ウェブマスター日記 2011/3-4

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2011/4/25
日曜日は、バイク知り合いとツーリングでした。当初、岡山県の「広域農道はしご」の予定でしたが、夕方雨確率が40%ということで、播磨ウェルカムゲート・ツーリングになりました。タイヤを変えたところで滑りやすいから、ウェット路面は走りたくないそうです。ウェルカムゲートなんて、僕は利用したことなく、新世界に踏み入れが楽しみです。
僕は、二輪のタイヤ交換なんて、原付50ccしかしたことないから、新品タイヤが滑る体験がありません。「へ〜そんなまんなんあや」です。雨も降って来たら雨宿りして、止まなかったらカッパ着て走るだけなので、あまり気にしません。
朝6時に第二神明明石SA集合なので、4:30出発予定を立てました。遅れたら迷惑かけるので、一応目覚ましを掛けましたが、4時前に目覚め、いつものように目覚ましは必要なしでした。家内と今日のことを話していなかったので、置き手紙しました。「播州にツーリングしてきます。午後帰宅予定。映画「阪急電車」観に行こうか?18:10〜」。
「夏用プロテクタージャケット・パンツ+釣用シマノ防水上下」という春秋装束です。宝塚ICから中国道に入り、西宮北から阪神高速7号線で明石に向けて南下。途中縦溝区間があってちょっとおっかない。制限速度表示が上がっていました。スピード違反ドル箱路線だから、減収になってるでしょう。
第二神明に合流して、75km/hほどで走ってる車の後ろで、ちょうどいい感じで明石を目指します。大型バイクがギューンと抜いていき、バイクが1台後ろにつきます。抜かしていかないので、バイク友のようです。明石SAで左ウインカー出すと、後続バイクも同様に。
バイク置き場に停め、「おはようございます」の次の言葉が、「えらい霧ですね〜」でした。大久保付近から、霧が出ていました。で、「龍野西ウェルカムゲート」から探索する予定が、さらにショートバージョンに変更です。
まず、「別所PA」まで自由走行。第二神明から加古川バイパス・姫路バイパス走行。「別所IC」を下りて、「権現湖原PA」に向かいます。途中コンビニでホットタイム。僕は着込んでるから平気ですが、寒いのでコーヒーで温まり生き返っておられました。「神吉」は、有岡城より前に惣構えの平城があったところ。探索予定地です。r65で家内の実家の前のお墓横をかすめ、「平荘湖」到着。平荘湖道標は、家内の実家に帰るたび、何度も目にしたところだけど、初訪問です。周囲をランニングコースが巡ってるようで、トイレやお風呂がある施設があります。
自転車で一周するのもいいね。「夫婦で自転車」で、北条〜三木した時走った道を北上。「権現湖」脇を通って、枝道に逸れて小高い丘に入る・・・と、そこには「権現湖PA・ウェルカムゲート」がありました。
「ウェルカムゲート」って、先月岡山で初利用した「スマートIC」とは違うものでした。スマートICは、SAに併設されたETC専用出入口ですが、ウェルカムゲートは高速道には入れません。PA従業員用の駐車場を開放して、高速利用者以外にも来店してもらおうというもの。
駐車場にバイクを置いて、徒歩でPAに入ります。「なるほど〜」、こんなのがあるのを初めて知りました。一般道からここに入る交差点には、何も表示がなく、枝道のようなアプローチ道なので、ここにたどり着くのは大変です。バイク友さんも、何度もミスロードして発見したのだとか。
続いて、「三木SA・ウェルカムゲート」へ。JR加古川線の現在の家内実家お墓最寄りの「厄神駅」横を通過。見覚えのあるr20を東進。「夫婦で自転車」でここも走りました。あの時は、廃線になった「三木鉄道」の駅を訪問したな。
神戸電鉄「三木駅」の横を通りました。とても趣きのある駅で、1人だったら寄り道してたでしょう。こないだ探索した「三木城址」横を走って北上。三木城址探索の時、竹中半兵衛のお墓探して反対に曲がった交差点を曲がり、「クリーンセンター」と書かれた交差点を曲がって丘に登ると、「三木SA・ウェルカムゲート」がありました。ここの交差点も「ウェルカムゲート」の表示なし。ウェルカムゲートには、上りSAと下りSAを周遊する一方通行ルートの図が書かれています。
面白い。お客さんを呼びたいけど、この駐車場の大きさで、従業員さんや納入業者さんの車のことを考えると、いっぱい来られると対処できません。苦渋の姿が容易に想像できます。「グリコショップ」などSA内を探索し、お土産に真っ黒なロールケーキを買いました。バイクに戻り、周遊コースを走って反対側の「三木SAウェルカムゲート」へ。こちらで朝食。僕はまたイチロー真似で朝カレーとしてコロッケカレーを食しました。
「呑吐ダム、行ったことありますか?」。バイクが集まり、珍しい車も集まるところだそうです。行ったことないので、連れていってもらいました。三木城址探索で利用したr38を東進し、その時寄り道した神社の交差点を南に入るとダムでした。バイクのたまり場になってる駐車場は、想像していたより小さく、売店もトイレもありません。
自販機が数台あるのみですが、バイクが10台ほどいます。オープンにしたダイハツ・コペンがいます。年配のご夫婦と思われる方が乗ってきたみたい。奥さんが乗馬のロングブーツ+ハンティングキャップでかっこいいです。ああいう夫婦になりたいな。おお〜ホンダS800。オーナーさんは、外車と思われる2シーターの小型オープンカーの方と話しています。ホンダのS8の維持には、随分お金が掛かるでしょう。すごいな。2シーター・オープンライトスポーツの現役は、コペンとマツダロードスターしかないけど、楽しそうです。同じオープンでも、メルセデスとかだと、ラグジュアリーだけど、軽快にクキクキ走る感じじゃなさそうです。昔のゼロ戦じゃないけど、ライトウェイトなのは、動かしてて楽しそうです。
霧はすぐに晴れましたが、風が強めで空模様があれです。雨に降られないうちに帰宅ということで、ここで解散です。r85をそのまま進み「箕谷」。r15で「唐櫃台」〜「有馬温泉」。r51で宝塚まで下りてきて、帰宅はお昼頃になりそう。ううむ、家内の予定を聞いてないから、帰っても1人かもしれない・・・R176を右折しr33で北摂里山地域突入しました。
r33・r68・r49で「母子」方面に向かい、r49とr308の間の山道を母子に抜ける道探索することにしました。「ここかな?」・・・またr49に戻っちゃったし・・・。「ここかな?」・・・「この先行き止まり。渡れません」の看板で撤退。「ここかな」・・・3度目でビンゴ。数軒の家・・・別荘のようです。さらに進むと、「ありゃ、地道に」。はたと思案しますが、踏み固められてる感じなので、行けるところまで行きましょう。
ここで、ポツポツと雨が落ちてきました。山に入り、上空を暗い雲が流れて来たけど、小さい雲なのでGOしてました。木陰に避難。通り雨だろうから、舗装路まで引き返そうとUターンし、軒先のある小屋の手前まで来て、前方の舗装路はどしゃぶりになってます。典型的な小さい雲から降ってくる雷雨模様です。「え〜」って小屋の前でバイクを停め、軒下に緊急避難。「ザ〜」って大雨になってしまいました。雷は鳴っていませんが、結構な雨です。でも空の半分は薄い雲のエリアなので、カッパを着ながら休憩。
10分ほどで雨が上がりましたが、探索の地道の状態は想像でき、本日の探索は終了・退却となりました。r49志手原まで戻ってくると、濡れてる路面具合もマシだし、r68・r33で「長尾山トンネル」まで来ると、雨が降った形跡なしです。

そのまま帰宅すると、雨戸が開いています。家内がいるようです。「ただいま〜」「早かったね」。バイク7に、家内のバイク装束を買いに行きました。先週木曜日に、明石運転免許試験場にて、AT小型二輪免許を取得してきました。合格ぎりぎりの90点だったそうです。僕と同じコミネのプロテクター・メッシュ・ジャケット&パンツを購入。ジャケットは、サイズSがなんと定価の半額近い5980円でした。6000円程のが2割引になってたSサイズグローブを購入。女性用の小さいのは、種類が少ないね。おしゃれなのはプロテクターないので、安全性に問題ありそうだし。
一旦帰宅し荷物を置き、讃岐製麺にスクーター2人乗りで昼食に繰り出しました。帰宅後、リート110で、家内公道デビューしました。自宅周辺をぐるりと回ってくるだけだけど、自信なさそうです。まあ僕も、四輪免許取得後、初運転で町内をぐるりと回ってて、狭い道で内輪差で電信柱にぶつけてドア凹ませたし・・・。怪我しなかったらOKですよ。
映画の時間になるまで、自宅で昼寝TV。その間、僕が買ってきたロールケーキの箱を冷蔵庫で見つけ、「これ何?」「お土産、真っ黒なロールケーキがあったので買ったの。イカスミかなあ?」「黒豆じゃないの?映画の後食べようか」。
ということで、またスクーター2人乗りで、映画館に向かいました。「阪急電車」という映画で、阪急の食材宅配に入ってたパンフレットで、家内が観に行きたいと言ってたやつです。
僕が10年通った阪急宝塚線での出来事をオムニバス風に紡いだ素敵な作品でした。西宮北口〜宝塚までの車内・駅、その周辺。この沿線なら最も絵になるのできっと出るだろうなと思ってた母校の正門〜中央芝生〜時計台〜甲山の風景がやっぱり登場し、母校学生やそこを目指す女子高生が重要なストーリーを展開していました。この1年でNo1作品でした。
僕らは、大学の同級生夫婦です。学生時代に知り合い、卒業2年後に結婚しました。2人の母校が太線で登場し、僕らが結婚式を挙げた学校内チャペルが正門から時計台風景の脇に映り、披露宴をした宝塚ホテルが、物語の中の最初の重要シーン結婚式で登場。これ以上僕らを喜ばせる映画はないでしょう。
先行上映2日目ということもあるでしょうが、「三丁目の夕日」以来のお客さんの数でした。阪急沿線ローカルでは、大ヒット間違いなしです。
ルンルンで帰宅し、ロールケーキのおやつ時間です。「イカスミ?」「黒豆?」、両方不正解で、黒い元は「竹炭」でした。見た目は真っ黒ですが、お味はビューティフルでした。またまた素敵な休日になりました。

2011/4/18
日曜日は、大学ヨット部の新人勧誘の手伝いでした。11時に京都の大学正門なので、朝に余裕があります。2週間後に迫った長男夫婦の帰省に供え、庭の手入れです。長く咲いてくれている黄色いスイセンとチューリップが見頃で、他に名前を知らない小さな花が咲いてくれています。が、春になりだんだん庭がジャングル化してきました。
軍手はめて30分ほど、腰を落としてゴソゴソしました。いつも難儀な刺のある草がまた元気に復活しています。電動枝切りで、根っこの方までカットしてやりましたが、どうせ焼け石に水でしょう。暑すぎないことで汗はかかず、虫のいないのでネットを被らずにできるのでマシでした。
8時になり車で出発です。家内は、午前中教習所のようです。ということは、木曜日の2度目の卒検もダメだったんだな。玄関出てから、わからんように「頑張れ〜今日は絶対合格するよ〜」と家に向かって念を入れておきました。黄砂が飛んできているのか、フロントガラスの雨粒の跡がくっきりです。我が家の敷地は道路から数段上がっており、造作出来ない青空駐車場を借りるしかないので、仕方ないです。長男が帰ってくると使うだろうから、その前に洗車もしなきゃ。
名神に乗り、京都を目指します。例年なら、朝一番に京都入りし、一眼レフで桜を写してから大学正門に向かうのですが、もう桜は終わりです。8時半過ぎに「桂川PA」到着。先月ご一緒したバイクグループさんが、ここで集合し、「三井寺」他を回るそうです。顔だけ見に寄りました。9時半集合なので、まだ時間があります。最近通過ばかりの「桂川PA」をじっくり回ります。名神高速は、ここから作り始めたそうです。その記念碑や説明板を読んで、売店を冷やかし、たくさんいるバイクを見ながら車に戻ります。
向こうから見たことのあるBMWのバイクとCB400が入ってきました。そして、僕の車の横に停まりました。「おはようございます」「あれ〜、服装が違うから・・・」。ポツポツとグループのバイクが入ってきて、皆さんとおしゃべりし、一緒にPAを後にしました。僕はすぐに「京都南IC」で下車。R1を「東寺」。五重塔を横目に「東大路通り」を北上し、正門到着。改修中で、時計台前に直接車が入れません。守衛さんから教えてもらったスペースに駐車して戻ると、昨秋の全日本470中、我が家で合宿したタシロ君がやってきました。
現役や若手OBが車でやってきて、新入生も集まってきました。今日は30数名やってくるそうです。「えっと、恒例の折田先生像は、今年も出た?」「ありましたよ。もう撤去されちゃいましたけど」「ガーン、僕は毎年春最高に楽しみにしてるのに〜」。僕は第3陣で新入生を満載して出発しました。北白川から「山中越」で琵琶湖・近江神社に抜けます。戦乱の世、この山道を数々の軍勢が京都に攻め上り、敗走・凱旋したのでしょう。
僕は京都・琵琶湖ピストンを1回だけで、レスキューに乗り込みます。2回生オオニシ君と、次男同期のイリグチ君と同じく当時男子部員人気No1だったジュンコさんで、レスキュー担当です。この時期、各大学とも新人勧誘真っ盛りです。仏教大はハーバーでなんやかややってるし、沖では立命館も新入生を乗せて走っています。マークを4つ落とし、試乗会エリアを限定し、その中心にアンカリングします。インフレータブルでハーバーからやってくる新入生を各ヨットに載せ替える基地です。2種類のヨットに乗るので、トラピーズハーネスの着せ替えなど、仕事はいっぱいです。
第1陣が乗ってきて、第2陣がやって来たときに電話が鳴り、なんと車が足らないから大学正門まで来て欲しいと・・・慌てて、アンカーを上げてハーバーに戻り、僕だけ下船。また山中越えして大学正門へ。また部員満載して琵琶湖に戻ります。艇庫で部員にレスキュー艇のことを聞くと、僕の代わりが乗ったとのことで、陸上待機することにしました。
新入生にヨットの事を説明するのをひと通り聞き、マネージャー手作りおにぎりで腹を満たし、ハーバーうろうろに出かけました。琵琶湖ジュニアのお母様方と思われる方々が、お茶してます。元ボートレース建物横の倉庫が開いており、中を覗くとOPが入っています。お茶してるお母様方に声を掛けて、琵琶湖ジュニアの元艇庫を教えてもらいました。前の艇庫と、そんなに大きさも環境変わらないね。ハーレム状態で、コーヒーやお菓子をご馳走になり、あ〜だこ〜だおしゃべり。息子の大学先輩で、琵琶湖ジュニア選手現役パパさんのムラヤマさんが来られて、またペチャクチャ。
夕方になり、OPが戻ってきたので艇庫に帰ると歩き出すと、「あれっ?何でここに?最近バイクに乗ってるんやてねえ」って、琵琶湖ジュニアパパOBのヤスダさんに声を掛けられました。「いやあ、新人勧誘の手伝いで・・・」。中学生の時僕がアセアン選手権に連れて行った息子さんは、ロンドンオリンピックまっしぐらです。またあ〜だこ〜だ喋ってると、「あれ〜、なんでここにいますん?」って、立命館のソワ君がやって来ました。早いもので、もう4回生になったそうな。
親御さんも元気だそうです。またあ〜だこ〜だしてると、今日琵琶湖ジュニアコーチしてた次男と同学年の元琵琶湖ジュニアなかがわ君が、そしてテルミちゃんが・・・。結局試乗会が終わるまで、あ〜だこ〜だで楽しく過ごせました。試乗会が終わり、合宿所で鍋です。また手作りおにぎりで小腹を満たし、終了の7時半を待ちます。全部終了して、また新入生を満載して「山中越」で大学正門まで戻り、お終いです。
名神でグーンと帰宅。家内は食卓でお勉強です。そこで目ざとく僕は見つけてしまいました。食卓のテーブルに貼ってあった卒業検定コース図が無くなっていることを。「おおっ、これは合格したな」。トイレに張ってあったのも処分されています。「おお〜、こりゃ確実」。ということは、合格祝いケーキがあるかも?と期待しましたが、午後から出かけた神戸の帰り、阪急夙川駅構内にある美味しいところで食べてきたのだとか。「朝食べたっきりで、エネルギーがなくなり、家に帰れつきそうになかったから〜」「そりゃ大変」。
「見せてあげようか〜」って、教習手帳を見せてくれました。第1段階実技・通常3時間のところを7時間だと思ってたら、9時間でみきわめ合格でした。第2段階・通常6時間のところ9時間でみきわめ合格。上達してるね。卒業検定1回目は、S字でポールにぶつかってアウト。2回目は、一本橋で脱リンアウト。3回目で目出度く合格でした。可愛いんだけど性格男で、度胸も座ってるのに、教習で失敗しないところでつまずいてたみたいです。
「コースに3人、背広着た人がいたの。コースを作り替えると聞いてたから、その下見だと思ってたら、適正な卒業検定してるかどうか警察の人が来てたんだって」。「警察の3人と、教官の試験担当官の点数も、ほぼ一緒でご協力ありがとうございました」って、試験後教官が言ってたのだそうです。「じゃあ、いつもより厳しかったのかも?すごいじゃん」と、いつものように、大いに褒めておきました。
「明石免許試験場」に、いつ受けに行くの?「うんとね〜・・・」。「朝6時に明石駅に行くと、その日の試験問題を教えてくれる人がいるんだって」と教官が言ってとか。ほんまかいな?夕食を食べ、気持よく1日が終わりました。

2011/4/11
日曜日は、グループツーリングでした。今年に入って始めたグループツーリング。3度目ですが、毎回バイク知り合いが増え、楽しみが増えてきました。AM10時に家から30分ぐらいで行ける道の駅集合なので、それまでにいろいろ回ろうかと思っていましたが、県会議員選挙の日でもあり中途半端になってしまいました。朝7時から投票なので、朝風呂に入ったり食事しながらダラダラと過ごしました。去年、長男の結婚記念に植樹した庭の「はなみずき」は、相変わらず生きてるのか枯れちゃったのか不明なしょんぼり姿です。数日前に、購入した植木屋さんで他の「はなみずき」見てきたら、新芽が育ってる風もなく、ちょっと安心しました。相談して、肥料を購入し、金曜日に投入しておきました。きっと大丈夫でしょう。
7時になり、家内と公園内の会館に投票に行きました。自民・公明・みんなが当選で、民主があかんような気がするけど。ゴウちゃんのお父さんは、今回も安泰な気がする。はてさて・・・。公園の桜が満開で、鳥インフルエンザ禍で規制線が張られてた梅の丘も回りました。こっちはもう花が終わり、枝が剪定されています。家の周りに、バズーカレンズを備えた一眼レフさんが数人おられ、鴨撮るの?ってちょっと不思議な光景がありました。
帰宅後、家内は教習所に向かいました。僕はツーリングに出ます。まだ早いので、長尾山トンネル抜けて北摂里山地帯に入り、r33・r319でr12に抜け、「杉生」からr602に入りました。うすピンクの桜もいい季節ですが、なんといってもコブシの白が里山の斜面に目立ちます。山はまだ若葉の薄緑ではありませんが、深緑の白を散らせたようにコブシがいいアクセントになっています。
r602でR173手前の「森上」まで来て、「岐尼神社」に寄り道しました。謂れを読むと、祭神に古の神々に混じって「源満仲」が入っていました。さすが地元、清和源氏の祖ですね。裏山には「能勢氏」の山城があり、それを攻城した山下の「塩川氏」の戦闘で焼かれたことも記されていました。どちらも満仲の末同士の清和源氏流れの豪族ですね。その後、織田勢力の西進により再び焼かれ、江戸時代になって再建されたとか。拝殿裏に回り、その桧皮葺の本殿を拝見。覆い屋でしっかり守られていました。なかなか立派な本殿でした。きっとこの神社から山城への取り付き道がありますね。探そうと思いましたが、そろそろ時間なので撤退です。
すぐにR173です。この交差点にあるのが道の駅と思っていましたが勘違い。数分南下して、「道の駅・くりの郷」到着。バイクが多いです。どこかなと思ったら、すぐに分かりました。原付二種2台+リーダージュベル200さん3人来ておられ、二種さんとは初めましてのご挨拶。結局この4台でのツーリングになりました。僕が一番後ろを走ることになりました。
目的地は、「日吉ダム」とのことです。R173を北上、篠山側に下るところにある縦溝が嫌だなあと思っていたら、「はらがたわトンネル」を抜けたところで、右折。r731・r54で「るり渓」を抜けます。いつも僕はr453でR372に下りるのですが、r54〜R372は初めてです。r453もいいですが、r54もなかなか楽しいです。
R9を越え、r19に入ると「日吉ダム」です。いつもダムを通過し、美山の方に向かうのですが、初日吉ダムです。駐車場にバイクが多いです。日吉の周りの京都の山道に入るのか、プロテクター装着の本格的なオフローダーのグループもいます。ダム堤体に向かって歩きます。途中に、温泉と温水プール棟があり、一大レジャーゾーンになっています。横の桂川には、少々色あせてますが、鯉のぼりも渡ってます。
寒いと大変だなと思い、冬装備で来たのですが、さすがに暑いです。たくさんやってきてるローディーは半袖の方もいるし・・・。もう冬装束はお蔵入りですね。堤体下まで行くと、エレベーターで上まで上がれます。ダム上を歩き、今度は下って花見公園で休憩です。ちょうどいい花の見頃ですが、お客さんは少なく、グループで宴会するにはもってこいの場所です。草地の鹿糞の多さが気にならなければね。
駐車場前まで戻り、レストランで昼食です。僕は二種女子さんから教えてもらった「ダムカレー」にしました。ご飯がダム型になっており、古代米のご飯も載っています。ダムを決壊させて食しました。二種さん2二人は、五目うどんです。そばみたいに細めのうどんは、五目が入っているのでうどんの白ではなく、そばと勘違いしそうです。リーダーさんは、わらじみたいに大きなコロッケ定食。普通のコロッケの3倍ぐらいありそうです。
日吉ダムで作られた「天若湖」の西岸を南下し、キャンプ場みたいな広い公園に寄ります。キャビンが点在し、散策路もあります。「山桜小道」を天若湖畔まで歩きました。帰りは山道を行こうと思いましたが、思いの外勾配を稼ぐようなのでやんぺ。
ここから帰路。能勢のログハウスに向かって往路と同じ道を帰りました。僕が一番大きな排気量なのですが、皆さん速いです。グーンとアクセルを開けなければついていけません。僕の技量では、山のワインディングに入ると、周囲の自然を愛でるいつものバイクツーリングは無理でした。まあこういうのもアリですが。
深山を回りR173に戻り、「気遊」というログハウス喫茶店に寄ります。裏側の崖下がR173旧道でした。ここで新たにお二人と合流。堺の方から来られた方と、尼崎?から来られた方です。僕以外は、ログハウス喫茶店巡りをしておられるお仲間のようです。ここで2時間ぐらいおしゃべりしたでしょうか。ログハウス巡りのスタンプ押してはりました。スタンプラリーですね。僕はこういうスタンプ集めに手を突っ込まないようにしています。最後の1つとかが気になって仕方なくなるからです。「ダムカード」というのがあるらしいです。日本全国のダムの事務所で、無料でくれるそうです。でも北海道から沖縄まで渡り歩くことになり、ダム事務所はお役所仕事なので、ウィークデーの5時までとかしか開いてなく、かなりな難度らしい。ダムカレー食べたとき、おまけでダムカードに似せたものが付いていました。う〜む。
清算し、ここの駐車場で解散です。アドレスさんが一抜けし、僕が二抜けしました。「森上」でr602に入り、r12「杉生」に抜けました。往路で桜が綺麗だったので、もう一度です。お墓に寄りました。バイクだったので、下の事務所でお花を買えませんでしたが、お墓の掃除をして満開の桜を両親と堪能しました。あと20年ぐらいは、しゃんと生きれるかな?ヨボヨボになる前に、あっさりと子供たちにいいイメージのままここに入ることにしよう。
帰りは、いつもののんびり走りで、長尾山トンネルを抜けて帰りました。桜も綺麗でしたが、やはりコブシの白が素敵でした。次は「フジ」の紫の季節、そして「はなみずき」に続きます。今年も盛夏まで、山の樹花が僕を楽しませてくれるでしょう。我家の庭は今、黄色スイセンとチューリップが咲いています。お隣がこの時期だけ貸してくれる梅の盆栽も見事に咲いています。家内は枯らさないように必死ですが。

2011/4/4
昨日は、長男のお嫁さんの妹さんが大阪にやってきたので、その見送りに伊丹空港まで行ってきました。お嫁さんは器量良しで、穏やかで強い芯を感じる女性です。美人三姉妹の2番目の妹さんが、友達の結婚式で大阪に来ました。土曜日に式・披露宴などがあり、お昼の便で帰ります。空港は自転車で10分ほどの距離なので、一緒にお昼を食べて見送りする予定でした。
夜明け前に起きればバイクでひとっ走りしようと思っていましたが、目が覚めた時は外が明るかったので、早朝自転車にしました。ウグイスの声が聞こえたら自転車再開予定だったのですが、3月中に鳴きませんでした。で、4/1エイプリルフール再開にしました。まず定番の空港・猪名川土手コース、次の日が植木屋さん畑巡りコース、そしてこの日は荒木村重・有岡城コースにしました。
有岡城は、日本の城作りには珍しく惣構えの城でした。中世ヨーロッパ都市国家と同じように、南北1.6km・東西800mの都市全体を城域に内包する形です。子供の頃から堺を見てきたので、堺の都市国家に習ったのかもしれません。まず惣構え北の守り「岸の砦跡」の猪名野神社を訪問しました。土塁がそれとわかるように残っています。多分当時は2倍ぐらいの高さだったのでしょう。北側の川が流れる道と西側のバス道は、堀跡でしょう。東側は段丘なので、自然の崖で守られています。
次に西の守り「上臈塚砦」。それに向かって自転車を走らせます。南に向かって少しずつ下がっていきますが、西側とは明らかに高低差があります。今は道路などで緩やかな坂に削られていますが、東側の段丘から続く丘の地形を利用し、西側の丘の切れ目までを城域としたのが分かります。この砦跡は、信長勢に落とされた時に虐殺された女子供の霊を祀ったお寺の敷地内になっています。この日は訪問せず。
続いて南の守り「鵯砦」。ここが確認できないんですよね。ここも東のJR線に向かって大きく下る場所にあり、南側も勾配を増して下ります。周囲から高くなってる丘全体を城域にしています。今までは適当に探索していただけですが、この日は念入りに探索しました。自転車を押して、路地の奥まで入りどん突きの民家まで行ったりしましたが、結局確認できませんでした。「ひよどり公園」という小さな公園があり、周囲を探索した地形や高低差を考えても、すぐ近くだと思うのですがありません。2つの砦跡が、他所の城跡同様神社とお寺になってるのに、最後の1つが行方不明です。日本人気質から考え、祠ぐらいは建ってるのが普通です。村重が滅んで以降も、酒造りの町として栄えた街域です。多くの死者を出した砦を、何も残さず他に利用するなど考えられません。公園の隣が大きめのマンションで、この塀の中なのかな?それとも周囲の民家の庭にひっそりと守られているのかな?縁のある方が代々守っている気がしてなりません。
この日は駅前の天守閣には寄らずに家に戻りました。まだ時間があるので朝風呂、そして洗車しにGSに行きました。帰宅して10時前。早いけど車で空港に向かいました。通勤リード2人乗りを考えていたのですが、土曜日より気温が下がったので家内に風邪を引かせたらまずいので車出動です。
空港に着いて、まずお店を探しました。日本料理のお店が良さ気でしたが、滑走路が見えるビッフェもいいです。他にもたくさんお店があり、目移りしてしまいます。お土産物屋さんを覗くと、美味しそうなケーキ類があちこちのお店で目につきます。今回のお土産は、宝塚ホテルのケーキ?お菓子?を家内が買ってきましたが、軽くお使い物が必要なときは、百貨店ではなく空港に来れば事足りそうです。
滑走路の見えるロビーで椅子に座り、家内とあ〜だこ〜だ。予定の11:15に近づいたのでJALカウンターに下りたら、ちょうど電話が入りました。モノレールの空港駅に着いたそうです。空港駅の方に歩き出すと、すぐに見つけられました。長男の結婚式の時1度会っただけですが、わかるものです。
彼女の選択は、「せっかくだから滑走路の見えるところで」ということで、3Fビッフェの滑走路に向かう席で食事をしました。僕はまたカレー。声がお姉さんそっくりです。聞き上手なのでとても話しやすい。男の子にモテそうです。
彼女はハワイで結婚式を挙げました。長男夫婦も一緒に行ったのですが、長男とお姉さんが英語がペラペラなので、尊敬しちゃったそうです。でも2人とも必要な仕事柄だから、どうって事ないと思うけど。「お父さんもペラペラなんですか?」って聞かれてしまいました。スクールイングリッシュだけの僕がペラペラな訳ないけど、ジュニアのナショナルチームを引率して大会関係者とコンタクト取れるぐらいは大丈夫です。次男も1人で格安チケット取って海外に出るぐらいだから、大丈夫なんでしょうが、息子たちが英語を使ってるところを見たことがありません。次男がアルゼンチンでのレースでお世話になった向こうのコーチが来日したとき、2人でサポートしたけど、僕ばかりしゃべってたし。「お父さん、英語出来るの」なんて驚かれた。海外レースに引率した時も、選手から「すごい」と言われました。そこいらのおっちゃんなのに・・・と思ってたみたい。笑顔とジェスチャーがあれば、大丈夫だと思ってる。普通に学校で英語の勉強してたら、発音を気にせずゆっくり喋れば、案外通じるものです。英語のイントネーションなんて、いろんな国でバラバラだから、学校でスピードとイントネーションを言い過ぎるから、喋れなくなると思うんだけど。
12:15になったので、またJALカウンター前に下りました。ちょうど一緒に帰る友達がモノレールで到着しました。ここでお別れです。僕らがこの世からいなくなっても、長男とは長く付き合うことになる人です。よろしくね。
帰宅し、家内は教習所に向かいました。今日は学科のテストです。これに合格しないと、実技の卒業試験に臨めません。朝晩と、問題集をしゃにむに解いていますが、平均70点台だそうで、90点取らないと合格できないから今日は小手調べなんだとか。

僕は、バイクツーリングに出ました。亀岡〜JR保津峡間の保津川沿いの道の探索です。去年、長男夫婦と一緒に下った保津川下りで、船頭さんが川沿いに嵐山まで行ける道があると言ってたので、それを確認にです。「夫婦で自転車」のコースを考えています。亀岡に車を置き、嵐山まで自転車で下り、嵐山でごそごそしてJRで戻ってくるコースです。
まずは亀岡まで。先週改修成ったR477を使ったので、1本東の南北の道であるR423利用です。池田からR423に入り、子供の時の思い出がいっぱいある「不死王閣」、余野川の渓谷沿いを走り北上します。午後なので車が多く、朝のように快走路とはいきませんが、豊能町に入るとそれなりに楽しいです。
亀岡に入る前の斜度のあるヘアピンカーブで僕はゆっくりになるので、後続車もあることもあり、「柚原」でr733にチェンジしました。ここからは交通量がほとんどありません。r407へのショートカットで、山道に入り、r407を亀岡盆地に下りたR423合流まで走りました。
R423直線で、やんちゃそうなお兄ちゃんが乗ってるスクーター数台が法定速度で走っています。・・・ネズミ捕りをしていました。京都縦貫道下の信号で止まると、「やっぱりやってたな〜」と上機嫌です。誰かが「ゆっくり走れ」司令を出したようです。両側田んぼの見通しのいい区間ですが、制限速度40km/h・イエローライン。調子よく走る車を、容易にお縄に出来ます。むむ〜。
道なりにR372になり、R9を突っ切ってr25。そのまま「保津川下り」乗船場を越えて橋を渡る予定でしたが、「篠宮八幡」さんを探しに行くことにしました。ここは足利尊氏縁の神社です。清和源氏末源頼朝が作った鎌倉幕府末期、倒幕の狼煙を上げた後醍醐天皇方を討つため鎌倉幕府側から派遣された尊氏は、天皇方を破り天皇を壱岐に流す。再び伯耆の国で倒幕の旗揚げした後醍醐天皇を再び制圧に赴くが、今度は丹波のここ「篠村八幡宮」で、天皇方に寝返る。京都の幕府方守護・六波羅探題を落とした。鎌倉も新田義貞などに滅ぼされ、鎌倉幕府は滅ぶ。
その後複雑な経緯で、新田義貞・楠木正成など後醍醐天皇側と戦い破れ、九州に落ちて行く。再び勢力を盛り返した尊氏は、「湊川の戦」いで新田義貞・楠木正成を倒し、京都に入った。後醍醐天皇は、「三種の神器」を足利側に渡し皇位を譲って和平し、室町幕府が成る。でもすぐ譲った「三種の神器」は偽物として、後醍醐天皇は吉野に逃れ、こっちが正式な天皇流れとして南朝を立てる。ここから長い南北朝の戦乱時代になる。
「太平記」のハイライトの「篠村八幡宮」ですが、初訪問です。「六波羅探題」との戦闘に向かう諸将が鏑矢を盛り戦勝祈願した「矢塚」。「足利尊氏旗揚げの地」の碑。各地から集まって来る友軍の目印にした源氏の白旗を立てたやなぎ。僕には、「おお〜」という名所ですが、お宮は小ぶりで拝殿も本殿も小さめ、観光客用駐車場もありません。「う〜む」な感じですが、大満足でした。八幡様の裏道に「旧山陰道」と書かれていました。今まで思ってた表側の道とは違ってたみたい。
バイクで裏道側に出て、これで亀岡に向かいました。予想通り、少し走ると表道に合流しました。京都側に走ったらどこで合流するのかな?さあ、本日のメインに向かいます。そうそう、境内に土俵がありました。大相撲は八百長事件の後始末で大変ですが、膿を出して復活して欲しいです。
r25に戻り、保津川を渡ります。川沿いの道へのアプローチが分からず太めの道を下流方向に入ってみましたが、山裾住宅地の迷子道に入り標高を上げるばっかりです。とうとう行き止まりに行き着き、「亀岡・・」という力士生誕地の碑になってしまう。道を戻りながら、見晴らしの良さそうな枝道を見つけ、徒歩で偵察に行ってみると、崖の上です。下界を俯瞰し、目指す道を発見しました。保津川下りの川船がくぐる沈下橋の道がアプローチ道でした。
「え〜、また川を渡るの〜」とがっくり。次の分かれ道を凝視すると、川に向かって下ってそうです。チャレンジするとビンゴでした。目出度く川沿い道にアプローチ。下流を目指します。「通行止め」の看板が立ってるが「請田神社」までは行けそうなので進みます。神社到着。ちょうど「ラフティング基地」の対岸でした。「保津川火祭り」で有名のようです。謂れによると、祀られている「大山・神、美保津姫命」は、亀岡を開拓した神で、出雲地方からやってきたとのこと。
年代不詳のようで、「古事記」・「日本書紀」の時代、天皇家の勢力拡大の流れに合致しているなと、ちょっとフムフムしてしまいました。神々の戦いという神話になってるけど、地方豪族のダイナミックな攻防を、勝者の天皇家が自らに都合のいいように書き残したのだと思っています。
「起点・F401A002・京都府」の四角い標識が立っています。府道401のようです。ここにも通行止めの看板がありますが、道が塞がれてる風でもなく、程度は良くないがアスファルトが続いているので進みます。すぐに舗装が切れ地道になりますが、最近穴ぼこを砂利で埋めている形跡があり、放ったらかしの道ではなさそうです。「土砂崩れあり。自己責任で」の看板。進みます。やがてアスファルト道になり標高を増し、保津峡渓谷を眼下にして素敵な景色の道になりました。「トロッコ軌道」も見えます。トロッコと渓谷を、JR山陰線鉄橋が渡る所に来ました。「もうすぐJR保津峡駅だな」と思った矢先、土砂崩れ現場になりました。元々1車線道だったのが、3/4土砂で塞がっています。
渓谷側1/4は通れ、二輪車が何台も通った轍が残っています。が、僕のはオフ車ではないし、この先もっと大きながけ崩れ現場があったら、もう一度ここを通らないといけないし、今までも小さながけ崩れ現場が数ヶ所あったし・・・ビビリな僕は名誉の撤退決定です。
何度も切り替えし、Uターンして帰路に着きました。それにしても気持ちのいい景色です。渓谷側に開けたところで、保津川下りの船が下っているのに出会いました。2隻続いています。遥か上にバイクの人がいる。どんな風に見えたのだろう?ビデオに撮りました。この道、当然だけど交通量ゼロ。暗くなったら鹿なんかの獣道になりそうです。
今度は、沈下橋の上を通ってみました。観光川船の屋根ギリギリの高さにあるので、ここで船に出会ったら、たくさんの観光客さんのシャッターに収まるのでしょう。r25・R9・R423で家路につきました。帰宅後、家に入ると家内が勉強中。むむ〜。「ただいま」とだけ声を掛け、家の横でバイクを洗車。先週の雪解け水の道で大いに汚れていました。
食卓で勉強中の家内の横で、夕食のうどんにおつゆを注ぎます。「あ〜、やっぱり本人の予想通り、今日のテストは不合格だったんだなあ」と思い、そこには触れずにTVのとこに行って食べようと用意してると、「あのねえ、96点で合格したの」「え〜そりゃすごいやん。本番に強いねえ」「それでね、合格祝いしようと思って、ケーキ買ってきたの」って。なんだ、勉強中は演技だったんだ〜。まあ国のテストも控えてるから、まだしないといけないんだけどね。
食卓で、2人でなんだかんだ言いながら夕食を食べました。その後ケーキを持ってTVの前に移動し、途中になってたNHKドラマ「10年先も君に恋して」の最後のDVDを観ながら、ケーキで合格祝いをしました。僕なんて、30年経ってもまだ恋してる・・・今日も、楽しい日になりました。

2011/3/28
日曜日は、コーチしてる大学ヨット部の卒業式です。俗にいう「追い出しコンパ」というもので、また挨拶を頼まれています。午後6時・京都です。毎年土曜日だったので、仕事場から電車参加でしたが、今回は何でいこう?家内はお出かけですから、1人遊び出来ます。バイクで和歌山ヨット仲間宅訪問案も浮かびましたが、近畿南部から近畿北部のルートもまとまりがないので、近畿北部探索・京都入りにしました。
去年の梅雨時崩れたR477が直ったらしいので、R477経由で亀岡まで北上。R477東進、坂腰からr50で水尾経由嵐山、周山街道で日本海・福井県小浜まで北上、琵琶湖北西岸マキノまで東進、マキノでメタセコイヤ並木初見参、湖西岸を南下、近江高島から安曇川沿いを西進し、鯖街道を大原経由京都入りという長大なルートにしました。でも300kmしかなく、備中探索より短いです。
朝4時台に目が覚めました。PCでのルート検索では10時間弱なので、休憩入れて11時間。朝8時までに出発すればいいです。5時半に家を出ることが出来ました。2時間半の余裕は大きいです。
いつものようにr13・r12・R173、「一の鳥居」からR477に入りました。冬になりバイクで北に上がるのは自重していたので、R477も久しぶりな感じがします。「妙見山ケーブル」を過ぎ、崩壊現場を通過しました。崖が崩れて道が塞がれたのではなく、道が谷側に崩れたようです。「ほほう」と思いながら通過すると、「あれっ?」こんな道あったっけ?な綺麗な道に入りました。ずっと工事してた細い「地黄」地区を迂回するバイパスが完成していました。能勢氏の丸山城址の山のすぐ横を通ります。
朝も早いので、気持のいい快走で来ましたが、何か舞ってる。なんと雪が降って来ました。あと数日で4月なので、いくら北部に行くと言っても雪はノーマークでした。篠山側に下りR372を西進。完璧冬装備で2重に履いてる靴下でも、足先が冷たいです。R372をすぐに右折して、r73で千代川に向かいます。京都縦貫道手前で左折し、R9を経由せずにR477八木に入るルートを考えていましたが、左折道があまりに貧弱なので通りすぎてしまいました。縦貫道まで来て、「さっきの道だったんだ」と気づきましたが、Uターンは面倒なので、縦貫道側道を北上しました。でもこの道は、通行止め未舗装道で途切れていました。「あちゃ〜」とUターン作業に入ると、良さ気な神社が目に入りました。寄り道です。
溜池があり、その護岸の一部が石垣になっており、そこに神社があります。背後の小高い山に向かって階段の参道が伸び、この位置だと、桂川の恵みを受ける八木の集落を眼下に見下ろせます。有事には陣屋にもなりそうですし、豪族の住まいだったかもしれません。源氏の守り神「八幡神社(拝田甲岩)」となっていました。謂れによると、奈良時代に蝦夷遠征したこの地の拝田(多分豪族)という方が、凱旋帰国後、戦勝祈願の約束通りここ「甲岩」に作ったとされています。「拝田甲岩」という地名の謂れにも興味が惹かれます。
ミスルートしてまたいい神社に、めぐり逢えました。Uターンしてr452で八木に向かいます。この道、府道なんだけど細いです。舗装されてるのか不安になる道でしたが、峠を越えて八木側に下りることが出来ました。ちょうど山陰線八木駅に電車が入っており、踏切からゆっくりとそれを眺めていました。八木まで来ると、山陰線もローカル線の佇まいです。カラー舗装商店街な八木R477を過ぎ、桂川を渡って山岳地帯に入っていきます。道が細くなり、ちょっとウキウキ。「廻り田池」まで行かず、途中で「坂腰」に抜ける道を通ってみました。新道なんですが急です。
「坂腰」からr50に乗り、「JR保津峡駅」に向かって南進します。この道がこの日一番過酷な道でした。いきなり路肩に雪です。木々にも雪が乗っており、数日内にたくさん雪が降った形跡です。1車線上り道ワインディングなので、慎重に走ります。路面は適当に荒れてるので、一面の凍結路にはならなさそうですが、全面雪道になってもおかしくない路肩の残雪です。交通量はなく、傾斜は緩やかですがまだ登るので、雪の増加が心配です。
「おっ、峠を越えたかな?」。もう高度が上がらないので安心ですが、下りこそ慎重にならないと・・・それに雪道になったら、Uターンも厳しい道幅ですし。「桂川」から名を変えた「保津川」に向かって下る林道がありましたが、門が塞がり通行止めです。でしょうね。この雪じゃ、どんな道になってるか想像がつきます。
西側の視界がひらけ、谷を隔てた対岸の山や谷筋が雄大に見えます。柚子の産地なので柚子の木が谷に向かってたくさん植えられています。桜が咲いています。我が家の近所はまだなんだけど、種類が違うのかな?我が家の柚子は、3月に入って、みんな小鳥に食べられて実がなくなっていますが、ここの柚子はまだ成っています。写真撮って少し下ると、「清和天皇陵」の案内板が立っていました。また停車して少々探索。道中はまだ長いので天皇陵までは行きませんでしたが、行ってみたいところです。でもこんな道、車で来るのは命がけです。後の時代、武士の時代幕府を開いたのは、全部この天皇の末・清和源氏流れです。
ここから人家が見え出し、初めての対向車ともすれ違いました。ハイカー数組と対抗すると、見覚えのある「JR保津峡駅」の赤橋になりました。その少し手前に、保津川沿いを亀岡と結ぶ道への分岐を発見しました。未舗装部分もあるようですが、自転車で走破したい道です。
「JR保津峡駅」に寄ってみました。駅前ロータリーにマイクロバスが1台待っています。時刻表もあり、バスには「水尾自治会」となっていたので、水尾の旅館や散策に向かうお客さんの送迎バスのようです。駅に入ると、ハイカーなおじさんが写真を撮っています。ここで下車したのでしょう。無人駅なのでホームに上がって写真をパチリ。駅には、「ラフティングのお客さんは、水気を拭いてから電車に乗ってね」と書いてありました。ロータリーに戻って保津川の流れを見ていると、通過電車。さらに亀岡方面に向かう各駅停車が、橋脚上のホームに停まりました。橋脚上の駅なんて珍しいと思います。桂川を渡る部分だけがお日様を拝め、嵐山側も亀岡側もいきなりトンネルです。親父が亡くなった最初のお盆に、お墓参り後おふくろと僕ら家族・弟家族の9名でこの駅に降りたのが懐かしいです。あの時は、清滝までハイキングしました。河原でお弁当を食べた楽しい思い出です。
ハイキングで歩いたr50を嵐山に向かいます。バイクだとすぐにトンネル、またすぐに「トロッコ保津川駅」でした。吊り橋を渡って対岸の駅に行ってみました。時間が早すぎて、保津川下りの川船も走っていませんし、それを撮る写真屋さんもいません。でも駅の狸の置物は健在です。だあれもいない吊り橋で、ほんの少し揺れる吊り橋を怖がってた姪の顔が浮かんできました。開店前の吊り橋袂の売店でおふくろと休憩したっけ・・・翌年のお盆はまたみんなで清和源氏ゆかりの「万願寺」からハイキングしたけど、その12月におふくろも神に召されてしまいました。う〜ん、次のハイキングルートも案を練ってたのになあ。残念です。
保津川に沿って南下し、「六丁峠」を越えて嵯峨野側に下りました。この峠の保津峡側は、かなりの斜度で急なカーブでした。こかさんようにローとセカンドでゆっくり上りましたが、軽快に自転車が下っていきました。「夫婦で自転車・亀岡〜嵐山編」を考えています。僕ら夫婦なら、この坂はもちろん歩きですね。でもそれも楽しそうです。
去年夏に、長男夫婦と僕ら夫婦で歩いた嵯峨野の石畳道をバイクで下ります。8時からは通行禁止だけど、まだ余裕があります。R162・周山街道に向けて、r29を東進すると、「大覚寺」案内板、そして「広沢池」の横に出ました。風がないので、水面が水鏡になって、対岸の山が綺麗に写っています。
「R162・周山街道」に乗りました。これで一気に日本海の福井県小浜まで北上します。バイク通行不可の「嵐山高雄パークウェイ」が合流すると、清滝川に沿って感じのいい道が続きます。でも交通量が少し多いな。いくつかトンネルを経て、交通量が減ってくると、交差点の右手にちらりと神社が見えました。僕の心をくすぐったので寄り道しました。
集会所の横に、火の見櫓と鐘があります。小川(清滝川の上流かな?)を渡ると「岩戸落葉神社」がありました。素敵な名前です。大銀杏の木があったので、秋の落葉が綺麗なんでしょうか?覆い屋の上にも樹の根元にも雪が残っています。手水場の水は凍ってるし。京都市街地から30分も走っていないのに、ここはまだこんなに冬です。狛犬さんが珍しい形です。
いつものように高速車に道を譲りながら、順調に北上します。峠に差し掛かると路肩に雪が増えおっかなくなりますが、見慣れた周山の盆地に下りてくることが出来ました。R477との交差点「ウッディー京北」を通りすぎると、伸びやかな道になりました。同じくここの交差点から桂川に沿って東進するR477同様な道です。山岳道を走ってきた後だから、気持ちもゆるみとても気持ちがいいです。穀物経済時代は、山に囲まれながらも、ここらも豊かな集落だったのでしょう。
また山岳道になってきました。路肩に雪が増え、ここでこんなんじゃ小浜までバイクで行けるのか不安になってきました。ちょうどそんな所に、あのウッディハウスが出現。何度か前を通り、気になっていた喫茶店です。開いてそうなので、店内の窓から見える路肩にバイクを停めました。中から会釈されたような。
店内に入り、「何か食べる物がありますか?」と声をかけると、気さくな店主さんが、「バイクは、今日2人目やわ。さっき女性の方が、小浜に向かって出て行ったよ」みたいな話をしてくれました。「カレーをください」「特大?大?並?」。僕のお腹はもう並でいいカロリー消費になっていますので、並を注文です。
お客さんが僕1人ということもあり、店主さんと2人の女性の方と楽しい会話になりました。「もう4月なので、まさか雪が降っているとは思いませんでした」「ここは地獄の1丁目やからなあ」。この店主さん、元木こりで、ログハウスの展示場としてここに建て、喫茶店を開いたらお客さんが増え、こっちが本業になったのだとか。元本業は弟さんがやってて「カモノセログ」というらしい。カモノセログって、いつも見かけるあそこですね。目の前のグッズに「カモノセキャビン」と入ってるのに気づきました。時々、バイク乗りさんの話題に載ってるのはここかと気づきました。もっと手前にあると思っていました。ここは山の中の一軒家です。でも不安になってきたちょうどそこにある立地は、バイク乗りが寄る最高の立地ですね。学食のように特大まであるカレーも、若いバイク乗り男子を惹きつけそうです。でも一番は、店主さんの気さくな人柄が魅力です。僕より5才ほど年上で、お子さんやお孫さんの話も出ました。「次は奥さんとおいでよ」って、絵葉書をもらいました。
食事を済ませ僕が出る用意をし始めたら、バイク乗りさんが入ってきました。大阪からで、同じく小浜に向かうそうです。僕同様、まさか雪が・・・なんて言っておられました。僕同様、先行きに不安になったところに、この店が現れたのかも?お暇を言い外に出ると、さっきのお客さんのドカティが、僕の前に停まっていました。
「昨日は吹雪やったよ。でもこの時間からやから、峠も越えられるんちゃうかな。帰ってくるバイクもないし」みたいな店主さんの言葉を信じて、先に向かいます。別の季節なら適度なワインディングで楽しい道ですが、雪があるのでゆっくりです。峠を越えて、「美山ふれあい広場」まで下りてきました。オンシーズンならわんさかいるバイクですが、閑散としています。
ここから先の周山街道は、未体験ゾーンです。峠はあれですが、それ以外は、気持ちのいい伸びやかな川に沿う道です。「道の駅・名田庄」でトイレ休憩です。雪が降ってるし、積もる粉粒雪になる時もあり、とにかくトイレが近いです。休憩ごとにトイレに行ってます。体内の水分を外に出して、冷えないように自己防衛してるのでしょう。冷える日の午前中は、いつもトイレ回数が多くなります。バイクが2台停まっていました。1台は女性。ご夫婦ツーリングのようです。ご夫婦そうなので、会釈のみで声を掛けませんでした。
小浜に近づき、R27に乗り換えますが、その手前に「広域農道」との交差点がありました。地図では国道ではないので無視されているような扱いですが、それ故交通量の少ない伸びやかな快走路が多い広域農道。何処に行くのか分かりませんが、乗ってみました。多分かなり時間短縮してR27に合流しました。次の目的地「熊川宿」に向かいます。その名のとおり、宿場町です。R303に乗り換えてしばらく走るとそれがありました。でも僕の期待が大きすぎて、期待はずれでした。
宿内の一本道を通っただけで、何処にも寄らずにR303に戻りました。次は、「マキノ・メタセコイヤ並木」です。京都に向かうとき使うR367との分岐を過ぎ、何度か滑りに来た箱館山スキー場への分岐も過ぎ、元有料道路の湖西道路R161に乗りました。国道なので制限速度60km/hですが、高架道路なので東側に琵琶湖・その向こうに雪を被った伊吹山が見え、快走路しました。マキノ出口で下車、案内板に従って、「マキノピックランド」に向かいます。
「あ〜」、前方に一直線のメタセコイヤ並木が・・・。この季節なので、葉を落として茶色の並木道ですが、素敵な景色でした。一眼レフを構えたお客さんが数人、路上でカメラを構えています。僕もバイクを停めて激写タイム。バイクなので一眼レフじゃないけど。バックの湖西の山々が雪を被り、とてもいいです。
寒いこともあり、お客さんはとても少ないです。売店で、リンゴパンというのを買って昼食にしました。めだかの水槽のある休憩室で、それを食べたのですが、窓から、小さな子を連れたご夫婦が、芝生で遊んでいるのが見えます。小学生低学年の女の子連れの家族が並んで、ジェラートを食べています。幸せな風景が、ここに似合います。いい時間を持てました。
「夫婦で自転車・海津大崎〜マキノ〜湖西沿い」を考えているので、湖西岸を南下し始めました。海津大崎のバックの湖北の山々、対岸の長浜のバックにある伊吹山はじめ湖東の山々も、雪を被ってとっても綺麗です。湖岸に別荘がポツポツ建っており、交通量のほぼない道をゆっくり走ります。
湖岸に銅像が立っています。「ん?誰?」と思ってバイクを停めると、横に高島市にある道の駅「しんあさひ風車村」があったので、そこにバイクを停め銅像を見物しました。謂れによると、「瀬田川さらえに命を掛けた太郎兵衛親子三代」の銅像でした。琵琶湖の唯一の出口瀬田川の流れが少ないので、琵琶湖湖岸は毎年洪水に見舞われました。瀬田川を浚渫した「瀬田の洗堰」の先駆者ですね。ここの庄屋さんだそうです。
ここからr23で安曇川沿いを西進しだしました。安曇川の周りの広がりが良く、気持よく走れました。「朽木」で「R367・鯖街道」に合流しました。山登りの方がバス停で待っています。周囲の山への登山口のようです。京都の大原の里に向かって南下を始めました。峠にかかると、周山街道同様路肩の雪がおっかないですが、その他は、走りやすいです。でも周山街道の方がバイクは気持よく走れます。R477分岐の「途中越」を越えると、交通量が増え面白くなくなってきました。
そこで右折し、r40に入り「鞍馬街道」に抜けました。これで京都市街地に向かって南下。「京都産業大学」脇を通り、上賀茂神社・下鴨神社・鴨川沿いを七条まで南下し、七条で西進しましたが、日曜日の午後、メチャ混みでした。会場に到着したのが2時間前の午後4時です。バイク駐車場がなかったので、JR京都駅南のアバンティの24時間駐車場に入れました。

今年の追いコンは、いつものところと変わり「グランヴェルジュ京都七条倶楽部」です。本職は結婚式場です。OB会長さんの挨拶に始まり、乾杯・歓談・・・挨拶の最初は僕でした。いつもは、卒業生それぞれのエピソードなどを交えるのですが、今年は今月あった東北関東大震災に絡めて、我が家の阪神淡路大震災のこと。卒業生の次男のそれからの流れを話し、後にボランティア元年と言われるようになった避難所での若い子達の大活躍を、僕から見た姿をしゃべらせてもらった。学部での自分の研究、ヨット部で身についたことを底辺に、これから進む次のステージでも一生懸命やって欲しい。避難所での若者のように、君たちの力で周りを盛り上げて欲しいと。
午後8時に終了。JR京都駅まで歩き、いつものように円陣を組んで、卒業生へのエール、応援歌、琵琶湖周航の歌を歌い解散になりました。その後、またブレザーからバイク装束に着替え、名神高速で帰宅しました。

2011/3/21
「東北関東大震災」で、ご近所自衛隊は臨戦態勢のごとくなってます。ご近所歩いてる隊員さんも、いつもの制服制帽ではなく、迷彩服上下・軍足・軍帽姿で通勤しています。被災地から遠く離れた我が家も影響アリアリで、納品が遅れたり欠品が相当数に上ったりです。メーカーや物流・・・最善策を練って実行してるのでしょうから、我慢です。
被災原発の動向から目が離せません。NHKニュースでも、被爆量の表が1回当たり・1時間あたり・年間当たりと分母がごっちゃな数字を同じ表に載せて大丈夫だとか言うので、分母を統一した独自の表を作って家のTVの横に貼りました。1回あたり3日寿命が縮まると言われている胸部X線撮影なのに、このレベルだから直ちに健康被害に至ることはなく安心ですと。X線撮影の時、お医者さんやレントゲン技師さんは、必ず別室に退避してるとね・・・。

日曜日、行く予定だった同志社ウィークが中止になったので、家内の実家の墓参りに行くことにしました。昼から先輩たちと浜でバーベキューの案内も来てるし・・・朝墓参り・午後から大学ヨット部のコーチングに行くことにしました。
朝6時に家内と家を出発。中国道・山陽道を西進しました。1週間前は、災害救援の自衛隊車列とすれ違ったけど、それはなかった。燃料不足もあるので、交代までの現地滞在期間を伸ばしているのだろうか?お墓は、姉夫婦が参った後なのでお花も綺麗です。それを聞いてたので、家内は我家の庭に咲いてる黄色いスイセンを切ってきました。上手に黄色を活け、かなり素敵に色だられました。こういうセンスは、男にはないものだなあ・・・と大いに持ち上げておきました。帰路にあるSAに2ヶ所寄り、小洒落たロールケーキを探しましたが、それはなくチーズケーキを購入しました。
帰宅後、家内は眼鏡屋さんに寄ってから教習所に向かいます。僕は琵琶湖行きですが、何で行くかが思案のしどころです。VTR250で亀岡・清和天皇陵回りが面白そうだけど、午後が雨予報で、しかも4mmという結構な雨、残念な帰路になりそうです。通勤リード110でもいいけど、車載ムービー撮れないし・・・災害の時でもありガソリンをより食う車は使いたくないけど、クラブに支援物資を運ぶという口実を見つけて車利用にしました。
ヨット仲間の有田農園から買ったオレンジを車に積みます。家内からは、家で食べる分は間引いたから、後は全部持って行ってあげたらいいよとのこと。チーズケーキとカッパなどを積んで出発しました。京都IC出口は混んでいます。京都東ICまでも混み気味で遅めの速度になりました。変に被災他地域経済が縮小しちゃうと被災地へも影響しちゃうから、これでいいと思う。
琵琶湖到着は11時。艇庫が柳ケ崎に移り、どっちに行こうか迷ったけど合宿所に向かいました。女子マネのヒメちゃんが1人で昼食の用意をしています。すごいね。オレンジの箱と、女子マネさん用に買ったチーズケーキを差し入れました。学生時代、息子の健康を食の面から守ってくれたマネさん達には、どれだけ感謝しても感謝したりません。入部したとき、これで合宿・練習中だけでも、バランスの良い食事が食べられると安心しました。
しばらくしてみんな帰ってきました。午前中、風がなく早めにハーバーバックして、艇庫の掃除をするそうです。来月の新人勧誘試乗会の用意などを始めました。お昼ごはんは、いつも通り美味しい。より味に厳しいマネさんは、味が濃い目とか言ってたけど、みんな美味しそうにおかわりをしています。
マネさんたちを乗せてハーバーまで車移動。元琵琶湖ジュニアの艇庫だったところです。ジュニアは何処に行っちゃったんだろう?艇庫裏にOPが並んでたから、外から持ってきてるみたいです。スロープ出艇はいいね。桟橋にレスキュー艇が常時置かれているので、支援艇の出艇の手間もかかりません。これで合宿所が隣接地に建設できるといいです。国立なんだから、以前ならすぐに手配できそうなものだけど、独立行政法人になってから、いろいろ厳しいようです。
1m/sほどの弱い風の中、ショートラウンディング。風が弱いので、タッキングやジャイビングを増やして、ロールの精度を上げて自分で風を作ってより早く走る練習です。ロールタックはまずまずだけど、ロールジャイブや下回航のヒールがまだ少なく、より大きなスピードアップにつながってないです。2回生スキッパーのカネタは、練習最初と最後とは見違えるようにうまくなりました。いろいろアドバイスしたけど、今はいっぱい練習して、日に日にうまくなる楽しい時期でもあるはずです。
続いてロング帆走練習。470のマエカワ・タシロ組が速くなっています。風が上がるとまずまずのスベリを見せるのですが、軽風・微風になると遅くなっていました。余裕でスナイプ3艇にすべり勝ちし、一人旅になっていきます。まだメインシートトリムが少ないので、その辺をアドバイスしました。
練習時間が残り30分を切ったので、ラダーレス練習をしました。アビームにマークを打って、自由にそこに向かいます。最初おかしな方向を向いてた艇が、みんなマークを向かうようになり、トップのカネタ・ササクラ艇の回航で終了。もう少し風があった方が良かったでど、船の直進性を増すには?左右ヒール・前後ヒール・乗る位置・・・いろいろ学べたと思います。
4時ぐらいまで雨が降りませんでしたが、とうとう降って来ちゃいました。でも4mmまでは上がらず、霧雨〜小雨まででした。6時前に練習終了。合宿所に戻りレポートを書き始めます。「お茶、どうですか?」って、嬉しいね。
夜のミーティングが夕食後になったので、僕もご相伴になりました。唐揚げです。こりゃ家内の夕食は食べれないなと思いながら、しっかりいただきました。うまい。感じたこと・技術的なことを伝えて、帰路に着きました。帰路も小雨程度で、これならVTR250で来たら良かったなと思いました。次は来月の新人勧誘試乗会の手伝いです。楽しい1日でした。

2011/3/14
火曜日の午後に、モリタさんからの連絡でエルシノア号に乗りました。ヤジさんとヤンマー関係者さんとのセイリングです。ウインチのあれこれをヤジさんがレクチャーしていました。
次は日曜日に今シーズン初のドラゴンのレースだなと思っていたら、金曜日に仙台の沖合で阪神大震災を凌ぐ大地震が起きました。仕事場で、「ん?地震?」、天井で揺れてるのは、暖房の風に揺らいでいるものだし・・・「めまい?体調がやばいのかな?」なんて思いましたが、なんとはるかに遠い東北の地震だったとは驚きです。揺れが長周期でゆ〜らゆ〜らと感じたので、地震よりめまいと判断したのも当たり前です。
当初、地震の規模は大きかったですが、沖合130kmということでしたので、阪神の時のような直下型じゃないからマシだろうなと思っていました。ところが帰宅して見たニュース映像は想像を絶するものでした。仙台でビル倒壊とかはなく、阪神の時近所で見た光景とは違って地震そのものの被害は、当初の考えどおりでしたが、津波がすごい。まるで映画を見てるようです。次男がインターハイをした仙台閖上浜を津波が遡ります。長年、多くの人々が耕し創り上げてきたものを根こそぎ破壊していくます。涙さえ浮かびました。
東京に暮らす長男とこは、休みで家にいたお嫁さんによると棚が倒れ電子レンジが壊れただけでした。長男は愛媛に出張中で、帰る飛行機がないと困ってました。帰宅難民ですね。次男とこは、会社が臨時休業になり帰宅すると、お皿などが落ちて割れただけで、ガスは止まったいるが電気は大丈夫とのこと。金曜日連絡がつかなかった北関東の親戚は、土曜日の朝連絡がつき、すごい揺れだったけど被害は軽微とのことで、我が家としては胸を撫で下ろしました。

土曜日、土日のドラゴンのレースは中止になりました。日曜日の予定が空きました。被災者だった阪神の時を考えると、僕が喪に服しても何にもならないと思い、どっかに繰り出し経済活性の一助になろうと・・・そんな大したもんじゃありませんが、晴れの国・岡山行にしました。
行きたいなあと思っていた吉備路探索です。日曜日6時前に起きだして、地震情報をチェック。7時に出発しました。まずは給油。34.6km/L。先週の三木下道ツーリングでも優秀な燃費です。宝塚ICから中国道に乗りました。予定は、山陽道・岡山IC下車、吉備路の寺社・吉備津神社と備中国分寺、備中高松城址、備中松山城址、ベンガラの町・吹屋探索、中国道から帰宅の長距離ツーリングです。
無理せず、80km/h定速で、SA毎に休憩です。スピード出して神経を使ったら、帰路が疲れで心配です。車でも80km/h定速が定番です。このスピードが一番疲れません。バイクは60〜70km/hが疲れないのですが、高速でこんなスピードで走ってたら、車にかっ飛ばされそうです。皆さん自粛して、かなり空いてると予想したのですが、SAでのバイクもまあまあいます。最初のSAでの朝カレーを食べながら、TV画面を見つめます。新たな映像が流されています。原発のメルトダウン報道と現状解説が専門家によってされています。
「こんな時にツーリングか?」って気持ちもありますが。僕が被災者のときは、インフラがダウンしたので情報も入らず(まあニュース見てもその時の僕には関係ないし)、ただひたすら今日の予定を家族と組んで、仕事場や自宅の回復に努めました。他府県の救急車両が走りまわり、自衛隊の給水車が巡回し助けてもらいましたが、体育館で震えていても何も片付きません。うりゃ〜ってファイト燃やしてた。
外部の「大変ですね〜」「大丈夫ですか〜」なんて言葉は、被災者には屁の突っ張りの役目だけで、体が動く被災者は当日から動き出しているだろう。頑張れ〜うりゃ〜じゃ。
再び高速を走りだすと、「災害救援」の横断幕を張った自衛隊の車両が隊列を組んで東を目指しています。「うりゃ〜行け〜」。それと思われる救急などの緊急車両も多数、東を目指しているのでしょう。「うりゃ〜、地震や津波なんかにゃ負けへんど〜、行け〜」。それらの車両とすれ違うたびに、「行け〜。頑張れ〜」って独り言してました。次男の会社も緊急増産体制を敷くでしょう。「しばらく休み返上して働け〜、うりゃ〜」。
「龍野西SA」のインフォメーションでもらった地図を見てると、岡山ICの少し先の吉備SAにスマートICというのが書いてありました。インフォメーションのお姉さんに聞くと、バイクでも出れるらしい。SAでのICって初めてなので、体験することにしました。SAの片隅に、小さなICがあり、一旦停止しないといけませんが、ETC車のみ出入り出来ます。スムーズに通過。
出たとこは、道標も小さくあるだけで迷いましたが、GPSとタンクバックの地図見ながら、吉備津神社に向けて進みます。GPSと地図で適当に田舎道を走って「吉備津神社」到着。桃太郎伝説の神社です。謂れには、桃太郎伝説になるだろう言い伝えが書かれていました。鬼さんに例えられた当初の支配者を桃太郎に例えられた新支配者が戦争で勝利したのでしょう。歴史は新しい為政者によって、都合のいいように書き換えられるからなあ。山内にポツポツと社殿が並び、相当規模の大きな神社のようです。門前売店でキビダンゴを買おうと思ったら、「これ美味しいよ」と昔お姉さんが声を掛けてくれました。桃の形のお団子というかお菓子、そちらにしました。
門前の道案内図を見たら、「吉備路自転車道」というのがいろんな名所・旧跡を巡っているようで、それを頭に入れながら、次の「吉備津彦神社」に向かいました。自転車道を走ったこともあり、スポーツ自転車数台とすれ違いました。こちらが、備中の一の宮だったようです。規模は吉備津神社の方が大きいように思うのに。
続いて、「備中高松城址」に向かいます。交差点を反対に曲がったりして・・・これが幸いして「犬養木堂記念館」の記念館駐車場前に出ました。犬飼木堂って誰やと思いましたが、犬養毅の名が振ってあります。「おお〜5・15事件の首相だ〜」「話せばわかる」を最後の言葉にしたことで有名です。こっちの出身というのは知ってたような気がしますが、これはラッキーです。もちろん寄り道しました。駐車場からの小道脇にお墓がありました。ずらりと犬飼家のお墓が並んでいます。意外にも毅さんのお墓は、他のお墓と同じぐらいの大きさで、我が家のお墓と同じような物でした。脇に大きな記念碑はありましたが、昭和初期の大政治家にしては質素そのもの。手を合わせて生家内部を拝見。一度解体修理し新調部材も加えて建て直したそうです。脇の水路はしっかりした幅があり、謂れに書いてあった通り、江戸時代は名主など藩の要職にあった篤志家らしい家屋回りでした。
「備中高松城」は、信長の命で中国攻めをした秀吉が、毛利の東の防御ラインのこの城を攻めあぐねました。他の東の防御ラインを落として孤立させ、猛将清水宗治との直接の戦いでは負けてばかりなので、堤を築いて水攻めした城です。ここで能勢氏の長子が討ち死にしたんじゃなかったっけ?今は、それを思わせる公園になっています。水攻めの途中で「本能寺の変」があり、宗治の自刃を条件に毛利と急遽講和し、秀吉は長駆京都に急いだ。宗治のお墓に手を合わせました。
此処に来る途中、巨大な鳥居を発見しました。寄り道しませんでしたが、「最上稲荷」というお稲荷さんでした。
次に向かったのが、備中国分寺。r270を西進してたら、「古墳」の文字。「国内最大級の前方後円墳」の文字も。寄り道です。「造山古墳」。駐車場には、吉備津彦神社にもおられたボランティア案内員さんと思われる方がいます。国内第4位の規模で、自由に入れる古墳としては最大。この地方の豪族の墳と考えられているようで、天皇家の古墳でないので宮内庁管轄ではない。登ってみると「前方」の部分の頂上にお宮が、「後円」の部分には先の織田・毛利備中高松城攻防の時築かれたという毛利方土塁が残っていました。頂上部は扁平に削られ、砦や櫓が建っていたのでしょう。段曲輪が作られたのか頂上下に扁平地も巡っています。
そして、備中国分寺。外来新宗教・仏教を比護拡大して精力増強を図る蘇我氏が、一族聖徳太子の武力抗争を経て、それまでの為政者物部氏を滅ぼします。聖徳太子は仏教中心の為政システムを始め、全国に中心宗教として仏教が広がっていきます。律令制各国に天皇の命令で作られた地方仏教の中心が国分寺。遠くからでもすぐにそれと分かる五重塔が目に飛び込んできます。とても立派です。回りは明日香の古寺のように田畑が広がり、伸び伸びします。カンバスを構え絵筆を動かす御仁が数人、絵心のある方には堪えられない被写体だろうなあ。
気温がぐんぐん上がり暑くなったので、古墳でセーターを脱ぎました。さらにここで登山用靴下を脱いで通常の靴下のみになりました。冬用バイクジャケットが暑いので、脱いでのお参りでした。それでも暑く、ソフトクリームでも食べようかと売店に入ったのですが、遅い昼食に化けました。暑いのにそば定食580円食べて更に熱くなり、フェイスマスクも無しで次の「備中松山城」を目指します。
R180を西進し、高梁川に出会ってその左岸を北上開始です。この道が気持ちのいい大きなワインディングで、街中を外れ交通量も減って楽しいです。右に左に倒すのが心地いい。川・道・鉄道という田舎によくある3本の流れが並走し、伯備線の2両編成電車が走ってきます。いいなあ。
備中高梁に到着。高梁川のガードレールが城壁みたいになってます。「備中高梁城」の案内に従って右折。途中、武家屋敷筋に寄り道し、さらに登ります。高梁の町が眼下に見えるようになったとき、駐車場到着。これ以上はガードマンが通せんぼしています。
お兄さんに誘導されて駐車場に入れました。お兄さんの詰所テントのすぐ横だったので、「お城までどれぐらいかかりますか?」「徒歩50分です。バスを利用されれば20分です」「バスは次々来るのですか?」「次が最終です」って。慌てて用意しました。すぐにバスが下りてきて、僕ともう1人を乗せて出発。下り最終バスが4:45だそうです。ここからおじさんと2人で登城します。横浜の方で、出稼ぎに来てるそうです。自宅に奥さん1人残しての地震だったので心配したそうですが、被害が軽微だったようで、こっちの仕事を続けるとのこと。親戚が柏にあり、そちらはお皿などが落ちて割れたそうな。柏って次男のとこじゃないか。
うだうだ話しながら、「こんにちは」って数人の下城者とすれ違いお城の石垣に到着。ここから激写タイムが始まったので、おじさんを別れる。ト・ト・ト・トと木を打つ音がします。キツツキです。肉眼で捉えました。カメラのビデオ機能で撮影。ちゃんと撮れたかな?綺麗な小鳥です。
拝観料300円払って天守閣周辺を激写。天守にも登ろうと思ったけど、靴脱ぐのが面倒で、無料のお茶飲みながらここからの下界の景色を楽しみました。高梁川の流れ、右岸の棚田・・・気持ちがいいです。家内と来たいものです。4時になったので下山開始。なんだか途中から登城路から外れたみたいで、違う景色が広がりました。別の郭や石垣、別峰の頂上にある曲輪があっただろう扁平地も眼下に見えます。途中で道が工事中になり、誘導されると登城路に合流。登城路と違う道に入ってしまって、激写がたくさん出来ました。
時計を見ると4:35。ちょうどいい時間になりました。ここにちょうどバスがやってきて、乗り込んだら直ぐに出発。10分も早く出発してもいいのか?僕と一緒に登ったおじさんはまだだけど・・・きっと4:45目指してここに来るよね。駐車場に着いたら、「これで最後かなあ?」って、駐車場内の車の数とお客さんを数えています。「往路一緒だった方がまだだと思いますよ」って言うと、向こうの計算もそのようです。バスが折り返して登って行きました。
5時に駐車場を出発。もう当初予定だった「吹屋のベンガラ」探索の時間はありません。帰路に着きます。ゴリラナビに検索させると、「岡山自動車道」経由「山陽道」を指示します。せっかくの田舎なのに高速は勿体無いし、2週間前も山陽道を往復使ったし・・・で、中国道まで地道を北上することにしました。
高梁川左岸R180をさらに北上し、R313に右折。この道は交通量がさらに減り、さらに気持ちがいい。途中何度も岡山自動車道のICを目指すようにナビの指示が来るが無視し北上して、中国道「北房IC」で高速に乗りました。「落合JCT」で米子道が分岐しています。バイクで米子道分岐より西に来たんだと、ちょっと誇らし気。「勝央SA」で休憩。SAなのにバイクゼロ。福崎から西の中国道は交通量が少ないけど、ゼロとは。お腹が減ったけど、家内の夕食の方がいいしと、コロッケ1個だけ口にする。
ここから夜間走行です。バイクでの夜間高速道路走行は初めてです。風もなく、トラックの後ろにならない限り、250ccでも安定走行できるのでじわりとスピードが上がります。「80km/h低速走行」を肝に命じ、突然の横風でもおっかないようにセーブして走ります。僕の先祖美作菅家のお膝元「美作IC」通過。美作の地名を見るとなんだかホッとする。菅直人さんのお父さんは岡山県出身だそうです。菅原道真の末「菅」の苗字を持つということは、父系で続いてきた家なのでしょう。昭和初期の大政治家・犬養毅邸を訪問したところだから、美作で菅直人を思い浮かべました。
一時標高200mを越えていたのに、ここから全体的に下り基調。福崎に向けて本格的に下り、「加西SA」到着。CB1300が1台。1人で走ってきて人恋しいので、売店やレストラン棟に入るが、別棟の休憩室でTV見ながら1人でお茶のんで体を休める。相変わらず、震災関連ニュース映像で、原発のメルトダウンを心配してる。
中国道に乗ったときは、宝塚西トンネル13km渋滞の表示だったが、7kmになって、今は4km。次は「西宮名塩SA」だけど、山陽道の合流後は地元に帰ってきた気分で意気軒昂。車が増えたので70km/h巡航という最適速度になり、渋滞も解消されてます。そのままSAを通過し、帰宅しました。バイクを乾拭きして、8時帰宅。
440kmのロングツーリングでしたが、楽しかった。300km台だったら、もっと楽しい田舎のワインディングを走れるんだけどね。

2011/3/7
日曜日は仕事があったので、半日だけバイクで三木探索しました。先週半ばの予報では、夕方から雨だったので諦めていたのですが、前日の予報は夜中からの雨に変わりました。1週間前の瀬戸大橋行では夕方からの雨予報に追われての探索だったので、雨を気にせずの出発になりました。
曇り空の中、三田まで北上しました。ここでR176からr38にチェンジ、一路三木を目指します。この道、1月に初めて2台ツーリングした時教えてもらった道です。最初こそ適当に交通量がありますが、しばらく走ると気持ちのいいツーリングが始まります。
山陽道の南側を沿うように走る道で、低山というかなだらかな丘の間を縫う道です。人家と田んぼが織りなす里山のおだやかな風景の中の時速50kmほどで淡々と進みます。昔は僕の近所でもあった一軒家の交番があり、警察官一家が地域に溶けこんで暮らす姿があります。小学校の時の友達が交番の子で、その横の原っぱで遊び、そこのお母さんに麦茶をもらい、警官姿のお父さんがたまに遊びに加わってくる。経済成長の盛んな時代でしたが、今よりよっぽどゆったりみんな暮らしていたように思います。
本日のメニューは、信長軍団中国遠征の秀吉軍と1年半も対峙し、とうとう滅ぼされた播磨の雄・別所氏の三木城登城と、秀吉出世の立役者竹中半兵衛の墓所訪問です。
1月に来たとき寄った「淡河道の駅」を過ぎました。この道の駅の裏にある「淡河城」登城もしたいのですが、まずは三木城登城優先です。気になる寺社はないかな?と、左右に眼を配りながらトコトコ走ります。「おぅ?」と右手にある神社が目に入りました。後ろに迫るトラックが気になってスルー。黒のVTRとすれ違います。路肩が広がった所があったので、すかさず左ウインカー出してトラックを交わします。
Uターンして神社の駐車場に入れると、さっきのVTRさんも入っていました。挨拶して、僕と同じく探索かな?と思ったのですが、何かの寄り合いみたいで、数台の車から下りておられた方々と一緒にマイクロバスでどこかに行かれました。横の新型VTRと僕のを比べると、新型の方が計器類が寝ています。
「淡河八幡神社」。参道横に弓場がありました。その横には「淡河川」。拝殿横には立派な馬の銅像。源氏の氏神八幡様・弓場・横の川は堀・奉納馬・・・想像が働き、豪族の館とか駐屯地とか武器庫とか、なんだかそんな場所だったのかなあ?でも土塁など、周囲に対する造作がないから、軽いものなのかな?
「おおっ、謂れ板が立ってる」。冒頭に「有馬記念」の文字。「競馬と何の関係が・・・?」。このG1レースは、明治の政治家・農林大臣・有馬頼寧氏を記念しているのだとか。この地を治めていた豪族・淡河氏を有馬氏が滅ぼし、淡河城は有馬氏の居城になった。これは前回、道の駅淡河の謂れ板に書いてあったこと。
その有馬氏は、秀吉に従って軍功を積み、久留米二十一万石の大名になる。その当主がこの有馬頼寧さんとのこと。有馬氏は、赤松流れ。赤松氏は、村上天皇流れの源氏。源氏流れの有馬氏が、この八幡社を氏神にしたんだ。なんとまあ、また歴史雑学知識が増えました。奉納馬の腹に桐の紋が入っていました。きっと有馬氏の紋だろう。調べてみなきゃ。
「御弓神事」の謂れ板も立っていました。そう言えばこの神事、TVで見たことがあります。拝殿にお参りすると、横に「ご自由にお持ち帰りください」とパンフレットが置いてありました。当然頂きました。10円のお賽銭でパンフレットをいただくのが気が引け、9円プラスしました。19円でも図々しいですね。裏に回ると立派な本殿がありました。拝殿も囲いも本殿も新しく造作されたようで、氏子さん達の強い思いが感じられます。半ば朽ちようと荒れに任せる社が多い中、ありがたい事です。僕みたいな訪問者にたった19円で、開放してくれてるんだからなあ。この地の裕福さも感じます。
本殿裏に、「大山津見神」を祀る祠がありました。日本の甲冑国宝の8割が集まるという「大山祇神社」の分祠ですね。この神も戦の神。なるほど。年代物の鍵の付いた土蔵がありました。いつもこうして本殿裏を回りますが、ここでこの社の裏方は成り立ち、現在の地域における立ち位置が想像でき、面白いです。手水の手ぬぐいは綺麗なものがかかり、鬼瓦に獅子が載っています。
思いの外時間を食ってしまいました。r38西進に戻ります。「左手に神社発見」。「御坂神社」となっています。枝道に入り鳥居前に駐車。拝殿に向かう間に昔でいう長屋門をくぐります。まあ安普請の現代建築なので感慨はありませんが。ここに着物が飾ってありました。さらに鬼瓦がたくさん。拝殿増改築時に下ろされたものだろう。
謂れ板によると、鎮座年代不詳・播磨五十座の1つ・醍醐天皇の時代(900年)には存在していた。横の集会所脇に、稲で作られた弓の的に使うような俵が2つ置いてありました。さっきの淡河八幡神社にもあったし、この地域は弓道が盛んなようです。こちらの本殿も銅板葺きでなかなか立派です。
バイクに戻り、その前を素通りしました。バイクを止めるとき、目の前の道標に「御坂のサイホンまで40m」と書いてありました。外人設計の灌漑施設ということは知っていました。裏の淡河川を渡る橋に、上流の「呑吐ダム」からの放流時のサイレンのことが書いてありました。その向こうの丘に向かって、水力発電所にあるような太いパイプが掛かっています。「あれが灌漑施設?」どういう仕組かよく分かりません。下の淡河川までかなり高さがあります。いい感じの川で、少し下流に沈下橋が掛かっています。昔はあっちを渡っていたのかな?
橋を渡り終えると、「御坂のサイホン(眼鏡橋)」の説明板が立っていました。淡河川から加古台地への引水のため、淡河川疏水工事が行われた。山から志染川を渡って反対側の山に水を運ぶためのわが国初のサイホン(噴水管)工法。当時としては画期的な大事業で、志染川を渡る橋は眼鏡橋として親しまれている。この疎水は、「琵琶湖疎水」「安積川疎水(福島県)」と並ぶ三大疎水で、この2つと違うところは、住民の自費事業だったこと。設計は、横浜水道・神戸水道の設計者のイギリス人将校。これを読んで、渡ってきた橋の反対側を見ました。北側の山にも同じ口径の太い水道管が上っています。あの山の向こうからこの管を通って下り、南側の斜面を登っているんだ〜。南側に向かって、「淡河川疏水145m」の道標が立ってるので、あの山の上を疎水が走ってるのかも?これを明治の世に地域住民がお金を出しあって作ったんだ〜。こりゃすごいです。
川下に歩き、土手を下りてさっき橋から見た沈下橋を渡ってみました。ここから見た眺めが眼鏡橋だったのでしょう。今はダムの影響で水量が減り、メガネの下の縁になる水面に写った橋がないので、想像するだけです。
r38西進開始。急がなきゃ・・・「志染の石室」の道標が僕の目を捉えました。また寄り道です。これはそれ以上道標がなく、発見できませんでした。古代の墳墓跡かな?
三木市街地に入ってきました。去年家内と北条に行ったとき乗った神戸電鉄「恵比寿」駅があります。あの時はここの近所に車を置き、ここで自転車を袋つめしました。三木城跡は、次の「上の丸」駅の裏です。上の丸駅近所にバイクを置いてと考えていましたが、駅前がない小さな駅で、裏に行く道も不明です。美嚢川でr38が道なりに左折します。左手に城址の丘が見えているので、左折のタイミングを図りながらゆっくり走ります。「ここかな?」と思って曲がった道は、道なりに商店街の市場道になってしまいました。寂れた商店街なのでバイク通行は禁止されていないみたい。シャッター商店街ですが、アーケードがかかり、往時は栄えたのだろう。電鉄の高架下をくぐると、さっき通ったr38でした。その高架の手前に、城址への道標が立っていました。高架下の商店街看板前にバイクを置いて登城です。
急な階段を上がると城址です。眼下に美嚢川。北西の水堀にし、加古川を通して瀬戸内海と繋がる水運を利用したのでしょう。井戸跡・城址図・慰霊塔・別所長治の騎乗石像・秀吉との間に繰り広げられた三木城合戦図・供養塚・・・。小学生の年頃の娘さんと息子さんを連れたお父さんが、熱心に説明を読んでいます。
足の不自由な男性が一眼レフで激写しています。城址内に「上の丸保育園」・・・素敵な名前だな。城址内に「古式鍛錬場」という覆い屋がありました。釜があります。説明によると、現在も続く三木の金物工業の古・伝統の鋳物師の古工法をここでお見せしているのだとか。
ここで雨がポツポツ来ました。降ってるというより感じる程度なので、天気予報を信じるならすぐ止みそうです。次は竹中半兵衛のお墓を目指します。車載ムービーは降雨のため中止です。大体の場所しか分からないので、まずr38を東進します。r20を北に上がってみます。どうやらミスロードみたいで、枝道をr38に向けて走ってると、「岩壺神社」という曰く有りげな名前の神社がありました。寄り道。
謂れ板によると、由緒不詳となってるけど、天武天皇の時代に勧進となっています。天武天皇と言えば、大海人皇子。中臣鎌足と一緒に大化の改新というクーデターを成し遂げた中大兄皇子(天智天皇)の弟です。天智天皇の息子・大友皇子を滅ぼし、次の天皇位についた方。7世紀後半ですね。日本は湿度が高いので、ヨーロッパのような石造り建築がないので、文化財として古い建物が残りにくいですが、古の時代から一定の信仰と租税免除を得てきた関係で、多くの寺社が建物は更新されても、そこに鎮守の森と共に残っています。1400年も前ここにあったものが、まだここにある・・・これだから寺社探索はやめられません。
r38に戻り東進し始めると、「竹中半兵衛の墓」の道標がありました。往路は気づきませんでした。山陽道に向かって北上すると、また道標。それに従って田んぼの中の枝道に入ると発見しました。道から20mほど入ったところに低い白土塀に囲まれ、数本の木が立っています。鎮守の森とは行きませんが、こじんまりだけど手入れされています。誰もいませんが、お墓の花壺には摘まれて間もないような花が差してあり、線香が煙を上げています。最近歴女ブームだそうですが、地元の方がずっとこうして守ってきたのでしょう。
三十代の働き盛りで戦場で病に倒れた半兵衛。秀吉がまだ信長の下級武将だった頃、既に美濃の斉藤道三嫡男を城に急襲して追い出した引く手あまたの逸材武将だった半兵衛が秀吉に仕えました。秀吉は天にも登る気分だったでしょう。作戦参謀半兵衛の力もあり、軍団上級武将までになった秀吉は、半兵衛の死を前に号泣したと伝えられています。秀吉の人徳が、次の作戦参謀黒田官兵衛を呼び、天下人になっていく。竹中半兵衛があと20年存命だったら、世の中はどう変わっていただろう。半兵衛は、秀吉より8才も年下だったから、天下人になった後の秀吉の様変わりの政策や部下への当たりが変わっていたかもしれない。惜しい人を亡くしたものだ。
雨が止みません。カッパを着るほどの雨脚ではなく、防水にもなってるバイクジャケット・オーバーパンツなのでそのままですが、家路を急ぐことにしました。r38を往路そのまま戻ります。「道の駅淡河」横の「満月堂」という和菓子屋さんで、「いちご大福160円×2」と「吉野葛餅525円」をお土産に購入。淡河城跡登城は断念。グーンと三田まで戻り、「JR武田尾」から武庫川沿いを「川下川ダム」に向かいました。第2名神の工事状況を見に来たのですが、日曜日なのに川の中を工事していました。橋脚工事のようです。鷲が営巣してて、いつもその姿を見ることが出来たお気に入りの橋を渡ります。川沿い道からダム方面に上がると、ダムの川下の橋脚が随分立派に成長していました。ダムの水位はかなり下がっています。見通しの効かないうねり道を慎重に曲がっていくと、バズーカレンズをセットした一眼レフが山に向かっています。あの鷲の営巣地がこっちになったのかも?
r33に出て、「長尾山トンネル」を抜けて帰宅しました。120km程のショートツーリングでしたが、探索の収穫は結構ありました。三田から三木に向かう道は、急坂がなく「夫婦で自転車」でも楽しめそうです。収穫多き半日でした。

帰宅したのが16:30。家内はまだ帰っていません。今日は16:30までだったっけ?17:30までだったっけ?自転車で教習所に行ったけど、カッパ持って行ったのかな?小雨が降ってるので、車で迎えに行くことにしました。急いでバイク装束を脱ぎ、車で教習所に向かいます。家内の自転車順路を予想しながら走りだすと、まだ町内でカッパを着た家内とすれ違いました。気付かなかったようなので、家に戻ると、「時計を買いに行きたいの」とのこと。仕事場の置き時計が壊れたとのことなので、ホームセンターの休もんを購入。
作ってくれたちゃんこ鍋をつつきながら、家内のご機嫌教習の話を聞きました。前回の実技で、第1段階を合格したので、第2段階1時間目の実技でした。初めて、教習車も走ってるコースに出たそうです。バイクコースより広いので、気持よく乗れたようです。そしてバイクコースに戻り、家内曰く「お情けで通してくれたクランク」に入ると、楽々クリアできたそうです。「2週間も乗らなかったのに、すごく上手に走れたの」とニコニコです。ここぞとばかり、褒めちぎっておきました。
夕食後、お土産で買ってきた「いちご大福」を頬張り、仏壇に供えていた先週のお土産「千年杉バウムクーヘン」を下げてきて1切れ食べてみました。美味い。交代で「吉野葛餅」を仏壇に供えました。そして僕がプレゼントしたNHKドラマ「10年後も君に恋して」DVD3〜4話を見て、おやすみとなりました。このドラマ、とてもいいです。

逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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