ウェブマスター日記 2015/1-2

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
感想をいただけるとありがたいです→webmaster

2015/2/22
家内が用事なので、1人遊び出来る日でしたが、生憎の天気予報故バイクはお預けだなと思っていました。朝起きてあ〜だこ〜だしていると、電話が鳴りました。階下で家内が取り、親しげに話しています。「・・・今日やったね、がんばりや。え〜、ゆかちゃんのご両親も応援に来てくれるの〜、楽しんでね。お母さんは出るけど、お父さんは家にいてるそうよ。代わるね・・・」。「お父さん、たーくん(次男)から」の声に促され、受話器を取りました。「行ってくるわ、ゆかちゃんのお父さん・お母さんも来るねんて・・・TV中継もするから・・・」「そうなん、応援してるで」。ということで、東京マラソンをTV観戦することになりました。
8時になり、家内と近所の公園の梅林に行きます。少し前にカメラを持って庭に出て、柚子やボタンの花を激写しました。母親の好きだった水仙の花は全て散っていて残念でした。ぶらぶら歩いて公園に入ります。『市民の皆様へ 当公園の梅林で「ウメ輪紋病に感染したウメが確認されたことから、本病のまん延防止の為、梅林のウメを全て伐採いたします。伐採開始は3/9以降を予定していますので、ご理解とご協力をお願い致します。ウメ輪紋病の早期根絶のため、市の取り組みへのご理解をお願いします 伊丹市・農業政策課』と書かれた拝み看板が立っていました。
残念なお知らせですが、致し方無いです。この病気は、梅の葉に緑色の薄い部分やドーナツ状の輪が出来る病気だそうで、桃やスモモなどの果実樹にも感染し、果実の変形や収穫を大幅に落とすそうです。数年前、この病気が発見され、日本有数の植木産地である伊丹市北部・宝塚市の植木畑の梅は、惜しげも無く伐採されました。当然ですね、植木産地で病気の梅を出荷したら、日本中の梅が姿を消します。伊丹市北部や川西市は、桃の産地でもあるので桃に感染したら農家の死活問題です。和歌山のウメなどに感染したら、和歌山経済は大打撃です。
幸いその年は植木農家や梅林の一部が切られただけで、阪神間で有名な公園梅林の全体像には影響しませんでした。周辺住民の僕らは胸をなで下ろしました。しかし先日、近所に住む大学の先輩から、その先輩のお隣に住む自治会長さんから、「公園の梅林をすべて切る」と聞き、NHKニュースでも言ってたと聞きました。家内もご近所さんから、「毎年恒例の梅林を愛でながらの野点も中止」になったと聞いたそうです。
噂では、3年間は復活しないとのことなので、急いで最後の観梅を楽しみに行きました。梅の季節はこれからなので、咲いている梅は早咲きの品種だけですが、それでも十分楽しめました。我が家の柚子を啄みに来るヒヨドリも飛来しており、梅に定番のメジロの団体さんがちょこちょこ飛び回り、気持の良い観梅になりました。3年後に復活して入れるといいな・・・
家内を駅まで送り、ちょうど9時に帰宅しました。TVを点けると東京マラソン中継が始まっており、9:10スタートでした。今年から、東京・ボストン・ロンドン・オリンピック(4年に1回)・世界選手権(2年に1回)・ベルリン・シカゴ・ニューヨークを対象にしたポイント制で年間チャンピオンを争うように改変されたそうです。優勝者には50万ドル(6000万円)だって。ということでシリーズ初戦の東京に、ロンドンオリンピックの男女優勝ランナー筆頭に多数の有力選手がエントリーしていました。
オリンピックがプロに開放されてから、各種目で賞金スポーツイベントが花盛りです。僕の好きなアメリカンフットボールも、全米大学リーグ戦などはNFL以上の人気で、その収益金が各大学アメリカンフットボール部へ配られ、すごいことになっています。全米No1を決める最終戦に向けて、年明けから始まるシュガーボウル・コットンボウル・ローズボウルなどの準決勝であるボウルゲームを見ていると、プロ顔負けのスーパープレイの連続です。QBは矢のようなパスを投げ、ワイドレシーバーのスーパーコンプリートは圧巻です。僕が学生の頃はあまりいなかった黒人プレイヤーが多数派になり、身体能力を使ったジャンプキャッチは見ていて気持ちが良いです。
TV観戦では、当然トップ争い中継が主で、一般参加選手の顔が映される場面はほとんどありません。PCを階下のTV前に下ろし、ウェブサイトを見てみました。これがナイスで、参加選手個人の5km毎の通過時間が表示されます。次男のエントリーナンバーがわからなかったのですが、個人名で検索でき、その表示もPC上でスタンバイさせ、ポイント通過で記録が出るのを楽しみにTV観戦しました。
小学生の少年野球〜陸上部〜大学ライフル射撃部とスポーツを続けた長男も、小学生からヨット部一途の次男も、最近はランニングを楽しんでいます。長男は大手町の会社からの帰路、週の半分は駅4つ走っているそうです。全てハーフですが、お嫁さんの郷里・新潟マラソンに毎年参加しているし、年間2〜3レース出場しています。次男もグアムマラソン参加はじめ、今までに3回ほどハーフマラソンに参加しています。
次男は、シドニーオリンピックのゴールドメダリスト・高橋尚子さんのクリニックに参加したら、サプライズで東京マラソン参加資格を得ました。レースではハーフしか走ったことがないので、完走は未知の世界と言っていました。36000人参加故、お笑いの32分遅れスタートライン通過で記録が始まりましたが、5km毎のラップタイムが、34分・33分・32分と伸びていきました。昼食タイムを取ったようで、20kmまでのラップタイムは44分にダウンしましたが、25kmは再び34分台に戻りました。未知の世界の後半はさすがにダウンし、37分・39分・42分になり、トータル5時間20分18秒でフィニッシュしました。サブ4(フルマラソン4時間以内)への道のりは遠いね。
途中リタイヤを予想していましたが、フィニッシュまで走り続けた快挙にびっくりしました。その後は応援団であるお嫁さんと、お嫁さんのご両親になんだかんだ言われながら、夕食でも取ったのでしょう。お嫁さんもテニス少女で、お父さんお草野球やお嫁さんのテニスを家族レクリエーションにする子煩悩一家です。お嫁さんは姉妹なので、初めて息子ができ、お父さんも喜んでいるのでしょう。長男一家も、どこかで応援すると言ってたので、次男のは知っている姿を見れたのかな?
僕は、トップ選手がフィニッシュしTV中継終了後、天下一品に昼食を食べに行きました。倉庫に寄り、車検のために外したお手製ナックルガードを取り付けたり、カウルバックミラーをハンドルバックミラーに変更したりしました。
帰宅して、TV見ながら次男の記録をPCで追いかけ、15:02に無事フィニッシュしたので、電気屋さんにプリンターのインクを買いに行き、バイクセブンに「コミネ・シフトパット・BK204・972円」を注文しに行き帰宅しました。点検などで昼休みにバイク屋さんに走る時、柔らかい仕事靴のままの時があり、その時に靴にはめるパットです。一眠りしてバイク散歩しようと表に出たら小雨が降っていて、再び自宅に篭もりました。再び昼寝し、起きたら家内が帰宅していました。
オスマン・サンコンさんのお話を聞いてきたそうで、出身のギニアに小学校を建てる活動をしているそうです。1つ小学校と多くの犯罪者を減らすことができるそうで、犯罪抑止の教育の役割を語っておられたそうです。サンコンさんはギニア政府の外交官ですが、あの愛嬌で接せられると解決できそうもないことも解決しちゃいそう。
家内と「モヤモヤさま〜ず」見て寝ちゃいました。

2015/2/15
最高気温13℃という、春の兆しを思わせる予報だったので、セイリングしました。大学ヨット部のオフシーズンに毎年2回実行してる行事です。大学の学年末試験が終了し、次の週末からヨット部の今シーズンの練習が開始されるので、唯一の空白日曜日を利用し計画しました。
ただキャプテンを通して連絡したのが4日前だったので、都合のつかない部員が多く、最終的に3名の参加者でした。「人数が多くなかったら一緒に乗ろう」と家内も誘っていたので、むしろラッキーでした。
5時に起き、あ〜だこ〜だした後、6:30頃から用意を始めました。防寒バッチリなヨット用カッパを着こみましたが、家内が寒い時は脱いで着せないといけないので、一般用雨用カッパを3セット用意しました。風が通らないだけで寒さをかなりしのげます。
9時にJR西宮駅ピックアップなので、8時に家を出ました。R171を西宮に向かい、8:20頃駅北口ファミリーマート前に着いちゃいました。昼食用におにぎりなど買い待ちます。9時になり、前470級エース・スキッパー・M女史と、現キャプテンのH君がやってきました。この2人は、去年コンビを組んでいました。マネージャーのT女史は体調不良のためキャンセルです。
2人を乗せ、ブーンと新西宮ヨットハーバー着。カッパなどを入れたバッグをキャリアに結び、H君に引っ張ってもらいます。陸置きレース艇を見せ、センターハウスでトイレを済ませ、係留艇に歩いていきます。風は6m/sの予報と違い、ソヨソヨとしか吹いていません。
ライジャケを着こみ、イグニッションON。軽快にエンジンが始動します。桟橋電源ポストから、電源をつなぎっぱなしにしてるので、バッテリー上がりはないですが、2ヶ月ぶりの出艇なので少々不安がありました。
10時に、西出入口から芦屋側にハーバーから出て、すぐにメインセイルを上げます。風は予報通り6m/s吹いており、白波がチラホラ見えます。ジェノアを1/2にファーリングして展開し、艇速を増します。いい風が吹いているので神戸港に行こうと、六甲アイランドと白灯台防波堤の間を進みますが、風向がWSWで目的地までクローズホールドのタッキングの繰り返しです。素人の家内を乗せているので、フルセイルで艇速を増そうにも、ヒールが強くなるので怖がらせてはいけません。ステアリングは部員に交代し、ブローでヒールがます度、ワーワー言ってます。センターボードのディンギー乗りは、ヒールオーバーすると艇速が落ち、上り角度も悪くなるのでヒールフラットに努めますが、クルーザーはボートの真下に重いキールがぶら下がってるので平気です。
仕方なく、進路変更し、赤白灯台を抜けて大阪湾に出ました。レース艇のSLEDが練習しています。追いかけられる位置関係になったこともありましたが、速度も上り角度も違うので、全く勝負になりませんでした。一文字防波堤を回ることにして、ジャイブを繰り返し、一文字防波堤に沿うように、淀川河口の方に向かいます。中国船名の貨物船が数隻アンカリングしていました。小笠原でサンゴを密猟してる中国船同様に、塗装のひどい船ですが、「安全第一」なんて日本語?中国語も同じ?なんて艦橋に書いてあり、なんか可笑しかった。
晴れているのですが、黄砂でもないのに霞んでおり、六甲山さえよく見えません。気象用語で「煙霧」というようで、黄砂も煙霧の1つだそうです。この日の煙霧の原因は、PM2.5?何が空気中に舞っているのでしょう?阿倍野ハルカスも霞んで見え、海の科学館のドームも、海遊館の大観覧車もクリアに見えません。
一文字白灯台を回り、またクローズでヒールしながらハーバー前に戻ります。母校が10艇以上出して練習しています。次男の後輩の兵庫ジュニアも練習しており、チビさん達を見に行きました。海上自衛隊阪神基地に艦船の姿が見えたので、そちらに向かいました。風が4m/sほどに落ちたので、ジェノアをフルセイルに展開します。西からブローが下りてきて、3・2・1でブローに突入。一気にヒールが増し、上って逃げようとしています。僕はキールボートレースで45度ぐらいのヒールを保ったまま走ってルのでどうってことないけど、慣れないと上って風を抜いて逃げたくなるよね。家内は、ドッグハウス入口の特等席に座っているので平気うですが、怖がらせちゃうともう乗ってくれないので、ジェノアを1/2にしました。
阪神基地が近づくと、赤白灯台方面の沖の風が落ち始め、再びフルセイルに展開します。自衛艦を海から見学し、13:30になったので帰路に着きます。フリーになり艇速が落ちたので、エンジンを始動し艇速ドーピングしました。関西で一番の高級ハーバー・芦屋マリーナに寄り道し、ホームポートの桟橋に着艇しました。メイン電源をオフにし、桟橋電源ポールにコードを繋ぎ、桟橋にロープで固定し、船を後にしました。
センターハウス内のカフェで、またDランチ・カキフライ・1400円ほどを注文しました。もう5〜6回連続で、同じものばかり注文しています。前菜・カキフライ・ライス(おかわりOK)・サラダ・デザート・ドリンクのセットメニューです。船では誰もお昼を食べなかったので、学生にもランチセットを勧め、他のランチを注文していました。
あれやこれや1時間ぐらい話し、駐車場に戻ると、朝から気になっていた新艇の展示会が目に入り、学生たちを連れて会場に入りました。ハーバーマスターや顔見知りの業者さんがおり、ペコリ。ご入場記念カレンダーをもらっちゃいました。デンマーク・X-yacht社の35フィートのクルージング艇が展示されており、階段を上がって乗せてもらいました。最近流行りのツインステアリングの幅広艇です。うちのが32フィートだから3フィート・全長で1mしか変わらないけど、スターンの幅広形状が利いていて、かなり大きく感じます。「うわぁ〜何これ〜、我が家よりでかい」と学生達は、大喜びしています。「ソファーも気持ちいい。住めますよね〜」と。X社のは品質もいいし、ホンマにいいです。
去年、知り合いのX45クルージングに乗せてもらったことがあるけど、帆走性能も素晴らしく、パワー操作も充実してショートクルーでも操作できそうでした。バウスラスター付きなので、ジョイスティックの簡単操作で小型艇以上の旋回能力を発揮し、狭いハーバー桟橋周囲でも難なく360度回転しました。いいな〜いいな〜
学生をJR西宮に送り、R171で自宅近くまで帰り、「僕のヨーグルトが無くなったからスーパーで買い出しするから寄って」の家内の指示で、買い物して16:30頃帰宅しました。お風呂に入り、家内リクエストの京都旅番組見ながら寝てしまいました。
20時になり、「ちゃんとお布団で寝なさい」って家内に起こされ、朝を含め3度目のお風呂に入っていたら、電話が鳴りました。布団に入ったとこの家内が部屋から出てきて、受話器を取りました。北関東の従兄弟からのようです。前日土曜日に従兄弟のお母さん(僕の伯母さん)の3回忌があり、長男一家3名と次男新婚カップルが参列しました。彼らは関東で住んでいるので、僕から彼らに法事の代理出席を振り、親戚の顔つなぎをしています。息子たちは、子供の頃から親戚が関西在住の家内関係の法事に連れて行ってるので、法事や墓参りを苦にしません。むしろ好きな方で、息子たちは学生時代のデートで家内の実家に行ったり、墓参りしたぐらいです。家内との会話を聞いていると、どうやら息子たちが褒められているようです。お嫁さん達はどちらも北関東の親戚デビューだったので、「いいお嫁さんで・・・」とか言われているようです。楽しい日曜日でした。

2015/2/8
先週の中山トレッキングに気を良くし、新神戸〜神戸森林植物園〜神戸電鉄・谷上駅というルートを家内とトレッキングしようと、予定していました。ところが日曜日の朝の天気予報が雨です。午後から晴れとのことですが、雨の後は山道がぬかるむので、家でゴロゴロでもしようかと思っていると、「車でどこかに・・・」というリクエストが来ました。
地図を広げ、雪が心配な北部を除いて眺めて思案します。奈良・法隆寺界隈、橿原〜明日香界隈を考えましたが、両方共平地が多く、サイクリングの方が楽しそうです。和歌山に目が行き、一度も行ったことがない「根来寺」に行くことに決めました。地図で近隣を見ると、粉河寺・慈尊院・丹生官省符神社・丹生都比売神社がありました。全て未訪問地です。これだけでは時間が余るかもしれないので、和歌山城も見学コースに加えました。お城の横には、姪の通う学校もあるし・・・。
4時に目覚め、次に6時に目覚めました。ゴソゴソしてからいつものトレッキングの服装に着替え、運動靴を履いて車に乗り、ナビに登録します。日産純正ナビですが、バイクで使うパナソニック・ゴリラ・モバイルナビの方が使いやすいです。価格は数倍するのに車のナビは見劣りします。玄関を入ると、家内の用意も済んだようです。懐かしいピンクのジャンパーが可愛いと言うと、「大昔のよ〜」って笑っています。息子たちがチビの時、お気に入りのジャンパーだったな・・・。
8:21に出発しました。豊中ICから中国道に乗り、近畿道〜阪和道で、9:19岸和田SAに着きました。バイク置き場に、チョッパーカスタムハーレー?がいました。手をバンザイするような運転姿勢で、顔の前に燃料タンクがあります。10Lも入らないようなタンクなので、山道ダメ・長距離ダメ・常にGS探索と、用途に困るようなバイクですが、見入ってしまいます。
ここで朝食にしました。僕は「朝カレー」・家内は「しらす丼」です。数席向こうのテーブルでは、バイク乗りさんが10名ほどで、名刺交換をしています。「お父さんみたいに、グループに参加して初めて会う人なんだね、お父さんも名刺交換するの?」「きっとさっきのバイクの人たちだよね、あの凄いバイクに乗ってる人はどの人かな?」「バイクは5台ぐらいしかいなかったのに、人数が多すぎるので、雨だから車で参加の人もいるね」なんて、会話が弾みます。
バイクの皆さんが出て行った後、僕らも食事を終え外に出ました。バイク置き場では、さっきの団体さんの2名がコンビニ半透明カッパを着ています。風圧で、すぐに前がはだけそう。団体さんの女性のかたなどは、予想通り車のようでワイワイ記念写真を撮っています。あのチョッパー乗りさんは、予想通り黒ずくめの丸坊主さんでした。お坊さんだったりして・・・
10:01、バイクさんを見送ってから車に戻り、出発しました。泉南ICを下車し、r63で大阪和歌山県境の葛城山系をトンネルで抜け、10:13・根来寺着。駐車場前に、「身代不動尊参道」がありました。厄を身代わりに引き受けてくれるありがたい不動明王がおられるのでしょう。小雨は上がりましたが、どんより曇り空です。でも降りそうもないので、傘は持たずに、国宝の大塔に向かいます。
戦国期に鉄砲集団・根来衆・雑賀衆という傭兵集団として活躍していました。織田信長が石山本願寺を攻めるものの10年も攻めきれなかったのは、石山本願寺の難攻不落の地形とこの傭兵集団の優秀さに手を焼いたためです。秀吉の天下統一の時代に、全力を持って本拠地・根来・雑賀を攻め、全山戦火に消えました。江戸時代再建と伽藍群なのに国宝指定とは如何に?と思い、拝観料500円を払って、大師堂・大塔を見学しました。
ここは新義真言宗総本山で、真言密教開祖・空海入滅260年後に生まれた興教大師さんが、1140年に高野山から移って来られたそうです。高野山は、紀の川を隔てた山中の天上地です。こちらの方が足場がいいし、女人禁制でもないから、急速に信者を増やしたのかもしれません。大師堂は1391年、大塔は1547年建立でした。この2棟は戦火を免れたようで、故に国宝指定されたのですね。秀吉軍も、弘法大師の御影を拝するお堂に怖れを成したのでしょうか。いずれにせよ、遺って良かった。内部撮影は禁止だったのが残念でしたが、荘厳な雰囲気がありました。
無縁仏が集められたエリアがあり、五百羅漢かと思いました。開祖さんのお墓だという奥の院に向かいます。根来寺は観光客が非常に少なく、2人だけで参道を歩きます。野鳥が遊び、シジュウカラの鳴き声も聞こえ楽しい。御廟は、高野山の空海のそれに似ています。塀で囲まれた奥に、手入れされた塚が見えます。奥の院への参道脇に、高野山のそれと比べられませんが、良い雰囲気のお墓が並んでいます。惹かれた一角に入ると、歴代住職さんのお墓が並んでいました。御寺院様定番の無縫塔の形状ではなく、五輪塔の形状で並んでいました。
続いて、500円の半券で入れる庭園に向かいます。根来寺の謂れ板発見。『1300年前、役行者が行場として創立し、室町時代には山内寺院2700・領地27万石という大名並みの勢力になりました。1585年、豊臣秀吉の紀州征伐によって、大塔他2〜3の建物を残して全山焼失し、1623年から徳川家の援助により復興が始まりました』。
本坊・寺務所に庭園があるようで、半券で入りました。上履きに履き替え、立派な本坊を横切ります。「閼伽井」という井戸がありました。確か東大寺二月堂前にも閼伽井があったような・・・。ここから汲んだ清水を、仏様にお供えするそうです。
この地を開いた役行者を祀る「行者堂」がありました。修験道は、日本古来の山岳崇拝宗教観と天台宗・真言宗の山岳修行により悟りを開こうとする密教系仏教が合わさった神仏習合の宗教で、江戸時代では修験道がもっとも厳しい修行を積む密教色が強かった。でも天皇中心の中央集権で欧米諸外国に対抗しようとした明治新政府の意向で、従来の神仏習合が否定され、天皇のルーツである日本神道をメインにした。それ故、修験道各宗派は解散の憂き目に遭ってしまいました。
紀伊半島の吉野以南では、山伏装束の修験道者が電車に乗っていたり、山道で遭遇したりしますが、明治の世に否定されなければ、世界に類のない集団が日本に遺っていたのになあと残念でならない。真っ黒になった役小角の像を見ながら、そんなことを思った。毎朝夕に法要が行われているのだろう。護摩焚きの設備が部屋の中央にありました。
「聖天堂」がありました。僕の好きな聖天歓喜天です。開帳されていない仏壇に向かって、2本の大根が供えられていました。聖天はインドではガネーシャで、天地創造の神・シバの子供です。ずっとシバ夫婦に子供がなく、欲しかったけどシバの力があまりに強力故、他の神々から妨害されていた。子供がなく寂しい后が、人形の我が子を作り入浴の見張り番をさせていたら、シバがやってきた。入ろうとしたシバを人形が妨害したので、首を切り落としてしまった。シバは、首を切った人形が我が子と知り、首を繋いで再生しようとしたが首が見つからない。仕方なく像の首を切って、それを繋いでガネーシャが誕生した。大根は、ガネーシャの牙の象徴で、これを供えたり、聖天さんからこれを買ってきたりする風習があります。子宝・子孫繁栄のご利益があるそうです。
聖天歓喜天には男女が抱き合う像があり、日本では秘仏として隠されていますが、生物繁栄の最重要課題です。大根は男性のシンボルを象徴すると書かれていることもあり、聖天さんが持っていたり聖天像の前に置かれていたりする巾着は女性をシンボリックしていたり・・・、農協的には農家から買い取らないような二股大根がここぞとばかりに供えられていたり、巾着の上に交差して供えられたり・・・、そんな怪しさが僕は好きです。弁天様同様、色っぽいのやフェロモン満点のとか、その像を見るのが楽しみな仏像です。仏壇を開帳したくなりました。
庭園は、よくある枯山水の庭園で、水の張った池もありました。御簾の入った屏風がナイスでした。見学を終え外に出ると、「俳句・短歌・川柳を想い出に」と書かれた投句箱がありました。川柳をひねり、住所氏名を書いて投句しました。
車に戻り、粉河寺目指して出発します。ナビの誘導は、一旦西に戻るルートを示しますが、目的地は東なのでそれを無視し、進みます。なかなか快適な道で、アップダウンがあり、「広域農道かな?」と言葉に出すと、「さっき、なんとか農道って書いてあったよ」と家内から。これが快走路で有名な「紀ノ川広域農道」のようです。北海道のジェットコースターの道に似た所もある楽しい道でした。京奈和自動車道の側道になり、r122を経て、11:53「粉河寺」到着。
個人の敷地が民間駐車場になっており、500円を貯金箱のような箱に投入しました。1000円札しかないときは、横のご自宅のイアホンを押すのでしょうか?樹齢1000年のご神木のある門前神社横を歩き、境内に入りました。朱塗りの大きく立派な山門で、1707年製だそうです(重文)。最後く3番札所。名前を聞く程度のお寺でしたが、大変立派な寺院でした。家内は、「ここお金持ちね」と感じたそうです。夜な夜な抜けだして田畑を荒らす「左甚五郎作・野荒らしの虎」本堂内にあるそうです。
左甚五郎で思い出した「落語・ねずみ」のあらすじを家内に話しました。『旅人が客引きの子供に連れられて鼠屋という貧相な宿に宿泊した。子供の父親の主人は、向かいにある虎屋という立派な旅籠の主人だった。妻に先立たれ迎えた後妻が番頭さんと組んでこの主人を追い出し、虎屋を乗っ取ってしまい、物置小屋に住むようになった。それを聞き、自分は左甚五郎という彫刻職人と明かし、鼠を彫って店頭に置くように言う。甚五郎が去った後、その鼠がちょろちょろ動き出し、それが評判になり鼠屋は大繁盛し、虎屋から客足が遠のいた。これに腹を立てた虎屋の主人(元番頭)は、大きな虎を彫らせ鼠屋の鼠を見下ろすように店頭に飾った。それ以来、鼠は動かくなってしまった。それを知った左甚五郎は鼠屋を再訪問した。虎に睨まれて動かなくなった鼠に、「あんな変な顔の虎になぜ怯える」と言うと、「えっ、あれ虎だったの?猫だと思った」という落ちでおしまい』。
へんてこな形に剪定された樹木、そしてここにも「身代地蔵尊」がありました。2つ目の立派な山門(中門)があり、仁王像を見ると、珍しく毘沙門天像でした。更に左右とも吽形で珍しいなと思い、本堂側から見ると、こちらの2体は両方阿行でした。面白いな。
本堂は大きな建物でした。京都の西本願寺には負けますが、そう多くない伽藍です。本殿の後方を上がると「産土神社」がありました。雅楽の調べが聞こえているので、階段を登って見物しました。カメラのバッテリーが切れて、写真を写せなくなってしまったのが失敗でしたが、大きな干支の羊の絵馬が置かれ、気持の良い神社でした。
車に戻ろうと山門まで来ると、売店のお姉さんが、昼食を誘ってくれます。時計というものを持たない性分なので正確な時間がわかりません。車に戻ると12:40になっていました。そろそろ昼食しないとな・・・と思いながら、紀の川対岸の慈尊院を目指します。r7〜紀の川沿いR24を東進すると、道の駅が見えてきたので、ここで昼食にします。
12:55、「道の駅・紀の川万葉の里」着。僕はラーメン・家内は丼。「なんで万葉の里なのかなあ?」と言うので、「紀の川は、万葉集に多く詠まれたからじゃないの?」と答えて、「万葉集の編纂は、藤原定家だったっけ?」と家内に聞くと「そうかなあ・・・そうかも?」、でも藤原定家って京都の感じがするから、万葉集はもっと古いよね・・・」なんて、適当な会話をしながら、窓の外から見える紀の川の流れを見ていました。帰宅後調べると、藤原定家は平安末期の生まれで、平安末期〜鎌倉初期の人でした。編纂したのは「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」そして「小倉百人一首」だそうです。小倉百人一首って、武家台頭前の藤原氏公家全盛の頃のイメージだったけど、成立したのは平安文化が終わり武家台頭後の鎌倉時代のようです。万葉集の成立は、奈良時代で橘諸兄・あるいは大伴家持の編纂が有力だそうです。
R24を東進していると、二股に別れているところがあり、「ん?どっち」と目の前を見たら・・・「何これ?」と、止まりました。『こだわり イノシシ肉直売 唯一の捕獲猟法 生け捕り 手づかみ』って大書された看板が掛かっています。家内が、「見て〜イノシシの皮〜」毛皮が干してあります。檻が無造作に置かれ、その幾つかにはイノシシが捕らえられています。すげ〜・・・。「大野交差点」ということろを右折し、紀の川の対岸に渡ります。r13に突き当たり左折して、13:33「慈尊院」到着。
ここは、真言宗開祖・弘法大師の母親が住んでいた所です。高野山を女人禁制にしたので、母親は山上まで上がれず、ここで息子を偲んでいたという。山門を入ると、「すいません・・・」と呼び止められました。和歌山県の観光調査をしているそうです。調査員に聞かれながら、アンケートに答えます。何処から来られましたか?交通費は?今日は何処を観光されましたか?これから何処へ行かれますが?・・・ボールペンをもらいました。
門の左には、『世界遺産・慈尊院 高野山町石道祈りの道出発点』と掲げられています。右には、『女人高野 別格本山』と。寺務所には、『高野より母を訪ねて月に九度』と掲げられています。週2ペースで標高800mの高野山を往復したら、それだけで立派な修行ですね。おっぱい型の絵馬がたくさん下がっています。板絵馬に、綿を白い布でくるみ左右のおっぱいのように2つくっつけています。おっぱいの中央にピンクのポチリも。『乳癌平癒・乳癌撲滅 紀和ブレスト(乳腺)センター患者会』・・・乳がん封じのご利益があるらしい。謂れ板に、安産・授乳・育児を願う乳房の民間信仰だと書かれていました。
境内後方に階段があり、登り口に『弘法大師創建の社 高野山町石道登山口 丹生官省符神社』と石柱が建っていました。119段の階段を半分まで登ると、町石道の案内図がありました。次男の通った中高は、真言宗の学校だったので、毎年生徒有志が大阪上本町の学校を出発し、高野山まで100km歩行する行事があります。その下準備・チャレンジ認定課題として、ハイキングや富士山登山があります。富士山登頂が目標ではなく、たんなる課題とはすごい学校です。次男はヨット部を日曜日練習を言い訳に富士登山すらチャレンジしませんでしたが、同じ学校に通う甥は、富士登山・ハイキングをクリアし、高野山まで歩きました。ここを登っていったのですね、凄いや。
境内に上がりました。主祭神は、「丹生都比売大神」です。拝殿内の壁には絵馬が掛かり、拝殿の奥に舞台があり、その奥に数社の本殿が横に並んでいます。とても綺麗な檜皮葺で、もっと近くで観たいと思いました。
車に戻り、「丹生都比売神社」に向かいます。こちらは高野山との町石道にあります。「丹生」の名が示す通り、鉱物・水銀の産地を守護する社と思われます。世界遺産。紀の川左岸のr13を西進し、本来r13〜R480〜r4とコの字型に走るのを、町石道に沿うように走るショートカット・r109に突っ込みます。バイクで走りたいけど、車で走る道路幅があるか心配でしたが、ちょうどr109から車が2台出てきたので、意を決します。急勾配の1.5車線でぐんぐん登ります。ブドウやみかん・桃の畑が斜面に作られています。こんな勾配の畑での作業は命がけです。
観光道標が鮮やかな緑色で目につきやすく要所に立っています。14:14、枝分かれする道路にそれが立っていました。「丹生都比売神社3km」「高野山町石道143町石300m」となっていました。車やバイクが2台あれば、町石道トレッキングを細切れで楽しめますね。
やがて峠を越え、14:23・「丹生都比売神社」到着。駐車場からお宮の方に向かうと、「天野和み処・Cafe客殿・100m」という真新しい看板が立っていました。上に沢瀉紋が描かれ、心が動きました。赤鳥居を潜ると、朱い太鼓橋があります。あれを渡ると思っていたら、立入禁止で横の平坦な橋道を歩きます。それを過ぎると、とても素敵な神社が見えてきました。
社務所で頂いた由緒によると、『創建は、日本書紀の時代で3世紀まで遡る。丹生都比売大神は天照大神の妹で、神代の時代紀の川流域・三谷に降臨し、紀州・大和に農耕を広め、この天野の地に鎮座した。応神天皇が、社殿と紀伊山地の北西部一帯の土地を神領として寄進した。
1200年前、真言密教の根本道場の地を探す弘法大師の前に狩人に化身して現れ、高野山に導きました。大師は、丹生都比売神社の神領の高野山を借り受け、山上の大伽藍に大神の社を建て守護神として祀り高野山を開いた。中世には当社の周囲にも多数の堂塔が建てられ、明治維新まで56人の神職と僧侶で守られてきました。
鎌倉時代、北条政子の寄進により、本殿が4殿となりました。元寇の時、元軍来襲の託宣があり、祈祷したところ元軍が撤退したので鎌倉幕府の尊敬が更に篤くなり、紀伊国一宮になりました。
現本殿は室町時代に復興され、一間社春日造りでは日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されています。「紀伊山地の霊場と産廃参詣道」で世界遺産登録され、全国の丹生神社系180社の総本社です』
拝殿奥に祝詞殿があり、その向こうが本殿です。ビューティフルな檜皮葺の一間社殿が4殿並んでいます。素晴らしい。祝詞殿が邪魔で、拝殿横まで移動し写真に収めます。でも一部しか入りません。あ〜全体像を観たいな。
かなり端っこまで行ったので、その沢向こうに立っている石柱が目に入りました。あれはなんだと歩いて行くと、「石造卒塔婆群」となっていました。広く平坦されており、案内板には「御影堂跡」「多宝塔跡」となっていました。明治維新の神仏分離令によって巻き起こった廃仏毀釈の嵐に巻き込まれ、打ち壊されたのかもしれません。「御影堂」は、『北条政子(二位の尼)によって1211年に建立され、熊野詣での帰り天野社に立ち寄り、3・4殿の建立寄進とともに、女人禁制で高野山に登れない女人のために、夫源頼朝の菩提を弔うため建てたと言われている』と書かれていました。
北条政子の「二位の尼」を読み、あれっと思いました。政子さんも、官位・二位まで上ったのですね。夫・源頼朝は父・源義朝の将として源平の雌雄を決する平治の乱に臨みましたが、平清盛に破れました。父と勇猛な長兄・悪源太義平他兄弟が死ぬ中、捕らえられた頼朝は平清盛の義理母・二位の尼の助命嘆願により、九死に一生を得る。夫の生を助けた二位の尼にあやかって、あえてそう俗に呼ばれようとしたのかも・・・。この時代の武士に戦には一定のルールが有り、討ち取った相手や荒野に倒れた兵も、戦が終了すると両軍から僧が出て丁重に弔った。雌雄を争った源平の間でも、トップ自らそういう行為をすることで、将兵や一般人から尊敬を集め、敗れ去った敗軍の兵の無念を平らげる効果があったのではないだろうか。
「脇の宿石厨子」という石造り仏壇のようなものの中には、役行者の石像が安置されているのだそうです。「光明真言板碑」「大峰修験者の碑」、これらが数基並んで立っていました。かつては焼失した伽藍の脇に立っていたのでしょう。明治維新まで脈々と続いてきた神仏習合による日本神道・真言密教・修験道の穏やかな相互補完を感じます。戦国時代に入ってきたキリスト教が、改宗した戦国大名のバックボーンを盾に、異教徒である寺院を破壊していったのとは大きな違いを感じます。一神教と八百万の神信仰との違いを。
ここにも「Cafe客殿」の案内板が立っていました。30mということなので、行ってみます。民家がCafeになっているようです。1/19〜3/18まで冬季休業だって、残念。社務所に戻り、絵馬を買いました。各所で買った絵馬に願い事を書き、屋敷祠に奉納しています。その在庫がなくなったので補充です。次はお嫁さんのお腹に新しい命が宿った時かな?
15:07、車に戻り帰路に着きます。和歌山城に回る時間はなくなりました。r4〜R480で紀の川を渡り、R24を西進します。昼食を食べた「道の駅紀の川万葉の里」前を通り、r62で紀伊・葛城山系を越えます。犬鳴山温泉を過ぎ、大阪側に入り阪和道下を抜けました。ここから阪和道に乗る方が早いと思いましたが、ナビが湾岸線を指示するので従ってみました。
熊取町でR170〜r29、泉佐野北ICから阪神高速4号湾岸線に乗ります。一時晴れ間が覗いていましたが、風が強くなってきました。高速から見える和泉の海は白波が立っています。次男の国体予選会場だった二色の浜沖も吹いています。泉大津PAのツインタワーの間を抜け、堺の工場群の横を通ります。大浜ICで一旦下車し、R26を少し走って、住之江ICから再び高速へ。久しぶりに湾岸線を走りましたが、環状線とまだ繋がっていないのですね。ここと阪神高速神戸線とがダイレクトにつながると、湾岸線の使い勝手が良くなるのにな。環状線〜11号大阪空港線で池田IC下車し、17:20帰宅しました。
「ああ楽しかった。ありがとうね」と家内に声を掛け、すぐさまオーバーパンツを履きます。「どこかに行くの?」「バイク屋さん、ホンダに行ってくる。点検が終わったんだ」。通勤リード110でホンダドリームに向かました。営業時間は19時までなので、間に合います。CB400SBの初車検が終わりました。どこも不備はなく、エンジンオイルとブレーキフルードの交換だけで車検はOKだったそうです。
法定24ヶ月点検・メンテナンスパック13650円+保安確認検査料3150円+検査代行手数料21000円+自賠責保険24ヶ月13640円+重量税3840円+印紙代1700円+オイル交換(G1SL10W-3・3L3726円+ドレンワッシャ32円+工賃1080円)+ブレーキフルード(807円・403円+工賃2160円・3240円)+アクリー加工21600円-メンテナンスパック値引き14283円-お預かり金充当26460円+次期メンテパック3S・38556円=87801円。
新車の時施工してもらった愛車の輝きを保つガラスコーティング加工(アクリー加工)をしてもらったのと、2年後の車検&6ヶ月毎点検費用メンテナンスパックに入っったので、6万円ほど余計に掛かりました。これでまた半年、気持よく乗れます。
1年更新のホンダドリームカードの更新もしました。3780円。盗難保険は、更新しないことにします。

2015/2/1
日曜日のカレンダーに家内の予定が書き込まれていなかったので、六甲山トレッキングを計画しました。JR伊丹〜JR神戸線・三宮駅〜地下鉄〜新
神戸駅〜新神戸ロープウェイ〜風の駅〜トゥエンティクロス〜神戸森林植物園〜山田道(弓削牧場)〜神戸電鉄・谷上駅〜三田〜JR福知山線〜JR伊丹というルートです。トレッキングもさることながら、電車で六甲山を一周しちゃおうという計画です。「日曜日は予定ないの?」と聞くと、「2時間ほど用事がある」という返事だったので、計画を披露する前に頓挫してしまいました。
午前中バイクで走り、午後は家内と適当に過ごそうと、特に予定もなく目覚めました。この日は亡き親父の誕生日で、家内が隣の実家の窓を開け風を通してくれています。ありがたいな・・・素晴らしい・・・これぞ長男の嫁!「チンぐらいしてきなさいよ」なる無言の圧力をいつものように感じ、僕も隣に行き、仏壇にチンします。
8時頃TVを見ながら朝食を食べていると、「中谷美紀さんの映画を観に行かない?」と誘われました。新聞に広告されていたようで、パンと洋裁の映画で、ロケ地が阪急沿線で、北海道のパンを使った・・・ということで、いつもながら要領を得ない説明です。何処でやってるの?・・・わかんない・・・
慌ててPCの電源を入れ、映画を調べてみます。兵庫県内の神戸市・西宮市・川西市などがロケ地になった仕立屋職人の映画でした。パンは数年前に見た「しあわせのパン」という北海道を舞台にした映画の監督の作品だというだけで、パンは今回の映画とは関係ないようです。僕の好きな原田知世さんを主役に、落ち着いた素敵な映画に仕上げていたので期待大です。
僕らの母校がロケ地だった「阪急電車」という映画に中谷さんが出演されたので、中谷さん=阪急電車という構図が家内の頭の中で出来上がっているようです。阪急電車も今回の映画には関係ないです。仕事も家事もいい感じでこなすのに、こういう要領を得ない部分があるのが、モテる秘訣ですね。
西宮ガーデンズ・尼崎MOVIX・宝塚で上映しています。「何処にする?」と聞くと、宝塚がいいとのことです。僕も古き良き映画館の雰囲気が残ってる宝塚シネ・ピピアが好きです。2スクリーンしかなく、座席数も少ないのですが、最新映画を封切ることもあれば、旧作映画も上映しており、名画座という感じです。スタッフさんの手作り感を感じる素敵な映画館です。
宝塚シネ・ピピア・10:40上映開始です。家内の用事を聞くと伊丹市街地に出てアレとコレと・・・、バイクで行けば往復30分仕事です。去年から温めていた中山一部縦走プランを披露し、急いで風呂に入り着替えます。
8:30、リュック背負ったトレッキングスタイルで通勤リード110にタンデムし、市街地に出て用事を終えます。そのまま宝塚の阪急電車・売布神社駅南の映画館に向かいます。複合商業施設の駐輪場にバイクを入れ、5F映画館フロアに上がります。お客さんが多いです。僕らと同じように感じている方が多いのか、如何にも映画好きと思われる方が集まっています。ご夫婦で来られている方や、映画好きご婦人ペアが多いのも特徴です。シネコンのような最新式の券売機もなく、ポップコーンの呼び込みもありません。カウンターに行き、チケットを2枚購入します。
上映開始まで15分あるので、珈琲でも飲もうかと提案しましたが、「いいわ」とのこと。じゃあトイレに行こうと行動を起こしたところで、「繕い裁つ人」の入場を開始いたします。シネマ1の前にお越しください」と、肉声がかかりました。「予約番号1番・2番の方」と声が上がり、該当者が予約番号札を掛かりの方に渡し入場して行きます。予約番号順に入館し、好きな席に座ります。このローテクがいい。僕らは席に着いた後、家内をトイレに立たせ、続いて僕も。
神戸山の手の素敵な洋館をお店にする腕の良い仕立て職人さんが主人公です。大手百貨店の営業マン君が、ご自身のブランドを立ち上げないかと勧誘するところから物語が始まります。素敵な景色に、ゆったり落ち着いた台詞が混じり、仕立て屋さんを取り巻く長い付き合いのお客さんの雰囲気がいい。上映前にロビーに貼ってあったロケ地マップで、川西の洋館・西宮のテーラー・長男一家と正月遊びに行った「神戸どうぶつ王国」・神戸北野の珈琲店・・・を見ており、ロケ地にも興味津々でナイスな映画でした。
家内に誘われる映画は、どれもこれもナイスです。新聞広告・記事から読み解く感性でしょうか。とてもハッピーな気持ちになり、仲良く1Fのスーパーに寄りました。お寿司パック・菓子パン・麦茶を昼食用に購入し、タクシーを捕まえるために阪急売布神社駅前のタクシー乗り場に向かいます。でも、全然タクシーが来ません。仕方なく映画館前の旧・R176でタクシーを捕まえようとしますが、全然来ません。
去年見つけた「中山縦走路」最寄りの住宅地・中山桜台7丁目・標高380mまで、タクシーで標高を稼ぐ作戦でした。300mほど歩けば売布神社〜中山山頂登山道・450mで、更に300mほど歩けば中山山頂・478mです。中山山頂で昼食を食べ、売布神社・50mまで下り基調の道を楽ちんに下りて来ようという軟弱コース作戦です。
タクシーが来ないので、作戦変更です。バイクに行き・13時、中山桜台7丁目まで上がります。住宅地内の道もつづら折れで標高を稼ぎます。ガードレールの向こうに、大阪伊丹空港・大阪中心地のビル街・大阪湾まで広がっています。ナイスな景色ですが、ここに住むと徒歩移動がきつそうです。我が家のある旧旧海岸段丘・旧河岸段丘(30m)を上がるだけでも、駅からきついのに・・・。
中山桜台7丁目の最高所にある住宅の横にバイクを停めました。更に上にある宝塚市の水道施設まで舗装路がつながっていますが、その車止めからトレッキング開始です。途中でスクーターに追いつき、僕が行こうとする方向に曲がります・・・怪しいぞ・・・想像通り同じ所に止まりました。ぐふふ・・・
会釈すると、向こうも僕らのトレッキングスタイルを見てご同輩と感じたのか、ニカっと・・・身軽なソロのご同輩は、先に上がって行かれます。家内は防寒のために履いていたカッパのパンツを脱ぎ、僕は標高が上がるに連れ小雪がちらついてきたので、カッパのジャケットを着ます。家内は赤・僕は青のペアルックです。
13:33に出発し、13:36に水道施設に到着。ここから山道に入ります。去年2月に、ここで野鳥をたくさん見かけたので期待していたら、今回も野鳥のお迎えを受けました。コンコンコン・・・家内を静止させ、カメラを周囲の木々に向けますが、ゲラ(キツツキ)の姿を捉えられませんでした。家内も耳を澄ませ、「キツツキ?」って見上げています。今朝、我が家の庭もうっすら雪が積もっていたので、道の横に雪が残っています。そのお湿りで道がぬかるんでるのもいただけません。
13:47、売布神社〜中山山頂ルートに合流。1年前にはあった板の案内板がなくなっていましたが、その柱に直接マジックで「桜台」と書かれていました。右手にフェンスを見ながら歩きます。このフェンスは、何のためなんだろう?
13:52、「中山山頂すぐそこ」と書かれた案内板がありました。手作りですが、道標が充実しており、安心して迷わず歩けます。来た道方角は「奥の院・中山寺・清荒神」、この先は「川西多田・万願寺・阪急山本駅」。
13:54、中山山頂・478.2m到着。バイクのご同輩さんが、山頂から下りて行かれました。僕らに続いて、家族5人+真っ黒ワンちゃんチームが到着。北方角の景色を激写してると、別ルート(たぶん十万辻方面からの中山連山縦走路)から年配のご夫婦到着。にわかに大盛況になりました。谷を隔て「大宝塚GC」のグリーンが見えます。ゴルファーが歩いています。小雪舞うのに、吹きっさらしで熱心ね。午前中は晴れ間もありましたが、西北の空は雪雲が続いています。遠くに尖った羽束山が見えます。東の方角に、住宅が密集した川西の平野部が見えます。
山頂はモロに北西の風を受けるので、フェンス際の縦走路まで撤退し、昼食にしました。もっと山歩きの方に会うかと思っていましたが、すれ違ったのはソロの年配女性1人だけでした。十万辻ご夫婦は清荒神方面に下って行き、14:15僕らが出発の用意をしていると、お若いグループが清荒神方面へ。僕らもそれに続きます。
中山住宅地から大阪平野・大阪湾の絶景が望めたので期待していたのですが、山道からの展望がイマイチです。僕らが合流した中山台分岐を過ぎ、更に歩いて行くと14:25フェンスが切れました。チラチラと甲山・六甲山が南西に見える場所もあります。尾根道なので、北側の羽束山が見える場所もあります。
14:29、「中山駅3.5km・天宮塚270m」への分岐がありました。「最高峰まで0.6km」「奥の院まで1.2km」。名札&解説が下がった木もあります。「ねずみさし」という木は、枝をネズミが通るところに挿すと通らなくなるそうです。ヒノキ科と書かれていたので、殺菌効果と関係するのかなと想像しました。
14:35、「夫婦岩園地まで1.5km」「最高峰まで1km」「奥の院まで1km」。「ひさかき」という気はツバキ科でした。神事に使う如何にも葉っぱというきれいな形の葉を持つ「さかき」より、幅が狭い細長の葉っぱでした。
14:44、「奥の院まで0.6km」「山頂展望所まで0.5km」「中央展望所まで0.3km」。ここで真っ黒ワンちゃん家族と4度目のご対面をしました。山頂から歩き出した僕らを、夫婦岩園地分岐を過ぎたとこでワンちゃん家族が抜いていきました。しばらくすると引き返してすれ違い、またここで中央展望所方面からやってきて出会いました。「なんだあ〜一緒だ〜」と、僕らを見て子供達が笑っています。「中央展望所」で下界を見ようと寄り道します。しばらくすると男性が対向してきたので、「展望台の景色はいいですか?」と聞いてみました。「ここは全然ダメだよ」って教えてもらい、Uターンしました。
14:51、小石が積み上げられたケルン到着。14:56、「奥の院まで0.5km」「最高峰まで1.2km」「奥の院西園地まで1km」。15:05、「山頂展望所まで1.2km」「中山駅まで2.9km」。
15:06、奥の院が見えてきました。小社が奥の院を取り巻き、山腹に建っています。真言宗・中山寺は、聖徳太子建立ということなので、600年頃創建だと思われます。小社の1つに、「応神天皇・武内宿禰・御座」とありました。応神天皇は、仲哀天皇・神功皇后の息子で、征韓した時皇后のお腹に宿っていたと言われる200〜300年におられた15代天皇です。武内宿禰は、12代景行・成務・仲哀・応神・仁徳5代に仕えた忠臣で、仲哀天皇の父親と言われる伝説のヒーローです。九州の豪族・熊襲を平定し、蝦夷(当時は中部・関東)をも平定し、地方豪族をなぎ倒し大和朝廷の基盤を作った貢献者です。その帰路、伊吹山の豪族と戦い傷を得、伊勢にて死亡し、白鳥になって機内〜四国へと飛び去ったと言われている。
天照大御神の弟で暴れん坊・スサノオノミコトが中国地方でヤマタノオロチを成敗した時、その尻尾から得た天叢雲剣を叔母の倭姫命より授かり、焼津の草原で火攻めに遭い包囲された時、その剣で身近の草を刈り、逆に内から火を放ち勝利した。古事記・日本書紀で、男の子を興奮させる名場面のヒーローです。それ以来「草薙の剣」と名を変え天皇家の三種の神器になっている。
奥の院の名から、侘び寂びを感じる重厚な建物であればと期待したのですが、商売上手で参拝客がいつも多い中山寺だけあって、さすがにお金巡りが良好で、綺麗な佇まいでした。拝殿(厄神明王拝殿)から奥の本殿を覗くと、岩が見えます。横に回ると本尊は大岩のようです。横の蛇を祀るお宮も本尊は大岩のようで、磨崖仏のように何かが刻まれています。磐座信仰の名残でしょうか。中山さんは、息子たちがお腹に宿った時も安産祈願に来たし、頂いた腹帯も丁寧にお返ししたし、何度も訪問したポピュラーなお寺ですが、奥の院は初めてです。ここから、「やすらぎ広場・清荒神」方面と、「中山寺」方面に分岐しています。
15:22、中山方面に下ります。コンクリート車道が登ってきていますが、関係者以外走行不可でしょうから、山道を下ります。丁石と石仏が守る山道です。最初は18丁石でした。
15:27、大岩にしめ縄が張られています。「宇多天皇御自彫天神」と彫られた石柱が立っていました。磨崖仏のように天神様のお姿が大岩に彫られていました。宇多天皇は、900年頃の天皇で、藤原氏に握られていた実権を取り戻そうと、藤原氏以外の優秀な官僚を抜擢した。その筆頭が菅原道真で、天皇の后に娘を入れ姻戚として政治の実権を握る藤原氏支配に風穴を開けようとしたが、宇多天皇の譲位とともに後ろ盾を失い、藤原氏の陰謀で大宰府に流されまもなく亡くなった。死後、藤原氏縁者に落雷するなどの祟があり、藤原氏・朝廷は道真の御霊を慰めようと、雷神・天神様と多数のお宮を建てた。太宰府天満宮本殿は道真のお墓の上に建てられている。出家した宇多天皇が天神様を自ら大岩に彫り込んだというこれは、天皇親政を復活しようとしたができなかった自分の犠牲になった道真への贖罪なのかなあ・・・美作管家党の末らしい僕の血が反応しました。
いくつも六地蔵がありました。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の六道輪廻思想が現された地蔵で、子供に正しい道を説いていると言われている。綺麗な六地蔵には表情があり、子供を戒めているお顔もある。昔は、奥の院への道を歩きながら、親の言葉から教えられていったのでしょう。ここにも野鳥が遊んでいます。見つけると激写タイムに入るので、なかなか先に進めません。

15:38、「奥の院まで0.3km」「中山駅まで2.6km」「やすらぎ公園まで0.9km」。15丁石は、亨保19年の年号が入っていました。徳川家康が亡くなって100年後が亨保で、亨保飢饉・徳川三大改革の享保の改革で有名な年号で、幕藩体制が経済面でほころび始めた頃です。
15:42、「中山山頂へ(中央展望所経由)」の分岐がありました。大流行のトレイルランニングの方が、この日は男女各1人走っておられました。女性の方と2回すれ違い、ここ〜中央展望所〜奥の院という三角形を走っているようです。すごいな。
15:43、「奥の院まで0.6km」「夫婦岩園地まで0.6km」「最高峰まで2km」。13丁付近で、舗装路が交差していました。舗装路には開閉フェンスが施されていました。「ここは国有地です・・・」の但し書きが固定されていました。自衛隊の演習地が近くにあるはずなので、その関係の道路かな?南西の宝塚・甲山・西宮方面の展望が木々の切れ間にありました。
15:59、「夫婦岩園地」到着。ここからは、南〜西の展望があります。大岩の回りに石が沢山積んである。『ありがとうございました。長年風雨で落ち着かない状態でしたが、皆様の御蔭でホッとしました。毎日ここまで小石を運んでくださった皆様、素敵な木枠を提供してくださったコイシプレサービング様、本当に数えきれない温かい気持ちを足元から感じております。これからも引き続き、この美しい宝塚の自然とともに、末永くお付き合い頂ますよう、よろしくお願い致します』どうやら、雨水で足元の地盤が削れ、大岩が移動して危なっかしかったのを、小石と木枠で動かなくしたようです。雨水の流れで山が削れ谷に流れ、やがて扇状地を形成しながら海に流れていくのが自然の姿です。その姿を山道を歩きながら感じます。ここの山道の多くも、石段の回りの地盤が削れ、石段が崩壊しているのが目立ちました。
「売布神社駅まで1.7km」「中山駅まで2km」「奥の院まで1.2km」、ここで売布方面と中山方面に分岐しています。中山方面に下ります。更に、右:石段、左:新道が分岐しています。新道に下ります。16:03、東屋があり、大阪平野・大阪湾が一望です。我が家も見えそうです。案内板地図を見ると、石段道は直線的に、新道は迂回しています。山の中を右に左に巡りながら、下ります。
16:17、「夫婦岩展望所」「中山駅まで1.3km」「山頂展望所まで2km」、中山は縦横に山道が巡り、複雑に交差しているようです。16:27、木製治山ダム。木をログハウス風に井桁に組み、間に石を積めてダムにしています。16:30、「中山駅まで0.7km」「山頂展望所まで2.6km」。かなり下りました。横の谷を流れていた沢が広くなりました。
16:33、2丁石。ここは、石段道との合流地点です。「奥の院を経て中山山頂へ3.1km」「中山駅へ0.6km」。「卜部左近」という江戸時代の播州三木の儒学者のお墓がありました。川を東に渡ります。少し坂道を上がると、中山寺の墓地でした。ここに1丁石。
16:39、中山寺到着。3時間の山歩き終了です。本殿など見て歩き、おトイレを拝借して、16:49仁王門です。阪急中山駅をくぐり、南口からタクシーに乗りました。阪急タクシー1720円で、中山台7丁目のバイクに到着。18時前に帰宅し、すぐに風呂で温まり、家内が作ってくれたうどんを夕食にして、1日が終了しました。ああ、楽しかった。


2015/1/25
日曜日は、今年初のグループツーリングでした。半年ぶりぐらいです。バイク趣味の方とおしゃべり出来て楽しいんだけど、怖くて走れないし、事故を起こしてしまうと家族や仕事仲間に大迷惑かけるので、ゆっくり走りたい。バイクに乗り出して3年目に、バイクにも慣れたから、グループツーリングに参加し始めましたが、皆さん速くて参加が遠慮気味になっています。と言うより、僕だけが遅い。遅い僕を置いていってくれるとマイペースで走れ気楽なんだけど、皆さん優しいから僕にペースを合わせてくれるのが心苦しい。遅い僕の後をついてきてくれる方や、遅れていく僕をスピードダウンしてサポートしてくれる前の方は、きっと楽しくないと思う。申し訳ないなあ。
この日のグループは速くないので、気持よく走れそう。針テラス8:45集合・9時出発です。針テラスまで2時間ほどだったはずだから、6時に出ようと予定を組みました。難所は、高速道路並みのハイスピードで流れるR25・名阪国道です。元東名阪高速道路なので交差点もない自動車専用道路だから仕方ないです。奈良盆地東の山を越える大きなカーブを伴う上り下り部分が特に怖い。
5時に目を覚まし、ちょっとゴソゴソした後、着替えようと階下に降りたら、「・・・えっ、もうこんな時間?」。枕元の目覚まし時計は、25分も遅れているようです。これが先週遅刻してしまった原因のようです。すぐに修正しました。倉庫に行き、先週乗った「里山VTR250」から「招き猫CB400SB」に、車載荷物一式を載せ替えます。空気圧も低かったので、手動ポンプでシュポシュポ。ガソリンは1/6メモリ減ってるだけなので、西名阪・香芝SAで給油すればいいかな。
なんだかんだで出発が、6:10になっちゃいました。信号で止まった時、ナビを入れてみると、到着予定は7:45です。まだまだ余裕です。豊中ICから中国道に乗り、近畿道を南下し、松原から西名阪へ。松原料金所入ってすぐの左も待ち合わせ場所でしたが、早すぎて誰もおらず。7:08、「香芝SA」到着。いちご大福・464円を購入し給油、188km/7.89=23.8km/L。
恐怖の連続カーブ登りをクリアしました。メチャ速い車と勾配がきつく息継ぎしながらゆっくり走る大型トラックが混在するので、ここはほんと怖い。大きくコの字状に迂回しますが、地図を見るとまっすぐ走る道もあります。一度それを走ってみたいな。
8:03、「針テラス」到着。ここに僕含めて3台来るはずですが、まだ誰も来ていないようです。トイレを拝借し、いちご大福を食べる。観光案内所のような暖かい部屋で時間を潰します。国土交通省・近畿整備局の数年前の奈良県・和歌山県の台風大被害のビデオがエンドレスで流れていた。去年見たR168界隈のがけ崩れを空撮で撮っており、それを調査・改修しているのも流されていた。この仕事は短くても10年スパンでプランニングしないといけない仕事だな。1000年ぐらいの河川侵食や崩壊の歴史を頭に入れておかないと、適切な判断ができなさそう。
バイクに戻ると、僕の横に黒のBMWが停まっていた。事前調べでは、本日のリーダーさんのバイクです。ライダーさんがおられず、再び暖かい売店に退避。あれこれ見て、ふと外を見るとグループ主催者・Jさんがお喋り中です。松原で集合したグループが到着したようです。僕も輪に加わります。7台集合。naさん(GSR250、相変わらず綺麗な白です)・Mさん(前は大きなバイクだったのに、今回は250アメリカン)とはご一緒したことがありますが、4名の方はお初です。
Sheさんは大きなアメリカンDSC11、Kurさんはコンパクトで戦闘的なビューエル。これはハーレーのエンジンを使用しているようで、今は会社がなく、メンテナンスはハーレーがしてくれるのだとか。ガソリンタンク部分が半透明で、中はタンクじゃないみたい。ガソリンはフレーム内にあるそうなので重心が下がり、コンパクトな車体と相まって、小回りが利きそう。本日のリーダーHさんは、300kg車格のBMW・R1150で、楽ちんバイクだと言っておられました。JさんのW800も初めて見ました。落ち着いた外観の良きバイクって感じ。ハンドルを変更し、手前にしたそうです。僕も2台とも上・手前にするためにハンドルマウントに下駄を履かせました。
自己紹介とルート説明があり、出発。名阪国道を東に走ります。遅れ気味でついていき「上野東IC」で下車し、R422で南下します。R165に乗り換えて、東進。青山高原北側の裾野を通る道で、高原以東は初走行です。遅れ気味ですが、Jさんが殿を走ってくれているので迷子にはなりません。ナビあるし、間違いそうな道もないので、先に行ってくれてもいいんだけど・・・。青山高原に行った時も、大きく遅れ1人旅になりました。迷いそうな交差点などで待っててくれるので、問題なしです。真冬のこの時期に、奈良〜三重県の山岳部を走れるのか心配でしたが、気温が高めで上天気なので問題なしでした。r118に曲がってすぐ、10:38「藤ヶ丘食堂」に到着。
ここでMatさん(ZZR1400)・Yoさん(バンディット1250)が加わり、9台になりました。Matさんは地元の方で、ZZR1400は世界最速というバイクですよね、迫力があります。Yoさんは名古屋市在住で、反対側からの参加です。11時開店で、すぐ満席になりました。皆さん焼き鳥・ご飯・味噌汁を注文されます。これは硬めとか柔らかめとか、部位の名前を言っておられますが、僕には全くわかりません。小学生までに2度大病して親に心配させたので、基本肉より魚・野菜、薄味なので調味料を後からかけることもありません。二十歳まで生きられるかわからなかった僕が、中学の虫垂炎を最後に病からの呪縛が切れ、以降健康体です。食生活・早寝早起き・アルコール&タバコなしのおかげです。焼き肉・焼き鳥などほとんど経験ないので、そちらの知識は皆無です。僕だけ「とり鍋うどん」を注文しました。450円ですが、量が多く、野菜に味がしみており、お腹いっぱいでとても美味しい。すぐに満席になるのもわかります。
ここから、地元Matさんの先導で、9台で走り出します。また遅れ気味になりますが、さすが地元の方の案内です。信号の少ないワインディングを走ります。片側2車線のr37を快走し、r53・サニーロードで南下。12:59、r13との交差点・三重県度会郡度会町大野木・「JA伊勢SS」で給油。141km/5.78L=24.4km/L。伊勢道・玉城ICの近くです。r65〜r169を南下します。これも気持ちのいいワインディングでした。R260に出ました。右手に海が見えます。パールロードを走ると言われていたので、伊勢の海でしょう。
13:58、「土実樹」というお店に寄ります。みかんの販売店かと思ったら、牡蠣の試食をしています。メチャ美味い、2個試食しました。Jさんが、一網詰め放題1500円というのを購入。「え〜バイクに積めるの〜」と、箱もらって来たり、新聞紙突っ込んだり、ガムテープで蓋を塞いだり、皆さんで寄ってたかって積み込み終了。僕は、デコタンマーマレード650円を自分用のお土産に購入。「くじ引きを引いてください」と言われ大当たり・みかん2個ゲット、家内へのお土産も終了。ここで、和歌山から来られているMさん離脱。尾鷲まで高速に乗り、紀伊半島の南を回った方が、早く帰宅できるそうです。
ついていくのがやっとの状態で、何処をどう走ったかわからず、パールロードに乗りました。「停まって景色を見たいな」と思える展望駐車場をいくつもやり過ごし、14:27・「鳥羽展望台」到着。案内板には富士山も見えると書いてありました。リアス式の綺麗な景色です。平地に下り、近鉄の沿線を走ったのでr37かな?伊勢西ICから伊勢道に乗りました。ここで先導案内してもらったMatさんとお別れです。
Jさんに続き、一般・ETC併用レーンに突っ込んだら、前の車がETCなしで、チケットを取るのに手間取って、いきなり遅れました。本線を走り出したら、も他の5台はもう見えません。Jさんも離れて行きますが、皆さんに追いつけないと諦めたのか、スピードダウンして僕の先導車になってくれます。僕は、荷台の牡蠣が落ちないか見張ります。「あのうSA」で休憩・「針テラス」で解散しますと言われているので、一人旅になっても平気なのですが、「あのうSA」がなかなか出て来ない。1人だったら、確実に途中で1回休憩を入れていたと思います。
昼食を取った「久居」を過ぎました。昼食後にこんなに走ったんだと、ここまで来てビックリ。「津」を過ぎて、やっと「安濃SA」がありました。安濃って、こんな字なのね。初めての地名です。先着の皆さんは、赤福餅を買って来られました。ここまで2時間ほど休憩なしで限界だったので、ここで離脱しようと「針テラス」までの距離を聞くと、60kmほど40分ぐらいかな?との答だったので、60kmなら大丈夫そうだと、最後の解散場所まで皆さんとご一緒することにしました。
伊勢道を走り、名阪国道に入ると、先行する皆さんが視界から消え、1人旅になりました。名古屋のYさんは、伊勢道をそのまま北上して行かれました。先週の日曜日同様、この時期の割に気温高めで、上天気で風も弱いので、ここまで全く寒さを感じません。走行車線に、60cmほどの角棒が落ちていました。踏んだらコケます。真っ暗だったら避けられなかったかもしれませんが、幸いまだ陽があったし、車間距離いっぱいだったので平気でした。
針テラスへの進入路に入ると、GSR・nakaさんが駐車場を走っています。「意外に、遅れなかったかも?」と駐車場に入り、角棒のことを離すと、nakaさんは避けきれず乗り上げたそうです。「よくコケなかったな」と感心してしまいました。名阪国道のスピードでコケたら、バイクは廃車・身体は病院行になりそう。
ここで解散し、僕はお先に出発します。でもすぐ皆さんに追いつかれ、追い抜いて行かれました。恐怖の奈良盆地への下り勾配&連続カーブを走行車線ののんびり車の後ろでゆっくり下り、道なりに「西名阪」に乗りました。松原JCTから近畿道に乗り北上、吹田から中国道に乗り換え、18:59に自宅近所の「出光セルフ宝塚」で給油。289km/11.11L=26.0km/L。トータル燃費24.9km/L。
いつものように乾拭きして、倉庫に片付けます。帰宅してすぐ片付け、夕食を食べて20時の大河ドラマの途中で寝てしまいました。トータル500kmは走ったと思います。高速道路が多かったので疲れました。スピードが高いので、気を使って疲れます。操作が少なく単調で暇すぎるのも、疲れる原因かもしれません。伊勢はじっくり、激写タイムを多く入れながら巡りたいな。

2015/1/18
先週日曜日の低山登りが楽しかったので、京都東山を蹴上から山に上がり、尾根歩きしながら銀閣寺に下りようかな?前回の続きで、播磨志方の山城攻めをしようかな?と計画を練っていたのですが、家内はお仕事仲間と「西宮えべっさん参り」&新年会だそうで、振られてしまいました。
となるとバイクですよね。以前からの宿題である備前・浦上氏関係の山城攻めが浮かびました。備前最大の山城「天神山城址」・その1代前に浦上氏が赤松氏代官の座から下克上独立した前浦上氏の本拠・「三石城址」・そして「富田松山城址」の3つ。1日に3つも山城を登るのは困難ですが、天神山城と三石城はバイクで比高を稼げるようなので、可能かもしれない。ツーリングマップルを見ながら、浦上村宗墓・長船刀剣博物館・池田輝政墓を加えルートを考えました。そして、前回・美作の山城攻め・旧跡探索にお付き合いいただいた「まるえ・M」さんと、再びご一緒することになりました。
日曜日、目が覚めたのは3:30。春以降ならば迷わずGO!なのですが、凍結が心配な真冬なので再び夢の中へ。次は4:30に目覚めました。出発しようかと思いましたが、待ち合わせが8:00・JR三石駅なので、5:30に出れば間に合うと思い、グズグズしていました。土曜日は兵庫県北部は雪模様で、舞鶴道などはチェーン規制が出ていました。神戸周りの阪神高速〜姫路バイパスルートだと凍結の心配はありませんが、+1時間掛かります。中国道〜山陽道ルートが最速で、なんとか凍結がなさそうな感じがするので、このルートにしましたが、六甲山の裏を走る西宮名塩SA付近が、凍結の最大の難所です。ここをより安全に走るために、ギリギリまで出発を遅らせました。
5時になり出発準備です。高速道路を走るので、「招き猫CB400SB」の出番なのですが、日中冬型気圧配置が緩んで高気圧に覆われるらしく風が弱い予報です。ならばと、より軽快で気楽な「里山VTR250」で行くことにしました。タンクバッグの移動や車載カメラ取り回し・電源移動、さらに1ヶ月以上乗っていなかったので空気圧の点検・加圧なので、出発が5:50になってしまいました。
5:52、「出光セルフ宝塚176」で給油。170km/4.92L=34.6km/L。5:56、「サンクス宝塚山本」で麦茶500ml100円&おにぎりシーチキンマヨ110円・辛子明太子138円を購入。宝塚ICから中国道に乗りました。路面を注意しながら、名塩SA付近を上ります。交通量もいつものようにあり、路肩に雪も見えず問題ありませんでした。山陽道に乗り換え、三木SAで最初の休憩をしました。行程の約半分です。ここでナビの電源を入れ、登録済みの「JR三石駅」を目的地にしてみると、到着予定時間が7:50になっています。「はぁ、やはり遅刻だ・・・」。次のSA「龍野西SA」で休憩。出発すると、「到着予定時刻・8:07、あぁ〜」。「遅れるかもしれませんので・・・、遅れられても9時まで待っています」と連絡済なので、許してもらいましょう。自分のペースを崩すと事故になるので、80km/hを守ります。予報通り風がなく、抜いていくトラックが前に入る時に左右からの巻き込み風に注意するぐらいで、軽いVTRでも問題なしです。
下りる備前IC手前の「福石PA」に入れます。休憩せず、車載カメラをハンドルマウントして、ムービーを開始するだけです。ドライブレコーダー・Driveman1080なので、バイクの電源と連動するので手間要らずです。2kmほどで備前IC下車。R2に乗り、北東・三石の方に走ります。旧山陽道に入り、ゆっくり山城があると思われる山を見上げながらJR三石に向かうと、8:15「三石城址・登城口」を発見しました。いい感じの山で、見張り台と思われる場所が視認でき、嬉しさがこみ上げて来ました。
待ち合わせ時間に既に遅れているのにいい加減なもので、登城口まで歩いて行きました。数軒の民家の間を抜けると、階段が現れ、城址案内板が設置されていました。階段には、杖が用意されています。これだけ整備されていれば、迷子になる心配はなさそうです。それらを写真に撮っていると、先ほど挨拶した奥様が自宅から城址のパンフレットを持ってきてくれました。「登られますか?良かったらどうぞ」。30分?1時間?と登城時間を尋ねると、年に1回、登城道を集落総出で清掃整備しているそうで、「私でも45分ぐらいで登れます」とのことでした。搦手口からの登城のことを聞くと、距離はあるけど比高は少ないとの事でした。殆どの人が、こちらの大手道を登城するそうです。
帰宅後読んだのですが、頂いたわら半紙の「三石城の栞」は、内容の濃いものでした。『鎌倉時代末期の1333年に地頭の伊東氏が築いた城だそうです。伊東氏は鎌倉幕府を開いた源頼朝が旗揚げした当時からの与力で、伊豆半島伊東の豪族の末裔でしょう。功績のあった旗本・与力を、全国に守護・地頭として配したので、ここの地頭になったようです。再びの大動乱で、鎌倉幕府が倒れ、室町幕府が成立すると、将軍・足利尊氏が戦功により再配分し、播磨の悪党豪族・赤松氏が、播磨・備前・美作の守護に任ぜられました。その備前国代官として、浦上氏が三石城を本拠に守護代を勤めました。主家・赤松氏が嘉吉の乱で将軍暗殺すると、但馬本拠の守護・山名氏を中心にした幕府軍に攻められ、赤松氏は没落し、山名氏が守護になりました。その後、赤松主家が応仁の乱の功績で、3ヵ国の守護に返り咲き、浦上氏が備前守護代として、三石城主に返り咲く。
片上湾を見下ろす富田松山城を築き、日本一の窯業生産積出港を押さえ、瀬戸内海海運の西播磨の要・室津港も支配し、経済力を付け、室町幕府造営料を赤松氏の陪臣である浦上氏が負担するまでになった。浦上氏は、赤松氏から独立に動き、赤松氏に三石城が攻められますが、これに大勝し、有力国人豪族に見放された赤松氏は勢力を落とす。そして逆に浦上氏に攻められた守護・赤松氏は室津・室山城に滅ぶ。ここに、戦国大名・浦上村宗が登場する。
村宗と嫡男・政宗は、居城を室津・室山城に移し、三石城には次男・宗景が置かれる。室町将軍家内紛の摂津の戦いで、村宗は赤松の遺児に急襲され討ち死にする(俗に「大物崩れ」と言われる乱)。当時政宗は幼少だったので、浦上庶流の浦上国秀の後見を受けて国政を取り仕切る。その後、成長した政宗・宗景兄弟は対立し宗景が自立を模索したので、政宗は三石城を占拠する。宗景は天神山城に、宗景と同調した国秀は富田松山城に移った。
浦上宗家の政宗が、龍野赤松氏に滅ぼされたので、宗景が備前最大勢力となり、美作支配を巡って南下して勢力を伸ばそうとする尼子氏と戦う。三石城は天神山城の支城になり、宗景が家臣の宇喜多直家に攻められ逃亡すると、三石城も廃城になった。』
赤松氏の興亡と、戦国の梟雄・宇喜多直家秀家が好きなので、この栞を読み、僕の備前脳内勢力交換図は、上記のように書きなおされました。栞の地図を見ると、ここから登るほうが距離が短いけど、等高線が詰まってる。搦手の駐車場からだと距離がありアップダウンがあるものの獲得標高は少なそう。
8:23、JR三石駅に到着。搦手口方面にある「深谷の滝」の案内板が、設置されていました。駅に上がると、緑のカワサキKLM250がいました。無事会えました。搦手側に向かいます。滝の案内板に従い、それ以降は城址案内板が設置されていたので、8:43迷わず搦手側駐車場に着きました。駐車場は地道でしたが、ずっと舗装された1〜1.5車線道でした。落ち葉が覆う道も、ゆっくり走ればノープロブレムです。備前市教育委員会の三石城謂れ板が立っており、安心して山に突っ込めます。
落ち葉ふかふかの気持の良い山道です。霜が凍り、下草を白く覆っています。勾配のあるところには階段が作られ、「あと500m」などの道標が安心させてくれます。Mさんとなんだかんだ話しながら歩くので、苦もないです。
8:56、「第一展望所」に着きました。麓を見下ろす守りの見張り台ではなく、山並みが遠くまで見渡せる現代の展望所です。8:58、峰続きですが本丸とは別の山頂に着きました。この城が生きていた頃は、防御の郭が設置されていたのでしょう。山頂に造作の跡が残っています。現代は送電線の鉄塔が建っています。本丸側に一旦深く下ります。峰歩きの時は、この下りが勿体無い。どうせ登り返さなくてはなりませんから。
9:07、明らかに堀切と思われる造作跡に来ました。チェーンのある階段を登ると、「鶯丸」がありました。周囲に土塁跡も残り、切岸された要害になっています。搦手側の防御要塞のようです。「本丸跡へ」の看板に従って進むと、かなり深い堀切で本丸と切られていました。これは見事です。堀切の底に下ると、「この谷に沿って右に歩いてください。大手門に行きます」と書かれた看板が設置されていました。
またチェーン設置の階段を本丸側に登ります。9:13、「本丸郭」到着。30分歩きました。尾根歩きでしたが、アップダウンがあり、冬用バイク装束で来たことを途中で後悔しました。崩れ、落ち葉に半ば埋まった石積みがありました。さすが備前守護代の本城で、本丸郭がでかい。人が抱え持てる大きさの石が沢山転がっています。防ぎの石礫なのでしょうか・・・ちょっと実際の戦闘にはでかすぎるけど。井戸跡と思われる窪みもある。一段下がった「二の丸」に下ります。更に「三の丸」郭に下ります。此処から先に、「帰路・三石駅」と書かれていたので、ここを下ると栞をもらった登城口に行けるのでしょう。
9:18、Uターン。本郭に上がらず、ロープが張られた小径を進みます。帯郭があったと思われる広がった所もあります。一方は本丸郭の直下で、もう一方は谷です。本丸郭側に半ば埋もれた石垣が見えてきました。赤松系の中世の山城は、播磨・備前という農業生産に適した律令制上国ゆえの経済力がバックにあるからか、丹波篠山の山城とは違い石垣が多用されています。4〜500年経ても未だ崩れていない石垣を見ると、この地の守護の裕福さを感じます。
9:25、「大手門」到着。石垣の虎口で、ここも崩れておらず見事です。更に進むと、鶯丸と本丸の間の大堀切に戻りました。大きな山城です。搦手側は山が続き、楠木正成の千早城のように、いくらでも逃げ道がありそうで、不案内な攻め手では落とすのに苦労し、主将は逃げ切れると思いました。防御の郭も多く、大満足でした。帰路に着きます。途中の「第2展望所」で休憩しました。「牛窓の方向の先に霞んで見えるのが小豆島。海の向こうに見えるのが屋島」と書かれていました。冬なので空気が澄んでいるはずですが、海さえ肉眼では見えませんでした。四国讃岐まで見えるとはなかなかの景色のようです。
北側の穏やかな山頂付近に、谷を隔てて数軒の家が見えます。別荘地でしょうか?この山城300mより標高が高いので、窓を開ければ山並みが広がるでしょう。9:57、バイクの戻りました。往復、約1時間。ここで10分ほど休憩しました。前回も感じましたが、Mさんは健脚です。マイペースな僕の休憩に合わせて休憩されていますが、1人なら僕をどんどん離して先に行かれるでしょう。
山道を下ります。滝の横を通ります。寄り道も考えましたが、パス。R2に出て南西に進みます。反対に北東に進むと、播磨国と備前国の国境・「船坂峠」です。後醍醐天皇が、鎌倉幕府倒幕計画がばれて、近江源氏・佐々木の警護の下、隠岐の島に流された時、ここで奪還すべく反幕府はの児島高徳が待ち伏せした峠です。結局察知され別道を通られ、美作院庄守護屋敷に逃げ込まれました。ここの訪問も、Mさんと一緒でした。
備前IC前を通過し、「閑谷学校」と書かれた交差点を閑谷学校方面に曲がり、r261。木谷集落の川を渡ったとこにある木谷公民館が目的地のランドマークです。ゆっくり目に走り、公民館を見落さないように・・・川を渡りました。でも公民館がない。通り過ぎた所で停車し、枝道を覗いてもそれらしき建物がない。少し県道を歩いてみるがない・・・バイクに戻り、再び進むがない。いくらなんでも通り過ぎただろうという所で、住民発見。「すいません、木谷公民館は何処でしょうか?」「通り過ぎたよ。半鐘がある所で、川に掛かる橋で止まって、見渡したら見つかるよ」とのこと。「ありがとうございました」と頭を下げ、再びバイクに乗りUターン。
橋のすぐ横に半鐘のある家がありました。古い民家が公民館だったようです。10:44、バイクを置き、半鐘の裏に回ると、「浦上村宗のお墓」がありました。謂れ板が立ち、三石城主・浦上氏嫡系の家系図も載っていました。摂津で戦死後、息子の政宗・宗景兄弟が遺体を収めて帰国し、ここに葬ったそうです。宝篋印塔が2基、片方は少し小ぶりなので正室のものかもしれません。周囲に数基の五輪塔が立っていますが、これも親族のお墓なのだろうか?数件隣に、窯業と思われるレンガ造りの煙突が立っています。いい感じ。
R2に戻り、更に南西に向かう。新幹線高架を潜る前から、前方に山頂を平らに郭化された山が見え、一目瞭然に山城だとわかる。西・南側は海で、東側の運動公園から登城道が付いているということなので、JR片上駅手前で枝道に入り、運動公園を目指す。地形を見ながら走るとビンゴ!、10:56到着。でも山城の手前に1つ山があります。往復1時間を想定していたのですが、これは手強そうです。8時JR三石〜10時三石城址登城完了〜11時富田松山城址本丸・早めの昼食の予定が、1時間遅れています。
重い冬用プロテクター上下を脱ぎ、袖にワイヤーを通し、バイクに括ります。山登り用軽装になり、軽登山靴に履き替えます。城の謂れ板&見取り図が立っていました。「ここかな?」と迷いながら山道に入ろうとしたら、「お城に登りますか?」と、後ろから声を掛けられました。そして、詳しく道順を教えてくれました。僕らがバイクで着いた時から、僕らの様子を伺っておられた方です。若い頃は毎日登っていたそうです。「30分ぐらい?1時間ぐらいかかりますか?」と聞くと、若い頃は18分で登ったそうです。
11:08、30分ぐらいで上がれるかなと踏んで、山に入ります。2つのドラム缶に、山登り用の杖が10本以上入っています。城址看板の前の駐車場に車が数台停まっていたので、城攻めの先客が入っているものと思われます。さっきの三石城址では、誰にも会いませんでした。11:25、案内板も設置されているので、迷うこと無く教えてもらった鉄柱まで来れました。ここで西側の視界が開けたので、小休止します。まあ、ここまで数度、軽く呼吸を整える休止はしています。
西側の山城本丸と踏んだ山頂が見えます。1つ目の山頂もまだなので、先は長いな。途中の案内板や山道の整備は、先ほどの方など地元の方が、ボランティアで立ててくれているのですよね。ありがたいことです。「がんばってください。富田松山城跡・・城主浦上国秀」と書かれた看板が立ち、先に進む気力をもらいます。「本丸跡まで500m」と書かれた看板のところでも、かなり比高を登っており、眼下に気持の良い景色が広がります。西に向いた絶景ポイントに、3人掛けほどの一休み長椅子がありました。ありがたい。
尾根に上がりました。「本丸跡まで300m 左・東片上村・雨乞い跡 右・富田松山城跡」と書かれた道標が立っていました。雨乞い跡の方に歩くと、前方にそれらしき物が見え、ここで撤退。11:42、「東出丸」到着。机&ベンチがあります。Mさんが、「取る人はいませんよね」って、ここでリュックと冬用プロテクタージャケットを脱ぎます。さすがに暑かったようです。誰にもすれ違いません。さっきの雨乞い跡が、眼下に見えます。ここ同様、四角いテーブルをベンチが四方を囲んでいます。南の水路のような海が直下に見えます。水路を南に目を移すと、牛窓に向かう岡山ブルーラインの片上大橋が見えます。上天気で風がなくナイスな景色です。山登りで身体も温かく、短パン半袖でヤッホ〜したいぐらいです。
手前の山の山頂も、想像通り郭でしたが、一旦下って西に本郭が見えます。標高は同じぐらい(209m)です。尾根に下って、本郭に取り付きます。また搦手側に回ります。「直進・大手曲輪」「右・本丸跡の入口裏門」と書かれた道標があり、直進します。幅が広かったので、帯郭を歩いたようです。11:52、「大手曲輪」着。石積みされていますが、三石城のそれとは大違いで石も小さく風格がありません。やはり守護クラスと家臣とは大きな違いがあります。「三の丸」〜「二の丸」〜大手筋で、11:54・「本丸曲輪」に上がります。
井戸跡があります。「富田松山城跡 築城1533年城主浦上国秀 落城1577年城主浦上景行」との看板が立っています。曲輪周囲を、50cmぐらいの土塁が囲っています。450年経てこの高さだから、当時は立派なものだったろう。1ヶ所切れ間があり、搦手口と容易に想像できます。四角いテーブル&四周ベンチのセットが3つあり、割合きれいなので春秋シーズンは、それなりの来客がありそうです。西と南は、人では上がれない急勾配で海に落ちており、こちら側から攻めるのは不可能です。下からは円錐形の山に見えたので、北からも攻め手は厳しそうです。東からの一手だけの攻め手とかんがえられる。いずれにしても要害です。
1時間遅れですが、ここで昼食にします。Mさんはさっきのリュックの中におにぎりがあるとのことなので、僕の1つを提供を提案しますが、帰り道で食べるとのことです。ウダウダ喋りながら休憩し、12:22帰路に着きます。搦手口から東側の郭(三の丸跡(仮))に降りたら、そこにブルーシートで囲った仮設トイレがありました。
下りは楽です。一気に下りましたが、バイク装束への着替えに手間取り、13:00出発。この城も2時間仕事でした。3つ目の城攻めは諦めました。R250〜R2に出て、次の訪問地・「長船刀剣博物館」に向かいます。吉井川に向かい、ナビの誘導に従い枝道に入り迷わず、13:19到着。ここで、Mさんとお別れです。誰にも合わない山城攻め・各2時間を楽しくお喋りしながら楽しむことが出来ました。ありがとうございます。
入場料500円で、館内に入ります。入口で2領の甲冑武者がお出迎えです。刀剣の歴史・種類・政策道具・製造工程の展示を見ます。家内と登った播磨・置塩城跡で出会った方が、娘の結婚に際し、長船で製造した懐刀をプレゼントしたそうです。刀自と呼ばれていた名家の正室の時代ならいざ知らず、懐刀持参で嫁入りする妻女には、旦那さんも逆らえなさそう。それを持たされる新妻も、困るだろうな。筋金入りの歴史好きの父親を持った不運と諦めるしかあるまい。200万円と言ってたから、新婚夫婦の希望は、「現金で貰いたい」だろうね。
そんなことが思い出されました。14分の制作現場ダイジェスト映像に引きこまれ、あっという間に終わりました。2F展示室には、室町時代製作の刀剣から新しいのまで展示されていました。室町時代製のも見事に磨かれ、昨日出来上がったように見えます。まさに芸術品です。撮影禁止だったのが残念でたまりません。
Mさんには、「すぐ出てくると思います」なんて言いながら、あっという間に1時間近く経っちゃいました。14:15、「備前長船刀剣の里・ふれあい物産館」で、白桃ジャム375円・ピオーネジャム375円を、僕へのお土産にしました。2つの山城は素晴らしく良く、刀剣博物館もナイスで、もう大満足でした。帰路に着こうかと思いましたが、天神山城址はパスし、池田輝政の墓に寄ってみることにしました。帰路3時間を予定し、探索タイムリミットを15時にします。
博物館を出て枝道を北上し、R2を渡ります。地図上では吉井川の土手道と思われるr79に乗ろうと、堤防上を走る車を見ながら枝道を北上すると、やがてr79に合流しました。僕が県道に乗ったら、後ろから10台ほどのツーリングバイクグループが追いついてきました。僕が先導してる感じになりました。気持の良い土手道を走り、ナビ案内では対岸に渡る指示が出ましたが、地図ではいずれからでもR374に乗れそうなので、そのまま直進し、r395になりました。後続のバイク集団もついてきます。左に吉井川・右にJR山陽本線、そして道は狭くなり1車線です。対向の車とすれ違えないので、退避場所で車をやり過ごすこと1回。なかなか楽しい道でした。しかし、乗ろうと思ってたR374と立体交差になっており、乗れませんでした。あれ〜・・・
再び、ナビが対岸に渡るよう指示して来ましたが、直進の細い道を選びました。後続のバイク集団は、みなさん渡って行きました。吉井川支流の金剛川左岸の枝道は終わり、否応なく対岸に渡りました。今度は右岸道路r96を走ります。バイク集団の後ろになりましたが、徐々に離れて行きました。
左折して、r404へ。池田輝政公の墓地がある和意谷に入っていきます。輝政公は、織田信長〜豊臣秀吉〜徳川家康に仕え、常に武闘派として活躍しました。徳川時代姫路藩初代藩主として、豊臣恩顧の西国外様大名と豊臣大坂城を分断し、大坂城包囲網の一翼を成した。そして現在の優美な姫路城に造り変えました。藤堂高虎とともに、外様大名ながらた徳川家康から厚い信頼を寄せられた大名です。息子などが岡山藩・鳥取藩などに転出し、一族で加賀前田百万石に匹敵する大大名を築いた。
ツーリングマップルを見て、お墓がここにあることを知りました。姫路藩初代だから、後に姫路藩に入封した本多氏が姫路書写山に歴代藩主の墓があるように、播磨にあると思っていました。元々京都にあったそうですが、菩提寺が火災にあったのを機に、岡山藩の輝政の次男が移したそうです。そこが岡山池田氏歴代藩主の墓地になったそうです。
ほとんど交通量のない道は川沿いを北上し、1.5車線区間があったり、僕の好きな道でした。池田氏墓地の案内板に従って枝道を入り、更に入る枝道に「墓地駐車場こっち」の案内板がありましたが、苔むした急坂だったので、そこにバイクを停めて歩きました。14:48、墓地駐車場到着。謂れ板に、輝政のお墓移動の詳細が書かれていました。墓所配置図もありましたが、輝政含め歴代藩主のお墓まで1kmもあります。
緩やかだけど上り坂なので、30分ぐらいかかりそうで、15時までの到着が危ぶまれましたが、行けるとこまでと思い歩き出しました。地道ですが、1車線ほどの幅がある道が続いています。江戸時代は墓守が暮らした住まいが建っていたと思われる郭も数ヶ所あります。猪が掘り起こした跡・鹿糞などがある落ち葉の絨毯の道です。勾配が増すと石段が組まれています。この石の上を、歴代藩主や関係者が歩いたんだと想像しながら歩きます。
道に迷うことはありませんが、丁石石があるわけでもなく、残りの距離表示があるわけでもないので、何度もUターンしようかと思いながら孤独に登りました。15:06やっと「お茶水井戸」に到着。横にあったベンチで休憩しながら、墓地入口で撮った写真を見ると、ここはまだ730m地点で、輝政公のお墓は1140mです。太陽の位置はまだ高めですが、残念ながらUターン決定。15:22、墓地入口に戻ってきました。
バイクに戻り、帰路に着きます。r404を下ります。川沿いの緩い下りなので、5速に入れていればエンジン音も軽快に、気持よく下ります。r96でまた三石に出て、R2〜山陽道・備前ICに乗りました。
5:59、山陽道に入ってすぐの「福石PA」到着。ここで車載カメラとナビを片付けます。家内から新年会で帰宅が遅いから、夕食を食べてくるよう言われているので、「岡山中華そば・550円」を頂きました。意外に量が多く満足しました。16:40、次の「龍野西SA」に寄り、出光で給油。225km/8.6L=26.2km/L。17:22・「権現湖PA」で休憩し、「桃バター・540円」を家内へのお土産に購入。岡山名物のもものバターなんて初めて見ました。「パンに・ヨーグルトに」と書かれていたので、バターとジャムの中間のような商品だと想像しました。
続いて、「三木SA」で休憩し、ここから一気に帰宅しました。ここから夜のツーリングになりましたが、先週に続き宝塚トンネル渋滞が発生しておらずラッキーでした。倉庫前でいつものようにバイクを乾拭きし、通勤リードに乗り換え帰宅しました。19時前なので、家内はまだ帰宅しておらず、家が真っ暗です。ササッと片付け、残ったおにぎりを食べながらTVを見て、風呂に入って20時前に寝てしまいました。

2015/1/11
家内も用事がなかったので、また2人でお出かけします。天気予報では10℃オーバーの気温ですが、寒いのでタンデムバイクもサイクリングもNGです。姉夫婦とトレッキングを考えましたが、姪の引っ越しの手伝いだそうで、2人だけで家内の里・播州加古川の低山登りをすることにしました。ターゲットは、姉夫婦が何度か登ったという高御位山です。
登山ガイド「兵庫県の山」で調べたら、初心者向けの人気の山だそうで、僕らにも平気そうです。別メニューとして、加西市の国宝三重塔がある「一乗寺」と、家内の父親が生まれた志方の山城2つを用意しました。登山後の体力と時間により、適当に組み合わせましょう。1つは、黒田官兵衛の妻・てるが生まれた櫛橋氏の詰城です。我が子が成人になるまで、この山の中腹にお墓があり、何度も通った山です。その山頂にある山城跡を探索します。もう1つは、お墓参りの時にいつも気になっていた「城山公園」です。ここも播磨本拠に中世に絶大な勢力を誇っていた赤松氏の山城です。2つとも低山なので、うまくいけば、山登り3連発も可能です。
日の出が7時で、早朝の凍結を避けるために、8時出発・10時登山開始の予定を組みました。出発は8時を回りましたが、宝塚ICから中国道に乗りました。初めて見る小型乗用車が走っていたので後を追いかけました。ユニオンジャックのステッカーがリアガラスに貼られていたので、イギリスの車かもしれません。かなりの年代物と見ました。西宮名塩SAに入っていったので横に並びましたが、左ハンドルで助手席にお若い女性が座っていたので、若いカップルが乗っているようでした。おしゃれだなと思いましたが、維持費が掛かりそう。そして目的地に着くかどうかが最大の関心事になるだろうなと思いました。山陽道に入り、三木SAでトイレ休憩&昼食購入しました。僕はおにぎり2つ&ジョージアのカフェオレ・家内はお弁当にしました。
加古川北ICで下車し、かつてのお墓への通い道r43を南下、右折しr65を西進します。前方に見えてきた周囲の山より少々高い山をターゲットに、適当に左右に曲がります。「高御位山登山口」という看板を見つけ、それに従って進むと、9:39事前に調べていた「志方町成井・高御位山駐車場」に着きました。10台ほどしか駐車できませんが、東屋やトイレも設置され、よく整備されています。駐車場はほぼ満車で、道路にも路上駐車車両があるので、事前調べ通り人気の山のようです。安心して登れそうです。
トイレを拝借し、ハイキングコース案内板を見てから出発しました。家内はリュック無しで、化粧品一式も僕のリュックの中です。念のため常備してるカッパの上を、家内は寒いということで着ます。最初の計画では、ここにママチャリを置き、少し離れた「辻登山口」に車で行き、そこから山頂まで2時間(僕らの足では3時間)の尾根コースで登り、ここに下山し、僕だけママチャリで車を取りに行く予定でした。が、播磨灘の波高1.5mと風が強そうだったので、小高御位山〜尾根コース合流で登り、メイン階段ルートで下山に変更していました。
事前に調べていた小高御位山コースを探しながら、アスファルトの道を登山口まで歩きます。ハイキング案内板からすぐの所に、小さな「小高御位山」看板を見つけ、9:43山に入ります。山道というより、いきなり踏跡程度の獣道でしたが、迷うことはありません。ストックを伸ばし準備しながら森を歩くと、すぐに勾配が急になりました。ほとんどの登山者がメインルートから上がるようで、こちらの利用者は稀のようです。10分ほど上がると外界への視野が広がりだし、高度感があります。高御位山山頂が見え、僕らが歩くだろう尾根道を豆粒のような人が数人登っています。メインルートも見えてきました。ルート沿いに電信柱が立っており、階段が見えます。
この山は播州南部に多い岩山なので、高木が少なく景色がいいです。足がつるといけないので、何度も岩の上で休憩を取ります。懸念していた風はほとんどなく、割合快適です。10:12、山頂のモニュメントが見える位置まで上がりました。10:22、急な岩盤が現れました。ストックをつくと危ないので、家内のストックを預かり僕が後ろになり、家内に這って登るように指示します。「え〜、ここを登るの〜」と言って登りだしましたが、岩盤はしっかりしており、足場も無数にあるので登り切った後、「山登りした感じがするね〜」とごきげんです。
10:29・この岩盤を登ったとこが、小高御位山山頂でした。西側の景色が広がります。平地に溜池が多く、律令制の上国・播磨の穀倉地の片鱗を見ます。最初の計画だった尾根道が、谷を隔てた向こうに見えます。僕らが登ってきた道は、僕ら以外いませんでしたが、あちらの道は一見で複数人見える人気ルートのようです。4m/sほどの西風が吹いていました。東側を上がってきたから、山に遮られて風を感じなかっただけなのですね。
小高御位山山頂から、北西に下ります。10:34、尾根道との交点に着きました。道標には、「成井登山口まで20分」と書かれていますが、僕らは50分掛かりました。「高御位山まで30分・北山登山口まで35分」との道標も立っています。「ササユリなど取らないでください。この山域には、希少植物が自生しています。・・・」の看板も。車の中で、僕が用意した山域地図を見て、鹿島神社に行ったことがあると言っていましたが、鹿島神社の大鳥居が西に見えます。あそこからの登山道もあります。
尾根道は、一旦高御位山の取り付きまで下ります。せっかく高度を稼いだのに勿体無いですが仕方ないです。数組の登山者に抜かされます。10:45、取り付きまで下ったので休憩していると、70代と思われるご夫婦にも抜かされました。旦那さんが前を歩き、足取りはゆっくりですが奥さんがしっかりついていきます。僕らもあんな風に仲良く年齢を重ねられたらいいねと家内と話しながら追いかけます。結局そのご夫婦を抜かすことは出来ず、僕らが休憩する度に差が広がり見えなくなっちゃいました。走るように上がって来た小学生低学年兄妹を連れたご夫婦にもあっさり抜かされました。
汗をかき暑くなってきたので、セーターとキルティングベストを脱ぎます。家内も暑かったようで、カッパとネックウォーマーを脱ぎました。再び小高御位山山頂と同じ標高に登ったようで、周囲を見回して、いくつかの登山道の全体像を頭に入れます。後日、別の道から登ることになりそうです。また這って登る岩盤部分があり、それを過ぎるとグンと下界の視界が広がりました。家内の実家方向の向こうに海が見えます。ここに来て気づいたのですが、山火事跡のようで、真っ黒な木が立っています。尾根道は岩盤の部分が多く、急勾配の部分もあるので、斜め歩きで登りました。谷を隔てた西側尾根に、別の登山道が通っているようで、豆粒人間が登っています。この道より人気のようで、岩盤手前で渋滞も起こっています。
11:14、成井からのメイン階段ルートとの交点到着。ハイキング道案内板が立ち、数組の登山者がお昼ごはんを食べています。山頂は目と鼻の先です。ベンチがあったので休憩していると、尾根道をお母さんと小学校低学年男の子・幼稚園男の子が登ってきました。お父さんはおらず、凄いなと思いましたが、幼稚園児はザイルをタスキ掛けされており、お母さんに繋がっています。ササッとザイルを子供から外し、外したカラビナを自分のリュックにつけています。ザイルとカラビナが数本下がり、本格的です。ワンダーフォーゲルか登山部だったのでしょう。手際が鮮やかで、これならお母さん1人でも大丈夫ですね。とてもかっこよかった。最後は階段道を登り、11:25山頂到着です。1時間コースを1時間45分で登りました。山頂に高御位神社がありました。もう一段高い岩の上に上がってみました。四つん這いで絶壁に近づき、写真をパチリ。バイオトイレがあり、利用させてもらいました。山頂にトイレが有ると、女性の方が登って来やすいです。ここの標高は、304mと書かれていました。低山ですが楽しめました。西からの登山道に「鹿島神社・80分」との道標も立っていました。車2台あれば、縦走も楽しめますね。
神社を風避けにして、裏で昼食にしました。お姉さんに、「今、高御位山山頂です」とメールしました。「よくわかったね、階段しんどかったでしょ」と返信が来たので、「別ルートから登ったから、階段は下りに使います」と送って、12:12・下山開始ました。山頂周辺に100人ぐらい登山者がいる人気の山でした。メイン階段ルートは、大部分が階段の道でした。家内が、「膝が笑った〜」と笑ってるので、数度休憩しました。全18丁の丁石が立っています。12:25、途中にあったベンチ2脚・テーブル1脚の休憩所で休憩。「阪神タイガース・志方ファンクラブ」が桜数本を植樹していました。
12:53、登山口にある「熊野権現・高御位神宮」到着。かっこいい修行者、修験道ですね。下りは40分、早いです。「わがまち加古川60選・高御位山」という案内板に、「大正10年にグライダーで関西初飛行を成し遂げた、志方町出身の渡辺信二氏の偉業を称える「飛翔の碑」が建っています」とありました。山頂にあった碑を差すようです。確かに山頂まで道路がついていれば、スカイスポーツのテイクオフポイントが出来そうな地形でした。きっと碑のあった山頂までグライダーを担ぎ上げて、飛んだのでしょうね。凄いな。
舗装路を車に戻り、次の目的地・てるさんの生まれた志方山城を目指します。r65〜r118で志方八幡神社の下部まで来て、山城攻め登山目印の神社の鳥居発見。でもそこに至る道が狭く、車で突っ込む気になりませんでした。膝が笑った家内のことを考えると、どうせ登れないのでパスします。低山だから、獣道さえついていたら15分仕事のようです。
続いて家内の実家のお墓があった元集落墓地を探しました。日光山墓苑にお墓を移動させてから、初めての訪問です。いつも八幡神社への登り道が別れる峠にある家内の父親が生まれた家が建ってたとこに車を停め、山道を歩いて行くのですが、新しく出来た道が、その山道を分断して通っていました。新道の峠に車を置き、横の階段を上がると墓地でした。周囲が森に囲まれ、昼なお暗いいい雰囲気の墓地だったのに、やけに明るくなっています。息子たちが悪さをした時、夜何度か僕が手をつないで手を合わせに来ました。あの雰囲気はもうないな・・・家内もその変わりように唖然としています。
次は、城山公園です。r118を北上し、志方小学校のとこの交差点に「城山公園」と道標があったので、枝道に入っていきます。城山は、僕が思っていた低山の山ではありませんでした。案内板に従って更に枝道を入ると、謂われ板の立つ小さな駐車場がありました。比高を考えると登り30分でしょうが、これも次回まわしにします。
次は、「一乗寺」です。r43に戻り、さっき見つけた「一乗寺」案内板の枝道を西北に進みます。r515に合流し、山陽道の下をくぐり、案内板に従って右折してr206。13:50、一乗寺到着。国宝のある古刹です。駐車料金・300円・・・イタタ。駐車場横に水子供養のあれやこれやが幅を利かせていました。境内への看板には、「水子・・・は一乗寺と関係ありません」だって・・・。「左近の桜・右近の橘」で有名な橘が、境内の内外にたくさん植えられています。将来、橘の寺になろうとしているようだ。日本古来の自生柑橘類の橘は、味がイマイチなのでみかんに取って代わられちゃって、神社境内で数本見るぐらいだから、花の時期などに意外に人気がでるかも・・・。
参拝料・300円・・・イタタ。境内に入るとすぐに長い階段があり、山登り後には応えるかも。パンフレットを読むと、『法華山一乗寺は650年法道仙人の開山で、孝徳天皇の勅願による官殺であった』ということです。孝徳天皇は、645年大化の改新の政変で実力No1になった中大兄皇子(天智天皇)が天皇即位を辞退したため、次の天智天皇への繋ぎとして天皇になった方です。中央政界が揺れ動いた時代に官殺として誕生したようです。
天台宗の古刹らしく、比叡山延暦寺や書写山円教寺同様、枯れた味わいのある伽藍が素敵です。国宝三重塔は、平安時代の1171年に建てられたという日本でも10指に入る古塔だそうです。それにしても、各地に点在する500年以上の歴史を刻む三重塔や五重塔が、地震列島の日本で倒れずにいるのは凄いことです。コンクリート建物の耐震化が叫ばれていますが、この木造建築の耐震構造には遠く及ばないように思う。再び石段を上がり、上の郭に上がり金堂を見学します。外からでも線香の香りを感じます。これと横の鐘楼は江戸時代の再建で、次男の名前として拝借した姫路城主・本多忠政公がスポンサーだそうで、ちょっと親近感が湧きます。金堂内で20円チャリンし、家内とともにお線香を3本奉納しました。境内最奥の弁天堂・妙見堂を観に行きました。室町時代作の檜皮葺の小社と見えるお堂です。
「奥の院・賽の河原」方面に下りましたが、昨年夏の豪雨で被災したのか、途中までしか行けませんでした。鎮守の森というより山の中の道を歩き、14:30・車に戻りました。
r206〜R372〜r43で、加古川北ICから山陽道に乗りました。珍しいことに電光掲示板に、宝塚トンネル渋滞情報がなく、約1時間で順調に帰宅しました。夕食のお蕎麦を食べながら、上村愛子さんの白馬散策のTVを見てゴロリ・・・家内は18時台で寝ちゃうし、僕も19時台で寝ちゃいました。

2015/1/4
1/1
大晦日の日中は気持ちの良い日でした。でも肝心の元旦・2日は寒波来襲です。「中森明菜が出てきたら教えてね」と言い残し、家内は台所でお正月の最終準備をしています。僕はどんどん眠たくなり、家内が床に入ったのにつられて、20時頃自室に上がり寝てしまいました。紅白歌合戦の最後も行く年来る年も、ここ10年ほど見ていないと思います。
元旦は3時過ぎに目覚めました。元旦は我が家のお墓に参る予定なので、天気予報チェックです。2日は家内の出身地・播州加古川にお墓参りだし、3日は丹波篠山にぼたん鍋なので、天気予報と道路情報は要チェックです。スキーに行かなくなり、スタッドレスタイヤも古くなっちゃったので、ノーマルタイヤで走れる日じゃないとダメです。ゴソゴソし、8時に家内と近所の氏神様に初詣です。数組のご近所さんとすれ違い、挨拶しながらお宮到着。夜中の年始代わりの時は大勢並びますが、この時間帯でも5〜6組並んでいます。
新年のお参りを済ませ帰宅し、お昼まで暇なので、風呂に入ったりTVを見たり、昼寝したり・・・。PCで新潟空港の運行情報もチェックします。寒波来襲で日本海側は大雪で、新潟の天気も朝から雪マークです。朝一番のANA便は、機材が間に合わず欠航でしたが、その他は問題ないようで、12時発大阪行きも、搭乗手続き中です。12時前に、弟のお嫁さんから電話が入りました。
「今から自宅を出ますので、空港に行きます」
12:30を回ったので、僕らも長男一家を迎えに空港に向かいます。空港駐車場はいつもより車が多く、一番奥のスペースに置きました。13時に、JAL到着ロビーに到着。お嫁さんの実家・新潟からやってくる新潟便は予定通り13:10到着予定です。クリスマスにお嫁さんのお爺さんが亡くなり、お父さん中心に年末に葬儀をしたので、3人共大活躍した直後です。体調を崩していないといいが・・・。
弟のお嫁さんから、我が家に車を置いて氏宮に参ったところと電話が入りました。岸和田から来るのに、意外に早かったな。飛行機は到着しても荷物受け取りなどでロビーに出てくるのに10分は時間がかかるので、空港においでと伝えました。どっちが早いかなと思っていたら、弟の到着の方が早かったけど、JAL出発ロビーで迷って電話を掛けてきたとこで、長男一家が出てきました。
JAL到着ロビーは、出発棟のさらに北の別棟なのでわかりにくいです。「空港で一緒にごはんを食べよう。出発ロビーにいてて、すぐ行くから」嫡孫・遼くんとは半年ぶりなので、また忘れられちゃったかな?と思っていたら、どうやら覚えているようで、ママの言葉を受け「ジジ・ババ」と僕らを指させました。大成長です。
難なく弟達と合流し、空港ビル3Fのレストランでご飯を食べました。姪が空港でご飯を食べたことないので、レディーへの経験をさせます。男は自分の甲斐性ですが、女性はナイスな旦那さんと縁を持つために、ファッションや作法などレディーを高めておかなければ・・・ね。甥は今年大学受験なので自宅で猛勉強中です。
次男のフィアンセさんから送られてきたサプライズ・プロポーズの写真をみんなに見せながら、説明します。お嫁さんも姪も驚いています。姪は妹に、「こんなんしてもらったら嬉しいね〜」って。14:22、食事を終え、2台でお墓参りに出発です。天気予報では、午後から北摂が雪なので、僕は3日に順延しようと提案しましたが、空港は曇り空なので、長男から「問題ないでしょう」「老いては子に従い」です。
r12を北上し、川西能勢口を過ぎると雪が舞ってきました。「紫合」を過ぎると本降りになり、路面は大丈夫ですが、お墓の坂の下りが心配で、弟に「うちは断念するわ」と電話を掛けました。長男から弟にお土産があるようで、「道の駅いながわ」で待ち合わせすることにしました。道の駅に着くと、弟も断念するそうで、実家に帰ることにしました。
まあ大丈夫だろうと、r68経由で帰ることにしました。これがミステイクで、路面も白くなりだしており、滑らなかったけどゆっくり走りになり、こわごわr33〜r325〜長尾山トンネルで、16:17帰宅しました。弟の車は軽いので、1回滑ったそうです。素直にr12で帰ったら良かった。
紅茶とケーキで実家でワイワイしました。主役は遼くんです。弟からマグネットブロックをもらい、これが楽しいのか上機嫌です。「浅田真央ちゃんのトリプルアクセルをしてあげて」とママに言われると、くるくると回転し、左腕を水平に喉に当て、首をのけぞります。大爆笑と大拍手です。本人は上得意で、何度もそれをします。TVを見ていて、突然し出したようです。よく見ていますね。姪がチビの時、僕が買ってあげた「黒ひげ危機一発」を出してきて、遼くんと遊びますが、まだよくわからないようです。
18:15になったので、長男一家を残して、2台で空港に向かいます。18:30、JAL出発カウンターに展示されてるスペシャライズドのロードバイクを激写し、18:40着の東京便を待ちます。これに乗って次男カップルがやってきます。フィアンセさんお父さん一族の元旦恒例の集まりに次男もおじゃま虫しました。入籍は3日ですが、一足早く顔見せです。温和で感じの良いご両親ですが、親戚付き合いも活発なようで、こういう環境で育った子は穏やかな大人になります。良い方と縁が出来て嬉しいです。
定刻に到着したようですが、10分ほど経って、次男から「荷物を受け取るから、もう少し時間がかかるわ」との電話が入りました。19:03、出てきた次男フィアンセさんとは、弟一家は初対面です。「いやあ、美人さんやねえ。スタイルもいいし・・・」と褒めてもらい、次男も照れています。弟一家はこれだけのために、ゆっくりしてくれました。フィアンセさんと次男が、「よろしくお願いします」と、東京土産を弟のお嫁さんに渡しています。こういう気遣いは、とても大事です。
姪は、僕ら長男から次男カップルからお年玉をもらい、にわか長者です。家内はいくら包んだのだろう?ここで弟一家とはバイバイです。次男達は、長男と別部屋ですが、実家に泊まります。まだ孫は1人ですが、2人目・3人目と増えると嬉しいな。
夕食は、みんなで家内の作ったおでんです。僕はガソリンを補給し、自室に戻りサンタさん衣装に着替えます。サンタ袋に、ちびくろさんぼの本・3冊と、先月篠山で買ったブリキゼンマイ玩具などを入れて長靴を履きます。急いで実家の玄関に回り、チャイムをピンポン。20:03、「は〜い」とお嫁さんが玄関を開けてくれました。横には遼くんが、サンタさんを不思議そうに見て後ずさりしています。サンタさんが手を出すと、一目散にパパの所に退却です。サンタさんが玄関を上がり、みんながいる食卓に入ると、みんなが「うわぁ、サンタさんやわ〜」って大歓迎です。パパの後ろに隠れていた遼くんに、白いサンタ袋から出したラッピングした本を差し出すと、「プレゼントだって〜」のママに言葉に促され、パパの手を離さず恐る恐るサンタさんに近づき、受け取ります。おもちゃセットも受け取り、ママに「ありがとうしようか」に促され、「あ〜と」とチョコンと頭を下げます。1週間遅れのサンタさんは、喜んで自宅に帰って行きました。速攻で着替え、おでんの輪に加わりました。

1/2
前日、21時過ぎに寝ちゃったので、また4時起床です。この日の予定は、家内の実家のお墓参りと、家内の姉夫婦&姪・甥一家にフィアンセさんを紹介することです。お墓は播州加古川の山陽道沿いなので、いつもなら1時間コースです。天気予報をチェックすると、雪は降りませんが、最高気温でも5℃以下です。昨日午後からの雪が溶けそうにありません。JATIC道路情報をチェックすると、山陽道は三木以西が除雪作業中だそうです。走りませんが、舞鶴道はチェーン規制です。「こりゃあかん」阪神高速神戸線回りに決定。夜が明け庭を見ると、雪が積もっています。我が家なら年1回の景色です。脚立に乗り、お土産用に柚子を20個ほどチョッキンします。屋敷祠の鳥居も雪化粧です。
8:16、自宅を出発します。前列は僕と家内、2列目は遼くん・長男、3列目はお嫁さんと次男カップルです。チビなのにチャイルドシートで場所を取るので、新たなチビさんが出来たら、僕は車から放り出されてバイクだね。R171〜阪神高速神戸線〜第二神明・玉津ICで下車し、R175を北上します。三木まで北上し、r20〜r18〜r65で加古川を渡ります。チャイルドシートで拘束されている遼くんは、グズいて横のパパに開放しろと要求しています。仕方なく、スマホに録画されている奥の手の出番です。「妖怪ウォッチダンス」を聞きながら、踊っています。
9:54、お墓到着。お花は年末に姉夫婦が参っているので、持参しませんでした。僕は遼くんに付き合いながら、あっちにフラフラこっちにフラフラしながら墓石に向かいましたが、子供たちがバケツとかブラシとか取ってきて、水を汲みお墓掃除してくれます。長男が、線香に火を付けみんなに配ります。楽になったものです。これもバトンタッチですね。遼くんもパパと一緒に手を合わせています。
次男カップルが、僕らに「はじめましてやな〜」と冷やかされながら、並んで手を合わせています。駐車場に戻ると、遼くんが次男の股下くぐりでご満悦です。次男のビデオに収めて、お得意の「真央ちゃんトリプルアクセル」も披露しています。
第二神明走行中に姉から電話が入り、10時に加古川の自宅を出発し、甥夫婦と一緒にお墓参りするとのことです。お墓で待つのも暇なので、加古川市内でお茶することにしました。姉宅訪問予定時間は12時です。走りながら僕が、加古川に「コメダ珈琲」ないかなと聞くと、長男が調べてくれました。家内に「シロノワール」を食べさせたくて、その機会を狙っていました。
11:06、コメダ珈琲到着。僕はシロノワールと珈琲を注文しました。コーヒーはモーニングセットになっており、トーストと玉子も付けてもらいました。長男と家内はコーヒーのみ、あとの3人はコーヒーとモーニングセットの玉子のみ。シロノワールは6等分されていたので、みんなに分けます。家内は初めての食感が気に入ったようです。隣のパパの膝に乗ってる遼くんに、スマホを渡しています。遼くんは片手でスマホを持ち、もう一方でモニターにタッチし、シュッと指を動かして好きなのを指でタッチし、妖怪ウォッチの音楽を流し始めました。スマホを持たない方の手で踊っています。「妖怪ウォッチダンス」だと思ったら、「妖怪ウォッチ体操」だそうです。時代はポケモンから進化しているようです。
また姉から電話が入りました。「スーパーでお寿司を買うからおいで」。長男のスマホ誘導で車を走らせ、スーパー入口で待っていた兄とともに店内に入ります。姉・甥夫婦と合流し、フィアンセさんは、スーパー通路で「初めまして」の挨拶です。今後を考えれば、僕ら以上に長い付き合いになる甥夫婦ですので、末永くお願いします。
お寿司や食材を姉がカートに入れていたのですが、長男がケーキもいるよとどこかから持ってきました。兄が飲み物も買ったらと言うので、紅茶などのボトルをカートに入れ、家内と姉がレジに並び折半精算したのかな?そこは我関せずです。姉妹であ〜だこ〜だ、いつもやってます。チビの時から従兄弟5人集まれば、姉の長女とうちの長男が仕切り屋さんになります。変わらない関係が見えて、微笑ましい。
姉宅に移動し、車庫に車を入れます。寿司パーティーが始まります。すぐに姉の長女一家がやってきて、輪に加わります。姪の娘と息子は小学生だけど、夏の甥の結婚式で遊んでもらったので、遼くんはすぐに子供の輪に入り一人前に遊んでいます。ここでも次男のサプライズプロポーズの写真を見せ、説明します。本人たちがいるので、更に聞き出します。東京湾ディナークルーズ船には、そんなオプションはなく、白タキシードも全て次男が事前準備し、船会社と交渉して実現したそうです。船員さんが気を利かせ、生演奏もそれなりになり、同席したお客さんを更に盛り上げてくれたそうです。クリスマスにはハッピーが似合うから、お客さんも楽しんだのでしょう。
姉も姪も、お嫁さんとフィアンセさんが似ているとしきりです。確かにスマートで、髪の分け目も同じです。雰囲気が似ていると思っていましたが、外見も改めて見ると似ているかも・・・。長男がフィアンセさんとしてお嫁さんを紹介してくれた時に、雰囲気が家内と似てると感じたので、長男も次男も家内を好きだということですね。母親に似たお嫁さんを連れてくるなんて、究極の親孝行だな。遼くんは男の子らしくメカ好きなので、僕のカメラが気になります。僕の懐に入ってきて、ボタンを押しまくります。長男のカメラと同じソニーのミラーレス一眼なので、操作を覚えているのか、シャッターも押します。僕は好きなようにさせているので、無駄な連写が増えちゃいます。幸せなことです。
僕は自宅で収穫した柚子を、それぞれにプレゼントします。次男カップルは、東京土産を同じくプレゼントし、改めて今後も宜しくと紹介しています。15時になり、お開きです。次男カップルは、1/3・大安に地元市役所に婚姻届を出すので、19時の飛行機で東京に帰ります。僕は渋滞のないJR駅まで送って、次男カップルを下ろす予定でしたが、長男は「間に合うやろう」。まあ間に合いそうになかったら、途中で電車に乗せたらいいだけなので、全員車で帰ることにします。
第二神明で渋滞〜阪神高速で渋滞〜深江ICまで来て渋滞解消し、西宮から名神高速で豊中IC下車で、18時前に大阪空港到着。阪神高速・北神戸線は、まだ凍結通行止めでした。ここで次男カップルとさようなら。続いて最寄り駅で長男を下ろします。中高の友人たちと会うそうです。お嫁さんは遼くんと、残ってるご飯で夕食を作って食べるそうなので、僕らはお嫁さんの実家からお歳暮でもらった蕎麦を食べます。
そして遼くんを僕がお風呂に入れる作戦です。長男に入れてやってくれと言われたのですが、新潟のおじいちゃんは泣かれたそうなので、自信は全くありません。僕らが実家に行き、遼くんに、「ジジと一緒にお風呂に入る?」と聞くと、首を横に振ってノーです。一応、僕が先にお風呂に入り、おもちゃをお風呂に入れて受け入れ体制完了。家内とやってきた遼くんは、僕の顔を見て「入らない」の意思表示して、スタスタ部屋に戻っていきます。
やっぱりダメねと風呂から上がり、お嫁さんと遼くんのお風呂のサポートに回ります。お嫁さんが遼くんとお風呂に入ります。「僕がお風呂に迎えに行こうか?」と言ったら、当然家内から「ダメ」と。家内が迎えに行き、戻って来た遼くんに下着とパジャマを着せます。懐かしい作業です。「お手て、出るかな〜」「出たね〜」・・・楽しいな。自宅に戻り、箱根駅伝往路の結果が気になり、TVのニュースを待ったけど、まぶたが重くなり20時過ぎに寝ちゃいました。

1/3また4時前に目が覚めてしまいました。長男と決めた予定は、10時頃氏宮に初詣し、我が家のお墓参りして、丹波篠山にぼたん鍋を食べに行くスケジュールです。
7時になり、外に出ると予想外に道が白いです。北摂・丹波の国境を越えるのは危険そう。9:53、みんなで初詣に行きます。遼くんのペースで歩くので遅いです。すれ違う方が、遼くんに声を掛けてくれます。慎重派でじっと人物評価するので、凝視するだけです。でもバイバイだけはできるので、手を振ると喜んでもらえます。遼くんが初宮参りした氏宮に成長した姿を見せることが出来ました。
長男と相談し、予定変更しました。昨夜の帰宅が23時過ぎだったそうですが、その時点で雪が舞っており、路面凍結でタクシーがいなかったそうです。仕方なく歩いて帰ってきたそうです。坂道が凍結しており、慎重に歩いたそうです。僕を呼び出しても、凍結で車が危ないと思ったようです。
11時頃家を出て、翌日に予定していた神戸アンパンマンミュージアム&カワサキワールドを繰り上げします。ただしカワサキワールドは4日からなので、アンパンマンのみです。R171を走りながら、長男からアンパンマンミュージアムは入場料が1500円と高いので、「神戸どうぶつ王国」に変更の指示が出ました。〜R43〜僕のヨット部先輩がやってる目立つエンジの森本倉庫横から南下し、海底トンネルを抜けてポートアイランドに入ります。ナビゲーターの長男は、昨夜が遅かったので寝てしまっているから、家内と案内板を探しながら走ります。幸い家内が「どうぶつ王国」の看板を見つけてくれて、難なく11:58に到着。入場券を買おうと思ったら、こっちも1500円でした。でも遼くんは無料でした。アンパンマンミュージアムは、1才以上1500円です。
いきなり、ふかふかのアルパカハウスです。動物園と違い、手を伸ばせば触れます。ふくろう・ヘビクイワシ・白頭鷲のゲージがあり、次の順路はペンギンとハシビロコウです。ハシビロコウはペリカンより大きな鳥で、じっと動かず水辺に佇み、肺魚を狙うそうです。近づいても動かず、時折首を動かすだけなので、動くと歓声が上がります。おかしな鳥じゃ。
次の部屋は、レストラン棟でした。ここで昼食にします。遼くんと2人で席でお留守番します。フォルクローレの生演奏をしており、遼くんはそちらを真剣に注目しているので世話なしです。アルパカの形のカレーを買ってきてくれました。味が子供向けなので、遼くんもこれを食べました。オットセイが飼育員と一緒にやってきて、遼くんの前で芸をしてくれました。慎重派なので、パパの懐から興味深げに見ています。時折何か言っていますが、何を言っているのか・・・。
次の部屋は、オットセイとビーバーハウスでした。ビーバーがお気に入りらしく、次の部屋に行こうと手を引いても動きません。ビーバーと言ったので、ビックリしました。次の部屋は、オオハシとカンガルーです。オオハシがお気に召したようで、ターターと何かを訴えています。パパがオオハシの餌・100円を買い、片手で遼くんを抱っこして、もう一方の手に餌の入ったカップ持ち、腕をオオハシの前に伸ばします。するとオオハシが腕に乗り、カップにクチバシを突っ込み餌を食べます。遼くんは怖がらず、興味津々です。
次の部屋は、ゾウガメです。これは動きも遅く、甲羅なら遼くんも怖がらず触れそうですが、手を出しませんでした。次の部屋は、うさぎハウスです。大きなうさぎから、ミニウサギまで触れるのですが、遼くんは戻れとスタスタ戻っていきます。ちょっとサポートしてやると、オオハシハウスまで戻り、他所の人が餌やりをしているのをじっと見ていました。
次は鯉のいる池です。鴨やシギもおり、白鳥・黒鳥・ペリカン・フラミンゴもいます。100円で餌を買ってやると、池のほとりに座り餌を放り込みます。たちまち鯉が寄ってきて餌を食べます。これには興奮したようで、「見てみろ」と鯉を指差して、ターターと僕に訴えます。
次の部屋は、大勢の人だかりです。中央に池があり、飼育員のお姉さんの指示で、鮮やかな色のインコが空中を飛びます。ショーが終わり、人が引くと遼くんは歩き出し、綺麗な蓮の花が咲いているとこに来て、「パパ〜・ママ〜」と叫びます。こっちに来て欲しいようですが動かないので、スタスタとパパママを呼びに戻り、手を引いて蓮の所に来ました。半年前のお盆にも感じたのですが、花が好きそうです。ミミズクと記念写真が撮れるそうで、長男が並びました。家内がトイレに行くというので付き添いました。別の部屋に行かないとダメなので、ここに戻ってこれるか心配です。ペットボトルのお茶を買って戻ってくると、ちょうど長男の順番です。300円払って、お嫁さんがお姉さに腕革を手に通してもらいます。腕革にミミズクを乗せ、お姉さんが長男のスマホでシャッターを切ってくれます。僕はそれをカメラに収めます。遼くんは、親指と人差指のピースでポーズします。最後に遼くんはママが触るのを真似て、ミミズクを触りました。
最後にアルパカをもう一度見ます。遼くんは車で寝てしまい、ここを通った時はパパの腕の中で寝ていました。15:22、動物王国を出ました。長男のスマホに次男からLINEが入りました。「市役所に入籍届けを済ませ、写真館で写真を撮った」とのことで、和服の記念写真が添付されていました。僕らの頃は、結婚式・披露宴・入籍・新婚旅行が、一連の行事でしたが、今はバラバラの行事になっています。次男も長男同様、入籍&新居が同じで、結婚式・披露宴と新婚旅行は別の日程です。メデタシメデタシ・・・。クルマに乗ると、遼くんとパパはコテンと寝てしまいました。R43〜R171で帰宅しました。17:45に再び家を出て、回転すし・スシローに食べに行きました。
帰宅して、翌朝10時出発だけ決めて解散。箱根駅伝は、まさかの2位に5分・優勝候補大本命の駒沢大学に7分という大差を付けて往路優勝した青山学院が、復路まで制して完全優勝してしまいました。2位駒沢大学との差を11分に広げての優勝に、学生スポーツの意外性を感じました。青山学院の選手が、最も意外に感じているのかもしれません。往路5区の登り区間を、圧倒した青山学院が波に乗ってしまったようです。トップ駒沢に、明治と並んで30秒遅れでタスキを受けた新「山の神」が、すぐに駒沢を抜き去り、明治に5分・駒沢に7分差をつけて往路フィニッシュしたのは圧巻です。8時過ぎに、寝ちゃいました。

1/4
お正月休み最終日です。我が家のお墓参りと、丹波篠山にぼたん鍋を食べに行く予定です。10時出発予定でしたが、お嫁さんの洗濯が終わらないらしく、10時に嫡孫・遼くんが長男に抱っこされてやってきました。家内と3人で、屋敷祠に手を合わせます。孫くんは、狛犬代わりのシーサーが怖いらしく、手が伸びません。
僕の草刈り用四輪座椅子・草刈正雄くんを押して遊びます。乗せてやり動かします。門扉を出て、実家北側の空き地公園で歩き走り回ります。鳩が3羽いたので追いかけますが、飛んで行っちゃいました。セキレイもやってきたので、今度はそれを追いかけます。実家北側のカーテンを開けてもらい、「ママが居るよ」と声を掛けると、窓の内側から手を振るママを見つけたようで、「ママー、ママー」と可愛い透き通った声で叫んでいます。用意ができたようなので、実家に戻ります。「ママの所に行こう」と言うと、喜んでスタスタ道を走ります。軽い前傾姿勢で、足取りもしっかりしています。
門扉を開け階段を上がり、玄関扉を開けようとすると中から開きました。パパとママが出てきたので、パパの足にまとわりつきます。再び手を取り階段を下りて、道路を車まで歩きます。白線マタギのがに股歩行で歩き、カラスを指差し「カーカー」と僕らを喜ばせてくれます。車に乗り、r13〜r12で猪名川霊園に着きました。うららかな天気で気温が上がり、気持ちが良い。
事務所前で車を停め、家内と2人でお花を買います。いつもどおり、一対1500円ですが、正月バージョンで少し豪華です。再び車に乗り、お墓の最寄り駐車場に車を入れ、お墓参りをします。墓石に水をかけていると、遼くんが家内のお墓参りバッグからブラシを取り出し、ゴシゴシ墓石を綺麗にし始めました。大人の行動を見て、しっかり学習していますね。「すごい、すごい。ありがとうね」と声を掛けられ、得意満面です。
11:46にお墓参りを終了し、r12を更に北上します。西峠手前で路肩の雪が多くなり、前日ではスノータイヤなしでは通行不能だったようです。日程変更は正解でしたね。R372〜r77で篠山市街地に入り、城址横を北上し、観光協会の駐車場に入れます。トイレを拝借し、観光協会土産物屋さん前の和菓子屋さんで、丹波黒豆饅頭を試食し、上二階町交差点から二階町通りを西進します。熊肉も売ってる獅子肉屋さんの前で熊の剥製にびっくりし、別のお店の店頭では、たぬきの剥製を凝視します。慎重派の遼くんは、手を出しませんが興味津々です。
二階町交差点で、「ぼたん亭」の大きな猪を見上げて、12:43、前回見つけた季節料理屋「大手新丁」に入ります。座敷席があるということでここにしたのですが、「お子さんがおられるから座敷の方がいいですよね」と希望通りのお部屋にお姉さんが通してくれました。衝立で数席に仕切られた和室で、テーブル3つ・座席12席の大きな仕切りを割り当てられ、ラッキーな事に僕らだけでした。遼くんは椅子に固定されること無く、自由に歩き回りごきげんです。
ぼたん鍋は、並4000円・上5000円・特上7000円の3種類で、篠山市街地で最も多い5000円ランクの上を注文しましたが、長男が「並でいいんじゃないの。うどんとかを追加しようよ」と意見に従い並を4人前と、遼くん用にうどん玉を1人前注文しました。値段の違いは、部位の違いで量的には同じです。大皿に山盛りの野菜・山芋・えのき茸・豆腐など、ボタンに盛られた猪肉の大皿、うどん皿、味噌椀が運ばれて来ました。鍋を火に掛け、沸騰してきたら出汁取りの昆布を引き上げます。味噌を全部投入し、猪肉・ごぼうを入れます。続いて野菜・うどんを投入し、グツグツしてきたら火を弱めます。
味噌味が美味しいのか、遼くんはうどん一人前を平らげてしまいました。お肉に火が通ったころを見計らって、僕らも玉子が入った椀に鍋から具を上げ食べ始めます。毎年食べているけど、猪肉鍋は美味いね。具材皿に近いお嫁さんは、遼くんに食べさせながら自分も食べないといけないので大忙しです。同じく横の僕が具材投入奉行になり、火加減も担当しながら食べます。遼くんに、「美味しい?」と聞くと、「うまい」と答えながらほっぺたに手をやります。頬が落ちそうと表現しているのでしょう。
遼くん用と僕ら用にうどんを3つ追加し、うどんで最後の締めです。満腹満腹・・・このお店は初めてですが、他店で5000円と7000円コースを何度も食べましたが、4000円コースでも満足感は変わりません。猪肉も硬くなくナイスです。来年からはこちらになりそう。今度は次男夫婦も加えて・・・。
大満足で店を出て、「西町ブリキ玩具製作所」まで歩きます。元旦にサンタさんがプレゼントしてくれたゼンマイ仕掛け自動車の購入元です。遼くんは興味津々で遊びだしたので、またゼンマイ新幹線を買ってプレゼントしました。店頭に停めてあるバーハンドル三輪のダイハツ・ミゼットに遼くんを乗せたら、クラクションを鳴らしました。お気に入りになったようで、連続3発鳴らした所で、パパに降ろされてしまいました。
武家屋敷筋を歩き、篠山城址を見学します。僕同様歴史好きな長男も、謂れ板をしっかり読んでいます。お嫁さんに、「僕同様、長男も歴史好きだよ」と言うと、「毎週NHKの歴史秘話を見ていますよ。TV録画はみんな歴史物ばかりです」とのことでした。変わらないね。
次男の名前の由来になった青山忠成公のお城です。「東京の青山という地名は、徳川旗本・青山家の屋敷があった跡だよ」と教えると、「へ〜そうなんですね」って。「息子に尼崎城主になった長男と同名の幸成がいるんだよ。うちも氏宮の宮司さんに名前を付けてもらったけど、姓名判断すると同じような名前が出るんだよね」と、教えてあげました。まだまだ話したいことがあるけど、相手は家内じゃないのでほどほどに・・・。
15:04、「ろまん亭」に入り、息子夫婦はソフトクリームを、僕らはケーキモンブラン470円を買って、半分こしました。遼くんもソフトクリームを親から匙でもらってご満悦です。僕らが遼くんを見ている間に、長男達はお土産を買っていました。会社の同僚へのお土産だそうです。僕は、前回買って使いやすかった竹製のお箸をS・M・Lサイズを買いました。1400円。
二階町通りに戻り、「なつかし屋」で紙風船・162円を買いました。車を停めた観光協会前まで戻り、「丹波黒豆饅頭」を買いました。ここから帰路です。長男と遼くんはすぐ寝てしまい、僕とお嫁さんでお喋りしながら帰りました。時々家内が会話に混じります。お嫁さんの実家・新潟のお土産のおかきが美味しかったと話すと、お嫁さんは小型機の免許を持っていないけど、小型機免許を持つ同僚は、新潟便に乗るときは必ず新潟空港でおかきを買って帰るのだそうです。パイロットは1機種のみの免許しか許可されないのは知っていたけど、客室乗務員も3機種のみと限定されているのを初めて知りました。お嫁さんは国際線だったので、大型機のみの免許だったそうです。
r77〜R372〜r12〜r319〜r33〜r325〜長尾山トンネルのコースで帰りました。元旦はスリップに気をつけ慎重に走った真っ白だったr33は、道路外に雪が残っているだけでした。
17時頃帰宅しましたが、お腹はまだ満腹です。19時に夕食にしました。少し昼寝し、19時になりました。長男が、「ご飯食べようか」と誘いに来たので、隣の実家に行きます。家内が炊いた白ご飯に、次男が元旦のフィアンセさん一族の集まりでもらってきたお土産(しらす&桜えび)を掛け、夕食は「しらす丼」です。
遼くんは、ママに作ってもらった焼き飯を大人一人前平らげてしまいました。まだ上手にすくえませんが、横の僕やママがすくってやると、スプーンを持って半分ぐらいこぼさず食べられます。半年前よりかなり上手です。「上手に食べられたねえ」と声を掛けると、得意になって披露しようとします。家内が大げさに褒めまくっています。
僕のカメラで撮った4日間の写真が入ったメモリーを長男に渡すと、自分のPCにコピーしていました。ダイナブックの軽く小型のPCでした。
翌朝、東京に帰る長男一家を空港まで送るために、7:30に家を出ました。実家から出てきたので、助手席から家内が降りて遼くんに挨拶しに行くと、「ジジ・・・ジジ・・・」と僕を探す声がします。僕は運転席なので、窓から顔を出しておはようをします。片道10分で空港に着き、「またね」と最後のお別れです。同じようなお客さんが、前でも後ろでもバイバイしています。
お正月行事を無事終えて、帰宅するまでの間に、「ご苦労様、僕一人じゃこんなにうまく出来ないから助かったわ」と家内を労います。「それはお互い様ね」と笑っています。どちらかが欠けちゃうと寂しいし、息子たちにも心配掛けるから、お互いあと20年ぐらい元気でいたいものです。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
inserted by FC2 system