ウェブマスター日記 2016/5-6

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2016/6/26
コーチしてる大学ヨット部のインカレ個人戦予選の日です。8時出艇なので、それまで歴史探索しましょう。合宿所横を流れる際川の流れを調べていると、近江〜京の旧街道「山中越」ルートはここを通っていたことがわかりました。現「山中越」を走るたびに、京都側の「山中」から山中に分岐して行く道が気になっていました。旧道だろうと想像がつきましたが、地図では途中でルートが消えています。山歩きウェブサイトから、廃道化しつつある旧道を歩かれた方の日記を見つけ読んでいると、際川上流・近江側にあった廃寺・「崇福寺」の遺構に興味を惹かれました。朝ここを探り、レース終了後から夜のミーティングまでの間の時間で、明智光秀の「坂本城址」を中心に、周辺の寺社を探索する予定を立てました。目を覚ますと3時前、あまりに早いので二度寝したら、4:30に目覚めちゃいました。予定より30分遅れです。天気予報をチェックすると、朝曇り・午後晴れでグッド。ゴソゴソレース観戦グッズを用意し、夏用メッシュ上下を着こみ自宅を出ます。この日のお供は、「招き猫CB400SB」です。
燃料計を見ると、「残量半分(18L×0.5=9L)・走行距離200km」、あと200kmは走れるので、琵琶湖往復は問題無いでしょう。GS給油時間がもったいないのでパスしました。豊中ICから中国道に乗り、名神高速にチェンジし、朝食・昼食用のおにぎりを買おうと「桂PA」に寄りましたが、売店はまだ準備中でした。仕方なくトイレのみで再び走りだし、「京都東IC」下車。湖西道路に乗り、「南滋賀ランプ」下車。ここは、現「山中越」県道直結です。
側道を走り、「際川」沿いの道に合流し、6:08川沿いにあったお堂に寄り道。「不許薫酒肉入山」の禅寺特有の石柱が立っています。「千躰地蔵尊」というお堂でした。「東海自然歩道 百穴古墳0.2km・崇福寺跡0.7km、大津京跡0.8km」の道標が立っています。禅寺らしい建物がないので、地図で枝道の先を見ると現「崇福寺」がありました。
興味を持って枝道に進入し、6:13「滋賀山寺・岩屋不動尊」。琵琶湖を望む比叡山系への中腹にあるので、湖面が見渡せる。大津市中心部の大津港、瀬田の大津プリンスホテル、対岸の近江富士まで見えます。
寺内に足を踏み入れると、すぐに古墳がありました。『桐畑古墳群(熊谷古墳群) この古墳群は、百穴古墳群と同じ丘陵に北側尾根東斜面に位置し、6基の円墳から構成されている。いずれも古墳時代後期(今から1400年前)の古墳で、3基から横穴式石室が見つかっている。石室の壁面がドーム状になっていることなどから、渡来人達の墓ではないかと考えられている。中でも東端に位置するこの第1号墳は最大で、丘陵斜面を利用し、直径20mの墳丘が築かれている。石室は東に開口する両袖式の平面を持ち、壁面は持送りに寄ってドーム状になっている。天井石はなくなっていますが、通路から玄室(遺体を納める部屋)に至る横穴式石室の構造がよく分かる古墳です。現在は、玄室に不動尊が奉られており、人々の信仰の対象となっている』
石室内に入ってみる。多数の石仏が壁に立てかけられており、信長の比叡山焼き討ち後に、散乱した石仏を集めたのかもしれない。天井がポッカリ開いており、森の木々からの光が届いている。滝打たれの行に使うのか、小さな流れが滝に細工されている。紫陽花が咲き、小さな池があり、獣道程度の山道が続いている。他の古墳を巡れそうだ。普通の民家に近い風情のご寺院の方に行くと、普段着姿のご住職が出て来られた。
「えっと、なにか御用で」「いえ参拝です」「あ〜写真ですね、ごゆっくり。どちらからですか?」「伊丹からです」「遠くから、ご苦労さまです」。ご住職は獣避け柵をくぐって畑の方へ行かれた。「鹿が出ますか」「はい、よくやってきます」。
バイクに乗り、交差点まで戻り、際川上流にゆっくり上ります。6:25、墓地と石仏が両側に見えてきて三叉路で停車。ここにも石仏が集合しています。以前坂本から比叡山ケーブルで上がった時、「天台宗総本山の他に、浄土宗の法然・浄土真宗の親鸞・曹洞宗の道元など、多くの仏教諸派がこの山から巣立っていった。山中に無数に石仏があったが、信長の比叡山焼き討ちで、多くの石仏さえ谷に落とされるなど被害を受けた。それを今でも集めている人がおり、集合した場所がある」と聞いた。その一部なのかな?と思う。
「崇福寺跡0.5km」の他に、「百穴古墳群」の案内板があり、山中を指している。半竹林の山に入ると、石仏が立ち、古墳の口が見える。『注意してください 百穴古墳群内の各古墳は。自然の状態で残っています。石組みを触ったり、上に乗ったりすることは大変危険です。むやみに近づかないようにしてください』
『百穴古墳群は、今から1400年前(古墳時代後期)に造られた墓が多く集まったところです。大きな石を上手に積み上げ造られた横穴式石室を、土で覆ったものです。石室は、玄室(死んだ人を納める場所)と、外を結ぶ通路に分かれています。表から見ると、通路の入口が穴のように見えます。この穴がたくさんあることから、「百穴」という名がつけられました。石室の壁の石は、天井に向かうほど少しづつ迫り出して積まれているため、天井はドーム状になっています。石室内には、2〜3の人が葬られており、時には金のイヤリングや銀のブレスレットなどで飾られ、木や石の棺桶に入れられました。石室内には、多くの土器(土師器・須恵器)も一緒に納められました。この中には、お祭り用のミニチュア炊飯具セット(かまど・かま・こしき・なべ)も含まれています。古墳時代後期、古墳群は全国各地でたくさん造られましたが、この百穴古墳群のように、石室の天井がドーム状で、ミニチュア炊飯具セットが納められているという特徴は、大阪・奈良・和歌山の一部にも見られますが、ほとんどが大津市の坂本から錦織にかけての地域だけに見られます。現在までの研究では、これらの特徴は中国や朝鮮半島からやってきた人たちと、深く関係するのではないかと考えられています』
下草が生えておらず、湿度が高い森の中ということもあり、苔に覆われた石が露出する一帯は歩きやすいし、見通しが良い。あちこちに石室の穴があり、中も覗けます。緻密な石組みが完全に遺った石室もあり、戦国時代・江戸時代に全国の城の石垣・石積みに特殊技術をもって貢献した穴太衆は、朝鮮大陸式のお墓造りで培った技術集団だったのではないかと、その技術の源泉を見つけた感じがした。緩やかな際川沿いの道を登っていきます。
6:33、大きな石仏があった。『石造阿弥陀如来座像(志賀の大仏) 高さ3.5m・幅2.7mの花崗岩に、厚肉彫に掘り出した高さ3.1mの阿弥陀如来坐像です。13世紀頃に造られたと考えられ、上半身に彫刻の主力をおいた、ゆったりとした雰囲気の漂う石仏です。この石仏の横を通る道は、崇福寺跡から山中町を経て、京都・北白川へ抜ける旧山中越(志賀の山越)で、大津側の入口に位置する。この場所と、山中町の西教寺門脇、京都北白川に石仏があり、いずれも山中越を利用した旅人が道中の安全を祈願したとも云われている。現在、地元で「大仏講」が作られ、大切にお守りされている』
竹箒やちり取りが下げられており、石仏を拝むお堂もよく清掃・手入れされている。延々、徒歩移動だった時代は、山越えに安全を祈らずにいられなかっただろう。大仏を謳った御詠歌が掛かっている。
更に先に進み、崇福寺分岐まで登るが、道の舗装部分が狭く、バイク駐輪があれば四輪は離合不能です。四輪が上がってくる気配、というか物好きな旧志賀越(旧山中越)ハイカー以外来そうもないが、一旦大仏前まで降り、バイクを置いて徒歩にする。
石垣が遺り、薪が整然と置かれている。6:44、「志賀峠1.5km」と崇福寺との分岐。琵琶湖から見上げる比叡山山系の峠まで、ここからたった1.5kmなんだとびっくりする。ここまでは、急坂はない。崇福寺の全景詳細図があった。講堂跡・金堂跡、小金堂跡・塔跡、弥勒堂跡が、3つの尾根上に東向き平行に立っていたようです。塔に登ると、琵琶湖が一望できたんじゃないかな?
『崇福寺は、天智天皇が大津京遷都の翌668年、宮殿の北山中に建立した寺院。幻の宮殿を探る手がかりとして注目され、昭和3年(1928)発掘調査された。滋賀里西方の谷を隔てて南北に並ぶ丘陵上にあり、南丘陵からは講堂・金堂、中央丘陵からは小金堂・塔、北丘陵からは弥勒堂の遺構が見つかっている』
『東海自然歩道 東京の「明治の森高雄国定公園から、大阪の「明治の森箕面国定公園」まで1300kmあり、美しい自然や文化財を結んでいます』
東海自然歩道は、よく目にしますが、東京から大阪まで結ぶ道だったのですね。6:46、金堂と小金堂との分岐。『金堂跡・塔跡200m、弥勒堂跡400m』『塔跡の心礎から国宝舎利容器が発掘され、近江神宮に保管されています』。金堂の方を見上げると、中世の山城跡同様の郭がいくつか見えます。それぞれに小堂が建っていたのか、僧侶の住まいがあったのかでしょう。よこの「際川」の流れは、とても細くなっています。
6:50、「金堂跡・講堂跡50m、小金堂跡・塔跡100m」の分岐。雑木土留め階段を上がり金堂跡へ。郭周囲から下を見ると、切り岸され、他にも郭が見えます。『ここ南の尾根上には、西側に5.5m四方の基壇を設けた金堂跡と考えられている五間四間の南面する建物があり、その東側には、同じく五間四間の南面する建物跡があり、講堂跡と考えられています。更に講堂の北にも三間二間ぐらいの小さな建物跡があります。この南の尾根上の建物と、北・中の尾根上の建物群では、建物の方位や礎石の形状が異なることや、南の尾根上の建物群周辺から白鳳時代の遺物が出土しないことから、南尾根の建物群を桓武天皇によって建立された梵釈(ぼんしゃく)寺に、北・中尾根上の建物群を崇福寺に当てる説が有力視されています。崇福寺は、壬申の乱によって大津京が廃都になった後も繁栄を続け、平安時代には十大寺の一つに数えられるほどになります。しかし平安末期の山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の争いに巻き込まれ、衰退の一途をたどり、鎌倉時代後半頃には、廃絶したようです』
礎石がしっかりと遺り、往時の姿を想像します。現代の盛り土新興住宅地と違い、1000年以上経っても、切岸が崩れておらず、しっかりしたものだと関心しました。小金堂との分岐に戻り、小金堂の尾根を見上げます。郭が見えています。際川の沢に一旦下り、川幅1mの浅い沢を渡って登り返して郭に上がるようになっていますが、そろそろ7時なのでタイムリミットです。7:04、大仏まで戻り、バイクに乗ります。
適当に琵琶湖の方に下り、R161「陸上自衛隊・大津駐屯地」に出ました。ここは、旧海軍大津駐屯地で、戦後米軍に接収され、返還によって陸自施設になりました。戦前は、静水面が広がる琵琶湖を使った水上戦闘機発着や、一直線生活道路として名残を残す旧滑走路跡などでの離発着訓練で、戦闘機パイロットを養成し続けていたのだろう。
R161で、7:15ハーバー着。ゴソゴソ用意をしていると、運営手伝いの1回生がやってきて挨拶。大会本部に、成績表を見に行く。他大学選手やコーチなどと「おはようございます」の挨拶が自然に起き、これが体育会の気持ちの良い所です。僕は自宅前でも、知らない人に挨拶します。山歩き時のすれ違い挨拶のように、どこでも挨拶する日常が、以前の日本のように戻ったらいいのになと思う。
艇庫前に行き、レース前ブリーフィングで、「フレッシュウインド、レース最終日の気負いから頻発するリーコル(フライングスタート)失格注意」などを話す。コーチボートに乗り、学連レース前の風景を楽しむ。各大学下級生からの応援エールが始まり、陸上に残る1回生不足から、僕も応援のエールに加わる。今年の1回生エール係も、声が通ってナイスガイです。応援に答えるレースメンバーが、船上で起立して応える姿が、僕らの頃と一緒です。世の中を、冷めて斜めから見るのがクールだと風潮があるが、若者は体育会系ホットな時代を大いに楽しんで欲しいと思う。いいね、体育会。
次男と同回生だった現監督Iくんも一緒にコーチボートに乗り出艇。SW・5m/sの良い風で、この日の第1レーススタート。キャプテンがトップフィニッシュだった。いつものように、フィニッシュ後次々に戻ってくるレース艇にアドバイスする。気がついたことを話し、風の傾向を話し合って頭の中を整理する。
最終レーススタートは14時までで、レース本部船は頑張ってこの日の5レース目を、14時ギリギリにスタートさせる。が、朝比叡山に掛かっていた雲が消え、太陽が顔を出していた空模様が、比良山方面からの黒雲が琵琶湖に張り出してきて、一気に北風に大きく風向が変化し、ノーレースになってしまった。
海上で、本部船に各大学レース艇が集まり挨拶し、次々にハーバーバックしていく。もう1時間あれば、良いレースができていたのに残念。ハーバーに戻り、バイクに行きタンクバッグにレインカバーをして雨対策していると、降ってきました。湖上で見えていた高島方面の雨がこちらまでやってきたようです。
艇庫に戻ろうとすると、琵琶湖ジュニアのお母様方がいる場所で、僕がジュニアヨット理事時代、ASEAN選手権に引率したナショナルチームのNくんがいた。お父さんの会社に入り、立派に引き継いでいる。次男の1つ年下です。次男がもうすぐお父さんになることを知っていたので驚いた。恐るべし、ジュニア人脈。親父さんのことを聞いたら、琵琶湖ジュニアの当時のお父さんつながりで、登山にハマっているらしい。2000〜3000m級ということだから、本格的で僕がお供出来るレベルではない。お母様方を交え、あ〜だこ〜だお喋り。
雨が止み、閉会式の予定が未定なので、艇庫に戻り、夜のミーティングが17:30という予定を聞き、それまで歴史散策に行くことを告げる。16時出発。R161を北上。陸自大津駐屯地横を過ぎ、16:13「唐崎神社」。久しぶりです。近くに艇庫があるD社大との学生時代の定期戦で訪問した以来かもしれない。電信柱のてっぺんでトビが餌の取り合いをしている。
『唐崎(唐崎神社内) 古くからの景勝地として、数々の古歌などに取り上げられ、日吉大社西本宮に関わる信仰や、祭礼の場としても知られる。加えて「近江八景」の一つ「唐崎の夜雨」の老松との景観は、天下の名勝として安藤広重らの浮世絵などにも取り上げられて来ました。現在の松は、3代目の松で、近くの駒繋ぎ場から移植したもので樹齢150〜200年。2代目は、天正9年(1581)大風で倒れた1代目にかわり、新庄駿河守らが良木を求めて植え替えたもので、幹周囲9mに及び、枝を多数の支柱で支えられた天下の名木として知られていました。今も境内に残る枝を支えた石組みや支柱の礎石が、往時の雄大さを忍ばせています。史上に見える景観ではないものの、湖上に突き出た岬状の地形と老松が織りなす景観は今なお優れており、その歴史的由緒と「近江八景」を具体的に体現できる数少ない場の一つとして貴重です。なお当地は、平安時代からの大祓の場と考えられている』
『唐崎 韓崎・辛崎・可楽崎などの字を当てはめる場合もある。「万葉集」にも現れる大津京時代からの地名。古くは湖上交通の湊と考えられ、平安時代には、天皇の災厄を祓う「七瀬祓所」の1つとして重視された。「枕草子」に湖畔の名勝として紹介され、室町時代の終わりに「近江八景」が選定されると、「唐崎の夜雨」の舞台となった。この地の遺る松は、日吉大社西本宮のご鎮座とも深い関わりがあり、「唐崎の一本松」と呼ばれ、多くの人に親しまれた。現在、唐崎神社境内に大切に保存されている』
「百穴古墳」での学習によって、この地が渡来人が住んだと知ったので、「からさき」の語源は、半島系の「韓」が大いに影響しているのでしょう。司馬遼太郎「街道をゆく」でも、「唐津」など「から」のつく地名は、半島系外来人が住んだ地と考えられると書かれていた。このように、実際にその地を訪問すると、史跡や地名からそれを感じる。
3代目老松も、見事な枝ぶりで、盆栽の拡大サイズという感じで異彩を放っていた。檜皮葺屋根の本殿も適当に苔むし、いい感じです。湖面に向かってベンチが多数置かれ、風の弱い日は絶好の居心地でしょう。
北上し、旧道に入ってすぐにあった「大将軍神社」に16:23。『祭神:大山祇神 下阪本では、大将軍社を大乗護(だいじょうご)と呼んでいる。大乗護は、秀吉の頃、小堀遠州守が検地した時の測量縄を祀ったことからとか、土地の守護として亀を祀ったとかの説がある。大乗護は、伝教大師の産土神であるので、大乗仏教を守る神のことである』
16:26、「志津若宮神社」。『祭神:大山祇神・菊理姫神(くくりひめのかみ) 創立は、816年に陰陽神を勧請したことに始まるとも、また近隣の志津男之池・女之池から出現した二柱の神を祀ったことに始まるともいう。古い農耕の土俗的儀礼に発する水神であろう。堂田(どうた)には、神宮寺が建立されていた。今でも神仏習合の頃の文殊菩薩騎獅像が伝存する』
拝殿を覗くと、奥に2つの本殿が鎮座していた。菊理媛神がわからなかったので調べると、妻に会いに黄泉の国に行った伊弉冉尊は、変わり果てた姿の伊弉諾尊を見て逃げた。それを「見たな、許さん」と追いかけた伊弉諾尊との間に入って取り持ったという神で、白山信仰の「白山比め神」と同一神。
16:31、「東南寺」。『戦後初の阿闍梨となられた葉上照澄大僧正は、伝教大師の精神の不況に多大の功績を残された。中でも天台から世界平和への祈りを発信され、架け橋となるべく東奔西走され、昭和62年比叡山山頂で世界宗教サミットに結実させた。「一隅を照らす」を身をもって示された。その最後の地・東南寺に、生前詠まれた歌が石碑となって建立されている』
素朴な石仏が多数、無縁墓石のように整然と積まれている。阿闍梨さんは、修行を積み、千日回峰行を結願された方。生き仏と言っていい存在ですね。最期の地だったのか・・・。
旧道からここへの道入口に、「坂本城址」の石碑が立っている。見落としそうな小さな石碑でした。『坂本城は、1571年9月の山門(延暦寺)焼き討ち後、織田信長に滋賀郡支配を命じられた明智光秀が、比叡山麓の当地に築城した水城。日
本最古級の天守がそびえていた坂本城について、ポルトガル人宣教師・ルイス・ロイスは、1576年に築城された信長の安土城に次いで豪壮華麗な城と賞賛しています。築城の目的は、山門の監視ばかりではなく、彦根の佐和山城とともに、信長の領国・美濃と京都都のルート確保、水運の重要拠点などが挙げられる。天正10年6月の山崎合戦の後焼失しますが、丹羽長秀によって再建され、同14年城主・浅野長吉の時に大津城に移るまでこの地にあった』
「順照寺」「立専寺」「小唐崎神社」を巡り、R161に出て、16:49「明智塚」。『坂本城落城の際、光秀の脇差・名刀の郷・義弘並宝器物を埋めた跡であり、明智一族の墓所であると伝えられている』。小さな塚ですが、綺麗に手入れされ、現れて綺麗な湯のみ茶碗が置かれていた。毎日、ご近所の縁者が守っておられるのでしょう。有り難いことです。
再び旧道に入り南下し、16:55「厳島神社」。『境内には、最澄作と伝えられる弁財天及び十五童子を祀った小祠もあり、近江三弁天の1つ。樹齢300年と推定される大銀杏は、大津市保護樹木』。
「韓神神社」。『祭神:天照大神 創立は延暦20年に勧請したと伝えられる。往時、社号を奥成社と称し、日吉神社社外百八社の1社である』。神道系のお墓には、仏教の戒名に当たる名が彫られていることが多い。「奥都城」「奥津城」などはその典型で、「都」は神官や神官の子孫、「津」は一般信徒、「奥」は「置く」にもつながり、奥まった所に置く棺につながる。社号に「奥」があると、墓地を連想したりする。
「行者堂」。「南無阿弥陀仏」の石柱が立っている。「下阪本郵便局前」に、観光案内板が立っていた。2週間前、藤尾散策で立っていたものと同じで、滋賀県仕様と思われるが、色あせて目を凝らさないと文字が読めない。「北に1.5km・聖衆来迎寺」が案内されている。浅井朝倉軍をこの地で防戦し、「衆寡敵せず」で長男ともども討ち死にした信長の信頼篤かった武将・森可成のお墓がある場所です。行きたいなあ・・・
『両社の辻 旧北国街道(西近江路)と松の馬場の通りの交わる辻は、両社の辻と呼ばれる。両社とは、辻の北側の酒井神社と南側の両社神社のこと。この2社は、かつては1社であり、北神社・南神社、北若宮・南若宮と呼ばれていたこともあった。この2社の本殿は、元和2年(1620)、旧坂本城主であった浅野長吉の孫で、広島藩主・浅野長晟の寄進による』
浅野長吉は、浅野長政として歴史に名を残している。秀吉時代の五奉行筆頭です。織田信長に奉公する浅野家の婿養子として家督を継いだが、同じく養子として入った姉・ねねが秀吉の嫁いだために、秀吉友軍となり、数々の軍功により、秀吉の信頼厚い親族として出世した。秀吉亡き後は、同じ五奉行の石田三成などとは袂を分かち、徳川家康に近づき、関ヶ原合戦でも一族が活躍し、江戸時代も「池田家」同様「浅野家」も、外様大名ながら繁栄した。
赤穂浪士で有名な赤穂浅野家も、この浅野家の出です。嫡流・広島藩を中心に、次男以下を他藩に出した。殿中での殺傷沙汰は、理由はともあれ浅野家に非があるのだが、吉良家近隣諸藩でさえ吉良家に味方しなかったのは、浅野家の分厚い連合が暗に効いていたように思われて仕方がない。対して吉良家は、三河で隣接していた徳川家と、塩の関係などで経済的葛藤にあった間柄で、家柄は吉良家の方が上なので、徳川家の目の上のたんこぶ的存在だった。
両津神社・酒井神社を訪問した。両社はとても良く似ており、檜皮葺の本殿の造りも似て、1620年以来美を保った両社は、境内が大きくはないもののナイスな雰囲気を持っていた。
『両社神社 一間社流造、檜皮屋根の社殿で、正面は長く伸びて向拝となっている。側面の姿が美しい。隣の酒井神社とは、蟇股の彫刻や紅梁若葉などの細部が異なるだけで、構造は同じ』
『酒井神社 ご祭神:大山咋命(おおやまくひのみこと) 創建は弘仁2年(810)下阪本の梵音堂の岩から酒が湧き出し、その酒の精は、大山咋命であると神告を受け、人々は社を建て、岩をご神体として祀ったと伝承されている。1572年信長の比叡山焼き討ちにより罹災したが、1620年に広島藩主・酒井長晟によって現在の社地に建立された』
境内隅にあった石柱が気になって見に行った。『明治29年琵琶湖洪水石標 琵琶湖の沿岸は、瀬田川洗堰完成(1905年)まで、毎年洪水や冠水の被害を受けていた。明治に入ってからも18・22・28・29年と4回の洪水は特に甚大だった。29年の洪水は大水害で、9月12日にはこの付近で、水位は13尺近くあり、両社の辻南東隅にあったこの石標には、その最高位線が明示されている。石標の他の側面は、これより以前の主要な洪水水位を表示して、各洪水の規模を一見してわかるように示している。琵琶湖を象徴としている大津市にとっては、科学的な記念碑です。また、琵琶湖洪水史にとっても貴重な歴史的記念物です』
17:06になったので、合宿所に戻ります。R161一本道で、17:18着。閉会式は大幅に遅れているそうで、マネージャーさんたちが台所でロールキャベツを作っているところにおじゃま虫。50名ほどの部員数なので、鍋4つの量です。皆が美味しいと平らげてくれるので、作り甲斐があるそうです。
ハーバーから皆が帰ってきて、ミーティングが始まったのが18:30。風の見方・入り方、スタートラインで留まるために役立つコーチボート離発着動作、そしてコーチボートにPCを持ち込んで、終了レース成績表速報時間が正確で早くなったことを褒めた。「15年前組んだプログラムを持ってきたけど、かっこ悪くて出せないや」と、皆を笑わせようと思って言った。
先々週、手作業で集計してるのを見て、「僕は15年前、ジュニアレースの事務局長・広報委員長時代に、140艇の全日本選手権を速報してたよ。成績表プログラムは、組めるから挑戦してみたら」と言いました。フィニッシュボートに乗せた広報部員お母さんから、携帯電話メールで着順を送ってもらい、陸上大会本部にいた僕のPCでそれを受け、即座に総合成績表を作成し、掲示板に貼っていた。メール登録してもらった方には、速報サービスもしたので、次のレースが始まる前に、海上で待機中の親御さんの携帯電話が一斉に鳴り出し、大評判になった。その日の最終レースを終えた選手は、船を陸上に上げると、一斉に陸上公式掲示板に駆けて来て、大混雑した。
さすが現代の大学生、2週間で実用化してしまったので大いに褒めた。OBが3名来ており、このレースのジュリー(審判)2人もいたので、ルールのことで大いに盛り上がり、19:30終了。
皆は、美味しい夕食・ロールキャベツですが、僕は帰ることにする。1回生が、「食べられますか?」と夕食を持ってきてくれたが、「2人分食べな」と申し訳なかった。バイクプロテクター装束を着ていると、マネさんとプログラムを組んだ理学部くんがやってきて、「プログラムをもらえませんか?結構組むのがしんどかったんですよ。カットレースを反映させるのが出来なかったし・・・」。
「ええ〜」と思いながら、僕のはカットレースも自動反映だし、失格も自動反映するし、現状ではまだ僕のプログラムの方が優秀かもしれないと思い、スティックメモリーからPCにコピーしてもらった。
この日、PCを湖上に持ち込んだマネさんのノートPCは、ASUS製で上面を閉じても、上面にディスプレイが表示されていた。つまり上蓋両面がディスプレイの優れものだった。こんなのがあるんだと、びっくりでした。
副キャプテン2人が見送りに来てくれて、合宿所を後にした。湖西道路〜名神〜中国道で帰路に着いた。名神茨木IC付近で、燃料計1から「流れる表示」になった。残量4Lです。まだ、24×4L=100km弱走れます。2週間前、降りる豊中IC100m手前でエンストした悪夢が蘇りますが、余裕です。
21:16、「伊丹産業・ESSO・セルフ北村」で給油。323km/13.83L=23.4km/L。帰宅すると、家内は夢の中でした。食卓には、「食べられなかったら、冷蔵庫に入れておいてね」の書き置き付きで、天ぷらお皿がラップに覆われて置かれています。ありがたく頂き、風呂に入り、ヨーグルトを持って2Fの自室に行き、おいしくヨーグルトを頂き、22時過ぎに寝ちゃいました。

2016/6/19
バイクツーリンググループで知り合った方が立ち上げた「カフェ巡りグループ」の日です。京都三条大橋近くで、昼食をご一緒します。昼間で暇なので、バイクで木津の山城を3つほど攻め上る予定でした。グループ解散後、桂界隈を歴史散歩して帰路に着こう。三条大橋近郊のバイク駐輪場を調べ、「先斗町バイク駐輪場」に電話すると、「午前中なら空きがある。午後は満車になる可能性が高い。雨なら終日大丈夫」との答えでした。
前日の予報では午後から夕方まで小雨なので、グループ解散後三条大橋界隈を歴史探索し、雨が止んだら帰路に着く作戦に変更しました。
4時前に目覚め、勇んで準備していると、自室のひさしに当たる雨音・・・ひどい降りではありませんが、「降雨が早過ぎるぞ」。PCを立ち上げ、天気予報チェックすると、夕方まで雨模様です。山城攻めは、未舗装山道・獣道を登るので、雨は危険なので、断念しました。
バイクで行く必要がなくなり、阪急電車で行くことに変更。8時になれば、寺院は開門されるだろうから、8時京都の予定を組みます。6時半、通勤リード110で駅まで走り、7:17阪急十三から京都線・準急に乗ります。準急なのに、ボックスが入ってきます。
8時に、阪急四条河原町駅到着。駅で、「阪急沿線悠遊1日紀行」シリーズパンフレットを大量ゲットします。河原町・烏丸・大宮・西院・嵐山・松尾大社〜上桂・洛西〜東西向日町・長岡天神・西山天王山・大山崎・水無瀬〜上牧。京都市街図を広げ、「裏寺町通」を三条まで北上し、「河原町通」を四条まで南木屋町通」を北上して二条通。最後は三条まで南下して、三条大橋というルートを考えました。
8:12「浄心寺」。「西導寺」「光徳寺」「常楽寺」。豊臣秀吉が、この通り沿いに寺を集めたので、右の左も寺が軒を並べています。8:14「白蛇弁財天」。弁天様は赤ん坊の時は、皆さんお世話になる女神仏なので、つい寄ってしまいます。妖艶なお姿を拝見できればいいなと思っていましたが、弁財天自身が小さく奥におられるのでよく見えません。裏の墓地を覗いたら、石塔の後ろに卒塔婆がたくさん立っています。年忌の時にいただく卒塔婆は、数ヶ月立てておくと汚くなるので、僕はすぐにお寺さんに処分してもらっています。父が亡くなった時に、卒塔婆立てを新調したのに、あまり利用していません。母の七回忌も終わったから、もう僕自身の卒塔婆まで出番なしです。京都のここらは、卒塔婆を立てておく文化のようです。
ファンシーグッズのお店があり、「路上喫煙禁止区域」の案内板が設置されていたりします。歩きながら喫煙は、小さな子にとても危険です。観光地は、この方が良いね。「ABCマート」のある東西の道に出ました。西を見ると、南北に走るアーケード商店街が見え、「新京極」と書かれています。
角に、地区案内板があり、「蛸薬師通」だとわかりました。「猫カフェ」がありました。ちびの時、庭で犬・「シロ」を飼っていました。幼稚園の時、散歩に連れて行ったら、スピードについていけず、よく引きずられて擦り傷を作っていました。シロは、ついに僕を引きずり切り、逃げて行っちゃいました。悲しい記憶です。次に飼った犬の名も「シロ」にしました。もちろん色は白です。2代目シロには、小1の時お尻を噛まれました。1〜2年後に、外の犬小屋の中で死んでしまい、庭に埋めて石を載せ、お墓にしました。あまりに悲しく、それ以来、動物は死んじゃうので飼わないことにしました。
弟は、小・中学生時代、2Fの物干しで伝書鳩を飼い出しました。親父にでかい鳩小屋を作ってもらい、足に伝言を結び遠くで放し、帰ってくるのを楽しんでいました。いつしか、近所の公園の鳩まで寄り付くようになり、あまりの掃除の大変ました。その時、お隣さんは「フクロウ」を飼っていました。能勢の山に行って捕まえてきたそうで、倉庫がフクロウ小屋になっていました。いつでも見ていいと言われており、昼間フクロウは動かず、時々鋭い目をこちらに向けるのが楽しかった。
子供がちびの時、犬を飼いたいと言い出しましたが、夫婦フルタイム労働者なので、リスなど小動物でお茶を濁しました。リスは時々室内脱走し、網を持って捕物が面白かった。夏の暑い日、暑くて可哀想だと勝手口の外の屋根の下にゲージをぶら下げておきました。昼休みに帰宅すると、なんと下にネコがいました。ゲージの底は、ネコジャンプにより壊れて落ちており、リスは恐怖でゲージの上面にへばりついています。危機一髪で救い出しましたが、いつの間にか脱走して行方不明になりました。しばらくして近所の公園に行くと、シマリスが枝に載っています。「うちの・・・」と思いましたが、人間に捕まえられるわけはなく、野生化して自力で生きている姿に安堵するだけでした。
長男が生まれた記念に掘った庭の池に、金魚や近所の池で釣ったフナを入れていました。猫がそれを狙いに来て、いつの間にか食われていなくなるので、常に補充していました。金魚の餌を持って近づくと、こちらの寄ってくるので、これも面白かった。
このお店には、「ブリーダー直売」なんてポスターも貼ってあるので、販売店でもあるようです。
8:20「妙心寺・醒ヶ井地蔵尊」。醒ヶ井は、東近江・醒井養鱒場で有名です。この名の由来は古く、ヤマトタケルが伊吹山で大蛇の毒にやられてしまった時、持っていた矢で地面を突くと泉が湧き、その泉で覚醒したという伝説から来ます。醒ヶ井の清水は、美濃・養老ノ滝から源で、醒ヶ井を通り、京に湧くという伝説もある。因みに「養老ノ滝」の命名由来も古いです。年老いた親を養い、生活がギリギリだった木こりが、この滝を見つけ、「これが酒だったらなあ」と夢見たら、正夢になり、持って返って父親に飲ませたら、白髪がたちまち黒髪になり若返った。これを聞きつけた天正天皇(天智天皇と天武天皇の孫娘)が御幸し、「養老ノ滝」と名付けたそうです。
遥々、美濃に発し、琵琶湖をくぐって京に湧き出る清水井戸を見たかったけど、ウェルカムな感じではなかったので断念しました。小門を開けて入っても良かったのかな?
「極楽寺」「法界寺」。「Silk Road Trading Co.」という英国デザインの革バッグ専門店のようですが、1万円台とリーズナブルなお値段で、頑丈で飽きの来なさそうなそうバッグが飾られていました。「光明寺」。
8:23「宝蔵寺」。『浄土宗西山深草派本山誓願寺に属する。本尊・阿弥陀如来立像は、1700年作。弘法大師空海の建立と伝えられ、1269年如輪上人により開基された。1591年豊臣秀吉の寺町整備により、現在地に移転。「天明の大火」と「禁門の変」で全焼。現在の本堂は、1932年建立。江戸時代中期の画家・伊藤若冲(1716〜1800)の菩提寺で、若冲が建立した父母の墓石・末弟・次弟の墓碑も建てられている。若冲は、当時の京都画壇を代表する画家で、生家のあった錦市場が営業停止になった時、弟・白歳とともに再開に尽力した人物。代表作に「動植綵絵三十幅」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)がある』
超精細画として、近年展覧会はどこも大盛況の売れっ子画家の若冲の菩提寺と聞けば、墓石を拝んでみたいけど、拝観時間は8:30〜になっています。「小門を開けて自由に入って良い」と書かれているので、数分フライングだけど入ってみる。まずは、拝見料として本堂にお賽銭チャリん。墓石・墓標は、新調された覆い屋根に守られていた。
「頂源院」「誓願寺」裏。表に回りたくて、次の東西路「六角通」を西に入り、南北アーケード市場「新京極」に入り南下して、8:36「誓願寺」。『667年、天智天皇の勅願により創建。本尊・阿弥陀如来座像は、賢問子・芥子国の作。元は奈良にあったが、鎌倉初期に京都一条小川に移転し、1591年の寺町整備に際し、現在地に移転。当時が京都有数の規模で、表門は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、境内6500坪には多数の伽藍を有し、18ヶ寺の山内寺院を擁していた。清少納言・和泉式部・秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺としても名高い。源信僧都は、当寺にて善財講を修し、一遍上人も念仏賦算を行った。浄土宗元祖・法然上人が、興福寺・蔵俊僧都より当寺を譲られて以降、現在は、法然上人の高弟・西山上人・善恵坊・証空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山である』
女性の方が数人、本殿に上がっていかれます。総本山というほど大きくはありません(場所柄仕方ない)が、どっしりしっかりした趣きがあります。謂れ板にかかれていた女性の生涯や、この寺との関係が細かく書かれています。読み物が好で、じっくりあぐらをかいて読みます。和泉式部の文才と美貌、そして数々の公家男子が寄ってきたモテモテぶり。人も羨む人生を歩んだ女性ですが、晩年は如何に極楽往生するか悩み、この寺に帰依し仏にすがったとか。
秀吉の側室として、淀君とガチで争ったが、秀頼出産で一気に差をつけられた「松の丸殿」。『名は京極竜子で、父は近江守護代・京極高吉。母は、小谷城主・浅井久政の娘(京極マリア)。最初、若狭守護・武田元明に嫁いだが、明智光秀に与した夫が、秀吉に殺されると、出自と美貌により秀吉に召しだされ、「京極さま」と呼ばれた。大阪城西の丸住まいになり「西の丸さま」と呼ばれ、伏見城が出来るとその松の間に移り、「松の丸さま」と呼ばれた。醍醐の花見の「神輿の次第」では、「政所」(正室おね)・「西の丸(淀)殿」・「松の丸さま」と記され、側室No2であった。醍醐の花見で、秀吉からの盃の順番をめぐって、淀君と争い、北政所が仲裁したのが有名。淀君とは、側室になった時期がほぼ同じで、淀君の父・浅井長政と松の丸殿の母は、姉弟であったから、従兄弟同士であった。秀吉没後は、兄・高次の近江大津城に移り、後誓願寺に閑居した。1615年、豊臣家の滅亡とともに、秀頼の子・国松(秀吉の孫)が、わずか8才で処刑されると、その亡骸を引き取り、誓願寺で埋葬した。1634年、70才を越す長寿を保った後病死。松の丸殿と国松の墓は、元誓願寺の山内寺院・竹林院にあったが、明治37年1904、豊国廟の境内に移された』
読んでいる間に、集まった5〜6人の一般女性だけの読経が始まりました。男性の読経はよく聞くが、女性だけの読経は珍しい。謂われ通り、現在でも極楽往生を願う女性からの信仰が篤いようです。御詠歌を聞いてるみたいで、これもいいな。商店街に、開店前からお若い男女が並んでいるお店がありました。「コスプリ衣装・無料貸出中」。コスプレのお店のようです。朝ここでレンタルし、界隈を観光客のシャッターの的になりながら歩くのかな?
河原町通に出て、南下します。着物レンタルのお店があった。振り袖も浴衣もある。「近江屋跡」があった。『坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地 慶應3年1867/11/15、維新の功労者である土佐藩海援隊長・坂本龍馬(1835〜1867)が、盟友である陸援隊長・中岡慎太郎(1835〜1867)とともに、刺客に暗殺された近江屋があったところ。竜馬は、海援隊本部があった酢屋(材木商)に下宿していたが、前年の寺田屋事件により、幕府から狙われていたため、土佐藩の出入り商人・近江屋に移っていた。夕刻、中岡が近江屋を訪ね、大政奉還後の政局について論じていたが、夜になり十津川郷士と称する男たちによる襲撃を受けた。竜馬はその場で絶命し、中岡も2日後この世を去った。龍馬33才・中岡30才、大政奉還(10/14)が行われた1ヶ月後、王政復古の大号令(12/9)が出る1ヶ月前の出来事だった。竜馬と中岡は、ともに遭難した山田藤吉と現在の京都霊山護国神社に埋葬されている』
四条河原町という京都一の繁華街の中心部から、100mも離れていない。枝道の路地を覗くと、飲み屋さんの看板がずらりと並んでいる。これだけのお店がひしめき合い、営業を続けている京都経済の懐の深さを感じる。
9:11、そんな路地に「吉高俊太郎邸跡」があった。『文政12年1829、近江国大津に生まれる。父・周蔵は大津代官に仕え、のち山城国・山科毘沙門堂門跡の家臣。俊太郎も門跡の近衆になり、和歌を烏丸光徳に学び、公家との交流を深めた。梅田雲浜の門で勤王思想を学び、勤王志士とも交わった。同士の一人・湯浅五郎兵衛の依頼で、湯浅喜右衛門の養子となり、升屋湯浅喜右衛門と変名し、この地に「升屋」を構えた。密かに武器を集め、同士と連絡を取って援助するなど、多くの志士が集う倒幕活動の拠点となった。しかし元治元年1864年6/5早朝、新選組に捕縛され、壬生の屯所で過酷な拷問を受けた。これが三条小橋の旅館・池田屋における「池田屋事件」の端緒となる。「禁門の変」に際し、洛中は大火となり、7/20六角獄中で処刑された。享年36才。明治24年1891、特旨を以って、正五位を贈送られる』。一連の幕末京都動乱の名脇役です。
南北に流れる運河・「高瀬川・真橋」に出る。今度は木屋町筋を北上します。水深が15cmほどと浅く、流れも適当なので、夏は川に入ってる子供が多数見かける川です。20mほど南には、四条が横切り、大都会のど真ん中で川に入って安全に水浴びできる水辺。水だって綺麗。こんな大都会は、そうないだろう。市街地にホタルが飛ぶ京都・・・ほんと、僕は京都という町が好きだ。川辺のお店は、川を見ながら楽しめる。
『本間精一郎・遭難地 文久2年1862/8/20、勤皇の志士・本間精一郎はここで襲われた。越後に生まれ、文武両道に秀で弁舌も巧みで、友人も多かった。江戸に出て遊学し、安政の大獄後、京に上って勤王活動に身を投じた。特定の藩に属さなかったため、自由に行動する事ができ、公家にも接触し、長州・薩摩・土佐の藩士に遊説し、尊王攘夷思想の急進派とされていた。しかしその活動は、「伏見・寺田屋事件」で封じられ、精一郎はその頃から酒色に溺れ、同士からも嫌われるようになった。この夜、先斗町三条の料亭で遊び、四条の料理屋を出た帰り道を襲われた。南側の路地を木屋町へ逃げようとしたが、前から2人・後ろから6人に挟み撃ちにされ惨殺された。8人の中には、薩摩藩・田中新兵衛や土佐藩・岡田以蔵もいた。享年29才』
『日本映画発祥の地 明治30年1897,実業家であり、後の大阪商工会議所会頭も務めた稲畑勝太郎(1862〜1949)が、日本で初めて映画(シネマトグラフ)の試写実験に成功した場所である。明治29年1896、万国博覧会の視察と商用でパリを訪れた稲畑は、フランス留学中の級友・リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフ(映写機兼カメラ)と、その興行権、フイルムを購入し、リュミエール社の映写技師兼カメラマンのコンスタン・ジレルを伴って帰国した。翌明治30年1月下旬〜2月上旬にかけて、京都電灯株式会社の中庭(現在の立誠小学校跡地)で、国内初の映画の試写実験に成功した。映画の上陸は、単にヨーロッパの文化や最新技術を日本に伝えただけではなく、人・もの・事物を記録し伝える映像メディアの始まりであり、新しい娯楽・芸術産業の始まりでもあった。この地を起点のした日本映画は、20世紀を代表する国民娯楽に成長していった』
小学校跡の建物はとても立派で、重厚感がある。『高瀬川の沿革 約400年前、角倉了以(1554〜1614)とその子・素庵(1571〜1632)によって、慶長19年1614に完成された京都と伏見を結ぶ運河です。鴨川の水を導いて二条に始まり、伏見三栖浜に至り、淀川の三十石船に連絡し、大阪と京都を結ぶ大動脈だった。長さおよそ10km。五条から南は、農耕用水路を拡張利用した関係で曲がりくねった流路となり、中間地点で鴨川を横断する(水平交差)。今は川幅も狭まり水深も浅いが、昔は川幅8m・水深30cm以上あった。川岸は、炭屋・材木商とその倉庫が多く、後は大名所藩邸だった。高瀬川には幾つもの橋が設けられ、舟運の盛んな頃は、階段や坂を上がって高いところを渡るようになっていた。幕末の動乱期には、尊王攘夷を称える多くの志士がこの辺りに住み、これを取り締まる幕府側の人たちと数々の事件を起こした。周辺に多くの史跡が残るのは、そのためです。明治28年、沿岸二条〜五条間にチンチン電車が通るようになり、川岸も整備された。今は三条・四条・五条の他は、皆低い橋になっています』
『高瀬川で用いられる高瀬船は、平底の小型船で、舳先に乗りやすく、船首に向かって船底が反り上がっていました。長さ13m・幅2m。京都に向かう上り船は、満載15石・2.25トン積、下りはその半分でした。宝永7年1710、伏見〜二条間に就航した船は188隻ありました。京都に運搬された物資は、たきぎ・材木・炭・米酒・醤油・嗜好品・海産物などで、伏見へは、たんす・長持・鉄工業製品などでした。高瀬川の開削によって、大坂・伏見方面の物資が、伏見経由で京都に送られるようになったので、伏見・鳥羽の陸運業者は、仕事が激減する痛手を受けた。高瀬川の舟運により、川添の舟入には、問屋が多数置かれ、商品を扱う商人や職人の同業者町を形成し、材木町・木挽町・石屋町・塩屋町など職種や商品を反映した町名がつきました。現在の七条通北・河原町通西に作られた内浜という舟入は、高瀬舟発着の基地となりました』
「土佐藩邸跡」・・・この小学校あたりに、土佐藩邸があったそうです。坂本龍馬・中岡慎太郎が襲われた「近江屋」は、藩邸のすぐ裏という立地で、直線距離50mというところです。水深15cmほどの高瀬川の穏やかな流れを見ていると、町内道路清掃中のおじさんがゴミ袋を持って川に入ってきた。慣れた手つきで川底のゴミをつまんでいます。朝の時間帯にこのような方の尽力があって、世界一の観光都市が成り立っているのですね。
「岬神社」。一時期、土佐藩邸内に飲み込まれたそうだが、その時期も治外法権である藩邸内でも一般のお参りの方は自由に出入りできたそうです。
9:34「先斗町交番」が、町の風情に沿った落ち着いた外観で建っている。警察の紋章と、横に停まっているパトカーがなければ、交番とはわからないな。その横に、前日に電話問い合わせした「先斗町バイク駐車場」があった。場所を覚えておきましょう。『一時使用、1回24時間125cc以下250円、125cc超350円。月極125cc以下4500円、超6000円』
東に向かう路地の向こうに「先斗町歌舞練場」が見えた。行ってみよう。『京都5花街の1つ、花街先斗町の中心的施設として、現在も春秋を彩る「鴨川おどり」「水明会」が催される先斗町歌舞練場は、昭和2年1927に、武田五一を設計顧問として「劇場の名手」木村得三郎設計によって、鉄筋コンクリート造で建築された。大正14年11月に着工し、昭和2年3月に竣工した。昭和28年に観覧席を桟敷から椅子式に変更し、鴨川側に増築した。先斗町通と鴨川の敷地に建ち、平面輪郭は南北に細長い長方形をなす。間口120尺・南側側面91尺。地上4階(一部3階)・地下1階。当初の規模は、建坪296坪・延坪1201坪。建築費は百万円。和と洋、歴史性の新奇性とを巧みに混在させ、屋根は4音階部分は寄棟、北側3階部分は切妻。瓦は緑色を施した陶瓦で、本瓦葺を直線化した独特の形状である。西を正面とし、1階北半分を観客席が占め、南端に主出入り口を開いて、奥のホワイエを経て観客席に至る。外装は、スクラッチタイルのほか、黄龍石・陶板などが用いられている。内部にもタイルやプラスターによって細密に装飾され、舞台の天井格間、重壁は宝相華文などで彩色された。しかし、戦時中に汚損したこともあって、これらの殆どが戦後の改造で失われた』
先斗町筋は細い南北の道ですが、両側に飲食店が並び、東側の店は鴨川床を持つお店なので、羽振りがよいだろう。親と来たこともあるし、子供たちを連れて床で飲食したこともある。
9:45、木屋町筋「大黒橋」に戻る。「竜馬道」と書かれていた。ここらは、頻繁に龍馬も歩いていたのでしょう。すぐ北に東西に走る三条通が見えている。その一本手前の枝道に「酢屋」があった。『坂本龍馬寓居之跡』の石碑が立っている。ここも土佐藩邸から200mほどしか離れていないが、より近い近江屋の方が安全と思ったのだろうが、もし酢屋にそのままいたら、竜馬の命はどうであっただろう。酢屋の看板がかかり、開館前だけど内部を覗くと、龍馬の文字が書かれた置き看板が見える。
2階屋のお隣さんの1階屋根瓦の上に、人形瓦が載っている。媼翁かと思ったが、中国の式の剣を持った中国風の武将が一体だけのようです。日本式だと、2体が対になっていることが多いけど。
9:55、「瑞泉寺」。三条通から2軒目です。『前関白・従一位・豊臣秀次公之墓』の石柱が立つ。『太閤記の寺 豊臣秀次公ご一族墓所 境内拝観随意』。山門には、豊臣家の定紋「五七桐紋」の提灯が下がっている。『慈舟山・瑞泉寺と号し、浄土宗・西山禅林寺派に属する。豊臣秀吉の甥・秀次一族の菩提を弔うために建立された。秀次は、秀吉の養子となり、関白の位を継いでいたが、秀吉に嫡男・秀頼が生まれてからは、次第に疎んじられ、文禄4年1595/7月、高野山において自害させられた。ついで8月、秀次の幼児や妻妾たち39人が、三条大橋西畔の河原で処された。遺骸は、その場に埋葬され、塚が築かれ石塔が建てられていたが、その後の鴨川の氾濫などにより次第に荒廃した。慶長16年1611、角倉了以が高瀬川を開削中、この墓石を発掘して、墓域を再建するとともに、その地に堂宇を建立した。これが当寺の起こりで、僧・桂寂を開基とし、寺号は秀次の法号・瑞泉寺殿を取って瑞泉寺と名づけられた。本堂には、本尊・阿弥陀如来像が安置され、寺宝として秀次及び妻妾らの辞世の和歌を蔵している。また境内には、秀次の墓及び幼児・妻妾や殉死した家臣らを弔う49柱の五輪塔がある』
大河ドラマなどの秀次役の写真が、山門横に貼られている。大きくない境内ですが、植木などの手入れは素晴らしく、紫陽花が綺麗に咲いている。『1595年、この地で公開処刑された当時は、鴨川の河原は、現在の「河原町通」まで広がっており、川の流れも幾筋かあり、この辺りは大きな中州(中之島)の流れ川原でした。それから16年、西側の流れが角倉了以により高瀬舟の運河「高瀬川」として開削護岸され、悲願のこの地に「瑞泉寺」が建てられました』
『寺伝によれば、秀次の男児4名・女児1名、正室・側室・侍女など女性34名が処刑されました。一同の遺体は、縁者に下げ渡すことは許さず、刑場の脇に掘った大穴に全て投げ入れ、その上には塚を築き、頂上に秀次公の首を納めた「石ひつ」を据えた。「関白塚・摂政塚・殺生塚」などの名称で呼ばれる塚は、江戸時代初期に描かれた京洛の名所洛外図では、まれに三条大橋西詰めの位置に認めることが出来る。「秀次事件」は、朝鮮への侵略戦争「文禄・慶長の役」とともに、「太閤秀吉」の晩年の失政の1つといわれる。淀君に生まれた「秀頼」を秀吉の実子として、豊臣政権の後継者にするため、一度は関白位を譲った秀次とその一族を「謀反者」の罪名の下に抹殺しようとしたものです。16年後の1611年、角倉了以は塚の側に「秀次一族の墓石」を建立(現在の墓所)し、塚の跡は寺領として長く保存することにしました。因みに、了以の実弟は、医師として秀次に長く仕えた家臣であり、瑞泉寺創建は、その弟の一周忌の年に当たります。この4年秀頼と母・淀君」は、大坂城の落城とともに亡くなる』
秀吉と違い、秀次には4人も男子がいたのですね。秀次と秀頼には大きな歳の差があるのだから、甥・秀次に一旦政権移譲する懐の深さがあれば、歴史は違っていたでしょう。秀次の息子たちの度量はどんなものだったのだろう?
『この堂に安置されている「引導地蔵尊」は、一族処刑の際、四条・大雲院の僧・貞安上人が木像を運び込み、次々に討たれる子女達に引導を授け続けたと伝わる像です。極楽浄土へ死者を導く「引導地蔵尊」として、京洛の人々に今日尚崇敬されています』
堂内は、引導地蔵尊を中心に、ひな飾り段のように、小雛小像が並んでいます。一族郎党を粛清していった秀吉晩年の狂気を感じます。この中には、秀吉が藤吉郎と呼ばれていた時、木曽川・川並衆であった前野将右衛門もいる。同じ川並衆の蜂須賀小六とともに、秀吉に夢を感じ、最初の家来・与力になった人物です。夢成ったが、秀吉政権の重臣として、秀次の教育係・陪臣となった老将を、なぜ秀吉は秀次に殉じさせねばならなかったのか?郎党中の郎党に、死を賜る秀吉は、既に常軌を逸していたのでしょう。徳川に政権が移るのは、天の差配と言う他ない。
横には、一族の墓所がある。墓石が並び、中央に秀次の首を入れたという「石ひつ」が置かれている。ロウソクが灯されており、「ご自由にお使いください」と線香とロウソクが置かれていた。ロウソクに火を灯し、無念に献灯した。浄財入れもあったので、ロウソク代を入れる。
境内に東屋休憩所があり、壁に秀次関係の新聞の切り抜きや、写真などが貼ってあります。また雨が落ちてきたので、腰掛けながらくまなく読みます。至福の時間です。江戸時代に描かれた絵の中に、三条大橋の橋の下の墳墓が載っています。「橋の下とは、あまりに失礼な・・・」。朝から降ったり止んだりで、降っても傘が必要か微妙なほどの小雨です。東屋の隅の傘立てに、「貸し傘 京都観光の方は返却不要」と書いてあります。数本のお安い傘が入っており、引き取り手のなかった忘れ物傘でしょう。ご住職が、雨模様の日に出されておられるのだろう。気遣いが優しいな。
三条通に出て、レストランの場所をチェックする。すぐにわかった。三条通を挟んで「がんこ寿司」があった。元庄屋さんなどを借りて、和風の古民家風店を出店しており、好感が持てる会社です。三田店を、法事で利用したこともあります。更に木屋町通を北に歩く。高瀬川沿いにテラス席のあるお店がお洒落。PIZZAと書いてあるので、イタリアンのお店でしょう。
「ちりめん洋服発祥の地」「武市瑞山先生寓居之跡」。土佐藩の尊皇攘夷論の急先鋒で中心人物、「土佐勤王党」武市半平太の京都での住まいがここか。攘夷では坂本龍馬と意見が違ったが、盟友とも言える仲。京都での住まいは、三条通を挟んで。直線距離100mといったところでしょうか。一時は藩を動かす力を持ったが、藩論の変更により最後は獄中死した。人を惹きつけ、リードできる怪物でした。
その横に、「吉村寅太郎寓居之跡」の石碑も立っていた。武市半平太「土佐勤王党」の隊員で、尊王公家・中山忠光を担ぎだして「天誅組」を組織し、孝明天皇の大和行幸に先駆け、大和代官所を襲い旗揚げした。軌を一にして長州が京で旗揚げするはずだったが、政局が急変し孤立無援になってしまった。日本三大山城・高取城を本拠地にすべく攻撃をしたが、あえなく敗退。吉野・大塔などで奮戦したが、十津川郷士の離反などで、幕府軍に鎮圧された。明治維新に繋がる先駆けの勇士です。「利自らにあらず」でしたが、結果は「神のみぞ知る」神の配剤ですから、現世を生きる人にはどうすることも出来ないこと。僕は、この行動力に拍手を贈りたい。こちらも魅力を感じる怪人物です。
「RIVER SUITE 迎賓館」という洒落た外観のお店?ホテル?がありました。大きなリースが外壁に飾ってあり、「結婚式場!」と見た。帰宅後調べてみると、ビンゴ!
「御池通」に出ました。中央分離帯に噴水が上がってる。西を見れば、和服の市長さんがいる「京都市役所」の建物が、街路樹越しに見える。東は、東山が霧雨に霞んでる。
交差点角に、「栞屋蕉庵」というお店があった。外観ではお店の内容はよくわからないが、京料理レストランのような気がする。
10:41「幾松」。『京の夕涼み 鴨川納涼床』と書かれた提灯が下がっている。鴨川床の料亭を営業されているようだ。『昼食5658円(弁当)7200円(ミニ会席)10000円(昼懐石)、夕食14400〜1000000円(京懐石)要予約』。法事会席ならまだしも、さすが幾松、夕食としては、かなりの高額。そんなことより、『桂小五郎・幾松・寓居跡』と彫られた石柱が重要でしょう。
幾松は、京都の芸者で、長州藩の重臣で、京の長州藩士を束ねていた桂小五郎(改名して木戸孝允)の危機を幾度も助けた。桂小五郎は、天皇を味方につけ、一発逆転を狙った長州藩が起こした「蛤御門の変」に失敗し、兵庫県豊岡市出石まで逃げて、武士を捨て町人になった。免許皆伝の剣の腕前なのに、「逃げの小五郎」と言われるほど逃げ足が早く、とても多数の部下を失った長州に、かっこることが出来なかった。
そこを幾松が見つけ出し、「あんた、何やってんねん」と一括し、強引に長州に連れて行った。蛤御門の変に敗れ、多くのリーダーを失った長州藩は、桂を不問とし、何もなかったかのように重臣に返り咲かせた。明治維新が成り、木戸孝允さんになった豪快な女傑芸者です。この料亭内に「幾松の部屋」があり、何度も反長州勢力に踏み込まれたので、抜け穴や除き戸などが遺っているそうです。桂小五郎が三条橋の下に隠れ、幾松が食べ物を差し入れに行く、ドラマでは定番お場面が蘇る。三条橋まで、50mぐらいかな?料亭の裏手・鴨川側からは、直接橋の下が見えるはずです。隣には「維新庵」という大正近代建築に似せた建物があった。「IKUMATSU」と書かれていたので、リーズナブル料理を提供する別館でしょう。『長州御膳2060円〜』
「佐久間象山・大村益次郎遭難之碑」。高瀬川の対岸に、立派な碑が立っている。『元治元年1864/7/11、木屋町通を馬に乗って通りかかった佐久間象山(1811〜1864)は、刺客に斬られ絶命した。信濃松代藩士で、洋学・砲術を学び、開国論を唱え、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰ら多くの俊才を教育した。幕府の命で上洛し、海防の相談に当たるとともに、公武合体を進めていた。池田屋事件直後で、いきり立っていた攘夷派は、学者象山の説を受け付けなかった。
それから5年後の明治2年1869/9/4、木屋町通東側にあった宿所で、大村益次郎〜1869)が刺客に斬られ、その傷がもとで、11/5大阪の病院で亡くなった。周防国長州藩士で、家は医者であったが、医学とともに西洋兵学を学び、兵学の第一人者となって、幕末の長州軍を率い、戊辰戦争の指揮に活躍した。明治政府の兵部大輔となり、近代兵制(国民皆兵など)の創立に努力した。そのため、不襲われた』
佐久間象山の思想から、ペリー来訪から揺れに揺れた国家存亡の危機を回避できた明治維新に繋がる。一時、土佐・武市半平太や長州・久坂玄瑞などのハードランディング尊皇攘夷急進派にまで動いたが、結局佐久間象山・勝海舟・坂本龍馬のソフトミディアムランディングの路線で、時代が変わった。
佐久間象山の仕事は、ここで暗殺されても十分成されたとも言えるが、もっと生れば、その後の日本を割った流血劇はソフトランディングされていたかもしれない。
1864年は、僕の歴史年号暗記のランドマークです。東京オリンピック1964年のちょ年前で、天皇を長州までさらい、一気に時代を動かそうとした長州藩が、「蛤御門の変」において京都警護の会津藩・薩摩藩に敗退し、それぞれイギリス・フランス軍艦と砲火を交え、自らの実力を知った西国雄藩の薩摩と長州が土佐の坂本龍馬の介在で手を結び、1868年の明治維新まで、怒涛のごとく内戦の波乱突入する。
10:45、「高瀬川・一之船入」。高瀬舟が高瀬川の流れの中に、荷を載せて鎮座していた。『この立て札の後方の入江を、一之船入という。舟入とは、荷物の積み下ろしや船の方向転換を行う場所で、二条から四条の間に9ヶ所作られた。国の史跡のこの場所を除いて、すべて埋め立てられている』
二条との交差点が目の前です。鴨川側には、「がんこ寿司・高瀬川二条庵」があっ高瀬川の流れは、豪商・角倉了以の別邸(がんこ高瀬川二条庵)を通り、木屋町通をくぐって、再び姿を現す。約380年前の慶長16年、了以によって作られた当庭苑は、明治の元勲・山県有朋の別荘・第二無鄰菴となり、その後第3代日本銀行総裁・川田小一郎の別邸、安倍一太郎氏の所有を経て、現在は大岩邸』
西を見上げると、「ホテルオークラ」が見える。見えないけど、レンガ造りの日銀京都支店もある。
二条通で、木屋町通はお終いです。正面に寺院があったので入ってみる。「善導、「お寺の中のエステティックサロン」との案内板が下がっている。1558年創建されたお寺だそうです。墓地が隣接されていたので探索。江戸・明治時代様式の墓石があちこちにあり、無縁化された江戸時代風墓石が集められたエリアもある。その数は相当多く、きちんと管理され続けて来た感が漂う。ここも卒塔婆が林立している。
墓地の鴨川側は、リッツカールトンホテルです。客室のベランダは、竹囲されており京都らしい風情がナイスです。この墓地を見下ろす部分だけの造作なので、が見えないようにする工夫なのかもしれない。
11:00になったので、三条に戻りましょう。木屋町筋を戻ろうとしたら、角のお店が目に入りました。満開の桜をガラスエッチングしたウインドウが素敵です。「がんこ二条苑」の店先に入り、メニューと価格をチェック。他の古民家店と同じで、「すし梅膳・1180円」から懐石までありそう。家内を歴史散策に連れ出す時、利用しようかな?
木屋町通は、高瀬川に柳が下がり、紫陽花などがあちこちに咲き、紹介した以外に「加賀藩邸跡」などの紹介立て札が立ち、歴史散策に素敵な道です。家内が横にいてくれたら、もっと楽しかったろう。
11:10、三条に戻りましたが、待ち合わせ11:30にまだ早いので、三条大橋を観に行く。『京都名物・五色豆・舩はしや』というお店があり、その横にスターバックスがある。三条大橋から、鴨川を見下ろす。鴨川の床が、西側のお店から出ている。「舩はしや」を覗いたら、せんべいや飴がたくさん並んでいた。その隣は、タワシやさんでした。竹箒や各種刷毛などもあります。お客さんが、色んな種類のたわしを手に取り、お店の方に用途などを尋ねていた。
三条通を挟んだ対面の「タカセビル」を見ると、グループリーダーJさんがいる。Jさんとは、バイクグループで知り合い、新たに立ち上げたこのカフェグループに入れてもらいました。集合時間の11:30が、「SUNNY」の開店時間で、先にお店に行かれた方によると、エレベーターを出たらいきなり店内で、待つ場所がないそうです。ビル1Fで開店時間を待ちます。他の参加者も集まってきて、男性3人は既知です。女性3人のうち2人はお初なので挨拶します。
11:30になったのでお店に上がります。南東角の窓際席に案内されます。ビル最上階9Fのお店で、景色が良い。京都は景観保持のため高さ制限があります。この地区の高さ制限基準は知りませんが、新基準適用で、概ね高さ制限がきつくなる地区がほとんどだと聞くので、既存の高いビルの上階は、既得権益プレミアムが付きそう。
鴨川の東には高い建物が殆ど無く、東山連山まで一望です。四条の東山山麓に巨大な大屋根が見えます。「あれは何?」の疑問で、意見百出。僕は八坂神社・知恩院・真宗などの宗教法人でしか、あんな巨大建物を建築する資金がないと思ったので、真宗施設だと思ったけど、知恩院御影堂でした。ナイトタイムは、夜景を楽しめそうです。
僕は、Aランチ1250円(ハンバーグ・ハム・サラダ・ライス・スープ・アイスコーヒーのセット)にし、皆さんはリブステーキやサーロインステーキのセットになさる方が多かった。ステーキが売りのお店のようで、お魚関係はありませんでした。
小笠原のお話、羽曳野のお話、白山スーパー林道・雪の回廊のお話、次の集まりのお話・・・いろんなお話で盛り上がります。お隣の席は、お若い女性グループでした。突然、ハッピーバースデーソングが流れ、パチパチ花火が賑やかなフルーツ盛り合わせが運ばれてきました。バースデーの方がおられたというか、バースデーのお集まりかもしれません。僕らも拍手で祝福です。「お幾つになられたのですか?」なんて質問は、しませんでした。
そういえば、大学ヨット部のコーチングに行った時、毎月まとめてバースデーを皆で祝う場面に遭遇します。昼食時や夕食時に、キャプテンが「今月は、・・君と・・さんのお誕生日です」って。バースデーソングの合唱が始まります。僕がチビの頃は、家族で祝うだけでしたが、息子たちの時代は、友達を自宅に呼んだり、友達も連れてお店でワイワイやったりしていました。そんな環境で育った子は、大人になっても皆で祝うのが普通なんでしょう。
13:46、お開きになりました。この日は7人でしたが、このぐらいの人数が居心地が良い。最近バイクのグループツーリングへの参加が遠のいた原因は、参加人数の多さです。10人を超えてくると、周りの車や人を圧迫してる感があり、日陰でひっそり生きていきたい僕の性格ではどうも・・・。グループデートなんてしたことがなく、いつも2人です。ドラマでは、合コンが流行っているようで、その出会いから始まるのも多いですが、僕は「いいな」と思った子に声をかける一本釣りです。
お二人は、宇治の「三室戸寺」に紫陽花を観に行かれました。小雨が降っており、雨に濡れていい感じかも?僕は、バイクグループ知り合いのKさんと一緒に、阪急河原町駅に向かいます。Kさんが、「狭いけど楽しい」と選んだ先斗町筋で南下します。午前中見た「先斗町歌舞練場」横を通ります。
阪急河原町駅から、特急に乗ります。特急なのにボックス席車両ではありません。あれやこれやお話している間に、外は雨が止み、陽が差すようになりました。三室戸寺の紫陽花は、より映えるでしょう。十三でKさんとお別れし、15時過ぎに帰宅しました。PCを立ち上げ、御礼のメッセージを送っていると、家内が帰ってきました。
次男のお嫁さんが贈ってくれた父の日プレゼントの「山形さくらんぼ」を食べながら、映画DVDを2人で観ました。前回家内が気に入ってくれたニコラス・スパークス原作作品「メッセージ・イン・ア・ボトル」です。ケビン・コスナーがかっこいい。ヨットが出てくる映画なので、そちらへの興味で家内を誘い映画館に観に行きましたが、ラブストーリーの内容が良く、そこからニコラス・スパークスにハマりました。殆どの作品を買って読みました。映画化された作品5作を、DVDで持っています。素敵な1日でした。

2016/6/12
コーチしてる大学ヨット部のレース日で、琵琶湖に行きます。8時出艇なので、7:30まで暇です。ヨットハーバーまでの道中の途中、湖西道路の南端・藤尾周辺が気になっていたので、ここを探索することにしました。
京の都と、東国・北陸からの陸路・水運として大変重要な琵琶湖を結ぶ道は、大きく3つあります。北湖と南湖との境、琵琶湖の東西の距離が狭まる堅田〜途中〜大原〜京都というコース。比叡山越えする「山中越」を代表とするコース。そして大津〜京都コースです。琵琶湖・大津〜山科盆地の逢坂峠と、山科盆地〜京都盆地の追分峠・蹴上〜粟田口です。比叡山系と南の音羽山山系との間の標高の低い峠です。中世の歴史の最重要峠で、数々の歴史を遺してきました。
その京都側取り付き口が、「藤尾」です。湖西道路に乗ると、すぐに比叡山系の山が迫ってきて、数個のトンネルに出入りし、トンネルの切れ間から眼下に琵琶湖が望めます。練習やレースの時は、ここから湖面を見渡し、風の感じを掴みます。
4時前に目が覚めたので、着替えて出発です。山中をうろうろすることになりそうなので、より軽く機動力の有る「里山VTR250」を準備します。プロテクターメッシュ上下の上にライフジャケットを着ます。曇り空で涼しく、全く風を通さないライジャケの蒸れが楽で助かりました。
前回給油からの走行距離が250kmを越えていたので、給油します。中央縦貫道・豊中のESSOで給油しようとしたら、ESSOの割引スティックを忘れていました。通勤リード110のキーと一緒になっており、倉庫でリードとVTRを入れ替えるときに、リードから抜き取るのを忘れたようです。
割引カードの有る「出光GS」で給油すべく、仕方なく隣接のコンビニに入りました。4:23、「セブン-イレブン豊中緑丘2丁目店」で、「味付海苔海老マヨネーズ130円+手巻きおにぎり辛子明太子140円」を購入。レシートの他に、「ガソリン軽油2円割引券」というのがもらえました。
ラッキー、再び給油ポストにバイクを動かし、レシートバーコードをスキャンさせる。価格表示が、公道に面して大きく表示されている価格と同じです。「あれ?おかしいな」と、再びスキャンしても同じ・・・パスしました。これが、後であんなことになるとは・・・。
出光GSは、中央縦貫道沿いになく、吹田ICから名神高速に乗ります。VTR250は、給油タンク13L×燃費32km=416km。350kmは走れるから、最低往復しても大丈夫だと高をくくっていました。
京都東ICで下車し、藤尾の住宅地に入り、湖西道路沿いを北に向かいます。5:07、「徳丸稲荷大明神」というお宮がありました。赤い玉板垣の並ぶ階段を上がっていくと、こじんまりしたお稲荷さんがありました。高台住宅地の西の端で、下を見るとJR東海道線・湖西線が、大津に向かって入る長いトンネルの入口が見えています。「撮り鉄」さんには好スポットです。
バイクに戻り、道路から鉄道メンテナンスに降りるゲートから、電車を撮ろうと構えます。道路に腰を下ろし、側溝に足を下ろしながら電車を待ってると、お散歩の方から「おはようございます」。大の大人がちょっとカッコ悪いなと思いながら、トンネルから出てきた貨物列車の走行を撮りました。最近JR貨物列車をよく見るようになりました。トラック貨物量が増えているのに、ドライバーが人手不足だとニュースで聞いているので、その関係でJR貨物にシフトが起きているのだろうか?
5:17、「寂光寺」。下調べでは、横に磨崖仏があるとのこと。早朝のこんな時間帯に見れるかどうかわからないけど。階段をあがると、近代的なお寺でした。外観は小さな体育館で、お寺とは思えません。「南妙法蓮華経」の文字が、如何にも「日蓮さん」の跳ね文字なので、日蓮宗のようです。
横を見ると朱鳥居が登っているので、こちらかな?と思い登って行くと、祠があるだけ。そこからは獣道で、湖西道路真横に出るようです。
お寺まで降り、周囲を探ろうと北に歩くと、民家?とも見える建物があり、『磨崖仏拝観 人員不足のため予約拝観です 寂光寺住職』と、貼ってありました。前日に申し込むようです。
『藤尾磨崖仏 小関越の途中にあり、古くは「山田堂」「藤尾観音堂」と呼ばれる寺にありました。高さ278cm・幅566cmの横長の花崗岩に、大小15体の像と梵字が彫られてています。
中尊は、像高148cmの阿弥陀如来坐像で、向かって右側に観音・勢至の両菩薩像、左側に地蔵菩薩像が彫られています。阿弥陀如来像の光背外側に「延応2年」(1240)と読めそうな刻銘があり、像の様式から見ても鎌倉時代の作と考えられます。これに対し、他の諸尊は形の小さく、刻法も粗荒なものがあることから、後に追刻したと考えられる。大津市指定文化財』。残念ながら、磨崖仏を拝むことは出来ませんでした。
5:26、「藤尾奥町・普門寺前」という立派な歴史街道案内板がありました。右の峠に向かう細道方向に、「大津市歴史博物館」「三井寺園城寺」「小関越(峠まで)」と書かれています。大津まで抜ける古道のようです。地図には、大津小関町まで赤線で引かれています。『小関越えは、北国町通りから小関峠を越え、横木1丁目の東海道まで4kmの道のりです。古くから、京都と北国を結ぶ間道として利用されてきた。名称は、東海道の「逢坂越え」を大関と呼ぶのに対して、小関と呼ばれていた』。GO!
ゆるく山を登りだし、勾配が増し、四輪車では横幅が無理な道になり、いつ未舗装になってもおかしくない道。急勾配をぐんと登り、「次の急勾配まで行こう」という感じで、Uターンさえ厳しい撤退覚悟で突っ込みます。
ラッキーにも舗装路が最後まで続き、対向バイク自転車もなく、5:30広い道に出ました。「藤尾関町」として、下同様の「小関越」案内板が設置されていました。歴史歩道的な取り扱いのようで、バイク走行は想定されていませんね。
ここが「小関越」の峠のようです。広い道の案内板には、直進して山道に入る「三井寺1.2km」、西向き「西大津バイパス藤尾IC1.05km」、東向き「大津市歴史博物館2.05km・琵琶湖疎水1.35km」と書かれています。
東向き・大津側に下ります。峠には地蔵堂と思われる祠がありました。自転車に箒をくくった男性が、祠前のベンチで座っています。5:38「天台真盛宗・雲霊山真光寺」と、「真宗大谷派・別所山等正寺」が道の両側に対面していました。浄土真宗のお寺内に、「佐知’s Pocket」という小さなカフェがありました。食べログのステッカーが貼ってある。
Uターンして、「小関峠」に戻ります。5:46、「峠の祠」。先ほどのお爺さんは、ベンチに座りラジオを聞いています。「お掃除ですか、ご苦労さまです」と声を掛けましたが、無口な方のようで、「はい」と言うのみ。会話が弾まず、祠の生情報など得られませんでした。早朝活動していると、人里離れた寂れたお宮やお堂などでも、竹箒で掃除されている方がいます。手水の手ぬぐいを取り替えているご近所だろご婦人に挨拶することもあります。市井のこういう方のお陰で、日本の美しさが保たれていると思うと、頭を垂れずにはおれません。どういうきっかけでそういう無償のお布施をされているのか知るよしもありませんが、そういう方の心を捉える神道や仏教の信仰の偉大さを感じます。
祠内に、お顔も彫られているのか定かでない石地蔵様がおられ、「延命地蔵菩薩坐像」と書かれていました。左右には紫陽花が生けられています。このお爺さんが、毎朝手入れされているのかもしれません。お地蔵様の前の机には、ろうそくに火が灯されています。「峠の出世地蔵尊」とも書かれています。天井板には、「お釈迦さん」「仁王さん」と書かれた墨絵が貼られています。
『延命地蔵菩薩像 谷内地蔵堂 帰命頂礼(きみょうちょうらい)地蔵尊 釈迦の付属を億年とし、大慈大悲の深きこと地蔵菩薩にしくなし。無垢より我らが流転して、いつかは生死を離るべし。六趣(ろくしゅ)輪廻の有様は、車の回る如くなり。地蔵和讃は、哀調の中で六道輪廻の業を説く。生ある万物は、いつかは死ぬ。いかなる富貴に恵まれようとも、不老不死の霊薬は手にすることは出来ない。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という。その六道を、車の回るように永遠に歩む。暗黒無明の六道の辻に立って、罪障の消滅を祈ってくだされるのが地蔵菩薩様。ふっくらと丸いお顔、切れ長い眉と、細く見開いた目朱を含むお地蔵様。左手に宝の珠を、右手に錫杖を持ち、ゆったりと膝を広げてお座りになる。病気になって幼児を死なせる。子を失うことの悲しみ、生かしてやりたいと祈る親の願望は、地蔵菩薩にすがった延命地蔵の信仰は、親が子を立派に育てたいという悲願の証なのに、子は親の愛を知らない現世地獄さながらの非行を救わせ給え』
『峠の地蔵さん ここは北国街道。京都から近江路を湖北に通ずる小関峠の頂きに安置されているお地蔵さんの御堂・喜堂です。なんと素晴らしいお堂の名称でしょう。そのルーツの詳細は、知る由もありませんが、十数年前、大津を通る道路の拡張工事が行われた際、藪に放り出されているお地蔵さんを見つけ、今の地に安置されました。それより、人里離れた峠へ毎日供華を欠かすことなく、近郷近在からお参りの絶えず、数千人の方々の一円のご報謝により、ここに立派なお堂が建立されることになりました。皆様の心が1つになって建立されたことを忘れず、お堂の名称といたします。末永く、庶民の暮らしと交通の安全をお祈りいたします。 峠の地蔵保存会一同』
お賽銭を机の上に置き、「ありがとうございました」とお爺さんに声を掛け、広い道を西に下りました。当初北上していた道に出て、5:53「普門寺」。ここから先ほど、小関峠古道を登りました。
『如意山普門寺の由緒 当山の起源は、近江朝廷(天智天皇)の時代、大陸からの帰化人・大友氏(大友村主の一族)の信仰する仏教寺院であった園城寺の支坊に、その起源を発する。貞観4年(862年)大友氏が、三井寺園城寺修復に当たり、比叡山の智証大師円珍上人を園成寺の別当に任じ、同寺の寺領全てを円珍に寄進する。貞観15年(873)天台宗園城寺の支院として円珍により、藤尾寺が開基される。文明3年(1471)蓮如上人の影響を受けた天台宗の僧・了然によって普門寺として再興される。以降浄土真宗との交流が深まる。延享4年(1747)浄土真宗の僧・恵教が入寺し藤光寺となり、浄土真宗に帰入する(藤尾村惣道場藤光寺)(藤尾村念仏惣道場藤光寺)。享和元年(1801)江州野洲郡中村の宗慶寺より僧・玄寿(津田小平衛の子)が入寺する。天保年間(1830〜1837)仏光寺派に変わる。天保8年(1837)玄珍が、本願寺派に帰山し、寺号を普門寺に戻す。明治20年(1888)了念により現在の普門寺本堂落慶法要勤まる』
例によって、じっくり謂れ板を読んでいると、お散歩のご婦人から声を掛けられた。お友達が大津の古刹の娘さんで、彼女から聞いていた家系の謂れ話とほぼ同じことが、ここに書いてあり、きっとその古刹と縁があるはずだとお友達をここに誘っておられるとのことです。話は天智天皇の時代に遡り、この地を巡る楽しい歴史話に発展しました。
お礼を言い、僕は山門が柵で閉まってる本堂方面に、お散歩さんは道を北に、別れました。参道に紫陽花が咲く、普通のお寺です。謂れ板を読んだ後なので、この寺の長い長い歴史を反芻しながら、山門から奥を覗きました。「如意山」という山号は、もちろん大文字山の東にそびえる「如意ヶ嶽」から来るものでしょう。まさにこの寺院の背後の近在では有名なお山で、この山号を得るということは、それだけ古いということ。
バイクに戻り、道を北に向かいます。6:07「心光山・源照寺」。こちらは、浄土宗のお寺でした。本堂に上がる短い階段脇に草花が咲き、日頃のお手入れを感じます。先ほどのお散歩さんを追い抜き、6:11「藤尾神社」。他にも朝のお散歩の方がいました。住宅地から、軽いお散歩コースなのでしょう。本殿は板塀に囲まれ、規模は普通のお宮ですが、ちょっと格式が高そう。絵馬殿に下がる絵馬は、古いものはなく、ウサギや牛・馬の絵が描かれた庶民的なものが多数でした。塀の中の本殿は、すっきりしたものでした。古くから使われていそうな地元の名がある神社なのに、謂れ板がないのは残念だなと振り返ると、絵馬殿外壁の本殿側の上の方に謂れ板を発見。
『54代仁明天皇在位833〜850、承和年中、園城寺西南(裏鬼門)の守護神として、江州滋賀郡如意ヶ嶽南麓藤尾谷に鎮座する。主祭神:國常立尊(日本書紀)・國の常立神(古事記)。鬼門の神・山の神・土地の神とも云われ、方除の神として、また厄除けの神として崇敬され藤尾の氏神として奉られています。人には萬の悩み事があり、家居を造り、移り住むなど、旅立ち・事始めなど為日を忌み嫌い、方角を忌み避けるなど、守護される霊験あらたかな神様です。相殿:応神天皇・玉依姫命・神功皇后。境内社:諏訪神社(神名・建御名方命)・稲荷神社(倉稲魂命)・石清水神社(応神天皇)』
地図では、ここから奥・如意ヶ嶽に向かって道が伸びていますが、未舗装路なので諦めました。舗装路が、湖西道路をくぐって伸びており、どこに繋がるのか興味がありますが、琵琶湖に来る度気になっていたもう一本の道を探索することにしました。
道を戻ると、お散歩さんが藤尾神社に向かって歩いて来られます。お辞儀すると、「神戸からですか?」と声を掛けられたので、停車してあ〜だこ〜だ。「伊丹からです」「遠くから、こんなに早い時間に」「大学ヨット部のコーチをしており、8時からレースなので、その前に探索です」「あ〜ら、偉い方に出会えて・・・」なんて、偉くもなんとも無いのに・・・「さようなら」と笑顔で別れました。見知らぬ方の一期一会が楽しい。1人だからこその出会いです。
道を戻り、「藤尾北ランプ」から湖西道路に乗ります。次の「皇子山ランプ」で下車し、いつも左・琵琶湖側に曲がるT字路を、右・如意ヶ嶽側に曲がります。すぐに、6:23「慶公山・大専寺」。門は閉ざされていましたが、山門屋根瓦に三ツ葉葵紋。鬼瓦に茗荷紋。三つ葉葵紋を見ると、江戸の世に徳川さんから功績により頂いたのかな?なんて、脳内妄想が膨らみます。
この道は、「皇子山CC」を経て、比叡山系尾根部に造成された高所住宅地「比叡平」に繋がっています。舗装路だろうと突っ込みます。6:32、地蔵堂がありました。ここも延命地蔵菩薩です。道を隔てて、さっきクラブハウスへの分岐をパスしたゴルフ場のコースが見えます。
少し走ると、ゴルフコース越しにゴルフ場のクラブハウスが見え、その向こうに琵琶湖湖面が見える場所がありました。道は、四輪の離合はゆっくりとしなければならない舗装林道の雰囲気です。住宅地から下ってくる車が、ときおりやってきます。
6:39、突然山側に大きな洞窟が見えました。緊急停止し、探索です。自然岩盤で、奥行きはなく、自然岩で穴に蓋をされているように見える。人間技とは思えませんが、あの蓋岩を外すと・・・なんて脳内妄想が膨らみました。伝説がありそうに思えるけど・・・、過去伝説を創造した人がいないのかな?「天岩戸はココ」で観光客が呼べそう。
「池ノ谷地蔵尊」に惹かれ、枝道に入ります。6:44、獣避けネットで塞がれた。バイクを降り、ネットをくぐって入ってみます。小さな祠と、10台位停められる駐車場があり、パラソル付きテーブルと椅子数脚・背もたれ付き長ベンチ。横の民家には、吉野・洞川でよく見る「陀羅尼助丸」の木札が下がっている。谷に降りる階段道は、薬草園への入口のようです。「京・大原寂光院・民宿大原辻」の看板。
何やようわからんとこに、「池ノ谷地蔵尊」がありました。参道に花が咲き、意外と立派なコンクリート造お堂。中に小ぶりの地蔵様がいます。それに対面した立派な座布団前の座机には、多数の護摩が置かれ、太鼓など小道具完備です。行者僧さんが祈ると絵になります。天台比叡山の千日回峰僧が毎日立ち寄り、祈りを捧げる絵が、脳内妄想に浮かびました。
お堂の周りを巡ります。祠に仏像が安置されていたり、山中で見つけた石仏を並べている風の場所がある。織田信長に焼き討ちされた比叡山延暦寺では、多数の殺戮があり、仏像を背負って逃げた僧も多数斬り殺されたそうです。ロープウェイに乗った時、山中には散逸した石仏が、まだまだ眠っているとの説明を聞いた。枝道を戻り、山道をゆっくり進むと、比叡平住宅地に出ました。山中越から見ていた住宅地です。意外に大きくてビックリしました。標高は400mほどあるでしょう。琵琶湖や京都盆地からの比高は300m。雪が降ったら、朝晩の自家用車での出勤は危険いっぱいです。山中越に出て琵琶湖側に右折するとすぐ、6:56世界遺産・比叡山延暦寺への有料道路「比叡山ドライブウェイ」入口。ここ結構高額なんです。
山中越を近江神宮に下り、神宮道〜R161で、ヨットハーバー着。近畿北陸ブロックインカレの前哨戦です。皆に挨拶し、部員に前日土曜日の様子を聞きます。6レース消化できたようで、レスキュー・コーチボートに荷物を置き、大会本部へ。監督がやってきて、運営の手伝いに出るそうです。7:28大会本部外の公式掲示板で、重要事項をチェックする。学生たちは「おはようございます」と、気持ちが良い。各クラス3艇のレギュラー落ち3回生が艇長の船が、4回生チーフお休み(就職活動かな?試験かな?TOEICなどの試験日と重なることも多い)の代役で、Aチームに入って出ており、第2レースでトップフィニッシュしている。
レース前、ブリーフィング。「スタート前に、2人でレースプランを話し合っておく。相手があるので、プラン通り行かない場合もあるので、臨機応変の変更していいが、ノープランでスタートマニューバリングに入らないように」。
7:58、レース艇が次々に出艇して行く。学連公式戦なので、陸上からの応援も華やかで、校歌を歌っている学校もある。1回生の大半は、レース運営に駆り出される。「・・先輩の健闘を期して、フレーフレー・・」「ありがとうございました」の返答も、大きな声で響き、学生スポーツというものはいいものだと、つくづく思う。
N・3〜5m/sの良いコンディションの中、順調に2レースを行い、レース終了。先月のレースで指を骨折し、レースに出れない4回生A君がコーチボートに乗っており、「・・さんならどうプランしますか?」と聞いてくる。僕はいつも1回生や
マネージャー相手でも、風の強そうな場所やレースプランを喋るようにしている。それを話している時、Aくんから聞かれた。「右海面にはあまりブローがなく、左奥にもない。このレース海面位置なら、左から第1上マークにアプローチした方がいい場合が多いので、スタートラインの左側から出て、中間より奥まで行かずに、早めに中央に折り返し、ある程度の順位を確保しておく。その後は、次の風に合わせる」とプランを話すと、「僕も同じです。最初は左ですよね。でも奥まで行っちゃうと風が無くなりそう。右はダメな感じに見えます」。
言葉に出すことが重要で、そのプランが良かったか悪かったかは、レース結果で出るので、失敗しながらその精度を上げていけばいいだけです。言葉にしなければ、トライ・アンド・エラーが、ぼんやりしてしまう。
いつもどおり、レース終了後戻ってくるレース艇に、コーチボートから見たことをアドバイスし、実際の風の具合を聞き、リラックスさせて次のレースに送り出します。2レースを終え、ハーバーバック。レース後ブリーフィング。
13:39、閉会式。470級は2位、総合3位で、2枚の賞状を受け取る。両クラス・総合とも、D社のほぼWスコアの圧勝でした。どんよりな空模様が続いていましたが、ポツリポツリと来ちゃいました。
閉会式後、出艇します。入部以来、ずっとシングルハンド・1人乗りで練習してきた1回生を、初めてWハンドのレース艇に乗せるというので、スナイプ級はボロのセイルに変更します。470級は、チーフがマストセッティングを変更したということで、2ボートチューニングするので、レース用セイルのままです。
コーチボートの位置を指示し、2つのセイルのリーチ形状を選手に伝える。すべての選手に共通したセッティングなどなく、それぞれの個性を引き出すためのセッティングは選手自身が試行錯誤する他無い。「スピード=正解」、これを追求して欲しい。カッパを着るまでに行かないが、小雨が続いている。
16:30にハーバーバックし、プロテクターもカッパも着ずに、ライジャケを着たままバイクに乗って合宿所に移動する。カレーの美味しい匂いが食欲を誘う。食事当番の女子マネさんと、あ〜だこ〜だお喋り。船を片付けた部員が次々に戻ってきて、シャワーを浴びたりしている。
18:30からミーティング。「1回生向きに、スターボードサイド・ポートサイド命名の由来」を話した。美味しいカレーの時間です。マネージャーから、「チーズ入りカレーです」に「おお〜」。お腹を満たした後に、クラス別ミーティング。昼はスナイプに混じったので、今回は470に混じる。
それを終え、帰路に着きます。合宿所に戻ってから雨脚が強くなり、カッパが必要な1ミリ/hになっちゃったけど、また小雨になってきた。念のためカッパを着てバイクにまたがる。湖西道路〜京都東ICから名神。この合流から渋滞していました。「京滋バイパス」完成後は、渋滞知らずだったので、事故なのかな?「前方故障車あり」の掲示があったので、故障車渋滞だったようです。「京都南IC」前に渋滞は解消され、故障車も見なかったので、撤去されたようです。京都盆地に入ると、雨脚が強くなり、1ミリ/hほど。吹田から中国道に乗り換え、千里西の勾配を登っている途中で、何だかエンジンが息をする。「アレ故障?」と
一瞬思ったが、「あ〜ガス欠だ〜」と思い当たった。何とかこの登りを超えると、出口の豊中ICまで下りだと思い、「行け〜」と祈る。
何とか峠を越え、ぐんぐん下る。「豊中IC」1km表示を越え、もう少しというとこで、なんと軽く上り勾配です。「こりゃアカンな」と思い、うまい具合にあった高架下で停車します。「え〜と、リザーブスイッチは何処だったっけ?」と手探りで探すが見つからない。車の切れたタイミングで右側を探るが、こちらにもなさそう。
車も来たので再び左側に戻り探っていると、前にパトロールの黄色ベースの車が停まりました。「NEXCOの者ですけど、どうされましたか?」「多分ガス欠です。リザーブスイッチを探しています」。僕の後ろに注意喚起板を立ててくれます。戻ってきて、懐中電灯で照らしてくれます。動くスイッチを見つけ、それを動かします。NEXCOの方が、「あ〜これですね、リザーブと書かれています。エンジンを掛けてみてください」。キュルキュル・・・、キュルキュル、ブイーン。
「ありがとうございました」「大丈夫そうですね、注意して出てくださいね」と言い、後ろに走って行き、旗を振って、走行車線を空けようとしてくれます。ただ、ちょうど僕のバックミラーにその方が入り、路肩の白線まで出ないと後方確認出来なくなっちゃった。
ガス欠なんて、最低〜。すぐに「豊中IC」から出ました。3Lがリザーブタンクだから、10L×燃費32=320km限界(余裕持って300km)を厳守しなきゃ。初めてのリザーブでした。
21:57、「伊丹産業セルフ北村SS」で給油。325km/10.32L=31.5km/L。帰宅したら、もう家内は夢の中で、起きてきませんでした。起こさないように静かにお風呂に入り、ヨーグルト持って自室へ。

2016/6/5
先週に続き、「京都一周トレイル」の2回目、東山コースの「銀閣寺〜比叡ケーブカー駅間」トレッキングを、計画しました。週間天気予報では「くもり」だったのに、前日・土曜日の夜から雨になり、安全のために中止しました。京都寺社巡りに変更しました。
夜明け頃、目を覚ましましたが、屋根を打つ雨音が聞こえます。予報では10時には雨が上がり、午後は晴れてくるそうです。当初の出発予定6時、そして7時と外に出て観天望気しましたが、まだまだです。8時になり、雨の勢いが落ちてきたので、出発することにしました。
まだ小雨が降っているので、カッパを着て、通勤リード110にタンデムし家を出ます。8:56、御用達の伊丹産業エッソで給油、158km/3.94L=40.1km/L。家内をJR北伊丹駅に下ろし、僕はR171で一路、京都を目指します。小雨は高槻に入る頃には止みましたが、少々肌寒いのでそのまま着ているのが快適です。
天王山を越え、京都に入ると、再び小雨が落ちてきました。小雨といってもカッパを着る程でもない。待ち合わせのJR京都駅・八条側に到着し、電話を掛けると、家内は既に着いており、頼んでおいた京都の地図をコンビニで買っている最中でした。
母親が買った京都観光ガイドブックのページに書かれている地図を、ずっと利用しており、この日も持ってきましたが、昔ながらの1枚ものの蛇腹地図を購入することにしました。一見して、目的地の位置関係がわかって便利です。
タクシー乗り場が拡張され、一般車両の待機場所がありません。困ったなとタクシー乗り場を隔てた道路脇に停めていると、家内の紅いカッパが目立ち、家内も僕を見つけたようで手を振っています。
難なく家内をピックアップし、八条通を東進し、竹田街道でJR線をまたぎ、七条通で鴨川を渡り、三十三間堂の角を南に入り、「養源院」前にバイクを停めました。10:51、平家物語の準主役「後白河法皇」の御陵に参ろうと思ったら、土日祝日は、参道のゲートが閉門だそうです。ガッカリです。自らが作った三十三間堂の隣に、天皇時代に住んでいた御所・内裏を出て、ここに建立した「法住寺」に住み、院政を敷きました。平家物語では、幾度も登場する重要な地です。
お隣の「養源院」に入ります。既に観光バスが6台も入っていた「三十三間堂」横なのに、こちらは団体さんが来られないから、静かです。石畳の参道に若葉紅葉が覆いかぶさり、秋が綺麗に紅葉しているでしょう。でも若葉の季節の紅葉も好きです。本堂入口に、徳川家の菩提寺らしく「三つ葉葵紋」の「のれん」が下がっています。
拝観料500円×2を払って中に入り、ちょうど始まった説明案内グループに入りました。ここは、「関ヶ原合戦」の前哨戦があった伏見城の戦いで、石田三成軍に包囲され、全滅した徳川家康と一緒に育った側近中の側近・鳥居元忠の血塗りの天井で有名です。
説明があると、とても良くわかります。養源院は、秀吉の側室・淀君が、父・浅井長政と祖父・浅井久政の供養のために、秀吉にねだって建ててもらったお寺だそうです。大坂夏の陣で、豊臣氏が滅んだ4年後、火災で焼失した。それを、徳川2代将軍・徳川秀忠の正室になっていた淀君の妹・江が再建し、大坂夏の陣で自刃した姉とその息子・豊臣秀頼の菩提を弔った。
豊臣氏を弔うのに寺院再建という大きな出費が伴うので、鳥居元忠以下、伏見城で徹底抗戦し武運なく討ち死・自刃した将兵を弔う徳川家菩提寺という形で再建した。
説明によると、鳥居元忠自身の血で魚拓のように残された伏見城に床は、リアルな染みになっていた。床天井には、明らかに指の形に見えるものなど、多くの染みが残っている。2000名の将兵で守っていた伏見城に、石田軍4万が囲み、多勢に無勢。ですが、10日間以上持ちこたえ善戦します。最後に残った300名を集め、「これまで」と将兵の自刃を見届けた後、鳥居元忠自身も自刃したとのこと。その200名ほどの床板がここの天井として、葬られているそうです。
その他の床板は、京都を囲むように幾つかのお寺に、床天井として葬られており、「徳川氏に奉公したら、末代まで大切に祀るよ」と、形で示したそうです。紹介された幾つかのお寺の中には、既に訪問したお寺がありましたが、血天井はスルーしていたようです。血天井をしっかり紹介しているのは、「養源寺」のみだそうです。
俵屋宗達筆の「像の襖絵」「麒麟の襖絵」なども、丁寧に紹介されました。僕の好きな聖天歓喜天を祀る部屋があり、その前の提灯には、代名詞の「大根」が染め抜かれていました。聖天歓喜天は、男女和合の仏で、インドから伝わった像の顔を持ったガネーシャが変化したものです。それで、それを祀る部屋の襖絵が像なんだと合点しました。
「麒麟」というのは、空想上の霊獣ですが、元は「麒」と「麟」の2頭でワンセットだったそうです。これは知りませんでした。人に伝わって行くうちに1頭になってしまったのだとか。長男は麒麟系に勤めていますが、知っているのかな?もう一つの霊獣「鳳凰」も、最初は「鳳」と凰の2羽だったそうです。勉強になりました。
俵屋宗達の名が出たので、「建仁寺の風神雷神図だよね」と小声で家内に確かめると、「狩野派じゃないの?」との答えが帰ってきました。記憶違いかと思い、拝観を終えてから、京都観光案内本で建仁寺を探し確かめてみました。やはり俵屋宗達で、僕の記憶の方が正しかった。
こういう話が出来、「後白河法皇が院政したのがここにあった法住寺で、平家物語の・・・」なんて話も、興味を持って聞いてくれ、僕の思い違いを指摘してくれる家内は、最高の旅の友です。
「養源院」からも、次に訪問した「法住寺」からも、隣接する後白河法皇御陵を垣間見ようとしましたが、全く見えませんでした。残念。
バイクに乗り、七条通の信号を待っていると、京都女子大へ学生を運ぶ「プリンセスライン」のバスが横切りました。さらに天井の開いた二階建てバスも。家内が後ろで、「可愛い」「乗りたい」と喜んでいます。「京都国立博物館」の重厚な建物が素晴らしい。
国立博物館横の道を北に入り、「方広寺」に向かいます。11:57、「豊國神社」。白無垢のお嫁さんが、タクシーに乗り込もうとしています。後部座席の天井が半分折り上がり、角隠し・綿帽子に気を使わずに乗り込めます。伏見城から移築した素晴らしい神門から中を見ると、椅子を片付けています。先ほどの白無垢お嫁さんは、午前中にこの神社で式を挙げ、披露宴会場に向かうためにタクシーに乗ったのでしょう。
徳川家が、豊臣家を滅ぼす大戦争に発展した「方広寺の鐘」を見に行きます。家内は実物を見るのが初めてです。僕だって、4月に見たのが初めて。歴史的にとても重要な鐘なのに、徳川260年の間に豊臣家関連に、陽が当たらなかったからか、訪問客などいません。秀吉・秀頼2代に渡って心血を注いだ「方広寺」自身、ひっそりとしています。白く囲まれた「国家安康」「君臣豊楽」が、歴史を伝えています。
12:17、「安井金比羅宮」。4月に訪問し、「縁切り」という珍しいコンセプトの神社の日中の人出を見に来ました。境内は賑わっていました。着物をお召しのカップルもいます。御札に願いを書く場所には、人が数人座り、胎内くぐりし札を貼る像には、列ができています。
『縁切り縁結び碑について 中央の亀裂を伝って神様のお力が、下の穴に注がれています。穴をくぐり抜け、そのお力を受けていただくことによって、悪縁が切れ良縁が結ばれます。まず、お願いごとを「身代わり御札」に書き、願い事をしながら碑の中央の穴を表からくぐり悪縁を絶ち、続いて裏からくぐって良縁を結び、最後に御札を碑にお貼りください。御札1枚につき、100円程度のお志をお賽銭箱にお納めください』
碑に貼られた御札にも、絵馬掛けに下げられた絵馬にも、リアルな現実が書かれています。
「・・が孫の養育費を払い、・・家との縁が切れますように」「・・との離婚が成立し、当方の希望通りの新しい人生が始まりますように」と、非常に厳しいリアルな男女関係の願い事が書かれた御札が多い。「病気との縁が切れ、・・が望む人生が送れますように」などの病気との戦いを連想させるものもある。良縁にご利益がある神社は多いものの「縁切り」を謳う神社は少なく、人気があるのでしょう。「私は縁切りしたくないよ。今とても幸せだもの」と家内が微笑んでくれ、僕はホッとします。
バイクに乗り、「六波羅蜜寺」に向かいます。京都の街中あちこちにある「着物レンタル屋」さんを激写。『着物レンタル3000円より。 ご予約なしでも、お気軽にどうぞ』。家内によると、1枚ものだから浴衣生地のようです。今の季節は、このぐらいが涼しくて良さそう。裏地のあるしっかりした着物をお召しの女性もいました。5000円コースかな?京都は、市街地あげて、「着物割引」(寺社拝観料100円引き、お食事5%引など)があるので、1000円ぐらいは取り戻せそう。12:42、「六波羅蜜寺」。
『951年、疫病平癒のため空也上人が開創された真言宗智山派寺院。空也上人自刻の十一面観音立像(国宝)を本尊とする。空也上人は醍醐天皇・第2皇子で、若くして出家し、歓喜踊躍しつつ念仏を唱える六斎念仏の始祖である。
往時は寺域も広く、平家の館や鎌倉幕府の探題が置かれるなど、源平盛衰の史跡の中心でもある。空也上人立像・平清盛坐像・弘法大師像など、数多く重要文化財を安置する。境内の十輪院が、仏師運慶一族の菩提寺であったことから、本尊脇に祀られていたという運慶・湛慶坐像も所蔵している』
拝観料600円×2で宝物館に入り、上記の仏像を拝ませてもらった。部分修理を続けてきたのであろうが、ずらりと平安時代製作の仏像が、大きな痛みなく見事な姿を見せていた。清盛は読書する姿の像で、珍しいなと思った。運慶像は、頭頂部がとんがっており、このような頭の赤ちゃんを見たら、「運慶みたいだね」と言ってあげよう。
家内実家の法要で、お寺さんから「六波羅蜜」の話を聞かせてもらった事があり、ずっと訪問してみたいと思っていたお寺です。曹洞宗開祖・永平寺開山の道元禅師(1200〜1253)が、1243年ここで説法されたそうです。
13:08、「六道珍皇寺」。『建仁寺塔頭で、六道さんとして親しまれている。この地は、かつて死者を鳥辺野へ送葬する野辺送りの場所で、「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世との境と言われていた。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の6つの冥界のことで、本堂裏の井戸は、昼は嵯峨天皇・夜は閻魔大王に仕えた小野篁(たかむら)が、冥土に通った入口だった。
創建は定かでないが、平安・鎌倉時代は東寺に属して隆盛し、そのご衰退した。室町年間に、建仁寺の僧・良聡によって再興され、臨済宗に改められた。薬師堂に、本尊薬師如来像(重文)、閻魔堂に小野篁作・閻魔大王像と等身大・小野篁像が祀られている。
8/6〜10まで、「六道まいり」が行われ、先祖の精霊をこの世へ呼び戻す「迎え鐘」を衝く参拝者で賑わう』
まだまだ、祟り・呪詛などが信じられ、それを生業にした密教僧や修験道山伏などがたくさんいた時代に、死者を葬る地に近接して住んだ小野篁という人物は、それなりの雰囲気を漂わせていたのだと思う。数年前、隠岐の島ツーリングに行った時、偶然「小野篁流刑地」と書かれた道標が現れ、緊急停止して探索したのを思い出す。
多くの人が住んだ京都には、当然葬送地がある。西に化野に対し、東の鳥辺野。熊野信仰の三山巡りの道に、「小辺路」「中辺路」という道がある。「野辺送り」という葬送の言葉がある。この「辺」という字に、僕は「お墓」の匂いがしてならない。熊野信仰も、最初は「伊弉諾尊が熊野有馬に葬られた」という故事に始まる。「お墓への道=辺路」の感じがしてならない。
鳥辺野は、秀吉のお墓がある鳥辺山などの東山の西山麓一帯を指す。「鳥辺山=鳥葬」を連想してしまう。チベット仏教では、今でも鳥葬をしているらしい。死者を高所に運び、鳥に食べられるままにする。鳥葬で葬る岩が頂きのてっぺんにあり、死者をそこに横たえ、コンドルなど肉食の鳥に食べさせる葬送の跡を、南米?かどこかで紹介されたのを見たことがある。
日本では鳥葬の歴史を、謂れ板などで目にしたことはないが、鳥辺野の地名がチベット仏教から伝わったのかもしれない。全くの脳内妄想の域を脱しないが、かつて妄想したことを思い出して、小野篁が通った地獄への入口の井戸には行けずじまいだった。小野篁作の閻魔大王像などは、覗き窓から観るようになっており、「迎え鐘」も撞いてみた。
お腹が減ったので、東大路通を北上し、13:30「京都大学カフェ・カンフォーラ」に入った。今週のランチ594円(ハンバーグ・スープ・サラダ・ライス)×2+限定パフェ500円=1688円。このお値段なので、ニチレイの冷凍ハンバークをチンしただけなのでしょうが、十分美味しく、待たずに食べれるのが気に入っている。僕ら夫婦の母校学食は、家内を見初めた思い出のレストランで、卒業後も時々お世話になっている。大学の学食は破格のお値段で一般の人でも食べられるので、つい学食を探してしまう。
家内は姉と、京大学食で食べたことがあるという。地下だったと言うが、方向音痴なので、場所を聞いてもチンプンカンプンで要領を得ない。お隣の席では、教授と院生と思われる学生風の方が、自分の研究のことを相談していた。あまりにアカデミックな理化学系の単語満載のお話なので、理解不能。そのお隣の広い席では、修学旅行の班を引率する教師というグループで、パスタとジュースを飲んでいた。志望校下見も兼ねているのだろうか?
僕らは時計台が見えるガラス窓際の席だったが、目の前の外のテラス席では、小さな女の子を連れたご夫婦がパスタランチを食べていた。まだ幼児なので、オシャレ感覚なんて本人には皆無なのだろうが、オシャレなお洋服が可愛い。孫くんは、男の子なのに素敵な洋服をいつも着ている。お嫁さんのセンスがそうさせるのだろうが、男の子なのだからごんたくれ服で十分だと思っている。でも女の子なら、やっぱりおしゃれなハイセンスなのがいいな。素敵なドレスに身を包んでいると、清楚でお上品なレディーになりそうだ。
地図を見て、芸能神社のことを聞いたら、行ったことがないという。てっきり連れて行ったことがあると思っていた。適当に西進し、夷川通(家具家筋)を走り「二条城」。南に迂回し、「三条通」に出た。ちょうど京福電鉄の路面電車との合流地点でした。
14:22、「蚕の杜」。参道前に駐輪したら、参拝を終えて出てきたおじさんに、「たまに駐禁が来るから、参道に入れておいた方がいいよ」と言われ、従った。渡来氏族・秦氏と、蚕の関係を話しお参りしたら、信心深い女性がお参りに来られ、糺の森の前の禊場で、お賽銭を入れ一心に祈り、禊をするしぐさをしていた。15:14、「斎宮神社」。斎宮はここで2年間も禊をしてから、天照大神のお世話役んなるそうだけど、湧水でも湧いていたのかな?等と話し、ここで生活しながら、インドのガンジス川のように、桂川に通って川浴禊をしていたのかも?なんて話す。
15:24、「車折神社」。玉板垣に書かれた芸能人の名前を見つけながら歩く。「死んじゃったけど、川島なお美・・・」なんて言ってる。好きな女優さんだったのかな?とても綺麗な女性でしたが、亡くなる前の激やせした姿を見せた時、僕はとても残念に思った。綺麗なままのイメージを残したまま、逝って欲しかった。
藤原紀香の名前を見つけたので、「後輩やん」と言うと気にもしていない風でした。家内と付き合い始め、2週間後ぐらいに家内の実家に車で送っていった。その時、「面白いものを見せてあげる」と連れて行かれたのが、地元の「大和殿」という結婚式場でした。エントランスを入って左側の吹き抜けのロビーの壁一面に和装の花嫁衣装のモデルさんの写真・・・なんと家内だった。
「ええ〜」と度肝を抜かれ、バブルの頃だったか、大和殿がTV宣伝をしだし、そのモデルが藤原紀香だった。水着を着て海岸線を走ってる。あれよあれという間に、ローカルモデルだった彼女は、全国区になり、女優になった。それ以来、「僕のお嫁さんは・・・」と、息子たちにも「お母さんはな・・・」って吹聴している。またそれを言ったら、「そんなこともあったね」と、至ってクールだ。僕の自慢なのに・・・
北に抜け、「京福電鉄・車折神社」駅のベンチで休憩する。「足が攣った」と言うので、バイクまで塗り薬を取りに行かされた。また歩いてくるのが面倒なので、バイクを駅前に回した。次々にやってくる電車を映しながら、息子たちが帰省した時の京福電鉄巡りアイデアを披露する。
更に西進し、嵐山手前で、「長慶天皇陵」を見つけた。天龍寺に出てきたが、ここから嵐山方面は一方通行で行けない。仕方なく、エンジンを切り徒歩で歩道を行く。人力車が走り、観光客が多い。京福電鉄・嵐山駅を散策。観光パンフレットを適当に集めた。車折神社駅にやってきた教習車が、ホームに入っていた。以前新婚の長男夫婦と来た時より、更にオシャレになっていた。
嵐山から三条通を東進し、16:18・「広隆寺」。太秦の地に勢力を張った秦氏の菩提寺です。太秦は、秦氏が伝えた機織り物(はたおりもの)を「うず高く盛った様」を見て、天皇から「うずまさ」の姓を授かったと言われている。秦氏の先祖は、秦の始皇帝に繋がるといい、せっかく授かった姓なのに、地名にとどめ、始祖そのままの姓を通したようにも思う。
京都三大祭の1つ・葵祭は、賀茂氏の氏祭りでした。京都盆地の北・賀茂氏の氏宮・上賀茂神社北の神山に、祭神が降臨されたのをお祭りしたのを起源とする。京都盆地は、ゆるく北から南に向かって標高が低くなり、北の峰の湧水が盆地内に泉を成し、どこを掘っても水源に当たると言われるほど、水に恵まれた地です。賀茂氏は秦氏の支族で、渡来系秦氏は、大陸から先進技術をもたらした。土木技術もその一つで、京都盆地の西に流れ出て来た桂川は、嵐山で保津川渓谷から開放され、時々大水で暴れまわる。それを土木水利技術で被害を小さくしてきたのが秦氏で、暴れ川の荒れ地だった太秦他の桂川流域を、本拠地にした。当然、盆地で井戸を掘ったり、湧水を探したりする技術にも長けていたと考えるのが普通で、それ故、水利への感謝から葵祭は、京都三大祭へと大きくなっていったように思う。
駐車場に入ると、「17時までなのですが良いですか?」と駐車場番人から告げられ、駐車場整理券を渡される。拝観すれ時、整理券にハンコを押してもらうことで、駐車料が無料になるそうだ。本殿は、「上宮王院太子殿」が正式名称のようです。殿上に上がると、立とうと足を伸ばして頑張ってるお孫さんとお爺さんがいた。可愛い・・・家内が「何ヶ月ですか?」「5ヶ月です」・・・バイバイと別れてから、航くん(長男の2人目)は2ヶ月だから、あと3ヶ月したら・・・なんて話しました。
拝観料700円×2で、宝物殿を見学。国宝第1号・弥勒菩薩はじめ、聖徳太子16才の像・巨大な千手観音像など、平安時代の仏像がずらりと展示されていた。光量がかなり落としてあり、見づらくもあり、落ち着く感じもあり、ナイスでした。
小さな蓮池から、蓮の葉が勢い良く上に伸びていた。「蓮の花は散ったのかな?」と言うので、「蓮は7月頭に咲くよ」と言う。蓮の花は、この世で最も美しい花だと思う。着飾った美しさではなく、素材の美しさ。シミひとつ無いきめ細かな素肌を持つ素肌美人のような美しさ。僕はどうも、素肌美人に弱い。食生活や十分な睡眠時間の生活を連想させる。美しい子を、産み育てるように思う。「この子は綺麗だな」と思った女性の一人が、家内です。白人は遠目の美しさはあるが、アップするとそばかすが目立ったりして、日本人女性の美しさには到底敵わない。蓮の花は、そんな日本女性的な美しさがあり、どんなにアップしても美しい。
閉門17時の5分前に駐車場に戻り、帰路に着きます。JR京都駅に向け、三条通を東に走り、西大路通を南下しながら、無線会話で「新幹線を見に行こうか」ということになり、往路見つけたスポットに行くことにした。
R171に出て、一路自宅に向け走ります。17:34、大山崎の名神高速大山崎JCT付近にある陸橋。横のコンビニにバイクを置き、陸橋を上がってみる。大山崎IC道路を渡る陸橋ですが、ちょうど新幹線の高さに上がるので、間近で高速新幹線走行を見れる。15分間隔で「のぞみ」が走っているので、上下線合わせて2〜5分間隔で新幹線がやってくる。チビさんが喜ぶはずです。僕だって、大喜び。難点は、新幹線が速すぎて、発見してからスイッチをオンしてたら、先頭車両がこの場所を通過してること。スイッチオンのまま待ち、オートシャットオフ状態で切れても、新幹線を発見したらすぐさまムービースイッチを入れることで、先頭車両がこっちに向かってくる場面から撮れる。
このまま自宅までタンデムしようと走行したけど、「阪急京都線・水無瀬駅」を見つけ、そこに家内を降ろした。ソロになり、R171を帰る。待ち合わせの阪急伊丹駅に着いて電話したら、「いなかったから、買い物中です」とのこと。無事家内をピックアップして、19時頃帰宅しました。

2016/5/29
家内も休日なので、2人で京都東山トレッキングをすることにしました。いつものように、用意ができ次第出発。6:15、通勤リード110にタンデムし出発。JR伊丹駅駐輪場に、200円で預けます。ICOCAに3000円チャージして電車に乗ります。JR宝塚線〜JR尼崎で、新快速に乗り換え、大阪〜新大阪〜高槻〜京都〜山科で下車。甥っ子が今年入学した大学が見えます。家内の姉もこの大学出身で、そこのサークルで知り合った旦那さんと結婚しました。
義理兄は卒業後、別の大学に進学し、赤ちゃんを抱えた姉が働き、家内実家が支援しながら卒業しました。結婚前の僕と家内は、家内実家からの支援物資を車に積んで、何度か姉夫婦の家を訪問しました。気さくなご夫婦で、こんな方と兄弟なら100点満点だと思いました。今でも素敵な夫婦です。
先週もこのトレッキングを計画し、義理姉夫婦と姉夫婦の長男夫婦を誘いましたが、仕事でご一緒できませんでした。ここで地下鉄東西線に乗り換えます。蹴上で下車。山中、トイレがないようなので、ここで済ませます。8:01、外に出るとツツジの花が目に飛び込んできます。我が家の垣根のツツジも紅い花を楽しませてくれています。5月は、藤とツツジですね。電柱に、「蹴上(日向大明神経由)〜大文字山頂」の案内板がありました。
8:02、「蹴上捻じりマンポ」。隧道内のレンガのねじれが美しく、毎回写真を撮っています。隧道を抜け、真っすぐ行けば南禅寺ですが、抜けたとこをすぐ右です。「京都一周トレイル」の案内板があります。左手に、明治時代に琵琶湖疏水という大工事を成し遂げた田辺朔郎の銅像が立っています。右手はインクラインです。インクラインを歩いて上がると、突き当りのようになりますが、ここはT字路で、右に行けば、蹴上駅に行けます。インクラインをパスするなら、こちらの道の方が近道です。8:08、「京都一周トレイル・東山32」と書かれた統一案内板が立っています。この案内板が、要所要所に立っており、迷うことなく山中を歩けました。
左に進み、琵琶湖疏水を渡ります。この橋の上から、疎水を使った水力発電所が見えます。田辺はここで電気を作り、日本初の電車を京都に走らせました。8:13、「大日山墓地」との分岐。ここにも案内板があるので迷いません。ここを過ぎると、もう周辺は森です。コンクリート舗装の道を、ブラブラ登ります。
8:19、「日向大神宮」。『清和天皇の勅願によって、天照大神を粟田山に勧請したことに始まる。応仁の乱で焼失したが、寛永年間1624〜44に再興された。境内の最奥に建つ内宮本殿は、桁行1間・背面2間・梁行2間の神明造り。両脇に棟持柱を建て、屋根の棟に内削ぎ千木と堅魚木8本をのせている。本殿前方の四脚門の屋根にも内削ぎ千木と堅魚木6本がのり、両脇に板垣が取り付き、内宮の敷地を区切っている。内宮前方一段下がったところに建つ外宮・四脚門は、内宮とほぼおなじ規模・形式ですが、千木外削ぎで、堅魚木はそれぞれ1本少ない。造営は不明ですが、18世紀にはすでに建っていたことがわかり、部材が一部取り替えられているものの、市内では例の少ない神明造り本殿として貴重。御門と板垣で敷地を区画する社殿構成は、古代を伝えている』
『23代顕宗天皇の御代に、筑紫日向の高千穂の峰の神蹟を移して創建した。天智天皇は鎮座の山を「日御山・ひのみやま」と名付け、清和天皇が勅願し、醍醐天皇は延喜式で官幣社に列し給いました。建武の戦乱中、新田義貞が戦勝祈願し、良馬と太刀一振りを奉納した。応仁の乱で、社殿・古記録は焼失したが、禁中より修理代を賜り、社殿が再興された。後陽成天皇から、内宮・外宮の額を賜う。慶長年間、徳川家康公から神領を加増され、社殿の改造が行われた。後水尾・中宮東福門院が修理料・ご神宝を賜う。中御門天皇は、亨保14年本宮修理に際し、神祇官を遣わした。後桃園天皇は、度々御代拝を遣わした』
階段を上がると、素敵な境内が目に入ってきました。厚手の茅葺き神殿作りが、重厚感と洗練されたカッコ良さを伝えてきます。周囲を森に囲まれ、とても清々しい空間です。「天岩戸」への案内板と33-2案内板があります。天岩戸へはすぐで、2ルートの分かれています。
8:29、「天岩戸」。岩がL字にくり抜かれており、中央に簡易拝殿がありました。ここから南禅寺まで40分だそうです。日向大神宮に戻り、「伊勢神宮遥拝所」の道標に惹かれ見学しようと思ったら、道が下り、その先に長い石段が見えています。
諦めて、8:40元の道に下り、「京都一周トレイル」メインルートに従うと、さっき見えていた階段に至りました。ストックを準備し、長くつづら折れの階段を上がっていくと、8:50遥拝所との分岐に出ました。階段下の表示では、遥拝所まで10分となっていたので、分岐を右に行けば数分でしょう。
分岐を左に、「大文字」を目指しました。道は平坦だったので、急坂登りは終わりかなと思ったけど、雨の後は登りづらいだろうと思える山道上りが続いていました。
8:55、東山・35。ここから、斜度がマシになりました。枝尾根歩きという感じです。9:00、東山・36。伊勢神宮遥拝所への階段から、後続の方に抜かれるようになりましたが、この辺からそれが増えました。当初、六甲山登山道のように、多くのハイカーが歩いていると思ってたのに、あまりに少なく安全面での不安がありましたが、多くなってくると安心です。9:01、「東山第19峰・神明山・218m」。ピークハントしました。でも大文字山は465mなので、まだまだ登りが残っています。
9:05、東山37。9:09、神明山からの下り基調の底が、「七福思案処・東山38」でした。5差路になっており、メインルートの「日向大神宮」・「大文字山」の他に、「御陵・みささぎ」に下る道、「南禅寺」に下る道、そして、日向大神宮から天岩戸経由でここに至る道が集まっています。天岩戸ルートでは、神明山ピークをパスするので楽ですね。
また登り基調になります。でも息が弾む程の勾配はなく、淡々と尾根道を歩く感じです。9:11、東山39。ここからも南禅寺と御陵に下る道があります。『カシノナガキクイムシにより枯死した樹木を伐採処理した跡地です。このまま放置すると鹿などの食害により植生が回復しないので、防鹿柵を設置し、自然な植生回復を図っています』との説明板が立っていました。
9:16、山科盆地が木々の切れ間から望めるようになってきました。「クロバイ」「コナラ」「ナギ」、簡単な説明が入った樹木名板が設置されている。「なぎ」は、熊野権現のご神木で、その葉を懐中にし熊野詣すると、旅の安全を守ってくれるそうです。ナギは凪につながり、海路熊野詣の安全にも繋がるのだそうです。榊同様、日本の典型的な葉っぱの形をしています。
平坦な道や岩の多い坂道を歩き、少しづつ標高を上げます。山科盆地が見下ろせる場所で休憩していると、男性若者3人組が追い抜いていった。「こんにちは」、山道で人に会うと、安心する。9:40、東山40。9:47、東山41。9:51、京都盆地が眼下に見えた。10:05、東山42。10:13、東山43.1。10:24、東山43.2。10:37、東山44.1。10:39、東山44.2。
10:42、視界が開け、未舗装林道と交差しました。ナラ枯れ再生のため通された林道だそうです。荷と人員をここに上げ、大規模に伐採・植林をしたのでしょう。まだ作業中なのかもしれません。
10:49、東山45。ここで、メインルートは、「鹿ヶ谷」に下ります。直進は、大文字山山頂。鹿ヶ谷は、公家の別荘があり、太平記で後醍醐天皇の意を受けた公家が、鎌倉幕府倒幕の陰謀を巡らせた場所です。興味津々だけど、家内の「せっかくだから、大文字山に登らなきゃ」の従い、直進。
10:55、「大文字山」ピーク・465m。大勢の人です。京都側の木々が払われ、ベンチが数組設置されています。森の中にもベンチがあり、日差しを避けて休憩する方もいます。お弁当を食べている方もいます。眼下に広がる京都盆地をバックに、記念写真を撮りました。
ここから、銀閣寺まで下りです。11:32、大文字・火床。頂上より低くなったので、京都の町が迫力を持って迫ります。5歳ぐらいの幼児と、赤ちゃんを抱っこしたお母さんが、友達お母さんとしゃべっています。声も大きく笑顔満点で、とてもパワフルです。家内が、自分にはとても出来ない芸当だと、驚いています。11:42、長い階段を下ります。銀閣寺側から登ると、勾配の急な道を上り、勾配が楽になった最後に、ドーンと一直線の長い階段が現れ、ゲッソリするポイントです。3時間半も歩いて、足が疲れているので、気をつけて下らなければいけません。
11:59、森の中の一休みポイント。お地蔵様がいます。12:18、銀閣寺川上流の沢を渡り、コンクリート舗装路に出ました。12:28、湧水ポイント。冷たい〜。12:38、分岐を朝鮮学校の方に行くと、「中尾城址」らしい。12:41、「銀閣寺」。地図では、3時間半の行程でしたが、4時間40分で走破です。僕らはとにかく休憩が多いので、+1時間と予想していました。予定通りです。
「銀閣寺」門前ストリートにある「松葉亭」というところで、昼食にしました。浴衣地着物姿の女の子3人組がお食事中で、着物を着ると佇まいが日本的女性美になってる。清楚でおしとやかな日本女性は、着物が作ったようです。家内は丼、僕は丼とそばのセット定食です。「銀閣寺」停留所から、京都市バスに乗ってJR京都駅へ。
空が曇って来ましたが、雨になる17時までには余裕なので、座れないかもしれない新快速をパスし、各駅停車・快速でJR尼崎へ。ここで宝塚線に乗り換えて伊丹下車。代替輸送表示で、特別快速・塚口行なる臨時列車が出ていました。
駅で通勤リード110に乗り換え、ドコモショップへ。家内がスマホに変えようかな?と相談です。かけ放題・メール・ネットし放題で基本料金が6000円を超えるので、「そんなに使わないわ」とガラケー継続利用を続けることにしました。PC・電話が常に横にある事務仕事の僕も、携帯電話自体休日にしか電源を入れないので、スマホなんて必要なしです。
現代の学生は必需品になってるので、息子たちも持っていましたが、僕の学生はありませんでした。月6000円×12ヶ月=72000円×10年=72万円。車が買えちゃうよね。新車販売広告に、「月々6000円」なんて文言が踊っています。携帯電話は、車が買えるほどの高額品です。
帰宅したところで、雨が降ってきました。映画DVD「notebook・きみに読む物語」を観ました。大好きなラブストーリー作家・ニコラス・スパークスの出世作の映画化作品で、家内は初めてでした。映画「メッセージ・イン・ア・ボトル」を家内と観に行って、原作を読み、この作家にハマりました。映画化された作品をDVDで6本も持っています。小説は、10冊以上読んでると思う。家内はすごく感動し、全部観るねとリクエストしてくれました。
またまた、楽しい1日でした。

2016/5/22
幼稚園の同窓会クルージングを計画しましたが、5日前のお誘いでは予定が立っており流しました。ならばヨット部同期にと、1学年先輩・後輩にも声を掛けました。でも皆さん忙しい。輩このお誘いメールにより、同じ市内で働く1回上の先輩が職場にやってきてくれ、あ〜だこ〜だおしゃべりしました。お盆に同回生で先輩の家で集まるらしく、僕も誘われました。僕はずっとそうだけど、リタイヤの年齢が近づき、学生時代クラブで培った仲間がまた集まるようになってきました。
この先輩とは、小学校から大学まで一緒で、小学校時代の家庭教師先生まで一緒です。中学サッカー部、高校大学ヨット部と、僕は入部したクラブに先輩がおり、まるで金魚の糞のようです。大学では2人でペアを組み、大学ナンバーワンとまで言われた名コンビでした。
次に、弟一家や甥っ子夫婦や家内の従兄弟夫婦に声をかけましたが、みんな忙しい。公認会計士の甥っ子は、相変わらず日曜日でも会社に行っているようです。次男の結婚式で、甥っ子のお嫁さんと話す機会があり、本来一緒であるはずのお休みの日でも、夫婦すれ違いの生活のようで、気になっています。
後で結婚した次男が先に子供を授かり、変なことにならなければいいがと・・・。新婚2年の最も楽しい時間に、たくさん思い出を作って欲しい。結婚で始まる新しい家は、共有する経験の多さこそ大切だと思っています。人生の終着駅が近づいてきた僕が今大切に思うのは、家内との時間です。この信頼関係こそが、子を育てる原動力になったように思います。
ということで、何度か甥っ子夫婦を誘っているのですが、仕事優先のようです。東芝の不祥事から、担当していた大手会計事務所への不信が深まり、他の大手会計事務所の仕事が増えているようです。最も多い3月決算の会社の株主総会が6月に集中し、今は最も忙しい時期です。でも、休みなく働くのは、仕事の効率を下げてしまう気がします。会社だって、そんなことを望んでおらず、甥っ子は自主出勤しています。
6月生まれの家内は、2回目の免許更新の時期です。9時からなので、それに付き合い、その後夫婦で大阪湾クルージングすることにしました。
4:30に目覚めました。バイク装束に着替えます。春秋用のメッシュ上下+DAIWAフィッシングスーツから、メッシュプロテクター上下のみの夏用装束にしてみました。ロードサイドの気温計は、15℃・14℃で少々寒さも感じますが、問題なしです。4:50に、「里山VTR250」に乗り出発。長尾山トンネル〜r325〜r33〜r319〜r12で杉生交差点へ。
東にそびえる山頂を見ながら、事前調べで最短距離・直登10分の「景福寺」への枝道に入ります。5:52、下調べ済みの直登道に入りますが、藪化が進み難儀そう。ルートロスも予想され、「君子危うきに近寄らず」しました。ウグイス筆頭に、数々の野鳥のさえずりが聞こえ、慶福寺の新しい墓地の方に行ってみます。旧墓地は前回探索済みです。
焼けた木材が集められた場所があり、火事でもあったのかと想像する。墓地最上部から山林を覗くが、山道は見つからず。久しぶりに景福寺へ。カエルのベンチ?祭壇?が可愛い。唐破風に素晴らしい彫刻の本堂が健在です。歴史のあるお寺で、往時は大寺院だった面影が一部に遺っている。経済力はまだ十分にあるようで、この唐破風もまだ新しい。有力な檀家でもあるのだろうか?
お墓探索時から鳴り出した鐘の音は、なんと自動鐘撞きでした。鐘楼に近づき見ていると、「ジー」と機械音が鳴り出し、突然撞き棒を下げていた鎖が動き、「ゴーン」。鐘撞きを終えた後に、ご住職に山城情報を伺おうと思っていたのに、無人で拍子抜けしました。ペット供養観世音菩薩像の横に、供養されているワンちゃんの写真が並べられていました。前回、あったっけ?
6:17、帰路につきます。r12〜r319〜r33〜r325〜長尾山トンネルの定番コースで戻ります。北に向かうバイクとすれ違い、左手を上げてシェイクのバイクピースを出しました。反応率3/4。大げさに出した方が、反応率がいい。
まだ7時前なので、バイクをゴソゴソ。RAMマウントの位置を微妙に変更し、気温が上がり必要なくなったお手製ナックルガードを外します。「招き猫CB400SB」のも外す。半年、お疲れ様でした。
帰宅し朝食を食べ、8:30に家内と通勤リード110にタンデムし、家を出ます。市街地に出て、家内の用事を済ませ、免許更新センターへ。受付開始9時の5分前なのに、免許センター外にまで受付の列が伸びています。受付・更新費用支払い・視力検査・写真撮影、2Fに上がり20分講習です。部屋の横のベンチに座り、本を読んで待ちました。家内は99番の受付で、最初の講習の一番最後です。講習が終わり、名前を呼ばれ、新しい免許をもらった講習者が続々と出てきます。チラチラとそれをチェックしていたつもりでしたが見落としたようで、教室を覗くと誰もいませんでした。慌てて外に出ると、家内が手を振っています。
またタンデムし、R171を西宮へ。10:47、コープ・マリナパーク店で、「おむすび・100円+寿司詰め合わせ・398円」購入。ハーバーにバイクを置き、センターハウスに入ります。ノースショップに、ヘリーハンセンのかわいい子供向けラッシュガードが並んでいます。かっこいいな。
ハーバークローク横の機械で出艇申告をして、セキュリティーカードでゲートを開け、桟橋へ。船に乗り込み、お揃いのコミネ・プロテクション・メッシュパーカ・ブラウンを脱ぎます。家内が持ってきたライフジャケットを着ます。ゴソゴソ出艇準備します。家内と2人なので、全部僕がせねば。エンジンは一発始動しました。電源ケーブルを外し、風向を見て必要ないロープから外していきます。すでに陸風が終わり南からの海風が入っており、船は桟橋に押し付けられるので、慌てる必要がありません。
ロープを全て外し、11:20リバースで桟橋を離れます。ハーバーを出て水路に出ると、11:31午前中の練習を終えたオプティミストディンギーが、県営芦屋YH方面に帰って来ました。僕らが作ったジュニア・クラブで、次男の後輩達です。小学生のチビちゃんたちが、大人顔負けの一人前の装束に身を包み、一端のレーサーです。エンジンを微速にして、家内と眺めていると、レスキュー・インフレータブルボートが近づいてきます。「あっ、・・さん」「誰?」「・・だよ」「あ〜・・さん、また乗せてよ」「奥さん?」「うん、今日は2人で出てくるよ」。
去年末の次男の結婚式に出席してくれた、次男とこのクラブで同期だった子のお父さんが乗っていました。僕は次男がジュニアを卒業した後、ジュニアの全国理事になり、大学ヨット部のコーチになったけど、このお父さんはずっとジュニアの指導を続けている。
風は、SW・2m/sほどです。風位に立て、オートパイロットにセットし、ステアリングを離れ、セイルカバーを外し、マスト横に行きハリヤードを点検し、コクピットに戻ってメインセイルを上げます。最後は僕がマスト横でハリヤードロープをしゃくり、家内がロープを引いてロックします。僕が指示しなくても、家内はロックしました。覚えたね。
エンジンを切り、ジェノアセイルをフルセイルに展開し、オートパイロットを切ってマニュアルに戻し、家内にジェノア・テルテイルを見ながらのセイリングテクニックを伝授します。「難しいね」「見上げたままだから、首が疲れるわ」なんて言いながら、無難にこなします。時々ステアリングを逆に動かしているけど、ご愛嬌です。
尼崎・西宮港一文字堤防先端の赤灯台を抜ける時、堤防上の釣り人の竿にヒットしました。男性が女性に竿を持たせ、タモを構えています。「大物ですか?」と声をかけると、女性が「わかりませ〜ん」と楽しそうです。通過後、結構な大物を釣り上げていました。
先週は、僕が所属するDクラスのレースでしたが、新潟に先月生まれた孫に会いに行っていたのでパスしました。この日は、IRCクラスのポイントレースです。レース艇を北の尼崎沖に見ながら、風上マークを探しますがありません。関西空港に向けて、オートパイロット任せにして、家内とあ〜だこ〜だ。僕はこの人と夫婦になれて、幸せ者だ。気を使わず、ゆったりした会話をしながら、人生航路を渡ってきました。
12:42、お昼ごはんにします。僕は水なしで平気なのですが、家内はダメです。また喉に詰まらせ、ペットボトルの水を飲んで胸を叩いています。咳をすると、必ず最後にくしゃみをしないと終わらないし、寝相は子供並みに暴れ回り、一緒に寝ると一晩に何度蹴られるか・・・実に面白い。
レース艇は、なかなか風上に上がって来ず、どうやら昼食中だったようです。遠目にスタートしたように見え、改めて風上マークを探すと、通りすぎたところに運営艇が走ってきました。グルリと180度方向転換し、風上マークに、レース観戦に行きます。
レース艇に風の影響を及ぼさない程度に風上マークに近づき、家内にマーク回航を見せます。レース艇であるIRCクラス艇は、全艇スピネーカー仕様ではなく、ジェノア仕様でした。速いな。
13:23、最終艇が風上マークを回航し、ハーバーに戻ることにしました。赤灯台横から防波堤内に入ります。光進丸のような大型の船が追い越して行きました。往路もそうでしたが、すれ違う船には手を振ります。ほぼ100%返してくれます。ゲストが乗っているのか、小さな子と女性が大きく手を振り、とても喜んでいます。
西出入口からハーバー内に入るのも芸がないので、遠い東入口を目指します。大阪大学が練習していたので、家内に次男の乗っていた艇種を教えます。「綺麗に並んでる」と楽しそうに見ています。ウインドサーフィンも練習していたので、そちらも見に行き、14:09東出入口に船首を向けます。西からブローが下りてきました。風速が4m/sほどに上がり、「初めて水しぶきが来た」と喜んでいます。前方で、甲南大学のヨットがこけました。「なかなか立たないね」と見ていた家内。シングルハンドもこけました。1人乗りなのに2人で乗っていたから、新入生が乗っていたのかもしれません。普通はこんな風でこけません。
エンジンを掛けて船を風位に立て、セイルダウンです。「私と2人だけだから、忙しいね」と、ニコニコしています。ハーバー内に入り、桟橋に着け、あれやこれや動きまわり、船を固定して終了。
センターハウスに戻り、帰着申告を出して、「レストラン・カフェ・フリアンディーズ」でケーキにします。家内は「ケーキセット792円」、僕は「フラペリッチ699円」。15:28に精算し、またお揃いのプロテクターメッシュパーカを着て、通勤リード110にタンデムします。
R171で16:00過ぎに帰宅し、プレーンヨーグルトを食べて昼寝します。17:30になったので、再びタンデムで出発です。市内の映画館に入り、18:10「海よりもまだ深く」を観ました。前日の土曜日、帰宅すると珍しく家内がTVを見ていました。「海街Diary」。一緒に暮らす4姉妹の物語です。ロードショーを見たかったけど、チャンスを逸した映画です。そのCMでこの映画の宣伝が流れていました。
探偵をしながら暮らしている処女作以外売れない作家が主人公で、離婚した奥さんに月1回養育費5万円払うことで、息子と1日過ごしている。これが何よりの楽しみですが、お金にはルーズで臨時収入を競輪などに掛けてすってしまい、いつもお金がない。主人公は家族が大好きで未練たっぷり、奥さんも旦那さんが嫌いなわけじゃない。でも結婚に向かない夫に見切りをつけ、新しい家庭を持とうとしている。息子くんは、父親のおばあちゃんが大好きで、両親離婚後も時々おじゃましている。おばあちゃん・樹木希林は、息子に似た旦那と添い遂げ、今は未亡人。あっけらかんとした性格で、でも息子はいくつになっても可愛く、孫にも美味しい料理を食べさせている。
そんなある日、月1回のお父さんと息子の1日に台風が来て、お婆ちゃん家で、お母さんも含め、4人で一夜を過ごす。映画評としては、5点満点で3点という採点ですが、樹木希林のおばあちゃん役が素晴らしく、親父のことを思い出した。
性格は優しいのに、僕に厳しい母親に引っ張られ、母親に同調して時に僕の敵になってた親父でした。停まってる僕の車に、下り坂で止まれず、車の前輪に突っ込んだ小学低学年の子が乗る自転車を、僕が親切心で家まで送って行った。ご両親が留守だったので、僕の名前を書いて帰ったが、その晩お父さんから電話が入った。僕が交通事故を起こしたのに、当て逃げしたと大剣幕だった。
翌日警察に行き、その子とグループで走っていた高学年の子供たちに事情聴取してもらい、僕の無実は晴れたが、親父は「息子はまだ若い。示談にしてくれ」と謝り倒していた。もしボディーに当たっていれば傷が付いていたので、むしろこちらが怒りたいぐらいなのに、かんしゃく玉のお父さんに、まだ小さい子だったから、ちゃんと説明できなかったのだろう。
こんなこともあった。僕がある日帰宅すると、庭の桜の木が切り倒されていた。唖然としていると、親父が切ったとのこと。「ゆきくん(僕の長男)が、桜に木についた毛虫に刺されたので、切ってやった」と自慢気です。
僕にしてみれば、両方余計なお世話なことでしたが、親ばか・孫ばかな部分は嬉しかった。そんな親父の姿と樹木希林のおばあちゃんがダブって見えた。
帰路、20:40ローソンに寄り、お買い物をして帰宅した。1日中家内と一緒の楽しい1日でした。

2016/5/15
新潟のお嫁さんお実家に、長男の2人目の子・航くんに会いに行ってきました。4/6に誕生しました。4/2が出産予定日でしたが、長男は4月からアメリカ転勤なので、「いつ生まれるか?」でヤキモキしました。幸い会社から、「4/10渡航」に延期の配慮してもらい、4/1からの休暇で出産に立ち会えました。予定通り、4/10に渡航しました。ありがたい会社です。新生児を抱えてのアメリカ住まいは、何かと心配なので、夏まではお嫁さんお実家にお世話になることになりました。GWのバタバタも過ぎ、初めて2人目の孫に会いに行きました。
朝イチの飛行機で新潟に向かい、最終便で帰阪するパターンです。荷物は、機内持ち込みOKサイズのスーツケースと恐竜おもちゃセットです。長男からの情報で、新潟のお父さんに買ってもらった恐竜の本から、嫡孫・遼くんが恐竜ブームだそうで、トイザらスで買いました。
6時杉に通勤リード110にタンデムし、空港に向かいます。伊勢サミットが今月末に迫り、空港審査が厳しくなっているのかな?と思ったけど、通常通りでした。JAL最奥の24番搭乗口待合で待ちます。5月らしく、黄砂で視界は落ちますが、上天気です。
定刻通りに、「7:10発・JAL2241大阪伊丹〜新潟行」に、乗り込みます。数日前に、「JAL・エンブライルE170機に空調不良が見つかり、全機緊急点検」のニュースが新聞に載り、心配していましたが、機材も変わらずE170でした。座席は3Aという主翼の前の席です。乗客は僕らを含め9名。定員70名の飛行機なので、ガラガラです。
カメラをスタンバイし、離陸からムービーを回しました。離陸してすぐ旋回すると、我が家が窓から見えます。琵琶湖・北湖を眼下にし、反対側の空席に移動します。黄砂の季節が残念ですが、御嶽山の噴煙が見え、北アルプス・剣岳が特徴ある姿を見せ、遠くに富士山が見えます。
日本の屋根の景色を堪能し、元の席に戻り、日本海。着陸態勢になり、新潟平野の田んぼが、水が張られキラキラ輝いています。1時間強のフライトを楽しみ、定刻に新潟空港に着きました。到着ロビーには、お嫁さんと遼くんがお出迎えしてくれていました。3才の遼くんは、深々と頭を下げ、おちょけているのか、マイブームなのか、しっかり挨拶出来るようになっていました。
空港前で待っていたお父さんに挨拶し、その車でご自宅にお邪魔します。3才になった遼くんのチャイルドシートは、簡易版になりました。ただ座面を上げる座布団部分だけで、窮屈感がありません。予定日を過ぎて生まれた航くんは、「大きい」と言われていましたが、やはり小さな赤ちゃんでした。ちょうど起きており、ぷくぷくのほっぺを触ったり、抱っこして重さを感じたり、とてもかわいい。「つむじが2つある」とお嫁さんが驚いていましたが、「長男の弟のたーくんも、2つあったよ」と話すと、安心していました。蒙古斑が、右手甲にあります。僕の中学の友人に、こんな子がいました。お肌がツヤツヤで、とても元気そうです。家内は、ニコニコです。
遼くんのリクエストで、お隣の公園で遊びます。長男がお嫁さんが出産入院中に連れて行った競馬にハマっているそうで、走り方が、パカパカってお馬さん走りです。滑り台を滑り、砂場でケーキを作り、ローソクを立て、今月誕生日の家内を歌で祝ってくれます。起きた航くんも、お母さんと一緒に出てきて、また抱っこ。あ〜かわいい、幸せだわ〜。
家に戻り、お嫁さんに、次の住処・プリンストンの家のことを聞きます。2階建て一軒家に決めたそうです。1Fにガレージ・トイレなどなど、2Fにもトイレ・3ベッドルーム・ダイニングキッチン・バスルーム・洗濯機部屋などなど、とても広いそうです。ガレージは1台だけど、敷地内に駐車スペースがあり、通勤用の会社支給の車・カローラ以外に、お嫁さん用車を買ってそこに置くようです。家賃40万だって。
長男は引っ越し早々、お隣さんにホームパーティーに誘われたそうです。お嫁さんは料理好きなので、ホームパーティー文化にも馴染めそうです。2軒隣に、日本人一家(8才女の子と5才男の子)がおり、素敵な環境だそうです。鹿が庭を歩いているんだって・・・きっとリスもいるよね。気温は、寒暖差が大きく、日中は東京と変わらないけど、朝晩は冷えるそうです。
なんて話していると、長男からTV電話が入りました。スマートホンのアプリだそうで、長男のスマホとお嫁さんのスマホでお互いのカメラに映る映像を見ながら会話ができます。長男は2000円で買ってきたという夕食を食べながら、家内も会話に入っています。お嫁さんのリクエストで、自宅内映像案内をしてもらいます。ダイニングキッチンと、ベッドルーム1つ・バス・トイレしか使っていないようで、各部屋の電気を点けて内部を映像案内してくれますが、船便で送った荷物がまだ到着していないようで、ガランと何もありません。
時差がマイナス13時間なので、会社から帰宅後のこの時間・アメリカ東海岸時間で夜の10時頃、毎日電話してくるそうです。時には2回電話してくる時もあり、遼くんに忘れられることはなさそう。便利な時代になりました。
お重2段のお弁当のお昼ごはんになりました。おかずの種類が多く、お腹が満腹です。授乳が終わり、お出かけします。車で30分弱、13:56新潟市内の元大庄屋宅「北方文化博物館」に着きました。これは僕のリクエストです。「いちご狩り」も調べたのですが、遼くんはあまり食べないということで、予定通りになりました。水族館は、長男と2人で行ったとのこと・・・。
堀が囲んだ立派な邸宅でした。大人700円。土蔵はひんやりとし、代々当主が収集したのか、唐の焼き物や、エジプトの副葬品やガラス細工など5000年前のものだそうです。もう一つの土蔵には、アッシリアの胸像などが展示されており、イスラムに興味があったようです。三つ葉葵門が入った硯箱があり、徳川家からいただいたものかな?
藤棚に、終わりかけの藤の花が下がっています。居宅に入ってみます。遼くんは囲炉裏に興味津々です。1946年に、アメリカ駐留軍・ラルフ・ライト中尉と伊藤丈吉当主との絆で「北方文化博物館」が開かれたそうです。アメリカ人には、この歴史ある威風堂々とした館が、とても素晴らしく見えたのでしょう。
年季の入った神棚、大きなオルゴール、何人用なのかわからない色彩鮮やかな大皿・振り子タイプの置き時計。埴輪が展示されていたので、我が家の祖先・土師氏の生業を話しました。
居宅を出て、蓮池・農家を回り、板の間で遼くんと遊んだりした。土間だけの家がありました。『裏日本は、半年間雪に埋もれ、表日本に比べ生産活動に大きな苦しみがあった。そのため各藩は、「板の間禁令」の制約を作り、物心両面で厳しい節約を命じた。1軒に1間しか作れなかった板の間は、家長の居間とし、土間に藁を敷いて生活した』
居宅に戻り、庭の向こうの野点を見ながら、大広間に座って休憩しました。遼くんを肩車したり、暴れ馬になってあげたりして遊んだ。車に戻ろうと歩いていると、「三楽園」という三角形の茶室があった。引き出しがひし形になっており、不思議な感じ。
15:27、帰路につく。途中で、動物と触れ合える施設に立ち寄る。航くんのおっぱい時間が気になるが、お嫁さんも久しぶりの息抜き時間なのでしょう。Jリーグ「新潟アルビレックス」の本拠地ドーム横の施設で、巨大ウサギ・羊などと楽しみ、16:16、併設のAコープで、遼くん用「キャロットフルーツジュース・90円」と、僕らのお土産「越後の集い・1000円×2」を購入した。
ご実家に戻り、遼くんの熱唱を聞きました。西野カナ・オリエンタルラジオ・星野源を、ビデオに合わせて歌ってくれます。車の中では、オリジナル曲を知らないので、表情や仕草が似ているのか不明でしたが、家では走って登場したり、オリジナルをとても研究していました。
17:49、恒例の集合写真を取って、帰路につきます。お父さんに送ってもらい、出発1時間前に空港につきます。ロボットのペッパーくんがいます。遼くんが動きをものまねています。搭乗券に交換しにカウンターに行くと、「満席だから、大きな荷物は荷物室に入れて欲しい」と言われ、スーツケースを預けました。19:15、「JAL2250・新潟〜大阪伊丹」に乗ります。座席は「15K」で翼の後方です。離陸するとすぐに暗くなり、家内と楽しかった1日を振り返っておしゃべり。この人と結婚できてほんと良かったな。
大阪伊丹空港は着陸ラッシュで、少々旋回させられ、5分遅れで着陸。ジャバラゲートも間に合わず、タラップから滑走路に降りました。目の前に待機しているバスに乗り、ターミナルに向かいます。僕が小学生の頃は、ターミナル直結のジャバラゲートなんてなかったので、飛行機とターミナル間は滑走路を歩いていましたが、家内はこういうのが初めてのようで、とても喜んでいます。
家内に預かり荷物ピックアップを任せ、バイクを取りに行きます。家内をピックアップし、帰宅です。楽しい1日になりました。

2016/5/8
コーチしてる大学のレースで琵琶湖に行きます。9時第1レース・8時出艇なので、その前京都府と滋賀県の県境・音羽山の「牛尾観音」その他を探索しましょう。目覚めたら5時前、「あれ、窓の外が明るい」、いつもより遅く目覚めちゃいました。慌てて用意し、「招き猫CB400SB」に荷物を載せる。リアボックスに入らないので、防水バッグに入れた荷物をリアシートにネットで括る。ライフジャケットは着て行きましょう。
6:30出発です。予定では夜明けと共に現地探索開始だったのに、大幅に遅れてしまいました。中国道・豊中IC〜名神・京都東ICまで高速道路利用。名神のしたをくぐり、民家が立ち並ぶ細い道を沢沿いに山に入ります。すぐに人里離れた素敵な雰囲気になり、朝のお散歩の方が数組歩いています。
予想より勾配がきつい部分が時々現れ、道が細いこともあり、2速まで落とし、カーブでクラクションを鳴らしながら、ゆっくり登ります。往復、対向車はいませんでしたが、四輪では離合困難な道幅の部分が多い。沢沿いなので水音のBGM・森の静けさがあり、とても気持ちが良い。沢に落ちる小さな流れに、誰が設置したのか手のひらサイズのmini水車がくるくる回っている。
6:20、「牛尾観音」登山口着。エンジンを止めると、獣の声なのか野鳥の鳴き声なのか不明の声が多数する。猿と思ったけど、声の場所が移動しないし、木々も揺れていないし、草を移動する音もしないので、そうでもなさそうです。藤の花があちこちにぶら下がっている。大木に寄生して下がっているのでしょう。
登山口には「登牛尾山」の石碑が立ち、「牛尾山法厳寺・十一面千手観世音菩薩」と書かれた赤い幟が立っている。登山者駐車場になるのだろう未舗装の空き地があり、沢沿いの木陰には車が3台停まっており、テントが張られています。まだお休みのようです。
6:22、コンクリート舗装の道を登ります。6:23、直登道は勾配を増し、雑木で土留めされた階段道になります。右手には、勾配のゆるい迂回路があります。迂回路で登り、直登で下ることにします。迂回路は、コンクリート枕木がびっしりと敷き詰められ、土留めは万全です。
枕木終了後はコンクリート舗装になり、6:28地道になりました。6:29、車止めフェンスの向こうに「牛尾観音」が見えます。フェンス横に歩行者用道が開いており、フェンス内に入ると左手に雑木土留め階段が下っています。
6:31、「牛尾観音」到着。右手に更に細い登山道が上に登っており、「音羽山・石山寺」に行けるそうです。山頂に石山寺というお寺があるんじゃなく、音羽山を東に下って瀬田にある紫式部が源氏物語を書いた「石山寺」に行けるのだと思います。
登ってきた道の方角を指す道標には、「桜の馬場を経て上醍醐」と書かれています。登ってきた道にそれらしい分岐はなかったので、登山口から奥に伸びていた道が上醍醐に通じているのでしょう。家内と醍醐寺訪問時に、上醍醐の往復時間を見て断念したけど、健脚さんは、醍醐寺〜牛尾観音〜音羽山〜石山寺〜瀬田を歩いたりするのでしょう。帰宅して調べたら、牛尾観音・標高363m〜音羽山・591mでした。比高230m。
境内を散策します。寺務所は当然開いておらず、窓の内側にお守りや御札が飾られている。『お帰りは、3時より桜の馬場までピストンでお送りします。桜の馬場からは、洛東タクシーがありますので、各自でお申し込みください』との看板が出ています。夕方には車で送ってくれるそうです。歩いて来た道しかないので、「桜の馬場」は登山口のことのようです。醍醐〜石山寺登山ルートの中間地点から、車で離脱できるのは安全の意味でも大きいですね。僕らは貧脚夫婦なので、サイクリングやトレッキング計画を練る時、いつも途中離脱駅等もチェックしています。無理すると、迷惑を掛けちゃうので、こういう表示はありがたい。
鐘楼・修行道場があります。本堂にお参りします。『音羽山の中腹に位置し、垂仁天皇(AD0年前後)の時代、大國ノ不遅が山上に音羽山権現社を祀ったのが始まりで、金色に輝く一筋の水の源を訪ねて入山された延鎮上人によって、宝亀9年(778)に創建された。以来各宗派の修行僧の道場として栄え、弘法大師・理源大師・仁海僧正・智証大師などにより、山岳宗教の法統を残され、音羽山清水寺が建立されてから、奥の院として親しまれている』。離れているけど、清水の舞台で有名な清水寺の奥の院だそうです。知らなかった。
屋台のようなところに、空き缶風鈴が下がっている。売り物かな?本堂の蟇股は龍の彫刻で、玉眼されていた。蟇股の彫刻に玉眼は珍しいな。お賽銭箱上の鐘を見たら、その内側天井に、方角干支の方位盤が打ち付けられていた。これまた珍しい。木鼻の獅子彫刻にも玉眼が嵌められている。牛尾観音の曲輪は、谷に向かって断崖なのですが、この曲輪を守るように大杉が生えている。風格のある枝ぶりが立派で、樹齢500年は下らないでしょう。1000年かもしれない。下を覗くと細いしめ縄が巻かれているので、ご神木でしょう。謂れ板を探したがない。こういう木を見ると、手を合わせたくなる・・・日本人だなあ。
桜の馬場で、上から降りてきた方と挨拶しました。上がってくる時、年配3人グループと挨拶しました。早朝トレッキングの目的地になりやすい距離なのかもしれません。境内には誰もおらず、気持ちが良い時間が持てました。
6:47、竹材で組まれた直登階段を降りはじめる。九の字カーブを曲がると、階段下に迂回路との分岐が見えている。こちらのコースの方が、かなり短い。迂回路も勾配が緩やかとはいえず、すぐに息が上がったので、往復こちらのコースでも良さそう。6:49に、桜の馬場に着いちゃった。
バイクに乗り、ハーバーを目指します。起きるのが遅かったので、あと2つの目的地はパスです。ミニ水車のとこでバイクを止め、山から流れてくる細流に手を浸してみる。コップで飲めるように、パイプが出してあり、下には受けの木桶もあります。
更に下り、「大蛇塚」ってとこでバイクを止める。バス停のような東屋の長椅子の上に竹箒が置いてありました。道を掃除してる方がいるようです。人知れず寺社境内を掃除したり、山間の権現様などの参拝路を掃除する人がいます。僕も町内会の側溝掃除日や台風一過の後など、自宅周りの道を掃除しますが、毎日長い距離を少しずつやってるこういう人の足元にも及びません。日本の美しさはこういう人によって保たれているように思います。
往路目をつけていた祠に寄り道。「大師堂」だそうです。ここで道が沢を渡っています。気持ちの良い朝を感じる水音。民家が現れはじめ、7:19「セブン-イレブン京都山科小山店」で、手巻きおにぎり辛子明太子140円+海苔付き海老マヨネーズ130円=270円購入。
見慣れた「三条通」に出て、すぐに藤尾始点から湖西道路に乗る。この藤尾地区の寺社を巡ろうと思っていましたが、次回まわしです。「皇子山」で降り、R161を走り、7:34ヨットハーバー着。
9:30、第1レースに変更されたようです。8:30出艇なので余裕が出来ました。大会本部前の公式掲示板を見に行く。すれ違う学生がことごとく、「おはようございます」と挨拶してくれる。当然僕から先に「おはよう」と声を掛けることもある。高校生でヨット部に入った時、先輩から「とにかく、知らない人でも挨拶しろ」と言われたことを思い出す。就職した初日、「君はしっかり挨拶できるね」と言われた。体育会系では当たり前のことが、出来ない人が多いらしい。セルフのスーパーやコンビニの会計で、何も言わない人が多い。僕は、必ず「おおきに」とか「ありがとう」とか何か言う。「挨拶できるなら、生きていける」は真実だと思う。
クラブ前に戻り、参加できなかった連休中のレースのことや前日のレースの様子を、部員に聞く。バイク装束を脱ぎ身軽になり、おにぎりを1つ食べる。8:30前に体操が始まり、朝のレース前ブリーフィングを語る。王者D大との現状差をこの目で確かめに行こう。D大に勝てれば、全日本制覇が見えてくる。
8:30に出艇し、レース海面に向かうが、朝吹いていた風が落ちてきた。予報が北風なので、北の琵琶湖大橋方面を見るが、比良山も黄砂かPM2.5かで、晴れているのに視界が悪い。あれがクリアに見えてこないと、北からのブローは期待できそうにない。
南の風2〜3m/sで、R1スタート。風が落ち、470級でフィニッシュできたのが7艇のみで、20艇ほど時間内にフィニッシュできず(DNF)。4つの大学の定期戦で、3艇で1つのチームを組む団体戦です。部員の多い3校は、A・Bチームを組んで出場しているが、団体戦はAチームで競う。D大・Aチーム3艇フィニッシュ、R大Aチーム1艇、当方Aチーム2艇フィニッシュできた。他はビリ+1点の得点になります。スナイプも数艇DNFになった。
風待ちを1時間ほどして、R2スタート。また風が落ち、スナイプ級はノーレース。470級はコース短縮し、2つ目のマークでフィニッシュ。10艇しかフィニッシュできなかった。Dは3艇・R2艇・うち2艇がフィニッシュできた。
また長い風待ちをした後、予報の北からの風が入ってきた。4〜6m/sのフルトラピーズの良い風です。スタート前にトラブル艇がやってきた。トラブル艇を横抱きして応急処理するので、アンカーを打たずに風位に立てたままレスキューボートを保つのは、ドライビングテクニックを必要とする。2回生女子マネージャーが見事にやってのけた。スタートラインに向かうレース艇を見送りながら褒めてあげると、とても嬉しそう。
この風域でのスピードが、現状の実力をもっとも現す。結果はD大がワンランク速い。ついでRとうちだけど、R大の方が少し速く、これは言い訳なしに受け入れなければいけない。
15時頃ハーバーに戻り、16:30からの閉会式を待っていると、1人乗りヨットから上がってきたYさんがやってきた。「このレースは何?」から始まり、あれやこれや話した。Yさんの息子さんもジュニア出身で、ロンドンに続きリオ五輪代表を目指してナショナルチームとして海外レースにも多数出場していたが、あと一歩でまらオリンピックを逃してしまった。彼の初海外遠征の時の監督は僕でした。
高校の教員をしながらのチャレンジでしたが、休職扱いにしてもらったようで、また職場復帰できたようです。僕も大学卒業時に、実業団からヨット選手として誘われたが、「午前中だけ仕事で、午後からヨット」という日程に疑問を感じ、誘いに乗らなかった。どうせ閑職だし、選手を終えた時には同期はしっかり仕事を覚え、大きな差を着けられているはず。そんなヨットバカ人生は嫌だと思った。Yくんの選択も地に足がついた良い選択だと思う。オリンピックチャレンジは終了のような感じがするので、これからはヨット部指導者として、後輩をたくさん育てて欲しい。
閉会式後、合宿所に戻る。17時からミーティング。感じたことを話した。セッティングやチューニングを一から見直し、更なるスピードアップを目指す練習をしよう。夕食です。唐揚げがメニューに載っており、とても美味しそう。「頂きます」の直後から、いきなりお代わりの列が出来ている。僕は部員の半分の量に減らし、ご飯などを周りの部員のお皿におすそ分けする。18時になってもまだ明るい。良い季節になりました。
キャプテン他数名の4回生と、連休中のレースでの課題「強風の走らせ方」として書き、金曜日に送ったレポートについて話し合った。食事を終え、バイク装束に着替え、家路についた。湖西道路〜名神。19:19、「名神桂川PA」に入り、「ビックリソフト・バニラ・140円」を購入。ベンチに座り食べていると、「広島に行きたいんですけど、乗せてくれませんか?」ってお願いされた。京都からヒッチハイクで広島に行きたいようです。
「バイクなんだよね。車なら乗せてあげるけど・・・トラックなどはダメだったの?」「事故を起こした時の責任の所在などで、会社から禁止されているようでダメでした」。「ごめんね」って別れたけど、こういう人に甘える行為は、僕は賛成しない。道に迷って・・・や、予定外の出費でお金がなくなって・・・など緊急時は仕方ないにしろ、TV番組がタレントを使って煽ってる「甘えの構造助長」システムは如何なものかなあ。この手の無銭飲食・無銭宿泊番組は嫌いです。あとドッキリ番組も嫌い。お笑いタレントを不安にさせて、後でドッキリは、人気タレントの仕事内容からいってOKなのでしょうが、あれに助長されて、子供が「いじめ」に走るのは目に見えている。いじめた子は、「冗談でした」「ネタで笑ってると思った」などのコメントを見る度、TV番組の大罪を感じる。低俗番組が増え、TV離れ起こしているのは、放送会社の番組構成の問題も影響しているだろう。現に僕はもう民放をほとんど見なくなった。そういう番組を流さないNHKには、好感を持っている。
安価な高速バスツアーも沢山あるので、ちゃんと人にしてもらったら対価を払おうよ。「度胸付け」「野生の力」など、全て自分本位の志向だよね。僕は高校生の時、北軽井沢のおじさんの牧場でアルバイトをしたことがある。出発当日、国鉄ストが始まり、新幹線で東京駅に着いたものの、それ以降の路線は軒並み運行予定が立っていなかった。駅員に聞き、少しでも可能性の高い八王子線に迂回し、窓ガラスが割れた列車や、バスに乗ったりしながら、なんとか吾妻線・長野原駅に予定を大幅に遅れた夜に着いた。
全部運賃を払った。おじさんからは、「親父が捜索願を出した。なんで連絡をしないんだ」と叱られたが、実に楽しい経験だった。度胸付けたかったら、安全な日本ではなく、外国に行って貧乏旅行してこいよと思う。次男は大学時代、オランダを本拠に、イタリアなどの南欧から北欧まで、建築の勉強をした。お金はないので、台北空港で一晩明かしたり、イタリア鉄道ではスリ被害に遭いそうになったり、北海・バルト海では豪華客船の最下層のお安い運賃の船旅をしたり、EU内2000円という破格運賃で、オランダからイタリアまで航空機を使ったり、いろいろ経験してきた。
こんなのをやってる貧乏学生は、たくさんいるはずです。「僕、京都から出たんですけど、毎回京都からの脱出に苦労するんですよね」って、「鼻から無銭乗車狙いの優しい日本人に甘えた旅を計画すんなよ」と言いたい。みんなお金という対価で、経済活動しながら生きてるんだよ。
19:45帰宅。家内が「夕食あるよ」と天ぷらを食べさせてくれた。お腹がいっぱいになりすぎたので、翌日は1食抜きになりそう。

2016/5/1
家内もお休みなので、タンデムツーリングに出ることにしました。7時過ぎに家を出ます。いつもなら家内を駅に送り、都会は電車で抜けてもらいますが、この日の目的地は阪堺電鉄沿線なので、全日タンデムです。r13を南下し、R2・玉江橋交差点を越え、R43まで南下し、R43で東進開始。「新伝法大橋」を渡り、弁天町。制限速度40km/hなのに、高速道路並みにぶっ飛ばす車が多い高架部分が怖いので好きじゃない部分を集団のビリについてクリアする。やっと地上に降り、7:45「今宮戎神社」。
1/9・10・11の「えべっさん」では、本宮の西宮戎神社以上にマスコミ露出度が多い神社で、1年の稼ぎをたった3日間で稼ぐという商売の神様です。こちらには初めて来ました。意外に社地が小さく、TVの様子を相続すると、この周囲は大変な混雑になっていそう。
玉垣には、「大洋漁業」「朝日麦酒」、手水は「松阪屋」と名だたる企業名が、あちこちに見える。恵比寿様は、日本列島・葦原中津国を開拓された「大国主命」の長男「事代主」が化身された神様です。天照大神が差し向けたタケミカヅチの要求(地上の支配権を返せ)に同意した時、海に出て釣りをしていたので、釣り竿を肩にタイをぶら下げたあのスタイルです。
拝殿を覗くと、正面絵馬がタイでした。5/1は神事があるようで、神主装束の方々が数人歩いておられます。スーツを着たおっちゃん達も集まっている。労働者の「・・反対」「・・要求」の大会よりよっぽど良い。赤旗を振ってのシュプレヒコールの時代じゃないと思う。鰹木7本・千木が縦斬りで、男神を表している。鳥居はクボタからの奉納で、門柱は「高島屋」でした。
R25を東に走り出すとすぐ、「あれ、何だったっけ?」と家内から無線で。「通天閣だね」。Uターンして見に行こうと交差点に止まると、天王寺動物園が目の前でした。8:12、「通天閣」下。朝早いから閑散としているが、怪しい雰囲気が漂う。中国人観光客か、通りからやたらと看板などの写真を写している。ビリケンさんとツーショットの観光客もいる。台座に「BILLIKEN THINGS AS THEY」と刻まれていた。意味がわからず調べたら、元は「THE GOD OF THINGS AS THEYOUGHT TO BE」と書かれていたようで、「万事あるがままの神」という意味らしい。
看板にしてはド派手な「づぼらや」のふぐがぶら下がり、立体えべっさんや、立体鶴&亀の鶴亀屋の看板が並んでいる。日本の侘び寂び文化・清潔・清楚な常識を遥かに超えています。
8:20、「一心寺」。お骨で仏像を造るので有名。墓守がいないなら、これで十分ですね。誰でもいずれ忘れ去られ無縁仏墓になるのだから、永代供養されるからいいね。僕もいずれそうなると思うので、京都のお寺に分骨し、永代供養の手続きをする予定です。
「あべの筋」を南下し、8:35「北畠公園」。南北朝時代、後醍醐天皇を補佐した公家・北畠親房の嫡男として、南朝方最強の「みちのく軍」を率いた公家武将のお墓があります。鎌倉幕府を倒し、「建武の新政」を共に成した足利尊氏と後醍醐天皇。やがて仲違いし、後醍醐天皇勢力を削ぐため、北畠顕家を遠国・陸奥守に左遷した。若干二十歳に満たない顕家は、赴任先で人望を集め、大勢力・強軍となって京に攻め上がりました。源氏本拠地の関東を突破し、各地を「ぺんぺん草さえ生えていない」という徹底的な破壊に、足利尊氏も敗軍し、命からがら九州に落ち延びた。
九州での殲滅寸前の戦いで起死回生の勝利を収め、逆に攻め上り、京都を回復した。これを見た顕家は、再び兵を起こし、前回同様の快進撃で京に迫った。尊氏は再び敗軍を覚悟した時、何故か北畠軍は琵琶湖東岸から、一気に京を攻めず、北畠家の本拠地・伊勢で休息を取った。
大和を精神し、阿倍野から京に攻め上がる時、体制を立て直した北朝軍を率いた高師直軍に敗戦し、あっけなく討ち死にしてしまった。21歳という若さゆえ、退却する冷静さを欠いたためかもしれない。
2年前、戦国末期に信長に乗っ取られるまで、伊勢守であり続けた北畠家の本拠地を訪問した。経済力の乏しい山中の田舎なのに、北畠家館跡の北畠神社は綺麗に清掃され、社殿も立派だった。天皇家から維持費が入っているように見えた。
『北畠顕家公 後醍醐天皇の王政復古の理想により、鎌倉幕府を支配していた執権北条氏を新田義貞他の諸将の協力により討滅し、建武の中興が成った(1333年)。当時参議左近衛中将だった北畠顕家は、武芸とは無縁の公卿の身でありながら、後醍醐天皇の命により、16才の若さで陸奥守に任ぜられ、皇子・義良親王を奉じて、父・親房と共に奥州に向かい、その地の鎮護に当たった。
2年後、鎌倉にいた足利尊氏が天皇に反して京へ攻め上ったので、顕家は天皇の命で奥州・関東軍を率いて、長駆攻め上り、足利勢を九州へ敗走させる。京都を確保した後、奥州へ戻ったが、尊氏は九州で勢力を盛り返し、京都に攻め上がってきた。これを迎撃した楠木正成は湊川で戦死(1336)、尊氏は京都に攻め上がったので、後醍醐天皇は神器を持って吉野に逃れ、南北朝が始まった。吉野に遷都された天皇は、再度顕家の西上を促され、顕家は奥州の霊山を出発し、鎌倉に入り、伊勢・奈良と進撃し、足利方大将・高師直軍と摂津で対戦、天王寺阿倍野に転戦したが、戦利あらず次第に押され、出発時6万を数えた軍勢が、最後は身辺を護るわずか二十数騎となり、戦場の華と散った。享年21才。花将軍と謳われた悲運の貴公子である。
当墓は、「太平記」などの伝承により、江戸期の学者・並川誠所の提案で、1720年頃建てられた。 北畠顕家公・顕正会 事務所・阿部野神社社務所』
我家の庭よりよっぽど手入れされた立派なお墓が公園の片隅にひっそり佇んでいた。僕みたいな歴史好き以外訪問する者はいないだろう。『別当鎮守府大将軍・従二位行権中納言兼右衛門督・陸奥権守・源朝臣・顕家卿之墓』
8:46、「阿倍王子神社」。『伊弉冉尊・伊弉諾尊・素盞鳴尊・品陀別命(八幡大神)の四柱を祀り、仁徳天皇のご創建と伝えられる。また往古この地を本拠にした阿倍氏の創建ともいわれている。平安朝より熊野詣が盛業するや、99王子の第2王子として阿倍野王子と称せられ、一般参詣者の礼拝・休憩の用に充てられた』
隣に「安倍晴明神社」があった。ご神木のクスノキの巨木が数本、参道に立っている。摂社の稲荷社の覆屋に守られた本殿が、素晴らしく歴史を刻んだ風格を漂わせていた。
次の神社を探していると、9:10阪堺電鉄「天神ノ森駅」に出くわした。ちょうど青/黄色ツートンの1両電車がやってきた。サイドにデカデカと「岡崎屋質店」の描かれている。ド派手です。もう少し南に行くと、路面電車になるので、ここも駅員も改札もない出入り自由オープン駅です。時刻表を見ると、20分に1本の運行です。
9:14、駅の横が鎮守の森で、「天神森天満宮」。菅原道真の血が流れる母親の家系故、僕は「天満宮」を見ればやたらに寄ります。『天神森天満宮・天下茶屋天満宮・子安天満宮・紹鴎天満宮 祭神:菅原道真 末社:天照皇大神・猿田彦命・倉稲魂大神(稲荷大明神) 祠:白雪龍神・白髭龍王・白龍大明神 道真公が筑紫に左遷されたおり、住吉明神への参拝の途中、この地で休息された。その後祠が建立され、京都北野天満宮の分霊を奉斎し、現在の本殿は1702年建設された。「子安石」は古くから安産の神として信仰され、豊臣秀吉も淀君懐妊の時参詣し、安産祈願された。「紹鴎森」、樹齢600年を超えるクスノキの森は、「天神ノ森」と呼ばれ、茶道中興の祖・武野紹鴎(千利休の師)がこの森の一隅に茶室を作り、風月を友として暮らしたので、「紹鴎森」とも呼ばれた。秀吉公が堺政所に往来の途中、天満宮西側の茶店で休息、この付近の風景を褒めたことから、「殿下の茶店」・・・「天下茶屋」と称することになり、「天下茶屋天満宮」と呼ばれることになった』
8月に次男の子が無事生まれますように、手を合わせた。前述の龍関係の名が刻まれた大石が並んでいる。龍は水と関係があるので、雨乞い神事をした場所だろうか、雰囲気として井戸や湧水の場所だったように想像した。
9:34、「阿部野神社」をやっと見つけた。小高い丘の西縁で、西向き参道・鳥居があるので、かつては海が迫っていたのだろう。南北に走る阪堺電鉄のライン沿いに神社が並んでいる。海の神・住吉大社も少し南に並ぶ。かつては神社から直接海が望めた風光明媚な磯岡だったはずです。
『祭神:北畠親房公・北畠顕家公 北畠親房公は後醍醐天皇の信任厚く、吉野遷幸後は、吉野朝の中心人物として、伊勢・常陸に於いて、京都回復の計画を進めた。後醍醐天皇崩御後は、後村上天皇の帝王学の教科書として、常陸・小田城で「神皇正統記」を著した。後、吉野に帰り、後村上天皇を助け、1354年亡くなられた(62才)。
顕家公は・・・21才で戦没された。現在地は顕家公が足利軍と戦った古戦場で、明治15年「阿部野神社」と号して創立。明治23年別格官幣社に列せられた』
2人の生涯が細かく書かれ貼りだされている。南向き副参道には、板塀にずらりと生涯が書かれている。流石に大量の文字で、謂れ板好きの僕としても半日は掛かりそうな文字量です。
『征露戦役記念碑 東郷平八郎著』の石碑があった。天王寺村出身者の従軍兵士の記念碑として、東郷平八郎が建立したそうです。お稲荷さんの拝殿に入ると、『ご自由に中に入り、椅子に座り、商売繁盛の稲荷祝詞を奏上され、心ゆくまでご参拝ください』と書かれていた。椅子の前に祝詞がふりがな付きで置かれていたので、声に出して読んでみました。子供の頃から聞き慣れた祝詞なので、神官さんのような節回しに自然になった。面白いな。
『向鶴の由来 勲宮ご祭神・南部師行(もろゆき)公 奥州八戸根城南部10代・南部光経が、戦陣で戦勝祈願した時、夜明けの空に2羽の鶴が舞い、九曜の星が空から降ってくる夢を見て、大勝利を収めた。これに因み「2羽の鶴が向かい合い、胸に九曜の星をつけた「向い鶴紋」を南部家の家紋と定めた。
奥州八戸根城初代・南部師行は、後醍醐天皇に忠誠を誓い、北畠顕家公の忠君として足利方の大群と戦い、1338年大阪市堺市石津付近で、顕家公とともに戦死。ここ「勲宮」に祀られる』
「帝塚山学院旧校歌」「大阪府阿倍野高等女学校・校歌」「住吉中学校・校歌」「阿倍野学園幼稚園・園歌」の歌詞が書かれた、プレートが立っている。
拝殿両サイドには、『神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う』と書かれている。
10:06「帝塚山古墳」。『4世紀末〜5世紀始めの古墳。当初全長120m・後円部直径57m・高さ10m・前方部幅50m・高さ8m、周濠の跡も確認されている。埋葬者不明ですが、住吉に居宅があった大伴金村の墳墓とする説がある。明治31年、明治天皇が陸軍大演習を帝塚山から見たという碑が墳丘上に建っている。住吉村常磐会が、境界柵を設け、清掃を行っている』
10:28「日蓮宗・妙国寺」。幕末の堺事件の被告・土佐藩士が切腹した寺なので、その名残りでも感じたいと思いやってきたが、唖然の近代的寺院に雰囲気を感じることが出来なかった。境内に立派な玉垣に囲まれた慰霊墓があった。中央に日蓮宗独特の字体で刻まれた石碑が建ち、左右に『土佐藩11烈士之英霊』『仏国遭難将兵慰霊碑』が建てられている。
大阪湾測量中のフランス艦が堺港に入港し、兵が婦女子を冗談半分にからかったのを、警護の土佐藩士が無礼討ちした事件で、江戸時代の武士が刀を抜くときは、よっぽどの覚悟を持って抜いたので、それを頭に入れて想像すれば、フランス兵の冗談は、当時の日本では受け入れがたい侮辱だったのだろう。銃撃戦の末、フランス兵13名が死傷した。
幕府役人も、同じ時代を生きた者なので、被告にするには忍びなかっただろうが、国力の差を感じて、フランスの怒りに従わざる終えなかったのだろう。当初20名の土佐藩士に切腹の沙汰が下ったが、検分役のフランス兵が12名の切腹までしか見られず、切腹中止になり残りは土佐に流刑処分された。
「妙国寺永代納骨堂」があり、扉に手を触れると開いた。ロッカーのように扉付きの納骨棚が並んでいた。「・・家」と名札が下がったロッカーはまだ少なかったが、共同墓としてこういうのもアリだと思う。
道には、「土佐11烈士墓所」と刻まれた石碑が矢印しているので、それを探す。
「本受寺」に、西宗真(キリスト教名ルイス)の大きな五輪塔があった。『肥前大村の家臣として1596〜1615年にかけ、徳川幕府のもとで海外渡航の朱印を受けて度々渡航し、徳川家康に海外の様子を報告していた。1616年より堺に居住し、菩提寺となった』
墓所は、「高野山真言宗・宝珠院」内にあった。しかし「宝珠学園幼稚園」敷地内なので施錠されており、近くまで行けない。「御用の方はインターホンで・・・」と書かれていたが、たった数分のためにご足労願うのも気が引けるのでパス。
『明治維新に起きた堺事件で切腹した土佐11烈士の墓がある。堺事件とは、1868年2月15日夜明け、大阪港内を測量中、堺へ上陸したフランス軍艦デュプレー号水兵と、堺を警護していた土佐藩士とが衝突し、フランス兵十数名の死傷者が出た。フランス側は、事件に関わった者の処刑、15万ドルの賠償など5ヶ条の謝罪を要求した。政府は、警備隊長・箕浦猪之吉以下20名の土佐藩士に切腹を命じ、妙国寺境内で、フランス軍士官立ち会いのもとに行われた。しかし、壮絶な切腹光景にフランス軍士官は、11名が切腹し終えた時点で中止を申し入れました。11名の遺骸は、前藩主・山内容堂らにより当寺に葬られ、手厚く葬られました』
10:52「覚応寺」。『浄土真宗・本願寺派。1324年伊予豪族・河野通有の子・通元が覚応と名乗り、創建。住職であった河野鉄南(1874〜1940)は、与謝野晶子と和歌を通じて親交があり、与謝野鉄幹とは少年時代からの友人で、晶子を鉄幹に紹介した』
表札を見ると、「河野」さんでした。伊予河野氏は、天武天皇の時代に伊予大領となって土着した歴史ある豪族です。戦国時代にも、伊予の雄として、九州北部大友氏・中国西部大内氏・毛利氏・土佐長宗我部氏と抗争していた。武士は戦死が当たり前なので、兄弟のうちに僧籍に入り、家系の存続を図るのが常套手段だった。
お隣が、「十輪寺」。1391年・板状塔婆、室戸台風で犠牲になった116人の生徒と2人の教員の地蔵が祀られていた。一帯は寺社町で、最大寺院が「本願寺堺別院」。
『1476年、蓮如が、遣明貿易で繁栄し始めた堺に布教するために建立した。鐘楼の梵鐘は、大阪夏の陣後の堺復興を進めた長谷川藤弘が念仏寺に寄進したもので、1617年の銘があり、市内最古の梵鐘です(市指定有形文化財)。1825年に再建された本堂は、現存する堺最大の木造建築物です』
『堺県庁跡 明治4年の廃藩置県後、10年間当寺は堺県庁の庁舎だった。堺県は、和泉・河内・大和を合わせた大きな県でした』
京都の東西本願寺には敵わないけど、大屋根にビックリする。浄土真宗は、お金持ちです。前述の梵鐘もさぞ大きな・・・と思ったが、こちらはごく普通の大きさでした。戦災で焼けた記述があったが、敷地角に目を引く隅櫓が建ち、戦国時代は他の拠点本願寺寺院同様、要塞寺として機能していたことを想像させる。
11:14、「菅原神社」。石田梅岩坐像が境内にあった。京都・亀岡生まれで、「石門心学」は、近江の「三方良し」同様、身分制度では下層とされた商人に、商業倫理・道徳を説いた思想で、京商人を中心に信奉者が多くいた。亀岡山中にある梅岩が思想を練った「石田梅岩・石門心学の道」を何度もバイクで走った。「なぜ、堺に?」と疑問に思ったが、商業都市・堺にも多くの信奉者がおり、顕彰像を作ったそうです。
楼門を見ると、嫡孫に贈った五月人形・武者坐像が左右に守っていた。我が家のは、菅原道真公の武者姿像だけど。寺院に多い仁王像より、神社に多い武者坐像の方が、僕は好きです。
11:27、「開口(あぐち)神社」。「大阪府立・泉陽高校・発祥の地」の石碑がある。『祭神:素盞鳴尊・塩土老翁(しおつちおじ)神・生国魂(いくたま)神 創建:神功皇后(1700年前)勅祭による』
神功皇后創建とは古い。港を守り、最古の国道・竹内街道の西端。行基建立の「念仏寺」(前述)があったそうで、その通称「お寺さん」とも呼ばれているそうです。綺麗な和服を着た小学生のお嬢さんが、ご祈祷を受けるのか境内に華を咲かせていた。家内はお茶・お花を小学生の頃より習い、和服を着慣れていたので、きっとこんなだったろう。学生時代、初めて家内の実家を訪問した時、見せてもらったアルバムから、小学生時代の和服を着ている家内の写真をもらった。お茶のお稽古の写真だそうです。お財布に入れて、今でも毎日持ち歩いています。おなかが減ったので昼食にします。「うさぎ宿院店」にてラーメンを食べる。煮干しダシだそうです。僕は「梅ラーメン・850円」、家内は「煮干しラーメン・750円」、かなり美味しかった。
12:07、「千利休生誕地」。『室町時代後期・1522年、納屋衆・田中与兵衛の長男として堺今市町のこの地で誕生。幼名・与四郎、後に宗易と号す。8代将軍・足利義政の同朋衆であった祖父・千阿弥は、里見義親の血統を引く。はじめ堺の長老・北向道陳について茶を学び、ついで武野紹鴎につく。織田信長の時は、今井宗久・津田宗及とともに茶堂として仕え、「三宗室」と称される。豊臣秀吉の時代になると、天下一の茶人として賞賛され、草庵茶をわび茶として大成させる。天正13年(1585年)秀吉の禁中茶会において、正親町天皇より利休居士号を勅賜される。しかし、大徳寺山門に寄進した金毛閣に木像を掲げたことや、朝鮮出兵に際し秀吉の怒りに触れ、天正19年2月28日、自刃にて果てた。享年70才』
語り部さんがおられ、詳しく説明してくれた。敷地隅に井戸があり、その覆いは、利休が寄進した大徳寺山門を解体修理した時に出た当時の部材を譲り受け、それで組まれていた。当時の斧型カンナで削られた木材なので、波打つカンナ跡がそのまま遺っていた。裏千家茶道免許皆伝者の家内は、感慨深く聞き入っていた。12:28、「南宗寺」。それほど大きな門ではなかったが、境内は広かった。堺市内随一の広さだそうです。歴史を刻んでいそうな「甘露門」。信長が畿内に入るまで、畿内・京を勢力下に置き、幕府に大きな影響力を持っていた三好長慶(1522〜1564)坐像がある。「徳泉庵」。
家内から、「葉が真っ朱に色づいてるよ」。たまに見かける春に色づく紅葉ですね。「カラーが綺麗だよ」、小さな湿地堀に真っ白な大ぶりの花が咲いている。生花などで見かける花です。横には、黄色が綺麗な菖蒲かカキツバタかあやめかが咲いてる。乾燥・あやめ>湿地・花菖蒲>湿原・カキツバタと大雑把に覚えているが、僕には見分けがつかない。5月だから花菖蒲かな?
『南宗寺 臨済宗大徳寺派の禅寺で、戦国時代堺を支配した武将・三好長慶が、父・元長の霊を弔うため1557年に宿院に建立。大坂夏の陣で消失し、現在地に再建された。境内には茶道を完成させた千利休や師・武野紹鴎の供養塔があります。国の名勝「枯山水の庭」、八方睨みの龍が描かれた仏殿、山門・唐門は国の重要文化財』
『境内奥には、利休好みの茶室「実草庵」、武野紹鴎遺愛の「六地蔵石灯籠」、利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」がある』
こんなところに雰囲気の良い小ぶりな唐破風門がある。利休供養塔を見ようと境内に入っていく。拝観料400円で、語り部がついて説明してくれる。でも、お庭も全て撮影禁止が残念。
千家一門の供養塔が一角に並ぶ。千利休を中心に、嫡流・堺千家を継いだ長男(断絶)、表千家・裏千家・武者小路千家を創設した子や連れ子の供養塔が並んでいます。堺商人・津田宗及家の墓、平安時代から続く医学博士・医者の家系・半井家の墓、武野紹鴎の墓。竹の棒を差し出され、玉砂利の庭の一角に当てて聞いてくださいとのこと、水琴窟です。とても綺麗な澄んだ音が聞こえる。枯山水の庭を見て、メインイベントの「徳川家康の墓」。
家康は、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした翌年、1616年に亡くなったことになっているが、夏の陣・茶臼山の激戦で、後藤又兵衛の槍に籠の外から突かれ、堺まで落ち延びが、家康はすでに落命していたと言う伝説がある。
ここにはかつて東照宮があり、2代将軍・秀忠、3代・家光も詣ったという事実がある。素敵な唐破風門も理解できる。天海和尚=明智光秀説同様、意外に説得力がある。
仏殿天井の「八方睨み龍」は、確かにどこから見ても睨まれている。関東で鳴竜などいろいろ龍の天井絵は見てきたが、素晴らしい出来です。雲水の座禅修行道場を見せてもらった。予約すれば、毎週日曜日朝から座禅を組めるそうです。「海会寺」。『大坂夏の陣のもとになった方広寺の鐘銘を書いた人として知られる「文英清韓」は当寺の住職で、墨跡屏風も遺っている』。なんと、鐘銘「国家安康」に、「家康を分断している」と難癖をつけて豊臣家成敗に立ち上がった家康ですが、それを書いた住職の隣に眠っているとは、歴史は素敵なことをする。「天慶院」。
13:27、「船町天満宮」。『痣神社 30代敏達天皇(589年)に出来物が出来た。それを病む者は、身体を焼かれる思いで死んでいった。村民が、医薬の祖・少彦名命を祀り、神前に祈願すると霊験あらたかにして平癒した。江戸時代には、参拝人多く、門前一を成した』
菅公腰掛石があったので、腰掛けてみる。『ご祭神:天穂日命・菅原道真公 元塩穴郷にあり、塩穴天神社といわれ、天穂日命を祀る。その後延喜元年、菅原道真公が大宰府へ下る途中、河内道明寺を経てこの地に来たる。船を待つ間、この地に祀られていた道真公の遠い先祖・天穂日命の祠に参拝し、松の樹を植えて出発した。その後、長保3年菅原朝臣為紀という人が来られ、祖先の残した跡を調べ、官にお願いして天穂日命の社に菅原道真公を合祀して、「船待天神社」と改めた。その後、塩穴郷より今の地に移し再建した』
13:47、旧堺灯台。『明治10年(1877)建築。所在を変えず現存する木造洋式灯台として、日本最古。建築にあたって、土台の石積みは、旧堺港の港湾整備とあわせ、備前国出身の石工・継国真吉が携わり、建築工事は堺在住大工・大眉佐太郎が行う。点灯機械は横浜の灯台寮よりバービエール社(フランス)の機器を購入し、英国人技師ピグルストーンが行った。建築費2125円。点灯機械購入に360円を要した。それらは堺市民(当時は堺県)の寄付と堺県からの補助金により賄われた。以降約100年大阪湾を照らし続けたが、沖に向かって広がる埋め立てのため役目を果たせなくなり、昭和43年(1968)その灯を消すことになった』
まだ予定の2/3ですが、家内が疲れてきた感じがするので、帰路に着きます。R26に出て少し北上し、r29にチェンジして「北津守」。ここからR43に乗って西進。おっかない高速区間は、乗る前の信号で最後尾についてGO!しました。r13で北上し、15:37「伊丹ダイヤモンドシティ・トイザらス伊丹店」で、「恐竜メガバッグセット・4318円」を購入。半月後、長男の2人目の子・航くんに会いに新潟に飛びます。お兄ちゃん・遼くんは、恐竜がマイブームのようで、「ティラノザウルス」のリクエストが来ていました。ティラノザウルス含め、たくさんの恐竜の種類がセットになってるのをプレゼントすることにしました。お店からお嫁さんに電話し、被らないように確認して購入。
16:36、自宅近所のコンビニで、「クリームチーズケーキ・濃厚スフレ・230円×2」購入。おやつの時間帯で、ケーキセットを食べる予定でしたが、その前に帰路についたので、これで代用です。コーヒーを作り、家内の好きな映画「メッセンジャー」を見ながら、喫茶タイムを過ごした。
2011年からずっと使ってきた無線「デイトナ・クールロボ・イージートーク」ですが、ペアリングに失敗することが多くなった。寿命なのかな?走りながら家内とおしゃべりが困難になった。困ったぞ。タンデムの時はいいけど、2台で走るときは必須なのに・・・


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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