ウェブマスター日記 2015/11-12

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2015/12/27
年末年始の息子たち家族の帰省に向け、家内は彼らの宿泊施設になる隣の僕の実家の掃除です。僕の仕事は庭・垣根の草刈り・手入れですが、孫に電動垣根刈りを見せてあげるためにそのままにしてあるとこ以外は、ほぼ終了しています。でもまあ、僕だけサボってるとアレなので、夕方から映画を観に行く約束をしました。
4時前に目覚めちゃいました。することないのでゴソゴソし、PCでメールチェックすると、待望の次男からのメールが届いていました。結婚式から1週間経ち、前日は産婦人科の2度目の診察日でした。結果報告を待っていましたが入らず、ヤキモキしてのメールチェックでした。
次男は仕事で同行できなかったそうですが、妊娠7週目で2週間前の前回は胎嚢だけしか見えなかったのに、体長1.1cmで心臓の鼓動も確認できたそうです。長男のアメリカ転勤へのおめでとうとともに、詳細報告されていました。結婚式を終え緊張が緩んだのか、つわりがでてきて吐き気・だるさ・眠気でしんどそうということです。つわりが酷かったら、お正月帰省がキャンセルされるかもしれませんが、お嫁さんの体の方が重要なのでそちら優先でいて欲しい。こちらは帰省がある方向で準備しましょう。
7時になり明るくなってきたので、活動開始です。8:30に家内と、通勤リード110にタンデムし、家内の用事のために伊丹市の中心地に。そこで家内を降ろし、伊丹空港南端のビューポイントに向かいます。孫くんに着陸する飛行機のお腹を見せたい。でも駐車場がないので、近隣駐車スペースを探します。近くにコインパーキングはありませんでした。コンビニがありお買い物したら1時間ぐらいOKかな?府道裏道の町工場周辺道路に駐車できそう。
また伊丹駅前の家内との待ち合わせ場所に戻ると、ほぼ同時に家内がやって来ました。赤ちゃん用品店・西松屋に向かいます。現在時刻6:40、10時開店でまだ開。開店と同時に入店。孫くんにパンツをプレゼントするそうです。90というサイズらしく、大阪に出た時に寄ったお店にはなかったそうです。流石にベビー用品店なので、いろいろ揃っており、トーマスのパンツを選んでいました。あれこれ見ていると、座敷おまるが目につきました。おむつが取れそうな時期ですが、たまにしかおトイレのいかないそうです。息子たちは「座敷おまる」〜おトイレと進んだので、これを買うことにしました。
僕が幼稚園の時、「お励み表」というのがあり、寒風摩擦したらシールが貼れるので、頑張った記憶があります。息子たちが中学受験塾に通ってた時も、ニンジン作戦が功を奏したので、シール作戦したらいいのになと思っていたのですが、それを見つけてしまいました。シール128枚&台紙5枚のセットを買いました。家内は、おトイレに貼るシールを見つけました。便器にシールを貼って、それに狙いを定めてお遊びでオシッコ習慣をつけようと言うアイデア商品です。シールは水に溶けるので楽です。
帰宅し、家内は実家の掃除開始です。僕は、正月に自宅でぼたん鍋を囲めるように、猪肉を買いに行きます。バイク装束に着替え、招き猫CB400SBを準備します。このバイクで走るのは2ヶ月ぶりですが、エンジンは一発始動で優秀です。長尾山トンネルを抜け、r325〜r33。切畑までの制限速度が、40kmから50kmに上がっていました。切畑からr324。新名神工事の進捗具合を見ました。ホタルが飛び秘境感のある旧道は寸断され、センターラインのある2車線道路に付け替えられており、ちょっと残念な気持ちもありますが、新名神開通で宝塚トンネル渋滞が解消されそうで、そちらの期待の方が上回ります。
r12に出て北上します。「道の駅いながわ」横の「肉の根木」到着。1人200gとして、特上1300円を400g・上1200円を800g買います。ぼたん鍋用特製味噌も3つ買いました。15747円。前回は鍋の後半で薄くなっちゃった感じがしたので、後半で追加投入する用に+1しました。
我が家は、子どもたちがチビの時から、正月は篠山にぼたん鍋を食べに行くんのが定番だったので、孫が1才前だったので2年前は自宅でぼたん鍋をしました。1年前は孫も歩けるようになったので篠山に食べに行き、座敷でワイワイ楽しみました。そして今回は、長男のお嫁さんも、次男のお嫁さんも妊娠中なので、再び自宅鍋です。
これで帰るのはアレなので、r12を北上します。12:32、旧猪名川酒造さんに寄り道。Lopezというレストランカフェになっています。iPhone修理工房も兼業しているようです。前方の空が怪しく、雨が降ってる感じがします。時雨雲が流れて来ているので時間差を作るために、猪名川サーキットを覗きに行きます。年末休みに入ったので走っているかと思いきや、クローズでした。
r12に戻り、「杉生」を越えr601分岐手前で、13:01看板を発見。「阪神間1ヶ所のアマゴ釣り」「釣り場をかえてリニューアル」「アマゴ小売いたします」「杉生西軽井沢アマゴ会」「釣り代金・お一人様3000円。11時〜ご希望により新鮮なアマゴの塩焼き、バーベキューも可能(アマゴ以外の食材はご持参下さい)。営業時間8〜17時」。魅力的な案内です。r601を入り、峠に上がらずまっすぐ入っていくようです。旧別荘地の方です。いつか偵察に行ってみよう。
時々小雨が落ちてくる中、西峠を越え、「後川」からr37で羽束川沿いを西進し、後川奥林道に入ります。路面が濡れてるので、時雨雲が雨を落としていったようです。母子に上がり、永澤寺を横目に観ながら、r49を南下。永澤寺峠を越えて、13:28「バイカーズカフェ虎亀」到着。あいにくの天気なので空いてるかなと思ったけど、バイクが6〜7台いました。時雨雲だから阪神間は雨が落ちてないだろうから、バイクで来るよね。年末年始休みに入った日曜日だから。
カウンターとテーブル2つがふさがり、6人がけテーブルのみ空いていました。僕一人で悪いなと思いながら、虎亀ピラフセットを注文する。適当に手にした雑誌を広げると、ライダーズ宿の名前と地図のページが有り、写真で写す。役に立ちそう。ピラフが運ばれてきたと同時に、ソロのお客さんが入って来られました。僕と相席です。
芦屋の方で、r49を南から上がってこられたようです。親がバイク好きで、子供の時からバイクに乗っているとのこと。上のお子さんが17才と言われていたから、40代なかばの方でしょう。いろんなバイクに乗ってこられ、今はカワサキのW650だそうです。猪の話、鹿の話、そしてバイクの話、楽しい会話になりました。
特に僕の未体験ゾーン・リッターSSバイクの話には驚きました。高速道路で120km/hぐらいの圧倒的なスピードで抜き去っていくバイクがいますが、140km/hぐらいでも安定し、片手運転でも不安感なく楽に走れるそうです。200km/hオーバーで走ったこともあるそうですが、高速で走る用に作られているので、剛性が高く不安なく出てしまうそうです。でも街中はパワーを持て余し、辛いとか。もうその世界に慣れて飽きてしまって、今はW650で高速を80km/hぐらいで走っているそうです。
W650はフロントサスペンションがチンプということで、2万円でそれだけを変えたそうで、走り出しから剛性が上がり、すごく乗り易くなったとか。カワサキのWシリーズは、トライアンフのようなクラシカルでオーソドックスなスタイリング。乗りやすそうで好感の持てるバイクなのでいろいろ聞きました。シート高は高くないが、シート形状から来るのか意外に足つきは良くないそうです。高速道路走行は苦手ということでした。そしていろんなメーカーを乗ってきた経験から、ホンダが素直で乗りやすいそうです。人に勧めるなら、やはり世界のホンダだそうです。
楽しい会話でしたが、掃除してる家内の手前、長くサボっているわけにも行かず、帰路につきます。虎亀さんと猪肉を買いに行くのを理由に掃除をサボってると話すと、さっきまで猟師さんが来られてたそうで、これから切り分けるということで帰ったそうです。以前猪肉をあげると言われたが、ドカンと食べきれない塊だったので遠慮したとか。スライスされた猪肉なら持って帰れるが、塊だったら一般人は引くよね。根木さんん店の奥に、解体中の猪がいつもぶら下がっていますが、あれは引きます。
r49〜r323〜r33〜r325〜長尾山トンネル経由で、16時前に帰宅しました。家内は掃除を終え、僕が読んで勧めた「ゴリラは語る・山極寿一著」を読んでいました。山極さんは京都大学の総長ですが、霊長類研究所のトップでもある世界的なゴリラの研究者です。この本は面白かった。
17時に、また通勤リード110にタンデムし、映画館に向かいました。17:40上映開始「スターウォーズ・字幕版」。10年ぶりに新作公開されたスターウォーズ7は、めちゃくちゃ面白かった。僕が大学時代に初公開された4で、ブルース・リー「燃えよドラゴン」同様に衝撃を受け、〜6はルーク・スカイウォーカーの物語、その後の1〜3は、ルークの父・アナキンの話。そして今回初登場したレイは、きっとルークの娘だろう。悪の帝国を共和国軍とともに打ち破ったレイが、映画の最後に居所がわかったルークに会いに行く。全編お涙頂戴な場面はないのに、泣けてくる。息子たちを連れ家族で観に行った映画の記憶が、フォースを操るジェダイの騎士・3世代の物語と結びつくからのようだ。
ハン・ソロ船長も綺麗だったルークの妹・レイア姫も、そしてカッコ良かったルークさえもひげが白くなりシワが刻まれていたけど、この物語は家族や家系の物語でもあり、自分の人生と重なってしまう。今や世にない両親がいて、僕を好いてくれる家内がいて、神様に授かった息子たちが巣立ち、来年になれば孫が3人になる。こんな僕の人生と重ねて観てしまうので、涙が流れてしまう。
新登場のドロイド・BB8もナイスなキャラクターだが、C3POや長い眠りから覚めたR2D2が登場してくると、スター・ウォーズって感じがする。被り物だから年を取らないチューバッカなど脇役も、チャラが際立ちいい感じ。
全9部作なので、後の2部はルークの娘レイと、ルークの妹レイア姫とハン・ソロの子で、ルークに指導を受けながら暗黒面に落ちたカイロ・レンを軸に物語が進むと思うが、次はどんな展開が待っているのか。期待大です。
家内と「面白かったね」と話しながら8時を回って帰宅しました。

2015/12/20
次男の結婚式が翌日に迫りました。早朝からゴソゴソし、準備万端整えました。僕の唯一の仕事である披露宴後の親族挨拶も、話の流れのキーワードを書き出しました。後は披露宴の雰囲気で適当に。
式・披露宴会場は、東京品川の「八芳園」という旧薩摩藩の江戸下屋敷です。歴朱趣味の僕は、そのお庭や建物への興味でいっぱいです。朝7:15に家内の着付けがあるので、日帰りが無理で、東京の長男に家に泊めてもらいます。
仕事を13時で切り上げ、帰宅します。家内はまだですが、脚立を立て、庭の柚子の収穫です。結婚式・披露宴に参列いただく方は100人ですが、新郎側・新婦側の主賓席の人数+アルファの18人分36個を目安に収穫します。大き目のから取りましたが、まだまだ残っています。1本の木ですが、200個以上実が成っているようです。
20時に長男宅到着予定として15時出発を考えていましたが、家内が帰ってきたのが30分前でした。「仕事を切り上げようとした時に、仕事が入っちゃった」と大慌てで帰ってきました。僕は準備を終え、通勤リードにガソリン補給もし、TVを見て待っていました。「こりゃ30分は遅れるな」と思っていたのですが、あれやこれや身支度に時間が掛かる女子にしては珍しく、15時の予定通り家を出ることができました。
通勤リードに荷物を満載です。僕のデータバッグ・家内のガラガラバッグを足元に重ね置きしたので、ハンドル左右の角度が制限されます。柚子の手提げを前かごに入れ、家内の手提げをリアボックスに入れます。家内とタンデムし、いざ出発。JR伊丹駅まで走り、バイクを預けます。2日間・400円。
みどりの窓口で往路切符を買います。2人分27000円。JRで新大阪駅まで出て、「駅弁にぎわい」で「バラエティ弁当・880円」と「旅の幕の内弁当・850円」を購入。遅く着く僕らにお嫁さんの手を煩わせ無いよう、新幹線内で夕食を済ませます。新幹線ホームで新大阪駅発の列車に乗り込みます。指定席はガラガラのようですが、自由席は適当にお客さんで埋まります。外の景色を見ながら、あれやこれや話します。お腹が空いたようで、家内は早速夕食を食べてしまいます。湖東を北上している時、琵琶湖越しに薄っすら白いものを被った湖西の比良山系が見えます。2人がけの席に座り、家内との楽しい旅です。
家内が携帯電話をチェックすると、結婚式に出席してくれるお姉さんからメールが入っていました。「今仕事を終えました。これから自宅に帰り出発します」と12時頃のメールです。いつも「なんて返そう」と僕に聞いてくるので、「現在地でも送っておいたら。米原だよ」と答える。家内は、「今新幹線に乗っています。現在米原付近」と返信しました。すぐに着信があり、「あれ?ひょっとして同じ電車に乗ってる?のぞみ134号?」、いつもながら女子高生のようなメール早打ちの速攻返信です。「新大阪発に乗ったから、違う電車だと思うけど」。次の停車駅・名古屋で到着電車案内電光掲示を見ると、僕らの次の電車が「のぞみ134号」だったので、僕らは1つ前の電車に乗っているようです。
その後もメール往来がありました。東京ブックマークという宿泊予約サイトで、披露宴会場に近いシェラトンホテルに泊まるそうです。新幹線切符も付きでもかなりお得な料金だそうで、長男のお嫁さんに電話するとお嫁さんもビックリし、4人で予約したそうです。静岡通過中に、僕も夕食を食べます。
僕らは東京駅で京葉線に乗り換え、3つ目の駅・「潮見」で降ります。まだ19:30で、嫡孫くんが起きているかもしれません。「起きている時間に着いたら興奮して寝る時間が遅くなるので、7時に寝かすようにします」と、お嫁さんから連絡を受けています。家に行っていいか確認の電話をします。寝た所だそうでOK。翌朝の朝食を駅前のスーパーで買っていこうかと聞くと、用意しているのでこちらもOK。トコトコ歩いて長男のマンションに8時前に着きました。「何号室だったっけ?306?」「う〜ん」。玄関で部屋番号を押し、内部から開けてもらわないと入れないシステムになっています。「玄関に着いたらまた電話しなくちゃ」と話しながら玄関に着いたら、内部に長男が待っていてくれていました。
品川まで12km・朝なら30分ということで、6:15出発を長男から言われます。家内は、長男に自分の携帯電話を渡し、5時にアラームが鳴るようにセットしてもらいました。家内から順番にお風呂に入ります。9時前に寝ちゃいました。
木造の我が家と違いマンションは断熱効果がよく暖かいです。快眠し、いつもの様に4時に目覚めます。リビングの電気を点け、本を読んで時間を潰します。司馬遼太郎・「街道をゆく・種子島旅」の部分です。長男が司馬遼太郎が好きで、嫡孫くんの名前に拝借しており、「遼くん」です。
5時前に家内が起きてきて、洗面所に行ってお化粧開始です。家内のアラームが鳴り出したけど、家内に聞こえそうにないので僕が消しました。携帯電話のアラームなんて使ったことないのでどうやって消すんだ?とりあえず、「受話器を置く」ボタンを押すと消えました。
5時を過ぎ、お嫁さんと遼くんがリビングにやってきて、僕らを見つけて早速トーマス・プラレール開始です。お嫁さんの入れてくれた珈琲を飲みながら、朝食用に買ってくれていたパンを食べます。5:30を過ぎて長男が起きてきて、用意を始めます。
6:15に家を出て、長男の運転で品川に向かいます。主役の次男夫婦は、お嫁さんの実家・川口に泊まって、妹さん含め5人でやってくると思っていたら、品川プリンスに前泊しているようです。2夫婦の情報交換が密で、僕らの知らないことをたくさん知っていました。
朝早くなので都内も車が走っていないということですが、その分信号の多さが再認識され、信号で止まってばかりだと、長男が笑っています。長男はオシャレな蝶ネクタイスタイルで決まっています。
予定通り30分で品川の八芳園に到着しました。いきなり、立派な武家門です。門番さんが「おはようございます」とお出迎え、結婚式であると告げると「おめでとうございます」と頭を下げられ、名前お聞かれて告げると、「ご新郎さんですか?」と聞かれました。長男は、笑いながら「いいえ新郎の兄です」と答え、玄関に車を横付けし、人と車を降ろして駐車する場所を教えてもらっていました。
玄関に行く途中で日本庭園が見え、僕のテンションが上がります。玄関が見えてくると、スタッフさんが玄関前で手を上げています。途中で庭掃除してる年配のスタッフさんが、「おはようございます」と頭を下げられています。「おもてなし」が素晴らしい感じです。荷物を降ろし、お嫁さんと家内はそれを持って、着付けに向かます。僕の着付けはまだなので、お庭を激写しに行きます。長男は遼くんと一緒に駐車場へ。
武家門まで戻り、写真を撮ります。チャペルもあったのでパチリ。日本庭園に入っていき、あっちこっち激写。周りにはビルが見えますが、ここは都会の別天地のように広い庭園が残り、東京ドームが少し小さくなった程度の敷地があるようです。錦鯉が泳ぐ池に向かってゆるやかに下り、池の畔の東屋もいい感じです。お庭にも日本家屋が数棟建っています。
満足して本館に玄関から入ると、レストランスペースやロビーが、ホテルのそれよりゆったりした感じで、とても気持ちが良い。ここは結婚式場なので、スタッフさんが「おめでとうございます」と皆さん声を掛けてくれます。あちこち激写し、着付けの方に向かいます。最初は「和装せよ」と次男に言われていましたが、和装の新郎新婦を目立たせるために、「タキシードにせよ」と変更方針になっています。八芳園から来たタイムスケジュールは家内が持ってるので、僕は何時に着付けに行ったらいいか忘れちゃいました。男性タキシードは、8:30からだそうです。
時間がわかったので、ロビーで待とうかなとテーブルと椅子がゆったり並ぶ方を見ると、新婦のお父さんが座っておられました。どうやら写真を写しながらウロウロしてる僕を先に見つけておられたようで、僕が近づくとサッと立たれました。「おはようございます。奥様は着付けですか?」。お庭散策したことを話し、「一緒に観に行きませんか」と誘いお庭に出ます。12月なので寒いですが、雲一つない快晴で風も弱く、最高の天気に恵まれました。長男の結婚式が台風の日だったのとは大違いです。
庭を一巡し、ロビーに戻り、僕が作った次男のヨット人生写真集ファイルを披露します。ヨットというものを知らない方が多く、ヨットというとオールを漕ぐ真似をされることも多いです。新婦のご家族は当然ヨットをご存知ですが、参列くださるご親戚や、会社の方に紹介したくて作りました。僕が撮りためた次男の勇姿を厳選し、ジュニアヨットクラブのホームページ担当時代に載せ、加筆していった次男のヨット軌跡(ヨット試乗会〜ヨットクラブ入部〜初レース〜ジュニア卒業、高校ヨット部〜大学ヨット部〜卒業後)をプリントアウトしてきました。
新婦のお父さんのお兄さんも来られたので、披露します。2部作ったので、披露宴で主賓席から回覧してもらい、1部は新婦さんご実家、もう1部は次男夫婦にプレゼントしますと伝えました。
時間になったので、着付けに行きました。長男のお嫁さんご実家同様、温和な方なので、息子たちも良い方と巡り会いました。子供の性格も行動も、育った環境に大きく影響されます。
着付けロビーに降りると、長男と遼くんがいました。用意されたタキシードと、長男の結婚式で購入したタキシード用ワイシャツ小物一式を持ってきたので、スタッフさんに手伝ってもらい「孫にも衣装」の出来上がりです。
遼くんが変身した僕を見て、目を丸くしています。遼くんも三つ揃えのスーツとお父さんとお揃いの蝶ネクタイがかっこ良く決まっています。ロビーに上がり、クロークで親族控室の利用開始時間と場所を聞きます。ロビーで集まっておられた新婦側親族さんに挨拶します。次男が、「いい人ばかりだよ」と言っていたとおり、笑顔がとても良いです。お父さんの実家は浅草で、親族の仲が良く、ご実家に毎年正月に全員集合し、ワイワイ騒ぐそうです。お母さんの実家である川口で、お母さんご実家が持っている土地に自宅を建てて住んでいます。半分マスオさん状態で、おばあさんも週一ぐらい家にやってくるそうで、両家とも満足しうまく回っています。次男のお嫁さんも姉妹の長女なので、同じ状態になればいいのにな?と思っていると思います。
家内の実家も、女の子2人姉妹で、姉が実家近くに次男である旦那さんと住み、実家の金銭的協力で近くで開業しています。実家は住む人がなく駐車場になっていますが、その管理も義理兄がやってくれています。日本では、家の存続がお墓のお守りとともにとても重要視されています。親戚は、とてもとても大事です。再び着付けに下りると、家内と長男のお嫁さん、家内の姉とその長男のお嫁さんの着付けが終わりました。
少し早いけど、我が家は親族控室に上がってみます。4Fの控室前に行くと、「どうぞ、入れますよ」と係の方に誘導されお部屋へ。新郎側・新婦側控室が一緒です。一応、左右にそれぞれの控え場所としてソファーが並んでいます。
新婦側のも来られ、再び挨拶。弟一家がやってきたので、紹介して新婦側に挨拶。義理兄と甥がやってきたのでまた挨拶。新婦側の方たちの雰囲気が柔らかく、唯一のチビさん・遼くんが場を和ませいい感じです。
トイレに行こうと部屋を出ると、披露宴受付をしてくれる会社の人が2名が控えてくれていました。1人は琵琶湖で次男のライバル校だった大学でヨットをやっていた子です。数年前、2人で組んで全日本予選に参加し、見事予選突破しました。高校ヨット部の先輩後輩の関係でもあり、会社でも一緒ということで、良い意味で死ぬまでの腐れ縁になりそうです。
控室フロアに、新郎新婦控え室もあるようです。支度が成った2人が写真撮影していました。弟・長男もそれに気づいて写真を撮りに来ます。親族控室に2人がやってきて、次男が挨拶。挨拶の第一声を発しようとしたタイミングで、遼くんから「結婚おめでとう」と大声が部屋に。みんな大笑いで、次男は「ありがとう」と笑い、挨拶を始めました。遼くんのこの絶妙のタイミングは、遺伝なのか天性なのか、素晴らしい。大学ヨット部のキャプテンとして、創部70周年記念クルージングで、大学学長からヨット部OB・現役1回生部員まで、総勢300人ほどの前で挨拶した時も立派でしたが、堂々としています。
この部屋でも撮影大会になりました。主役のお嫁さんは白無垢で綿帽子を被っています。遼くんが、「ゆかちゃん、何か帽子被ってる」とみんなを笑わせます。「こいつ、できるやつや。末恐ろしいぞ」。花婿花嫁に1日付き合ってくれるベテラン女性スタッフさんや、カメラスタッフさん・ビデオスタッフさんが、僕らに挨拶に来られます。こちらこそ、よろしくお願いします。男性鼻や目に主役2人は、掛かりの方から、神前式の作法を教授されます。僕と新婦のお父さんも呼ばれ、榊の受け取り方などを伝授されます。
親族が2列に並んで、式場に向かいます。少し遅れ、新郎新婦とその両親である僕らも2列渋滞になり、式場に向かいます。神前式場は、同じフロアです。式場の扉が開かれ、新郎新婦先頭に両親が後に続き、両側に座っている大勢の参列者の間を神前に向かいます。神前式なので、親族のみでの式かな?と思っていたのですが、キリスト教式と同じスタイルです。キリスト教式では、バージンロードを新郎の待つ祭壇前に向かって、新婦をエスコートした新婦のお父さんが歩きますが、そこを両親も歩きます。
神前の一段高い所に、新郎新婦を中心に、両親は左右に別れて座ります。雅楽の生演奏が、雰囲気を盛り上げます。神主さんが、「出雲式の結婚の儀を行うと宣言します」。全員が起立し頭を垂れ、神主さんが穢を払います。続いて祝詞を上げ、三三九度の固めの盃です。巫女さん2名が新郎新婦交互にお神酒を注ぎ、それに口をつけます。巫女さんから玉串の榊を受け取った新郎新婦が、神棚の前に用意された机に作法に則って載せます。
続いて僕の番です。新郎・新婦の父親が巫女さんから玉串・榊を受け取り、神前に進みます。時計回しで玉串を回し、根本を神棚に向けて机の上に置きます。2歩下がって、2礼2拍手1礼の作法です。その後、お互い内向きにターンし、席に戻ります。拍手する時、大きく手を動かし、参列者に見えるように拍手します。後ろで僕らの動きに合わせて、拍手を合わせているようで、大きな拍手が2回。神主さんが、「結婚の儀を終えたことを宣言します」。この行事中は、写真ビデオ禁止だそうです。七五三や厄払いで経験がありますが、結婚の儀は初めてだったので、いい経験をしました。
また新郎新婦の後ろに両親が並んで式場を出ます。エレベーターでロビーに降り、玄関から外に出ます。スタッフが拍手をしてくれます。他の方からもパチパチ。ゆっくり歩みながら、「上天気ですね」「風も弱くていいわ」など軽いおしゃべり。日本庭園に入り、ここでプロが写真を撮ります。
ここで、朱の大きな傘を持ったスタッフが、新郎新婦の父親の間に入り、朱の傘が開き花嫁行列が始まります。池に向かって石段を下り出すと、参列者さん達が本館から直接お庭に出られており、ドリンクサービスを受けているのが見えます。私達に向かってカメラが向けられます。
池を見下ろす広いところで、全員写真撮影タイムです。新郎新婦を中心に、息子の横に私・家内という風に指示され、カメラ担当の方が笑わせながら写真を撮っていきます。一番チビさんは、息子と大学ヨット部同期のカップルの子ですが、流石に女の子むずがることもなくいい子です。問題は・・・思っていたうちの遼くんもVサインして、今日はごきげんです。カメラ横に構えた女性スタッフが持つ妖怪ウォッチに向かってなにか叫んでいます。
披露宴は本館ではなく、離れの建物です。全員でそちらに移動し、その建物に付属する中庭で次の写真タイムになりました。写真スタッフが脚立を用意しており、斜め上からの俯瞰写真です。はやりの言葉で言えば、ドローン写真。メインの池のあるお庭と生け垣で遮断されているので、プライベート感があります。八芳園で最も良い披露宴会場かもしれません。
次は各グループで、新郎新婦を囲んでプロが写真を撮ってくれます。僕や長男は、その風景をパチリ。弟夫婦に、写真をいっぱいプレゼントするのでしょう。いや〜白無垢の綿帽子の下のヘアスタイルが気になる。
ここで社長さん発見。会社からの社員家族向けビデオレターやDVDでお馴染みのお顔です。この会社は、社員をとても大切にしています。グアムマラソンに毎年参加し、息子も入社2〜3年目に参加し、すでに2回も参加しています。社長さん自身がランナーで、選手として参加したり、現地応援に回ったりして、会社ぐるみで楽しんでいます。芸術系のイベントを地元で開催し、スタッフを社員が務め、お金だけだしてプロに任せるのではなく、素人ながら手作りで地域へ貢献することをしています。早稲田ラグビー監督さんがいたり、ユニークな会社です。親からも、この会社の姿が見えており、長男のとこのように一部上場企業ではありませんが、好感が持てる会社です。次男にとても合っています。挨拶に伺うと、想像通りとても気さくな方でした。社員からも人気のようで、若い参列者とワイワイやっていました。
披露宴会場に入ると、ここは1日1組のみのようです。前室にフォトギャラリーのように、次男夫婦が選んだ自分たちのお気に入り写真が飾られています。家内が「お父さん、見て」と喜んでいます。ウェルカムボードは、今まで仲間や長男の結婚式で次男が作ったアイデアたっぷりの作品ではなく、落ち着いたものでした。式場の定番に乗ったのかな?
2人の関係が急速に近づいた年1回の会社のお祭りの写真もありました。東京ディズニーランドで開催されたので、運営の中心で司会もした次男と司会アシスタントの新婦さんを中心に、運営スタッフ全員の集合写真です。タンクトップ・茶髪の次男が写る大学ヨット部の写真の前で、「え〜茶髪〜、想像できない〜」と女子社員さんたちが笑っています。1年前に2人でこっちにやってきた時に、僕らの自転車を貸して猪名川土手を走ってる写真もあります。これは僕が撮りました。新婦さんの大学テニス部での旅行写真は、別嬪さんばかりです。
披露宴会場に入り、やっつけ仕事で作ったお手製の名札を首に下げます。サイズはA4の1/4。『新郎の父・名前』が書かれた目立つ蛍光イエローの名札です。僕が作った「次男のヨット記録写真&ホームページに公開している次男のヨット軌跡ファイル」を持ち、新郎側・新婦側の最前列テーブルに置きに行きます。予想通り、「お父さん、その名札はなんですか?」っと皆さんに大笑いされます。「大阪の人間なんで、受けてなんぼですわ」。回覧後、順次後ろのテーブルに回してもらうよう伝えます。「私は超親ばかなので、アホらしいと思うでしょうが、我慢して見てやってください」。アホな親やと少しでも社内で話題になれば、次男のプラスになるでしょう。
ヨットレースでチームを組んでる先輩が、お嬢さんの結婚式で、バージンロードを歩く時、夜店で売ってるピカピカを光らせながら歩いたことに対抗しなきゃと思い作りました。タキシードぐらいじゃ、参列者に埋もれちゃいます。
席に着くと、横の家内から「お父さん、これ見て。参列者全員に、一言メッセージだって。感動するよ」。すでに涙が頬を伝っています。『お父さん 今まで育ててくれてありがとう。お父さんが何も反対せず、ただ100%応援する姿勢を貫いて育ててくれたおかげで、本当に自由に伸び伸びと、ここまでやって来ることが出来ました。生まれてくる子供にも、お父さんと同じように接して、由佳ちゃんと幸せな家庭を築いていきたいと思います』。『お母さん 今まで育ててくれてありがとう。綺麗で優しくて、本当に自慢のお母さんです。相変わらず、あさが弱い僕ですが、今は由佳ちゃんに根気よく起こしてもらってます。お母さんが僕にしてくれたように、愛情を持って子供に接し、温かい家庭を由佳ちゃんと一緒に作っていきます』。ぐ〜、泣けてくる。
流石に次男が司会をすることはなく、プロ司会者を頼んだようです。その司会により披露宴が始まります。僕の正面が長男のお嫁さんで、首がスラリと伸び和服が似合います。イタリアーノだから、着付けから出てきた時にそれを言っちゃったけど、ホンマに別嬪さんです。八芳園の紹介があり、敷地15000平方メートルで東京ドームを少し小さくしたぐらいだそうです。都内有数の日本庭園だそうです。午後2時過ぎのお開き予定だそうです。3時間です。続いてスタッフがずらりと並び、頭を下げられました。僕ら夫婦には、専属スタッフが1人付き、参列者挨拶のことや私のお礼の挨拶時間を尋ねました。スタッフの人数やサポート力を考えると、都心の一流ホテルとほぼ同じ100人・500万の一般的な予算はお安いように思う。何と言ってもこの旧藩邸という歴史と日本庭園のお庭は、ライバルが殆ど無く、離れ家でのガーデンウェディング要素を加えると、かなり高得点です。次男が一発で気に入ったのもうなずけます。
新郎新婦入場です。和風の音楽に乗って、プライベートの庭側のスクリーンが上がり、そこにある縁側に敷かれた緋毛氈の上を次男を前にゆっくり歩いて来ます。新婦さんは、黒のお引き振袖にお色直ししています。艶やかだわ〜。司会者が上手に盛り上げます。振り袖は、お母さんの見立てだそうです。式場との打ち合わせに、うちは遠いから行けませんでしたが、お母さんと妹さんが時々参加してくれたと言っていました。いずれ妹さんの結婚式もあるので、情報を仕入れておかないとね。
僕らの席は一番後ろです。その後ろにステージがあり、スクリーンが適宜下がります。そのスクリーンには、正面からの映像です。ふと横を見ると、家内が目頭を抑えています。その姿が美しく、僕のビデオはここから家内の表情を映していました。腰を低くして、家内の顔の向こうにスクリーンの2人を入れてみました。新婦の由佳ちゃんが、家内と対照的に笑顔です。「ただいま高砂にお揃いです。なお一層大きな拍手でお迎えください」。
主賓挨拶は、もちろん社長さんです。歯切れのよい言葉で、ゆっくりと聞き取りやすい言葉です。社員から人気が出るのも当たり前です。特に女子社員には人気でしょう。『会社の命は社員です。・・・そんな2人は、噂ではありますが、家庭でも仕事のことで議論しているそうです。未来のリーダーは気合が入っており頼もしい。申し訳ないような、でも嬉しいような、そんな気持ちでいっぱいです。2人は私にとってかけがえのない宝物です。ですから、お二人の末永いお幸せを心よりご祈念申し上げております。本日は本当におめでとうございます』。なんと次男を「次世代のプリンス」と表現してくれました。長男が涙を拭いています。続いて常務さんの挨拶。社内恋愛なので、新郎側も新婦側もありません。
司会者が高砂の席に向かい、インタビューが始まりました。次男にあれやこれや。『口が好きで・・・笑うと口がハート型になるとこ。声も綺麗で・・・』。新婦さんにもあれやこれや。『年齢より若く見え、可愛らしい』「どこか愛之助様にも似ている感じがしますよね」。『一緒に住むことが決まり、家具などを選ぶ時、いいなと思う物が一緒で、気に入って使っています・・・』「お気に入りポイントが同じ・・・つまり価値観がご一緒だったことが・・・」。「ところで新郎、プロポーズがとても素敵だったと小耳に挟んだのですが、詳しくお話願えますか?」『これも船で、クリスマスにディナークルーズに誘いまして、ディナー後に白いタキシードに着替えまして、見知らぬお客さんに見守られながら』「つまり公開プロポーズをされた。ちなみにお言葉は?」『僕と結婚して下さい』「そのような素敵なシチュエーションでプロポーズされたら・・・新婦様は即OKされたのですか?それても一度社に持ち帰って社長決済を・・・」社長「一旦保留いたしまして・・・」『その時はすごくびっくりしたんですけど嬉しかったので・・・』「社長、本当に保留したのですか?」・・・なんて。我が子のことだから聞けるけど、張り倒したくなる方もいるでしょう。
新婦さんのご指名で妹さんがエスコートして、お色直しに行きます。社長さん・常務さん・今までの次男の上司さんがいるテーブルを、新婦さんご両親とともに挨拶に回ります。僕ら専属スタッフが、ビールを持って影武者のように。僕としては、ビールがなくなればアドリブを利かせて夫婦だけで回りたいんだけどな。まず最初に名札で受けているので、皆さん笑いながらいろいろ話してくれます。社長さんは実に感じが良いです。
挨拶回りでは、強力な隠し玉を持っています。前日に庭で収穫した柚子です。2個を袋に入れ、お配りします。「うちの庭の柚子なんです」。その後、合間合間で、新婦さんご両親とは別々に各テーブルを回ります。やはり名札が受けます。こういう場所では「あほ」が必要ですし、次男を際立たせます。ジュニアヨット・高校ヨット・大学ヨット仲間が、20名ほどいますが、「コーチどうしましたん?」って笑ってくれます。
続いて新郎のお色直し退場です。ここで指名されたのが家内。長男の時も家内が指名されましたが、母親が無難だよね。「実は事前に息子様に「どんなお母さんですか?」と尋ねたところ、「美人で自慢の母です」とのことでした。予想以上にお綺麗なお母様で・・・」。そやろそやろ、どうや子供に母親は選べないぞ、ここは美人の母親をゲットしてきた俺に感謝せえよ。新郎も家内も涙が伝わっています。感動屋で泣き虫の次男が、この日初めて涙を見せたんじゃないかな。「息子さんの今日のお姿を見ていかがですか?」「頼もしいです。よろしくお願いいたします」「久しぶりのことでしょう。ご一緒に手を繋いで・・・」。家内の満面の笑顔を見送っていると、スタッフさんが迎えに来て、「お写真を撮りますので」。息子を挟んで、3人で記念写真です。
主役2人がいなくなったので、スクリーンに次男が作った2人の紹介ビデオが流れます。まずは今年の東京マラソンを走る次男の映像から。長男が撮ったものか、新婦とお母さんが電車に乗って応援追っかけしてくれたので、お母さんが撮ってくれたものかです。写真1枚目は、僕が一番お気に入りの3才の長男が生後1ヶ月ぐらいの生まれたての次男を抱っこしてる写真です。「小学3年生ヨットとの出会い」と書かれた写真は、初レース出艇時、僕が海に入り、次男が乗ったレース艇を掴み、いざ行かんという場面です。家内が撮ってくれました。
新婦ゆかちゃんのストーリーは、去年家内・次男と一緒に乗ったうちのヨットをステアリングしているムービーから。僕が撮ったもの。お祭りの法被姿やマラソンでトップを走る姿、テニスの埼玉県代表で全国大会に臨んだ行進姿。アワーストーリーには、親しくなるきっかけになった会社のディズニーランド全国大会の司会台本の写真、「・・さん、今日の台本です、司会を楽しみましょう。・・」よくこんなの残していたな。ディズニーに囲まれ、ご機嫌ピースです。自分の誕生日を自らプロデュースし、ギターを弾いている次男も。設計図を描いてる次男お姿が凛々しい。クリスマスクルージングでのプロポーズ写真は外せないな。プロポーズを終え、ラテンギターの中米のおっちゃんや、褐色の肌の美女に囲まれ祝福される2人。うちの船の船内でのツーショット、これも僕が撮ったぞ。新婦さんの実家の庭でくつろぐ次男。そしてなんと、長男・次男一家のサプライズ還暦祝いでの家族の集合写真。僕ら夫婦が中心だ。
黒のタキシードの次男が、遼くんを抱っこして登場です。遼くんは、紙吹雪を投げます。なくなればサポートスタッフが籠を出して、遼くんがそこから紙吹雪を掴んでポイ。遼くんに大役があると長男の嫁さんが言ってたのはこれだね。大役を終え、遼くんがママのとこに戻り、たくさん褒められています。
いつの間にかステージの幕が下りています。MISIA・Everythingをバックにゆっくり幕が上がり、純白のウェディングドレス姿の新婦さんと、エスコートするお父さん。また遼くんがタイミングよく何か叫んだぞ、こういうのが得意な長男が横で指図しているように思えないのに、素晴らしいぞ。ステージから降りてくる2人を待つ新郎の次男。男同士の握手後、新婦さんが新郎の腕に。
大学ヨット部の先輩同輩後輩11人がステージに上がります。ヨット部部旗の旗手は、高校ヨット部同期。ヨット部次男の下の代のキャプテンがエールを切ります。鉢巻を巻き、本格的な学ランを着て、白手袋で応援団顔負けです。第3応援歌を斉唱。遼くんがステージの前に立ち、「気をつけ」をしている。自分もヨット部員の仲間入りをしているつもりなのか、素晴らしい。こういうのが気持ちが良い体育会系かもしれません。「・・さんの幸せなご結婚生活を期してフレーフレー・・」「シター」と次男が大声で応える。突然の「シター」にちょっとビックリしてる。「・・フレーフレー・・」「シター」の新婦さんの大声は、新郎に比べ大きな違いで、笑いが湧く。大成功だな。新郎が体育会出身者だとこれがあって、式が後半で引き締まる。
定番のウェディングケーキカットや、「ケーキ食べさせ」、キャンドルサービスを大胆にカットし、初めての演出が多数入りました。さすが、プロデュース力のある次男です。
そして最後・・・。高砂席の前に立つ2人。新婦さんからご両親に感謝の言葉。2人が、生まれた時の体重と同じ大きさのベアーぬいぐるみを持って、末座のステージ前に立つ僕ら親の方へ・・・そして両母親がそれを受け取る。
そして僕の新郎新婦親族を代表しての感謝のスピーチ。オリジナルの言葉も含め、まあこんなもんです。全てが終わってから、「お父さん、長いねん」といつものようにダメ出しをされましたが、最後に話したかったんだもん。トリは次男。とても上手なスピーチで締めくくりました。長男の結婚式でのトリの長男は、笑いを取りながらでしたが、次男はその性格が現れた素晴らしい言葉でした。
僕らが退出し、玄関に並びます。次男が入浴剤のお土産が入ったバスケットを持ち、新婦さんが参列者に手渡しします。すべてが終わり、プライベートお庭に、ウェディングドレスに純白のショートガウンを羽織った新婦さんを出ると、待ち構えていた女子が、囲み写真です。姪もお母さんと一緒に新婦さんを挟んでパシャリ。
すべてが終わりました。本館に戻り、衣装室で着替えます。受付で受け取ってくれたご祝儀を、披露宴では僕らと長男が交代で管理していました。これを次男たちに渡さないといけないのですが、本人達は二次会に向かうので、新婦のお父さんに預けました。車で30分の距離なので、頼りになります。
家内と長男嫁さんの着替えを待ちますが、時間がかかるので、弟一家は飛行機の時間があるので先に帰ります。僕らは義理姉・甥一家と帰ろうと思っていましたが、新幹線指定席なので先に帰られました。
お嫁さんが、和装のヘアスタイルから洋装のそれに髪型を変え、胸元に上品なクリスタルをあしらったワンピースドレスに着替えて出てきました。おしゃれだなあ。3年間という長期産休制度がある会社なので、すっかり主婦生活になっていますが、おしゃれ心を失わずいつまでも輝いていて欲しいな。3人でここで開催の二次会に向かうそうです。
用なしの僕らは、シャトルバスに乗って品川駅に向かいます。みどりの窓口で新幹線チケットを買い、ホームにやってきた「のぞみ」に乗ります。自由席は始発東京駅で大半埋まり、家内と並んで座ることは出来ませんでした。でも次の横浜駅で意外に下車するお客さんが多く、並び席を確保出来ました。
疲れて寝てしまうかなと思っていたのですが、楽しかったことが次々に思い出され、新大阪駅までずっと喋っていました。まあ、ゆっくり喋りだからね。新大阪駅で新快速に乗り換えます。数日前の大安に、会社の同僚さんからお祝いを頂き、そのお返しを買いに家内だけがJR尼崎駅で下車します。阪神百貨店のデパート共通券を買ってお返しです。こちらの親戚からのお祝いのお返しは、我が家が引き受けます。結婚式でご祝儀300万円という皮算用でも、−200万円です。これからいくらでも出費がある新婚さんなので、もう教育費も子供の食費も要らない僕らができるだけ協力しなきゃ。
20時過ぎにJR伊丹駅に到着し、バイクに荷物を積んで帰宅します。風呂あがりに、家内のヘアスタイルの解体作業を手伝いました。ピンがたくさん出てきて、手櫛をします。髪が楽になり、家内がホッとしています。素晴らしく楽しい週末でした。皆さん、ありがとう。

2015/12/13
文部科学省のスポーツ指導者講習の日です。前回同様、京都講習会場で受講します。JR京都駅南の「京都テルサ」で12:20からなので、午前中に時間があります。天気もいい感じなので、前回同様バイクで行くことにしました。もちろん亀岡回りです。寺社や史跡を探索しましょう。
いつものように4時頃目覚めましたが、真っ暗なので時間つぶしします。夏前の夜明けの早い時期なら、もう夜明けなのにもったいない。6時頃用意開始。コミネ冬用プロテクタージャケット・パンツで防寒は完璧です。
「里山VTR250」を出して、6:52コンビニでおにぎり2個買い、7:09R176宝塚山本エネオスで給油、226km/7.8L=29.0km/L。北に向けて出発です。池田からR423で北上します。7時を回ったので、早朝のようにマイペースでは走れず、信号の少ない快適な道を、みなさんと並んで走ります。
豊能町役場を過ぎて、r109にチェンジします。田舎道をトコトコ走り、r43に乗り久しぶりの「清阪峠」。朝霧がまだ少し残っており、四輪車離合困難な峠道をゆっくり走ります。落ち葉が路上にたくさん落ちておりいい感じ。ブラインドカーブの連続なので、時々クラクションで自車の存在を明らかにしておきます。快走路のr46に出てのんびり走っていると、後ろに高速車が迫るので、左ウインカーを多用し抜いてもらいます。
r6にチェンジし、亀岡に下ります。朝霧がまだ薄く残っています。その影響か夜に雨でも降ったのか、路面に濡れている所が多い。R9との合流まで北上するのは遠回りなので、途中の適当な道を右折し、丘陵住宅地をR9に並行しながら東進します。「篠」付近でR9に合流。ここから東進し、京都市街地に向かいながら、山城国と丹波国の国境・「老ノ坂峠」旧道への分岐に注意を払います。R9・老ノ坂トンネル手前の大きなカーブを過ぎたところで、「ここかな?」という分岐を見つけましたが、イエローロインに加え、「右折禁止」と大きく書いてありました。仕方なく通過し、老ノ坂トンネルを抜けて、京都市側でUターンし、老ノ坂トンネル手前の京都側から事前下調べでわかっていた枝道に左折します。いい感じのくたびれた舗装路を軽く登ると、8:31T字路に突き当たりました。右折:老ノ坂峠亀岡方面、左折:首塚大明神・従是東山城国石標経由となっています。
数年前から来たかった「首塚大明神」はもうすぐです。「老ノ坂峠」は、山陰道が京都に入る口で、明智道秀が「敵は本能寺にあり」と全軍を奮い立たせる名台詞を叫んだところであり、足利尊氏が丹波勢を率いて京に攻め込み鎌倉幕府・六探題を攻め滅ぼした場所です。また源義経が福原の平家勢と対決すべく、搦手軍を率いて京を進発した場所でもあります。故事があふれています。
その更に古い平安時代の故事に、源氏武士団の祖・清和源氏の源頼光率いる四天王の大江山の鬼退治伝説があります。退治した鬼・酒天童子の首塚が、首塚大明神です。8:35、「首塚大明神」到着。霧に覆われ、いい雰囲気です。車が2台ほど停められるスペースが道脇にありますが、この道はすぐ先でチェーンで行けなくなっているので、路上駐車しても問題なさそうです。
霧に沈み、怪しさが増した鳥居をくぐります。石段を上がると、すぐに山道になりますが、すぐ上に鳥居と小さめの本殿が見えています。ワクワクしながら上がると、祠程度の本殿を覆屋が守っています。しっかりとお参りさせていただき、わが町の隣町・川西市・多田に発祥し本拠にした頼光に運があっただけだと慰めます。
『由緒 平安時代初期・800年頃、丹波国大江山に本拠を構えた「酒呑童子」が、京の都へ出て金銀財宝や婦女子をかどわかすなど、悪行の数々を行うので、人々の心に大きな不安を与えていた。天子(天皇)が、源頼光など四天王に、酒呑童子とその一族を征伐するよう命じられた。頼光などは大江山の千丈ヶ嶽に分け入り苦心の後、酒呑童子とその一族を征伐し、酒呑童子の首級を証拠に京の都に帰る途中、この老ノ坂で休憩したが、道端の「子安の地蔵尊」が「鬼の首ような不浄なものは天子様のおられる都へ持ち行くことはならん」と言われた。が、相模の国の足柄山で熊と相撲を取ったという力持ちの「坂田公時」が「証拠の品だから都に持っていく」と言って、酒呑童子の首を持ち上げようと力んだが、ここまで持って帰ってきた首が急に持ち上がらなくなった。そこで一行は、やむを得ずこの場所に首を埋めて、首塚を作ったと伝えられる。酒呑童子が源頼光に首を切られる時、「今までの罪を悔い、これからは首から上に病を持つ人々を助けたい」と言い残したと言われ、首塚大明神は首より上の病気に霊験あらたかである。 宗教法人・首塚大明神社務所』
本殿裏の木製の玉垣に囲まれた首塚にも手を合わせた。「従是東山城国」の石標もパチリ。バイクに乗り、先ほどの三叉路を「老ノ坂峠・亀岡方面」に下りました。京都縦貫高速道路とR9に挟まれた道になり、R9に合流しました。しかしこの合流も右折禁止だったので、一旦亀岡方面に合流し、Uターンしました。
また老ノ坂トンネルを京都市側に抜けて、高速道のICがある「沓掛」交差点を左折します。T字で旧山陰道に当たるので、左折し8:58、「大枝神社」着。ここらの地名は「大枝」なので、産主神社でしょう。その昔、豪族・大枝氏の本拠地で、大枝氏は、天穂日命の後裔・野見宿禰を先祖にする渡来系出雲族の氏族で、僕の母方の血筋・菅原氏と同祖である土師氏流れです。
奈良平城京から京都西山・長岡京に遷都し、その後水害により平安京に遷都した桓武天皇の母親がこの大枝氏出身なので、「大枝」という姓を与えました。母の実家がこの地にあったので、この地で桓武天皇は産まれ、幼少期を過ごしたのでしょう。
大枝氏の後裔の一部に「大江氏」を名乗る豪族が現れ、鎌倉幕府成立の時、源頼朝与力となり大活躍した大江広元は、大枝氏の血を引いています。日本全国の所領に広元の子孫が守護地頭として任地し、毛利元就に繋がる。明治維新以降脈々と続く長州閥の本流です。
『967年施行の「延喜式」には、神社名として「乙訓郡大井神社」と記載されている。現在の氏神は、「高美計神」である。この地の先住民である大枝氏の祭祀神と言われる。初めは聖徳太子の幼児の像が祀られていたことから「千児明神」よ称されていた。現在、稚児神社はこれより東方、大枝塚原町にある。境内には亨保8年(1723年)と記された石灯籠があり、江戸時代に栄えた様が伺える。明治6年(1873年)村社に公定され、現在沓掛町の氏神として親しまれている。境内地2433平方メートル』
祖を我が家と一つにしているので、「元気な男の子を2人お願い致します。お嫁さんたちの身体をお守りください。息子たち一家がニコニコ暮らせますように」とお願いした。毎朝晩、自宅の蛍光マリア様にお願いしている台詞です。10円のお賽銭では欲張りなお願いだろうか。摂社に、稲荷神社・八幡宮・天満宮が祀ってあった。本殿・脇本殿をコンクリート製の覆屋が守っているのですが、黒い鉄製の扉が付いており、頑丈そうな錠前がぶら下がってる。お賽銭の盗難や祠へのいたずら防止なんだろうけど、風情がない。ちょと残念でした。
境内には、榊がたくさん植えられていました。何処にでもあるような特徴の無い常緑の低木ですが、日本的な木でもありますね。境内の横は、立派な竹林でした。毎年春になると、乙訓郡のタケノコ掘りのニュースがTVを賑わすが、竹林を見ながらそれを思い出しました。
この神社の西隣りに、桓武天皇の母親のお墓があります。それを探しながらゆっくり西進しましたが、見つけられずにR9に合流してしまいました。西向き一方通行の道なのでUターンできず、またR9〜沓掛の同じ道で一周し、「ここらが怪しい、徒歩で探ろう」とバイクを停めたとこに、石碑がありました。
9:13、細い階段道を登ります。京都らしく橘がみかん色の実をつけています。「右近の橘、左近の桜」として日本を代表する木です。この橘は、桜と違い外来です。僕の先祖・野見宿禰を都に呼び寄せ、大抜擢して後の大江氏や菅原氏の隆盛の元を作った第11代・垂仁天皇が、田道間守に不老長寿の霊果探しを命じた。それを探し中国大陸に渡り、この橘を持ち帰ったがすでに垂仁天皇は崩御された後で、それを嘆き悲しみ田道間守は亡くなった。
この橘を日本で初めて植えたのが紀州和歌山県です。香りはとても良いが苦くて美味しくなかった橘が、長い年月掛けて改良されたのが、今の温州みかんです。みかん産地として愛媛県・静岡県と常にトップ争いをしている和歌山県のみかんの歴史は、ここに始まったのです。
たわわに成った橘を見ながら、美味しそうだけどなあ〜なんて思いました。大枝神社から続くのであろう竹林に上がってきて、更に石段を上ると天皇家定番の鳥居・玉垣一式の陵墓が見えてきました。どうやらこの竹林はヒヨドリのねぐらだったようで、ヒヨドリの鳴き声が姦しい。もう少し登って混生林になると、その他の野鳥も混じり、12月としては異例の野鳥の賑やな歓迎を受けました。
「光仁天皇・皇后・高野新笠大枝陵」。桓武天皇の父親・光仁天皇の皇后は、高野新笠という方だったのですね。確かこの方は出自身分が低いので正室ではなかったはずです。天智天皇(中大兄皇子)と藤原鎌足(中臣鎌足)がクーデターを起こして、豪族に権力が移っていたのを天皇親政の本来の姿に戻しましたが、その子と弟の天武天皇との争い(壬申の乱)に敗れて、天武天皇系がその後の天皇位相続するようになりました。47孝謙天皇・48称徳天皇として位に付いた女帝が色香に迷い僧・道鏡に天皇位を譲る寸前まで行ってしまい天智天皇系の49光仁天皇に戻った。
まだまだ混乱があったようで、皇太子された正室の子や母親が暗殺されたりして、50代桓武天皇に位がまわってきた経過があります。だからこの母親も、后から皇后に位が変わったはず。奈良・平城宮の仏教勢力の介入を避けるためもあり、母親の故郷である京都に遷都しました。これまた外来の豪族・秦氏の勢力下にあった京都盆地に移したのは、古来のしがらみを一度断ちたかったのかもしれません。そんなこんなを考えながら陵墓を見て、帰ろうと思って東を見ると、手前の低山の向こうに、京都市街地が見えていました。バイクに戻り、またR9まで旧山陰道西進し、再び沓掛から旧街道に戻り、T字路交差点から東は両方向通行可なので、東進します。
9:31、「児子神社」。大枝神社の謂れ板に書かれていたので訪問しました。『塚原宮田にあり、祭神は児子多国御魂神。聖徳太子の幼児の像が祀られてあるので児子神社と呼ばれている。一節には「茨田(うわた)神社跡」と言われる。大枝の地が宇波多と言われているところから来たと思われる。茨田神社とは河川工事に功績のあった茨田氏を奉祀した神社で、延喜式神名帳にかかげる「乙邦茨田神社」で、その所在地が明らかでないところからのものであろう。明治6年、村社に公定される』
ここもコンクリート覆屋&鉄の扉で風情がない。境内の楓が見事に色づいていた。ここの境内横にも竹林がありますが、いかにも畑という感じで、等間隔に竹が店に向かって伸び、その間の土は綺麗に下草が刈られています。たけのこ畑でしょう。
9:40、「三ノ宮神社」。参道を歩いていると、途中に、「宇波田陵道敷地」と書かれた石柱が立っていた。そこから枝道が伸びていた。境内中央の境内舞台には藁が積み上げられ水筒が置かれていた。正月を迎えるために、作業中なのかもしれません。瓦屋根の覆屋に「三ノ宮大明神」と下がっていた。
いずれかの天皇の三ノ宮を祀る神社と思い、謂れを読みたいと思っていたが、謂れ板がありませんでした。西を見ると石敷きの階段道が登っています。苔が覆いいい感じです。それを登って行くと、西に広がる竹畑を見下ろす感じになります。等間隔に並んだ竹の間の地面が藁で覆われています。さっきの藁は、これに使うようです。冬の寒さで竹の地下茎が傷まないようにする配慮かもしれません。地面が均等に藁色に渋い白色で、水はけを良くするためか適当に掘りが切られています。たけのこ栽培も奥が深そうです。
「淳和天皇・御母・贈皇太后宇波田陵」。53淳和天皇は、桓武天皇の子です。51平成天皇・52嵯峨天皇に続き、3人の皇子が天皇位についています。石柱に書かれた贈皇太后というのは誰かな?と思ったら、宮内庁名の謂れ板に「桓武天皇夫人・贈皇太后旅子・宇波田陵と書かれていたので、藤原旅子さんのようです。後日調べたら、息子の淳和天皇が天皇位につく前に亡くなっており、死後に皇太后の位を贈られたようです。本来の皇太后位は、皇后を経てなります。生前は后のままだったようです。藤原旅子って、僕でも知ってた名前の方だったのに、皇后でなかったんだとビックリ。
バイクに乗り、R9を越え、そのまま旧山陰道・r142を進みます。阪急桂駅南を渡り、「桂離宮」の南側へ。こちらは裏側のようなので北側に回ります。10:08、駐車場前。拝観するには事前申し込みが必要です。表門も拝観者門も閉まっていました。お庭外の紅葉しているカエデや、外堀の造作を激写しました。
離宮を一周回ろうとしたら、10:16「御霊神社」。『1117年、下桂御霊神社の祭神として勧請する。祭神:橘逸勢(はやなり)公。平安期の元勲で、優れた能書家で、嵯峨天皇・僧空海とともに三筆と称される。皇室の尊崇篤く、桂宮家より多くのご寄進を賜っている』
能舞台があった。現役のようで、いつでも上演できそう。「WANTED 2005年の例大祭に展示。行方不明のこの鎧の情報を求む!」と、写真入りで貼りだされていた。一度盗品にしてしまうと、公の美術品が古物商や一部のマニアを喜ばすだけになってしまう。実に残念。境内の片隅でご祈祷中であった。横に車があったので、その車の安全祈願かもしれない。
r142はそのまま八条通になり、西大路を北上し、七条通でJE山陰線・嵯峨野線高架下を抜けた。すぐ北に「JR丹波口」駅があり、ここら一体が花街「島原」です。何かめぼしい建物など無いかと細道に入るが、結局丹波口駅の北まで来ています。GPS地図に表示された「壬生寺」を目指していると、10:45、偶然「新選組・壬生屯所跡」に到着。新選組の「誠」ギザギザ模様が目を引きます。シンプルなのに後世に残るデザインは素晴らしい。
新選組屯所は、少し東の西山本願寺の隅でも目にしています。謂れを読むと、襲撃を恐れ、数ヶ所移ったとかかれていました。ここは、壬生村郷士・前川荘司旧邸で、一番長く使ったそうです。旧邸内部は、お住まいされているそうで非公開です。新選組グッズが販売されていました。朱印帳入れが欲しいなと思ったけど、我が家と関わりのある武田菱・梅八・五七桐紋のいずれもありませんでした。
町家内の細道を七条の方に南下していると、偶然「島原西門跡」を見つけました。横には、「島原住吉神社」がありました。巴紋でした。その細道を南下すると、「東鴻臚館跡」。横の建物には、「重要文化財・角屋、江戸時代1641年建立」と書かれていました。バイクを置いて散策開始。内部は「角屋おもてなしの文化美術館」のようです。
『角屋は、江戸時代に繁栄した旧花街・島原を代表する揚屋(現在の料亭)で、明治時代にお茶屋業に編入された後も、昭和60年(1985年)まで営業が続けられた。島原は、わが国初の官許の花街で、当初は二条柳馬場に開かれ、その後六条三筋町に移転し、更に寛永18年(1641年)にこの地に移された。正式な地名は西新屋敷というが、急な移転騒動が、当時九州に起こった島原の乱に似ていたことから、「島原」と呼ばれるようになった。島原には、揚屋と置屋があり、揚屋は太夫・芸妓など一切抱えず、置屋から呼んで宴会を催す場であった。角屋の建物は、揚屋建築唯一の遺構として昭和27年(1952年)に重要文化財に指定される。また円山応挙・与謝蕪村など、一流画人の作品を多く蔵している。江戸中期に俳壇が形成されると文化サロンとしての役割を担い、幕末には西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤皇の志士たちが、軍用金調達のために豪商を招いて会議を行い、彼らを探し求めた新選組が乱舞した場所でもある』
「長州藩志士・久坂玄瑞の密議の角屋」の石碑が立っていた。「新選組刀傷の角屋」の石碑も立っている。土方歳三の刀傷が柱に残っているかも・・・
11:01、歴史探索を終了し、講習会場に向かうことにした。堀川通に出て南下、JR東海道線をくぐり、九条通を東進し、11:30に「京都テルサ」着。

講習会場に上がりましたが、12:00〜12:20受付でまだ扉も開いていません。バイク装束を脱ぎ、ロビーに座り、おにぎりで昼食。12:00になり会場が開き、受付を済ませる。京都府体育協会・1000円。
スポンサーの大塚製薬京都支店社員さんから、スポーツと栄養補給・水分補給・熱中症対策のお話が30分。続いて「心を育てるコミュニケーション術」として、トレーナーズスクエアKK・代表取締役社長・岩崎由純さんの講演。日体大からアメリカ・シラキューズ大大学院修士を経て、ナイキ・トレーナーとしてロサンゼルスオリンピックに参加。アメリカンフットボール・フィラデルフィア・イーグルスに所属し、バロセロナオリンピック・バレーボール日本チーム・トレーナー、NECバレーボールチーム・レッドロケッツ所属という経歴をお持ちの方です。
「PEP TALK」という耳慣れないトークの紹介がありました。PEPは略ではなく「愉快にする。人を前向きにする」という意味を持つ単語で、試合直前のロッカールームなどで選手を鼓舞するコーチのブリーフィングトークのことでした。「愉」の字は、心+人+前の合わさた文字で、「人の心を前向きにする」という意味。ジュニアヨットや大学ヨット部のコーチとして、僕も毎回やっています。日本の大学アメリカンフットボールチームや、映画にもなったアメリカバスケットボールチームのトークの紹介があり、その真髄と使うべき言葉と使うべきでない言葉が紹介された。
PEPトークは、1分半〜2分が理想。「負ける」がイメージされる「負けるな」も「負けない」も禁止用語で、プラシ思考の言葉に置き換える。プラス思考の言葉でも、今までできなかったことを使わない。「してほしいこと」「成功をイメージする言葉」を使う。選手を信頼し、期待して指導する(ピグマリオン効果)と良い結果を得やすい。
毎日の練習時には、改善点・良くなる点を混じえたモチベーショントークを使い、試合直前に前向きな背中を一押するペップトーク、試合後は良かった点・悪かった点両方話すポストコンペティショントークを使う。
「聞く」より「聴く」ようにしよう。「聴」は、耳+目+心で、眼と心で聞こう。
一流選手は、セルフペップトークを使っている。羽生結弦さんは、ソチ・オリンピックの滑走前に、「OK、さあ楽しもう」と口に出して滑り始めた。
『今までの人生は、今まで吐いてきた言葉で出来ている。これからの人生は、今から吐く言葉で出来ていく』
スポーツ医学の先進国・アメリカはじめ日本でも多くのPEPトークに接し、選手とともに涙を流して試合に臨んだ経験のある先生が、とっておきのご自身が体験なさったスポーツでの感動を披露された。
ロサンゼルス・オリンピックの時、ナイキのニューヨークで働いていた縁で、トレーナーとしてオリンピックに派遣された。マッサージにやってくる常連の陸上選手がいた。レースの2日前に悲しそうな顔でやってきた。「試合用に新しく下ろした靴が合わず、靴ずれを起こしてしまった」と痛々しい患部を見せられた。靴の交換をしようとしたら、お気に入りがナイキジャパン製のもので、アメリカ本社には在庫がなかった。
岩崎さんは、ナイキジャパンに至急送ってもらうように電話した。それを受けたナイキジャパンの副社長は女性秘書に、「この靴を持って今すぐ成田に走れ。誰でもいいからロスアンゼルスに飛ぶお客さんに、靴を託せ」と。女性秘書はJALキャビンアテンダントに事情を話し託そうとしたが、「空港関係者は、他人の荷物を運ぶことが出来ない」という規定に抵触し断られた。がっかりしていると、それを聞いていたチーフパーサーが、「匿名を条件に」と受け取った。
翌日、その陸上選手に岩崎さんは靴を届けることが出来た。しかしその使用にナイキ本社からクレームが付いた。白い靴でどこのメーカーの靴かわからないから。紛糾する中、選手本人が立ち、「僕のために、遠い日本から多くの人が骨折ってこの靴を届けてくれた。その方々に感謝の気持ちを持って走りたい」と。ナイキ本社の役員が立ち上がり、「いいじゃないか」。
レース当日、岩崎さんはご苦労様として男子マラソンのメイン会場の座席チケットをプレゼントされた。この大会の優勝候補は瀬古利彦。他に宗兄弟が参加しており、日本チームでメダル独占するとの噂さえ立っていた。岩崎さんが見守るメイン競技場に最初に、最初に姿を見せたのはその彼だった。ポルトガル代表・カルロス・ロペス。
2位を離したロペスが走る横ではスタンディングオベーションが起こり、ロペスとともにスタンディングの波が進んでいく。フィニッシュした瞬間、岩崎さんは涙で前が見えなくなっていた。横にいた同僚が、「岩崎、ウルトラビジョンを見てみろ」と言う。フィニッシュ後、トラックの外側の芝生をウイニングランをするロペス選手の姿が映しだされていた。でも裸足で。あの靴を両手に持ち、満面の笑みで走っていたのだ。
この話には、泣けてしまった。本人の口からこのようなエピソードを聞くことが出来、とてもラッキーだった。「みなさん、最高のペップトークは、「ありがとう」です」。感動のPEP TALK講演・2時間だった。
多分僕も、理論は知らないなりにペップトークを実践している方だと思う。コーチングする時は、ミーテングやブリーフィングを数回しているが、選手やマネージャーが目を輝かせ、スイッチが入る瞬間を感じる時がある。コーチ稼業の快感の瞬間だ。マイナス言葉を使わないようプラス言葉に置き換えて口にするように心がけている。
僕は大学卒業後、ジュニアのコーチを経験したことが良い勉強になった。子供は素直なので、表情に心が現れる。そして行動に出る。反対にアドバイスのつもりの言葉がモチベーションを下げてしまい、パフォーマンスが極端に落ちることもある。非常に厳しいコーチ泣かせのお客さんが子供だ。ここで鍛えられ、我が子が言葉のわかる年齢に成長してきたので、同じ手法で我が子と相対するようにしたら、とても子育てが楽だった。勝手に頑張るので、何も心配しなかった。息子2人なので、悪さは山のようにしたが、マイナス言葉である叱ることなく、相手様に私が謝りに行き、そんな時でもプラス言葉で我が子に接した。親の謝る姿を見て、「ゴメンな」と言う。我ながら素晴らしい親子関係で、これまで来たし、これからもそうだと思う。
続く2時間は、「子供・選手の力を伸ばす指導方法」と題して、同志社大学教授の方の講演。「運動と集中力」との関係を、実例をあげながら話された。5時間授業の教室で、集中力を比較計測した。休み時間も教室にいておとなしくしているグループは、1〜3〜5時間目と右下がりで集中力が落ちた。教室から出ないが軽い運動をしたグループは、ゆるやかに集中力が落ちる。休み時間に運動場に出て運動するグループは集中力が落ちず、むしろ向上していった。
運動には、体温調節能力の向上、学習能力の向上があり、運動しながら学習する方がより学習効果が上がるという結果が出た。今は学級崩壊というが、将来はみんな教室を歩きながら学習する時代が来るかもしれない。歌いながら暗記するなど、「ながら学習」の学習効果向上も知られている。雑誌「プレジデント」でも、「数年後は歩きながら会議をしているだろう」と予想している。
17:20に講習が終わり、バイク装束を着て、R9〜亀岡〜R372〜R423〜池田というルートで、19時過ぎに帰宅した。R423の亀岡盆地からのつづら折れヘアピンカーブが真っ暗で、バイクの単眼ライトでは照射幅が狭く、後続車に迷惑を掛けてしまった。やはりr6〜r733〜R423ルートの方が良かったな。

2015/12/6
コーチしてる大学ヨット部の卒業生クルージングの日です。卒業生たちを招待し、卒業後もヨットに親しんで欲しいと思い、毎年恒例行事にしています。9時に駅でピックアップし、10時出艇予定です。
4時に目が覚めゴソゴソし、クリスマスの季節にお似合いのラブストーリー映画がないかな?と調べました。「見てよかったランキング1位」の「レインツリーの国」という映画が、ハートウォーミング系で良さそう。原作を読み映画も観に行った「県庁おもてなし課」「阪急電車」と同じ原作者・有川浩さんの作品です。5時に家内が台所に入り食事・炊事・洗濯を始めたのでおじゃま虫しに行きます。家内の予定を聞くと、お歳暮のあれこれのために大阪伊勢丹デパートに行き、昼ごろ帰宅するそうです。「じゃあ、映画に行かない?」「いいよ、何時?」「17:30、17時に帰ってくるから、一緒にバイクで行こう」で、約束成立。
8時前に、家内を乗せて駅まで送ります。そのままハーバーに行こうと思ったら、船のメンテ作業工具を忘れたのに気づき、一旦自宅に戻ってから再出発しました。R171を西進し、8:30にJR西宮駅北口到着。「司馬遼太郎・街道をゆく・8」を取り出し読み始めます。ゲストは4人ですが1人がトイレで途中下車したそうで、8:59に「ファミリーマートJR西宮駅北口店」で、「エビマヨ・120円」を昼食用に購入しました。
すぐに全員揃って、車でハーバーに向かいます。9:16、新西宮ヨットハーバー着。すぐに船に向かいます。桟橋でスイングが出艇作業中だったので、レースですか?と聞きました。ヘリーハンセンカップだそうです。そういえば、ドラゴンチームにも参戦のお誘いが来ていました。うちの艇は、参戦見合わせになっています。船に乗り、エンジン始動。トイレ確認。ロープを外して、9:45桟橋を離れます。
共同オーナーの先輩から仰せつかっていた作業の部品が見つかりません。クルージング中に作業しようと、ボンドやヤスリ・ノコなど工具を持って来たのに出来そうにありません。仕方ないので後日の宿題にしました。
東の風2〜3m/sほどです。セイルを揚げますが、ブローが切れるとエンジン始動で機帆走です。ヘルムスは学生に交代し、僕はおしゃべりするだけです。大阪湾に出て、神戸空港島と神戸を結ぶ神戸空港大橋の下を、11:17くぐります。神戸空港〜関西空港高速連絡船が走っています。11:36、神戸港に入ります。神戸港〜明石海峡大橋・帆走型観覧船が走っています。
11:57、大型クルージング船は横付けされていませんが、特徴的なデザインの神戸オリエンタルホテル沖。そこでUターンし、モザイク沖〜川崎重工業のある西海岸沿いに走ります。ドッグでは大型貨物船の建造中で、艦橋を脚組で覆われた潜水艦も入っていました。整備中なのかな?
12:44、神戸港を出ると西に明石海峡大橋が綺麗に見えていました。冬の澄んだ空気に入れ替わっているようです。また神戸空港大橋をくぐり、ヘリーハンセンカップレースを横目に、西宮尼崎港内に入りました。次男の後輩の兵庫ジュニアヨットクラブの子達が、OPで練習をしていました。レースを終えたレース艇が次々に帰ってきます。ドラゴンも数艇帰ってきて、先輩の艇とミートとしたので挨拶しました。
15:30桟橋着。片付け・デッキブラシで掃除をしていると、さっきミートしたこの船の共同オーナーの先輩がやってきました。あれやこれや。いつもならハーバーレストランでお茶して解散なのですが、1時間着艇が遅れたので、映画の時間を考えると余裕がなくなりました。
9:16〜16:05、新西宮ヨットハーバー駐車料金・800円。そのまま車に乗り、JR西宮まで送って行き、17時前に帰宅しました。
玄関を開けると、家内から「お帰り、ビッグニュースよ」って明るい声が返ってきました。「たーくん(次男)から電話があってね、妊娠検査薬に妊娠反応が出たんだって」。これは大変なビッグニュースです。まだお医者さんに行っていないようなので、妊娠反応が出た喜びを誰かに言いたくて実家に掛けてきたのでしょう。
ヨットの片付けと着替えをしながら、長男のお嫁さんが第2子を妊娠中で予定日が4月だから、予定通りなら同じ学年になるな・・・無事の誕生を願って蛍光マリア様に毎朝晩お祈りしているのですが、2人分お祈りしなきゃとか、ハッピーワードが飛び交います。
5時過ぎに通勤リード110に乗り、映画館に向かいます。チケットを買うために家内から映画カードをもらいます。5月にしてもらった還暦の祝いで、息子たち夫婦からプレゼントされました。残っていた300円を使い切ります。目的の映画の表示を見ると、「字幕版」と書かれています。内容を見ずに原作・有川浩だけを見てこの映画にしたのですが、英語版なのかな?違う映画と間違えたかな?なんて不安ながら2人分購入。
家内の所に戻る間に入館案内放送があり、そのままシアター内に入りました。この時間帯ならいつもお客さんがまばらなのに、意外に入りが良く1/5ぐらい埋まっています。僕らが座った劇場中央部の一列では、半分席が埋まっています。知らない名前の俳優が主人公なのに、びっくり。
日本語の映画でしたが、本編が始まってすぐに、何故日本語字幕スーパーが入っているのかわかりました。ヒロインが感音難聴の方だったからです。このヒロイン・「西内まりあ」さんが、とても綺麗な方で「当たりや!」と確信しました。
ヒーローはどうでもいいけど、ヒロインは美人が良いです。全く知らなかった方だけど、これからグイグイ人気が出そうです。モデル出身なのかもしれませんが、演技が自然で僕は見ないけど民放トレンディードラマなどを経験された方かもしれません。西内さんを観るだけに映画を見ても損はないです。アップにも素肌が堪え、知り合った時の家内のお肌のシミひとつ・ニキビ跡一つ無い人形さんのような決めの細かい美肌が想像されます。美声美人やお肌美人に僕は弱いです。綺麗なお肌の持ち主は、バランスの良い食生活・早寝早起きの励行が想像できます。大収穫でした。
流石に有川浩さんの原作だけあって、クリスマスに相応しいラブストーリーでした。本編が終わり、主題歌が流れます。エンドロールのクレジットタイトルを見ていると、主題歌を歌っているのが、Kis-My-Ft2という知らないグループです。明るくなり、家内に「ヒロインさんが綺麗だった」の感想を言うと、「ヒーローさんがジャニーズ事務所の方だということを教えてくれました。Kis-My-Ft2というグループに所属し、彼の人気目当てでお客さんが多いと思うよ」ということも教えてくれました。回りを見渡すと、お若い女の子の2人組がとても多い。お客さんの90%が女性客でした。改めてジャニーズ系の人気にビックリです。
ラブストーリーを観ると、家内がより好きになっちゃいます。劇中の手を握るシーンに、僕が初めて家内の手を握った時を思い出したりします。何度か昼食を食べた後、家内のゼミ友の家に行くのにおじゃま虫しました。ゼミ友さんのBFくんが僕の中高の同級生だったので、強引についていきました。並んで歩いていた時に前方の横断歩道の信号が点滅しだし、パッと家内の手を掴んで走りました。横断歩道を渡った後も離さなかったんだよね。
帰りも帰宅してからも、素敵だった映画と、次男からもたらされたビッグニュースの話題で盛り上がり、素晴らしい1日が終わりました。

2015/11/29
母の7回忌です。父はその2年前に他界し、僕ら夫婦の両親が亡くなってからこんなに日が過ぎました。今回は弟夫婦・娘と僕らだけ5人での法要です。長男は、会社で目を掛けている後輩の結婚式で来れません。次男夫婦は、3週間後に迫った彼らの結婚式に向けてその準備に余念がありません。弟の息子は受験生なので、そちらを頑張ってもらいましょう。
いつものように夜明け前に目覚め、あ〜だこ〜だ時間を潰し、隣の実家から母の遺影と位牌を持ってきます。8時過ぎにTVを見ながら朝食を食べ、そのままTVを見ていると、9時過ぎに「私は用事があるので、ちょっと早く行くね」と家内が言ってきました。「じゃあ送っていくよ」ということで特急で着替え、9:30に家を出ます。駅前で家内を降ろし、すぐ近くのお寺さん前の駐車場に車を入れます。遺影やお供えなどを車からおろし、本堂前に置きます。法要の始まる11時までまだ1時間以上あるので、ブラブラしていると副住職さんが普段着で出てこられました。「本堂に入っていてください」「はい、住職さんはどうですか?」と声をかけると、その後のご様子を教えてくれました。
母は物覚えが悪くなり、帰る家がわからなくなったりしたらどうしようかと家内と話していた時に亡くなりましたが、共通するところがありました。奥さんが健常な時と同じように接するので喧嘩になったりするが、娘さんである副住職さんの奥さんが接すると素直だとか。こういうところは、男の子より女の子だよなあ。本堂に入り、遺影や位牌などを並べていると、着替てきたた副住職さんが出てこられ、あれやこれやプライベートな話をします。僕の大学の後輩だと知りびっくり、先週のアメリカンフットボール部の敗戦の話が出ました。同級生にアメリカンの部員がいたそうで、関心がありました。
僕がヨット部であったことを知ると、親戚の子が伊丹ジュニアヨットクラブでヨットを知り、高槻中高でラグビーをやり、東大でまたヨット部に入ったと話してくれました。その子は僕がヨットを教えた子で、これまたびっくり。しかも高槻中高は長男の通った学校です。世間は、実に狭い。
家内がやってきて、弟家族もやってきて法要開始。11:30に法要が終わり、遺影や位牌・お供えを車に載せ、お墓を目指します。12:30頃、r13〜r12で霊園到着。冬なので雑草は伸びておらず、墓石を拭って、墓石前の置き石にお供えを並べ、線香をあげて墓参り終了。
r12〜r319〜r323で、予約していた峠茶屋に入りました。当初は、木器の「木器亭」を考えていましたが、電話するとこの日は仕出しが多くお店は営業しないということでこちらにしました。弟は、「山獲・やまどり」を知っていました。ネットで調べたのでしょう。相変わらずグルメです。でも、大病をしたので大食いはしなくなり、奥さんの管理のもと見た目で一目瞭然、体重を落としていました。清涼飲料水などもよく飲んでいたので、一安心です。
高校卒業まで無遅刻無欠席の完全皆勤賞だった弟なのに、僕のように病気ばっかりで1学期皆勤賞が目標だった僕より若い時に心筋梗塞で死にかけちゃいました。僕の暴飲暴食しない、酒たばこなし、早寝早起きを知っているので、「お兄ちゃんみたいに若い頃に大病した人の方が、結局長生きするんじゃないかな」なんて言っています。
14:30に解散し、弟一家は神戸に向かって行きました。僕らは「峠のわらび餅屋」か「虎亀」に向かいましたが、「時間があるから、お歳暮を買いに伊勢丹に行こうかな?」という家内の要望で合わせ、r68〜r33〜r325〜長尾山トンネルの定番コースで大阪平野に降り、「阪急山本駅」で家内を降ろし帰宅しました。
風呂に入り、ヨーグルトを食べ、さんまの出演してる番組を見ながら寝てしまいました。家内が帰宅し、TVの前でまた寝てしまい、起きたら「モヤモヤさま〜ず」になっていました。家内はこの番組が好きです。前の大江アナウンサーが好きだったのですが。
起きだして夕食を食べ、風呂に入り20時台に寝床に入りました。

2015/11/22
日曜日は、3人乗りヨットの全日本選手権だった。3日間レースの中日です。金曜日の昼休みに、セイルの計測などを終え、レース艇も下架しました。土曜日のレースはどうだったのかな?天気予報は、NEの風・3m/s、ちょっと物足りないな。吹く方に予報が外れるといいな。
朝4時に目覚め、しばらくゴソゴソし、用意をします。吹くと寒くなるので、最も暖かいヨット用カッパ上下と、ツバが風でめくれないようにモディファイしたヨット用ハット、サングラスは必須です。それにプラスし、めんどくさいけどパーティー用衣類。ドレスコードがジャケット&ネクタイなので、靴も含め防水バッグに入れます。
家内が作ってくれた朝食を食べて、7:15に家を出ました。車は面倒なので、通勤リード110にバイクカバーを積んで出発です。R171を快調に走り、8時前にハーバー着。1日中バイクを置いておくので、カバーを掛けます。
桟橋のレース艇に行き、並んでいる他艇を見ながらうちの艇へ。ライバル艇のクルーがパラパラ来られます。9:55スタートですが、防波堤の外がレース海面なので、早めに出なければなりません。
うちの艇のオーナー・S先輩が来られました。メインセイルをブームにセットし始めると、クルーのHさんも到着。ライバル艇に乗る母校ヨット部の先輩方も来られる。いつものレースの雰囲気になって来ました。土曜日はNE・5m/sで、8艇中2位・4位だったらしい。いつもの中位です。2レース目は第1・2マークをダントツで回ったのに、3レグ目のコースをミスり抜かれちゃったと、ワイワイライバル艇と笑いに花が咲く。
ライバル艇が次々に桟橋を離れ、僕らも桟橋を離れました。風は3m/sほどでレース海面までが遠い。関西ヨットクラブのレース運営艇が後続の船から次々に曳航してくれ、レース海面まで引っ張られました。30分ほど風待ちし、綺麗に全挺がスタートラインに並んでスタート。下3だった自艇はスピードに乗らず、櫛の歯が抜けるように横一線から後退します。タックして全挺のスターンをなめビリスタートになっちゃいました。スピードが出ていないのでチューニングを変えます。僕が担当のジブセイルのラフが、スタート前に風が落ちたのに張りすぎているようなのでゆるめ、クリューも外側位置に変更し、軽風に合わせます。メインは、マストトップがベンドしすぎのようで、コントロールロープを調節して、スピードが出てきました。
うち1艇だけ右界面に出たので、他艇と離れます。一度右からブローが入ってきたので、チャンスと思いタックして左海面の他艇に寄せましたが、向こうにも左からのブローが入りビリ位置に変更なし。トップと2位にはかなり離されましたが、それ以外との差はそれほどでもありません。
左海面の方が良さそうなので、全艇の最も左に出し、左からのブローを受けてタック。第1マークが真正面に見えていい感じです。1〜2艇食えそうです。しかしブローの勢いが消え我慢になりました。再び左からのブローが入り、トップ争いをしていた2位が落ちてきて、ダントツの僕の後輩艇を除き、テールtoノーズで第1マークを回航します。自艇は3位まで順位を上げました。
風が更に落ち、1〜2m/sになってしまいました。これではダントツ艇も含め、風の吹き出しを最初に捉えた艇が前に出るので、どの艇もチャンスが有ります。ダンビリだった先輩艇が集団に追いついてきます。僕らは後続2艇に抜かれ5位位置に後退。でも我慢して走り、フィニッシュライン手前では2位まで上がります。最後の最後でライバル艇に風が入り、1艇身の差なしに2・3・4・5が雪崩れ込み、うちは4位。我慢を強いられた1時間強のレース終了。
ここから長い風待ちになりました。いろんな話で盛り上がりますが、海面は無風で鏡のようです。13時まで風待ちだろうけど、もう出来そうもないなと予想し、バウデッキに寝転がります。ソヨソヨと南からの風を頬に感じ、顔にかけていた帽子を取って起きました。
13時を回ったので、本部船に近づきます。ライバル艇から本部船に、「何時まで待つの?」と声が掛かります。「この風でスタートしたいと思っています」との返事です。でも南の遠くの海面を見ても、ブローが続いておらず、また無風に戻りそうです。
スタートマークなどを設置しましたが、予想通り風が落ちN旗で本日のレースは終了です。本部船に引っ張ってもらいハーバーバックになりました。翌日もレースなので、片付けも要らず桟橋に係留し、メインセイルをブームから外してコクピットに入れます。まだ16時前で、18:30からのパーティーにはたっぷり時間があります。一旦自宅に戻ろうかとも思いましたが面倒で、ヨットクラブのトイレでジャケットに着替え、ウェットバーでウダウダします。
1時間ほど前に、今日はお休みのうちのチームのもう一人のメンバーOさんがやって来ました。Oさんの息子さんも大学ヨット部で、うちの次男のヨット部と琵琶湖で艇庫が隣でした。そんなこと知らずに、僕がコーチに行った時に監督してた息子さんと話す機会があり、親子で面識があります。Oさんの息子さんだと後で知り、びっくりしました。お払い箱になった古いセイルをライバル艇・Sさんの会社に寄付したら、セイルバッグとセイルにプロの画家に描いてもらった絵に変身したと実物を見せてくれました。
セイルに色滲みしないようにベースを塗り、その上に持参した写真を再現した絵が書かれています。70歳の方なので、「俺の葬式に出すんや」と笑っています。素晴らしい出来で、ライバル艇オーナーさんは、新たな仕事に育てようとしているようです。
18時になり、パーティー会場に移動です。この日トップを引いた僕の後輩がやってるレストランです。18:20にパーティー開始。3人乗りヨットの事務局をしているこのお店のオーナー・後輩が司会進行です。
ヨットクラブ副会長の乾杯の後歓談。新たにこのフリートに入ってこられた和歌山のチーム・徳島のチームの紹介・挨拶があり、順次各チームの自己紹介です。Oさんのセイルに書かれた絵の紹介です。Sさんも出てきて、詳細を披露します。
20:30お開きになり、ジャケットのままR171を一路帰宅しました。21時なので家内は寝ていると思ったのですが、さんまの番組を見て笑っていました。風呂に入り、22時前に寝ました。楽しい1日になりました。来月のレースには参戦しないので、これで僕の今シーズンのレース活動は終了です。

2015/11/15
家内がお仕事なので、また1人遊びです。参加してるツーリンググループに予定はなく、湖西の高島の歴史遺産探索をすることにしました。R423を北上し、亀岡から京都北部の北山杉の森の中をR477で東に走り、r38〜r110で、ずっと走りたかっらr781・おにゅう峠・r781で朽木入り、黒谷トンネルを通って高島。というルートを考えました。
あいにくの天気予報ですが、天候の回復を願って目を覚ましました。予報通りの雨です。でも8時には上がるようなので、遅めの出発に変更します。高島探索の時間が無いかもしれないが、「おにゅう峠」を目標に10時に「里山ひこにゃんVTR250」に乗り家を出ます。京都北部を走るので、コミネ冬用プロテクタージャケット&パンツを着込みましたが、暑すぎました。
池田からR423に乗り、順調に北上しましたが、「乳の泉」を越え、亀岡側に下りだしたとこで雨が落ちてきました。亀岡の空は雨雲に覆われています。家を出発するときは、宝塚の山に雲の切れ間から太陽に光が入っていたのに・・・。天候は回復するはずですが、R367に出るまでは雨覚悟です。雨脚が強くなり、カッパを着るのが面倒になり、Uターンしちゃいました。雨天走行は平気なのですが、ただでさえ暑いのにカッパを着ると蒸し風呂状態必至です。軽い風邪が治ったとこなので、仕事に穴を開けちゃうと行けないから自重します。
R423を戻り、r605の「野間峠」。r4で「野間の大ケヤキ」に行こうと思いましたが、大ケヤキ手前で「マラソン大会通行止め」でした。R477を北上し、能勢氏の丸山城址の堀切跡を西に越えr106。堀切跡の落ち葉落枝の小道は相変わらず素敵でいつものところにお地蔵さんがおられ、古墳の石室も全く変わらず口を開けていました。
r106〜r4・名月峠〜r104〜r4で来栖。R173を渡り、r602で杉生。r12〜r319〜r33〜325〜長尾山トンネルを抜け大阪平野に戻りました。11:30でまだ時間はたっぷりあるので、R171で新西宮ヨットハーバーに行きました。次の週末はドラゴン級全日本選手権なので、誰か整備をしているかもしれません。係留艇の方の整備もあるので・・・。
陸置きのレース艇置き場に行くと、J70が7艇揃っていました。バウポール・ジェネカーの最新設計艇です。僕のチームのHさんがいました。計測していないセイルを船に入れておられます。J70は、SLEDチームが5艇・サマーガールチームが1艇・その他1だそうです。フリーが圧倒的に速く、前回のレースでレース海面がクロスし、お互いのミート具合がわからず、怖かったそうです。
食事時なので、Hさんと一緒にハーバーセンターハウス3Fで定食を食べました。Hさんは、鎌倉幕府成立に貢献した平氏系・千葉氏の流れで、竹田城址の山を持っておられます。播磨・但馬の国境・朝来の田路の出で、お爺さんが赤松氏友軍・田路とかつて敵対していた但馬・山名氏友軍・竹田城主の家老に婿入りした。そんな関係で、千葉氏・田路氏などに明るく、歴史の話に花が咲きました。
その後係留艇でゴソゴソし、15時に帰宅しました。DVDで映画を見て、18時過ぎに家内が帰宅したので、DVD「WOOD JOB」を一緒に見ました。劇場で見た楽しい映画が安く売ってたので購入したのですが、何度見ても楽しいです。21時就寝。

2015/11/8
日曜日は、東京の長男の家でする私の誕生会に招待されました。昨年に続き、長男が貯めたマイルで大阪東京の往復航空券をプレゼントされました。
1ヶ月ほど前にビデオメッセージで嫡孫君からお願いされた「プラレール・きかんしゃトーマスシリーズ・スペンサー」をプレゼントの袋に入れます。その他に、「岩波子ども絵本・ふしぎなたいこ」。歌舞伎勧進帳でお馴染みの北陸・安宅の関・安宅住吉神社の絵馬・お守りも。家内は、新大阪駅で買ってきた「ドクターイエロー靴下」などを、僕のビジネスリュックに入れました。当日朝が雨予報なので、前日夜に庭の柚子を10個ほどお土産に収穫しておきました。
明日は5時前に起きようと床につきますが、楽しみすぎてなかなか眠れず、寝不足で朝を迎えてしまいました。4:30に目を覚まし、眠い目をこすりながら準備を始めます。あいにく小雨模様なので、バイクをあきらめ車で空港に向かいます。6:02、大阪空港。すぐに出発ゲートを潜ります。家内は珍しく一発でセキュリティーゲート突破です。6:30の開店を待ち、「スカイパティオ」というお店でビーフカレー・650円を朝食に食べます。
7:10大阪伊丹空港発・8:15東京羽田空港着・JAL102便に乗ります。座席は35Hで翼の上の窓際2座席です。デジカメの機内使用が可能になったので、離陸をビデオで映しながら空の人になります。雲が厚く飛行機が揺れるので、1万メートルの水平飛行になってからキーウィジュースが運ばれ、すぐに着陸態勢に入りました。8割ほどの座席がお客さんで埋まっています。楽しみにしていた富士山もアルプスも見えず残念でしたが、ビデオをたくさん映せました。お上りさんなので、アクアラインを見つけて大興奮です。
羽田に着陸し、シートベルトサインが消え一斉に降りる準備を始めた時、家内が携帯電話の電源を入れます。長男から着信があったようで、折り返し電話すると、到着フロアの1階上の出発フロアの道路で待ってるので、道路まで来たら電話するように指示される。
道路に出ると、長い乗降スペースの中央部・バス・タクシー降車スペースでした。電話をすると、公共機関降車スペースの後の一般スペースから長男の車がやってきてピックアップしてくれました。
家族共有クラウドに上げてくれたビデオで見た群馬県のバンジージャンプ場でのことを聞くと、準備が出来たらスタッフのカウントダウンが始まり、軽く押されて谷底に落とされたと、様子を聞かせてくれました。
「東京ビッグサイト」に近づくと、「東京モーターショー」関係のガードマンが車を誘導しています。まさ朝早いのに、周辺の空き地は満車です。最寄り駐車場は一般車入場禁止だそうで、こういう所に車で行くと大変だな。お台場の球が特徴的なフジテレビ社屋、踊る大捜査線の湾岸署のロケビルを写真に収めながら、長男宅に到着。
玄関を開けると、お嫁さんと孫くんが待ってくれていました。孫くんは「お爺ちゃん、おばあちゃん」とちゃんと記憶に残っているようで、大歓迎してくれました。早速プレゼント袋を渡すと、上手にリボンを解き、中から出てきたスペンサーに大興奮です。
隣の部屋のプラレールに連れて行かれ、出してきたトーマスなどを走らせてくれます。自分で箱から出したスペンサーにパパに電池を入れてもらいます。力強く走りだしたスペンサーにごきげんです。
お嫁さんが用意してくれたお茶を飲みながらさんざん遊び、パパも少し手伝って作った餃子をメインに、ハムで巻いたかいわれ大根や蜆の味噌汁で昼食を取りました。お嫁さんはお料理上手なので、とても美味しい。
1週間前の「幼稚園お受験」の様子を聞かせてくれました。東京にはお受験塾があると聞いていましたが、そこまでは気合が入っておらず、「名前と年ぐらい言えたらいいかな?ダメだったら、来年また受けて2年保育でいいや」という姿勢で臨んだのですが、しっかりと元気よく名前が言え、動物の絵などを見て名前を答えるのもちゃんと出来、一発合格でした。孫くんは本番に強く、お嫁さんもビックリするぐらい落ち着いて先生の言葉に受け答え、頼もしかったそうです。両親で付き添ったのに、「面接も付き添いは1人で」ということで長男は、様子が見れす残念だったそうです。
朝一番に受験申し込みに行き、2〜3時間待って面接をして、また2〜3時間待って合格発表だったそうで、1日仕事になったそうです。受験合格は良いのですが、第2子の出産予定が4月なので、いきなりお休みになりそうです。
まだ雨が降っているけど、外に出ることになりました。東京ガスのPR施設「がすてなーに」に向かうと車4台駐車場待ちをしています。別の施設に向かいましたが、そちらはもっと並んでいたので、「がすてなーに」に戻って入ってみます。長男は駐車場待ちで、先に4人で入りましたが、すぐの長男と合流出来ました。興味を引く展示も多々ありましたが、幼児にはわけが分からず小学生向け施設でした。アンケートを書いたら、孫くんはお土産をもらっちゃいました。
15時過ぎに自宅に戻り、僕の誕生会です。お嫁さん手作りデコレーションケーキにろうそくが4本立っています。「ハッピーバースデーお爺ちゃ〜ん、ハッピーバースデー・トゥー・ユー」と孫くんが歌ってくれます。しっかり覚えられ、とても上手でした。「はい、ローソク消して」の声に、孫くんは乗り出してフー。いいね、とても幸せです。「お爺ちゃん、いくつ?」と聞かれたので、「6つ」と答えておきました。60才はあまりに大きい数字だものね。
もも入りのケーキがこれまた美味しく、おかわりしちゃいました。お嫁さんのお腹が、少し大きくなっていました。スマートな服だと妊婦さんと分かります。孫くんはまたプラレールです。飽きずにずっと遊んでいるようで、マイブームのようです。先月、グアムに家族旅行したそうです。嫡孫くん妊娠中も、ラスベガスに夫婦海外旅行していましたが、またしばらく海外にみんなで行けないので行ってきたそうです。長男は、1〜2ヶ月に一度海外出張しているようで、勤務時間も海外子会社や取引先との関係で、朝一番に出勤することも多いようです。孫くんが、グアムで買ったポロシャツを僕にプレゼントしてくれました。センスの良い柄です。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、17:30に車に乗り込み、羽田まで送ってもらいました。5人でワイワイ楽しい道中でした。羽田JAL出発フロア前の道路で別れました。次は来月の次男の結婚式です。すぐに出発ゲートを潜り、18:06乗る飛行機が待機している前でくつろぎます。19:00東京羽田発・20:20大阪伊丹着・JAL137便に乗りました。帰路は満席で中央通路の席だったので、窓の外は見れません。真っ暗なのでノープロブレムです。帰りはアップルジュースを頂きました。こちらの方が甘いね。
20:16、大阪空港駐車場を脱出、2570円。めちゃ高い、これだから無料のバイクで行きたくなります。帰宅後、グアムのお土産としてもらったビスケットを夕食にしました。ああ、楽しい1日でした。こういうことが日帰りで出来るんだから凄いね。

2015/11/1
久しぶりのデートです。数日前の雨予報が後ろにずれ、前日の天気予報では、気温は低いものの雨は夜に入ってからになりました。1「琵琶湖北西部・賤ヶ岳から山本山城址に下る山道ハイキング」、2「余呉湖から琵琶湖北岸を巡ってマキノまで走るサイクリング」、3「琵琶湖湖西(朽木〜高島)謎の多い継体天皇関係地巡りドライブ」、4「日本三大山城・高取城址〜明日香村散策タンデムツーリング」の4案を提示しました。前回がサイクリングだったので、家内が選んだのは第4案でした。
6時出発を予定し、起きたのが4:30でした。すでに家内は起きており、家事を前倒しでしていました。ゴソゴソして5:15から準備開始。リアボックスを通勤リード110にセットし、家内のプロテクタージャケットを足元に置く袋に入れます。秋冬スタイル(プロテクタージャケット・パンツ&DAIWAフィッシングスーツ)に着替え、5:55に家を出ました。家内を最寄りの駅に降ろし、僕だけで「近鉄・壺阪山駅」に向かいます。r13を南下し、「五合橋」でR43に乗り換えて東進開始。日曜の朝なので交通量が少なく、JR天王寺・近鉄阿倍野前をあっさり通過。ここからR25で「柏原」、R165で大和川が奈良から大阪に抜ける生駒山系と葛城山系の間を越えます。
「道の駅・ふたかみパーク當麻」で休憩しようかなと思ったけど、お店が開いてないような気がして通過。この通過が幸いし、ヤマハMT-07さんの後ろに着くことが出来ました。信号待ちで「静かですね、2気筒でしょ」と声を掛けました。250ccからの乗り換えで、車重180kgで250ccと変わらず、むしろ静かで驚きましたとの答えが帰ってきました。僕のVTR250より2気筒独特のドコドコ音が小さく、走り出しの時は、ヒューンという4気筒?を聞かせながら発進します。180kgという重さも、VTR・150kgでは高速道路で風に振られる感じがし、CB400SB・200kgでは取り回しが少々重いの中間値で、ヤマハはいい所をついています。ハンドル位置が高く、前傾姿勢もきつくなくロングライドも楽そう。良いバイクでした。
r30を直進するMT-07さんに別れ、R24・「大和高田バイパス」に乗って橿原まで一気に移動しました。ここから近鉄線に沿って、R169で南下です。橿原駅を過ぎたとこで、駅に寄って観光案内パンフレットを確保しようと思い、7:47・「近鉄・飛鳥駅」に寄り道。
橿原の藤原京に遷都するまでの飛鳥時代の都・古代遺跡の宝庫「明日香村」の最寄り駅だけあって、駅からの階段が広い。でも、京都や近江のパンフレットはあっても、肝心の明日香のパンフレットも地図もありません。いつも思うんですよね。全国の駅に地元の観光案内パンフレットを置いておくのが、最も便利なのに・・・。「レンタサイクル土日祝日1000円」の案内板を、洋服を着たカカシが持っています。橿原〜飛鳥駅間の旧跡を巡る「かめバス」のバス停がありました。
8:00、家内と待ち合わせている「壺阪山駅」到着。方向音痴の家内が明後日の方角に行かないよう毎回渡しているルート図に書いた家内の予定到着時間は、8:04です。町家のカカシ巡り案内板が出ています(10/31までだけど)。観光案内図看板の地図を頭に入れると、予定の電車が到着しました。改札口で待っていたけど、リュックを担いだハイキングの年配さんはたくさん降りてきたけど、家内はいません。いつものようにどこかでミスって、1本遅れのようです。駅の外に出て、陸橋で線路を渡り壺阪寺・高取城址とは違う方向に行くハイキングさん達を見ていると、「着いたよ、トイレに行ってたの」と笑顔の家内が後ろにいました。お揃いで家内に内緒で買った「コミネプロテクションパーカ」を家内に着せ、城址を目指します。地図で頭に入れた旧道に出ると、「キトラ古墳・0.9km」と書かれています。旧道を進むと、カカシ達がいました。「かかし村」のバス停で農作業風のかかしさん達が屯しています。
『土佐町 6世紀の始め頃、大和朝廷の都づくりの労役で、土佐国を離れこの地に召しだされたものの、任務を終え帰郷するときに朝廷の援助なく帰郷かなわず、やむおえずこの地に住んだことから「土佐」と名付けられたと思われる。近世に入り、植村氏が高取城に入部するに伴い、土佐はその城下町として政治経済の中心となり、町筋に商家が立ち並ぶ。毎年開催される「お城まつり」には、高取土佐時代行列保存会による奴行列が再現される』
「松の門」という高取城内の門を移築した門があった。『高取町の南東部には、標高583.9mの高取山がそびえ、山頂には高取城址(国指定史跡)があります。南北朝時代の1332年、この地方を治めた豪族・越智氏により築かれた山城で、その後本多氏などを経て、幕末・1868年まで植村氏の居城となりました。城内1万平方メートル・周囲3km。郭内6万平方メートル・周囲30kmという広大なものでした』
漆喰の白が綺麗な長屋門がありました。『植村家長屋門 1826年に建てられ、入母屋瓦葺造り、門内の東西に各4室の部屋がある。江戸時代は、高取藩に仕える中間達がそれぞれの部屋に住んでいた。近世武家屋敷表門の遺構を残している貴重な建物である。当時は城代家老の役宅であったが、現在は旧藩主・植村氏の住居となっている』
空撮した城址の石垣にCG再現した天守他の建物を加えた案内板があった(奈良産業大学・高取城CG再現プロジェクト)。CGのように建物を再現できたら、見事なものだろう。
舗装路を上がっていくと、「壺阪寺」があった。下界を見下ろす良い景色です。ここを過ぎると道が狭くなり、8:45・登山道分岐到着。ここに数台停められる駐車スペースが有ります。8:52「八幡神社」&「城址まで550m」登山道分岐。ここにバイクを置いて登ろうかと提案するが、「もっと上まで行く」とあっさり却下された。
『高取城址は、急峻な山上地形を巧みに利用して築かれている。何段にも重ねた石垣や「食い違い虎口」(出入口)、急斜面により守られ、山麓の城下町との比高差は400m以上ある。
14世紀前半に土豪・越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まり。織田信長の一国破城により、1580年に一旦廃城となるが、1584年筒井順慶による復興を経て、豊臣秀長の家臣・本多氏により近世城郭として完成した。江戸時代に入り、1640年譜代の植村氏が入部して2万5千石の居城とした。以降明治維新まで、植村氏が14代に渡って城主となった。山上に、本来の城と家臣の屋敷地を取り込んで、城と城下町の2様相を山城としてまとめた特徴ある形である。そのため山城としては広大にならざるを得なかった。しかし平穏な時代には山上の生活が不便なため、藩主はじめ多くの家臣が山を降り、その結果、城郭と城下町が離れた得意な形態となっている』
9:08、登城車道のエンド。簡易トイレが設置されている。先着車なし。そこにバイクを置き、ジャケットを脱ぎ帽子を被って、城攻め開始。ロープを張った杭が打たれている土留め簡易階段道にとり着くとすぐに、井戸と思われる地形があった。振り返れば、素晴らしい下界の眺めです。9:10・見上げれば石垣。また井戸。水の確保は城の守備の生命線だから、いくらあってもいい。さすが江戸時代の城、いくら山城といえど、見事な石垣が積んであります。
9:14、山頂曲輪到着。平城同様に石垣がお見事。適当に草が生え、適当に苔むし、大木もしっかり残り、いい感じの遺構です。沖縄の山城はどこも裸山のように木木が切られ手入れされ、これでは風雨に晒され、遺構の保存は難しかろうと文化の違いを感じた。中世の山城は、こうでなくっちゃ。
日本三大山城の説明板があった。標高日本一の「美濃岩村城」、天守が現存する城郭における日本一の標高「備中高松城」、そして比高日本一の「大和高取城」。ここの登城で、僕の3城制覇達成です。先客の男性が1人いるだけで、ウロウロ歩きまわり天守閣があったであろう最上部曲輪まで登りました。
和田山・竹田城の山上に浮かんだような景色には負けますが、石垣の保存状態や規模の大きさはこちらの勝ちです。木々に埋もれた感が、忘れられた巨大山城の哀愁を誘います。『本丸は、大小2棟の天守閣と鉛櫓・硝煙櫓を多門櫓(塁上に設けた細長い単層の櫓)と塀によって接続する。これを連立式形態と呼ぶ。東西40間(73m)南北35間(64m)の凸字型平面を成す。地形の変化に対応し築かれた山城は、自然に不規則な縄張りとなる。しかしこの本丸は、平城のように整然さを有するので、築城技術の完成した頃の構築とみられる。昭和47・48年の県教育委員会の高取城修理に伴い、本丸東北隅の部分を対象に、石垣の実測・根石の状態調査をしたが、石垣の歪は後補のものであり、隅石には転用材を使用している事が明らかになった。転用石の中には、漆喰の付着した石が2個検出され、切石古墳の石を使ったものと想定されている。漆喰は、分析により桜井付近の古墳漆喰と似ていると報告されている。また、本丸鉛櫓下の背面に補助的に設けられた布台石垣の下に配列された胴木の存在は、山城での依存例として唯一の発見例で注目すべきものである』
9:44、「最上部曲輪」到着。家内が登城達成とばかりに、大きく伸びをしています。下りだしたとこで、男性1女性2のグループが上がってこられました。リュックスタイルなので、壺阪寺から上がってきたのかも?
バイクまで下り、10:15・「壺阪寺」。駐車場は料金が発生するので、バイク乗利点を生かしました。絶景かな、明日香〜奈良盆地南部が一望です。山の中のお寺にしては、かなりの規模です。造りかけの石仏もあり、経済的には潤っているようです。
『壺阪寺は、703年元興寺の僧・弁基によって創建された。この白鳳時代は、藤原京を創建した時でもあった。この霊峰に惹かれて山中に修行中、秘蔵の水晶の壺中に観世音菩薩を感得したので、その壺を坂の上に安置し供養し、壺阪観音を模刻して本尊とした。これが壺阪の由来です。その後元正天皇の時、勅願寺となり「南法華寺」の寺号を頂いている。弁基上人はその後還俗し、春日倉首老と名乗る文化人になり春日倉人の統括者になった。平安時代に全盛を極め、36堂60余坊の大伽藍になった。その後数度の大火で消失し、現在は室町時代に再建された礼堂・三重塔・八角円堂の建造物を残すのみとなり、山腹の静かな佇まいの中美しく調和を保っている。本尊:十一面千手観世音菩薩』
元興寺は、仏教を基礎に国造りをしようとした蘇我氏が明日香に建てた日本最初の寺院で、平城京の完成で現奈良市街に都が移った時にそちらに移って現・元興寺になった。白鳳時代の元興寺はまだ明日香にあり、現在の「飛鳥寺」ですね。弁基さんは、お寺を創建するような高僧なのに還俗するとは面白いな。勢力争いに破れたのかな?それとも妻帯が許されない坊主の世界に嫌気が差したのか・・・いろいろ想像してしまった。
大講堂に入り、多聞天などを観る。仁王門内の仁王さんは、彩色が落ち木目が露出しているが、妙に迫力がある。仁王さんの高下駄が置いてあったので、家内を載せ写真をパチリ。名前を書いた木札を収めると、眼病封じのご利益があるらしい。八角円堂に入り、ご本尊を仰ぐ。ここの縁側が展望台の役目をしており、ナイスです。
『藤原京の聖なるライン 藤原京は7世紀中頃、朝鮮半島の新羅の都・慶州に習って造られた。慶州は宮殿の真南にある「南山」を聖なる山と定め都を造ったと言われ、宮殿と南山を結ぶライン上に、多くの王墓・遺跡などが現存する。藤原京は真南に位置する壺阪山を聖山と位置づけたと考えられ、藤原京と壺阪山を結ぶライン上に天武持統天皇陵・文武天皇陵・高松塚古墳・キトラ古墳などたくさんの遺跡群が点在する』
バイクに戻り、r269〜R169で壺阪山駅まで戻り、案内板に従って「キトラ古墳」に向かうが、案内板を見落としたのかまたR169に戻ってしまった。明日香村の地図を確保しようと適当に走り、11:38「国営飛鳥歴史公園館」の駐車場にバイクを入れる。「高松塚古墳」に向かって歩くと、「ここかな?」と思える古墳チックな小山があちこちに目につく。11:43、「高松塚壁画館」。ここで、石舞台古墳・亀形石像物・酒船石共通券600円を購入。ボランティア学芸員さんが数人おり、壁画の人物が持っている物が何かの説明を筆頭に詳しく教えてくれた。古墳内の壁画が彩色を施され、現在もまだその色を残している染料の保存力は驚異的と思える。埋め戻された高松塚古墳本体を観に行く。
『特別史跡・高松塚古墳 7世紀末から8世紀初め(藤原京時代を中心に飛鳥時代末から奈良時代前期までだな)に造られた古墳です。昭和47年の発掘調査で、日本で初めて石室内に描かれた壁画が発見されました。墳丘内部は、16枚の凝灰岩の切石を箱型に組んだ石室(内部奥行き265.5cm・幅103.4cm・高さ113.5cm)があり、その内面に塗られた漆喰を下地として、壁に鮮やかな男女の群像や青龍・白虎・玄武・日・月像・天井に星宿が描かれていました。こうした壁画古墳は、日本ではこことキトラ古墳しか知られていません。石室は中世に盗掘されていましたが、太刀の飾金具や銅鏡・ガラス玉などの副葬品の一部と漆塗りの木棺の破片が出土しています。壁画発見後、保存修理のために施設を建設し保存対策をしましたが、壁画の劣化が止められず、平成17年に、石室ごと取り出して修理することを決定し、500mほど離れた施設で修理作業を進めています』
12:24、「天武・持統天皇陵」。『壬申の乱(672年)に勝利し、律令制の基礎を築いた天武天皇と、その妃で次に即位し、天皇として初めて火葬された持統天皇が合葬されている』。陵墓まで上がってみると、横からだけど前方後円墳のように見えた。「円墳」の方に、天皇の陵墓特有の鳥居他が向けられており、「前方」の部分には何と民家が建っていた。天皇の陵墓と比定され、宮内庁が厳重に保護監督するのは、大抵明治期に入ってからなので、江戸時代から先祖が居住利用していたのでしょう。奈良の古墳ではよく見る光景ですが、それにしても、とんでもない所に住んでいるな。びっくりポンや。
「酒船石」に向かいながら、お食事処を探す。途中に「橘寺」があったけど先にご飯です。適当なお店を見つけ、お腹を満足させる。5時半過ぎに食パンを2枚食べたきりだから我慢の限界に達していた。
13:28、「亀形石造物」。日本書紀に記載がある遺跡で、湧水施設から流れでた水が木樋を伝わって舟形石槽の水槽に溜まり、更に小穴から流れでた少量に水が亀の鼻に入り、背中の水槽に溜まる構造になっている。これらの遺構は谷底の深いところにあり、周囲を石垣や石敷で閉ざされた空間であることや、水を見て楽しむ構造でないことから、天皇祭祀に係る場所であったと推定される』
全くの野ざらしなので、「これでいいのか?」と思ってしまった。『酒船石遺跡 この石垣は平成4年に発見された。調査の結果、この丘は3mほど盛土された人工の丘陵で、石垣は明日香産の花崗岩を並べ基礎とし、その上に天理市から奈良市にかけて分布する凝灰岩の切石を積み上げて築かれていた。現在倒壊していた石垣の一部を復元して公開している。酒船石遺跡は、「日本書紀」書かれた記事に該当する遺跡の可能性が高い』
「酒船石」に深く刻まれた文様のような?水の通り道のようなものが示す意味は何なのだろう?『長さ5.5m・幅2.3m・厚さ1mの花崗岩でできている。北側・南側の一部は欠損しており、近世にどこかに運びだされたと考えられ、石割りの工具跡が残っている。石の上面に、円や楕円の浅いくぼみを造って、これを細い溝で結んでいる。酒を絞る槽とも、油や薬を作るために道具とも言われている。しかしこの石は東40mのやや高いところで、ここに水を引くための土管や石樋が見つかっていることから、庭園の施設だという説もある』
13:55、「石舞台古墳」。『早くから盛土が失われ、巨大な天井石が露出していたことから石舞台の名前で親しまれている。1933年から実施された調査で、一辺55mの方墳または上円下方墳で、周囲には周濠と外堤が巡らされており、墳丘と外堤の斜面には貼石が施されている事が明らかになった。埋葬施設については、南に開口する両袖式の横穴式石室で、玄室長は7.8m・幅3.4m、羨道長11.5m・幅2.2mあり、石室から羨道にかけて排水溝が設けられている。石室内は凝灰岩片が出土していることから、家形石棺が安置されていたものと推定される』
何度見ての巨大です。巨石文化とはいえ、推定される作り方・運び方は書かれているが、現実にこれをやってのける技術・統制力・意思はどこにあったのか不思議でならない。
14:27「橘寺」。『発掘調査により、伽藍は四天王寺式伽藍配置であるが、当時の寺院は、南向きが多い中、この寺院は東向きで、中門・塔・金堂・講堂が一直線に東から西に並んでいたことが確認された。寺院の創建年代は定かではないが、聖徳太子伝暦によれば、太子がこの寺で勝髪経を講ぜられた時、瑞祥(目出度いことが起こる前兆)があって、仏道を建立したとある。太子7ヶ寺の1つで、発掘調査で出土した瓦の文様から、7世紀前半には小規模な堂(金堂)が建てられ、7世紀後半に大規模な整備が成されたとわかる』
スマートで小柄な橘紋の馬の像が奉納されています。「聖徳太子御誕生所」と書かれた木札が下がった太子殿(本堂)に入ってみる。本尊が太子像なのですね。二面石は、左右に怒った顔を笑顔が刻まれています。鬼瓦が怖くなく優しいお顔です。「特別公開中だから、ぜひ観ていって」と受付で言われた「往生院」に入ると、綺麗な天井絵が見事でした。戦後、明日香村有志が出資し、村のシンボルとして造った聖徳太子の立像もありました。隣の「聖倉殿」も見学。
15:03、「飛鳥寺」。日本で最初に造られたお寺です。『飛鳥大仏・開眼1400年 推古天皇13年(605)日本最古の金銅丈6釈迦如来像の造立が発願され、609年に開眼供養されてから1400年目にあたります。中世の火災により損傷されているものの、今以って元の位置に端座し給う、日本の歴史的尊像であります』
『遠路ようこそ飛鳥寺へ 現在の本堂は、古の中金堂の位置に相当し、本尊飛鳥大仏は1390有余年間そのまま座したもう奇跡の存在といえよう。平安朝までは膨張し、中世以降天災地変・自然崩壊のため境内は1/20に縮小された。
聖徳太子は、橘の藁小屋で生まれ、大陸の先生に先進国の学問を受け、国民の守るべき17条憲法を示されたのが、この本尊に誓ってのことである。蘇我馬子が決戦の暁、強引に飛鳥寺に着手したことは、必然的に飛鳥文化の扉を開ける約束にもなった。すなわち国家数千年の大系を果たし得た。仏法最初という寺の幾つかある中、シルクロードの終点と言われる寺の幾つかある中で、飛鳥寺こそその終点であり、日本の起点になったことは疑いなき事実である。太子の師恵慈がこの寺に住んだ。大化の改新はもちろん、奈良朝然り、各宗の母胎揺籃の地になったこと。また世界に誇る万葉文学の源の地ともいえよう』
聖徳太子第11番霊場。ここの鬼瓦も優しいお顔です。堂内に入り飛鳥大仏を拝見していると、説明が始まりました。火災でお堂が焼けた時も黒ずんだが焼け残り、村人が屋根を作って痛まないように守り、今に至るそうです。大仏さんはお堂の正面を向いておらず、太子が生まれた橘寺の方を向いているそうです。お顔は左右の目と唇が対称ではなく、左から見れば微笑んでいるように見える。現在一般的に「飛鳥寺」と呼ばれるが、「法興寺」とも「元興寺」とも「安居院」(あんごいん)とも呼ばれる。奈良時代になり都が平城宮に移ると、この「元興寺」も興福寺の南に移転した。でもこの元の元興寺にも飛鳥大仏とともに寺院が残り、今に至っている。
飛鳥大仏は、右に阿弥陀如来、左に聖徳太子の像を配し、この日本最古の仏像は全て撮影可でびっくりした。他の寺院も「保存を損なうフラッシュ不可」ぐらいで、本尊の撮影を許可して欲しいものです。日本に写真が入って来た時に日本人が感じた「魂を抜かれる」的な発想を未だに続けているように思う。
「蘇我入鹿の首塚 西80m」の案内板に誘われて、首塚を観に行った。五輪塔がポツンと立っていた。日本古来の神道を中心に国を建てようとした物部氏に、大陸から入って来た新宗教・仏教を土台にしようとした蘇我氏が対抗し、聖徳太子(母は蘇我氏)の軍事的活躍もあり、大阪の上本町台地にあったという物部氏の本拠地を攻め滅ぼした。
この勝利で朝廷の実権を握った蘇我氏だったが、中大兄皇子・中臣鎌足のクーデター「大化の改新」により、藤原氏にその実権が移っていった。この時誅殺されたのが、実力者・蘇我入鹿です。その首塚が蘇我氏由縁のこの寺の元境内にあるということは、誅殺後蘇我氏に入鹿の首が返されたということのようです。
首塚の南隣の地が発掘調査中でした。案内板を見ると、「飛鳥寺西方遺跡」と銘打たれ、大化の改新前に中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠を通じて出会った場所と推定されると書かれていた。元の飛鳥寺境内内だったのかもしれない。
『飛鳥寺縁起 588年蘇我馬子が創立した日本最初の本格的寺院であり、寺名を法興寺・元興寺・飛鳥寺(現在は安居院)とも呼んだ。本尊飛鳥大仏(釈迦如来)は、605年天皇が勅願して鞍作鳥仏師に造らせた日本最古の仏像である。旧伽藍は887年と1196年に焼失し、室町以降は荒廃したが、1632年と1826年に再建され、今日に至っている。現在は真言宗豊山派に属し、新西国第9番・聖徳太子第11番の霊場でもある』
飛鳥寺の直ぐ西に、「甘樫の丘」があった。蘇我氏全盛の頃、蘇我蝦夷・入鹿親子がここに邸宅を構え、明日香に睨みを利かせていたのが十分に伺える位置にあった。
16:00、近鉄「畝傍御陵前」。ここで家内を降ろします。まだ陽があるので、「益田岩船」を探索することにする。2駅南にある「近鉄・岡寺駅」の西にある「白檀南小」の西の山にあることはわかっているので、GPSに小学校を案内させる。それにしても「白檀」なんて名前の小学校に通うなんて凄いな。高貴な香りがする。小学校付近でウロウロしたが、16:25「益田岩船」の小さな案内板を見つけた。
手すり付きの階段が設置された急な山道を上がると、やがて道は平坦になり、ロープが張られた獣道をぐいと上がると、竹林の中にそれが見えてきた。石切りをした工具跡が無数に残り、自然石でないことは一目瞭然。周りに岩が見当たらず、この巨大な岩がポツンとあるのは不自然です。
「上に上がるな」と書いてあるので、標高の更に高い所に回って見下ろすと、上部に方形の穴が2つ開けられている。なんだこれは・・・何の目的で・・・どうしてここに運んできたのか・・・全く見当がつきません。
『史跡・岩船 貝吹山の連峰である石船山の頂上近く、標高130mの地点に所在する花崗岩の巨大な石造物で、俗に益田岩船と呼ばれている。東西11m・南北8m・高さ4.7mの台形で、頂上部と東西両側面に幅1.8m・深さ0.4mの浅い溝状の切り込みを設けている。頂上部ではこの溝内にさらに1.4mの間隔をおいて東西に2つの方形の孔が開けられている。孔は、東西1.6m・南北1.6m・深さ1.3mと東西ほぼ等しく、孔の底部のまわりには幅6cmの浅い溝がめぐる。石の加工は上半部が平滑に仕上げられているが、下半部は荒削りのままで格子状の整形痕が見られる。
古くからこの地に築造された益田池の台石とする説もあるが、頂部平坦面を90度回転させm横口式石室だとする説や占星台の基礎とする説、物見台とする説がある。用途は明らかではないが、上部平坦面の溝や孔が高麗尺で計画され、花崗岩の加工技術が終末期の古墳と共通するなど、少なくとも7世紀代の特色を持ち、飛鳥地方に分布する特異な石造物の中でも最大のものである』
最後に古代史の謎の石造物に出会え、いい歴史ツーリングになりました。ここからほぼ往路同様の道で家路につきます。16:48、橿原のエッソで給油、164km/4.13L=39.7km/L。17:23、「柿の葉寿司・田中・葛城店」で夕食用に「柿の葉三種・1060円」購入。19時過ぎに帰宅しました。途中歯医者さんに寄る家内はまだ帰宅しておらず、バイクを片付け、風呂に入っていると家内が帰宅した。風呂上がりに、家内が用意してくれた汁物で柿の葉寿司を2人で食べ、大河ドラマを見て就寝しました。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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