ウェブマスター日記 2016/3-4

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2016/4/24
今年の大学ヨット部新人勧誘試乗会の最終日です。4月の土日は、毎週試乗会をしています。他のクラブも回った新入生が、大学学部4年間の落ち着き先を決める4月の最終週です。報告では、土曜日までに5名のプレイヤーが入部してくれました。2桁は獲得したいので、最後の追い込みです。「9:30に大学生門にお願いします」とのオーダーを頂きました。
前2週と同じ「10時正門」だと予想し、24Hオープンな神社を巡った後、9時オープンの「養源院」で血塗りの天井(関ヶ原の戦いの前哨戦・伏見城を石田三成軍が襲い、留守居の鳥居元忠以下が玉砕した「伏見城の戦い」の床)を見ようと思っていたが、次回の楽しみにすることにしました。
5:31、自宅出発。名神高速を走り、京都南ICで下車します。琵琶湖の天気予報では「晴れ・N4m/s」という最高の試乗会日和でしたが、雨が降る感じはないものの曇り空です。R1を北上し、6:12「ローソン名神高速京都南IC店」で、手巻きエビマヨネーズ125円+朝摘みオレンジ天然水117円=242円を購入。
左折し、「十条通」。R171を渡り、JR東海道線の下をくぐります。まだ交通量が多くない京都市街地を「西大路通」で北上し、左折して「三条通」。この道は路面電車の京福電鉄が走り、風情があって好きです。
道標を見逃さないようにゆっくり走り、6:35「木島座天照御魂神社」。『延喜式内社で、祭神は天之御中柱神外四柱(大国魂神・穂々出見命・鵜茅葺不合命・瓊瓊杵尊)。創建は不明ですが「続日本書紀」(701)に記載されていることから、それ以前に祭祀されていたと思われる。学問の神・祓いの神。
蚕養神社(蚕ノ社)本殿右側社 雄略天皇の御代(1500年前)秦酒公呉国(中国南部)より、漢織・呉織を召し、秦氏の諸族と共に絹・綾を織り出し「禹豆麻佐」の姓を賜る。この地を「太秦」と称し、推古天皇の御代に至り、その報恩と繁栄を祈るため養蚕・織物・染色の祖神を勧請したのがこの社。養蚕・織物・染色の守護神。
元糺の池 境内に「元糺の池」という神池がある。嵯峨天皇の御代に下鴨に遷してより「元糺」という。「糺」は、「正しくなす」「誤をなおす」の意味で、この神池は、身滌(身に罪や穢のあるときに心身を浄める)の行場。「土用の丑」の日に、神池に手足を浸すと諸病にかからぬと言う俗信仰がある。
三柱鳥居 全国唯一の鳥居。鳥居を3つ組み合わせた形体で、中央の組石は本殿ご祭神の上座であり、宇宙の中心を表し、四方より拝することが出来るよう建立されている。一説には、景教(キリスト教の一派・ネストル派・1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと言われている』
雄略天皇の御世、秦氏が、絹を「うず高く積んだ」ことから、「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられたそうです。
三条通に鳥居があり、北に伸びる300mほどの参道の先に、南面して社殿があった。周囲は住宅地なのだが、京都の街中とは思えないほど社叢が深く、神池は暗く、禊をする「神池」に相応しい雰囲気です。
祭神は、地上の葦原中津国を拓いた大国主命と、天孫降臨してそれを継いだ天照大神の孫・ニニギ、ニニギと木花咲耶姫の子・ホホリ(山幸彦)、ホホリの子で神武天皇の父・ウガヤフキアズエ。
京・太秦の地を本拠にしていた秦氏の氏宮ということは知っていましたが、「元糺」と呼ばれていたことは知りませんでした。「糺」と言えば、下鴨神社参道の「糺の森」。京を本拠地にした賀茂氏のお祭り「葵祭」は、その氏宮・上賀茂神社と下鴨神社のお祭りです。
賀茂氏と秦氏の関係は諸論百出です。賀茂氏は、葛城山東の麓・大和平野西に位置する「一言主神社」を氏宮とする氏族と言われ、神武天皇東征で奈良盆地にやってきた大和朝廷と平和裏に連合したとの説がある。「一言主神社」は出雲にもあり、そちらから大和に移ってきたらしい。
賀茂氏の一部が京に本拠を移し、秦氏との姻戚関係を結び連合したとも言われている。いずれにしても僕は両方共渡来系と思っている。「糺」でまた秦氏と賀茂氏の関係を見つけ、ちょっとニッコリでした。
日本古来からの自然信仰・神社を示すものと言えば、鳥居です。中国を最初に統一したのは「夏」と言う王朝です。次が「殷(商)」。この王朝のシンボルが鳥だったそうで、中国南部が本拠地だったらしい。「鳥居」の形は、まさに鳥の留まり棒です。強者は最も豊かな地を占め、敗者は周辺地に逃げて移動する。日本列島は、まさに大大陸の辺境の地。各地の敗者が渡ってきた地。
「日本人のルーツを探る」本では、シベリア大陸バイカル湖周辺・南太平洋・中国南部との関係が強いと書かれています。流民の中で最も文明が高かった「殷」の文化が半島に点在する氏族をまとめていったように思っている。平和裏に連合していった秦氏と賀茂氏、日本民族の典型じゃないかな?
ここの鳥居は、素朴な大木を複雑な加工もせず、無造作に鳥居形に組んだものでした。古代の歴史ある霊泉を守る神域を示す感じで、好感を持ちました。「椿岡大明神」というお狐さんがあった。「白清社」「白塚」、日本各地で神の使いとされる白い狐を祀っているようです。「元糺の池」は、足浴が出来るような構造になっている。あいにく水が枯れているので浸けられませんでしたが、夏など参拝者が足を浸けているのでしょう。拝殿は社叢で暗いので、灯籠と提灯に電灯が点いていた。素敵な神社でした。
『市内でも最古に属する当神社は、境内から清泉が湧き、巨樹が繁茂して古来の姿をよくとどめており、京都発展に大きな役割を果たしてきた秦氏との関連を含め、大変貴重なものとして昭和60年に京都市の史跡に指定された』
三条通を更に西に進み、6:51「斎宮神社」。謂れ板の文字が薄れ読みにくく、残念に思いながら社務所に行くと、『御朱印についてのお願い 御朱印は、ケースの中のゴム印を使って、ご自由に押してください。押し方は、左記の見本を参考にしてください。御朱印料は特に定めていません。お心持ちを拝殿の賽銭箱にお入れください』と書かれていた。セルフサービス御朱印のようです。『この中に由緒書が入っています。ご自由にお取りください』
『祭神:天照皇大神 垂仁天皇第2皇女で初代の斎宮として、天照皇大神のご神体を奉じて各地を巡歴し、ついに伊勢にこれを鎮祭して神宮を創祀せられた倭姫命の別荘のあった所である。里人が祠を建て、天照皇大神を勧請した。
斎宮は、土御門天皇の御代まで41代続いたが、この地は斎宮が禊を修せられた所である。
「斎宮」は、伊勢神宮に仕える未婚の皇女または女王の称で、斎王とも言う。7世紀後半の天武天皇の頃に制度化され、天皇の即位に際し選ばれるのが例で後醍醐朝以降に廃絶するまで続いた。選ばれた皇女・女王は、宮城内の初斎院で潔斎し、宮城外の浄地に斉宮を設け、潔斎所を移し、川で禊・祓の儀が行われた。この神社は、こうした野宮の1つで、有栖川家禊の旧跡である。斎宮が3年間潔斎した後、伊勢に下向することを群行と呼ぶ。境内にある椋の木は樹齢数百年で板根は2m近い。下嵯峨街道(三条通)にも同じく椋の大木が2本あって、社地の広さを物語っていたが、交通量の激増により昭和35年伐採された。
『生田(おいだ)』地名の由来は、斎宮神社の馬場の松並木の小枝が風に揺れる様から「小枝村」と称したのが転化した』
斎宮って、3年間も禊・祓いを繰り返したのですね。生涯斉宮というわけではないが、女性として最も華やかな娘時代を神に捧げる過酷な役目です。神は不浄を嫌うので、当然女としての喜びを覚えることもない。
国連の女性人権委員会が、「日本の天皇継承を、男系男子に限っているのは、女性差別だ」として、日本にその改正を求めたことがあったが、日本国の太古から続けてきた国柄を破壊する行為そのものです。内情実情を何も知らない浅はかな指摘に感じた。日本の内閣にも皇室にも宮内庁にも問い合わせていないのは明白で、国連って必要ないんじゃないかとさえ思った。
古来「男系」のみに天皇を継承してきた。女系を許せば必然的に女性天皇が頻繁が皇室に入ることになり、その子が天皇を継承すれば絶大な影響力を持つ。一般的夫婦間では、男性の方が主導権を握る。つまり日本の根幹である天皇をコントロールできる。緊急避難的に男系女性天皇は許されていたが、皇后からスライドした天皇を除けば、政治的にまずいことになったことがあり、「男系男子」と言う制度に明文化された。男系男子に限ることで、一般男性には天皇家に入る道が閉ざされ、一般女性にのみ開かれている。むしろ女性優遇とも言える。
不浄を嫌う神を思えば、定期的に不浄期間がある女性は、天皇としての本来の仕事である「神への祈り」の祭祀に影響が大きいし、男性との交わりを断つことになり、そっちの方がよっぽど女性差別だと思う。斎宮が現存だったら、天皇家に女性として生まれたばっかりに、女性としての最高に輝く時間を神に捧げる人生になる。皇室典範は、むしろ女性を守っているように思えてならない。
天皇を欧米の皇帝の王と間違えているので、女性がその地位に着けないことを女性差別だと思っていると思う。天皇は、王ではない。雨が多く自然に恵まれる日本列島ですが、その分自然災害が多い。その自然の猛威を神の業と捉え、荒ぶる神を鎮めるのが天皇の仕事です。
拝殿もない本殿のみの小社であったが、格調あるシンプルな造作の本殿で、なかなか良い。
更に西に進み、6:57「車折(くるまざき)神社」。ピンクの八重桜が満開です。『水神社(龍神様) 昔、大堰川がこの近くまで流れていた頃、氾濫を鎮める為に水神様に祈願していたことに由来する。龍神様のご神力は強大であり、「昇竜」の如く運気・才智が向上するご利益を頂けます』
朱色の板に名前が書かれた板垣が境内のあちこちに整然と並んでいます。コロッケ・川島なお美・さま〜ず・高岡早紀・・・芸能の神社なので、芸能関係者の見知った名前があちこちに見える。「兵庫・赤星憲広」なんてのもあった。阪神タイガースの切り込み隊長だったのに、引退してからはこちらの世界の人になったようです。「水戸黄門1200回」として、里見浩太朗・東幹久・的場浩司・雛形あきこ・・・なんて名が並んでいた。
『芸能・芸術・技芸・人気運の神様 芸能神社 「朱塗りの玉垣」のご奉納受付中 ご本人様・正式に許可を得た代理人様のみの受付となります。奉納料10000円(期間は2年)』
『清少納言社 車折神社のご祭神・清原頼業公と同族(清原氏)である「清少納言」を祀る神社。平安時代の中期に一条天皇の中宮に仕えた才女である「清少納言」にあやかり、「才色兼備」のご利益を授かりましょう』
『車折神社 ご祭神・清原頼業は、平安時代後期の儒学者で、天武天皇の皇子である舎人親王のご子孫にあたり、一族には清原元輔、その娘・清少納言らの名も見られます。大外記の職を24年間も勤め、和漢の学識と実務の手紙は当代無比と言われ、九条兼実から「その才、神というべく尊ぶべし」と称えられた。
1189年に逝去し、清原家の領地であったこの地に葬られ、車折神社の前身となる廟が設けられた。やがて頼業公の法名「宝寿院殿」に因み、神社に隣接して「宝珠院」という寺が営まれた。室町時代に至り、足利尊氏により嵐山に天龍寺が創建されるとその末寺になり、神仏習合で神社と寺が一体になり明治時代に至る。頼業公は桜を愛でられ、その廟に多くの桜が植えられ、創建当時より「桜の宮」と呼ばれていました。後嵯峨天皇が嵐山・大堰川に御遊幸の節、この車前において牛車の車が折れた。「車折大明神」の神号を賜り、「正一位」を贈られた。
ご神徳(ご利益) 清原頼業公のご学徳により学業成就や試験合格はもとより、「約束を違えないこと」をお守りくださる霊験あらたかな神様として、全国に強い信仰があります。
恋愛や結婚においても、様々な約束事や誓いが守られ、順調に成就・進行するご加護(良縁成就)が頂けます。
祈念神石 古来より当社に伝わる、願い事を叶える神石 願い事のある方は、社務所にて祈念神石を授かり、神前において願い事を心中にて強く念じた後、持ち帰り、願い事が成就した折には、自宅や海・川・山などで石を1個拾って洗い清め、その石に「お礼」の言葉や祈願内容を書き記し、授かった祈念神石と共に神前に返納する慣わしとなっています』
清原氏は、皇族から臣籍降下した豪族で、みちのくに下り、一大勢力を養い、源氏の大躍進の元となった八幡太郎義家との協力や対立で、一時代を築きました。清少納言は、清原家の少納言職を得た娘ということですね。
「良縁成就」には、ドキンとしました。僕の結婚式で、取引先メーカーさんから贈られた色紙に書かれていた文字です。この4文字の中に僕の名前が入っています。家内の氏名4文字と僕の氏名4文字を散りばめた短歌がしたためられていました。この色紙が入るデジタル掛け時計がプレゼントされ、今でも玄関正面に飾られています。僕ら夫婦・家族は、この時から始まりました。
『波留は車折神社 あの有名人の開運神社 「実は私、これまでの人生で、ほとんど初詣もしたことがなかったんです。でも2014年12月ドラマの撮影で京都に行った時、1日だけお休みが出来て・・・」と語るのは女優・波留(24)。現在朝ドラ「あさが来た」のヒロインとして人気急上昇中の彼女。実は女優人生を変えたのは、オフの日の京都観光だった。「マネージャーさんと「撮影所に近い車折神社にも行こう」と言う話になりました。神社で「女優の仕事を長くやれますように」と言う願いを言を書いて、お祈りしたんです。その後すぐに「あさが来た」のお話が決まって、本当に凄い神社だと思いました。「びっくりポン」ですよ」』
しめ縄で結界された場所に小石がたくさん積まれています。『祈念神石について これらの石は、「祈念神石により願い事が成就した方がお礼として」奉納された石です。祈念神石は古来より信仰の続く、あらゆる願い事・悩み事に霊験あらたかな神石です。祈念神石は社務所で授与しています。神石料は500円より。祈念神石についての詳しい説明書も社務所にございますので御覧ください。注:神社境内の石を持ち帰るのは間違った行為です』
「清めの社」があった。「清めの盛り塩」のような三角錐のコンクリート製オブジェが、鳥居と本殿の間に置かれている。「清めの塩」には、悪霊を断つ・遠ざける意味もあるが、家の前に盛り塩することで幸運を呼び込んだ故事もある。いずれにしても、人が生きていく為に必須の塩は、いろんなものを惹きつけそうだ。天満神社があり、神明神社も摂社として境内にある。
芸能関係の故事はこれといってないようだが、「東映・太秦撮影所」がほど近いところにある。この一帯はかつて時代劇映画全盛期に映画会社や芸能プロダクションが集積した場所で、芸能人の参拝者が多いということで、いつしか芸能神社の看板が上がったのかもしれない。あるいは、傀儡や白拍子など庶民を芸能で喜ばせる集団の根城がこの界隈にあったのかもしれない。それらの集団の願い社だったのかも・・・
北側の搦手口にも鳥居があり、その向こうになんと電車の駅が見えています。京福電鉄の駅でしょう。「車折神社駅」でした。ホームへの改札がなく、田舎の駅のように直接ホームに上がれます。10分間隔で電車が走っています。気に入った〜。確か1日乗り放題切符があったはずなので、嵐山の駐車場に車を置き、家族で電車で京都を巡るのも良さそうです。駅で脳内想像の翼を広げていると、電車がやってきた。電車自体、1両編成でラッピング車両もあり可愛い。これはお嫁さんたちに受けそうです。
三条通を西に走り、京福電鉄で言えば「車折神社」の次の駅「鹿王院」に、7:37着。山門の向こうにまっすぐに石畳が続いています。石畳横は低木と苔の庭園。すごくいい感じ。
『鹿王院(ろくおういん) 覚雄山と号する、臨済宗の寺院。1380年足利義満が普明国師を請じて大福田宝幢禅寺を建立し、その境内に開山塔を建て鹿王院と称したのが起こり。宝幢禅寺は、京十刹の第五に位し、近在の天龍寺と並び偉容を誇ったが、応仁の乱で消失し、当院に合併された。1667年酒井忠知の子が当院堂舎を再興し、現在に至る。仏殿(開山堂)には、本尊釈迦如来・十大弟子像・普明国師像・足利義満像を祀る。舎利殿には、源実朝が宋から求めたという仏牙舎利を納めた宝塔を安置している。寺宝としては、夢窓国師画像、明兆筆釈迦三尊及び三十祖画像など、多くの貴重な文化財を蔵する』
『鹿王院庭園 室町時代に任庵主が作庭した名園がありましたが、惜しくも廃絶し、現在客殿の南に広がる庭園は、1763年頃の作庭です。舎利殿を中心に石組がなされており、背後はるかに嵐山が望まれる』
臨済宗なので禅寺です。庶民との関わりは薄いが、その分落ち着いた静かな時間が流れているでしょう。拝観時間前なのが残念です。
更に西に進むと、嵐山に出ました。桂川越しに渡月橋・嵐山を望む。三条通を引き返します。千本通を北上し、丸太町通を東進します。京都御所の南面を通ります。屈強な警官が交差点に立っていたが、東京の皇居周辺のような物々しさはなく、お堀も土塁も石垣もない。これが日本国民に古来より長年愛され続けてきた天皇の住まいのあるべき姿に思えます。
東京一極集中を緩和すべく、文化庁の京都移転がなされるようですが、天皇の住まいを京都に戻せば、一気に情勢が変わるような気がする。「風林火山」の武田信玄が、「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵」を、館しか持たなかったことで実践したが、古来より天皇暗殺などなく石垣が無用であった天皇家の姿を、目に見える形で見せれば、日本の天皇が王ではないということがわかるはずだ。皇居周辺に武装していない公家が住み、皇居の治安・行幸警護のために少数の兵がいたのみの天皇の姿が。
鴨川を渡り、東大路通を北上します。東一条通に入り、8:17「吉田神社」。ちょうど神人さんたちが、掃き掃除中でした。駐車のことを聞くと、短時間のお参りなら無料ですとのこと。参道脇に駐車しました。
『今宮社四神石 今宮社に四神石あり。本殿東南に青龍石、西南に白虎石、西北に玄武(亀)石、共に三石あり。東北の朱雀石は内陣にありと伝えられる』
石段参道を上がり、吉田神社へ。ここは商社マン時代の親父が取引をしていたお宮です。繊維商社なのでそのような物だろうが、何をどのように取引していたのか知らない。僕の中では、京都といえば吉田神社なんだよね。次男が京都の大学に入学し、京都に来ることが増え、僕ら夫婦が百万遍知恩寺に分骨しようと考えたのも、この吉田神社の近くだからです。
拝殿で去年から続く定番のお願いをし、中の本殿を覗く。本殿は四社横並びのようです。拝殿前の砂利境内も、竹箒で筋が付けられ、踏むのさえ勿体無い感じがする。檜皮の奉納料300円、護摩木300円、割絵馬300円。護摩木に願い事を書き奉納。割絵馬にも願い事を書いた。割絵馬は、簡単に半分に割れ、願い事を書いた半分を絵馬飾り所に下げて、社名が書かれた半分を持ち帰ります。
階段を上がり、「神楽岡社」。祭神は、大雷(おおいかづち)神・大山祇(おおやまづみ)神・高おかみの神。雷の神様と山の神・水の神・・・農業関係の神様で関係づけられる。雷が鳴ると雨が降るので、怖いけど歓迎される。そして夏に雷が鳴り出す事によって、稲が妊娠し、稲穂に米の実が入ると信じられていたそうです。よって雷の別名は「稲妻」です。
玉垣の向こうの木に、「ご神域につき立入禁止」の札が下がっていた。古代からのこの神域立入禁止の信仰が、日本の自然を守り、そこに暮らす人々の暮らしのライフラインを守り、ずっとそこに暮らせる土地を守ってきた。飲める水・稲が育つ水の供給源である山に神が宿るとして神域にし乱開発を防ぎ、いつまでも同じ水が使える環境を守った。湧水があると、そこに鳥居が立ち神域になる。
京都は、それが実に多い。だから、回りを住宅地に囲まれ孤立した小山である吉田山に一歩入ればウグイスのさえずりが聞こえる。哲学の道にホタルが飛ぶ。嵐山の観光地の中の農地に、獣避け電気柵が必要なほど、鹿が身近にいる。吉田神社が吉田山の自然を今に伝え、大都会と古来からの自然を共存させている。これが京都の魅力のように思う。
吉田神社横の京都大学の校舎を見ながら、「若宮社」。祭神は、天忍雲根(あまのぬしくもね)命。水の神です。横に「さざれ石」と鹿の像があった。国歌「君が代は、千代に八千代に、さざれ石の巌となりて、苔のむすまで」。「君(天皇)の代が、小石砂まじりの石が固まって岩となり、更に苔がつくまで続きますように」という願望の歌。
「天皇崇拝だ」とマイナスイメージで捉える方もいますが、今生きている日本人の大部分は、先祖を遡れば「源平藤橘」4つの姓につながっている。その他、清原・菅原・・・みんな最初は天皇家に生まれた孫が「臣籍降下」により、姓を頂いて皇族を離れた者です。つまり日本人の本家は、みんな天皇家ということ。天皇を中心にまとまっている部族・人種が日本人。君が代は、つまり「日本人がまとまって平和に暮らす世の中が永遠に続きますように」との願い。僕らが、親世代から受け継いだものを、次の世代にそれをバトンタッチしていかなきゃ。
更に階段を上がり、「菓祖神社」。「吉田神社・斎場所大元宮」。下って行くと、朱鳥居に「京都八ツ橋商工業協同組合」と書かれていた。『菓祖神社 祭神:田道間守(たじまもり)命・林浄因(はやしじょういん)命 田道間守命は、11代・垂仁天皇の命を受け常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を日本にもたらした。林浄因命は、初めて飴入りの饅頭を作り広めた。古来、二神は菓子の祖神として、また文化の神として崇められ、京都菓子業界の総意により菓祖神社創建奉賛会を結成』
『山陰神社 祭神:藤原山蔭卿・恵比寿神 山陰卿は、清和天皇貞観元年(859)奈良春日の大神を勧請し平安京鎮護の神として、吉田神社を創建された。また、我が国においてあらゆる食物を調理調味づけられた始祖であり、古来包丁の粗料理飲食の祖神にして崇敬厚き神である』
玉垣に、「京都川端料理飲食業組合・京都七條料理飲食業組合」と彫られ、個別店名が彫られた玉垣が並んでいた。吉田神社横に「吉田幼稚園」がある。こういう歴史ある神社で育てられた子は、大人になって何を感じるのだろう。参道の玉垣に、「三高同窓会奉納」と書かれ、個人名玉垣が並んでいる。三高は京都大学の前身ですね。
9:10に、大学正門時計台前の集合場所に着く。9:30に男子3・女子3人を乗せて、山中越で琵琶湖へ。10:03、ハーバー着。ここからレスキューに乗り、試乗会開始です。先週は午後から風が10m/sオーバーになり、試乗会は半日しか出来なかったけど、時折日が差し込む2〜4m/sの試乗会日和になった。16時前に、今年の新人勧誘試乗会を全て終了。
駐車料金、9:59〜16:06・300円。合宿所に向かう。鍋夕食が始まり、食べながら僕の話を20分聞いてもらった。新入生の自己紹介タイムが始まり、大盛り上がり。最後にキャプテンの挨拶で終了。
19:16、男の子7人乗せ、合宿所を出発し、山中越で京都に戻り、正門前で皆を下ろす。19:44、正門を出発し、名神高速〜中国道で、20:49・自宅着。家内が起きてきて、夕食を用意してくれた。新人勧誘試乗会マンス終了。

2016/4/17
4/14(木)、帰宅し、「NHKニュース9」を見ながら夕食を食べていると、「緊急地震速報」の音声と字幕が画面に出ました。緊張して構えていると、「熊本で地震が発生した」との速報、「震度7であった速報」が流され、キャスターの鈴木さんが、すぐに地震関連の記事を読みだし、地震に対する注意を連続して伝え始めました。
さすが、NHKアナウンサーの即応対応と関心しましたが、それ以上に伝えられる被害の少なさに違和感を覚えました。「阪神淡路大震災」で震度7を経験し、我が家も震度6だったことを思うと、被害の全容が把握されると、死者数百人、あるいはそれ以上になるのではと。
翌15日(金)朝のニュースでは、被害がかなり把握されていました。やはり被害は大きなものでしたが、阪神淡路の時ほど大きくありませんでした。火災も起きなかったのも幸いだったと思います。震度7は熊本市の隣接・益城町、阿蘇山と熊本市の間の町で、熊本空港があります。熊本市直撃じゃなかったのが幸いしたのかもしれません。
夜のニュースを見ている間でも、余震速報が字幕に次々に出て、30分間隔で揺れています。阪神淡路の時も余震が続いたが、これほどの頻度ではなかったので、被災地の方々の不安は、僕らの比ではないなと思う。
翌4/16朝のニュースでは、夜中にマグニチュードの数値で更に大きな地震があったようで驚いた。夜のニュースで、死亡者数が40人を超えました。警察機動隊や自衛隊の出動・増員が伝えられ、政府の緊急対応に拍手し、援助・支援部隊にエールを送りたい。阪神淡路の時、揺れの大きさに我が家の近所の総監部では、事態把握のために少数を即応して出した。倒壊した最寄り駅の前に早朝の時点で自衛隊車両来ており、頼もしく思いました。
でも首相は震度7という大震災なのに、事態を甘く見積もり、自衛隊に出動命令を出しませんでした。尖閣列島で領海侵犯した中国船が、海上保安庁監視船に衝突して来たので逮捕しました。首相は「超法規」で無罪放免してしまい、こいつは国の舵取りをする首相の器ではないと思いました。今回即応した安倍総理、こういう行動こそ、国民・国土を守る国のトップとしての行動です。本当は、尖閣で領海侵犯を繰り返す中国船を、東南アジア諸国のように、拿捕あるいは撃沈して欲しい。「舐められたらアカンぜよ」

前週に引き続き、大学ヨット部の新人勧誘の手伝いです。大学正門くすのき前の10時なので、6:10に自宅を出発します。名神〜京都南IC下車〜R1〜九条通〜東大路通。前週に訪問した「新熊野神社」手前の交差点を右折します。
6:57「剣神社」着。『子供の守護神 剣神社 祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命・邇邇芸命・白山姫命』。藤棚があり、白と藤色の花が少し下がっていました。藤の季節はもうすぐです。「撫で石」というのがあり、石を撫で体の不調の部分を触ると治ると書かれています。謂れはわかりませんが、子供の夜泣きなどを封じるご利益があるそうです。掛かっている絵馬を見ると、これも謂れ不明の羽の生えた「トビウオ2匹絵馬柄」です。珍しいな。
7:12「京都国立博物館」。赤いレンガの建物や門が美しい。7:14「三十三間堂着」、駐車場が無料なので、ここに置いて界隈を散策する予定でしたが、「敷地外に出たらダメよ」と掃除してる方に釘を差され、仕方なく開館時間8:00前に来ることにしました。
7:19「豊国神社」。ここにはかつて方広寺がありました。松永久秀が東大寺大仏を焼いてしまったので、豊臣秀吉がそれ以上の大きさの盧遮那仏を建立し、大仏殿も作った。でも完成翌年の地震で大仏は倒壊してしまった。そして翌年秀吉が亡くなった。嫡男の秀頼が大仏再建を命じたが、鋳造中火が出て大仏殿も燃えてしまった。
秀頼は再建に意欲を示し、開眼供養を待つばかりとなったが、完成した大梵鐘の銘文に、「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれていたのに、「家と康の間に一文字入れているのは、家康を斬るの意」などと家康が難癖をつけ、豊臣家討伐の理由にし、大坂冬の陣・夏の陣に発展していく。
駐車は無料のようですが、「社務所に問うこと」となっています。「お参りですよね、他所に行くのはご法度ですが、どこでも停めてください」とのこと。高校生の時時々来ていた「京都国立博物館」の北隣に、立派な石鳥居が立ち、その向こうに立派な社門です。社門から中は、非開放です。
社門・鳥居が神社には珍しく西の鴨川方向を向いています。我が家に勧請した三穂神社も西向きにしました。理由は、僕の先祖を祀る三穂神社の方角を拝しているからです。但馬の元伊勢神社にも西向きの遥拝所があり、「まさか夕陽に拝していないよね」って謂れ板を読むと、神域の山を拝していました。
太陽信仰である神道のお宮が、東や南向きなのは当たり前で、西向き・北向きがあると理由に思いを巡らせます。豊国神社の西向きはすぐにわかりました。東の東山に秀吉の廟があるからです。ここらには何度も来ているので、脳内俯瞰地図に、京都女子大の「女坂」を経て秀吉廟に繋がる廟全体を守護しているように浮かぶ。
唐破風の社門(国宝)は素晴らしく豪華で、門前にはひょうたん型の絵馬が千羽鶴のように縦に下がっている。「豊國神社・神前結婚式」の案内がある。日頃非開放の唐破風紋内部の式だろう。ここの本殿での式は、希少価値がありそう。唐門から見える拝殿・本殿ともに檜皮葺で、統一されて荘厳な感じがします。唐門は、彫刻が立派で威風堂々感がする。問題の釣り鐘を見に行く。家康がいちゃもんをつけた文字の部分は、白線で囲まれ、鐘楼内には入れないが、遠目で文字が確認できます。
もし、家康があのタイミングで豊臣征伐しなければ、その後の日本史は大きく変わっていたでしょう。大坂夏の陣で大坂城が焼失陥落し、秀頼が切腹した翌年に、家康が亡くなっています。徳川二代将軍・秀忠より、秀吉の嫡男・秀頼の方が男振りが良く、器量も優っていたと言われる。家康・秀頼会見が二条城で実現した時、家康はやばいと実感し、秀頼討伐を決心したという。最後のタイミングだったといえ、家康の運の強さを感じる。
関西人としては豊臣を贔屓にするが、晩年自分を支えてくれた身内とも言える親族・武将や民間人に死を与え、嫡男秀頼に繋ぐことだけになった秀吉より、身内・配下武将・客将をも大事にした家康の方が、政権としては圧倒的に安定し、徳川時代の発展を見たと客観的に思う。
鐘の文字以上に目を引いたのが、鐘楼天井に描かれている絵でした。羽衣の天女が舞う絵が多数はめ込まれ、ナイスでした。現方広寺は、その北にこじんまりと静まっていた。稲荷社に寄り、満開の桜を激写。拝観時間前なので入れないけど、宝物館を外から見る。
社務所により、「ひょうたんのお守り・700円」を授かる。廟墓のことも含め、あれこれご教授願った。家内と登ろうと思って断念した廟墓の階段は500段あるそうで、ショートカットはないとのこと。方広寺の寺領は広く、南に隣接する現国立博物館、更に南に連接する三十三間堂を含め、三十三間堂の南に太閤塀という寺領の境が現存する。徳川の世が終わり、当時の日本最強・明治天皇の勅使により再興された流れを聞いて、再び唐門へ。
『豊国神社 豊臣秀吉を祀る神社で、「ホウコクさん」の名で親しまれている。1598年63才で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯の中腹に葬られ、その麓(現在の豊國廟太閤垣)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位・豊国大明神の神号を賜り、1604年秀吉の7回忌に盛大な祭礼が行われた。豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により排祀されたが、明治13年1880、旧方広寺大仏殿跡に当たる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。明治31年1898には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。正面の唐門(国宝)は、伏見城の遺構と伝えられ、二条城から南禅寺・金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺唐門とともに、国宝三唐門の1つとされる。両側の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである』
7:51「三十三間堂」。車が2台だけで、8時開門時点で7人待っているだけでした。拝観料600円。下駄箱に靴を入れて、長辺がとても長い長方形の建物に入ります。いきなり右端の雷神像(国宝)で、中央の本尊の巨像(中尊)の左右に1000体の千手観音像が並びます。お顔や体躯が微妙に違います。仏師の名がわかっているものもあるようで、札が立っています。後方の千手観音を守るように二十八武衆像が並んでいます。
堂内が撮影禁止なのが残念ですが、それぞれの武衆などに説明板が設置されており、それらを読みながら堪能できました。中尊前に近づくと、調度よいタイミングで僧侶のお経が始まり、僕を追い抜いていく拝観者がいるものの静かで雰囲気抜群です。
左端の「風神像」まで堪能し、仏像の裏を通って戻ります。ここにも創建からの資料満載で展示・掲示されています。『正式には「蓮華王院」と言い、1164年鳥辺山麓(現・阿弥陀ヶ峰)の後白河法皇・院政庁「法住寺殿」の一面に平清盛が造営・寄進した。80年後に焼失したが、すぐに復興され1266年に再建された。その後室町・桃山・江戸・昭和と大修理されながら、700年間保存されている。長いお堂は、入母屋・本瓦葺の「総檜造り」で約120m。正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と通称され、堂内に1001体の観音像が祀られる。見落としがちだが、境内南に通称「太閤塀」と呼ばれる築地塀と南大門は、豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた重文・建造物である』
堂内天井に飾られら絵馬は、弓道大会の優勝者からのものです。どういう関係かな?と思っていたのですが、裏の謂れで分かりました。「通し矢」として、境内西面の縁側の南から北に矢を射通す腕自慢会場になっていたそうです。今は60m先の的を射る大会になっていますが、かつては何処にも当たらず通し矢出来た本数を競う「惣一」腕比べだったようです。
御三家の尾張藩と紀州藩の対決が凄まじく、1669年尾張藩の星野勘左衛門が10542本中8000本を射通し、惣一となったそうです。まだ余裕があったが、後世の達人のためにそこで止めたそうです。20年後の1686年、紀州藩の少年・和佐大八郎が挑戦し、13053本中8133本通し、惣一のレコード更新したそうです。ここにはレコードホルダー星野勘左衛門も同席しており、調子が落ち始めた和佐の記録達成のために途中で彼の左手を小刀で突いて出血させたそうです。たちまち調子が良くなり、記録達成出来たそうです。
いい話じゃないか。王貞治のシーズンホームラン数日本記録が破られないように、敬遠策を指示した長嶋茂雄監督とは大違いです。矢から柱を守るために鉄板が張られ、刺さった矢の跡が今も残っているそうです。
高校生の団体さんがやってきたようで、謂れを読んでいる僕の後ろを足早に抜いていく。中高生の年代には、「うわあ、凄いな」と見えるだけだよね。私語も小さな声で、僕らが中高生の時よりずっとマナーが良いように思う。
外に出て、伽藍の全体を見ます。細長いけど幅もそれなりにあり、巨大です。瓦が綺麗に並び、配色はされていませんがとても綺麗です。
『通し矢射場 江戸期、尾張・紀州両藩による通し矢「天下一」争奪戦は民衆の評判となる。縁側や柱・軒に残る鉄板は、雨あられと飛び来る矢からお堂を守るため、徳川三代将軍・家光が付加したものです。西縁の南端から北端に、一昼夜24時間、矢を射続ける「大矢数」は身命を駆けた壮絶な競技で、江戸時代を通じて約800人がこれに挑み、矢数も百万本に達する。毎年正月(15日に近い日曜日・無料公開)には、この古儀に因む弓道大会が行われ、全国から2000人が参加し、賑わう。
太閤塀も立派に遺っています。『南大門と太閤塀(重要文化財・桃山時代) 南大門は、豊臣秀吉が1595年に造立した大仏殿方広寺(現国立博物館一帯)の南門として築いたもの。それに続く築地塀は、高さ5.3m・長さ92mの堂々たる建造物で、瓦に太閤桐の文様を用いることから「太閤塀」と通称され、ともに桃山気風にあふれた遺構です』
鐘楼前の八重桜が満開で、中国人と思われる女性グループが写真に収めていました。「蓮華王院」本堂も国宝指定されています。蟇股の彫刻は、一角鹿です。
『夜泣泉 お堂創建の翌年1165年、堂僧が夢のお告げで発見した霊泉で、「いつも冷たく、美味しく飲んでもお腹を痛めず、汲んでも尽きず、汲まずとも余ることのない不思議な泉」と記されている。夜、水の湧きだす音が「すすり泣き」に似ていることから「夜泣泉」と言われるようになり、地蔵尊が奉られるようになった。幼児の「夜泣封じ」に功徳があるとされ、地蔵様の前掛けを持ち帰り子供の枕に敷けば夜泣が治るとされ、その御利益を求め参拝が続いている』
小学生団体さんが、ここで各班ごとに本堂をバックに記念撮影している。制服に身を包んでいるので私立の小学校だろう。4月という学年初めの時期なので、この旅・遠足で一気に和を深めようと言う作戦なのでしょう。朱門をバックに外人さんが、記念撮影している。朱色の鮮やかな門が日本的に見えるのでしょう。朱の鳥居が延々と並ぶ伏見稲荷の一番人気を合い通じるものがある。
9:21に、三十三間堂を後にしました。そんなに長くいたつもりはなかったのだけれど、1時間20分も滞在してしまった。面白かった。9:36に大学正門着。女子3人・男子2人を乗せ、10:09出発。グネグネ山道が心配という女の子がいたので、三条通〜山科〜湖西道路コースで、10:40ハーバー着。
ここから、新人勧誘ヨット試乗会です。2回生女子マネージャードライバー・プレイヤーと3人でレスキューに乗ります。大津市の天気予報では6m/sほどの風が入るとなっていたのに、1〜2m/sしかありません。朝部員に聞くと、SW2〜18m/sというかならず当たる予報ですと言ってた。幸いずっと降っていた雨も、大学到着前から上がり、陽も差しています。でも通り雨が来たり不安定です。
第2グループ目の女の子たちが乗っていた時が、風も4〜5m/sに上り最高でしたが、3グループ目の男子になった時に10m/sオーバーの風がSW三井寺方向から吹き降りてきました。おりゃ面白いなと見ていたら、4グループ目への交代途中で、更に強い15m/sほどのブローが降りてきて、パタパタと2艇がひっくり返りました。1艇には新入生も乗っています。ライフジャケットも着ているので安心で、水に落っこちる洗礼も体験できていい経験だなと見ていました。沈していない他の艇にはハーバーバックを指示する。
普通なら船を立てて、再帆走するのですが、風が強すぎてまた倒れたりしています。僕の母校が練習している海と違って、軽風で波の小さな琵琶湖で練習している子達にはサバイバル経験が浅い。何度も船を起こしていると体力を消耗し、水の冷たさからも体温を奪われる。
拾い上げた新入生などを乗せたインフレータブルレスキューから、新入生全員をこちらに乗せ、急いでハーバーバックし、ハーバーに下ろす。ウェットスーツを着ている部員を数人乗せてすぐさま湖面に戻り、スキュードライバーに指示し、沈艇の風上に行く。「メインセイルを降ろせ。そしたら立てても倒れないから、ジブセイルだけでハーバーバックしろ」と指示。2艇とも立ったが、1艇のジブセイルが破れているので、曳航ロープを渡し、引っ張って帰る。
再び湖面に戻りもう一艇を探すが、Ritsのレスキューボートに曳航されている。近寄り手真似でお礼を告げる。高校生のヨットが沈しているので、湖面に見える沈艇に近寄る。様子を聞くと「体力消耗で起こせない」との返事。「しゃあない、飛び込むか」、ウェットスーツの部員は、そうなるだろうと思って乗っている。風下に流され波も大きくなっており、沈艇にかなり近づかないと飛び込み要員自身が船に辿りつげず流されるので、運転を交代する。
風上側からバウを下に向けゆっくり沈艇に接近して行く、「飛び込め」の指示で3回生S部員が飛び込む。京都薬大のヨットのようです。近くで沈している艇を見ると、メインセイルを下ろした船が起き、レスキューボートが付いているのでOKのようです。S君は手際よく船を起こし、こちらから投げたロープをマストに結び、ハーバーまで曳航します。途中でマネージャーにドライブ交代。「私ならあんなに近づけません」と言うので、風上からバウ(舳先)から近づくと、船尾のスクリューに沈艇乗員やヨット部品を巻きつけることがないなど、鉄則のコツを教える。「落ち着いていらっしゃいますね、私は見ているだけでドキドキしました」。まあ、数経験すると、慣れちゃうしテクニックも体得できるということです。
ハーバーに戻って、再び湖面に戻るが、高校生艇を引っ張って帰ってきたインフレータブルによると、他校の船も全艇救助し終わったとのこと。ハーバーの桟橋に戻る。相変わらず風は強いけど、ヨットに乗れなかった新入生を、2艇のレスキューで湖面体験させる。3クールハーバー〜沖を繰り返し終了。練習ではあまり行かない大津プリンスホテル前の遊覧船桟橋付近や、噴水を上げてる大津港に再接近し、噴水の水がかかりそうなとこまで近づいて楽しんだ。ドライブしてるマネージャー自身が、「ここがどうなってるのか個人的に見たかったんです」なんてはしゃいでいます。
これで試乗会終了。10:40〜16:03柳ヶ崎ヨットハーバー300円。合宿所に戻り、鍋で夕食です。先週に続き僕がカメラマンをしたので、部員のPCにデータを移し替え、TVでエンドレスに写真を流す。
新入生の自己紹介がまた盛り上がった。部員のヤジが面白すぎて、大笑いの連続だ。最初に部員が見本を見せるのだが、本日指名の部員が背の低い部員だったので、立ってるのに「立って〜」。「所属学部名は」と言いかけた時に、「霊長類!学部」なんて野次が飛びます。「学名は」なんて野次が飛び、「ホモサピエンスに最も似た・・」なんて自己紹介部員もヤジに乗っています。2名が入部宣言してくれました。先週も来てくれた関東のジュニア出身の子も入部してくれました。次男に続いて、2人目のジュニア出身部員です。これで3名入部してくれました。部員が僕のとこに時々やってきて、適当に鍋を味わせてくれます。「うどん投入しました。食べてください」なんて、嬉しいな。
再び食べだし、司会者が「キャプテン挨拶の後にお話をお願いします」と依頼されたので、18:30キャプテン挨拶2分の後に僕が指名されました。ヨット部のその後のこと、「スポーツ指導員」資格で得たスポーツと脳内記憶のこと、「自分のことのために生きる」より、「他人の喜びのために生きる」方が幸せを多く感じるように人間は出来ていることなどを話した。20分話したようで18:50。
再び食べだして、19時になりました。ここでさっき散々自己紹介の見本でこき下ろされたM君が中心になってエールを切ります。部歌「琵琶湖周航の歌」を合唱して終了。僕は第1陣として、新入生を乗せ、19:14に出発。「山中越」で比叡山を越え、19:41大学正門着。これでお仕事終了です。
東大路通〜九条通〜R1〜名神に乗ります。京都南ICから名神本線に合流したら、自衛隊トラック車列の中央に合流しました。3車線の中央車線に出てゆっくり抜いていきます。自衛隊の緊急支援舞台です。「普通科連隊・秋田」と書かれた横断幕がサイドに下がっています。前も後ろも車列が連なっています。東日本震災の時も、何度か自衛隊の車列に会いました。思わず、「行け〜、頑張ってくれ〜!」と車内から叫んじゃいました。阪神淡路の時も東日本の時も、我が家の近所の自衛隊基地からも、続々と応援車列が出て行きました。
20:41自宅着。家内が起きてきて、「食べる?」夕食を作ってくれました。翌朝ニュースで、米軍オスプレイ4機が沖縄基地から岩国基地に移動し、熊本支援に向かうそうです。更に4機追加応援されるそうです。自衛隊や米軍基地に反対する勢力がいますが、同じ日本人部隊を信用せず、最も親しく具体的に現在の国防の一部を担ってくれている米軍を敵視する姿勢に、どうも同意できません。自衛隊車列を見て、「頼もしい」と思うし、米軍には「感謝」の気持ちしか湧きません。自衛隊員や米兵にも犯罪を起こす者がいます。でも、犯罪率から言えば、一般日本国民の犯罪率の方が高い現実をきちんと見て、しっかり考えてもらいたと思います。基地の近所に住むので、隊員を毎日見るし、近所に住んでる隊員とも交流があります。二十歳前後の若年兵でも、礼儀正しく話し、やんちゃな服装なんて皆無で、どちらかと言うと素朴な若者です。

2016/4/10
4月は、始まりの季節、入学の季節です。キャンパスに新入生がやってきます。サークルやクラブが、手ぐすね引いて新人獲得のためにやっきになる活気ある季節です。そして僕は、毎年4月はコーチしている大学ヨット部の新人獲得のためにお手伝いします。
「10時に時計台楠の木前に、お願いできますか?女の子7人お願いします。夕食の鍋後に、またお言葉をお願いしたい」の連絡が、3回生の新人勧誘隊長から入りました。「お〜、女の子7人」・・・久しぶりにテンションが上ります。以前は女子マネージャーを供給してくれている「京都女子大」担当が多かったのに、ここ数年は男子ばかり乗せ、京都から琵琶湖に運ぶ依頼が多く、不完全燃焼が続いていました。新歓隊長に、あれこれ言っていたのがようやく実を結びました。4時に目覚め、用意して4:51車に乗って自宅を出発します。
まず御用達のGSに寄り、洗車しました。いつもは2100円のディーラー洗車なのですが、忘れていました。5:02出発。名神高速に乗り、「京都南IC」下車。R1で京都市街地に向け北上し、5:42「セブン-イレブン上鳥羽鴨田店」で、「助六寿司・398円」を朝食用に買いました。
「東寺」に突き当たり、九条通に乗ります。5:49久しぶりに当寺・五重塔を写真に収めます。九条通を東進し、東大路通に乗って北上です。5:58、「新熊野神社」。『後白河法皇お手植えの「大樟」 約830年前、後白河法皇が紀州国・熊野から、土砂・材木などをこの地に運び、熊野になぞらえその新宮、即ち「新熊野神社」を創建された。その時、国家鎮護・万民福祉を祈願し、手植えされたのが大樟です。熊野の神々が降臨し、健康長寿・病魔退散、特に上皇が常にお腹を煩っていたので、「お腹の神様」と信仰され、「大樟大権現」と尊崇されている』
『新熊野神社の「梛」の謂れ 当社は古来「梛の宮」ともいわれ、梛(椥とも書く)の名所である。イヌマキ科の常緑樹。葉は多くの縦脈からなり、容易に切れないため、縁結びの樹といい、実は2つ並んで仲良く実るので、夫婦円満の目出度い樹とされている。藤原定家(鎌倉初期の歌聖)は、千早振る遠つ神代の梛の葉を切りに切りても祓いつるかな」と詠っているように、梛は罪穢・災禍・病魔などをなぎ払う霊験があると信じられ、熊野詣には、道中安全のお守りとした。またナギは、朝凪・夕凪のナギから、安全・無事を守り、平和と幸福を招来する』
東山永観堂の守り神として勧請された「若王子熊野神社」にも梛が植えられており、京都地下鉄にも「椥辻」という駅名で残っている。熊野と言えば「梛」です。神社といえば「榊」と同じように、左右対称の葉を持ち、綺麗な花を持つわけでもない目立たない常緑の木ですが、こういうのをシンボルにし霊感を感じる、時代が変われど大切にし続ける日本人の感性に僕は惹かれる。そして、日本人に生まれてよかったと感じる。
『新熊野神社・いまくまのじんじゃ 本殿・大樟 新熊野神社は、後白河法皇によって法住寺殿が造営された時、その鎮守社として1160年、新日吉社とともに勧請された。現在の本殿は、1673年に造営されたもの。規模は桁行3間・梁行1間・入で、正面に向拝1間を付け、内部は正面通1間の外陣とその奥2間の内陣に分かれている。この本殿は、構造形式・平面構造ともに熊野本宮証誠殿と同じで、全国的に見ても、京都においても他に類例が少なく、更に熊野本宮証誠殿より古いことから、熊野造の古制をよく伝える貴重な遺構であり、京都市指定有形文化財に指定された。また境内東南隅にあるクスノキは、市街地に植えられた樹木としては、傑出した大きさを誇り、京都市指定天然記念物に指定された』
6:10、「若宮八幡宮」。「清水焼発祥の地・五条坂」と彫られた石碑が立っている。『応神天皇(八幡神の主神)とその父母・仲哀天皇・神功皇后を主祭神とする。平安時代1053年、後冷泉天皇の勅願により、源頼義が六条醒ヶ井(現在の西本願寺北東付近)に創建したのが当社の始まり。源氏一族や武士からの信仰が厚く、室町時代には足利歴代将軍の尊敬を集め隆盛を極めた。その後応仁の乱により荒廃し、社地を点々として、1605年五条坂のほぼ中央に当たるこの地に移された。現在の社殿は、1654年に再建された』
源頼義は河内源氏2代目で、八幡太郎義家の父親です。ここから源氏は隆盛を極め、保元平治の乱で一時平清盛の後塵を配したが、明治維新まで続く武家実力社会を築いた。五条坂を更に上ると、日本最初の征夷大将軍・坂上田村麻呂が自宅を寄進したことで始まる「清水寺」がある。
『蓬莱石 若宮八幡神に一奇石あり、その名を蓬莱という。足利尊氏が若宮八幡を深く信仰し、病にかかった時立願した。病が癒えたのを祝して珍宝七種を献じた。その1つである。蓬莱山は、渤海の東にあり神仙不死の薬あり・・・神霊・加護を与える・・・。不思議なご神徳ご加護のある貴重な宝石である。この蓬莱石は、本殿の片隅に埋もれていたものが、神託により発見され、約650年ぶりに世に出されたご神威新たかな石である』
謂れを読むとなんか凄い。だけど、屋根があるにしても小さな壁のない屋外の祠にポンと置かれているだけです。この石にさわり、本殿でも「元気な男の子をお願い致します」と祈った。
「孝明天皇胞衣埋葬所」と彫られた石碑が立っていた。胞衣とは、出産時に出る胎児をくるんでいた膜や胎盤、臍帯などを言う。我が家も、僕や息子たちの臍帯が桐の箱に入れられ残されているが、それを埋めたところらしい。胎盤は高栄養らしく、人間以外の動物は、出産直後母親が我が子を舐めながら食べてしまうものです。過去の戦争時には、兵隊の栄養源として盛んに製品化され、今でも医薬品として使われている。
玉垣に囲まれ、「ご祭神・孝明天皇・御百年祭 天皇陛下御祭祀料 昭和42年8月7日 勅使御参内」と書かれていた。昭和天皇が、勅使を送ったのですね。その時の玉垣かもしれません。さらに、石碑の横に梛が植えてあります。『縁結び家内安全のご神木(梛の木) このご神木は、縁結びの神のご神託によって2本の木が1つに結ばれたものです。陰陽和合・縁結び・安産・子育て・家内安全のご神徳の現れであります。この不思議な目出度い木にあやかりたいものです』
6:22、高台寺近くのパーキングに車を入れ、「木曽義仲の首塚」を探す。僕の調べでは、「八坂の塔」の横なので、高台寺〜八坂塔〜清水寺に続く界隈の雰囲気の良い路地を歩く。ちらちら見える八坂塔が、景観保護政策により感じが良い。「夢見坂」「庚申」、八坂の塔を正面にゆるやかに登る「八坂通」が、僕は京都で最も京都らしい道のように思います。
朝早く、観光客はほぼゼロ。八坂の塔に八重桜が似合うな。結局周囲を探しまわったけど、見つかりませんでした。帰宅後調べたら、車を止めた駐車場の斜め向かいでした。京都らしい古風であって洗練されたお店を見ているだけで、気持ちの良い朝散歩でした。6:22〜6:30「高台寺パーキング」100円。
車を駐車場に入れ、自転車で巡ろうと思ってたのに、折りたたみ自転車を積むのを忘れちゃった。東大路通まで下り、交差点の斜め前の安井金比羅宮駐車場に入れます。金毘羅宮に入ると、ランニング女子が桜を見上げながら、息を整えています。ピンクの半袖・白アンダー、ブラック半パンにピンクのストライプ・黒タイツ、ピンクのランニングシューズ・・・お洒落でいいな。女性はこうでなくちゃ。「絵馬の道」というのがあって、参道の両側に絵馬とおみくじが大量に下がっています。御札が大量に張られている中央に穴が空いたオブジェ?があり、何だこりゃと近づくと、『悪縁を切る 縁切り・縁結び碑 当宮の主祭神・崇徳天皇自ら、国家安泰を祈られ、諸々一切を断って祈願されたという故事に習い、江戸時代より縁切り祈願が生まれた。旧きを脱皮し、常に新しい新鮮な自分を甦らせる縁切り、諸々の祈願を成就に導く縁結びともに歓迎。これは神道本来の祓いに通じる。上部から亀裂を伝って神の力は円形に注がれ、願いを素直に神札に記し、円形に向かって表から裏に(縁切り)裏から表に(縁結び)、それぞれ心に祈りを込めてくぐり抜けてください。くぐり抜けた後に、神札を石面に貼ってください。当宮では、毎朝拝時に、必ずこの碑にお祓いを行い、お清めを続けています』
金毘羅宮は、船の安全を祈願するお宮なので、うちの船にも先輩が金毘羅さんの御札を置いている。大国主命とともに国造りした大物主命を祀っていると思ってたら、大怨霊・崇徳天皇も祀っていたのですね。確かに崇徳天皇は、保元の乱に敗れ、讃岐に流されたまま亡くなったが、その関係で祭神になったのかな?祟りを鎮めるために合祀されたのかも?
どんな縁切り御札が張られているのか興味があったけど、「もし僕との縁切りを願う家内の御札があったら・・・」なんて思うと、怖くて見れない。世の中には、「知らぬが仏」という言葉がある。「50%の人にいるというピロリ菌がいるよ」と患者を脅し、治療薬を出して儲ける医者がおり、それに協力し、貴重な健康保険財源を食い潰す患者がいる。寄ってたかって、国民皆保険の互助会資金を減らして、保険料増額に向かい続けている。それが税金増額になるってこと知ってる?わざわざ遺伝子検査までして、女性の象徴である魅力的なおっぱいを取っちゃう女優がいる。「ああ、勿体無い。知らぬが仏」、僕はこれでニコニコ楽しく生活し、ピンピンコロリが良い。
ソメイヨシノは終わってるけど、八重桜が鞠のように可愛く花をつけている。この界隈、町のど真ん中なのに、ラブホテルが軒を連ねている。愛しあう男女和合は、金毘羅さんも願っているでしょう。
6:38「崇徳天皇御陵」発見。『崇徳上皇・75代は、平安時代の末、保元の乱1156年により、讃岐の国へ御配流の悲運にあわれた。上皇は血書をもって、京都への御還幸を願われたが、憤怒の御心のまま、1164年46才にて崩御。白峰山の御陵に奉葬送された。上皇の寵愛篤かった阿波内侍は、お遺髪を請い受け、この場所に一塚を築き、上皇の霊をあ慰めした。その頃の京都では、上皇の祟りの異変が相次いで発生したため、御影堂や粟田宮を建てて慰霊に努めたが、長い年月の間に廃絶し、ここのみが哀史を偲ぶよすがとなっている。なお孝明・明治天皇の聖慮により、白峯神宮が創建され、元官幣大社として尊崇され、今日に至っている』
白峯神宮は、儀式としての蹴鞠で有名で、その関係でサッカーチームからの必勝祈願が集まり、境内にはたくさんの奉納されたサッカーボールが目につく。スポーツにご利益のあるお宮さんです。
『安井金比羅宮 祭神として崇徳天皇・大物主命・源頼政を祀る。保元の乱1156年に敗れ讃岐で崩御した崇徳天皇の霊を慰めるため、1275〜77年に大円法師が建立した光明院観勝寺が当社の起こり。その後、応仁の兵火で荒廃し、1695年太秦安井にあった蓮華光院が当地に移築され、その鎮守として、崇徳天皇に加え、讃岐金毘羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから、安井の金毘羅さんの名で知られるようになった。本殿東の絵馬館には大小様々な絵馬が陳列されており、「久志塚」は、古い櫛の供養のために築かれた塚で、毎年9月第4月曜日に櫛祭が行われる』
源頼政は、平清盛と源義朝が戦った平治の乱で、勝利した清盛側についた摂津源氏で、「平家にあらずんば人にあらず」の平家全盛期に唯一生き残り出世した源氏です。晩年は、後白河法皇の皇子・以仁王の「平家打倒」の令旨を伝え、自らの挙兵したが、宇治平等院に敗れた。
6:52「六道珍皇寺」。『建仁寺の塔頭。この付近は死者を鳥辺野(阿弥陀ヶ峰北麓の五条坂から、南麓の今熊野に至る丘陵地)への葬送・野辺送りの場所で「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世との境と言われていた。六道とは、仏教で全ての生き物が生前の善悪の行いによって必ず行くと言われる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天井の6つの冥界のこと。本堂の裏にある井戸は、昼は嵯峨天皇・夜は閻魔大王に仕えた小野篁(たかむら)が冥土へ通った入口であったという伝説が残されている。創建は明らかでないが、平安・鎌倉時代には東寺に属して隆盛し、その後衰退した。室町前期1346〜70年に建仁寺の僧・良聡によって再興され、臨済宗に改められた。薬師堂に本尊・木造薬師如来像(重文)を安置し、閻魔堂に小野篁作という閻魔大王像と、等身大の小野篁像が祀られている。毎年8/7〜10までの4日間、「六道まいり」が行われ、先祖の精霊をこの世へ呼び戻す「迎え鐘」を衝く参拝者で賑わう』
残念ながら開門前なので見学できません。「六道の辻」をを曲がり、「六波羅蜜寺」。『951年、病気平易のため空也上人により開創された真言宗智山派寺院。空也上人自刻と伝わる十一面観音立像(国宝)を本尊とする。空也上人は醍醐天皇の第2皇子で、若くして出家し、歓喜踊躍(かんきゆやく)しつつ念仏を唱えたことで知られ、今に伝わる六斎念仏の始祖である。往時は寺域も広く、平家の邸館や鎌倉幕府の探題が置かれるなど、源平盛衰の史跡の中心でもある。宝物館には、定朝作・地蔵菩薩立像の他、空也上人立像、平清盛坐像、長快作・弘法大師像など数多くの重要文化財を安置し、境内の十輪院が仏師運慶一族の菩提寺であったことから、本尊の脇に祀られていたという運慶・快慶坐像も所蔵している。正月三が日の皇服茶、8月の万燈会、隠れ念仏として知られる12月の空也踊躍念仏(国の重要無形民族文化財)が有名である』
ここも拝観時間前です。建仁寺塔頭「摩利支天尊天堂」。毘沙門天同様、摩利支天も好きなんですよね。狛犬じゃなく、狛イノシシでした。毘沙門天は、無敵・無敗を誇った上杉謙信がひたすら祈願した必勝の守護神ですが、摩利支天も戦の守護神です。いつも太陽を背にするので見えないとされ、イノシシに乗って光のように移動する不敗の守護神です。子供の時流行った忍者ドラマでも、正義の味方・伊賀忍者と対決する悪の甲賀忍者の棟梁が摩利支天という名で登場し、僕の目にはかっこ良く見え、名前の音の響きも耳に快かった。刀を背に斜め掛けして友達と忍者ごっこする時も、伊賀の佐助などは競争率が高いけど摩利支天は誰も興味を示さないので、僕の定番の名にしていた。
7:07「恵比寿神社」。神社なのに、想定外の開門前。神社なら24Hオープンで境内に入れるようにしとこうよ。「祇園雪虎製作所」というお店があった。アンティークグッズ製作のお店のようだが、京都らしく怪しい雰囲気が漂っている。
八坂通を、正面に「八坂の塔」を見ながら歩き、建仁寺勅使門横の門から境内に入り、塔頭の雲水が掃除をしている石畳の道を歩きます。車に戻ります。6:32〜7:23「安井金比羅宮」100円。車を動かし、再び「高台寺」へ。霊山護国神社参道横の駐車場に入れます。コンビニで買った「助六寿司」で朝食。
「高台寺」前の「ねねの道」を歩いてみます。『圓徳院(北政所終焉の地) 豊臣秀吉没後、その妻北政所ねねは、高台寺建立を発願し、1605年秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と前庭をこの地に移築し移り住んだ。77才で没するまで19年間、この地で余生を送り、その間北政所を慕う大名・禅僧・茶人・歌人・画家・陶芸家などが訪れた。圓徳院は、ねねの没後9年目、甥の木下利房(足利藩主)が、高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開いた。方丈は創建時のもので、内部の襖には長谷川等伯の32面の水墨画が描かれ、国の重要文化財に指定されている。化粧御殿前庭は、庭石や枯滝の石組が配された豪華なもので、桃山時代の枯山水庭園の様式を今に伝え、国の名勝に指定されている。境内に奉祀された三面大黒天像は、豊臣秀吉の守り本尊であり、今日でも多くの信仰を集めている』
『豊公出世守り本尊・三面大黒天 秀吉公が出世時代に念仏仏とした尊像で、北政所がこの地に移され今日に至っている。大黒天・弁財天・毘沙門天の三面を合わせ持ち、一仏礼拝によって三尊天のご利益を得るという誠に秀吉公らしい信仰である。大黒天は福の神、弁財天は学問、毘沙門天は勝利・子宝などの神として、多くの信仰を集めている。堂及び表門は、御所の鎮守大黒殿を移築したものである。
歌仙堂 長唄子(若狭城主)は北政所の甥であり、歌聖として知られている。歌仙堂は長唄子を祀り、もと霊山にあったものを木下家の関係でこの地に移築した。なお詩仙堂・雅仙堂と合わせ京都の三堂と言われ、学問・詩歌を志す人々の信仰を集めている』
「御陵衛士屯所跡」。『ここ高台寺・月真院は、1867年6〜11月にかけ、熱烈な勤王主義者であり、孝明天皇の御陵衛士(天皇の墓の守護者)と称した伊東甲子太郎(かしたろう)ら15名が屯所とした寺院である。「高台寺党」とも呼ばれる。伊藤は常陸の出身で学問優秀、剣は北辰一刀流でであった。1864年江戸から京に移り、新選組に入隊し参謀となったが、近藤勇・土方歳三らと意見を異にし、袂を分かつ。同士14名を連れて御陵衛士に任命され、ここを屯所とした。薩摩藩の援助を受け、雄藩を回って勤王を説いた。伊東は近藤勇から酒席の接待を受けた帰り、油小路木津屋橋で待ち伏せしていた新選組に謀殺され、伊東の遺体を引き取りに来た多くの同志も、新選組隊士によって斬られ、御領衛士の活動は終止符を打った』
境内に白い八重桜が綺麗に咲いているしている。「ねねの道」を戻り、霊山護国神社に向かって坂を登り出す。清水寺方向に、石段が続き、日中は賑わう魅力的な坂道が分岐している。
7:59石鳥居をくぐる。「霊山歴史館」も見学したかったが、10時からのようで残念。「翠紅館跡 ここに幕末の頃、翠紅館と呼ばれる屋敷があり、志士たちの会合の場となっていた。正法寺というお寺の塔頭の1つがあり、眺望良く、会合に利用されていたのを、鎌倉時代に公家の鷲尾家が買い取り、その後西本願寺・東山別院に寄進された。1863年正月27日には、土佐藩・武市半平太、長州藩・井上多聞・久坂玄瑞ら多数が集まり、6/17にも長州藩・桂小五郎、久留米藩・真木保臣らが集まった。この数年後から攘夷運動が次第に高まり、反幕府の政治勢力となりつつあった。これら各藩の志士代表者会議で、攘夷の具体的方法が検討され、世にこれを「翠紅館会議」という。8/13に、孝明天皇の大和行幸の詔書が出され、攘夷運動は頂点に達した。しかし8/18政変が起こり、その結果攘夷派は失脚し、代わって公武合体派が主導権を握り、幕末の政局は混迷の度を増していった』
門前に、「贈正四位坂本龍馬氏の墓」「天誅組義士墓」「この上に勤王志士の墳墓あり」「贈従一位木戸孝允卿墓」の石碑が立っている。「贈」だから、死後贈られた官位ですね。孝明天皇大和行幸に即応し旗揚げし、その後の京の政変で賊軍と孤立殲滅された不運の天誅組義士の案内碑が立っているとは、なんか気持ちが良い。
8:08「霊山護国神社」。『当神社は、幕末維新に殉じた志士と大東亜戦争に至る京都府出身の英霊73011柱奉祀する。幕末、各藩が東山三十六峰の中心であるここ霊山に、それぞれ殉死者を祀ったのが起源で、明治元年5月に太政官布告をもってわが国初の官祭招魂社とすべきことが決められた。この布告により、各藩は社殿を建設し、7月には盛大な祭典が挙行された。明治10年には皇室より巨費が下賜せられ神域が整備され、全国招魂社のうち最も崇敬を集めた。昭和4年6月には、昭和天皇御即位大礼の建物が下賜せられ、現社殿を整備し、昭和14年に護国神社と改称して現在に至る。霊山神域内には坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允・平野国臣・宮部鼎蔵はじめ蛤御門の変・天誅組の義挙などに加わった志士たちの墓300余柱があり、1356柱が合祀されてあり、この地は明治維新を偲ぶ大霊域・史跡である』
『龍馬演舞場 新しい時代の幕開けを夢見ながらも慶応3年11月15日京都四条河原町・近江屋にて刃に倒れた幕末維新の英傑・坂本龍馬。京都霊山護国神社では龍馬の命日に「龍馬祭」を行い、坂本龍馬・中岡慎太郎・藤吉の3柱の御霊をお慰めています。龍馬の故郷・高知県では、「よさこい鳴子踊り」が盛んに行われております。彼の命日に故郷を伝える「よさこい鳴子踊り」を境内にて奉納し、在天の坂本龍馬にご照覧頂こうとはじめられたのが、「龍馬よさこい」です。京都霊山護国神社境内は、この発祥の地で、この場所を「龍馬演舞場」と名づけ、龍馬を追慕する者たちが、舞を捧げる場所であります』
瀟洒な拝殿にお参りします。なんだかんだ言いながら、生まれてからずっと平和に暮らせ、国や民族のことは空気と同じように意識せず来れたのは、繁栄する日本という国があったからこそです。江戸時代でも世界最高の識字率を誇ったという為政者が搾取せず、臣民全体のレベルアップを願ってきた国民性が、脈々と受け継がれて来たからだと思っている。それは、為政者が時代とともに変われど、天皇家という太古の時代から続く日本民族の心の拠り所である家を頂いているからです。この家から臣籍降下した多くの氏族から派生し、その氏族と婚姻を重ね血のつながりを持った人々が、現在の日本人の殆どという広い意味で親戚が集まった国家が海で大陸と隔絶された土地に住んでいる特殊事情によるところが多い。境内に立つ日の丸を見上げながら、この国に生まれた幸運を思う。明治維新の時代は、欧米列強が海外に進出し、まさに日本も植民地化される寸前の時期だった。江戸幕府側・新政府側として戦ったが、結果的には軍事力では新政府側を圧倒していた幕府軍が、「天皇」という古代から続く日本の象徴的権威でまとまる形で、割合平和的に多くの臣民犠牲者を出さず、国の統一が成った。残念ながら、配線側の幕府軍の将兵の御霊は葬られてはいないが、その後の日本の大発展と生き残りを成した英雄たちが眠っている。手を合わせに行こう。
墓所全体の地図があり、墓石のある志士の名前が全て書かれている。坂本龍馬に始まり、多くの有名志士の名に目が行くが、「十津川郷士」の墓石も並んでいた。有名志士の他に見たかった墓石群です。十津川は、山深い紀伊半島の中央部にあり、周辺地域と隔離されているといえるほど、交通の便が良くない。神武東征でここを北上し奈良盆地に入ったという長い歴史を持ち、政争がある度、敗軍が逃げ込んだ場所でもある。
産業もあまりなく、ほそぼそと生計を立てているだけだが、国家への奉仕という視野の広さを持っている。京都の皇居守備隊として、物騒な京都の町の治安を維、明治維新に繋がる最初の討幕運動と言える「天誅組の乱」の兵として人数を送った。歴史では将の名が後世に残るが、名も無き兵の奮闘を忘れてはならない。
電車の自動改札機のような入場方法で入る。300円。「参拝者順路」の道標が立っているので、それに従うと大きく巡れるようになっている。「坂本龍馬先生の墓」など参拝者の多い墓にスムーズに行けるようになっている。入場してすぐに、「パール博士顕彰碑」への道標が立っており、嬉しくなってしまった。東京裁判で、戦勝国が当時の国際法違反ではない当時の日本の戦争指導者を裁いた。世界中の戦勝国から集まった裁判官の殆どが、法律にないことで有罪判決を出した中、唯一インドからやって来たパール判事のみが「無罪」判決を出した。
結果的には通らなかったが、頑なに法の精神に則って抵抗した。現在は、「東京裁判のパール判事判決」こそ本来の法治の姿と、高く評価されている。そんな大恩人をきちんと顕彰しているのに、ちょっと涙が滲んだ。家内の父親は、職業軍人・部隊長として中国戦線で勇猛に戦い、戦時中は地元播磨の英雄として名が知られていた。率いた部隊に、家内の実家の苗字名が頭に付いていたほどだった。戦後シベリアに抑留され、辛い生活を送ったそうだが、もしすぐに帰国できていたなら、東京裁判に掛かっていたかもしれない。
『駆逐艦・長波の航跡 1942年6/30大阪藤長田造船所で竣工。8月北方キスカ島へ船団護衛。9月南方トラック島へ向かう第2水雷戦隊としてショートランド基地へ。ガタルカナル島陸軍部隊を支援十数回の輸送を遂行。10月南太平洋海戦。11月ルンガ沖夜戦に二水戦旗艦として参加。1943年再度北方艦隊に編入アッツ島支援及びキスカ島撤収作戦に従事する。この作戦で船体を損傷し、修理のため母港舞鶴に帰港修理。9月に南下、ラバウルを基地として、ブーゲンビル島沖海戦その他各海戦に参加。11/11ラバウル港における対空戦闘で被弾し航行不能となる。巡洋艦夕張及び長良両船に、延々5000海里曳航され呉軍港に入港修理。1944年7月連合艦隊とともにシンガポール港に入港。10月ブルネイ港を経由レイテ島海戦に参加。11月マニラとレイテ島間の物資輸送護衛行動中、オルモック湾において米空母艦載機350余機と交戦激烈な対空戦闘の末、ついにオルモック湾に戦没する。 戦没者247柱 時刻12時45分 東経125度31分・北緯10度50分』
『昭和の杜 国のため、いのち捧げし、ますらおの、いさを忘るな、時うつれども』
『土佐藩招魂社』
『高知県招魂社 明治2年創立 創建:旧土佐藩 祭神:坂本龍馬・中岡慎太郎外100余烈士 昭和43年高知県人会篤志家の寄進により再建小像由来 この小像を拡大制作したものが円山公園の銅像である。坂本竜馬像は、寺田屋お登勢が伏見在住の画家・田中松穂に描かせた先生遭難直前の肖像をモデルにしたもので、当歴史館に保存されている』
『吉村寅太郎の墓 天誅組 1863年8月13日、大和行幸の詔が出るや「攘夷親征の奉迎」と土佐・吉村寅太郎をはじめ、三河刈谷の松本謙三郎・備前の藤本鉄石などは、侍従・中山忠光を盟主に立て、京都東郊の方広寺に集まり、統幕のため挙兵に出た。奈良県五條代官所を襲撃し成功したが、8/18の政変により事態は急変、行幸は中止となり、直ちに幕府は諸藩に彼らの追討を命じ、応戦するも十津川郷士の離反などから敗走を重ね、秀でた志士を失うこととなる。吉村寅太郎は、成績極めて優秀で、容姿端麗、同志間で目立つ存在であった。おくにという娘との清純な恋愛を通じ、青年としての喜びを感じた9/27、傷を負って敗走中、大和鷲家口で藤堂兵に囲まれ、「吉野山風に乱るるもみじ葉は、我が打つ太刀の血煙と見よ」と辞世を残し、銃弾を受け斃れる。享年27才。
天誅組総裁・藤本鉄石は、同志中最年長の48才にして文人墨客で、昼は一心に絵を描き、夜は志士たちと会議を重ね回天の策を巡らすという二重生活を送る。天誅組総裁・松本謙三郎は、18才の時槍術の稽古中に左目を失明、吉野山中での激戦にて敵弾を受け、右目をも失い自刃した。
過激な尊攘派で知られる中山忠光は、血路を開き大阪から海路長州へと逃れたが、1864年11月潜伏先の豊浦郡田耕村にて暗殺され、20才の人生を終える。天誅組は倒幕の急先鋒であり、憂国の士の集団であったが、彼らの純粋な想いだけを残し短期に壊滅した』
ここから、手前の八坂の塔のバックに京都市街地が見下ろせ気持ちが良い。坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓を拝見。2人の小像がある。『坂本龍馬・中岡慎太郎の最期 徳川慶喜大政奉還劇の大作家・坂本龍馬は、洛中において河原町三条下がる材木商・酢屋嘉兵衛方に寓居していたが、遭難10日前に醤油商・近江屋新助方に転居した。龍馬は、当時幕府方から最も狙われていた志士で、新選組・見廻組らの追及が急となり、藩邸の堀内慶助らの気遣いから近江屋を選んだのが仇となった。1867年11月15日午後6時頃中岡慎太郎が訪問、この2・3時間後、会議中の彼らは刺客の襲撃に遭い、坂本龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は右肩から左背骨にかけ、三の太刀で前頭部を裂かれ倒れた。盟友・中岡慎太郎は、全身に傷を負い、2日後息を引き取った。18日、近江屋にて葬儀が行われ、ここ霊山に埋葬された。昭憲皇太后の夢枕に一人の侍の影が立ち、「微臣坂本にございます。この度の海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえご安心願い上げます」と言い残すと消えたという。坂本龍馬、志士中の一級志士と言っても過言ではない』
『池田屋事変 浪士狩りと称し洛中の取り締まりを行っていた新選組は、1864年6月5日早朝、武田観柳斎らにより、桝屋喜右衛門と名乗る古高俊太郎を捕らえ、壬生屯所へ連行。土方歳三による激しい拷問により、志士密会と大謀議を自白。同日夜半、池田屋にて会議中の尊王攘夷派志士たちを新選組・近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助らが襲撃。これにより宮部鼎蔵・吉田稔麿・松田重助ら優れた人材が闘死・捕縛され失われた。また事変が機となり長州藩が挙兵、上洛。禁門の変が起こる。吉田稔麿・辞世の句「むすびても又むすびても、黒髪のみだれそめにし、世をいかにせむ」長州藩邸から池田屋に向かう途中に詠まれた』
『水戸藩招魂社 明治維新時に国事に倒れた水戸勤王殉難烈士1785柱が合祀されている。元治甲子の変1074柱、安政の大獄7柱、桜田門外の変21柱、東禅寺の変11柱、坂下門の変5柱、越前敦賀の殉難345柱、その他322柱。合祀祭人は、水戸市回天神社境内の忠魂塔にその氏名が刻んである』
神道式の先の尖った墓石が並んでいる。大東亜戦争で亡くなった方の石碑も多く立っている。『山口藩招魂社』『霊山招魂社』『長州勤王烈士墓』、まとまって各藩の志士の墓石が並ぶ。
『禁門の変(蛤御門の変) 1864年7月19日、長州兵3方面より御所を目標に進んだが、互いの連絡協力の余裕がなく、3ヶ所で勝手な戦いとなった。福原越後の伏見勢は北上して、藤ノ森で大垣兵、竹田街道で彦根兵と新選組にあっけなく敗走。国司信濃の天竜寺軍は一挙に御所西側をついたが、会津・薩摩軍のために蛤門で撃退された。増田右衛門介の山崎軍は南から堺町門に迫りながら、越前兵に潰滅させられた。その際に、来島又兵衛・久坂義助・寺島忠三郎・入江久市・真木安臣外数十名の志士が戦死する。ことごとく霊山に眠る』
墓所の一番高いところに桂小五郎・幾松の墓があった。『維新三傑の一人、桂小五郎。容姿端麗にして神道無念流の達人。吉田松陰門下生で理性もあり流血に縁遠い。一生人を斬ったことがないと言われ、北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬と似ている。勤王芸妓第一人者・三本木の幾松とのロマンスは、文久元年、桂小五郎28才・幾松18才、相思相愛の仲になり、激動の時代の中で苦楽を共にし結ばれた。勤皇の志士たちの最後は大方悲劇に終わるが、明治10年1877年5月26日45才で病没するまで、動乱の幕末を駆け抜け、維新後も活躍し、陽の当たる道を歩んだ幸運児とも言える。幾松も同じで、維新の大業成るや正二位侯爵・木戸孝允夫人となり、従四位を賜る程の女傑。ここ霊山に建立されている勅碑からも伺え知る事ができる』
「内閣顧問・勲一等・贈正二位木戸孝允墓」と墓石に刻まれている。「明治34年5月26日特旨被追階・従一位」の碑が横に立っているので、死後四半世紀経って、従一位まで上ったようです。「贈正二位・木戸孝允妻・岡部氏松子墓」が、正式な市松の名のようです。氏族名が入るところが、明治の国民皆苗字になってなお、江戸時代の慣習の名残りを感じます。
『熊本藩招魂社 明治3年(1870)熊本藩主により創建され、宮部鼎蔵ら同藩出身の志士を祭神とし、昭和43年・明治百年記念に、河上・樋口・堤の3柱を合祀、昭和61年横井小楠を合祀した。 祭神18柱』
『岐阜県招魂場 明治3年1870染川星巌の碑が門人により建てられ、戊辰戦争で戦死した徴兵7番隊の川田敬蔵・家村半三郎・中川源八郎・水野定吉らの碑が建ててある。平成2年所郁太郎の碑を建立』
『福岡藩招魂社 明治3年1870年3月、福岡藩主により創建され、平野次郎国臣はじめ福岡藩出身の勤王志士を祭神とし、久留米藩出身の真木和泉守他を合祀。祭神数215柱』
『鳥取藩招魂社 明治3年鳥取藩知事・池田慶徳公によって山頂近くの32坪に建立され、維新を見ることなく散った幕末・戊辰戦争殉難祭神87柱を合祀したものである。この中には、鳥取藩付属として従軍した丹波山国郷(現京都市右京区京北山国)の山国隊7柱が含まれる。大政奉還の日・10/14を慰霊日と定め、戦前までは国費で、戦後は京都鳥取県友会が参行している。
幕末殉難者11柱(三像の梟首事件・本圀寺事件・生野挙兵事件・天誅組大和挙兵事件)。戊辰戦争殉難者76柱(関東の戦い・磐城国の戦い・越後の戦い、羽後の戦い)。合祀されいない殉難者(幕末殉難者17名・戊辰戦争殉難者22名)』
パール判事の碑を見ようと下に降りてくると、『金鵄勲章の歴史と鎮魂の賦 金鵄勲章は、明治23年明治天皇により制定され、武功抜群者に授与された国家最高勲章で、日清・日露戦争より大東亜戦争に至るまでの受賞者は、94万余名に上るが、大東亜戦争の受賞者は全て戦死者であり、他の戦役でも戦没の受賞者が大多数を占めている。
特に靖国神社、護国神社に合祀された英霊(特攻隊戦死者を含む)の大半は金鵄勲章受賞者である。大東亜戦争終結後、新憲法施行により、金鵄勲章に関する制度は廃止されたが、本人一代に限り公用着用を認められ、宮城参賀・総理観桜会・その他公式行事に着用し得ることとなった。
回顧すれば、はるか支那事変に始まり、国運の浮沈を賭けた大東亜戦争において、米英を主とする列国より強力な経済封鎖の抑圧を受け、座して死を待つを潔とせず、祖国の自衛自損と東亜の開放と安定のため、敢然と起って死中に活を求めて列強に挑んだ戦いを「八紘一宇の聖戦」と心から信じて、祖国の防人として野戦に空に、そして海において悪戦死闘の末ついに鬼神、壮烈悲惨なる玉砕の悲運を喫した。殉国の英霊に対し、心から感謝と鎮魂の祈りを捧げ、その抜群の武功を顕彰するとともに、ここに不戦の誓いを込めて、世界の恒久平和を祈念するものである。 終戦51周年記念・紀元2656年・平成8年 日本金鵄連合会/京都府金鵄会生存者一同』
これは熱いメッセージだ。私の母方の祖父は、母が4才の時亡くなっている。明治天皇近衛騎兵隊長で、日露戦争の武功により金鵄勲章を陛下から賜ったが、戦地の寒さにより腎臓病を患い、昭和7年40代の若さで世を去った。母に連れられ実家に帰る度に、家宝の「金鵄勲章」を見せてもらった。
『白鴎顕彰の碑 学徒出身戦没海軍飛行科予備士官の霊に捧ぐ 大東亜戦争は航空決戦が祖国の存亡を決する戦況となり、旧制大学、高等・専門学校を卒業または在学中の学徒たちは、緊迫した祖国と同胞を護るために敢然と海軍飛行科予備学生・予備生徒を志願し、学窓から対空の決戦場へ赴きました。短期間の猛訓練に耐え、航空隊指揮官として英知と勇気を持って戦い、2485名が雲ながるる果てに散華されました。その中、神風特別攻撃隊士官搭乗員の85%・658名が学徒出身海軍飛行科予備士官であった。学徒たちは戦争の矛盾を感じつつも、一心に祖国の安泰と平安を信じ「後を頼む」の一言を託し、生死を超越して戦った精神こそ、この国を継ぐ者への指標であります。こうした痛恨の史実を語り継ぐため、戦後日ならずして生存同期生相集い、海軍航空隊を象徴したその名も白鴎遺族会を結成、英霊の永遠なる在世を希い「白鴎顕彰の碑」を建立し、深く哀悼の意を捧げ、世界平和を祈るものであります』
散華された英霊の方々の氏名が書かれた銘板が壁に並んでいた。僕の大学ヨット部の先輩にも特攻隊に志願された方がおり、1人だけ出撃前日に終戦し、生き残られた方がいる。OB会には必ず海軍帽を被って来られ、戦争を知らない僕ら後輩に対しても、背筋を伸ばし海軍式の敬礼をされていた。温和な話しぶりながら、国の一大事の局面で立ち上がった男気を感じる方だった。精神力は、到底敵わないと感じる大先輩だった。
「ラダ・ピノール・パール博士」の碑は、氏の大きな写真がはめ込まれた石碑だった。『当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、1946年東京において開廷された「極東国際軍事裁判」にインド代表判事として着任しました。すでに世界的な国際法学者であったパール博士は、法の真理と研鑽探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇にすぎないと主張し、連合国側の判事でありながらただ一人、被告全員の無罪を判決された。今やこの判決は世界の国際法学界の指標となり、独立したインドの対日外交の基本となっている。パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍され、日本にも度々来訪され日本国民を激励されました。インド独立50年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念する。日本国民は、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界世界の平和を希われた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります』
協賛者として、日本のグローバル企業がズラリと並び、パール博士の敗戦国日本に与えた勇気の大きさを感じる。霊山護国神社は、素晴らしく良かった。車に戻り、7:36〜9:06「下河原モータープール」800円。
「東大路通」に出て北上。ここで、ヨット部の学生から電話が入りました。「本日、大丈夫ですか?」「はい、6時から京都にいるよ」。気まぐれで岡崎の方に曲がってみる。10台弱のオフバイクが、いかにも「山に行くぞ」って感じで走ってる。2ストのオイル焼け臭が車の中にも入ってくる。音もうるさいし、白煙も多い。距離を開けながら走ったが、いくら違反じゃないとはいえ、環境を考えろよと言いたい。オフバイクなんて高くないんだから、未だに2スト・白煙・騒音バイクに乗ってる人は、大人として如何なものかと思う。
9:18「親鸞上人御草庵・岡崎別院」。ピンクと白の満開の桜が美しい。細道を北に上がると「金戒光明寺」です。横の「岡崎神社」にも寄り道。『祭人として、素盞鳴尊・櫛稲田媛命及びその御子三女五男八柱神を祀る。794年、桓武天皇の平安京遷都の際に、王城守護のため四方に建立された社の1つと言われ、東天王と称した。清和天皇が869年に造営し、播磨国・広峰から祭神を迎え祀った。
1178年、中宮お産の奉幣を賜ったことから安産の神として信仰され、方除厄除神として信仰が絶えない。古くから、うさぎが氏神の使いと伝えられ、祭神が子宝に恵まれ、うさぎが多産であることからも、子授けの神として屋形にある子授けうさぎ像は参拝者の人気を集めている』
ここでもしっかり、元気な男の子をお願いしました。枝垂れ桜が綺麗でした。

白川通を北上し、今出川通を西進。大学の外塀に設置されてる各クラブの勧誘看板を写真に映しながら、9:46大学正門から入る。ヨット部員I君とヨット部の幟が立ってる。車を置いて、僕の荷物をリアゲートの方に移動し、暑くなってきたので軽装になる。時計台前・クスノキに行くと、新入生の女の子が4人集まってる。
今年はSNSの影響で、ヨット部試乗会が人気になってるようで、声掛け・勧誘しなくても、メールで連絡がどんどん舞い込み、嬉しい悲鳴だそうです。本日は38名来る予定で、9:30の第一便が出発した後だそうです。例年により30分前倒しで試乗会を開始しているようです。
10時直前にもう一人女の子がやってきて、女子5人を車に乗せ、琵琶湖に向けて出発です。「山中越」で比叡山を上がり、峠の比叡山ドライブウェイ分岐を過ぎたら、眼下に琵琶湖が広がります。あ〜だこ〜だお喋りします。女の子の送迎は楽しいわ。
10:30「柳ヶ崎ヨットハーバー」着。試乗会はもう始まっています。2m/sほどの風です。僕はレスキューに乗り、ハーバーと海面の往復です。往路、2つの艇種があり、トラピーズに乗る時の手順と注意を伝え、レスキュー上でハーネスを着せ替えます。怪しいことはしないけど、ティーン女子のハーネスの着替えが出来るのは役得です。リラックス出来るよう、おもしろおかしく話をして、陸上が遅れて時間のあるときは、ボートの運転体験もさせます。ヨットに乗る機会なんて殆ど無いので、みんな初めてのヨットです。
先週、逗子開成高校ヨット部出身者が試乗会に来たそうです。そしてこの日は、江ノ島ジュニア出身者が来てくれていました。ジュニア出身者は、過去息子だけなので、ジュニア出身者2号になるといいな。厨子の子はクルーでインターハイ出場したそうで、ジュニアの子はスキッパーしか出来ないだろうから、2人で組ませて来月連休開催のメイレガッタに出せたらいいな。
16時まで、休みなくピストンして、予定全員を乗せることが出来ました。部員が増えたので、余裕を持って動けています。準備も万端だったのでしょう。車に戻り、10:31〜16:30「滋賀県立柳ヶ崎ヨットハーバー」300円。合宿所に戻ります。この日はカメラマンがいなかったので、僕がカメラマンをしました。持ってきた望遠レンズが役に立ちました。アメリカ沿岸警備隊御用達双眼鏡も持ってきてて、それで見せたらあまりに良く見えるので驚いていました。
合宿所で、部員のPCに僕のカメラで撮ったデータをコピーします。TVでその写真を流しながら、鍋です。火力がIHに変わっていました。火力が弱いので、台所で作った鍋をIHに載せて温める感じだそうです。
ワイワイガヤガヤある程度満腹になったとこで、新入生の自己紹介タイム。学部・出身高校・高校部活・2艇種のうちどっちが面白かったかを発表します。自分と同じ高校出身者だったら「名門〜」の野次が飛び、同じ学部や同じ部活にも部員から野次が飛び、新入生の言葉が聞こえないぐらい盛り上がっています。
18:30になり、キャプテンから挨拶があり、19時までの残りタイムが僕のお話持ち時間です。ホームルームのない大学では、別の居場所を持っている方が良いことを僕の卒業後からの経験から話す。卒業後、レースを続けていたり、クルージング艇で遊んでいたり、みんなヨット部先輩後輩の関係でやってることを話す。19時に、司会にバトンを渡し、今年のヨット部紹介ビデオを流して盛り上がる。そして解散。でも全員が乗れるほど車がないので、第1陣20名です。僕は男の子7人乗せて、19:22出発。「山中越」コースで19:50大学正門着。これでお役御免です。
時計台が綺麗だったので写真を写していると、先行車から降りていた女の子が3人走ってきて、「私達が乗った車に連絡が付きませんか?携帯電話を車に忘れちゃったみたいなんです」。運転手のGさんは、第2陣に向け艇庫に戻っているはず。艇庫にいる部員に電話をして、Gさんに連絡を取るように伝える。
次に車がここに戻ってくるのは1時間後なので、彼女たちに付き合うことにする。1人は自宅通学で1時間以上掛かるので帰る。携帯を忘れた子も、天王寺の自宅通学だから1.5時間コース。もう一人は下宿だから付き合うとのこと。
3人であ〜だこ〜だ。下宿の子の父親は僕と同じ年令でした。「お若く見えます、お酒など飲まれないのですか?」って褒められた。歴史が好きなようで、最初の女性天皇・推古天皇のことなどの話まで出来た。天王寺の子は、弟が愛知県の海陽中高生らしく、中学から下宿してるので、お父さんが娘を下宿に出したくないらしい。トヨタなどが出資して話題の全寮制・海陽中高生の大学進路実績はどんなものなのかな?まだ海陽生に接したことがない。
1時間後、第2陣が正門前にやってきて、無事携帯電話が戻りました。21:03、出発。東大路通〜九条通〜R1〜名神〜中国道で、22:06帰宅。家内はもう寝てたけど、用意してくれてた夕食を食べ、お風呂に入りおやすみなさい。楽しい1日でした。

2016/4/3
家内もお休みだったので、奈良葛城の道にサイクリングにでかけました。「道の駅・ふたかみパーク當麻」に車を置き、r30に沿う「葛城の道」を南下し、「近鉄・薬水駅」まで30km弱。近鉄に乗り二上まで戻ります。
7:01、自転車を車に積み込み出発。豊中ICより「中国道」に乗り、吹田から「近畿道」を南下します。松原JCTより「西名阪道」に乗り、「柏原IC」下車。R165に乗り、7:58「奈良県香芝市穴虫ローソン」で、朝食・昼食用に「助六寿司399円+手巻き寿司エビマヨ135円+わかめご飯おにぎり110円」を購入。目の前の校舎が、「智辯学園奈良カレッジ・小中高」でした。終わったばかりの春の高校野球選抜大会に優勝した奈良智辯学園系列校です。
8:18、「道の駅・ふたかみパーク當麻」着。駐車場はほぼ満車です。二上山登山に向かう方の駐車場になっている感じで、トレッキングスタイルの方が車から降りて来ます。トイレを済ませ、自転車を組み立てます。
8:38、出発。近畿自然歩道の案内があったので、「石光寺」「中将姫」「当麻寺」の位置を頭に入れ、国道を通らない道を選択します。「當麻町相撲館」の案内がありました。「當麻蹶速に因んで建てられた全国でも珍しい相撲館。番付・取組表・星取表・・・化粧回し・相撲玩具などがあり、本場所と同サイズの土俵もある』。當麻蹴速はキリストと同じ世代の方で、力持ち。悪さが過ぎたのか、垂仁天皇に出雲から呼び寄せられた野見宿禰の負けてしまい、この當麻の地も野見宿禰に与えられてしまいます。野見宿禰は埴輪を埋葬する集団を組織し、墳墓技術集団・土師氏と氏名をもらい、菅原道真などを輩出します。正史ではアンチヒーローの當麻蹶速ですが、未だに當麻の名がこの地に残り、地元の方に大切にされています。こういうのが現地に来ないと空気感として感じられません。辻々に観光案内板が設置されており、わかりやすいです。
8:47「石光寺・しゃっこうじ」。駐車場の上空を覆うようにソメイヨシノが満開です。案内板によると、ここは「染野」という地名のようです。境内に入ると、前方後円の砂山が出迎えてくれました。
『想観の沙 砂を沙と書くのは、お釈迦様が沐浴されたガンジス河の沙に例えているから。阿弥陀経に、ガンジス河の砂の数ほどの数えきれない諸仏が、弥陀を信じ極楽往生を願う念仏の衆生を・・・という下りがある。手前の方円は、私達の姿・世界を現している。相対の世界・優劣の比較によって成る世界、執着の世界を意味する。そこには励み・喜びがある反面、苦悩もあります。諸行無常・栄華盛衰、どうにも「超えられない世界」でもある。方円、すなわち四角の物体は、一見強く安定した形に見えますが、崩れやすく角も欠けやすいもの。私達の姿を現します。「円形」すなわち球体は、「超えた世界」覚りの世界及び仏を意味します。絶対の世界、壊れない世界です。柔軟に全てのことに対応できる知恵の姿です』
「奉納・山門一棟・石段一式/常盤薬品工業」の石碑が立っています。なぜに製薬会社?と思いながら、境内を見ると、小ぢんまりした本殿などが、満開のソメイヨシノや枝垂れ桜のピンクで、落ち着いた姿でいい感じです。
拝観料400円を書いてあったので1000円札を手に握りながら拝観します。ご住職さんが受付に来られ、お支払い出来ました。「中将姫・染の井・糸掛桜」「奉納・復元染井殿・玉垣/株式会社ツムラ」の石碑が立ち、井戸と枯れた桜の古株を覆屋が守っています。
『中将姫伝説 聖武天皇の御代、右大臣・藤原豊成(藤原鎌足の曽々孫)の娘にとても美しく才能あふれる中将姫という方がいた。5才にして母を亡くし、継母に育てられた。継母虐めにあい、世をはかなんで17才で出家し、當麻寺にこもられた。生身の阿弥陀を拝みたいと、毎日毎夜念じているうちに霊感を得、蓮の茎の糸を紡いだ。この井戸水で清め、傍らの桜の木に掛けて干されたところ、乾くに従って五色に染まった。この糸で一夜のうちに阿弥陀浄土図を織り上げた。これが當麻曼荼羅です。この井戸を「染の井」、桜の木を「糸掛け桜」、この寺を「染め寺」と呼ばれるようになった』
曽々孫は、孫の子(曽孫)の子で、玄孫と同じ意味ですね。當麻曼荼羅の糸がここで作られたのですね。「母が拝めば子も拝む うしろ姿の美しさ」良い句です。サルスベリの巨木が、異様な枝ぶりで迫力がある。なんて写真を撮っていると家内が行方不明になりました。仕方なく山門横の待合室で待つことにしました。
「花の寺」ということで、四季の花の写真が飾られています。役行者の像が置かれ、『漢方の元祖さまです。陀羅尼薬・牡丹・芍薬、その他の薬用を作った場所です』とありました。修験道の開祖・役行者が修行を始めたのが、葛城山を言われています。葛城山系の二上山の麓にあるこの地で、各種薬用植物を栽培して庶民を助けていたのでしょう。それが続き、中将姫の糸につながり、現在は「花の寺」となったのでしょう。それで製薬会社から寄進があるのですね。婦人薬「中将湯」で知られる漢方メーカー・ツムラの発祥は、中将姫を匿った津村家が、中将姫から教わった婦人薬を代々製造してきたことによります。「中将湯」の命名が中将姫にあったのを、初めて知りました。小さなお寺だったけど、これで大満足だ・・・と思っていたら、家内がやってきて、「裏が凄く大きいよ」って。
家内について裏に回ってみました。「石光寺染寺塔跡地」の石碑の横に柱を支えた土台石がありました。三段にくり抜かれ、柱の下に水が貯まるのを防いでいるようです。『塔の大心礎 我が国では他に例を見ない三段のくりこみ基底部に3つの穴が並ぶ。穴は舎利を収めるためのもの。681年発願の薬師寺西塔の心柱の礎石と同じ手法ではないかと言われるが、基底部の穴が異なる。白鳳時代のもの』
舎利を収め、被災から守ろうとしたようです。
アセビに似た小さな花が縦に連なって下がる木がかわいい。「きぶし」という名だそうです。牡丹で有名なお寺だそうですが、GWは牡丹目当てに大勢の観光客が押し寄せるのでしょう。オフ期間でゆっくり楽しめ、ラッキーでした。
9:30「高雄寺跡」。役行者によって開かれたそうです。乳の出ない方や、耳の不自由な方にご利益がある。乳を飲ませる絵馬があるというので、神仏習合時代の名残と思われる敷地内の厳島神社拝殿に入ってみた。厳島神社らしい武者絵馬と翁媼絵馬ばかりで、授乳絵馬は見当たりませんでした。
9:42「当麻寺奥の院」裏口。拝観料500円。『当麻寺は、用明天皇第3皇子・麻呂子親王が、兄の聖徳太子の教により創建した寺で、中将姫の當麻曼荼羅・天平時代の東西両塔・日本最古の白鳳時代の梵鐘や石灯籠などで知られています。奥の院は、浄土宗総本山・知恩院の「奥之院」として建立された寺で、「往生院」と呼ばれていました』。當麻寺の奥の院ではなく、遠く京都知恩院の奥の院とはびっくりです。
拝観料は、奥の院と當麻寺間の事務所で払うようで、「こちらです」と呼んでいます。「浄土庭園」は、満開のソメイヨシノと枝垂れ桜が咲き誇っています。三脚で素人写真家が撮っています。重文・江戸時代「奥の院楼門」と2色の枝垂れ桜が絵になります。吉野など桜の名所は、凄い観光客なのでしょうが、僕には人を見に行くようなものに見えます。土曜の夜も、家内と近所の公園を夜桜見物しましたが、静かにゆったり花を愛でたい。
當麻寺の方へ下る。2棟の多宝塔がある感じの良い寺院です。奥の院から眺めるのが一番良い眺めかな。本堂に「参拝受付」と書かれていたので入ってみる。拝観料500円。国宝の本堂は、奈良形式の素朴な屋根形状で京都のそれのような迫力・魅力には欠けるが、安定感がある。その中に中将姫が織ったという国宝の本尊「當麻曼荼羅」が、これまた国宝の厨子(天平時代)に収められている。曼荼羅前に座って、説明の音声に耳を傾けながら眺める。長い間戦災に遭わずに守られてきたものだ。ありがたい。
そこを出ると、「講堂」前に係の方が立っており、「こちらです」と誘導される。藤原時代の丈六の「阿弥陀如来坐像」が鎮座され、また音声案内に聞き入る。藤原時代という大昔からの仏像なのに金色に輝く金箔が健在なので、出るときに係の方に聞いてみました。金箔も当時のものとのことだったので、「じゃあ叩きがけもしていないのですね」と問うと、「叩きをかけると、金箔は落ちちゃいますからね」と当然のように答えられました。東大寺の大仏も、年末恒例の掃除をしなければ、再建・鋳造された当初の金色に輝く姿を今に伝えていただろうにな・・・。
そこを出ると、今度は「金堂」から呼ばれます。どうやら拝観料は3つの伽藍を拝観できるものだったようです。国宝・弥勒菩薩坐像と四天王(2つは修復中でおられず)像が鎮座されていました。
「中将姫剃髪所」がありました。ここに散髪屋があったらウケると思います。當麻寺を中心に多くの塔頭が軒を連ね、とても楽しめました。
自転車に戻り、出発。10:46、當麻寺正面。釜飯屋さんやそば屋さんがあります。田舎道が切れたので、r30に出て南下開始。10:54、竹内街道との交点。何度も柿の葉寿司を買った「タナカ」のお店は、ここだったんだ。竹内街道との位置関係がわかっていなかった。葛城市コミュニティーバス停・「兵家」で休憩。暑いのでウインドブレーカーを脱ぎます。家内なんて、上1枚・下1枚を脱いでいます。スポーツタイツの上にまだ着ていたんだとビックリ。「この道、怖い」と言われちゃった。信号が少なく快走路なんだけど、交通量が多めです。自転車で走ると、路肩の殆ど無い所もあるので、確かに怖いね。
南阪奈道路の高架をくぐった所で、r30から離れます。当初は「九品寺」までr30を走る予定でしたが、ロープウェイを使い、葛城山・標高959mに登ってみることにしました。何度か地元の方に道を確認しながら、アップダウンを繰り返し、r30とロープウェイ登山口を結ぶ道・標高237mに出ます。
途中菜の花畑があったり、奈良盆地が一望できる場所があったり、老人ホームがあったり。12:02、老人ホームがある見晴らしの良い場所で、お昼ごはんにします。両親は、デイケア施設に行きたがりませんでした。無料で月数日利用できるのですが、興味なし。施設からは、利益につながるから誘われるが行かない。そりゃそうだわ、老人ばかりのとこ行って、幼稚園児のお遊戯みたいなことしても、おもろいわけ無い。僕だって嫌なので、僕がわけがわからなくなっても、やがて死んでいく僕なんかにお金を使わず、子孫に少しでも財産を遺したい。
景色の良い老人ホームに入っても、気持よく景色なんて見れないから僕は入らない。「食わさなかったらすぐ死ぬからそうしてくれ」と家内に頼みましたが、「私が虐待になっちゃうよ〜」なんて困っています。姨捨山って制度は、よく出来ているように思う。生きる楽しみがなくなり、子に迷惑かけるばかりになったら、食い扶持を減らすために山に入る。自分の意思で入るんだからいいんじゃないのかな?生き延びれば、仙人になれるし。
「新庄乗馬クラブ」の横を通る。桃の花が咲いてる。ロープウェイが近くに見えてきた。ここらから、トレッキングスタイルの方を見かけるようになってきた。葛城山からの帰りでしょう。
12:23、r30とロープウェイ登山口を結ぶ道に出る。ラッキーにも奈良交通バス停「梅室口」があった。次のバスまで30分あります。ちょうど横の野球場で練習していたコーチが、お昼休みで出てきた。「歩いて20分ぐらいかなあ」ということで、自転車をここに置いて歩いて上がることにした。318mまで上がります。
12:37、ロープウェイ登山口。次のロープウェイは13:05ということだったので、売店でモナカを買って休憩です。登山道を使ったトレイルラン大会の案内、ギフチョウを守ろうの新聞記事、葛城山頂気温12℃・視界やや不良などの案内版を見ます。
「ロープウェイ空中の旅」が始まりました。大和盆地が眼下に一望でき、大和三山がずっと下に見えます。途中で登山道の上を通り、真下に下っていくハイカーが見えます。
13:10、「ロープウェイ山上駅」。「クジラの滝コース・登り1:50」「北尾根コース・登り2:00」、下りで使ったら−30分でしょう。周囲はブナの森でした。山頂まで500mなので、家内が「行こうか」と言いますが、ロープウェイ登山口駅についた時、足が攣っていたので止めて、ブナの森を楽しむことにします。帰路の自転車が残っています。家内がリタイヤしたら、また僕だけ必死に車まで走る羽目になります。
こんなとこに、「葛城天神社(櫛羅天神講)」がありました。天神講をこんな山の上でやっていたのだろうか?櫛羅は、「くじら」と読むそうで地名です。名前の謂れを調べてみたけど不明です。櫛羅村があったそうで、櫛羅藩まであったそうな。知らなかった。ふわふわ尻尾のリスがいました。ブナをチョコチョコ登り、可愛かった。「大日大聖不動明王」「役行者神変大菩薩」がありました。
『役行者は名を小角、姓を役公と言い、欽明天皇6年(537)この山の麓・御所市茅原の里で生まれた。父は加茂間賀介麿またの名・大領、母は渡都岐比売またの名・白専女と伝わる。幼少より天性聡敏、7才にして仏道を志し、当時乱れた人心を救済しようとした。17才で発願し、葛城の深山幽谷で荒修行を重ね、蔵王権現を感得し、修験道を開創した。その足跡は山岳修行の先駆者として、日本全国の霊山に残されているが、とりわけここ葛城山は役行者が四方の山々を眺め、吉野大峰の如何に岩橋を掛け、客僧たちの通い路にされようとした伝説とともに、山岳宗教修験道発祥の霊地として、崇敬されている』
「葛城の自然研究路」「葛城山の動植物たち」「ブナとヤドリギ」「野鳥のさえずり」「かたくり」などの案内板を見て、東屋で時折やってくる野鳥を追います。山上駅の上の展望台に登ります。ここは絶景でした。大和盆地に留まらず、竹内街道が通る生駒山系との間のたわの向こうに大阪市街地のビル群が見えます。更に京都の方角にも家々が見えます。宇治なのかな?
14:00発のロープウェイに乗り下山します。5分の空中散歩。歩いて自転車まで下山しました。途中に「乗馬クラブ・クレイン奈良」がありました。「猿目橋バス停」から道をそれ、14:33「六地蔵」。14:41「駒形大重神社」。参道のソメイヨシノが綺麗で、アマチュアカメラマン数人が、三脚で撮っていた。農耕に使役した馬を祀ったのが、名の謂れだそうです。
14:46、「九品寺」。ここもソメイヨシノと枝垂れ桜が満開で、そのピンクがアクセントになって美しい。ここで、空からポツポツ来ちゃいました。本降りに成る空模様ではありませんが、ここでサイクリングを切り上げることにしました。PCからプリントした地図には、ロープウェイからの下り道を真っ直ぐ行くと、「近鉄・御所駅」がある。ここを目指そう。
ロープウェイを見上げながら、適当にあぜ道などを北東に走っていると、広い道に出たのでそれを東に下って行ったら、ビンゴ!15:29着。前輪を外し、輪行袋に入れます。前回輪行したのが2014/9だから、1年半振りの輪行袋で、忘れていたことがあり、少々手間取りました。御所駅は、近鉄南大阪線・尺土駅から出ている支線・御所線の終着駅です。「初芝橋本中高」は、ここが最寄りの駅のようで、スクールバス運行と書かれています。
ワンマン車だったので、車掌スペース前に置きます。単線でした。尺土駅に着いたら大阪阿倍野行準急が入ってきたので慌てて乗り換えました。ツーマン車だったけど車掌スペース前の方が、すっと場所を譲ってくれました。「ありがとうございます」「大変ですね」「遊びなので、大変なんて言ったら罰が当たります」。車内路線図を見ながら「次は何処で下りるの?この電車停まるのかな?」と家内。「二上山」。「二山神社」もあるよ。場所を譲ってくれた方が、「準急は各駅停車だから大丈夫ですよ」と教えてくれた。
16:01、「二上山駅」。黄色いディーゼル車が停まっている。新幹線で言えば、ドクターイエロー?「Plasser & Theurer 08-275UM型」「近鉄軌道エンジニアリング株式会社」と書かれていた。帰宅後調べると、オーストリア本社の線路工事用銃器メーカーだそうです。
雨は上がっていましたが、家内はここで待ち、僕だけ車に戻りピックアップすることにしました。これが後で大笑いにつながります。僕の自転車だけ前輪をセットし、後片付けは家内に頼みます。R165に出て、「道の駅ふたかみパーク當麻」に向かいますが、途中に「二上神社駅」があるじゃないか。
道の駅に着いて、ササッと前輪を外し、車に載せます。総走行時間1:35:03・総走行距離17.24km・平均速度10.8km/h・最高速度43.9km/h。16:33、お迎え出発。16:38二上山駅。輪行袋から出されていた家内の自転車をササッと積み込み、16:41帰路に着きます。
往路同様の道で、17:37自宅着。車から荷物を下ろしていると、「あ〜車輪忘れた〜」。家内の自転車の前輪を駅に忘れました。自転車本体を先に積み、固縛してて前輪を載せるのを忘れちゃった〜、ガックリ。「駅に電話してくれる?」と家内にお願いすると、「え〜大丈夫、無理しないで」。「大丈夫、1時間で行けるから」。
家内が電話している間、僕は荷物を下ろします。自転車2台をラックに載せたとこで、「106に聞いたら、二上山駅って電話番号を公開していないんだって。近くの駅の番号を聞き、問い合わせてもらった。車輪あったって。私もついていこうか?」「いや、いいよ。ゆっくりしてて」
17:51、再び出発。19:06、二上山駅着。「すいません、お手数掛けました」「自転車のタイヤを忘れたって聞いて、え〜って思いましたよ」って笑っていました。免許証を見せ、住所氏名などを書き、無事回収。19:09、駅出発〜20:07、自宅着。大笑いです。
「NHK大河ドラマ・真田丸」を見ました。幸村の奥さんが、家康との攻防で死んじゃった。真田信繁(幸村)の最初の奥さんが、こんなに早く死んじゃった。黒黒田官兵衛と同じだ。残されたのが嫡男・幸昌(大輔)の姉、何処に嫁いだのかな?

2016/3/27
家内に用事があるので、1人遊びの日です。天気予報は午後から怪しいけど、琵琶湖西岸・高島の歴史探索に行くことにしました。高島は、「継体天皇」が出た地です。神功皇后が三韓征伐し、朝鮮半島の利権も確保した大和朝廷ピークの神功皇后の息子「15代・応神天皇」(古墳の大きさ日本第2位)その息子「16代・仁徳天皇」(日本1位)の時代を経て、「25代・武烈天皇」で皇統が切れてしまいました。武烈天皇は子を成さず、残虐な天皇として歴史に残っていますが、ホントのところはわかりません。あまりな残虐さで政道をほしいままにしたので敵も多く、子を殺されたのかもしれない。后さえ寄り付かなかったのかもしれない。その子を次の天皇につけるのを反対する勢力があったのかもしれない。
真実は分からないが、皇族に男系男子がいないので、応神天皇の子で皇族を離れた系統を探しまわった。やっと見つけたのが高島で暮らす子孫。地方豪族としてたいそう繁栄してしたようで、その財力を取り込むという経済的側面もあったのかもしれない。双方の疑心暗鬼により、天皇就任を渋る子孫は、58歳という超遅咲き天皇として、武烈天皇の妹を皇后として迎え「26代・継体天皇」になる。その後も疑心は晴れず、即位19年後に大和に入ったという異色の天皇です。「ほんとは、ここで皇統は切れているんじゃないか?」なんて説もあります。天皇好き「尊皇派」の僕は、そう思いたくないんだけど。天皇家にまつわる逸話はいくらでもあり、それらを読む度に好きになります。前述の仁徳天皇は、「人家から夕餉時にも関わらず、煙が立たないのを見て、3年間租税を免除して、自らも質素な生活をしました。煙が立つようになって税を戻した」なんど、征服者としての王の姿とは真反対です。
近くは、太平洋戦争敗戦後、マッカーサーを訪問した昭和天皇が、「私の命はどうなってもいいから、国民を助けて欲しい」と口にしたそうで、その言葉・行動・所作に感動したマッカーサーは、オーストラリア・ソ連・中国からの天皇処刑に真っ向反対した。今生天皇が、様々な被害を受けた方を訪問し、仮設住宅に励ましに行くときも、必ず座って同じ視線からしゃべっている。東日本大震災で津波が襲った現場に行かれ、海に向かって深々と頭を下げている後ろ姿を見て、僕は泣けてきました。偉そうにしている政治家は山のようにいるのに・・・。僕も消費税が始まった時に、市会議員さんとの取引で、「おまえんとこは消費税を取るんか」と言われた事があります。「あんたら政治家が法律を作ったんやろ」とはらわたが煮えくり返りました。過去には酷い天皇もたくさんいただろうが、長い歴史を刻んで、天皇家ほど日本人の模範となる家族はいないと思っています。
話を元に戻し、古代史の謎「継体天皇」を現地で感じたくて計画しました。いつものように訪問予定地はどんどん増え、高島に名神高速〜湖西道路で行くのも芸がないと、京都北部山岳地帯横断、未走林道・旧道探索も加えると、下道だけなのに距離は400kmを超え、訪問地探索時間を除き所要時間13時間になっちゃいました。しかも普通は往復1時間かかる山城を2つも予定に入れてるし・・・。完走は無理とわかっていながら、「行けるところまで」といういつもながらのアバウトな計画を立てました。
4時頃目覚めたような気がしたがウトウトしてて、次に目覚めたのが5時、慌てて起きました。バイク春秋装束に着替え、「里山VTR250」を準備します。出発は5:30。r13脇にある「川西航空機器工業」を写真に収める。紫電改などを生んだ川西航空地(現在の新明和工業)とは別の会社ですが、名前が似てて気になる会社です。池田からR423で北上開始です。R477〜r19〜美山の予定でしたが、無意識にR423に乗っちゃいました。途中でR477にチェンジする事もできましたが、「まあいいか」。
亀岡盆地に下り、R372に合流し、R9を渡ってr405で桂川を渡り、R477に乗りました。「廻り田池」までの谷沿い山岳路を行こうかと思ったら、「全面通行止」の看板が目に入ります。時々がけ崩れで通れなくなるあの部分だろう。よく見ると、日曜日は交互通行のようなので行けます。迂回路と書かれている道が「紅葉トンネル」指定だったので、トンネルが完成したようなので、初めて通ってみることにしました。峠を抜けることにしました。
r408から紅葉峠の道に入る。いい感じの寂れた峠道で、展望東屋から下界が見下ろせ、朝霧雲海を楽しんだこともあります。峠への道はまだ残っていますが、交通量は更に下がり、廃道寸前なのかもしれません。僕のような廃道好きしか行かないでしょう。
「紅葉トンネル」は快適な道で、紅葉山を抜け、r50に出ました。ラリーでもあるのか、それらしい市販カーが何台も追いぬいて行きました。ゼッケンは貼っていなかったので、スタート地点に向かうものと思われる。r50を日吉ダムに向かっていると、対向車としてラリーカーが来るので、「宇津峡公園」がスタート・ゴールかもしれない。r19〜r443〜r365〜r364の周回コースを想像する。
7:03、ダムを見下ろす駐車場で休憩。日吉ダム公園を横目にr19に入り、「木住トンネル」手前で右折する。木住川沿いの道です。未舗装化もしれないと思っていましたが、綺麗な舗装路で、意外にも民家が点在する里山の道でした。7:11「中木住バス停」。時刻表を見ると、南丹市バスがJR日吉駅行きが日に1本+週3日のみ2本走っています。その他に火・木のみですが、南丹デマンドバスというのが日に4本循環運行しています。
地図を見て「木住」という地名に目が止まりました。木製のお椀やお盆を作る「木地師」なんてそのものズバリの地名ではないが、木で生計を立てている集落の名残を感じて来ましたが、深い森も細い道もなく、予想が大きく外れました。快適サイクリング道って感じです。「ホタルの飛び交う自然豊かな里・生畑」の看板が立ってる。もう少し近かったら、6月に来るのだけれど。横の森を覗くと、椎茸栽培されている。
「柏木トンネル」を抜けて、r19に戻ります。r78に少し入り、r19・「神楽坂トンネル」の旧道・「原峠」に入ります。落ち枝・落ち葉は乗っていますが、意外にも綺麗な舗装のままで、神楽坂トンネル開通後かなり経っているのに、快適な林道です。7:43「原峠」、日吉町と美山町の境です。
こんなとこに十文字交差点があり、「丹波広域基幹林道・丹波美山線・起点」でした。林道案内板が設置されており、地図を見ると、JR下山〜r19〜R162〜R477とr38の交点までを結ぶ65kmの尾根伝い長距離林道のようです。以前、R162「カモノセキャビン」横から上り、r370佐々里に下った時、峠で交差した林道と同じです。残念ながら、一般車両通行禁止と書かれていますが、これがオープンされたら林道好きが押しかけるでしょう。まあ、大したことないけどね。
『丹波の夢を拓く道 丹波広域基幹林道は、京丹波町下山から南丹市を経て、京都市左京区花背大布施町に至る幅員4.5〜5m・延長65.4kmの林道です。この地域は、京都府内の代表的な林業地域として木材の供給地だけではなく、緑のダムとして重要な役割を担っています。林道整備で、木材搬出コスト削減により生産拡大が図られ、水資源のかん養や国土保全機能など、森林の持つ多面的機能が高度に発揮されます』
兵庫県北部の絶景林道「妙見蘇武林道+三川林道」が30kmでも、走りごたえ満点・絶景度満喫度120点だったのに、こちらは65kmです。観光目的機能も追加されないかなあ。
峠を美山町側に下って行くと、とても綺麗な水が流れる川を渡りました。地図によると「原川」のようです。横には施錠されているけど、未舗装の「林道・原谷線」がありました。「告」掲示版によると。山菜・きのこ採り用の道のようです。地図には原川に沿って、長く白線が続いています。川沿いだから紅梅もさほどではないでしょう。探索してみたいな。
r19に出て、快走路を美山に向けて北上し、8:10「美山ふれあい広場」着。朝早いのに、バイクが2グループ・6台います。バイク談義に花が咲いていそう。ソフトクリーム屋さんが開店準備のために掃き掃除をしています。トイレ休憩し、10分ほどして出発。
r38を東へ、8:29「美山かやぶきの里」。相模ナンバーの地図を見ていた年配ご夫婦から、「京都へは高速道路が早いですか?R162でしょうか?」と聞かれました。ここから高速道路といえば、京都縦貫道のことでしょう。「R162の方が早いですよ。信号も少なく、快適ですし」。R162は知ってそうな口ぶりだったのですが、東に向けて走って行かれました。「あれっ?芦生京大原生林にでも行くのかな?」。
r38を東に進み、田歌を過ぎた所で、狐とすれ違った。狸かな?と思ったのだけど、あのフサフサの尻尾は狐です。バイクを停めて戻ったけど、向こうも小走りで道路を歩いているので距離が縮められず断念した。佐々里峠に上がってい行くと、なんと路肩に雪が現れ始めました。「この先・凍結のおそれ・走行注意」なんて看板まで現れます。9:16「佐々里峠・標高720m」。ここから京大芦生原生林事務所まで、ハイキング道があります。距離は4〜5kmと思われるが、標高差は720-370=350m。往復は辛いです。僕ら夫婦だと遭難の危険までありそう。バイク2台で来て、下に1台置いておけば、こちらからの下りだけになって楽そう。でも家内にここまでの往復させるのはキツイ。キャラバンなので、バイクを積む大きさはあるのだけれど、積む自信がない。
なんて妄想していたら、京都側からロードバイクが上がってきました。「京都からですか?」と聞いたら、「日吉ダムに車を置いて、R477〜r38〜r19で戻ります。100kmぐらいで、ちょうど良いトレーニングコースなんです」なんておっしゃる。すげ〜。ここからは下り貴重なので、昼ごはんは日吉ダムで食べれるね。慣れたもので、僕と話しながらボトルから水を飲み、ウインドブレーカーを取り出して着ておられる。下りは足を使わないから発熱されず、速度が上がるので風を切るからなあ。
ここから、京都市左京区です。京都市街地・出町柳も左京区だから、めちゃくちゃでかいです。平成の大合併で京都市がでかくなりました。r38を広河原に向かって下ります。時折見える山並みの絶景を楽しみながら、広河原スキー場を通り過ぎ、9:31「喫茶・庄兵衛」。営業してそうだったので初めて店内に入ってみましたが、山野草がたくさん置いてあるけど誰もいません。
残念と思いながら外に出ると、向かいの家から「は〜い」と奥さんが出てこられました。「食べるもの、ありますか?」、ラッキー、カレーがあります。外食なんて洒落たものより、カレーが一番です。注文し、写真を写しに外に出ると、賑やかな音楽を鳴らしながらバスが来ました。「広河原バス停」がありました。
店内に戻り、奥様とお喋り。スキー場は、2月末まで営業していたようです。廃業しているにしては荒廃していないので、営業しているのか気になっていました。スキーブームの時は、クワッドリフト1台の小型だけど、京都市街地から近いので、たくさんお客さんが来られていたようです。スノーボードが流行ってきてスキー客が減り、スノーボードまで減って、あまり儲かっていないそうです。
元スキーフリークの僕にも、その流れはよくわかります。ゲレンデにスノーボーダーが入りだして、スキーヤーとの違いを感じました。言葉使いはヤンチャ兄ちゃんだし、ゲレンデど真ん中に平気で座ってるし、レストランの居心地が悪くなり、スキーを止めちゃいました。毎回個人レッスンでスキー学校に入校していたので、教師=パトロールだから、「スノーボードは怪我が多く困ってる」と言ってました。両足を1本のボードに固定されてるから、後ろにコケると後頭部を強打する事が多く、女の子の搬送が一気に増えたそうです。まっ平らなとこで怪我するので、ビックリするそうです。
今や次男もスノーボードをするぐらいだから、若者はボーダーの方が多い感じです。ヤンチャさんばかりじゃないと思うけど、お嫁さんや孫には安全なスキーの方をして欲しいな。長男はスキー派だから安心です。ここらは、民主党・前原誠司さんの選挙区なので、ポスターを多く見ました。僕の高校ヨット部の先輩で、現在レースライバルの方の奥さんが京大出身で、前原くんと机を並べていたそうです。「前原くんはねえ」なんて話すそうです。志位和夫さんと一緒に写った共産党候補者のポスターも多く見ましたが、どこでも多く見かける自民党候補者のポスターを見ません。京都は共産党が強く、革新色の強い地だけど、自民党一人勝ちの今でさえポスターがないとは・・・。
奥さんは道に詳しく、「おにゅう峠〜高島に行く」と言うと、「能見峠を行くのね」って。昨日は寒かったようで、雪が降ったそうです。「今年は暖冬だけど、去年はまだ15cmほど積雪があったよ」と、教えてくれました。「おにゅう峠」は雪で行けないかも・・・。カレー700円は高いなと思ったけど、朝カレーでお腹が満たされました。
奥さんはお店を出して長いのですが、20年ほど前から、鹿筆頭にサル・イノシシなどが増えたそうです。以前は山で取ってきた山野草を店の外に並べ販売していたのですが、動物にやられるようになり屋外に置けなくなったそうです。畑の電気柵の設置も一気に広がったそうです。僕がバイクで走りだした8年でもそれを感じるのだから、どこでも事情は同じようです。
r38を下り、r110。10:12「能見峠」。峠から快適に下り、10:24「志古淵神社」。横を小川が流れ、「淵」な感じがしますが、「志古」の謂れは?と思い謂れ板を読みました。『久多の産主神の1つで、安曇川一帯に分布を見る志古渕神を祭神としている。創建・由縁ははっきりしないが、天福年間1233〜34には既に社殿を構えていた。1672年新たに造営されたのが現在の本殿で、杉皮葺(当初はこけら葺)の三間社流造で、蟇股に古い形態を残している点が特色で、京都市有形文化財に指定された』
蟇股の彫刻がリスで、珍しいなと見上げる。木部の塗装が剥がれ、虫食いも多く、やつれ感がナイスです。キジの蟇股、動物でも植物でも無さそうな蟇股も変わってる。狛犬の顔が、「これ犬か?」って感じで、SF映画で見たようで怖いぞ。ここはr783との分岐です。ここからr783。まっすぐ北上し、次の分岐点から「おにゅう峠」を経て、越前・福井県側・小浜市のr35に繋がる。このr35沿いに、去年訪問した若狭一の宮・「若狭彦神社」「神宮寺」があり、奈良東大寺・二月堂のお水取りの場所があります。この道も若狭の魚を京に運ぶ鯖街道だったのでしょう。現鯖街道・R367より、小浜との最短距離で結んでいます。
針畑川沿いの素敵な道です。中央白線もなく、交通量も少なく、サイクリング道です。11:10「日吉神社」。手水も拝殿も雪囲い板に囲まれ、雪深い自然が想像されます。境内の割に本殿は小ぶりですが、いつの時代ものか色落ちした絵馬がこちらを拝んでいます。神社を囲むスギ林は巨木で、神社の歴史を感じさせますが、謂れ板がありません。
ここから生杉ブナ原生林に向かって、分岐道が続いています。どこまでバイクで行けるんだろう?舗装路なのかな?芦生京大演習林の滋賀県側です。ツキノワグマの生息地です。そろそろお目覚めの季節なんじゃないかな?ここでr783は、大きく東に進路を変え、R367に向かいますが、僕は分岐を直進します。この先に「おにゅう峠」があります。「小入谷」という地名なので、「小入峠」と書くのでしょう。
滋賀県側は舗装路と調べ済なので、ウキウキワクワクで侵入したのですが、11:21「通行止め」バリケードが道路を塞いでいます。「この先がけ崩れ 通り抜けできません 高島市」。R367から来て、僕の前に侵入したオフロードバイクも止まっています。僕を振り返り、2台のバリケードの間からGO!しちゃいました。峠が県境だから、がけ崩れは滋賀県側と想像しました。横に重機や小型ダンプが数台置いてあるので、高島市が修復しているように思えました。
よって、残念ながらUターン。R367の方・東に向かいます。11:33「山神神社」。茅葺屋根を囲う巨大なトタン屋根の建物はなんだろうと入ってみると、拝殿でした。曲がった巨木の梁が立派で、天井がないので、茅葺きの内側が見えます。そこに絵馬が掛かり、凄くいい感じ。雪囲い板に囲まれた本殿を覗くと、こちらにも絵馬が下がり、地域の方の信心深さを感じます。
都会人が日本人代表で世界に打って出ている感じですが、実はこういう一次産業従事者が、日本古来から続く田舎の伝統文化を継承し、日本のベースをがっちり守っている感じがします。田舎に来るといつも、日本古来を感じます。もしこういうのがなくなったら、都会人も力を失うのではないかと思う。どこから来たの?と思うほど人数が集まってやってる秋祭りがなくなれば、上っ面だけの洗練さに生きている都会人も、日本人でなくなってしまうような・・・。
田舎道の草刈りを総出でやってくれている光景を見ると、「ありがたい」と思う。子供会・町内会などの地域行事に参加しようとする動機にもなる。「町内会に入って、何の得があるの?会費の無駄」という新聞投稿を見たことがある。地域ってそんなもんじゃないと思うのです。我が家も定期的に回ってくる当番で、近所の廃寺の草刈りしたり、県道沿いの花壇に水をやったり、決められた日にそれぞれの家の周りの側溝掃除もします。日本人皆が、自分の住む地域を綺麗に保つことが、日本全体を綺麗にすること。
税金払ってるんだから自治体が何でもやってくれると思ったら、全て費用が発生します。それを少しの自治会費をやりくりし、住民がボランティアしてやってしまえば、税金をもっと別な所に使えます。ご近所さんと汗を流すと、日頃の自然な挨拶が生まれ、交流の和が広がります。それが自然災害の多い国に住む日本人の中で、自然に助け合いができる知恵だったんじゃないかな。ここを失えば、日本人の美しい心が失われちゃう。
石鳥居の裏を見ると、「寄進・長兵衛4代・藤本・・ 施工・越前三国・小森石材工業」と彫られていた。施工が、越前三国なんだ。かなり遠い。業者があまりないんだなと思いました。
「大彦山林道」への分岐発見。GO!と勇んで入ったら、すぐに「全面通行止め」看板でした。横を見ると、「佐慶比線・雲洞谷工区」と書かれている。ここから分岐する道が目指す林道だとGO!したら、今度は巨木が倒れており、実質通行不可でした。もう一つの分岐に突っ込むと、舗装が終わり道が消えています。11:47、無念のUターン。
r783に戻り、11:58「日吉神社」。横に除雪車が置いてあります。まだ臨戦態勢です。r23経由でR367に出ました。R367を南下し、「朽木」でr295。12:25「邇々杵神社」。天孫降臨の天照大神の孫・ニニギノミコトを社名に掲げているので、「きっと良いぞ」と来ましたが、「天台宗神宮寺」の古い石碑も立ち、なかなか良い感じでした。真言宗のお寺によく見かける多宝塔があります。
『多宝塔は、朽木神宮寺・宝塔として神宮寺の属していたが、邇々杵神社の奥の院とも称し、古来から信仰厚く、宝塔内には木造釈迦如来像(藤原時代作風を伝える鎌倉時代初期の仏像で胎内に朽木神宮寺の墨書銘がある)と23体の薬師如来像を祀っている。創建は、神宮寺と同じく貞観元年だが、荒廃破損し、天保13年に再建した』
12:37、「興聖禅寺」。第二次世界大戦戦死者の神式の墓石がたくさん立っていた。『旧秀隣寺庭園 1528年朽木殖綱が、室町幕府将軍・足利義晴のために館を建てた際、築造した。1606年、朽木宣綱が亡き妻のために寺を秀隣寺と号したが、朽木村野尻に移転し、その跡地に興聖寺が建てられた。庭から眼下に安曇川一帯を俯瞰し、対岸の小椋杣山を仰ぎ見ることができる。池辺の石組や石橋などの意匠に同時期の地方武士の庭園より洗練されたところがあり、施主も職人も京都の庭園に大きく影響を受けたと思われる』
墓地には、比較的新しい五輪塔が多く、朽木は今でも五輪塔墓石が一定の需要がありそうだなと感じた。更に南下し、「村井フィッシングセンター」の看板を目当てに西に曲がった。「横井トンネル」を抜け琵琶湖に下る林道「鵜川村井林道」です。13:00、がけ崩れ箇所が修復されたと思われる新しい道があった。降りて上下を見ると、盛大ながけ崩れだったようです。
13:06「横谷トンネル」。道の上から小さな滝が落ち、道路の下には沢が流れている。気持ちがいいな。トンネル内は街路灯がなく、おまけにカーブしてるので、全くの暗闇です。交通量もなく、コーモリが上から襲ってくるんじゃないかとちょっと怖い。路上に大きめの葉っぱ?が所々に落ちてる。コーモリなのか?怖くて止まることが出来ず、確かめることもしませんでした。
13:13、眼下に琵琶湖が見えてきました。山の中を縫ってやってくると、見慣れた琵琶湖の景色が、別物に見える。山を見上げると、雪が残ってる。琵琶湖側に下ると、獣避けゲートが設置されていました。それを開閉し、r296に乗る。すぐに、また「鵜川村井林道」後半戦。獣避けゲートを開閉して入場。13:42、また琵琶湖が眼下に。晴れているので気持ちが良い。写真を撮っていると、バイクの音が聞こえてきた。僕同様、林道好きな方でしょう。会釈すると、止まられた。「他に誰か走ってるとは思いませんでした」と言うと、「ずっと通行止めだったんですよ。解除されてたから上がってきました。神戸からですか・・・」なんてお話しながら、僕が先に出発した。オフ車を想像していたら、ハーレーとタンクに書いてあったようでした。ハーレーにしてはスポーティーな感じで、カーブしてもあまり地面を擦らなそう。
「どこかにがけ崩れ修復跡がありそう」と走ってると、13:51現場。ここも盛大に崩れており、修復した跡もない。道路が1/3落ちているのですが、ガードレールはもちろんコーンさえ設置されておらず、暗かったりスピードを出しすぎていれば、落ちてしまいそうです。バイクは平気ですが、四輪は山側に寄せないと通過できません。写真を撮っていると、先ほどのハーレーさんが「お先に」と、抜いて行かれました。ここまでもそうですが、ここも路上に水が流れています。雨が降った後は、路上河川が結構な水流で道を渡っていそう。
14:07、琵琶湖がかなり近づいてきました。落ち葉・落ち枝・落石は、林道の定番ですが、路面の舗装状態はよく、楽しめました。琵琶湖岸・R161側にも獣避けゲートはありましたが、入ろうとしてる四輪が開けたところで、手招きされたので先に通過させて頂きました。閉める方は僕がしようかな?と思ったのですが、バイクを止めようと思ったら、ゲートを通過した四輪が閉めるために止まったので、失礼させていただきました。
JR湖西線の下をくぐり、R161。旧道に入り、14:17「日吉神社」。門前に、R161と平行して走る道があり、「バイコロジー自転車道 自転車・歩行者優先道路」と書かれていました。琵琶湖西岸には、日吉神社が多いです。明智光秀の城があった坂本に総本社があるからでしょう。
14:23、等身大人形像がたくさん設置された3階建くらいの建物があった。JR列車から見える「乙女ヶ池」でした。「大溝城下町」という道路中央に溝が掘られた道を流す。城跡に寄っても良かったが、低い石垣程度しか遺構が残っていないらしいのでパス。帰路に着く予定の15〜16時が迫っています。林道を走り過ぎて、高島史跡探索の半分どころか1/4も怪しいよ。
r296に乗り、音羽古墳群を探したけどわからず、14:44「水尾神社」。『創建は不詳だが、天平神護元年(765)には延喜式内古社・東山道・官幣大社として載っており、神域は現在より相当広大だった。垂仁天皇・皇子・盤衝別宮を祀り、本殿脇小社には継体天皇生母・振姫を祀っている。盤衝別宮は、高島の地を本拠に栄えた三尾君の祖と記紀で明らかである。振姫は、彦主人王(垂仁天皇の末)の妃で、越前三国より迎えられ、当社拝殿を産所に3児を出産された。この皇子の1人が後の継体天皇である。江戸期には、8代将軍吉宗が神輿1基を奉納、9代家重は社殿を再建され、ともに現存している。境内には鎌倉中期の石灯籠や供養塔が数多く残っている。当社背後の杣山(三尾山)は、古来より歌枕として有名で、万葉集はじめ多くの歌が詠まれている』
水尾庭園というのが境内にある。安産子授けの神なので、しっかりお参りし、お守りを授かろうと社務所を訪問したが誰もいない。宮司のお宅にも声を掛けたが応答がなく断念。
r296〜r297で、15:12「田中城址」。『田中郷の領主・田中氏の居城で、泰山寺野台地から舌状に伸びる丘の先端に築かれた中世末期の山城。天守台があった曲輪の標高220m・比高60mで、同時期の山城としては低い。それ以前、古代の山岳寺院・松蓋寺があった。信長公記によると、1570年信長の軍勢が越前朝倉義景攻略の途次、この城に逗留した。その中には、豊臣秀吉・徳川家康もいた。その後、浅井長政の勢力下に置かれ、1573年信長の手によって攻略され、明智光秀の支配を受け終焉を迎える。末裔の田中吉政は、秀吉・家康に仕え、三河岡崎城主・筑後柳川城主となった』
縄張り図・謂れ板も完備されており、登ってみることにする。15:18、獣避けゲートを開閉して山に入る。正面に階段が設置されていたが、「順路」と書かれた木札はフェンスに沿う道を差している。順路に沿って山を上がるが、登れそうにない急斜面になり、結局道がなくなった。途中から階段道の方に野生の勘で移動し、合流出来た。次々に明らかに曲輪とわかる遺構が現れ、それぞれの大きさがかなりのもので、地方の小豪族の域ではない。中世守護大名は言いすぎだけど、その家老級の規模を持つ山城です。土塁・土橋・切岸・堀切などの遺構も、素人目にすぐわかり、素晴らしい残存度です。
石階段が現れ、観音堂が建っていた。『松蓋寺遺跡 高島7ヶ寺の1つで天台宗寺院』。「この城域は、埋蔵文化財包蔵地指定を受けており、周辺で開発などを行う時は届け出が必要」と書かれていた。我が家もその指定地なので、家を建て替える時は、埋蔵文化財調査を受けなければならないので同じです。風致地区・高さ制限地区でもあるので、やたらと開発されず木々が多く落ち着いて暮らしやすいのだけれど。15:50、ゲートまで降りてきました。ナイスな城でした。
r297で「玉泉寺」。天台密教思想から来るという石仏が何体も置かれていた。16:08「田中神社」。すぐ横に「田中古墳群」もある。40基以上の古墳があるそうです。祭神は、素盞鳴尊・奇稲田姫・八柱御子神。素盞鳴尊とその奥さん、素盞鳴尊が天照大神と契約した時、天照大神の勾玉を含んで生んだ8人の神様を祀っている。八坂神社や八王子と同じ。出雲系の神様を祀るお宮のようです。凝った彫刻が施された本殿だった。
田中古墳群への順路が書いてあったが、車道を隔てているようなので、バイクに戻ってバイクで上がってみた。『安曇陵墓参考地 当初は帆立貝式古墳で、周辺の高塚4基とともに宮内庁管轄となっている。「王塚」「ウシ塚」と呼ばれ、地元では応神天皇の皇玄孫・彦主人王の墳墓と伝承されている』。天皇陵簿同様な感じに管理されており、陵墓に続く道の両側には杉林が作られている。
隣接地で、発泡の音が聞こえびっくりした。杉越しに見ると、旦那さんが猟銃を構えている。奥さんが車から見ている。奥さんはオレンジ色のジャンパーだったので、猟用の服装ですね。田中氏は、宇多源氏・高島氏の末裔ということだが、前述の継体天皇を出した「彦主人王」との関係はどうなんだろう?田中城を構えた田中氏の氏宮と思われる田中神社が、位置的にどうもこの陵墓を守護しているように見える。バイクで走りだしたら、サルがこっちを見ていた。
r298で、16:27「三重生神社」。『祭神:彦主人王・振媛 彦主人王は、応神天皇・5世孫で、三国から垂仁天皇・7世孫・振媛を迎えて后とする。振媛が3子を出産する時、彦主人王の夢に三尾大明神のお告げがあった。「この度天から授かる子は、天孫のあとを踏むべき男子なり」。そこで三尾神社の拝殿を産所として南天に祈られ、王も自ら北の仮社で北極星に祈られたので、彦人・彦杵・彦太の3子を安産した。故にこの社を「三尾生神社」と呼ばれるようになり、安産の神として崇められる由縁です。御子が5才の時、彦主人王が亡くなったので、振媛は彦杵・彦太を連れて越前高向館に帰り、養育した。13年後、振媛も亡くなった。2柱とも2/18が命日なので、明治維新までこの日を例祭日としていた。長男・彦人王は、この地で成長され北越5ヶ国を治められた。三男・彦太尊は、後の26代・継体天皇になられた』
水尾神社にも産屋があったけど、古代のことこれでいいのだ。僕にはものすごい謂れに思うのだが、社務所も宮司さんのお宅もない。安産のお守りをここでも授かれなかった。残念。
帰路に着きます。GPS検索すると、湖西道路〜名神コースで2時間弱、多少の渋滞込みで19時台の帰宅。面白く無いので、小浜回りで帰ることにしました。20時台の帰宅になるでしょう。r23を安曇川沿いに西進します。「NHK高校講座・地理」で紹介される典型的な扇状地地形を遡ります。朽木でR367・鯖街道にチェンジし北上。水坂からR303ですが、久しぶりに水坂峠を越えようと思ったら、冬季通行止めでした。仕方なく素直にR303・水坂トンネルを抜けます。
17:14、「道の駅・熊川宿」。昼食抜きで来たのでパンでも食べようと「四季彩館」に入るが食べ物が何もない。「割れおかき・500円×2」を購入。これは翌日以降のおやつです。
R27に入り、走行距離が200kmを超えたのでGSを探し始める。「広域農道・若狭西街道」へのアプローチr23への分岐に宇佐美GSがあったけど、出光看板が上がっていなかったのでパス。エネオスがあったけど、大入りで並んでるのでパス。大安売り価格なんでしょう。17:37、小浜市湯岡エネオス井田石油で給油。269km/7.6L=35.4km/L。VTR250のタンクは14Lなので、まだ半分残っていました。自宅まで無給油で帰れたかも?
R162に乗り、「道の駅・名田庄」に向けて南川沿いの快走路を走ります。制限速度50km/hの道路なので、50〜60km/hで巡航します。交通量が少ないので楽ですが、高速車に追いつかれたら左ウインカーでパスしてもらいます。18:10「道の駅・名田庄」。薄暗くなっています。やはりそば屋さんは、閉店ガラガラでした。
峠を越えて美山側に入ると、路面の濡れが増えてきました。夕方から雲が出てきていたのですが、雨が降る感じはなく高を括っていました。水たまりも残ってるので、結構な雨が降っていたようですがすが、ラッキーな事に雨雲が通り過ぎた後のようです。「九鬼ヶ坂」を回避すべく、美山でr368〜r19。
ここで雨が落ちてきました。強い雨ではありませんが、ヘルメットから雨音が聞こえます。リアボックスにホームセンターカッパは入っているけど、DAIWAフィッシングスーツも防水カッパなので、これで行きましょう。しばらくすれば止む感じがします。一旦収まった雨がまた落ちてきたので、「神楽坂トンネル」内でライトを着けたまま停止し、車載カメラとGPS・ヒップバッグをリアボックスに避難させます。
「日吉ダム」付近まで弱い雨が続きました。園部に入り、目印のファミリーマート交差点を左折し、真っ直ぐR9を渡り、とにかく真っ直ぐ走り「新世紀トンネル」を抜け、R477に合流しました。R372交差点まで南下し、R477・R372共用道を走り、いつもの交差点を右折し、R477単独道へ。また雨が落ちてきました。
暗いし、雨の影響で霧が出て来て視界悪しです。40km/hぐらいで走り、後続車に抜いてもらってから、そのテールランプを頼りに走る繰り返しで、「ひいらぎ峠」を越えます。ここで雨が上がり、霧もなくなり、僕と同じペースの先行車を先導にしながら、R173・「一の鳥居」まで来ました。R173で池田に出て、20:30頃帰宅しました。
寝ていた家内が起きてきて、「何か食べる?」「うん、食べる」。先にお風呂に入り、冷えた体を温めます。朝の気温は1℃でした。昼間は14℃まで上がり快適でしたが、田中城址での山登りで、カッパを脱がずに登ったので、汗をかいてしまいました。その汗が名田庄付近で7℃を切るようになり、体を冷やしてきました。
風呂で温まり、いつものようにヨーグルトを持って自室に上がります。腰から下を布団の入れ、クッションを背中にしてTVを見ながら食べる450gヨーグルトが至福の時間です。「NHK総合・子育てお母さんの危機2」をしていました。前回が面白かったので今回も見ます。ヨーグルトを食べ終わり、布団に包まりながら見ていたら、寝落ちました。

2016/3/20
コーチしてる大学ヨット部のレース日です。「同志社ウィーク」という小型ヨットレースシーズンの幕開けレースです。同志社大学が主催し、同校の今年の卒業生が運営主体として動きます。招待選手として社会人チームと韓国トップ選手が参加します。全国から学生を主に、2クラス各60艇ほどが参加します。レースエリアが琵琶湖ということもあり、近畿北陸ブロック(京都・滋賀・福井・富山県)・関西ブロック(兵庫・大阪・和歌山・奈良県)の有力強豪大学が参戦します。近北ブロックの当面のライバル校の戦力を見る上での重要な大会です。そしてレベルが上の社会人の走りを身近に体験できる貴重な機会でもあります。
5時に目が覚め、身だしなみや服装の準備をします。レース最終日で、14時以降のスタートが行われないので、帰りに山科の東にそびえる「音羽山」中腹ににある「牛尾観音」を探索する予定です。更に、家内の実家の先祖が分骨されている「京都永観堂」にも参ります。
春のお彼岸の時期なので、我が家・家内実家のお墓参りがあります。今年は3/21家内実家・3/22我が家のお墓詣りします。いずれも早朝の出勤前時間です。夫婦揃って朝には強いので、この時間帯が楽です。
それともう一つ、この時期の関心事が僕らの結婚記念日。『イースター=十字架に架けられたキリストが3日後に復活した日』というキリスト教最大のお祭り「復活祭」に合わせて結婚式を挙げました。結婚記念日を忘れても、世界中で祝ってくれるのでいいだろうとこの日にしたのですが、宛にしていた中学の宗教主事・牧師さんが自分の教会の行事で忙しく、急遽校長に牧師さんをお願いしたハプニングで、僕らの結婚生活が始まりました。
そしてもう一つこの日にして難儀しているのが、『イースター=春分の日の後の最初の満月の日の後の最初の日曜日』なので、毎年変動することです。3/24が結婚記念日なのですが、毎年コロコロ変わるので、翌年には忘れてしまっている。よって結婚記念日に何かをするなんて行事はない。家内はしっかり3/24を覚えていて、変動した日も事前チェックして知っているのがまた難儀で、たいてい過ぎ去った後に、何かの話のついでに披露され、「ええ〜またやっちゃった」と家内優位の我が家の生活に拍車がかかることになります。結婚記念日が2回あるというややこしいことにもなっています。因みに今年・2016年は、3/27です。
6時に、「里山VTR250」に荷物を積み込み、出発します。中央縦貫道を東に走り、吹田ICから名神道に乗ります。万博記念公園内にできる大観覧車は、まだ工事中です。ショッピングサイト・水族館サイトは2015年秋に完成しているのに、ランドマークになる観覧車の完成は、春休みシーズンに間に合いそうにありません。
6:48、名神高速・桂PAで休憩。バイクがいるかな?と思ったのですが、まだ早いようです。走行中数台のバイクに抜かされたんだけどな。「柿の葉すし鯖・405円×2=810円」購入。京都ICを過ぎ市街地エリアを抜けると、「音羽山」の山容が正面に見えてきます。大津と京都を結ぶ東海道が、北の比叡山の峰と南の音羽山の間の谷を抜けます。交通の要衝として重要な場所です。でも比叡山と違って歴史にはあまり登場せず、ひっそりと静まり返っている感じがします。何かありそうなんだけど・・・と、ここを通る度に大きくそびえる山容を見上げます。
京都東ICで下車し、湖西道路に乗ります。見下ろす琵琶湖はまんべんなく風が入っており、良いレースが出来そう。
柳ヶ崎ヨットハーバーに着き、7:17大会本部に上がり、成績表などを見ます。大学クラブの艇庫に向かっていると、出身大学ヨット部の先輩と後輩に会いました。高校生のレースもやっており、先輩は僕の母校でもある大学系列高校ヨット部のコーチとして来ているようです。後輩は出身大学ヨット部のコーチとして来ているようです。土曜日のレースの様子を仕入れ、馬鹿笑いしてクラブへ。先輩の世代が共同所有していたクルーザーを売っちゃったので、「おまえんとこの船をレース毎に出さなあかんぞ」と釘を差されました。ホームポートでの大学のレースでは、これまで以上に応援観覧艇要請が来そうです。
学生たちに挨拶し、キャプテンとタイムスケジュールを打ち合わせし、コーチボートに行って朝食を食べましょう。桟橋には、次男がお世話になった清風高校ヨット部のコーチボートも係留されており、K顧問先生とあ〜だこ〜だ。インターハイ種目は、長くFJ級のみで行われていたが、世界的主流の420級にシフトしていく過渡期です。インターハイ予選レースは別ですが、インターハイ本戦には、各校420級1・FJ級1艇しかエントリーできません。予選で上位独占しても1艇しか本戦に行けず、「どうしたものか」と残念そうに話しておられました。
土曜日のレースで、420級が1位・2位、FJ級は1位だったそうです。420級のスキッパーは、次男の後輩「兵庫ジュニア」出身の子で、まだ1年生です。この春からFJ級に乗り始めたばかりなのに、さすがジュニア出身者はすぐに慣れて強い。FJ級スキッパーは、高校からヨットを始めた2年生なのに、昨年秋からの新チームでのレースでは、全レーストップフィニッシュ街道を驀進中だそうです。水泳などと違い、気まぐれな風を読むレースなので、同じ選手がトップを取り続けるのは難しい競技です。学生時代最強と言われた僕でも、勝率は2/3でした。この子は持ってるね。
コーチしてる大学は、スポーツセレクション制度がなく、入学試験も難しいので、ヨット経験者が入部してくるのは稀です。3回生2・2回生3・1回生1と6人もいることは、過去最高だと思います。進学校でヨット部のある高校は少なく、その中の1つが清風なので、学情成績の方も聞きます。受験してほしいな〜。
同志社大学ヨット部OBで、僕が1回生だった時の4回生Nさんがやって来ました。次男がヨット部のある清風を中学受験する時に、「勉強もちゃんと鍛えてくれるのか」と直接学校に電話し、呼び出してもらった清風ヨット部顧問先生です。ここ数年、副校長として顧問を半引退状態でしたが、定年が近づいたからか、もう少し楽な役職にしてもらいヨット部にも顔を見せられるようになったそうです。息子さん2人も高校・大学とヨット部だったので、僕同様ヨット好きな方です。次男の結婚報告をすると、「学校で偶然嫁さんを連れてきた息子さんに会いましたよ」と笑ってくれました。
ここで、高校ヨットレースの顧問・キャプテンミーティングなので別れました。DAIWAフィッシングスーツの下に、プロテクターメッシュ上下を着ていたので、脱いで軽装になります。
クラブの体操が始まったので、クラブに戻ります。天候やレースメンバー・コーチボート乗員確認後、僕のブリーフィングです。「土曜日は風が弱く1レースしか成立しなかったが、今日はいい風でレースが出来そうなので、思いっきり行こう。スタートライン第一線に並ぶことに注力し、成績が出るレースではあるが、第一目標の全日本予選に向けての練習レースと捉えたらいい。リコール(早過ぎるスタート)で失格してもいいから、スタートから飛び出さないと社会人などのトップレーサーの走りを肌で感じることが出来ない。マーク回航での接近戦での有利な位置取りなど、多く学べるはず。最終的にはボートスピード勝負になるから、今の自分のスピードはどうなのか、登り角度はどうなのか、自分で感じて次の練習に生かそう。良い風だから、レースを楽しもう」と話しました。
他のOB数人からブリーフィング後、出艇しました。監督が次男と同期のIくんなので、同じく同期のSくんがスナイプ級コーチです。名古屋から来ていたので、一緒に乗りました。4レース目に乗員交代でレースに出るそうでウェットスーツ姿でした。12月の次男結婚式への出席お礼をして、奥さんである元マネージャーさんの近況などを話しました。僕も家内と共稼ぎで、息子たちと保育園にお世話になり子育てしましたが、子供の体調が不良の時は、専業主婦のSくんお母さんを奈良から呼んだりしてやりくりしているようです。きっと次男もそうなるだろう。映画「風立ちぬ」のような仕事をしているので、そちらの話も聞かせてもらいました。
この日の第1レース終了。フィニッシュ後コーチボートに横付けする選手に、感じたことを話す。ブローの入り具合がコーチボートから見て感じたままなのか、選手の感覚ではどうだったのかすり合わせ、リセットさせて次のレースに送り出す。
第2レース終了も同じでしたが、ジュリー(審判員が乗る)ボートがやってきて、「沈艇がおり、乗員の体力がなくなってきたので、交代して船を起こしてもらえないか」と要請があった。冷えてしまった選手2人をこちらに乗せ、風の当たらないコクピットに入れ毛布を渡す。顔色は正常なので大丈夫だと思い、沈艇レスキューを優先する。
ウェットを着ていた交代要員選手と、今年卒業したばかりの選手にウェットを着せ、沈艇を起こし、曳航用ロープを渡し、曳航してハーバーに戻った。体力消耗した選手の様子を知ろうと話しかけると府立医大ヨット部の2人でした。助けてもらって恐縮していましたが、人命優先だし所詮余暇なので恐縮する必要なんてないし、僕だって寒冷前線通過でしばらく海上で沈したヨットとともに2時間ほど漂流し、助けてもらったことがあると話すと、幾分表情が明るくなった。
レース海面に戻り、Sくんを予定通りの交代をさせると、メインセイルがおかしな形状になったレース艇がリタイヤして近くに来ました。ブームが折れてしまったようです。このままではメインセイルが破れてしまうので、大声ですぐにメインセイルを下ろすように指示する。慌てて降ろしていたが、破れてしまっては大損です。その学校のコーチボートがやってきて、そちらに任せます。
さてレース展開を見ようと思ったら、リタイヤしたレース艇が手を振ってやってきます。「ラダー(舵)を折って、航行不能になった艇がいます。ヘルプを」。コーチボートはレース海面に入ってはいけないルールになっているので、ドライブしてる1回生女子マネージャーが、「どこを走っていけばいいですか?」って聞いてきます。「真っ直ぐレースコースを横切ったら良い」と指示し、一目散に航行不能レース艇に向かいます。
東北大学ヨット部艇で、メインセイルを下ろすことを指示し、ジブセイルも巻けと指示しますが、そういうことをしたことがないようで手間取っています。曳航ロープを受け取り、ハーバーバックします。
ちょうどハーバーとの間にレースコースがあり、続々とレース中のボートが走っています。ドライブしているマネージャーが「どこを通ったらいいですか」と、爆走しているレース艇集団に顔が引きつっています。ドライブを交代しようかと思いましたが、ここはいい経験になると思い任せることにしました。横について指示します。2回生1・1回生3人のマネージャーが乗っているので、同じマネージャーがドライブする方が、自分たちの自信になるだろうし、経験も話せます。
「大丈夫、真っ直ぐ行こう」。「スロットル上げて」「下げて」「もう少し右」「よしここにスペースがあるから、あの艇と次のあの艇の間を抜けるよ」「はい今スロットルオープン」・・・・無事レース艇に進路変更などさせずに通過出来ました。「よっしゃ〜、もう通り過ぎたから、マイペースでハーバーに向かおう。よくやったね」と、ポンと背中を叩きます。
緊張の糸が緩んだのか、ホッとしています。運転席横のコクピット外にいた2回生マネージャーが「え、え〜」って運転席を覗き込んでいます。「ホッとしました」と涙が頬を伝ってるみたい。「しまった、レベルの高い緊張場面を強いてしまったかな?まあ、ぐっと鍛えられたでしょう。皆の生命を守るレスキュー艇ドライブは、マネージャーの重要な仕事です。レベルアップしたね」
真横の僕は涙を見なかったことにして、反対側のコクピット横で風が強く波が高い湖面を疾走した関係で髪まで濡れているマネージャーに、窓を開け「濡れた髪が色っぽいよ」とまたイタリアーノな軽口を叩きます。ドライブしたSマネージャーは、1人で反芻しているでしょう。
ハーバーバックし、再びレース海面へ。レースは終了したようで、リコールナンバー6のレース艇がプレーニングしながらかっ飛んでいます。女子マネージャーさんが「カッコイイ。誰だろう?」ってエントリーシートを確認し、「和歌山大、カッコイイ」と歓声を上げています。「学生にしては上手いな」と思いながら、コーチしてる学校の艇が無事か確認します。まあ8m/s程度の風なので、大きなトラブルを起こさないかぎり、自力で帰ってくると思って入るのですが、気の緩みはいけません。レース海面まで出て、レース海面に残されている艇がないようなので、ハーバーバックします。
風が上がり、良いレースになりました。マーク回航時のルール違反が多発しているようで、数件の抗議書を数人の部員が書いています。他にもあるだろうから、成績確定に時間がかかりそう。スナイプチームチーフとキャプテンに気づいたことを言付けし、ハーバーを後にします。仕事の関係で参加できなかった今年のクラブ卒業パーティーで配られた「フルセイル」という卒業生が作った卒業記念しをもらった。全261ページの大作です。4年間感じたことを遺していく記念誌、楽しみに読みましょう。
バイクに向かっていると、「あっ、・・さん」と僕を呼ぶ子がいる。「ああ、・・くん、リコールナンバーは何番だった?」「6です」「やっぱりな、学生にしては上手いと思ったんだ。女子マネージャーが、カッコイイと見惚れていたよ」。ジュニア出身の子で、親御さんにもいろいろお世話になりました。年賀状交換を続いている方のお子さんでした。
プロテクター上下を来て、湖西道路〜三条道路を経て、南禅寺道へ。音羽山を探索するつもりでしたが、カメラのケーブルを忘れたので、次回まわしにしました。15:30、「永観堂」到着。いつものようにお参りの旨伝え、名簿に名前などを記入します。これで拝観料無料になります。
家内の両親を、先祖同様この寺院に分骨した時、10人ほどのお坊さんの法要でのお経が素晴らしかった。男性のみのイントネーションの少ないお経の調べですが、「声明」と言えるまで気持ちよく響きました。御詠歌も好きです。弟のお嫁さんのお父さんが亡くなった時、ご葬儀での御詠歌が素晴らしかった。「だんじり」というお祭りが地域で伝承されている岸和田なので、葬儀で御詠歌で送る習慣が廃れておらず、近所に嫁いできたら半強制的に御詠歌組織に組み入れられるそうで、10人以上のご婦人方から御詠歌を送っていただきました。家族葬などの簡易葬儀が流行っているので、御詠歌・声明などの伝統文化が廃れていくと残念だなあ。
久しぶりに、釈迦堂・御影堂を拝観しました。ここ2年ほど、納骨堂に手を合わせて終わりでした。まあ、入口で着物を召されたお若い女性4人組が履物を脱がれて上がられるのを見たので、誘われたのもあるのだけど・・・。
勅使門内部の盛砂が見える縁側で、先ほどの女性たちが、写真を撮っています。それを白人さんお父さんが、写真に収めています。目があって、思わず双方ニコリ。奥さんは襖絵を見入っており、お子さんたちは縁側を走り回っています。お庭を拝見し、多重塔を見上げる。勅使門を入った天皇の使いは、この盛砂を踏んで清めてから釈迦堂に入ります。素敵な風習です。
境内に出て、もみじの季節は観光客でいっぱいの石畳の道を歩き、葉が落ちて日差しが直接注ぐ苔を写真に収めます。境内の高台にある多重塔は、色んな所から見え、絵になります。納骨堂に行き手を合わせ、また「元気な男の子を2人お願いします」の定番のお願いをして帰ろうとしたら、梵鐘のとこにお坊さんがやってきました。ゴーン・・・心に響く鐘の音・・・16時定時に叩くのかな?お坊さんが秒数を数えながら、間隔を置いて撞いています。
秋の紅葉拝観シーズンにはいっぱいの「弁天池」には誰もいない。落ち着いた風景が良い。「画仙堂」の屋根の上の龍の瓦が良い。
バイクに戻り、16:13京都市美術館横を通ったら、大勢の人が列をなしていた。帰宅後調べたら「モネ展」のようです。東大路通を南下開始しましたが、観光客が多く、道路も渋滞しています。桜シーズン前なのに凄いな。着物姿の女性が増えたように感じました。伝統的な柄ではない原色が使われた派手なのもあるけど、着物姿の女性はいいな。着物の方はいろんなところで割引される京都が始めたナイスアイデアが浸透しています。家内に、「お父さんも着物になって観光しようよ」と誘われたことがあります。京都を着物で歩けば、素人さんであっても外国人観光客にモテます。偽舞妓さんも被写体になってるし・・・。
バイクの特典を活かし、九条通〜R1を通って、「京都南IC」から名神高速に乗ります。17:06、「桂PA」で休憩。「ビックリソフトバニラ・140円」で、糖分補給し、中国道豊中IC下車。名神上り・茨木IC、下り吹田ICが長蛇の列です。水族館エリアへ入る道はいずれも大混雑。これはしばらく行けないね。
17:52、「伊丹産業セルフ北村SS」にて給油。257km/9.04L=28.4km/L。京都で渋滞にハマった影響で30km/Lを割りました。帰宅後、家内とあ〜だこ〜だお喋りしながら夕食を食べ風呂に入り、「ダーウィンが来た」終了後床につきました。

2016/3/13
「カフェ集まりグループ」に参加申し込みしました。中之島に11:30集合です。集合時間がゆっくりなので、先月河内歴史ツーリングの時、大阪平野・杭全神社で見つけたパンフレットに載ってた史跡を巡ろうと計画しました。ついでに、平野から中之島に向かう時、堺筋界隈に点在する歴史的建造物に寄り道しながら。中之島での二輪駐車場の不安から、自転車で行くことにしました。ロードバイクも考えたのですが、平野まで30kmで、往復&探索を含めると、80kmぐらいになりそうなので、距離がありすぎる。輪行を加えると簡単なのですが、僕の輪行バッグは前輪を外すだけなので嵩張る。乗降客の多い大阪市内の電車を考えると躊躇します。しばらく使っていなかったブリジストン超ミニ折りたたみサイクルの登場を願おう。
5時出発を予定していましたが、3時台に目覚めました。4時に活動開始。超ミニサイクルを出して見ると、空気が抜けてる。こいつは、GSで車用の空気入れで補充するタイプなので、車でGSまで向かうのが面倒になりNG。仕方なく、「通勤リード110」で行くことにしました。
持っていくものはカメラとお財布・プリントアウトした地図ぐらいなものですが、自転車とバイクでは服装からして換えなければなりません。リュック・ウエストバッグから、ヒップバッグに変更です。夏用メッシュプロテクタージャケット&DAIWAフィッシングジャケットに服装も変更です。ツーリングの時だけセットするリアボックスをセットし、飲み物と緊急食・カロリーメイトブロック・地図を入れます。GPSナビをセットし、準備完了。
6:30出発になりました。r13を南下、R43を東進し、天王寺・阿倍野からR25です。平野での訪問地は、「日本最初の征夷大将軍・坂上田村麻呂(平安時代)」一族関連、「大坂夏の陣」関連をメインにします。
まず杭全神社の西門にバイクを停め、「春子姫の墓」を探します。神社内にあるのかな?と思い境内に入り、掃き掃除中の宮司さんに尋ねます。「大楠の東にあり屋根のある祠内」だそうです。バイクを大楠の方に回し、墓地内を探します。7:13、屋根のある・・・なんてないぞと思ったら、「坂上一族の墓所」と書かれた一角に、坂上一族の無縁墓石が集められていました。「坂上・・」「阪上・・」「藤原・・」と彫られた墓石がズラリ・・・これにはちょっと感動しました。
僕の通った小学校は、伊丹市大鹿というところにあります。この「大鹿」という地名は古く、坂上田村麻呂がここで大きな鹿を矢で射止めたことが由来です。社会科の時間に坂上田村麻呂のお話が出ました。担任先生が「坂上君、家はどこかな?」「大鹿の・・・」「そうか、坂上はきっと坂上田村麻呂の子孫だぞ、胸を張って先祖に恥じないように生きろよ」と言われました。
それはもう、クラス中が大はしゃぎで、坂上くんは一躍ヒーローです。大鹿には「坂上」さんが多く、向こう三軒両隣「坂上」姓の表札が掛かっています。平安時代の名族・坂上田村麻呂一族が住んだ地で、伊丹市に古くから住む名家です。白雪酒造を興した「小西さん」も一目置かれている名家です。小西さん・坂上さんは、市会議員選挙に出ても当選しやすい。僕の爺さんも群馬県の田舎の名家なので、村長や町長を歴任しました。地の人なので親戚も多く住んでおり、「まあこの苗字の人にやらせておけば無難だろう」的なノリなのだと思います。
その横に、小さな格子扉付きの祠に守られた春子姫の墓石がありました。『桓武天皇后・坂上田村麿息女・春子姫。葛井親王・春日内親王母。承和元年12月26日遷化』。田村麻呂の娘に、桓武天皇の后になった人がいたんだ。葛井親王は天皇位に付けなかったので、下位の后だったのでしょう。
杭全神社内から、「平野環濠跡」を見ました。堺同様、環濠を拓いて外敵から集落を守った裕福な都市でした。坂上公園という所に行き、「坂上広野麿の墓」発見。『平安朝初期(800年頃)、蝦夷攻略に武功のあった坂上田村麿第2子・広野麿が、朝廷より杭全庄を賜り、この地を領有した。嵯峨・淳和天皇に仕え、右兵衛佐に任ぜられ、この地に永住し、828年死没した。坂上家は子々孫々この地を領有し、平野殿と呼ばれた。「平野」の地名の由来は、広野麿が領有したことにより「広野庄」となり、後にそれがなまって「平野庄」となった』
平安時代の墓石い興味があったのですが、単なる岩でした。当時は、埋葬地の目印に石を置いただけが、武人トップの朝廷職にある者でも普通だったようです。「旭神社・若宮八幡宮」。雨乞い伝説のある神社です。手水に多く使われる龍ですが、さざれ石の上に昇竜の形の龍が置かれており、天に向かって雨乞している姿に見えて面白い。それほど大きくもない境内を巡っていると、ちょんまげを結った浴衣姿のお相撲さんがいてビックリ。境内隅のテントから出てきて、ゴミ捨てしていました。テントを見ると、「友綱部屋」と書かれています。大阪場所がこの日開幕なので、大阪場所での本拠地がここのようです。
学生時代スキーツアー会社をやってた時、スタッフに歯医者さんの息子がおり、地元の名士で相撲部屋のタニマチをしていました。大阪場所の時は、稽古場を提供し、何かと資金援助していると言っていました。そんなことを思い出しながらテントを見ていると、まわし姿の力士さんが出てきて、携帯電話で話をしていました。現代を生きる力士なので携帯電話も使っているのは当たり前ですが、とても古い伝統儀式でもある相撲と携帯電話が結びつかず、でかい体に電話が小さすぎて滑稽で、思わず笑っちゃいました。可愛い〜
「正覚廃寺」。『淳和天皇・825年、弘法大師開祖。観音堂・金堂・講堂・六時堂のほか多数の僧坊を有した巨刹でした。楠木正成も度々参詣したが、1493年「正覚寺合戦」にて灰燼と化し、以来廃寺』
「畠山尾張守政長公の墓」。古い街の常で路地が多く、あちこち探して到着。『畠山氏は、室町三管領の1つとして代々尾張守に任ぜられ、山城・紀伊・越中の守護も兼ねていた。政長は、管領・畠山持国の甥で、持国の実子・義就との家督相続が、京都を灰燼にした応仁の乱(1467〜1477年)の原因となった。政長・義就の確執は長期に渡り、畿内各地で争乱し、1482年政長は将軍・足利義稙と共に正覚寺に本拠を置いて、誉田の義就と対陣した。義就の死後、河内の平定に乗り出したが、1493年義就の子・義豊の逆襲を受け敗死。この兵火のために正覚寺伽藍も焼失した』
扉前の謂れ板を読んでいたら、お隣さんが玄関から出てきて、「中に入れますよ」と声を掛けてくださった。周りを民家に囲まれており、門扉の上に鉄条網まで施されているので、民家の敷地なのかなと、墓石を覗き込んでいました。小さな五輪塔が公の墓石のようです。「乃木将軍景仰碑」という大きな石碑が立ち、横に大きな大砲の弾がありました。
「がんこ平野郷屋敷」。『弥生時代の「加美遺跡」で知られる当地の歴史は古く、神武天皇の東征や、聖徳太子ゆかりの人物の活躍など、数々の伝説が遺されており、大化の改新・645年に渋川郡香美郷と定められた。海外貿易で栄えた堺と同様、中世の自治都市として豪商たちの活躍する商業都市として成長した。1704年、大和川の付け替えに伴う新田開発で綿作が盛んになり、その集積・加工の中心地として発展。河内木綿として全国に出回った。代々豪商として栄えた当屋敷の辻元家は、江戸時代より庄屋・村長など村の役職を勤め、当地に重んぜられた。当屋敷は江戸時代初期の建築とされ、重厚な門構えや広々とした奥屋敷・土蔵の数々など、そこかしこに往時を偲ばせる』
「くらしの博物館」と門に書かれており、一度ここでお屋敷見学がてら食事をしてみたい。
「菅原神社」。凝った彫刻がなかなかいい感じ。
「浦美術店」。関西ローカルTVでよく宣伝しているお店は、平野にあったんだ。営業時間なら、お店を覗いてみたいけど・・・
平野公園内に、「平野郷樋尻口門跡」の碑があった。『戦国時代の平野郷は、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態を持ち、周囲に自治と自衛のために濠がめぐらされていた。濠の間に大小13の木戸があり、八尾・古市・堺などへの道路が放射状に伸びていた。樋之尻口門は、八尾久宝寺につながるもので木戸としては大きい方であった。門の側にいずれも地蔵堂・遠見櫓・門番屋敷があった。当公園一角に現存する地蔵堂は、当寺の名残である。郷から出るときは一身の加護を祈り、外からの変事は、入口で退散させようとした祈願の現れである』
公園内に入ると、「樋之尻橋」と彫られた橋の欄干のような石柱が2本並列に遺っている。「赤留比売命神社」「住吉社」「天満宮」の3社が並んで鎮座していた。大神社の摂社のようだなと見ていたら、杭全神社の境内外摂社と書かれていた。「河内音頭宗家・初音家礎之地」碑が立っていた。子供の頃の盆踊りの主役は「炭坑節」だった。毎年何度踊ったかわからない。でも今は「河内音頭」が主役です。この地から全国に広がっているようです。
公園の前に「安藤正次墓所」。『安藤次右衛門尉正次は、禄2000石の旗本で、大坂夏の陣では御旗奉行として、徳川秀忠に直属し、1615年大坂城落城直前、秀忠の使者として前田利常・本田康紀両軍に、敵陣へ肉薄するよう命令を伝えた。その時数騎の敵兵に出会い、単身豊臣方の首級をあげたが自らも負傷し、秀忠に賞された跡願正寺に送られ傷の療養に努めたが、再起不能を悟り自刃した。五輪墓塔は、世子・正珍が平野郷を囲む壕の土居上に建て、願正寺を菩提寺とした』
平和な江戸時代の武家らしい大きな五輪塔が堂々と立っていた。その道を隔てた目の前に、六文銭の旗が立ち、「樋尻口地蔵」があった。『大坂夏の陣で、道明寺合戦で後藤又右衛門・薄田隼人を失った敗戦後、真田幸村ら豊臣軍は、大坂城に退却した。豊臣軍を追い、進軍する徳川家康が平野で休憩を取ると予想した幸村は、樋尻口の地蔵堂に地雷を仕掛けた。案の定家康が現れ、地雷が爆発しようとした時、家康は小便がしたくなってその場を離れ、九死に一生を得た』。この日一番訪問したかったのがここです。今年の大河ドラマクライマックスで、このシーンが出るかも・・・
「全興寺」。本堂に、「日光月光菩薩・本尊薬師如来・十二神将像」と書かれている。「大聖歓喜天・首の地蔵尊」とも書かれている。歓喜天の怪しさが好きです。『幸村ゆかり・首の地蔵尊 1614年大阪冬の陣が起こる。この時は城の外堀を埋めるという条件で和議成ったが、翌年和議が破れ「夏の陣」が起こる。当時大坂城は、二の丸・三の丸を失って本城のみになっていたから出撃する策をとり、平野・八尾街道では、藤堂勢と真田勢・後藤又右衛門・長宗我部勢の往来が激しかった。豊臣方が平野に火を放って退却の際、家康が大和道から必ず「樋之尻口」に来るとみた幸村は、密かにその地蔵堂内に地雷を仕掛けた。予想通り家康が地蔵堂内で休憩したが、小用を催し堂外に出た途端に地雷が爆発し、家康は命拾いした。この時の地雷の爆発で、地蔵尊の首から上が吹き飛ばされ、全興寺まで飛んできた』
「地獄堂・扉の前に立つ地獄が開きます。中に入ってドラも一度叩いてみてください」というのがあり、通行門から入ると、閻魔様の坐像が睨んでいました。怖い夜叉さんもリアルにおり、小さな子なら泣き出しそうです。「納骨堂」「牛の除霊碑」があり、穴が繰り抜かれた岩があり、「この石の穴に頭を入れると地獄の釜の音が聞こえます」というのもありました。「駄菓子屋さん博物館」に入ると、ブラウン管TV・手回し洗濯機・蓄音機が置いてあり、「不二家ミルキーのブリキ看板」、昭和のおもちゃがいっぱいありました。平野商店街に面しており、そちらに出てみました。アーケード屋根のある懐かしい商店街ですが、半数ぐらいのお店が営業していない感じです。
『本尊は薬師如来で、聖徳太子の作と伝えられている、平野が茫々たる野であった頃薬師堂が建てられ、ここから人が住み始め町が広がっていった。やがて坂上家の尊信するところとなり、1576年坂上利治によって再建された、府下木造建築最古である』
「仏の国」と書かれた入り口があり、地下に降りていく。暗い半地下の部屋で、座ることも出来ます。お地蔵様が周囲に並び、柱を水が沿い流れ、その水音がBGMになっています。全興寺の横に、「南海電車・平野駅」がありました。木造家屋の2Fに上がっていくようになっていますが、「運転日・毎月第1第3日用日・13〜16時」と書かれており、南海電車のNゲージでも走っているのかな?
「長宝寺」。「後醍醐天皇・行在所跡」の石柱が立っている。『当寺は、平安時代桓武天皇の妃となった坂上田村麻呂の娘・春子が、天皇の崩御後、兄の広野麻呂のいる平野に来て落飾、慈心大姉と号し、天皇の廟所として禁輪寺、坂上氏の氏寺として本堂を開基、以降代々坂上氏の女子が比丘尼として法灯を継いできた。後醍醐天皇が皇居を吉野に移される時、当寺を仮皇居とされ、熊野権現社に扁顧を賜った。絹本着色「仏涅槃図」は、鎌倉時代の名品。銅鐘は、建久3年(1192)の銘を有し、京都東山金光寺の鐘であったことがわかり、鎌倉時代の代表的和鐘で、ともに国の重要文化財指定され、市立美術館に寄託されている。毎年5月18日に秘仏の十一面観音像・閻魔王像が開帳され、「あんま王の御判」を押捺する法会がある。杭全神社との由縁から、7月14日の夏祭りには「みこし渡御」の神事が行われている』
手水が、ひょうたんから水が流れている。「楠木大明神」がある。本堂には、「閻魔大王・不動明王・本尊十一面観音菩薩・毘沙門天・地蔵菩薩」と書かれている。お堂縁側に、閻魔大王人形が置かれ、「ご自由に写真をお撮りください」と書かれていた。横の墓地に、めぼしい墓石はないかと入ってみる。
「かたな博物館」と書かれた暖簾が下がった民家があった。「お気軽にどうぞ」と書かれているので引き戸から覗いたら、刀剣が飾ってある。中では研師さんが作業中でした。「こんにちは」。砥石の種類・刀剣が出来るまでの工程が実物や写真で説明されている。「真澄庵」という御刀研職人さんのお店でした。あ〜だこ〜だ、教えてもらいました。「横綱白鵬関・守護御太刀研磨所」の木札が下がり、白鵬さんが来られた時の写真が飾られている。横綱土俵入りで、随身する太刀持ち力士が持っている太刀は、ここで研がれたようです。
「坂上広野麿屋敷跡」は石碑だけになっており、アパートが建っていた。「坂上子孫・末吉家屋敷」。
「大念仏寺」にバイクを停めたら、寺院が2つ見えている。江戸時代は、寺内町だったのでしょう。「浄土真宗・永福寺」、下がり無事門が素敵で、本堂も彫刻も年代物と感じないが、しっかりお金を掛けたいい感じです。
「大念仏寺」南門から入ります。「不許葷酒入山門」と、禅宗特有の石柱が立っている。『古川藩陣屋門 南門は現在の平野小学校にあった古川藩陣屋門で、明治廃藩後平野小学校表門として昭和2年まで使われていた。小学校校舎拡大により移築された。平野郷藩政時代唯一の遺構で、樟の一枚板である。江戸時代の平野郷は、1694年を境に前期は幕府領、後期は大名領地だった。特に1713年下野国古川藩主・本多忠良に給付されて以来、明治2年藩籍奉還まで156年間は、松平・土井と大名は変わったが、古川藩付所領であった。陣屋は古川藩時代に設置され、摂津近在古川藩所領の行政事務を取り扱っていた』
京都東西本願寺を彷彿させる大伽藍の本堂にびっくりした。敷地内に配された僧坊もそれなりの風格が漂い経済力の大きさを感じる。『本堂 昭和13年に竣工した総けやき造り銅板葺きで、棟行・南北39.1m、梁行・東西49.8mの大阪府下最大の木造建築である。堂内に本尊十一尊天得阿弥陀如来画像、両脇に岡倉天心の高弟・名仏師新納忠之助作の多聞天王・八幡大士の極彩色木造が立ち、左右の宮殿に宗祖・聖応大師(良忍上人)、中祖法明上人の木造を安置している。また左右余間に再興大通上人像と、旧本堂(1667年建立)建立願主舜空上人の木造を安置している。外陣いっぱいに吊り下げられた大数珠は、明治36年に再製したもので、珠1つ1つに施主主名・回向の戒名が陰刻されている。百万遍大数珠繰り法要に使用する』
『聖應大師良忍上人 上人は平安時代の終わり頃、1072年尾張富田庄領主・藤原秦氏の家に生まれ、12才で比叡山に出家する。天台密教の学問を深め、若くして学徳は一山の重きをなした。23才の時真の仏道を求めんと下山し、洛北大原に移った。1日6万編の念仏を唱え苦行を重ね、法華経などあらゆる教典を読破書写し、来迎院を開創し、浄蓮華院などを復活建立した。上人は、美声と音楽の才能に恵まれ、声明に励み、声明中興の祖と仰がれている。46才の時、阿弥陀如来より即得往生の道・口称融通念仏を授かった。この時をもって、本宗の開宗と定めている。鳥羽上皇の帰依を受け、上皇下賜の勧進帳と鏡鐘を持って宮中はじめ諸国を行脚し、融通念仏を広めた。四天王寺にいる時、聖徳太子の霊告で、1127年摂津平野に根本道場として大念佛寺を創建した。1773年、後醍醐天皇より「聖応大師」の大師号を授与された』。回転式の「経蔵」がある。とても雰囲気がいい。
釣り鐘もでかく、守護神社のご神木もとても太くて立派です。満開の赤木蓮に釣られて端の霊明殿に行ってみる。『正門・回廊・奉安所・修法堂からなる。1156年創建。良忍上人の念仏勧請を助け、自らも融通念仏に深く帰依した鳥羽上皇の霊牌と御真影を祀るために建てられた。徳川家康公を合祀するため、権現造りの社殿を再建した。それ以降「権現さま」「お宮」と称した。家康公は、大阪冬の陣・夏の陣で、36世道和上人に帰依し、治国・国家安穏の祈祷を乞い、日課念仏を誓約した。両度の戦役で被災した大念佛寺を、天海僧正立ち会いのもと、青銅百貫文を弁済し、庫裡を再建し、融通念仏に貢献した。今日まで修理を繰り返し、正門と回廊は江戸時代の遺構を残しているが、奉安所と修法堂は明治25年の火災で焼失し、旧形のまま建て替えられた。平成20年代修理を施し、新たに後小松天皇を合祀するようになった。後小松天皇は、融通念仏勧請帳の序文(重文)をしたため、広く融通念仏を広められた方である』
瓦紋が、天皇家の十六門菊と徳川家の三つ葉葵紋が交互に並んでいる。木鼻の獅子の目がガラス製なのか色が入りリアルです。彫りの深い龍の彫刻が素晴らしい。
平野郷を巡ったが、平安時代の坂上田村麻呂に始まり、室町時代の畠山管領家陣、大坂夏の陣、江戸時代に至る豪商の歴史へと、交通の要衝故経済力の中心地として文化を育み史跡の宝庫だった。全て自転車で巡っても、あまり時間がかからず回れるので、史跡の集積が凄い。
平野郷の史跡探索を終え、大阪中心市街地に向かいます。R25を西進し、堺筋にチェンジして北上開始です。10:08「高島屋」、10:09「黒門市場」。10:19「生駒時計店ビル」。最新式ビルのようにシュッとしていないが、彫刻が施され趣がある。ヴォーリス設計の中学校舎に通っていたので、その重厚感に安心を感じ、効率追求ではない美のある生活に好感を持つようだ。「小西家住宅」にひっそりと落ち着いた「コニシ株式会社」の銘板が、時代に流されない強さを感じる。10:24「武田科学振興財団・杏雨書店」。10:29「小川香料株式会社」。10:33、蔦に埋もれそうな「青山ビル」。さっき生駒時計店ビルを写していた女性2人組にまた会った。僕と同じ志向ですね。
10:36「芝川ビル」。眼鏡店とヴェトナム料理店が1Fに入店している。僕の通った学校の先輩で、教師として赴任した芝川先生の実家です。「文化庁・登録有形文化財」の銘板が入っている。10:42「三井住友銀行」。向かいの「野村ビル」。GOKANというレストランが1F入店している「新井ビル」。そして、中之島のある大川・地下鉄&京阪北浜駅まで北上し、10:48「大阪証券取引所」。正面に、「朝ドラ・あさが来た」で名を上げた五代友厚像が立っていた。ここでも2名のカメラマンがいた。朝ドラ人気なのでしょう。堺筋を北上しながら、タンクローリーの抗議行進に遭遇した。建築土木業界と言えば、公共工事賛成なので左より右・保守系だと思うのに、安倍政権批判の横断幕が、各タンクローリーに下がっていた。ハテナ?
10:51「緒方洪庵旧宅」「適塾」。『幕末の医師・蘭学者・緒方洪庵が1845年買い受けて、1838年に大坂瓦町に開いた私塾・適塾を移転した。1862年幕府の奥医師として江戸に迎えられるまで17年間、ここに居住した。諸国から集った門人に蘭学を教え、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの人物を育てた。敷地は間口12m・奥行き40mあり、主な建物は、教室に使われた表屋と、洪庵と家族の居室だった主屋からなり、土蔵と納屋があった。1792年の北浜大火災後の建物と考えられ、元は商家であったが、洪庵入居時に若干改造された。表屋は2階建てで、1階を教室、2階を塾生部屋とし、主屋2階には女中部屋がある。洪庵が江戸に発った後、再三改造された。昭和51〜55年の解体修復で、概ね洪庵居住当寺の姿に復原した。平成25年(2013)には、耐震改修工事を実施した。蘭学発展の拠点となった歴史を伝えるばかりか、近世大坂北浜の町家建築の姿を残す。昭和17年(1942)国に寄付され、洪庵の子息や適塾関係者らによって明治初期に設立された大阪仮病院や大阪医学校を源流とする大阪帝国大学へ移管された。現在は大阪大学が所有し、一般公開している』。隣の小さな公園には、緒方洪庵の銅像が鎮座していた。
中之島に入り、11:00「ダイビル本館」。11:07、ダイビル駐車場にバイクを入れる。「市立科学館」が見える。その北が空き地で、広い駐車場に使われているけど、用途がないのでしょう。大阪のど真ん中だけど、オフィスビルぐらいしか使い途がないのかな?ポツンと大阪大学中之島センターの小ぶりなビルが建っている。
「玉江橋」、堂島川の向かいに桟橋が浮いている。水上タクシー発着所なのかな?中之島周辺の橋と水面の高さに余裕が無いので、一般の船は入って来づらい。先輩が桜ノ宮に桜見物した時も、24フィートボートでは大きすぎて途中の橋がくぐれず断念し、翌年20フィートボートを借りてやっと海〜海遊館・USJ横〜桜ノ宮というルートで遡れました。
「中之島BANKS」の案内板があります。ここが目的のカフェがあります。河畔のプロムナードを歩くと、京阪中之島駅がありました。周囲の巨大ビル群を見上げますが、東京とは雲での差です。ビルの高さ・数で換算すると経済力は1/10ぐらいでしょうか。「リーガロイヤルホテル」がある。
11:18、「de sign de >」と書かれた建物がある。ここだと思ったらバッグのお店で、その横に目的のカフェがありました。その向こうに同一デザインの「BARBANKS」があり、その前に桟橋があります。バーの堂島川に面したデッキにも椅子が並んでいます。ヨット仲間が中之島界隈のレジャー観光船の船長をしています。海上タクシーでもやってるのかな?
ここで今回のカフェ巡りグループの主催者Jさんに会った。バイクグループツーリングつながりで、もう一人の知己Keの方も先着していた。カフェは開店前ですが、アウトドアにも席があります。お店の方を見ると、お初の男性Pさんが到着されており挨拶。続いてお初の女性が来られ挨拶。
11:30の開店と同時に、5人で入店し、パスタセットA・1080円+グレープフルーツジュース200円を注文しました。ワイワイガヤガヤ、話が続き、Pさんは結構歴史好きのようで、平野のこともよく知っておられた。お初女性Keさんは、カエルを飼っているという方で、人生で初めて会うカエル好き女子でした。
美味しく昼食をいただきましたが、女性がもう一人1時間ほど遅れて来られるので、ドリンクはその時にしてもらってワイワイガヤガヤ。13時頃Kyさんがやってきて、僕と同じものを注文されました。僕らはKeさんの提案に乗り、ハーフデザート200円を注文してKyさんに付き合います。鶴橋でお店をされている方で、次男の学校に行くとき環状線・鶴橋駅から歩いていたのでちょっと知っています。主催者Jさんは、鶴橋に焼き肉を定期的に食べに行ってるようで、とても詳しい。15時ぐらいまで、あ〜だこ〜だお話し解散になりました。
駐車場に戻り、15:06帰路につきます。中之島の西の端まで行き、北上してR176に合流。阪急十三駅横を通過し、十三筋を加島まで西進し、阪神高速池田線下のr10で北上開始です。藻川とて道にチェンジし北上、猪名川土手道を更に北上し、R171側道から15:56給油後帰宅しました。まだガソリンは残っていたけど、「特売日・96円」の看板に釣り込まれました。
家内は帰宅しており、「ニコラス・スパークス・A Walk to Remenber」をDVDで観ました。とても好きなラブストーリー作家で、小説の半分以上、映画化されたものも半分以上観ています。
甥っ子も大学受験が終わりました。僕の長男と同じとこが第一志望だったようですが、私立の理系学部に進むそうです。合格おめでとう。去年の現役時も国立に合格していたんだけど、浪人再チャレンジで1年頑張りました。悔いなく次のステージに上がれるでしょう。

2016/3/6
家内がお出かけなので、1人遊びの休日です。ツーリンググループの予定を見ると、またまた大入りで参加を躊躇。天気予報がイマイチなので、それも中止になっていました。天気予報を見ると、曇り空だけど暖かく、ツーリング日和に見えます。前回時間切れで宿題になった和歌山湯浅氏の山城探索後編を考えていましたが、近畿地方中部は19時ぐらいから雨が降る予報なので、より近い場所に変更しました。これも前回時間切れで宿題になっていた南河内古墳・史跡巡りです。
いつものように夜明け前に目を覚ましましたがゴソゴソし、7時に家を出ました。この日の相棒は、「招き猫CB400SB」。先週真冬装束で暑かったので、春秋装束に変更しました。夏用メッシュプロテクター上下+DAIWA釣りスーツのコンビです。下半身はタイツを履き、上半身はセーターを着こみ、寒くなっても対応できるようにしました。
豊中ICから中国道に入り、吹田から近畿道を南下します。寒さは感じず、晴れているのでツーリング日和です。西名阪道にチェンジし、藤井寺IC下車。r12を西進し、R170にチェンジすべき所をミスして、「近鉄・土師ノ里駅」前まで来ちゃいました。UターンしてR170。西名阪道の側道に乗って南東に進み、8:00に前回見つけられなかった大坂夏の陣で討死した薄田隼人のお墓に着きました。前回は近くの場所と間違えていました。帰宅後調べ直し、下調べがバッチリです。
真田の六文銭が染め抜かれた幟が立っており、大河ドラマに肖っているようです。『羽曳野市有形文化財 ここは大坂夏の陣の激戦地であり、大坂方の将・薄田隼人正兼相の最後の地でもある。1615年5月6日、徳川方の大軍を迎えた豊臣方は、籠城は不利と見て、玉手山付近の狭路で迎撃する作戦をとった。しかし、薄田隼人・後藤又兵衛・真田幸村・毛利勝永軍は、4隊合わせても1万足らずで、濃霧のため定刻に合流できなかった。激戦の末、10倍近い徳川軍に撃破される。薄田・後藤の両将もついに討死。翌日、大坂城は陥落し、夏の陣の幕を閉じている。す薄田隼人は、豊臣秀吉・秀頼に仕えた武将で、後に岩見重太郎として伝説化される剛勇の士であった。この墓地は明治18年、子孫に当たる広島藩主・浅野家野一族によって建立された。歴史の1ページを飾る史跡として、平成8年浅野家から羽曳野市に寄贈された』
敗軍ではあるが、ここに書かれた武将たちは、みな魅力的です。判官びいきの日本人故、江戸時代に読み物になって庶民にそういうイメージを植えつけたのでしょうが、多くは関ヶ原の敗軍側で浪人していた者で、再び一旗揚げようと大坂方の呼びかけに応えた剛勇の者です。
時代の趨勢は徳川になびき、敗軍が予想される戦に参じ、死ぬ場に一筋の光を見つけようとする心意気に胸打たれる。大坂城籠城戦だった冬の陣では、将兵も多く五角以上の戦いをして、徳川方に大損害を与えたが、夏の陣では堀を埋められ、外部からの援軍も期待できない中、多くの将兵が万に一つも勝ち目がないとして大坂城から離れていった。そんな中なおも残り戦った大坂方の将兵の気持ちに、熱いものを感じる。真田幸村・後藤又兵衛・毛利勝永、そして薄田隼人・・・、命は虚しくしたが、名を後世に残した。
この道明寺合戦での後藤・薄田の討死、毛利勝永が後藤・薄田敗残兵をまとめて大坂城へ退却した話、翌日の天王寺合戦での寡兵にもかかわらず、並み居る徳川軍を打ち破り、家康本陣まで迫った鬼気迫る猛攻、真田幸村の討死。毛利勝永が豊臣秀頼介錯後の静かな切腹・・・男子にはたまらない物語です。
大坂夏の陣戦闘中も、まだ余裕のある徳川方武将は、大坂方武将の戦上手と猛攻に賛美を惜しまなかった。この戦いの後、真田幸村の娘には縁談が殺到し、土佐に留守居していた関係者は江戸に送られ首をはねられたが、家康も猛将・毛利勝永に敬意を払い江戸に送らせたのでしょう。秀頼からの誘いに、関ヶ原敗残の自分を幽閉ではなく、禄高く丁重に扱ってくれた土佐・山内家への恩と、豊臣家への恩の板挟みになった心境を語った妻から、即座に「後のことは心配せんと、心置きなく大坂に参ぜよ」と笑顔で送り出した妻の心意気にも感動してしまう。
住宅街の入り組んだ一角にあり、今朝生けられたのか真新しいお花が墓前に添えられていた。六文銭の旗も真新しく、400年後でも続く先人を祀るご近所さんの手厚いお参り。「日本人って素晴らしいな」、この墓に参れて、ほんとに良かった。
8:14、「近鉄・古市駅」の東の細い路地に入り込み、住宅地にある「西琳寺」到着。「欽明・桓武天皇勅願寺」の石碑が立つ559年建立というとても歴史のあるお寺です。それにしては境内も小さく、本堂も特に特徴はない、でも境内に置かれた寺院礎石の大きさを見ると、過去の興隆期の伽藍の立派さを想像させる。
とても大きな五輪塔が3つ並んでいる。『鎌倉時代中期に、西琳寺奥院が高屋丘にあった。1295年住職の墳墓(五輪塔)が造営された。その後高屋城が築城され、土塁下に埋もれてしまった、昭和33年宅地造成工事で発見され、ここに移転安置されている。五輪塔は、地・水・火・風・空の5つの宇宙の生成要素と説く仏教思想に基づいて平安時代に創始された。元来は堂の落成、仏像開眼時の供養の目的の1つにしたが、鎌倉時代以降、供養や墓石として作られるようになった』
8:21、「真蓮寺」。ここも路地のような入り組んだ所にある寺院。門が閉ざされ、境内を拝見できなかった。『古市郡役所跡・真蓮寺 真宗西本願寺派。平安時代は「蓮華台寺」と称した真言宗のお寺だったが、鎌倉時代初期、浄土真宗に改宗された。室町から戦国にかけて、河内地方の一向宗基地となり、天正年間の石山合戦には、住職とその子が武将として参戦し、討死した。明治13年古市郡の役所が当寺の一角に利用され、9年間存続した』
r27を南下し、8:34「禅宗・大黒寺」。「日本最初・大黒天出現霊場」と書かれた大きな石柱が立っています。山門は低い板門で閉ざされていますが、「参拝自由、夕刻まで」と書かれていたので、勝手にプラスチック・チェーンを外し入ります。小綺麗な境内です。本殿は「祈祷殿」となっており、この中に大国様がいそうですが、中が見れません。お経が聞こえるのでお勤め中のようです。毘沙門天・弁財天などの6体の真新しい石造が参道脇に並び、お金回りが良さそうだなと感じます。
8:42・「杜本神社」。葬儀会館のような所にバイクを停めます。『金剛輪寺跡 杜本神社の神宮寺として聖徳太子存命だった頃創建されたと寺伝に書かれている。近飛鳥寺と呼ばれ、神社とともに南北朝期たいへん栄えた。後村上天皇から「金剛輪寺」の寺号を賜った。南北朝時代は、南朝の勅願所となり兵火を受け焼失衰退し、信長の河内攻めでも兵火を受けた』
R166沿いを流れる飛鳥川の河岸段丘上の位置にあり、鳥居は川に向かって立っており、その階段を下った所に駐車場がある正面のようです。「式内・杜本神社」と書かれた銘板が鳥居に下がっていたので、延喜式に収載された神社のようです。
登って行くと本殿のある曲輪に上がりました。祭神は、「経津主神(ふつぬし)・経津主姫神」。聞いたことのある名だけだったので、帰宅後調べるとイザナギノミコトが産んだ神で、天孫降臨の前交渉で大国主命のもとに天下った交渉神の一人ということでした。
謂れ板に、「大楠公の首塚」「隼人石」「藤原長手公の墓」と書かれていた。本殿横の軒下に、消防桶が打ち捨てられていた。本殿前に「立砂」が立っている。観光客などゼロと思われる神社にこれがあるとは、ちょっとびっくり。
みんな見て回りましたが、隼人石がここにあるのが興味深いです。隼人石は、朝廷の強軍「隼人」の姿を彫り込んだ(頭が獣で体は人間)石で、兵馬陵の埋蔵軍のようなものです。戦国時代に九州平定寸前まで行き、明治維新でも大活躍した薩摩の男を「薩摩隼人」と言いますが、あれの先祖と理解しています。古墳時代に制作され、古墳などを守るために周囲に設置されたと理解しているのですが、これを見て「ここ古墳じゃないの?」と脳内妄想しちゃいました。四方はみんな下りになってる小高い独立丘です。こういうのを感じることができるので、現地に来ると面白い。ここは大収穫でした。
飛鳥川沿いの細道に入ると、「竹内街道」となっていました。日本最初の官道(国道)です。杜本神社の正面でストップ。「水分神社」と書かれた石柱が立ってる。近在の村への農業用水を分ける分水所があったのでしょう。この配分は農家の死活問題なので、この取り分を巡ってよく争いになっています。『天正年間 織田信長の高屋城攻めにより、社殿焼失』と書かれていた。高屋城は、水濠を伴った安閑天皇陵にあり、その周囲が城域だったのでしょう。大和盆地側からの侵入者に対する城の守りの砦・屯所として機能していたのでしょう。
9:02、飛鳥川を渡る「月読橋」。なんてこと無い橋でしたが、上流・下流に景色が開け、その命名にも惹かれて停まってしまいました。
R166に合流し、9:05「竹之内街道と駒ヶ谷」という謂れ板の前で停車。暑くてセーターと上のカッパを脱ぎます。『二上山を仰ぎ飛鳥川が流れる駒ヶ谷は、古代以来の長い歴史に彩られています。江戸時代は竹内街道を中心に多くの人口を抱え、飛鳥川に沿った平地となだらかな丘に田畑が拓かれ、それを潤すため池も点在し、豊かな村であったようです。春と秋に牛市が開かれ、中郷地方から集められた牛が、600頭も取引されており、河内・和泉・大和に売られ、農作業の支えとなりました。現在栽培が盛んなぶどうは、江戸時代には庭先などで作られていたようで、明治以降丘陵地に広がり、国内有数のブドウ産地になりました』
『「駒ケ谷」の名前の由来として聖徳太子伝説が伝えられている。推古天皇の時代、聖徳太子は愛馬黒駒に乗って各地を周られた。この地にも立ち寄られ、そのとき黒駒をつなぎ止めた場所がある。「そのあたりでは、今も馬の蹄の跡がある不思議な石が出る。それは硯にすることもできる、青く硬い石で割るとしだいに蹄の跡が現れる。それゆえ、ここを駒ケ谷と呼ぶようになった」と案内板に書かれている』
丘陵地に見えるハウスは、ぶどう畑です。9:14、「飛鳥戸神社」。『雄略期に渡来伝承を持つ百済系・飛鳥戸造一族の祖神である「飛鳥大神(百済の王)を祀っている』。こんな謂れを読んだ後だからか、蟇股や木鼻の彫刻が、なんとなく日本風でないように見える。
手水場が水道の蛇口だったので、愛用してるペットボトル水筒の水を入れ替える。R166を南に渡り、9:33「壺井八幡宮」。河内源氏発祥の地です。平安時代の清和天皇の孫が「源」の姓を賜って臣籍降下し、北摂で軍事貴族として清和源氏が起こった。その子孫が河内守に任命されてこの地で起こったのが河内源氏です。この子孫が東国で実力を育み、鎌倉幕府・室町幕府を成立させました。本姓・平と言われている徳川家康も、幕府設立にあたって源氏の血筋が買ったと言われています。豊臣秀吉が源氏でなかったので幕府設立を諦め、朝廷官僚トップの関白になったという。現在の日本人の殆どの方は、先祖を辿れば「源平藤橘」に行き当たるという。つまり、天皇家とは皆親戚であり、血のつながりがある。陵墓を訪問する行為は、そのまま先祖の墓参りでもある。ここは、ずっと探索してみたかった地です。
「河内ふるさとのみち」という案内標柱が立ち、主な史跡の方角と距離が書かれています。トレッキング道ですね。見上げる石段の上に河内源氏の本拠地・壺井八幡宮があると歩いて行くと、「壺井」があった。『清泉・壺井 平安時代・前九年の役(1051〜1063)の時、源頼義の軍が水に苦しんだ時、弓の先で崖を突き崩して得た冷泉により、将士の意気が上がったと言われる。平定完了後、冷泉を壺に入れて凱旋し、ここに井戸を掘り、そこに冷泉を入れた』
『このあたりは壺井の香炉峯といわれ、河内源氏発祥の地。1020年源頼信が河内守に任官しこの地に私邸を営み、1064年前九年の役を平定した子・頼義が岩清水の神を私邸の東側に勧請したのが本宮の起源である。また左側にある「壺井権現社」は、源義時(義家の五男)が河内源氏の祖神として1109年に創始した。現社殿は、1701年徳川綱吉の命で柳沢吉保が再建したものである』
階段を登ろうとしたら、中央に「源義家公28世後裔・三王商事株式会社・三王紀将」と彫られた石柱が立っていた。石段を寄進したのでしょう。後世に伝える物を残すのはいいね。階段を登ると、「天然記念物・楠の木 樹齢1000年」がドンと構えていた。存在感抜群。檜皮葺の社殿が見える。参道に、「奉納・多田正知」と彫られた石柱が立っていた。参道の整備・石段を奉納されたのかな?多田の苗字からすると、清和(多田)源氏発祥の地・多田を連想させ、源氏の後裔の方でしょう。
本殿に参り、絵馬掛りを見て、絵馬を買おうと社務所に寄ったら、誰もいなくて残念でした。窓に鍵がかかり、呼び鈴もありません。お出かけの時は、窓の外に絵馬やおみくじ・お守りなど少し出されて、お納め料を書いた賽銭箱でも置いておけばいのにと思った。お守りをパクってしまうような不信心者はいないでしょう。源氏の天罰が落ちるに決まっています。源氏の「白旗付き神矢」もあるそうです。崖を崩した矢だそうです。トイレで、タイツも脱ぎました。夏装束でも良さそう。
帰ろうと鳥居のところまで来ると、「石川」の作った平野が見渡せました。この肥沃な土地が、河内源氏の源泉になったのでしょうし、大坂夏の陣でも、「石川を渡り」とあるあの川です。そして、後藤又兵衛・薄田隼人を散らせた濃霧もこの川の気まぐれだったのでしょう。
次は、河内源氏三代の墓です。GPSに導かれるまま路地を走ると、四輪なんて絶対無理な用水路沿いの幅1mほどの道に導かれました。なんと!バイクを置き、徒歩探索すると、20mほどで車道に出ます。意を決して、教習所の一本橋の実践をします。車道になったとこにお墓がありました。山門に、「源氏・祖郷」と書かれた札が掛かっています。「源頼義朝臣墓」がありました。河内源氏の祖・頼義は、大江山の鬼退治で有名な清和源氏・摂津源氏の源頼光の孫です。
『1051年、安倍頼義(頼時)が反乱を起こした時、鎮圧にあたった。その後再びその親子が反乱したため、出羽豪族・清原氏の援軍を得て1062年平定した(前9年の役)。この出陣に際して、石清水八幡宮に戦勝祈願し戦功を上げることが出来たので、この地に八幡宮を勧請し、通法寺の北に壺井八幡宮として源氏の氏神にした』
境内に曲輪は残るものの建物は、先ほどの山門とあと一つ山門があるだけ。壺井八幡宮都の位置関係から、ここが通法寺のようです。「ウォーキングトレイル」の案内地図があり、「歴史街道」石柱には「源義家・頼信墓、0.2km」と書かれていた。歩こうかとも思ったけど200mという距離が微妙で、バイクで小川沿いに上りました。
30mほどで行き止まり、通法寺を見下ろす丘が墓所でした。バイクを置いて、急峻な丘に付けられたつづら折れを登ります。『源氏三代の墓 頼信は河内守に任官後ここに邸宅を構え、数々の戦乱を平定後ここで余生を過ごし、1048年遺言により「巽」の方角に葬られた。頼義の墓は通法寺旧本堂跡にあり、1082年79才で死去し、遺言により本堂下に葬られたが、後に現在地に移された。義家の墓は、通法寺南東の丘陵上にある小高い円丘である。1106年京の邸宅で死去し、ここに葬られた』
丘の上に上がると、扁平された広い曲輪になっており、謂れ板がないので分からないが、一列に墓石が並んでいる。河内源氏に縁のある者の墓かな?「愛鶏之墓」と彫られた墓石があり、ペットとして鶏を飼っていたのか?って突っ込みたくなった。
円丘前に、「源義家の墓」と刻まれた石柱が立っている。『歴史街道 国指定史跡 源義家の墓(1039-1106) 7才の時、石清水八幡宮で元服し八幡太郎と名乗った。前九年の役で父・頼義に従って名声を高めた。1083年出羽豪族・清原氏の内紛が起こると、1087年それを鎮圧し、武将としての地位を不動のものとした(後三年の役)。この功績から百姓が土地を寄進し始め、1092年朝廷から土地の寄進禁止令が出されるまでになった。1098年、武将で初めて昇殿を許された』
10:28、r27を南下し、r32に乗り換え、「叡福寺」着。石段を上がると、仁王門がある。小ぶりだけど雰囲気がいい仁王像。山門に「聖徳廟」と書かれた山門名が掛かる。多宝塔・本堂・手水舎などが境内にあり、参道正面に里山。その手前がまた石段で上がり、長屋門になっている。その奥に瀟洒な唐破風の建物が見えている。
『叡福寺は、聖徳太子の墓前に営まれた寺院。戦後単立寺院となったが、もとは古義真言宗・金剛峯寺の末寺で、石川寺・磯長寺と称されていた。四天王寺・法隆寺と並んで、太子信仰の中核を成した寺院である。推古天皇30年(622)建立で、724年聖武天皇の勅願によって伽藍を造営され、もとは法隆寺同様東西両院からなり、東の伽藍を転法輪寺、西を叡福寺と称した。
現在の伽藍は、1574年織田信長の兵火で焼失した後、相前後して再建された。広大な境内には、金堂・聖霊殿・宝塔など堂塔が立ち並んでいる。境内北方高所に営まれた磯長陵は、621年崩御の聖徳太子生母・穴穂部間人皇后、622年聖徳太子、その后の3人が一所に葬られていることから、三骨一廟と呼ばれている。墓前に、空海・親鸞・良忍・一遍・日蓮・證空の諸賢聖のほか、名僧の参籠が多く、現在も善男善女の参詣が絶えることがない。
当寺は数多くの貴重な文化財を所蔵している。聖霊殿(太子堂)は、1603年豊臣秀頼が再建したものです。1732年再建の金堂、17世紀前半建築の鐘楼は、大阪府指定文化財。巨大な石像五輪塔は、源頼朝の供養塔と伝えられ、鎌倉末期の優作として、大阪府有形文化財私邸を受けている』
宝物殿に入ってみる。ベルを押すみたい。「宝物殿ご訪問の方、そこでしばらくお待ち下さい」のアナウンスが、境内全体に聞こえる。しばらくしたらジャンパー着たおじさんがやってきて、開けてくれました。照明も点きお宝は意見です。拝観料・200円。聖徳太子の各年齢の姿を描く掛け軸が多く下がっており、シャッポに我が家と同じ武田菱紋が描かれていた。南北朝・阿弥陀如来坐像、室町時代・十一面観音立像・阿弥陀如来立像が、どこも傷んでいないような綺麗さで鎮座している。銅の合金なんどろうけど、他にどんな金属がどのくらい混ぜてあるのか聞いたけど、知らないそうです。開けてくれた方は、作務衣に着替えて受付に座っていた。
木造の仏像は、鎌倉時代の大日如来坐像や平安時代の像があり、虫食いがあるが素晴らしい保存具合です。唐仏もあった。平安時代の僕の好きな木造・毘沙門天は兜を被っている。檜の一刀彫だそうです。等身大より大きいので威圧感抜群です。聖徳太子所持の高麗笛と、用明天皇所持の大穴笛が並べて置いてあった。僕の指では穴を抑えきれないように大きめ穴の笛で、抜け具合の音色を楽しむのかもしれない。聖徳太子は、31代用明天皇の次男として生まれましたが、母親は29代欽明天皇の娘です。用明天皇自身が欽明天皇の子で、腹違いの兄弟夫婦です。この時代は、近親相姦気味の結婚を繰り返しているので、血が濃くなり過ぎて天才か愚鈍が生まれそう。
御廟曲輪に上がってみます。二天門という山門をくぐります。阿吽の増長天・持国天が左右を守っています。素敵な彫刻が施され、唐破風檜皮葺屋根が綺麗な御廟円墳前の小ぶり伽藍です。里山の山頂が御廟なのか宝物殿で聞いています。その手前の円墳がそうです。
円墳を一周しようと横の道に入ると、墓地がありました。「釈・・」の浄土真宗の信者さんのお墓が目立ちます。さらに下に大きな現代風墓地が広がっています。聖徳太子廟の横なら、墓地の価値が上がりそうだし、ここまで自然災害に遭わずに来た場所は、更に価値が高い。
墓石に刻まれた文字を目を凝らして読んでいたら、上から御仁が降りてきた。挨拶すると、「上まで行かれましたか?毎日新聞に紹介されてて来たんだけど、謂れ板がなく何かわからなかった」とのこと。僕もわからないので、役立たずでしたが石段が山頂まで続いており、10分ほどということだったので、行ってみることにしました。
裏側にも墓地が広がり、巨大墓苑だとわかりました。山頂に立つコンクリート製の宝篋印塔は、墓苑を象徴するものかもしれません。でもそんなものを新聞が紹介するわけないよね。石段を下りながら景色を見てると、富田林のPL教団の塔が見える。僕のようなこの地域の地理に不案内の者にとっては、格好のランドマークです。そうか、あっちの方角が富田林なんだ。
浄土堂。見真堂・・・親鸞上人自作のご尊像を祀る。まさか浄土真宗開祖が彫った仏像があるとは思わなかった。科長岡(しながおか)神社・・・謂れ板に書いてあった「叡福寺は地名から磯長(いそなが)寺とも呼ばれていた」に音が似てるな。太子町界隈が「磯長」と呼ばれていたのはわかったけど、海に近くないのに「なぜ磯?」と疑問に思っていたけど、「しなが」の当て字なのかも?なんて脳内想像が膨らみました。太子円墳を囲むように、古い墓石が並んでいました。真言宗の代名詞、弘法大師修行装束像と弘法大師堂がある。各宗派入り乱れてが、面白い。
11:47、「31代・用明天皇・河内磯長原陵」。なんと僕以外に観光客がいた。太子廟とはお隣と言える近さで、お父さんの用明天皇陵の近くに眠りたかったのかな?
R166に出て、r32・r33との交差点に、ファミリーマート・太子町山田店があった。朝食抜きでここまで来たので、何か食べましょう。「巻き寿司・いなり寿司セット」を購入し、イートインスペースで食べます。「乗馬クラブ・クレイン大阪」のパンフレットが置いてあった。小2から70才まで、乗馬スクール45分5000円+装具レンタル1000円+保険料200円、5級ライセンス・3日間で取れます・22000円。なるほど・・・僕は高校の時ヨット部に入らなかったら、馬術部に入っていたと思う。12:15、食後の腹ごなしに、ブルーベリー飲むヨーグルト118円。
12:20、「36代・孝徳天皇陵」。目の前を「竹内街道」が通っていた。観光客が2組歩いていた。駐車場の目の前が、「国登録文化財・大道旧山本家住宅」だった。この駐車場は、ポールが立っているので、四輪では入れません。バイクだからポールの間を抜けられました。観光客用ではないのかも?距離はないけど、陵墓まで登って行きます。降りてきたら、さっきの観光客がまだおられ、上の様子を聞かれるので、教えてあげたら登って行かれました。
12:30、「小野妹子墓」。タクシーが停まっていた。バイクを置いて登って行くと、「科長神社」があった。聖徳太子廟横にあった「科長岡神社」の本社かな?一瞬、小野妹子が、「科長」と呼ばれていたのかな?なんて思いました。「まあ寄ってみるか」程度の寄り道だったのですが、なかなかいい感じのお宮でした。境内中央に、周囲の山から伐採したのか、枝葉が山のように置かれており、火祭でもしそうです。誰もいなかったので、疑問のままです。拝殿も綺麗に整理準備され、いつでも祝詞が上がりそうです。午前中に神事をやってたのかな?
長い石段を上り、小野妹子のお墓へ。途中の山中にお金の掛かったトイレが有り、やはり科長神社関係のトイレに見えました。由緒あるお宮は、お祭りが盛大で、多くの人を集めるものです。その時のためだけのトイレかも?妹子さんのお墓は見晴らしが良かった。その景色を当てにしたのか、朽ち果てた休憩所がありました。
12:49、「二子塚古墳」。石柱の立ってる塚上部まで上る道がなく、誰のお墓かわかりませんが、枝尾根をふたコブのように切り岸しお墓にしたのか、盛土したように2つ仲良く並んでいました。
12:53、「33代・推古天皇陵」。用明天皇と同じ欽明天皇の同腹皇女で、30代敏達天皇の后。日本最初の女性天皇で有名です。子に竹田皇子という方がいますが、両親天皇というサラブレッドにもかかわらず、早死したということです。敏達天皇と推古天皇は欽明天皇の別腹子ですから、血が濃すぎての早死だったのか、厄介な性格だったのかもと、勝手に想像しています。
陵墓に上がると、「推古天皇・磯長山田稜、敏達天皇皇子・竹田皇子墓」と書かれていました。推古天皇と竹田王子は親子です。
13:03、「30代・敏達天皇陵」。みかん畑の横の道を歩き陵墓正面着。「敏達天皇・河内磯長中尾稜、欽明天皇皇后・石姫皇女」と書かれていた。石姫は28代宣化天皇の皇女で、父親の異母弟の29代・欽明天皇の后で、30代敏達天皇の母親。近親相姦だらけで、敏達天皇は母親と同じお墓に入り、后の推古天皇は息子と同じお墓に眠っています。男性のマザコン、女性の息子愛は、今の時代も同じような・・・。「孫くんは可愛いね」と家内に話しかけた時、「でもね、私は息子の方が今でももっと可愛いよ」と返ってきて、「へ〜」と思った。バイクに戻る時、養蜂箱があった。横のみかん畑に受粉するためにミツバチを使うのだろう。
r33を南下し、r200で13:32「弘川寺」。西行法師のお墓があります。源氏平家の盛衰物語・大長編「平家物語」の名脇役なので、ここを訪問したくなりました。西行は、出家する前は平安時代の北面の武士・佐藤義清で、平清盛と同じ北面武士仲間だった。妻子を捨てて出家してしまい、地方を巡り歌を読む生活を送る。平清盛と源頼朝とも交流がある僧として、平家物語に度々登場する。
もう一人、西行と清盛の北面の武士時代の同僚に、遠藤盛遠という武士がいる。こちらは、別の同僚の美人の奥様に横恋慕し、奥様に関係を迫る。板挟みで苦しんだその奥様は、「ならば旦那を斬って」と計略を披露する。計略に乗った遠藤は、計略通りそこに現れた奥様の旦那様の首をはねる。しかし、それは旦那様ではなく、なんと奥様本人だった。悩み苦しんだ奥様は、自分を犠牲にして横恋慕な恋を精算した。遠藤も出家して文覚となった。後白河法皇への強訴により、頼朝と同じ伊豆に島流しされ、ここで頼朝と縁ができ、清盛・頼朝両方にタメ口で話せる怪僧・文覚が出来上がる。京都神護寺の中興の祖でもある。伊豆の文覚の幽閉所も訪問してみたいんですよね。こちらも平家物語の名脇役です。
本堂に、拝観料のお賽銭をして、道標に従って西行堂の方に上がってみる。方円の檜皮葺の質素で落ち着いた小ぢんまりした僧坊が、森の中の本堂を見下ろす位置ににひっそり立っていた。更に上がると広い曲輪に出て、その端っこに「西行墳」があった。『西行上人は、晩年空寂座主の法徳を慕って登臨され、73才で当寺にて入寂される』。小さな円墳が作られていた。
「似雲法師・花の庵跡・200m」。『似雲墳 江戸時代中期、広島の歌僧・似雲法師は西行を慕い、この終焉の地にやってきて、西行の墓を発見した。その後、西行墳の周囲に千本桜を植え、その中に「花の庵」を建てて、生涯を西行追慕に捧げた』。曲輪の片隅には、桜の苗木が数十置かれ、植える作業を行っているようです。桜の木がたくさん目につき、毎年その季節には桜の園が出来上がるのでしょう。「西行桜山周遊路入口・500m」と書かれていた。
『弘川寺は、天智天皇4年(665)役行者の草創。天武天皇白鳳5年(677)勅命あって雨乞いを祈り、験著しく「龍池山弘川寺」の寺名を賜った。737年行基がここで練行し、弘法大師が中興した。歌聖・西行が晩年、座主・空寂上人を慕って来られ、1190年入寂する。南北朝時代には楠木氏の戦場となり、戦国時代には河内守護・畠山政長がこの寺に陣し、弟・義就これを攻めて1463年堂塔ことごとく焼失する。西行法師を慕い、歌僧・似雲法師が1733年、当寺境内にその墳墓を発見し、墓域に草庵を結んで隠棲した。遺言により、西行墓の傍らに葬られた』。九曜紋だった。ハクモクレンの花が咲きかけており、「もうそんな季節なのか」と思った。
r200〜R309〜r201〜r202で、14:14最後の訪問予定地・「瀧谷不動尊」。県道をはさみ左右に伽藍が並んでいます。まずは北へ。手水にセンサーが付いており、人が前を通ると水が出ます。午後の時間にもかかわらずお客さんが多く、祈祷の声が聞こえて来るし、法事装束の方、交通安全祈願所前には車も停まっており、観光客の他に実入りの良い実質のお客様が多いようです。
裏山に登って行くと、歴代住職のおエリアがあり、無縫塔が並んでいます。小ぢんまりした六角堂が素敵です。「鎮守社 高倉大明神・瀧尾大明神」の祠がある。更に上ると朱色に目立つ多宝塔が建っていた。宝塚の中山寺に似て、お金回りの良いお寺に見える。谷を挟んだ向こうにも朱色の僧坊が見える。
谷を渡って反対側へ。「滝行場」と書かれていたので行ってみたが、水量が少なく、これじゃ滝行場の迫力に欠けるな。滝不動堂に、お不動さんがいるかと思ったけど、見えなかった。
帰路につきます。r202〜R170〜R309で北上し、美原南ICから近畿道に乗ります。風が出てきていますが、天気はまだ持ちそうです。吹田ICで下車し、中央縦貫道を西進し、道なりにR171に乗り、15:52・「バイクセブン・伊丹店」。GPS・車載カメラを収納し、20分ほどあれこれウインドウショッピングして帰宅しました。
家内が先に帰っており、本日の行程を報告し、「モヤモヤさま〜ず」を見ながら夕食を食べ、お休みしました。ああ、楽しかった。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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