ウェブマスター日記 2016/1-2

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
感想をいただけるとありがたいです→webmaster

2016/2/28
家内が用事なので、1人遊びです。ツーリング・グループの予定を見ると、目的地は近場のグルメ。10名以上の大入りで、う〜む。世界遺産登録を目指してる河内の古墳群を観に行くことにしました。河内は、奈良盆地と大阪湾を隔てる生駒山系の北と南の交通路を含みます。北は京都との関係もあり、古代から近世にかけての要衝の地です。よって魅力的な歴史遺産が多い。奈良盆地から、大和川が生駒山系の南を大阪平野に流れ出る藤井寺・羽曳野地区の歴史遺産をピックアップし、巡ることにする。
7時前に階下に下り、朝食・準備・冬装束を整え、「里山VTR250」に積み込みます。空気圧は、ゲージ付きキャップなので一目瞭然で、簡単にチェック出来良い。7:53に出発。r13を南下し、R43を東進して弁天町を通過。天王寺・阿倍野からR25に乗ります。
8:50、「杭全神社」着。以前から、前を通る度に気になっていました。JR関西線・平野駅近くで、天王寺寄りのR25の交差点名に「杭全」という地名があり、歴史の古さを感じさせる。立派な鳥居の所にバイクを置き、散策開始です。
『9世紀平安時代の初め、平野郷の守護神として奉祀された。14世紀に後醍醐天皇の勅命で勧請され、現在の規模になった。古くは、祇園社・熊野権現社と称されたが、明治3年杭全神社と改称された。大門は鎌倉時代の建物、第1殿は春日大社本殿を1711年に移築したもの。第2・3殿は1513年建造で、大阪市内最古の建造物で重要文化財指定されている。連歌所は1708年再興された建物で、中世平野郷の文化的水準の高さを伝える』
石鳥居横の大きな建物も社殿かと思ったが、新興宗教・金光教の建物でした。参道を歩いていきます。噴水の上がる池の中の小島に祠が立っている。典型的な弁天池です。天満宮の摂社もある。筆塚もあった。忠魂碑も立っている。先の大戦で、多くの国民を失ったので、軍部の暴走など当時の日本を否定する論調が多いけど、国のために戦った方の魂を鎮めるのとは別物です。それに、敗戦により民主主義国家になったとの論調もあるが、明治維新で封建国家がなくなってから、日本は議会制民主主義だったのだから、先の大戦も間接的には国民の総意であったわけです。戦前の日本の全面否定ではなく、教育勅語など良い所を先入観なしに見なおして欲しいと思う。GHQが、有色人種中最強国家を作った日本人を貶める政策を取り、再浮上を妨げようとした政策を全面的に是とすると、太古より営々として築き上げてきた日本独自の良さを葬り去ってしまい、実に勿体無い。
樹齢1000年・樹高30m・周囲10mの大楠の木があった。大阪府指定・天然記念物。こういう樹齢の大木が、神の住む神域として市街地に残している日本文化が素晴らしい。産業革命で石炭がエネルギーとして台頭する以前は、エネルギーといえば木材だった。飛鳥以来、都が点々とした原因の1つに、周囲の山が旺盛なエネルギー需要によって禿山になったことがある。それにより山の治水力が落ち、水害により都市が荒らされ、疫病が流行した。
生活に重要な水源などを神域指定し、乱開発を防止し、後世の子孫の生活の基礎として残した日本人の知恵・文化に頭を下げてします。僕らは自らの足で稼ぎ立っているように見えるが、先人の子孫を思う知恵によって、この地で生活し続けられる基盤の上に立っているに過ぎない。「育メン」が脚光を浴びているが、そのために育児に絶対必要でもない父親が、長期休暇を取るのに疑問を覚える。おっぱいをあげるために絶対に必要な母親と子供のために、しっかり稼ぎ、次世代に残す基盤を整えるのも立派な育児・育メンに思える。自分の仕事の代理が利く職種や人材豊富な大企業ならともかく、基本は仕事を休めば生活費がなくなるもの。生活保護・健康保険・年金・・・様々な社会基盤システムは、先人が残してくれた。僕らは後世に何を残せるのだろう。
連歌所の建物があった。拝殿で、「丈夫な男の子を2人お願い致します。初孫くんの健やかな成長、妊娠中のお嫁さんたちの健康、2人の息子一家がニコニコ暮らしていけますように」と、毎晩仏壇・マリア様・神棚にお願いしていることをお願いした。織田信長と同じ胡瓜紋。拝殿裏に回ると、三社並びの本殿があった。
第1本殿は「牛頭天王」だった。明治維新以前、「てんのう」と言えば「牛頭天王」で、「天皇」は意識されなかったそうです。現代の耕うん機に匹敵する農耕に便利で家族同様だった牛は、生活に密着していた。父の実家・農業の母屋の隣は家畜舎で、鶏・牛・ヤギがいた。夏休みの数週間僕はそこで暮らし、朝玉子を取りに行き、ヤギの乳を飲んだ。昼間鶏は屋敷内をウロウロし、中庭での従兄弟との野球の邪魔になった。
吉岡稲荷大明神・十柱神社・祖霊田村社・恵比寿神社などの摂社を巡り、社務所で「幸村ゆかりの地・平野区」というパンフレットをもらった。安藤正次墓所(大坂夏の陣で将軍秀忠の伝令として活躍するも討ち死)、杭全神社(征夷大将軍・坂上田村麻呂創建、連歌所は大坂冬の陣で破却)、大念仏寺(大坂冬の陣で家康が武運長久を祈願)、志紀長吉神社(大坂夏の陣で真田幸村が刀剣と六文銭の軍機を奉納し必勝祈願した)、平野郷樋尻口門跡(道明寺合戦に敗北した真田幸村は大坂城へ退却した。自軍を追う家康は平野で休憩すると予測し、樋尻口の地蔵堂に地雷を仕掛けた。案の定家康が現れ地雷が爆発しようとしたその時小用でその場を離れ九死に一生を得た)、全興寺(樋尻口地雷爆発で飛来した伝説を持つ「首の地蔵尊」がある)、真田幸村休憩所(大坂夏の陣で伊達政宗と一戦した真田幸村が休憩し、志紀長吉神社に必勝祈願した)と載っていた。志紀長吉神社周辺の幸村史跡は巡ったけど、平野周辺はまだ巡っていない。平野郷樋尻口門跡はどこにあるのかな?地図が載っていないのが残念。
R25を南東に走り、八尾に入ってr2。9:31、「八尾空港」着。フェンス越しに滑走路を見ると、セスナなど小型機が駐機している。先頭の機のプロペラが回っており、後続の双発の機が滑走路に出て行った。「大阪航空株式会社」、ロビンソンヘリコプター日本総代理店となっており、「Learn to fly Here」の看板も上がっていた。「朝日航空株式会社」、ちょっとリッチにスカイクルージング・遊覧飛行、体験飛行コース3800円、あなたもパイロットになりませんか・飛行クラブ会員募集中。高所恐怖症の僕には無理そうだけど、面白そう。
大阪市消防局航空隊建物横の滑走路に、消防局の赤いヘリが停まっている。国土交通省の国道・大阪航空局・八尾空港事務所、気象庁八尾航空気象観測所の建物がある。管制塔もある。展望デッキはなさそうなので、空き地からフェンス越しに滑走路を見に行くと、第一航空の小型ヘリコプターが準備中のようです。教習ヘリかもしれません。格納庫内を覗くと、小型ジェット機が牽引準備中です。飛ぶのかな?
見ていると、ジェット機が出てきて、燃料車がやってきて燃料補給し始めた。ヘリの方には、おじさんが乗り込み、チェックボードを持った職員さんが外から見ている。別の職員さんがやってきて、横の席に乗り込む。やはり教習中のようです。エンジン始動し、1mほど上がり、滑走路をその高度を保ちながら進みます。
やがてエンジン音が上がり、飛び去って行きました。ジェット機の方にも、人が乗り込み発進準備を始めたようです。僕が見始めた時は1人だったけど、小さなお子さん連れの家族がやってきて、その後航空ファンと思える一眼レフを持ったおじさん達が増え、総勢10人ほどになりました。
r2に出て南下。10:25、津堂城山古墳。『古市古墳群の最北部に位置する前方後円墳。竪穴式石棺が発見され、鏡や銅鏃などの副葬品も出土した。副葬品の種類や円筒埴輪の特徴から、古市古墳群最古の4世紀後半に造営されたことがわかる。二重の濠を持ち、外提に葺石が施してある。全長400mを越える大古墳で、コハクチョウの実物大3体の水鳥埴輪があたかも壕内を遊泳しているような姿で据えられている。古市古墳群内に築かれた初代の大王陵とかんがえられる』
冬だからか、濠に水がありません。花壇みたいになってる所もあるので、年中水のない部分もありそうです。でも立派な古墳です。古墳内に「津堂八幡神社」があるので訪問します。『1575年、織田信長の河内攻めの時、古墳上にあった城と共に他の場所にあった神社も落ちた。1720年、古墳上に再建された』と書かれていました。
10:38、「善光寺」。「日本最初・善光寺如来」と書かれています。『現在、浄土宗に属し、南面山無量寿院善光寺と称します。本尊は、信濃・善光寺と同じ一光三尊仏・阿弥陀如来です。7世紀初頭、本田善光によってもたらされた仏像を本尊として、白山古墳の南側に寺院を建立したとされていますが、渡来系氏族・津氏によって建立されたと出土軒瓦から推定できます。その後、三好氏の小山城とともに焼失・廃寺となりましたが、江戸慶長年間(1596〜1614年)に現在地に再興された』。
織田信長と、畿内を基盤に幕府を動かしていた三好氏との戦いでしょう。鬼瓦や鯱瓦がいい感じで、屋根の様式が、江戸時代建立の割には、平安より古い奈良朝の様式を感じる。施工者の土地柄だろうか。藤棚があり、干からびた鞘が下がっている。
『当山は、歴史上有名な本田善光の伝説を持っている。推古天皇の御代、本田善光が信州への帰路、難波の堀江で立派な仏像をを拾い、これを負うてこの里の小堂で宿泊した。住職の隆聖法師が、その仏像を所望したが1体しかなかった。3日3晩2人で熱心に供養したところ、一光三尊仏が2体になり、1体を河内にお祀りし善光寺とした』
信州善光寺の本尊に、このような謂れがあったとは知りませんでした。10:58、「雄略天皇陵」。21代天皇で、周辺諸国を武力で攻略していった評判の良くない方です。豪族としての天皇家が、武力拡大していった時期のようです。周囲を水濠で囲った典型的な古墳です。
11:05、「吉村家住宅」。庄屋さんが開放されていると思ったのですが、庭にも入れませんでした。塀から茅葺き屋根を見ただけ。『江戸時代初期の民家を代表する建物で、主屋・表門(長屋門)・土蔵・土塀が国の重文指定。近在18ヶ村の大庄屋を務めていた』
雄略天皇陵の頃から、ハイキングの集団を見るようになりました。自治体や旅行社が主催している感じがする。とにかく数百人規模のように思える。同じ集団がこちらにも流れてきているので、歴史スタンプラリーでもしているのかな?良い天気で暖かく、最高のハイキング日和です。
11:16、「大塚山古墳」。水濠を有する大きな古墳です。封鎖されているが、水濠を渡り墳墓に続くコンクリート橋がつけられている。『東除川と西除川に挟まれた台地上に築かれた大型前方後円墳で、陵墓参考地として宮内庁が管理している。後世に砦が築かれ当初の地形が変わっている所もあるが、幅の広い水濠を隔てて望む姿は雄大です。全長335m・後円部の直径180m・高さ20m・前方部の幅230m・高さ4.5mで、全国5位の規模を持っていますが、埋蔵施設の構造や埴輪の有無の詳しいことはわかっていません。古墳が造られたのは、畿内で前方後円墳の構造が終わりを告げようとする6世紀前半と推定する説が有力。それだけになぜこれほど大きく造られたのか、埋葬人物は誰か、古市古墳群の中心からやや離れた場所に造られた理由など、古代史を考える上でも重要な問題を持つ古墳として注目されている』
11:27、「大津神社」。裏口から入った。摂社「大宮稲荷社」「弁天宮」を見て、謂われ板発見。『延喜式・927年に記載され、天皇から進物を受けていた由緒ある神社です。古代には「古市大溝」という人工水路が近くを流れていたことから、当初はこの地を本拠地として西国からの貢物輸送に関わっていた渡来氏族の津氏が、祖先神を祀った社であったと見られている。江戸時代は丹下9ヶ村の氏神として崇拝され、現在は素盞鳴尊・奇稲田姫夫婦神・天日鷲命・大山咋命・菅原道真公が祀られている』
「津」は、現在の「港」を表す言葉なので、大きな港があったはず。飛鳥・奈良時代は、奈良盆地から大阪湾に流れる大和川が、生駒山系の南を西に出てから、大きく北上し、現在の大坂城の東で淀川に合流していた。大坂城の建つ上本町台地は当時岬の北端で、瀬戸内海をやってきた船はその岬を交わし、大和川を遡り、内陸部のこの地までやってきた。船の大きさを小さくして更に大和川を遡って大和盆地に入る物流が確立していた。荷の大きな集積地であったようです。そこに利権を持ち一手にその仕事を握っていた津氏が、守護神としていたようです。多くの荒くれ力持ち男衆を抱え、神戸港の荷役作業を一手に引き受け巨大化した山口組のように、港には男衆の集団がつきものです。津氏をそんな現代の港の姿と重なって脳内想像されました。ここでももちろん、僕の男の子願望をしました。
11:45、「葛井寺」。「ふじいでら」と読みます。現在の「藤井寺」地名の元のようです。『紫雲山葛井寺 河内飛鳥時代に、百済からの渡来者によって繁栄した。王仁一族の辰孫王が葛井連と改姓して、氏寺として創建した。在原業平も葛井氏の末裔のようです。南北朝時代は、後醍醐天皇・村上天皇が帰依され、楠木正行が1347年自軍700を率いて東寺に駐屯し、北朝方細川軍7000を破った「藤井寺合戦」があった』
立派な仁王門があり、裏側には地獄絵図屏風が飾られている。烏樞沙摩閣を利用します。「 うすさまかく」と読み、トイレです。「東司」の表示はよく目にしますが、「うすさまかく」は初めてです。戦後、漢字が一気に簡素化され、学校で教えてもらう漢字の数も減りました。中学生の頃が最も漢字を覚えていた時代だと思いますが、戦前の教育を受けた親父には敵いませんでした。英語などは全然ダメでしたが、漢字に関しては素晴らしかった。略字化された現代漢字と略字前の漢字を併記し、その違いを教えてくれました。親父なら読めたのだろうか?
ここにも弁天池があります。世の中の人は全て母親という女性・弁天様のお腹を痛め生まれ、愛情を受けて育ちます。家内の日頃を見ても、敵わないなと思うし、大切にしなきゃと思う。重文指定されている本堂で、毎度のお願いをする。
11:59、「辛国神社」。『延喜式収載社。カラクニという社名から、渡来系氏族との関連が想定される。近世は旧丹南郡岡村の村社として祀られ、絵図にも氏神と描かれている』
『創建は古く、雄略天皇の時代に創建された。日本書紀に、「雄略天皇13年、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とあり、この地を治めることになった物部氏が、祖神を祀ったのが始まり。社名の由来は様々ありますが、物部氏が滅んだ後、一族の辛国連が関わり、辛国神社と称するようになったと伝えられています。清和天皇の時代に官社となり、平安時代は格式ある官社に列せられる。室町時代には、河内国守護・畠山氏が社領200石を寄進、春日大社から天児屋根命を勧請合祀した。明治時代には、近所にあった長野神社祭神・素盞鳴尊を合祀した』
辛国とは変な名前だなと思っていたが、予想通り「韓國」から来たようです。ここまで寄った寺社に多く登場した渡来系氏族が、とうとう物部氏にまで結びついた。神武天皇の東征以前に大和盆地に入った氏族と言われ、軍事貴族として隆盛を極めた後に、新宗教・仏教を基盤に国造りをしよとした蘇我氏と路線対立し、蘇我氏将軍・聖徳太子に現在の大坂城周辺にあったという物部守屋邸を攻められ滅んだ。先進の中国大陸・朝鮮半島からの技術導入のために、半島系氏族が活躍した。律令制でいう河内国は、大和盆地の首根っこだから、半島系氏族の影響力が絶大だったのだろうと想像した。「河内国・かわち」の名自体、韓國・カラクニからの変化のような気がする。いや〜、歴史脳内想像が膨らんで楽しい。
拝殿前で、赤いボルボが4ドア・リアゲートを満開に開けていた。変だなと思って近づくと、お祓いを受けていた。新車を買われたのでしょう。僕はしないが、こういう信心をする方も多いです。時々見ます。春日稲荷社が摂社としてあった。
「社殿造営30周年事業への寄付」を募る立て札が立っていた。玉垣を建立するようです。我が家も氏神様の玉垣事業で、玉垣を奉納した。親父の奉納した玉垣は割合目立つ所に立つ。小学生だった僕の名が入った小ぶりの玉垣もあったが、目立たないとこにあったので場所を忘れてしまい行方不明です。親父が僕のために寄付をしてくれたのだろうが、当然僕の方が寄付金が少なかったのだろう。今年、孫に親父のそれを教えると、なんと息子たち2人共その存在を知らなかった。親父も僕も、今まで言っていなかったんだとびっくりした。名前がずっと残るのはいいね。
造営30年の本殿は綺麗でした。脇の祭神には、宗像三神「市杵島姫命」も書かれていた。仲哀天皇の后で応神天皇の母である古代史のスーパーウーマン・神功皇后の三韓征伐で有名な玄界灘の宗像三神も、韓國と関係があるね。賽銭箱に金色の「上り藤紋」。「一願成就参り」の案内板があり、伊勢神宮の遥拝所もあった。神前結婚式も写真入りで宣伝している。
12:23、「仲哀陵」。フェンスを開け閉めし、濠沿いの道に入る。広い濠だけど、渇水でそこが見えている。農業用水池のように、冬季は水を抜いて水のくさりやヘドロの除去をしているのかな?宮内庁藤井寺部事務所の脇に用船があり、ロープで陵に行けるようになっている。「仲哀天皇恵我長野西陵」。ここで、如何にも古墳ハンターと思われる年配の女性に会った。激写している。1人だけど、とても楽しそう。僕は古墳ハンターではないけど、歴史遺産好きという点で、笑顔の気持ちがわかる。お互いがそれを感じたのか、初対面にもかかわらず満面の笑みで会釈。
フェンスの外に出て、バイクの準備をしていると、先ほどの女性がフェンスの向こうを歩いてきて、また満面の笑み。会話はなくても、何もない古墳を1人で激写している人は、極度の歴史好きに決まってるので、お仲間を感じる。声を掛けちゃうと、きっと話が止まらなそう。
昼食にしましょう。さっき見かけたミニストップに停め、店内を覗くとイートインスペースが有る。12:34、ミニストップ藤井寺4丁目店。手巻辛子明太子130円を買ってイートインへ。気温が上がり、汗をかいているので、トイレに行ってタイツも脱ぎます。セーター・ネルシャツも脱いで、冬用プロテクターバイク装束の下は、パンツ・半袖シャツ・丸首長袖シャツのみです。おにぎりを食べ終わり、12:43、スイートバニラワッフルコーン・172円を食べます。2月なのにアイスで、クールダウンです。
12:57、「野中寺」。駐車場に入れると横に神社があります。「野々上八幡神社」。隣接しているので、明治維新までは野中寺と神仏習合していたのでしょう。野中寺の山門は仁王門になっていますが、大雑把な仁王様で、彫刻としてみたらあまりに残念な姿でした。
『当寺の創立は蘇我大臣といい、聖徳太子建立46院の1つ。正倉院文書によれば、当郷は百済系渡来氏族・船央後の船連の本貫であるから、その氏寺であったことが察せられる。創立年代は境内内出土瓦から、飛鳥時代である。旧伽藍跡の礎石配列は、対抗する東の金堂と西の塔婆を中心とするもので、その伽藍配置は野中寺様式と称すべき特徴がある』
『東面する塔婆と金堂が向き合っていた。一般的に塔が西にあり、金堂が東にある配列は法隆寺に類するが、法隆寺の場合、堂塔が向き合わず、塔も金堂も南面している。堂塔が向き合う形は川原寺に見られるが、野中寺の配置とは金堂と塔が逆である。このことから、野中寺は飛鳥期に多い四天王寺の配置方法より新しく、法隆寺より古い形態で、白鳳期の官寺に用いられた川原寺の変形配置が用いられたと考えられる』
境内に石棺があった。ちょっとびっくり。『ヒチンジョ池西古墳石棺 二上山で採れる凝灰岩を精巧に加工して、10個の石材を組み合わせて作られている。内法は、長さ2.4m・幅1.1m・高さ1m。中から銅製の釘、漆の膜、木の破片が見つかっているので、漆塗木棺が安置されていたものと考えられる。7世紀終わりか8世紀初め頃のものと思われる』
地蔵大菩薩堂の中を覗く。「お染久松の墓」がある。近松門左衛門の「曽根崎心中」だったけ?曽根崎とはえらく遠いな?と思い帰宅後調べると、別の方の世話物作品でした。
13:13、「法家禅院」。「厄除子安観世音」の石柱も立っている。13:17、「仁賢天皇陵」。13:25、「はざみ山古墳」。13:35、第15代「応神天皇陵」。日本最大の前方後円墳「仁徳天皇陵」に次ぐ第2位の巨大古墳です。水濠も立派だし、中の古墳は背が高く里山に匹敵する見上げるほどの古墳でした。さっき訪問したお父さんの仲哀天皇より、圧倒的に大きい。因みにお母さんの神功皇后の陵墓は、奈良市街地北西にあり、やはり仲哀天皇より大きいと感じた。よく整備されていたし。年配の女性2人連れが2グループおり、さすが第2位ともなると古墳訪問観光客がいるものだ。応神天皇が人気なのかな?
13:43、「古室山古墳」。円墳で斜面に梅が咲き誇っている。綺麗だな。頂上に人が見えるので登ろうと歩き出すと、降ってきた女性に、「この近くに大きな古墳があるはずなんですけど知りませんか?」。応神天皇陵を教えてあげた。天辺に登ると周囲が見渡せ、円墳ではなく前方後円墳でした。10人ほど上がっており、下草が刈られた前方の方にも歩いていけるので、ピクニックのお弁当タイムに良さそう。『出土した円筒埴輪の特徴から、仲津山古墳(仲姫命陵)や誉田御廟山古墳(応神天皇陵)より先行して築造されたと考えられ、古市古墳群の中では初期に築造された前方後円墳の1つに挙げられる』
13:56、「三ツ塚古墳」。「仲津山陵陪塚/宮内庁」の石柱が立っていたので、おまけ的な古墳のようです。バイクに戻り前の交差点を見ると、「道明寺」と書かれていた。その看板に従って右折し、14:01「道明寺」。お寺というより、大坂夏の陣のハイライト「道明寺決戦」のあった地ということで、僕にとって特別な地です。
紅白の梅が咲いている。『当寺は菅原道真公が信心込めて刻まれた国宝十一面観世音菩薩像をご本尊とする古義真言宗の尼寺です。聖徳太子がこの地に尼寺を建立されるに当たり、代々仏教文化導入に積極的であった土師という人が邸宅を寄進し、東西320m・南北640mという広大な境内に、五重塔・金堂など7伽藍の完成を見た。当寺の前身は「土師寺」で、菅原道真公が「道明寺」と呼び改めた。数多くの仏像・教典・美術工芸品・薬品などを宝蔵している。土師氏の後裔・菅原道真公が大宰府に下向される時、叔母を訪れて当寺に立ち寄った。戦国時代に入り焼失しましたが、信長・秀吉・徳川代々将軍の庇護によって復興成った。明治5年、神仏分離令によって堂宇一切を天満宮境内より移し、境内の拡張を経て、大正8年に本堂の落成を見た。建立以来1300年、法灯絶えることなく少ない尼寺として今日に至るは、皆様のご信心の賜物と存じます』
古墳群訪問を思い立ったのは、僕の先祖でもある土師氏の職能が、天皇家の陵墓造営や埋葬品である埴輪製作であったからです。渡来系出雲族出身の土師氏の偉業を訪問することで、僕のルーツを感じたいと思っている。最寄り駅は近鉄・道明寺だけど、そのお隣の駅が近鉄・土師ノ里。古墳群の中に土師氏の名が残るこの地を訪問して、同じく先祖の菅原道真公と土師氏がまた結びついた。道明寺が尼寺であること、土師氏が敷地を提供したこと、元は土師寺であり道真公が道明寺と変名したこと・・・個人的に素晴らしい発見でした。
境内に入ると、石造多宝塔とその前に立つ石碑が目についた。石碑には横文字で謂れが書かれている。日本語の謂れ板も立っている。『昭和4年(1929)に、藤沢製薬初代社長・藤沢友吉が建てたものである。1914年、セルビアの青年が発した一発の銃弾から第1次世界大戦が始まった。5年に渡る長い戦いで多くの犠牲者を出し、ようやく平和が訪れた。この平和が長く続くことを祈願し、大正7年(1918)亡父の17回忌供養にあたって、道明寺本堂落成を記念し建てた。石碑の下には、大戦の激戦地・フランスベルダンの鮮血に染まった土が、同市長から寄贈され納められている。 /藤沢薬品工業』
石碑の刻まれた横文字は、ベルダン市長からの感謝の一文のようです。本堂にお参りしました。本堂前に香炉があり、お線香の香りが気持ちいい。香炉鉢に菅原氏の梅八紋が彫られている。香炉を雨露から凌ぐ屋根の下にも、梅の彫刻。更に屋根を支える四柱に、獅子の彫刻が入っている。僕同様これに興味を持った男性が、同じように写真を撮っている。あれやこれや自然にお喋りが始まった。一期一会が、いいね。
道路を挟んで東側にそれらしい建物が見えるので、こちらが道明寺天満宮のようです。長い塀が続き、入口がわからないので北から歩いてこられた方に、入口があったか聞いてみたが、北側にはないそうです。でも地図を持っておられ、入口の場所を教えてもらった。この道は、「東高野街道」だった。
バイクに乗り、14:17「道明寺天満宮」。道明寺から回ってくる人が多い。しかも細道なのに交通量が多い。『菅原道真公ゆかりの神社で、古墳造営など土木技術に長じた土師氏の氏神と成立した。古くは土師神社と称し、菅原道真公・天穂日命・官公の叔母・覚寿尼を祭神としている。官公の遺品として銀層革帯(ベルト)や青白磁円硯など平安時代の美術工芸品が伝えられ、国宝指定されている。広い境内には80種・800本の梅林があり、梅の名所として知られる。三ツ塚古墳周濠より出土した修羅の復元品がある』
「わくわく南河内」と染め抜かれた幟が立つテントがある。黄色のスタッフジャンパー着用のスタッフが、テントで受付をしている。どうやらスタンプラリーのゴールのようです。完歩者には記念品があるようだ。ベビーカステラなどのテキ屋が並んでいる。仕切り屋とか暴力団の資金源とかいろいろ言われているが、僕はこの夜店や祭りでテキ屋が並ぶ光景が好きです。「フウテンの虎さん」の世界。大河ドラマ「真田丸」の拝み看板が立っている。年末のクライマックスは、「道明寺決戦」だろう。
神前結婚式の宣伝看板がある。昨年末に次男が神前結婚式を挙げたが、素晴らしかった。お嫁さんの綿帽子をかぶった姿が美しく、披露宴ではウェディングドレス姿でお父さんとバージンロードを歩くシーンも有った。和洋折衷のメニューを自由に選択でき、神前結婚式も変わりました。
道真さんの代名詞・なで牛の像もあり、さざれ石もあった。檜皮葺の立派な拝殿だったが、お参りの方が大勢並んでいたのでパス。梅が満開の季節だから、参拝者が多いのでしょう。
宝物殿があったので入ってみる。入館料・300円を巫女さんに渡す。前述の国宝などが展示されていた。「わかりやすい天神信仰・学問の神様・800円」「伊勢の神宮・ヤマトヒメノミコト御巡幸のすべて・1800円」を購入。立ち読みして写真も多く読みやすいので、知ってることが多いのだろうが読んでみようと思う。バラバラの知識に縦糸が通りそうです。倭姫は、古代史のヒーロー・ヤマトタケルの叔母で、垂仁天皇の娘。天照大神の斉宮となり、三種の神器を持って大神を祀る地を探し歩いた。各地の元伊勢を経て、伊勢神宮に祀った。古代史のヒロインの一人。ヤマトタケルが東征する時、素盞鳴尊がヤマタノオロチ退治した時に得た天叢雲の剣を授けた。ヤマトタケルは焼津で周囲から火を放たれ危機に陥った時、その剣で身近な草を払い、こちらから迎え火して逆襲した。以降、草薙の剣と呼ばれるようになる。
11代・垂仁天皇は、アマテラスとスサノオ兄弟の誓約の時、スサノオがアマテラスの首飾りから産んだ男神・天穂日命の子孫で出雲族の怪力・野見宿禰を朝廷に呼び、怪力・當麻蹴速と相撲で勝負する。野見宿禰が勝利し、當麻の領地を貰い受け、相撲の神となる。垂仁天皇の后・日葉酢媛命の葬儀に際し、殉死の風習を改め埴輪を埋葬することを提案し、以降埴輪作り・古墳・埋葬の任につく。その時職人として出雲より呼び寄せたの同族が土師氏で、菅原道真に続く。僕のルーツを古代史・古事記日本書紀の世界まで遡る逸話なので、これに関係する謂れを読むとワクワクする。
ところで1000円札でお釣りをもらったのだが、800円+1800円=2600円は出来たが、10000円−2600円=7400円の計算に時間がかかり怪しかった。女性は計算に弱いというが、小学生の計算問題ぐらい暗算で即答しようよ。外国に出れば、マイナス計算に弱い方も多いけど、江戸時代から常に庶民の学力が高かった日本人なら・・・。僕はどうも、小中学生の基礎学力の低い方が苦手です。好き嫌いの多い方・箸の持ち方が美しくない方・鉛筆の持ち方が変な方・挨拶できない方・・・100年の恋も一瞬で冷めてしまう。
梅林には入園料金がいるようでパス。梅の盆栽祭りを楽しんで帰り道、「元宮・土師社」がひっそりとありました。祭神は、大国主命・野見宿禰命・天夷鳥命。天夷鳥命がわからなかったので帰宅ご調べてみると、高天原から葦原中津国に派遣された使者で、「大国主に葦原中津国の支配権を天孫に渡せ」との特命だったけど、大国主に惹かれ、反対に大国主を補佐して使命を果たせなかった神でした。
いずれの祭神も出雲族の神で、大和朝廷が鉄を持って勢力拡大していた出雲族と神話を介して平和的に結びついた古代史が垣間見える。同じく九州で勢力を誇った熊襲は、ヤマトタケルの攻撃を受けて成敗された姿が、記紀に書き表されている。桃太郎伝説では、桃太郎(大和朝廷)が吉備豪族(鬼)を攻撃し武力で滅ぼした姿が。あ〜面白い。梅の木にみかんが挿してある。そういえばさっき、メジロが数羽、梅の花の蜜を吸いに来ていた。
我が家の近所の公園は梅林があり、行くとメジロがいっぱいいるのだけれど、梅が満開になる2月下旬には毎年ウグイスの初鳴きも自宅で耳にする。鶯の声で目覚める素敵な季節の始まりです。去年、梅の病気が流行り、植木の産地でもあるので市内の梅の木が全て伐採された。その関係か、例年なら聞こえてくるはずの鶯の声が聞こえてきません。残念です。3年後の梅林復活を待たなければならないのかな?
14:51、「中津姫陵」。15:01、「伴林神社」。変な名前の神社です。『高御産巣日神は神秘的な創造の神で、5代後の大伴連の遠祖・天押日命は、天孫降臨の際ニニギノミコトを先導守護した神です。その3代後の道臣命も神武東征の時軍を指揮した神である。その子孫が永くこの地に住み、大和朝廷の名門として先祖を祀ったのがこの神社の始まりである。867年に官社となり、延喜式にも収載されている。戦国時代の信長の兵火に遭い焼失。神社の維持管理をしてきた伴氏も絶えたので、その後地元民が産主神として再建し、明治の初めに村社となった。昭和7年道臣命を祀る全国唯一の神社として注目を集め、昭和15年西の靖国神社と称され整備、府社に昇格した。
大伴氏略系 高御産巣日神〜天押日命〜道臣命〜大伴武持〜大伴金村〜大伴旅人〜大伴家持〜伴国道〜伴善男』
大伴氏の氏神でした。大伴氏は、淳和天皇の諱が「大伴」だったので、氏の呼称を「伴」に変更しています。小綺麗な境内・拝殿で、右近の橘・左近の桜が整っていた。橘にはミカンより小ぶりの実が成っています。橘はイマイチな味ですが、これを改良したのが美味しい温州みかんです。ここも胡瓜紋。
15:20、「近鉄・道明寺駅」。藤井寺観光案内図があり、「大坂夏の陣・道明寺合戦記念碑」が立っています。『豊臣方・徳川方の最後の決戦が始まった慶長20年(1615)、泉南地方・八尾・若江など各地で大きな戦が繰り広げられていた。その中で、大坂の関ヶ原とも言われる激戦が、「道明寺の合戦」である。
5/6未明、大坂城を出た後藤又兵衛基次は、徳川方の出鼻をくじくため河内国分へ2800の兵を進めた。道明寺に着いた又兵衛は、石川を渡り小松山に登り河内国分を見下ろすと、そこには既に数万の徳川軍が集結を終えていた。果敢に挑んだ又兵衛は、戦果を上げたが多勢に無勢、水野勝成や伊達政宗の軍勢に圧っされて自刃、隊は壊滅した。
勢いづいた徳川軍は石川を渡り道明寺へ進軍。遅れて到着したう薄田隼人や明石全登が迎え撃つも勢いが止まらず、薄田隼人は討ち死。崩れかけた豊臣軍を立て直したのが真田信繁(幸村)。誉田八幡宮付近に陣し、伊達政宗の武将・片倉小十郎重長が攻め立てるも両者譲らず膠着した。
そこに、八尾・若江の戦線で豊臣軍が防衛戦を突破されたとの知らせ。これを受け、戦線縮小し大坂城の守りに転じるべしの毛利勝成の采配で、戦の舞台が天王寺へ移された。殿軍を務めたのが幸村でした。翌日、真田幸村は壮絶な討ち死をし、大坂城が陥落する』
「薄田隼人の墓」に参ろうと探したのですが、発見できませんでした。15:42、「誉田八幡宮」。祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后の親子です。
『欽明天皇が、応神天皇陵前に営んだ社を、後冷泉天皇の頃(1045〜68)に南に109m離れた現在地に移した。鎌倉・室町時代は、源氏の氏神・八幡神を祀る社として幕府の保護を受け興隆したが、戦国期に兵火にあった。その後豊臣氏からの寄進や江戸幕府の庇護を受け、参詣の人で賑わうようになった。源頼朝の寄進を伝えられる神輿や、丸山古墳出土の鞍金具など国宝、重文の「神功皇后縁起」など多数の社宝を持つ』
六文銭の幟が風になびき、「誉田林古戦場」の石碑が立っている。『誉田八幡宮付近は、戦略上の要衝であったため再三戦の舞台となった。南北朝初期には、北朝方・細川兄弟の軍と、南朝方・楠木正行軍の間で合戦が行われ、室町中期には畠山政長と義就の間で再三誉田合戦が行われた。1504年に畠山稙長と義英との合戦後の和議が「社前の盟約」が、ここで結ばれた。大坂夏の陣の時は、薄田隼人がこの境内に陣を置き、この地より出撃して道明寺付近で討ち死した』
「姫侍稲荷社」という摂社がある。戦陣に侍として参加した女将を祀っているのだろう。『誉田八幡宮拝殿 当面する入母屋瓦葺間口11間・奥行3間の組長い木造建築で、唐破風造りで蛇腹天井となっている。1606年、豊臣秀頼が片桐且元に任じて再建させたものですが、完成間近に大坂の役が始まり8割方出来上がったまま放置されていた。その後徳川家光が完成させた。この拝殿は天井が張られていないので、木組のありさまが観察できる。徳川家によって最後の仕上げをされたので、三つ葉葵の定紋が付けられている』
横に細長い拝殿で、他にあまり見ない。落ち着いた立派な外観です。右近の橘・左近の桜は囲いで守られ、敷藁されて寒気からも守られていた。拝殿で毎度のお願いをした。玉砂利庭を隔てた本殿はかなり立派で格式を感じる。
16:07、「白鳥神社」。拝殿に武将の絵馬がかかり、大きめの榊の枝が立てられ、白鳥神社の提灯がいい感じです。16:19、「白鳥陵」。16:25、「清寧天皇陵」。16:30、「安閑天皇陵」。
予定の北半分しか回れませんでしたが、帰路につきます。R170を北上し、西名阪道・藤井寺ICから高速に乗り、近畿道に乗り換え、16:56「八尾PA」で休憩。こんなPAあったっけ?まだ綺麗なので、出来たとこかも。風に当たる高速道路で、陽が落ちていくので、セーターを来て、近畿道〜中国道を走り、豊中ICで下車し、17:38帰宅しました。南河内の歴史遺産候補・古市古墳群を中心に、土師氏関連・大坂夏の陣関連の多くの史跡を巡りましたが、東西2km・南北2kmの範囲の小さなエリアです。歴史遺産の宝庫といえます。その南に、源頼朝・足利尊氏という武家政権幕府を開いた源氏の隆盛の元を作った八幡太郎義家が生まれた河内源氏の本拠地があり、更にその南の太子町は、聖徳太子の墓をはじめ古墳群の地です。往復130kmのコンパクトな歴史遺産探索ツーリングでしたが、得るところが多かった。やはり現地に行き、地形を見なければ、当時活躍した先人の行動が見えてきません。ああ、楽しかった。

2016/2/21
家内もお休みですが、ヨット優先日です。コーチしてる大学ヨット部の1回生を招待して、クルージングです。今年は参加者が多く、11名です。定員12名の船なので、僕を含めちょうど定員いっぱいです。前日土曜日は日本海の低気圧通過に伴う前線が通過し大雨でした。この時期の前線通過後は、大陸からの吹込みで、冬らしい北西の強風が通り相場なのですが、天気予報では、NW5〜6m/sで大したことないです。昼前から晴れのようで、クルージング日和になりそう。
いつもより早く4時前に目が覚めました。ゴソゴソ退屈な時間を過ごし、6時半から活動開始です。朝食を取りながら、NHK総合のいつもの番組を見ます。女子マネさんが5人来るので、寒い時用にホームセンターカッパを数着用意します。バイク用・通勤バイク用・ヨット作業用・防水力が弱くなり引退したけど捨ててない奴・・・など、何故か人数分揃ったりします。その他にトレッキング用などもあり、何かと便利なカッパ好き人間です。
ヨット用の防寒カッパ上下を着込んで、ライフジャケットを着て、日除けにつばの広いヨット用ハットとサングラスで完全武装完了。「駅まで送って」という家内からのリクエストに応え、一緒に家を出ます。駅ならどこでもよく、適当にどこかに行って来るとのこと。
コンビニで、昼食用にお寿司セットと麦茶を買います。R171を西に向かい、阪急・門戸厄神駅に家内を降ろします。R171に復帰し、新西宮ヨットハーバー着。ハーバー内駐車場は、30分まで無料ですが、それをオーバーするかもしれないので、日祝日駐車禁止解除の有り難い道路に停めます。
係留艇に向かい、トイレ掃除・エンジン始動・カーテンオープンします。10m/s近く吹き上がった時用に、リーフラインの点検もします。全てOKで、9時になったので車に戻ります。ゲスト7人は、クラブ車・エスティマで京都からやってきます。残り4人が電車で来るので、9:15阪神西宮駅東バス停で待ち合わせです。
3分前に待ち合わせ場所に着いたら、部員1人が電話を掛けています。仲間に到着した旨を伝えているのでしょう。バス停に駐車できないので、電車の高架下に駐車します。部員が僕の方に手を振っています。気づいたのかな?・・・と思っていると、車の後ろから歩いてくる部員2名に向かって手を振っていました。部員が僕の車に気づいて寄ってきます。4名目はクラブ車に乗っているようで、ハーバーに向かいました。
9:26、いくら駐車禁止じゃないとはいえ、1日路上駐車はあれなので、いつものようにハーバー駐車場に入れます。センターハウスに入ると、クラブ車組は到着済みでした。船に向かって歩き出すと、「クルージング?全員乗れるの?クルーが足らないので、乗らないか?」と誘ってくれる。部員は、?の顔をしているけど、こういう一期一会はチャンスです。行ってもいいかな?な顔をしている3名(運転手として参加した2回生1人含む)を送り出しました。
桟橋を歩き船に乗り込みます。ライジャケを着てもらい、桟橋を離れる。NW2〜3m/sです。東出入口からハーバーを出て、セイルアップ。エンジンを止めて、セイリング開始です。風が弱いのでイマイチですが、時折ブローが降りてきます。すぐにステアリングを交代します。徐々に風が強くなり、ブローは8m/sを超え、ブローが入るとヒールが増し、グーンとスピードアップします。
レース艇に乗ってる僕には、ブローへの反応がイマイチなクルージング艇が不満なところですが、日頃ディンギーに乗ってる学生たちには異次元のヒール角度のようで、ワーワー楽しそうです。実家が六甲アイランドで、六甲中高出身の部員がいて、実家のマンションのことなどの話題が出ます。僕は中学受験の時、六甲かKGか迷い、坊主にしなくて良いKGを受験しました。
六甲アイランドのコンテナ埠頭まで上り、六甲アイランドのフェリー埠頭〜海上自衛隊・阪神基地前に停泊中の機雷掃海艇を見て、ハーバーバックしました。芦屋マリーナに入り、ゴージャスな船や桟橋付き豪邸を海上から見学し、新西YHに予定通り15時頃帰着。
マネさん2人がトイレを我慢していたようで、センターハウスに向かいます。その他で船の掃除です。僕はドッグハウス内カーテンなどをクローズして、あとは桟橋から学生に指示するだけで楽ちん。皆で桟橋を戻り、センターハウス内でお茶を飲みます。出張した3人とは連絡が取れません。
海上からも何度か電話しましたが無反応なので、ホワイトのレースに出ているのかも?僕がケーキセットにすると言うと、女子が5人もいるのでので、全員ケーキセットに。あ〜だこ〜だ話していると、行方不明3名と連絡がつき、やはりレースに出ていて、レースが終了しハーバーバック中とのこと。
横の席に、KG現監督・コーチ人がお茶中で、午後から練習がなくダベっているとのことです。行方不明3名が船の掃除を終え、帰ってきました。ここで席を立ちます。お支払いは・・・なんて学生が言うので、「もう払ったよ」。社会人になりしっかりお金を稼げるようになってから、学生は貧乏と相場が決まっているので、後輩におごってあげてくださいな。僕も先輩のお世話になりました。
駐車料金・9:26〜16:27・800円。阪神西宮まで3名を送り、R171で帰宅。海上でホンダドリームから電話が入り、通勤リード110の点検・整備が終わったと連絡をもらっていましたので、その足で代車・新型リードに乗りドリームさんに向かいます。
「イグニッションONしても点検ランプが消えず、スターターボタンが利かない時がある」現象は、バッテリーとの接点不良のようで、「スターターボタン押しても反応なしの時がある」現象も接点不良だったようです。接点を掃除したら、その現象が出なくなったそうです。6ヶ月定期終了直後だったので、費用はなし。新型リードに1週間ほど乗りましたが、太ももに風が当たるのに気づきました。座席が高くなった分、乗車位置が高くなり、ハンドルと前方カウルの間から抜けてくる風が当たるようです。通勤で使ってる足元置きの箱が入らず、大きく股を開いてハンドルと体の間に抱える姿勢を強いられました。新型リードは、僕の通勤車としてはダメダメです。
帰宅し、いつもの様に家内と今日の出来事を話しました。結局家内はどこにも行かず、家に戻ってきただけでした。方向音痴だから、自分の知らないところには1人でなかなか行けません。船の定員に空きがあったら一緒に乗ったのにな。可哀想なことをしてしまった。

2016/2/14
土曜日の午後から雨です。冬にしてはしっかりした雨で、目が覚めた4時前でも屋根を打つ雨音が聞こえ、「奈良・葛城街道」は諦めました。もちろん綾部の山城探索も無理なので、大阪中之島界隈に行くことにしました。
7:30に階下に降り、NHK備讃瀬戸自然アルバムを見ながら朝食を食べ、8時過ぎに散髪屋さんに向かいました。雨は7時頃上がったようで、陽が差しています。先客さんがおらず、すぐに理髪台に上がり、おしゃべりしていたら頭が整いました。3000円。
暖かいので、夏用メッシュプロテクタージャケット+ダイワフィッシングスーツの春夏用バージョンの装いで、10時過ぎに通勤リード110にタンデムして出発。阪神高速空港線下r10を南下し、10:29ESSO・庄内SSで給油。163km/4.42L=36.9km/L。1L=105円・・・安くなったものです。
r10に復帰しようと思ったら、目の前に、「萱野三平墓所」の看板が目に入る。寄り道します。親の反対で赤穂浪士に加われず、討ち入り前に自宅で自決した萱野三平の実家は、箕面市萱野で、R171に沿う旧西国街道沿いにあり、記念館として保存されています。その近くの墓地に萱野一族の墓とともに三平の墓もあり、実家の記念館とともに参ったことがあります。
かなり離れているけど、ここにもあるんだと入ろうとしたら、エナガの団体さんが桜の枝に群がっていました。ご寺院前に、「日像上人開眼・子安鬼子母尊神安置」と書かれた石碑が立っていました。日像上人は、3週間前に訪問した京都・宝塔寺にあった「経一」像の大人になった姿です。縁があるね。
日像上人とともに日蓮宗に縁のある鬼子母神も祀っています。鬼子母神は、毘沙門天の部下の妻で、千人・1万人という子沢山故、子育ての力をつけるために人間の子を食らっていた。それを見てお釈迦さんが、一番下の子を隠してしまった。半狂乱になった鬼子母神に、「子沢山にあなたでも、たった1人の子が失っただけでこの有様だ。ただ1人の子を失った親の苦しみは如何ほどか・・・」とたしなめた。以降、仏教に帰依し、子授け・安産・子育ての守り神になった。吉祥天(弁財天)の母。
「日蓮宗・如説山・新福寺」境内に、三平の墓石は、父・兄の墓石に並んで立っていた。萱野家の菩提寺のようです。『僧・行基が開基した伽藍で、保元平治の乱で焼失。当地は徳川旗本・大島18000石の旧領で、大島家の用人・萱野は大島家の推挙により浅野内匠頭に萱野三平が仕えた縁で、萱野一族の墓碑が現存する。萱野三平月牌料として寄進された田畑は、昭和23年農地改革によって徴収され、更に道路用地として徴収された。よって墓碑移転改葬した』。表の掲示板に、「眉は近けれど見えず」と書かれていた。ウンチクがある。萱野三平の墓石の脇に紅白の梅が咲いていた。
「加島」交差点で左折し十三筋。阪急十三駅前でR176に合流し、淀川を渡り、阪急中津駅を通って、大阪梅田。そのまま御堂筋を南下し、11:01中之島の大阪市役所前到着。御堂筋を挟んだ日本銀行大阪支店側に、真っ黒なワンボックス右翼街宣車が2台停まっていた。日の丸が描かれ、日章旗が旗めき、政治結社・祖国防衛隊とサイドに書かれている。僕は歴史ある日本祖国先祖好きだと自認しているが、極端な言動や行動の目立つ左翼とともに、こういう街宣車に乗り戦闘服で繰り出す右翼には、左翼ゲバ棒学生と同様な空気を感じ、眉を潜める。
中高生の時激しかった学生運動で、ゲバ棒覆面で校舎を封鎖する左翼学生に対し、先輩大学ヨット部員が他の体育会部員とともに、封鎖解除の実力行使をしていた。自分たちの授業を受ける権利を主張していた。大学1年で付き合った同級生の女の子の家に遊びに行った時、阪大卒のお兄さんが「セクトがどうのこうの」という話をしだして、気持ちが覚めてしまった。僕は女の子と付き合う時、結婚相手として相手を見てしまい、「ないな」と思ったら気持ちが冷めてしまう。
僕はタバコを吸わないが、お付き合い半年ほどで慣れたのか、「タバコを吸ってもいい?」と許可を求めた子もいた。その娘の自由だから喫煙許可したけど、その日でお付き合いを止めたこともある。親父のタバコの灰皿が中央にある食卓で育ち、その灰が僕の食事にかかるのが我慢ならなかった。何度抗議しても、戦争の責任にして改善しない親父を見て、中毒だと思った。自分の家庭にあの光景は要らない。僕に未練があったようだけど、お互い我慢してまで結婚する必要はないと思う。
橋下市長が頑張った市庁舎横の大川には、水上バスの乗り場があった。次男の友人がこの会社のスタッフで、次男は誘われて落語クルーズに参加していた。バイクを置く場所がないので、押しながら市役所脇を大川に沿って歩きます。隣の中之島図書館は、ブルーシートに覆われ、メンテナンス中のようです。
「大阪通商会社・為替会社跡」の石碑が立っている。僕が中之島で一番好きな建物・「大阪中央公会堂」。『大阪中央公会堂は、明治44年(1911)に大阪市民の岩本栄之進氏の寄付された100万円を元に設計された。日本最初の懸賞設計競技で選ばれた岡田信一郎の設計原案を元に、辰野金吾・片岡安という当時を代表する人によって設計された。大正2年(1913)から5年4ヶ月かけた工事では、のべ18万人の人が働き、大正7年(1918)に開館した。西洋建築からよく学び、高い水準で造られており、赤レンガの公会堂として市民に愛されてきた。昭和63年(1988)永久保存が決定され、より良く使えるよう平成11年(1999)から3年半の工事が行われた。平成14年(2002)、国の重要文化財に指定された』
公会堂下の「AWAKE LUNCH」というお店のメニュー看板が出ていた。ランチコース1500円、オムライス・カレー1250円。珈琲・紅茶・ソフトドリンク各種500円前後で、+ケーキセットもある。朝ドラ「あさが来る」の舞台が大阪商人なので、観光客が増えているのだろう。
地下駐輪場があり、そこにバイクを置いた。1時間無料・2時間150円。ガラガラだった。駐輪場の上にある「GARBweeks中之島店」に入り、間違いないデミグラスソース淡路牛ハンバーグ・ライス・スープ950円×2=1900を食べた。屋外スペースもあり、屋外温度計が20℃を表示する暖かさなので屋外でも良かったが、風が強いので店内へ。
花岡青州の顕彰碑があった。『華岡青洲は、全身麻酔「通仙散」を創薬後、1804年世界で初めて全身麻酔による乳がん摘出手術に成功しました。和歌山に医学塾兼病院「春林軒」を創設し、1816年大阪中之島に末弟の鹿城が分塾「合水堂」を開設しました。その後南洋が大阪に移り支えた。花岡流外科の門人は、総勢2200人になり、最先端医学知識・医術を求めて、全国各地から集まった医師の半数は、「合水堂」で学んだと推察される。2015年は南洋没後150年、2016年は「合水堂」開設200年に当たります。 華岡青洲弟鹿城末裔・日本医史学会・日本麻酔科学会』
12:18外に出て、御堂筋に戻る。一方通行なので南下し、適当なとこで右折したら、角が中国商工銀行だった。「うつぼ公園」に突き当たり、右折して四ツ橋筋。バイクショップが見えたので寄り道。「イオンバイク大阪店」で、総合スーパーのイオングループのお店のようです。
ルイガノ製品が多く展示され、お手頃なお値段の品揃えでした。ルイガノの幼児用キックバイクが展示されており、僕の買った「サイクルベースあさひ」製より、サドル位置が低くみえた。ゴムタイヤで、サイクルベース製で困った空気入れバルブが屈曲して外を向いており、便利だと思った。タイヤ口径が12インチしかなく、スポークが張られているので、新しいタイプの空気入れだと使えない。僕はこのためだけに、旧式の空気入れを買った。
総重量も3.4kgとあさひ製4.6kgより軽いけど、お値段が19000円(あさひ製は10000円)なので、クロモリの薄いけど強度のあるフレームかも知れない。いずれにせよ、さすがブランド品のルイガノです。見た目もカッコイイしいっぺんで気に入ったが、2台もいらないしね。
「淡路島サイクリングマップ 兵庫県淡路県民局発行」というのが置いてありました。地図に数本のコース(50km〜150km)が書かれ、標高差45m〜259m・3.5〜10時間の所要時間など、それぞれのデータが書かれ、手帳サイズに折りたためます。駐車場やコンビニの場所も地図に書かれ、ナイスです。
「愛媛をサイクリングパラダイスに・疾走マップ」というのが置いてあり、こちらも折りたためる1枚物で使いやすそう。しまなみ海道を含め、愛媛県もサイクリングが楽しそう。家に置いておこう。
北上するとJR大阪駅に当たり、阪急大阪駅との間のR176に乗り、往路同様、十三〜十三筋〜r10で帰宅しました。暑くて、走りだしてすぐセーターを脱ぐ陽気で気持ち良かった。

2016/2/7
日曜日は、東京に行ってきました。また長男夫婦に、「来ないか」と誘われました。4月にアメリカ東海岸・プリンストンに転勤です。アイビーリーグである「プリンストン大学」のある町としか認識していなかった町です。長男の会社のアメリカ子会社があり、長男は仕事や学会なのでよく行っていました。ニューヨークとfフィラデルフィアの中間にある町で、フィラデルフィアの南にワシントンがあります。
家族で赴任するので、潮江のマンションは引き払うので、最後の機会として呼んでくれたのだと思います。僕ら夫婦の往復航空券は、また長男が送ってくれました。貯まったマイルでのおごりです。どんだけ飛行機に乗ってるんだ。
伊丹空港始発・7:10の飛行機なので、5時に活動開始です。TV見ながらパンを食べ、空港までのタンデム用に、通勤リードにリアボックスをセットしておこうと外に出ると、何と小雨が降っています。車にしようかと思ったけど、カッパを着ればどうってこと無い小雨ですので、初心貫徹することにしました。
6時にカッパを着て自宅を出発し、10分ほどで空港着。モノレール下で雨の掛からないバイク置き場に入れ、カッパを脱ぎモノレール空港駅まで上がり、連絡橋で空港の建物に入ります。JALカウンターでチケットに交換しました。前回より30分ほど遅いのでカウンターで並び、セキュリティーチェックで機内持ち込み荷物に詰めた麻雀牌が引っかかり、スーツケースを開ける羽目になりました。お薬の小瓶もチェックされ、搭乗5分前ぐらいに搭乗口待合室に到着することになっちゃいました。家内がおトイレでお化粧中に、搭乗が開始され、女子トイレに行き「・・ちゃ〜ん」と呼ぶ羽目になっちゃいました。返事がないので搭乗ゲートに戻ると家内がおり、行き違いになったようでした。
機材はボーイング767です。翼の上の席で、窓際左右に2列シート・中央に3列シートの中型機です。フライトが始まり、我が家が見えます、名古屋平野を過ぎ、富士山が見えてきました。冠雪した美しい姿が窓の外に見えます。ダントツで日本で一番美しい山です。房総半島の先っぽ・館山に上陸し、進路を北に変え羽田に一直線です。こちらからでも北アルプスをバックに、秀麗な富士山が見えます。羽田に着陸するまで、ずっと窓の外に富士山を見ながらのフライトでした。
今回は長男のお迎えはありません。引越し準備で忙しいのだろうと、荷物の中に軍手などを忍ばせ、手伝う気満々で降り立ちました。モノレールで浜松町に向かいます。巨大空港・羽田が延々と続きます。朝日新聞やフジテレビの格納庫には、取材ヘリコプターが格納していそう。海上保安庁の格納庫内にヘリコプターが見え、映画「海猿」の世界です。
浜松町でJR線に乗り換えです。僕らはコート・手袋・アクリル毛糸の帽子なのに、5人組の白人男性グループは、長袖Tシャツ姿です。手袋なんて誰もしていないし、ハゲ頭がダイレクトに寒風に耐えています。黄色人種とアングロサクソンは、同じ人間とは思えない。冬になる度、いつも思うことです。同時に山手線と京浜急行線が来たので、京浜急行線の方に乗ります。山手線と追いかけっこしながら並走し、新橋でSLを見つけ、日本初の鉄道開業・新橋横浜間を思い出しました。
東京駅で、京葉線に乗り換えです。同じ駅構内なのに延々と歩き、やっと京葉線。快速列車が出ていき、同じホームで各駅停車を待ちます。快速に乗る方が多いようで、乗車口に並ぶ列が伸び、各駅停車待ちの僕らの方に伸び、飲み込まれちゃいました。やってきた快速に、乗車待ちの列が進み、スマホを見ながら取り残された外人女性に、「南船橋に行けるか?」と聞かれました。快速の停車駅を確認し、先発の快速に乗ればいい、Go!と教えると、「Thank you」と笑みがいい。「You're welcome. Have a good day」。
3つ目の駅が、潮見です。駅で着いた旨と、駅前スーパーで買っていくものがないか電話するが、留守電になったとのこと。家内は、長男の携帯電話に掛けたようです。自宅の固定電話に掛ければいいのに。マンションまで歩き、玄関ロビー入口を開けてもらおうと室番号を押すと、「おはようございます」のお嫁さんの声とともにドアが開きました。
エレベーターで上がり、部屋まで歩きます。玄関ドアの前にユーティリティ・スペースのあるマンションで、ロードバイクや車のタイヤ、子供用の室内ブランコがあったり、そのご家庭の趣味が想像できます。
長男が出てきて迎えてくれました。「おはようございます」とお嫁さん、そして遼くんが「おじいちゃん・おばあちゃん、おはよう」と満面の笑みです。遼くんとプラレールやガチャガチャ列車で遊びながら、いろいろ話をします。
プリンストンで住む家は、現地の業者さん通して紹介を受けているようで、3階建長屋(1Fガレージ)を第一候補にしているそうです。ディベロッパーが開発したブロックの入口にゲートが有りガードマンが常駐だそうです。アメリカンサイズなので、長屋でも1軒の居住スペースが200平方メートルです。家賃が3500ドルということなので、今のマンションの倍・40万円です。会社持ちだから、有難いです。
英語ができ海外経験も豊富なお嫁さんが対象になるのか不明ですが、英会話ができない奥さんのために英会話教室費用。通勤用の車。日本への帰省用に、ビジネスクラスの往復正規運賃家族人数・年1回分が現金支給されるそうです。エコノミーにすれば4回ぐらい往復できるそうです。仕事でのマイルも貯まるだろうし、帰省費用自己負担はなしになりそうです。
お嫁さんは4月に2人目を出産するので、秋ごろ3人でアメリカに向かうそうです。首がすわる3ヶ月後の7月にアメリカに行けるんじゃないかと言うと、「7月に休みを取ってマチュピチュに行こうと思ってるから。せっかくアメリカ勤務なんだから、北米・南米を制覇しなきゃ。だから8月以降で・・・」と。長男は、人生を楽しんでいます。ニューヨークの北にスキー場があるの?と聞くと、無さそうとのこと。遼くんの初スキーは、カナダになりそうです。ちなみに長男の初スキーは、車山高原でした。次男は生まれていなかったから、2才ぐらいかな?足が固定できないブーツだったので楽しめず、僕が抱っこして滑りました。寒すぎて泣いちゃって、その後数日のお正月休みは、知り合いのペンションの回りで雪遊びになっちゃいました。
外は風が強く寒いので、妊婦のお嫁さんを残し、4人でボールを持って近所の公園に行きました。ボールを蹴っていると、公園にいた女の子2人が加わりました。ブランコ・滑り台で遊び、何度も「おじいちゃん、よ〜いドンしよう」と競争しました。
マンションに戻ると、次男から「あと10分で着く」と電話があったそうで、長男はお迎えに出ていきました。来客用の駐車場を教えるためです。次男夫婦がやってきました。お嫁さんのつわりは、軽いけどまだ続いているそうです。お茶を飲みながらのお嫁さん同士の妊婦・出産会話が面白い。ミキハウスのリュックとバレンタイン・マカロンが、次男夫婦から遼くんにプレゼントされました。遼くんはリュックを背負ってごきげんです。
注文したお寿司の宅配が届き、みんなで昼食です。次男のお嫁さんの家も姉妹なので、お嫁さんのお父さんは初孫を男の子希望で、野球のユニフォームを着せるのが夢だそうです。長男のお嫁さんが、お腹の中の次男くんの写真を見せてくれました。遼くんに似ている。確かにおちんちんがあります。
長男のお嫁さんは、3人姉妹の長女で、お父さんは初孫が初めての男の子で、暴れん坊で外で遊びたがる遼くんと、あまり遊べないそうです。どうやら僕の方が遼くんの遊びに付き合うので、今日を楽しみにしてくれていたそうです。
室内でもやたら競争しようと声をかけて来て、遼くんは13番で僕は11番と指名されます。「おばあちゃんは、唐揚げ食べて見てて」なんて言うのがおかしくて聞くと、競馬好きの長男が競馬場に連れて行ったそうです。長男は中学の友達のお父さんの影響で競馬が好きで、自宅の彼の部屋の壁には、定番の美女ポスターではなく、競走馬の写真が貼られています。その友人と、親抜きで中学生とバレないようにサングラスして競馬場に入ったこともあります。
家族を置いて1人で競馬場に行くことはないので、お嫁さんと知り合って初めて家族で競馬場に行き、1枚だけ馬券を買ったそうです。それが遼くんの希望で13番で、唐揚げを食べて応援したのが面白かったそうです。あまりに楽しく、後日長男と2人で競馬場に行ったそうです。新たに覚えた11から20まで、披露してくれました。マイブームの数字が、2桁になりました。
新幹線や電車の絵本を持ってきて、ビシバシ車輌名を当てていきます。僕が1年前の誕生日にプレゼントした絵本「きかんしゃやえもん」が、絵本で一番好きなようで、お嫁さんから「お父さん、言われていたように覚えちゃいました」と笑っています。「読んであげて」と言われ、遼くんが恥ずかしそうに、ページをめくりながらそのページに書かれている物語を、読んでくれました。当然字は読めないので、丸暗記です。
お嫁さんと2人でいる時、突然「きかんしゃやえもん」の物語を語り始め、ものすごく驚いたそうです。全ページ一字一句違えず空で語ってしまい、「すごい、私には出来ない」と驚愕したそうです。僕も長男がそれをやった時、「この子は天才だ」と思いました。ただ毎日寝る時に読み聞かせしていただけなのに、次々に絵本を丸暗記しだし、ビックリしました。次男もそうなり、幼児の能力の凄さを確信しました。そうなることを話していたので、「本当にそうなっちゃいました」とお嫁さんが喜んでいます。次男のお嫁さんは、絵本を見ながら、「うわぁ、凄い」と目を丸くしています。「あなたもそうだったの?」と次男に聞いていますが、当然本人は覚えていません。「遼くん、天才や〜」と笑っているだけです。
家内に教えられて見た「NHKスペシャル・ママたちが非常事態・最新科学で迫るニッポンの子育て」が面白かったので、息子たち夫婦にも紹介していました。再放送を録画して長男のお嫁さんは見たそうで、「ちょうどいまイヤイヤ期で・・・」と面白かったそうです。次男達の家には録画機器がないそうで、お嫁さんの実家で録画してもらっているそうです。きっと面白いと思う。
お嫁さんお妊娠でキャンセルしちゃったメキシコへの新婚旅行ですが、ニュースでジカ熱をやってるから、行かなくて良かったねと言っときました。ツイてるねって。「子どもたちが大きくなった時に、両親に新婚旅行をプレゼントしてくれるよ」と言うと、そんないい子に育ったらいいけどと笑っていましたが、親がニコニコ楽しく接していたら、いい子に育つに決まっています。
「熱海でもいいんじゃない。半世紀前は、新婚旅行は熱海が定番だったんだよ」と言うと、「え〜熱海〜」ってこれも大笑い。現実問題として、安定期に入れば長男のアメリカの家訪問を兼ねて、ニューヨークやワシントンへの新婚旅行もいいかもしれない。長男夫婦は、遼くんがお腹にいる時にラスベガスに旅行に行き、こないだは遼くんを連れ台湾旅行しました。長男のお嫁さんが、「安定期に入れば平気だよ」と勧めています。
3時のおやつに、コーヒーと次男たちが持ってきたいちご・バレンタインマカロン、僕らが東京駅で買ったお菓子、そしてお嫁さんが手作りしてくれたチョコ味なお菓子を食べました。長男のお嫁さんは、料理やお菓子作りのセンスが良いです。美味しゅうございました。
結局引っ越し仕事はありませんでした。日本に置いておく荷物は、会社が用意したロッカールームに行き、引っ越し荷物は業者さんが手続きも含めやってくれるそうです。電子レンジと冷蔵庫は、お嫁さんの実家や妹さん宅に行き、次男は50型テレビとチャイルドシートをもらうそうです。我が家は、FAX・プリンターをもらうことになっており、もう要らないというスーツケースにそれを詰めてもらい、持って帰ることになりました。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、帰る時間になっちゃいました。恒例の集合写真を撮ります。遼くんは僕の膝の上で中心。最近は、タイマーを待つ間、カメラ目線でジッとしていられるようになり、写真のポーズも決まる。カメラマンのパパから一発OKが出ました。僕らを空港まで送るために長男が車・マツダCX7を動かしてきて、次男にチャイルドシートを見せています。車は何年後に帰国するかわからないので、売ってしまうそうです。相場は100万円ちょっとだそうですが、就職時に我が家から乗って行った私の父の車・マーチに乗り続けてきた次男が、興味を示しています。具体的に見積もりを取って、その価格で良ければ次男が買うそうです。「燃費悪いよ」と次男に教えています。
そこで次男夫婦と「さよなら」し、長男一家の車で送ってもらいます。「たーくんに売ることになったら、タイヤを替えてあげたいよね。そろそろ交換時なんだ」と言っています。僕もいつも弟がお得になるようにしており、大学の学費・生活費も僕が出し、相続も弟の方が多くしました。その代わり、いつも僕に任せてくれ、提案に賛成し協力してくれます。さすが長男、法律上は同じになったといえど、まだまだ日本では立場の強い兄はこうでなくちゃ。兄弟2人の会話に、「せっかく従兄弟が近くにいて良かったのになあ」というのがありました。自分たちの子供同士のことを言っているようです。自分たちが、子供の時から姉一家と一緒に遊びに行ったりキャンプしたりで楽しかったので、そんな家族ぐるみの交流を考えていたのでしょう。まあ、日本帰国後でもできるからね。
長男のアメリカ赴任は、3〜5年ということです。でも先輩で、その後そのままイギリス子会社に移った方もいるので、いつ帰国になるのかわからないということです。でもとにかく子供の時から前向きな子なので、どこに行っても楽しむのでしょう。こういう明るい性格は人を惹きつけるので、会社のトップになる器への成長の一過程です。
17時過ぎに羽田空港に着きました。「お嫁さんの飛行機を観ていきたい」の提案に、長男は駐車場に車を入れ、搭乗カウンターまでみんなで歩きます。お正月行った、伊丹空港の飛行機を真下から見れるB級スポットを遼くんが気に入り、毎日のようにそれを言うそうです。久しぶりに羽田空港内を見学したかったのでしょう。やはりプリンターを入れてくれた長男のスーツケースは、手荷物持ち込みには少し大きく、預けました。僕らはセキュリティーチェックに入り、長男たちは展望ブリッジに向かいました。
機材の到着が遅れたそうで、出発予定時間が18:30から、18:35に変更になっていました。家内は姉へのお土産を買い、僕はTV「世界遺産・スペイン領カナリア諸島の自然」を見ます。機内の人になり、夜空に離陸します。横の家内と会話をしながら、「この人が僕の子を産み育ててくれたから、今日のような幸せな日が持てるんだよな〜」と、しみじみ思いました。自分で子を産めない男は、女性を大事にせねばなりません。
機材は、ボーイング777で、B747の国内運行がなくなった今は、国内最大級の旅客機です。往路と違い満席でした。伊丹空港に着陸し、預けた荷物をピックアップする家内をターンテーブルに残し、僕だけスーツケースを持ってバイクに急ぎます。スーツケース2つは、バイクに積めません。一旦帰宅し、車でとんぼ返ります。往復20分ぐらいなので、夜の到着ラッシュなので、家内が出てくる前に戻れるかもしれません。
帰宅し、スーツケースを自宅に置き、車で空港に向かいます。JAL前の降車レーンに車を停め、家内に電話します。すでに家内はこのレーンの前の方におり、こちらに来てもらいます。スーツケースと家内を乗せ、帰宅しました。「あ〜楽しかった。ありがとうね」と言うと、「こちらこそ」。
ささっと夕食を作ってもらい、お風呂に入って楽しい1日が終わりました。

2016/1/31
家内もお休みなので、先週に続き京都寺社巡りです。漠然と久しぶりの山科・醍醐寺〜伏見名所旧跡巡りを計画しました。醍醐寺拝観は9時からなので、8時出発予定です。いつものように4時頃目が覚めゴソゴソし、7時になったので階下に下りTVを見ながら朝食を頂きます。
予定通り8時に出発。1週間前より暖かだけど、家内もいるので車で出かけます。車は現地での機動力に欠けるので嫌なのだけど、風邪を引かせちゃうといけないから、3月まで電車&タンデムの定番夫婦バイクツーリングはお預けです。
豊中ICをパスし、中央縦貫を吹田まで走り、吹田ICから名神に乗ります。京都東ICで降り、r35で南下する方が近道だけど道が狭いので、R1〜京都外環状線で南下しました。地下鉄醍醐駅を過ぎたとこで左折し東進。r36を渡って、「ここかな?」ってとこを野生の勘で曲がり、9:03難なく駐車場を見つけました。走っていてわかったのですが、醍醐寺は伏見区でした。西の伏見と東の山科の間に山があるので、山の東の醍醐は山科区とばかり思っていました。その山を伏見の南の宇治から回り込む形で、山科から宇治川に注ぐ山科川が作る平野が回り込み山科区に続いています。醍醐は山科の文化圏ではなく、伏見の影響を受けていた地区のようです。山科は、琵琶湖と京との間にある盆地で、瀬戸内・大坂からの水運が京に上がる物流拠点・伏見の影響が醍醐まで北上していたんだと、改めて伏見の経済力を認識しました。
世界文化遺産・醍醐寺。全景図を見ると、東の山に向かって、駐車場の東に並列し霊宝館エリア・三宝院エリアが並び、その東に伽藍エリア、ここまでを下醍醐エリアと称します。その東に山頂まで点在する僧坊や滝を巡る上醍醐エリアがあります。上醍醐山上に、五大堂や開山堂が表示されており、行ってみたいぞ。
宝物殿であろう「霊宝館」に入ってみます。拝観料600円ですが、下醍醐3エリア(各600円)全部入れる1500円の共通券を買いました。火災対策が施された僧坊風だけど、鉄筋コンクリートの博物館建物です。建物の周りには立派な枝振りの枝垂れ桜がいい感じです。春になれば華やかでしょう。そうなると、人がお多くなり訪問する気がなくなるんだけどね。
当然撮影不可なので残念だけど、国宝や重要文化財の仏像・柱・仏画・書・襖絵がたくさん展示されています。明治新政府が打ち出した神仏分離令により、困窮した寺院が続出し、多くの国宝・重文級の遺物が寺院の外に流出し、海外に散逸してしまいましたが、醍醐寺は三宝院に伝承される三宝院流と当山修験としての経印法流を伝承する立場に立ち、一切の宝物を流出させないことを旨として、困難な時代を乗り越えた。それ故、国宝69149点・重文6522点という膨大な宝物が維持管理されている。この数の驚きました。
霊宝館横に、寺内一と思われる素晴らしい枝ぶりの枝垂れ桜がありました。館内員のお姉さんに聞くと、これだけは他の境内の桜より早く3月下旬に満開を迎えるので、4月から一気に増える観光バスシーズン前の拝観ベストウィークだそうです。僕ら夫婦が、この日の最初のお客さんのようで、館内の3つのエリアに僕らが移動する度、そのエリアに顔を出していました。手を伸ばせば国宝に触れる展示なので、管理される方も気が抜けませんね。国宝・五重塔の建造時の四柱の一部が、他に流用されて遺されていたのが、その次の修理の時に発見され、国宝として館内に展示されていました。柱自体に描かれた仏画が遺り、平安時代に使われた絵具の残存どの高さを感じました。
館を出る頃、3組のお客さんが第一展示スペースに入っていました。出入口脇に写真集などが見本として置かれており、2500円のドイツ語写真・解説本に目が留まりました。日本語版の写真集や解説本とは違い、立派な装丁で写真も豊富(350ページ)なのに、値段が変わりません。欲しくなっちゃいました。お姉さんに問い合わせると、三宝院エリアの売店で売ってるそうです。
霊宝館横の仏像棟が公開されているということで見学。2週間前に訪問した湯浅の万願寺から秀吉が移したという薬師如来三尊(日光・月光)は、鎌倉時代製作だそうですが、ほぼ完璧なお姿でした。修復されているのでしょうが、とても綺麗な仏様でした。興福寺の阿修羅像に似た細身の仏像や、細面の美しい吉祥天が目を引いた。僕はどうも、仏像も美人差を感じる細身が好きなようです。
続いて三宝院エリア。まずその売店を覗き、ドイツ語写真集の存在を確認します。三宝院は平安時代に建立された塔頭で、醍醐寺の中心塔頭として存在していましたが、応仁の乱の兵火で荒廃しました。秀吉の時代、醍醐の花見と紅葉狩りを契機に復興され、秀頼にも受け継がれ、庭園は秀吉自身の縄張りだそうです。
立派な枝垂れ桜を横目に、唐破風屋根の玄関を上がると、いきなり素晴らしい生花。思わず玄関畳に座り、低い視線から眺めちゃいました。畳の日本間が並び、「勅使の間」もありました。廊下から開けられた襖を通して、リニューアルされたばかりと思われる素晴らしく綺麗な「勅使門」が見えています。「表書院」の床の間に目が行きました。襖絵や違い棚が素晴らしい。縁側から太閤さんが縄張りしたという庭園を見ます。枯山水もいいですが、ここは池があり、小さな滝が流れ落ち、縁側の下まで伸びた池には鯉が泳いでいます。いいね。10:02、売店で「ドイツ語版・醍醐寺写真集・2500円」を購入。重いので、僕だけ車に戻って書を置きます。
下醍醐の伽藍エリアに向かいます。さっき内側から見た勅使門を、表から見ます。五七桐紋と天皇家の十六菊紋が金色に装飾され、真っ黒な門に映えます。西大門を入ったところが受付でした。これで3エリア目のチケットを切られます。西大門は、仁王門になっており、左右の阿吽仁王像は鳥よけ網もなく、ダイレクトに見えていい。僕の子供の頃は、どこでもこうだったのに、最近はいたずら避けもあるのだろうけど、無粋な金網で覆っていたりして、写真に収める気にもならない興ざめ門もある。
「清滝宮」。醍醐寺の守護宮なのだろうか、くたびれ気味だけど、檜皮葺の屋根を持った趣きのある本殿だ。「国宝・醍醐寺金堂」。醍醐天皇御願により、926年に創建された釈迦堂が前身で、2度の焼失後、秀吉の命により、紀州・湯浅から移設が計画され、秀頼が1600年に完成させた。薬師如来像が、醍醐寺の本尊だそうです。日光・月光の定番三尊の脇に天部が守っていた。2人の女性が、熱心に真言を唱えておられた。真言密教の寺なので、四国八十八ヶ所巡りや高野山奥の院結願を終えた方かもしれない。そんな唱え鳴れた雰囲気があった。
上醍醐に向かってゆるく登る中央の道を挟んで、左側の金堂と対称な位置に「国宝・五重塔」があるが、この訪問は上醍醐からの帰りに残しておこう。「不動堂」は不動明王を中心に5体の明王像が安置され、お堂前の境内で修験道の護摩行が催されるそうです。
「真如三昧邪堂」。堂内にお釈迦様がお亡くなりになるまで説法を続けた姿と言われる涅槃像が、金色に輝いていた。「祖師堂(弘法大師・理源大師)」。他の真言宗の多くの寺では、「御影堂」と呼ばれる伽藍です。堂内にはもちろん、弘法大師と理源大師像が安置されている。
理源大師は、弘法大師の孫弟子で、平安時代前期の真言宗の僧。天智天皇の6世に当たるのだとか。壮年期に醍醐寺を創建し、天皇に保護された京の真言宗の本拠地・東寺の僧正まで上った真言宗屈指の僧。吉野・金峯山寺を本拠地に修行を積み、役行者から始まった修験道を再興した。真言宗はもともと密教であり、現在の葬式仏教と違い、中国の山岳修行仏教と共通する厳しい修行を経て悟りを開くことを正とする「修験道」に相通じる。修験道こそ、本来の仏教の姿とも言える。出家・在家を問わず吉野の山で一心に山を歩き修行する修験者に出会うと、瀟洒な袈裟に包まれた仏僧以上に、尊い姿を見た感じを受ける。
修験道・中興の祖・理源大師建立の醍醐寺が、その根本地として先に書いた宝物流出の流れと一線を画したのが、何となく分かる気がする。「国際法学院(修行道場)」。「観音堂」に入ると、「僧侶と一緒にお経を唱えませんか?(約30分)」というお誘いが書かれていた。10:30・14:00の2回あるそうです。時刻を見ると、11:07。終わったとこみたい。
「無量寿苑」という日本庭園を巡る。池に囲まれた「弁天堂」があった。その池に面した「寿庵」という茶房で、小腹を満たそうかとメニューを見たら、うどん1500円という思いっきりの良い観光地価格でパス。リュックを背負った大きな一眼レフを下げた女子3人がおり、写真愛好会かな?と思ったら、中国語を喋っておられた。一山越えた伏見稲荷には、山程中国人観光客が来ているが、こちらにも来られているのですね。確かに、荘厳・お宝という面では、こちらの方がずっと上です。
上醍醐に行こうとすると、ゲートが有りました。外への一方回転式ゲートになっており、「再入場できません」となっています。「国宝・五重塔」は伽藍エリア内なので・・・Uターンし、五重塔を見学しに戻ります。境内に「国際宇宙年記念植樹」と書かれた桜が植えられていました。
この境内や伽藍エリア内の多くの若い桜の脇には、記念植樹の銘板が打たれています。「平成24年・・君誕生記念」なんて書かれているものもあります。今年でまだ3〜4歳のお子さんですね。僕は、我家の庭に、嫡孫誕生記念に三穂神社を勧請したけど、こういうのもいいですね。植樹寄付金は如何ほどだろう。大寺の瓦の吹替時に寄付して、自分の名が書かれた瓦が後世に残るものロマンがあるが、植樹のほうがよっぽど目立って、子孫がそれを見に来るのも楽しそう。桜を境内に植えるときに寄付され、それが育って観光客が増えてまた参拝収入が増える。ナイスなビジネスモデルです。
再び、上醍醐へのゲートまで来て、外に出ます。「上醍醐登山には、入山料が必要です。大人600円。入山料は、女人堂納経所にお納め下さい」。とにかく無料の女人堂まで行ってみようと歩み始めたら、目の前に見えていたのが女人堂でした。道標を見ると、山頂まで2.6km・65分とある。参拝ではなくて登山なんだ・・・すでに1時間以上ウロウロしているのに、往復で2時間。点在する伽藍を訪ねたら3時間コースです。清く断念しました。山城探索で身を持って感じているが、登り30分が楽しく歩ける限界です。それ以上は覚悟がいる。「往復3時間か〜」と思案していると、「みんなでハイキングで登ると楽しそうね」と家内が言い出し、パスに決定。300円で半分までコースがあればいいのに・・・登山道を見ると、杖ボックスが置かれ、広めで緩やかな勾配の山道が山に向かっていました。伽藍エリアには入れないので、その外の道を川沿いに下ります。バイクや車が道脇に置かれています。入山者がここまでエンジン付きで上がってきたのでしょう。次回は我が家もこの作戦で。
11:51、駐車場に戻り、駐車料金700円。伏見に向かいましょう。r36で「六地蔵」。r7で伏見に向かいながら、観月橋で信号待ち。ふと、以前気になったR24沿いのお宮に行ってみようと思い立ち、右折。R24に乗ってすぐ、12:11「御香宮神社」の駐車場に入れます。
『神功皇后を主祭神に、夫の仲哀天皇・子の応神天皇他6神を祀る。万病に効く聖水が出たので、清和天皇より「御香宮」の名を賜った。秀吉は、伏見城の守護宮に指定し、家康も本殿を造営し寄進した。表門は伏見城の大手門を移築したものとされる。小堀遠州が伏見奉行になり、奉行所内に石庭を造り、ここを訪問した徳川家光が感嘆し、一気に5千石加増され大名の仲間入りした。その石庭を社務所裏側に再現されている。1868年の鳥羽伏見の戦いでは、薩摩郡の屯所になった』
御香水を飲んでみました。普通の水です。井戸水・川水を生活・飲料水に使っていた時代なので、飲んでも病気にならない「伏見の湧水」というだけで、ご神水になっちゃうのでしょうね。「灘の宮水」同様、「良い湧水のあるところに造り酒屋あり」です。
社殿の彫刻に色が入り、華やかです。拝殿参道に屋根が掛かり、参拝のお客さんがたくさんおられます。応神天皇を身ごもっていながらの三韓征伐の神話が残る主祭神が神功皇后故か、初宮参りと思われる一家が数組います。本殿では、初宮神事が行われており、祝詞が聞こえます。参道脇には写真館さんがカメラを設置し、簡易青空スタジオで営業中です。赤ちゃんを抱いたお母さんが写真に収まっています。
僕ら夫婦も、息子たちが初宮参りした近所のお宮に、嫡孫君も初宮参りした時、満面の笑みで参列したが、皆さん笑みが絶えません。子供は幸せを運んで来るよね。お金回りの良い神社のようで、社殿がカラフルで美しい。奉納神馬の木製白馬が馬小屋に入っていた。本殿裏の摂社を巡っていると、「ほら見て、梅が咲いてる」と家内に言われ見ると、白と紅の梅が咲いていた。春はすぐそこです。我が家の朝に、ウグイスが鳴くのももうすぐ。絵馬殿を見学し車に戻り、駐車料金はいくらかな?と出口ゲートでチケットを入れると、無料でした。1時間ぐらいは無料なのかも?
黄桜酒造を目指したが、市街地過ぎて観光気分にならず、駐車場探しが面倒で伏見観光はパスすることにしました。「大手筋通」を西進し、新高瀬川を渡ったとこにある月桂冠酒造の感じのよい建物のみ激写。
R1に出て南下し、「久我山IC」から京滋バイパスに乗り、名神〜中国道を走り、豊中ICで下車し、13:24お早い帰宅になりました。
夕方から、映画DVD「蝉しぐれ」を観ました。僕が一番好きな作家・藤沢周平の僕が一番好きな長編小説の映画化です。黒土監督が小説を忠実に再現しており、この映画も気に入っています。ホント素敵な映画です。家内が「久しぶりに観た」と言うので、調べてみたら2005年ロードショーでした。DVDで家内が観たのは初めてのようです。
ここで19時。いつもの日曜日なら、そろそろ寝ようかな?の時間ですが、「NHKで赤ちゃんのことをするの、見なくちゃ」というので付き合いました。夕食を食べてから、19時からニュース。19:30から「ダーウィンが来た」。20:00から大河ドラマ「真田丸」。欠伸しながらも、頑張って目を覚まし続け、21時からNHKスペシャル「ママたちが非常事態 最新科学で迫る ニッポンの子育て」が始まりました。
ママたちは、子育てに孤独感・孤軍奮闘感を感じ、不器用ながら手助けしようとする夫にイライラし感情的な言葉を投げつける。ママ友を求め、ただ聞いてくれるだけでホッとする。子供の方も、生まれてすぐの夜泣きで母親を苦しめ、3歳頃始まるイヤイヤ期で、思うように育てられないと感じるママを苛立たせる。そしてママは、自分がママ失格だと自分を責め始め、自信を失っていく。
最新科学で、これらは全て脳内ホルモンの成せる技で、人類が二足歩行したために起こった現象であるということを突き止めた。ちょうど今読んでいる「NHK出版 暴力はどこから来たか 人間性の起源を探る 山極寿一」に書かれていたことのトレースだった。
二足歩行したために骨盤が小さくなり、それ故に脳が未発達のまま生まれでて、成人するまで脳は4〜5倍にゆっくり成長する。脳の発達過程に、夜泣きやイヤイヤ期があるだけです。子宮内にいる時は、起きて活動すると母親の負担を増すので、母親が寝ている夜に起きて活動するようにしていた。その習慣が、出生後も残り、徐々に昼型に変化している過程なだけで、夜泣きは当たり前のこと。イヤイヤ期・自己中時期を経てから、相手への思いやりが脳に備わっていく。だからイヤイヤ期も成長の過程の一現象。
人間に一番近いチンパンジーは、子育てが済む5年ぐらいは、次の妊娠が起こらない。人間は年子もザラにおり、次々に妊娠することで、爆発的に繁栄していった。それ故、1回の出産で1頭しか産まないチンパンジーの母親が、母親のみで子育てするのではやっていけず、サポートが必要になる。そこで、集団保育するのが類人猿としての人間本来の姿なのだが、核家族化で3世代・4世代で助けあっていた子育て習慣が崩れ、ママの子育て期間の負担が激増した。
でも、出産と同時に切り替わる子供への愛情激増と、子供を守ろうとする排他的な感情が、不手際も多い父親の子育て支援にさえ牙をむく。離婚率が最も高いのが、子供が3歳までのこの時期で、それを乗り越えれば離婚率は低下していく。
僕は家内から子育て時期で牙をむかれたことがないので、家内と話しながら番組を見た。とても勉強になりました。これを見て、赤ちゃんの成長・ママのホルモンのなせる技を、知識として持っているだけで、夫婦や家族の不安は軽減されるだろう。秀作でした。

2016/1/24
週の初めから冬らしい気温に下がりました。週後半、東京で積雪による公共交通機関のダイヤの乱れのニュースが飛び、土曜日には九州・長崎でも記録的な積雪の話題です。そして日曜日は更に大寒波が日本列島を包みという予報です。伊丹市の気温は、最高気温2.7℃という数年に一度のレベルです。でも、日中は雪は降らないようで、21時以降の降雪だそうです。
この日は家内もお休みなので、近場・体が温まる歩きを考え、京都寺社巡りを企画しました。深草・宝塔寺〜東福寺〜泉涌寺。7時出発で、道が凍結していなければ僕は通勤リード110で、家内は電車で「JR稲荷駅」ピックアップといういつものタンデムスタイルです。
朝起てゴソゴソし、6:30に外に出て道路を確認すると凍結なし。でも風が強いです。吹きっさらしの道だと振られそうで危険と判断し、四輪で出かけることにしました。7時に西の六甲山を確認すると、夜に雪が降った形跡がありません。
お寺拝観オープンが8:30からだろうから、高速道路が使える四輪が足なので、7:35に出発しました。豊中ICから中国道〜名神で京都に向かいます。高槻の第二名神への分岐工事がかなり進んでいます。完成が楽しみです。京都南第2出口で下車しR1に降りてすぐ、高速道路の側道に入り、「近鉄・竹田駅」横をかすめR24に乗り北上、r201で東進し、京阪の線路を渡ります。GPSに誘導されるまま、枝道を走って、宝塔寺に着きましたが、駐車場がわからず野生の勘を働かせて、すぐ南にある「瑞光寺」駐車場に8:29着。無料でラッキー。
手水の水が凍っています。茅葺屋根の山門や本堂の珍しい風情です。綺麗な色の鯉が泳ぎ、こじんまりしたお寺でした。
『深草山と号する日蓮宗の寺です。この地は極楽寺薬師堂の旧跡で、応仁の乱で荒廃していた。1655年、元政上人が日蓮宗の寺「瑞光寺」と名付けた。上人は京都生まれで、石井吉兵衛と称し彦根藩に仕えた武士でした。後に出家して草庵を建て、父母を引き取って孝養に努め、学者・文人・孝子として知られるようになった。本堂・寂音堂は、丸みを帯びた茅葺屋根の建物で、1661年に建立されたものである』
宝塔寺に向かって歩き出すと、「月とうずらの里」と書かれた看板があり、稲荷山頂上を含めたハイキングコースが描かれていた。8:43、「宝塔寺」山門。
『深草山と号する日蓮宗の寺院。藤原基経が発願し、899年に藤原時平が大成した「極楽寺」に始まる。当初は真言宗であったが、1307年往持の良桂が日蓮の法孫・日像に帰依して日蓮宗に改めた。
日像が京都に通じる7つの街道の入口に建てた法華題目の石塔婆の1つが、当寺の日像廟所に奉祀されたことにちなみ、「宝塔寺」と改称した。本堂は江戸初期・1608年創建で、本尊・十界曼荼羅、釈迦如来立像、その横に日蓮・日像の像が祀られている。行基葺の多宝塔は、1438年以前に建立されたもので、室町時代中期建立の四脚門(総門)とともに、重要文化財に指定されている。
境内には、肺病治療の名医で、肺病平癒信仰を集める宗有とその妻・妙正の墓があり、夫婦塚と呼ばれている。また本堂背後の七面山には、1666年に勧請された七福吉祥の七面明神を祀る七面宮うがあり、そこからの眺めが素晴らしい』
塔頭「大雲寺」「圓明院」「霊光寺」「慈雲院」を覗きながら、8:49「宝塔寺仁王門」着。橘の紋の入った大きな提灯が下がっていた。本堂の大屋根が大きくて見事。七曜紋の入った蔵には、山車が入っていそう。
墓地に足を向けると、歴代住職の立派な墓石が立つ墓所、小ぶりだがどっしり落ち着きのある室町時代建立の多宝塔、古そうな墓石が並んでいた。ここから南への景色がよく、伏見桃山城がくっきり見えた。
「日像菩薩御本廟」に上がってみる。緩やかな階段を上がっていくと「三十番神」と書かれた珍しいお宮があった。「経一丸さま」と書かれた日像の若かりし頃の像がある。『1282年、日蓮聖人より頭を撫でられ京都開教の遺命を受けた13才の日像・経一丸さま。日像と改名し、14才入洛し以来40年、3度都を追われてもめげず、法華を持って天下泰平を祈る』
七面大明神の方に階段を上っていく。9:14着。七曜紋でした。橘紋の馬像が奉納されており、稲荷宮もあった。能勢妙見山同様、切矢竹紋の「妙見大菩薩」の小堂があった。修行者がここで経典を唱えるのだろう。更に上ると最も高い位置に「熊鷹大明神」があった。神仏習合が混在しており、古来の日本の姿にみえる。階段を下り、本堂脇まで七面宮参道を下りてきた。
車に戻り、「石峰寺」に向かう。駐車場が見つからず、9:43「深草霊園」に車を停める。横が石峰寺なので、近道を探すが見つからず、結局下に下りて、9:52石峰寺石段下着。
『百丈山と号し、黄檗宗に属す。1704〜11年、万福寺の千呆和尚の創建。度重なる災火により堂宇を消失し、現在の本堂は、昭和60年再建。本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢・鳥獣などを配した一大石仏群がある。これは江戸時代の画家・伊藤若冲が当寺に庵を結び、住職・密山とともに制作したもので、生涯を表している。境内には、若冲の墓・筆塚が建てられている。また門前より少し入ったところにある井戸は、古くから名水として知られ、「茶碗子の水」と呼ばれ、茶の湯に愛好されている』
羅漢拝観には拝観料が要り、山中にも関わらず撮影禁止ということでパスした。山門下からの京都の街が見下ろせた。
車に戻り、「東福寺」に向かいます。紅葉の季節は大混雑の東福寺ですが、記録的に寒い冬の日、きっと空いているでしょう。伏見街道に出て北上します。JR奈良線を渡ると、すぐに「JR稲荷駅」なので、伏見稲荷に向かう観光客が一気に増えます。狭い旧街道沿いにはお店が並び、観光客の往来も多いので、ゆっくり進みます。横が東福寺なのに、駐車場がわからず通り過ぎます。バイクなら最寄りの場所に停めれるのに。GPSに表示されている「P」に誘導されるまま、九条通をくぐり、湧泉寺通りで九条通に出て、東福寺の北からアプローチし、「P」到着。大きくはないけどバスも入ってる駐車場で、無料でラッキー。
トイレを済ませ、10:27歩き始めます。「栗棘庵」「尺八根本道場・明暗寺」「同聚院」「土方不動明王」などの塔頭に寄り道し、素敵な日本庭園の写真を載せた看板が立ってる「霊雲院」を見学することにしました。10:35、拝観料500円。屏風や青磁が座敷に飾られ、静かな空間です。幕末は、西郷隆盛が密議を交わし、日露戦争時はロシア人捕虜収容所だった場所です。ロシア人が作った楽器や当時の写真が飾られています。有名な日本庭園作家・重森三玲作の庭園が、建物を囲い、窓越しに見るのも開け放された縁側に座り、ダイレクトで観てもいい。観光客は誰もおらず、東福寺一番の場所でした。世界遺産・「龍安寺の庭」より良かった。
徳島で見た第一次世界大戦・ドイツ軍人収容所でも、周辺住民との交流も割合自由だったことを知りました。説明によると、明治27・28年ロシア人捕虜が1500人も東福寺全体に住んだようです。戦争といえど、鉄条網に囲まれた過酷な収容所生活ではなく、一旦白旗を上げれば丁重に扱われるのんびりした雰囲気を想像できます。「戦争=外交交渉で折り合えなかった実力交渉」つまり、小学生の頃の草野球でアウトセーフで揉めた時、「じゃんけん」で決したのに似ています。達磨大師の有名な肖像画の掛け軸が下がっていました。素敵な空間でした。
「臥雲橋」を渡ります。紅葉で有名な「通天橋」からの谷を埋める景観内に、同じ谷を渡るこの橋が入ります。反対にこの橋から紅葉越しに通天橋に向かって撮る写真の方が有名です。観光パンフレットも、たいていこちらからのものです。もちろん紅葉があるはずもありませんが、枯れ枝越しの通天橋もいい感じです。塔頭「天得院」は、「東福寺保育園」を経営なさっているようです。「山門・即宗院が冬の特別拝観中」の看板を横目に、東福寺に入ります。大伽藍が青空に映えます。ここまで何ヶ所も道路気温表示がありましたが、−1℃・0℃だけでした。とても寒い日ですが、全国各地の豪雪をよそに、上天気です。
『恵日山と号し、臨済宗東福寺派の大本山。藤原道長が、1236年東大寺・興福寺と並ぶ大寺の建立を発願して「東福寺」と名付けた。禅僧・円爾弁円を招いて開山し、1256年に完成した。その後火災を受けたが、室町初期に再建され、京都五山の1つとして栄え、多くの伽藍・塔頭が立ち並び、兵火を受けることなく明治に至った。明治14年に仏殿・法堂を中心に焼失したが、今なお堂々たる中世禅寺の寺観を保っている。
三門(国宝)は室町初期の作、禅寺三門として最古の遺構である。禅堂・東司・浴室も室町時代の建物(重要文化財)で、いずれも禅宗建築の重要な遺構である。本堂・方丈は近時の再建で、開山堂に至る渓谷には多くの紅葉があって通天橋がかかり、臥雲橋が架けられ紅葉の名所を成している』
三門特別拝観(600円)に入ります。ものすごく急な階段を手すりを持って慎重に上がります。家内が落ちてきても大丈夫なように後ろに付きます。上にいるお姉さんから、「急ですから手すりを持って慎重に上がって下さい」の声が掛かります。禅寺として、日本最大、そして最古。日本最大の三門は知恩院のそれだそうで、ここは2位。石川五右衛門が「絶景かな」と叫んだ南禅寺のそれが日本一だと思っていたけど違いました。山門内には、宝冠釈迦如来像(釈迦が悟りを開いた34才の時の像)を中心に、左右にその時還俗ながら釈迦の片腕だった者の像が控え、更に左右に多くの物上が色んな表情で並んでいた。悟りを開いた釈迦の像である如来さんは、蓮の葉の上に載っているのが定番ですが、悟りを開いた直後の像ということで、沙羅双樹の下という設定で、木片の上に載っている感じになっている。柱や梁の太さは、もう国内では調達不能な大きさで、唸るばかりです。天井や梁に書かれた絵画は、画僧・明兆さんの作で、その見事さに「何でも褒美を」と言われ、「桜の木があると見物客が増え、修業の場の雰囲気が壊れるので、桜の木を植えないで欲しいと願ったそうです。それまでの桜の木が伐られ、以降現在も桜の木が一本も植えられていないそうです。それ故、見事な紅葉の寺になったとも言える。秀吉の時代、京を襲った震災被害を視察した秀吉が、この山門が次の震災の被害に遭わないよう柱から張り出しの大きな大屋根を支えるために、四方に角柱を補強した。・・・なんてことを、説明のお姉さんから伺った。やはり説明があると、深くそこを知ることが出来ます。
また急な階段を下りました。『禅堂 室町時代 禅宗の叢林で重要な建物。撰仏場とも称し、座禅を通じ自己究明と自己の心の仏を撰ぶ場所である。僧侶になるための修行道場であり、修行僧である雲水は、座禅はもとより寝食を行う場所であった。昔は400名以上の僧が修行を行った』
十六紋菊紋の入った建物もあり、被写体に困らない。「通天橋」を渡ろうと思ったけど、400円必要ということでパス。家内は1年前に東福寺を訪れています。再び「臥雲橋」を渡り、駐車場に戻る。九条通に戻り、少し北上し、泉涌寺通りに入って、11:50「泉涌寺」。
手前の塔頭「即成院」からずっと駐車場を探しましたが、泉湧寺前に無料のがありました。山門の「大門」は、『門は高く堂々とした本瓦葺きの四脚門で、もとは京都御所内裏門であった。徳川家康が後水尾天皇即位と共に御所を再建した時、旧門の部材を拝領して移築した、桃山時代建築である』
蟇股の彫刻がいい。拝観料500円。大黒天「雲龍院」に行ってみたが、拝観料400円でパス。落ち着いた外観でした。
「楊貴妃観音堂」・・・絶世の美女・楊貴妃の名に釣られて。『唐の玄宗皇帝の后・楊貴妃は、絶世の美女であり、2人の愛情も深かった。しかしその美貌のために玄宗の失脚と安禄山の乱を呼び、756年后はその乱のために命を落とした。安禄山が討たれた後、玄宗皇帝は后を偲ぶため、香木によってその等身坐像にかたどった聖観音像を造った。1255年中国に渡った湛海は、その像を持ち帰り、泉涌寺に安置した。以降100年毎に開扉されてきた秘仏であったが、1956年から厨子の扉は参拝者のために開かれることとなった。仏体は寄木造りで、手に極楽の花・宝相華を持ち、宝冠は宝相華唐草の透かし彫り、その下に観音の冠を重ねている。観音の慈悲と楊貴妃の美貌が渾然一体となった仏像で、目元や口元の曲線が得も言われぬ尊容を漂わせている』
撮影禁止ゆえ残念ですが、この仏像は、今まで見た仏像の中で最も美人さんでした。「これぞ日本一」「美貌願望に訪問女性絶えず」などの謳い文句の美女仏像さん・聖天さん・弁財天さん・・・いろいろ見てきたが、僕の目にはほぼ全滅でしたが、この楊貴妃さんは美しいと思いました。まあ、これ以上の方は現在の世の中に溢れていますけどね。唐の仏師も本人が亡くなっているので、等身大の本人を目の前モデルにしたわけじゃないと思うけど、「理想の美人」を頭に描きながら彫ったはずです。唐の時代も現在も、男にとっての美人感覚はさほど変わっていないということです。泉涌寺で一番良かった。「美人祈願 楊貴妃観音」と書かれたお守り・500円を購入。
横に展示室があり、入ってみました。屏風絵や源氏物語の絵が素敵でした。山門から下って本殿があります。登って本殿は多いのに、下って本殿が珍しく、何か不思議でした。運慶作の三尊が本尊で、天井には龍が描かれていました。舎利殿も、内裏の御殿を移築したものと書かれていました。ここに収められている釈迦の遺骨は、前述の湛海が中国から持ち帰った「釈迦の歯」だそうです。説法をする口にあるので特に尊いのだとか。天井には、狩野山雪の勇猛な鳴き龍が描かれ、肢体を大きくくねらせながら飛翔する姿、逆立つウロコには悪魔退散の激しい怒りが表現されている。日光薬師堂とともに東西の鳴き龍として有名で、堂内に立って手を叩くと、龍が鳴いているように聞こえるそうです。試してみたかったけど、ご開帳年ではないようです。日光の鳴き龍は聞いたことがあります。ビーンという感じでした。子供の頃だったので、天井から龍に睨まれている感じで怖かった想い出が残っています。
本殿(仏殿)・舎利殿と並んだ奥に、素敵な檜皮葺の大屋根が見えています。天皇家の紋章・十六門菊が彫られた門のある「霊明殿」。とても美しい。さすが皇族が泊まるために脈々と受け継がれてきた建物だけはあります。いつでも使えるように、最優先で維持管理されているのでしょう。勅使門もありました。天皇からの勅使のみが通る門です。
『勅使門 皇族方や天皇の勅使が寺を訪れた時に開けられる門です。大型の柱の四脚門。軒は全て菊のご紋の瓦で飾られ、蟇股その他には牡丹の彫刻があり、唐戸の上と門の四脚の左右には、軸木の木葉文を付けた細やかな透かし彫りがあり、屋根の破風には雲文の懸魚を付け、皇室の菩提所としての風格のある優美な門である。
修理の際、弘化2年(1845)ご再建という銘文が見つかった。天保12年(1841)の本坊の火災の後、再建された年に当たる。門を入ると白砂を敷いた御所庭の奥に昇降口があり、「御車寄せ」と呼んでいる。「その上の屋根は檜皮葺となっており、屋根の破風には鍍金された菊の御紋の飾り板を付けた華やかな造りになっている』
勅使門はもちろん開かれていないが、横の門から入り建物を見ると、惚れ惚れするような見事さでした。このお寺は天皇家とのつながりが深く、天皇の菩提を弔うことが出来る別格寺です。天皇の菩提を弔う法要も出来ます。
天皇家は、古の昔から民の生活に心を砕き、天変地異の無いよう、あるいは天道の災いの心を鎮めるよう行動してきた存在です。東日本大震災後、被災地を訪問し、天皇皇后両陛下が海に向かって深く頭を垂れていた姿が脳裏から離れません。民の経済が低下した時は、自らの母屋の修理を後回しにしてきました。ここが美しく保たれていることが、今の日本経済の順調さを表しています。いつまでもこのような文化を保てるよう、日本人みんなで頑張りたいものです。
『善能寺・祥空殿 823年弘法大師の開基とされ、境内に日本最初の稲荷大明神が祀られています。本堂・祥空殿は、1971年北海道横津岳で遭難した「ばんだい号」遺族谷本ご夫妻が、住職との法縁に基づき航空受難者の慰霊と事故の絶無を祈願して建立寄付された。庭園は、昭和の名造園家・重盛三玲氏の作です』
稲荷神社は小ぶりで、お庭は水が抜かれ、造園業者が造作中でした。
『重要文化財 日本最古三宝さん・ゆな荒神 安産ご祈祷所 岩田帯・安産お守り授与 霊泉・弘法大師独鈷水 大石内蔵助ゆかりの遺跡 含翆茶庭・来迎院』
の売り文句に惹かれ、来迎院へ。『忠臣蔵で有名な大石内蔵助が山科に浪宅を構えた頃、寺請証文(寺の檀家であることの証明書)を当院から受けた関係から、大石の寄進による茶室・含翠軒や、大石の念持仏・将軍地蔵尊をはじめ、赤穂浪士に関する遺品を多数蔵している』
深さ20cmあろう手水石に貯まった水が底まで完全凍結していた。石も冷たくなるからなあ。
いつの間にか泉涌寺境内から出て、泉湧寺に向かい車で走った道に出た。こっちから入れば、拝観料要らなかったね。ここで家内が、車に戻るという。僕だけ泉涌寺と反対方向にゆるく下る。目的は悲田院を訪問したいから。悲田院は、各地にあった身寄りの無いお年寄り・病気の方など、悲しく底辺を生きる方を収容した施設。現在の老人ホームであり、療養所です。
「戒光寺」を訪問。『泉涌寺の塔頭の1つで、1228年宋から帰朝した曇照上人により八条大宮の東に創建され、後堀河天皇の勅願所となった。その後応仁の乱により一条戻り橋東に移り、更に三条川東を経て1645年現在地に再興された。本尊釈迦如来(重要文化財)は、運慶・湛慶父子の合作で、寄木造りの極彩色で宋風を帯び、他に例のない木彫大仏であり、鎌倉時代の代表作である。首から上の病や悪いことの身代わりになってくださる身代わり釈迦と呼ばれている。身の丈5.6m(一丈八尺)・光背と台座を含め10mある。昔は大きな大仏さんを「丈六」と呼んだので、「丈六さん」と呼ばれて、皇室の祈願所として栄えた。また泉山七福神巡りの1つである弁財天像は、最澄の作とされ、融通尊でいかなる願いも成就させると言われている』
弁財天さんのお姿は、秘仏のようで、扉が閉まっていたので望めず。丈六さんは、無料で拝見出来た。大きくもない本堂におられましたが、説明通りの「おっ」と思う大きさで、床下から天井を突き抜けておられました。
13:01、「悲田院」着。駐車場に箱型「日産ブルーバードSSS」(510系)が停まっていました。僕が学生時代、30万円で買った最初の車が、この箱型の次のブルーバードU・SSS(610系)でした。帰宅して調べたら、510系は1972年生産中止モデルでした。ハコスカでレース界を席巻したリアのサーフィンラインが素敵だったスカイラインGTの時代の車です。懐かしい。
『悲田院 泉涌寺の塔頭。身寄りの無い老人や貧しい人、親のない子を収容する福祉施設である悲田院は、難波京・平城京内に設けられ、平安京でも東西2ヶ所の悲田院が設けられた。本尊の阿弥陀如来立像の他、快慶作の宝冠阿弥陀如来像が祀られ、襖絵は土佐光起・光成親子の力作である。毘沙門堂の毘沙門天は「泉山七福神」の1つとして信仰を集めている』
ここからの京都市街地の景色が素晴らしかった。京都タワーが正面に見え、市街地越しに西山を一望でき、白いものを頂いた北山の愛宕山?以遠が見える。将軍塚同様、ナイスな景観です。
車に戻り、家内を乗せて再び悲田院へ。家内とともに京都の町俯瞰を楽しみました。「おなか空いたね、どこかで食べよう」と話しながら、九条通を西進し、当時角をR1に左折し名神京都ICに向かう。適当なお店がないまま、名神入口が見えてきたところ、「餃子の王将」に入店。家内はニラ肉炒め518円+ライス小151円、僕はAセット(チャーハン・ラーメン・餃子)980円でお腹いっぱいになりました。14:08に精算し、名神〜中国道で14:58帰宅。
風呂に入り冷えた体を温めました。京都市内の温度計も0℃だったし、最後に見たR171の温度計も0℃でした。まだ時間があるので、この季節らしい映画DVD「私をスキーに連れてって」を観ました。主役の三上博史は、最近見ないね。ヒロインの原田知世の真っ白のスキーウエアを見て、家内が着てた真っ白スキーウエアを思い出しました。可愛かったよね。お姉さんの原田貴和子さんは、出演者の中で一番きれい。・・・なんて話しながら、1日を終えました。

2016/1/17
家内に用事があるので、1人遊びです。グループツーリングに参加しようかなと思い調べたら、三重県へのツーリングがあった。「原2では、遠いな。どうしようかな?」と思案していたら、天候不良予想のため中止になった。確かに天マークはあるけど、19時以降だから、それまでに帰ってくればいいと思い、ソロツーリングに出ることに決定。行き先は南方面・和歌山県。1週間前、他のグループで企画された有田の神社初詣ツーリングに参加したいなと地図を見ていて見つけた「湯浅城址」探索です。1週間前は、家内もお休みだったので、そちらを優先し、加太砲台・和歌山城などを車で巡った。
湯浅城は、平安末期から湯浅に勃興した豪族で、本姓・藤原氏。太平記では平清盛が熊野詣でしている間に起こった平治の乱で、都に帰れなくなリ進退窮まったところを助け、清盛とともに都に攻め上がり、逆に源義朝を破って平家天下の世を開いたと書かれている。次の源氏・鎌倉時代には地頭職で湯浅周辺の領地を安堵された。建武の新政の時代には、楠木正成と対立したり、室町時代初期の南北朝時代には南朝方として協力したりしながら、領地を守ってきた。室町中期・戦国前夜まで機能していた、湯浅氏の本拠です。
有田川北・阪和道がトンネルでくぐる岩室山にある「岩室城」、金屋の「鳥屋城」という2つの湯浅氏の山城、更に海南の「大野城」もターゲットに加えた。往復1時間の山歩き覚悟の山城を、1日に4城なんて無理そうだけど、時間が許す限り巡ってみよう。
6時出発を目論んでいたが、「暗い」「寒い」で軟弱心が勝ち、7時を回って家内が入浴中に朝食を食べながら、「このままでは、駅まで送っていく羽目になり、和歌山に行く気が失せる」と思い、慌てて着替え、入浴中に自宅を脱出した。「里山VTR250」に荷物を積んで、空気をゴソゴソ、あれをゴソゴソやってたら、出発が8時回っちゃいました。これでは、湯浅城着が11時になり、とても4城訪問は無理です。
8:32、伊丹産業SSで給油。267km/7.44L=35.9km/L。豊中ICから中国道に乗り、近畿道・阪和道を南下、9:32「岸和田SA」で休憩します。バイク置き場にはハーレーが2台停まり、他に大きなバイク集団がいました。朝食が「ニューメン」だったので、夕方まで腹を持たすために定番の「朝カレー」を食べにレストランに入ります。「コロッケカレー」で満腹にして、駐車場に戻ります。お隣のハーレーは3台に増え、バイク集団はもっと増えました。サイドカーのグループが、新たに増えました。皆さん、まだ駄弁っています。
阪和道を南下し、「有田IC」で下車しました。R42を南下すると湯浅町に入り、GPS誘導させた「国民宿舎・湯浅城」への枝道に入ると、城山が見えてきました。最近「この山は怪しいぞ」と、中世山城の山が見えるようになってきました。野生の勘で「こっちかな?」と目星をつけた川沿い枝道への分岐に、10:04ビンゴ!案内板を見つけました。すぐに登城口も見つけましたが、枝道が狭かったので、少し先に進み小さな住宅地内にバイクを停めました。
重いコミネ冬用ジャケット&パンツを脱いで、チェーンでバイクにくくります。リアボックスからウインドブレーカーと帽子を取り出し、軽装山歩きスタイルに変身し、登城口に向かいます。山城全体の鳥瞰図・測量図が掲示されています。藪漕ぎは無さそうです。『湯浅宗重の孫・明恵上人、京都高山寺境内に日本最古の茶畑を造園する』と書かれています。
仏門の世界も、俗世間同様血統がモノを言う。一族の後押しで出世していくことが多く、高僧もそれなりの血筋であることが多い。京都から小浜に北上するR162沿いにある「高山寺」を開いた明恵上人は、湯浅氏流れだったのですね。明恵上人は、元同僚であった関係で平清盛にもタメ口で説教する「文覚上人」の弟子です。あそこで日本茶が起こったとは知りませんでした。勉強になります。
山に入って行くと、お約束の獣避けフェンスがあるので開閉しようと思ったら、施錠されていました。横を乗り越えてもいいのですが、横には「入山ご希望の方は連絡ください」と2つ電話番号が書かれています。電話すると女性が出て、「お城を見たいのですが」「すぐ開けに行きます。何名様ですか?」とのこと。下調べで知っていたのですが、「留守だったらどうするんだ」なんて考えていたが杞憂に終わりました。
山はそれほど高くなく、小さめの岩が積まれた石垣はいつの時代のものなのかな?なんて想像しながら待つこと数分、2台の軽自動車がやってきて、2人の男性が上がってこられます。「ようこそ、お越し。これパンフレットです。少し上がったとこに机が置いてあるから記帳と感想を書いていってください」と、丁寧にパンフレットの地図を広げて説明してくれます。3年掛けて道を整備したそうです。
11:07、南京錠を開けてもらい入山。「九曜紋の上に十六菊紋の半分」が、湯浅氏の家紋のようです。あちこちに掲示されています。「十六菊紋の半紋の下に波」なら楠氏の家紋「菊水紋」です。十六菊紋は天皇家の紋なので、勲功により賜ったのでしょう。九曜紋は伊勢の九鬼氏の紋だから、熊野水軍との関係があるのかも?なんて想像します。あれ?九鬼氏は七曜紋だったっけ?と帰宅後確認すると、七曜紋でした。
『久遠の森を守りましょう』の板札が下がっています。「湯浅久遠という人物がいたのかな?」なんて、脳内妄想が広がります。鍵を開けてくれたおじさんが言ってた机がありました。中を覗くとクリアボックスに入ったノートが2冊。芳名帳と感想文ノートです。名前と住所を記入し、感想文は帰ってきた時にね。整備用の道具が入っているのだろう物置があります。未整備・藪漕ぎ山城も多いのに、素晴らしい。湯浅氏の末裔さんが中心になって先祖の遺産を後世に伝える活動をしているのだろう。こういう家庭で育つと、先祖の名に恥じないように生きようとします。大人は、子供の失敗に小言を言うより、こういう活動で共に活動し、背中で語ればいいです。我が子を信じていれば、勝手に学んでいくものです。木々にも樹木名札が下がり、ナイスです。
『紀の国森作り基金活用事業 事業年度:平成24生年度 事業主体:グリーンソサエティー 事業名:紀州最古の山城跡地保全と久遠の森づくり事業』。NPO法人が整備を請け負っているのかも?
ここで道が別れ、「主郭」の方に進みます。パンフレットに地図が描かれているので、半時計周りに城址を巡りましょう。「狼煙台曲輪」に行くと、湯浅港が見通せます。なるほど町を抑える位置にある。熊野古道が海岸部を通るので、それを抑える位置でもあります。安い木材を使っていますが、トイレも整備されているのに驚きました。1日何百人も登る繁華な山でも、トイレのない山はザラにあります。まして、週に数人しか訪問しないであろう中世の山城跡に、こんなトイレがあるなんてびっくりポンです。
散策道には、竹のガードレールが組まれ、「横矢」など案内板も・・・凄いや。竹林があり、ここから材料を調達しているようです。「主郭」に上がると、逆茂木が一部囲っています。中世の山城の防御が、容易にわかります。こういうのは、行政任せにしたら、お金を掛けた施設を作って、そのまま放ったらかしが通り相場だけど、安い縄を使って手作り整備する地元有志の姿勢が垣間見えます。「家内を連れてこなくちゃ」。
簡易な板塀の裏を見ると、「平成26年度・耐久高校・卒業生」の板銘板が貼ってありました。卒業制作したのでしょう。地元湯浅の高校ですね、ナイス!弓矢が置いてあります。地元の子が上がってきて楽しめるようになっています。「追手虎口」から主郭に上がります。湯浅港を更に高い視点から望みます。『湯浅宗重、康治2年・1143年築く』と書かれた木柱が建っています。『青木山・標高78.5m』
「搦手虎口」から降ります。「土橋」や経年してもまだ深さのある「堀切」も、なかなかの見応えです。11:35、一周して元の机の場所に。感想文を書こうと思ったら、鍵を開けてくださった方が上がってきました。「禁煙」の木札を10ほど持っています。午後から、これを下げる作業をするそうです。
素晴らしい整備状況を話すと、この方が中心になって3年前から整備を始めたそうで、材料費は県持ちだけど、その他はみんな個人持ちボランティアで仲間を募ってやってるそうです。全国湯浅会というのがあり、発祥の地・湯浅に集まるそうです。メンバーが一番多いのが千葉県で、江戸に樽廻船で送っていた湯浅醤油を、より大消費地に近い千葉で生産しようと、多くの湯浅さんが移住したそうです。
今でこそ、「東京から日本で一番遠い和歌山県」等と言われていますが、道路や鉄道・飛行機のなかった時代は、海上交通が効率よく重要だったので、中国〜琉球〜薩摩〜紀伊半島の海の道がありました。種子島に鉄砲が伝わった翌年には、雑賀(現在の和歌山市)で鉄砲製造が始まり、雑賀鉄砲隊として傭兵軍団が誕生した裏に、雑賀の貿易商人が種子島に常駐していた経緯があります。種子島に最初に伝わった2丁の鉄砲のうちの1丁を雑賀に持ち帰ったのもその集団です。
僕の中世の山城好きの話から、「うちの母方の本家が山城持ちで、書生さんの家が山内に点在し、学費を出して留学させ自分の会社に入れて・・・」なんて話すと、「竹中工務店も和歌山で奨学金を・・・」なんて話をされました。僕が通った関西学院は、中高大・ヨット部艇庫まで竹中工務店ですと話すと、「関学のこと?うちの嫁さんも、神戸海星女子から関学に入り・・・」・・・「僕の嫁さんも関学です」。
なんてどんどん話が盛り上がり、「うちはそこだから、来ないか」と誘われました。ご主人の車に乗せてもらい、突然の訪問になりました。奥さんは昭和22年生まれという方でしたが、さすがお嬢様学校の神戸海星出身だけあり、かなりお綺麗な方で町内でも目立った女性だったと思われる。
古美術商をされており、僕を信用し気に入られたようで、福沢諭吉や陸奥宗光の自筆の手紙などを見せてくれた。TVでは、白い手袋をはめて大切に扱う品なのに、手に取らせてもらいました。「お昼まだでしょう?」っと奥様に言われ、お昼までごちそうになりました。湯浅港で買ってきた鯖を使った鯖寿司で、市販のものより保存しなくていいので酢の味が薄めでとても美味しく、ぺろりと10ほど食べちゃいました。わかめのお吸い物も上品で、突然の来客にちょちょいとこのような料理屋さんのメニューとして十分通用するものを出すこの家の凄さを感じちゃいました。
話が尽きず、14:30禁煙札設置作業のお仲間さんが来られて、御暇することになりました。ラッキーな体験でした。これだから1人旅は良いです。バイクに戻り、バイク装束を着て出発。R42〜r179〜R480で、15:03・「金屋中学」裏の「鳥屋城山遊歩道」入口到着。ここに向かいながら、「ああ、あの山だろう」と鳥屋城址のある山がわかりました。ここからも手前の中学のグラウンド越しに有田の海が見えます。標高80mで、山城は300なので、比高200mオーバーです。湯浅城の支城ですが、往復1時間コースで足りるのかな?日没までに降りて来ないと危険なので、タイムリミットは1時間半です。
バイク装束を脱いで、遊歩道の階段を上がります。15:05、東屋と忠魂碑「元帥伯爵東郷平八郎」が建っている。鳥屋城址の説明板があったが、重要な遊歩道全図がなかった。遊歩道が上がる尾根筋に小さな公園があり、お父さんと小学生の娘さん2人が遊んでいた。
中勾配の階段が入った遊歩道を、ゆっくり登ります。息が弾んだら階段に腰掛け休憩します。少しずつ標高が上がり、時折現れる木々の切れ間から眼下の景色が広がっていきます。15:13、鉄塔。海南の発電所からの送電線でしょう。小さな峰を回り込み、鳥屋城の峰が正面に現れます。15:20、「城址まで600m」。まだ600mもあります、きつい。時折分岐がありますが、道に迷わないように、立て札が立っています。
15:34、「城址まで200m」。もうすぐだ。15:40、石積み遺構が見えてきました。落ち葉に隠れていますが、いい感じに歴史を刻んでいます。15:42、城址と山頂との分岐点。城址は山頂には無いようで、尾根筋に築かれているようです。山頂はまだ300m先なので、有り難い。15:44、尾根上郭。祠がひっそりと佇んでいます。山城はこうでなくちゃ。「展望台」と表示されているところは、物見台郭跡でしょう。真下に鳥家中学のグラウンドが見え、有田河口まで綺麗に鳥瞰できます。
まだ雨が落ちてくる感じではありませんが、雲が覆ってきました。さあ、急いで下りましょう。日没すると、獣の世界になります。16:12、バイクまで降りてきました。登り40分・下り30分。自宅までの帰路2時間を考えると、帰宅時間は18時を回ります。天気予報降雨予定は19時なので、もう余裕がありません。残りの2つの山城は、次回ですね。毎回こうなっちゃいます。
バイク装束を着て、R480〜r22で「有田IC」から阪和道入り。風がまだ出ていないので、降雨はもう少し先のようです。横風がきついと、75km/hでも怖いVTR250ですが、風がないと100km/hでも平気です。まあ、80km/h巡航で走ります。17:05に、「紀ノ川SA」着。お土産に一押しだった「KICHIYAロール・1512円」を買います。1/17は、阪神淡路大震災の日ですが、初孫・遼くんの3才の誕生日でもあります。家内とお祝いしましょう。
大阪府との県境の峠を越えると、長い下りです。カーブもしっかりあり、ここがどうも怖くて苦手です。圧倒的なスピードで追い越し車線を抜いていくSSバイクがあり、少し間を置いて同じようなスピードで抜いていく4ドアセダン。覆面パトカーと思いましたが、サイレンを鳴らしていません。「違ったかなあ〜」と長い坂を下った路肩の広いところに行くと、SSバイクが赤色灯点滅の覆面さんに捕まっておられました。確かにあの下りで停止を求めると、二次事故を起こしかねません。プロは、考えているなあ・・・。制限速度80km/h掲示されていたので、一発免停じゃないかな?事故を起こさず、良かった。次から、もっとゆっくりお願いします。その他大勢の僕ら鈍足ライダー・ドライバーから見れば、高速車とても怖い存在です。
岸和田SAは近いのでパス。東大阪PAは、本線を下りてから遠いのでパス。風が出てきたので、天候が悪化してきました。中国道に乗り換え、「豊中IC」で下車。18:24伊丹産業SSで給油。277km/9.88L=28.0km/L。予定の19時前・18:30帰宅。すぐにお風呂に入り温まります。冬用バイク装束は最強なので寒さを感じることはありませんが、長く風に吹かれて体を動かさないと冷えてきます。お手製ナックルガードで直接風が手に当たらないので、手の冷たさは感じません。後付スクリーンで胸にも直接風が当たらず快適です。
そして、秋に導入した「U-KANAYA アルミビレットレバーセット・ツーリングタイプ・13800円」は、とても良い。左の五十肩により、長時間運転で左手がしびれ握力低下するようになったのですが、導入以来しびれを感じることがなくなりました。快適です。それとVTRのシートは、CB400のシートより快適です。お尻が不快にならないんだよね。CBより微妙に柔らかいです。
食卓に、家内からのメモが置いてありました。「新年会にも出るから、帰宅は21:30〜22:00になります」。「モヤモヤさま〜ず」を見ながら、用意されていた夕食を食べ、「大河ドラマ・真田幸村」を見て寝る体制に入りました。電話が入るまで一目無理を目論んだのですが、直ぐに電話が鳴り、家内を駅まで迎えに行きました。
お互いの本日の出来事を話しながら帰宅し、お土産のロールケーキを食べながら、ささやかな「お誕生日、おめでとう」。冷クリームにみかんジャムが入ったロールケーキで、とても美味しい。楽しい1日でした。

2016/1/10
「えべっさん」の日です。西宮戎神社の福男レースも気になりますが、家内とデートです。前日、家内の姉夫婦との山歩きを提案しましたがNo、自転車やバイクは寒い時期なので選択肢から外れ、和歌山にドライブすることになっています。加太砲台〜和歌山城〜姪の中学校〜徳川さんの庭園〜和歌山天満宮〜紀伊東照宮〜たま駅長というコースを考えました。6時出発・15時帰宅ぐらいかな?と漠然と思っているのですが、如何なりますことやら。
4時に目が覚め、しばらくゴソゴソ。5:30になったので、トーストを朝食にして着替えます。家内も楽しそうに着替えており、「用意出来たら出発」というアバウトな予定ですが、「暗黙の了解・6時出発」できそうだと思っていたら、6:30出発になりました。
R171〜中央縦貫道〜豊中ICから中国道に乗ります。千里の新しい水族館が気になります。大きなクレーンが立ち、巨大観覧車が建造中でした。近畿道に乗り、阪和道へ。7:28、「岸和田SA」でトイレ休憩。トイレに、「日本のライダー達へ もっとマナーアップ、私達ならできるはず・・・」という啓蒙ポスターが貼ってありました。ごく一部の爆音バイクをなんとかして欲しいぞ。真夜中にふと目を覚ますと、遠くの国道を走るバイク音バイクの音が聞こえる時があります。多くの方の安眠を妨害しているという自覚を持って欲しい。「周りの車に自分の存在をわかってもらうためにあえて音を大きくしている」という意見を聞くと、「その分、ゆっくり走ればいいだけじゃない」と反論したくなる。静かなのに越したことはないと思うのだけど・・・
阪南ICで下りて、海岸線を加太に向かおうと思っていたけど、GPS地図に載ってる阪南ICには、下車レーンがありませんでした。2kmほどしか離れていない泉南ICと共に、ハーフインターチェンジで、南行き・北行きどちらか一方にしか下車レーン・乗車レーンがなく、いつも間違える。
仕方なく和歌山北ICで下車し、r139〜r7〜r65で、「休暇村・紀州加太」。ここで枝道に入り、宿泊施設に向かって登ります。宿泊施設まで上がりましたが、砲台の案内板を見つけられませんでした。枝道の途中の大きくカーブ・小さな駐車場があったとこが怪しかったので、そこまで下るとビンゴでした。8:36、ここにあった砲台跡を含む遊歩道地図に従って砲台に向かいます。
太平洋戦争時に整備されたのであろう軍用道路が広めの歩道に衣替えされ、レンガ敷の静かな道になっています。擁壁の石積みは太平洋戦争当時のものと思われる。
8:44、レンガ積みが見事に残る砲台跡が見えてきました。ここの分岐を上がり、8:47・見晴台。海岸に下る急斜面には水仙が咲いています。眼下の加太瀬戸を隔て、友ヶ島が見え、淡路島もクリアに見えます。瀬戸を挟んだ潮目に遊漁船がたくさん出ています。連休中日なので、釣り人が多いのでしょう。遠くに淡路島の由良が見え、家内のお父さんと2人で遊漁船を仕立て、友ヶ島周辺で船釣をしたことを思い出します。初めて鯛を釣りました。
『由良要塞の歴史 由良は、古くから瀬戸内海に入る交通上の要衝で、中世から軍事的な意味で大阪湾の守りでした。要塞は、淡路島の由良・和歌山県友ヶ島・加太の3つに分かれ、大阪湾に入る軍艦を迎え撃つため、合計17箇所の砲台が置かれました。ここ深山第一砲台は、明治25年に着工され、32年に由良要塞に編入されてから、昭和20年の終戦まで使用されました』
地図に、他の砲台も載っており、そちらを先に見学しようと海岸に向けて下りましたが、それらしきものがなく、海岸まで下りてしまいそうなので、また100m登ることを考え、諦めて戻りました。
9:19、深山第一砲台。海峡が直接見えない少し下がった位置に台座があったであろう円があります。砲弾が直線的に飛ぶのではなく、放物線を描く榴弾砲が設置されていたようです。その横の地下に、当時は砲弾が隠されていたであろう格納庫がありました。懐中電灯がないと見えませんが、この情報を事前に持っていたので、今朝玄関のLED懐中電灯を持ってきました。僕らに餌をねだろうとやってきた三毛猫が足元にまとわりつくこともあり、家内は一見したあと、「ちょっと怖い」と階段を上がっちゃいました。
『砲台跡 この場所は、かつての由良要塞の1つ・深山第一砲台の跡です。28cm榴弾砲の砲台が6門編成で置かれていました。砲台は2門ごとに仕切られ、トンネル通路でつながっていました。現在砲台はありませんが、トンネル通路や弾薬庫などが残っています。
当時の砲台の写真 28cm榴弾砲。曲射弾道で、艦船の甲板を射撃する大砲。着弾すると榴弾がはじけ飛び、広い範囲にダメージを与える。砲弾の落下速度の増加も考慮し、高い山頂や丘陵に設営される』
車に戻り、和歌山城に向かう。r65〜r7〜R26で紀の川を渡り、和歌山城横に来ました。駐車場が満車で並ぶと、係員さんが「満車です。周辺に民間駐車場があります」と、その地図を配ってくれました。県庁前の24H1000円の駐車場に入れます。
トコトコ歩き、10:13・Victory和歌山県庁前店で「ビクトリーボックス・620円」を買います。サンドイッチのお店で、いちごとクリームを挟んだサンドがあったので、それが入ったミックスサンドで、お腹を満たしましょう。朝がパンだと、早くお腹が減ってしまいます。
10:22、「追廻門」から城内へ。入ると賑やかで、消防出初め式イベントをやっているようです。にわか観客に変身し、消防車両パレードを楽しんでから、城の見学に向かいました。10:38、刻印のある石垣前庭園のベンチに腰掛けて、サンドイッチを食べます。40種以上・2110個の刻印石垣が発見されているようで、浅野家が城主だった時代・1600〜1619年に浅野家の家臣が主家の城普請に協力した印にしたものだそうです。
石垣が整いすぎず、江戸時代築城の石垣より趣があります。動物園がありました。五月山動物園のように小さなものですが、無料だし、これで十分な気がします。演出が凝った高額入場料の動物園・水族館・遊園地流行りですが、子供には人が少なくのんびり出来、こっちの方がいいんじゃないかな。高額巨大施設が出来、各地にあった小型施設が淘汰されちゃいました。我が子を子育てした時代が最後でした。
ミニチュアホースとポニーが可愛く、「これぐらいだったら飼えるね」なんてとんでもないことを家内が言っていた。確かに可愛いけど・・・。水堀を使って、消防法水が披露されていた。続いて消防音楽隊の演奏が始まり、それらに浮気しながら、やっと本丸前に着いたのが11:35。忍者とくノ一装束がおり、帰りに写真を写すことにして、入場料410円を払う。下を見ると、先ほどの忍者(学生バイト風)が、観光客の写真を撮っている。「あれっ、あなたはお客さんと来城記念ショットに収まる方じゃないの?」
『天正13年・1585年、豊臣秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて岡山(虎伏山)の峰に普請したのが和歌山城。縄張り名手・藤堂高虎が最初に手がけた本格的近代城郭です。
1600年・関ヶ原合戦後、浅野幸長が37.6万石で領主になり、1619年徳川家康の十男・頼宣が55.5万石で入国し、御三家紀州藩が成立する。紀州徳川家は、「南海の鎮」として西日本を監視し、8代将軍吉宗、14代将軍家茂を輩出した』
吉宗と共に、紀州から幕府将軍家側用人に登ったのが、田沼意次。僕の母の実家は、その田沼藩の家老職の家柄でした。
お城の外観はいい感じにくたびれており、雰囲気がいい。米軍空襲で消失するまで国宝天守閣を持った日本有数の城であったが、戦後のコンクリート再建にも関わらず、大阪城よりずっと雰囲気が良い。天守内は展示室になっており、甲冑など多くの目を引く物が展示されていた。短銃や火縄銃まであった。和歌山(旧雑賀)は、鉄砲製造・傭兵集団で有名な地なので、火縄銃などはまだ民家に眠っているのかも?紀州徳川家の家系が書かれていた。初代は家康の十男ですが、紀州藩5代吉宗が徳川8代将軍に転出し、その後最後の将軍・14代慶喜まで、ずっと将軍家を吉宗の血が継いでいた。意識しなかったけど、徳川宗家の屋台骨を支えたのが徳川紀州藩だったようです。
天守閣の一番上の階に上がり、外の回廊に出て四方を見渡した。眺めが良い。城下を一望出来ます。日本の主な城の写真がずらりと飾られており、松本城・上田城・丸亀城・・・訪問したことのないお城に行ってみたいな。
『埋門 城の石垣などの下方をあけて門にした形式。和歌山城では、天守閣の裏門が埋門である。御台所と呼ばれるこの場所から、水の手に通じる門として作られた。水の手には、黄金水と呼ばれる井戸がある。攻め立てられて籠城となると、水の確保が生命線となる。国宝に指定されていた天守閣は、和歌山大空襲で全焼し、埋門も外側の扉も焼けてしまったが、周りの石垣が残り、その姿を留める』
NHK大河ドラマ・「徳川吉宗」で江戸城内セットとして使った襖が飾られていた。セットとはいえ、竹と虎が見事です。12:20、天守閣外に出ると、くの一は昼食中かおらず、忍者くんだけになっていた。歩いて行くと、「写真撮りましょうか?」と・・・「じゃなくて、被写体になって」と家内とのツーショットをお願いする。忍者くんに「印」を習い、家内はニコニコとカメラに収まったが、「五郎丸選手の真似させられた」と笑っています。そうじゃなくて、五郎丸選手が印を組んでるんだよね。僕も小学生の時、忍者ブームがあり、木製の刀を背中に刺し、印を組んで遊んでいた。
天守閣を下がり、内堀の内側を歩いていると、天守から見えていた斜めにかかった橋があった。郭と郭を結ぶ堀を渡る橋ですが、郭の高さが違い斜度がある。遮蔽物のない堀を渡るので、狙撃されないように屋根と壁で囲まれている。「紅葉系庭園」を散策し、お茶室を見て内堀外周路に戻ると、成人式の帰りなのか振り袖の女性が2人、お母さんらしき方と歩いていた。和服はいいね。追廻門を出た時は、12:44。2時間半もお城にいました。
昼食を食べる時間がなさそうなので、12:54、「ファミリーマート和歌山県庁正門前店」で、助六寿司420円・直巻焼き鮭120円・梅ゆかり結び110円を購入。12:57県庁前モータープール・10:13〜12:57・600円。
車に乗り、13:05、お城の東側にある「和歌山親愛女子・中高等学校」。中学生の姪が通う学校です。r15を南下し、徳川家の日本庭園「水軒公園・養翠園」に行こうと思ったけど、城内の日本庭園で満足だったのでパスし、13:30・「紀州東照宮」。1時間駐車料金300円。
『東照宮は、紀州初代藩主・徳川頼宣公が1620〜21年に景勝の地・和歌の浦を望む山麓を選んで造営させたものです。当初は徳川家康公を祀ったものでしたが、後頼宣公も合わせ祀られた。屋根は檜皮葺で、本殿拝殿の周囲には縁をつけ、高欄を巡らしている。柱や縁は漆喰で、内外部とも極彩色を施している。欄間には獣形や鳥魚類・草花などの彫刻を施し、蟇股や木鼻にも精巧な意匠を尽くしている。天井は全て漆塗の折上小組格天井で。飾金具が施されている。江戸時代初期の権現造り社殿の代表である』
石畳参道を歩くと、途中に踊り場が2ヶ所ある108段の石段がドーンと。あわわ・・・。緩やかの方もあるけど、家内が登っていきます。仕方なく登り始め、家内のカバンを持って一緒に登ります。急な階段なので、万一こけたら大惨事なので、手すりも持って。日光東照宮には遠く及びませんが、綺麗な拝殿が見えてきます。『南海道総鎮護として、1621年創建。和歌浦一の権現様とうたわれ、当国随一の名勝。関西日光の名に相応しく左甚五郎の彫刻や狩野・土佐両派の絵画などに荘厳された極彩色に輝く社殿は、桃山時代の豪華な風格を示す江戸初期の建築物として国の重要文化財指定されている。
ご鎮座式には、勅使下向、慈眼大師・天海大僧正が初代別当になり、以来400年の歴史と伝統は、「権現様」と親しまれている。東照大権現は、薬師瑠璃光如来の神号で、所願一切成就・治病厄除・開運の信仰深い』。神仏習合した神様はいいね。
500円で本殿見学できるようなので、左甚五郎の彫刻を観に行く。落語「ねずみ」で有名な左甚五郎。日光東照宮のように「眠り猫」が掘られているのかな?巫女さんに案内されて2組・5人で説明を受けながら一周する。撮影禁止なのが残念だけど、一刀彫の彫刻が多数使われていた。15年毎に修復しているそうです。狩野派の絵は、漆喰に直接描かれているので、ところどころ落ちている。でも見事な保存具合です。なお左甚五郎は、300年間に渡る作品が遺っているので、個人名ではなく、左甚五郎を襲名した一門名や工房名ではないかと、言われています。素晴らしかった。
帰ろうと朱門を出ると、眼下に海に向かう景色が広がっていました。ゆるい坂を下ります。弁天宮がありましたが、乾燥した冬だからか堀の水が干上がって、弁天宮の建つ弁天島がイマイチな風景になっていました。やはり弁天様は、水がなけりゃ。
駐車場に戻り、係の方に「天満宮」の場所と駐車場の有無を聞きます。すぐ近くのようなので歩くことにする。14:18、「和歌浦天満宮」。鳥居の向こうに、石段がドーン。
『醍醐天皇延喜元年・901年、菅原道真公は筑前太宰府に左遷される。赴任の時、海上風波を避けこの和歌浦の地に立ち寄り、地元漁民たちがこれを迎え、体を休めました。
964年に参議・橘直幹が太宰府より帰京の途中、道真公の神霊を勧請した。当社は、古来より太宰府天満宮・北野天満宮とともに、日本三菅廟と言われている。1619年、浅野家に代わり徳川頼宣公が紀伊に任じ、東照宮の創建地を当社の境内の一部に求めたのも、当社を地主神と定めて篤く崇拝したことによる』
東照宮より更に急斜面な石段を、手すりを持ちながら登ると、瀟洒な檜皮葺の社殿が目に飛び込みました。拝殿ではお祓い中で、神主さんの祝詞が聞こえる。絵馬・500円が綺麗だったので、また買ってしまった。長男はおみくじ好きだけど、僕は絵馬好きです。自宅に願い事を書いていない絵馬が、10ぐらいあると思う。願い事ができる度、屋敷内祠に下げている。
『和歌の浦は、聖武天皇・称徳天皇・桓武天皇を始め、藤原頼道・忠実・頼長などの多くの貴族、松尾芭蕉や夏目漱石などの文人に愛された古からの風光明媚な地です。かつては、「天橋立」「松島」と比肩するほど親しまれてきました。聖武天皇が、この地を陽が射した景観の美しさから、「弱浜」(わかのはま)を「明光浦」(あかのうら)と命名されました。景観の美しさに心奪われた賢者が和歌を詠み、和歌の聖地となりました。
1585年、紀州を平定した豊臣秀吉は、岡山の地に城を築くことになり、「岡山」に「和歌浦」を合成して、「和歌山城」とした。和歌山という地名は、この時始まった。関ヶ原合戦後藩主となった浅野幸長は、近代城下町を引き継ぐ一方、和歌浦に壮麗な天満宮を再建し、和歌浦が近世の城下町の鎮守地になっていた』
ゆるい坂の方を下ると、14:35「祝祭日に国旗を挙げよう」のステッカーをリアボックスに貼ったスーパーカブがあった。
暴力団やそれから派生した右翼団体が、過激な街宣活動をして日本を貶めて、一般の日本人が自宅に国旗を掲げることをためらう風潮が出ている。暴力団系の過激な右翼構成員は、暴力闘争する過激な左翼同様、在日朝鮮人の割合がとても高いい。国民が国旗に敬意を払うのは、世界中の国で当たり前。戦後生まれの僕が子供の頃も、当たり前のように隣近所の家の門に日の丸が掲げられた。我が家の近所でも国旗掲揚が絶滅し、ナショナルチームの子どもたちをヨットの国際レースに引率した経験から、遅ればせながら我が家は復活させたけど、一軒でも多く国旗を掲げる家が増えることを願っている。
R42に出て、「堀止」を右折し、r13。紀州徳川家は、和歌山城の守りをより強靭にし、外堀で町家をすべて囲む惣構にして城下町を拡大しようとした。地形を見ると、北に紀の川、西に海、東に和歌川がある。南に外堀つけ和歌川と海をつなげようとした。ここに幕府からの疑心が入り、計画は頓挫した。掘り進めていた堀を止めたところが「堀止」の地です。
r13を東進し、15:04「ESSO和歌山岡崎SS・森小手穂北沖田」で給油。108円/Lで安かった。正月に帰省した長男が、110円台の我が家周辺のGS価格を見て、東京は100円台だよと言っていた。給油スタンドにコーヒーのお値段が書いてあり、?と思っていたら、「エクスプレスドトールコーヒー」というお店が併設されていた。
r13は、和歌山電鉄・貴志川線に沿うようになり、高架で線路を渡った時に、2両の「たま電車」がやってきた。家内が「かわいい」と身を乗り出しています。あと、「おもちゃ電車」と「いちご電車」が走っていますが、「たま電車」のラッピングが一番かわいいと思う。
r10に乗り換え、15:24「貴志駅」着。写真で知ってたけど、かわいい猫の駅舎です。駅舎の屋根に耳と目があるよ。誰のデザインだろう。この駅を設計した方は、ナイスだね。駅舎入口左右に門松が置いてある。まずは、たま駅長さん二世を激写。フラッシュはダメだそうです。予想より丸々と太り、布袋さん体型になってるでかい三毛猫でした。
すぐに到着した電車は、ラッピング無しの電車でちょっとがっかり。降りてきたお客さんの半数以上は、たま駅長さん目当てのようで、中国の言葉も聞こえます。こんな田舎にまで・・・すごい世界的な人気だな。たま駅長の勤務体制表があり、毎週水木が連休のようです。休日の具合で、休日出勤もあるのだろうな。いちご電車・おもちゃ電車・たま電車の運行表も掲示されています。「TAMA SHOP」に入ると、初代駅長のDVD、スナップ写真・本「日本一のローカル線をつくる たま駅長に学ぶ公共交通再生」・・・たまグッズがいっぱい。「福宝パイプチバッグ・702円」(梅干し)をおみやげに購入。たま駅長室丸見えの喫茶店もありました。駅舎全体が、「TAMA MUSEUM」だそうです。
あ〜楽しかった。帰路につきます。r10を北上し、紀ノ川を渡りr63を北上します。「泉南IC」から阪和道に乗り、「岸和田SA」で休憩します。メロンパンの移動販売車が商売してるので、明日の昼食用に買うことにする。でもトイレから出てくると、お客さんが並んでいたのでパスし、16:38一番人気と書かれていた「みかんパン・570円」を購入。
このSAには、弟のお嫁さんの実家が、なすの浅漬で他の業者さんと共同出店しています。また買おうとお店に行くと、「あら・・さん」と声を掛けられた。マスクをされていたのでわからなかったけど、お嫁さんのお姉さんでした。実家は、お姉さん夫婦が切り盛りしています。「買わずに持って帰って、私のがあるから」と裏に引っ込まれました。それは悪いので、このお店のラベルが付いた茄子浅漬470円・胡瓜浅漬350円を購入した。でもおみやげの方が多かった、ぐふふ。僕らがやり取りしている時に、賑やかしになったのかお客さんが集まってきて、買って行かれました。忙しい時に邪魔してごめんなさい、ぐふふ。
「バニラソフト・140円」で、定番の帰路の糖分補給して、阪和道〜近畿道〜中国道で18:24帰宅。

2016/1/1
大晦日は、19時に仕事から帰ってきました。夕食を食べながら大晦日恒例の紅白歌合戦を見ましたが、郷ひろみが「いつの曲やねん」という10年以上昔の懐メロヒット曲を歌っていました。続いて、4人の歌手さんを見ましたが、誰も知らない、一度も聞いたことのない曲で、「どこでヒットしたんだろう?」と思いました。とともに、「完全に時代に取り残されているな」を実感しました。20時台に寝ちゃいました。「NHK・ゆく年くる年」なんて、ここ10年は見ていません。年齢が進み、朝型人間がさらに進みました。
3時におめめパッチリで目覚めました。暇です。5時に階下で家内が活動しだした音を聞き、僕もゴソゴソし始めました。まずは、孫へのクリスマスプレゼントの準備です。長男一家と次男夫婦が帰省します。サンタさんの白い袋に、「サイクルベースあさひ」で買った「キッカーアバンス・トレーニングバイク」と、肘膝プロテクターセットを入れます。ホームセンターで買った保護スポンジと結束バンドも入れます。年1回の出番「サンタ衣装」も確認。
着替えて、お餅を2個食べ、6時に家内の実家のお墓参り・加古川に出発です。星が輝き良い天気になりそうです。宝塚ICから中国道に乗り、三木小野IC下車。優勢な霧が出ており、この霧の水源である加古川を渡るところが最も濃く、幻想的でした。
墓苑備え付けのバケツと柄杓を持ち、蛇口をひねろうとしたが凍結で動きません。仕方なくトイレの手洗い場から、お水を拝借しました。年末に姉夫婦がお参りに来られたようで、墓石も綺麗でお花もバッチリです。お水を変えただけで、お線香を上げて終了。
帰路につきます。東に向かって帰るのですが、霧の濃さがちょうどよく、昇った朝日が霧を通して太陽の輪郭をくっきり見せ、まるでお月様を見ているようです。この朝霧を通した朝日が大好きなので、元旦から幻想的な初日の出を拝めて今年は幸先良いです。
8:30に帰宅し、家内は隣の実家の掃除です。僕は、門横に日の丸を掲げ、車にチャイルドシートをセットします。子供の頃は親父が日曜・祝日に掲げていましたが、僕はあまり熱心じゃありませんでした。でも最近の「夫婦別姓」「親父が日本のために必死で戦った先の大戦への過度な批判」「男系男子天皇継承を崩そうとする動き」「外国人への参政権開放」など、ナショナリズムのあまりな否定に危機感を感じ、自分のできることとして、日の丸掲揚を復活させました。
次は家内の手伝いで、玄関の掃除と電気カーペットの準備をします。続いて届いた年賀状のチェックをします。TVのニューイヤー駅伝を見ながらの作業です。駅伝はランナーが変わるので、抜きつ抜かれつが面白い。オリンピック競技になれば、人気が出ると思うのにな。明日は箱根駅伝だ。
11:30になったので、お餅を3個食べました。食べながらも年賀状のチェックが続きます。僕は家内の分も含めプライベートで200枚ほど年賀状を出すので、仕事関係も含めるとかなりの数の年賀状を頂きます。出し忘れの方がいないか?住所変更はないか?も含め、年に一度の便りを読むのが楽しい。写真でご家族の近況を知り、近況報告を読みながらあれこれ考えちゃいます。
僕のプライベート年賀状は、写真を背景にした読み物系です。2016年の写真は、12月に終えたばかりの次男結婚式の写真にしました。僕2パターン・家内からの委託で家内用2パターンを制作し、それぞれの友人系・親戚系に分けて発送しました。
12時になり、大阪に向けて出発します。14時から「劇団四季ミュージカル・ライオンキング」を観に行きます。次男夫婦から誘われて、おごってもらいます。阪神高速・空港線利用で、12:30梅田界隈に着きました。劇団四季劇場の入るハービスENTウエストの前にはすぐでしたが、予定してた駐車場に一方通行の関係でなかなか辿りつけません。探索途中で見つけた「24時間最大1800円」のとこに入れました。
12:42、懐かしい毎日新聞社ビルです。大学1回生の時、ヨット部のオフ12〜1月にバイトをしました。夜中12時にバイト開始です。輪転機が回って出てくる新聞の束を、機械で縛り、配送先別トラックに積み込む仕事です。大阪本社担当の最遠地・鳥取などの山陰、中国地方版から始まり、だんだん近くの大阪近郊版まで順次刷り上がってきます。12時頃は、「鳥取ってこんなに少ないんだ」という感じで15分輪転機が回って作業したら30分休憩って感じなんだけど、大阪に近づくと「休憩はないの?」って感じで作業し続けます。終了は4時前後。実入りはいいけど、始発で帰宅後少し寝て学校に行き、夕方から寝て12時に新聞社という仕事のきつさに参りました。
絶対に病気になると思い、2回生からは、植木屋のバイトに切り替えました。邸宅のお庭を作ったり、街路樹を植えたり、これも肉体労働系だったけど、10時に休憩・12時に昼食・15時に休憩・17時に終了という人間らしい生活でした。夜の職業はやめようと思いました。新聞社の仕事も、できるだけ最新記事を載せたい編集部門と、できるだけ早く仕事を終えたい配送部門とのせめぎあいを感じ、マスコミ系もあかんなと思いました。
そんな話をすると、家内が面白そうに聞いています。幼稚園の同級生が嫁いだ病院が見えたので、家内も会ったことがある彼女の話をします。リッツカールトン・ホテル、ハービスENT、三角の建物の大阪モード学園、JR大阪駅の大屋根、ティファニーなど、お上りさんのように写真を写しながらブラブラ。
劇団四季劇場に着いたので入ろうとしたら、自動ドアが開きません。張り紙を見るとハービスプラザがお正月休みなので、別の入口から入るように案内されていました。オオサカガーデンシティB2からエントリー。7Fの劇団四季劇場に、エレベーターで上がります。高速エレベーターから見える景色がいい。
家内がお化粧直しでトイレに行くというので、劇場チケット売り場で聞くと、劇場内にはあるけど、このフロアにはなく、B2を案内される。再びエレベーターでB2に降り、家内を待つ間、閉まってるお店をウインドウショッピングします。カラフルでおしゃれな婦人服に見とれちゃう。次男に劇場についた旨電話し、トイレはB2で済ませてくるように伝える。妊娠初期のお嫁さんなので、できるだけ快適に、移動時間も少なくしてあげなきゃ。
家内がやってきたので劇場に上がろうかとエレベーターの方を見たら、次男夫婦がいました。一緒に7Fに上がり、でかいトラベルハードケースにお嫁さんを座らせ、開場まで待ちます。13:20劇場エントリー開始。13:30に入場し、クロークでコートとトラベルケースを預けます。2F中央席なので、螺旋階段を上がり13:36席に着きます。開演前なのでいいだろうと、座席に座る3人を写真に撮ってたら、スタッフに注意されちゃった。すいません。
ミュージカル「ライオンキング」が始まりました。午前中、掃除に追われて焦ってた家内から「あ〜行きたくないなあ」という言葉が漏れましたが、「ミュージカルは面白いよ」となだめました。横の席の家内の横顔を見ると、目を輝かせて観ています。ストーリーは「手塚治虫・ジャングル大帝」なので知っているが、ナマのミュージカルは素晴らしい。キリンやイボイノシシ、その他の多彩な動物を演じる役者さんが素晴らしく、隣の席の小学生低学年の女の子は身を乗り出して楽しんでいる。お子様連れも多く、ロングランし続けているのもわかるな。
漫画・ジャングル大帝の大ヒット後アニメ化され、アメリカにも輸出されました。その後ディズニーがアニメ化した時、極似の内容だったので訴訟になりかけました。アメリカで盗作ではないかと問題になり、手塚さんに影響を受けた日本の漫画家さん達が立ち上がった。その時手塚さんの著作権を管理する遺族や手塚プロが、「故人は存命でも訴訟しなかっただろう。ディズニーを尊敬していた手塚なら、むしろディズニーに真似られたことを喜んだだろう。文化は真似である」と発表し、円満解決した。その後アメリカでミュージカル化され、それを劇団四季が日本で公演している。
15:30、20分休憩でトイレに降りる。方向音痴の家内をエスコートして、僕も男性側に並び用を足して出てきたら、家内はすでに出ていた。女性の方が多いのに、このトイレの快適さは、さすが劇団四季と思っちゃいました。トイレに時間が掛かる女性には、ここの部分は重要です。
お嫁さんも出てきたので、僕より先にトイレエントリーした次男を探すがいないよ。女性陣を置いて売店などに探しに行ったら、後から次男がトイレから出てきた。ちょっとお腹が・・・。
後半も素晴らしく、シーンの切り替え時では、満場の拍手です。1F席の方はミュージカル通が多いようで、劇場の主導権はそこから発信されています。幼い赤ちゃんライオンが成長し、父の跡を継いでジャングルの王に・・・終了です。満場の拍手が止みません。出演者全員が舞台に上がり、「ありがとう」。何度も幕が下りますが、アンコールの拍手が止まないので、何度幕が開いたか。
素晴らしく楽しめました。家内が、「初めてミュージカルを観た。すごく面白かった。また映画と違うね」と感想を述べていた。次男は、「う〜ん、ナマだから違うよね」。次男夫婦は、時々ミュージカルを観に行っています。長男夫婦も同様で、長男なんて出張ついでに本場ブロードウェイで、話題のミュージカルを観ています。
僕も子供時代に母に連れられ、博物館・美術館・寄席・文楽・宝塚歌劇・・・いろいろ文化的なものを見せてもらいました。中学でも、狂言・映画・・・などを学校の授業の一環として観に行った。そんな関係で、中学の時の大阪万国博覧会では、最も通ったのがオペレッタやミュージカル館でした。安いし楽しめるし混んでないし、最高でした。
でも僕は、自分の家族に母の半分もさせて上げなかった。キャンプ・スキーなどアウトドアに偏重していたな。僕同様体育会系のわが子なのに、お嫁さんとこういう時間を持ち、僕より一回り上だなと思う。
17時に終了し、記念に劇場前のライオンキング看板前で、全員写真を撮った。同じく家族連れのお兄さんにお願いし、当然その方達の集合写真も撮った。車に乗り、阪神高速で伊丹空港に向かいました。
大阪市内から空港は30分ほどの距離なので、長男一家を載せた新潟からの飛行機の到着予定18:40に余裕で間に合いました。広い駐車場はお正月休みでお出かけの方で埋まっています。空きは見つかるでしょうが、到着ロビーから遠くなりそうなので、僕だけ車で待つことにしました。
乗降場所で3人を降ろし、外周道路の邪魔にならないとこに移動して、ボーッとします。18:30、次男から電話が入り、「到着済」になったのであと10分ぐらいかな?と経過連絡が入りました。18:40になり、乗降場所に移動します。JAL到着ロビー方面を見ていると、次男のシマウマ模様セーターが見えました。その前を走る嫡孫君発見。あれ〜タクシー乗り場の方に走って行っちゃった。次男が追いかけ、「わ〜ん」の嫡孫君の鳴き声。
次男に抱っこされて、みんなと一緒に車にやって来ました。どうやら前回、僕のお迎えがなかった時にタクシーで帰宅したので、そのつもりでみんなを先導していたつもりだったらしい。相変わらず美人の長男お嫁さんのお腹が、更に目立ってきている。2週間前に会った時は、次男結婚式の方に気を取られていたので、じっくり観察していなかったみたい。
作り置きしてもらっていた「くら寿司」にお寿司を取りに行きます。予定より30分も早かったけど、もう出来ていて待たずに済みました。5分で帰宅。日の丸回収。
皆を降ろして車を片付け、僕だけ自室に上がります。そこで1年ぶりのサンタさんに衣装に着替え、白い大きなプレゼント袋を抱えます。庭を歩いて、皆のいる隣の実家の玄関でピンポーン。ご近所さんが道路を歩いてきた。低い塀越しに庭を歩くサンタさんを見られちゃった。
実家内で、「あれ〜誰か来たのかな?」「お迎えに行こうか?」など、嫡孫君を玄関に促す声が聞こえます。1年前に玄関から入って来たサンタさんを見て泣いちゃったのを覚えているのか、出ようとしないようです。次男が玄関を開けてくれて中に入って、プレゼント袋を置きます。用心深く、ママと一緒に顔を出した嫡孫君が不思議そうに見ています。声を出したらおじいちゃんとバレるので、無言で「プレゼントです。あげるよ」のジェスチャーをしてバイバイと手を振ります。皆がフォローしてくれて、嫡孫君もバイバイ。
自室に戻り、サンタ衣装を片付けて、実家に裏から入ります。箱から自転車が出されています。サンタ袋から出てきた自転車の箱を見てビックリ、長男が開けた箱から出てきた自転車を見て、「自転車、自転車」と小躍りしたようです。大成功でした。
19:30、遼くんが、手を合わせ「いただきます」を合図に、お寿司を囲んで夕食開始。2週間前の次男たちの結婚式のこと、長男たちの今春からのアメリカ転勤のこと・・・いろんな話が盛り上がります。食卓にアルコールが並ばないのが、我が家流です。お屠蘇さえありません。幸せな元旦で2016年が始まりました。
食べ終わり、長男が自転車を組み立てます。工具も全部入ってるので、簡単に組み上がりました。遼くんが自転車にまたがったら、足が着きません。長男がサドルを一番低くしてまたがったら、両つま先が着きます。キックして進む自転車なので、両足べったりでないとなあ・・・靴を履いたらマシかなあ・・・。
20:00、OGKのヘルメットを被った遼くんが可愛い。「おじいちゃん、被ってみ」の遼くんのリクエストに促され、遼くんのヘルメットを被ると、僕の頭でもなんとか被れました。「おじいちゃん、カッコイイ」と遼くんに褒められました。後頭部に大きさ調節のダイヤルがついてる大人仕様の本格的ヘルメットです。デザインもキャラクターなど描かれておらず、ブルー&ホワイトでカッコイイ。なんて皆でワイワイ言いながら、1日が終わりました。21時台に就寝。

1/2
4時前に目が覚め、届いた年賀状をちゃんとチェックします。住所変更された方もいるので、PC年賀状ソフトを立ち上げて、確認します。日の丸を掲揚し、発送しなかった方へ、3通印刷し投函。
8時の箱根駅伝のスタートを見ながら朝食。実家から垣根刈り機を出してきて、西面のツツジにバリカンを掛けます。機械で刈れない際を植木鋏でチョキチョキ。7つほどのツツジの半分やったとこで、落ち枝葉の掃除をします。ここで遼くん自転車が登場しました。靴を履いたので足つきはマシになリましたが、キックするほど余裕がなく、長男に押されて、自分でキックしながら、道路を進みます。長男が乗るとタイヤが少し凹むので、空気入れで空気を入れようとしたら、タイヤの口径が小さいのでスポークが密だから、本格的な空気入れでは空気が入れにくいです。昔の簡素なタイプでないと無理みたい。
9:30を回ったので、落ち枝葉を掃除し自転車を片付け、氏神様に初詣に向かいます。遼くんのペースに合わせ、ゆっくり歩きます。暖かな正月で助かります。9:56、遼くんに10円を渡し、お賽銭をチャリんし、幸せな日々に感謝します。おみくじを引き、長男は末吉、次男は小吉で、両方とも安産だそうです。次男のお嫁さんが初めて、次男の名前を授けてくださったこの神社に、おみくじを結びます。10:24、帰宅して落ち枝葉の掃除の続きをしながら、家内が弟のお嫁さんに電話します。岸和田の自宅を出たようで、お墓で集合することにします。僕らも、お墓に向かいます。長尾山トンネル〜r325〜r33〜r319〜r12の里山コースでお墓に到着。
また家内が電話すると、弟はあと20分ぐらいかかりそう。事務所でお花を買い、しばらく遊び、お墓に上がって掃除してお線香を上げているところに、弟一家が到着。大学受験の甥は勉強中で、姪を連れて3人です。11:57、弟達も線香を上げ、昼食に向かいます。遼くんは、「走るの見て」と弟達に言い、「ヨーイドン」と自分で掛け声を掛けてお墓の周りを走ります。走れることが嬉しくて仕方ないようです。長男が猪名川町r12沿いのイタリアン・トリトンを予約してくれました。12:30、とりとん着。混んでいます。総勢10名なので待ちます。パンも売ってるので、長男も次男もそれを買っています。席に着いたのが13:20になっちゃいました。パスタとピザを注文し、みんなでワイワイ。
15:14、自宅に戻り、みんなで集合写真。僕ら夫婦は、夕食のぼたん鍋用の玉子と、在庫が少なくなってきた僕用ヨーグルトを買いに行きます。その間、弟からプレゼントされた「100均ゲイラカイト」で、隣の公園で揚げてたみたい。車で戻ってきて、家内をそこで降ろして、僕は車を片付けて買い物を自宅に置きます。実家に戻り、家内がプレゼントしたトーマスパンツを履き、おまるにまたがってみます。マイブームのプラレールSLなどを弟一家に見せて、みんなでワイワイ。
18時に弟達が帰り、家内が自宅に戻り夕食の準備です。僕は、日の丸回収後、食器を実家に運び、食材を運びます。自宅で途中まで作ったぼたん鍋を実家に運び、ガスコンロで仕上げます。食卓にIHを準備し、IH用鍋にガス火でしっかり火を通した鍋をIH用鍋に移します。妊婦さん2人なので、家内は慎重です。
19:45に食事が終わり、皆さん満腹です。おうどんなどが残ったので、明日の朝食にしましょう。息子たち2人共、それぞれの友人と飲み会のようで出かけます。車に乗せ、大阪に出る長男をJR伊丹駅へ。小学校の友達グループに合流する次男を阪急伊丹駅に降ろします。実家のお嫁さん2人は、どんなお話をしているのかな?妊娠・出産のお話かな?楽しく2日目も終わりました。

1/3
4時過ぎに目が覚め、ゴソゴソ。日の丸を掲げ、8時に、また箱根駅伝中継を見ながら朝食。ぼたん鍋の残り&うどんですが、味が染みて美味い。「入れるの忘れちゃった」というえのき茸も入っています。往路は、優勝候補・青山学院が1区からトップをも守っているようです。3分以上差をつけているので、数区は安泰でしょう。
垣根の残りのツツジを綺麗にし、暇になったとこで、遼くんと隣の公園で凧揚げです。遼くんが走るとカイトは上がるのですが、後ろを見ながら走れないので、自分が上げたカイトを見ていません。僕が走ってカイトを上げると、ワーワー喜んでいます。家内がカメラのビデオを回します。
家内と3人で、池のある公園に向かいます。10:07、滑り台を滑る。大きな方の滑り台も滑る。僕と2人で滑る。ブランコをぶらぶら。池の鴨を観に行き、大きな鯉にびっくり。もう一つの池の方に行き、落ちてるどんぐりを拾って池ぽちゃ。10:49に帰宅しました。TVを点けると、箱根駅伝はトップ・青山学院が、9区〜10区のタスキリレーでした。2位東洋大学に5分以上の差がついており、アクシデントがない限り、2連覇は間違いなさそうです。
昼食を食べ、次男夫婦が帰るので、みんなでお見送りです。JR伊丹駅でバイバイ。遼くんは「行っちゃダメ」と言いますが、「次は東京で会おうね」とママになだめられています。次男たちは大阪食べ歩きをして、夜行バスで帰ります。
伊丹空港南端・千里川沿いの飛行機見学B級スポットに向かいます。僕が車を置きに行ってる間にANAの大型B787が降りてきたようで、遼くんが「おっきかった」と教えてくれます。2人でヨシキリがたくさん鳴いてる方に歩いていると、13:35・JAL小型機が降りてきました。
長男たちのいるところにバックし、進入灯のところで13:43ANA中型機が降りてきました。真上の頭のすぐ上を通り過ぎると、「ANAや」と遼くんが叫びます。みんなのところに戻ると、13:48ANA・B787。13:51JAL・JEX・B737。13:54ANA・B737。13:58ANA・B787。離陸が続き、14:11JAL・Jエアー小型機。14:13JAL・国内最大旅客機B777が降りてきます。「スリーセブンだったね。大きくて良かったね」とママが言います。遼くんに、ママが飛行機に乗るお仕事をしていたことは聞くと、知ってるようです。14:16JALエンブライル。14:18JAL小型機。14:23ANA・B737。東海道新幹線並みの間隔で着陸するから楽しい。
飛行機に満足し、お茶を飲みに行こうと、「ヒロコーヒー猪名川店」に入ってみるが9組待ちで、「蔵人珈琲伊丹店」に移動。こちらも混んでて、自宅珈琲になる。15:17、遼くんと3人で、庭で僕の四輪「草刈まさおくん」を三輪車代わりに大はしゃぎ。実家と我が家を結ぶコンクリート道を足で漕いで大はしゃぎです。1年前は、坂の部分の上に運んで乗せて下らせるだけだったけど、自分で抱えて運び、坂を下って、平坦になると足で漕いでいます。両足は届かないので、お尻を少しずらし、片足で器用に漕ぎます。再び坂になると、足を上げて前傾姿勢です。バランス感覚が良くなってきたな。
室内で遊び、夕食は遼くんのリクエストで餃子を食べに、「餃子の王将」に向かいます。餃子10個ほどとご飯を食べました。僕はラーメンとチャーハンです。家内は野菜炒めセット。お腹いっぱいになりました。日の丸を回収し、3日目終了。

1/4
長男一家が帰る日です。楽しかったお正月も終わり。そして日の丸掲揚も終わりです。4時過ぎに起きてゴソゴソ。正月期間に僕が撮った写真を、PCに取り込みます。このPCを介して、長男次男と僕の写真やムービーを共有するのが我が家流です。次男結婚式と1/2までの長男・次男の写真をフォルダを作って入れてくれているので、それをUSBメモリーにコピーします。これは家内PCにコピーするためです。
7時になったので、パンで朝食を食べます。年末の掃除などで出てきた不要物を紐でくくります。TVを点けたら8時になっており、今年初めての「朝ドラ」〜「朝イチ」の流れです。7時になり、実家の長男一家が寝てる部屋のエアコン室外機が動き出しました。声を掛け、長男にPCを渡します。
9時前に、実家の掃除をするために、遼くんが庭に出てきました。細身のチェックズボンがかっこいい。オシャレさんです。お嫁さん主導で部屋の掃除をするので、その間遊び相手をします。お嫁さんは、毎回きちんとしっかり掃除して、整理整頓して帰ります。掃除なんてしなかった長男も手伝うようになり、いい人と縁を持ちました。
お嫁さんは、大学卒業後航空会社に就職しましたが、3年間は契約社員でした。給料が安く、家賃7万円も重く、ぎりぎりの生活をしていたそうです。実家から仕送りを受けている同僚が多い中、スイーツは月1回のご褒美に切り詰め生活をしたそうです。そんな3年目に、長男と知り合いました。同じ年令ですが、学部卒業後2年間勉強を続けたので、2年遅れの新入社員です。先輩と四国に出張した帰りの飛行機でお嫁さんに一目惚れし、羽田着後、「先輩、ちょっと待っててください」と出口とは逆方向に走って行き、名詞に電話番号を書いて渡しました。その時は長男の方が給料が多かったけど、4年目で正社員になり国際線を飛ぶようになり、抜かされました。侍ジャパンや皇室のヨーロッパ訪問機にも乗るようになり、同期トップで指導者になりました。
外資系にお勤めのお父さんが、そのアメリカ本社に家族で招待された時乗った飛行機が印象が良く、飛行機の仕事に就くために、大学と専門学校にW通学して努力しました。長男には勿体無いお嫁さんで、夫婦仲が良いのも相まって、孫くんを見ていると、大らかに育てられているのがすぐわかる。親から見ても、素晴らしい家庭です。
「草刈まさおくん」で遊びます。道路に出て隣の公園で遊びます。凧で遊ぶというので、実家の玄関から凧を持ってきて遊びます。廃寺でどんぐりを拾い、自衛隊で戦車を見て帰宅。姪からもらったクレヨンを持って我が家でお絵かき。飾ってある遼くんの1才誕生日記念写真を指差して、「裸ん坊」。長男2才が次男0才を抱っこする写真は、2週間前の次男結婚披露宴で見たので、「パパがお兄ちゃん、たーくんが赤ちゃん」としっかり指摘します。記憶力抜群です。
10時になり、掃除が終わったようなので、実家に連れて行きます。仏壇前の座布団に座り、チーン。長男夫婦を従えて「また来るね」と手を合わせています。神社では手水して、賽銭・ガラガラ・パチパチを一連の流れで出来るし、ゆったりだけどしっかりと日本の伝統を教えてもらっています。
車に乗り、JR伊丹駅まで送り、バイバイしてお正月の帰省が終了です。次はアメリカに行って会えるかな?「せめて1週間、できれば2週間休みを取っておいでよ」と言われていますが、どうなることやら。
単語が会話になってきた遼くんは、「・・・さ〜」と語尾につく東京弁と関西弁がミックスします。関西人は、東京に出ても関西弁を直そうとせず使うと言われます。僕も大学卒業後東京で働きましたが、特に東京言葉にしようと思いませんでした。4月からはアメリカ在住になるので、これに米語が加わり、どんな日本語を話すようになるのか楽しみです。
家内の街中での用事に付き合い、11時頃帰宅しました。家内はあれこれするということなので、僕は初ツーリングに出ることにしました。TVを見ながらパンを食べ、緊急食として弟一家が持ってきたもらった三笠をヒップバックに入れます。
13時頃、「里山VTR250」で出発。前をピカピカのニンジャ250が走っています。信号待ちで横に並んだので、「新車ですよね」と声をかけます。僕と同年輩に見え、発進が慎重で車間距離も取るので、免許取り立て初バイクかもしれません。ニンジャをパスし、長尾山トンネル〜r325〜r33で流します。r319に入ると、信号待ちで追いつかれたバイクに追随され、r12でも僕を抜くでもないので、同じような+10ペースの方のようです。「杉生」でr602に右折して行かれました。
西峠〜後川〜城東トンネルを抜けて、篠山に下ります。「日置」交差点手前でストップし、どこに行こうかマップルを広げます。前方からグループツーリングバイクが数台、後方からソロバイクが2台抜いていきます。暖かいので、ツーリング日和です。r300から「弓谷峠」を越えましょう。
右折して、旧R372・旧山陰道に入ります。R372を越えて旧道を行き、r543〜篠山川を渡りr702。「細工所」交差点からR173。長尾山トンネルからずっと、気持ちの良い交通量の少ない道です。14:13、前から気になっていた「チルドレンミュージアム」に寄り道。廃校になった学校跡地の再利用のようです。入場料・大人600円、子供400円。12〜3月はお休み、4〜11月土日祝日だけ開館。案内板を見ても魅力的な施設はない。公の行事に利用されてる公共施設みたい。民間に貸し出せば、流行りの廃校レストランとか、いろいろ利用されるだろうに勿体無いな。ペットボトルに水をいただくだけで退散。
R372を更に北上し、左折してr300に入ります。14:22、竹柱風鳥居&門松に惹かれ停車。「丹波篠山53次・春日神社」。獣避けフェンスを開閉して境内に入ると、洗濯されたタオルが下げられた手水が目につきます。神主のいない神社ですが、地元の方に篤く信心されているようです。本殿は見事な彫刻が施され、由緒ありそうですが、言われ板が立っていないので不明なのが残念です。
帰宅後調べたら、『1189年、古代屈指の豪族紀氏の祖先を祭るため、ご祭神を、梅田神・春日大明神・西宮大明神として創建された。1392年、藤坂に来住した新田義貞の弟脇屋義助の子尾張守義治が社殿を寄進した』となっていた。お〜太平記の世界です。足利尊氏・楠木正成・赤松円心などと後醍醐天皇に味方し、鎌倉幕府を倒し建武の新政を成した新田義貞兄弟の子が、寄進したお宮でした。1338年に、倒幕軍の内部分裂を制した足利尊氏により室町幕府が立てられた後、吉野に下った後醍醐天皇方と対立・戦闘を繰り返していた南北朝時代。1392年に南北朝の和解が成され統一された。天皇方として戦った新田一族にも平和が訪れ、この地にやってきたのでしょう。以前は謂れ板が立っていたようで、こんな歴史を刻んでいるお宮なので、再建されるといいな。
右方向を見ながら弓谷峠への分岐を探します。野生の勘で右折した枝道がビンゴのようでしたが、「通行止め」看板が立っており撤退しました。仕方なく、r300に戻って西進。14:20、「あまごの里・川阪しみず会」の看板に惹かれストップ。川を覗くとアマゴが群れ、のどかな風景がナイスです。
「本郷」に出て、r97で「鼓峠」〜栗柄分水嶺を通過し、左折して「にしきトンネル」を抜けて南下します。r140を東進、新道で南下し、篠山市街地・二階町通り「誓願寺」に15:09到着。『八神城主・波多野秀治が天正年間(1573〜92)初め、覚山天誉を開山として、高城山の麓に創建しました』。覚山天誉は室町幕府13代将軍・足利義輝の子で、松永久秀によって義輝が暗殺されると、京都・誓願寺に逃れ仏門に入った方です。時を得たなら、波多野秀治は還俗させ京に上る算段もあったと想像される。14代将軍は、出家して南都にいた義輝の弟で、諸国流浪の後、織田信長が担いで上洛した足利義昭で、波多野氏はその信長軍のNo2・明智光秀によって滅ぼされた。家紋は、「竪二引両紋」。
境内を拝見すると、「粟島大明神」がありました。神仏習合の習わし、このお寺の守護神のようです。墓地を探索しましょう。「岸本家」の数基が目についた。続いて「上野家」。「上野氏墓地」の脊柱が立ち、墓誌に氏族の歴史が刻まれていた。
『上野家は甲賀武士の末裔で、戦国時代末に近江甲賀郡上野より丹波八上城下に移住した。1609年篠山築城。菩提寺篠山移転と共に西町に移り西垣屋と号した。初代より代々両替屋として藩の御用達を務めた。時は移り、上野家末裔は篠山を離れるも、朝日新聞社創設など、その命脈は各地で受け継がれている。20世紀最後の年に当たり、我々は累代墓地を整理し、初代・分家初代・新宅初代の墓碑をここに祀り、一族共通共通の祖先の地とした』
「吉原氏墓」「斎藤家累代之墓」「畑家代々之墓」など、豪族の墓と想像される墓石群がある。「多波見家之墓」「四方家之墓」などの歴史がありそうな家名の墓石もある。「従四位勲三等畑・・」と刻まれた立派な墓石もあったので、八百里城主・畑氏の菩提寺のような気がする。畑氏は新田義貞配下の有力武将で、義貞討ち死後はその弟・脇屋義助配下で奮闘し討ち死にした子孫です。南北朝和解後この地にやってきた脇屋の子も、畑氏を頼ったのかもしれない。
15:22になったので、帰路につきます。r77〜r49で、R372まで出て、r49の美濃坂峠越えの様子を見に行く。R372からr49に入ったとこに設置されていた「通行止め」看板がなくなっている。土砂崩れしたであろう箇所が綺麗に直されていた。永澤寺を過ぎ、15:55、バイカーズカフェ「虎亀」到着。
デザートを食べようと、「お腹が膨れるよ」とマスターに勧められたクリームとベーグル・500円を注文する。次男の結婚式の話などをしていると、仕事&家庭で24時間一緒にいるマスター夫婦は、喧嘩しなくなったと言っておられた。僕も喧嘩せず楽しく話す夫婦だけど、会話のない夫婦も多いとのことだ。
16:30をまわり17時閉店が近づき、最後のグループさんが帰って行かれたので、僕も精算してもらった。消費税込み500円だった。r49〜r68〜r33〜r325〜長尾山トンネルの定番コースで帰宅。
家内と、長男にPCにコピーしてもらった次男の二次会披露宴のビデオを見た。アームレスリング大会があり、選手8名のうちに主役次男と長男が入り、1回戦で長男が勝ったシーンを見た。2人が喧嘩してると思った嫡孫君は、とても悲しそうな顔をしていたそうです。それから、「レディ・ゴー!しない」と言ってたそうです。でもこの正月は、「じいちゃん、れでぃごーしよう」と腕相撲しにきた。腕を組んで押すのだけど、自分が押し込んで「勝ち」、自分で後ろにひっくり返って「りょうくん、まけ〜」と楽しそうでした。
これで、お正月休みが終わりました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
inserted by FC2 system