ウェブマスター日記 2015/5-6

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
感想をいただけるとありがたいです→webmaster

2015/6/28
日曜日は、大学ヨット部のコーチングでした。全日本大学ヨット個人選手権予選2日間の最終日です。天気予報は曇なので、バイクで行くことにしました。朝5時前に目覚め、ゴソゴソ用意し、「里山VTR250」を出しました。今年の梅雨は雨が多めで、早朝ツーリングへの出撃回数が減っています。高速道路利用だけど、こちらに乗ります。
5:45、コンビニに寄り、手巻きサーモンマヨ・125円・手巻き紀州南高梅・110円を購入。R171〜中国道〜名神で桂川PAで休憩。湖西道路経由で琵琶湖のハーバーに7時頃着。ノーティスボードを見に行き、前日の成績・プロテスト関係・本日の指示などをチェックします。全日本への出場権は、470・スナイプ各クラス毎に上位6艇です。圏内に各クラス2艇入っています。470級に比べ成績が見劣っていたスナイプ級も2艇圏内におり、ナイスです。470では、トップフィニッシュも1回あります。
艇庫前に行きみんなに挨拶してから、コーチボートで朝買ってきたおにぎり1つを頬張ります。艇庫前に戻り、選手たちと前日のレースの風向・風速・自艇のボートスピードの感触など様子を聞きます。470級7艇・スナイプ級6艇エントリーしており、D社・金沢同様最大勢力になりました。ここ数年の部員獲得の成功が、成績にもつながっています。
8時に出艇します。コーチボート同乗や陸上要員の1回生が、「フレーフレー・・」と出場選手の名前を呼び送り出します。応援してもらった方は、手を振る奴もいるし、艇を止めて「ありがとうございます」と大声で叫び頭を垂れるものもいまこういうとこが、学生スポーツに惹かれるところです。僕も学生時代、公式戦に出場した時、自分の名前を応援してもらった時、涙が溢れてきました。「よ〜し、彼らのためにも頑張らなば」とハイな気持ちでレース海面に向かったのを覚。こういう世界が好きで、ずっと学生スポーツに携わっているとも言えます。
次男と同期で大学に勤める監督と、4回生女子マネさん、3回生女子マネ、1回生女子マネ・1回生選手、そして僕という乗り合わせでレース艇とともにレース海向かいます。フィンランド人の留学生Tくんも乗っているので、積極的に声を掛け、ご実家の事やお国の話題を入れながらコミュニケーションを図ります。だ日本語が上手ではありません」と言いながら、大体わかってくれます。スタート前のカウントダウンで、ワンミニッツ・トゥ・ゴーなど英語も交えて、レースへの理解を深めさせようとしましたが、オール日本語でも大丈夫そうです。スクールイングリッシュな僕にはありがたい。
三井寺からの風向で、本日の第1レーススタート。470第1マークトップで、当方上がります。2〜3〜4〜5マークと徐々に後続艇との差を広げ、危なげなくフィニッシュ。コーチボートに戻ってきたら、みんなから祝福の拍手が湧きます。彼は前日早すぎるスタートのため1レース失格しているので、上位6艇に入るべく猛追しています。あと一歩、頑張れ。横付けさせて、コーチボート上から全体を俯瞰した風の入り方を選手と確認します。
続々と、フィニッシュした艇がコーチボートに横付けされ、気がついた点などをアドバイスします。成績が良くてもそうでなくても、コーチボートで監督・コーチやマネさんたちと会話することでリセットし、次のレースに気持ちを切り替えることが、トータル成績を上げるコツです。社会人セーラーと違い、学生は1つのレースで一喜一憂してしまい、喜びで舞い上がって次のレースへの準備が疎かになったり、落胆した気持ちのまま次のレースに入ってしまいます。
西の比叡山山頂に雨雲が掛かり、それが流れてくると霧雨を伴いブローが入るレース海面は不安定です。1回生女子マネさんが合羽を持っていなかったので、僕のカッパを貸しました。「子供を生む女性は冷やしたらあかんよ」と冗談半分で渡すと、「暖かい、ありがとうございます」ってニコニコしています。
数度の風向の変化に合わせてのマーク打ち替え後、本日の第2レーススタート。らのブローを拾いにが最初右に出すのが鉄則です。470第1マークはトップ10に2艇という寂しい展開です。王者D社はさすがです。レギュラー以外の4番艇・5番艇までトップ10に来ています。スナイプも2艇です。13時過ぎのスタートなので、大会規定の終了時間14時までにフィニッシュしそうにありませ終レースなので、ここで爆発して、ボーダーラインにいる3艇目・4艇目も総合トップ6に入ってきてほしいけど・・・。
スナイプの当方クラブ内トップが、第1マーク4位からマーク毎に順位を上げ、最終マークで逆転し、トップフィニッシュしました。フィニッシングライン通過の時、トップホーンが鳴りコーチボート内で拍手が湧きました。トップ艇に乗る選ネさんのBFくんです。「うわ〜、おめでとう」と遠いBFくんに拍手していました。総合でも3位だったので、悠々全日本切符獲得です。
結局、各クラス2艇ずつ全日本個人選手権への切符を得て、レースが終了しました。ハーバーバックし、気づいたことを選手個人個人に話し、15時にハーバーを後にしました。いつもなら閉会式・ミーティングに出るのですが、18時から映画デートの予定があります。
帰路の高速道路は風が強く、75〜80km/hで帰ります。VTR250は軽いので、風が強られるので慎重に走ります。16:19、自宅近所の「出光セルフ宝塚176」で給油。244km/7.64L=31.9km/L。帰宅し、小腹が空いたので、450gヨーグルトを食べました。僕のお食事後のお楽しみがヨーグルトなので、我が家の冷蔵庫には最低5個は入っています。下手なお店より大量陳列されています。
17時を回ったので、通勤リード110に乗り換えて映画館に向かいます。15分ほどで駅前のイオン最上階のTOHO映画館前で家内を待ちます。17:30に家内がやってきます。先週一緒に買いに行ったお仕事スカートでも履ける可愛くてヒールの低い靴を履いています。「これ、どう?」って御御足を見せてくれます。「いいねえ、可愛いよ」。
家内に映画ギフトカードをもらって、18:00上映開始・「愛を積む人」のチケッます。還暦の祝いで、息子たちから個別プレゼントの他にこのカードを頂きました。「2回ぐらい観れるよ」と聞いていたけど、額面に金額が入っていないのでいくらなのか不明のカードです。機械で使えるのか不明でしたが、問題なく使えました。チケット2枚の他に、「本日利用額2200円・残り2800円」と表示された用紙が出てきました。上映予告ポスターを見ながら、「次は「HERO」をが言っています。去年の夏、フジテレビ祭りでHEROのセットや建物を次男が設計したので、家内がHEROにご執心です。建物前でキムタクポスーと写った次男の写真が、引き伸ばされて仏壇の部屋に下がっています。
「愛を積む人」は、アメリカ作家原作の映画です。シチュエーションを北海道美瑛に変更し、佐藤浩市と樋口可南子・北川景子出演です。僕がこれを観に行こうと誘った時、「北川景子さんが出るからだね」と即効で見破られましたが、家内も樋口可南子さんが好きなので即合意に至りました。まあ・断られたことなどないけど。
数年前の6月にバイクで巡った美瑛の美しい景色がスクリーンに広がり、森林限界線を超える大雪山の不毛の山肌もロケ地になっています。この映画で、また観光客が増えそう。僕らの新婚旅行は、美瑛の隣町・富良野スキー場でのスキー三昧5日間でした。その時泊まった「富良野プリンスホテル」に、もう一度行こうと約束しています。夕食後佇んでいると、窓の外に現れたキタキツネに驚きました。お忍びでご主人様とスキーに来られていた吉永小百合さんと廊下ですれ違い、家内とのツーショットに収まってもらいました。「お幸せにね」と微笑んでくださった笑顔が今でも頭に残っています。
旦那・佐藤浩市さんに自分の重病を伝えず、突然逝ってしまった奥さん・樋口可南子さんとの温和な夫婦関係が描かれています。自分の死後の旦那の生活を気遣ってやり始めてもらった石塀作りをベースに、それを手伝ってくれる青年や地元の方達、不仲になってしまった一人娘との関係が修復していくストーリーが、ゆっくりしたペースで進みます。
僕ら夫婦にも残された時間はそれほど多くありません。ありがたいことに息子たちを授かり、お嫁さんたちにも恵まれ、素晴らしい人生を過ごしてきました。でもその全ては、家内が僕のところにやって来てくれたことから始まります。「大切にしなきゃ」と改めて心に刻みました。涙腺の弱い僕は、何度も涙が頬を伝わってきました。ハートウォーミングな素敵な映画でした。
映画終了後、家内がスカートなので、家内の荷物だけバイクに積んで帰ろうと思っていましたが、「カッパある?それを履いて帰る」と言うので、スカートの上からカッパを着てタンデムで帰りました。人生の最期までタンデムで歩みたいものです。そしてできれば僕の方を先に天国に送ってください。息子たちに心配されながら、1人になるのはちょっと・・・

2015/6/21
大変重要な母の日と大違いの父の日です。母の日があるからついでに作られた父の日なんて、ほんまに必要なのか?その業界のためにあるような気がしてなりません。
と言いながら、20(土)仕事中に家内から「父の日プレゼントが届いたよ」の連絡を受け、妙に帰宅するのが楽しみになる自分がいます。帰宅すると次男夫婦から届いたプレゼントが待っていました。2人で世界遺産になった「富岡製糸場」に行ったそうで、そのポストカードにメッセージが書かれていました。次男の名もありますが、お嫁さんが書いたのでしょう。女の子はいいな。
まゆで作った羊のかわいい置物が入っていました。よく僕の干支がわかったな・・・と思ったら、今年は未年なのでむしろこの干支だらけなおでしょう。僕ら夫婦の還暦の祝いをしてくれたばかりだから、わかってるよね。もう一つ、読書好きの僕なので、「和田英著・富岡日記」も入っていました。

日曜日は、能登半島をドライブしました。1ヶ月前に、一泊ソロツーリングで回ったのに、またです。NHK朝ドラ「まれ」ロケ地&歴史遺産巡りをしたのですが、海岸線は美しく、朝ドラ仲間でもある家内にも「そこ」を見せたくなりました。そして、「あの場所」に2人で行きたいと思いました。
2週間前に予定していたのですが、その1週間前に家内が捻挫してしまい延期していました。普通に歩けるようになったので、天気予報はイマイチですが決行です。車なので雨降ってっても平気ですし・・・。
土曜日、仕事から帰宅後すぐに荷物を積みました。一番の大物は布団です。次男が生まれた記念に、ハイエースワンボックスワゴン車に買い替えました。子供たちびの時は、キャンプでもスキーでも、前日の晩に布団を積んで出発していました。眠くなるまで距離を稼ぎ、車中泊して翌朝再び出発して、現地で朝から楽しむというのが、我が家のスタイルです。
子供は成人し世帯を持ち、夫婦ドライブで久しぶりにこのスタイルをしました。往復1000kmのドライブなので、少しでも前夜に走っておきたいです。20:46に自宅を出発し、近所の御用達GSで給油しました。豊中ICから中国道に乗り、名神に乗り換え、21:37「大津SA」着。ここで夕食にしました。僕は、「近江牛コロッケバスカレー・880円」を食べました。白身のフライが載っており、やはりブラックバスでした。臭みがあるのかな?独特な食感かな?と恐る恐る、でも興味津々で口に運んだら、言われなければわからない美味しい白身のお魚でした。味の強いカレーでごまかしているのかな?との予想は覆され、これならタルタルソースでもOKです。
レストランで僕の歯ブラシに練り歯磨を付けてもらい、それを持って夫婦でトイレに行き歯磨きをしてから車に乗り込みました。小雨が落ちてきたのでトイレ前に車を移動し、家内を待って22:01に出発しました。家内によると、自分同様お化粧落としのご婦人が数名おられたそうです。
走りだすと、一気に雨脚が強くなり土砂降りの数分がありました。大津SAにバイクが2台いたけど、ずぶ濡れだなあ。カッパを着て出発してたらいいけど。この雨は梅雨前線による雨ではなく、南下した梅雨前線に向かって吹き込む寒気による不安定な気圧配置によるものと天気予報で解説していたので、局地的で強弱が激しいです。名神から北陸道に乗り換え、23:44、北陸道・「杉津PA」に着くまで、降ったり止んだり強弱もありました。路肩に水たまりのあるところや、乾いて全く雨が降っていないとこなど、天気予報通りでした。「杉津PA」で限界に達し、すやすや寝ている家内の横に潜り込みました。本線に近くうるさいなと感じ、コンソールボックスに常備している耳栓のお世話になりました。
3:10に目を覚ますと、雨は上がっていますが、もやっています。カメラをぶら下げてトイレに行き、恋人の聖地・「夕日のアトリエ」を見に行きます。晴れた日の夕方ならカップルが並び、海に落ちる夕日を手をつないで眺めているのでしょうが、当然真っ暗で何も見えません。カメラのバッテリーが切れたので、車に戻りバッテリー交換してると家内が起きだし、「朝になったの?今何時?」。家内と一緒に再び「夕日のアトリエ」に行き、南京錠のぶら下がったハートロック、「愛のハートロック・鍵入れ箱」などを見ました。「恋人の聖地・杉津 恋の夕日ソフトクリーム 甘酸っぱい夏みかん味」の看板が掛かったソフトクリーム売店がありました。甘酸っぱい夏みかん味を食べてみたくなりましたが、当然開店前です。
3:25、出発。3時なのに、家内が助手席に乗ってきます。「まだ早いよ、寝てたら」と言っても、頑張って起きているそうです。しばらくお喋りしていましたが、こっくりし始めたので、「後ろで横になったら」と言うと、「そうさせてもらうわ」と、熟睡モードに入りました。
4:26、「尼御前SA」着。尼御前とは、義経の陸奥への逃避行の時、目の前の安宅の関での難儀を予想し、岬から身を投げた義経一行と同行していた女性の伝説が残る場所です。尼御前と義経との関係がよくわからないので、今までスルーしていたのですが、このSAから歩いて尼御前岬まで行けると知ったので、探索します。家内も誘いたかったのですが、あどけない寝顔を見せているので、声を掛けませんでした。
歩いて数分で岬の公園に着きました。SAのすぐ裏です。『むざんなや 兜の下の きりぎりす 芭蕉』。源平合戦・倶利伽羅峠後にあった篠原の戦いで討ち死した斉藤実盛の首を洗った首洗池のほとりに立っている句がここにも立っていました。倶利伽羅峠・篠原の戦いに勝利し、破竹の勢いで京都まで上った木曽義仲。それを破った源義経の失意の逃避行劇。シチュエーションは違いますが、ど官びいきの日本人の感性に響きます。
旅装姿の尼御前の石像が立つ前を抜けると、海が見えてきます。その先端まで遊歩道が整備され、岬が見えます。ここから身を投げたんだな・・・薄暗い曇り空の下に見える岬は、物悲しさが漂っていました。
SA内のエネオスで給油し、本線に復帰しました。安宅の関があった「安宅PA」を過ぎ、家内が見たいと言ってた金沢の街を通過。「金沢東IC」で下車し、R8〜R159経由で「白尾IC」から「のと里山海道」に乗ります。5:43、「高松SA」着。いつも5時起きの家内が目を覚まさないなと思っていたら、車を停めたら、「ここ何処?」って起き上がりました。起きたらすぐにトーストを焼く家内なので、調度朝食に良いタイミングです。
しかし、SAなのにどこも開いていませんでした。トイレを拝借し、海側のベンチに腰掛け、家内はコーヒーを飲みます。遠浅の海が目の前に広がり、海水浴だった出来ます。足湯があり、海から上がった体を流すホースやシャワーまで完備です。この元高速道路は通行料無料なので、夏のここの光景が目に見えるようです。
5:58、出発。「今浜IC」を下車し、「なぎさハイウェイ」に入ります。「わ〜すご〜い」と家内は窓を開け、間近な海を見て喜んでいます。先月はバイクで来たので停められなかったけど、今度は四輪なので適当なところで停め、波打ち際まで歩いていきます。細かい雨が降っており、僕は傘なしだけど、家内は傘を差しています。車から滴り落ちた雫が、砂浜に穴を開けて行きます。
なぎさハイウェイをゆっくり楽しみ、「千里浜IC」から「のと里山海道」に乗ります。「西山IC」で下車し、r116で西進します。R249との交差点に、ファミリーマートがあり、僕はおにぎりとオールドファッションドーナツ、家内はサンドイッチを買って、駐車場の車内で朝食にします。
R249に乗り北上し、西海岸に出たとこで、r36を少し南下します。6:08、「巌門」。駐車場にロープが張られているので、路上駐車し下に降りていきます。奇岩や船が通り抜けられそうな穴が開いた大岩に喜んでいます。遊歩道で洞窟を抜けて、遊覧船のりば。そして階段を上がって車に戻ります。家内の足取りは、もう大丈夫そうです。捻挫からほぼ復帰しました。足元の悪いところもあるから、また足を捻らないようにしないと。
R249に復帰し、7:41「機具岩」。お伊勢さんの夫婦岩を模して、2つの奇岩にしめ縄が渡されています。『能登郡に鎮座する「能登ひめの神社」の祭神が賊徒に襲われた時、取って機具を投げられた。それが飛んでこの地に至り、化して機具岩となった。夕日が沈む能登二見で陰陽石が相対する真の夫婦岩である』
7:49、道の駅「とぎ海街道」。世界一長いベンチ・460.9mを見て、何故舞鶴由来の岸壁の母の碑が立っているのか不思議だったが、岸壁の母のモデル・端野いせさんは、ここが出身地だそうです。
『八朔祭り キリコとは、お神輿のお供をする灯明・切子燈籠のことで、能登一円の夏祭りの華として担ぎ出されます。八朔祭りは、富来で最も大きな祭りです。その昔、八幡神社のご神体が増穂浦に漂着し、浜辺に近い住吉神社の女神に助けられたのが縁で夫婦になりました。しかし、八幡の神は海鳴りが気になり夜も眠れず、山手の八幡の里に宮居を移してしまった。それ以来、夏の一夜の逢瀬を楽しむため、八幡の神を神輿に乗せ女神の元に賑々しく運んだことが祭りの起こりだと伝えられています。キリコは、海の彼方から幸いをもたらした先祖神や客人への歓迎の目印と言われ、現在では能登を訪れる観光客を温かく歓迎する明かりでもあります』
横には、「縁結びの岩」があり、キリコも僕の好きなラブスポットに謂れがあり、今も昔も変わらないね。好いた男女の仲が、次の世代を生み出し、人の営みの根本です。
R249を北上し、r49の交点からr49を海岸線に沿って南下します。8:21「関野鼻」到着。怪しい青空駐車場だけど、とりあえず入庫し、歩いていきます。観光施設の建物は一部壊れています。実に怪しい。関野鼻と岬の高台まで歩いて行くと、奇岩の海岸が目に入ってきました。ヤセの断崖はわかったのですが、義経の舟隠しは見えない。切り込んだ細い入江なんでしょうね。
『関野鼻は日本海岸最大のカルスト地形であり、ドリーネと呼ばれる無数の漏斗状の穴は、日本海側でしか見られない資料として重要です。この石灰質砂岩層は、貝類や鮫の歯などが多く包含されている化石層となっています』。川床の甌穴のような穴がポコポコ開いた岩も目にでき、満足して車に戻ります。
松本清張「ゼロの焦点」や、家内が次男に似ているとご贔屓な滝沢秀明主演の「NHK大河ドラマ・義経」のロケ地でもあるそうです。有料駐車場というのが不満だけど、家内が満足そうなのでOKでした。
R249は海岸線の道になり北上します。内陸へ進路を変えたところで、8:55「総持寺祖院」到着。拝観料1人400円。まだ早いので、売店が店出しをしています。僕同様、家内も経蔵に驚いていました。「回せたらいいのにね」と残念そうです。1回回せば、この経蔵に収められた経典全部を読んだことになるので、一気に仏教博士です。素晴らしい彫刻の本殿「法堂」の扉が閉ざされています。「入れないのか?」と一瞬がっかりましたが、横に回ると入れました。「うわぁ、ここ凄いね」とご機嫌で、木槌で魚板を叩いています。
永平寺から別れた曹洞宗の元総本山で、家事をきっかけに総本山を横浜に移したそうです。曹洞宗は座禅のお寺で、魚板を叩いて集合や座禅開始の合図にしているのでしょう。たまに、お寺のうち門などに魚型の木板が下がっています。「なんで魚なんだ?」と思っていたのですが、どこかの謂れ板に、「魚は常に目を開けているから」と書かれてなるほどと納得しました。お坊さんのお経は、良い子守唄です。修行中の若いお坊さんも、寝てしまうのでしょうね。これが変化して「木魚」になったそうです。魚板より耳に優しいので、もっと寝ると思うんだけど。
若いお坊さんが、本尊脇のスペースに椅子を並べたりしていました。法事があるのでしょう。家内の母親のお骨を永観堂に分骨する時、大きなお寺の法要を初めて体験しましたが、十数人の男声合唱団の低いお経は素晴らしいものでした。法要を終え、振り向いた法主さんのお話は、とても面白く素晴らしい体験でした。
R249からr38に乗り換え、再び海岸線に向かいます。9:42、「男女滝」到着。家内もやはり、気に入りました。二本並んで流れる優しい滝は、男性的な大瀑布とは大違いですが、とてもいいです。
海岸線に出てしばらく走り、9:59、家内に一番見せたかった「NHK朝ドラまれ」のロケ地・大沢漁港に着きました。櫓の横に駐車し、バス停内のまれロケ地案内を頂き、神社・役場を覗きます。役場内に入れるようになっており、「自然薯アイス・醤油味・400円」を買いました。「お姉さん、バニラと醤油のどっちが好きですか?」「私は醤油だけど・・・」「じゃあ醤油をください」バス停前に並んだ待合椅子に、今回も地元のおばあさんが座っており、「ここに座ってもいいですか?」と声をかけると、快くOK。おばあさんたちは、お迎えの車を待っているようですが、よく聞き取れない特有の方言を聞きながら、美味しくいただきました。
前回は、一般の民家なのでパスしたドラマのロケ地・「桶作家」に行ってみました。『おけさく』の表札が間垣に下がり、『前庭まで入って、どうぞご覧ください。桶作』の看板に誘われ、前庭に入ってみました。正面のガラス引き戸には『民宿 桶作』と書かれており、家内が「民宿なんだ」と僕に教えてくれます。「ロケのまま、消さずに残してくれているんだよ」「なんだ、そうなんだ」と天然です。可愛いな・・・
漁港を離れ、北上を開始してすぐに「桶滝」の案内板を見つけました。枝道に入り山に登って行くと、10:30「桶滝」に着きました。遊歩道が沢沿いに下っています。でも木々が覆っており、「探検やね」というと、「じゃあ、私はここで待ってる」とのお達しです。捻挫の足を庇っているようです。1人で下って行くと、桶滝がありました。岩の中央に穴が開いており、そこから滝が落ちている非常に珍しい滝でした。でも水量がイマイチで、迫力は全くありません。想像するしかなく不完全燃焼で帰ってきました。横に山の水を引っ張っているのか、塩ビのパイプから水が流れ出ており、柄杓が2つ置いてある。「飲んでね、美味しいよ」と語っているようだったので、飲んでみました。お腹に当たるも八卦当たらぬも八卦の運試しです。
車の方からバタンバタンと音がするので、怪しい奴らの襲撃かと思いながら、家内の「あれ〜」の悲鳴がないので観光客だろうと思うと、道路の看板のとこで中年女性3人組がいました。「こんにちは」と声を掛けると、「遠いですか?」と聞いてきます。水量がイマイチなことは言わずに、「すぐですよ」とだけお伝えしました。女性ばかりなので、躊躇していたのでしょう。道の入口が木々に覆われ、怖い感じもするものね。ドラマ「まれ」の育った桶作家の命名は、この桶滝から来ているように思うけど、真相は如何に・・・。
10:49、「ゾウゾウ鼻」。沖に霞んで島が見え、能登半島の美しい海岸線が眼下に。輪島市街地を通過し、11:18、「千枚田」。ここまでの景勝地はすべて貸し切り状態だったけど、ここは観光地であることを思い出させる人の数です。時間もそうだし、輪島の朝市見物の後に寄るにはちょうどよい距離です。観光バスも4台停まっています。1ヶ月前は、水を張った朝日を照り返す棚田だったけど、苗が成長し、緑の棚田に変わっていました。
11:35、「輪島製塩」。観光塩田の「すず塩田村」はもっと先ですが、こちらは塩田業者さんのお店です。横には塩田があり、大たらいや鋤、ドラマでまれのお父さんが四苦八苦していた天秤棒もあります。家内が「うわ〜重い〜、全然動かないわ」と、桶のぶら下がった天秤棒を担ぎ、鋤で塩田を耕しています。
「釜屋」という建物があり、中を覗くと塩作りの現役釜があり、塩が生産中でし願の輪島塩を購入します。「町野町大川・輪島製塩」150g・730円×2袋。微妙に塩の色が違うので、種類があるのかとお姉さんに聞いたら、日によって釜によって違うそうです。ゆず塩ドリンク・250円。輪島塗箸・500円。まれお菓子・650円を購入。
11:56、「南惣美術館」。バスが1台停まっており、蔵美術館に入ろうとしたら、昔のお姉さんたちがわいわいがやがや出てきました。入館料400円なんだけど、受付のお姉さんがいないので、後で払おうと1000円札を持って入りました。撮影禁止なので写真はありませんが、鎧兜・屏風・着物・漆器など代々伝わるお宝、当主が買い集めたと思われる織部などの茶器他、お宝満載でした。お茶の免許持ちの家内が、茶器関係に歓声をあげていました。いろいろ語ってくれたけど、ほとんど右耳から左耳に抜けて行きました。
『南惣は、かつての奥能登大野村の天領庄屋・南家の屋号である。代々当主が惣右衛門を名乗り、南惣と呼ばれていた。左大臣・平時忠が流されて来る以前から繁栄していた豪族で、鎌倉期以前より25代今日まで続く家柄である。
南惣は、付近一帯の大地主で、能登ヒバを産する広大な山林も所有する。徳川の天領として栄えたこの土地は、地の利を得て南惣に大きな富をもたらした。米・木材・木炭・製塩・製茶・養蚕が盛んで、曽々木・名舟・輪島の港から北前船に積んで手広く商い、事業は発展した。現在の総合商社的な経営をしてきた南惣は、家札(通貨)を発行していた。使用人に賃金として支払い、随時換金にも応じたので、社会的信用が大きかったことが伺える。
当主は美術・茶道を愛好したことから、日本・中国・朝鮮の絵画・書・漆芸・金工など多数の美術工芸品を、長年にわたって収集してきた。その中には、宮中に新穀を献上し拝領したものや、東本願寺に大量のヒバを献納したことで受領したものも含まれる。美術品は散逸することなく、今日まで大切に保管され、昭和46年に米蔵を改装して「能登集古館・南惣」を開館し、平成12年に「南惣美術館」と改名し現在に至る』
1・2Fの展示を見て回り、入口に降りてくると「不在で失礼いたしました」と受付に女性が座っておられました。拝観料を払い、「どうぞお茶でも」と促されたので、隣の母屋の土間に腰掛け、お茶と茶菓子を頂きました。団体さんにお茶出ししていたので、受付がお留守になっていたのですね。お話していて、この方はご当主の奥さんのように思いました。「どちらから?」「兵庫県からです。先月バイクでお邪魔しましたが、開館時間前だったので再訪問しました」「それは失礼しました。呼び出してくれたら、開けましたのに」「でも朝6時ですよ」「ええ、大丈夫ですよ」。
囲炉裏に火が入っており、そちらは写真OKなので激写し、お庭も案内していただき、気持ちの良い訪問になりました。家紋は、「丸に蔦紋」でした。
12:27、「本家・上時国家」。「平家にあらずんば人にあらず」と豪語し、平家全盛の平安時代末期に平清盛を補佐したNo2・平時忠の配流先です。その外観は、配流先・帰納した庄屋屋敷いとどまらず、まさに豪族の館です。背後に詰めの山城がありそうな逃げ場を持ち、館前は切岸され立派な水濠も配されている縄張りは、魅力的です。前回は開館時間前だったので内部を伺えませんでしたので、勇んで拝観料1人500円を支払います。
『上時国家の由緒 今から800年の昔、平清盛の義弟・平大納言時忠は、平関白とも言われ、平家一族の実質上の頭領であった。源平合戦で平家が滅亡した際、神器の帰座の功により特別な計らいで能登に配流になり、配所で没した。
その子・時国は、近隣の村々300石を統治し、江戸時代には天領の大庄屋を務め、苗字帯刀が許された。この頃の21代当主が現代に残るこの豪壮巨大な屋敷を築き、25代当主が現在もこの屋敷と伝統を守っている』
玄関正面に屏風が置かれ、その脇で拝観料を払い、南惣家同様奥様が時々声を掛け説明してくれます。各部屋にはいると案内放送が流れ、襖の「丸に揚羽蝶紋」・欄間の彫刻・お庭の池の形状・・・、興味深く拝見させていただきました。
『始祖・平時忠卿が能登に配流されたが、鎌倉幕府の詮議は厳しく、その子・時国は牛尾の山中に隠れ、源次滅亡の後町野川のほとりに住居を移し、土地を買い受け晴れて農耕に従事した。初代時国・2代時晴の時代に時国村と改め、21代時国左門は山麓を拓き、天保2年4月ここに家宅を移したと記録されている』
鎧兜・調度品・刀箪笥・あぶみ・見事なお着物を拝見し、囲炉裏のある部屋には見事な神棚が壁に下がっています。家内は座敷に座り、雰囲気を楽しんでいます。土間には籠が4つも下がり、槍などが欄間に置かれています。陣羽織に陣太鼓も飾られています。
『平大納言時忠は、従一位左大臣の長男として生まれ、彼の姉が平清盛の妻となっていたことにより実力を得、その全盛期には「平氏に非ずんば人に非ず」とまで言った。しかし平氏の滅亡により流罪の身となり、能登珠洲の浦に上陸し、25丁離れた南の山に殿を建て居を構えた。
時忠には6人の男子があり、年上の4人(京で生まれた)は流刑になったが、能登に来てから時国と時康が生まれ、時国亡きあとは時国が世を継いだ。その頃には刺客が鎌倉より入り込み、身が危険にさらされるようになったため、平の姓を時国と改め、牛尾という山中に逃避した。しかし源氏も滅びると、年々土地を増やし2つの村の支配者になり、時国の子・時晴の時には合計300石となり、時国村と改めた。12代・藤左衛門時保の時に、次男・千松に所領の1/3を与え隠居所を作り、下時国の起こりとした。
古老の話では、土地の山も田もほとんど時国家のものであり、先々代まで外出には駕籠を用い、めったに当主の顔を見ることが出来なかったと言われている』
時忠の姉の清盛の妻・時子(二位の局)は、壇ノ浦で幼い孫の安徳天皇を抱えて入水した人です。妹の建春門院平滋子は、後白河法皇の妃で高倉天皇の生母です。この高倉天皇が平清盛の娘・建礼門院徳子を娶り、その子・安徳天皇が即位したので、時忠の権勢は素晴らしいものだったでしょう。おまけに源平合戦終盤は、源氏に政権を譲って平家を滅亡から救おうと、源氏軍の大将軍・源義経と連絡を取り合っていたので政治家としての辣腕も光る。娘を義経の室に入れており、義経が京を追われて北陸路を逃亡中も、能登で一時の平安を夫婦で楽しんだものと想像される。
現在の当主までの家系図が掲示されており、大満足の訪問になりました。同時に拝観していたご夫婦は、下時国家拝観後来られたようなので、ちょっとお話しました。向こうは大農家という感じで、こちらは武家の趣を感じると言っておられました。車で下時国家に移動しましたが、家内に外観を見せただけで次に向かいました。大農家・庄屋だったら、祖父の家と同じだから目新しいものはないかな?と思って。
今回のメインディッシュは3つです。1つは家内にまれのロケ地・大沢漁港を見せること。2つ目は僕の歴史興味・時国家を見ること。そして最後の地に向かいます。13:03、「曽々木」。「海鮮丼」の幟がはためく「今新」というお店があったので、海鮮丼定食・1620円を食しました。海から吹き込む風が涼しく、沖にはウミネコが多数集まり、海面めがけて急降下飛び込みをしています。アジの群れでもいるのでしょう。興奮気味です。
車をそのままお店の駐車場に置き、歩いて「八世乃洞門トンネル」に向かいます。「トンネルハート パワースポット」の手掘り「せっぷんトンネル」をくぐります。家内がこのトンネルの由来を読むのを待ち、昭和32年の映画ロケポイントと教えます。「恋人の聖地 桂由美」の掲示板に、「ここも桂由美ね」とのこと。本日3つ目の桂由美ラブスポットです。石川県は桂由美とタイアップして、ラブスポット指定しているのかな?
ハート電飾トンネルを2人で渡りました。ハートの真ん中に家内を立たせ激写。「ハートうつし台」にカメラを置き、タイマーでハート内の僕らを写します。これで3つ目の目的も達成しました。
12時にここに来れれば七尾城に回ろうと思ったけど、2時間遅れの14時なので帰路に着きます。R249を戻り、南惣美術館横を走り、r6〜r57〜r26で、14:44・「能登空港」。ANAが羽田との間に1日2往復だけの空港でした。「まれ」一色の空港展示でした。これで観光客が東京から来るのでしょうね。展望デッキに上がると、広い滑走路が見え、小型プロペラ旅客機が2機佇んでいました。横に「日本航空学園」があったので、パイロット・航空整備士・フライトアテンダントの養成のための機体でしょう。
珠洲道路〜のと里山海道で、15:36「西山PA」でアイス補給休憩。「白尾JCT」からR159・R8で「金沢東IC」より北陸道に乗り、17:05「安宅PA」。18:44、「南条SA」で給油&休憩。敦賀から舞鶴道に乗り換え、19:48「三方五湖PA」内ファミリーマートで、「飲むヨーグルトブルーベリー・118円」を補給。日が落ちており、三方五湖を眼下に眺めることは出来ませんでした。
20:48、「舞鶴PA」で休憩し、家内はいつもの寝る時間21時になったので、後ろに行って布団の中へ。21:28「六人部PA」で、長椅子に横たわりしばらく目をつぶる。22:01、「西紀SA」着。ここまで来ると、我が庭に帰ってきた感があります。「チョコマーブルコーン・135円」で糖分補給。もう宝塚トンネル渋滞は解消されているので、中国道に入り、宝塚IC下車し、23:03に帰宅しました。スピードが落ちたので起きたのか、自宅前の道に入った時に起きてきました。
土曜日の睡眠時間3.5時間の強行軍、約1000kmの旅でした。

2015/6/14
日曜日は3人乗りヨットの月1レースでした。4月はコーチしてる大学ヨット部の新人勧誘の手伝い、5月は次男夫婦の帰省でレースメンバーから外してもらったので、久しぶりです。
1週間前は雨予報・降水確率60%だったのが、前日には曇り予報・40%に改善されいい感じです。でも風予想が、E〜SE〜SWで2m/sほどしかありません。長い風待ちを強いられるかも?なんて思いながら床につきました。
日曜の朝は遅く、6時台の目覚めでした。11時第1レースなので10時出艇・9時艤装開始すればOKですが、早めにハーバーに行き、クルージング艇の方をメンテナンスしようと思ってたので、「うわ〜遅れちゃった」とがっかり。
ゴソゴソ用意して階下に下り、家内に「おはよう」してからTVをONにすると、NHK「うまいッ」をやっていました。北海道のやぎチーズをやっていました。日曜の朝はこの番組をよく見ます。TV見ながら着替えなどしていると、家内が朝ごはんを持ってきてくれました。ありがたいな。
家内は9時に出発ということだったので、僕の方が先に家を出ます。倉庫に行き、家内用アドレスV125を出します。セルスイッチを押してもキュルキュルが弱くエンジン始動に至りません。アドレスはキックスタートできるので安心です。キック一発でエンジンが始動し、R171を一気に走ります。途中のコンビニでおにぎりを1個購入し、ハーバーの陸置きヤードに到着。
他艇メンバーも含めまだ誰も来ていません。レース艇のオーニングを外し、ボトムの水抜き穴にキングストンをねじ込みます。これを忘れ水に浮かべると、浸水してきて慌てます。再度クレーンで引き上げないといけないので難儀です。
シート類をセットしているところで、他艇に乗るヨット部の後輩がやってきました。彼が現在一番速いです。ディンギーヤードに多くの学生のレース艇が並んでいたので、そのことやあれやこれや話しします。
シート準備を終え、この日の使用セイルがわからないから、一旦陸置きヤードを離れます。係留桟橋の方に出て、クルージング艇を見に行きます。昨冬に僕が片付けたサンブレラ(日除け)をセットするロープが行方不明との連絡を先輩から受けていたからです。船内を探しましたが、当然あるはずがなく不思議です。外したサンブレラと一緒に置いたはずなのに・・・。
陸置きヤードに戻り、先輩艇の偽装を手伝うことにしました。このハーバーで開催された1週間前のA級全日本の話を聞かせてもらいました。母校チームから、84才・81才という兄弟の先輩がレースに出たようです。風が6m/sほど吹いており、ひっくり返ってしまい、レスキュー要員の学生が3人飛び込みレスキューしたそうです。数年前の前回の西宮開催では、僕もレスキュー要員でスタンバイしました。A級は僕が高校生の時に、大学ヨット部の正式種目から姿を消した古い船です。当然現役時代に乗ってた方は、ご高齢です。でもこのA級全日本は、その年代の大学ヨット部員たちの同窓会的な位置づけになっており、毎年参加者も多く盛り上がります。今年の参加者は、ご家族も含め400名だったそうです。
レース参加者の平均年齢が高いので、主催ハーバーで活動するヨット部の後輩部員がサポーターに回ります。今回はKG・甲南・神戸ヨット部員がメインでサポートしたそうです。風がわりあいあったので、沈艇が続出し、現役学生は飛び込み・泳ぎ・走り回ったそうです。
うちの艇のメンバーもやってきて、セイルをセットしてクレーンで桟橋に下ろしました。それでも9時に30分以上あるので、他艇メンバーも加わっておしゃべりします。うちのチームの甲南OB・Oさんは、A級全日本で活躍してくれた母校学生を労って、8月にバーベキューするそうです。7月にレーザー級世界選手権グランド・マスター部門に出場するGさんに声を掛け、スポンサーを取り付けたそうです。80才近いのに世界選手権に出場するパワーに脱帽です。毎年参加してるので、もう顔になっているのでしょう。「先輩、僕も参加していいですか?」と僕より年齢が下の甲南OB・元監督F君が言います。「ええよ〜、おまえんとこのクルーも連れてきたらええやん」。F君チームは、甲南OBで組んでいます。うちのチームは、KG・甲南・日大の混成チームです。僕が母校コーチ時代に教えた子も数名他艇に乗っており、このレースも学連ヨット部OBの巣窟です。
9時になり、風速2m/sで出艇します。空はどんより曇り空ですが。天気予報のE(東)風ではなく、既にSWの風になっています。この風向なら徐々に風速が上がってきそうです。通常3人乗りのところ、4人乗って出ました。うちのチームは、僕の3年上のキャプテンがオーナーですが、その学年でもう1艇チームを組んでいます。そのチームは1人しか参加できないので、2名うちのチームからレンタルすることになっていました。ところがもう1名参加できるようになったので、メンバーが余っちゃいました。
7艇参加で、3レース行い、船が走らず6位・3位からコースミスで6位・3位でした。気心の知れたメンバー4人揃うと話の輪が広がり、楽しいレースになりました。3レース目は6m/sほどに風が上がり、お荷物4人乗りから、4人乗りの威力を発揮するシチュエーションになりました。スタートミスでリラウンドしてビリスタートになりましたが、4人の体重で吹き倒される船を立てるので、1艇1艇抜いていきました。シースプレーも被りますが、もう水は冷たくなく、気持ちが良いです。曇り空で日差しがなく、最高のレース日和でした。
15時にレースを終了しハーバーバック。船を片付け、ヨットクラブハウスのウェットバーで集まり、あ〜だこ〜だ。ヨットレースの最高峰・アメリカスカップに久しぶりに日本艇がチャレンジします。そのチャレンジヨットクラブが、西宮の関西ヨットクラブです。去年の前回チャレンジ決勝で、大接戦の末アメリカ艇に敗れたニュージーランド艇スキッパー・ディーンバーカーが日本チャレンジのスキッパーに内定しました。その記者会見が今月あるそうで、Oさんが見に行くと言っています。
前回日本チャレンジのスキッパー・ピーターギルモアのサインが、うちの艇に書かれています。うちのメンバーの会社が、ギルモアとスポンサー契約してサオートしていた関係で、レースで乗ってくれました。2人目の世界的セーラーのサインゲットを目論んでいるようです。
今年のパンパシフィック・4ヨットクラブ対抗レースにも、ディーンバーカーを日本チームとして連れて行こうとか無茶な案をだしています。「雇うのに、なんぼかかると思ってますのん」と現実的な後輩が笑っています。「そんなもん、日本チャレンジのスポンサー・ソフトバンクの孫さんに声を掛けてもらったら一発でOKや」・・・等と話が盛り上がります。
いずれにしても、日本チャレンジ中断中も、何度かチャレンジャーに手を挙げようと資金集めに翻弄した関西ヨットクラブからのチャレンジが実現しました。朗報です。
夕方のR171を自宅に向けて走り、18時前に帰宅しました。家内が既に帰宅しており、僕が片付けている間にお蕎麦を作ってくれました。日曜の定番「モヤモヤさま〜ず」を見ながら夕食を食べ、モヤモヤ終了前に寝てしまいました。「お風呂、どうする?」と起こされ、風呂に入って自室に上がり、21時前に寝てしまいました。

2015/6/7
日曜日は、家内もお休みでした。1ヶ月前に一泊で巡った能登半島がとても良かったので、家内とドライブする予定でした。でも、1週間前に家内が捻挫してしまい、長く歩くのは無理そうなので、キャンセルしました。あまり歩かなくてよい絶景林道ドライブに変更しました。ターゲットの絶景林道は、兵庫県北部・八鹿から始まる「妙見蘇武林道」と、それに続く「三川林道」です。妙見山・蘇武山・三川山の尾根を巡る標高800〜1000m・距離50kmオーバーの兵庫県No1舗装林道です。去年の秋に初めてバイクで巡り、その絶景に惚れ惚れしました。
土曜の夜、「起きたら出発」といういつもの予定にして22時台に床につきました。日曜日は、4時に目覚めました。GPS・パナソニックゴリラに、数ヶ所のデータを入れ、カメラ・お茶・地図・携帯チェアなどを車に乗せます。家内も僕のおトイレやゴソゴソで目を覚ましたらしく、トースターにパンを突っ込んでいました。洗濯や着替えを済まし、5時に出発しました。
「出光セルフ宝塚176」で給油し、5:14宝塚ICから中国道に乗り、裏六甲を走っていると、北方に朝霧が見えます。「篠山盆地の朝霧に間に合うかも?」と話しながら、舞鶴道に乗り換えます。篠山盆地の朝霧は、オンシーズンの秋や春はもちろん、四季を問わず簡単に出会えますが、朝日が昇ると急速に消えていくので、夜明けの早い夏期間は時間との勝負です。
やがて霧のかかった山が見え出し、濃霧とまではいきませんでしたが、「西紀SA」は霧に包まれていました。ここで定番の朝カレーです。自宅でトーストを1枚食べて来ましたが、朝食にご飯を入れておくと、お腹のもちがいいです。家内もラーメンを食べていました。
6:14、西紀SAを出発し、「春日IC」で下車して、「北近畿自動車道」に乗ります。次は、「道坂峠」の朝霧に間に合うかどうかです。「遠坂トンネル」までは陽光を受け気持ち良い朝の風景でしたが、予想通りトンネルを抜けた丹後側は霧に包まれていました。立雲峡に上がれば「雲海に浮かぶ竹田城址」が観れそうですが、パス。
6:55、「道の駅・丹波まほろば」の朝の営業を見に寄り道しましたが、予想通り飲食店は営業前でした。コウノトリのオブジェがありました。くちばしが黒だったっけ?赤いイメージがありましたが、目の周りと足が赤いからそう記憶したのかも?
北近畿道を「八鹿」終点まで乗り、R9〜r6〜r267に入ります。危惧していた「妙見蘇武林道」分岐はノープロブレムで分かりました。北近畿道下車時にGPSで登録していた「日光院」に誘導させたのがグッドでした。
すぐに1.5車線の林道らしい道になり、7:25朝霧のお出迎えです。尾根道からは雲海が広がる景色が見れるでしょうが、僕らが上がるまでに消えていそう。7:31、「日光院」到着。『山名宗全祈願所、近畿楽寿観音霊場第5番札所、日本三妙見・但馬妙見・日光院、但馬七福弁天霊場・笑福弁財天』となっていました。播磨守護・赤松氏と抗争を繰り広げながら、応仁の乱の頃は「六分の一大名」と呼ばれ、全国の1/6の守護をしていた大大名・山名氏。田舎の但馬を本拠地にしながら、大したものです。山名氏の本拠地・出石に行ってみようかな?
山門に獣避け扉が設置されており、それを開閉して境内に入りました。ゆっくりながら、捻挫治療中の家内も石段を上がってきます。仕事中の靴より、ずっと調子がいいようです。自転車・スポーツカジュアル用に、僕が強くアシックスを薦めました。高校生の時、コンバースなど外国かぶれだった僕は、友達からの勧めで「オニツカタイガー」を初めて履きました。この時の履き心地は衝撃的で、以来ずっとお気に入りです。1日中履いてる靴の履き心地が良いと、気持ちも良くなるので重要アイテムです。捻挫が癒えるまで、TPOがNGでない時は、仕事でもしばらくこれを履くそうです。
弘法大師さんの像があったので、真言宗のお寺のようです。『飛鳥時代・572年建立。但馬国石原妙見は、肥後国・八代妙見、下野国・相馬妙見とともに、日本三妙見とされます。ご本尊は妙見大菩薩で、北斗七星と同体とされるが故に、寺紋は「七曜紋」です。北の空で、1年を通じて見ることが出来る北斗七星は、万物の運勢を司る仏様で、五穀豊穣・商売繁盛など、あらゆることに対し「開運厄除」のご利益があります。戦国時代は、特に武門の信仰を集め、山名宗全も戦勝祈願しました。天正年間、羽柴秀長の山陰攻めの兵火にあい、寺門一時衰微しましたが、寛永9年に妙見山中腹に移転復興し、三代将軍・徳川家光公より御朱印地を賜りました。寛文5年の出雲大社の造営に際し、本殿御用材に日光院の妙見杉をお譲りしたお礼に、出雲大社より三重塔を譲り受けました。妙見全山を伽藍とする壮大な妙見信仰の一大霊場として繁栄を極めました。明治になり、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、妙見信仰の弾圧が始まりました。明治9年に「寺号を廃して、不動産のみ名草神社とせよ」という布達にて、再びこの地の末寺・成就院と合流して、今日に至っています。つまり、日光院の建物に新たに名草神社が入り、お寺の建物がそのまま神社とされたのです。故に、仏教の象徴である三重塔が名草神社の境内に存在しているのです。』・・・名草神社の三重塔を観に行かなくちゃ。
拝殿裏にまわり、本殿を観に行きました。彫刻が素晴らしく、龍の立体像など見事でした。そこかしこに「七曜紋」が配され、苔の覆った境内の落ち着いた雰囲気も一級品で、素敵な寺院でした。
「お助け地蔵」という錫杖ではなくスコップを担ぎ、飯盒を手に持ったユニークな石像がありました。『当山53世・光裕上人は、人を愛し人のために尽くすことが何より生きがいでした。平成8年30才で遷化しました。高野山真言宗教学部奉職中に起きた阪神大震災の折も、必死に人々を助けました。その働きぶりと優しい笑顔が忘れられないと、当時ボランティアを共にされた彫刻家・岡倉石朋先生が、在りし日の上人を偲び、名づけてくださいました』。当時の住職だったであろう上人のお父様が、息子の生きた証をこの像で遺したかったのかもしれません。
ぐにゃぐにゃ林道を上がっていきます。半年前は、バイクで西側から妙見蘇武林道の途中に上がったので、こちらの起点からの道は初めてです。対向車が来ると離合に注意しなければなりませんが、窓を開けて走ると、野鳥の鳴き声が聞こえ、気持ちの良い森の道です。
落ち葉・落枝・落石に気をつけながら上がっていくと、「ん、あれは?」とニッコリしてストップ。エンジンを切って、「ちょっと待っててね」と車外に出ます。前方路肩近くから拾い上げたのは、牡鹿の角です。林道を走っていると、時々ハイカーさんが立派な角を持って歩いていますが、僕も欲しいなとずっと思っていました。鹿の角は毎年生え変わります。春に角を落とし、草をモリモリ食べ、餌が少なかった冬に落とした体力回復に努めます。これは骨じゃなく、皮膚の変形だそうです。ぐんぐん角は伸び、繁殖期である秋にメス獲得のためにこれを使って他のオスと格闘したり、メスを立派な角で魅了し、子孫を残すために使います。冬は餌が少ないので、角に行く栄養が勿体ないから、角が硬化して春先に抜け落ちます。
拾った角を見ると、根本が綺麗に丸みを帯びており、自然落下のようです。先端の一部にカケがあり、木でも突いたのかな?なんて想像しちゃいました。これだけで林道に来た甲斐がありました。
8:10、「妙見山登山口駅」・・・登山口への分岐。野鳥や樹木の案内板が立っています。遠くで、特徴的な鳴き声のアカショウビンが鳴いています。あまり聞けない鳥なので、ラッキー。オレンジ入りのきれいな鳥だよと、家内に説明します。これも特徴的なカッコーの鳴き声も聞こえます。
8:23、高度が上がり、窓から山並みが見え始めました。木々の切れたとこで車を停め激写。アカショウビンの声が大きくなった。近づいたみたい。フクロウも鳴いています。でも朝方にフクロウって鳴くのかな?
8:28、「名草神社」到着。車を停めて外に出たら、いきなり近くでアカショウビンの鳴き声。こんなに近くで聞いたことがないので、慌ててカメラを用意したら、アカショウビンの声が遠ざかっていきます。アカショウビンって、鳴きながら飛ぶんだ・・・知らなかった。
名草神社は、ここから700mなだらかな坂道を上がっていくようです。家内はお留守番で、僕だけピストンすることにしました。杉の巨木が林立する中を歩き始めると、150mほどで三重塔がありました。その横には杉の巨木の一部が横倒しになり、巨大な切り株には覆い屋・・・『妙見の大杉 樹齢1500年と言われた妙見の大杉の根株を保存しています。平成3年の台風19号の40m以上の風で倒壊しました。大杉は、地上7.2mのところから幹が2本に分かれ、並立していたことから夫婦杉と呼ばれ、三重塔とともに八鹿町のシンボルとして親しまれてきた。昔から妙見には、樹齢400年前後の杉の古木が自生しており、江戸時代には出雲大社本殿の心柱に提供された由緒もあります。妙見杉は山岳地帯に育成する杉で、寒冷地に強い兵庫県を代表する品種です』
誰もいない森の中の小さな空間に、ドドーンと三重塔。『この三重塔は、出雲大社に国守・尼子経久が願主になって1527年に建立したものです。出雲大社本殿心柱を提供した縁で、1655年標高800mのこの地に移築されました。高さ24.1m・一重の一辺の柱間は4.7mあります。屋根は柿葺で、心柱は二重から塔の先端まで伸びています。彫刻では、一重の軒隅で力士が屋根を支えています。蟇股には梵字の他に、蓮・牡丹・琵琶・雲の透かし彫りがあります。また三重の軒隅には「見ざる・言わざる・聞かざる・思わざる」を表した四猿の彫刻があります。昭和62年に解体修理が完成し、丹塗りも鮮やかな三重塔が460年ぶりに蘇りました』。階段を上がった上の郭に本殿があるようですが、家内が心配なので帰ります。山陰の雄・尼子氏がここに絡んでいるなんて・・・そして江戸時代に出雲からここまでこんな巨大建築物を運搬し、組み立てる技術力と行動力に驚きました。現代でも心柱1本をここまで移動させる大仕事は、日本中を釘付けにするでしょう。凄いな。国の重文指定です。
8:49、更に標高を上げ、木々の切れ間から覗く東には1000m級の山がないようで、遠くまで山並みが見通せます。素晴らしい景色です。妙見山の肩の峠を越えたようで、道が下りだしました。すると、未舗装路になりました。オンロードバイクでも難儀しない程度の道ですが、2〜300mかな?北の高峰・蘇武さんが見えているのに、ぐんぐん下ります。自転車なら「勘弁してくれ〜」ですが、車なので平気です。「金山峠」で未舗装の枝道が分岐していました。林道は、尾根の西側になり、半年前に西から上がってきた道と合流しました。9:10、前回休憩したベンチのある展望所でストップ。日光院で散策中に、2台車が上がっていき、名草神社でも1台下っていったということですが、走行中にすれ違った車やバイクはゼロです。いい加減に停めましたが、やはり誰も来ませんでした。ハチ北・ハチ高原スキー場が、谷を隔て西に見下ろせます。家内は走行中も窓を開けて、ずっと絶景を観ています。
9:27、スカイスポーツのテイクオフバーン到着。木製の柵に規制線が張られています。さては転落事故でも起こったのか?とよく見ると、柵が壊れています、この冬の雪で寿命が来たのかな?ここは外界との距離が遠いので、パラグライダーがテイクオフするのは午後のみのようです。午前中1本・午後1本というピストンは出来ないのかも。その気配が全くありません。林道竣工記念碑には、全長24.8km・着工昭和63年〜完成平成5年と書かれています。30年仕事ですね。
9:49、「銚子ヶ谷カキツバタ群落」。また僕だけ探索に入ります。半年前の「マムシに注意」の立て札は、もうボロボロになっていました。雪の下で厳しかったようです。山に足を踏み入れる土がフカフカで気持ちがいい。沢の横の踏跡を辿って登るとピークを越え、カキツバタが生える湿原になりそうな場所がありました。沢に板橋が渡っており、踏み板が所々にあります。アヤメ・菖蒲・カキツバタの区別は僕には出来ませんが、紫陽同様雨の似合う花です。梅雨に入った今が咲き時だと思うけど・・・そんな雰囲気の草が雨が降れば池になりそうな小さな湿原に生えているけど、ここなのかなあ?まだ奥に広がりがありますが、家内が心配になり撤退しました。帰路で森を見上げると、ブナの森でした。
10:03、奥神鍋スキー場・最上部に出ました。半年前に来ているので、次に何が現れるか記憶にあり、前回よりスピードが早く感じます。外界を遥か下に、リフトを真横に、そして北の遠くにこれから進む「三川山」山頂のアンテナ群が見えます。
10:14、「妙見蘇武林道」終点&「三川林道」起点。視界が良く、日本海が見えていましたが、ここからぐんぐん日本海に近づき、三川山の稜線を一筋に切って進む林道が見える豪快ルートです。更に、ツキノワグマ生息地でもあり、半年前はそのうんち?登り跡?を見つけた林道です。いざ行かん!
初めて他車とすれ違いました。オフロードバイク3台です。ようやく林道を楽しむ方が上がってくる時間帯になったようです。10:32、「秘境・小城集落眺望駅」。眼下に1世帯?数軒の家が見えます。集落の大半は朽ちたのかな?凄いところに住んでいるものだ。
10:38、「小城分岐駅」。ここで大問題発生・・・林道が通行止めになっています。残念ながら離脱するしかありません。先ほどの秘境・小城集落に下る道があるのみです。1車線のコンクリート舗装・つづら折れをゆっくり下ります。10:50、分岐に出ました。GPSの自車位置は山の中、ツーリングマップルにも怪しい破線しかないし・・・。一方は「川会・7.4km」「和佐父・6.1km」、もう一方は「山田口5.8km」。大体の自車位置はわかってるので、地図を見て、川会・和佐父・山田を探します。道が少し広い和佐父方面は白線の道、山田方面はいきなり急勾配で下るけど、「山田渓谷」を経てr258につながっているようです。
「え〜こっちに行くの〜」と家内が不安そうですが、山田方面に入ります。キャラバンの車幅ギリギリの道が下り、つづら折れは数度切り返さないと曲がれません。つづら折れ手前で一度エンジンを切り、ギアを入れたまま車を出て、徒歩で先を探索します。Uターンなど出来そうにない道なので行くしかないのですが、心の準備というものが必要です。家内を不安にさせないように、落ち着いて「行けるみたい」と。それを数度繰り返し、11:14、まともな道に出ました。
車から出て下ってきた分岐道を振り返ると、「行き止まり この先から、車両の通行ができません」と赤字で書いてある。「射添渓谷」というところを通ってきたみたい。滝はあったけど、それどころじゃありませんでした。一方の道は「宮神」へ行くようです。「矢田川漁業共同組合」「冬期間、この先通行止め」ともなっていました。この道は、オフバイクならまだしも、夏でも通行止めだわ。家内は足を踏ん張って、緊張してたそうです。
山田川を下ります。GPSにはr258と表示されており、もう安心です。2車線の気持ちの良い道になり、r4に出ました。林道で対向車が来なかったのは、三川林道が通行止めだったからですね。帰宅後調べたら、和佐父・川会への道の方が、更に狭かったそうです。ラッキーでした。
r4を北上すると、「余部」の道標が現れました。「余部鉄橋のあるところでしょ?遠くまで来ちゃった〜」と言うので、「じゃあ行ってみようか」ということで、R178に出て左折しました。「香住余部道路」という無料の自動車専用道が走っており、あっという間に余部終点です。下りたらすぐに、「あっちにも高速道路が走ってるね」「あれが余部鉄橋で、JR山陰線が走ってるよ」という至近距離で、11:48「道の駅・あまるべ」到着。
バイクが沢山止まっていました。駅まで上がってみたかったけど、エレベーターがないので断念しました。お客さんも徒歩でしか上がれないのだろうか?お年寄りは乗れない駅だなあ・・・。鉄橋グッズのお店を覗き、売店を覗き、線路文鎮が気になりました。
高速道路風ではないR178で戻ります。12:13、JR鎧駅。JRのポスターになった駅です。駅から鎧漁港?を見下ろしてパチリ。海底の砂地や岩礁が透けて見える透明度が素晴らしい。香住で海鮮を食べれるお店があると良かったのですが、見つかりません。r11の海岸線道路を走り、小さな展望台で停まります。「山番」という地引網の見張りをする櫓がありました。入ったら暖も取れるようになっており、眼下の砂浜での網を見張るそうです。魚が跳ねていれば村人に連絡し、村人総出で船などを出し、湾に入るのを待って網をうち、地引網で獲るそうです。
数ヶ所の展望台で景色を眺めたあと、「竹野」で海岸線を離れます。「ひたすら山と田が続く田舎道」と紹介されているr1は、その通りの気持ちの良い道でした。ここらで、「出石で皿そば食べよう」ということになり、R178〜R426を使って、14:06「出石」到着。「手打皿そば・五萬石本店」に車を入れ、久しぶりの皿そばを賞味します。セット5皿900円です。2人で15皿食べました。僕が9皿で、家内は6皿でしたが、満腹になりました。入口には「皿そば大食い大会」の上位陣の結果が貼られており、1位は女性で153皿・・・唖然・・・です。
家内の足も調子が良いようで、出石城前まで少し歩いてみます。150mぐらいかな?城の裏山に、山名氏が築いた山城・有子山城跡の郭が見えています。木々を伐採し整備されたようです。いつか登ってみたい城ですが、比高は100mでは到底ききません。斜度もありそうで、手強そうです。2時間コースな気がします。帰宅後調べたら、標高320m(比高310m)・・・手強い。というより、出石って海からかなり離れているのに標高10mしかないの?って驚きました。でも地図では裏側に道があります。これを使ってお気軽に登れるかも?
売店を覗いて、招き猫やカエルなどのクリスタルなCBに載せたら可愛い置物を見ていると、家内が「いいのを見つけたよ」と。カエルのぬいぐるみが、赤い座布団に座っています。赤い帽子を被っています。「還暦カエル」。僕らは今年還暦で、先月はGW2週間後の土曜日に、突然長男一家がやって来て、既に金曜日の晩から来ていた次男夫婦とともに、祝ってくれました。赤いちゃんちゃんこと帽子を被らされ、日本料理のコースをプレゼントしてくれました。記念アルバムや、それを作ってる2家族のメイキングビデオ、その他あれやこれや、僕は感動して泣いちゃいました。
それが蘇り、これは出会いです。14:53、「出石ゆめごこち」さんで、「還暦カエル」購入、1700円。15時に出石を後にしました。r10で山越えし、r104〜R312で15:51「海鮮せんべい但馬」で、海鮮せんべい・520円+シューラスク520円=1040円購入。前回、グループツーリングで来た時は、もっともち米を使ったおかきがあったのに、お店が変わったのかな?
無料のコーヒー飲んで、16:06・お店を出ました。竹田城址の山が、見えています。「北近畿自動車道」に乗ると、但馬国と丹波国を隔てる山壁に、林道がスパッと走り、アンテナ塔の立つ山頂に向かっています。バイクで走れるんじゃないかな?帰宅後調べたら、「栗鹿山・962m」です。春日ICから舞鶴道に入ります。宝塚トンネル渋滞・12kmです。家内がケーキを食べたいというので、篠山で下りて喫茶店に入ろうかとも思いましたが、西紀SAのレストランを覗くことにしました。
メニュー棚に飾ってなかったけど、店内に入り「ケーキセット、ありますか?」と聞くとあるとのことで、チーズケーキセット520円+季節のケーキセット650円を注文しました。いつものように、お互いのも食べましたが、これは当たりで美味しい。リピーターになりそうです。
16:53、SAを出ました。「篠山口IC」で下車し、r306〜r49。そのまま「美濃坂峠」を越えようと思ったけど、車なのでr12に変更しました。R372〜r12で自宅近くまで戻り、18:53・靴屋さん着。スカートでも履ける仕事靴を物色し、買いはりました。19:29・靴屋さんを出発し、19:37・自宅着。ああ、面白かった。

2015/5/31
土曜の朝、TVニュースで「今年のホタルは早い」と聞きました。家内と今夜見に行くことにして、いつもホタル乱舞の目安にしている西脇市畑谷川情報をチェックしました。今までたくさんホタルを観に行っていますが、ここで「乱舞」というものを体験しました。午後6時頃現地入りし、だんだん暗くなっていく中、河草からホタルが飛び始めるところから見ました。ポツポツと蛍の光が見えるようになり、あっという間に乱舞状態になりました。ただ唖然としながら川を見つめ、歩いているだけなので、服に止まったホタルが輝き、家内と素晴らしい時間を共有出来ました。以来、ここの情報をホタン鑑賞の指標にしています。
「例年は6月2週目が乱舞のピークですが、今年は1週間ほど早まりそうです。只今の状況は3割程度」となっていました。北摂でも、ピークは6月1週目と予想し、少ないだろうが今日も飛んでいるだろうと予想し、20:30に自宅を出発しました。
r12を北上し、夜は鹿が出没する西峠を慎重に越え、「後川」を右折しr309・羽束川沿いをゆっくり走り、いつもの場所でホタル観賞しました。ヘッドライトを消すと真っ暗闇で、家内持参の懐中電灯で足元を照らしながら川を見ると、ホタルが出ていました。最盛期の半分以下ですが、川音のみの幻想的な蛍の夕べに浸りました。毎年ホタルを観ていますが、何度見てもいいね。目が慣れてくると、あちこちの蛍の光が目に入ってきます。最盛期は森の方もホタルが飛んでいますが、そちらにもチラチラと視認出来ました。
r12との交差点を渡り、そのまま羽束川沿いのr37を走ります。後川下のポイントにも飛んでいました。小柿渓谷内の橋に車が1台止まり、ご家族で橋の下を見ていました。ここは通過しましたが、飛んでいたのでしょう。ここは渓谷の雰囲気がありナイスな場所です。でもホタルは少なめのはず。
小柿の三田市野外活動センターを通過し、「下槻瀬」の羽束川を渡る橋に行ってみました。橋上に車を停め眺めると、ここにも飛んでいました。r323〜r33〜r325〜長尾山トンネルという定番コースで10:30に帰宅しました。
僕らの就寝時間から言えば、遅すぎる帰宅で、家内は助手席で眠っていました。この寝顔が可愛い・・・

5/31は、4時に目覚めました。昨晩は遅く11時台に寝たのに、身体はあまり疲れていないようです。5時を回るまでゴソゴソし、準備開始です。大学ヨット部のコーチング日です。琵琶湖のポイントレース参戦なので、レースコーチングがメインになりそうです。
雨予報が変わり、昨夜ホタル観賞後の帰り道で少しお湿りがあった程度で、日中は晴れとのことです。車は快適だけど楽しくないので、倉庫から「招き猫CB400SB」を出します。5:59、ローソンで「おにぎり紅鮭・135円%紀州南高梅・110円」を購入。飲み物は自宅から持参の麦茶です。仕事の会合なので出されるペットボトルが自宅冷蔵庫に貯まりだしたので、消費します。
「SONY・リニアPCM対応ICレコーダー・ICD-UX533F-L」に、マイク感度の低い「iBUFFALO マイクロフォン・BSHSM03BK・417円」をつないで、「MP3・128kbps」で録音してみます。「audio-tachnica・ステレオマイクロホンAT9901・3254円」を使っていたのですが、マイク感度が良すぎて、撮りたいエンジン音以外のチェーン音なども拾ってしまうので、web会話用のお安いのを試します。結果はgoodでした。
「オリンパス・リニアPCMレコーダー・LS-20M」は、音楽レコーディング&録画用ICレコーダーで、製品品質自体はナイスでしたが、微細・精細な音をクリアに録画するリニアPCM録音のみしか出来ず、録音の質を一番下に下げても、微細なスレ音も録音して、バイク車載ムービーには不向きでした。録画操作も煩雑だったので、お蔵入りしています。
マイクを「クイックルハンディ・替えモップ」に突っ込み、ハンドルブレースにタイラップで固定して出発しました。続いて、中国道豊中IC手前で、暑すぎるのでライフジャケットを脱いでリアボックス前に固定するタイミングで、マイク位置をフロントカウルサイドのユーティリティーボックス内に移動しました。帰宅後検証すると、ハンドルブレース固定は、ハンドルブレースの遊びによるハンドルとのスレ音でNGでした。カウルボックス内はOKでした。
中国道〜名神を走り、「桂川PA」で休憩。休憩の必要はなかったのですが、時間の余裕があるので、朝食用におにぎりを1つ食べます。「京都東IC」で下車し、湖西道路を皇子山まで走り、7:15、ヨットハーバー着。
8時に出艇し、帆走練習の各艇背後に着いたり、真横から見たりして、気づいたことをアドバイスしました。琵琶湖にしては珍しく、朝からいい風が入っており、フルトラピーズです。セイルのリーチの開き加減など、選手からは確認しづらいとこをチェックし、登り角度の悪い艇のチューニングをアドバイスします。
10時に、レース運営艇が出てきて、スタートマニューバリング開始。1回生の新人女子マネージャーが3人乗っていたので、彼女たちに時計係をお願いし、レース運営の第一歩に関わってもらいます。レースフラッグが揚がりますが、マネさんたちは既に記憶しています。1度ミーティングで教えてもらったそうですが、そのやる気にちょっとビックリしました。自宅や寮に戻り、勉強していますね。
琵琶湖の雄・同志社が参加していなかったのが残念でしたが、470チームはファーストマークで、出場した6艇が、1〜6位で回航するという素敵な景色も見せてくれました。
14時にレースは終了し、その後16時着艇まで練習しました。ロング帆走練習・ラウンディングマーク・基本練習。スナイプチームを中心に練習を見ました。マークラウンディング中に、マークタッチを想定した360度ターンを入れましたが、ターン中新たなケースを起こす艇があり、ターンする場所も考えないと。それと360度ターンが遅い艇もあります。
16時にハーバーバック後、合宿所にバイクで戻りました。1人乗りで練習していた1回生達が楽しそうに片付け後のシャワーなどをしています。いい風だったので、何度もひっくり返ったようですが、楽しかったでしょう。
18:30から、全体ミーティングです。1回生への歓迎、ヨットの素晴らしい世界のことを、1週間前の80周年記念クルージングに80歳代のOBまで参加したクラブ全体のことに引っ掛けて話しました。その後、練習やレースで感じたことを話しました。
19時前に全体ミーテングが終わり、その後夕食・各クラスミーティングと続きますが、僕は離脱です。まだ空は明るく助かります。湖西道路〜名神に乗り、19:21、名神「桂川PA」でビックリソフトバニラ140円を購入し、糖分補給です。バイク置き場にBMWが1台だけで、当初天気予報が悪かったので、ツーリングバイクは少なかったようです。このPAで日が暮れました。
中国道・豊中ICで下車し、20:07・「セルフ宝塚176」で給油。246km/8.58L=28.7km/L。帰宅すると、家内が足を投げ出して畳に座っています。「捻挫しちゃった〜」。初めて、神戸地下鉄湾岸線に乗ったそうで、目的地を探すために駅の階段から道路に出たところで、段差に気づかず足首を捻ってしまったそうです。
なんとか仕事の会合を済ませ、やっと帰ってきたそうです。そんな体なのに、「ラーメンでごめんね」と僕の夕食を作ってくれました。ありがたい・・・

2015/5/24
金曜日の夜、次男夫婦が帰省しました。東京で働くようになってから、毎年GWに帰ってきていたのに、今年帰って来なかったのは、今週末の用事で帰って来るためでした。その用事は、彼の出身大学ヨット部の80周年記念クルージングのためです。
この帰省に向けて、この1週間の早朝時間は掃除に費やしました。GW前に、今年初めて庭の雑草との戦いをしました。しかし、皐月のナイスな気候は、人に優しいばかりではなく、草木にも成長の風を送ります。山は若葉の清々しい緑が萌えて素敵な顔をなりますが、我が家の庭の雑草もスクスクと育ちます。
そして、隣の実家の掃除もしました。この正月に次男が結婚し、盆正月などに、3家族が一緒に住むことが、現実味を帯びてきました。我が家で、親である僕らと一緒に住むと、お嫁さんたちが気を使うだろうと、隣の実家がゲストハウスにしました。3ヶ月後のお盆にも、ゲストハウスにも2家族という状態になりそうです。1Fの別部屋にそれぞれの家族が寝ることも出来ますが、2Fにも快適に寝れる部屋を復活させることにしました。物置きと化している部屋のリニューアルです。2Fの元弟の部屋をざっと片付けてみると、網戸と襖が傷んでいます。このままでもいいといえばいいのですが、襖の張替えと、網戸の修理をすることにしました。
修理業者を探さないと・・・と思ったこのタイミングで、家内が「新聞折込に、襖・網戸・畳の張替えにチラシが入っていたよ」と教えてくれました。お隣の川西市の業者さんですが、家から5分ぐらいの距離です。近くていいなと、早速その日に電話してみました。離した感じも良かったので、その日の昼休みに自宅に来てもらい、現状を見てもらいました。指摘も信頼に足るので、お願いすることにしました。壁紙の種類・網戸の種類を決め、すぐに見積もりを書いてもらいました。
仕事が早く、2日後の昼休みにはリニューアル成りました。近所のホームセンターで、8畳用の畳敷きを買ってきて、また早朝時間を使って敷きました。ピッタリでした。本棚の本を全て下し、ホームセンターで買ってきた小奇麗な敷板の上に置き直しました。飾らず置いたままになっている母の書いた油絵を、整理しなおしました。柱や窓を雑巾掛けし、掃除機を掛け、なんとか寝れる部屋になりました。家内も、朝の炊事の合間に手伝ってくれたり、「お父さん、良くなったねえ」と力をくれたりしたので、週末に間に合わせることが出来ました。
金曜日の夜、20:15着ということだったので、家内と20時に家を出ました。僕の早朝自転車・定番コースである猪名川に掛かる軍行橋を渡る時、着陸態勢に入っている飛行機のライトが、3機並んで見えました。「あの3機のどれかじゃないかな?」。
駐車場に入れ、JAL到着ロビーに行くと20:13。電光掲示板には、「東京発定刻20:15・・・20:05到着済」の表示が出ています。20:30頃、スーツケースをガラガラしながら次男夫婦が出てきました。2泊なのに大きなスーツケースだったので、機内持ち込みは無理なサイズです。ターンテーブルで、荷物が流れてくるのを待っていたのでしょう。駐車料金は、30分以内で無料でした。
夕食がまだということなので、帰宅すると家内は即席に夕食を作ります。僕はリニューアル成った2Fの部屋を2人に見せ、この部屋でも寝ることが出来る旨を伝えます。本棚で見つけた弟の結婚式アルバムを見ながら盛り上がりました。小学生低学年の次男が、いつもより目を見開いて写っています。お嫁さんが、笑っています。いつもニコニコしている子なので、人に好かれるタイプです。2人を見ていると、いつも次男が楽しそうで、微笑ましい。いいお嫁さんです。

土曜日の朝、夜が明け朝の散歩を終えて帰宅すると、家族4人揃っていた頃の定番の朝食が出来上がっていました。ご飯・お味噌汁・玉子焼き・ポークビッツ。美味しくいただき、7:15になったので、お隣に2人分の朝食を運びました。予定より15分早かったので、お嫁さんはパジャマ姿でした。お化粧前のすっぴんなので、はにかみながら「おはようございます」と。長男のお嫁さんは、すっぴんでも堂々としていますが、次男のお嫁さんは家内と同じような仕草をします。家内は新婚で一緒に住みだした時でさえ、朝のお化粧前は「見たらあかんよ〜、来たらダメ」と僕を避けていました。
8時になり、次男夫婦を車に乗せ、琵琶湖に向かいました。琵琶湖遊覧船・ビアンカを貸し切ってのパーテー・クルージングが、メニューです。名神・大津ICで下り、JR線を渡る道をちょっと間違えながら、9:32に琵琶湖遊覧船乗り場に到着。
学生たちに朝の挨拶をして、OB会の重鎮さん達に挨拶します。僕は、このクラブのコーチをするようになったのが、次男が選手だった時です。次男は第70代主将として、70周年クルージングで主将挨拶・決意表明をしましたが、今回は80周年。僕のコーチ歴も長くなりました。
その間に卒業していったOB・OGさん達も、多く参加しています。ワイワイガヤガヤ・・・。10時になったので、次男の機先を制し3人分の参加費28000円を受付担当の学生に払います。「え〜、払うよ」「いいや、君らは将来が長いから、自分たちのために使いな」。名札を受け取り、首からぶら下げます。黒単色で目立たないので、昔から使っている黄色のお手製名札もぶら下げました。僕はコーチなので、前回の75周年同様、選手の親御さんのお守りをしなければなりません。
家族連れのOBさん・OGさん・・・見知った重鎮さん・・・続々と集まります。来賓も多く、日本セイリング連盟・日本学生ヨット連盟・ライバル各校代表・・・僕の母校からも先輩が2名来られています。受付の学生に、選手の親御さんの受付状況を教えてもらいます。親御さんは、ワイワイ旧交を深めて話が盛り上がっているOB・OGさんと違い、孤立しがちです。声を掛け、リラックスさせます。親の理解や協力は、クラブの戦闘力アップに大きな力に成ります。息子夫婦も参加しているけど、この日はコーチとしてその仕事に専念します。
11時になり乗船開始です。桟橋手前に現役学生達が並び、反対側には応援団総部からやってきた小楽団とチアリーダー・学ラン姿の団長です。華やかなチアリーダーの動きに、目が行ってしまいます。学ランも、今や絶滅危惧種ですね。座席を確認しに行きます。希望通り、2Fの親御さんたちのテーブルに僕の席がありました。5家族・9名のご家族が参加です。バイキング形式で、食事やデザートが並ぶようです。
そこに荷物を置き、4Fデッキに上がります。ビアンカが桟橋を離れると同時に、記念式典の開会式です。4回生マネージャーの松岡さんが司会をします。始まる前に彼女に声を掛けましたが、「緊張しています」と言いながらも、いつもと同じ笑顔です。度胸が座っているね。彼女の司会で始まります。
実行委員長による開会宣言。応援団総部による学歌斉唱、チアリーダーのフラッグを使ったパフォーマンスに目が行きます。このクラブのOBでもあるヨット部長の准教授の式辞。創部された80年前の1935年は、湯川秀樹先生が日本初のノーベル賞を受賞された年だそうです。今回は大学学長が用事で出席できないそうで、大学理事の方からの代読。と続きます。
司会から「式典の進行がスムーズすぎて、食事の用意がまだ出来ていません。しばらく「AP旗掲揚(レーススタート延期信号)」します。15分ほどお待ちください。」など、ヨット用語を交えた言葉に、場が和みます。
時間になり、第一線スタートで席に着きます。親御さん達を迎えます。僕が自己紹介します。僕はコーチでもあるけど、以前は選手の父親でもあったので、そのことを披露し、「気楽にお話下さい」と。続いて1家族毎に、自己紹介していただきます。4回生主将のご両親は東京から来られました。4回生T君のご両親は奈良から。3回生Hくんのお母さんは高知市内在住だそうです。2回生Tくんのご両親と妹さんは、地元滋賀県からで、「こんなに立派なパーティーだと思わず、気楽に来てしまいました」と。最後は2回生エール係M君のお母さんで、熊本から来られました。
OB・OGに圧倒されそうな中、できるだけリラックスして楽しんでもらおうと、各家族に、お子さんのヨット部での生活を披露し話を振りながら、楽しんでもらいます。反対にお子さんの家庭での生活が披露され、「ヨットの服装はどこで買えばいいのかわからなかった」とか、「何も連絡してこないので、クラブのホームページを覗いて、情報収集している」など、皆さん共通の話題で盛り上がりました。
エール係・M君のお母さんからは、「ヨット部に入ろうと思っていると相談され、最初反対した。でも息子が・・・、で許した」。4回生T君のおばあさんが、ヨットという海洋スポーツの事がわからず、3ヶ月ほど毎週週末になると無事帰ってきたかと聞いてきたなど、それぞれにエピソードがありました。家族に支えられてやっている選手の姿を、もう一度認識させられました。
ポツポツと挨拶に来る部員達も、親の前で照れくさそうです。次男の同期でもある監督が挨拶にやってきて、あれやこれや・・・。全日本など、ヨット部OB会で用意する観覧船への乗船を勧めると、今年の開催地「江ノ島に行きます」と意気投合されておられました。3Fでやってるハーブのような楽器のアルバ演奏の映像が、2F大型スクリーンに映しだされています。
ビアンカは、琵琶湖大橋をくぐり、北湖を順調に航海し、再び大橋をくぐります。また4Fデッキに上がります。応援団総部の応援歌とエールで始まり、日本のヨット発祥地である「琵琶湖ヨットクラブ」会長さんの挨拶がありました。このビアンカを就航した当時は、この琵琶湖汽船の社長職だったそうで、「毎度ご贔屓願って、ありがとうございます」と商売ネタを入れられて、笑いを誘っておられました。
部員全員が前に並び、エール係・2回生M君が前に出てエールを切ります。親を説得して入部した主役M君の成長した姿を、お母さんは頼もしく見たでしょう。最後に、80代主将・F君が、挨拶で決意表明しました。両名とも、食事中に後ろから羽交い締めにして、「緊張してるやろ、親にええとこ見せてやれよ」と、プレッシャーを掛けておきましたが、上出来でした。
着岸・下船まで少し時間があるので、次男の同期S君としゃべりました。家族同伴ではなく1人での参加でした。奥さんは、元ヨット部マネージャーで部内結婚です。2人目の子が10ヶ月になったそうで、またダイワハウチュに復帰したそうです。彼女は社内年間売上No1にもなった出来る子なので、会社も離さないですね。S君は、名古屋の元ゼロ戦設計部門か、スペース部門にいると思ったら、ミサイル部門だそうです。「はやぶさ管制室で映るかも?と思ってニュースを見ていたよ」と言うと、「はやぶさはNECメインで、うちはH2ロケット主管企業です。でも僕は自衛隊に詰めていますよ」と。工学部物理工学専攻でしたが、我が子の成長を見るようで、卒業生のその後も楽しみです。
船から降り、新装成った合宿所を見に行くことにしました。マイクロバスも手配されていますが、希望者が多くてタクシーに乗り合いして行かれるOBさんもいます。僕らは僕の車で行きます。次男夫婦・監督・後輩の部内カップル・エール係Mくんのお母さんが乗りました。助手席に座った熊本のお母さんは歴史好きらしく、熊本城の話が盛り上がりました。
山小屋風内部・ベッド・大きなシンク・トイレにシャワー・・・お母さんは興味深く、タブレットで写真を撮っておられました。次男達は京都で後輩たちと合流に飲みに行くそうで、最寄りの「JR大津京駅」にみんなを下します。Mくんのお母さんは、琵琶湖ホテルに前泊・後泊して、日曜日に熊本に帰るそうです。
僕は湖西道路〜名神で帰宅しました。家内に仕事に復帰する旨を伝えると、「お父さん、まだ知らないよね。遼くんが来てるよ」・・・一瞬意味が理解できません。「GWにやってきたばかりの嫡孫くんが来てる?ん?」「ビックリするでしょ」って笑っています。
仕事を終え帰宅し、早速お隣の実家に行きます。お嫁さんの「じーちゃん来たよ」の言葉に、遼くんが「ジージー」と満面の笑顔で走ってきました。リュックを背負ってきたそうで、小さなリュックから、車のおもちゃを出して教えてくれます。消防車・バス・・・、我が家の備え付けの大きめレゴブロックを出して来て、また組み立て始めます。たった2週間しか経っていないのに、新たな言葉をしゃべっています。2週間前より鮮明になった言葉も多く、子供の成長の早さに驚きます。
自宅に戻り夕食を食べ、お風呂に入って10時頃床につきました。次男夫婦を駅に迎えに行く予定でしたが、いつものようにコテンと寝てしまい、次男からの電話もなく朝を迎えました。

日曜日の朝は、3時に目覚めました。5時間寝ていますが、あまりに早すぎます。でもお目々パッチリなので、ごそごそを始めました。4:50に家内が起きてきたので、階下に下り、前日のパーティーの写真やビデオを見せました。10年前、我が子が主将挨拶したとこは見ていないので、今回の主将挨拶で雰囲気を味わってもらいます。
長男一家は何故5月・2回目の帰省をしたのか?家内も、そのことについて何も聞いていません。僕もそう。家内の目の前に、遼くんだけが「おばあちゃん」と連呼しながら現れ、後からお嫁さんと長男が現れた、そんなサプライズをしてくれたのに、理由を聞くのは野暮です。キーワードは、次男から言われているこの日の昼食です。
土曜日のヨット部80周年クルージングで帰省する時、「次の日曜日暇?、17:20の飛行機で東京に帰るけど、それまで4人でどこかに行こうか?」と提案されました。1週間ほど前に、「JR京都駅〜自転車レンタル〜銀閣寺〜南禅寺〜永観堂で家内実家分骨お墓参り〜哲学の道〜法然院〜次男出身大学レストランで昼食〜下鴨神社〜JR京都駅」というサイクリング案はどうかな?と提案しました。1日経って、「Y(お嫁さん)に、神戸の美味しいフレンチ・ランチを食べさせたいと思ってるんだけど・・・」という逆提案が帰ってきました。「老いては子に従い」が良いと思うので、即「OK、お任せします」と返事を返しておきました。日曜日の行動が、次男シークレット・ツアーになっています。
長男一家が突然やってきたのに一瞬戸惑いましたが、5/27が家内の誕生日なので、ピンときました。「・・・ちゃん(家内)、子供達に好かれているね。お誕生日を祝ってくれに来たんだよ、きっと」と言いました。家内は、「そうかもしれないけど、還暦のお祝いかもしれないよ?」と。
8:30をまわり、遼くんが「おばあちゃん、おじいちゃん」と我が家にやって来ました。後から長男夫婦もやってきて、公園にお散歩に行くことにしました。家の近くの小川に鴨を見つけ、橋から下を見ています。「ビデオ」と指差すので川を見ると、川底にCDが落ちていました。赤いポストに走って行き、「ポスト」と教えてくれます。抱っこしてやると、ポストの投函口に手を突っ込みます。
あじさいが咲き始めた土手道を歩いて、公園に着きました。走るスピードが上がったので、小走りで追いかけます。「あじさいを教えてやると、「あじちゃい」と反復します」、楽しかった子育て時間を再び味わせてもらい、至福のときです。
公園の鉄棒にぶら下がり、滑り台を何度も滑り、親とやってきてる先客の1才ほど大きな子を追いかけて、一緒に遊びたそうです。「人がすきだな、社交性もありそう」と感じました。その事を話すと、お嫁さんから「近所の公園でも、小学生ぐらいまで友達と思って、「おはよう」と言いながら走って行くんですよ」と教えてくれました、
池に行き、石をポチャンと投げ入れることを散々にやり、次は初宮参りした氏宮さんに参りました。「ガラガラしに行こう」と、拝殿前に行くと、「おかね」と手のひらを出します。「お金を持ってきてないわ」と僕も家内も。「お金忘れちゃった方、ガラガラだけして帰ろうね」とお嫁さんから言われ、僕も見えない所を持って、遼くんのガラガラを手伝います。小さな手を合わせ、ちょこんと頭を下げています。神社のお参り慣れしていますね。
10時に帰宅し、「今日の運転は・・・くんに任せたらいいかな?」と長男に聞くと、「うん、10:30に出発ね」と言われました。「フレンチランチと聞いてるんだけど、ネクタイして行った方がいいかな?」と聞くと、「僕らはこのままだし、そこまでしなくていいよ、いつもの格好で。和食だから」。
自宅に戻ると、家内が早速鏡の前でアイボリーのお気に入りの服を着ています。「これと、ピンクのとどっちがいい?」「主役なんだから、ピンクの方がいいんじゃないかな?もっと派手でもいいと思うよ」「どんなの?」「チャイナドレスとか・・・」「却下!もう〜」と楽しそうです。「コサージュ着けていこうか?」「うん、その方がいいよ」。僕は、家内の提案に従って、クリーム色スラックス+薄いブルー縦じま模様入りワイシャツ+紺色ジャケットにしました。
土曜日は遅く帰ってきたので、遅くまで寝ていた次男夫婦も起きており、10:30過ぎに全員で車に乗りました。長男運転で、ナビは助手席のお嫁さんです。僕らは次男と3列目に座り、遼くんと次男嫁さんが2列目です。
僕の早朝バイク定番コースの「長尾山トンネル」を抜けて、北摂の里山に入ります。「三田に行くの?」「うん」。r325〜r33〜r68〜志手原〜有馬富士公園〜JR新三田駅〜R176。最後は細くて急な道を登って、こんなところにお店があるの?って感じの竹林を開いた駐車場に11:52入ります。
お店の名前は、「ぬなわや」さん。「やわなぬ」ともよんでしまいそうな、意味不明な店名です。竹林の小径、そして階段を上がり、和風の玄関を入ります。入り組んだ道に出ている看板も小さく上品で、隠れ家的なお店です。五月武者人形などセンスの良い置物などが飾られた脇を通過し、部屋に案内されます。駐車場に面していますが、高さがあるのでうちの車越しに竹林が見えます。家内が、「こういうお店がお父さん好きだよ、何処で見つけたの?」と、大喜びです。遼くんは、「なんか怪しいとこに来たぞ」と、きょとんとしながら、正座しています。それが、はしゃぎ回っている日頃の姿とギャップがあり、かしこまってるので、「遼くん、どうしたの?」とみんなの笑顔を誘います。
お茶が運ばれてきて、長男から、「なんとなく察しがついてると思うけど、ちょっと早いけど還暦のお祝いです」と。2人のお嫁さんが、大きな箱を僕と家内にプレゼントしてくれます。「え〜、なに?なに?」と家内がはしゃいでいます。「今開けて」と催促され開けると、赤いちゃんちゃんこと赤い大黒様帽子です。それを着ると遼くんが、「おばあちゃんお爺ちゃん、カッコイイ」と言ってくれました。遼くんに被らせてあげると、「しゃちん」と言います。プレゼントを、2人のお嫁さんからもらいました。家内のは夏向きの薄手スカーフで、「いや〜いいわ〜」とまたまた大喜びしています。僕は、「TOHO CINEMAS CINEMA GIFTCARD」をもらっちゃいました。2人でよく映画館に行ってるので、これはありがたい。
次男お嫁さんから、小さなプレゼントを渡されました。開けるとミニアルバムが出てきて、「祝・還暦、2015.5.24」、僕が乗ってるレース艇の前で撮った僕と家内の写真が表紙です。1ページ開くと、次男の家でお好み焼きを囲んでいる写真で、「2015年5月10日に、皆で作りました」のメッセージ。次が、赤いちゃんちゃんこを着た写真を貼るスペース。その次が、僕らがお気に入りで、家内の部屋に飾ってある2歳の長男が0歳の次男を抱っこしてる写真と、「30年後」と矢印で書かれた那岐山登山の時の2人の写真。ページをめくっていくと、僕らや、お嫁さんも含めた家族写真のスナップが次々に現れます。長男宅で兄弟4人+遼くんの写真、僕の代理で長男一家+次男夫婦で参列してもらった北関東の親戚の法事での写真。次男夫婦と乗ったヨット、お墓参り・・・。最後のページの写真は遼くんで、「じゃあね〜」と書かれています。
僕は、赤いちゃんちゃんこの箱に入っていたメッセージに感激してしまって、涙腺が緩くなっちゃっています。『祝還暦、おめでとうございます。還暦を迎えた2人に、お揃いのパジャマを贈ります。第2の人生は、働きすぎず、2人の時間を思いっきり楽しんでね。何かあったら、子供達を頼ってね! ・・(次男)・・(お嫁さん)』『お父さん・お母さん、還暦おめでとうございます!長生きして下さい。 ・・(長男)いつも仲良く、アクティブに楽しんでいるお父さんお母さんは、理想の夫婦像そのものです!これからもずっと元気でいて下さいね。 ・・・(お嫁さん) 遼くんよりとして、線と丸の絵のメッセージ』。僕ら2人、遼くんと3人、全員の集合写真を撮りました。
このお店は、ジュンサイがメインのお店のようです。最初に、中居さんが梅酒を注いでくれました。ジュンサイの白和物・ジュンサイのお造り・三田牛・ジュンサイのお吸い物・ジュンサイ炊き込みご飯・・・、3時間ほどのジュンサイのコース料理です。僕らの馴れ初め、求婚した時あっさり「いいよ」と言ってくれたこと、・・・子供達も知らないことを披露しました。
最後にお茶が出てきて、終わりかな?と思ったら、「茶室でお抹茶をどうぞ」と促され、毛氈の敷かれた茶室に入り、僕らは床の間を背に周辺の座に座ります。左に息子たち4人が座り、遼くんは歩きまわっています。
中居さんが、ジュンサイ入りくず餅を、お茶の作法で持って来られました。「NHK趣味Do楽」で学んだ作法で、それを懐紙に取ります。僕から順に、くず餅の膳を持って中居さんが移動します。右側の個室でお茶を点てておられるようで、そこから中居さんが「お薄でございます」と持って来られました。確認のため家内に、「これ全部飲んじゃっていいんだよね。順に回して飲むんじゃないよね」と聞きます。「うん、回して正面を外して全部飲んで。濃茶の方が回して飲む方で、薄茶は飲み干していいよ」。家内はお茶とお花の免許持ちなので、作法に戸惑っている息子たちにアドバイスしています。
最後に、お茶を点てておられた女将さんが顔を見せられ、「お粗末さまでございました」。「結構なお点前でした」と返し、素晴らしいひとときを過ごさせていただきました。いつもなら家内が精算に立つのですが、ここは長男に甘えましょう。
また長男お運転で、北摂里山コースで伊丹空港に向い、そこで別れました。帰りの飛行機は、長男一家と次男夫婦は同じ便です。遼くんは、大好きな・・ちゃん(次男お嫁さん)と一緒に帰れるのでごきげんです。
僕らは自宅に戻り、実家の片付けを始めた家内を手伝います。僕は五月武者人形を片付けます。すると、「あれ〜大変」と家内。次男の忘れ物がありました。すぐに次男に電話して、宅急便で送ることにしました。次男は笑っていたそうです。
家内はとっても楽しい1日だったようで、饒舌になっています。「あ〜疲れた〜、先に休むわ」と言うので、僕も8時台に寝ちゃいました。そして、月曜日の朝、2時台に目覚めちゃいました。

2015/5/17
日曜日は、家内が仕事の全国大会で東京に行ってしまうので、1人遊びです。上天気予想なので、「船に乗ろうかな?」「ツーリングに出ようかな?」と漠然と思いながら日にちだけが過ぎて行きました。
次の週末は、GWに帰省しなかった次男夫婦が帰って来ます。去年までは息子2人が帰省しても、次男は独身だったので、我が家の部屋を使っていましたが、このお盆から次男達夫婦の居場所も必要になります。1Fの別部屋を使えばいいのですが、1Fと2Fに別れた方がいいのかも?と思うようになり、倉庫化してる2Fを片付け始めています。また庭の雑草がはびこってきたし、垣根も刈ってやらなければいけません。カーテン・カーテンレール・畳表・・・窓ふきなど、早朝時間を利用してコツコツやっていますが、はかどりません。加えて、1週間前の1泊能登ツーリングの記録整理もあり、この日曜日の行動を決めかねていました。
金曜日になり、重い腰を上げました。2日前なので、船に乗るにしても友人への声掛けには遅い。グループツーリングを調べても、募集はありません。ということで、気楽なソロツーリングをすることにしました。目的地は和歌山か美作の絶景林道です。今年はまだ美作管家党の祖先を祀った「三穂神社」に参ってないので、美作の絶景林道らしい「美作北林道2号」、人形峠〜「根和遠藤林道」〜「美作北林道」〜三穂神社のコースにしました。
3時過ぎに目が覚めました。夜明けが早くなったので、4時になれば明るいから問題なしです。下着・丸首シャツ、コミネプロテクターメッシュ上下・DAIWA釣りスーツという春秋用定番です。1週間前はパジャマ兼用としてトレーナーを持って行きましたが、結局走っている時は着なかったので、今回は省きました。でもこれは失敗でした。夏用プロテクターメッシュジャケットは2着持っているのですが、去年家内とお揃いの白系カラーの高い方は、なんだか暖かいんです。1週間前はそれを着ていったけど、今回は日帰りなので早朝バイク用のバイクに乗り出した時に買ったのを選択しました。こっちのほうが風通しが良いです。走りだしてすぐ「寒いかも」と感じましたが、帰宅するのが面倒だし、昼になれば暑くなるのが見えているので、そのまま行っちゃいました。
3:43、近所の「出光セルフ宝塚176店」で給油。194km/7.12L=27.2km/L。宝塚ICから中国道に乗り、西を目指します。無風ですが、裏六甲は朝霧が発生しており、バイクスクリーンやヘルメットスクリーンで結露した水滴が滴り落ちます。凍えることはありませんが、「なんとなく寒い」状態で走ります。4:40、加西ICで最初の休憩を取り、高速道路利用・ソロツーリングの朝の定番・朝カレーを食べました。550円。
加西も優勢な朝霧で、山崎盆地や作用も霧が予想されます。昨夜の天気予報では、近畿と方は、高気圧に覆われ風が弱くオール晴れマークだったので、朝霧発生要件満点です。約40kmはしり、2つ目のPA「揖保川PA」で休憩。また2つ目の「楢原PA」休憩、6:18。いつも通り、80km/h巡航です。
予定では、2つ先の「二宮PA」休憩で、車載カメラをセットし、次の「院庄IC」下車〜R179で北上でしたが、ツーリングマップルを広げると、広域農道・「作州街道」が、中国道に平行してR179の向こうまで走っています。
ここで車載カメラをセットし、「美作IC」で下車しました。r51〜r354で北上し、「津山広域農道」に乗りました。アップダウンの大きな県道より広めでカーブも緩い快走路です。R429を渡り、R53も渡り、ひたすら西進します。広域農道は、一般のドライバーもは利用してもらいたくないのか、道案内が不親切です。一般道を管轄する国交省と、広域農道管轄の農水省との縦割り行政の連絡不行き届き故かもしれません。お得意のUターンを連発しました。
おおまかな予定では、5時出発〜9時奥津温泉、〜美作北林道2号〜10時人形峠、〜根和遠藤林道〜美作北林道〜11時あば温泉、〜12時三穂神社なので、1時間の余裕で広域農道を入れてみました。
R179を北上し、ダム湖が見えてきました。7:38「道の駅・水の郷奥津湖」でトイレ休憩。カヌー体験が出来るようです。ダム湖が見下ろせ、雲ひとつない上天気で、周囲の山が山頂までクリアに見えます、国道の向こうに鳥居が見えるので、行ってみます。「久田神社」。『明治43年に、政府の1村1社政策により、久田村内の地区ごとに祀られていた多くの産主神社が、久田下原の地に合祀され、「久田神社」としてまとめられた。然るに国の計画した苫田ダム建設にあたり、氏子の大部分が久田から離れ、社殿も水没地にあることから、ここ久田河内に移転遷座することになった。今より後、この久田神社が故郷を離れた氏子崇敬者を含めて、この郷の拠り所となり、併せて吉井川の清流の護り神ともならん事を願うものである。 平成13年10月15日遷座 久田神社再建委員会』
道の駅に、バスが入ってきました。倉敷のハイキングの会の仕立てたバスでした。山歩きにも最高の日なので、皆さんワイワイ期待に胸膨らませ楽しそうです。プロパーコースは、R179を更に北上し左折しr56ですが、地図を見ると、奥津湖周囲を道が巡っているので、そちらを選択します。奥津湖沿いに南下し、橋を西に渡って、湖沿いに北上します。特に面白いものはなく、r56に合流しました。
r56を西進し、r65に乗り換えて北上。峠の部分だけ細道・急勾配・つづら折れでしたが、他は気持ちの良い田舎道・快走路でした。8:39、R482との交差点手前にある「中和神社」到着。横には「中和小学校」があり、校庭の続きに神社があるように見えます。明治新政府は、欧米に追い付くために教育を最重点課題にしました。それで整備されたのが小学校で、村の神社の境内に多く建てられました。その名残でしょう。境内に建てられた小学校が、生徒数増加・教育水準アップとともに大きくなり、はみ出した姿だと思います。
「中和神社」は、一時広大な宇宙空間に行方不明になった後、奇跡的に地球に帰ってきた小惑星探査機「はやぶさ」に関係しています。イオンエンジン4基のうち3基が故障し、絶体絶命のピンチに陥りました。この時、はやぶさチームが行ったのが、2基のエンジン部品を使って、1つのエンジンを遠隔操作によって復活させるという離れ業です。この離れ業の最重要部品が「中和器」でした。神にも祈る気持ちで、チームトップが、この神社に参り、この神社の御札を「飛行神社」など他の御札とともに比高管制室の神棚に祀りました。
このエピソードを知り、訪問してみたかったところです。神社にとって、集落にとって、地域が全国区になった有名なエピソードなのに、予想に反して何も書いてありませんでした。そこには拍子抜けしたけど、社の後ろの大杉には圧倒されました。「真庭市指定・天然記念物・中和神社のスギ」となっていました。拝殿から本殿に入る廊下の下には、リヤカータイプの手押し消防車が置いてありました。「招き猫CB400SB」に戻ると、先祖に乗り移ってもらってる大事な招き猫の安全ベルトが外れていました。マジックテープのみで落ちなかったようで、慌てて緩んだシートベルトを結び直しました。リアボックス前の左右に、招き猫ぬいぐるみ2体鎮座してもらっていますが、サイドカウルやハンドル周りにも、可愛い招き猫やフクロウさんのミニ置物に鎮座してもらい、僕をその結界内で守ってくれています。
目的の1つを達成し、R482に出て右折。「津黒温泉」は小さな集落で、温泉街のようなものはありませんでした。ここから、「美作北林道2号」が始まりますが、全く表示がありません。「津黒高原キャンプ場」の小さな看板を見つけ、そちらに曲がってみます。9:02、「津黒高原スキー場」のようです。リフトとレストハウスがあります。舗装されたスキー場内1.5車線道を上ります。9:09、リフトの上部に来ました。どうやらリフト1基のみの小さなスキー場のようです。標高は600mあり、良い景色が広がっています。北西の方角に、蒜山が見えます。
林道の道標はありませんが、どうやらビンゴだったようです。9:27、周囲の山々の稜線の高さ・950mまで上がりました。稜線には、うねうね走る林道が見えます。絶景です。標高1000m付近の最高所で、分岐がありました。林道上の「岡山県立森林公園」は北なので、北への道に進んでみますが、ツーリングマップルの林道表示とは違うみたい。この道を行けば、見えていた稜線を走る林道ですが、どうも方角が違うようです。Uターンして分岐に戻り、南への道に入り峠を越えます。
ここに「美作北林道」の案内板が立っていました。9:41、また分岐があり、南に行く道は、新たに見え出した稜線を走る林道への道のようです。東への道を取ります。南への道も北への道も、稜線を縫う絶景林道です。これらの道を縦横に走って、絶景を楽しむのもいいな。時々あるガードレールは、お約束のウネウネです。雪の重みで悲惨に曲がっています。これがないと、アドベンチャー絶景林道の実感が湧きません。
やがて絶景林道も終わり、下りだします。10:11、700mほどまで下った谷で、分岐がありました。ここには「森林公園」道標があったので迷いません。谷筋の沢の下流から車が上がって来ます。「森林公園」目当てのトレッキング者でしょう。ここから交通量が増えました。きれいな水が流れる沢道を上がり、10:17・「岡山県森林公園」到着。
道沿いに小さな駐車場がいくつもあり、人気のようです。森林公園案内板を見ると、高原トレッキングが楽しめそう。善意の杖がたくさん置いてあり、立派な管理センターもあります。トイレも問題なさそうだし、トレッキングスタイルの女性客もたくさんいます。弁当の幟さえ立っています。管理センター内に入ると、暖炉の薪がパチパチいい音を立てています。公園内で観れる植物・動物・鳥・蝶の写真がたくさん貼ってあります。ここはいいわ・・・家内と歩きに来よう。
10:37、「人形仙」登山口。絶景林道最高所に続き、マーキングします。謂れ板に、悲しい伝説が紹介されていた「母子地蔵」を見るために、少し人形仙への登山道を歩きましたが、見つからず断念。
10:50、「人形峠」到着。先客のNC700さんがいました。横のベンチでパンを食べておられました。「岡山大学人形峠サテライト研究室」がありましたが、閉館したようで、横にある「人形峠科学の森プラザ・人形峠アトムサイエンス館・上斎原スペースガードセンター」に入ります。無料でした。
「人形峠」の由来がありました。『昔、峠に3mもある大きなハチの大王が住んでいました。峠を通る人間を襲い、血を吸います。吸われた人は生きて帰れません。村人はとても恐れていました。そこに1人の坊さんが通りかかり、「峠に、本物の人間に見える人形を立てればいい」と教えてくれたので、早速実行しました。その後峠に行ってみると、人形の側に大きなハチが死んでいました。木で作られた人形を本当の人間だと思い、血を吸おうと何度も挑み、ついに力尽きたようです。村人は、その人形を峠に埋めて、守り神にしました。その時から、「人形峠」と呼ばれるようになりました。』
「原子とは?」「ウランは?」「原子力発電の仕組み」「放射線の種類や性質」・・・のパネル展示。「上齋原スペースガードセンター」は、スペースデブリを観測し、その軌道を特定する事を目的としたレーダー観測施設でした。スペースデブリとは、役目を終えた人工衛星やその破片・ロケットの部品などが、軌道上を周回している物のことです。直径10m以上のものだけで、9000個あるそうで、1ミリ以上だとその1000倍以上あるそうです。日本のロケット技術などの展示もありました。ここらは、夜は満天の星が輝くのでしょう。
R179に出て東進し、R482を東進して「恩原高原」方面へ。次の林道は、「根和遠藤林道」ですが、ここも林道道標はなく、「加茂方面」道標に従って枝道に入ります。たぶん「美作加茂」に行けるのでしょう。ここもビンゴ!11:58、「倉見温泉」到着。山間の温泉です。続いて、「美作北林道」に入りますが、ここも道標がなく、美作加茂に向かうr336に乗ってしまった感じがしたので、Uターンして「あやしいぞ」と目をつけていた枝道に入ります。これまたビンゴ!
こちらの林道は、意外にも交通量があり、停まっている乗用車を時々目にします。どうやら山菜採りのようです。景色の良い所で停まっていた軽四輪が数台は、農作業姿の地元の方風で、お弁当を広げていました。「大ヶ山スカイ愛ランド」道標に惹かれて、大ヶ山への枝道に入ります。舗装林道で、12:41、山頂高原に出ました。アマチュア無線基地がありました。スカイスポーツ・テイクオフバーンもあるようです。
林道はうねうねと下り、12:59、r118に出る手前の大木で停車。「大ヶ山」を振り返ると、山頂に草原が広がっています。『尾所(おそ)の桜は、推定樹齢560年の山桜で、樹姿壮大にして優美で高貴な気品があり、広く多くの方々から愛されています』。見事な枝振りでした。
r118に出て南下します。13:07、お人形カカシを見つけ、激写。r6に出て東進し、13:24「物見峠」。r295で峠を下り、JR因美線に出ます。因美線と平行して走り、R53に乗りました。これで南下し、那岐山の肩を越えます。ループを走り、那岐トンネルを抜け、13:53「三穂神社」。
ここは僕の血のルーツ・美作管家党の祖・三穂太郎満佐を祀る神社です。『小さな村の実在の人物 パワースポット 那岐山に腰を掛け、瀬戸内海・賀露の浜で足を洗った・・・民話・さんぶ太郎「巨人伝説・発祥の地」菅原朝臣三穂太郎満佐公 祭神です 頭の神様・三穂神社(別名・こうべ様)』の案内板が、R53の向こう側に立っていました。何度もここに来ているのに、初めて看板の存在を目にしました。
菅原道真の末が、平安時代に美作守としてこの地に下向し、武威を誇った。中興の祖・三穂太郎は、播磨・赤松氏との戦闘で討ち死にし、頭・右腕・足・・・とバラバラに、那岐山周囲の神社に祀られた。その子たちが美作菅家党として団結し、播磨・赤松、但馬・山名、伯耆・尼子などの侵攻から、美作を守った。僕の先祖は、1350年に赤松に城を落とされた時、血のつながりのある北関東・佐野氏を頼って落ちていった。
我家の庭に去年、屋敷祠として三穂神社を勧請したので、祠の名前として飾れるものはないかな?とやって来ました。拝殿に上がり、いつもの無人授かり所で、御札とか御守とかを物色します。全て500円なので、赤と青の社名が書かれた御守を授かり、新撰料1000円をお賽銭箱に投入しました。屋敷祠正面左右の柱に、ぶら下げるつもりです。訪問帳に名前を書き、拝殿内の小さなお神輿(子供みこしかな?)を激写し、帰路に着きました。
4時に出発したので、予定では12時に「三穂神社」でしたが、絶景林道などで道草が過ぎ、2時間遅れです。R53〜r356〜r7〜r51で南下し、14:29・「美作菱油美作インターSS」で給油。310km/12.58L=24.6km/L。
美作ICから中国道に乗り、「楢原PA」で車載カメラを仕舞いました。「揖保川PA」で休憩し、15:50・「加西SA」で、加西しょうゆラーメン・680円で、遅い昼食です。好きな「書写山・千年杉バウムクーヘン・柚子・1296円」を2個、お土産に買いました。
魔の宝塚トンネル渋滞は、中国道に乗った時は「2km表示」でしたが、通過する時は、12kmに伸びていました。四輪がストップする毎にバイクの特典を生かしましたが、それもゆっくり走行なので、1度追い付いてきた後続バイクにクラクションを鳴らされてしまいました。慌てて退避しました。
まだ日のあるうちに帰宅出来たので、ニトリに行き、寸法間違いしたブラインドカーテンを交換してもらいました。倉庫と化していた実家の2Fの掃除をやっつけ、22時に東京から帰ってきた家内を駅まで迎えに行き、長いそして有意義な1日が終わりました。

2015/5/10
コーチしている大学ヨット部の新人勧誘の1ヶ月、それに続くGWの長男一家の帰省も終わり、通常の日曜日に戻りました。家内は用事があるということなので、参加してるツーリングクラブのイベントに行こうかな?と調べたら、参加人数が10名を超えており、見合わせました。10台以上のバイクが並んで走ると、存在感がありすぎて、「ど〜や」な感じがして恐縮します。以前、爆音バイクが混じっており、周りに迷惑をかけている集団にいる自分が嫌になりました。皆さん良い方ばかりなんだけど、世間の片隅でひっそり生きたい僕にはどうも・・・。そこで、今年初めての宿泊ツーリングに出ることにしました。
目的地は、新幹線開通で話題の北陸です。グルメ旅や名所旧跡巡りには興味が無いので、絶景・寺社・歴史を巡ります。メインディッシュは、NHK朝ドラ・「まれ」の舞台・輪島です。「間垣の家が見たい」!
自宅〜敦賀の距離と所要時間を調べます。名神高速171km・2:18、舞鶴道203km・2:44、名神・湖西道路139km・3:41、R162経由下道161km・4:27(小浜から舞鶴道利用で時間短縮)、R173経由下道164km・5:29(綾部から舞鶴道利用で時間短縮)を並べて検討しました。高速道路は事故=死なので、気を使って疲れます。80km/h巡航・SA毎休憩(60km)が最も疲れないのですが、周りの車が速い高速道路は、あまり走りたくありません。つまらないし、恐怖だし・・・
1泊なので、距離的に半分になる輪島泊としました。輪島観光協会ウェブサイトに載ってる民宿に電話しました。1件目はダメ、稼ぎどきのGW直後の日曜日なので、お休みするのでしょう。2件目の「海岸通り・素泊まり3500円」さんにお願いしました。
荷物を用意します。お土産などで荷物が増えるので、早朝バイクスタイルからカッパを降ろします。春秋はコミネ・プロテクターメッシュ上下の上からDAIWA釣りスーツを着るので、カッパ代用です。追加する物は、コミネ・コンパクトモーターサイクルカバー、コミネ・ディスクロック、ワイヤー+南京錠、夜間走行時に着用するコミネ・セーフティメッシュベスト、着替えの靴下・下着、外出用パンツ・トレーナー、タオル+歯ブラシ、Nexus7以上です。
ツーリングマップルを広げ、コースを設定していきます。「まれ・ロケ地」検索したポイントを加えます。いつものように欲張った計画になり、特に2日目の600kmに迫る距離は、実現不可能です。まあ、いつもの様に適当に端折って行きましょう。

・・・5/10
4時に目覚めました。荷物を点検し、春秋バイク装束に着替えて、倉庫から「招き猫CB400SB」を出します。4:55、近所の御用達ESSO伊丹産業SSで給油。192km/9.4L=20.4km/L。R171を東に向いて走りだし、豊中ICから中国道に乗ります。名神に乗り換え、5:38、「桂PA」で車載カメラをセットしました。この旅は長丁場で、電源ON・OFFが面倒なので、ドライブレコーダーのドライブマン1080を使いましょう。
気持良く出発し、京都南ICの出口を過ぎたとこで、後ろから追い抜いていく車からクラクションを鳴らされました。助手席の彼女が窓を開け、僕の後ろを指差します。「あれ?」、すぐにバイクを路肩のゼブラゾーンに止めて後ろを見ると、リアボックスの蓋が開いたままです。カメラをセットする時に、乗って角度調節した直後に出てしまったようです。「うわ〜、やっちまった〜」。落し物はないかと確認しましたが、幸い何も落としませんでした。衣類や当座使わないものは、ウォータープルーフ釣りバッグに入れて、リアボックス前にネットで固定していますが、鍵がかかるリアボックス内は、貴重品・カメラの望遠レンズ・NEXUSなど高額品も入れています。ありがとうございました。実にラッキー、幸先の良い旅立ちです。
「京都東IC」で下車し、湖西道路を北上します。湖西道路は、一般道に降りることもありますが、制限速度70km/hの高速道路並みの高規格な元有料道路です。ネット地図検索した時間より、所要時間を短縮出来ます。北小松でバイパスから一旦R161に降ります。6:26、「白鬚神社」で激写休憩します。グループツーリングで、何度か前を通過しましたが、寄り道するのは初めてです。全国に多数ある「白鬚神社」の総本社なので、以前から訪問してみたいと思っていました。
『垂仁天皇25年倭姫命により社殿を創建したと伝え、白鬚神社の総社でもある。その後慶年間に豊臣秀頼により境内の整備が行われ、本殿は1603年片桐且元を奉行として、播州の大工により建立された。建物は、地垂木(じたるき)の長さを節約し、軒先に支柱を入れているため、外見は軽快さに欠ける。屋根は、明治12年に向拝の軒先を切り縮め、現拝殿を付加したため権現造風となり、雨仕舞を考慮して、柿葺を檜皮葺に改めている。本殿は、大型で向拝の手挟み・蟇股などの絵様に、桃山期の特徴をよく表した優れた建物である。また1624年建築の旧拝殿(現絵馬殿)を除く社殿も慶長復興期のもので、近世の社殿配置を残す神社としても貴重である』
主祭神は、猿田彦命です。猿田彦は、天照大御神の孫ニニギが、葦原中津国(日本列島)に天下った天孫降臨の際、ニニギの道案内をした大国主命同様地上にいた神です。天照大神が天岩戸に隠れた時、岩戸の前でストリップをして男神達から拍手喝さいを浴びた天細女命の旦那さんです。在所は伊勢の五十鈴川の辺りで、後に倭姫命が斎王として天照大神を祀る宮候補地を探している時に、自分の在所に案内したといわれている。道案内の神であるので、後に道中の安全を守る道祖神・才の神に発展する。鉱山にもよく猿田彦命が祀られています。猿田彦は、天細女同様、映画で言えば主演でも二枚目でもない名脇役で、好みの神様です。伊勢に導かれた倭姫命が、天照大神を祀る最適地に導いてくれた猿田彦命をここに祀るのも面白いな。斎王は、天皇の皇女で、穢れを嫌う神様の世話をするために、処女のまま神様のお世話のためだけに生涯を送ります。倭姫命は、甥のヤマトタケルが東国成敗のために伊勢に立ち寄った時、ヤマタノオロチの尾から取り出した天叢雲剣を与えます。古事記・日本書紀に何度も登場する重要人物です。
秀吉亡き後も、豊臣家はその膨大な財力故、権力者の徳川家康から睨まれ続けました。そこで豊臣家は、二心のないことを示すために、全国の寺社の普請に財力を使いました。しかし、この行動は寺社やそれを支える一般庶民の豊臣人気につながり、却って家康から猜疑心を持たれ、痛し痒しでした。その普請の1つなのでしょう。その普請の番頭役が、片桐且元だったはずです。琵琶湖に浮かぶ鳥居や、本殿裏の摂社なども楽しみました。
高島から、「高島バイパス」に乗ります。終点のマキノから、またR161に乗り、近江・越前国境の山を越えます。「敦賀IC」から北陸道に乗ります。家内と自転車で走った旧北陸本線トンネル群の時見た景色が高速脇に見え隠れします。
7:50、白鬚神社以来の休憩です。トイレに入ると、『バイクの死亡事故多発!高速道路での死亡事故が連続して発生 4/1〜27日11名死亡(内バイク5名) NEXCO中日本管内』という張り紙がありました。四輪に比べ圧倒的に通行量が少ないバイクが、死亡者の半数を占めるんだ・・・ここまでも120km/hぐらいで、他の四輪を縫うように抜いていくバイクに、たくさん抜かれましたが、バイクなんぞに命を掛けるのはもったいないなと思いました。昔で言うなら、落馬で死亡したようなもの。男の死に場所ではないと思う。現代なら、家族を養うために仕事の戦場で身を削って戦って、立派に死んでいきたい。
家内と自転車で走った時、「ぷらっとパーク」のゲートから、自転車を持って「杉津PA」に入り昼食を取りました。その時と同じ「醤油ラーメン・550円」を、朝食にしました。お天気は晴天で、海が輝いています。ここ「杉津PA・下り線」は、「夕日のアトリエ」という展望台があります。海に落ちる夕日が綺麗なスポットで、「恋人の聖地」化が進んでいます。連続するトンネル目当てに、自転車で走った旧北陸本線ですが、トンネルを抜けたところから見える海の景色は素敵でした。家内も「素敵なところね」と、うっとり見ていました。夕日で紅く染まった最愛の人の横顔を見ると、男ならダウンだよね。
北陸道は内陸に入り、再び日本海側に出て「尼御前SA」で休憩しました。ここは、子供たちがチビの時のお正月の定番・北陸「白峰スキー場」に行くときの定宿です。大晦日の日に、仕事を終えてワゴンに布団を積んで出発し、ここで車中泊します。夜明け頃目覚め、元旦の朝イチにスキー場入りして滑り始めていました。楽しかった思い出が蘇ります。
「片山津IC」下車。ここから下道です。r20で北陸道に沿って少し戻り、9:45・「篠原古戦場・実盛塚」到着。道端にポツンとあるだけだと思っていたら、車道からは見えませんが、民家の間にある専用道を奥に歩くと、小さな公園のようになっていました。手入れが着き届いています。歌舞伎などで有名な「実盛」が討ち死にした所です。
斎藤別当実盛は、武蔵の国の武将で、元々源頼朝の父・義朝に従っていたが、義朝の異母弟・義賢が北関東・上野に下ってきて勢力を伸ばしたので、他の武蔵の豪族とともに義賢方に移った。これに危機感を感じた義朝の嫡男・悪源太義平が、義賢を攻めて討ち取った。その時、義賢の嫡男を守り、信義の篤い信濃・木曽の中原兼遠にその子を預けた。それが後の木曽義仲です。
清和天皇の子が臣籍降下して起こった清和源氏の中で、もっとも実力があったのは河内源氏。その嫡流が源為義で、その嫡男が義朝。でも義朝は父と不仲になり、嫡男の仕事を放り投げ、無断で関東に下り相模で勢力を伸ばした。義賢は、兄・義朝に代わり、河内源氏の嫡男優遇で、京で軍事的な仕事で実績を残していた。この時点で、河内源氏の嫡流は義賢だった。義朝の勢力増進に危機感を持った為義が、義賢をそれに対抗させるべく上野に派遣した。
そんな複雑な情勢の中、主人を討たれた実盛は、元の鞘・義朝方に戻りました。保元・平治の乱では、義朝方として戦ったが、平治の乱で義朝が討たれると、地元関東に落ち延びた。その後、「平家であらずんば人にあらず」の世の中になり、平家方の有力武将として働いた。
主人・義朝の嫡男・頼朝が、平家打倒の旗揚げをしたが、平家に義を立てた。平清盛の嫡男・小松重盛は、既に世になく、その嫡男・維盛の後見役として、維盛とともに頼朝軍と戦い不戦負けした「富士川の戦い」に従軍した。頼朝は関東の地固めを優先する間に、木曽義仲が北陸道を京に向かって進撃する。一連の源平の合戦で、初めて両軍が正面衝突した「倶利伽羅峠の戦い」で、平家が大敗したが、ここ篠原で態勢を立て直し、再び両軍相まみえた。
ここでも多勢なのに平家軍は、義仲軍に大敗した。その戦中に実盛は討ち死にした。老兵・実盛はここを死に場所とし、戦の前に髪を黒く染め、武将が名乗り合って刃を合わせるのが戦陣の習いなのに、名乗らず討たれた。首実検のために実盛の首を洗うと染めた黒髪は白く戻り、その首を抱えて義仲は涙に濡れたという。歌舞伎の名場面です。
素晴らしい状態で、歌舞伎が隆盛した江戸時代ならともかく、その故事さえ忘れ去られようとしている現代になっても、綺麗に管理清掃されている実盛塚を見て、地元・篠原町の方々の思いを感じました。上天気の日曜日なのに、僕以外誰もいません。公園としての遊具もなく、僕のような歴史好きにしか琴線が触れないのに、素晴らしい。
r20を少し戻り、r39で「片山津温泉」方面に向かいます。9:59、「首洗い池」到着。『1183年、倶利伽羅峠に敗れた平家軍は、篠原で態勢を立て直そうとした。平家の老武者・斎藤実盛は、白髪を黒く染め敵に立ち向かったが討ち取られ、その首はこの池で洗われたと伝えられている』
英語・韓国語・中国語・日本語で書かれた謂れ板が立っていました。『・・・この時敗走する平家軍で、ただ一騎踏みとどまり戦ったのが斎藤別当実盛でした。実盛は老武者とあなどられる事を恥とし、白髪を黒く染めて参戦しました。手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最期を遂げました。樋口次郎兼光が討ち取った首をこの池で洗ってみると、黒髪はたちまち白髪に変わりました。それは紛いもなく、その昔、義仲の命を助けた実盛の首でした。・・・実盛着用の甲冑を、木曽義仲が多太神社に奉納したと伝えられており・・・』
名場面の像も立っていました。兜を中心に、左に首を抱えて天を仰ぐ武者・奥に兜を見つめる武者・右に少しうなだれる武者・・・。平家物語では、義経はヒーローだけど、倶利伽羅峠で牛の角に松明を灯し、平家軍真っ只中に突っ込ませ、平家に初めての大敗をさせたのが木曽義仲です。破竹の勢いで平家を京から追い出し、平家政権を直接倒したのも木曽義仲です。何故か朝廷の実力者・後白河法皇に疎んぜられ、遅れてやってきたヒーロー・義経軍の前に脆くも義仲軍は将兵の脱走離脱が続き、潰走してしまいます。そして副将・今井兼平(中原兼遠の長男)・樋口兼光(同次男)とともに討たれます。典型的日本人の僕は、悲劇のヒーロー義仲に惹かれます。そして、巴御前筆頭に、女武者軍団もいたほど女性を惹きつける美男子・男っぷりの良さにも惹かれます。
r39〜r20で、10:12・出光宇佐美片山津IC店で給油、240km/9.78L=24.5km/L。10:23、「安宅の関」到着。ここも平家物語の舞台の一つです。武蔵坊弁慶が主役の歌舞伎の18番・「勧進帳」であまりに有名。案内図を見ると、歴史公園になっているようです。すぐそこは日本海で、その砂浜の防風松林内にあります。平家物語を読みながら地図を見て、「街道筋だったのだろうけど、山が迫っているわけでもない幅広い平地なのに、なぜこの関所を通ったのか?」の疑問をずっと持っていました。逃避行なら、遠回りしても関所を過わすのが普通です。現地を見て、更に疑問が深まりました。
地図に載ってる「安宅住吉神社」に寄ります。摂社に「金毘羅神社」がありました。両方共、海の守り神ですね。海岸の河口近くに位置するので、漁労を生業にしている方が多いのでしょう。拝殿内奥に神棚が飾られ、拝殿の内壁には、帆船などの絵馬が掛かっていました。
住吉さんは、「住吉三神」を祀っています。伊邪那岐尊が、火の神を産んで亡くなった妻の伊耶那美命に会いに黄泉の国に行きます。そこにいたのは、蛆が湧いた伊耶那美命の姿で、怖くなって逃げ帰ります。穢れを祓うために禊をした時生まれたのが、住吉三神です。そして、神功皇后が三韓征伐した時に、助けたのが住吉三神です。当時、九州で熊襲などの反大和朝廷勢力が盛んになりました。神功皇后の夢の中で、そのバックには朝鮮半島南部の三韓勢力がいるとお告げがあり、征伐を夫である仲哀天皇に進言するも夫は動かず、亡くなってしまう。そこで皇后自身が、身重なお腹をさらしできつく巻き、軍を引き連れて朝鮮半島に渡る。住吉三神は、風を起こし、あっという間に軍を朝鮮に運び、さんざん三韓軍を困らせた。
住吉神社に撮影料をチャリンしてお参りすると、元巫女さん?が擦り寄ってきて、「初めてですか?遠くからお参りですか?」と尋ねられた。「ええ、兵庫県からです」。「2〜3分お時間がございますか?よろしければ、お宮の説明を致します」との事だったので、お願いしました。社務所のお守り前に連れて行かれ、奥からお若い巫女さんが出てこられ、前に座られました。お宮の謂れのお話は少しで、後は勧進帳のお話です。
『兄・頼朝から猜疑を受け、義経は京から脱出し、頼朝旗揚げ前まで暮らした奥州・藤原氏のもとに急いだ。その義経一行が逃避行中に通りかかったのが、ここ「安宅の関」です。この関所は、頼朝の命により義経捕縛のために臨時で作られた全国の関所のうちの1つです。それを知らずに義経一行が通りがかったわけです。関所の存在に驚き、近在の子供たちに他の道を聞くが教えてくれず、仕方なくこの関を通ることにしました。関守は、この地の豪族・富樫氏で、山伏姿の義経一行・20名ほどを見て怪しんだ。通行の要件を問われ、弁慶が「焼けた東大寺再建のための勧進で全国行脚中」と答えます。「ならば、勧進帳を読み上げよ」と更に問われ、白紙の巻物を取り出し、そこに書いてあるかのごとく諳んじた。富樫氏は疑いを持ったままだが感心し、通行を許可する。しかし義経が通ろうとした時、呼び止める。ここで弁慶は、「またお前は義経に似ていると言われた、難儀なやつ」と持っていた金剛棒で、義経を叩く。富樫氏は義経一行と確信したが、義経主従の見事さに感心し、武士の情けをかけて通行を許す。』
これに加え、関所を通過後、弁慶が義経に叩いたことをわび、義経がそれを許すシーンに続く。最後に義経一行に、富樫氏が「誠に失礼した」と酒宴を設けるのも、歌舞伎「勧進帳」の見どころの1つです。義経と知りながら、一行の行末を案じ、一時の平安を提供する富樫氏は、長く人々の心に感動を残している。
この時の東大寺を焼いたのが、清盛最晩年の平家です。南都の僧兵を蹴散らしに行ったのに、お互い意図せず、東大寺と興福寺を全焼させてしまった。次に大仏が焼けた松永久秀と三好三人衆との兵火も、お互い意図せずでした。
このお話で、安宅の関は常設の関所ではなく、臨時の関だった知りました。そのお礼も兼ね、「難関突破」のご利益があるという「弁慶御守」と、弁慶が金剛棒で義経を打つシーンが描かれた絵馬を、幾ばくかの初穂料のお下がりとして賜りました。
公園内を散策すると、関守の富樫某と九郎判官義経を祀る祠が並んで立っていました。富樫某・弁慶・義経の名場面の像もありました。『・・・物語は、弁慶の智・富樫の仁・義経の仁勇が混然と一体に融合し、美談として歌舞伎「勧進帳」で演じられ、後世の国民の鑑として、広く世に知られていることである。・・・』
「勧進帳の里・安宅ビューテラス」という海を一望できる休憩所が砂浜にありました。バイクに戻ると、目の前をハーレー軍団が勇ましく通り過ぎました。
r25で海岸線近くを北上します。ツーリングマップル(TM)には、「白山美川伏流水群」と載っていましたが、見つけられず通過。r8〜r60で「大浜」から「のと里山海道」に乗るつもりでしたが、大浜入口は閉鎖中でした。12:00、温泉施設でリコースを考える。真っ青な空に大凧が飛んでいます。
r8を「のと里山海道」に平行して走り、「白尾IC」から「のと里山海道」に乗りました。無料の高速道路並み・高規格道路です。制限速度は70km/h〜80km/hで、高速で流れています。海岸線を走るので風が強めです。防風林・防風土手があるところはマシですが、70km/hほどをベースに走ります。
12:28、「道の駅・高松SA」で休憩。案内地図によると、この道路は七尾湾北まで開通しており、輪島まで通す計画のようです。トイレから戻ると、先客のお隣のアメリカン・バイクさんが出て行くようです。「千里浜なぎさドライブウェイ」への行き方を聞こうと思っていたのに・・・。関東ナンバーだったから、僕同様知らなかったかな?
出発すると、すぐに「なぎさドライブウェイへは、今浜IC下車」との看板が立っていたので、疑問は解消されました。今浜ICを下りてからも、看板に沿って走ると浜に出ました。ずっと僕の後ろを走っていたバイクも、ついてきました。海岸線の砂浜が延々と続いています。所々に海の家が建っています。四輪がポツポツと停まっています。風があるので、砂浜に打ち付ける波も大きく、素敵な景色です。反面、滑って転ばないか、ビビリの心が20km/h・4速でバイクを走らせます。
両足を出して砂を引きずり、その引き締まり具合を確かめ、30km/hに速度アップします。後ろのバイクも、僕と余裕の車間距離を保ちながら、同速度でついてきます。
さっきの道の駅でお隣さんだったアメリカンさんが停まっていました。でもまたがったままです。僕同様、スタンドの下に敷くものを持っていないのかも知れません。何か持ってこようと思って忘れました。この浜に突っ込む前に、現在の荷物で何かないかと思いついたのが、安宅の関で授かった弁慶絵馬です。さすがにこれをステップの下に敷いたら罰が当たりそうなので、止めました。慣れてきたので、35km/hほどにスピードアップしましたが、後ろのバイクが更にスピードアップして、抜いていきました。
「千里浜IC」の案内板を見て、浜から離脱しました。ここらは羽咋市で、北陸のヨット強豪校・羽咋工業があるところです。風の吹きそうな地形なので、ここで練習していると強くなるのも頷けます。「柳田IC」で下車し、r2〜R249〜13:06「気多神社」着。
『当社は、気多神宮とも称え奉り、能登国一宮として世に知られ、北陸道総鎮護のお社であります。御祭神は、大国主命をまつり、世に大黒様と申し多くの人々に崇められております。若宮神社の御祭神は、事代主命を祀り、えびす様と称し親しまれている神様です。御社殿背後の森は、約3万平方メートルの広さを有し「いらずの森」として、千古の歴史を伝え、北陸地方随一の原生林であります』
一宮だけあって、門も拝殿もどーんと風格があります。「安宅住吉神社」同様巫女さんが門で待ち構えています。また説明してくれるかな?と期待しましたが、パンフレットを配るのみでした。
『気多大社が中央の文献に初めて見えるのは、「万葉集」です。能登半島の要衝に鎮座する気多大社の神威は中央国家まで及んでいたのである。日本海沿岸に広く気多の神が祀られていた、古代における気多大社の神威が偲ばれる。近世には、前田利家をはじめ歴代藩主が崇敬し、祈願・祈祷はもとより、しばしば社殿の造営をした。本殿・拝殿・神門・摂社若宮神社・摂社白山神社・神庫・随身門がそれである。加賀藩の保護した社叢には奥宮が鎮座し、「入らずの森」と呼ばれて聖域となっている』
なんかお若い女性が多いなと思ったら、パンフレットに紹介されている御守は、「きれい結び守」「福縁的中守」「気(運気上昇)守」「心むすび守」「良縁的中守」でした。女子に好まれるよね。摂社に僕に縁のある「菅原神社」もありました。
R249で海岸線を北上します。r36にチェンジし、海岸線を走ります。日曜日だけど交通量は少なく、のんびり気持ちが良いです。14:01・「旧福浦灯台」着。最後集落内でちょっと迷ったけど、適当なとこにバイクを置き、徒歩で突き止めました。徒歩のお陰で、良い景色を楽しめました。
14:16、「巌門」着。岩場を海岸に下ると、遊覧船が呼び込みをしています。洞窟階段を下り洞窟を抜けると、潮が洗う洞窟がありました。観光船は、ここをくぐるのでしょう。横には海に流れ落ちる滝があり、なかなかの景色です。
R249に合流し、14:36・「機具岩」着。伊勢の二見ヶ浦のように、2つの岩にしめ縄が渡してあります。激写していると、さっきのアメリカンさんが、通過していきました。
14:43、「世界一長いベンチ」着。『木造のこのベンチは、延長460.9m。昭和62年3月29日に完成し、その年にゲネスに申請・登録されました。また、1346人が一斉に座った記録もあります』
r49で、更に海岸線を走る予定でしたが、メインディッシュの輪島手前の「まれ・ロケ地・間垣の里」への到着が遅くなりそうなので、R249をそのまま走りました。国道だけど、交通量の少ない田舎道なので、気持ち良く走れます。「のと里山海道」が伸びたので、通過するだけの車が減っていると思います。
15:07、「琴ヶ浜」着。NHK朝ドラロケ地巡りの最初はここです。オープニングで、まれが踊っている浜です。見覚えのある岬の先が見えます。ただそれだけ。再び、R249が内陸を走るようになったとこに、「總持寺祖院」がありました。15:25到着。門前の市役所駐車場に停めました。イベントが終わったのか、片付け中でした。『能登はやさしや土までも 「まれ」は輪島が舞台』の垂れ幕が下がっていました。
拝観料400円を払って見学します。まずは鐘楼門?が立派です。「経蔵堂」がありました。『加賀藩前だけを始め、北前船で地元との交流が深かった京阪の豪商や多くの人々の協賛によって、総工費1361両という莫大な工費で建立された華麗な御堂である。八角の輪蔵には、日本を代表する鉄眼版と言われる経典334巻が収められており、この輪蔵を1回転することにより、これら一切の経典を読んだ功徳が得られるとあって、この地方一帯の信仰を集めている。当寺は中世以来浄土真宗の信仰が盛んな土地柄であるが、近隣49ヶ村から3622人もの人が参加して、この狭い面積の地ならしが行われたと言われ、宗派を超えた信仰の厚さは、平成19年3月25日の「能登半島大地震」で、この経蔵がほとんど被害を被らなかった強さに寄っても証明された。経蔵は、大阪で組み立てられたものを一度解体し、北前船で黒島に運び、能登の建具師が組み立て、建物は金沢と能登の大工によって建設され、完成までに延べ3万人を要したという』
これはかなり立派でした。曹洞宗の元本山で、横浜の「大本山総持寺」に本山が移った後は、「總持寺祖院」と呼ばれるようになった。夕方なので観光客は少ないですが、大伽藍の迫力は素晴らしく、圧倒されました。本堂の彫刻が凄いぞ・・・堂内の多数の彫刻の意味は・・・なんて見上げていると、観光・研究で来られたお坊さんなのか、しきりに写真に収めていました。さすが元曹洞宗の大本山・・・経済力に圧倒されます。白いお参りの法被装束の一団が、世話役に連れられて巡っていました。
R249からr38に入り山道です。ここへの入口で、「通行止め」の看板が設置されておりビックリしました。「解除中」のシールが貼られていました。後で知ったのですが、まれ人気で、GW中は一方通行&車乗入れ制限が掛かっていたようです。時間が15時までと書いてあったので、この日も15時までは一方通行だったのかもしれません。バスに乗って、「まれ・メインロケ地」に入るようになっていたようです。
r266に入り、ロケ地の畑。皆月海岸に出て、イチ子ちゃんのお母さんがやってる美容室。r38に戻り北上し、メインロケ地の「大沢集落」に16:35・到着。途中に「男女滝」という2本並んで岩を下る滝がありました。ナイスでした。
大沢集落は漁村です。「間垣の里・田中屋旅館」というのがあり、番組内では別の名前のステッカーが貼ってあります。海岸側を間垣で守った風景は珍しい。自販機の大きさに間垣が切られ、そこに埋め込まれているように自販機が設置されています。面白いな。大沢バス停には、「間垣にあつまれ号・乗降専用バス停」という紙が貼ってありました。まれ人気で、凄いことになったのでしょう。そのバス待合は、「臨時まれロケ地案内所」になり、中に入ると、ご自由にお取りくださいとパンフレットが山積みになっていました。「静浦神社」。「役場」の建物には、「ようこそ間垣の里 そとら村」と書かれたペンキが剥げた時代物の雰囲気満点のペイントが残っています。「外浦村」は劇中架空自治体だから、NHK番組スタッフがペイントしたものでしょうね。上手に年代物に仕上げるものだ・・・。
まれ一家が住む民宿・「桶作家」も地図に載っています。現役の民家のようなので、覗いたり激写などは控えました。僕の他に観光客は車2台です。子供を連れた家族が、まれが時々登っていた櫓に登って、お父さんに写真を撮ってもらっています。僕も子供たちがチビの時、こんなのをしていたな。ここは観光マイクロバス停車場で、バスの停車も30分以内と公告されています。GW後で、日曜日だけど観光客が帰った17時とあって、ピーク時の様子はわかりませんが、なんだか想像出来ます。
本日のお宿・輪島は、r38のエンドで20km程なので、日が長い5月でもあり余裕が出てきました。r38を輪島に向けて走っていると、「ゾウゾウ鼻」。そして17:33、「輪島駅」到着。JR輪島線が廃線になり、今は「道の駅・輪島・ぷらっと訪夢」という施設になっています。裏には、輪島駅のプラットホームの一部・線路・車輪が残っています。線路の延長線には等身大の線路と列車の写真が立てられ、年配のご夫婦が写真を撮られています。僕もこういうカップルでいたいな。定期的に踏切の警報点滅が始まり、なかなか良いです。
18:12、「民宿・海岸通り」到着。バイク置き場を聞くと、玄関横です。目の前の道の名が「海岸通り」でそれを隔てて、7階建ての「ホテルルートイン」が建っています。海岸通りは、その名の通り目の前が海岸で、ナイスなロケーションです。ルートインを見ると、玄関横の庇の下に、あのアメリカンさんのバイクが有ります。さっき到着した時に、ホテルマンさんに指示されてバイクを動かしておられたのが、あの方だったようです。
宿帳を記入し、明日の夜明け頃出発のことを話し、先に精算させてもらいました。1泊素泊まり・3700円。夕食を摂ろうと、着替えて輪島の町に出ます。「海岸通り」さんの下に「能登牛」のお店がありますが、獣肉は苦手なのでパス。「輪島工房長屋」・民家の藤棚を見て、さっき前を通り気になった「重蔵神社」に参ります。駅前メインストリートを輪島駅の方に歩きます。おしゃれなレストランがありますが、男1人なのでパス。僕は美味しいものを食べたいという気持ちが薄く、極普通の家庭料理が好きなので、旅の食事はSAや道の駅併設のレストランが簡単でいいのだけど・・・。現役の赤ポストが、あちこちに見かけます。観光の街・輪島故、あえて新しいポストに替えていないのでしょうね。
輪島塗屋さん・古美術屋さん、興味をそそるお店が目につきますが、みんな閉店しています。「道の駅・輪島」内にあった「ゴーゴー・カレー」というお店で、エビカレー中・780円を食べました。今度は裏道を巡って宿に帰ります。裏道の方に、いろんな食べ物屋さんがありました。「朝市通り」を歩きます。「永井豪記念館」がありました。輪島出身なのかな?デビルマンですね。「市姫参道」というのがあり、海に向かって歩いてみました。
小さな「市姫社」がありました。謂れ板には、『輪島には、朝市・夕市・お斎市の3つがあり、これを総称して輪島の市という。大和時代、越の国に鳳至比古神社があって、この神社の祭日ごとに物々交換の市がたった。これが輪島の市の始まりです。市姫神は、宗像三神の中の「市杵島姫命」という説があり、古代から市の発生とともに息災・商人関連の神としてその中心地に祀られ、人々に崇められた。足利時代より白髮素麺の大産地として輪島が発達したのも、市姫信仰ご加護のお陰と、小麦の挽臼を祠代わりにお供えした』
面白いなあ・・・謂れ板の前半を読んだら、市姫は市場のお姫様、つまり売り子の女性に尊敬を込めて建てられたと想像したのに、宗像三神と繋がってきました。
伊邪那岐尊は、天照大神に高天原を、月読尊を夜の世界を、素盞鳴尊には海を治めるように指示されますが、素盞鳴尊は「僕はお母さんの伊耶那美命のいる黄泉の国に行きたい」と駄々をこねたので、追放される。姉の天照大神に挨拶してから黄泉の国に行こうと、高天原に昇ったら、天照大神は弟が乗っ取りに来たと思い完全武装で戦闘態勢に入る。「僕そんなことせえへん。嘘やと思うんやったら占ってみたらええやんか」と誓約する。この占いは素盞鳴尊が勝利し、天照大神も弟に心を許す。しかし、ここで弟が大暴れして、怒った天照大神は、天岩戸に隠れてしまう。この誓約の時生まれたのが宗像三神です。市杵島姫命は、天孫降臨の時、ニニギの教育係として葦原中津国に下り、ニニギを立派に育てた。子育ての神であり、導きの神でもある。神功皇后が三韓征伐の時に参ったと言われ、大陸貿易で富を築いた平清盛が建立した氏宮・厳島神社もこの女神の名前が転じたとも言われている。謂れ板を読んで帰る道、「なんだか、輪島の市の力強いお母さん売り子さんのようだな」と思いました。朝市で夜明けから働き、家に帰れば子供に飯を食わせ、遊びや学校に送り出す、そんなお母さんに市杵島姫命さんが思えてきた。僕の想像の翼が、脳内を駆け巡っている。
「海岸通り」から見える場所に、「輪島マリンタウン」というのがありました。そこに電飾イルミネーションが施されて、24フィートほどのヨットが飾ってありました。19:30に宿に戻りました。「民宿・海岸通り」さんは、新築の建物なのか小綺麗です。共同トイレは入ると部屋の電気が自動で点きます。お風呂も全自動で快適です。コストパフォーマンスは、非常に高いように思います。

・・・5/11
3:44に目覚めてしまいました。4時頃起きるだろうなとは思っていましたが、少し早すぎる。4時を過ぎ、空が少し明るくなったので行動を開始します。布団をたたみ、荷物を整理し、バイク装束に着替えて、荷物を持って部屋を出ます。バイクカバーを外すと、夜露で少し濡れています。
4:32、バイクを道まで動かし、エンジンを掛けてすぐにマリンタウンに移動します。漁船が港を出ていきます。輪島入りした時に目に入った「住吉神社」にお参りし、4:45「奥津比め神社」にお参り。昨夜街歩きした時見つけた謂れ板に、『1576年、越後の上杉謙信が能登に侵攻し、七尾城を攻略した余勢をかって名舟村(輪島の近く)を攻めようとした。当時の名舟村は魚介の宝庫を有し、豊かな山の幸にも恵まれ平和な村だった。潮のごとく押し寄せる越後勢に対し、狩猟に使う槍以外武器を持っていなかった村人は、知恵者の古老の指示で、樹の皮を剥ぎ仮面を作り、海藻で髪をこしらえます。夜陰に乗じて、仮面を被り、海藻の髪を振り乱し、陣太鼓を先頭に、鯨の声をあげ、越後勢に必死の突撃を行った。突然の陣太鼓と怪物の襲来で、越後勢は狼狽し潰走していった。そして平和は保たれた。この勝利は、奥津比め神のご人徳によるものと、毎年大祭には、仮面を被り太鼓を打ち鳴らし神楽渡御をする』と書かれていたので、訪問したくなりました。本社は、輪島の沖50kmにあるので訪問できないので、この里宮に来ました。
「奥津比め命」も、宗像三神です。『・・・中世の末期に、筑前国鐘ケ崎(現福岡県玄海町)より能登国に渡来した海士又兵衛以下十三名が、やがて舳倉島(へくらじま)を根拠として漁業を営むようになって、深く当社を崇敬し、海士の故郷宗像大社の信仰をうけて、産土神と仰ぐようになった。昭和50年漁業の近代化多様化により舳倉の宮に対して、海士町の宮を現在地に建立して里宮とし、舳倉島の本社・末社及び七つ島の神々の御分霊をも奉祀することとした。』と書かれていたので、玄海の宗像三神を祀ったのが今に至っているのだろうと解釈した。
いやあ、面白い。港を見下ろす丘の斜面に鎮座しており、漁師の日頃を守り続けているのでしょう。
能登半島の先端に向けて、R249を走ります。夜明けのこの時間帯が最も好きです。5:08・「千枚田ポケットパーク」到着。能登半島は、道の駅より小さなポケットパークという駐車スペースが、あちこちの名所脇に作られています。飲食施設などはほとんどありませんが、トイレだけあるとこが多いです。さすが観光の地、好感が持てます。海外も異文化を感じていいですが、小奇麗で清潔で人の手が適度に入って日本の風景を楽しむ人が増えて、高度成長期のように日本人のお金が国内で使われるようになると、日本全体が好景気の好循環になると思うんだけどなあ・・・。
千枚田とはよく言ったもので、小さな田が幾重にも重なり、とても綺麗です。三脚で一眼レフを構えた男性が先客でおられ、朝日が入っていく光景を狙っているのかもしれません。
5:22、まれでお馴染みの塩田に到着。まさにドラマのあの塩田が国道脇にありました。お土産に塩田の塩を買えればいいなと思っているのですが、あまりに早すぎますね。
千枚田からこの塩田までの間に、「名舟町・名舟海岸」がありました。上杉謙信は、能登に侵入し、要の七尾城を落とし、七尾湾を北に渡って、能登半島先端南部に上陸したようです。ここ名舟村を次のターゲットにして、その隣が当時ももっと人口の多かったであろう輪島です。
朝イチに訪問した「奥津姫神社・里宮」は、輪島市海士町にあった宮を移動させたと書いてあった。気になって「海士町」の場所を調べたら、現里宮のすぐ隣で輪島漁港のある場所でした。そして沖合50kmにある「舳先島」も輪島市海士町でした。「海士」はその名が示す通り、海で生きる民、漁師を指す言葉です。
脳内想像の翼が広がりました。九州玄海地方から流れて、輪島の沖50kmにある舳先島に住み着き漁労を糧に暮らしていた民が、先祖の氏神「宗像三神・奥津姫命」を祀った。半島の輪島との交流も増え、一部が輪島に住み着き、そこに「奥津姫神社・里宮」を造営して信心していた。そこに越後の雄・上杉謙信の意を得た武将が大軍で攻めてきた。近隣集落の長が頭を合わせ、対策を練ったであろう。
その時、この地方の外様である奥津姫神社を氏神に仰ぐ海の民の長老から、前述の仮面&海藻髪での夜陰に乗じたゲリラ戦が提案され実行した。それが大成功に終わり、以来毎年この装束で奥津姫命に感謝するお祭りが続いているのではないか・・・
「まれ」のロケ地・大川浜を経て、5:35「南惣美術館」着。会館前なので内部見学できませんが、旧家が美術館になっているようで、外観やお庭などを無料見学させていただきました。
町野川を渡り、r6に出て、5:44「本家上時国家」到着。元庄屋だろうと寄り道しましたが、町野川の恵みが広がる田園を正面に、背後の山に取りつく位置に館が建ち、切岸されて元水堀と直感させる造作になっています。石橋が堀を渡って館に入る縄張りです。父の実家も庄屋で水堀(水路程度)が巡っていましたが、ここの縄張りは、庄屋の域を超えています。
「開館8:30〜17:00・料金520円・見学時間20分」、見学したいけど無理です。下手な寺社よりよっぽど立派な居宅です。目の前に広がる田園の広さから想像する経済力を考えると、異様な立派さです。経済力の根源が気になりました。近在に鉱山でもあるのか?松前船の寄港出来るような港はないし・・・、風波を凌ぐ天然の良入江もありません。
r6に出ずに、平行する里道で、もう一つの時国家に向かいました。隣に20mほどの幅がある水濠を有した「高田寺」がありました。『高野山真言宗のこの寺院は、両時国家の中間に位置し、時国家祖先の守り仏を本尊として、時国家とともに今日に及んでいる。』
なんと、時国家は一門でお寺を持っているんだ。きっと今もこの寺の普請は、時国家が行っているのだろう。一般の江戸時代の庄屋とは、経済力が段違いな気がします。そしてそこまでした崇拝する祖先は、どんな家系なのか・・・
5:57、「時国家」着。『時国家の初代は、1185年能登に配流された平大納言時忠です。2代目から当地で農耕を営み、時國村を成しました。1634年、13代藤左衛門時保は時国家を2家に分立し、当家は加賀藩領の時国家となり、江戸時代を通して、山廻衆・御塩係相見役・御塩方吟味役などの藩の役職を代々引き継ぐとともに、農業・塩業・廻船業を営みました。』
なんと、平清盛の義理の弟・時忠が配流先で興した家でした。清盛の片腕として、奥さんの実家を挙げて尽力し、平家の隆盛に貢献しました。清盛が引退して神戸福原に移った後は、清盛の嫡男・重盛を補佐し、実務と行動力に長けた実力平家随一の人物です。「平家にあらずんば人にあらず」の名台詞を残しました。
木曽義仲に京を追われた平氏が西国に流浪した後は、平氏とともにありながら、平氏主将の源氏との徹底抗戦とは一線を引き、源氏都の和平を画策した。よって、一の谷以降の源平合戦では、平氏主将から幽閉されて過ごした。木曽を討った源義経は、後白河法皇から「三種の神器」を取り戻すことを命ぜられていたから、和平両面で平氏と当たり、その平氏側窓口の立場でもあった。そんなこんなで、壇ノ浦で平氏が滅んだ時に捕虜になったけど、神鏡を守ったことから死罪一等を減ぜられ、能登に流罪とされた。
その家でした。公家平氏出身という名門なので、近在の民もいろんなことで時国家を頼り利用しただろう。時の権力者も、寺社や公家には強く当たれないからなあ・・・。前田家にも取り入り、地域の庄屋だけではなく、山廻衆は農地状況を見聞して回り作付状況を報告する職だし、生きていく上で必須な塩の役人方トップはおいしい裏収入がたくさんありそうだし、廻船業は1航海で一財産作れます。時国家の在所になじまない程の立派な屋敷に納得出来ました。
再びR249に出て、6:04、「恋人の聖地・せっぷんトンネル・パワースポット」の道標に惹かれて寄り道。「何処だ?」と探したけど、よくわからない。もう一度道標を見ると、「1km先」となっていました。6:06、「窓岩ポケットパーク」到着。「曽々木海岸」とも書いてありました。海岸の岩に、窓のような穴が開き、向こうが見えていました。
6:10、「寄り道パーキング・垂水の滝・0.8km」の道標脇に、数台駐められるパーキングが有ります。そこに、前述の「恋人の聖地」と赤く染め抜かれた幟が立っています。「トンネル・ハート パワースポット」と書かれたドラム・車止めが置かれています。R249のトンネル脇に、旧道のトンネルがあり、まだ健在のようです。更にその脇に、小さなトンネルの一部が見えています。
『現在の輪島市曽々木から珠洲市真浦に至る断崖絶壁の地は、昔は道もなく、「能登親知らず」とか「ヒロギの険」と恐れられた難所でした。岩につかまって歩く途中、誤って海に落ち失命する人が毎年あとを絶たなかった。1780年、海蔵寺八世の麒山瑞麟(きざんずいりん)和尚が開道を決意。加越能3国を托鉢して浄財を集め、13年後の1792年に、一筋の道を通しました。以来人々は、親しく「八世の和尚さん」と呼び、その徳を語り継いできました。この石仏は開道記念に、往来人の安全を祈念して、麒山和尚が建てたものです。』
『福が穴と岩窟不動 日本海に向かって大きく口を開けた「福が穴」(開口部20m・奥行き70m)は、その昔、修験道の祖・役小角が修行したという伝承が残る。後の世にも、修験者が度々洞窟に籠って護摩を焚き、人々の幸せのために仏像を彫り、修行された所です。』
海岸近くの岩場に通された道に降ります。人が横に2人歩けるほどの素掘りのトンネルに入ってみます。出口近くに電飾がキラキラしています。よく見ると、ハートの形のライン電飾で、その中をくぐる感じになっています。造られた時のご苦労は忍ばれますが、今だと単なる素掘りのトンネルです。それをこのハート電飾1本で「恋人の聖地・パワースポット」にしちゃうアイデアに脱帽しました。
トンネルを出ると、「ハートうつし台」という木製の台座が設置されており、ここにカメラを置いて、タイマーでハート電飾をくぐるカップルのせっぷん写真を写せるようになっています。トンネル横には、「恋人の聖地」「せっぷんトンネル・The Kissing Tunnel」のスポット看板も立っています。アイデアだなあ・・・ナイス・・・ポイント高いよ。「A kissing Tunnel」ではなく「The・・・」とは大きく出たななんて感心しながらも、現代の若者には「せっぷん」より「Kiss」の方が受けそうだけど・・・と思っていると、『映画「忘却の花びら(昭和32年東宝映画)あらまし 終戦直後、一宮葵(草笛光子)は満州で敵兵に汚されたため恋人の藤崎克己(小泉博)から姿を消した。葵の妹・鮎子(司葉子)が能登から姉の日記を鎌倉に住む克己のもとに届けた時、互いに惹かれるものがあった。その後、克己は鮎子への思慕に能登に訪れるが、親に冷たく断られて、能登の名所親不知に出かけたところ、黄昏のトンネルで思いがけず鮎子と出逢い、2人はひしと抱き合った。仲を裂こうとする多くの試練を乗り越え、強く愛し合う2人を見て、葵は自分の恋を忘却の彼方に捨て去るのでした。』
映画のロケ地・トンネルだったのですね。
旧道のトンネルも行けそうだったので突っ込むと、すぐに通行止めでした。このトンネルは、平成19年の能登半島地震で破壊されたので、新トンネルが造られたそうです。そう言えば、能登地震の時、TVニュースで流れていたのを思い出しました。
新新トンネルを抜けて東側に出ると、すぐに「垂水の滝」がありました。『垂水の滝は、山から流れ落ちた水が直接海に注ぐという、全国でも珍しい滝です。冬場には、この海岸周辺で、荒れた海の波が岩に砕けて水泡となり雪のように舞う「波の花」を見ることが出来ます。また風の強い日には、海からの季節風によって垂水の滝の水が霧状になって吹き上げられ、水が落ちてこないという現象が見られます。このことから「逆さ滝」とも呼ばれています。』
ここから東は、能登半島先端の町・珠洲市です。6:32、まれのロケ地「すず塩田村」到着。『連続テレビ小説「まれ」揚げ浜塩田ロケ地 揚げ浜式製塩の技を受け継ぐ珠洲』の看板が立っています。実演も見てみたいけど、早すぎてオープン前です。この旅のお土産は、「塩田の塩」を考えていたのですが、こりゃ無理だわ。
海岸道路はr28に変わり、7:14、能登半島の先端「禄剛崎崎」にある「道の駅・狼煙・禄剛崎埼灯台」に着きました。灯台へ登っていきます。7:25、到着。『日本列島ここが中心』だそうです。「東京302km」「上海1598km」「釜山783km」「ウラジオストック772km」となっています。『ここは能登半島の最北端で、ちょうど外浦と内浦都の接点にあたるところです。「海から昇る朝日」と「海に沈む夕日」が同じ所から眺めることで有名です。また、晴れた日には、立山連峰や佐渡ヶ島が見渡せます。この高台に立つ灯台は、明治16年にイギリス人技師が設計したものです。現在も禄剛崎のランドマークとして、この地の壮大なロマンを感じさせてくれます。』
灯台は、近代産業遺産に指定されていました。昨日に続き今日も雲ひとつない上天気なので、気持ちが良い。禄剛崎への道は、桐の紫とコデマリ(小手毬)の白の共演で、ともに満開でナイスでした。良い日に来ました。
「聖域の岬・ランプの宿・空中展望台へ1.5km(車で6分)」と書かれた幻想的な夜の写真入りの大きな看板がありました。行ってみよう。R249はここから南に向きます。R249は、南に向きます。ここが自宅から最遠の地で、ここから帰路になるので、昨日より走行距離が長くなりそうです。
7:49、「ランプの宿」到着。「青の洞窟」もあるようです。「聖域の岬」案内図がありました。眼下の岩場の小さな湾側にあるのが「ランプの宿」のようです。プールも見えます。部屋に電気がなく、ランプが灯るのかもしれません。「空中展望台」は営業時間前でした。プールの飛び込み板のしっかりした版です。あの先端まで歩いて行くのは命がけです。
8:02、「須須神社」着。『1110年、鳥羽天皇が宋朝へ万金を贈った返しとして、生きた蝉のような節の付いた笛が送られてきた。特別な笛として大切に守られていたが、ある時高松中納言がこの笛を吹き、つい普通の笛のように膝下に置いたところ、それを咎めた笛が、蝉の節のところで折れてしまった。これ以来「蝉折の笛」と名付けられた。この笛はその後、平家から源義経の手に渡った。1187年、兄・頼朝との不仲から追われる身となった義経は、奥州へ落ち延びる際、大野(金沢市)から珠洲岬へと向かう船に乗り込むことが出来た。その日の昼過ぎ、岬の手前で難風に遭い、須須神社に無事を祈願した。まもなく風が静まり、お礼を遂げるために岬に船を寄せた。難を逃れたお礼として「蝉折の笛」を奉納したのである。それ以来、須須神社の宝物として、大切に守られている。』
御祭神は、「高座宮」に天孫降臨したニニギ・美穂須須美命、「金分宮」に木之花咲耶姫。美穂・・がわからなかったので調べると、諏訪大社主神・建御名方刀美神の別名でした。この神は、大国主命の息子です。天孫降臨の前に葦原中津国を治めていた大国主命に打診があった時、他の息子2人は賛成したが1人反対した。
大岩を軽々持ち上げる大力の持ち主で、力勝負しようと言いましたが、あっけなく負けてしまい諏訪まで逃げました。ここから動かず、葦原中国の守り神になると宣言した武の神様です。つまりニニギ夫婦とその用心棒という組み合わせでした。
『第10代・崇神天皇の御代(2000年前)、能登半島の最東北端の山伏山(鈴ヶ嶽)頂上に創建され、天平年間に現在の地に遷座した国史現在社・延喜式内社です。古代より縁結びの神として知られ、この「結び」は単に男女の仲を結ぶだけではなく・・・。社叢は、国の特別天然記念物。・・・』
社叢が、国の天然記念物指定されているのですね。神域は基本「禁足地」だから、貴重な動植物が残る原生林なのかな?神道は、生活の基板となるきれいな水が流れてくる山・滝、恐れ多い何かを感じる巨石などに神が宿るとして、神域に指定し禁足地としたことで、そこで暮らす人の共同体の生活基板のベースを後世に残した。この考えが脈々と続くことで、都会にも鎮守の森が残り、緑の多い日本列島を今に残してきた。素晴らしい思想だと思っています。
須須神社の本殿まで上がってみました。菅原道真と同じ梅鉢紋でした。r12〜R249〜9:01・「見附島」到着。別名軍艦島。小さな、だけど背の高い島の横の海に鳥居が立っています。半島側には鐘が下がり、「NOTOえんむすび〜ち」と書かれていました。
『弘法大師・空海が、唐の国に渡り、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)のもとで修行され、三国伝来の伝承者と認められ、金胎両部(こんたいりょうぶ)の灌頂(かんじょう)を受け、密教伝来の三杵(さんしょ)を授けられた。唐の僧たちは、その三杵を奪い返さんと日本に帰ろうとする空海を海岸まで追いつめてきた。その時空海は、東方を望まれ「密教有縁のところに行きて我を待つべし」と三杵を大空高く投げられた。帰国された空海は、三杵を求めて海路佐渡より能登沖を通られた時、波の音とともに法華経を唱える声が聞こえてきたので、島を頼りに着岸された。そこで村人の案内により、山の桜の樹に探し求めていた三杵の1つ・五鈷杵が光り輝き、白夜法華経を唱えていた。空海は深くお喜びになり、ここに一宇を創建され、吼木山(ほえぎさん)法住寺と名付けられた。そして三鈷杵は、高野山の松の樹に、独鈷杵(どっこしょ)は佐渡の小比叡山の柳の樹に掛かっていた。それより島を「見附島」と呼び縁結びの神を祭り、海難の守り神と共に小社を安置し、4/18を祭日とし船を繰り出して島上に登り、祝詞を奉じてきた。しかし今は、歳月による風化に加え、能登半島沖地震や台風の被害により、島に往時を偲ぶ勇姿はなく、島上の社も崩壊したまま今日に至っています。』
弘法大師の有名な三杵の話ですね。ここには独鈷杵が佐渡で発見されたとありますが、早朝バイクで2度ほど訪問した丹波亀岡の「獨鈷抛山・千手寺」でも、「弘法大師がここで見つけた」との謂れを読みました。いずれにしても、日本神道と仏教の習合の姿が、ここにもありました。一方がキリスト教では、こういうことにはならないでしょう。我が神のみが真実・唯一と頑なな一神教・宗教と、八百万の神道との大きな違いです。高野山では、仏塔・僧坊を建てながら、高野山を守護する神社も建て、今でもその神社の世話を、真言宗のお坊さんたちがやっている。対してキリスト教信者が多かった北摂高山では、キリシタン大名・高山右近の手で、多くの寺社が破壊された。肥前長崎周辺では、ほとんどの寺社が破壊されたという。
「恋みくじ」「えんむすび絵馬」が、無人販売されていました。そして周辺の松に絵馬が下がっていました。こういう「恋人の聖地」にやって来て、絵馬をぶら下げて行くカップルは、幸せな家庭を築いていくでしょう。僕の学生時代はこういうスポットはなかったけど、すごくいいと思います。「恋路海岸」の北に位置します。
9:24、「恋路海岸通」を経て、「恋路駅」到着。廃線になった「のと鉄道・能登線」の駅です。「奥のとトロッコ鉄道・のトロ乗車口」という真新しい看板がかかっていました。予約申し込み電話番号も書かれていたので、予約が必要のようです。係の方が常駐していないのですね。土日・祝日は常駐しているのかな?残念・・・
海側は恋路海岸として整備され、お約束のハート・鐘などが設置されています。
『約700年の昔、木郎の里の助三郎と、多田の里の鍋乃は、人目を忍んでこの浜で逢瀬を重ねていた。暗い夜、鍋乃のともす灯は助三郎の唯一の目標であり、愛する2人を結ぶ希望の灯でもあった。鍋乃に想いを寄せるもう一人の男・源次は、2人の仲を妬み、灯を崖の外れに移してだまし、助三郎は深い海から帰らぬ人となり、鍋乃も銀次の求愛をしりぞけ、海に身を投げ助三郎の後を追った。この悲しい恋の物語を秘めた浜は、いつの頃からか「恋路」と呼ばれるようになったと伝えられる。』
僕は子供の頃、母親にたくさん本を読んでもらいました。世界の名作や日本の昔話が多く、それ以来昔話好きです。次男もお気に入りでしたが、「日本昔ばなし」というTV番組があり、いつも楽しみにしていました。隣の僕の実家に住む母がいつも録画し、次男はそればっかり見ていました。名作や昔話には、物語の中に道徳や幸せな生き方のエッセンスが散りばめられており、こういう話は今でも大好きです。
r35〜R249で能登半島東海岸を南下します。9:44、何気なく海側を見ると、海の上に白いものが・・・「あれ〜立山連峰?」。緊急停止して、激写タイム。300ミリ望遠レンズに交換して写します。禄剛崎灯台から見えなかったので、見れたらいいなと思いながら海岸線を走っていました。
r35にチェンジし海岸線を楽しみ、9:56「エネオス石岡石油店・オートオアシス九十九湾SS」で給油。287km/11.81L=24.3km/L。
再びR249に合流し、10:57「中居湾ふれあいパーク」。「ボラ待ちやぐら」がありました。『ボラ待ち網漁は、江戸時代から伝わる原始的な漁法で、7・8mの丸太櫓を組み、その上から海底に張った袋網を見張る。ボラの群れが網に入ると網口の綱を手繰り上げて獲るというのんびりした手法です。ボラは音に敏感で、静かに待たなければならず、光の反射する海面を通して魚影を見つけなければなりません。』
高校ヨット部時代から、ボラが船に飛び入ってきて難儀しました。見た目があまり美しくないし、臭いがきついです。慌てて放り出したことは数知れずです。太刀魚は入ってくると、そのまま持ち帰り、合宿の飯になりました。
11:20、「能登鹿島駅」。無人駅です。国道に看板が出ていたので、つい寄り道してしまいました。『能登さくら駅 この桜並木は、旧国鉄七尾線が開通した昭和7年、地元民が開通を祝い植樹したもので、現在ではゆるくカーブしたホームに沿って、さくらの大樹が両側から枝を伸ばし、薄桃色の花が咲くと、列車が桜のトンネルを抜けていくように見えます。のと鉄道のパノラマカーも花見シーズンともなると満員の盛況で、車窓から見る桜並木は、眼下に波静かな穴水湾を望み、白雪をいただく立山連峰の勇姿を背景に、一福の名画の趣です。昭和63年4月、風見鶏が潮風に揺れるこの大正ロマン風のかわいい駅舎が完成したのを機に、「能登さくら駅」との愛称が付けられました。』
駅部分だけ複線化されているので、ここで離合するようです。ホーム脇には、手
入れされた花壇があり、これも地元民のお世話かな?と思い、とても良い気持ち
になりました。
R249〜r256で橋を渡って能登島入りしr257で島の東海岸を南下、r47で再び半島側に橋を渡ります。11:55「ローソン・七尾光陽台店」でアップルデニッシュ129円を購入。七尾城攻め中に昼食として食べようと思います。
R249〜R159〜r177で、12:29・「七尾城址」まで上がりました。駐車場は標高280m・本丸のある山頂は300mですが、七尾湾・和倉温泉の麓が眼下に見える眺望です。比高はそのまま280mほどでしょうから、山城にしてはかなりの比高です。室町・戦国時代の難攻不落の山城として有名です。
『戦国の名城・七尾城 室町幕府三管領の1つ、畠山氏から分かれた能登畠山氏の居城である。石堂山山系の北端に位置し、標高300mの尾根に長屋敷(長殿丸)・本丸・西の丸・二の丸・三の丸などの曲輪を配置、この尾根から枝分かれする幾重もの尾根にも大小無数の砦を配置している。それ故に、七尾という地名は、7つの尾根に由来するという。築城年代は明らかではないが、戦国期に入ってから逐次拡張・増強されたとみられる。1500年代前半は最も政治的に安定し、文化が栄えた。1526年当代一流の歌人冷泉為広・為和父子が七尾城に来訪し、1544年の記録では、城下山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なったと見える。1577年、越後の上杉謙信の攻略にあって落城、能登畠山氏は滅亡した。本丸から三の丸にかけての一帯は、石垣・土塁・空堀、それらを備えた曲輪の保存状態が良いというので、昭和9年国の指定史跡となった。』
戦上手の上杉謙信も正攻法では1年包囲しても落とせず、遊佐氏の内応を誘って内部瓦解させ奪ったという防備の堅い城で、日本五大山城の1つです。これで能登は上杉謙信の手中に落ちたが、謙信死後起こった上杉家内部分裂・御館の乱に乗じて織田軍が攻めてきた。上杉守備隊は頑強に織田軍に抵抗したが、多勢に無勢、応援の遅かった上杉本隊の前で討ち死にした。この守備隊の中に、僕の母方の先祖・蓼沼の名が見え、先祖の供養のためにも訪問したかった城です。
バイク装束を脱ぎ、山城攻めの身軽な服装になります。この山城駐車場には1台も車が停まっていませんが、隣の別峰にある展望台から、着替えている間に2台の車が降りてきました。すぐ近くコゲラがおり、トントントンとリズミカルに木を突く音が聞こえます。
12:35、出発。12:37、「調度丸」。目の前に、見事な石垣積みが見え圧巻です。数々の中世の山城を訪問したが、播磨の赤松氏・伯耆の尼子氏本城に匹敵する見事さです。そしてそれらの上を行きます。さすが畠山氏庶流といえど一国の守護大名です。素晴らしい。旧大手道が、ここから下っており、虎口の造作も遺っています。
本丸の方に登ってみます。謂れ板の前に杖がたくさん立てかけてあります。むむ〜、先は手強いのかな? 「桜の馬場跡」、いつも思うのですが、高所にある山城でもかなり高いところに広い馬場があります。山道ゆえ、馬でも速くは歩けないだろうし、足を踏み外したら武者もろとも崖下に落ちるから、徒歩で馬を引きながら登り下りすることも多かろうと想像する。山城攻防戦では急峻な本丸近くでは、馬は威力を発揮しないし。広く勾配のゆるい軍馬路を整備すれば、攻め手に利用されます。なぜ、馬場をもっと低いところに造らないのだろう?
「遊佐屋敷」がありました。応仁の乱のきっかけは畿内畠山氏嫡流の内紛ですが、その嫡流でも守護代を何代も続けてきたのが遊佐氏です。能登庶流畠山氏でも守護代の立場であったようです。下を見下ろすと、何段かの石垣で固められた切り岸で、急峻な勾配が維持されています。
さらに数段の石垣が施され、そこを上がると、12:47・「本丸跡」到着。駐車場からはすぐで助かりました。『七尾城の中心となる曲輪。東西50m・南北40mあり、二の丸までの一連の曲輪とともに主郭を構成する。石垣は戦国期の山城に多い「野面積み」の工法を用い、北側は3段に組まれている。』
高い切岸が見事に残り、素晴らしい保存状態です。谷を隔てた斜め上方に、展望台が見えます。芦原温泉・七尾湾が眼下に広がり、素晴らしい景色です。「城址神社」にお参りし、12:58バイクに戻りました。往復30分で見事な山城を拝見でき、コストパフォーマンスの非常に高い山城攻めでした。
予定では、半島の東海岸線をR160で下り、「阿尾城址」も城攻めし、更に高岡に下り、そこから高速道路の予定でしたが、12:00七尾城の予定を1時間過ぎています。帰路がかなりあるので、安全第一でここから一路帰路につくことにしました。R159で半島を斜め金沢方面に走ります。
「のと里山海道」に「今浜IC」から乗ります。14:29「道の駅・高松SA」でアイス125円補給。風が前日以上にきついです。怖いなあ・・・困ったなあ・・・。「白尾IC」〜R8バイパス〜「金沢東IC」から北陸道に乗ります。15:25、「徳光PA・ローソン白山車遊館店」で、グリコジャイアントコーン・140円で再び糖分補給。小松基地からスクランブルなのか?ジェット戦闘機が2機飛び立ちました。更に遅れて1機離陸。かっこいいな。
「尼御前SA」で休憩をはさみ、「北鯖江PA」到着。横風が強く、80km/hも困難で、70〜75km/hで走ってきました。出来れば60km/h以下で走りたい。PA+SA2つ毎に休憩しています。風のため約40kmで限界に達します。バイクが振られることはありませんが、身体が左右に振られます。ああ、怖い。福井平野の吹きっさらしエリアはもうすぐ終わりますが、次はトンネルだらけの海岸道エリアです。トンネル内は平気だけど、トンネルを出たとこの突然の横風が心配です。
GPSによると、高速道路に乗った時の帰宅時間は18:30時でしたが、何度かの休憩を経て19時台になっています。本日中の帰宅は無理かもしれないけど、横風の恐怖がより少ない下道で帰ることにしました。
GPS設定を「高速道路を通らないルート」に変更すると、「R8〜敦賀〜R161〜湖西道路〜R1〜R171」を示します・・・都会を走る京都以降が面白くないな。「敦賀〜R27〜R162〜r19〜R477」ルートに決定。次の「鯖江IC」で高速を降り、R8に乗ります。17:58、「エネオス・エネクスフリート武生店」にて給油。GPSに表示されている自宅までの距離から換算すると、最後の給油になりそう。254km/9.38L=27.1km/L。
都会を走る「武生IC」までは、信号でのゴーストップの繰り返しでしたが、越前海岸への山ルートからは、高速道路並みのバイパス道になりました。越前海岸に出ても同様で、60km/hで交通量も多くなく気持よく走れました。連続トンネル・ロックシェイドエリアだけ以前のままで、道は狭く連続カーブでしたが、渋滞もなくスピードダウンして気持ちが良いです。
敦賀で、バイパスを降り、旧R8でR27を目指しましたが、結果的にはバイパスでもR27に乗れたようです。GPSは「R161〜湖西道路」を指示しますが、R27に乗り換え、日本海側を「小浜」に向けて西進します。この道も山側にバイパス化されており、60km/hで快調に走れます。眠たくなればもう一泊し、早朝バイクで出勤前に帰宅も考えていましたが、ここまで来れば「午前様帰宅」は避けられそうです。18:53、「ファミリーマート・美浜佐柿店」にて休憩。「飲むヨーグルト・フルーツミックス・198円」は、つぶつぶが入ってて、加えてヨーグルトの軽い酸味が美味しい。
「小浜IC」まで来て、R162に乗り換えました。昼間なら、快適・快調バイクルートですが、日は落ち真っ暗です。しばらく交通量があり、安心して走れましたが、やがて交通流がまだらになり、ヘッドライトをアッパーに切り替えながらの走りになりました。川沿いの緩やかカーブエリアで、走りそのものは気持ちがいいです。
横風の強かった高速道路では、PA2つ(40km)しか持たなかったのに、速度の落ちる下道になると、1時間走っても平気です。それでも一度、バイクと身体に休憩を入れようとポイントを探すが、道路灯も少なく適当な場所がありません。エンジンを切りヘッドライトを消せば真っ暗になるので、少しでも明るい所で休みたい。
「道の駅・名田庄」手前の橋の上で停めました。ここは外灯が多くて、少し明るいです。段差のある歩道に上がり、川の流れる音をBGMに背伸びなどします。「かじか」がたくさん鳴いています。「河鹿」とも呼ばれる清流に住む蛙ですが、鹿の声に似ているとの表現は、「当たらずとも遠からず」です。20:30を回ったので、家内に現状報告しようと電話の電源を入れると、ミニ懐中電灯と反射たすきをしたウォーキングの方が来られました。止まっているバイクを見て、「どうかなさいましたか?」「大丈夫です、休憩です」「もう少し先に道の駅がありますよ」「もう閉まっているでしょう?」「ええ、でもここはトラックも通るので危ないですよ」と声を掛けてくれました。
家内に、現在地と帰宅時間23時台を伝えました。家内の声に力をもらい出発。「道の駅名田庄」は閉店していましたが、鎖はなく、数台のトラックが休憩していました。トイレも自販機の明かりもあるし、やはりこちらで休憩した方が良かった。ここを過ぎると、京都府・福井県境の山越えです。昼間なら、「いよいよ山だな」という感じになるのですが、真っ暗なのでその気持ちが起こらず、淡々とカーブを抜けていきます。大型トラックも走る道なので、きついヘアピンはなく、5速・6速の切り替えでOKです。CB400はトルクが有り、ギアダウンを頻繁に行わなくてもアクセルワークのみで楽です。ギアチェンジもノークラッチで簡単にチェンジできて、ナイスなバイクです。アクセルワークも、スロットルアシストを装着してるので、ハンドルをしっかり握らずとも拇指球で押す動作のみなので、更に楽です。バイク免許取って、VTR250に乗り出した時は、夕方になると左手の握力がなくなり、クラッチを切る動作が辛くて仕方なかったけど、今は平気です。
県境の「堀越トンネル」を抜けて、京都側に下ります。VTR250ならギアダウンすれば、適度なエンジンブレーキが利くので、ブレーキが要らないですが、CB400はトルクがあるので、ブレーキを掛けてもギアをダウンさせておかなければ、後ろからグイグイ前に押されます。更に大きな排気量のバイクの後ろで坂を下ると、必ずカーブ手前でより長くブレーキを掛けています。更に大きなトルクで押されている感じが想像でき、僕には400cc以上は要らないなと思わせます。
京都側を快適に下り、難所「九鬼ヶ坂」手前でr12〜r368ルートに変更し、r19に入ります。後ろから追い付いてきた大型トラックに道を譲りました。ここまでも後続車に追いつかれる度に抜いてもらいましたが、このトラックは僕とほぼ同じペースです。ヘッドライトの光量が小さなバイクは、単独で暗闇を走ると、どうしても安全速度が落ちますが、ドラックの後ろだと前方が明るいので、安全速度が上がります。日吉ダムを過ぎ、園部市内まで先導してもらいました。
「道の駅・京都新光悦村」を過ぎ、21:31、R9との交差点手前の「ファミリーマート・南丹園部内林町店」で休憩を入れます。少し前から、細かい雨が落ちて来たので、ここで車載カメラを収納します。チョコバリ・129円で糖分補給しました。
以前地図を見て見つけたR477・「新世界トンネル」に出る園部からの直進路を探すべく、信号一つ戻って信号を南に曲がります。結局この道は、R477のトンネル〜園部間のややこしいとこは回避でき、よっぽど近道でしたがミスで、信号右折・左折が1回ずつ必要でした。ファミリーマートの交差点を南下すれば、一直線のようです・・・覚えたぞ。
2つの「新世界トンネル」を抜け、R372を亀岡の方に少し走り、再びR477単独路に曲がります。ここまで来れば、勝手知ったる早朝バイクフィールドです。「ひいらぎ峠」で大阪府に入り、r106で一庫ダム経由でR173。多田でr12・旧道にチェンジし、r13経由で22:30に帰宅しました。玄関などの電気は点いていますが、家内は寝ている時間です。荷物を玄関に置き、バイクを倉庫に片付けます。雨はR372には落ちておらず、すっかり乾きました。
再び自宅に戻り、ちょこちょこ食べでお腹が空いていないので夕食をパスし、風呂に入って、23:30頃寝ました。さすがに疲れていたようで、翌火曜日の目覚めは7時でした。遅く寝たのでまだ眠いですが、台所仕事中の家内に向かって、食卓に座って能登の旅のお土産話をします。塩田の塩をお土産にしようと思ったけど、朝早すぎて買えなかったので、お土産は旅行記のみです。火曜日はいつも通りの21時台で寝たので疲れが取れ、水曜日の目覚めは4時のいつも通りに戻りました。ああ楽しかった。

2015/5/3
土曜日夜に、長男一家(長男・お嫁さん・嫡孫くん)が、帰省しました。お嫁さんと嫡孫くんは、実家の新潟から20:30着の便で、長男は東京から20:15着の便です。長男は、GW前にアメリカに出張だったので、お嫁さんと孫君は先に実家に帰省しました。長男はアメリカから帰国後すぐに新潟に行き、GW前半は新潟で過ごしました。4/30・5/1は仕事があるので、東京に一旦帰り、GW後半を我が家で過ごすために、伊丹空港で合流しました。
僕ら夫婦は、一家を迎えるために20時に自宅を出てJAL到着ロビーで待機しました。新潟便も東京便も、遅延なく定刻到着です。家内の予想雨通り、先についた長男は、到着デッキで2人を待ち、20:40頃ロビーに出てきました。我が家は空港ロビーまで車で10分ぐらいなので、「着いたよ」の電話をもらって自宅を出発しても、お迎えに間に合います。美人のお嫁さんと、いつも垢抜けたかっこいい服を身にまとっている孫くんを見ると、東京のスカウト銀座を歩いたら、親子でモデルにスカウトされそうだなと思います。
自宅に向かう途中、信号に止まると、孫くんが「イオン」と指さしました、「イオンがあるの?何処かな?」とみんなで探しますがわかりません。信号が青になり走りだすと、ガソリンスタンドの小さなイオンカードの看板が見えてきました。アルファベットのロゴマークだったので、「アルファベットが読めるのか、凄い」と思いましたが、紫カラーとロゴマークを丸覚えしているのでしょうね。「ブーブーご飯」とGSを指さし、ちゃんと会話になっているので、前回会ったお正月から急成長しています。
日曜日は、弟一家とともにヨットに乗る予定です。僕はいつもどおり4時に目覚め、天気予報などをチェックしながらゴソゴソします。バイクでひとっ走りしたいですが、さすがに長男一家が帰省している日に、家内だけ置いて出かけられません。陽が昇ってから、自転車で猪名川土手定番コースを走りました。31:54・8.06km・平均速度15.1km/h・最高速度31.8km/h。帰宅後、隣の実家で宿泊した孫くんに「おはよう」を言いに行きました。JAL飛行機のミニチュアを、もらったそうです。鯉のぼりを長男が上げるのを、孫くんと一緒に見上げます。遼くんは2才なので、ちゃんと喋れませんが、「パパ」「青、遼くん」と手を叩いて大喜びです。去年、息子たちの鯉のぼりを引退させ新調しましたが、去年も大喜びしてくれて、嬉しい限りです。
なんだかんだ孫くんと遊んでいたら、ヨットハーバーに出かける9時になってしまいました。長男一家も参加予定でしたが、遼くんが新潟での最終日に熱を出してしまい、前日の昼食・夕食・今朝の朝食と食べなかったので、大事を取ってお留守番です。僕だけ通勤リード110に乗り、ハーバーに向かいます。
R171を西進し、9:40ハーバー着。弟一家(弟・義理妹・姪)は、10分前に着いていました。大学浪人生活を始めた甥は、予備校優先です。ハーバーインフォメーションに、給油する旨声を掛け、船に乗り込みます。先輩の「シグナス」もクルージングに出るようで、クルーの皆さんと桟橋で会いました。給油桟橋に船を横付けします。10:11、軽油単価131円で満タンにします。
東出入口からハーバーの外に出て、メイン・ジェノアともにフルセイルで帆走開始。すぐに弟・妹・姪にステアリングを渡し、僕はセイル担当になります。風向は、E~SE〜Sに変化して行きましたが、2m/sほどの風速しかなく、しかも無風エリアも存在する不安定なコンディションです。やがて無風になり、機走に切り替え、六甲アイランドのコンテナヤードで、コンテナ船に積み込んでいるコンテナ作業を見学し、フェリー乗り場・海上自衛隊阪神基地を見て、帰路に着きました。「関西インカレ・春季」のレース日で、学生のヨットが多数出ていましたが、この風ではレースにならず、風待ちで漂っているだけでした。かわいそうに・・・。
12時にハーバーバックし、13時には自宅でワイワイする予定でした。帰路で家内に現状報告すると、お嫁さんが新潟に靴下を忘れてきたので、4人で車に乗ってイオンに向かったそうです。しかし、駐車場渋滞が発生していたので、靴下購入を諦め、ハーバーに向かっているそうです。ハーバーレストランで、昼食を取ることにしました。
12時にセンターハウス前に着き、駐車場から歩いてきた長男一家に手を振りました。孫くんも僕と分かったようで、笑顔をくれました。バースに係留し、レストランに向かいます。いつものランチでワイワイやっていると、ふと隣のテーブルで1人で食べてる青年に目が留まりました。「あれ〜近藤くん?やっくんだよね」、次男とジュニア時代に何度もレースで競い合った葉山ブルーアンカージュニアのやっくんでした。僕がジュニアヨット協会理事をやっていた時、ヨーロッパ選手権日本代表チーム強化・遠征担当でお世話した選手でもあります。お姉ちゃん2人もヨットをしており、近藤3兄弟として有名でした。長女さんは、北京・ロンドンオリンピックの日本代表になり、ロンドンの時は兵庫ジュニアで次男と同級生だった女の子と組んで出場しました。事親子ぐるみの知り合いです。ジュニア卒業後も、2年に1度ぐらいは、どこかの大会で会ったりしていたので、「お〜久しぶり〜、なんでここにいるの〜」と話の花が咲きました。アイシンから東京のIT会社に転職し、社長がここに置いているグランドバンクスの整備に来ているそうです。GWは、社長と社員数人で小豆島経由で広島までクルージングするそうです。
みんなで我が家に帰宅し、ワイワイガヤガヤの続きです。先日京都で買った「五月武者飾り人形」を長男が組み立てます。怖がるかな?と思っていた遼くんは、大喜びで兜を被って鏡を見てはしゃいでいます。衝動買いした甲斐がありました。夕方になり弟一家が帰り、鯉のぼりを片付けた後、僕らはうどんを食べに「のら家」に行きました。遼くんは熱も下がり本調子になり、長男とお嫁さんが注文した大盛りを両方からもらい、更に僕のうどんも提供し、モリモリ大人1人分以上食べました。これで、初日はお終いです。僕らは、20時台に寝てしまいました。

2015/5/4
メニューは、日本最初の官営寺・奈良東大寺〜藤原氏氏神・春日大社〜藤原氏寺・興福寺です。前日、長男一家とともに実家に泊まった姪と一緒に、8:30自宅を出ます。中国道〜近畿道〜第2名阪道で奈良盆地に入りました。県庁前の公園にいる鹿を横目に東大寺駐車場に入れようとしましたが、既に満車とのこと。春日大社県営駐車場を紹介されますが、東大寺近くに駐車したかったので、昼食を取る予定の「ふれあい回廊・「夢しるべ風しるべ」」駐車場に入れました。2000円以上お買い物で2時間無料です。
東大寺参道に行くと、早速鹿がいっぱいいます。鹿せんべい屋台も出ており、早速それを買って鹿にあげます。というより、買う時点で鹿が横に寄ってきて、催促の突っつきが始まります。長男は、「お腹を噛まれた〜」とワイワイ、姪・お嫁さんもワイワイ。遼くんも挑戦しましたが、鹿さんの顔がグングンくるので、1回しかあげられませんでした。「怖い」と、お父さんやお母さんがあげているのを「こいつら危ないかも?」という目で見ていました。僕は、雄の角を触ってみました。意外に柔らかでした。
入場料を払って大仏殿に向かいます。お嫁さんは、初めての奈良県入りだそうで、その巨大さに驚いています。大仏殿に入り、巨大な盧遮那仏を遼くんは指差して見上げています。叩いても良い鐘があり、ポンポンと叩いてごきげんです。裏にまわり、大仏さんの鼻の穴と同じ大きさだという柱の穴に挑戦です。姪・遼くん・お嫁さんの順番で挑戦です。家内が先に順番取りのために並びます。体格的にちょっと厳しそうな男性が、一旦突っ込んだので、必死で抜け出ようと頑張っています。見るからに「アウトでしょう」な女性が、「行けるかなあ〜、いや〜絶対あかんわ〜」と、周りは笑顔と笑い声でいっぱいです。姪が、「うわぁ〜狭い、縦にならないと」と通過。嫌がるかもと思っていた遼くんは、すんなり穴に入って行きましたが、身体の小ささ故、穴の中で身体を反転し、足から出ようとしています。「遼くん、手からおいで」と手を引いて促すと、そのままの状態で出てきます。スマートなお嫁さんも、難なくクリア。
大仏殿を出て、それをバックに僕がみんなの集合写真を撮っていると、後ろの年配の白人さんが、遼くんが可愛いと写真を撮ってくれました。Thank you!
大仏殿を出て、春を呼ぶお水取りで有名な「二月堂」に向かいます。10:48、到着。続いて春日大社に向かいます。若草山の前で、「豆腐ソフト」を姪と長男一家が食べてクールダウン。曇り空ですが、遼くんは半分ぐらい歩いているので暑そう。ここも鹿がいっぱいで、注意深く歩いたり、大きいのが行く手にいると、パパ抱っこで危険回避しています。慎重派のようです。
春日大社の神域に入り、お賽銭チャリンしたい遼くんをママが抱っこして「一言主神社」で手を合わせます。チャリン・ガラガラ・手を合わせる動作をしっかり覚えています。ママと遼くんは、ニューバランスのシューズ仲間です。チビながら、かっこいい。
遣唐使・阿倍仲麻呂「天の原、ふりさけ見れば、春日成る、御蓋の山に、いでし月かも」新古今和歌集。有名な和歌の石碑が立っています。『吉備真備たちと、ここ春日大社で壮行神事を受けて出発しました。家庭履修後は、仲麻呂のみ乞われて唐朝廷に残り、要職を歴任した。53歳の時ようやく一時帰国を認められ、蘇州出港前夜、船の中で詠んだのがこの歌です。ところが乗船は難破しベトナムに漂着、かろうじて首都長安に戻ったものの、ついに帰国の夢虚しく70才で亡くなりました』。
春日大社は大変な人出でした。20年毎の式年遷宮の機会を捉え、本殿特別拝観が行われていました。今度は遼くんを僕が抱っこして、チャリン・ガラガラ・パチパチ。11:53、摂社の「夫婦大國社」。夫婦円満は、幸せな人生の必須アイテムです。お嫁さんと姪が水占いをします。社務所で授かった「おみくじペーパー」を、境内の水鉢に浮かべると、文字が浮き出てきます。
ここから興福寺に向かって、西に下ります。「菊水楼」前を通りすぎて、12:27到着。国宝の五重塔が立派です。「国宝館」に入ります。奈良時代の国宝の仏像が千手観音像を中心に、ズラリと展示されています。女性に大人気の「阿修羅像」前はやはり長めに鑑賞される方が多いです。
東大寺に戻ります。途中にせんとくんの像があり、記念写真をパチリ。13:22、駐車した「ふれあい回廊」に到着し、家内と奈良散策した時に食べたお店で釜飯セットを食べます。長男と僕がうどん付きを注文したので、2杯のうどんを遼くんはペロリとしました。続いてここにある「大仏プリン」です。僕は大が欲しかったのですが、「大は食べにくいから」と家内からダメ出しが入り、小を我が家用に4つ、前日におすそ分けを頂いたお隣さん用に3つ、姪の家族用に5つ購入しました。
駐車料金は、9:26〜14:17・3500円-2000円=1500円。県営駐車場より500円プラスでした。R169を南下し、「天理IC」から西名阪道、松原から阪和道で南下し、岸和田の弟の家に姪を送ります。妹のお姉さん夫婦がいたので、急遽我が家の分の大仏プリンもプラスしてお土産にしました。
阪和道〜近畿道〜中国道〜R171で近所まで戻り、16:58・伊丹空港北端の公園で、飛行機の離発着を見ました。僕は遼くんと遊具で遊びました。夕食は、家内が作った細うどんをみんなで食べました。これで2日目もお終い。また20時台に寝ました。

2015/5/5
4時前に目覚めたので、明るくなるまでゴソゴソし、早朝自転車でいつもの猪名川土手コースへ。29:34・7.23km・平均14.7km/h・最高36.5km/h。遼くんと庭で、僕の草刈りの相棒・四輪椅子車・「草刈まさおくん」で、遊びます。外に行くというので、表の道路に出て、遼くんを乗せてえっちらおっちら押します。交差点で「あっち」と指示してきます。パパが鯉のぼりを上げるのを見上げて、9:30に出発しました。
この日のメインディッシュは、「桜谷軽便鉄道」です。13〜15時が運転時間なので、その前に「箕面の滝」に行こうと長男からリクエストがありました。R171から箕面入りするのも芸がないので、五月山ドライブウェイから行くことにしました。廃園になっているかもしれないが、子供たちを連れて行ったことがある「五月山動物園」を探すと、まだ道標があったので、急遽寄り道します。
意外に五月山が混んでおり、最寄り駐車場は満車でした。「五月山・緑地駐車場」に入れて歩きます。池田市営のようです。動物園は健在で、しかも無料でした。珍しい動物もいないし、小さめですが、小さな子にはアトラクションなど要らないから、丁度良い大きさかもしれません。幼児連れの親子で適当に賑わっており、意外に楽しめました。ラマ・羊・ポニー・ミューがおり、アイスクリームのモナカの外殻に入った「動物のおやつ」を各所に設置された自販機で購入し、動物にあげます。遼くんは、ミューが怖かったけど、ラマや羊にはあげられました。
他に、カンガルーや豚・狸がおり、触れ合うコーナーには、うさぎや陸ガメ・鶏がいました。遼くんも楽しめたようで、次に行かないと駄々をこねましたが、9:30に出ました。僕が車を取りに行きました。「9:37-10:45・200円」でした。
動物園前でみんなを乗せ、10:55・「五月山ドライブウェイ(五月山公園幹線園路)」300円。ここは元私営だったはずですが、池田市営になっていました。ドライブウェイを上がり、止々呂美林道との交差点を過ぎ、箕面ダムからr4。猿の集団には会えませんでした。r43を南下し、駐車場に入ろうとすると駐車場待ちが発生していました。遼くんが寝てしまったので、長男夫婦だけ降りて滝に向かいました。
少しずつ進み、「もう帰って来そうだから、列から離脱しようか」と思いましたが、僕の板が来たので「箕面大日駐車場・1000円」に入れました。僕らは遼くんの寝顔を見ながら、駐車場でおしゃべりしていました。やがて遼くんが起きたので、お嫁さんに連絡しようと携帯電話を取り出すと、圏外になっていました。僕だけ、電波の届く場所を探し駐車場内を南に歩いていくと、ちょうどトイレの所が圏内でした。「電話する前に、おトイレを拝借しよう」と思った時に、「お父さ〜ん」という長男の声が聞こえました。滝まで10〜15分歩いたそうです。車に戻ると、家内が汗をかいていた遼くんから服を1枚脱がせていました。車内で、長男たちが買ってきてくれた焼きそばを食べ、次に出発です。
r43〜r4〜R423を北上、妙見口を左折し、r4で野間峠を越え、野間口からR477を南下します。今でも兵庫県と大阪府の境になっている「大槌峠」を越えます。かつて戦国時代は、同じ清和源氏・摂津源氏系の能勢氏と「山下」本拠の塩川氏の勢力が争っていた峠です。
妙見ケーブルのりばを越え、小さな列車信号に到着しました。ここでみんなを下ろし、僕だけ裏の住宅地に駐車しに行き、「風の谷駅」と小さなプレートの掛かった扉を開けてフェンス際の細道を下ります。13:22、長男が遼くんと一緒に順番待ちの列に並んでいます。「桜谷軽便鉄道」のプレートの掛かった「風の谷駅」裏扉から、鉄道スタッフの方に「ここから入っていいですか?」声を掛けると、「いいですよ」とのこと。僕が入ると、「線路を渡る飛石を歩いて行ってね」と笑顔です。個人が趣味で運行している鉄道なので、スタッフも鉄趣味の方でしょう。満面の笑みです。
歩いて駅に入ると、ちょうど家内とお嫁さん・遼くんが、電車に乗り込むところでした。ここから怒涛の連続乗りが始まります。降りてきたら、「また乗る」と言い、また列に並びます。新聞で紹介されたということで、人気爆発を恐れていましたが、適当な人数で1回待ちですぐに乗れました。電車が3車列に増え、途中からSLも走りだしました。SLは、ミニながら石炭を入れて蒸気で車輪を回す本格的な作りです。
石炭が少なくなったのか、蒸気パワーが落ち途中でSLがリタイヤして、スタッフが手押しで車庫に戻したり、電車が脱線して、スタッフが枕木と鉄バールで車両を持ち上げて復旧させたり、手作り感満載で、とても楽しい。脱線箇所では、スタッフが腹ばいになり、電車が通る度に脱線の原因を探っています。横にはシャベルを持ったスタッフが・・・。トラブルが起こると、「待ってました」とばかりに若者スタッフが駆けつけます。楽しそう・・・
最初に配られた整理券順に、体験運転さえ出来ます。当然スタッフが付いて、細かく運転を指示してくれます。番号が呼ばれ、順番に子供たちが体験運転します。その車両にもお客さんが乗っており、親が笑顔笑顔で、カメラ片手に走り回っています。小走り程度のスピードなので、真横からずっと撮影し続けることもできます。
実は遼くんも整理券16番をもらっていました。長男が、「とても運転なんか出来ないわ」と残念そうな顔をしていましたが、とうとうその順番が巡ってきて、ママの膝に載せて運転できないか聞きました。スタッフは慣れているようで、「お母さんは後ろの席に乗っていてください」と、遼くんを膝に乗せて、鉄道マンの本格的な帽子を被らせて、運転させてくれました。ママの方に行こうとするのではないかと危惧したのですが、遼くんはスタッフさんの言葉を理解したのか、真剣に前を向き、ママなど振り返ることなく前を向いています。
「ピユーイ」、出発のホイッスルが、スタッフから発せられます。「プーン」遼くんがホーンを鳴らして出発です。スムーズに動き出し、嬉々として運転しています。僕・長男がムービー班で、家内がカメラ班となり、3人で追いかけます。前の電車が止まったので、転回点の「桜谷駅」で小休止です。ラッキーにも少し長く運転出来ます。再び発車し、脱線もせずお客さんを「風の谷駅」に戻ってきます。ちゃんと停止線の赤旗の手前で停めて、運転体験終了です。ありがとうございました。
1時間半を経過すると、お客さんが減り、並ばずとも乗り放題になりました。子供だけSLに乗車出来ると、案内が流れました。乗りたいけど、遼くんは立ち上がったりしないかな?パパが遼くんを抱えて、乗りに行きました。難なくオープン車両に少し大きな男の子の横に座り、SLが引っ張る客車1両に横2人縦3列・6人の子供が乗り込みます。ホイッスルが鳴り響き、ポイントも自動で動きます。大声を出せば聞こえる距離の2つの駅間ですが、無線音声が途切れることなく聞こえます。ミニな軽便鉄道ですが、鉄ちゃんスタッフ大集合の本格的鉄道です。
「ポー」、期間車の横から蒸気を吐き出し、SLが動き出します。意外に軽快な動きです。最後尾の左座席遼くんは、隣の少し大きな男の子に右手を握られ、問題なく座っています。「ポーポー」、風の谷駅に戻ってきました。
「切符がいる人は、風の谷駅に行ってね〜」の案内があり、遼くんももらいに行きました。SLが2両とも車庫入りし、電車も随時車庫入りします。切符をもらって満足したのか、電車にもたくさん乗れて、遼くんも満足気に落ち着いています。運転会終了の15時になったので、僕の歩いてきた道を帰ります。風の谷駅裏から敷地外に出て、少し歩いて車に乗ります。2時間たっぷり、休みなく乗れて、まして2歳の子がお客さんを載せた電車の運転もさせてもらって、無料です。親子ともども大満足の2時間でした。バイクタンデムツーリング用の小さな折りたたみ椅子を4脚持って行っていました。僕は遼くんの追っかけスタッフで席につく暇さえありませんでしたが、家内によると時々座れて楽だったとのこと。ちょっと点数を稼げました。
R477〜R173で池田経由で帰宅しました。鯉のぼりを片付け、ボールで自宅前の路上で遊びました。遼くんは、時々上手にキックできて、半分ぐらいママのスローをキャッチ出来ました。17:30に再び出発し、「スシロー」で夕食をして3日目・最終日がお終いです。

2015/5/6 2行
飛行機が始発便なので、6:15に長男一家を乗せて自宅を出ました。今月末のアメリカ出張の場所を聞くと、シカゴとペンシルバニア州のフィラデルフィアだそうです。シカゴは子会社があり、よく行きます。「ペンシルバニア州立大学は、アメリカンフットボールの強豪校だよね」と言うと、アイビーリーグのペンシルバニア大学で、大きな学会があり、それへの出席をメインに行くそうです。毎年会社を代表して出席しています。そのついでに、子会社などを回り仕事をしてくるそうです。
ここ数年、時差の大きなアメリカを担当しているようで、早朝や夜中にTV会議があるとか以前も言っていました。最若手で、会社の経営会議のメンバーにも抜擢されているので、自分の担当分野と両方で大車輪です。でも、学生時代と変わらぬ雰囲気で、奥さんのサポートも得ているのだろう、以前同様楽しそうに人生を歩んでいます。親から見ると、楽しそうにしているのが一番の親孝行です。次男も長男も、笑顔が絶えない好青年で、素晴らしい子育てをした助手席に座る家内に大感謝です。いつものように、伊丹空港北ウイング・JALカウンター前で長男たちを下ろし、遼くんとバイバイしてGWが終わりました。ああ楽しかった。

逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
inserted by FC2 system