ウェブマスター日記 July-August/2010

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2010/8/30
この週末は、長男夫婦が帰省していました。長男は、お盆休みに帰っていたのですが、お嫁さんは仕事でした。墓参り好きな長男は、2週間後のこの週末、再びお嫁さんを連れて帰ってきました。
夕方帰ってくる予定の土曜日の朝、家内は張り切って2人のねぐらになる僕の実家隣家の掃除に余念がありませんでした。それに引き換え適当な僕は、「土曜の朝は通勤高速車が少ないから走り易いぞ」と、早朝からバイクで北摂里山を巡ってきました。でもまあ、ツケは回ってくるもので、帰宅したら「大変なことになってるよ」と家内から。お隣りの洗面台からの水漏れ修理のために、配管を外したり、掃除したりの仕事がレギュラーな仕事の前に入りました。
定番の仕事をこなしていると、昼過ぎに家内から長男夫婦が帰ってきたとの連絡が入りました。予定では、お嫁さんの仕事が昼過ぎまであり、それから帰ってくるということでしたが、2日前に海外の仕事から帰ってきたばかりなので、時差ぼけ対策か土曜日がフリーになったそうです。
しばらくすると、長男から「お墓の場所がわからなくなった」と電話が入りました。いつもと違う道から行ったので、間違えてしまったそうです。その後、今家内の姉が管理する駐車場になってしまった実家を見に行き、姉夫婦の家に結婚式の招待状を渡しに行ってきたそうです。あいにく姉夫婦は、学会出席のために福岡に行っており不在だったので、ポストに投函してきたそうです。その日は少し早めに仕事を切り上げ、4人で夕食を食べに行きました。くるくる回転寿司です。お腹いっぱい食べたつもりでしたが、4人で4000円。値段が安くなってるのでしょうか?

さて、翌日曜日は4人でお出かけです。お盆の帰省の時、長男に言われて「保津峡トロッコ列車」の切符を手配していました。朝8時に自宅を出発し、まず空港に行き帰りのフライトを確定してきました。その後我が家のお墓に参ります。お嫁さんは、既に3度は来ています。墓参り好きな長男に連れられて、入籍前に2度は来ているでしょう。家内の実家のお墓にも2度は行ってるし。霊園の事務所でお花を買い、お墓を掃除してお線香を立てます。長男の掃除は板についています。小さな頃から毎年最低2度は墓参りしてきたから、盆と正月になるとこれが定番なのでしょう。
運転を長男に交代し、亀岡に向かいます。僕は2座席目に座り、空港で買ってきてくれたベーグルを食べます。長男の運転もスピードを出さないので、安心して乗っていられます。亀岡に行く途中で、「ちょっと寄っていく?」って、「能勢射撃場」に寄ってくれました。大学時代ライフル射撃部だった長男から、ここの話を聞いていましたが、僕ら夫婦は初めてでした。高校生の記録会が行われているようで、立ったり寝たりして射撃していました。体育会系のクラブなので、選手はみんな見ず知らずの僕にまで挨拶してくれます。僕は、こういうのになんだか馴染みます。見知らぬ人に挨拶するのは、学生時代にこういうのに馴染んだからだろうと思います。

亀岡市内に入りました。「保津川下り」をするのですが、まず「トロッコ亀岡駅」に向かいます。駅前の駐車場に車を停め、そこのおじさんにタクシーを呼んでもらいました。「1300円だけど、いいですか」「はい、お願いします」。お金を払いタクシーチケットをもらいました。「これを運転手さんに渡してね」。多分京都タクシーさんと提携しているのでしょう。正規のメーター料金より少々高いのかもしれません。バックマージンが発生するんだろうな。でもこういうのには、乗った方が結局スムーズに行くものです。
「保津川下り船乗り場」に着くと、流れ作業のようになっていて、乗船代表者名と人数を書く用紙に記入すると、チケット売り場に並びます。チケットを買って待合室で待ってると、「次の乗船のご案内をします。・・様・・様・・」という具合に、買ったアイスクリームを急いで食べなくてはならないくらいスムーズに乗船できました。
泳げない家内にライフジャケットを着せ、船に乗り込みました。お嫁さんは元水泳部なので、この4人の中で一番安心です。まずは、サギ、亀の日向ぼっこ、カワウを眺めながら、ゆっくりな流れです。横に4人がけの席で30人ほど、船頭さんが前に2人・後ろに1人乗っています。船頭さんの話では、雨の後など水量の多い日は、終点嵐山まで1時間かからないそうですが、ずっと日照りが続いているこの日は、1時間45分かかるとのことでした。
こういう日は、船頭さん泣かせのようです。前2人の船頭さんは、急流を下る時以外はずっとこぎっぱなしです。後ろの方はこぎながらも舵を操っています。汗だくになりながら船頭さんが、「あれが愛宕山です」「右後ろを見て。猪・・・のような石」なんて、軽妙なガイドをしてくれます。お客さんとの掛け合いも慣れたもので、面白おかしく楽しませてくれます。お客さんの構えたカメラに向かって、ファイティングポーズを作ったり、慣れたものです。
JRの鉄橋をくぐり、トロッコ列車を見上げ、ラフティングの船に手を振ったり、時には急流で少々水を被ったり、大岩すれすれのスリルを楽しんだり、楽しい2時間でした。嵐山まで下った船は、昔は保津川沿いを5時間かけて引っ張り上げたようですが、今は日通のペリカン便だそうです。船頭さんはJRで亀岡に戻り、多い日で3回下るそうです。3回下ると、3kgも体重が落ちる時があるそうですが、ビールのんで翌朝には元通りだとか。
説明の中に、「上に見えてる道は、嵐山まで続いています。この船がどないかなったら、お客さんにはあの道を歩いてもらうことになります」と笑いを取る話がありました。前ハイキングで歩いた「JR保津峡〜嵐山」より亀岡側だったので、あの道を通れば、亀岡から嵐山までずっと保津峡沿いで行けるんじゃないかと興味を覚えました。きっと後日、バイクで走破するでしょう。
急流部を過ぎ、渡月橋が近くなって、船頭さんから「写真を取りますよ〜」と声が掛かりました。お嫁さんのカメラで、僕らも1枚撮ってもらいました。嵐山に着いて、定番の渡月橋。お嫁さんも一度来たことがあるそうで、人だらけの嵐山をタクシーで早々に脱出しました。向かったのは、「愛宕念仏寺」。弘法大師さんが化野の無縁仏さんを集めて供養した有名な「化野念仏寺」より北、ある筋には有名な「清滝トンネル」の手前です。いろんな表情の羅漢さんがいるとのことで、一度訪ねてみたかった所です。猫を抱いた羅漢さん、ボクシンググローブを付けた羅漢さんもいます。
ここには鳥居本を抜けていったのですが、二尊院を過ぎたところでタクシーの運ちゃんが、「細木数子さんの家がありますよ。寄っていきますか?」なんて誘ってくれました。愛宕念仏寺から、嵐山に向かって歩いて下ります。鳥居本で昼食。ざる蕎麦3と長男が冷奴定食でした。「しょうががうまい」と、お嫁さんに「食べてご覧」と促しています。そして家内や僕にも。先に食べ終わった僕が頼んだかき氷を、定食を食べ終わった長男が「僕にも」。「残り全部あげるよ」って渡すと、数口食べた後、お嫁さんにも渡していました。数口食べて僕に返そうとするお嫁さんに「最後まで食べちゃっていいよ」と言うと、2人で食べていました。新居は、東京湾にほど近いマンションですが、休日に2人で釣りを始めたとか。お嫁さんの妹さん夫婦が来たときは、4人で釣りをしたのだとか。仲よさそうな2人を見てて、なんだかとても嬉しくなりました。夫婦仲が家庭の根本です。そんな家庭には、落ち着いた笑顔の似合う子供が育ちます。すると、その子供に似合うお嫁さんや旦那さんが来るものです。何でも環境はとても大切です。
1時をまわりお腹がすいていたので、最初のお店で昼食にしましたが、次の店・次の店の表のメニューを見て、「あ〜こっちの方が良かったかな〜」、「湯葉丼なんて、味があるのか〜」「原価は安いだろうな〜」なんて笑いながら歩きます。
入ったことのない「祇王寺」に入りました。昔の芸能人・伊豆の踊子さんのような旅の踊り子さんが、平清盛に見初められお妾さんになった。でも次のお妾さんが出来て、その後ここで過ごしたとか。その姉妹と、刀自となっていたのでお母さんのお墓がありました。横にはその冥福を祈る清盛の五輪塔が立っていました。踊り子なんて、10代半ばとかじゃないのかな?ご無体な清盛さん。
その横の「滝口寺」にも入ってみました。何故入ったかと言うと、新田義貞の首塚があるとあったから。僕が興味を示すと、僕以上に歴史好きな長男がもっと興味を持ったようで、「入ってみようか」。「新田も源氏だよね」「そうやね」。「尊氏と同年代だから、13・・」なんて、お嫁さんに説明しています。家内が「あなたに似てるね」って。ヤツの大好き番組も「その時歴史が動いた」だからね。僕が庭の苔を写真に収めていると、長男は本堂に上がって、正座して手を合わせていました。このお寺は、悲恋の主人公を祀っているのだとか。これからの2人のことを祈っているのでしょうか。
二尊院・楽柿舎の前を通り、野宮神社の角を曲がって「竹林の道」に入りました。お嫁さんが、カメラを写そうとしてるのを目ざとく見つけた家内が、「あなた2人を写してあげて」「は〜い」。もう少し時間があれば、「大河内山荘」に入りたかったけど、ここで散策はお終いにして、すぐ横の「トロッコ嵐山駅」で休憩にしました。トロッコが来るまで、僕は巾着を買い、長男はかき氷。さらに「わらび餅」を注文していました。また「うまい、うまい」と、みんなに回していました。家内が、「おいしい、とよく言うようになったね」って。うれしそうです。僕らにお嫁さんの料理のうまいのを自慢するぐらいだから、家でもよく言ってるのでしょう。
4時10分のトロッコ列車に乗りました。船で下った保津川をトロッコで上ります。景色のいいところでトロッコは止まります。鉄橋の上でも止まりました。渓谷・下る船・・・。途中の「トロッコ保津川駅」から、鬼のお面と衣装をまとった酒呑童子さんが乗ってきました。小さな子が怖がって泣いています。車内で撮ってもらった写真を、記念に買いました。1000円でした。
「トロッコ亀岡駅」に着いて、駐車場のおじさんにお礼を言って車に乗り込みました。また僕は後ろの席です。走りだしてすぐ、助手席のお嫁さんがコックリし始めました。座席を倒してもいいよと促したのですが、「大丈夫です」だって。でもすぐにコックリ。帰りの車ではすぐ寝てしまうところが、家内とそっくりです。後ろ座席を倒すレバーを教えてあげると、家内は1段倒して寝てしまいました。自分の旦那を信じて身を任せている感じがして、助手席女子のこういう姿は好きです。
6時前に空港に着きました。7時半の飛行機には早いけど、空港で夕食を食べて帰るそうです。いい1日になりました。こういう機会を作ってくれた長男夫婦に感謝です。お嫁さんは、NHK朝のニュースキャスター鈴木奈穂子さん似の美人で、同じくNHK大阪朝のニュースキャスター井田寛子さん似の家内とはタイプが違いますが、ペラペラ先頭に立って喋る方じゃなく聞き上手。最初に会った時に家内が「私に似てるみたい」と言ってたように、家内と雰囲気が似ています。1日一緒にいて、似てるなとまた思いました。ということは、長男がお母さんである家内を気に入ってるということ。そのお母さんを獲得した僕も肯定されてるように感じ、嬉しい事限りなしです。

2010/8/23
日曜日、目を覚ましたら6時半前でした。おっとこれはいけません。今週はずっと5時台には目覚めていたのに。僕はクーラーが基本嫌いなので、どんなに暑い夜でもクーラーは掛けません。そのかわり窓を開けて、風を通します。前の夜、頼りの風も通らなかったので、寝付く前に胸に汗がジワリと出てくる感触がありました。きっとそれが原因で、身体が寝る時間を欲したのでしょう。
この日は、琵琶湖に学生のレースサポートです。全日本学生個人選手権地区予選です。上位6艇にしか全日本個人戦への出場権利はありませんが、1艇でも多くその権利を得て欲しいです。次週は、全日本学生団体選手権地区予選です。これを突破し全日本で暴れることが、クラブとしての最終目標です。とても大事なレースですが、次週は長男夫婦がやってくるので、僕は今週だけの参加です。
階下に下り、まずはシャワーで昨夜の汗を流します。ボタンを押し、10秒ほど待てばシャワーが温水になります。何とも素敵な世の中になりました。ウォータークーラーに冷水出し麦茶パックを入れ、お水を4L注入。双眼鏡などのレース観戦セットを首に引っ掛けて、車に乗り込みます。コンビニさんで氷を2kg購入し、クーラーにドボドボと突っ込みます。これで1日冷たい麦茶を供給できそうです。
艇庫に着いたのは、約束の7時半ジャストでした。僕の車がいつもより遅かったので、レース艇サポート一式は、クラブ車に載っていました。無風なので、8時の出艇申告は延期になる公算大です。大会本部のある柳ケ崎YHに少し顔を出し艇庫に戻ると、案の定8時にAP旗が上がったとのこと。でも支援艇グループは、支援艇のある琵琶湖YHで待機するとのことなので、そちらに向かうことにしました。クラブ車から僕の車に荷物を載せ替えて出発しました。
琵琶湖YHに着くと、シラカワ監督がバイクで到着されたところでした。1回生1・マネさん3とともに支援艇に乗り込みました。日焼け止めを塗りながら天気を見渡します。先週の大阪湾からの景色同様、晴れてるのに何かに包まれたように霞んでいます。比叡山頂上は雲で隠れています。黄砂の時のような雰囲気ですが、砂は降っていません。けったいな天気です。
リッツさんの不出場のことを監督さんに聞くと、7・8・9月の3ヶ月間お休みだそうで、全日本予選に出れないそうです。4回生は残念でならないでしょう。仕方ないです。僕は先に帰ったけど、先々週のレースの後のミーティングで、次男が体罰について話をしたそうです。僕は体罰は大っきらいです。愛のムチなんて、鞭打つ方の単なる自己満足だけであって、鞭打たれる方に憎しみを生むだけだと思っています。人間は、言葉という意思の伝達手段を持っているのだから、その言葉を駆使して自分の意志を伝えるべきだと思う。それをゲンコツでしか伝えることができないのは、ちょっとカッコ悪いです。鞭打つ方は、同じように同僚や上司・目上の方に拳をふるえるのだろうか?出来ないなら、それは単なる弱い者いじめでしかありません。痛みは、言葉より鞭打たれる者を鞭打つ者に従わせる即効性があります。でもそれは、理解してではなく、単に痛みから回避するためだけの服従です。旧日本軍や相撲界と同じ、古いしつけです。相手の失敗を指摘しつつ、その改善策を相手にポジティブに受け入れられるように、言葉や笑顔を選んで伝える技術を身につけて行くようにした方がいいです。相手の表情や言葉で、自分の技量の成長を計量するのは、とても面白いことです。
僕は、体罰やいじめ・ひどい言葉を見ると、必ず一言言う方です。これが原因で、小学校の時、いじめっ子としょっちゅう喧嘩をしていました。喧嘩弱いのでいつも負けですが、降参しないで立ちがり突っ込んでいくので、いじめっ子はそこを立ち去ります。一時期、クラスで一番喧嘩の多い児童でした。母親も何度か呼び出しを受けました。でも、そもそもの原因は先生から聞いているので、僕には何も言いませんでした。先生も僕には何も言いませんでした。理不尽なことには、猛烈に反発する子だったので、理屈に合わない大人の世界を僕に説いても仕方ないと思っていたのでしょう。そして僕の席の隣は、いつもいじめられっ子という席順になりました。大人になって、何故席替えがあっても、あの席順だったか理解できるようになりました。
こんな僕の息子なので、手を上げることの無意味と、大きなマイナスをしゃべったのだと思います。監督からそれを聞いて、我が息子ながら、「やるなあ」と思いました。直接自分に利害が及ばないことだからと、無視を決め込むのが大人の対応とされることがありますが、リーダーたるものそれでは組織内の出世はあっても、外部の強大な競争相手にみんなの力を結集して対抗できません。自分の個性を出して、自分の親派を作らねば。利害関係を離れた所で。平安・鎌倉・室町時代の武将に、男気のある人が多く魅力的です。最後は朝敵になり、敗軍の将ですが、平将門なんて、とても魅力的です。戦に負けても、すぐに友軍が集まり勢力を盛り返す足利尊氏なんかも、人をひきつける魅力を持っていたのでしょう。
レースの方ですが、土曜日の3レースで2・3位に着けていた京都チームですが、この日の5レースは出入の激しいレース結果になりました。ボーダーラインに2艇、横文字を叩いたのが原因で、その少し後に1艇という感じです。抗議やリコールがあり、正式結果はわかりませんが、次週の団体戦に向けては、まずまずの実力になってきたようです。
470は、マエカワチームの1艇だけのエントリーでした。2週間前の選手権で見せたブレイクが見えなくなっていました。スタートやその後のタッキングポイントをしっかり追うと、どうも中途半端で、OBクルーだった2週間前との違いが見えました。船に意志が見えなくなっていました。そこで最終レース前に、レース海面を見て右に行きたいなら本部船側5艇即タック、反対ならアウター側5艇そのまま伸ばすように指示しました。次のレース、上一即タックで右に伸ばしていました。レース後帰ってきて、支援艇で冷たい麦茶を飲みながらの会話では、クルー・スキッパー共に手応えを感じたようでした。もう一つレースがあり、今度は下一を狙って、最初に船を止めていました。他艇に下に入られて失敗スタートになりましたが、このエンド狙いでの失敗は、大きな学習になったと思います。厳しいポイントからスタートできる技量と強い心を持たないと、老練なレーサーにはなれません。マエカワ、いいよ。
支援艇には、マネさん達が用意した麦茶ウォータークーラーも載っていました。みんなでお金を出しあって買ったのでしょう。女子らしく、沸かしたお湯で麦茶を作り、氷を入れる作り方でした。その方がお腹には優しいですね。でもこの日は氷の用意が少なく、僕のを優先的に選手に振る舞いました。あと、応援の言葉と共に、千羽鶴が下がっていました。これ作るのに1年ぐらい掛かるのかと聞いたところ、1ヶ月ぐらいで折り上げたそうです。こう言うのも、女子にしか出来ないことかもしれません。彼女たちの力もあるから、次週はきっと素敵な結果を残してくれるでしょう。楽しみです。
この日は、帰宅しての仕事があり、先に失礼しました。6時前に自宅前に帰ると、ちょうど家内が家から出てきました。「おかえり。このままじゃ引きこもりになっちゃうと思って、今日初めて外に出たの」だって。買い物に出かけはりました。

2010/8/17
8/13(金)〜15(日)まで、お盆休みしました。13日はクルージング、14日はお墓参り、15日は京都ツーリングという3日間を過ごしました。
13日のクルージングは、高校ヨット部の同期との年1回の恒例行事に、家内と元ヨット部員の次男が加わりました。家内と2人になる可能性もあり、ちょうど帰省している次男に声を掛けました。GFさんにも声を掛けたら?と、余計なお世話をしましたが、海外にいるそうで、それは実現しませんでした。親なんかと一緒に過ごしても面白くはないだろうけど、母親孝行という気持ちが多分にあったのだろう、気持ちよくOKの返事をくれました。
エルシノアのエンジン修理が整い、2日前に同期にクルージングの誘いをだしたのですが、3人の同期全員からOKの返事が返って来ました。東京在住の2名もちょうどこの日に帰省で、タイミングが良かったようです。
当日の待ち合わせは、11時に新西宮YHでしたが、船の準備もあり1時間前に着きました。エンジンは一発始動。窓を開け、トイレの掃除。同期の奥さんも来る予定なので、ココは重要です。家内に使用方法を説明し、掃除しだすと、「トイレの掃除がある、って言ってくれてたらいいのに」と、家内が交代してくれました。トイレ用ブラシがあったはずなのに、行方不明になってます。仕方なく、トイレットペーパーで掃除してくれました。
僕は、みんなが早く来るかもしれないので、先にセンターハウスに戻ります。「一点鐘」でOPガラミを購入しようと思ったけど、置いていませんでした。次の太さのを購入。OPガラミは、メガネの流れ止めに都合がいいのに残念です。メガネのちゃんとした流れ止めを購入していると、テーブルの上のスポーツ・ゴーグルが目に付きました。船上の激しい動きの中で目を保護するゴーグルなので、少し厚めだそうです。色はクリア。顔の形にフィットして、ずれません。しかも、1600円と安価なのに、下に老眼鏡部分があります。この位置が微妙で、前を見ると老眼鏡部分が視界に入らず邪魔になりません。細かい字を読むときは、下を見るか、ゴーグルと指で少し上げればOKです。社員がアメリカに行った時に、買って来たそうです。衝動買いしました。こんなゴーグル、今まで見たことがありません。素敵な買い物をしたと思います。
家内と次男がやってきて、メンバーもみんな揃いました。ここで残念なことがありました。メンバーの1人が、母親の具合が悪くなったので、急遽見舞いに行くとのこと。高校時代、彼の家はヨット部同期のたまり場になっており、お母さんにもお世話になりました。奥さんもお嬢さんたちも、乗れなくなりました。
センターハウスで記念写真を撮り、全員で桟橋まで行き、6人は乗艇し、出発しました。ちょうどこの日は、ジャパンカップのレース日でした。西出入口から出て、セイルアップ。海上自衛隊阪神基地に停泊してる掃海艇のような船を写真に収め、次男にヘルムスを交代し、赤白灯台を目指します。次男が、「交代します?」なんて同期に声を掛け、みんなハンドリングを楽しみます。
はるか沖のジャパンカップの上マークを目指し、上マークでレース艇の回航を見物しようと目論んだのですが、さすがにレース艇は速く、僕らより遅れていた艇がみんな前に出ていってしまいました。レース海面の外からでしたが、レース艇のスピードやタッキング動作の俊敏さを、みんな感じてくれたようです。
帰路につきました。赤灯台をクリアし、ジャイブしながら東出入口を目指しました。ここでヘルムスを交代し、入口手前でセイルダウンして入港。桟橋にデッドスローで近づき、もやいを取ります。メインセイルのレイジージャックが破れていたので、次男にメインシートでグルグル巻いてもらいました。
ハーバー2Fレストランでお疲れさん飲食をしようと思ったら、どうやら貸切のようです。ジャパンカップの関係でしょう。1Fレストランで、みんなはビール、僕はクリームソーダを飲んで、どうでもいい話に花が咲きました。みんなを駅まで送って、帰宅しました。
家内と通勤リード110スクーターで買出しです。翌日は、母の初盆なので、祖供養と仏壇のお花、長男も帰ってくるので、食料品を買い込みました。足元・前カゴ・リアボックス・ヘルメットボックスに品物を満載し、2人乗りで帰りました。大型ショッピングモールは、駐車場が混むので、車で行ったら倍以上の時間がかかるので、バイクの方がずっといいです。
その後、僕だけスクーターでたまり場の同期のスギモト家に出発しました。お母さんは大したことがなく、予定通り夜の集まりです。昼間一緒だったメンバーに、中学からの同級生も加わり、ワイワイ11時ぐらいまで、またどうでもいい話に花が咲きました。昼間撮ったムービーも披露され、ヤマブキ君のサングラスが海のも屑になった件などで、盛り上がりました。こいつらとは、腐れ縁というヤツです。

14日は、母の初盆です。昨夜、僕が同期の家で盛り上がってる時、長男が帰ってきたようで、次男が駅まで迎えに行ってくれました。長男は、相変わらずでかい仕事カバンでした。1週間のお盆休みの間に、3日も仕事が入ったようで、13日の愛媛の仕事を終えて帰って来ました。16日は、名古屋で仕事をして一旦帰って来て、17日の大阪の仕事を終えて東京に帰るそうです。バリバリ働いていますね。
次男は、製図板と共に帰省してきました。来月の国家試験に向けて、宿題や課題をやるようです。次男も、家内の実家近所の現場の仕事があるようで、お盆休みの1日を仕事していました。現場に行き、市役所を訪問したようです。そこの設計を任されているようです。その現場が回りだせば、頻繁に帰省するかもしれません。実家近くには、姉の家もあるので、そちらで泊めてもらってもいいです。息子達は忙しそうで、ありがたいことです。
朝8時にお寺さんが来られます。バタバタ、といっても主に家内が用意し、僕は出迎えの準備です。弟家族が到着したすぐ後に、去年同様10分前倒しでお寺さん到着。この1週間、スクーターに乗ったお坊さんの姿をよく見かけましたが、忙しそうでいつもよりショートバージョンで法要を終え、次のところに慌しく行かれました。稼ぎ時だからなあ。
10時に親父の一番下の弟さんが横浜から飛行機で来るので、自宅待機です。母の先祖のある方の生涯や家系を記された2冊の本の複写本を、弟・長男・次男に渡しました。僕が母から聞いていた我が家の先祖のこと、僕がこの本を元に調べた先祖の流れを話しました。母の一番の宝物だった2冊は、今後僕が大切にしないといけません。
10時になり、空港におじさんを迎えに行き、自宅の仏壇にお参りしていただきました。叔父さんの帰りの飛行機が3時なので、我が家のお墓にご一緒しました。さすがにお盆、道は混み気味で、15分ぐらい多めに掛かったと思います。みんなでお墓を磨き、供物のお野菜・線香などをあげ、記念写真を撮りました。
本来なら、おじさん含めてみんなで食事なのでしょうが、おじさんが来られるのが数日前に分かり、2家族でハイキングの予定を組んでしまっていたので、コンビニで買ったおにぎりとお茶を渡して終わりです。「怒られるがな」。まあ気さくなおじさんなので、こちらも気を使いません。
おじさんと一緒に、「JR武田尾駅」に向かいました。武庫川に架かる鉄橋上の無人駅で、おじさんを見送りました。僕ら2家族は、武田尾〜生瀬廃線ウォークに出発です。JR福知山線は昔、武庫川渓谷沿いを走っていました。この渓谷、朝霧がよく発生し、幻想的な路線だったろうけど、現路線は、トンネルを走っています。保津川トロッコ列車の景色に匹敵する眺めの中を歩きます。一応JRは、正式には認めておらず、「自己責任」の看板が立ててるけど、大人気なので暗黙の了解というヤツです。
僕ら家族は初めてでしたが、弟家族はもう3回も歩いたそうです。前回から随分日が経ってるそうだけど。さらに弟は、武田尾の上流の道場から、ライフジャケットを着て入水し、武庫川の流れに乗って、生瀬まで流れたそうです。「そんなのやってる業者がいるの?」「いいや、勝手に」。なんとも凄いヤツです。途中に流れの急な滝みたいなところもあるのに・・・。
桜の園で、お昼ご飯にしました。その後は、親父に似て歩きの速い弟に大きく離され、2家族バラバラになりました。途中に何箇所もトンネルがあり、昼間なのに漆黒の闇です。懐中電灯を消すと、前も後も横も、全く方向がわからなくなります。だれもいない暗闇を、しんがりで家内と歩きます。次男が少し前で、僕らを振り返りながら歩いています。長男は何処に行ったのやら、多分弟達と一緒でしょう。
一番長いトンネルを抜けたところで、長男が待っていました。彼の情報では、弟達に随分遅れているようです。次男と3人で、ワイワイ写真を撮りながら歩いてきたので、大分離されたようです。川の流れもいいので、ここで休憩しました。
つくつくぼうしの割れんばかりの鳴き声と、武庫川の石の間を流れる激流の音の中を、とても楽しく歩けました。しばらくすると義理妹から家内の携帯に電話が入りました。長男が出ました。「駅の下の階段まで来たけど、もう1駅歩くの?」、そう言われてもこっちは初めてだからよく分かりません。「そこの駅から電車に乗るよ」と答えました。
これが大間違いでした。長男が「ココに階段があるよ。上がるのかなあ」と気づいたのですが、僕はてっきり駅は対岸の下流にあると思っていたので、「違うよ」と却下。少々迷ってR173に出て、歩道を歩いていると、また弟達から着信。また家内が長男に電話を渡します。「駅に着いたよ。今、何処?」。「・・・」。間違いに気づきました。僕らは1駅先の「JR生瀬駅」に向かっていました。当初の予定は、ここなのですが、弟への指示が間違っており、1つ手前の駅に弟は向かっていました。「JR武田尾で集合ね」と長男が答えています。「やっぱり、あそこの階段で良かったみたいね」と笑っています。「お父さんがさあ、向こう岸に駅があると間違っていたからなあ」と、これまた笑っています。人のミスを攻めずに、笑ってフォローして笑い話に変えてしまういい性格をしています。「お〜、すまんすまん」と、みんなで大笑いです。
間違った分岐点からの2つの駅への距離は同じぐらいだったようで、程なく僕らも駅に着きました。ホームに上がり電車に乗り込みました。弟達の向かった「名塩駅」に電車が入り見ていると、弟達がいました。結局、同じ電車になりました。車を置いた武田尾駅に戻り、駅下の駐車場管理事務所で駐車料を払いました。2台で1000円でした。ワイワイがやがや、駐車場で解散しました。
帰宅して、僕と家内は東京に帰る次男を駅まで送りに行きます。洗濯物もあるので、大きなトランクは宅急便で送ることにして、製図板と共に帰って行きました。その足で、追加の祖供養を買いに行きます。ショッピングモールに突っ込んだら大変な目に合うので、駅前で僕は待ちます。しばらくすると、大きな荷物を抱えた家内がよたよたしながら戻って来ました。「すごく、重たかった〜」。ご苦労様です。

15日は、夕方から長男はお出かけです。結婚式の招待状を持っていくのだそうです。クラブ関係かな?中高の同窓生なんだろうか?わざわざ持って行くところをみると、披露宴で何かを頼むのでしょう。宴会隊長の長男は、友人やクラブ関係の披露宴では、司会者兼盛り上げ役だったから、自分の結婚式も演出したいのだろうけど、主役だからそうもいかないよね。
僕ら夫婦はフリーになったので、朝お互いに仕事場のゴソゴソをやりに行き、さらに家内は長男の朝食を作って、お出かけすることにしました。「有馬ロープウェイ〜六甲山下山ハイキング」「妙見山ケーブルカー〜下山ハイキング」「夫婦で自転車、道の駅いながわ〜長谷の棚田・才ノ神峠編」と、メニューはいろいろありましたが、前日に2駅も歩いたので、足を使わない「夫婦でバイク、亀岡〜貴船神社・鞍馬寺〜美山編」に決定しました。
通勤リード110に、家内の転落防止リアボックスを装着し、9時に家を出発しました。「池田」からR423をひたすら北上します。亀岡に入り、「穴太寺」で最初の休憩を取りました。僕はお賽銭チャリンとお参りしましたが、家内は日焼け止めのお化粧直しです。おトイレを拝借して出発。
R9を越え、亀岡駅前を過ぎ、JR山陰線の踏切を渡ってR25に乗りました。保津川を渡る橋から、下の保津川下り乗船場を見ます。このままズドンとR477に乗るつもりでしたが、GSが全くありません。ガソリンが寂しくなったので、r73でR9に戻ることにしました。R477山道区間に入ると、GSどころか民家もありません。あんなとこでガス欠は悲惨です。
r73にもGSがなく、R9との交差点にあるセルフGSで給油しました。4.8L・前回給油からの燃費43km/Lでした。R9を「八木」まで走り、ここからR477に入りました。カラー舗装の如何にも商店街が、国道指定されています。最初ここを通ったときは、道を間違ったと思いました。「桂川」を渡り、京都の北山杉の植林地区に突入です。この道は、車で走ろうとは思わないけど、二輪には素敵です。
「廻り田池」で、r50と合流しました。ここから、r50で「清和天皇陵」をかすめて嵐山まで走るのも、いつかやってやろうと思います。細い森の中の道をグニャグニャ走ります。最初に通った時は、昼なお薄暗い道なので心細くなりました。カーブの先もわからないので慎重に走っていたら、ロードバイクに抜かされるというバイクとしての大きな失態を犯してしまいました。下りは自転車の方が早いと思います。抜かされながら、人に会えてホッとした記憶があります。
下りに入り、R162との交差点「京北周山」まで来ました。ここで2度目の休憩です。時刻は11:30を回ったので、早めの昼食にしました。次の「常照皇寺」には、何も無いし、「鞍馬寺」まではまだまだ遠いです。ここの昼食が、出来上がるまで時間がかかりました。ガソリン補給寄り道と合わせて1時間はロスしたなあ。でも美味しくボリュームのあるご飯でした。
R477をまた東に向かいます。ここからは広いいい道になりますが、交通量はほとんどありません。「常照皇寺」に到着。花の寺と言われるところだけど、桜の季節に来たことがないからか、いつも閑散としています。家内は初めてなので、寄り道します。常照皇寺前にレストランがありました。ここで食べた方が良かったです。「桂川」を見ながら、食べれたのに。
しばらく桂川に沿って走りました。鮎の友釣りのお客さんが、流れに入りながら、長い竿を操っていました。友釣りの天然あゆや入漁券を売るお店が、時折現れました。r361との分岐まで来ました。ここで桂川とR477とお別れです。r361で南下します。「芦生峠」を越えて、「貴船神社」に向かいます。すぐ横に沢が流れる素敵な山道です。でも雨が降ると、沢が溢れすぐに水没しそうな道です。気温は25度を下回っているでしょう。とても涼しいです。この時期だから凍結の心配はないけど、水が被ってるところは、スピードをさらに落とし慎重に走ります。
芦生峠を越えると、京都市側は坂が急です。スクーターはオートマなので、ブレーキをかけっぱなしになります。昔に免許を取った者としては、ブレーキ熱で利きが悪くなるような気がします。ギアバイクだとエンジンブレーキを掛けられるから、随分安心なのにね。
久しぶりに建物が現われると、いきなり観光客が目につき、「貴船神社」に到着です。貴船川で遊んでいる人がたくさんいます。随分昔に家族で食事した川床が大賑わいです。川下のお店は、お客さんが並んでいます。ここから渋滞が発生していました。下から上がってくる車がいるので、細い道だから車が下れません。
歩行者が多いので、車は大変です。僕はスクーターなので、ちょっとしたスペースを見つけては、ひょいひょいと前に進み、二輪の特権を謳歌させていただきました。
「叡山電鉄・鞍馬線・貴船口駅」で、京都府道r38にぶつかり、左折して「鞍馬」の方に向かいます。貴船の川床でお茶でもしようと思ってたけど、あまりの混み様で諦めました。土産物屋さんが現われ、鞍馬到着。でも駐輪する所がありません。門の前を通り過ぎ、Uターンして、門前のお店に聞きに行きます。「スクーターを停めるところがありませんか?」。店の横に置かせてもらいました。熱中症対策のため、僕はかき氷、家内はくずを食します。
このお店で、義経饅頭を買うことにして、鞍馬寺に上ってみることにしました。入山料200円。上りはケーブルを利用することにして、さらに100円。ケーブルの駅からさらに15分ほど階段を上がって、やっとこ鞍馬寺本堂です。家内は、ベンチに座って汗を拭きながら、「牛若丸は、こんなところを飛び跳ねてたのね」「ロケもここでしたのかな?」なんて言っています。NHK大河ドラマの「義経」の主役タッキー君が次男に似てると、当時毎週欠かさず見ていました。思い出しているのでしょう。
下山は、徒歩にしました。途中の「由岐神社」の回りに、大杉が何本も天を突いていました。「鞍馬の火祭り」は、この神社のお祭りですね。家内は鞍馬寺のお祭りだと言ってたけど、「鞍馬の火祭は、当社の祭りです」と、ちゃんと書いてありました。
義経饅頭とよもぎ餅を買って、出発です。この時点で3時半。r38を北上し、美山を回って帰ろうと思ってたけど、日没のこともあり、R477で帰ることにしました。貴船への道よりマシだけど、曲がりくねった細道を北上し、R477の「百井別れ」。いつかココを東進して、R477最大の難所と言われている「百井峠」を越えてみようと思っています。
本日は反対側に進みます。グニャグニャ曲がりながら、「花脊峠」を越え、r38との分岐を過ぎ、桂川沿いに道が広くなったR477を西に向けて快走しました。貴船への分岐を過ぎ、「常照皇寺」を過ぎ、R162との交差点の「ウッディー京北」で、またトイレ休憩。グニャグニャのマシなr363でR477をショートカットの手もあったけど、あえて再チャレンジします。要するに、山道が好きだということです。
「八木」まで下りてきて、r405で亀岡まで戻ってきました。ココからは、R423で一気に池田に帰れます。でも、太陽に高さを見て、遠回りに決定。R9を北上し、「千代川」からr73で西進、R372に抜け、R372を東進。r453の細山道を南進し、「るり渓」を通り、r54・r104でR173に合流しました。R173は、軽い下りなのでスピードに乗った車が多いので、車列の切れ間まで道端で待ち、切れ間を頑張って走り「山下」まで抜けました。
ここまで来れば、ホッと一息。多田のニュータウン内を抜け、r12旧道に入り、なんとか明るいうちに帰宅できました。淡路島一周を越える僕ら夫婦の最長記録更新ロング・タンデム・ツーリングになりました。1回満タン給油で、ちょうど出発時のメモリぐらいで帰宅したので、交通費は、2人で700円弱のようです。お得に遊びました。

2010/8/9
日曜日は、琵琶湖のレースに行きました。近畿北陸470・スナイプ選手権です。次男もこのレースに出るようなので、家内も応援に行くと言い出しました。僕はコーチなので朝からコーチボートに乗り、家内は午後レース終了後の着艇に間に合うように琵琶湖にやってきます。
金・土は、我が家の町内盆踊り大会でした。家内は、町内会役員なので、焼きそばを売ってました。僕は、仕事を終えるとすぐに駆けつけました。小学生の頃は、友達と連れ立って、昼の2時ぐらいから会場の公園にいました。遊びながら、ちょうちんのぶら下げを手伝ったりして、盆踊りが始まると、第一番に踊りだしました。三々五々集まってきた大人達が、僕らに続いて踊の輪が大きくなるのに、先駆者的な快感を感じていました。炭坑節など掛け声のある踊りの時は、大声で「サノヨイヨイ」と叫んでいました。
親父が、町内会役員席に座っていたので、軍資金を無心しテキヤさんで散財して楽しい数日を過ごしました。大人の手が足らない昼間の手伝いをし、踊りの盛り上げもしていたので、親父も気前が良かったです。公園の貸しボート屋さんや駄菓子屋などでも顔になり、暇なときにタダでボートを貸してくれました。貸しボートの呼び水だったのでしょう。
家内が愛想よく働いているのを遠目で見ながら、過日の賑わいを思い出していました。子供たちが、祭りではおなじみの売店で買った光物を頭・腕・足首に巻き、小さなお嬢ちゃんがかわいい浴衣を着てお父さんにじゃれついています。いいね、お祭り。土曜日は最終日で、町内会売店の片付けを少々して、家内と一緒に家に戻りました。家内は、日曜の午前中、テントの片付けや洗い物をしに行くそうです。

日曜日、6時を回ったので家を出ました。6Lウォータークーラーに麦茶を入れ、コンビニで買った氷を1kg突っ込みました。お盆1週間前で、帰省ラッシュが始まったとのニュースを聞いたのでビクビクしながら、まあ大丈夫だろうと高をくくりながらの道中でした。「京都IC」からスピードが落ちるところもありましたが、いつもより10分ほど多めに掛かっただけで艇庫に着きました。
いつも名神「京都東IC」〜「湖西道路皇子山」下車〜「JR大津京」というルートなのですが、皇子山で降りた後、山側に曲がってみました。錦織の住宅地内の道を川沿いに下ると、「近江神宮」横に出ると地図を見てて発見したからです。先月登った「宇佐山城址」への道でした。大化の改新の天智天皇が、この地に都を移してから、いろんな歴史を経験してきた地です。東から京都に入る「近江神宮〜山中越」と「大津〜三条」ルートの間の地域です。ここらを探索したくて、仕方ありません。景色を見ながら、「兵ものどもが夢の跡」を想像するのも乙なものです。でも藪漕ぎなどやったら、素人なので遭難してしまうかもしれません。少しずつ奥に探索の手を伸ばしてみようと思っています。京都との間の「如意ヶ岳」の裏でもあるし、天空を飛ぶ天狗を想像するのもいいです。
この川は、なんという川なのだろう?近江神宮を下り、琵琶湖に注ぎますが、その河口は艇庫横です。今は時々僕も小用を足す川だけど、その小さな流れが見てきた歴史は・・・。

体操をして、8時出艇。僕は、OGユキナガさんと女子マネ3人とで、紫雲に向かいます。日焼け防止のために、いつものように長袖長ズボン・アラビアのロレンス帽子にアリー日焼け止めでバッチリです。ずっとコーセー1200円日焼け止め愛用者でした。もっと安価なのはあるけど、アネッサ3000円を使うほどのお肌でもないし、という微妙な落しどころです。が、ある日、「この日焼け止め使ったら?」と、家内からカネボウアリー3000円を渡されました。「お〜、僕も出世した〜」。
息子には、ポンポンとアネッサを渡す家内ですが、僕には音沙汰なしでした。息子が巣立って、僕の地位が上がりました。・・・ん?よく見ると「テスター」と書いたシールが貼ってあります。「う〜む。店頭見本のお下がりか〜」。
470級約30艇・スナイプ級約40艇のレースでした。最初のレース、1上2位で京都スピンが上がりました。「お〜いいじゃないか」。息子は風が強そうに見えた右海面ではなく、スタートでアウター5艇目から出て、さらにスタート失敗で、スタート後すぐにタックしてスターボ艇のお尻をなめ続けて右海面に。右海面がいいと思ったら、本部船寄りから出ないと・・・前に来るはずはありません。息子と同期のイリグチ君かも?ここで水をさす言葉が、マネさんから「金沢に1艇貸しています。スピンカラーが同じです」。
しばらくして、マネさんから確認したセイルNo.報告が来ました。4250・・・なんと1年目スキッパーの2回生マエカワ君ではないか。すごい。クルーが去年キャプテンのウエノ君ということを割り引いても快挙です。「ブレイクしたんではないか〜」とコーチボート上で、ひとりで騒いでいました。だって、先月までの練習を見てきて、順位を落とすのは時間の問題と思ったから。10位ぐらいに1艇、20位ぐらいに2艇スピンが上がりました。
スナイプは、2度のゼネリコ後ブラックフラッグでスタートしていきました。ここで、柳が崎YHに一目散に戻ります。大会本部担当だったマネさん3名を乗せるためです。レース海面に戻ってフィニッシュエリアにアンカリングして470のフィニッシュを待ちます。マエカワ君は、結局2位を保ってフィニッシュ。草レースではない公式戦で、大したものです。続いてやってきたのが息子。13位?あの1上順位から、よくここまで上げてきたものです。さすがです。
1回生マネさん2人が、麦茶提供係です。戻ってきたレース艇に声を掛け、冷たい麦茶と「頑張って」の甘い声援で、ヤル気を倍増させます。炎天下のボート上ですが、マネさんたちも楽しそうです。ユキナガさんのポイント解説でお勉強しています。1回生マネさんに、「アンカーライン収納結び」と「バウラインノット」を教授させてもらいました。僕がヨットで使う結びを教えてもらった時に感じた、ほどきやすいけど解けない素晴らしさを感じれたでしょうか?
2レース目は、1レース目より少し風速はあがったけど、4m/sほどで北風。また右海面有利に見えました。4250は、また本部船寄りからスタート、定石通り即タック。3840は、スタートは高くなかったけどフレッシュウインドで本部船寄りスタート。後ろの艇がタックしたので、定石通りタックして右に行くと思ったらそのままスターボ。1艇バウを切られ、ここでタックかなと思ったらまだそのまま、続々タックしてくるポート艇にバウを切られ、「終わったな」という感じでした。
左に行きたかったのなら、アウター側から出るのが定石。息子がこんなスタートをするなんて・・・。4010は、アウター寄りから左海面に出ていきました。スナイプは、ゼネリコ1回の後、X旗でスタートしました。1マークで、5位前後に1艇京都スピンが上がりました。またマエカワではないかと喜びましたが、残念ながら金沢大。でも13番にマエカワ君のが上がりました。どうやら一皮むけて、ワンランクアップしたようです。470チームリーダーの彼の成績がいいと、続く1回生も自ずと引っ張られてレベルが上がるはずです。頑張れマエカワ。フィニッシュは、3840が13位ぐらいで京都トップ。期待のマエカワくんは、10番ほど順位を落としてしまいました。帰ってきた息子は、「最初にタックすべきだったね」と第一声、そうだね、あそこでこのレースが決まったようなものです。
第3レースは、風が落ち気味の中スタート。3840が遅れ上一。定石通り、最初にタックして、右海面に出ました。レースで中途半端は命取りです。早く混み合うスタート三角から抜け出ないと、レースが始まりません。それがわからない艇が半分以上いるから、レース艇が多くなっても、それをわかってる上位艇は、常に上位にいます。
期待の4250は、アウター5艇目ぐらいからスタートしました。左海面がいいように見えないけど、ウエノに何かひらめくものがあったのでしょう。でも風は期待に反し弱くなり、東目から弱い風が入りだし、アウタースタート艇がダダ遅れが予想される展開になりました。本部船寄りから出た3840はトップ目でしたが、まずスタート信号に入っていたスナイプ級にAP旗が上がりスタート延期。続いてN旗+470旗で、470のレースが中止です。良い判断だったと思います。
東からの風の他に、北の方では北からの弱いブローも吹いていましたが、東風の勝ち。大きく風向を変える東風に、上マーク担当ボートが、右に左に走ります。4m/sほどの風の中スタートしました。最後のレースなので、コミッティーも大き目のレース海面を設定しています。適当な風で、クローズ3本の気持ちのいいレースでした。10番ぐらいに3840。期待の4250は、上マーク付近でケースを起こし、相手艇が沈してリタイヤしたので、リタイヤしていました。レースではいろいろあります。大いに学んでください。
ということでレースは終わり、柳ヶ崎YHにレース本部担当マネを数名下ろし、ハーバーバックしました。ユキナガさんが、「レースが楽しそうで出たい」と言っていました。僕もそうです。ハーバーでレスキューを洗い、艇庫に戻ると家内がいました。ターくんの手の皮が剥けていたので、それを心配していました。「鉛筆より重たいものを持たない生活が続いていたから、手の皮も弱くなってるわ」と言っていました。スタートで見受けられたレース感が鈍っていたが、常に順位を挽回していくのはさすがです。最終レースのフィニッシュ前、大きく足を開いてトラピーズに乗ってる1回生クルーを見て、これではレーシングモードにイマイチなれないだろうなと思いました。クルーだって、1日1日長足の進歩をしています。部員不足が全てです。

息子は、明日は兵庫県で仕事で、その後お盆休みなので、実家に帰ってきます。閉会式やミーティングに出て帰ってくるそうなので、彼の荷物だけを車に積んで帰ることにしました。カタカワ君に帰ると言いに行くと、集合をかけてくれて、気付いたことを話して艇庫を後にしました。マネさん達は、僕の持って行った麦茶クーラーが気になっていました。艇庫に1つあった方がいいですかねえ?みんなでお金を出せば・・・。冷たい麦茶1杯が、練習のアクセントになると思います。
お盆の渋滞が気になりましたが、ほとんど渋滞なしで帰ってこれました。自転車屋さんに寄り、車輪を28Cから25Cに細くした家内の自転車を受け取りに行きました。タイヤをお任せしたのですが、タイヤ側面に車体と同じ色のピンクのラインが入ったタイヤで、さらに女子な自転車に変身していました。「可愛くなった」と家内はご機嫌でした。その勢いで、ラッシュガードを買いに行くと言い出し、スポーツ用品店で物色しました。好きなピンクのがありましたが、生地が薄く透けるので却下。厚い生地のは、半袖で却下。1900円というお安いのは、試着でイマイチで却下。結局、黒の5000円ほどのに落ち着きました。
次の週末は、お盆ウィークです。息子たちの帰省、お墓参り、家族ハイキング・・・楽しいメニューが待っています。

2010/8/2
今朝は、5時前に目が覚めました。夜更かしは出来ないけど、早起きは平気な僕にとっては、春〜秋の定時の目覚めですが、月曜日としてはいつもより1時間は早い目覚めです。よっぽど重要なことがない限り、目覚ましを掛ける習慣のない僕には、朝の目覚め時間が、疲れのバロメーターになっています。いつも日曜日は、1日中外に出かけて遊びすぎるので、月曜日は遅い目覚めになり、「早朝バイク」も「早朝自転車」もお休みが多いです。
「ふふ、昨日疲れなかったな」と、ちょっと自分に自信を取り戻し、「早朝バイク」で、北摂定点観測地区に一っ走りしてきました。バイクを置き、ヘルメットを脱ぎ、山間から上がる若い朝日を浴びて、気持よさそうな伸びをしてる緑の稲の畑を、しばし放心して眺めていました。
7時まで2時間、至福の朝の一時です。帰宅後、最近の毎朝の定番、庭仕事に精を出しました。庭ジャングル化の大きな原因になってる木を、電動枝切りで伐採してしまいました。半年ぐらい掛けて、庭をリストラします。

さて、昨日の日曜日です。家内もお休みだったので、家内の実家のお墓参りをすることにしました。前回は、春のお彼岸の時期でした。この時は、自転車で行きました。JR福知山線で「谷川」駅まで北上し、加古川線に乗り換えて「西脇市」駅まで南下し、そこから自転車でお墓に向かいました。
今回は、「夫婦で自転車・お墓参り編2」を敢行いたしました。でも前回と同じでは芸がないので、「明石〜加古川」間を走ることにしました。明石まで車移動・駐車、JR「明石」〜JR「加古川」〜JR「厄神」は電車移動、「厄神」〜お墓〜加古川実家跡〜加古川姉宅で仏壇お参り〜「明石」を自転車移動。という計画を立てました。好ポイント1-上り坂がない。好ポイント2-近くにJRが走ってるので、いつでもリタイヤ出来る。
駅・お墓・加古川で15kmはありそうです。加古川・明石が25kmぐらいだから、合計40km。「夫婦で自転車」は、いつも20〜30kmで計画します。これぐらいなら、僕らの脚力でもまず完走できるし、女子の伝家の宝刀・最終兵器「私、もうダメ、ここで待ってる」が発せられても、車に戻って家内を迎えに来ることが僕にも出来そうだからです。なんせ、最初の「夫婦で自転車」でいきなり最終兵器をお見舞いされて、必死で自転車を漕いだ経験があるので、我が肉体と男としてのプライドを守るためにも、これぐらいが適当です。
でも、今回はちょっとそれをオーバーしているので、長い登り区間があるときついです。「しんどくなったら、いつでも電車に乗れるから」という安心感は、家内には重要です。

数日前の調べで、明石城のところにある市立図書館横の駐車場に、車を置くことにしました。7時から開くということなので、6時自宅出発としました。日頃から朝の早い僕らには余裕です。家内は洗濯など、僕は自転車の空気を入れ、輪行用具を用意し、自転車を車に積み込みました。
出発は少し遅れ、6時15分でした。「宝塚IC」から「中国道」に乗り、阪神高速・北神戸線を南下、明石市内に入りました。GPSに誘導に素直に従い、難なく図書館駐車場に着きました。ところが、開門は、7時半となっていました。15分ほど待って入場。僕の前に入った車からは、ランナーおじさんが出てきて、お仲間さん達の輪に入っていかれました。おじさんランナーが、明石公園内でも走るのでしょうか?
トイレの横に駐車し、自転車を組み立て、家内の身だしなみを待って出発しました。明石城公園の外を東辺に沿って南下したら、エレベーターがありました。駅は坂を下ったところなので、乗る必要はなかったのですが、自転車も乗れるようなので乗ってみました。これは帰りも利用し、楽しましょう。
JR明石駅到着。2週間前、ここで電車でやってきた家内をピックアップし、通勤リード2人乗りで、淡路島一周しました。家内を待ってる間見てた他人様の自転車の組み立てを、今度は僕らがやってるなんて。ここで、新兵器投入。ホームセンターで買ってきたパイプや車輪を組み合わせて、自転車後輪にくっつける名づけて「らくちんキャスター」です。輪行袋に入れた家内の自転車の後輪に、これをセットしました。自転車を持ち上げなくても、引きずるだけでパイプの下に付けたキャスターがくるくる回り、らくちん移動できます。これは家内に好評でした。しかも、エレベーターが付いていたので、階段上りもなく、楽にホームに上がれました。
予想通り、明石・加古川間のJR各駅停車は混んでおらず、自転車を人様の邪魔になることなく置けました。空いていたので座れました。駅で5つ、あっという間なのですが、自転車ではどれぐらい掛かるのだろう?
加古川駅で、加古川線に乗り換えました。ここにもエレベーターがあり、楽しました。「厄神」駅で下車。さあ、自転車の組み立てです。明石駅で、「忘れちゃったから、少し見てる」と、僕の輪行手順を見てた家内ですが、ここでは、僕より早く組み立てを終えていました。
「上荘橋」で加古川を右岸に渡ります。右岸堤上道路をさかのぼります。いつもほとんど車が走らないのに、車が走っています。「おかしいな」と思っていると、その原因がわかりました。県の漕艇場で、レースが行われているようです。レース・コミッティ・ボートが、何やら白い旗を出したり・振ったり・引っ込めたりしています。河川敷に車がいっぱいです。
ここからちょいと上って、「日光山墓園」。義理父の実家近所の山にある集落の墓地にあったのですが、義理姉夫婦がこちらに移動させました。女兄弟で跡取りがいなくなった家内の実家ですが、姉が近所に住み、亡くなった義理母を何かとサポートしていました。義理兄は、家内の実家の資金で開業したこともありますが、家内の実家と、自分の実家の面倒も見ています。兄の母親が亡くなったら、兄んとこの先祖代々のお墓もこちらに移動させるようです。お隣に墓地を確保しています。跡取り娘だった家内を、僕が引っ張ってきちゃったので、家内の両親や家も、最終的には僕が面倒見なくちゃと思ってました。義理姉の兄も気のいい人で、とても良かった。子供たちが小さな頃は、よく2家族で出かけました。仲の良い従姉妹たちにも恵まれ、子供たちにどれだけ良い影響を与えたか知れません。幸せな笑顔いっぱいの子供時代を送れた子は、それがスタンダードなので、そういう配偶者に恵まれ、そういう家庭を築いていくように思います。ついでながら、僕の弟もいいお嫁さんと縁があり、毎月我が家の仏壇にお供えを欠かさない人です。僕が守ってる実家やお墓ですが、両親の葬儀一式など、みんな僕ら夫婦のやり方に任せてくれます。僕は、ほんとにラッキーな人生を送れていると思います。
お墓を磨き、家から持ってきたお花を生け、ここからが本番の帰路です。往路同様、右岸堤防上を下流の加古川市内に向かいます。交通量の少ない道は快適です。気温は上がってきていますが、海からの風が気持よく通ります。相変わらず交通量の多い左岸道路、その向こうの市内ビル群の位置を見ながら、大体のシュミレーションを考えます。水道管が、加古川を渡っています。その横には橋がかかっています。歩行者・自転車橋かなと思ったら、水道管メンテナンス橋のようで、通行禁止でした。「河川敷にも道があるなあ」と思っていたのですが、1台のロードバイクが勢い良くそこを下っていきました。そこは車が走れないようになってるようなので、堤防を下る道があったので、その道に入ってみました。
マラソンコースになっているようで、「○○km地点」という標識が立っています。家内が、「花火大会、ここら辺でやるはずだよ」と言っています。家内が小さな頃から同じところでやってたそうです。まあ方向音痴なので、当てにはなりませんが、話半分に、もう少し市街地に近い下流だろうなと走っていました。この道は自転車と歩行者のみの道のようですが、夏草が背高く生い茂り、通る風に草の匂いが含まれ、湿気で少々ムッとします。そのまま走っていると、対向を走ってきたロードバイクが、「通行禁止になってるよ」と声を掛けてくれました。「え〜」。
止まって、算段していると、もう1台のロードバイクが対抗してきたので、聞いてみました。「この道、行けないのですか?」「ええ、さっきの方が、花火大会で通行止めと言ってました」とのこと。仕方なく、Uターン。土手上に上がる道があったので、そこを上がり、元々走ってた土手上の道で下流に向かいました。右から、加古川の支流が近づいてきます。「まずいなあ」、どこかであの川の向こうに渡らないと、道が無くなりそうです。
どん詰まりまで行くと、土手上も下の道もバリケードで行けなくなっています。右の川を渡れば、道が走ってるのに。またUターンして、道を探します。畑の中のあぜ道を見つけ、歩いてそこを渡り、地道をまた歩いて橋を渡りました。僕の道案内の不手際ですが、「風が気持ちいいね」とか、「ここ行くの?わあ、ハマっちゃいそう」なんて、如何にも楽しそうです。
「池尻橋」のところでしたが、橋を渡らずさらに右岸堤防上を下り続けました。ここらが花火大会の会場のようで、ガードマンが立っています。僕らが近づくと、「どうぞ」とばかりに、河川敷へ下りる道の前からのかれます。河川敷には、バリケードで塞がれた道同様に歩行者・自転車道が続いています。バリケードがなかったら、河川敷の橋を渡ってこの道に続いています。
テキヤさんの車がポツポツ止まり、屋台の準備に余念がありません。夕方になれば人が集まりだし、花火大会が始まります。2号線が見えてきました。手前で土手道に上がり、2号線の橋を渡り、JR加古川駅の方に行ってみました。家内の親戚の井上薬局がありました。夏休みになると、姉と一緒にずっとこっちにいたそうです。花火大会もオバチャン達と行ってたとか。僕が家内と付き合い始めた学生時代と比べると、駅周辺も大きく変わりました。大勢の人で一杯だった商店街は、シャッター通りになっています。
ここから姉の家に向かう予定でしたが、お墓から電話したら、姉は放送大学のテスト日だそうで、電車に乗っていて不在なので、実家跡に向かいます。姫路の中学に通っていた家内は、廃線になった国鉄・高砂線に乗り、加古川駅まで出ていました。その線路跡を捜し辿りました。僕が加古川に通い始めた時には、まだ線路があり、電車も動いていたように記憶しています。その記憶を辿って捜しました。家内は地元で、しかも毎日乗ってたのに、「大きなカーブがあったの」程度で、具体的に頭の地図上にプロット出来ません。方向音痴の悲しい性です。
線路は影も形もなくなっていましたが、元線路らしい道は辿ることができました。「野口駅」跡があり、線路の一部と車輪が置いてありました。お昼になったので昼食をとり、「鶴林寺」に寄りました。外に水堀が流れ、立派なお寺です。中に入ろうとしたら、「拝観料500円」だって。昔は無料だったのに。家内も、小学校の写生授業は、いつもここだったと驚いていました。古刹だけど、この場所で拝観料を取ると、誰も入りませんね。写真だけ撮って、退散しました。
家内の実家跡は、駐車場になっていました。相続した姉から聞いていたけど、何度も泊まらせてもらった家がないのは残念です。家内には、生まれてから僕の家に来るまでずっと住んだ家です。どんな思いなんだろう。

ここから、明石目指して東進します。浜国道が、ずっと海側を走っていますが、交通量が多く道が狭いので危険です。山陽電車・新幹線と浜国道の間の道を適当に走ります。「浜宮天神社」がありました。社殿から浜国道まで、参拝道がまっすぐ伸びています。両側には立派な松。とても大きな神社です。家内は海水浴といえば、この宮の前の浜だったそうです。ここで撮った小学校低学年時代の写真があります。絶世の美女でした。惚れた弱みで、そう見えるのかも?
さらに東に進み、臨海人工島の工場の煙突が見えなくなって、浜側に進路を向けました。せっかく用意した地図を家に忘れてきたのですが、シュミレーションした大体の道順をトレースしています。この道がビンゴで、浜の脇を走る道に出ました。防波堤を挟んだ浜や海には、漁船が並べられ、道の山側には、漁師さんのお宅です。海の匂いが心地いいです。ただその沖には人工島が出来、水路のようになっています。
そこを過ぎると、海が広がりました。海水浴場があります。海の家など何もないので、単に砂浜海浜公園なのかもしれません。でも、一杯泳いでいます。暑いからね。真っ白い地面にブルドーザーが停まっていました。カルシウム工場のようです。
海側にも家が並ぶようになりました。その影が気持ちいいです。自転車に積んでる水はぬるくなっています。水分補給だけは欠かさないようにしています。でもこう暑いと、冷たいもんでも欲しくなるなあ・・・と思ってたら、「氷」のあののれんが軒先から下がっています。「かき氷ありますか?」。昔ながらのあの機械で、氷が掻かれ、あの味です。「いちご」うまい。「生き返りました」とお礼を言い、店を後にしました。
なんか海に面するお宮が見えてきました。寄り道しました。住吉神社。お参りし、トイレを拝借。松林の下が風が通り気持ちいいです。ベンチに座って目を閉じれば、すぐに昼寝モードに入ってしまいそうです。
「江井ヶ島海水浴場」。夏です。海水浴です。ここにも、住吉神社がありました。神社の前で、わらび餅の屋台がでていました。思いっきり所望する視線と、「食べようか」の言葉を発しましたが、家内は「いらない」。自転車漕いでるんだから、適当に燃料補給しないとぶっ倒れるよ。
明石海峡大橋が大きく見えてきました。「明石原人・腰骨発見場所」がありました。続いて「明石象・発見場所」。説明によると、ここらは昔、湖岸だったそうです。「林崎海水浴場」に来ました。ここには海の家があります。海の家といえばかき氷です・・・でも1日2杯のかき氷を食べてぎっくり腰になった経験があるので、自重しました。「食べたかった〜」。
明石の街に入りました。「魚の棚商店街」を自転車を押しながら、歩いてみました。そしてJR明石駅を経て、明石城のお堀を回り、朝乗ったエレベーターで、一気に上り坂をクリアしました。朝は気づかなかったけど、明石天文台の時計塔が見えました。無事、車に帰着しました。サイクルコンピューターをチェックすると、走行時間4:37:15、走行距離60.5km、平均速度13km/h、最高速度39.4km/hでした。僕らの走行距離最高記録更新です。家内に「何キロ走ったと思う?」と問題を出すと、「30kmぐらいかなあ?そんなに走ってないかなあ?」という答えが返ってきました。僕も、この走行距離には驚きです。こんなに走った感じがありません。ゆっくり走ると、しんどくなく走れるものです。フラットロードばかりだったのも、好影響してるのでしょう。

2010/7/27
日曜日は、鳥取県と兵庫県との県境に近い岡山県の山中、美作市に行ってきました。僕のルーツを巡る旅です。僕の両親は、群馬県と栃木県出身です。群馬県の元庄屋の三男と、栃木県の商家の五女です。父方は、代々村長の家で、僕のじいさんも町長をやってました。母方は奉公人がたくさんおり、当主であるじいさんは番頭さん任せでよかったらしく職業軍人でした。近衛兵部隊のどのぐらいの地位か知りませんが隊長をしていたそうです。日露戦争に従軍し、勲章ももらっています。父方は代々農家と聞いていますが、母方は田沼意次の本家田沼氏の家老であったそうです。だから実家は田沼町です。家の縁起を書いたものが入っていたかもしれない土蔵が、今はもう無いので、それ以上はわかりません。
唯一先祖を探れるのは、母のばあちゃんの実家です。この家は、同じ町内にあります。僕が小学生の時、正月とお盆にある一門の集まりに何度か寄せてもらいました。僕ら親戚は、その住所から「岩崎んち」と呼んでいました。この家は、江戸時代は大きな農家でしたが、江戸末期から呉服の行商を始め、明治時代には、呉服屋を手始めに、鉄道会社・肥料会社・銀行・・・県内有数の素封家になりました。この方の娘さんが、同じく素封家の正田醤油正田さんに嫁ぎ、正田美智子さんが皇室に入ったので、僕は天皇さんの親戚の端くれだと、母から小さい頃言われていました。日本の公害問題の初めと言われている「足尾鉱山事件」を糾弾した田中正造さんのパトロンでもありました。田中正造さんが明治天皇の御幸に直接この事件を訴え出たので、衆議院議員を辞職することになりました。正造さんに頼まれて、次の一期だけ衆議院議員をしています。国会で行動を共にしたのが大隈重信さんのようです。
その中興の祖の偉業を後世に残すために、その生涯や先祖のことを蔵の資料に基づいて記念誌が作られ、親戚に配られました。大正時代と昭和30年代に2度作られ、母の一番大切にしていた本でした。序の部分は、大隈重信さんが担当しています。
僕は中学の時、母から強制的に読まされました。旧仮名遣いの読みにくい本でしたが、偉大な人がいたんだというのだけはわかりました。母が昨年末に亡くなり、中学の時に言われた母の言葉が蘇り、「あの本を探さなきゃ」。そして、「あの本を僕の宝物として、大事にしなきゃ」。
もう一度、その2冊をしっかり読んでみました。中学の時と、感じ方がかなり違いました。「僕だけ持っててもだめだ」。1冊に付き僕・弟・長男・次男用に4冊、計8冊複写本を作ることにしました。原本にできるだけ似せて作ってもらったので、お金はかかりましたが、長男として生まれた僕の義務だと思いました。これを、来月の母の初盆に集まる弟家族・長男・次男にあげようと思う。
元々、歴史好きの僕だから、この本に書かれていたルーツをたどろうと調べ始めました。「あんたは菅原道真さんの血が流れているから・・・」と、よく母に言われていました。ここからルーツが始まります。
奈良時代、飛鳥時代の大化の改新で蘇我氏から実権を取り戻した天皇家は、その大功労者・大織冠藤原(中臣)鎌足の子孫藤原氏が、天皇家と血のつながりを持ち、政治の実権を握っていました。藤原氏以外では、高官に出世出来ないシステムが出来上がっていました。実権を取り戻したい天皇家は、藤原氏以外の優秀な者を登用しようとしました。代表が、吉備真備と菅原道真です。
菅原道真は、文官トップ太政大臣まで上りましたが、危機を感じた藤原氏により太宰府に左遷され、数年で亡くなりました。道真の死後、天皇家や藤原氏の高官やその子息に不慮の死が相次ぎました。政治に占い、戦いに呪詛が大きな影響力を持っていた時代なので、道真の祟りを恐れ、死後復権しました。道真の子供も復権しました。
美作守になり、美作の国に下向し土着した子孫がいました。数代後、三穂太郎満佐という者が生まれ、平安時代中央政権官僚として、美作開墾人として美作に大きな影響力を残しました。満佐を祖とする子孫が「美作菅家党」として、国内に多数の城を築き、隣接する播磨・備前・伯耆等の大勢力から国を守ります。元々文系の道真さんの子孫としては、数少ない武家筋です。
本によると、僕の先祖は美作・名木山山頂に城を持つ城主でした。今の那岐山です。「1350年頃」と書いてあるので室町時代初期に、「兵部高利という者が、同族の佐野氏を頼って東国に下向し」となってるので、戦に破れて落ち延びたのでしょう。
以降、下総国(今の栃木県)の佐野氏に仕え、家老筋であったそうです。江戸時代初期、江戸に大火事がありました。その時、「すわ徳川家の一大事」と真っ先に武装した兵を江戸市内に送り込んだのが佐野氏でした。関東平野・江戸が一望出来る唐沢山山頂に、上杉謙信の数度の攻めにも落城しなかった堅牢な城を持つ佐野氏を幕府は恐れ、佐野氏を改易しました。その時、先祖は帰農したそうです。
武士が嫌になったのか?まだ江戸時代初期なので、大きな戦乱になったとき、旧領を寄りどころにし、回復するための含みを持って旧佐野家の勢力下で帰農したのか?こういう歴史を知ると、本家の屋敷が麓の門から曲がりくねった道を10分ほど歩いた山の中腹にあったのがうなずけます。戦国時代までの山頂に山城、麓に館というスタイルです。
美作の歴史や那岐山に関する本を数冊求め、先祖のルーツ・美作や那岐山への知識を厚くしました。こうなると、その地を体験し感じてみたくなるものです。前置きが長くなりましたが、こういうことで、日曜日那岐山を訪問することにしました。ヨット部の練習の手伝いで琵琶湖に行く予定だったのですが、8月になると全日本地区予選に向けて手伝う日が多くなるので、今しかないということで那岐山を優先しました。

日曜日の朝は、3時台に起きてしまいました。朝の早い僕ですが、3時台は早すぎます。外は真っ暗です。少々寝床でグズグズし、ゆっくり朝の用意をしてVTR250で出かけました。高速道路利用なので、250ccバイクでは少々おっかないのですが、現地では細い山道突入が予想されるので、車では行動範囲が限られるので止む終えません。素晴らしい景色があるかもしれないので、一眼レフも同行させました。
宝塚ICから中国道に乗ります。4時台なので車は少ないです。山陽道への分岐が過ぎ、さらに交通量が減りました。高速では80km/hほどで走るので、抜かされる車が少なく楽になりました。福崎を過ぎました。これ以西の中国道を走るのは、車でもあまりないです。山崎の親戚に行く時ぐらいでしょうか。時折薄い霧が出てる道を走ります。陽が上がると急速に消えていく朝霧って、幻想的で好きです。一旦上った道が、山崎盆地に向けてまた下ります。また上り下りして、佐用盆地。
ここでふとアイデアが浮かびました。このままで美作に突入しても早すぎます。佐用ICで下りました。料金所のおじさんに聞いてみました。「ひまわり畑って、何処にあるか知ってますか?」「写真かねえ」と言いながら、「佐用町ひまわり畑MAP」なるパンフレットを出して、説明してくれました。
おすすめなのが、「米田地区23万本・7月中旬」。他に、「宝蔵寺23万本・7月上旬」「ひまわり祭り会場・林崎35万本・7月下旬」「東徳久20万本・7月中下旬」「漆野15万本・7月上旬、14万本・8月上旬」とあります。千種川沿いにすごい数です。結局、ひまわり会場の駐車場が早すぎて開いてなかったので、東徳久のひまわり畑内を回ってみました。ものすごいひまわりの数です。圧倒されましたが、朝霧のため陽が見えず、ひまわりさんは少々下向きで、眠っている風でした。
前回ガソリン補給から200kmを越えたので、佐用ICまで戻りガソリン補給しました。223km÷8.38L=26.6km/L。高速を走ったので、燃費が悪くなりました。R373を北上します。並行して走る「鳥取自動車道」という高速道路が無料化実験中ということでしたが、下道じゃないと突然の出会いがないので、こちらを選択です。
おっ、「宮本武蔵初決闘の地」という看板が目に入りました。寄り道します。初決闘の地は、刑場だったようで六地蔵が立っていました。六地蔵って、武蔵の映像で見たような・・・。佐用川の向こうに、智頭急行鉄道が走っています。ここは、「平福」。江戸時代の陣屋跡が残る宿場町です。宿場町・平福駅・陣屋跡・利神城址を巡ったり眺めたりしました。去年の水害で佐用川が氾濫し、平福も佐用も大きな被害を受けました。被害の跡は見受けられないけど、ここで暮らす人々に不安な影を落としているのでしょう。
R429との交差点まで北上し、ここからR429で西進します。曲がるとすぐに、「宮本武蔵誕生の地」の看板が目に入りました。寄り道しました。「武蔵の生家」を中心に、案内看板が道に立ち、観光客に安心な「武蔵の里」になっていました。その名もズバリ「宮本武蔵駅」もありました。単線で無人駅ですが、良い雰囲気でした。ここはすでに美作市です。町村合併で大きくなったようです。
元の道に戻り奈義町を目指します。R429を走ってると思ったら、r5でした。吉野川に沿って走るこの県道は、交通量もほとんどなく、とてもバイクに気持ちのいい道でした。R429の南側を西進していたので、最後ゴソゴソと北上しR429に合流、少し走ってまたゴソゴソと北上し、R53因幡街道に乗りました。岡山市と鳥取市を結ぶ国道で交通量が多いです。那岐連山の南辺と東辺を走る道です。
まず最初で最大の目的地「三穂神社」目指して、R53を鳥取方面に走ります。「奈義トンネル」手前に、それはありました。鳥居の横に、僕の先祖「三穂太郎満佐」の像が立っています。銘板には生涯や偉業が説明されていました。最期は、当時の武将らしく播磨の別所氏との戦に討死でした。三穂太郎の頭を合祀したそうで、この神社の別名を「頭(こうべ)様」というらしいです。石鳥居をくぐると、木々の生い茂る階段が続き、その先に拝殿がありました。奈義トンネル脇から旧道らしい道が始まっており、その峠越え道のネックという交通の要所の小高い丘に位置します。館址かもしれません。
神社自体は、ごく普通の規模ですが、三穂太郎の誕生伝説や母親が蛇だったというものなど、詳しく書かれた謂れが掲げられており、拝殿脇には綺麗な水で満たされたバケツ(いざという時の最初の1杯?)、手水・・・、地元の方に丁寧に守られているのがわかりました。僕の遠い遠い先祖が、今でも地元の方の崇拝を受けているのは、気持ちのいいものです。ご近所さんも、僕と同じ「美作菅家党」の末裔かもしれません。
拝殿の中にお賽銭箱がありました。奮発して100円チャリン。賽銭箱の後ろに田舎道脇のセルフ野菜販売のように、お皿に盛られたお守りとお札がありました。500円均一。我が家と長男の家用にお札を2つ、僕・家内・長男夫婦・次男用に5つのお守り、次男の国家試験合格用に合格祈願1つ、大枚4000円を賽銭箱に投入しました。菅原道真流れらしく合格祈願絵馬も売られており、拝殿横の絵馬掛けにはたくさん掛かっていました。宮司さんの家はなく、専属宮司さんはおらず、行事の時は他所から来られるのでしょう。
我が家の本に、大織冠の末裔と中興の祖の友人が書いているところがありました、大織冠とは大化の改新時代の勲章ですが、これを受けたのは中臣鎌足ただ一人です。菅原道真を菅公と表現するのと同じように、大織冠といえば藤原鎌足を指します。鎌足の死後、大織冠の冠と藤原という姓を天皇から授かりました。菅原氏流れか藤原氏流れか迷うところもありましたが、長い先祖の婚姻間に宿敵の両氏にも、縁組があっても不思議はないと考え、濃淡は別にして両方共有りうるだろうと結論づけていました。この答えが、謂れに書かれていました。三穂太郎満佐の伝説でないリアルな母親は、二階堂藤原維行の女となっていました。藤原氏の娘を母親に持っていたということです。拝殿に上がる車道道で下りました。地元の雑草刈りの日なのか、2人のおじさんが草刈機を回して、神社の斜面を綺麗にしていました。ありがたい事です。
トンネル手前の道に、菩提寺徒歩道と書いてありました。菩提寺にも城があったと予備知識があるので、行ってみることにしました。雑草刈りの人が5〜6人出ています。舗装されてるけど細い誰も通りそうもない道を上がると・・・突然道路にうずくまっていたものが動きました。金色が鮮やかです。体系はイタチ。テンですね。今年だけで、3度目です。テンなんていう珍しい小動物まで増えているようです。道は沢沿いを上がっているのですが、徒歩道という看板もあったことだしと、あまりに寂しくなってきたので戻ることにしました。
仰ぎ見る那岐山は、1200mと六甲山より高い山で、なだらかな稜線を持っています。奈義トンネルで那岐山の肩を抜けて、鳥取県智頭町側に出ました。美作国津山市と因幡国鳥取市を結ぶJR因美線那岐駅に寄り、那岐連山の北側と西側を走る因美線に沿って走ることにしました。r295・r6。「那岐神社」がありました。寄り道。ねむの木が綺麗に咲いていました。
「JR美作河井駅」というのがあったので、ここにも寄り道しました。当然無人駅です。旅客が多かった時は、ここで離合したのでしょう。使われなくなった1本の線路が草に覆われています。駅前に、「矢筈城」の謂れが立っていました。ここから登れるそうです。説明に従って見上げた城跡の残る山頂は、厳しい勾配のはるか上にあり、きつい登山が想像できます。山頂に馬場のある戦国時代美作屈指の城だったようです。岡山県内最大の山城だとか。戦国時代、毛利氏に属した城主草苅氏は、備前の宇喜多氏や織田方羽柴秀吉の軍勢から度々攻撃を受けたが、一度も落ちなかったそうです。まさに難攻不落です。草苅家の家紋も先祖と同じ梅鉢紋だったので、美作菅家党です。
さらに西進すると、「矢筈神社」がありました。無人神社でしたが、登山道入口に「自由におとり下さい」と、パンフレットが置いてありました。ここにも矢筈山登山口がありました。こっちからの方が勾配が楽そうです。矢筈山は那岐連山の支峰です。ここの謂れにも蛇にまつわることが書いてありました。蛇は神の使いという伝説はほうぼうに残っているから、古くからあった那岐山の蛇神伝説と結びついたのでしょう。
那岐連山の西側に来ました。ここから連山の懐深く入れる道があるようなので入ってみました。峠のような所に、那岐山の一番西の登山口がありました。車が20台ぐらい置ける駐車場があります。北に登ると那岐山頂上。2時間。「マムシに注意」「熊に注意」の看板が上がっていました。南に登ると連山の「広戸仙」頂上で、ここにも山城があったそうです。こちらは楽に上がれそうです。景色も良さそうなので、僕ら夫婦の今の実力なら、こっちが無難です。
登山口からの下り道からは、美作盆地が一望出来ます。R53まで下り、東進してると、まっすぐに那岐山に向かう道がありました。寄り道します。途中に看板が立ち、ここから自衛隊の日本原演習場内となっていました。演習訓練以外は、自由に入っていいようですが、舗装がなくなっていたので、バイクではここまでです。
R53に戻り、また東進。次の那岐山へアプローチする道に入ってみました。「なぎ(言偏に若)神社」がありました。いろんな「なぎ」があります。那岐山は、伊佐那岐の尊から来ています。
「陸上自衛隊戦車C道」と書いてある看板が立っていました。脇道はチェーンで自衛隊演習地立ち入り禁止となっていました。「自衛隊も不法投棄に怒っているぞ」という看板も立っていました。演習中は、ここも立ち入り禁止なんでしょう。
名勝「蛇淵の滝」がありました。これが満佐の母が住んでいたという伝説の滝です。期待して行ったのですが、伝説とは程遠く、滝ツボなんてあるのか?程度の滝でした。昔は水量も多く如何にも蛇が住んでいそうな滝壷を作っていたのでしょう。ここは、那岐山登山B・Cコース登山口でした。数ヶ所の駐車場がありました。10台弱停っていました。元の道に戻ったら、那岐連山の北ですれ違った2人乗りバイクにまた会いました。時計回りで那岐山を回ってるみたいです。さっきは会釈だったけど、今度は手を挙げて挨拶です。
数時間前断念した「菩提寺」が道沿いにありました。寄り道。役行者さんが開いたお寺で、平安時代、叔父勧覚上人の下、我が家の宗派・浄土宗開祖・法然さんが9〜13歳まで、ここで修行したそうです。法然さんは、美作の生まれだったんだ。ここに城もあったそうで、戦禍で焼けたそうです。ここはまだアジサイの季節でした。奥の本堂は、かなり傷んでいます。法然さんの最初の仏門修行の寺なのに・・・。こう言うのを見ると、三穂太郎が如何に地元の方に愛されているかわかるというものです。那岐山登山Aコース登山口がありました。R53への下りで、鹿に会いました。「大変だ〜」とえらく慌てて逃げ出しました。僕は止まって見ていましたが、まず左の山に逃げようとしてフェンスに阻まれ、道路を渡って右側の山に逃れようとしてまたフェンスに遮られました。フェンスに沿って逃げ、やっと山に入れました。ゆっくり走りだして、逃げたところを見ると、鹿さんは止まって振り返り僕を見ていました。
「さあ帰りましょう」。家内と6時にスポーツ用品店で待ち合わせです。家内のトレッキングシューズを買います。もう昼を回ったのに、朝から何も食べていないので、道沿いのレストランでカレーを食べました。まだ時間があるので、最寄の美作ICインターチェンジではなく、もっと東のICから高速に乗ろうと思って、交通量の少ないR429で東進しました。
美作ICの東が作東IC、次が佐用IC、次が山崎ICです。山崎ICの北・宍粟市波賀町まで東進してきたら、山城が遠望できました。岡山から福知山に抜ける東西の主要道R429と、姫路から鳥取に抜ける南北主要道R29の交差点にあり、交通の要衝に睨みを効かせていたようです。
こちらは比高がそれほどでもなく、独立した小山の山頂で、険しい感じでもないので楽に登れそうです。復元城が作られているぐらいだから、工事道路を観光道路にして城まで車で行けるかもしれません。R29を揖保川に沿って、南下し始めました。R429より交通量が多く、つまらなくなったので、道の駅「みなみ波賀」でアイスクリーム休憩。と思ったらソフトクリームしか売ってなかった。アイスの方が冷たいから、こういう熱い日はアイスがいいです。早々に退散。
山崎ICから中国道に乗り、いつものように宝塚トンネル渋滞に難儀し、帰宅しました。渋滞にはまったので時間は6時15分。家内に電話しなくちゃと携帯を開けると、7分前に家内からの着信履歴。電話すると、買う靴を決め手レジに並んでいるところだって。この日の渋滞はいつもより長くて遅れてしまいました。また400kmほどのロングバイクでしたが、特に疲れもなく、楽しい1日でした。

2010/7/19
日曜日は、淡路島を一周してきました。5月の連休後にも、VTR250で回りました。その時の「南淡路水仙ライン」が素晴らしく、家内にも見せてやろうと計画しました。この道、子供たちが小さな時、車で走ったこともあるのですが、バイクや自転車で、風・空気・匂いを全身から感じた方が、ここの良さをもっと感じる事ができると思います。
先月の小豆島のように、車でそこまで行き、水仙ラインだけを自転車で往復する手もありますが、今回はバイク2人乗りを選択しました。通勤スクーターリード110で、何度か2人乗りしたので、かなり慣れました。ほんとは、VTR250の方が乗り心地の面で楽なのでしょうが、2人乗りしちゃうと荷物の収納力が一気に落ちますし、リードの方がリアボックスと僕との間に家内を挟むので、家内をおっことす心配がありません。安全面でリードを選択です。
2つの問題があります。1つは、交通量の多い神戸周辺を同クリアするか。僕1人なら、車よりよっぽど街中機動力のある原付二種なので平気なのですが、見所もない区間なので家内は退屈です。この70kmを、家内だけ電車で移動することにして解決しました。
2つ目は、淡路島一周160kmを原付2人乗りで走って疲れないかです。VTR250なら、300km以上走っても、適当に休憩すれば、お尻や腰の負担は殆どありません。でも先代通勤スクーター・ジョグ50では、20kmを越えてくると腰やお尻が痛くなり、50kmが限界でした。リード110ccになり、50kmは大丈夫と実証していますが、それ以上は未体験ゾーンです。これは、淡路島内に張り巡らされたバス網を利用することにしました。最寄のバス停まで送って、家内はそれで家に帰ればいい。果たして夫婦で一周できるのだろうか?ちょっとワクワクです。

当日の朝になりました。たこフェリーは30分間隔で出てるから、特に何時という目標はありません。適当に起き、適当に支度し、来たフェリーに乗るという感じです。5時前に目が覚めました。まあ毎日こんなものなので定刻といえます。家内も、初めての2人乗り長距離なので、張り切っているようで、家事に勤しんでいました。
6時50分に家を出ました。リードは高速道路に乗れないので、明石まで2時間ぐらい掛かるでしょう。電車だったら1時間半。僕はそのまま一路明石に向けて走り出しました。家内は仕事場に寄ってお化粧してから行くことにして、8時にJR明石駅海側出口で待ち合わせです。
日曜日の朝なので、道が空いており、R171・R43・R2で快調に進みました。明石駅到着が、7:04。予定より1時間も早いです。駅前にバイクを停め、コンビニで買ったサンドイッチをほおばりながら、家内を待ちました。輪行でやってくる自転車が自転車を組み立てています。小径車の自転車グループが集合しています。
待ち合わせの君に会えず、しきりに携帯電話とにらめっこしているオメカシしたお嬢さんがいます。先生に引率された中学生が、改札口に向かいました。先生が1人残り電話をしはじめました。「今日の集合時間が何時か知ってる?」「・・・」「みんな行ったぞ。君はどうするつもりなんだ」「・・・」。静かな口調に、歯がゆさがこもっています。なかなか先生も大変です。
なんて聞き耳を立てていたら、家内が到着しました。「早かったね。何時に着いたの?」「7時」「え〜、もったいなかったね」。タコフェリー乗り場に向かいました。フェリー乗り場には、フェリーがいました。「え〜と、カップルですね。790円です」。レシートを見ると、正規料金1170円から380円もお得してしまいました。そのフェリーに乗れ、すぐに離岸しました。
「790円だって、安かったね」「カップル割引だって」「カップルって、年齢関係ないのかなあ」なんて、先月の小豆島行きフェリーとケタ違いの安さに驚いていました。あの時は車だったので、7000円ぐらい払ったと思います。しばらくすると、外に出ていき潮風に当たっていました。僕は、運転があるので、体力温存の為に中から見ていました。「潮風に 淡路の島に 何想う」で後ろ姿を激写。
岩屋港に着いて、2人乗りで淡路島上陸。フェリーから車両で下りるとき、何故かワクワクするのはどういうわけでしょう?自転車もバイクもたくさん乗っていました。バイクの群れに続いて、R28を少し南下。右折して、r157に乗り、「あわじ花さじき」に上がりました。5月の一面の花を知ってるので期待はずれでしたが、家内は「気持ちいいねえ」とご機嫌です。眼下のお隣りの丘には、牛が放牧されています。花の後ろには、海が広がり、とても気持ちのいいところです。
ゆずのジュースを購入。さっぱりしたおいしさです。「これ、きっと好きな味だわ」と家内に渡すと、いらないと言ってたのに、「ほんと、おいしい」と2口も飲んでました。僕の毎晩のヨーグルトのお供、「いちごジャム」購入。さらに、可愛らしい招き猫風の猫親子ぬいぐるみの小さいのがあったので、それも購入。VTR250の後ろ座席に乗せようと思います。
前回同様、r157を南下します。去年自転車で上ってきた「仁井」の交差点を、直進しました。ここからは未体験の道です。地図で山の中を通るのは確認済みですしたが、県道指定の道なので、安心して突っ込みました。ところがこの道、完全な峠山道で、数日前の雨の時は川になっていただろうという道でした。流されてきた落ち葉が一面に残り、薄暗い上り下り・・・いつ道が途切れていてもおかしくありません。
僕一人なら、むしろ好きな道なのですが、後ろに家内が乗ってるので、本日はノーサンキューです。家内を不安にさせたくないので、軽口を叩き、家内も「涼しいね」なんて付き合ってくれます。最後にかなりの急勾配を上り、薄暗い峠に着きました。「妙見山登山口」となっていました。地図で見ていた妙見山裏側鞍部でしょう。「ここが峠だから、あとは海に向かって下りになるよ」と、後ろに声を掛けます。
フルブレーキングで急勾配をゆっくり下ります。道の落ち葉が少なくなり、コンクリート道路がアスファルト舗装になり、道幅が広がり、海が見えてきました。R28に乗って・・・と思っていたら、国道の下をくぐってしまいました。海岸まで出て、旧道を南進しました。交通量が少ないので、ロードバイク数台がR28を避けて、こちらを選択しています。R28に合流し、車の流れに乗って南進を続けました。
去年、ここから船で帰った津名港で休憩しました。僕はバイクでもう100kmを超えていると思いますが、お尻の腰も大丈夫です。ここから洲本はすぐです。R28を下り洲本に入り、家族で上ったことのある「洲本城」を、下から激写。ここから、「南淡路水仙ライン」のr76に入ります。懐かしい「大浜海水浴場」の横を通りました。ここは、家内と初めて海水浴に来た場所です。お弁当を作って来てくれて、水着姿も堪能でき、幸せな1日を過ごしました。
海岸山道に入るとすぐ、片側通行になっていました。海側道路が半分ありません。梅雨の大雨による災害復旧でしょう。このルートの一番の不安は、これでした。宝塚や三田の里山でも、崖崩れで通行止め箇所が出ました。「由良」から「水仙郷」までの山道は大丈夫なのか?出たとこ勝負で来ました。
義父が毎週船釣りにきていた「由良」を通過し、通行止め看板が目につかなかったので、家内と「行けそうだ」と喜びました。道の山側が崩れて、土のうで応急処置してる箇所はありましたが、「立川水仙郷」を過ぎ、問題なく海岸まで下りることが出来ました。「水仙ライン」の始まりです。5月より風が強いですが、上天気です。夏の雲が浮き、太平洋から紀伊水道を抜けてくる波が、海岸線で白い波頭に砕けています。素晴らしい景色です。ゆっくり走り休憩してると、山道で抜いたロードバイクが、僕らを抜いていきます。「アワイチ」をしてるのでしょう。一日中、たくさんの自転車を見ました。
「沼島」への玄関口、「灘土生」という港で休憩しました。切符売り場の娘さんのお子さんなのか、3歳ぐらいの男の子がしきりにお客さんに愛想を振りまいています。「こんにちは」と寄ってきて、持ってるシャッターの棒と乗ってる愛車の三輪車を説明してくれます。家内が、我が家の長男の小さな頃に似てるねと言っています。小さな子としゃべるのが割合好きな僕は、いろいろ質問し楽しませてもらいました。「バイバイ」。
ここから海岸線を少し走り、道は内陸部に向かいました。次に海が見えたところは、鳴門渦潮観潮船の出る「福良港」です。ここでまた休憩。足湯がありました。30度を越す気温なのに、足湯に入って気持がいいのだろうか?「水なんじゃない」と家内は言っています。観潮船の時刻表を見ると、この時間帯潮が悪いのか、次は1時間後です。先に進むことにしました。
鳴門海峡の端にある「道の駅うずしお」に到着。車は駐車場待ちで並んでいましたが、バイクはそのまま駐車場に。1時を回っています。遅い昼食の予定です。ところが、福良港と違ってこっちは人がいっぱいです。海峡を見ながらの食事は、今回も断念しました。橋の上まで歩いて行き、上から観潮。外で、穴あきコロッケを2つ食べました。家内はソフトクリーム。
時刻は2時10分。怪しい雲がやってきて、パラパラと小さな雨粒が落ちてきました。少し雨やどりしてから出発しました。r25を使って、海岸線を「湊」まで北上しました。ここでちょいと道を間違え、元のr25の交差点に戻ると、「あの〜慶野松原って、どっちでしょうか?」なんて聞かれました。道の駅に停まってた旧車のバイクで、お若いカップルの2人乗りです。こっちは原付なので、地元の方と間違われた模様。僕はすでにこの交差点で間違えてるので、「こっち」と自信を持って答えました。後をついてきます。
「慶野松原海水浴場・キャンプ場」を過ぎ、後ろのカップルは横に逸れました。この海水浴場も、家族の思い出の場所です。家内に話すと、覚えているようです。r31「サンセットライン」を北上します。いくつもの海水浴場は、沢山の人に溢れていました。ジェットスキーが走りまわっています。途中のコンビニで、アイスクリーム休憩。さっきのカップルが抜いていきました。フェリーで一緒になるかな?
今日もサンセットを見ることなく、淡路島最北端を回りこみ、「岩屋港」に到着しました。ちょうど4:30のフェリーがいましたが、僕の直前で締切り。5:00便の先頭になりました。炎天下なので、バイクを置いて待合室に避難しました。ここは狭かったので、外の日陰になってる防波堤に座って次の便を待ちます。僕らに習ったように、横に待合室からあぶれたお客さんが並んで座りました。
再び船上の人になり、ニコニコ話しながら、明石港到着。前回同様、明石港フェリー乗り場の奥にある漁師めし屋で、遅い昼食兼早い夕食をとりました。JR明石駅まで家内を送り、時刻は6時。僕は帰路に着きました。三井のショッピングセンターが開店したようで、R2は明石からずっと渋滞です。僕はバイク列の流れに乗ってスイスイ進みました。神戸からのR43もいつもの流れで、ここでもバイクの流れに乗りました。西宮からのR171もいつもどおりで、車で下道を走るよりは1時間は早かったと思うけど、帰宅は8時でした。朝のようにはいきませんね。
今回は、家内が一緒だったので、時間の経つのが早かったと感じました。やはりおしゃべりしながらの楽しい道中だったからでしょう。僕は、250kmオーバーの長丁場でしたが、お尻も腰も大丈夫でした。ジョグとリードではタイヤサイズが少し大きくなります。クッションも随分良くなるので、それが好影響したのでしょう。2人乗りリードの世界が、一気に広がりました。

2010/7/12
日曜日は、6時頃目覚めました。朝日が早く上るようになり、5時や4時台に目がさめるようになってる僕には、遅い朝です。ここ数日続けて、早朝バイクで箕面の奥や豊能町の山の中を走っていたので、朝の曇り空を見上げながら、「今日も行けたなあ」と残念な気持ちになりました。日曜日は雨と決めつけていました。
ドラゴンのレースに備え、体力温存のために朝のジャングル庭の雑草取り仕事も控え、7時を待って選挙投票に繰り出しました。どうやら家内と僕は別の候補を選択したようですが、どうなることやら。当選挙区の行方より、「岡部まり」さんの当落が気になるのは、いかがなものでしょうか。当選してしまったら、探偵ナイトスクープはどうなるのだろう?
投票を終え、朝のゴソゴソと朝風呂を終え、浜に向かいました。まだ雨は降っていませんが、雨と午後からの強風という予報なので、自宅からカッパ・ライジャケスタイルです。ところがあまりの暑さに耐えきれず、すぐにカッパを仕舞い、リード110で疾走しました。
11時スタートで9時集合。8時半には浜に着きましたが、サワダ君の船が海に下ろされようとしているところでした。バースに着くと、タナカ艇もいません。早めに出て練習するのだろうか?無風だけど・・・。ジョーガの艤装に取り掛かろうとしたら、オーニングが外され、すでにセールがセットアップされています。メンバーは誰もいないので、土曜日に練習したのだろうか?メインがまだブームに通っていなかったので、セットしようとしていたら、シブカワさんとモリタさんが来られました。オオノ御大が土曜日に来て艤装されたようです。スピンダウン用のブロック新設と、ジェノアラフコードを新設されたようです。使用指示メモが貼ってありました。
艤装を終え、船を下ろし、桟橋でおしゃべり。曇天に無風という、なんだか不穏な感じがします。10時前、北から南に風向が変わったので、いよいよかなと思いながら、セイルアップして桟橋から離れました。風はほとんどなく、僕はトランサムに立ってブームエンドを持ち、セイルロッキングで少しでも走らせようとします。モリタさんのパドルも出動して、なんとか東出口に向かいます。
横山さんが乗るKYCのレース運営インフレータブルがやってきました。暗黙の了解で曳航を頼むと、「本部船が1人だから1人手伝ってもらえますか。沖に出てから曳航します」とのこと。僕がインフレータブルを介して本部船に乗り移り、出口を出たドラゴン2艇を曳航し、レース海面に着きました。ここでジョーガに戻りました。竹井さんがお亡くなりになり、レース運営が3人から2人に減り大変そうです。でも慣れてるから、本部船とインフレータブルを機動的に操り、スタート・フィニッシュからマーク打ち変えまでやってしまうから大したものです。
曳航時、2〜3m/sの風が入っていましたが、練習を始めるとぐんぐん風が上がり、10m/sオーバーのブローが下りてきました。先月のレースは、1レースの間に、無風から海面が真っ白になる20m/s近くまであったそうですが、本日のレースもハードになりそうです。
風向が変わり、マーク打ち変えのためAPが上がりましたが、定時30分遅れでスタートしました。みんな一線に並んで厳しいスタートです。ジョーガは幾分早いので、「出てる、出てる、ベア、ベア」と叫びましたが、スキッパーの「行ける」の声にジェノアも張りバウアップ。「プープー」、やっぱX旗。中央の僕らと、一番本部船寄りの艇が出てそうです。すぐにその旨報告しましたが、指示は「行こう」。
10艇身ほど走って、並んで走ってる他艇から「リコールやで」。この言葉にあっさり「帰ろ」の指示。ジェノアを解き、他艇を前に行かせバウダウン。X旗のダウンを確認してバウアップ。「僕らだけリコールやったんや」。他艇はかなり前におり、断ケツスタートになりました。まあレースはこれからです。安定した南風だけど、何があるかわかりません。風は、勢いを失い4〜5m/sで安定しています。
スキッパーが腐ってしまうとレースは終わるので、モリタさんと僕とで、交互に「走ってますよ」「いい感じですよ」と声を掛けます。お世辞ではなく、ほんまによう走っています。これ以上離されていないようです。タックして西海面に出ます。このレグもよく走り、先に西に出してた2艇より上り角度がいいです。東からのブローを貰っているようです。東に出した先行艇が続々タックし、角度は同じぐらいですが、先行してるから高さが高いです。我慢して走ります。
やがて、東に出した先行集団のバウが下を向き出し、ブローが終わったようです。でもジョーガは、まだブロー中です。この時、かなり挽回したと思います。西からのベアブローが入りタック。当然、西の2艇もタックして来ます。東の先行艇とのミートが楽しみです。このミートで東のビリ艇に、テイルツーノーズまで追いつきました。西の2艇はブローでバウが上を向き、一次詰めた差を吐き出してしまいました。でもまあ、あれがベストコースだったでしょう。
風は徐々に上がり、下マーク回航時には6〜8m/sになっていました。ジャイブ後スピンポールからガイが外れましたが、マークまでの残りポートレグが少しだったので、モリタさんにポールだけを下ろしてもらい、潰さないようにスピントリムしました。ジェノアを出し、スピンダウン。ここでスピンを海に落としてしまいました。モリタさんのスピンダウンのタイミングと、僕のスピンシート取り込みが合いませんでした。僕がもっと早くスピンシートを引いていれば、問題なかったでしょう。
バウに走り、必死でスピンを回収します。ガイを解いたので、スピンがブレーキになることなく、マーク回航出来ました。僕は、バウで回収したスピンに再びスピンシートを結びます。バウ作業を終え、コクピットに戻り、スピンハッチのクローズやスピンハリヤードの処理作業しました。ナイスなリカバリーだったと思います。
この下マーク回航は、他に2艇ミスったようで、僕らより高さを失ったところを走っています。2艇はカモったようです。スキッパーから、タックして来るだろうほぼ追いついたもう1艇のミートに気をつけるよう指示が飛んできました。このレグも良く走り、上マーク回航時には、2艇を完全に抜いていました。さっき良かった西目のコースを選択したのも良かったようです。先行艇との差も少し縮めた感じです。結局、次のダウンレグとアップレグは、他艇と絡むことなく、そのままの順位でした。
続いて第2レースです。風は6〜8m/s、ブローが10m/sという感じです。スタートは上1。半艇身遅れ目でしたが、上1なので問題ありません。いい感じのスタートです。が、号砲直後の上り角度が少々悪い。「上れます」とスキッパーに報告。少しづつ下艇が上がってきます。スタートミスした艇が2艇、タックして僕らの後ろを西に抜けて行きます。
下艇に苦しくなってきたのか、「タックするぞ」の指示。西に向かいます。第1レースのような風のフレがなく、ボートスピード勝負の展開です。どうもバウ先がまっすぐではなく、少し上り過ぎと少し落とし過ぎを繰り返しています。「船が安定せん」のスキッパーの言葉。ドラゴンはパワーが大きいので、セイルセットが風に合っていないと、ティラーで落としたくても、ウエザーヘルムですぐに落とせません。ウエザーヘルムが切れると、一気にバウが下を向きます。「もっと浅くしましょう」と意見が一致し、クリューアウトホールとカニンガムをおもいっきり入れます。これで随分操りやすくなったようです。
スキッパーから、「タックしてきたぞ。ミートはどうや」の言葉。うちの方が先行していますが、全長が9mもあるので、スターンが前を切れそうにありません。「下タックです」。リーバウタックしました。ブローが切れると、波が大きく走りにくいです。ここで上り落とすことが出来ませんでした。下平行になり、どうやらやられちゃったみたい。
中程の順位で、上マークアプローチになりました。スターボレグを10艇身ほど残し、ポートにタックし、先行艇のアプローチを見ながらタック。ほぼジャストで上マークに向かいます。下先行のタワ艇が必死に上っています。西からのタイドがあるようで、スターボの上りはキツイです。自艇もきつくなってきました。
スターボの後続艇との間に十分なルームがあるので、タワ艇より先にタックしようと「タックしましょう」と声をかけるが、スキッパーの判断は「なんとか行ける」。艇速を失いながらも上り切れそうですが、タワ艇がタックしてきました。「ウソ」、もう向こうに自艇をベアするルームはありません。
「タック、タック」と叫び、必死でタック。タワ艇もタック。避けきれず、タワ艇のスターボ側トランサムが自艇ポートサイドミジップに接触しました。「すまん」、タワ艇スキッパーイサミさんが後ろを振り返って。こちらもバウアップして避けていたので、重大な事故に至りませんでした。次にスターボに戻すタックで、まだスピードに乗っていないのにあせってタックしてしまいました。僕はまだだと言ったのですが、先行艇への闘争心が優ったのでしょう。結局失速のうちに西からの潮に勝てるわけはなく、マーク回航できませんでした。後続艇が来ているのでタックも出来ず、ジャイブしてラウンドし落ち着いて回航しました。まあよくあることです。ドラゴンは、ジブではなくジェノアなので、スキッパーの視界が妨げられ、ジェノアの裏の状況がきちんと頭に入りません。仕方ないです。
間一髪重大な衝突を避けた動揺が、メンバーみんなを覆ったようで、スピンアップでまたスピンを落としてしまい、海中ではらんだスピンの圧力で、スピンポールが真ん中から折れてしまいました。僕はバウに飛んでいき、またスピン回収です。またスピンシートがバウをくぐり、またシートを外していると、スキッパーから「帰ろう」の言葉。ジ・エンド。スピンがおかしな具合になったので、スピンピークを外し、へそを外し、シートを外しました。8m/sからさらに風が上がる感じで、これからサバイバルなレース本番だったのに、風に跳ね返されてしまいました。残念なような・・・クルーで走りまわり、息をはずませてもいたので、ボロが出る前に終われたホッとした感じもありました。ゆっくり帰りました。トラブルがあったのか、うちに先行するようにタナカ艇もハーバーバックしています。
僕自身ドラゴンは久しぶりでしたが、タワ艇のクルーに清水くんじゃなくて、重友さんが乗っていました。重友さん、久しぶりです。ハーバーに戻り、衝突箇所をじっくり見ましたが、傷らしい傷はなく、ホッとしました。バースで片付けているときも、ザーッと降ってきたり、強風が入り沖海面の白波が飛び真っ白になったり、荒れ模様の天気でした。レース自体は、天候の悪化もあり2レースで終了したようです。
3時過ぎに自宅に戻ってきました。家内と6時半始まりの映画を観に行く予定でしたが、早く帰ってこれたので、近隣の別の映画館で、その1時間前の上映を観ることに変更しました。それでも今から2時間の余裕があるので、壊れ気味の実家の冷蔵庫を見に行くことにしました。主のいない家なので、今までの大きな冷蔵庫からサイズダウンすることにしていました。見に行くだけを考えていたので、大体3〜4万円ぐらいだなと目星を付けて、スポーツ用品店に向かおうとしました。ところが、「面倒だから買っちゃおうか」なんて家内が言います。「でも2万しか持ってないよ」「私持ってるから」。「10万円ぐらいすると思ってたから、安上がりになっちゃった」と、買う気満々のお財布の中身でした。
お隣の「スポーツデポ」で、登山用品コーナーを物色しました。トレッキング用の靴とステッキを見ました。靴が1万円弱、ステッキが両手2本で5000円。2人で3万円。初心者なので、これぐらいでいいでしょう。森の中に入るとGPSなんて役に立たないので、コンパスも必要そうです。あとクマ鈴もいるかなあ?
映画は、「踊る大捜査線」を観ました。家内の評では、「面白かったけど、織田裕二がタバコを吸うのがダメね」だって。小栗旬が新しく登場し、いい味を出していました。上手な俳優さんだと思います。

2010/7/5
日曜日は、京都の練習で琵琶湖に行ってきました。3月に再びコーチを頼まれてから、4月3回、5月1回・プラス結婚式、6月1回・プラスレース運営・創部70周年記念と、まあまあの出席です。8月末の全日本予選まで、例年同様日曜日の半分出席しようと思っています。
この日は、家内は毎月の勉強会です。では、またバイクでと計画してみました。無料になった舞鶴道を使って小浜周辺を探索し、「熊川宿」を見学して琵琶湖畔に抜けて、「マキノのメタセコイヤ並木」、「海津大崎」を通って湖東に回り、南下して琵琶湖大橋を通って湖西、艇庫でバルサンを渡して帰宅。というコースを描きました。初めての上記3ヶ所が、魅力的でした。
別ルートとして、大阪府道r733で北摂山道を向日市に抜け、京都を経てR367鯖街道を北上して「熊川宿」に至るも考えました。ところが、当初くもりだった日曜日の天気が、少し悪化し、更に天気が悪そうな近畿北部や山道を通るルートだったので、練習参加に変更しました。
キャプテン・カタカワ君の連絡では、7時半出艇ということなので、6時に家を出なければなりません。普通なら目が覚めてる時間だけど、クラブに迷惑を掛けてはいけません。「目覚ましをかけて」とも思いましたが、気合で起きることにして、5時半起床を強く念じて寝ました。さすがに僕です。4時半に目覚めてしまいました。NHK教育TVの「サイエンスゼロ」を見終えてから眠りについたのに、気合が強すぎました。トイレでゆっくり読書して・・・海音寺潮五郎の「平将門」が面白すぎます。ぬるい朝風呂を楽しんで、5時過ぎに家を出ました。
これでは早過ぎるのですが、1つの計画が頭にありました。「宇佐山登山」です。宇佐山は、艇庫の最寄り駅JR「大津京」に近い「近江神宮」の裏山です。ここは、織田信長と本能寺で運命を共にした小姓・森蘭丸他数人の森兄弟の父親・森可成の戦死した場所です。信長は、あまり好きではない武将ですが、森可成(よしなり)は、僕の名前と読みが同じなので、親近感がありました。清和源氏の末裔で美濃の土岐氏系で、本姓源氏という一目置かれる家の主です。明智光秀同様、土岐氏系清和源氏です。
土岐氏に使えていましたが、斎藤道三に土岐氏が滅ぼされてから信長に仕えた、柴田勝家同様信長譜代の武将です。信長の尾張内の織田一族対決から功のあった譜代中の譜代です。だから蘭丸兄弟が、信長の側小姓に加えられたのでしょう。
信長は、中世の古い秩序を打破した武将です。旧秩序は、室町幕府の治世能力低下とともに、公家のピンハネ、藤原氏などの有力公家・寺社などの私設荘園の税免除により、一般農民はより重くなり税で苦しんでいました。「楽市楽座」のように、規制緩和して人々が自由に行動するのを目標にしていたように思われます。
無税により、多数の武装僧侶や傭兵を抱え自己荘園の防御や拡大に精力的な旧寺社の勢力は、ゴロツキを僧として抱え市民から略奪したりやりたい放題。徹底的に叩き潰す信長のやり方と対決するのは必然です。難攻不落で城と見紛う石山本願寺の後ろ盾で、当時中洲だった摂津野田や福島と織田軍主力が対決している時に、信長包囲網を作っていた浅井朝倉連合軍、比叡山延暦寺軍などが、湖西を下って信長の背後を突き、京都との連絡を絶とうとしました。
ここで浅井朝倉への押さえとしてここに城を構えていた森可成が、この城を出て比叡山坂本で阻止します。多勢に無勢、結局総大将討死という結果になりますが、ここで時を費やし、浅井朝倉軍は時を失い、信長は延命し、摂津の戦から転進し、強固に防戦していた主を失った宇佐山城は援軍到着まで持ちこたえ、陥落を免れます。
当時、天命をまっとうする戦国武将は少なかったのでしょうが、森可成はある意味武将として誇る素敵な死に場所を得たとも言えます。姫路城に代表される平和な江戸時代の平城の豪華さも魅力ですが、僕には明日の命も知れない戦国武将の山城の夢の跡に、より哀愁を感じます。
えらく前置きが長くなったけど、せっかくの機会を得たので、登ってみることにしました。事前の調べでは、ここには「宇佐神社」があり、僕のような貧脚・山道音痴でも安全に容易に到達できそうです。
いつものように、名神・湖西道を経て、JR大津京駅の方から近江神宮までやってきました。大津京から近江神宮までの短い道沿いに、大津京遺跡が点在しています。空き地には謂れが立っています。AD645年、大化の改新で今日の天皇制の土台を築いた天智天皇(中大兄皇子)の作った都です。
近江神宮の手前の小川の前で山側に曲がります。そこには目指す宇佐神社の道案内が立っていました。細い道を少し上ると、すぐにお宮が見えました。「ここだな」と思って、広くなってるところに路上駐車。「さあ」と思ったら、宇佐神社への道案内が別の方向を向いています。道案内に従って、近江神宮横を流れる川を渡り、神宮裏山にかかります。かなりの急勾配の参道です。舗装されていますが、こんな道を車で上りたくありません。横に民家があり、車も停まってるのに驚きました。
今にも雨が降り出しそうな天気の朝、深い木立に囲まれた誰もいない参道を歩きます。勾配がきついので、ゆっくり上がります。目指す宇佐神社が見えてきましたが、その横に、「宇佐山城」の道案内が立っています。参拝は後回して、この勢いで城跡まで上ることにしました。この参道は、湖西道路のすぐ横で、木々の切れ間から猛スピードで走る車が見えます。湖西道路のトンネルの上を越えて上ります。
獣道に毛が生えた程度の踏道が、つづら折れや回り道を繰り返しながら続いています。里山の低山でも、簡単に迷うので、時々後ろを振り返り、あたりの景色を記憶にとどめます。帰り道を間違えると、とんでもない所に下山して、車に帰るのに難儀します。足元は悪く、薄い霧に包まれた山道は滑りやすいです。時折急坂もあり、休憩を入れながらの登山になりました。この辺の田畑には、獣避けネットが敷かれていないので安心ですが、鹿はいるかも?まさかクマはいないだろうけど、念のためウエストバックから、先週好日山荘で買った山歩き用の小さな鈴を出してぶら下げます。早速の出番です。
静けさの中で孤独に歩を進めます。この道はキツイです。山頂まで登って、出艇の時間に間に合うのだろうかと、「引き返した方がいいよ。しんどいし」という心の声が聞こえます。「折角の機会を、途中離脱という情けない結果でいいのか」のGOの声が、それをかき消します。木々が濃いのが幸いしているのか、薮が繁茂しておらず、その点では楽でした。それに・・・「宇佐山城跡」「もう少しで頂上」「滋賀県は楽しい」などの小学生が書いた立て札が、道を迷わないように所々に立っています。「平成21年6月・・小学校6年4組」となってて、軟弱や貧弱もいるだろう女児に、成人男子として負けるわけにはいきません。
途中から、蜘蛛の巣払いに小枝を振り回しながら、頂上に到着しました。三角点335mと書いてありました。そこには、眼下に琵琶湖の絶景が待ってるのかと思いましたが、北・東・南の展望はなく、わずかに開いた西側からだけ更に高い東山の一部が見えるだけでした。でも十分な達成感です。この西側斜面には、作業用ケーブルが敷かれていました。山頂に似つかわしくない琵琶湖TVなどの共同アンテナが建ち、2棟のコンクリ建物が立っています。それへの物資供給ケーブルのようです。でも作業員が上がる整備された道はありませんでした。数本ある山道を上がってくるのでしょう。
山頂の一段下に、かつての山城を思い出させる石垣が残っていました。崩れた石垣の石も多数残っています。土塁や長い年月により浅くなった空堀の跡もあります。北側にも小さな平坦地があり、その間を上がってきた山道が通っていますが、山城跡から見ると、これはまさに堀切でした。北の山頂にも砦が築かれていたものと思われます。
かなり満足して下りにかかりました。楽な下りこそ滑りやすく、山頂を目指す獣道ルートが重合してるので、間違えないように慎重に下ります。こころ強い味方が、小学生看板です。それでも1ヶ所、どうにも判断に苦しむ分岐があり、数度行ったり来たりしましたが、正解ルートを選択することが出来ました。まあ、間違ったルートでも、急斜面ながら、同じところで合流しましたが。
「宇佐神社」横まで下りてきて、朽ち果て苔むした土塁を見つけました。この土塁の配置を考えると、相対するのが「宇佐神社」です。ここに森可成の館だあったのかもしれません。山城は終の防戦場所で、日常は毎日あんな山道を上り下りしません。麓の館で日常業務をこなし、いざという時の防戦が敵わなくなって、山城に退却し、標高差の有利を得て、最後の奮戦でなんとか延命しようとします。
その館を敵軍に占領された時の次の防戦ラインの土塁のようです。僕は、戦国武将になった気分で、小さくなった土塁を越え、宇佐神社に向かって道なき木々の間を進軍しました。そして宇佐神社前の舗装路に降り立ちました。すると、宮司さんなのだろうか、車から荷物を下ろしていた御仁が、ぎょっとして僕を見ます。不意打ちだったのでしょう。僕の勝利です。
「おはようございます」と挨拶し、いつものように10円賽銭で参拝しました。小さめの本殿の前に小さな拝殿、さらにその前に農村歌舞伎が演じられていたのでしょうか舞台がありました。能楽が盛んだったと言われる北摂の神社には、小さな神社にも当たり前のようにありますが、京都や滋賀では大きな神社にしかないと思ってました。謂れを読むと、源頼義がAD1065年に建立すたのだとか。源頼義と言えば、長男悪源太義平・三男頼朝・九男義経の親父ではないか・・・?何か感じが違う。違和感が。1192作ろう鎌倉幕府との年代に隔たりが・・・帰って調べたら、義平の親父は、源義頼でした。名前が似ててややこしいが、同じ清和源氏系河内源氏の祖頼義の嫡男でした。頼義は、清和源氏初代源満仲の子河内源氏の祖頼信の子で、八幡太郎義家の父親。義平・頼朝・義経兄弟の直系の先祖でした。
森可成の館址に神社が建ったのではなく、遠い先祖の建てた神社の裏山に城を築いたようです。なかなか面白い登山になりました。時刻は7時を回っています。急いで参道を下りました。参道脇の小さな側溝には、山からの湧き水が何ヶ所からも流れでています。日本は、水に恵まれています。手頃な湧き水を飲んでみました。乾いた喉に、優しい潤いです。

出艇10分前に艇庫に着きました。が、もう出艇前のブリーフィングを終え、みんな浜に行って船を出しています。「う〜む、遅れた也」。マドカさんが艇庫前におり、僕とヒメちゃんを待っていました。みんなの出艇を終え、レスキューの1回生ササクラ君と、シラカワ監督と470に乗る予定で到着を待ってる1回生ホシノ君が戻ってきました。ヒメちゃんは遅れるということだったので、3人でハーバーに向かいました。
無風からトラピーズに乗る風まで、バラエティーな風の中の練習になりました。途中で北風が弱まり、三井寺が入ってくるし。監督が来ないようで、途中で一旦ハーバーバックしてホシノ君を拾いました。マーク打ちやラウンディングの間に、1回生のレスキュー練習です。マーク拾いも最初という割には、ちゃんと拾える場所にレスキューを持って行きます。Goodです。
お昼、一旦艇庫に戻り美味しい昼食です。食事後、家から持ってきた電動生垣刈りで、艤装場所の回りを伐採しようと思ってたけど、時間に余裕なく断念しました。午後からは、AM470に乗ってた1回生ナメリカワ君とササクラ君がレスキュー、マネージャーのフルカワさんと1回生マネさん(名前失念)とで出艇。マーク打ち・マーク上げ、艇隊帆走接近戦でのアドバイスをしました。さすがにフルカワさん、接近戦もうまいので、僕は外から直接選手に声を掛けられます。本人は船にぶつけないかとドキドキだったようです。
途中で、470クルーをホシノ君からササクラ君に交代。いい風の中、最後はスタート練習で終えました。午後も、1回生のマークピックアップ練習を、折を見てやりました。みんな上手で、後は練習あるのみです。ホシノ君が着岸しましたが、Goodでした。
艇庫に戻り、みんなが解装してる間、僕は雑草刈りに取り組みました。なかなか快調に楽しくやっていたら、ホシノ君から「手伝いましょうか?」と声がかかりました。足とかに当てたら危険なので、やってもらうか迷ったけど、操作方法を教え、「歯を体に近づけないこと」「必ず両手で操作すること」「自分のコードを切らないこと」の注意事項を伝えて渡しました。なかなか楽しくやっていましたが、最後の「自分のコードを切らないこと」をやってしまいました。本人は、大変恐縮してたけど、10mコード買っても1000円ぐらいなので大したことはありません。自分の身体を切らなくて良かったです。彼は、とても明るくヤル気があって、将来のヨット部を背負って立つ人材だと思います。恐縮しながらも、笑顔でいたのが実に頼もしいです。
今春から始まった日曜日艇庫での夕食をお呼ばれして、ミーティングでしゃべりました。まず、これからの季節の体調管理について。僕が消防署の蘇生講習会でもらってきて、艇庫に置いてある読本に書いてあることを中心に、緊急の処置の触りを。海の経験の浅い1回生が乗ることが多いレスキューでの危険注意と、マリントイレの使用方法を。それから、練習で気付いたことをしゃべりました。
ミーティングが終わり、来週の7大学戦に向けてのエールの練習の前に退散しました。琵琶湖の天気予報もいいとは言えなかったのですが、練習中に15分ほど雨が降っただけでした。琵琶湖の湖上から比良山やその北の空模様をチェックしていましたが、ずっと雨が降ってるような雲がかかっていました。バイクで小浜に行っていたら、間違いなく雨だったでしょう。それはまたの機会にしましょう。琵琶湖で楽しい1日が送れました。

逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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