中に没するため、当寺境内に移設した』
『神戸大空襲犠牲者慰霊碑 今時大戦中神戸は、空襲により大被害受けた。中でも昭和20年3/17・6/5の大空襲被害は大きく、市街の大半を焼却し多くの生命を奪った。市民は二度と戦争の惨禍をおこさない決意を新たにし、あわせてその犠牲者1万人の霊の安らかならんことを心から祈念し、遺族市民から寄せられた浄財によってこの碑を建立した。
除幕:昭和50年3/16 碑石:大阪府下能勢の黒御影石・10トン デザイン:環境造形Qグループ 卍:焦熱地獄の熱風と平和の風を象徴』
『福原地区空襲被災者供養塔 福原・新開地は神戸随一の繁華街であった。神戸大空襲ではこの町に働く女性たちも炎の犠牲になった。長らく当寺境内に卒塔婆を建て供養してきたが、ここに新たな碑を建立し、とわに被災者の霊を鎮めるものである。 除幕:平成元年3/10 施主:福原柳筋振興会』
『後醍醐天皇御薬水 薬師出現古跡涌水 当寺本尊薬師如来(国重要文化財)示現の霊泉である。元弘の変(1333)の時後醍醐天皇が隠岐の島より還幸の途中、兵庫で病床に伏した。当時の住職がこの霊水を薬水として献上し服用せしところ、たちまちご快癒された(薬仙寺縁起絵巻より)』
『戦災・震災モニュメント 大輪田橋は、神戸の誇る名橋として全国的に知られている。1945年(昭和20)3/17の大空襲では、橋近くに避難した500名を越す市民が犠牲となり、橋も焼け焦げた。その半世紀後、1995年(平成7)1/17の大震災でも大被害を受け、親柱などの石材が崩落した。修復にあたり旧石材破棄するに忍びず、その一部をモニュメントとして保存した。大空襲・大震災の惨禍を後世に伝え、犠牲者に鎮魂のまことを捧げるものです。 デザイン設計監修・京都精華大学・小林陸一郎教授(彫刻家)』
14:31「JR和田岬駅」。JR山陽本線・兵庫駅の支線終点駅で、三菱重工業のための駅です。バイクで走り出すと、14:36「ノエビアスタジアム神戸」がありました。Jリーグ「ヴィッセル神戸」のホームスタジアムです。僕は仕事の関係でサポーターになってるので、ステッカーや優先チケットが送られてきますが、一度もここに来たことがありません。海からは独特な形のドームを見ているのですが、おおまかな陸上位置が頭に入りました。
14:45「神港マリーナ」。パワーボートばかり並んでおり、PADIの事務所がありました。バスボートより速そうな大きめのフラットボートが並んでいます。運河を挟んだ対岸にもマリーナがあるので、そちらを見に行こう。
14:51「神戸ハーバーマリーナ」。大型上下架クレーンがありますが、こちらもパワーボートばかりでした。こちらはプロダクション・ボートばかりで、神港マリーナのような独特のボートはありませんでした。クレーンの海側に係留桟橋があり、ビジターやホーム艇の休憩も出来そうです。
メインディッシュの平清盛関係史跡巡りは少ししかできなかったけど、帰路につきます。R43〜R171で帰宅しました。

2017/12/17
家内が同業者と神戸にアンサンブルを楽しみに行く日です。東京芸大でのピアノと声楽のアンサンブルだそうです。同業者の関西女性部会リーダーさんが以前知り合ったコンビを神戸に招待して、みんなでクリスマス&忘年会企画として演奏してもらうそうです。神戸駅前のお店を借り切ったそうです。
家内は県の部会長なので、事前連絡や会場設営などの仕事があります。数日前、役員の当日の仕事内容の連絡がありました。色んな仕事がありますが、その中の1つに「コンサート後皆さんで食べるケーキを用意する」というものがありました。ケーキ屋さんは、講師として話を聞いたことがある社長&パティシエさんが経営している「ツマガリ」です。
これを見て、家内が「香櫨園だから、私に回ってくるよね。どうして行くんだったっけ?」と僕に聞いてきました。津曲さんの話は僕も家内も仕事関係で別々に聞いたことがあります。話がソフトで楽しく、休憩時間にツマガリのケーキが出るし、お土産にツマガリのビスケットももらえるので、いろんな業界に講師として引っ張りだこのようです。
そんな関係で、香櫨園界隈をハイキング散策した時お店に寄ったことがあります。それを思い出そうとしたようですが、極度の方向音痴の上に僕にくっついて行っただけだから行けるはずがありません。
「神戸に集合する前に、車で僕らが受け取りに行けばいいじゃん。車で神戸まで運ぶよ」。いっぺんに家内の顔が明るくなり、「そう、ありがとう」「だって、数人で神戸から香櫨園に出て、40個のケーキを電車で運ぶなんて大変じゃない」。「神戸に集合せず、私が主人と車で取りに行く」とリーダーに伝えといたらいいよと家内に伝え、僕の母校アメリカンフットボール部の甲子園ボウル観戦はキャンセルとなりました。「せっかくの休みだから、どこかに行こうと思ってたんじゃないの?行き方さえ教えてくれたら私はいいよ」と家内は言っていましたが、こんな点数稼ぎのチャンスを逃すとダメでしょう。日頃食事や掃除・洗濯など僕の快適な生活全般の全てを提供してくれているので、少しでも返しておかなくちゃ。
タイムスケジュールは、11時にケーキ出来上がり〜13:00会場集合〜13:30コンサート開始〜15:00終了茶話会〜16:00お開き〜役員は演奏者2人と京都のホテルへ〜夕食〜21:00京都解散です。リーダーは京都の方なので、2人に京都のホテルを取ったようで、月曜日は京都観光案内でもするのでしょう。人付き合いのとても好きな方だそうです。
家内は、21時に京都で解散なんて遅いし〜なんて言っています。「じゃあ、サボればいいじゃん。神戸港の世界一のクリスマスツリーやルミナリエを観に行く?と誘うと、「行く〜」と即答しニッコニコです。こんな少女みたいなところが好きです。この子良いわ〜。
ケーキを車で運んだ後、帰宅して通勤リード110に乗り換え、平清盛所以の神戸史跡を巡り、16:30に家内をピックアップすることに決めました。
当日朝が開けると、寒いけど上天気でした。朝ごはんを食べ着替え、8時から活動開始です。町内会の年末大掃除の日です。各家庭は家の周りの溝などを掃除します。園芸部は町内会花壇周辺、廃寺周辺掃除も定期的に回ってきますが、我が家は今年どちらにも入っていません。
家内は別の場所の草刈りに行きます。そっちの仕事はちょっとなので、僕は自宅周りです。リョービ電動刈払機で垣根を刈ります。延長コードを2連結し、サツキを整えます。道路に落ちた枝葉を竹箒で履いて全て側溝に落とします。小ぶり熊手箒で側溝内の枝葉を数ヶ所に集め、手作業でゴミ袋へ。掃除をするご近所さんと適当に話します。今年も柚子が豊作で、ご近所さんに配っています。1本の木なのに100個ほど実り、既に数個自然落下しました。
この作業で9:30になり、車の外見をマシにすべく、庭の蛇口からホースを伸ばし水洗いします。ホースが経年劣化でネジレが元に戻らず、蛇口いっぱいひねってもドバっと出てきません。巻取りプラスチック部分もボロボロ欠けるし、そろそろ買い替え時のようです。家内の仕事関係の方と会うので、車が汚れていたら家内の肩身が狭くなります。25日の定期点検で洗車をお願いしているので、ワックスや撥水などはナシの単なる水洗いです。
アンサンブルを聞きに行くお出かけ洋服に着替え、用意万端整った家内が、「もうすぐ10時よ」と家から出てきました。10時数分前に洗車を終え、慌てて着替えます。そこにあるものを着る僕も、家内の値打ちが下がらないようにマシな格好をします。
10:10頃家を出て、R171を西宮に向かい、大昔僕が通った幼稚園前を通ります。「西宮」の地名の由来になった「廣田神社」前というバス停でいつも降りていました。3年保育の1年目4才から、幼稚園の教育方針で1人で通いました。親は決められた場所より先に子供を送っていってはいけません。1週間目から園の前の長い階段下まで、2週間目からこのバス停まで、3週間目は電車の駅まで・・・という感じで、入園1ヶ月後には家から定期券を2つ首からブラ下げて、歩いて駅まで行き、最寄り駅で下車し、バスに乗り通園します。
今なら考えられないことですが、これが出来ない子はおらず、定期券を持っていることをいいことに、友達と逆方向バスに乗ってどこに行くのか冒険したり、途中下車したり、4才児の能力は無限大です。
10:40「ツマガリ」到着。大繁盛店なので、店舗前にガードマンが4人おり、駐車場整理をしています。本店は小さなお店ですが、クリスマス・デコレーションされています。店員さんとお客さんがいっぱいです。僕は予約したケーキが出来るまで店の外で待ちます。おじさん店員さんが、温かいお茶を振る舞っています。僕も温まります。
多分少々お高いのでしょうが、客層が良く奥様やお嬢さんのファッションを見ているだけで目の保養になり飽きません。西宮山の手・芦屋の邸宅の御用達なのでしょう。小学生やそれより小さなお嬢さんを連れたお若いお母さんはお洒落です。次男のお嫁さんとすみれちゃんも、将来こんな風になるのだろうな〜なんて・・・
ケーキの用意が出来たようです。荷物持ちとして家内の横に行きます。1個500円弱のケーキを40数個、紙皿と使い捨てスプーン、アンサンブルメンバーさんへのお土産のお菓子、会員さんの今月誕生日の方がおられるようで、お誕生ケーキとローソク。1才であるはずないのに、ローソクが1本なのは何故?
それらを車に積み込み、山手幹線〜R43を経て神戸へ。山手幹線は僕の好きな割合新しく整備された道です。西宮・芦屋・神戸東灘山の手を東西に結ぶ道路ですが、高級住宅地の裾野を縫うのでそれなりの規格です。
片側2車線取れる道幅ですが、あえて1車線にして路肩が広いのです。このため荷物降ろしなどで路上駐車していても路肩に停まってるので本線の流れを乱しません。交差点があると路肩部分が狭くなり右折レーンが出現するので、右折車がいても本線の流れに響きません。自転車は広い路肩で安心で、モーターサイクルは四輪が増えて信号待ちが長くなっても路肩利用で前に出られストレスを感じません。「自転車専用道」とか試行錯誤していますが、特に利用指定されていない広い路肩ほど、臨機応変にいろいろ使え使い勝手が良いように思います。
会場は、阪急神戸三宮駅北東の交差点角にあります。12:00車を停め、家内がヘルプ1人の電話を掛けます。車からケーキなどを降ろしていると社員さんが降りてきて、家内と一緒に上がっていきました。
お役目終了で、R43〜R171で13時過ぎ帰宅。すぐに乗り換えて出る予定でしたが、お昼ごはんを食べ、オーバーパンツなどに着替え、寒くないよう家内の装束を用意していたら、YTV「そこまで言って委員会」が始まり見入ってしまいました。観に行きたかった「甲子園ボウル」の中継をやってないかチャンネルを変えてみましたがやってないので諦め、通勤リード110に乗り出発しました。
R171〜山手幹線で神戸へ。15:26「神戸栄光教会」「兵庫県公館」。公館は県の迎賓館です。庭には入れましたが、資料館などは日曜お休みで拝観できませんでした。『フランス・ルネサンス様式の建物 明治期の文化遺産である兵庫県南庁舎(明治35年兵庫県本庁舎として完成)を改築保存したもので、迎賓館部門と県政資料館部門の機能を備えている』
15:42「祥福寺」。麓の東福寺目当てに来ましたが、立派な多宝塔が見えたので寄り道。臨済宗の寺院で、「只今坐禅中につき、境内の散策を固くお断りいたします」となっていた。山門から階段を上がり、本堂境内に入らず中門前から写真を少々・・・。江戸時代創建の比較的新しい寺院で、幕府の人身把握の最前線機関でもあった時代なので羽振りが良かったのか、建物が立派で江戸の雰囲気が残っています。高台にあるので、海が見えます。
帰路、東福寺(当時:上迦寺)へ。小学生の男の子2人がキックボードとスケートボードで遊んでいます。平清盛が隠居後近くに住み寄進したので、当時は立派な伽藍が並んでいたのでしょうが、今は祥福寺に見下され、洒落た一般住宅という感じに見える。
境内に「人生終焉安住の地」と刻まれた石碑が立ち、共同墓を連想させるものが建っていた。シンパク(槇柏)の大木だけが当時の隆盛を知っているのかも・・・。
15:54「祇園神社」。『毎年7/13〜20の8日間、多くの市民に親しまれる「祇園まつり(夏祭)」がある。「牛頭天王由来記」によれば、貞観77年(869年)播州広峰神社から京都八坂神社へ「牛頭天王」(スサノオノミコト)の分霊をうつす途中、その神興がここに1泊したといわれている。以来、当村にもまつり、今日に至る。当神社のそばを流れる「天王川」「天王谷」という名称は牛頭天王の名に由来するものである。なお、本殿横の石灯篭は寛文13年(1673)の希少なものである』
『生島四郎 奉献の石灯籠 生島四郎は、奥平野村の乾八左ヱ門の次男として文化2年(1805)に生まれ、24才で松屋(生島家)の養子となり、明治19年81才で没した。神戸村の大庄屋を勤め、地主と酒造業・廻船業などで家業の繁栄を築き豪商として知られていた。幕末、勝海舟と共に神戸港開港、外国人居留地の開拓に尽力し、神戸の歴史に名を馳せた』
帰宅後調べてみると、生島四郎はこの神社の近くに住み、勝海舟は生島邸に寓居しながら神戸海軍操練所に通っていたそうです。坂本龍馬も操練所時代ここに通っていたのでしょう。
急な階段を上がって境内へ。『1167年(仁安2年)、平清盛が太政大臣を辞し、病のため出家して、10年以上に亘り居住された地が祇園神社周辺の「平野」です。その間、大輪田泊の修築、経ヶ島の築造、対宋貿易等の大事業を行いました。1180年(治承4年)には、わずか6ヶ月の短期間でしたが、都を京都から福原へ遷しました。都が置かれたこの広大壮麗な地は、栄華を誇った平家一門の別邸が点在し、情緒に富んだ街並みだったことが推察されます。
清盛公は、豊かな国造りを目指し、日宋貿易の拠点であった大輪回泊に、波浪を避ける目的の人工島「経ヶ島」を築造する際、祇園神社の裏山にあったとされる潮音山上迦寺(現在は廃寺)で、海潮の響きを聞きながら、その計画を練ったと言い伝えられています。
市街地から港まで一望できる当社の境内から、当時の清盛公と同じ想いに馳せてみては如何でしょう』
先程訪問した東福寺は、この社の裏山にあったのですね。平家の凋落と運命をともにし、現在はその後起こった祥福寺の後塵を拝しているようです。東福寺と祥福寺、音が似ているのに当時のこの地の人々の思いを感じます。
『祇園神社 御祭神:素養鳴尊(すさのおのみこと)・櫛稲田媛命(くしいなだひめのみこと) 例祭日:6/7 夏祭(祇園まつり):7/13〜20
第56代清和天皇の御代・貞観11年(平安時代前期。西暦869)、京の都では、大雨が降り続いて川が氾濫したため疫病がはやり、多くの犠牲者が出ました。この疫病をおさめるため京都の北白川に祇園さんを建てる事になり、姫路市の城北にある広峯神社より素盞嗚尊のご分霊を頂き、京都にお遷ししました。
その時みこしが、この平野の地に一泊され、霊験あらたかなのを仰き、お社を建ててお祀りしたのが始まりと伝えられています。
厄除け・水難除け・疫病除け・商売繁盛・大願成就の神様として信仰されています。蘇民将来のお守り:邪気退散・疫病除けのこよりのおまもりで、家族数を受けて門戸につるし、1年間の邪気をはらい、家内安全・無病息災を析ります。
ちまきのお守り:ちまきは、古来五巻ずつにまとめて神前に供えられましたが、これを門戸につるして悪病災難除けを祈ります』
広峯神社の牛頭天皇の厄除け御札と同じですね。この御札が全国に広がり、広峯神社の神職たちが全国に配布していた。神職であった黒田家秘伝の目薬をその配布網に乗せたので巨額の富と情報が黒田家に集まったと言われている。その当主・姫路城主・黒田官兵衛は、播磨守護・赤松氏一族・小寺家の家老の地位でありながら、別意見の小寺家に判断を仰がず一存で姫路城を織田信長の山陽方面攻略トップ・羽柴秀吉に献上した。これが出来たのは、圧倒的な財政力から来る小寺家内トップの軍事力と情報力を黒田が握っていたからです。
大関・沢の鶴・月桂冠・福徳長・瀧鯉・菊正宗・マルテン醤油・ヒガシマル醤油・・・いろんな酒樽が奉納されている。生島四郎が創業した会社もあるのだろうか?
社紋は織田信長と同じ胡瓜紋でした。本殿(素盞嗚尊・櫛名田姫命夫婦)脇には、皇大社(天照大神)と春日社(天兒屋根命)が祀られていた。本殿は大きくはないが、蟇股や脇障子の彫刻が見事でした。
『烏原(からすわら)神社 御祭神:第15代応神天皇(別名誉田別尊(ほんだわけのみこと)各地の八幡神社のご祭神で、厄除けの神様として信仰されています。 市杵織姫命(いちきしまひめのみこと)海上交通守護の神様でしたが、中世以降仏教と習合し、弁財天ともいわれて芸能上達の神様として信仰されています。 天児屋根命(あめのこやねのみこと)中臣・藤原氏の祖神とされ、春日大社などにまつられています。 稲荷大神(いなりのおおかみ)衣服・食物を司り、商売繁盛の神様としても信仰されています。 例祭日:11/15
古く、石井川の上流の山田村(現在の北区)に通じる道沿いにあった烏原村に創建されましたが、この村は、明治38年5月、神戸市民の上水道建設のために新しく完成した貯水ダム(烏原水源池)の底に沈みました。この工事に伴い、明治31年末までに立ち退きを迫られた98戸・414人の住民たちは、主にその山麓の東・平野から西・水室町にかけて移転し、烏原神社も水室町に移りました。
その後、昭和20年3月の神戸大空襲で本殿・社務所等建物はすべて焼失し、さらに平成7年1月の阪神淡路大震災で、鳥居・燈寵など石造物もすべて倒壊しました。震災後10年を機に関係者相談を重ね、平成18年6月7日、ご縁あるこの祇園神社の境内にお遷しし、以後この神社でお祀りして行く事になりました』
ここも神戸の街を見下ろす位置にあり、ビル群越しに海が見えます。西に目を移せば、鵯越方面の緑の低山が見えます。
16:30に会場の下のマクドナルドで待ち合わせなので、行きましょう。16時解散で、役員さんは後片付けがあるだろうから30分余裕を持ちました。どちらが早くてもマックで腹ごしらえしながら待つ。
お店の前に着くと、家内が道路で待っていました。「もう終わったの?待った?」「うん30分ほど」、「後片付けは?」「なかった、私以外の役員さんはみんな京都に行っちゃったの」。「いや〜御免、遅れちゃったな。これを着て」とリアボックスからオーバーパンツを出すと、「これ嫌〜かっこ悪いもん。これだけでいい」と朝自分で入れていた黒の厚手のスラックスを持ってビルのトイレに入って行きました。
フラワーロードを海に向かって南下します。ルミナリエ会場の東遊園地公園前は一部の車線が安全マージンで封鎖され歩道を広げているようです。テキ屋が沢山お店を出している模様ですがルミナリエの電飾は見えません。
16:51メリケン波止場「ホテルオークラ」前の駐車場にバイクを入れます。世界一のクリスマスツリーを観に行くことにしますが、「ホテルのトイレに行きたい」とのことでホテルに入りました。ホテルでなくても多くの人が集まるメリケン波止場なのだからトイレはあるはずだけど・・・
ロビー前のトイレを拝借し、家内を待つ間ロビーの海側窓から外を見るとツリーが見えました。まだ日は暮れていないけど、電飾してないぞ・・・。ロビー内のツリーの方が綺麗です。カワサキワールドの特徴ある格子三角屋根が白く光り綺麗です。
家内をエスコートし、甥の結婚式の時知った波止場に出る裏口を目指します。階段で2ロビー下に下り、ヘルスクラブ横のドアから波止場に出ます。受付の方から「行ってらっしゃいませ」。外のホテルのフリースペースもクリスマス電飾されており、これまた綺麗です。「Terrace Garden」と命名されていました。西の空がまだほんのり明るいが、カワサキワールド・ポートタワー・モザイクの観覧車の光が綺麗です。「JAPAN COAST GUARD」の船が数隻基地に停泊しています。
軽四屋台が並んで出店しています。17:12「金久右衛門」というラーメン屋台で「しじみゴールド800円」を注文しました。お隣のフランクフルトの屋台は行列なのにここはゼロです。「美味しくないのかも?」と家内は言うが、「食べログ3年連続大阪1位、東京ラーメンショー第2幕1位、大阪ラーメン覇王決定戦2位、魔法のレストラン出演、メディア露出多数」の垂れ幕が下がっていたし、ラーメンなのに破格の800円だから美味しいのでしょう。横のベンチに座って食べました。
僕らが待っているのが呼び水になったのか、お客さんが並びだしました。相席になった4人家族さんに声を掛けました。「可愛いね、僕は3才で下の子は0才かな?」「惜しい、4才と1才です」「じゃあうちの孫と同じだ。ちょっと小さいから1才下だと思った」「2人共4才と1才になったばかりですので」。お父さんがフーフーしながら「熱いよ、ゆっくり食べて」と息子くんに食べさせています。奥さんも優しそうで社交的で感じの良い家族です。こういう両親の元に生まれたら幸せな人生になるね。
17:30から、ツリーがライトアップされました。対岸の天然温泉と結婚式場の光も綺麗です。ポテト・カレーライス・喫茶・・・いろんな軽四屋台が出ています。ツリーに近づくと、多くのお客さんがカメラを向けています。電飾が枝に掛けられるのではなく、地上からLEDライトが当てられ、浮き上がります。LEDの光量が変わり、色が変わるので、ツリーもいろんな姿を見せます。
バイクに戻ろうと山の方に歩き出すと、神戸市と碇のマークが山に電飾されているのが見えました。バイクに戻り精算100円。おじさんに渡すと、「ほんまは入る時に払ってもらうんだけどね」だって。入る時止まったのに窓を開けてくれなかったので、帰る時に払うのだと思いました。
17:55南京町界隈に停めました。ルミナリエが元町大丸から東行一方通行だと調べていたので北に上がっていくとセンター街に出たので西に歩いて、全品3900円のバッグ屋さんがあり、「買っていったら」と家内に勧め、店内を物色するが「あるから良い」とのことでした。
更にウインドーショッピングしながら歩いて行くと、「なんだか変だな〜」という気持ちになりました。逆に歩いたと思い、南下してバイクを停めた道に出て、その道を東に歩いていく。バイクの前を通り更に歩いていくと、群衆の波が見えてきた。ルミナリエ入口の鮮やかな電飾が見えた。
テディーベアのお店があったのに入ってみる。年末にやってくる孫のすみれちゃんへのプレゼントにいいかも・・・イマイチ気にいるのがなかったようで、夜見たら怖そうな洋風美少女人形の目を見たら怖くなって退出。
交通整理のガードマンさんや警官が、ルミナリエへの道を案内している。その流れに乗ると大群衆の中に入ってしまった。流れに乗っていれば行けると安心していると、流れが止まった。先は大渋滞中のようです。ルミナリエは一方通行なので、入ってしまったらもう引き返せない。あまりの人の多さに恐れをなして退却することにしました。
中華街の大混雑内を歩き、18:40頃バイクに戻りました。家内を乗せ、JR元町駅で降ろし、帰路に着きます。R43〜R171でJR伊丹駅へ。そこで家内に電話すると「バスに乗ってる。もうすぐ家」とのこと。「あ〜負けた」
バイク置き場にバイクを戻そうとしていると、家内が戻ってきて、「おかえり〜」。帰宅し荷物を片付けたら20:00でした。「楽しみな番組が始まるよ、今日が最終回だよ」とTVを点けてくれました。「大河ドラマ女城主直虎」です。やっと井伊直政が活躍し始めたところなのに直虎が亡くなり終わってしまいました。武田から引き継いた赤備えの直政軍の活躍をもっと見たかったな。
風呂に入りおやすみ〜。楽しい1日でした。

2017/12/9
コーチしてる大学ヨット部の卒業生クルージングです。コーチしだして10数年、息子が卒業した時に始めてから、毎年欠かさずやってきました。大学ヨット部は体育会なので、レーシングに特化したヨット部です。同好会やレジャーヨットのように「楽しむ」ではなく、勝負の世界・実力の世界に身を置いて、組織をコントロールし最終目標に向かってストイックに行動することで、将来生きていく上での学びを得ようとしています。
大学学部4年間で完結します。落第して5年・6年学部に在籍しても、4年間しか公式レースへの出場権利はありません。期間が区切られた世界です。
卒業後、大学ヨット部で切磋琢磨したディンギー・レースの世界を続ける者も入るが、多くは卒業して行きます。立派な人生を送るベースは、学業でありビジネスです。大半の卒業生は、どちらかを選択し、ヨットは楽しみの世界・趣味の世界になっていきます。
体育会大学ヨット部では、2人乗りレーシングヨットしか経験できないので、「楽しみ」としてのヨットの世界を広げてもらおうと、もっと大きなヨットを経験してもらおうと始めました。これが好評で、現在は1回生クルージングもやるようになりました。
11月第1週の全日本インカレ団体戦で卒業した卒業生に声を掛け、最も多くの卒業生と私の日程があったのがこの日でした。9名の卒業生のうち6名が参加します。5名の男子選手と1名の女子マネージャーです。
9時ヨットハーバー(YH)集合です。京都から車で来るようなので、僕の駅でのピックアップの必要がなくなり、朝食を食べ7時半に「通勤リード110」でYHに向かいました。R171で西宮へ。
8時に到着し、セキュリティーカードで桟橋ゲートを開け、係留艇に向かいます。歩いて行く途中に最近係留されたデイセイラーが美しい姿を見せていた。まず係留艇に乗り、ドッグハウスを開けハッチを開けて空気の入れ替えです。トイレのポンプも点検します。
バッテリーのメインスイッチをONにして、キーを差してスターターボタンを押します。イグニッションは快調ですが、エンジン点火しない。いつもは一発点火なのに、寒いからストライキを起こしているのでしょう。朝外に出ると、西に見える六甲山の上の方が積雪で白くなっていました。今シーズン初冠雪です。いよいよ冬本番です。
再びスターターを押すとエンジンが掛かりました。係留中は陸電ケーブルを繋いでいるのでバッテリー上がりはありませんので安心です。この陸電はいくら使っても無料なので、ヨットで暮らしている人もいます。僕の先輩にも、奥さんと喧嘩して数日ヨットで生活するのを常としていた方がいました。男の隠れ家的に使っていたようです。奥さんも、いる場所が分かっているので安心だったかもしれません。
8:30になり、卒業生との待ち合わせ場所であるセンターハウスに行きます。途中前述のデイセイラーの写真を撮りました。先週先輩と船に乗った時、この船を初めて見ました。オーナーさんがロープを結んでおり、少し話しました。波のある海面では濡れるでしょうが、ドラゴンクラスより一回り大きなサイズで、僕らのようなもっと小さなディンギー上がりのセイラーが好む感じです。ドッグハウスが小さいので、宿泊クルージングには向きませんが、デイ(日帰り)セイリングをスポーツとして楽しむには最適でしょう。ランニングで言えばジョギングやトレイルランのようなものです。
写真を映していると、お隣さんが隣の船から顔を出されました。「おはようございます。いいですよねこれ」・・・いろんな話をして「今日出られるのですか?」「いいえメンテだけです」「寒いですものね」。漁師のようなプロじゃあるまいし、山に雪がある日に船に来る人はおかしな人だし、まして海に出ていこうなんて人は物好きとしか言えません。
センターハウスで待っていると学生がやってきて、トイレを促します。僕はハーバー・フロントの受付嬢と挨拶を交わし、機械で出艇申告をしました。振り返ると僕が母校でコーチをしていた頃選手であった後輩が入口から入ってきました。「お〜」「おはようございます」「会社変わったよね、今何処にいるの?」「今神戸にいます」「今日はクルージング?」「ええ」・・・。彼は先輩のやってるヨット販売・メンテナンス会社の社員で、うちの船のメンテ全般をお願いしていましたが、辞めて転職しました。
今の仕事は海関係ではないようですが、あいかわらずクルーザーでのレーシング・ヨットを続けています。母校ヨット部今年の卒業生がやってきました。メンバーに学生を加え、練習に出るようです。
彼と別れ、卒業生が揃ったようなので船に向かいます。残念ながら風はありませんが、神戸空港の天気予報では4〜5m/s・S〜SWの風が入るようです。期待しながら桟橋から離れます。フェンダーをスターンに付け替えを指示します。ハーバーから出たところで、ドライブを交代します。風はないので機走のままです。
一文字灯台を出て西宮尼崎港にサヨナラして大阪湾に出ると、弱いブローを感じるようになってきました。メインセイルをアップします。でも風が弱いので機帆走です。六甲アイランド沖の埋め立て地区を過ぎ、神戸空港島がダイレクトに見えてくると、その沖にブローが見えます。Sから風が降りてきたようです。
TANくんにドライブを交代してから3〜4m/sの風を感じるようになり、ジェノアのファーリングを解いてフルセイルにしてエンジンを止めセイリング開始です。今までテイラーで舵を動かしていたので、舵輪であるステアリングになったから最初戸惑います。これはみんなそうです。時々逆に動かして、「あ〜またやっちゃった」と笑っています。
K女子マネージャーさんに交代し、TANくんがサポートします。彼女はレスキューボートの運転担当なので操船に離れていますが、風だけのセイリングは素人なので最初サポートを受けますが、勘がいいのですぐ慣れました。6m/sほどのブローが時々Wから入るようになり、グーンとヒールするのでビックリしています。でも落ち着いているので、安心して見ていられます。
Sくんにドライブが変わるとさらに風が上がり、白波が全面に立つようになりました。ベースが8m/s・ブロー10m/sになり、風向がWになり神戸港までクローズのタッキングになります。予定していた神戸空港島を回ってから神戸港に入るのでは時間がかかりそうなので、神戸空港大橋の下を抜けてショートカットすることにしました。
コンスタントに10m/sブローが入りだし、たまにステアリングを逆に動かすからヒールがグンと入ることがあり、みんなにダメ出しをされています。大橋をくぐってKくんにドライブ交代。彼はセンスが良いので、ずっとスキッパーに転向すればいいと思っていました470級リーダーです。
ワンポイントリーフ(セイルを縮小)したこともあり、船の動きが安定し神戸港に入ります。海賊船型神戸港観覧船も入港して来て、釣り船もおり、狭い入口を注意しながら入りました。観光船に手を振ると、振り返してくれました。こういうのは観光船に乗っている方は喜びます。海で他の船とすれ違うと挨拶として手を振ります。トレッキングで挨拶するのと同じです。
時々利用させてもらう四国高松・小豆島に行くジャンボフェリーが出ていきます。1週間前見たかった「世界一大きなクリスマスツリー」が見えてきました。海上保安庁のPL巡視船がその前で停船しているし、観光船もいるので、セイルを下ろし機走で港内観光します。
女子大前を通り過ぎ、陸にいる親子連れに手を振ると、親子4人が振り返してくれました。PLが動き出し奥の基地に入っていきました。オリエンタルホテル東岸壁に止まっていたレストラン観光船「ルミナス神戸」がバックで離岸しました。クリスマスツリーは、巨大な鉢植えのようになっており、てっぺんからデコレーションラインが下がっています。夜になるとライトアップされるのでしょう。
カワサキワールド南側の岸壁角に設置されており、海から見やすいです。お客さんが囲んでおり、手を振ると振り返してくれます。ルミナス神戸岸壁横を通り、オリエンタルホテル西側に移動します。
正面はポートタワーで、メリケン波止場には観光船「オーシャン・プリンセス」と「ロイヤル・プリンセス」号が止まっています。西側にモザイク・観覧車・アンパンマンミュージアムがあり、ここでも4人家族連れに手を振り挨拶しました。小さな子が喜んで思いっきり振ってくれます。
三菱重工・川崎造船ドッグに接近します。潜水艦がドッグ入りしていました。ここはメンテナンス場所なので、神戸港に出入港する潜水艦に遭遇することもあるし、たいてい潜水艦に会えます。本日は4隻いました。3隻はドッグ入りしており、見えないようにカーテンされていました。しっかり近づくとカーテンを通して見えます。1隻は岸壁に係留中で、海軍旗である日章旗が立っていました。動力が原子力ではないので長期潜行できませんが、スクリュー音が世界一の静寂性を持っており、補足されづらいから戦闘力は世界一です。米軍との模擬艦隊決戦でも自衛隊潜水艦部隊は勝利するので、太平洋戦争当時同様、米軍が最も敵に回したくいない海軍の主力です。
神戸港が初めての子もおり、全員海にいる潜水艦を見るのが初めてなので興奮しています。
アビームの風を受け、ジェノアを展開し、帰路につきます。みんなお弁当タイムです。風は5m/sほどに落ちており、K女子マネさんにドライブが代わり、神戸港を出てランニングの風を受け神戸空港大橋を目指します。橋中央部をくぐり抜け、ドライブをTくんに代わりメインセイルアップします。
Tくんの最初のドライブは風がなかったので、今度は楽しそう。真っ黒セイルのレース艇が練習しています。埋立地角岸壁を交わし、Mくんにドライブ交代。ハーバー前まで来て海上自衛隊・阪神基地を見ると、自衛艦が接岸していました。
15時過ぎにハーバーの桟橋に戻り、デッキブラシでデッキを綺麗にします。センターハウスに戻ると、ノースショップに店長Kさんがいました。顔があったのでKさんが出てこられました。卒業生クルージングであることを話すと、あれやこれや。福井全日本インカレでお世話になったので、学生たちともあれやこれや。特に学連役員として大会運営に当たっていたM君とは「やあやあ」と親しそうに話していました。
1Fカフェ「フリアンディーズ」でお茶にしました。全員「ケーキセット」を注文しました。いろんな話をあれやこれや、16:06トイレに立ったついでに精算(792×7=5544円)し、トータル1時間ほどゆっくりした後解散しました。僕は「通勤リード110」でR171で帰宅しました。ああ楽しかった。

2017/12/10
昨日に続きヨット活動です。この日は母校ヨット部を引退したばかりの4回生に参加を呼びかけましたが参加者がおらず、コーチしてるヨット部1回生に声を掛け直しました。直前の金曜日に声を掛けたのに、希望者が11名(女子選手1名を含め選手10名と女子マネージャー1名)。僕を含め船の定員リミットです。
4時前に目を覚まし、天気予報チェックすると神戸空港は、2〜4m/sの予報。6:30から朝食・服装など身繕いします。家内もお化粧しており、「何時に出るの?」と聞いてみると「お父さんと一緒に出る」との定番の答え。電気・ガス・戸締まりの点検に1人では時間がかかるから、僕に最終点検してもらうと安心して出かけられる方です。
駅まで送っていこうかと聞くと、駅なら何処にでもいいと言うので、「じゃあ待ち合わせ場所の一緒にJR西宮に行こう。みんなに紹介したいから」。「え〜、それなら服装を変えようかな」と言うので、「十分べっぴんさんだからそのままでいい」と言う。「お父さんの言葉はいつもこうだから」と不満顔です。僕には美魔女に見えるんだけど・・・。
7:30過ぎに車で家を出ます。R171を走り、8:10JR西宮北口ファミリーマート前。家内と車内で喋っていると、連絡係のOくんが来ました。ファミリーマートでお昼ごはんを買ってたみたいで、殆どのメンバーが既に着いているようです。家内を皆に紹介し、7名車に乗せます。残り4名はタクシーです。タクシーの方が先に出たと思っていたら、タクシー乗り場にまだいました。
8:39ハーバーに着きましたが、タクシー組に1人駅に着いていない者がいるようで、「連絡つかない1人を置いたまま出て良いでしょうか」と聞いてきました。「出艇時間を遅らせるから、1人の状況を把握してから来るように」と伝えました。
少し時間が出来たので、ハーバー内散策します。ディンギーヤードからセキュリテー・カードで入り、母校他大学ヨット部艇庫が並び、広い艇置き場やスロープを見せました。1回生全員、このYHは初めてですが、来春またここに来て合同練習します。
センターハウスに戻ろうと陸置きヤードに来ると、ドラゴン級メンバーに会いました。今日の年内最終戦に出場するようです。
センターハウスに入ると、今年学部を卒業したヨット部員が3名(元キャプテンO君・A君・K君)がいました。「レースに出るの?」「はい」「誰の船に乗るの?」。4回生女子マネージャーFさんのお父さんと乗るそうです。話していると、Fさんとお父さんも来ました。お父さんも元大学ヨット部員なので、あ〜だこ〜だお喋りします。
お父さんがレース前艇長会議に行かれたので部員の所に戻ると、すぐにタクシー組がやってきました。全員揃ったので、出艇申告して船に向かいます。桟橋ゲートをカードで開け、船へ。ライジャケを着て、桟橋を離れます。風がなく、本日もしばらく機走になりそう。
皆は活動してる柳ケ崎YHとは大きく違う規模のYHに驚いています。ハーバー防波堤を出てステアリングを交代します。阪神基地の方を見ると大型艦船が止まっているようです。目的地を変更し、そちらに向かいます。掃海艇・駆逐艦・潜水艦が係留されていました。お客さんが大勢艦船に乗られており、制服自衛官が説明している様子が見えます。手を振ると、制服自衛官まで手を振ってくれました。
六甲アイランド東海岸沖を南に走り、コンテナ埠頭を西に走り、コンテナ積み下ろし作業を見ます。沖の防波堤が切れたところで南に進路変更し、神戸空港方面へ。神戸空港大橋の下をくぐり、神戸港に入っていきます。ダミーマスト・ダミーセイルを付けた観覧船「オーシャン・プリンセス」が入港してきて、ジャンボフェリーが四国高松に向かって出ていきます。
女子大前を通過し、結婚式場前を通っている時、黒服のスタッフが出てきて僕らに手を振ってくれました。もちろん振り返します。「世界一大きなクリスマスツリー」を見学し、モザイク前に移動し、あれこれ海から神戸港を見学し、帰路に着きます。ブローに入ると短いセイリングを繰り返しながら、風がないので基本機走で戻ります。神戸空港大橋をくぐり、大阪湾のレース海面が見えてきました。数艇が帆走していますが、レース中の感じがしない。
最後に女子マネTさんドライブで、全員ステアリングを経験しました。ハーバー前まで戻り、メインセイルをダウンし、ジェノアをファーリングして、僕にステアリングを代わります。芦屋YHに入っていきます。関西一のブルジョア・ハーバーを見せ、桟橋付き邸宅を見せます。
新西宮YHに戻り、後片付けします。センターハウスに戻ると、レースに出ていたOB3名がいました。風がなかったのでレースは成立しなかったようです。1Fカフェ「フリアンディーズ」でお茶します。僕は前日に続きケーキセット(コーヒー)。このお店はコーヒーおかわりOKです。
あれやこれや話し、隣接のショップを各自見学し、お開きにしました。ケーキセット792+珈琲463×5+キャラメル珈琲669×2+カフェオレ566×2+アールグレイ597+フラペリッチ699=6873円。タクシー組は無料電話でタクシーを呼び、再び7名を車に乗せ(駐車時間8:39〜16:26)JR西宮駅に送ります。ここで「さよなら」し、R171で帰宅しました。
家内は既に帰っており、この日の行動を聞きます。中山寺にお参りしてきたようです。長男のお嫁さんに3人目が宿ったので、安産祈願です。息子2人とも中山さんで安産祈願し腹帯を授かり、無事の出産につながりました。
「モヤモヤさまーず」「大河ドラマ女城主直虎」を見て「おやすみ」。楽しい1日が終わりました。

2017/12/3
先輩に声を掛け、久しぶりのクルージングです。2週間前、コーチしてる大学ヨット部の卒業生クルージングを企画しましたが、メンバーが集まらず次の週に変更しました。ならばと、母校ヨット部の卒業生クルージングしようとしましたが、関西地区の公式戦とバッティングし、4回生は皆レース運営に回ったのでダメ。ヨット部同期に声を掛けるもダメ。クルージング熱を冷ますために先輩に声を掛けました。
9時出艇なので、7時半にバイクで家を出るつもりでしたが、家内が神戸に行くので送って行けとのお達しが発せられました。仕方なくバイクを諦め、車で阪神西宮まで送ります。家から近い駅でも良かったのですが、お化粧の時間がないということなので、車中でお化粧するので駅まで30分の阪神西宮を選択しました。
R171を走り、8:22「ブンイレブン西宮マリナパーク店」で、プレミアムバウム321円・プレミアムひねり揚108円・プレミアム洋菓子ミックス345円=774円を購入。昼食用に、昨日残ったバナナを1本家から持って来ました。
8:26ヨットハーバーP。桟橋ゲートをカードで解除し、30分前に係留艇に行きます。ドッグハウスを開け、バッテリーONしエンジンスタート。一発点火です。冷却水もしっかり出ており問題なさそう。ドッグハウス内のカーテンを外し、バウのハッチを開け、船内の空気を入れ変えます。船が桟橋から離れているので、ロープを引っ張り桟橋に近づけます。先輩たちが海に落ちたら大変です。
あれやこれや準備しているうちに、SA先輩がやって来ました。あれこれ話していると、S先輩がやって来ました。メンバーはもう一人Hさんが来るそうです。9時になっても来ないので、S先輩が電話すると3人乗りドラゴン級レース艇バースにいるという。10分ほど遅れてHさんがやって来て、ドッグハウス内の臭いの原因を調べる。これが原因で、先輩たちは前回のロング・クルージングを断念しました。
Hさんメインに僕もエンジンルームを覗き込み、燃料フィルターからの燃料漏れがあるように結論づけ、ちょうどバースにいたプロメンテナンスの方に電話し、見てもらいます。間違いなく、そこが原因のようです。ネジ蓋を止めるワッシャとパッキンの経年劣化のようです。メンバーのM先輩に電話してヤンマーメンテナンスに直してもらいましょう。Mさんはヤンマーの偉いさんなので、メーカーメンテナンスがやって来てくれます。
遅まきながら10時に出艇。S先輩から「須磨に行こう、Kに電話するわ」と。須磨YHのハーバーマスターは、S先輩と同期のK先輩でこの船の共同オーナーメンバーです。母校ヨット部の先輩と組んで持ってるので、学生時代同じ釜の飯を食った間柄だから、信頼感が強いです。誰かがミスをしても、攻める人は誰もおらず、もう何年この関係で遊んできたか・・・。僕はいつまで経っても下っ端ですが、信頼できる先輩を持ちありがたいです。
風が弱く2m/s程なので、機走で走ります。S先輩が出艇時はドライブしましたが、「・・(僕)交代」の声がかかり、僕にチェンジ。先輩方はビールに手を伸ばします。僕は飲めないこともありますが、イザってときのために後輩はシラフでいなきゃなりません。暗黙の了解、最近流行りの言葉では忖度ということです。
セイルを上げていないので、オートドライブにして時々コンパス角度を「ピッ」と1度動かすだけです。あとはオートでステアリングが動き楽ちんです。神戸空港の沖(南)を西に向けて走ります。冬の空気になっており、明石海峡大橋がクリアに見えます。神戸空港からエアドゥーやスカイマークの旅客機が飛び立って行きます。
神戸空港島をクリアし、明石海峡大橋の本州側付け根を正面にセット変更します。液晶が漏れたようで、デジタルコンパスが見にくい。SA先輩から「須磨は高いビルの付け根やで」と教えてもらい、更にコース変更。そう言えばこの4人のメンバーは、今年のGW和歌山マリーナシティーに1泊クルージングしたメンバーです。
11:33「須磨YH」。桟橋にK先輩が立っており、「こっち」と手招きしてくれています。入港前にS先輩が「後5分で着くよ」と電話していました。先輩方がもやいロープとフェンダーを用意してくれたので、僕はドライブするだけで楽でした。
減速して桟橋に接岸。1時間半と、予想より早く着きました。神戸空港島沖を走り須磨にディレクションを変更から、時々後ろを振り返りましたが、なんとなく明石海峡大橋の方(西)に流されている感じがしました。連れ潮で、艇速以上に対地速度が出ていたのかもしれません。潮流表をチェックして来ませんでしたが、帰路は潮流が反転し、帰りも連れ潮で速いかもしれません。
K先輩から「・・(僕)、オフィスでサインしてな」「はい」。トイレに行ってからハーバー・オフィスに行くと、SA先輩が係留受付サインしてくれていました。K先輩から「後からGZが来るよ」との情報を得て、そのメンバーに見つからないお店に昼食を食べに行くことにしました。GZは10才ぐらい上の母校先輩方が組んでるクルーザーです。S先輩やSA先輩の更に上なので、見つかったらこき使われます。
オフィスにあった近隣飲食店パンフレットをもらい、うどんを食べに行きます。ハーバーを出ると、横は須磨水族館です。次の正月、帰省する次男一家と共に来ようかな?と思ってる候補地です。
R2を陸橋で渡っていると、Hさんから「メグロのW1がいる」との声がかかりました。僕と同じくHさんもバイク乗りです。「ビンテージ物のW650W1だそうです。排気量の割に図体がでかく見えます。R2に面して、「BIKE SHOP 兵庫メグロ神戸」というお店があり、その前のR2にバイクが止まっています。塗装も綺麗で、Hさんによるとなかなかの代物のようです。
R2から1本枝道を入ったところにあるお店でうどんを食べ、ハーバーに戻ります。「TREK BICYCLE STORE」もありました。SAさんも僕同様ロードバイクに乗るので、ウィンドウ内の展示車を覗き込みます。僕がロードバイクなのに、サドルをお尻に優しいママチャリ用のベネ付きに変えたなんて話をすると、「オール自分で組み立てたノーブランド・バイクを譲って貰ったけど、最近乗ってないんだ」とSAさん。
正月の息子一家の帰省の時、須磨水族館も遊びに来る候補に入れていると話すと、「その前の須磨海岸はいいぞ。ピチピチ・ビキニ・ギャルがわんさかいるぞ。持って帰りたいぐらいや」と。学生時代に一度だけ来たことがあります。僕は小心者なので、大学キャンパスでは声を掛けられるけど、ほぼ裸の女性には無理そう。遠目ならいくらでも見れるけど、相対したら目のやり場に困ります。
ハーバーオフィスに行くと、ちょうど1時間でした。桟橋に戻ると、S先輩・K先輩と高校同期の方がおられました。奥さん・ワンちゃんとグランド・バンクス(高級モータークルーザー)で遊んでいるようです。船内を見せてもらいました。同じくグランドバンクスに乗り換えた中古を買ったそうですが、まだまだ綺麗でした。
西風が6m/sほど入っており、一気に西宮に帰れそうです。12:53、SA先輩ドライブで桟橋から離れ、沖に出てからセイル・アップします。メイン・ハリヤードが途中で引っかかり上がりません。一旦下げて再度トライすると上がりました。マストの中で他のロープと干渉しているのかも?ハリヤードをワイヤーからロープに変更したからかもしれません。
ジェノアも展開し、今度は神戸空港島と神戸港の間を通って帰ります。神戸港のカワサキワールド前の広場に、世界一大きなクリスマスツリーがお目見えしたとニュースでやってたので、寄り道しよう。沖を神戸港からの遊覧船2隻が走っています。明石海峡大橋からの帰りでしょうか?大人1500円ほどの料金で1〜2時間クルージングしてくれます。コストパフォーマンスの良いデートプランだと思います。
そう言えば、GW和歌山から淡路島経由で帰ってきた時ミートし、進路がわからず困りました。こちらは10m/sほどのジェネカー・セイリングで快調に走っており、進路をどうしたものか迷いました。淡路島沖で僕にドライブを交代してから良い風が入りだし、めちゃ楽しかった。後半戦を楽しもうとS先輩に代わってしばらくしてから、ルミナス神戸が急速に近づいてきて、S先輩の気持ちを折ってしまいました。ルミナスが僕らの前を横切り、すぐにUターンして僕らの後ろを切って行きました。それなら、僕らとミートする前にUターンしてくれたらいいのに・・・
2隻のルミナスが僕らの前を横切って神戸港に入っていきました。SAさんの気分が変わり、「このまま寄らずに西宮に帰るぞ」「はい」。神戸港入口を過ぎ、目を凝らすとメリケンパークのオリエンタル・ホテルの東側に木のような円錐形の緑の物体が見えました。「あれがツリーかな〜」と見ていると、太陽光を反射してキラキラ光っています。ツリー飾りが煌めいているのでしょう。ビンゴ!
神戸空港大橋をくぐり、神戸空港から関西空港に向かう高速船に抜かれ、神戸空港島に東へ。旅客機とともに、ヘリコプターも飛んでいます。14:50、六甲アイランド沖一文字防波堤の白灯台をクリア。15:18桟橋着。帰路はずっとSAさんがステアリング持ちでした。
船を片付け、Hさんはドラゴン・バースへ。S先輩とSA先輩はアルコールを飲むのでバス電車で帰るようで、僕が駅まで乗せることにしました。「8:26〜16:16、新西宮YH・P料金800円」。家内を送るために車で来たので、先輩方を送ることが出来ました。阪神西宮駅下で先輩方を降ろし、R171で帰路に着きます。
17時、帰宅しても家内はまだでした。夕食を食べ、風呂に入り、いつでも起き出せるようセーターをまた着て、18時台に寝てしまいました。目覚めたら22:30になっていました。「やばい!家内は帰って来たのだろうか?」、階下に下り家内の部屋を覗くと、スヤスヤと寝ていました。一安心すると共に、「家内からのお迎え依頼電話に目が覚めなかった自分の不覚にがっくり」。もう一度風呂に入り、ヨーグルト持って寝室に上がり、それを食べながらTV見て、寝ました。
翌朝、「電話に気づかず御免」と謝ると、「19時過ぎだから、電話せずにバスで帰ってきたの」とのことでした。「会合の忘年会でカステラが当たったの、一緒に食べようね」と戦利品を見せてくれました。

2017/12/2
コーチしてる大学ヨット部のレース日です。小学生2年から僕がヨット部の先輩と作ったジュニアヨットクラブに入部し、ヨットレースを楽しんできた次男は、中学受験でヨット部のある学校に入り、高校ヨット部から大学ヨット部と、ずっとヨット競技を続けました。
4月にヨット部はじめいろんなクラブの説明会や体験会に参加した次男に、「5月連休のレースに出ないか」とヨット部から誘いがあり、ぶっつけ本番で参加したレースでいきなりクラブ内最上位になりました。それで大学でもヨットを続けることにしましたが、競技力が4回生より圧倒的に上なので、次男にキャプテンがアドバイスを受けるようになりました。
これは敵わんと思った次男は、「親父ならコーチに来ますよ」と言ったようで、「コーチしに来ない?」と連絡があり、「他大学出身の私がコーチしていいものか?」と次男の大学ヨット部OBさん数人と連絡を取り、話を伺いました。是非にと言われ、引き受けることにしました。
それから10年以上、次男はとっくに卒業しているのに、「今年もコーチお願いします」と毎年新キャプテンに声を掛けられ続けてきました。11月の全日本インカレ団体戦で、前チーム4回生とともに僕のコーチ業も終わりましたが、また新キャプテンから連絡をもらい、また1年引き受けることにしました。僕もハタチ前後の若者たちとともに、また1年楽しもうと思います。
この新チームの初公式戦です。8:50出艇予定なので、その前の時間をどう使おうかな?と地図を見て、久しぶりに明治天皇(122代)陵を訪問することにしました。隣接する桓武天皇(50代)陵と、明治天皇崩御に殉職した乃木大将を祀る「乃木神社」にも。
今上天皇(現在の天皇)は、125代です。僕の天皇のランドマークは、初代神武天皇、イエス・キリストと同じ時代を生きた11代垂仁天皇、三韓征伐した神功皇后のお腹にいたのが15代応神天皇、初女帝33代推古天皇、兄38代天智天皇系との争いを制し記紀編さんを始めた40代天武天皇、京都に遷都した50代桓武天皇、平安時代末期の武士政権に移るきっかけになった保元の乱で讃岐に流され怨霊になった75代崇徳天皇、鎌倉幕府を倒した96代後醍醐天皇と南北朝時代を経て再び天皇の系統が統一された100代後小松天皇、そして125代今上天皇です。
これらをランドマークとして、第何代と聞くと「あの天皇とあの天皇の間だから、・・時代・・年頃かな?」と大まかにつかむようにしています。今年、将棋の連勝記録で名を挙げた藤井君と共に、負けて今年引退した「ひふみん」こと「一二三」さんに引っ掛けて大正14年生まれの私の父を思い出すので、123代大正天皇もランドマークとなりました。
5時に出発する予定でしたが、4:30に目が覚め、5:26「招き猫CB400SB」で出発。R171〜中央縦貫道〜中国道豊中IC〜名神高速。京都南第2出口で高速を降ります。r68に乗り東進、阪神高速8号京都線側道を南下、r202で東進し近鉄京都線高架下を抜けます。r35・旧竹田街道を南下し、京阪丹波駅前のコンビニを左折し東進。
京阪本線・丹波橋駅横の踏切を渡ります。桓武天皇陵はまっすぐですが、入口参道がどこかわからず北側に回りましょう。R42を北上し、枝道に折れて北側へ。北側に入口はありませんでした。陵があるだろう森は見えているので、西側に回ります。ビンゴ!6:17「桓武天皇・柏原陵」。参道を歩いて陵まで。手を合わせてバイクに戻り、次です。
6:36「明治天皇陵・昭憲皇太后陵」。ちょうど宮内庁職員さんが車で来られ、郵便物を収集し、車止め柵を歩行者が入りやすいようにずらしておられる。バイクを置いて陵へ。「拝観時間8:30〜17:00」。広く長い一直線参道を歩いていると、桓武天皇陵からの道と合流した。
豊臣秀吉が築いた「伏見城」の残石が、参道脇にありました。天皇陵は、伏見城跡地にあります。6:51「明治天皇陵」。20人ほどのお年寄りが寄っていました。
挨拶の声を聞くと、知り合いのようです。朝の参拝仲間なのかも。「昭憲皇太后陵」にも参拝しようと思ったが、道は急角度で下ります。登ってくるのが面倒でUターン。天皇陵の正面は南側で、長い石段が下っています。それをパスするために西からの平坦路を選択しました。
天皇陵は、聖徳太子陵と同じ円墳で、コンクリートで固めてあるようです。墳を直接拝める天皇陵は珍しい。明治天皇陵に戻ると、お年寄り集団が音楽に合わせ体操をしていました。
バイクに戻り、7:12「乃木神社」。日露戦争勝利の立役者・乃木希典大将は、明治天皇崩御の時、妻とともに殉死されました。『明治天皇に殉死した陸軍大将・乃木希典(1849〜1912)を祀り、伏見桃山御陵そばの地に大正5年(1916)有志により創建された。「うつし世は 神去りましし大君の みあとしたひて我はゆくなり」。表門は四脚入母屋造、門扉は樹齢3000年の紅檜一幹で、巾6尺3寸余(1.9m)の一枚板である。
境内には日露戦争の時、第3軍司令部に用いた中国風の民家、乃木将軍の遺墨・遺品・ゆかりの人々の品などを陳列した宝物館。そして、長府(山口県)にある将軍の生家を模した建物がある』
『日露戦争(明治38年・1905)日本海海戦で活躍した軍艦・吾妻の主錨 「散る桜 残る桜も 散る桜」 海に眠る若人の碑顕彰会』があった。伏見区の戦没者を顕彰する碑もあった。国旗掲揚ポールがある。
本殿に向かうと、国歌に出てくる「さざれ石」が置かれていた。小さな小石が圧力により岩となってひとかたまりになるほど悠久の歴史を繋いでいる日本人の本家「天皇家」。日本人の歴史も同じだけ長い。誇りに思うところです。
『さざれ石は、学名を石灰質礫岩といい、地中の石灰質が長い年月雨水で溶解され、その時生じた粘着性の強い乳状液(鍾乳石)が地中の砂礫を凝結して形成されたもの』
『君が代は 千代に八千代に さざれ石の 岩をとなりて 苔のむすまで』
絵馬掛けを見ると、可愛い栗の絵馬が下がっている。「・・・に勝つ」の・・・のところに願い事を記入するようになっている。「勝ち栗」絵馬とても言うのかな?
『乃木神社創建者・村野山人翁之像』があった。此の方が中心になってご努力されたようです。
『長府乃木邸 乃木希典大将の先祖は、宇多天皇第8皇子敦実親王の後裔・佐々木四郎高綱公です。寿永3年(1184)宇治川の合戦で義経軍を勝利に導き功名手柄を立てる。乃木大将の父・十郎希次は、江戸麻布毛利邸で槍術及び礼法小笠原流の指南番をする150石武士でした。幕末の藩政改革時改革案を上申し、これが上級藩士の機嫌を損ねる結果となり、減録1/2となった。長府に帰り閉門蟄居の身となり、足軽の家を借りて住んだ。これがその旧邸です。ここに家族7人が住み、右側の米搗場で乃木少年が仕事をしながら本を読んだ。等身大の像は、父希次・母寿子・希典少年の姿です。製作は、大将の甥・長谷川栄作。
大将は幼名を無人といい、幼時は3才下の妹にさえ泣かされたという気弱温順な性格で、妹たちの髪を結ってやるなど兄弟思いで面倒見が良く、器用に針を使って縫い物をするなど優しさを多分に備えた少年でした。両親は不甲斐なく思い、毎朝出仕前に必ず一条の教訓を与えていた。その場面が現されている。
成人され、萩の乱・西南の役で活躍し、日清戦争では旅団長となり戦後台湾総監を経て、日露戦争が始まると第3軍司令官として旅順攻略を成し後、軍事参議官宮内省御用掛、学習院院長などを歴任した』
『山城えびす神社 村野山人翁は、創建にあたり乃木夫妻、勝典・保典両ご子息4柱を本殿に祀ることを内務省に願い出ましたが、乃木大将1柱の奉祀しか許可されませんでした。そこで大正7年、本殿西隣に静子夫人の霊をお祀りする社殿を建てることを願い出、「静魂神社」が大正8年に建てられた。
その後「恵比寿神」(蛭子皇子)を首座とする「七福神」が合祀され「静魂七福社」と称されるようになった。依頼地元伏見を中心に、南山城地域唯一の「えべっさん」として、商売繁盛の信仰を集めてきた。
平成18年、乃木神社創建90年を機に、静子夫人の御霊を本殿に遷し、仲睦まじく並んで祀ることになり、「静魂七福社」は「山城えびす神社」に改称した。平成27年、山城えびす神社本殿改修工事のため遷座祭を行った際、「七福神」の奉祀を改め、「恵比寿神」(蛭子皇子)のみ奉祀することとなった』
時間切れにより、朝の歴史めぐり終了。バイクに戻り、r7〜醍醐道〜r117〜R1〜湖西道路。「皇子山ランプ」で降り、JR湖西線「大津京」駅をくぐりR161。8:17「セブンイレブン大津松山町店」で、「プレミアム麦茶100円・プレミアムフレッシュバナナ213円=313円」を購入して、8:20ヨットハーバー着。
学生に挨拶し、体操・連絡事項の後レース前ブリーフィング。4回生は抜けたけど、新チームの学生は相変わらず明るく、体育会の若者は気持ちが良い。
9:07に出艇し、今日の最終レース時刻の15:30まで4レースこなしました。メンバーチェンジする1回生とコーチボート上で話します。2クラス17艇出場し、参加大学中最大のフリートでした。全員レースに出て、レースを楽しもう。
トップフィニッシュ・ホーンを3回鳴らし、個人成績2位・3位、両クラス総合成績で2位、初戦としてはナイスな成績でした。
ハーバーバック後、先に合宿所に戻ります。キッチンに入り、夕食作りに勤しむ女子マネさんと軽口を交わし、暖を取ります。片付けを終えた選手たちが次々に帰ってきて、シャンプーやボディーシャンプーを持ってシャワー室に入っていきます。
17:30ミーティングで、フリーレグでのレーン選びや、レースの組み立て方で気づいたことを話しました。ミーティング後、美味しい夕食時間を楽しみます。部員の親からのマスカットの差し入れがあり、まさかのデザートでした。
18:30掃除時間になり、帰路に着きます。部員全員が10ほどの班に分かれ、ルーレットで掃除場所が決まります。全員で掃除してフリータイム・就寝という流れで1日が終わります。僕は再びバイク装束を身に着け、湖西道路〜名神高速。吹田ICで下車し、中央縦貫道〜R171で、19:30帰宅。
後片付けして風呂に入り、ヨーグルト持って自室に上がり、ヨーグルトを食べながらTV見る至福の15分で1日が終わりました。

2017/11/25
大学ヨット部時代のライバル校D社(現在の現役も相変わらずライバル)同期H君と話して、両校同期の会をやろうということになり、集まることになった日です。彼が大阪北区堂島でレストランをやっている(オフィス街の昼食・アフター5需要に合わせた)ので、休日の土曜日に集まることにしました。
母校同期(7人)に声を掛け僕含め3人集まります。D社同期は2人しかおらず彼だけ、含め4人の会になりました。今後毎年やっていこうと思います。17時集合なので、16時に帰宅し、着替えて15:15通勤リード110で家を出ます。R171〜阪神高速空港池田線側道のr10で「加島交差点」〜r41・十三筋〜十三〜R176〜中津〜梅田。阪急梅田駅とJR大阪駅の間を抜け「四ツ橋筋」に出て、16:50着。
同期のI君が先に来ていました。H君が用意してくれていた料理を食べながら、僕はノンアルコールでしたが、2人はビール。お店に飾ってある僕らが4回生の時の2校の定期戦スタート写真を見ながら盛り上がります。やがて同期のY君がやって来て、更に盛り上がる。
学生時代の悪さや、当時の全日本などでも思い出の他に、異性の話。あ〜だこ〜だ大笑い、暴露話、冗談での中傷合戦・・・あっという間に21時でした。来月末には、高校ヨット部同期を中心にした年末恒例の集まりがあります。
I君・Y君は家内と同じ学部で、1回生の時外観二重丸だった家内の「同じ学部の1回生であること」など重要情報を教えてくれました。その時は僕に勇気がなく、僕と同じ学部の子と付き合ったりした後、家内と偶然同じ資格試験講習会で出会い話し掛けなりました。外観は僕好みの竹下夢二の描く日本的華奢美人のうえ、出しゃばらずゆっくり喋るまさに大和撫子・・・声を掛けてから2ヶ月でプロポーズしてしまいました。
I君が、「こいつの嫁さん、美人やで〜」とH君に話してくれて、僕のテンションが上がり切ってしまいました。僕は嫁さんが褒められることが、一番嬉しい。「同級生カップルなんや」とH君は驚いていました。
22時前に帰宅したら、既に家内は寝ており、風呂に入ってヨーグルト持って自室で美味しく食べて寝ちゃいました。

2017/11/26
コーチしてるヨット部卒業生とのクルージング日でしたが、学生の都合がつかなくなりフリーになってしまいました。先輩から、船のシート(ロープ)を片付けるように言われているのでヨットハーバー(YH)に行かねばなりません。
家内は用事で大阪に出る予定でしたが、「あ〜めんどくさいな」とぐずつき気味です。駅まで送って行ってからハーバーに行こうと、用意できるのを待っていましたが、このパターンはキャンセル・パターンです。
「船に行ってくるね」と家を出ました。お隣さんのご主人が、息子さんと釣り竿を洗っています。「釣れましたか?」「いいえ」、「川ですか?」「いいえ、一文字という渡船で渡る防波堤です」「ああ、西宮沖の。尼崎から渡船が出ているのですか?」「そうです、釣果は坊主だし、息子が寒いというので帰ってきちゃいました」。この方はご夫婦で自衛官で、迷彩服を着て通勤しています。「ヨットに乗りませんか?僕一人で乗るのですが・・・」。お父さんは乗りたそうでしたが、息子さんが「寒いからノー」ということで駄目でした・・・残念。通勤リード110で、R171でYHへ。
係留艇のエンジンを掛け、ロープを片付けます。風はNE・2m/sで、空気は冷たく少し寒い。クルーザーレース日で、母校は学生関西新人戦のレース日。1人で船を出してレース観戦も良いのですが、どうも出す気にならない。センターハウスに戻り、誰か知り合いでも来たら捕まえようと思いましたが、シーズンオフで閑散としている。
「どうせ家内はグズグズしているだろう」と帰宅することにしました。出かけていればバイクに乗ろうと。帰宅したら案の定家内はまだ家にいて、TV「60才の同窓会」という映画を見ていました。
一緒に映画を見て、昼食を食べ、僕はアマゾンプライム映画のラブストーリー字幕版を、PCとTVをコネクトして見ました。TVの方が画面が大きいし、音量も大きくなるので良いです。
その後、家内と通勤リード110にタンデムし、川西阪急百貨店に向かいました。お歳暮です。お遣い物コーナーで順番を待ち、手続きしました。お肉&ハム詰め合わせです。
隣の常設仏壇コーナーで、茶湯台を見ました。3500円・・・高いので買うのを止めました。地下に降り、アンリ・シャルパンティエでおやつ用にロールケーキを買いました。
バイクで、父が亡くなったとき仏壇一式を買った「仏壇の浜屋」さん川西店に行くと、2400円ちょっとでした。大きさが2種類あり、家内が持ってきた茶湯台を合わせてみると小さい方でした。浜屋さんで、セット買いしたものです。会員なので割引され、2000円以下になりました。
仏壇などいろいろ見ると、なんとなく買った10年ほど前より値上げになっている感じがする。木魚や鐘など見たが、こういうものは消耗品ではないので買い替え需要は起きないね。茶湯台は、家内が週2回水を入れ替えてくれるので、こぼれた水で傷んだのでしょう。
帰宅し、ロールケーキとコーヒーを楽しみ、家内が見たいというTV旅番組・紅葉番組を見て、NHK「ダーウィンが来た」「大河ドラマ」を見て、風呂に入って1日が終わりました。大河ドラマは、井伊直政が成長し、徳川家康の家臣に取り立てられてから面白くなってきました。大河ドラマは、男の子が主人公でないと・・・

2017/11/19
家内もお休みなので、紅葉狩りに出かけます。朝のNHKニュースで紅葉ポイントを毎日紹介していて、そのトリだった滋賀県湖東木之本の「鶏足寺」を目指します。1つだけではアレなので、これまた紅葉で有名な湖東三山巡りもします。
5:32「伊丹産業セルフ緑ヶ丘SS」で給油。中央縦貫道を東に走り、吹田ICから名神高速に乗ります。地元が晴れの天気予報だったので天気の心配はしませんでしたが、「関ヶ原付近、チェーン必要」なんて電光掲示を見つけ慌てます。
家内が先月手に入れたタブレットを持ってきたというので、天気予報をチェックしてもらうことにしました。助手席で、「あれ〜」とかやってます。僕が調べてる日本気象協会のウェブサイトを見ているようですが、「PCみたいに行かないよ」だって。桂川PAで休憩を入れ、家内がトイレに行ってる間にチェックすると、近畿地方地図の滋賀県に代表年しか表示されていないから「高島市の天気は調べられないよ」なんて言ってたようです。高島傘マーク・・・長浜傘マーク・・・雨なら走れるので良いですが、傘持ってきてないよ〜。
京都東ICで下車し、湖西道路で北上します。比良山系の山の上部が白くなっています。琵琶湖を隔てて見える湖北や湖東北部は雲に隠れ、雨が降っているようです。高島を過ぎると、きれいな二重虹がかかっています。綺麗だな。家内がタブレットの電源を入れている間に、虹が見える区間を過ぎちゃいました。前を走る車は、スポーツバイクを乗せています。マキノかな?海津大崎かな?いずれも雨そう・・・
R161の海津大崎への分岐にあるコンビニに入りました。朝ごはんを買います。家内はサンドウィッチで、僕は得意の「助六」。ビニール傘も1つ買いました。車に常備している京都で買ったお洒落な傘があります。
食べながら走ります。R161をさらに北上し、R303で東進し、R8で賤ヶ岳と山本山の境の下を抜け、木之本です。木之本IC横を走り、直角に南下し、「石作神社」を左折し、r281で8:05「石道寺」。駐車場にプレハブがあり、200円と書いてあります。家内がお金を用意しますが、「誰も居ないよ」。「紅葉散策協力金200円」と書いてあるので、「駐車場代ではなく、無住の鶏足寺を整備する費用にするのでしょう。帰って来た時でいいよ」。
すぐに「石道寺」があり、見事に色づいています。残念ながら小雨が降っています。
『国指定重文 木造十一面観音立像・像高173cm、木造持国天立像・像高184cm、木造多聞天立像・像高184cm、県指定文化財 木造十一面観音立像・像高102cm
神亀3年(726)延法上人が草創され、その後、延暦23年(804)に伝教大師が十一面観音をまつり再興されたと伝えられています。(後世、天台宗を廃して現在のように真言宗に移行されました)
また、大和興福寺文書によると本寺は己高山五箇寺の一寺で、僧房38宇、衆徒20口、本尊観世音、延法上人開基と記されており、往時は壮大な寺院であったと考えられます。(現在の観音堂は、明治年間に現地点から約1km離れた山間から移築されました)
十一面観音立像は一木造りで、彩色や面相並びに衣文から平安時代中期の作とみられます。持国天立像・多聞天立像は檜材の寄木造りで、面相や衣文から鎌倉時代の作とみられます。 木之本町教育委員会』
重文があるだろう堂内に入りたかったが、事務所はまだ開いておらず帰ってきた時に参ろう。
『井上靖著「星と祭」より、本尊十一面観音菩薩を表現した一説「きれいな観音さまですね」架山は言った。思わず口から出た言葉だった。美人だと思った。観音さまと言うより、美人が1人立っている。
・・・この観音さまは、村の娘さんの姿をお借りになってここに現れていらっしゃるのではないか。素朴で、優しくて、惚れ惚れするような魅力をお持ちになっていらっしゃる。野の匂いがぷんぷんする。
笑いを含んでいるようにも見える口もとから、しもぶくれの頬のあたりへかけては、殊に美しい。ここでは頭に戴いている十一の仏面も王冠といったいかめしいものではなく、まるで大きな花輪でも戴いているように見える。腕輪も、胸飾りも、ふんわりとまとっている天衣も、なんとよく映っていることか。それでいて観音さまとしての尊厳さはいささかも失っていない。しかし近寄り難い尊厳さではない何でも相談にのって下さる大きくて優しい気持ちを持っていらっしゃる。
・・・その顔にも、姿態にも示していらっしゃる。
石道寺の主な仏像 本尊十一面観音菩薩立像・国指定重要文化財・平安中期・ケヤキー木造り・極彩色・高さ173cm 多聞天立像・国指定重要文化財・平安後期・ケヤキー木造り・極彩色・高さ182cm 持国天立像・国指定重要文化財・平安後期・ケヤキー木造り・極彩色・高さ182cm 十一面観音菩薩立像・滋賀県指定文化財・平安後期・ケヤキ一本造り・金箔・高さ101cm』
鶏足寺への案内板が出ています。雨で足元が悪いのと石段なので、泥ハネや滑るので家内はゆっくりです。朱・黄色・緑・・・鮮やかだねえ。写真魔になっちゃいます。両寺院の境界線のような小さな峠(比高10m)にプレハブが立ち、『紅葉散策協力金のお願い ここでチケットをご提示下さい。発見所はこちら。大人(高校生以上)200円。期間:11/15〜11/30』と書かれた看板が立っていた。ここで払おうと思ったけど、誰もいません。
鶏足寺側に下ります。石畳の道があり、両側に小さな茶畑。こちらも鮮やかな秋色です。白い傘を差したジーンズの女性が、紅葉に接近しカメラに夢中です。「なんかいいな」と彼女を写す。
『鶏足寺(旧飯福寺)』。人だかりがしてる場所に行くと、竹囲いされており『落ち葉保存区域』の札が下がっている。緩やかな石段が登っている一部を通せんぼして、紅葉の絨毯にしている。激写スポットで、カメラマンが順番待ちしている。
『飯福寺 奈良時代に行基上人が草創され、一時南部興福寺末寺となった。興福寺官務牒疏には、己高山観音寺の別院としてその名が記されている。
中世の延徳年間(15世紀)には、法印実盛上人により隆盛を誇った。戦国時代には、浅井氏・京極氏から庇護され、浅井三代の祈願所として隆盛を極めた。
江戸時代においても幕府から寺領を与えられ大寺として格式を誇ったが、明治の廃仏毀釈などで寺院の規模が縮小された。その後は村人の努力により現在のように整備され、大切に守られている』
石段を上がっていきます。両側に塔頭跡が点在します。噂に違わず、素晴らしい紅葉を見せてくれました。石道寺に戻る道で、お揃いのジャンパーを着た係員の方とすれ違いました。駐車場に戻るとプレハブが開いており、「先に観に行って来ました」と、200円×2払う事が出来ました。8:30までだったら無料で楽しめそうです。
r281〜R8で「木之本IC」から北陸道に乗ります。南下していると、湖西の空に雲の切れ間が見え晴れているようです。米原JCTに近づくと、湖東の道の先にも晴れ間が見えだしました。滋賀県南部は雨が降っていないようです。
名神高速に入り、彦根IC・多賀SAを過ぎ、「湖東三山PA・スマートIC」から外に出てR307、そして9:39「湖東三山」の1つ「金剛輪寺」。駐車場に素敵なキャンピングカーが停まっていました。
『天台宗・金剛輪寺 松峯山金剛輪寺は、聖武天皇の勅願により天平13年(741)行基が開山した。秘仏の本尊聖観音菩薩は、行基が一刀三礼で彫り進めたところ、木肌から一筋の生血が流れ落ちたという伝説から、「生身の観音様」と呼ばれる。嘉祥年間(848〜851)には、最長の弟子である自覚大師円仁(794〜864)が比叡山延暦寺よりこの地に道場を開き、天台密教の浄刹となった。
国宝の本堂(室町前期)は「大悲閣」と呼ばれ、重要文化財の仏像が多数安置されている。また、三重塔(室町前期)や二天門(室町中期)も重要文化財に指定されている。なかでも近江路随一といわれる明寿院庭園(桃山時代〜江戸末期)は、名勝に指定されており、春の石楠花(しゃくなげ)・夏の紫陽花(あじさい)・秋の紅葉・冬の山茶花(さざんか)など四季折々の華が咲き、詣でる人々の心を和ませる』
拝観料600円×2を払います。こちらも紅葉が見事です。雨が止みました。石段を登っていくと「国宝・本堂・三重塔」で、左に曲がると「名勝庭園」です。山門をくぐり庭園の方へ。
『池泉回遊式庭園 桃山・江戸初期・江戸中期の3つの庭からなり、老松蒼杉の自然を背景として、本尊観音様の御心が優しく一木一草に現れています。春の新緑・石楠花・さつき、夏の水蓮、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の自然の変化に燈籠泉石の配置の妙が映える名園の名を頂いている』
今夏公開された映画「関ヶ原」のロケ地だったようです。『明寿院書院 室町様式』は、昭和の建築物ですが、庭の雰囲気にマッチしており、縁側の緋毛氈にお客さんが座って、名園を観ています。
素敵なお庭は、秋色に染まった木々できっと更に素敵になっていたはずです。庭の裏からも本殿の方に上がれるようで、小径を上がっていくと、石段の道に合流しました。昔は塔頭があったであろう曲輪には、多くの石仏が並び、風車などが彩りを添えています。
「地蔵堂 物故者の追善回向を勤めるお堂」があったので入ってみる。お堂内は戒名位が整然と並び、紅葉の葉がまぶされた境内は静かです。家内の先祖を分骨している永観堂も、こんなだったらいいのにな。
長い階段を登り、大きな草鞋が左右に下がる山門『重要文化財 金剛輪寺二天門 当初楼門であったが後世に上層を失い、腰組ときょう(組物)の残存肘木先に桁を廻し て仮屋根を作ったものである。礎石はすべて自然石を用い、軸部、ときょうとも和様で、それらの形式から見て室町時代の建築と考えられる。柱間は中央間と脇間が2対1の割合で、両脇間に金剛柵を設け、向かって右に増長天、左に持国天を祀る。ときょう間には間斗束を配し、繋紅梁上には板蟇股をのせている。上層を失っているので建立時の様式は不明であるが、下層の状況から見て当時の普遍的な様式をもった楼門であったと思われる。中世の寺観を保存する意味でも重要な遺構である』があった。
それをくぐると、『国宝 金剛輪寺本堂 内陣須弥壇金具に弘安11年(1288)の銘があり、鎌倉時代にめざましく発展した密教寺院の大規模な本堂である。桁行7間・梁間7間、入母屋造で、妻飾りは豕扠首(いのこさす)を組み、内外に長押(なげし)を廻し、正面には蔀戸(しとみど)を入れるなど、全体は伝統的な和様建築であるが、内部の組物の一部に、13世紀に伝来した禅宗様式の拳鼻がついている。
密教本堂の通例によリ内部は外陣と内陣に区画するが、外陣大虹梁を受ける太い列柱と、格子戸・菱欄間の内外陣境結界とで構成される広い礼拝空間、天井を化粧屋眼裏とし荘重な須弥壇を構える。内陣は、ともに流麗な曲線の槍皮葺大屋根に包含され、堂々たる偉容は近江中世本堂の圧巻ということができる。 愛荘町教育委員会』
絵馬500円を授かった。同じ曲輪に『重要文化財 金剛輪寺三重塔 建立記録はなく、南北朝時代の建築と考えられるが、寺に保管の永正17年(1520)在銘の相輪部材は重要な考証資料である。
寺記によれば、天保4年(1833)頃破損が進んだが根本修理は実現せず、最上層を失って昭和年代に至った。昭和20年重要美術品認定され、昭和47年重要文化財に指定。その後解体修理で、建立時には計画され未完成だった初重の縁、二三重の柱間装置なども整備され、昭和53年完全な三重塔が竣工した。二重以上に内法長押(うちのりなげし)を用いず、上方への逓減の手法など西明寺の塔に相似する点も多く、中世塔婆建築の遺構として貴重』
綺麗な姿をした塔でした。周囲を鮮やかに彩る紅葉と相まって、多くの観光客が「美しい」との賛美の声を上げていました。あちこちでカメラが構えられ、邪魔にならないように歩き回り楽しみました。
R307を北上し、11:22「湖東三山」の2つ目「西明寺」。国道の西にバス駐車場があり、乗用車は東に山を上っていく感じですが、ガードマンが静止するようにしているので、上の駐車場が満車だと思い、横の駐車場に入れると、後続車が道を上がり、上から降りてきた車が通過すると、ガードマンが下からの車を上げています。離合の指示だけのようなので、山に上がっていく道に復帰します。
上の駐車場への道が細く離合不能なので、交互通行させているだけでした。駐車場に入れると家内は車の中で待っているとのことで、僕だけ拝観しました。外からでも見事に紅葉した境内の木々が観えます。拝観料600円。『国宝・本堂(鎌倉時代初期、国宝第1号)、国宝・三重塔(鎌倉時代後期)、重要文化財・二天門(室町時代)、重要文化財・本堂内仏像7体、重要文化財・十二天画像他6点、国指定名勝庭園(江戸時代初期)』
『当寺は平安時代の承和元年(834)に三修上人が、仁明天皇の勅願により開創された寺院である。
本堂裏の闘伽池(あかいけ)で三修上人が礼拝されると、池中より霊霞(れいか)が立ち昇り、薬師如来が日光・月光両菩薩、十二神将を随えて現れたといわれている。上人はたいへん感激され、その薬師如来の尊像を立木に彫刻されて西明寺の本尊とされた。
平安・鎌倉・室町の各時代を通じて祈願道場・修行道場として栄え、山内には諸堂17、僧坊300を有する大寺院となり、源頼朝が来寺して戦勝祈願をされたと伝えられている。
戦国時代には織田信長により焼き打ちされたが、幸に国宝第1号指定の本堂、三重塔(国宝)、二天門(重文)が火難を免れ現存している。その焼き打ち後、荒廃した寺を江戸時代延宝年間に天海大僧正・公海大僧正の尽力により、望月越中守友閑が、祈願・修行道場として復興され、その後代々の住職が寺観の保持に尽力されて現在に至っている。 湖東三山 龍應山西明寺』
地図を見ると、バス駐車場があった所にも一般車Pがあり、そこに山門があるとのこと。そこからこの受付まで300m登り、ここから本堂まで80mあります。石段をパスするなだらかな道もあります。
まずは途中にある「本坊」。『蓬莱庭(国指定文化財) 江戸時代延宝元年(1673)望月越中守(有閑)が、当山復興の記念として造った庭園。池の中央は折り鶴を形どった鶴島で左が亀島です。池の水の部分は心字池となって池泉回遊式である。
築山の立石群は本堂に安置している本尊・薬師如来と日光・月光の菩薩及び十二神将などの眷属(けんぞく)を表し、植木の刈り込みは雲を形どって薬師の浄瑠璃浄土を具現化したものである。本庭園は、小堀遠州の作庭を参考にした造園になっており、鎌倉時代の八角石燈籠(石屋弥陀六作)や連珠模様の室町時代を偲ぶ石灯籠がある』
苔生した岩と池の地上を、鮮やかに色づいた葉が上空を包み、とても良い感じです。回遊式のお庭を上がっていくと、地面と木々の根っこを杉苔が覆い、柔らかな地面が美しい。石庭も苔むし、緑の凹凸のある絨毯が敷かれているようだ。苔に包まれ消えていきそうな五輪塔に風情を感じる。
庭からなだらかな迂回路を歩いて石段に合流し、本堂曲輪に上がると、本堂と三重塔が潜んでいた。金剛輪寺の本堂・三重塔に似た感じです。鮮やかな朱や黄に色づいた紅葉が曲輪に配され、とてもバランス良く美しい。
本堂に入って見ます。重文の仏像が見事で、ボランティアの青年が仏像などを解説してくれています。『国宝 西明寺・三重塔 建立鎌倉時代(1249〜88)』は庇が大きめでバランスが良い。金剛輪寺に似ています。
なだらかな迂回路を下り、石段に合流し駐車場へ。ここで小雨が落ちてきました。車に入ると、すぐに止みました。R307に出て南下し、r28〜r229で、12:15「湖東三山」の3つ目「百済寺」。
『百済寺(ひゃくさいじ)・三百坊 近江最古の寺院の1つ。聖徳太子の勅願により、高麗の僧・恵慈が百済の僧・道欣によって供養され、建築は百済の龍雲寺にならった。創建は推古天皇法興元年(590)。
天養元年(平安時代1144)天台宗に改宗し、天台別院となった。その後、この地方に多い天台領の後ろ盾により鎌倉時代から室町時代にかけて最盛期を迎え、堂や僧坊の建立が相次ぎ、一山の僧侶1200人がこの寺域に住み、麓には百済寺の村が栄えた。その間、火災や兵火のための再建を繰り返したが、織田信長の「百済寺焼き討ち」後の再建は困難となった。明応7年(1498)の大火により本堂などの中心部を焼失した。再建のための勧進帳に、七間本堂・五重塔婆・常行堂・太子堂・大聖殿・五大力堂・愛染堂・長徳院・三所神殿・鐘楼・経蔵・桜門・回廊と記されています。東西南北4つの谷には、東谷に薬師堂、南谷に阿弥陀堂・閻魔堂、西谷に曼荼羅堂、北谷に地蔵堂・西大門に日吉十禅社、東大門に八幡白髭社・不動堂、北坂の大行事社、北小谷に岩上社、その他にも多くの坊舎があった。三百坊舎図は、昭和59年度の遺跡部分調査によって、275ヶ所の坊舎堂・墓地跡などを確認した時の分布図である』
拝観料600円×2。ここも映画「関ヶ原」のロケ地だったようです。「ムラサキシキブ」と言う名の草花が咲いていた。「紫の綺麗な実だな」と観ていたら、「ムラサキシキブが綺麗ね」とお客さんが通り過ぎて言ったのでわかった。
庭園の池を巡り本堂の方に上がっていく。湖東三山は、奈良時代創建でお堂の配置や庭園が似ており、連続で巡るとデジャブ感があります。観光バスには「湖東三山巡り」などと書かれているのが多い。加えて「永源寺」を巡る観光バスもあった。
『戦国歴史ロマンの大舞台 聖徳太子が見抜いた「近江の地理的重要性」が、戦国時代に百済寺が3度の戦乱に巻き込まれるという悲しい運命を辿った。湖北から湖東に南下してきた近江源氏・佐々木・六角氏は、防衛のため観音正寺と百済寺を石垣で城塞化し、鯰江城などの出城を築いていく。
信長の百済寺焼き討ちは悲惨を極め、武田信玄の死を知った信長は、六角征伐のため軍を進め、天正元年に百済寺城に入城し、鯰江城の総攻撃を開始する。寺側は織田か六角か苦渋の選択の末、長年の恩義から鯰江城に食料米を送るとともに、婦女子を境内に預かり保護しました。信長は一揆・謀反であると称し、百済寺焼き討ちが断行され半月ほど燃え続けた。
宣教師ルイス・フロイスの書簡に「百済寺と称する大学には、多数の独立した僧院や座敷・庭園・築山を備えた僧坊が立ち並び、まさに地上の楽園が・・・」と惜しまれる様子が記されていた。
信長にとって、百済寺焼き討ちの3つの利点があった。1.六角を近江から追い出せる。2.田畑の没収で米即ち兵力を増強出来る。3.300坊の石垣を抜くことで六角の再起を防げる。
このような状況下で、安土城構想が着想され、300坊の石垣や石仏を安土まで運び出した。湖東文化の一大中心地が壊滅したが、往時の姿は参道の左右に千枚田のように広がる「平らな坊跡地」や、引き抜かれた「石垣の段差跡」、広大な「旧本堂跡地」と「五重塔礎石」、蘇った「千年菩提樹」などから偲ぶ事が出来る。菩提寺城は「山城」最後の形、安土城は「平城」最初の形と言われている』
『喜見望郷庭』と言う場所があり、湖東三山の中で最も標高が高いのか、琵琶湖に向かって眺望が開けていた。
『信長公記 天正元年4/7の章 百済寺伽藍御放火の事 信長公・帰陣。守山に陣取り、百済寺へ出、2〜3日逗留し、鯰江城に佐々木義治が籠るを、攻め衆佐久間右衛門尉・蒲生右衛門大輔・丹羽五郎左衛門尉・柴田修理亮に命じ、四方より取り詰め付城させた。近年、鯰江城、百済寺より持ち続け、一揆と同意たる由聞こえし。4/11百済寺堂塔・伽藍・坊舎・仏閣ことごとく灰燼となる。哀れなる様、目も当てられず。この日は岐阜に至り馬を納める』
『ルイス・フロイス日本史2 信長は播磨国と津國の境にある兵庫の市を焼かせて灰燼にする。同市は寺社から成り立っており、豪壮華麗な諸建築であり、日本で大いに見るべき価値あるものの1つであった。
彼は播磨国・書写山という日本で名高く参詣の多い150位上の堂宇を焼却するよう命じた。
信長は、近江国で書写山以上の寺院を絶滅するよう命じた。それらは篤く敬われており、900年以上あらゆる戦乱を免れ今に至ったものであったから、相当な富が蔵されていた。百済寺と呼ばれていた』
和紙の材料・ミツマタがたくさん植えてあった。「日本の高額紙幣の原料」と紹介されていた。『千年菩提樹 釈迦山百済寺は、聖徳太子の篤き思いにより、山号にお釈迦様の名を頂いた唯一のお寺です。この菩提樹は、「仏陀の聖樹」として崇められ、旧本堂の前庭であるこの地に植えられていたが、天正元年4月7日に、惜しくも信長の焼討ちに会い、幹まで焼損致しました。幸いにも、熱が根にまで及ばなかったために、幹の周囲から再び蘇って今日に至っております。中央の空洞部(直径約80cm)は、焼討ち当時の幹の直径に相当しております。 釈迦山・百済寺住職』
r229に下り、名神高速の下をくぐります。r327で愛知川を渡りR421、13:37「丸亀製麺・八日市店」で昼食「鶏親子丼中盛490円×2=980円」にします。R421を走り、近江鉄道を渡り、R8を渡ったところで道なりにr26になり、東海道新幹線をくぐります。JR東海道線を渡ります。14:39「ラコリーナ近江八幡」。
家内のリクエストで寄った「お菓子屋さん」です。お菓子屋さんとは思えない大駐車場があり、続々と車が吸い込まれて行きます。一度見たら覚えちゃう他にない独創的な、でも温かさを感じるデザインです。
続々とお客さんが入っていくので、家内は「これは無理ね」と腰が引けています。せっかく来たんだから見ていこうと店内に入ると、人人人・・・です。至る所に列が出来ており、商品ケースを見ることさえ難しい。2Fへの階段にも列が出来ており、購買システムがわからない。
目が慣れてくると、システムが見えてきました。バウムクーヘン・三笠など商品ごとにショーケースの島があり、それぞれにお客さんが並んでおり、それを整理し列を明確にするために銀行ATMコーナーのように、ロープが張られています。店舗の裏に抜けると、人工池があり、この店舗をはじめ周囲に、フードコート棟・ギフト棟・カステラ・カフェ棟などが建っている。フードコートから巡ります。ギフト棟は、ルパンのフィアット・シトロエンバス・ベスパスクーター・トライアンフバイクなどレトロ車が置いてあり、見ているだけで楽しい。
池の周りでは、写真を撮ってる人が多い。家内はどんなトイレなのか興味があるようで、「トイレに言ってくるね」。お洒落だけど、建物の外観ほどではありませんでした。何も買いません(買えません)でしたが、帰ろうと思いメイン棟に入ると、列に並んでいる方に商品メニューが書かれたシートを店員さんが渡していました。「1時間ほどお待ちください」とのこと・・・お菓子を買うだけなのに凄いなあ。ここで50人分のお菓子を買って、コーチしている大学ヨット部に寄ろうと思っていたのに・・・
帰路に着きます。名神高速は混みそうなので、琵琶湖大橋〜湖西道路で帰ることにします。r26を走り、15:15「学校法人ヴォーリス学園」がありました。高校野球で甲子園に出てくる近江兄弟社高校のようです。近代建築ですが、ヴォーリス設計を何となく感じる。
r2〜r48〜15:40「兵主神社」。家内に裕福な律令制上国「近江」の神社を見せようと思い寄り道しました。大化の改新後の口分田・条里制の跡がある歴史ある地です。目を引く神門に家内が驚いています。池のある庭園は、平安時代後期以前まで歴史が遡ります。
R477に乗り、野洲川を渡り、琵琶湖大橋有料道路・150円で琵琶湖を渡り、R161〜湖西道路〜名神〜中国道で自宅近所のスーパーでヨーグルトなど食材を購入し、19:04帰宅しました。ああ、楽しかった。

2017/11/11
「カフェの会」に参加します。11:30木津川市のお店なので、朝からバイクで探索しようと計画しましたが、生憎の雨です。7時に雨が止んだので、朝ごはんを食べバイク装束に着替えます。
「里山VTR250」で出発。8:51「セルフ緑ヶ丘SS」で給油。247km/8.53L=29.0km/L。R171〜中央縦貫道を東に走り、近畿道側道のr2を南下します。r143〜r14〜r19で淀川を渡ります。道なりにR170に乗り、R163にチェンジし東進して、生駒山系の北側を東に抜けます。
r7を南下し、10:09生駒市「真弓山・長弓寺」。国宝の本堂があるのを目当てにやってきました。地名も「真弓」で山というより丘という感じですが、古い地名のようです。塔頭が4寺存在し、なかなかの規模だった寺院のようです。
噴水のある池があり、「真言宗・長弓寺・法華院」をまず観に行こう。山門の飾り瓦(菊と葉)に目が行きました。「笹竜胆紋」のようです。ご本尊が「愛染明王」のようで、観に行きましょう。こじんまりしたお庭に「水掛不動」と小さな不動明王がいました。ご本尊も拝めました。
噴水池に戻り、「長弓寺・円生院」へ。こちらも山門に飾り瓦「菊の花と葉」が載っていました。鬼瓦も載っていますが、他の瓦より新しいので、新たに載せたようです。山門を入ってまず目についたのが、「Templish」と筆で書かれた横断幕。
お寺の英語「Temple」と「English」の造語かな?ご住職さんが開いている英語教室だと直感しましたが、帰宅後調べてみると、「ジャガイモ栽培」「凧作り」「鯉のぼり作り」「書道」「茶道」などの自然・学習物から、「餅つき」「流しそうめん」などのレクリエーション物まで、多彩なメニューを学ぶ子供教室のようです。
庭園の杉苔が綺麗で、水やりを欠かさず手入れされているのがわかります。手水場の龍の口からチョロチョロと水が出ていました。『金剛水 水には清浄の徳があり、香には遍照法界の徳があります。心身に本性清浄な香と大悲の金剛水を注げば、垢や穢れを除き浄めます。
ここの流れる水は、長弓寺本堂・十一面観音様の足元に湧く自然水で、お不動様御宝前にて香を加えてお加持した金剛水です。どうぞ金剛水で心と身を清め、お不動様にご参拝下さい』
なで五鈷杵がありました。『お大師様が胸に当てて持っておられる五鈷杵を大きくしたものです。お大師様の身体を見て、手で五鈷杵をなでて、その手をご自身の身体の祈願のところに当てて下さい』
弘法大師・空海が唐に渡り修行し、優秀な成績を収め帰る時、氏から授けられた宝具で、それを取り戻そうと追いかけてきた修行僧達に奪われまいと、「日本の地に帰れ」と天空に向かって投げた。さきっぽの形状により、独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵などがあるが、いずれも「鈷」ですが、「月編」で書かれていました。何が違うのか帰宅後調べたが、よくわかりませんでした。円生院さんには、代々こう伝わっているのでしょう。
護摩に炊かれたのだろう煤けて真っ黒なお不動さんは、怖い顔をして睨んでいました。『護摩とは 仏様の大慈悲からなる智慧の火をもって、衆生(私達)の煩悩や執着などの心身内外の垢を焼き清める真言密教の秘法です。智火の中へ護摩木と共に米・五穀など様々な供物を投入し、不動明王をはじめ諸尊に対し供養し、皆様の祈願成就を祈念いたします。願い事のある方は、お名前・年齢・ご祈願をお書きの上、ロウソク立ての上の箱にお入れ下さい。一定期間、所願祈願を行う特別祈祷もございます』
国宝の「長弓寺・本殿」に上がっていきます。垣根に白い椿の花が咲いています。国宝の本殿は、鎌倉時代1297年建立だそうです。鐘が下がっていたので、志納金を納めてボ〜ン、鐘の音は良い響きです。寺院に合います。
『奈良時代、僧行基の開基。現在は薬師院・宝光院・円生院・法華院の塔頭から成る。本堂は桁行5間・梁間6間・入母屋造檜皮葺。弘安2年(1279)。所蔵品:本尊木造十一面観音立像(重文・平安時代?)・黒漆逗子(重文・鎌倉)など』
屋根の角の反りが良い感じです。境内に守護宮として伊弉諾神社があった。『祭神:素盞嗚命・伊弉諾命・大己貴命(おおなむち) 聖武天皇勅願により長弓寺の守護神として建立され、牛頭天王の宮と称せられたが、神仏分離の明治新政により現社名に変更された』
日本で一番多かった牛頭天王社は、伊邪那岐・須佐之男・大国主の親子3代を主祭神にする事が多く、その殆どが「須佐之男神社」と名を変えたが、ここは伊邪那岐になったのですね。
バイクに戻り、真弓の丘を東に越え、「ならまち大通」に出て、R24を走り、11:17レストラン「Lier・幡」到着。Pに入ると、既知のKさんが1人待っていました。8人集まる日でしたが「あれ、まだ2人?」・・・いえいえ僕が最後でした。11:30開店のお店なので、入口が開いたところで皆さん今入られたようです。
全員、ランチセットを注文しましたが、僕だけメインを「ブリの照り焼き」を選択し、他の方は皆豚を選択なさいました。セットメニュー「ドリンク(珈琲or紅茶)+200円」と「ケーキ&ドリンク(珈琲or紅茶)+500円」があり、僕が「セットメニューのケーキ・ドリンクを」と追加注文したら、皆さんセットを注文されました。古代米とふとわかめの味噌汁が付いていました。
この「カフェの会」は3周年です。第1回目がこのお店で、僕も参加しましたので、2度目のお店です。美味しく食べながら、皆さんと歓談。女性3人と男性5名で、5名ともバイク・ツーリングクラブのメンバーです。僕はソロメインなのでそれほど多く参加していませんが、他の方は毎月顔を合わせています。
2時間で終了。「現地集合・現地解散」の会なので、ここで解散。13:35、歓談の中で出た「大仏鉄道のトンネル」が、Pから見えます。アドレスV135で来られているKさんと観に行くことにしました。この「松谷川隧道」前の謂れ板に、大仏鉄道ハイキングコースの地図があり、JR加茂駅の間にある鉄道史跡を観に行くことにしました。
『迫石は花崗岩で造られ、石の長辺と短辺を交互に組み合わせた積木積み、レンガの積み方はイギリス積みです。黒っぽく見えるレンガは、赤レンガよりも高温で焼き上げる「焼き過ぎレンガ」で、赤レンガと「焼き過ぎレンガ」とが交互に配置されているのが、この隧道の特徴です。隧道の下部には突起があり、その突起に橋を架けて、上は農道、下は農業用水路として使用されていたようです』
どちらに行けば良いのかわかりませでしたが、Kさんに着いていくと、ビンゴ!14:00「赤橋」橋梁。上を走る道路を大仏鉄道の軌道が走っていたようです。
『赤レンガ遺構が多い中、ここだけ「赤橋」と呼ばれているのは、プロポーションの美しさ故でしょう。イギリス積みのレンガ造りの橋台で、最上部に笠石、上部に帯石を花崗岩の切り石で装飾しています。隅石も花崗岩で作られ、積み木積みにより橋の強度を堅固にしています。現在橋台は生活道路を支えており、今の現役です』
次の「梶ヶ谷隧道」は、すぐ横と言っていい位置にありました。ここで地図を持った男性が歩いて来られました。廃線史跡狙いの人と見て声を掛けました。JR加茂駅からJR奈良駅まで、大仏鉄道全線走破しようとしておられる方で、未舗装路もあることを聞きました。
更にKさんについていくと、14:13「鹿背山橋台」。『花崗岩の石積み橋台最上部に枕石を2つ備えています。その堅固な構えや、水路の湿気を受けて艶やかに光る橋台の姿に魅了される人も多く、大仏鉄道遺構の中でも、とりわけ人気の高いスポットです』
ここは「鹿背山橋台」から70m、観音寺小橋台まで650m、JR加茂駅まで3.1kmです。Kさんはここで帰られるということで、僕だけ先に進みます。少し走ると、未舗装路になり、「退却だなあ」と見ているとKさんがやって来ました。「アドレスなら行けるけど、僕は退却します」と告げると、「行ってきます」とKさんは突っ込んで行きました。
僕はr324に出てJR加茂駅に向かっていると、14:23現役の関西線の上を越えました。未舗装の道があったので、野生の勘で徒歩で入っていきました。が、ハズレでした。r324を走り、14:33案内板発見。川沿いの舗装路を入っていくと、14:38「観音寺橋台」。
『現在も利用されている関西本線橋台と並び位置しています。どちらも同時期に造られたもので、100年以上経過した今も現役の関西本線と、わずか9年という短い期間で廃止した大仏鉄道とのコントラストが、大仏鉄道の郷愁を誘うスポットです。
この橋台は、花崗岩の切石積みによる橋台で、最上部に枕石を2つ構えています。大仏鉄道には、土盛りによる築堤が設けられ、鉄路の高低差を和らげています。この橋台は、築堤により分断された田畑を繋ぐ役割を果たしていました』
r44に合流し南下し、そのままr752になり、14:48「長尾阿弥陀如来」が道路脇にありました。『阿弥陀如来坐像 徳治2年(1307)造立 願主:僧行乗 立派な屋根石を持ち、美しい蓮台を持った定印の阿弥陀如来坐像。 加茂町観光協会』
『浄瑠璃寺奥之院不動明王 ここから10分ほどで滝の飛沫を浴びる霊場・奥之院に着く。岩肌に鎌倉時代永仁4年に彫られた磨崖仏があるが、その岩が割れているため、後に山本勝真僧が石像不動明王及び童子をお祀りする。現在も神聖な行場として信仰が絶えない』
浄瑠璃寺から奥之院・不動明王像への散策路の途中にあり、奥之院に行きたかったけど、豪雨で危険な道になっているという注意書きがあり断念しました。
14:53「浄瑠璃寺」。『京都府歴史的自然環境保全地域(浄瑠璃寺地域) 指定地域は、平安時代後期から鎌倉室町時代にかけて、浄土信仰の霊地として栄えた当尾地区の東部及び南部に位置し、歴史的遺産と周囲のすぐれた天然林等とが一体となって、歴史的風土が形成されています。今日「石仏の里」の中心地として多くの人々に親しまれています。
指定地域のうち浄瑠璃寺地域は、本堂や浄土式庭園を取り囲む常緑広葉樹の二次林として、その外側が落葉広葉樹の二次林、植栽林などで覆われています。そのなかで、この常緑広葉樹林は、ツブラジイ(コジイ)やアラカシの巨木がうっそうと茂り、自然の状態がよく保持されており、地域を代表する自然植生としても貴重なものです』
焼き物がたくさん並んだ土産物屋さんがあり、「あまざけ」「ひやしあめ」のお品書きが下がる茶屋さんがありました。御食事&カフェのお店もあり、意外に観光客の方がいました。
『当尾地域は、奈良・興福寺の別所として、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、多数の石仏や寺院が造立されるなど、仏教文化の花開いた地域です。浄瑠璃寺も別所の1つとして平安時代後期に創建され、池を挟んで東西に国宝の三重塔と九体阿弥陀堂が建ち、此岸と彼岸、浄土の世界を現しています。中央の苑池には州浜式が復元された中島などがあり、平安時代後期に建立された本堂は、九体阿弥陀堂建築の現存する唯一の遺例です。庭園は特別名勝及び史跡に指定され、周囲の山々には、優れた植生の自然環境が良く保存されています』
『真言律宗・小田原山・浄瑠璃寺』、小さな山門をくぐる。境内は国宝が2棟ある寺院の割に大きくなく、無駄に広くせず周囲の自然植生に守られるように溶け込んでいる。向かって左側に国宝「三重塔」が建っているが、下部は池の周りの軽く紅葉した木々に遮られ、森の中から突き出ている感じさえする。
右手の国宝「本堂」は、奈良の寺院らしく甘美さから遠く、屋根も高くなく、どっしりと建っている印象を受ける。『浄瑠璃寺(九体寺) 平安時代後期(藤原期)の日本が生み出した浄土式伽藍がただ1つ完全に残されてきた寺。即ち、西方極楽浄土の阿弥陀如来を西に、東方浄瑠璃浄土の薬師如来を東に、中央には宝池を置いて美しい浄土を現出している。
しかも西の阿弥陀如来は、これも現在ただ1つになった九体仏である。特別名勝及び史跡指定の境内には、4件の国宝、8件の重要文化財、25の宝物が昔のまま守り通されている。藤原時代の堂塔・仏像・庭園がまとまって存在するこの浄土式伽藍。
浄瑠璃浄土とは、澄みきった清浄と静寂の世界を言う』
拝観料400円を払って、本堂内に入ってみる。京都三十三間堂のように仏像が並んでいる。堂内は暗く、阿弥陀如来坐像が厳かに鎮座しておられる。金箔の落屑少なくまだ十分残っており、もう少し光が入れば輝く極楽浄土を現すように黄金に光るだろう。堂内観光客は10人ほどいるが、静かに座って手を合わせておられる方、ひそひそ話で感想を口にしているカップル、僕のように目を凝らして食い入るように見ている御仁、静かな時間を思い思いに過ごされており、日本の寺院の典型的風景があった。
ラッキーなことに、秘仏・吉祥天女像が特別公開中でした。吉祥天像の写真でよく使われる日本一有名で美人な吉祥天様です。逗子の扉が開かれ、ふくよかで白いお顔の吉祥天が、秘仏ゆえ色褪せず残っている朱や白の装い鮮やかにお姿を見せておられた。当時の美人の典型なんでしょうが、僕の好みはもう少し細身が・・・京都の何処かのお寺におられた弁財天様が、神仏界の2大美女・吉祥天と弁財天の中で、僕の中でまだトップです。泉涌寺界隈だったと思う。
観光バスも1台停まっていたが、どちらかと言うとお寺好きの方の参拝が多いような印象を受ける。
浄瑠璃寺側から、宝池を隔てて三重塔を見ると、先程よりは遮る木々は減るものの、やはり木々の間から塔が突き出ている感じがして、自然と一体化してナイス。国宝「三重塔」に行ってみよう。心柱を中心に、同じ大きさ様式の大屋根を3つ重ねた構造に見える。オーソドックスな塔です。塔内は見れなかった。
バイクに戻り、r752を進みr47に乗り換え、15:26「岩船寺」。参道脇に『石風呂 寺塔39坊の僧が身を清められた 鎌倉時代』が置かれていた。『当尾京都府歴史的自然環境保全地域(岩船寺地域) 指定地域は、平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、浄土信仰の霊地として栄えた当尾地区の東西両端に位置し、歴史的遺産と周囲の優れた天然林とが一体となって、歴史的風土が形成されている。「石仏の里」の中心地として親しまれている。
指定地域のうち岩船寺地域は、信仰と地域住民の生活に深く係わる中で、白山神社境内の自然性の高いシイ林と岩船寺境内の荘厳な雰囲気を持つヒノキ林を中心として、豊かな自然が育まれてきた』
入山料400円を払い、小さな山門をくぐる。正面に国宝「三重塔」が見える。山門脇に『本日特別公開・三重塔初層開扉 秘宝特別公開』と書かれた看板が掛けられている。
まずは三重塔。浄土寺のそれと比べ、大きさはさほど変わらない感じがするが、重厚感を感じる。何故かな?と写真を見ると、向こうは檜皮葺で、こちらは瓦屋根でした。檜皮葺の方が好きかな?
塔の扉が開いていました。扉の裏、心柱周囲に鮮やかな仏画が描かれている。あまりに鮮やかなので不思議に思い、頂いたパンフレットを見たら、平成になって修復されたそうです。西側と東側の扉が開かれていたので、両方から拝見します。心柱を囲む柱にも彫刻されているようで、中に入れれば・・・と願望が増しました。
横の小径を更に上がると鐘楼があり、一撞きさせて頂きました。『重要文化財 眼病平癒 石室不動明王 鎌倉時代・応長2年(1312)』がありました。石仏が浮彫りされています。横のお堂内には、『厄除 石造 地蔵菩薩 鎌倉時代』の浮彫りされた大きな姿がありました。その横に形の整った大きな五輪塔があり、『重要文化財 五輪塔・石室不動明王・十三重石塔 鎌倉時代』となっていました。
15:48になったので時間切れです。琵琶湖に向かうことにします。ナビをセットすると、到着予定時間17:15。17時に間に合いません。「そんなに時間が掛かるの?」と思いながら、夕方の「R24〜京都市内〜大津」のコースなので、より時間を食いそうで、山道を行くことにしました。
r47を北上し、JR加茂駅前を通過。r44で木津川を渡り、R163を少し東進し、すぐにr5で山越えです。和束町からr62。この道は県道なのに思いの外細い山道でした。R307を渡り、r783に乗り、バイパスを利用し瀬田川を渡り、南郷ICから1区間だけ京滋バイパスに乗り、石山IC下車。
R422〜石山〜r18湖岸道路で大津。ここでポツポツ小雨が落ちてきました。天気予報の嘘つき!R161で17:30ヨット部合宿所。1週間前の全日本インカレ団体戦を最後に引退する4回生から次への代交代式です。
合宿所に入り、バイク装束から持ってきたスラックス・セーター・ユニフォームに着替えます。「すまん、遅れた〜」と宴会している部屋に入ると、「こんにちは〜」「ありがとうございます〜」。
まだ歓談中だったようで、18時になり、僕が指名され「ご苦労様」の挨拶をした。続いて1回生選手代表・女子マネージャー代表から贈る言葉。2回生470屋代表・スナイプ屋代表・女子マネージャー代表から贈る言葉。続いて3回生。そして4回生全員からの言葉。3回生広報・映像担当が作った4回生に贈るビデオで大笑いし、最後に監督から言葉がありました。2回生エール係がエールを切ってクラブ応援歌・部歌をみんなで肩を組み合唱し、集合写真を撮ってお開きとなりました。
監督や4回生は飲み明かすそうです。時計を見ると、22時です。延々5時間もあ〜だこ〜だやっていました。バイク装束に着替え、小雨の止まぬ中バイクに跨り、湖西道路〜名神高速で23時帰宅。楽しい1日になりました。

2017/11/12
家内が神戸と大阪にお出かけです。僕は、台風対策したまま見に行っていない係留艇の様子を見に行くことにしました。8時に家内を駅まで送り、バイク装束に着替え、「招き猫CB400SB」でお出かけです。定番の招き猫に加え、Dr.スランプあられちゃんをリアシートにタンデムさせ、8:58出発。
R171を走り西宮へ。ホームポートにバイクを置き、桟橋を渡って係留艇へ。船は僕が2つ目の台風のために対策したままです。増しロープを外しても良かったのですが、そのままでも問題はないのでそのままにします。ドッグハウスに入り、バッテリーONにして、イグニッション・ボタンを押すと一発始動です。そのまま5分ほど回します。冷却水も通常通り出ており異音もせず、エンジンは快調そう。クルーザーのレース日で、昨夜代交代式で会ったヨット部OBたちを乗せたレース艇が出ていきました。僕もそうでしたが、学生時代に乗った小型レース艇の世界だけでなく、いろんなヨットに乗って今後の生活の楽しみにして欲しい。
コクピットに座り見上げていた六甲山に登りたくなりました。時刻は10:30。「行ってみよう」。バイクに戻り、R43に出てr82で北上し六甲山を登ります。R2を渡り、阪急甲陽園線の苦楽園口付近の踏切を渡り登っていると、「越木岩神社」の案内板が見えてきたので寄り道。枝道に入り下っていくと10:51神社がありました。
『兵庫県指定天然記念物 越木岩神社社叢 この社叢はヒメユズリハが群生する県下でも数少ない暖帯林で、洪積台地上に立地してぃます。ヒメユズリハ・モッコク・クロバイ・ヤマモモなどが林全体を覆い、低木層にはアラカシ・サカキ・ヤブツバキ・カナメモチ、林床にはマンリョウ・ベニシダ・クチナシ・テイカカズラなどが生育しています。一部の樹種に二次林的な様相が見られることから、若干、人の手が加わった部分があるようです』
参道脇に、土俵があった。古い神社なので、神事に使われて来たのかな?七五三参りの季節のようで、お出かけの洋服を着た女の子が、両親に加え祖父母さんも笑顔です。
『摂津国の一大霊場で、天然記念物の森に覆われた霊験あらたかな神社です。創立不詳と言われるほど由緒深く、甑岩を霊岩とし今なお全国的に信仰を集めています。
古代信仰の磐境(いわさか)・磐座祭祀と呼ばれ学術上貴重とされている。千年前の延喜式神名帳に大国主西神社として記録されている。
正保年間(1656年)社殿が再建され、明暦2年(1656)円満寺の教順僧侶が「福神」の総本社西宮神社より蛭子大神を勧進し、蛭子太神宮と称しました。以降数回社殿は修復されましたが、現在見事な片削破風流造の本殿は昭和11年に、拝殿は昭和58年に造営となった』
『霊岩瓶岩(こしきいわ) 本殿背後の甑岩は、周囲50m・高さ10mの大怪岩(花崗岩)です。室町時代の俳諧の祖・山崎宗鑑(1464〜1553年)は即興の句を吟じ、「照日かな蒸すほど暑き甑岩」と詠った(甑の意味は、方形・円形の米などを蒸し炊く器でセイロとも言い、夏の暑さの酷しい事とも言います)霊験あらたかな霊岩であり「安産の神・子授けの神」として太古の昔から崇拝され、甑岩に触れていただくと、「御神徳」や「パワー」を戴けます』
『年末年始の臨時巫女・奉仕者募集 資格:高校3年生以上の男女 平成29年12月中旬〜平成29年1月末頃まで 内容:12/31〜1/3社頭にて御守・御神札などの授与、祈祷受付補助など 1/9〜11十日えびすにて吉兆などの授与、祈祷受付補助など 手当:面接時にご説明させて頂きます』
女の子なら、巫女さんのバイトはやってみたいでしょうね。
『越木岩神社の神々 本殿:蛭子大神(えびす大神) 俗称:北の戎 福の神・えべっさんとして有名な蛭子大神がお祀りされています。もともと漁業の守り神であり、海からの幸をもたらす神の象徴でしたが、いつしか福徳を授ける神、商業の繁栄を祈念する神としても厚く信仰されるようになった。
岩社:甑岩神詞・厳島神社の御分霊 祭神は市寸島比売命で、女性守護・安産・子授けの神様として祀られています。俗に弁財天と称せられ、音楽や芸術の才能を伸ばし、弁知(知恵)の神更には縁結びや、財宝をもたらす金運の美女の代名詞である「幸福の女神」、御神徳の高い神様であることから、子供の成長や芸能の上達を祈る神様としても信仰を集めています。
六甲山社:菊理姫大神 神名の「ククリ」は「括り」の意で、イザナギとイザナミの仲を取り持ったことからの神名と考えられて、「縁結び」の神様として信仰されています。また白山比比め神と同一視されることもあり、六甲山を神体としてみなした原始的な山岳信仰があり、水神や農業守護・延命息災の神様として崇められたとも考えられています。甑岩が古代信仰の磐境・磐座祭祀という最も古い信仰形態とされる自然崇拝の対象とされ、修験者の山岳修行が行われていたことからも、重要な神様として古くからお祭りされています。
境外末社:苦楽園神社・石宝殿 境外に、苦楽園地域の守り神を祀る苦楽園神社。六甲山麓に当社氏子が作った雨乞社の奥宮「石宝殿」がある。
人生のまつり:私たちの暮らしは、いつも神様に見守られています。人生の大事な節目に神社に参拝し、子供の成長や家族が健康であること、家の安全などを祈願し、神様に感謝し家族みんなでお祝いしてきました。越木岩の神様とともに歩む人生のまつりを紹介しましょう。
子授け祈願:昔から子供は神様から「授かる」といい、神様からの恵みと考えられて来ました。子供が授かるように神社に詣で、御神前で祈願します。
腹帯に込める安産の願い・安産祈願:妊娠5ヶ月目の戌(いぬ)の日に神社にお参りし、子宝に恵まれたことを神様に感謝すると共に、安産を祈願し、帯祝いを行います。「帯祝い(着帯の祝い)」とは、胎児の健全な発育を願い、妊婦が白布の腹帯(岩田帯)を締めるお祝いです。戌の日を選ぶのは、犬が多産であることから、これにあやかりたいという願いからです。
神様に初めてのご挨拶・初宮:神様のご加護によって無事出産を終えたことの奉告と、子供の健康と成長そして今後のご加護を願い、初めて赤ちゃんとともに神社に参拝することを「初宮詣(初宮参り)」と言います。地方により多少違いますが、男児が31日目・女児は33日目に行います。初宮詣の時は、赤ちゃんに祝い着(男児は黒紋付、女児は友禅の晴れ着)を着せ、父方のおばあちゃんが抱くのが伝統的です。何日目というのは1つの基準で、この日でなければならないというものではありませんから、まず赤ちゃんの健康を第一に考え、日取りを決めましょう』
社務所には、七五三参りの方数組がいます。男の子も女の子も綺麗な着物を着ています。中学生ぐらいの振り袖姿が美しい女の子に、どうしても目が行きます。妹の付き添いのようですが、せっかく神様の前に出るのだからと縁結びのおすそ分けしてもらうのかな?
僕も、「腹帯」「初宮参り」「七五三」とみなお祝いしてもらって育ちましたが、こういう吉事を家族でお祝いする家の子は落ち着いた大人になります。自分の努力であっても、神様に頭を垂れることで、家族・世間への感謝の気持ちを忘れないように思います。家内・義理妹・長男の嫁・次男の嫁、みなそういう家の子で、息子たち一家もそう育てており、孫達も素晴らしい人生を歩むこと間違い無しです。
ガランガラン・ぱちぱち・・・拝殿には、新旧様々な絵馬が下がっていました。本殿裏の甑岩を観に行きましょう。
『「照る日かな 蒸すほと暑き 甑岩」 俳諧の祖・常鑑(1464〜1553)が当社のご神体の磐座を詠んだ句です。山城国の山崎に往んでいたので山崎宗鑑と名乗り本名を志那範重、室町幕府将軍足利義尚に仕えていました。義尚没後は出家をし尼崎の大物や能勢など諸国を巡り「手をついてもの申し上げるかえるかな」など多くの即興の句を詠んでいます。崇鑑の俳句は一茶や芭蕉など以降の俳人に多大な影響を与えました。晩年は讃岐国の興昌寺に庵を構えて没しました。辞世の句を「宗鑑はいずくへと人問うならばちとようありてあの世へといへ」と詠んでいます』
この謂れ板の横に、マークの付いた大岩が置かれていました。『大坂城築城の残石 右の御影石の前面に刻印があります。東側は池田備中守長幸(岡山県松山城主65000石)が使用した刻印で、大坂城修築工役(元和6年1620〜寛永5年1628)に天守台を始め、本丸や二の丸などの石垣を築いた大名です。
西側は鍋島信濃守勝茂(肥前佐賀城主357000石の大名)の刻印石です。採石地不明と言われていたが、当境内から発見された数個の刻印石により、当地境内・付近一帯が採石地であったことが判明した。
因みに霊石甑岩を大阪築城(1583年)のために切り出そうと豊臣秀吉が石工達に命じて割らせていたところ、岩の間より鶏鳴し真っ白な煙が立ちのぼり、その霊気に石工たちは転げ落ち、甑岩は運び出せなかったと言います』
湧水が小さな流れとなり、小さな池を作っています。しばし絵馬掛けに下がった絵馬に書かれた願い事を見ます。願い事を読みながら、その方のことを想像するのが楽しい。「・・大学合格」「・・資格試験合格」などを見ると、真剣な眼差しで書いている姿が見え、「元気な赤ちゃんが生まれますように」からは、夫婦でお腹を擦りながら幸せの笑顔で書いている夫婦の姿が見えます。中には、美少女アニメのような素敵な絵馬を見ることがあり、読んでいるこちらまで、幸せな気持ちになります。
石鳥居をくぐり、勾配のゆるい石段を上がって行くと、左手に『土社 祭神:大地主大神 我等が立っている大地を祭る。土や地や住居や生成を守護す。地鎮祭の神でもある』があった。
突き当りに『甑岩大神』と扁額が下がった石鳥居があり、祠の後ろに大岩。脇に『六甲山社 祭神:菊理姫大神 武庫山(六甲山)を拝み、東麓第一の社で山の神を鎮め祭る。 良縁成就・夫婦円満・農業守護』
菊理姫大神は、白山に祀られる白山比売神と同一視される神で、先だったイザナミ会いたさに黄泉の国を訪問したイザナギが、変わり果てた姿に驚き、一目散に逃げ帰る時、「見たな〜許さん」と追いかけてきたイザナミに追いつかれる。そこで口論になった時、仲立ちした神です。縁結びの神。
「良縁成就」には思い出があり、家内との結婚式披露宴で、取引先の偉いさんから、祝辞とともに色紙入り時計を頂いた。達筆な文字で、私と家内の名前を散りばめた祝いの言葉が色紙に書かれていました。私の名前2文字を入れて「良縁成就」になっていました。これが気に入り、いつまでも家内との良縁成就の気持ちを忘れないよう、今でも玄関の時計として壁に下がっています。
横に越木岩神社のプラスチック絵馬掛けがあります。「良縁成就・結婚・子孫繁栄」「心広き良き方との縁が成就しますように」「やせて若くて可愛いお母さんになれますように」「たくさんのお客様とのご縁をいただけますように」「2人目が授かりますように」・・・そう言えば、長男夫婦と有馬温泉の子授けの神徳がある神社を訪問した時、2人で長く手を合わえていました。2010年に結婚し、東京在住ゆえ2011年は福島原発の影響を気にして延期していた子作り・・・2012年にここ以外にもあちこちで参っていたのでしょう。2013年に長子を授かり、今や2人の親となっています。
「甑水神神社」がありました。湧水が湧いている所のようです。甑不動明王が睨みを利かせています。水源や滝などに多く立つ不動明王を見ると、清らから水の守り神という感じがします。
『御神水六訓 1水は尊し 水なくば成らず育たず、心ある者その加減を知り、水を大切にせよ。 2水は美し 冷熱に応じて虹と化して、水と変わり水晶となる。 3水は清し 常に味わいて飽きず、汚穢を洗い清める。 4水は強し いかなる障害に屈せず、自ら進みて矢を成し、地を動かす 5水は恐し 人を呑み船を覆し、山野を没して、地表をも変貌す 6水は深し その源、神に発し、大自然の道を示し、波乱曲折の人生を思わしむ』
甑岩を一周しようと東側に進むと、『遥拝所 伊勢神宮・宮中三殿・神宮神社を遥かに礼拝するところ 脇社:天照皇大神宮』があった。
『甑岩 祭神:甑岩大神 岩社祭神:市杵島姫大神 左前方にある高さ10m、周囲40mの花崗岩の岩は、その形状が酒を造るときの甑に似ているので甑岩と名付けられています。古代信仰の磐境・磐座をなし霊岩とされ神が鎖まっていると、古来より言われています。
今を去る約1100年前(延喜年間)には、この岩より煙がたちのぼり、茅沼浦(ちぬのうら・大阪湾)や戸田庄(西宮市戸田町・西宮神社が海岸であった頃)入江のあたりの舟からも見えたと伝承されています。
室町時代の俳諧の祖・山崎宗鑑(1464〜1553年)が句を残しております。照る日かな蒸ほど暑き甑岩
この神の鎮まる霊岩を大坂城築城のために切り出そうと、村人達の制止の懇願にかかわらず、豊臣秀吉が石工達に命じて割らせていたところ、今にも割れんとする岩の間より、鶏鳴し、真白な煙が立ち昇り、その霊気に石工達は、岩諸共転げ落ち倒れ臥し、如何にしても運び出せなかったと伝えられています。境内にある残石は申すまでもありませんが、この甑岩にも池田備中守長幸(松山城主8万5千石)の刻印があり、一部は搬出されたようです。
「安産の神」「殖産興業の神」「諸願成就の神」として崇拝され、修験者が修行した霊験あらたかな岩です。是非一周され御神徳をお受け下さい』
甑岩を一周します。しめ縄が周囲を巡っています。驚いたことに甑岩の一部に、刻印が刻まれています。本当に切り出そうとしたんだ。秀吉の伝説は事実で、事故が起こって祟りを気にしてそれ以上の切り出しを中止したのでしょう。
甑岩の裏に行くと、更に上っていく小径があったので、そちらに進んでみる。
『貴船社 祭神:貴船大神・龍神 水に縁ある諸業守護し給う。炎旱霖雨、豊作、海上安全、当社の奥宮は六甲山石宝殿であり、雨乞の霊験は特にあらたかである』
六甲山石宝殿は、逆瀬川から登る六甲山縦走路、六甲山頂近くにあります。石で造られた祠だったと記憶しています。雨乞い神事の時、ここから山頂まで延々登ったのでしょう。
東に開けた場所がありそうで行くと、イノシシが掘り返した跡がありました。そして、ドドーン。大阪ビル群が見渡せました。振り返ると山葡萄かな?が黒い実を付けています。更に上に上がるとてっぺんは大岩がゴロゴロしています。磐座って感じです。如何にも神が降臨し、天の神への祈りの場となりそうな場所です。甑岩の裏側に降りてきました。甑岩は1枚の巨岩ではなく、巨岩がいくつも集まり、穴太衆が組んだように切れ目がピッタリ合い、遠目では1枚の巨岩に見える岩でした。切り出そうとした名残のノミの跡が残った岩もあります。周囲には、岩を抱いて生えているような樹もあります。
越木岩神社に戻ると、七五三の参拝者が更に増えており華やかです。バイクに戻り出発。見どころ満載のナイスな神社でした。r82に戻り、兵庫県No2の進学校・甲陽学院高校横を走り、北山植物園横を通ります。長男は中学受験で甲陽を第一志望にしましたが、不合格でとても心配しました。合格発表の帰り、勝手にお店に入り、勝手に食べ、勝手に買っていくので、家内は尻拭いでお金を払うだけで、「もう私にはダメ」とヘルプ電話が僕に入り、すぐ帰宅して2Fの長男の部屋の前で見張りました。僕の天体望遠鏡は無残に放り投げられ壊れています。飛び降りるんじゃないかと一睡もできない夜を過ごしました。
奈良2校・兵庫1校・大阪2校受け、東大寺学園と甲陽学院が不合格で他は受かりました。大阪の学校に進学し、今がありますが、大人になってからその時のことを聞きました。「塾で僕より下だった友達が受かり、大丈夫と言われていた僕が落ちた。自分が情けなくなったんだ。お父さんが部屋の前にずっといたのは逆瀬川から登ってくるr16に甲寿橋で合流。盤滝トンネル入口からくねくね道を登ります。宝殿で芦有道路が合流し、越木岩神社の境外末社の「石宝殿」横を通過します。
ここまで登ればもう勾配は緩く、11:54六甲山最高峰直下の一軒茶屋。「六甲全山縦走ハイキング大会・チェックポイント」がありました。大学ヨット部同期が、今年も神戸大ヨット部同期とチャレンジすると言ってた大会の開催日のようです。ここまでも多数のロードバイクを抜きすれ違ったが、ロードバイクが何台も横になり、バイカーが達成感に浸っています。有馬側からと芦屋側から登ってくる魚屋道の休憩ポイントなので、大勢のハイカーでごった返しています。紅葉谷道の一部通行止め案内板が設置されていました。台風で崩れ通行止めになったけど、一部復旧していますが、ロープウェイ有馬温泉駅から、炭屋道合流部まではまだ通行できないようです。
ウロウロしながら休憩し、六甲ガーデンテラスに向かって進みます。ガーデンテラスPが混んでいるようで、四輪がその入口から渋滞しています。バイクは平気なので突っ込みますが、出る車も繋がっており、隙間を縫うことも出来ず断念。仕方なくUターンしてr16に戻り、高山植物園から枝道に入り、12:16「六甲ケーブル山上駅」。駅上の展覧台に上がってみます。大阪湾の絶景が目の下にあります。冬の空気に入れ替わっているので、淡路島・由良〜友ヶ島〜和歌山県・加太までくっきりと見えます。西宮YH沖を見ると、白いセイルの一群がいます。レースをしているようです。一文字防波堤沖を見ると、朝出ていったクルーザーレースの一群がいます。一列になっているので、弱いなりに風が入りレース中のようです。こうして俯瞰すると、神戸空港から加太って近いように見える。
「TENRAN CAFE」を見に行く。営業時間は11:00〜20:30。1000〜1500円のメニューが、拝み黒板に書かれている。「スペースホワイトカフェ」というのがありました。ROKKO MEETS ARTの作品となっているのですが、メニューもカレー・デザート・ソフトドリンク・アルコールとなっており、ちゃんとしたカフェのようです。
駅に降りてきました。六甲山上バスのバス停があり、ケーブルカーで上がってきたお客さんが、次々に乗り込んでいきます。駅の中に入る。昭和7年建築だそうで、重厚感のある建物です。建築強度などの規定が緩かった時代ですが、分からない分柱は太く、オーバースペック感が安心感を呼びます。ケーブルカーを見ると旅気分になります。
r16に出て鈴蘭台側に下ります。R428で北上し、r83を西に走り、13:27「デイリーヤマザキ神戸山田中店」で、ずっしり小倉デニッシュ119円と横綱揚げ108円を購入。13:32「呑吐ダム・つくはら湖」。昼食です。パンを食べ、横綱を1/3ほど食べます。ここは、バイクの溜まり場です。スポーツカーの溜まり場でもあります。GTR・コペン・外車ツーシーターオープンなどがいました。ヤマハXJR1300が2台、カフェレーサー的なクラシックカウルBMW、シートのないトライアルバイクがやってきました。常連さんなのでしょう、おじさん達があちこちで雑談しています。
r83を走り、r38を渡り、r85になり山陽道の手前、14:13「千体地蔵」。『本尊は天平3年12月行基菩薩の作。菩薩は新羅の慧基法師に学びて名声の誉高く、後聖武帝に重要せられ帝のために菩薩戒を授け、行基大菩薩の号を給わりし人。堂前面に佐々木源龍の筆なる扁額かかれり、土俗小さき石地蔵を奉るもの多く、その数1200、もってこの名あり。
昔この地に悪病が流行して多くの人命が失われたので奉祀安全を祈願せしが始まりと伝えられる。其後子安地蔵として遠近より参詣者多く、毎年8月24日の地蔵盆には特に参詣者が多い。註、ここは三木市志染町井上です』
石の上に置かれたり、削られた石に埋め込まれたりした石仏がたくさん置かれている。小さなコンクリートブロックが重ねられて作られた祠があるぐらいで、無造作に小さな石仏が集まっているだけに見えるが、謂われように歴史古いとそれなりのものを感じる。祠で囲われた磨崖仏もある。
山陽道下を抜けると、「伽耶院」の案内板を見つけ寄り道します。枝道に入り、14:21「仁王門」。『内部に安置されている尊像は、行基菩薩作と伝えられる金剛力士像であるが天正年間秀吉の三木城攻めに際して頭部及び脚部を焼失したと伝えられている。建物は大正時代の再建であり、花頭窓のみが前建造物の遺物である』
仁王像の首から上・両手・両足は見事に焼けてなくなっていた。脚部の付け根が何となく黒いように見えるのは光の加減だろうか?胸の立派な膨らみは残り、如何にも強そうです。
少し進むと駐車場があり、横に流れる沢に掛かる木々に紅葉が始まり綺麗です。『断層 柱状節理と呼ばれる神戸層群の特異な露岩であるが、露岩やや右寄りにタテに直線の断層が走り、その左右では岩層が約1m食い違い、更に右側部分は大きく波打っている。かつてこの付近を襲った大地震のあとである。断層がこのようにはっきりと見えるのは珍しい』
確かに断層が見え、何処にでも大きな地震が来るんだなと、改めて日本列島の自然災害の多さを感じた。当たった例がない地震予知などにお金を掛けず、地震からの復興にその資金を回す方が良いように思う。
『伽耶院 飛鳥時代(645年)法道仙人が開基した古寺で、花山法王が大東経を五部奉納されたという由緒もあり、後西上皇から伽耶院の勅号を賜っています。かっては数十の堂宇と130あまりの坊舎をもって栄えていたが、江戸時代以前に2回の火災により焼失し現在の建物はその後再建されたもので、現在でも修験道場としで年1回大護摩があります』
綺麗に石垣が積まれている。石垣の一部が突き出ており何かな?と思ったが、樋でした。雨水が石垣に沿って流れないように、直接下に落ちるようになっていた。新西国26番霊場・勅願寺大谷山伽耶院大谷寺。山門を入ると、ナンテンの赤い実が鮮やかに迎えてくれた。地面に置かれたトタンに沢山の銀杏が干されていた。イチョウの木がありそう。
境内に並べられたお地蔵様は皆、赤い毛糸の帽子を被っていた。お地蔵様には赤が似合います。梵字を刻んだ石像もある。本堂と多宝塔が見える。池があった。『黄金水 12月中旬から2月中旬ごろ、この池の水面が或は虹色に或は金色に輝く。当山の本尊福徳毘沙門天は法道仙人が金色に輝く滝壷から感得されたという言い伝えを持っており、寺ではこれを毘沙門さんの黄金水と呼んでいる。この期間以外はただの濁った水である』
今はただの濁った水です。本堂に入ってみる。毘沙門天が本尊の寺院は、そう多くないと思うが、僕は如来さんよりこちらの方が好きなので、目を凝らして本尊を見るがよく見えないよ。本堂と多宝塔の間に祠があった。
『三坂社(重要文化財) 伝慶長15年(1610) 三間社流(ながれ)造 こけら葺の建築で、当山の鎮守三坂大明神を祀る。正面の虹梁(こうりょう)墓股(かえるまた)組物彫刻及び側面の懸魚(げぎょ)等は江戸初期の様式を示しており、建立は本堂とほぼ同時期と考えられる』
蟇股の彫刻だけ彩色されていた。多宝塔も蟇股だけ彩色されている。『多宝塔(重要文化財) 正保4年(1647) 小倉城主源忠真の寄進によって建立され、弥勒菩薩を安置している。初層は方型・平行垂木。二層は円型・扇垂木、その間に白塗りの亀腹を持ち、蟇股と連子窓はされている。相輪を失っていたが昭和60年復元した』
裏に、丸い石臼が積み重ねられた上に祠が置かれている。『臼稲荷 田に水を溜めるため水の出□に古い石臼を使っていた当地方で、ある干害の年、白衣の老人となった狐が村中の田の石臼を全てとり除き水を均等に配分した。これを恥じた村人が石臼をここに奉納したと伝えられている。社前の紅葉はどうしてか、石臼を抱えている』
よく見ると、小さな祠が2〜3の石臼の上に置かれていたりした。謂れ板に書かれている紅葉は、たしかに石臼を飲み込むように樹勢を伸ばしている。珍しいな。本堂と多宝塔の間にイチョウの木が立っていた。途中で折れちゃったみたいで、幹の太さの割に高さがない。見たところイチョウはこの木だけですが、ここからあれだけ多くの銀杏が取れたとは想像し難い。
本堂の裏に石祠が沢山置かれている。『開山堂(県指定文化財) 明暦2年(1656) 但馬城主京極右近高供の寄進により建立され、開山の法道仙人を祀る。堂内部の壁面には極彩色の飛天を画き、長押天井回り及び須弥壇上の宮殿には何れも入念な彩色文様をほどこし、山内では最も華麗な堂である。明暦2年の墨書を持つ』
謂れ板を読んで中を観たかったが、扉が閉じられていた。残念。その横の境内に護摩炊き場があった。『護摩道場 不動明王の智火で煩悩を焼きつくそうとする儀式が採燈大護摩である。生桧葉を方形に積み上げ読経と共に点火する。毎年体育の日にとり行われ、近畿各地の天台系山伏200余名が参集する。前作法として山伏問答や法弓・剣の作法などが行われる』
その正面石段を上がった所に「行者堂」があった。『行者堂(市指定文化財) 寛永7年(1631) 土佐城主源忠義の寄進により建立され、屋根・軒まわり・縁まわりは後世の修理により改変されているが内部の厨子・脇仏壇等は寛永期のものである。役行者の尊像を安置し、何のかざりもないこもり堂としての性格を保っている』
葬式仏教が多い中、修行仏教者の姿を一般市民が垣間見るのは、修験道の山伏だけのように思う。数度偶然その日に護摩炊きする場を訪問したことがあるが、迫力がありました。天台宗系と真言密教系は、どう違うのか見聞が少なすぎて皆目わからない。
その横の境内最奥部に、子供が好きそうな人形や風車・石仏が木々の周りを囲むように点在している。「水子供養」の場だと直感したが、奥に入って行くと、小さな石仏が小さな卒塔婆を背負っていたりしているので間違い無さそうです。最も奥に、沢山の風車に囲まれた小さな石仏があり、スヌーピーのぬいぐるみを前に祭壇のようになっていた。小さな卒塔婆が3つ並べられており、ひょっとしたら家事で幼い子を一度に皆亡くしたのかもしれないと、深い悲しみを想像した。そんな最奥の空間から境内に戻ると、色づいた紅葉がより鮮やかに見えてきて、こんなに色づいていたのかと、往路の気付きのなさにびっくりした。人は精神的なもので、見えるものが違って来るようです。
バイクに戻り、r85を北へ。15:08「ネスタリゾート神戸」。子供たちがまだチビだった頃、何度も来たことがある「グリーンピア三木」が経営破綻し、経営者が代わり新たに出来た施設。何があるのかよくわからないが、送迎バスなどを見かけたし、県道分岐に職員が立っており、経営的にはそれなりに順調そうに見える。r85がr355に突き当たり右折。r355を東進していると小さな鎮守の森が見えて来たので寄り道。15:18「御酒神社」。蟇股にまだ新しそうな見事な龍の彫刻が見えました。新しい精細な彫刻は、彫師ではなくCADソフト製作なのかもしれない。こんな立体的な精細彫刻が、PCで出来るようになったのだろうか?
大きな蔵があり、神輿や山車が入っていそう。境内角に巨石があり、垣根の一部を成している。かつてはこの巨石を祀っていたのかもしれないな?と勝手に想像した。県道は川に沿って走っているのですが、この川が上流から運んできたとはとても思えない大きさでしたが、角が削れ河川で削られた巨岩にも見える。
r355〜r506〜r17で「六甲北有料道路」と「中国道」をくぐり、r357でR176。それを少し南下し、r327でJR道場へ。武庫川沿いに走り、1年半後に開通予定の新名神高速道路のこの区間の工事進捗状況を見る。
16:02、武庫川沿いから離れ「川下川ダム」に登っていく所にバイクを停める。車両通行禁止杭で行けない舗装路の探索をしてみよう。落ち葉いっぱいの道を歩いていくと、やがてJR福知山線の線路をくぐり、ダムの方に道が曲がります。新名神の橋脚の真下から見上げると、とても高い所を道路が走っている。倒れずこんな道を造る日本の技術は素晴らしい。強度計算されているので、無駄に太くなくスマートでカッコイイ。
ロックフィルダム真下まで行けると思っていたのですが、送水路とダム施設までしか行けませんでした。大雨の後などで貯水量を吐き出している時は、送水路も大変な勢いなんだろう。神戸市水道局の門扉から見える所に鉄蓋で閉じられた横穴トンネルがある。あそこに入っていけば、ロックフィルダム直下まで行けそう。
これ以上無理なのでUターン。何気なく見ていると、すっぽんの死骸が転がっていた。武庫川渓谷を歩きバイクへ。ここは武庫川とダムを水源とする朝霧のメッカなので、高速道路開通後は、濃霧で速度制限が頻発される区間になりそう。上手く行けば雲海の上を走り、朝霧雲海の絶景ポイントになるかもしれない。
「川下川ダム」経由でr33に出て、r325〜長尾山トンネルを抜け、17:07帰宅。ああ、楽しかった。

2017/11/7-8
全日本大学ヨット選手権(インカレ)の3日目夕方にわかった高校大学時代の同級生Yくんのお通夜・告別式です。
11/5(日)夜にインカレ会場福井県高浜町から帰宅し、月曜日午前中にYくん自宅に電話しました。奥様にいろんな話を聞きます。事務的なことは、「供花か供物を出させていただくので、担当の葬儀屋さんを教えてもらうこと」「香典辞退」など。
7月にお腹が痛い・・・腸炎として服薬回復。8月にまたお腹が痛い・・・同じく回復。8月下旬また腹痛・・・検査した所、肝臓に影があるので豊中市民病院への紹介状をもらう。9/5豊中市民病院で精密検査し、肝臓がんと判明。原病巣は空腸ステージ4と判明。手術・放射線療法は出来ないので、抗癌剤治療開始。2週間1クール(2日抗がん剤投与・10日間治療効果を見る)2回目に入る11/4夜に病態急変し、そのまま4時に亡くなったとのこと。
まだご顕在のお母様(学生時代何度も訪問し、食べさせてもらった)のご様子を聞き、ご兄弟やお子様方のことも聞き、奥様へのサポートもあるので大丈夫そうだと確認しました。
葬儀屋さん(お嬢さんの同級生が経営)に電話し、供花のみで1基1.5万円と2万円があるとのことで、卒業後も年1回集まっていた高校ヨット部同期を中心にした仲間6名連名で、1対4万円のを出さしてもらうことにする。
その旨、5人にメールすると、皆からお任せのメールが届きました。届かなくても強制参加ですが・・・。お通夜は、11/7(火)19:00になりました。前日が友引だったのでこの日です。葬儀会館は、箕面市立聖苑というところです。
11/7・18:00に着くよう早めに家を出ました。新しいとても綺麗な会館で、ご葬儀はYくんだけでした。サインして、カメラを持って会場に入り、祭壇を写します。東京在住で来れないやつもいるので、写真だけでも送ってやろう。
親族控室をノックし、奥様・喪主の長男さん・その新婚の奥さん・お嬢さんに、連絡頂いた御礼とお悔やみを伝える。式場に戻ると、職員さんが「お顔を見られますか?」とのことで拝ませてもらった。僕の知るYくんより痩せていたが、綺麗な顔をしていた。
弟さんと妹さんが挨拶に来られました。弟さんはYくんに似ており、歩き方がそっくりです。Yくん同様気さくな方でしたが、用事で離れられました。妹さんは、高校ヨット部同期に引き入れられたYくん同様、ウインドサーフィン仲間に引き入れられたようで、僕以外の連中とは大学時代遊んでいたようです。僕は大学もヨット部に入ったので、Yくんの家で数回会っただけです。あれやこれや、親族の打ち合わせが始まるまでお話しました。
一般席半ばに座っていると、メンバーのSくんとSA君が目の前の席に座りました。「やあやあ」と3人で座りました。通夜式が始まり、お焼香して席に戻る時、別の中学〜大学まで一緒だった仲良しKくんの顔がありました。お互い会釈。式が終わり、「お顔をご覧になる方は・・・」の案内に促され、3人で拝みに行きます。R171沿いのロイヤルホストで「お茶でもしよう」との話になっていたので、Kくんを探すがもう帰っちゃったのか見つけられませんでした。僕を探すものと思っていました。
R171に出て西に走り、ロイヤルホストがありました。電話を掛けたら「ロイヤルホストにいるよ」とのことで入ってみたらいない・・・再度電話すると、何度か待ち合わせたことがある伊丹のロイヤルホストだとわかりました。ここは池田です。
伊丹のお店に移動し、3人であ〜だこ〜だ。2人は珈琲でしたが、僕はフラッペです。久しぶりに会ったので、話が弾みました。

11/8
告別式です。11時からなので9:30に用意をしだし、小雨が降っていたので前日と違い車で出動です。サインして式場に入ります。お通夜より席の数が半分ぐらいになっていました。お通夜の時は、喪主の息子さんが豊中高校の先生なので、生徒さんがわんさか来られていました。
式場内に座っていると、昨日会ったS君がやってきて、「向こうで」ということでロビーの喫茶コーナーでSくん奥様と3人であ〜だこ〜だ。東京からYくんがやって来ました。4人でお喋りしていたら案内があり、式場に入ります。
前日と同じ天台宗の導師さんです。天台宗のお式は初めてで、宗派によって違いますね。式が終わり、お花をYくん棺に入れ、最後のお別れをします。ロビーに出て棺が火葬場の方に移動していくのを見送る。式場と火葬場が同じ施設なので便利です。
4人で、前日僕が間違えたロイヤルホストに入り、昼食を取る。またあ〜だこ〜だ話が弾みました。2年前、僕より6才も若い弟が心筋梗塞で倒れた時も驚いたが、同級生の死に「いよいよ僕の番も近づいてきたな」と感じました。


2017/11/3
コーチしている大学ヨット部の全日本インカレ団体戦です。全国の大学が、このレースを最終目標に練習・レースに励んでいます。多くの大学が予選で破れており、この大会に出場する事自体光栄なことです。
僕の出身大学は、この大会での優勝を毎年目指しており、僕の現役時代を含め12回総合優勝しています。クラス別優勝はその他に何度もありますが、総合優勝から遠ざかっているので、今年は・・・と狙っているでしょう。
僕は母校のコーチ、僕が立ち上げたジュニアヨットクラブのコーチを経て、現在息子の卒業した大学のコーチを、息子が現役だった頃から続け、既に15年です。息子はとっくに卒業しているのに、僕は何が気に入ってもらっているのか、毎年更新され現在に至ります。
かつてはクラス別2度の優勝をあげた強豪校でしたが、予選敗退常連校になっていました。段々と力がついて生きて、ここ数年連続で全日本に駒を進めています。慣れ親しんでいるホームの琵琶湖ではありませんが、地元水域主催開催なので、目標の「総合6位以内」を達成するチャンスです。
1ヶ月間、レース艇をレース開催ポートに入れて練習し、部員にチャンスだと話し、部員も自覚し、僕自身気合を入れてきました。
4時前に目を覚まし、天気予報をチェックし、4:29車で自宅を出発しました。4:42「伊丹産業セルフ川西SS」で給油し、北上を始めたところで「時計を忘れた」のに気づきUターン。自宅に戻り時計をして出発。5:29「ローソン川西萩原1丁目店」で、「LSつな揚げ108円・伊藤園健康麦茶151円・田辺農園バナナパック266円」を買いました。
池田からR477〜r73で「千代川IC」から京都縦貫道に乗りました。綾部JCTで舞鶴道に乗り換えるのをミスって、「舞鶴大江IC」で下車。R175〜R27〜r28〜R27で、合宿所に寄りました。既に選手はハーバーに向かったようです。8:31「高浜和田ヨットハーバーYH着」。
学生時代から慣れ親しんだインカレの雰囲気です。大学の所定バースには、OBのMさんとKさんが来られています。院生のH君・O君もコーチとして来ています。11/2がレース初日でしたが、風がなくノーレースだったようです。軽風は得意な風域なので、途中経過ですがいいところ走っていたようです。
他大学を見回っていると、ジュニア関係の見知った方に会います。母校のバースでは先輩や後輩にも会いました。早稲田や九大の見知った選手に声を掛け激励します。
風が弱いので風待ち後フラッグが揚がり、支援艇がハーバーを離れてゆきます。出場全144艇(24校×3艇×2クラス)にとってスロープが狭いので、予め3つにグループ分けされ、グループごとにアナウンスされスロープに入っていきます。僕らコーチボート乗艇員は、漁港に歩いて行きます。OBのNさんが手配してくれたボートに乗り込みます。支援艇はインフレータブルボート1・ハードモーターボート2という体制です。
沖に出ると、10:26レース艇が支援艇に引っ張られ、レース海面に急いでいます。144艇のヨットが一斉にレース海面を目指す姿は壮観です。僕もかつてこの中の1艇として心高揚させて、学校のフラッグを一番てっぺんに上げるべく戦いました。今更ながら素晴らしい世界に青春のほとばしりを投じた貴重な時間だったなと、思い出が蘇ります。各大学の支援艇・応援艇・部員の父兄を乗せた観覧艇が、レース海面のあちこちに見えます。多くのOB・OG・親に見つめられて、選手たちは幸せ者です。
当方も、スナイプ級の3艇を見つけ曳航してレース海面を目指します。優勝候補の一角・慶応のスナイプ3艇を引っ張ったボートを抜いていきます。正々堂々、ガチンコ勝負しましょう。大阪大学は、24フィートほどのセーリングクルーザーを観覧船にしているようです。レース海面に着くと、優勝候補の一角・母校KGの470級3艇が練習を始めています。学生スポーツは4年間しかないので、僕が先輩から受け継いだ1艇のレース艇を後輩に渡し・・・という感じで、この3艇のうちの1艇は、僕の直系です。頑張ってほしいな。
風が上がらず、長い海上待機が始まりました。12:02レース艇が寄ってきて、お食事タイム。インフレータブル・ボートも寄ってきて、僕のカメラに向かってポーズを取っています。パシャリ。優勝候補・同志社・日大、そして20数年ぶりに両クラス全日本出場してきた東大。470級の優勝候補・日本経済大学・・・僕がナショナルチームの時、親しくしてもらったMさんがコーチとしてコーチボートに乗っています。
法政・優勝候補の早稲田、そして母校KGの40フィートほどのセイリングクルーザーが近づいてきたので目を凝らすと、先輩のKさんがドライブしています。声を掛けると、「あ〜・・君か」と世間話をします。部員と父兄が乗っているようです。甲南大・愛工大、慶応はイカ釣り漁船をチャーターしています。集魚ライトがズラリと並んでいます。同志社もイカ釣り漁船です。同志社は5〜6艇出しているようです。
前日11/2、第1レースがスタートされたが風が落ちて、トップ艇が制限時間内にフィニッシュできずノーレース。この日も風が弱く、軽風で1レースだけ成立しました。15:40にAP・Hフラッグが揚がり、2レース目はスタートせずハーバーに帰着しました。成績は、470級7位・スナイプ級5位・総合5位で順調な滑り出しです。
16:54、部員を乗せYH出発。17:13合宿所着。携帯電話のバッテリーが少なくなっているのに、ケーブルを忘れてしまったので買いに出ます。17:20、「ローソン高浜東三松店」で、「ペガサス・ガラケー・スマホ対応・単3乾電池式充電器・1026円」を買います。17:57、合宿所近くのスーパー「フクヤ」で、「くらしひねり揚100円・バスコ粒いちごパン93円・薄皮レーズンカスタードパン150円」を、おやつと明日昼食用に買います。
同期のD大・Hくんに電話すると、昼頃ハーバーに着いたようで、OB達と宿で宴会を始める所だそうです。第1レース終了時点で、D大がトップに立っています。「明日逆転されるかもしれないので、今日宴会しておかなければ・・・」なんて言ってました。D大が3連覇した後、早稲田が3連覇中です。今年は地元近畿北陸ブロックがレース主催なので、地元の雄・D大が王座奪還に気合を入れています。合宿所でミーティング。明日は大荒れが予想されるので、サバイバルの事を話します。マネージャーが作ってくれた美味しい夕食を食べ、部員を乗せて風呂屋に行きます。20:17宿発〜20:28風呂着。ここは、「いきいき長寿村あみーシャン大飯」という立派な施設で、展望風呂は4Fにあります。300円。原発資金が入っているようで、公共施設が立派です。
21:24風呂発〜21:35合宿所着。クラス別ミーティングや談笑後、車に戻り、最寄りの高浜駅に行き、トイレと歯磨き(歯磨き・歯ブラシ忘れ)を済ませ、車中泊。

2017/11/4
5時に目が覚めました。小雨が降っています。布団を片付け、朝の身支度です。5:24「ファミリーマート高浜国道店」で、アクアフレッシュ歯ブラシ・160円を購入し、駅に行き歯磨き。コンソールボックスに入れていたひげ剃りが切れず、「ファミリーマート高浜国道店」に再度行き、「貝印ベスティEX首振りひげそり・108円」を購入して顔を整えます。
合宿所で朝食を食べ、朝の散歩に出ます。6:49漁港、6:52「高浜城山公園」。
『中世の高浜に生きた戦国武将・逸見昌経は、佐伎治神社の裏山に砕導山城を構えていました。昌経は永禄4年(1561)、若狭国守護・武田氏の内紛に乗じ反乱を起こしましたが、同年6月越前朝倉・武田連合軍との合戦に敗れ砕導山城は落城します。
巻き返しを図る昌経は、永禄8年(1565)高浜湾に突き出た小半島に高浜城を築城します。
高浜城は当時若狭国内の城郭が全て山城であるのに平山城であったことが注目され、また、逸見氏は伝統的に水軍を軍事力の要としており、大飯町域や舞鶴市域に海城が確認されてますが、本高浜城も三方を海に囲まれ海城として機能していたものと思われます。今も天王山では当時の野面積みの石垣や石段・郭などを見ることができます。
高浜城は天正9年(1581)に逸見氏が没落して後も代々城主が代わり、寛永11年(1634)の初代小浜藩主・酒井忠勝の入部まで存続したと伝えられています。
平成12年(2000)10月、城域内での下水道工事中に遺構の一部と思われる石材が出土しました。二の丸と三の丸の境界にあった橋の基礎石である可能性が考えられます。 高浜町教育委員会』
現在は砂州で陸続きになっていますが、4〜500年前は陸地と繋がっていない小島だったのが、地形を見て容易に想像できます。小島が2つ並んでおり、両方共城として使っていたのでしょう。和田漁港を挟んで対岸に、YHの裏山があり、そちらの頂上には神社があります。そちらにも砦が築かれていたのだろうと思います。7:22合宿所に戻り、7:28監督・若手コーチ・部員を乗せて出発し、7:37YH着。午後から荒れる予報ですが、朝はさほどではありません。各大学、艤装に余念がありません。
D大同期・Hくんに電話して「やあやあ」。船に乗るのか聞くと、「カッパを持ってきてないので乗らないとのこと」「アホかお前、カッパ貸したるから乗れよ」と、僕のホームセンターカッパを貸す。僕は、冬用ヨット用カッパを着込む。ブリーフィングして、陸上に出艇フラッグが揚がり、レース艇もコーチボートも出艇します。
漁港のコーチボート係留場に行くと、母校KGの観覧船が停まっています。覗くとK先輩が出てきました。「船に泊まっているのですか?」「いいや、キャンピングカーで」と、目の前の車を指差されました。Kさんが以前から持っておられた車です。部員たちを乗せ、先に出て行かれました。
前日、上マーク担当だった観覧船がより大きな船に代わっています。午後からの荒れる海面を考えると、レスキュー艇になるかもしれないコーチボートの人数が多すぎる感じがして、監督に断って観覧船の方に乗ることにしました。
3回生女子マネージャーSさん・1回生女子マネージャーNさん、部員やOBさんと共に乗ります。9:36レース海面。レースシグナルが揚がり、マニューバリングに入ります。風は5〜6m/sで白波は立っていません。北の海面遠方に明らかな雨雲があり、その下は大雨のようです。海は空が広いので、天気の変化が見えます。あれがこちらにやってくると、荒れそう。天気予報の指す小さな前線はあれのことかな?風向は西なので、そのまま東に流れてくれるとありがたいけど・・・。風の上がらないうちにレースをやりましょう。風の弱い琵琶湖で練習しているので、風が上がっていると不利です。
470級、この日の第1レース(通算第2レース)、ブラックフラッグ下でゼネラルリコール、スタートやり直しです。26艇が早すぎるスタートをしたので、次のレースに出れません。優勝候補の早稲田が1艇引っかかり、優勝争いから脱落。当方も1艇引っかかり残念。
スタートし、第1上マーク。当方2位回航。当方2艇目も上位回航し、良い感じです。スナイプ級は、ブラックフラッグの中ゼネラルリコールで、引っ掛かり次のレースに出れない艇が14艇出ました。当方は1艇も引っかからず有利になりました。
2・3マークを回航し、2回目の上マークに来たところで、懸念していた北の雲がやって来て風が上がりました。全面白波で8m/s・ブロー10m/sの海面に様変わりします。大波を伴って来たので、本部船にAP/Hフラッグ(ノーレース・ハーバーバック)が上がりました。全コーチボート・観覧船は、レスキューボートに代わります。
即座にメインセイルを降ろして、小さなジブセイルのみでハーバーを目指す学校があります。僕がミーティングで話していたサバイバル・テクニックです。数艇ひっくり返っています。沈艇を探していると、コーチボートから「エンジンが止まった」との連絡が入ります。
曳航ロープを準備し、コーチボートに急行しますが、他大学のインフレータブルボートが曳航して風上に上げてくれています。その後、より大きなハードボートに曳航が代わり、当方はその回りを走ります。一番心配になったのが、懸念していた非力な25馬力エンジンを積んだインフレータブルボートです。3回生女子マネージャーがドライブしているはずです。
曳航されたコーチボートに伴走しながら、漁港に戻ります。無事着岸。インフレータブルボートの無事ハーバーバックできたようで、レース艇も6艇とも無傷で帰ったことを確認できホッとしました。
母校KG観覧船が戻ってきたので、もやいを受け取ります。テトラポットで砕けた波が防波堤を越えてきます。漁港内でも波立ち、岸壁に擦れたら船が痛みそう。フェンダーを入れて擦れ防止する。
12:44ハーバーに歩いて戻り、大型テントに入って雨宿り。僕のホームポートの新西宮YHのノースショップが開店していおり覗くと、僕がかつて理事していたジュニアヨットの父兄がある。あ〜だこ〜だ、おしゃべり。レース艇の艇体放棄が3艇、レスキューボートが2艇ひっくり返り、1名行方不明という最悪の情報が入る。船は何とでもなるけど、人命は・・・。
海保のヘリが飛び、YHには消防指揮車がやってきた。救急車もやってきた。全員ライフジャケットを着ているので、行方不明者も発見され拾い上げるが、選手のようにウエットスーツを着ていないので低体温になったとか。レース委員会に2名医者がおり、救急車がサイレンを鳴らし出ていく。
予報より早く前線通過があったようですが、午後は更に海上は荒れるはずだから、もうレースは出来ないだろう。母校KGの艇置き場に行くと監督がおり、様子を聞く。幸い何もなかったようです。ブラックフラッグにも引っかからず、優勝は慶応・D社・KGに絞られたように思う。
僕の母校・KGHヨット部卒の気象予報士がおり、気象会社に勤めているようです。全日本期間中は、逐次彼から現地の予報が入る体制になっているようで、この大荒れも1時間前に通報を受けていたようです。真っ先にメインセイルを降ろしてサバイバル体制を取ったのはKGでした。我が母校ながら、流石です。
ハーバーの防波堤を越えて、砕けた波しぶきがYH内に降ってくる。14:43、部員を乗せYHを後にする。ハーバーを出たところで駅に向かって歩いている3回生女子マネージャーWさんをピックアップする。彼女はインフレータブル・ボートの運転をしていたこの日のヒーローです。「怖かった?泣いてるんじゃないかと思ったよ」と声を掛けると、割合平気だったようです。頼もしくなりました。観覧船ドライブも、3回生マネSさんが適切に動かしていたし。
14:57、合宿所着。風呂に行くメンバーを募り、15:20合宿所出発。海上に出た女子マネを積極的に誘う。温かい風呂で、ゆっくり疲れを取ってもらいたい。15:36前日と同じ風呂着。風呂上がりに、前日は定番のコーヒー牛乳がなかったのでファンタグレープを飲みました。この日は1F食堂に降り、アイス250円を食べましょう。
3回生女子マネ・Sさんが降りてきたので、アイスを奢る。彼女とお喋りしていると、3回生Sくん・4回生Tくんがやってきたので、同じく奢る。16:56風呂発〜17:09合宿所着。17:30からミーティング、そして美味しい夕食。みんな元気そうで、サバイバルな1日を経験し、一回りたくましくなったでしょう。
D社同期Hくんに電話すると、もう大阪に帰っているとのこと。サバイバルの時、彼の乗った観覧船40フィートセイリングボートは全速力でハーバーに戻ったが、ハーバー内に入ってエンジンスストールしてしまったようです。陸上にいた部員たちにサポートされ桟橋に係留後、桟橋で次々に帰ってくるレース艇をサポートしたようです。「おまえがコーチしてるとこのレース艇も1艇助けたぞ」とのこと。「カッパ借りてて良かったわ。あれがなければずぶ濡れで風邪引いてたわ」。彼の経営しているお店に、僕がカッパを取りに行くことにしました。21:09駅に行き、トイレや歯磨きして「おやすみ」。

2017/11/5
レース最終日です。朝4時に目覚めました。昨日からの風がまだ残っています。陸上ですが体感6〜8m/sでしょうか。すぐに車内の寝床を片付け、駅まで朝の散歩&朝のお勤めをします。
5:30に合宿所に戻り、朝食を食べ、車で駅に行き歯磨きをします。1回生が次々にやって来て、6:05の電車に乗り込みYHのある次の若狭和田駅に向かいます。前日朝訪問した「高浜城址」の主だった逸見駿河守昌経が籠もった「砕導山城」が駅の山側に見えます。昨年登ったが、海が一望でき素晴らしい眺望でした。
6:37監督・コーチ・部員を乗せ、6:50YH漁港着。混雑が予想されるので、一般車用Pが漁港に用意されていたのでそちらに入れました。お隣の車からご夫婦が出てこられたので、「駐車場が狭いですね」と声をかけると、「関東に比べれば広いですよ」とのこと。慶応の選手のご父兄でした。聞かなかったけど、ジュニア出身選手の親御さんだったかも?もっと話せば良かった。
歩いてハーバーに入ると、駐車場はガラガラです。これなら「入れるかも?」と思い、車を取りに戻ります。そこでなんと、甲南大学OBで一緒にチームを組んでドラゴンのレースに臨んでいるOさんと会いました。「あれれ〜」、母校の応援に来られたようです。7:24、車をハーバーPに入れました。
7:30、当方大は体操〜ブリーフィング。他校も円陣を組んでいます。母校KGブリーフィングを見に行くと、各クラスチーフから出場選手名を呼ばれ、「はい」とブルーのビブを受け取っています。僕が現役だった頃はビブがありませんでしたが、当時と変わらぬ出艇前の光景です。父兄がその様子を写真に収めています。
7:44、コーチボート・支援艇が出艇して行きます。8:25、選手が出艇して行きます。漁港のコーチボート係留地に向かいます。前日エンジンがストップしてしまったコーチボートは使えず、インフレータブル1&ハードボート1隻体制になりました。右エンジンが始動せず、メンテナンスに来てもらうとバッテリー上がりで、交換してもらいます。
その間、母校KGの観覧セーリングクルーザーの出艇を手伝います。僕とチームを組んでドラゴンのレースに参戦している先輩たちが乗っています。横には、艇体放棄したスナイプ1艇と、ひっくり返ったレスキュー・インフレータブルRIBボートが2艇置かれて、当該部員や担当者が見ています。水上警察?海上保安庁?の方か、現場検証しています。メンテナンスも来て、エンジン復活メンテナンスをしています。
バッテリーが届き左右エンジンが掛かり、桟橋を離れます。波の残る5〜6m/sの風の中、2レース行われました。スナイプ級の1レース目(第2レース)でトップフィニッシュしました。コーチボートは大歓声と拍手で選手を迎えます。
総合的には得意な軽風ではなかったので着順が振るわず、470・11位、スナイプ7位、総合9位で全日程を終えました。漁港に帰ります。帰路家内に電話すると、駅を降りてハーバーに向かって歩いているとのこと。最初のハーバーゲートで待つよう伝えたが、2つ目のゲートまで行ってしまい、ハーバー内で探すことになりました。
12:36家内と合流し、ノースショップで既知とお喋りし、4回生学連部員と一緒にうどんを食べました。大会本部建物が次男の会社のものというのを家内が目ざとく見つけ、それを写真に収めました。
12:41、レース艇やコーチボート運搬のトラックがハーバーに入ってきて、積み込みに選手が忙しい。家内とあちこち歩きます。ジュニアからの既知に会ったので、あ〜だこ〜だ。
14時になりました。抗議が数件出ており、閉会式は16時頃になりそうなので、帰路に着くことにしました。キャプテン・監督・部員に挨拶しバイバイ。
R27で海岸線を東に向かい、14:22「イルマーレ」というイタリアンレストランでケーキセット食べようと入るが、お食事のみでした。舞鶴東ICから舞鶴道に乗り、綾部JCTから京都縦貫道。15:26「京丹波・味夢の里SA」着。ここでケーキと珈琲をフードコートで食べました。亀岡ICで下車し、R423で池田まで南下し、17:43自宅着。楽しいレース三昧の週末でした。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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