-ウェブマスター日記 2017/5-6

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2017/6/25
コーチしている大学ヨット部の全日本学生個人選手権予選です。8:40若狭和田マリーナ出艇です。前日に続き、バイクで行きたかったのですが、天気予報は雨です。この日から梅雨らしいぐずついた天気が続くそうです。
仕方なく四輪で行くことにして、前日に用意をします。中国道〜舞鶴道で2時間、R173〜京都縦貫道〜舞鶴道で3時間、全線下道で4時間です。3時台に目を覚ましたので、全線下道も考えましたが、しっかりした雨音で心がめげ、少々ゴソゴソし雨音が収まった4時過ぎに家を出ました。
まずは4:22「伊丹産業セルフ川西SS」で給油し、R173を北上します。交通量が少なく、「一庫ダム」を過ぎると信号もなくなり、快適に走ります。「道の駅・瑞穂の里さらびき」を通過し、5:26よく立ち寄るR9との交差点にある「ローソン京丹波和田店」で、「助六寿司・399円」を購入。
R9を渡り、「京丹波みずほIC」から京都縦貫道に乗ります。相変わらず霧雨が続いているので、制限速度70km/h規制されていました。しばらく1車線でたまに追い越し車線が現れる高速道路なので、後ろを気にしながら+10で走る。後続車に追いつかれますが、交通量が少なく僕の後ろに1台だけで気持ちが楽でした。「綾部JCT」で舞鶴道に乗り換え、東進します。「大飯高浜IC」で下車し、r16で海岸線に出てR27を少し東進します。懐かしい「若狭和田海水浴場」の松原が見えてきたので、枝道に入ります。もう雨は上がっています。
6:26「若狭和田キャンプ場」。子供たちがチビの時、何度も海水浴・キャンプしに来ました。中学生になった長男に頼まれ、キャンプ用品と友達3人を乗せ、キャンプの送り迎えをしたこともあります。浜に出て、懐かしい風景を写真に収めます。
砂浜の海水浴場を挟んで、キャンプ場と漁港があり、漁港の隣に「若狭和田マリーナ」があります。漁港裏をマリーナに向けて走ると、鳥居を発見し立ち寄ります。6:34「新宮神社」。『創立:康治2年・紀元1803年(西暦1143)紀州熊野より勧請 祭神:伊佐那美神(殖産興業・子安)・速玉男の神(漁船安全守護神)・事解男(コトトゲヲ)の神(和平楽土守護神)』
伊耶那岐命が黄泉の国に行ってしまった伊耶那美命を追いかけて、「見てはならないと」言われたのに見てしまった伊耶那美命の変わり果てた姿を見て逃げ帰った時生まれた神です。3柱を祀っているようですが、生んだ伊耶那岐命がおらず、ちょっと変な組み合わせだと感じました。
境内に大きな神輿庫があり、本殿前に巨大御神木が鎮座しています。『高浜町天然記念物・ムクロジ、樹高21.4m・幹周り2.8m』『高浜町天然記念物・イチョウ、樹高28.7m・幹周り3.8m』
秋になると、見事な黄葉を見せそうなイチョウです。
本殿裏の岩盤下部に洞窟がありました。謂われ板がなく、詳細は不明ですが、戦中は防空壕になっただろうし、子供の遊び場になっていた事が想像されます。板格子で塞がれています。岩盤に神を感じ勧請されたのでしょうか?
脇社として一段高い所に「諏訪神社」が鎮座されており、そこに行くと長い階段が登っています。更に脇に「稲荷神社」が鎮座されていました。ハーハー息切れしながら220段を上がると、「愛宕神社」がありました。
レース海面を見下ろす絶好の観戦場所を思い登ってきましたが、レース海面側への眺望が木々で塞がれ無駄足でした。漁港・海水浴場側の眺望は良かったのですが・・・
車に戻り、神社脇から「安土山公園」に上がりました。ここには一度来たことがありますが、以前同様展望台前まで木々が伸び展望台の用を成していません。ここも観戦場所としてアウトです。
7:05、ヨットハーバー着。学生たちが艤装しています。偶然監督が歩いてきて挨拶します。トイレに走って行きました。マリーナ事務塔に入り、係留費などを見て、大会本部で前日の成績表などをチェックします。他大学の選手などが挨拶してくれます。「目上の人見たら、とにかく挨拶」こういう体育会系が好きです。もちろんこちらからも「おはよう」と声を掛けます。
各クラストップ6が全日本出場権を得ますが、当方は各1艇が該当しています。昨日の3レースの中の1レースが半分DNFになっており、レース中に風が落ちたようです。5レースあれば最悪の1レースがカットされるので、復活しそうな艇もあり楽しみです。1週間前のレース結果では各クラス2艇が出場権を取れそうなので、当方に味方してくれるといいが・・・
艇置き場に行き、みんなと挨拶します。笑顔が溢れておりリラックスしているようです。女子マネさんが、駐車許可証を持ってきてくれたので、車に戻りフロントガラス内側に置きます。防波堤に座って、助六寿司で朝食にします。まず本部船など運営艇が出艇して行きますが、風が無いようで陸上待機のアナウンスが有りました。
マネさんたちとお喋りしていると出艇案内が出ました。9:26出艇。スロープは2本ありますが、1本しか使えないようで、指定された順に出艇して行きます。インフレータブルボートに荷物を積み込み、僕はマネさん2人・監督とともにレンタルしている漁船に乗りに、漁港に歩いて行きます。海水浴場では、大音量でアナウンスが流れており、何かイベントをしているようです。
わかめを取るような小型平船漁船に乗り込み、漁港を後にします。かもめが数羽海面に浮かび、トビが20羽近く屋根に乗っており、おこぼれに預かろうと大漁船の帰りを待っているようです。
沖では、カヌーやサーフィンボードの上に立ってパドルを漕いで、島廻りレースをしているようです。このアナウンスだったようです。後でここに住むOBさんから、「ライフセーバー大会」だと知りました。
ハーバーの方に目を向けると、レース艇が続々とハーバーから出てきます。インフレータブルボートがやってきて、大きな荷物をこちらに載せ替えます。監督もインフラの方に乗り移りました。
スタートしますが、途中で風がなくなりノーレース。470級第1マーク、D・うち・D・Dと回航して行きます。上位回航はD社とうちばかりだったので、少し残念でした。思い通りに風が入ってこず、長い海上での風待ちになりました。陸地を見ると、半島に隠れるように高浜原発が見えます。ヨット部OBで関西電力高浜原発にお勤めの方がおられ、その方のツテでこの漁船をチャーターしたようです。マネさん2人とお喋りし、レース艇へお昼ご飯を届けたり、アレヤコレヤします。本部船に「L旗」が揚がり、レース海面を沖に出します。やっと入ってきた風で、13:26スタートします。470級は今度もうちは上位回航続出です。フィニッシュは5位・6・7・9・13/全39で、上位3艇の団体戦で見ても、1週間前のプレ団体戦に続き、D社にうちが続いています。もう1レース出来ればカットレースが発生し、DNFが消えるので多くの選手にチャンスが出るのですが、フィニッシュが14時直前で無理のようです。S級はギリギリ間に合い第5レースもスタートし、カットレースが出ました。
ただこの時、僕らの乗る漁船はトラブルを抱えて低船中でした。エンジンは回るもののギア抜けしたようで、スクリューがゆっくりしか回らず、流されるままになっています。マネさん達が各方面に電話し、対処しました。インフラに荷物を積み替えると、漁港からオーナー漁師さん所有の大型集魚灯漁船がやってきて、引っ張ってくれました。関電OBさんも乗っており、お骨折りいただいたようです。漁港に戻り、歩いてハーバーへ。艇置き場に戻ると、470チームは皆上位フィニッシュ出来たので、楽しそうに会話しながら解装しています。S級は第5レースした関係でかなり遅れてハーバーに戻ってきました。この時は再び雨が降り出し、雨中の解装になりました。
審問の案内が公示され、今大会も総合トップのD社エース艇にレース委員会からプロテストが出されました。艇長がクルーを殴ったようで、ヨットレース・ルールでもっとも重要なルールブックの最初に記されている「公正な帆走」違反のようです。厳しい場合は、永久追放まである最も大切にすべきルールです。僕は「弱い者いじめ」が大嫌いなので、一番起きてほしくないことが起きました。とても残念です。
僕が高校生の時、練習で艇長から腰を蹴られたことがあります。即喧嘩腰で抗議し、浜に船を着けさせ練習を止めました。人に対し、やっていいことと悪いことがあります。コーチしていた時、練習中にキャプテンがクルーを殴るシーンを見て、それ以降そのチームへのコーチングを止めました。息子が練習に参加していた時も、同じキャプテンがクルーに罵声を浴びせてたことがあり、息子は猛烈に怒ったそうです。それでイジメは止みました。
結局D社の彼は、失格になり優勝を逃し、全日本に行けなくなりました。D社OBは緊急に体質改善するでしょう。こんな選手のいるチームは雰囲気が悪くなり、全国制覇など出来るはずがありません。更にいえば、クラブ員のその後の生活にプラスになりません。学生スポーツは教育の一環です。今回のことは見ていないのでどの程度かわかりませんが、「重い」と判断すれば学校に報告し、一時クラブ活動自粛など学校側からの判断が出ます。
高校野球同様、不祥事を起こすとチーム力がガクンと下がります。反省がなくスルーしてしまうとクラブの雰囲気がそれに同調してしまい他に飛び火します。僕が腰を蹴られた時も、キャプテンがクルーに何度もそれをしていました。僕と同級生のそのクルー君に「なぜ怒らないの」と聞くと、「僕がミスったから」との答えで泣き寝入りでした。彼は大学ではヨット部に入らず、ヨット部に入った僕とは、その後の人生の岐路になりました。
雨の中、トラックにレース艇を積み込んでいる部員たちを見ていると、次男のジュニア後輩のお父さんのワンボックスが目に入りました。ヨット関係の仕事を自営されておられます。声を掛けると、引っ張っているイギリス製のインフラをD社にレンタルした帰りのようです。4艇会社所有しており、ここで秋に行われる全学生日本選手権では、D社2艇・僕の母校KG2艇のレンタル予約を受けているそうです。1日2万だそうです。うちのインフラもくたびれて来ているので購入額も聞きます。ボートはエンジンなどコンプリート380万・キャリアーが30万だそうです。海上で、いい船だなと見ていました。
17:16閉会式が終わり、ブリーフィングして家路に着きました。r16〜舞鶴道〜京都縦貫道・「京丹波みずほ」IC下車してR173。19:01「ローソン京丹波和田店」で、「ホイップサンドあまおう苺120円」+「つな揚げ108円」を購入。車内でパンを食べ、「つな揚げ」を摘みながらR173をひたすら南下し、20時過ぎに帰宅しました。
家内が「早く帰ってこれたね」と夕食を準備してくれ、「NHK大河ドラマ女城主」を見ながら「頂きます」しました。

2017/6/12
大掃除の続きです。いつものように4時頃起床し、しばらくゴソゴソし、家内の作ってくれた朝食を食べ、6時頃から大物を移動させました。2人でウンショうんしょ。家内は起きてから何か食べないと動けないそうで、起きてまずすることはパンをトースターに入れ、コーヒーを沸かすことです。
大物の移動が終わったので、家内に続いて朝風呂に入り、隣の実家で小物を棚に片付けていました。8時、「用意できたよ、どう?行こう〜」と家内が着替えてやってきました。ちょっとよそ行きの可愛らしい洋服に着替え、僕の前でクルリと一周します。「いや〜いいね〜、お洒落だね〜」と得意のイタリアーノな言葉を掛けます。
「2つ片付けたよ、すぐ着替えるから待ってて」と自宅に戻り、僕も少しまともな服装にします。映画を観る約束していますが、まだ1時間半も早いので、余裕で片付けていました。映画の前に駅前に出て用事を済ませたいようです。
通勤リード110にタンデムし、郵便局本局などでゴソゴソし、映画館に向かいます。チケットを買ってもまだ上映時間に20分もあり、ロビーでお客さんたちを観察します。大学生風カップルがやってきました。女の子はミニスカートですが、内股歩きが極端です。可愛らしくて綺麗な方なのに、走るのが苦手そう。
大学1回生の春、初めて家内を見かけた時、「歩く姿がとてもかっこいい」が第一印象でした。背筋が真っすぐ伸び、歩く姿が美しい。お茶・お華を幼稚園の頃から習っているからだと後に知るのですが、これも女性の魅力の1つです。女性特有の内股歩きも目立たず、真っ直ぐ足を前に出します。きっと走るのも速いと思っていたが、体育は苦手な方で走るのは大嫌いでした。
「ほら、あの人は内股じゃないから、歩く姿が綺麗でしょ」なんて話をしていると、「何見てるの〜」と笑われました。TV見てても「この女優さんは美人やわ」なって言い、街なかでも「あの店員さんは感じが良いよ」なんて日頃から言ってるから、僕のこんな発言には慣れっこになっています。その流れで家内を褒めることを忘れないイタリアーノだから、雷が落ちることなどありません。
9:40、映画「ちょっと今から仕事やめてくる」。映画サイトの「見て良かった映画」ランキングで、初登場で上位、2週目で更にランキングを上げていたので、観ることにしました。僕の好きな「ラブストーリー」にヒットする映画が、ここ2ヶ月ほどありませんので、ピンとくる映画ではありませんでしたが、まあ観てみようと・・・。
ブラック企業に勤める青年の物語で、原作の評判が良く映画化されたそうです。就職してから実家に1年半も帰っていないほど追い詰められ、フラフラと自殺しようとした駅のホームで、「久しぶりやな〜、俺や。小学校の時同級生やった」を思いっきりな笑顔の青年に腕をぐいと引っ張られ助けられました。
「懐かしいな〜、飲みに行こうや」と強引に誘われ、彼の思いっきりの笑顔とポジティブな言葉、そして強引に買わされた明るい色のネクタイで、仕事に対する気持ちも晴れやかになります。
そんな物語で、お決まりのラブストーリーのサイドストーリーもない映画でした。星5つの最高得点ではないが、ブラック企業に勤め、気持ちの行き場を失っている方が見れば、きっと気持ちが楽になる内容でした。監督が脚本も手がけており、かなり監督の思い入れの入った作品だと思いました。
ハッピーエンドに向かっていく後半1/4は、何度か気持ちが高ぶり涙が溢れました。秀作です。観終わり、「買い物に行く?何か食べる?」と聞くと、「私お腹減った、朝ごはん5時だったもの」という。
11:57、映画館のあるショッピングセンター内にある「ミスタードーナツ」で、山ぶどうスカッシュ194円・ブレンドコーヒー270円・黒糖エンゼルクリーム129円・エンゼルフレンチ140円・ストロベリーリング129円・オールドファッションシナモン129円・カスタードクリーム129円・ゴールデンチョコレート129円・チョコファッション129円を買いました。家内が2つ半食べたので、僕は残りの4つ半食べました。いつもはおやつとして1・2個食べるだけですが、4つも食べたらお腹いっぱいになりました。
食べながら、またお客様観察です。店内の席で食べていると、中学生風の3人の女の子が山のようにドーナツをトレイに載せています。きっと他の子も呼んで、誰かの家で過ごすんだろうなと予想していると、外の席に座り、包んでもらった袋から出して食べはじめました。
僕の子孫5人目にして初めて女の子を授かったので、中学生になったらきっとこんな感じになるのかなと、楽しそうな3人を見ていました。砕けた服装でもなく、ゴージャスでもない清楚な3人で、それぞれがスマホ画面を見てるような今風グループでもなく、おとなしく微笑みながらゆったりとお喋りしており、好印象でした。「朱に染まれば赤くなる」の名言を何度も経験してきたので、こんな風に育てたら、こんな友人が出来るんだろうなと見ていました。こんな話をしていると、「ジロジロ見ちゃダメよ」と家内に釘を差されました。
小学生低学年女の子と、幼稚園児男の子を連れた母親は、2人をテーブルに座らせ、ドーナツを食べている間席から離れ誰かと電話しています。同じような年齢の子を連れた4人家族は、お父さんがスマホ見てて、お母さんが子供たちとドーナツを食べ流れ世話をしています。
おじいさんとお孫さん2人のグループは、はしゃぐ子供たちにおじいさんは押され気味です。朝、息子か娘夫婦に孫を押し付けられ、お婆さんに「掃除の時間だから孫達を頼むね」の言葉で、「場が持たないから孫達の好きなドーナツで時間稼ぎをしようとやってきたんだきっと」と僕の想像する物語を語りました。「お父さんはいくらでも小さな子と遊べるから良いけど、苦手な男の人もいるものね」と笑っています。
「バイクで何処かに行ってきていいよ」と言われましたが、家内とこんな他愛のない会話をしている時間が好きなので、買い物に付き合うことにしました。僕の下着シャツとパンツ、そして家内の勉強会用背負いバッグです。姪(弟の娘・中学生)が背負ってるがま口のように上部が開くバッグを買いたいそうです。東京などへの会合ではなく、大阪や神戸への近場半日勉強会に使いたいようで、安いので良いそうです。
12:54「ワークマン」に寄り、僕の丸首半袖下着シャツ・780円を買います。速乾性の素材が好きで、最近はワークマン製がお気に入りです。冬でも半袖のこれを着ており、3枚ぐらいを毎日ローテーションしてるので、半年に1回ぐらい補充しています。
13:25「西友川西店」で僕のパンツ580円を購入。最近はトランクスタイプが主流ですが、お尻の下や横がモゾモゾするので、昔ながらの前開きパンツにこだわっています。ワークマンには1つもありません。いつもはグンゼブリーフ・セミビキニですが、綿100%でシャツのように速乾性ではないのが不満です。ポリエステル50%以上のがあったので、これを試してみます。お泊りお出かけの時は、ミズノのスポーツ用速乾性ドライブリーフパンツを使っていますが、2000円もするので日頃使いには勿体無い。
西友の2Fに、家内ご要望のがま口リュックバッグがありました。少しくたびれた店舗の少し薄暗い売り場でしたが、お値段も4500円と手頃で家内が気に入りました。でも一番大きなA4が余裕で入るサイズはダークブルーしかなく、他のサイズにあるブラックが良いそうで踏ん切りがつきません。最悪ネット検索してみようnello・ATB0193A・キャロットカンパニー」をメモします。中国製というとこが気に入りませんが・・・。
お隣の「モザイクボックス」のバッグ売り場を探し、「アステ川西」、いつもお世話になってる「川西阪急」も探しました。家内がこの日背負ってる小さな黒いバッグと同じブランドのバッグああり、目ざとく見つけた店員さんがそのブランドを押してきます。可愛くてお洒落ですが、がま口じゃないのでパス。
諦めて川西を出ます。西友バイク駐輪場は、2時間無料なので余裕でした。家内が行ってみたいという「伊丹市ばら公園」に寄り道しました。僕が「カメラ忘れた」と言うと、家内も「お嫁さんから誕生日プレゼントで貰った帽子を忘れた」と言います。この帽子を被ってる姿を写真にして送りたいようです。僕はお嫁さんたちから貰った衣類を、着たい時に着ますが、女性の心理は違うようです。気遣いが、男と全然違います。お嫁さんたちが帰省する時、「今日はこれを着た方が喜ぶよ」と用意してくれます。
バラ園横を、早朝自転車で時々走りますが、中に入るといろんなバラが咲いていました。芝生スペースがあります。木陰のベンチに座っているお年寄りカップルがいます。小さな噴水と小さな水路があり、チビさんを連れてきても楽しめそう。最後に、食材のお買い物です。西友にバッグがあったので、いつもの食品スーパーではなく、GMS「イズミヤ」に寄りました。2Fバッグ売り場に行くと、西友と同じものがありました。お値段も同じ4500円で、色も多種類ありました。家内は喜んでレジに行きました。姪に、弟も義理妹も知っていたブランドを聞いて、それを買ったらいいのにと思いましたが、本人が良いというのだからまあ良いです。クロックスまがいのサンダルは多数出ているけど、長男によると「クロックスは違う」ということだし、僕もトップブランドそっくりさんを買って失敗した経験があるので、できればブランド物を買う方が結局お得だと思っています。姪が買ったよく売れているがま口リュックブランドは、何なのでしょう?
僕は、お気に入りの「明治ヨーグルト450g」をかごに入れ、他の食材とともに購入しました。イズミヤも阪急阪神グループH2Oの資本が入ったのか、家内の阪急カードが有効で、10%引きになりました。
帰宅し、風呂に入り、「ダーウィンが来た」「女城址直虎」を見て家内は床につきました。僕は、2F自室に上がり寝る体制になって、ヨーグルトを食べながらNHKスペシャルを見ました。前日土曜日「キレる子供」に続き「キレる妻」でした。
冒頭の「離婚の7割は、妻側から」というのに驚きました。経済力も男性の方が相対的にあるだろうし、異性への移り気も男性の方が多そうだから、不満が多くても半々ぐらいだろうと思ってました。
実際のモデル家庭にビデオを設置し、実際の生活を見ながら番組は進みます。夫婦共稼ぎで、フルタイムで働きながら、早めの16時で職場を出て、1時間半かけて保育園に迎えに行き、それから夕食を作っておられる奥様から、「早帰りで職場に迷惑を掛け、子供たちには遅いと言われ、中途半端なので退職しようかな」の言葉が出ます。旦那さんから「そうしたら良いよ」との言葉。ここから奥様が不機嫌になり、「そういうことじゃないのよ」と切れてしまいます。
同じことを何度も夫婦で話し、「もう少しこのまま続けよう」との結論が出ているのにまた蒸し返す奥様に、「またか」と思う旦那さん。解決策を提案しても耳を貸さない奥様。という構図が続いていたようです。奥様の気持ちは、「解決策が欲しいわけじゃない」。「男性の無理解に腹が立つ」とのことだった。
これは僕にも思い当たります。家内と結婚し、最初の3ヶ月ぐらいまで、何度か2Fのベランダで家内が泣いているのを見ました。声を掛けると「お家に帰りたい」と。これは大変と思い、原因を聞きました。どうやら僕と2人だけなら良いが、隣に僕の実家があり、リタイヤして働いていない母との会話が辛いとのことです。いじめられたわけでもないのですが、とても気を使うとのこと。「あまり家内に声を掛けないように言おうか」と解決策を提案したら、「絶対そんなこと言っちゃダメ」と言うので、どうして良いかわからなかった。「ただ聞いてもらうだけでいいの」と言うが、改善しないと何も変わらないと思った。でも半年もすると環境に慣れ、泣くこともなくなった。男は友達にでも愚痴を言うことなんてあまりないし、友人に相談することもない。女性の「相談があるの」と言葉を発するのに違和感がある。でも女性は違うようで、喋ることで発散できたり、鬱積を減らすことが出来るんだと、この時女性の生理がわかった。
同じく共稼ぎで、奥様は在宅で海外クライアントのコンサルタントをしている。旦那さんはサラリーマンですが、定時に帰宅できるようで、食事や子供たちのお弁当も作っている。奥様にとって理想的な旦那さんなのに、奥様が切れている。「右脳(感情的思考)と左脳(論理的思考)の連携が弱い男性」と「連携が良い女性」という性差が歴然とあり、「表情から感情を読み取る」実験では、女性の方が男性よりずっと微妙な表情に隠されている感情を読み取っていた。
アメリカの発達心理学の世界的教授が、「女性はネガティブ体験を左脳を使って論理的に海馬に記憶する」と言っていた。「力が弱く、より弱い子育てもするので、危険を回避したいから、怖かった体験をずっと覚えているように脳の構造がなっている。方や男性は、外で狩りをする性なので、ネガティブ情報を覚えすぎていると、危険を伴う狩りに臆病になり、家族を食わせていけないから、忘れるようになっている。
これにも思い当たることがある。両親の夫婦喧嘩で、母の最後の切り札が、長男の僕を産んだ時のエピソードです。「私がこの子を産んだ時、あなたは呑気に映画を観ていたじゃない。私は陣痛が始まり何処にも行けず、不安の中産婆さんを呼び、自宅で出産したの。立派な病院で妊婦検査をしていたのに、出産の時あんなことになって・・・」、この言葉が出るともう父に返す言葉はなく、母の勝利です。この最終兵器を何度聞いたことか。耳タコです。1週間働いたご褒美の日曜日で、予定日より前だったので、父に何の落ち度もないのに・・・。
そんな根本的な性差があります。これからも性差をなくすことはできませんが、これを科学データとして知っておくと夫婦生活にプラスになると思いました。アメリカでの実験ですが、夫婦喧嘩している夫婦に、「脳下垂体ホルモン・オキシトシン(愛情ホルモン)」を吸うと、男女の関係が改善されるビデオも流されました。
女性の社会進出が、キレる女性を増加させているとも紹介されていました。前出の自宅で奥様が海外企業のコンサルタントをしているご夫婦にテストステロン(男性ホルモン)量検査すると、なんと奥様の方が旦那さんより多くビックリしました。男性でも女性ホルモンは分泌されており、逆も当然あります。でも、女性のテストステロン量が、男性より多いとは思っていませんでした。
社会で活躍している女性は、社会からのストレスに対抗するためテストステロン分泌量が多くなるそうです。これを見ながら、もっと厳しい芸能界で生きる女性だから、芸能人女性は離婚が多いのかと納得しました。
最後に、オキシトシン(愛情ホルモン)を増やす方法が紹介されていました。「向かい合い手を繋いで話す。見つめ合うこと+スキンシップ」「2人で料理をする。料理以外でも良く、目標に向かって2人で協力して作業する」「綺麗なレストランで食事をする。サプライズの手紙を書き言葉で伝え、花束を贈る。感謝の気持ちを相手に伝える」
これらは、劇的に2人の関係を近づけ、キレる奥様の減少に繋がるそうです。この実験は、「そうだろうな」と直感しました。僕に当てはめると、僕は家内の手をよく握ります。朝晩に家内をハグします。よく話す方ですが、ずっと家内の目を見て話すほどではない。
2人で協力して料理をすることはなく、家内におんぶに抱っこ状態です。でも協力して家庭・仕事に取り組んでいるように思う。2人だけで綺麗なレストランで食事することはなくなりましたが、メールで気持ちを伝えることはしている。花を贈ることはないが、お土産を買って帰ったりするようにしている。感謝の気持ちは、毎日のように言葉にして伝えている。家内の容姿も、毎日褒めているように思う。自己採点ですが、割合及第点のように思う。
この番組で学んだことを、翌月曜日の朝、「おはようございます、今日もよろしくお願いします」の挨拶の後、「あのさ〜」と家内に話しました。家内は、僕の座る食卓に腰掛け、じっと聞いてくれました。
僕は、家内に切れられたことがありません。僕が切れることもないので、夫婦喧嘩も記憶にありません。よって親子喧嘩もない、わりあい穏やかな家庭でした。この番組を見て、僕の選んだ奥さんは最高だなと思ったと家内に話しました。そしたら、「旦那さんにもよるものね」と反対に僕を持ち上げてくれました。ああ、幸せだな、僕は。

2017/6/4
先週に続き、お掃除三昧の1日でした。先週、丸1日頑張ったので、我が家も随分スッキリしました。ゴミもいっぱい出ました。まだ全部捨てきれていませんが、更に頑張ります。流行りの「断捨離」ほど大胆ではありませんが、「もう使わないだろう」や「本を整理しようよ」「空いたスペースを掃除して綺麗に」程度です。
朝7時、お掃除前にいつものように2人で手を繋いで軽いお散歩していると、空は晴れ、六甲山があまりに綺麗に見えている。「山頂からはきっと和歌山まで見えるよ」と家内を誘いOKを取り付け、昨年お盆以来の六甲山に登ることにしました。お掃除は午後からにして、午前中はデートです。家内はバイクで上がったことがないので、通勤リード110にタンデムします。
暑くなりそうですが、六甲山は標高1000m近いので、かなり涼しいはず。家内は白の薄い1枚、僕はチョッキ1枚プラスし、出発します。逆瀬川からr16を登ります。アワイチやビワイチ同様、ロードバイクのヒルクライムのメッカ六甲山なので、登っていくロードバイクが目につきます。次々に抜いて行きますが、快調に下ってくる対向ロードバイクもいます。早朝から登って行った方ですね。
僕もロードバイクに乗るけど、わざわざ苦しいコースを走ることなどしません。「ママチャリ乗るより楽に移動できるから」という目的で乗っているだけです。ダンシングしながら苦しそうな顔で上がっている人もいますが、やはり夏より気温が低いし、まだ朝なので楽しそうに上がっている人の方がずっと多い。家内と無線で「凄いね〜」とか「僕らには無理だね〜」とか言いながら上がります。
この110ccスクーターに2人乗りして上がるのは初めてで、勾配がきつい所だと直線フルスロットルでも40km/hが限界です。原付二種の限界を感じました。でも40km/hまではスピードアップしていくので、ノープロブレムです。リードでアクセルスロットル限界まで回したのは、「暗峠」以来かもしれません。
標高が上がり、大阪湾方面の下界の素晴らしい景色が見えてきて、9:37「一軒茶屋」。ロードバイクが20台ほど休憩しています。女性も数人、皆さん涼しい顔をしており凄いな。
ハイキングコースの「紅葉谷道」の一部が土砂崩れ通行止めとの看板がありました。「ロープウェイ有馬温泉駅」から上が通行止めになっており、滝を観に行けないのかもしれません。通行止めではないが、極楽茶屋からの下りも「応急復旧」と書かれているので、全線で崩れたようです。「一軒茶屋」を経由する芦屋〜有馬温泉を結ぶ「魚屋道」の利用を促しています。
「一軒茶屋」はオープンしており、「氷」の暖簾が下がっています。車なら飛びつきたくなりそうですが、下界より随分気温が下がり、バイクで風に吹かれ、チョッキのない腕は寒く感じるぐらいなのでパスです。家内は、「寒いからカッパ着せて」と、僕の通勤用カッパの上をここで着込みます。バイクグローブをしたままなのでファスナーが上げられず、「上げて〜」と甘えています。
少し走り、視界が開けた所でバイクを停め、僕のホームポート・西宮から大阪湾の景色を堪能します。
更に走り、10:15「六甲ガーデンテラス」。無料だったバイク駐車場が有料終日300円になっていました。隣の四輪駐車場が500円なので高いなと思ったら、フィールドアスレチック・カンツリーハウス・スノーパークの駐車場が全て利用可でした。
売店に寄り、温かいうどんで冷えた体を温めます。テラス席から大阪湾が一望でき、和歌山・加太まで見えています。小さな子が「おばあちゃん〜」と声を掛けています。近くに両親と思われる方が見守っており、「きっと、おじいちゃんが亡くなってるんだよな〜」なんて我が家の将来を見ているようでした。
お隣の席には、僕らより年配のご夫婦がおり、アイスを食べています。車で来られているのですね。別の席にはお若いカップルがおられ、デート中のようです。注文して席に座り、すぐに2人共席を立ちます。「いいよ、私が取ってくるから座ってて」と彼女さんがお水を取りに行き、彼氏くんは席に座り直し、彼女さんを見ています。お互い、相手に気を使っている優しさが滲んでいます。いいな、こういうの。僕らもこんな時期がありました。
彼女さんは、ゆるく微笑みながら、彼氏さんとの短い会話をしています。人の顔・表情って、生まれつきのものもありますが、後天的なことで半分作られると思います。親から温和に育てられると、表情が優しくなり、無表情でも人を惹きつけ、声を掛けやすくなります。叱られてばかりだと、人にもきつく当たり、褒めることより文句を多く言う人になり、口角が下がり「へ」の字口になります。一時TVによく出てた同志社大学の女性教授さんが、典型的な「への字」さんで、政府の経済方針に文句ばっかりコメントしていました。きっと「文句言い」人生が表情に染み付いたのでしょう。こんな人と長く一緒にいたくないなと思います。同じ人生を過ごすなら、できるだけ楽しく過ごしたいので、プラスの言葉を言う人と暮らしたい。プラス言葉は、明るい表情からしか出ないので、見ていてこちらも明るくなります。そんな人に好かれるには、自分がそういう人でなければなりません。鶴瓶さんやさんまさんのように、頭に浮かぶ顔が笑っている人が理想です。
西宮沖を見ると、白いセールが30隻ほど集まっているのが見えます。レースをやっているようです。風が弱いから、スタート待ちかもしれません。家内は見えないそうで、「よく見えるね、凄いね〜」なんて褒めてくれますが、その分遠視で近くが見えにくくなってきましたよ、トホホ。
ガーデンテラスを後にして、更に西に走ります。「高山植物園」に寄り道します。入園料620円で、入口から中を覗くと綺麗な花が咲いている。「オルゴールミュージアム」「六甲山ホテル」横を過ぎ、こんなに遠かったっけ?と思う頃、羊が見えてきて「六甲山牧場」に着きました。途中に「羊に注意」の道標があり、ビックリしました。
大人500円で、ポニー試乗など、いろんな催し物開催時間が表示されています。子供たちがちびの時、何度も利用させてもらいました。羊の毛を刈るのを見たことを思い出しましたが、家内は牛乳を飲んだことを思い出すと言っています。孫たちとまた来るかもしれませんので、下調べに来ました。
帰路につきます。往路を逆走し、六甲山を下ります。芦有入口があり、「この道路で芦屋まで行けるんだよ〜、景色がいいんだよ〜」と説明しました。奥池遊園地に行く時など、何度か家族で走った記憶はありますが、家内と2人でデートドライブしたかどうか定かで無いので、それについてはお喋りしませんでした。多分、別の女の子とドライブしたはずです。
「甲寿橋」まで下り、11:44その手前で国民宿舎「六甲保養荘」に上がってみます。「きっと景色が良い」と思っていましたが、ロビーからの展望はイマイチで、客室からでないと、宝塚・大阪平野北部の夜景や眺望が見えなさそうです。
ふと見ると、燃料計がゼロを指しています。「西宮ゴルフクラブ」コース内を走る少しの登りをクリアし、気楽に逆瀬川に下ります。ここからGSまで下りばかりです。
12:04、「エネオス宝塚さかせ店」で給油。187km/4.69L=39.9km/L。帰宅前のスーパーに寄り、12:53「明治ブルガリアヨーグルト×7」を購入します。冷蔵庫の在庫が昨夜ゼロになりました。スーパーの明治ヨーグルトの棚を空にしました。掃除をして、夕方疲れて昼寝し、暗くなって来る頃起きて、また買い物に出ます。19:55、僕はまた「明治ブルガリアヨーグルト450g×6」購入しました。またスーパーの棚が空になりました。
夕食にお素麺を食べ、NHK大河ドラマを見て、風呂に入り1日が終わりました。

2017/5/21
コーチしてる大学ヨット部の定期戦の日です。家内も休みでしたが、泣く泣くヨット優先です。
目を覚ましたら、まだ2時台でした。あまりに早いので二度寝して次目を覚ましたら3:30。もう寝れそうにないので、出発することにしました。寝る間に準備をしていたので荷物は積むだけで、ラッシュガードなどヨット装束を着た上に、夏用メッシュプロテクター上下を着て出発です。でもサングラスと紫外線対策つば広ハットを忘れてしまいました。
3:57、「招き猫CB400SB」で出発。例によって早朝寺社巡りをしますが、それほど厳しい道ではなさそうなので、高速道路に乗ることもあり、VTR250はお留守番です。
R171〜中央縦貫道〜名神吹田IC〜4:35「桂PA」でトイレ休憩。再び走り出し、京都東ICで下車して、R1に乗り東進し、逢坂峠を登っていきます。ここを走る京阪電車・京津線(京都〜大津)が、日本有数の勾配電車であることを最近知りましたので、横を走る線路の勾配を見ながら走ります。
4:57「蝉丸神社」。「逢坂の関跡」前にバイクを停めます。京阪電車がすぐ下で、トンネルに入っています。峠最標高部をトンネルで抜けます。『峠の付近(逢坂関跡) 大津絵販売之地 浜大津ハン六 2代目六兵衛』の石碑が立っています。
『逢坂の関と文学 小倉百人一首 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸」「夜をこめて 鳥の空音は はるかとも よに逢坂の せきはゆるさじ 清少納言」源氏物語 「関屋の巻」常陸介と共に東国に下っていた空蝉と石山詣の途中の光源氏が再会する。「賢木(さかき)の巻」斎宮下向の日、思いを募らせた光源氏が、娘とともに伊勢へ下る六条御息所に歌を贈ります。それに対する御息所の返歌「またの日 関のあなたよりぞ 御返しある」枕草子にもある』
『逢坂峠と東海道 大津は奈良時代から、物資の集積する京の玄関口として栄え、それを支えたのが東海道でした。特に逢坂峠は、東海道の中でも要衝の地として重視され、逢坂峠から瀬田を含む大津宿周辺は、海道一の繁栄を極めました。また車石と呼ばれる石を敷き詰める街道整備が行われた』
『車石 江戸時代の逢坂峠は、大津港で陸揚げされた京都へ運ぶ米俵などの輸送にも重要な役割を果たした。これらを運ぶ牛車が泥道で立ち往生しないよう車石と呼ばれる石が敷設されました。その工事は文化元年(1804)から行われました。今も旧東海道沿いに残されており、当時として画期的な街道整備を知る文化財となっています』
『大津算盤 大津は日本での算盤発祥之地。慶長17年(1612)、大津一里塚町(現大谷町西側)の片岡庄兵衛が、長崎で明(中国)から算盤を手に入れ、改良を加えたことに始まる。材質は、珠がツゲ・ヒイラギ・梅、枠がカシ・柿・黒檀・紫檀などで、桁の軸には丈夫な細竹が使用された。枠や底部に作者名が木版印刷された和紙が貼られているのもが多い。算盤製造は明治期に廃れますが、算盤具、宝永2年(1705)銘の算盤などが現存しています』
『大津針 江戸時代「東海道名所図会」によると、逢坂山付近名物として「大津絵・算盤・縫針」の人気があります。貝原益軒は「逢坂山この辺の町に針を売る所多し、虎屋は良工とす」と評しています。追分池川針・すみや針も有名で人気を得ていたが、現在は途絶えています』
『大津絵 いつごろから始まったか不明。17世紀前期には、東海道往来の土産物として絵が売られていた。その後、近松門左衛門「傾城反魂香(けいせいはんごうこう)宝永5年(1708)初演」によって全国に名が知られる。庶民向けの絵であることから、生産コストを抑えるため、描写を簡素化し、細かい描写は小型の版木を押して、素早く描けるよう工夫してあります。素朴な画風は様々な画家に愛され、円山応挙・富岡鉄斎・浅井忠なども大津絵をモチーフにした絵画を描いています。愛好家は全国にたくさんおり、その伝統は今でも受け継がれています』
逢坂の関で運搬牛が暴れたり、線路のように車の通るところだけ石畳にしてある描写を、いろんな本で目にしてきた。大津絵は、1週間前の和歌山・海南ツーリングでも瓦に描かれたものを目にしていました。
公衆トイレが、旧跡らしく「厠」となっていました。
『大津市は京都に隣接していることから、歴史の舞台に何度も登場してきました。世界遺産・比叡山延暦寺、三井寺、石山寺などの歴史遺産を有し、全国で10番目に古都指定されました。日本一大きな琵琶湖など、美しい風景と自然を四季を通じて楽しむことが出来ます』
『逢坂の関 初出は平安遷都翌年・延暦14年(495)に逢坂の関の前身が廃止されたという「日本紀略」の記述です。そのご、京都を守る重要な3関(鈴鹿関・不破関・逢坂関)の1つとして重要な役割を果たしましたが、平安後期以降、形骸化していきました。その関の位置は、現在の関蝉丸神社(上社)から関寺(現在の長安寺)だったと言われています』
この関は、平家物語なので、公家や皇室の収入源として書かれていたと記憶しています。
関を京都側に歩いていくと、「日本一うなぎ処・かねよ」のお店がありました。お店を過ぎると「蝉丸神社」がありました。
『天慶9年(946)、蝉丸を主神に祀られた。蝉丸は盲目の琵琶法師で音曲芸道の祖神として、平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され、当宮の免許により興行したものです。万治3年(1660)現在の社が建立され、街道の守護神・猿田彦命と豊玉姫命を合祀してお祀りしています』
何故か石段下両側の提灯に明かりが入っている。石段を登ると、蔵の扉が開いており、神輿が見えています。これは素晴らしい、菊の御紋と五七桐紋が入った神輿がスタンバイしています。目を転じれば、境内に焚き火がたかれ、数人の氏子が椅子に座って駄弁っています。前日から神輿を整えに来ているように見えます。神輿を載せて引っ張る台車もスタンバイしています。
境内周囲の提灯にも火が入り、境内中央舞台には奉納清酒が並んでいます。太鼓が柱にくくられ、舞台内にも小ぶりの神輿が鎮座しています。本殿に幕が張られ、椅子が並べられている。
拝殿にお参りする。神輿のある舞台を見ると、琵琶が置かれており、「神宝御琵琶」と墨書された立て札が、その横に「神宝御杖」も。蝉丸が使った琵琶や杖のようです。ラッキーな日に来ました。手を伸ばせば触れますが、もちろんそんなことはしません。
バイクに戻り、R1を大津側に下ります。5:22「逢坂山弘法大師堂」。
5:25「関蝉丸神社上社」。ここの提灯にも火が入っています。あの神輿がやってきそう。石段を上がっていくと、夜のお祭りの写真がたくさん貼られています。今夜こうなるのかな?それても昨夜だったのかな?
『嵯峨天皇弘仁13年(822)近江守小野朝臣、逢坂山山上山下に祀り、坂神とする。上社祭神:猿田彦命・蝉丸霊 下社祭神:豊玉姫命・蝉丸霊。文徳天皇天安元年(857)逢坂の関開設し、当社関所の鎮護神となる。円融天皇天禄2年(971)論旨を給い音曲芸道道祖神となり、明治維新まで免許状を下附する』
更に石段を上がると、トタン屋根に「蝉丸本宮」と書かれていた。イマイチだなと覗くと、トタン屋根は覆屋で瓦屋根の本殿があった。木鼻の象に玉眼が入っているようだ。境内一面をスギゴケが覆い、いい感じです。
更にR1を下り、R161に乗り換え、京阪電車の踏切手前を枝道に入ります。目指すは「関蝉丸神社下社」ですが、GPSで真横を通ってるのに神社がない。いい感じの山道ですが、どうやら神社が崖の下のようです。
5:39「弁財天」。近松寺・善光寺があった。次の目的地「長安寺」も崖の下のようで、適当に枝道を下ると、京阪電車「上栄町駅」横の踏切に出た。
ここにバイクを置き、徒歩探索です。線路沿いを歩くと、「長安寺踏切」があり適当に登っていくと「長安寺」がありました。『重要文化財・長安寺宝塔 高さ3.3m、角型の基礎石の巨大なツボ型塔身を置き、笠石を付けたもので、鎌倉時代初期に作られた日本を代表する石造宝塔です。一般に関寺(昔この辺りにあった)牛塔と呼ばれ、霊牛の供養塔です。万寿2年(1025)「関寺縁起」によると、天延4年(976)の大地震で破損した関寺を修復する時、資材を運搬した1頭の牛が仏の化身であるという噂が立ち、多くの人が関寺に参拝した。万寿2年、霊牛は関寺の工事が終わると死にました。その霊牛を供養し祀ったのが、この牛塔』
小野小町の供養塔があった。
『謡曲「関寺小町」 老衰した小野小町がなお優秀な歌人として風雅で上品な気質であることを描いた老女物。関寺の住職が、稚児を連れて山陰に住む老女の許へ歌物語を聞きに行った。老女の歌物の言葉から彼女が小野小町であることがわかった。小町は昔の栄華を偲び、今の落魄を嘆いた。寺の七夕祭に案内された小町は稚児の舞に引かれて我を忘れて舞った。牛塔は日本で最古最大の宝塔で、芸術上からも立派な重要文化財です。その他残るものはないが、かえって老女小町の隠棲地にふさわしく思える』
本堂前の賽銭箱の上に牛の置物が載っている。本堂内は見えなかったが、『牛仏(迎葉仏) 関寺遺跡 時宗・長安寺』となっていた。
「関蝉丸神社下社」は、きっと線路の反対側からアプローチするのだろうと思ったが、今回はパスして北上することにした。
6:05「長等神社」。参加地の大津絵のお店が健在です。『長等神社 祭神:建速須佐之男大神・大山祇大神・宇佐若宮下照姫大神・八幡大神・市杵島姫大神 天智天皇が大津宮に遷都(667年)の際、鎮護として建速須佐之男命を滋賀の長等山岩座谷の地に祀られた。天智天皇が669年5/5、宇治山科からの帰途当社に弓矢を奉納され、大友興多王(天智天皇の孫)が祭日と定めて以来、今も5/5を例祭としている。貞観2年(860)三井寺を開祖された智証大師(円珍)が日吉山王神を勧請し、一山の守護神として祀られ、新日吉社または新宮社と称するようになった。天喜2年(1054)、現在地に遷宮され、この地を神出と称することになった。永保元年(1081)白河天皇が勅使を参向せられ、平安を祈願された。延元元年(1336)南北朝の戦乱によって社殿・楼門その他が焼失した。興国元年(1340)足利尊氏によって再建され社殿壮麗にして12の回廊や楼門その他多くの建築物があり、湖南の大社と言われ、皇室を始め武将や多くの民衆から崇敬され隆盛をきわめた。明治37年(1904)鎌倉時代様式を基本に、平安・室町時代の和様建築の粋を取り入れ、現在の楼門を復興した』
『大津市指定文化財 長等神社楼門 3間1戸・屋根入母屋造・檜皮葺。技師・安藤時蔵、技術員・青地安太郎の設計のもと、明治37年5月起工・38年8月竣工。比較的小型ながら、上下の均衡が美しく、左右の広がりも適度で、各部の曲線も美しく、優れた姿をしています。室町時代の様式に則った秀作で、明治時代の楼門の代表作です。建築に関わる棟札や図面などの史料がよく保存されている』
『さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな 平清盛の弟・平薩摩守忠度の詠んだ歌は有名で、平家物語や千載和歌集にみえる。忠度は訪れたであろう長等の春を清盛を思い起こして、平家都落ちの際に詠んだのではないか。この歌碑は、長等山の山上に建てられている碑を、より多くの人に見ていただくために、その歌碑を模して当社境内に建てたものである』
本殿・拝殿ともに檜皮葺で美しく、朝早く僕の滞在中にお散歩がてらのお参りの方が2人おられただけで、落ち着いてお参りでした。いつも通り、「私の人生をありがとうございます」「そして子供たちや孫達の健康を御守ください」です。摂社の「稲荷神社」と「馬神神社」にも参った。馬神神社には、馬主さんからなのか「・・号」と競馬の勝利を願うような札が掛かっていた。
6:20「琵琶湖疏水のトンネル」。琵琶湖から流れる人工運河の琵琶湖側トンネル入口の上です。ここから三井寺の下を通り、蹴上まで疎水を流し、発電したり、哲学の道を潤したりして、京都盆地に豊かな水の流れを作っています。明治の大工事に頭が下がり、設計監督が大学を出たばかりの若者であり、彼に任せる京都氏の度量にも感心します。若い時代でした。
6:23、「三尾神社」。破風の神門が立派です。うさぎの口から手水が流れている。『祭神:伊弉諾神命 太古伊弉諾神命が、この地に降臨され、長等山の地主神として鎮座されたのを創始とする。この神は、常に赤・白・黒3つの帯を着し、その形が三つ尾を引くのに似ているので「三尾明神」と申し上げる。貞観元年(859)圓城寺開祖・智証大師が琴緒谷に社殿を復興され、以来篤い崇敬を受ける。応永年間足利将軍現存の本社を再興し、慶長年間豊臣秀吉も社殿を修理し、社領を寄進するなど、世に崇敬されてきた。明治9年本社を琴緒谷から遷し今に至る』
境内にも、うさぎの像がある。拝殿の屋根正面垂れにもうさぎの彫刻がある。『三尾神社とうさぎ 三尾明神が太古、卯の年・卯の月・卯の日・卯の刻・兎の方角より出現されたので「うさぎ」が神様の使いとされている。御神紋は「真向きのうさぎ」とされ、卯年生まれの方の守り神として崇められている』
拝殿の鈴の前に下る暖簾にまで、ウサギの神紋です。可愛い神社だな。本殿を覗くと、左右を武者木造が守護しています。『参拝の唱えことば 運気上昇 「祓へ給ひ、清め給へ、守り給ひ、幸い給へ」』。神様の存在の有無は知りませんが、神を祀る神社に向かって手を合わせる行為は、自らに向き合うことで、これまでの生活を振り返ることで、自らや子孫の繁栄を願う心が湧きます。それが明日からの努力につながり、神社への祈りで頂いた根拠のない自信が、行動する勇気につながるように思います。それが運気を上げることになる。
6:34、三井寺の山門を激写。
「新羅善神堂」に向かうと、6:38、「FURIAN 山の上迎賓館」の暖簾が下がる上品な日本式の門の前に出た。門前は水を掛けて掃除した後で、感じの良いレストンだなと思い帰宅後調べました。ガーデンレストラン&ウェディングでした。道標があり、各史跡道程が書かれています。「新羅善神堂(国宝)0.1km」。
『逢のみち湖のみち山歩みち 大津の散策路 大津京の道 長等神社1.85km 崇福寺跡4.55km 弘文天皇長等山前陵 弘文天皇は天智天皇の第一皇子であった大友皇子で、叔父の大海人皇子(天武天皇)との皇位継承争い(壬申の乱672年)に敗れ、この付近で自害された。日本書紀では、即位は認められていないが、明治3年(1870)に第39代天皇として諡号された』
野生の勘で細道を歩いていくと、木戸が半開きになっています。そこを入ると右側に玉垣が囲んだ檜皮葺きの社殿が見えました。社殿前の境内は年季が入っており、社叢に巨木が数本見えます。とても良い感じです。
『堂は3間四方・流れ造り、屋根は檜皮葺の美しい建物で、国宝指定されている。暦応3年(1339)足利尊氏が再建した。新羅明神は、圓城寺開祖智証大師の守護神で、本尊・新羅明神坐像も国宝。源頼義の子・義光がここで元服し、新羅三郎義光となったのは有名です』
長等神社の謂れ板に書かれていたように、三井寺圓城寺の鎮守社として新羅前神堂が勧請されたようです。智証大師と新羅の関係に疑問を持った。智証大師は最澄・空海などと一緒に唐に渡った学僧の1人ですが、新羅経由で帰国したのかな?湖西に多く住んだ渡来系氏族出身なのかとも思ったが、朝鮮半島は神功皇后の三韓征伐以来、日本に朝貢する国ではあったが、天智天皇の任那・百済への援軍が、新羅・唐連合軍に敗れて以降は、新羅が朝鮮半島の勝者であり、百済系の渡来人が多かったはず。どうも智証大師と、新羅の関係が腑に落ちない。
帰宅後調べたら、最澄・空海・円珍ら一行は、豊前宇佐神宮に参拝し、航海の無事を願った。宇佐の八幡大菩薩の勧めで香春神社の賀春宮で航海の安全祈願する。途中色々あったが、新羅の商人船で無事大陸に渡れた。香春神社の祭神は、新羅から渡来した新羅の神だそうで、以来守り神になったそうです。
九州北部は、地理的に渡来人が多く住んだ地域なので、新羅からの渡来人が新羅の神を祀ったのでしょう。あるいは、海上貿易基地として駐在した新羅人が祀ったのでしょう。ここに参ることは、新羅貿易船とのコンタクトを取るということでもあったと想像します。
因みに円珍は空海と同じ讃岐出身で、空海の甥ということでした。湖西の地域柄、湖西に棲む渡来人との関係が想像されましたが、違っていたようです。
兄・八幡太郎義家とともに、源氏武将のヒーロー新羅三郎義光は、ここで元服したのですね、知りませんでした。聖和源氏の嫡流から分家を起こした河内源氏が、この2人の登場により、奥羽の役に朝廷から派遣され平定したことから、遠征軍兵士を調達した関東に領地を賜り、関東地盤の平氏に代わって関東に地盤を持つようになった。これが河内源氏のその後に大きくプラスし、鎌倉幕府も室町幕府もここを地盤にする源氏の戦の強さから成った。
八幡太郎義家流れから、足利氏や新田氏が出ているが、新羅三郎義光は、武田氏・佐竹氏・小笠原氏・南部氏という名だたる戦国武将の祖です。
新羅三郎のお墓が、新羅前神堂の裏にあったらしい。案内板がなかったので見すごしたが、いずれ訪問してみたい。
6:43になったので、早朝史跡探索をお終いにし、r47〜R161でヨットハーバー着。4大学の定期戦2日目です。今回はうちが主催なので、レースに出る12艇・24人+支援艇含め10名ほど以外の部員は、レース運営に出ます。
8:30出艇予定でしたが風が弱くハーバー待機になりました。先月入部した1回生たちに声を掛け話しました。女子マネージャーも5人入部してくれ、頼もしい限りです。男の性で、女子マネージャーとの会話の方が楽しく長居しちゃった。
隣では、京都府の国体予選が開催されており、ジュニア時代に海外レースに引率したY君が、高校ヨット部の教員・引率者として来ていました。京都海洋高校ヨット部員とも話しました。新しくヨット部が出来た高校で、場所さえ知りませんでしたが、宮津湾の東の半島の東海岸にあるそうです。学校の前が海で、すぐに練習に出れるそうです。水産科の府立高校だそうで、漁師・船員などになるそうです。
少し風が出てきたので、国体予選のレース艇が出艇し、当方も練習のために出ることにしました。13:30に陸上のAP旗(レース延期信号)が降下され、14:30にレースがスタートしました。2m/sほどの風で軽風レースを1レース行い、ハーバーバック。
17:00から閉会式が行われ、定期戦独特の各大学のエールを楽しみました。合宿所に戻り、ミーティングです。僕が、気象エマージェンシーのことを天気図を描き、雲の写真を見せ話しました。急激な気温低下・突然の大雨・突然のど強風が襲う寒冷前線通過の状況を体験を交え話しました。元コーチ・現監督が話しました。
楽しい夕食です。カレーライスにプラスし、2回生女子マネさんの誕生日だからかデザート付きでした。年々、食事が良くなっている。満腹になり、帰路につきます。湖西道路〜名神で、20:01「桂川PA」。「ガリガリ君レモンスカッシュ75円」で恒例の糖分補給し、20:30頃帰宅。
バイクを片付け、ヨットの用意なども片付けて21時を過ぎましたが、家内がまだ起きており、用意してくれていた夕食を少し食べながら話しました。

2017/5/14
家内がお仕事の会合で、コーチしてる大学ヨット部もルール勉強会で練習がありません。グループツーリングに参加しようと思ったけど、いずれも盛況で20名ぐらいの参加者がいます。すでに満員だし・・・。ということで、ソロツーリングです。備前備中山城、湖西高島の前回残した史跡、湖南山城・史跡・寺社巡りと、メニューはいろいろありますが、GWに船で和歌山に行ったので、陸側も歴史探索したくなり、海南付近の寺社を巡ることにしました。
目を覚ましたら、3時。ちょうど明るくなる頃に和歌山に着くから出発しようかと思ったけど、二度寝しちゃった。次4時に目が覚め、用意を始めます。夏用プロテクターメッシュ上下に、朝が寒いのでダイワ釣りスーツを着ます。
「招き猫CB400SB」を出してみると、リアシートに載ってる招き猫さんの固定シートが緩んで落ちそうになっています。マジックテープでもくっついてるから落ちないんでしょが、一応結び直します。
4:39、近所の御用達SSで給油。229km/10.36L=22.1km/L。R171〜中央縦貫道を東に走り、吹田から近畿道に乗ります。明るくなってきた空には雲が多めですが、天気予報は晴れるようなことを言ってたように思う。雨さえ落ちてこなければ、日焼けしないから最近は晴れより曇りの方が好きになりました。対向車も、いつもよりバイクが多く感じます。最もツーリングに適した5月だものね。
道なりに阪和道に入り、5:49「阪和道・岸和田SA」で休憩。干しぶどうがたっぷりはいった「巨峰の郷」540円と、形崩れのバウムクーヘン詰め合わせ「お徳用ふんわりバームクーヘン」400円、「穴子助六寿司」356円を購入。ツバメが飛び回り、巣がありました。何故か「伊勢名物・赤福餅」の幟が林立しています。
6:37「紀ノ川SA」。バイク置き場前の花壇が綺麗です。目ぼしい場所はないかなと、和歌山市周辺観光案内地図を見ます。ベンチに座り、助六寿司で朝食にします。
「海南東IC」で降り、r18を西進し、7:13「伊勢都柿本神社」。紀勢本線の高架の真横です。参道石段を上がると、鎮守の森に包まれた落ち着いた本殿がありました。祝詞の神社拝詞が清書されて掲げられています。当然僕は覚えていませんので、「幸せな人生をありがとうございました」と頭を垂れるのが定番ですが、心の中で神社拝詞を読み、二礼二拍手一礼参拝します。最後の「・・・世のため人のために尽くさしめたまえ・・・」の部分が好きです。
神社に寄ると、謂れ板を探すのと同様、絵馬棚も探してしまいます。書かれていることを読むのが好きです。天神様系なら「学業成就」系が多くなり、八幡様系なら「勝利」系が多い傾向があるように思います。蹴鞠神事がある京都の白峯神社のように、サッカー系が多くなり、サッカーボールがやたら多く奉納されていて、その神社の信心の特徴が絵馬の文言に出るので好きです。なんと「峰不二子」さんからの絵馬がありました。「金塊泥棒成就」かと期待しましたが、願いは平凡でした。
摂社に、若宮八幡宮があり、戎宮もありました。客船の絵馬が奉納されており、珍しいなと見ると、昭和10年奉納で、船名は熊野丸と書かれていました。帰宅後調べてみると、戦時中海軍が揚陸艦として建造した船に熊野丸というのがありました。年代的に違う船です。民間船として建造され、途中で護衛空母に改装されました。離陸専用だったようで、着陸は陸上基地という中途半端な艤装だったようです。よって軽空母にもなり得ず、遠征軍には編入し難かったようです。終戦の年に完工しただけで実戦投入されることなく、戦後は引き上げ船として活躍し、その後解体されたそうです。
この神社は、社名に見えるように「元伊勢」として、初代斎王・豊鍬入姫命が八咫鏡を奉じて4年間滞在したお宮です。その痕跡を見たくて来たのですが、謂れ板も設置されていませんでした。
R370〜r135〜r9で、7:33「中言(なかごと)神社」。「ロケフォトポイント」なる怪しげな看板が下がっていました。細い漁師町の一角にある神社という風情で、たどり着くのに苦労しました。バイクでも入るのに戸惑う道の先にありました。手水舎に下がる手ぬぐいが紅白で、面白かった。境内で海抜9mしかありませんが、津波避難場所に指定されていました。和歌山県は津波対策が進んでおり、海岸各地に「海抜・・m」表示版が設置されています。
『御祭神:名草彦命・名草姫命・八王子命 万葉の太古より、歌所として「万葉集」に詠まれている黒牛潟は、当社境内周辺で、紀伊風土記には、「この地、古は海の入江にて、その干潟の中に牛に似たる黒き石あり、満潮には隠れ干潮に顕れ困りて黒牛潟と呼ぶ」とあり地名として詠まれている。
小高い丘の上に、嵯峨天皇弘仁3年(813)紀伊国司が鎮守の神として八王子命を祀った。後に、神代の海草地方支配者・名草彦命・名草姫命2柱が鎮座していた五個荘吉原村から、南北朝の頃、冬野村に動座し、文和3年(1354)国造左京大夫渡会貞国を奉遷し、中言神社と称す。黒牛大明神との尊称す。
御神徳:夫婦2柱を主祭神とし、子の生育成長を守り、縁結び、家内安全、陰陽和合の神として、中言の名も神と人との「中」を取り持つ「こと・言」より出て、崇敬せられる』
ここで名草氏の名に出会うとは、想定外の嬉しさです。全国区では神武遠征の敵役として残るだけで無名ですが、太古から脈々と続く地元愛を感じます。この海草郡の豪族・名草氏は強かったそうで、記紀にも神武東征軍が難波で敗戦し、海草郡に上陸しても名草氏に敗戦し、神武天皇の兄が討ち死にしている。よって更に紀伊半島を南下し、串本・熊野から紀伊半島中央部を、八咫烏の案内で北上したと書かれている。
兵の強い国というのは、時代が経ても続くものです。薩摩隼人で有名な薩摩も強兵の生産地ですし、土佐もそう、紀伊半島もそうです。織田信長・豊臣秀吉を苦しめた鉄砲傭兵・雑賀衆の本拠地です。織田信長の本拠地・尾張は弱かったけど、徳川家康の三河兵は強かったそうです。徳川家康と同盟していなければ、信長は浅井朝倉軍に、姉川の戦いの時討ち死にしていました。陸奥兵も、「進軍した後はペンペン草も生えない」との表現が残るほど強兵だったそうです。
薩摩隼人なんか、傭兵として朝廷に仕え、隼人石として神社境内に残るほど、飾っておくだけで威力があったそうです。この地を線で結ぶと、太平洋岸で、海族が住み着いた地とも合致します。司馬遼太郎によれば、大東亜戦争で日本軍にあって勇猛果敢を発揮した台湾の高砂族も、海族で薩摩隼人など日本太平洋岸の海族と元は同族だそうです。
天照大神と素盞嗚命が誓約した時、スサノオが姉の勾玉の輪を飲み吐き出したのが八王子です。アマテラスがスサノオの剣を飲んで吐き出したのが女神・宗像三神で、八王子の勝ちで、アマテラスがスサノオの「高天原を奪いに来たのではない」の言葉を信しることになる。その後、うんこを投げたり無茶苦茶するんだけどね・・・。
天皇家が祀る神道が、かつての敵・名草氏の先祖も我が先祖同様に祀る・・・こういうおおらかな所が好きです。
『紀の国名水・黒牛の水 黒牛潟の岩を通して湧き出る清浄水(境内の井戸水)』があった。黒い牛の像のしたから竹パイプを通して流れ出ていました。
r135〜R42で、7:50「藤白神社」。「有間皇子暗殺現場」とともに、この日のメインディッシュです。父である孝徳天皇が646年「難波宮」に遷都したのに、前年にクーデター「大化の改新」を起こした実力者で皇太子の中大兄皇子(天智天皇)が反対し、明日香に帰ってしまった。失意のうちに孝徳天皇は、6才の有間皇子を残して崩御された。政権移行の政争に巻き込まれるのを避けるため、仮病を使って「牟礼の湯」(白浜温泉)に湯治した。
中大兄皇子は、蘇我入鹿を討ち、蘇我蝦夷を自害させクーデターを成功させた後、兄を謀反を企てた罪で死罪にし、入鹿討ちの時味方した后の父・蘇我倉山田石川麻呂も自害に追い込んでいます。
有間皇子は明日香に戻り、重祚された次の天皇・斉明天皇に完治を報告し、牟礼の湯の素晴らしさを話し斉明天皇に白浜行幸を勧める。天皇のいないこのタイミングで、政権打倒を企てた容疑で孝徳天皇の皇子・有間皇子が逮捕され、牟礼の湯に護送中、この地で処刑された。
楠の巨木が出迎えてくれました。
『天然記念物・藤白神社のクスノキ群 境内3ヶ所にクスノキの大木が5本あります。遠くから見ると、クスノキの森のようです。本殿前のクスノキは、幹周り10mを越え、北側は腐朽して空洞となっています。子守楠神社南の幹周り7m、背後の3本は幹周り5〜6mですが、元々ここには全部合わせた以上の大きなクスノキがあった。飢饉が続き困った農民が、氏子で相談しこれを伐って救済資金とした。その切り株から4本が発芽し、現在に至る。昭和の初めまで、腐朽した切り株があった。昭和の初め頃まで、この地方には、子供の名前に楠神様にあやかり、「楠」の字を入れる事が多く、博物学者として世界的に有名な南方熊楠もその1人です』
和歌山といえば、楠木正成が思い出されますが、さすが「木の国(紀の国)」ですね。
ここは、江戸時代の「お伊勢参り」のように、平安時代に大流行した「熊野参り」のメインストリート「熊野古道」の「藤白王子」跡でもあります。1つ京寄りが「祓戸王子」。日本人の「綺麗好き」は、神道のお祓い・禊の心から生じたものだと思うし、綺麗好き日本人が生み出し育んで来たから、「お祓い」「禊」が重要視されるようになったとも言えます。また、雨が多く、災害も多いがふんだんに綺麗な水が流れる日本列島が生んだ自然崇拝だから、必然だったのかもしれません。素敵な名前です。
『熊野古道を歩く方々へ 当社(藤白王子)で道中の安全を祈願し、気を引き締めて藤白の急坂をお登りください』
しめ縄が張られた巨大楠は、異様を見せています。『史跡・藤白王子跡 この藤白王子社(現・藤白神社)は、平安時代から盛んに行われた熊野詣の礼拝所で、熊野99王子のうち、五体王子の1つとして特に格式の高かった神社です。中世の熊野行幸の際には、当社にご宿泊され、法楽のため御歌会・相撲会などが催された。藤原定家の「熊野御幸記」に、建仁元年(1201)に後鳥羽上皇が催された藤白王子和歌会が有名で、その時の「熊野懐紙」は国宝となっています』
『楠神社 古来「子守の宮」として広く信仰され、この神様から「楠」「熊」「藤」などの名前を授かる人が多い。南方熊楠もその1人です。千年杉は、海南市の文化財に指定されている』
藤白神社前境内に車が入り、太鼓など神事用品を出している。ここで祭りがあるのか、どこかに持っていくのか・・・。
『熊の聖域への入口 平安から鎌倉の時代、「蟻の熊野詣」と言われるぐらい、熊野三山へ参る信仰が盛んであった。ここは柳屋旅館跡(現濱田邸)このあたり小栗街道両側には数軒の宿・茶屋が並び大いに賑わった』
有間王子神社がありました。『今から1300年以上前、孝徳天皇の皇子であった有間皇子は、皇位継承の争いの中、19才の若さで散っていった悲運の方です。政敵であった中大兄皇子が蘇我赤兄を誘い、有間皇子に天皇に謀反を起こすことを勧めました。罠にかかった皇子は、その釈明のため牟礼の湯(白浜温泉)にいる斉明天皇のところに参り、その帰路藤白坂で絞殺されました』
藤白王子権現というのもあります。鶴の顔を持つ龍の彫刻が珍しい。鬼瓦も龍のようです。『藤白五体王子の神宮寺「中道寺」の熊野三所権現と藤代若一王子の本地仏(熊野路で唯一現存する最古の造像)を祀る。熊野本宮・阿弥陀如来坐像、熊野速玉神社・薬師如来坐像、熊野那智・千手観音坐像、藤代若一王子の十一面観音立像は、和歌山県指定文化財です。いずれも平安朝の造像です。熊野入口を護る毘沙門天と不動三尊も祀る』
堂内の仏は、堂内の弱い光を浴びて、平安朝の造像とは思えないほど、金色に輝いていた。
有間王子のお墓に参ります。途中に『紫川 上流の谷の石が紫色を帯びているからとも、村崎にあるからとも言われている。万葉集に「むらさきの名高の浦・・・」と詠んだ歌があります。ここから見える現状の紫川は、阪和道の下を流れる側溝状態でした。
藤白坂を登ります。関電和歌山発電所の煙突が見えます。8:07「有間王子」のお墓到着。四角柱の墓石は当然後世のものですが、お花が手向けられています。その後ろに、小さな石仏や長い年月を経て角が丸くなった五輪塔・三輪塔が、まとめられており、こちらにもお花が手向けられています。この地の方々の信心を感じます。
日本人が、捕虜として内地に収容され本国に帰る前に亡くなった外国兵のために供養塔を建て参っている墓を見ます。フィリピンなどでも、大東亜戦争で現地で散華された日本兵を供養するために供養塔を建てて、清掃などを続けてくれています。こういう心を持つ国と仲良くしたいものです。
藤白神社に戻ると、境内の車がいなくなり、男たちの声がなくなっています。巫女さんが、ブロアーで境内の落ち葉を吹き飛ばしています。社務所を覗くと、「鈴木屋敷物語500円」「これが鈴木の本家300円」という小冊子が売っていました。社務所の掲示板に、「第7回全国鈴木サミット&鈴木フォーラム」の写真が飾られています。和歌山で鈴木と言えば、鈴木孫一が有名で、戦国時代雑賀鉄砲隊を率い、傭兵として全国で活躍しました。種子島に鉄砲が伝来した翌年に、ここ雑賀(和歌山)で量産を始めました。種子島を中継地として、琉球やシナと貿易していた海族の本拠地だったからです。織田信長の友軍として活躍したこともありましたが、石山本願寺に味方し、信長を散々苦しめ、最後は信長亡き後、秀吉の雑賀攻めによって滅びます。鈴木さんの多い地ですが、ここに鈴木発祥の家があるそうです。
藤白の獅子舞の写真もあります。そう言えばさっき男たちが用意してたものに、獅子舞の布があったことを思い出しました。何処かで獅子舞を披露しているのかもしれません。
本殿屋根に鶴の彫刻が下がっています。ここにも神社拝詞が下がっています。和歌山県では定番なのかな?
「長久」と「紀伊国屋文左衛門」という酒樽が奉納されています。神社には日本酒の酒樽が奉納されていますが、中身は入っているのかいつも疑問に思います。空いた酒樽を飾っているのかな?随時中身入り酒樽として奉納されているのかな?摂社を巡ります。秋葉神社『御札を台所に祀り、火災を防ぐ火伏せの神様』。木製のロバほどの大きさの神馬がありました。『神様の乗り物、旅行安全や「ウマく勝つ」「ウマい物を授かる」霊力がある。紀州藩・徳川頼宣公より拝領の社宝「馬角」は大漁を呼び込む霊力があり、冷水の「潮まつり」に渡御する』。祇園神社『七夕まつりと疾病除けの神様』
井戸があった。『宮水・紫の水 その昔、川の上流にm日に映えて紫色に輝く石があった。土地の人々は、自然の真水の恩恵に浴し「紫の水」と呼ぶようになった。宮水の変遷です。地元では、お酒醸造の貴重な清水として利用されている』
ボロアーしている巫女さんの所に行き、社務所にあった「千年楠御守」500円を授かりたいと申し出て手に入れた。千年杉が入っているそうで、千年杉の絵柄の落ち着いた緑色の御守です。
「藤白神社」の駐車場前の交差点を挟んで向こうに、鈴木屋敷の駐車場がありました。その横が全国鈴木さんの発祥地「鈴木屋敷」です。『全国200万鈴木姓の元祖とされる藤白の鈴木氏が住んでいた所です。平安末期(1150年頃)、上皇や法皇の熊野参詣が盛んとなり、熊野の鈴木氏がこの地に移り住み、熊野三山への案内役を務めたり、この地を拠点に熊野信仰を全国に普及すべく、3300余の熊野神社の建立に務めた。中でも鈴木三郎重家と亀井六郎重清兄弟が有名で、幼少の頃牛若丸が熊野往還にこの屋敷に滞在した時、山野を遊んだと伝えられている。後に義経の家臣として衣川の戦いで共にその生涯を終えたと伝えられていますが、三郎重家は秋田の山奥で落ち武者として土着帰農し、鈴木家の分家として現在の秋田羽後町に歴史を継承し、その屋敷は国の重要文化財指定されている。藤白のこの地は、850余年の歴史を刻み歴史史跡として重要な存在で、全国鈴木家の故郷であり、鈴木家の宗家として当時の武家屋敷を復元し、歴史とともに後世に継承していく必要があります』
鈴木屋敷に入ると、「義経弓掛松」というのがありました。庭の下草は定期的に手入れされているようですが、母屋はボロボロで今にも倒れそうです。池があり錦鯉が数匹元気に泳いでいました。
『旧鈴木邸庭園は、「曲水泉」と言われるもので、今も残る貴重な庭園の1つです。「曲水泉」というのは、平安時代曲がりくねった水路に沿って並べた庭石に、人々が腰掛け、上流から流された杯が自分の所に着くまでに詩歌を作り、杯を取り上げて酒を飲み、次へ流す遊びに使われた庭です。造園の年代時期ははっきりしませんが、室町時代ではないかと考えられています』
『小栗街道 雄ノ山峠を越えて熊野へ参詣する熊野古道を小栗街道と呼んでいます。不治の病にかかった小栗判官が、照手姫の土車に引かれて熊野権現の霊験を求め、この道を通ったためです。判官は、熊野本宮に参詣し、湯ノ峰の湯を浴びてすっかり元気になり、照手姫と結ばれました。判官は後に、畿内5ヶ国(大和・山城・河内・和泉・摂津)と美濃を賜りました。この話は、説経節や和讃・浄瑠璃に脚色され伝えられています』
小栗判官は、同じ和歌山で言えば「安珍清姫物語」同様の伝説ですね。でも歌舞伎などの世界では、定番の出し物です。
R42に出て、信号待ちしていた時、「日本庭園のある酒蔵」の看板が目に入りました。先週「和歌山マリーナシティ」に船で来たとき、同行のHさんが言ってた酒屋かもしれない。「ひょっとしたら、見学できるかな?」と、寄り道することにしました。
8:49、駐車場着。制服を着た女性従業員さん達が出社してきています。僕以外車はゼロだけど、「観光用お客様駐車場 中野BC株式会社」と書かれているので、日曜日だから見学できるのだろう。
門を入り守衛さんに声をかけると、9時から見学可で説明員が付くそうです。僕1人なのに、笑顔の対応です。待合場所にある看板を見ると、清酒メーカーのようだが和歌山らしく梅酒も作ってるみたい。
『熊野参詣の入口・海南市藤白で、1932年前身となる醤油醸造所を創業。戦後、焼酎製造に転換し、現在は造り酒屋として日本酒をはじめ焼酎・みりん・梅酒などのアルコール製品と和歌山特産品を原料とする健康食品の製造販売をしております。中野BCのBCとは「Biochemical Creation=生化学の創造」を意味します。創意工夫の伝統を受け継ぎながら、品質第一をモットーに日々、研究開発に力を注いでいます』
「熊野参詣の入口」という言葉が藤白神社にも書かれていましたが、京から船で淀川を下り、渡辺津から大型船に乗り換え、近在地・名勝地「和歌浦」に上陸して熊野参りするコースがあったからです。因みに、もっと南の田辺白浜に上陸して熊野を目指すコースもあります。
守衛さんがやってきて、いろいろ説明してくれます。9時になり、説明員のお姉さんが来られました。まずは日本庭園です。『長久邸・庭園 創業者・中野利生の別邸だった屋敷と蔵を活用した「長久邸」。120畳敷の大広間の窓から望む広さ1万平方メートルの広大な回遊式庭園には、満々と水を湛えた3千平方メートルの泉水池と、悠々と泳ぐ白鳥や錦鯉の姿が見られます。その周りを松や梅、つつじなどの植え込みが取り囲み、春には桜の花や藤棚のカーテン、初夏には紫陽花といった花々の彩りとともに、四季折々の風情あふれる佇まいで訪れる人を迎えます』
中央に大きな池があり、白鳥が悠々と泳いでいます。人工の中之島には枝振りの良い松が生え、江戸時代の大名の庭園を現代に遺している風に見えます。周囲の森の中に人工の滝があり、その下に錦鯉が群れています。僕らがそこを通ると、餌の時間と勘違いした鯉達が我先にと、大騒ぎです。
東屋があり、対岸の池上建物が見えます。池に面して数部屋あり、のんびりただ池を眺めているだけでリラックスできそうです。「仕事場にこういう憩いの場があるのはいいですね」などと、説明員さんに話す。
池周囲の森の小道を周回し、工場建屋に入る。まずは梅酒蔵。『主原料となる梅は、梅どころ和歌山でも最高級品種である南高梅のみ。そのリッチな香りと酸味の邪魔をしないよう砂糖やホワイトリカーも厳選し、漬け込み、撹拌、抽出、分離・熟成の各段階で、専門の梅酒杜氏が状態を見極めながら造ります。6ヶ月の漬け込みと、6ヶ月以上の熟成を経て、風味が高まり、色・味・香り3拍子揃った高品質の梅酒が完成。この原酒を元に、様々なカクテル梅酒が生まれます』
僕が子供の頃、母方のお婆さんから、毎年梅酒とぶどう酒が送られてきていた。お婆ちゃんが手作りした原酒で、それを薄めて飲んでいた。お酒というよりジュースとして飲ませてくれていた。かなり薄めるので、子供でも飲めるアルコール度数になっていたと思うが、ジュースのように更に水分が欲しくなることもなく、カルピスより好きだった。
お婆さんが亡くなり、母と一緒に自宅で手作りするようになった。ぶどうや梅を水洗いするが、きちんと水分を拭き取らないと腐ってしまって失敗したりしたが、概ね美味しく出来上がった。簡単なものだなと思っていた。
お酒が飲める年齢になり、勇んでワインを買いに行ったが、「赤玉ポートワイン」などの大手メーカーのものでも、味が薄すぎて手作りの味を知っている僕にはガッカリするものだった。梅酒はまだマシだったが、やはり僕の手作り梅酒にさえ負けていた。
醸造棟には巨大タンクが林立していたが、今は新たな漬け込み前なので中身は空でした。大画面TVを引っ張り出してくれ、梅酒製造工程を見せてくれた。自分で作っていた体験を思い出しながら。
次は清酒製造棟です。梅酒よりさらにでかいタンクがいくつも立っていた。1本で100mプール4つ分と聞き、ちょっとびっくりした。『搾り終えたお酒は貯蔵タンク内で一定温度を保ち、秋になるまでじっくり熟成します。新酒には澱(おり)がたくさん含まれているため、「おり引き」「濾過」を行った後、火入れ貯蔵します。その後、酒質に合わせて適切な温度管理しながら利き酒や成分分析で納得行く熟成度合いを見極め調合し、割り水でアルコール度数を調整します。こうして味わいが乗ってきたお酒を、火入れや瓶詰めして世に送り出します』
梅肉エキスの作り方が書いてある。工場通路に杉玉が下がっていた。『日本酒の造り酒屋などの軒先に吊るされている杉玉。昔から新酒が出来たことを知らせる役割を果たしていますが、やがて茶色くなってきます。この色の変化で、新酒の仕上がり時期がわかります。当社でも毎年新酒を仕込む頃に、新しい杉玉を吊るします。その由来は諸説ありますが、お酒の神様に感謝を捧げる意味があり、杉の葉はお酒の腐敗を防ぐからだとも言われています』
「長久BAR」という、利き酒会などをする広い部屋に案内されました。木樽の上に木蓋が置かれテーブルのようになっています。そこで、清酒製造ビデオを見せてくれました。大吟醸数種類<純米吟醸数種類というランキングで、原料のお米の精米度が違います。最高級品では、お米の35%しか使っていません。兵庫県産山田錦を使っていました。三田市・三木市には、「山田錦」と田んぼに幟が多数立っています。
秋篠宮殿下ご夫婦がこの工場を訪問されている写真が飾られていました。この2人は、大学時代のサークル仲間で、学生時代にプロポーズしていたらしく、僕は秋篠宮殿下に好感をもっている。この中野BCは、県下一の酒造メーカーになっているようです。訪問してきた神社に奉納されていた「長久」も、この工場で製造されたブランドでした。
次に通されたのが、120畳の部屋で、大勢でも説明を聞けるように椅子が並んでいた。この部屋は池から見えていた池の上に立つ建物でした。窓の下に池が広がり、とても気持ちのよい景色でした。朝イチのお客さんとは言え、僕1人なのが申し訳ない。梅肉エキスが粒になった健康食品を試飲しました。初代創業社長のコレクションも飾られていました。春の園遊会で、3代目現社長さんが安倍首相ご夫婦と写真に収まっておられました。
最後が、お土産売店となります。9:31、家内へのお土産として「長久庵限定てまり梅酒3本セット」を購入しました。梅酒に果実ジュースをブレンドしてあります。みかん・紀州うめ・ゆずの180ml3本で1080円でした。GIVIのリアケースだから、大きいのは持って帰れません。
予定外の寄り道でしたが、僕1人のために説明してくれ、贅沢な時間でした。守衛さんに挨拶しようと思ったら、向こうから門衛室を出てこられ、気持の良い会社でした。
R42を南下します。先週船を係留したマリーナシティー横のポルトヨーロッパの観覧車が見えます。r166に入り、9:52「善福寺」。「国宝・釈迦堂(鎌倉時代)」を観に行こう。周囲の山にみかんが植えられており、モノレールが山肌を上がっています。
『建保2年(1214)、僧・栄西が紀州を訪問しこの寺を建て、「宝遊山・広福禅寺」と名付けた。戦国時代、領主・加茂左近の菩提寺となり、釈迦堂を本堂に、梅田寺・了東院・吉祥院・観音院・善福院など多数の塔頭が立ち並び禅宗寺院を呈していた。天正のはじめに真言宗に転宗、高野山の庇護のもと、文禄2年(1594)伽藍堂舎の修復、子院の整備が行われ、寛文年間、天海僧正の法孫・憲海僧正の支配下になり現在の天台宗に変わった。明治44年、解体修理を受け、ほぼ建立当時の姿に復原された。
釈迦堂は、桁行3間・梁間3間、もこし付きで寄棟造・本瓦葺、禅宗様式の仏壇で、嘉暦2年(1327)建立と考えられる。正面の中央3間には、桟唐戸を入れ、内陣の正面後方に高い須弥壇を設け、内部中央の上部は鏡天井、床は瓦敷で、そそり立つ内部空間を作り出している。現在の禅宗様建築に比べ、この建物は木割が大きく雄大な気風がある』
瓦には「廣善福寺」と浮彫りされている。ふと見上げると、高速道路から見える風車の列が見えた。
r166で山中に入っていくと、10:19「福勝寺」。小さな駐車場にバイクを置き、参道石段を上がっていく。『50代桓武天皇の時代、延暦23年(804)弘法大師・空海31才の時、藤白峠を越え当地通行の折、岩屋山・瀧本にて修行された。入唐求法海路無難の請願を立て、37日間護摩を焚き、求聞持秘法の修行され、千手観世音菩薩・虚空蔵菩薩・瀧本不動明王などの尊像を残した。本尊・千手観世音菩薩は、「旅立及観音、厄除及観音、雷除乃観音」のご利益があり、瀧本不動明王石造は、護摩修行本尊とされ「旱魃請晴(かんばつしょうう)」の霊験がある。その後、空海は出家〜遣唐使船に乗り難波を出発した』
『真言宗は、弘法大師・空海が平安時代初期大成した真言密教の教えを教義とする。「真言」とは仏の真実の「ことば」を意味し、「ことば」は人間の言語活動では表現できない世界や事象の深い意味、すなわち隠された秘密の意味を明らかにします。弘法大師は、この隠された深い意味こそ真実の意味であり、それを知る事ができる教えこそ「密教」だとした。真言宗とは、仏と法界が衆生(しゅじょう)に加えている不可思議な力(加持力)を前提とする修法を基本とし、それによって仏(本尊)の知恵を悟り、自分に功徳を積み、衆生を救済し幸せにすること(利他行)を考える実践的な宗派と言える』
鐘楼があり、目を移せば里山に囲まれた緩やかな景色があった。鬼瓦が載った『求聞持堂(能満堂)・本尊・虚空蔵菩薩(重文) 慶安3年(1650)初代紀州藩主・徳川頼宣公の寄進により建てられた。本堂東側面に接触して建立された。この時本堂は、東面縁が撤去されるなど改造を受けたが、内包長押が取り付けられ、堂宇として姿整い、江戸後期の修繕に伴う改変を受けるまで、中世仏堂として形式を留めていた。大正修理以前までは祈祷所としての特色を保持していた。平成の解体修理の際、慶安3年の姿を基本に復旧整備したが、求聞持堂正面建具については、当初形式及びその後の変革が明らかでなく、文化10年改造時の建具を存置するものとした』
『徳川頼宣 慶長7年(1602)〜寛文11年(1671) 徳川家康の10男で、紀州徳川家祖。常陸水戸藩。駿河駿府藩を経て紀伊和歌山藩藩主となる。母は側室・養珠院(お万の方)。8代将軍・徳川吉宗の祖父。寅年生まれゆえ、当山・虚空蔵菩薩を自身の守り本尊として深く帰依し、能満堂(求聞持堂)を建立し、藩主や子孫の繁栄を祈願した。その後も家来衆や女中衆が参詣を重ね、寛文4年(1664)には彗星が出現し、不吉の前兆として、当山で星供養祈願した。仏壇には徳川家康はじめ養珠院、頼宣、江戸幕府2代征夷大将軍秀忠など縁の人物数名が位牌として祀られている』
本堂奥に『裏見の滝 高さ20m・幅30mあり、滝の奥は石灰岩の洞窟になっている。滝の裏側から眺められる。洞窟には弘法大師刻・不動明王が祀られ、日照りが続くと不動尊を滝壺に移し、雨乞い祈祷が行われた。また行者達の修業の場となっていた。滝の上流には、岩屋谷上池と下池があり水源となっている。滝の手前の杉の大木のてっぺんに、昔天狗が棲んでいた。滝側の本堂縁にあるくぼみは、その天狗の手形跡』
とても雰囲気のある滝で、滝壺をぐるりと周回でき、滝裏も歩ける。水量の多いときは迫力があるだろう。空海作の不動明王も、木枠で守られながら鎮座していた。
『不動明王 仏の教えに背く者を正しく導くため、大日如来が恐ろしい姿に変身したもの。身を包む炎で悪や汚れを焼いて浄め、悪を教化します。頭は怒りの形相で、右目は天を向き、左目は地を向いています。これを天地眼という。右牙は上を、左牙は下を向いています。右手には剣を、左手には羂索(けんさく、もれなくすくう「たも」のようなもの)を持っています。長い間この岩窟にお座りになって、加茂谷の人々を優しく見守り、災難や苦しみから救っています。素朴な作りであるだけに、親しみのある不動様です』
滝脇から、山に登っていく小道が続いています。本堂縁の天狗の手形を見に行きます。『400年前、この滝の大杉のてっぺんに天狗が棲んでいた。人懐っこく、村人にいたずらしたり、子供と遊んだり、時には瓜やみかんを食べたりした。村人は岩屋山の観音様に、「瓜やみかんをもぐ悪さをしないように」と願い出た。観音様は天狗にそれを伝え、本堂の濡れ縁に手をついて謝った。それからは、貧乏で困っている人がいれば小銭を放り込み、人手がなければ田植えを手伝ったり、子供が泣いていれば慰めたりした。こうして村人から「岩屋山の天狗どん」と親しまれ愛された。この手形は、その時のものです』
『本堂(千手堂)本尊・千手千眼観世音菩薩(重文) 本堂建立史料は喪失しているが、堂内に永正12年(1514)の墨書が残り、細部様式・技法から見て、15世紀建立と判断される。但し、比較的早い時期に軒支柱が付加され、室町後期には仏堂として使用されているが、当初天井は張られておらず、外陣部分は外部間仕切りがなく開放であり、軒に支柱はなかった。永禄13年(1570)内外陣に鏡天井が張られ、外部柱間装置も整備され、中世密教仏堂としての姿が整った』
『福勝寺創建 平安時代に遡る四天王寺像や、福勝寺の末寺である有田市初島町・正善寺の本尊・大日如来像の胎内に「康平5年(1062)」の墨書があることから、福勝寺創建はそれ以前であると思われる。現存史料から、正保4年(1647)藩祖徳川頼宣より寺域を定めた四方書が下付されており、求聞持堂創建時、厨子・天蓋・幡・外張・打敷その他葵紋を付けた仏具も寄進されている。高野山とのつながりも深く、藩祖創建の寺として、藩の手厚い保護や人々の信仰により、由緒ある歴史が刻まれてきた。その威光は、浄土真宗本願寺8世蓮如上人と喜六太夫にまつわる霊験あらたかな伝説を残したのである』
10:52、橘本神社(戸坂王子)。ここも熊野古道の王子跡です。境内の草引きをされている年配の女性がおられたので、「ご苦労様です」と挨拶し参りに行く。
『藤原定家は「トコロ坂」と日記に記しています。この付近にトコロが多く自生していた。紀伊続風土記では、所坂王子社と呼んでいます。明治時代に、塔下王子社・橘本王子社を合祀し、橘本王子神社(現・橘本王子社)となりました。橘本王子の由来である田道間守(たちまもり)を主神として祀っています。神社合祀で廃絶していく王子社の中で、神社になった一例がこの戸坂王子です。田道間守は、11代・垂仁天皇の時代に常世の国から橘の木を持ち帰り、この地に日本で最初に植えた。その実が日本で最初のみかんとなり、菓子となったことから、橘本神社はみかんとお菓子の神様として、全国のみかん・菓子業者から崇められています』
小ぶりなお宮ですが、みかん発祥の地でした。皇太子殿下御手植えの楠の木がありました。天皇家のルーツでもある神社の本殿正面と言えば、「右近の橘・左近の梅」ですものね。天皇家にとって、重要な地なのでしょう。
『橘 今から1900年前、田道間守が垂仁天皇の命を受け、常世の国から持ち帰った非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)はこの橘樹であり、今のみかんの原種です(古事記・日本書紀に記す)』と立て札が立ち、板玉垣に囲まれた橘が植わっていた。何代目なんどろう?
「名古屋生菓子工業協同組合」創立75周年記念で植樹した木もあった。瓦を見ると、橘が浮き彫りにされていた、社紋は橘なんでしょう。鬼瓦にも、橘が。お宝有りの印・桃瓦が載っていた。本殿を覗くと、ここにも神社拝詞が掛かっていた。
『田道間守 香りも高い橘を、積んだお船が今帰る。君の仰せをかしこみて、万里の海をまっしぐら、今帰る、田道間守、田道間守。
おはさぬ君のみささぎに、泣いて帰らぬ真心よ。遠い国から積んで来た、花たちばなの香とともに、名はかをる、田道間守、田道間守。 昭和17年文部省発行教科書』
戦前の教科書では、日本の生い立ちを教えていたが、橘の渡来も書かれていたのですね。田道間守が橘を持ち帰った時には、それを命じた垂仁天皇は亡くなっていたようです。この天皇は、キリストと同じ時代を生きた天皇で、記紀によると紀元を挟んで140年ほど生きた方です。
ちょっとした寄り道気分で寺社に立ち寄りますが、時々このような歴史的事象に当たり、ワクワクします。草引きの女性に、「ありがとうございました」とお礼を言って立ち去ろうとすると、「ご苦労様です、何のお構いもできませんで」と返ってきた。平安の昔から多くの熊野参拝者が通った道ゆえの応対が今に続いているのかとさえ感じた、素敵な言葉を頂いた。
11:10、「山路王子神社」。県指定史跡「一壺王子跡」。舗装されているが小川沿いの細道を走っていますが、これが熊野古道のようです。石段を本殿に上がってみる。『主祭神:天照大神 皇室の祖先、皇祖神。美人女神として尊敬されている。御神徳:家内安全・五穀豊穣。 応神天皇(八幡大菩薩)八幡信仰は、氏神や産土神の性格を持って庶民的なものとなったが、始めから神仏混交の菩薩信仰から出発したものである。71才で即位し、在位40年111才で崩御という長命。誕生の時、天から仏教の根本義八正道を意味する八8本の旗が降下したという伝承から、八幡大菩薩の名が生じた』
横の摂社も観ていく。『石神(しゃくじん)御神体は奇岩・霊石・石剣などで、神霊が籠もっている。良縁・安全・子育て・イボ取り・咳止め・歯痛止めなどに霊験がある』
『地祭神社 祭神:大地主の大神 地鎮祭の時に土地の清祓をする神様。家屋敷の守護神』
『道祖神 祭神:障(さえ)乃神、賽の神、道陸(どうろく)神 道祖神の御神体は陰陽石や様々な形の石で、道端にあって悪霊や疫病の侵入を防いだり、通行人を守護したり村を守る神。妊娠・出産・育児・生殖の神とされ、下腹部以下の病気を治す神でもある。このような道祖神信仰は、平安時代末期頃から生じた』
『星神神社 祭神:氏神 各地区の鎮守神。地域社会の守り神。産土神とも言われ、地の神であり、その人の一生を守護し、生まれたばかりの幼子達のために初宮参りをする。神社である土地は、生命を受けて生まれた。それ故子供が田畑以外の庭土をほじくると「神のオツムに穴をあけてはならぬ」と叱った』
ここにも、神社拝詞が掲げられている。ここまで続くと、海南の神社の約束事のようです。
『里神神社 日本の神々は、自然現象を神格化した自然神、生活神、人間神の3つに分けられる。自然神は、天地を形成する自然界すべてを神として畏敬してきた。古代の人々は、天変地異や災難などは全て神の怒りと見ていた。神を祭り敬うことにより難を逃れ、家族の安隠と氏族の繁栄を図ろうとした。農耕民族であった日本人は、自然神を祈ることで豊作を約束付けようと切なる願いを込めてきた。現代有名な神社も、元はこの氏神が発展的段階を経て、社殿し整え著名な祭神を祀るようになった』
『島姫神社 祭神:市杵島姫神 宗像三神のお一人である。3姉妹とも美人の誉れ高いが、特に市杵島姫は抜きん出ているため、弁天様に見立てられています。 御神徳:交通安全・縁結び』
『妙見社 祭神:妙見菩薩とも釈迦妙見とも称する 12月8日の暁天に輝く北極星を見た菩提樹下の釈尊は、悟りを開いた。つまり妙見を得た。それを真じる者には妙見の仏格から眼疾を治すとされ、現世利益の招福、厄災の功徳が現れる。神仏混交時代の名残である』
境内に土俵があった。『一壺王子跡 「一坪王子」とも「沓掛王子」とも言われ、現在は市坪・沓掛の氏神で、山路王子神社と称する。紀伊続風土記には拝殿・玉垣・鳥居・鐘楼などがあり、瑠璃光山安養寺という神宮寺があった。秋の大祭(10/10)には県指定の無形文化財の獅子舞(獅子幕内7人・鬼2人・笛5人・太鼓1人)があり、奉納花相撲が催される。村内外の幼児が赤ふんどしを締めて、行司役の氏子総代に抱かれ、土俵の上で1勝1敗になるよう土俵の土をつけてもらい、子供の健康を祈願する。一般的に「泣き相撲」として、親しまれている。また子供による3人抜き・5人抜きも行われる』
『一壺王子 藤原定家が後鳥羽上皇の参詣に随行した日記に「一壺王子」とみえる。藤原頼資が、後鳥羽上皇と修明門院に随行した建保5年(1217)の日記によれば、10/4に小屋形が作られ、両院は昼食を取っています。江戸時代には、市坪(一坪)王子・山路王子社・沓掛王子社と呼ばれています。ここから蕉坂峠に向かって急坂となるため、山路・沓掛と呼ばれたのでしょう。市坪・大窪・沓掛3ヶ村の産土神でした。その為明治以降も神社として残り、沓掛村の星神八王子者などを合祀しています。現在は山路王子神社となっていますが、かつては安養寺という別当寺があり、鐘楼がその名残を留めています。秋祭りに奉納される相撲は、「泣き相撲」ともいわれ、小児の健康を願うもので、県の文化財に指定されいます』
11:41「長保寺」。駐車場完備の大きな寺院です。国宝の「大門」には仁王様がいます。『後小松天皇の勅宣を受けて寺僧・実然が嘉慶2年(1388)に再建したものです。3間1戸の楼門で、入母屋造り本瓦葺で、組物は和様を基調とした三手先斗?に尾垂木を組み、軒を受けるなど室町初期の特徴をよく表し、形態がよく整った代表的山門です。現在掲げる額は、紀州家初代頼宣が藩の儒者・季梅溪に命じて模写させたもので、当初の扁額は、応永24年(1417)妙法院二品親王の御筆で大門と共に指定されています。仁王尊は、弘安9年(1286)湛慶作と伝えられる秀作です』
屋根を支える木材の組み方が目につきました。他でも感じますが、巨大な寺院の大屋根を、釘を使わず見事に支える木組みは、先人の知恵の高さを感じます。龍と虎の彫刻も見事です。
長い参道を歩くと、「天台宗・福蔵院」という塔頭がありました。小さいけど整ったお庭があり、境内に哺乳瓶ブラシそっくりの真っ赤な花が咲いています。何という名の樹だろう?帰宅後調べたら、「キンポウジュ(金宝樹)」でした。以前にもどこかで見かけた記憶があります。立派な鬼瓦が載っています。若葉を伸ばした紫陽花に隠れるように、どんぐりを抱えたリスの置物がある。うさぎもいる。いいお庭です。
元三大師が建てたお堂があった。通称・元三大師は、慈恵大師と言われる天台宗の僧・良源で、南都との法論で勝利したり、大いに天台宗の勢力を高めた中興の祖で、比叡山根本中堂を大伽藍に再建した、現比叡山延暦寺の原型を作った方です。「日本の御神籤の元祖」と書かれています。弁舌が立つ秀才であるとともに、アイデアマンで宗門の経済力を大いに高めた方だったのですね。
石段前に拝観受付がありましたが無人です。「拝観料300円」と書いてあったので、お賽銭箱みたいなのに入れ、冊子入れからパンフレットをいただく。境内見取り図を見ると相当広そうだが、国宝の本堂・多宝塔は石段を上がったとこのようです。その奥は、歴代紀州藩主のお墓です。
『国宝・本堂・多宝塔 鎌倉時代延慶4年再建(1311)』、特に目を引くような造作はないが、700年前の建築物をメンテナンスしながら現代に伝える日本人の心を感じる。
歴代藩主のお墓を巡ってみよう。境内から森の中の小道に入る。『3代綱教卿・光貞卿長子・宝永2年(1705)5/14没す。享年41才』 『9代治貞卿・宗直卿第2子・寛政元年(1789)没す。享年62才』 『4代頼職卿・光貞卿第3子・宝永2年(1705)9/8没す。享年26才』 『8代重倫卿・宗将卿第2子・文政12年(1815)没す。享年84才』『2代光貞卿・頼宣卿長子・宝永2年(1705)8/8没す。享年80才。8代将軍吉宗公の父』 『14代茂承卿・西條頼学朝臣第7子・慶応2年(1866)没す。享年63才。藩籍奉還後初代和歌山藩知事』 『初代頼宣卿・徳川家康公第10子・元和5年(1619)駿河より紀州入国藩祖となる。寛文11年(1671)没す。享年70才』
初代から15代まで歴代藩主(徳川幕府将軍に栄転した5代吉宗と13代家茂を除く)と、夫人の墓が山中に点在していた。
1705年に、2・3・4代が相次いで亡くなっているので、帰宅後調べてみた。2代光貞が父初代頼宣から家督を継ぎ善政を行い領民から慕われた。長子・綱教が5代将軍・綱吉の長女・鶴姫を嫁にもらったことで将軍家との縁を深め、息子のいない綱吉の後継者となった。しかし、1704年その鶴姫が亡くなってしまう。気落ちしたのか翌年4代綱教が5月に死去し、2代光貞も8/8に亡くなった。兄の突然の病で分家を立て独立していた頼職が急遽兄の養子になり紀州藩4代目を継いだが、父・2代光貞が病に倒れたので急遽江戸から早馬で戻り臨終に間に合った。しかしこの早馬が応えたのか体調を崩し9/8に亡くなった。
紀州藩絶頂期目前の相次ぐ藩主の死という悪夢の1705年だったが、父と2人の兄を相次いで亡くした2代光貞の4男・吉宗が22才で分家から紀州藩に戻り藩主を継ぎ、相次ぐ葬儀で悪化した財政を再建した。更に徳川幕府宗家8代目将軍に出世していく年でもあった。8代以降の徳川宗家将軍は、紀州藩と吉宗の4男が家祖として立てた一橋家から出ており、紀州藩最悪の年1705年が、新たな大飛躍元年でもあったようだ。勉強になりました。
境内に戻る道に、我が家でも庭を彩ってくれている「紫蘭・シラン」が群生していた。漆喰が赤いベンガラ壁の建物もある。旧西国街道沿いや、丹波篠山の旧豪族の館でベンガラ壁を何軒か見た。武士の婆娑羅(ばさら)を表しているようでかっこ良かった。我が家でもそうだが、紫陽花の花がもうすぐ咲きそうになっている。
r166〜R42を南下し、有田市に入り紀の川を渡って、12:29「浄妙寺」。バイクを下の道に置き、坂を上がっていくと短い石段があり、境内に上がると左手の多宝塔が目を引いた。
境内にベンチが有り、バイクから持ってきた朝買った「訳ありバウムクーヘン」を2切れ昼食として食べました。小高い丘になっているので、景色もまあまあです。僕は、子供の頃体が弱かったこともあり、家ごはん大好き人間です。大学卒業後就職して1年間東京に住んだが、毎日外食したからか毎月風邪を引いて参った。1年後転勤で実家から通える職場になり、風邪渦から開放された。それから俗に言う「絶品」や評判の「グルメ」には警戒心がある。よって、ソロツーリングの時はカレーや麺類などで軽く済ませるようにしている。コンビニおにぎりも多く、こんな屋外で食べることも多い。
多宝塔と本堂である薬師堂は、鎌倉時代のもので、国の重要文化財に指定されています。こういうものに囲まれていると落ち着き和みます。
r171で有田川左岸を走り、紀伊水道に出っ張る「宮崎ノ鼻」に向かいます。12:56「女の浦」。舗装路はここで終了でした。山道を歩けば灯台があるので半島の先まで行けるのでしょうが、写真だけ取って、TM(ツーリングマップル)に「美しいリアス式海岸」と書いてある「大櫃海岸」に向かうことにする。
半島を南に横断する道は、標高を上げていきます。眼下に海が広がり気持ちが良い。有田川右岸先端の防波堤に囲まれた場所が何か変・・・なんだろう?ソーラーパネルではないかな?と想像しました。
途中、「広域農道・紀の川フルーツライン」のエンドがあった。峠を南に越え大櫃海岸に出たが、旅館が建つ細い道になり、海まで降りる道がわかりませんでした。下手に突っ込むと、急坂なのでUターン不能になりそうで諦め、道がジエンドしたタイミングでUターンしました。150kgのVTR250ならもう少し探れるけど、200kgのCB400では無理出来ません。これ以上大きなバイクだと、そもそもこんな道に突っ込めないので、僕の用途には使い勝手が悪すぎる。バイクから降りずに、両足付けてヨチヨチバック出来ないとね。
峠まで引き返し、広域農道「紀の川フルーツライン」に乗りました。気持の良い尾根道でナイスです。景色の良さそうな場所にポツンと喫茶店?があったので、お茶しようかと思ったが営業していないようです。すぐ近くに、もっと大きな施設が工事中のようで、レストランでも営業するのかな?
r20に乗り南下し、13:28「須佐神社」。道に「飛び出し坊や」の女の子バージョンが置いてあった。『祭神:素戔嗚尊 鎮座:和銅6年(713)』。駐車場にバイクを置き、石段参道を上がっていきます。突き当りに「須佐駿馬・瑞光」と書かれた白馬の像があった。
神門が立派で、写真や催し物案内が貼られている。天井が素敵で、由緒ありそう。境内に厩があり、中に白馬の像が置いてある。参道正面が神楽殿になっており、そこで職人さんが藁をなっておられる。しめ縄でも作ってるのかな?
拝殿は参道に対して横を向き、左右に下げられた「御神燈」と書かれた提灯に「桃」が描かれている。瓦にも桃が入り、この神社のシンボルが桃かもしれない。龍の彫刻が立派です。拝殿左右に設けられた絵馬掛けには、素盞嗚命がヤマタノオロチを天叢雲剣で退治しているかっこいい絵柄の絵馬が下がっている。
拝殿にお賽銭箱はあるが、上に鈴がないのでおかしいなと振り返ったら、参道中央の手水舎と思ってたとこに鈴が下がっていた。鈴を鳴らすお下がりが異常に太く、ヤマタノオロチの尻尾のように、一旦下がったものを再び上に上げたから下がっている。しかも2本も。これは初めて見ました。鈴を鳴らそうとしたが、下がりが重すぎて鈴が鳴りません。よく見たら、鈴の横に別の一般的な下がりが下がっていました。
この鈴舎も素敵で、印鑑のような文様があり、木鼻の龍の彫刻もナイスでした。社務所を覗くと、「須佐神社(千田宮)絵馬・500円」が目につきましたが、無人なので授かれません。神楽殿で作業中の方に、「絵馬を授かりたいのですが、初穂料は置いておいていいですか?」と聞くと、ハイハイと作業着のまま社務所に入られ、包んでくれました。宮司さんだったのかもしれません。
赤い布に白地で「大漁・海上安全・有田千田宮」と染め抜かれた大漁旗もありました。
『国指定重要文化財・因州重景長拵糸巻太刀(いんしゅうじゅうかげこしらえいとまきたち) 身長68.2cm・反り1.8cm 須佐神社の祭神は素盞嗚命であり、和銅6年(713)鎮座。この祭神に因む須佐の地名は、万葉集に見える。延喜式神名帳に須佐大社とあり、有田地方唯一の式内社で、木国神名帳には従一位に叙せられている。古来より、朝廷・武家・一般の信仰が篤く、紀州徳川藩祖・徳川頼宣は当社を武神として尊信し、自らも参詣している。須佐神社に伝えられているこの太刀は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗が武運長久を祈って当社に寄進したものである。刀身は、室町時代の名工・因幡国景長作、拵えは武田菱紋散らしの華麗な糸巻太刀拵で、江戸時代の作である』
更にr20で海岸線を南下します。半島の上の風力発電が緩やかに動いています。道が広くなった所には車が停まり、釣りを楽しんでいます。
14:02、鎮守の森まで来て入口がわからずウロウロしたが、「国津神社」。石段を登ると境内になり、摂社のお稲荷さんがある。祭神は大国主命でした。
更に南下し、次の訪問地は「背無畏寺(せむいじ)」ですが、急勾配の細道を上がっていくようになっており、VTRなら突っ込めるがCBだからギブアップしました。
r20を南下し、湯浅の街に入り、「湯浅」交差点からR42を北上します。ここから気分は帰路です。r22〜r159〜R480で有田川右岸を東進します。
14:35「田殿丹生神社」。クスノキの大木があります。『田殿丹生神社・夏瀬の森のクスノキ 幹周7.32m・樹高22m・樹冠東西37m南北35mにも及ぶ大樹で、和歌山県内最大級のクスノキです。樹齢4〜500年と推定される。田殿丹生神社のご神木で地域のシンボルです』
平安の大洪水で流路が変わり、鎮守の森が持って行かれたのでしょう。神門を入ると祭の写真が貼られている。『大神はこの神池・夏瀬の森へ御神幸され、ここを中心に水銀の開発に力を尽くされた。また農業を創始された。神功皇后や応神天皇は、大神を御尊崇し、1600年前に当社を建立された。この頃の夏瀬の森は、はるか南の方にも広がった大きな森で、有田川もずっと南を流れ、社殿も森の中にありました。1000年ほど前の平安期、大洪水のため森はその北部の一角のみとなり、社殿も白山の麓に移されました。現在境内に奉安されている御神木は、その大洪水で土中深く埋もれた楠で、河川工事の際現れた由緒深いものです。また夏瀬神社の裏にそびえる楠は、足利義満公が金閣寺建立の際、天井の一枚板に使うため切り倒した切り株から生えた。
900年前、真言の僧・幻蔵上人が神社の東・神谷に七堂伽藍・21坊を建て、神谷山最勝寺と名付け両部神道によって奉仕された。その後一時衰えたが、明恵上人が再興され、豊臣氏の頃(400年前)最勝寺は破却され、それ以降は神道で奉仕されている。以前、高野大明神が井口にてお祀りされていたので、丹生社を上の宮、高野社を下の宮と申しますが、現在では高野大明神は本殿(丹生社)に祀り上げています。秋の例大祭には、上の宮と下の宮(御旅所)との間の御渡り祭祀が行われます。田殿の里の氏神様は、産業発展(農業・工業・商業)の神、開運の神、縁結びの神として、広く深く信仰されています。昭和3年、夏瀬の森は県史跡名勝保存顕彰規定により史跡に指定されました』
全国各地に「丹生」という地名が残っているが、高野山周辺・和歌山県北部に特に多いように思う。水銀は、金を抽出する時に必要で、水銀は金と簡単に化合物となり、それを熱すれば水銀が蒸発し金だけが残ります。
石段を上り、本殿にお参りし、屋根のある場所に置かれている土中から掘り出された御神木の楠を参った。
R480を東進し、r18に乗って北上します。峠越えの道で、僕はゆっくりだけどバイクで走るとなかなか楽しい道です。峠を越え、海南の平野が眼下に見えだし、下りに入ります。
15:12「願成寺」。寺院に直接上がれると後でわかったのですが、急勾配の枝道が上がっていました。「君子危うきに近寄らず」で県道脇にバイクを停めます。
『850年前、湛慶上人が創建。上人は美福門院(藤原得子)の兄弟で、三上院多田卿にあった千光寺の別当をつとめていた。平安末期・久安元年(1145)待賢門院(藤原璋子)が亡くなった時、その冥福を祈るため千光寺別院として当寺を建立した。「別院」という地名はここに由来する。かつて七堂伽藍が整い、堂塔も24舎を数える大寺院でした。本尊・千手千眼観世音菩薩は、鎌倉時代作で古くから注目され国の重要文化財となっています。所蔵する古文書は県指定の文化財で、裏山からは平安末期の経塚も出土しています。 宗旨:天台宗』
「待賢門院」と「美福門院」2人の美女を巡る争いは、平安末期の天皇・上皇を巻き込んだ大スキャンダルです。白河院の長い院政の間、孫の鳥羽天皇は白河院の専制に苦しんだ。白河院が少女の頃から育てた美女・藤原璋子(待賢門院)を后に押し付けられたが、その後も白河院との密会が続いたという。生まれた顕仁(あきひと)親王(崇徳天皇)も、白河院との子であったらしい。璋子は男を迷わす美貌の持ち主で、鳥羽天皇もその魅力の虜になってしまう。やがてその親王が5才になると、白河院の命令で鳥羽天皇は譲位させられてしまった。まだ21才だった鳥羽院は大いに不満を持ったが、実力では祖父に敵わない。
やっと白河院が崩御し、鳥羽上皇は院政を引き始める。魅力的だが年上でも有り、祖父のお古だった待賢門院を遠ざけ、これまた美女の藤原得子(美福門院)を寵愛するようになった。やがて2人の間に体仁(なりひと)親王が生まれる。親王が3才になると、待賢門院との間に親王が4人いるにもかかわらず、崇徳天皇に譲位を迫り、美福門院との間の若い親王を近衛天皇として即位させてしまう。崇徳天皇は、まだ23才でした。
これら、2人の美女を巡って、公家は待賢門院方・美福門院方に別れ、天皇と上皇の2つの権力も交え、ドロドロの権力闘争が繰り広げられる。ここに天皇と上皇のボディーガードを職とする各地方の有力豪族武士達が、有力公家の命令で実力行使の戦闘を繰り広げたのが、「保元・平治の乱」でライバル源義朝を追い落とした平清盛が、実力で最初の武家政権を打ち立てる。
その後の義朝の子・頼朝・義経、義朝の弟の子・木曽義仲の平家打倒を描いたのが平家物語です。大長編小説ですが、男の子には権力争い有り、戦闘シーン有りの大スペクタクル作品で面白い。
コミュニティバス停があり、往復2便/日の運行でした。石段を上がって境内に上がると、落ち着いた本殿が正面にあった。鍵の掛かった鉄筋コンクリート造の観音堂がありました。この中に重文・千手千眼観世音菩薩像が保管されているのでしょう。ここも大木が多く、紀州・紀の国は、まさに「木の国」だと思った。
綺麗に彩色された大津絵が描かれた瓦があった。1つ欲しいな。本堂の隣がご住職のお宅だと思うが、こちらの造作がナイスでした。玄関が破風になっており、その上に載っている鬼瓦が鶴の瓦彫刻です。瓦なのにこんなに繊細に焼き上げている。素晴らしい出来でした。
バイクまでの下りを、コンクリート舗装の車道を下ったが、小さめの石を組んだ石積みがなかなかのものでした。何故垂直に組まれているのに崩れないのか不思議です。苔がしっかり生えていたので、長年この状態だと思われます。
r18を下り、15:34「千種神社」。クスノキの大木が目立ちます。『海南市指定文化財・天然記念物・千種神社のクスノキ 「行たら見てこら重根(しこね)の宮の楠にまかれた地蔵尊」と語り継がれてきたクスノキです。樹高29m・枝張り東西24m・南北25m・根回り15m。「昔、このクスノキの下に石地蔵さんを安置していたが、いつしか幹の中に巻き込まれてしまった。それで幹の下部が膨らんでいる」の言い伝えがあります。現在、多少の枝枯れはありますが、大きな空洞もなく豊かに枝葉を茂らせ樹勢が良い状態が保たれている。千種神社は百草(ももくさ)神社とも言われていました。百草が生い茂り、鬱蒼とした森林であった面影を残しているのが、このクスノキです。遠くからもクスノキが目立ち、地域のシンボルになっている名木です』
ここにも、清酒「長久」が奉納されていました。神社拝詞が飾られています。本殿は小さめですが、彫刻が素晴らしかった。社殿を囲む築地が、地面から瓦を積み上げられた上に雨除け瓦が載っており、泥壁で瓦が崩れないようになっているよく見る瓦築地と少し違っていた。
R370〜r160で、15:49「杉尾神社」。長めの石段が上がっています。それを上がった曲輪には社務所がありましたが、本殿はまた石段を上がります。石段最上部を覆うような神門です。そこに本殿がありましたが、脇の石段があり摂社「八坂神社」に行けるようです。森に囲まれた夜はあまり参りたくない真っ暗になるだろうお宮でした。
r160〜r161で、16:06「宇賀部神社」。駐車場にバイクを入れ、本殿にお参りに行こうとすると、謂れ板が目に入りました。それを読んでびっくり。『この駐車場は、小野田寛郎元陸軍少尉の両親が晩年を過ごした屋敷跡で、枝垂れ桜と白梅が僅かに往時の面影を止めています。小野田少尉は諜報機関出身で、太平洋戦争中特命を帯び、絶海の孤島フィリピン・ルバング島に派遣される。同島を死守すべく終戦も知らず戦い続けること30年。上官の解除命令に接し下山したのが、昭和49年・51才の時だった。その日の思いを両親は、次の俳句に託した。
この朝(あした)、梅の一輪、咲きゐたり 父・種次郎
陰膳も、果てとなりけり、梅の春 母・タマエ』
小野田さんは、和歌山出身だったんだ。僕も衝撃的にこの奇跡の生還をTVで見ていました。「頭の宮」と書かれています。僕の先祖、美作の三穂太郎も祀る「三穂神社」も「頭の宮」と呼ばれ、美作菅家党の祖・三穂太郎が討ち死にした時、その頭をそこに葬り、祀っています。嫡孫の誕生を祝って、庭に三穂神社を勧請しています。このお宮も、誰かの頭を葬っているのかな?
「名草戸畔・伝承地」とも書かれています。なに〜朝参った「中言神社」に葬られた神武東征の時勇敢に戦い討ち死にした名草戸畔が住んだ地なのかな?
『宇賀部神社 鎮座地:和歌山県海南市小野田 祭神:宇賀部大神・荒八王子命・誉田別命 古記録は戦国時代の兵火で焼失し、確たる根拠はない。神武天皇東征時、皇軍に随順することをしなかった名草戸畔の首級を祀り、往古より頭の守護神として「おこべさん」の愛称で親しまれてきた。荒若王子命は東方100mに、若宮八幡宮は南方400m・高倉山中腹に鎮座していたが、宝暦4年(1754)本殿新築に際し合祀された』
『暮らしの中に感謝の祈りの心、そして笑い(笑顔)を! 最大の味方は「笑う」 小野田寛郎 「笑う門には福来る」という。私はこの「笑う」ことで助けられた。励ましも慰めも、弱気になる時なった時支えになる。しかし、それ以上に私の味方になってくれたのは「笑う」ことだった』
『神社には、清らかな生命の息吹が満ち溢れています。自然を楽しみながら、ゆったりとお参りください』
『国旗・国歌はその国のシンボル! それぞれの国の歴史や文化、宗教や民族性を表現しています。それらを互いに尊重し合うことが、国際的にもとても大切なマナーです。祝祭日には、国旗を揚げてお祝いしましょう!』
『名草戸畔伝説 当社の祭神は神名帳によれば「迦具土神」(火の神)となっていますが、「名草戸畔」の頭を祀るとも伝えられています。名草戸畔は、名草山の東麓・吉原の地に本陣を構えた豪族の首長でした。大田亮氏の「姓氏家系大辞典」にあるように、「名草戸畔は存在し、何らかの大事件があったことは、この地方の伝承で伺い知れる」。時は日本の黎明期、各地に豪族が割拠して覇を競いあった。日向で頭角を現した伊波礼毘古命(神武天皇)兄弟が、九州を勢力下に収め、各地を平定しつつ大和を目指した。だが紀の国では、思わぬ抵抗勢力の反撃にあった。「毛見ノ浜」に上陸した東征軍は、名草戸畔と死闘を繰り広げた。東征軍は皇兄・五瀬命を失い、鎮魂の地に竈山(かまやま)神社を創建した。一方、名草戸畔は勇戦奮闘したが、その甲斐なく最期を遂げた。そこで邑人は泣く泣くその頭を携え、小野田の里に身を潜め、高倉山の北麓にあるこの小高い山に葬ったのが、「おこべさん」の由来である。因みに、名草戸畔の腹部は杉尾神社(高倉山の南麓・海南市阪井)に、脚部は千種神社(海南市重根)に祀られている』
やはり、名草戸畔の頭を葬った地でした。ラッキーにも、腹部を葬った杉尾神社と足を葬った千種神社も、参ったところでした。以前横を通ったけど参らなかった「竈山神社」にも今度参らなきゃ。
石段を上がっていくと、ナイスな鷲?の彫刻が施された社門がありました。鬼瓦もナイスです。神社拝詞が掛かっています。これだけ近隣の神社に下がっていると、子供でも覚えてしまいそうです。漢字にはふりがなが振ってあるので、子供でも読めます。天井からたくさんの折り鶴が下がっているのは、どういうことだろう?
小野田さん関係の写真などが置いてあります。小野田寛郎さんと、冒険家・鈴木紀夫青年との石膏像がありました。小野田さんの著書が展示されています。まさに地元のヒーローですね。僕も旧日本軍人の精神力の素晴らしさを、生還の時感じました。50才ぐらいの年齢だったと思うが、背筋を伸ばしピチッと敬礼されていた姿が印象に残っています。
大学ヨット部の先輩に、特攻隊要員として終戦を迎えた学徒動員されたM先輩がいます。OB会や後輩のレース応援で来られる時、いつも旧軍の軍帽を被って来られ、ピチッと敬礼されます。明るい方なので、ドン・キホーテのような滑稽さも感じますが、他からどう見られようと一本筋の通った我が人生を貫いている姿に、僕ら後輩は感銘を受け、M先輩が来られると、誰もが敬意を表していました。当然レース観戦の席は、一番良い席を提供していました。もう亡くなられたのですが、先輩の言葉とともに、僕の人生に大きなインパクト与えてくれました。思い出します。
『小野田寛郎の人生を180度転換させた男、鈴木紀夫 昭和49年(1974)2月、日本の小野田捜索活動に触発された一青年・鈴木紀夫が、単身フィリピン・ルバング島に渡り接触に成功する。鈴木青年は25才で、日本の敗戦を伝え帰国を促した。この接触により、小野田救出活動が現実味を帯び、昭和49年3/12帰国する。鈴木はかつて「パンダ・小野田少尉・雪男に会うのが夢だ」と語っており、最後に残った雪男発見に情熱を注ぎ、昭和61年(1986)12月ヒマラヤに出かけ、雪崩に遭って遭難し、翌年10月遺体で発見された。38才だった。小野田は慰霊のため、昭和63年1月にヒマラヤを訪れている。海南市は鈴木姓の発祥の地と言われ、和歌山紀伊国の「紀」を名前に持つ「鈴木紀夫」と接触し帰還できたのは、何か不思議な因縁めいたものを感じる』
『敬神生活の綱領 神道は天地悠久の大道であって、崇高なる精神を培い、太平を開くの基である。神慮を畏み祖訓をつぎ、いよいよ精華を発揮し、人類の福祉を増進するは、使命を達成する所以である。この綱領を掲げて向かうところを明らかにし、実践をつとめて以て大道を宣揚することを期する。
1.神の恵みを祖先の恩と感謝し、明るき清き誠を以て祭祀に勤しむこと1.世のため人のため奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと
1.大御心をいただいてむつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存・共栄とを祈ること』
参った後、社門でパンフレットを頂き、小野田さんや名草戸畔を学ばせてもらったので、絵馬を授かることにしました。絵馬の初穂料は500円ですが、生憎1000円札しかないので奮発し、2種類の絵馬を授かりました。
因みに、名草戸畔は女性です。卑弥呼・天照大神・・・日本人は、古代から女性をリスペクトしていましたね。昨年、国連から「天皇が男系のみ」「女性の社会進出が少ない」と女性差別国家と指摘されていますが、男が働いた給料も自分の通帳も握って、家庭を差配しているのが日本女性です。女性にお金を持たせない他国に言われたくないわと憤慨しました。自らの思考を相手に押し付け、それに従わせようとするのではなく、お互いの生い立ちを認め、互いの文化を尊重しあうお付き合いが平和の基だと思います。
手入れされているお宮なので、絵馬掛けにも新し目の絵馬が下がっており、杉尾神社のそれと随分違います。末社を見に行きます。御神木・栂の木の前に紐が張られ、御神籤結びになっています。
16:21です。ここから一気に帰りましょう。r160を北上し、阪和道沿いを「和歌山IC」まで走ってもいいのですが、市街地に近づくのが面白くなさそうなので、r9に乗り換えて更に北上します。
16:36「和歌山電鉄・貴志川線・伊太祈曽駅」横で線路を渡りました。ローカル線なのに、ホームに割合人が多いです。たま駅長で全国区になり、中国人観光客まで来るから儲かってるのかな?
紀の川手前まで北上し、r143に乗り換え西進して、「和歌山IC」から阪和道に乗ります。ブイ〜ンと北上し、17:01「紀ノ川SA」。恒例のアイスで糖分補給しようとアイス冷蔵庫を覗いたけど、モナカとかバカ高い高級アイスとかお呼びでないのでパス。
ブイ〜ンと走って、17:36「岸和田SA」。「味わいソフトバニラチョコ・140円」を堪能し給油。242km/10.46L=23.1km/L。ツバメの巣があった。
ここから休憩なしに帰りました。高速道路は、ビビリなものでスピードを出すと緊張して疲れるから、75〜80km/Lでちんたら走り、同程度の遅い車に追いつくとそのまま金魚のフンをする定番スタイルです。
疲れているだろう帰路でしたが、18:54帰宅しました。まだ明るくて良かった。家内にお土産の果汁梅酒を渡し、2人で「ゆず梅酒」をおちょこ1杯だけ飲んでみました。
「お父さん、倒れないでね」と言われながら飲みました。倒れるわけありませんが、30才前2人で息子たちを実家に預け東京に行った時、ホテルで僕の高校ヨット部の同期と飲んだ時、ビール1杯・ウイスキー2杯目を飲んで家内相手にダンスしてた時、脳貧血を起こし視界が暗くなり、床にヘタレ込んでしまいました。
すぐに元通りになりましたが、ちび2人置いてあの世に逝くことは出来ないと思い、以来アルコールは飲まないようにしました。宴会でビールに口をつける程度ですので、家内へのお土産でしたが、夏に帰省する次男夫婦用にあとの2本は置いておくと言います。
もう息子たちも一家を立てているのだから、僕なんか一巻の終わりになっても困らないのに・・・

2017/5/7
家内が、先月末に姉の家から持ってきた品の整理・整頓するということで、1人遊びの日になりました。家内の実家は、両親が亡くなったので貸し駐車場になっています。両親の遺品を姉と分けましたが、近所に住む姉がマンションに引っ越すので、姉が引き取った遺品をこちらに回ってきました。姉が買ってマンションに持って行けない物も・・・一軒家からマンションなので、1/3しか持っていけないそうです。仏壇までマンションサイズになり、仏壇屋さんに引き取ってもらいました。立派な仏壇でしたが、流石に我が家も2つは要らないので、それは断りました。
家内の片付けも半日ぐらいだろうから、午後早く帰宅する予定です。ツーリングマップルの近場を見ながら、生駒界隈の寺社巡りをすることにしました。最近知った行基さんのお墓を探しに行きましょう。
4:30に目を覚まし、プロテクターメッシュ上下+ダイワフィッシングスーツの春秋スタイルを着ます。「里山VTR250」を用意し、5:30出発。5:34、御用達GSで給油。249L/7.82L=31.8km/L。
R171を東に走り、中央縦貫道に乗り、中国道に沿って走る。吹田ICを過ぎ、r2で近畿道の下を南下する。淀川を渡り、京阪門真駅でr158にチェンジし東進。第2京阪道をくぐり、R163に合流しました。東進し、四條畷市役所前通過。
長い清滝第2トンネルをくぐり、「下田原ランプ」で引き返し、旧道清滝峠を見に行きますが、どうってことない現役の道でした。再び下田原まで戻り、R168に乗り換え北上し、6:32「磐船神社」。目的の行基のお墓は寺院にあるので、拝観時間があるかと思い、時間つぶしでやってきましたが、巨岩が目につき、「天孫降臨の地・岩窟めぐり」と書かれています。「岩窟への無断拝観禁止。受付は社務所まで。拝観料500円」。想定外の手強い神社でした。
社務所はまだ開いておらず、岩窟めぐり入口まで行ってみます。『掟 岩船の岩窟は、当社の磐座行場。無断入窟禁止。入窟拝観希望者は、社務所で申し込みの上、上白衣着用の上、拝観してください。老齢の人・10才以下の子供は拝観できない。飲酒・足の弱い人は拝観できない』と厳しい制限が書かれています。手強そう。
何故ここにこんな巨岩が重なり合っているのか不明ですが、巨岩の隙間に階段が下がっていっています。もちろん扉が閉ざされているので、入れません。
R168を今度は南下し、GPS地図に明示されている「生駒山・竹林寺」目指して、適当に枝道に入り、7:07到着。枝道にバイクを停め、参道を上がっていきます。名が示すように、両側とも竹林です。
『竹林寺古墳 前方後円墳。全長45m・高さ8m。公園部分のみ残る。古墳時代前期。板石などで覆っている。鏡・刀剣・埴輪が出土している』がありました。丘状の盛土がすぐわかり、竹が生えています。
『生馬山・竹林寺 奈良時代に行基菩薩が生馬仙房を構えた故地。行基は文殊菩薩の化身と仰がれ、鎌倉時代に舎利瓶が出土し、その後円照(えんしょう)・良遍(りょうべん)・凝念(ぎょうねん)ら高僧が集い堂塔が整った。寺名は、文殊の霊場中国の五台山大聖竹林寺に因む』
現在の生駒は、かつて生馬と書かれていた時代があったようです。学のある人でないと漢字が自由に扱えないから、漢字の意味ではなく、音優先で、漢字は当て字の場合が多いので納得です。
さほど大きくない開放的な山寺です。『役行者石造、石仏霊場のご案内』と書かれていたので、案内板に従って、本堂裏手に進み。『境内清掃ご一緒に 毎月1・10・20日、朝9〜11時』の案内板も下がっています。
寺務所と思われる建物(住職の住まい兼用?)に行くと、『法要のご案内 毎月2日・午前10〜11時(行基の月命日2日に因む) 律宗総本山・唐招提寺長老 茶話会(庫裏にて11〜11:30) 法話・季節の雑談あり和やかです。参加自由』
僕はお寺さんの説法を聞くのが好きです。興味をそそるなあ。『幸せ広がる飾り紙故事 この吉祥飾紙は、仏間・床の間・玄関などに1年中飾るもので、古来より家運を隆昌させ、魔を除き福を招くしめ飾りとして喜ばれています。新春を迎えるにあたって、家内安全と無病息災、迎える年が良き年でありますよう祈念しお飾りください』
裏山の石仏霊場を巡ります。10分ほどでした。紫色のアヤメ?カキツバタ?花菖蒲が咲いています。シャガが咲いている。「竹林寺結界」を示す石柱が立っている。いろんな色の綺麗な牡丹が咲いている。古そうな「行基顕彰碑」石柱が立っている。
境内右手の「史跡・行基墓」へ。祭壇の向こうに小さな盛土があるのだろうか、熊笹が茂りよくわからないが、そんな感じになっている。墓石はなさそう。
境内左手の高僧・歴代住職の墓へ。五輪塔や無縫塔がある。ひときわ大きな五輪塔は、『忍性墓(にんしょう) 鎌倉時代の僧・忍性(1217〜1303)は、文殊菩薩と行基を信仰し、慈善救済事業に努めた。関東に戒律を広め、鎌倉極楽寺に没した後、遺言により竹林寺・極楽寺・大和郡山市の額安寺に分骨された。墓塔下から銅製骨蔵器など36点(重文)が出土した』
忍性菩薩の崩れた旧墓石もありました。ここは小高い丘になっており、生駒の盆地を見下ろせます。バイクに戻り、枝道をさらに奥に入っていきGPS地図に載っていた「圓福寺」に、7:38到着。
『重要文化財・円福寺本堂 龍華山。奈良時代の僧・行基開基。桁行3間・梁間3間・入母屋造、応安4年(1371)の墨書銘を持つ。本堂前に南北に並ぶ宝篋印塔2基(重文)のうち北塔に永仁元年(1293)の銘が見られ、両塔とも鎌倉前期の様式』
宝篋印塔は、鎌倉前期なのに平和な江戸時代のものと思えるほど大きく、当時としてはかなり目立つ存在だったように想像される。財力のある方が立てたのでしょう。
バイクに戻り、行基が火葬にされた「往生院」を目指す。GPSを見ながら適当に走ります。近隣は、枝尾根を開いた住宅地が迫り、谷で道路がなくなっていたり、住宅街のドンツキでUターンしたり、グルグルしました。
7:54、墓地で行き止まり、ちょうどそこにやってきた軽四さんに声を掛けました。「お寺には、誰もいないよ」「お寺を見にいたもので」「墓地内を通ったら、あそこ」と指差ししてくれました。
墓地は、整備された墓地ではなく、成り行きに任せ乱雑に周囲に広がっただけのもので、墓石も適当に立っている。近年の四角柱の墓石の間に、自然石の一面を平らに削ったもの、江戸時代風の墓石、それらの間に住職の無縫塔が立っていたり、まさに乱雑です。そんな間に、無縁墓石を積み上げられていたり・・・。
小ぶりな本堂前に、『行基菩薩廟 往生院』の石柱が立っている。『奈良時代の僧・行基を火葬した土地。本堂北の宝篋印塔(重文)は県内最古の正元元年(1259)銘を持ち、鎌倉様式の五輪塔などがある。境内周辺の輿山(こしやま)墓地は、中世以降生駒谷6郷の惣墓となり、多数の石造群が残る』
3寺院は全て、律宗でした。バイクに戻り、「生駒宝山寺」に向かうことにする。GPSを見ると、「往馬大社」というのがある。知らないお宮ですが、「神社」ではなく「大社」だから、寄り道することにする。
R168に下り、それを北上し、第2阪奈道路をくぐり、すぐに枝道に入る。8:18到着。『往馬大社・火祭り保存会・入会のご案内 往馬大社は、古くから火の神として崇敬篤く、毎年秋に行われる火祭りは伝統由緒ある市内最大の民俗行事です。平成14年に生駒市第1号無形文化財に指定され、平成23年には奈良県指定無形民族文化財となった。火祭り保存会は、これを機に毎年苦慮している行事に関わる必要経費や人員確保を始め、装束・器具の整備、歴史調査・古儀の復興に力を入れたいとと考えている。火祭り保存会に入会ください』
山車が入っていそうな倉庫が2棟あり、弓道の「大的奉納射会」の写真も貼ってあった。
『往馬座伊古麻都比古(いこまにいますいこまつひこ)神社(往馬大社) 祭神は、伊古麻津比古命・伊古麻津比売命など7神。生駒谷17郷の氏神とされ、火の神として信仰を集めてきた。毎年10月体育の日の前日に火祭が行われる。所蔵品:生駒曼荼羅2件(重文・鎌倉、県指定文化財・室町)など』
『本殿御祭神:伊古麻都比古神(産土の大神)・伊古麻津比売神(産土の大神)・神功皇后・仲哀天皇・応神天皇・葛城高額(たかぬか)姫命(神功皇后の母君)・気長宿祢(おきながすくね)王命(神功皇后の父君)
往馬大社は、生駒山を御神体として祀られた古社で、鎮守の森は奈良県天然記念物指定され、太古から変わらぬ自然の森を今に伝えている。最も古い記述は「総国風土記」の雄略3年(458)で、この年を御鎮座とすると、平成21年で1550年。
正倉院文書にも記載が見られ、奈良時代から朝廷との関わりがあった。平安時代の延喜式(927)では官幣大社に列せられ、一座は雨乞いの弊も賜っていた。当初祭神は2柱でしたが、中世に八幡神5柱を合祀した。宝物「生駒曼荼羅」には、7柱の神々と立派な社殿が描かれており、当時の隆盛を物語っている。「火の神」として崇敬篤く、歴代天皇の大嘗祭に関わる火きり木を当社より納めた歴史があり、昭和や平成天皇の大嘗祭の「斎田点定の儀」にも御神木の上溝桜が使用された。毎年10月体育の日の前日に執り行われる火祭りは、古式豊かな伝統行事として、生駒市第1号無形民族文化財に指定されている』
正面に石段が上がっている。脇に「禊場」がある。火祭りなどの時使うのか、現在は枯れている。石段下で、書物を持ち一心に祈っておられる女性がいた。気楽に後ろ姿に「おはようございます」と声を掛けてしまい、「おはようございます」と返してくれましたが、祈りの邪魔をしたかもしれない。横を通り、祈っておられるのに気づきました。
狛犬が守護する神門に、火祭りの絵馬が掛かっている。更に石段は上がり、本殿の建つ境内になった。灯籠に「下がり藤紋」が入っていた。立派な拝殿内にも絵馬が下がり、脇に観音堂があった。十一面観音が祀られていた。その横に英霊殿。先の大戦での英霊を祀っているのだろう。同じ境内に神と仏が隣り合う姿が、日本的で好きです。違和感がありません。
北末社(摂社殿)に、豊受比売社・仁徳天皇社・神明社(祭神:天照大神)・春日社(祭神:天児屋根命)・大山祇社があった。本殿は、塀玉垣で全容は望めませんが、檜皮葺の美しい7社が並列に並び、なかなかなものです。
本殿御祭神の並びが、両端が神功皇后の父母、その内側が神功皇后の夫・仲哀天皇と子・応神天皇、中央の3神が産土神2神と神功皇后でした。神功皇后押しを感じます。生駒が神功皇后の生家なのかな?なんて想像しました。
社務所に、赤白の巫女装束が鮮やかな女性が出勤されてきたので、覗きに行く。御守を授かりました。
『祓戸(はらえど)社 御祭神:瀬織津比売神』がありました。おお〜、天武天皇が命じた古事記・日本書紀の編纂過程で、天武天皇の后・持統天皇が、意図的に消した神です。
夫の天武天皇が亡くなり、皇太子であった息子・草壁皇子が天武天皇の喪中に亡くし、孫の幼い文武天皇即位まで自らの家系の勢力を保つため即位した持統天皇。女性から孫に譲位するのを神話になぞらえるため、本当は男神だった天照大神を古事記・日本書紀で女神に書き換えた。
そうなると、歴史から消さなければならない神が、男神天照大神・ニギハヤヒとその后・瀬織津姫。この2人は歴史から消されたけれど、七夕伝説の織姫と彦星としてしっかり痕跡を残している。瀬織津姫は、水の神であり浄めの神・お祓いの神、桜の神でもある。絶世の美女だったらしく、天孫降臨した女神・天照大神の孫・ニニギノミコトの后となり、海幸彦・山幸彦を産む木花咲耶姫と同一視されてもいる。水の女神として弁天様とも合一している。
こんな所で瀬織津姫を祀る宮を見つけ、軽く感動して後ろを振り返ると、そこに上溝桜があった。『この桜の木は、天皇陛下の大嘗祭に関わる祭田点占の儀に使用された御神木です。平成の大嘗祭にも当社よりこの上溝桜を献上いたしました。4月中旬〜下旬に白い房状の小さな花を咲かせます』
なななんと・・・「歴史から消された桜の神・瀬織津姫を祀る神社の前に桜の木が植えられ、この木を天皇に献上し、大嘗祭神事に使っている」・・・大和朝廷が、各地の部族や文明を徹底破壊し滅ぼして日本統一していくのではなく、聖徳太子の「和を以て貴しとなす」の心で、他部族の神を自らの神とともに祀ることで取り込んでいった。
藤原氏が、台頭してきた菅原道真を左遷してライバルを天皇から遠ざけながら、死後雷神として天満宮を建立し祀ったのと同じ手法ではないか。きっちり、歴史から葬り去った瀬織津姫も神としてその桜を現代に至ってまでも祀っている。寄り道したお宮なのに、大発見しました。まあ、歴史好き以外の方には、何の興味もないことだけど・・・。因みに大嘗祭は、天皇が即位の礼の後最初に行う新嘗祭のことです。若葉が気持の良い桜の木を見上げました。
先月、伊勢神宮参拝した時、内宮の摂社に「荒祭宮」がありました。神様には天の恵みを与える優しい面と、荒天や地震・洪水など荒ぶる面があります。その荒ぶる面を鎮めるお宮で、内宮内摂社No1の地位にあります。祭神は、天照座皇大御神荒御魂・「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」であり、瀬織津姫と同一視されている。
全国の戎神社総本社の西宮戎神社は、元は西宮の山の手にある「廣田神社」の摂社だった。その廣田神社の主祭神が、「天照大神荒御魂」である。神功皇后が三韓征伐した時、荒ぶるこの神から神託があり、加護された。大成功を収めた帰路、この沖で船が動かなくなり、天照大神の神託「荒御魂を皇居の近くに置くな」があり、この地に祀った。それが廣田神社の起源で、この地が都から見て西にあったので、「西宮」という地名になった。
摂社として、生駒戎神社(祭神:事代主神)があった。南末社に、伊弉諾社・住吉社・猿田彦社・月読社が祀ってある。稲荷社(祭神:宇迦之御魂神)、水神社(祭神:水分神)もある。水神社は、水分神だけあって、祠の横から竹筒が伸び、小さな手水に引かれていた。
境内に上がった時から気になっていた縦に黒く焼けた跡の残る御神木のことを、社務所の巫女さんに聞いてみました。予想通り、落雷の跡でした。本殿に落ちずに良かったですね。社殿を鎮守の森で囲むのは、落雷直撃を避けるためかもしれない。この御神木は、立派に社殿を守りました。
大満足で、バイクに戻ります。R168を北上し、r104〜r142で近鉄生駒駅前を通過します。道なりにr237になり、横を見ると「生駒ケーブル」が登っています。「信貴生駒スカイライン」手前に枝道に逸れ、9:00「宝山寺」下の参道に到着。最後道を間違えたが、もっと上の駐車場まで行けたようです。眼下に、第2阪奈道路が見え、景色が良いです。このまま進めば「暗峠」に行けるようです。
石段の参道を上がっていきます。両側に石灯籠が並び、なかなか大きな寺院のようです。名前を知ってるだけで、初めての訪問です。「歓喜天」と大書された、太いしめ縄が張られた石鳥居をくぐります。テキ屋が少々出ています。
続いて山門です。「竜胆紋」が染められた幕が張られています。神仏習合がいいです。『生駒山・宝山寺 永宝6年(1678)僧宝山湛海の開山。古くは都史陀山大聖無動寺という。本尊は不動明王。奈良時代、役行者が般若窟を行場とした。秘仏・大聖歓喜自在天は「聖天さん」と呼ばれる。所蔵品:絹本著色弥勒菩薩像(重文・鎌倉時代)など』
聖天さんは人気があり、まだ朝ですが参拝客が多く、皆さん慣れておられるようで、観光というより祈りに来られているようです。途中の参道で生駒山への登山ルートが別れており、リュックスタイルの方も多い。
本堂に向かって上がっていくと、一番上に多宝塔があります。背後の大岩の窪みに、仏像がいます。修業の場を感じさせます。修験道が修行していたここを、江戸時代に再興したようです。密教や修験道的なものが残っているのでしょう。
僧坊をいろいろ周り、ちょうど公開していた「重要文化財・宝山寺獅子閣」に入ります。500円。『桁行3間・梁間3間・寄棟造の客殿。明治15年(1882)造立され、外部は洋風、内部は洋風の上に和風を取り入れた木造洋風建築で、螺旋階段・柱頭・柱礎に施した菊の彫刻、1階外扉の色ガラスなど細部に渡る装飾は貴重である』
外壁の漆喰の白に、窓や柱は茶色が映えて美しい。『獅子閣の由来 お釈迦様の説法:獅子吼、お釈迦様の台座:獅子座から付けられた』
写真はOKですが、襖絵だけはフラッシュを焚かないよう注意だそうです。ソニーのミラーレス一眼レフは明るく写るので、フラッシュはつけていません。1Fは畳の部屋だった。説明員さんがおられ、待合室だったそうです。襖絵が綺麗です。窓ガラスの一部が赤・青・緑・黄の色ガラスになっており、それを通して外の木々を見ることで、黄色は秋など四季の風景を見せるよう工夫されているという。庭の向こうに茶室が見える。そちらは非公開だって。
螺旋階段を上がり、2Fへ。こちらの襖絵の方が高級感がある。同じく畳部屋で障子です。掛け軸が下がり、違い棚もある。これに洋風の照明が下がっている。ガラスは、うねりのある昔のガラスが入っている。現代の板ガラス生産方式ではなく、フイゴでガラスを伸ばしながら手作業で板状に伸ばしていくそうだ。釘隠しにいろんな形のものがあり面白い。ふすまの取手金具の模様もいろいろです。こんなところにも竜胆紋が入っています。
テラスの柱は木製ですが、西洋の大理石柱の彫刻に似せた細工が施されている。眺望が広がり、大和盆地の東にある若草山が見える。今は黄砂で見にくいが、東大寺大仏殿も見えるそうです。
境内に出て、本堂に上がってみる。多くの方が祈っておられます。聖天さんは、商売繁盛ですよね。「御内陣」の矢印に誘われて縁側を通り奥に入ってみる。不動明王・地蔵菩薩などを見て満足し、10:02バイクに戻ります。
朝一番にカメラのフードがないのにきづきました。先週の和歌山クルージングで、船に落としたかもしれません。先輩が整備に行くと言ってたので、ハーバーに寄ってから帰宅することにします。
r237〜r142〜r104〜R168で南下し、「壱分ランプ」から第2阪奈道路に乗ります。生駒山を長いトンネルでくぐり、石切さんに寄り道したかったけど止めて、道なりに阪神高速へ。13号〜3号神戸線に乗り、西へ。「武庫川ランプ」でR43へ。阪神甲子園球場付近は人が多く、デイゲームのようです。阪神タイガースが、首位広島カープに2連勝し、首位になりました。この日が3戦目です。阪神ファンが気合入ってますね。
10:56、新西宮YH。カードキーで桟橋に入り、係留艇に行くと、S先輩とHさんが整備・整理をしています。10時ぐらいに来たそうです。船内を探したが、カメラフードは見つかりませんでした。海に落としたのかも・・・まあ安いもんだし、買いましょう。
「じゃあ、さいなら」と帰るわけにもいかず、整理を手伝い、12時になったのでレース艇置き場にみんなで移動し、レース艇を整備していたOさんと合流します。この4人で組んで、レースに臨んでいます。
みんなでセンターハウスに行き、3Fヴォーノで昼定食1000円を食べます。再び係留艇に行き、整備の続きです。14:30頃、帰路につきます。R171を一路東に進み帰宅。「里山VTR250」を片付け、15時頃「ただいま〜」玄関に入ると、「お父さん、私ちょっと出かけてくるわ」「一緒に行こか、バイクでいいかい?」「うん、いいよ、お願いします」。
「通勤リード110」を出して、タンデムで市街地に行き、家内の用事を済ませます。食料品の買い物があるようで、その前にr13沿いに新しく出来た喫茶店で一休み。僕は台湾風ふわふわかき氷マンゴー680円、家内は珈の香ケーキセット・ガトーフロマージュ760円。17:09に出て、関西スーパー久代店へ。17:36精算し、帰宅。
「モヤモヤさまーず」見て風呂に入り、「NHK大河ドラマ女城主直虎」見て寝ました。ああ、面白かった。

2017/5/4
5/3・4と、コーチしてる大学ヨット部が参加する「メイレガッタ」でした。それとバッティングする日程で、5/4・5と先輩と運用しているクルージング艇での和歌山クルージングがあります。迷った末、和歌山クルージングに参加することにしました。
いつものように朝4時に目覚め、用意して身支度して、朝食取って6時に家を出ます。家内のバイク・アドレスV125にバイクカバーをヘルメットボックスに突っ込んで出発。近所のコンビニで、昼食用「助六寿司」を6:14に購入。
一路R171を走り、6:40に新西宮YH着。8時出発ですが、エンジン点検など、1時間余裕を持って来ました。ところが、S先輩がハーバー前を歩いていました。いつも車なのにと声を掛けると、酒飲んだら運転できないから電車で来たという。クルージング後の帰宅を考えているようです。奥さんに迎えに来てもらっていたこともありました。奥さんも、S先輩と同学年のヨット部員だったから、僕はいつも旧姓で呼んでいます。
カードキーで係留艇桟橋ゲートを開け、桟橋を船まで歩いていくと、なんとS先輩含め、3人おられる。ウキウキしすぎて、早起きしちゃったのでしょう。レースの時は、僕が一番早いのに。
セイルを上げる用意をしていると、最後のSA先輩が来られた。まだ出艇予定には30分はあるよ。SA先輩は、僕が高2の時の大学4回生ヨット部員です。大学系列高校だったので、日曜日と長期休暇の練習は、高校大学7学年一緒に練習していました。他のメンバーは、日大時代クルージングヨットをしていたHさん(レースヨットでS先輩・Hさん・僕でチームを組んでいる)と、同じくレーシングヨットのライバル艇のクルーSGさん。気心の知れたヨット乗りばかりです。レーシングをやってた・やってるメンバーばかりなので、安心して乗れます。
桟橋にいててもすることないので、すぐに出艇です。S先輩がドライブして、桟橋を離れます。桟橋が船に当たらないようにする緩衝材フェンダーを外し、スターンに移動させます。ハーバーを出ると、7:09芦屋の防波堤で多くの方が釣りをしています。
クルージングして帰ってくる時の目印「阪神高速湾岸線・白アーチ橋」を後にします。西宮尼崎港の赤白灯台を抜けても、東の風は弱く、フルセイルでは遅いので、エンジンを掛けて機帆走しながら「関西空港」を目指します。Sさんは、ドライブをHさんに交代してのんびり腰掛けて、みんなでおしゃべり。
コーヒータイムになり、4人でコーヒーを飲みます。僕は早めに飲み終えて、Hさんと交代します。少し風が上がり、風だけで5ノットのスピードが出るので、エンジンストップ。エンジン音がなくなり、波音だけで進みます。GPS地図で関空が220度と確認し、オートパイロットにステアリングを任せ自動操縦させて、前方監視だけすることにします。
9:50、関空連絡橋が視認出来るようになってきました。関空レースに先輩艇が出場しているので、S先輩が電話するも、応答なし。「ガチャン」・・・オートパイロットから異音がしました。手動に切り替え、ステアリング付近をメカに強いHさん中心に覗きこみ異常を調べます。ゴムも切れていないので、外れただけかな?と思い、再セットしようとしますがうまくいかない。
そこで、プロに電話し、あれこれアドバイス受けると、ステアリングにセットし動かす小さなプラスチックのリングが割れているのを発見、修理を諦め、2日間手動で走ることにします。経年劣化でしょうね。初めての故障です。
遠くに明石海峡大橋が見えます。5月だけど、黄砂も少なく遠くまで見通せます。漁船が走り、神戸空港と関空を結ぶ高速連絡船が走っています。10:22、関空人工島沖。レース艇は見えませんが、「あっ、ピーチだ。あれは台湾のエバーグリーン?・・・」離着陸する旅客機を見あげます。ピーチは駐機中でもピンクが可愛いね。中国機は、汚れ気味で色がくすんで見えます。「洗機せえよ」。
Hさんにドライブを交代。SIさんは最長老なので運転せず、SGさんはヨット部じゃなかったのでステアリングを遠慮し、S先輩・僕・Hさんが暗黙の了解で、交代でステアリング担当です。まあ、僕とHさんがメインだけどね。
12:57、加太沖に差し掛かります。淡路島と本州・加太の間に、友ヶ島という大阪湾を塞ぐようにある島があります。明治時代から海防として、加太・友ヶ島・淡路島側・由良に砲台が設置されていました。去年家内と加太砲台跡を見に来ました。レンガ造りの廃墟がいい雰囲気でした。
加太ノ瀬戸は、魚が豊富なので、連休ということもあり釣り船がいっぱい出ています。大型の乗合船もいます。大阪湾から太平洋に出るためには、加太海峡か由良海峡を通らないと行けないので、本船も通ります。超大型船はより広い由良の方を通りますが、こちらにも通り、その曳き波が僕らの船を襲うので、「揺れますよ」と声をかけ、大きめの波なら揺れを軽減すべく直角に受けるようにステアリングします。
加太沖は風が強いとこですが、無風状態になったので、エンジンを回します。13:22加太の国民宿舎前を通過。淡嶋神社の鳥居が見えます。13:50、和歌山の工場地帯が見えてきます。関電の和歌山火力発電所ですね。ここから、風は弱いですが、アビームの風を受けスピードが増します。友ヶ島周辺に遊びに行ったのか、漁船が追い抜いていくので手を振ります。バウ(舳先)にライフジャケットを着たお若い女性2人乗せているので、仕事ではなさそう。
15:07、目的地の「和歌山マリーナシティ」が見えてきて、住金の煙突が見えます。新和歌浦の半島先端の灯台が見えます。高校ヨット部時代、和歌山国体後でレース艇がたくさんあった新和歌浦で、インターハイ予選を戦いました。春の西宮のレースでは勝つのに、いつもここでは地元の星林高校に負けて、インターハイに行けませんでした。毎年国体のみでした。次男が大阪の清風高校ヨット部になり、インターハイ予選で3年間星林高校に勝ち続けてくれました。小中のときも、僕と同期の星林高校ヨット部員だったTさんの子に勝ち続けてくれました。勝敗はまあいいのですが、元ライバルと、子供たちのレースでまた相まみえることが出来、親同士という立場で、大いに旧交を深めました。
ハーバー沖で、ジュニアヨットが練習しています。15:36入港。黄色いイルカのシンボルが出迎えてくれます。Sさんドライブで給油桟橋に着けます。ハーバー職員が走ってきて、もやいを取ってくれます。SAさんが、ハーバー事務所に向かい、係留料を払いに行きます。「平日一日1艇1000円、土日祝日2000円」。ビジター桟橋を教えられ、そちらに船を移動します。
アジ釣りをしていたお隣さんが、もやいを取ってくれます。15:57バースにもやいます。お疲れ様でした。このマリーナは、次男がジュニアヨットしてた頃や理事時代は、毎年レースや合宿に来ていましたが、以降はたまに行く程度になり、5年ぶりぐらいかな?気持ちの良いハーバーです。お隣さんは、西宮一文字YHの方で、他に2艇いました。もう一方のお隣さんは、大阪北港YHの艇でした。
16:32、横の「黒潮温泉」に入ります。5月人形が飾ってあります。我が家は、GWに長男一家が帰省しないので、鯉のぼりも武者人形も、出さずじまいです。風呂で汗を流し、風呂上がりにコーヒー牛乳を飲みます。前回は、3月の次男一家と参拝した伊勢神宮で泊まったホテルでした。ヨット部時代、合宿で風呂屋に行くと飲んでいたコーヒー牛乳の美味しさが癖になり、風呂に入ったらこればかりです。
一旦船に戻り、17:35その横の黒潮市場に向かいます。ポルトヨーロッパは、入場無料になっています。マグロを解体していました。海の幸がいっぱいあるのに、BBQが並んでいたのでパスし、17:40「和歌山ラーメン820円」をテラスで食べました。
明日の朝食を調達する予定でしたが、目ぼしいものがなく、コンビニも歩いて20分ほどかかるということで、18:27ヨットハーバー事務所で自転車でも借りようと思いましたがありませんでした。仕方なく、隣の「和歌山マリーナシティホテル」の売店で、18:38「どん兵衛そば200円+塩ラーメン200円」を買いました。船で駄弁っていると、19:11黒潮市場から花火が上がりました。「本日19:30から10分間花火が上がります」の案内板が、市場に立っていました。試し撃ちだったようで、19:30から盛大に上がり始めました。
21:07ダベリングを終了し、片付け根倉確保です。SA先輩はスターン(後)ルーム、S先輩はバウ(前)ルーム。僕含め3人は、ミドルルームで僕とHさんはソファで、SGさんが床板に毛布を敷いて寝袋に入ります。僕はソファーに寝袋というスタイルです。1Fに貸衣装など結婚式関係の会社が入った東急リゾートマンションでおトイレを拝借し、ご就寝。

5/5
目を覚ますと、1:30でした。あまりに早いのでトイレを済ませ二度寝します。次に目を覚ましたら4:33でした。もう寝れそうにないので、着替えて外に出ます。東から3m/sほどの風が入っており、風が続くと良いがと願います。お散歩開始。東の空が明るいです。水上警察が黒潮温泉の隣にありました。東急リゾートの道を渡った所に、マリーナシティトイレがありました。船に戻ってくると、2人起きておられました。朝のコーヒータイムです。
コーヒーを飲み終えると、S先輩とSA先輩は、缶ビールを開けました。「嫁さんおるとこでこんなことでけへんから、今日ぐらい許してえな」と、プハーって。一口飲んで、5:57 S先輩から「よっしゃ行こか、俺飲んだからドライブあかんでKちゃん頼むわ」と、僕がドライブして桟橋を離れます。他の船でも数人起きており、「おはようございます、お先にです」と挨拶してハーバーを離れます。昨夜は数艇で船上BBQをしていました。黒潮市場で食材を買い、船でゆっくりスタイルが良さそうです。
風は東でイマイチの風速ですが、時間はあるので、フルセイルで走ります。次の目的地は淡路島の洲本です。友ヶ島の西・由良(友ヶ島)海峡に進路を向けます。暫く走ると朝食タイムになります。SA先輩が、レトルトカレーとサトウのごはんを2食分持ってこられていたので、それを5人で食べます。先に食べたHさんが、「交代しましょか」と僕と交代して、僕もカレーを食べます。SA先輩は、大手電機メーカーに奉職され、60才で定年リタイヤして、サンデー毎日な生活を送っています。
由良瀬戸は、加太より広い海峡なので、大型船が通っています。家内のお父さんが釣り好きで、毎週由良の同じ漁師に乗せてもらい、船頭1人・客1人という贅沢な釣りをしていました。それに誘われ、友ヶ島北側の漁場に鯛釣りに行ったことがあります。素人の僕でも、漁師が用意してくれた仕掛けで、鯛を数枚釣り上げることが出来ました。懐かしい思い出です。
8:05、由良の瀬戸に近づきました。遊漁船や漁師の船がたくさん出ています。往路の加太沖の瀬戸は、追い潮で楽でしたが、この日の由良瀬戸は逆潮2ノットです。2ノットの艇速ならいつまでたっても、進みません。ピークは9時なので、エンジンも加勢させて6ノットで北上します。止まっているのだろう漁船が、潮に流されるので、時々エンジンを掛けて北に上っています。
8:59、正面に見えていた建物の集団が、はっきり見えてきました。洲本温泉のようです。SAさんが、「海から女湯が見えるねんぞ、ちょっと寄っていこか」と提案がありました。先輩の一言は、体育会系では玉言です。
風がなくなり、潮目に赤潮が発生しています。文字通り赤く見えますが、富栄養化によるプランクトンの塊の帯で、夜船で突っ切ると夜行虫が反応し、光の帯になります。海岸線に到達すると、波が光る幻想的な情景になります。高校生の時、土曜の夜合宿所から海を見て驚いたことを思い出します。
「ホテルニューアワジ」前から、防波堤を回り、サントピアマリーナ方向に入っていきます。海に向かって大浴場があり、露天風呂もあります。何が見えたかは秘密として、ぐふふでした。先輩!筏で釣りをしています。
「ほな、行こか」。9:40、洲本の海水浴場沖。学生時代、家内との最初のドライブデートの目的地がここでした。海に来て、水着の可愛い家内がカナヅチなことを知りました。小学校でクラスメイトは全員泳げたので、同世代でカナヅチがいることに驚きました。家内の小学校は海に近いのですがプールがなく、時々海に行ってたそうです。海だから水泳指導も出来ず、カナヅチがたくさんいたそうです。
お弁当を作ってきてくれ、ここで初めて家内の手作り料理を食べました。「美味しい」と褒めると、「お母さんに手伝ってもらった」と恥ずかしそうでした。お料理学校に通っていました。
9:48、洲本城が見えてきます。洲本南港に入っていきます。9:57、かつて大阪とフェリーが結んでいました。明石海峡大橋が出来て、淡路島のフェリーは全滅しました。桟橋はそのまま残り、無料で船を横付けできるナイススポットです。立派なフェリー乗り場があり、バスで島内各地と結んでいるので、ターミナルだけがドカンと残っています。今は、単なる巨大バス亭です。
「ほな、買い出しに行こか」と出かける皆さん、なんか変だなと振り返った僕が、「はあ〜、メインセイル上げたまんまやん」「あ〜、忘れてたなあ」と慌ててセイルを下ろします。無風で機走してきたので、セイルの存在を忘れていました。風が入ってきたら、えらいことになります。
僕はここにある売店で十分でしたが、昨夜コンビニ欠乏症になったので、街中に歩いていきます。スーパー「マルナカ」があったので、10:12「瀬戸の汐揚アソート321円+ひねりあられ159円+カップヌードル127円」を購入。
10:26、船に戻り、S先輩ドライブで、船を出します。出艇着岸は、俊敏に岸壁や桟橋に乗り移って船を固定する作業があるので、僕・Hさん・SGさんが、もやいを持って作業する係です。体育会系なので、年令による上下が暗黙の了解です。パラセイルが空を飛んでいます。下でボートが引っ張っているのでしょう。
相変わらず無風で、午後入ってくるであろう西風に期待です。しばらくメインセイル+機走6ノットで走ります。僕がステアリングを交代します。ホームポートの西宮は、60度方向なので、コンパスを見ながら60度を走ります。
ブロー海面が出てきたので、ジェネカーを上げます。巨大セイルでめんどくさいので、あまり上げないのですが、ヨット乗りが5人いるので、練習のためもあり上げます。S先輩にステアリングを交代してもらい、作業員となって、3人でセイルアップの準備をし、セイルをあげます。エンジンを切っても2ノットぐらいで走る快適なセイリングでしたが、風がなくなり、ただ漂っているだけになりました。あ〜。
海面に目を落とすと、赤潮の名残りで、きれいな海とは言い難い。クラゲが大量発生しており、アカクラゲが海面上にもぐらたたきのように頭を出しています。何してるんだ?
淡路の巨大観音像前ぐらいから、ブローが先まで続くようになり、3ノットほどで走ります。13:43、明石海峡大橋からの潮の流れの境か、また赤潮の帯が長く伸びており、突っ切ります。
Hさんからステアリングを交代し、ここから、優勢なブローが南から下りてきました。艇速は6ノットに伸び、快調に飛ばします。本船が僕らの航路とクロスしそうで、僕らに航路優先権はありますが、大型船は小回りがきかないので、暗黙の了解で、それを交わすためにジャイブします。「ジャイブしますよ」「了解、メインを絞って、準備OK」「じゃあ行きます、ジャイブ」とステアリングを切ります。セイルを返し、スターボードタックからポートタックにして本船航路とクロスしないようにします。
大阪ATCタワー目指してスターボードタックで走っていましたが、今度は神戸のビル群を正面にして、また爆走します。風速は、5〜6m/sでしょうか。これ以上になったら、レース艇ではないので、ジェネカーダウンです。
16:15、神戸空港沖まで来て、S先輩から「ジェネカーダウンしよか」の司令。S先輩にステアリングを交代し、作業員になります。エンジン始動し、セイルから風を抜いてスピードダウンします。バウ(前)に行って、ソックスを下ろします。下までソックスを下ろし、ジェネカーハリヤードを切って、SGさんと一緒に海に落とさないようにジェネカーをデッキ上に下ろし、ハリヤードシャックルを外します。Hさんが中からバウハッチを開け、ジェネカーを船内に入れます。あとはシートをコイルするだけです。
16:15、機帆走5ノットで西宮を目指します。神戸からやってきた客船とまた航路がクロスします。しばらく相手艇のバウを見ていましたが、見え方が変わらないので、このままでは至近距離でクロスします。「Sさん、あれヤバイですね」「お〜、しゃあない、かわすぞ」。僕らがバウを客船の後方に向け、客船は僕らの前を通ります。メリケン波止場発着の遊覧船「ルミナス2」でした。僕らの前を横切ったら、すぐに右にUターン気味に舵を切ります。「だったら、先に切れよ」と、S先輩がブーブー。
神戸空港と関西空港に降りる旅客機が、大阪湾のここの上空を飛び交っています。伊丹空港に降りるもは、生駒の上から侵入するので、関空の南で生駒に向かいます。16:37、神戸空港東進入路灯に近づきます。便数の少ない神戸空港ですが、連休の夕方なので、3機連続で降りていきました。セスナも降りていきました。Hさんはハワイでセスナの操縦士免許を取ったので、飛行機の動きに詳しいです。14:47、神戸空港東側滑走路延長線上。17:16、西宮尼崎港の赤白灯台から港内に入ります。フェンダーを左舷に出し、着艇用意。17:39新西宮YH防波堤をかわしハーバー内に入ります。芦屋YHの入口に出来たエクシブが完成間近です。上半分の足場が除かれ、美しい形が半分見えています。
18時にバースに戻りました。陸電をつなぎ、ホースとブラシで、船を洗います。先輩2人を除き、3人でブラッシング・水掛けします。荷物を外に出し、オーニングを掛け、無事帰着。
16時帰着予定が遅くなり、お疲れ様センターハウスでのコーヒータイムは無しで、「お疲れ様、ではまた」で家路につきます。電車で来られた先輩2人は、車に乗せてもらいます。下っ端3人は、船の上ではアルコール無しで来たので、問題なしです。僕は飲みませんが、HさんとSGさんは、初日も和歌山のハーバーに着いてから飲みました。
これも体育会系の暗黙の了解で、いくらおっさんになっても、下っ端な下働きするためにアルコールなど飲みません。まあ、海の上なので、ベロンベロンになるまで飲む人は先ずいませんがね。
アドレスV125に乗り、R171を東に走り、19時頃帰宅し、荷物を片付けます。すぐ風呂に入り、何やかやと船の上でつまんだのでお腹が空いておらず、450gプレーン・ヨーグルトを食べただけで、20時には寝てしまいました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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