ウェブマスター日記 2015/3-4

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2015/4/26
日曜日は、4週連続の大学ヨット部の新人勧誘手伝いです。10時に大学正門に行けばいいので、また家内と朝の京都を楽しみましょう。4:30に目覚めたので、天気予報をチェックし、訪問予定神社をパナソニックゴリラナビに登録し、車に荷物を積み込んで準備します。車の日産純正ナビより、バイクで使ってるモバイルゴリラナビの方が、操作が直感的で使いやすいし、自宅で登録できるので時々車でも使っています。
5:40、家内と一緒に車に乗り込み、自宅を出発。フロントガラスにうっすら砂が乗っています。朝日が正面から入りますが、朱の夜明けの朝日ではないのに、眩しくない。GWは黄砂の季節ですね。
豊中ICから中国道に乗り、名神〜大山崎JCT〜京滋バイパス〜6:17・「宇治西IC」下車。r241で宇治川土手をさかのぼり、宇治橋から県(あがた)神社の鳥居をくぐったらr3。最初の目的地・県神社に6:26到着。大鳥居からの参道の長さに比べ、それほど大きくないお宮でした。横には世界遺産「宇治平等院・鳳凰堂」があるので、明治以前の神仏習合時代は、その守り神であったのかもしれないと想像して来ました。
『県とは、大和政権が西日本の要地に設けた地域組織で、特に畿内にあった県は、政治と祭祀に重要な位置を占めていたと言われており、当時の宇治が属したと言われる栗隈県に社名の起源を求めることができる。祭神は木之花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と言われ、1052年に藤原頼通が平等院を建立した時、その鎮守をしたとも伝えられている。毎年6/5から6日の未明にかけて行われる県まつりは、暗夜の奇祭といわれ、多くの人出で賑わっています』
『当社は、天孫天津彦彦火ニニギの妃・木之花咲耶姫を奉祀する。「あがた」の名は、上古の「県」の守護出会ったことを示し、神代以来当地の地主神であった。1052年、関白藤原頼通の平等院建立にあたり、当院総鎮守となり、藤原氏の繁栄を祈請したのである。
明治維新まで三井寺(大津市)の管理であった。これは平等院が三井門主の開眼に掛かり、天台宗に属していたためである。維新後は、神仏分離令により、その管理を離れた』
拝殿には、桜紋が入っていた。神社といえば天皇家の菊の紋が通り相場だが、藤原氏の藤紋でもなく桜とは珍しい。
無料の県神社の駐車場に車を入れたまま、「橋姫神社」を歩いて探すことにした。事前に調べた地図では宇治橋からここまでの間にあったのだが、見つけることが出来なかった。宇治茶の本場なので、お茶の販売店が多い。足元の化粧タイルに埋め込まれた道標に「橋姫神社」を見つけた。それの示す方向を見ると、民家の駐車場門扉のようなとこの奥に神社がありました。車やバイクでは早くて通りすぎてしまいます。門扉が閉じられているので、門扉越しに中を伺うと、家内から「開いてるんじゃないの?」。横にずらせば開きました。
『古代より、水辺、特に橋は心霊が宿るところとされており、橋姫はその守り神です。瀬織津比メを祭神とする橋姫神社は、明治3年に流失するまで宇治橋の西詰にありました。境内には、同じく水の神・住吉神社が祀られています。交通の要所として発展してきた宇治にとって、橋姫神社を巡って数々の伝承を生み出しています。また源氏物語の主要な舞台となっている。源氏物語宇治十帖・第一帖は、「橋姫」と名付けられており、橋姫神社はその古跡となっている』
宇治は、琵琶湖から流れ出す宇治川が山岳部を抜けて平野に顔を出す位置にあります。水運の要衝であり、京都と古都奈良を結ぶ奈良街道R24が宇治川を渡るところでもあります。橋は重要なので、その安全を祈願する古代信仰では、川・水の神を鎮める乙女の生贄があったことが想像される。その乙女を弔う神社なのかな?と、社名を見て思ったのですが、スバリ書かれていないものの、暗にそれを連想させる謂れ板のように読めました。
『ここ橋姫神社は 高浜原発から75km・大飯原発から74km・美浜原発から91km・敦賀原発から98km・高速増殖炉もんじゅから96km』
ここの宮司さんは、反原発なのか?神社には似つかわしくない立て札が立っていました。直線距離ではそうだけど、琵琶湖の水が流れ出る唯一の河川・宇治川が流れる地なので、琵琶湖北湖が原発銀座から20km圏内なので、一緒でしょう。
『源氏物語・宇治十帖・橋姫 「その頃、世に数まへられ給はぬる宮おはしけり」と書き始められる。光源氏の異母弟・八宮は、北方亡き後、宇治の地で、失意と不遇の中に、2人の姫君を大切に育てながら、俗聖として過ごしていた。世の無常を感じていた薫君は、宮を慕って仏道修行に通い、3年が過ぎた。晩秋の月の夜。薫君は琵琶と事を弾かれる姫君たちの美しい姿を垣間見て、「あはれになつかしう思い、橋姫のこころをくみて高瀬さす、棹のしづくに袖ぞぬれぬる」と詠んで大君に贈った。出家を望まれる八宮は、薫君を信じ、姫君たちの将来をたのまれる。その後、薫君は、自分が源氏の実子ではないという出生の秘密を知ることになる』
平等院参道を歩いてみました。参道のお店は開店前ですが、家内が「ここに入ってみたい」「ここも」と、スイーツの喫茶を興味深く見ていました。宇治茶のお店も多く並び、藤の花があちこちに花を付けていました。お店の前に置かれた小さな鉢植えの藤にも紫の花が下がり、藤原氏ゆかりの平等院参道商店街で、藤原氏の紋・藤で町おこししているようです。意外に小さな鉢の小木なのに、綺麗な花をつけており、庭に植えてみようかな?という気持ちが湧いてきました。
開門前の平等院では、門前に水を打ち綺麗にしていました。今年リニューアルしたばかりなので、観光客が多いだろうな・・・。藤棚があったりして、5月の参拝がもっとも美しいかもしれません。宇治川の土手に上がると、平等院裏で護岸工事をしていました。去年宇治は水害に遭ったので、その修復かもしれません。車に戻り、宇治橋を渡り、平等院の対岸の「宇治神社」に向かいます。ウロウロするも無料駐車場が見つけられず、「タイムズ宇治詰」に駐車しました。徒歩で神社に向かいます。宇治川に沿って歩き、ちょうど平等院の対岸の位置にありました。つつじが咲き、「京都府茶会館」などお茶関係の建物もあり、家内には興味津々な散策になったようです。椿も多数植えられており、寒い季節も楽しめそうです。
『紫式部が11世紀に書いたと言われる源氏物語は、全体で54帖からなっていますが、45〜54帖までは、宇治を主要な舞台にしていることから、「宇治十帖」と呼ばれています。物語の前半部分は、華やかな宮廷生活を舞台に、光源氏と彼を取り巻く女性たちの織りなす様々な人間関係が華麗に描かれていますが、これに対し「宇治十帖」は、光源氏亡き後、子の薫、孫の匂宮・大君、中君・浮舟の3人の姫君の切なくもはかない悲恋の物語が描かれています。源氏物語はフィクションですが、宇治川周辺には源氏物語を愛する人々によって、いつの頃からか宇治十帖の各帖に因んだ古跡が設定され、当時と変わらぬ宇治川の清流や木々の緑、静かな佇まいを見せる周辺の町並みと相まって、訪れる人々を源氏物語の世界へ誘ってくれます』
宇治川の対岸に、平等院の屋根だけ見えています。「宇治神社」の朱鳥居が宇治川に向かって立っており、山に向かってゆるやかに登る参道を入って行きます。『宇治神社は、日本書紀に「応神天皇の皇子で、兄である仁徳天皇との皇位を巡る葛藤から宇治で自殺した」と記されている悲運の皇太子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の等身大の坐像を祀っており、付近は菟道稚郎子が造営した桐原日桁宮跡(きりはらのひげたのみやあと)と伝えられています。また明治維新までは、宇治上神社と二社一体で、それぞれ離宮上社・離宮下社と名付けられていました。現在の本殿及び外陣の狛犬は鎌倉時代に造られたもので、格調高い作品として極めて貴重です』
『菟道稚郎子は、応神天皇から天位に任命されるが、儒教思想(長子相続)を学んでいたので兄・仁徳天皇との譲り合いの後、死を持って節を全うした。の地に兄の仁徳天皇は弟の宮居に祠を建て、神霊を祀ったのがこの神社の始まりです』
15代・応神天皇は、亡き夫・仲哀天皇の意思を遂行し朝鮮半島に渡り、三韓征伐を成し遂げた、古代史で卑弥呼と並ぶヒロイン・神功皇后の息子で、ヤマトタケルの孫です。この時代の古墳の規模が最も大きく、天皇家がヒーローとして政治の表舞台で活躍した最も輝いていた時代と想像しています。「宇治」はこの宮の主祭神・うじのわきいらつこの当て字なのでしょう。
本殿は、細かい彫刻美やセンスの良い屋根形状などはありませんが、朴訥とした雰囲気を醸し出す檜皮葺の感じの良い造りでした。
7:46、「宇治上神社」到着。ここは世界遺産登録されているようです。宇治平等院同様、「古都京都の文化財」として金閣寺など他の寺社とともに指定されているようです。明治維新まで二社一体だったので、祭神などは宇治神社と同様です。でもさすが世界遺産指定だけあり、こちらの社殿の方が良いです。
『本殿は、正面一間の流造の内殿3棟を並立させ、それを流造の覆い屋で覆った特殊な形式となっています。建立年代は、蟇股の意匠及び組物などの細部の特徴から平安時代後期に造営されたものとみられ、現存する神社本殿としては最古の建築です。また拝殿は、鎌倉時代のはじめに建てられたもので、現存する最古の拝殿です。意匠的には、切妻造の母屋の左右に庇をつけた形であり、屋根はその部分が縋破風(すがるはふう)となっていることなど、住宅風となっている点に特徴があります。神のための本殿に対し、人の使う拝殿には住宅建築の様式が採用されることが多く、ここでは拝殿が初めて建てられた頃の住宅建築の様式である神殿造の軽快な手法が、鎌倉時代の再建にも受け継がれたと考えられます。本殿の後方は広大な森林が広がっており、こうした環境は緩衝地帯の一部となっている』
国宝・「拝殿」の屋根は、檜皮葺の遠慮がちで綺麗な反りをしていますが、上方から見ると変形した八角形です。典型的な「神社」のそれとは大きく違います。拝殿前には「清め砂」左右に円錐形の山を作っています。「桐原水」という湧水?井戸がありました。覆い屋に入ると、綺麗な水をたたえており、チョロチョロと音がしていたので、井戸の下から湧いているのではなさそうです。国宝の本殿には、覆い屋も書かれていたので、覆い屋と内殿3社全て国宝指定されているようです。摂社に小ぶりの春日神社がありました。こちらの方が典型的な神社風の建築様式で、僕にはより良く映りました。平入りの屋根が長めの流れ屋で、これも鎌倉時代のもので、重要文化財指定されていました。
車に向かってトコトコ歩いていると、住宅の横に小さな祠がありました。習慣で謂れ板を読むと、『末多武利神社 宇治は無常を意味する「憂し」に通ずるともいわれ、藤原一族の栄華の舞台となる一方、失意に打ちひしがれた人々も受け入れてきました。宇治民部卿と呼ばれた藤原忠文もその1人で、天慶2年(940)に参議となり、翌年征夷大将軍として関東の平将門の乱の平定に向かいましたが、到着以前に将門は討たれ、事件は解決していました。大納言・藤原実頼によって恩賞の対象から外された忠文は実頼を深く恨み、死後のその一族に取り付いて祟ったと言われる。末多武利神社は、この忠文の怨霊を鎮魂する祠と言われています』
好きな平将門が、関八州を平定し、京都朝廷からの国司を追い返し独立した「天慶の乱」ですね。将門の物語を読むと藤原忠文は必ず出てきます。将門討ち死に後は、負け戦で敗走中だったけど、ラッキーにも流れ矢が将門に命中し勝利を得た俵藤太秀郷のその後や、将門の弟などの親族のその後などが書かれて終わりますが、不運の将というか、ラッキーにも討ち死にを免れた忠文のことは書かれていません。怨霊になって祟ったのですね。新たな歴史知識を得ました。
7:20〜8:09・タイムズ宇治橋東詰・100円。宇治橋を渡り、r241で宇治川土手を下り、R24を京都に向かって北上。観月橋で再び宇治川を渡り、「御香宮神社」横を走ります。事前調べで拝観時間が書かれていたので、時間外は入れないと思い訪問予定から外したけど、駐車場に車が停まっていました。一部だけ見れないだけで、その他は観れたのかな?
「伏見桃山城」の道標通過。桓武天皇陵も同じ所にあるので、久しぶりに訪問したくなりました。「伏見街道」に入り、道標に従い、「藤森神社」到着。ここにも摂社として「大将軍社」がありました。『桓武天皇が平安遷都した時に四方に配した大将軍社の南方の守り。社殿は室町時代1438年、将軍足利義教の造営で、造りは一間社流造の柿葺建物です。重要文化財』
柿葺(こけらぶき)は、薄い板を使う屋根葺きで、檜皮葺同様、とても綺麗です。僕にはよく違いがわかりません。一応檜皮葺は桧の皮を使い、柿葺はヒノキ以外の木材も材料にして板を使います。
本殿は、とても美しい。塀に囲まれているので近づけませんが、清潔感漂う手入れの行き届いた秀麗を感じます。家紋は、昇り藤に「一」の字が入っています。社務所で聞いたら、やはり「一藤」紋と言うそうです。
『平安遷都以前に建立された古社で、素盞鳴尊・神功皇后・大和武尊など12柱に及ぶ神々を祀り、洛南深草の産土神として崇敬されている。「菖蒲の節句」発祥の神社として知られ、菖蒲が勝負に通じること、5/5に行われる藤森祭で曲乗りの妙技で有名な「駈馬神事」が行われることから、勝運と馬の神社として信仰が厚い。また日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王(とねりしんのう)を祭神としていることから、学問の神としても信仰されている。
本殿は、1712年中御門天皇より賜った宮中内侍所(賢所)の建物と言われる。また本殿背後の八幡宮は応神天皇を祀り、大将軍社は磐長姫命(イワナガヒメノミコト)を祀る。どちらも重要文化財指定されている。本殿東の神功皇后が新羅侵攻の際に軍旗を埋納したと言われる旗塚や、2つとない良い水と名付けられた「不二の水」は有名である。6月の紫陽花が見事で、「紫陽花の宮」とも呼ばれている』
ここで舎人親王に出会えるとは思っていませんでした。僕は武力随一より、ちょっと賢いブレーン・武内宿禰・菅原道真・舎人親王・吉備真備などに惹かれるのですが、舎人親王が最も謂れ板で目にしない人物です。645年のクーデター・「大化の改新」の後の人で、クーデターの主役・天智天皇の弟・天武天皇の皇子です。天皇の皇統が、天智天皇系からその後継をめぐる争い「壬申の乱」を経て天武系に動き、また天智天皇系に戻る100年ほどの天武系全盛の頃の人です。その後今の天皇・今上天皇に至るまでずっと天智天皇系なので、隠れた有名人です。
神功皇后の三韓征伐の軍旗が埋められた塚・「御旗塚」は、境内の本殿横にポツンとありました。僕には、ものすごい塚に思えるし、今の御時世東京にあれば、右翼に祭りあげられそう。こういうものは、過ぎ去った歴史遺産として、ひっそりと佇んでいる方がいいですね。「不二の水」は、止めどなく流れており、時々水汲みの方が来られていました。京都の地下は、地下水の宝庫と言われているので、どこかの水脈と繋がっているのでしょう。この湧水を神水として、平安遷都の時大将軍を祀ったのかもしれないし、神功皇后もこの井を神につなげて軍旗を埋めたのかも?いずれにしても、神功皇后の三韓征伐の方が、平安遷都や大将軍社より前なので、「何故ここに?」の疑問が残ります。
家内は、藤森七福神の石像が可愛いと喜んでいます。僕の好きな毘沙門天だけが当然強そうで怖いです。絵馬殿を観に行きました。通常絵馬もありますが、新しい競馬の絵馬が多いこと・・・。謂れ板を読んでいたので、「なるほど」と思いましたが、馬主さんが奉納したのでしょうね。「駈馬会」の絵馬も奉納されていました。馬主会かな?と思いましたが、この神社の神事を司る寄り合いの可能性の方が高そう。
社務所に寄り、舎人親王のお守りを授かりました。孫に賢さを授かりたいので、1000円という破格の高額新撰料の御守護だったけど奮発しました。8:30〜8:58藤森神社200円。伏見街道を真っ直ぐ北上します。旧道らしく道幅が狭い生活道路なので速くは走れません。でも見どころ満載の道です。「伏見稲荷」前を過ぎ、「東福寺」前を過ぎます。正月なんぞ車でこの道に突っ込んだら渋滞で終わるでしょう。
そして、9:10・「瀧尾神社」到着。事前調べで、「彫刻が見どころ」と書かれており、期待して来ました。街道添いの神社前だけ少し広がっていたので、無断駐車しました。小さなお社ですぐ横だからいいかと・・・。
『瀧尾神社の創建・由緒ははっきりしないが、天正14年(1586)、豊臣秀吉野方広寺大仏殿建立に伴い、当地に移ってきたと伝える。また当社は、泉湧寺の僧の守るところであったともいわれる。今日の豪商・下村家は、当社を崇敬すること厚く、1738年以降数度にわたって、社殿の修復を行ってきた。現在の社殿も下村家の援助により、1839〜1840年にかけて造営されたものである。本殿は、「北山貴船奥院御社」旧殿を移築し、一部改築したもので、その前に幣殿・拝所・東西廊が並び、これらの建物がそれぞれ屋根を錯綜させながら、変化に富んだ空間を構成して独特の社殿景観を形成している。また各社殿に施された豊富な彫刻装飾は、京都市内では珍しい。当社は、本殿・拝殿・絵馬殿・手水舎など一連の社殿が境内にまとまって現存し、江戸時代後期の中規模神社の形態を知る上で貴重であり、京都市指定有形文化財に指定された』
拝殿・本殿は、檜皮葺の茶色に要所に金色建具を配した豪華さを感じる江戸時代風の建物でした。しめ縄の上の蟇股を覗くと、かなり凝った立体的な彫刻が施され、他寺社のそれとは一見で詳細さを感じます。1つ目につくと、彫刻部分が次々目に飛び込み、「ここもすごいな」「ここも・・・ここも・・・」って感じで、豪商が財を尽くして一流の彫師に発注したのが見て取れます。江戸時代の最後の細工ですが、埃も拭われており、地元の方の手入れの入れ方を感じます。彫られて5年と言われても納得する保存状態です。
摂社の三嶋神社がありました。伊豆の三嶋神社と思って見ると、京都の京都女子大近くに本社がある後白河天皇が建立した神社だそうです。『往古は、摂津国嶋下郡(高槻市)三島江村に鎮座されていた。後白河天皇の中宮・平滋子建春門院様が、常に皇子のないのを嘆かれておりました所、世人から「三嶋大神は子を授け給う神なり」と教えられて以来、深くご崇拝されました。その後まもなく、高倉天皇をご懐妊になりました。父君の後白河天皇は大層喜ばれ、小松内府平重盛公に命ぜられ、山城国・小松谷に社殿を造営され、帝都巽の方角の守護神として創祀されたのが、当社の始まりです』
滋子は平清盛の正室・二位の尼・時子の姉で、出自は平氏。清盛をトップに朝廷を牛耳る藤原氏の鉄壁の体勢に、武士出で初めて殿上人になって行く平氏の大きな後ろ盾です。彼女が高倉天皇を産んだことで、保元の乱・平治の乱を経て、清盛は深く朝廷に入っていき、公家政治から政治の実権を奪った。小松内府は、清盛の長男で、小松谷に住んだので小松殿と呼ばれた。彼が早死したのが、平氏が多頭体制になり、清盛時代の強固なトップダウンが利かなくなって、源氏に敗れ去っていく遠因になっていると思っている。「平氏にあらずんば人にあらず」と我が世の春を謳歌した平家全盛の頃ですね。秋篠宮親王が三嶋神社を御親拝した写真が貼られています。ここで高倉天皇が生まれていなければ、今の天皇家には続かなかったので、先祖の窮を救った神社には参らないとね。三嶋神社本社に行ってみたくなりました。安産・子授かりの神社です。
「お父さん、こっちすごいよ」って家内が呼ぶので、境内中央にある田舎歌舞伎舞台を覗くと、天井の龍が飛び込んできました。「うわ〜これはすごいな」と見上げていると、「スリッパ履いて入っていいよ」と、寄っていたご近所さん数人から声が掛かりました。スリッパも用意されていました。これは凄いです。こういうものが、24時間オープンで町中にある日本の治安はナイスです。お寺のようにもったいぶらず、オープンな神社は大好きです。9:20、これで時間切れです。
そのまま北上し、JR東海道線高架下で適当に枝道を走り、京都タワーを目印に鴨川を渡り西進します。信号で止まったタイミングで、「私、ここで下りるわ。真っすぐ行けばいいんでしょ」。方向音痴の家内なので少し心配ですが、京都タワーが正面にあるので迷わないでしょう。ここでバイバイし、七条通りで鴨川を東に渡り直します。川端通を鴨川に沿って北上し、三条交差点を越えて右折しました。岡崎公園周辺の琵琶湖疏水が見たくなりました。
国立近代美術館から疎水沿いを流し、東大路通を北上し、9:44・正門前到着。大学内に駐車し、集合場所にいる部員のところに行くと、すぐに新入生がやってきて、5人乗せて10:00出発。毎度の山中越で比叡山を越え、琵琶湖を眼下に見ます。やはり黄砂がひどく、晴れてるのに湖面が霞んでいます。近江神宮前から、10:33・ハーバー着。
またレスキュー要員に早変わりし、京都女子大生含め新入生8人乗せて湖上に出ます。総勢35名・内女子9名という桃色気分の試乗会になりました。朝は2m/sほどでしたが、4〜6m/sベース・ブロー8m/sオーバーの三井寺のいい風になり、「脱線するかもしれないジェットコースター」と例えられるヨットのスリルを楽しんでもらいました。女子がいると、黄色い声が上がりテンションアップします。部員も新入生も大喜びの試乗会を終え、ハーバーバック。15:56、女子6人乗せてハーバーを出て、合宿所に向かいます。17:00からバーベキューが始まり、またまた恒例の新入生自己紹介が始まります。入部宣言してくれる子も出て、恒例の胴上げが盛り上がります。
この日で今年の新人勧誘終了です。この日で、新入部員が10名を越えました。貴重な戦力・女子マネージャーも確定2名で+1〜2名のようです。GW後半のレースに向けて、練習再開です。京都への送り届け第一陣は僕の車でした。念願の京都女子大寮方面です。18:52、女子7名乗せてお色気ムンムンです。まあ、姦しいですがそんなの小さなことです。レスキュー上でヨットの事などたくさんおしゃべりしたので、時々いっちょ噛みしてもお話の輪に入れてくれます。児童心理学を専攻したい子は、僕のジュニアヨットコーチングの方法など聞いて来ます。
湖西道路〜R1〜東大路通で、あっという間に京女正門前でバイバイです。僕がUターンするまで道に並び、手を降って感謝してくれます。いい子たちばかりだね。東大路通〜九条通〜R1〜名神〜中国道で帰ってきました。20:14、御用達GSで給油。20:19帰宅。家内が起きていました。僕の夕食をササッと温めてくれ、食卓でそれを食べながら、家内のその後の行動などを聞きました。家内の携帯電話のカメラ機能が壊れたので、先週僕が新しいのと交換してきました。同じらくらくホンですが、万歩計が付いているようで、なんと1万歩も歩いたそうです。壊れてしまった普段使いのカンザシを新調したそうです。前のは百均で買ったというので、「自分に使うものはもっといいものを買った方がいいよ。女性は華なんだから、自分の華が百均になっちゃうよ。もっと値打ちがあるじゃん。京都でいいものを買いなよ」と先週言いました。どうやらその言葉に素直に従ったようです。

2015/4/19
京都の大学ヨット部新人勧誘試乗会の手伝いです。先週同様10時に大学正門です。またそれまで京都散策できそうです。5時前に目覚め、特急で着替え、前夜用意していた荷物を持って5:30に車に乗り込みます。家内は大阪で用事なので、1人です。あいにく小雨が降っており、天気予報でも日中は雨なので、イマイチな1日になるかもしれません。ただ雨量は1ミリ以下なので、降ったり止んだり程度で済むといいなと希望を持って豊中ICから中国道に入ります。名神に乗り換え、5:58京都南IC下車。
R1で北上し、東寺にぶつかり右折して九条通。九条大宮から大宮通で北上し、西本願寺と平安高校の間を抜け、四条大宮を右折し四条通。四条堀川を左折し、堀川通を北上します。二条城前を通過しました。二条城は大規模修理中のようです。最近の京都は、西本願寺・東本願寺・・・大規模修理が目立ちます。堀川に植えられた桜が満開です。牡丹桜系なのかな?ソメイヨシノより花期が遅いようです。鴨川沿いのソメイヨシノ満開の時期は、秋の紅葉時期に次ぐ京都が混む時期で、日中の車での京都市内入りは、渋滞で閉口しますが、12月の京都紅葉見物がナイスなように、4月2・3週目の京都も穴場かもしれません。
堀川今出川・堀川北大路交差点を越え、堀川今宮を左折し、今宮通を西進します。6:10・「今宮神社」到着。大阪の今宮戎神社とは違いますが、地図を見ていて「今宮」の名に惹かれて目的地にしました。
短いですが、石畳の敷かれた門前街があり、「あぶり餅」の暖簾の下がるお店が数軒軒を並べていました。見てみたかったけど開店前です。名のあるお寺並みに立派な土塀を持った門に「三階松」の紋が入った暖簾が下がっています。家紋を見つけるとカメラに収め、帰宅後「家紋でたどるあなたの家紋」という本で、家紋名やそれを使用する主な豪族等を調べます。定価6180円という僕が買った本の中でも最高額部類の書籍ですが、こいつはパラパラめくっているだけでも、時間の経つのを忘れます。
馬小屋があり、白馬の奉納木馬がいました。宗像社の小社が摂社として建っていました。『元禄7年(1694年)桂昌院(お玉の方)造営時の社殿である。元禄建築の特徴と異なる部分を残しており、創建当時の古い形式を伝えている。宗像三女神は、古来より「道」の神として知られ志を持つ人を教え導いた神であり、「美」を司る神として伝えられている。また別名を「弁天さん」とも呼ばれ、社殿の台石の北側面に弁天さんの使者として鯰の彫り物がある』
桂昌院は、徳川3代将軍・家光の側室で5代将軍・家綱の母です。彼女はここ西陣の家柄の低い家の出と言われ、「玉の輿」の語源にもなっています。ここの手水にも「お玉の井」と書かれており、「玉の輿神社」として女性参拝者を集めている京都の神社というのはここのようです。何気なく訪問したとこなのに、ラッキーでした。家光の側室の小姓として大奥に上がり、家光の乳母・春日局に見出され、更に家光に見初められ側室になった人なので、才気と美貌を兼ね備えた人だったに違いありません。彼女が、子供の頃参ったこの神社に宗像三女神を祀るなんて、とても素晴らしいことです。宗像三女神は、天照大神の子で、朝鮮半島・大陸との玄関口・福岡に本社があります。朝鮮征伐した神功皇后も戦勝祈願した最重要なお宮の1つです。謂れ板に書かれた鯰の彫り物は、しっかりと土台石に見え、嬉しくなっちゃいました。でも何故、弁天さんの使いが鯰なんだろう?
正門が見えてきました。朱塗りの立派な門です。大徳寺側が正面のようです。正面に真っ直ぐな道が伸びているので、これが参道のようです。船岡山が正面に見えています。『大巳貴命・事代主命・奇稲田姫命の3柱を祀る神社で、994年船岡山の創立されたと言われ、疫病の神として信仰が厚い。西にある「疫神社」は本社が鎮座される以前からあったと言われ、素戔嗚尊を祀る。今宮の名は、この古い疫神社に対し、新しい宮を意味する』
「大巳貴命」は最初に国造りをした「大国主命」の別名で、「事代主命」はその息子。天孫降臨で天下ったニニギに国を譲るよう迫られた大国主命は、長男・事代主命に結論の丸投げし、そのOKによって国譲りされた。「奇稲田姫命」は、ヤマタノオロチに食われるところを素盞鳴尊に助けられ、その奥さんになりました。これまた絶世の美女と想像される。大国主命は素盞鳴尊の息子なので、出雲系の流れを持ったお宮でした。桂昌院・お玉の玉の輿も加わり、ここは女子の香りがプンプンします。あ〜、家内を連れてくれば良かった〜。
禅宗の大徳寺派大本山大徳寺のすぐ北なので、大徳寺の神仏習合守護宮が発祥かな?と思っていましたが、平安遷都以前からスサノオ社があったということ。大徳寺開祖が播磨・赤松氏の被官時代の浦上氏の出の方で、赤松円心がパトロンになって建立されたので、歴史は神社の方が古いし、謂れがとても魅力的でした。絵馬殿を覗きます。謡曲奉納絵馬が多く掛かっていたのが目につきました。
他の摂社を巡り、本殿へ。塀が囲んでいるので本殿脇に行けませんので、拝殿から覗きます。お金回りが良いお宮らしく素敵です。織田信長と同じ木瓜紋でした。境内中央に舞台があり、いい感じ。日中は多くの女子で賑わうのでしょう。1羽のイカルがシトシト降る雨の下ずっと囀っており、気持ちの良い参拝になりました。
6:36、「パーキング今宮神社」を出る。60分以内・100円でした。今宮神社正面に回り、参道を船岡山を見ながら南進すると、やはり神社の神域を示す大きな朱鳥居があり、それをくぐると、北大路通でした。6:50、北大路通を渡ったところにある駐車場に車を入れました。
今宮神社参道南正面に、船岡山に上る道が見えています。車でも上がれそうですが、標高100m・比高20mほどの低山ですので、歩きます。今宮神社境内同様、八重桜が咲いていました。そしてイカルが集団で囀っています。まるでウグイスみたいに、あちこちから聞こえてきます。こんなに多くのイカルの囀りを聞いたのは人生初です。イカルは黄色いくちばしの目立つ野鳥なので、歩を止めてじっと周囲を探しますが、見つかりませんでした。残念。
北から登り始めましたが、道は東側の縁をゆっくり登り、山の南面にある「建勲神社参道」の石碑から、階段を上がり山頂平坦地に入ります。ここは京都盆地の北にある小高い丘です。応仁の乱で山名宗全の西軍が城を築いたので、その痕跡でもあればと徒歩でキョロキョロしながら登りましたが、目についた遺構はありませんでした。
『建勲神社 御祭神・織田信長公 織田信長は、戦国の世を統一して民衆を疲弊絶望から救い、伝統文化に躍動の美を与え、西洋を動かす力の追求して新秩序を確立し、日本の歴史を中世の混乱から近代の黎明へと導かれた。明治天皇より、「建勲」の称号を賜い、別格官幣社に列せられる』
『人生50年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか』、桶狭間出陣直前に舞った信長の「敦盛」の有名な台詞が書かれていた。旧西軍の山城郭に、瀟洒なお宮が建っていました。雨は小降りになりましたが、まだ降り止まずです。
『史跡・船岡山 標高112m・面積25000坪の優美な小山である。今より1200年前、京都に都が定められる際、船岡山が北の起点となり、この山の真南が大極殿・朱雀大路となった。陰陽五行思想・風水思想に基づいて、大地の気が溢れ出る玄武の小山であるとされたためである。戦国時代の応仁の乱の際、ここが西軍の陣地になり、周辺一帯が西陣の名で呼ばれるようになった。戦国の世を統一した織田信長が、本能寺の変で没すると、豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を得て、主君の御魂をこの山に祀ろうとした。以来、信長公の大切な地として伝えられ、明治2年、明治天皇がここに建勲神社を創建された』
西陣の謂れは、そこにあったのですね。西軍の城がここに築かれたのは知っていたけど、すぐに落とされ、西軍も東軍も陣を変えたので、平安時代から西陣の名があったと思っていました。帰路は西に降りてみました。山の周囲の住宅地内を歩き、7:27車に戻りました。「今宮門前駐車場」60分以内100円。
次の目的地は、「大田神社」。北大路通を東進し、堀川北大路を左折し、再び堀川通。御薗橋西詰めを右折し、加茂川を渡ります。上賀茂神社前のr103を東進します。右側は社家の家が並び、そこに入るのに小川を渡らなければなりません。その小川と石橋が美しいので、京都で好きな道です。
7:39、「大田神社」到着。地図を見て、上賀茂神社の並びだからどんな神社かな?と思って来たのですが、謂れ板に「かきつばた」のことしか載っておらず、歴史的な目ぼしい記述はありませんでした。もみじの新緑がとても綺麗で、秋も綺麗な姿を見せてくれそうです。白鬚神社の摂社がありました。横の「大田ノ沢」を覗いてみます。中央に小さな島がある沼池で、かきつばたが一面に緑の葉を伸ばしています。アヤメ・花菖蒲・かきつばたが見分けられませんが、梅雨のしとしと雨に似合う花です。この生育状態なら、あと1ヶ月すれば花が咲いている感じがします。
石碑があったので見に行くと、なんと「北大路魯山人・生誕地」と書かれていました。東京・横浜の人と思っていました。『北大路魯山人は、明治16年(1883)ここ上賀茂の地に生まれ、15歳で「一字書き」で受賞を重ね、書や刻字看板を制作し、併せて古美術や料理にも興味を持つようになった。大正14年(42才)に東京で「星岡茶寮」を開設し、仕入れ・調理などの卓越した技量を発揮し、美食家としても名を世間に知らしめた。昭和2年(44才)に星岡茶寮で用いるために、北鎌倉に「星岡窯」を築き本格的に作陶を始め、多数の優れた作品を残した。昭和30年(72才)に重要無形文化財(人間国宝)の認定を打診されたが、固辞した。美の追求に一生涯を掛けた偉大な巨人であったが、世間の名声には全く無頓着であった。昭和34年(76才)、横浜の地で逝去し、京都西加茂の小谷墓地に葬られている』
東京の人なのに、京都的な作陶名を名乗っているんだなと勝手に思っていたのですが、北大路は本名だったのですね。びっくり。そこにあった観光案内図で、深泥池近くに貴船神社を見つけたので、次の目的地にして出発。r103を東進、r40交差点まで来ても貴船神社の道標がないのでパスすることにして、r40を南下。北山通を東進し、高野川も渡って、予定していた「八大神社」に向かっていると、「鷺森神社」がGPS画面に出てきた。寄り道しよう。叡山鉄道を修学院駅横で渡り、白川通を北上し、鷺森神社の道標に従って行くと、参道がUターン不能の細道になり、どないしょう?と不安ながら突っ込んでいくと境内に着きました。
8:10、なんか車が多く、祝詞の声とそれに合わせた拍手が聞こえます。雨は傘が要らないぐらいになりました。拝殿に向かうと、神事をされているようです。宮司さん以外の人も白装束なので、一般の神事とは違うようです。地域に続く伝統の神事かもしれません。
『御祭神・素盞鳴尊 今より1100年余前、比叡山麓・赤山明神の辺に祀られてあったが、応仁の乱の兵火で社殿焼失し、修学院離宮の山中に移された。後水尾天皇がこの地に離宮を造営されるにあたり、この鷺森に社地を賜り元禄2年(1689年)遷座相成り、修学院山瑞地区の氏神神社として現在に至る。毎年5月5日の神幸祭には霊元法皇乗御の凰車を改装した神楽の渡御とともに、”ざんよれ”という踊と囃が珍しく少年たちの菅笠に紅だすき姿で練り歩く風情が古風豊かで可憐である。本社殿は、安永4年(1775)に改築されたもので、緑濃き神域には、桜楓も多く、四季幽鳥の声を聞く閑静な境内であり、御祭神のご神徳により広く人々の崇敬を集めている』。社殿内で行われている神事は、5月5日神事の祈願かもしれない。
白川通を南下します。「詩仙堂」「狸谷山不動院」の道標に従って左折。目的の「八大神社」は詩仙堂の隣です。明治維新以前は、神宮寺スタイルだったと思われる。坂が急になったとこに詩仙堂の駐車場があり、8:27到着。500円とは高いなあと思いながら・・・誰もいないし・・・。
『御祭神:素盞鳴尊・稲田姫命・八王子命 1294年、祇園八坂神社と御同神に座し古来より北天王(北の祇園)と称し、皇居守護神12社中の1にして、都の東北隅に位置し、方除・厄除・縁結び・学業の神として世の信仰厚く、後水尾天皇・霊元天皇・光格天皇、修学院離宮御幸のお立ち寄り、白銀などご奉納あり。因みに剣聖宮本武蔵が、吉岡一族と決闘せし当時の「下り松」の古木は、本殿西に保存してある』
稲田姫は、奇稲田姫の別名で、素盞鳴尊が稲田姫を櫛に変えて髪に刺してヤマタノオロチと闘いました。八王子命というのはわからなかったので調べました。神仏習合下、仏教の守り神・牛頭天王には8人の子がいるとされた。明治の神仏分離令により、牛頭天王と習合していたスサノオが主祭神になり、5男3女の神に変えられた。八王子には、そういう由来があったのですね。東京の八王子もこの由来に基づき命名されたそうです。因みに、牛頭天王社の総本社は、京都八坂神社と播磨広峰山で、広峰山社家だった黒田官兵衛の祖父が自家製目薬を、広峰山牛頭天王信仰をバックに売って富を得た。それが宗家・小寺家最高の軍事力を養う元になりました。
映画「中村錦之助主演・一乗寺の決斗」のポスター、その数々のシーンの写真がパネルに貼ってあります。お通・入江若葉、お杉・浪花千栄子、吉岡伝七郎・平幹二朗、「野望燃える一乗寺下り松!眼下の敵73人、武蔵、生死一路に起つ!」・・・なかなか、いいじゃないか・・・過去、何度映像化されたか、名シーンですね。
『平成15年のNHK大河ドラマ「武蔵」に選ばれ、剣聖・宮本武蔵の生涯に改めて多くの方々の眼差しが注がれるようになりました。洛北・一乗寺は、吉岡道場数十名の門弟たちと武蔵の戦いの地であり、吉川英治の名作「宮本武蔵」の中でも重要な場面の舞台となった所です。壮絶な戦いが展開されたのは、一乗寺下り松。現在は4代目となっていますが、古より、京の町と比叡山の境に立つ銘木です。そして、いかに剣聖といえど1人で多勢と闘いに挑む心に、瞬間恐怖が宿ったのでしょうか。決闘の地へと向かう武蔵が祈りを捧げようとした社が、当社であり、境内には今も下り松の小木が残っております』
『武蔵が一乗寺下リ松に立って多数の敵にまみえた日のまだ朝の暗いうちに、彼は死を期したこの危地へ来る途中で、八大神社の前で足を止めて、「勝たせたまえ。今日こそは武蔵が一生の大事」と彼は社頭を見かけて祈ろうとした。拝殿の鰐口まで手を触れかけたが、その時彼のどん底からむくむく湧いた彼の本質が、その気持を一蹴して鰐口の鈴を振らずに、また祈りもせずに、そのまま下り松の決戦の場所へ駆け向かったという。武蔵が自分の壁書としていた独行道のうちに、「我れ神仏を尊んで神仏にたのまず」と書いているその信念は、その折ふと心にひらめいた彼の悟道だったに違いない。武蔵にこの開悟を与えたことに依って、一乗寺下り松の果たし合いは、ただの意趣喧嘩と違う1つの意味を持ったものと僕はそう解釈する。 吉川英治 随筆・宮本武蔵』
しめ縄に飾られた武蔵と吉岡一門の決闘を見届けた下り松小木が、保存展示されていました。ここの家紋も木瓜紋でした。まさか宮本武蔵に会えるとは思っていませんでした。確かにここは一乗寺です。車に戻っても料金徴収の人がいません、ラッキー。車で道を下り、「一乗寺道」との交差点で車を停め、4代目下り松を激写しました。住所は、「一乗寺下り松町」でした。
白川通〜今出川通〜9:10正門着。2回生Atou君が既にいました。早いなと思ったら、第一便は9:30だそうです。すぐにヨット部車がやってきて、やってきた1回生5人を乗せて琵琶湖に向かいました。「京都着物企画」というサークルも集合場所にしていました。スカートの子が来てる・・・女子率が高い・・・フラフラとそっちに行っちゃいそうでした。着物のデザインでもするのかな?
僕は10時集合組担当です。10:04、1回生6人を乗せ、学校を出発し、先週同様比叡山越え・山中道で琵琶湖に向かいます。学校を出る時は雨が降ってたけど、比叡山山中峠では止んでいます。でも雲の中のようで、比叡山ドライブウェイを過ぎると見えてくる琵琶湖が真っ白で見えません。このまま止んでくれればと期待しながら、10:28ハーバー着。艇庫に案内し、僕はレスキュー担当になります。
第1便の6人が着替え終わり、彼らを乗せて出発。ヨット試乗を終えた人を乗せてハーバーに戻り、次の便できた新人を乗せて沖に出ます。雨が上がり、風が出てきました。試乗に調度良い3〜4m/sほどの風になり、いい感じの試乗会になりました。14時学校正門集合組の試乗も終え、16時前に試乗会終了。
16:19、ハーバー艇庫から新人6人+2回生1人を乗せ、合宿所に行きます。この日は西村写真館が、ヨットに乗り新人を乗せる方をしていたので、僕が自分のカメラで試乗会写真を撮りました。そのデータを部員のPCにコピーします。
17:30に鍋パーティーが始まり、面白おかしい部員の野次が飛び交う1回生自己紹介が始まり、ヨット部紹介ビデオでまた盛り上がり、僕の話・キャプテンの話・ヨット部エール&琵琶湖周航の歌という定番メニューで全メニュー終了です。奈良の西大和とか東京の学芸大とか、次男が通った清風の姉妹校・清風南海出身の女の子もいました。
19:43、女子5人+男子2人の新入生を乗せ、合宿所を出ます。トイレに行きたいということなので、イデオンに寄ってトイレ拝借。山中越で京都市内に戻り、学校でみんなを降ろし、東大路通〜九条通〜R1〜名神〜中国道で、21:20帰宅。長かったけど、充実した楽しい1日でした。

2015/4/12
日曜日は、大学ヨット部の新人勧誘試乗会を手伝いました。10時に、大学時計台前に行けばいいので、朝少々時間があります。先週に続き家内も予定がないので、NHKおはよう関西でやってた京都の桜の名所・「平野神社」を観に行くことにしました。場所を調べると、去年京都レンタル自転車サイクリングで、家内が疲れちゃって断念した「北野天満宮」の近所です。神社はお寺と違い、ほとんどのお宮が24Hオープンなので気楽です。社務所など中核部オープンは、北野天満宮が5時、平野神社が6時です。
4:30に目覚めたので、お天気チェックなどでゴソゴソし、5時に活動開始です。黄砂の影響か、車に水垢が目立ってきたので、GSに行き洗車しました。いつもならトヨタディーラーで洗車してもらうのですが、職場を離れられる昼休みと雨のタイミングがバッチリ合い行けませんでした。
帰宅して、水垢取りで黒い筋を綺麗にします。僕の車はホワイトなので、水垢が目立ちます。GS洗車では水垢が綺麗に取れないので、こいつが面倒です。溶液を10倍に薄め、タオルでこすればたちまち綺麗になります。ホースを伸ばして、ブラッシングしながら、水垢の残骸を洗い流します。自宅に入ると、洗濯物干しまで時間がありそうなので、パンで朝食にします。
6:10、家内を乗せ、出発しました。ちょうどご近所さんのワンちゃんの散歩と同じタイミングになり、「おはようございます」。中国道〜名神、6:46・「京都南IC」で下車しました。R1を北上し、「東寺」にぶつかり右折、五重塔の角を左折して、JRを越えます。「梅小路・京都水族館」横〜平安高校と西本願寺の間の道を北上し、「阪急・四条大宮」駅から斜め西北へ。「三条通」に出たので、また北上です。京都は碁盤の目のように道が作られており、東西の道は、数字の名前になっているので、道がわかりやすくて好きです。東西道・「今出川通」まで北上し、道標に「北野天満宮:左折」とあったので、それに従います。天満宮の大きな鳥居が見えたので、駐車場を探さないと・・・と思ったら、鳥居の横に駐車場案内がありました。参道の横が駐車場でラッキーでした。
6:54、全国の天神さんの総元締め・「北野天満宮」到着。親に連れられて・・・小学校の遠足で・・・、過去4〜5回来たように思うが、家内は初めてとのことなので、僕のルーツなので、不覚にも子供たちを連れてきたことがなかったようです。
朝一番なので観光客もおらず、地元の方が毎朝のお参りに来られているぐらいです。空いてる参道を歩き、天神さんの代名詞・牛を眺めたりしながら、家内は気持ちが良さそうです。家内のこういう姿を見るのが大好きです。
菅原氏の家紋は「梅鉢紋」なので、梅が沢山植わっています。参道脇には、梅林が造営中です。造園業者のトラックが停まっていましたが、このような神社を顧客に持っていたら、1年中仕事がありそうです。「伴氏社」・・・伴氏は、古代氏族・「大伴氏」です。なぜこんなとこに伴氏のお宮?と、謂れ板を読むと、菅原道真の母親が、伴氏出身だったそうです。
「6月1日雷除大祭」のポスターが貼ってありました。道真さんは、901年藤原時平はじめ藤原氏の陰謀で、無実の罪を着せられ大宰府に左遷されます。道真さんの天才ぶりが、藤原氏の天下を揺るがす勢いだったのでしょう。そして903年に太宰府で客死した道真さんの復讐劇が始まります。藤原時平はじめ、その息子たち数人が若くして亡くなり、道真さん失脚に加担した藤原氏の面々、時平の甥でその権力をバックに醍醐天皇の皇太子になった親王が若くして死に、新たに立った皇太子も夭折した。そして醍醐天皇自身もまもなく死去。しかし、道真に好意的だった時平の弟・忠平は無事で、藤原北家の嫡流を継いで隆盛した。死者の中に雷に打たれて劇的な最期を遂げた人物までいたので、雷神道真となり「道真の祟り」が恐れられた。そして道真の怨霊を鎮めるために、道真の左遷を撤回し、官位も戻した。947年、菅原道真・鎮魂の宮・「北野天満宮」が建立され、959年、忠平の息子が建物を寄贈し、壮大な宮になった。謂れ板と、僕の脳内知識を合わせると、ざっとこんな感じです。いや〜楽しい。
左右に弓矢を持って座った道真さんの像が守る「楼門」を入ります。本家のここの像も仁王像じゃないから、やっぱり阿吽ではないよねって確認するのも楽しい。嫡孫誕生で、この道真さんの像を五月人形としてプレゼントしました。
楼門横の「絵馬殿」で見上げると、素晴らしい絵馬が多数掛かっています。様々な願いが込められていたり、お礼の奉納だったり、年月を経て彩色の落ちたそれぞれの絵馬を見ながら想像します。「宗像社」「稲荷神社」。
「猿田彦社」には、「猿田彦神」と「大宮売神」が相殿になっていました。猿田彦は天照大御神の孫ニニギが、天孫降臨して大国主命が治めていた「葦原中国」(地上)を引き継いだ時の露払いです。交通安全だったり、「導く」をキーワードにいろんな所に祀ってあり、好きな神様です。「大宮売神」は馴染みがありません。謂れを読むと、「芸能の神様」と書かれています。芸能の女神といえば、「あれっ」っと思ったら、「天細女命」とイコールだそうです。天照大神が岩戸に隠れた時、ストリップまでして男神を喜ばせ、興味をもった天照大神を引きずりだした大英雄です。『愛嬌のある顔立ちの神とされ、「おかめ」のモデルとされる』と、よくある紹介文でしたが、僕は天細女命は弁天様同様、お色気満点の美女であったと疑わない。でもまあ、絶世の美女が半裸で踊ったら、男神とてシーンと見入ってしまって、拍手喝采は望めなかったかも・・・。
他にも様々な摂社がありました。屋根から降ろされたのであろう梅鉢紋の鬼瓦が軒下に置かれていました。「こういうのは頂けないものなのだろうか?」とちょっと色気が出ました。家内が一緒でなかったら、ダメ元で交渉していたでしょう。「三光門」を入ります。檜皮葺の拝殿本殿が、素晴らしい。祈祷申し込み机を見ると、天神様の得意分野「合格祈願」の他に「合格お礼」もありました。なるほど、そちらからも利益をば・・・いや神社は初穂料でしたね。祈祷初穂料とお下がりの内容が写真紹介されていました。基本撤饌+合格祈願梅干=8000円、+神梅酒=10000円。神社側の利益率は最高ですね。いや、あくまで初穂料と神様からの授かり物です。
拝殿にお参りしました。家内がおみくじを引くと言い出しましたが、引いたおみくじ棒を持っていく西側の社務所売店が開店前でした。拝殿の多くの蟇股の彫刻が、翁媼の様々な表情で、これがナイスでした。御札と絵馬を買おうと思っていたので残念に思いながら東側に出ると、そこに売店ではない社務所がありました。中に入ると、ちょうど神人さんが出てこられました。「御札はありませんか?」と聞いてみると、出してくれるそうです。御札と絵馬を手にい入れることが出来ました。
絵馬は持って帰る予定でしたが、絵馬を掛ける場所を教えてくれ、サインペンまでもらいました。本殿裏の絵馬掛け場を見ると、ものすごい量の絵馬が掛かっていました。希望大学名などもかなりの難関が多数書かれており、きっと遠くから来られたのだなと想像されました。
次は、ここから西北の位置にある「平野神社」です。北側に出入口がなさそうで、遠回りになるなと思って、掃除をされていた方に聞くと、裏門(北)から出られると教えてもらいました。本殿裏にある「文子天満宮」まで来たら、北門が見えていました。本殿側から直接見えなかったので、出入口がないと思っていました。
「文子(あやこ)天満宮」とは変わった名だなと謂れ板を読むと、『道真さんが亡くなった後、巫女・多治比文子に道真公の心霊が乗り移りました。文子はとりあえず自宅に御霊をお祭りした。これが北野天満宮の発祥です。』と書かれていました。この故事は、何度か目にしています。少し下った「平将門の乱」の小説にも出ていたエピソードです。道真の子が関東に下り、将門と会っています。やはり現地を訪問すると、いろんな事を知ることが出来ます。面白いな。僕の歴史興味に付き合って、僕のペースで巡らせてくれる家内は最高です。
北門から出ると、「付近観光案内図」がありました。「平野神社」の位置を確認。その図に、「大将軍神社」という怪しい名前の神社が載っていました。時間があれば、行ってみよう。西に歩くと、「紙屋川」が南北に流れていました。町中なのに、川面はかなり深く、北野天満宮の西を守る堀とも言えます。
7:48、「平野皇大神」。桜の名所・平野神社と思ってやってきたが、正式名は「皇大神」が入り、「皇大神宮」が伊勢内宮の正式名を思えば、かなり思い切った大きな神社名に思えます。そこらの謂れがあるのかな?
桜の名所らしく、枝垂れなどまだまだ満開の桜が、そこかしこにあります。桜の園の円遊道を歩き、貸座敷も整備されていました。桜目当てのカメラマンが目につきます。プロと思える機材を三脚にセットし、しっかりと1枚1枚シャッターを。ここにも摂社で、猿田彦社がありました。「おけさ」「一葉」「妹背」「朱雀」。「御衣黄桜」は、薄緑の花が満開で珍しい。本殿裏には回れず、拝殿から望むだけですが、かなり立派です。黄色の花の珍しい桜も満開でした。
『・・・平城京内に祀られていました。794年、平安遷都と同時に御遷座されました。当初境内地は、現在の京都御所とほぼ同じでした。・・・平安時代になると、御祭神は急に位が上がり、・・・延喜式(927年)によれば、全国唯一の「皇太子御親察祭」が定められた神社です。・・・宮中外の宮中神であったことが伺えます。・・・皇城鎮護の神を定めた22社の5位に列せられ、明治4年には、官幣大社に列格しております。・・・奈良時代末期から「臣籍降下(皇族が源氏・平氏などの姓を賜り臣下になること)の制度が定まり、源氏・平氏はじめ高階・秋篠各氏他天皇外戚の氏神であるとされ、臣籍降下の流れを汲む公武に尊崇されました。当社が宮中外に祀られたのは、この臣籍降下と深く関わっているようです。・・・』
平野神社は桜目当てでしたが、謂れを読めたのは大収穫でした。北野天満宮に戻り、大鳥居まで南下し、そのまま東西の道を渡り、大将軍神社を目指します。「築400年の俵屋」という拝み看板が目に入りました。きつねうどん780円・玉子丼800円と良いお値段ですが、家内は興味津々です。開店前なので格子戸から覗くしかありませんが、「茶室がある」とテンションアップしていました。
古物商さんがありました。こちらは僕の好きな分野です。五月人形が目に留まり、お値段を見ると15000円です。僕が生まれた時に親に買ってもらった武者飾りを思い出します。僕が買ってもらったものは、鎧兜一式に面もついており、槍・刀・弓・矢・靴などもついた本格派で、友達の家に行ってもこれ以上のものは見たがなく、自慢でよく友達を呼んで来ました。ただ甲を被り面を顔につけ、弓に矢をつがえ、刀を振り回したので、親父の修理の跡が無数にある歴戦の勇者状態になりました。我が子の時も、5月になると引っ張りだして飾っていましたが、10年ほど前、親父が亡くなった時の整理で、おふくろが「もうボロボロで使わないよね」って言ってきて、捨ててしまいました。
嫡孫が生まれた時、その5月武者飾りを思い出して調べたら、20万ぐらいからでした。買おうと思ったけど、長男宅はマンションなので置くスペースがなさそうで、ガラスケース入りの菅原道真人形になりました。「う〜ん、どうしよう」・・・「どうぞごゆっくり」と店主さんに声を掛けられ、あれこれ見ますが、頭の中は五月人形一点です。弓矢も靴もない、僕が買ってもらったのに比べると小ぶりですが、しっかりした作りです。椅子になってる収納ケースの塗りも綺麗で、まだ新しそうです。1歳になった去年は、息子たちの時買ったのより大きな鯉のぼりを新調したし、3年連続で買うの?今日は北野天満宮訪問がメインで、衝動買いしちゃうの?なんて思いながら、店を出て再び店内に戻り、「15000円でこのケースも付いているのですか?」「ええ、もちろん。綺麗でしょ」「これ下さい」「傷がつかないようにダンボールに入れますね」「ええ、大将軍神社に参るので、その帰りに寄ります。先払いしておきます」。店外に出て、家内と20mほど歩いたところで、「あのさあ・・・買っちゃった。けど、あれは破格にお安いと思うんだ」「うん、いいんじゃない。壊すぐらい喜んでくれたらいいね」って。
東西の生活道路に交差し、案内板に従って右折すると、洋品店がありました。店頭横にベンチがあり、怪しい蛙の置物が載っています。「ご自由にどうぞ」箱のなかに、パンフレットが数種類入っていました。「京都一条・大将軍商店街振興組合・妖怪ストリート」なるパンフレットを見ると、ここがその一条商店街のようです。以前にTVで見たことがあります。電信柱に、「妖怪ストリート」の幟がズラリとはためいています。一つ目小僧人形、魚の可愛らしいオブジェが商店のFに、ゲゲゲの鬼太郎に出てきそうなタッチの妖怪の絵、商店の2Fの窓から見えるのは着物を着た狐娘。
僕らを追い越した車が前に止まり、そこから降りてきたのは、濃い目の鮮やかな紫の着物姿の男性?後ろから台車をゴロゴロ押してくる怪しげな被り物の若者。何なんだこの道は・・・。台車の若者が僕らを追い越し消えて行ったのが、大将軍神社でした。鮮やかな紫さんが行列に並んでいます。横に行くと、紫さんがペコリと・・・お化粧も綺麗に載ってる美女な男性と確信しました。参道を見ると、子や机が並べられています。東寺の骨董市や、百萬遍知恩寺の手作り市のようなものとピンときました。開店前のようで、怪しい衣装や被り物で身を包んだ方などの出店者ばかりです。入っていいのかな?
怪しいコスチュームの方たちを写真に収めるのに気が引けて、その他を激写。小ぶりな神社で、「大将軍八神」というのが正式神社名のようです。横に鉄筋コンクリート造の「方徳殿」という建物がありました。宝物が眠っているのか?結婚式場でも副業にして大儲けしているのか?何故か場違いな大きな錨が境内に置いてあるし・・・。ご鎮座1200年とあり、小奇麗な本殿はお金が掛かってそうな作りで、小社ながら経済力はありそうです。
ここで、8:55。タイムリミットです。骨董屋さんに寄ると、持ちやすく包装してくれていました。車に戻り、往路同様の道で四条大宮に戻り、「あそこに阪急大宮駅があるから、気をつけて」と、家内を下ろしました。四条通を東進します。昼間は大混雑の京都一の繁華街なので、久しぶりにこの道を走りましたが、片側1車線の車道になっているところがあります。工事もしており、歩道を更に広げるようです。いっその事、昼間の時間帯を、歩行者天国にしちゃえばいいのに。その方が四条に面する商店街の売上げが上がりそう。
鴨川を東に渡り、左折して鴨川沿いの「川端通」を北上します。右折して丸太町通を東進。東大路通を北上して、9:40に大学敷地内に入りました。ヨット部の幟が立っており、2回生T君がいます。助手席側の窓を開け、「おはよう、車、置いてくるわ」。いつものように、パラパラとやってくる新入生に話をし、この時間帯の予定者6人揃ったところで、みんなを車に乗せて、10:17琵琶湖に向け出発します。
「山中越え」ルートで比叡山を越え、10:53・ハーバー着。新入生が着替えるのを待って、レスキューにみんなを乗せ、沖に出ます。風速2m/sほどで、試乗会にちょうどいい風です。30分遅れの第2陣・更に次の陣と、新入生が到着する度にレスキューが戻って試乗者を入れ替えます。「西村写真館」がお休みで、マネージャーが携帯カメラで撮ると言うので、僕のソニーミラーレス一眼レフを貸しました。キャプテンもお休みで、4回生が少なめです。TOEICのテスト日で、そっちを受けに行ってるそうですが、部員が多くなったので、特に支障はありません。
15時を回り試乗会が終わり、ハーバーバック。15:40に着替えが終わった新入生を6人+部員1人乗せて合宿所に行きました。工事終了と聞いていたので期待していたのですが、先週と全く同じ状態で上下水道が通っていません。先週同様、2Fから合宿所に侵入し事情を聞くと、なんと業者さんの現場責任者がトンズラして会社も辞めてしまったそうです。大笑いです。4月中は、この状態が続くそうです。
ここで食事が作れないので、京都の部員のマンションで、鍋一式の食材を切って、食器・鍋など洗ってきたそうです。食事当番3人が、鍋の出汁を作っています。2年前までは、市販の鍋出汁を使って、食材を切って鍋に突っ込んだら終わりの簡単クッキングだったのですが、鍋だしがあまりに高いので、去年から手作りになったそうです。女子部屋から、あれこれ出してきて、適当に突っ込んで携帯コンロの上に鍋を置いて作り・・・を数回に分けてやってるので、鍋ごとに味が違うそうです。「これは完全にラーメンや〜、俺は好きやけど」なんて、面白おかしくてたまりません。一応2回生女子マネはいますが、上回生男子は究極の鍋だしを作ろうと試行錯誤して、たいてい撃沈しています。
試乗会陸上部隊の部員は、1回生を連れて、外でレクリエーションしています。
後半は4〜5m/sに風が上がり、船を片付けて戻ってきた部員は、疲労困憊の様子す。でも口だけは達者で、出汁を味見して、「薄口醤油が足らん」「いや、グ
ルタミン酸ソーダを入れたら万能や」とか勝手に言い合っています。
外のレクリエーションが終わり、TOEIC組も帰ってきて、17:30から鍋が始まりまた。僕のカメラのデータをPCにコピーし、この日の写真を流しながら歓談。1回生自己紹介でまた大盛り上がりで、ヨット部紹介ビデオでまた大盛り上がり。特に製作者がしゃべりまくりです。1回生は、うるさくてビデオを楽しめなかったでしょう。
続いて僕の話、更にキャプテンから一言。最後に、2回生M君のエール後、ヨット部応援歌「琵琶湖周航の歌」を円陣に肩を組んでみんなで合唱し、お開きになりました。僕の最後の仕事は、1回生を大学正門まで送ることです。7人を乗せ、19:34に合宿所を出発し。山中越えで京都盆地に戻り、20:00にお役御免です。
ああ、楽しかった。ただ1つ、1回生女子が1人だけだったのが残念でした。女子大からのマネージャー志望者が多いと、帰路は僕を担当にしてくれる時があり、ピンクな香りいっぱいの車内で、華やかな未経産婦女子トークに包まれて頬がゆるむのですが・・・新歓隊長に、「僕のテンションが落ちるやろう」とハッパを掛けておいたので、来週に期待しましょう。
東大路通〜九条通〜R1〜名神〜中国道で、21:00自宅最寄りのGSで給油。21:09に帰宅しました。家内はすでに夢の中で、一人寂しく後片付けをして、夕食を食べました。お風呂に入り、自室に上がるとコテンと寝てしまいました。そしてまた月曜日の寝坊さんで、目を覚ましたのは6時でした。

2015/4/5
日曜日は、大学ヨット部の新人勧誘試乗会のお手伝いに行きました。でも1週間ほど前に、他大学の練習中に事故が起こり、この機会にもう一度安全についてミーティングをすることにしました。他大学もそうでしょうが、キャプテンに連絡すると、みんなで分かった事故の詳細を土台に話を持ったそうです。でも足らない点もあると思うので、話をしてほしいと頼まれました。新歓準備前に、2時間の時間を取ってくれました。安全こそ最優先です。
以前に、心肺停止状態からの胸骨圧迫蘇生術・AED使用講習をした時、僕が消防署からもらった冊子を合宿所の冷蔵庫横にぶら下げておきました。どうやら合宿所改装により行方不明になったようで、数日前に消防署に行って、2部いただいてきました。これを読み返し、P1〜P16までを使おう。それに加え、ちょうど届いた体育協会からのスポーツ指導者向け冊子「Sports Japan」に載っていた、沢松奈生子さんの連載2ページを使うことにしました。
土曜日の仕事後、それらをコピーし帰宅すると、次男がいました。仕事で京都に出張してきたそうで、1泊するそうです。今年の正月に結婚してから初の夫婦別泊のようです。僕からの僕ら夫婦の近況報告メールが、文字好きゆえ長いから、その返事も長く返そうと頑張っているらしい。「読みやすい良い文章を書くやろ、作文力のある子は頭がいいから」と核心をついた事を言う。僕も全くその通りだと思う。作文といえど、構成や単語の選択や使い方に知性が現れるから、論理的な数学に似ているような気がする。よって、一番頭の賢い集団は、理学部数学科に通うやつと、作家だと思っている。特に史伝作家は、資料集め・整理から始まるので、根気のいる大変な職業だと思ってる。「あの子はいい子や。いい人をお嫁さんにもらったと思うわ」と次男に返しておいた。「明日琵琶湖に行くけど、一緒にいくかい?」「試乗会やろ・・・やめとくわ」と、僕が植えた結婚記念植樹などを写真に収めていました。
なんだかんだで、いつもより遅く23時頃寝床に入ったので、6時に目が覚めるか心配だったが、4時に目が覚めました。資料に目を通しながら、ミーティングの流れの最終チェックして、6:10に出発しました。コンビニでおにぎりを買い、GS後、一路琵琶湖へ。小雨が降っています。天気予報では、1日中1ミリの降水予報なので、ずっとこんな天気だろう。
7時に到着。合宿所改装中なので横の駐車スペースを使えないということで、キャプテンに教えてもらった場所に車を置き、おにぎりを食べる。資料を詰めたかばんを持って、琵琶湖側から合宿所に向かう。雨が降ってるので水たまりが出来ており、それを避けながら。合宿所はブルーシートに覆われている。いつもの入口はなくなっている。琵琶湖に面する船だし扉はやはり開かない。裏に回ると新しい入口ができているので開けようとしたら、ここも鍵がかかっている。仕方なくブルーシートに覆われた工事用足場に組まれた階段を上り、2Fの窓の外から内部を覗くと、学生が2人座ってペンを走らせていた。
「下の入口を開けて」「まだ工事中で、僕らもまだ使った事ないんです」「どこから入るの?」「ここからです」と、いつも湖面の風の様子を見ている目の前の2Fの窓を開けてくれた」「え〜ここから入るの・・・」。
コピーしてきた2枚組み資料を床に広げ、ホッチキスで止め始めると、寝室から出てきた学生に「おはよう、暇?これをホッチキスで止めてくれないかな?」「はい」。彼に任せ16枚組の資料を床に広げ、そちらの準備に掛かる。1人・2人と起きてきたので、「おはよう、各1枚ずつ16枚を束にしてくれる?」「はい」。次々学生が起きてきたので、彼らに任せ、僕はその他ミーティングの準備をする。窓入口から、通勤でやってきた学生たちが続々入ってくる。2Fの広くなった台所ルームを見に行くと、女子マネージャーもやってきて、初めて見るのか、「うわあ広い。綺麗」とワーワーやってます。1年前のシーズンオフに2Fの寝泊まり部分が改装され、このシーズンオフは、1Fトイレ改装・シャワールーム増設・入口変更&2F台所改装です。内部は山小屋風でいい感じの合宿所に変身しました。定刻が近くなったとこで最終チェックすると、一部資料を車に忘れてきています。僕が取りに戻ったので定刻8時を5分過ぎてしまったが、キャプテンの挨拶でミーティングが始まりました。
事故の詳細をキャプテンに話してもらい、その状況から考えられるミスや、そうならないためにどうすべきかなど、僕なりの分析を披露した。本来はみんなで話しあう時間を持つ方がいいのだが、それは部員内で終わっているので重複を避けました。
消防署の「応急手当講習テキスト」のコピーしてきた部分を輪読し、僕が講習で感じた細かい注意を話す。続いて胸部圧迫・人工呼吸&AEDの実技を、ちょうど輪読の順番が回ってきた部員2人をモデルにして、声掛け・心拍確認・周りの方への協力要請(110番・AED調達)・・・。これがかなり盛り上がった。大半の学生は、中学・高校時代や、その他の機会で胸骨圧迫やAED実技を、1度は見ているのでおさらいです。
続いて、「Sports Japan誌」のコピーを輪読します。沢松奈生子さん(元プロテニスプレイヤー)の連載「スポーツ指導を考える」最終回「スポーツ指導・日本と諸外国6・結果ばかりを求めるのではなく、楽しいと思わせる指導を」です。沢松さんは、お父さんの仕事で10歳までドイツで過ごしました。お父さんから日本式の星飛雄馬の指導を受け、ドイツ人コーチから「ラケットをこう握りなさい」「ボールはこう打ちなさい」という指示が一切なく、「どう打ってもいいから、ラケットを使ってあの的に当ててごらん。当たったらアイスクリームをご馳走してあげるよ」という非常に楽しい指導を受けました。「毎日でもテニスクラブに行きたい」という楽しい気持ちを今でも覚えているそうです。あとからお母さんに聞いたところによると、テニスクラブに通い始めて1年ほど経ってドイツ人コーチに、「あなた方は、奈生子に生涯スポーツとしてテニスを楽しんでもらいたいか、それとも数年でやめさせもいいのか、どちらですか?」と言われたそうです。当時ボリス・ベッカーやステフィ・グラフなどが台頭し、黄金期を迎えようとしていたドイツテニス界の真髄を知ったといいます。
10歳ぐらいになって試合に出るようになっても、ドイツ人コーチの指導はあまり変わらなかった。日本では試合に負けると、すぐ弱点をカバーする練習をするけど、「試合には負けたけど、サービスは良かった」と声を掛けてくれました。
そんなことが書いてあります。僕がスポーツ指導者資格を得た時の教科書に書いてあった脳科学から見た脳の構造の話を加えました。脳は、痛み・辛さ・恐怖から逃れることを優先し、楽しい・嬉しいは優先しません。よって、学校のクラブ活動で、罵声や体罰で指導すると早く上達ます。でも次の学校に移るとそのスポーツをやめてしまう選手が多い。何故かと言うと、脳内の引き出しにそのスポーツと恐怖・痛みがセットになって収納され、もう恐怖に遭いたくないと思う脳は、この引き出しを奥に仕舞います。反対に、喜び・楽しい・嬉しいと結びついたスポーツは、セットで手前の引き出しに収納され、すぐに取り出せるように・すぐに浮かぶようになってるので、一時そのスポーツから離れても、再び再開しようとします。
僕が高校時代にクラブで受けた体罰とそれへの反発。大学ヨット部で組んだ先輩のドイツ人コーチこのままの指導で、インターハイにも行けなかった並の選手の僕が、学生トップクラスにまで行けたこと、15才以下のジュニアヨットクラブでの指導で、日本一楽しいクラブと言われながら、ナショナルチーム選手を輩出出来た実績などを話しました。
予定の10時終了を5分オーバーして終了。横に座っていた2回生・松原くんが、「すごく良かったです、ありがとうございました」って褒めてくれた。彼はいつも積極的で明るい。リーダータイプなので、将来会社の中核でバリバリやりそうです。みんなの顔も満足そうだったので、概ね成功でしょう。
新人勧誘隊長・大畑君から、前日の土曜日に24人も来てくれたこと・本日は雨模様なので、ヨットの第一印象を考え人数を7人に絞ったこと・タイムスケジュールを聞く。10時、ヨット部員達は、新歓に向けて、それぞれの持場に散っていく。車でハーバーに向い、艤装を始めた学生たちを横目に、早めのお昼ごはんにしました。ラーメン屋に向かうが開店前、近隣の他の店も開店前だったので、マクドナルド柳が崎店で、フィレオフィッシュとファンタグレープ小で399円。
ハーバー艇庫に戻ります。予定では、13時に京都の学校正門で、新入生をピックアップするので、13:30新入生到着予定です。今まで毎回、学校正門前でピックアップする方を担当していたので、ハーバーで待つのは初めてでした。偽装を終えた学生たちとあ〜だこ〜だ話します。ジャニーズ系の2回生田中くんに、女子が来たら正面に座わるようにと冗談を飛ばしながら・・・、鈴木くんは伊勢谷友介並みの男前やなあ・・・なんて思いながら。まいこさんは、いつものマスク姿じゃなく、素顔で働いています。せっかくのお顔をマスクで隠すのはもったいないとずっと言っていたが、やはりこっちの方がいいぞ。僕が合宿所で話している時やってきた監督は息子の同期で、ミーティング後いろいろ話しましたが、試乗会には参加せず、OB会のミーティングの方に行きました。
13:30新入生到着。第1便の男子3名を迎えます。続いて、小松くんが女子大からマネージャー候補女子3人を連れて登場。さぞ車内はハーレムだったでしょう。羨ましいぞ。まずはおくつろぎタイムで、艇庫内のブルーシートの上でお菓子を囲み、部員があれこれ喋りかけます。
雨は1ミリを越えないものの、強弱を繰り返しながら断続的に降っています。新入生女子に濡れないようにドライスーツを着せ、男子はまあそれなりのカッコに着替えさせ、ライジャケを着て湖面に出ます。順次2種類の艇に乗り換えさせ、西村写真館がカメラに収めます。空白の時間に、女子にレスキュー艇ドライブを教えます。
後からやってきた新入生1人を迎えに戻ったりしながらワイワイやってたら、雨が上がるのと同時に風も止んでしまい、16:30着艇。片付け中に着替え終わった新入生5人+女子マネを乗せて、車で合宿所に戻りました。新入生は、雪国でもないのに、まさかの2Fから入るのにビックリしながら、また部員のトーク渦に巻き込まれます。
ここから歓迎鍋パーティーが始まるのですが、あいにく改装中故、調理ができません。大半の部員が戻ってきたので、高木くん司会で、食なし歓迎会が始まりました。恒例の自己紹介です。名前・学部・出身地・出身高校・高校時代のクラブ・・・など、新入生が一言しゃべる度に、部員が「名門出身や〜」「俺と同郷や〜」とどうでもいい野次が飛びます。「クラブの紹介PV2015」を流し、これにも野次の連続で、新入生は落ち着いて鑑賞できません。
キャプテン挨拶に続き、僕のお話です。ヨットは安全なスポーツ・ヨットは男女差のないスポーツ・ヨットは生涯スポーツ、琵琶湖周航の伝統行事がある、今年はクラブ創設80周年琵琶湖観光船ビアンカ貸切パーティーもあるよと話しました。合宿所行事はこれで終わり、新入生を囲んで夕食を食べに出ます。僕はここで離脱です。
18時に合宿所を離れ、お腹が空いたので、脇目もふらず一路自宅へ。湖西線は快適だったが、R1との合流で少し渋滞し、名神高速は快適でしたが、茨木手前で落下物処理のためまた渋滞しました。
19:20頃、帰宅。「おかえり〜」と明るい声で迎えられ、家内から「今日は神戸・姫路なの」とお気に入りのモヤモヤさま〜ずを見ている。荷物を片付け、モヤモヤさま〜ずを見ながら、家内が用意してくれた夕食を食べ、食べ終わったが寝てしまった。家内に起こされ、お風呂に入り、自室の布団に入りETVクラシック音楽館を聞きながら寝てしまいました。
6時目が覚めたので、9時間ほど寝ました。いつも月曜日は寝坊さんです。

2015/3/29
姪(義理姉の次女)の新築祝いに行く予定でしたが、彼女の体調不良により前日にキャンセルになりました。姉夫婦・甥夫婦・義理兄の妹さんと僕ら夫婦で押しかけ、ワイワイやろうと思っていたのですが残念です。彼女は、僕の息子達と同年代ですが、若年性糖尿病でインシュリン注射をしなければならない体です。数日前から風邪を引いてしまったと姉から連絡が入っていましたので、大事を取ったようです。お料理を用意して・・・と張り切っていたようなので、彼女自身残念で仕方なかったでしょう。
予定では11時に富田林の新築宅集合だったので、朝一に家を出発し、奈良盆地の東丘陵にある「九品寺」〜「一言主神社」〜「名柄集落」〜「高鴨神社」を20kmほど歴史探索サイクリングしてから、富田林入りしようと思っていました。新築祝いが中止になったので、奈良サイクリングを拡大しようとも思いましたが、お昼ごろ雨の降る確率は改善されず、それも中止にしました。
兄夫婦や甥夫婦を誘って、京都東山トレッキングも考えましたが、天候不良での山歩きは不安です。大阪湾セイリングも、ゲストを呼んで雨は頂けません。南紀ドライブ・備前ドライブ・伊勢ドライブ・・・などツーリングマップルを見ながら思案し、福知山の元伊勢外宮・内宮ドライブに決定しました。福知山駅に寄って観光パンフレットを見て、適当に巡ろう。
家内の用事や僕のヨットなどで久しぶりの家内とのデート・・・ウキウキし過ぎて3時台に目覚めちゃいました。暇なので、福知山市の観光案内ウェブサイトを見てみました。そこに紹介されている寺社を地図にチェックしていき、ルート設定しました。福知山市街地にある「御霊神社」から、長安寺〜天寧寺〜元伊勢外宮〜内宮〜天岩戸神社〜観音寺〜大原神社です。ゴリラナビに入力します。4時前に階下で家内が活動し始めました。休みの日でも洗濯をし、朝食を作る家内には頭が下がります。6時前に階下に降り、TV見ながら朝食を食べて、車の中でゴソゴソ。ワンちゃんのお散歩にやってきたご近所さんに挨拶など・・・。
6:45に出発しました。宝塚ICから中国道に入り、舞鶴道に乗り換え北上し、「西紀SA」でトイレ休憩しました。再び北上を開始し、「福知山IC」下車。R9を西進し、8:10「JR福知山駅」到着。福知山市の観光パンフレットを頂きに行きます。駅内の観光案内所はまだ開店前で、JR備え付けのパンフレットは、京都や大阪など遠くの物ばかりで地元観光パンフがありません。住み分けしてるつもりでしょうが、案内所はお役所仕事なので時間が限られているし、主要駅にしかありません。駅に置いておけば、電車のお客さんも増えると思うのだけど・・・
駅前に置いてある福知山線で活躍したSL・C11&転車台の一部を激写し、朝GPSに入れた「御霊神社」にセットします。8:26到着。駅からすぐ近くの市街地にあるお宮でした。明智光秀の霊も合祀されたお宮らしく、武者の彫刻も入っていました。光秀直筆の手紙も保存されているらしく、我が伊丹の有岡城に籠った荒木村重攻めの陣から送られてきたものも遺っているそうです。拝殿の正面柱に、「祝・○○様結婚式場」と書かれており、ちょっとハッピーな気持ちになりました。摂社に「堤防神社」がありました。謂れ板に、『福知山は、豊かな由良川の流れに多大な恩恵を受けてまいりましたが、時として大洪水となり、大きな災害を受けることが度々でした。・・・昭和59年に「堤防神社」を建立いたしますた。・・・』と書かれています。去年も氾濫し、市内の多くが見ずに浸かりましたね。でも堤防神社というのは珍しい。土建屋さんが、利益の一部を寄付したのでしょうか?梅が綺麗に咲いています。
「叶石・かなえいし」として、さざれ石が祠に収まっていました。君が代の歌詞にもありますが、さざれ石もよく神岩門して祀られていますね。小さな祠を見て、家内が「お父さん、うちのお宮にも「しめ縄」や「鈴」をぶら下げたら」と提案してくれました。我が家のはもっと小さな祠ですが、朱鳥居が追加され、全て僕が書いたのですが絵馬もぶら下がっています。狛犬の代わりに、「狛シーサー」が左右に控え、正面には上杉謙信像が鎮座しています。賽銭箱もあり本格的になったと思っていましたが、しめ縄がないね。孫くんがやってきた時、鈴がぶら下がっていると、おもちゃにして鳴らしてくれそう。
R9〜R429経由で、8:54「長安寺」到着。駐車場に入れると、バイクがやって来ました。掃き掃除をしていた方から、「御朱印ですか?」と聞かれました。「いいえ」。家内が「若者かと思ったら、ヘルメットを抜いだらおじさんだった」とニコニコしています。まるで僕みたい。かなり大きなお寺で、「9時〜4時半・大人300円」の拝観料が必要と書かれています。誰もいないし、掃き掃除の方も何も言わないので、カメラを抱えて入って行きました。
「西国33札所・観音霊苑」というのがあり、各札所の観音石像が立っています。ここを回れば全ての札所を巡ったのと同じ御利益があるのでしょう。色んな色の梅が咲いています。まだ蕾ですが、枝垂れ桜も存在感を示しています。「えい歯碑」の案内板がありました。福知山藩の藩主・朽木綱方が、福知山平野が一望できるこの寺を愛し、抜けた歯を埋めたそうです。「姫髪山」登山道脇にあるようです。この山の名にも謂れがありそう。
「薬師堂」内部に入れました。レプリカ十二神将・レプリカ日光月光・修理中故写真のみの薬師如来坐像が、精緻な彫刻を施された仏壇に鎮座していました。京都東寺のそれとは大違いですが、脇侍の十二神将まで揃い、薬師如来一座の定番に則っています。それより天井の龍の絵です。暗い室内の小さな明かりに照らされ、なかなかの迫力です。
無縫塔が並んでいます。ざっと見て40基あります。25年×40=1000年。平安時代まで遡れます。後で読んだのですが、謂れ板には1400年前・用明天皇の第3王子(聖徳太子の実弟)が勅命により大江山に住む鬼賊征伐の途中、戦勝祈願で薬師如来像を刻み、奉祀されたのが始まりだそうです。福知山初代藩主・杉原家次の墓・五輪塔がありました。菩提寺のようです。
「西国33札所」巡りに、見慣れたお寺名がないので変だなと思っていたのですが、謂れ板に書いてありました。真言宗のお寺でしたが、1530年に禅寺に宗旨変えし、「臨済宗南禅寺派」に属しているそうです。「西国33番札所」と一字のみ違いますね。微妙・・・
「弁財天」が小さな池の中央の祠に祀ってありました。弁天様といえば、滝や池の辺りに祀られるのが定番で、女神だから子宮内の羊水に因んでいるのかなと思っていたのですが、謂れ板に『弁財天は、インドの五河地方の河神として崇拝され、後に梵天の妃とされた。我が国では「吉祥天女」とともに最も多く信仰された。もともと河の神であったから、日本では弁天の祀堂は、湖のほとりや海のほとりにある』とありました。
R9に戻り、北上します。「北近畿タンゴ鉄道」と並走して走り、1両の黒い列車や4両編成の列車の姿を見ました。家内が「クロマツ」っていう大人気の列車だよと教えてくれました。r528に入り、9:49「天寧寺」到着。椿が綺麗な真っ赤な花を付けています。トイレの裏からグラウンドゴルフ場が見えます。たくさん車が停まり、サンデー毎日さんがプレイに興じています。ゲートボールより豪快で、ゴルフほど大層ではなくいいね。
謂れ板に、『天寧寺は、臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院で、1365年地頭の大中臣宗泰が自らの氏寺に開山した。足利義持ら将軍家の帰依を得て大いに隆盛を誇った。・・・』。屋根に足利氏の「二引紋」瓦が載っており、足利氏の影響を感じます。檜皮葺の「薬師堂」が目を引く見事さで美しい。堂内に「二引紋」の下がりを下げた仏壇がありますが、わりあい明るくて広々としています。横の僧坊から法事のお経が聞こえていますが、本堂とも言える薬師堂内でも、椅子を入れて法要があるのかもしれません。江戸時代の建造物だそうです。
r528を戻り、r529で東進すると、「北近畿タンゴ鉄道」をくぐりました。小さな「下天津駅」があったので、10:14寄り道します。階段を上がると、『ご使用済みん切符はこの箱に入れてください KTR』と書かれた黄色の箱がありました。当然、無人駅です。高架駅のホームに出ると、南北にトンネルが有り、ホームから北側のトンネルを覗くと、更に次のトンネルが見えます。待合室に時刻表があり、1時間に1本平均です。「いいな」と思っていると、列車の音です。慌ててムービーに切り替え、通過列車を撮りました。家内が言ってたスイーツが食べれ、景勝地では低速運行や停止する観光列車「くろまつ」でした。カーテンが付いてて、1両だけど豪華でした。ちょうどホームに上った時に来るなんてラッキーです。
R175に出て北上。10:32・「大江駅」到着。駅前に「鬼瓦公園」というのがあり、全国の鬼瓦産地自慢の鬼瓦が並んでいます。駅の観光案内所兼売店には、鬼関係の置物など可愛いのがたくさん販売されていました。「酒呑童子」の悪役の鬼さんも可愛い。家内が北近畿タンゴ鉄道の特別列車のポスターを見つけました。
「あかまつ」「くろまつ」「あおまつ」の3両あるそうです。さっき駅に上がった時に通過したのは青かったから「あおまつ」のようです。大人気で予約取りが難しいそうなので、「とどまつ」「じゅうしまつ」「おそまつ」と増えていくのかも?「元伊勢内宮参道マルシェ」のパンフレットがありました。参道にお店が出るようです。日時を見ると、3/29(日)本日です、ラッキー。
R175を北上し、すぐr9に入ります。すぐに、10:50「元伊勢外宮」到着。長い階段を上がると、丘の上に素朴だけど雰囲気の良いお宮がありました。豪華さはないけど、出雲式の高床式お宮です。屋根を見上げると、千木は垂直切り・鰹木は9本という男神スタイルです。外宮の祭神は、「元伊勢外宮豊受大神社」の名の通り、豊受姫なので女神なのですが、伊勢外宮同様に男神スタイルのお宮です。
例外があるけど、主祭神が男神なのに水平切りは少ないように思います。女神で垂直切りは目にします。拝殿脇に榊が植えられています。我が家の氏神様の神主さんは、祭事に使う榊を山に取りに行って転落し、その後体が弱って亡くなってしまいました。我が家の祠脇に、何かの記念で榊を植樹しようかと目論んでいます。
r9をそのまま北上し、11:16「元伊勢内宮皇大神社」到着。道にガードマンやマルシェスタッフが出て、駐車場の整理をしています。参道入口の駐車場に入れようと思ってたけど、すでに満車でその先の駐車場に回されました。空模様はずっと曇っており、ここまで傘は必要ありませんでしたが、少し歩きそうなので傘を持って出ます。お宮の方に歩いて行くと、参道の終点・お宮への階段上り口に出ました。途中の民家の玄関では、たくわんや赤唐辛子の無人販売をしていました。参道を見ると、マルシャの幟が立ち、テキ屋風ではなく現代風露店が並んでいます。お昼には早いですが、小腹がすいたので、一番お腹が満足しそうなカレーのワゴン車に向かいカレー(中)450円を2つ注文しました。家内と並んで土手に座り食べます。小雨が落ちてきましたが、空は明るく土手も濡れていません。
小腹が満足したので、階段を上がります。ここの御札を授かろうと思っていたので、坂道の途中にあった社務所風のとこを覗きました。お守りや御札が並んでいましたが、誰もいません。教育勅語の原文も並んでいたので、初穂料を渡せば手に入れられるのかも?現代文のなら考えたけど、原文は読み難いのでパス。
「教育勅語」って読んだことある?と家内に聞いてみました。答えは「ノー」でした。戦後生まれの僕らは、もちろん学校で教育勅語を読んだり勉強した経験がないので、それが当たり前です。でも僕は、興味の赴くままに過去数度読んだことがあります。もちろん明治時代に出された漢字カタカナ混じりの原文では意味がいまいちつかめないので、現代語訳です。
「「教育勅語」ってさあ、明治時代に制定された教育に関する憲法で、ごく当たり前のことが書かれているよ。太平洋戦争敗戦直後、GHQの命令で排除されたんだ。教育基本法が制定され、これに変わったんだ。天皇主権の時代だから、違和感を感じる所もあるけど、短く簡潔で小さな子供にもわかりやすく、モディファイして復活するといいと思うんだ」と話しました。
教育勅語を最初に読んだ時、国歌「君が代」に通じるものがあると感じました。明治政府主導で教育の基本方針として考えられ、明治天皇から首相・文部大臣に下された勅語(言葉)です。大昔から、日本での天皇の存在は別格です。天皇側が官軍・それに敵対する側が賊軍となります。だから長く敵対するには、室町時代の北朝のように新たな傀儡天皇を立てなければ長く闘争できません。鳥羽伏見の戦いでも、軍事力が優勢であった江戸幕府軍でしたが、天皇の官軍を示す「錦の御旗」が薩長軍の先頭に立ったのを見て、幕府軍の士気は緩み、一気に形勢逆転してしまう。
日本では、天皇の言葉はオールマイティー的な力を持っており、太平洋戦争の敗戦を全国民が素直に納得し、陸軍の大勢だった国内ゲリラ戦もなくスムーズに終結できたのは、天皇自ら語った「玉音放送」の影響が大きかったと言われている。
『君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで』(あなた(天皇)の代は、永遠に。さざれ石(砂岩)が岩のように固まり、コケがつくようになるまで続きますように)
教育勅語・現代語訳 『私(明治天皇)が思うに我が皇室の御先祖様が国をお始めになったのは、遥か昔のことであり、その恩徳は深く厚いものです。我が臣民は忠と孝を守り、万人が心を一つにしてこれまでその美をなしてきましたが、これこそ我が国の最も優れたところであり、教育の根本も実にこの点にあります。あなたたち臣民は父母に孝行し、兄弟は仲良くし、夫婦は協力し合い、友人は信じ合い、人には恭しく、自分は慎ましくして、広く人々を愛し、学問を修め、仕事を習い、知能を伸ばし、徳行・能力を磨き、進んで公共の利益に奉仕し、世の中のために尽くし、常に憲法を重んじ、法律を守り、もし国家に危険が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、天下に比類なき皇国の運命を助けるようにしなければなりません。このようなことは、ただあなたたちが私の忠実で良い臣民であるだけではなく、あなたたちの祖先の昔から伝わる伝統を表すものでもあります。このような道は実に我が皇室の御先祖様がおのこしになった教訓であり、子孫臣民が共に守らなければならないもので、今も昔も変わらず、国内だけではなく外国においても理に逆らうことはありません。私はあなたたち臣民と共に心に銘記して忘れず守りますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを切に願っています。』
天皇(国)からの命令ではなく、お願いに僕には読めます。ならば、僕の持論である大学や大学院も含めた高等教育機会均等もその費用も、国家持ちの理屈が成り立つように思うのだけれど・・・

長い階段が続きます。鎮守の森の杉が立派です。11:46、到着。絵馬殿を覗くと、大江山山頂・元伊勢内宮・伊勢外宮・伊勢内宮が、冬至の日に太陽の昇る方向に一直線並ぶ古代の神秘と図示されたパネルが掲げられてありました。本殿千木は水平切り・鰹木10本の女神スタイルです。主祭神は、もちろん「天照大神」です。脇宮も分厚い茅葺き・高床式で、出雲スタイルです。甘美ではありませんが、素朴な質実剛健な感じがする雰囲気の良いお宮です。白装束・丸坊主の年配の女性が、10人ほどを引き連れて、祈りを捧げながら、「あんたは真裏の摂社に祈りをささげなさい」とか、全員に指示している。神道系の新興宗教のようです。
社務所を覗き、絵馬500円・木札800円・鈴&下がり2000円を授かりました。これで我が家の屋敷祠も少しグレードアップです。鈴を見せたら、家内は大喜びしています。孫くんもおもちゃにして鳴らしてくれるでしょう。
和泉式部の塚がありました。我が伊丹市にもありますが、和泉式部の塚は全国にあります。色気のあった美人だったらしく、有力者が彼女を惜しんで乱立させたのでしょう。恋多きモテモテ美女は、今も昔も大人気ですね。
謂れ板に、『10代・崇神天皇39年・BC59年に、天照大神を永遠にお祀りする聖地を求め、皇女・豊鍬入姫命とともに倭を出御され、ここに御遷幸になり、当社が創建された。皇大神は4年後に倭にお帰りになり、諸所(20余)を経て54年後・垂仁天皇26年に、伊勢神宮に永遠にご鎮座になった。しかし、天照皇大神のご神徳を仰ぎ慕う崇敬者は、引き続いて当社を伊勢神宮の元宮として「元伊勢内宮さん」と呼び親しみ、今に至るも庶民の篤い信仰が続いている』と書かれていました。
「天岩戸神社」への案内板が目についたので、歩いていきます。しばらく歩くと、「平成13年・天皇皇后両陛下御巡幸記念植樹」の碑が立っています。またしばらく歩くと、石造の「遥拝所」がありました。でも西を向いているので変だなと思ったら、「拝遥嶽」と石造に刻まれていました。そこの正面に、綺麗な円錐型の山が見えます。道を歩きながら、木々の間からチラチラと見えていたこの山を、「きれいな形をしているね」と家内と話していた所です。「一願成就」と石柱に刻まれているので、しめ縄に願いが書かれた絵馬がぶら下がっています。大昔から続く、日本人の心を感じる。
神道は宗教なんだろうか?キリスト教や仏教とは、ちょっと違うように思う。神道=天皇崇拝=軍国主義、太陽崇拝=日の丸・日章旗=軍国主義、「悪」の象徴とされた時代があり、現在でもインテリと言われる教職員の一部には、「日の丸」や「君が代」を毛嫌いする人がいる。でも神道は、八百万の神に感謝する気持ちで、山に対してはそこから流れてくる綺麗な水を飲み、それが育む田畑の食物を食べて生活に対する感謝の形のように思う。自分を取り巻く自然に感謝する自然崇拝でしかなく、それを専門職にする神人のトップが、天皇であるだけのように思う。天皇さんの日常生活は、決して表に出ませんが、皇太子妃・雅子さんが心労になるぐらいだから、朝から晩まで大自然に対する祈りの時間を、しきたり通りに繰り返しているのだろう。東日本大震災の時、東北の海に向かって天皇皇后両陛下が深々と頭を下げている姿を見て、祈り慣れていると感じました。古代から天皇を頂点に脈々と続いてきた日本神道を、欧米列強の植民地化から日本を守ろうと明治新政府を立ち上げた新政府が、中央集権を強め殖産興業しようと、自然な自然崇拝行為だった日本の神道を「国家神道」として体系付け・権威付け国家経営に利用した結果のように思う。太平洋戦争敗戦で、宗教化した国家神道思想は崩れ、悠久の世界から続いてきた自然崇拝・日本神道に戻ったように思う。遥拝所から日の出を望み、鳥居の背景にある山の頂に手を合わせる姿に、素敵なものを感じます。
「天岩戸神社・徒歩15分」の案内板が立っていました。カレーを食べた土手のところに「天岩戸神社・徒歩5分」となっており、その河沿いを奥に行く道は地形的にこのすぐ下のはず・・・まだそんなにあるの?とがっくり来ましたが、ここからより勾配を増して下り、5分で12:17・「天岩戸神社」に到着しました。ここから更に奥に「二瀬川渓谷・3km」と書かれていたので、バイクで来れば、より楽しめそうです。
『天岩戸神社は、大江町の元伊勢三社(皇大神社内宮・豊受大神社外宮・天岩戸神社)の1つで、伊勢の皇大神社の元宮として、古くからこの地方の象徴的存在として崇拝されてきました。天岩戸神社の祭神である櫛岩窓戸命・豊岩窓戸命は、門を守る岩石の神様であり、岩戸渓谷の幽玄の地を天岩戸に比定し、古事記の大神の門番神を配祀していると伝えられています』
『岩戸神社の記 偉大な祖神である天照大神は、素盞鳴尊の乱暴な行いに耐え忍んでおられたが、とうとう我慢できず天の岩戸に閉じこもられた。それで世の中が真っ暗になり、悪いことばかり起こり収拾が付かなくなったので、八百万の神は高天原に集まり相談された。そこで天の岩戸の前で長鳴鳥を鳴かせ、真榊の木に勾玉を飾り、御神鏡をかかげ、御弊を持ち神饌物を捧げ、賑やかに歌い踊り音楽し祝詞を申し上げた。天照大神は、外の様子を不思議に思い、天の岩戸を細めに開いて見られたので、御神鏡を差し出し申した。ますます変だと思い、少し天の岩戸から出られたところをお引出し申したので、世の中が明るくなり救われたのである。・・・』
古事記・日本書紀に書かれている有名な神話ですが、『・・・天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、ヒカゲノカズラをたすきにかけ、 ツルマサキを冠にし、笹の葉を持って、逆さにした桶の上で踊り始めた。 激しく踊り狂って、陰部まで見せて踊ったので、(男の)神々は歓声を上げて騒いだ。アマテラスオオミカミは、「私がいなくなって、暗くなっているはずなのに、 どうして笑い転げているのだろう」と不思議に思い岩屋の戸を少し開けて覗き、「なぜ、喜び騒いでいるのか」と訊ねた。
アメノウズメは「あなたより尊い神様がいるからです」と答えると同時に、 岩屋の戸口にいた神が捧げ物の中から大きな鏡を取り出し、大御神に見せた。 岩屋から出て、鏡を覗こうとしたとき、岩戸の側に隠れていた 天手力男神(あめのたじからおのかみ)が大御神の手をつかみ引き出した。 別の神がしめ縄をはり、再び岩屋へ戻れなくした。・・・』のような、もっとリアルでエッチな人間の本能に正直な記述がされている。
古事記の記述は、他にもこんなのがいっぱい書かれており、とても面白いので好きです。このアメノウズメは、芸能の神様で、ストリップ小屋には必ず祀られているとか、そんなことを家内に話しました。
僕は河原まで降り、河原の大岩の上に鎮座する本殿を見上げました。岩に鎖が下がり、それを持って登れば、本殿まで上がれますが、河原の石で滑ってコケてすねを思いっきり打ったので、スゴスゴ戻りました。家内は、河原まで降りずに待っていました。こっちの方が正解だわ・・・あぁ〜痛いよ〜
『岩戸山 天岩戸神社の神域は、二瀬川の両岸に広がり、左岸は皇大神社に連続し、右岸は標高427.3mの岩戸山となっています。皇大神社参拝道の遥拝所から、岩戸山東側の美しいピラミッド型の山の姿を眺めることが出来ます。この東側斜面は、天岩戸神社のご神体として古くから保護されてきたことから、ほぼ原生林状態に近い植生が残っており、学術的に極めて貴重な自然林となっています』
カレーを食べた土手に向かって、道を歩きます。12:47・参道マルシェに戻ってきました。車に戻らず、マルシェを探索します。カレー露店の横に手作り露店が出ており、卓上の可愛い鯉のぼりを買おうと思っていました。父鯉・母鯉が竿に下がり、大き目な青い鯉の上に男の子が座っています。1000円。更にあちこち歩いていたら、よさ気な布製がま口700円があったのでそれも購入。参道の橋に「宇治川から見えるダブルピラミッド」というマルシェ賑やかし案内板が貼ってあったので、周囲を見渡すと、さっきの岩戸山の手前にほぼ同じ形のピラミッド山が重なり、珍しい景色を見ることが出来ました。お若い方が、ピアニカ演奏しており、バンドの設営も始まっていました。もう陽が差し始めており、もう雨の心配がありません。
車に戻り、帰路につきます。r9〜R175〜、r9で由良川を渡り、綾部まで南下してr74で西進。再び由良川を渡って、13:46「観音寺」到着。左右に仁王さんが守る楼門を入ると、参道の灯籠の間にあじさいの葉が芽吹いています。6月になると「あじさい寺」になりそう。ロウバイも咲いています。「関西花の寺第1番」の木札が下がっていました。「七観音霊場」というのがあったので、巡ります。祠の中に観音様がおられ、祠の前に鐘が下がり、木槌で打つようになっています。7つの観音様を巡った最後に、大きな慈母観音像が立っていました。
本堂を見学し、床下が見えるようになっていたので覗きます。礎石の上に本堂の多数の柱が乗っているだけで、現代建築のように深い杭など打ち込まれていません。地震の揺れをこういうファジーな部分で吸収して、本体が倒壊しないように考えられているのでしょう。
r8を東進、R27〜R173にチェンジし、我が家に向かって南下開始です。「質山峠」を越えて、14:40以前から気になっていた「大原神社」に寄り道します。絵馬殿が、大きな茅葺の屋根で重厚感満点です。天岩戸の絵馬が掛かっていました。拝殿は檜皮葺でこちらのマイスです。江戸時代に建てられたそうです。屋根を見上げると、千木が水平切りになっています。祭神は、伊弉諾尊・天照大神・月読尊。主祭神はアマテラスの母神・伊弉諾尊かな?拝殿の彫刻も立派で、財政力がありそう。摂社に、「火神神社」という檜皮葺の覆い屋で守られた素敵なお宮がありました。イザナミさんは、火の神を産んだ時に陰部に火傷を負い、それが原因で亡くなります。本社の主祭神がイザナミだったので、火神をここに祀ったのかな?なんて連想しました。
R173に戻り、質志鍾乳洞〜山内一豊・三宮城〜道の駅さらびき〜篠山安田R372交差点を通過し、「はらがたわ峠」手前を枝道に入り、前から気になっていた喫茶店「Tree House」に、15:48到着。R173に看板が出てるし、お店の前の旧道も時々走るので、ずっと気になっていました。外にテラス席があり、メニューに家内希望のケーキセットもあります。激写してたら、ウェイトレスさんが出てきて、「店内は写真禁止ですから」といきなりジャブです。「息子の誕生祝いでケーキを写真に撮りたいのですが・・・」・・・ダメなら別の店にしようと思ってたら、「店内の作品を写さなければOK」とのことでした。
テーブルには、カメラ禁止・携帯電話禁止と書かれており、映画館のようでした。でも次に入ってきたバイクカップルも、次の方もカメラで出されたものを写していました。「ややこしいお店だな」と思ったけど、運用は緩いようです。落ち着いたウッディーなお店で、カップルに良さそうです。やってきたケーキセットを入れて笑顔の家内を写しました。「お父さん、この写真をターくんに送っておいてね」、3/28は次男の誕生日で、3/22にお嫁さんの実家に行ってみんなにお祝いしてもらったようです。バースデーケーキを持ってニコニコの次男を中心にした家族の写真を、お嫁さんが送ってくれました。
R173に戻り、18:01に帰宅しました。家内は、「元伊勢神社」が楽しかったようで、ごきげんでした。

2015/3/22
日曜日は琵琶湖で開催中の「同志社ウィーク」に行ってきました。先週に続き、コーチしてる大学ヨット部のコーチングです。家内もお休みなので、レース終了後京都で待ち合わせして、家内の両親他実家先祖を分骨している永観堂で待ち合わせすることにしました。
8:00出艇だろうと、最悪6時出発と決めて、土曜夜に用意をしました。カメラ・望遠レンズ・観戦用双眼鏡・ライフジャケット・カッパ・・・。日曜日は4:30に目覚めました。天気予報をチェックし、メールもチェックすると、8:30出艇予定となっていました。京都で家内をピックアップし、永観堂お参り後、高台寺や東寺のライトアップを巡ってもいいなと、タンデム出来る通勤リード110の準備をします。リアボックスに家内用ヘルメットやカッパを入れて、普段着の上にダイワフィッシング用スーツを着て、ライフジャケットを着けます。ライフジャケットの厚みで胸と背中がぬくぬくです。
5:30に出発しました。R171を京都に向かって走ります。制限速度が60km/h規制に10kmアップされている区間が多くなっているみたい。早朝でもあり、高槻までは快調に走ります。高槻もそれほど車が多くなく、街中も順調に抜けます。明るくなってきたのでナビをセットし、目的地を検索すると到着予定時間7:02です。余裕でいい感じ。
大山崎が近づき、淀川越しに男山が見えます。6:18、真っ朱な朝日が綺麗だったので激写。いつもならR171終点まで走り、京都東寺横を抜け、九条通〜東大路通〜三条R1〜京都東ICコースなのですが、観月橋・六地蔵回りで琵琶湖に向かうことにしました。大山崎ICを過ぎて、r204で桂川を渡り淀、r13の長い直線を走り、京都外環状線(r79〜r7)で観月橋・六地蔵を通過。r36〜r35〜R1〜京都東IC。ここからR161・湖西道路に上がり、皇子山からハーバー着・7:10。2時間予定だったけど、1.5時間で来れました。
7:07・セブン-イレブン大津松山店で、味付け海苔エビマヨネーズおにぎり120円2個+プレミアム麦茶100円購入し、ハーバーに入り艇庫前でみんなに挨拶します。キャプテンから前日のレース状況を聞き、選手に声を掛けます。前日は11時に北から風が入ってきて3レースで来たので、少し風速予報が高いこの日は10時ぐらいに風が入って来そうな感じがします。
隣の艇庫では、高校生・ジュニアが出場する「琵琶湖選手権」も開催中で、ジュニア繋がりの知り合いさんとあ〜だこ〜だ。レース前ブリーフィングで、スタート位置取りから積極的な位置取りをすることなどを話しました。琵琶湖選手権参加艇が出艇して行きますが、風が弱く8:30出艇は無理そうで風待ちに入ります。
女子マネさんとあ〜だこ〜だ。高校生のレースではお馴染みの膳所高校コーチさんが設置するおこのみやき屋台を冷やかしに行き、コーチさんとあ〜だこ〜だ。選手たちと西村写真館の話題であ〜だこ〜だ。膳所高校出身選手が出来立てのお好み焼きを差し入れてくれたので、僕の分を女子マネさんたちにあげました。これで僕の株をあげておきます。
11時になり、南から風が入ってきだし、沖の琵琶湖選手権参加艇が走りだしました。そろそろ出艇フラッグが上がると予想し、選手は最終点検を始めだし、僕はコーチボートに乗りました。でもまだフラッグは上がらず、ボート上でまた女子マネさんとあ〜だこ〜だ。女子マネOGさんが2人やってきて、「ますます綺麗になったなあ」などとイタリアーノ発言しながら、あ〜だこ〜だを続けて、11:30に出艇フラッグが上がりました。
母校KGも遠征して来ており、関東から慶応も来ています。社会人も参加しており、両クラスとも50〜60艇の参加艇で賑やかです。先週お世話になった大阪大も当方の艇庫に泊まって参加しています。春のディンギーレース開幕にふさわしいビッグフリートです。
湖面に出て、レース海面に向かう艇団の背景に雪を頂いた比良山系が見えます。春霞で霞んでいますが、美しい。琵琶湖遊覧船・ビアンカが大津港から北に向かって行きます。5月に、この船を借りきってヨット部創立80周年パーティーがあります。次男は70代主将だったので、あれから10年経つのですね。OB・OG・他大学ヨット部関係者・大学幹部の大勢の参列者の前で挨拶していた姿が思い出されます。ビアンカのお客さんは、これだけの小型ヨットが走ってる姿を見て、喜んでいるだろうな。
レース海面に到着し、スナイプチームのコーチボートなので、レース直前練習で気になったとこをアドバイスします。大阪大の艇にも気づいたことを話しました。風速の割にジブラフテンションが低く、登り角度が悪いです。強豪艇は、レース初日・その日の最初のレースからチューニングをきっちり合わせてボートスピードアドバンテージがあるので、成績を出してきます。
三井寺からの風・4m/sほどでR1がスタートします。全艇がスタートラインに並び、一斉にスタートしていく姿はとても綺麗です。惚れるよね。470チームは上位艇に食い込んでいる艇もあり、いい経験になっています。前日トップは母校の後輩で、慶応・同志社・KGという全日本優勝候補常連校に続く成績で当方もよく検討しています。この日はどうかな?スナイプチームも積極的なスタートで出て行きます。ドライブしてるマネさんに指示し、スナイプトップ艇の延長線までボートを前に出し、このボートに乗ってる選手2人に、途中経過でトップを争っている上位艇のタッキングポイントや心理を話します。マネさんたちも興味深く聞いています。
R1がフィニッシュし、470チームのコーチボートではないけど、470チームがフィニッシュ後ボートに寄ってきて、レース展開や僕の感じた風の振れと摺合せします。続いてスナイプチームがフィニッシュしたので、各艇に気づいたことを話します。
琵琶湖汽船の高速クルージング船が行きます。ヨットの走る姿を楽しんでもらおうと、ゆっくり走っています。ヨットレースを見て頂く機会が増えると、もう少しヨットをする人も増えるのだろうにな・・・
R2・スタート。母校KGは校章の三日月が、メインセイルに入っています。立命館には+Rが、同志社には同志社マーク、僕が一番好きなのは慶応艇のペンマークです。やっぱり学生はペンでしょう。慶応のライジャケデザインが変更されていました。校章のペンが交差するマークなどは同じですが、黒のライジャケに黄色のペンマークが映えます。阪神タイガースのトレードカラーでもある「黒と黄色」、この組み合わせは素晴らしい。
R2がフィニッシュし、14:30を回っており、14時以降スタートしないという大会規定により、レースは終了です。ハーバーバックは、10m/sのブローが時折入るナイスなコンディションになりました。この風でもう1レースしたいものです。学生時代の僕は、強風にめっぽう強かったので、身震いし笑顔になってしまいます。
レース中も何度かコーチボートのドライブを交代し、マネさんに「この位置に付けてね」とコーチボートの位置を支持しましたが、この船に「西村写真館」と呼ばれて一眼レフを駆使する男子マネージャーが乗っているので、ベストアングルを求めて、「もっと接近して」「タックして来たら、90度右にステアリング切ってね」と支持します。ハードボートなので、レース艇にぶつけたら大変ですが、接近ドライブするとドライバーの腕が上がります。逆光のナイスな写真が撮れたでしょう。
ハーバー手前まで来て、15時。もう家内との約束「永観堂前に15:30」は無理と判断し、家内に電話をかけます。「まだ湖上。15:30に行けそうにないから、1人で参ってて。16:30には行けると思うから、ライトアップに行く?」「もう疲れちゃって待てないわ。お参りしたら帰ってもいい?」「うん、じゃあそうしよう、ごめんね」「ううん、いいよ」。ということで、フリーになりました。
ハーバーバックし、15:40にミーティングをして、各艇に伝えた気づいたことを全員と共有します。ここで僕は帰路につきます。連休中の京都市内はパスしたいので、往路同様のコースで帰ります。湖西道路の制限速度は以前は60km/hだったのに、70km/hに上がっています。ひょっとして原付二種の通行は禁止になったのかな?と皇子山でじっくり見たら、「原付き・小型特殊・軽車両ダメ」の表示だったので、引き続き原付二種は走れそうです。
連休なので、西大津道路のR1合流部で渋滞していました。でも二輪の機動力でクリア。交通量が多いものの、順調に自宅を目指します。ただ風が強くなり、宇治川沿いの六地蔵・観月橋辺の高架が怖いです。R171に入り高槻付近から雨になりました。箕面辺りは本格的な雨です。ダイワフィッシングスーツは防水なので、かっぱを着ずに、そのままです。18時を回り、暗くなっているので、視界が悪くより慎重に走ります。豊中を過ぎ伊丹に入ると、道路は濡れているものの雨は上がりました。濡れ具合もマシで、雨量も少なかったようです。
18:30に帰宅しました。自宅が暗いので、駅まで迎えに行こうと家内に電話を掛けました。「帰宅したよ、今何処?」「バスの中」。荷物の片付けをすることにしました。洗濯物を取り込み、その代わりに濡れたものは外に干します。カメラなどを片付けていると、家内が帰宅しました。以前もらった京都のバス地図や観光ガイドブックを渡していましたが、阪急電車で京都四条河原町に行ったので、JR京都駅前のいつものバスターミナルがあるはずもなく、永観堂にたどり着くまでに疲れきってしまったそうです。元気なく、情けなさそうに喋ってるのを気遣った顔をしながら聞き、心の中で笑っていました。いつもながら、方向音痴の武勇伝は、実に面白い。
ちょちょいと作ってくれた夕食を食べながら、「モヤモヤさま〜ず」を見て、風呂に入って、自室に上がり大河ドラマを見ながら寝てしまいました。僕はいつも自室でTVを見る時は30分ぐらいオートオフのタイマーを掛けます。このタイマーが切れるまでに寝てしまうのが常です。

2015/3/15
日曜日は、今年の大学ヨット部のコーチング初日でした。お手伝いしてるヨット部が、木曜日から僕のホームポートに遠征し、合同合宿練習しています。土日は、甲南大学主催レースに参加です。遠征選手は約半分で、琵琶湖に残って練習してる下級生中心メンバーが最終日だけ海にやってきてレース観戦します。彼らを船に乗せ、目の前で展開されるレースのポイントを解説するのが僕の仕事です。
土曜日は、「6時に出るわ」と家内に言い床につきました。これが良くって、「もうすぐ6時よ」の家内の声で起こされました。いつももっと早く目覚めるのに・・・家内に出発時間を言ってて助かりました。慌てて着替えて車で出発します。荷物も夜のうちに用意しといて良かった。R171を西宮に向かい、6:21・ローソン西宮久保店で、手巻き焼きタラコマヨネーズ125円購入。6:30ハーバー着。荷物をおろして、ガラガラに乗せて引張り、合宿してるディンギーヤードに向かいます。
この冬、係留桟橋の老朽化リニューアル工事で、一時桟橋を移動していました。リニューアル工事が終わり、3月から元の桟橋に帰ることが出来ます。その移動もあり、スタートは9:30なのですが、7時前に係留桟橋で作業開始することにしていました。学生に応援を頼んでいたので、彼らと一緒に桟橋に向かうつもりで合宿所前に来たのですが、息子と同期の今シーズンから監督になったI君に聞くと、「もう行きましたよ」とのこと。
またまた慌てて、応援要員のキャプテンに電話をかけます。すでに桟橋前にいるそうです。ディンギーヤードはハーバーの東の端で、臨時係留桟橋は西の端、距離にして800m、は〜遠い。「悪い、走って行くからちょっと待ってて」、息を切らせながら小走りに急ぎました。
無事部員と合流し、カードでゲートを開けて、作業開始です。エンジンは一発点火しませんでしたが、電源ケーブル繋ぎっぱなしなのでバッテリー上がりの心配がなく安心です。電源カーブルを外して船に積み、桟橋設置の船に乗るための脚立を外して載せます。その他、全ての係留ロープを船に載せ、桟橋を離れます。ゲストがヨット部員だと指示が楽で楽ちんです。
約600mハーバー内海上を走り、3ヶ月ぶりに元桟橋バースに船を戻しました。元の場所に戻している船が少なく、新装成った桟橋の景色も馴染みがないので、「ここかな?」ってとこに船を入れました。2日前にハーバーに電話し、お姉さんに沖から5つ目の櫛ですと教えてもらっていました。お隣さんの船も変更されており、聞かなかったら慌てていたと思います。ちょうどそこに朝の見回りなのか、ハーバー職員がやってきたので、「うちの船、ここで良かったですか?」と尋ねました。運良く船名の書かれた係留場所地図を持っておられ、確認してもらいました。
学生達に脚立固定などをやってもらい、楽ちん移動完了。すぐに再び桟橋を離れ、ディンギーヤードの係留桟橋に移動です。また200mほど海上を走り、リニューアル前のくたびれた桟橋に横付けします。海上進行中に、ライフジャケットをドッグハウス内ソファーに出してもらいました。ゲストは10人ほどになるようです。前には母校のインフレータブルボートが2艇置いてあります。「KGもレースに参加するの?」と聞くと、そのようです。
作業終了8時。ここで学生たちはクラブに戻ります。僕はコクピットからドッグハウスに下り、カーテンを開けたり、トイレ掃除したりゴソゴソ。ゲストを迎える準備を終え、ディンギーヤードに戻ります。桟橋では、レース参加大学部員たちが、レースマークを載せたりテキパキ動いています。僕も「おはよう」と声を掛けますが、部員たちも「おはようございます」と挨拶してくれます。大昔は僕もそんな部員だったけど、こういう気持ちの良い挨拶のできる若者の姿は、見ていてとても気持ちが良い。体育会系の良い所です。就職した時、先輩に「気持ち良い挨拶が出来るね」と最初に褒められました。挨拶さえ出来ない新人が多いと聞き、驚いた事を思い出します。高校ヨット部に入部した時、挨拶することを先ず仕込まれました。自校の先輩かどうかわからずスルーした時、「他校の先輩も先輩や、艇庫前を通る人には全員挨拶しとけ」と指導されました。以来、バンバン挨拶してたら、とても気持ち良くなりました。今でもこれが続いており、自宅前を通る人にも挨拶を続けています。これだけで、ご近所さんとのコミュニケーションのきっかけになり、居心地よく暮らすことができています。
合宿を受け入れてくれたのが、毎年定期戦で戦っている学校の艇庫です。そのお隣が母校艇庫なので、久しぶりに後輩たちの行動を見ることが出来ました。僕がコーチをしていた時代とメンバーが変わっていますが、行動パターンがそのままで懐かしく思いました。レース艇が出ていき、監督がやってきたので、コーチしている大学の監督の紹介を兼ねてしばらく歓談です。母校監督のお父さんも同じヨット部で、僕が学生時代コーチをしてくれていました。そして監督の弟が選手の時、僕がコーチをしていました。長い長い縁です。
スポーツセレクション入学した新1回生が、すでに練習に参加しているそうです。コーチしてる大学はスポーツセレクションはないですが、高校ヨット部経験者が2名合格したそうで、来月は彼らの獲得に走らなければ・・・と。それぞれの学校の事情があります。
9時にハーバーに琵琶湖居残り組が来るので、監督と2人でディンギーヤード裏の駐車場に出ます。電話を掛けると、既にセンターハウス前に着いているそうで、合流してみんなで船に乗り込みます。ハーバー防波堤外にでると、NE・3m/sほどの風が吹いているので、ジブセイルも展開しました。ちょっとだけ燃料節約です。
スタート直前の9:30にスタートエリアに到着しました。ここでジブセイルをファーリングしてエンジンのみに戻りました。甲南大主催レースですが、本部船は母校レスキューボートがしていました。今年から、学生全日本選手権がトラペゾイドコースになるようで、そのマーク設置になっています。ボトム(風下)マークが2つ並ぶゲート方式になったので、その練習も必要ですね。
3度ゼネラルリコールを繰り返し、4度目のスタートで470級スタート。3艇ともまずまずのスタートで、注目してる新2回生T君4010が本部船寄りからスタートし、タックして右に行くのを見ていました。周りの艇よりスピードにアドバンテージがあり、右の集団のトップグループにいます。アップウインド(風上)マークの回航順位が楽しみです。
スナイプ級のスタートでは、新3回生O君が失敗スタートです。彼はセーリング技術は高いので、もう少し積極的にスタートした方がいいです。せっかくのタレントを発揮できていません。
470級・上マークを、母校KGに続いて、2位・3位でスピンが上がりました。4位・5位もKG。まだまだ春先の時期ですが、全日本優勝に毎年絡むKGにこれだけ絡めればグッドです。30艇ほどのレースが経験でき、この遠征は大成功です。注目の4010君は、高校時代近畿では敵なしだったので、母校コーチからも注目されています。2位で回航しましたが、スピンを破ってしまい艇速が落ち、ズルズルと順位を後退させてしまいました。一旦ランニングまでコースを落としたら、スプレッダーに引っかかったのを外せたと思います。
2レース目の470級がスタートしてから風が落ち始め、ノーレースになりました。天気予報通り南からの風になるのでしょうが、遥か沖のクルーザーは南の風を受けていますが、ここまで風がやって来ません。AP旗(延期)が上がり、長い風待ちが始まりました。この間に、破れたスピンのリペアが終了しましたが、レーススタート最終12:30になっても風は入ってこず、レースは終了しました。
レース艇を曳航し、ハーバーバックします。その後曳航第2陣にレース海面に戻りましたが、南からの風が入っており必要なしです。元の桟橋に戻り、船にブラッシングしました。学生が7人乗ったので、人手があり楽ちんでやっつけられました。そして、ディンギーヤードに戻ります。貸して頂いた艇の片付けを終え、監督と僕のブリーフィングを終えて、家路に着きました。
R171を戻り、15:02・自宅近所の御用達伊丹産業エッソで給油しました。70L満タンの車なので45Lも入りました。バイクなら、10L越えたらたくさん入れた感満点ですが、車は大食いですね。
曇空が続いています。海上で六甲山から流れてきた雲からパラリと雨粒が落ちてきた時はあったけど、まだ天気は持ちそうです。バイクでひとっ走りしようと倉庫に行き、車載カメラの設定や外部マイクの位置替えなど、ゴソゴソやっていたら小雨が落ちてきました。16時を回っているので、走っても1時間だから、バイクを諦め帰宅しました。遅い昼食に餅を焼いて食べ、お風呂に入ったた雨音が聞こえるようになりました。のんびり湯船に浸かりながら読書をしていると、家内が帰ってきました。「モヤモヤさま〜ず」を見て、家内が作ってくれたおかずを食べたあとに、またお風呂に入り、自室に上がりNHK大河ドラマを見始めたら、途中で寝てしまいました。

2015/3/8
日曜日は家内が午後から用事があり、3週連続のフリー日です。2週連続で雨の日日曜日でしたが、どうやらこの日は晴れそうです。そこで、備前の浦上氏・天神山城址、宇喜多氏・砥石城址の山城攻めを中心に、歴史遺産巡りをすることにしました。
ところが、前日の土曜日の雨が本格的に、しかも長時間降り、山歩きには最悪のコンディションになりました。そこで残念ながら断念し、グループツーリングに参加することにしました。宇治〜天ヶ瀬ダム〜瀬田洗堰〜信楽というコースです。宇治の平等院は外観だけでも観れるかな・・・瀬田洗堰は久しぶりだな・・・なんて期待して床につきました。
4時ぐらいに目が覚め、天気予報をチェックすると、朝は曇りですが日中は晴れマークが並んでいます。気持の良いツーリングになりそうです。ゴソゴソして6時半を回ると、ご近所のハーレーさんが出発するようです。いつも気づくバイクの音が聞こえ、すぐに民家のないとこに移動して暖気です。もう1台のバイクの音も響き、2台で出かけられました。僕のバイクは日本製でノーマルマフラーなので、気を使いませんが、ハーレーはノーマルでも大きな音がするので、住宅地では気を使いますね。
枚方のコンビニを10時出発なので、8時に行動開始です。高速道路を使う必要がないので「里山VTR250」を出します。上下コミネ冬装束+コミネひさし付きヘルメットです。ひさし付きだと目が影になり、サングラスが必要ありません。朝日・夕日に向かう時でも、少しかしげると日陰に入りいいのでお気に入りです。
R171〜中央縦貫道で、中国道〜近畿道の側道を走ります。r143〜r14〜r19で淀川を渡ります。そしてR1。9:13、「宇佐美1号外環枚方中振店」で給油。133km/4.21L=31.6km/L。出光のセルフ店ですが、お姉さんに招かれたとこにバイクを止めると「宇佐美ハッピーカード」というポイントカードを勧められました。「出光カード」を使うだけでポイントが貯まるということで、ポイントカードを出す2度手間がないということなので勧誘されちゃいました。
ナビに誘導されるままR307に乗り、「第2京阪道路」をくぐったとこが、集合場所の「デイリーヤマザキ枚方杉店」でした。9:35に到着し、先着3台のとこにバイクを停め、ヤマザキさんで「伊藤園麦茶・151円」を購入し、おトイレ拝借しました。これで準備万端整いました。
Jさんの250ヤマハモタードは、スマートで何処にでも入っていけそう。KJさんのCB1000はでかいので、僕にはとても乗れそうにない。KJさんは僕とそれほど体格が違わないのに凄いな。お初の「福助」さんは、とてもおめでたいHNで、雰囲気も温和な感じでHNに似合っています。バイクはBMW700?650GSです。大きめスクリーンに変更されているようで、快適そう。そして、このツーリンググループリーダーのJBさんのW800が、僕とほぼ同時に到着しました。Kさんが僕と同じCB400SB・ABS赤白ツートンで到着しました。スクリーンが、僕のと同じワイバンのに変更されています。最初にお会いした時は、スズキバンディッド1250でした。次がカワサキだったかな?僕はずっとVTR250なのに、経済力があります。
出発時間10時の5分前になっても、もう1人の参加者が来られません。バッテリー上がりでドタキャンのようです。僕が前日にドタ参したから、プラスマイナスゼロです。
10時・定刻に出発。R1で京都に向かって北上し、宇治経由で天ヶ瀬の予定でしたが、混んできたそうで、R307を東進します。この道は初めて走ります。リニューアルされた宇治平等院の外観は観れなかったけど、いい感じの田舎道です。r62に乗り換え、宇治川に出て左折しr3、10:42・「天ヶ瀬ダム」到着。
駐車場はクローズだったので、道を隔てた小さな公園にバイクを停め、JBさんが駐輪場所を聞きに行ってくれました。この公園でいいそうなので、バイクを置き見学に向かいます。このダムの前は何度か通りましたが、見学するのは初めてです。ダムからは轟音とともに盛大に放水されており、その迫力に圧倒されました。ここまで盛大に放水されているダムは珍しいです。前日に雨が降ったので、保水量調節のために増やしているのかな?ダムのこと、周辺の自然のこと、鳥類・魚類・植生などのパネルが堤上に並んでおり、お勉強になりました。
「ダム」は高さ15m以上のものを言い、それ以下は「堰」と呼ぶそうです。ここは「アーチダム」ですが、重力式・コンバインド・フィル・中空重力式・バットレスと、いろんな種類のダム構造があります。僕は「ロックフィル式」が好き。1953年の台風洪水で高槻市域などが冠水したのをきっかけにこのダムが造られたそうで、10年後完成を見たそうです。
「コンクリートから人へ」が合言葉の政権がありましたが、低所得者個人への直接配布より、こういう社会基盤の整備を優先して欲しいなと思います。「低所得でかわいそう」というお涙頂戴マスコミ報道がありますが、今の日本は努力すればそこから脱出する術はいくらでもあります。「ストレス発散が必要」「労働時間オーバーが・・・」「保証された休日・・・」といくらでも逃げ道・逃げ口上が用意されていますが、お金持ちと言われる人々は、皆さん一時期猛烈に働いた期間を持っています。それが、「世の中がどんなに変化しても大丈夫」という自信になり、余裕を持ったお顔になります。それをせずに、お涙頂戴・・・行政への無心・・・、個人の努力なしに生活改善しません。個人配布された現金をパチンコに使ってしまう人がどれだけ多いことか・・・。お金持ちの逆差別意識も強くなるので、多くの方が一様に利益を感じるこういう事業には、費用対効果を吟味しながら、しっかり手当して欲しい。日本は世界有数の自然豊かな国ですが、それ故自然災害が多い。他国との公共事業費割合の比較では、少々高めがちょうどいいと思います。
家族に頼れ・・・一族親戚が援助しろ・・・それでもダメなときに税金投入が僕の基本的な考えで、そのために日頃の付き合いを大切にすることが、農耕村社会で発展してきた日本に合っているように思います。滅ぼされた豪族の末裔や、取り潰しや滅亡により滅んだ主君から独立したり帰農した昔の篤志家は、私財を投げ打って村のために橋をかけ、トンネルを掘りました。故に滅亡の危機に際して、村民がその盾になりました。時代の流れでしょうが、今は安易に働けるのにサボってる個人の人権を尊重し過ぎます。
「天ヶ瀬ダムが出来るまで」というパネルに、宇治川遊覧船や遊覧鉄道の写真が載っていました。僕が子供の頃はいくらでも各地にあった身近な娯楽施設が、今はほんとなくなっちゃいました。どちらの時代が楽しかったかな・・・。
「巨椋池」のパネルもありました。かつて、宇治川は宇治から下流・木津川との合流部に掛けて大きな湖を持っていました。巨大な琵琶湖からの出水を一手に引き受ける瀬田川・宇治川は、大量の流水の時氾濫し、大きな湖・巨椋池を作っていました。この池の流水調節機能により、淀川の流量を多少加減していました。今も地名に残る「槇島」「向島」は、巨椋池内の島の名残です。木津川氾濫の時も巨椋池に逆流して、池とは名ばかりの実質湖がありました。太閤さんが伏見に城を築くのをきっかけに堤防事業が開始され、明治以降特に昭和の干拓により、広大な穀倉地が出現しました。男山から宇治川と木津川に挟まれた広大な平地の大部分が巨椋池でした。
最後は駆け足でパネル写真を撮るだけになっちゃったけど、こういうのが大好きです。僕1人なら3倍は長く滞在していたでしょう。r3を瀬田に向かって進みます。JBさんの話では、かつてローリング族が我が物顔に走り出没し、二輪走行禁止になった期間があったそうです。カーブには横縞舗装が入り、気持よくカーブが走れませんが、僕のスピードでは無関係です。
宇治川がいつの間にか瀬田川に名前を変え、「瀬田南郷洗堰」は寄り道なしで通過しました。ここまでの宇治川・瀬田川沿いは、切り立った大渓谷になっており、琵琶湖からの大量の水量が、長い年月をかけて山を削っていったとてつもないパワーを感じます。
洗堰を左岸に渡り、r29〜R422〜R307〜R422〜r50で、「森のカフェ」さんに到着。名前だけ知ってた有名店です。でも15時過ぎまで待つことになるそうで、引き返しました。世の中グルメさんが多いですね。身体に自信がない僕は、粗食こそ健康の源だと思ってるので、美味にはあまり興味が無いです。何処のお店でも、美味しいし。
r50〜R422〜R307で、12:42・「木になる木」というパスタ・カレー・オムライスのお店に行きました。僕は「当店おすすめスペシャルパスタ・1600円」を注文しましたが、全体的に高めのお値段で、皆さんにはお値段故の不評でした。僕はスープパスタが好きなので、具沢山であり美味しくいただきました。長テーブルに6人全員座れてあ〜だこ〜だ、お喋り。個人精算になり、僕が最後でした。「代表でポイントカードをお持ち帰りください」と言われ、頂きました。僕はあまりこちら方面に来ることがないので、皆さんに図りましたが、誰も要らないそうで、僕が持って帰ることになりました。1000円お食事ごとにスタンプ1個で、20個貯まれば1000円のお食事券として使えます。カードに書かれた住所は、信楽町下朝宮です。信楽は、藤原氏が朝廷の実権を握ったクーデター・
645年「大化の改新」の100年後、710年から始まった奈良時代の一時期、聖武天皇が一時遷都した地です。この地に大仏建立を企て、僧・行基も現地視察しています。しかし、同じ年に奈良に都を戻し、奈良東大寺盧遮那仏(大仏)建立の発願をして、行基の手に委ねます。難波遷都・木津遷都を含め、4〜5年の間に遷都を繰り返し、元の奈良に戻るという不可解な時期です。「下朝宮」という地名に、なんか奈良時代の香りがするんだけどなあ・・・。
ここでのお話で、「天下一品のお店がある」と出ました。バイク知り合いさんがよく行っていらっしゃる古民家の店舗のようです。「こんなところにあるのか・・・」と興味を引いたので、帰宅後調べてみました。「天下一品・上朝宮店」で、ここから凄く近かった。国道沿いに看板が出ていましたが、実店舗は国道から枝道を入るようです。一度訪問してみたいと思っていたので、土地勘が出来ました。成果です。
ここから帰路につきます。R307を西進し、朝集合したヤマザキのお店のお隣にある「コメダ珈琲」に15:24到着。僕は、ホットコヒー420円&ふわっとシフォンケーキ330円を注文しました。ここでもあ〜だこ〜だ。ありがたいHNの福助さんは、琵琶湖大橋より北の湖西線沿いに住んでおられるそうです。いつも湖西を走ると、琵琶湖大橋を過ぎると風が強くなります。「比良下ろし」という強風の吹く地だそうです。
ここで解散になりました。R307〜R1・・・と往路同様の道順で、16:30頃倉庫に着きました。まだ日没までに時間があるので、12月中旬から動かしていない家内用アドレスV125を充電のために30分ぐらい乗ろうと、倉庫から出しました。エンジンが掛かるのだろうか?バッテリー上がりなら、そのまま押してこれを買った幼なじみの自転車屋まで押していかねば・・・セル一発でした。スズキさんはいい仕事をしています。バッテリーも、一番信頼できるユアサなので、こちらもナイスです。
定番の長尾山トンネル〜r325〜r33と北上していたら、あの道を探索したくなりました。西谷農協大池交差点からr68へのショートカット道沿いに、「西谷憩の家」という老人ホームがあります。そこから枝道が別れ、「宝塚自然の家」方面ではなく、r68の千刈水源池手前に抜けれるように地図にあります。それを確かめに行きます。アップダウンで里山を縫い、難なく抜けることが出来ました。
まだ探索できそうだったので、千刈水源池すぐ東の山・「布見ヶ岳」への登山口探しをしました。r68をちょっとだけ走り水源地西から西谷農協へ向かう一方通行ショートカット道に入ります。以前から目をつけてた場所にバイクを停め、17:28山歩き開始。フェンスがありますが、その向こうは水源地に船を下ろす場所になっています。神戸市の水源地なので、維持管理に必要なインフラです。
水源地を囲うようにフェンスが伸びていますが、フェンス沿いに獣道があります。そこを入りフェンス沿いに歩いて行き、フェンスが無くなっても湖岸を歩きます。この道から山に上る登山道が分岐していると予想したのですが、ありませんでした。大木の倒木を乗り越えたり頑張ったのですが、ぬかるみになり断念しました。帰宅して調べた所、その横のもっと頼りない怪しい道の方が正解だったようです。
ショートカット道を上り、17:44、小さな峠でバイクを停め、山に入ります。前日の雨でぬかるんでいるので、落ち葉の上などを踏んで歩きます。不法投棄もちらほらで、最後は民家に突き当たりました。倉庫かな?得体の知れない施設です。
ここから、西谷農協〜ショートカット道〜r33〜r325〜長尾山トンネルの定番ルートで、18:30頃帰宅しました。「モヤモヤさま〜ず」は、草加市歩きでした。次男のお嫁さんの里は埼玉県川口市で、草加市のお隣です。しっかり見ました。夕食を食べ、お風呂に入り、寝床に入り大河ドラマを見ている途中で寝落ちしました。朝かな?と目覚めたら1:30でした。これでも5時間寝ているので、睡眠時間としては十分です。あれこれした後、二度寝したら6時を回って目が覚めました。

2015/3/1
日曜日は、家内がお出かけだったので、ツーリングできるかな?と思っていました。ところが天気予報は無常にも、先週に続き傘マークです。でも、午後から夕方まで1ミリ程度の雨量予想だったので、スクーターで神戸の平清盛・源平合戦の古戦場めぐりなら出来そうと、計画しました。
訪問地をリストアップし就寝しましたが、朝目が覚めると雨音が聞こえます。予報と違うので再度天気予報を見ると、1日中雨で日没後に雨が上がる予報に変わっていました。しかもお昼頃の予想雨量は5ミリに増えており、神戸歴史探索を断念しました。
「あ〜、1日中家篭りになるかなあ〜」と気を落としていると、階下から、「お父さん、午前中お暇ですか?」の声が掛かりました。午後からお出かけなので、家内を駅まで送ることしか予定がありません。慌てて階下に降りると、「アサヒビール美術館に行かない?高槻にあると思うけど」とのお誘いでした。「確か大山崎の天王山の麓にあったはずだけど・・・。お昼に電車に乗れば13時に大阪に行けるよね」。すぐに自室に駆け上がり、PCを立ち上げて場所を詳しく調べます。天王山トレッキングを計画した時、そのルートに入っていたので大体把握しているのですが、オープン時間などを調べます。正式名は「アサヒビール大山崎山荘美術館」で、「朝ドラ・まっさん」で脚光を浴びてる「サントリー大山崎工場」の西・「JR山崎駅」から近いです。
現在7時前で、オープンは10時です。急いで階下に下り、朝ごはんを食べて着替えました。家内の用意が終わるのを待って、8時に車で家を出ました。豊中ICから中国道に入り、名神に乗り換え大山崎IC下車し、R171〜r67・旧山陽道で「阪急大山崎駅」横を通り、9時にJR山崎駅に到着。駅前の「アサヒビール美術館」の案内板を見ると、「駐車場なし」と書かれていたので、JR踏切横にあった民間駐車場に車を入れます。
美術館へは、踏切を渡って正面の急坂を上がっていくようですが、オープンまで1時間もあるので、駅の方に戻り、駅前で気になった「大山崎歴史資料館」に向かいます。9:07、歴史資料館到着・・・と思ったら、ここは国宝(茶室・待室・桃山時代)と重文(書院・室町時代)のある「妙喜庵」という建物でした。資料館は阪急大山崎駅前の方だそうです。家内はお茶の免許皆伝者でもあるので、国宝の茶室を見ようと妙喜庵に入ろうとしたら、1ヶ月以上前に往復はがきで見学申し込みしなければならないようです。資料館に行けばレプリカがあるとも書いてありました。観光案内板には、3度訪問した旧西国街道沿いの「離宮八幡」へ徒歩1分・資料館へ徒歩5分・天王山トレッキングで寄り道予定した「宝積寺」徒歩15分・同じく「観音寺(山崎聖天)」徒歩20分となっていました。1日時間を掛けて廻らなきゃ。
駅横に、「大山山荘行き無料送迎バスのりば」がありました。アサヒビールが運行しているのでしょう。お年寄り優先・阪急大山崎駅始発故満員の時もあると書かれていましたが、急坂だったし、バスに乗せてもらうことにしました。雨が降ってるし、風も強いので、駅待合に避難します。駅の観光パンフレットを収集していると、トレッキングスタイルのグループが集合場所に使っていました。改札から出てくる人がグループに加わり、「また雨ですね」とかおしゃべりしています。カッパを着込んで天王山トレッキングをするようです。
「お腹が空いたから、コンビニで何か買ってくるわ」と家内が出て行きました。店内に食べる所があったと誘いに来たので、僕もデイリーヤマザキさんに移動しました。ずっと暖かで、バスの到着時間9:50まで休憩します。競馬無料送迎バスが運行されているようで、入れ替わりバスが出ていきます。駅前に、「ホテル・デュー大山崎」というこじんまりしたホテルが有りました。
9:45、マイクロバスが来たのでコンビニを出ます。マイクロバスに駆け寄ると、ドアが開きました。先客は5名ほどで、「しばらくお待ちください」と年配の落ち着いた雰囲気の運転手さんからの放送で定刻まで待ちます。再びドアが開き、2名の方が乗って来られました。
定刻になり出発し、車を停めた民間駐車場横のJR踏切を渡ります。「揺れますのでお気をつけ下さい」と運転手さんから放送があり、ゆっくりした丁寧な運転で急坂を登っていきます。徒歩の方を数組追い抜いて山荘前バス停に到着しました。「秀吉の道」と書かれた急坂途中にバス停があり、坂はまだ山を登っています。ここを登っていけば天王山山頂まで行けるのかな?なんて思いつつ、山荘美術館は横道に入ります。9:57、すぐに雰囲気の良い小トンネルがあり、上に「大山崎山荘」と書かれています。徒歩の方も含め、15名ほどがトンネル下の門扉に並びます。
10時になり、守衛さんが門扉の鍵を開けてくれました。傾斜地の敷地で、左手眼下に淀川が流れています。民家風の家があり、アサヒビールの保養所かな?と思いましたが、「加賀」さんという表札が上がっており、個人宅のようです。山荘管理をされている方かな?アサヒビール創業者の子孫の方かな?なんて歩いていると、「アサヒビール大山崎山荘美術館」と書かれた低い塀に連なる中門がありました。そこを通ると、右手に小さな茶室があり、左手にお隣の敷地にある多重塔が見えます。「宝積寺」かな?
山荘美術館は、大正期の和洋折衷の素敵な建物でした。3階建の建築で、暖炉用なのかレンガ造りの煙突も立っています。家内が喜んじゃって、「たーくん(次男・建築科)が喜ぶわ」ってごきげんです。激写・あっちウロウロにより、皆さんに遅れて玄関に着いた僕らは、入館料(1人900円)を払って入ります。ここからは撮影禁止なので、カメラをバッグに仕舞います。この建物の歴史などが書かれたパネルは写真OKかな?と思って、受付のお姉さんに聞きましたが、それもNGだそうで、申し訳無さそうにしておられました。
常設コレクションや期間限定展示物も見て回りましたが、僕らの目を豊かにしてくれたのは建物そのものです。アサヒビールが丁寧に維持管理しており、新築当時の状態で、そこにいるだけで心が豊かになります。1F・2Fを見て回り、バルコニーに出てお庭を拝見したり、暖炉・素敵な柱時計・大きなオルゴール・・・。
いかにも安藤忠雄デザインと言うお得意のコンクリート打ちっぱなし廊下が建物の外から地下に伸び、地下展示はモネでした。モネってどこの人だったっけ?レンブラントやフェルメールのような重厚な暗さはないから、オランダじゃなさそう・・・スペインの画家のような陽光の明るさもないので・・・フランスの画家でした。子供の頃、母親に情操教育として博物館や美術館によく連れて行ってもらっていたので、なんとなく雰囲気でわかります。ありがたいことです。3Fは関係者以外立入禁止のロープが掛かっていましたが、大満足でした。
2Fに意外にも喫茶室がありました。この天気なので外のバルコニーで座る方はいませんでしたが、バルコニーからの景色がとても良いです。淀川とその対岸の男山が一望です。バルコニーから外を写すのはOKだろうと、激写。喫茶室のお姉さんは、喫茶しなくてもバルコニーへはどうぞと誘導してくれたのですが、そこはそれ大人なので喫茶室に腰掛けます。
メニューは、アサヒビールスーパードライやワインなどアルコール数品、コーヒー・紅茶・ジュースなど数品、それにケーキです。家内は、アサヒビール特製ワインケーキを、僕は期間限定「リーガロイヤルホテル京都」特製オリジナルケーキセットを注文しました。僕のはマカロンの載ったカラフルケーキで、甘めのお味でした。家内といつものように半分こずつしましたが、家内のはワインが入ってるので、運転のある僕は一口だけにしました。美味しゅうございました。ケーキを食べている間に満席になってしまい、待ちが並ぶことはありませんが、テーブルが1つ2つ開くと、1組入ってくる状態で、フル稼働に近い状態が続くようです。
冬だし雨なので、ガラガラを予想して来ましたが、これほど人気とは知りませんでした。この建物の歴史が書いたパネルがありました。関西の実業家・加賀さんの別荘として大正から昭和期にかけて建築されたようです。ニッカウイスキー創業に出資しました。朝ドラ「マッサン」にタイムリーです。ドラマで出資する野々村さんは、この人がモデルなのかな?なんて家内と盛り上がりましたが、帰宅して調べると別の方でした。晩年、ニッカの株をアサヒビールに託した縁もあり、この別荘はアサヒビール所有になったようです(実際は加賀さんご夫婦が死去後、転売された後アサヒビール所有に)。外門から内門までにあった民家は、その加賀さんの末裔さんの家だったのですね。道理で敷地内にあったわけです。
家内から声の掛かる時は、映画でもドライブでもたいていナイスです。とってもいい気持ちになり、山荘を後にしました。帰りのバス11:20にちょうどいい11:16にバス停に着きました。バスが下から登ってきてお客さんを下ろしていました。お昼休憩1時間半ほどは運行がありませんが、20分間隔で巡っているようです。専属運転者さん2名で回しているのかな?アサヒビール定年退職後の職場なのかもしれません。
JR山崎駅バス停僕だけ下り、家内は阪急大山崎駅まで乗り、大阪に向かいます。車に戻ると、助手席に重いからとバッグから下ろした化粧道具一式がありました。慌てて家内に電話するとまだプラットホームだそうで、車を走らせr67改札口で化粧バッグを渡しました。
R171〜名神高速・大山崎IC〜中国道・豊中ICで帰宅しました。家内の用意してくれていたうどんをお昼ごはんに食べようとTVを点けると、びわ湖毎日マラソンのスタート前でした。雨で風の強いコンディションなので、1週間前の東京マラソンのような好記録は出そうになく、今年の世界選手権から来年のオリンピックに続く枠取りを争うトップ選手には気の毒です。朝に続き2度目のお風呂に入り、マラソン見ながらあれこれ・・・。
続いて、「特攻隊の成果は?」「なぜ無差別空襲されたか?」を検証する興味深い番組を見ました。評論家が、あれこれコメントする番組ではなく、日本・米英資料、本人証言を出しながら、淡々と事実を綴った番組でした。この手のNHKドキュメント番組は好きです。沖縄特攻戦で特攻機を沖縄まで誘導・支援・報告した、南方方面で活躍した経験のあるベテランパイロット本人の証言は、心に響きました。「特攻機は速度も遅い練習機で、パイロットの技量も未熟で、飛ぶのがやっとでした。あれで敵艦に命中させるのは難しい。戦果のあったのは4月当初だけで、その後の戦果はほぼゼロでした」。これを現場で見て鹿児島まで帰還する支援機パイロットの気持ちは沈んだでしょう。米軍無線傍受していた英語が堪能な通信兵の証言も惨憺たるものでした。でもそれが上官により歪められて報告されていたようです。そりゃ、一命を賭して逝った隊員の気持ちを思えば、「戦果あり」としたいけど、これでは賢明な作戦立案は出来ない。
軍事大国が集まって取り決めした民間人への無差別攻撃の禁止を最初に破ったのはドイツだったそうです。次に破ったのが、中国戦線の日本軍。イギリス軍は仕返しにドイツを無差別爆撃しましたが、アメリカ軍は軍事施設のみ爆撃の姿勢を崩さなかったそうです。予想以上に強く抵抗する日本軍の戦争遂行の意思をくじくため、大都市圏のみ無差別爆撃し焼いてしまえば日本国内世論が厭戦に傾き、反体制派と国内が二分するだろうと考え、米国本国から無差別攻撃指示命令が下ったが、それでも時の司令官は民間人を大量殺害する無差別爆撃を避け、軍事施設のみ攻撃から外れなかった。でもジェット気流が強く、地上からの対空砲火にさらされる爆撃機の安全を優先し高高度からの爆撃だったので、目標軍事施設への被害が軽微で、戦果が上がらなかった。とうとう司令官が更迭され、中国戦線で日本人地区を無差別攻撃した司令官に交代し、大都市無差別爆撃が始まった。でも日本人に厭戦気分は広がらず、中小都市にまで目標が広がり、そして原子爆弾投下に至った。ふ〜む・・・
イギリス空軍でドイツを無差別空襲したパイロットの話が印象的でした。空爆時は、地上の惨状を見ることはありません。でも何度目かの空襲で被弾墜落し、捕虜になりました。その護送中の列車内で、黒の喪服を身にまとった女性3人を見ました。旦那さんか息子さんかの葬儀の帰りを想像しました。すると、その中の1人の方がパンをその方に渡したそうです。きっとひどい格好をしていたのでしょう。その行為を見て、自分はなんて酷いことをしたんだと実感したそうです。もうずいぶんと高齢ですが、ドイツの無差別空襲追悼の会に参加されているそうです。
17時になり、再び出かける用意を始めました。17:50上映開始の映画「くちびるに歌を」デートです。うまい具合に雨が止みかけで、家内のヘルメット・カッパを入れたリアボックスを通勤リード110にセットし出発。途中でサンドイッチなどを購入し、17:30に映画館前に着くと、家内が待っていました。ソファに座って、2人でサンドイッチなどを食べ、映画館に入りました。
音楽の臨時教師として、母校である五島列島の中学に赴任してきた主人公・新垣結衣。彼女はピアニストとして活躍していましたが、恋人の死をきっかけに自分のピアノは人を幸せに出来ないのではないかと疑問を持ち、弾けなくなっちゃっていました。彼女と交代で産休に入った同級生教師から合唱部顧問を引き継ぎました。主人公の魅力から男子部員が入ってきて、あれこれありながら、心に傷を持った生徒も主人公も再生していくというハートウォーミング映画です。
障害を持つ兄を持った弟は、自分が生まれてきた意味を、両親は自分たちがこの世を去ったら1人ぼっちになってしまう兄の面倒を見て欲しいと思い、ずっと兄のそばにいる決心をしています。自分が生まれなければ死ぬことがなかったと思っている少女は、母が死んだことで父が家を出て行ってしまった現実に、表面的に明るくても深い気持ちで負い目を感じています。
僕は、夫婦喧嘩の絶えない母から、「あんたがいるから離婚できない」と小学生の頃に何度も直接言われました。その当時の僕の気持ちが蘇り、この原作者はとても深い気持ちを汲み上げた作品を書いたんだなと思いました。
最後に、ピアノへの気持ちを取り戻した主人公がフェリーに乗って島を離れて元の世界に戻っていきますが、このシーンは去年ツーリングした隠岐の島を思い出し、そこから本土に出て行き殺害されてしまった中1の子の事を思いました。この事件のニュースで、隠岐の島小学校の校長先生が、「島を離れる人には、テープで見送る習慣があり、あの子が島を離れた時は今までで一番多くのテープが船と桟橋を結んでいた」と、少年の人気者度を表現されていました。
この少年が住んだ島は西ノ島で、離れた港は僕が島に上陸し去ったあの港です。島後行きフェリー時間のちょっと早めに港に戻ってきた僕は、本土行きフェリーが出て行くのを見ていました。たくさんのテープが船から桟橋に投げられ、そのテープが船が離れていくと、次々に切れていきます。子供の頃は、何処の港でも見られた光景がそこに残っており、懐かしいなと思いビデオに撮りました。事件の被害者になった子は、とても人懐こい性格だったそうです。あのまま人情の厚い西ノ島で成長していれば・・・なんて思いました。
家内は映画の題名も知らずに観始めましたが、「凄く良かったね」と好評でした。2人でタンデムしながら帰宅しましたが、1日雨でブルーだったのに、とても素敵な1日を過ごすことが出来ました。

逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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