-ウェブマスター日記 2017/7-8

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2017/8/27
コーチしてる大学ヨット部の全日本予選近畿北陸ブロック内(京都・滋賀・福井・富山)新人戦の日です。このレースは、1〜2回生に出場権があるレースなので、今まで一度も観に行ったことがありませんでした。2週間前の琵琶湖周航とともに、今年2つ目の初めてです。
目を覚ましたら4:30で、いつもより目覚めが遅く慌てました。8:20出艇前の早朝探索の時間がなくなっちゃう。「里山VTR250」に乗り、5:30出発。比叡山山中の寺院と林道を探索しようと、VTRにしたけど、林道探索出来るのかどうか?
豊中ICから中国道に乗り、名神を走り桂PAで小休止です。ここでGPSと車載カメラをセットします。京都東ICで下車し、湖西道路に乗って北上します。「下阪本ランプ」で下り、バイパス側道を走ります。
「西教寺」に向けて左折し、西教寺前を右折しr47で北上します。すぐに四輪離合困難な細道・山道になり、6:30琵琶湖を見下ろす場所がありました。軽風ですが風が全面に入り、良いレースができそうです。
ここから森の中の道になります。好物の舗装林道の雰囲気です。ガードレール・カーブミラーのない林道をゆっくり走っていると、分岐があり「飯室不動堂・松禅院」の方に入ってみます。更に雰囲気の良い沢沿い道で樹齢の長い樹が林立し最高です。ほんの少し走ると、6:35僧坊が見えてきて駐車場に停めます。
「浄刹結界跡」の石碑が立っています。浄刹結界は、女人禁制と同義語なので、此処から先は、修行の心を迷わす女人の入山を禁止したようです。山に向かう獣道程度の道があります。歴史好きハイカーが好みそうな道です。
誰もいない周囲を見渡す・・・夜はとても来れない素晴らしい雰囲気です。林道状態とは言え県道が近くを通っているので、楽にアプローチ出来ますが、さすが修行の場です。
ここにある長寿院は、比叡山延暦寺・天台宗の荒行「千日回峰」を2度達成された酒井大阿闍梨が、住職をされていた寺院です。酒井さんが亡くなった後、現在の住職・藤波さんも千日回峰達成者の大阿闍梨です。
30年ほど前、酒井さんが千日回峰行をNHKスペシャルで見た時、大きなショックを受けました。7年間に渡り、比叡山山中を真冬を除いて毎日30km・60kmあるき回る修行であるにもかかわらず、食事は質素そのもので2食のみ。にも関わらず、風邪一つ引かない。人間の潜在能力の高さを知りました。
それ以来、ずっと心の片隅に「千日回峰行」がありました。葬式仏教僧が多い中、山中を歩き厳しい修行を課し、心を無にして悟りを拓く本来の仏教や僧の姿の頂点を、千日回峰行者に感じます。民間人として山行・滝行をされている修験道の方を見ても、手を合わせたくなります。
とうとうその総本山とも言えるこの場にやってきました。沢に掛かる橋を渡ると「地蔵堂」がありました。入口は駐車場開閉扉で施錠されて中にはいれません。右手に剣、左手に綱を持っているので、不動明王と思われる像が門番しています。天台・真言系密教、それと日本古来の自然崇拝・山岳崇拝と習合した修験道といえば、この不動明王です。山岳修行場・滝行場には、かならずおられます。大日如来の化身と言われています。不届きな気持ちを起こし、剣で叩かれ捕縛されない生き方をせねば。
滝の落ちる音が聞こえるので滝行場があると思われ、そちらに歩いていくと、犬が吠えてきた。山中なので繋がれていないこともあるかも?とそそくさと退散し、沢に沿って下ります。
「飯室不動堂」境内に入ってみます。八角形の特徴的な屋根を持つ千手堂があった。帰宅後調べたら、酒井大阿闍梨が1994年に建立したそうです。屋根から多数の吊灯篭が下がり、夜これに火が入ったら綺麗だろう。
2頭の獅子に守られた不動明王像があった。その前の半屋外に護摩を焚く石の囲いがある。護摩行をここでするのかな?明王の前天井にも多数の金属製の吊灯篭が下がり、暗い時刻の護摩行があれば、幻想的な風景になりそう。帰宅後調べたら、これも酒井大阿闍梨発願の像で、本人と同じ155cmの像高で、本堂の鎌倉時代作の秘仏「不動明王」を模しているそうです。
狛犬のことが載っていた。酒井大阿闍梨が千日回峰行中、ついてきた犬がいたようです。距離が倍に伸びる赤山周りの時も同行したそうで、大阿闍梨の友、力になっただろう。
一段下に石灯籠と仁王石像が、この郭を守るように正面を向いて並んでいた。見に行くと、「明王水」井戸があった。湧水を引いたのでしょう、パイプから一定量の水が流れ出ていた。覆屋内に柄杓・如雨露・薬缶などが置かれており、修行のための水をここから調達しているように思われた。調べたら「閼伽井」と書かれており、やはり法事に使う水を調達しているようです。
別の階段が2段上の曲輪に上がっている。横には山中に向かう未舗装道路がある。2段曲輪を上がり、最初の曲輪へ。「比叡山不動堂」と書かれている。「鐘楼堂」と書かれた鐘楼があり、鐘が下がっている。県魚の下、屋根を支える柱組に太い先が削られた柱が下がっている。強度上必要ない部材に思え、気になった。装飾性の高い彫刻が入る懸魚や蟇股でさえ、建築物を補強する意味が素人目も見えるのに、屋根をを支える横木と屋根の間の蟇股から独立して横木に干渉せずさがるころは何なのだろう。気になって帰宅後調べたが、納得いく回答はありませんでした。
「不動明王堂」があり、「天台比良修験道本館事務局」横に巨大な木魚が下がっていた。今まで見た木魚の中で、最大かもしれない。天台宗系修験道があるということは、最初に聞いた滝の音は、修験道者の滝修行場に間違いなさそう。横の瓦屋根廊下の扉が開いており、奥に入って行けそうなのでくぐってみます。また犬が吠えだしました。2頭います。1頭が檻に入っており、もう1頭は綱に繋がれているのか、座ったまま動かず吠えているだけです。中庭のようになっており、山側を除く三方を3つの僧坊で囲んでいます。中央に池があります。池の僕が入った側の山側に滝場がありました。犬から最も遠い対角線の位置なので、雄を出して観に行きます。
「不動滝」と書かれており、山水を樋で引いた滝場によくある人工滝で、これまたよくあるように、竹囲いされています。勢いよく適度な水量の水が落ちています。
犬が怖いので、もと来た道を戻り、護摩堂上の道をバイクに戻ります。薪が多数備蓄されています。冬の寒気に備えてでしょう。駐車場に戻り、山を登っていく道を見に行くと、「横川・元三大師堂之の道」と石柱に刻まれていた。道もそれほど細くない。ハイキングで、横川からここへ下ってくるのも面白そう。西教寺まで歩けばバス停があります。秋の夫婦トレッキングコースが閃いてしまった。バイクに乗り県道まで下る。6:52、r47との出合。次の探索地「安楽律院」への道標が山道と県道2つ案内している。山道はいきなり登っているので、県道で標高が稼げるのかと思い、楽な方を選ぶ。r47は先程の分岐がピークだったのか、下りだした。
6:56、「安楽律院」との分岐に着いた。安楽律院への案内板は山に向かい、広い道がついているが未舗装なので、ここでバイクを置き歩くことにした。「0.4km」と書かれているので往復しても15分です。
森の道で、巨木が並び気持ちが良い。7:02、石段が見えてきた。それを上がってくと、沢水をパイプで運んでいるのか、苔むした手水から水が溢れている。柄杓が1つ置いてあったので、手を清める。人がもう住んでいないような民家があり、屋外トイレもある。管理するお坊さんが時々使っているのかな?
『安楽律院 安楽谷は横川飯室谷の別所。恵心僧都なども隠棲したが、江戸中期に妙立・霊空らが厳しい戒律主義を唱導し、一門を安楽律と呼びここに住した。律院はおしくも放火でほとんど失ったが、比叡山を愛した藤原定家の碑・爪塚などがある』
石で擁壁された平坦地が並び、お堂が3棟建っている。本堂と思われるお堂を覗くと、金色に輝く本尊?が光っていた。いい感じです。曲輪内はところどころイノシシが掘り返した跡がある。焼かれる前はお堂が並んでいただろうことを示す土石が遺っている。石仏や灯籠は、苔むしながら遺っており、それらを巡ってみる。五輪塔が積まれていたり、板石に仏様が彫られていたり、宝篋印塔が並んでいる。石は苔むし、杉苔が緑の地面を作りいい感じです。手入れされているとは思えないのに、雑草がほとんど生えていないのが不思議です。飯室谷が近いので、そちらから時々来られて維持しているのかな?
飯室谷分岐からの道が来る方向に山門があり、その先で石段で上がっている。アップダウンの山道が続いているのだろう。ここで7:16、とっととヨットハーバーに向かわないと。
7:29バイクに戻り、r47で西教寺前を通過し、そのままr47で坂本の日吉神社前通過。道なりに京阪石山坂本線に沿う道になり、近江神宮前から神宮道を走ります。7:47、R161との交差点にある「エネオス近江神宮前SS」で給油。272km/9.51L=28.6km/L。続いて、7:52「セブンイレブン大津松山町店」で、朝食用に「プレミアムフレッシュバナナ213円」を購入。
ハーバーにバイクを置き、陸上本部で前日土曜日の成績表を見る。出艇申告中で、学生たちが並んでいる。「おはようございます」。艇庫前に行き、予定通り8:20出艇。
僕は女子マネさんが運転するコーチボートで、ほとんどコーチボート上で見ることない4回生2名と、交代要員の1回生選手達とともに沖に出る。レースは真剣ですが、レセプションや閉会式にお笑い要素の入った1回生のヨットレース歓迎のレースです。R大が出艇して行く選手へのエールにお笑い要素を入れており、勢いを感じた。数年後のR大はあなどれないだろう。
ヨット部のある高校は少なく、部員の大半は大学からヨットを始める。高校ヨット部出身者やジュニア上がりの選手は、圧倒的に有利です。次男も確か1回生の時優勝しているはずです。
風が弱く、AP旗(レース延期)が揚がり風待ちしましたが、琵琶湖大橋からのブローが入ってきました。N・2〜3m/sのコンディションで、選手を交代しながらこの日も4レースできました。合計8レース出来たので、1・2回生は楽しかったでしょう。
当方は、470級5・S級4艇出場し、トップ10内に3艇回航することも多く、全28艇中、全艇が真ん中以上でフィニッシュする事が多く、まずまずの成績でした。最終レース、ジュニア上がりのレギュラーチームの核でもある2回生スキッパー艇を逆転して、1回生未経験女子スキッパー艇が4位でフィニッシュしました。これにはレース中からコーチボートは湧きました。男の子たちはみんな女子の応援団です。
フィニッシュ後、コーチボートに戻ってきたジュニア上がりに、「前を譲ったの?」と聞くと、「いいや、まじで負けました」と楽しそうです。彼女を頼もしく感じたのでしょう。続いて女子艇が戻ってきて、みんなから拍手が湧きます。風が上がると実力差はまだまだ大きいですが、頼もしいです。
14時前に最終レースがスタートし、470級がフィニッシュし、プロテストがある艇のスキッパー2人をコーチボートに乗せ、急いでハーバーバックします。抗議書の締切があるので、微風をヨットで帰っていては間に合いません。
470乗り4回生1人もハーバーで下ろし、急いでレース海面に戻ります。S級にもプロテストされた艇がおり、これまたスキッパーをコーチボートに乗せ、一目散に帰ります。今度もS級乗り4回生が下りました。
再びレース海面に戻り、全艇の安全を見ながら一緒に帰ります。ハーバーバックしましたが、プロテストが多く、審問時間が長く掛かり、閉会式を見ずに帰ることにしました。船の片付けをある程度終えたところで、各クラスミーティングをして、合宿所へ船を戻した部員たちも戻ってきたところで、全体ミーティングをしました。
気づいたことを、主に1回生向けに話し、「楽しくヨットをすること」「今日の自分のベストをヨットノートに書いておくこと」を伝えました。
閉会式では、当方恒例の余興があります。その後京都に戻り、1ヶ月後に控える「全日本予選」に向けての決起お食事会をするそうです。残念ながら帰路に着きます。
バイク用メッシュプロテクター上下を着ます。湖西道路〜名神高速に乗り、17:59「桂川PA」で「ガリガリ君ソーダ75円」を買って糖分補給&休憩します。中国道豊中ICで降りて帰宅しました。
家内はまだで、片付けして洗濯物を取り込んだりしていると、家内が重い荷物を持って帰ってきました。「お父さん、もう帰ってきてたの。電話したら良かった〜」。楽しい1日でした。

2017/8/20
前日に和歌山までバイクで走ったので、お休みの日です。家内が仕事の用事で出かけ帰宅は19時ということなので、1人寂しくです。4時に目覚め、あれやこれや一通りやり、家内を駅まで送っていき、ショートツーリングに出ることにしました。
家内のバイク「アドレスV125」を出して走り出します。六甲山がクリアに見えていたので、なんとなく六甲山方面に向かって走り出し、「宝塚ゼロ戦」を見に行きたくなりました。隣町なのにゼロ戦があるとは知りませんでした。特攻隊など飛行士として日本の盾となった方のお墓?慰霊碑があるお寺で、レプリカのゼロ戦が置いてあるそうです。
場所は、阪急逆瀬川駅と宝塚南口駅の間の山の手住宅地の中ということだけわかっています。お寺なので、適当に走れば案内板が出ているだろうと、住宅地に突っ込みました。意外に大きな住宅地で、山に上がれば上がるほど坂が急で、高齢になると住みにくそうだなと思いました。
野生の勘で適当に走っていると、「宝塚聖天通」というのに出くわし、それを山に向かって走ると、12:36ビンゴ!「宝塚聖天」到着。「聖天歓喜天」は夫婦和合なので好きです。狛犬の下に聖天さん特有の「がま口」と「大根」が彫られている。
境内に入ると、「慈侠窟」という小堂が目に入った。内部に、羽織袴の等身大より大きな木像が立っていました。「故小林左兵衛翁肖像」写真も飾られている。『小林左兵衛を知っていますか? ー火消しから社会福祉事業までー 「死んでも天神さんだけは火の粉一つやらんぞ」。明治42年7月、「北の大火」において、79才ながら身内まで動員して指図し、天満宮への類焼を防いだ人物こそ多くの人に慕われた大阪の侠客・小林左兵衛です。
世のため・・・ 文政13年(1830)大阪生まれ。幼名・萬吉。武士出身ながら堂島の質商・明石屋の養子となった父から生を受けた。その後父は養父と不仲になり離縁され、京都の宮家の家人になる。萬吉9才の時、父は失跡。丁稚奉公をしていた萬吉は、このままでは母や妹を養えぬと、家族に迷惑がかからないように家出し賭場荒らしを始める。やがて役人に捕らえられ厳しい責め立てを受けるが、母に迷惑がかかると耐え抜き、役人の方が根負けする。母に諭され改心するが丁稚には戻れず、日本一の侠客になって弱きを助け強きをくじこうと決心する。その後貧乏人を助けるため、堂島の問屋衆に頼まれ米相場に関わったり、無実の罪で投獄された公儀の役人を助け出すなど、名を挙げていく。苗字を許され、名を小林左兵衛と改める。
渡辺知事に頼まれ、明治6年(1873)北区の消防頭取になり、私費で200人増員し300人の消防人足を統率する。いち早く火事現場に駆けつけ働くとから、「火消し壷左兵衛」と呼ばれる。当時土木請負師でもあり、娯楽興行にも関係していた。大阪相撲と関係が深く、明治11年(1878)大阪相撲の内紛を同じ消防頭取・吉備吉兵衛と共に仲裁。20年後には大阪相撲トップの総理の地位に就き、幾度も相撲の興行元となった。
財を投げ打ち福祉事業に取り組む・・・ 火事で焼け出された身寄りのない人を自宅に引き取り世話をするうちに、明治15年(1882)から粉河町にあった生活困窮者収容施設「お救い所」を引き受ける。さらに日本で最初の感化院(児童自立支援施設)を開いた池上雪枝の事業に協力した。明治18年(1885)小松原町に「小林授産所」をつくり、多くの病人・身体障害者・孤児を収容し、職業訓練などを行った。資金は堂島の米相場の差し米や、大阪の橋の清掃を一手に引き受けて得た収入を当てた。しかし授産所は赤字続きで、元梅田東小学校の場所にあった粋を凝らした庭園「小林遊園地」などを弁済に充て、左兵衛は無一文になりました。大正6年(1917)88才没。墓は長柄墓地にある。
明治時代の大阪の発展に大きく貢献した左兵衛の活躍を題材として、司馬遼太郎は「俄ー浪華遊侠伝」を執筆している』
小林左兵衛のことは知らなかったが、大阪で小林といえば小林一三。阪急電車の創設者で、宝塚歌劇など現在の京阪神にも大きな影響を残している。阪急逆瀬川の隣駅は「阪急小林」、なんだか小林に縁があります。司馬遼太郎さんのこの本を注文しちゃいました。長柄墓地にも行ってみよう。
役行者像を祀った小堂もある。宝塚六甲山系を少し登った所にあり、宝塚市街地が下に見え、川西の山々が見える。
『当寺院は七宝山了徳密院と称し、開祖は東寺真言宗・総本山・教王護国寺管長を務めた日下義輝大僧正。摂津平野を一望するこの地は、地元郷士・平塚嘉右衛門翁より寄進を受け大阪福島・了徳院の別院として大正8年建立された。
真言密教は、インドから中国を経て日本に伝わりました。それまでに8人の祖師を真言八祖といい、第1祖・龍猛菩薩から第8祖・弘法大師(空海)となっている。弘法大師は、讃岐で生を受け、若くして仏教を学び、山林修行を行った。延暦23年(804)空海31才の時、新しい仏教を求めて遣唐使留学僧として入唐し、第7祖・長安青龍寺・恵果和尚より胎蔵界と金剛界の潅頂を受け帰朝した。その後鎮護国家のため東寺(教王護国寺)を賜り、真言密教の根本道場とした。朝廷に篤い信頼を得て高野山に金剛峯寺を創建し、その地を終焉の地にした。没後、朝廷より弘法大師を賜った。
真言宗とは、「真言陀羅尼宗一切如来秘奥之教。自覚聖智修証法門」といい、之を真言宗、立宗の真髄としている。大日如来をご本尊に祀り大日経と金剛頂経をもとに金剛界と胎蔵界との曼荼羅をあらわし三千世界を説くものである。
真言宗寺院は全国に12000寺あり、一部の寺院は修験道の一派と深く関わりがある。修験道は、天台宗・真言宗両宗により検校しており、役行者(役小角)の流れをくみ、沙門の山林荒野を家とするものを言う。当山にも修験道の講があり、10月第4日曜に大護摩行事が境内に於いて、古式通り盛大に執り行われる。
聖天さんとは、前記密教の天部の仏様である大聖歓喜天の略称です。梵名をガネーシャという。その祭祀は各寺院とも秘仏として特別に行っている。当寺院も毎月1日・16日の夜明け前より浴油祈願会を厳修致しております。
聖天さんは真剣に信仰する人々の願い事、凡夫の願いをそのまま具現化してくださる仏様で、財宝守護・無病息災・縁結びの仏様として信仰されている。信仰に一切の理屈不要で、理屈が入ってはならない。仏教ほど立派に完成した学問体系としての東洋哲学はありません。学問に依って完璧に立証された信仰、その彼岸を求めて同行の1人でも多からむことを念じる』
筆塚がある。睡蓮の咲く弁天池があり、小橋を歩くと鯉がやってきた。本堂にはみくじ箱などが並び無人でした。小型の交通安全お守りを授かり、お賽銭箱にチャリンしました。聖天さんといえば、人が多いイメージですが、僕以外誰もいませんでした。お庭は綺麗に掃除されており、感じの良いお寺です。コンクリート造の会館が建ち、駐車場も広く、他の聖天さん同様経済力を感じます。
道を隔てて墓地があり、一段高い建物の屋上にゼロ戦が目立っていました。レプリカゼロ戦ですが、屋外の人の手の届かない屋上にありながら、とても綺麗な状態で美しいなと思いました。小学生の頃、戦車・戦闘機・駆逐艦・戦艦・空母に至るまで様々なプラモデルと作った僕には、そのカラーリングも好ましく思いました。
旧日本海軍と三菱はじめオールジャパンで作り上げた当時世界一の性能を持っていた傑作戦闘機の等身大の姿が、隣町にあったとは驚きました。もう亡くなった母が、学徒動員された栃木県の中島飛行機工場で作っていたのも、まさにこのゼロ戦でした。工場からの帰り道、米艦載機グラマンがまっすぐな道を急降下銃撃してきて、横っ飛びに田んぼに逃げて助かった話も聞いています。それらを迎え撃ったヒーロー機です。
ゼロ戦の載る建物「光明殿」前に、幾つかの碑が立っている。
『故陸軍中尉中村純一は、学鷲として阪神防衛に参戦。絶望の戦局に動ぜず意を決して天翔る。愛機飛燕を駆し壮絶死闘、夏蒼号に光烈散華す。雲染めて肇なし。 時:昭和20年7月9日 於:大阪星田村特操1期 鹿児島二中東京農大卒 23才 愛惜』
『戦没者追悼 平和記念之碑』
『神風特別攻撃隊之魁 甲飛10期之碑 昭和初期、海軍航空戦力の急激な拡充を目指して、甲飛予科練制度が創設され、我々は昭和17年(1942)4月1日、土浦海軍航空隊に第10期甲種飛行予科練習生として入隊、秋霜烈日の猛訓練に耐え飛行練習生教程を終えて太平洋戦争決戦の大空へ巣立った。
昭和19年10月フィリピン・レイテ湾に米航空母艦30数隻を含む大機動部隊が殺到、迎え撃つ我が栗田を主力とする連合艦隊とのフィリピン沖海戦は、太平洋戦争中最も熾烈な一大海空戦であった。
時に第1航空艦隊司令長官大西滝治郎中将は、この国家存亡の瀬戸際こそ250キロ爆弾を零戦に装着、一機一機肉弾体当り攻撃の他なしと決意し、10月19日、第201航空隊副長玉井中佐に特攻隊の編成を命じた。
命を受けた彼は、かつての教え子甲飛10期の零戦搭乗員より24名を選抜し、第1神風特別攻撃隊を編成した。
ああ、これが特別攻撃隊の魁になろうとは
「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花(本居宣長)」
この歌より隊名を敷島、大和、朝日、山桜の4隊とし、直後菊水隊が加えられた。索敵数日、10月25日に至り各隊見敵に成功、祖国の安泰を祈り一矢報いる信念に燃え、全機突入多大の戦果を挙げた。
若干二十歳にも満たない若者がひたすら祖国最後の勝利を信じ、父母を思い故山を偲び、黙々とその任務を完遂して散華し、卒業時1004名の80%が還らぬ人となった。
その崇高で至純な行為と精神を後世に伝え、霊を慰め徳を顕彰する為にこの碑を建立する』
『レイテ沖の真砂 この海に甲飛10期生が数多く特攻で散華し光明の珠となり、輝いている。 甲飛10期会』
『遺筆 陸軍特別操縦見習士官第1期生 特別攻撃隊第60振武隊 都城東飛行場より6時30分出撃 機種四式戦疾風 陸軍大尉・倉元利雄命 昭和20年5月11日 沖縄島周辺にて戦死 鹿児島高等商業学校卒 鹿児島県出身 30才
喜美子 出発の時は許してくれ、御許を愛すればこそ一時も悲しみをさせたくない心にて一杯だった。決して嘘を言うのではなかった。どうか元気を出してあらゆる苦しみ、悲しみと闘って行っておくれ、強い心で行きていってくれることを切に切に望む。
では只今より出発する。ありがとう。ありがとう。俺は幸福だった。喜んで征く、御許の幸福と健康を祈る。 5月4日5時12分
愛児よ もし御許が男子であったなら、お父上様に負けない立派な日本人になれ。もし御許が女子であったなら、気立ての優しい女性になってくれ。そしてお母様を大切に充分孝養をつくしておくれ。 愛児へ 父より』
『遺書 海軍一等飛行兵曹・椎根茂命 昭和20年4月12日 南西諸島方面にて戦死・20才 神風特別攻撃隊第2護皇白鷺隊 海軍甲種飛行予科練習生第12期生 東京都荒川区出身
気のせくままに乱筆にて断片的に私の現在の心境を書き遺します。
私、この世に生を受け、二十有一年両親様の一方ならぬ慈愛のもと、私は今に至るまで日本一の幸福者と思っております。翻って戦局を見るに敵は有り余る兵力と物質に物を言わせ、ついに沖縄にまで魔の手を伸ばしてきました。三千年の光輝ある歴史を有する大日本帝国未曾有の国難に、私は特攻隊を志願いたしました。一切の私心を捨て、悠久の大義に生きます。
私この期に及びただひとつの心残りは今まで私はお父さんお母さんに唯一度も安心せしめたことはなく、親孝行の模倣だに出来ずに散るのが残念です。
しかし私は立派に手柄を立て、死んでみせます。我々和気隊白鷺隊の戦果が新聞に出た時は、私が真っ先に突っ込んでいったと思ってください。
私も最後の親孝行、そして椎根家の名誉として驕敵米兵共数千と船一隻を太平洋の藻屑としてみせます。(中略)
兄さん姉さん八重子などにも書き残したいことも少しありますが、急ぎますから・・・ただ兄さんは立派な体になって私の分まで親孝行をしてください。
さようなら 4月3日
私の突っ込む時は、必ずお父さんお母さんと叫んで突っ込みます。 茂るより ご両親様』
『訂正 台湾高雄 お母さん! 海軍中尉 富田修命 昭和19年9月3日 台湾高雄にて殉職 23才 長野県出身 海軍13期飛行予備学生 日本大学出身お母さん! 9月25日 1時半、我が一生ここに定まる。
お父さんへ、言うことなし。
お母さんへ、ご教訓身にしみます。
お母さんご安心ください。決して僕は卑怯な死に方をしないです。お母さんの子ですもの。それだけで僕は幸福なのです。
日本万歳万歳、こう叫びつつ死んでいった幾多の先輩たちのことを考えます。お母さん、お母さん、お母さん、お母さん!こう叫びたい気持ちで一杯です。何か言ってください!一言で充分です。いかに冷静になって考えても、いつもいつも浮かんでくるのはご両親様の顔です。父ちゃん!母ちゃん!僕はこう何度も呼びます。
僕と同じ気持ち、同じ境遇の戦友も相当いることでしょう。現に僕の机の左に一心にペンを動かしている栗山くんも同じであります。一人息子であります。北海道の人です。飛行機乗りは必ず死するものであります。
この道を選んできた僕を、一度は反対した父も、二度目は許してくれました。その時の気持ちと今の決定を見た時の気持ちは、全く同じであります。万感胸に迫って泣いていた友もおります。
「お母さん、決して泣かないでください」
修が日本の飛行軍人であったことについて大きな誇りを持ってください。勇ましい爆音を立てて先輩が飛んでいきます。ではまた』
『勇躍 死地に赴く 陸軍特別操縦見習士官第1期生 陸軍中尉 宮本洋一郎命 東京都西多摩郡出身 昭和19年10月26日 比島にて戦死 21才
更めて過去22年間種々なる不孝を詫ぶ。皇國に殉ぜるを以て洋一郎のなし得たる唯一の孝行と為す。
父母、祖父上の長寿と弟妹の立派なる成人を祈る。
願 石碑は依子と同一の石に刻まれ度
最后に、大元帥陛下の萬歳を奉唱す
昭和19年10月22日午前2時北斗温泉にて 飛行第22戦隊 台湾第18968部隊 陸軍少尉 宮本洋一郎』
墓地の方を見ると、先の尖った神式の墓石がズラリ一列に並んでいた。碑文・辞世の文をしっかり読むと、命をかけた先達の方々の礎の上に今の日本があるのだと再確認した。眼下に見える大阪平野北部を埋め尽くす家々には人が住んでいる。僕は次世代の日本人のために何をしてきたのか・・・これから何ができるのか・・・
住宅地内を適当に走っていたら、「不動院」の案内板を見つけた。13:23、住宅地の山の端にあった不動院。「これより修行の場」と書かれており、修験道の方が修行する滝場があった。きっと先程の聖天さんと対になっているのでしょう。
住宅地内の枝道を経て、阪急宝塚南口に出ました。武庫川左岸道路で上流に向かい、R176に出て、14:06「JR西宮名塩」。いつも気になっていた斜行エレベーターに初めて来ました。
阪急オアシスの駐輪場にバイクを停め、歩いて斜行エレベーターへ。予想通り無料の乗り物で、快適に標高を稼ぎます。名塩住宅地と駅を結びます。住宅地内を散策します。大阪の中心部ビル群が見えます。
14:22エレベーターを降りてきました。オアシスで駐車場代としてかき氷でも食べようと思ったけど売っていませんでした。仕方なくR176で更に三田方面に向かいます。
「蘭学通り」に入ります。『名塩蘭学塾 大坂の緒方洪庵の適塾で塾頭を務めた伊藤慎蔵が、文久2年(1862)当地で開設した。洪庵夫人・八重の生家である億川家の一室からであったが、塾の名声を聞いて近在から多くの若者が集まり、盛況ぶりを見せた。塾があった場所には、現在JA六甲兵庫名塩支店が建ち、玄関左に八重夫人の胸像が置かれている』
塾跡に向かい蘭学通りを走っていると、「名塩厄神」の石碑が見えてきた。14:35「名塩厄神」。鎮守の森が豊かで、巨木が林立している。『祭神は、正殿:八幡皇大神(応神天皇)、小宮:大山祇命・水波女命、地主神:大地主命、伊勢皇大神宮遥拝所』
本殿に参り、遥拝所を見てきました。榊がたくさん植わっていました。
14:44「名塩塾」跡。緒方八重さんの胸像がありました。『蘭学の泉、ここに湧き出す 西宮市長・八木米次』
『緒方八重 明治の偉人たちの母・緒方洪庵夫人 文政6年、蘭医「億川百記」の長女としてこの地に生まれ、17才の時洪庵の元へ嫁いだ。貧苦の中よく病弱の洪庵を助け大きく世に出さしめたのも、内助の功によるものだと言われる。
洪庵の蘭学適塾に学ぶ青年たちを我が子のごとく可愛がり、よく指導した。その中には「福沢諭吉」「大村益次郎」「伊藤慎蔵」「佐野常民」など錚々たる人物があり、いずれも夫人を慈母のごとく慕っていた。ここには分校として名塩蘭学塾が設置されていた。
八重夫人は、明治19年2月7日(65才)大阪の鶴橋で没したが、その会葬者は3000人に及び、佐野常民(日本赤十字創立者)自ら葬儀委員長になった。夫人の没後、福沢諭吉は直ちに大阪に来たり、ただ一人涙を流し碑を洗い花を供えたことも有名である』
かつてよく使ったR176裏道を懐かしく走り、西宮山口から金仙寺湖に向けて南下し、r82に出て金仙寺湖を渡り、15:13、r51との交差点にある「セブンイレブン西宮船坂店」で、「赤城ガリガリ君ソーダ・75円」を購入しクールダウン。
好きなr51を下ります。蓬莱峡を横目に見ながらR176に合流。往路同様、武庫川右岸道路を宝塚市街地に向かって下ります。この道、離合出来ない部分もあるので最近四輪では走らないが、バイクなので気楽です。「阪急宝塚南口」まで下り、宝塚大橋を渡り、宝塚大劇場前「花のみち」を久しぶりに通ります。大劇場前を通過し、15:33Uターンしてバイクを押しながら「花のみち」の商店をウインドーショッピング。
和服屋さんと和菓子屋さんを覗く。涼やかな浴衣がいいね。15:39「宝塚つるや本舗」で「ズカオトメ6個入・580円」と「生和菓子・2個・360円」を購入。家内と食べよう。洋菓子ケーキより和菓子の方が好きです。
手塚治虫記念館横を通り、武庫川左岸道路を下り、ダイヤモンドシティー前を通って帰宅しました。

2017/8/19
久しぶりにバイクツーリンググループに参加します。人気すぎて、1ヶ月前には参加募集定員満員になることもあるので、行きたいなと思っても確実に行ける数日前では申込み出来ません。今回は土曜日ツーリングなので4人という少人数グループなので2日前に申し込みました。和歌山のお店に食べに行きます。
4時前に目を覚まし、4:25に「招き猫CB400SB」に乗って出発。R171〜中央縦貫道〜吹田ICから近畿道に乗ります。道なりに阪和道に入り、5:25「岸和田料金所」。
一気に走ってきたので、バイクを停めて水を飲みます。都市高速道路の近畿道には気の利いたSAやPAがありません。高架下に下りていくPAで、下り線「大阪PA」コンビニがあっていいのですが、家から近すぎて。上り線の「八尾PA」はトイレしかありません。
5:36「岸和田SA」着。「ガリガリ君リッチ・青りんご・140円」という高級ガリガリ君を買ったが、かき氷部分が少なくイマイチでした。6:18、SAを出発し、7:00「湯浅PA」着。
「広川IC」で下車し、R42を南下し、r23に入り、7:24「興国寺」。『臨済宗・鷲峰山・興国寺 葛山五郎景倫(かつらやまごろうかげとも・願性)が、鎌倉3代将軍・源実朝の菩提を弔うため、安貞元年(1227)真言宗「西方寺」として建立。正嘉2年(1258)心地覚心(法燈国師)が宗旨を禅宗に改めると、「関南第一禅林」として栄え、多くの高名な僧を輩出した。覚心は永仁元年(1298)示寂、国師号を授かり、興国元年(1340)後村上天皇から興国寺号を賜った。
天正13年(1585)羽柴秀吉の紀州攻めで堂塔の大半を失ったが、紀州藩浅野家・徳川家代々の藩主の庇護の元復興された。
他に普化尺八の本寺、「径山寺味噌(きんざんじ)」「醤油」の我が国発祥の地として知られる。 重文:木像・法燈国師坐像(鎌倉時代)、絹本着色・法燈国師像(鎌倉)・紙本墨書・誓度院規式(鎌倉)法燈国師1207〜1298 建長元年〜6年(1249〜1254)宋時代の中国で修行、無門慧開禅師より印可を受ける』
金山寺味噌がここから始まったことは知っていたが、尺八のことは知らなかった。帰宅後調べたら、法燈国師が中国で禅を学んでいたが、尺八も修行の1つだったそうです。4人の居士を連れて帰り、興国寺の末寺として京都北白川に「明暗寺」が建ち、ここが虚無僧の拠点となった。故にここが日本の尺八発祥の地と呼ばれるようになったようです。
さらに「北白川・明暗寺」は何処にあるのか調べると、東福寺の塔頭だった。そう言えば以前東福寺を訪問した時、「尺八道場」と書かれていて不思議だなと思った寺院でした。ここで結びつきました。やはり現地訪問して見て回ると、いろんなことに気づきます。
駐車場横に、彫刻の素晴らしい山門があった。緩やかな石畳の坂を上がっていくと、由良守応の墓があった。『陸上交通の先駆者 由良守応(ゆらもりまさ) 文政10年(1827)門前村に生まれた由良弥太次(=守応。号は義渓)は、幕末の志士として活躍、明治新政府に仕え、後藤象二郎・陸奥宗光などと親交を持ち、岩倉具視欧米使節団の一員として先進文化を吸収。帰国後東京で2階建て乗合馬車「千里軒」の開業など、我が国文明開化の先駆的な事業を数多く創立した。明治27年(1894)3月、67才で生涯を閉じる』
水音が聞こえてきて沢を渡った。ここに祠があった。『龍王社 祭神:八大龍王 いつから祀られているか不明だが、江戸時代の文化4年(1807)「興国寺古文書」に記載されている。龍王とは天龍八部衆といわれ、仏教の護法神で、雨乞いの本尊として農業の神として信奉されてきた。法燈国師が興国寺に祀られた弁財天(四所弁天ししょべんてん)の父と言う説もある』
無縁仏が集められている。江戸明治時代の墓石、それ以前と思われる宝篋印塔や五輪塔、大東亜戦争で散華された方の神道式墓が並んでいる。法燈国師が宋から持ち帰った味噌製造技術がこの寺から広まり、地元湯浅名産「金山寺味噌」として今にまで伝わり、その製造過程から出来た醤油が全国に広がり、日本を代表する味となっている。こんなお寺だから、多くの偉人の墓があったはずです。
石段を上ると、綺麗に石垣が積まれた本堂郭だった。瓦には「笹竜胆紋」が入っている。源氏に多い家紋なので、建立時から続く寺門なのかもしれません。山門を入ると、中央にドーンと法堂(本堂)が建っている。珍しく2階建てと思われる建物で、大瓦屋根ではなく、2層瓦屋根になっている。
「院庫」「臨済大衆禅学道場」と書かれた僧坊がある。中を覗くとピカピカに磨かれた板の間がぴかりと光り、大ぶりで豪華な生花が正面に飾られている。法燈国師の母「慧心大姉」塔があった。横は、歴代住職の無縫塔が並んでいる墓地でした。
天狗堂や子安観音がある。鐘楼がある。まだ開いてはいない寺務所の横に売店があった。ガラス戸から中を覗くと、御守や金山寺味噌・醤油が並んでいた。軒には木魚が下がっている。
バイクに戻り、次の目的地に向かいます。r23〜R42〜r176を走る。8:14「鹿ヶ瀬峠」への分岐到着。「熊野古道・鹿ヶ瀬峠(ししがせ)」案内板が立っています。ここから熊野古道を入っていきます。8:24車道のどん詰まりまで来ました。立派なトイレがあります。
暑いのでバイク装束を脱いで、トイレを拝借してから、山道を入っていきます。熊野古道・中辺路の難所「鹿ヶ瀬峠」がこの先にあり、中辺路最長の石畳道が遺っているそうです。ここは「金魚茶屋駐車場」と言うそうです。
8:26「石畳まで0.8km」の看板が立っています、GO!コンクリート舗装されていますが、前日に降った雨の影響か、山から流れ出た枝がアチコチに溜まっています。8:31『史跡 題目板碑 前の梅畑は法華堂跡(8代将軍徳川吉宗や生母浄円院が帰依した広川町養源院の源流)で、跡地にあった板碑をここに移した。1号碑には永享・・、2号碑嘉吉2年(1442)、3号碑永享8年(1436)、4号碑寛正2年(1461)の年号が入っている。いずれも室町時代のもので、郡内で最も古い板碑の1つ』
養源寺が気になり調べました。
『養源寺の由緒は鎌倉時代にさかのぼる。その昔、一生のうちに6万部の経を詠む修業をしていた比叡山の僧・円善上人が熊野詣での途中、鹿ヶ瀬峠で亡くなった。
その時、残りは3万部。しかし死後も願力が抜けず白骨化しても経を詠み続けている円善上人を壱叡上人が発見した。一年後に同じ場所を訪ねたら白骨の読経は止んでいた。六万部を詠み切っていたのだ。
時代は南北朝時代に移り、今度は妙実上人が鹿ヶ瀬峠でその史実を知り、弟子の朗妙をこの地に留めて法華堂という名の草庵をむすばせた。これが養源寺の起源で、室町時代末期には広村、現在の有田郡広川町に移転、養源寺を名のった。養源寺の現在地は天洲ヶ浜に近く、中世は広城主・畠山氏の館であり、頼宣公の時代には紀州徳川家の広御殿だった。
今も海側には堀、庭に頼宣公手植えと伝わる枝垂れの松が残り、御殿の面影がしのばれる。
この御殿跡地を養源寺に寄進したのが暴れん坊将軍とも称される8代将軍・徳川吉宗公である。吉宗公は生母・お由利の方(浄圓院)の影響もあり、養源寺に深く帰依していた。 養源寺には、お由利の方の母が旅の途中で持病の癪に倒れ、ここで世話になったという言い伝えがある。加えて頼宣公の母、お万の方以来、徳川家の奥方は日蓮宗信仰に熱心で、お由利の方の信仰、特に養源寺の大黒天への信仰はことのほか厚かった。
その子源六、のちの吉宗公は四男坊ながら父・光貞公と2人の兄の死があいつぎ、思いもかけず、紀州徳川家五代藩主となった。その後、将軍の座をも射止めた。この一連の幸運はさぞや大黒天の霊験によるもの、と当時は大変な噂となり、年1回のご開帳である「大黒天祭礼」(4月第1日曜)は黒山の人だかりとなった。大黒天はお由利の方の母の守り本尊であった。
また、子(ねずみ)は大黒天の使いでもあり、子年生まれの吉宗公はそれを知り大黒天に大いに興味を持ち、藩主時代に2度、将軍になってからも1度、この地を訪れている。 吉宗公と養源寺の深いつながりを示す史実がもうひとつある。ここには、紀州徳川家江戸御殿が移築されていたのである。これは吉宗公の正室・眞宮理子姫(さなのみやまさこ・寛徳院)が御殿として使用していたものである。16才で紀州家に嫁入りした眞宮は20才で流産、それがもとで若くして亡くなった。その御殿の資材一式が江戸から2隻の船で広村に運ばれ、移築されたのが現在の養源寺書院である。
この他、頼宣公、光貞公、吉宗公らの位牌をはじめ、眞宮所蔵の王朝風の屏風やお由利の方寄進の唐手鏡、曼蛇羅、吉宗公親筆とされる父母状、葵の御紋入り長持ち、家来らの書状など養源寺には紀州家、とりわけ、吉宗公ゆかりの文化財が数多く現存している。
領地財政の建て直しのため新田開発や、湯浅醤油、金山寺味噌など地元産品の振興にも力を尽くした吉宗公。いまだ解き明かされない謎が多いだけに伝説のヒーローとして今もなお人気や注目を集めているのだろう』
あ〜また寄ってみたい寺院が増えちゃった。
ここまで森の中の道でしたが、寺院跡だからか空が広がり、芝生の道になった。苔むした井戸跡があったが、これはコンクリート井戸なので近代ももののようです。古道の擁壁が石積みになっている。往来が多かった現役時代から、崩れては積みを繰り返してきたのかも?再び熊野古道が、トレッキングブームで少し脚光を浴びだしているので、もう少し整備が入れば、「鹿ヶ峠石畳」で健脚が来そうです。
山から流れた石が覆っていたり、路上河川状態に水が流れていたり、とても良い道とは言えない道をゆるく登っていくと、8:38「石畳の道」になりました。角の取れた拳より少し大きな丸石が敷き詰められています。
8:40、「石畳の道」の横に石積みで擁壁された段郭の広場が現れました。『熊野古道散策公園・滝ザクラ 公園の完成を記念して、福島県田村郡三春町滝野天然記念物「三春滝ザクラ」の苗木を植樹した。紅枝垂れと言われるエドヒガシ系のイトザクラで樹齢100年と言われる日本最大の巨木・樹高9m・根回り10.5m。滝の水が落ちるように壮麗に咲くことから、「滝ザクラ」と名付けられた』
「マムシに注意」の看板が立ってる。こういう道を歩くときは、いつも足元をに気をつけている。血清があるので街に出れば大丈夫ですが、人に出会わないような山道を行くことが多いので、電話連絡できなければ僕はアウトです。サルスベリが、綺麗な花を咲かせている。
8:47、森に入り、つづら折れで標高を稼ぐ道になっています。『史跡 熊野参詣古道・石畳道 熊野99王子社を辿りながら、熊野三山に参詣するため利用された古道のうち、現存する最長の石畳道である。全長503m。ここは鹿ヶ瀬峠を越える一番の近道で、参詣古道での難所の1つであり、旅人の苦難が偲ばれる』
ここからの石畳は、様々な石が利用され、ここまでと違い木材の流れ留枠がない。いかにも歴史を刻んだ香りがする。ここからが史跡のようです。木枠の入った丸石に「史跡」としての違和感があったので、これで納得できました。
ここから帰路に着きます。バイクに戻り、次の目的地に向かいます。9:12、道を下りながら、「沓掛王子」。『熊野99王子社の1つ。藤原定家は、建仁元年(1201)10月10日、「ツノセ王子」に参拝した後、「シシノセ」(鹿瀬)の山をよじ登り、「沓カケ王子」次いで「内ノハタノ王子」に参拝しています。また、藤原頼資(よりすけ)は承元4年(1210)4月26日、角瀬川王子(つせがわ)から鹿背山に入り、山中・内匠王子に参拝しています。往時は「沓カケ王子」とも「山中王子」ともいわれていた。「沓掛王子」と呼ばれたのは、険阻な鹿瀬峠を越え、傷んだ藁沓を履き替えたり、牛馬も沓を履き替えたからと思われる。この王子は古くは「原谷字新出王子谷」にあったが、衰退した。江戸時代にはここ披喜(ひき)の地に「鍵掛王子」といわれる王子社が、弁財天社と共に建っており、「紀伊続風土記」では沓掛王子に比定している。鍵掛王子社は、明治時代に鍵掛王子神社になり、明治10年「原谷皇太神社」に合祀された』
鳥居をくぐり石段を上がった所に、小さな祠があった。弁天社につきものの池はなかった。
県道との合流部近くに、祠発見。『日高町文化財 民俗文化財 爪かき地蔵さん 弘法大師がこの地に巡錫(じゅんしゃく)した時、土地の人の無病息災を祈願し、岩に爪で地蔵尊を刻んだ。現在、地蔵尊のお姿は見られないが、水をかけると浮かび出るので、水掛け地蔵という。信仰心のない人は拝むことが出来ない。東隣の宅地内に弘法井戸がある』
r176を東進すると、阪和道の「広川南IC」があった。それを通過し、r21を南下し、9:43r26との交差点。ここにライダーハウス「ラルク」があった。「不在のときは、090-7962-0868」「良流来食堂11:00〜14:00、17:00〜20:00」「素泊まりOK0738-52-1861」。お世話になるかも知れないので、チェック。
r26を東に走り、9:51「道の駅・San Pin中津」。「歴史と文化の町 徳川吉宗ゆかりの地」の看板が目立つ。御食事処「ほろほろ亭」の「山菜ぶっかけうどん・そば」が399円で安い。限定10食だけど。
さらにr26を東に走り、右折しr196で南下し始めた時、10:03「高津尾発電所」。関西電力のマークが茶色のレンガ建物に入っている。素敵な建物です。
r196を南下すると、10:11異様な光景が見えてきました。県道に沿う川を渡る大きな吊橋があるのですが、明らかに傾いている。中央部で35度ほど傾いており、渡れそうにありません。
横に「鳴滝キャンプ場」があり、バンガローが並んでいます。橋の方は、もちろん通行止めです。
右折してr25を走り、枝道に入って地図に書いてあった「四ツ辻トンネル」に、10:35着。山中なので、怪しいトンネルを期待したのですが、現代風のトンネルでした。ここに至るまで、枝道があったので、トンネルができるまで現道だった道があるのかもしれません。探索したい気満々でしたが、11時に御坊市内のお店で集合なので時間がありません。
僕以外の参加者3名は、10:00「紀ノ川SA」で集合し、このお店に向かっています。距離的に1時間かからないので遅れることはNGです。ナビを目的地にセットすると、なんと到着予定時刻が11:00ではないか・・・。
r25〜r191で5分遅れで到着しました。最後迷ってしまい、JR踏切を渡る羽目になり、ここで数分通過待ちを食っちゃいました。
お店の駐車場にバイクを停め、バイクジャケットを脱いでいると、リーダーがお店から出てきました。「すいません、遅れました〜」。店内に入り、滋賀のFさんと西宮のHさんに挨拶します。まだ料理は出ていません。僕の到着を待っていてくれたのかも・・・。何を注文しようかな?と席に着きながら壁のメニューを見ていると、注文済とのことです。
皆さんと駄弁りながら、焼肉と串焼きを美味しく食べます。食べ放題1500円メニューで、焼肉は空になると運んでくれます。串焼きはカウンターに野菜系・魚系・肉系などが並んでおり、取りに行って自分で焼きます。串焼きを玉子?汁に漬け、衣をまぶしてテーブル上の鍋の油に突っ込みます。簡単で意外に油飛びもなく、楽しく食べられました。
精算し、13:08出発。お店のオーナーさんもバイク乗りで、以前一緒にツーリングしたことがあります。オーナーさん先頭に、一緒にGO! r26〜r191〜r24で「煙樹海岸」に出て、13:16休憩。気持ちの良い砂浜が広がっています。湾を挟んで火力発電所が見えます。
r24を海岸沿いに走り、14:18「白崎海岸公園」着。カフェでお茶しながら歓談。15:13、帰路に着きます。r24を海岸沿いに南下し、R42で北上します。15:50、「湯浅町・湯浅栖原SS」で給油。309km/11.72L=26.4km/L。有田ICで阪和道に乗りました。
16:19「紀ノ川SA」で、「紀ノ川水了軒手作り風ソフトコーン・140円」を買って休憩。ここで解散です。阪和道〜近畿道〜中国道を走り、18:18帰宅しました。

2017/8/16
次男一家との最終日です。あっという間のお盆休み最終日です。京都にお礼参りに行きます。8:35出発します。中国道〜名神で、「京都南IC」下車。R1を北上し、左折して久世橋通に乗り西へ、道なりにR171に乗り久世橋を渡ります。右折して「桂川街道」に乗り北上し、新幹線・JR東海道線・阪急電車京都線をくぐります。R9を渡り、左折し枝道に入ります。阪急嵐山線を渡ってすぐ左折し、r29。更に枝道に入り、9:29「鈴虫寺P」。500円でした。
「かぐや姫竹御殿」というのがありました。『京都松尾は、古来名竹の産地で、「竹取物語」もこの地で発祥したと伝わっている。竹細工名人・長野清助翁が、日本の竹文化・竹工技術保存のため27年の歳月をかけ創建した竹の芸術遺産である。観光:金閣寺型「竹茶屋」「竹客殿」 祈願:縁結び・健康 相談:希望者のみ相談をお受けする』。興味津々ですが、家族がいるのでパス。まだ開門前のようです。
「鈴虫寺」の石段に並び待つ。拝観料500円で堂内に入り、「寿々むし菓子」と冷たいお茶で涼を取りながら、お坊さんの説法を聞きます。鈴虫かごから鈴虫の音色が聞こえ涼やかです。鈴虫のためにクーラーが利いており気持ちが良い。説法は巧妙で笑いを誘う要素満載で、30分があっという間でした。前回とはお坊さんも違い、お話も違う。「コンビニ=今美荷」。今:子供のように今を生きる。過ぎ去り変えることの出来ない過去を引きずったり、将来の不安で悩んだりせず、今できることを精一杯生きることが大切。美:美しい自然を愛で、部屋は身の回りを掃除整理整頓し美しく保つと心が豊かになり、幸せも舞い込む。荷:生活をしているとついつい荷物が増える。荷物を少なくすると心も軽くなり、気持ち良く暮らせる。
お嫁さんは御朱印を授かりました。山内を巡り、山門を出た所にあるお地蔵様にお礼を伝える。すみれちゃんがお嫁さんのお腹にいた頃、家内とサイクリングで巡りお願いした寺院です。「無事、元気な子を授かりますように」と一願した。ここのお地蔵様はわらじを履いておられ、住所と名前を一願とともに唱えます。すると願いを叶えに歩いてこられるありがたいお地蔵様です。元気でチャーミングなすみれちゃんを授かったお礼をしました。
ここは2度目ですが、抜群に楽しいお寺さんです。金閣寺のような美しさや派手さはありませんが、説法が素晴らしく、中世は知識層で道徳や人を導いた寺院本来の姿を感じる。京都一番のお勧め寺院です。内面を磨く女性受けが良く、今回も女性参拝者の方が多かった。
r29に出て、10:41「月読神社」。安産の神様です。松尾大社の摂社ですが、三韓征伐をした神功皇后が、戦闘中に身ごもった子(応神天皇)が生まれないようお腹に巻いた石がある。お願いサイクリングで、奉納小石を授かり、次男夫婦の名前を書いて安産を祈願しました。
『月読神社は延喜式では名神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものです。顕宗3年(487)阿閉臣事代が朝鮮半島に遣わされる際に、壱岐で月読尊がよりついて託宣をしたので、これを天皇に奏上して山城国葛野郡歌荒巣田の地に社を創建したとされ、斎衡3年(856)に松尾山南麓の現在の地に移ったと伝えます。境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に、御舟社、聖徳太子社などから構成されています。月読神社が京都へもたらされるにあたっては渡来系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性が強く、古代京都の神祇信仰やまた渡来文化を考える上で重要な意味をもつ神社であるといえます』
お盆期間中ですが、境内は静かで、すぐ側の嵐山とは雲泥の違いです。『月延石:子授け・安産 中へお入りになり石を撫でて御神威をお受けください。安産守り・祈願石は、社務所にて授与致します』。月延石をさすって、元気な子を授かったお礼を伝えました。
10:54「松尾大社」。社紋が修理中のようです、大きな酒樽にお嫁さんとすみれちゃんが座り、パチリ。「お酒の資料館」を覗きました。『大山祇神と市杵島姫命2神を祀る。大宝元年(701)秦忌寸都理(はたのいみきとり)が松尾山大杉谷の磐座の神霊を勧請し、秦氏の氏神として社殿を建立したのが起こり。平安遷都後は王城鎮護の神として、中世以降は酒造の神として信仰を集める。
本殿(重文)は「松尾造(両流造)」と呼ばれる珍しい建築で、天文11年(1542)改築された。宝物館には、等身大の男神坐像2体、女神坐像1体(重文)が安置されている。霊水「亀の井」の水を醸造の時に混ぜると酒が腐らないと伝えられる。4月の松尾祭には、境内に山吹が咲き乱れ、桂川の神輿の船渡御が行われる。7月に御田祭が行われる』
素敵な檜皮葺の拝殿本殿ですが、本殿は修復中でした。境内に「招福樽占い」があったので、次男夫婦は1矢ずつ射ました。次男の矢は樽の縁に当たりど真ん中に当たりました。お嫁さんのは、次男からあれこれアドバイスをもらいながら樽の外でした。大吉福とあまり福を授かりました。
お酒の神様だけあって、奉納樽の量が凄い。「恋愛成就・夫婦和合:相生松」があり、ハート型の絵馬が沢山下がっている。お嫁さんは、御朱印を授かっていました。
『撫で亀さん(神使の亀) 古来「亀」と「鯉」は松尾大社のお使いと伝えられている。中でも亀は健康長寿のシンボルとして親しまれてきた。直接手で触れ、霊感にあやかりご利益をお受けください』
r29に乗り、嵐山・渡月橋の西袂にみんなを降ろし、僕は駐車場に向かいます。「11:50〜14:22・タイムズ24嵐山三条第2P・1日600円」。11:53渡月橋東に戻ってくると、電話が鳴りそこでみんなと合流できました。
クロネコヤマトの軽四トラックのラッピングが京都らしい。人力車が走っている。着物レンタルショップがあり、ローソンの外装も落ち着いたカラーリングです。表通りから入った店舗で昼食を取ります4人分3600円。12:39嵐山「茶和々」というお店で、抹茶大福250円を頬張った。
嵐山電鉄・嵐山駅で、「1日フリーきっぷ乗り放題500円」を買います。10分毎に発車しているので、使い勝手が良いです。電車に乗り12:45、3つ目の駅「車折神社」で下車し、神社をお嫁さんに見せます。
芸能神社なので、多くの芸能人の絵馬が下がっている。長嶋一茂さんのがあって、彼も芸能人なのかとビックリ。板玉垣を見ながら、「優香さんがいた」・松平健・米倉涼子・西田敏行・野々村真・押切もえ・土屋太鳳・KABAちゃん・貫地谷しほり・釈由美子・武井壮・辺見えみり・三浦理恵子・観月ありさ・井上真央・南門洋子さんなど有名所や僕の好きな女優さんの他に、「粉ミルク」などの面白い名前も並んでいました。
再び電車に乗り、2つ目の駅「帷子の辻」で「北野線」に乗り換えます。13:15、ここから5つ目の駅「御室仁和寺」で下車し世界遺産を観光します。金閣寺・龍安寺などが並ぶ「世界遺産通」にあって、仁和寺は拝観者が少なめです。境内だけなら拝観料無料だし。
予定では、御殿をみんなで見学し、次の北野天満宮に向かう時、僕だけ嵐山に戻って車を持ってくることにしていたが、1時間ぐらい遅れているので、僕だけ御殿に入らず車を取りに嵐山に戻ることにする。御殿拝観料は500円。
13:34「仁和寺駅」、電車に乗り嵐山に戻る。車に乗って、嵐山高架道路〜r29世界遺産通を東進。「広沢池」横を走り、仁和寺前に来たがまだ家族が見えないので、家内に電話すると御殿拝観中で、ゆっくりすればいいよと伝える。少しバックし、14:40「セブンイレブン京都福王子店」で、「赤城ガリガリ君梨75円」を買って、仁和寺前に車を停めて食べる。
みんなをピックアップし、世界遺産通を東進し竜安寺前を通過。枝道に入り「わら天神前」。この交差点の名前は藁人形を想像させます。ここで右折し「西大路通」を南下します。平野神社西側を走り、「今出川通」を東進。「北野天満宮」前を通過し、京都御所と同志社大学の間を抜け、加茂大橋。加茂大橋のすぐ上流と、下流少しの場所に川を歩いて渡れる飛び石がある。未だ渡ったことがないので、いつか渡りたいな。
15:09、京大着。京大正門カフェでお茶しようと思ってたのに、15:00でクローズのようです。残念。すみれちゃんは、大きくなったらこの大学に来るかな?東京在住だから、たくさん大学があるので、わざわざ京都まで来ないよね。
展示室に入り、次男が学部時代作っていたようなジオラマ模型を見て、京大の歴史展示を見る。観光の方も多い感じがする。すみれちゃんは、ハイハイと伝い歩きで楽しそう。車のチャイルドシートから開放されたので、生き生きとしている。生まれてから1年、病気知らずで熱を出したこともない健康優良児です。
『京都大学を創立しようとする動きが本格化したのは、日清戦争終結後である。それ以前から、地元の京都をはじめ在野の人々の間で東京の帝国大学に次ぐ2番目の大学を設置するべきとの主張はあったが、中等教育機関への進学者の増加と、日清戦争後の産業の発達、それに伴う高等教育機関の必要性が創立を後押ししたといえる。
京都大学は、1897年6月18日制定の勅令第209号「京都帝国大学二関スル件」によって創立された。当初想定された分科大学(現在の学部)は、法・医・文・理工の4つであり、最初に理工科大学が設置された。初年度は教官13名学生47名という小規模であったが、次第に教官‘学生数も増え、校地も拡大し、総合大学としての体裁が整っていった』
15:38、帰路に着きます。「東大路通」を南下します。この日は「京都五山送り火」なので、夕方以降混むかもしれないので、早めに京都を脱出しよう。意外に四条八坂神社前まで渋滞なしでしたが、流石に清水寺が近づくと交通量が多くなってきた。でも渋滞で動かないということはなく、九条通〜R1〜京都南ICから名神に乗り伊丹まで戻ってきた。
「最終日なのでご馳走したい」ということで、伊丹旧白雪本社跡地に出来たイタリアンレストラン「グラーツィエ」でゴチになった。帰省中ずっと親に出してもらって、お嫁さんが恐縮したのでしょう。3月の伊勢神宮参拝で宿泊費を出してもらったからいいのに・・・。

2017/8/15
家内の姉の家にお邪魔する日です。息子・娘一家も集まるので、すみれちゃんを皆さんに紹介します。いつものように4時に目が覚め、ゴソゴソします。7:53に御用達GSに行き給油しました。
8時になったので、家を出発します。宝塚ICから中国道に乗り、阪神高速7号線で明石に出て、今年引っ越した明石駅前のタワーマンション地下に車を入れます。まだ時間が早いので、9:45「魚の棚商店街」を見学します。
明石といえば「玉子焼き」・・・食べましょう。「とり居」さん「15個550円」に入ります。赤井英和さん・福本豊さん・織田信成さんなど、いろんな方のサインが貼られています。もうすぐみんなでお昼を食べるので、1人前でもいいかとお願いすると、あっさりOK。初めてのお嫁さんは、「美味しい、美味しい」と喜んでいます。商店街を歩いていくと、タコがぶら下がっています。
10:25、駐車場の上の「ジュンク堂書店」前で兄に電話を掛けます。兄が降りてきてくれ、エレベーターで部屋に上がります。セキュリティが厳重で、1Fインターホンで部屋に電話を掛け、そこから数分以内にエレベーターに乗らないといけないそうです。エレベーター内の様子が部屋から見えます。ショッピングセンター併設で入口がわかりにくく、初めての宅配便さんは迷うそうです。
部屋は高層階で、窓から明石球技場・明石球場やお城の石垣・お堀が見えます。明石海峡大橋がクリアに見え、明石港からジェノバラインが出ていきます。JR山陽本線の他、新幹線も眼下に見え、これは面白そうです。兄の書斎の壁には、次女の中学生時代の絵が飾られています。プロと思えるほどです。引っ越しの時、出てきたので飾ったそうです。
長女・次女一家もやってきます。すみれちゃんはすぐに慣れ、楽しくハイハイ・つかまり立ち・数歩歩いています。
歩いてお店「木曽路」に行きます。12:56、義理姉の長男一家もやってきました。午前中お嫁さん実家の法事だったので、この時間になりました。義理兄の名前の一字をもらった「ケンくん」0才と初対面です。3月に生まれました。7月にうまれたすみれちゃん、うちの長男の次男こうくん1才と同じ学年なので、将来楽しそうです。
僕らが兄夫婦と仲が良く、従兄弟であるその子達も仲がいいので、ずっと仲良く交流を温めて欲しいです。2時間食事を終え、部屋に戻ります。みんなでワイワイ。
17:02、お開きになり、阪神高速7号〜中国道で帰宅しました。ファミリーレストランで夕食を取りました。

2017/8/14
お盆の法要の日です。家内は隣の僕の実家に帰省中の次男一家のために朝食を作り忙しそうですが、僕は至ってのんびりです。朝食を早めに食べ、実家の仏壇お部屋に座椅子を8つ並べます。提灯は2日前に出していたので、準備完了。近所の隠れ家に行ってPCゴソゴソしていると、次男一家がやってきました。朝のお散歩だそうです。
次男はチビの時ここで遊んでいたので、お嫁さんとすみれちゃん1才を2Fに案内し、ゴソゴソやっています。卒業作品として製作したヨットも隣の家に置いてあるのですが、そちらには行きませんでした。
降りてきたので、PC作業を終え、一緒に近所の公園に行きました。子供の頃の話をしています。更に古い僕の子供の頃の話もします。音楽が聞こえてきたのでお嫁さんが興味を示しました。市民プールで、監視員さんがプールを掃除しています。「こんなに近くにプールがあるの知りませんでした」と驚いています。
帰宅し、実家に行き、すみれちゃんと遊びます。木魚ポクポクやチーン。お寺さんがもうすぐ来られます。弟一家がやってきましたが、甥大学生は体調を崩しお留守番だそうです。予定の11時を過ぎましたが、お寺さんが来られ法要が始まります。すみれちゃんはお利口さんで、静かにしていました。
みんなでダイニングに移動し、家内が用意してくれたお素麺を食べます。食べ終わり、恒例のお墓参りです。弟の方が先に出発したので、電話でお花を頼みます。14:16お墓に着き、雑草を抜きます。いつも彼岸花が咲く場所だけは手を付けず残します。彼岸花は成長が早く、何もなかったのにある日突然真っ赤な花が咲いていつも驚きます。
みんなで集合写真を撮り、丹波篠山に向かいます。いつもショートハイキングをするのですが、チビちゃんがいるのでお嫁さんが行ったことない篠山観光のみです。城主・青山家の殿様から、次男の名前を拝借しているので、ここは見せねば。ここと、美作城主・森家、姫路城主・本多家の殿様から名前を拝借しています。r12を北上し、15:13篠山の「JA丹波ささやま特産館」に駐車します。「春日神社」に参り、二階町を散策します。京都のように、着物レンタルのお店がありました。各商店に、味間小学校の小学生が作った行灯が下がっています。「日本遺産のまち丹波篠山」と染められた幟が下がっています。ぼたん鍋専門店「ぼたん亭」ビルの大きなイノシシ看板に驚いています。
商工会議所「昭和百景館」に入り、次男夫婦がお土産を買います。ソフトクリームが美味しい。南に歩き、僕ら夫婦は「大正ロマン館」で「かき氷」休憩します。「あ、インスタグラムの看板がある」と次男が言い、すみれちゃんと一緒に収まっていました。僕は名前だけしか知らなかったのですが、次男夫婦に聞いたら写真SNSだそうです。
みんなは、篠山城見学に行きます。僕らがかき氷休憩から出てくると、ちょうどみんなも帰ってきました。16:17に車に戻り、帰路に着きました。帰宅して、「ほっかほっか亭」で夕食を買って食べました。

2017/8/13
昨夜は20時過ぎに寝たので、1時に目が醒めてしまいました。電気を点け、行楽予定地の混み具合と渋滞予想を見ます。高速道路渋滞予想も出ていますが、大したことはなさそう。天気予報もチェックします。15・16日はイマイチですが、それまでは天気が良さそうです。GSに行き、車のガソリンを満タンにして、タイヤの空地圧もチェックしました。帰宅して、国旗を掲揚します。お盆期間中は、雨でなければ掲げるようにしています。
ごそごそしてて7時になりました。隣に食事を持っていこうと階下に降り、家内の「持っていこうか?」と聞くと、「まだ早いよ、7:30でいいよ」とのこと。TVのスイッチを入れ、ご飯を食べだすとすぐに次男が庭からやってきました。「ご飯は?」、家内が慌てて「直ぐ用意するね」。僕は朝食を中断し、お茶碗にご飯をよそい、庭から次男達がいる実家とお盆を持ってピストン輸送します。
出発予定の8時前になったので実家を見に行くと、すみれちゃんにまだご飯を食べさせています。遊び食べで、おっぱい大好きなので、普通のご飯や離乳食を少ししか食べません。お嫁さんは、友人のお子さんたちと比べ離乳食が進んでいないのを気にいて、少しでも食べさせようと時間を掛けています。
8:20にみんなを乗せ出発。奈良の長谷寺〜室生寺〜談山神社〜石舞台コースを観光します。埼玉県在住のお嫁さんは、奈良の大仏・春日大社は観たことが、こちらはないそうなので。
R171〜中央縦貫〜豊中ICから中国道〜吹田から近畿道で南下します。西名阪道に行くか迷ったけど、南阪奈道にしました。渋滞予想通り、太子IC渋滞がありましたが、大したことありませんでした。
高田バイパスを経て、R165で東進します。大和三山や大神神社など、お嫁さんに歴史的なことを少し話します。「出雲」の交差点表示を見つけ、我が家の先祖の菅原氏の先祖の土師氏は出雲族です。11代垂仁天皇に誘われ出雲から、天穂日命の子孫で出雲国造の子である野見宿禰がやってきて、相撲で當麻蹴速に勝ち、大和のここに住みました。垂仁天皇の妃・日葉酢媛命がお隠れになった時、それまで習慣であった殉死を改め、埴で代用することを提案し採用されます。これにより、「土師」という氏の名を授かり、古墳や埴輪などの職業集団を形成していったことを話します。
羽曳野を通った時、世界遺産登録を目指しているここらの古墳群も、土師氏の仕事なんだ・・・なんてことも話します。長谷寺への枝道に入り、長谷も初瀬もここに土着した土師氏から派生した地名や寺名だと話しました。家内・息子・嫁・孫たちに自分の家のルーツを、積極的に話します。
先祖を知れば、自分の人生のこれからの指針になり、自分に流れる血・自分の家・そして日本国が愛おしく思え、好きになります。今は一銭も産まない僕の話を鬱陶しく思えても、年齢を重ねるといずれ大切なことと思えるようになり、次世代に伝えておくべきことと思えるようになります。僕も母から耳タコで話を聞きながら、歴史好きになりいろんな知識を得て、最近そう思えるようになりました。
10:13〜11:57、長谷寺手前の「いせ辻駐車場」に入れます。1日最大500円。参道を歩くと、着物を着た上品なカカシさんが店番をしているお店がある。古民家に煙突屋根が出ている。土蔵が見える。初瀬新聞舗というお店には、朝日・毎日・産経・読売の全国一般4紙、日本経済新聞、地方紙の奈良・奈良日日・大阪新聞、スポーツニッポン・日刊スポーツ・報知新聞・サンケイスポーツ・デイリースポーツのスポーツ全国紙の看板が掛かっている。
参道の正面は、「興喜天満神社」。天照大神が舞い降りた地で、雷神になった菅原道真を最初に祀った神社です。でも長い階段を上がるのでパス。草餅のお店が営業を始めていました。
拝観料500円を収め長谷寺に入ります。『朱鳥元年(686)天武天皇の願いにより道明上人が創建。50年後、徳道上人が聖武天皇の勅願を受け、楠の霊木で十一面観世音菩薩を造立し、大伽藍を建立し祀った。ご本尊は3丈3尺(10m)右手に錫杖を持ち、大盤石の上に立つ姿で霊験あらたか。源氏物語や枕草子などでも「初瀬詣」として語られている。長谷観音信仰は全国に広がり、分身を奉祀する寺院は鎌倉の長谷寺など百数十を数える。「いくたびも、まいる心は初瀬寺、山も誓いも深き谷川」。春の桜、初夏の牡丹など四季の美しさは天下の景勝地にふさわしく、万葉の昔から「隠国の初瀬」として歌枕の地にもなっている。西国33ヶ所観音霊場8番札所であり、末寺3000、檀信徒200万を有する真言宗豊山派総本山でもある』
山門には麒麟の彫刻。鳳凰もいる。屋根付きの一直線の長い登り廊下がドーン。次男もお嫁さんも初めてなので、すみれちゃんを被写体にしながら楽しそうに登っていきます。本堂曲輪まで上がるとそこに寺務所があり、次男たちは前日僕がすみれちゃんにプレゼントした御朱印帳に御朱印を頂きに行きます。僕は絵馬500円を授かりました。清水寺のような舞台がある本堂と五重塔に、もみじ・牡丹・桜の花があしらわれ綺麗です。
国宝「本堂」に入ると、法要が始まりました。お経が気持ち良い。本尊の「十一面観世音菩薩立像(重文)は室町時代製で10mの高さがあり、とても立派です。我が国最大の木造仏像だそうで、圧倒される大きさです。
次男たちはろうそくを灯しています。お嫁さんの実家は、日取りや風習を大切にしており、ろうそくを灯すことを子供の頃からしていたのかもしれません。信心深いお嫁さんはいいわ。家内の実家は、お坊さんに月命日参りしてもらう家で、法事など常識というものに詳しく、万事うまくやってくれました。
天井に掛かる絵馬などを見上げ、『賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ) 釈尊の弟子で、十六羅漢の1人。神通力に優れ、説法が獅子の如き激しさであったため「獅子吼第一」と呼ばれた。日本では堂外に安置される事が多く、自分自身の患部を撫でることにより、病気や怪我を完治すると言われる。そのため「なでぼとけ」「びんずるさん」の愛称で親しまれる』。僕は頭を撫でよう。
京都清水寺の舞台のように、ここにも舞台がせり出て、景色が良いです。五重塔が木々の間から見え、ナイスです。創建者の徳道上人のお堂があり、五重塔を経て畳敷きの東屋で休憩します。すみれちゃんを置くと、早速動き出します。地面に下りて砂利を持って僕にくれます。可愛いな。
ここに売店があり、二輪御守500円を授かりました。花の寺らしく、紫陽花が切り揃えられています。亀の池がある。蓮の池もあり、綺麗に咲いていました。蓮の花は綺麗だなあ。
R165を西進し、右折してr28。13:14室生寺前の「おもや駐車場」に車を入れます。600円。長谷寺同様、お盆の日曜日なのに空いています。室生寺前の室生川を渡る橋の袂にある「橋本屋」で昼食にします。
女人高野「室生寺」を拝観します。500円。なんだか前来た時と山門までの道が違うなと思ったら、工事で道順が変わっていました。山門前の寺務所で、お嫁さんは御朱印です。「本堂は工事中で、金堂でも御朱印あるから、アチラでもやってね」と言われています。
立派な仁王像の山門をくぐり、オタマジャクシがいっぱいの池の横を通り、石段を上がります。重文「弥勒堂」の屋根にブルーシートが被されています。この勧進を願う立て板が立っています。
国宝「金堂」に入ります。建立されたのは、平安初期だそうです。仏像など内部は撮影不可ですが、流石に素晴らしい。お嫁さんはここでも御朱印をしてもらいました。3種類から選べるようで珍しい。3種類とも御朱印してもらう方もいるそうだ。金堂の屋根は、独特の反りをしており、檜皮葺の屋根が美しいフォルムを見せています。
鎮守の森の巨木に包まれ、涼しい境内を石段で更に上がり、国宝「五重塔」です。女人高野らしく小ぶりで、ここの五重塔はかなり美形です。五重塔では、室生寺のが一番好きかもしれません。
奥の院には上がらず、ここから引き返します。すみれちゃんは活発に掴まり立ち歩きしています。バランス感覚が良いようで、安心して見ていられ、コケても頭をぶつけたりしません。
13:59、金堂前から車に戻ります。r28〜R165で、次の目的地「談山神社」に向かいますが、お嫁さんが車に酔ってしまったようで、帰路につくことにしました。2列目シートを倒し3列目とフラットにして横になります。
桜井市街地に戻り、「ヤマダ電機」に入ります。すみれちゃんが寝ているので、僕らは車で留守番です。次男のカメラのレンズカバーが割れてしまったので、売っていればいいが。しばらくして次男夫婦が出てきて、レンズカバーはあったようです。お嫁さんは少しトイレで休憩したようです。
大和高田バイパスから「南阪奈道路」に乗り、お盆なのに渋滞無しで快調だなと思っていると、「太子料金所」手前で渋滞しました。料金所を出ると、なんと軽自動車がひっくり返って、窓ガラスが割れています。警察車両がいますが、救急車はいません。怪我されたのかな?
近畿道で吹田まで北上し、中国道豊中ICから渋滞との掲示があったので、吹田で出ます。中央縦貫道を西進しましたが、豊中IC渋滞は存在しませんでした。自宅付近まで戻り、17:02うどん屋「のらや」に入ります。夕食にうどんを食べ、17:57に出て帰宅。次男一家を降ろし、18:06に自宅を出て買い物です。関西スーパーで買い物して帰宅し、1日が終わりました。

2017/8/12
次男が昨夜帰って来ました。京都で小学生時代の友人の結婚式があったので、それに出席した後、別の友人の車に乗せてもらい帰ってきました。2次会?3次会?終了後に電話を掛けてきたのが23:30で、隣の僕の実家の鍵の場所を教えました。実際に家の前に車が止まったのが1:30でした。電話の時もそうですが、帰ってきた時も寝覚め時間を確認しました。
そして朝4時に目覚め、ゴソゴソした後、6:52給油しました。車を洗い、チャイルドシートを2列目にセットしました。お嫁さんとすみれちゃん1才が帰ってきます。昼頃伊丹空港に着くということだったので、10時には出れるように用意万端整えました。11時になっても次男から音沙汰が無いので、実家に行き次男に到着時間を確認しました。すると13:05だって・・・。家内は今か今かと行く気満々だったのに肩透かしを食いがっかりしていました。
「じゃあ、カーテンを見に行こうか」と提案しました。リビングとキッチンを間仕切るアコーディオンカーテンを新調したいと言っていました。ニトリに行き、いいのがあったので購入し、実家で作業をしました。カーテンレールはそのままで、カーテン本体を交換するだけだから簡単でした。
次男と作業をしていると、家内が次男へ「あれ、背が伸びた?」と。次男は「伸びてないよ」「じゃあ、お父さんの背が低くなった?」。そう言われて次男を見ると、かつては1cm僕の方が高かったのに、次男の方が高く感じます。僕が2cmほど縮んだのかもしれません。まあ、仕方ないね。
12:30になり、3人で出発しました。僕はお嫁さんに父の日プレゼントで貰ったモンベルTシャツと、モンベルバミューダパンツです。駐車場に停めて、到着ゲートで待とうと思っていましたが、駐車場待ちの車の列が長く続いています。仕方なく路上駐車して僕は車で待ちます。まだ20分も時間があるのでエンジンを切り、外をブラブラ。
オンタイムを過ぎたので、到着遅延はどうかなと、ANA到着ロビーを見に行きます。羽田からの便は「定刻到着済」と表示されていました。携帯電話を忘れたから、家内から電話を借りようと思ったけど、家内と次男を見つけられませんでした。13:20になったので、そろそろ出てきそうだと思い、クーラーを入れるためにエンジンを掛け、車内で涼みます。
我が家は空港に近いので、飛行機が到着して電話もらっても、家から出て間に合います。でもたまに10分ぐらい早く着く時があるから前もって行ってるけど、いつもこの時間が勿体無い。
5分ほどしてみんながやってきました。美人のお嫁さんの笑顔がいい。抱かれているすみれちゃんは、じっと僕を凝視し、「こいつ誰や?信用出来る人かな?」と吟味しています。家内を見る目と僕を見る目ははっきり違います。
男は人類発生以前の太古から刻まれた遺伝子の記憶で、赤ちゃんに警戒されます。今でもゴリラではやってるハーレムを奪ったオスが、自分の子ではないハーレム内の子を殺します。授乳中は新たな子を宿さないメスの生理があるので、自分の遺伝子を将来に残すため、オスは子殺しをします。その記憶がホモ・サピエンスの赤ん坊に遠い記憶として刻まれています。だから男を警戒するのは本能で正常です。
車が走り出すと、声を出して指差し始めました。数歩歩けるようになった程度ですが、今にも単語が口から出そうです。
帰宅し、僕は家からすみれちゃんとお嫁さんへのプレゼントを持って、実家に行きます。お嫁さんには、「こんなに面白い日本の神話: 日本人として知っておきたい国の始まりと神々のドラマ (知的生きかた文庫)/鎌田東二著」の本です。古事記の物語が簡単に書いてあり、最後に神様の名前とその解説が載っている文庫本で、とてもわかり易いです。僕も、この本をいつも手元に置いて、神様の名前を索引風に引いて読み直しています。お嫁さんは、神社の御朱印集めをしており、姉妹で伊勢神宮参りするほど神社好きです。
パワースポット女子は、まず日本の歴史「古事記」を知っておかなきゃ。古事記はとても面白く、この物語を知ると神社の祭神がわかり、興味がさらに進むと思います。
すみれちゃんには、2日前に近江・多賀大社で授かった御朱印帳と御朱印帳袋をプレゼントしました。素晴らしい国「日本」を好きになってもらいたいので、日本のベースにある神社を巡る楽しさを知ってもらう一助にと、スタンプラリーグッズをプレゼントしました。お嫁さんが「御朱印帳を忘れた〜」と言ってたのでちょうど良かった。
プール用に買った金魚すくいグッズ(金魚・アヒル・白鳥・・・すくい網)を袋から出し、すみれちゃんに渡そうとします。警戒して近づいてきませんが、畳に置くと手を伸ばして取ってくれました。今「どうぞ」ブームだそうで、いろんな物を手に取り、「どうぞ」と手渡しするそうです。何度かそれを繰り返したら、僕に「どうぞ」してくれました。お喋りもしだし、パチパチ拍手やニッコリ笑いも出ました。
家内に抱っこされても嫌がらず、僕にも慣れリラックスして、ハイハイ〜タッチなど移動が始まりました。しばらく遊び、家内と夕食を買いに出かけることにしました。勝手口から庭側に出ると、ハイハイして追いかけてくれたそうです。早く慣れてくれて良かった〜。
車に乗り、阪急オアシスに行きます。パーティーセットのようなものがなく、家内にはイマイチだったので、関西スーパーにも行って、更に購入し家内は満足しました。僕はなんでもいいんじゃないかと思うのですが、お三どん責任者の家内のはいろんなこだわりがあるようです。家内の中の予定では外食だったのが、すみれちゃんのことを考え畳の部屋で気兼ねなく食べられる自宅飯になったので、より豪華な夕食で次男一家を迎えたいみたい。
帰宅し、みんなでわいわい夕食を食べ、20時前にお開きにしました。すみれちゃんは、僕が入っていくとハイハイしてやってきてニコリと笑ってくれました。すぐに金魚を「どうぞ」してくれます。嬉しいな。20時台に寝てしまいました。

2017/8/10
コーチしてる大学ヨット部の年中行事「琵琶湖周航」に参加します。この行事は、ヨット部発足時から続いているので既に81年間続く伝統行事です。僕がコーチするようになってから10年以上にあなりますが、一度も参加したことがなく楽しみです。
当初、1日だけ伴走するレスキューボートに便乗させてもらって、周航中の各種イベントをカメラに収めるつもりでしたが、1回生が多く定員オーバーで便乗は無理でした。僕はカメラ班でもあるので、一眼レフで撮った写真やビデオをインターネットクラウドであるグーグルドライブにアップし、部員や親御さんなど関係者が見れるようにしています。クラブの成績は、関係者の想いの強さに比例するので、親御さんにヨットを知ってもらい、クラブの活動を知って貰う一環です。
バイクで行き、琵琶湖畔の寺社歴史探索しながら、湖上のヨットが見えれば写真を収めればいいやということに切り替えました。2回生女子マネージャーMさんと連絡を取り、10時長浜近在出艇〜13:30海津大崎キャンプ場着艇というタイムスケジュールを得て、寺社巡りしながら出艇30分前に長浜近在に着く計画を立てました。
この行事は、ヨット部発足時から続いているので既に81年間続く伝統行事です。ところが、前日になり周航隊長の2回生Sくんから電話があり、「陸上部隊のエスティマのステアリングオイル漏れでハンドルが重くなってしまいました。車を出していただくことは可能でしょうか?」とのお願いがありました。もちろんノープロブレムなので引き受けました。オイル漏れで油圧で動くパワーステアリング機能を失い、低速でのハンドル操作がメチャ重になったようです。故障はそこだすので、リタイヤさせず荷物車として出発場所から到着場所への移動のみに利用するそうです。
前日さっさと床に入ったので、3時に目を覚ましました。1時間早いですが、出発することにします。10時長浜までの寺社訪問メニューをいつものように多くしましたが、全てクリアできるかもしれません。
身だしなみを整え、荷物を車に積み込み、ブーンと出発。中央環状線を走り、3:59エッソGSで給油。隣接の「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、朝食・昼食用に「プレミアフレッシュバナナ・213円」を購入。
吹田ICから名神高速に乗り、京都東ICで下車し、湖西道路に乗って北上しました。「真野IC」で下車し、R477を東進し琵琶湖岸に出て、そのまま琵琶湖大橋を渡ります。追い越し車線がメロディーラインになっており、琵琶湖周航のメロディーが聞こえました。「琵琶湖周航の歌」が出来てから100周年だそうで、滋賀県はこれにまつわるイベントが多くなっています。東岸にある料金所で150円手渡す。このゲートはまだETC利用不可です。交通量が多いので、機械化すると利益が増しそうなのに・・・。
ゲートを出て最初の信号を左折しr559。湖岸道路を走ります。左手に琵琶湖が見え気持ちが良い。R477に乗り換え、GPSに導かれるままにr32経由で、5:07「兵主大社(ひょうずたいしゃ)」。ツーリングマップルには「兵主神社」とあったので、各地にある同名の神社同様のものを想像していたが、「兵主大社」だった。名前通り、圧倒的規模の参道に驚かされた。
参道の先の大きな石鳥居横にバイクを止めましたが、そこに謂われ板があった。『条理の郷 野洲市五条自治会 五条の地名の由来は、古代律令の条里制の名残とされる。文化2年(646)中大兄皇子が下した「改新の詔」中の「班田収授の法」により、従来豪族等の私有地を公用地とし、6才以上の男子に2反(20アール)女子にその1/3を貸与し、耕作に従事させた。この区分された土地を「口分田」と称し、土地区画制度を「条里制」と呼んだ。南北方向を「条」東西方向を「里」で区画し、1条1里は各6町(600m)四方だった』
懐かしい小学校の社会の教科書を読んでいるようだった。「覚えたな、こういうの」と懐かしさを覚えるとともに、ここが天智天皇の時代既に地区地だったのに改めて驚いた。琵琶湖大橋が掛かるほど琵琶湖のクビレのように狭くなっている所で、対岸の堅田にもたくさん歴史遺産があるけど、アチラは後背に比叡山の山々があり、断層があるので地形的に堅い気がする。でも東側は、広い平野部になっている。これは野洲川の流れによって作られた平野であることは容易にわかる。京大の先生の講演で聞いたことがあります。最深部は湖西寄りにあり、海溝のように湖西の海岸線から一定距離に東西に伸びている。湖西はすぐに急峻な山になるが、湖東は広大な平野が広がり有数の耕作地になっており、湖東の山から遠い。1500年代の信長の時代、安土城は半島の先の湖岸から離れた島で、城の側から巨船を発着できたのに、500年後の現在は平野の中の小高い山になっている。つまり湖東の平野部は、西に広がり琵琶湖を小さくしている。もっと昔のことを言うと、バイカル湖などに並ぶ世界有数の古代湖で、伊勢・大和国境から西に移動して現在に至る。
このことを考えれば、琵琶湖に最も出っ張ったこの地は、堆積平野の最先端とも言える。今から1400年前、この地に律令制が敷かれたということは、湿地ではなく立派な土地として人々が生活していたということです。
ここに大社と呼ばれるほどのお宮が造営されたということは、ここがまさに琵琶湖に面していたのかもしれないと、いろいろ脳内想像が駆け巡りました。地図を見ると、ここから湖岸まで3kmです。野洲川は、1400年で3km河口を西に移動させたのかもしれない。
コーチしてるヨット部の合宿所横を小河川が流れている。古いOBさんに聞いたら、現役時代は小河川の河口が横にあり、合宿所前が湖岸になっていた。合宿所1Fの艇庫からその砂浜に船を出して出艇していたそうです。僕が知っている次男が部員だった頃は河口が2〜30m先に伸び、艇庫から出したヨットを小河川の流れに入って下り、湖岸の浜に並べないといけない。そして今、その河口が更に先に伸びつつあり、新たな陸地ができそうになっている。
OBさんの時代砂浜だった合宿所前は、今樹木が生い茂っている。樹木が生い茂る下を小河川の枝河川に入り、本流に入って河口横の砂浜に出ないといけない。不便になったので、現在はヨットハーバーに艇庫を借り、上階生はそちらから船を出し、1回生が練習のために1人乗りに乗る期間だけ、合宿所下から船を出し小河川を運び練習している。
こんな琵琶湖の現状を知っているので、湖東の広い平野の湖岸近くこんなに大きな歴史ある大社があったことに驚いた。
左右に松が並ぶ参道横の道路を進み、社門前の主鳥居横の駐車場に車を停める。「鎮座1300年祭」の事業計画が掲げられていた。社門へは小さな水濠を渡るようになっている。小さな石橋から左右を見ると、かつては水堀で囲まれていたことが想像された。浮島のようになっていた地なのかもしれないと、更に想像が膨らんだ。
堀を渡り、朱鳥居をくぐり社門へ。とても立派で美しい社門です。これを支えるこの地の裕福さを感じる。『兵主大社楼門 1間1戸楼門、入母屋造、檜皮葺、附廊2棟 正和45年解体修理時、自垂木から天文9年(1550)の墨書を発見し、建立年代が明らかになった。下層の亀甲紋や巴紋のついた蟇股には明和3年(1766)の墨書があり、この時は殆どの部材を取り替える大修理で、下層隅虹梁上の板蟇股以外の絵様彫刻は江戸後期の様式に変えられている。その後も度々屋根葺き替えが行われ、明治22年に両翼部が再び大修理を受け、屋根が桟瓦葺に改められた。後世の取替部材が多数を占めているが、当初の部材も各所に残り、全国的に遺構の少ない1間1戸の楼門として室町末期の建築様式をよく伝えている』
楼門をくぐり境内に入ると、右手に摂社があった。『乙殿神社天満宮 豊臣秀吉が、天正19年(1590)9月、京都の北野天満宮で、兵主大社の大鰐口(鐘)を千利休の釜師・辻与次郎に鋳造させ奉納したとの記録が「北野社社家日記」に記載されている。その折、北野天満宮より勧請した』
『乙殿神社 祭神:稲背入彦神・菅原道真 養老2年(718)兵主大神降臨に伴い、五条小森立の地に鎮座する。兵主の上の主(氏の上)の祖神。それ以来豊積の里農地開田の神にして崇敬され、兵主祭渡し当番に際しては兵主18郷の第一として神事を務め現在に至る』
拝殿もドーンと見事です。桟瓦葺・檜皮葺屋根で、楼門と共通している。参道脇に鶏ゲージがあり、朝の時の声を上げている。
『兵主大社御由緒 祭神:八千矛神(大国主神) 本地仏:三十番神・大日如来・不動明王 鎮座:奈良時代養老2年(718) 社格:延喜式内・名神大社 神紋:亀甲花菱紋・亀の甲羅に鹿の角 境内地:32463平方メートル 参道:300m・松200本 鎮守の森:楠の社叢林・紅葉 名勝庭園:21688平方メートル・平安時代作庭 古建築:本殿・江戸寛永20年(1643)、拝殿・江戸天保13年(1842)、楼門・室町天文19年(1550) 文化財:白絹包腹巻・萌黄地白茶格子生絹袷小袖・木造神馬・鰐口・木造宝塔他』
名神大社格を持っていたようです。名神が付くと神社より1ランク上の大社の名で呼ばれ、特に重要な神様を祀っていたり重要な神社であることを示している。入れないが本殿脇に社叢に囲まれた池があり、アオサギが朝の合唱を繰り返している。近隣のサギのねぐらになっているようです。
手水は、亀の口から水が出ています。亀甲紋といい、亀との謂れに興味が向かう。拝殿前の阿吽の狛犬は足や胴に白い包帯が巻かれている。包帯には文字が書かれているようだ。
帰宅後ネット検索すると、『奈良時代(717年)に創建されたといわれ祭神は八千矛之神。この神は大津市の日吉大社から亀に乗って琵琶湖を渡り、鹿に乗って神社に来られたといわれています。境内の鳥居と楼門は足利尊氏が寄進したといわれ数々の社宝が残っています。また、社殿南側に広がる庭園は平安時代のもので、回遊式で苔や紅葉などが大変美しく国の名勝に指定されています。毎年、紅葉の時期には庭園ライトアップが行われます。映画や時代劇のロケ地としても有名です』
社伝『「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)に社地を定め、遷座した。欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を世襲している。延喜式神名帳では名神大社に列し、治承4年(1180年)には正一位勲八等兵主大神宮の勅額が贈られている。
中世には、「兵主」を「つわものぬし」と読むことより、武士の厚い信仰を得た。中でも源頼朝・足利尊氏による神宝の寄進・社殿造営があり、社宝として残されている。また、江戸時代には、徳川将軍家から社領の寄進を受け、厚い保護を受けた』
『狛犬をぐるぐる巻きにしている白い包帯は、病気や怪我の平癒を祈願するためのもの。初穂料を支払うと布を頂ける。自分が治癒したい部分に巻きつけると、ご利益があるとのこと』ということでした。
『兵主神社拝殿翼楼 天保13年建立 拝殿翼楼の建物は、中央の拝殿1棟と左右の翼楼2棟とが組み合った大型の建物で、県下ではたいへんめすらしい型のものです。東面して立つ楼門にもやはり左右の翼楼が付き、兵主大社独特の様式として踏襲されてきたものと考えられます。
現在は埋まっておりますが、平安時代末期には拝殿翼楼の正面には建物に平行する形で水路が流れ、又本殿からの正中線上の川幅には橋がかかり、石敷の参道が楼門まで続いていました。
昭和16年(1941)皇紀2600年を記念して改築されましたが、天保13年建立当時の部材も多く残り、天保時の大工は吉他村の長谷川若狭守繁行、改築時の大工は比留田村の加賀爪忠左工門と棟札に記載されております』
本殿を囲む板垣の間から、サギが大騒ぎしている池を覗いてみる。アオサギが数羽辺りに佇み、僕に気づいて飛び立つ。日本庭園風に石が配置されているが、周りの樹木が鎮守の森なので巨大で、京都の寺院などの借景庭園とは雰囲気が違う。サギの大騒ぎが、ジュラシックパークのようでもあるし。予想外に素敵な神社でラッキーでした。
車に戻り、次の目的地「甲良神社」にGPSをセットする。r32〜r2〜r48〜R477。JR東海道線を渡り、「上野神社」前を通過し、R8に乗り換えます。R8を走っていると、「国宝・苗村神社」の案内板が見えてきました。寄り道しましょう。右折しr541。周囲は大穀倉地で見通しが良く、鎮守の森を探すのも容易です。ここかな?と目星をつけたお宮目指して枝道に入って行くと、5:58「八幡神社」だった。
国旗を掲げるポールが立っている。石鳥居の方を見ると、鳥居前にくたびれたしめ縄が下がり、数本のくたびれた縄が下がり先に茶色く変色した葉っぱがある。しめ縄中央部に茶色い葉っぱが円を書いている。そしてその円を指すように2本の尖った木がバッテンを書いている。
しめ縄から下がりが下がるのは見たことがあるが、サークルバッテンは初めてです。何かの呪いかと思うが、謂れ板がなく分からない。r541に戻り先に進む。次に見えてきた神社は「左右神社」という名だった。寄らなかったが立派で、大穀倉地の経済力を感じる。
6:04「苗村神社」。県道を挟んで左右にお宮がある。駐車場に車を入れると目に飛び込むのが、茅葺きの大神門でとても目立ちます。神門前で小さな石太鼓橋があり広い未舗装道路を渡って神門。この道路はかつては水濠だったのかもしれません。
見上げる神門は巨大で、茅葺屋根も優しく形が整えられ、これが国宝かと思ったが重文だった。『楼門 建立年代は明らかではないが、蟇股の輪郭部や斗拱(ときょう)形式などの技法から、応永(1394〜1427)頃の造営と考えられる。3間社1戸楼門入母屋造・茅葺で、この地方最大規模の和様を基調とした遺構。上層の扉や連子窓も古式を示し、軒尾垂木の先端を斜めに造り、強い反りをつけているなど禅宗様の手法も混用されている。下層は縱横に貫で組まれる他、斗?間の小壁に至るまで開放されており、中央に扉もない形式は珍しい様相といえる』
屋根を支えるため、垂木が芸術的に組まれ、見上げても飽きない。重厚感があり素晴らしい。
境内に入ると、左手に池があり小島に祠がある。「竜神池」となっていた。弁天池かと思ったが、竜神祠のようです。『祭神:那牟羅彦神・那牟羅姫神・国狭槌尊 御祭神の那牟羅彦神・那牟羅姫神は、当地方に始めて工芸技術・産業を伝え広められた産土の神様で夫婦和合、諸願成就の神様として、古来より篤く尊崇申し上げる祖神であります。國狹槌尊は、国土を開発し、五穀の豊穣と財宝の恵みを垂れ賜い、とりわけ子守大明神と申し上げ、幼児子供をお守り下さる御神徳は広大無辺、誠に格式高き神様として、当地方三十余郷の氏子達ひとしく崇敬申し上げる御祭神であります。 相殿神:大國主神・事代主神・素盞鳴尊 福徳を授け、良縁を結び、悪疫を滅し、五穀の豊穣を守護される神様であります。
当社の御鎮座は上古に属し、平安時代の延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)に列座された長寸(なむら)神社にして、格式の高い式内社であります。社伝によれば垂仁天皇の御代に当地方を開拓された御祖をお祀りしたのが創祀とされます。
即ち当社神域に現存する古墳或いは域内外より出土する陶物は、何れも古墳時代の遺跡或いは遺品であり当時既に祖先の遺業に励んだ部民の聚住を物語っています。これ等の先人達は、先祖に対する報恩の念により祖霊を神として、当神域の東の方にお祀りしたのに創り、この祭神こそ当地方最高の祖神と心得、地名である那牟羅(なむら)と同音になる長寸(なむら)(長は最高位 寸は村の古字)の字に替えて長寸神社と申し上げました。この御社を后の世になって東本殿と申すようになりました。
その后、時代の経過と共に稲作農耕が愈々盛んとなってきました平安時代の安和2年(969)3月28日、大和國芳野金峯山に鎮まり給うた國狹槌尊(くにのさつちみこと)の御神霊が、この神域の西の方に御遷座されるようになり、社殿を御造営申し上げ、此処に御鎮座になりました。この御社を東本殿に対して西本殿と御呼びします。
現在の西本殿は、社蔵されている当地方最古と言われる徳治3年(1308)の棟札によりますと、建保5年(1217)に修造され、更に徳治3年に再建されたこと、及び当時の修造には遠隔の地まで沙汰せられ、有力な豪族が神事を司ったことが明記されています。しかもその当時の建築様式(鎌倉時代)は、その后度々の修造もありましたが、当時の様式は今によく伝えられ、棟札と共に国宝に指定されています。
現時の社名、苗村の称号は社蔵の古文書によりますと、もとこの地域は日本書紀垂仁紀3年3月新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)の條に曰う吾那邑(あなのむら)でありましたが、その后、那牟羅(なむら)に改まり、更に長寸(なむら)に替えられました。次いで寛仁元年(1017)正月、朝廷に門松用の松苗を献上することの栄に浴して以来、年々の吉例となり、時の帝、後一條天皇はこれを嘉みせられ、苗村(なむら)の称号を賜り、以后苗村神社と呼ぶ、と記されています。斯くて、創祀以来社運年毎に栄えて来ましたが、何時の時代も苗村郷三十三ヶ村の総社と、人々の信仰の中心となってきた大宮であります。
取り分け天文5年(1536)朝廷の当社に寄せられた格別の恩命は、未来永劫に亘って誇りとする処で、社有の記録には、同年3月22日、後奈良天皇は、当社に「正一位」の神位奉授し給い、同4月19日に勅使として中御門宗藤・山科言継を御差遣になり神位記を奉納され、ついで、神主盛継に修理大夫任官の口宣を御くだしになる。この時、征夷大将軍足利義晴より勅使参向に当って三箇條の禁制札を下地される。
続いて同5月9日、更に天皇は「正一位苗村大明神」の勅額の御下賜があり、又同月12日関白太政大臣近衛植家公を始め30人の公卿は、京都において法楽歌会を催され、同月16日中御門宗藤卿は、使者を以て当日の和歌を送られ、同19日神主盛継はこれを神前に奉納された記録が今に残っています。
天正年間には、織田信長が、天下太平を祈願し当社に馬鞍一具と太刀7振りを寄進している。誠に当社の栄誉これに勝るものなく、社名自ずと四海に遍くところであり、今日30余郷の氏人達は、累代に亘って神仕えされてきた春日皇子の後裔である現神主を中心として、この栄誉高き御宮に余念をまじえず、只管崇敬奉仕申し上げる処であります。
神域には国宝西本殿を始め、他5棟の建物、及び木造不動明王立像など国の重要文化財が保存され悠遠なる名社として歴史を物語っている』
子安像・神馬像が立っている。『重要文化財・神輿庫 桁行4間・梁間2間・切妻造りの軽快な建物で、正面及び北側面に各1ヶ所の出入口がある他は柱間のすべてを板壁とした簡素な外観である。建立は天文5年(1536)正一位の神位を受けた時、勅使の装束召替仮殿として建て、後に神輿庫に用いた。装束召替仮殿の用途は限られた期間であり、平面が出入口の他開口部がないことは、当初から神輿庫あるいは御供所などの倉庫的な再利用を企図して建てられたものと考えられる。全国的に類例の少ない遺構として貴重である』
外見的に何の変哲もない建物なのに、重文指定されており、よくわからないが学問的に貴重なようだ。境内中央に絵馬殿があると見に行くと、これが拝殿のようだ。玉垣のうちに檜皮葺の本殿があり、手前に幣殿が建っている。その周りの摂社も大きく整っており、寄り道にしては豪華な社殿を拝見できた。
『(重文)境内社十禅師社本殿 山王21社のうち上7社の1社十禅師の分霊社で、天台宗護法社の1つであるから、大蜜勢力のもとに苗村神社社域に勧請された社である。1間流造・檜皮葺。蟇股などの装飾を施さない古式社殿で、母屋内部は1室で、正面に弊軸板扉を設け、他の3面を板塀とする。室町時代1430年に建てられた』
『国宝・西本殿 社蔵される棟札から徳治3年(1308)再建されたと考えられる。3間社流造で、前面は一段低い床張りとし、菱格子を入れて前室を作り、更に1間の向拝を出し、檜皮葺とした形式は相対的に鎌倉時代後期の特質を表している。殊に左右相称の透彫を施した正面2個の蟇股は美しい。殿内の厨子は小規模で簡素であるが手法が優れ、本殿と同時期の作とみられ、共に国宝となっている。社蔵される棟札は、近在に見られない古物品で、当時の修造の様子、活動人士、神事の有力担当者などが明記され、社歴を知る貴重な資料である』
『重文・境内八幡社本殿 建立年代は明らかでないが、東本殿・楼門と同時期に、境内整備に伴い建てられたと考えられ、その様式からみて室町時代1430年頃の建立と考えられる。1間流造・檜皮葺。特徴は、側面に弊軸板扉出入口を設けていることで、我が国でも数が少ない。母屋3面・向拝に美しい蟇股を飾りつけている』
社紋は、「州浜(すはま)紋」という関西には珍しい紋で、巴紋のように幾何学模様紋です。いろんな所に見えます。県道を渡り、苗村神社東本殿に向かいます。鳥居に「長寸神社」と浮彫りされた扁額が下がっています。両側に石灯籠が整然と並んだ参道を行くと、小ぶりな東本殿がありました。
『建立年代は、明らかでないが、向拝の蟇股の様式は、室町時代のものであり、前庭にある永享4年(1432)在銘の石灯寵は本殿の建立と関係があると考えられる。また、正徳4年(1714)には、大半の部材を取替える大修理があり、当初の形式が変えられたが、昭和33年の解体修理で、資料にもとづいて復原整備された。正面は、格子戸であるが、少し入ったところに幣軸を廻して板縁を建て、東側面にも同様の扉口を設け、母屋の実肘木(さねひじき)を通し材とし、妻飾の扠首(さす)組頂に花肘木を組みいれるなど、西本殿傍の八幡社本殿と共通する点が多い。なお、内外陣境の腰嵌板(こしはめいた)の彫刻格狭間(こうざま)は県下に類側が多いが当時の装飾手法として見るべきものがある』
参道の脇に古墳のような墳丘があるなと思っていたが、やはりそうでした。
『東苗村古墳群 重要文化財苗村神社東本殿がある鎮守の森の中にる。現在は8基の円墳が確認されているが、境内地外側にもかつて多くの古墳があったと考えられます。現存する古墳の大きさは、墳径12〜18m、高さ2mほどです。古墳群の造られた時期は、6世紀後半代と考えられている』
R8に戻り、r227に入り、7:06「甲良神社」。『主祭神:武内宿禰命 相殿:田心姫命・市杵島姫命・瑞津姫命 神紋:平四つ目』
『甲良神社権殿 甲良庄の総社。権殿はもと当社の本殿で、明治16年新本殿建築に伴って本殿脇に移動された。建物は寛永11年(1634)に建てられ、1間流造・檜皮葺。小規模ながら蟇股・頭貫木鼻(かしらぬききばな)・虹梁(こうりょう)・大瓶束(たいへいづか)など彫刻を多用し、装飾性に富んだ本殿である。近隣の甲良神社本殿(甲良町法養寺)や大滝神社本殿(多賀町富之尾)とともに、江戸前期の1間流造の好例』
大きな扉が4つ並んだ倉庫がある。山車でも入っているのかな?
『甲良神社 創立は天武天皇の代に武市皇子の生母尼子姫が当地に住み、筑後の国高良大社より希世の長寿の神「武内宿禰命」を勧請された。地名もこの姫に由来する。1000年の昔より長寿の神・水利の神として信仰されてきた。元禄14年、「正一位松宮大明神」の宗源宣旨があり、明治まで「松宮大明神」または「高良大明神」と親しまれていた。明治5年「甲良神社」と改称され、明治16年本殿が造影された。社殿の彫刻などに室町期の作風を伝える旧本殿は甲良神社権殿として正和25年移築解体修理を行い、国の重要文化財指定された』
荘厳で重厚感のある本殿から、明治期の建築が伝わり、今でも古さを感じない。横に檜皮葺の一回り小ぶりの権殿が建っている。時間帯も早いですが、朝の落ち着いた空気に似合うお宮です。境内前に高いポールが立ち、祝祭日には日の丸が揚がるのでしょう。
R307に出て北上し、7:27「故宮神社」。未舗装ですが意外に広い駐車場で、観光バスも駐車可です。地図を見て名前が珍しいので寄り道場所に選んだだけでしたが、駐車場内の案内板地図でも境内が広く期待が膨らみました。
石鳥居をくぐると緑の葉が参道を覆いいい感じです。『旧敏満寺跡 古井戸と焼石塚 天台仏教の法城として、1200年前から700年間、堂舎48余りあった敏満寺は、元亀3年(1572)織田信長に焼かれ法灯が消えた。焼け跡を天正元年(1573)故宮神社境内として整備した時、散乱していた焼石や五輪塔をこの古井戸に投げ込んだ。平成の世となり、埋没していた古井戸を掘り起こした時出た石と五輪塔で、この塚を盛り上げた。焼けた跡の見える石や五輪塔は、敏満寺の遺物として貴重で、栄えていた当時が偲ばれる』
『故宮神社 祭神:伊邪那岐大神・伊邪那美大神・事勝国勝長挟命(ことかつくにかつながさ)
悠遠な上古より青竜山に鎮座し、寿福・延命・授子授産の神徳あり。仏教の渡来で敏満寺が創建されると、山麓に社殿が営まれ、その守護神となった。
平安の昔、女流歌人・赤染衛門は童子守護の願文を奉った。東大寺再建に当たって重源上人が参籠し延命を祈った。御光厳天皇は美濃よりの途次、御車を止めて宿泊した。元亀・天正の兵火で社殿の大半を焼失したが、徳川3代将軍家光公の篤志により寛永15年復旧を見る事ができた。江戸時代には、都よりお乳人が参詣し皇子皇女の安泰祈願が行われた』
絵馬殿を見に行くと、すぐ下に名神高速道路が走っていた。「多賀SA」が近くにあった。西に琵琶湖が見え、寺社立地になりそうな場所だなと思いました。名神高速から西は平坦な沖積地で、太古東岸の平地が狭かった頃、湖岸だったのかも知れないなと想像した。
石段を上り、本殿に参った。祭神にある「事勝国勝長挟命」を調べると、『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。
海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。
『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある』
記紀に登場する神でした。檜皮葺の綺麗な屋根が立派な本殿でした。裏には、「大日堂」「観音堂」「故宮磐座」への道案内が出ており、地図によると旧寺院の敷地一山全てが社域となり、寺院の面影を辿れそうでした。
『磐座 青龍山の頂上に大きな岩がある。大昔から磐座と呼び、龍宮を祭り、長寿・豊作・雨乞い祈願をした。この原始宗教を麓から遥拝するため社殿を造ったのが故宮である。故宮の奥宮で、多賀大社奥の院と呼んだ時代もある。頂上付近の神聖な場所を境界(いわき)と呼び一般人は立入禁止だった。「お池」で身を清め、供物を洗い、祭典の広場で春秋の祭典を行った旧跡もある。故宮磐座は、社殿信仰以前の原始宗教の姿を見せてくれる神体山である。滋賀県内でも少ない山岳信仰の聖域である』
魅力的な言葉が並んでいるが、時間がないのでパス。沖縄本島ツーリングの時、現役の磐座信仰場があり、同じように一般人進入禁止とされていたのを思い出す。R307を少し走り、7:51「多賀神社」。参道の駐車場に入れた、500円。
『当神社は「古事記」名が記され、「延喜式」には「多何(多賀)ノ神ノ社二座」とあり古くから鎮座していたことがわかる。社殿の造営は、古代から造替・修理が繰り返され現在に至る。江戸時代には、寛永の大造営(寛永10年から5年間)行われた。本殿・拝殿・庁屋・摂末社・本地堂・僧坊・書院・鐘楼・三重塔・日向社、故宮神社・大瀧神社・千代神社におよぶ大規模なものでした。しかし、安永2年(1773)の大火災によって、本社をはじめ諸堂社全て焼失した。その後、らだちに復興にとりかかり、翌年には書院が完成し、最小限ながら必要な建物が再建されました。文化5年(1808)には三間社流造の本格的な本殿が造られた。この本殿は、昭和の造営に際し豊郷町の白山神社に移築されて現存しています。
明治期に入り、神仏分離令により仏教的な建築物は取り除かれた。その景観は明治28年(1895)の「大日本帝国淡海多賀大社全図」に見ることができる。明治以降、建物の再建・撤去が無計画になされ、社殿配置に統一性が欠けた。そこで、大正8年(1919)明治神宮造営局技師・大江新太郎が境内を「神聖」「神厳」「清厳」「清雅」「自由区域」に分け設計した。本殿・祝詞舎・幣殿・神饌所の4棟を国費で行い、内務省技師・角南隆が総監督にあたりました。国費以外の神社直営工事は、前記の大江新太郎が設計監督となり、昭和8年「昭和の大造営事業」がついに完成しました。これが現在の社殿です。
表門から本殿まで、参道に沿って一直線上に配置された建物は巧妙に計算され、なかでも拝殿から本殿にかけて段々状に重なった桧皮葺屋根は、華麗で変化に富んでまとめられ、気品ある神々しさを醸しだしております。近代につくられた神社建築の中でも、最も優れた社殿として高く評価されています』
まだ朝早いので開いているお店は疎らですが、門前町も統一された雰囲気になっています。太鼓橋を渡って境内へ。地図にはたくさんの社殿や摂社が書かれており広そう。
『多賀大社の「そり橋」 太閤秀吉が当社に寄せた信仰から「太閤橋」とも呼んでいるが、実際は「太鼓橋」である。築造は江戸初期寛永15年、徳川幕府の助成もあり、大僧正慈性により本殿以下諸堂の造営が行われた。その際に築造された。例祭にはお神輿が渡る』
『夫婦桜 昭和7年「昭和の大造営」に際し、延命長寿・夫婦和合の御神徳に因み植えられた。県内屈指の早咲きのしだれ桜で、3月末に絢爛と咲き誇る』
『祭神:伊邪那岐大神・伊邪那美大神 男女2柱の大神は、初めて夫婦の道を起こされ、我が国土と万物の神々、主宰神としての天照大神をお生みになった。我が国の祖神と仰がれ、古事記には既に淡海の多賀にご鎮座と記されている。
延命長寿・縁結び・厄除け霊神と仰がれ、天正天皇・俊乗坊重源・太閤秀吉の母大政所の延命祈願、武田晴信(信玄)の厄除け祈願など多数の社伝が伝わる。4月の多賀祭り(古例大祭)の騎馬40頭に及ぶ御神幸は天下に名高く、節分祭・お田植え祭り・万灯祭・9月古例祭・七五三なども賑わいを見せる。
室町時代以来の由緒を持つ全国各地の多賀講は有名で、近年は崇敬会に加入し神縁を結ばれる人が増加している。本社の左奥にある参集殿では、これらの人々のお食事、あるいは結婚式の披露宴なども行われる。春のしだれ桜・秋の紅葉・国の名勝である奥書院庭園も見事で、年間を通じて170万人の参拝者を数えている』
整った拝殿本殿が美しく、さすが大社です。本殿には、神職さんの多くが昇殿され、蝉しぐれのBGMをバックに祝詞を上げておられました。朝のお勤めのようです。
それが終わり、皆さんが持ち場に戻ります。社務所を覗くと、「恋みくじ」がある。絵馬掛けに掛かっていた杓文字の絵馬「合格祈願合格御礼杓子絵馬」があったので、それを授かりました。
綺麗な御朱印袋が目についたので、朝一番でどうかなと思いながら「御朱印い授かれますか?」と聞くと、OKでした。この日一番早く御朱印を授かったかもしれません。お盆に帰省する次男の娘すみれちゃん1才と、弟の娘・高1へのプレゼントにしましょう。御朱印帳と袋を2セット授かりました。初穂料は全部で3000円行かなかったので、お安いなと思いました。
R307〜R306を経て、8:29「天寧寺」。五百羅漢で有名なお寺だそうですが、拝観時間前でした。
『木造釈迦・十大弟子像・十六羅漢・五百羅漢像 彦根藩主11代井伊直中によって建立された曹洞宗寺院で、本堂は文化8年(1811)、仏殿(羅漢堂)は文政11年(1828)に建てられた。羅漢堂には、本尊「釈迦如来坐像」・十大弟子像・十六羅漢像・五百羅漢像527躯が安置されている。これら仏像も直中の発願により造像され、京都七条西仏所の仏師・駒井朝雲(こまいちょううん)等により制作された。全て寄木造・内刳りで玉眼がはめられ、彩色されている。
羅漢像は、鎌倉時代に禅宗が伝えられて以降、仏道修行の安泰を願って造像された。五百羅漢に詣でると、必ず思慕する故人の面影を見出す事ができると言われている。当寺の五百羅漢は近世の造像ですが、527躯全てが欠けることなく今日まで残っているのは全国的にも珍しく、年記や仏師名の墨書が記されており、近世彫刻史を考える上で貴重な資料です』
境内に、幕末に桜田門外の変で襲われ命を落とした幕府大老・井伊直弼公の供養五輪塔が立っている。
〜R8〜r518〜r329を経て、8:39「龍澤寺」。石田三成の居城「佐和山城」の麓にあり、登城口もあった。隣に「井伊神社」があった。『主祭神:直政彦命・直孝彦命 配祀神:井伊家歴代の神霊 神徳:学業成就・武芸上達・開運 権現造り複合社殿、内部は全て漆塗(本朱塗込黒漆塗上)で、彫刻・組物、蟇股には極彩色が施され、格天井の天井板には様々な草花が華麗に描かれている。
天保13年(1842)井伊直亮(なおあき)が、井伊家の始祖・共保(ともやす)公の750回忌に当たり、遠州井伊谷(いいのや)八幡宮から井伊大明神を分霊し神像を造り、龍潭寺参道脇に奉斎したのを創祀する。弘化2年(1845)社殿を今の地に移し、現社殿を建立した。昭和13年(1938)近隣の佐和山神社(祭神:藩祖井伊直政・直孝両公)並びに祖霊社(祭神:井伊直中・直亮・直弼・その他井伊家歴代藩主)の神霊を合祀した』
修理のため覆われていたが、彩色の落ちた見事な彫刻が施された社殿があった。中に入れなかったので、謂れ板に書かれていたものは生憎確認できなかったが、写真が貼られていた。彩色の落ちた社殿外部と違い、内部はそうとう鮮やかなようだ。
鎮守の森には、立派な大木が林立している。『井伊直憲公顕彰碑 大老直弼の嫡子。万延元年(1860)桜田門外の変で父・直弼が非業の死を遂げた後、13才で彦根藩最後の藩主となった。就任当初は幕府譜代大名筆頭の家格を持って35万石を領し、京都守護の任に当たり、和宮降嫁の際、将軍の名代として京都朝廷への上使を勤めた。幕府の大政奉還により、藩是「勤王の大義」に徹するという直憲の決意により官軍に属することとした。これにより彦根藩の動向を窺っていた各藩も官軍につくことに決し、明治政府成立への大きな原動力となった。その政治力・決断力は、大老直弼の「開国の決断」にも比する。
しかし彦根藩は幕府の厳しい処遇を受け、危機的な状況にあった。その後天誅組鎮圧のため大和へ出兵、禁門の変で長州藩と戦い、第2次長州戦には芸州広島へ、戊辰の役には奥州会津まで出兵し、多大な戦功を挙げた。版籍奉還後は彦根藩知事、彦根県知事として、さらに欧米に留学し、近代国家の文化を学び、彦根の文化・教育・産業振興の基礎を確立した』
「だるま寺・庭の寺 龍潭寺」入口を入っていく。拝観時間は9〜17時。ここは、佐和山ハイキングコース入口でもあった。「山頂まで20〜30分 拝観時間外は通行不可」。緑に包まれた参道を行くと山門があり、それをくぐり進むと「大洞観音堂」がある。更に進むと、無縁墓石が集められた場所があり、その奥に墓地が点在していた。
「佐和山城跡に最近、野猿の群れが出没いたします。十分ご注意ください」の立て札が立っていた。「石田三成群霊供養」石柱が立っている。
駐車場に戻る。『佐和山城跡 鎌倉時代初期、近江源氏佐々木定綱の6男時綱が、佐和山の麓に館を構えたのが始まり。その後湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。佐和山城は両勢力の境の城として攻防が繰り返され、湖北では京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、湖南の六角氏との間で争奪戦が展開された。
信長・秀吉の時代にも、近江の要衝の城として重視された。信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配し、安土城築城まで機能を維持した。秀吉の代も、堀秀政・堀尾吉晴・石田三成を配し、佐和山城に重きを置く姿勢は変わらなかった。この間整備が進み、山上に本丸・二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり、山下には東山道に面し大手門が開き、二重に巡らされた堀の内外に侍屋敷・町家・足軽屋敷の城下町が形成された。関が原の戦い後に落城し廃城と化した。
『佐和山城ゆかりの戦国武将 浅井長政(1545〜1573) 戦国時代になり、京極氏に代わり近江北部の戦国大名として台頭した浅井氏は、近江南部の六角氏と争った。織田信長からの同盟提案を受け入れ、信長の上洛を援護することで六角氏を退けることに成功した。同盟を機に信長の妹・市を妻として迎え、茶々・初・江三姉妹はじめ子宝に恵まれたが、元亀元年(1570)信長が浅井氏の盟友・朝倉氏を攻めたことをきっかけに、長政は同盟を破棄。朝倉軍とともに姉川の戦いで織田徳川軍と戦いました。佐和山に配された磯野員昌らは善戦しますが破れ、翌年信長に開城しました。天正元年(1573)、本拠地の小谷城を織田軍に囲まれ、長政は自害し29才の生涯を閉じました。残された市と三姉妹は信長の元に置かれ、その後の豊臣・徳川時代まで波乱に満ちた運命を辿っている』
『石田三成 近江国石田村(現在の長浜市)で生まれた三成は、羽柴秀吉が信長に仕えて長浜城主となった頃から、秀吉の側近として仕え、能吏としての手腕を発揮した。秀吉の天下となってからも、検地などで手腕を発揮し、五奉行筆頭になり佐和山城主に任ぜられた。三成の時代に佐和山城は整備され、五層の天守を備え、「三成に過ぎたるもの」とまで言われた。秀吉没後、天下を狙う徳川家康との対立を深め、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵を計画します。家康が諸大名を従え上杉家征伐についたのを機に、三成は挙兵を決意し、慶長5年(1600)9/15関ヶ原で家康ら東軍との戦いが始まりました。戦いは東軍の勝利に終わり、佐和山城も東軍の攻撃を受けて落城し、三成の父・正継を始め石田一族の多くが討ち死にした。三成は湖北に逃れますが、程なく捕縛され斬首された。三成の死後、佐和山の領民はその遺徳を偲んで地蔵などを築いてその霊を慰めた』
r329〜r517〜r2を経て枝道に入り、9:15湖畔の小さな砂浜で、コーチしてるヨット部のヨットを発見しました。部員が泊まっている「上妙寺」を見つけた。部員に連絡し、境内に入ると本堂前に多くの荷物が出ており、琵琶湖周航中の部員たちがいた。
女子マネージャーから、「朝ごはん食べますか?」と声を掛けられ、本堂横の建物内でご飯を食べた。電気釜など陸上部隊のバックアップの厚さを感じました。部員たちは、住職さんを呼びに行き、「ありがとうございました」。住職さんからも「また来てくれてありがとう」の言葉。僕からもお礼をいうと、住職さんがいろいろ話してくれました。先々代の住職(現住職のお爺さん)が、周航中の悪天候でたまたま緊急避難した浜で困っていた部員に声を掛け、一夜の宿に本堂を提供したのが始まりだそうです。その時小学生だった現住職さんも、そのことを覚えているそうです。
そのお爺さんが亡くなり既に50年。つまり、50年以上前から毎年ヨット部員がお世話になっているそうです。今では夏にやってこないと寂しく思うぐらい、お寺にとっても年中行事の1つになっているようです。
1回生部員に、上半身裸のやつがいる。「free Hug」と胸にマジックで書かれている。女子部員なら、いくらでもハグしに行くが男子ではなあ〜。何かの罰ゲームなのかな?と思ったら、1回生部員は周航中4日間の課題を1つ決められるらしい。この部員は、「4日間上半身裸」という課題に当たったようだ。本人は、楽しそうに笑っている。
琵琶湖周航行事は、1・2回生の行事で、上回生はホームポートで練習している。2回生が企画運営し、初参加の1回生は半分お客さんなのだそうだ。
9:56浜に出て、ヨットの準備をする。全員乗れないので、ヨット組・レスキュー組・陸上観光組の3班に別れる。10:16、準備ができたヨットから沖に出ていく。無風なので漕いで沖に出る。日焼け予防完全武装の女子マネージャーもいる。楽しんでね。
次にレスキューを係留している小さな港に車で向かう。10:33レスキュー組が乗り込み、ヨットを出した浜目指して出ていく。10:50車で浜に戻ると、沖でレスキューがヨットを曳航している。無風なのでセイルを上げず、しばらく引っ張って行く。目的地「海津大崎キャンプ場」に向けて・・・。
お寺に戻り、ここからが僕の仕事です。観光組の1回生部員を7人乗せるて長浜に向けて出発。彼らは前日ヨット組でした。比叡山登山をしたそうですが、途中で道がわからなくなり、登頂できなかったようです。近江八幡観光もしたと言ってたかな?周航中に、たくさんゲーム・レースをやり、個人成績とチーム成績で競うそうです。
助手席に乗ってくれた1回生Nくんは、三重県津高校出身だそうです。実家は伊勢で、学校まで1時間だそうです。春に伊勢神宮に参ったばかりだったので、あれこれ聞きました。
R8を北上し、11:13「長浜」着。黒壁スクエアのガラス館などを見学し、2班に分かれお昼ごはんです。上半身裸の部員もみんなといれば、余り気にならないね。でも観光客に一瞥されています。僕は「長浜黒壁AMISU」というカフェで、「かき氷いちごみるく」500円を食べました。うちわと観光地図パンフを頂き、12:45に店を出ました。
海洋堂フィギュアミュージアムがあり、興味深く見学しました。暑いので、アイスを食べたり、黒壁5号館に入りクーラーで涼んだりしていました。素敵なガラス細工のお店が多く、いろんなところに入りました。
『豊国神社 祭神:豊臣秀吉公・加藤虎之助清正公・八重事代主命えびす宮・木村長門守重成公 天正元年(1573)信長の侵攻により小谷城の浅井家が滅亡し、湖北が秀吉公の知行地となりました。長浜城と城下町が造営され、楽市楽座の制度地租税300石免除の恩恵で、江戸時代を通じて栄えました。
慶長3年(1598)秀吉公が逝去すると、町民は太閤さんの恩徳を慕って豊国神社を建立しました。江戸時代になり、太閤さんを神格化することが禁じられ取り壊され、太閤さんの御神像は町役人の家々で守り継がれる時代が続きましたが、寛政5年(1793)「えびす宮」の建築許可を受け、奥に御神像を安置し密かにお祀りしました。明治維新後に、現在の社名に復帰しました』
大坂の陣で大活躍し、夏の陣で討ち死にした木村重成を祀っており意外でした。瓦葺き・檜皮葺がミックスされた屋根は、金に縁取られ、彫刻もナイスでいい感じのお宮でした。部員から電話が入り合流し、駐車場に向かいます。水陸両用バスが止まっていました。長浜にも、こんなアトラクションがあったのですね。11:40〜13:48「護国神社P」300円。
また1回生部員を7人乗せ、海津大崎に向かいます。R8で北上し、R303で琵琶湖北を西進します。「永原」からr286で湖岸に出て、r557湖岸道路を西に走り、14:53「海津大崎キャンプ場」。2回生荷物運び部員が先着しており、テント3張が設営済でした。もう1つテントを建てるようですが、大きくても6人用なので、どうやって全員寝るのか不思議です。だって1回生だけで20名、全員で30名の大所帯です。沖を見ると、ヨット組もやってきています。途中風があったところでレースなどをしたそうですが、また曳航です。ロープを放し、1艇ずつ着岸します。陸上移動部員が海パンになり、ヨットを掴みに行きます。15:00ヨット着艇。その後、15:14レスキュー桟橋に着艇。
1回生たちは、泳いでいます。女子部員は水着の上にTシャツやパンツなどを着て、彼らを見ています。岩からダイブしている部員もいます。蛇が湖面上を泳いでいてビックリしました。2回生は、夜の肝試しの準備のために、お寺の裏山に入っていきました。
僕は暑いので、r557を西進し、R161〜r54で、16:52「ファミリーマート高木浜1丁目店」。ブルガリアヨーグルトブルーベリー137円+果肉ソースいちごかき氷198円=335円を買いました。キャンプ場に戻り、かき氷を食べていると、雨が降ってきました。そしたら少し涼しくなったからか、ひぐらしが鳴き始めました。蚊と一緒で、暑さマックスの日中は昼寝しているのかもしれません。
風呂に行くようです。また1回生を満載し、r557〜R161〜r287で、17:24「マキノ高原温泉」。部員たちを降ろし、僕はご飯を食べます。1回生をキャンプ場に戻す仕事があるので、頂いた琵琶湖・マキノ高原のパンフレットを見ていると、周航を手伝っていた4回生部員2名がやってきました。合宿所に戻ろうと駅に行ったが、次の電車が1時間半後ということで、戻ってきたそうです。は〜
風呂と夕食を済ませた1回生を乗せ、キャンプ場に戻り、帰路に着きます。r557〜R161〜湖西道路〜名神高速で、21:40「桂川PA」。「ジャージー牛乳ソフト・183円」を食べ、帰宅しました。

2017/8/6
コーチしている大学ヨット部のファミリーデイです。琵琶湖の合宿所に11時集合なので、朝の時間に余裕があります。3時に目が覚め、親御さん達に渡す資料をコピーします。60人来られると聞いているので、時間がかかりました。昨年10月の全日本団体戦予選最終日のコーチボートから見たドラマチックな様子を書きました。今年のヨット部卒業式(追い出しコンパ)でも、OB/OGさん達に好評だったので、2匹目のドジョウを狙います。
スポーツタイツ・ラッシュガードを下に着て、コミネ夏用メッシュプロテクター上下を着ます。バイクを降りた時用に、モンベルバミューダパンツとTシャツを持ちます。ミラーレス一眼ソニーNEXC3と、望遠用にパナソニック・LumixG2の2台持っていきます。
「招き猫CB400SB」に、親御さん達に渡す資料を入れたバッグ・ライフジャケットも積み、4:33出発。中央縦貫道〜吹田ICから名神高速に乗り、京都東ICで下車し、湖西道路に乗って琵琶湖を北に向かいます。
滋賀里ランプで下車し、側道を北に向かいます。坂本で右折し、琵琶湖岸R161に出ようと琵琶湖に向かうと、GPSに「来迎寺」が見えてきました。ここに寄りましょう。
5:29「来迎寺」。天台宗の寺院ですが、織田信長の比叡山焼き討ちの時、森可成の墓があることで難を逃れました。森可成は、信長の有力武将で、信長とともに本能寺で討ち死にした森蘭丸3兄弟の父親です。信長が石山本願寺を攻めている時、浅井朝倉軍が湖西を南下し挟み撃ちにしようとした時、湖西の宇佐山城を本拠に、寡兵ながら奮闘し、信長が京都に退却する時間を稼ぎました。しかしながら嫡男共々この地で討ち死にしました。
『最澄(さいちょう)(768-822)の創建で、平安時代初期に源信(げんしん)(942-1017)が念仏道場として聖衆来迎寺と改称した。中世を通して延暦寺の念仏道場として栄え、戦国時代、織田信長による焼打ちのときも森蘭丸(らんまる)の父である森可成(よしなり)の墓があったために難を逃れ、優れた寺宝を数多く所蔵している』
山門は、明智光秀の城門を流用しており、重要文化財指定されていた。境内は鐘楼・本堂などが静かに佇み、良い感じです。鐘には天女が滑空する姿が浮彫りされ、漢文が刻まれていた。
石仏などが境内脇に並べられており、近隣に点在していた石仏が、道路工事などにより移されてきたのでは?と想像した。雰囲気の良い屋根がついた祠があり、中を覗くと、石仏が押し込まれていた。比叡山中には、石仏・刻み仏が無数にあり、それらを祀っているのかもしれない。
奈良風屋根を持った本堂と客殿があった。『重要文化財・聖衆来迎寺客殿 桁行10間、梁間6間、南面入母屋造・北面切妻造、柿葺きの建物。内部は2列3室つまり6室からなり、旧書院や茶室が付いています。西南の上座の間は床・棚(井楼棚)・天袋・書院を備えた最高の室で、欄間彫刻も華麗です。他に竜虎の間、仏間などがあり、狩野探幽などの筆による障壁画によって飾られている。江戸時代初期の代表的な客殿で、寛永16年(1639)頃の建築』
「音声で紹介する戦国の大津歴史舞台」というQRコードが設置されていた。
『聖衆来迎寺開山堂 桁行3間・梁間3間・一重入母屋造・桟瓦葺・向拝1間の建物。延暦9年(790)伝教大師最澄が開いた。当初、地蔵教院と称したが、長保3年(1001)恵心僧都源信が、この地で紫雲の中に来迎を感得したことから阿弥陀如来を祀り、寺号を紫雲山来迎寺と改めた。開山堂には、この源信が祀られています。寛永15・16年(1638〜39)に建てられ、近世初期の代表的小堂建築の1つ』
源信は、天台宗の中興の祖・良源の弟子で、浄土宗の祖とされている。浄土宗開祖・法然や浄土真宗開祖・親鸞に影響を与えた高僧です。
さて本命の「森可成の墓」。五輪塔が立っています。戦国時代の墓なのでこじんまりしているものと思っていましたが、意外に立派でした。この墓のお陰で信長の焼き討ちを逃れることが出来、天台宗の正倉院という別名があるほど寺宝が遺っています。森可成様々なので、江戸時代に入り作り変えたのかもしれません。
僕の名前は漢字は違いますが、同じ読みです。父の字を一字貰った通名で、武将みたいで強そうだなと気に入っていました。織田信長物語を読んだ時、一武将として登場する森可成でしたが、「やっぱり」と嬉しくなりました。息子2人にも通名し、次男の名は、森可成の5人の息子たちが討ち死にした後最後に残り森家の家督を継いだ武将と同じです。長男は息子2人にも通名しています。次男に最初の子の娘が生まれたばかりですが、男の子を授かったら通名するかもしれません。父親は、子を産み育てることは出来ませんが、名前を授ける事はできます。墓石にお賽銭を置き、手を合わせました。
その傍に、『寿々(鈴姫)之墓 岐阜城主・織田秀信公のご母堂』と謂れ書された墓石があった。秀信は、織田信長の嫡男・信忠の嫡男の幼名・三法師です。信長と信忠が本能寺で討ち死にし、織田政権の今後を話し合う清州会議で、柴田勝家は信長の三男・信孝を推し、羽柴秀吉は三法師2才を推した。
岐阜城主で関ヶ原合戦で西軍に与した秀信は、敗戦で高野山に追放され、さらにそこの追放された。密かにここに埋葬されたと来迎寺の過去帳に載っており、信忠の側室ながら嫡男・三法師を産んだ母は、ここで父と子の菩提を弔ったとされている。
母・寿々は、摂津源氏流れの塩川氏の娘という説が有力ですが、息子の亡骸を父・森可成の墓の隣に作るなどこの事実を見ると、森可成の娘説の方が有力な気がする。信長が最も信頼した森可成であれば、嫡男の室に入れても不思議はない。秀信の墓石は特定されていないが、寿々姫の隣にある五輪塔であるという説もある。僕の歴史好きに新たな1ページが刻まれた。
そのお墓の後ろに歴代住職の墓と思われる無縫塔が並んでいました。境内に池があり金魚が泳いでいた。バシャと大きな音が出たので、鯉もいそうです。縁側に素敵な生花鉢が置かれ、寺宝を見たくなりました。ここは観光寺ではなく、寺宝を見るためには予約が必要です。
サルスベリが白い花を咲かせており、形の良い松など、お金を掛けて手入れされている。寺への参道脇の石垣は、近江の穴太衆本拠地近隣地なので、素晴らしい穴太積みになっていた。
バイクに戻り、R161を北上。「苗鹿3丁目」交差点で枝道に入り、5:57「那波加神社(なはか)」。『祭神は天太玉命(あめのふとだま)。太古この地に降臨し、天智天皇7年(668)英社。垂仁天皇の皇子「小槻氏」の始祖「於知別命(おちわけのみこと)を祀る。老翁となった天太玉命の農事を助けるため、鹿が現れ稲の苗を背負ったので、「苗鹿(なはか・のうか)」の社名・地名となる。延喜式に名を連ね、天台宗の根本法華経を護る守護神として信仰されている』
再びR161に出て北上。堅田「仰木口」交差点を右折し、湖岸方面へ。6:15「天台宗・妙盛寺」。その隣に「神田神社」。『湖族祭で堅田っ子金管バンドクラブが演奏します』と掲示されている。『祭神:鴨玉依姫命(賀茂御祖神社御分霊) 往古、この地は京糺の森・賀茂御祖神社(下鴨神社)の御厨として栄え、諸祭礼に漁産物の新撰の供御を行ってきた。天暦3年(949)堅田西の切の氏宮として、分霊を勧請奉祀された。神紋は下鴨社同様「双葉葵」である。新撰供御人行列という堅田の行事として、葵祭に鯉・鮒寿司等の献饌を行っている』
この地で造船業を営み、琵琶湖観光船の建造をした知り合いがいますが、代々ここの住民で湖族の末裔の方です。先祖は、琵琶湖南湖と北湖を区切るように西と東の岸が狭くなったこの地は、交通の要衝で、琵琶湖の水運を握り、日頃は漁業に従事しながら、時には海賊まがいのことをしたり、戦乱時は与力したりした。少し「浮御堂」に近づくと、『本願寺奮址・本福寺』があった。蓮如・実如という浄土真宗中興の祖が、比叡山を追われ一時ここで布教したことから、「奮址=旧址」と彫られているようです。
6:31「浮御堂」。観覧時間前だったので入れなかったから、横の道を湖岸まで出てみた。沖にはバスボートが数隻出ていて、釣りをしていた。
「伊豆神社」に向かう途中、堅田の風情に溶け込んだ「岡本医院」という医院を見つけ緊急停止。とても感じが良い。その横に「都久生須麻神社」があった。どう読むのか閃いたのが「いつくしまじんじゃ」の当て字。現代人より学力が低かった昔は、漢字の意味より音が優先され、故意に非故意に当て字され現代に続いている地名などが多い。
これは、「つくぶすまじんじゃ」と読み、琵琶湖北湖に浮かぶ竹生島で浅井比売命を祀る「都久夫須麻神社」と対になっているらしい。湖賊として琵琶湖の制海権を握った堅田衆が、竹生島の祭神を勧請したものと想像した。制海権を形にしたものでしょう。
竹生島同様「弁財天」が祀られていた。湖岸まで行け、岡本医院の敷地も湖岸まで伸びていた。湖岸は小さな公園になっており、手入れされた芝生が広がっている。私設のような桟橋があり、船も繋がれている。岡本医院さんは、生活する家として最高のシチュエーションです。
芝生まで降りると、別の桟橋が見え、『湖族船競争会場』と垂れ幕が下がっている。地元の子族末裔達の覇を競う大会日のようで、準備されているようだ。6:43、一休和尚修養地「祥瑞寺」。ここもサルスベリが満開。路地を走ると「堅田源兵衛之首」と書かれた「浄土真宗大谷派・光徳寺」があり寄り道。『蓮如上人の御世、堅田に源右衛門という漁師がいた。上人に帰依し無二の信者だった。文明3年(史実では寛正6年1466)上人は祖師の御影を三井寺に預けて廻国する。同12年に山科本願寺を建立の際、この御影の返却を求める。しかし三井寺は生首2つ持って来ねば返さぬと難題を突きつける。源右衛門は、倅の源兵衛の首を打ち落とし三井寺に持っていった。自分の首と合わせ受け取ってくれと言った。三井寺は感心して御影を返した。上人は歌に曰く「あひがたき教へを受けて渇仰のかうべはここに残りこそすれ」』
源兵衛の墓石があり、『御首級は本堂に安置 拝観ご希望の方は、庫裡までお申し出ください』と書かれていた。
6:50「伊豆神社」。『祭神:大山祇命・賀茂玉依姫命 寛平4年(892)草創。宇多天皇寛平年間諸国行脚の法性坊尊意僧正により、三島明神分霊を勧請した。村上天皇天暦3年(947)山城加茂大神を勧請し、神田大明神伊豆大権現の2神を祀り、堅田大宮と奉称され、堅田全域の総鎮守として崇敬されてきた。当社を中心に、宮座(自治組織)があり、殿原衆と全人衆の会議制で運営された。主祭神は大山祇命で、御神徳は農林・鉱業・海運・漁業・酒造等海運の神。当社奥に、伊豆の霊石、幸運を呼ぶ石がある』
湖族衆本拠地の総鎮守だけあって、周囲に堀が切られている。当時は浮島として軍事拠点にもなっていたのでしょう。「幸運を呼ぶ石」は、ハート型をしていました。『霊石を擦ると幸せになる。また恋しい人・逢いたい人にその想いが叶う』
ということなので、家内・息子達家族の幸せを願いながら擦りました。堅田の枝道をキョロキョロしながらゆっくり走り、R161に合流。
7:15、「セブンイレブン琵琶湖大橋西口店」で、ブルガリアヨーグルトブルーベリー3種138円+フルーツ10種類ヨーグルトフルーツミックス162円=300円で朝食にする。毎晩プレーンヨーグルト450gを食べて寝るので、僕の体はヨーグルトで出来ている。
R161を北上し、「小野」に入り枝道に逸れ新興住宅地を登って、7:23「唐臼山古墳」。『石棺が露出し、県内に3例しかない規模なので、大和朝廷の官人のものと想像され、被葬者は小野妹子と伝承されている』。
大きな古墳で、琵琶湖が一望できる。古墳上には「小野妹子神社」があった。『外交・華道の祖神 祭神:大徳冠位小野妹子命 推古朝の廷臣。607年、聖徳太子が随と外交を開くに当たり、遣隋使となり国書を持って渡海する。それには「日出ずる国の天子、日没する国の天子に書をいたす」と記され、大国隋と対等の外交交渉を開き、日本の力を海外に示した。今も外交官・駐在員の参拝が多い。また妹子は華道の創始者として、今も「池の坊」によって免許の授与が受け継がれている。社殿は古墳上にあり、裏の石垣の跡は、妹子の墓・唐臼山古墳である』
南側に展望台があり、琵琶湖大橋から遠く大津・瀬田まで見える。古墳の周囲は新興住宅地になっている。
住宅地内を適当に走り、GPSに見えてきた「小野道風神社」に7:41着。『神社本殿は流造形式が多い中、小野神社飛地境内社「道風神社本殿」は全国的にも稀な切妻造・平入本殿で、県内重文としては、小野神社境内社「篁神社本殿」と近隣の「天皇神社本殿」を合わせ3棟のみです。正面桁行3間・側面梁間2間・前面に1間の向拝。小野神社は延喜式に名神大社として記載され、道風神社は小野神社の南500mに鎮座します。南北朝時代・暦応4年(1341)の建築。平面は、前方1間を外陣、後方1間を内陣とし3室に区切っている。切妻破風や桁隠の懸魚(げぎょ)、軒の茅負(かやおい)、向拝廻りの部材・縁、脇障子廻、外陣正面側の建具は後世の改造を受けていますが、内部は建立当初の姿をとどめ、唐草彫刻を持つ向拝柱上の手挟も当初の材となります。
祭神:小野道風(894〜966)は、平安中期の書家で、小野篁(たかむら)の孫に当たります。藤原佐理(すけまさ)・藤原行成(ゆきなり)とともに「三蹟(さんせき)」と呼ばれ、和様の書の基礎を築いた人物』
『書道・学問の神 祭神:小野匠守道風命 父は大宰大弐を勤めた葛紘(くずお)。醍醐・朱雀・村上3朝に歴任。柳に飛びつく蛙を見て努力し、文筆の極致に達し、日本三大文筆、三蹟の1人として文筆の神と崇められている。書風は、これまでの中国書風を放れ、穏やかな整った和様、日本的な書の典型として長く後世まで尊ばれている。また、菓子の体型を創造されたことにより、匠守の称号を賜られ、菓子業の功績者に匠・司の称号を授与する事を勅許されていた。菓子の匠・司の免許は現在絶えているが、老舗の屋号に匠・司が使用される事は現在もその名残である。匠。司称号が祭神から出ていることを見ても、遠く祖神が饗を作られた小野一族からの継承が窺える。小野神社の祭神が、我が国の文化・特に華道・菓道の創生発展に努力してきたか知ることが出来る。建物は旧国宝・現在重文』
旧国宝の本殿は、柱に虫食いの跡が無数にあるものの、蟇股に獅子の彫刻が入っていたり、ユニークな感じを受けた。国宝指定が切れ保存資金が少なくなったのか、保存状態が良くなくなったから重文に降格したのか、ちょっと残念な感じがする。
小野道風の兄に、小野好古がいる。クーデター「天慶の乱」を起こした藤原純友を鎮圧する追捕将軍として西海に打ち破った。
少し北に走り、7:53「小野神社」。『篁卿の歌 百人一首11番 承和6年正月「京なる人につかはしける」小野篁38才 『わたの原、八十島かけて漕ぎ出でぬと、人には告げよ、海人の釣船』 大海原に隠岐の島に配流されるが、私は青天白日であるから漁師の釣り船の如く悠然として、身も心も達者であることを都の人々に伝えよ。
小町は、父である篁に答歌している。承和6年正月「おきのみやこでしま」小野小町15才 『おきをいて みをやくよりも わびしさは みやこでしまの わかれなりけり』 身を焼くように悲しく、侘びしく心細く、不安であるのは都と島の別れです。 文学的手法を超えた切実さがあり、和歌史上の傑作で、小町においては歌壇デビュー作であろうか』
『小野神社は、延長5年(927)完成の延喜式神明帳に「小野神社二座名神大」とあり、日吉神社と並ぶ官幣大社であった。現在の社殿は江戸時代に再建された。祭神は5代天皇孝昭天皇の第1皇子・天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)とその7世孫・米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)。米餅搗大使主命は、応神天皇の頃、日本で最初に餅をついた餅作りの始祖で、現在はお菓子の神様として信仰を集めている。
この神社は、小野妹子・小野篁・小野道風などを生んだ古代の名族・小野氏の氏宮である。推古天皇の代に小野妹子が先祖を祀って創建した。平安時代、小野篁(802〜852)の時、同族が小野神社に集まって氏神を祀ったことは「続日本後紀」に詳しく載っている』
『小野小町 平安前期の女流歌人で、本名小野吉子。系図によれば小野篁の孫とされるが、年齢的に娘とする学者もいる。天長3年(826)〜昌泰3年(900)。篁が隠岐の島配流から召還され本位に復した承和9年(842)17才で宮中に入り、文徳天皇の更衣であった。当時の有名歌人と親交があり、上級女官として長年宮中に仕えた。
寛平8年(896)71才で正四位上に叙任し、昌泰元年(898)73才の時、醍醐天皇の宣旨により雨乞い歌を献歌し、2年後に没した。彼女の歌は、後輩の紫式部ら王朝女流文学の草分けとなった。
小町はこの歌からも美女であった事がうかがえる。『花の色は、移りにけりないたずらに、わが身世にふるながめせしまに』』
『小野神社 祭神:天足彦国押人命・米餅搗大使主命 古事記によれば、天足彦国押人命は、5代天皇・孝昭天皇と尾張国連(むらじ)の娘・余曽多木比売との間に生まれた第1皇子で、春日・大宅・栗田・小野・栃木・大坂・安濃・多岐・羽栗・都怒山・伊勢・飯南・一志・近江の国造の祖である。
日本書紀によると、大和和邇の祖であると記されている。
大和朝廷成立以前この地において、大阪府・京都府・奈良県・三重県・愛知県・滋賀県の広い範囲を統治していた王族であり、諸国に多い小野の地名・氏族の発生地・祖神でもある』
『学問・使節の神 小野篁神社(祭神:参議小野篁命) 平安前期(802〜852)、 834年遣唐副使を命ぜられ、836年に出発。しかし暴風雨にあって、断念する。838年再度副使を命じられたが大使藤原常嗣との折り合いが悪くなり渡唐を取りやめる。この時、「西道謡」を作って遣唐役を風刺したため、嵯峨上皇によって隠岐の島に蟄居される。3年後許され帰京、昇進を重ね参議・従三位となる。「参議」は太政官の官名、政務審議の構成員で大・中納言に次ぐ要職。漢詩文に優れ勅を奉じ「令議解」の撰進に参加している。篁の詩は「経国集」「和漢朗詠集」「扶養集」「本朝文粋」に収められ、和歌は「古今集」に6首、「篁日記」は後人の作で、篁の歌を中心とした歌物語である。野相公・野宰相と呼ばれている。社殿は祭神の古墳上にある。建物は旧国宝、現在重要文化財である』
小野神社の境内に、小野篁神社も同居しており、それぞれの本殿が並んで建っていた。『重文・小野神社境内社篁神社本殿 小野神社は、小野妹子の出生地で、篁神社は小野篁を祀る。本殿は室町前期に建てられ、三間社切妻造に1間の向拝が付く。切妻造平入本殿は遺構が少なく貴重です』
社務所は無人でしたが、御札やお守りなどが書類棚引き出しに入れられています。無料の近隣マップ+小野神社謂れパンフ50円+セーフティードライブステッカー300円を授かり、横のスリットに初穂料をチャリン。バイクに戻り、早速リアボックスにステッカーを貼ります。
境内前に「ムクロジ」の巨樹があった。『茨城県・新潟県から四国・九州地方・沖縄県にわたり自生する落葉高木。庭園木として植栽され、特に寺社に植えられる。種子は数珠や羽に使われる。このムクロジは、胸高周囲4.19mで県下最大である』
道路に、特徴のある種子が多数落ちていた。小野神社参道入口横にある「上品寺」へ。周辺の観光案内板が立っており、歴史ある小野地区の寺社・古墳・遺跡が多数載っていた。傍らの石柱道標には、「餅祖神・小野神社」と刻まれていた。
上品寺は、承和14年(849)小野篁が開基した天台宗のお寺です。境内には無邪気な表情・姿の稚児地蔵が数体置かれ、見ているだけで心が和む。新しい観音像が門前にあったが、表情が可愛らしくウエストのくびれがナイスで、良い感じでした。観音様や弁天様は、もっともっと魅力的な方がいいよ。
湖西の旧街道を北上し、r311で西に入る。8:24「天皇神社」。『全国的に稀な切妻造・平入本殿。正面(桁行)3間・側面(梁間)2間・前面に1間の庇(向拝)。正面中央間と右側面を平軸構板戸展開とし、屋根の勾配が著しく緩い点が、他の2棟(小野篁神社・小野道風神社)と異なる。康保3年(966)創建で、元は和邇牛頭天王社(わにごずてんのう)と呼ばれていたが、明治9年改称。現本殿は、正中元年(1324)建立。向拝廻り全ての部材・縁、脇障子、外陣正側面と内陣の建具、切妻破風と縋破風(すがるはふ)は後世の改造となるが、外陣と内陣に加え、内部彫刻を失っているが蟇股は建立当初の姿を留めている。江戸時代の延宝6年(1678)〜安政6年(1859)に10回の屋根葺き替えの棟札が残っている』
蟇股の龍の彫刻は、玉眼が入り生き生きとしている。木鼻の彫刻にも玉眼が入り精緻です。
本殿下に目をやると、日陰でシマヘビの子供がいました。カメラを構え近づくと、僕に頭を向けながら警戒態勢に入りました。更に近づくとニョロニョロと本殿下に逃げて行きました。久しぶりにシマヘビの子供を見ました。大人になると赤色の皮膚を失いますが、子供の頃は結構綺麗です。色はマムシににているので間違いやすいです。
r311を西進し、R477を少し北上して8:40「還来神社」。地図で見て「かくじんじゃ」と読むのかな?と思っていましたが、「もどろぎじんじゃ」だそうです。鎮守の森の巨木が目に入ります。これが巨大であればあるほど、このお宮を地元の方が守ってきた気持ちの強さを感じます。最近のエネルギー源は化石燃料ですが、かつては木材でしたから、鎮守の森の巨木は垂涎の的だったはずだし、建築素材として用途も多かったから、その需要から守るのは大変だったはずです。
本殿の蟇股の龍の彫刻に玉眼が入っています。変わった名前とともに、由緒が気になります。
『還来神社(還来大明神) 祭神:藤原旅子 祭神は、50代桓武天皇の皇紀で、53代淳和天皇の生母、太政大臣・藤原百川(ももかわ)の娘。往昔、この龍華の荘は藤原氏の食邑地で邸宅がありました。旅子はここで生まれました。長じて、比良の南麓・最勝寺の開祖・静安に随侍仏に帰依し、蓮華夫人と呼ばれた。静安勅を奉じ、しばしば宮中に参候し、仏名会を行った。この時、才色兼備な旅子が桓武天皇に召し出される。53代淳和天皇を生み、その後京都西院に隠棲し、延暦7年(788)逝去する。病重篤の時、「わが出生の地、比良の南麓に梛の大樹あり、その下に葬る可し」と遺命され、従者畑丹波守により祭祀された。「出生の地に還り来た」というので、「還来」と名付けたのが当社の起こり。
後年、平時に乱に敗れた源義朝一行は、八瀬・大原を敗走し、この還来神社に辿り着き、白羽の鳴鏑矢を献上、武運長久を祈願する。後、源氏の頭領として君臨した頼朝は、この還来大明神を忘れ難く、神田を寄与する。
故郷に還り来たれるとの当社の由緒に鑑み、その後、日清・日露の戦いに参戦する人、この社に参拝をなし、無事帰還を祈願する。太平洋戦争に至っては、多数の参拝者の行列が毎日続いた。最近では、海外派遣・海外旅行等の無事帰還を祈願する人が多い』
ここも無人だったが、御札500円を授かった。後日、御札をバイクのリアボックス内に貼り付けた。
R477を南下し、r47に乗ります。交通量が少なく、のんびり走れます。8:57「八所神社」。鎮守の巨杉が天をついている。社務所には、大写しされた祭りの写真が飾られている。流鏑馬神事も行われているようで、近在では有名な神社なのでしょう。
『創祀は白鳳二年九月と伝えられる。天智天皇が大津宮に遷都の際、随従の朝臣平群飛鳥真人が此の伊香立を食邑地として賜った。真人は祖先である天大吉備諸進命を氏神と勧請し、社殿を造営した。後年この真人の後裔平群兼房が天照大神、伊邪那岐命、伊邪那美命、大山咋命、市杵島姫命、倉稲魂命、崇神天皇と七柱の大神を合祀した。このため八所大明神と称するようになった。
元亀二年信長が比叡山焼打ちした際、坂本日吉神社の称宜生源寺宿禰行丸が日吉山王の御神璽を奉じ当社に避難したが、此の神社も類焼したので、行丸は再び北船路へ避難した。この際焼亡の社殿は逸早く復興したが、日吉神社の復興は遅れたので、行丸は当社に仮殿を設けて山王七社の神を祀り、山王祭を斎行された。この縁由に依り日吉の神大己貴命、白山菊理姫命二柱の分霊を本社に祀り、元の御祭神を境内社として祀った。明治四十五年菅原道真公を当社に合祀された』
r47がここから細くなり、9:06「新知恩院」。特筆するところはありませんでした。
9:13「融神社」。ここに来てみたかった。何故かって・・・中世の宮殿女官を始め多くの女性を虜にした小説「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルが源融だからです。美男子で仕事もできるモテモテ男だったに決まっているもの。肖りたいものです。
『52代嵯峨天皇・18皇子・源融公を祀る全国唯一の神社。融公の荘園で、宇多天皇・寛平年間に閑居賜いし旧跡で、朱雀天皇天慶8年(938)に祠を建て、鏡一面を御神宝として融公を祀ったことが当社の始まり。寛和2年花山法皇が近江巡行の時、社殿を造営し正一位融大明神と崇称せらる。一条天皇、永延2年南庄の水田百町歩を神領とされ、歴代天皇奉幣されるが、鎌倉時代以降次第に衰微し廃絶する。南庄・谷口・家田・三村の産主神となった。元亀2年信長の比叡山焼き討ちにより焼失。天正7年社殿を再興し神領を奉遷された。寛政8年社殿火災により勅書・神宝焼失。翌年社殿再造営され現在に至る。嵯峨の清涼寺、宇治の平等院などは公の別荘であった。公は、小倉百人一首「陸奥の、しのぶもじずり、誰故に、乱れ染にし、我ならなくに」の詠み人でもある。後の世に紫式部は、光源氏の名で源融公をモデルに源氏物語を作った』
『源融(みなもとのとおる)が現在の社地に閑居を設け、そこに一面の鏡を埋めた。その後伊香立の荘官がこの鏡を掘り出して神璽とし、源融を才人として祀ったのが始まりとされる。源融は平安時代初期の公卿で、父は嵯峨天皇、源氏の姓を受けて臣下にくだった。源氏物語の光源氏のモデルとも言われ、小倉百人一首には河原左大臣として「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに みだれそめにし我ならなくに」の歌が残る』
r47を南下し、r315を経て、雄琴ICから湖西道路に乗ります。滋賀里ランプで下車し、京阪石山坂本線に沿うr47を南下します。近江神宮の前で左折し、近江神宮道路でR161に出て、10:00合宿所に着きました。部員たちが、合宿所の周りを掃除しています。ファミリーデイで親御さん達がたくさん来られるので、少しでも綺麗にしようとしています。
「11時に、ヨットハーバーの艇庫の方に来るんだよね」と部員に聞くと、合宿所の方に集合だそうです。雑草を引っこ抜いていたキャプテンSくんのところに行き、あ〜だこ〜だ話す。
2Fに上がると、大部屋がいつもより随分綺麗になっている。僕の荷物を置くのが申し訳ないけど、バイク用プロテクタージャケットとパンツを脱ぎ、持ってきたモンベルのTシャツをラッシュガードの上に、バミューダパンツをスポーツタイツの上に重ね着してスッキリする。
3回生Kくんがやってきて、タイムスケジュールを教えてくれる。僕は最初の挨拶をして、13:30からヨット試乗なので、その時レスキューボート要員になるそうです。16:00に終了し、ハーバー解散だそうです。
大部屋の床に座り、朝コピーした資料3枚をホッチキスし60部作り出す。女子マネージャーに手伝って貰おうと思っていましたが、食事の準備で忙しそうで諦めました。半分ほど終えたところで、雑草退治部隊が作業を終えたようで2Fに上がってきました。2回生Iくんを捕まえて、手伝ってもらいました。キャプテンSくんが上がってきて、「この資料は親御さんに渡すんですよね。じゃあ、受付で渡していいですか」と提案され、そうしてもらうことにしました。
部員たちは、合宿所の他に、艇庫で試乗艇を艤装するグループ、駐車場誘導グループ、駅からゲストを運搬する車班に分かれています。10:30から、最寄り駅・JR大津京からのピストン輸送が始まり、親御さん達がやってきました。
ゲスト50人オーバー、部員60名で大部屋は満員です。テーブルをたくさん出し、各テーブルにお茶やジュースのボトルとコップを置き、適当に飲んでもらいます。親御さんが来られている部員は、親とセットで座ります。
11時になったので、ファミリーデイ隊長のKくん司会で始まります。まずはキャプテンの挨拶。続いて僕です。自己紹介し、親御さんが最も心配なヨットというスポーツの安全を話します。男の子を持つ親のもう一つ心配な点である食事面と生活リズム面を整える体育会クラブに入ることの優位さを話します。
僕の用意した資料で、勝利を目指す体育会の真剣なレース中のことを知ってもらい、これも用意し回覧させてもらっている写真により、琵琶湖周航・5年毎の琵琶湖遊覧船を借り切るヨット部周年記念クルージング・冬のシーズンオフを使った大型ヨットでの大阪湾クルージング・ヨット部卒業後のクルージングやレース活動を見てもらいます。
僕の挨拶が終わり、11:30になったので食事が運ばれて来ました。カレーと野菜と1品・・・キャプテンからいつもの「今日のメニューは?」の問に、3回生マネージャーSさんから「カレーと・・・」。僕のテーブルの親御さんは、「美味しいですね。週末こんな食事を食べていると思うと安心します」とお母さんの本音が出ます。食事しながら親子の歓談が始まります。
13時を過ぎたので、Kくんから「ヨットハーバーに向かいますので、第1陣の親御さんはご用意ください」の言葉があり、僕もバイクで艇庫に向かいます。親兄弟の来ていない部員が、こちらでずっと用意していたようで、「腹減った〜」と言っています。「もうカレーないよね」「まだいっぱいあるよ」なんて会話が合宿所からやってきた部員との間で交わされています。
ここから、親御さんに試乗してもらいます。部員が出艇し、僕はマネージャー数人と共にレスキューボートに乗り、親御さんとその息子・娘部員2組を乗せます。他にインフレータブルボートも出し、ヨットに乗らない親御さん達は観覧船に乗ります。親子ワンセットでヨットに乗り換え、ヨット体験します。マネージャーや1回生の操船技術がまだイマイチな部員は、上回生と共に乗ります。
3m/sほどの試乗会に丁度よい風が吹いておりラッキーでした。ヨットから降りてきた親御さんは皆さん大喜びです。予定通り進み、16時にハーバーバックし、集合写真を撮ります。最後に、キャプテンからお礼の挨拶があり、解散です。多くの親御さんと話ができ、有意義な日になりました。
僕はバイクで合宿所に戻り、バイク装束に着替え帰路に着きます。夕立が落ちてきそうな雲が出ていますが、夏なので濡れてもかえって気持ち良いかもしれません。
湖西道路に乗ってから、ガソリンが少なくなっているのに気づきました。家までは十分持ちそうですが、大渋滞などがあると気持ち的に余裕がなくなるので、京都東ICにそのまま乗らず、R1に入り、16:52「エッソ京都東SS」で給油。
269km/11.72L=23.0km/L。前回29km/Lなんて、4気筒としては驚異的な燃費になったので当然ですね。
京都東ICから名神に乗り、東山からの下りで少し雨が落ちてきました。スクリーンに雨粒が付く程度でしたが、京都南ICに近づくと路面がたっぷりと濡れています。大雨が降った後のようです。
17:18「桂PA」。バイク置き場に入れると、先客バイクは濡れており、ジャケットが干してあります。グッドタイミングで雨の中を走ったようです。「ガリガリ君ソーダ味75円」で涼を取ります。
バイクに戻り出発すると、先客バイク・カワサキのリッター以下バイクさんもやってきて、僕を追うように出発。80〜90km/hの僕と同じような速度域の方で、混雑具合で60〜90km/hで車線の選択の具合で僕が先に行ったり抜かれたり、楽しく走れました。
中国道豊中ICで下車し、帰宅。お休みの家内がいません。バイク装束を片付け、ヨーグルト食べてゴロリとしていると、7時過ぎに家内が帰ってきました。買い物などに出ていたそうです。5時前に家を出たそうなので、僕の帰宅とタッチの差だったようです。

2017/7/30
お盆が2週間後に迫り、家内は隣の実家の掃除をする日だという。法事でお寺さんややってくるので、弟一家がやってくるのが恒例です。長男一家はアメリカ在住なので帰省しませんが、その分次男一家が長い帰省期間を取ってくれます。僕は、恒例の法事後みんなで行く場所の選定など遊び担当ですが、主婦はお三どんや家のクリーニングで大変です。
でもまあ、次の日曜日もあるので、午前中は映画に行く予定にしました。土曜の朝、家内が新聞を見ながら「君の心臓を食べたい」と言う映画が面白いんだって・・・と映画紹介記事を伝えてくれた。「じゃあ、明日行く?」「うん」。
この映画は、本屋大賞上位だった小説の映画化です。本屋大賞をチェックしてて、変な名前の小説だなあと頭に残っていました。インターネットの上映映画紹介は常にチェックしているので、予告編を見て気になっていました。でも題名があれなので、家内に引かれるかなあと思い誘っていませんでした。渡りに船です。
4時に目覚め、会社に行き仕事をゴソゴソ。7時過ぎに帰宅し、風呂に入り朝食を食べながらTVを見ていると、「用意できた」と家内がやってきました。「え、もう行くの?」。映画上映開始は8:40なのに、まだ7:30です。8:15出発で良いと思っていました。駅前に出て用事をしたいということなので、8時出発に変更。慌てて着替えました。
朝は雨が降っていましたが、うまい具合に上がりました。通勤リード110にタンデムし、駅前に走り、そしてショッピングモール内の映画館へ。8時開店のスーパーを覗いていたから、8:35になっていました。
この映画、母校の高校に教師として勤務する主人公・小栗旬が、図書館の建て替えのための図書移動担当に指名されます。元図書係だったからです。久しぶりの図書館は、懐かしい姿のままで、同じ図書係だった同級生少女Aがいるように感じます。自分が十数年前に整理した蔵書ノートがそのまま使われています。
図書係達が蔵書の場所を探しているのに、的確に場所を伝える主人公。それに驚き、この蔵書ノートの作成者だと見破るBくん。そのBくんとの会話から、高校生時代のAさんとのことを思い出し、場面は高校生時代にタイムスリップする。病院の待合室で待っていた時、廊下に1冊の本が落ちているのを見つけた。拾って開くと「共病文庫」と言う題名。ブックカバーでわからなかったが、日記だった。1ページ目には、「私は腎臓の病気でもうすぐ死ぬ」と書かれていた。そこに「見たでしょ」と持ち主の少女Aが明るい声でやってきた。
彼女は同じクラスの人気者で気になっている存在。対して主人公は、できるだけ他人との接触を持ちたくない根暗な存在。ここからAさんからのアプローチが始まる。日記を見た罰として、あちこち引き回される。図書係に立候補してやってくるし・・・。ミステリーツアーで、新幹線で福岡への一泊旅行にも同行させられた。Aさんといつも一緒の美少女Cさんから、ライバルとして敵視されるし・・・。
体調悪化で入院したAさんから退院の連絡が入り、Aさんが見たがっていた桜を、主人公は北海道に観に行こうと誘う。思い出のカフェで待つが、ついに彼女は現れなかった。彼女とはそれきりになった。そんな思い出が展開される。
図書館の図書移動がそろそろ終わる頃、Bくんから「落書きされている」と見せられた図書カードには、懐かしいAさんの書いた絵が遺されていた。そのカードの図書を探す主人公。そこで見つけた彼女からのメッセージ。
1通は自分に、そしてもう1通はライバル視していたCさんへのもの。その日は、Cさん(北川景子)の結婚式の日で、彼女から招待状が届いていた。行くつもりなく無視していたけど、一目散に結婚式会場へ。
Aさんは、みんなの中で生きていきたいと言っていた。そして、Cさんと仲良くして欲しいと言っていた。Cさんの結婚する相手は、同じ同級生で根暗な自分に唯一声を掛けてくれていたDくん。
新婦の控室で、Aさんへのメッセージを読んだAさんは泣き崩れる・・・。Dくんは相変わらずいつもの表現方法で主人公と接する。自分への最後のメッセージに、いろんな疑問に答える彼女の主人公に対する心境が綴られていた。
それから根暗な自分が少し変わった。若い図書係のBくんは自分に似て根暗。でも彼に時々ちょっかいを出してくる少女がいる。またちょっかいを出してきた。「彼女は君に気があるんじゃないのかな?」それを聞き振り返り「また明日」と彼女に言う彼。
素晴らしい映画で、またいっぱい泣いちゃった。ゆっくり気づかれないように隣の席の家内を見るが、スクリーンを一心に見つめていました。僕も中学時代、ドクターストップでサッカー部を辞めてから図書係だったので、そんなことからもこの映画に共感しました。僕は好きな人と夫婦になり、一緒に暮らすことが出来てなんて幸せ者なのでしょう。
次に川西能勢口に向かいました。目的地は阪急百貨店。お盆に義理兄夫婦の家で会う孫くんへのプレゼントです。今年の3月生まれで、うちの2人の孫(昨年4月生まれ・昨年7月生まれ)と同級生になる子です。初めて会うので楽しみ。ベビーへのプレゼントといえば、昨年NHK朝ドラで有名になったファミリアが定番です。Tシャツを予定していましたが、お盆にプレゼントなのですぐ秋になり、本格的に着てくれるのが来年になりそう。可愛く、少しかっこいい長袖の春秋用にしました。
別のお店で、家内が少し前に新聞で見つけていた「阪急電車Tシャツ」を見つけました。孫4才は電車好きで、東京に住んでいたので、こちらに帰省した時阪急電車に興奮していました。落ち着いたマルーンカラーの渋さを見極める感性を持っており、全国の電車の中で一番好きな電車だったからです。このTシャツは、前に先頭車両が描かれ、後ろまでつながって客車が描かれています。前向きと後ろ向きを並べると、繋がったように見えます。
でも、同じコンセプトの黒字に鮮やかに描かれた新幹線の方を買いました。9月にアメリカの行く時のプレゼントなので、アメリカ人でもわかる新幹線の方が良いかと思いました。2人の孫用と長男用にも3枚買いました。お嫁さん用も考えましたが、お洒落なお嫁さんなので着ないかもとパス。少し大きいけど、長男用を着てもいいし。どうせ家内がいろいろお嫁さん用の化粧品などのプレゼントを持っていくだろうし・・・。12:36バイクに戻る時、180円のかき氷を食べました。
ブイーンと14時頃帰宅し、遅い昼食を食べ、庭の草刈りに勤しみました。家内は実家の掃除です。8耐が気になりながら、TVも見ました。ネットで見た途中経過は、ヤマハがトップで、3連勝する勢いです。
TVで外国人から見た日本のビックリをやっていました。「券売機の妖精」は、駅の券売機横の呼び出しボタンを押すと、券売機の横のカバーが開いて駅員が出てきて説明してくれる。自販機のカバーが開いて人が出てくるのにビックリするそうです。
「点字ブロック」は日本発だそうで、そもそもない国も多く、あっても剥がれていたり、穴が空いていたり、直線になっていない、点字ブロックの上に植木が置いてあるなんて国も多いそうです。日本は綺麗に一直線に設置され、よくメンテナンスされているのに驚くのだそうです。
「新幹線7分間の掃除」は、東京駅など終点駅で繰り返される車内清掃の早さ・手際の良さに驚くそうです。これは、清掃員だけではなく、乗客の汚さない・ゴミを床などに捨てない姿勢にもよると。
日本女性・日本男性の魅力を紹介していました。日本女性は、専業主婦率が高く、家事が丁寧で料理が上手いということでした。街頭で包丁でりんごの皮むきしてもらうと、外国人女性の誰一人、りんごを包丁でくるくる向ける人はいませんでした。りんごの皮むきなんて必須で、僕だって皮を切らずに1個剥けます。アメリカ映画などで、料理が雑だなあと思っていましたが、これほど差があるとは知りませんでした。長男のお嫁さんは料理が得意なので、向こうで脅威の目で見られているかもしれません。
夕方になったので、通勤リード110にタンデムし家内と買い物に出ました。ヨーグルト他食材を購入しました。ビールが並んでいる棚の前に、キリンビールノンアルコールビール「零ICHI」が6本パックで盛られていました。「これ新しいの、飲んでみたいな」というので、バラ売りを買いました。
ノンアルコールビールは、アサヒ・キリン・サントリーを飲んだことがあります。宴会の席では、アルコールが飲めないのでフルーツジュースがいいのですが、ビールしかない席があります。こんな時はノンアルコールしか選択肢がありません。数種類置いてあることはまずないので、注がれたビールで乾杯だけして、後は置いておきます。ビールの苦い味が好きではないので。3社の中では、ダントツにサントリーが僕の口に合いました。他の方の声を聞いても、サントリーが美味いという方が多いと思います。
長男は、キリンビールではありませんが、キリングループ会社に勤めているので、家内はキリンを応援しています。果たして美味いのか?帰宅後早速飲んでみました。以前のよりは美味しいと思うが、フルーツジュースには程遠く、ノルマの缶ビールの半分をなんとか飲み干しました。味はビールより少し薄いもののほぼ同じで、お腹が膨れ、ゲップも出ました。家内は、「顔が赤くなるかなあ」なんて心配していますが、アルコールなしなので、それはありませんでした。
NHK大河ドラマ中、風呂上がりに食卓で家内とおしゃべりしていました。21時からNHKスペシャル「列島誕生」を2人で見ました。大陸から分離した日本列島は、最初平地ばかりの島でした。ユーラシアプレートに太平洋プレートが沈み込み、南からやってくるフィリピン海プレートとの3つのプレートがぶつかる位置にあるので、その圧力を受け、幾つものカルデラ噴火があり、紀伊半島などの山岳地帯が出来ました。
圧力により熱せられた巨大マグマが、圧倒的な広さの規模で噴出したのです。古座川の一枚岩・那智の滝を含め紀伊半島の数ヶ所に点在する巨大岩を線で結ぶと、C字になり、これが太古のカルデラ跡だそうです。
北への流れだったフィリピン海プレートが、西への流れである太平洋プレートの影響を受け、少し西向きに流れを変えたことで、ユーラシアプレートの端である北日本は西に30km引っ張られ、東日本は海の底から陸地になり更に2000m級の山に隆起した。北アルプスは、隆起が進行中だそうです。
とても興味をそそる番組でなんとか最後まで見ましたが、もう目はショボショボで、すぐにバタンキューで1日を終えました。

2017/7/23
コーチしてる大学ヨット部の練習に参加します。翌日から前期テストなので、半日練習です。前日の天気予報を見ると、14〜15時に1ミリの雨マークです。難儀やなと思いましたが、夏なので降られても平気なので、バイクで行くことにしました。
4時前に目が覚めましたが、あ〜だこ〜だ少々し、ラッシュガード・スポーツタイツの上にメッシュプロテクター上下を着ます。マイ・ライフジャケットは着たら暑いので、ヨット部で借りることにします。
4:48、「里山VTR250」で出発。R171〜中央縦貫道を走り、4:54「エネオス・中環豊中SS」で給油。174km/3.54L=49.2km/L。吹田から名神高速に乗り、大津IC下車。
r18〜r102で、5:47「膳所城跡」。琵琶湖・瀬田川に面した江戸時代に作られた平城です。徳川家康が天下を取り、東海道の要衝・大津を抑えるため大津城を廃して新たに天下普請で作った。縄張りは、藤堂高虎です。対豊臣・大坂城としての性格も持ち、山陽道を抑える姫路、山陰道を抑える丹波篠山、伊勢街道を抑える伊賀上野とともに、包囲網の一翼を担った。
「大坂の陣」に敗戦した場合、一旦退却して陣容を整えるため、伊賀上野城と彦根城を予定していたらしい。両城をつなぐライン上にこの城が位置し、地形学上でも最重要の城といえる。現状は城址公園になっているが、遺構らしいものは見当たらなかった。
『四高桜』の説明板がありました。正和16年4月に、第4高等学校(現金沢大学)ボート部が琵琶湖で春合宿中、高島沖で比良颪に遭い11名の部員を失った。その遭難地に「四高桜」1000本を植え、その後にこちらにも植え、碑を立てたそうです。
近江大橋が目の前を通り、琵琶湖最南端の瀬田川が始ま地にあります。瀬田の唐橋の北側です。この付近の瀬田川はボートのメッカで、各大学ボート部の艇庫が並んでいます。築城された当時は、堆積物もずっと少なかっただろうから、四面を琵琶湖に囲まれた城だったのだろうと想像しました。
r102・瀬田川沿いを下り、6:07「本多神社」。膳所城主だった本多氏の4柱を祀る神社です。徳川四天王・本多氏に繋がり家系かと思ったが、親戚筋では有るだろうが、徳川家康時代以降に別れた家ではなさそうでした。
曲がりくなって旧道を大津に戻ります。6:20「膳所山三味院光源寺」。6:24「県社篠津神社」。『祭神:素盞嗚命 古くは牛頭天王と称し、膳所の産土神。室町時代にはここに鎮座していた。大津円満院門跡・常尊法親王や、覚淳親王有栖川家の尊崇篤く、鳥居や額など寄進されている。膳所城主・戸田・菅沼・石川・本多家からの崇敬も長く続き、社領22石の他、社殿の修復も本多家で時々行われた。重文指定の表門は、膳所城北大手門で、旧藩主の信仰を偲ぶ縁となっている』
『篠津神社表門 明治3年(1870)膳所城取り壊しの際に移された。高麗門形式で屋根は本瓦葺きで、本多氏の立葵紋が見られる。扉は内開きで、縦格子・腰部横板張り、脇門を付けている。高麗門形式は、背面に特色が有る。正面の主体部から両方に袖のように直角に屋根が出ている形式で、城門に多く用いられている。桃山時代の城門の1つ』
6:35「県社膳所神社」。『祭神:豊受比売命 天智天皇が大津京に遷都の際、この地を御厨所と定められた。天武天皇6年、大和国から御食津神を奉還し、大膳職の御厨神とされた。慶長年間、大政所・豊臣秀頼・徳川家康などが尊信され、数々の神器の寄進があり、東山天皇は膳所大明神の宣下をされた。膳所城主・本多氏の崇敬篤く、社領の寄進や社殿の造営が度々行われた。表門は、旧膳所城・城門で、重文指定されている』
『膳所神社表門 旧膳所城二の丸より本丸への入口にあった城門で、明治3年(1870)膳所城取り壊しの際に移築された。棟筋と扉筋が同一垂直面にない薬医門で、城門として多く用いられる。屋根瓦に本多氏の立葵紋が見られ、桃山時代の建築物として貴重。脇に潜戸を付け、頑丈な造りで城門の貫禄を持っている。対象13年(1924)重文指定』
境内から北に、滋賀県トップ校「膳所高校」の校舎が見えている。ついでに膳所高を見に行く。西に「清徳院」が隣接し、ここの屋根瓦にも立葵紋が入っている。大津高校の横を通り「福正寺」。6:56、ずっと訪問したかった「義仲寺」。平安時代末期、後白河法皇からの命を受けて、信州で挙兵し北陸から京都に攻め入り平氏を追いやった木曽義仲でしたが、後白河法皇と不仲になってしまった。法皇からの宣旨を受け続いて京都に上ってきた源義経軍と戦い、ここに敗れた。その墓があるのが義仲寺です。
『史跡義仲公・芭蕉翁墓所 義仲寺』。松尾芭蕉のお墓もあるのですね、知りませんでした。『義仲寺境内 源義仲を葬った塚があり、室町時代末期、佐々木六角氏が建立したと伝わる。門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。「木曾殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉門人・又玄(ゆうげん)の作です。境内には芭蕉辞世の句「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」などの句碑があります。また巴御前を弔う巴地蔵堂もあります。昭和42年(1967)国指定の史跡』
入ってみたかったが、朝早いので門は閉まっていました。ここで時間切れ、ヨットハーバーに向かいます。r18〜R161で、7:04「琵琶湖疏水・取水口」。湖側に目を転ずると、右岸は貸しヨット・ボートの松原ヨットクラブ、左岸に木造艇庫が健在だった。
桜マーク内に「三」の文字が書かれており、「旧制第三高等学校ボート部の艇庫」だったことを今に伝えている。ナンバースクールと呼ばれた戦前の高校、現在の大学です。「一高」は現東大、二高は東北大、三高が京大で、四高が金沢大学です。
現京大ボート部の艇庫は、先程の瀬田川に移ったが、その昔「琵琶湖周航の歌」が作詞作曲された当時はここで活動していた。作詞作曲者は、現役の三高ボート部員でした。扉は廃屋同様になっていますが、朽ち果てることなくしっかり建っており、三高マークのペンキは数年前に塗り直した感じがします。
京大同好会神陵ヨット部の艇庫で、以前は活動していたのですが、現在は部員がいないのかな?今年、「琵琶湖周航の歌100周年」記念行事が、滋賀県で盛り上がりそうなので、発祥の地でもイベントがあるのかな?前滋賀県知事・嘉田さんや、現大津市長・越さん2人の女性政治家が盛り上げているような事を聞く。
R161を北上し、7:17「セブンイレブン大津松山町店」で、「プレミアムフレッシュバナナ3本入り213円」を購入。ヨットハーバーにバイクを入れ、みんなに挨拶して桟橋のコーチボートへ。メッシュプロテクター上下を脱ぎ、ラッシュガードの上に次男のお嫁さんから父の日プレゼントで貰ったモンベルTシャツを着る。スポーツタイツの上からモンベル短パンを履いて、少し涼しくなる。朝食のバナナを1本いただく。
艤装を終え、8時集合。ストレッチ・深いストレッチ・腕立て伏せ・腹筋・腕力アップ・サーキットトレーニングと、いつものトレーニングを済ませ、ブリーフィング。全日本インカレ予選まであと2ヶ月なので、これからの練習の仕方などを話す。
出艇し、ロング帆走練習。続いてスタート・レース練習。3・4回生艇はもちろん、2回生艇の一部も、かなりスタートが上手くなっている。三井寺からの風(SW)3〜4m/sがコンスタントに入り、良い練習になった。両クラス、3分間隔でスタート練習を繰り返したが、コーチボートに乗ってる女子マネージャーと1回生部員が、すぐにルーチンを理解し、僕の指示通りマイクでアナウンスし、テキパキと練習できた。
11:30、練習を終え、クルーとスキッパーを交代してハーバーバックするよう指示。8m/sほどの良いブローが時折入ってきて、楽しそうだ。コーチボート上では、女子マネージャーが良いアングルにドライブし、もうひとりの女子マネージャーがビデオを回していた。
12時に着艇し、解装中切りの良いところでブリーフィング集合してもらった。監督は合宿所に戻りミーティングに参加するそうだが、僕は午後また大津を巡ろうと思う。スタートが上達したことを話し、安易なリコール(フライング)がまだあることと、マーク回航の基本アプローチを話す。
コーチング中着ていた釣りメッシュチョッキを脱ぐ。釣り用はポケットがたくさんあり、三種の神器を入れている。ホイッスルがないと、練習を指揮できないからね。プロテクター上下を着て、艇庫を後にして、R161を南下する。道なりにr18に乗り、12:52「義仲寺」。開いてて良かった。拝観料300円。
境内の説明をいただいた。『山吹供養塚 義仲の正室。病身のため京にあったが、義仲に会おうと大津まで来たが、義仲敗死の報を受け、自害したとも捕らわれたとも言われる。元大津駅前に塚があり、改築のためこの地に移された』
木曽義仲と言えば、「巴御前」が超有名ですが、それは武者として義仲と戦でも行動を共にしていたから。正室は、木曽の里に預けられた家の娘でこの人。巴御前に対抗し、自分も婦人部隊を指揮し、義仲軍に随行したと小説には書かれている。この2人の女性をこれほど惹きつけた魅力的な義仲に、僕は惹かれる。
『義仲寺 昔この地は粟津原と言われ、寿永3年(1184)征夷大将軍・木曽義仲公はここで敗死した。その後、年を経て1人の尼が来て、公の塚に侍してねんごろに供養した。里人は訝しみ、その有縁を尋ねるが、「名もなき者」と答えるのみだった。この尼こそ巴御前の後身で、そこから無名庵とも巴寺とも呼ばれるようになった。佐々木候が木曽公を護持するため当寺を修復した。
元禄の俳聖・松尾芭蕉は、木曽公の心情に同情し、無名庵に滞在した。大坂で死去された時、近江義仲寺の義仲公の墓の傍に埋めよと遺言された。無名庵は、芭蕉翁の死後、高弟により代々我が国俳諧第一の聖地とされてきた』
芭蕉の杖が展示されていた。伊藤若冲の天井絵もあった。こんなところで若冲に会えるとは・・・
『巴塚(供養塚) 木曽義仲の愛妻・巴は義仲とともに討死に覚悟で粟津野に来たが、義仲が強いての言葉に、最後の戦を行い敵将・恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕らえられた。和田義盛の妻となり、義盛戦死後尼僧となり、各地を巡り当地にしばらく留まり、亡き義仲の菩提を弔った。その後いずれかに立ち去り、信州木曽で90才の生涯を閉じた』
木曽義仲の小さな塚の上に宝篋印塔が立っており、小奇麗に整えられていた。翁堂という佇まいの良いお堂があります。この天井絵が伊藤若冲作だそうです。代名詞である精細画とは違う天井絵ですが、こんな所に足跡を遺しているとは思いませんでした。
その裏に「保田興重郎墓」がありました。存じない方だったので帰宅後調べました。『明治時代の文芸評論家。マルクス主義からドイツロマン派に傾倒し、大東亜戦争を正当化し、戦前は戦線拡大を扇動する論陣を張った。戦後公職追放に遭いましたが1960年代後半から復権した。思想は戦前同様一貫していた。明治以降の神道の国教化(国家神道)には疑問を呈し、上古の神道と異なると評した。キリスト教のように布教する宗教ではなく、自然に根ざしたもので、信仰の強制=皇民化には反対した。大東亜共栄圏の侵略の方便に神道が使われるのに、祭政一致の観点から嫌悪感を示した』
僕も、神道は強制されず、経典も教えもないただ自然崇拝を形にしたものとして気に入っている。
次何処に行こうか地図を見ていて、「岩間寺」が目についた。R1〜R422〜r106を経て、山道に入っていきます。枝道に「奥宮神社」と書かれていたので、そちらに入ってみた。舗装が荒れだし、コンクリート舗装になり勾配が急になった。途中から更に勾配が増したので、危険が危ないと思いUターン。
もとに道に戻り、13:42「岩間山正法寺」。昼食としてバナナを1本食べる。「入山拝観料500円」と書かれていたが、本堂で払うようになっている。『白姫竜神 開山泰澄大師が、加賀の白山で修行中、白馬に乗った妻女に会った。「白山妙理大権現である」と言われ有難く感じた。大師は当岩間山に白姫龍を勧請された。女人がこの神を崇めると美女に成ると伝承されている』
そこから眼下に展望が広がっていた。『岩間山正法寺(通称岩間寺) 真言宗 本尊:秘仏千手観世音菩薩立像 創建は養老6年(722)越前生まれの泰澄大師が、時の女帝・44代元正天皇33才の厄年の病気を法力により治された褒美に勅命により建立。本尊は、当地の桂の木より刻んだ千手観音像で、胎内仏として元正天皇より賜った千手観音をこめた。現在の本尊は、その元正天皇の御念持仏・千手観音立像で、丈4寸8分(15cm)、三国伝来ノエンブダゴン(インド・エンブ川より取れる砂金)の金銅仏で通称「汗かき観音」「雷除観音」「厄除け観音」と呼ばれる。汗かき観音とは、日没とともに厨子を抜け出し、毎夜135地獄を駆け巡り、苦しむ衆生を済度し、明け方お帰りになる。時には汗びっしょりになられることに由来する。
また大師が七堂伽藍建立の際、度々雷が落ち堂宇をことごとく焼失した。困り果てた大師は、自らの法力で雷を捕らえ、仏弟子にしたところ、雷は2つの約束をした。「当山に参る善男善女には雷の難を及ぼさないこと」「岩間山に千年万古つきることのない水を湧かせること」。これが雷除け観音の由来。境内には、雷自ら爪で掘ったという「雷神爪堀の霊泉」があり、現在も絶えることがない。元正天皇の「湧き出ずる 岩間の水は いつまでも つきせぬ法の み仏のかげ」が伝えられる。後白河帝・後宇多帝・正親町帝など歴代の天皇の尊崇篤く、日本三大霊場の1つとして隆盛していた』
大師堂があった。『泰澄大師 白鳳11年(682)越前生まれ。俗姓は三神氏、父は安角、母は伊野氏。幼少の頃より神童で、常に十一面観音を念じ、僧侶となってからは荒修行をし、その名声は早くから中央に知られていた。大宝2年(702)鎮護国家法師になり、養老6年(722)元正天皇病気平癒のため、奈良の都に来た。同年、加賀白山を開く途上、元正天皇の勅命で、当山を開く。神護景雲元年(767)86才でこの世を去る。弘法大師 真言宗の開祖。宝亀5年(774)〜承和2年(835)』
久しぶりに4文字元号を見た。4文字元号は奈良時代の聖武・孝謙・淳仁・称徳天皇(重祚)の期間、俗に言う天平時代にのみ使われた年号で、天平が付かない唯一の4文字元号です。2文字以外は天平時代の4文字5つのみです。
『稲妻龍王社 当山護法善神で、この銀杏の大樹に住む。水を司り、雷難・水難を除き大魔から護り給う』
ガマの草がバケツにたくさん採集されていた。法事に使うのかな?
『不動堂 寛政・文化・昭和年間に再建を繰り返しているが、虫害ひどく現不動堂は平成5年に再建。不動明王・二童子像(平安中期・重文)。不動明王は、大日如来の使者、または大日如来が教化し難い衆生を救うために、恐ろしい姿をとる。二大童子は、不動明王の使者八大童子の1つ。薬師如来坐像(藤原期)阿弥陀如来坐像(藤原期)』
小さな池があった。これが捕らえられた雷が約束した湧水が絶えない水源かと思い謂れが書かれて石碑を読むと、『芭蕉の池(発祥地) 古池や蛙飛び込む水の音。観音霊験記によると、俳聖松尾芭蕉が山の観音を信仰して参籠し、供養塔を立てた。たちまち霊験を得、この名句が出た』
本堂があったので、拝観料500円を払いに行く。商売っ気がなく、「ああ、拝観料ですね」とお坊さんがチケットをくれた。払いに行かなければ催促されることもなさそうです。天井にいろいろ下がっていた。
泰澄大師が、自ら桂の木から彫ったとされる本尊。それ故桂の大木が霊木とされていた。「これより90m桂谷大樹:現在も山内には多くの桂の大樹が存在しますが、最も樹勢が旺盛で、千年有余の歴史を現代に伝える大樹。桂の大樹群としては日本随一」「奥宮神社ここより10分」の案内板があった。
13:56、そちらに歩き出すと、「上醍醐寺」の案内板もあった。そうか上醍醐寺の東に位置しています。尾根道で行けるのかも?「護法善神遥拝殿」があったが、20mほど下るのでパス。遥拝が望む所に桂の大樹があった。『東海自然歩道 左:東笠取を経て喜撰山・天ヶ瀬ダム 右:石山寺5.5km・岩間寺0.1km』
上醍醐寺への分岐があった。『奥宮神社・琵琶湖展望台』の案内板が立っている。少し先を歩いていったカップルが戻ってきた。あれれ・・・とその先を見ると、完全な山道になっており、ハイヒールには厳しそう。
山道を抜け、人工物が見えてきたが、別荘地でも分譲したのだろうか、朽ちた擁壁が悲しい。14:13奥宮神社。案内板の10分では無理で20分と書いておくべきだろう。
日曜の午後なのに社務所は開いていない。こんな山頂に有る細道急坂経由の神社は、訪問する人は僕のような物好きだけだろう。岩間山山頂の電波塔とさほど高度が変わらない。琵琶湖一望展望台からは、瀬田川とその流域の狭い耕作地が見下ろせる。思いっきり北に目を向けると、琵琶湖瀬田と近江大橋が見えた。
ベンチに座って、水筒から水を呑む。500ml入りの小さな水筒ですが、ヒップバッグに入れていても邪魔にならないし、氷満タン+水道水で家を出れば、1日冷たいお水に有りつけるので重宝している。これは姪っ子に教えてもらい、ホームセンターに買いに行ったものです。まだ紫陽花が咲いていた。
境内に戻ると、『右:立木観音道50丁 左:石山観音道38丁』の石柱が立っていた。1丁は109mなので、立木観音まで5kmですね。バイクで立木観音に行ってみよう。
バイクに戻り、脱いでいたプロテクターメッシュを着る。R422に下り、瀬田川沿いを南下し、15:01「立木観音P」。さあ登ろうかと石段に取り付くと、「石段800余段」の案内板を見てしまいUターン。道なりに瀬田川右岸がr3になり、京滋バイパス「南郷IC」から高速に乗ろうとしたら、「大阪方面には行けません。笠取ICへお回りください」と書かれており、Uターン。
更にr3を走り、笠取ICから高速に乗りました。京滋バイパス〜大山崎JCTから名神高速〜吹田から中国道に乗ります。天気予報の14〜15時雨1ミリは外れて良かったなと思いながら走っていると、豊中丘陵を西に下るところで小雨が落ちてきました。1ミリには程遠いですが、西風・南西風の時は、よく雨の降る場所です。
六甲山から大阪平野北部に下った風がこの丘陵に当たり吹き上がります。南西の場合は、大阪湾からの風が吹き上がる時に、湿度の多い時は飽和水蒸気量を越えて絶えきれず雨になってしまいます。同じく生駒山で吹き上げられた風が東大阪に雨を落とすのと同じ原理です。
16:17帰宅。家内はまだなので、洗濯物を取り込み、最後のバナナを食べる。そして風呂。これでスッキリしました。おやつとしてプレーン・ヨーグルトを450g食べ、冷凍庫で冷やしていたポンジュース氷をクラッシャーに入れて自宅かき氷でクールダウンします。
TV点けてそのまま昼寝になってしまい、門扉が開く音で飛び起き、家内より前に玄関に取り付き「おかえり〜」と開けました。お蕎麦を作ってもらい食べながら本日のお互いの出来事を報告し合います。弟と義理妹に会ったんだって。
「モヤモヤさまーず」を見て、家内が寝てしまったので、僕もお休みの時間になります。プレーンヨーグルト450g持って寝室に上がり、「NHK大河ドラマ女城主直虎」見て寝ちゃいました。

2017/7/16
家内もお休みの日でした。2週間前の2人共お休みだった日曜日、大阪市内をサイクリングしましたが、信号待ち後の発進で車に追突され、家内が怪我をしました。スポーツタイツが破れ膝を擦りむいただけですが、まだ擦り傷が治りきっていないのでサイクリングは自重です。
いつものように4時頃目覚め、あ〜だこ〜だそていましたが、7時になっても家内が起きてきません。「これはおかしいぞ」と階下に降り、家内の寝室に忍び込んで添い寝しました。「うう〜ん、今何時」なんて寝ぼけた言葉が返ってきてホッとしました。突然いなくなるなんて嫌です。
お三どんを始めた家内に本日の予定を聞くと、「市中心部で用事」「メガネ屋」「次男のお嫁さんと、その娘の誕生日が7月だからプレゼントを買いにヨットハーバーへ」「食材の買い物」だそうです。僕はTVを見ながら、家内の破れたタイツ修理の縫い仕事をします。家内は買い換えるようなことを言っていますが、3cmほど破れただけだからまだ十分使えると思って。
10自前になり、僕は通勤リードでホームセンターに行き、B4コピー用紙を買いに行きました。ホームセンターはワンダーランドです。キャンプ用品売り場で、100円ライター仕様のジェットバーナーを買いました。お墓参り用線香火付けライターがそろそろ限界だったからです。お盆の次男一家の帰省のために、おもちゃ売り場を見に行くと花火が売っていました。孫・すみれちゃんは今月1才なので、線香花火が売っていればと探しましたが、セット物ばかりでパスです。スマイルマーク付きの軟球があったので、10:19これを購入。
帰宅すると家内が用意できていました。僕の修理したばかりのタイツを履き、ミニスカートを重ね着しています。まっすぐな細い脚が魅力的です。「いや〜いいね〜、またまた美人さんになってるわ〜」、口で言うのは無料なので、イタリアーノな僕は、軽口を叩きます。「しょうがないわ、生まれつきだから・・・ほら見て、破れたとこ目立たないよ。ありがとう」。僕は食事もあれもこれも、家内にお世話になりっぱなしなので、気付いたら洗濯物干し程度は手伝います。その程度のことしか出来ないのに、いつも「やってくれたの、ありがとう」と必ず「ありがとう」と言ってくれます。スポーツするわけではないのにタイツを履いたのは、僕の修理への感謝の気持ちからです。素晴らしい女性です。
通勤リードにタンデムし、市中心部に出て家内の用事を待ちます。目の前に千鳥屋さんがあったので、和菓子でも見ようと入店。カウンター内を見ていると、店員さんが、お店の代名詞・千鳥饅頭1/4と冷たいお茶を持ってきてくれました。「どうぞ」、ただの冷やかしなのに恐縮しちゃうな。食べないのは失礼なので、美味しくいただきました。お茶が、少し日本茶と違う。
お盆法要で、次男一家と弟一家がやってくるから、和菓子でも出そうかな?と下調べでした。水ようかんはどうかな?黒豆ゼリーが美味しそう・・・なんて見ていると、家内が戻ってきました。少し残しておいたお茶を、「これ美味しいよ」と飲ませました。「お茶を冷水で出したら、こんな味になるのかな?」なんて話している所に、「どうぞ」と家内用にまた同じセットを持ってきてくれました。「このお茶は・・・」日本茶ではありませんでした。
「今日はバイクだから持って帰れないから、またお盆前に買いに来ますね」なんて店員さんと話していると、家内が「この黒豆ゼリーは、どれぐらい日持ちしますか?」なんて聞くと、「ご予約できますよ、早く売り切れてしまいますから」なんて言う。「お茶いただいたのだから何か買ったら?」なんて家内に促され、黒豆ゼリーと水ようかんのセットを予約しました。これで手持ちのお金が2000円になっちゃいました。
次はメガネ屋さんです。r13を南下し、阪急塚口駅前のダイエーの「メガネの愛眼」へ。家内が先月買ったメガネのレンズ交換です。遠近両用メガネを新調したのですが、少し暗いところでバーコードの数字が見にくいのでレンズ交換してもらうそうです。6ヶ月間なら無料交換してくれるのだとか・・・。
仕事帰りに、トイレに行きたくなりダイエーに入ったら、トイレの前に「メガネの愛眼」があり、いつものダイヤモンドシティ内の愛眼さんと大違いで空いてたので、相談し買ったそうです。話を聞いていると、遠近両用レンズの使い方を説明され、「じゃあ、これで様子を見ます」なんて流れになってる。「交換する」と言ってたのに、気の優しさから自分の気持ちを引っ込めようとしてる。ここはちょっと強めに助け舟を出そう。「でも今仕事で困ってるのに、なんで道具に合わせなきゃならないの?すぐに快適にならなきゃ」と悪役に徹して強めに言うと、「そうですね、では試着されますか?」「そうだよ、合わせてみてもっといいのがあれば交換すればいい。なければそのままでいいし」。ということで試着コーナーへ移動していきました。
僕は暇なので、同じフロア内をウロウロ、愛眼に戻ってきてあれこれ・・・「ハズキルーペ」という商品を展開していました。メガネ型になってる虫眼鏡で、遠視用ではなく単なる拡大鏡ですが、これがなかなかの拡大率で新聞の小さな文字がバッチリ見える。1.6倍と1.32倍があるようで、レンズサイズが3サイズ。眼鏡の上からでも掛けられるようになっている。僕はたまに虫眼鏡にお世話になるので、これはいいぞ。お値段1万円で、これは売れそう。
「ごめんね、遅くなっちゃった」と戻ってきた家内に「これいいよ」と教えると、TVでよく宣伝してると逆に教えられました。
次はヨットハーバーです。五合橋筋線を南下し、R43を西進します。甲子園球場横を走ります。やたら車間距離を詰めて来るお爺さん軽四が後ろに着いたので、事故の危険を感じ車線変更して横を見ると、車間距離をめちゃ詰めたり開いたりで、運転がちょっと怪しい。
新西宮ヨットハーバーに着き、ヘリーハンセンショップで物色します。ヨットやってた次男は、入籍直前ここで夫婦おそろいのボーダーセーターを買っていました。お洒落なウエアがあるので、家内がお気に入りで、一昨年もここで何かを買って長男音お嫁さんお誕生日プレゼントにしていました。僕も近所のジブ本店でジブバッグをお嫁さんたちにプレゼントしたことがあります。姪の中学受験合格プレゼントにもしたし、孫用にライフジャケットを買い自宅に置いています。
かわいいデザインの速乾素材Tシャツがあり、家内が2人のプレゼントに買っていました。2万円手に持って「これをプレゼント包装してください」と言うと、お値段4000円台で、「え、2つで・・・」と驚いていました。セール中ですが定価でも7000円なのに、見ていなかったのかとビックリしました。僕は素材とお値段をまず見るけどなあ・・・。「安くて、得しちゃった」とニコニコで、包装袋もオシャレで大満足のお買い物だったようです。
お嫁さんたちは、「いつも世話になってばかりだから」と、東京旅費や伊勢旅行などプレゼントしてくれます。家内はお嫁さんたちが可愛くて仕方ないようです。まあその費用の出処は息子たちの稼ぎなのですが、僕の母親と家内との関係同様とても良好です。
一点鐘を覗き、ノースショップの知り合いと話しました。彼の長男は、中学受験し次男の後輩になりました。中1になったばかりなので、様子を聞きました。楽しくやってるようです。月1の頭髪検査で2度連続引っかかると、学校近所の散髪屋で強制散髪させられるのでそのことを聞くと、まだセーフだそうです。次男は一度強制送りされ、文句たらたら言っていました。
「Friandise」でお昼ごはんを食べます。家内は「Fランチ1080円」、僕は「スノーアイス・いちごラズベリー650円」。ここのかき氷は超ふわふわでかき氷の感じがせずお気に入りです。家内に食べさせると「なにコレ、かき氷とは思えない。今までで一番美味しいかき氷だわ」と感動していました。去年は、フルーツ単品&練乳ジュースを氷にしてそれを削り、それに果肉を載せていましたが、今年のはちょっと違っています。練乳氷を削り、果肉が添えてあります。凍ったいちごとラズベリーが添えてありましたが、ナイスな味です。
「船に乗る?」と提案しましたが、「暑いし〜」で却下。僕も帽子やサングラスを持ってきてないから、本気じゃなかったんだけど・・・。お盆に次男一家と船に乗りに来ようかと提案しましたが、「すみれちゃんは何もわからないから面白くないよ、海に落ちたら大変だからお嫁さんが気を使うし・・・」と却下されました。長男一家と乗った時は、りょうくんが2才でステアリングを動かして喜んでいました。次男夫婦と乗った時は、まだすみれちゃんが生まれていませんでした。
14:25にYHを後にし、鳴尾浜に向かいます。「リゾ鳴尾」の温水プールに興味がある用で、外見だけでも見せようかと思いました。阪神高速湾岸線側道を走り、鳴尾浜へ。浮き輪を載せた車を見つけ、追跡すると難なく到着。駐車場渋滞が発生しており、夏のプールシーズンは激混みのようです。行くなら夏を避けて、温水プール狙いだな。
ついでに、14:46阪神タイガース鳴尾浜球場に寄り道します。ファン感謝デーをやって るのか、タイガースの選手もグランドにいます。オールスターゲーム期間中なので、ドミニカの独特の頭髪の選手も見えます。ユニフォーム姿の少年や少女がおり、お父さんから「何をアドバイスしてもらったの?」と聞かれている子もいます。
r13を使って帰宅します。買った荷物を置いて、すぐに食材補給買い物に出ます。近所の関西スーパーでヨーグルト他を購入し、あとは自宅でのんびりです。
ところが、隣の僕の実家に用意した室内干し器具が頼りなくて買い換えようかと言い出しました。主の両親は他界してしまったので、僕があれこれ片付けリフォームし、息子一家が帰省する時の家に使っていますが、生協さんの通販で買った室内干しアルミ物干しステイが細すぎて頼りないです。時々ジョイントが外れるので、僕が結束バンドで補強していますが、主婦としてはどうにも見た目と実用性に我慢ならないようです。自分が使うならいいのですが、お嫁さんたちが洗濯した時に使うので、義理母としてはかっこ悪いようです。
じゃあ買いに行こうか?「もっとしっかりしている、こんなのがいいの」と折り込みチラシを持ってきます。時計を見ると19:30。このチラシのお店は20時閉店だけど、ニトリのチラシも出てきて21時閉店になってるので、行ってみることにしました。
四輪を出動させ、20時前にお店到着。もっと良い感じで、もっと安価な2500円ほどのを買いました。ニトリもワンダーランドなので、手にしたキットを担ぎながら、アチラコチラ見ながら楽しくおしゃべり出来ました。楽しそうで家内の笑顔を見ているのがとても幸せです。

2017/7/9
コーチしている大学ヨット部の練習に参加します。地元伊丹市の天気予報は、14時を中心に一時雨ですが、大津市の天気予報は朝9〜20時まで雨です。バイクで行く予定にしていましたが微妙。
朝4時前に目を覚まし、しばらくあれやこれや。5時になり行動開始し、5:32出発。結局4輪で行くことになりました。まだ雨が降っていないのでバイクでも平気なのですが、ヨット部に寄付する書類棚・コルクボード・マグネット格子ライン入りホワイトボードを4輪に積んだままだったことを思い出したからです。
中央縦貫で吹田まで走り、名神に乗り、6:09桂PA着。トイレを済ませ、京都東ICで下車し、R1を大津に向けて走ります。逢坂峠を超え、R161に乗り換え、6:27「関蝉丸神社・下社」着。先月「上社」を訪問した時、山側の道を探索し、見つけられませんでした。
「逢坂1丁目北」と言う住所です。社名とともに「音曲芸道祖神」と彫られた石柱が立っています。参拝路に京阪電車の踏切があり、京阪電車が横切っています。その手前に、「関清水大明神」と彫られた灯籠が立ってる。湧水が湧き、地域の方に利用されていた名残りでしょう。踏切名はズバリ「蝉丸神社踏切」となっています。
踏切を渡ると石鳥居が立ち、境内舞台の向こうに本殿が見えます。右手の手水舎は、手入れされていないまま放置状態です。蝉丸神社はよく手入れされている印象でしたのに、関蝉丸神社はイマイチになり、ここは放置。この差は何なのだろう。隣の家?元宮司さんの家の屋根にはブルーシートが掛けられ無住の感じがします。
参道脇に、「せきの志三川」と彫られた石柱が立ち、石柱玉垣に囲われた井があります。上に小さな祠が乗っている。どうやらここが「関清水大明神」のようです。湧水を大切に守っている感じがします。現状はと覗くと、石組みが湿っているものの、湧水は貯まっていません。
摂社に「貴舩神社」があり、舞台を見ると、絵馬殿にも利用されていました。倉庫がある。蝉丸神社訪問日は、祭り1週間前で、虫干しで倉庫が開かれており、お宝の金ピカ神輿や、琵琶を拝見できましたが、この中にもお宝が眠っていそう。本殿の屋根にも築地塀にもブルーシートが掛かり、とても残念な状態です。きっと地元の氏子方は資金集めに奔走しておられるでしょう。我が家も地元氏宮本殿修理に寄進し、玉垣に名前を刻んでもらいました。阪神淡路大震災修復にも寄進したような覚えがあります。蝉丸神社は3社あるので、維持管理に多額の費用が必要でしょう。教科書に載るような有名な盲目の琵琶法師・蝉丸を祀る全国区の神社ですから、行政の支援があっても良さそうなのに・・・大津市にとっても貴重な観光資源でしょうに。
因みに、蝉丸神社が蝉丸が住んだ所で、蝉丸さんを祀っています。関蝉丸神社・上社は猿田彦命で、下社は豊玉姫命を祀っています。
『謡曲「蝉丸」と関蝉丸神社 幼少から盲目の延喜帝第4皇子・蝉丸の宮を侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。この世で前世の罪業の償いをすることが、未来への助けになるとあきらめた宮も、孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
一方延喜帝第3皇女・逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果まで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に引かれ偶然弟の宮・蝉丸と再会し、2人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は心を残しながら別れていく。と言う今昔物語を出展とした名曲が謡曲「蝉丸」である。蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かでないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることにされた。 /謡曲史跡保存会』
延喜帝は、延喜式で有名な延喜年号の帝・醍醐天皇のことです。
本殿横に、石灯籠があります。『重要文化財 工芸品・石灯籠(時雨灯籠) 六角形の基礎に単弁の蓮華座を彫り、その上に立つ竿の中ほどに蓮華と珠紋帯を作り、六角形の中台には花入単弁の蓮華が彫られている。六角形の火袋は簡素なもので、火口1ヶ所と小さな丸窓を設け、壁面も上部だけ連子を彫っている。六角形の笠も薄く、蕨手はよく古式をとどめている。最上部の宝珠と請花は後補。作成年代を示す銘文はないが、様式上鎌倉時代の特色を持った良い石灯籠』
R161を浜大津に向け更に下り、r47にチェンジ。京阪電鉄・石山坂本線が路面電車になっている。6:44、琵琶湖疏水取水口。ここから大津港に掛けてのこの周辺は、大津城址ですが、面影は殆ど残っていません。関ヶ原の戦いの時、豊臣秀頼の母・淀君の妹・初の夫・京極高次は、徳川方として籠城し、毛利軍15000を7日間釘付けにして敗戦開城した。結果的には負けましたが、その翌日の「関が原の戦い」に毛利軍は参戦できず、東軍の勝利に大いに貢献した。
明治時代の大土木工事「琵琶湖疏水」の取水口はここで、ここから京都までの水路が開かれました。東山にトンネルが掘られ、今見てもとても越えられそうにない東山を抜きました。東大時代にこの大工事の論文を書いた田辺朔郎青年(21才)が工事責任者となりました。水運とともに日本初の水力発電、この発電を利用した日本初の営業電車を走らせるなど、画期的な事業でした。
R161に出て、6:53「大津松山町セブンイレブン」で、「プレミアムフレッシュバナナ213円」と「伊藤園ミネラル麦茶151円」を購入。ヨットハーバー駐車場に入れ、ハーバー桟橋で朝食としてバナナを2本食べました。
ヨット部員たちがやってきて、みんなに挨拶。あまりに風が弱く、午前中は1回生の2人乗りヨット470級とスナイプ級の試乗会になりました。入部してからずっと、1人乗りで練習してきました。1週間後の週末に九州博多で開催される定期戦に出場する時、2つのクラスに別れて臨むためです。1回生が本格的にレース艇に乗り出すのは秋からですが、その前に1人で何処にでも行けるスキルを磨いておくために、助けの全くない1人乗りで練習します。
体操・ブリーフィング後、8:15に出艇しました。僕は、コーチボートに乗ります。レギュラー主力メンバーは、陸で来週のレースに向けての準備と整備です。1人1時間で両クラスに乗ります。どちらに乗りたいか既に決めている子が多いと思いますが、最後の確認です。女子プレイヤーが2名入部しており、彼女たちがトラピーズハーネスを着けるのを手伝いましたが、フィットベルトをみんなミニマムに締めないと身体にフィットしません。「細いなあ」と、2回生以上の女の子には言うのですが、まだ数度しか面識がないのでここは自重です。ちょっと役得しちゃいました。
12時にハーバーバックし、合宿所に帰って昼食です。「冷やしうどん」が美味い。総勢60名の食事を女子マネさん3人ほどで作っています。午後は、海上チームのマネさんと交代になり、2チームで裏方をしてくれています。選手からメニュー希望をアンケートしながら、量の多い栄養たっぷりの食事を作ってくれています。家庭の母親同様、頭が上がりませんね。
午後は13:15出艇です。1回生は1人乗り練習に戻り、主力メンバーの練習です。午後は雷雨予報が出ており、天気予報をチェックしながらの練習になりました。スナイプ級と470級を交互にサポートします。風が2m/sほどまでしか上がらず、スタート練習・レース練習をして、滋賀県南部から雷鳴が聞こえるようになり、15:30に練習を切り上げました。
曳航してハーバーバックし、僕は合宿所に引き上げます。6:56〜16:21、駐車料金300円。書類棚を洗っていると、怪しい低い黒雲が南から覆ってきました。余裕はあと15分かな?ハーバーで片付けをしているメンバーはまだ帰ってきていないので、雨に降られそう。
合宿所前の湖面で練習し、既に片付けを終えている1回生を捕まえ、棚とコルクボード、マグネット・ホワイトボードを下ろしたところでポツポツ来ました。片付けを終えたメンバーが次々に帰って来ましたが、強風が吹き出し、気温が下がり土砂降りの雨になりました。
シャワーを浴びてさっぱりしたメンバーが2Fに集まり、ミーティング開始。来週の遠征のことを確認し、僕の話。いつものように腹を空かした若者には申し訳ないが、2週間前のレースで起こった他大学の重大なルール違反「スポーツマンシップ」について話した。ミスに腹を立てたトップ艇上級生スキッパーが下級生クルーを蹴ってしまいました。この行為は、スキッパーの腹の虫を収めるだけの益で、クルーやクラブ全体に対する不利益は計り知れません。これで、今年のこの大学の全国制覇はないでしょう。
まずルールブックの該当箇所を、3回生Y君に読んでもらいました。競技ルールに先行する違反で、最もきつい罰則を伴います。この艇は失格になり、全日本への道が絶たれました。それ以上に、人生に大きなマイナスをもたらします。大学の体育会クラブは、勝利至上主義のプロ競技の世界ではなく、あくまでも教育の一環です。腹をたてることは誰にでもあることで、それを咎めるつもりはありません。しかし手を出したり罵声を浴びせたりしてはいけません。
僕の経験を話し、僕にヨットレースの勝ち方を教えてくれた僕のスキッパー、更にそのスキッパーの事を話しました。僕のスキッパーは西日本No1スキッパーで、僕と組んで全日本で、全レーストップフィニッシュしました。
僕はこの先輩と組んだ2年間、一度も怒られたことがありませんでした。ミスをしても、休憩時間やレース後に、温和のゆっくりした言葉で、しっかり教えてもらいました。この先輩がクルーの時組んだスキッパーも温和な方で、怒った顔を一度も見たことがありません。この2人はモントリオール・プレオリンピック日本代表ペアになりました。
僕は、2・3回生の時クルーでみっちり教えられ、先輩が引退した秋からスキッパーになり、その秋の一般全日本に出場しました。先輩も出場し、スキッパー同士で師弟対決になりました。先輩は1度トップフィニッシュしましたが、総合では僕の方が上になり、ナショナルチームに選出されました。恩を結果で返せたと思っています。
文部科学省のスポーツコーチプログラムを受講し、僕はヨットコーチ資格を有しています。その時の講義で、脳科学のことも習いました。痛みや恐怖から、人は最も緊急に逃れようとします。だから、罵声を浴びせると一時的には結果が出ますが、痛みとその競技が結びついて脳の引き出しにしまわれるので、次にその競技をする時、考える時「痛み」が思い出され、その競技を忌避しようという心理が働き、いずれ止めてしまいます。
歓喜や快楽は、反対の作用があり、長期的に競技力を向上させます。最近はプロ野球でも、練習での笑いやゲーム性を取り入れた快楽を取り入れています。これは脳科学の発達ゆえです。
練習中やレース中に怒りの気持ちになったら、勉強だと思い耐えること。そして、明るい言葉や穏やかな口調でミスを教えるよう考えるよう話しました。
最後に、僕の人生に大きなプラスになったこの考え方の効力を話しました。大学同級生の学部一の美人をゲットできたこと。その時の決め手の1つが「一度も親から怒られたことがない」ということで、4回生の時プロポーズしました。家内は叱られたことがないので、子供を叱らず、私も叱られたことがない、喧嘩のない家庭になったことを話しました。
部員たちは、恋バナなのでクスクス笑っていました。暴力事案の話なのでシビアな話になりがちですが、予定通り温和な雰囲気で終えることができました。最後に、「腹が減ってる時に長話してスマン」と頭を下げました。
Sキャプテンが、「食事出来ていますか?」の問いかけに、マネージャーたちが「はい」、僕は「当たり前だよね、長話だったもの」と声を発し、また笑いです。この日の夕食は、ハンバーグとピーマンにハンバーグの具が入ってるおかず、スープもついており美味しい。
美味しくいただき、キッチンに行ってそこにいたマネさんにご馳走様を言い、19:41帰路に着きます。湖西道路〜名神〜20:02、「桂PA」に入り、「ジャージー牛乳ソフト183円」で糖分補給しました。
20:18に出発し、中国道経由で20:55帰宅。家内は既に寝ていましたが、着替えが用意されており、風呂に入りヨーグルト持って自室に上がり就寝。楽しい1日でした。

2017/7/2
家内とサイクリングです。今回のお題は、「大坂城に行こう」で、メインディッシュは「渡船に乗る」です。
「用意出来次第出発」といういつものパターンです。6時前に自転車を2台、玄関から出して、規定の7気圧に空気を入れます。作業してたらポツポツと降ってきて空を見上げます。晴れ間も見え、六甲山にも雨雲が掛かっていないので、しばらくは大丈夫だがサイクリングを止めるかな?そう思いながら、「バイクで京都に行こうか?」と第2案を家内に提案する。「どっちでもいいよ〜、服装が変わるから早めに決めてね」との返事。京都の本を読み、行き先を考えていると天気予報が始まり、雨雲予想が出て、なんか大丈夫そうでした。「雨が降るなら夕方のようだから、やっぱりサイクリングしよう」と家内へ。
トイレで朝のお勤めを終え出てくると、家内の用意が整っていました。黒ランニングストレッチタイツにピンク系ミニスカート、同じくピンク系のサイクルジャージが可愛い。慌てて僕も黒サイクルカーゴパンツ+ブルーのサイクルジャージを着て出発です。
河岸段丘を下り猪名川を渡り、6:52伊丹空港北端で朝の飛行場を撮ります。猪名川左岸土手道を下ります。自転車歩行者道に白線表示されています。『ここは神崎川の合流点から5km・猪名川橋まで500m』の道標が横に立っています。国土交通省・猪名川河川事務所・園田出張所が今年立てました。
河川敷でヘリコプターを飛ばしている方がいます。ラジコン飛行機が飛んでいることもあり、楽しい道です。千里川との合流部に、鴨が数羽休憩しています。カイツムリが長い潜水から水面に出て来ます。7:33名神高速道路下で休憩です。日差しが差し、日陰が恋しい7月になりました。
7:42、土手道が阪急電車に突き当たり終わり、一旦河川敷に降りてくぐり、再び土手道に上がります。7:43、『神崎川まで1km・戸ノ内橋まで270m』。土手から降りる道をミスり、土手道で戸ノ内橋まで行ってしまい1km以上余計に走ってしまいました。
戸ノ内橋を渡り、ここから地図を見ながら適当に走ります。7:56『香具波志(かぐはし)神社 平安時代・天徳3年ご奉斎申し上げた宇迦之御魂(うかのみたま)神(穀物の神)・保食(うけもち)神(食物の神)が当社の始まり。後に天照大神(日照の神)・稚産霊(わかみむすび)神(結実と生産の神)・埴山姫(はにやまひめ)神(土地の神)をご奉斎申し上げ、香具波志稲荷大神として尊崇された。淀川水系・猪名川水系の川の港、中国街道の要衝として氏子地域が繁栄し始めた鎌倉時代には、住吉大神(海や河川の神)・八幡大神(海運の神)を併せてご奉斎申し上げるようになった。平成7年1月17日の大震災は、文政以来の拝殿・大鳥居はじめ境内社・神輿蔵・裏門・石灯籠全てが全壊し、倒壊を免れた表門・手水舎も大破するなど、甚大な被害をもたらした。一面が瓦礫の山になった境内を前に、何から手を付ければ良いか方途が見えない状態でした。氏子・崇敬者自身も被害を受けながらも、復興活動に尽力いただき、主要建物の復興を成し遂げた』
本殿が鉄筋コンクリート製になっていた。木造での再建は、費用面・材料面で無理だったのでしょう。『上田秋成寓居跡・加島鋳銭所跡』の石碑が立っていた。上田秋成は聞いたことがあるようなないような人物なので調べたら、「雨月物語」の作者でした。小説でも映画?ドラマ?でも見た妖怪物語です。「西行が保元の乱で崇徳上皇が流された白峯で、上皇の亡霊と会う物語」など数作品をオムニバスされた小説です。
自転車で来ると地理感が違いますが、「加島の交差点」に近いことと、鋳銭所があったんだということを知りました。大阪湾に近いことを考えると、渡来系の技術者が暮らし、銭を作っていたのでしょう。
境内に白いお狐さん像が数匹置かれています。『藤沢薬品工業(現アステラス製薬)大阪工場内の神社に置かれていた二対の守護狐です。当時・藤沢友吉商店は、明治時代に加島2丁目に大阪工場を設け、樟脳を生産していた。藤沢家は敬神の念篤く、御神木として祀られることの多いクスノキを材料にして製品を作っている等から、工場内神社を設け、天然記念物の大楠のあった当社の御祭神・伏見稲荷の御祭神・購入地の神様を合わせ「楠稲荷」として祀った。当社から毎年祭典に伺っていたことから、平成28年の工場閉鎖に際し、神狐を引き取った。守護神社名に因んで楠の枯木の傍らにお祀りしました』
神門前の楠の大木横に腰掛けた家内の所に戻り、藤沢薬品のこと、鋳銭所のことを話します。勝手に写真を写していると、「正面からは駄目よ、足が短く見えるじゃない。斜め上から写さなきゃ」と指導されました。
8:35、川を渡る橋だと思ったら、下を自転車道が走っていた。元河川であることは地形的に明白です。この下に川が流れているのかな?流路改修されて川がなくなったのかな?結果的にはこの道を走った方が楽しかったかもしれないが、8:47、R43伝法大橋で淀川を渡りました。R43を西にくぐってしまい、再び土手に上がり東に戻る時、屈んで自転車を斜めにしないとR43をくぐれませんでした。
「春日出商店街」を走り、「JRゆめ咲線」に出ました。この線路沿いに走ったら、目的地のUSJです。住友化学の工場があり、線路の向こうも住友化学で、両工場を結ぶ踏切もありました。この線が引かれる前から工場があったのかな?9:10「JR安治川口駅」。駅前に「新大阪郵便局」があり大郵便集積局のようです。ちょうど派手なJRラッピング車両が駅に着きました。集客力を高めているUSJアクセス線なので、ラッピングが似合います。
大きな貨物車両基地があり、ディーゼル貨物気動車「桃太郎」が長大なコンテナ貨車を引っ張っていた。9:17、「ユニバーサルシティ駅」。USJ直結道路をたくさんのお客さんが歩いていた。絶叫が聞こえてきて、見ると「フライング・ダイナソー」がループを走行していた。
キョロキョロ走っていると、渡船案内板を発見。9:22安治川渡船「キャプテンライン」ユニバーサルシティポート乗り場。チケット売り場窓口で、「大人2人・自転車も2台あります」と言うと、「はい乗れます」と1人700円。自転車は無料のようです。以前家内と次男の作品展を見たついでに、日本一低い山「天保山」と海遊館大観覧車に乗った時、この渡船に乗りたかった。ついに来ました。
同じ桟橋から、『落語家と行く、なにわ探検クルーズ」が出ていました。横の建物の上に鐘があり鳴っています。結婚式場のようです。渡船が海遊館側からやってきて着岸、僕ら以外は全員徒歩のお客さんで、一緒に乗り込む。係の方に何処に置けばいいか聞くと、手すりの場所を指定された。
10分の航海で、10:00海遊館到着。海上保安庁と水上警察の基地がある。キャプテンラインは、すぐに出ていきました。乗り込んだお客さんの多くは、USJの袋を下げていました。USJと海遊館はセットで楽しむのでしょう。船で移動も楽しいよね。ここまでは西宮から船で来たことがあります。チケットに、海遊館200円引き・大観覧車100円引き半券が付いています。
ここから、R172〜阪神高速6号大阪港線沿いを走ります。歩道が広く歩道内に自転車道もあり、安全に走れました。「ファミリーマート大阪プール東店」内でブレイクタイムです。家内はカップケーキ、僕はゼリーを食べました。
『道頓堀・中之島巡り・ぽんぽん船/一本松汽船』がありました。高速道路沿いから離れ、中之島に入り、11:23「地下鉄中之島」駅側のカフェで昼食にします。以前連れてきてもらったお店だと思うのですが、お隣の場所に変わっています。道を隔てた「リーガロイヤルホテル」で就職説明会があったのか、リクルートスーツの女子大生の集団がたくさん歩いており、僕らの前に1組8人程度がいました。11:30開店のようで、少し外で待ちました。
待っている間、お隣のレストランを覗くと、予約で満席になってるんだって。「BAR BANKS」のモーターボートが係留されている。バーはどこかな?橋の下をくぐるために背が低い遊覧船が走っていく。開店と同時に「FLOWERS」店内に入り、家内は「タコライス950円」・僕は「ハンバーグ1100円」を注文します。店内はすぐ満席になりました。ホテル帰り?のおしゃれなお姉さん5人様が、外の待合ベンチに座ります。お腹の大きなお姉さんが大きな花束を手提げに入れています。黄色のドレスのお姉さんの背中の腰の部分が少し見えている。僕はお洒落してる女性が好きです。「あの黄色のドレスの子がいいな」なんて話していると、「お父さん、嬉しいね〜」と家内が微笑んでいる。
12:04、精算してサイクリング再開。大阪城に向かって走ります。大阪市役所庁舎〜中之島図書館。数日前に過去の路線価を調べるのに、大阪中央図書館に行ってきました。こちらの方がずっと趣がある建物です。中央公会堂正面に、「馬渕教室・出陣式」となっていました。中学受験の正念場・夏休み前に、気合を入れるのでしょう。以前、家内とランチした「GARBweeks」が満席です。
「なにわ橋」を南に渡り、「大阪証券取引所」。NHK朝ドラ「あさが来た」で有名になった五代友厚像が健在です。二階建てバスが通過しました。天神橋筋を通過し、天満橋筋手前の交差点で、アクシデントが起きました。信号待ち後動き出した所で、家内が同じく動き出した車に追突されました。
僕は前だけを見ており気づきませんでした。駐車車両4台の前に出てバックミラーを確認すると家内がいません。歩道を走っているのかな?と止まって歩道側を見てもいません。歩道を戻ろうと走り出すと、家内が歩道を走ってきました。
走り出した所を追突されコケたそうです。降りてきたのは女性ドライバーで、すぐ立った家内は「大したことないです」と答え、別れたそうです。自転車の後輪に追突しただけで、何も壊れていませんが、タイツの右膝が破れ擦りむいていました。「お父さ〜ん」と叫んでくれたら気づいたのですが、相手の確認をしておくべきで、警察に届けるべきでした。歩道が狭く歩行者が多いので車道を走りましたが、いつも思うのですが自転車専用道とまでは行かなくても、路側帯をもう少し広く残して欲しいものです。都会をルートにした僕のミスです。
大阪城まであと500mですが、「私もう帰る」「家に帰ろう」ということになりました。12:44、自転車を「川の駅はちけんや」に停め、コンビニで水とバンドエイドを買って応急手当します。
『江戸時代、天神橋と天満橋に挟まれた大川南岸が「八軒家」と呼ばれた。京都と大坂を結ぶ30石船が発着する船着き場があり、淀川貨客輸送ターミナルだった。道沿いに旅籠や問屋が並び、喧騒に包まれていた。八軒家と呼ばれる以前は渡辺と呼ばれ、渡辺津を中心に平安時代から瀬戸内と淀川を結ぶ水上交通の拠点として栄えた。また熊野三山参詣道「熊野街道」起点でもあり、交通の要衝として古くから賑わった』
源頼光四天王筆頭の渡辺綱の本拠地で、僕の保育園からの幼馴染さんが、嫡家に嫁いでいます。手当している間に、水陸両用バスがやってきました。ここが発着所のようです。「大阪ダックツアー」。
天神橋を北に渡り、R1を西進し、御堂筋に出て北上し、13:13「曽根崎お初天神通り」前。大阪天満宮もお初天神もパスです。大阪阪急百貨店前から、横断歩道がないので行きたい方向に行けず迷っちゃいました。
「阪急中津」に到着し、輪行袋に入れ、14:07ホームに上がりました。宝塚線普通に乗り「蛍池」駅で下車。再度自転車を組み立て、伊丹空港〜R171で帰宅しました。
お風呂に入り、17:30活動開始。近所の公園内の公民館で兵庫県知事選挙投票し、川西阪急に通勤リード110タンデムで行き、お中元の手配をします。帰りに関西スーパーでヨーグルトなど食材を買って帰宅しました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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