-ウェブマスター日記 2016/7-8

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
感想をいただけるとありがたいです→webmaster

2016/8/28
家内もお休みなので、大台ケ原を歩こうか? 京都周遊東山ハイキングの続きをしようか? 京都出町柳の東北部寺社巡りはどうかな? 奈良盆地サイクリングの続きもあるし・・・
いろいろ計画はありましたが、天気予報では13〜18時雨で、どうもいけません。家内に予定を聞くと、午前中に用事があるとのこと。朝起きて、最終お天気チェックし、グズグズしながらバイク装束に着替え、「篠山に行ってくる。お昼ごろ帰るから」「行ってらっしゃい」と家を出ました。
6:53、「里山ひこにゃんVTR250」に乗り、出発しました。長尾山トンネル〜r325〜r33で、西谷農協大池。まっすぐ北上し、定点観測ポイント・「波豆川・八坂神社」手前で、キジのオスが道路を横断するのを発見。緊急停止し、探しましたが見つけられませんでした。
r323〜r49〜千丈寺湖・湖畔道を経て、r308。青野川沿いを北上します。空が広く、伸びやかな道で気持ち良い。朝は昼から天気が崩れるとは思えない青空でしたが、少しそれらしい雲が出てきました。
青野川は細くなり、8:00「尼ン滝」で激写タイム。『この清流は、市内唯一の茶処・仙境・母子の天王と禅宗のメッカ・永澤寺の辺りに端を発し、樹齢の古い緑と林と奇岩、怪石の渓流美を見ることが出来る。この青野〜母子街道は、古来永沢寺への参詣道として拓けたもので、路傍に数体の地蔵尊が奉祀されているのを見ても、善男善女の旅の安全を祈ったものとうなずける。この尼ン滝は、尼僧が滝に打たれ修行したところから、この名がついた』
四国や奈良和歌山山中の清流には届かないが、気持ちの良い音を響かせている。更に北上し、両側に母子茶畑が広がる間を抜け、r49に合流します。8:08、「産みたて卵直売自販機」前。気になっていた、「鮮度はどうやって保っているのか」見に行くと、42ボックス全てが空でした。立地的にも厳しそうと思っていたが、開店休業が続き、止めてしまったのかな?
「美濃坂峠」手前の東屋休憩所には、ロードバイクが2台、おしゃべりをしていました。篠山側からの急坂を登ってきたのかな?峠を篠山側に下ると、もう手入れされていない展望台少し上のがけ崩れで半年ほど不通だった区間の法面工事現場から、篠山盆地が見下ろせました。展望台にバイクを停め、徒歩で道を戻り、景色を楽しみます。かつて展望台からこの景色が見え、雲海ポイントでした。景色を遮る木々の手入れを怠っているので、もう展望台の値打ちはありません。がけ崩れで、強制的に木々がなくなり、展望ポイントの復活です。
r49を、篠山「木枕」まで下り、R372を西進します。ここから探索ポイントです。「龍蔵寺口」手前で、3:32カカシと幟が林立していたので停車。「案山子の里・スタンプラリー会場」「赤じゃが/真南条営農組合」「ひょうご安心ブランド」・・・町おこしイベントのようです。案山子のクオリティが、イマイチだな。
8:37、「龍蔵寺口」の観光案内板を見て、めぼしい探索ポイントを探す。愛宕山山頂付近にある「稲荷神社」が気になります。市境の三田市側にあるようです。篠山盆地の雲海ポイントを探して入った道から、アプローチするようです。愛宕山の北麓の龍蔵寺から母子へのハイキング道も歩いてみたい道です。愛宕山に雲海ポイントを整備すれば、人気が出そうです。
「Tマップル」地図に載ってる「慎ヶ峰」南を東西に走り「初田」に抜ける白線林道を走ってみようと思い、枝道に入り、野生の勘で舗装路を山に向かうが、尽く未舗装路になります。もう道は無いので、未舗装林道がつながっているようです。
8:45「大導山・円心寺」。日蓮宗独特の文字の合掌塔が立っています。墓地入口に、「竹本三六太夫」の碑がお出迎え。歌舞伎や人形浄瑠璃の大立者だった方でしょうか?地域的に田舎歌舞伎芝居の役者と想像します。
明治・江戸時代と思われる墓石も拝見できるが、やたらと「小林」姓が多い。小林家の氏寺かと思われるほど。墓地から見下ろす田畑は、収穫間近の金色に輝きだした稲穂が揃う田と、丹波黒豆の緑の畑が並び、とても美しい。
9:03「真丹山・願勝寺」。脇に六地蔵が立っている。『梵鐘 ご自由にお撞きください。梵鐘の音色は、行事を知らせるだけでなく、仏様の説法のお声でもあります。自分でお撞きになり、梵音を五感と心で観じて下さい。心が洗われます』
ゴーン、撞いてみました。お庭の手入れがよくされており、サルスベリが綺麗に咲いています。「丸に違い鷹の羽」紋。武家を想像させる勇猛な家紋です。武士は畳の上で天寿を全うする方が稀で、常に一族の男には戦死が隣にあるので、嫡男以外に男子が生まれたら、一族の弔いのために坊主に出家させた事が多い。武家の末裔でしょう。「立春大吉」の御札も貼られており、禅宗のお寺のようです。丹波黒豆の畑が広がる農道を走り、舞鶴若狭道をくぐる。すぐに高速道路側道が見えたので、そちらに曲がる。側道は高速と同じ高さに上がり、やがて下る。適当に曲がり、R176に出て南下する。
9:18、鎮守の森が見えてきたので停車。「大歳神社」でした。すぐ東にJR福知山線が走り、踏切音が鳴ったので、普通列車をムービーする。『祭神:崇神天皇・猿田彦命 往古・向山浄福寺に鎮座する大歳神社を大宝元年〜2年(701〜702)に遷座。孝徳天皇の文化年間(646)頃より、氏子の中で年に5〜7人死者が多く出たので、神の禍と考え、人身御供を上げてきたが、ある年には10人も不幸が続いた。氏子のくじ引きで人身御供を決めることになった。人身御供を祭りの夜に供えたのを鎮平六という犬によって、その化け物を退治した』
平清盛が、福原の湊を築港するときに、風波の禍で進まない工事の安全て進展の為に人身御供されようとしていた若者を助けた物語が平家物語にある。7・8世紀なら、まだまだ生け贄の風習が残っていた時代です。
神社の隣に、貨車を利用したカフェがありました。「CAFE我風・ROUTE176・Where the wind blows」。「自分の人生フォローの風は、どこに吹いているのかな?」って、オーナーさん自らの人生を重ねた店名を想像した。一大決心をして、カフェをオープンしたはずです。気張って下さい!応援のためにも入店してみたかったが、オープン前の時間のようでした。
9:32「松尾山・高仙寺」。「伝教大師・霊句 一隅を照らす 此れ即ち国宝なり」の石碑が立っている。天台宗のお寺のようです。鐘楼門をくぐり階段を登ると、鐘の下がった鐘楼があった。門の上には鐘は下がっていないようです。趣きのある鐘で、文字が彫られていますが、小さくて読めません。こんな時のために単眼鏡を、ヒップバッグに常備していますが、「今日は国宝仏像など見ない」と思い、今朝出してしまっており残念。渡り廊下に屋根が付き、蓮池があるなかなかのお寺でした。脇を登っていくコンクリート舗装道が気になります。赤い前掛けの六地蔵が、道を守護しています。
JR「南矢代」駅に寄り道し、R176を隔てて西側の集落に入ってみます。9:45「二村神社」。以前、少し北の神社の謂れ板で見た名前です。『大昔、伊弉諾尊が天下る時、まず剣を先に落とし、「この剣が倒れていればコケッコと鳴け、しかし剣が刺さって立っておれば鳴くな」と命じて鶏を次に降ろした。鶏は剣が倒れていたので「コケッコー」と大声で鳴いて知らせたので、「この土地は堅く、神が住める土地である」と、伊弉冉尊を伴って降り、「神内村」と名付けた。往古は「神内」、文明14年(1482)以降は「御内」、慶安4年(1651)以降は「見内」と呼ばれた。天平勝宝2年(750)、正一位、鳥居の額は小野道風と伝えられる。文明14年の祭事の時、氏子の中で騒動が起こり、祭具が持ち分かれとなり、他の村に二村神社がわかれた』
室町時代の騒動の謂れは、他社でも読んだ記憶がある。他の神具を持ち帰った「二村神社」に書かれていたのでしょう。立派なお社ではありませんが、本殿前に真新しい榊が挿してあり、手入れが行き届いているのがわかる。蟇股や木鼻の彫刻が細かく、目を引いた。「皇紀2600年記念樹」の石柱が立っている。1940年、当時世界一の戦闘機・ゼロ戦誕生の年です。2016+660=皇紀2676年ですね。皇紀2700年も祝事がある日本であって欲しいな。
R176を南下し、9:57「JR古市駅」。ちょうどやってきた「特急こうのとり」を撮っていると、パラパラと霧雨が落ちてきました。「早いな」と思いながら、空はだんだん雲が厚くなっていたので、退散します。
R176で、JR相野駅付近を通過し、「波田」からr310で、武庫川沿いを走ります。「須磨田」からr309。青野川を渡り、「下青野」。ここは雲が薄れ、晴れ間さえ見えるので、ブランチでも食べようかとr49を目指す。r308との交差点から、またr309が分岐するのが北だと思い北上するが、間違いに気づきまた南下。目出度くr309に乗り、10:25「北浦天満宮」。「小野」からr49を北上します。このr49は、南下するときに使うことが多く、反対向きは久しぶりで新鮮です。
目指すブランチ場所「カフェ虎亀」前に来ましたが、昼から雨予報の割に車が2台ほど、バイクが数台停まっており、今着いたばかりの5台ほどのグループが、バイクを降りている途中でした。そんなに大きくないお店なので、パスします。永澤寺山を登り、峠を越えて永澤寺側に下り、お気に入りの林道を下って、後川奥〜後川下からr37。羽束川沿いを下り、10:57「こにし観光園」。観光バス2台と乗用車がいっぱい停まっています。羽束川での「魚つかみどり」を子供会で楽しんでいるようです。大盛況だ。
r37を南下し、11:14「道の駅・つくしの里」でアイスでも食べようと寄り道。アイスがなく、お土産として「わらび餅」を買う。残念な気持ちで店を出ると、ブルーのドカティが駐車場の端に停まっている。ビンテージなスタイルなのに、塗装などがとても綺麗で、こだわりの方が大切に乗ってる感じです。ドライバーがいないけど・・・と思ってr37に出ようとしたら、そこで道を見ていました。ペコリ・・・
r37に出て南下開始しようとしたら、路肩からキジが飛んで道路を横切りました。緊急停止し、居場所を探したら、すぐに草むらに入っちゃいました。r37〜r323で定点観測ポイント「波豆川・八坂神社前」。そこから波豆川沿いを南下し、r68を渡ります。一旦停止して出発しようとしたら、バックミラーにバイクが映る。セパハンの小型バイクだから、さっき「つくしの里」で見たのと同じかもしれない。
西谷中学の信号で、後ろのバイクが捕まったので、僕が先行しました。11:37、次の信号「西谷農協・大池」交差点にある「レストラン大池」の「氷」が目に入り、緊急停止。そしたらなんと、あのドカティさんも入ってきました。僕がもたもたしていたら、会釈しながら、先に入店されました。
僕も入り、「かき氷、まだやってますか?」と確認し、ドカティさんに「お一人ですか?相席いいですか?」「はい、どうぞ」ということで、お喋りが始まります。尼崎東園田にお住まいの方で、北摂里山地帯は、よく走っておられるそうです。
1970年代の古いバイクを買い、エンジンはプロにメンテしてもらい、外装は自分でコツコツ直したそうです。綺麗なブルーのタンク色はプロの塗装屋さんに仕上げてもらい、「DUCATI」ロゴなどは、シールを貼ってクリアを吹いているそうです。「DUCATI MARK3 250」となっています。愛車が見える席に席を取るところが、バイク好きさんですね。
バイクを3台お持ちで、僕みたいに使い分けておられます。中間の大きさがBMWの600ccぐらいで、友達宅に預けてる大きいのがリッターバイクなんでしょう。12:12、「それでは」とお別れし、先に出た僕は、DUCATIを見ます。「写真撮っていいですか?」に始まり、またお喋りが始まります。マフラーは「Conti」、エンジンは「DUCATI MECCANICA BOLOGNA」チューン、スピード・タコメーターやホーンスイッチは「CEV」って、僕にはわからないブランドだけど、一流メーカー品を組み立てたDUCATI職人の思いは伝わります。僕らのレーシングヨットも、こだわりの一流品を自分たちで組み立てているので、壊れても自分たちで修理メンテできます。ホンダの故障の少ないデジタル高性能なバイクにはない、アナログの良さですね。
12:39に僕が先に出て行きました。r33〜r325〜長尾山トンネル経由で、13:06帰宅。それを待っていたように、霧雨が落ちてきました。家内に、「用事があるから市内まで乗せて行って」「いいよ、映画を観に行かない?」「いいのやってるの?」「うん青春もの」。「ジャニーズ系が主演なの?」「う〜ん、朝ドラ系が主演」。
家内はお土産の「わらび餅」、僕はヨーグルトで小腹を満たし、カッパを着てタンデムで家を出て、まず「スタジオアリス」に寄り道します。孫・航くんの写真を撮った時、「店頭に飾らせてもらっていいですか?」なんて言われたから、家内が見に行きたいとのこと。ジジババ馬鹿です。
家内の用事に付き合い、映画館シネコンに向かいます。大型ショッピングセンター内のスーパーで弁当を買おうと思ったら、レジが長蛇の列で断念。ミスタードーナツでドーナツ3つ買って、最上階の映画館へ。
「15:35・青空エール」、自販機でチケットを買おうと画面を操作したら、中央より後ろの席は、ほぼ埋まっています。すごい人気だなあ。午後の時間帯だからかな?ロビーも、いつもより人が多いです。
札幌の高校に入学したヒロインは、入学第一日目の自己紹介を済ませる。トロフィーの飾られた前で佇んでいる。吹奏楽部の強豪で、中学では帰宅部だったけど、ここで吹奏楽をしようと思って入学した。横には背の高い男の子が立ち、同じくトロフィーを眺めていた。「凄いよね、吹奏楽部」の声に、男の子からの「野球部」の声が重なった。
「私、甲子園に出場したこの学校の試合を見たんです。応援したくて、吹奏楽部に入ろうと思ってるんです」「僕もその試合を見たよ。この学校で甲子園に行きたくて入学したんだ」
「俺、絶対甲子園に行くから、その時スタンドで応援してくれる?約束ね」と、爽やかに去っていく。
変にウジウジしてなくて、若者らしくストレートで、助演の生徒たちもストレートで悪役がいない。素敵な映画でした。そして、いっぱい涙しちゃった。1年後ぐらいにDVDが安くなったら、買っちゃいそう。
10代の若者で埋まった劇場は、上映前のお喋りさえ気持ち良くて、最高でした。「最近の若者は・・・」何て言葉が通り相場だけど、大学ヨット部で接する若者は素晴らしく、破天荒は少ないけど、僕らの世代よりよっぽど礼儀良く、仲間思いです。上映が始まると、私語はピタリと収まり、本編終了後のエンドロールに入っても立つ者がおらず、気持ちが途切れず観れました。おっちゃんおばちゃんが多いと、エンドロールで立たれて帰る方がおられ、気持ちが切れちゃう。素晴らしいよ、若者。
劇場内が明るくなり席を立とうとすると、家内が、「良かったね」「うん、いっぱい涙が出ちゃった」「お父さんもスポーツをやってたから、気持ちが良くわかるでしょうね」と、微笑んでくれました。ドキリ・・・素晴らしい女性だ。

2016/8/21
次男のお嫁さんお実家・埼玉に、次男の初めての子・僕らの3人目の孫と「はじめまして」しに行きます。出産予定日1週間前の7/29に、1900gで生まれました。小さかったので大事を取り、出産した産婦人科単科病院から、近所の小児科医師が常駐する慈恵会医大病院に転院しました。
集中治療室で数日過ごし(面会は日に2時間・両親のみ)、一般新生児室に移動し、8/17に退院しました。お嫁さんの実家に移動し、次男も1ヶ月ほど、マスオさん状態になって、ここから会社に通い始めました。
退院したので、早速会いに行きます。朝5時出発を目論んで眠ると、4時に目が覚めました。家内は既に起きて用意を始めています。僕は服を着て、カメラを持てば終わりです。ビジネスリュックに、お土産の「書写山円教寺・千年杉ロール」や出雲熊野大社のお守り「円櫛」を入れます。
通勤リード110にタンデムし、JR伊丹駅に向かいます。5:28の電車に乗る予定でしたが、「みどりの窓口」が開いておらず、新大阪駅で新幹線チケットを買うべく、5:04の電車に乗りました。尼崎駅で乗り換えですが、早朝なので電車本数が少なく、6:32京都行きに乗り、5:44新大阪駅着。
伊丹新大阪料金の返金があるので「みどりの窓口」でチケットを買いました。時間ロスで6時始発に乗れずに、6:03新大阪発「のぞみ」に乗りました。ホームで、お寿司お弁当580円を買い、朝食を取って、家内とあ〜だこ〜だ、名古屋〜新横浜間でウトウトしながら品川駅で下車しました。
東京駅でもいいのですが、京浜東北線で最寄り駅まで一本だから、品川で乗り換えます。駅が小さいから、田舎もんには迷いにくいです。出発が遅れたので、到着時間も遅れるだろうと思っていたら、いつの間にか3分ビハインドを取り戻し、予定通りの時間に最寄り駅につきました。
トイレを拝借し、改札を出ようとすると、お嫁さんが待っていてくれました。ロータリーでは、実家のお母さんの車・日産マーチを次男が運転手で待っており、それに乗り込みました。マーチは、次男が亡くなった私の父の車を就職祝いにと乗って行ってしまった車(父が次男にやると遺言していました)と同じです。次男の車(クリーム色)と違うピンクなので、家内が「あれ〜、この車は〜」なんて驚いていました。
車内で、次男の保育園・小学校の同級生の女の子のお母さんのことを聞きました。このお母さんは、僕が大学時代ヨット部でコンビを組んだ先輩Kさんの妹さんです。1週間前にお邪魔したKさん同期会で、亡くなったと聞いたので確かめてみました。学生時代から、K先輩宅で話していた方だったので、5年ほど前に亡くなったと次男から聞き、残念に思いました。
ご自宅に到着すると、門扉から玄関までの間の日当たりの良い所に、足腰が立たなくなった太郎君が、ダンボールの上で寝ていました。17才なので、終わりの時が近づいているそうです。ガレージには、お父さんの趣味車・メルセデスツーシーターが入っていました。お母さんとドライブデートする時に乗るだけで、日頃の足はお母さんのマーチです。
最近は「一家に一台」から「1人1台」ですね。我が家もかつては、僕・親父・長男・次男と4台もありました。長男お嫁さん実家も4台で、次男とこも夫婦それぞれ車を持っています。
次男からフィアンセとしてお嫁さんを紹介された時、すぐにお邪魔して以来2回目のご自宅訪問です。ご両親に挨拶し、リビング横の和室に通されます。僕らが最初に訪問した時、改装したお部屋です。この部屋にテーブルが置かれ、冷たい麦茶でワイワイ。現在は、この部屋が次男一家3人の部屋になっており、主役「スミレちゃん」が寝ていました。
主役は目が大きく、手足の指が長く、女の子って感じです。家内と交互に抱っこし、感触を確かめます。次男はマスオさん状態で、お父さんと一緒に電車数駅出勤しているそうです。家内が、「お揃いのお弁当持っていくの?」と笑っています。「いいやあ、僕は社員食堂で食べるし〜」なんて次男が言ってます。
家内が、お嫁さんの仕事復帰を気にして質問すると、1年間産休が取れ、保育園が見つからなければ、+半年の猶予があることを教えてくれた。そしたらお父さんから、「ターくんが保育園を設計してるんですよ」と嬉しそうに話してくれました。会社の新本社設計を次男がやっており、保育所も新設するのだそうです。「お父さんの設計した保育園に入園するなんていいでしょ」とお父さんが嬉しそう。
次男によると、社長から「入園第一号はお前んとこの子や」と言われているそうです。今回の設計は、発注主が社長やから、「これは出来ないか?」と追加のチャレンジ的な設計が多く・・・なんて言ってます。
お嫁さんもスミレちゃんも元気で、ホッとしました。しっかり泣き、おっぱいもよく飲みます。初乳をあげたかどうか聞くと、「黄色いおっぱいが出ました。いきなりおっぱいが出たのでびっくりしました」と我ながら、女性の体の不思議を実感したようです。おっぱいが良く張り、100%母乳で育てられていて嬉しそうです。
出産時は、次男が立ち会い、感動して涙が出たと、長男同様の感想を言っていました。「うんちが出たかな?」と、喜々としておむつを替えています。我が子の世話が嬉しくて楽しくて仕方なさそう。
お土産の「千年杉ロール」を渡し、お盆に出雲に行ってゲットした「丸櫛」のお守りを、素盞鳴尊と櫛名田姫との謂れとともにプレゼントしました。家内はいつの間に用意したのか、お洋服をプレゼントしています。7月のお嫁さんの誕生日プレゼントにしたヘリーハンセンのポロシャツとのお揃いを、大阪梅田の阪急イングスで探したそうですが、店員さんはヘリーハンセン自体知らず(ヨットハーバーじゃないと売ってないみたい)、阪急百貨店で次男が着ていたブランドと同じベビー服を買ったそうです。
お昼は、出前で「特上うなぎ」をご馳走になりました。初宮参りは、伊丹でするそうで、氏宮さんに予約してあります。でも、宮参り用衣装がありません。ずっと男の子だったから、次男も使った着物があるのですが、ブルーなので女の子用には流用しかねる。スタジオアリスで撮影予約したらレンタルさせてくれるそうで、次男はそれを考えているようです。10時頃開店だろうから、11時からお宮参り祈祷かな?帰宅後、女の子が2人いて、孫も2人女の子のいる姉に聞いたら、自分たちの使ったものはあげてしまい、娘達の時はレンタルしたそうで、初宮参り着物はありませんでした。買っても2万円ほどからありますが、どうするのかな?命名の半紙が出てきて、スミレちゃんの名前を書きます。次男が2枚書き、お嫁さんも1枚書きましたが、習字を習っていたお嫁さんが流石にうまく、それを我が家が持って帰ることになりました。一番気に入らないのを次男が持って帰り、日頃の反省に使うとのことです。
電話が鳴りました。会社総務からの連絡で、「明日は台風直撃だから、無理して出勤しなくてもいいらしい」。「ターくんはどうする?」と、次男とお喋りしています。「うちの会社は、そんな気の利いた連絡はないですよ」と笑っています。義理お父さんに気に入られ、とても有難い。
「太郎くんが外で時々鳴いてるな」と思っていたら、一大事が発生しました。見に行ったお父さんが、「太郎が死んでる」とお母さんに相談しています。「こんな時にすいません」と恐縮されるけど、こちらには何の問題もありません。十分にお別れしていただきたい。この日を予想し、準備していたようで、手際よく連絡を取っておられます。玄関内から様子を伺うと、17年間家族同様だったお嫁さんは、玄関脇の日陰に移動された遺骸の側で、泣いてお別れしています。
自宅から15分ぐらいの斎場に、15時に連れて行くそうで、今月入籍し、近くで暮らし始めた妹さんにも連絡を取っています。僕のお手伝いの出番はないようで、ご家族がお別れに行かれている間、次男・スミレちゃんと僕ら夫婦で、お留守番することになりました。
出産届けをしに行ったら、「子ども手当」の手続きがあり、15000円入ると思ったら、所得制限があるそうで、5000円に減額されてしまったそうです。がっかりしていました。スミレちゃんが、家内の腕の中で眠ってしまい、僕も次男も昼寝タイムになっちゃいました。
16:15に一連のお別れが終わり、16:30に帰宅されました。僕らが一家の主を「お」って出迎えるのは変ね。お嫁さんの妹さんも一緒に帰ってこられました。「ご結婚おめでとう」と「お誕生おめでとうございます」の交換です。
千年杉ロールを、アイスコーヒーで食べ、次男が気に入って結婚式にも参列くださった会社の取引先の社長さんから送られてきたという「なし」を食べます。集合写真を撮ってると、妹さんの電話に着信があり、旦那さんが接待ゴルフから帰ってきたようで、「今から行きます」とのこと。僕から、できれば妹さんの旦那さんに挨拶したいとリクエストしておいたので、早めに帰ってきてくださったのかもしれません。
妹さんによると、「ビックリしないでくださいね。剣道部なんですけど、体大きいから」「ラグビー部タイプ?」と聞くと、「良くそう言われます」だって。やってきた旦那さんは、サッパリさわやかな体育会系の笑顔の良い好青年でした。体格はラグビー部タイプでガッチリしています。ゴルフ焼けが赤く、お風呂に入ると痛そう。
清水建設にお勤めということで、次男のジュニア時代、同じクラブで活動してた同学年女の子Tさんのお父さんと同じ会社だって話題になりました。そしたら、次男から、「Tさんリオデジャネイロ・オリンピックの競技解説してたよ」て教えてもらいました。彼女は、連続してオリンピックに出てる女子選手と組んで、ロンドンオリンピックに出場していました。
Tさんパパによると、社員は現場監督の仕事だから、地上げ屋や利害関係者・怪しい関係と上手に折衝していかないと大型建築物は建たないので、この体格の見た目は仕事に役立ちそうです。Tさんパパも卓球の体育会出身だったので、体育会系を多く採用する企業なのかもしれません。
ということで、お開きになりました。次男夫婦に車に乗せてもらい、最寄り駅まで送ってもらいます。お母さんがパートとして働いていたコンビニ前を通りました。「母が辞めてすぐに強盗が入ったんですよ」とお嫁さんが教えてくれました。
京浜東北線で東京まで一本なので、気楽に乗っていたら、上野駅の手前で緊急停止しました。車掌さんのアナウンスでは、「秋葉原駅で、京浜東北線下りで人身事故があり止まりました。運転再開まで、車内でお待ち下さい」。横の山手線は動いており、プラットホームは見えているので歯がゆいですが、仕方ありません。車内では、待ち合わせの時間に間に合わない旨を連絡する方がチラホラ。
見えているホテルで泊まらないといけないかも?いざとなったら、頂いたお土産を食べて食いつながなきゃ、なんて話しながら待ちます。「運転再開は、20時を予定しています」とアナウンスされた時は、まさかの本日中に帰宅できない現実が、マジで頭を過ぎりましたが、そこまで待つことなく動き出しました。
乗っていた電車は上野駅に止まりになったので、山手線に乗り換えました。秋葉原駅では、京浜東北線下りホームにブルーシートが張られ、生々しかった。何があったのだろう?スマホを持っておらず、タブレットも置いてきたので、情報はありません。
東京駅に着き、東海道新幹線に乗り換えです。座れるように次発の「のぞみ」の停車するホームに向かいます。19:39、「JR東海デリカステーション」で、「柔らかかつサンド640円+アンデス高原豚のロースサンド710円」を夕食用に購入。おにぎりやお弁当などご飯物は全て売り切れで、サンドウィッチも残り4つでした。19:43「東海キヨスク」で、「ミネラル麦茶140円」購入し、19:50東京発広島行のぞみ自由席に乗ります。僕はいつも新幹線は自由席です。時間に遅れないように早めに行くことになるので、何かと時間が気になり拘束されるのが嫌いだからです。
家内と楽しかった今日を振り返りお喋りしました。お嫁さんの実家は、妹さんも良い方と縁が出来、ハッピーな今年になり、喜ばしいです。次男もあんな義理弟だったら、家族同士の楽しい付き合いが出来そうです。
22:23・新大阪着。22:30・新三田行き普通電車に乗り、22:58・伊丹着。バイクを預けた駐輪場に行くと、朝同様係の方はいません。料金が払えないので、翌朝通勤前に寄って200円払いました。「いつでも良かったのに」と言われたが、こちらが気になります。
帰宅して、荷物を片付け、風呂に入ってTVをつけると、「オリンピック・男子マラソン」が、40km地点を走っていました。オリンピックも終わりだね。24時就寝と遅くなったので、翌朝の目覚めは、6時前でした。

2016/8/13
お盆休みに入りました。ヨット部時代ペアを組んでいた1年先輩Kさんに誘われて、同期会に参加することになりました。17:30からなので、朝から午後まで船に乗ろうかと準備しお誘いしたが、皆さん都合が悪くキャンセルしました。
コーチしてる大学ヨット部のファミリーデイなので、そちらに参加することにしました。部員出身地は全国なので、親御さんにヨットという乗り物・スポーツ・練習環境を体験してもらおうと言う催しです。前日まで、恒例の琵琶湖周航4日間をしていました。
お盆渋滞が懸念され、車もバイクもパスし、折り畳み自転車を持っていくことに8時に自転車に乗って家を出発し、JR北伊丹駅8:28発の電車に乗り、尼崎駅で快速乗り換え、山科駅で湖西線の電車に乗り換えます。
JR大津京に着き、改札前まで歩いてくると、後ろから「おはようございます」と声を掛けられました。振り返ると学生達です。僕はICチャージ2000円をして、10:04セブン-イレブンハートインJR大津京駅前店で、「赤城ガリガリ君・梨・75円」でクールダウンします。
自転車を組み立て、えっちらおっちら合宿所着。キャプテンが、地下貯水槽に注水しています。渇水により貯水タンクが空で、トイレが使えないそうです。11時、親御さんたちが来られましたが、渋滞で遅れている方もいるそうで、10分開会を遅らせる事になりました。11:10、T君司会で始まります。挨拶は僕に指名され、ヨット部がボート部から派生し80周年であること、琵琶湖周航の伝統、ライフジャケット必着なので泳げなくても安心なこと、卒業してもヨットは長く楽しめることなど、面白おかしく話したつもりです。
11:30、主将挨拶・乾杯後、部員が作ったカレーやバーベキュー・焼きそばが振る舞われ歓談。琵琶湖正面でD社大ヨット部が練習しており、いい感じ。13:30の試乗会開始に合わせ、13時合宿所から艇庫に移動します。
僕はレスキューボートに乗り、ハーバーと沖をピストンします。随時部員と家族をワンセットにして、ヨットに乗り換えさせ、カメラマンもします。2回生マネージャーのドライブするレスキューボートを、親御さんが目を細めてビデオに収めています。ヨット部出身のお父さんも、娘の姿を嬉しそうに見ています。一番遠くは、熊本からかなあ。
試乗会終了前ですが、15:30に降りて、自転車で駅に向かいます。15:54JR大津京発普通に乗り、京都駅で新快速に乗り換え、尼崎駅で宝塚線に乗り換え、17時にJR伊丹駅着。自転車を組み立て、伊丹シティホテルに向かいます。
ホテル前で自転車にワイヤー鍵をしていると、横をMさん?が通りホテル内へ。前回会った時から、10年?20年経っているが、間違いないと思う。ロービーに入ると、Mさんと僕の同期のY君がいた。あ〜だこ〜だ、いっぺんに話の輪が広がる。Kさん、僕と同期のM君、上のYさんが、17:30までにやってくる。先輩のTさんは、いつもの様に遅れ気味。
「お店知ってるよね、みんなを連れて来てね」と、Kさんが予約したお店に先に行き、Tさんがやって来たので揃ってお店へ。Hさんは先に来ていた。自転車をたたんで店内に入れてもらった。学生時代の思い出話に始まり、あ〜だこ〜だ。皆さんは、「とりあえずビール」に始まり、適当に。僕は烏龍茶。うどんで締めて、20時にお店はお開きにしました。2次会は、Kさんの自宅ガレージです。Kさんが自転車で先に帰り、残りは僕の先導で。
門扉から入った所にシャッター付きガレージがあり、車2台を門まで出して、シャッターを閉めて、テーブルや椅子を置いて、ガレージライフスペースで2次会が始まる。22時にお開きとなり、5500円。僕は自転車で自宅に向かうが、皆さんはタクシー派とテクシー派に分かれる。テクシー派の上の代のキャプテンYさんの「歩くぞ」の一言で、全てテクシー派になって「さようなら」。何年経っても変わらないね。
帰宅すると、家内が起きていた。ご近所からもらった「いちじく」を食べて、風呂に入って寝ました。寝る時間が遅くならず良かった。Kさんとは、小学生の時の家庭教師の先生が同じで、同じ私立中学に進学し、サッカー部に入ったらKさんがいました。僕は虫垂炎から腹膜炎を起こし、1年間スポーツ禁止になりクラブは辞めてしまったけど、高校でヨット部に顔を出したらまたKさんがおり、大学でも同じヨット部でコンビを組みました。更に、妹さんのお嬢さんとうちの次男が同級生で、同じ保育園・小学校のクラスメイトで、社会人になった今でも、彼女が同窓会の取りまとめらしく、毎年のように会っている。深い縁で繋がっています。

8/14
お盆の法要にお坊さんが来る日です。いつも8:30だったのに、今年は16時という通知が来て、お盆恒例の弟家族との墓参り&ハイキングを、その前にすることにしました。父が亡くなって、僕が当主になってから始めたのですが、母も亡くなり、僕ら兄弟・姪甥家族の集まりになりました。今年は、長男がアメリカ駐在になったので不参加で、次男も奥さんが2週間前に出産したばかりなので不参加です。
出雲旅行に向けて、自転車2台を車に積みます。家族キャンプのように布団も積みます。法事を終えたらすぐに出発できるよう、車に積み込みます。10:18、「セルフ宝塚R176出光」で給油し、長尾山トンネル〜r325〜r33〜r319〜r12で11時にお墓到着。待ち合わせより30分も早いので、草引きに精を出す。墓石や墓誌もしっかりブラッシングして綺麗にしました。定刻に弟・奥さん・姪がやって来ました。先週、長男の2人目の初宮参りで会えなかった甥に会えると思っていたけど、京都の下宿から帰ってこなかったそうで残念です。
墓参りを終え、r12〜r319〜r33で「西谷釣り大池」併設レストランへ。姪に「いいもの見せてあげようか」と、車のリアゲートを開けて、自転車2台を見せます。驚いてくれました。昼食を食べて、鯉釣りをしますが、2年前に倒れた弟は、レストランで留守番だそうです。2時間1500円で、竿・餌一式を貸してくれます。強い引きで、姪は喜んでいます。
去年は、勾配のない道のハイキングを計画しましたが、弟は見学でした。う〜ん、体調が悪いのかなあ?
暑いのに「クーラーが気持ち悪い」と、家族が乗っていても窓全開で走る頑なさなのに、「クーラーが気持ち良くて、寝てしもた」と笑ってる。「だったら、車のクーラーを入れてやれよ」って突っ込みたくなります。顔色も行動も、以前と変わってないので全快のはずだが、用心深さも頑なのようで、炎天下の鯉釣りさえしなかった。
暑いので、釣りは30分弱で終え、自宅に戻ります。PCの写真を見ながら、あ〜だこ〜だ。16時ピッタリにお寺さんが来られ、お経を法要を上げてもらいました。これで解散。弟達は帰って行きました。
17時過ぎに出発し、宝塚ICから中国道に乗ります。18:00、「加西SA」の移動車屋台で、「世界で3番目に美味しい」と大書された「メロンパンアイス・380円」を買いました。メロンパンと冷たいアイスの取り合わせが美味しい。
19:10、「中国道勝央SA」で、夕食にします。家内は「親子丼・910円」、僕は「レディースセットB・1080円」。米子道に入り、ねぐらを探そうと「蒜山SA」。イマイチに思え、21:13「大山PA」着。ここをねぐらにします。自転車を下ろし、チェーンロックで街灯に括ります。2・3列目をフルフラットにして、セミダブルの布団を広げ、家内と寝ます。暑いので窓を開けて寝るので、蚊の来襲が心配でしたが、羽音さえ聞きませんでした。

8/15
3時過ぎに目が覚めました。外は真っ暗ですが、寝れそうにないので、ゴソゴソ出発準備をします。寝る時は駐車場にポツンと僕の車だけだったのに、周りに数台集まっていました。皆さん車中泊のようです。予定では、松江に行き、一畑電鉄・宍道湖沿いをサイクリングして、出雲大社に詣ろうと思っていましたが、予報が雨になったので、明日の寺社巡りドライブとチェンジします。
4:02、出発します。米子道はすぐに終点・「米子IC」になり、そのまま高速道路並の道を西に進みます。「米子西IC」で下車し、R9を西進。r53にチェンジし、4:55最初の目的地「熊野大社」。当初の目的地は、神魂神社でしたが、出発が早すぎたので、時間つぶしにTMに載ってるこちらに来ました。
予想外に駐車場が大きく、「大社」の名に恥じません。『出雲国一之宮・熊野大社 神祖熊野大神櫛御気野命(カブロギクマノオオカミクシミケヌノミコト)を主祭神として、境内中央正面本殿にお祀りしている。この名は、素盞鳴尊(スサノオノミコト)の御尊称です。右手に御后神・奇稲田姫を祀る稲田神社、左手に御母神の伊弉冊尊(イザナミ)を祀る伊邪那。また荒神社や稲荷神社がある。他に随神門・讃火殿など社殿がある。讃火殿は当社独特で、萱葺屋根・四方の壁は檜皮で覆われ、竹縁がめぐらされ、発火の神器である挽臼・燧杵(ひきりぎね)が奉安されている』
出雲一之宮は、出雲大社ではなく、熊野大社だったなんて知らなかった。「火」の発祥の地だそうです。横に「八雲郷土文化保存伝習施設」があり、しょっぱなからビックリさせられた。橋を渡って境内に入る。手水場・拝殿に明かりが灯り、24Hオープンの神社に好感する。
立派な社門をくぐりると、脇には屋根葺き替え寄付を募る祈念木・300円が置いてある。名前・氏名を書くと、神様に取り次いでくれるそうです。出雲式の太いしめ縄がかっこいい。各摂社にお参りしていると、お若い神職さんが境内のお宅から出てこられ、社務所に入っていかれた。やがて拝殿の扉が開かれた。車に戻ろうと川を渡ると、「さざれ石」が、その謂れ板とともに鎮座していた。日本民族の中心・天皇家を象徴する長い年月積み重ねて出来た岩です。
5:40、家内が起きてきたので、もう一度参拝する。まだ開いていない社務所を覗くと、綺麗な丸櫛のお守りが目に入り、今月末に初めて会う初の孫娘にプレゼントしたくなる。絵馬下がりを見ると、猿が3匹の絵柄でした。
「神魂神社」に向かう予定でr53を北上していましたが、「須我神社」の道標に反応し、r24西進〜広域農道〜r24南下して、6:32「須我神社」。「和歌発祥之遺跡・日本初之宮」。「出雲国神仏霊場」となっており、隣には、真言宗のお寺があった。神仏習合の名残りです。『神詠 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』。
素盞鳴尊が天下り、泣いている老夫婦に事情を聞く。ヤマタノオロチに生け贄となる最後の娘・櫛名田姫の不憫を知ると、事成ったあかつきに娘を娶ることを条件に、ヤマタノオロチを退治する。櫛名田姫を連れて新居を持った地が、ここ須賀だそうです。小雨が降っていたが、素敵な神話直結の神社でした。
「八重垣神社」に向かって、r24を北上する。7:08、「ファミリーマート松江乃白店」で、助六寿司420円・たまごサンド198円・小岩井ミルクコーヒー163円・ボスエスプレッソ118円を購入し、車内で朝食にする。r24〜枝道〜r249に入り、7:31「八重垣神社」。
駐車場から小川を渡ると手水があり、脇に『小泉八雲ゆかりの地・八重垣神社 八岐大蛇退治ゆかりの神社。縁結びで名高いこの神社の「鏡の池」は、稲田姫が飲料水を得、姿を写したと言われている。小泉八雲はこの池に興味を示し、八重垣神社の御札をイギリスオックスフォード大学・ピットリヴァーズ博物館に贈っている』の謂れ板が立っていた。
境内に入ると、『神秘 夫婦椿 乙女椿」があり、幹が二股に別れて、地面に入っていた。横の山神神社の祠下に大きな木製男根が置かれ、横にも立派なのが立っていた。素盞鳴尊に見初められた奇稲田姫伝説に肖り、良縁・夫婦円満の象徴となっているのでしょう。
収蔵庫には、日本神社界最古の壁画が収蔵されているようです。立派な拝殿・本殿です。『八重垣神社由来記 「早く八雲の八重垣様に縁の結びが願いたい」という歌は、出雲で最も古い民謡です。ご祭神も八岐の大蛇を退治し、高天原第一の英雄・素盞鳴尊と、国の乙女の華と歌われた稲田姫のご夫婦がお祀りしてあります。素盞鳴尊が八岐大蛇を退治になる際、佐久佐女の森(奥の院)が安全な場所であると選び、大杉を中心に八重垣を造って姫をお隠しになった。そして大蛇を退治し、「八雲立つ、八雲八重垣、妻込めに、八重垣造る、その八重垣を」という喜びの歌を歌い、両親の許しを得て、「いざさらば、いざさらば、連れて帰らむ佐草の郷に」という出雲神楽歌にもある通り、この佐草の地に宮造りして、ご夫婦の宮居とされた。縁結びの道を拓き、略奪結婚から正式結婚の範を示し、出雲の縁結びの大神として、また家庭和合、子孫繁栄、安産、難除。和歌の祖神として、古来朝廷・国司・藩主の崇敬が厚く、ご神徳高い神国出雲の古社・名社である』
歯固め用の玉砂利があった。小さな子にこれを噛ますのは、誤飲事故に繋がりそうで実行する方は少ないでしょう。「お父さんの10円玉みたいに、飲んじゃうね」と家内から。僕は、小1の時お年玉の10円玉を飲んじゃいました。
境内をじっくり散策していると、表門から外に出て行った家内が戻ってきて、「いいもの見つけたよ」。『夫婦椿・連珠玉椿 「八雲八重垣、祈願を込めて、末は連珠の玉椿」。連珠玉椿(夫婦椿)は、稲田姫命が2本の椿の枝をお立てになった。それが芽を吹き一心同体、愛の象徴として神聖視されるようになり、木が枯れても境内には二股の椿が発生すると伝えられ、現在境内に3本の夫婦椿があります。年により二葉の葉も現れることもあります。東京資生堂の花椿会は、この玉椿の銘木を神聖視し、発展されており、ここにも美容調整のご神徳があります』
ここと、神魂神社を結ぶ道が、「ウォーキングトレイル(古代歴史めぐり)はにわロード」名付けられていました。お店には、「子宝飴」の幟が上がっている。『古式結婚式発祥の地』との案内板も出ています。
「鏡の池」に行ってみましょう。板玉垣に囲まれたエリアを、神職さんが箒掃除をしている。それは、素盞鳴尊が奇稲田姫を隠した八重垣の地の横にあり、確かに飲用・鏡に供したのがうなずける。『初めに占い用紙だけを静かに池に浮かべ、それから100円か10円を赤い判の所へ静かに乗せて心の中でお祈り下さい』
『鏡の池(縁結び占いの池) 出雲八重垣鏡の池に 写す二人の晴れ姿この池は、稲田姫命が八岐大蛇の難を避けるため、森の大杉を中心に八重垣を造って御避難中、日々の飲料水とし、又御姿を写され美容調整された池で神秘的な池で鏡の池(姿見の池)といいます。
こんこんと湧き出る清水は昔ながらの面影をしのぼせ、稲田姫命の御霊魂が底深く港透しているところから縁結び占いの池として信仰されております。
占い用紙に百円か十円硬貨をのせ浮かべてお祈りします。用紙が早く沈む(十五分以内)と良縁が早く、遅く沈む(三十分以上)と縁が遅いといわれ又近くで沈むと身近な人と、遠くで沈むと遠方の人と結ばれるといわれております。
御神徳の広大な出雲の縁結びの大祖神であります八重垣大神さまの御加護により、良縁を得られ、二人の晴れ姿を、この神秘の森、鏡の池に写され、末永く御繁栄されますよう念願いたします』
『胸ポケット等から落し物が多いです。注意して下さい』。池の底に、沢山占い用紙が沈んでいます。池面に奇稲田姫のように自分の姿を映そうと前かがみになり、ポケットから落とすのでしょう。
r249〜r247〜R432〜r248、8:17「神魂神社」。駐車場に停めると、神社横の道を野球部員が登っていきます。「おはようございます」と、帽子を取って挨拶してくれます。もちろんこちらからも返答。気持ちの良い朝です。立正大高校の生徒のようです。自分もそうだったからか、体育会系は好きだな。
石段を上がると拝殿があり、その奥に、国宝の「出雲に多い高床式本殿」です。『神魂神社案内 御祭神:伊弉冊大神・伊弉諾大神 当社は出雲国造の大祖・天穂日命がこの地に天降られ、出雲の守護神として創建、以来天聴日命の子孫が出雲国造として25代まで奉仕され、大社移住後も「神火相続式」「古伝新嘗祭」奉仕のため参向されている。
本殿は室町時代初期、正平元年(1346)建立の大社造で、その大きさは三間四方高さ四丈あり、出雲大社本殿とは規模を異にするが、床が高く、木太く、とくに宇豆柱が壁から著しく張り出していることは、大社造の古式に則っているとされ、最古の大社造として昭和27年3月国宝に指定されている。
本殿内は、狩野山楽土佐光起の筆と伝えられる壁面九面にて囲まれ、天井は9つの瑞雲が五色に彩られている』
天穂日命は、天皇家に次いで世界で2番目に古い家系である出雲国造家・現出雲大社宮司・千家家の祖先です。キリストと同じ時代を生きた子孫・野見宿禰が、大和朝廷・11代垂仁天皇に見出され大和に移住し、古墳造営・土師氏となり、菅原氏が分家し菅原道真が生まれている。僕の先祖は、ここに天下ったんだ。先祖の名が謂れ板に出てくると、それだけでテンションが上がる。
鰹木が3本で男神を表し、千木が水平斬りで女神を表している。主祭神は、伊弉冊(イザナミ)の方が先に書かれている。『古代女性は神であった』、日本古来の女性を大事にする思想が現れているように思う。
境内の摂社を巡っていると、洞穴があった。謂れがありそうだが、説明板はなかったので残念。早朝から近場の神社を3つ巡りましたが、京都以外の地方では見られないような風格のある神社ばかりで、さすが出雲と感じました。古事記・日本書紀の素盞鳴尊・大国主命の出雲派の古代を楽しませてもらいました。
r248〜R432〜R9〜r37で、宍道湖の東端を北に渡り、8:52「松江城」。既に大手前駐車場は満車で、3台待ちでしたが、5分ほどで駐車出来ました。レトロバスが走っています。外堀が幅広く残り、屋形船が就航しています。高石垣が防御の堅さを物語っています。
出迎えは、「堀尾吉晴公」の銅像。『堀尾古墳公 1543〜1611 松江城を築城した堀尾吉晴公は、愛知県丹羽郡の土豪の家に生まれ、岩倉城の戦いに16才で初陣、奮戦しています。岩倉落城によって牢人となったのですが、猟師暮らしをしていて、美濃の山中で水下藤吉郎(羽柴秀吉、豊臣秀吉)と出会って、その家臣となりました。
武将時代の「茂助」、晩年の官名「帯刀先生」の名でも知られています。「仏の茂助」と呼ばれる温厚な人柄でしたが、20才台から50才まで、戦いに明け暮れ、豪勇の士として多くのエピソードを残しています。
馬に乗りただ一人貝殻塚(貝塚市)頂上に立ち、鉄砲の総攻撃を受けながら守り通したことは、後世までの語り草となっています。越前一揆軍との戦いで、殿を務めながら、一揆勢を討ち取り、秀吉から「鬼の茂助」と称賛されたこともあり、その手柄の数々は信長が、「茂助は毎度のこと」と讃えたほどです。
数回に渡る城受取役や敗れた城主の切腹の検視役は、吉晴公の人格と彼に対する秀吉の評価と信頼が高かったことを現しています。
秀吉没後、三中老の1人として、徳川と前田、五奉行と徳川とのいざこざの解決に貢献し、家康から本領遠州浜松12万石とは別に、越前府中5万石を贈られています。関ヶ原合戦後、子・忠氏は出雲・隠岐両国24万石を与えられ、吉晴も共に出雲の国に来ました』
『松江城保存につくした人たち 明治4年(1871)4月、松江城の廃城が決まり、明治8年(1875)に、利用できる釘・カスガイなど金物が目的の入札が始まりました。木材は燃やし、石材は壊されるしかありませんでした。松江城の姿は、失われる寸前でした。
この危機を救ったのが、元松江藩士・高城権八と出雲郡出東村(現斐川町坂田)の豪農・勝部本右衛門家の人たちでした。高城は銅山方役人、勝部家は当時、銅山経営をおこなっていましたので、本右衛門栄忠と、息子の景浜は、高城と公私にわたる親しい間柄でした。
そのとき、松江城を管理していたのは陸軍広島鎮台でした。入札で松江に来ていた責任者の斉藤大尉と会い、入札額と同金額を納めるから、せめて、天守閣だけでも残してほしいと懇願しました。天守閣の入札額は180円だったと伝えています。こうして、高城権ハと勝部本右衛門の努力で松江城天守閣は残り、全国に現存する十二天守の1つとして、今も、戦国の威風をただよわせて松江の町を守っています』
威風堂々とした黒壁のお城で、熊本城や姫路城に比肩する佇まいです。石垣には修復した跡が見え、行き届いた手入れを感じます。石垣には、普請大名の目印も見えます。
大人560円で天守に登ってみました。『史跡・松江城 堀尾氏は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ケ原の合戦で武功をたてた堀尾忠氏(堀尾吉晴とする説もある)は、慶長5年(1600)出雲・隠岐両国24万石を与えられ、広瀬の富田城に入城した。
しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下街を形成しなけれぱならなかったことなどの理由からこの極楽寺山(亀田山とも言う)に城地を移した。
築城工事は、慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし、慶長16年(1611)に一応の完成をみた。城地の広さは東西360m・南北560mあり、周囲に幅20〜30mの内濠をめぐらす。
標高28.1mの頂上部に本丸を置き、荒神権をはじめ6ヶ所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。天守は本丸の東北隅に築かれている。二之丸は本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。本丸の東側の平地は二之丸下の段と呼ぱれ藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。
その外、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。城山の南には三之丸(今の県庁附近)があり藩主の御殿があった。
石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山岩(いわゆる大海崎石)が大量に使用され、堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。
城主は堀尾氏、京極氏と続くが、いずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が10代続き一度の戦乱にまき込まれることなく明治維新を迎えた。
明治8年(1875)無用の長物と化した櫓や多門など、多くの建物はことごとく壊されたが、天守だけは旧藩士や豪農の懇請により保存されることになり、山陰地方唯一の現存天守として、その威風堂々たる偉容を今も宍道湖畔に映し出している』
去年、重要文化財から国宝指定に格上げされました。天守閣内には、甲冑初め様々なお宝が展示されており、最上階は風が吹き通り、宍道湖を望む景色を堪能しました。
車に戻り、駐車券を探すが出てきません。係の方に相談し、「30分ほど駐車しました」と自己申告し、駐車券を再発行してもらいました。「9:30〜9:59、松江城大手前P・300円」。帰宅後、紛失した駐車券が出てきて、時刻を見たら9時でした。1時間も見学していたんだ・・・。
r37で、10:16「佐太神社」。『佐太神社 御祭神:北殿・天照大神・瓊瓊杵尊 正中殿・佐田大神・伊弉冊尊・伊弉冉尊・事解男命・速玉之男命 南殿・素盞鳴尊・秘説4座
御神徳・沿革 当社は出雪国風土記に、佐太大神社域は佐太御子社とあり、三笠山を背に広壮な大社造の本殿が相並んで御鎮座になっているので佐太三社とも称され、延喜式に佐陀大社と記され、出雲二宮と仰がれてきた御社である。
主祭神・佐太大神(猿田毘古大神)は、日本海に面する加賀の潜戸(ぐけど)に誕生され、出雲四大神の1柱として崇められ、古くから導きの神・道開きの神・福の神・長寿の神・陸海交通守護神・鎮守の神として信仰されてきた。
御本殿は三殿並立で、中央が正中殿、向かって右が北殿、左が南殿、いずれも大社造りで、豪壮な三殿構えは平安時代末期に成立したようであり、他に類例を見ないもので、神社建築史上、特筆すべきものである。現在の御社殿は文化4年の造営であるが、その様式は古く元亀年間の造営踏襲してきたもののようである。国の重要有形文化財に指定されている』
三社横並びの本殿が素敵です。狩衣装束の武者が社門を守護し、かっこいい。r264〜宍道湖北部広域農道〜R431〜10:43「松江市学園2丁目・R431SS・出光」で給油。R431〜r252〜11:10「華蔵寺」標高375m。TMに「中海や隠岐も望める」と書かれていますが、生憎の小雨なので、どこまで見えるのやら。
歩き出したら、前方に長い階段が・・・竹杖も用意されています。えっちらおっちら登ると、後から車を停めた男性が、1段飛ばしで元気良く上がってきます。階段を登り終えたら、山門があります。『仁王門 松平直政公の建立で、両側の仁王像は高さ2mを雄に越え、運慶作と伝わる』。山門を過ぎると、巨木の原生林の様相です。
不動明王の石像が鎮座していました。『不動明王 石造りの不動明王は、崖に鎮座し、大きさは日本でも有数のものです。枕木山は、松江の鬼門に当たることから、安泰を祈願し建立された』
『亀山天皇御遺跡 杉井御霊水 開山1100年記念』。岩肌を湧水が流れ、手水柄杓が用意されている。再び階段があり、11:23それを登り切った標高425mに、僧坊がありました。
『華蔵寺由緒 当山は、龍翔寺華蔵寺といい、臨済宗南禅寺派の寺で、通称・枕木山とも言う。海抜456m。全集の古刹。本尊は、南無釈迦如来を安置する。
桓武天皇の御代、延暦2年(808)天台宗智元上人の開基なり。初めは天台宗であったが、500年を経て、亀山法皇御不例の節、勅願によりご祈念。帝深く御帰依し、当寺を禅宗に改めさせ南禅寺の末寺とし、時の山王・済遍禅師を中興の開祖とす。以来皇室の外護を賜り隆盛を極める。
しかし戦国時代、尼子・毛利の兵火に遭い諸坊伽藍尽く焼失し、寺運も大きく衰退する。その後慶長6年(1601)堀尾吉晴公が、松江に城を築くに当たり、当寺を祈願所とす。以降、藩主の外護を得て堂宇伽藍を造営復興す。松平直政公に至り、再興なった。寺運回復し、歴代藩主の帰依厚く天下の霊山と号されるに至った。現在の諸堂は全て当時のものなり。山頂から湧出する霊水で咽喉を潤すと、心身清浄なり。展望台からの眺望は雄大で、山陰随一の好環境である。
開創以来1100余年の歴史と伝統を持つ霊山であり、禅の修行道場でもある』
彩色は落ちているが、蟇股の彫刻は繊細で、江戸時代の技術者の腕前が垣間見える。侘び寂びを感じる鐘楼門がすっくと建ち、雨の上がった霧に覆われた周囲とマッチしている。
境内案内図を見ると、駐車場と書かれていた。ここまで車で上がってこれたんだ〜。まあ、霊水ポイントや仁王門・不動明王石像が見れたからいいか・・・。霧に包まれているので、展望台に行くのは断念し、駐車場まで降りた。下りの道から、中海に浮かぶ江島・江島大橋が見えた。
歩き下っている時、カメラのバッテリーが切れた。予備バッテリーを入れると、なんと充電忘れだった。車に戻り、他の2つの予備バッテリーを調べたら、1つは7%、最後の1つが23%。以降、バッテリー制限のため、写真枚数が減ってしまった。
r252で中海まで下り、R431で中海沿いを走り、12:07「ファミリーマート・道の駅本庄店」で、氷1.1kg・249円購入。魔法瓶の氷を補充した。r338で中海を突っ切り江島上陸。
「ベタ踏み坂」のCMのことを話すと、家内も知っていた。「江島大橋」手前から、「うわ〜すご〜い」と大はしゃぎです。橋の袂で車を止め見に行くと、バイクや四輪から降りた方が数組、カメラを楽しんでいた。前回来た時、橋の袂にあったファミリーマートが、少し移動し駐車場が数倍に大きくなっていた。売上を伸ばしているようだ。
「この車で登れるの?」と家内は心配そうだったが、難なく江島大橋をクリアし、r47で、12:45「境港」。水木しげる妖怪ロードを巡りながら、JR境港駅。正面に妖怪達の壁画があった。鬼太郎やねずみ男オブジェをカメラに収め、かき氷を食べクールダウンした。12:42〜13:19「境港大正町P・200円」。
r47〜R431で境港水道を渡り、r2。13:43「美保神社」。全国の美保神社の総本宮です。やっと来れました。祭神は、「三穂津姫命」「事代主命」。三穂津姫命は、高天原から稲穂を持って天下り、葦原中津国を切り開き良く収めた大国主命の妻になります。五穀豊穣・夫婦和合・安産」子孫繁栄の神様です。
事代主命は、大国主命の長男で、「葦原中国の支配権を天孫に返上せよ」との高天原からの使者に返答に困った大国主命が、「息子たちに聞いてくれ」と責任を丸投げされた神様です。釣りをしていた事代主命は、「いいよ」と返事し、弟の大力・建御名方(タケミナカタ)神は、それに反対し使者・建御雷(タケミカヅチ)神と勝負した。結局負けて、諏訪まで逃げてゆき、「ここから決して出ませんから許して」と命乞いし、諏訪大社の主祭神として祀られています。
事代主命は、別名・恵比寿様「えべっさん」として有名で、釣り竿を肩に鯛など豊漁を腰に差しています。この記紀の故事から来た風体です。
出雲式の大注連縄が立派で、海の神様なので「諸手船神事絵馬」を撤饌していただきました。
r2を更に東に進みます。14:03「美保関灯台」。半島の先の灯台は、青い空に白く輝き、絵になります。しかし、駐車場の残念なお知らせを家内が見つけました。「美保関灯台ビッフェ・臨時休業」、ガーン。R431に、何度もビッフェの宣伝看板が出ていたので、すっかりここで昼食のお腹になっていました。ビッフェは、元灯台施設棟で、とても素敵な外観です。景色だって最高なので、実に残念。
『島根半島海岸部の地形 島根県東部・鳥取県西部地域の地形は、南から中国山地、沈降地帯の宍道湖・中海地域、隆起地帯の島根半島と特徴的な分布を有する地形です。中でも島根半島は、半島中央部を断層が横断し、半島東部は沈降海岸、半島西部は隆起海岸と別れています。島根半島の海岸線は、広範囲に岬と湾が交互に鋸歯のように並ぶリアス式海岸で、加賀潜戸(かがのくけど)・多古(たこ)の7つ穴のような断崖・洞門・洞窟等の優れた景観を見ることが出来ます』
『美保之綺の由来。 島根半島の最東端に位置するこの岬は、古くから「美保之碕」と呼ぱれています。
出雪国風土記の国引きの伝説では、この「美保之碕」は、北陸地方から、日御碕は朝鮮半島から引いてきたものと伝えられています。
この鳥居の中央約4km先の海上に浮ぶ島を「沖ノ御前・おきのごぜん」、眼下に横たわる島を「地之御前」といい、共に事代主神(美保神社の御祭神、俗にえびす様)の魚釣りの島として伝えられているところから、現在も美保神社の境内となっており、毎年5月5日には美保神社で事代主神とその御后の御神霊をこの島から迎える神迎神事が続けられています。
夏期には、沖之御前の海上に雄大な日の出き拝むことができます。沖之御前は日によってその島影が様々に変化し、漁師はその島影により海上の天候を知って出漁を決したといわれます。又、この島の海底には常に神楽の音の様な響びあリ、神異奇瑞の島として今に伝えられています。
この遥拝所は、美保神社の古文書に記載のあった古事に基づき、昭和48年12月設置したものです』
しめ縄の下がった鳥居から海を見ると、中央に沖ノ御前島が見えています。船に乗ったえべっさんの定番の絵が頭に浮かびますが、ここだったのですね。r2を戻ります。境港の対岸から、R431。14:56「ファミリーマート・道の駅本庄店」内で、「味付け海苔海老マヨ・120円」で遅い昼食。家内は、「梅おむすび・120円」。僕は、「ガルガリ君フォンダン140円」を食後のデザートに。家内は、「ヨーグルト・168円」。
R431を西進し、松江市街地まで戻ってきました。r21にチェンジし南下。市街地を南に抜け、R432。r247〜r429で、15:56再び「八重垣神社」。神社界日本最古の壁画をプリントした絵馬を授かりに来ました。
『縁結びの由来と家庭和合 出雲に於ける縁結びの本宮として広く全国に名高いお社が八重垣神社である。我が神代史を彩る縁結びの神話として素蓋嗚尊と稲田姫命が、ハ岐大蛇を御退治になり、八重垣を造って親の承諾を得られた正式結婚の道をおひらきになり御夫婦の宮居とされた。御歌のハ重垣をとりてハ重垣の宮と称されたのが本宮である。尚、二神は家庭円満子孫繁栄し出雲民族の隆盛の基礎を作られた。
○ハ雲立つ出雲ハ重垣妻込みに ハ重垣造るその八重垣を
○早く出雲のハ重垣様に 縁の結びが願いたい
鏡の池運勢吉凶占の池と夫婦杉 此の鏡の池は神秘の森として知られている神社後方奥の院の御避難地にあり、稲田姫が難後生活なされ、日々飲料水として用いられ又御姿を写された姿見の池でもあり、姫の美容調整の源泉ともなった。以来幾多の老若男女がこの池を求めて紙片に硬貨をのせ占の遅速を楽しみ(早く沈めば良縁早く、遅く沈むと縁がおそいとされ、又運勢の吉凶も判断した。)水を我が身にふりかけて美男、美女にあやかろうとした。
尚、同一境内にはハ岐の大蛇をしのばせるような大杉の根が四方に起伏して、あたかも人のまなこに神秘の世界を想起せしめる夫婦杉がある。
○出雲八重垣鏡の池に、写す二人の晴姿
壁画とハ重垣古墳群 寛平五年(平安時代)巨勢金岡の六神像があり、筆力雄渾我が国絵画史上類例のない国家重要文化財があり、専門家拝観者の絶賛の的である。尚、神社前方(五分内)に八重垣古墳群があり世に百穴と称せられ出雲文化をしのばせる神の里があり、民族発祥の中心地でもある。
○木枯や神のみゆきの山の跡
○青垣に参集たる諸人の 出雲文化の神の里』
早朝と違い、参拝客が多く、占い用紙を持ったカップルなどが多い。カップルに続き、「鏡の池」に行きます。次々に用紙を浮かべ、10円玉を乗せて沈むのを、あ〜だこ〜だ言いながら見ています。占い用紙は、池に浮かべると、文字が浮かび上がります。おみくじみたいに、運勢の最後に「吉凶」などが浮かびます。吉が多い。占い用紙の真ん中に穴が開いて、浮かんだままの用紙もあります。
「早く沈むと良縁に恵まれるのが近い」「近くで沈むと、良縁の相手は身近にいる」とのこと。数枚の沈み方を見ていて、コツが分かりました。静かに占い用紙の中央ではなく、少し端に寄せたところに10円を置く方が早く沈みそう。用紙の上に池の水が入ってこないと沈まないみたい。時間が経つと、10円の重みで10円の下が破れて、10円だけ沈んでいきます。10円追加する方もいました。面白いな。こんな所にカップルで来たら、占いの吉凶に関係なく、結婚に至りそう。
r249〜r247〜R432〜r53で、16:38「熊野大社」横の「ゆうあい熊野館P」。ここらは八雲町で、神話の故郷に来た感じがします。再び熊野大社・社務所に行き、目をつけていた御櫛を授かります。7/29に生まれたばかりの初孫娘への最初のプレゼントにします。「櫛名田姫のように、素晴らしいご縁に恵まれますように」
『出雲国熊野大社御櫛 熊野大社では、4/13に御櫛祭りが行われます。御祭神素菱嗚尊が大蛇退治なされた時、御両親の許しを得、御櫛を髪にさして稲田姫命と御婚約されたと言う目出度い故事に基いて、摂社稲田神社(稲田姫命を祭る)に御櫛を捧げる伝統ある祭りです。
この御櫛は、それにちなんで、熊野大社で縁結びを祈願したものです。稲田姫命と和楽の家庭づくりをされた素菱嗚尊の御歌「ハ雲立つ 出雲八重かきつまこみに 八重かきつくる その八重かきを」から、幸せの雲を図案化しています』
「ゆうあい熊野館」で食事して、お風呂に入ります。家内を待つ間、再びレストランに入り「かき氷」でクールダウン。お風呂の休憩所でウダウダし、暗くなって来たので、19:43車を「熊野大社P」に移動し、自転車を下ろしてチェーンキーをして、車内に寝床を作り、寝ちゃいました。

8/16
1時に目が覚めた。窓を少し開けて寝たのですが、静かな上に、蚊もいない。最高の寝場所でした。山陰は蚊がいないのかな?あまりに早いので、トイレに行って二度寝。駐車場にトイレが有り、これも便利です。
3時過ぎに目が覚め、もう寝れないと思い、出発準備をします。4:09、出発。r53〜R432〜R9〜r37〜R431で、4:46「一畑電鉄・松江しんじ湖温泉駅」着。駅ロータリーに駐車スペースがあり、ここに車を置く。『映画RAILWEYSの舞台・一畑電車にようこそ』の垂れ膜が下がっています。僕らもその映画で、この電車と沿線を走りたくなった口です。自転車を出して前輪をセットします。
「宍道湖サイクリングロード」を出雲大社に向けて出発です。宍道湖湖岸道路と一畑電車沿いを走るので、道は簡単です。5:27、出発してすぐの宍道湖湖岸に出る。「電車、来ないかなあ」と思いながら、線路に沿うR432を走る。
5:36、「ローソン松江浜佐田町店」で、バナナパック266円を補給食として購入。僕はドーナツ「フレンチクルーラーカスタード&ホイップ・130円」、家内は「オールドファッション黒糖・100円」で朝食。
宍道湖の湖面に薄霧がかかり綺麗。小型漁船がすぐ近くに出て、しじみでも採ってるのかな?6:06、「PINARELLO」ショップがあった。最新ロードバイクが展示されている。そう言えば、「松江しんじ湖温泉駅」横に僕らが乗ってる「GIANT」のプロショップがあった。
6:17「旭ヶ丘駅」。6:21「運転免許センター」。6:30、電車がやってきたのでムービー。6:41「道の駅・秋鹿なぎさ公園」でトイレ休憩。ここはキャンプ場併設で、貸カヌー・ヨットがある。キャンピングカーが停まっていた。割合静かだから、寝心地が良いかも。
7:44「一畑電鉄・一畑駅」。ここまで約20km。ここから電車に乗ります。駅員さんに、「自転車をたたまずに乗れるか」聞いたらOKでした。でも1台310円。この駅にはスイッチバックがある。てっきり勾配があるのだと思ったら、平地のままです。同じ方向に向かうのに、電車を逆に走らせる必要があるのだろうか?
切符を買いプラットホームに入ったらすぐ電車がやってきて、運転手さんが元の先頭車両の前から降りて、元の後方車両(2両連結)の後ろに移動した。僕らは慌てて自転車を転がしながら乗り込む。乗ってしばらくして気づいたのですが、メガネがない。落としちゃったみたい・・・困ったな。
7:58「雲州平田駅」。殆どの駅は無人駅なのに、ここは車両庫などがあり、大きな駅です。車両庫を見ると、映画のロケに使われた場所だと想い出す。家内とひとしきり盛り上がった。そう言えば、朝イチでやって来た電車を見て、「中井貴一さんじゃなかった〜」と、家内が笑ってました。
8:11「川跡駅」。ここで、大社線に乗り換えです。一畑電車は、いろんな形の車両が走っています。色もバラバラです。大手電鉄会社を引退した車両のセカンドライフ担当のようです。車内を見ていると、こんな表示板が・・・
『車両のご案内 2100系(元京王電鉄5000系) この車両は、東京の京王電鉄で活躍していました。1963(昭和38)〜1969年(昭和44)にかけて製造され、通勤電車としては、日本で初めて冷房を導入した車両です。一畑電車には1995年(平成7)に移籍し、ワンマン化改造して走り始めます。元は3扉でしたが、2扉化し座席が増えています。また京王電鉄と一畑電車では線路の幅が違うため、台車を東京地下鉄から導入しています。同じ型の電車は、富士急行(山梨県)・伊予鉄道(愛媛県)・高松琴平電鉄(香川県)でも活躍しています』
8:18「高浜駅」。ここで下車。近くの幼稚園園庭に、電車があります。園児は楽しいだろうな。8:22「粟津稲生神社」。『・・・最近では、全国にもあまり類例のない参道を横切る電車が話題となり、北山の緑を背景にした赤い鳥居と黄色い電車、これに白い雪景色との対比などとマニアの間に、写真撮影の好スポットとして広く知られるようになった』。僕も、それを見にやって来ました。そして僕らの他に降りた1人の男性客も、撮影しています。好きだね・・・
A4ファイルに挟み、ブレーキワイヤーにクリップした地図を見ながら、「旧JR大社駅」を目指します。途中でバナナを補給しながら、野生の勘で適当に走って、9:11「大社駅」。
『重要文化財旧大社駅本屋1棟 国鉄大社線は山陰線の支線として、明治45年(1912)に開通しましたが、そのときの駅舎は今の半分ほどの大きさでした。大正2年(1913)、出雲大社神苑から神門通りが貫通し、出雲大社から駅までを直結するルートができました。一方、国鉄山陰線は大正12年(1923)に京都から益田までが全通し、出雲大社への参拝者も爆発的に増え、駅舎も手狭になりました。そこで出雲大社の表玄関としてふさわしい建物へ改築しようと、同年9月に起工、12月に上棟式を行い、大正13年(1924)2月13日に竣工したのがこの駅舎です。
建物のデザインは、駅舎全体に入母屋の大屋根を架けるなど、調和の取れた和風表現に特徴が見られます。中央待合室は屋根を高くし、高窓を設け、左右対称の美しい建物です。和風の外観に対し、構造は西洋風で、屋根裏の仕組みには、部材をΞ角形に組みきわせたトラス構造を採用しています。
駅舎は木造平屋瓦葺きで、柱などには台湾産などの檜が使われています。壁は漆喰仕上げですが、腰から下は縦板張りです。中央は、高い天井の3等待合室があり、照明器具や料金表、時刻表は趣があります。1・2等待合室の天井に抜けている剖分があるのは、ストーブの煙突の痕跡です。
左手には事務室、その前面には皇族などの貴賓室としても使用された応接室が設けられています。大待合室中央に出札室があって、昔の切符売機、電話機なども置いてあります。その両側に木製の改札□があり、駅舎の南側には後に付設された石製の団体改札口があります。
駅舎には所々に造作の遊び心が見え、屋根には亀の瓦がいくつか載っていますし、線路へ降りる鉄板にはウサギを見ることができます。
この大社駅開業により、出雲大社への参拝客は増え続け、昭和35年(1960)には、1日2000人を超える人が利用していました。しかし、その後は自動車の発達により乗降客が減少し、平成2年(1990)の大社線廃止により、大社駅はその使命を終えることとなりました』
線路には、D51機関車が1両だけ佇んでいます。駅長室と思われる場所に、レストランがありましたが、まだ開店時間前です。
9:31、出雲大社の白い大鳥居をくぐります。宮前通商店街を見ながら、ゆっくり走ります。レトロな建物の「一畑電鉄・大社駅」があったので、駅員さんに「一畑駅でのメガネの落し物の有無」を尋ねました。駅に問い合わせてくれ、「保管中」とのこと、ラッキー。12時頃、帰路の電車で受け取りに行くことを伝える。
下り参道前の大鳥居で激写タイム。駐車場に自転車を置き、8:48「神楽殿」。しめ縄が巨大です。境内の高い柱のてっぺんに大きな日の丸。僕の生まれた頃のように、日の丸が家々に掲げられる国になってほしいな。
冷風機があったので一休み。拝殿に参り、本殿を臨む八足門に詣る。大勢の人です。本殿を囲う回廊外側を時計回りに巡り、社務所で「縁結び絵馬」を授かる。出雲大社は、両親にドライブで数度連れて来てもらった以来です。もっと高床だった記憶があるのだが、自分が大きくなった分、大社建物が小さく見えるようになったようだ。
大注連縄の下にお賽銭を挟むのをしようと思ったら、細い網が掛かっていて出来ず。あまりに多かったからでしょう。「ポケモンGO禁止」案内板もあったし。駐車場前のベンチで、補給食最後のバナナを食べ、お店に入りかき氷でクールダウンします。
自転車に乗り、「祖霊舎」「出雲国造・千家国造館」を巡り、駅に向かう。「一畑電鉄・大社駅」に着き、輪行袋に入れていると、雨がポツポツ落ちてきました。ギリギリセーフ、ラッキー。念のため、「輪行袋に入れても自転車料金が必要か」聞くと「必要」との返事。アンラッキー。切符を買っていると、出発ベルが鳴り、駅員さんが「乗りますか?」と聞きに来てくれた。「乗りたいけど、まだ自転車切符が・・・」「乗って下さい。下車駅で料金を払って」と乗車駅証明紙をくれた。慌てて駆け込みます。待っていてくれたようで、お姉さんが「自転車はここにくくって下さい。出発します」だって。
「川跡駅」で乗り換えます。『この電車の塗装は、昭和45年(1970)〜平成18年(2006)まで36年間、一畑電車の標準色として親しまれてきました。旧型車の引退による京王電鉄・南海電鉄からの車両導入以降は、黄色と白を主体とした新しい塗装になりました。この度、一畑電鉄100周年記念事業の1つとして、クリーム地に青帯の塗装を復刻しました。またこの車両で使用している「つり革」は、デハニ50型などの旧型車両で40年代頃のレトロな雰囲気を再現しました』
一畑駅で、駅員さんにお礼を言って、メガネを受け取る。
12:29、「松江しんじ湖温泉駅」に戻ってきました。外は、本格的な雨です。13日の天気予報では、夕立以外の雨は振らないはずだったのに、台風の影響かな?輪行袋から自転車を出して、車に積み込みます。駅ロータリーに停めておいて良かった。サイクリング総走行時間2:20:33・距離28.93km・平均12.3km/h・最高31.6km/h。
12:39、帰路に着きます。当初、往路同様、米子道〜中国道ルートを予定していたが、山陰高速道路が鳥取まで通じているかも?と思い、偵察も兼ねて鳥取経由にルートチェンジ。高速道路は、鳥取道手前の「白兎海岸」までで、土砂降りの大雨区間などで、40km/hで走ることもあり、米子道経由でナビが示した16時台帰宅予定が、20時台帰宅予定になりました。
16:04、「宇佐美・9号鳥取店」で給油。鳥取道〜中国道で、宝塚トンネル渋滞12kmを通過し、20:17帰宅しました。ああ、楽しかった。
翌朝、毎年いただく出雲大社の板御札を神棚から下ろして見る。裏に、「幸魂奇魂守給幸給」と書かれている。祝詞だけど読みがわからず知らべてみた。
『祝詞に当神社の鎮魂詞(いのりのことば)、「幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)守給(まもりたまえ)幸給(さきはえたまえ)」を神職が三度唱えますので一緒に唱えてください。
神語の起源は日本神話にある。大国主大神が困難に直面した時、海のかなたから、光る神が近づいてきた。それが「幸魂奇魂」(さきみたまくしみたま)であった。 大国主大神は、「幸魂奇魂」の存在を知り、そして自分自身の中に潜む「幸魂奇魂」の霊力により「縁結びの神」になられた。 「幸魂奇魂」の「幸」(さき)は、「咲き」や「裂き」であり、増殖や分裂である。 「幸魂奇魂」の「奇」(くし)は、「串」や「櫛」であり、「整え」や「統一」を意味する。 「幸魂奇魂」は「分化繁殖」したモノを「整え統一」させ、大国主大神の道に神習い、明るく和やかな日々が送れるということを意味する[1]。 「神語」すなわち「幸魂奇魂守給幸給」(さきみたま くしみたま まもりたまえ さきはえたまえ)の神語は通常は三唱するが、非常にゆっくりと、また独特な節回しで唱える。 また神事では神職や参列者も神語を声に出して一緒に唱えることが多い。なお、出雲以外でも大国主大神を奉斎する神社が神語を用いる例もある』

2016/8/5
この日、長男一家が4月に生まれた長男の次男の初宮参りの為に帰省します。この1週間、家内は、彼らが泊まる実家内部掃除・食材・おむつなどの用意をし、僕は庭を含め外装の掃除をしました。
昼休みに、トヨタに行って洗車してもらい、ホームセンター・コーナンでプラスチックトランプ・508円を買いました。嫡孫3才が、数字を覚えたので、神経衰弱とかババ抜きとか出来るかもしれません。
仕事を早めに切り上げ、19:30に自宅に戻り、20時過ぎに伊丹空港に、お迎えに行きます。お嫁さん・嫡孫3才・次男4ヶ月は、新潟空港からのフライトで、20:25着。長男は羽田から、20:35着です。
駐車場に車を置き、自宅を出発する前に、雷鳴と雷雨があり、到着が遅れると予想して到着ロビーに行きましたが、予想通り15分遅れ表示です。20:36、スカイコンビニ北到着店で、アイス140円を買ってクールダウンします。結局両機とも、21時到着になりました。お嫁さんの新潟便は、ランディング順番待ち旋回中に、燃料切れの場合は、関空に着陸しますとの案内が流れたそうです。
嫡孫くんは、1週間ぶりのパパなので、大喜びです。長男の大きなトランクに乗せてもらい、ごきげんです。でも段差にタイヤが上がれず、前につんのめりそうになりました。ここで落ちずに、とっさにトランクをつかんで、運動神経の良さを見せてくれました。「20:24〜21:19・大阪国際空港駐車場・210円」。
自宅に息子たちを下ろし、翌日の墓供養花を買いに行きました。21:55、関西スーパー・久代店、ヨーグルト158円×3=474円+墓花563円×2=1126円その他。帰宅すると、遅いので寝ると思ってた嫡孫・遼くんが、「遊ぼう」と呼んでくれました。15分ほど遊んで、開放されました。

8/6
我が家と家内の実家のお墓参りをします。無事に次男が生まれたお礼と、これからの加護を、ご先祖様にお願いします。8時に自宅を出て、加古川の家内実家お墓に向かいます。土曜日なので、中国道側道が混んでいます。
宝塚ICから中国道に乗り、宝塚トンネルで渋滞は解消し、中国道〜山陽道は快調です。三木SAでトイレ休憩しますが、朝から灼熱の太陽が照りつけています。三木・小野ICで下車し、9:53「日光山墓苑」でお墓参りします。遼くんは、バケツの水をお墓に掛け、線香置きをタワシで洗いながら、水遊びです。
次男・航くんは、まだ100%母乳ですが、後ろの席でお嫁さんから母乳をもらっていました。運転していても、後ろからグビグビ・ぷはーみたいな音が聞こえ、素晴らしい飲みっぷりです。生まれた時も、遼くんより1kg近く重い3500gで生まれましたが、4ヶ月で既に8kgになっており、ぐんぐん大きくなっています。家内がプレゼントしたロンパースが、既にはちきれそうで、嬉しい誤算です。お墓参りを済ませ、「次、飛行機」と催促する遼くんをなだめながら、次は猪名川町の我が家のお墓です。山陽道〜中国道で神戸三田IC下車。新三田〜r37〜r323〜r319〜r12で、11:34お墓到着。また遼くんが活躍し、楽しくお参りしました。
r12〜r319〜r33で戻り、「西谷農協・大池」の釣り堀横レストランで、昼食にします。鯉釣りも予定していましたが、あまりの暑さに、止めておきました。
次は、新幹線です。r33〜R176〜r337で、仁川競馬場横。長男は、友達の親の影響で競馬場に中学生から、この競馬場に行っていました。馬券は買いませんが、それ以来競馬好きで、遼くんが2才になってから、家族で競馬場に行くようになりました。無料遊園地と化しており、家族で楽しめるそうです。
13:47、新幹線・六甲トンネル入口上の公園。家内と下調べした時は、10分で3本だったのですが、この日は山陽新幹線線以外に、九州新幹線車両も通り、遼くんを大喜びさせる事が出来ました。そして意外にも、甲東園駅から並走した阪急電車に大喜びでした。ワインカラーの阪急電車は、落ち着いた色合いで、全国区の鉄道ファンの人気が高いそうです。東京に住んでいた遼くんも、パパには日常の阪急電車が幻化されており、その実物が見れて良かったです。
一旦伊丹の自宅に帰宅し、少し休憩し、遼くんが前回やって来た時に連れて行ってお気に入りになったポイントに向かいます。17:06、大阪空港千里川ポイント。真上を低空でランディングしていく飛行機が、次々とやって来ます。JAL〜ANA〜と大喜びです。
ところが、真上をかすめたANAボーイング777の迫力に負けたのか、突然の「うんち〜」です。えらいこっちゃ〜。僕は車まで走ります。みんなはゆっくり来ればいいのに、遼くんが僕を追いかけたそうで、うんちが出てしまわないかハラハラだったそうです。車を動かし、みんなを乗せ、近くのコンビニを目指します。トイレを拝借するだけは申し訳ないので、17:35「サンクス豊中原田店」で、「飲むヨーグルトブルーベリー130円」購入。家内と2人で飲んでいると、遼くんが戻ってきて「出なかった〜」。
帰宅し、まだ明るいので、自宅前でランニングバイクに乗ります。お正月前に買ったのですが、少し身長が足りず、うまく乗れませんでした。今度は乗れるようになり、歩きバイクで楽しみます。OGKのブルーのヘルメットと膝当てがかっこいい。僕の4輪草刈り腰掛けマシン「草刈正雄くん」も出してきて、2輪&4輪です。少し暗くなって来たので、近所の公園に向かいます。18:36町内会盆踊りです。家内が長男にパンフレット&タダ券100円×10=1000円分を渡すと、「お母さんいくら寄付したの?トップに名前が載ってるやん」と、驚いています。我が家は高額なのかな?親父の代から、欠かさず寄付してるからか?そういえば、いつもトップに名前が載ります。うちの名の提灯も下がってます。
かき氷100円買って、焼きそば200円食べて、フランクフルト100円食べて、スーパーボール釣りなどして、タダ券を使い果たして帰路に着きました。いつもタダ券を使わないままなのですが、今年は少し取り戻せて良かった。
長男が肩車して踊り、遼くんに盆踊りを踊らせようとしましが、慎重派の遼くんは踊りませんでした。遼くんは何事も慎重で、男の子なのに、甥っ子に比べ怪我が少ないそうです。
航くんは、おとなしいです。むずがることもあまりなく、育てやすいそうです。僕が抱っこしむずがっても、やって欲しいことがわかります。寝かせて抱っこしてむずがると、起こして縦抱きしたらニコニコです。既に夜は6時間寝るそうで、お嫁さんも楽だと言っています。

8/7
早朝自転車に出ました。41:07・走行距離9.54km・平均速度13.9km/h・最高速度30.7km/h。空港を見ながら猪名川土手を走る定番コースです。帰りに、氏神様・「臂岡天満宮」に寄って、宮司さんの長男さんに挨拶しました。
お宮さんの娘と僕は、小学校の同級生です。2つ上のお姉さんとも、ここの境内でよく遊びました。長男と次男の名前を考えてくれた宮司さん・お父さんが亡くなり、お姉さんが宮司をやっていました。初宮参りの予約電話を入れたら、長男さんが出られました。長男さんに、その辺を伝え、祝詞に気合を入れてもらおうとの算段で、前もっての挨拶です。
お昼はみんなで自宅そうめんと決めたので、家内に言われコンビニに、刻みネギとハムを買いに行きます。
10時に予約していたので、9:30過ぎに自宅を出て、遼くんの歩くペースで9:47境内着。手水を使いますが、遼くんは慣れており、パパの言葉に従って、身を清めます。「お金〜」というので、お賽銭を渡し、2人で拝殿に向かいます。抱っこしてお賽銭を入れ、ガラガラを鳴らし、2礼2拍手1礼をします。遼くんは何度も経験があるので、それなりに様になっています。
長男さんが宮司装束で出てこられ、涼しい社務所に入れてもらいました。長男が、家内の用意した初穂料10000円をお房から出して、宮司さんに納めます。初宮参り本人の住所を書く段になり、長男が困っています。長男は4月からアメリカに単身赴任中で、4月に航くんが生まれたお嫁さんたちは、新潟の実家暮らしです。9月からは一家でアメリカぐらしなのですが、何処の住所を書くのか・・・我が家の住所を書きました。宮司さんに渡す時に聞くと、祝詞に住所を入れるそうで、事情を話すと新潟の住所になりました。
10:02、初宮参り神事が始まりました。家内が真ん中で、主役・航くんを抱っこして座ります。それを挟んで長男とお嫁さん。遼くんはママの横で、その横に僕です。長男側は、弟夫婦と姪が座ってくれました。遼くんはTPOをわきまえるので、神妙に頭を下げて、僕の隣の床几に座っています。つまらなくなるといけないので、時折顔を覗き込んで、ニコニコし合います。
坊さんの法要も厳かでいいですが、宮司さんの神事・祝詞も好きです。太鼓で始まり、お祓いを受け、10:23無事終了。宮司さんから、ありがたい言葉を頂戴します。撤饌などの説明も。拝殿に出ると、宮司さんがカメラマンに早変わりし、「集合写真を撮りましょうか?」。主役・航くんを抱っこした家内を中心に、7人が横に並び、総勢9名の笑顔です。「航くん、健やかに育ってね」。
その後は、僕が主役を抱っこする家内の横に行きカシャリ。遼くんが加わり、パシャリ。弟一家に抱かれてパシャリ、長男一家でパシャリ、姪に抱かれてパシャリ・・・。
一旦自宅に戻り、家内がそうめんと格闘します。1人2束として、15束ゆでます。僕が用意した鯉のぼりを泳がせます。遼くんが生まれたのを機に、長男・次男が子供の時使ってた鯉のぼりを処分し、新たに買いました。同じメーカーの青鯉1.5mを航くん用に追加しました。長男と遼くんが、協力して上げました。5月は出産直後だったので帰省しなかったので、季節外れの鯉のぼり初めです。
11:30に実家で食べ始めます。お嫁さん実家からお中元で頂いた味噌漬けお魚も、焼いてくれました。遼くんは、お気に入りのレゴブロックで遊びます。いろんな作品を作り、楽しませてくれます。
13時を過ぎたので、みんなで写真館に向かいます。13:35「スタジオアリス」。予約していましたが、前回GWの遼くんの「初宮参り」の時のような混雑はなく、予約は要らなかったかも?全員集合写真、僕らジジババも含めた写真、長男一家写真、主役ソロ写真、主役ヌード写真と次々に撮っていきます。なんだかんだ、18000円。でも遼くんの時はもっと払ったような・・・。今回は、お嫁さんが支払っていました。
ここで、弟一家とは解散です。ありがとうね。姪は流石に女の子、赤ちゃんが可愛くて仕方なさそう。遼くんも航くんも、姪には頭が上がりませんね。ここでも主役は、鳴きもせずスムーズでした。あまりの元気さで、上から掛けたブルーの着物を蹴ってしまって、写真館のお姉さんを困らせていました。でも泣いてるよりずっといいね。
喫茶店に行くことになり、車を走らせましたが、「ガーン」指定方向外進行違反でパトカーにお縄になりました。入りにくい喫茶店で、駐車場に停めたら横にパトカーがいました。「ここねえ〜」、標識見落としでした。あ〜、これで5年間無違反だったのに、またゴールド免許への夢が絶たれました。生涯に一度はゴールド免許になってみたいよ〜。
一旦帰宅し、レゴブロックやトランプで人遊びして、19時になったので、「びっくりドンキー」に向かいます。僕は、次男のジュニアヨットクラブ仲間と、1〜2度入店したことがありますが、怪しい内装なので家族で入ったことがありません。家内は初めてでした。遼くんは、お肉が好物のようで、ご飯ももりもり食べていました。
おいしく頂き、帰宅して解散です。長男に言われ、僕のPCを持って行き、僕のカメラと長男のカメラデータをPCに入れ、長男一家用にグーグルのクラウドにアップしていました。お嫁さんと共有しているようで、いつでも見れるそうです。長男は渡米後、自分のPCにダウンロードするのでしょう。
今回は、2週間の日程で、日本に出張してきました。帰国日にそのまま新潟の家族に会いに行き、最初の週末に再び新潟に行って過ごし、この週末は我が家にやって来ました。出張の大荷物なのに、会社用PCしか入れていないようです。

8/8
お嫁さんと子どもたちが、新潟に帰る日です。朝6時半から、次男の要望でゴソゴソ動き、帰宅したら僕らの家に遼くんがやって来て、レゴブロックとトランプで遊びました。
「帰るよ」とパパがやって来て、「新潟に帰らない」と駄々をこねています。「トランプやってるの〜」と言いながら、トランプを片付け始めているのが可愛い。3才なのに、おもちゃを片付ける週間がついています。僕らに対して「おはようございます」とか、レゴの人形さんに「お兄さん」と名前をつけ、やたらと丁寧に喋りかけています。敬語なんて何処で覚えたんだ?お嫁さんに聞くと、特に教えていないのだけど、こういう言葉遣いが好きなようです。それと、玄関に上がると靴を揃えます。同年代の子がいる元同僚に、驚かれるそうです。
長男がみんなを車で空港まで送ります。僕はバイクで、後ろを少し走りましたが、右のストップランプが切れています。すぐにトヨタに電話し、在庫があるか確認しました。この手のものは、常時在庫のようです。
長男は、明日伊丹から成田に飛び、そのままニューヨーク便で帰るそうです。でも今夜は友達と飲み会だそうです。長男と子どもたちの洗濯物は、家内が洗っていました。長男のパンツとシャツは、「TOMMY HILFIGER」というブランドでした。
航くんのヨット柄ロンパースはユニクロでした。ユニクロってロンパースも作ってるのですね。

2016/7/31
7/29(金)に、次男に初めての子・女の子が生まれ、土曜日も含め、電話やメールが飛び交いました。僕ら夫婦にとっては、3人目の孫ですが、生まれた興奮にくわえ、体重1900g・身長44cm(長男2650g・48cm、次男2580g・45cm)の低体重によって、産婦人科病院から出産後1日で念のため救急車で小児科医が常駐する大学付属総合病院に搬送されるという心配が加わり、怒涛の2日間でした。
長男・次男の出産同様、出産予定日1週間前の39週までお腹の中だったから、その他は異常なく、2300gになってから退院だそうです。数年後には、「そんなこともあったね」という思い出になるでしょう。
この日、家内が仕事の会合だったので、1週間前に時間切れで走れなかった「大台ケ原」と「サンギリ峠林道」を、バイクで走りに行きました。
目を覚ますと、窓の外が少々明るいです。遅れ気味ですが、コミネメッシュプロテクター上下を着て、カメラを2台持ち、前回同様の用意をしました。バイクも、「招き猫CB400SB」です。
4:49に出発し、中央縦貫道を走り、吹田から近畿道に乗り、南阪奈道路〜大和高田バイパスで橿原。ここからR169で南下し、6:01、高取町のファミリーマートで、チョコバリ129円+手巻き辛子明太子138円を買うところまで一緒です。1週間前より遅いので、店内でアイスを食べました。
そこから、R169を南下し、r222でショートカットし、吉野川沿いR169に合流。吉野宮があった「宮滝遺跡」を探索しようと、近くに差し掛かった時にゆっくり走りましたが、国道に特に案内はありませんでした。適当なとこで枝道に入り、「ここかも?」と思った道があったけど、面倒になってそのまま吉野川を渡りました。対岸の枝道に乗り、道なりに再びR169に合流しました。
6:47、「大滝ダム」。ダム下流の川は、巨岩が綺麗な水に洗われる景色が素敵です。写真を撮っていると、ロードバイクが追い抜いていった。その後また追い抜いたが、寄り道や写真のたびに抜かれるので、これで3度目の追い抜きです。大迫ダムを過ぎ、ループ橋を含めたトンネルエリアで、旧道に入ります。1週間前、R169を走りながら、「これは旧道入口?」と思われるトンネル前の分岐を、いくつか確認しました。入口があれば出口(再び合流する部分)があるはずと、トンネルを出てから目が探します。TM(ツーリングマップル)にも旧道表示があり、走ってみようと思っていました。
落石が増え、穴ぼこもありますが、スピードを出さなければ問題ありません。ブルドーザーで寄せられた土砂の山があちこちにあるので、不通になった道を応急に通しただけで、そのままになっているのかもしれません。
7:22、小さな滝で休憩。もちろん誰も走っていない旧道なので、はるか下を流れる伯母谷川(吉野川の支流)へ急流で流れていく滝の水を目で追って楽しむ。至福の時間です。
7:25、R169ループ橋が、遥か上で弧を描いています。高低差が相当あるので、合流するまでかなり上がらないとダメそう。谷を隔てた山が美しく、激写タイムを入れながらのんびりと走る。
やがてR169に合流し、すぐにr40・大台ケ原アプローチ道の分岐がやってきて、躊躇なくそちらへ。いきなり怪しげな林道になり、ゆっくり登っていく。7:44道がマシになり、土砂崩れを修復したのか、谷側の木々が払われ、眺望がきくとこで激写タイム。R169との分岐で、すでに標高750mあるので、眼前の山も高度感が半端ない。
7:53、また眺望の利くとこで激写タイム。こういうことが出来るのが、バイクの特権です。1週間前に走った「大峯奥駈道」に連なる山脈が、ドーンとそびえている。意外に切り立っている。TMを見ると、大普賢岳かもしれない。
7:56、更に高度を増したが、大峰の山脈からは離れている。8:21、「小処峡」への分岐。「日帰り小処温泉・大人700円」の案内板がある。大台ケ原からの帰り客を誘引しているようです。サイクリングロード「ならクル・上北山ルート・北部一周コース」に設定されているようで、温泉の方から大台ケ原への道が表示されている。
ちょうどロードバイクが上がってきて、大台ケ原の方に曲がっていった。少し前に追い抜いた2台のスポーツバイクのすぐ後ろに続いた。2台のスポーツバイクの1台はマウンテンバイクで、前かごにワンちゃんが乗っていた。標高1600mの大台ケ原駐車場まで上がるのだろうが、人間業とは思えない脚力です。「9/11大台ケ原ヒルクライム大会により午前中通行止め」の看板が、ここまでいくつも目についた。この道を上がって行く大会があるのですね。ダウンヒルならスピードオーバー事故が多発しそうだけど、ヒルクライムならスピードが遅いので安全かもしれない。「小処温泉・12km」。
眺望を楽しみながらゆっくり走り、時には激写タイムしながら、8:29、「大台ケ原・駐車場」到着。道中、追い抜いていく車も数台だったので、ガラガラだと思ったら、意外に6割方駐車場が埋まっていた。
鳥居マークの「大台教会」の案内板。お食事処もある。家内と大台ケ原を歩きたいと思っているので、その下見をしましょう。「大台ヶ原ビジターセンター」というのがありました。大台ケ原の自然を紹介した室内展示を見ます。
去年の月別天気表がありました。晴れた日は5月は22日・6月7・7月15・8月23・9月18・10月25・11月15です。5月・8月・10月が多いけど、10月は紅葉で混むので、8月に避暑を兼ねて来るのがベストのような気がする。5月はまだ寒いんじゃないかな?
登山届ボックスが有りました。その上に、「行方不明の方」が写真入りで紹介されています。どうされたのだろう・・・
受付に行くと、2人のお姉さんが、散策地図を見せて丁寧に教えてくれます。家内に見せたいので、写真にとっていいかと問うと、「写真はダメ、10円で買って」と言われました。パンフレット置き場に地図がなかったから、配っていないのかと思った。買えるんなら問題ないので、10円でいただく。
バイクに乗り、下ります。最初は緩やかな尾根道で、やがて勾配を増し下り始めます。9:09、往路で止まった分岐。「ならクル」指定のサイクリング道「林道・辻堂山線」を下ります。
ロードバイクが上がってきます。女性もいます。こちらは道が狭いので、車が少なく、自転車が多い。9:18、植林のためか、森林伐採されているところで休憩。ローディーに挨拶しながら、激写タイム。
9:37、r226に合流。左折すると、「小処温泉2km」と「くらがり又谷の滝3km」です。直進はR169・7km方向に、川沿いを下ります。水がとても綺麗。
9:56、「後南朝史跡・南帝山瀧川寺」の大きな看板と、謂れ板に惹かれてストップ。『南天皇様の話 吉野朝から京都北朝へ神器が渡され、南北朝が合一する。しかし後南朝悲話は、ここから始まる。北朝が、南北朝合一の盟約(10年毎の天皇交位)を守らなかったことに、南朝後亀山天皇は抗議するが、京で亡くなる。嘉吉3年、吉野朝勢が京都御所に乱入し、神器を強奪する。これを手にした空因(亀山天皇の孫)が、2人の王子を連れて、大台ケ原から北に流れ出る谷「三之公」で楠党などに守られながら宮を営む。空因が亡くなり、神器は一の宮に引き継がれ自天皇と称され、伯母峰を越えて瀧川寺に篭もる。山壁に囲まれ、各所に物見台を設け、この仮御所を守った。ここに、幕府に神器奪回と引き換えに主家再興・土地安堵の約束えを取り付けた赤松家残党が、山伏や僧の姿で潜み、遠巻きに迫ってきた。「京に抵抗するため」と、御所へ奉仕の許しを請います。二の宮の勢力と協力し、吉野山の奪回戦に出て、赤松の浪士はよく働き、御所の気を緩ませ、御所内を知るようになります。粉雪の降る夜、豹変した赤松浪士が乱入し、囲炉裏の間で変が起きた。今も御霊屋で法名・「南帝王一宮自天勝公正聖仏」として祀り続けています』
おお〜、嘉吉の変で足利将軍を暗殺し、本拠地播磨を攻められ領国を取り上げられ散逸した赤松家。南朝から神器を取り戻した功績で、播磨他3国の守護に返り咲きます。その戦闘の地がここでした。ラッキー。
早速、川向うの瀧川寺訪問します。前を流れる川は、「小橡川(ことちがわ)」。読めないね。スポーツバイク置きが置いてあります。ロードバイクで訪問する方もいるようです。
「不許薫酒入門内」、禅寺のようです。鐘楼を見に行くと、座敷でお仕事中のご住職がおられたので、挨拶をする。すると、「ようお参り下さいました。どうぞ上がって下さい」と、「お〜い」と誰かに声を掛けています。
小さな境内を見学すると、「北山宮墓 宮内庁」と書かれています。陵墓の様式で、階段が上に上がっています。本殿に戻ってくると、奥様が、「どうぞ参って下さい」と。本殿に上がると、抹茶と羊羹を振る舞われました。ゼリー菓子が皿に盛られ、「一服して行って下さい。階段でお墓に上がってお参り下さい。ご位牌はこちらでお祀りしています」と、縁起が書かれた用紙も下さいました。「いや〜、どうもすみません」。
お抹茶などをいただきながら、縁起を読みました。『奈良時代、役行者の修験道が葛城山系から吉野大峰にかけて盛んになります。吉野龍泉寺が、修験道専門宿坊として開創され、その1ヶ寺が当寺で、「白雲山龍泉寺」となります。平安時代、京都真言醍醐寺の末寺となり聖法理源大師をご開山に迎え、吉野大峰の修験道場となる。鎌倉時代、後嵯峨天皇の退位後、皇位継承を巡って、大覚寺統と持明院統に分裂する。南北朝時代、後醍醐天皇は吉野に籠り南朝を開く。なぜ吉野かというと、大峰修験者を使った全国発信を考えたから。南朝・大覚寺統は南朝に逃れ政治を続けようとした。京都に入った足利尊氏は、北朝・持明院統から新しい天皇を迎える。室町時代、1392年南北朝合一。1428年から対立再燃。1441年嘉吉の乱で、赤松氏没落。1443年北山宮御所となり、神器を奉じ「龍泉寺」と号した。1457年、赤松氏残党に神器が奪われ、南朝終焉』
お賽銭10円では不釣り合いです。お賽銭箱に500円を追加します。1000円の方が良かったか・・・。仏壇には、菊のご紋が入った紫色の布が下がり、太刀がケースに入っています。手を合わせます。縁起を知ると、境内から見える小さな集落の家が、一の宮を守護した兵の子孫に見えてくる。歴史好きの性かも知れません。1週間前、断念した「三之公」と縁起が繋がりました。階段を上がり、赤松氏残党に暗殺された自天皇の墓に手を合わせます。こんなところまで、宮内庁・・・数年に一度は、宮内庁職員がやってきて、陛下の代理供養が行われるのでしょう。きっと集落総出で、準備するのだろうな。
10:29、「北山宮」。祭神は、「北山宮」。『北山宮は、後亀山天皇御曽孫・尊秀王の御子。嘉吉3年(1445)9月、父王が比叡山に死し後、神宝を王子に奉り、吉野北山荘に擁護した。赤松氏残党が、主家を再興せんとし、1454年12月2日夜半、大雪に乗じて丹生屋帯刀左衛門・四郎左衛門兄弟は、北山御在所を犯し、王子を殺して、神宝を奪い、お首を奉持して逃げる。お民これを追跡し、伯母谷にて両名を討ち、神宝・お首を取り返した。無門島彦太郎・上月満吉・中村貞友は、北山郷と期を合わせて、河野宮の御在所を襲い、弟宮を殺し、貞友お首を奉持し逃げるも、お民塩谷に要撃し、お首を取り返す。翌年、神宝は、赤松残党・小寺藤兵衛が持ち去り、京へ入る。遺臣・お民悲憤し、宮を追慕し、翌年ここに祠を建てる。明治35年、吉野神宮外摂社に列せられ、明治45年北山宮御墓所決定と共に、御事跡は癒える。大正11年、村社より県社に昇格し、昭和31年「北山宮」に改められる』
神社前にあった紀伊半島山間部によくある鋼製吊橋を渡ってみる。揺れる〜怖いので、半分で引き返す。この道から「橡谷西ノ谷林道」に入る予定でしたが、怪しい枝道に表示がないのでパスしていたら、どうやら過ぎてしまっているようです。「水分神社」から入る道が正解だったみたい。
仕方なくR169に出てしまった。「不動七重滝」がTMで大きく表示されているので、行ってみることに知る。グーンと南下し、11:18「下北山スポーツ公園」。ここも初めてなので寄り道し、トイレだけ借りる。夕方には家内が帰るはずなので、ここから帰路とする。R169を北上し、「大峰奥駈道・前鬼登山口」表示されていた枝道に入り、四輪離合困難な林道を左右に振られながら上がる。カーブミラーも設置されているのは稀なので、クラクションを多用する。でも交通量は殆ど無い。
11:48、小さな滝で止まったら、滝が見える横に「前鬼山・不動の湯」の看板が立っている。『この冷泉施設は、本州造林KKの許可を受けて村が設置したものです』。看板前の地面に、なんとなく湯船だったであろう痕跡が遺っているだけです。温泉なら、物好きが入りにくるが、冷泉なら人気は出ないだろうな。駐車スペースもないし。
11:58、「前鬼山・不動七重滝」。先客女性2人組に声を掛けたけど、話が弾まなかった。こんなにすごい滝だとは思っていなかった。紀伊半島では、那智の滝に次ぐ規模ではないのかな?ストレートな瀑布・那智の滝より、僕には七段に分かれ、滝壺も素晴らしいこちらの方が、僕には好みです。何気なく訪問したのに、これはラッキーでした。
ムービーを回していると、車が降ってきた。「滝が見れるのは、ここだけでしょうか?」ご夫婦に声を掛けられた。少し手前に、車2台が停まっているところがあったけど、不明なので、「そうじゃないですか?」と曖昧に答える。大台ケ原の夫婦ハイキング下見からの帰りだと告げると、ハイキング夫婦のようで、話が弾んだ。滝の近くまで行ける道があるようで、それを探しているみたい。
R169に戻り、北上します。12:36、「道の駅・吉野路上北山」。川水浴のお客さんがいっぱい。アイス150円を買って、クールダウンします。ロードバイクを積んだ車が数台あり、それなりの格好の男女がいます。別グループと談笑しており、別グループは、ロードバイクに乗り出発した。2Fにはレストランがあるし、橋を渡った対岸には、上北山温泉がある。
13:04、道の駅の北に、GS「吉野郡上北山村河合・大和北山SS」があったので給油。290km/10.99L=26.4km/L。
R169を北上し、TMでは未舗装表示されている林道に入る。和佐又トンネル手前を右に入り、この旧道から分岐しています。新茶屋谷からr40伯母峰峠に通じている。舗装路であることを確認したので、舗装林道好きとしては突っ込まなきゃ。13:21、静かだが谷を隔てて迫る山の景色に、水分補給休憩。
13:28、「猪笹王麗神」。『山の主・猪笹王は、江戸時代初期、天ヶ瀬の里人・射場兵庫の鉄砲により、無念の死を遂げた。怨霊が鬼となり、里人や旅人に祟り、災いをもたらし、近年まで続いた。猪笹王を恐れ、悪の権化と決めつけることが一方的であると気づいた里人や有志は、この地に霊魂を祀り、鎮魂とともに家内安全・交通安全・商売繁盛・難病平癒・諸願成就を祈願し、霊験あらたかなり』
13:41、崩れた「伯母峰隧道」入口があった。r40まで続いていたと想像する。出口を探してみよう。13:45、r40出合。ちょうど、伯母峰トンネル大台ケ原側出口です。トンネルの上に、正式名「大台口隧道」と書かれています。『この先幅員狭小のため、幅2.5m・長さ103m・ホイールベース4.8mを超える車両は通り抜けできません』との看板が、林道側に設置されていました。走ってきた林道は、「ならクル」指定されています。r40を伯母峰隧道入口を探しながら下っていると、13:50ループ橋が眼下に見えるところがあり、緊急停止。
14:23、「道の駅・杉の湯川上」。対岸にも道があります。ああいう道に惹かれます。TMに載ってないけど・・・。バイクが10台ぐらいいます。「山幸彦のおみやげ屋」で、割り箸1242円とアイス140円購入。またアイスでクールダウンです。14:48、先週も気になった「十二社神社」。「十二社神社・式内川上鹿塩神社・天皇神社社務所」と書かれていた。ここの宮司さんが、3社を受け持っているのだろう。天皇神社というのは何処にあるのだろう。天皇を祀る神社は多いが、特定の天皇の名を冠さない「天皇神社」という名の神社は、そう多くないはず。
R169を北上し、往路失敗した宮滝遺跡を探すべく、往路と同じ所を曲がった。そこに謂れ板が立っていた。『上代人のふるさと吉野宮滝 大和は国のまほろば、日本人の故郷と讃えられているように、上代の人たち、飛鳥・奈良時代の宮廷貴族の憧れの地は、吉野でした。古く応神天皇(219)や雄略天皇(460)が、吉野行幸したと日本書紀に見え、天智天皇の皇位継承を巡って、吉野に兵を挙げた(672年壬申の乱)大海人皇子は、後に天武天皇となってからも、この地に行幸して「よき人の 良しとよく見て 良しといいし 吉野よく見よ よき人よく見つ」と詠まれています。この宮滝は、飛鳥奈良時代の離宮のあったところとされ、地下遺構が発掘されています。さらにこの辺りから、菜摘の里・喜佐谷にかけて吉野万葉の中心地であり、現代人が大和を心の故郷と思う以上に、上代の人々にとって、神宿る聖地と考えられていたのではないでしょうか。喜佐谷(象の小川)の奥を見上げると、金峯神社の鎮座する吉野山が望まれますが、昔の人たちはそこに神の姿を認めたのかもしれません。だからこの地を卜(ぼく)として宮殿を営み、天地の神に祈った。そんなことを想わせる宮滝の地です』
吉野宮滝郵便局の前に、今風の四角い赤ポストがあり、局入口に木製の旧式丸ポストがありました。
野生の勘にピンときていた旧道を思わせる民家が両側になる枝道に入った。14:54、ビンゴ!ただの草むらになっているが、遺跡発掘後埋め戻された地のようです。『宮滝遺跡 宮滝遺跡からは、縄文時代早期から弥生・飛鳥・奈良時代の遺構や遺物が多数出土します。これ等の研究から、縄文時代ここで暮らした人々が、吉野川下流域の人々と盛んに交流していたのがわかります。また他地域と異なり、弥生時代になっても稲作を積極的に取り入れない生活を送っていたこともわかっています。この遺跡を有名にしたのは、古代最大の内乱と言われる壬申の乱で勝利した天武天皇(大海人皇子)の挙兵地、持統天皇の度重なる行幸の地として「日本書紀」などに見える飛鳥時代の吉野宮の遺構や遺物です。吉野宮は、斎最明に造営され、持統朝に拡張が行われた。また集落の西側から、聖武天皇によって奈良時代に造営された吉野離宮の建物・石敷き・石溝の遺構などが出土します』
R169を吉野川沿いに西進し、r28〜r37に入り、「新鹿路トンネル」手前の旧道に入ります。くねくねとトンネルの上の峠を上がると、勾配が急になったサイン・コンクリート舗装になった。TM表示通り「ホンマに行けるのか?」と不安になったところで、分岐になり迷う。野生の勘で直進を選ぶと、勾配が急になり、つづら折れを上がったと思われる分岐の一方の道がやって来て合流した。勾配もマシになり、アスファルト舗装でホッとしたら、15:25、「鹿路トンネル」。TM地図では、トンネル同士が交差している。
どうせ誰も来ないと真っ暗なトンネルに突っ込むと、向こうから大きな音を立てて四輪がやってくる。あまりに音が大きく、出口の明かりに見える車の横の水煙にビビって止まる。散水車?道路掃除車?と思いきや、普通の軽四だった。トンネル内で音が大きくこだましていただけで、水煙はトンネル内の水を跳ね上げていただけのようだった。寂しい道に車が来たり、誰かがいると逆に恐ろしい。
15:30、r37に合流。走ってきた道の上空に電線がまたいでいるが、その下に細いしめ縄が下がっている。更にその下に、邪教のまじないのような得体のしれない藁の抽象組みが下がっている。ちょっとおぞましい。呪われた道だったのか?r37を北上し、r155へ左折し、談山神社横を走り、峠を越えて明日香へ下る。
15:43、石舞台横の売店に下がっている「氷」を見つけ、駐車場に入れる。屋台の上に、怪しい人形などが載ってる目立つお店です。明日香でレンタルできる日産の電気自動車MICHIMO・2人乗りが走っている。かき氷・ブルーハワイ250円を購入し、テント下でクールダウンする。「あすか野ログハウス」という店舗らしい。次に入店した女子2人組に、店主が「そんじょそこらじゃ出会えない果肉ソフトクリーム」を勧めていた。
R169に出て北上し、16:15、橿原から「大和高田バイパス」に乗りました。道なりに「南阪奈道路」に入り、ブーンと大和盆地にさよならし、大阪側に出て、16:24「太子IC」。1週間前同様、富田林のPL塔を激写し、自宅まで一気に帰りましょう。
近畿道に合流し、快調に北上していると、摂津方面の上空に2つの雨雲が見えます。「降ってるな」。夏の定番・夕立雲です。夕立は気象用語から消えたのか、最近は「ゲリラ豪雨」などと風情のない言葉に置き換えられているが、僕は夕立が好きです。天気予報士までが、異常気象を連発しているが、熱帯同様、きつい直射日光に当たると地面は熱くなり、上昇気流で水蒸気が上昇し積乱雲が発達し、やがて雨になって元に戻るだけです。夕立で地面が冷やされ、過ごしやすい夜を迎えていいことじゃないか。
陸地が熱くなると上昇気流が発生し、空気が薄くなったところを埋めるように、太陽に照らされても陸地ほど熱くならない海から空気が風となって吹き込む。生駒山西側の大阪平野・門真・摂津は、海風が西風となって吹き込み、それに乗った積乱雲が、生駒山系に当たり雨を降らせる。夏、大阪南部や和歌山からの帰り、ここら辺りでよく夕立に会う。
前方の2つの雨雲の間をちょうど抜けられるかと、良いように予想したけど、ポツポツと降ってきました。16:54、ちょうどICから高速道路への合流部があったので、その最先端でストップして、慌てて車載カメラとGPSナビをリアボックスに収納した。
後続の車の合間を縫って発進したら、次の雨雲の直撃になったようで、ザーザーの大雨になってしまった。夏なので、濡れても気持ちが良いとカッパを着なかったので、メッシュを通って腕が濡れてきた。でもフロントスクリーンのおかげで、胸に雨の直撃がないので、身体は濡れてる感じがあまりない。走行車線の四輪轍が水たまり状態になり、その間の少し高くなってるところを走る。流れの平均時速が40km/hまで落ちた。前の方は、もっと凄い雨だったのかも?
雷様が鳴らなかったので助かった。真上でのゴロゴロ・ピカピカは怖いからね。雨雲区間はすぐ終わり、また晴れ間が戻ってきた。摂津から中国道千里までは、降雨の跡すらなかった。ここからの下りは、西風に乗った雲が豊中・千里丘陵に当たって雨を降らせるので、水たまりが残っていた。
中国道豊中ICで下車し、18時前に帰宅した。タオルでバイクを拭きご苦労様。家に入ると、家内が帰っていた。昼に会合は終わったそうで、隣の実家を掃除してたそうです。実家のタオル干しの不具合を直すよう言われやった。
この日は、CB400SBのシートが硬いので、お尻に優しくしようと、座布団を導入した。メッシュシートカバーの下に突っ込んで走った。「東洋紡ブレスエアー・4cmハード&2cmソフトタイプ2層重ね」です。仕事の椅子に使ったら、とても気持ち良く、バイクもお尻に優しくなったようだ。座布団の大きさは要らないので、ハサミで切ったから、残りでロードバイクのシートに乗せてみようと思う。そのカット作業もした。「里山VTR250」のサイドスタンドステップを大きくする作業もやった。未舗装のところにも安心して置けるように、設置部だけデカくする。どうなることやら・・・

2016/7/24
家内もお休みでしたが、まだ長男一家が帰省するまで2週間あるのに、彼らが泊まる実家の掃除をするそうです。ツーリングクラブにイベントがないので、船に乗ろうかと思い、ヨット部仲間に一斉メールするが、誰も暇じゃない。
ということで、ソロツーリングすることにしました。和歌山・三重県境の中世の山城攻略を計画しましたが、総走行距離500km超えしそうで、家内に言われた「お買い物に連れてって」の時間に帰宅できそうにない。奈良吉野〜洞川の「大峯奥駆道」〜R309みたらい渓谷〜大台ケ原〜ザンギリ峠という、高所山岳道4連発に行くことにしました。総距離は400kmで、距離/速度で単純計算すると12時間。高速道路区間が140kmほどあるので、それで稼ぐ時間を絶景激写時間に当てれば、早朝4時出発で、帰宅が夕方16時なので、買い物にも行けそうです。
目が覚めたら、2:30でした。十津川村の天気予報をチェックすると、「午前中曇り、午後から夕方まで晴れ、気温もそれほど暑くない」という願ってもない気象条件でした。予定より早いけど、二度寝したら予定より遅れてしまうので、出発することにします。
バイク装束に着替え(下着の上に、プロテクターメッシュ上下)、いつものミラーレス一番・ソニーNEX3の他に、パナソニック一眼ルミックスG2も用意する。カメラの2台体制は、宿泊ツーリング仕様です。ミラーレスは首にかけ、ヒップバッグに入れ即応体制で、ルミックスには、45〜200ミリズーム(35ミリ換算90〜400ミリ)レンズをセットしてリアボックス搭載で、あらゆるシーンに即応します。
3:15、「招き猫CB400SB」に荷物を積んで出発。中国道・豊中IC〜近畿道〜南阪奈道路〜大和高田バイパスで橿原に入ります。R169を南下し、4:33「ファミリーマート高取清水谷店」で休憩します。やっと空に朝の気配がするぐらいで、まだ暗い。最も夜明けが早かった1ヶ月前より、30分は遅く朝が始まるようになりました。早起きの僕には、まだ夏真っ盛り前なのに、朝の遅い冬の足音が聞こえます。「チョコバリ・129円」を朝食代わりにします。「味付海苔エビマヨ・120円」を緊急食として確保。コンビニに、『高取城跡 高取土佐町並み 観光案内所・夢創館』と書かれた看板が立っています。家内と城址に登った時、この道を走ったことを思い出します。
「芦原トンネル」吉野川側に出て、r222でショートカットし、吉野川沿いのR169に合流します。吉野川を南に渡り、r15で吉野山に登って行き、5:05「吉野神宮」裏門。表門の方に回り、バイクを停めて参拝しようと思ったら、『日没から夜明けまで参拝停止中 参拝の方は、ここで遥拝してください』との看板が大鳥居の下に置かれています。仕方なく、手を合わせただけで退散。建武の中興を成したが、足利尊氏と仲違いし、京を追い出されて、吉野で南朝を開いた後醍醐天皇を祀っています。
吉野は何度も来たことがあるので、サクッと通過し、主目的の山岳路を楽しむ予定だったのに、これで寺社・史跡巡りの血が騒ぎ出しました。5:18「村上義光公墓」。『村上彦四郎義光は、信州埴科(さらしな)の人で、早くから大塔宮に従い北条幕府と戦いました。1333年吉野城が落ちた時、大塔宮の身代わりとなって、蔵王堂前二大門の高櫓の上で腹を切り果てた。義光を検分した北条方が、大塔宮でないことを知り、ここに捨てたのを里人が弔って墓とした。義光の子・義隆も、父とともに死のうとしたが、大塔宮を守って落ち延びるよう諭され、高野山に向かう途中、追ってきた敵と戦い、ここから2kmほど隔てた山中で討ち死にした。義隆公の墓は、勝手神社の南西1kmのところにあります。忠魂碑は、1773年大和高取藩士・内藤景文が義光の戦功を讃え建てた』
太平記の名脇役です。後醍醐天皇が、鎌倉幕府転覆を図って、笠置山に籠もって敗れる。この時、楠木正成などの地方豪族や悪党が参集する。笠置山が落ち、後醍醐天皇が最も信頼した皇子・大塔宮をサポートした赤松などと行動をともにする。太平記では、大塔宮が十津川山中を逃走中、土豪に「幕府への面子を立てるために錦の御旗を寄越せ」と対立した時、赤松の策「兵の消耗を防ぐためにも旗を渡そう」に決し、御旗を渡して難を逃れる。大塔宮に合流しようと追っていた義光は、豪族が御旗を持っているのに驚き、大立ち回りでそれを取り戻し、大塔宮に追いついた。豪族は、あまりの怪力に驚いて、御旗を返した。ということが、太平記に書かれています。
階段で上がった所に、石囲いされた宝篋印塔が立ち、横に忠魂碑がありました。五月人形鎧が墓も前に置かれています。信奉者が、立派に息子が育ったお礼に奉納したのかな?なんて、想像しました。
墓の隣の曲輪は、「蜂の薬師堂跡」。明治の初めまで、大きなお寺があったそうですが、廃仏毀釈の難に遭って壊され、本尊の薬師如来は行方不明になったそうです。不動明王石像は、如意輪寺境内に移されているそうです。
5:27、無料駐車場。写真を写していると、犬のお散歩の方2名が通り、挨拶を交わす。観光客で飯を食っている方だろうから、愛想はとても良い。「下の千本」中心に展望台があり、曇った空を眺める。下界の近鉄吉野線の電車が走る音が聞こえる。始発かな?
何度も通ったことのある小さな橋の横に、謂れ板を見つけ停車。『大橋と呼ばれる橋は、形こそ普通の橋ですが、橋の下に川が流れていませんし、地形の最も高い所にあり、両側が谷になっています。これは1333年、大塔宮護良親王が北条幕府方に対し、吉野城に籠もった時、空堀に掛けた橋です』。橋から両側を見て、階段を下に降り、堀切構造を確認した。
5:49、「吉水神社」前。ここは、源義経が静御前と隠れ、後醍醐天皇の時代は南朝皇居であったりした歴史上重要な場所です。僕的には金峯山寺以上に、吉野一重要なポイントですが、沿道から少し離れ、駐車場もないので、パスしていました。朝早すぎて内部は見れないと思うけど、観光客ゼロの早朝なので、バイクを置いて徒歩で行ってみます。案内板に、「秀吉と家康の花見会場」とも書かれていました。一旦20mほど谷を降りて、登り返す地形でした。自然地形の堀切で半独立しているのが、皇居に選ばれた理由だと思いました。
『世界遺産 南朝本拠 吉水神社 開門9時・閉門5時』
『元は吉水院といい、天武天皇白鳳年間に、役行者が創建した格式の高い修験宗の僧坊でした。明治時代の神仏分離で、後醍醐天皇の南朝皇居であったことから、「吉水神社」に改められました。文治元年、兄頼朝の追手から逃れた源義経と静御前が弁慶らとともに隠れ住んだ。悲運の英雄と佳人の悲恋物語を後世に伝えてきた数々の遺品が、遺されています。延元元年、後醍醐天皇が京・花山院から行幸され、吉水院宗信法印の援護のもと南朝を開かれ、南朝4代57年の歴史が始まる。現存する南朝唯一の行宮。文禄3年、豊臣秀吉が吉野で盛大な花見の苑をした際、ここを本陣として数日滞在した。歌の会・お茶の会・お能の会などを開いて、権勢を示した。また日本最古の書院として、ユネスコ世界遺産に登録された。義経・後醍醐天皇・秀吉、それぞれの時代の遺品や宝物が、書院内に展示されています。
「十字の詩 天勾践を空しゅうすることなかれ」。元弘の変に敗れ、隠岐に流される途中の後醍醐天皇へ、児島高徳が桜の木に刻んで贈った詩です。この十字の漢詩を後世に大切に残すため、吉野行宮の門前に掲げています』
護送中の後醍醐天皇を奪い取ろうとつけ狙った備前の児島高徳のこの一件も、太平記のエピソードで有名です。あ〜、書院を見たくなった。
6:00、「神仏習合修験道場・桜本坊」。役行者から始まった日本古来の自然崇拝・古神道と外来の仏教を結んだ「修験道」は、ほんとかっこいい。明治の神仏分離令で、どちらにも属さない修験道はメジャーな地位を失ったが、たまに山で会う行者さんこそ、悟りを拓こうと修行しているように思う。紀伊半島の吉野〜大峰〜熊野本宮は、その本拠地です。ここの門を叩けば、その世界が広がりそう。これから走る「大峯奥駈道」「洞川」は、修験者の修業の場、行者さんに会えるかな?在野修行者も多く、仏教僧より身近な感じがする。
僧坊や民家が消え、山道に入る。一度家内とタンデムで走った記憶があるので、適当に野生の勘でやってきたが、6:10、「水分神社」と「金峯神社・西行庵」との分かれ道になった。記憶では「水分神社」に寄ったけど、「西行庵」が気になる。水分神社に寄り道した後、金峯神社前を通過した記憶があるので、いずれ合流するのだと思い、「西行庵」を選択する。
6:22、さんざん初めての山道を左右に振られて来て、「左:上千本・水分神社、右:金峯神社・西行庵」交差点に到着。西行庵はまだなので、単に遠回りしただけだった。ここはバス停「奥千本口」になっており、回転できるように少し広くなっている。
金峯神社の鳥居が立っており、舗装勾配が上がっている。残念ながら、一般車走行禁止なので、ここにバイクを置いて徒歩で参拝しよう。ワゴン車が道脇に止まっているので、その後ろに停める。ヤレヤレと参拝路を上がっていくと、樹木が伐られた高台がある。下界の景色が見たくて道を逸れたら、素晴らしい景色が広がっていた。野鳥のさえずりも多く、ナイスな場所でした。雑木を伐って、桜を植えるのかな?
6:36、金峯神社が見えてきて、入口に山中にしては立派なトイレもあった。桜の季節には、多くの観光客が、ここまで上がってくるのでしょう。「大峯奥駈道」の地図と説明板があった。
『日本独自の山岳宗教「修験道」の開祖・役行者が、白鳳時代(7世紀)に開いた。吉野と熊野という修験道の二大霊場を結ぶこの道は、修験者(山伏)にとって、最も厳しい修業道場とされる。平安時代には、随所に霊地や行場あるいは宿が設けられており、120ヶ所の宿があったとされる。その後42宿に整理され、霊地・行場が75ヶ所に整理され、「大峯75靡(なびき)」と呼ばれるようになった。靡きとは、「役行者の法力に草木もなびく」という意味があり、修験道に関わる神仏の出現地、あるいは居場所とされている。熊野から吉野へと歩く行程を「順峯」、逆を「逆峯」というが、現代ではほとんどの修行者が「逆峯」で修行する。また近世以降、吉野から山上ヶ岳(大峯山)に参詣する「山上詣り」の風習が、一般庶民にまで広がるようになったことから、更に奥に入って修行する「奥通り」と言うようになった。近年「奥駈」と呼んでいる。行程や順路・呼称が変わっても、大自然の中で心身の鍛錬を行う修験者が修行する祈りの道であることは、今も変わらない』
1500mオーバーの峰々の山頂を次々に巡る尾根歩きは、どんな体験なんだろう。『地理的概要 紀伊半島の脊梁たる大峰山脈の稜線伝いに、熊野本宮と吉野山を結ぶ全長170kmの道程である。山上ヶ岳・大普賢岳・八経ヶ岳・釈迦ヶ岳など標高2000mに近い山々が連なり、それを避けることなく、厳しい坂道や断崖を上り下りしながら進まなくてはならない険路が続く。参詣道というより、我が国固有の「修験道」修業の道という方が相応しい。吉野あるいは熊野本宮に往くことが目的ではなく、山川草木を神仏と見立て修行する修験者にとって、道場であり霊場なのである。道筋には「大峯七十五靡」と呼ばれる礼拝所や行場が設定されており、祠や諸仏尊像などの遺物や宗教的遺跡が多く存在する。大峯奥駈道やその周辺は、「靡八丁」と称し、道の左右それぞれ400mについては、修験教団や周辺住民によって厳しく管理され、伐採や植林を行わないとの風習が守られてきた。そのため、自然林が豊富に残されているほか、火成岩からなる絶壁も各所に見られ、奇勝奇岩の素晴らしい景観が極めて良好に保存されている。大峯奥駈道は、文化的景観のみならず、自然景観上も次代に残すべき極めて重要な地域と言える』
後藤大峯研修の石碑が立っている。『後藤勝一が社長在任時代に、将来を見越して人材育成に力を注ぎ、社員教育の一環として「規律ある団体行動と心身の鍛錬を目的として、確立されたものである。昭和35年第1回研修参加者は、社長以下わずか11名でしたが、その後後藤回漕店社員を中心に、関係会社を含め延べ3000名以上が参加され、今日に至っている。54回目を迎えられたのも、後藤勝一の教育の賜物であり、その意志を引き継ぎ会社の繁栄と共に未来永劫に大峯研修が継承されていくことを願い、ここに記念碑を建立いたします』
素晴らしい会社です。僕は体育会で4年間お世話になったので、同じ釜の飯を食う意義を強く感じている。利だけで結びつく関係は、利がなくなると瓦解するが、こういう体験で結びついた人間関係は、日ごろ別々に暮らしていても決して心のつながりは消えない。僕が修験道に惹かれるのも、そんなところなのかもしれない。
ワゴン車で来られたかたか、3人の方が拝殿で手を合わせている。『金峯神社と隠れ塔 金山彦命を祀る吉野山の総地主神で、一名今精明神ともいい、古くから信仰を受けてきた延喜式内社です。金峯というのは、この辺りから大峯山にかけての総称で、古来地下に黄金の鉱脈があると信じられ、宇治拾物物語その他で、この山に登って黄金を得たという話がある。これは仏教神話で、金峯山は黄金浄土であるという観念から生まれたものである。左の小道を下ったところにある建物は、隠れ堂と言い、大峯修行場の1つで、この塔に入って扉を閉じると中は真っ暗になります。神官の先導に従って、「吉野なる深山の奥の隠れ塔、本堂空のすみかなり」と唱えながら境内を巡ります。1185年11月、源義経がこの塔に隠れ、追っ手から逃れるため、屋根を蹴破って外に出たため、「義経の隠れ塔、蹴抜けの塔」とも云われている』
拝殿・本殿への階段脇に、石畳の道が奥に向かっています。『西行庵0.5km・苔清水0.5km・鳳閣寺4.3km・山上ヶ岳』『大峯山・山上ヶ岳方面へ行かれる方へ 山上ヶ岳への道中、百丁二蔵宿から五番関の間、水場を通過する横駈道(新道)は、大きく崩落し通行できません。百丁二蔵宿より、大天井ヶ岳山頂を越えて、五番関に至る吉野古道を通行することになります。時間と体力に余裕を持ってご通行ください』
まさにここが、「大峯奥駈道」の山岳路入口のようです。行の安全を祈り、あるいは安全に感謝し、手を合わせずにはおれない金峯神社の立地です。地図によると、西行庵まで徒歩20分で、帰りは他を巡る周回コース全40分となっています。山道ハイキングも楽しそう。
金峯神社にお参りし、ご夫婦で準備中の社務所?商店?横を通り、「義経隠れ塔」に行ってみる。階段を下るので距離が不安だったが、すぐにあった。売店に戻ります。「各ドリンク150円 スポーツ・水・炭酸水・緑茶・オレンジジュース・ペットコーヒー」「御朱印受付 御札1000円・お守り大500円・お守り小300円・厄除け300円・おみくじ100円」。義経と行動を共にした静御前を次男のお嫁さんに重ね、安産祈願に「幸福お守り大・朱色」を授かった。どうか無事出産を、母子を守ってください・・・
洞川への道が通じているのか尋ねたら、「わからんけど、通行止めだったら、途中の分岐から黒滝村に下って、そっちから行ったらいいよ」とアドバイスをもらった。黒滝村〜洞川のr48は、下調べで通行止めでした。更にR309まで下って迂回しないといけないな。r48は、バイク初心者の頃、初めてのツーリングで入ってしまった道で、ガードレールのない細道と手掘りのトンネルにガクガクしながら走った思い出の道です。
絵馬殿のような建物があったので入ってみると、「登山届ポスト」があった。ポストの横には、役行者を模した石像が置かれている。参詣道を下ると、往路に絶景を見た丘から、先客3人組(年配の男性と年若夫婦?)さんが降りてきて、僕の後ろになった。年配の男性と30代と思われる男性の首に、大玉の数珠が下がっている。年配の方が大声で話すので、耳に入ってくる。「能勢で3年、・・で5年、俺もよく続いているよな」。修験道修行をされているのかな?
6:56、バイクの用意を始めたら、「神戸から?綺麗に乗ってるね」と年配さんが話しかけて来られた。「伊丹からです」。年若が「私は箕面です」。年配さんは能勢在住のようで、出勤前に早朝ツーリングで能勢にもよく行くと言うと、鹿の話などで盛り上がった。犬を10匹も飼ってるのに、吠えないから庭先まで鹿が来るそうです。猟師の友達が、獲物を時々置いていくそうです。ワイルドな生活だ。「それじゃ」「お気をつけて」で別れました。
ここからいよいよ本番の「大峯奥駈道」だと気合を入れた途端に、目に入ってきたのが「通行止め」看板。でも道を半分塞いでいるだけだから、行けるところまで行きましょう。それに、笑顔で別れたのに、すぐUターンはカッコ悪いし・・・
絶景で何度かパナソニック望遠激写タイムしながら、7:12「青根ヶ峰」。標高850mの山ですが、比高25mでピークハントできます。絶景だわ。紀伊半島の峰が連なり、素晴らしい。
7:21、「黒滝村への分岐」。『右折:黒滝村槇尾5km、前方:川上村道20km・天川村洞川16km』。ここに通行止め看板が出てると思ったけど、ありません。行けるのかな?
7:30、滝があった。7:41、雲が消えて行き、青空に雲が浮かんでいる感じになってきた。きっと、大台ケ原も絶景だろう。
7:51、激写中に抜いていった軽トラ2台が止まっている。ここが「百丁茶屋」でした。山に入るとすぐに「百丁茶屋」跡・現在の「百丁二蔵宿」があるようで、金峯神社に書いてあったがけ崩れ場所は、ここから「五番関」までの間のようです。迂回路は古道の「大天井ヶ岳・1430mピーク経由」とのことですが、地図で調べると、ここは1050mなので、比高400m弱・距離2kmでした。因みに五番関・1200m・距離4kmでした。
横に通行止め看板が転がっていました。『積雪・凍結のため通行止め 林道吉野大峯線 平成27年12月20日〜平成28年3月31日』。金峯神社で見た看板も、積雪通行止め看板だったのかもしれません。ならば、洞川まで走れそう。走り出そうとすると、大型バイクが対向してきました。先の状況を聞きたかったのですが、スルーされたので聞けず。
8:04、滝があった。8:06、『進行方向:川上村、右:天川村洞川』分岐到着。川上上村方面が通行止めで、完全バリケード封鎖されていました。
8:12、「大天井滝」。バイクを置き、橋を渡って見に行きました。標高が高くないので、それほど暑くはないですが、頭から水を被りたい。
8:19、「五番関トンネル」。『平成5年3月 奈良県 延長387m・高さ4.5m・施工:中川堀内共同企業体』。洞川側に抜けると、旅館のマイクロバスが1台、他に乗用車が数台停まっていました。1700mオーバーの「大天井ヶ岳」に登るのでしょう。
ここは、前述のバイク(里山VTR250)での初めての遠出で来た所です。サイドスタンドを出すのが中途半端で、初コケしました。初めてのバイク起こしで、しかも坂下に向かって倒れたので、起こすのに苦労しました。チェンジレバーは曲がっちゃうし、焦りました。翌週に、エンジンガードを着けました。でもエンジンガード着けても、左に倒したら結局チェンジレバーが曲がるので、「もうちょっと大きなものを作れよ」と思いました。右にコカしたら、マフラーに傷がつきます。CB400SBにはリアガードというのがあり、両方着けてるので、立ちごけならハンドルエンドさえ地面に当たらず、ガード以外無傷なので、見習ってほしいものです。
洞川に向かって下ります。沢沿いの森の道で、ほとんどすれ違う車もないので、快適です。道なりに、r21。8:36「母公堂」。本尊は、「役行者の母公尊」です。
『母公堂は、大峯山の歴史以来の入口でした。修験道の始祖・役小角の母・白専女(しらとうめ)を祀っています。大峯山寺のある山上ヶ岳・1719mまで3〜4時間。近畿の屋根と言われる雄大な大峯山系がここから始まるのです』
女人禁制だった高野山同様、役行者が母に住んでもらい自分が時々顔を見せに行ったお堂です。女人結界もあり、修験道者が「覗き」などで修行する「大峯山」は、現在でも女人禁制ですが、隣の「稲村ヶ岳」は女大峯と呼ばれる女性でも登れます。男女混合のグループもいたので、その方たちは、稲村ヶ岳に登るのでしょう。標高900mから1700mまで、比高800mはきついな。僕ら夫婦の最高は、息子たちと登った「岡山那岐山」で、比高600mです。
8:43「千人の山 修験節律根本道場 総本山・大峰蛇之倉七尾山 陽明門」。何かわからず、立ち寄りました。独自の霊場を持ち、山岳修行できるのかな?
r21を下り、R309との交差点で、懐かしいあのお店「MORIKURO HULAHULA」が健在でした。森田商店だったのだけど、コンビニ「LAWSON」に対抗して、青地のそっくり看板で「MAWSON」になり、大きな話題を集めました。大人気なくローソンが法的措置をちらつかせたのか、現店名に変更されてしまいました。「ユニクロ」は、大人げない対応はしていないようです。
ここから、R309に入るのですが、ガードマンさんに止められ、通行止めの案内でした。「どちらまで?」「大台ケ原に行こうと思っているのですが・・・」「迂回路がありますので・・・」と、教えてもらった。迂回路はR309沿いを流れる弥山川の下流・天の川を対岸に渡ります。9:09天の川の河原で沢山の人が川水浴されているのを見ました。川の水は、冷たいよね。橋には、「飛び込み禁止 人身事故多発」と書いてありました。川までかなり高低差があります。澄んでるので川底までくっきり見えるけど、この深さなら、川底激突間違いなしです。
すぐにR309に戻り、巨岩ゴロゴロの「弥山川」を見ながら、ゆっくり進みます。国道だけど、標高1100mの「行者還トンネル」を抜ける山岳路なので、交通量は多くない。水は、四国の清流とガチンコ勝負できるほど綺麗です。何度か激写タイムしながら進む。
9:24「みたらい渓谷」着。「素晴らしい」と評判の渓谷なので、見に来たかった場所です。バイク置き場はなく、トイレ前の路上に駐輪。休憩所&駐車場番人おばちゃんに、「写真撮って5分で帰ってくる」とお願いしたら、無料でした。急な階段を上がり、たわんでるし揺れてるコンクリート橋まで、激写しながら歩いたけど、水が恐ろしく綺麗で、小さな滝もあり、見所満載の遊歩道でした。家内を連れて来たい。
9:32にバイクに戻り、先に進みます。ここから山岳道で道幅も狭くなるので、交通量は少なくなります。9:55、がけ崩れによる山側法面対策工事現場で休憩。
9:57、「神童寺谷線」分岐。10:12、「行者還トンネル」手前駐車場。乗用車1日1000円。「世界遺産・大峯奥駈道・弥山登山口」の看板が上がっていました。地図を見るとここの標高は1100mで、奥駈道尾根道は1500m(比高400m)・距離1.5kmという感じです。沢山車が停まっていました。野田市ナンバーのスーパーカブが停まっており、前カゴ・リアホームセンターボックス・後カゴ荷物満載でした。日本一周でもしてるのかな?その途中で登山なんて、体力あるわ。「行者還〜弥山登山コース」。登山届ボックスが設置されており、「クマが目撃されています。十分注意してください」の注意勧告もされています。「弥山小屋に宿泊される方は、必ず予約を入れてください。予約のない方は、食事の準備ができません」。
行者還トンネルは、ヘッドライトだけが頼りのとても暗く長いトンネルで、路面は濡れており、心細く30km/hほどで通過しました。トンネル出口に近づくと、向こうの道が濡れているのがわかります。「え、雨降ってるの?」。
ドキドキしながら出ると、雨が止んだ後のようです。トンネルの洞川側では晴れて日が差していたのに、山の向こうは大違いでした。見える山の頂上は雲の中で、大台ケ原を諦めることにしました。上がってもガスの中かもしれません。
延々と沢沿い林道ルックな国道を下ります。つづら折れを繰り返し、山道を堪能しました。途中休憩し、朝買ったおにぎりで昼食にします。道路に座り、足はブラブラ。川のせせらぎを聞き、猛禽類の飛行を見上げ、アゲハチョウが舞うのを目で追いかけました。
R169に合流し、北上開始。長いトンネルを抜けたとこに、大台ケ原に登るr40の分岐がありました。11:10・・・しばし休憩。反対側からやってくるバイクは、r40に吸い込まれていきます。地図を見ながら思案し、「大台ケ原を止めて、東吉野探索」に切り替えました。
R169を北上し、連続トンネルとループ橋を通過し、11:21「大迫ダム」。ダムの下流側を見て、高さにビビる。r224に入り、ダム湖側道を登っていく。「入之波」という所に、釣り堀などの施設があるようで、少し交通量があった。バイクも停まっている。温泉でもあるのかな?
更に奥に入って行く。目的地は最奥部の「三之公」です。南北朝時代の南朝最後の第4代天皇・後亀山天皇(後醍醐天皇の孫)は、足利義満の和平案を受諾し、北朝・後小松天皇に三種の神器を返し、南北合一を成した。その3人の子がここに住み、密かに南朝復活を画策していた。夢破れた歴史の地です。
r224から、支流に沿う枝道に入り、三之公を目指したが、舗装されているものの砂利が浮き出し、未舗装路とほぼ同じ状態になってきたので、Uターンすることにしました。VTR250だったらもう少し粘れたと思うが、200kgのCBをコカしたら起こすのが難儀なので撤退です。交通量があまりない道なので、ヘルプも望めません。
R169に戻り、武光橋まで北上します。武光橋で吉野川を渡り、12:19突き当りを左折したところでストップ。対岸の現R169の吉野川側低いところに、もう一本高架道路が走っている。武光橋もその道路の上を渡ってる。無性にその道を走りたくなったが、行けるのだろうか?旧R169なのかな?
ここから、「武木小川林道」。沢沿いの道を上がっていく。交通量皆無の感じがする。随分前に調べた時は舗装だったから、地図に舗装路の赤丸を付けたのだろうが、未舗装になってもおかしくなく、荒れて穴ぼこだらけになっていてもおかしくない感じの道が登っていく。
12:23滝があった。12:44もうすぐ峠かな?の手前に『水源地 この河川は武木地区の水源地です。関係者以外の立ち入りはご遠慮ください。/川上村武木区』の看板が立ち、未舗装枝道がチェーンで封鎖されていた。何もしていなければ、オフバイクが突っ込んでいくのだろう。悪法・リサイクル法の成立以降増えた不法投棄対策でもあるのだろう。ここまでにも、同じ看板がいくつも立っており、遠慮しながら上がってきました。地図を見ると、標高950m。吉野川沿いの300mから、650mも登りました。意外に標高がある森の静かな道です。
12:48、祠のある峠に着いた。『足ノ郷峠・川上街道 峯越衆(おごししゅう):川上街道(東熊野街道支線)は、かつて東吉野と川上の交流を支えた重要な街道であった。菟田野や大宇陀の米が鷲家口(小川)を経由して川上村に運ばれた。川上村へは、東川辻越え・白屋辻越え・足ノ郷越えの3つのルートがあって、東川・白屋・武木・井光への生活物資輸送路として利用された。また、正月や盆前には鷲家口に「市」が立って賑わい、普段でも川上からの買い物客がこの街道を往来した。昭和初期まで、鷲家口に「峯越衆」と呼ばれた生活物資運搬を本業にする人たちがいた。服装は、白脚絆・紺パッチ、夏は素足・冷え込む時期は自家製足袋とわらじ履きであった。荷物は、米60kgが通常で、他に酒・醤油・魚介類・陶器・針金・釘などを運んだ。
天誅組行軍の道:1863年9月24日、天誅組は東熊野街道を北上して、武木の庄屋・大西家などで昼食接待を受け、午後3時頃当地を出発した。彼らは戦闘に耐えうる元気な隊士を先陣に、傷病の隊士を後陣にして足ノ郷峠を越えて東吉野に入ってきた。そぼ降る雨の中、「五本桜」(現キリヤクボヘリポート付近)まで来ると、百姓2人が火を炊いて待っていた。鷲家口の情報を聞いたところ、前夜からここに来ていたので、その後の様子は知らないという。一行は2人を木に縛り付けて鷲家口突破の軍議を開いた。「本隊を2隊に分け、一隊は決死隊となって鷲家口に陣取る彦根勢を突破する。もう一隊は戦闘に乗じて守将・中山忠光卿を大坂の長州屋敷まで守護する」という作戦であった。傷病隊士の多くは、丹生川上神社方面に下り、木津川・伊豆尾方面に向かった。隊士の殆どは、勇途虚しく若い命を散らしたが、5年後に明治維新が成し遂げられた』
まさか、こんな山奥に、天誅組の謂われ板が立っているとは思わなかった。天誅組の軌跡を調べていて知ったこの旧街道を、体験したくてここまで来たが、大河ドラマで取り上げられたわけでもないのに、手入れされていると思われる綺麗な謂れ板を見つけ、地元の当時の賊軍・天誅組への哀愁が偲ばれた。諸行無常、戦い済めばノーサイドで敗軍将兵の墓を立て看病をする、日本人の心の美しさを感じる事ができた。ここまで登ってきて良かった。
ここから下りに入った。すぐに、対向して上がってくるロードバイクがあった。「あと200m」と声を掛けたかったが、疲れているのか顔さえ上げられなかった。峠で出会っていれば、いっとき話せたろう。12:52『天誅組さきがけの道・白屋辻 前方:小川、後方:川上』の看板がいくつも立っていた。「天誅組さきがけの道」と銘打ち、現在地を教えてくれる。天誅組への愛とともに、歴史好きしか通らないだろう旧街道通行者への愛を感じる。
13:02、前述の「ヘリポート」着。『管理運営について このヘリポートの管理運営・使用料徴収について、地元財団法人・三尾自治会に委託しました。小型機:1荷につき300円、大型機:400円、給油基地:1給油5000円』
林業でヘリを使用するのだろう。ヘリポートとは名ばかりの単に木を伐って拓いた空き地です。
白屋越え・東の川越の林道を通過し、13:16、r220に出た。「東吉野キャンプ場」があり、「四郷川」河原では、水遊びされている方やテントが張られている。温泉もあるようで、風呂隣接のキャンプ場はいい。
r220を下り、13:23「丹生川上神社」。バイク置き場がなかったので、路上駐車。横の川は浅く流れもゆっくりで、多くの方が川水浴を楽しんでいる。r221で、13:29「魚見石」。『神武天皇東征の時、壬生川上において天神地祇を祀り、大和平定の成否を問われ、岩を川上神社神域の淵に沈められた。やがて吉兆現れ、大小の魚が木の葉のごとく酔い流れ、尊い神助の端祥を得られた。その魚の流れる様を臣の椎根津彦が見届けた場所を、古くから魚見石と言い伝える。
13:35、『維新のさきがけ・天誅組 東吉野村天誅組顕彰会』の幟に惹かれ停止。『天誅義士墓所』の石碑が立っている。隊長・吉村寅太郎他10名の名が書かれている。明治谷墓所と言うらしい。
倒幕・尊王の魁となった天誅組は、旧土佐藩士・吉村寅太郎が、公家中山忠光卿を主将に担いで旗揚げし、大坂から大和に侵入し、代官所襲撃には成功したが、呼応するはずだった京都の情勢が急変し、孤軍奮闘となってしまった。大和高取城址襲撃に失敗し、吉野大塔に後退したが、陣容を増す幕府軍と雌雄を決するため東吉野に侵入してきた。多勢に無勢で敗退し、散り散りに討ち取られて行った。勝敗は時の運・神のみぞ知る世界だから、武運尽きただけのこと。この行動力を買いたい。維新成って、賊軍と散った志士も蘇り、後世に伝えられている。
階段を上がって行くと、玉垣された敷地内に吉村寅太郎はじめ隊士の墓石が、整然と並んでいた。吉村寅太郎の上に、「贈従四位」と彫られていたので、明治維新後、官位を贈られたようだ。県道からの階段も箒の跡が残り、蜘蛛の巣も張っていない。地元の方の気持ちが伝わってくる。
r16に入り、13:46「ニホンオオカミの像」。天皇陛下行幸所の石碑が立っている。天誅組の史跡にも寄られたのだろうか?『ニホンオオカミは、明治の初めまで、本州・四国などにかなりの数生息していた。その後急減し、明治38年(1905年)東吉野村で捕られられた若雄が日本で最後の捕獲の記録となりました。当時、ここ鷲家口の宿屋・芳月楼で、地元の猟師から、英国より派遣された東亜動物学探検隊員・米人マルコム・アンダーソンに、8円50銭で買い取られ、大英博物館の標本と成っています。「採集地ニホン・ホンド・ワシカグチと記録され、動物学上貴重な資料となっています。かつて山野を咆哮したニホンオオカミの勇姿を、奈良教育大学教授・久保田忠和氏の手により、等身大のブロンズ像として再現しました。緑と水のふるさと・東吉野村の自然愛護を願うシンボルとしていきたいものです』
13:52「天誅組遺跡」。『文久3年9月24日宵、出店坂より敵陣に突入の途中、敵弾を受けた天誅組前勢の鍋島米之助は、之に屈せず次々にある彦根陣所を突破して、ここまで進み、辰巳家の納屋に潜入、休息した。翌朝、発見密告され駆けつけた藤堂勢の銃弾にあえない最期を遂げた』『島村省吾捕縛地・徒歩20分』
『文久3年9月26日払暁、吉村寅太郎の命を受け、主将及び本隊の様子を確認するため、木津川より山越えして鷲家口に下ってきた森下儀之助・幾馬、山下佐吉・山崎吉之助4名。森下兄弟はこの市ノ谷を登りましたが、頂上近く紀州街道(赤谷口)に取り付いた時、兄・儀之助は左へ進み小名峠を越え脱出しましたが、弟・幾馬は右に進み、首吊り峠を越して鷲家赤谷を下る途中、山狩り中の藤堂藩・西庄源左衛門の隊に遭遇し、その銃弾で戦死しました』
その谷を見上げ、周囲の地形を見て、想像の翼を広げました。
R166に合流し、13:58「天誅組終焉の地」。天誅組の軌跡が地図で表わされている。林道も走ってきたので、地図の位置関係がよく分かる。やはり現地に来なくちゃ。刑事は足で稼ぐという旧タイプの刑事のセリフが思い浮かぶ。
『天誅組総裁・吉村寅太郎・遺詠 吉野山、風にみだるるもみじ葉は、我が打つ太刀の血煙と見よ』
『東吉野村は、幕末当時、憂国の志士が幕藩体制を廃して国家行政の抜本的改革を目指し、その思想と行動に殉じた地である。文久3年(1863)8月、孝明天皇の神武山陵参詣を機に、統幕の先鋒と称して、中山忠光卿を主将とし、藤本鉄石・松本圭堂・吉村寅太郎の3士を総裁とした「天誅組」が五条に旗揚げしたが、「七卿の都落ち」に象徴される政変により、事、志に違い幕軍の追討を受けて吉野山山間を転戦、9月24〜27日にかけて、当村内において、3総裁以下15志士が戦死、「天誅組」は終焉を見る。しかし時を経ずして展開された明治維新大業の魁となり、現代日本繁栄の原動力となった事は、その後の歴史が物語っている』
橋を渡り、敷地内に入ると、巨岩の前に玉垣が組まれ、顕彰碑が立っている。
R166を「道の駅・宇陀路大宇陀」に向かって走る。「ひだる地蔵」というのがあった。「ひだる」は空腹を表す方言のようです。「山村留学・東吉野小学校」という看板もあった。
道の駅で、かき氷300円でクールダウンしながら休憩。道の駅の前のバイカーズカフェがあった。R166で桜井に出て、R165にチェンジ。15:07「桜井市大字吉備エクスプレス桜井CS」で給油。229km/10.16L=22.5km/L。
大和高田バイパス〜南阪奈道路で大和を脱出し、15:35「太子IC・料金所」で休憩。富田林のPL教団の塔が見える。近畿道に入り、八尾PAで休憩。東大阪PAのようにコンビニ位あれば、使い勝手がいいのに、トイレと自販機だけです。数年ぶりにコカ・コーラを自販機で買い、炭酸・糖分補給した。
一気に近畿道を抜け、中国道・吹田ICでまた休憩。朝が早かったので、眠くなってきた。一般道は平気なのですが、単調な高速道は眠くなる。豊中ICで中国道を出て、16:52帰宅。
僕が家に入ると、家内が風呂のスイッチを入れてくれた。荷物を片付け、風呂に入ってサッパリして出てくると、今度は通勤リード110に乗り換え、タンデムでお買い物です。仕事でも使える楽なシューズを買うのに付き合いました。
帰宅後、まだ明るいので、今日一日実家内部を掃除してた家内に負けないように、外の掃き掃除をしました。

2016/7/17
家内が東京に行く予定日なので、1人遊びを模索します。ツーリンググループ参加を考えましたが、この日にはツーリングがありません。コーチしてるヨット部は、マネージャー感謝デイなので、おっちゃんの参加は見合わせた方が良さそう。大台ケ原周辺の林道、南近江の山城攻めも考えましたが、天気予報がイマイチです。晴れの国・岡山県の備前・備中の山城攻めは、連休中日なので、帰りの高速道路渋滞が気になる。播磨の山城・「野間城址」攻めに決定しました。往復1時間の比高のある山城で、中世の山城には珍しく石垣が遺っているらしい。播磨の雄・赤松氏流れが籠もったそうなので、財政状態が良かったのでしょう。
ツーリングマップル・TMで、ルートを考え、ルート上の訪問地をピックアップしていたら、家内の東京行きがなくなったので、「次男お嫁さんの誕生日プレゼント購入のためにヨットハーバーに連れてって」との要望が来た。あ〜だこ〜だで、僕の帰宅時間によっては「デパートに買いに行ってもいいし」という結論になり、山城攻め・山岳寺・千ヶ峰周辺の山岳林道探索を決行することにした。
朝、3:30に目覚め、「里山VTR250」に乗り、4時出発。夏至を過ぎ1ヶ月、夜明けが遅くなり、まだ暗い。長尾山トンネル〜r325〜r33〜r68で「志手原」。r49〜千丈寺湖周回道路〜r309で「JR相野」。r141〜r311に入ったとこで、東条川を渡り、5:13休憩をしました。ホタルが飛びそうないい感じの川です。満開のネムノキの大木が、川にせり出て、日陰を作っています。周囲の里山と田園風景が、とても気持ちが良い。田んぼの周囲に低い電気柵が囲っています。里山から離れているし、柵が低いので鹿対策ではなさそう。イノシシが出そうな感じもしないので、たぬきかな?
「清水寺」への分岐を過ぎ、交通量が少なく信号のない気持ちの良い道を進むと、「国指定重要文化財・住吉神社」の看板に惹かれ、5:33ストップ。『世界に一つ 加東遺産 上鴨川・住吉神社と神事舞』。参道の階段を上がると、茅葺屋根の拝殿他が見えてきます。
『国指定・重要文化財・住吉神社本殿 三間社流造・檜皮葺 棟木墨銘によると、1316年創建・1434年再建・1493(明応2)年再々建したとわかる。内陣小脇板裏面と天井梁下端にも明応2年の墨書がある。外観は、普通の三間社流造りであるが、床下の転用古材などから、創建当時は四間社であったと考えられる。手狭・木鼻などに、時代と地方の特徴を示すものがあり、貴重な遺構である。
国指定・重要無形民族文化財・住吉神社神事舞。県指定文化財・神事能面』
残念ながら、本殿は修理中でブルーシートに覆われていたが、鎮守の森の巨木に昼尚暗く、境内がいい雰囲気です。
R372を渡り、r566も気持ちの良い道です。5:54、JR加古川線を渡ります。「比延駅」が見えています。R175〜R427、ポツポツ、雨が落ちてきましたが、夏のツーリングにはクールダウンに調度良い塩梅で、山城攻めの山道にも問題ない。ところが、雨脚が強くなってきました。前方の里山も降ってるみたい。予報では、1ミリ/h以下の雨量だったのに、2〜3ミリの雨量です。木が覆う広い歩道に乗り上げ、車載カメラを収納し、カッパを着ます。ヒップバッグもリアボックス内に入れて、山城攻め歩きも舗装林道も危ないので、撤退を決意しました。まだ6時なので、家内への電話なしに帰路に着きます。
来た道を戻り、西脇市内でr294にチェンジ。JR加古川線沿いに北上します。6:40、「黒田城址」に寄り道。城址入口は、「姥ケ懐」という場所でした。
『秀吉の天下取りを支え、稀代の軍師として知られる黒田官兵衛は、江戸時代に編纂された福岡藩主・黒田家の公式記録「黒田家譜」によると、播磨国姫路城に生まれ、官兵衛を輩出した黒田氏は近江国の出自とされており、通説となっています。一方、江戸時代に編纂された播磨の地誌類や記録類には、「黒田官兵衛やその父は、多可郡黒田村(現在の西脇市黒田庄黒田)生まれ」とするものが多数あり、江戸時代の播磨では、黒田村の出身と広く認識されていたようです。荘厳寺所蔵「荘厳寺黒田家略系図」には、黒田氏は播磨守護・赤松氏の一族で、丹波との国境である黒田城に居城し、黒田氏を名乗ったのが始まりとされ、官兵衛は8代城址・重隆の次男として誕生したと記されている。黒田集落には、黒田氏や官兵衛にまつわる伝承地が多くあります。中世・戦国時代に築かれ、黒田氏9代の居城であった「黒田城址」、山下にあった城主居館・屋敷群「多田城址」、多田城に付随する邸宅跡「姥ケ懐」、落城の際、幼い官兵衛と母・於松の別れの地「松ヶ瀬」など。近くには、別所氏を攻めた三木合戦の際に、秀吉が臣下の官兵衛に戦勝祈願させ、その奉納金により改築させた「兵主神社」や、秀吉が采配を行った際座った「太閤腰掛石」の伝承地もある。通説と大きく異なる説ですが、ここには官兵衛生誕・黒田氏発症の里としての伝承が残る』
参道の階段を上がる。朱鳥居が連なり、「正一位・清綱稲荷大明神」の札が、鳥居毎に掛かっている。階段がなくなり、雨に濡れた山道を上がり、6:55稲荷神社が立つ本丸曲輪。雨は止んでいますが、ガスに霞んだ加古川によって作られた平地が里山の間に縦長に広がっている。
前回来た時はなかったので、大河ドラマ以降新調された「官兵衛板人形」がいるし、ベンチもある。前回は、こんなに視界が広がっていなかった記憶があるので、雑木を伐採したのかもしれない。
『初めてこの地に武士団がやってきたのは、室町時代・1350年頃です。播磨国西部で大勢力を持つ赤松則村(円心)の弟・円光も武勇に優れ、元弘の乱では大活躍しました。円光は、楠木正成の姉を妻に娶り、東播磨に勢力を伸ばそうと、河西郡河内(加西市河内町)に城を築きます。円光の長男・敦光は、別所五郎と名乗り、別所氏の祖となり、別所長治まで続きます。弟・重光は、丹波との国境を守るべく、この地にやってきて黒田七郎重光と名乗り、黒田城黒田氏初代となる。初代・重光は、父祖の霊を弔うべく円光寺を建てます。2代・重勝は、明徳の乱に参戦し武功あり。5代・重範は、京都洛北や、1528年には浦上追討に摂津まで130騎を従え馳せ参じた。
時代は、各地に国人領主が勢力を伸ばし、虎視眈々と隣接領地を狙う状況で、丹波・赤井氏、加古川西・石原氏、南の村上氏との緊張が続く。1572年、石原・赤井連合軍に敗れ、9代・治隆以下一族郎党全滅となり、黒田城とその痕跡は消滅しました。
時を経て、1784年。姫路で小寺職隆(官兵衛の義父)の墓地が発見されたことから、霊廟建設のため福岡黒田藩の普請奉行が、姫路に来ました。業務の間に、小寺家菩提寺古文書の中に「黒田官兵衛多可郡黒田村の産なり・・・孝隆は猶子(養子)也」を見つけ、この地に調査に参りました。既に城の痕跡はありませんでしたが、古老より聴きとった情報を絵図に記録したのが、上図です』
下に降り、黒田城址を見上げると、その更に上に山頂扁平地があり、詰め城と思われる。更に高い山が背後に連なり、間道を伝えば、いくらでも逃げて行けそうです。典型的な枝尾根山城です。
JR・「本黒田」から、r139として線路沿いを北上します。「久下村駅」から西に進路を変え、7:31「高座神社・石鳥居跡」。7:33「高座神社」。雨は降ったり止んだりです。檜皮葺の社門でとても立派です。式内社で、歴史も古そう。
『祭神 主神:高倉下命 配神:天火明(あめのほあかり)命・経津主(ふつぬし)命・建田背(たけだせ)命・比売神。創立年代不詳・式内社。祭神は、丹波國造家の祖神・守護神として奉斎された。古来、旧久下・上久下両村総氏神として現代に至る。当町・金屋に鎮座していたが、後年この地に遷座された。旧社地より移植した松が、参道の大松で、「お供の松」と言われる。江戸時代、谷川領主・織田家の崇敬厚く社領の寄進を受けている。
本殿:五間社流造、正面双千鳥破風付、向背一間入母屋造正面軒唐風付、檜皮葺、県指定重要文化財。1704年氏子により再建された。棟梁は谷川の清水武右衛門、大工は谷川の清水七郎左衛門』
高倉下命は、神武天皇東征で熊野で危機に陥った時、霊剣布都御魂をもたらす神で、以降勢力を盛り返した。天火明命は、天孫・ニニギの兄で、物部氏の祖・饒速日命と同一。建田背命は、武甕槌神を祀る鹿島神宮と利根川を挟んで相対する「香取神社」の祭神で、中臣氏の祖。春日神社に両神として祀られている。『高座神社のフジキ』。『石造鳥居 高さ4.57m・柱下部3.8mのスッキリした形の良い明神鳥居であるが、島木の鼻の切り方はほぼ垂直で、笠木の両端の反増は少ない。1693年の造立年と寄進者名が刻まれている』
継ぎ目のない石鳥居は、作業として大変そう。檜皮葺のとても立派な社殿で、同じく檜皮葺の摂社を数社従えており、ナイスです。本殿横からは「奥之院」への階段が上がっている。木鼻などの彫刻に色が入り、豪華な感じがする。彫刻も凝り、屋根を支える構造も大寺院のように複雑で、経済力を感じさせる。境内にオニユリが満開で、とても綺麗。
バイクに戻り、「首切地蔵尊」目指して、更に奥への道を進む。キャンプ場があった。7:50、「首切地蔵尊」。『今から800年前平安時代末、平家が最後の砦と頼んだ宇治川合戦にも敗れ、攻め入る源氏の大軍に京都を逃れ、神戸福原に再起を目指すが、一の谷に敗れた。平家一門の公家や姫君は哀れであった。昨日までの栄華の夢破れ、娑婆の無常を感じつつ人目を恐れ、丹波路へと逃れた。その頃、ここ丹波東山に城主・形瀬近江守の築く鍋倉山城があり、近隣に勇名を馳せていた。丹波路に迷い込んだ公家や姫君は、しばしの憩いを求め身を寄せたが、それもつかの間、落人狩に捕らえられ、山田の奥山深く樹木生い茂り昼尚暗い首切り沢で処刑された。伝え聞いた里人達が世の儚さを哀れみ、碑を立て野花を手向け、後生を弔い祀ったのが始まりで、いつからか首切地蔵尊と呼ばれ、今に言い伝えられている』
駐車場から石段が続き、杖も用意されているので、どれだけ歩くのか不安になったが、7:54すぐに本殿に辿り着いた。本殿にも途中にも、沢山のよだれかけを掛けられた首のない地蔵さんがおり、現在に至る信仰の篤さを感じる。
r77に出て、篠山川を遡る。電車が横を走り、渓谷を見ながら、篠山市街地に入り、8:28篠山川沿いの桜並木を走る。既に雨は止み、田んぼの緑を覆う雨後の景色が素敵です。再びr77に戻り、r49で南下する。
R372を渡り、「木枕」から「美濃坂峠」を経て三田市に入る。永沢寺前を通過し、9:07「バイカーズカフェ・虎亀」に到着。早朝バイクでもすれ違わなくなったので、どうしているかなと思って、近況をあ〜だこ〜だお話。年頃のお子さんがいると親はヤキモキするものです。
家内に、「雨が降ったので撤退して三田にいる。昼前には帰るよ」と電話する。「じゃあ待ってる」と家内。昼からはデートですね。r49〜r37〜r323〜波豆川、ここから南下し、r68を渡り西谷農協大池、r33〜r325〜長尾山トンネル〜10:59「出光セルフ宝塚」219km/7.25L=30.2km/L。
御用達の植木屋さんに寄り道し、長男の2人目の子と、来月生まれる予定の次男の子の誕生記念を考える。恵比寿様の石造を嫡孫誕生記念に建立した屋敷祠の横に置いてもいいし、実の成る木としてりんご・ブルーベリー・みかん、観賞用としてアセビもいいな。
昼前に帰宅し、車に乗り家内と新西宮YHに向かう。ヘリーハンセンの可愛い縞模様Tシャツを選んだようだ。よく伸びる速乾性素材で、可愛い。HHの派手なロゴは小さく目立たないし、気に入ってくれるだろう。
以前は30分まで無料だったのに、15分に短縮されていた。100円超過。R171で帰宅する途中に、新幹線六甲山トンネル大阪側入口上の公園に家内を連れて行った。新幹線を真下に見るポイントを披露する。R171を帰っていると、右翼宣伝カーの大行列に追いついてしまった。大型バス改造の宣伝カーではなく、僕と同じぐらいのワゴン改造カーが多い。軍歌を流しているのや、三島由紀夫の肖像画が大きく描かれた車、アニメ美少女カーの方がいいな。
我が家へ曲がる交差点が近づき、どうしても走行車線に入らなければならず、車列の間に入ってしまった。小心者なので、ちょっとドキドキした。自宅に、YH前のスーパーでの買い物を置き、家内と一緒に植木屋さんに行って、あ〜だこ〜だ。帰宅してソーメンを食べ、新婚旅行に行った富良野をするというので、TV三昧する。僕は寝てしまった。
起きだして、庭の草刈をしようと、電動草刈機で作業を始めたら、耳の上にチクリ、「ぎょえー」な痛さで手で振り払うと、脇の下にチクリ。姿を見ていないが、作業前に見かけたアシナガバチに刺された公算大です。すぐに、薬を塗ってもらう。ズキズキするし、熱を持ってるし、全身の熱が上がったら病院に行こうと、家内が救急当番病院を見てくれる。
刈った草はそのままにして、草刈機やコードなどを片付ける。いつもなら、網付き帽子をかぶっているので、耳の上なんか刺されるはずないのですが、横着に天罰が下ってしまった。どんなに暑くても、靴下・トレパン・長袖・網帽子の完全武装だったのに・・・。

2016/7/10 13行
参議院議員選挙日ですが、投票は後回しにして、嵐山まで、「八幡木津自転車道」「木津嵐山自転車道」をサイクリングしてきました。
4:30に目覚め、自転車の空気圧を適正値まで入れ、車に積み込みます。リュックに、折りたたみ椅子・トレッキング用カッパ2・輪行袋2を入れ、カメラの用意もします。朝ごはんを食べ、着替えて出発です。
意外に時間を食ってしまい、7時前の出発になってしまいました。京都の大人気「鈴虫寺」の拝観開始9時を目標に、7時に流れ橋を出発する予定だったのに、大幅に遅れてしまいました。流れ橋〜嵐山は、片道25kmです。
中国道・豊中IC〜名神〜京滋バイパス・久我山淀IC下車。r15〜第2京阪道側道で「八幡」に出て、r22で7:19「流れ橋・四季彩館」到着。先客のワンボックス車がおり、ペコリ。車内のご夫婦は、お食事中です。外に出てこられた旦那さんを見て、僕らと同じ空気を感じる。僕らが自転車を出して組み立て始めると、案の定車を出してこられました。お揃いの真っ白なロードバイク2台で、お洒落です。こういう仲良し夫婦を見ると、嬉しくなっちゃう。
7:38、木津川土手に上がり、去年流れ修復なった「流れ橋」を見る。流れ橋休憩所には、ロードバイクが数台おり、目の前の自転車道を快走して行くロードバイクを見て、「自転車多いね。皆さん速い」だって。「当たり前やん、サイクリングロードだもん」「そうなの?」って。何度もここに来ているけど、家内には自転車道の認識がなかったみたい。
歩行者・自転車専用の木津川土手・「八幡木津自転車道」を、三川合流部まで下ります。一応下り基調だけど、勾配が殆ど無いので、位置エネルギーを得て走る楽さは感じない。女性も多く走っており、マスクでまったく顔が見えない方もいます。日焼け対策とはいえ、暑くないのかな?
7:46、「上津屋樋門」。やがて「石清水八幡宮」のある「男山」が大きくなり、激写タイムしている間に、家内との差が開き、「きっと、そのまま行っちゃうはず」と慌てて追いかけるが、右折し木津川を渡るとこを直進して行きます。そのまま行けば、淀川左岸を大阪に行っちゃいます。
僕は信号で止まり、大声で家内を呼ぶ。なんとか聞こえたみたいで、こちらに戻ってくる。家内に橋を渡るよう指示し、僕も橋を渡る。木津川を渡れば、次は宇治川を渡る橋があり、その手前の信号で僕は道を渡り、家内と合流できた。8:17、ここに「淀川河川公園」というのがあり、トイレ休憩をする。サイクリストの憩いな場所になっており、数台のロードバイクが休憩していた。ここから、「八幡嵐山自転車道」です。宇治川を渡り、桂川の土手に出て、左岸を遡ります。ここから嵐山まで上り勾配ですが、こちらも高低差を感じることのない道でした。
8:34、京都市・八幡市境。嵐山渡月橋まで18km。8:43「五番樋門」。5:52「三川合流から4km」。9:04、「鳥羽の大石」。『河原を公園化する「京の川」整備事業の際、龍門下流100m付近の鴨川水中から引き上げられた。1662年5月、京都大地震で二条城も大被害を受け、建物や石垣の修理をした古文書がある。ここ下鳥羽三町付近に「鳥羽の港」があり、京への物資の要だった。この大石も二条城城郭石垣として、瀬戸内海石切場から水運でここに運ばれてきたものではないかと考えられている』
立葵が綺麗に咲いている。9:12、「京川橋」。アンダーパスを抜け、そのまま鴨川沿いに北上しちゃいました。鴨川の河川敷にも自転車道が続いていますが、これは大きな間違いで、大きくロスしちゃいました。用意した地図にない橋が現れ、おかしいなと思い、清掃のおばちゃんに「嵐山に行きたいのですが?」と尋ねると、「前方のくいな橋を渡って、西に向かうといい」と教えてくれました。
r201を西進していると、R171に合流し、見知った「久世橋」でした。久世橋は渡らず、アンダーパスし、10:13「嵐山渡月橋まで9km」地点到着。桂川右岸を北上し、R9・山陰道で桂川を渡り、左岸を北上します。
10:53、木陰で椅子を出して休憩。嵐山が前方近くに見えています。桂川対岸の愛宕山も見えています。ここから少し北上し、自転車道を逸れて、「鈴虫寺」へ。桂川に流れ込む支流を遡り、阪急嵐山線高架をくぐります。住宅街に入り込んで道をロストしたので、野菜の朝市を出していた旦那衆に尋ねます。明確に教えてくれましたが、「野菜買っていかないか?」と言われ難儀しました。車なら買いますが、自転車なので・・・。
11:07、「鈴虫寺」駐車場。「和尚さんの講話を聞かないと参拝できないよ。そのため待ち時間がありますよ、いいですか?」。自転車は無料だそうです。お寺の階段前に、門前店が2軒あり、「氷」ののれんが下がってる、魅力的。参道階段には行列ができています。どれぐらい並ぶのかな?誘惑に勝てず、家内を列に置いて門前店に降りて行き、勧誘の大攻勢を受ける。「どれ位並ぶのでしょうか?」「次の開門で全部入れるよ」「ソフトクリーム食べる時間ある?」「列の最後に入ればいいよ」「じゃあ、ソフトクリーム1つ、250円」。
家内の横に戻ろうと思ったら、参拝者が降りてくる。前回入場者が出てきたんだ。降りてくる方が途切れないので、列に上がれず、列を見上げながらソフトクリームを食べる。列が途切れたので登って行くと、列が動き出した。「拝観料500円です。お釣りが出ないよう、できるだけまとめてお願いします」。
クーラーの効いた座敷大部屋に通され、長机に座布団席が200ほどあり、お茶とお菓子が各人1組用意されています。部屋の前には、鈴虫の飼育器があり、盛大に鳴いています。1年中鈴虫が音色が楽しめる寺です。良縁・出産など、女性に徳のあるお寺なので、女性客が8割。カップルか女性のみのグループです。
『大変暑いですね、今日の京都最高気温は35℃だそうです。でもこの部屋が涼しいでしょう、何故かわかりますか?そう部屋の上を見てください。クーラーが効いているからです。これは皆様のためではなく、鈴虫のためです。何処から来られました?千葉、遠いですね。鈴虫寺に惹かれて来られた方も多いと思いますが、門前のお地蔵様は大変なご利益があります。このお寺が初めての方、手を上げてください。お礼参りの方、手を上げてください。多いですね、初めての方見ましたか?こんなにお礼参りの方が多いのは、ご利益を成就されたからです。帰りにお願いして、また成就してお越しくださいね。このお地蔵様、珍しいお地蔵様です。わらじを履いておられるんです。何故かと言うと、お願いされたら、ご自宅まで出向いて願いを叶えるんです。だから、御札を手に、名前と住所をはっきり心の中で伝えてくださいね。そうでないとご自宅まで辿りつけません。メールアドレスは要らないですよ・・・』
面白おかしく、でも為になる説法が20分ほど。とても面白く、冷たいお茶とクーラーでクールダウン出来ました。順路に従って、庭を巡ります。12:03、京都の町を見下ろす場所がありました。中央に京都タワーが見えています。
幸福地蔵菩薩様に、手を合わせます。300円で買った黄色い御札を手に持ち、次男の子の安西をお願いします。参道階段を降り、門前のさっきソフトクリームを買ったお店に入り、ざるそばを食べました。
4000匹も鈴虫を飼っているそうです。部屋の温度調節をして、年中鈴虫の音色が聞こえるように、次々に羽化させているそうです。バックヤードは大変な作業をしているのでしょう。小ぶりのお寺で、創建も300年前と古くはありません。幸福地蔵尊がイチオシの何処にでもあるお寺なのに、この人気はすごい。この日鳴いていた鈴虫だけでも、たぶん数百匹でしょう。説法のBGMとして、とても素敵でした。女性受けするのもうなずける。GWなど、最高2時間待ちが出来るそうです。家内が子供の頃、お父さんが鈴虫を飼っていたと、初耳のことを教えてくれました。通常の日曜日なら、行列は一気に解消されるので、最大待ち時間20分が最大でしょう。
「松尾大社」に向け出発。「徒歩10分」の案内板があります。12:40、松尾大社の摂社・「月読神社」発見。月読命は、天照大神(太陽神)の弟、素盞鳴尊の兄で、「月の神」です。月の神様なので、安産にご利益がある。
『延喜式名神大社の1つに数えられる神社で、元は壱岐氏に寄って壱岐の島において、海上の神として奉斎された。487年安閉臣事代が朝鮮半島に遣わされる際、壱岐で月読尊が寄り付いて託宣したので、これを天皇に献上し、山城国・葛野郡・荒す田に創建した。856年、松尾山南麓の現在地に移った。江戸時代に建てられた本殿・拝殿を中心に、御船社・聖徳太子社などがある。月読神社が京都にもたらされるに当たって、渡来系氏族、中でも秦氏が関わった可能性が高く、古都京都の信仰や渡来文化を考える上で、重要な意味を持つ神社だ』
14代・仲哀天皇(ヤマトタケルの息子、応神天皇の父)の皇后・神功皇后は、父に続き九州・熊襲成敗に向かった。戦闘の途中で急死した夫に代わって、熊襲成敗した。熊襲のバックにいた朝鮮半島にも渡海し、三韓征伐を成し遂げた。三韓征伐の渡海時に、応神天皇を身ごもっており、今生まれたら困るので、晒をきつく巻き、この月延石でお腹をさすって出産を遅らせた。三韓征伐を成し遂げた後、九州に戻り出産した。応神天皇は、2年もお腹の中にいたと、日本書紀には書かれています。三韓征伐の軍船に旗をたくさん立て、出産した産屋の回りにもたくさん旗を立てたので、「八(たくさんの)旗」と呼ばれ、「八幡」の語源です。源氏の祖・清和天皇が、九州大分・「宇佐八幡宮」から八幡様を、石清水八幡宮に勧請し、この勝利の逸話にあやかって、「八幡さま」を氏宮に祀りました。
神功皇后の安産にあやかろうと、社務所から頂いた玉砂利の祈願石・初穂料500円に、次男夫婦の名前・願い事「無事の出産」を書き、月延石に供えました。月延石をなでるように言われたので、そのようにしました。これで、この日の安産祈願ミッション完了です。
僕らが参る前、綺麗な女性が月延石の玉垣内に入らず、横から何かを奉納していた。玉垣内の木に「むすびの木」と書かれていたので、縁結びの御利益を願っておられるのかも?お綺麗な方で、神様に手を合わせる信心があればすぐに叶うでしょう。「ありがとうございます」「よろしくお願いいたします」は、心を清廉にします。良縁は、清廉な心が結ぶものです。
鈴虫寺の和尚さんも説法でおっしゃっておられました。『お地蔵様に手を合わせるだけでは、願いは叶いません。実現しようと行動を起こすことで、叶うのです。人は生まれ、生き、仏の国に帰る。行動を起こし、後悔なき人生を歩むことが、最も有意義な人生です。願いが叶えば、お礼参りをするというそういう心が、良縁も結び、素晴らしい人生になります』
12:59、「松尾大社」。門前市が開かれています。手作り市のようなものです。本殿の立派な塀の中央に拝殿があり、安産のお願いをします。『恋愛成就・夫婦和合 相生の松』というのがありました。全ての幸せは、ここにあると思います。恋愛が成就し、夫婦和合の結果、子を授かり、先祖から受け継いだ遺伝子を子孫にバトンタッチする。人の営みは、これに終焉するのではないかな。木札を授かる。初穂料2000円。
r29に出て北上し、13:27「嵐山」到着。片道25kmなので、休憩無しで走れたら、2時間弱。速い人なら1時間でしょう。僕らのペースは、休憩含んで10km/hなので、3時間+寄り道1時間として、7時出発、11時嵐山着の予定でしたが、途中で昼食を取ったこともあり、大幅な遅れです。
法輪寺・星のや京都・千光寺を巡る予定は、全てカット。渡月橋、保津川下り終点、国際色豊かな観光客、人力車に乗る浴衣美人・・・、トイレを拝借し、空になったペットボトルに水を満たしました。そして、家内がトイレに行ってる間に、今年初めてのかき氷を食べることにしました。自転車を動かし、ブルーハワイを注文し、東屋のテーブルにかき氷を置くと、家内が出てきたので手を振る。2人で分けて食べました。
13:55、帰路に着きます。これから25km。写真に写る家内は、まだまだ元気です。淡々と、桂川沿いの自転車道を下る。アベレージ速度が遅くなってきた。家内が疲れてきた・・・、伝家の宝刀「私ここで待ってるから、迎えに来て」が出るかと戦々恐々ですが、口数は減ったけど、足はクルクル動いてる。
何度も休憩し、細かく給水する。15:26、「魚市場跡」。『草津の港(現在の横大路)には、桃山時代から多くの鮮魚問屋が軒を連ね、江戸時代には幕府公設の魚市場が出来るなど、水上交通の拠点として栄え、現在の京都中央卸売市場のルーツと言われている。当時、淀川の三十石船が200〜300隻出入りし、瀬戸内からの引き船が夜を徹して淀川を遡り、卸された鮮魚を、「走り」という問屋仲仕が威勢の良い掛け声をかけながら、各地に運んだ。明治10年、京都〜神戸間に鉄道が開通し、集積地は京都駅に移り、現在の農村地区へ姿を変えた。
15:36、「カフェ・モーニング・グローリー」の看板が、自転車道に出ている。トーストサンドセット1000円。「ロードバイク用サドルスタンド、自由にご利用ください」。ここで家内を休ませ、ピックアップしに来ようかな?と家内に提案すると、「あと、どれくらい?」「10kmぐらいかな?」「じゃあ、頑張る」「おお〜、リタイヤすると思ったのに、初めてのお店で僕がいないから不安なのかな?2人でお茶してから、「追加のケーキでも食べて待ってて」と提案すればよかったかも」。
三川合流地点まで来て、木津川沿いに乗り換えます。16:36、流れ橋まで帰ってきました。往路でバテたら、阪急・嵐山駅から長岡京駅ぐらいまで輪行しようかと輪行袋も用意していましたが、必要なしでした。トータル61.89km。伊丹の自宅〜嵐山・53kmより長い距離を走りました。僕ら夫婦のサイクリング史上最長距離に迫りました。アップダウンが少なかったのも、良かったのでしょう。
往路同様の道を戻り、帰宅後選挙に行きました。債務超過に落ちる寸前の大阪を、大胆な行財政改革で蘇らせた「大阪維新」の候補に入れました。大阪在住の知り合いは、公営事業の変貌ぶりを大いに讃えている。家内は大阪地下鉄のトイレが綺麗になったことを喜んでいます。
僕は、行財政改革で浮かせた財源で、公立・私立の高校授業料を全て無料化した実績に凄いと思った。ヨーロッパ諸国のように、大学・大学院も含めた授業料無料化を、日本国全体で実現して欲しい。これが出来れば、子育てで最もお金がかかる義務教育以降の教育費の積立が不要で、そのお金が消費に回り、世界一の貯蓄があるのに、将来不安のために使わない経済を活性化出来る。「親の所得が子の教育機会不均衡を起こし、貧困からの脱却が出来ない」などという言い訳は通用しなくなる。奨学金なんて問題も、根本から解決する。
麻生さんのように、失言(本当のことだけど言っちゃあだめ)は多いが、有言実行型の橋下徹が首相になったら、日本は大きく変わると思う。
投票後、「僕は維新に入れた」と家内に話すと、「私も。比例は自民党にした」とのこと。「僕は比例区は、青山繁晴」にしたよと言うと、「個人名を書いていいの?」「そうだよ、投票用紙を渡される時に、職員さんが説明してくれてたじゃない。衆議院選挙みたいに、名簿に順位が付いていないから、個人名と政党名を集計して、その政党の個人名の一番多かった方から当選していくんだよ」「そうだったんだ〜」。まあ、こんなもんでしょう。楽しい1日でした。

2016/7/3
ドラゴン級ヨット・月1ポイントレース日です。濡れてもすぐ乾くラッシュガードなどヨット装束に着替え、セイリンググローブと、強風で気温が下がった時用に、パドリングジャケット・パンツを防水バッグに入れます。日焼け対策ハット・サングラス、そして何より大切なドリンクとして、ほうじ茶500ml・麦茶500ml・氷を入れた魔法瓶み水満タンを用意します。
暇なので朝6:30に家を出て、R171を西宮に走り、30分弱でハーバー着。途中で昼食用に助六寿司を購入。まず、桟橋係留クルージング艇に行きます。バウのアンカーボックスが傷んでいるようで、それを確認します。水抜き穴が、ボックスの最下部に無いので、構造上5ミリほど水が貯まります。一番簡単なのは、ゲルコートを剥がし、FRPで水抜き穴の高さまで底上げしてしまうのがいいかと。
エンジンを掛けると一発点火、バッテリーに桟橋電源ポストから常時通電しているので、バッテリー上がりしないので安心です。冷却水の排水もいい感じで、問題なし。係留艇の点検を終え、陸起きヤードへ。
レース艇のカバーを外していると、「おはようございます」とヨット部後輩がやってきます。「早いね」と声をかけたら、ボートを取りに行くので、早めに準備をしに来たそうです。彼の艇のメンバーは全員後輩で、僕がコーチ時代に教えた選手もいます。世界選手権上位入賞を目指す、このフリートのエース艇です。他のレース艇オーナーさんの知り合いカメラマンが、このレースを写しに来ます。カメラマン用に船を準備し、ドライバーはうちのチームから出します。僕がドライバーになるかもしれなかったが、レース要員になりました。
彼が去っていくのと入れ替えに、甲南大OBチームの女子クルーが来ました。多分紅一点になるので、写真露出度は高いでしょう。艇内の準備をし、ジェノアシート・スピンシートの準備を終え、使用セイルをどれにするか聞いていないので、することがなくなりました。
他チームのレースメンバーも集まり、レースメンバーのヨット部後輩たちも、レース準備を終え、あ〜だこ〜だお喋り。お嬢さんを1年間留学させている後輩が3人もおり、みんなの教育熱心さにびっくり。最近の学生は、日本国内だけではなく、視野を世界に広げています。その希望に応える親、素晴らしいじゃないか。
ウチのチームのオーナーSさんと、クルーHさんがやってきて、セイルセッティング開始。ハーバー職員が、船を下ろしにやって来たので、スピンセッティング作業中に慌てて収納。最期の確認ができていないので、めちゃ不安。S先輩に、沖に出たら一度スピンを上げてくれるよう頼む。
準備中に、他チームオーナーさんがやって来て、「・・さん、後輩が来ていますよ」とのこと。ヨット部先輩も後輩も多数いるフリートなので、誰のことは不明なので、当り障りのないあやふやな返事をしておく。
陸上であ〜だこ〜だ他のクルー達と話していると、コーチしてる大学ヨット部の卒業生H君がやって来ました。後輩とは彼のことだったようです。厳密には、次男の後輩ですね。卒業後、琵琶湖のクルーザーチームに所属し、ヨット活動を続けているので、そのチームオーナー繋がりかと思ったら、ピンチヒッターメンバーとして呼ばれたようです。朝からいい風が入っているので、ドラゴンを楽しめるでしょう。
レース艇が海面に降ろされ、桟橋に係留されます。横には和船タイプの船が係留されており、うちのメンバー甲南大OBのOさんが、息子さんHくん家族とやってきて、出ていきます。Hくんは、次男の大学ヨット部の隣の艇庫を利用していた京都工芸繊維大ヨット部出身で、次男が現役の時キャプテン&卒業後監督をしていました。当時は、琵琶湖であ〜だこ〜だしていました。
奥さんに挨拶します。男の子2人で、将来が楽しみです。うちの家内が言ってた「男の子のほうが、気を使わなくて子育てが楽。衣装だって適当でいいし、日焼けがどうの、怪我がどうのと考える必要がありません。勉強出来る環境さえ与えて入れば、あとは本人の努力次第だから」を話しました。下の子は3才ぐらいで、船に乗ったら怖いのか泣いています。上の子は5〜6才で、楽しそう。
家族で船に乗り桟橋を離れていきます。カメラマンが2人やって来て、半袖・色白・帽子なしの日焼けの辛さを舐めた格好だったので、日焼け止めを貸して塗りたくってもらいました。Oさん一家が桟橋に戻ってくると、3才チビさんが、船の上でジャンプして大喜びしています。不安に慣れ、海の楽しさを感じられたのでしょう。
10:30になり、メインセイルを上げ、桟橋を離れます。クローズホールドでコンパス角度210度、43度ぐらい風軸に対して上れるので、風向250〜260度・SW・5m/sのグッドコンデションです。
レース海面に着き、不安の残るスピンを上げてみると、見事にセッティングミスしていました。スピンを下ろしてやり直し、レースに臨みます。
R1、SW・6m/s。上マークの位置は、風軸260度・0.9マイル。時折ブローが西から下りて来る典型的なSW西宮沖パターンです。バウを揃えたスタートでしたが、少し早かったのでバウダウンをスキッパーに指示すると、バウが必要以上に落ち、1/4艇身第一線に遅れてしまいました。苦しいながらなんとか粘りましたが、ついに第一線から脱落しました。でもタックすると、風上艇にぶつかるので、ついていくしかありません。
タックしてフレッシュウインドを受けるようになりました。しかしバウの動きが不安定で、バウアップとバウダウンの幅が大きい。「風が詰まってる。ボートが前に行かんぞ」とSスキッパーから。「バックステイをもう少し入れたらどうですか?」と提案し、ミドルのHさんがチューニングすると、「おお、走りやすくなった」とSさんから。
ここから挽回したのか、全9艇中6位で第1上マーク回航。第3レグの上りレグで西目のコースを取り、1艇抜いたが1艇に抜かれ、第2上マーク6位。下マークでフィニッシュになる第4レグのスピンランで2艇抜き、1艇抜かれ5位フィニッシュ。
R2は、2回もゼネラルリコール。9艇しかいないので、リコールは読めるはずなのになあ。両方共うちのスタートが良かったので残念。2回目のスタートで、JPN28がスタートラインから放り出され、本部船にぶつかってまっすぐ風位に立って止まりました。その土手っ腹に向かっていたウチは、あわてて「ベア・ベア」と叫びます。スキッパーが必死で舵を下に向け、乗り上げを回避しました。
3度目でやっとスタートしました。JPN28は、本部船に突っ込んだダメージが大きかったのか、リタイヤして帰っていきます。スタート後、4位で上マーク回航し、下マークアプローチの最終ジャイブでミスってしまいました。Hさんがバウに行き、スピンポールを返し、僕がブームを返すのですが、ブローが入り一気にセイルが重くなり返せません。もう少しメインシートを絞りセイルを中に入れていたら楽に返せたと思うのですが、今更言えません。「重い、返せない、ベアして」と言いましたが、スピンポールを抜いたスピンがフォアステイに巻いてしまいました。ベアしてスピンをメインの裏に入れたらはらまないので、僕は「ベアしてください」と言います。Hさんは、何とか絡みを解こうとバウで悪戦苦闘しています。「一旦上ってボートを止める」とスキッパーから指示が出て、レースを諦める事にしました。
「ランニングを走って解きましょう」と再び提案するが、スピンが遠く飛んでしまっているので、シートを抜いて回収することになりました。僕の経験ではランニングを走り、スピンシート引けばなんとかなるはずなんだけど。
飛ばしたスピンをボート横から回収し、レース復帰。走りながらシートをすべて外します。大きく遅れたので、ビリ決定ですが、フィニッシュ出来ました。1年間の年間タイトルシリーズなので、リタイヤの+1点を逃れます。
2度のゼネラルリコール・スタートやり直しで、14時近くなっています。これで本日のレースは終了だろうと、のんびり他艇のレース観戦しながらフィニッシュしましたが、もう1レースありそうです。慌てて、サイドスピンセットしますが、スピンダウンロープが艇内の手の届かない位置にあり、諦めました。
スピンが展開できず戦意喪失ですが、スピンランの始まる1上まで頑張ろうと、R3に入ります。スピンがないので、第2・4のランニングレグでは、レース観戦しながらのんびり走ります。ビリながらフィニッシュして、ハーバーバック。暑い時期のレースは、熱中症対策が最重要です。先輩にぶっ倒れられたら困るし、申し訳ないので、レース中でも僕のペットボトルを渡して、水分補給してもらいました。レースとレースの合間には、魔法瓶から冷たい水を出して、2人にも飲んでもらいました。結局、500ml×2と魔法瓶2Lは、空になりました。日陰のない炎天下で、海からの照り返しもあり、レースは2回ビリで散々でしたが、サバイバルレースには勝利しました。
いい風の中、日頃の運動不足がたたり、疲れました。船を洗い、カバーを掛けて終了。ヨットクラブのウェットバーで、ポカリスウェット飲んで、レーサー仲間とあ〜だこ〜だ。操船レベルの高いこのフリートでは、ついぞ見たことがないJPN28のスタート前風位に立って停まってる姿は、皆さんの格好のネタです。いつもならここにいるはずのJPN28さんは、カッコ悪いと思ったのか顔を見せませんでした。大学の先輩が乗るJPN46さんは、ダントツ・セーフティーリードから、エースとはいえJPN52に抜かれてしまったことを自虐し、スピンなしの僕らも散々に言われてしまいました。
ウェットバーを御暇し、17:06「マリンショップ・ノース」で、2ミリのヨット用強化繊維シート・990円を購入しました。通勤リード110で、R171を一目散に帰宅し、荷物を家の玄関に置いて、「ただいま」といっただけで、再びバイクに乗り、「バイクワールド伊丹店」に向かいました。
通勤ヘルメットが、限界です。内部が毎日の酷使により黒くなってしまい、崩れ始めているようで、おでこに変なのが着きます。前回もこの状態になり、買い換えました。10年ぐらい使ったように思います。
ヘルメットを持って入り、前から気になっていた山積みのシステムヘルメット「リード工業・STRAX・D-SYS6・LL・ホワイト」と、大きさを比べます。リードは大きなシート下バゲッジ・スペースが魅力のスクーターです。でも帽体の大きなフルフェイスヘルメットなどは入りません。
このD-SYS6は、簡易フルフェイスヘルメットです。チンガードがあるのですが、頑丈な幅広ではなく、細いので転倒時にがっちりガードは出来ないと思います。でのその分視界がほぼジェットヘル同様なので、閉塞感がありません。僕はあのフルフェイスヘルメットは、圧迫感がすごくて被る気にはなれません。
このヘルメットの特徴は、チンガードが取り外せる、僕の好きなバイザー付きで取り外せる、です。最近、ワンタッチで直射日光を防ぐサングラスが降りてくるヘルメットが流行っていますが、バイザーがあると常に目は日陰なので、サングラスの必要がなく、スクリーンを濃い色にする必要もありません。バイザーは常備装着で、冬はチンガードを着け、春〜秋はチンガードを外して、風を通す使い方ができます。
並べてみると、チンガード装着では高さが上がり、シート下には入りそうにない。チンガードを外してみると、ほぼ同じ大きさで、バイザー装着でも問題なさそう。L・LLと被り、LLの方が良さそう。店員さんを呼んで、LLの白がないか聞いてみる。山積みLLは、黒ばかりでした。お値段7980円。
残念ながら白はなく、取り寄せも不可だそうです。すぐさま店員さんが、帽体の内部をバラし始めます。「帽体の大きさが一緒で、内部の大きさでサイズ変更しているのもあるから、入れ替えで使えるかもしれません」と教えてくれた。しかし、これは帽体の大きさが違うようで、入れ替えが利かないようです。残念ながら退散しました。ヘルメットは他にいろいろありますが、スクリーンが無断階で止まるのは多くありません。
マイナス点は、帽体の材質がハードなFRPではなく、ポリカーボネイトであることです。高速道路など、危険な高速走行時は、別のヘルメットを使うから、ここは諦めました。帰宅し玄関を開けると、「お豆腐を買いに行くから連れてって」とのご要望が来ました。いつものように火元確認をさせられました。家内はここが安心できないとダメです。結局、ここが出来ず、「家を出れなかった」らしい。
タンデムで市中心部に出て、初めての食品スーパーでお買い物しました。ヨーグルトフェチなので、新しいのを見つけて、買ってもらいました。
帰宅し、用意してくれていたお風呂にまず入り、ヨットの用意を片付けていると、冷しおうどんが出てきました。ヨーグルトを食べながら「ダーウィンが来た」「真田丸」を見ている途中で、寝落ちしてしまいました。家内に、「自分お部屋で寝ないと」と起こされ、2度目の風呂に入り、ヨーグルトを持って自室に上がり、至福の時間を過ごした後に寝ました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
inserted by FC2 system