-ウェブマスター日記 2016/9-10

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2016/10/30
2週連続で家内とデートでしたが、この日は家内がお仕事です。仕事仲間のグループのトップを長年やってるので、その研修です。講師を関東から呼んでるので、お洒落してお出かけするのでしょう。
グループツーリング参加も考えましたが、VTRやCBで参加できるツーリングは、以前距離があり辛かった方面だったので、日が暮れるのも早くなったのでパスし、ソロツーリングすることにしました。原付グループのはありましたが、通勤で毎日乗ってるスクーターで参加になるので、最近新鮮味がなくなっています。
以前実行したが、降雨により途中で帰ってきたルートに再挑戦します。播磨の中世の山城「野間山城」攻めです。目を覚ましたら、階下で家内が活動している音が聞こえ、時計を見ると6時前になっていました。夜明けとともに山城アタックを考えていたのに、大幅遅れです。
家内と朝ごはんを食べ、ゆっくりと家を出ました。お供は、「里山VTR250」です。高速道路利用予定ですが、風も強くなく、2つ目の目的地・「日光寺」が山の上にあるので、細い急傾斜林道が予想されるので、CB400SBではコカした時難儀します。
7:58、「出光・セルフ宝塚176」で給油。228km/7.78L=29.3km/L。宝塚ICから中国道に乗り、8:23「名塩SA」。バイクが10台以上います。ソロそうな方も、グループの集合場所であるような方もいます。トイレを拝借し、出発。中国道を更に西に走り、「加西IC」下車。r24を北上し、9:10「ローソン加西満久町店」で、バナナ4本149円・ローソン麦茶100円を購入。
右サイドミラーからの後方視界がイマイチなので、工具を出してゴソゴソしていると、ルパン三世が乗ってるようなフィアットが行列でやってきました。高速道路を走っている時も、フィアット行列が抜かして行っていたので、愛好家ミーティングがあるのかもしれません。ワーゲンゴルフなども混じっていました。
r24を北上し、r143にチェンジして野間川を遡ります。9:37、「野間山城」。車が10台ほど停められる駐車場があり、「こんなにメジャーなの?」と訝っていると、「ほたるの宿路 八千代区俵田」という看板が立っており、6月の蛍狩りのお客さん用のようです。「まむし生息地」という物騒な看板もあります。
交差点には、「森のホテル・エーデルささゆり カフェ&レストラン あと1.5km」という看板も上がっています。横を流れる「野間川」の水はとても綺麗で、青サギが休憩しています。ロードバイクが数台通り過ぎ、サイクリングに来ても楽しそうです。Tマップルを取り出し、「ここまで車で来て、野間川沿い〜杉原川沿い・ダム湖翠明湖沿い・森のホテルで昼食」という「夫婦でサイクリング」プランが浮かびました。川沿いの道は、基本的に勾配が緩やかです。
川を渡ったところに、「野間山城」案内板が立っています。『この山城は、野間城の「詰の城」で、南北朝時代に築かれました。その後、在田氏が野間に本拠地を移して改修し、今の形になりました。鶴が翼を広げた姿に似ているので、「鶴琳城(かくりんじょう)」と呼ばれています。非常時に立てこもる城で、一部に石垣が残っています』。
在田氏は、播磨守護・赤松氏流れなので、大きな力を持っていました。鎌倉幕府を倒した足利尊氏とともに後醍醐天皇を中心にして戦った悪党・赤松氏は、室町時代に入り大きな勢力になりました。その後嘉吉の乱で、幕府将軍を暗殺したことで没落しますが、後醍醐天皇が持ち去った三種の神器を南朝から取り戻し、播磨・備前・美作守護の座を取り戻しました。戦国の世に移り、浦上氏に下克上され、浦上氏自身も宇喜多直家に下克上される世になると、赤松氏末裔達は、本拠地播磨内で独立した大きな存在になりました。羽柴秀吉に兵糧攻めで滅ぼされた別所氏であり、黒田官兵衛が仕えた小寺氏です。
横に簡易階段が斜面を登っており、9:40攻城開始です。階段が入っているということは斜面が急です。ここが大手道なのかと疑うほど急斜面で、当時も獣道程度しかなかったのかな?と、時折息を整える目的もあり立ち止まり、周囲を見回して地形を見ます。鹿糞が落ちており、ご多分に漏れず鹿の山のようです。イノシシの掘り返し跡もあちこちにあります。ミミズでも探したのかな?勾配が急な箇プが張ってあり、まあ安全です。
9:50、三角点到着。三角点ですが頂上はまだ先で、ここから勾配がゆるくなりました。地形が見えてきました。山城によくある枝尾根を利用した縄張りで、尾根に上がったところです。
左右は急勾配で落ちる尾根上の緩斜面を登っていくと、9:57目の前がひらけ、山頂が見通せました。まだ半分ぐらいしか登っていない感じですが、果たしてあれが山頂で、本丸郭がるのかどうか?怪しいものです。
中世の山城好きなので、里山の道を走る時は、自然に山の頂上を見上げています。扁平な頂上を見つけると、「山城あり!」と満足感を得ます。今回もそのように走ってきたのですが、ここは下から典型的な本郭地形を確認できませんでした。「登り30分」ということだけで攻城しています。
尾根上に大岩が積み重なった場所があり、その横を簡易階段が上がっています。大岩エリアを過ぎ、勾配を少し増した尾根道を上がっていると、10:13左右の木々が途切れ、下界を見下ろせる場所になりました。北〜北東のこの城の取り付き口方面、南東の八千代盆地がクリアに見えます。山城攻めには、こういうご褒美がないとね。
すでに周囲の里山ピークと同じぐらいの標高を稼ぎました。八千代盆地が南東にあるので、朝霧雲海鑑賞ポイントです。取り付き口の標高が100mほどで、ここが300mほどなので、比高が200mあり、条件が整っています。白い雲海の上にオレンジの朝日が昇り、素晴らしい朝のスペクタクルが堪能できそう。
ここから、本格的な山城遺構が視認できました。石垣を積むのではなく、切岸しながら大岩を残す感じで、岩が土の間に目立ちます。大きく深い堀切があり、見事です。最初の防御郭でしょう。横は急勾配で谷に落ちているので、ロープが張ってあります。
郭を迂回する幅1m程の道の正面に蜘蛛の巣があり、枯れ枝を拾い、露払いしながら進みます。週に1人ぐらいの訪問客かも?10:23、石積みがありました。中世の山城で石積みがあるだけで、経済力の高い豪族の城と想像されます。石垣と言うほど素晴らしく積み上げられていると、守護や守護代の経済力がないと無理です。10:26、郭に登ってみます。下の狭い尾根道を見通せ、防御の要です。上に振り返ると、石積みが埋もれながらも、上の郭が見えます。
次の郭のサイド、帯郭と思えるところを歩いて、10:29郭に上がると、また木々がなくなり、周囲が見通せます。南方面の山並みが遠くまで見通せ、山城にしては相当高い位置にあるのがわかります。この標高では、日頃在所して政治するのには不便です。詰の城以外の使い途はなさそう。ここが、副郭・二の丸だったようです。焚き火の跡が数ヶ所残っており、城跡整備で登った地元の方が、暖を取ったのかもしれません。狼煙でも上げたのかな?
もう一段上がったところが、主郭でした。横幅の狭い細長い山頂部です。更に置くまで歩いていくと、人工的とはとても思えない巨大自然堀切があり、再び登って少し低そうな場所に続いていた。山は更に奥に続いているようなので、最悪ここを落とされても独立峰ではないので、更に逃げられます。主郭最奥部は、10:39。ここまでちょうど1時間でした。
帰路は、じっくり見ることも息を落ち着かせるための休憩もなく、写真だけ撮って下り、11:07登城口に着きました。帰路30分。「マムシ生息地」に脅かされ、足元に気をつけて登りましたが、下草がはびこったところはなく、安心して登れました。10月末なので、スズメバチ「風の中のマリア」の勢力も衰えており、夏の蜘蛛の巣・ヤブ蚊にも悩まされることなく、当然汗ダラダラもなく、気持ち良く山城攻めができました。
DAIWA釣り用カッパを脱げばもっと快適ですが、赤いジャケットなので目立つので、山に入る時はこれを着るようにしています。この日も、猟銃の音が聞こえており、バイクメッシュジャケットの茶色では目立ちません。11/15〜2/15の猟期には早く、まだ松岳山の季節ですが、害獣駆除は通年で実施されており、常に警戒中です。有名な山城攻め以外で、人に会ったことなど皆無ですから。
山城への道では、時折聞こえる猟銃の音に加え、車の爆音がひっきりなしに聞こえていました。近くにサーキットがあるようです。帰宅後調べると、「セントラルサーキット」のようでした。フィアットのミーティングも、そこが目的地なのかもしれません。
バイクに戻り、気になった「森のホテル・エーデルささゆり カフェ&レストラン」を見に行くことにしました。道標に従い、枝道を入ります。すぐに「やちよの森公園」の看板が見えてきて、更に枝道に入り寄り道します。広めの山道を登っていくと、250ccクラスのSSを道端に停めている方がいました。会釈して通り過ぎ、11:16「やちよの森公園」到着。
「尾根0.5km・展望台1.4km」と書かれています。森林ハイキング公園のようです。せせらぎに木製の遊歩道が掛けられ、夏は楽しそう。事務所を覗いたが、誰もおらず、パンフレットや展示物を見て、トイレを拝借し退散。『クマの目撃情報 6月に多可町内でクマの目撃情報が多発しています』の看板が、建物正面に掲げられていました。11/20「里山ハイク」の案内看板が置かれていました。
往路おられた方が、別の場所で、マイバイク写真を撮っていました。そのすぐ下でバイクを停め、往路気になった「竹谷山道」に入ってみます。石仏が左右に並び、石畳の道です。どこまで続いているのか、何があるのかわからず、適当に退散します。沢沿いを登っていくようです。
元の枝道に戻り、進んでいくと、11:32「エアレーベン八千代」がありました。目的のホテルではなく、小型の道の駅のようなものでした。「割れおかき・540円、大粒干しぶどう・540円、柳豆腐出汁付き・432円、柚子羊羹・378円」を購入。「手作り豆腐」案内が多いので、それが名物なのでしょう。バナナを取り出し、駐車場で昼食にしました。横には体育館と運動場があり、町のスポーツ・レクリエーション施設です。この北側にホテルがあるようです。
次の目的地「日光寺」を目指します。ナビ案内は、r24ですが、地図に峠を思わせる箇所があるr369経由を選択します。「野間山城」取り付き口まで戻ります。山城の山容を見上げ、何処に主郭があったのか確かめようと思って。走りながら枝尾根の正面から見上げられる箇所があり、おおよその場所がつかめました。
r143を南下し、r34を西進します。11:56、「貴船神社」に寄り道。ナビに神社を表示するように設定してるので、神社マークが近づくと、確認するようにしています。珍しく、小さいけど、遥拝所があります。東を見ると、素晴らしい青空に、里山の稜線が美しい。龍とボタンの立体彫刻が素晴らしい。摂社の彫刻は鳳凰なのか鶴なのか、こちらもナイスです。木鼻の龍に玉眼が入り、田舎のお宮なのに素敵です。左右の柱の榊の葉も、緑が濃く枯れていなし。宮司さんがいないお宮だけど、地域の世話が行き届いています。
『1541年、旱魃時の水争いを機に、中野間の貴船神社から分社された。本殿は江戸時代前期1672年、淡路の北条助五郎源清重棟梁の浦村大工が建てた。摂社は八幡神社・八坂神社。元旦には、八幡神社神前で、雨乞い神事「雨散散(ゆうわらわら・うばらばら)」が行われる。輪状にした藤の蔓と半紙で包んだ洗米をくくりつけたシキミを捧げ持ち、「雨散散」と唱える氏子に村神主が御神酒を振り掛ける神事です。貴船の称する神社は、京都・貴船神社はじめ全国に500社ありますが、4社(中村・中野間・下野間・下三原)が近隣に揃って鎮座する例は珍しい』
総本宮「京都・貴船神社」は水源に位置します。中野間の貴船神社も水源に謂れがあるのかもしれません。故に、水争い時に分社されたのかも?
r369に突入します。峠トライです。突っ込むとすぐ、ロードバイク2台を追い抜きました。広くない峠越え林道なので、ゆっくりカーブをこなしていきますが、ロードバイクが次々に前に現れます。ヒルクライム御用達の道のようです。峠はさほど緊張するような細さではなく、難なく超え、下ると今度は登って来るロードバイクとすれ違います。
12:12、下ったところに満開のコスモス畑がありました。コスモスの美しい季節ですね。道なりにr24に合流し、中国道の高架を抜け、r23に出合い右折して西進します。、道なりに再び中国道をくぐり、播但道手前を北に向かう枝道に入ります。「日光寺」に向かって登る道ですが、12:38「神積寺」に寄り道。
『991年、慶芳上人によって開基され、七堂伽藍と52ヶ寺を有する大きさで、書写山・法華山と並び、播磨六山の中に加えらていました。一条天皇・三条天皇の勅願寺として栄えましたが、1309年の火災で焼失し、天正15年(1587)に木堂が再建されました。境内には、藤原時代の代表的仏像・薬師如来があり、国指定重要文化財に指定されています。また山道右側には「妙徳山古墳」があり、古墳時代後期の円墳です』
まず、「妙徳山古墳」に寄り道。『市川の東岸、妙徳山の麓に作られた古墳です。直径35m・高さ6m。横穴式石室を持ち、全長12.4m玄室(げんしつ・死者を葬る部屋)があり、土が中まで入っているので正確な高さは不明。金属製品(刀子・とうす)・須恵器片が採集され、6世紀末のものと考えられている。石室の大きさは、神崎郡最大級です』
古墳周囲が歩けるようになっており、南側は石室が覗けるようになっています。見事な大きさでした。神積寺の境内に上がります。鐘楼を持った立派な寺院です。『自由に撞いてください』とあったので、ゴーン。本道の蟇股の立体龍彫刻が見事です。
本堂裏から、「西国33ヶ所巡礼の道」が登っており、これを含め「ふくさき三獅子山ふれあいの森」になっており、森林浴里山ハイキングの道になっているようです。バイクに戻る途中、梵字が彫られた石碑が、半分土中に埋まっていました。謂れ板には、『阿弥陀種子板碑 高さ151cm・幅82cm・厚さ19cmの凝灰岩製。中央に大きく阿弥陀の種子を薬研彫で刻み、その下に1行4字12行の銘文を刻んでいる。これには弘安9年(1286)崩御された後堀河天皇の皇后・安嘉門院の百ヶ日にあたる5/15に供養のため造立したと記されている。鎌倉時代の石造遺品として貴重』
道の戻り、山を目指して走っていると、枯れ木が林立する異様な山が目に入ってきた。キクイムシの仕業なのか、ヤバイなここ。山道になり、13:06道路脇の木々が切れ下界が一望できる場所でストップ。東屋もあります。福崎盆地が一望です。
四輪はすれ違えない道を、カーブでホーンを鳴らしながら登っていくと、目指す「日光寺」と思われる寺院が谷を隔てた中腹に見えます。電波塔がその上に建っています。13:14、鐘楼があった。「日光寺」は枝道の先にあるようです。コンクリート舗装路は更に登っており、電波塔への点検路として整備されたようです。慎重にバイクを停め、山道に入っていきます。
地道との分岐があり、「大善寺2.4km・岩尾神社3km」と書かれています。そう言えば途中に、気になる神社がありました。『播磨中の本山日光寺由来 大化元年37代・孝徳天皇御代、法道仙人の開基。日光月光万多羅の三寺建立。40代天武天皇白鳳元年、勅命ありて再建。宝暦年間、奈良の僧・了心明道聖人復興業起し、13棟建立。姫路城主代々信仰wり。鬼門除けの守護寺とし、表門建立禄を給う。小松宮後光明寿院一品太王侍従如月随で来住。世に播磨御室御所尊唱し、瀬戸水運将・河野直賢出家来住するや、多くの財寄進隆盛。明治より3度廃亡、昭和6年現住職僧正・淳明復興業起し、本堂倉裡初め、求聞寺堂研修所鐘堂8棟3度復興す。 寺宝/本尊千手十一面観音・左甚五郎策大黒天・徳川家康直筆』
『真言宗音室派の中本山で、かつては天武天皇勅願寺、霊元天皇の御猶子隠居所として栄えました。日光寺山から、姫路平野・播磨臨海工業地帯、遠くは六甲山系や明石海峡大橋を一望できます』
石仏や電波塔の写真を撮りながら、景色が良さそうな本堂に歩いていると、何と年配の男性がいました。山道ですれ違うものはなく、車も停まっていなかったので、人がいるとは思っていなかった。リュックを背負ったトレッキングスタイルです。「歩いて上がってこられたのですか?僕はバイクです。凄いですね」「下から、いえ家から歩いてきました。3時間です」。「お気をつけて」で別れました。本堂前に展望ポイントが整備されており、かなりくたびれておりますが、100円双眼鏡まであります。
秋の晴れた休日、これを目当てにハイカーが上がって来られても良さそうですが、距離が有りすぎるのと、ずっと舗装車道だから人気がないのかもしれません。市川を中心に広がる福崎盆地から市川の河口にある姫路の工業地帯、更に海まで見えます。
バイクに戻り下ります。13:38、「岩尾神社」。『石造鳥居と石橋 この鳥居は、姫路城主・池田輝政が慶長16年(1611)建立したもので、県指定の重要文化財です。石橋も同じ時期に造られたもので、造り方は簡素で反橋の形式となっている。建立された時は欄干があったが、今は親柱を差し込んだ跡が残っているだけ。県指定の重要文化財』
鳥居は、慎重の高い人なら頭をぶつけそうに低く、石橋は雑草で半分埋まっている。
『岩尾神社本殿 一間社流造・柿葺 創立は一条天皇の正歴2年(991)と伝えられ、慶長年間池田輝政が幕命により、前殿・拝殿・鳥居を修造した。小規模の社殿は、よく保存されている。蟇股などは、極彩色で桃山時代の様式を伝え、絵様彫刻等細部手法も、その頃の手法を示しており、貴重な遺構である』
『鳥居は凝灰岩製で、沓石がなく、直接地中に埋められている。各部材が細く、柱に内転がないこと、全体に背が低い事など古い様式を持っている。柱の断面が隅丸方柱状で、この地方の特徴をよく表している。高さ3.5m・柱間3m。柱に刻銘が有り慶長16年(1611)に造られたことがわかる。石橋は、全長6.2m・川底からの高さ3.1m。架橋手法が簡素で、古調を帯びることから、鳥居と同時期頃造られたと考えられ、近世初期の神橋形式を知る上で貴重』
14時が近づき、タイムリミットの15時が近い。16時になると暗くなってくるので、それまでの帰宅を考えると、もう余裕がない。笠形山周辺の林道、千ヶ峰周辺の林道を前回断念した夏時期ツーリングでは計画していたが、とても無理です。日没が早くなると寂しいな。
TMを見ると、柳田国男生家が近い。r23に出て、13:53生家到着。駐車場が満車に近い。どうせ藁葺き屋根の家がポツンとあるだけと予想していたのに、意外に人気です。小さな子連れの家族が多い。学問成就の道というのがあり、そちらに歩いていると橋を渡った。下に池があり、鯉が泳いでいる。池の畔に、河童の銅像が建っている。さすが歴史民俗学の大家だと、謂れ板を読む。
『河童の河太郎と河次郎 福崎町には、市川という大きな川が流れています。この川の岸に、駒ヶ岩という大きな岩がありますが、そこには以前河童の兄弟が住んでいました。2匹は、川へ遊びにやってきた子供の足を掴んで引きずり込み、「尻子玉」を抜いてしまうのです。やがて子供たちは遊ばなくなり、2匹は後悔しました。ある日の夜、柳田国男先生に謝ろうと、生家のあるこの辻川山公園にやってきたのです。柳田先生に会いたくて、毎日この池で待っていました。兄の河太郎は池の畔で、弟の河次郎は池の中で何年も待ちました。とうとう河太郎は頭の皿の水がなくなり、池の畔で固まって動けなくなったまま、今も巌橋の方を見て、柳田先生の帰りを待っています。弟の河次郎は、今でも池の中から出てくることがあります。池の中をずっと覗いていると、尻子玉を抜かれるかもしれませんよ? *この物語はフィクションです。 河童の出没時間は、駐車場公衆便所前の掲示板にてお知らせしています』
あ〜、ここだったんだ。ネットで、河童が池から出てくるのを見たことがあります。だから子供が多いのですね。「尻子玉」を帰宅後調べてみた。『肛門付近にあるとされた架空の臓器で、これを抜かれると腑抜けになると伝えられている。 これは、人間が溺死すると肛門括約筋が弛緩して肛門が大きく開き、あたかも玉を抜かれたようにも見えることから、「河童が尻子玉を抜いた」と言われる』
スルーして、生家の方へ。野猿があります。生家は、予想通り、茅葺屋根の小さな家でした。『柳田国男は、明治8年(1875)この家に生まれ、10年間過ごしました。彼は「日本一小さな家」と言い、「この家の小ささという運命から、私の民俗学への志が発した」と語っている。4畳半2間と3畳2間で、江戸時代中期の建築と考えられ、当時の一般農家の基本的平面を持つ民家としても貴重』
『柳田(旧姓・松岡)国男は、医師であり国学者であった松岡操の6男として生まれた。当時ここに、両親・長兄鼎夫婦・国男・弟静雄・輝夫の7人が住んでいた。その後、鼎夫婦が実家へ帰ってしまったのが、先祖代々の故郷を捨てて国男の母の実家・加西市北条町へ移り、千葉県布佐へ移住する原因となった。国男の民俗学の研究の底に常にこの家があり、風習についてこの土地と比較して見た。柳田国男民族学の原点と言える。この家の西にある「鈴の森神社」は、国男の氏神様で、想い出の深い場所である。大きな「ヤマモモの木」は、当時の姿そのままに残っている』
隣接の「神崎町歴史民俗学資料館」に入館してみた。300円ぐらいかな?と入ろうとすると、館員さんが出てこられ無料でした。名前と住所を記入し、パンフレットを頂いて見学。建物の脇に、神崎町内で出土した石棺が置かれていた。
資料館は、明治の洋館風の建物で、資料館ように近年建築されたと思ってたら、「県指定文化財・旧神崎町役所」で、明治19年に建設されたものを、昭和57年に移築したそうです。『木造2階建て・下見板張り・ペイント塗り・日本瓦葺・基礎は花崗岩。玄関部はギリシャ建築様式を取り入れた2段式で、1階部は角柱でドリス風柱頭飾、2階部は丸柱・コリント風柱頭飾など、外部の意匠に特色を持つ明治建築物である』
僕の子供の頃見覚えのある昭和の時代の調度品、神崎町の祭りの様子、薬袋のパッケージ、足踏みミシン、炭火アイロン、床屋道具、女性ファッション・髪型などの懐かしい日常と、古墳・出土品・縄文時代の麻の着物など古の時代の物が展示されていた。
「鈴の森神社」に参った。その手前に、「学問成就の道」があります。なぜ学問成就かというと、長兄:医師、3男:医師・歌人・国文学者、次弟:海軍大佐・言語学者・民俗学者、末弟:画家、他は早世という学問で大成した兄弟が生まれ育った家だからです。
孫達も、学問をしっかりやって欲しいので、絵馬300円を授かりました。自由に取り出し、初穂料をお賽銭箱に入れるスタイルです。柳田国男が遊んだという境内を歩き、それを見守った「ヤマモモの木」(町指定天然記念物)を見上げた。14:27になったので、帰路につこうとバイクに戻ろうと河童のいる橋のところに来ると、子供たちが池を覗き込んでいる。
その親達も含め明らかに多くの人が池を見ているので、「河次郎」の登場時間かな?と思い、僕もその人数に加わった。しばらくすると、池の中央からボコボコ泡が立ち始め、「おならみたい」と子供たちが笑っている。やがて、河次郎が顔を出し、すぐにまた沈んでいきました。「へ、これで終わり?」と思っていると、子供たちのアンコールリクエストに応えたのか、再び泡がボコボコ、それを数度繰り返した。
ここで僕がバイクに戻ったが、バナナを食べていると、池の方から音も流れてきた。また河次郎が登場したようだ。それなりの音の演出を伴って数度登場しているようです。
『お客さまへお願い 辻川山公園は、田舎にしては珍しくポケモンがたくさんいますが、ここでスマホを見ながら歩いていますと、橋でつまずいて池に落ち、大事なスマホも水没して、せっかく捕まえたポケモンが全部逃げてしまうとか、「ありえますので」歩きスマホはお控えくださいませ』
ふふふ、洒落た文面だね。河次郎が池から登場するなど、神崎町のセンスあるプロデューサーに拍手です。
14:32、出発。福崎ICから中国道に入る予定でしたが、播但道へのICしか見つけられず、r23を東進し、北条駅前・北条市街地に出て、ここから中国道表示に従い、r24で加西ICから中国道に乗りました。
15:22、「社PA」に入り、ファミリーマートで「チョコバリ・129円」を買って休憩し、宝塚トンネル渋滞8kmを経て、帰宅しました。山陽道合流まではクリアに走れ、西宮名塩SAに至る登りから渋滞でした。峠を超え下りになると、まあまあ流れるので、8kmならそのまま渋滞にツッコミ、15kmなら下車して迂回路が常套手段です。1年後には、新名神が開通予定ですので、あと少しの我慢ですね。
帰宅し、残ったバナナを2本食べ、家内が用意してくれていた夕飯を食べ、ヨーグルトを食べながらTVを見ていると電話が鳴りました。19時前で、遅くなりすぎず良かった。夜中の女性1人歩きは危険です。「バスに乗ったから、バス停まで迎えに来て、荷物が重いの」。バス停で待っていると、バスがやってきて家内が降りてきました。「う〜ん、お洒落が決まってて素敵な美人だ」。スーパーで買った食材が重いようで、通勤リード110に乗せて、一緒に歩いて帰宅しました。講師の接待と、参加者の親睦を兼ねて、神戸牛を食べに行ったそうです。1日中のハイヒール生活で、足が限界だそうです。ならば、駅までお迎えに行ったのに。

2016/10/23
先週、炊事の排水が詰まり、家内がケミカルで直そうとしていましたがギブアップ。更に強力なケミカルを目論見、主成分の水酸化ナトリウム単体を購入し、10%水溶液(市販は2%)を作って試しました。それでもダメで、ワイヤーを突っ込みましたがダメ。固着し、全く開けられなくなっていた外のコンクリートマンホールをドリルで破壊(ホームセンター樹脂製マンホール1000円に取り替え)し、反対側からも突っ込んでゴリゴリしました。ジェット水流でパイプ内を攻撃などして、多少は汚れた物が出たがしぶとい。強力なシュポシュポ(1000円)を購入し、これで挑戦して、やっとこ通しました。
水道業者さんに頼んでいたのですが、仕事が混んでおり、来てくれるのが1週間後で困っていました。早く直ったし、費用も安価だったので、家内に褒められました。
二匹目のドジョウを狙おうと、トイレのウォシュレットの水流の弱さを解消しようと、朝四苦八苦していました。上流からの水流が弱いのが原因のようですが、水栓が堅くて作業が行き詰まりました。道具を揃えたり、部品取り替えが必要のようです。
家内の朝の用事にバイクで付き合い、「道の駅に葉物野菜を買いに行きたい」との要望に応え、10:38車で出発しました。親父とお袋は、「道の駅いながわ」に開店時間を狙って時々買い物に行っていましたが、「道の駅・能勢栗の里」に向かいました。
池田から、R173を北上し、11:24道の駅に到着。でも、この時間でも葉物野菜は売り切れでした。栗は終わっていましたが、柿がたくさん並び、でかいかぼちゃがありました。能勢町観光地図をゲットし、まだ訪問していない寺社を調べ、「訳あり塩味かき餅・540円」だけ買って帰りました。
R173を北上し、「栗栖」交差点を右折しr4。12:01、昆虫卸売販売「フジコン」本社併設のお店に寄り道します。我が家のお隣さんの僕と同世代の弟さんが、若い頃から北摂の里山で昆虫を採集して販売していました。フジコンという会社のことを聞いていました。看板やお店が目立つようになり、数年前ここに大きな本社が建ちました。
初めて入る店内は、クワガタムシのゼリーなどが、ダンボール販売されており、如何にも卸売会社という感じです。クワガタムシの成虫が販売されており、外国産の珍しいクワガタもいました。見ているだけでワクワクします。夏休みの時期は、デパートのイベントやスーパーなどからの引き合いが、後をたたないのだろう。
r4〜r104〜r4で、12:34「野間の大ケヤキ」到着。早朝に寄る事が多く、久しぶりの昼間訪問です。ロードバイクが数台駐輪し、それなりの服装の方が、お昼休憩しています。「ありなし珈琲」という屋台のお店が回転していました。若いお嬢さん2人で営業されていました。「蟻無神社」が大ケヤキの裏にあり、かつてはこのお宮の鎮守の森の木だったと思われる。
「けやき資料館」に入ってみる。西日本一の大ケヤキです。毎年営巣するフクロウやアオバズクの写真が飾られています。
r4を更に西進し、野間中で旧R477を渡り、妙見山方面へ。12:55「本瀧寺」到着。バイク知り合いKさんに教えてもらったカフェ目当てです。急坂を登った上に駐車場があると聞いていましたが、下のお寺の駐車場に置きます。アメリカンバイクが10台ほど停まっており、お店は満員かも?と思いながら歩きだすと、それなりの服装の集団が降りて来ました。これで満席解消でしょう。石垣の上を見上げると、お店の方が、バイクの方々に手を振っています。お店の位置もわかりました。
まず、本瀧寺・本堂の方に階段を上がります。お経を唱える声がずっと聞こえていましたが、50人ほどの男女が、本堂の周りを裸足でお百度参りしている声でした。滝行場があります。妙見山の別の登山道沿いにも行場があり、滝行が盛んな地です。
本瀧寺は、鉄筋コンクリートのお堂がありますが、高石垣や雰囲気の良いお堂や、神仏混淆・修験道的なお宮やお滝もあり、良い雰囲気です。案内板に従ってお堂の脇を通り、13:08「ほんたき山のカフェ」到着。
お客さんは、3名グループのみ。席数は、グループが座っている5席ほどのテーブル席と、石垣の上にある景色の良い外向き席が10ほどです。カフェは室内席はなく、オール屋外テラス席です。景色は素晴らしいが、風が冷たく、お店の方が毛布を貸してくれました。家内はそれを膝に掛けています。
プリンプリン×2、バラッカティーアイスを注文します。双眼鏡が置いてあり、遠くの山の稜線をそれで見ます。オープンエアなので気持ち良いけど、もう少し暖かいといいね。真夏はどうするんだろうと思い店主さんに聞くと、パラソルを出すのだそうです。
しばらくマッタリしていると、ここを紹介してくれたKさんがバイクでやってきた。Kさんとは「バイクツーリングの会」で知り合い、そこのメンバーの1人が作った「カフェの会」でも一緒です。前回の京都での「カフェの会」の例会の帰りに、電車の中でKさんにここを紹介してもらった。
この日は、ここの近くの能勢で「カフェの会」11:30〜13:30がありました。僕は参加しなかったけど、Kさんは参加されたはず。「あれ〜、こんにちは。家内です」と紹介しました。「5人来られますよ」。「まだ13:30になってないのに、終わったの?こんな近場のお店にハシゴするの?」「近いから、来るんですよ」。カフェの会は、現地集合・現地解散で、はしごしたことがなかったのに、この日は特別のようです。
後続メンバーは車で来られ、「こんにちは」「あれ〜ここで会うとは」と、あ〜だこ〜だ。会ってすぐに帰るのも失礼なので、マフィンとアイスクリームを追加注文しました。しばらくして、お先に失礼しました。カフェメンバーさんの話を聞いていると、これからまた別の店に移動し、夕食を食べて解散するのだとか、凄いや食べ歩き。
お会計を済ますと、シェフさんから名刺を渡されました。Kさんの名前を覚えておられました。Kさんは、もう顔なんだ。お客さんの8割がバイク乗りだそうです。「ほんたき山のカフェ 妙見宗総本山・本瀧寺内 土日祝のみ営業 9:00〜17:00 雨天・悪天閉店あり」。この方はパティシエさんだそうです。だから、アレンジしたデザートメニューを出してるんだ。お店のフェイスブックがあるそうで、記念写真をパチリされました。載るのかな?
車に戻り、r4〜r604〜R173で、15:09近所の関西スーパーに寄ってお買い物。15:31に帰宅しました。映画「君の名は」が16:10からなので誘いましたが、「え〜漫画でしょ〜」「僕もそう思うんだけど、すごく評判がいいらしいんだ」「私、漫画読まないし」ってダメ出しされました。
「じゃあ、家で映画ビデオ見よう」「うん、いいよ」。僕の好きな作家・ニコラス・スパークス原作シリーズ第3段「一枚のめぐり逢い」を見ました。映画化されたスパークス作品を5本もビデオで持っています。
「モヤモヤさま〜ず」「大河ドラマ・真田丸」を見て、1日が終わりました。

2016/10/16
土曜日は上天気でしたが、日曜日は下り坂。天気予報では、「夕方から曇り空ながら雨が降るかも?」という予報です。日曜日は家内も用事がないので、家内のリクエストに答え「朝ドラ・べっぴんさん・ロケ地巡り」デートをしました。機動力抜群・駐車場問題ナッシングな「通勤リード110」タンデムします。
7時に自宅を出発し、R171を南西に走り、7:30頃JR西宮駅で家内を下ろします。8:30JR塩屋駅海側出口で待ち合わせを決め、西進します。R43に出て神戸からR2で西へ西へ。須磨水族館を過ぎると、左に海が見えだし、気持ちの良い海岸道路になります。
R2にJR塩屋駅が面していました。予想通り電車のほうが速く、家内が駅周辺案内板を見ながら待っていました。家内をピックアップし、R2を少し西に走り、べっぴんさんの主人公「すみれちゃん」が戦前に住んだ家のロケ地「ジェームス邸」目指して、適当な交差点で右折し、電車の高架トンネルを抜け、山側に入ります。丘陵地が海岸に迫った地形なので、いきなり坂です。ナビに目的地をプロットしてるので、それを見ながら適当に曲がっていき、8:43「ジェームス邸」到着。
「JAMES-TEI」の表札が門柱に埋め込まれています。門扉が開いており、中を覗くとクラシカルな車が停まっている。従業員さんだろうか、道を隔てた駐車場の方からやってきて、僕らに会釈しながら入っていった。レストラン・ガーデン結婚式場として営業しているのは下調べ済みなので、入ってみる。
神戸市消防局名で、「喫煙・危険物の持ち込み禁止」立て札が立っている。落ち着いた洋館の一部が、木々の切れ間から見える。主人公・すみれが出入りするシーンに使われていた玄関が見える。ウィリアム・ヴォーリス設計建築の僕の母校中学校とにた雰囲気で、共感が持てる。邸内を覗くと、クロークがあり女性が電話応対中でした。レストランのパンフレットでも頂こうかと思ったのですが、後回しにして玄関脇から海側のお庭を拝見する。
ドラマでお馴染みの全面芝生の広がりが海に向かっている。その向こうに海が広がり、素晴らしい。お庭の一角に全面ガラス張りの現代風の建物があり、中で女性が作業をしている。椅子が並んでいるので、ガーデン結婚式で使うチャペルなのかもしれない。次男も結婚式で東京白金台・八芳園のガーデン披露宴をしたけど、参列者だけのプライベートスペースが庭に広がり、ナイスな体験をしました。旧薩摩藩邸のお庭を見下ろすロケーションだったけど、こちらは前面に海が広がり、ロケーションは最高です。次男も長男同様450万ほど結婚式に掛けたけど、東京と神戸の需要を比較すると、こちらの方が安くて済みそう。親父の葬式もおふくろのも450万かかったので、結婚式と葬式が、人生最大の大名浪費なように思います。
「結婚式・レストラン利用者以外の無断立ち入りは、ご遠慮ください」の札が下がり、ドラマの庭から見るジェームス邸は見れなかったけど、木々の合間から見えるお庭と海だけでも、感動しちゃいました。
邸内に入ると、今度は誰もいません。仕方なく出ようとするとクロークのお姉さんが出てこられ、「いつもなら見学していただけるのですが、本日は結婚式があり・・・。レストランは予約が必要で、ドラマの影響で人気が上がり、ランチは直近で12月のご案内になります。平日のディナーなら・・・」なんてお話をしてくれました。パンフレットを頂きました。
周囲をぶらぶら歩き、バイクに乗って坂を降ろうとしたら、ジェームス邸駐車場からの邸の景色を写したくて、サイドスタンドを出して駐輪しました。僕が降りると、前下がりが急過ぎたようで、バイクが前に動き倒れてしまいました。それはまあいいのですが、後ろに乗ってた家内が降りる前に倒れたので、「足が挟まった、早く起こして」との声が、慌てて起こし大惨事は免れましたが、僕の不注意からかわいそうなことをしてしまった。「ちょっと痛いけど、歩けるし大丈夫」とのことで、胸を撫で下ろしました。「ごめんなさい」。
一旦R2に下り、ここを通る度に気になっていた塩屋駅山側の洋館に寄るために、再び適当に山側に入り、何軒か、素敵な建物を写真に収めます。一旦下り、JRに山側に隣接する「山陽電車・塩屋駅」山側の道へ。改札口前を通過し、R2との交差点手前でバイクを停めます。山陽電車線路山側すぐにある洋館を写真に収めてようと踏切に向かうと、一眼レフを下げた鉄ちゃん中学生がいる。カンコンカンコン・・・踏切は列車通過のためクローズ。鉄ちゃん中学生とともに、カメラを通過列車に向けちゃいました。播州で生まれ育った家内は、大学時代、この線路を使って母校に通いました。
歩行者オンリーの小さな踏切を渡り、渡ってすぐの洋館を見に行くと、門脇に刑掲示板があり「旧グッゲンハイム邸」とのことでした。第3水曜日が邸内見学会だそうです。催し物会場にレンタルしているようで、「カルメンマキ・コンサート」など書かれていました。懐かしいな、僕らより年上だったように思うけど、まだ歌ってるんだ・・・。暗く悲しい歌を歌っていたような・・・。
門の前には、「Welcome to our party」のウェルカムボードが置かれています。レンタルしているようです。駅からの足の便も良く、素敵なレンタルハウスです。R2に出て、神戸に向かって東進すると、次の駅が「須磨浦公園」です。その手前に、大きな五輪塔を発見し、緊急停止。
9:38「敦盛塚」。源平の戦い・一の谷決戦に敗れた平家の若武者・平敦盛と、その首をあげた功績と、我が子とさほど変わらない幼武者の首を取らないといけない武者の無常を感じ、出家してしまった熊谷次郎直実の苦悩・・・。そんな物語が脳裏に浮かび、家内に話します。こんな歴史話を、興味深く聞いてくれるのは家内だけです。
謂れ板によると、中世の五輪塔としては、石清水八幡宮に次ぎ、全国2位の大きさだそうです。高さ397cm。『この付近は、源平一の谷合戦場として知られ、1184年2月7日、当時16才の平敦盛が、熊谷次郎直実によって首を討たれ、その供養のために建立した塔という伝説から「敦盛塚」と呼ばれるようになった。鎌倉幕府の執権・北条貞時が一門の冥福を祈って、1278〜1288に建立したなどの諸説ある』
横に「敦盛そば」というお店がありましたが、休業中のようです。謡曲「敦盛」は、織田信長が好んで舞ったようで、信長が「敦盛」を舞って、桶狭間決戦に出する場面は有名です。「人間五十年、化天]のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり・・・」は、その中でも特に有名です。小学生時代、身体が弱かっ羅僕は、享年49で明智光秀に破れ散った信長の年齢を超えることが目標でした。
少し進み、9:47「須磨浦公園駅」。ケーブルカーが10時始発のようなので、乗ってみることにしました。ロープウェイ片道450円、ロープウェイ・カーレーター・リフト往復1800円。山陽・須磨浦公園駅舎上階に、ロープウェイ駅があります。孫と3世代で遊ぶ場所として、ロープウェイに乗って須磨浦公園山上へ。
ロープウェイが高度を増すと、海釣り公園が見えてきます。須磨海水浴場・須磨水族館・須磨ヨットハーバーが見えてくる。須磨から神戸への海岸線が見え、神戸空港も見える。車内は満員で子供さん連れが多い。
10:04、ロープウェイ山上駅。たった数分の空中散歩だけど、景色が良くて楽しい。世界でたったひとつしかないというカーレーターで、山頂の展望台にも上がれますが、カーレーター上の展望台で十分満足です。須磨・神戸とは逆の西の明石が見え、明石海峡大橋・淡路島も見える。
10:17、階段遊歩道で下山しましょう。須磨浦公園駅は、六甲全山縦走路の起点で、宝塚までつながっている。トレッキングスタイルの方が、続々と登ってくる。すれ違う度に、「こんにちは」。白いきのこがニョキニョキと地表に現れている。10:55、駅まで下りてきました。
駅前に、「TOOTH TOOTH Seaside Cafe」があります。神戸・旧居留地にあるお店と同じ名前だ。一の谷合戦時の「安徳天皇内裏跡」に向かって、坂道を登りだすと、「一の谷不動尊」がありました。
「磨崖仏」と書いてあるので、見学。「潮音寺」という海に近いこの場所を表すような寺名です。源平合戦で有名な「鵯越の逆落とし」の麓にあり、平家ゆかりの須磨寺の末寺とのこと。磨崖仏の不動明王は、それほど風化が進んでおらず、綺麗なお姿で望めた。真言宗などの密教や修験道が信仰する大日如来の化身であり、大日如来を守護する明王のトップ・不動明王ゆえ、ずっと信仰を集めていたのだろう。覆屋に守られ、風雨を凌ぐように大切にされていた。
四輪でのすれ違いが微妙に困難な急坂を登り、11:16「安徳天皇・内裏跡」。歴史好きだろうお父さんが、熱心に謂れ板を読んでいた。何故か、「皇女・和宮像」があった。謂れ板を読むと、幕末に公武合体を表すため、皇女和宮は有栖川熾仁(たるひと)親王との婚約を破棄し、14代将軍・徳川家茂に嫁いだ。その後、有栖川熾仁親王を総司令官に担いだ薩長を中心にした官軍が、江戸に迫り、皇女和宮は、「国と民のためならば、身は武蔵野の露と消ゆとも」と身を挺して和平を嘆願し、江戸の町を戦火から救った。昭和に入り、小学校に二宮尊徳像を寄付した中村直吉氏は、神戸の3女学校に「皇女和宮像」を贈った。その一体だそうです。安徳天皇を祀る祠「安徳宮」があった。
一旦R2まで下り、西進して須磨まで来ました。交差点の「須磨寺」の道標を見つけ、左折して内陸の方に入ります。11:30「須磨寺」。集合墓塔内で、僧侶がお経を上げています。遺族だろう喪服の方もいます。門前に「正覚寺」というお寺があり、愛染明王が本尊です。真言密教本尊・大日如来を守る明王の1つで、煩悩・愛欲を断つのを助けます。
『須磨寺 真言宗・須磨寺派大本山。奈良時代758年、和田岬で見つかった観音様を会下山に安置し、平安初期886年、聞鏡上人が勅命により堂塔を営み、福祥寺と名付けたのが須磨寺の起源。その後兵火により荒廃したのを、1155年源頼政が再興し、慶長年間の大地震で荒廃した時は、豊臣秀頼が片桐且元に命じて、1602年修復した。江戸時代朱印16石、明治以降寺有地2万坪を遊園地として開放し、桜の名所として市民に親しまれてきた。源平合戦に因む宝物も多数あります』
山本周五郎の出世作・「須磨寺付近」の碑が立っている。山本周五郎は、「樅ノ木は残った」などの歴史小説は読んだことがあるが、この書は知らなかった。
境内に入ると、覆屋の下に大岩が置かれ、中央に獨鈷が置いてある。真言宗の開祖・弘法大師空海は、中国留学し密教の7世祖に師事し、密教皆伝を得た。その時獨鈷を授かり、それを持って日本に帰ろうとしたところ、「獨鈷の門外流出」を避けようと、密教の弟子たちが襲ってきた。そこで空海は、「有縁の地に届け」と、獨鈷を空高く投げた。「その獨鈷を空海はここで見つけた」という伝説が、日本各地に残る。それを表しているのだろう。
玉眼の入った龍の素晴らしい彫刻が施された蟇股や木鼻。横には「源平の庭」という屋外作品があり、一の谷敗戦で海に入り落ちていこうとする敦盛に向かって、「逃げるとは卑怯なり、戻せ」と叫ぶ熊谷次郎直実のシーンが像で再現されている。
開放的な宝物館に入ってみる。敦盛と直実の文楽人形が飾ってある。正面中央に、「青葉の笛」があった。笛の名手・敦盛の愛器です。「えっ、本物?」ってビックリした。こんなに開放的なところに置いてあるとは・・・僕的には、かなりの値打ち物なんだけど、国宝とも重文とも書かれていないところを見ると、偽物なのかな? 本物の青葉の笛でも、世間的にはこの程度の値打ちなのかな?「福祥寺」の扁額がある。これも値打ちがあるように思うが・・・。敦盛釣燈籠。「赤旗名号」・・・自分の息子とほぼ同じ年齢の敦盛の首を討った心の痛みから出家した熊谷次郎直実が、浄土宗法然に乞うて、平家の菩提を弔うために、平家の赤旗に「南無阿弥陀仏」と書いて頂いたもの。これも値打ち物でしょう。弁慶鐘という小ぶりの鐘があった。三井寺にも大力・弁慶が引きずったという大きな鐘が遺っていたが、この鐘も弁慶が「鵯越の逆落とし」を担いで下り、陣鐘として使用したという。
「須磨寺小石人形舎」に入ってみる。小石に顔を付けた人形が船に乗ったりしている。ボタンを押すと、それらが動き、「鵯越の逆落とし」に始まる合戦の様子を再現している。敦盛が笛を吹いている。「壇ノ浦哀話」という題名のは、清盛の妻・二位の局と安徳天皇の入水の様子が、小石人形で表現されている。「福原京の華やぎ」では、好色・平清盛が女官を数名配している。清盛の好色に出家の道を選んだ祇王・祇女・母の老婆の作品もある。秋色に染まった紅葉の奥の東屋に建礼門院がいる。安徳天皇の母・清盛の娘・建礼門院徳子が、大原の里で平家の菩提を弔う姿を表している。「常盤御前雪の別れ」は、御前の前に3人の幼子がいる。源氏の御曹司・源義朝の側室になり、3人の男子を産む。義朝が平治の乱で清盛に破れ、京を落ちてゆく時の別れを表現しているのだろう。「安宅の関」では、中央に関守・富樫十郎左衛門、左右に無細胞弁慶と源義経が配され、歌舞伎の十八番「勧進帳」の場面が再現されている。歴史好きの僕にはたまらない名場面ばかりで、とても楽しめました。
香炉に桜の家紋が描かれていました。桜の名所だから、桜を家紋にしたのでしょうか?本堂に上がると、千手観世音菩薩と柱に書かれているので、本尊のようです。正面の門が閉じられ、お姿を拝むことは出来ませんでした。
錦鯉が泳ぐ「敦盛卿首洗池」があり、その向こうに、朽ち果て倒れた「義経卿腰掛松」が覆屋の下に置いてあります。松に腰掛け、敦盛の首実検をしたそうです。新築の朱色が眩しい三重塔がある。手前に「出世稲荷」があり、福原遷都時、清盛が都の守護として湊川の辺りに奉安したとのこと。以降、出世稲荷として港都最大の稲荷社として栄えて来たが、明治中期湊川改修に際し、平家に縁のある当山に遷座したとのこと。息子・孫達の出世を祈願してチャリン。
三重塔、親子地蔵・シベリア満蒙戦没者慰霊碑を見て、「あつもり首塚」。小ぶりの五輪塔が、覆屋に守られています。『謡曲「敦盛」は、戦乱の巷では敵であった者同士が、極楽浄土でともに成仏する運命になったことを主軸にして作曲された修羅物である。一ノ谷の戦いで、少年・敦盛を討った熊谷次郎直実は、無常を感じ出家し蓮生と改め、菩提のため古戦場を訪ねると、敦盛の霊が草刈男の姿で現れ迎える。蓮生はひたすら回向を続けまどろむ夢の中に、華やかな姿で現れた敦盛が、一門の没落の運命の中にも忘れかねる快楽の日があった事や、戦いの有様を物語り、敵蓮生の日々の回向に感謝し、ともに極楽往生のできることを喜びつつ消え去る。直実は、義経の首実検の後、許しを得て遺品「馬・甲冑・弓矢・青葉の笛」と共に、戦死の有様を書き添えて父・経盛に送った。懇ろに弔われた「敦盛首塚」は、今も人が絶えない』
五猿の像があった。『ためにならない態度を見ざる。ためにならない事を言わざる。ためにならない話を聞かざる。ままにならない事を怒らざる。まんまんちゃんは、善い行いも、悪い行いも、見て五猿』
境内の一部の石畳タイルを歩くと、ふんわりと感触が良かった。おかしいな?と思うと、横に「四国八十八ヶ所霊場お砂踏み 石畳の下にお砂が入っています」と書かれていた。
集合墓塔内を覗くと、引き出しが左右奥に並び、それぞれの引き出しに名字が書かれていた。墓石や墓所を購入せず、このような方法で先祖のお骨を供養されているようです。これなら子孫が先祖を感じながら参ることが出来ますね。
須磨寺からまっすぐ海に向かって下り、山陽電車を渡って下っていき、12:26「綱敷天満宮」到着。菅原道真が、藤原氏の陰謀により大宰府に左遷された道中、この浜に上がった。漁師が網を円座にして道真を接待した故事により、この名がついた。「祖霊舎・奥津城」の案内板が出ていた。神式のお墓の案内ですね。神式の墓石は先が尖り、「奥津城」と刻まれていることもある。
我が家は仏式だが、葬儀一式は神式やキリスト教式の方が、圧倒的に安くあがる。従兄弟にいろいろ調べて、神式に衣替えすると言ってた者がいる。家内の実家は、女の子2人だったので継ぐ者がいない。義理兄が、家内の実家の仏式墓の隣に、兄の実家の神式のお墓を移すと言っている。姉夫婦は、どちらに入るのだろう?家内と結婚してしばらくした頃、姉夫婦が転勤族だったので、姉夫婦が墓守しないなら、僕ら夫婦で家内実家の墓も墓守しようと考えていた。幸い、姉夫婦は家内の実家から援助を得て、実家近くで開業したので、その心配はなくなったが、先祖の供養・自分たちの行く末は、その時以前から、考えておかなければならない。
立派な社務所があり、子供向けの童謡が境内に流れている。本殿に向かうと、初宮参りと思われる一家がおられた。ご夫婦と青い着物を羽織った子、両親の親御さん揃い踏みで、僕らと同じような年齢のご夫婦が2組。
1週間前に、次男の初めての子のお宮参りをした後なので、本殿をバックに笑顔で写真を撮っている様子を、微笑ましく見ていた。すると、「すみません」と声がかかり、僕がご家族全員集合写真を撮ることになった。「おめでとうございます」
綺麗な三重塔が建ち、気持の良い天満宮です。無料貸衣装があり、社務所内に写真スタジオまであるようです。全国1万社の天満宮内の25霊社の1つと由緒も歴史もあるお宮ですが、宮司さんの経営力も素晴らしそうだ。
本殿横に、「波乗り祈願」と書かれたサーフボードを持った道真さん像があった。大きな波は立たないが、須磨もサーフィン野郎淑女が集まる浜なので、それを狙っているのかも。敷石にもサーフィン型のがあったし、珍しい。
家内が熱心に絵馬掛けを見ている。学問の神様だけあって、「・・合格」の祈願が並んでいる。僕は美作菅家党の血を引くので、天神社・天満宮と名がつく神社を見かけると、寄り道したくなっちゃう。先祖を祀るお宮に、手を合わせたくなっちゃう。僕が今こうして幸せに生きていけるのも、先祖あってこそです。
母子像が立っていた。『「ひさかたの月の桂も折るばかり、家の風をも吹かせてしがな」 菅原道真公が15才の元服の時、母君が贈った歌とされる。あなたも早く試験に合格して立派な官吏になれよと、我が子への励ましの歌です。菅公の母君に関する物的史実はほとんど残っていません。お姿・お名前も不明で、いつ・どこで出生したかも定かではありません。「家風」という言葉を最初に歌った方で、大伴家持などを輩出した伴家の出身ということだけわかっています。しかし、夫に尽くし、優しく、我が子を可愛がりながらも、単なる教育ママでない厳しさと賢さを兼ね備えた女性だったという言い伝えが残っています』
生活費から割いて僕に普通に学問を付けてくれた親に感謝だし、僕らも息子たちの学費はケチらなかった。母親の実家はお金持ちだったが、「女の子に学問は必要ない」時代にも関わらず、女学校・大学まで通わせてもらっている。家内の母親も大卒なので、子供の教育第一の平安時代文章博士などを生業にしていた菅原家の血が、これからも続くことを願いたい。
花壇に、珍しいものを見つけた。浩宮皇太子殿下のお印・アズサ、雅子皇太子妃殿下のお印・ハマナス、敬宮愛子殿下のお印・ゴヨウツツジと書かれた銘板が刺さり、それぞれが植えられている。皇族には、お印の植物があるのですね、知らなかった。
R2を東進し、r22に左折し、セブンイレブンで昼食休憩します。家内はお弁当、僕はバナナを食べました。13:19、阪神高速の高架下の地区駐車場に入れます。目の前の家の2Fの窓が少し開いており、鳩が出入りしています。鳩小屋になっているようです。小学生の時、弟が親父に2Fベランダに作ってもらった鳩小屋で、鳩を飼っていました。親父と一緒に伝書鳩を車に積んで遠くまで行き、離して戻ってくるのを楽しんでいました。
「那須与一の墓」を訪ねます。五輪塔がポツンとあるだけだろうと予想したのですが、差に非ず、「源平ゆかりの地・神戸へようこそ」の目印が下がったところに階段があります。『那須与一は、源平合戦に際し、北向八幡宮を守護神として、源義経に従い、数々の先陣に加わった。屋島の合戦で扇の的を射落とし賞賛を得た若武者。晩年、この地へお礼参りに訪れますが、病の得てここで亡くなった。道路を渡った東側に、与一を祀った那須神社と、与一が信仰した北向八幡宮があります』
階段を上がっていくと、予想外に社殿がある。中を覗くと畳敷で、那須与一御詠歌が下がっている。もう一段上がるところにも社殿があり、裏は地区の墓地になっている。「お知らせ ・月・日、与一墓所にふさわしく、当墓所の草刈清掃を行いますので、墓の所有者は必ずご参加願います」の案内板が立っている。
「那須与一公之墓」の銘板が下がる建物で、墓所集会場ということでしょうか。壁には多数の絵馬が下がっている。中に入ると、地区当番の女性2人がお喋りをしている。「ようお参りくださいました」。中央に与一のお墓があり、雨ざらしではなかった。まずチャリン、お参りして、展示されている資料を読む。
『那須家は、下野国(栃木県)那須を所領し、田畑の開墾馬の生産を主に勢力を伸ばした豪族。那須与一は、那須太郎資隆(すけたか)の11子として生まれた。源平合戦には、兄9人は平家に属し、与一は兄・為隆とともに源氏に属しました。当時は嫡男が世襲するのでは必ずしもなく、最も優秀な者が当主となり、また戦乱に対する武門の心得として両陣営に分かれるのは当然のことでした』
那須与一は、大織冠藤原釜足公の後裔だそうで、僕の母方の本家と同じです。菅原氏の末裔ですが、美作の城を赤松氏とともに足利尊氏に味方したことで、新田義貞軍に落とされ、北関東・下野国に敗走したことから、その地で大織冠の血筋と縁ができたと、先祖の本に書かれている。
「那須与一絵馬・500円」を授かりました。また我が家の祠に、願いを書いて下げよう。
道路を渡り、階段を上がり、『北向八幡宮 大国主命が祀られており、出雲に対しての敬意から北向きに建立した。一の谷合戦で、源義経は村人から、「御神威が高く飛ぶ鳥でさえ社殿の上空を飛べない社があると聞き、那須与一に武運長久を祈らせた。戦乱の後、与一はお礼参りに当社を訪れますが、中風のため当地で亡くなった。境内に与一を祀った那須神社があり、道路を渡った西側に、与一の墓があります』
那須神社にも参り、バイクに戻ります。今度は海岸線まで下らず、左折してr21を東進します。山手幹線的な道路で、山の手の新興住宅地を繋いで走っています。やがて道なりに神戸の山の手「異人館通り」になり、14:10「北野美術館」前。
バイクを置いて、異人館街を巡ります。「結婚式会場」と札が下がった洋館がある。ガーデン結婚式に使われているようです。「ラインの館」。「ベンの家」では、異人館割引入場券を販売している。魔女が屋根に乗った洋館もある。「旧アメリカ大使館」は、カフェになっているようだ。美術館は、「Museum Cafe」。路地の雑貨屋さんを覗いたりぶらぶら。「ハンター迎賓館」の下に「ウェディングスペース」と書かれており、この日も結婚式が催されているようです。
「北野天満神社」があったが、階段を上がるようなので、家内がパス宣言したので僕もパス。「旧トーマス住宅」は、「風見鶏の館」としてNHK朝ドラに登場したので、異人館街の代名詞です。このドラマで、神戸異人館が全国区になり、観光客が一気に増えた記憶がある。学生時代は、GFさんを乗せて車で路上駐車して異国情緒を味わったのに・・・。占いをせがまれ、「私達2人の将来」を占ってもらったこともある。このことは、家内には内緒です。
船員さんの木彫人形を家内が見つけ、「あれ?うちにもあるよね」。ヨット部の先輩の結婚式で引き出物として貰った人形です。店内に入り、「海賊木彫り人形」を2体1000円で購入。
朝ドラロケ地の「萌黄の館」は、外観リニューアル中でカバーに覆われていた。内覧は出来るが、内部は何度も見たことがあるので、600円払ってまで・・・外観を楽しみに来たのに残念。カバーに実物大写真がプリントされているので、それで満足しておきましょう。
バイクの戻ろうと歩いていると、広場の階段の所で絵を書いておられる方がいました。繊細画で神戸らしく、港・帆船・異人館・・・、1500円で1枚買っちゃった。
異人館通りに戻ると、シティー・ループバスが停留所に停まっている。お客さんがいっぱいです。ボディー横には、「朝ドラ・べっぴんさん」の主人公たちの写真がプリントされている。これで、僕らみたいな観光客が増えたのでしょう。
14:50、バイクに戻り、帰路につきます。JR・阪急三宮駅まで下り、家内を下ろします。僕は、R43を東進し、西宮からR171で阪急伊丹駅。家内とここで待ち合わせ、帰宅しました。楽しい1日になりました。

2016/10/9
前日、次男一家が帰省しました。今回の目的は、7月末に生まれたスミレちゃんの初宮参りです。朝、東京から新幹線に乗り、昼頃新大阪に着き、梅田の大観覧車に乗り周辺をうろうろした後。やってきました。夕食は、お寿司を取ってワイワイ食べました。スミレちゃんは、2ヶ月半で4kgを超えました。指が長く、顔立ちが可愛く、生まれながらにして女の子です。
朝、4時前に目覚めてしまいました。朝ごはんを食べた後、家内に頼まれ、スクーターで仏壇お花を買いに行く時、自衛隊の前を通ると、正門も西門も、お客さんが開門待ちをして長蛇の列が出来ています。創立記念日で、体内が開放され、模擬演習などの催しがあります。
8:30に、朝食をお隣に泊まった次男達に運びます。車にチャイルドシートをセットし、9:30にみんなを車に乗せ、スタジオアリスに向かいます。
長男の2人の子は両方共男の子だったので、お宮参りの着物は、義理母にプレゼントしてもらい長男・次男が使ったのを流用しました。初めての女の子なので、2人の女の子を育てた義理姉に借りようとしたら、レンタルしたので持っていないとのことでした。女の子用の着物を新調しようかと思いましたが、レンタルが便利とのことで、スタジオアリスで借りることにしたそうです。
スミレちゃんが寝てしまったので、僕は車でスミレちゃんの番をすることになり、3人で着物を選びに店内に入っていきました。ピンク系のを選び、氏宮様に車で向かいました。自宅から歩いて行っても良かったのですが、朝雨が降っていて曇り空なので、神社の駐車場まで乗っていきました。
10:14着。11時まで時間があります。お参りをして社務所を見ると、僕らと同じような年配のご夫婦が、中で祈祷申込用紙に名前を書いています。正装のご夫婦で、何のご祈祷かな?と思っていたら、駐車場の方に行かれました。
若宮司さんに促され社務所に入り、申込用紙に記入し、おっぱいを上げたり、おむつを替えたり、スミレちゃんのご祈祷準備をしていました。白いベビードレスを着せ、着物を羽織り準備万端整えました。写真を撮り、スミレちゃんを主役に遊んでいると、主役がぐずり出しました。暑いのだろうと、ドレスの下を1枚脱ぐと機嫌が直りました。家でも裸が好きで、お風呂が大好きだそうです。白い帽子は止めました。
10:30になって、先程のご夫婦とともに赤ちゃんを抱き、お姉ちゃんの手を引いたご夫婦がやってきました。僕ら同様、初宮参りのようです。
10:30の方が終わり、拝殿前で写真を撮るようだったので、「撮りましょうか?」と申し出ましたが、三脚を用意されておりよいそうです。11:00なので、そのまま拝殿に上がり、祝詞が始まります。スミレちゃんを抱いた家内が中心に座り、左右に次男夫婦、そして僕という具合に座ります。一連の儀式を終え、撤饌をいただき拝殿を出ます。夏の長男の次男・こうくんの時同様、若宮司さんが集合写真を撮ってくれました。
主役は、ぐずることもなく、ごきげんさんで初宮参りを終えることが出来ました。もういくら泣いてもOKです。車で自宅に戻り、そのままの格好で自衛隊に向かいます。11:55、装甲車が隊に入っていきます。自衛隊の白いバスや、阪急バスも正門内に入っていきます。最寄り駅から臨時バスが運行されているのでしょう。常設展示の戦車や装甲車があります。自衛隊白バイは、ヤマハXJRでした。持ち物検査を通過します。ウエストバッグのチャックを開けると、お姉さん隊員さんが調べます。救急車があります。
歩兵装備品展示がありました。UAVという小型偵察機(全長0.95m・翼長全幅1.55m・4kg)です。軽対戦車誘導弾(赤外線誘導)、対人狙撃銃、5.56ミリ機関銃、ミサイル発射車輌、榴弾装甲車・・・などが屋外展示されています。模擬演習の機関銃連射音や戦車砲発射音が、ひっきりなしに聞こえてきます。
畳が敷かれた「尾張の湯」(足湯)があり、浄水セット(河川・湖沼取水を飲料水に浄化する)がある。浄水能力は、2.5トン/hという高性能です。スミレちゃんは大音量にも寝ていますが、お嫁さんと家内は模擬店の方に離脱します。僕と次男は広場に向かい演習を見ました。
模擬演習が終わったので、救急車輌内を見学しました。手術台や各種モニターなど、病院の緊急手術室の移動版です。開腹・開頭手術が、10〜15人/日だそうです。外に出ると、迷彩服の隊員が、模擬演習に使用した機関銃を水で洗っています。
次男にお嫁さんから電話が入り、模擬演習見学を終えたお客さんが大量に模擬店に流れてきたので、うどんの列に並ぶとの報告が入りました。模擬店のうどんの幟のところに行くと、家内が並んでいました。お嫁さんとスミレちゃんは、座っているようです。この列はどんどん進みましたが、3人前で売り切れになっちゃいました。残念です。
毎晩、仕事帰りに会う自衛隊小型消防車が展示されています。ダイハツの軽トラにトーハツの小型エンジンがセットされた消防車です。ホースも全て揃っているのにミニサイズなので、子供に人気です。毎晩総監宅を巡視しています。自衛官新規採用の迷彩服お兄さんリクルーターに呼び止められました。
やたらめったら呼び止めるので、「生まれ変わったら応募するわ」とか「女の子なんですけど・・・」「女の子だって自衛官になれるよ」とかの笑い混じりの会話が聞こえてきます。ターゲット年齢の若者が数人、自衛官と相対して椅子に座り用紙に名前を書き込んでいます。
「ゆるキャラ」が歩いてきました。「奈良地本」と書かれていたので、奈良の部隊からの遠征のようです。お嫁さんとスミレちゃんが、ゆるキャラとスリーショットされています。
高機動車・戦車・ミニ戦車体験試乗会がありました。12:42、61式と74式戦車をバックに記念写真を撮り、1時間で退散します。今年はミニSLの試乗会はありませんでした。息子たちがチビの時、これが一番人気でした。次男に聞くと、戦車に乗ったことを覚えているようです。
自宅に戻り車に乗り、模擬店うどんを逸したので、ファミリーレストランに向かいます。途中、迷彩服の方や装甲車が走ってるのを見て、お嫁さんが驚いています。「うちのご近所さんは、ご夫婦で自衛官なので、毎日迷彩服で出勤しているよ」なんて言うと、「え〜」と更に驚いています。
僕が小学生の頃は、家の前を戦車が走っていたし、機関銃を肩に担いだ隊員が2列縦隊になって公園で展開訓練するために移動していました。無線連絡してるのを、興味津々で見ていました。左翼思想がずっと広がり、隊の外での訓練の様子を見ることはなくなりました。
13:07、レストランに入りました。食事して、僕がデザートのパフェを食べているときに、家内に電話が入りました。弟のお嫁さんからです。14時からスタジオアリスで撮影なのですが、スミレちゃんを見に岸和田から来てくれました。13:30と30分も前なのに、もう着いたようです。
次男に半分パフェを食べられて完食し、アリスに向かいます。14:09スタジオアリスに入ります。姪は初めて会うスミレちゃんを抱っこしてご満悦です。ちょうどご機嫌タイムで、弟一家は交互に抱いてニコニコしています。
最初に、集合写真です。主役を家内が抱っこし、それを中心に。次男一家だけの写真、僕ら夫婦を加えての写真、主役だけで数ショット。スタジオ内は写真禁止なので、ムービーで着付けの様子や、撮影の様子を撮ります。他のお客さんのも自由に見れるので、とても楽しい。初宮参りや七五三帰りの子が多く、店内はみんな笑顔です。泣いてる子、親から離れない子・・・スミレちゃんは泣くこともなく、撮影は順調でした。
全ての撮影が終わり、次に写真の注文です。家内を含め3人で、あ〜だこ〜だやっています。次男メインで決めていますが、結局3万円ほど注文していました。親ばかです。結局2時間ほどスタジオアリスにいました。
自宅に移動し、仏壇の部屋にお茶とお菓子・おかきを持ち込み、ワイワイガヤガヤ。中3になった姪の学校の話、主役の話・・・、話は尽きません。弟一家が帰路につき、僕ら夫婦で「ほか弁」を買いに行きました。18:27、松茸御前740円・松茸弁当600円・幕の内弁当500円・さばの煮付け弁当550円を購入。コンビニに寄って、買い物し、19時から夕食タイムにしました。
ちょうど、次男たちのお宮参りの日程に、自衛隊祭りがあり、お嫁さんに見せられて良かった。というのも、妹さんの旦那さんのお父さんは自衛官で、伊丹の駐屯地に勤務されたこともあったようです。この夏に入籍し一緒に住んでいますが、結婚式は来春です。その時の良いネタになります。

10/10
家を9時に出発します。メニューは、「我が家のお墓参り」です。墓参り好き一家なので、次男にはどうしても墓参りは外せないメニューです。阪急山本駅〜長尾山トンネル〜r325〜r33〜r319〜r12の定番ルートで、10:11お墓着。我が家のある区画は、「すみれ」なので、お嫁さんが驚いています。あまりない名前だと思っていたのに、朝ドラ主人公名が「すみれ」で、今年は「スミレちゃん」が増えそうです。でも次男が考えた漢字の組み合わせはないでしょう。
次男夫婦は、革靴とヒールというフォーマルな靴を履いてきたので、貸した靴を履いています。お嫁さんはソフトジーンズになっており、ジーンズ姿は初めてかも。チャッカマンのガス切れで、お線香は火がつかないままになっちゃいました。次男は、「スミレちゃんです、お守りください」なんてお願いしています。お嫁さん実家のお墓にはまだ参っていないようで、「お墓参りしなきゃ」と言っています。お正月は、家内の実家・加古川のお墓参りに行くと言っています。ついでに加古川の義理姉夫婦・従兄弟に、スミレちゃんをお披露目したいようです。
最初、お宮参りにお嫁さんのご両親も来られる予定でしたが、パスされ旅行に出られたそうです。我が家とは別棟なので気を使う必要ないのに、宿泊があるので遠慮されたのかもしれません。ちょっと残念でした。来年仕事をリタイヤされて、夫婦で旅行三昧されるのだとか。
r12〜r319〜r33〜R176で宝塚に出ました。宝塚歌劇団大劇場前の「すみれロード」に入ります。出待ちのヅカファン女子が、歌劇場通用門前にたくさんいます。正門前を通り、すみれロードを北端まで抜け、Uターンして帰ろうと思ったら、南行は通行止めでした。仕方なく、西に曲がり武庫川を渡ります。
僕らが結婚式を挙げた時、親戚に泊まってもらった「若水」横を南下し、披露宴を行った宝塚ホテル横を通る。r16に出て、逆瀬川から六甲山を上がっていきます。
11:44、路肩が広がったところに入れ、大阪湾を眼下に見る絶景を堪能します。お嫁さんは、高所が苦手のようで、ガードレールがあるのに端に来ません。大阪の大観覧車がとても怖かったようで、僕以上に高所恐怖症のようです。
一軒茶屋には、ハイカーがたくさんいました。ここからすぐに、六甲最高峰があります。車道を歩くハイカーがチラホラ現れます。六甲ケーブルからここまで、ハイキング道が車道と交差しながらパラレルに走っており、平坦な車道を選択するハイカーがいます。僕ら夫婦も、ケーブル有馬温泉駅に車を置き、ケーブルで上がり、この道〜一軒茶屋〜有馬温泉ルートで下山したことがあります。
順調に走ってきましたが、突然車の並びに突っ込みました。上がってくる途中に擁壁工事片側通行があり、しばらく列に並んで止まり待ちましたが、今回は原因不明です。車を降りて見に行くと、六甲枝垂れ駐車場待ち渋滞のようです。極楽茶屋跡が見えているので、駐車場750m手前です。
とても待てないので、Uターンして下山することにしました。「宝塚GC」横のr16沿いコンビニで、麦茶ペットボトルを購入。r16〜武庫川新橋を渡って伊丹市に戻り、「のらや」でうどんを食べました。座敷席があるお店は、赤ちゃん連れに便利です。
14:00、瑞ヶ池のジュニアヨットクラブに寄ります。ここは、僕が大学時代の国体出場時の伊丹市激励会に呼ばれた時、市長から伊丹市の溜池を使って子供にヨットを教えれないかと打診され、伊丹市在住の母校大学ヨット部先輩たちと作ったクラブです。そこに次男が入部し、大学まで競技ヨットを楽しみました。
体育の日のイベントで、「ヨット試乗会」を開催しています。お嫁さんに、次男がヨットを始めた場所を見せようとやってきました。ライフジャケットを着れば桟橋に入れるというので、2人は桟橋に降りていきます。次男が戻ってきて、「ちょっとOPに乗るわ」。僕もライフジャケットを借りて、桟橋に降ります。4〜5m/sの良い風が吹いており、次男は桟橋から離れて、気持ちよく走っていきます。既知のNさんが来られ、「この人がこのクラブを作ったんですよ。息子さんはこのクラブのOBで、海外遠征もしています」と紹介され、現役ヨット部員の親御さん達に驚かれます。「大きいのが戻ってくるので、家族で乗ってくださいよ」と言われたので、その言葉に甘えます。
次男が桟橋に戻ってきたので、大きいのに乗り換えます。僕ら家族の他に、お客さんの夫婦1組・小学生女の子1人・部員お父さん1人が乗り込み、次男がスキッパーをして桟橋を離れます。ブローにも腰が強いヨットで、ヒールが敏感ではなく、素人が怖がらず乗れます。スミレちゃんは、0才にしてヨットデビューを果たしました。お嫁さんは、ブローが入りグッとスピードが増すと、「うわ〜すご〜い」と少し怖がっています。
タックやジャイブをして、クラブ員を追いかけてマーク回航などしていると、ゴムボートが寄ってきて、既知のKさんが乗っていました。「あれ〜Kさんじゃないですか、Tです」と次男が声を掛けます。次男の結婚式にも参列してくれたこのヨットクラブで小3から同期のKくんパパです。当時は、全国色んなとこにKさん親子と一緒に遠征しました。先月も、Kくんと東京で会ってたそうです。お嫁さんも何度も会ってるKくんのパパなので、こんなところで会えるなんてと驚いています。
桟橋に戻ると、Kさんも上がってきて、部員を集合させ、次男に喋らせました。「大学卒業後もヨットを続けてね」など喋ったようです。家族でヨットに乗れるラッキー、Nさん・Kさんにも会えてラッキーでした。ヨット試乗会に寄って良かった。Nさんは、教育委員会勤務から、息子たちが通った瑞穂小学校勤務になり、この池の最寄りなので、部員数を大きく伸ばしているそうです。
自宅に戻り、帰り支度です。15:10頃、大きなスーツケースをゴロゴロしながら出てきて、車に積みます。R171〜中央縦貫〜千里中央から新御堂筋を南下し、13:45新大阪駅で次男一家を降ろしました。
帰宅して、あれやこれや・・・大河ドラマを見て、寝てしまいました。楽しい週末になりました。

2016/10/2
先週は、琵琶湖で大学ヨット部のレースコーチをしていましたが、今週は3人乗りヨット・ドラゴン級のオータムレガッタに出場します。いつも10艇弱集まるのですが、4大学OB戦(慶応・早稲田・同志社・幹事校が母校KG)と日程がバッティングし、ドラゴンフリートの母校OBがレース運営やホストにまわり、2艇が不参加です。全日本から2週間後なのでクルーの手配がつかず、2艇が不参加で、4艇のレースになりました。
僕は、オーナーのS先輩が4大学戦で抜けるので、レースの方に参加です。朝風呂から上がり、神戸のホテルでの会合とお食事に行く家内のタイムスケジュールを聞きます。20時頃終了解散のようなので、お迎えに行くことにします。
7時前に、家内を駅まで送り、一旦自宅に戻り、ヨットの用意をして家を出ます。R171を西に走り、7:48ハーバー着。ディンギーヤード・ゲート横の駐車場で用意を下ろしていると、「すいません、どちらから入ればいいのでしょうか?」と聞かれました。4大学戦のために来られたのでしょう。「そこにゲートがあります。キーカードを持ってるので開けましょう」と歩いていくと、中から学生が開けてくれました。後輩が、要所に部員を配置して、ホスピタリティーがグッドです。
上架桟橋にレース艇を見に行き、準備万端整っているのを確認します。2日間レースの2日目なので、何もする必要がありません。係留桟橋の方に移動し、OB戦の観覧艇に使用するクルージング艇をチェックします。パルピットもドッグハウスも開いており、誰かが朝一て点検したのかも?誰か泊まったのかな?と思いドッグハウス内に声を掛けますが、返事がないのでそれはなさそう。
隣の桟橋に移動し、同じくこの日使う先輩達が運用してる船へ。N先輩が1人おにぎりを頬張っており、あ〜だこ〜だお喋り。途中で電話が入り、どうやらS先輩からのようです。N先輩がちゃんと来ているか確認したのでしょう。S先輩の代のI先輩がOB会長だから、ホスト役の中心で動いているはずです。
係留桟橋に戻ります。桟橋の下には独特の縞模様で一目瞭然の石鯛がたむろしています。ハーバー内は釣り禁止なので、安心して上に浮き、僕がじっと見つめても悠々と泳いでいます。
ここから長い待機が始まりました。OB戦のレース艇は、弱い風の中定刻に出ていきましたが、こちらは良い風を待って陸上待機です。琵琶湖チームに行っておしゃべりします。D社若手OBが2名乗っているので、1週間前の近畿北陸ブロックダントツ優勝におめでとうを言います。レース運営ボートに乗っていたそうです。
甲南大チームに行ってお喋り。オーナーは、以前から年賀状交換しているHさんです。クルーのSさんは、何と驚きのダカールラリー出場経験者で、トヨタ・ランドクルーザーを駆って優勝したんだとか・・・たまげました。治安の悪い危険地帯を走るラリー故、ルートを外れ不幸なことになった参加者のことや、プライベーターとファクトリーチームとの差など、知らない世界の話を聞くことが出来ました。
この話になったのは、「毎年チームで篠山に猪鍋を食いに行く」の話に、「僕も毎年家族で行きますよ」と言ったのがきっかけ。何処の店に行くの?との質問に、老舗のホテル経営のとこなど答えると、「僕らはいつも籠坊温泉に行く。飲み放題で7000円で安いんだ」と返って来ました。「篭坊温泉には、毎年6月にホタルを観に行くし、朝バイクで走るとき前をよく通ります」と言うと、「えっ、バイクに乗るの?僕ら近場だけど、ツーリングに行くよ。今度誘うわ。Sさんがリーダーだけど、パリダカ優勝してるんだよ」と、話が発展していきました。
11:30になり、マストトップの風見がSWに変わり、そよそよと風を感じるようになりました。しかしまだGOの合図が上がらず、12時を過ぎてセイルを上げ桟橋を離れます。レース海面は近く、13時スタート予想でレース海面に到着しましたが、安定した風にならず、まだスタート待ちです。OB戦が終了し、観覧船が近寄ってきました。「終わったよ〜」と船上の先輩から声がかかります。レース艇が横を通りハーバーバックしていきます。
レース予告信号が上がり、マニューバリングに入ります。西海面が良いと判断し、「本部船寄りスタート&即タックして西に行く」を決めて、13:30スタート。少し遅れましたが、思い通り一番本部船寄りからスタート出来ました。本部船をかわし「タックできます」と進言しましたが、スキッパーの判断はスタート前から変わり、「そのまま行く」。「なんで?」と思いながらも従います。
スピード負けしたJPN35が逃げタックし、僕らの後ろを抜けて西に行く。しばらく3艇でガチンコ・スピード勝負しながら走る。当初良いと判断していた西に行った35はタックし、いい登り角度のようです。「西がいいです」とタックを促す報告をしましたが、スキッパーは動かず、JPN33ガタックし、僕らの後ろを抜けていく。
先にスターボレグがあまり残っていないので、それを抑えてタックが常套手段ですが、それもなく、「西に行った2艇がいいです」ともう一度進言してもそのまま。正面に砂利船が見えてきてタック。最も早く西に行ったJPN35にはセーフティーリードをつけられました。
スターボレグが上ったので、風下マークへはポートロングなので、上マーク回航後即ジャイブが定番ですが、スピンポールが右に出ており、ジャイブが遅れ1艇に抜かれました。スピンを上げて安定して走り出す所で、スキッパーが他艇との得点計算をし始めました。「まだレース序盤なのに、僕らがトップ・フィニッシュを目指すだけなのに」とイライラします。レース前の作戦通り西に行っていれば、楽勝でダントツを走っていたはずです。「黙れ」と言いたかったけど、チームの雰囲気を崩したらダメなので、黙ってスピン操作をします。
下マークを3番で回航。南から下マークにアプローチしたJPN28がかなり追いついたので、次の上マークへのコースは西ではなく南がいいように思い、タックして南へ。このレグで、4番の28にスピード負けしました。でも西に行った2艇に追いつき、上マーク最終アプローチは2艇の前でした。ここで、潮の流れがあるから、「足らない目で取って」と言われ、常套なら後続艇を邪魔するように、前でタックですが、下タックしました。
短い最終アプローチは、少しオーバーセイルが正解です。1艇身オーバーでもベアしてスピードが上がるので、それほどマイナスではありません。結局、無理して上って、2艇に抜かれビリになっちゃった。
スピンポールを入れ替えていたので、即ジャイブでしたが、より早くジャイブした3位JPN35の土手っ腹に突っ込む感じになり、あわてて「上れ」と叫び、スキッパーが即座に反応し、大惨事は免れました。
ジャイブしてスピンランで追いつき、サイド・バイ・サイドになりました。「うちの方がスピードがあるので、このまま行けば勝てる」と黙々とスピン操作していたら、「上に行くよ」とスキッパーが、なんと相手艇に声を掛けます。相手艇もうちのスキッパーと同じ甲南大出だけど、レース中にわざわざうちの作戦を伝える必要は無いでしょう。呆れてしまいました。
当然うちに風を取られまいと、カバーしてきて、更に2位と離れます。もう一度同じことをして、もう2位には追いつけそうもなく、僕の心は3位狙いに変わりました。フィニッシュにはジャイブが1回必要なので、右を守り、できるだけジャイブを遅らせたらうちの勝ちです。
そう進言したのに、またブランケットして左に出てしまいました。こうなれば、早めにジャイブして、ルールで相手艇を上らせ、マークの内側で先にフィニッシュすればいいです。リードを保ったままフィニッシングラインが近づいて来たのに、突然わざわざ相手艇の後ろに回ってしまいました。フィニッシュは目の前なのに、相手艇の風を奪ってもレグがないので勝てません。4位フィニッシュ。
いつもならこんな焦った操船をしないのに、この日はレースに勝つ常套手段を外し、ストラテジー重視ではなく、タクティクスで目の前に1艇のみにしか目が行っていない感じがしました。僕とのコンビネーションは最悪でした。僕が何度も進言したのを無視されイライラしてるのをミドルクルーのHさんが感じており、「わかってないわ。人の意見は聞かへん人やから」と笑っています。僕も大学は違えど、ヨットの10年先輩のOスキッパーに意見しようなんて思っていません。あくまで、遊びですから・・・
馬鹿話しながらハーバーバックし、レース艇を洗って片付けます。オーナーのS先輩がやってきました。OB戦は終了し解散したそうです。係留艇の台風対策をS先輩に聞きます。台風対策は、何となく後輩の僕がするのが暗黙の了解になっています。「やったよ。慶応さんを多く乗せたから、手伝ってもらったよ」。ドラゴンの台風対策もして終了です。
駐車場に移動し、着替えて16時からの閉会式に向かいます。年間ポイントレースではなく、2日間の独立したレースなので、表彰式があります。ヨットクラブ3Fで集まり、あ〜だこ〜だ。運営で本部船に乗っていた白人のSさんがやってきたので、ドラゴンに乗らないかとOさんが誘います。
快速ツインラダーのミニトランザット級に乗っておられ、関空で18ノットを記録したとのこと。シングルハンドで、フランス〜ブラジルの大西洋横断レースで使う艇です。日本人にはない冒険心とスピード狂が、白人には備わっています。日本人の奥さんもお嬢さんも綺麗で、スマホで見せてくれました。
ざっくばらんの表彰式で、うちはビリの4位。一昨年は優勝したし、今年も優勝は目の前でした。その後もあ〜だこ〜だおしゃべりし、4:30頃解散しました。車に戻ろうと駐車場を歩いていると、日本一のスーパーカー・日産GTRが2台並んで駐車されており、カメラマンが撮影していました。
バナナを1本食べ、ハーバーを後にします。7:48〜17:07新西宮ヨットハーバー900円。R43を神戸に向かいます。メリケン波止場に車を入れ、暗くなりいい感じになってきた神戸港を写真に収めます。カワサキワールドのバックに、2年前に甥が結婚式を挙げたホテルオオクラの高層ビル。対岸にモザイクと観覧車。神戸港クルージングの帆船スタイル観光船にも電飾が入っています。
家内のお食事宴会終了予定の20時まで、ホテルでお茶しながら待とうと思い、ホテルの駐車場に車を入れます。大阪湾クルーズ船・ルミナス神戸のターミナルが2Fにあり、チケット売り場を見たり、暮れゆく夜景を見たりして、3Fのホテルロビーに上がる。バイキングレストラン(大人4000円)が流行っており、喫茶のお店もありましたが、ロビーに併設したオープン・カフェではなく、お店自体の証明も暗く、入りにくくてやめて、ロビーのソファーで佇んでいました。
19時前になったので、4Fの宴会場フロアに上がり、ロビー階の外に出ようとすると、観光バスが着いて中国人団体さんが大勢降りてきました。ホテルの表示に中国語が目立っていたので、中国人団体さん御用達のホテルなのかもしれません。外で夜景を見ていました。
するとポケットの電話が鳴り、家内から「今何処にいるの?」「ロビーにいる」と答えながらロビーに戻ろうと歩きだすと、「ああ見つけた」と目の前で手を振っていました。「駐車券に判子押してもらってくるね」。待つ間、売店を物色しましたが、これといったものはありませんでした。
2人で夜景を楽しもうと外に出て、「夜景見た?」「うん、4階から見たよ。1階違うと随分違う」と。駐車場に戻り、R43を自宅に向かいます。家内は饒舌になっていました。普段は大人しいのですが、楽しいと饒舌になります。楽しかったようです。お洒落した女性は、見ているだけで素敵です。
21時前に帰宅し、1日が終わりました。

2016/9/25
1週間前は、3人乗りヨットの全日本に出場しましたが、今週はコーチしてる大学ヨット部の近畿北陸ブロック団体選手権です。このレースで上位3校に入らなければ、全日本への出場権を得られず、4回生は引退・代交代になります。このチームを、1ヶ月後の全日本選手権まで伸ばすため、3位は死守したいレースです。週末3日間のレースですが、初日は風がなくノーレースになってしまいました。少ないレースではマグレがあるので、当方としてはできるだけ多くレースをしてもらいたい。
2日目の土曜日は、軽風ながら5レース消化し、両クラスとも2位に着けています。全日本優勝最多のD社は、圧倒的な強さで離されています。でも、スポーツセレクションのない当方としては、他のスポーツセレクション有りチームをしのぎ善戦しています。
できるだけ早く起き、近江の史跡を巡ってから、出艇8時の1時間前の7時頃ハーバー着を考えていましたが、目を覚ましたら5時になっていました。史跡探索は諦め、ゆっくり用意し、6時前に「招き猫CB400SB」を出して琵琶湖に向かいます。6:04「中環豊中エネオスSS」で給油。282km/10.47L=26.9km/L。 すぐ隣のコンビニに移動し、6:10「豊中少路1丁目セブンイレブン」で、プレミアムバナナ213円購入し、朝食・昼食を確保しました。飲み物は、自宅冷蔵庫にあったペットボトルお茶を持ってきています。仕事で会合などに出席すると、こういうのが貯まります。適当に消費しなくちゃね。
史跡探索を諦めたので時間に余裕があり、いつもの中国道豊中ICはパスし、名神吹田ICから高速道路に乗ります。80〜85km/hの定番速度で走り、桂川PAでトイレ休憩です。バイク置き場に数台停まっていたので、バイクが停まってたゼブラゾーンに停めました。トイレから戻ると、お隣さんは僕と同じCB400で、女性ライダーでした。旦那さんと2人で走っておられるようで、同じ形で少し大きそうだから、CB1300かもしれません。
会釈して僕が先に出ていくと、追いかけるように出てきて、本線に入った僕を、+10km/hほどのスピードで抜いて行かれました。女性なので凄いなと思いながら後ろ姿を見送りました。アップダウンを繰り返し京都東ICまで走りましたが、いつの間にか追いついてしまい。3台でのツーリングみたいになりました。
琵琶湖に行くのかな?と京都東IC下車を願いましたが、そこでは降りずに東に向かわれ、お別れしました。湖西道路に乗り、いつものように7時頃ハーバーに着きました。
ヘルメットをバイクに着け、早速大会本部に公式掲示板を見に行きます。特にルール変更はなさそう。当方のクラブの女子マネージャーが、大会本部で頑張っていました。着順を見ると、D社が席巻しており、このまま2位で全日本に行ければいいなと、艇庫前に行きます。
みんな元気そうです。キャプテンに、流れを聞き、主だった選手に声を掛け様子を聞きます。コーチボートに行き、バイク装束を脱ぎ、バナナ1本を朝食にします。艇庫前に戻ると、次男と同期のI監督と同じくコーチのS君がいます。
レース前ブリーフィングがあり、1レース3艇合計25点以内、失格などの英語を叩かないようスタートでラインを攻めすぎないようにアドバイスする。レース最終日は、一か八か掛けてくるチームが有り、それに釣られてのフライングが要注意です。
定刻の8時になり、ホーンとともにフラッグが上がり、470級から一斉に湖面にレース艇が降ろされ出艇して行きます。コーチボートに乗っていましたが、後ろの桟橋にはマネージャーや後輩部員が並び、レース艇に乗るレギュラーメンバーの名前を叫び、「フレーフレー」と応援します。各校同じようなもので、応援でも負けじとお祭りのようになっています。自分の名前にエールが送られ、レース艇の上に立ち上がり、帽子を取って「ありがとうございました」の返礼です。僕は、体育会的なこの光景がとても好きです。
続いてS級もホーンとともに一斉にレース海面に向かっていきます。エールを終えた部員が、一部はレース運営に、一部は2艇の観覧船に、交代メンバーはコーチボートに乗り、それぞれの持場に散っていきます。
I監督・Sコーチとともにコーチボートでレース艇を追いかけます。各校のレース艇が一斉にレース海面目指して走る姿のバックに比叡山があり、美しい琵琶湖の朝です。
北からの風が入り、軽風ながらブローが琵琶湖大橋まで続いており、安定したレースになりそう。「お孫さん、おめでとうございます」とI君・Sくんから。次男に初めての子がこの夏に誕生したことを当然知っています。Sくんにも3人目の子が宿ったようで、また女の子かも?って言ってました。次男の結婚式に家族で来てくれ、お子さんたちにも会いました。落ち着いた女の子で、長男の孫くんの行動力との違いを感じました。奥さんは元このクラブの同期マネージャーなので、結婚式でお祝いのスピーチをさせていただきました。
本日の第1レース(通算第6レース)がスタートし、接戦の470は3位金沢と相変わらず接戦ですが、4位とは少し差が広がったようです。S級は好調で、トップとの差を縮めました。第7レースもいい感じで始まりましたが、コミッティーからの無線で当方の1艇がフライングで失格になったようです。そのままレースは続き、着順は順調でしたが、3回生のエース艇に朝注意した英語(失格)が付き、4位に転落してしまいました。
2回生のスタンバイメンバー2人に、レース前「どっちの海面を選択する?」に始まって、レース展開を見ながら、「ここで何故タックするか?なぜタックしないか」、「上マークまでの有利海面を見て、次の下マークに向かう有利海面を予想する風の見方」など、フリートレースでの勝利のセオリーを伝授する。練習で感じた基本動作で出来ていないことも伝える。自然にスタンバイメンバーが耳を傾け、一緒にレース展開を見る。
上位フィニッシュで意気揚々とコーチボートに戻ってきた失格艇に現実を伝えます。合わせて、総合順位と点差も伝えます。みんなに申し訳ないと、がっくり首をうなだれます。続いて戻ってきたチーフ艇にも、同じことを伝え、こちらも生気を失った顔になりました。
13:30を回って新たなスタートは切らないと決められていますが、時間的にはまだ2〜3レースできます。ボートスピードでは負けていないこと、2レースあれば十分逆転可能であること、済んだことを忘れ新たなレースに臨むことを伝え、レース海面に戻します。
メンタル面が心配ですが、切り替えてやってくれるものと思いながら、スタンバイメンバーを用意します。リーダー艇を見ていた監督が決断し、「よし行くぞ」とスタンバイの本来4番艇の2回生ペアに声を掛け、ドライブするマネージャーに、「全速でリーダー艇に向かえ」と指示。見ていなかったけど、リーダー艇から交代のサインが出たのかもしれない。
レギュラー2人がレース艇から降り、2回生スタンバイがレース艇に乗り込む。その時スタート5分前号砲が鳴り、選手と接触出来、レース海面から離れる4分前まであと1分しかありません。全速でスタートラインから遠ざかります。次のスタートのカウントダウンが始まり、スタートを見つめます。
レースが始まりレース展開を見ながら、リーダーとそのクルーの様子を見ます。リーダーは船の前でうつ向いたまま、自分の気持ちを整えているようで、誰も声を掛けない。クルーは、自分のコース引きがうまく行かず、エース艇の成績を残して来なかったのが、現在のピンチを招いたと自分を攻めているようで、ドライブ席の横にうずくまり涙を流している。これも彼なりの気持ちの切り替えでしょう。そっとしておきます。
急遽レースに抜擢したサブメンバー艇が、第1上マークを上位回航し意気が揚がります。リーダーの顔が前を向いてきたので、話に行きます。「たぶん次のレースが最終で、イチかバチかを狙ってくるライバル校からの攻撃に2回生では経験不足なので僕が行きます。ただ2人のコースがチグハグなので、クルーを交代します。すいませんが、観覧船に乗ってるYを呼んでください」との力強い言葉が帰ってきました。監督が、「観覧船に急げ」と指示。
観覧船からYをこちらに乗せ、リーダーと話しています。「今日の風はどう見える」の答えに納得し、「俺は今日コースが見えない。お前にコースを全面的に任せるので俺はボートスピードに集中する」と即席ペアの役割分担を明確にしていた。出番はないと思っていた5番艇2回生クルーY君が、レース装束に身を包んでいく。
レース展開は当方に味方し、失格を食らった3回生エースが汚名挽回し、サブもスーパーサブの順位で帰ってきて、このレースで再逆転しました。時間的にあと2レースは無理そうで、次が最終レースになりそう。フィニッシュ後戻ってきたレース艇に、得点を伝え、スーパーサブが上がり、リーダーと2回生クルーが乗り込んだ。泣いても笑っても最後のレースです。再逆転したとは言え、点差はほとんどなく、このレースに勝った方が全日本への最後の切符を手に入れます。S級は、快調に飛ばし、3位のとの差をぐんぐん拡げ、もう安泰です。こちらも大会直前に抜擢された5番艇の2回生コンビがレギュラーで乗っていました。この艇をS級リーダーコンビにチェンジです。S級はこのリーダーがチームを引っ張ってきましたが、大会前に絶不調におちいり、出番になった4番艇2回生コンビの艇長が、なんと大会前日の練習で肩を脱臼してしまいました。
大抜擢の2回生コンビが、予想以上に走り、大きなアドバンテージを作りました。上がってきた2回生4人は、良い成績でクラブに貢献し、ハイテンションです。満面の笑みで、最終レースに向かう6艇のレース艇にプラスのオーラを送ります。それに釣られたのか、470リーダー艇クルー君2回生も復活し、それを見て僕の双眼鏡を彼に預け、「何処に当方がいるか報告してくれ」と仕事を与えます。自分の中で気持ちの整理ができたような表情です。
最終レースは、両クラスのリーダー艇がしっかり走り好成績でフィニッシュしました。点数計算するまでもなく、両クラス全日本へ駒を進めることが出来ました。自分の代わりに出た同じ2回生を「頼む、やってくれ」と祈るように見ていたクルー君に、「良かったな、やってくれたな。でもお前が2回生クルーのリーダーとして引っ張ってきたからだぞ、自信を持って。おめでとう」と肩を抱くと、「ありがとうございます」と思いっきり涙が溢れてきやがった。
フィニッシュ後、両手を突き上げているレースメンバーに向かって、コーチボートから自然に拍手が湧きます。ハーバーに戻ったキャプテンに、「おめでとう」と握手を求めると、「ありがとうございます。最終レースは、どうしても両クラス全員で全日本に行きたくて、470のレース展開ばかり見ていました」なんて言っています。
選手やマネージャー、応援にやってきた多くのOB・OGと握手しながら、「青春してるなあ」と羨ましくなりました。感動屋の僕なのに、次のことにばかり気が行き今を感動出来なくなっているのかも・・・。
ハーバーに戻り、ブリーフィングです。まず「おめでとう」と言い、朝話した「25点以内、失格しない」を毎レース余裕でクリアし、おまけまで積んだS級と、達成できなかった470の苦戦のことを、次の全日本への教訓にしようと話しました。
船を片付け、着替えて閉会式です。クラス別は2位と3位で、総合は2位。艇庫の階段に上り、高い位置から眺めていました。
合宿所に戻り、OB・OGによる祝勝会の準備が始まりました。台所には、OGマネばかりで、現役マネはお客さん状態です。「N写真館」とあだ名された今春学部を卒業したN君が、僕の撮った写真をせがみます。祝勝会のバックにスライドショーで、彼の撮った写真に加え流すそうです。
今春卒業OBの司会で、祝勝会が始まりました。僕の母校も同じ日程で地区予選が行われており、結果を見るまでもなく圧勝しているでしょう。D社同様、全国制覇常連強豪校なので、文字通り優勝祝勝会をします、でも本番は全日本なので、地区予選は勝って当たり前と思っています。でもコーチしてる学校は、スポーツセレクションはなく、優秀なリクルーターもシステマチックなコーチ人もおらず、手作り感が素敵です。
僕が大学生の頃は、スポーツセレクションなどなく、初心者で入部してくる学生が、4年間でぐんぐん成長していく姿がありました。僕はそんなアマチュアな学生スポーツが肌に合うので、このクラブに関わる事ができている今がとても楽しい。
結果オーライで、失格を叩いて落ち込んだ3年生エースも立ち直り笑顔です。キャプテンの挨拶・乾杯の音頭で、お寿司とビール・ソフトドリンクがどんどん消費されて行きます。僕が帰ると言ってた1時間ほどして、僕にコメントを求められました。まず「おめでとう」。今日の劇的な再逆転を演出した裏ヒーローの3回生エースを持ち上げ、スーパーサブの役割を果たした2回生を褒めちぎり、そんな感動を身近で味あわせてくれたみんなに感謝しました。生涯続く仲間を得た幸せはこのクラブからで、延々80年もバトンタッチしながら続けてくれた先輩に感謝です。このチームは、あと1ヶ月。更に努力し、自分たちのつけて来た実力を、全日本で見せようとみんなを鼓舞して挨拶を終えました。
みんなの笑顔が弾け、あまりに楽しく、現キャプテン・次期キャプテン・470リーダーなどの話が続き、1時間で帰るのを止めました。司会者のもとへ行き、「今日のヒーロー2回生たちに喋らせようよ」と提案しました。下準備が成ったようで、しばらくして司会者から、「では・・君・・君・・・」と2回生が呼ばれ、大笑いのスピーチ。
大先輩・Mさんのスピーチ。最後に4回生全員からスピーチ、締めはキャプテンです。そしてエール。応援歌とクラブ歌:琵琶湖周航の歌を、円陣になり肩を組み合唱し祝勝会が終わりました。
アルコールの入った部員は、そのままここに泊まるものもいるだろうし、帰っていく者もいるだろう。僕は、プロテクターメッシュ上下を着込み、合宿所を後にしました。湖西道路〜名神で、21:00「桂川PA」。毎度の「びっくりソフトバニラ・140円」で糖分補給し、帰宅しました。
既に家内は夢の中で、片付け風呂に入り、1日を終えました。楽しい日になりました。

2016/9/18
3人乗りヨットの全日本2日目です。当初、僕はメンバーから外れ、コーチしてる大学ヨット部のコーチング日でしたが、数日前にうちのレース艇の艇長であるS先輩から、「Iんとこのメンバーが足らんのや、ヘルプできひんかなあ」と連絡がありました。Iさんも母校ヨット部の先輩で、僕が1回生の時のキャプテン・Sさんと同期で、470チームのエースでした。Iさんのコンビを組んでいたのがKさんで、Iさん卒業後、Kさんと僕がコンビを組みました。つまり僕の直系の先輩です。プレオリンピックに出場したIさんの技術が、Kさん・僕に伝わり、Kさんも僕も学生ナンバーワンと言われるほどに成長しました。
その次の週は、インカレ団体戦予選で、レース前最後のコーチングで重要ですが、S先輩からの頼みは断れない。結局、コーチングの方をキャンセルし、全日本を優先しました。
10時スタートなので、9時出艇だから、8時に着けばいいなと、7:30自宅出発予定でした。神戸空港沖の天気予報は、雨とSW6m/sです。18:30からパーティーがあり、ドレスコードがジャケット・ネクタイです。着替えを置いておく所がないので、いつもの通勤リード110を止め、車で行くことにしました。風呂に入ったり、あれこれ用意していたら、7時になってしまい、慌てて出発しました。車は信号待ちで前に出れないので、どうしても遅く時間が掛かります。
R171を南西に向かい、武庫川甲武橋を過ぎた所で、帽子とグローブを忘れたことに気づきました。多分、波が大きく、8m/sぐらいまで風は上がり、ハードなレースが予想されます。セイリンググローブがないと辛いし、バウ(舳先)で切った波を被るので、帽子がないのも辛い。
8:30には間に合うので、Uターンして自宅に戻りました。このロスで、7:40到着予定が、8:30到着になってしましました。駐車場に車を入れると、チームを組んでるOさんとHさんが車から出てきました。3日間レースの中日なので、初日のレース後桟橋に係留されているので、準備の必要はなく、セイルを上げて出るだけです。
小雨が降っており、車の中でスプレージャケット・パンツを履きます。その下は、ラッスガードと短パンです。カッパは暑いので、夏場の濡れるレースは、このスタイルが快適です。
セキュリティーカードでハーバーに入り、小走りに係留桟橋に向かうと、IさんとO君が来ていました。「すいません、社長出勤になってしまいました」「お〜、すまんなあ」。O君は、出身大学の後輩で、次男より少し下の20代です。ジュニアヨット出身で、僕が理事をしていた頃の選手です。ジュニア繋がりで、親御さんとも面識があり、和気藹々とセイルを上げ、出艇しました。
Iさんのメンバーは、オーナーが体調不良で入院してしまい、もう一人も怪我で入院中でピンチでした。O君は、葉山で同時開催中の全日本女子インカレのコーチで行く予定だったそうですが、誰かに変わってもらったのでしょう。
このヨットには数回しか乗ったことがないO君がヘルムスマンで、Iさんがミドルで、僕がバウクルーです。学連ヨット部出身者なら、船は変われど、ヘルムスマンという舵・メインセイル担当は出来ます。数年前の全日本インカレ個人戦優勝ヘルムスマンなので、安心して舵を任せられます。コントロールロープが多く、そのリードも様々なので、クルーの方が熟練を要します。僕も、最初にこの船に乗り出した時は、「おまえは、ヘルムスマンしかできへんから」と、そのポジションでした。
レース海面に向かいながら、あれやこれやお喋りしました。Iさんは数カ月に一度、職人さんを連れての技術指導で、タイの提携会社に行ってるそうで、数年前の日系企業も大被害を受けた洪水の時も、タイにいたそうです。
レース海面に到着したら、9:55。すぐにレーススタート予告信号が上がり、この日の第1レース(第3レース)のスタートです。遅れ上一の位置からのスタートでしたが、滑りが良く、右に少しづつ風が振れたのも幸いし、ビリ11位スタートだったのに、上位に上がっていきます。
僕らのアスターンを、2艇が切って右に出ていきます。左集団の先行トップ艇がタックし、僕らのバウを切って行きます。僕はここで下タックして、良い風の右海面に行くことを提案しますが、左のブローを待つことになりそのまま。緩いブローが入り、リーバウ3艇がタックしてきたので、その前でタックします。右海面がブローが第1上マークまで続き、僕らの後ろを抜けていった艇に1艇抜かれ、3位回航。
ここまではまあ良かったのですが、この船が初めての僕と、いつもヘルムスマンとして乗ってるので、ミドルクルーが初めてのIさんとのコンビがうまく行かず、下マークでバタバタしてしまい5位に順位を落とします。
右海面が良かったので、そちら行きたかったが、走りづらいポジションだったので、タックして左に出しました。先行艇の影響の少ないポジションでタックし、右に向かおうと提案するが、そのまま左に出し、第2上マークでは7位までダウンしてしまいました。フィニッシュまで2艇抜いて5位フィニッシュ。
初日第1レースは、リコール(フライングスタート)で失格。第2レースは、下マークで失敗し、リタイヤしたので、不本意ながらも、着順が初めてついてメデタシメデタシ。
昼食中、六甲山から神戸にかけての空に雲が現れ、西(右)から8m/sほどのブローが入ってきます。これはもろわかりの右海面有利でした。その雲が上空を流れていき、次に西の神戸方面が厚い雲の下で霞み始めました。雨が降っていますね。その雲が上空に来て、雨が加わりました。
本日の第2レース(第4レース)です。再び西からブローを伴った雲が流れてくると考え、上一即タックの作戦を立てました。作戦通りのスタートで、西(右)海面に先行して出ます。しかし西からのブローが入らず、左海面の方が良いです。最後まで我慢して右で粘りますが、結局ブローは降りてこず、ビリ3(9位)で回航。
下マークで1艇抜いて、次の上りレグで、もう一度西に向かい、滑りのスピードと上り角度で先行艇を数艇抜き、6位フィニッシュ。4レース総合でも、ビリ(11位)から、3つ4つ上がったかな?
O君のヘルムスを見ていて、「さすがジュニア上がり」と感じる所が多々ありました。落ち着いており、安心して乗っていられます。クローズが安定し、上り重視とスピード重視の切り替えが明確です。「上手いなあ」と思いました。
2レース終了で、まだ13時前です。1日2レースの帆走指示書なので、これで本日はお終いです。尼崎西宮港沖一文字防波堤外なので、波が大きく疲れました。あ〜だこ〜だ笑いながら、ハーバーバックです。
桟橋に戻り、セイルを巻いて、桟橋で昼食の続きです。パーティーまで時間があるので、一旦自宅に帰ることにしました。14時にハーバーから出て、R171で帰宅。家内がおり、ヨットの道具を片付け、風呂に入り、翌日朝に予定しているお彼岸お墓参り用のお花を2人で買いに行きます。
帰宅後、17時出発と家内に次の予定を告げ、昼寝します。17時前に家内に起こされ、用意開始です。ジャケット&ネクタイに着替え、出発。「神戸ベイシェラトンホテル」が会場です。ハーバーランドの方だと思っていたら、六甲アイランドにありました。18時前に到着し、場所がわからないのでフロントで聞こうと順番を待ってると、ライバルSさんが僕の大学ヨット部後輩のクルーと共に現れ、3Fだと教えてもらいました。
宴会場に入ると、Iさん・O君・Mさんがいます。隣の席に座ると、別の席に座っていたS先輩・Oさん・Hさんの通常の僕のチームメンバーも移ってきました。この3人に加え、Mさん・僕の5人でチームを組んでいます。このテーブルは、2チーム合同テーブルになりました。
後輩で、現在トップのヨット部後輩が司会でパーティーが始まり、ヨットクラブ副会長さんの音頭で乾杯。コース料理が進みます。
1週間前、次男が頼んでコーチしてもらったIくん・Hくんの東京オリンピック代表狙いコンビのスポンサーは、Mさんの会社がしているので、そのことを話します。
3人乗りヨットのこのクラス会長は、江ノ島ジュニアジョットクラブの会長さんでもあります。年賀状のやり取りをしているので、声を掛けます。奥さんとおそろいの法被を着られています。奥さんは有名な同時通訳者で、TVニュース番組にもよく出ておられました。もともと江ノ島ジュニアの世話をされていましたが、日本最強最大ヨットクラブ内でのルール違反・勝利至上主義からの脱却で代表になられました。現在は、「勝利」という言葉さえ使わないように指導されているそうです。
僕も理事を辞めたのは、行き過ぎたスポーツ優先に異議があったからで、全日本4日間を、祝日の絡まないより選手に学校を休むことになる日程にしたりしたからです。大反対キャンペーンを張ると、学業重視の親の賛同が増え、臨時総会が開かれ、以前の学業重視に戻りました。僕は、混乱の責任を取り自ら身を引きましたが、実質を取れたので大満足でした。
息子もそうでしたが、難関中学・高校受験合格を目指し、学業も頑張ってる選手をナショナルチームから排除されてしまうシステムは、義務教育の選手オンリーのジュニアスポーツには馴染まないと思います。スポーツバカにはなってほしくないです。
浜名湖ジュニア出身のO君を紹介し、顔つなぎをします。若いヨット乗りを新しいステージに上げてあげるのは、親世代の努めです。
2時間、20:30過ぎにお開きになり、記念にホテル内と玄関の写真を撮ります。21時過ぎに帰宅し、家内の部屋が閉まり寝ているようなので、そっと片付け、ヨーグルトを持って寝室に上がりました。
TVを点けると、孫の遼くんお気に入りのティラノザウルスをやっており、最後まで見てしまいました。ティラノザウルスを知ったのは、子供の頃の小さな恐竜ブームの時ですが、その他多くの恐竜の1つでした。最も強く凶暴な肉食恐竜というだけの認識でした。
中学?高校生になり、「T・レックス」というイギリスのロックバンドが好きになり、「ティラノザウルス・レックス」の略だと知った時から、深く認識されるようになりました。凶暴な悪役だけど、無くてはならない恐竜です。

2016/9/11
2日前の金曜日に続き、琵琶湖での大学ヨット部コーチングです。金曜日同様バイクで行きたいところですが、車で向かいます。その大学OBの次男が招聘した日本のトップレーサー2人を迎えた3日間コーチングの最終日なので、駅へ送ることを考えました。
4:30に目覚めたので、8時出艇には早すぎますが、5:00に出発します。「街道をゆく・叡山の諸道/司馬遼太郎」を読み終えたところなので、坂本の「滋賀院門跡」に歴代延暦寺座主の墓石を訪ねようと考えました。早朝から、門が開いてるかな?クローズなら、金曜日に訪問した「西教寺」に不断念仏を聞きに行きます。中国道・池田IC〜名神高速・京都東IC、湖西道路・西大津バイパスに乗り、「下阪本ランプ」下車。側道を走り、「JR坂本駅」を西へr316に入ります。朝食用にバナナを買おうと、セブン-イレブンに入りましたが、バナナを売っていないようです。コンビニは、どこでも売ってると思ってた。
「京阪・坂本駅」横を通過し、坂本僧坊群中心地に入り、「観光駐車場」の案内に従ってr47を北に入るが、遠そうなのでパス。坂本ケーブル近くに観光駐車場があったのを思い出し、r47を逆に南に向かい、6:01坂本ケーブル分岐を過ぎたとこにある無料駐車場に車を置きます。
「滋賀院」の案内板に従って、東に沢沿いを下ります。西の山側は、比叡山高校です。甲子園の高校野球にも出場する強豪です。案内板に従って道なりに歩くと、6:03歴代座主の墓石・無縫塔が並ぶ墓地が見つかりました。
室町幕府成立の戦記「太平記」の準主役「大塔宮」は、比叡山延暦寺の座主でした。彼は、後醍醐天皇の皇子であったように、歴代座主は天皇の皇子や有力公家の子が就任する門跡寺院です。
「紫式部之塔」「和泉式部之塔」「清少納言之塔」が並んでおり、どういう縁でここに供養塔が立ったのか知りたくなりました。歴代座主の墓石は、無縫塔の形のものは少なく、五輪塔の形のものが多かった。
1つ1つ見ていくと、「慈願大師」の無縫塔があった。慈眼大師は、怪僧・南光坊天海のことで、家康側近として仕え、政権アドバイザーとして、徳川政権黎明期に大きな力を振るいました。「大坂夏の陣」で豊臣家を滅ぼす理由とされた「方広寺の鐘」に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、徳川家に災いをもたらすとアドバイスしたと伝えられ、家康を祀る東照宮を造った人物です。
僕の最も好きなエピソードは、「僧天海は、実は明智光秀だった」説で、織田信長によって京で討つ手はずだった明智光秀軍が、本能寺の信長宿舎を急襲し、嫡男信忠ともども葬った。堺から急遽本拠地・三河に戻った家康は、間に合わなかったが秀吉に対抗しようと兵を挙げました。嫡孫・家光の乳母・教育係として、光秀の片腕・斎藤利三の娘・春日局お福を抜擢し、日光東照宮には明智家の家紋・桔梗紋があしらわれている。明智平の命名も天海だ。など、それを裏付ける逸話に事欠かない。
『阿弥陀如来石像(室町時代) 近江観音寺城主・六角承禎が母の菩提のために郷里・近江鵜川の地に阿弥陀石仏48体を奉安し、そのうち13体を江戸初期、天海大僧正が当地に移した』
その横の方形の僧坊に回ると、滋賀院案内板は、更に下を示している。ここは滋賀院ではなかったのかと、石灯籠が並ぶ方形僧坊に近づくと、慈眼堂でした。『慈眼大師・南光坊天海大僧正の廟である。徳川家康・秀忠・家光三代将軍に、幕府顧問として遇され、元亀の兵火で全山焦土と化した比叡山の復興に尽力した。寛永20年、家光の命により建立された。慶安元年、大師号の宣下を受ける』
滋賀院案内板に従って下ると、「天台宗務庁」があった。全国の天台宗の総元締めですね。正面横に小ぶりな宗祖・伝教大師像が立ち、『一隅を照らす、是れ即ち、国の宝なり』の有名な一節が、石碑に刻まれ解説されていた。
その横が、いよいよ滋賀院門跡です。西・琵琶湖に向かって、檜皮葺の小ぶりだが雰囲気の良い唐破風の門がある。車止めがされており、日頃は使われていなさそう。案内はなかったが、勅使門かもしれない。
『滋賀院門跡 元和元年(1615)、慈眼大師天海(1536〜1642)が、後陽成上皇より法勝寺(京都北白川にあり、六勝寺の1つで、歴代天皇にご受戒する寺として、四箇戒場の1つ)を下賜され、この地に移築された。明暦元年(1655)後水尾天皇より滋賀院の号と寺領1000石を賜り、江戸時代末まで、天台座主であった法親王が代々住まっておられた。
外観は、堂々たる穴太衆積みの石垣に白壁が続いており、滋賀院御殿と言われた名に恥じない異様を見せている。御殿は、明治11年(1878)11月の火災で灰となったが、現在の建物は山上より3塔それぞれ最高の建築を移築したもの』
庭園・襖絵・仏殿・涅槃図・隠し絵襖・徳川家光拝領鎧などが紹介されているが、拝観時間前なので入れない。
東側に門を出ると、穴太積みと白壁が続く姿があった。東の琵琶湖に向かって、敷石坂がまっすぐ続いている。
石壁に沿って、南に進み、東西の緩やかな坂戸の交差点を、西に登る。天台宗務庁裏側、叡山学院寮、叡山高等学校山家寮、琵琶湖病院、叡山幼稚園と続いていた。坂の下・東を振り返ると、琵琶湖が広がっていた。
r47に戻り、すぐ北に車を停めた駐車場が見える。r47を西に渡って、長い階段を登っていく。石鳥居が階段をまたいで建っているが、更に階段が登っています。朝のお散歩のお父さんと挨拶。
やっと上まで上がれました。r47から3分。『日吉大社・末社・東照宮3棟 桁行3間・梁間3間・一重・入母屋造・銅瓦葺の本殿と、その前面にある桁行5間・梁間2間・一重・入母屋造・銅瓦葺の拝殿とが、桁行3間・梁間1間・一重・両下造(まやつくり)・銅瓦葺の石の間(相の間)によって繋がれた建物で、権現造という形式の典型です。この社殿は、日光東照宮に先立って、寛永11年(1634)天海僧正によって営まれたもので、前面の向背には、軒唐破風がつき、その後方に千鳥破風がつき、蟇股の彫刻は精巧にできています。また内外とも装飾が華やかで美しい。正面入口の四脚唐門と周囲に巡らされた透塀(すかしべい)も美しく、社殿とよく調和しています。大正6年(1917)4月に、国の重要文化財となりました』
『日吉東照宮 ご祭神:徳川家康公・日吉大神 創建:元和9年(1623)その後再建着工寛永11年(1634)正遷座(現社殿) ご利益:出世開運・武芸上達 天海上人が唱えた山王一実神道により、権現造りの社殿が当面して建てられ、薬師如来(本地仏)を祀る本地堂も、石階段下北東の地に造営されました』
まだ彩色が鮮やかに残り、隙間を通して垣間見える社殿も美しい。拝観料払っても、見てみたい社殿でした。
階段を下りだすと、寮から出てきた野球部の部員が、歩いて上がってきます。「おはようございます」と挨拶して、社殿横から比叡山高校野球部グランドの方に歩いていきます。グランドからは、元気の良い練習の声が聞こえています。自宅から離れ、寮生活しながら野球に打ち込んでいるのでしょう。
車に戻り、r47〜r316でJR坂本駅も通りすぎて東に下り、R161に出て南下します。途中のコンビニによるが、バナナはありません。6:48「坂本城址」。湖底にまだ石垣の一部が遺っているらしいので、湖岸まで歩いたが、バス釣りグループがいるだけでした。唐崎にかけての砂浜の湖岸線が美しく、遠くに大津プリンスホテルも見える。
『天下統一を目指し、戦国時代を疾風のごとく駆け抜けた織田信長は、元亀2年(1571)比叡山延暦寺を焼き討ちすると、最も信頼する家臣の1人である明智光秀を、京都を要する西近江の要衝・坂本に封じた。築城の名手である光秀は、翌元亀3年、本公園の北方300mの湖岸に、安土城に次いで日本第2の名城と謳われた坂本城を築城した。姫路城のように、大天守と小天守があり、城郭の範囲は、日吉山祭の呼び物の1つ、船渡御の神事が行われる七本柳にまで及んでいた。なお今も、城・城畔・御馬ヤシキなどの字名が残っている』
城域地図を見ると、ここ城址公園は、城域から外れた南側です。湖畔に遺る石垣の位置も書いてあったので、次回です。ここは、小河川が2本流れているので、その堆積物で出来た当時なかった陸地かもしれません。
明智光秀の銅像が立っています。『明智光秀は、北国道(西近江路)と湖上交通の要衝にあたるこの地に、元亀3年坂本城を築いた。琵琶湖に臨む典型的な水城で、豪壮華麗で、安土城に次ぐ名城と言われていた。近江滋賀郡を支配し、民政は行き届いていたという。その後光秀は、丹波を平定し、天正5年頃から亀山城を築き、その城下町が現在の亀岡市の基礎となった。更に同7年頃、横山城を攻めた後、城の大改造を行い、明智に因んで福知山城と名付けた』
『我ならで 誰かわ植えむ一つ松 心して吹け志賀の浦風 /光秀 明智光秀は、美濃国の名族・土岐氏一族の出身。永禄10年(1567)40才の頃、織田信長の家臣となる。元亀2年(1571)山門焼き討ちの後、光秀は、湖畔に豪壮な坂本城を築城し、以降およそ10年、ここを本拠地として活躍する。優れた武将であっただけでなく、当代一流の文化人と親交を持ち、茶の湯・連歌・詩歌などに造詣が深い文化人でもあった』
「光秀の意地」という歌も刻まれていた。小川を渡った向こうの湖畔藪の中に、石塔が建っている。藪漕ぎして湖岸に面した東側に回ってみた。『行願塔 青森県津軽出身の正井覚蔵氏が、お経の有り難さを知り仏門に入られて、比叡山無動寺の北嶺回峰行者になり、名を正井観順師と改められた。大正2年、正井氏は、地元青森で起きた船の事故で亡くなられた人や水難者の霊を慰めるためにこれを建てた。南北の塔に自分の両親を、真ん中に師匠を祀り、その下には写経が納められている。塔背面の文字は、その経典の題目が書かれている。正井氏は、2555日目の回峰行中、裳立山中腹で倒れ、墓は無動寺にある』
半分草に埋もれ、足で覆っていた草をなぎ倒して読んだ謂れ板には、壮絶な千日回峰行者の姿が刻まれていた。比叡山延暦寺は、比叡山山中を1日30km・1日60km歩き続ける「千日回峰」の荒行で有名ですが、延暦寺の荒行というより、無動寺谷で修行する一派の荒行です。千日回峰行者は、無動寺で寝泊まりします。数年前に亡くなられた酒井雄哉さんも達成者ですが、千日回峰を2回・二千日回峰され、3回目の道半ばで山中に倒れられたようです。世の中には、すごい人がいるものだ。
R161を南下し、ヨットハーバーを目指します。途中のコンビニに寄りましたが、やはりバナナはありません。合宿所前に通りかかったら、臨時コーチをお願いしたI君・H君が道路に出てきました。車を停め、彼らを乗せます。7:12YH着。キャプテンにスケジュールを聞くと、湖上で昼食を取り、14時まで練習するそうです。ハーバー前のセブンイレブンに昼食を買いに行きます。するとバナナがあったので購入。
8時に、ブリーフィングです。臨時コーチから、練習メニューの説明があり、僕のカメラで記念集合写真を撮りました。写真後出艇し、ブラインドセイリングでクルーとスキッパーの会話の重要さを体験し、ノーラダーセイリングの模範帆走をビデオに収めたり、スタート練習&ショートコースしたりしました。
12:30になり、I君が乗ったインフレータブルボートがコーチボートにやってきて、挨拶します。「東京オリンピック代表に向けて、頑張ってね」。I君はハーバーに戻っていきます。
北からの風が少し上がり、H君中心に練習が続きます。14時になりハーバーバックし、Hくんから3日間トレーニング最後のミーティングをしてもらいました。質問がいろいろ出て、熱心に答えてくれました。
僕は、Hくんを駅まで送ります。7:12〜14:31柳ヶ崎ヨットハーバー300円。14:51、YHに戻ってきて、再び練習開始です。スタート練習・レース練習をします。
17時にハーバーバックし、合宿所に移動し、18:30から全体ミーティング。練習で気付いたことを伝えます。夕食は「シーフードカレー」でした。差し入れのブドーのデザート付き。いつもながら美味しい。臨時コーチ2人も、学連ヨット部出身ですが、「ご飯おいしいですよね」って褒めていました。
19:42に、艇庫を出発し、湖西道路〜名神〜中国道の定番ルートで、20:38帰宅しました。家内はまだ起きており、手話で「おかえり」してくれました。「ご飯は?」「学生と、カレーを食べてきた」。片付けて、風呂に入って、21:30に床に入りました。

2016/9/9 11行
数日前、次男から電話がありました。要件は2軒。大学ヨット部の臨時コーチとして、ジュニア時代からの友人を呼んだので、サポートお願い。もう1件は、大学の先輩から譲ってもらった1人乗りヨットを、ヨット部に寄付したい。
ヨット部へのヨット寄付は、葉山女子インカレに後輩が出場するので、そこまで次男が運び、そこから琵琶湖までは、レース艇運搬に便乗させてもらったらどうかと決まった。僕からキャプテンにも連絡を入れた。あとは、部員が何とかするだろう。タダで練習艇が増える機会を逃すはずがない。
臨時コーチI君は、次男がジュニア時代競い合った少し年下で、親御さんとも親しくさせてもらっていた。I君は、僕の大学ヨット部の後輩だし。東京オリンピック出場目指してチームを組んでるHくんは、Iくんと高校ヨット部が一緒です。コーチング初日・金曜日の午前中、僕が行ってヨット部員と顔つなぎをすることにした。日曜日も1日、彼らのコーチングを見させてもらい学びましょう。彼らは紛れなく、日本のトップレーサーで、リオオリンピック日本代表は逃したが、今年もワールドカップでトップ10入りしたり大活躍している。
4:30頃目覚めた。バイク装束に着替え、「招き猫CB400SB」にライフジャケットとカメラを乗せ、5:28出発しました。中国道〜名神で京都東IC下車。湖西道路に乗り、「滋賀里ランプ」下車。r47に乗り、京阪電車「穴太」駅を過ぎ、「坂本」へ。「日吉大社」前を通り過ぎ、6:23「西教寺」。
ここには、次男がジュニアヨット時代、琵琶湖でのレースで何度か宿泊させてもらった宿坊があります。古刹なのに、宿泊で利用させてもらっただけで、一度も見学したことがありませんでした。朝一番なのでクローズかもしれいけど、寄ってみます。
駐車場にバイクを置き、案内板を見ます。山門脇に、「明智光秀公と一族の菩提寺」の石碑が立っています。「沢庵禅師の碑」もある。江戸時代、沢庵禅師(1573〜1645)が、1614年42才の時、近江を巡歴し、紀行文「石山行記」の中に書かれている一文で、京都〜石山寺〜三井寺〜坂本・西教寺と巡ったそうです。『西教寺総門 天正年間に、坂本城主・明智光秀が、坂本城門を移築したもの』
『西教寺と護猿(まもりざる)の由来 西教寺開山・真盛(しんせい)上人が、善男善女とともに日夜6万遍の念仏を唱え「念仏の功徳」によって民衆を救った。それ以降、西教寺の念仏は栄え、不断念仏の道場として五百有余年絶えることなく今日受け継がれている。明応2年(1493)、西教寺に法難が押し寄せた時、手白の猿が念仏の鉦を打ち、上人の身代わりを勤め西教寺を護った。それ以降、身代わりの猿は、護猿と言ってあらゆる災難から守ってくれます。上人の恩徳により、護猿(ござる)の猿として親しまれ、五猿(客がござる・福がござる)と商売繁盛のお守りとされている。五匹の猿が念仏を唱える姿がお守りとされる』
『文学ゆかりの地 小説「細川ガラシャ夫人」三浦綾子著 昭和48年から執筆した初めての歴史小説。小説の中に、光秀が坂本城主になってから、西教寺の不断念仏の鉦が鳴る本堂へ、妻・煕子(ひろこ)、末娘・玉子(細川ガラシャ)、左馬之助光春、郎党を連れての参詣が描かれている』
山門をくぐり、本殿に続く緩やかな坂を登っていきます。お参りの男性と、朝の挨拶を交わします。道の両側に、僧坊がいくつもあります。「近江国野洲組・蒲生組」「伊勢国」など、宿坊の脇に国名が書かれています。お伊勢参りのご贔屓宿と同じ名残でしょう。
「教学総合センター」・・・ここにいつも泊まっていました。ジュニアスポーツということなのか、とてもお安く宿泊を提供いただきました。山門からの道の正面は、天皇からの特使のみ通ることが出来る「勅使門」がありました。寺院の格を感じます。
『西教寺は、聖徳太子が、仏法の師である僧慧慈・慧聡の為に開創した寺で、推古天皇26年(618)大窪山の山号を賜り、天智天皇8年(669)西教寺の号を下賜された。天台座主・慈恵大師良源大僧正、恵心僧都が念仏道場とした。その後、比叡山で修行した真盛上人が文明18年(1486)入寺し、不断念仏の根本道場として、西教寺を再建した。明治11年(1878)明治政府によって別派独立が公許「天台宗真盛派」の本山となった。昭和16年(1941)に、天台三派合同となったが、終戦とともに、延暦寺(山門)・三井寺(寺門)・西教寺(盛門)が分離独立、今日に至っている』
『宗祖大師殿 天台真盛宗・宗祖・圓戎国師・慈摂大師・真盛上人の木造を祀るお堂。嘉吉3年(1443)伊勢国一志(いちし)・郡小倭大仰(こおりおやまとおおのき)の里に出生(三重県一志郡一志町大字大仰)、14才で出家、文明18年(1486)西教寺へ入寺され、堂塔と教法を再興、19才から20年間、比叡山中に籠り、日課6万遍の称名念仏を収め、朝廷・公家・武士・庶民へ持戒と念仏の布教を行い、戎称二門不断念仏の根本道場とした。堂内には、昭和天皇より下賜された「慈摂」の勅願が、掲げられている』
振り返ると、琵琶湖が一望できる高台だった。唐破風の屋根が綺麗で、琵琶湖に向いている。築地屋根には猿の瓦が乗り、唐破風屋根の彫刻が見事です。獏・麒麟・獅子、蟇股には龍。開いている板門扉には、「三羽雀」紋が彫られている。門を入ると、同じく唐破風屋根の大師殿があった。重厚感があるが、門の方に惹かれる。
『記念植樹・橘の木 平成6年5月宗祖・真盛上人500回記忌大法会記念 真盛上人の父は、小泉左近尉藤能(ふじよし)と言い、小泉家は紀氏の末裔で、上人は紀貫之から数えて17世あるいは21世と言われている。小泉家は、「丸に橘紋」であることから、橘の木が愛木とされている』
『宝珠丸(真盛上人幼形像) 幼名・宝珠丸で、母が地蔵菩薩から宝珠を授かったと夢見て上人を身ごもったので、名付けられた。7才の時、伊勢川口郷の光明寺の盛源律師の弟子となり寺に移り、14才で剃髪出家し真盛と改めた。この幼少像は、出家時の幼形で、晩年の上人像から骨格を調査し、京都教育大学山崎正義名誉教授が制作した』
もう一段上がると、本堂でした。『萬日法会の歴史 真盛上人が比叡山に登ったのが19才。20余年専心修行され、恵心僧都の往生要集によって、末代の仏教に念仏一途と心に定め、慈覚大師が中国の五台山より伝えた不断念仏を継承され、文明18年44才で西教寺に入り、不断念仏の道場とし、弥勒菩薩が慈尊仏として世にでられる50億年が来るまで、不断に念仏を相続しようとの大請願を立てた』
本堂では、念仏の声が聞こえている。不断ということは、交代制でお坊さんが昼夜問わず唱え続けているということ・・・びっくりポンです。
更に上にある墓地入口には、『当墓地近隣では、猿が出没し甚大な被害を被っています。屋根瓦破壊・庫裏荒らし・墓地荒らし・墓石倒壊が重なり、維持管理に困っています。猿は、お供物と色花を目的に出没し、食べ物がなくなると建物や墓地を荒らします。お供え物を、持ち帰って下さい』とありました。
戦国武将の墓が並んでいました。坂本城主・明智光秀公と一族、光秀公の妻・煕子の墓・・・。猜疑心・信長を倒した常識人・光秀好きなので、長年ここに手を合わせたいと思っていました。
『濃州妻木(明智)一族と西教寺 本能寺の変・山崎合戦・坂本城攻防戦と続く戦乱の中で、妻木城主・妻木藤右衛門広忠の兄弟3人が討ち死にした。一族郎党も多数討ち死にした。広忠は、天正10年(1582)、坂本城落城後、明智一族に殉死した人々を西教寺に埋葬し供養した後、煕子(広忠の娘)の墓前で自刃した』
美濃の明智光秀生誕地を2ヶ所訪問したことがある。慰霊碑に、西教寺の名を見て、今まで続く明智ネットワークを確認できた。明知鉄道沿いを走り、明智を堪能した旅でした。それを思い出しした。
『月さびよ 明智が妻の 咄(はな)せむ 松尾芭蕉』。妻木煕子と光秀の結婚について、逸話が残っています。婚約成った後、煕子は痘瘡を患い、顔に跡が残ってしまった。婚約を破棄したくなかった妻木は、瓜二つの妹を嫁にやったが、光秀はそれを見破り、改めて煕子を迎えた。光秀は斎藤道三に与し、斎藤義龍に攻められ本拠地を失い、浪人することになる。信長のもとで出世するまで、自分の黒髪を売ってまで、光秀の仲間内での体面を保った。「糟糠の妻」として有名です。光秀より先に死ぬのですが、多忙な光秀自身が看病し、この寺に弔った。光秀は側室も置かなかったと言われ、僕の理想の夫婦です。
『坂本城主・明智光秀とその一族の墓 織田信長が元亀2年(1571)9月、坂本・比叡山を中心に、近江国の寺院をはじめ大半を焼き討ちした。西教寺も全山類焼の厄に遭った。その後再興に尽力したのは、信長の将・明智光秀で、坂本城を築城、坂本一帯の復興に当たり、西教寺の大本坊(庫裏)を築造した。天正2年(1574)仮本堂を完成し、現在の本尊(重文・丈八の阿弥陀如来)を迎えている。それ以来、光秀との由縁深く、元亀4年(1573)2月、光秀が堅田城に籠もった本願寺光佐を討った時、戦死18名の菩提のため、武者・中間の区別なく、供養塔を寄進した。早逝した内室・煕子の供養もされ、墓が安置されている。天正10年(1582)本能寺の変の後、山崎合戦で敗れ非業の最期を遂げた時、光秀一族とともに当時に葬られたと言われている。後に坂本城の城門の1つも当寺に移された。以来、光秀の菩提を毎年6月14日に光秀忌を営んでいる』
『明智光秀公辞世句 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」 修業の道は順縁と逆縁の2つがある。しかしこれは2つに非ず、実は1つの門である。究極のところ、人間の心の源に達する大道である。わが55年の人生の夢も、醒めてみれば全て一元に帰するものだ』
さらに階段が続き、真盛上人の御廟があった。本堂横に、雰囲気の良い客殿がある。本堂内からは、念仏の声が聞こえ、拝観料500円で内部に入れるようですが、時間がないのが残念です。不断念仏なので、24Hオープンで念仏の世界に身を置く事ができるのかもしれない。鐘楼塔がある。ここで帰路に着く。念仏を聞きに、また来そうです。朝の誰もいない時間帯が良さそう。すれ違い下って行かれた数人の男性は、これが目的なのかもしれません。静かに、念仏が流れる本堂に入り、静かに出ていく、ただそれだけでも、心が洗われるのではないだろうか。
バイクに戻り、r47を戻る。「日吉大社」前を過ぎた所で、何となく坂本ケーブル駅に寄り道したくなった。7:01、ケーブルカーがいる。まだ営業前だと思うが、職員さんが始業点検をしている。京阪坂本駅との間にバス運行があるが、営業時間帯のみ1時間に2本でした。家内と以前来た時は、穴太衆の石垣を見ながら歩いた。レトロな駅舎は健在で、掃除が行き届いているので、重厚感があって気持ちが良い。「ケーブル坂本駅・海抜170m、ケーブル延暦寺駅・654m」「片道860円・往復1620円」。
『土佐日記と南国市 坂本ケーブル裳立山停留所より、尾根伝い500mに紀貫之公の墳墓があります。南国市比江は、奈良時代から平安時代まで国司官舎があった場所で、紀貫之は48代国司でした。土佐の地で4年の任期を終えた承平4年(934)帰京の際の船旅で記した見聞紀行日記「土佐日記」を世に発表したことで、土佐との関わりがより深くなった。紀貫之公を敬慕し、比叡山鉄道の尽力に預かりながら毎年団参を重ね大津市・御地史談会・観光協会・京都高知県人会との交流が始まった』
r47から湖西道路・滋賀里ランプに乗るが、北向きに乗ってしまった。下阪本ランプで一旦出てUターン、再び乗って近江神宮ランプで下車し、近江神宮横を通り、7:23ヨットハーバー着。艇庫前では、まだ船の用意がされていない。「あれっ、まだ合宿所かな?」と思い、再びバイクを走らせたが、部員が歩いてきたので再び艇庫前へ。8時出艇ではなく、8時集合ということでした。
部員がやってきて、艤装開始。キャプテンなどに予定を聞き、臨時コーチIくん・Hくんも合宿所からやってきた。「・・さん、お久しぶりです」と、Iくんがニコニコやってきた。「はじめまして、・・です」とHくん。2人共好青年で、ハキハキ話し気持ちが良い。臨時コーチの指導メインに、スケジュールをざっと決め、9時に出艇しました。
1〜3m/sの風速で、ラダー(舵)レス・セイリングで、船の行きたい方向を感じる練習をする。選手と乗り換え、具体的に動作をアドバイスしてくれる。真後ろにコーチボートを着けアドバイスしてもらいながらのボートは、確かに他艇より早い。次男が後輩たちのために作ってくれた縁です。僕も、しっかりサポートしなきゃ。
ドライブするマネさん達に、ファミリーデイに僕が撮った写真が、ネット上で見れたか聞くと、親御さんたちにもアドレスを紹介し、ダウンロードしてくれたようです。
次週の葉山での女子インカレの遠征陣容を聞くと、選手2人だけみたい。東京在住のOBが観覧船を出してくれるので、親御さんを呼ぶよう選手のSさんに伝えた。「いいんですか?」「いいよ、せっかくクラブに入ったんだから、親御さんも含め想い出を作りな」と、先週のインカレ個選で、母校の父兄も観覧船に乗せて一緒に楽しんだことを伝える。
12時にハーバーバックし、僕はバイクで自宅へ。湖西道路から名神高速に乗り、昼ごはんは抜きになりそうなので、「桂川PA」に寄り、ソフトクリームアイス・140円を食べて昼ごはんの代わりにした。自宅に戻り、風呂に入り汗を流す。風呂あがりの癖で、プレーンヨーグルト450gを食べ、着替えて職場に向かい、14時から仕事に復帰しました。

2016/9/4
土曜日に、次男から電話が入りました。ロンドン・ブラジルオリンピックへの出場は成らなかったけど、東京に向けてオリンピックキャンペーンを続けているI君から電話が入り、次男母校大学ヨット部の次の週末での臨時コーチの件です。I君は、ジュニアヨット繋がりのある次男に、初めてのヨット部の練習環境などを聞いたのだと思います。週末3日間コーチ予定で、次男が顔つなぎでクラブに行ければいいのですが、子供が生まれたばかりで無理なので、僕に行ってくれないかとのことです。日曜日は行く予定でしたが、加えて金曜日の午前中も行くことにしました。
日曜日は、「全日本インカレ個人戦」観戦です。今年はホームポートでの開催なので、母校出場選手の応援船として、先輩たちと所有しているクルーザーを出しているはずです。
3時半に目を覚まし、二度寝して次に目を覚ましたら、6:30になっていました。ごそごそしてたら、7:30の出発になってしまいました。ラッシュガードの上に暑いけどライフジャケットを着こみ、通勤リード110に乗って、R171を西宮に向かいます。
8:00、ハーバーのディンギーヤード駐輪場にバイクを入れます。北海道から九州まで、各大学のレース艇が並び、選手がフィッティングしています。ディンギーヤードに入ると、こちらにも出場艇が並び、レース最終日に向けて雰囲気が高まっています。
今日使うのであろう係留艇の点検に行きます。桟橋を渡り、E号に乗り、エンジンを掛けます。一発点火で、冷却水の排出も確認。燃料も満タンなので、問題なしです。再び、母校艇庫のあるディンギーヤードへ戻る。
僕らの頃と違い、OBの他にご父兄も大勢来られており、いい感じです。少年スポーツが盛んになり、親子で子供のスポーツを楽しむ良い時代になりました。母校は出艇前ブリーフィングをしており、それを遠巻きに数人の親御さんが写真に収めています。ブリーフィングが終わったので、後輩の監督に声を掛け、うちの船の動きを確認します。「僕、乗れるかなあ〜」「当たり前ですやん、オーナーさんは乗ってもらわにゃ」と、担当女子マネージャーさんを呼び、指示しています。しばらく待っていると、女子マネさんが駆けて来て、「お待たせしました」と、うちの船の動きを伝えてくれました。
「ドライブ担当は誰?」「S先輩です」「じゃあ、先に船に行って待ってるわ」「レース艇が出艇したら、親御さんを集めて行きます。よろしくお願いします」。体育会の学生は、対応が気持ちが良いね。大学4年間で、社会人としての基礎が鍛えられます。僕は体育会が大好きです。
桟橋を歩いていると、レース艇でコンビを組んでるS先輩がやってきました。「おはようございます」「おう」。E号に行くと、同じくコンビを組んでる日大OBのHさんがおり、用意をしてくれていました。
すぐに、女子マネさんが親御さんたちを引率してやってきます。僕が母校コーチの時選手だった後輩のH君もいます。「・・さん、お久しぶりです。Hです。」「お〜」。東京在住ですが、大阪への出張に引っ掛けて、母校応援にやってきたようです。
「Sさん、ドライブ代わりましょうか?」「いや、ええよ」。年令を重ねても、後輩なので、先輩を少しでも楽にしようと声を掛けるのが礼儀です。大学時代は、あれやこれやお世話になったので、先輩はわがままでOKです。母校高校ヨット部の世話をしている先輩Nさん、親御さん2夫婦、1回生2人も乗り込み、9時頃レース海面に向かい桟橋を離れます。
OBの中では、H君が一番下なので、細々と動きます。2夫婦は、母校KGHヨット部出身の子と、隣のハーバーで練習してるA高校ヨット部出身の子のコンビの親御さんでした。5レース終了までトップでしたが、6・7レースと叩いてしまい7位に後退しました。
1回生の女子は、母校系列高校ヨット部出身の子でした。僕の中学の時3年間社会を教えてもらった先生が、この高校を吸収する時、校長先生として赴任しました。僕の中学からの同級生が、銀行を辞めて事務局長に就任し、教頭は中学の僕の1学年上の賢さで有名だった先輩です。今は、その教頭先生が、校長になったそうです。
もう一人の1回生は、ヨット部後輩のHくんのお子さんで、小学生時代はドバイで住んでいたそうです。帰国後、茗溪学園というラグビーで有名な学校に入学したそうです。長男が、今年から海外赴任したので、海外での家族の生活や帰国後のことを、いろいろ教えてもらいました。
レースの方は、風が落ちてしまい、AP/H旗が本部船に揚がり、レース延期/ハーバー待機になりました。帰るのもつまらないので、風は弱いですが、セイリングすることにしました。H君がマストに行き、僕がメインハリヤードを引いて、セイルを展開します。
しばらく走りながら、ワイワイガヤガヤいろんな話をしていると、元ヨット業者にお勤めで、この船のメンテナンスをお願いしていたK先輩から電話が入りました。K先輩を拾いに、11:30頃ハーバーに戻りました。この日のレースは、13:30以降レースはしません。親御さんたちや現役部員は、艇庫の方に戻りますが、僕らOBはまだ2時間あるので、風が出てくるまで、桟橋で待機します。
H君が、「なんか買ってきますわ」と買い出しに行きます。買ってきてくれたサンドウィッチや弁当を食べながら、あ〜だこ〜だ話が尽きません。12時頃、マネージャーから電話が入り、「本日のレースをしない。レース終了になった」ことを伝えてきました。まだ1時間半も時間があるのに・・・。しばらくして、ディンギーヤードの方から、長音3声が聞こえてきました。
風向が、東から南西に変わり、そよそよと風が入ってきたところでした。出来そうなのに・・・。12:30になり、船を片付け、ハーバーセンターハウス内のレストランに移動しました。H君おすすめの「かき氷・650円」を注文しました。練乳の氷をフワフワに削り、マンゴーの果肉とシロップをかけたもので、実に美味しい。
S先輩と共に、3人乗りレース艇の方に移動し、先に整備を始めていたHさんに合流します。日陰に入り、のんびり整備をやっていると、今年3人乗りレースを引退し、モスというカットビ1人乗りに乗り出したT先輩が、KUOTAのロードバイクでやってきました。
また、うだうだお喋りが始まり、16時の大会閉会式を待たずに帰宅しました。後輩は、スナイプクラス7位と470クラス3位が、最上位でした。個人戦3連覇を逃しました。慶応と同志社が優勝しました。
R171を戻って帰宅し、風呂に入って汗を流し、庭に出て植樹をしました。7/29に生まれた次男の最初の子(女の子)の誕生記念植樹です。女の子らしく、御用達の植木屋さんで、半月ほど前にアセビを買っていました。暑い夏の地植えを避け、9月を待っての地植えです。次男夫婦の結婚記念植樹した「ヤマボウシ」の脇に植えました。
19時頃帰ってきた家内は、鉢植えから植え替えたことを知りません。明日の朝、お水をやろうとして、空の鉢植えを見つけて驚くでしょう。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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